キリスト教と仏教の相互的回心

キリスト教と仏教の相互的回心
J • W ・ハイジック
(南山宗教文化研究所所長)
宗教的征服の時代は終わった。唯一の組織宗教に入信するよう全人類を説得すると
いう希望の名残は今だに残ってはいるが、二十世紀の聞に形成されてきた、次の千年
期へと向かう宗教意識にとって、この希望はうつろに、そして調子はずれに聞こえる。
二十年あまりにわたって世界宗教の間で一一特に仏教とキリスト教との間で盛んに
行われてきた対話は、世界の宗教地図を描き直すという夢を捨て去り、宗教的に多様
な世界における諸宗教の共存にふさわしい思想や道徳を酒養するのに一つの重要な役
割を果たしてきたことは間違いない。
古典的な世界宗教が対話の先頭に立ってきたことは確かであるが、その一つの結果
として、「世界宗教 Jと い う 概 念 自 体 を 再 定 義 す る こ と 、 し か も そ の 新 定 義 を 一 般 の
信者の宗教的表現や習慣に織り込むことが必要になってきた。教団に所属する者の数、
財産、文化的影響、教理の発展、海外への展開などという基準は、たとえ過去には宗
教の進歩を測る適切な基準であったとしても、宗教的に多様な現代の世界にとっては
もはやそうした基準になりえない。将来の世界宗教は、人間の歴史に新たに登場した、
今はまだぼんやりと認知されているにすぎない異なった基準によって評価されること
であろう。
諸宗教間対話は、宗教的な風土に変化をもたらした要素の一つにすぎない。それは
変化の第一の原因でもなく、また未来が包蔵する大きな変容を歴史宗教や民間宗教が
迎えるための模範でもない o 対 話 は 大 衆 改 宗 運 動 と い う 武 器 を 組 織 宗 教 か ら 取 り 上 げ
るのを早めると同時に、ある程度、教義的伝統に対する現代精神史の不信感を解消す
るのにも役立ってきたかもしれない。しかしながら実際の対話活動が呼吸している空
気はあまりにも専門的であり、一般的霊性にとっては薄すぎて、それをそのまま呼吸
して生きられるようなものではない。ところが諸宗教間対話は一般信者を排斥すべき
専門分野であるとみなす態度もまた正しくない。このような態度は、そもそも対話が
はるかに広範な現代の時代精神、現代的な宗教感覚の風に乗ってわれわれの時代に登
場したものであるという事実を忘れるものに他ならない。既成宗教が構築してきた自
己理解の砦の中から窓を聞くのに他の宗教との対話は確かに役立つが、新鮮な空気そ
のものは外部からしか入ってこない。したがって諸宗教間対話が既成の伝統の中から
行われるべきである限り、それは常に窓から頭を出しながら行なわれなければならな
いのである口
とはいうものの、仏教やキリスト教のような伝統的な世界宗教が、宗教的に多様な
世界における一般的霊性を生み出すためには、まず第一に人類全体の宗教の富を自分
の遺産として受け止めなければならないと私は信じている。こういった遺産の受容は
徹底的な回心を必要とする。既成宗教に対する現代の幻滅感が宗教意識の高まりとと
もに生じているという現象は、単なる偶然、とは思われない。宗教の組織は現代の宗教
感覚との接触をあまりにも失っており、宗教用語の改良や官僚制度の抜本的改革だけ
16-
では、既成の組織宗教への幻滅を取り除くことはできない。時代の宗教感覚と再交流
をはかる部分、しかもその第一の部分は他の宗教の真理への回心にある。その回心は
ただ単に現代宗教史の中で友好的に共存するというに留まらず、他者のもつ真理の普
及や深化にまで参加することにある。
伝道への方向
諸宗教関対話において活躍している人に対して頻繁に加えられる非難は、こういっ
た営みは、たとえ最も抽象的なレベルにおいて行われたとしても、信仰の内容を個々
の信者の自由な選択に任せることによって伝統を侵食する、いわばセルフサービスの
宗教心を奨励することになるというものである。つまり、対話は真理の相対主義に基
い て お り 、 そ の 前 提 の 上 に 「 宗 教 の 自 由 」 や 「 寛 大 Jと い っ た 、 現 代 人 に 輝 か し く ア
ピールするセラミックを塗るものだというのである。その結果、一方で、学問的な対
話を実行する人々は何らかの混合主義に陥り、他方で、日常生活にふさわしい信仰を
捜し求める人々は自分なりの伝統を作り、宗教ごっこをするだけということになる。
信念、儀式、経典、言語、建築、美術、音楽、衣装などの成分をあたかも一つの寄せ
鍋にしたかのような「宗教」ができあがるだけだというわけである。
私はここで「絶対真理」や「混合主義」といった概念のそれぞれのもつれを解いて
みせることはできない。むしろ右のような批判の背後にある気持ちを取り上げること
の方が一層重要である。すなわち、一つの宗教伝統を他の伝統から区別できるはっき
りしたアイデンティティなしでは、自分が信じる真理を他人に伝えたり、自分が属し
ている教団に改宗するよう他人に勧める根拠がなくなるというのである。その気持ち
は完全に見当違いとは言えない O 明 ら か に 、 宗 教 の 内 容 が 個 々 の 選 択 に 任 さ れ れ ば 任
されるほど、既成の伝統が自分の過去を維持し、将来に向かつて成長することは困難
になる
D
自分自身を保存するとともに自分自身を拡げていくという両翼となる二つの
営みなしでは、宗教的伝統は飛び立つことができない。仏教とキリスト教は、諸宗教
間の対話において最も進んでいる世界宗教として、互いに相手に対して、そして宗教
的に多様な世界における一般の人々に対して、それぞれの任務がどうなるのかという
心配をただ単に無視してしまうことはできない。
そもそも、キリスト教も仏教も根本的に伝道への方向をもっている。キリスト者に
とっては、その方向への聖書的基礎は明確で、指摘しやすい D 三つの福音書の結びに
おいてイエスが弟子たちに語る最後の言葉は、「お前たちは出かけて行き、すべての
民族をわたしの弟子にしなさい。 Jという大派遣 (GreatCommission) の命令である。
マタイによる福音は「父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」と付け加えているが、
イエス自身は実際には自分の弟子たちに洗礼を施さなかったので、これは後の初期教
会による付加であるように思われる。とにかくイエスの言葉そのものは、宗教団体を
形成して、なるべく多くの会員をそれに所属させるようにと命じているわけではなく、
ただ「全世界への」を宣べ伝えるために弟子たちの派遣を意図するだけのものである。
この大派遣は福音書の最後の目立ったところに書かれているにもかかわらず、必ず
しもいつもキリスト者の意識の中心にあったわけではなかった。実際、十九世紀のは
じめごろ成立したプロテスタントの宣教運動も、またそれに続いて起こったカトリッ
-17
クの宣教運動も、それまで数世紀にわたって忘れられてきた伝道への方向を思い出さ
せ、それぞれの教会を西洋中心主義から解放して、アフリカやアジアなどをキリスト
教に回心させる機が熟していることに目覚めさせようとするものであった。百年後に
エディンパラで行われた「世界宣教会議 J(一九一 O年 ) は 、 二 十 世 紀 の う ち に 非 キ
リスト教の宗教がようやく次から次へと潰れていくだろうという希望でいっぱいに満
たされていた。この会議は、「キリスト教会があらゆる行動の方向において現代の五
大世界宗教の征服へと進んでいる様子は、実に壮大で前例のない美観である」という
記録を残している口
言うまでもなく、このいわゆる「キリスト教の世紀」は希望どおりには終わらなかっ
たD 第 二 回 の 世 界 宣 教 会 議 が 一 九 二 八 年 に エ ル サ レ ム で 行 わ れ た 時 に は 、 他 の 世 界 宗
教に代わって世俗異教主義の「黒い潮」が第一に征服すべき敵になってきていた。一
九三八年にインドで開催された第三回会議においては、 K .バルトが打ち出した宗教
現象の多様性とキリストに啓示された神の唯一の言葉との有名な弁証法が表面に現わ
れ、その立場から他宗教に対する対決的態度を和らげて、より適当な形で人々を諸宗
教の暗閣の中からキリスト教の光へと呼び出す方法を考えようとした。第二次世界大
戦後、カトリックの神学者をはじめとするキリスト者の中から、非キリスト教の宗教
にも救いがあるであろう、あるいは少なくともその信者たちは「匿名のキリスト者」
であると思われるという理由で、競争的な宣教活動よりも共通の真理への探求を優先
すべきだという示唆が表現され始めた。この考え方は次第に広まり、一九六五年に第
二バチカン公会議の諸宗教に関する報告において画期的な実を結ぷようになったし、
それはまた三年後にウプサラで開催されたプロテスタントの世界教会協議会にまで影
響を与えた。
今日のキリスト教は十九世紀に始まった宣教運動の終わりに立っているが、大派遣
のこだまは諸宗教間対話の背景に現在でも反響し続けている。まさに二十世紀の終わ
りにおいて、キリスト教の伝道への方向は世紀の始めの凱旋と比べて、より強くより
純粋であるかもしれない。しかし、それがどうあろうと、仏教との対話の影響で、伝
道の意味は確実に異なってきているのである。
仏教の経典の性質とその成立過程から考えて、仏教の伝道への方向を裏づけるよう
な、一般的に認められている単一の定型句を求めることはほぼ不可能であろう。それ
にもかかわらず、仏法が国墳を越えてはるばる宣べ伝えられるようにということが釈
r
尊の意図であったことを疑う余地はない。 Mahavagga ( 大 品 j) に お い て は 、 こ う
いう命令が決まり文句の形で仏教の最初の教団に対して語られている。「比丘たちよ、
遊行せよ、多くの人々の福利のために、多くの人々の安楽のために、世の人々への憐
みん
慰のために、神々と人間たちの利益・福利・安楽のために。一つの道を二人で行くな。
…教えを説くために。」次の節においては、僧侶たちが遠い国からの志願者を連れて
帰り、彼らに受戒させる許可を釈尊に求めることになる。釈尊は、旅人の非常な疲れ
をみて、慈しみを感じて反省する。その決意は、仏法の普及を縮小するどころか、旅
する伝道者が帰り道を心配せずにより遠くまで行くことができるよう、入道者の受戒
を彼ら自身でさせるようにするというものであった。「比丘たちよ、今や、汝ら自身
が、それぞれの地方、それぞれの国において出家させ、受戒させよ。」
-18-
釈尊は、天の神々から地上の諸民族に至るまで皆を目覚めさせる回心を求めた。世
俗を離れる出家 p
a
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b
j瓦bが す べ て の 弟 子 に 要 求 さ れ て い た が 、 教 団 は さ ら に な お 仏 法
の普及を命じた。百年後、阿育王はあらゆる工夫をもって慈悲を目的に全衆生を対象
とした仏法の普及を試みた。すなわち、中央政府の官吏を王国の至るところに配置し、
この組織を利用して説得力を発揮し、「法勝 J
.
(Dharma-vijaya) 一 一 仏 法 の 勝 利 一 ー
を目指すことによって、釈尊の伝道献身をさらに強化しようとしたのである。仏教の
アジアにおける歴史的普及は祖師の伝道熱心とともに阿育王の偉大な野望をも証明し
ている。
近代の仏教は、宣教学の理論や国際的なエキュメニカル組織を展開することがなかっ
たし、十九世紀の西洋キリスト教宣教の前線部隊が仏教の国々に対して行なったよう
な伝道運動を生み出すこともなかった。一九三 0年 代 に は 、 太 虚 お よ び 中 華 仏 教 総 会
の指導者たちが、アジアの他の諸国の仏教徒の支持を得て、世界的な大規模の仏法普
及を、つまり「現在のあらゆる文明を一つに結び付ける」という狙いを打ち出した。
インドの Ma
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y も似たような目的を抱き、当初西洋の神知学運動と協力
して、一九二五年にイギリスに伝道本部を設置した。しかし、いずれも結局、仏教の
国々でのキリスト教宣教運動とは比較すべくもなかった。第二次世界大戦以後、さま
ざまな国の異なった仏教伝統の聞の、宗派を超えた協力の進歩、そして在家仏教の新
宗教運動の出現が、近代文明にみられる一般的な精神的沈滞に対する答えとして仏法
を再び積極的に普及するという希望を呼び起こしてきた。いくつかの仏教国からの伝
道運動は、ヨーロッパと南北両アメリカの従来のユダヤ・キリスト教国にかなりの制
度的な力を確保し、数多くの帰依者を得てきた。その証拠に、プロテスタントもカト
リックも、欧米の「再福音宣教」の必要を認めて、対抗努力を組織し始めてきた。そ
れと同時に、キリスト教側からの諸宗教間対話への招きを受け入れてきた仏教の団体
や個人の信者は、それらのキリスト教という相手に従来の神学を再考するよう刺激す
るとともに、釈尊の教えの現代的意味と現代世界への伝道のあり方を自分自身が反省
するという広場を与えられることになった。
仏教とキリスト教との道遇は、歴史上の二大伝道宗教を集わせ、宗教的に多様な世
界に対する共通の関心事について話し合わせることになった。ただ諸宗教間対話を円
滑に進めるために、いずれかの側がその伝道への方向を失い、その伝道への熱心を弱
めさせられるとしたならば、それは自殺行為に他ならない。両方が自己の伝統に忠実
である限り、対話は常に回心の場でなければならない。問題は、それがどういう回心
であるかということである。
土着化への方向
キリスト教にも仏教にもそれぞれの歴史を通して、異文化や異宗教との接触に際し
て「摂受」と「折伏」いう両方の態度がみられる。キリスト教も仏教も両方とも、そ
れぞれの制度を拡大し、強化するために鉄の武器や文化の武器を利用したことがある。
しかもまた両伝統のいずれにも、自分の聖なる教えを他宗教の信仰や考え方と友好的
に調和させる偉大な思想家が現れたことがある。しかしそれでもいずれの場合にも、
そこには同じ目的があった。すなわち、なるべく多くの人を自分の信仰形態に転換さ
-19-
せるという目的である。それは上記の二つのいずれの態度を取っていても同じなので
ある。
多くの宗教者にとって現代の諸宗教間対話は、この二つの改宗戦略のいずれかの続
きであるにすぎない。疑いに答えたり、誤解を正したりする自由なフォーラムを設け
るにせよ、あるいは矛盾する信念が互いに自分の立場を論証できるような討論の場を
設けるにせよ、これらはいずれも対話の性質を把握してはいない。諸宗教間対話の精
神は基本的に摂受や調和でもないし、折伏や対立でもない。なぜなら対話が促す転換
は、所属教団の転換でも、二つの伝統の中からの二者択一でもないからである。この
対話は理念としては、ある一定の信念を別の信念と取り換えることを目指すものでも
ないし、競い合っている異なった複数の考え方を互いに程よく調和させることを目指
すものでもない。むしろ一つの伝統の自己理解を他の伝統の自己理解に転換すること
によって、それを見直すという試みに他ならない。
これは特に新奇な考えであると言うわけではない。伝道への方向が仏教とキリスト
教にとって根本的であるのと同様に、自分の聖なる教えが特定の時代や文化に固執す
るものではなく、すべての時代と状況にふさわしいのだという土着化への方向もまた
同じく両宗教にとって根本的であると言えるであろう。
初期のキリスト教団にとっては、伝道への方向と土着化への方向との関係は五旬祭
の出来事の内に象徴的に表現されていた。イエスもその主な弟子たちもガリラヤ地方
の出身であるが、イエスの処刑後、彼らはエ lレサレムに残った。色々な民族が色々な
地方から集まってくるその大都会において、この小さな教団はどうするべきか迷って
いた。ある日その中心的な弟子たちが一つの部匡に集まっていたところ、突然「激し
い風」が吹いてきて、家中に響きわたる。すると直ちに彼らは、以前には話すことが
できなかったいろいろな外国語で話し始める口その物音を聞いて大勢の人が見に来て
驚く。「どうしてわれわれは、めいめいが生まれ故郷の言葉を聞くのだろうか」。若干
の人は、彼らは「新しいぶどう酒に酔っているのだ」と笑いあざけったが、弟子の代
表ペトロは立ち上がって、神の霊で満たされて、イエスに教わったことを宣べ伝える
ようになったのだと説明する口しかも誰でもイエスを救い主と認めるならば、同じ霊
を受けるだろうと言う。そして、その日に最初の新しい信者が教団の仲間に加えらる
ことになったのである。
こうした「異言」は初期のキリスト者の間では珍しくなかったと言われている。し
かし、これは、それを直接目撃した人にだけ影響を与える制限された驚異でしかなかっ
た。五旬祭の真の奇跡はこれとは違う。それは一つの特定の宗教伝統、一つの特定の
文化環境から生まれたイエスの教えが「世界のあらゆる国々」の民族の言葉に通じる
という奇跡である。すなわち、バベルの塔が象徴した諸文化の分裂が、ガリラヤ人の
大工の息子の素朴な言葉によって乗り越えられるようになったという信仰が、キリス
ト教の土着化への方向を表現しているのである白
私の知る限り、仏典においてはキリスト教の五旬祭に最も近く最も象徴的な話はパー
u
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f小品 j) に 出 て く る 。 二 人 の バ ラ モ ン 出 身 の 比 丘 が 釈 尊 に 近 づ
リ聖典の C
いて苦情を言う。「主よ、色々の民族や人種の僧が、釈尊のおことばを自分の方言で
繰り返すことによって不純にしています。釈尊の教えをヴェーダ語に記録させてくだ
-20一
さい。」けれども釈尊はどうしてもそれを受け入れようとはしなかった。「お前たちは
何と無明なのですか口それでは未回心の人々を回心へ励ますどころか、回心した人々
を追い払うだけになるでしょう口」それで釈尊はすべての僧を百集して、自分の言葉
をヴェーダ語にしないように命令した。「そうする人は誰でも罪を犯す。比丘よ、仏
陀のことばをそれぞれの言語で学びなさい。これは私の命令である。」この出来事を
含むいくつかの中国語の記録も、同じ結論を再確認している。
当初から、キリスト教と仏教の伝道は、変化のない一様な真理ではなく、むしろ普
遍的で、それゆえに多様な真理を広めようとしていた。グノーシス文献の言葉を借り
て言えば、キリスト教にとっても仏教にとっても真理とは、中心が至るところにあり、
周線がどこにもない円のようなものであった。五旬祭の奇跡や聖なる言葉に対する釈
尊の非難はともに土着の文化への伝統の根本的転換を示すものである。諸宗教問の回
心の模範は、新しい会員の増加や文化的権威による征服に代わって、まさにこのよう
な転換の内にみられるのである。
相互的回心
相互的回心、つまり他者のもつ真理の普及や深化に参加するという発想は、無論、
仏陀の胸にもイエスの胸にも思い浮かぶことはなかった。しかも仏教とキリスト教の
聖典にもそのような発想は出てこない口これは新しい目論見であって、仏教とキリス
ト教の対話の開花こそがその指標であるとともに、それをさらに刺激するものでもあ
る。これは個人が一定の価値観に背向いて新しい価値観を抱くようになるというよう
な回心とは違う。それは基本的な象徴枠を取り換えるように要求することはない。同
様に教理研究や特定の宗派への入門とも違う。対話の回心はむしろ伝統と伝統との出
会い一一あるいは換言すれば教理上異なった伝統の中で育った個人と個人との出会いーー
として、いずれかの側に特有のものではなく、両側が共有するような宗教心の広場に
おける営みなのである。こういった共通基盤の成立自体には、聖典による保証も教学
者からの支持も必要ではない。その広場は現代の子としてのわれわれの生得権の一部
である。時代精神の空気の神秘的な部分とも言えるだろう。その神秘は、無意識に呼
吸している目に見えない空気のように、諸宗教問対話に生気を与えているのだが、反
対にまた対話はその空気の振動を信仰者が聴き取りうるメロディに変換すべく、いつ
も待機しているのである。
混乱を避けるために、諸宗教間対話を諸宗教の出会い一般から区別した方がよい。
後者はもっと広い意味を持ち、共同の社会活動、膜想と祈りの方法の交流や研究、他
者の宗教儀式に互いに参加しあうことなどを含んでいる。対話はそれとは違う。 δ
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ν と い う ギ リ シ ア 語 の 語 源 が 示 唆 す る よ う に 、 対 話 ( =d
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)は 、 考 え を 収
集して、それらを種々の方言に言い換えることや、語る・聞く・書くなど、さまざま
な言葉の形でもって論じたり討議したり決心したりすることを意味している。対話そ
のものは対話のみを目的とする。十七年前に私を仏教との対話に導き入れたヤン・ヴア
ンブラフト師は、そのことを次のように言う。「対話が何よりも先に《聖なる冒険》
であるということです。言い換えると、諸宗教の対話が根本的に無目的的であるとい
うこと、対話に初めから何か一定の目的をつける場合には必ず道を誤ってしまうとい
-2]-
うことです。」
対話に改宗という目的を付けることは、対話の特徴を無駄にしてしまうことに他な
らない。対話を専門分野に化し、その名を特定の学科や大学院の専攻名にすること、
あるいはそれを規則によって整頓しようとすることは、何れも対話の冒険を弱めるこ
とになる。対話の唯一の狙いは対話の場において出会っている参加者を新しい「見方」
へと回心させることであり、実際にその場で「見た」ことについてどのようにするか
ということは、対話の広場の外の問題である。外部からの前提を目的として対話に持
ち込むと、その回心は初めから盲目になってしまう。しかしまた同時に、対話の営み
が対話の場で終わってしまうならば、その回心も結局はうつろなものに留まらざるを
えない。
対 話 に よ っ て 行 わ れ る 見 方 の 転 換 と い う 回 心 は 、 ま ず 第 一 に 「 他 者 へ の 転 向 Jであ
る。仏教とキリスト教が互いの「他性」を保持していないと、転向するところがなく
なってしまう。いわばア・ラ・カ lレト方式の折衷主義的な宗教も、多く現代人にとっ
ては有意味な選択であるかもしれない。しかし諸宗教の相違点を調和し、共通点を強
調するという態度は、たとえ従来の宗教問の敵意を償うための寛大なジェスチャーで
あったとしても、それが宗教と宗教との互いの他性を消したり弱らせたりする限りに
おいて、対話の場において認めることはできないのである。自分の足の踏み場を失っ
たら、他者へ向かつて歩み出ることも不可能なのである。
もちろん仏教徒が認識するキリスト教の他性やキリスト教徒が認識する仏教の他性
はしばしば間違っている。相互の理解はよく誤解を隠蔽するので、対話はこの点につ
いて常に警戒していなければならない。それと同時に、一方の伝統における盲点が、
他方からは透明であることもある。たとえば、仏教との遭遇を通して、仏教国におけ
るキリスト教の文化植民主義の問題に目覚めたキリスト者がいる。また、同じく社会
解放に対するキリスト教の関心から刺激を受けて、現代仏教が、慈悲をあまりにも抽
象的で私的な概念とみなす傾向をもっており、そのために仏教文化圏の中でさえ、何
を倫理的に認め、何を認めないかという実際の判断力を失ってきたことに気づかされ、
その点を反省するに至った仏教徒も存在する。
こういった批判的な機能の他に、諸宗教間対話は、参加する伝統のそれぞれの自己
理解を再考する実験の場になるという機能もまた有している。すなわち、キリスト教
徒は仏教のレンズを通して自分の信仰を見直し、仏教徒はキリスト教のレンズを通し
て仏教を見直すことができるのである口そしてそれぞれが見たことを語り合うことに
よって、さらに反省すべき問題点が明らかになる。学問的良心や教義の発展史を念頭
において、こういった伝統を再考するという実験は、ただちに新しい「立場 j に固定
されるのではなく、まず信仰の生きた環境へと持ち帰られなければならない。宗教伝
統の自己理解の見直しから出てくる問いは新来の問題のようにみえるかもしれないが、
良くみてみると実はその多くは、伝統の歴史の中で無意味な問いであるとか異端であ
るなどの理由で、既に拒否されてきた立場からの問いであることが分かるであろう。
創造主である神が非人格的であるならどうだろう。法の教化の働きが人格的であるな
らどうだろう。こういった問いを立てて真剣に考えさせるために、諸宗教間対話は、
ただ単に他者が自分の信仰をどうみているのかという方面からの伝統の徹底的問題化
-22-
のみならず、自分の伝統の過去における信仰の多様性を見直したり、評価し直したり
することをもまた必要とするのである。
伝統の過去に対するこのような回心がただ単に専門家の骨董品になってしまわない
ようにしようとする限り、他者の信仰が自分の信仰に対しでもちうる積極的な貢献を
自覚するという、もう一つの回心が必要となる。そういう心の転換が対話を対話の場
から現に宗教心が生きる世界へそっと押し向ける口すなわち伝道と土着化への方向に
忠実であり続け、宗教的に多様な現代の回心のために努力するようにという励ましは、
諸宗教間対話のもっとも大きな挑戦である。繰り返すに値すると思うが、こういった
現代の課題は、仏教とキリスト教とがそれぞれの布教方法を分かち合ったり、真の宗
教から世俗主義の道へと迷い出した人々をそれぞれの本来の教団に連れ戻したりする
ことを意味しない。むしろそれは、仏教をキリスト教に、キリスト教を仏教に回心さ
せるという挑戦に他ならないのである。
諸宗教間の相互的回心というのは、まだはっきり定義できる発想であるとは言えな
い。対話の場においてさえも、激しい話し合いで赤く染まった頬を冷たい風が突然、そっ
と撫でるかのような、思いがけない示唆でしかない。教義解釈への相互的影響の例は
数多くあり、それらは専門文献に記録され、学術的な学会で形式的に討論されるよう
にはなった。しかしながら、対話の勧める回心が個々の信者のためになるかどうか、
社会に実際貢献しうるかどうかという最終的な証明はまだなかなか見い出しにくいの
である。なおかっ、対話によって蒔かれた種が対話の外で、すなわち一般の信者の生
活のなかで収穫されないようであれば、そのような諸宗教間対話は中途半端なもので
しかないと言わざるをえない。相互的回心の実際の意味の一つの具体例は、仏教とキ
リスト教とが自分の伝統を相手の文化圏に植え替えることのうちにみられるであろう。
以下にその例を考えてみよう。
世俗化という過程がユダヤ・キリスト教の国々の既成宗教に対して引き起こした混
乱にも拘らず、教会と社会とのそれぞれの文化的な根は依然、として固く結ぼれている。
最も反宗教的なイデオロギーですらも、より伝統的なキリスト教と同じ井戸から水を
汲んでいる。キリスト教の影響を欧米の言語、習慣、思想、倫理などから被い清める
ことができないのと同様に、キリスト教もまた自らが克服しようとした地元の宗教と
同じ土によって培われなかったならばヨーロッパの文化に根を下ろすことができなかっ
たであろう。日本、韓国、タイ、ヴェトナム、中国の場合にも同様である。そこにも
宗教的あるいは非宗教的、反宗教的なさまざまな態度があるが、それらにはやはり共
通の文化的基礎があって、その基礎の上で初めてこれらさまざまな態度の区別が成立
しうるのだと言えるであろう。
このようなわけで、仏教の場合にもキリスト教の場合にも、それぞれ自分自身の文
化圏の中では、宗教的回心は文化の白紙状態から出発するのではなく、たとえ大抵は
無意識ではあれ堅固な基礎があって、そこから出発するのであるロただし、異文化圏
において宗教を普及させるというのは、これとは違った営みである。概して、キリス
ト教と仏教の伝道活動はともに、新しい言葉、妙な習慣での礼拝、未知のカテゴリー
での思考、異文化の美術・建築・音楽などに直面するといったカルチャー・ショック
に、入信者・入道者が順応しなければならないということを当然のこととしており、
-23-
さらに時間が経つと新しい宗教のこうした奇妙さが消え、一般の文化と調和するよう
になるという希望をもっているように思われる。この希望は完全に誤っているとは言
えないだろう。歴史的に言えば、生きた文化は常にその周辺にある異文化の存在に順
応したり調和したりしてきたし、こうした順応や調和の結果生まれた新しい周辺の文
化がいつしか文化の中心に近づいていくといった現象も普通に見られるところである。
しかし、仏教とキリスト教は、こういった形でそれぞれの伝道への方向を尊重しなが
らも、それに伴うべき土着化への方向を頭から見くびってきたように思われる。
諸宗教関対話の相互的回心への関心はもう一つの可能性を考えさせる。すなわち、
もし仏教圏において仏教の文化がキリスト教信仰の土台として受け止められたならば、
キリスト教はどのように発展するだろうか口もし非仏教圏で伝道する仏教が基本的に
キリスト教的な文化を自分の宗教の基盤として認めたとしたならば、仏教はどのよう
に発展するだろうか。もし日本のような仏教国で活動するキリスト教の宣教師が、そ
の国の無意識の内に流れている宗教の価値観や思想形態を基盤として、その上にキリ
ストの教えを立てようとしたならばどうであろうか。あるいは、もし仏教の伝道者が
キリスト教の通念に基づいて仏法をキリスト教文化圏において布教したらどうであろ
うか。このような問いがそれである。
こういった問いは抽象的でもないし、純粋に理論的でもない。この「どうであろう
か」というのは、それぞれの宗教の誕生の歴史からよく分かるように、異宗教を宗教
心の根本にまで吸収するということであって、それはここで初めてその可能性が指摘
されたというようなものではない。教団が強くなり、遠くにまで広がり、その教理が
確立されればされるほど、その誕生時の状況を思い出す際にはある種の選択が働くよ
うになる。つまり、その誕生の歴史のすべての事情が忠実に想起されるのではなく、
教団とその教理に好都合なものだけを想起し、それ以外のものを忘却の彼方に置き去
るという選択が働く。歴史研究が肯と言い、プライドが否と言うのである。もちろん、
異なる宗教が互いにそれぞれ他の伝統の宗教の富を自分の遺産として受け取る方法は
他にもありうる。ただ何らかの形で各伝統がある種の徹底的な謙虚や脱自を経験しな
い限り、諸宗教間対話から生じる希望、すなわち仏教がキリスト教へ、キリスト教が
仏教へと回心できるという希望、現代の宗教を変容できるという希望は、結局無駄に
終わってしまうであろう。
註
(1)マタイ、二八章、一九節・マルコ、一六章、一六節: )レカ、二四章、四七節。
(
2
) W. H. T
. Gairdner,Edinburgh 1
9
1
0
: An Account and Interpretation of the World
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Missionary C
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e(Edinburghand London:O
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t,Anderson& F
2
8
1頁。
(
3
) Mahavapga第一部、11--12
章。和訳は、『原始仏教典ープッダの生涯』、 1
9
3
1年 講 談
0
0
'
"1
0
1頁
社、 1
(
4
) ~阿育王碑文』、十三口
(
5
) 使徒言行録、第二章。
-24-
(
6
) Cullavagga第五部、 3
3
章、 1節。『南伝大蔵経』第 4巻、 3
1
2
頁を参照 c
(
7
) Franklin Edgerton、BuddhistHybrid Sanskrit Grammar(
D
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:M
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t
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lBanarsidass,
1
9
7
7
),2頁を参照。
(
8
) ヤン・ヴァンブラフト「諸宗教対話の諸問題」、南山宗教文化研究所編『宗教と
文化一一諸宗教の対話 j 1
9
9
4
年、人文書院、 4
5
頁
。
-25-