国 際 関 係 論 専 攻 卒 業 論 文 選 集

Selected Graduation Theses on International Relations
国 際 関 係 論 専 攻
卒 業 論 文 選 集
2008 年度
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
高尾 碧 ‥‥‥
3
塚野由希子 ‥‥
39
堀田礼奈
‥‥
83
‥
115
吹上健太
‥‥
155
嘉数優香
‥‥
193
中国経済と日本バブルの比較分析
呉 浩
‥‥
221
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
朱 敏明 ‥‥
259
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
菅原千草
‥‥
303
キャップ&トレード方式の排出権取引は
日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
渡辺知里
‥‥
327
-民主・共和両党に貫かれる外交理念-
NATO の変容と新時代の安全保障
-リアリズム的軍事同盟から国際安全保障の担い手へ-
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
-女性の保護から人権確立、そして“両性の平等”の実現へ-
坂井万里絵
スポーツの裏側に潜む児童労働
-児童労働削減を目指す法的取り組みに対する考察-
インドの経済成長分析
-サービス部門牽引型の発展か-
埼 玉 大 学
教 養 学 部
Faculty of Liberal Arts, SAITAMA University
.
国 際 政 治
.
冷戦後のアメリカ対外政策と
ウィルソン主義
-民主・共和両党に貫かれる外交理念-
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL103
(論文指導
高尾
碧
草 野 大 希)
.
.
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
5
【要 旨】
近年、アメリカのブッシュ(子)政権は、2001 年のテロ事件以降、アフガニスタンやイ
ラクに対して軍事攻撃を行ってきた。とくにイラク戦争では、イラクにある大量破壊兵器の廃
棄とイラク国民の弾圧を行うフセインを追放して「民主化」をはかるという目的のもと戦争を
開始している。
こうした武力行使を伴ってまで「民主化」という他国の政治体制の変革をめざすアメリカの
姿勢と、なぜアメリカはこれほどまでに他国の民主主義に拘るのか。その背景や要因を冷戦後
のクリントン政権とブッシュ政権期の事例を対象に、探るのが本論文の目的である。そして、
それを行う上で重要になるのが「ウィルソン主義(Wilsonianism)」である。
「民主化」と「国際協調主義」を兼ね備えているものをウィルソン主義と定義したとき、ク
リントン政権の政策には「民主化」と、完全ではないが「国際協調主義」(例えば、コソボ紛
争では安保理決議なしに行動したものの NATO 内での協調を達成した)を重視する側面が強
い。他方、G・W・ブッシュ政権には「国際協調主義」には疑問があるが(イラク戦争におけ
る単独行動など)、
「民主化」を追求するという点でウィルソン主義の要素を含む。このように
考えると、冷戦後のアメリカ外交で、ウィルソン主義の理念に近いのはブッシュよりもクリン
トン外交ということになろう。
しかし、ウィルソンはこの通説的ウィルソン主義(「民主化」と「国際協調主義」を進める
ことにより国際秩序構築を目指す)を常に実践していたわけではない。ウィルソン政権は「民
主化」は行うものの、他国との関与の仕方は第一次世界大戦参戦時のような「国際協調主義」
だけでなく、メキシコ介入にみられる「単独行動主義」をとることがあった。この点を考慮す
ると、ウィルソン主義には「民主化」に加え、「国際協調主義」と「単独行動主義」の二面性
が内包されており、その二面性を伴ったウィルソン主義が冷戦後のアメリカの対外政策にまで
影響を与え続けていると解釈できるのではないか。
ウィルソン主義の理念である「民主化」を大義とした対外行動はクリントン・ブッシュ政権
両者において、共通して見受けられる。また、冷戦後のアメリカ外交には、ウィルソンの対外
関与における二面性「国際協調主義」と「単独行動主義」が存在している。クリントン政権に
おいては、国際協調主義が強調されており、他方ブッシュ政権では単独行動主義が顕著であり、
二面性の内の一方がより強く顕在化したものとして理解できる。すなわち、ウィルソン主義の
「民主化」、そして「国際協調主義」・「単独行動主義」の二面性は、冷戦後アメリカの対外政
策に至るまで影響を与えており、今日まで受け継がれているといえるというのが本論文の主張
である。
国
6
際
目
政
治
次
はじめに............................................................................................................. 8
第1章
アメリカとウィルソン主義 ............................................................... 10
第1節
ウィルソン主義とは何か ............................................................................. 10
第2節
アメリカ民主主義の歴史.............................................................................. 13
第3節
アメリカ対外政策と民主主義 ...................................................................... 14
第 1 項 アメリカ対外政策の類型........................................................................................ 14
第 2 項 政党と対外政策の関係 ........................................................................................... 15
第 3 項 国外における民主主義推進 .................................................................................... 16
第2章
クリントン政権の対外政策................................................................ 17
第1節
民主党の対外政策 ........................................................................................ 17
第2節
クリントン政権の対外政策 .......................................................................... 17
第3節
クリントン政権の国際問題への対応 ........................................................... 20
第 1 項 ソマリア紛争 .......................................................................................................... 20
第 2 項 ボスニア紛争 .......................................................................................................... 21
第 3 項 コソボ紛争.............................................................................................................. 22
第4節
第3章
クリントン政権におけるウィルソン主義 .................................................... 22
G・W・ブッシュ政権の対外政策..................................................... 24
第1節
G・H・ブッシュ政権の対外政策 ............................................................... 24
第2節
G・W・ブッシュ政権の対外政策 ............................................................... 24
第1項 G・W・ブッシュ政権とネオコン.......................................................................... 24
第 2 項 9.11 テロ事件の衝撃............................................................................................... 25
第 3 項 単独行動主義とブッシュ・ドクトリン .................................................................. 26
第3節
ブッシュ政権の紛争への対応 ...................................................................... 28
第 1 項 アフガニスタン戦争 ............................................................................................... 28
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
7
第 2 項 イラク戦争 ............................................................................................................. 28
第4節
結
ブッシュ政権におけるウィルソン主義 ........................................................29
論 .............................................................................................................. 31
参考文献・資料 ................................................................................................ 34
<英語文献> ..............................................................................................................34
<邦語文献> ..............................................................................................................34
<インターネット資料> ............................................................................................35
国
8
際
政
治
はじめに
近年、とりわけ 2001 年 9 月 11 日の世界貿易センタービルなどへの同時多発テロ以降、アメ
リカのブッシュ(子)政権はアフガニスタンやイラクに対して、国連の安全保障理事会やNA
TOなどの国際組織を通じた制裁ではなく、自衛権の行使として軍事攻撃を行ってきた。また
ブッシュ政権は、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しで非難し、京都議定書の批
准を拒否するなど、複数の諸国が利害の調整を行うことで積み重ねられてきた冷戦後の国際関
係の多国間協調の流れに反し単独行動主義を強めている。このように、一見すると、近年のア
メリカは自国の国益の追求本位でなりふりかまわず行動しているようにみえる。
しかし、イラク戦争では、石油などのエネルギー資源といったアメリカの国益が背景にある
ことも指摘されてはいるが、イラクにある大量破壊兵器の廃棄とイラク国民の弾圧を行うフセ
インを追放して民主化をはかるという目的のもと戦争を開始している。もともと、イラクの大
量破壊兵器の廃棄は、国連安全保障理事会が求めていたことでもある。結果的にイラクには大
量破壊兵器は存在しなかったが、大量破壊兵器の拡散防止それ自体は今日の国際社会全体の利
益になっている。また、イラク国民を独裁者の圧政から解放し、自由と民主主義をイラクの人々
が享受するという目的は、イラクの人々の利益を完全に踏みにじるものではないだろう。こう
した点に着目すると、イラク戦争は純粋にアメリカの国家利益だけを追求した戦争とも言い切
れない複雑な側面があると思われるのである。
とくに本論文が対象としたいのは、武力行使を伴ってまで民主化という他国の政治体制の変
革をめざすアメリカの姿勢である。後述するように、この姿勢は現在のブッシュ政権にだけ限
られるものではなかった。その前任者であるクリントン政権も民主主義の実現を目的とした武
力介入(人道的介入)を行っているのである。なぜアメリカはこれほどまでに他国の民主主義
に拘るのか。その背景には一体どんな要因が存在しているのか。その要因を探るのが本論文の
主目的である。
それを行う上で重要になるのが「ウィルソン主義」である。自由と民主主義という理念のも
とヨーロッパからの独立をはたしたアメリカ合衆国は、他国に対しても民主主義を推進し、民
主主義と自由の供給者として世界秩序のルールや規範の形成に大きな影響力を発揮してきた。
とりわけ、国際連盟の創設への貢献で有名な、民主党のウッドロー・ウィルソン大統領による
民主主義の推進は「民族自決」の概念を広め、その後の世界に大きな影響を与えた。ウィルソ
ン大統領は、立憲民主制の国家同士は互いの正統性を認識し、集団安全保障や自由な経済交流
を通じて平和を維持するという理念に基づき世界の民主化を推進した。このウィルソン外交の
特徴から、対外政策において民主主義の拡大を推進し、国際協調主義に則る外交理念をウィル
ソン主義(Wilsonianism)と呼ぶようになった。
アメリカの民主・共和両党のうち、ウィルソン主義を体現しているのは民主党であるとの認
識が一般的には強いであろう。ウィルソン自身が民主党の大統領であったこともあり、民主党
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
9
は国際組織を重視した国際主義 1・国際協調主義を外交の柱とする、現代におけるウィルソン
主義の「正当な継承者」とのイメージがある。他方、共和党の対外政策は民主党とは対照的に
単独行動・一国主義的だとみなされており、国際協調を重んじるウィルソンの考えとは距離が
あるといわれている。しかし、実際にはどうか。確かに、国際協調主義の重視という点では、
民主・共和両党の対外政策には違いがある。しかし、少なくとも、ウィルソン主義の核心であ
る民主主義の「輸出」を推進するという点で両者は共通しているように思われる。
「民主化」と「国際協調主義」を兼ね備えているものをウィルソン主義と定義したとき、
冷戦後のアメリカ対外政策は次のように性格づけられるであろう。クリントン政権の政策には
「民主化」と、完全ではないが「国際協調主義」(例えば、コソボ紛争では安保理決議なしに
行動したものの NATO 内での協調を達成した)を重視する側面が強い。他方、G・W・ブッ
シュ政権には「国際協調主義」には疑問があるが(イラク戦争における単独行動など)、
「民主
化」を追求するという点でウィルソン主義の要素を含む。このように考えると、冷戦後のアメ
リカ外交で、ウィルソン主義の理念に近いのはブッシュよりもクリントン外交ということにな
ろう。
ただし、本論文の主張は、もう少し複雑である。本論文は、しばしばウィルソン主義の定義
に含まれる「国際協調主義」を、ウィルソン自身が常に実践していたわけではなかったという
事実に着目するからである。つまり、ウィルソン自身が行ったメキシコ介入や第一次世界大戦、
すなわち民主主義のための武力行使は、完全に国際協調主義に則ったわけではなかったのであ
る。その意味で、民主化を推進する際に見られる強引さ(単独的)は、冷戦後のブッシュ政権
のみならず、ウィルソン自身にも見出されるのである。この点を考慮すると、ウィルソン主義
には「民主化」に加え、「国際協調主義」と「単独行動主義」の二面性が内包されており、そ
の二面性を伴ったウィルソン主義が冷戦後のアメリカの対外政策にまで影響を与え続けてい
ると解釈できるのではないか。クリントン政権とブッシュ政権の対外政策の相違は、この二面
性の一方が顕在化したどうかに求められ、それらはいずれもウィルソン外交に含まれていたも
のではないか。これが本論文の主張である。
論文の構成は次の通りである。第 1 章「アメリカとウィルソン主義」では、ウィルソン主義
の定義やウィルソン主義の背後にあるアメリカ民主主義の歴史を考察する。第 2 章「クリント
ン政権の対外政策」、第 3 章「G・W・ブッシュ政権の対外政策」では事例分析を行い、冷戦
後のアメリカの対外政策に具体的にどのようにウィルソン主義が影響しているのかを解明す
る。冷戦後に頻発した所謂「地域・民族紛争」にクリントン政権はどのように関与したのか、
9・11同時多発テロを受けたブッシュ政権はアフガニスタンやイラクにどのような論理で攻
撃を行ったのか、またそれらに貫かれるウィルソン主義の理念はどのようなものかに着目した
い。
本論文における国際主義とは、第 1 章 3 節1項における多角主義(多国間主義)に基づく国際主
義のことを指す。
1
国
10
第1章
第1節
際
政
治
アメリカとウィルソン主義
ウィルソン主義とは何か
ウィルソン主義(Wilsonianism)とは、立憲民主制の国家同士は互いの正統性を認識し、民
主制度を国際社会に広めることで、集団安全保障や自由な経済交流を通じて平和を達成できる
とした、アメリカ合衆国の第 28 代大統領ウィルソン(Thomas Woodrow Wilson)の外交政策
上の理念である。
政治学者であり、民主党員であるウィルソンは、国家の政治体制が戦争か平和かという選択
に決定的であり、独裁国家や軍事国家は戦争をもたらし、民主国家は平和をもたらすと考えた。
アメリカが、それ以前の中立を破り、第一次世界大戦に参戦した際には、「民主主義のために
世界を平和にする必要がある」と表明し、参戦を正当化した。ウィルソンは、民主国家からな
る社会には平和な秩序がつくられると考え、自由貿易の促進と社会経済の変革が国家にポジテ
ィブな影響を与え、平和的なルールに基づく国家間関係や、国家の繁栄を促進する。また、国
際法と協調からなる国家に国際組織は平和を促進し、国際社会の組織を強固にし、国家の近代
化・市民化をもたらすとし「民主化」や「国際協調」によって国際社会に新たな秩序を構築し
ようと試みたのである。
ウィルソン主義はウィルソンによって新たに提唱されたものというよりはむしろ、従来から
のアメリカ外交の伝統に基づくものである。民族自決を強調した点から、
「モンロー主義 2のグ
ローバル化」とウィルソン自身が語っている。また、ウィルソンは自由民主主義的政府を世界
に普及させることが、アメリカの安全保障上の利益を担保すると考えた 3。民主主義の促進は、
現代に至るまでアメリカ対外政策上の目標である。
このように、自由で公平な国際経済体制、民主主義、民族自決、平和のための国際組織創設
など、アメリカの価値観や原則に基づき、新たな国際秩序構築にアメリカが積極的に関与すべ
きと考えた。このウィルソン主義は「(リベラル的)国際主義」ともよばれる 4。アメリカの外
交において、孤立主義と並び伝統の1つである 5。
このウィルソン主義が、国際政治の舞台において一目置かれるようになったのは、第一次世
界大戦前後である。ウィルソンは参戦の目的を、「世界を民主主義にとって安全な場所にする
ため」だと国民に説明し、アメリカの「使命」の強調や様々な理想的目標を掲げたため、「使
モンロー主義とは、1823 年にモンロー大統領が宣言した外交原則のことで、西半球における植民
地化の禁止や欧州諸国による西半球への不介入など、合衆国のみならずアメリカ大陸をヨーロッパ
から隔離し、相互不干渉を唱えた。松田武『現代アメリカの外交~歴史的展開と地域との諸関係~』
(ミネルヴァ書房、2005 年)、45 頁。
3 Tony Smith, “Wilsonianism,” in Alexander DeConde, et al., eds., Encyclopedia of American
Foreign Policy, Vol.3 (Charles Scribner’s Sons,2002), pp.617-20
4 Tony Smith, America’s Mission The United States and the Worldwide Struggle for Democracy
in the Twentieth Century (Princeton University Press, 1994), p.85.
5 孤立主義については本論文の第 1 章 3 節 1 項を参照のこと。
2
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
11
命感外交」や「理想主義外交」と呼ばれた 6。
ウィルソンは、
「政府の有する正当な権力はすべて被治者の同意に由来する」という原則と、
自由主義・民主主義的な世界秩序の形成を接合させた外交方針 7を示した。1918 年の一般教書
演説では、第一次世界大戦の戦後処理と戦後世界の構築に関した 14 か条原則を提示し、自由
で公平な国際経済体制、民主主義、民族自決、平和のための国際組織の創設などを主張した。
そこでは、民族自決の権利や政治的独立との版図の統一を相互に保障することを目的とする規
約と、それに基づく諸国民の一般的連合を形成することの重要性が強調された。そして、アメ
リカの外交目標は、自決や自由の拡大とアメリカを中心とする自由主義的で民主主義的な国際
秩序の形成とにあるというウィルソン外交コンセンサスなるものが形成された 8。
しかし、ここでの「民主主義」は欧米の文化的・歴史的経験を反映した特殊な民主主義でも
ある点には注意が必要である。欧米人が自明のものとしている自由主義的な立場からの民主主
義の理解は普遍的なものとは限らないからである。また、アメリカの民主主義には「国民民主
制」という「国境」があるとの見方もある。アメリカは「主権」の絶対性への信念は現在にお
いても強固なものであり、国連などの国際機関でアメリカの意思が通らないと、しばしば分担
金の支払いを拒否し、「単独行動」に走るのはそのためである 9。
「民主主義」という概念は、一般的にトニー・スミスの以下の定義のように「普通選挙権に
基づいて自由に組織された複数の政党が、政治的権力の実効中心の支配権をめぐって争う自由
選挙を行う形態」と定義されることが多い。つまり、民主主義とは、各国の国内政治を構成す
る原則や制度のことであり、国際関係とは関わりがないはずである。しかし、ウィルソンには
こうした個人と国内の諸関係と国家間関係を支配すべき道義は共通であるとの認識があった。
ウィルソンは、国内ばかりでなく対外政策でも自決の原則を掲げることに違和感を覚えなかっ
た。これはアメリカが、「『被治者の同意による政府』を理念として掲げ誕生した国家であり、
またこのことが道義的に正しいとすれば、アメリカは他国にも同じ原則を求めなければならず、
自決権によって人々は民主主義を選び、アメリカを模範とした政治体制を作ろうとするだろう。
アメリカ自身にとってよい原則を他国にも適用させることになれば、最終的にはアメリカに友
好的な国家が誕生するはずである」と考えていたためであり、ウィルソンの外交は以上のよう
な論理に基づいて展開された 10。
また、ヘンリー・キッシンジャーが『外交』で行なったウィルソン主義の分析によれば、
「人間は本質的に平等であり、世界は根本的には協調的であるというアメリカ人に信念がウ
ィルソンの世界秩序構想の基礎にあった。そこから民主主義国は、その定義上平和的であり、
(民族)自決を認められた人々は戦争に訴える必要も、他の人々を抑圧する必要もなくなる、
6
久保文明・砂田一郎・松岡泰・森脇俊雅『アメリカ政治』
(有斐閣、2006 年)
、265 頁。
西崎文子「アメリカ『国際主義』の系譜――ウィルソン外交の遺産――」
『思想』945 号(2003 年)、
173 頁。
7
8
同論文、184 頁。
9
油井大三郎『好戦の共和国アメリカ~戦争の記憶をたどる~』(岩波新書、2008 年)、244-8 頁。
西崎、前掲論文、174 頁。
10
12
国
際
政
治
という考え方が導かれた。……アメリカの視点から見れば、戦争をつくるのは民族自決ではな
く、その欠如であった。力の均衡が失われたから戦争が起こるのではなく、力の均衡が戦争を
つくるのであった」 11。
藤原も示しているように 12、国際関係を力と力の関係ではなく理念を実現すべき空間として
とらえるウィルソン流のアメリカ外交の伝統は今なお続いており、冷戦が終結した後に行われ
た介入は、湾岸戦争、ユーゴ内戦への介入、ソマリア紛争への介入など人権と民主主義の尊重
という理念によって正当化されている。
このように、ウィルソン主義の中核にあるのは、民主化や国際協調を通じた秩序構築を目指
す外交理念である。だが、ウィルソンの行った外交政策は、常に一貫して行われていたわけで
はない。とくに、民主化は常に国際協調によって追求されたわけではなかった。
民主化をめざすウィルソンの外交としては、次の例が挙げられる。まず、民主制を共和制、
すなわち反王制と等価と考える観点から、清を倒した中華民国や、ロマノフ王朝を倒したロシ
アに対しては、他の国に先立ってこれを承認している。これとは逆に、ロシア臨時政権を倒し
樹立されたソヴィエト政権やメキシコ自由主義政権を倒した軍事政権に対しては敵対した。ロ
シアに対しては、第一次大戦の連合国の一員として英仏日などとともにシベリア出兵を行い革
命に干渉した。またメキシコでは、「非民主的」なウエルタ政権をアメリカは軍事介入によっ
て打倒した 13。とりわけ、アメリカが自らの「勢力圏」と考える中南米国家メキシコへの介入
では、事後的に一部のラテンアメリカ諸国を関与させるという国際協調主義への配慮が見られ
たが、政権打倒のための軍事力行使はあくまでもアメリカによって一方的、単独的に行なわれ
た。アメリカが介入したことは、(被介入国の)国民自らが自治をおこなう民主的自治の原則
を逸脱しているはずである。実際、介入されたメキシコでは激しい反米運動が起こった。だが、
アメリカは、自らの手で民主化を行えないメキシコの人々に代わってアメリカが民主化を行っ
たと考えられ原則違反とはみなさなかったのである 14。ウィルソンは、ウエルタ政権の承認を
拒否した後、「わたしが、善良な人物を選ぶ方法を南アメリカ共和国に教えてあげよう」と語
ったが 15、そこにはウィルソンの単独主義あるいは権威主義的傾向がはっきりと看取されるの
Henry Kissinger, Diplomacy (Simon & Schuster, 1994), pp.52-53.
藤原帰一『デモクラシーの帝国―アメリカ・戦争・現代世界―』
(岩波書店、2002 年)、42 頁。
13 メキシコでは、1910 年に開始されたメキシコ革命によってディアス独裁政権が崩壊し、民主的
な選挙を経てマデロ政権が誕生していた。ところがメキシコの民主化は、1913 年にウエルタ将軍
がマデロ政権を暴力的に転覆させ、メキシコに独裁政権を復活させようとしたことにより後退する
こととなった。ウィルソン大統領は大半のラテン・アメリカ諸国と同じく、立憲主義ないし民主主
義に基づかないで樹立された政府は容認しないとの立場を表明し、ウエルタ政権を承認しなかった。
その後 1914 年 4 月、アメリカ軍はメキシコに軍事介入し、ウエルタを政権から追放した。草野大
希「20 世紀初頭の西半球におけるアメリカ介入政策と秩序形成-複雑システム理論による国際政治
分析の試み―」(上智大学博士論文、2006 年度)第 11 章、224-28 頁。
14 同論文、234-49 頁。
15 イギリスのティレル(Sir William Tyrrell)外務次官がウィルソン大統領にアメリカのメキシコ
政策の説明を求めた際に発せられた有名な発言である。Burton J. Hendrick, The Life and Letters
of Walter H. Page, Vol. I(New York: Doubleday, Page and Company, 1922), p.204; 草野、前掲論
文、226 頁。
11
12
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
13
である 16。
このように、通説では民主主義を国際社会に広め国際協調によって世界平和の達成を目指す
ものがウィルソン主義だと定義されることが多い
17。だが、本論文では、14
か条の原則に代
表される「民主主義の推進」と「国際協調主義」に基づく外交理念と、メキシコへの介入など
に見られる「単独行動主義」の両方の側面を併せもつものが「ウィルソン主義」であると考え
る。
第2節
アメリカ民主主義の歴史
冷戦後の国際関係において、民主主義は統治形態のさまざまな可能性の中で歴史的な勝利を
収めたかのように見える。アメリカがなぜ民主主義を推進するのかを考えるには、まずアメリ
カの国の成り立ちを考える必要がある。
アメリカは、その建国自体が民主主義の実現に等しかったといえる。1776 年のアメリカ独
立以来、圧制と不正に満ちたヨーロッパの国々から自らを引き離し、封建的な思想や制度・差
別で固まった階級社会との決別を決意し、新大陸で別天地を築こうとする考えは、大西洋を渡
った移民に共有された。また、アメリカは、世界中から移民を受け入れる多民族国家であり、
さまざまな人種、民族、宗教、生活様式、言語の異なる人々から成る国である。アメリカ人は、
先住民のインディアンを除き大半が移住者という形で、「アメリカ人」になったものとその子
孫である。彼らは、人種的・文化的な統一性を欠いていたため、自然に「アメリカ人」になっ
たわけではなく、人為的・選択的・意識的に1つの国民となり、文明を築かなければならなか
った。
アメリカ人は、個人として、社会として成功の夢を抱きそれを実現させるために、成功のた
めの機会が全ての人に開かれている社会を目指した 18。こうした民主主義の精神のもと、人々
は、アメリカの歴史・風土・地理的環境が育んできた自由、平等、個人主義、機会の均等民主
主義などの共通の価値に同化していくことで、共通の価値をもつ「アメリカ人」なるものを形
成していった 19。
その後、国際連盟が創設されると、国際連盟の誕生が国際社会を組織化しようとするウィル
ソンの理念の勝利であるという解釈が生まれた 20。しかし、ウィルソンの外交理念は、アメリ
16
ウィルソンの外交では多くの理念が語られたが、それはアメリカが強調する理念を常に他の利害
に優先させるものではなかった点も指摘しておきたい。たとえば、メキシコ介入では、民主主義の
実現に加え、アメリカの石油権益を脅かすウエルタを排除するというアメリカの国家利害も同時に
追求されていた。つまり、ウィルソンの外交にも、アメリカの利害にかなう場合には普遍的な原則
ですら修正されうるという二重の基準が存在していたのである。草野、前掲論文、230-33 頁。
;松
田、前掲書、202 頁。
17 Tony Smith, “Wilsonianism,” in Alexander DeConde, et al., eds., Encyclopedia of American
Foreign Policy, Vol.3 (Charles Scribner’s Sons,2002), pp.617-20;松田、前掲書、202 頁。
18 斉藤眞『アメリカとは何か』
(平凡社、1995 年)、20 頁。
19 長谷川雄一、高杉忠明編『新版
現代の国際政治―冷戦後の日本外交を考える視角』
(ミネルヴ
ァ書房、2006 年)、56 頁。
20 西崎、前掲論文、180 頁。
国
14
際
政
治
カの外交政策に大きな影響を与えたものの、それが直接適用されたわけではなかった。ベルサ
イユ条約そのものは、上院での批准が否決され、アメリカは国際連盟に加盟できなかった。そ
して 1920 年代から 30 年代にかけては孤立主義がアメリカを支配したのである。やがて、1941
年の真珠湾事件をきっかけに、第二次世界大戦への参戦を経て、アメリカはウィルソン主義を
継承した国際連合構想を実現させた。
第3節
アメリカ対外政策と民主主義
第1項
アメリカ対外政策の類型
アメリカの対外政策の方向性はいくつかの次元で類型化することができる。山本吉宣による
と①孤立主義‐国際主義、②現実主義-リベラリズム、③単独主義-多角主義の三つの次元で類
型化できる 21。
リベラル[タイプⅠ]
非関与(孤立主義)
現実主義(圧倒的な力、非脆弱性)[タイプⅡ]
リベラル(制度リベラル)[タイプⅢ]
多角
現実主義(同盟)[タイプⅣ]
関与
リベラル(価値リベラル)[タイプⅤ]
帝国論
単独
(ネオコン)
現実主義(「遠隔からのバランサー」,覇権)
[タイプ
Ⅵ]
図1アメリカの対外政策の類型
まず、孤立主義と国際主義という2つの軸がある。孤立主義とは基本的な関与をしないとい
うものである。アメリカは、独立によって新体制と獲得したが、これを外からの脅威、旧体制
による腐敗的な影響力から守らなければならなかった。当時、弱小新興国であったアメリカに
とっての国策の基本は、ヨーロッパ諸国からアメリカを隔離・孤立させて、アメリカ大陸に「ア
メリカ」を拡大・膨張させることに他ならず、孤立主義はアメリカがその独立をいかに確保し
ていくかという権力政治的発想に基づくものであった。孤立主義の公の声明とも言うべきモン
山本吉宣『
「帝国」の国際政治学~冷戦後の国際システムとアメリカ~』
(東信堂、2006 年)、16-22
頁。
21
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
15
ローの教書(1823 年)には、ヨーロッパにおける神聖同盟に象徴される専制主義から、アメ
リカ大陸における共和・民主主義を守るという発想がその根底に存在していた 22。他方、国際
主義とは、なんらかの形で(例えば同盟なり国際連盟・連合)国際的な関与を行うというもの
である。
第 2 の軸として、国際主義には、多角的に国際制度をつくりそれを利用して関与を行うもの
と、単独で関与を行うものがある。多角的といった場合、国際連合のような包括的な制度や、
地域的な制度の枠組みを通じた関与がある。単独関与の場合、純粋にアメリカだけで行動する
ものに加え、アメリカが主となり既存の制度に関わりのない数カ国で行動するということもあ
る。
第 3 の軸は、軍事面や国家間対立を重視するリアリズムか、国家間の調和と協力の可能性を
追求するリベラリズムかという区分である。(例えばリアリズムであっても力の均衡を考える
ものと覇権を考えるものがあるように、リアリズム・リベラリズムともにさまざまな種類のも
のが存在していることには注意を要する。)本論文における国際主義は、国際主義は、ウィル
ソンの自由主義的国際秩序構想から始まり、共通の安全保障、経済的・政治的・社会的諸問題
を解決していくため、国際的協調への努力と国家の関与の理論であり、国際組織や、多国間貿
易・通貨政策、社会問題への取り組みなど最大限の国際協調を達成することである。山本の類
型ではタイプⅢの多角的でリベラルな国際主義のことを「国際主義」として考える。
第2項
政党と対外政策の関係
アメリカ合衆国の政治は民主党・共和党の 2 大政党制によって特徴づけられる。1850 年代
に共和党が設立されて以来、第 3 の政党はあるものの、2大政党が政権獲得を目指して競合す
ることが常態化している。この 2 大政党には、ヨーロッパの政党にみられるようなイデオロギ
ー的な性質は強くなく、両党には価値観や政策上の違いは明確ではない。国内・外交政策問わ
ず、政治的には自由主義、経済的には資本主義生産様式・市場経済の維持という大きな合意の
もと政策決定をする点は両者に共通である。また、伝統的にアメリカの政党は党規律が弱く、
「政策形成」政党というよりも、選挙での勝利を目指す「選挙」政党としての性格が強い。
伝統的に、民主・共和両党には対外政策に関しての特徴は以下の通りである。民主党は、西
側諸国との協調、自由貿易に基づく通商の拡大、共産主義圏に対する柔軟な外交、国連への支
持を重視する立場をとることが多く、国際主義的であるといえる。一方、共和党は孤立主義を
重視する傾向がある。また、各政党とも合衆国内の地域によっても対外政策に対する考え方に
相違があり、有賀貞によると、東部と太平洋岸の民主党は国際主義的性格が強く、南部の民主
党は対外援助等の問題に関して孤立主義的であると中西部の民主党と東部及び太平洋岸の共
和党はやや国際主義的、中西部の共和党はかなり孤立主義的傾向が強いことが明らかとなった
23。
さらに、冷戦終結後の民主・共和両党の外交問題への関与のあり方を見ると、民主党のクリ
22
23
斉藤、前掲書、37-39 頁
松田、前掲書、78-9 頁。
国
16
際
政
治
ントン政権はどちらかといえば、リベラルな国際主義的な外交を追及し、グローバリゼーショ
ンの推進、国連などの国際機関重視の政策を推進してきた。国際的な相互依存が進む環境にお
いてアメリカがその理想を導き、促進することの重要性を強調した。
これに対し、ブッシュ政権は第 41 代も、第 43 代もどちらかといえば保守的な国際主義外交
(単独的国際主義)を追及し、アメリカの安全保障と国益を重視した。G・W・ブッシュ大統
領は、国際主義路線を支持しているが、必要とあればアメリカが一方的な外交に出ることを厭
わない立場を打ち出している 24。
第3項
国外における民主主義推進
アメリカは民主主義やリベラルな体制を拡張しようとし、時には武力を行使しようとする。
そこには、リベラルな価値そのものを拡大しようとすることもあり、また民主主義の平和 25の
ように間接的にアメリカの安全保障に結びつく要因もある。
アメリカが主権国家としての基盤を固めるのに伴いアメリカ自体が民主主義推進活動に大
きな影響を与えるようになる。アメリカの軍事介入と強制的な政治体制の移植は 1899 年のキ
ューバに対するものから始まり、20 世紀初頭までにハイチ・ドミニカ・メキシコなどラテン・
アメリカ諸国の民主化が行われた。ウィルソンが国際政治の舞台に立つようになると、人権や
民主主義という価値に重きを置く対外政策が、ますます重視されるようになった。第二次世界
大戦後は、西ドイツや日本・イタリアなどの非民主主義国において、アメリカは各国の体制を
民主的な体制へと転換させた。その後、ウィルソン外交の概念をもっとも明確に継承したのは
アメリカの冷戦外交であった。自決の原則と反共産主義が結びつき、被治者の意見を反映しな
い政府から人々を解放するという思考様式が、共産党の「抑圧」を受けていると判断された地
域にあてはめられることになった。
その後、主権国家主導の民主主義推進に新しい様相を加えることになったのは、20 世紀の
最後の 4 半世紀である。これは①民主化の第三の波が 1975~2000 年に著しく発展し民主主義
国が世界を席巻した、②アメリカの軍事的優位性が圧倒的になった、③グローバリゼーション
の深化などがその理由としてあげられる 26。
ウィルソン外交理念である民主主義の伝播は、カーターやレーガン、クリントンなど歴代の
政権に影響を及ぼし、ジョージ・W・ブッシュ政権に至るまでアメリカの目標の1つであり続
けている。また 21 世紀に入ってから、民主主義推進はとりわけ大きな進展をみせ、2001 年の
9.11 テロ発生、アフガニスタンへの侵攻、2003 年のイラク戦争が勃発した際には、自由と民
主主義が戦争における大義とされた。
24
浅川公紀『アメリカ外交の政治過程』
(勁草書房、2007 年)、239 頁。
「民主主義の平和」:第 3 章 4 節参照
26 猪口孝ほか編『アメリカによる民主主義の推進―なぜその理念にこだわるのか―』
(ミネルヴァ書
房、2006 年)
、i-iii 頁。
25
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
第2章
第1節
17
クリントン政権の対外政策
民主党の対外政策
アメリカ政党の特徴は建国から現在までのほぼ 2 世紀もの間、民主党と共和党の 2 大政党制
を基本としていることである。この 2 大政党は、人種的、経済的、階層的に多少の差異がある
ものの、主張の違いはさほどない。民主党は、ベトナム戦争時には、党派を超えたイデオロギ
ー的な反戦派が形成されていた。それに比べ現在のイラク戦争では、イデオロギーではなく党
派間の対立が目立つ。民主党の外交政策を歴史的に辿ってみると、ポール・ニッチェ、フラン
クリン・ルーズベルト、トルーマン、ケネディの系譜である民主党の オールドスクールの政
策がある。これは、Muscularな外交政策と言われる、必要とあらば力の行使も躊躇しない民
主党の外交政策を指す 27。例えば、公民権運動の影響からリベラルな政治家とのイメージがあ
るケネディは、大統領選におけるニクソンとの戦いにおいて、外交政策では反共タカ派を打ち
出した
この潮流は、60 年代後半から 80 年代初めに民主党内で完全に否定される。具体的には 72
年の大統領選挙でサウスダコタ州出身のジョージ・マクガバンが、 反戦・平和を掲げて共産
勢力とのある種の共存とベトナムからの撤退を打ち出したことである。民主党のリベラル派は
ベトナム戦争の継続に反対した。そして 1980 年代のレーガン政権期において、中東や中米の
外交、国防政策をめぐり共和党との対立が生じた 28。
その後、湾岸戦争には民主党議員の多くが反対票を投じており、条件反射的に武力行使に反
対する、安全保障政策ではあまり信用ならない党という印象を与える時期もあったが、冷戦終
結後は、クリントン政権による国際主義的な外交が展開され、人権や国連を重視した政策が展
開された 29。2000 年の大統領選では、
「価値の安全保障観」を掲げ、武力介入にも積極的とみ
られる姿勢さえ見られた。しかし、2001 年の9・11テロ事件でこの流れは決定的に覆り、
民主党内に残っていた反戦・平和主義的価値観が再浮上する。対照的に、共和党内では価値に
基づいた強硬主義が勢いを増していく。とはいえ、2004 年の大統領選時には9・11テロ事
件の余韻が強く、民主党内でも反戦・反ブッシュ・反イラクを正面から唱える戦う用意はなく、
対テロ戦争を訴えたブッシュが勝利した。
第2節
クリントン政権の対外政策
アメリカ合衆国第 42 代大統領であるクリントンは、リベラル派と中道派に分裂した当時の
民主党にとって、様々な利益団体との関係を悪化させることなく、それらの要求を調整できる
27
『アメリカ外交の諸潮流~リベラルから保守まで~』
(http://www2.jiia.or.jp/report/kouenkai/071112-american_f_p.html)
28 浅川、前掲書、235-238 頁。
29 同上。
18
国
際
政
治
最適なリーダーであった 30。クリントン政権発足時の外交問題に関する認識は、伝統的な民主
党リベラルであり、民主主義や人権などのアメリカ的価値や制度を普遍的なものとし、これを
世界に普及させアメリカの影響力を維持する国際主義的な考えに基づくものであった。G・
H・ブッシュ政権が国内問題を軽視していると批判し、大統領に上り詰めたクリントンは、ブ
ッシュ政権と一線を画するためにリベラル色の強い政策を打ち出した。大統領就任当初、クリ
ントンは外交が不得意分野であったため、国内での支持基盤を増強・拡大することを優先し、
外交政策への取り組みは慎重だった。
政策決定において、大統領のリーダーシップ能力の媒体となるのは、外交政策決定機構であ
る。下の、図 1-1 はロジャー・ヒルズマンの外交政策決定モデルである 31。大統領も人間であ
り、一人が効果的に管理できる人数は限られており、必然的に部下に権限を委譲しなければな
らない。大統領から権限委譲される補佐官のなかで、最も影響力をもつのは、国務長官、国防
長官、国家安全保障担当大臣である。レーガン、G・H・ブッシュ政権と 12 年間の共和党政
権の後を継いだクリントン政権は、外交政策でカーター時代の人材に多くを依存しなければな
らなかった。ウォーレン・クリストファー国務長官もアンソニー・レイク国家安全保障問題担
当大統領補佐官も、ウィリアム・ペリー国防副長官もカーター政権経験者である 32。
30
「21 世紀への架け橋」在日米国大使館ホームページ、
http://japan.usembassy.gov/tj-main.html
31 浅川、前掲書、9 頁
32 村田晃嗣『アメリカ外交~苦悩と希望』
(講談社、2005 年)
、188 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
19
クリントンは内政と外交の関係を不可分のものであるとみなし、20 世紀のアメリカ外交の
原型を形作ったとされるウィルソン大統領の継承者である。ウィルソン主義の継承者として、
クリントンは国内秩序の安定、そして、そのための民主化や人権の促進を重要視した。これは
国内秩序と国際秩序の安全性確保が密接に関連しており、アメリカが超国籍的な経済活動を推
進していくためには、国際秩序の安定・維持のための国内秩序の安定は不可欠なものであると
考えたからである。
人権や民主主義を唱導するウィルソン主義者であると同時に、クリントンは経済再建を第一
課題に掲げ国内の発展を重視した。クリントン政権は、民主主義推進を米国の国力伸張のため
の道具とみなし、
「民主主義拡大」を選択した。これは理想主義的(idealism)な理由だ
けでなく、民主主義の推進が国際システム内部でのアメリカの国家安全保障上の目的・経済的
目的を支える柱となると考えたためである。
第 49 回国連総会でのクリントンの発言にも民主主義の推進の発言がある。
「民主主義のための連合―これはアメリカにとって有益なものである。つまり、民主主義国
はより安定的であり、より戦争に走りにくい。民主主義は市民社会を育成する。人々が祖国を
逃れるのではなく祖国を建設するための経済的機会を、民主主義国は提供する。われわれがこ
の激変の時代を敵ではなく味方にしようとするに際して、民主主義の建設を援助しようとする
われわれの努力は、われわれをより安全でより繁栄し、より成功にみちたものにするであろ
う。」
第 49 回国連総会での発言(1994/9/26) 33
また、冷戦後の唯一の超大国アメリカは民主主義と市場経済を世界中に拡大すべきであり、
それが現実に実現困難であってもその国を封じ込めるのでなく、国際社会に取り込んでいくよ
うな対処をすべきであるという「関与と拡大(engagement and enlargement)」政策である。
これは、アンソニー・レイク(Anthony Lake) が、クリントン政権の国家安全保障担当大
統領補佐官であった 1993 年 9 月 21 日、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係研究所で行
った「『封じ込め』から『拡大』へ」という演説においても述べられている。
「アメリカは冷戦期を通じて、市場経済、民主主義国家に対する世界的な脅威を封じ込めて
きた。現在我々は、殊に特別な重要性を有する地域において、この体制を拡大することを模索
しなければならない。『封じ込め』戦略の次に来るものは、世界の市場経済、民主主義共同体
の範囲を広げていく『拡大』の戦略であるべきなのである」 34。
レイクは、「拡大戦略」が今後のアメリカ対外政策を規定していく一大方針であることを明
33
ジョセフ・S・ナイ・ジュニア〔著〕
(田中明彦・村田晃嗣〔訳〕)
『国際紛争~理論と歴史~(原
書第6版)
』(有斐閣、2007 年)、63 頁。
34 阿南東也『ポスト冷戦期のアメリカ外交~残された「超大国」のゆくえ~』
(東信堂、1999 年)、
126 頁。
国
20
際
政
治
らかにした。ここで、拡大戦略とは、「市場民主主義国家共同体拡大戦略」と言うべきもので
ある 35。拡大戦略の内容は、①北米大陸、欧州、日本などすでに民主主義体制が確立している
地域を拡大の中核に位置づけ、②ロシア、西半球、アジア、アフリカなどの市場経済・民主主
義への萌芽が育ちつつある地域の成長を全面的に支援する、③イラン、イラクなどの市場経済
化、民主化に逆行する「反動国家」の影響力を最小化する④市場経済・民主主義を定着させる
手段としての人道援助を重視する、の4つの柱からなるというものである 36。
この 4 つの柱をもとに、クリントン政権下では、対外政策が展開された。以下、ソマリア紛
争、ボスニア紛争、コソボ紛争について考えたい。
第3節
クリントン政権の国際問題への対応
第1項
ソマリア紛争
ソマリア紛争への対処は、元来、内政専念を公言していたクリントンにとって対外政策上の
懸案となった。アメリカによるソマリアでのPKOへの関与は 92 年8月国連安保理決議 751
に基づき援助物資空輸に参加したことに端を発する。ソマリアで飢えに苦しむ子どもたちを救
うためのソマリアでの国連平和維持軍派兵は、前G・H・ブッシュ政権に始まった政策だった
が、アメリカが人権・民主主義を支援していく象徴となる事象であった。ソマリアの人々を救
うという人道的観点と、ソマリアの無政府状態を放置することが共産圏の拡大へとつながると
いう観点からソマリアへの派兵は正当化され、それ展開された 37。
1993 年に国連に多国籍軍の一員としてソマリア内戦に介入した。人道目的による武力行使
(=人道的介入)の最初の例である。1993 年 10 月 3 日、モガディシュ市街においてアイディ
ード派との戦闘で 16 名もの多数の死傷者を出した。このソマリア事件を契機に、アメリカ国
内ではソマリアからの撤退の声が高まり、クリントンは翌年 3 月までにアメリカ軍のソマリア
撤退を決定した。そして結局、アメリカ軍主導であった国連のソマリア活動そのものも失敗に
終わった。
クリントン政権のソマリア政策は失策であったとの印象が一般的であるが、PKOの側面に
限定した場合、無政府状態によって生じていた市民の中の飢饉状況は供給確保によって相当程
度の改善が見られたため必ずしも失敗とは言えない。元来ソマリアの市民を危機的状況から救
うことが主要目的であり、そのためには根本原因である無政府状態を解消しなければならない
という純粋な「人道的介入」であったはずにも拘らず、ある時点から目的の順位が逆転してし
まいアイディード逮捕と治安維持が前面に押し出された。それぞれの目的を達成するために採
りうる手段が相容れないものであったためソマリアの治安維持が中途半端になってしまい、失
敗との印象をもたらしたのであった。
積極的多国間主義は、ソマリア事件以来大きく後退した。平和維持活動は、アメリカの外交
35
36
37
菅英輝『アメリカの世界戦略~戦争はどう利用されるのか』(中公新書、2008 年)、101 頁。
阿南、前掲書、126-27 頁。
松田、前掲書、208 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
21
または防衛政策の中心を占めるものではなくなり、人権・民主主義を掲げて世界中に介入する
という政策は控えることとなった。そして、アメリカの無関心は国際社会の無関心を呼び、そ
の後のルワンダやブルンジでの内戦は国際社会に見放され多くの犠牲者が生じる結果となっ
た。
第2項
ボスニア紛争
ソマリア紛争後、アメリカが国外における紛争介入に消極的にはなったが、すべての介入を
停止したわけではない。ユーゴスラビア解体に伴う紛争には、アメリカは躊躇しながらも介入
することを選択した。
ボスニア紛争は、ユーゴスラビアから独立した ボスニア・ヘルツェゴビナで 1992 年から
1995 年まで続いた 内戦である。ボスニア紛争が発生している間、アメリカでは大統領選挙が
進行し、クリントン候補はブッシュ(G・H・ブッシュ)現職大統領の「民族浄化(ethnic
cleansing)」に対する無行動を攻撃し、紛争当事民族集団の紛争鎮静化を強いるためセルビア
人勢力への限定的空爆、全紛争当事民族への武器輸出解除も含めた強硬手段を採るよう訴えて
いた。
クリントンは政権に就くも 93 年のソマリア紛争への介入の経験から、当初は、ボスニア
紛争はヨーロッパの問題であるとし米軍による介入には消極的であった。しかし、95 年にス
レブレニッツで虐殺が発生すると、ついにクリントン政権は介入を決意する。
ボスニア紛争への介入に際しては、オルブライト国連大使(当時)の影響が大きい。オル
ブライトは人道問題や人権問題に強い関心を抱いており、アメリカが不介入を続けることは国
内外のワシントンの指導力に影響を与えることを強調した 38。アメリカはボスニアのセルビア
人勢力の軍事拠点を空爆する際に、NATO軍を指揮し、空爆の 3 分の 2 を米軍が実行した。
空爆は成功し、アメリカはボスニアでの危機を収拾する外交交渉で中心的役割を果たすととも
に、NATOを介してアメリカの軍事力をヨーロッパ諸国に見せつけヨーロッパの安全にとっ
てNATOが不可欠であることをEU諸国に示した。
その後、1995 年 11 月にオハイオ州デイトンでアメリカとムスリム系・クロアチア系・セル
ビア系の 3 勢力の首脳とで会議が開催された。この会議では、ボスニアの 2 分割を基本原則と
する包括的和平協定が合意(デイトン合意)された。クリントンは和平協定合意後、翌週の演
説において、アメリカがボスニアの和平へ参加したことの価値について語っている。
「アメリカの役割は戦争することではなく、ボスニアの人々のため、(彼ら自身の)平和協
定を確実なものにすることである。……罪のない市民、とりわけ子どもたちの殺害を止めさせ、
中欧を安定化させる機会がある。……アメリカは世界中の何十億人もの人々の理念を具体化し
た国である。建国者たちが述べたように、アメリカは生命と自由と幸福を追求する国である。
……われわれは、平和の維持や民主主義の普及、無類の繁栄と冷戦の勝利をもたらした。」 39
38
菅、前掲書、110-3 頁。
CNN ホームページ-Transcript of President Clinton’s speech on Bosnia-Nov.27,1995
(http://edition.cnn.com/US/9511/bosnia_speech/speech.html)
39
国
22
第3項
際
政
治
コソボ紛争
クリントン政権は 2 期目に入って、ヘゲモニー維持の方法として、不安定な世界情勢に対処
するためにその強大な軍事力を活用した。
ユーゴスラビアは、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人、ボスニア人、イスラム教徒、
アルバニア系コソボ人の間で民族的・宗教的に分かれていた 1 つの国家であった。冷戦後崩壊
の一途をたどり、ヨーロッパ諸国が秩序回復に失敗した後、この問題に米国が関与することと
なった。先のブッシュ政権は当初、紛争に関与することを拒否したが、クリントン政権はヨー
ロッパの同盟諸国に促され、ようやく関与に同意した。1999 年、セルビア人によるコソボ人
虐殺が発生する、アメリカはNATOによるセルビア空爆を 3 ヶ月間にわたって行い和解を実
現させた。
コソボ紛争が発生したとき、アメリカがコソボ紛争の解決に指導力を発揮すれば、ヨーロッ
パはNATO政策に関するワシントンの要請を進んで受け入れることになると政権は考えた。
国防省や国家安全保障会議はボスニア紛争に続いてコソボにも軍事介入することには消極的
であったが、オルブライトは「アメリカの指導力およびNATOの妥当性と有効性の重要なテ
ストケース」だとして大統領を説得した。クリントンもオルブライトの見解を支持し 99 年 3
月にNATOはコソボの空爆 40を開始した。コソボ空爆作戦を通じてアメリカの軍事力の必要
性をヨーロッパの同盟諸国に再認識させることとなった 41。EUをNATOにつなぎとめてお
くため、NATOの存在意義を強化する戦略を打ち出した。その1つはNATOの東方拡大で
あり、もうひとつはコソボ空爆であった。クリストファー国務長官らが、NATOがコソボ紛
争を解決できなければNATO拡大を正当化できないと考えたためである。クリントンは、政
権 2 期目の 1997 年以降ヘゲモニー維持の方法として、緊張した世界情勢を前に自国の強大な
軍事力を活用し始めた。コソボへの空爆は、アメリカが独自の判断で行う価値の外交に「人道
的介入」という新しい正当化を与えた。アメリカにとってNATOは、国連よりも動かしやす
いため、人権・民主化のための介入主体として新たな役割を担うこととなった。また、NAT
Oの東方拡大により新興民主主義国が加わることによって、機構内での相対的なアメリカの力
はさらに増すこととなった 42。
第4節
クリントン政権におけるウィルソン主義
クリントン政権は発足当初から、
「積極的多国間主義」のもと、国連重視の政策を展開する。
「積極的多国間主義」、ネオ・リベラルな国際主義の観点から、国連の平和維持活動に積極的
な姿勢をみせた。「平和のためのパートナーシップ」を主張し、軍事予算の大幅削減をすすめ
40
この空爆は中国・ロシアの拒否権発動の懸念から、国連安保理決議がないまま「自己委任」とい
う形で実行された。渡辺、2008、259 頁。
41 同書、121-2 頁。
42 松田、前掲書、209 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
23
るとともに、国連の平和維持活動への参加などの、多国間協力の強化を進めていった。これに
はクリントン政権期に盛んに唱えられた、
「民主的平和論(Democratic Peace)」の影響がある。
民主的平和論とは、民主主義は対立を話し合いや選挙で解決するシステムであり、戦争を抑制
し、民主国家同士は戦争を避ける傾向にあるというものである 43。民主的平和論を受けて、冷
戦後の世界における安全保障は、単に軍事バランスが安定しておりアメリカが優位であること
では足りず、他の国々が民主的で、アメリカの価値観を共有していることが重要だと考えられ
た。
冷戦終結後、ソ連の崩壊を受け、アメリカの軍事的優位は明らかであったが、クリントン政
権の対外政策がその優位に頼った介入や単独行動に走ることは少なかった。いったん軍事行動
を起こしてしまえば、アメリカは多くの国に頼らなくとも戦争を戦えることが次第に明白にな
った。ユーゴスラビアで内戦が始まった当初、EUも国連も実効的な解決策を与えることは出
来なかった。その後、内戦はNATOの空爆によってはじめて収束し、そしてNATOのなか
の実戦部隊は圧倒的に米軍によって占められていた 44。だがクリントン政権期のアメリカはこ
うした圧倒的な軍事力を背景とした単独行動よりも、むしろ世界各地における国際協調を優先
した。それぞれの地域に力の均衡をつくることを対外政策に目的とし、その目的を達成するた
めに必要な限度で地域紛争関与も行われた。
アメリカ合衆国は時として単独で行動する場合もあるが、対外政策の方針は多国間での関与
に向いている。また、アメリカは紛争が発生する以前に芽を摘み取る国連予防外交という新し
い構想を模索する。クリントンは、中ロのような非民主主義的な大国相手にはウィルソニアン
の関与政策で望んだが、一時は「冷戦の勝者」と呼ばれた同盟国の日本には、国益中心主義で
向き合った。
このように、クリントン政権の外交は、第 1 期では、リベラルな国際主義に基づくものであ
った。しかし、第 2 期において、ソマリア紛争での失敗から、政権内で、軍事力や武力行使に
裏づけられた政策でなければ効果を挙げることは出来ないとの認識が深まった 45。民主主義と
人権を支援はするが、貿易が米国の安全保障の最優先とされた。1990 年代中頃以降、中国で
は経済成長が進みビジネスチャンスが増加した。このことにより、アメリカは人権問題をめぐ
り中国の態度を硬化させ国際的に孤立させるよりも、国際社会に中国を積極的に取り込み、対
外開放を進めるほうが民主化の促進や人権問題解決によい結果をもたらすという方針で政策
が進められた。
クリントン政権の対外政策において、民主主義の推進と、ソマリア紛争やボスニア紛争で見
られたような国際協調を目指すウィルソン主義の理念は読み取ることができる。だが、ウィル
ソン自身もそうであったように、理念の追求だけでなく、国益も視野に入れた政策が展開され
た。クリントン政権の8年間は国際協調を原則としながらも、単独行動と多国間協調の間を揺
れ動いた 8 年間であったといえよう。
43
44
油井、前掲書、ⅲ頁。
藤原、前掲書、199-222 頁。
45
西崎文子、『アメリカ外交とは何か~歴史の中の自画像~』
(岩波新書、2004 年)、174 頁。
国
24
第3章
第1節
際
政
治
G・W・ブッシュ政権の対外政策
G・H・ブッシュ政権の対外政策
共和党は、対外的にはネオコン(新保守主義)に見られるような武力を用いた民主化も辞さ
ないような介入主義をとる。冷戦期には戦略防衛構想など積極的な軍拡を行い、また冷戦後に
は介入主義の立場をとり湾岸戦争やアフガニスタン侵攻、イラク戦争を起こし参戦した。レー
ガン政権からネオコン勢力が一定の主導権を握り始めたことも外交政策に影響を与えている。
レーガン政権では、民族主義や自決、そして自由は普遍的な価値であり平和の必要条件である
とし、ウィルソン外交のレトリックが感じ取れた 46。
またG・W・ブッシュ大統領の父親である、ジョージ・H・ブッシュにもウィルソン主義の
要素が鑑みられる。1988 年の大統領選挙で、レーガン政権の副大統領であったジョージ・H・
ブッシュは当選した。ブッシュは北京の連絡事務所長や国連大使、CIA長官を歴任し、外交
には長けていた。大統領とその側近グループは実務的には有能であったが、ビジョンとは無縁
であり、理念を重視するウィルソニアンとはこの点では、ほど遠かった 47。ブッシュは、中国
やソ連といった大国には自制的であったが、パナマなどの小国に対しては軍事介入した。その
後湾岸戦争が迫り来る中、ブッシュは「新世界秩序」を提唱し、侵略の阻止、大国間の協調、
国連の枠組みが重視された。この点は、国際協調を重視するウィルソン主義が表れている。
その後、ソマリア紛争への米軍派遣をG・H・ブッシュ政権は決定する。国連軍の先頭に立
ち、飢餓に苦しむ国民へ定期的な食糧輸送を可能にするために国連平和維持軍への派兵を行っ
た。このソマリアへの派兵は、クリントン政権に引き継がれた後、失敗に終わったが、外国に
おいて人権を重視した外交政策として象徴的なものとなった。
第2節
第1項
G・W・ブッシュ政権の対外政策
G・W・ブッシュ政権とネオコン
ブッシュ(G・W・Bush:この項以降ブッシュとはG・W・ブッシュ大統領のことを指す)
は 2001 年 1 月に第 43 代大統領に就任した。
ブッシュ政権において、第 2 章の図 1-1の同心円の中心部分を形成するのは、コンドリーザ・
ライス国家安全保障担当大統領補佐官、ディック・チェイニー副大統領、コリン・パウエル国
務長官、そしてドナルド・ラムズフェルド国防長官であった。
ブッシュ政権を考察する上で重要なのは、いわゆる「ネオコン」と呼ばれる勢力である。
元来、道義外交を展開する「国際主義」はウィルソンに象徴されるように、民主党などのリ
ベラルの立場であったのに対して、1980 年代の保守化を通じて保守の中にも国際主義を標榜
46
47
西崎、前掲論文、183 頁。
村田、前掲書、177-78 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
するグループが台頭してきた
25
48。これら「ネオコン(新保守主義) 49」と呼ばれ、ブッシュ政
権の政策に影響を与えた。ブッシュ政権における新保守主義者派としては、チェイニー副大統
領やウォルフォウィッツ国防副長官やリチャード・パール国防政策委員会長などがいる。こう
したネオコンの支持者は、湾岸戦争時にはフセイン政権の打倒をすべきとの見解を持っていた
ため、9.11 テロ事件後においてもイラク攻撃を熱心に推奨した 50。
ブッシュが大統領に就任した当時、アメリカのエネルギー政策は重大な局面を迎えていた。
クリントン政権後半の 1998 年に、アメリカは史上初めて石油消費の半分以上を輸入で賄うよ
うになり、その後も石油の輸入量は増加している 51。中東に埋蔵されている石油資源がアメリ
カのヘゲモニー維持にとって重要であり、アメリカ政府の行動に多大な影響を与えるため、湾
岸地域からの石油の安定的供給の確保は不可欠である。そのためには、①サウジアラビアの政
情安定②フセイン政権を打倒しイラクに親米政権を樹立すること③イランへの圧力の強化な
らびに親米政権を樹立することの3点が課題となった。例えば、2002 年チェイニーはイラク
の石油資源を大量破壊兵器の問題が中東の親米政権にとっての脅威であり、この脅威を除去す
ることが政権の重大な関心事だと述べた。アメリカの亜ネルギー政策と、ネオコンの思想が結
びつき、ブッシュ政権期のアメリカ外交政策、とりわけ中東への対外政策の方針は決定された。
第2項
9.11 テロ事件の衝撃
ブッシュ政権の外交を考えるにあったって、大きな契機となったのは、2001 年 9 月 11 日の
世界貿易センタービルをはじめとした同時多発テロ事件である。これは、北米で 4 機の旅客機
がハイジャックされ、2 機はニューヨークの世界貿易センタービルに、1 機はワシントンの国
防総省に激突し、残りの 1 機はペンシルバニア州の山林に墜落するという史上最大規模のテロ
のことである。ハイジャックした航空機を自爆の武器として大量殺傷を狙うという新しいタイ
プのテロであった。
米国は、本土に対する外国からの攻撃としては米国史上最大の被害を被った。ブッシュ政
権の外交政策は、このテロの発生により大きく変化することとなった。
2001 年の 9.11 テロ以後アメリカは、アフガニスタンのタリバン政権やイラクのサダム・フ
セイン政権を崩壊に導き、民主化支援を進めてきた。ブッシュ大統領は民主主義の拡大がテロ
との戦いに勝利する鍵となり、世界に平和をもたらすと考えた。
ネオコンに見られる「国際主義」は第 1 章 3 節 1 項の図 1 にある国際主義のうち、タイプⅤ(リ
ベラルな単独主義―覇権的リベラリスト)とタイプⅥ(リアリズム的単独主義)が合わさったもの
であり、時に「帝国論」と呼ばれるものである。山本、前掲書、38 頁。
49 新保守主義者は本来、民主党に属していて、トルーマンやケネディを支持していたが、ベトナム
戦争後民主党が軍縮・軍備管理的外交を支持したためそれに幻滅し、1970 年代から共和党タカ派
のレーガンを支持するに至った。軍事力によってソ連に対抗すると同時に、アメリカの使命を強調
する点が特徴である。軍事力によりアメリカの壮大な使命を実現しようとした点は、ウィルソン主
義に共通するものがあるといえる。久保、前掲書、280 頁
50 油井、前掲書、226 頁。
51 菅、前掲書、145 頁。
48
26
国
際
政
治
「アメリカは、『なぜ彼ら(テロリスト)はわれわれを憎むのか』と問いている。彼らが憎
むのは、今この議場にあるもの、すなわち民主的に選ばれた政府である。彼らの指導者は、自
らを指導者の地位につけた者である。彼らは、われわれの自由、つまり宗教の自由、言論の自
由、選挙、集会の自由、そして異なる意見を述べる自由を憎む……これはアメリカだけの敵で
はない。また、アメリカの自由だけが脅かされているのでもない。これは世界の戦いであり、
文明の戦いである。進歩と多元主義と寛容と自由を信奉するすべての人間の戦いである。」
アメリカ上下両院合同議会での大統領演説(2001/9/20) 52
「わが国の自由が生き残るためには、他国でも自由が成功することが、ますます重要になっ
ている。この世界での平和への最良の希望は、世界全体に自由を拡大することである。アメリ
カの死活的利益とわれわれの最も深い信念は、今や一致している。……この世界で専制を終焉
させるという究極の目的を持って、全ての国と文化で民主主義的な運動と制度が成長するよう
求め支援することこそ、アメリカの政策である。」
2 度目の大統領就任演説(2005 年) 53
9.11 後の新しい時代においてはテロ組織アルカイダの壊滅が中東政策の最優先目標となっ
た。2つ目の目標は大量破壊兵器の拡散の阻止である。アメリカの世界戦略の中核を中東政策
が占め、テロ組織壊滅と、大量破壊兵器の拡散防止、さらにイスラエルの安全保障と石油の確
保が中東政策の4つの目標となった。
第3項
単独行動主義とブッシュ・ドクトリン
冷戦後、クリントン政権においては諸外国や国連などとの国際協調を成したが、ブッシュ政
権が誕生し、9.11 テロが発生すると単独行動主義を強めた。単独行動主義は戦争を防止するた
めに戦う権利があり、それはアメリカのみに与えられているというブッシュ・ドクトリンから
読み取られる。ジョージ・W・ブッシュは大量破壊兵器を保有する敵への先制攻撃を正当化し、
他国の追随を許さない軍事力の優位を堅持して中東での民主主義を促進するという方針を「ア
メリカの国家安全戦略」で表明した。
「米国は長年にわたり、国家安全保障に対する十分な脅威に対しては先制攻撃を行う選択肢
を保持してきた。脅威が大きいほど、行動を取らないことのリスクは大きく、また敵の攻撃の
時間と場所が不確かであっても、自衛のために先制攻撃を行う論拠が強まる。敵によるそのよ
うな敵対行為を未然に防ぐために、米国は必要ならば先制的に行動する。米国は、新たな脅威
に対する先制攻撃として、米国は必ず軍事力を使用するわけではない。また、国家が侵略の口
実として先制攻撃を利用すべきではない。しかしながら、文明社会の敵が公然と、積極的に、
President Bush Addresses the Nation Washington Post ホームページ
(http://www.washingtonpost.com/wp-srv/nation/specials/attacked/transcripts/bushaddress_092
001.html)
53 ナイ、前掲書、63 頁。
52
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
27
世界で最も破壊力の大きい技術を追求する時代にあって、米国は危険が増大するのを何もせず
に見ているわけにはいかない。」 54
ブッシュ外交の特異性はブッシュ・ドクトリンとして知られる先制攻撃論(予防戦争)にあ
る。このブッシュ・ドクトリンは 2001 年 9 月 11 日のテロ後に表明されたものである。アメリ
カは、9.11 テロ事件を、93 年のワールド・トレード・センター爆破事件、98 年のケニアとタ
ンザニアのアメリカ大使館へのテロ攻撃など、一貫してアメリカを狙う一連のテロ攻撃の延長
にあり偶発的に発生したものではないとし、アメリカは先制攻撃を行う用意があることを表明
した。イラク戦争はこの先制攻撃論のいわば実践である。
ブッシュ大統領を囲む人々は、アルカイダのような反米テロ組織の出現の原因として、中東
における民主主義の欠如を挙げる。非民主的な体制が偏向した教育によってテロリストを生み
出している。また経済の自由化や発展を妨げてテロの温床となる貧困の原因をつくっていると
の認識からの民主化構想である。2002 年 12 月 11 日、リチャード・ハース米国国務省政策企
画部長はその構想を次のように語った。
「アラブは深刻な問題に直面しており、こうした問題は、より柔軟かつ民主的な政治制度の
みで対処できる。イスラム教徒は、民主主義の欠如をアメリカのせいにすることは出来ない。
しかし一方、アメリカが世界で果たす役割は大きく、イスラム世界全体で民主主義を促進する
米国の努力は、時には停滞したり不十分なものであった。イスラム世界各地において、中でも
アラブ世界において、米国は共和党・民主党問わずどの政権も、民主化を十分に優先してこな
かった。……米国は、米国より他の国々の方が失うものが大きいことを理解し、謙虚な態度で
臨まなければならない。イスラム諸国とその国民が、より開かれた民主的な発展へと移行する
に従い、われわれはそれを奨励し支援するだけでなく、最も直接的な影響を受ける人々の声に
耳を傾ける必要がある。……イスラム世界の民主化を促進する米国の論理は、利他的であると
ともに利己的なものである。イスラム教徒が多数を占める諸国の民主化が進むことは、そうし
た国々の住民の利益となるが、同時にそれは米国の利益にもなる」 55。
しかし、ブッシュ・ドクトリンにも限界があり、イラクが困難な状況に陥ったとき、ブッシ
ュ政権は自らが招いた混乱を国連に押し付けようとした 56
ブッシュ政権は、従来のどの政権よりも単独主義に走る傾向が強く、国連などとの多国間協
調を軽視し、同盟よりも「有志連合」アプローチを採用した。フランス革命以降「内政不干渉」
の原則確立により、侵略戦争は違法であり交戦権行使は自衛のために許されるという認識が定
着してきた今日の国際社会において、ブッシュ・ドクトリンは「内政不干渉」の原則の否定で
あり、具体的な損害がないにもかかわらず、先制攻撃を可能とした点は従来の国際法に対する
「米国の国家安全保障戦略 2002 年 9 月」、在日米国大使館ホームページ
<http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20030515d1.html>
55 リチャード・ハース「目標はイスラム世界の民主化:米国政府の優先順位の変化」
、在日米国大
使館ホームページ<http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-jp0289.html>
56 アーサー・シュレジンガー・ジュニア、藤田文子・藤田博司訳、
『アメリカ大統領と選挙』
(岩波
書店、2005 年)、19 頁。
54
国
28
際
政
治
挑戦であったと考えられる 57。
第3節
第1項
ブッシュ政権の紛争への対応
アフガニスタン戦争
前述した同時多発テロ事件を計画・実行したのは、アフガニスタンに拠点を構えるオサマ・
ビン・ラディン率いるイスラム過激派組織アルカイダだとブッシュ大統領は断定し、ブッシュ
はビン・ラディンの潜伏するアフガニスタンのタリバン政権に、彼の身柄の引渡しを要求した。
しかし、タリバン政権がこれを拒否したため、10 月に、ブッシュ政権はイギリスのブレア政
権とともにアフガニスタンへの武力攻撃を開始した。アメリカのハイテク兵器の前に、わずか
2 ヵ月後の 12 月にはアフガニスタンの首都カブールは陥落した。
テロの撲滅という目的とともに、アフガニスタン戦争では、圧政のもと苦しむアフガニスタ
ンの民衆を解放するため、タリバン政権の打倒と外からの関与が必要だという論理が展開され
た。
しかし、カブールが陥落した後も、アルカイダとの戦いが終わったわけではなく戦闘は続い
ており、テロの除去と安定した政権の確立は未だに達成されていない。
第2項
イラク戦争
2002 年1月の一般教書演説において、ブッシュはイラン・イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」
として避難した。これら 3 国は、大量破壊兵器の保有が疑われている国々であるが、そのなか
でも、ブッシュが標的にしたのは、イラクであった。イラクは、サダム・フセイン政権の下、
湾岸戦争以降 12 年間で 17 もの国連安保理決議を無視し、国連査察団も追放していた 58。ここ
に、9.11 テロ事件によるアメリカ国民の安全保障へ関心の高まりが加わって、イラク問題へ
の対処が実現されることとなった。
2002 年にブッシュ政権は、全面的かつ自由なアクセスを伴う兵器査察を再開する国連総会
決議を求め、10 月には連邦議会において軍事力使用の承認を得た。そして、11 月には国連安
保理が安保理決議 1441 を採択した。これは、イラク国内において、禁止された武器の捜索を
無条件に行うことを国連査察官に与えたものである。しかし、2003 年 1 月、国連の査察団は
イラクに大量破壊兵器を発見できなかった。そして、ヨーロッパの多くの国々による米国のフ
セイン排除計画への反対があった。フランス、ロシア、ドイツが軍事力行使に反対し、イラク
に対する軍事力行使を承認する安保理決議は採択されなかった。そして、アメリカは、国連の
支持がないままイラク戦争開戦に踏み切った。
イラク戦争開戦にあたって国民に向けた 2003 月 3 月 19 日の演説のなかで、ブッシュは、
イラクにおける民主的国家建設へのアメリカの関与の必要性を述べている。
57
58
油井、前掲書、ⅲ頁。
村田、前掲書、222 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
29
「米国民と世界中の人々に理解してもらいたい。連合軍は罪のない民間人の犠牲を避けるた
め、あらゆる努力を払うことを。カリフォルニア州と同じ広さを持ち、 厳しい地形条件を有
する国での軍事作戦は、予想されるよりも長く困難なものとなるかもしれない。そして、イラ
ク国民による、自由で安定した統一国家の建設の支援には、われわれの継続した関与が求めら
れる」 59。
こうして、2003 年 3 月、アメリカが主体となり、イギリス、オーストラリアなどが加わり、
イラクへの侵攻が始まったのである。米英軍は、他の数カ国からの小規模部隊とともに、南か
らイラク侵攻を開始した。4 月に入り、首都バクダットを陥落させ、イラク占領に成功した。
その後、イラクの統治権をもつ暫定政府の確立を進めたが、アメリカをはじめとする連合軍兵
士への奇襲攻撃や暴力行為が後を絶たず混乱した状況が続いた。兵器査察チームによる査察が
行われたが、化学・生物兵器などの備蓄を見つけることは出来なかった。
アメリカは、第一次世界大戦ではウィルソン大統領の 14 か条の原則、第二次世界大戦では
ルーズヴェルトの大西洋宣言と、それぞれ戦後の理想主義的な青写真を描いてきた。しかし、
イラク戦争においてはテロリズムの撲滅というだけで、テロを防ぐ社会環境や世界経済をどう
作り出すかというビジョンを出していないとの指摘もある。イラクで戦争が終結した後も、戦
闘が続き、イラク国民のあいだに米軍の撤退を望む声が広がっていることは、このビジョンが
欠落していることの現れではないだろうか。さらに、ブッシュの単独主義的な行動は、アメリ
カ合衆国が自ら築いてきた国際機構や国際法秩序を破壊している。例えば国際刑事裁判所(I
CC)は、戦争やジェノサイドについての個人の刑事責任を国際社会が問おうとして設立され
たものであるが、アメリカが自国の兵隊を外国に裁かれたくないとしてそれに敵対することは、
自分たちがかつて行った戦争裁判を否定するものである。この点を、ブッシュは理解していな
いと批判されている。
イラク戦後、イラク人と、米兵の死者数の増加などのイラク情勢の泥沼化は、ブッシュ政権
の外交に大きな影響を与えた。2006 年の中間選挙では、共和党は民主党に大敗を記し、ブッ
シュ政権の外交は見直しを迫られたのである。
第4節
ブッシュ政権におけるウィルソン主義
ブッシュ政権は、彼の安全保障のアドバイザーであるライスが 2000 年の選挙キャンペーン
において、クリントン政権下のリベラルな多国間主義強調への抵抗として、共和党政権は伝統
的な大国関係のマネージメントと国益の追求を強調した外交への回帰を主張していたように、
伝統的リアリストのレトリックを活用していた。そのため、ブッシュ政権は共和党のリアリズ
ム政権との印象があり、国益より民主主義の理念を強調するウィルソン主義とはかけ離れてい
59「ブッシュ大統領、対イラク軍事作戦開始を発表」、在日米国大使館ホームページ
<http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20030320d3.html>
30
国
際
政
治
る印象がある 60。しかし、イラクと中東に民主主義をもたらすことが平和とアメリカの安全保
障にとって致命的であると主張しているように、リベラルなウィルソン主義の概念を包含して
いる。ブッシュ政権は、実際に国連などの国際機構を通さずに対外行動(単独行動主義)をと
ることも多い。この点は、「通説的」ウィルソンの国際協調とは、性質を異にしているが、本
論文におけるウィルソン主義の二面性がここにあらわれている。人道的介入論と制限主権論
(主権に対する人権の優位)、自由と民主主義の拡大、正義の戦争論(力は正義なり)とした
点で、「民主化」を進めるウィルソン主義の理念を受け継いでいるといえる。両者には他国に
おける民主主義推進という共通項はあるものの、相違点ももちろん存在している。
ウィルソンの外交は、アメリカの道義性に対する強い自信と、国際連盟時代の提唱に代表さ
れる国際協調主義とを併せ持つものであった。ウィルソンが、ラテン・アメリカやアジアに対
して独善的な態度ととったことは否定できないが、国際連盟の設立という目的のため、その独
善性は和らげられることも多かった 61。しかし、ブッシュ政権の外交は、単独行動主義を優位
において、「アメリカの正義」を振りかざした。国連や同盟国の反対を押し切って開戦された
イラク戦争は、それが顕著に現れた例である。ブッシュ政権は「有志連合」を募ることもあっ
たが、それはアメリカに従う意志がある国との「国際協調」であり、普遍的な国際秩序構築を
目指したウィルソンとは相違がある。
また、ブッシュ政権の外交には、ウィルソン主義の精神は受け継がれているものの、アメリ
カが自由と正義の擁護者であると述べるだけで、それ以上理念について語ろうとはしなかった。
ブッシュにとって自由や正義はアメリカの優越を主張する際の枕詞になっても、個別的利害を
超えてまでのアメリカの外交行動を規定すべき原則としてはとらえられていなかったためで
ある 62。ブッシュ政権は、ウィルソン主義的な理念を利益に従属させた。ブッシュは自由、民
主主義、文明という理念を強調したが、チェイニー副大統領と関連のある石油サービスのハリ
バートンやレーガン政権のシュルツ国務長官と関係が深いエンジニア会社のべクテルなどが
イラク復興事業を受注したことなど、理念の裏に個別的利益があることが明らかである。理念
追求が国際社会の共同作業であるということが認識されなければ、理念は戦争を正当化するた
めの形容詞に過ぎず、国際社会での共有は難しいだろう。ウィルソン自身も、一方で普遍的な
理念を語りながら、現実にはアメリカの国益を優先することもあり、諸外国から反発されるこ
とも多かった。ブッシュ政権のほうが、この傾向はより顕著であったが国家利益と理念との間
に矛盾が生じる点では共通している。
G. John Ikenberry, Thomas J. Knock, Anne-Marie Slaughter, Tony Smith, The Crisis of
American Foreign Policy: Wilsonianism in the Twenty-first Century (Princeton University
60
Press), p.6.
61 西崎、前掲書、217-8 頁。
62 西崎、前掲論文、18 頁。
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
31
結 論
立憲民主制の国家同士は互いの正統性を認識し集団安全保障や自由な経済交流を通じて平
和を維持するというウィルソンの外交理念は、自由や民主主義を重視するアメリカの建国以来、
現代まで続く価値観に基づいている。
ウィルソン主義は、彼以降のアメリカ政治に多大な影響を与えた。トニー・スミスはアメリ
カの使命感に焦点を当てた著作のなかで「アメリカ外交における一貫した伝統」として「アメ
リカの安全は民主主義の世界的な普及によって最もよく守られるという信念」を挙げている。
民主主義を安全保障の問題として位置づける考えは、ウィルソン大統領に始まり、レーガン、
クリントン、G・W・ブッシュ政権にも共通する認識である。
「民主主義」という理念を重視したウィルソンであったが、アメリカ外交は常に理想ばかり
を追い求めていたわけではなかった。ウィルソンによる「国際協調主義」の外交の流れに、当
時、アメリカの「非公式帝国」路線が合流し、同時に新世界秩序の創出や「民主主義の輸出」
のための戦争が肯定されるようになった。例えば、第一次世界大戦への参戦を主導する過程に
おいてウィルソンは「民主主義のために世界を安全にする」という論理で戦争を正当化した。
ウィルソンは外交では普遍的な理念を語りながら、現実にはアメリカ独自の利益を優先させる
ことも多く、諸外国からの反発にあっていた。彼が、自国のものであれ、他国のものであれ、
特殊な権益が人々を搾取することを阻止し、利他的な外交を追及すべきであるという信念を持
っていたのは事実である。だが、この普遍的な理念である「民主主義」はアメリカが構想した
「民主主義」であり、アメリカのナショナリズムを一体化した「国民民主制」という制約を持
っていた。それゆえ、「民主化」を要求される側からみれば、それはアメリカの国益追及のた
めの手段として受け止められ、強い批判を浴びたのであった 63。
通説的には、ウィルソン主義は「民主化」と「国際協調主義」を進めることにより国際秩序
構築を目指すものである。しかし、実際の政策面では、第 1 章 1 節で述べたように、ウィルソ
ン政権は「民主化」は行うものの、他国との関与の仕方は第一次世界大戦参戦時のような「国
際協調主義」だけでなく、メキシコ介入にみられる「単独行動主義」をとることがあった。こ
うした二面性は、ウィルソンの時代だけではない。
アメリカは、人権・民主化などウィルソン主義的な理念を世界に普及させており、アメリカ
と戦争との関係を説明するのに、理念的要素が重要であることは疑いがない。しかし、民主主
義の普及や人権侵害といった大義名分のみを理由に軍事力を行使するわけではなく、人道的関
心を補強する別の国益がない場合、軍事力の行使は回避することが多い。アメリカの安全保障
や経済的利益といった国益を得られる見込みがわずかな場合、軍事力行使をしてまでウィルソ
ン主義の追及をすることは非常に稀である。他方、軍事的安全保障の理由からアメリカが戦争
や軍事力の行使に踏みきった事例を探すことはさほど難しいことではなく、たとえば湾岸戦争
の場合、クウェート侵略を懸念したが、同時にエネルギー供給と湾岸地域の同盟国への脅威と
63
西崎、前掲書、218 頁。
32
国
際
政
治
いう懸念がアメリカの軍事力行使につながった。また、クリントン政権期の旧ユーゴスラビア
のボスニアとコソボの場合、ヨーロッパの同盟国とNATOが国益として絡んでいたため、軍
事介入へとつながった。他方、ソマリアの場合は、人道的関心以外の国益が乏しかったため、
米軍に犠牲者が発生したことが明らかになると、軍事介入を続けることはなかった。ソマリア
での悲惨な結果は、ルワンダでの国連の平和維持活動へのアメリカの支援を阻んでしまい、
1994 年の大虐殺を防ぐことが出来なかった 64。しかし、国連やNATOとの国際的な協調や、
「人道的介入」という新しい概念を提示したことから、「民主化」と「国際協調主義」のウィ
ルソン主義が、クリントン政権の対外政策に影響を及ぼしているといえるであろう。
ブッシュ政権においても、9.11 テロ事件後のアフガニスタンへの侵攻やイラク戦争において
「民主化」をその目的の一つに掲げている。イラク戦争は、イラクにある大量破壊兵器の根絶
とクルド人の弾圧を行うフセインを追放して「民主化」をはかるという目的のもと戦争が始ま
った。しかし、人道的側面のみからイラクに対し軍事力行使を行ったわけでなく、イラクを民
主国家に変え資本主義経済を根付かせ親米的な政権を樹立させ、イラクにある石油資源の確保
を容易にするという目的が民主化の背景にあるといわれている。イスラム世界を民主化する米
国の論理は、利他的であるとともに利己的なものである。すなわち、イスラム教徒が多数を占
める諸国の民主化が進むことは、そうした国々の住民の利益となるが、同時にそれは米国の利
益にもなるということである。またブッシュ政権は、国際協調よりも単独主義に走る傾向が強
く、国連などとの多国間協調を軽視し、同盟よりも「有志連合」アプローチを採用した。
このように、アメリカのウィルソン主義推進には、単に人道的観点や、政治制度によって定
められているのではなく、様々な要因が絡み合っていると考えられる。クリントン、ブッシュ
ともに民主化やウィルソン主義を進めるとしているが、結局はその背景にある国益を重視して
いる。民主主義は、確かにアメリカの追い求める理念であるが、まったく利益のない政策を取
るほどにアメリカ外交は利他的ではないのであろう。しかし、ウィルソン主義の理念である「民
主化」を大義とした対外行動はクリントン・ブッシュ政権両者において、共通して見受けられ
る。また、冷戦後のアメリカ外交には、ウィルソンの対外関与における二面性「国際協調主義」
と「単独行動主義」が存在している。クリントン政権においては、国際協調主義が強調されて
おり、他方ブッシュ政権では単独行動主義が顕著であり、二面性の内の一方がより強く顕在化
したものとして理解できる。すなわち、ウィルソン主義の「民主化」、そして「国際協調主義」・
「単独行動主義」の二面性は、冷戦後アメリカの対外政策に至るまで影響を与えており、今日
まで受け継がれているといえる。
また、現代の国際社会におけるウィルソン主義には課題も残されている。「米国主導の民主
主義推進」は、民主化を行った国において自由な選挙で選ばれた指導者が、言論の自由や報道
の自由、政治的反対の自由を抑圧し、憲法で保障された自由が達成されておらず不十分である
ことが問題であるとして指摘されている。「民主主義」はかつて非民主的であった国々でどれ
ほど有効に根付いているのだろうか。ファリード・ザガリアは「非自由主義的民主主義」とい
う現象に注意を喚起していたように、自由な選挙で選ばれた指導者が、言論の自由や報道の自
64
ジョセフ・S・ナイ、山岡洋一〔訳〕
『アメリカへの警告~21 世紀国際政治のパワー・ゲーム~』
(日本経済新聞社、2002 年)、245 頁。
33
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
由、政治的反対の自由を抑圧することを指している。民主主義は、特に第三世界では、必ずし
も憲法で保障された自由主義をもたらすとは限らないのである
65。さらに、2001
年の同時多
発テロ以降の対外軍事行動に対しては、民主政治が軍事介入を正当化するための飾り言葉にな
っているという批判もある。また、普通選挙制度の実施など「民主化」政策は行うものの、継
続した長期的な視野に立った民主体制の構築をしているかというと甚だ疑問がある。
さらに、民主党と共和党の政策の違いが鮮明でなくなってきており、中道に向かってきてい
ることも指摘できる。民主党がリベラルな国際主義の世界観を純粋に追求することがなくなっ
てきており、共和党も保守的あるいは現実的な国際主義を純粋に追及することはなくなってき
ている。両党ともリベラル・保守の国際主義の要素を取り入れた外交をおこなっていて、民主
主義と自由貿易を理想として追及し、アメリカの安全保障と国益を最優先課題にしている点で
は共通なのである 66。
国際社会において人権・民主主義の重要性が疑われなくなった今日、ウィルソン主義の理念
をもとに自由や民主主義を主張し対外政策を展開することは、以前よりも容易になってきてい
る。しかし、それを外交目標としていく場合には慎重な選択が求められる。普遍的な価値はも
ちろん重要だが、それのみで他に利益のない政策をとるほどアメリカは利他的ではない。普遍
性と個別のバランスをとることが今後の政策には不可欠であるのではないか。
65
66
シュレジンガー、前掲書、192 頁。
浅川、前掲書、240 頁。
国
34
際
政
治
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松田武『現代アメリカの外交~歴史的展開と地域との諸関係~』
(ミネルヴァ書房、2005 年)
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CNN ホームページ
(http://edition.cnn.com/US/9511/bosnia_speech/speech.html)
Washington Post ホームページ
(http://www.washingtonpost.com/wp-srv/nation/specials/attacked/transcripts/bushaddre
ss_092001.html)
36
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.
治
37
冷戦後のアメリカ対外政策とウィルソン主義
あ
と
が
き
卒業論文は、民主主義とアメリカ政治にもともと興味があったということもあり、
おおまかなテーマは比較的早い段階で決めることが出来ました。しかし、「ウィルソ
ン主義」をテーマにしてみたものの、途中、様々なことを調べていくうちに当初の目
的とずれてしまい、論文の方向性がわからなくなることもあり大変でした。
また、知識があまりないにも拘わらず、アメリカ政治と民主主義推進の関係とい
う壮大なテーマ(?)に、果敢にも挑戦してしまったため、まとめていくのが困難で、
「なんでこんなテーマにしてしまったんだろう」と後悔することもしばしばありま
した。教訓として、「論文のテーマ選びは慎重に!」です。
それから、分析する対象によって文献の有無が全く異なるので、注意したほうが
いいと思います。私は、テーマが「アメリカ政治」なだけに、比較的たくさんの文献が
あって助かりました。けれども、文献がありすぎて逆にどれが自分の論文にあった
ものか見つけるのは大変でした。そして卒論では、英語の論文等に苦しめられまし
た。普段から、ゼミや授業でもっとしっかり英文を読んでおけばと反省しました。
また、私はのんびりした性格なので、論文の提出がいつも締め切り間際になって
しまって、先生には本当に迷惑をかけてばっかりでした。就活を夏ごろまでやって
いたので、卒論に本格的に取り組み始めたのが後期からになってしまい余裕があり
ませんでした。後輩のみなさんには長い夏休みを利用して、実際には執筆しなくて
も文献を探して読んでみることをおすすめします。
最後に、論文を指導していただいた草野先生をはじめ、永田先生、山本先生には 4
年間お世話になりありがとうございました。また、私が卒論を終わらせることが出
来たのは、家族の支えに加え、ゼミの皆さんやサークルの友人と、互いに励ましあっ
たり、アドバイスをし合えたからだと思います。本当にありがとうございました。
また、この文章を最後まで読んでくださった方、稚拙な文章ですが、参考にしてい
ただけると光栄です。
高 尾
碧
38
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際
政
.
治
NATOの変容と新時代の安全保障
-リアリズム的軍事同盟から
国際安全保障の担い手へ-
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL112
塚野
由希子
(論文指導 草 野 大 希)
.
NATO の変容と新時代の安全保障
41
【要 旨】
1999 年 NATO によるコソボ空爆は、国連安保理の決議を経ることなしに行なわれた武力行
使であった。本来このような武力行使が認められるためには、①安全保障理事会の決定に基づ
く場合、②国連加盟国の「個別的又は集団自衛の場合」の 2 つの要件が国連憲章で明記されて
いる。ところが、今回の空爆は上記のいずれにもあてはまらない。それにもかかわらず NATO
が行動を起こしたのはなぜなのだろうか。このコソボ問題をきっかけに、冷戦期の産物として
誕生しながら今なお存在し、現在は北大西洋以外の地域以外の問題にも関与する NATO への
関心が高まった。
NATO は第二次世界大戦終了後に勢力圏を拡大し続けるソ連とその周辺(東欧)を仮想敵と
して西欧諸国とアメリカが結束して設立したものでる。つまり、ソ連・東欧を共通の敵と設定
するリアリズム的な軍事同盟としての性格を強く帯びた組織であったといえる。しかし、冷戦
の終結とともにその存在理由を失ってしまった NATO は、それまでのヨーロッパ安全保障を
目的とした軍事同盟という設立当初の性格を変化させていった。そこで本論では、冷戦終結後
も NATO が生き残っている理由を、リアリスト的な「共通敵の有無」の同盟観とは異なる観
点から考察する。すなわち、冷戦後の NATO の存在理由は、共通の仮想敵国の存在というよ
りも、冷戦後の「国際社会」の要請に応える形で生じた NATO の機能変容に求められること
を明らかにしようと試みた。本論では、ボスニアやコソボなど旧ユーゴ紛争での働きに着目す
る。NATO はこれらの加盟国領域外での活動をきっかけにして、国連と連携を図り、国連の任
務のために兵力を提供し世界の安定と平和へ貢献するという、国際安全保障の担い手へと機能
を変容していったのである。
このように冷戦期の産物として誕生した NATO は冷戦終結を経て現在では、単に欧米の安
全保障をになうだけの存在ではなくなった。NATO 設立時の根本の目的であったヨーロッパの
安全保障においても各国際機関との連携を図り、いまやヨーロッパの複雑な安全保障構造の基
礎を下支えする存在になっている。その他にも、AU、アジアの国などとの連携強化により
NATO の影響力はヨーロッパに限定されるものではなく世界中さまざまな地域での安全保障
に影響を及ぼしている。さらに、国連と NATO との関係も同様に緊密化しており NATO の影
響力はさらに広範なものとなっている。これらをふまえると、かつて欧州の安全保障を担う組
織として誕生した NATO は、加盟国領域を超えた国家や地域と協力関係を強化していくこと
で、現在では全世界へ影響力を発揮し、多面的な国際安全保障を担う存在へと進化していると
いえるだろう。
国
42
際
目
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次
はじめに........................................................................................................... 44
第1章
設立から冷戦期におけるNATO......................................................... 46
1
NATO設立の経緯と機構の特徴............................................................................ 46
2
NATOとワルシャワ条約機構 ............................................................................... 47
2-1 西ドイツ再軍備問題の経緯 .......................................................................................... 47
2-2 ワルシャワ条約機構の成立 .......................................................................................... 48
2-3 NATOとワルシャワ条約機構の比較............................................................................ 49
第2章
冷戦終結を期に変容するNATO......................................................... 51
1
冷戦の終結 ............................................................................................................ 51
2
湾岸戦争とNATO ................................................................................................. 52
2-1 91 年戦略概念からみるNATOの変化........................................................................... 53
2-2 「域外」派遣問題とNATOの変化 ............................................................................... 54
3
ボスニア紛争(1992)でのNATOの働き............................................................. 55
4
NATOによるコソボ空爆(1999) ....................................................................... 57
4-1 99 年版戦略概念........................................................................................................... 58
4-2
NATOの安保理決議迂回での軍事介入.............................................................. 59
第3章
変容するNATOをめぐる意見対立とその克服 ................................... 61
1
米欧間での意見不一致問題................................................................................... 61
1-1 CJTFとNATO、WEU(西欧同盟)との関係............................................................. 62
1-2 NATO・EU間での関係の変化..................................................................................... 63
2
東方拡大 ............................................................................................................... 65
2-1 東方拡大の概要 ............................................................................................................ 66
2-2
PFPとは ....................................................................................................................... 67
NATO の変容と新時代の安全保障
43
2-3 意見が賛否分かれた東方拡大論争 ............................................................................... 68
第4章
21 世紀の安全保障におけるNATOの役割......................................... 71
1
NATOの対テロ戦争への対応―ISAFを例に― .......................................................71
2
ロシアとの関係 .....................................................................................................72
3
NATOと各地域、各機関との協力.........................................................................73
3-1 一国家ごとのNATOとの連携....................................................................................... 73
3-2 アフリカ ....................................................................................................................... 75
3-3 国連 .............................................................................................................................. 75
3-4 OSCE ........................................................................................................................... 76
おわりに........................................................................................................... 78
<参考文献>.................................................................................................... 79
<URL>.....................................................................................................................79
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政
治
はじめに
1999 年 3 月 24 日、NATO による旧ユーゴスラビア・コソボ地域への空爆が開始された。こ
の NATO による空爆は紛争状態が泥沼化しつつあるコソボ地域において、ユーゴスラビアの
武装警察や民兵からアルバニア系住民を保護することと、コソボでのアルバニア人の自治権回
復を目的に行なわれたものであり、国連安保理の決議を得ることなしに行なわれた武力行使で
あった。しかし国連憲章下で武力行使が認められるのは、①「安全保障理事会の決定に基づく
場合」
(憲章第 42 条、48 条)と②国連加盟国の「個別的又は集団自衛の場合」
(憲章第 51 条)
の 2 つのケースにおいてのみであり、その他のケースにおける武力行使は一切認められていな
い。また、国連安保理は強制行動のために NATO のような「地域的取極又は地域的機関」を
利用することが出来るとされているが、憲章 53 条で「いかなる強制行動も、安全保障理事会
の許可がなければ、地域的取極に基づいて又は地域的機関によってとられてはならない」と強
制行動への制限が明記されている。つまり、国連は、地域的取極や地域的機関が強制行動をと
るにあたっては、国連安保理の許可を必要とすることで、これらが暴走してしまうことを防い
でいるのである。
ところが今回のコソボ空爆では「平和および安全の維持に関する主要な責任を負う」とされ
る国連の決定を介すことなく、NATO が独自の判断で武力行使を行なった。なぜ、NATO は
このような行動をとったのだろうか。このコソボ問題をきっかけに、冷戦期の産物として誕生
しながら今なお存在し、現在は北大西洋以外の地域以外の問題にも関与する NATO への関心
が高まった。いったい NATO とはどのような性格を持つ組織なのだろうか。
NATOは第二次世界大戦終結後の 1949 年に、大西洋をまたぐ12の原加盟国から成る史上
最大のスケールをもつ集団防衛同盟として誕生した組織である。この組織の設立当初の主な目
的は、北大西洋条約 5 条「武力攻撃に対する共同防衛」にあるように、同盟の 1 か国以上に対
する武力攻撃は全締約国への攻撃とみなし、国連憲章 51 条で認められている個別的・集団的
自衛権の行使を行なうことで、被攻撃国を援助することであった。冷戦時代、NATOは、対ソ
封じ込めの性格をもつ集団防衛機構として位置づけられており、明文化はされていないものの、
ソ連率いるワルシャワ条約機構加盟国を共通の敵として認識していた。しかし、そのワルシャ
ワ条約機構は冷戦終結とともに解散しNATOが想定してきた共通の敵は消失した。通常の軍事
同盟あるいは伝統的な同盟観に従えば、共通の敵の消滅とともにNATOも解消されるはずであ
る。リアリストのミアシャイマーは 1990 年の論文において、
「NATOを結束させていたのはソ
連の脅威に他ならない…その攻撃的脅威が取り除かれると、アメリカが欧州大陸から撤退する
可能性は高まり、結果として、アメリカが主導してきたNATOは解体するだろう」と予測して
いた 1。
ところが、この予測は現実のものとはならなかった。実際の NATO は解消に向かうどころか、
東方拡大によって新たな加盟国を増やし、その性格を変化させながら、国際社会により大きな
影響力を持つ機関として存在し続けているからである。例えば、1991 年のボスニア紛争を初
1John
J. Mearsheimer, “Back to the Future: Instability in Europe After the Cold War,”
International Security, Vol.15, No.1, 1990, p.52.
NATO の変容と新時代の安全保障
45
めとする旧ユーゴスラビアでの紛争や 9.11 に端を発するアフガニスタンにおける対テロ戦争
においても、NATO は重要な役割を担っているのである。
そこで本論は、冷戦終結によるワルシャワ条約機構消滅後も NATO のみが生き残っている理
由を、リアリストとは異なる観点から考察したい。すなわち、冷戦後の NATO の存在理由は、
共通の仮想敵国の存在というよりも、冷戦後の「国際社会」の要請に応える形で生じた NATO
の機能変容に求められる、と主張したい。冷戦後の NATO は、特定の国を仮想敵国として前
提し存在するリアリズム的軍事同盟としての性格を失いつつあるのではないか。それに代わり
NATO は、民族紛争や人権抑圧のようなより多面的で多方向的な危機に対処する、北大西洋地
域には限られないより広範な国際的安全保障を担う中心機関としての役割を増しているので
はないか。これらが本論が全体を通して探究する問いである。本論における論証のポイントは、
以下の 3 点にまとめられる。
・
そもそも、NATO とは、同盟にとっての共通の敵を想定したリアリズム的軍事同盟とし
ての性格を強く帯びた組織であったことを明らかにする。
・
冷戦終結によってかつての存在理由を失った NATO は、それまでとは違った役割を担う
ようになったのか、もし役割を担っているとすれば、それはどのようなものなのかを明
らかにする。
・
ポスト冷戦期の 10 年を経た NATO は、21 世紀という新時代の国際安全保障においてど
のような役割を担おうとしているのかを明らかにする。
本論では、第 1 章で、第二次世界大戦後の設立期から冷戦期における NATO の性格をワル
シャワ条約機構との比較などを通して捉えていく。第 2 章では、冷戦終結後の NATO に着目
し、1991 年のボスニア紛争や 1999 年のコソボ紛争での NATO の武力行使などを取り上げ、
変容する NATO の果たしている役割や目的を追究する。第 3 章では、これまで NATO 同盟国
としてともに働いてきたアメリカとヨーロッパ諸国との関係変化、つまりヨーロッパ諸国が自
立した安全保障を求めるようになったことからおきた EU と NATO との関係の変化、そして
賛否わかれる東方拡大など機構の内部で見られる問題を明らかにする。第 4 章では、9.11 テロ
に始まる対テロ戦争への NATO の参加や、ロシアとの関係、さらには各機関との連携強化の
例を取り上げ、21 世紀における NATO が担っていく役割を考察し、今後の国際安全保障がど
のように展開されていくのか考察していきたい。
国
46
第1章
際
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治
設立から冷戦期における NATO
この章では、NATO がどのように誕生し、またどのような性格・特徴を持っている組織なの
かをワルシャワ条約機構との比較を通して考える。
1 NATO 設立の経緯と機構の特徴
NATO設立の歴史は第二次世界大戦終結後までさかのぼる。第二次世界大戦が終結すると、
はやくも東欧に影響力を持つ共産主義・ソビエト連邦と西側自由主義国との冷戦が激化した。
このような中で拡大し続けるソ連の勢力圏に対し、しだいに危機感を強めた西欧諸国は、とり
わけイギリスが主導となって「対ソ連共同防衛」を組み、西欧を結束させソ連に対抗していく
ほかないと考えるようになった 2。ところが一方では、強大な軍事力を持つアメリカは孤立主
義をとっており、ヤルタ会談当時からヨーロッパからの早期引き上げを明示していることにも
あらわれているように、当初からヨーロッパの安全保障を引き受けるつもりはなかった。しか
しイギリスとしては、このような姿勢をとるアメリカに共同防衛強化のため、是が非でもアメ
リカを誘い込む必要があった。そこでイギリスのヘヴィン外相がとった方法は、ワンクッショ
ンを置くことでアメリカを共同防衛へ誘い込みやすい状況をセッティングするというもので
あった。まず、ヘヴィン外相は西欧 5 か国(イギリス・フランス・オランダ・ベルギールクセ
ンブルグ)による集団防衛規定であるブラッセル条約を結び、西方連合(WU)を組織した 3。
また同時にアメリカへの働きかけも行い、トルーマン民主党政権など政府側と共和党上院議員
ヴァンテンバーグなどの野党側との双方に行った。このときには共和党のハッチ上院議員をは
じめとした反対派もいたが、上院でNATO創設に向けた画期的な決議、ヴァンテンバーグ決議
が採決された 4。この決議 6 項目中でもっとも重要なものが第 3 項である。その第 3 項では、
米国政府が西欧諸国との間に将来、北大西洋条約型(北大西洋をまたぐ形での多国家的な集団
防衛同盟)の条約を締結するならば、それが米国憲法に抵触しない限り上院による承認を期待
できることを示している。このことは伝統的なアメリカ孤立主義からの転換を表しているとい
える。その後、ヴァンテンバーグ決議をうけた西欧各国が条約締結交渉に入り、1949 年 4 月 4
日に原加盟国 12 か国(アメリカ・カナダ・イギリス・フランス・イタリア・ポルトガル・デン
マーク・ノルウェー・アイスランド・ベルギー・ルクセンブルグ・オランダ)でNATOは誕生し
たのである。では、このようにして成立したNATOはどのような目的・特徴をもっていたのだ
ろうか。
まず、NATO 成立の目的については北大西洋条約の前文にあるように、以下の 4 点があげら
れる。
①締約国は国連憲章の目的及び原則に従い、
②民主主義、個人の自由及び法の支配の諸原則を擁護し、
2佐瀬昌盛『NATO―21
世紀からの世界戦略』文藝春秋、2001 年、35 頁
NATO』アリアドネ企画、2001 年、8 頁
4佐瀬、前掲書、37-39 頁
3軍事同盟研究会『最強の軍事同盟
NATO の変容と新時代の安全保障
47
③北大西洋地域の安定及び福祉の助長に努力し、
④集団防衛並びに平和及び安全の維持のためにその努力を結集させること
また、初代NATO事務総長であるイスメイ卿がNATOの目的を「アメリカ人を引っ張り込み、
ロシア人を締め出し、ドイツ人を押さえ込んでおくこと」と言っているように 5、NATOの設
立当初の目的としては実際に明文化することはしないが、仮想敵国としてソ連ひきいる東欧諸
国をあげ、対ソ共同防衛を行なうことにあったことがうかがえる。
次に、NATO の特徴については、北大西洋条約第 5 条前半を参照したい。
第5条
締約国は、ヨーロッパまたは北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対
する武力攻撃とみなすことに同意する。したがって、締約国は、そのような
武力行使が行われたときは、各締約国が、国際連合憲章第 51 条の規定によ
って認められている個別的又は集団的自衛権を行使して、北大西洋地域の安
全を回復し及び維持するためにその必要と認める行動(兵力の使用を含む。)
を個別的におよびほかの締約国と共同して直ちに執ることにより、その攻撃
を受けた締約国を援助することに同意する。
ブラッセル条約 5 条の共同防衛に関する約定では、いずれかの締約国が攻撃を受けたときに
は「国連憲章 51 条に従って、その攻撃を受けた当事国に対し、できる限りすべての軍事的お
よび他の助力を与える」と断言し集団防衛が義務になっている。一方で、上記のように北大西
洋条約第 5 条では集団防衛は「同意する」に留めており、義務規定にはなっていない点で先行
したブラッセル条約とは異なる。しかし北大西洋条約第 3 条、第 9 条の規定によって北大西洋
条約機構(NATO)が生まれたことで、加盟国は域内いずれかの国が攻撃された場合に、共同で
応戦・参戦する義務を負うようなった。このようにしてNATOは、第二次世界大戦後に対ソ共
同防衛同盟という「外の敵に対する軍事同盟」 6として誕生し、その後の国際情勢の変化に自
身の役割を大きく変化させながらも、現在まで存続しつづけているのである。
2 NATO とワルシャワ条約機構
2-1
西ドイツ再軍備問題の経緯
1949 年に誕生したNATOには、対ソ連への共同防衛であると同時にもうひとつ対処せねば
ならない問題が存在した。それがドイツの再軍備問題である。第二次世界大戦後、ドイツは西
5同書、60
頁
6なお、国連憲章に明記された集団的自衛権とは、「仮想敵を前提とする軍事同盟」の論理を志向する
ものであり、集団安全保障体制を想定した国連が自ら否定したはずの旧システムの残存であったと
の解釈もある。廣瀬和子『国際法社会学の理論』東大出版会、1998 年、150 頁参照。
国
48
際
政
治
ドイツ(米英仏)と東ドイツ(ソ連)に分けられ分割統治されていた。NATO成立まもなくし
て、米英仏によって分割統治されていた西ドイツ領域及びベルリンが、北大西洋条約第 6 条【武
力攻撃の対象】 7でいうNATOの共同防衛の領域に入るとされたため、西ドイツの再軍備問題
がおきたのである。当時の西ドイツは、第二次世界大戦後に完全に非軍事化されていたことに
より、万が一自国が敵国に威嚇・攻撃された場合でも米英仏の共同防衛に加わり防衛すること
ができない状態にあった。つまり、軍事面を西側の占領軍に委ねなければならない状態のため、
ソ連からの軍事侵攻を受ける可能性が極めて高い状態になっていたのだ。また、1950 年に勃
発した朝鮮戦争のようにドイツでも東西間の争いが、戦争に発展するかもしれないという懸念
もあった。そのような背景から、西ドイツを再軍備させることで自国での防衛にあたらせ、さ
らにヨーロッパにおける対ソ共同防衛に加わらせるべきだという「西ドイツ再軍備」という考
えが生まれたのである 8。
しかしながら、西ドイツに再軍備させるというのは、ナチスドイツの記憶が新しいヨーロッ
パ各国にとっては受け入れがたいものであった。しかし、冷戦が激化するなかでソ連に対抗す
るためには西ドイツの再軍備問題はなんとしても解決せねばならない問題であったため、フラ
ンスが欧州軍を創設し、それにドイツ軍を組み込むことで解決しようとした(欧州防衛共同
体:EDC)。つまり、多国間の枠組みの中でドイツ再軍備を図ろうとしたのである。
ところが、EDCはフランス議会の反対によって流産してしまう。ここで諦めずに動いたのが、
イギリスのイーデン外相だった。イーデン外相によって西ドイツは、まずWU(西方連合)に
加入し西欧諸国の一員になり、ついで大西洋同盟の一員にというように段階を踏むことにより
1955 年NATOに加盟することができたのである 9。また、NATOにとっても西ドイツのNATO
加盟と再軍備は、NATOの前方防衛を可能とした点で大きな意義がある。よって、西ドイツの
NATO加盟によってそれまででは実現が難しかった中央正面、側面および海域での必要な限り
東側諸国との境界線に近接してヨーロッパ防衛ができるように兵力を準備できるようになり、
NATOの防衛体制は本格化することになったといえる。
2-2
ワルシャワ条約機構の成立
1955 年の西ドイツ NATO 加盟はソ連にとって大きな衝撃を与えた。これには 2 つの理由が
ある。①西ドイツが第二次世界大戦国の敗戦国ではあるものの、潜在的に大きな勢力をもつ国
であること、②西ドイツが西側共同防衛体制に組み込まれることで、NATO は前方防衛を取れ
るようになり、その防衛体制が強化される、という 2 つの理由からであった。ソ連は体制強化
を進める NATO に対抗するため、1955 年 5 月 5 日西ドイツの NATO 加盟から 9 日後にすで
6 条【武力攻撃の対象】では、第 5 条で定められている共同防衛の規定が適用さ
れる範囲として、
「
(ⅰ)欧州もしくは北米におけるいずれかの締約国の領域」となっている。当時
の西ドイツは米英仏によって統治されていたため、第 6 条の【武力攻撃の対象】となる NATO の
領域にあてはまっていた。
8佐瀬、前掲書、65-66 頁。
7北大西洋条約第
9WU
は 1954 年西ドイツの西方同盟(WU)加盟と同時に、ブラッセル条約改正により西欧同盟
(WEU)となった。軍事同盟研究会、前掲書、13 頁。
NATO の変容と新時代の安全保障
49
に衛星国化していたアルバニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、ルーマニア、チェコ
スロバキアと東ドイツを加えた 8 か国間でワルシャワ条約機構(正式名称:
「友好・協力および
相互援助条約」)を形成した。こうして、西側の NATO、東側のワルシャワ条約機構の二極体
制が誕生した。
2-3
NATO とワルシャワ条約機構の比較
冷戦期における二極体制を築いた NATO とワルシャワ条約機構は、それぞれが集団的防衛
取極であるという共通点を持つが、両者には条文上で明確な違いが 2 点存在する。
1 つ目は、共同防衛が義務規定か否かの違いである。NATO は第 5 条の【武力攻撃に対する
共同防衛】で、締約国への攻撃があった場合に行われる共同防衛については「締約国を援助す
ることに同意する」ことで義務の形はとっていない。一方でワルシャワ条約機構は同条約第 4
条で「攻撃を受けた一又は二以上の国に対し、個別に、及び他の締約国の同意により、その必
要と認めるすべての手段(武力の行使を含む。)により、即時の援助を与えなければならない。」
として、義務規定になっている。
2 つ目は、北大西洋条約では仮想敵国を明文化してないが、ワルシャワ条約では仮想敵国と
して西ドイツ、西欧同盟、NATOを仮想敵国として明記していた点である。ワルシャワ条約前
文には「再軍国化した西ドイツの参加の下における『西ヨーロッパ連合』の形における新たな
軍事的共同戦線の結成および北大西洋ブロックへの西ドイツの加入を規定し、その結果、新戦
争の危険が高まり、かつ、平和愛好国の国の安全に対する脅威が醸成されたパリ協定 10の批准
によってヨーロッパに生起した情勢を考慮し…」とあり、ワルシャワ条約締約国にとって西ヨ
ーロッパ連合や北大西洋ブロックが脅威であることを明記している。もし北大西洋条約も同様
に、ソ連やワルシャワ条約機構を仮想敵国として明記していたとしたら、この後変化する国際
情勢のなかで生き残っていくのは難しかったのではないだろうか。北大西洋条約は、仮想敵を
明記せずあいまいにしたことで国際情勢が変化し、敵のいなくなった現在でも存続できる余地
を残したのである。
以上の 2 点が条文上での相違点である。それに加え、両者には、加盟国間の関係の在り方に
も違いが見られる。それは「多元的安全保障共同体」
(pluralistic security community)か「急
進的『ブロック』体制」
(radical “block” system)かの違いである 11。
ⅰ)多元的安全保障体制(pluralistic security community)
NATO がこのタイプに当てはまる。この共同体は前提として、「すばやく、適切に、かつ暴
力に訴えることなく、互いのニーズ、メッセージ、行動に対応できるように政治的な意思決定
に関連する複数の重要な価値を融和させること、政治単位としての特性を有している」ことが
WEU 軍の NATO による統合、した
がって NATO への西ドイツの加盟、西ドイツの主権の完全回復、ザール地方の国民投票・地方議会
選挙による地位決定などが決められた。
11船橋洋一『同盟の比較研究』日本評論社、2001 年、261-263 頁。
10パリ協定では西欧同盟(WEU)の拡大、防衛同盟としての
50
国
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政
治
あげられる。この共同体ではメンバー国それぞれが独自性と主権を保持し続ける仕組みになっ
ている。また、NATO では、安全保障問題について共通認識をもち加盟国が共同して解決して
いくために多国間でフォーラムを開くなど、密度の高い国家間相互作用と緊密な軍事的・経済
的・政治的結びつきを持っているがこれもこのタイプの特徴である。
ⅱ)急進的「ブロック」体制(radical “block” system)
多元的安全保障共同体が、各国の自立性を尊重し、民主主義的な構造を持つのとは異なり、
急進的「ブロック」体制の構造はいわば窮屈で階層的な特徴を持つ。ワルシャワ条約がこの例
である。ソ連と「ブロック」体制内の国との関係は、自転車の車輪の構造に例えて「ハブ・ア
ンド・スポーク」構造と表現される。上述の多元的安全保障共同体の NATO の例ではアメリカ
のような大国が機構制度づくりを主導し、ブロックのリーダーとして責任・役割をうけもつも
のの、その地位はリーダーに過ぎない。しかしワルシャワ条約に代表される「ブロック」体制
の場合では、体制内のほかのメンバーは権威主義的なやり方で思いのままに動かす覇権国によ
って明らかに支配をうけている。この体制ではブロックリーダー(ハブ=ソ連)がそれぞれの
メンバーと二国間関係を持つことで体制を作り(スポーク)、メンバー国同士によるブロック内
の関係が拡大することや深化すること厳しく制限する。そのような理由からソ連は、1949 年
に行なわれた経済相互援助会議(CEMA:コメコン)を創設するときに、東欧諸国とそれぞれ
二国間条約を締結したのである。この経済相互援助会議ではソ連による利益搾取という声も上
がっていたが、この体制下であることを思えば想像に難くない結果である。
以上に見てきたように、NATO とワルシャワ条約機構では、1.条約上仮想的を明記している
か否か、2.加盟国間の協力体制が協調的か強制的か、という点において違いがある一方で、
NATO はワルシャワ条約機構に比べると軍事対決姿勢が弱められているものの、ソ連を含むワ
ルシャワ条約機構を仮想的としていたことは明白であり、同盟外に主敵を想定しているという
意味では、両者に違いはない。
NATO の変容と新時代の安全保障
第2章
51
冷戦終結を期に変容する NATO
1 冷戦の終結
1989 年、世界に大きな転機が起きた。ベルリンの壁が崩壊し東西ドイツが統一されたので
ある。さらにその翌年の 1990 年 7 月に NATO 首脳会議がロンドンで開かれ、ロンドン宣言が
採択された。この宣言では、ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構諸国に対して、それまで
の敵対関係から定期的な外交関係を樹立するなど協力関係への東西関係の転換が宣言された。
こうして、第二次世界大戦後から約 40 年間続いた東西冷戦は終結した。
一方で冷戦の終結によって、NATO は存続に関する根本的な問題をつきつけられることにな
る。それは、今まで述べてきたとおり NATO が冷戦期の産物であり、条文上では明示的に仮
想敵国としてあげていないにしろ 40 年もの間、ソ連はじめとするワルシャワ条約機構を敵と
して存在していた軍事同盟機構だからである。従来の同盟観では同盟は敵対する国があってこ
そ存在できるものである。そうあるならば、敵がいなくなった今 NATO の存在意義は果たし
てあるのだろうか。
かつて、ソ連・ロシアのゴルバチョフ、エリツィン両大統領は、NATOの脱軍事化と政治機
構化の必要性を唱え、ポスト冷戦期においては、CSCE(欧州安全保障協力会議)が主導した
安全保障体制が追求されるべきであると主張した。ちなみにCSCEとは、1975 年に成立し、
NATO・ワルシャワ条約機構の全加盟国に欧州の中立・非同盟諸国を加えた 35 か国が参加する
会議であり、ベルリンの壁を崩壊に導くなど、東西欧州交流の中核の役割を果たした 12。しか
し、ゴルバチョフ、エリツィン両大統領の主張するCSCE主導の安全保障体制には、ひとつの
決定的な問題点が存在していた。この点を、ヨーゼフ・ヨッフェが「集団安全保障と欧州の将
来」で指摘している。ヨーゼフ・ヨッフェは「一方で『NATOは手段を持っているが、その使
命を失いつつ』あり、他方で『CSCEは使命を有しているが、手段を持たない』存在」 13だと
指摘している。
ここでひとつ疑問が出てくる。つまり「使命と手段(ここでいう手段とは軍事力をさす)で
は、どちらを確立するほうが難しいか」ということである。この二者を比較した場合、NATO
が持つような有効な「手段」は簡単かつ早急に確立できるものではない。ゆえに手段の必要性
が求められたのであるが、NATO 加盟国がそう考えざるを得なかった背景には、冷戦が終結し
12現在は欧州安全保障協力機構(OSCE)となり、56
か国が加盟している。加盟国の安全を守る第
一義的な役割ではなく、多くの加盟国を擁する政治安全保障フォーラムとして、軍事的な側面から
の安全保障のみならず、経済から人権に至るまでの包括的な分野を対象として、コンセンサス・ル
ール、予防外交(紛争当事者に対する早期警告、事実調査など)、非強制的手段(第三国により構
成されるミッションの派遣、紛争に対する加盟国の共通の意思表明等)を基本とした活動を行って
おり、各国での選挙支援・選挙監視任務も OSCE の中心的活動の 1 つになっている。(外務省ホー
ムページ参照)
13佐瀬、前掲書、141 頁;ヨーゼフ・ヨッフェ『サーヴァイヴァル』
、1992 年、春季号。
国
52
際
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平和で安定した時代が訪れるという淡い期待が見事に覆される問題が各地で発生したことが
ある。これらの問題が勃発したことで NATO 加盟国は、ポスト冷戦時代が手段を欠くことの
できない時代であることを痛感し、NATO の存続を求めるようになったのである。
ところで、ここでいう問題とは 2 つ存在している。1つ目に 1991 年 1 月から 2 月にイラク
のクウェートへの軍事侵攻がきっかけで起きた湾岸戦争、2 つめにソ連のクーデターによりソ
連が崩壊し、それまでひとつの連邦として押さえ込まれていた旧ソ連地域がソ連崩壊で複雑な
民族関係やエネルギー資源権益争奪のために紛争の種が山積みされた地域になったことがあ
げられる 14。このように、世界各地で地域紛争、民族紛争の危険性が増したことで、NATOに
は、冷戦期の両極時代とは異質な紛争への対応、これらを処理するドクトリンや戦略、仕組み
がもとめられるようになったといえる。まず、冷戦終結直後におきた湾岸戦争を取り上げ、変
化する国際情勢のなかで、NATOはどのように変容していったのかをさぐっていきたい。
2 湾岸戦争と NATO
NATO が今までの性格から変容していくきっかけとなった最初の国際的な事例としては、
1991 年のイラクのクウェート侵攻によっておきた湾岸戦争が挙げられる。このときには、国
連安保理決議によって多国籍軍が派遣されている。多国籍軍には、ソ連も参加していたが、主
体を担ったのは NATO の中枢国である米英仏の兵力であった。この戦争では勝利をおさめた
ものの、NATO 加盟国にとっては冷戦終結後の世界が決して平和で安定したものではないとい
う現実をつきつけられた形になったといえる。さらに NATO が追求する具体的な目的も、そ
れまでの明確な敵を前提とした大規模な全面戦争への対応から、湾岸戦争以降は予測不能な地
域・民族紛争への対応に変化した。
この点に関しては、以下の 2 つの文書に注目したい。これらの文書からは、ポスト冷戦期に
おける世界の安全保障に対する脅威が、以前までの脅威とは異なり、不確実で多元的になった
ことが読み取れる。
・「欧州における紛争の脅威は減少したが、別の危険がわれわれ社会を脅
かしている」
(新欧州のためのパリ憲章、1999 年) 15
・
「1991 年の湾岸戦争が示したように、欧州の南方周辺部に位置する諸国の安定と平和は、同
盟の安全にとり重要である」
(ローマでの NATO 加盟国首脳の採択文書
「NATO 新戦略概念」、1991 年)
以上のように、多様な危険が存在する世界になった以上、これら脅威に対処できる有効な実
力(手段)をもつ NATO の存在は不可欠になってゆく。既述のようにヨッフェは、ポスト冷
戦時代に、手段は持っているが、使命を失いつつある NATO の状態について指摘したが、NATO
が担うべき新しい使命の形は冷戦後間もなくして次第に具体的、かつ明確になっていったので
14谷口長世『NATO―変貌する地域安全保障―』岩波書店、2000
15湾岸戦争発生から
年、67-68 頁。
3 ヵ月半後、NATO 主導で CSCE の 35 か国で採択された。
NATO の変容と新時代の安全保障
53
ある。その端緒となったのが、次に見る 91 年戦略概念であった。
2-1
91 年戦略概念からみる NATO の変化
ポスト冷戦期における NATO の新たな使命を定義づけたものの一つが、1991 年にローマで
行なわれた NATO 加盟国首脳会議で採択された戦略概念である。その中核的内容は、第 9 項
に示されている。
「過去によって優勢であった脅威とは対照的に、同盟の安全にとり残存するリスクは、そ
の性格からして多面的、多方向的であって、それらの予見と評価は困難になっている。欧
州の安定と同盟諸国の安全が維持されなければならないとするなら、NATO はこのような
危険への対応能力を持たなければならない。これらの危険はさまざまな経路で生じうる」
ここでとりあげられているように、ポスト冷戦期には多方面的で多方向的、さらに予見する
ことが困難な危険こそが新たな関心事になっている。そのため、NATOの使命は、はそれまで
の同盟領域の共同防衛をするというものから、条約の領域外(out-of area)の危険に対応する
ものへとシフトしていった 16。しかしながら、この段階では、NATOは領域外での脅威(例えば
民族紛争)に対して、平和維持や仲裁活動の任務を担うべきというようなことは言っていない
点にも注意すべきである。NATOは大西洋条約第一条に規定されているように、あくまでも「専
守防衛」を目的とする機関であり、同条で謳われている「武力による威嚇または武力の行使を
慎む」という約束を遵守し、自衛以外にはいかなる武器も使わないという姿勢を崩していない。
しかしそのような立場にありながら一方では、91 年戦略概念で「同盟は国連の任務のために
兵力を提供し世界の安定と平和への貢献を求められ得る」という微妙な立場ものぞかせている。
これはいまだにNATO内での領域外任務に対するコンセンサスがとられていないために、いわ
ば領域外事項はタブー視され、あいまいな立場をとらざるを得なかったためと考えられる。
ちなみに、91 年戦略概念ではNATOの目的及び任務として次の 4 つを挙げている 17。
①欧州・大西洋に安定的安全保障環境の基盤を提供すること
②大西洋条約 4 条にある同盟の利益に係わる問題を協議するため、大西洋間のフォーラムを
提供すること
③同盟国の領域を如何なる脅威からも抑止・防衛すること
④欧州との戦略上のバランスを保つこと
さらに、③の同盟国へ脅威とは以下の 4 つによって生じるとされる。
①多くの中欧諸国が抱えている民族対立や領土紛争などの、深刻な経済・社会・政治問題から
生じる不安定さ
②ソ連の軍事力
16佐瀬、前掲書、143
17谷口、前掲書、72
頁。
頁。
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54
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③兵器・技術の拡散による地中海南部と中東の大量破壊兵器及び弾道弾ミサイルなどの軍事
力
④国際規模のテロ、大量破壊兵器の拡散
以上のように、91 年の戦略概念では、同盟の基本的任務は集団防衛であるが、あらたな任
務として同盟国をいかなる脅威からも守ることを挙げ、多面的・多方向的になった脅威は領域
外で生じるということから、今後はNATO領域外における紛争予防および危機管理(非 5 条任
務)を重視する視点を打ち出した。さらに、域外紛争に対応する全欧州安保協力機構(OSCE)
や旧ソ連・東欧諸国と軍事・安全保障について協議する北大西洋協力評議会(NACC) 18を発
足させるなど、加盟国外でもNATOの軍事的抑止力を享受できるような環境を整備している。
非加盟国との協力関係については、
「平和のためのパートナーシップ(PFP)」の形式で進めな
がら、東方拡大を積極的におこなうことをきめた。以上の点から見ても、それまでのNATOの
性格とは大きく変化していることは明らかである。
2-2
「域外」派遣問題と NATO の変化
ポスト冷戦期では前述したように、湾岸戦争をはじめとした旧ユーゴ地域などでの地域紛争
や民族紛争が増加した。それにともない問題になってきたのが、NATOの「域外」での安全保
障をどうするかというものであった。NATOは北大西洋条約第 6 条 19で定められるNATO加盟
国の領域以外では武力攻撃をすることができないとされる専守防衛機構である。しかしポスト
冷戦期では、多面的で多方向的に発生するようになった脅威に対処し、加盟国の安全保障を十
分に行なうためにも、これら域外でおきている問題に対して対処していくことが求められるよ
うになってきた。このことは、NATO事務総長であり、北大西洋協議会(NAC)議長でもある
マンフレッド・ヴェルナーの『NATO
ヴェルナーは『NATO
Review』のなかでの発言からも読み取れる。
Review』(No.6-Dec 1992)への寄稿のなかで、「われわれの関心、
はっきり言うと、安全保障に対する責任は NATO 領域でとどまらないことは自明のことであ
る。したがってわれわれ NATO は、
(すでに持っている)危機管理経験や機能している軍事構
NACC は 1990 年 7 月のロンドン NATO 首脳会議で宣言された東西軍事陣営の「対立から協力
への転換」の構想を具体化したものであり、ソ連を含む旧ワルシャワ条約機構構成国との常設の諮
問・協力の仕組みである。谷口、前掲書、69 頁。
19【北大西洋条約第 6 条】
第 5 条の規定の適応上、一又は二以上の締約国に対する武力攻撃とは、次のものに対する武力攻撃
を含むものとする。
(ⅰ)欧州もしくは北米におけるいずれかの締約国の領域、フランス領アルジェリアの諸県(※)、
トルコの領域又は北回帰線以北の北大西洋地域におけるいずれかの締約国の管轄化にある島
(ⅱ)いずれかの締約国の軍隊、船舶または航空機で前記の地域、いずれかの締約国の占領軍がこ
の条約の効力発生の日に駐留していた欧州の他の地域、地中海もしくは北回帰線以北の北大西洋地
域、または、それらの上空にあるもの
(※旧フランス領アルジェリア諸県に関するかぎり、本条約の関連条項は 1962 年 7 月 3 日以降適
応されないことが確認された)。
大沼保昭『国際条約集』有斐閣、2006 年、614 頁。
18
NATO の変容と新時代の安全保障
55
造で平和構築の使命に貢献することができる。
」と述べ、変わりつつある NATO では、域外の
任務を重視してきていることを明らかにしている。しかし、域外での任務に関しては、NATO
が主導となって好き勝手に行なえるわけではない。そのことは、同誌におけるヴェルナーの主
張から同様に理解できる。ヴェルナーは NATO の存在について、NATO が創設以来つづく「加
盟国の安全保障」という軍事的役割を果たすだけでなく、「危機管理のための政治経済的な軍
事組織」としても最善をつくせる体制を整えている。そして NATO の大西洋をまたぐ広範囲
さや協議体系は、国連または欧州安全保障協力会議(CSCE)の委託や権威の下にしろ、はた
また国連と CSCE の双方の下になるにしろ、さまざまな危険に対する安全保障をし、平和を築
くために不可欠な存在であると主張した。
ここで着目すべきは、「国連や CSCE の指令や権威の下で」と限定している点である。要す
るに、NATO の領域外展開は、あくまでも「国際社会」の「縁の下の力持ち」として位置づけ
られたのである。NATO の領域外平和維持活動が、国連や CSCE という国際機関による判断
の結果として、あるいはそれらに委託された形で行われるという点で、その活動は NATO 加
盟国自身の個別利害というよりもより広範な国際社会を志向するものとなったのである。
3 ボスニア紛争(1992)での NATO の働き
上記のようなNATOの機能変容を強く感じさせたのが、1992 年ボスニア・ヘルツェコビナ
の独立に端を発して起きたボスニア紛争であった。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、人口構成
で最大の 44%を占めるモスレム人(イスラム教)と 17%のクロアチア人が独立を求めるのに
対し、独立した場合絶対的少数派に転落してしまうセルビア人(人口構成 31%)はユーゴスラ
ビア残留を主張し対立していた。しかし、国民投票で独立賛成が 99.7%という大多数に及ぶと、
同地域の独立は決定的となり、1992 年 3 月に独立宣言が出された。当初ボスニア独立に消極
的だった欧米諸国も紛争予防の観点からなし崩し的に独立を承認に踏み切ったが、それがセル
ビア人勢力を刺激することになり、セルビア人による他民族への武力行使が始まった。以後紛
争が激化し、3 民族による三つ巴の状況は 5 年間も続いた
20。当初、国連からは国連防護軍
(UNPROFOR)が派遣され平和維持活動を行なっていたが、国連指定の安全地域であるスレ
ブレニツァにおいて、セルビア人によるムスリム人大虐殺を許してしまうなど、指導力を発揮
できずにいた。ではNATOはこの紛争に関してどのようにかかわっていたのだろうか。
実は、当初の NATO(特にアメリカ)は紛争介入には消極的であった。なぜか。一つの理由に
は、アメリカ自身の問題がある。それは、ソマリアでの平和維持活動が失敗(1992~1995)した
ために、ソマリア平和維持軍と同様にアメリカが他国の問題に巻き込まれるのを避けたいとい
う考えがあったからである。二つの理由には、NATO の機構面の問題が挙げられる。そもそも
20ボスニアの独立紛争をめぐる国民投票では、セルビア人の多くが独立に反対し投票をボイコット
した結果、投票率 63.4%という国民投票とは名ばかりのものであった。
なお現在、ボスニア・ヘルツェゴビナはデイトン合意によってモスレム人・クロアチア人からなる
ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボスニア内領土占有率 49%)とセルビア人からなセルビア人共和
国(同占有率 51%)の 2 つのエンティティー(政体、構成単位)によって1国家を構成する「1 国 2
制度」をとっている。軍事同盟研究会、前掲書、60-64 頁。
56
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NATO は、加盟国の安全保障を担う専守防衛機関として誕生している。そのため 1991 年のロ
ーマでの加盟国首脳会議で採択された戦略概念により域外派遣についての方向性はきめられ
たものの、ボスニア紛争当時には、まだ実際に域外へ出ていくための事前準備がととのってい
なかったのである。ちなみにここでいう事前準備には、域外派遣に関する北大西洋条約での条
約的根拠の問題、NATO の機構面での問題、欧州やロシアを含む国際世論の理解があるが、ボ
スニア紛争勃発時はちょうどこの準備段階にあたり、NATO 自身も前述のアメリカの孤立主義
の問題がある以上、積極的に関われなかったと考えられる。しかし、今後は域外問題にも対応
していく進化した NATO を確立する上では、このボスニア紛争が大きな役割を果たしている
のは間違いない。それは、以下の点からである。一つには、欧州における NATO(アメリカ)
の必要性をみとめさせたことがある。当時の欧州では欧州におけるアメリカの役割を最小限に
抑えようと考える世論が存在していた。つまりアメリカは、これら欧州の動きに対する試行錯
誤の場としてボスニア紛争をおき、実際に欧州主導であたらせることで、欧州でのアメリカの
存在の必要性を認めさせようとしたのである。
二つには、域外派遣に対する国際世論の理解を得られたことがある。ボスニア紛争に関して、
国連では 92 年~95 年の間に国連主導の国連防護軍(UNPRFOR)を展開している。しかし、
これは十分な軍事強制力を持たない軍隊であったため、苦戦が続き、国連指定の安全地帯スレ
ブレニッツァでおきた 5000 人以上のイスラム教徒虐殺事件をも止めることができなかった。
国連にとってボスニア紛争が苦い経験になったのに対して、NATO にとっては本格的な地域紛
争の平和維持には、NATO のような本格的な軍事組織に主導権を与えるべきだという国際世論
のコンセンサスを得る契機になったのである。
以上のように、当初は介入に消極姿勢をみせていた NATO であるが、国連が派遣している
国連防護軍が泥沼の様相を呈してくると、国連からの要請をうけて NATO はセルビア人勢力
に対する限定空爆を実施するなど、空爆という形でボスニア紛争終結にかかわるようになった。
そしてその後 95 年にデイトン合意が締結されると、本格的に NATO が域外展開するようにな
る。では、NATO が戦後のボスニアにてどのような働きをしたのか見ていきたい。
NATOは紛争解決後に、ボスニア平和履行軍(IFOR)を主導する立場として本格展開し始
める。IFORとは、国連の安保理決議によって展開した軍隊であり、国連の指示をうけて行動
する。しかし、スレブレニツァの大虐殺では、NATOと国連・国連防護軍のどちらがNATO空
爆を最終的に命令できるかという指揮権の問題が露呈し、有効な手段をとれなかった。そのた
め、それ以降はすべての作戦から指揮、交戦規定にいたるまでをNATOに一元化すようになっ
た。ちなみにIFORは、NATO以外の平和のためのパートナーシップ(PFP)21参加国やロシア
部隊までもがNATO欧州連合総司令官に直属するロシア司令官を通じてNATOと一体行動を
とるしくみをもつ多国籍軍であり、冷戦期のライバル関係を超えた協力関係が生まれた軍隊と
みることができる。
この IFOR の主な任務は、デイトン合意で決められたように、UNPROFOR の任務を引継ぎ、
211994
年に創設された NATO とほかの欧州諸国、旧ソ連構成国 24 か国との間の信頼醸成を目的と
した取り組み。NATO を含む全加盟国によって NATO 内部の一機関である欧州・大西洋パートナ
ーシップ理事会(EAPC)が構成される。
NATO の変容と新時代の安全保障
57
停戦合意や武力解除状況の監視、さらには OSCE などの関連機関との協力・サポート任務を
負うなど、敵対行動の防止・兵力引き離し等に従事した。そして任務期限の終了後、ボスニア
平和安定化部隊(SFOR)へと引き継がれた。この IFOR と SFOR の展開は、NATO が単に
「敵を叩く」ためだけに軍事力を行使したわけではないことを示している。「紛争後の平和維
持・構築」という、リアリスト的同盟では想定されていない、新しい役割を担ったのであった。
以上の流れから考えると、ボスニア紛争における NATO の働きは、91 年戦略概念で採択さ
れた本格的な域外展開の第一号となっただけでなく、それまで敵対していた旧ソ連(ロシア)
とも協同するなど非 NATO 加盟国との協力体制を示し、国連の要請・委任にもとづく域外展
開を行い、OSCE など他の機関との協力関係を築き平和構築の役割を担うなど、それまでの
NATO とは異なるタイプの組織であることを示す上で有意義なものであった。つまりこの紛争
への対処を通して、NATO は従来の性格を変え、国際社会で NATO が果たすべき役割を全世
界に発信し、その新しい存在意義を示したのである。
4 NATO によるコソボ空爆(1999)
冷戦後の変化しつつある NATO の役割を考える上で、大きな問題を提起した出来事に NATO
によるコソボ空爆がある。まずは、コソボへの空爆はどのような経緯でおきたものだったのか
確認したい。NATO が空爆という武力行使を行なったコソボ紛争は、ユーゴ領内のコソボ自治
州内で 90%を占める多数派アルバニア人住民が独立運動を行なったことに、少数派セルビア人
住民及びユーゴ連邦・セルビア政府が反発したことに端を発して起きたもので、ユーゴ崩壊の
直接の原因にもなった紛争でもある。1997 年~1998 年にはコソボ解放軍(KLA)の活動が活
性化していたが、NATO が空爆の脅しをかけたことで、1998 年 10 月にミロシェビッチ大統領
率いるユーゴと KLA の間で停戦合意が成立した。しかし KLA が再活性化し、両者の衝突が多
発するようになると 2 月からランブイエでの交渉が再開された。ランブイエ交渉で、米ロ欧の
6 カ国連絡調整グループは主に以下の 2 点を要求した。
①NATO 平和維持部隊の展開する
②アルバニア系武装組織の『コソボ解放軍』を 3 か月後に解体する
上記のように、ユーゴ側にしてみればとうてい受け入れることのできない条件を提示したの
である 22。この内容に対して、ユーゴは国家主権の侵害であると和平案を拒否し、交渉は決裂
した。この結果を受けて 99 年 3 月 19 日に開始されたのがNATOによるコソボ空爆である。
では、NATOによるコソボ空爆は、冷戦後に新しく性格を変えつつあるNATOにとってどの
ような問題点を明らかにしたのだろうか。ここでは二つの問題点に注目したい。一つ目に、
NATO空爆が、国連・安全保障理事会の決議での許可を得るという正式なルートを通ることな
く行なわれた一方的な軍事介入になり、これが主権国家の「内政不干渉」にあたらないのかと
いう問題である。二つ目に、空爆を正当化するのに使われた「人道的介入」という概念の正当
性について問題である。実際にロシアや中国からは、コソボに対する空爆は安保理による許可
22毎日新聞(1999
年 2 月 2 日)
国
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際
政
治
を得ていないため国連憲章違反であるし、内政不干渉の国際法上の原則に違反するものである
と非難がでた 23。これらの問題について、NATOはどのように取り組んだのか。この点につい
て、コソボ空爆から1か月後に行なわれたNATO創設 50 周年の首脳会議で採択された「99 年
版戦略概念」を取り上げて考えたい。
4-1
99 年版戦略概念
ちょうどコソボ紛争の最中の 1999 年、ワシントン首脳会議では新戦略概念が採択され 21
世紀の NATO の行動指針が示されている。新戦略概念というと、91 年ローマ首脳会議で採択
されたものも存在するため、以後 91 年戦略概念、99 年戦略概念と表記する。99 年戦略概念は
91 年戦略概念と比べても、大きな違いは示されていない。しかし、99 年戦略概念では以下の
三点から NATO がポスト冷戦期にどのように進んでいくか、さらには NATO の国際社会から
の承認を獲得していこうとする強い姿勢をみてとることができる。以下、99 年戦略概念の特
徴をひとつずつとりあげてみたい。
一つ目は、91 年戦略概念では国連や欧州安全保障協力会議(OSCE)の決議・要請のもとで
行なわれる NATO の域外任務について、
「領域外」ということばが使われていたが、99 年戦略
概念では「非 5 条・危機対応行動」とおきかえられている点である。21 世紀の NATO も欧州
での「集団安全保障機関」としての役割を基本とすることに変わりはない。その一方で、「域
外派遣」を「非 5 条・危機対応行動」と置き換えたことにはどんな意味が込められていたのだ
ろうか。これには、「非 5 条・危機対応行動」とすることによって、世界各地で発生している
多面的な危機(その多くが NATO 加盟国の領域外で起きている)に、NATO がこれまで以上
に積極的に対応していく決意が示されていると思われる。
二つ目は、NATO が 99 年戦略概念で「人権」の概念を登場させてきたことである。創設当
時、冷戦期の NATO では、西側「自由主義国」対東側「共産主義諸国」との対立図式化の上
で「個人の自由」を尊重することが特徴であったが、ポスト冷戦期になると、99 年戦略概念
にみられるように予測不能の危機として「人権侵害」をあげ、「個人の自由」を侵害されるこ
とよりも「人権の抑圧」を問題とするうごきがみられるようになった。このような流れをうけ
て、ワシントン首脳会議で出された「コソボに関する声明」でも「人道上の緊急事態への対応」
の必要性を承認させるには、より問題化している可能性の高い人権抑圧をとりあげることで
NATO の介入する余地をつくり、21 世紀における NATO の存在意義を確立したと考えられる。
三つ目に国連安保理の権威があいまいになった点が挙げられる。91 年戦略概念ではNATO
が域外で活動する際は、国連安保理の決議決定、さらには要請を受けた後で行なうとされてい
たが、99 年戦略概念では、国連安保理の授権なしでも介入の必要がある場合にはNATOが軍事
介入することも可能となった。これは緊急を要する事態でも、一部の国が拒否権を行使するこ
とによって介入ができない状況になるのを防ぐためであった。しかし、ここで少し注意すべき
点がある。それは、ここでのNATO介入が「場合によって」の介入であり、「ケースバイケー
ス」で介入するとまでしかいっていないことである。そのため、99 年戦略概念の第 10 項で謳
23佐瀬、前掲書、213-214
頁。
NATO の変容と新時代の安全保障
59
っているように「欧・大西洋地域」での「危機管理」に対して介入する場合もあれば、しない
場合もあるという微妙な線引きになっている。しかしながら、99 年戦略概念では 91 年戦略概
念と比べて、さらに広範な地域への派遣について大きな可能性を示したことは確かであった 24。
以上の点をまとめると、コソボ空爆は NATO が領域の外部(コソボ)でおきている人権抑
圧について人権・人道の面から緊急に対処する必要があると判断し、しかも国際機関の承認を
回避して自己委任による軍事介入をした初めての事例でであった。つまり、コソボ空爆は 99
年版の戦略概念のテストケースという位置づけで行なわれたと考えられるだろう。では、今回
のコソボ紛争によって NATO は何を示すことができたのだろうか。それは、創設 50 周年を迎
え、21 世紀にもなお生き残っていくために、NATO はそれまでの欧州の集団安保を担う役割
に加え、周辺地域の地域・民族紛争などへの危機対応行動にも重点を置いて活動をすること、
また、人権の侵害が著しいと判断された場合においては、「人道的介入」として軍事介入を行
なうことが国際的に承認されうること、さらには、安保理が拒否権発動によって機能不全とな
り緊急の対応ができなくなることを防ぐため、介入が必要と判断された場合には、安保理決議
を迂回してでも軍事介入することもありうるとの解釈を与えたことの三点を示すことができ
たと考えられる。その点で今回の空爆は、国際社会に対して 21 世紀に新しい役割を担って行
く NATO の認識を示す契機になり、重大な意味を持つ事例である。しかし同時に、NATO の
周辺地域において緊急な介入を要すると判断される事例が発生したときには、今回のように安
保理を迂回しての介入が常習化して行なわれるのだろうか、という不安も残した。この点につ
いては次節で考察する。
4-2 NATO の安保理決議迂回での軍事介入
NATO がコソボ紛争で行なったような国連安保理決議を迂回しての軍事介入は今後も行な
われていくのだろうか。
この問いに対する答えは、はっきりとしていない。99 年戦略概念では 10 条で、
「欧・大西
洋地域」の安全保障と安定性を向上させるため、NATOは「ワシントン条約(NATO条約)7
条に合致して、ケースバイケースで、有効な紛争予防に貢献し、危機対応行動を含む危機管理
活動に携わる」としている。さらに、
紛争防止と危機管理が述べられている項目の 31 条でNATO
は「非 5 条危機対応行動」を含む問題に対して、他の機関と協力し紛争予防をはじめとした効
果的な紛争解決に貢献することを述べている。また同時に、NATOは 1994 年のブラッセルで
行なった提案(国連安保理の授権またはOSCEの責任の下行なわれる平和維持活動やその他の
活動は、同盟の資源や技術を利用すること)を含め、NATO自身の手続きによって「ケースバ
イケース」で支援するという内容の文言も謳われている 25。
10 条、31 条に共通して言えることは、NATO は「欧・大西洋地域」での平和維持に関して、
2499
年戦略概念は、91 年戦略概念と同様に脅威の多様性という特徴を持つ。しかし、99 年戦略概
念では 91 年よりもよりいっそう広く解釈されるようになった。ここでは今後 NATO が対応してい
く危機対応行動について「欧大西洋地域」の内部および周辺の諸国という範囲が示されている。佐
瀬、前掲書、217 頁。
25 NATO ホームページ“The Alliance's Strategic Concept”
23 April 1999
<http://www.nato.int/docu/pr/1999/p99-065e.htm>
60
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NATO 独自の判断による「ケースバイケース」での介入という姿勢しかみせていないため、介
入するときもあれば、はたまた、しないときもあるというあいまいなスタンスだということで
ある。つまり、99 年戦略概念を見る限り、今後 NATO は第二のコソボ空爆のような軍事介入
をする可能性も否定できない。ゆえに、今回のように国連安保理の授権のない状態で NATO
自らが自己委任して軍事介入を行なうことは、今後も「例外としてありえる」としかいえない
のが現状のようである。
NATO の変容と新時代の安全保障
第3章
61
変容する NATO をめぐる意見対立とその克服
東西冷戦の最中であった 1949 年、ソ連からの脅威に対応すべく欧州の集団防衛同盟として
成立した NATO。この NATO の歴史は激動の歴史であった。というのも、1990 年代に入るや
否や仮想敵であったソ連の崩壊、ワルシャワ条約機構の解散と、軍事同盟の前提である共通の
敵を失ってしまったためである。伝統的な同盟観によれば、共通の敵を失うということは
NATO の根本にある「共同防衛」という存在意義を失うことを意味する。しかし、ワルシャワ
条約機構が解散したのとは対照的に NATO は消滅するどころか、1991 年の湾岸戦争、ボスニ
ア紛争、コソボ紛争での空爆などの例にあるように、それまでの役割にプラスした新たな役割
を探りはじめ、現在では創設当時の NATO とは性格を異にする組織へと生まれ変わってきて
いる。
しかしそのような新しい役割や機能を追求するプロセスには、様々な問題や意見対立も伴っ
ていた。つまり、NATO の役割や活動領域の拡大は直線的に進んだのではなく、加盟国間の利
害や意見対立を含む複雑なプロセスを経たのであった。しかし、結果的には、少なくとも NATO
加盟国間での意見調整が図られ、NATO を強化するという方向に変わりはなかったのである。
この章ではこれに関連した問題として 2 つの問題を取り上げる。1 つ目は、「非 5 条・危機対
応活動」をめぐる問題などであきらかになっている米欧間での意見の不一致と、それを解決す
るために組織された CJTF(合同統合任務軍)の存在、変化しつつある EU と NATO の関係に
ついて、そして 2 つ目は、東方拡大問題についてである。
1 米欧間での意見不一致問題
NATO 内での米国とヨーロッパ各国での意見の違いが明らかになったのは 92 年のボスニア
紛争時であった。第 2 章のボスニア紛争の項目でも指摘したが、この紛争に関して NATO が
本格的に関与を始めたのは、デイトン合意後ボスニア平和履行軍(IFOR)での活動であるが、
それについても NATO 内では意見(認識)の不一致があった。つまり NATO はボスニア紛争
で、介入をしたいヨーロッパ各国と介入に対し消極姿勢をなかなか崩さなかったアメリカとの
間でコンセンサスが取れず、スムーズに機能しないという問題を露呈したのである。
NATO の組織の中での影響力を考えたとき、ボスニア紛争での事例でも明らかなように、ア
メリカの影響力の大きさは周知の事実である。これは NATO 発足時の経緯を思い起こせば、
なぜアメリカが強い影響力を持つのかが理解できるだろう。つまり、NATO の前身になったの
は英仏とベネルクス 3 国の 5 か国で始まったブラッセル条約であったが、それに強力な軍事力
を持つアメリカを巻き込み支援を得ることで、欧州の安全保障確保しようと発足したのが
NATO である。要するに、NATO の軍事力は創設以来アメリカに依存する部分が大きく、ア
メリカの同意なくして行動が起こしにくい機構なのだ。そのため紛争当初にアメリカの不介入
姿勢が見られたボスニア紛争では NATO の介入についての機構内コンセンサス獲得に苦労し
たのである。
ところで、冷戦終結後の新しく変化したNATOが担っている重要な役割として「非 5 条・危
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機対応活動」があるが、この活動に対してもアメリカとヨーロッパではそれぞれ関心のある地
域について認識の相違があった 26。これが原因で、ボスニア紛争で見られたようなNATOとし
てのスピーディな行動を起こすことが困難になる事態がおこるかもしれない。そこでこの問題
を解決しようとして作られたのが、CJTF(共同統合任務部隊)である。これは、NATOの「非
5 条・危機対応活動」をめぐって、米欧の足並みがそろわないときのための措置として作られ
た。これにより、現在ではWEU(西欧同盟)軍はアメリカが自国の関心地域ではないとして
介入の意思を見せないときでも、NATOに提供されている米軍の能力を活用できることになっ
ている。CJTFについては、次の項で詳しくみていきたい。
1-1
CJTF と NATO、WEU(西欧同盟)との関係
CJTF がどのような経緯で誕生し、またどのような特徴をもつ組織であるのか知るために、
まず WEU(西欧同盟)との関係を見てみよう。はじめに、WEU がどういった経緯で誕生し
たのかを述べたい。
WEUは、1948 年に調印されたブラッセル条約をもとに生まれ、1954 年にイタリアと西ド
イツが加わったことで設立されたヨーロッパの防衛と安全保障の機関である。しかし、WEU
は成立したものの、NATOが欧州における安全保障と防衛の役割を担っていたことから、事実
上は休止している状態にあった。ところが、1980 年代に転機が訪れる。それまで、ヨーロッ
パの安全保障を提供していた在欧米軍が撤退を示唆してきたのである。それに対して、1984
年には欧州の安全は欧州で守るべきであり、現在の米国頼りの安保状態を脱却し、対米軍事依
存状態を減らしていきたいと考えるフランスのミッテラン大統領を筆頭に、WEUの活性化を
うたった「ローマ宣言」が出された。さらに、ヨーロッパでは、1991 年大きな地域的な動き
が訪れる。つまり、EU(欧州連合)の誕生である。このEUの設立に際して出された「欧州連
合設立条約」では、WEUはNATOの防衛要素であり、ヨーロッパでの防衛の柱を強化するた
めの手段であるとされた。時を同じくして西欧諸国はフランスを中心にして、欧州の安全保障
は欧州自身で責任を持つべきであり、WEUは今後の欧州の安全保障の柱を強化するため手段
であるという考えを打ち出した 27。しかし、当時のNATO加盟国間での軍事力の実力差はNATO
発足当時と変わらずアメリカと欧州で大きく離れており、アメリカは欧州の各国では到底もつ
ことのできないレベルの実力を持っていた。この実力の不均衡な状態では、例え領域外での危
機管理・対処行動をWEU単独で行ないたいとなっても、通信、情報、輸送の機能面が不完全
であり、実質上、WEU単独では何もできない状態であった。これらの理由から 1992 年、NATO
とWEUでの合同会合を開き、両機関の関係緊密化、実際的協力の強化を取り決め、1993 年に
CJTF(共同統合任務部隊)が誕生した。これによって欧州では、アメリカの不介入姿勢のた
めにNATOとして行動に移せない状態を回避できるようなり、アメリカの不在状態でもWEU
2699
年戦略概念の起草段階でも「非 5 条・危機対応活動」の地理的関心範囲をめぐる米国・欧州勢
の考えの違いが問題になった。グローバル・パワーである米国は、その範囲を地球大に広げること
を望み、リージョナル・パワーである欧州勢はそれを欧州に限定することを望んだ。佐瀬、前掲書、
225-226 頁。
27同書、153-155 頁。
NATO の変容と新時代の安全保障
63
がNATOの実力(アメリカの実力)を使い不足する分野を補えるようになった。
このことは、1994 年 2 月の『NATO
Review』28でも書かれている。ここではNATOの「将
来の形姿」として、主要部隊からある種の部隊要素をはずして、NATO指揮下あるいは、NATO
が関与したくない場合にはWEUの傘下での作戦に提供するとし、今後のNATOとしては
NATO独自の部隊をNATOが関与しない場合においてもWEU指揮下での作戦で利用させうる
ことを方向付けている。しかしながらCJTF概念の誕生した 1994 年のブリュッセルNATO首脳
会議で、CJTFに関してあくまでNATOとは切れず、
「分離可能であると同時に分離しない」関
係であると明記した。こうすることで、欧州単独でNATOのような組織をつくることに歯止め
をかけようとしたのである。
CJTF のこうした誕生の経緯を考えると、今後もヨーロッパの国々は NATO の軍事力をベー
スにした欧州安全保障を追求していくと考えられる。ところが、1998 年にヨーロッパではそ
れとは異なる動きが出ている。それが、1998 年に行なわれた英仏首脳会談である。この会談
では EU は安全保障について独自の決定を下すために、さらには NATO にかかわりがない場
合での軍事的処置を承認できるために、EU 独自で適切な構造を保有する必要性について話し
合った。ちなみにこの適切な構造とは、WEU を指すと考えられる。つまりこの英仏の首脳会
談から、EU が将来的にはアメリカに依存する現状を脱却し、NATO とは別に実力を持つこと
によって、欧州独自で欧州の安全保障を守ろうという動きがでてきていることがよみとれる。
さて、ここでひとつ大きな疑問がでてくるだろう。EU が独自で軍隊を持ち欧州の安全保障
を行なえるようになったら、EU と NATO は安全保障という任務の上で重複してしまうのでは
ないか。そうなれば欧州各国は NATO に加盟している必要がなくなってしまうのではないだ
ろうか。次の項目では、これらに関連して 90 年代の両者の動きに注目しながら NATO と EU
との関係の変化をみていきたい。
1-2
NATO・EU 間での関係の変化
冷戦期でのヨーロッパにおける NATO と EC の 2 つの組織は、防衛の NATO と経済の
EC というように、しっかりとした住みわけがなされていた。ところが冷戦終結の 1990 年代
から徐々に 2 者の関係の変化があらわれてくる。まず初めの変化は、92 年に開かれたロシア・
ペテルスブルグでの WEU の外相・国防相合同理事会である。WEU はそれ以前の 84 年のロー
マ宣言で再活性化の方向に進んでいたが、さらに今回の 92 年のペテルスブルグでの合同理事
会により平和執行を含んだ任務に対する意思表明がなされた。これにより各国の足並みをそろ
え始め、98 年英仏首脳会談では欧州防衛に関する英仏共同宣言(サンマロ宣言)が出された。
英仏共同宣言で、イギリスが欧州防衛に積極姿勢を見せたことにより、EU の軍事機能づくり
が加速することになった。
一方NATO側は、99 年 4 月にワシントンで開かれたNATO首脳会議で「われわれは、同
盟(NATO)が全体として参加しない場合、その軍事行動を決定し承認できるよう、EUが自
THE ALLIANCE FOR THE FUTURE」、Manfred Wörner、1994(NATO ホーム
ページ参照)http://www.nato.int/docu/review/1994/9401-1.htm
28「SHAPING
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立した能力を備える決意を確認する」旨を宣言した。ワシントンでの首脳会議でNATOが、EU
が自立して軍事行動をとれるように備えることを認めたことは、ヨーロッパ各国にとって欧州
自立への第一歩がスタートしたことを意味する。その後のEUは 99 年のケルン首脳会議、さら
には同年末に出されたヘッドライン目標と、軍事力を拡大し、安全保障を担う存在へと向かっ
ていく。まず、ケルンでの首脳会議では、EUは国際舞台で十分に役割を果たすために、現在
のヨーロッパ各国では劣っているとされる、紛争防止や危機管理任務に適した情報・戦略輸
送・指揮統制の面を合同演習などで独自の軍事機能養成していくこと、さらには欧州防衛産業
への協力を強化
29 することについて確認した。そしてEUは同年末のヘッドライン目標で、
NATOを欧州の集団防衛での主要機関であると断った上で、平和維持や平和執行などNATOで
いう「非 5 条」の任務に関心を示した 30。
このような EU の動きを見ると、EU と NATO は欧州防衛という任務の面でますます同
質化の様相を強めているように思える。実際に、現在では軍事面の NATO と経済面の EU と
いう枠では捉えられなくなっており、EU も独自の軍事力で自立した欧州の安保を目指そうと
している。前述した 99 年ヘッドライン目標にあるように、EU も NATO でいう非 5 条任務(領
域外、危機対応能力)に関心を示すようになっている。さらには同目標で、兵力規模 5 万から
6 万、2 ヶ月以内に展開開始可能な最低 1 年間継続能力がある EU 独自の軍事力を作ることも
掲げている。これは EU でも NATO とまねたしくみをつくる動きが出ていることを示してい
るに他ならない。そのほかにも欧州では、それまでの米国頼りの安全保障体制から変化し、自
立した安全保障の確立を目指すうごきもいくつか見られる。例えば、2003 年にフランス、ド
イツなど欧州 4 か国首脳が、欧州の防衛強化のため ESDU(欧州安保・防衛同盟)の創設を提
案したことがあるが、その背景には米国主導の NATO の中で、軍事面で米国からの自立を目
指す意図があった。つまり、米一極支配に対抗し、将来的に多極化した世界秩序を築くとの長
期的な戦略に基づいているのである。
このように、EU は軍事化の道を加速させ、ますます NATO と同じような性質を持つ組
織へと変化させつつある。もしこのまま欧州が変容を遂げ欧州自身での集団防衛が可能になっ
たとしたら、欧州はわざわざ NATO を頼る必要がなくなり、欧州にとっての NATO は要らな
い存在へ成り下がってしまうのだろうか。そして NATO 根本の存在意義であった欧州におけ
る安全保障という目的を、軍事力をもつようになった EU がとってかわるようになれば、NATO
の存在意義はなくなってしまうのだろうか。答えは「NO」であろう。なぜならば、現在の NATO
は冷戦下対立関係にあったロシアと協力関係を築いていたり、東方拡大で旧東側諸国の安全保
障を担うようになっていたりと、単に欧州の安全保障を担うだけの存在ではないからである。
29欧州では冷戦終結がもたらした戦略環境の激変や費用調達の削減傾向のため、97
年から防衛産業
の再編成が進み、防衛産業の統合や協力システムが活性化した。フランス・イギリス・ドイツ・イ
タリアは OCCAR(共同兵器購入計画)を通じてコスト・技術開発・競争力・投資効率などの面で
の向上を目指している。近年では、2007 年 EU が防衛産業についての DTIB
(Defense Technological
and Industrial Base)と呼ばれる共同戦略を採択し、EU 各国の兵器調達を協調させる動きも出て
いる。また、防衛産業自体でも、EADS(世界第 3 位の防衛企業)のように国家を超えた統合(仏・
独・英・スペイン)のような例もある。
30谷口、前掲書、162-163 頁
65
NATO の変容と新時代の安全保障
さらに言えば欧州の安全保障に関しても、WEU、OSCE や EAPC(欧大西洋パートナーシッ
プ理事会)などの基盤にあるのは NATO であり、NATO の下支えがなければ欧州の安全保障
は揺らいでしまう状況になっている。このような点からみても NATO の存在意義は依然とし
て大きいことがうかがえる。しかし、EU が軍事力を持ち独自での安全保障を進める動きがあ
る以上、今後の NATO は EU との間で任務や役割分担をおこない、両者の任務の住みわけを
行なっていくという課題を負っていることは確かであろう。
OSCE
EAPC
NATO
カナダ
アメリカ
欧州会議
アイスランド
アンドラ
クロアチア
キプロス
リヒテンシュタイン
マルタ
サンマリノ
デンマーク
アルバニア
ロシア
アルメニア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
ブルガリア
ウクライナ
アゼルバイジャン
モナコ
モルドバ
ベラルーシ
バチカン
グルジア
ユーゴスラビア
ノルウェー
ベルギー
エストニア
トルコ
フランス
ラトビア
チェコ
ドイツ
リトアニア
カザフスタン
ハンガリー
ギリシャ
ルーマニア
キルギス
ポーランド
イタリア
スロヴェニア
タジキスタン
スイス
西欧同盟
ルクセンブルグ スロヴァキア
トルクメニスタン
オランダ
ウズベキスタン
マケドニア
ポルトガル
スペイン
イギリス
図 1 欧州安全保障の構造図
出所:佐瀬、前掲書、203 頁、「欧州安全保障の構造」から著者作成
2 東方拡大
ポスト冷戦時代の NATO におきた、もうひとつの大きな問題が東方拡大である。まずは、
NATO の東方拡大の背景には何があったのかについて考えたい。
冷戦終結とワルシャワ条約機構の解散はNATOの役割の転換になったと同時に、ワルシャワ
条約機構構成国が安全保障上どこともつながりを持たない状況になるという問題も引き起こ
した。これらの国々は今や、冷戦期であったならば旧ソ連という強大な力に抑えられていた民
族間の対立や領土的な不満が噴出し、紛争や不安定化の危険にさらされている地域になってし
国
66
まっていた
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治
31。さらに、これらの国々にとって新たな脅威が存在するようになった。それが、
ロシアであった。ソ連崩壊の後に誕生したロシアは、依然として強大な軍事力を有している一
方で政治的には不安定な状態であり周辺国がロシアから受ける脅威は多大なものであった。こ
のような背景によって、NATOをロシアの脅威からのよりどころとしたいと考えた中欧・東欧
諸国やバルト 3 国の要望で東方拡大が提起されたのである。のちに東方拡大をめぐって賛否両
論激しい論争が繰り広げられることになるが、その前に東方拡大がどのように進んだのか、さ
らに東方拡大の前段階で登場したPFPについて確認したい。
2-1
東方拡大の概要
ロシアに近接する中・東欧諸国やバルト 3 国によって提起されたNATOの東方拡大は、1994
年 1 月のブリュッセルNATO首脳会議で拡大の方針が確認された。このブリュッセル首脳会議
では東方拡大のほかに、PFP(平和のためのパートナーシップ)の創設とPFPにNACC 32の旧ワ
ルシャワ条約機構構成国、欧州安全保障協力会議(CSCE)全加盟国を招待すること、さらに
は第 3 章 1-1 で前述したCJTF(共同統合任務部隊)創設という 3 本柱で協議された 33。PFPに
ついては次節で扱いたい。ブリュッセルでの首脳会談の後、1996 年 12 月に開かれた外相理事
会ではさらに具体的になり、①NATO創設 50 周年である 1999 年までには新メンバーの加盟を
実現させること、②更なる加盟を希望する国に対しては門戸を開き続けることが確認された。
そして第 1 次の拡大について、1997 年マドリードでの首脳会議でポーランド、チェコ、ハン
ガリーの 3 か国があげられ、1999 年 3 月に上記の 3 国が正式加盟した。これら 3 国加盟の第
一次NATO拡大によって加盟国数は 19 か国になった。
第一次拡大につづき、NATO50 周年である 1999 年に行なわれたワシントン首脳会議では、
引き続き門戸は開放されているとした上で、さらなる第二次拡大の加盟国招請を行なうことを
確認している。さらに、このとき出された「コミュニケ」の中では、加盟希望国(ルーマニア、
スロベニア、バルト 3 国、ブルガリア、スロバキア、マケドニア、アルバニア)の国名を具体
的に列挙することで第一次拡大に外れてしまったこれらの国に配慮を示し、NATOは北大西洋
条約第 10 条に基づき新規加盟希望国に対して門戸を閉ざさないことを強調した。また、同首
脳会議で、加盟に向けての行動計画(Membership Action Plan: MAP)を採択し、NATOが加
盟希望国に対して、将来の加盟にむけて行なわれる活動に対しては支援を与えることを決定し
た。このMAPに基づく交渉が各国間で重ねられ、2002 年 11 月のプラハ首脳会合では、ルー
マニア、スロベニア、バルト 3 国、ブルガリア、スロバキアの 7 か国に対して加盟招請を決定
した。こうして第二次拡大で招請をうけた 7 か国が 2004 年 3 月に正式にNATOの一員となり、
加盟国数は 26 か国に、そして地理的にもロシア国境へ迫ることになった。第二次拡大が完了
した後には、2004 年イスタンブールNATO首脳会合、2006 年のリガNATO首脳会合と、さら
31軍事同盟研究会、前掲書、39
頁
NACC(北大西洋協力理事会)は 1991 年ローマでの NATO 首脳会議で、NATO とソ連を含む
旧ワルシャワ条約機構構成国との常設の諮問・協力のしくみとしてつくられた。谷口、前掲書、67
頁。
33同書、9 頁
32
NATO の変容と新時代の安全保障
67
なる拡大(第三次拡大)を視野に入れた話し合いが行なわれている 34。
図 2 中欧・東欧とロシアの位置関係
出所:d.map
http://www.aquanotes.com/europe/index.html
NATO は 2 度の東方拡大を経て地理的にもロシア国境に迫ることになった。また現在でも、
3 度目の東方拡大を目指し加盟行動計画(MAP)に基づきアルバニア、クロアチア、マケド
ニアなどが努力を続けている。
2-2
PFP とは
PFPとは 1991 年ブリュッセルNATO首脳会談で出された 3 本柱のうちのひとつ、平和のた
めのパートナーシップ(Partnership For Peace:PFP)のことをいう。PFPは、クリントン
米政権時代に出され、NATO加盟国と旧東側諸国、欧州の中立国を加えた全欧的な安全保障協
力を行なう仕組みである。この組織ができた背景には、NATO加盟を強く要望するチェコスロ
バキアやバルト 3 国などの中欧・東欧諸国に対するNATOの加盟「代替案」としてのしくみで
あったという背景がある。なぜなら当時のNATOでは、同盟の早期拡大の選択は得策とはされ
34
NATO の拡大(外務省ホームページ)http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/nato/kakudai.html
国
68
際
政
治
ていなかったからである。しかし、北大西洋条約第 10 条がある以上加入を拒否することもで
きず、時間稼ぎとしての苦肉の策で出されたのがこのPFPであった。つまり、この仕組みには
①NATOに第一弾として加盟するポーランド、チェコ、ハンガリーの加盟準備、さらには②第
一次東方拡大から外れてしまった国々を疎外しない仕組みを提供することの 2 つの目的が存在
していたのである 35。
このように成立した 28 か国からなる PFP は、全参加国に共通な「枠組み協力」と、各国の
協力希望事項を盛り込み提出される申請文章に基づき、その国の事情にあった協力を行なう
「個別協力計画」の 2 つの構造からなる。つまり、各国のニーズに合わせて協力の度合いを変
えられるとしているのである。ただし、PFP への参加は NATO 加盟とはある一点において決
定的に異なる。それが、NATO でいう第 5 条の「共同防衛」の義務である。PFP 参加では、
ブラッセルに連絡機関を置くことができるようになり NATO とのつながりを持てるようにな
るが、あくまで NATO 加盟ではないので共同防衛の保障は得られない。しかし中欧・東欧の
各国は、将来の NATO 加盟へのステップとして NATO に近づくため PFP に参加した。また、
1994 年には NATO の度重なる説得に応じたロシアが PFP に参加している。
2-3
意見が賛否分かれた東方拡大論争
2-1 で書いたように、NATO の東方拡大はロシアの脅威にさらされている中欧・東欧諸国、
さらにはバルト 3 国の強い要望によってなされたものであった。しかし、前述の 2-2 であきら
かにしたように、早急な東方拡大については NATO 内でも慎重な意見が多かった。これは
NATO が新規加盟を先送りするために PFP の仕組みが作られたことからも理解できる。そし
て、その後ブリュッセル首脳会議が行なわれた 1994 年くらいから NATO 加盟国内で「東方拡
大はすべきか否か」という賛否分かれる論争がさかんに繰り広げられるようになった。両者の
主張についてまとめると以下のようになる。
①成論者の主張
まず、賛成派(必要論)の立場で代表的なのが米クリントン大統領である。一例として、1996
年 2 期目の大統領選運動中になされたデトロイト演説を見てみよう。この演説でクリントン大
統領は、東方拡大によって、冷戦期にNATOが西欧諸国にもたらした効果―独仏関係にみられ
る「敵対に変えて安定」
、「抗争から協調への移行」、「旧ファシズム諸国での民主主義の定着」
―と同様な効果が中欧・東欧諸国にも生まれるとしている。つまり、NATOが東方拡大するこ
とで、「東方における対立抗争の復活の防止、将来の脅威に対抗する民主主義の強化、繁栄に
とって必要な諸条件の創出」につながると主張したのである 36。
またヘンリー・キッシンジャーは、エリツィンの改革派政府ですらロシアは「近い外国(旧ソ
連共和国)」の政府の明白な意思に反したロシア軍駐留や共和国の内戦に対する出動を行なっ
た事実を指摘する。そして、ロシア外相が「近い外国」に対して平和維持活動へのロシアの独
35谷口、前掲書、85
頁
36佐瀬、前掲書、178-179
頁
69
NATO の変容と新時代の安全保障
占的関与という概念を繰り返し表明しているように、ロシアは旧ソ連の周辺国に対してロシア
支配を再確立しようとする意図が働いていることを指摘する。またキッシンジャーはロシアの
持つ歴史的背景(民主主義の経験のある指導者の少なさ、ロシアの指導者の多くが共産主義の
下で顕職についてきたこと、啓蒙運動や近代的市場経済といった経験を経ていないことなど)
により「ロシアの民主化」と「節度ある外交政策」とは必ずしも一致しないと主張し、これら
の問題はそれぞれ別個の事例として扱う必要があるとした。さらにロシアに対しては、民主主
義を支持する一方で、ロシアの脅威が本格化して手の打ちようがなくなってしまう前に、ロシ
アの拡張を防止するような策を打つ必要があると主張した 37。
NATO の拡大に賛成している多くの人々は、最善の目的を「地域の安全」において提唱して
いる。つまり、NATO が拡大することよって領土修正論(territorial revisionism)をとるロ
シアが、失った領地奪還のために周辺地域を侵略することや、隣国に脅威を与えることを防げ
るのである。さらに、賛成論者は NATO の拡大は新規加盟国だけでなく、まだ NATO に加盟
していない地域に対しても安全・安定を提供できるとも主張した。以上のように、賛成論者の
立場では NATO の拡大はヨーロッパ各国に多大な安全を生み出し、抑止の適正なバランスや
安心感を提供し、欧米諸国との外交上のつながりを維持することにつながるというものであっ
た。
②反対論者の主張
賛成論者が東方拡大の意義に「中欧・東欧地域の安定」を掲げるのに対し、反対論者は「ロ
シアへの配慮」を念頭において反対の立場に立った。反対論者は、現時点での中欧・東欧諸国
にとって脅威になっていないロシアを潜在的な脅威とみなすことは、将来のロシアの「反抗性」
を助長することにつながってしまうと考える。例えばジョージ・F・ケナンは、「NATO の東
方拡大はロシアの改革派に失望を与え、さらには国粋派には反発の口実を与えるので致命的な
失敗になる」と主張した。
さらにNATO拡大に反対したMcGwireは米国主導のNATO拡大について、4 つの理由をあげ
NATO拡大は重大な失敗政策であると批判した 38。1つ目の理由は、NATOの拡大がロシア民
主化進め、西側諸国と親密な関係を築いていこうと考えるロシア国内の親米派の政治家や役人
を失望させ、その計画を失敗させてしまうことを指摘した。2 つ目の理由では、旧ソ連の国で
NATOに加盟した国(ex.ポーランド・チェコ)とまだ加盟していない国との間に新たな亀裂が
入り、関係が悪化してしまうことを指摘する。そしてNATOに加盟していない国は、周辺国の
NATO加盟により、以前よりも安全性が低下したと感じるようになる。すると、他の防衛同盟
に加盟する可能性も増え現在に比べて不安定さが増加する危険性もある。3 つ目の理由では、
NATO自体の問題を指摘した。McGwireによればNATO拡大は、同盟で最も基礎となる点―加
盟国が攻撃された場合には例外なく守ることを約束する(共同防衛)―の信用性低下につながる
37ヘンリー・A・キッシンジャー『外交』
、日本経済新聞社、1994
38Robert
年、513-514 頁。
Jackson and Georg Sorensen, Introduction to International Relations, Third edition
(Oxford University Press, 2006), p.84.
国
70
際
政
治
としている。また、東方拡大に際して新規に加盟する国はロシアに近接しているために、歴史
的にロシアへの敵意を持っており、政府も不安定である。そしてこれら国々は、ソ連から受け
た不運な歴史の記憶を持ち、NATO加盟国として堅固で責任をもてるだけの政治的基礎にかけ
ている、とも主張した。最後の 4 つ目で、より不安定で防衛が困難な中欧・東欧への拡大は同
盟における米国の責任の増加につながる危険性を指摘した。
③決着、東方拡大へ
アメリカも早期拡大には慎重な姿勢を示していたように早期の東方拡大については賛否両
論わかれるところであり、両論は激しく争われた。しかし、それまでロシア・エリツィン大統
領の言動
39や、ロシアの国内情勢の混乱によって立場を確定しきれなかったNATOも
1994 年
10 月から 11 月にかけて態度を一転させる。この時期にNATOの姿勢が変化した理由について
はいまだ明らかにされていないが、米国及びNTAOはロシアの反対があるから、エリツィン政
権へ悪い影響を与えるからという理由から早期拡大を否定してきたが、この時期から「ロシア
が反対しても」、
「エリツィン政権に悪い影響が出ても」NATO拡大を推進する姿勢へと変化し
た。1996 年にクリントン政権がデトロイトで行なった演説によって、東方拡大の方向はさら
に確かなものになった
40。東方拡大についてはそれ以前の
1994 年 1 月に開かれたブリュッセ
ル首脳会議でも確認されていたが、デトロイト演説では東方拡大の第一期の新規加盟国が加盟
する年の決定など、具体的な方針を決定したことでよりいっそうNATOの東方拡大を推進する
ことになり、またこれによってアメリカが東方拡大をけん引する役割を担うことをNATO加盟
国に示す契機にもなった。
以上 3 章で見てきたように、NATO は冷戦後の社会で新しい NATO の役割を確立すべく模
索しながら機能変容を遂げていった。米・欧間での意見の不一致問題については米国と欧州諸
国との間に意見の相違はみられたが、それぞれの意見調整を図ることにより結果として、CJTF
で WEU との連携を確立し、また NATO は欧州安全保障の面をみても WEU、OSCE や EAPC
などをはじめとする欧州安全保障構造の基盤を支える役割へと機能強化を果たした。同様に
NATO の東方拡大についても賛否分かれる問題となったが、加盟国の意見調整や最終的には東
方拡大でコンセンサスをみた。そして現在までに第 2 次拡大を達成し、NATO 加盟国は 26 カ
国となりその影響力はますます拡大している。
391993
年 8 月、エリツィン大統領のポーランド公式訪問の際には、ポーランドの NATO 加盟を容
認したにもかかわらず、1993 年 9 月には英米仏独に送られたエリツィン書簡の中で、NATO の東
方拡大はドイツ統一を決めた「2+4 条約」違反であり、中欧・東欧の安定については NATO とロ
シアが緊密に協力することで保障するべきであるとの見解を示し、NATO の東方拡大に反対の立場
をとった。
佐瀬、前掲書、171-172 頁。
40なぜクリントン政権が 1996 年のデトロイト演説で東方拡大推進への立場へ転換した理由ははっ
きりとしていないが、ひとつにはポーランド系住民の多いデトロイトで NATO 入りを熱望する祖国
ポーランドを NATO に参加させることでポーランド系の得票を狙ったとの見方がある。同書、176
頁。
NATO の変容と新時代の安全保障
第4章
71
21 世紀の安全保障における NATO の役割
第 2 章と第 3 章では、ポスト冷戦期の 1990 年代の時期に NATO が従来の軍事同盟の性質を
変え、従来とは異なる新しい役割を追求し始めたことを明らかにした。ここでは 2001 年の同
時多発テロ以降の新しい戦略環境の中で NATO がどのような役割を果たそうとしていたのか
を考察する。
1 NATO の対テロ戦争への対応―ISAF を例に―
NATOの対テロ戦争への対応として、2001 年のアメリカ同時多発テロをきっかけにして設
立された対テロ戦争支援を目的にする部隊、ISAFに着目したい。ISAFは、International
Security Assistance Force(国際治安支援部隊)の略であり、アフガニスタンの治安維持を通
して同国政府の支援を目的にする部隊である。この部隊は 2001 年 12 月にアフガニスタンの和
平促進のための国際会議において締結された「ボン合意」 41に基づいており、同年に安保理決
議 1386 号によって設立され、NATOによる活動を国連が承認した形で成立した。ISAFファク
トシート
42によれば、ISAFの任務はアフガニスタン当局者及び、特に人権・復興分野に従事
する国連要員やその他の国際文民要員などが、安全な環境で活動できるようにアフガニスタン
の治安維持について同国の政府を支援することとなっており、これらの任務をアフガニスタン
政府、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)や国際機関、NGOなど他機関との連
携を築きながら協力して任務を果たしている。またISAFのホームページ
43によると、これら
部隊の任務の目的には、次の6つの柱が存在している。
①アフガン国家治安部門(ANSF)と連携した治安維持支援、
②ANSF とアフガン国家警察(ANP)の開発及び育成支援、
③復興ニーズの調査支援、
④非合法武装集団の解体(DIAG)支援、
⑤麻薬対策支援、
⑥人道支援サポート
これらの任務を担っていた ISAF の指揮権は当初、イギリス、トルコ、ドイツと半年交代で
行なわれていたが、指揮国の負担増の問題により 2003 年 8 月から NATO に指揮が移譲された。
ISAF 参加国は、NATO 加盟国の 25 か国に加え、非 NATO 加盟国(EAPC)の 10 か国、さら
に非 NATO 加盟国でかつ、非 EAPC 国でもある 6 か国と 41 か国の参加する大規模なものと
なっている。また、活動範囲では、当初カブール周辺のバグラム空軍基地を含む AOR(Air of
Responsibility)の治安維持が目的とした半年間の多国籍軍で構成された部隊として登場した
ISAF の設立のほかに、アフガニスタンでの暫定政権の樹立、緊急ロヤ・ジルガ(ア
フガニスタンの伝統的な意思決定機関であり、
「国民大会議」の意味を持つ)の召集、国連統合ミ
ッション(UNAMA)の設立について決定された。
42ISAF ホームページ、ISAF Fact Sheet, “The Structure of ISAF”,
<http://www.nato.int/isaf/docu/epub/pdf/isaf_leaflet.pdf>
43ISAF ホームページ,ISAF Mandate ,“What does it mean in practice?”
<http://www.nato.int/isaf/topics/mandate/index.html>
41ボン合意では
72
国
際
政
治
が、その後のアフガニスタンからの要請や、NATO の政治決定を受けて活動範囲も徐々に拡大
している。
アフガニスタンの復興支援や治安維持のためにISAFを指揮する他にも、NATOは対テロ戦
略としてさまざまな活動を行なっている。例えば、2008 年 4 月にルーマニアの首都ブガレス
トで開かれたNATO首脳会議では、エストニア政府のウェブサイトがロシアからとみられるサ
イバー攻撃を受けたことに対応して、サイバー攻撃への特別緊急対応部隊を発展させることを
決定した 44。またこの首脳会議でブガレスト宣言を出し「化学・生物兵器や核兵器の脅威を防
ぐために防衛政策や作戦能力を高める」という目標を掲げることにより、サイバーテロや主要
なエネルギー供給網の安全保障の重要性を確認している。
2 ロシアとの関係
冷戦期に敵対していたロシアとNATOとの関係は、冷戦終結によって新たな関係へと変化し
た。NATO―ロシアの関係は、1991 年、冷戦終結後のNATO加盟国と旧ワルシャワ条約機構国
との関係透明性と対話の強化を目的に作られたNACC(North Atlantic Cooperation Council、
北大西洋協力理事会)に加入したことに始まった。その後、双方に大きな関係変化がみられた
のはNATO首脳マドリッド会議に先立ち、NATO加盟国 16 か国とロシア・エリツィン大統領
との間で 1997 年 5 月にパリで調印された「NATO・ロシア連邦間の相互関係、協力及び安全
保障に関する基本文書(Founding Act)」であった。これは前文で「NATOとロシアは互いを
敵と見做さない」という旨が確認されたものであるが、この基本文章は前述した前文以外に①
原則、②協議および協力のためのメカニズム―NATO・ロシア常設合同理事会、③協議および
協力の領域、
④政治軍事の事項という 4 つの項目からなっている 45。なかでも最も重要なのが、
②のNATO・ロシア常設合同理事会の創設である。この常設合同理事会は、双方の共通関心事
の安全保障について協議・調整し、共同して決定・行動するためのメカニズムとして設立され
たが、同時にNATO、NATO加盟国、ロシアのいずれの内政問題も協議問題にはならないとさ
れている。これにより、双方は相手側の内部事項についての干渉や拒否権行使をできなくなり、
双方の自立性が尊重されるような仕組みが作られるようになった。つまり、NATOは基本文書
によってロシアがNATOを干渉することを防げるようになったのである。しかしその反面で、
ロシアに対してNATO加盟国と同等の協議機会(レベル・頻度・分野)を提供することを約束
している。以上の点をみると、常設合同理事会を設置したことでロシアは形式的にはNATO加
盟資格がない他は、他のNATO加盟国とほぼ同等の資格を獲得するようになったといえる。
その後、2002 年ローマで開かれたNATO-ロシアサミットで、対等なパートナーとして
NATO加盟国とロシアが協働する理事会である「NATO・ロシア理事会(NRC)」が創設され
た 46。これらにみられるように冷戦後のNATOとロシアは協調の路線で進んでいたが、近年は
サイバーテロ防衛センター設立へ」AFP 通信(2008 年 4 月 4 日)
<http://www.afpbb.com/article/politics/2373984/2801624>
45佐瀬、前掲書、189-191 頁
46NATO ホームページ“NATO-Russia Council”
<http://www.nato.int/issues/nrc/index.html>
44「NATO
NATO の変容と新時代の安全保障
73
再び対立の様相を見せている。それは、2000 年代後半から、アメリカのブッシュ政権が推進
する東欧ミサイル防衛問題や旧ソ連のグルジアやウクライナのNATO加盟を目指す動きに対
してプーチン政権で大国の復権を謳うロシアが強い反発を見せていることである。そんな中、
2008 年 8 月に南オセチア自治州をめぐるグルジア紛争が勃発した。このグルジアでの武力衝
突をうけて、NATOはロシアの停戦合意履行が確認されるまでNATO・ロシア理事会を延期す
るとした。一方で、ロシアもNATOとの協力は一部を除き凍結するとし、それまでの協調路線
とは異なって冷戦期以来の対立関係に逆戻りする兆候もみせている。
3 NATO と各地域、各機関との協力
繰り返しになるが、ポスト冷戦のNATOは設立当初の役割とは大きく異なる役割を負うよう
になった。そして現在は単に欧州の安全保障を担う存在ではなく、他の国際的な機関や各地域
と連携することで幅広い協力関係を築き、90 年代に比べて一層の役割の拡充を図っている 47。
その一例として、NATOと一国家間の協力、アフリカや国連、そしてOSCEとの連携・協力関
係をとりあげる。
3-1
一国家ごとの NATO との連携
平和のためのパートナーシップ(PFP)参加国には、NATOとの間に参加国が希望すれば
NATOプラス 1 という形式で協議ができる制度が存在しているが、NATOは実際には、それ以
外にも機構外の国家とも接点をもち、それぞれに協力関係を築いている。このNATOと機構外
の国々との対話は 1990 年代から始まっていた。
例えば日本は 1990 年からスタートしており、
これは冷戦終結による体制の変容の時期と一致している 48。つまり、この動きはポスト冷戦期
にはそれまでの役割からの転換に迫られたNATOが自らの体制を強化し今後も存続していく
ため、外部とのつながりを持つことを求めた結果であるといえる。なぜなら、近年NATOが関
与する地域はアフガニスタンやダルフールを例にとっても加盟国の領域の外部へと広がりを
見せているため、これらの問題に対処するためには幅広い協力関係を築く必要が出てきたから
である。一方で、NATOには 21 世紀になり対処しなければならない新たな問題として対テロ
の問題があるが、テロのような危機に直面している国家からしても、情報の共有や国際テロ組
織の取り締まりなどの面においてNATOと協力することは、自国の安全性の向上につながるた
め協力関係の構築を求めるようになっている。以上のように現在ではNATO、国レベルからの
双方の要望により一国家とNATOとの連携がみられるようになってきた。NATOとの連携を築
いている例には日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドがあげられる。この節では、
日本とオーストラリアを取り上げたい。
①日本
2006 年 11 月リガで開かれた NATO 首脳会議で、NATO は非加盟国との関係を強化が NATO の
潜在的能力を高めることになるとして、連携を強化していく方針を確認した。
48谷口、前掲書、177-178 頁
47
74
国
際
政
治
日本は、アジアの中でもっとも長期にわたり継続してNATOとの関係を保っている国である。
冒頭で述べた 1990 年に始まったNATOと日本との戦略的な対話は現在も継続して行なわれて
おり、年に 2 回、日本もしくはNATO本部の置かれているブリュッセルで開かれている。現在
は、日本とNATO間は 2005 年のNATO事務局長の訪日や、2007 年安倍首相のNATO本部への
訪問などによって関係構築を進めている段階である。また、安倍首相が出席した北大西洋理事
会(NAC)での関係各国との会談では、全主要国が日本とNATOとの協力関係に賛成の意を示
すなど、緊密な連携が確認されている 49。
NATO はアフガニスタンでの活動において、現地の日本大使館の行なっている人道支援・復
興活動に注目しており、軍閥の武装解除をすすめる DDR(武装解除 disarmament・動員解除
demobilization・社会復帰 reintegration)プログラムのリード国となっている日本との連携を
模索している。また一方で日本は、北朝鮮問題やヨーロッパからの中国への武器輸出問題に関
して、これらの問題で日本の安全保障が脅かされている状況にあることや、問題解決のために
は国際社会が一丸となって対処していく必要があるという理解を NATO 加盟国から得たいと
いう考えが存在している。
具体的な支援に関しては、日本は安倍首相が 2007 年にNACで演説をして以来、アフガニス
タンに展開するNATO主導のISAFへの財政支援を行なっている。これらの財政支援は草の
根・人間の安全保障無償資金協力スキーム(GAGP) 50の範囲内で行なわれている。2008 年
10 月の時点で日本政府はGAFPの方針に従って 29 のプロジェクト支援を実践しており、その
総額は約 260 万ドルに及ぶ。
②オーストラリア
活動範囲の地理的拡大により、実際の作戦においてアジア太平洋諸国と協力する機会が増え
たNATOは、2004 年頃からPFPなどで行なわれている既存の協力モデルをアジア太平洋地域
との間にも導入し、NATOの作戦に対するアジア太平洋諸国の貢献を求めるような動きをして
いる 51。オーストラリアとしての具体的支援は、オーストラリア外務貿易省監修の主要文章で
ある「キー・メッセージ・ブリーフ」によれば、アフガニスタン情勢の安定と発展のためにNATO
を中心とした国際的な努力に長期的に関与する姿勢をみせている。また、2008 年 4 月のブガ
レストでのサミットでオーストラリアをはじめとする参加国はISAFがより効率的に軍事的・
非軍事的な関与を行なっていく点に合意を示した。そして、オーストラリアは軍事的な支援を
49北大西洋理事会(NAC)における安倍総理演説「日本と
NATO:更なる協力に向けて」(仮訳)、
平成 19 年 1 月 12 日、外務省
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0112.html>
50日本外務省ホームページ「草の根・人間の安全保障無償資金協力」
<http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shimin/oda_ngo/kaigai/human_ah/index.html>
NATO のパートナーシップ政策の発展―日本と NATO の協力拡大を見据えて―」
、
2007 年、19 頁
<http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200706_677/067705.pdf>
51福田毅
「冷戦後の
NATO の変容と新時代の安全保障
75
するのと同時に、安定のために非軍事的関与も重視し、再建に向けた人道的な援助も同時に行
なっている 52。
3-2
アフリカ
NATOは、AU(アフリカ連合)からの要請を受け、スーダンとソマリアでのAUの任務のサポ
ートを行なっている。これらの支援は 2005 年 7 月のスーダンにおけるダルフール紛争への平
和維持活動の任務(AMIS)から始まった。ダルフールでの人権状況の回復と横行する暴力を
阻止するという目的を持つAMISへの支援は、NATO初のアフリカ大陸で行なうミッションで
あった 53。NATOによるこのミッションは 90 年代の旧ユーゴでの経験を生かしたものであり、
つまり、ユーゴでの新しい役割をアフリカという非大西洋・欧州地域での活動に適用・拡大し
た事例であったといえる。そして、この時の北大西洋理事会(NAC)のダルフールへ紛争の支
援決定は、今後のNATOがアフリカへの支援の可能性を示すことになり、NATOはAMISに引
き続いてアフリカでの他の任務にも関与するようになった。具体的支援に関しては、ダルフー
ルでは輸送による支援や、AU軍隊の訓練への支援を行なった。また、その後の 2007 年には
AUの展開するソマリア平和維持部隊(AMISOM)の支援を開始した。その後も同年 9 月に、
NACがアフリカ待機軍(ASF)準備のための支援について合意をまとめるなど、アフリカに対
しても関与を強めている 54。
3-3
国連
国連と NATO との関係は、アフガニスタンでの平和維持活動(ISAF)の際に、NATO に対
して国連安保理が権限を与えたことや、AU による国連是認のダルフールでの平和維持活動
(AMIS)に対して NATO がさまざまな形で支援を行なっていることをみても密接な関係を築
いていることがわかる。
国連と NATO との具体的な協力関係は、1992 年国連安保理決議をうけてのアドリア海での
国連軍支援に始まる。このときには、NATO はユーゴ制裁にかかわる海上禁輸の監視・執行活
動を WEU と共同で従事し、空爆などの空からのサポートを行なった。その後は、1995 年の
デイトン合意の後、国連安保理決議 1031 号で国連から IFOR を委任され、NATO は初めて平
和維持活動を主導するようになった。その後、IFOR は SFOR へと発展するが、NATO は国連
難民高等弁務官事務所(UNHCR)や国連国際タスクフォース(IPTF)など国連の各機関とも
連携をとるようになり、さらに関係は緊密化している。前述のように、コソボ空爆では、安保
理決議なしの武力行使が行われたが、その一方で国連と NATO 首脳による接触は緊密に行な
われ、空爆後は安保理決議 1244 号のもと KFOR が結成された。さらに、2000 年から 2001
52NATO
ホームページ“NATO-Australia cooperation”
<http://www.nato.int/issues/nato_australia/index.html>
53NATO ホームページ“NATO's assistance to the African Union for Darfur”
<http://www.nato.int/issues/darfur/index.html>
54NATO ホームページ“NATO assistance to African Union missions”
<http://www.nato.int/issues/nato-au/index.html>
国
76
際
政
治
年にかけて起きた南セルビアで本格化した旧ユーゴスラビアのマケドニアでの内戦について
も国連と NATO とは引き続き協力関係を築いている。これらバルカン半島での行動のほかに
も、近年では 2003 年 8 月から国連委任を受けた NATO が ISAF の指揮権をもつようになり、
カブール周辺からアフガニスタン全土へと活動範囲を広げている。イラクでは、国連安保理決
議 1546 号とイラクの暫定政権からの要求により、イラク陸軍やイラク警察などのイラク保安
部隊(ISF)の支援とトレーニングにあたっている。2005 年から始まったアフリカ AU への支
援については、AU の要求と国連や EU との緊密な協調関係をうけ NATO はスーダン・ダルフ
ール地域における紛争の終結を目的にする AU 任務支援に合意し、空輸による支援や AU 軍の
機構面や技術面を整えるための支援を行なっている。
このようにNATOが幅広い活動おこなうようになるにつれ、NATOと国連との関係はさらに
密接になってきている。そのため現在両者間の協議は、例えば人身売買の問題、地雷やテロへ
の問題などさまざまな分野の問題において開かれている。そもそも国連と北大西洋条約の形式
上のつながりは 1949 年に条約が誕生してから長い間続いてきたものであったが、先にみたよ
うにこの関係は、1992 年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争あたりを契機にして変化している。
ボスニア紛争以後、それぞれの危機対応の役割が増加するにつれて 2 つの機関が実際に協力し
て行動する必要性も増加したのである。こうした状況により、現在ではNATOと国連でのスタ
ッフレベルの協議が頻繁に開かれ、さらに高次レベルの協議も毎年開催されている。スタッフ
レベルの協議については、国連薬物犯罪事務所(UNODC)のような他の国連機関ともひらか
れており、広範囲での協力が進められている 55。
以上のように NATO は国連との連携を図り協力関係を強化していくことによって、加盟国
領域を越え、アジアやアフリカなど全世界へ影響力を発揮する多面的な国際安全保障を担う存
在へと進化しているのである。
3-4
OSCE
軍隊や武器のコントロール、地雷撤去や弾薬除去など主に実際に防衛的役割を果たしている
NATOに対して、欧州の安全保障問題について話し合う地域的国際機関であるOSCEは、両者
間で 1991 年OSCEのイスタンブールサミットから「共同安全保障のためのプラットホーム」
を開始している
56。ここでは、民主主義の回復(強化)やヨーロッパの繁栄と安定性の回復の
ために、NATOとOSCEの専門家が定期的な協議を行なっている。
両者の協力関係は現在、バルカン半島において最もよく見られる。1995 年のデイトン合意
に基づき、NATO、OSCEはともにボスニア・ヘルツェゴビナでの作戦に加わるが、NATOは軍
隊のコントロールを行なうなど、OSCEが持つボスニアでの安全保障を築くという目的に対し
て実際に実力を持つNATOが具体的な行動(サポート)を行なうことで、OSCEの活動に実効性
55NATO
ホームページ“NATO’s relations with the United Nations”
<http://www.nato.int/issues/un/index.html>
56NATO ホームページ“NATO Topics: NATO-OSCE”
<http://nato.omt/issues/nato-osce/practice.html>
NATO の変容と新時代の安全保障
77
を持たせている。NATOは、ボスニアで選挙監視、ミロシェビッチ政権の履行確認、さらには
1994 年の安保理決議 1244 号に基づく民主化・組織構築・人権などの国連コソボ暫定行政ミッ
ション(UNMIK)などの面においてOSCEを支援している
57。このように、OSCEが民主主
義体制の構築と強化、基本的人権の保障と保護、武力行使の抑止における加盟各国の協力と相
互尊重が十分に実行されるためには、連携強化によってNATOの下支えを得ることが不可欠で
あるといえよう。
第 4 章でみてきたように、アフガニスタンへ派遣した ISAF、NATO-ロシア理事会(NRC)
にみられるようなロシアとのパートナーシップ関係、AU と協力し連携強化をすることで実現
した、NATO 初のアフリカ大陸への派兵であるダルフール紛争への支援(AMIS)とそれにつ
づくソマリア平和維持部隊(AMISON)支援など NATO の活動範囲はよりいっそう広がりを
見せている。この活動範囲の地域的拡大によってアジア・太平洋国と協働する機会が増えた
NATO は 2004 年頃から日本などをコンタクト国としてアジア・太平洋国との協力関係を強め
ている。2001 年以降、NATO が組織強化を実現し、さらなる活動領域拡大を実現できたのは、
ひとえに国連はじめとする他の国際組織や加盟国領域外の国家との連携を強化するなどの「グ
ローバルなパートナーシップ関係」構築の賜物といえる。
57NATO
ホームページ“NATO-OSCE”
<http://www.nato.int/issues/nato-osce/practice.html>
78
国
際
政
治
おわりに
これまで述べてきたように、現在 NATO は 1949 年の設立当初とは大きく性格を異にする組
織へと変容を遂げた。
かつて NATO は、第二次世界大戦終了後に勢力圏を拡大し続けるソ連とその周辺(東欧)
を仮想敵として西欧諸国とアメリカが結束して設立したものであった。つまり、ソ連・東欧を
共通の敵と設定するリアリズム的な軍事同盟としての性格を強く帯びた組織であったといえ
る。しかし冷戦の終結とともにその存在理由を失ってしまった NATO は、それまでのヨーロ
ッパ安全保障のための軍事同盟という性格を変化させていく。つまり、旧ユーゴ紛争への IFOR
指揮をはじめとする加盟国領域外での活動をきっかけに、国連と連携を図りその任務のために
兵力を提供し世界の安定と平和へ貢献するという、国際安全保障の担い手へと機能を変容して
いったのである。
このように冷戦期の産物として誕生した NATO は冷戦終結を経て現在では、単に欧米の安
全保障をになうだけの存在ではなくなった。NATO 設立時の根本の目的であったヨーロッパの
安全保障においても OSCE、PFP、EAPC や WEU などの他の組織との連携を図るようになり、
いまや NATO はヨーロッパの複雑な安全保障構造の基礎を下支えする存在になっている。さ
らに、他の地域をみても、ダルフール、ソマリアなどアフリカ AU への協力と支援、中露の覇
権拡大を阻止すべく日本や韓国などアジアの国とも接触をはかるなど、NATO の影響力はヨー
ロッパに限定されるものではなく世界中さまざまな地域での安全保障に影響を及ぼしている。
また、国連と NATO との関係も緊密化し、現在では両者間においてテロ、地雷、人権など幅
広い問題を扱う協議がさまざまなレベルで開かれている事実も存在する。これらふまえるとか
つて欧州の安全保障を担う組織として誕生した NATO は、加盟国領域を超えた国家や地域と
協力関係を強化していくことで、現在では全世界へ影響力を発揮し、多面的な国際安全保障を
担う存在へと進化していると、結論づけられるのではないだろうか。
ヨーロッパをはじめとする各地域の安全保障を下支えする役割を果たす NATO は、冷戦終
結を経て消滅するどころか欠くことのできない存在まで成長し、さらに現在でも成長を続けて
いる。今後、NATO はどこまで進化するのだろうか。ひきつづき注目していきたい。
NATO の変容と新時代の安全保障
79
<参考文献>
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船橋洋一『同盟の比較研究
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<http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/enzetsu/19/eabe_0112.html>
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<http://www.nato.int/docu/review/1994/9401-1.htm>
ISAF Fact Sheet,“The Structure of ISAF”
<http://www.nato.int/isaf/docu/epub/pdf/isaf_leaflet.pdf>
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<http://www.nato.int/issues/nrc/index.html>
“NATO-Australia cooperation”
<http://www.nato.int/issues/nato_australia/index.html>
“NATO's assistance to the African Union for Darfur”
<http://www.nato.int/issues/darfur/index.html>
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80
国
際
政
治
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“NATO’s relations with the United Nations”
<http://www.nato.int/issues/un/index.html>
“NATO Topics: NATO-OSCE”
<http://nato.omt/issues/nato-osce/practice.html>
“NATO-OSCE”
<http://www.nato.int/issues/nato-osce/practice.html>
ISAF ホームページ
ISAF Mandate “What does it mean in practice?”
<http://www.nato.int/isaf/topics/mandate/index.html>
「NATO サイバーテロ防衛センター設立へ」AFP 通信(2008 年 4 月 4 日)
<http://www.afpbb.com/article/politics/2373984/2801624>
福田毅「冷戦後の NATO のパートナーシップ政策の発展―日本と NATO の協力拡大を見据え
て―」、2007 年
<http://www.ndl.go.jp/jp/data/publication/refer/200706_677/067705.pdf>
.
81
NATO の変容と新時代の安全保障
あ
と
が
き
私の大学 4 年間はほんとうにあっという間に過ぎてしまいました。正直、卒業す
るという実感がわかずまた 4 月から教室に足を運んでしまいそうなくらいです。で
もそうわけにもいかないので、たくさんの思い出を胸に社会に飛び立とうとおもい
ます。
さて大学生活を振り返ってみると、まず勉強面では卒論の思い出が大きいです。
英語が得意ではない私が大量の英文に囲まれて、囲まれて、本当に溺れかけている
とき、執筆がまったく進まずその辛さにへこたれそうになったとき、そのほかにも
苦労した思い出はたくさんあるのですが、そのたびに国際政治ゼミの仲間とお互い
励ましあって、笑いあって、そしてたくさんの元気をもらうことで、無事これらの
難所を乗り切ることができました。これがなかったらこの卒論は完成していなかっ
たでしょう。きっと。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
勉強面以外では、部活動で日本全国自転車でのツーリングをしたこともとても印
象に残っています。ツーリングをしている途中トラブルに遭遇したとき、峠が辛く
て逃げたくなったとき、そんなときにも乗り切る力になったのは、一緒にもがいて
くれる友人の存在、そして周りの人のやさしさでした。
こうして大学 4 年間を振り返ってみると私がこんなふうに毎日を楽しく笑顔で
過ごせたのはやっぱり、周りの人の支えに恵まれたおかげです。これを読んでいる
後輩の皆さんも、これから就活、卒論執筆、その他にも悩むときがあるかもしれま
せんが、無理にひとりで乗り切ろうとしないで周りの友人と話したり、笑いあった
りしながら適宜リフレッシュしつつみんなで乗り切ってください。そうしたら、大
学生活がきっと楽しい思い出いっぱいになること間違いなしでしょう。
最後になりましたが、最後の最後まで熱心に執筆指導してくだいました草野先生
に心から感謝申し上げます。国際政治の知識がほとんどなかった私に適切な方向を
示し、時にはジョークを交えながらアドバイスをしていただいたおかげでなんとか
書き上げることができました。本当にありがとうございました。
塚野 由希子
82
.
国
際
政
治
日本の国際養子縁組の
実態と今後の展望
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
04LL198
堀田礼奈
(論文指導 草 野 大 希)
.
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
85
【要 旨】
国際養子縁組とは、ある国で生まれた赤ちゃんが、産みの親の都合で養育を受けられない時
に海外の養夫婦に引き取られる場合の養子縁組のことを言う。こう聞くと国際養子縁組は良い
制度のように思えるが、そこには、子どものみならず産みの親の人権が十分に守られない危険
性が常に伴う。彼ら彼女らの人権を十分に保護するためにも、ある程度複雑な手続きを踏むこ
とが求められる。しかし、日本の法律では、細かな国際養子縁組に関する法律がない。その結
果、日本の赤ちゃんが十分な保護やケアもなく海外へと高額で売られるような現実がまかり通
っているのではないか。これが本論文の問題意識である。
日本国内の赤ちゃんが海外へ渡っている数は近年増加している。その原因には望まない妊娠
の増加があげられている。不倫の子や、未成年の妊娠など、理由は様々だが世間的に好ましく
ないと考えられる妊娠をした母親は、その事実を隠そうと海外養子に出すことを選ぶことが増
えている。この裏側では、海外へと養子を斡旋する事業者が母親を説得し、海外に住む日本人
の赤ちゃんを養子にしたいと願い出る夫婦に高額の資金を請求するということがしばし行わ
れているのである。この斡旋を行う事業者は都道府県への届出が必要で、毎年の報告もしなく
てはならない。ところが、届出もせずに海外への斡旋を行っている事業者が調べでは少なくと
も 12 事業者存在することが分かっている。
国際養子縁組に伴う問題は、日本に限ったものではない。そこで、国際養子縁組による人権
侵害が起こらないよう、いち早く法改正に取り組んでいる国も多数存在する。例えば、フィリ
ピンやドイツなどは海外へ斡旋を行う機関を設け、斡旋に伴う費用や、サービス、手続きなど
のガイドラインを国で定めているのである。国の機関以外で斡旋を行ったものには罰則を設け
るなどの整備もしており、国際養子縁組によって起こり得る問題の対処に手がけているのであ
る。しかし、日本では法律を含め十分な制度づくりが進んでいない。
ではなぜ日本は今の状況を改善できないのか。この国際養子縁組の問題は未だ多くの人には
知られておらず、その関心度の低さからも法改正への道は遠く長いものとなっている。日本政
府が海外へ渡っている子どもの人数も正確に把握していないこの現状は、できるかぎり早く改
善されなくてはならない。国民の人権を守るために、政府のさらなる努力が求められる。
86
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目
政
治
次
Ⅰ.はじめに.................................................................................................... 87
Ⅱ.日本の国際養子縁組.................................................................................. 89
1.養子縁組と国際養子縁組..................................................................................... 89
1)日本の養子縁組制度....................................................................................................... 89
2)なぜ国際養子縁組なのか ............................................................................................... 89
3)日本人の子どもが人気の理由 ........................................................................................ 90
4)養子斡旋制度と管理(斡旋事業者届出義務)............................................................... 91
5)子どもの権利条約とハーグ国際私法会議条約にみる国際養子縁組の規制 ................... 94
2.養子斡旋事業者に関する実態.............................................................................. 98
Ⅲ.海外の養子縁組制度1―フィリピン―..................................................... 101
1.フィリピン共和国の養子縁組と国際養子縁組 .................................................. 101
1)フィリピンの国内養子縁組制度 .................................................................................. 101
2)フィリピンの国際養子縁組制度 .................................................................................. 103
2.日本・フィリピン共和国の制度比較................................................................. 104
Ⅳ.海外の養子縁組制度2―ドイツ― ............................................................ 105
1.ドイツの養子縁組制度 ...................................................................................... 105
1)ドイツの国内養子縁組制度.......................................................................................... 105
2)ドイツの国際養子縁組制度‐養子縁組斡旋法‐ ......................................................... 106
2.日本・ドイツの制度比較................................................................................... 107
Ⅴ.まとめ ..................................................................................................... 109
参考文献・資料 .............................................................................................. 110
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
87
Ⅰ.はじめに
社会がグローバル化しているといわれる中で、ヒトやモノ、カネが国家の枠を越えて国際的
に移動している。このグローバリゼーションに伴う多元的な問題の中に、国際養子の問題が存
在し、国際養子縁組に関わる日本の制度のあいまいさが国際的に問題視されている。
そもそも養子縁組は、家を継ぐ者がその家族にいない場合に、御家制度の維持のために行わ
れていたものだった。しかし、中世ヨーロッパにおいて実際の血縁関係が重視されるようにな
っていったことから、後継者を得るための機能の必要性がなくなり、親のための養子縁組、つ
まり子を養いたいという欲求や将来老後の扶養を得るための機能を果たすようになった。19
世紀中ごろに入り、アメリカで恵まれない子どもに家庭を与えるための養子縁組制度、つまり
子のための養子縁組制度が導入され、ヨーロッパもそれにならうようになった。日本の養子縁
組制度においても、日本国憲法が定められ現在の家族法ができる前までは後継者を得るための
養子縁組が主流であったが、日本国憲法では、ヨーロッパやアメリカにならった家族法が子の
ための福祉という観点で制定された。しかし、本格的な養子縁組制度の導入は 1988 年の特別
養子制度ができてからとなっている。
この養子縁組が国際的に国家の枠を超えて行われるのが国際養子縁組であり、現在では、発
展途上国の子どもが様々な理由から先進国に養子となるために送られるという形態の国際養
子縁組が増えているのである。この国際養子の中には、養子縁組の名の下での子どもの売買や
取引など、子どもや実親の人権を無視するような事態が発生していることが問題となっている
1。発展途上国の子どもが先進国へ養子となるために送られるケースは、世界的ハリウッド女
優のアンジェリーナ・ジョリーや歌手のマドンナが途上国から子どもを国際養子として受け入
れたことでも有名である。アンジェリーナ・ジョリーはUNHCRの親善大使となりその活動を
通して難民問題に触れ、その慈善活動の一環としてカンボジアやエチオピア、ナミビアから国
際養子として子どもたちを迎え入れ、自身の実子と一緒に生活をしていることでメディアにも
取り上げられている。このケースは、国が経済や政治上等の問題でその国内での生活自体が脅
かされている子どもたちに安定した家庭を提供する目的で行われるもので、これは社会的にも
善意の養子縁組として見られている。
日本の場合、国際社会の中でも先進国に位置する国であり、人権擁護の問題にも率先して携
わっていかなければならない立場にあるが、なぜ海外へと毎年子どもを送り、子どもの人権が
無視されるような状況が起こっているのか。
本論文は、日本国内の養子縁組の現状、養子縁組にまつわる法律を文献等から調査・研究し、
日本の国際養子縁組制度の実態を明らかにするとともに、海外の養子縁組の現状、制度との比
較を行う。これらの分析を踏まえて、制度の比較から今後の日本がとるべき改善策はなにかを
考えたい。
各章の構成としては、第Ⅱ章において、日本の養子縁組と国際養子縁組について解説、また
子ども養子縁組斡旋の事実を明らかにする。第Ⅲ章では制度の比較対象として、フィリピン、
鳥居淳子「国際養子縁組に関する子の保護及び協力に関する条約について」(国際法外交雑誌 93
巻 6 号,1995 年),6 頁。
1
88
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第Ⅳ章ではさらにドイツを挙げ、それぞれの養子縁組制度を解説、さらに日本との制度比較を
行う。第Ⅴ章では、以上の分析を踏まえて、論文全体のまとめを行うとともに、日本の今後の
展望を検討する。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
89
Ⅱ.日本の国際養子縁組
1.養子縁組と国際養子縁組
1)日本の養子縁組制度
養子縁組に関する法的制度は、日本においては 1988 年の特別養子制度の施行に併せて行わ
れることとなった。日本国憲法が施行される以前はいわゆる御家制度の維持のための養子縁組
から始まり、世界の流れが子のための養子縁組へとシフトしていく中で日本国憲法にて新たな
家族法が制定された。この家族法の中での法的規制は、
「普通養子縁組」
(民法第 792 条から第
817 条)というものであり、普通養子縁組とは、養子が実親との親子関係を存続させたまま養
親との親子関係をつくるという、いわば二重の親子関係となる縁組をいう。戸籍上も養親との
関係は「養子」と表記される。
1988 年に創設された特別養子縁組は、養子の実親との親子関係を消滅させ、養親との関係
を実親子関係に準ずるものとして裁判所が認めるものであり、戸籍上も「長男」又は「長女」
と表記される。この特別養子縁組の手続きは、実親との法的親子関係が断絶されることからし
ても、養親の適格性や養親子間の適合性が極めて重要な問題である。
基本的に養子の斡旋は公的機関である児童相談所が取り扱うこととなっており、民間機関が
「営利を目的として、児童の養育をあっせんする行為」
(34 条 1 項 8 号)は児童福祉法にて禁
止されている。里親制度とは、実親と事情により生活ができなくなった子どもの養育を都道府
県が里親に委託する制度であり、児童相談所が里親と子どもの仲介となって里親希望者に子ど
もを斡旋するものである。これも、児童福祉法において規定(6 条 3 項)されている。
普通養子縁組においては、斡旋について、児童相談所による斡旋は別として、民間機関又は
個人が行うことには特別な規制がなかった。後の特別養子縁組において、その養親子関係を重
視するその性質から、斡旋については慎重になるべきだと検討され、やはりこの場合も里親制
度の延長として現行の制度の枠内で斡旋を行うべきだという考えを厚生省児童家庭局が示し
た。そうして、養子縁組斡旋の問題は厚生省の所管であるとして、厚生省は子のために活動す
る非営利の民間の斡旋機関については届出制によって対応していくこととなったようである 2。
2)なぜ国際養子縁組なのか
読売新聞社の記者、高倉正樹は、入社数年後から日本の赤ちゃんが海外にたくさん渡ってい
ることを知り、独自の取材と調査でこの国際養子縁組に関する情報を集め始めた。そうしてそ
の取材を通して知り得たことを社会にうったえるべく、読売新聞記事の連載コラムとしてこの
2中川良延「日本の養子縁組斡旋制度の概要」湯沢雍彦(編)
『要保護児童養子斡旋の国際比較』
(日
本加除出版,2007 年),26 頁。
90
国
際
政
治
国際養子縁組の実態を掲載し、2006 年に約 5 年間の取材の結果を一冊の本にして出版した 3。
彼は、独自の調査で国内の産婦人科や斡旋を行っている団体に取材を行い、日本の赤ちゃんが
海外へと渡る実態について、「望まない妊娠によって生まれた赤ちゃんの行き先は、産婦人科
や斡旋事業者を経て、子どものいない海外の夫婦へとつながっていた。」 4と記している。
近年、
「若者たちの「望まない妊娠」が増えている」 5と高倉は指摘する。経済的にも社会的
にも子どもを養うことが難しいとされる未成年の「望まない妊娠」が増えているというのであ
る。計画外の夫婦の妊娠、未成年同士の妊娠や、性的暴行による妊娠等、望まない妊娠の理由
は様々だが、その数は年々深刻化している。そこで、妊娠して早いうちに中絶をするケースの
他に、妊娠を周囲に相談することができず、妊娠中絶することが可能な期間を超えてしまった
場合に裏の中絶手術の方法をとるケースがあるという。このように暗い現実が見え隠れする中、
中絶をしなかった場合に望まない妊娠の末に生まれてきた子どもはどうなるのか。もちろん生
みの親がそのまま引き取って育てることを選んだり、児童相談所を通して乳児院に育てられた
りする赤ちゃんもいる。しかし、中には養子縁組を選択するケースもあるという。
では、なぜ養子縁組の場合、国内への養子縁組にとどまらず、海外へと日本の赤ちゃんが渡
っていくのか。それは、利用する事業者によって決まってしまうという。海外への養子縁組を
大部分としている事業者では、一応のところ、母親の希望は聞くものの、「日本は養子を差別
して冷たく扱うし、母にも冷たい。それに国内だと会う可能性が高くてトラブルが起こりやす
い」などと説明する。一方、国内の養子縁組を主に扱うところでは「同じ人種の中で育った方
が無難だし、それに昔ほどの貧しさはなくなったのだから」と説明する。大抵の場合、ほとん
どの当事者は考えがないために、その指示に従ってしまう。まれに反対の意見を持つ母親は、
別の機関へ行くことを勧められる 6。また、5歳以上の年長者や、障害児は、日本人はあまり
受け入れたがらないが、アメリカ人は受け入れてくれるので、海外養子になりやすいという点
もある。子どもの権利条約等で、国際養子縁組は、国内での養子縁組が難しい場合の二次的な
ものだと訴えているが、この考えはあまり浸透していないのが現状である。
3)日本人の子どもが人気の理由
「日本人の養子は健康で、人気が高い」というのが、海外では常識と言われる 7。これは、
先に述べたように、望まない妊娠の末に生まれる子どもの増加で、子どもを育てられない親が
赤ちゃんを養子に出すこと自体が増えたことと、先進国である日本の乳児死亡率は現在ではと
ても低く、発展途上国で生まれる子どもよりも健康な赤ちゃんが養子に出される可能性が高い
ことが理由として考えられる。高倉の取材に応えたあるアメリカ人夫婦は、「アメリカ国内で
も探せば養子はいる。でも、すぐ斡旋してもらえる子どもに限って、母親が麻薬中毒だったり、
3
高倉正樹『赤ちゃんの値段』(講談社,2006 年),64 頁。
同上。
5 同書,16 頁。
6 湯沢雍彦「養保護児童支援のための国際国内養子縁組斡旋事業の調査研究」
(児童関連サービス調
査研究等事業報告書,財団法人 こども未来財団,2006 年),11 頁。
7 高倉
前掲書,64 頁。
4
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
91
何か障害を持っていたりする。8」と話している。この他に日本人の養子が人気の理由として、
必要な手続きが他の国からの養子より比較的簡単で、実際に養子を引き取るまでの時間が数段
に早いことが海外では知られているようである。先に出てきたアメリカ人夫婦は、日本から養
子をもらう理由として「日本人の赤ちゃんは、もちろん健康なのもあるけれど、とにかく引き
取るまでが早い。それに、海外からの養子だったら、生みの親から『子どもを返せ』と言われ
る心配がないからね 9。」と説明した。これは、日本国内の法整備が不十分で、国内で行われる
手続きがはっきりと法で規定されていないために、斡旋事業者が赤ちゃんを出国させるための
書類やパスポートの作成をすれば、出生届の提出すらも免れて国外へと送り出せるという法の
抜け穴を利用した斡旋業者が多く存在することが理由だといえるだろう。また、国内への養子
だけでとどまらない理由としては、婚外子が軽視される日本の文化的側面も考えられる。国内
では養親となる夫婦が圧倒的に少なく、児童相談所を通して乳児院で育てられる赤ちゃんは養
親がなかなか見つからず、18 歳になるまでずっと施設で過ごすことがほとんどである。生ま
れてきた赤ちゃんを国内養子にするか、海外養子にするかは生みの親が選択する場合がある。
しかし、国内へ赤ちゃんを養子に出すためには制度が厳しく整備され、海外への養子より多く
の書類や手続きがあるため時間がかかるという。そこで、世間体や戸籍に望まない妊娠の痕跡
が残ることを気にして国際養子を選ぶ親が多いのだろうとある診療所の医師が高倉の取材の
中で言っている 10。
4)養子斡旋制度と管理(斡旋事業者届出義務)
様々な理由から生みの親が子どもを養子に出し、不妊などで子どもができない夫婦などから
の要望から子どもが養子として迎えられる事実が存在することが明らかとなった。この養子縁
組をするにあたって、様々な書類手続きや、養親探し等の業務を行っている団体のことを養子
斡旋事業者という。では、養子斡旋とは何か。これについての定義が始めて公式な形で示され
たのは、ごく最近のことである。「養子縁組あっせん事業の指導について」と題する 1987 年
10 月の厚生省通知の冒頭に、以下のような記述がある。
「十八歳未満の自己の子を他の者の養子とすることを希望する者及び養子の養育を
希望する者の相談に応じ、その両者の間にあって、連絡、紹介等の養子縁組の成立の
ために必要な媒介的活動を反復継続して行う行為は、社会福祉事業法(現在の社会福
祉法)に規定する「児童の福祉の増進について相談に応ずる事業」に該当するもので
ある。」
この通知で、斡旋事業者は社会福祉法に基づき、事業開始から1ヶ月以内に都道府県や政令指
定都市に活動を届け出なければならないと定めている。またその事業の収支計画、勤務形態な
どを報告することや、事業報告書と収支決算書を毎年提出することも求められている。
8
高倉 前掲書,32 頁。
同書,36 頁。
10 同書,41 頁。
9
92
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この通知は、「特別養子縁組」の養子縁組制度の導入に合わせて、都道府県や政令指定都市
に向けて出されたものである。養子斡旋を定義し、実態の見えない斡旋事業者をきちんと指導
するよう促すことがこの通知の狙いである。通知以前は、養子縁組の斡旋も普通養子縁組の斡
旋であり、児童相談所による斡旋は別として、民間機関または個人が行う斡旋については特別
な規制がなかった。もっとも、児童福祉法は、「営利を目的として、児童の養育をあっせんす
る行為」を禁止するという一般的な規定(34 条1項8号)を設けていて、営利を目的とした
養子縁組の斡旋は当然これに違反することとなり、斡旋者は1年以下の懲役または 30 万円以
下の罰金(現在は3年以下の懲役または 100 万円以下の罰金)に処せられるものとされていた
11。
しかし、通知にかかる「養子縁組あっせん事業を行うものに対するし同情の留意事項」とし
て5点挙げられているが、その中で斡旋費用の徴収に関しての示しがある。それが、児童福祉
法において一般的に営利を目的とした児童の養育のあっせん行為は禁止されているが、交通、
通信等に要する実費又はそれ以下の額を徴収することは差し支えないということである。つま
り、交通費や通信費程度の額なら斡旋費用として受け取っても良いが、それ以上は認められな
いということになるが、この規定は非常に曖昧であるといえる。
養子の斡旋については、国内への斡旋と、海外への斡旋の2つが考えられるが、後述のよう
に、1980 年代以降、子どもの人権擁護の観点から、養子縁組は国内での縁組が困難な場合に
海外への斡旋を認めるという見方に変わっていった。しかし、依然として現在も海外への斡旋
を行っている事業者も存在し、子どもを海外へ斡旋する事業者には、国内の家庭の受け入れが
困難な場合に海外へ斡旋する者と、生みの親の意向を尊重して海外へ斡旋する事業者に分けら
れる。海外へ斡旋する理由としては、先述のように、実親が妊娠を他に知られたくないために、
遠くの海外へ養子に出すことのほか、海外の養親希望者は受け入れに対して寛容であり、知識
や後のアフターケアについてもしっかりしていることが挙げられる 12。
現在、都道府県に届け出ている国際養子斡旋事業者は8事業者存在することが、湯沢雍彦教
授の論文や高倉正樹記者の新聞記事で調査されているが、その8事業者の形態は様々で、産婦
人科、カトリック系児童福祉施設、ボランティア型の任意団体、ソーシャルワーク団体などに
分けられる。しかし、事実としては、都道府県に届け出ずに斡旋行為を行っている事業団体も
存在する。これも、湯沢や高倉の調査によって明らかとなっているが、湯沢は事業届けを出さ
ない所が存在する理由として4つを挙げている。
① 斡旋件数がすくないこと、したがって、業として斡旋しているのではないという理由
② 斡旋は二次的手段であり目的ではないという理由:主たる目的は中絶の予防あるいは医
療で、養子縁組は二次的な手段と考えられている
③ 直接子どもを養親候補者に託置していない(部分的協力)という理由
11
中川良延「日本の養子縁組斡旋制度の概要」湯沢雍彦(編)『要保護児童養子斡旋の国際比較』
(日本加除出版,2007 年)
,25 頁。
12 菊池緑「民間の養子縁組斡旋業者に関する調査研究と考察」湯沢雍彦(編)
『要保護児童養子斡
旋の国際比較』(日本加除出版,2007 年),60 頁。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
93
④ 施設に措置された子どもを養護措置として養子縁組希望者に委託しているという理由 13
事業届を出さない事業者の多くは、斡旋件数が少なく、事業として斡旋しているのではない
という意識が強いようである 14。
では、実際何人の子どもが海外へと渡っているのか。湯沢の調査では、2003 年度の厚労省
児童家庭局家庭福祉課の調査を参考に、事業届けのある団体による海外への斡旋は、全部で 30
件であるとしている。2005 年の国会答弁において、厚生労働省が海外養子斡旋の状況につい
て、問われたところによると、厚生労働省は把握している 2001 年度から 2003 年度の数につ
いて、2001 年 24 件、2002 年 23 件、2003 年 29 件と述べた。高倉の調査では 2000 年度から
2003 年度までの4年間で計 106 人の養子が海外の養親へと斡旋されている。大体、30 件の推
移で毎年海外へと子どもが養子として渡っているとみられるが、無届けで斡旋を行っている事
業者からは、何人の子どもが海外へと養子として出て行ったのかを把握することは非常に難し
い。読売新聞の調査では、少なくとも 12 事業者が、社会福祉法で義務づけられた届出をしな
いまま、斡旋活動をしていることが判明している 15。このうち、7事業者については海外への
斡旋も行っており、これまでに海外に送り出された赤ちゃんは、判明している分だけで計 70
人以上にのぼる。読売新聞の取材に対して、「過去の記録がないため、斡旋した人数はわから
ない」「斡旋に携わっていることは認めるが、取材には応じられない」と、取材を拒む事業者
もあり、無届活動の全容ははっきりしない 16。
日本では、海外への養子斡旋は、主にアメリカへの斡旋と考えられる。現にアメリカ移民局
の統計によれば、日本からアメリカへ養子として渡った子どもは、毎年数十人いる。以下にア
メリカ政府国際養子縁組の統計資料から、日本からアメリカへ養子として渡った子どもの人数
を示してある(図表1)。毎年役 30-40 人の人数で推移しており、これは、先進国としては異
常に多い人数である 17。
人数の多さもさることながら、明らかとなったのは、日本国内で判明している海外へ渡った
子どもの数が、アメリカ一国で把握している日本からの養子受け入れの数より少ないというこ
とである。つまり、日本政府は、国外へ養子として渡っていった子どもの数を明確に把握して
いないのである。
斡旋を行う事業者の管理や、海外へ養子として送り出されている子どもの数の管理について
曖昧な部分が露呈している。
13
14
15
16
17
菊池 前掲論文,34 頁。
同上。
高倉 前掲書,111 頁。
高倉 前掲書,112 頁。
奥田安弘『国籍法と国際親子法』(有斐閣,2004 年),19 頁。
国
94
際
政
治
The Total Adoptions from JAPAN from 1998 to 2008 is: 393
Fiscal Year
Total Adoptions
1998
31
1999
35
2000
33
2001
38
2002
40
2003
35
2004
43
2005
28
2006
42
2007
33
2008
35
図表1
(http://www.adoption.state.gov/news/StarCountryData.php?country=Japan より引用)
5)子どもの権利条約とハーグ国際私法会議条約にみる国際養子縁組の規制
次に、国際養子縁組に関する国際条約と日本との関係を見てみよう。主に子どもの権利条
約・ハーグ国際私法会議条約の2条約が、国際養子縁組に関する内容を含む、国際的な人権擁
護の条約である。
ア)子どもの権利条約
「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」は、1989 年 11 月に第四十四回国際連合総
会本会議で採択され、日本は 1994 年 5 月 22 日に批准した。これは子どもの基本的人権を国
際的に保障するために定められた条約である。
また第21条にて養子縁組について規定し、国際養子縁組のあり方などが定められている。
第 21 条(全文)
「養子縁組の制度を認め又は許容している締約国は、児童の最善の利益について最大の考慮
が払われることを確保するものとし、また、児童の養子縁組が権限のある当局によってのみ認
められることを確保する。この場合において、当該権限のある当局は、適用のある法律及び手
続に従い、かつ、信頼し得るすべての関連情報に基づき、養子縁組が父母、親族及び法定保護
者に関する児童の状況にかんがみ許容されること並びに必要な場合には、関係者が所要のカウ
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
95
ンセリングに基づき養子縁組について事情を知らされた上での同意を与えていることを認定
する。
児童がその出身国内において里親若しくは養家に託され又は適切な方法で監護を受けるこ
とができない場合には、これに代わる児童の監護の手段として国際的な養子縁組を考慮するこ
とができることを認める。
国際的な養子縁組が行われる児童が国内における養子縁組の場合における保護及び基準と
同等のものを享受することを確保する。
国際的な養子縁組において当該養子縁組が関係者に不当な金銭上の利得をもたらすことが
ないことを確保するためのすべての適当な措置をとる。
適当な場合には、二国間又は多数国間の取極又は協定を締結することによりこの条約の目的
を促進し、及びこの枠組みの範囲内で他国における児童の養子縁組が権限のある当局又は機関
によって行われることを確保するよう努める。
」 18
この規定は、子の利益が最も尊重されることを明確にしている。また、養子縁組を認める国
は、児童の福祉について最良の考慮が行われる事を確認しており、権限のある機関によって認
められるとし、関係者の情報を得た上での同意を求めている。それぞれの出身国において里親
制度、適切な監護ができない場合に、代わりの手段として国際養子縁組を考慮することができ
るとしている。また、斡旋事業者等の関係者に不当な金銭の利益をもたらすことがないよう適
切な処置をとり、二国間又は多国間の協定により行われることを確保することを定めている。
これらの規定は、子どもの人身売買や児童ポルノ等被害を防止し、権限のある機関によって、
国際養子縁組を認めることとして子どもの福祉を守るためのものである。これらの養子縁組に
関する基本的な原則はその後のハーグ国際私法会議条約にも適用されている。
もっとも、日本はこの「児童の権利に関する条約」について批准しているものの、後のハー
グ国際私法会議条約については批准していない。国際養子縁組について詳細に規定しているハ
ーグ国際私法会議条約について、以下に概要を説明する。
イ)ハーグ国際私法会議条約 19
ハーグ条約とは、国際私法のスタンダードを作ることを目指した国家間の条約で、1893 年
に第一回ハーグ国際私法会議の会合がハーグで行われ、それ以来 100 年が経過してハーグ国際
私法会議条約として 1993 年に採択された。日本は 1904 年の第四回会議から参加し、加盟国
となった。1993 年の条約採択時点での加盟国は 40 カ国である。この条約は各国の国際私法の
統一を目的としたものであり、締約国において条約で定めた規定の適用を義務付けるものであ
るから、立法的性質を有する条約に属する 20。締約国で条約の規定を適用するために国内立法
児童の権利に関する条約第 21 条。
鳥居 前掲論文,参考。
20 高桑昭
「ハーグ国際私法会議条約と国際私法の統一」
(国際外交雑誌第 92 巻第 4・5 合併号,1993),
19 頁。
18
19
国
96
際
政
治
を必要とするか否かは、それぞれ締約国の国内法制の問題である 21。
ハーグ条約は、戦後採択されたものだけでも 35 を超えるが、日本が批准したのはその内の
6 つに過ぎない(国際司法共助について、1954 年民事訴訟条約、1961 年認証不要条約、1965
年送達条約。準拠法について、1961 年遺言の方式の準拠法条約[国内法化]、1956 年子に対
する扶養義務の準拠法条約、1973 年扶養義務の準拠法条約[国内法化]) 22。第 33 条の「国
際養子縁組に関する子の保護及び国際協力に関する条約」については、日本は未だ批准してい
ない。
この「国際養子縁組に関する子の保護及び国際協力に関する条約」は、国際的な養子縁組が
子どもの最善の利益と人権を尊重し、また人身売買などの犯罪から子どもを守ることを目的と
している。条約の前文で、子どもの幸福は、愛情と理解ある家庭環境の下で成長することにあ
ること、そして、このような幸福は、一般的には、子どもが子ども自身の家庭により、それが
不可能な場合にも、まず子自身の国において里親や養親により、育てられることで得られると
いうこと、したがって、各国はまず子どもが出身家庭及び出身国の保護の下に留まることがで
きるように適切な手段をとるべきであって、国際養子縁組は、出身国で適当な家庭が見つから
ない子のために家族を提供する二次的なものであるということを前提としている 23。これを前
提とした上で、条約第一条ではその目的を次のようにしている。
a)
国際養子縁組が子の最善の利益に基づき、国際法により認められた子の基本的権利を
尊重して行われるための保障措置を定めること。
b)
条約の定める保障措置の遵守を確保することにより、子の奪取、売買、及び取引の防
止のための国際協力の制度を定めること。
c)
条約に従った養子縁組の締約国間での承認の保証をすること。 24
条約の第二章において、国際養子縁組のための実質的要件が明記されている。その概要とし
ては、この条約が適用されるのは、養子とされるべき子が 18 歳未満で、その出身国で「縁組
可能」(”adoptable”)と認定されたこと、出身国において縁組する可能性を考慮した後に国際
養子縁組が子の最善の利益に合致すると決定がだされたこと等が要件として求められている。
このような子の出身国における規定と、受入国における、養親となる者の規定が第二章で明記
されている。
第三章においては、条約の対象とする国際養子縁組に携わる機関・団体である中央当局、公
的当局及び認可された団体について規定している。つまり、各締約国が指定する国内の中央当
局が、条約の対象とする国際養子縁組の達成のために、国際的には相互に協力し、国内的には
権限ある当局間の協力を進める機能を担うことをいっている。また、養子縁組に関する不当な
財政的利得又はその他の利得の獲得の防止、条約の目的に反する全ての不当な慣行を防止する
ための措置を中央当局が直接または公的当局を通してなすべきであるとここで定められてい
21
同上。
西谷祐子「ハーグ国際司法会議のこれから」
(東北法学会会報 23 号,2005)1 頁。
23 “CONVENTION ON PROTECTION OF CHILDREN AND CO-OPERATION IN RESPECT
OF INTERCOUNTRY ADOPTION”ハーグ国際私法会議ウェブサイトより。
24 同上。
22
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
97
る。第四章で、国際養子縁組の手続き的要件について定めている。条約の対象とする国際養子
縁組が中央当局などの規制のもとに行われることを定めており、その手続き要件を出身国側と
受け入れ国側との双方について規定している。
第五章以降、認可された団体以外の団体または個人による養子縁組、養子縁組の承認および
効果、一般条項について規定している。 25
これら子どもの権利条約、ハーグ国際私法会議条約の二条約において双方とも、子どもの最
善の利益を最も重視することを核に様々な規定を示しているが、日本の状況はどうであろうか。
子どもの権利条約にて、養子縁組は、権限ある機関によってのみ認可されるとされているが、
日本では非常に不十分な状況にある。1987 年に、厚生省児童家庭局長から「養子の斡旋事業
についての指導」という文書が出された 26。それによれば、都道府県知事および指定都市市長
は養子縁組の斡旋事業の届出を行うよう指導することとされている。しかしながら、届出をし
なくても罰則があるわけではなく、現実には、大半が無届けのまま国際養子縁組の斡旋を行っ
ている。無届けのまま国際養子縁組の斡旋を行っている業者が介在となって斡旋された子ども
たちは、はたして法の下によってその生活を保護されるのであろうか。また、ハーグ国際私法
会議条約においても、中央当局が国際養子縁組を扱う団体を認可制とし、その養子縁組の達成
を国際的に相互に協力する機関としての役割を持つことを規定している。二つの条約がこのよ
うに定めるのは、児童ポルノや売春の斡旋に限らず、不当な金銭の要求をする業者等が現れ、
子どもの権利が侵害される事態を防ぐ目的がある。また、日本は後者のハーグ条約に批准して
いない以上、厳密には、その内容を順守する法的義務はない。
1993 年のハーグ国際私法会議条約、
「国際養子縁組に関する子の保護及び国際協力に関する
条約(第 33 条)」に未だ批准していない日本であるが、事実、日本政府は、国連子どもの権利
条約委員会からこのハーグ条約の批准を検討するようにと、1996 年及び 2004 年に2回にわた
って勧告されている。たとえば、2004 年に「子どもの権利委員会」は、子どもの権利条約の
実施状況に関する日本政府の第2回報告を審査した結果、日本の養子縁組に関して次のような
懸念と勧告を表明している。
(1)
委員会は、国内・国際養子縁組の監視および統制が限られた形でしか行われていな
いことおよび国内・国際養子縁組に関するデータが極めて限られていることを懸念
する。
(2)
委員会は、締約国が以下の措置をとるように勧告する。
a)国内・国際養子縁組を監視する制度を強化すること。
b)1993 年の「国際養子縁組における子の保護及び協力に関するハーグ条約」を批准し、
実施すること。 27
これらの課題の検討が子どもの権利条約の締約国である日本政府に課せられた現実的課
25
同上。
小川富之「国際養子縁組の現状と課題」中川淳・貝田守(編)
『未来民法を考える』
(法律文化社,
1997 年),67 頁。
27 菊池
前掲論文,78 頁。
26
国
98
際
政
治
題であろう。すでに批准した児童の権利に関する条約上の義務からも、子、実親、養親の権
利保障のために、ハーグ養子条約の批准を念頭においた、日本国内の諸制度の見直しが早急
に求められる。
2.養子斡旋事業者に関する実態
ここでは、高倉の取材で明らかとなった国際養子斡旋の事例を紹介する。アドプション・ベ
ビー会という名の斡旋事業者についての取材で明らかとなったのが、以下のような事例である。
このアドプション・ベビー会にまつわるケースを紹介する。アドプション・ベビー会は、国内
で都道府県に届け出ている8事業者の一つである。
ケース1) 28
欧州に住む 40 歳代の日本人女性は、外国人男性と結婚したが、なかなか子どもができず、
養子を探していた。日本からの養子斡旋ルートを調べるうち、知り合いの紹介で海外への斡旋
を手がけるアドプション・ベビー会の存在を知った。この夫婦は 2001 年春にベビー会の事務
所に連絡を入れ、代表の女性に養子の相談を持ちかけた。「あなた方のために最善をつくした
い」と丁寧な対応に夫婦は初め、好感を持った。アドプション・ベビー会のスタッフは、みん
なボランティアで、手数料はいっさい取っていない、日本を出国するまでの病院の預かり代な
どの経費は、「寄付金」という形で払ってもらう、と話す代表に、夫婦は具体的な金額とその
内訳を尋ねたが、「自分たちに任せていただかないと困る」と答えるばかりであった。
申請書を送った半年後の 10 月、女性の自宅に「双子の男の子が養子縁組を待っている」と
代表からファクスがあった。その一ヵ月後に、高額な寄付を求めるファクスが届いた。その内
容は、
「現時点で養子縁組が可能なのは、双子のうち1人です。米ドルで 45,000 ドル(約 550
万円)の寄付を振り込んでくれれば、あなた方にお勧めしているこの赤ちゃんを、ほかの人に
渡すことはありません」という内容だった。末尾には、振込先として、都内の銀行の支店名と
口座番号が添えられていた。そこで夫婦が、「要求額は高すぎて払えない。そもそも、双子を
別々の家庭に引き離すべきではないのではないですか」と訴えたとたん、代表の態度は一変し、
「残念だが、もう子どもは用意できません。養子が欲しい人はあなたたちだけではない」との
返事が帰ってきたという。受話器越しの越えは明らかにいらだっており、結局この夫婦は日本
人養子を断念した。
ケース2) 29
アドプション・ベビー会が連携している中沢産婦人科が、埼玉県にある。この産婦人科は、
近所では「困った妊婦の駆け込み病院」という評判である。また、望まない妊娠で出産した子
どもを強引に斡旋してしまうという噂もあった。県内に住む 33 歳女性は 1997 年 5 月に別の
病院で男児を出産したが、相手が妻子ある男性だったために、女性の母親がこの中沢産婦人科
28
29
高倉
高倉
前掲書,50 頁。
前掲書,52 頁。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
99
を訪れ、子どもについて相談を持ちかけた。そこで母親は赤ちゃんを海外に養子に出すことを
持ちかけられ、段取りを済ませてしまった。出産から1週間後、女性は母親から赤ちゃんを養
子に出すことを告げられ、翌日、母親によって赤ちゃんは病院へと連れて行かれた。女性はそ
れから 10 日間ほど毎日のように産婦人科へ通い、アドプション・ベビー会のスタッフに求めら
れるまま書類に署名したり、戸籍編製などの手続きの説明を聞いたりした。その間、女性は何
度も自分の子どもに会うことを要求したが、それは許されなかった。結局、アメリカ・カリフ
ォルニア州に住む夫妻に赤ちゃんは引き取られたと告げられたが、連絡先等も教えてくれず、
ベビー会はただ「子どもは向こうで元気で暮らしている。しかし、会わせることはできない」
とワープロ打ちの文書が送られてくるだけだった。
ケース3) 30
アドプション・ベビー会の斡旋活動をめぐっては、過去にもトラブルがあった。1998 年に
は、カリフォルニア州のアメリカ人夫婦が先天性の小児麻痺の疑いがあり、障害者になる可能
性が高い状態だったはずの子どもを、「未熟児ではあるが、健康には問題ない」との健康診断
書を受け取り、斡旋の報酬として 250 万円を2回にわけて送金して子どもを引き取った。後に
その夫婦は「脳性麻痺などの障害を隠したまま斡旋された」として、斡旋時に支払った約 250
万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
ケース4) 31
アメリカ在住の別の夫婦は、露骨な料金交渉を持ちかけられた。ベビー会から一人目を養子
縁組した後、二人目の養子をもらおうと相談したところ、事業者側は「まず 500 万円を振り込
むように」と要求。金額が高いと指摘すると、「それでは障害児だったら安くする」と告げた
という。この夫婦は、
「日本では障害児と健康児の値段が違うのか」と憤り、申し出を断った。
在日アメリカ大使館によると、養子斡旋に関して苦情が寄せられるのはアドプション・ベビー
会が関わった斡旋活動が群を抜いて多い。ビザの発行を担当する大使館の査証課の話では、訴
えは主に赤ちゃんを引き取ったアメリカ人の養親からで、大半は高額な費用請求に関する内容
だという。
厚生労働省によると、2000 年度から4年間でアドプション・ベビー会が携わった海外養子
は 48 人。これは、国内の8事業者のうちで最多だった 32。多額の寄付金について、1992 年に
東京都に届け出た収支計画には「社会福祉を目的とする(養子の)斡旋は無料サービスが基本
で、会費及び寄付金によって賄われている」と書かれている。斡旋料は無料とうたい、善意を
強調し、多額の寄付金を要求するといったところからも、不透明な経理が浮かび上がってくる。
事実、これはアドプション・ベビー会に限った事例の紹介であるが、このように金銭にまつ
わるトラブルや、子ども、実・養親の人権無視の観点から賛否両論の声があがっている。不透
30
31
高倉
高倉
前掲書,56 頁。
前掲書,57 頁。
32
高倉
前掲書,58 頁。
100
国
際
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明な経理や無届けの事業者の問題は、深刻化しつつあるといえる。
引用した4つのケースは、取材によって明らかとなったごく一部のケースに過ぎないため、
全貌を示すものではない。しかし、こういったケースは、日本の規制がゆるいということの一
端を表しているといえる。
養子斡旋は、その方法によっては、人身売買と捉えられてもおかしくない行為となりうるた
め、それは斡旋する側も、斡旋を利用する側も慎重に事を進めるべきである。養子斡旋の決定
的な法律がない日本では、不当な斡旋業者を取り締まることができない。雑な経営、及び斡旋
を行っている業者が無届けでのさばっていると言っていい状況にあるのが今、問題となってい
る。今後、早急に斡旋に関する法の整備が求められる。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
101
Ⅲ.海外の養子縁組制度1―フィリピン―
この第Ⅲ章では、第Ⅱ章で述べてきた日本の養子縁組制度の内容を受けて、フィリピン共和
国の養子縁組制度や規制を見ることとする。フィリピンは、発展途上国の中でも養子縁組、ま
た国際養子縁組に関する法律の整備が整えられている国である。韓国と同様に、養子の輸出国
と言われた背景があり、子どもの人権を守る動きに着手するきっかけとなったといえる。
1.フィリピン共和国の養子縁組と国際養子縁組
フィリピンは、様々な国への送り出し国としてだけではなく、日本への送り出し国の一つと
して重要な関係にある 33。1990 年には国連児童に関する権利条約を、1996 年にはハーグ国際
養子条約を批准している。その後、国内養子縁組法を制定し、放置、遺棄、孤児などのすべて
の子に対し、里親保護、養子縁組によって援助するとしている。子どもの人身売買や、誘拐が
多い開発国にとって、国際間を移動する子どもの保護のためには、これらのような国際条約の
締結は必要不可欠である。その問題の解決に積極的に乗り出しているフィリピンの国内・国際
養子縁組制度は、日本の同制度、また子の利益保護の観点を検討する上での参考になる。
フィリピンの国内・国際養子縁組制度の概要としては、中央当局として、政府の下に養子縁
組資源局と照会局を置く。ここには、公的・私的な分野から養子縁組の専門家が配属されてい
る。フィリピンでは、国内と国際とでは官庁の所轄が異なり、国内養子縁組は社会福祉開発省
(DSWD)が行うが、国際養子縁組は同省に連なる国際養子縁組委員会が中央当局となる。
費用としては当局に申請時に 100 米ドル、縁組成立時に 900 米ドルを払う。施設にいた子の
場合は、施設に対しても 500 米ドルを支払う。海外へ出る国際養子は年間 600 または 700 件
程度ある。養親は、アメリカ 41%が最多で、ヨーロッパ 28%、アジア太平洋地域 19%、カナ
ダ 13%である 34。
1)フィリピンの国内養子縁組制度
フィリピンでは 1988 年に新しく「1988 年国内養子縁組法
共和国法第 8552 号」が制定さ
れた。この法律の第2項a)の『方針』では、「国は、全ての子どもがその両親(又は片親)の
養護と監護のもとに、その人格の健全で調和の取れた発育のために愛情と養育と理解および保
護を与えられる事を保証することを国の方針とすることをここに宣言する。子どもの拡張家族
(核家族以外の近親者を含む家族)の中にかかる努力が不十分で、適正な託置と養子縁組がで
きない場合のみ親族以外の者との養子縁組を考慮されるものとする
35」としている。さらに同
項b)では、『子どもの養護、監護、養子縁組に関わるすべての事柄において、その子どもの利
益は「児童の権利に関する国連条約」、
「国内国際里親委託、養子縁組に関わる児童の保護と福
33
湯沢雍彦『要保護児童養子斡旋の国際比較』
(日本加除出版,2007 年),16 頁。
同書,17 頁。
35 奥田安弘・高畑幸訳『国際司法・国籍法・家族法資料集
外国立法と条約』(中央大学出版部,
2006 年)281 頁。
34
102
国
際
政
治
祉に関する社会的法的原則の国連宣言」、
「児童の保護と国際養子縁組にかかる協力に関するハ
ーグ条約」の精神に則り、最大限の関心を持って扱うものとする。この目的のために国は、放
置、遺棄、あるいは孤児となっているすべての子どもに対し、里親養護もしくは養子縁組によ
ってそれに変わる保護および援助を提供するものとする 36』としている。
同法第3章以降、養子縁組の資格や手続き等、実質的な要件について定めているが、第2章
において、『養子縁組前サービス』として、実親のカウンセリング・サービスを提供すること
を定めている。
(a)実親。親に対するカウンセリングは、子の出生の前後に行わなければなら
ない、とし、養子縁組の確約は、子の出生前に行ってはならないことを定めている。これは、
実親が、養子縁組のために子を放棄する決定を再考するためであり、その決定が取り消し不能
となるまでに、6ヶ月の猶予期間を設けなければならないとしている。また、実親が養子縁組
のために子を放棄した後も、カウンセリングおよびリハビリテーションのサービスを提供しな
ければならないと規定し、さらに、養親候補者、養子候補者についてもカウンセリング会、セ
ミナー等を開催してそのアフターケアを充実させる義務をここで示している。同章第5条にお
いては、行方不明の実親を探すためのあらゆる努力を尽くすことを定め、第6条において、こ
れらすべてのサービスを含む養子縁組前のプログラムを開発しなければならない、と実親、養
子候補者、養親候補者等の心のケアについても法によって守られることを保証している。
第7章においては、『違反及び罰則』として、
(ⅰ)強制、不当な影響力の行使、詐欺、不適当な物質的誘惑、またはその他の類似の行為
によって養子縁組に対する同意を得ること。
(ⅱ)養子縁組関する法令に規定された手続きおよび安全対策に従わないこと。
(ⅲ)養子となる子に対し、危険、虐待または搾取を現に受けさせるか、またはそのおそれ
にさらすこと。
これらに該当するいずれかの行為をした者は、裁判所の裁量により、6年と1日ないし 12
年の懲役もしくは5万ペソ以上 20 万ペソ以下の罰金に処すことを規定している。このほか、
医師、看護師または病院の事務職員が職務上の宣誓に反して、前項に掲げた犯罪行為に関与し
たときは、本条に規定された罰則に処するとともに、永久にその資格を剥奪することを規定し
ている。これらのように、国内養子縁組法では、罰則規定を設け、養子縁組によって子供の利
益が最大化されるような仕組みを整えている。
さらには、国内養子縁組法では、渉外養子縁組 37を抑制し、できるだけフィリピン国民の子
が海外へ渡らないようにすることが国家政策として打ち出されている。これは、とくに児童の
権利条約やハーグ国際養子縁組条約などを援用し、国内養子縁組優先の原則を宣言した内容の
第2条に表れている。その背景としては、1995 年の渉外養子縁組法7条からも窺えるように、
36
大森邦子「フィリピン共和国の養子縁組斡旋制度」湯沢雍彦(編)『要保護児童養子斡旋の国際
比較』
(日本加除出版,2007 年),288 頁。
37
渉外養子縁組とは、フィリピン国外で申し立てがなされ、監督を受けた試験監護がなされ、かつ
養子決定がなされる場合における、外国人または外国に永住するフィリピン国民とフィリピン国籍
の子の養子縁組の社会的・法的プロセスをいう。1995 年渉外養子縁組法第3条(a)
つまり、渉外養子縁組とは、国際養子縁組のことであるが、日本語訳が論文によって異なる。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
103
毎年数百人ものフィリピンの子どもが養子縁組のために海外へ渡っているという実態がある
38。
2)フィリピンの国際養子縁組制度
フィリピンでは、1995 年に共和国法第 8043 号『1995 年国際養子縁組法』が制定され、翌
年 1996 年に 1993 年ハーグ国際私法条約『国際養子縁組に関する子の保護および協力に関す
る条約』を批准している。それ以前は、『児童青少年福祉法典』と『フィリピン家族法』によ
って養子縁組が行われていた。先の国内養子縁組法の中にもあるように、1990 年には『国連
児童の権利に関する条約』を批准し、1996 年には 1993 年ハーグ国際私法会議条約『国際養子
縁組に関する子の保護および協力に関する条約』の批准をしている。フィリピンは、養子の送
り出し国として国際養子縁組される子どもが増えてきたため、非加盟国でありながら、積極的
にハーグ私法会議に参加し、批准へとこぎつけた 39。またこれを受けて、国際養子縁組法の改
正も度々行われ、法整備としてはかなりの程度充実しているといえる。
フィリピンの国際養子縁組は、DSWD(社会福祉開発省)に専門機関として設置された国際
養子縁組委員会(ICAB)が中央当局として、DSWD、各種児童養護託置機関、養子縁組機関
ならびに政策立案機関と協力して活動を行う。
1995 年国際養子縁組法では、その方針に、
「国は、放任され放棄されたすべての子どもに愛
情と庇護を与え、成長と養育の機会を与える家庭の提供を国の方針とすることをここに宣言す
る。この目的のために、かかる子どもをフィリピン国内で養親家庭のものち託置するように務
めることとする。しかし国際養子縁組とは、こうした子どもがフィリピン国内でフィリピン国
民もしくは外国人の養子になれない場合、国際養子縁組がかかる子どもの最上の利益に適うこ
とを証明し、かつその基本的人権に役立ち、これを保護することを証明するならば、許可され
るもの
40」としている。ここでいう国際養子縁組とは、
「外国人又は国外に永住するフィリピ
ン国民がフィリピン国籍の子どもを養子にする社会・法律的なプロセス」をいう。国は、子ど
もたちの取引、人身売買および誘拐を防ぐために、国際養子縁組が子どもの最上の利益に適う
ことを証明した場合、国際養子縁組が確実に許可されるよう手段を講じ、またかかる子どもの
基本的権利を助けかつ保護することを目的としている。
1995 年国際養子縁組法第4章には、罰則規定がしっかりと決められている。それによると、
本法に違反し、違法な養子縁組を実施し、違法としりつつ参加するものは、裁判所の裁量によ
り6年以上 12 年までの禁固刑及び、50,000 ペソ以上 200,000 ペソ以下の罰金に処せられる 41。
養子縁組が本法、規定の国家政策、その実行規則及び規定、実施協定、ならびに養子縁組に関
するその他の法律に反するやり方で行われる場合、その養子縁組は違法となる、としている。
養子縁組は、ICAB を通して行われ、養子と養親のマッチング、子どもを養親候補者に託置
38
39
40
41
奥田・高畑 前掲書,280 頁。
大森 前掲論文,293 頁。
奥田・高畑 前掲書,295 頁。
大森 前掲論文、298 頁。
104
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後、試験的監護期間があった後に法的養子縁組手続きが行われる。養子縁組成立後のサービス
として、カウンセリングや、サポートグループの紹介、本国再訪問や実親との再会等を ICAB
が担う。
費用については、養親候補者は、養子縁組を申請するために ICAB に費用を支払わなければ
ならない。2007 年2月に料金表が改定された。それによると、申請時に ICAB へ 200 米ドル
を支払う。その後特定の子どもとの養子縁組が決定すると 2,000 米ドルを支払わなければなら
ない。
2.日本・フィリピン共和国の制度比較
フィリピンと日本の養子縁組に関する制度としての大きな違いは、1993 年ハーグ国際養子
縁組条約への批准、未批准の点である。さらに、フィリピンは、子どもの権利条約とハーグ国
際養子縁組条約への批准後に養子縁組に関する国内法を改定しており、世界の私法統一の動き
に合わせた法体制を整えている。一方日本は、ハーグ国際養子縁組条約に批准しておらず、国
内法の養子縁組に関する法整備はフィリピンのものと比べるとかなり出遅れたものとなって
いる。子どもの取引や人身売買等、子どもの人権に関わる犯罪が多いと言われる途上国である
からこそ、フィリピン政府は子の利益保護のための法整備を行った。世界が、人権擁護の動き
にある中で、ヨーロッパを始め、先進国が率先して国際私法の統一に乗り出したところへの、
フィリピンの条約への参加は世界的にも評価されている。
細かくみた場合には、フィリピンの国内・国際養子縁組法には、厳しく罰則規定があり、法
律に違反した場合は懲役または禁固、及び罰金の刑に処せられることが定められている。この
ほか、同法では、養子となる子の出生前に養子縁組を行うことを禁止しているだけでなく、養
子、実親、養親のアフターケアとして、カウンセリングや、リハビリテーションを提供するこ
とも規定している。養子となる子どもが犯罪に巻き込まれることを防止するだけでなく、養子
縁組が完了した後の様々な心のケア等を政府が保証している点からは、フィリピン政府がより
真剣に、確実に子どもの権利を保障しようとする姿勢が窺える。それと同時に、日本政府の子
どもの人権問題の取り組みに対する意識は、フィリピンに比べ、非常に低いと捉えられる。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
105
Ⅳ.海外の養子縁組制度2―ドイツ―
ここでは、ドイツの養子縁組制度を第Ⅲ章同様、日本の養子縁組制度の比較対象としてあげ
る。ドイツは、比較的、国際養子縁組に関する法整備が進められている先進国の中でも、早い
時期に法整備が行われ、さらにその改善を何度も行ってきている。
1.ドイツの養子縁組制度
ドイツでは、近年、他の西欧諸国と同じように養子縁組数が減少傾向にある 42。その背景に
は、ピルの服用が広く浸透し避妊が以前より確実になってきたこと、人々の意識が変化し、婚
姻外の同棲や事実婚は当たり前と受け止め、未婚で子どもを出産することへの偏見が少なくな
ってきたことなど、人々のライフスタイルの変化や意識の変化が挙げられる。また、子どもの
権利条約批准を契機とした 1997 年の民法親子関係法の改正を行った結果、養子となるドイツ
人の子が少なくなった、という要因も指摘できよう。データを示すと、2005 年には 4,762 人
の子どもたちが養子となったが、ドイツ統一後の 1991 年以来最も養子縁組数の多かった 1993
年の 8,687 人と比較すると歴然の差があり、ほぼ 45%の減少となった 43。
しかしその一方で、不妊のために養子縁組を望むカップルたちは他国へと目を向け始めた。
彼らはまず発展途上国の国々で、次いで冷戦の終結と同時に東ブロックの国々、とくにルーマ
ニアとロシアで養子となる子を求めたのである。しかし、外国養子の増加に伴い、養子縁組ツ
ーリズムと違法な児童売買、外国の養子縁組判決の承認の問題は社会的にも法的にも難しい問
題をもたらしたといえる。この状況の対処として、ドイツ政府は 1997 年にハーグ国際養子縁
組条約に署名し、その批准に伴って 2002 年ハーグ条約の適用対象となる国際養子縁組に関す
る法律を整備し、さらに、様々な種類の養子縁組、つまり、ハーグ条約の対象とならない国際
養子縁組と国内養子縁組を含めた斡旋法の改正を行った。
1)ドイツの国内養子縁組制度
1900 年施行のドイツ民法典は養子制度を定めていたが、その目的は子のない夫婦の財産を
継承させることにあった。しかし、すでに 20 世紀初頭には、法的根拠のないまま養子縁組斡
旋は始められていた。
1939 年に養子縁組斡旋に関する法律が 1940 年および 1941 年の規則とともに施行され、第
二次世界大戦後も国家社会主義的内容を除いた部分は 1951 年に新しい斡旋法が制定されるま
で引き続き有効とされていた。その後、数度の改正を経て 1976 年に養子縁組斡旋法が制定さ
れた。これは、民法の養子法が従来の契約型から未成年養子を原則とする国家宣言型に改正さ
れたことに対応するものであり、1951 年斡旋法を廃止して新たに制定された法律である。1976
年ヨーロッパ養子協定の影響がこの背景にある。この協定は、子どもの福祉のために締約国の
実体法である養子法の統一化と特定の原則や手続法の調和を目標としたものである。この改正
42
高橋由紀子「ドイツの養子縁組斡旋制度―現実の問題に追いつこうとする方の努力―」湯沢雍彦
(編)
『要保護児童養子斡旋の国際比較』(日本加除出版,2007 年),171 頁。
43 同上。
106
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により、養子は完全養子制となり実親との法的関係が断絶するために、より慎重な、しかも子
の福祉原則にのっとった養子縁組斡旋サービスが必要となり、新しい法律の制定となったので
ある。その後も、1989 年に法の禁止規定を潜り抜ける新たな斡旋行為を防ぐために改正され、
1998 年にも民法の親子関係法改正に伴って改正された。
ドイツでは、未成年養子縁組斡旋は、少年援助の管轄に含まれるため、国内養子縁組の斡旋
機関は、公的少年援助機関である少年局および州少年局の任務となっている。この公的機関の
ほかに、一定の要件を満たした民間機関も養子縁組の斡旋が許される。
民間の養子縁組斡旋機関は、州中央養子縁組期間から養子縁組斡旋期間として承認されなけ
れば、養子縁組斡旋を行えないこととなっている。承認のためにも、要件があり、必要な9種
類の書類を提出することが規則で定められている。ドイツ国内には民間機関は全国に 70 ヶ所
あり(1990 年)、すべての斡旋機関はパートナー関係にあり、互いに協力する義務を負う
44。
養子縁組のプロセスの中には、実親に限らず、養子となる子または法定代理人、養子の同意
が必要となる。実親の同意が効力を生じると、その者の監護権は停止し、子との交流権は行使
できなくなり、少年局が子の後見人となる。また、少年局を含む斡旋期間には、必要に応じて
養親、実親、養子からの相談に乗る体制が整えられる。実親に対しては養子縁組手続きの完了
を報告し、子との別離の問題克服を援助し、さらに子についての情報や子とのコンタクトを希
望する場合はその橋渡しに協力する。養親に対しては教育相談などの一般的な相談サービスの
ほかに、真実告知についての助言が斡旋期間の専門職の重要な任務となっている。
また、養子縁組成立後のアフターケアとしては、先述の助言や協力体制だけではない。これ
は、「締約国の権限ある当局は、子の出自、実親の身元、子と家族の病歴に関する記録の保存
に配慮し、関係国の法が許す限り、子またはその法定代理人が適切な指導の下に記録にアクセ
スできることを保障する」こととしているハーグ国際養子縁組条約に対応して、斡旋法では、
斡旋記録の保存とアクセスについての原則が定められている。この原則は、国内養子縁組にも
重要な意義を持つために養子縁組斡旋の一般的な義務規定とされた。
2)ドイツの国際養子縁組制度‐養子縁組斡旋法‐
前述のように、数々の改正を経験しているドイツの養子縁組斡旋法であるが、2001 年のハ
ーグ国際養子縁組条約批准に伴い、条約を国内で実施するための国内法を制定し、それに合わ
せて国際的および国内の養子縁組斡旋の改善をはかることで、2002 年に新たな「国際養子縁
組の領域での法的問題の規正と養子縁組斡旋法の更なる発展のための法律」が施行された。
2002 年の養子縁組斡旋法の改正で、国際養子縁組に関する規定がいくつか盛り込まれた。
国際養子斡旋は、ハーグ条約適用ケースも適用外ケースも基本的な流れは同じである。申し込
みと一般的適格性審査、相手国への伝達、養親候補者への情報提供と助言、養親候補者の受け
入れ表明、少年局との情報・意見交換、子の入国と定住の承認、と手続きは順を踏む。
国際養子縁組の斡旋のための費用と料金の徴収のための規則規定の権限は、連邦家族省と二次
的に州政府に与えている。また、個別の斡旋事例では総額で 2000 ユーロを越えてはならないと
44
同書,176 頁。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
107
される。2005 年養子縁組斡旋手続で支払われる費用に関する規則として、国家の養子縁組斡旋
機関が斡旋を行う際の料金を規定している。また、証書作成費、翻訳費用、専門家の報酬につい
ては国際養子縁組斡旋の際に徴収することを規定している。もっとも、斡旋に関わる機関は公的
なものとして少年局と州少年局で、州には中央機関が必ず設置され(15 ヶ所)
、助言と支援にあ
たる。各地の少年局に置かれた機関は 548 ヶ所にのぼる。45これ以外に、中央機関に許可された
民間機関もあり、全国では 70 ヶ所もある。その他の者が斡旋をすることは禁止である。ただし、
親族への斡旋、無料で斡旋した後、遅滞なく機関に届け出た場合には罰則が適用されない。
ハーグ国際養子縁組条約に批准しているドイツであるが、ドイツでの国際養子縁組は、ハー
グ国際養子縁組条約締約国である国との養子縁組以外は難しいともいわれている。ハーグ条約
の中に、子の出身国と受入国が締約国であることが条約の適用要件となっていることもあり、
ドイツもそれに則った姿勢をとっている。事実、ハーグ国際養子縁組条約以外の国との間で養
子縁組も可能であるが、国によっては、法律の規定が多様なために、それぞれの国の法律と照
らして縁組することは手続きにも時間と費用がかかるのである。国際養子縁組にかかる費用は、
民間の斡旋機関の場合、統一されていない。相手国や斡旋機関にどこまでを頼むのかなどによ
っても異なるし、同じような条件であったとしても、斡旋機関によって費用は異なってしまう
のである。一方、国が行う国際養子縁組の斡旋費用は 4,000 ユーロにプラスアルファで、個別
の費用として中央機関へ数百ユーロ、公証人の費用として 3,000 ユーロが必要とされている。
ドイツでは、養子縁組の斡旋は、子ども支援の重要な一領域と認識され、児童の福祉を保護
するために国家が行う重要かつ専門的な役割と位置づけられている 46。そのため制度がはっき
りと規定されているのが特徴である。機関には2人以上の専任の専門職が置かれ、補助者とと
もに長期的な支援が行われる。
2.日本・ドイツの制度比較
ドイツの養子縁組斡旋法は、養子縁組のプロセスの中で非常に重要な役割を果たしている。
裁判所の手続きを成立させるためには、養子縁組当事者の調査、必要な同意の確保、マッチン
グ、当事者に寄り添った長期に渡る助言と支援の活動が欠けてはならない。子の福祉を確保す
るためには、裁判所だけでは対応できない高度な専門性を要求する養子縁組の斡旋が必要であ
る。それを担っているのが養子縁組斡旋法なのである。また国際養子縁組はさらに複雑な準備
と国際的な機関の連携を必要とするために国際的な統一基準によらなければならないことは、
ハーグ条約批准に際してのドイツ政府の見解からも明らかである。ハーグ条約に照らしたドイ
ツの養子縁組斡旋法は、国際的な人権擁護意識に沿ったものであり、これがあることで、外国
を相手とした国内での手続きでも遅滞なくプロセスを実行することができるのである。
一方の日本はどうだろうか。養子斡旋をめぐる明確な立法措置を講じていない日本。公的機
関による海外斡旋は事実上なく、すべて民間任せで、斡旋業者の基準も事業の届出以外の資格
もない。養子縁組法に改善を重ね、2002 年のハーグ条約批准後には養子縁組斡旋の法律を整
備し、また国際養子縁組に関する内容を改定したドイツ政府と、日本政府の子の福祉に対する
45
46
湯沢
湯沢
前掲書,12 頁。
前掲論文,20 頁。
108
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意識の差が歴然と分かる。斡旋事業を子ども支援の重要な領域のひとつと捉えているドイツ政
府に日本が見習うことは非常に多くあるとみえる。
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
109
Ⅴ.まとめ
まず、日本の第一の課題として、日本は「国際養子縁組に関する子の保護及び国際協力に関
する条約」(ハーグ条約)に批准するべきである。これは、世界の人権に対する理念が統一的
な形となった条約であり、日本も国際的な人権意識のレベルに遅れをとってはならないのであ
る。条約に批准することをまず初めの第一歩として、国内法の整備等、国際養子縁組に関する
諸問題の解決に真剣に着手するべきだ。諸外国では、ここ 10 数年の間に、ハーグ条約への批
准と国内法の改定および制定に努力を払ってきた。途上国であるフィリピンは元々養子の輸出
国と言われた背景があってこそ、子どもの福祉を守る風潮を強め、法改正へと乗り出したので
ある。
複雑な手続きやプロセスを踏まなくてはならない国際養子縁組を成立させるには、高度な専
門的知識が必要となる。フィリピン、ドイツでも専門職を国の機関に置き、長期的にアフター
ケアも含めて専任の職員が助言、手続きを行う。つまりこれは、それほどの複雑性を持たない
と、子どもの利益は守られないことの表れでもあろう。現実の日本国内では国際養子縁組や、
斡旋に関した法律はなく、この状態で日本の子どもの利益が守られることはない。事実、無届
けで高額を請求し、人身売買まがいの経営を行うような、不透明な経理を続ける事業者が今も
存在している。現行法ではこれを取り締まることはできず、無届け事業者を社会は野放しにし
ていると言っても過言ではないのである。
国連子どもの権利条約委員会から勧告を受けているように、日本は国内養子縁組及び国際養
子縁組の監視、統制が限られた形でしか行われておらず、データも非常に限られている。諸制
度の強化、条約の批准、実施が、日本の現実的課題であり、早急に改善が求められる部分であ
る。日本政府は、この問題にいち早く着手し、子供の保護に関する国際的人権理念に日本の理
念に添った制度を発展させるべきだ。
望まない妊娠によって親元で暮らせない子どもたちが、不当に海外へ売られていく事実を無
視してはいけない。年間 100 人に満たない子どもたちではあるが、国内での養子斡旋を推進し、
子どもの利益が最大限に尊重された状態で縁組が実施されるよう、日本政府も真剣にこの問題
に取り組むべきである。
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参考文献・資料
1.
大森邦子「フィリピン共和国の養子縁組斡旋制度」湯沢雍彦(編)『要保護児童養子斡旋
の国際比較』
(日本加除出版,2007 年)
2.
小川富之「国際養子縁組の現状と課題」中川淳・貝田守(編)
『未来民法を考える』
(法律
文化社,1997 年)
3.
奥田安弘『国籍法と国際親子法』(有斐閣,2004 年)
4.
奥田安弘・高畑幸訳『国際司法・国籍法・家族法資料集
外国立法と条約』(中央大学出
版部,2006 年)
5.
高桑昭「ハーグ国際私法会議条約と国際私法の統一」
(国際外交雑誌
第 92 巻
第 4・5 合
併号,1993 年)
6.
高倉正樹『赤ちゃんの値段』(講談社,2006 年)
7.
高橋由紀子「ドイツの養子縁組斡旋制度―現実の問題に追いつこうとする方の努力―」湯
沢雍彦(編)
『要保護児童養子斡旋の国際比較』
(日本加除出版,2007 年)
8.
寺田逸郎「我が国におけるハーグ条約の受容」
(国際法外交雑誌
第 92 巻
第 4・5 合併号,
1993 年)
9.
鳥居淳子「国際養子縁組に関する子の保護及び協力に関する条約について」(国際法外交
雑誌 93 巻 6 号,1995 年)
10. 西谷祐子「ハーグ国際司法会議のこれから」(東北法学会会報 23 号,2005 年)
11. 中川淳・貝田守『未来民法を考える』(法律文化社,1997 年)
12. 湯沢雍彦『要保護児童養子斡旋の国際比較』(日本加除出版,2007 年)
13. 湯沢雍彦「養保護児童支援のための国際国内養子縁組斡旋事業の調査研究」(児童関連サ
ービス調査研究等事業報告書,財団法人
こども未来財団,2006 年)
14. http://www.adoption.state.gov/news/StarCountryData.php?country=Japan
アメリカ
政府 HP より
15. “CONVENTION ON PROTECTION OF CHILDREN AND CO-OPERATION IN
RESPECT OF INTERCOUNTRY ADOPTION”ハーグ国際私法会議条約
16. 児童の権利に関する条約
.
日本の国際養子縁組の実態と今後の展望
あ
と
が
111
き
私にとっての大学生活は、実はたったの3年間だったのですが、あっという
間に終わってしまい、今となってはとても大切な3年間です。その思い出や思
うところをここでまとめたいと思います。
2006 年の春に編入して国際関係論コースに入りました。そのころは、山田先
生の国際協力論を中心にさくさくと授業に参加し、単位取得のために頑張って
いました。サークル活動は、編入という友達を作りにくい状況の中でも、いろ
んな人と出会うことができ、とても良い場でした。サークルで、留学生と出会
うきっかけが多くなり、生きた英語に触れたり、いろんな国に行ってみたいと
いう思いが強くなったりと、留学への興味がいよいよ本格的になってきたころ、
私はあるアメリカ人の友達から自分は国際養子なのだということを聞きました。
これは、卒業論文につながる話なのですが、彼の告白から国際養子縁組という
ものの存在を知り、白人の両親にアメリカでずっと小さい時から育てられてい
ると聞いて、興味を持ちました。その小さな興味を卒業論文につなげようと思
ったのは、彼の告白の後にインターネットで国際養子縁組にまつわる問題を知
ってからです。
3年生の半ばごろにアメリカへの留学を決意し、4年生の夏から約1年間、
テネシー州の大学で英語や他の授業に参加してきました。埼玉大学で以前に留
学していた友達との再会や、新しい出会いがたくさんあり、楽しいこともほん
とにたくさんあったけど、大変なことや、いろんな意味での経験もたくさんで
きました。滞在中には旅行もしたし、スウェーデンにいる友達を訪ねたりもし
ました。この留学のおかげで、編入後の大学生活は当初 2 年間の予定が、3年
間となってしまったのですが、日本へ帰ってきてからの1年間は、とってもゆ
っくりと、マイペースに就職活動や友達との交流、サークル活動、卒業論文な
どをすることができました。
4年間この埼玉大学にいる人がうらやましく思った時もありました。けど、
私の3年間は非常に濃くて、自分ではとても充実していたと思います。充実し
ていたなと感じるかどうかは、人によって違うとは思いますが、私はたくさん
の友達に恵まれたなと思っています。これからもずっと友達でいられる仲を積
み上げるのは簡単なことではないです。でも、大学生活を通してそれを達成で
きたことが、私のこの先の将来への自信にもつながっています。
112
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最後に、国際政治の卒業論文で、指導をしてくださった先生。ありがとうござ
いました。テーマも国際政治プロパーではないものだし、期限もあるようなな
いような、とてもマイペースに進めすぎた気がしているのですが、それでもア
ドバイスありがとうございました。
これから卒業論文に励むみなさん、頑張ってください!
堀 田 礼 奈
国
際
法
.
女子差別撤廃条約の批准と
各国国内法への影響に関する一考察
-女性の保護から人権確立、
そして“両性の平等”の実現へ-
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL082
(論文指導
坂井万里絵
山 本
良)
.
117
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
【要 旨】
1967 年の女子差別撤廃宣言を受け、国連総会は 1979 年に女子差別撤廃条約を採択し、この
条約は 1981 年に発効した。また、初めて世界女性会議が開催された 1975 年を「国際女性年」、
翌年から 1985 年までの 10 年間を「国連女性の 10 年」とし、その間各地で開催された世界会
議やそれに伴う NGO フォーラムによって、女性の地位向上と参画政策は飛躍的に推進された。
日本でも 1985 年の批准に伴い、今日までに男女雇用機会均等法をはじめとするいくつかの国
内法が制定・改正されてきたが、社会的に根強く残る慣習や慣行もあり、すぐには「法律上の
平等=事実上の平等」というわけにはいかなかった。これは日本だけのことではなく、締約国
の多くがこの問題、つまりは法律と社会の実情との隔たりをいかにして解消するかに奮闘して
きたと言っても良い。
本論文では、女性運動の高まりが女子差別撤廃条約にまで発展してきた経緯と、条約の特徴、
その後の条約の発展について触れた上で、第 3 章・第 4 章を中心に、上に挙げたような、条約
の批准による各国への影響や問題、それに対するそれぞれの取組み、残された問題点について
考察している。
始めは女性(母性)を保護することが優先事項であった。しかしここ 60 年ほどで、世界
の女性を取り巻く環境は大きく変化した。戦後の参政権の獲得に始まり、労働や出産・育児、
家庭生活など、様々な分野での女性差別が禁じられ、女性の地位は飛躍的に向上した。そして、
女子差別撤廃条約によって「女性差別の禁止」は「性別による差別の禁止」となり、現在の「両
性の平等」へと繋がっている。
条約の目指す「両性の平等」とは一体どういうものなのだろうか。私は、ただひたすらに男
女の完全な平等を目指すということではなく、それぞれの身体的性差に応じて、一人ひとりが
自分らしく生きる、ということではないかと考える。世界人権宣言第 1 条にもあるように、
「す
べての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とにおいて平等」なのである。
「男性だから…」「女性だから…」に縛られるのではなく、自分自身がどう生きていきたいの
か、それを支える社会はどうあるべきなのか。まだまだ力不足ではあるが、本論文の結論で自
分なりの考えをまとめたい。
118
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際
目
法
次
序章――はじめに ............................................................................................ 120
第一章
女子差別撤廃への潮流 ..................................................................... 122
第一節:近代的人権概念の成り立ち ........................................................................ 122
第二節:戦後の人権保障――女子差別撤廃条約の土台形成...................................... 123
2.1
国連憲章 ..................................................................................................................... 123
2.2
女性の地位委員会....................................................................................................... 123
2.3
世界人権宣言 .............................................................................................................. 124
2.4
国際人権規約 .............................................................................................................. 124
第二章
女子差別撤廃条約の締結と展開 ...................................................... 126
第一節:女子差別撤廃条約の成立............................................................................ 126
1.1
女子差別撤廃宣言....................................................................................................... 126
1.2
女子差別撤廃条約....................................................................................................... 126
第二節:従来との相違.............................................................................................. 127
2.1
締約国の差別撤廃義務................................................................................................ 127
2.2
性別役割論の克服....................................................................................................... 127
2.3
レポートによる国家報告制度..................................................................................... 128
第三節:条約の発展 ................................................................................................. 129
3.1
国際女性年から国連女性の 10 年へ ........................................................................... 129
3.2
「認識」の時代から「行動」の時代へ ...................................................................... 131
第三章
条約の批准と日本へのインパクト ................................................... 133
第一節:旧法の改正と、新たな法制度 .................................................................... 133
1.1
国籍法......................................................................................................................... 133
1.2
労働基準法と男女雇用機会均等法 ............................................................................. 133
119
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
1.3
育児・介護休業法....................................................................................................... 134
1.4
男女共同参画社会基本法............................................................................................ 135
第二節:日本のレポート提出と女子差別撤廃委員会の最終コメントの考察 ...........136
2.1
日本の提出した第 4 次第 5 次レポート...................................................................... 136
2.2
女子差別撤廃委員会での審議と最終コメント ......................................................... 137
2.3
第 6 次レポートの提出 ............................................................................................... 138
第三節:各種資料から見る、女性を取り巻く環境の変化 ........................................139
3.1
「事実上の」男女平等は実現したのか ...................................................................... 139
3.2
制度の普及と、現実とのギャップ ............................................................................. 141
3.3
ファミリー・フレンドリー企業表彰にみる、企業の積極的な取り組み ................... 142
第四章
他国の現状....................................................................................... 143
第一節:韓国における「男女雇用平等法」の現状と課題 ........................................143
1.1
男女雇用平等法と、女性労働者の実態 ...................................................................... 143
1.2
韓国の女性保護規定 ................................................................................................... 144
第二節:スウェーデンにおける積極的な男女平等への取り組みとその成果 ...........145
2.1
平等政策の先駆け....................................................................................................... 145
2.2
条約の批准と、スウェーデンが果たす役割............................................................... 145
終章――結論と課題......................................................................................... 148
参考文献......................................................................................................... 151
<参考書籍> ............................................................................................................151
<参考論文> ............................................................................................................151
<調査結果等>.........................................................................................................151
120
国
際
法
序章――はじめに
戦後から 1960 年代ごろまで、働く女性の多くは、学校を卒業してからの数年間働き、結婚・
出産を機に退職して家庭に入るという、若年未婚型の就労形態が一般的であった。しかし今で
は、就職してからも男性と分け隔てなく仕事をこなし、結婚・出産を経て再び職場に復帰する
ということも決して珍しくはなくなってきた。
女性に平等な人権を保障するための世界的な取組みが始まったのは、ほんの 50 年ほど前の
ことである。それまでの国際社会では、女性の権利は明らかに軽視されていた。1948 年に国
..
連で採択された世界人権宣言でさえ、その起草過程において第一条は「すべての人は兄弟であ
る」という一文で始まっていたほどである(後の最終案ではこの文言は修正され、国連憲章が
主張した女性の平等権を再度保障、強化している) 1。
国連設立の企画者たち 2は、それまで社会的政策決定の場に組み入れられることのなかった
女性たちを参加させることによって、戦争のない新しい世界を作っていくことが必要だと考え
たと言われる 3。その結果、国連憲章の前文や 55 条などに男女の同権がはっきりと明文化され、
..
国連設立の翌年には、その下部機関である経済社会理事会に女性の地位委員会(当初、婦人の
地位委員会)が設置された。以後、女性の地位委員会が中心となって、世界の女性の人権に関
する諸問題・政策に取り組んでいくこととなる。
1967 年の女子差別撤廃宣言を受け、国連総会は 1979 年に女子差別撤廃条約を採択し、この
条約は 1981 年に発効した。また、1975 年を「国際女性年」
、翌年から 1985 年までの 10 年間
を「国連女性の 10 年」とし、その間各地で開かれた世界会議によって、女性の地位向上と参
画政策は飛躍的に推進された。この時期、
「開発における女性(WID: Women in Development)
4」が注目され始めてきたことも、女性の参画への大きな足掛かりとなったといえよう。そう
して、1980 年代後半からの女性の地位向上の行動は、必然的に、単なる「参加」から「参画」
へ、女性の解放(フェミニズム)から「ジェンダーフリーの参画」へと移行していったのであ
る。
日本も 1985 年の女子差別撤廃条約批准に伴い、今日までいくつかの国内法を制定・改正し
ている。しかしすぐには「法的平等=事実上の平等」とはいかず、永く女性は“結婚したら仕
事を辞めて家に入り、家事や育児に専念するもの”といった見方にとらわれていた。この問題
の原因は言うまでもなく、社会的に根付いた慣習・慣行である。慣習や慣行による差別は、法
1
山下泰子・植野妙実子編著『フェミニズム国際法学の構築』(中央大学出版部、2004)45 頁
アメリカのルーズベルト大統領や、イギリスのチャーチル首相ら連合国側の指導者
3 畑博行・水上千之編『国際人権法概論』
(有信堂高文社、2006)22~23 頁
4 WID:Women in Development ……それまで生産活動において大きな役割を担っているにもかか
わらず開発過程から排除されてきた女性を、人的資源として十分活用すべく開発過程に統合すべき
であるという考え(外務省 HP:
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hakusyo/03_hakusho/ODA2003/html/honpen/hp2
02010103.htm より)
2
121
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
律や規則による差別と違って、国が直接関与するものではなく、締約国の多くが、この法的平
等と社会の実情との隔たりをいかにして解消するかに奮闘してきた。
このような状況から、世界で、そして日本において、男女平等の実現に向けて、どのような
取り組みが行われてきたのか。また、女子差別撤廃委員会へ提出された報告レポートや、各種
調査などをもとに、現在どのような問題が残されているのか。また、文化の違いによる各国そ
れぞれの課題についても考察する。日本についてはさらに、国の政策だけでなく、企業による
独自の取り組みについても、この論文のなかで触れていきたい。
まず第一章では、近代的人権概念、そして戦後、女子差別撤廃条約への道筋を作った、国連
憲章をはじめとする、いくつかの人権に関する国際的協定について取り上げる。続く第二章で
は、第一章の流れを受けて成立した女子差別撤廃条約の本質に迫り、また、現在の、同条約に
関する動きについても触れていく。第三章では、論点を日本に移し、戦前から戦後、そして条
約批准を経て、現在の女性の労働環境の実情まで、年代を追って見ていくとともに、同条約と
日本の国内法を比較し、さらには日本の報告レポートや各種調査から実態を見ることで、残さ
れた問題を明らかにしていく。第四章では隣国韓国とスウェーデンの現状を見て、他国国内法
に対する本条約の影響を検討するとともに、それぞれが行ってきた政策、直面している課題な
どを取り上げ、日本との比較・考察を行う。そして終章において、条約、国内法それぞれの今
後の課題を挙げ、本条約が目的とする“両性の平等”の実現に向け、世界が、そして日本はこれ
から何をしていくべきか、自分なりの考えをまとめたい。
122
第一章
国
際
法
女子差別撤廃への潮流
第一節:近代的人権概念の成り立ち
本来、国際法は国家間関係を規律するものであり、人権など、国家と個人の関係を規律する
ものではなかった。人権という概念がなかったのではない。人権はあくまで国内問題であり、
国際法の場に出てくることがなかったのである。
近代的な人権概念が初めて規定されたのは、1789 年のフランス人権宣言(「人及び市民の権
利宣言」)であるといわれる。この宣言では、人が生まれながらにして自由かつ平等であるこ
とを前提とし、人身の自由、言論、出版の自由、財産権、抵抗権などを認め、また、国民主権
や権力分立の原則が不可欠のものであるとされた。封建的絶対主義のもとで不自由を余儀なく
されていた市民階級の解放と、その市民の権利の保障を目指して作られた宣言であることが、
はっきりと見て取れる。
このフランス人権宣言は、その後の欧州での人権条約に大きな影響力を持つことになるのだ
が、国際法上の人権概念が確立したのは、20 世紀に入ってからである。第一次世界大戦後、
平和条約の中に少数民族の保護を規定した文言が盛り込まれ、生命・身体・信教の自由のほか、
法の前の平等、市民的・政治的権利、教育を受ける権利などが保障された 5。また、国際連盟
規約第 23 条に「男女及児童ノ為ニ、公平ニシテ人道的ナル労働条件ヲ確保スルニ力(つと)
メ・・・・・・」と定められたことや、ヴェルサイユ条約 13 編に基づいて、国際労働機関(ILO)
が設立された。こうしてみると、この時期国際法上の人権保障が劇的に発展したようにも思え
るが、このような事例はあくまでヨーロッパという地域的に限られたものであり、また、女性
の権利について言えば、問題視すらされていなかったというのが実際である。
世界的に人権保障が重要視されるようになったのも、男女の平等が意識されるようになった
のも、第二次世界大戦がきっかけであろう。ドイツによるユダヤ人集団殺害や侵略国による非
人道的な扱いが行われたことから、平和の維持と人権尊重の結びつきが、これまで以上に認識
されるようになる。言い換えれば、戦後、人権を重んじることによって国際社会の平和の基礎
付けをしようとする意識が、連合国のなかにあったのだ。そうして作られた国連憲章の前文に
は「基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて
確認し・・・・・・」とあり、これこそが、男女の平等に初めて言及した国際条約であった。
日本においてはどうだろうか。第二次世界大戦以前、明治憲法においては、一般的に平等原
則を定める法律は存在せず、例えば男性のみに限定された参政権や、旧民法の「家制度」、妻
を行為無能力者とするなど、さも当たり前かのように、性別による差別が行われていた。戦後、
敗戦国である日本は日本国憲法を制定・施行し、その内容は当然、国連憲章同様に「基本的人
権」(11 条)を強調したものであった。とくに 14 条①において「すべて国民は法の下に平等
であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係に
5
畑・水上,前掲(注 3)
,18-19 頁
123
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
おいて差別されない」と、一般的に法の下の平等が規定され、性別による差別が禁止された。
この原則は、議員および選挙人の資格に関する第 44 条においても繰り返されている。また公
的な分野における差別禁止だけでなく、第 24 条で「夫婦が同等の権利を有する」ことを規定
し、それまで家制度などによる慣習に支配されていた家庭生活における個人の尊厳や両性の平
等が確認されたことも、画期的な出来事であった。それまでの女性差別的な法制度は全面的に
改正され、このときに、日本における男女平等に向けた土台ができたといえる。
第二節:戦後の人権保障――女子差別撤廃条約の土台形成
2.1
国連憲章
前節でも述べたように、国連憲章前文において初めて、男女の同権が規定されたのであるが、
前文以外にも、男女平等を重要視する国連設立の企画者たちの意図が読み取れる条項がいくつ
かある。
例えば 1 条 3 項では、国連の目的を「・・・・・・人種、性、言語又は宗教による差別なくすべて
の者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達
成すること」としているし、55 条cでは、諸国間の平和的且つ友好関係に必要な安定及び福祉
の条件を創造するために、国際連合は「人種、性、言語又は宗教による差別のないすべての者
のための人権及び基本的自由の普遍的な尊重及び遵守」を促進しなければならない、としてい
る。これらの文言が国連憲章に取り入れられた背景には、人権の尊重を国際平和の基礎とし、
戦争のない、新しい世界システムを構築していこうとする連合国側の意図ももちろんあった。
しかし、1900 年代初頭から始まった女性参政権運動を発端とするNGOグループの働き 6も大
きかったことは忘れてはならない。
このようにして、世界のほとんどの国家が加盟する国連憲章において初めて、法の上での「男
女の同権」が規定された。この点は、それまでの国際連盟規約からの飛躍的な進歩を遂げたよ
うにも感じるが、まだまだ抽象的なものに過ぎず、実態とは全くと言っていいほどかけ離れた
ものであった。
2.2
女性の地位委員会
上のような、新しい秩序構築の流れや、目覚ましい女性 NGO グループや各国政府代表の働
きによって、国連設立の翌年には、その下部機関である経済社会理事会の機能委員会として、
女性の地位委員会(当時、および外務省訳は「婦人の地位委員会」)が設立された。以後、こ
6
女性運動が国際的な広がりをもち始めたときの中心的課題は、女性の参政権獲得であった。1904
年に、女性参政権を求める国際組織として「国際女性参政権同盟(IWSA:International Women
Suffrage Alliance)」が組織されたのを始め、ヨーロッパやアメリカを中心に、インドやフィリピ
ンでも女性参政権運動が盛んになった。これらは教育を受けた都市中産階級を主な担い手とするも
のではあったが、国を越えて参政権や平和など共通する関心事に取り組み、国際連盟など国際社会
に女性の決定への参加を要求してきた。
(山下・植野,前掲(注 1),42-45 頁)
124
国
際
法
の女性の地位委員会と、女子差別撤廃条約の監視機関である女子差別撤廃委員会の二つの機関
が柱となって、女性の人権に関する諸問題・政策に取り組んでいくこととなる。
女性の地位委員会は、特に政治・市民・社会・教育分野等における女性の地位向上に関し、
経済社会理事会に勧告・報告・提案等を行う役割を持ち、経済社会理事会はこれを受けて、国
連総会(第 3 委員会)に対して勧告を行う。
女性の地位委員会は、後の世界人権宣言の起草過程にも加わり、“men”、“all men and
brothers”といった表現を修正するなど、国際的な場で次々と女性視点に基づく見解を述べてい
ったと言われる 7。逆に言えば、このときはまだ、女性の課題を国連の議題としうるのは、こ
の女性の地位委員会およびこれを構成する女性の各国政府代表だけであったということだろ
う。
2.3
世界人権宣言
2.1 で述べたように、国連憲章において初めて、男女の同権が国際法上明確に規定された。
しかし、このような憲章の人権規定は、国連およびその加盟国が達成すべき努力目標を示し、
そのための国際協力を規定しているに過ぎず、一般的には加盟国に具体的法的義務を生じさせ
るものではないと考えられる。すなわち、憲章は、尊重すべき人権内容についての具体性を欠
くことから、憲章が加盟国に直接即時に人権尊重を義務付けているとみることはできないので
ある。
そこで国連では、1946 年に経済社会理事会に設置された人権委員会(現在では人権理事会
として、総会の補助機関となっている)が世界人権宣言の作成に着手し、同宣言は 1948 年に
国連総会で採択された。宣言では、まず前文で国連憲章に規定された男女同権を再び確認し、
また第 2 条 1 項では「すべての者は、とくに人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的その他
の意見、国民的〔national〕若しくは社会的出身、財産、門地〔birth〕その他の地位によるい
かなる差別をも受けることなく、この宣言に掲げる権利と自由とを享受することができる」と
している。さらには、法の下の平等(7 条)、国籍を持つ権利(15 条)、婚姻の権利(16 条)、
参政権(21 条)などをも規定する、まさに包括的な人権章典であった。
「宣言」という名のと
おり、決してそれ自体法的拘束力を持つものではないが、国連憲章において曖昧であった“保
障されるべき人権”を明確に規定し、国連の目的でもある人権保障の方向付けを行ったという
点でも大きな役割を果たした。もちろん、この宣言が、後の国際人権規約や、女子差別撤廃条
約をはじめとする多くの国連の人権条約、さらには、欧州人権条約や米州人権条約など、国連
外で採択された人権条約にまで、強く影響を与えていることは言うまでもない。
2.4
国際人権規約
上で述べた世界人権宣言を条約化したものが、「経済的、社会的および文化的権利に関する
国際規約(通称:社会権規約)」と「市民的および政治的権利に関する国際規約(通称:自由
7
山下泰子『女性差別撤廃条約の展開』
(勁草書房、2006)21 頁
125
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
権規約)」および「市民的及び政治的権利に関する国際規約の選択議定書」から成る国際人権
規約である。社会権規約と自由権規約はともに第 2 条において、
「人種、皮膚の色、性、言語、
宗教、政治上意見その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、出生又は他の地位による
いかなる差別もなしに」、それぞれの条約に定める権利が行使、尊重されることを約束してい
る。また第 3 条において、それぞれ「男女の平等」が規定されるとともに、社会権規約では第
16‐17 条、自由権規約では第 40 条において、条約で認められる権利の実現のためにとった措
置等を報告するよう、締約国に義務付けている。
特に自由権規約に関して言えば、条約独自の委員会を設置し、履行の監視システムとして政
府報告の審査を行っている点、審議終了後に、報告に対する委員会の評価を当該政府に送付、
またその内容を公表している点で、後の女子差別撤廃条約に大きな影響を与えたに違いない。
例えば、日本政府の第 1 回報告書の審査の際には、規約人権委員会の一部の委員が「日本の国
籍法における父系血統主義は、性差別を禁じる自由権規約の規定と矛盾するのではないか」と
指摘したという 8。これを受けて政府は国籍法の見直しに着手し、女子差別撤廃条約に加入す
るのを機に改正を行った。このような例は日本だけでなく他にも見られ、国家報告制度による
実施確保が有用であることを証明し、後の人権諸条約のモデルとなった。
8
畑・水上,前掲(注 3)
,47 頁
126
国
第二章
際
法
女子差別撤廃条約の締結と展開
第一節:女子差別撤廃条約の成立
1.1
女子差別撤廃宣言
国連憲章をはじめとし、数々の条約に人権条項が盛り込まれ、人権宣言や人権規約が採択さ
れたのにもかかわらず、依然として、女性の地位の低さや性別を理由とする差別は目に見える
形で存在していた。そこで動きを見せたのが、やはり女性の地位委員会であった。女性の参政
権に関する条約(1952 年)をはじめとし、既婚女性の国籍に関する条約(1957 年)、婚姻の
同意、最低年齢および婚姻届に関する条約(1962 年)など、次々に女性をめぐる人権の法典
化に取り組んできた同委員会はついに、1967 年「女子差別撤廃宣言」を起草し、同宣言は国
連総会において採択されたのである。
そのなかでは「女子に対する差別は、基本的に不正であり、人間の尊厳に対する侵犯である」
(1 条)とし、それまでの人権条約での「男女同権の規定」ではなく、“現に存在する女性への
差別”を不正であるとしている点で、非常に飛躍を見せたものであった。また第 2 条で、初め
て「慣習・慣行」という表現を用い、社会の慣習や慣行に存在する根源的な性差別をなくさな
い限り問題解決はありえない、という立場を明らかにした。
しかし、前文の「家族とくに子の養育における女子の役割に留意し」という文言や、第 6 条
で、私法分野における男女同権の前提に、「家族の統一と調和の維持を害することなく」とい
う留保文が挿入されていることから、ここに至ってもなお、基本的には“女性は家事や育児を
する者”という固定的な性別役割分担意識が見られる。
1.2
女子差別撤廃条約
国連は、先の女子差別撤廃宣言採択と同時に、1975 年を「国際女性年」
、その翌年から 1985
..
..
年までを「国連女性の 10 年」(当時はともに「国際婦人年」
、「国連婦人の 10 年」であった)
と指定した。特に 1975 年は、初めて世界女性会議が開かれ、NGOフォーラムが開催されるな
ど、非常に重要な年となった。前年(1974 年)に開催された女性の地位委員会において、女
性差別撤廃のための総括的な条約策定が決議されたことを受け、第 1 回国連世界女性会議では、
条約の起草および実現に優先権をおかなければならないこと、その実施のための手段を用意し
なければならないことを確認している 9。
そうして、1979 年に「女子に対するあらゆる形態の差別撤廃に関する条約」が採択され、
翌年の第 2 回世界女性会議(国連女性の 10 年中間年会議)での署名式において日本を含む 64
カ国が署名を行い、1981 年の発効を迎えた(ただし、日本に関して効力が発生したのは 1985
年である)。
9
『世界行動計画』
127
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
この条約の前文では、女性に対する差別を、国連憲章をはじめとする国際人権法の「権利の
平等の原則及び人間の尊厳の尊重の原則に反するもの」とした上で、「これら種々の文書にも
関わらず女子に対する差別が依然として広範に存在していることを憂慮」し、「女子に対する
あらゆる形態の差別を撤廃するための必要な措置をとることを決意」している。このことから、
法の上での平等はもちろんのこと、「事実上の平等」を実現しようとする強い意思が感じられ
る。
第二節:従来との相違
それまでの国際人権法の女性に関する規定と、この条約との差異は、どんなところにあるだ
ろうか。私は、大きく 3 つに分けて、締約国の差別撤廃義務、性別役割論の克服、レポートに
よる報告制度であると思う。
2.1
締約国の差別撤廃義務
締約国の差別撤廃義務は、条約第 2 条に規定されたもので、「女子に対するあらゆる形態の
差別を非難し、女子に対する差別を撤廃する政策をすべての適当な手段により、かつ、遅滞な
く追求すること」に締約国が合意し、そのための義務として挙げられたものを指す。具体的に
は(a)男女平等原則の国内法への組み入れ、およびその原則の実現の確保、(b)差別の禁止
立法その他の措置(制裁をも含む)、(c)女性の権利の保護確立、および公的機関による救済
の確保、
(d)差別となる行為・慣行を差し控えること、
(e)個人、団体、企業による差別の撤
廃、(f)差別となる既存の法などの、修正又は廃止のための措置(立法を含む)、(g)差別と
なる刑罰の廃止、の 7 つが挙げられている。これは簡単に言えば、“差別撤廃のための特定の
措置をとること”と“差別とされる行為を控えること”に分けることができ、それはつまり、ここ
で規定される義務が、国家の国際社会への義務であると同時に国内社会に暮らす個人に課され
た義務でもある、と言える 10。法制度だけではなく、事実上の、私たちが生活する社会のなか
に存在する差別を問題視しているからこそ、国内的に直接適用しうることを意図するような条
文になったように思う。
2.2
性別役割論の克服
次に、性別役割論の克服とは、事実上の男女平等を妨げる元凶が性別による特性論、つまり
は男女の役割についての固定観念にあるとし、それらを改善して、慣習的な性別による役割分
担意識を撤廃しようというものである。条約では第 5 条の規定がこれにあたり、また先に挙げ
た第 2 条(f)とも深いつながりを持つものと言えるだろう。
日本では当初、「慣行を変えるのは、法律ではできない。国としては、守備範囲外だ」とす
10
山下泰子「国際人権と国内人権:女性差別撤廃条約の国内的適用」(中川、寺谷編『国際法学の
地平――歴史、理論、実証』,2008)454-455 頁
128
国
際
法
る議論もあったようだが 11、社会慣習・慣行のなかに存在する男女役割分担の観念こそが真の
差別の根源であり、この解決なくして条約の目的達成は成しえないという考えがしだいに主流
となっていった。
2.3
レポートによる国家報告制度
最後に、レポートによる報告制度であるが、これは条約の実施措置として採用された制度で、
条約の監視体制の確立を図るものである。女子差別撤廃条約以前の人権に関する条約(国際人
権規約、人種差別撤廃条約など)にも既に設置された制度であるが、この条約での規定によっ
て初めて、女性の人権に関してまとまった形で報告・検討されるようになった。
条約第 18 条に基づき、締約国は「条約の実施のためにとった立法上、司法上、行政上、そ
の他の措置及びこれらの措置によりもたらされた進歩に関する報告」
を、条約発効の 1 年以内、
およびその後は少なくとも 4 年ごとに、国連事務総長に提出する義務を負っている。
基本的に、
締約国は第 1 次レポートのなかで、自国における女性の地位を詳細かつ包括的に説明し、第 2
次以降のレポートでは、直前の 4 年間における重要な展開について記述しなければならない。
特に、国内において「条約に基づく義務の履行の程度に影響を及ぼす要因及び障害」(18 条 2
項)を挙げ、それに対してとりうる改善措置を明確にすることが求められる。つまり、条約義
務の完全な履行が実現するまで、言い換えれば、条約の定める男女の平等が、法文上だけでな
く事実上も完全に実現するまで、締約国は努力を継続しなければならなくなる。このことから、
レポートによる国家報告制度は条約実施に非常に効果的な制度だと言えるだろう。日本も
1985 年の発効以降、第 1 次レポートを 1987 年に、そしてその後は 1992 年(第 2 次)
、1993
年(第 3 次)
、1998 年(第 4 次)、2002 年(第 5 次)、2008 年(第 6 次)とレポートを提出し
ている。
このレポートを含めた条約実施の進捗状況を検討するモニター機関として、個人的資格に基
づき選ばれた 23 人の委員により構成される、女子差別撤廃委員会(CEDAW:Committee on
the Elimination of Discrimination against Women)が設置された。委員会では、提出された
レポートに基づき、各国政府代表が出席の下で、委員会がコメントや質問をするという形で審
議が行われ、その審議に基づいて委員会は「提案及び一般的な性格を有する勧告を行うことが
できる」(21 条)。これは、委員会による条約の解釈の指針であり、2004 年の時点で 25 の一
般的勧告が採択されている。一つ例を挙げるとすれば、1988 年に採択された「一般的勧告第 6
号」は、締約国に「この条約、この条約の 18 条に基づいて提出する報告、委員会の活動報告
を、自国語で広報する」よう勧告している。そこには、国民誰もが「この条約が何を定めてい
るのか」、「その定めをどう守ったと国家は国際機関に報告したのか」を知ることができれば、
それがきっかけとなって、国内法上の権利についての関心や理解も深まり、事実上の平等に、
また一歩近づくだろうという期待が込められている 12。日本でもこの勧告に基づき、内閣府男
11
同上,455 頁;加藤一郎・久保田きぬ子・小西芳三・佐藤ギン子・柴田知子・深尾凱子「座談会・
国連婦人の十年中間年世界会議をめぐって」(
『ジュリスト』725 号、1980)25 頁
12 畑・水上,前掲(注 3)
,74 頁
129
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
女共同参画局のホームページ等で政府が委員会に提出したレポートや委員会によるコメント
(詳しくは下で述べる)が閲覧できるようになり、国際機関が日本の実態をどう見ているかを、
一般市民が知る上で効果的なツールとなっている。
また一連の審議の後、締約国別に、委員会による勧告が「最終コメント」として送付される
仕組みとなっている(「最終コメント」については 1994 年から)。これは「一般的勧告」のよ
うな生ぬるいものではなく、個別に国家を指名して、その報告の検討結果を述べるものである。
例えば 1994 年に審議が行われた第 2 次および第 3 次の日本の報告について、1995 年に最終コ
メントが出されているが、そのなかで委員会は、日本の報告作成に際し、国内のNGOを参加
させたことを高く評価しながらも、雇用平等法が成立しているにも関わらず個々の女性に対す
る差別は続いていること、外国人女性の売春や戦時中の慰安婦問題についての真剣な反省がま
るで窺われないことなどを指摘し、次回報告に際し、よりいっそうのNGOとの連携を強くし、
かつ、外国人女性の性的搾取についての詳細な情報提供を要請している 13。
第三節:条約の発展
女子差別撤廃宣言採択と同時に制定された「国際女性年」(1975)およびその後の「国連女
性の 10 年」は、条約の発展や女性の地位向上にどのような役割を果たしたのだろうか。また
それ以降、1990 年代から 21 世紀に入り、この条約はどのように扱われてきたのだろうか。こ
こでは、年代を上のように大きく 2 つに分け、その間に開かれた世界会議を通して見ていこう
と思う。
3.1
国際女性年から国連女性の 10 年へ
1975 年にメキシコで開かれた史上初の世界女性会議をはじめとし、その後開かれた女性会
議も同様に、NGOフォーラムの開催を伴ったことによって、草の根レベルで活躍する女性た
ちを国際舞台に近づけ、その影響力を遺憾なく発揮させた。当時のブトロス=ガリ国連事務総
長は、
「国連女性の 10 年は、国連そのものを、各国政府が政策や協議事項を設定する機構から、
政策や方針が草の根レベルからNGOによって生み出される機構へと根本的に変化させること
に貢献した。NGOは、差別や抑圧に苦しんでいる女性たちの声に国連の注意を向けさせた」
と評価したという
14。
メキシコでの世界女性会議の前年、女性の地位委員会は条約策定のための作業部会を組織し、
そこで作成された案を各国に提出していた。そして、メキシコ世界女性会議では国連加盟国の
女性政策の共通基準として『世界行動計画』が採択され、第 196 パラグラフにおいて、差別撤
廃のための条約の起草および実現に優先権をおかなければならないこと、その実施のための有
効な手段を用意しなければならないことを記述している。また、全体的に「女性の人権」概念
に大きな変化が生じ、それまでの男性の基準に女性を近づけるという平等論ではなく、性別役
13
14
畑・水上,前掲(注 3)
,75 頁
山下,前掲(注 7),44 頁
130
国
際
法
割分担観念を撤廃し、徹底的な男女平等をめざす平等論(=ジェンダー平等論)が軸となった
15。この変化はおそらく、女性の高学歴化や社会の国際化が急激に進んだことなどによって生
じたものである。序章 16 パラグラフでも、このジェンダー平等論について、
「男女平等の達成
とは、両性がその才能及び能力を自己の充足と社会全体のために発展させうる平等な権利、機
会、責任をもつべきことを意味する。そのため、家庭及び社会の中で両性に伝統的に割り当て
られた機能を再検討することが肝要である。男女の伝統的な役割を変える必要性を認識しなけ
ればならない」と述べられ、それが後に、女子差別撤廃条約の中心理念として第 5 条に位置づ
けられたことは、この会議の大きな功績である。
国連女性の 10 年の中間年にあたる 1980 年には、コペンハーゲンにおいて第 2 回世界女性
会議が開催され、前年に国連総会で採択された女子差別撤廃条約の署名式が執り行われた。こ
の会議は、条約の署名を各国に促し、女子差別撤廃に向けての制度的な枠組み作りに貢献した
として評価されている。
最終年である 1985 年にはナイロビで会議が開かれ、条約を署名・批准した各国の状況につ
いて、政府代表や女子差別撤廃委員会委員だけでなく、国会議員、弁護士、研究者などが集い、
話し合われたことが特徴的である。最終日には女性の地位向上のためのナイロビ将来戦略が採
択され、国連女性の 10 年を総括するとともに、将来を見据え、条約未批准の国には「まず、
批准を」、批准国には国内の機関を設置して「実行を」促す趣旨の文言になっている。また、
「女
性に対する暴力」が初めてクローズアップされたことも、このナイロビ会議の特徴である。ダ
ウリー 16、サティー 17、紛争下での集団レイプ、夫やパートナーからの性的暴力など、それま
で“個人の問題”“それぞれの地域の伝統、文化、宗教、慣習にかかわるもの”として、国連で扱
われることはおろか、女子差別撤廃条約にさえ規定されなかった「女性に対する暴力」がここ
にきて注目されるようになったのは、言うまでもなく、過去 2 回の女性会議でのNGOフォー
ラムで、女性たちが自由に発言、交流してきたことの現われである。『ナイロビ将来戦略』に
もこのことがはっきりと位置づけられ、
「平和についての基本戦略」第 258 パラグラフでは「女
性に対する暴力が、あらゆる社会の日常生活の中にさまざまな形で存在している」ことを指摘
し、「暴力の犠牲となった女性に特別の注意を払い、包括的な援助を与える必要がある。この
ためには、暴力行為を防ぎ、女性の犠牲者を救済する法的措置を制定すべきである。また家庭
や社会における女性に対する暴力問題に取り組むために国内機構が設立されるべきである」と
した
18。この、NGOフォーラムからの一連の動きが、後に国連総会での「女性に対する暴力
撤廃宣言」にまで発展したことは、草の根レベルで活動してきた女性たちの自信となったに違
いない。
山下,前掲(注 7),22 頁
ダウリー……インドにおいて、女性が嫁ぎ先に持参金や家財道具を贈るという慣わし。花嫁の家
族が花婿の家族に見合う充分なダウリーを支度できない場合には、花嫁は花婿の家族から冷酷な扱
いを受け、死に追いやられる事も多い。1961 年にインド政府により「持参財禁止法」が制定され
たが、実効性はほとんどなく、現在でも広く行われている。
17 サティー……ヒンドゥー教社会を中心とした慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をするこ
とで、本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった。1829 年にサティー禁止法が制定されたが、
現在でもごく稀に行われることがある。
18 山下,前掲(注 7)
,24 頁
15
16
131
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
3 度の世界女性会議を核とした国連女性の 10 年は、女子差別撤廃宣言および女子差別撤廃
条約の採択・批准を通し、世界各国に女性の地位向上のための制度づくりを促すという成果を
.......
挙げた。しかしそれはあくまでも法律や制度上の解決であって、実際の平等に向けた働きかけ
はこの後の世界会議の中心的な議題となる。だがやはりこの期間に、国際会議の場に NGO が
参加する土台を形成し、各国で活躍する女性たちに門戸を開いたことは、非常に画期的であり、
ブトロス=ガリ事務総長(当時)の言うように、大きな評価に値するものであると言える。
3.2
「認識」の時代から「行動」の時代へ
1992 年 、 ア メ リ カ の NGO 主 催 の セ ミ ナ ー で 、 国 連 人 権 セ ン タ ー 所 長 を 務 め る Elsa
Stomatopoulouが、翌年開かれる世界人権会議の議題に「女性の人権」問題がまったく入って
いないと指摘した。彼女は、国連内にはいまだ、女性の人権を人権一般の問題として扱うこと
に反対的な意見があり、そのような問題は女性の地位委員会や女子差別撤廃委員会が扱えばい
いという空気があることを明らかにした 19。
こうして、1993 年にウイーンで開催された世界人権会議には、危機感をもった女性 NGO が
多数参加し、
「女性の権利は人権である(Women’s Rights are Human Rights)」とスローガン
を掲げ、世界会議での働きかけを行った。そうした努力の結果、議題には女性の直面する問題
が取り上げられ、会議の成果文書である『ウイーン宣言および行動計画』にも「女性の地位お
よび人権」の項目が盛り込まれた。また、この文書によって、先のナイロビ会議で取り上げら
れた「女性に対する暴力」について、国連総会でその撤廃に関する宣言を採択すること、また、
2000 年までにすべての国が女子差別撤廃条約を批准すべく奨励されること、女子差別撤廃条
約選択議定書策定について直ちに検討することなどが確認された。
「女性の権利は人権である」というスローガンは、1995 年に北京で開催された第 4 回世界
女性会議にも引き継がれた。この会議は政府代表や国連代表、女子差別撤廃委員にNGOフォ
ーラム参加者を加えると 5 万人を超す規模となった 20。最終日に採択された『北京宣言』では、
前年にカイロで開かれた国際人口開発会議の流れを受け、「女性のエンパワーメント及び意思
決定の過程への参加と権力へのアクセス(参入)を含む、社会のあらゆる分野への平等を基礎
にした完全な参加は、平等、開発及び平和の達成に対する基本である」
(13 パラグラフ)と規
定し、開発における女性の役割の重要性を確認するとともに、人口問題の面からリプロダクテ
ィブ・ヘルス/ライツ 21についても明示した(それぞれ 30 パラグラフ、17 パラグラフ)。また、
同時に採択された『北京行動綱領』では 12 の重要問題領域が設定され、それぞれについて『ナ
イロビ将来戦略』の実施と見直しと評価、今後の解決すべき課題について詳細な問題提起がな
19
同上,17 頁;阿部浩己「国際人権と女性―女性差別撤廃条約選択議定書の意味するもの」
(
『労働
法律旬報』第 1487 号、2000)19 頁
20 山下,前掲(注 7)
,32 頁
21 リプロダクティブ・ヘルス/ライツ……性と生殖に関する健康・権利と訳される。人々が安全で
満ち足りた性生活を営むことができ、生殖能力を持ち、子どもを持つか持たないか、いつ持つか、
何人持つかを決める自由をもつことを意味する。1994 年、カイロ国際人口・開発会議で採択され
た文章に基づいている。(JICA「開発課題に対する効果的アプローチ」より)
132
国
際
法
された。また条約に関する記述も、条約の趣旨および目的と両立しない留保の撤回や、女性差
別撤廃委員会の会合に関する第 20 条 1 項の改正などが規定されるなど、これまでとは比べも
のにならないくらい詳細なものとなり、女性の人権への関心が、さらなる高まりを見せている
ことが分かる。
さまざまな点で大きな役割を果たした北京会議であったが、次の国連女性 2000 年会議は
NGOフォーラムの開催されない国連総会特別会期での会議となり、北京のよい流れを引き継
ぐことが出来なかったと言っていいだろう。しかし、参加の出来ない各国の女性NGOネット
ワークはそれぞれに「NGOレポート」を作成し、『北京行動綱領』にそって意見をまとめた。
それが最終的に『世界NGOレポート:NGO Alternative Global Report to the United Nations
General Assembly,Special Session 5 Years after Beijing (June5-9,2000)』22となって結実し、
それは経済社会理事会への参加資格をもつNGOメンバーを通じて会議へプレッシャーを掛け
るものとなった。国連女性 2000 年会議の『成果文書』では、
「成果」として、条約の締約国の
増加、女子差別撤廃条約選択議定書の採択、NGOの意識啓発や支援活動が選択議定書の採択
実現や国際刑事裁判所ローマ規定へのジェンダー視点の組み入れに貢献したことなどを、また
「障害」として、2000 年を目標としていた、すべての国の条約批准が達成できなかったこと
や、依然として大量の留保が付されていることを挙げている。NGOフォーラムのない国連総
会特別会期は、
「北京から後退しない」のがやっとという状況ではあったが、このようなNGO
による政策提言は、名実ともに実効性のあるものになりつつあることが実感された。
2005 年の「北京+10」もまた、多くの女性たちの期待に反して、NGOフォーラムを伴わな
い、国連女性の地位委員会での閣僚級会議であった
23。それでも、通常会期の
45 の委員国だ
けでなく、165 カ国の政府代表団と経済社会理事会の協議資格をもつ 680 のNGO、合わせて
6000 人が出席し、「北京宣言及び行動綱領」および「女性 2000 年会議成果文書」の実施状況
の検討・評価するとともに、更なる実施に向けた戦略や今後の課題について協議が行われた。
会期中に行われたパネルディスカッションのなかで、女子差別撤廃委員会議長のロザリオ・マ
ナロは「女子差別撤廃条約は、法的枠組みであり、『北京行動綱領』は、その具体化のための
戦略的アジェンダである」とし
24、
「北京+10」の最終文書である『宣言』の第
4 項にもある
とおり、法的枠組みとしての女子差別撤廃条約の意義はますます強まっているといえる。
山下,前掲(注 7),34-35 頁
その理由は、9.11 同時多発テロ以降のアメリカの軍事拡大路線と妊娠中絶反対の主張にあったと
いわれる(山下,前掲(注 7),37 頁より)
24 山下,前掲(注 7)
,37-38 頁
22
23
133
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
第三章
条約の批准と日本へのインパクト
日本は戦後、日本国憲法の施行に先立ち、1945 年 12 月に衆議院議員選挙法を改正し、これ
により初めて女性に参政権が認められた。その翌年、戦後初の総選挙では 79 名の女性が立候
補し、そのうち 39 人が当選を果たした。ちなみにこのときの女性の投票率は 66.97%であっ
たといい(男性は 78.52%)、当時の日本女性の、政治への関心の高さが感じられる
25。また、
これに伴い、日本は国連加盟前の 1955 年に女性の参政権に関する条約を批准しており、この
ことが翌年、それまで難航していた日本の国連加盟を後押しした、という意見もある。
第一節:旧法の改正と、新たな法制度
女性差別撤廃条約に関しては、日本は他の先進国と同じように、1980 年のコペンハーゲン
での世界女性会議で署名をしており、このことだけを見れば、人権問題の改善に積極的であっ
たようにも思う。しかし、当時の日本の国内法は条約の内容と大きくかけ離れたもので、それ
らの改善や新たな法制度の構築に 5 年を費やし、ようやく 1985 年に批准となった。その 5 年
間に改定・制定された法制度、またその後行われた法整備から、この条約との抵触のおそれの
あった点を一つずつ見ていこうと思う。
1.1
国籍法
それまでの日本の国籍法は「父系血統主義」 26を採用していた。しかし女子差別撤廃条約第
9 条 1 項では、「締約国は、国籍の取得、変更及び保持に関し、女子に対して男子と平等の権
利を与える。締約国は、特に、外国人との婚姻又は婚姻中の夫の国籍の変更が、自動的に妻の
国籍を変更し、妻を無国籍にし又は夫の国籍を妻に強制することとならないことを確保する」
と規定されており、これは明らかに「父系血統主義」と矛盾するものである。また、この点に
ついては、自由権規約の国家報告時にも、国連から指摘を受けていた 27。
そこで政府は 1984 年に国籍法を改正し、
「父系血統主義」の代わりに第 2 条 1 号に「父母両
系血統主義」を導入し、条約との抵触を回避した。
1.2
労働基準法と男女雇用機会均等法
戦後制定された労働基準法は、日本国憲法および国連憲章の理念を受け、“男女同一原則”を
規定していたが、それは賃金に関する条項(第 4 条)だけであり、採用や昇進などに関する平
等の規定を欠いていた。これは、直接には条約と抵触するものではなく“結果の義務”と呼ばれ
25
同上,110 頁
父系血統主義……父親の国籍を子の国籍とすること。国籍は通常、その人が生まれた場所(生地
主義)か、親の国籍(血統主義)によって決定される。
27 畑・水上,前掲(注 3)
,47 頁
26
134
国
際
法
るが、特に条約の第 11 条の視点から見ると、やはり日本の労働基準法における男女平等は全
く不十分である。そのようなことから、1985 年、それまでの勤労婦人福祉法(1972 年制定)
を「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する
法律(通称:男女雇用機会均等法)」に改め、賃金以外の分野での男女の平等を規定した。こ
の法律では「労働者が性別により差別されることなく、また、女性労働者にあっては母性を尊
重されつつ、充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とする」
とし、「事業主は、労働者の募集及び採用について、その性別にかかわりなく均等な機会を与
えなければならない」
(第 5 条)、配置、昇進、教育訓練、福利厚生、解雇等について「労働者
の性別を理由として、差別的取扱いをしてはならない」(第 6 条)と定めている。しかし成立
当初は、男女の差別を無くすために制定したと言うよりは、どちらかと言えば“女子差別撤廃
条約批准のため”といった性格が強かったように思う。
労働基準法に関しては、その後 1997 年に、それまでの女性の深夜労働などの禁止規定が廃
止されたが、この点については、女性保護規定により保護されていた女性に対して、雇用につ
き均等な機会を与えるべきか否か、つまり“保護か平等か”という議論が盛んに行われた
28。こ
れに対しては、条約の第 4 条「差別とならない特別措置」2 項で「締約国が母性を保護するこ
とを目的とする特別措置(この条約に規定する措置を含む。)をとることは、差別と解しては
ならない」とされていることから、女性の保護の対象を、妊娠や出産に関わる“狭義の母性保
護”であると理解することで説明することが出来る。またそれと同じ 1997 年に雇用機会均等法
も改正され、それまでの企業の「努力義務」が「禁止規定」となり、よりいっそう労働の現場
での男女平等規定が強化された。さらに、そのときの改正で男性または女性に限定した募集・
採用が禁止されたことを受け、“保母”、“看護婦”、“スチュワーデス”など、性別を表す職業の呼
称が廃止されるようになった。
1.3
育児・介護休業法
「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律(1991 年の制
定時は「育児休業に関する法律」、その後 1995 年の改正で通称「育児・介護休業法」となった)」
は、日本が女子差別撤廃委員会に提出した第 1 次レポートに対する女子差別撤廃委員会の審議
において指摘された点で、条約の第 5 条に関する問題である。男女の役割分担の否定を謳った
条約第 5 条では(b)で「…子の養育及び発育における男女の共同責任についての認識を含め
ることを確保すること」とある。この部分に関して、いまだ家庭と職業をめぐる固定的な性別
役割分業の根強かった日本において、
「女性も社会に」
「男性も家庭に」という新しい生き方が
主張され始め、
「女性も社会に」という発想を反映した立法が男女雇用機会均等法であり、
「男
性も家庭に」という主張を反映した立法が、この育児・介護休業法であった 29。育児・介護休
小畑史子「男女雇用機会均等法の改正と今後の課題」(
『法律時報』79 巻 3 号,2007)32 頁
「女性は家庭を守るのに支障を来さない範囲で仕事をすることを望んでいるのであり、均等な機
会ではなく、時間外労働や深夜労働の免除をこそ必要としている」などという指摘が繰り返しなさ
れており、女性労働者の意見も大きく分かれていた。
29 浅倉むつ子
「女性の働き方と法制」
(『ジュリスト』No.1066、1995)199 頁
28
135
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
業法では、労働者が、子どもが 1 歳に達するまでの育児休業や年 93 日までの介護休業を取得
することができると定めたほか、第 10 条および第 16 条で「不利益取扱いの禁止」として、事
業主は育児休業・介護休業等の申出をしたこと又は取得したことを理由として、労働者に対し
て解雇その他不利益な取扱いをしてはならない、と規定している。また、これで国内の制度化
が整ったとして、1995 年に日本は「ILO156 号条約(正式名称:家族的責任を有する男女労働
者の機会及び待遇の均等に関する条約)」を批准した。
ところが現実には、いまも期待どおりの結果をほとんど果たせずにいる。男性の中にもこの
制度を利用し休業する人は出てきたが、それは全体のほんの数パーセントに過ぎず、逆に女性
は仕事と家庭の二重の負担を背負うこととなった。これは、いかに社会的慣習や慣行が根強く、
法整備を行うだけでは到底解決することは出来ないということを、改めて見せ付けるものとな
った。
1.4
男女共同参画社会基本法
1999 年に制定された男女共同参画社会基本法は、男女平等の実現に向けて基礎となる、
日本において初めての包括的な法律であった。1988 年、女子差別撤廃委員会で日本の第 1 次
レポートに対する審議が行われた際、雇用分野(つまりは男女雇用機会均等法)以外の、日本
国内における差別救済について質問があったが、当時は「日本の法制度の平等は整備された」
とする見解が一般的であり、国内においてもあまり問題視されてこなかった 30。条約批准以来、
その必要性が指摘されていた包括的な男女平等法が、日本においてようやく検討され始めたの
は、1996 年になってからである。その前年の北京世界女性会議で採択された行動綱領におい
て「1996 年中に自国の行動計画を策定する」ことが国際的に要請されたことを受け、同年、
男女共同参画審議会による答申がなされ、その中で「男女共同参画社会の実現を促進するため
の基本的な法律について、速やかに検討すべきである」とされたのが最初である。
ところで、「男女共同参画」とはいったいどのようなことなのだろうか。男女共同参画基本
法では、第 2 条(1)で「男女共同参画」の定義を「男女が、社会の対等な構成員として、自
らの意思によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が
均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担う」
こと、としている。互いに平等でなければ、対等な構成員とはなりえないし、責任の共有は平
等であってはじめて実現する。つまり、基本法の「男女平等参画」は、条約が目的とする「男
女の完全な平等」を前提としているのである。
この男女共同参画社会基本法は、一般的には女子差別撤廃条約第 2 条(a)(b)に定められ
た締約国の義務を果たすための立法であるとされるが、「基本法」という名前のとおり、直接
国民の権利義務に影響を及ぼすような規定はなく、あくまでも抽象的な、国家の基本方針を示
すものにとどまっている。だが第 9 条に示されるように、国だけでなく各地方公共団体も「男
女共同参画社会の形成の促進に関し、国の施策に準じた施策及びその他のその地方公共団体の
区域の特性に応じた施策を策定し、及び実施する責務」をもつこととなり、生活の場である地
30
山下泰子『女子差別撤廃条約の研究』
(1996)542-560 頁;前掲(注 7)
,120-121 頁
136
国
際
法
方公共団体に、その地域の特性に合った条例が生まれ、市民を主役とした男女共同参画社会の
形成が期待されることとなったのは、大きな特徴の一つといえる(現在、46 都道府県で、男
女共同参画社会基本条例が制定されている)。
また基本法第 2 条(2)では(1)で規定する「機会」に係る男女間の格差を改善するため、
男女の一方に積極的に機会を提供する「積極的改善措置(ポジティブ・アクション)」を規定
している。社会的、経済的に大きな格差が存在する社会では、「法の上の平等」は形式的なも
のに過ぎず、個々の活動の場において少数の性の側が置かれた状況を考慮して、それらの者に
「機会の平等」を確保するための措置が、このポジティブ・アクションである。これを逆差別
ではないかとする意見もあるが、「事実上の平等」の達成を目標とする女子差別撤廃条約にお
いても、条約第 4 条で「差別とならない特別措置」としてこれを認めており、事実、第 2 条(2)
ではその対象を「女性」とは限定せず、「男性」も対象となりうることから、そのような意見
は妥当ではない。例えば、看護師や保育士の職場では、男性がこのポジティブ・アクションの
対象となるかもしれないのである。このように、「男女」をともに対象としているのも、この
基本法の特色である。
先にも述べたとおり、これはあくまで男女共同参画社会「基本法」である。個別法や、地方
公共団体の条例につなげていかなければ、誰に何の権利も与えないし、何の義務も課さない。
しかし、例えば、埼玉県男女共同参画推進条例の前文で「女子に対するあらゆる形態の差別の
撤廃に関する条約を軸に男女平等のための取り組みが積極的に展開され…」とあるように、条
約を解釈基準としながら基本法を適用していくことで、この基本法は日本における男女平等社
会の構築に意義を持つのではないかと考える。
第二節:日本のレポート提出と女子差別撤廃委員会の最終コメントの考察
日本は 1998 年 7 月に第 4 次レポートを、そして 2002 年に第 5 次レポートを女子差別撤廃
委員会に提出し、その 2 つのレポートに対する審議が 2003 年の同委員会で行われた。その審
議や、その後の最終コメントに対応する形で 2008 年に第 6 次レポートが作成され、再び委員
会に提出されることとなった。このような、各国政府と女子差別撤廃委員会とのやりとりのな
かで、いかにして国際社会の意見が国内法に取り入れるようになるのか、照らし合わせて見て
いこうと思う。
2.1
日本の提出した第 4 次第 5 次レポート 31
1998 年に提出されたレポートの主な内容は、前年に改正された男女雇用機会均等法および
育児・介護休業法についての報告や、女性の深夜業等の規制が解消された労働基準法の改正、
また、翌年の法制定に向けての男女共同参画社会形成の促進に関するものが多い。またそれに
伴い、ポジティブ・アクション推進規定やセクシュアル・ハラスメント防止規定がそれぞれ創
設されたことも報告されている。
31
女子差別撤廃条約実施状況報告(内閣府男女共同参画局 HP より)
137
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
さらに、レポートでは上記のような条約実施のためにとった措置だけでなく、慣習・慣行の
なかにある差別や、差別を撤廃するために障害となっているものをも報告しなければならない
(条約第 18 条 2)。これについては、性犯罪など、女性に対する暴力の実態や、売買春の問題、
従軍慰安婦問題、そして、女性の再婚禁止期間や婚姻最低年齢を定めた民法の改正の検討につ
いて、報告がなされている。
それに続く 2002 年の第 5 次レポートでは、1999 年の男女共同参画基本法の公布・施行、そ
れに基づく男女共同参画基本計画の策定についての報告に力が入れられており、この間の政府
による制度の実施努力が大きかったことが感じられる。また前回のレポートに引き続き、女性
に対する暴力に関するものが取り上げられ、新たにストーカー行為の規制や、配偶者からの暴
力(DV)防止や児童虐待の防止などが触れられた。今まで「個人の問題」
「家庭の問題」とさ
れ、目に見えることのなかった女性差別についても、法的に保護される制度が出来上がってき
たといえるだろう。
また、この第 5 次レポートにおいてはじめて「間接差別」について触れられたことは、非常
に大きな意義を持つ。間接差別とは、例えば企業のコース別採用 32などに際し、転居を伴う転
勤に応じることが出来ることを要件とするなど、一見、性別に中立的な要件を設定していても、
実際には一方の性に不利に働くことをいう。この「間接差別」については、実は、第 2 回目の
日本レポート審議の「最終コメント」(1995 年)で、「女性が直面している昇進や賃金につい
ての間接的な差別を取り扱うためにとった措置について報告すべきである」 33として、女子差
別撤廃委員会から勧告を受けていたにもかかわらず、その後 7 年、今回のレポートを提出する
直前までほとんど何の進展もなく、この政府の対応の遅さには後の審議で非難が多くあがった。
しかし、ようやく有識者による検討会が始まり、法規制の盲点となっていた間接差別の禁止に
向け動き出したことは、大きな一歩であると感じる。また、同じく労働の分野から見ると、多
様化してきた就労形態に合わせ、特に女性に多いパートタイムや派遣の労働者に対する就業条
件が整備されたことが報告されたのも、特筆すべきであろう。
2.2
女子差別撤廃委員会での審議と最終コメント
2003 年、国連女子差別撤廃委員会第 29 会期において、第 3 回の日本レポート審議が行われ
た(第 4 次、第 5 次レポートを対象)。審議は、首席代表
34による、近年の主要な取り組み等
についての報告の後、女子差別撤廃委員からの質問や意見に、首席代表および各省庁からの代
表が答える形で進められた。
そのなかで、特に多くの質問が寄せられたものとしては、女性に対する暴力(家庭内暴力)、
雇用問題(賃金格差、間接差別、パートタイム労働等)、民法改正などがある。また、1999 年
に国連で採択された女子差別撤廃条約選択議定書への、日本の未批准についても指摘を受けて
32
コース別採用……採用試験時に、それぞれ条件を設定した総合職と一般職とに分けて採用活動を
行うこと。
33 日本政府訳「日本の報告に対する最終コメント」第 636 パラグラフ
34 坂東眞理子内閣府男女共同参画局長(当時)
138
国
際
法
いる。
審議の終わりに委員長が述べた総括コメントにおいては、男女共同参画社会基本法、配偶者
暴力防止法の制定、男女雇用機会均等法の改正など、日本における法整備の進展に対する評価
とともに、それらの着実な実施や、意思決定過程への女性の参画、固定的性別役割分担意識の
払拭、パートタイム労働や賃金格差など、雇用の問題への更なる取り組みが要求された。また、
レポート作成に引き続き、委員会での審議に際しても約 60 名の日本のNGOが現地入りして審
議の様子を傍聴しており、このような日本の市民社会の高い関心については、委員会からも高
い評価を得たようだ 35。
審議の後 1 ヶ月ほどで、委員会による最終コメントが公表された。また、2 週間もしないう
ちに、政府による仮訳が完成し、内閣府男女共同参画局のホームページで公開された 36。前回
(第 2 回審議)、最終コメントが公表されたのが審議の翌年であったことを考えると、こうし
て即座に、そして誰もがそれにアプローチできるようになったことは大きな進展である。
コメントの中で、まず「肯定的側面」として、「雇用機会均等法」をはじめとする数々の法
改正や、「DV防止法」「ストーカー行為規制法」など、新たな法整備について評価を受けた。
また、前回の審議以降、とくに 1999 年の男女共同参画基本法を軸とし、男女間の平等の促進
に大きな成果をあげたことを高く評価している。次に「主要関心事項及び勧告」として、いま
だ日本において根深く固定的性別役割分担意識が存在すること、政府の間接差別に対する認識
がまだまだ不十分であること、女性に対する暴力の禁止が、身体的暴力以外の形態の暴力を対
象としていないこと、現行民法が差別的な規定を依然として含んでいることなどを指摘してお
り、それらに対し、必要とされる法整備や措置を実施するよう勧告している。特に「間接差別」
については、
「委員会は、条約第 1 条に沿って、直接差別および間接差別の両方を含む、女性
に対する差別の定義を国内法に盛り込むことを勧告する」と明言している。また、第 1 回のレ
ポート審議のときから提起されていた民法改正に関する問題についても、国内での法制審議会
での検討が進行していたため、具体的な内容に関してコメントを受けることはなかったが、結
婚最低年齢や、離婚後の女性が再婚するために必要な待婚期間、夫婦の氏の選択に関するもの、
婚外子の問題などを指摘し、「民法の中にいまだ残る差別的な条項を削除し、立法や行政実務
を女子差別撤廃条約に適合させることを求め」られた。さらに、選択議定書の批准についての
検討を継続することを推奨し、最後に、次回の第 6 次レポートにおいて、これら最終コメント
で提起された個々の問題に対応することを要請している 37。
2.3
第 6 次レポートの提出
2003 年の最終コメントを受け、国内では男女共同参画会議を中心に、引き続き NGO をは
じめとする各種団体からの意見聴取を行い、政府は第 6 次レポートの作成に努めた。
そうして、
女子差別撤廃条約実施状況第 4 回第 5 回報告の審議の概要(内閣府男女共同参画局 HP より)
山下・植野,前掲(注 1),133 頁
37 第 4 回及び第 5 回報告に対する女子差別撤廃委員会最終コメント
(内閣府男女共同参画局 HP よ
り)
35
36
139
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
2007 年に提出された第 6 次日本レポートでは、まず配偶者からの暴力について、2004 年 6 月
に、「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護に関する法律(通称:DV 防止法)」の改正に
より、「暴力」や「配偶者」の定義が拡大され、身体に対する暴力のほか、これに準ずる心身
に有害な影響を及ぼす言動も含めること、離婚後に元配偶者から引き続き受ける暴力又は言動
もこれに含めるものとされたことなどが報告された。
間接差別については、2006 年に男女雇用機会均等法の改正案が可決、翌年に施行され、間
接差別の禁止がはっきりと規定されたことを報告している。具体的には、「労働者の募集又は
採用に当たって、労働者の身長、体重又は体力を要件とすること」、
「コース別雇用管理におけ
る『総合職』の労働者の募集又は採用に当たって転居を伴う転勤に応じることが出来ることを
要件とすること」、
「労働者の昇進に当たり、転勤の経験があることを要件とすること」の3つ
の禁止措置が規定された。また、それまでは、募集、採用、配置、昇進、教育訓練、福利厚生、
..
..
定年及び解雇に際する女性差別を禁止していたが(第 5 条‐8 条)、性別を理由とする差別の
禁止に改定したことも注目すべきであろう。これは、均等法の制定時から指摘されていた「片
面的性格」 38が払拭されたこととして、次回のレポート審議においても良い評価を受けるもの
と思われる。
2005 年に初めて男女共同参画専任の大臣である少子化・男女共同参画大臣が任命され、そ
の下で作成された「第 2 次男女共同参画基本計画」のなかで、根強く残る性別役割分担意識の
改革に力が入れられていることも、報告レポートのなかで大きなウエイトを占める。基本計画
のなかでは、このような意識の改善や男女共同参画に関する認識を深めるための具体的施策と
して「男女共同参画の理念や『社会的性別』(ジェンダー)の視点の定義について、誤解の解
消に努め、また、恣意的運用・解釈が行われないよう、わかりやすい広報・啓発活動を進める」
ことや、「男女共同参画に関する認識を深め、社会的性別の視点を定着させ、職場・家庭・地
域における様々な慣習・慣行の見直しを進めること等を目的として、広報・啓発活動を展開す
る」ことを明記している。
一方で、民法改正については今回の報告のなかではほとんど進展がなく、「世論調査等によ
り国民意識の動向を把握しつつ、結婚に伴う氏の変更が職業生活等にもたらしている支障を解
消するという観点からも、婚姻最低年齢の男女統一及び再婚禁止期間の短縮を含む婚姻及び離
婚制度の改正の是非と併せ、選択的夫婦別氏制度について、国民の議論が深まるよう引き続き
努めている」と報告するにとどまっている。また、女子差別撤廃条約選択議定書の批准につい
ても、「我が国は国際人権諸条約の下での同制度については締結・受入れを行っておらず、現
在検討中である」として、いまだ進展がみられていない。
第三節:各種資料から見る、女性を取り巻く環境の変化
3.1
「事実上の」男女平等は実現したのか
小畑「前掲論文(注 28)
」32 頁
「女性であることを理由とする差別的取扱いの禁止」では
なく、
「性別を理由とする差別的取り扱いの禁止」とするべきであるとの主張は、男女雇用機会均
等法(1985)の立法過程から既に行われていた。
38
140
国
際
法
2007 年の内閣府政府広報室による「男女共同参画社会に関する世論調査」
(図1)によれば、
「男女の地位は平等になっていると思うか」という質問に対し、「平等であると思う」と答え
た者の割合は、
「学校教育の場」で 63.4%、
「家庭生活」で 42.0%、
「法律や制度の上」で 39.5%、
141
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
「職場」で 23.9%、「政治の場」で 23.2%、「社会通念・慣習・しきたり」で 20.2%であった
という。とくに、「職場」「政治の場」「社会通念・慣習・しきたり」で、男女の地位は平等で
あると感じる人の少なさが際立つ結果となっている。
「職場」に限って見てみると、
「男性の方
が優遇されている」とする者の割合が 60.9%(「男性の方が非常に優遇されている」15.7%+
「どちらかといえば男性の方が優遇されている」45.2%)にも上り、現在においてもなお、職
場における男女平等には程遠い現状が窺える。「平等であると思う」と答えた者の割合が、男
性で 30.0%、女性で 18.9%と、男女間で開きがあるのも注目すべきところである。また、意
識調査だけでなく、例えば全国の係長以上の役割に就く女性の割合
39をみても
2004 年の時点
でわずか 6.71%と、お世辞にも高いとは言えない数値であり、条約を批准し国内に数々の法が
整備された今日でも、「事実上の平等」の達成がいかに難しいかが見て取れる。
3.2
制度の普及と、現実とのギャップ
それでは、法制度だけではなく、各企業による取り組みはどうなっているのだろうか。2008
年 5 月に厚生労働省が発表した「今後の仕事と家庭の両立支援に関する調査結果」では、法律
を上回る育児休業制度を導入している企業は、全体では 4 社に 1 社、企業規模 1000 人以上で
は 2 社に 1 社となっており、やはり大企業ほど制度化が進んでいることがわかる。しかし、こ
の調査では、a.対象となる子の上限年齢、b.対象となる従業員の範囲、c.子 1 人について取得
可能な回数、d.休業期間中の金銭支給、のいずれか一つでも法律を上回れば「法律を上回る育
児休業制度を導入している」と回答できることから、実際の制度化はもっと遅れたものと考え
られる。
また、企業規模が大きいほど「子を出産しても継続して就業している」パターンが多い結果
となったが(規模 1000 人以上では 63.5%)、100 人以下の企業ではそのような女性社員が 3
割にも満たないなど、中小企業ではいまだ制度化が進んでおらず、「妊娠・出産を機に退職す
る」もしくは「結婚を機に退職する」パターンが多いのが現状である。仕事と家庭の両立支援
を行っている企業に対し、具体的な制度の内容を尋ねたところ、「短時間勤務制度」が 59.6%
であり、以下、
「時間外労働の制限」が 48.9%、
「深夜業の免除」が 45.6%、
「再雇用制度」4037.6%、
「フレックスタイム制」 4115.1%、「在宅勤務制度」3.4%、「企業内託児施設」はわずか 1.6%
だった。これにもまた企業間で格差があり、
「短時間勤務制度」を導入しているのは、規模 1000
人以上の企業では 86.5%にのぼる一方、10~29 人の企業では 42.3%にとどまっている。
さらに、企業間だけでなく、企業と従業員の認識にもギャップがある。育児休業制度を導入
している企業に、制度の利用しやすさについて質問し、「取得しやすい」と答えた企業の従業
員にも同じ質問をして、企業データと従業員データをマッチングした調査によると、女性が取
得する場合に「取得しやすい」と答えた企業で実際に女性従業員が「取得しやすい」と回答し
各分野における指導的地位に女性が占める割合(内閣府男女共同参画局 HP より)
子育てなどを理由に、仕事を続けたくてもやむを得ず退職した人を再び正社員として採用する制
度。
41 労働者自身が、一定の定められた時間帯の中で始業及び終業の時刻を決定することができる制度。
これにより、たとえば保育所の送り迎えの時間に合わせて仕事をすることも可能となる。
39
40
142
国
際
法
ている割合は 85.1%、男性が取得する場合に「取得しやすい」とした企業で実際に男性従業員
が「取得しやすい」と感じているのはわずか 21.4%であった。このような結果は、短時間勤務
制度の利用しやすさに関する質問でも同じようにみられた。企業側からすればしっかりと制度
を整えているつもりでも、従業員の立場からすると、業務へ生じる支障や上司の無理解、昇給・
昇格への悪影響の懸念といった理由から、積極的に制度を利用しようとする動きが少ないので
はないかと思われる。
3.3
ファミリー・フレンドリー企業表彰にみる、企業の積極的な取り組み
上に述べたように、育児・介護休業法等で整備された法制度をいまだ活用しきれていない企
業・労働者が多いなか、厚生労働省では、仕事と育児・介護とが両立できるような様々な制度
を持ち、多様でかつ柔軟な働き方を労働者が選択できるような取組を行う企業を「ファミリ
ー・フレンドリー企業」として、その取組を讃え、広くこれを国民に周知して、家族的責任を
有する労働者がその能力や経験を活かすことのできる環境の整備に資することを目的に、表彰
を行っている。ファミリー・フレンドリー企業の条件としては、1. 法を上回る基準の育児・介
護休業制度を規定しており、かつ、実際に利用されていること(分割取得できる育児休業制度、
通算 93 日を超える介護休業制度、年 5 日を超える子どもの看護休暇制度など)、2. 仕事と家
庭のバランスに配慮した柔軟な働き方ができる制度(育児や介護のための短時間勤務制度、フ
レックスタイム制など)をもっており、かつ、実際に利用されていること、3. 仕事と家庭の両
立を可能にするその他の制度を規定しており、かつ、実際に利用されていること(事業所内託
児施設や育児・介護サービス利用料の援助措置など)、4. 仕事と家庭との両立がしやすい企業
文化をもっていること(育児・介護休業制度等の利用がしやすい、特に男性労働者も利用しや
すい雰囲気であること、および、両立について、経営トップ、管理職の理解があること等)の
4 つがあげられており、1999 年度から(2007 度からは「均等推進企業表彰」と統合し、
「均等・
両立推進企業表彰(ファミリー・フレンドリー企業部門)」として)実施されてきている。こ
れまでに 30 社以上が受賞し、また、それとは別に各都道府県それぞれに労働局長による表彰
も行われている。2005 年度の受賞企業 3 社(ソニー株式会社、株式会社東芝、松下電器産業
株式会社)だけをみても、それぞれ独自の女性社員支援プログラムを持ち、期間こそ違うが、
最低でも子どもが 1 歳 6 ヶ月となるまで取得可能な育児休暇制度(東芝は子どもが 3 歳となる
まで取得可)や、育児・介護のための短時間勤務制度やフレックスタイム制(3 社とも)、育児・
介護サービス費用の補助(ソニー、松下)、出産や育児のために一旦退職した者のための再雇
用制度(ソニー)などを導入し、従業員一人ひとりが持てる力を発揮できるよう、サポートに
力を入れている。また、制度の充実だけではなく、3 社とも「女性の出産者のほぼ全員が育児
休業制度を利用し、その後復職している」、
「男性の育児休業制度・介護休業制度の利用実績が
多い」など、制度を利用しやすい環境づくりに取り組んだ成果が出ていることも注目すべき点
である。さらに、2006 年度の東海旅客鉄道株式会社の受賞は、男性従業員が大多数を占める
運輸業界で初めての受賞となり、性別による育児・介護休業の取得しやすさの差が解消されつ
つある、よい先例となっている。
143
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
第四章
他国の現状
第一節:韓国における「男女雇用平等法」の現状と課題
今日でもなお、伝統的な儒教精神が根強く残るといわれる韓国社会が女子差別撤廃条約を批
准したのは、日本よりも早い 1984 年末のことであった。その後 1987 年に「男女雇用平等法」
が制定・施行されて以来、男女間の雇用差別の解消、女性の地位向上に努めてきた韓国におい
て、どのような発展がみられ、現在どのような問題を抱えているのだろうか。
1.1
男女雇用平等法と、女性労働者の実態
日本同様、韓国も自国の憲法のなかの平等理念に基づき、雇用における男女の平等の機会お
よび待遇を保障すると同時に女性の母性保護を確保し、職業能力を開発させ、勤労女性の地位
向上と福祉増進に寄与することを目的として、1987 年に「男女雇用平等法」を制定、翌 1988
年に施行された。しかし、韓国はこの男女雇用平等法の導入にあたり、先に導入・実施した日
本の「男女雇用機会均等法」をそのまま模倣したという経緯がある 42。そのため、韓国の社会
に馴染まない部分も多く、以後何度も改正が繰り返された。例えば、男女同一価値労働同一賃
金規定についても、日本の場合、「労働基準法」に規定が盛り込まれていたため、男女雇用機
会均等法にはその条項がなかったが、それをほとんど理解せずに韓国がそのまま模倣して導入
したために弊害が浮き彫りとなり、また自国の既存の法制度との抵触も相次ぎ、度重なる改正
に取り組まざるを得なくなったのである。また、1999 年には、先の男女雇用平等法を強化す
るようなかたちで「男女差別禁止法」が制定され、大統領直属の「女性特別委員会」による調
査・勧告・調停への関与や、平等法にはなかった、公務員をも含む範囲の拡大、職場でのセク
ハラ禁止要綱も盛り込まれることとなった。
このような法制度の整備によって、韓国の女性の働き方はどう変化していったのだろうか。
1988 年の男女雇用平等法制定時には、女性就業者のうち賃金労働者 346 万 7000 人、非賃金
労働者 43は 330 万 4000 人であった。それが、1996 年には、非賃金労働者が 342 万 9000 人と、
あまり変わらないのに対し、賃金労働者数は一気に飛躍して 504 万 2000 人となった。2001
年にはさらに増加して 546 万 7000 人と、1988 年と比べ、実に 35%も増加していることとな
る 44。
しかし、これも一概には男女雇用平等法の実効性に基づくもの、とは言えないようだ。先の
女性の賃金労働者の内訳を見てみると、正規職の増加もあることは間違いないが、それ以上に
臨時や日雇いといった非正規雇用者の増加が著しいからである。また、男女別・学歴別の平均
42
筒井清子、山岡煕子編『グローバル化と平等雇用』
(学文社、2003)74 頁
夫や父親の手伝いなど、一般的な就業というよりも家業的な意味が強い。
44 筒井・山岡,前掲(注 43)
,75 頁;韓国労働研究院『2002KLI 労働統計』
(韓国労働統計院、2002)
21-22 頁
43
144
国
際
法
賃金の推移 45では、平等法制定以前の 1980 年に、女性の平均賃金は男性の 44%であったのが、
2000 年には 65%にまで向上してきているが、いまだ大学卒の女性が短大卒の男性と同等であ
ったり、短大卒の女性は高校卒の男性よりも、高校卒の女性は中学卒の男性よりも平均賃金が
低かったりと、その格差は埋まっていない。さらに、課長以上の役職従事者についても、男性
は全体の 14.3%であるのに対し、女性はわずか 1.6%と差は歴然である。このように、男女雇
用平等法の趣旨とは程遠く、実際の企業内部では女性の差別が蔓延していることがわかる。こ
れについては政府でも、女性の昇進や女性の上級職について、採用目標を拡大するなどの方針
を示しているが、それは公務員を中心とした対策であり、多くの民間企業で働く女性にまで届
かないものであるのが現状である。
1.2
韓国の女性保護規定
韓国においても、「勤労基準法」に基づき、有給産前産後休暇、育児時間、育児休職、配偶
者の出産介護休暇などの母性保護制度がある。男女雇用平等法の制定時には、その取得は女性
に限られたものであったが、1995 年の第 2 次改正時には配偶者も取得できるよう適用対象が
拡大され、同時に、事業主に育児休職奨励金を支給し、育児休職による労働力の不足を補う制
度が新設された。発足時の 1995 年の育児休業取得者数は 500 人にも満たなかったが、4 年後
には約 2000 人にまで増大した。だが、この制度の導入は各事業主の裁量に任されており、代
替労働力の負担増、休職期間の勤続年数繰り入れによる退職金や社会保険料の負担の増大、休
職中の能力低下などを理由に、従業員 300 人以上の調査対象企業 1732 社のうち、わずか 3.2%
の企業が導入しているに過ぎない 46。また、日本と同じように、労働者側にも、社内の雰囲気
への遠慮や、復職の不確実性などを理由に、制度を利用しない人が多い。政府は 2003 年から
支給額を大幅に増加させて制度の普及を図っているが、まだまだ労働者にとっては取得しやす
い状況にはなっておらず、今後の課題となっている。
また、韓国の男女雇用平等法では、女性労働者 300 人以上の事業所に職場保育施設の設置・
運営を義務付け、企業に運営費の 50%の負担を課している。結婚、出産を経て職場復帰した
女性労働者が仕事を継続していくために、保育施設の整備はきわめて重要であるという理由か
ら、先の育児休業制度と併せて、母性保護制度として保育施設の設置を義務付けているのであ
る。しかし、韓国女性統計院の「保育施設および利用園児数」の統計 47から設置状況を見ると、
1990 年から 1999 年の 10 年間で保育施設の総数は 9.8 倍になったが、その内訳を見ると、職
場内施設の数はきわめて少なく、施設数、園児数ともに総計の 1%に過ぎない。
このように、韓国では形式的な改善だけが進行し、男女雇用平等法が目的としたような状況
にはとても到達していない状況が明らかである。また、罰金や罰則規定があるにもかかわらず
違反が相次ぎ、いまだに訴訟は絶えない。これらは、「女性は家庭に」という、根強く残る儒
教的な考え方の現れであると感じる部分が多い。いくら政府が奨励金などの経済的支援を行お
45
46
47
筒井・山岡,前掲(注 43),75-78 頁;韓国統計庁『韓国統計年鑑 第 48 号』
(統計庁、2001)
筒井・山岡,前掲(注 43),78-79 頁;韓国労働部『2000 労働白書』
(2001)
同上,79-80 頁;韓国女性開発院『2000 女性統計年報』
(2000)
145
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
うとも、個人の、そして企業の意識が根本的に変わらなければ決して解決に向かうことはない
だろう。日本にも同じことが言えるが、このような慣習・慣行的な性別役割分担意識を根底か
ら改善するような政策が、いま必要とされているのである。
具体的には、欧米先進国をモデルとした積極的是正措置(ポジティブ・アクション)の必要
性が、より高まってきているのではないかと感じる。北欧諸国では、女性が計画的に子どもを
産み、働き続けられる環境を国家が作り上げたことによって、女性の社会進出が飛躍的に増大
してきた。それぞれの国の状況の違いはあるが、性差別の蔓延している社会では、積極的な是
正制度を確立することが公平の原則に適っているのではないだろうか。こうした具体的な措置
の実施により、まず男女を同一のスタートラインに並ばせ、能力主義の下で男女の力に差異が
ないことが証明されれば、たとえ韓国のように男性中心の社会が形成されてきた国においても、
条約の目的とする「事実上の平等」の実現への道が見えてくるのではないかと考える。
第二節:スウェーデンにおける積極的な男女平等への取り組みとその成果
2.1
平等政策の先駆け
スウェーデンにおける女性の人権確立のはじまりは早く、女性に「働く権利」が認められた
1846 年にまで遡る。その後も 19 世紀のうちに初の女性の労働組合ができるなど、国民の意識
は高く、政府においても女性を保護しながらの権利確立に向けた政策がとられていた。
だが、1960 年代後半の高度経済成長で女性の就労率が高まると、女性の権利確立を目指す
ものから男女平等を目的とする政策へと移行し、それに伴って、税制も夫婦合算課税方式から
個人課税方式へと移行したり、仕事と家庭の調和を問題とした「両性の役割論争」が展開され
たりと、男女平等への流れが活発となった。その流れを受け、1972 年に政府の諮問機関とし
て設置された「男女平等委員会」は『過渡期における男女の役割』という報告書のなかで、職
業活動と家族的責任を男女双方で担う「全人的な人間」の創造こそが、真の男女平等への目標
であると述べている
48。その後も、1974
年に婚姻法が改正され、世界で初めての、両親を対
象とした「両親休暇」の設定や、それまで母親にだけ支給されていた出産手当が父親にも支給
される「両親手当」
(休暇中、給与の 80%の所得補償)となり、両親がともに出産・育児に携
わる機会を制度化したほか、父母が平等に子どもへの扶養義務を担うことなどが規定された。
2.2
条約の批准と、スウェーデンが果たす役割
1975 年の国際女性年を皮切りに、女子差別撤廃条約をはじめとする国際的な動きが活発と
なるが、スウェーデンはそれら国際的動向を先取りし、とくに女子差別撤廃条約の制定過程で
は女子差別撤廃委員会の設置を提案するなど、国際社会において大きな役割を担った。ちなみ
に、歴代の男性の女子差別撤廃委員 2 名はいずれもスウェーデンの出身である。
スウェーデンは 1980 年に女子差別撤廃条約を、2003 年に女子差別撤廃条約選択議定書を批
48
山下・植野,前掲(注 1),540 頁
146
国
際
法
准している。条約の批准や、その後のレポート提出および審議に伴い、適宜国内法との調整を
行ってきたが、そこには女性の人権確立を目的とした法制度の確立だけでなく、それまで女性
の保護として制度化されてきた法にジェンダー視点を導入し改正する動きもみられる。日本や
韓国が「まずは女性の保護、次に男女の平等を」としてきたのに対し、従来から女性の保護や
権利確立に力を入れていたスウェーデンは、いち早く男女の平等、とりわけジェンダー視点の
導入に取り組むこととなったのである。
条約を批准した 1980 年、スウェーデンは「労働生活における男女雇用平等法」を制定し、
同時に設置された男女平等オンブズマンを中心として、男女平等政策を推し進めていくことと
なる
49。大きな飛躍を見せたのは、1988
年に平等のための 5 ヵ年行動計画として掲げられた
「1990 年代中期の男女平等政策」(Mid Nineties Policy)の可決であろう。この行動計画はa.
経済における女性の役割、b.労働市場における平等、c.教育における平等、d.家庭内での平等、
e.女性の影響力の 5 つの分野からなり、従来の平等政策よりも一段と高い水準を設定し、1993
年までに達成すべき具体的な目標を掲げている。例えば、少なくとも 10 の職業分野で男女の
バランスがとれていること、もっと多くの男性が育児休暇を取得すること、公職に占める女性
の割合を 1992 年までに 30%、1995 年までに 40%に引き上げることなどが明記されている 50。
これらはすべて、
「どちらかの性が 40%を占めていれば、男女平等とみなす」という前提に基
づいて設定されている。
また、1991 年には、先の男女雇用平等法を廃止して、新たに「男女機会均等法」を制定し、
行動計画の目標達成のため、制度の強化を行った。男女機会均等法では、男女双方があらゆる
分野で同質・同等の機会を与えられるという、文字通り「均等」を強調したものであった。こ
のような政策の成果は、1994 年に新閣僚 22 名のうち半分が女性となるなど、しっかりと目に
見える形で上がってきており、1997 年には公職に占める女性の比率が、行動計画での目標を
超える 43%に達している 51。
同じ時期には、それまでの両親休暇や両親手当制度の改正も行われ、時間短縮型の育児休暇
の導入や、父親に強制的に休暇を取得させる「パパ月」 52を導入するなど、とりわけ、多くの
男性を育児に参加させるような積極的是正措置がとられた。その結果、父親の育児休暇取得率
は 1996 年に 31.1%、2002 年には 41.6%にまで達し
53、日本のように男性の育児休暇取得者
が極端に少ない国にとってモデルとなるような成果を残している。
このようにして、スウェーデンの男女平等は、その大部分が法などの制度化によって実現さ
れてきた。最近でも、2007 年に世界経済フォーラムが発表した「世界男女格差報告」54におい
て、スウェーデンは、性別による格差が一番小さい国とされる(日本は 91 位、韓国は 97 位)
山下・植野,前掲(注 1),541 頁
同上,542-543 頁;古橋エツ子「スウェーデンの平等法」
(
『国際女性’92』1992)
もし、1992
年までに女性の公職に占める比率が 30%に達しなかった場合は、政府は法律によって制定するとし
た。
51 同上,545 頁、554 頁
52 法律上の権利であるため、例えばその分の休暇を母親に譲ったりすることは出来ない。
53 山下・植野,前掲(注 1)
,547 頁
54 The Global Gender Gap Report 2007(世界経済フォーラム HP より)
49
50
147
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
など、国際社会による評価も高く、その取り組みには見習うべき部分が数多くある。2003 年
の男女の賃金格差(男性を 100 とした場合の女性の賃金)も、日本や韓国が 65 であるのに対
し、スウェーデンは 95 であり
55、事実上、男性と女性の社会的地位の差はほとんどないと言
っていい。日本では、「法律上の平等」に「事実上の平等」が追いついていない現状が指摘さ
れているが、スウェーデンの例は、的確な、そして徹底的な制度化を進めることで、確実に「事
実上の平等」へと近づいていくことが証明された例であると考える。
55
畑・水上,前掲(注 3)
,83 頁 表Ⅲ「世界の男女賃金格差一覧」より
148
国
際
法
終章――結論と課題
以上のようにして、とくに第二次大戦後から現在までのほんの 60 年ほどで、世界の女性を
取り巻く環境はめまぐるしく変化してきた。参政権の獲得に始まり、労働や出産・育児、家庭
生活など、様々な分野での女性差別が禁じられ、それが現在では性別による差別の禁止、両性
の平等へと繋がっている。
しかし、まだ残された課題は多い。一つには、女子差別撤廃条約への留保の多さである。各
国の政治体制、社会的・文化的背景、経済発展の度合い等の違いから、人権の取扱いについて
も各国で様々なとらえ方があり、その結果、人権に関する条約には留保が多く付される傾向に
ある。とりわけ女子差別撤廃条約に関しては各国の慣習・慣行、宗教などの問題も関わってく
ることから、人権条約の中で最も多くの留保が付されている。また、女子差別撤廃条約は一般
的に、
「条約の趣旨及び目的と両立しない留保は、認められない」
(28 条 2)としているが、と
くにイスラム圏において、イスラム法との抵触を理由として、条約 16 条の「婚姻と家族関係
における差別撤廃」のような、女子差別撤廃の中心的分野の条項への留保が付されるなど、そ
の両立性が疑わしいものもある。条約の普遍性と一体性のバランスを巡るこのような問題は、
女子差別撤廃委員会にとっても主要な関心事項であり、過去に 2 度一般的勧告を出し、条約の
趣旨と目的に合致しない留保が多数あることを憂慮したうえで、関係国が留保撤回に向けて検
討するよう勧告しているほか、各国のレポート審議に際して、留保に関わる事実関係を確認し、
留保自体の再検討を要請するなどの対策をとっている。また、人種差別撤廃条約のように、締
約国の少なくとも 3 分の 2 が異議を申し立てる場合にはその留保は認められない(同条約 20
条)とするような、客観的判断の取入れが有効ではないかとする声もある 56。
また留保の問題と並んで、条約の選択議定書に関する問題もある。女子差別撤廃条約の選択
議定書は 1999 年採択、2000 年に発効され、それまでの条約の実施措置(=締約国家による報
告制度)に個人通報制度および調査制度が加わった。個人通報制度は、条約上のいずれかの権
利を侵害された個人または個人の集団が、女子差別撤廃委員会に対して直接申し立てを行うこ
とが出来るというもの、また調査制度は、条約に定める権利の侵害が行われている恐れのある
締約国や地域に対し、委員会が調査・訪問等を行うことが出来るというもので、国家報告では
取り上げられることのなかった問題についても有効であると期待されている。しかしその締約
国数は 2006 年 3 月の時点で 77 カ国と、条約本体の半分にも満たない。その内訳を見ても、
人権意識の高いヨーロッパ諸国や中南米の国家が多く、先ほどあげたイスラム圏の国家のほと
んど、そして日本も、いまだ批准に至っていない。その理由としては、主に自国の司法権との
関係が主張されることが多い 57。以下は日本の主張であるが、個人通報制度が導入され、ある
事案について、条約に基づく委員会が具体的な見解を出すと、当該事案もしくはこれと関連す
る事案に関して、自国裁判官の自由な審理・判断に影響を及ぼすおそれがあり、これは憲法で
規定された「司法権の独立」を侵す可能性がある、というのである。2003 年の日本レポート
56
57
伊藤哲朗「女子差別撤廃条約における留保問題」
(『レファレンス』,平成 15 年 7 月号)18-20 頁
山下,前掲(注 7),71-75 頁
149
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
審議で委員会は、このような日本政府の態度に対し、日本の憲法では本来、条約に司法に対す
る拘束性を持たせていること 58、委員会は司法機関ではないから、司法権を侵害するものでは
ないこと、むしろ司法権の独立を強化するものである、などと指摘している。女子差別撤廃条
約を批准しているにも関わらず、条約上の権利の実効性を高める実施措置(個人通報制度など)
に対して消極的な態度をとることは矛盾しているのではないだろうか。そもそも、第二次大戦
での悲惨な体験から、国家が人権の最終的な砦になり得ないことが人々に認識され、国際人権
保障という法体系が成立してきた 59ことを考えれば、個人通報制度は非常に有効な実施措置で
あり、一日でも早く、そして一つでも多くの国家の批准が求められていると感じる。
条約の目的実現のために、日本がこれから取り組むべき問題はまだまだ多い。上に述べた選
択議定書批准に関することももちろんであるが、他にも、委員会から幾度にもわたり指摘され
てきた民法改正の問題も軽視することができない。例えば、現在の民法では離婚後 300 日以内
に生まれた子は前の夫の子とされることから、それを恐れて出生届を提出せず、結果、戸籍を
持たない子の存在が近年明らかになってきているのである。このようなケースについては、科
学技術の発達によって DNA 鑑定などが可能になるなど、必ずしも期間の制限を設ける必要性
がなくなり、時代に合わせた法制度の改定も必要だとする意見が多くなってきている。
また、職場における女性の参画拡大を目的としたポジティブ・アクションの立法構想も進ん
でいる。政府は、
「社会のあらゆる分野において、2020 年までに、指導的地位に女性が占める
割合が少なくとも 30%程度になるよう期待する」という目標を、2003 年に男女共同参画推進
本部において決定し、2005 年 12 月に閣議決定した「男女共同参画基本計画(第 2 次)」にも
この目標を明記して取組みを進めている。その目標達成のための具体的な措置として効果が期
待されているのが、このポジティブ・アクションなのである。現在、企業(公務員一般事務及
び学校教育を除く)の管理的職業従事者に占める女性の割合はわずか 10%ほどで、目標値と
....
はかなりの隔たりがある。これまでポジティブ・アクションは企業の自主的な取組みであった
が、職場における男女の機会均等が確保され、また企業にとっても社内の活性化や社員の定着
率が高まるなど、制度化により期待されることも多い。その結果によって、例えば、企業に制
裁を科す、といったようなことは難しいと考えられるが、むしろモデルケースとなるような効
果をあげた企業にはプラスのインセンティブ(先の 3 章で取り上げた「ファミリー・フレンド
リー企業表彰」は、そのよい一例である)を与えるなどして、制度の実効性を高めていくこと
は可能である。
女子差別撤廃条約の目的とする「男女の事実上の平等」は、つまりは「個人の尊厳」という
ところに行き着くのではないだろうか。「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、
かつ、尊厳と権利とにおいて平等である」。これは、世界人権宣言第 1 条をはじめ、多くの人
権条約で謳われているが、これこそが男女の人権の中核ではないかと感じる。日本においても、
58
国際法の国内的効力について、日本の憲法秩序は、国際法にそのまま国内法としての効力を与え
る「一般的受容」方式をとっている。日本国憲法(第 98 条 2 項)の解釈として、国際法と国内法
の関係について基本的には一元論を採り、日本が締結した条約と慣習国際法は、特別な立法措置な
しに、そのまま国内法として法的拘束力を有するものとされる。(奥脇直也、小寺彰編『国際法キ
ーワード』(有斐閣双書、2006)36-39 頁)
59 山下,前掲(注 7)
,73 頁
150
国
際
法
憲法 13 条「個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉」で「すべて国民は、個人として尊重され
る。生命、自由及び幸福追求権に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とされている。
ただひたすらに男女の完全な平等を目指すということではなく、それぞれの身体的性差に応
じて、一人ひとりが自分らしく生きる権利や、そのための自己決定権を中心とした人権論が、
いま求められているのではないだろうか。
151
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
参考文献
<参考書籍>
国際女性の地位協会編『女子差別撤廃条約注解』(尚学社、1992)
山下泰子『女子差別撤廃条約の研究』(尚学社、1996)
大脇雅子、中島通子、中野麻美『21 世紀の男女平等法』(有斐閣選書、1998)
山下泰子、戒能民江、神尾真知子、植野妙実子『法女性学への招待』
(有斐閣選書、2000)
筒井清子、山岡煕子編『グローバル化と平等雇用』(学文社、2003)
山下泰子、植野妙実子編著『フェミニズム国際法学の構築』(中央大学出版部、2004)
ヒラリー・チャールズワース『フェミニズム国際法:国際法の境界線を問い直す』(尚学社、
2004)
ヤヌシュ・シモニデス『国際人権法マニュアル
世界的視野から見た人権の理念と実践』(明
石書店、2004)
坂東眞理子『男女共同参画社会へ』
(勁草書房、2004)
山下泰子『女性差別撤廃条約の展開』(勁草書房、2006)
畑博行、水上千之編『国際人権法概論』(有信堂高文社、2006)
奥脇直也、小寺彰
編『国際法キーワード』(有斐閣双書、2006)
<参考論文>
神谷和孝「男女の平等原則に関する一考察
―女子差別撤廃条約を中心として―」(『東海女子
大学紀要』1991)
浅倉むつ子「女性の働き方と法制」
(『ジュリスト』No.1066
1995 年 5 月)
鈴木陽子「女子差別撤廃条約に関する一考察」
(『武蔵野短期大学研究紀要』2002)
伊藤哲朗「女子差別撤廃条約における留保問題」(『レファレンス』No.630
2003 年 7 月)
小畑史子「男女雇用機会均等法の改正と今後の課題」(『法律時報』2007 年 3 月)
山下泰子「国際人権と国内人権:女性差別撤廃条約の国内的適用」
(『国際法学の地平――歴史、
理倫、実証』2008)
<調査結果等>
内閣府男女共同参画局 HP
・女子差別撤廃条約実施状況報告(第 4 回、第 5 回、第 6 回)
・女子差別撤廃条約実施状況第 4 回第 5 回報告の審議の概要
・第4回及び第5回報告に対する女子差別撤廃委員会最終コメント
・北京宣言および行動綱領
・国連特別総会「女性 2000 年会議:21 世紀に向けての男女平等・開発・平和」概要
・第 49 回国連婦人の地位委員会/「北京+10」閣僚級会合について
・男女共同参画社会に関する世論調査(2007 年 8 月)
・女性の参画指数―女性のチャレンジ支援に関する評価方法調査―(2006 年 6 月)
152
国
際
法
厚生労働省 HP
・今後の仕事と家庭の両立支援に関する調査結果(2008 年 5 月)
・ファミリー・フレンドリー企業に対する表彰について
世界経済フォーラム HP
・The Global Gender Gap Report 2007
条文
『国際条約集』(有斐閣、2005)
外務省 HP
.
153
女子差別撤廃条約の批准と各国国内法への影響に関する一考察
あ
と
が
き
今だから言えることですが、私は 1・2 年生の頃、国際法が大っ嫌いでした。と
いうより、大の苦手でした。国際法のテスト前日には、頑張って「可」が取れるよ
うにと勉強していたくらい。そんな私がなぜ国際法ゼミを選んだのか?恥かしすぎ
る理由なので書くのを迷ったのですが……。実は、他の先生の授業を全くと言って
いいほど受けていなかったから、それだけの理由です。あぁ、ほんとに恥かしい…
…。そんなわけで、苦手と言いつつ二年間授業を受けていた山本先生のゼミにお世
話になることになりました。
ゼミに入ってからも、人の発表を聞いて理解するだけで精一杯。自分に発表の順
番が回ってきたときには、1・2 年のときに受けた授業のノートを引っ張り出し、必
死でレジュメを作っていました。でもこうやって、徐々に国際法に興味を持ってき
たんだと思います。
4 年生になり、そろそろ卒論のテーマを……というのが、ちょうど就職活動が一
段落したころで、自分の中で気になっていたこともあり、このテーマでやってみよ
うと思いました。この分野に関しては文献も多くあり、構想も難なく進めていくこ
とができたのですが、先生に「坂井さんのは、まとめ方はいいんだけど、もう少し
オリジナリティが欲しいですねぇ」と言われてしまい…。まるで自分の人間性その
ものを言われているように感じ、ちょっとショックも受けましたが、そのことで逆
に、文献にはない何か新しいことを自分でやってみようという気持ちになれました。
このやる気が、もうちょっと早く出てくればよかったなぁ……。来年からは夏休み
に合宿もあるみたいなので、きっと次の 4 年生ならすごくいい論文が出来るんじゃ
ないでしょうか。
最後に、サークル活動やアルバイトにばかり熱中し、授業にもテストにも真剣に
154
国
際
法
取り組んでこなかった私が、こうして国際法の分野で卒論を書き上げることが出来
たのは、ともにゼミで学び、励まし合い、最後にみんなでオールするほど仲良くな
った 4 年生のみんな、きっと私なんかより断然国際法を理解し、発表の時には鋭い
質問を投げかけ、私のやる気を駆り立ててくれた 3 年生、そして、ゼミや卒論演習
を欠席しがちだった私を見捨てることなく、最後まで細かな指導をしてくださった
山本良先生のおかげです。国際法学ゼミで良かったなぁってつくづく思います。本
当に、ありがとうございました!4 年生のみんな、休みが合ったらみんなでゼミ合
宿にお邪魔しましょう!3 年生のみんな、そして山本先生、どうか O 島くんをよろ
しくおねがいします!(4 年一同より)
本当に 4 年間ありがとうございました!
坂井 万里絵
.
スポーツの裏側に潜む児童労働
-児童労働削減を目指す
法的取り組みに対する考察-
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL137
吹上健太
(論文指導
山 本
良)
.
スポーツの裏側に潜む児童労働
157
【要 旨】
日本にいては感じないことだが、今こうしている間にも世界には労働を強いられている子ど
もの存在がある。物心つかない子どもに対し、肉体的にも精神的にも耐えがたい苦役が課せら
れているのだ。それが「児童労働」という問題である。そしてこの問題はスポーツの裏側にも
存在している。ワールドカップで使われたサッカーボールの生産に児童が携わっていたという
事実は、世界中で広く消費者運動を引き起こして話題になった。幅広い分野において見られる
児童労働であるが、本稿ではスポーツという産業に注目し、この問題に対して考察している。
それは「人々に勇気や感動を与えるスポーツにおいて、そこで使われる道具が児童に強制的に
造らせたものであってはならない」という考えに基づいている。
この問題に対して、国連をはじめとする様々なアクターが取り組みを見せている。国連を中
心に各国は国際的な条約を結ぶなど、20世紀から21世紀にかけて児童労働廃絶に対する枠
組みを作り上げていった。しかし、一向に児童労働がなくなる様子は見られない。では、この
問題に対処していくためにはどういった動きが必要になってくるのか。
筆者は、これに対し、国家による政策だけでは解決できないと考えている。もちろん条約と
いう枠組みが不必要といっているのではない。しかし、単に約束事をするだけでは、強制力を
持たすことはできずに不完全であるのだ。ではいったい、どういった動きが必要になってくる
のであろうか。本稿では、これまでに行われてきた取り組みを挙げ、現状とともにその結果を
考察し、また、児童労働廃絶に向けた新たな取り組みに対しても検討していく。
児童労働は本当に、なくしていかねばならない「悪」なのであろうか。これに対しては議論
があがるであろう。やむをえない児童労働もあるからだ。しかし筆者は、児童労働はなくさな
ければならないと主張する。子どもの未来を奪い、負の連鎖を生み出すような強制労働が存在
するような現状は、変えていかねばならない。それは我々大人がなさねばならないことである。
158
国
際
目
法
次
序章 ................................................................................................................ 160
第1章
児童労働の概念................................................................................ 162
第1節
児童労働の定義 .......................................................................................... 162
第1項 児童労働における「児童」の年齢........................................................................ 162
第2項 「child labor(児童労働)」と「child work(子どもの仕事)」 ......................... 163
第3項 「最悪の労働」に就く子ども............................................................................... 163
第2節
児童労働の実態 .......................................................................................... 164
第1項 児童労働に従事する子どもの数 ........................................................................... 164
第2項 児童労働の地域別分布.......................................................................................... 165
第3項 児童労働の産業別割合.......................................................................................... 166
第3節
児童労働の廃絶はなぜ困難か .................................................................... 167
第1項 児童労働解消の失敗(バングラディシュの縫製工場における実例) ...................... 167
第2項 家庭的・地域的要因~3つの要素........................................................................ 168
第3項 児童労働の需要と供給.......................................................................................... 168
第2章
パキスタンにおけるサッカーボールの生産..................................... 170
第1節
歴史的背景 ................................................................................................. 170
第2節
サッカーボールの製造と児童労働 ............................................................. 171
第 1 項 科学技術のもたらした功罪 .................................................................................. 171
第2項 工場法と下請け制度 ............................................................................................. 171
第3節
第3章
パキスタンにおける児童労働の実態.......................................................... 172
児童労働防止に向けた取り組み―成果と課題.................................. 174
第1節
政府機関による取り組み............................................................................ 174
スポーツの裏側に潜む児童労働
159
第1項 国連の取り組み .................................................................................................... 174
第2項 ILOの取り組み................................................................................................. 176
第2節
非政府機関による取り組み ........................................................................177
第1項 FIFAの概要 .................................................................................................... 177
第2項 労働行動綱領 ........................................................................................................ 177
第3項 FIFAによる活動の限界 .................................................................................. 179
第3節
企業による取り組み ...................................................................................179
第1項 ナイキ社-消費者運動を受けての企業の行動 ..................................................... 179
第2項 リーボック社-ラグマーク運動に見る企業行動規範 .......................................... 180
第4章
児童労働と企業の社会的責任政策................................................... 183
第1節
CSRの背景と企業の「行動規範」 ..........................................................183
第1項 世界情勢 ............................................................................................................... 183
第2項 CSRの手段 ........................................................................................................ 184
第3項 ILOによる「行動規範」に対する見解............................................................. 184
第2節
グローバルな世界におけるCSR政策 ......................................................185
第1項 さまざまなアクターによるCSRの国際規格化.................................................. 185
第2項 CSR政策の特徴................................................................................................. 186
終章 ................................................................................................................ 187
【参考文献】.................................................................................................. 188
160
国
際
法
序章
スポーツは我々を熱狂させ、興奮や感動を与えてくれる。特にオリンピックやワールドカッ
プなどの世界大会においては、国を代表する選手たちの母国の誇りをかけた戦いが繰り広げら
れ、世界中の注目が集まる。昨年の8月に中国において開催された北京オリンピックは、記憶
にも新しいところだ。ところで、オリンピックを初めとするスポーツ競技において、我々はい
かなるところに注目して観戦するであろうか。選手たちの鍛え抜かれた美技、そしてそのプレ
ーから生み出される華々しい記録の数々、または、敗れて涙する選手に共感を覚える人も多い
と思う。しかし、そんな華やかな舞台の上で使われている道具に対してスポットライトが当た
ることは少ない。それが一流技師によるものならばまだしも、そうではない道具に関しては、
どこで作られたものなのか、また、誰がどのようにして作ったものなのか、その背景に注目が
集まることは少ない。100m走金メダリストのウサイン・ボルトが履いたスパイクやサッカ
ーのワールドカップにおいて一流選手たちによって蹴られたボールは、いったいどのようにし
て作られているのだろうか。
これらの実態を調べるうちに、多くのホームページや文献の中で目に入ってきたのが「児童
労働」という言葉である。世界大会に出場するような一流のスポーツ選手が使う、ひいては私
たち日本人が日常スポーツをする際に使う道具の中には、年端もいかぬ子ども達によって作ら
れたものがある。現在、世界では5歳から14歳の子ども2億5千万人が働かざるをえない情
況にあるのだ。こうした子どもたちによる労働は、子どもたちから教育の機会を奪い、将来の
生活を貧窮させるにつながる。また、その子どもたちが大きくなり子どもを持ったとき、次の
世代の子どもたちをも同じ境遇におちいらせる危険性がある。まさしく負の連鎖を導く恐れが
あるのだ。
こうした現状を国連も黙って見ていたわけではない。子どもの人権を守るため、様々な宣言
や条約を実行してきたが、その中でも今年 2009 年は、児童の権利に関する条約(子どもの権
利条約(Convention on the Rights of the Child))が国連総会において採択されてからちょうど
20 年目にあたる年となる。この条約は、子どもの基本的人権を国際的に保障するために定め
られた条約であり、現在、締約国・地域の数は 193 にも昇る全世界的な条約である。また、締
約国となっていない国はソマリアとアメリカの 2 カ国のみというところからも、子どもの権利
を尊重しようという国際的な動きを見ることができる。
しかし、そのような動きの中でも児童労働が完全に廃絶されることはなかった。先に出た北
京オリンピックの中でも、英国BBC放送が「北京オリンピックの公式企業が児童に対して労
働搾取を行っている」と報じ、波紋を投じた。
このような事実をふまえ、この論文では、まず第1章で児童労働の基本的事項、知識につい
てまとめる。児童労働とは一体何なのか、児童労働の実態、そして、なぜ児童労働は廃絶する
ことが困難であるのか、児童労働の存在を検証する。第2章では、そうした児童労働の中から
スポーツに関する事例にスポットを当て考察・検証する。「子どもたちに夢を売るスポーツ業
界が子どもを搾取してはならない」という考えから、その有り様に反する実態を、特にサッカ
スポーツの裏側に潜む児童労働
161
ーボールの生産に注目する。第3章においては、まず、こうした児童労働を解消するために作
られた法規、つまり児童労働に対する政府機関のアプローチを検証し、国際的な動きをつかむ。
また国連やILOの他にも、FIFAという国際サッカー連盟の試みについても考察し、その
功績と課題を浮き彫りにしていく。そして最後に、実質的に児童労働の需要側としてこの問題
に密接に関係するスポーツ産業に注目し、企業の果たすべき責任や、今後のスポーツ業界の児
童労働廃絶に向けた課題に対して論じていく。特にナイキ社による過去の児童労働の実態と、
それに対する世論の働き、そしてその後の活動は児童労働問題全体から見てもさきがけとなっ
た重要な事例であるので、この事例を考察することは児童労働問題を見ていく上で意義あるも
のになる。そして4章において最近注目されているCSR(企業の社会的責任政策)に注目し、
児童労働問題に対する最近の流れと、問題に対するアプローチを考えていく。
本論文は、スポーツという側面から児童労働問題に対し一石を投じようとするものである。
162
第1章
国
際
法
児童労働の概念
児童労働とはいかなる問題であるのか。また、そもそもここでいう「児童」とは一体いかな
る人間を指すのか。単純な話としては、世界では途上国を中心として子ども達が非自主的に働
かされている現状があることは広く知られている。しかし、そこから一歩踏み込んだ細部まで
はなかなか知られていない。そこで、スポーツと児童労働に関して具体的な話に入る前に、児
童労働の基本的定義について明確に理解しておきたい。そこから現在の児童労働の実態を把握
し、なぜ児童労働を廃絶するのが困難なのかという問題を考察していきたいと思う。
第1節
第1項
児童労働の定義
児童労働における「児童」の年齢
まず、国際的に「児童」とは何歳未満の者を指すのか。この件に関しては、今から遡ること
20年前の 1989 年に、国連総会において一つの条約が採択された。
「子どもの権利条約」であ
る。この条約では、児童の人権を守り、児童をめぐる様々な問題について締約国間で遵守事項
が定められた。また、批准国はアメリカとソマリアを除く、193のすべての国連に加盟する
国と地域に及ぶなど、数ある条約の中でも最も普遍的性格をもつものとなっている。
その第一部第一条には、国際的な児童の定義が「児童とは、18歳未満のすべての者をいう」
というように明記されている。これによって、児童労働という分野において扱われる対象を1
8歳に満たない者とすることが、国際的な基準として認識されるにいたった。
さらに、
「児童労働」を明確にする基準として、国際労働機関(ILO) 1が定めた労働に関
する諸条約がある。ここではその中でも特に、児童を保護する目的で定められた、労働年齢に
関する条約に焦点を当てる。それが、1973 年に採択された「就業が認められるための最低年
齢に関する条約」(第138号、通称「最低年齢条約」)である。この条約では、
「児童労働の廃
止と若年労働者の労働条件の向上を目的に、就業の最低年齢を義務教育終了年齢と定め、いか
なる場合も15歳を下回ってはならないものとする」ことが定められている。またこの条約は、
1919 年のILO設立時に制定された工業における就業最低年齢条約をはじめとし、海上、農
業、鉱業など産業別に定められていた十の最低年齢条約をまとめたもので、児童労働が20世
紀前半というかなり早い段階から国際的な問題として認識されていたことを示している。しか
しその一方では、開発途上国などの子どもを労働力として必要と考えている国や地域の反発も
あり、各国の批准が進まない時期もあった。2006 年5月時点において同条約の批准国は14
4ヶ国に達し、日本も 2000 年6月に批准している。
International Labour Organization。1919 年に創設された、国連機関の中でも最も古い機関の
ひとつで、労働に関するさまざまな国際基準を制定している。国際基準である条約の制定について
は、ILO総会において、各国政府代表者のみならず、労働者および使用者を加えた三者構成によ
り審議、採択される仕組みとなっている点が他の国連機関にはない特徴である。
1
スポーツの裏側に潜む児童労働
163
この条約を批准した各国には、国内の労働法において就業最低年齢を定め、それを遵守して
いくことが求められている。たとえば日本においては、労働基準法において「満十五歳に達し
た日以後の最初の3月31日までは、児童を労働者として使用することは禁止」されている。
つまりここでは中学教育を終了する年齢が就労最低年齢となっている。しかし、多くの途上国
においては、義務教育を受けねば(受けさせねば)ならない義務教育年齢が定められてはいるが、
貧困などの原因によりそれが実行できていない現状にあることなどから、このような情況を考
慮して、十四歳からの就業も例外として認めている国もある。ただし、子どもの健康と安全が
守られ、教育の機会が妨げられないことを前提とした「軽易な仕事」については、十三~十五
歳(または十二~十四歳)の就業も認められている。
このように国際的な認識としての児童の年齢は、子どもの権利条約において十八歳未満と定
義されているものの、特に労働に関する就労年齢の観点から見れば、おおむね中等教育が終了
する十五歳未満の児童に対し労働が禁じられている。しかし、それも各国の国内事情によって
ばらつきがあり、明確な基準に達しているとは言いがたい現状にあるといえる。
第2項
「child labor(児童労働)
」と「child work(子どもの仕事)
」
現在の児童労働問題において一番に問題視されていることは、子どもが過酷な条件のもと、
危険で有害な労働に従事させられていたり、経済的に搾取されたりしていることにある。また、
大人からそのような労働を強制されることによって、彼らが勉強したり遊んだりする機会が奪
われ、望まれる人格形成をなすことが困難な点にある。児童が搾取されるこの現状に対し、こ
の問題に取り組むNGOや国際機関の間では「子どもの身体的、精神的、社会的発達を妨げ、
教育を受ける機会を奪う労働」と、児童労働を定義づけている。しかし、ここで気をつけなけ
ればならないのは、子どもによって行われる労働活動のすべてが、児童労働に当てはまるわけ
ではないということである。例えば、日本において、親が自分の子どもに夕飯のおかずを買い
に行かせる「おつかい」という「労働」があるが、だれもこの日常の一コマを児童労働とは言
わないであろう。つまり、児童労働は子どもが従事するすべての労働を指すものではないとい
うことである。この相違を明確にするために、子どもに害のない労働を「子どもの仕事」と呼
んで、区別して定義することとする。この両者の特徴をまとめると次のようになる。
「子どもの仕事」は、子どもたちの年齢や成長に見合った仕事であり、子どもたち自身がそ
の仕事を通じて技術を身につけ、責任感を養っていくものである。また、家族や自分自身の生
活の糧を得て、自国の経済に貢献している場合もある。これに対し「児童労働」は、明らかに
有害で搾取的な労働をいう。これは子どもの権利を侵したり、子どもを危険に侵したり、搾取
したりするものである。極端に言えば、児童労働は「子どもから生きる権利を奪い、発育を阻
害し、教育の機会を奪う、この地球上で最も残酷な労働形態」である。したがって、子どもの
仕事とは全く異なり、ILOやNGOでは児童労働の撤廃を目指し、対象となる児童労働とそ
うではない子どもの仕事との区別をしている。
第3項
「最悪の労働」に就く子ども
164
国
際
法
先に述べたように、「子どもの仕事」とは違い「児童労働」に従事する子どもは、様々なリ
スクを背負っている。精神面から見ても、身体面から見ても、児童労働は子ども達の将来に負
の影響を与えることは明らかである。
そんな児童労働の中でもさらに劣悪な、「最も耐えがたい労働」として分類される仕事に就
く子ども達がいる。「最悪の形態とされる労働」と銘打った労働は、以下の四つのカテゴリー
に分けて定義されている 2。
(a)児童の人身売買、武力紛争への強制徴収、債務奴隷を含むあ
らゆる形態の奴隷労働またはそれに類似した行為、(b)売春、ポルノ製造、わいせつな演技
のための児童の使用、(c)薬物の生産、取引など、不正な活動に児童を使用、斡旋または提
供すること、(d)児童の健康、安全、道徳を害するおそれのある労働、である。これら定義
されたものについては、たとえ就労最低年齢である十五歳(または十四歳)を超えていても、十
八歳未満の児童がその労働に従事することを禁止している。
こうした最悪の労働に対して、まずはこれらの児童労働からなくしていこう、との国際的な
共通認識を背景にして、1999 年に「最悪の形態の児童労働の禁止及び撤廃のための即時の行
動に関する条約」(第一八二号、通称「最悪の形態の児童労働条約」)が採択された。これは、
条約発効後最も早いスピードで批准され、2004 年 11 月時点でILO全加盟国 170 ヶ国中 150
ヵ国が批准している。日本も 2001 年6月に批准している。
また、この条約には、これら最悪の形態の児童労働を防止するだけではなく、児童がそのよ
うな労働に従事していた際には解放し、回復、社会統合させるよう支援すること、無償の基礎
教育や職業訓練を提供すること、特別な危険にさらされている子ども達を特定し、支援するこ
と、女児の特殊な情況を考慮することなど、児童労働問題に対し積極的な解決方法を提示して
いる。
第2節
児童労働の実態
ここでは、より正確に児童労働の現状を把握するために、統計を整理していきたいと思う。
しかし単に統計と言っても、その資料は政府機関の発行するものもあればNGOの団体による
ものもあるなど多岐にわたっている。また、その統計間においても数字に開きがあるなど一致
したデータが出ていないことが多い。本来ならばその一つ一つのデータを比較検討し、調査年
代や調査の方法などから採用すべき情報を絞らなければならないが、それではこの論文の本筋
とは離れてしまうので、ここでは多くのNGOなどが採用しているILOの数字を中心に考察
していく。
第1項
児童労働に従事する子どもの数
まずはILOのデータを用いて児童労働に従事している子どもの数を見ていく 3。2005 年の
ILOによる調べによると、五‐十七歳の子どもの約 2 億 4600 万人が児童労働を課される状
2
3
OECD編著『世界の児童労働』(明石書店、2005 年)より
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/index.htm より
165
スポーツの裏側に潜む児童労働
態にある。これは世界中の子どもの六人に一人が働いているということになる。しかもその内、
最低年齢条約によって定められた十五歳を下回る者の数が 1 億 8600 万人と、三分の二を上回
っているのである。十歳未満に限定しても 7300 万人と、驚くべき数の子ども達が労働という
情況の下にある。
また、児童労働の中でも特に悪質な「無条件に最悪な児童労働」をしている子どもの数は 840
万人にものぼり、その内訳を見ると、「強制労
働・債務労働」が一番多く 570 万人、次に多い
のが「売春・ポルノ」で 180 万人、次いで「強
制的な子ども兵」が 30 万人を数える。前頁に
載せる図1のピラミッドは、ILOのホームペ
ージから引用したものであり、経済活動に従事
する子ども達の割合を視覚的に表したもので
ある。ここで一五‐一七歳の子どもの内で、認
められる経済活動の割合が高いのは、日本など
でもアルバイトが認められる年齢ということ
もあり、「子どもの仕事」に従事する子どもが
合法的に増えたためと考えられる。
図1 《http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/numbers/index.
第2項
児童労働の地域別分布
児童労働に従事する子どもの数は、上述したように 2 億人を大きく上回る。では、そのよう
な子ども達は世界のどのような地域に住んでいるのであろうか。再びILOの出している統計
地域
働く子どもの数
(単位:百
全体に占める割合(%)
子どもの総数に対する
働く子どもの割合(%)
万)
先進工業国
2.5
1
2
移行経済諸国
2.4
1
4
アジア太平洋
127.3
60
10
南米・カリブ海
17.4
8
16
48
23
29
中東・北アフリカ
13.4
6
15
合計
211
-
16
サハラ以南アフリカ
図2《http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/numbers/index.htm》
166
国
際
法
を参照することにする(図2参照)。これによると、児童労働の中でも特にその影響が問題とさ
れる五歳から一四歳までの働く子ども達の内で、60%にあたる 1 億 2700 万人がアジア太平
洋地域に住んでいる。また、児童労働者の割合が最も高いのはサハラ以南のアフリカ地域で、
約 30 パーセントと、三人に一人が労働に従事している現状にある。つまり、多くの人が想像
するように、児童労働は先進国よりも開発途上国において顕著に存在していることが示される
結果となった。しかし一方で、先進国において児童労働がまったくないかというとそうとは言
えない統計も出ている。割合的には途上国に比較して大きくはないが、先進国でも 250 万人に
ものぼる児童が経済に従事していることが分かっている。
第3項
児童労働の産業別割合
児童労働がいかなる分野において多く見られるのか、産業別の割合を見ていく。すると偏っ
た結果が見られる(図3参照)。全体の約 70 パーセントの子どもが農業・狩猟・林業・漁業の分
野において児童労働に従事している。約 8 パーセントが製造業、同じく 8 パーセントで卸売業・
小売業・レストラン・ホテル業。6.5 パーセント家事サービス労働などの地域・社会・個人サ
ービス業。約 4 パーセントが輸送・通信業。約二パーセントが建設業。そして約 1 パーセント
が鉱業・採石業で働いている。
図3《http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/facts/numbers/02.htm》
やはり、熟練した技術を持たない児童が働く場を考えたときに、一次産業における仕事に偏
りが出ることは至極当然のことである。また、サービス業においてあまり児童を働かせていな
いという事実からも、児童労働を明るみに出したくない雇用主側の思惑が見て取れる。しかし、
鉱業や建設業といったような熟練した技術を備えた大人であっても危険な仕事に、比較的少な
いながらも従事している子どもが存在するということは、安全性を考える上でも決して見逃す
ことのできない事実である。どのような形でも児童労働は子どもたちにとって有害なものであ
るが、鉱業で働く子どもたちは特に危険にさらされているという。世界中の鉱山や採石場で、
スポーツの裏側に潜む児童労働
167
子どもたちは危険で汚い環境で働き、健全な身体と心がひどく損なわれているのだ。大人にと
って危険度が高い作業は、子どもにとってはさらに危険性が高く、毎日のように重傷を負う危
険性と隣り合わせにあり、さらには死亡することすらある。適切な医療が受けられないと、仕
事中に受けた怪我や健康被害によって、一生影響を受けることもあるのだ。
第3節
児童労働の廃絶はなぜ困難か
ここまで、児童労働についての基本的事項について確認してきた。発展途上国を中心として
世界中にこの問題は広がっているのだが、ではなぜ児童労働はなくならず、このような広がり
を見せているのであろうか。そこにはいくつかの要因が考えられる。
第1項
児童労働解消の失敗(バングラディシュの縫製工場における実例)
児童労働を廃絶する難しさは、その問題の複雑さにある。単に「子どもを雇用しないこと」
だけでは児童労働問題の解消には行き着かないのである。児童労働を防止しようとして失敗し
た過去の有名な実例としては、バングラディシュの縫製工場において起こった例が挙げられる
4。
それは一九九三年に起こった。アメリカで上院議員が児童労働によって作られた製品の輸入
を禁止する法案を提出したのだ。輸出の指し止めを恐れた業者は、工場で働いていた子ども達
を急に解雇した。これによって突然職を失った子ども達の多くは、ストリートにおいて非行や
売春に身を投じてしまった。つまり、先の上院議員が取った政策は、言うまでもなく子ども達
を児童労働という搾取の実態から解放しようとする気持ちからのものであると思われるが、結
果的に子ども達を救うことはできず、「負のスパイラル」に陥らせてしまったのであった。こ
の例からもわかるとおり、働いて収入を得ることによって家族や日々の生活を支えている子ど
も達が働かなくてもすむようになるためには、その労働によって得ていた分に相当する代わり
の収入が必要となる。また、児童労働が見られる多くの社会においては、成人労働者の失業が
問題となっていることが多い。そういった社会においては、法的最低賃金や基本的な労働環境
が保障されていない場合も多いのである。インドにおけるサッカーボールを生産する産業にお
いても、ボール縫製に対する一日あたりの報酬は多くても 20~30 ルピー(約 60~90 円)で、法
定最低賃金である 63 ルピー(約 190 円)を下回る水準となっていたという報告もある。劣悪な
労働環境により子ども達の親の健康が害され、子どもが働かなければならなくなるというケー
スが多く見られているのだ。
しかし、単に労働環境を守るだけでは子どもが働かなくても済む環境を作ることができない。
そもそもその地域に雇用機会の選択肢がないこと、つまり、親たちの働くべき環境の整備がな
されていないことが、収入の不安定や労働搾取の要因ともなり、ひいては子ども達の労働を促
進する要因となってしまっているのである。
4
白木朋子「グローバリゼーションと児童労働」『法律時報』第77巻第1号(2005 年)44頁よ
り
168
第2項
国
際
法
家庭的・地域的要因~3つの要素
児童労働がなくらない要因として忘れてはならないのは、そうした問題に直面する子ども達
の身の回りの情勢である。主に考えられるのは「教育機会の欠如」、
「貧困」、
「伝統」といった
3つの要素であり、これらは子ども達を取り巻く環境によって受ける影響が大きい。
まず、教育機会の欠如に関してだが、子どもが学校に行き、きちんとした教育を受けること
をせず働かざるを得ない環境にあることには多くの理由がある。多くの国においては、日本と
は違い基本的な読み書きを教える基礎教育が有料となっている。また、教育サービスの普及程
度も不十分なため、すべての子どもが学校に通うことができる環境にはない。仮にその地域に
通うことの可能な学校があったとしても、教育の質が不十分であったり、内容が不適当であっ
たりする場合がある。こうしたことから、両親が子どもを学校に通わせることによる教育のメ
リットを見出さない場合には、子ども達は学校に行かずに働き手として労働に駆り出されるこ
とになる。子どもがどの程度の教育を受けるかの決定権は、普通親が持っている。こうした国
において、こうした親のもとに生まれた子ども達からは必然的に教育が奪われ、労働に従事し
ていくことになる。
次に貧困についてであるが、まさにこの貧困は子ども達が働く最大の理由であるといえる。
子ども達が世帯所得の四分の一程度を稼いでいるような貧しい家庭においては、エンゲル係数
が高い傾向にあり、収入の多くが食料に充てられるため、働く子ども達の収入が家族の生存に
とって非常に重要なのである。つまり、家族が生きていくためにはこども達による労働が欠か
せないのである。
最後に伝統についてだが、これによると、各地域の昔からの慣わしが子ども達を労働に縛り
付けている。伝統的に見ると親の職業を子どもが受け継ぐと言ったケースが多く見られる。日
本でも見られるように、家業を受け継ぐといったことは珍しいことではない。もし家族が危険
な仕事についていれば、その子ども達も同じ職業に取り込まれていくだろう。また、賃金の支
払いがその生産に応じた出来高払いの産業においては、子どもは必然的に親の仕事を手伝うよ
うに強要され、児童労働へと引き込まれていく。これは建設業や家内産業において共通して見
られる慣行でもある。
このように子ども達を取り巻く環境が、子ども達を教育に向かわせずに労働へと導いている
一つの要素となっていることに注目したい。そしてこのような要因は根深いものであり、簡単
に解消できるものではない。ここに児童労働の要因を見出すことができる。
第3項
児童労働の需要と供給
児童労働を廃絶することが困難である理由として、最後に児童労働に対する需要側と供給側
の立場をそれぞれまとめていきたいと思う。
まずは需要側、つまり子どもを働かせたいと考える大人、企業側から見る。児童を働かせる
ということは、違法であり、国際的に見ても批判される行為であるし、それをなくしていかね
スポーツの裏側に潜む児童労働
169
ばならないことを使用者は知っている。しかし子ども特有の身体的特徴がそれを上回る児童労
働の需要を生み出しているのだ。たとえば、子どもの小さな手は特定の仕事を行うのに非常に
効果的であると言われている。また、児童労働者はより従順で訓練しやすく、一部の雇用主に
とっては職場の機能と言う観点から、より好ましい労働力であるという。しかし前者に対して
は根拠となる証拠が乏しく、確かな理論であるとは言いがたく、子どもが固有の貴重な特徴を
持っているかどうかについては疑問が残るところである。だが一方で、児童を雇うということ
は、大人を雇うよりも低賃金で雇うことができるため、低コストでの生産が可能となることは、
企業にとって児童労働を続けるメリットとなっているのであろう。
次に供給側、つまり児童を働かせたい、または働かなければならない立場に立つと、先ほど
の貧困の要因においても述べたように、生活していくために子どもが雇われねばならない状態
にあるのである。現実の話として、児童自身が親の家計を助けたいがために学校に行かず、働
きたいという希望を持っている子もいる。また、このような家庭においては、家族が負債を抱
えているなど、子ども達までその脅威にさらされていることが多く、有害で強制的な児童労働
や、家族の負債を帳消しにするため売られていく子ども達もいる。
このような需要側、そして供給側の双方の利害が図らずも一致してしまっている、つまり、
子ども達を働かせるという要求において両者が一致してしまっていることが、児童労働問題を
より複雑に解決を難しくしてしまっている原因として考えられる。しかし、忘れてはならない
のは、働いているのは子ども達であるということだ。しかも児童労働の問題として悪質なのは、
彼らは労働に従事するために教育というかけがえのない財産を得る機会を失っているという
ことである。そうして子ども時代において教育やゆとりの機会を失った子どもは、自分が大人
になり子どもを授かったときに、再び同様の「教育」をつける危険性がある。つまり永遠に抜
け出せない負の連鎖を引き起こす。児童労働の問題を放っておけば、現在のグローバル化した
世界に広がる経済格差は一向になくなりはしないのである。
170
第2章
国
際
法
パキスタンにおけるサッカーボールの生産
1章で見てきたように、現在、世界では多くの子ども達が働かされ、労働という搾取の手か
ら逃れられず、満足な教育を受けられないでいる。では、こうした児童労働は、いったいいつ
ごろから国際的な関心事項となったのであろうか。それは今から15年前、1994 年前後のこ
とであった。サッカーボールの多くがアジアの発展途上国において生産され、しかもその過程
には子ども達の労働力が使われているという現状が、マスコミによって世界に報道されたので
ある。これによって、児童労働という問題が現代においても存在することが広く知れ渡り、消
費者一人一人の関心を引き寄せる結果となった。いわば児童労働問題のさきがけといえる出来
事である。本章では、アジアの中でも特に児童労働が顕著に見られたパキスタンを中心に、華
やかなサッカー界の裏側に潜む児童労働を考察する。
第1節
歴史的背景
現在、日本も含めた世界中で使われているサッカーボールのほとんどが、パキスタンにおい
て製造されている。もちろん、日本やドイツといった先進国において作られていないというこ
とではないが、こうした国では人件費が高くつくため、一つのボールを生産するのにかかるコ
ストが割高になってしまう。そのため、先進国において作られるボールは、もっぱら「機械」
を用いて皮を張り合わせている。しかし、公式試合においては「手縫い」によって作られたボ
ールの使用しか認められていないため、その生産は人件費の安い発展途上国に偏りがちになる。
手縫いのサッカーボールの生産が多いのは、先ほど挙げたパキスタンの他に、インドや中国、
インドネシアなどの国が挙げられるが、中でもパキスタンが約70%と、全体の7割近くを占
めている 5。そこで、本論文においてはパキスタンを考察の対象とする。
パキスタンにおけるサッカーボールの生産は、パンジャブ地方にあるシアルコット(Sialkot)
市とその周辺の農村部において顕著に見られる。この場所は、インド国境と十数キロしか離れ
ていない場所に位置している。今から約 80 年前、サッカー発祥国と言われるイギリスにおい
て、サッカーを普及させるために多くのボールが必要となった。そこで、当時イギリスの植民
地であり、当時のボールの材料となる牛がたくさん生息していたインド帝国においてその生産
がおこなわれるようになった。このころのサッカーボールは、豚や牛の膀胱を膨らませ、それ
に牛皮をつけることによって作られていたが、これらの膀胱は時間がたつと固くなり蹴ると破
裂して使い物にならなくなっていたため、大量の膀胱を必要としていたのである。
しかし、インド帝国はもともとヒンズー教を信仰する国であったため、ヒンズー教徒が牛皮を
とるために意図的に牛を殺すことはありえなかった。また、1947 年制定のインド憲法において
は、その48条に「牛、子牛その他の搾乳用および農役用家畜の屠殺の禁止」と定められている。
さらに州法によって牛の屠殺を禁止している場合もある。そこで、インドにおいてサッカーボー
ルを生産する際に必要となる牛は、病気や老衰によって死亡した場合のみ、その皮を入手するこ
とが可能であった。つまり、生産効率の観点から言えば、まことに不都合な状態にあったのであ
5
香川孝三「パキスタン・インドにおけるサッカーボールの生産と児童労働」
『国際協力論集』第1
0巻2号(神戸大学大学院国際協力研究科、2002 年)32頁より
スポーツの裏側に潜む児童労働
171
る。これに対し、イスラム教においてはこのようなタブーは存在していなかったので、人為的に
牛を殺して皮を利用することができた。そこでイスラム教徒の中には、屠殺業や牛の原皮を販売
する事業に従事する者がでてきた。このことから、イスラム教徒の多いパキスタン領内のシアル
コットに生産拠点を設けることとなったのも当然とうなずける。また、宗教による対立の危険性
を考えても、ヒンズー教徒が多く住む場所において、牛の屠殺をはじめとするサッカーボールの
生産を行うと、そのイスラム教徒を襲う暴力事件が起きる可能性も否定できないので、パキスタ
ンにおいてサッカーボールの生産が増えたという歴史が作られてきたとみる。
第2節
第1項
サッカーボールの製造と児童労働
科学技術のもたらした功罪
パキスタンにおいてサッカーボールの生産が進んだ理由は、前節で述べたとおりであるが、
ではサッカーボールの生産と児童労働との間にはいかなる関係が存在するのであろうか。その
背景には、サッカーボールの生産形態と技術革新がある。過去においては、サッカーボールの
生産には熟練した技術が必要とされ、成熟した大人しかその業務を受け持つことができなかっ
た。しかし、科学技術が高度化し、世界的に技術革新が起こると、実際に人間が行う仕事には
単純作業が増え、高い技術を持ち合わせない子どもでも就労することが可能になった。生産様
式の革命が起こったのである。
技術革新が起こる前までのサッカーボールの生産は、1つ1つ手作業で行われていた。表面
の材料となる牛皮を正確な大きさ・形の一枚一枚のパネルに裁断し、それらを完全なる球体と
なるようつなぎ合わせなければならなかった。また、国際サッカー連盟(FIFA)が試合球と
して定める国際的基準は、とても厳格に定められている。重量ならば16オンス以下、14オ
ンス以上(396~453 グラム)、空気圧は 0.6~0.7 気圧、といったような細かい規定だ。この
ような条件に合うようなボールを作るためには、高度に熟練した技術が必要とされたのだ。
しかし、こうした熟練の必要性は技術革新後に一変する。作業工程に機械が導入されるよう
になったのだ。一枚一枚のパネルを正確に裁断することが容易になり、空気入れ部分の製造に
も高度の熟練の技術が不要となった。パネルを縫い合わせるにしても、非力な子どもの力でも
可能になった。さらに、作業の単純化によって家庭での内職としてボールを縫い合わせる作業
がこなせるようになったのである。また、イスラム社会の慣習も大きく関わってくる。女性が
家庭の外に働きに行くことに抵抗があったため、家庭内においてこなせる仕事が好まれたのだ。
こうした結果、家庭での仕事が増え、自然と子ども達が親の仕事の手伝いとして労働に従事す
る形態がつくられていったのである。
パキスタンにおいてサッカーボール生産の歴史が始まったのは、80 年も前のことであるが、子ども
が縫い合わせ作業に従事し始めるのは、わずか30年ほど前のことである。人々の暮らしを楽にし、
また豊かにしてきたはずの科学技術であるが、その一方では、労働の可能性を技術を持たない子ども
達にまで広めてしまった。このように科学技術の発展がもたらしてきた功罪を見逃すことはできない。
第2項
工場法と下請け制度
172
国
際
法
いかなる生産者も、経済の原則にのっとれば効率を重視する。製品にかかるコストを低く抑
えることを望む。しかし、それが児童労働を引き起こす要因となりうる場合もある。そして、
サッカーボールの生産においてもそれが見られた。それは、工場における労働条件を規律した
「工場法」の盲点ともいうべき点であった。
まず、工場法の適用範囲を確認すると、動力を用いる場合には 20 人以上、動力を用いない
場合には 10 人以上雇用している事業所に適用することとなっている。この適用を受けると、
労働者は労働条件の規制を受けるのである。つまり、雇用者にとっては思うような生産活動を
することが難しくなり、生産コストの上昇を避けられない。そこで、この工場法による適用を
逃れるために下請け制度を利用するようになる。この制度を利用すれば、工場法による規制を
受けずに済むし、10 人未満の事業所であれば、労働法規の適用を排除できるからである。
さらに下請け制度を使うと、直接的にアディダスやナイキといったような製造/輸出会社は、
製品が作り出される過程においての仕事を監視する必要がなくなる。間に立つ仲介業者がその
業務を担当するからである。つまり法的にいえば、パキスタンの家庭において子どもにサッカ
ーボールを作らせるといった児童労働の実態が存在したとしても、先に挙げたようなメーカー
が責任を負う必要がなくなるのである。このようなメリットからメーカーの間では、工場法の
適用を受けないために下請け制度を利用する手段が一般化しているのである。
また、家内工業を利用することによって、注文量にあわせた生産が容易になるという利点も
ある。家内工業においては、急ぎの注文があれば仲介業者を通じて無理が効くし、注文が少な
くなったとしても、同様の手段で仕事の量を減らすことが容易だからである。つまり、仲介業
者を通じて、生産を意のままにコントロールすることができるのである。急な注文に対処し、
また、生産過剰もなくすことによって、生産者にとってコストパフォーマンスは上昇する。し
かし、このことは反面、家内工業に従事する者の地位の低さを反映していることを見落として
はいけない。工場法によって児童労働を規制するには限界があるのである。
第3節
パキスタンにおける児童労働の実態
2 項まで、パキスタンにおける児童労働の背景を述べてきたが、では実際、当地においてサ
ッカーボールの生産に従事している児童はどのくらいいるのであろうか。また、どのような環
境において労働に従事しているのであろうか。
サッカーボールの生産において児童労働がみられるシアルコットでは、ILOの協力を得て、パキ
スタン労働福祉省が 1996 年に調査を行っている。それによると 7000 人以上の児童が働いているとい
う報告がなされている。また、彼らの賃金は出来高払い制であり、1 個いくらというように定められ
ている。シアルコットにおいては、サッカーボールの生産は大人が作ったとしても 1 個 20~30 パキ
スタン・ルピー(日本円で 60~90 円)にしかならず、児童の場合には平均して 1 個 20~22 パキスタン・
ルピーにしかならないという。児童の能力を考慮すると、1 日に1個作るのがやっとだという。
さらに問題となっているのは強制労働(債務労働)がみられることである。親が仲介業者から借金
をして、その返済のために親とともに児童も働くと言う事態が生じているのだ。シアルコットに
おける調査によれば、そういった家庭においては 1000~5000 パキスタン・ルピーの借金を抱えて
いるという。彼らの労働に対する手間賃から借金を返済してはいるが、その借金に上乗せされる
スポーツの裏側に潜む児童労働
173
利子が高く、児童を含めて働いても返済が容易ではない仕組みになっている。シアルコットにお
いては、13%の親が平均 3000 パキスタン・ルピーの借金を抱えているという報告もなされている。
また、こうした賃金の低さのほかに問題として挙げられるのは、子ども達が労働に従事する
環境である。彼らの大半は暗い部屋で作業をしている。これは集中力を失わないで作業ができ
るようにという配慮からのものといわれているが、それだけでなく、外部からの調査に来る者
が撮影しにくいようにという意図もあるとされている。パキスタンの地域は、非常に暑い地域
である。その暑さを防ぐように、もともと窓から光が入らないように家を作るのが普通である
ので、部屋が暗い場合が多い。問題は、仕事中における失敗を処罰することである。倉庫に閉
じ込めたり、柱につるしたり、むちで打ちつけたり、食事を抜かしたりという人権を無視する
扱いがなされているとの報告があるのだ。仲介業者が直接工場を経営している場合には、たい
てい罰を課すための部屋が設けられている。まるで奴隷のような扱いである。
間違って縫いつけたり、材料を無駄にしたりした場合には、手間賃からその失敗分が差し引か
れる。これは現在の日本においてもおこりうることであるし、合理性がある。しかし、児童が対
象となった場合、十分計算のできない弱みに付け込み、業者がピンはねをする場合もある。この
ような取り扱いに児童自身が抗議する手だてがないのだ。抗議すればただちに請負契約や雇用契
約が切られるであろうし、そうなればその日から生活していくこと、生きていくこと自体困難に
なるであろう。日本のような公的扶助(生活保護)の制度はないし、労働組合に期待することもで
きない。公的機関の労働監督に期待することもできない。そもそも家庭で仕事をしている児童は
工場法や児童労働禁止法の対象とはならないし、そうでなくとも労働監督を担当する者が使用者
側や仲介業者から賄賂をもらいつながっている場合があるからである。このような状況において、
労働に重視する子ども達は、ほとんどの場合泣き寝入りをする道しか残されていないのである。
また、こうした環境のもとで働く子ども達には職業病ともいえる体へのリスクも心配される。
長く縫い合わせ作業をしていると、座って作業をするのでひざを痛める危険性があるし、パネ
ルが固いために縫い合わせる際に指を痛めることもある。さらに先ほども述べたように暗い場
所において作業をするので、視力が悪くなるという点も見られる。
知識面における学業の不十分さも指摘される点である。児童が働いている場合、学校での勉
強はどうなっているのであろうか。シアルコットでの調査によると、88%の児童は家庭で働き、
残りが事業場で働いている。70%の児童が1日平均8~9時間仕事をしている。28%の児童は、
1 日平均 10~11 時間働いている。労働時間に応じて賃金が支払われているわけではないので、
製作するボールの数をこなすために長時間働かざるを得ないのであろう。働いている子どもの
平均の年齢は 12 歳であり、10 歳~14 歳までの子どもが最も多い。男子の 19%、女子の 36%
は学校にも通っていない。女子の割合が高いのは、男子に優先的に教育を受けさせようとする
親の意識の現われと見ることができ、これは戦後期までの日本にも見られた傾向である。満足
のいく教育を受けられないということは、将来もこうした情況下における労働から逃れられな
い可能性が高い。その子どもにも同様の情況を強いることになれば、まさに負の連鎖が続いて
いくことになるであろう。児童労働の最大の問題点は、こうした「世代を超えた搾取」にある
と考える。こうした情況は、必ずなくさなくてはならない。
174
第3章
国
際
法
児童労働防止に向けた取り組み―成果と課題
前章で述べたように、サッカー界には児童労働という負の側面が存在している。こうした児
童に対する労働の強要をなくすために、いったいどのような対策がなされているのであろうか。
この章ではまず、児童労働に関連する国際条約を概説する。これはILOといったような国際
機関によって主導され、政府の間において結ばれる。つまり国家による児童労働廃絶に向けた
行動である。次に、世界的なスポーツ団体(FIFAなど)に代表される政府ではない組織の
取り組みについて述べる。そして最後に、消費者の一番身近に位置する各企業の試みをまとめ
ていきたいと思う。これまで児童労働をなくすために、さまざまな法が作られ、また条約が結
ばれてきた。しかし、児童労働はいっこうになくなる気配を見せない。そうした中、「国家」
ではない主体による取り組みがどのような役割を果たしているのであろうか。
第1節
第1項
政府機関による取り組み
国連の取り組み
基本的労働権に関わるグローバルなアクターは多くあるが、公的基準の設定とその順守に携
わる主要なアクターは、同分野で法的拘束力のある国際条約を形成する国連とILOである。
まずこの項では、国連による児童労働に対する法的取り組みを確認していく。
児童および児童労働に関する先駆的で国際的な文書は、国際連盟において 1924 年に採択され
た「児童の権利に関するジュネーブ条約」が挙げられる。この宣言は、
「児童は生計を立て得る
地位におかれ、かつ、あらゆる形態の搾取から保護されなければならない」と述べている。また、
児童労働について国連が大きく関与している宣言の一つに、1948 年に出された「世界人権宣言」
がある。
「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準」として出されたこの宣言は、
法的拘束力は有しないものの、世界的なレベルですべての人に適用できる人権の概念を体系的に
明確にし、その後のこの分野における運動や法的枠組みの形成を世界的に促した。
世界人権宣言において、児童労働と特に関係が深い条項を確認すると、まずは第2条の「正当な
理由がない、あるいは正当化されない区別によって人間が差別を受けることへの禁止」が挙げられ
る。また、第4条の「奴隷制度および奴隷売買の禁止」も挙げられる。現在では、この奴隷状態の
概念には、強制労働や債務労働、子どもや女性からの搾取も含まれるとする意見が通説である 6。第
7条の「法の下の平等と保護への権利、および、世界人権宣言に違反する差別への保護」や、第8
条「基本的人権が侵害された場合に効果的な救済を受ける権利」も、児童労働の遵守に関係性があ
ると考えられている。さらに、第16条3項の「家庭が社会および国の保護を受ける権利」
、第20
条の「平和的集会および結社の自由、および、結社に属することを強制されない権利」などがある。
これら21条までは、主に自由権あるいは市民的・政治的権利を中心に取り上げているのに
対し、第22条以下は社会権あるいは経済的・社会的・文化的権利を主に規定しており、児童
労働に直接関わる内容がより多く含まれる。第22条は「社会保障の権利」、第23条は雇用
6
引馬知子「児童労働の削減を目指す国際的な法的取り組みと多国籍企業の社会的責任政策)」
『社
会福祉』vol.46(日本女子大学)53頁より
スポーツの裏側に潜む児童労働
175
に関する権利として、「勤労や職業選択の権利、公正な労働条件や報酬、および、失業に対す
る保護や社会保護の権利、同一労働同一報酬の権利、労働組合を組織し参加する権利」が示さ
れている。さらに第24条は、
「労働時間、休憩および余暇への権利」
、第25条は「適切な生
活水準を保持する権利」
、第26条は「教育の権利」、といった内容を謳っている。また、1959
年に国連総会は、全10条からなり、そのうちの第9条において児童労働について規定する「児
童の権利に関する宣言(国連子どもの権利宣言)」を採択している。
世界人権宣言の内容について法的拘束力を持って具現化するものとして、
その後 1966 年に
「市
民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約/B規約)
」
、
「経済的、社会的及び文化的権
利に関する国際条約(社会権規約/A規約)が採択された。加えて、児童の権利をより個別に規
定する条約として 1989 年に採択された「児童の権利に関する条約(児童/子どもの権利条約)
」
もある。これらの条約(規約)は、児童に関わる各権利の内容を具体的に示し、締約国が採択し
た権利の保障において、個々におよび国際協力を通じて必用な措置をとるように求めるものであ
る。その上で、A規約第9条は、
「社会保障の権利」を、また、第10条3項は、
「児童および年
少者が経済的および社会的な搾取から保護されるべきこと」
、
「危険有害で発育を妨げる児童労働
を禁止すること」
、
「年齢による制限を設け、これに達しない児童の使用を処罰すべきこと」を求
めている。第11条は、
「締約国のすべての者が飢餓から免れ、相当な生活水準を確保し、その
改善を得る権利を認め、個々におよび国際協力を通じて必用な措置をとる」としている。そして
第4部第16条以下は、A規約に定める権利の実現のために締約国が行う規約の履行に関わる報
告の義務(16、17条)や、経済社会理事会がこの報告を人権委員会に送付し、検討および一
般的な性格を有する勧告を行えること(18条以下)を明記している。
B規約においては、同規約第8条において、
「奴隷制度や強制労働の禁止(裁判所の判断等に
よる強制労働を除く)
」を、第22条で「労働組合に結成および加入の権利を含めた結社の自由」
を定める。そして第28条からは、規約に定められた人権の実現ために、人権委員会の設置とそ
の任務、締約国の義務、調停委員会に設置等について規定している。またB規約には、個人が規
約の内容に反する人権侵害を受けた場合に、国連の人権委員会に直接申立てられる旨を規定する
選択議定書が付された。規約が国に批准されても、その内容が必ずしも一国内の制度下で遵守さ
れない情況にも鑑み、国内裁判所に終わらず個人がさらなる救済を求める独自の制度である。
1989 年採択の「児童の権利条約」は、国連の条約の中でも批准国の最も多い条約である。18
歳未満を「児童」と定義し、子どもと家族のみならず子どもと国家の関係に焦点を当て、国際人
権規約に定められる児童の人権について必要となる事項をさらに具体的に規定している。同条約
は児童の発達のための相当な生活水準の権利(第27条)や教育の権利(第28条)に触れ、第
32~39条を中心に児童労働について規定している。第2部以下は、この条約において締約国
が負う義務の履行状況を審査するための児童の権利に関する委員会の設置と任務を記している。
さらに国連は 2000 年、
「児童の売買、児童売春及び児童ポルノに関する児童の権利に関する
条約の選択議定書」と、「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選
択議定書」の2つの選択議定書を採択した。前者は、児童を性的虐待等から保護するための、
児童の人身取引、児童買春、児童ポルノに関わる一定の行為の犯罪や、裁判権の設定、犯罪人
の引渡しにおける国際協力等について規定している。後者は、18歳未満の武力紛争への児童
176
国
際
法
の関与を規制し、児童を一層保護することを定めている。
第2項
ILOの取り組み
さらに「児童労働」を明確にする基準として、国際労働機関(ILO)が定めた労働に関する諸条
約がある。1973 年に採択された「就業が認められるための最低年齢に関する条約」
(第138号、通
称「最低年齢条約」
)では、
「児童労働の廃止と若年労働者の労働条件の向上を目的に、就業の最低年
齢を義務教育終了年齢と定め、いかなる場合も15歳を下回ってはならないものとする」ことが定め
られている。この条約は、1919 年のILO設立時に制定された、工業における就労最低年齢条約をま
とめて規定したものであり、児童労働がかなり早い段階から国際的な問題として認識されていたこと
を示している。その一方で、子どもを労働力として必要であると考える国や地域の反発があり、各国
の批准が進まない時期もあったが、8つの基本的な国際労働基準 7の一つとしての認識が定着している。
また、第1章で述べたように、児童労働を廃絶することは困難である。よって「児童労働す
べてをなくすことはできない」「最も耐えがたい労働からなくしていこう」という国際的な共
通認識を背景にできたのが、1999 年の「最悪の形態の児童労働の禁止及び撤廃のための即時
の行動に関する条約」
(第182号、通称「最悪の形態の児童労働条約」)である。この条約は、
児童が働かされる状況においても、特に悪質であるとされるのはどういった労働であるのかに
ついての定義をし、そういった労働の防止、解放、支援などを目的として定められた。
これら児童労働の禁止を目的とした2つのILO条約は、先の国連子どもの権利条約の中で
具体的に規定されている、児童の経済的搾取からの保護(第32条)、性的搾取・性的虐待か
らの保護(第34条)、子どもの誘拐・売買・取引の防止(第35条)、あらゆる形態の搾取か
らの保護(第36条)、あらゆる形態の搾取・虐待からの回復・社会復帰のための措置(第3
9条)などとも合致しており、児童労働を考える際に重要な基準となった。
これに加えて、ILOは 1998 年にグローバル化への挑戦への対応の一つとして、
「労働における基
本的原則及び権利に関するILO宣言とそのフォローアップ」を採択した。この中でも、公正な社会
の発展や社会開発と経済成長の調和を確保するために強調されるべき基本的人権の原則の一つとして、
児童労働の実効的な廃止を掲げ、この実現をILOの全加盟国に義務付けている。この宣言は、先の
二つの児童労働の禁止に関わる条約を批准していない国にも、
「条約の対象となっている基本的権利に
関する原則」を尊重する義務があることを確認している点でとても意味あるものとなっている。
これら国際労働基準の設定・推進に加えて、ILOは児童労働廃絶のための新しい活動とし
て、1992 年より児童労働撲滅国際計画(IPEC)を実施している。2004 年11月時点にお
いては、88カ国で政府、NGO、地域コミュニティとの協力によりさまざまなプロジェクト
を実施している。また、調査研究や意識啓発のためのキャンペーンにも力を入れ始めている。
ここまで挙げてきたのは、政府による児童労働廃絶に向けた取り組みである。さまざまな条
7
強制労働条約(第29号)、強制労働の廃止条約(第105号)
、結社の自由と団結権の保護条約
(第87号)、団結権と団体交渉権条約(第98号)
、報酬平等条約(第100号)
、雇用、就労にお
ける差別条約(第111号)、最低年齢条約(第138号)
、最悪の形態の児童労働条約(第182
号)の8つ。
(ILO(2004)A Fair Globalization : Creating Opportunities for All ,92 頁より)
スポーツの裏側に潜む児童労働
177
約が形成され、児童労働をなくしていくための大枠が形成されていったが、問題の根本的性質
上、いくら枠組みが出来上がっても解決に至ることは難しかった。条約上、児童労働が禁止さ
れたとしても、実際に彼らが生活を営んでいく上で仕事をしないことは考えられないし、そう
することは彼らの生命をすら脅かす結果となりうる。条約が形作られたことは政府の意思表示
として児童労働に対する姿勢を見せ付けることにはなったが、実質的解決手段としては足りな
い部分が多かったのである。
第2節
非政府機関による取り組み
前節で述べたように、政府による取り組みによって児童労働問題の根本的解決につなげるこ
とは難しい。そこで、政府よりもより専門的にそれぞれの問題に取り組む国際機関の存在が重
要視される。そこで本節においては非政府機関の中でも特に、サッカーという数あるスポーツ
の中でも最も世界中に広がりを見せている競技の国際的な連盟に注目し、その活動の成果を見
ていく。
第1項
FIFAの概要
FIFA(Federation International de Football Association)とは、国際サッカー連盟の
ことを指す。サッカーの国際統括団体として世界最大であり、規模、影響力ともに大きな力を
有している。FIFAの歴史を辿ると 1904 年、オランダ、スイス、スウェーデン、スペイン、
ドイツ、デンマーク、フランス、ベルギーの8つの国の主導によって始まった。日本サッカー
協会も 1929 年に加盟し、現在では世界で208協会が加盟している、巨大な連盟となってい
る。国際連合加盟国を超える加盟数である。ただし、これらの国には主権を持った独立国だけ
でなく、地域(たとえば中国の特別行政区である香港や、グレートブリテンおよび北アイルラ
ンド連合王国を構成するイングランド、北アイルランド、スコットランド、ウェールズはそれ
ぞれ別々にFIFAに加盟している)ごとの加盟が認められている。任務としては、FIFA
ワールドカップの主催が一番の任務となっているが、児童労働問題に関しても国際組織と一緒
になって行う活動が見られる。
第2項
労働行動綱領
FIFAの活動を見ると、1996 年9月に労働行動綱領(Code of Labour Practice)なる基準を
定めた。これは国際自由労連(ICFTU)、国際繊維被服労連(ITGLWF)、国際商業事務技術
労連(FIET)との合意によって締結された文章である。この文章においてFIFAは、労働・雇
用に関する基本的ルールを順守して作られるボールだけに国際サッカー連盟のライセンスの
使用を認め、国際サッカー連盟が認可した証としてのログマークをつけることを許可した。ま
た、消費者にとってサッカーボールには一定水準以上の品質が必要であり、その質の中に労
働・雇用に関するルールを定めることが求められた。しかし初めからFIFAは児童労働問題
に関心を示していたわけではない。ましてそのための行動綱領を作ることなど考えられもしな
かった。しかし、20世紀も後半にさしかかりアメリカに本部を持つ国際労働組合によって「フ
178
国
際
法
ァール・ボールキャンペーン 8」が立ち上がると、国際的な世論として児童によって作られた
サッカーボールを公認しないようFIFAに要請する運動が展開されるようになった。このよ
うな世論の圧力により、FIFAは決断を迫られることとなったのだ。
この文章には次の5つの特徴がある。
1つ目は順守すべきルールの範囲が中核的労働基準以外にも及んでいることである。順守す
べきルールとしてILO条約29号、87号、98号、100号、105号、111号、13
8号の7つの中核的労働基準を定めた条約の他に、①賃金が最低生活を保証するものであるこ
と、②労働時間が法律の規定に従っており、週48時間を越えないこと、③残業が週12時間
を越えないこと、④週1日の休日を保証すること、⑤安全衛生規則を順守すること、⑥臨時労
働者を過度に利用しないこと、⑦下請け制度や徒弟制度を使い、正規の従業員を減らし、労働
法上の義務を免れないようにすること、⑧若い労働者に教育や訓練プログラムに参加させるこ
と、が含まれている。
2つ目は、この順守が下請けの企業、部品を作る企業、販売をする企業にも適用することに
し、ライセンスを認める前提として、順守されているかどうかのモニタリング 9をきちんとお
こなうことが定められている。
3番目の特徴としては、この行動綱領が順守されているかどうかのモニタリングのために、
①国際サッカー連盟に情報を提供すること、②その情報提供を理由としての解雇や不利益な取
り扱いを禁止すること、③いつでもモニタリングのために企業内に立ち入ることを認めること、
労働者の名前、年齢、労働時間、賃金額の明記を整備しておくこと、を定めている。
4番目には、この綱領に違反する企業、下請け企業、取り引き企業に制裁を課すことが明記
され、ライセンスを取り消すことを定めている。
5番目としては、この綱領に合意するかどうかの会議にはILOの職員の出席があるという
ことがある。ILO協力が背景に存在しているということだ。特に7つのILO条約が掲げら
れているが、これはILOの示唆を示すものである。正式にILOが中核的労働基準について
の宣言をするのは 1998 年6月であり、それ以前にこの綱領に取り入れられていることは、I
LOの意向やそれを先取りした国際的労働組合の意図が働いていることを示している。
スポーツ用品会社としては国際サッカー連盟からの認可を得られなくなることは大きな痛
手であり、ライセンスの使用が不可能になれば売り上げが下がることになる。よって、この綱
領が児童労働問題に与える影響は小さくない。
この労働行動綱領は 1998 年に再び国際労働自由労連との間で合意され、その年に行われた
1996 年、欧米を中心とした学生が、子どもの労働によって作られたボールを使用しないように抗
議したことに始まるキャンペーンである。FIFAはこの要請を受諾し、公式大会のボールには使
わないことを約束した。同時に大手メーカーに対する監視活動もはじめることとなった。ただし、
FIFAと契約関係のないメーカーや他のスポーツ業界まで規制できていないのが現状である。ま
た、監視の届かない田舎の工場では、不透明さが依然残っている。
9 1999 年に採択されたILO182号条約にも、モニタリングについて次のように規定している。
「条約の実施に責任を負う権限ある機関の指定、条約の効果的な実施を監視する適当な仕組みの設
置または指定、最悪の形態の児童労働を優先的に撤廃するための行動計画の作成・実施も求められ
ている」
8
179
スポーツの裏側に潜む児童労働
サッカーのワールドカップ、フランス大会においては児童によって作られたサッカーボールを
使わないことになった。2002 年の日本と韓国の共同開催によるワールドカップ、そして 2006
年に開かれたドイツ大会においても同様な措置がとられている
10。2002
年大会においては、
アディダスが取扱い、児童以外によって生産されたボールが使われた。
第3項
FIFAによる活動の限界
しかし、一見、児童労働問題を完璧になくしてしまうように思わせるこの試みにも以下の問
題点が挙げられる。その1つ目としては、国際サッカー連盟とはライセンス契約を持たない業
者にはこの綱領の効力が及ばないことである。小規模な業者の中にはこの契約を結んでいない
者がいるので、これらの業者に対してはこの綱領の効力が及ばないのだ。さらに2つ目として
は、サッカーボール以外の生産に従事している児童に対して救済の措置が及ぶのかということ
だ。国際サッカー連盟はサッカーボールの生産に児童が従事している問題をなくすことを目的
に活動しているが、児童らはサッカーボール以外にも各種のボールやスポーツ用品も生産して
おり、それに従事している子どもは見過ごされるのであろうか。確かに国際サッカー連盟にそ
こまでの責任を押し付けるのは酷であろうが、同じサッカーという競技の中、サッカーボール
以外のスポーツ用品は置いてけぼりでいいのであろうか。国際オリンピック委員会などの国際
機関が指揮を執り、共同に対策を講じることが必要である。
第3節
企業による取り組み
前節のFIFAの活動においてもその綱領の中で述べられていたが、児童労働という問題を
解決していく上で、児童らが作り出した商品をそうでない商品と区別していくことは重要なこ
とである。そこで今度は企業レベルの視点において児童労働問題に対してとられた運動を見て
いくことにする。特にナイキ社の事例は、児童労働問題に対する国際的関心を引き起こしたさ
きがけともいうべき重要なものである。
第1項
ナイキ社-消費者運動を受けての企業の行動
ILOは 1919 年の設立時以来、児童労働を重要な労働問題の一つとして認識してきた。し
かしその一方で、国際社会においてこの問題が強く意識されるようになったのは、1980 年代
後半から 90 年代にかけてであった。アジア諸国において、衣料品やカーペット、サッカーボ
ールなどのスポーツ用品が子ども達によって作られていること知ったドイツなど欧米の消費
者運動が、企業の摘発や製品のボイコットなどを行ったのがその始まりである。その頃、欧米
や日本の多国籍企業は、企業戦略の重点を広報やマーケティングに移し、労働コストを極力抑
えることを目的にし、生産拠点をアジアを中心とした開発途上国に移した。その中で企業は各
10
しかし、FIFAと契約を持たない業者も多数おり、規則が徹底されているかどうかについては
疑問が残る。
180
国
際
法
地で自社工場を持たずに、製造の各プロセスを現地の業者に委託した。このような生産システ
ムにより、企業は直接労働者および労働環境の管理に責任を負わなくなった。強制労働や児童
労働はその結果として起こった事態であった。しかし、このような事実を知った消費者は黙っ
てはいなかった。数多くの一流企業、有名企業が欧米を中心とした消費者運動の標的となり、
その中でもナイキの例は世界的に有名である 11。
米国の一流スポーツ用品メーカー、ナイキの委託工場における劣悪な労働環境が問題として
最初に取りあげられたのは、1988 年のことであった
12。はじめに、委託工場における低賃金
など搾取が問題となっていたインドネシア国内およびイギリスやアメリカを中心として、新聞
やテレビを通じてこのスキャンダルが報じられた。90 年代前半にはインドネシア各地で工場
労働者によるストライキが相次ぐ一方で、欧米では反ナイキキャンペーンが加熱した。それは
時代の波に乗り、インターネットを通じて国際的な規模にまで膨れ上がった。その後 1997 年
を頂点として反ナイキ運動は現在でもその名残を見せている。
ナイキに対する抵抗運動がこれだけ大規模かつ長期間にわたり行われたのには理由があっ
たのだ。それは当時のナイキ社の態度にあった。これらスキャンダルに対する当初のナイキ社
の対応は、責任逃れ、正当化、ジャーナリスト攻撃、下請け非難など、とても消費者に対する
誠実さがあったとは言いがたかった。世界の有名スポーツプレーヤーを宣伝として使い、若者
から絶大な支持を受けていた大企業がとった態度に消費者はあきれ、怒りをあらわにした。し
かし、度重なる抗議行動に対しナイキ社は徐々に態度を改め、1992 年には行動規範を制定し
たほか、第3者による委託工場の監査、製造過程および工場の労働環境に関する情報公開に努
めてきた。また「企業責任担当副社長」という新たなポストを作り、継続する抗議や企業の社
会的責任に対応している。ナイキの契約工場のあるベトナム、インドネシアなどでは工場職員
への教育やスモール・ビジネス・ローンを提供するプログラムを実施している。ギャップなど
の共同出資でNGOを設立し、途上国の工場の労働問題にも取り組み始めた。
第2項
リーボック社-ラグマーク運動に見る企業行動規範
世界的にスポーツ用品を扱っている会社が、自社の製品に児童労働によって作られたもので
はないという“ラベル”を貼る運動を起こしている。これがラグマーク運動
13とよばれる運動で
ある。この運動はカーペット産業において主に採用されているが、特にその特徴として引き出
されるのは、消費者運動とつながって展開されている運動だというところである。ここではそ
の代表的な事例としてリーボックの場合を見てみたいと思う。
リーボックでは 1992 年「人権に基づく生産基準(Reebok Human Rights Production
11
他にも、リーバイス、リーボック、ギャップなど、有名企業が多数に上る。
『法律時報』p.42(白木知子「グローバリゼーションと児童労働」)より
13 児童労働によって作られた商品でないことを示すために使われるラベリングは、主にカーペット
製造業で使われているのが有名である。ラグマーク運動がそれにあたる。
JanetHilowed.,”LabellingChildLabourProducts”,ILO.1997(http://www.ilo.org/public/english/co
mp/child/papers/labeling/part2.htm)
12
スポーツの裏側に潜む児童労働
181
Standards)という企業行動規範 14が作成された。90 年代に入ると、スポーツ用品を取り扱う
会社が安い商品を入手するために国際労働基準を無視して製造しているという批判がなされ
ている時期であったために、その批判に答えるために打ち出された企業側の対策であった。こ
の生産基準の中で企業は、強制労働や 14 歳未満の児童労働を利用する取引先とは提携しない
ことを明言している。提携しないということは、そのような企業に発注しないこと、そこに原
材料を卸している企業とも取り引きしないことを意味している。したがって、リーボックだけ
でなく、リーボックと取り引きしている下請け企業や、そこに
部品を納めている企業にも強制労働や児童労働を禁止すること
ができる。こういった順守をしていくためにも、リーボックは
下請け企業や取引企業の順守情況を監視することが必要となっ
てくる。このように下請け企業や取引先にも生産基準を順守す
ることを求めているのは、リーボック社自身が生産工場を持っ
ていなく、リーボックと言うブランド名をつける商品の生産を
外注に出しているためである。
↑カーペットにつけられるラグマーク
(http://international123.web.fc2.com/m_think/rug-mark.html)
リーボックは 1997 年 3 月以来、シアルコットにある製造・輸出会社であるモルテックス
(Moltex Sporting Goods (Pvt.)Ltd.)と契約して商品を作っている。また、リーボックはモル
テックスに資本参加している。工場で働かせる者も、モルテックスだけでなく現実に製造して
いるすべての工場や家庭において15 歳以上の者だけを働かせることを約束している。そこで、
この約束を守っていくために、外部の者によるモニタリングを導入した。児童が働きそうな工
場や家庭に部品を出荷していないかどうかを監視するシステムである。シアルコットでは家庭
内でパネルを縫い合わせる作業がなされているために、各家庭内で児童が働いていないかどう
かをチェックする必要があったのである。
このモニタリングにおいては、3 名の監視人をリーボックが雇用した。そのうち 2 人は人権
団体において活動している者であり、もう 1 人はアメリカの会計事務所において所属している
者である。先の 2 名は各工場や家庭に出かけていって児童労働が行われていないかどうかチェ
ックする役目であり、この 2 名には予告なくいつでも工場や家庭に入って調査する権限が与え
られている。後の 1 名は会計帳簿を検査する権限が与えられている。帳簿によって生産数が確
認できるが、それによって従業員の数が予測できるのである。それが現実の従業員の数と食い
14
企業行動規範は企業倫理を確立する手段として用いられているが、労働・雇用だけでなく人権や
環境を保持することが企業に求められてきている。それらを含めて企業行動規範を作成することを
促進する運動が推進されてきている。SA8000、国連のコフィ・アナン元事務総長が提唱したグロ
ーバル・サリバン原則、OECDの多国籍企業ガイドライン、IMFが進めている企業行動モデル、
それを日本の実態に合わせて設定したIMF-JCの「海外事業展開に際しての労働・雇用に関す
る企業行動規範」などの運動がある。今後経済のグローバル化が進むにつれて無視できない動きと
なるであろう。
182
国
際
法
違っていると児童が働いているのではないかという疑いが生じる。これによって、陰でひそか
に児童を働かせていたとしてもその実体を見抜くことができる仕掛けである。このモニタリン
グの結果、モルテックスではガードマンを一人雇用して、モルテックスの正門で部品が児童の
働く可能性のある家庭に配送されることのないように監視することとなった。これらのモニタ
リングの結果、モルテックスにおける生産コストは従来より15%アップしたという 15。この
ような試みを経て、リーボック社は自社の製品が児童によって作られたものでないことを証明
するために、
「Reebok Human Rights Guarantee : Manufactured Without Child Labour」と
いう字を書き込んだラベルをボールに貼り付けている。
このようなラベルから始まった児童労働撲滅への運動であるが、しかし、児童を労働の場か
ら排除してもそれだけで解決するほどこの問題は浅くない。問題の核心は、児童が働かざるを
えない情況そのものにあるのである。この情況を改善することが求められているのだ。リーボ
ックはそのために児童の教育や職業訓練の支援を行うことを決定している。教育施設の設立費
用やそこで教える教師の人件費、勉強する児童の教材費用をリーボック側が負担することにな
っている。これは 3 年計画で実施することになっていたが、残念ながら具体的な成果の報告を
見ることはできなかった。単に児童が労働の場から解放されるだけでは問題は解決しにくい。
一度解放されると、元の仕事には帰りにくいため、もしその子に対するリハビリテーションが
なければ、もっと悲惨な労働条件のもとで働かざるを得ない情況に追いやられる可能性が高く
なる。そこで 14 歳になるまでの間は、教育や社会に出てからの職業訓練を受けて労働能力を
高めると同時に、その間の生活ができる環境を面倒みる必要があるのである。しかし、そうな
るとすべての児童の面倒を見るためには、金銭的な面から考え難しく、救済できる児童の数に
は限界がある。1 つの企業が救済できる範囲には限界があるのだ。そうとはいえ、スポーツ会
社が企業行動規範を制定するメリットとしては、サッカーボールの生産に留まらず、スポーツ
用品全般の生産に従事している児童を救済できる可能性があることがあげられる。FIFAだ
けでは手が届かなかった範囲である。
ここまで挙げてきた、いわゆる「リーボック方式」のポイントは、児童労働がないことをき
ちんと監視するモニタリングをきちんと実施することである。児童によって作られていないこ
とを表示し、それを売りにして販売しているのに、その記述に誤りがあるとすれば虚偽表示で
あるとして消費者からの反発を受ける。そうするとその商品が売れなくなるばかりか、企業の
イメージを悪化させる危険性がある。へたすると企業の存続が危ぶまれるおそれがあるのだ。
ところで消費者は、自分が購入しようとしている商品に記述してある内容が虚偽であるかどう
かをどうやって判断することができるであろうか。自ら調べ上げることは現実的に考えて不可
能であろうから、企業の内部告発やマスコミによる報道によって知るしかないであろう。企業
にとってみれば、それを避けるためにはモニタリングのよりいっそうの徹底が必要とされる。
15
Soccer Balls , http://www.dol.gov/dol/ilab/public/media/reports/iclp/sweat4/soccer.htm
スポーツの裏側に潜む児童労働
第4章
183
児童労働と企業の社会的責任政策
前章では、政府、国際組織、FIFAや企業などさまざまな主体が児童労働という問題に対
してどのように取り組み、またどのような成果をあげどのような課題が残されているのかにつ
いて述べてきた。それらをふまえた上で、この章においては主に各スポーツメーカーに注目し、
企業のなすべきCSRについて言及する。
児童の保護や児童労働問題を含む基本的人権のグローバルな保障という点において、1990
年代以降、私的で自主的である企業の社会的責任 16が注目され始めた。これを促すような同政
策の展開が、1990 年代中頃から多様なレベルにおいて活発化してきているのである。CSR
はさまざまな人によってさまざまに定義されているので、CSRとはいったいどのようなもの
だと考えても、明確な、具体的な定義を打ち出すことは難しい。だが、例えばEUの欧州委員
会によるとCSRとは、「責任ある行動が持続可能な事業の成功につながるという認識を企業
が深め、社会・環境問題を自発的にその事業活動およびステークホルダーとの相互関係に取り
入れるための概念」であるとされている。
CSRは一般的に「経済(直接的な経済的影響)」、「環境」、「社会」と広範な範囲を対象と
するが、その中で“トリプルボトムライン
17”と呼ばれているのが「環境」
・「人権」
、「社会(労
働)」である。「社会(労働)」には、労働慣行や労働環境が広範に含まれるが、児童労働問題
はこの社会と人権の重なる部分に位置している。CSR政策自体は公的にも企業内の私的政策
の意味でも目新しくはない。しかし、企業に児童の人権のグローバルな尊重を促そうとする新
たな文脈での議論と動きは、前述の多国籍企業による搾取的な児童労働の使用の発覚等に端を
発し、1990 年代中頃から欧米を中心に着手されてきた。
今まで児童労働に対して取られてきた動きとはまた違った角度から、児童労働削減に向けて
力を発揮するのがこのCSRだと考えている。その可能性をこの章では述べていきたいと思う。
第1節
第1項
CSRの背景と企業の「行動規範」
世界情勢
CSRは今まで、当然のこととして暗黙のうちに存在していた。そのCSRが新たに児童労
働問題に対して解決の糸口として注目されるに至った背景には、次の3つの点がある。第1は、
グローバルな連鎖やサプライチェーン 18の中において、当該国以外の組織(消費者・多国籍企
Corporate Social Responsibility 略してCSRのこと
GRI(Global Report Initiative)を参照。 (http://www.gri-fj.org/index.html)
※経済性、環境適合性、社会適合性の3つの観点から企業のパフォーマンスを評価し銘柄選定する
投資行動
18 供給者から消費者までを結ぶ、開発・調達・製造・配送・販売の一連の業務のつながりのこと。
サプライチェーンには、供給者側、メーカー、流通業者(卸売業)
、小売業者、消費者などが関係
している。
16
17
184
国
際
法
業など)がその保障や侵害に関わりを持つようになったことが挙げられる。経済活動が国境を
越えて行われるようになると、労使関係が国際的な規模で行われるようになったことである。
第2は、これまで検討してきたような政府間国際機関に対して、これまでの政策の中に児童労
働問題を解決していく上での効果的な手段が講じられてこなかったことへの疑問と反省から
のものである。ナイキ社の児童労働問題に端を発し、国際的な世論の中にグローバルな社会政
策の欠如に対して認識が高まってきたのである。第3は、児童労働問題に対して積極的に働き
かける、市民/社会NGOの台頭と役割の増加である。企業による搾取的な児童労働による生
産を明らかにしていくという姿勢をみせたり、不正な生産手段によって製造された商品を買わ
ないという「不買運動」や、児童労働問題に対して積極的な動きを見せる企業を表彰するとい
った啓発活動をしたりするなどといった場面で見受けられる。
CSRが広まっていった背景にはこのように、世論の広がりがその中心にあったのである。
第2項
CSRの手段
企業によって行われるCSRの手段としては、前章にも出てきた「行動規範」や「ラベリン
グ」の他に、「マネジメント基準」や「社会的責任投資(SRI)」、あるいは「社会的責任マ
ネジメント」
・
「社会的責任消費」
・
「社会的責任投資」を挙げることができる。社会的責任マネ
ジメントには、行動規範、マネジメント基準、持続可能な報告書が含まれる。
SRIとは Socially Responsible Investment の略称であり、欧米を期限とする投資の考え
方である。欧米には従来から「倫理的投資(Ethical Investment)という考え方があり、タバ
コやアルコールといった特殊の業種を排除しようとするネガティブ・スクリーニングが行われ
ていた。社会的投資責任という言葉は、企業不祥事の頻発など「企業の社会的責任」を問われ
る事件が多発したこともあり、日本においてはここ数年の間ににわかに有名になってきた言葉
であるがその歴史は古く、欧米では 1900 年代の中頃から、企業の社会的評価などSRIに関
する基盤が整備され、そのマーケットは 90 年代に入って急速に拡大してきた。
また、これらのCSRの手段の中において、まずその中核となるのは、その行動の指針であ
り基準となる私的かつ自主的な「行動規範」の作成、そしてその規範の実施である。
第3項
ILOによる「行動規範」に対する見解
ILOは、前節で述べた「行動規範」を“企業とステークホルダー間のさまざまな論題にお
ける関係性を明確にするビジネス原則の表明(a statement)と捉え得る”と述べている。その
定義には、主に、“規範的な基準”と“「行動規範」の適用や範囲”の2つの要素が含まれる。規
範的な基準に焦点を当てた「行動規範」の定義は、“ビジネス(事業/業界)が合意したその
操 業 の 道 程 に お け る 自 主 的 な 原 則 の 表 明 ” で あ り 、 I C F T U ( the International
Confederation of Free Trade Unions 国際自由労連)(1997)によると“国際的なビジネス活
動に適用され得る労働慣行に関する基準”である。
また、「行動規範」の適用や範囲をGijsbert van Liemt(1998)は、次のように3つの側面
スポーツの裏側に潜む児童労働
185
に分けて説明している 19。
①古典的な行動規範は主に企業の従業員を対象にし、より近年はこの対象が企業の操業地の供
給/納入業者/国(suppliers:以下、サプライヤー)あるいは地域(community or communities)
などといったステークホルダーをも対象とするようになったこと。
②企業のサプライヤーと(下位の)契約者における労働条件に焦点を置くこと。
③企業の立場に相対して企業が操業する国および国々を対象とすること。
さらにILOは、「行動規範」の労働基準における関心事には、特に、児童労働や、結社の
自由、団結権、安全衛生、強制労働、賃金などが含まれるとしているのである。
こうした児童労働問題を多国籍企業の行動規範に取り込む動きは、相互に関係のある次の2
つに大別できる。1つは、各多国籍企業自体が「行動規範」に相当する枠組みを企業内に作成
し、この問題に取り組むものである。もう1つは,外部にある何らかの「行動規範」を通じて、
多国籍企業に基本的労働権の遵守を促進するインセンティブを与えるものである。大別して後
者には、次の2つのものがあると考えられている。
①多国籍企業に対してIGO/GOやINGO等が「行動規範」としての雛形や指針、原則等
の枠組みを示すものや、これらを掲げた上で多国籍企業の参与の仕組みを作り遵守を促すもの。
②標準化機関や民間機関が規格等を作成し多国籍企業を公に評価したり、多国籍企業の参与を
求める、あるいは、参考情報を提供し、その活用を促したりするもの。
第2節
グローバルな世界におけるCSR政策
第1項
さまざまなアクターによるCSRの国際規格化
国際機関がイニシアティブを発揮した多国籍企業の社会的責任と児童の保護や人権問題を
含む代表的な規範として、まずはILOによる「多国籍企業および社会政策に関する三者宣言
(1997)」、OECDによる「多国籍企業ガイドライン(2000)」、国連による「グローバル・
コンパクト
20(1999)
」が挙げられる。その他、国際レベルではOECDによる「世界コーポ
レート・ガバナンス原則(1999)」
、地域レベルではEUの「欧州モデル行動規範(2003)」等
もある。一国レベルでは米国政府の「モデル・ビジネス原則(1995)」や英国の倫理的貿易の
イニシアティブの「基本綱領(2000)」、産業レベルでは米国のアパレル業界による「職場行動
規範(1997)」、NGOレベルではアムネスティの「企業のための人権原則(1998)」やアジア
地域の市民団体・労働団体による「多国籍企業に関するアジアNGO憲章(1998)」等が挙げ
られる。
また、標準化機関や民間企業による規格作成の例としては、
「国際労働規格SA8000(Social
Accountability
19
8000)
(1997)」や、ダウ・ジョーンズ社の「サスティナビリティ・グループ・
引馬、前掲論文(注6)61頁より
1999 年1月31日の世界経済フォーラム(ダヴォス会議)の席上、国連のアナン事務総長が提
唱したもので、世界の企業に対し、人権、労働、環境、腐敗防止という普遍的な国際基準を遵守す
るために、グローバル・コンパクトと呼ばれる国連との「盟約」を結ぶよう呼びかけた。
20
186
国
際
法
インデックス(1999)」
、2001 年から始まり現在審議中の「国際標準化機構(ISO)におけ
るCSRに関する国際規格化の動き等がある。
第2項
CSR政策の特徴
ここまでで、CSR政策を形作る上で軸となってくる「行動規範」がどのような形で生まれ
てきたかについて述べてきた。CSRの形成は、児童労働問題の解決に向けて軽視できないも
のである。次に挙げるのは、今までの社会的責任では語られてこなかった、CSRの 3 つの特
徴である。
第 1 は、実定法や慣習法を含めた国際的に合意された公的な基本的労働権の分野を視野に置
くものの、私的かつ自主的な行為に基づき(これを「私的基準」とよぶ)、またその範囲や内
容が自由裁量に任されることである。しかし、実質的に各企業の行動はほぼ決定されていると
いってよい。先のナイキの例でもわかるように、私的基準が認められているからといって児童
を働かせていることが万が一知れ渡ってしまったら、不買運動などの消費者の反感を買うこと
は自明であり、そのリスクを避けるために、企業の行動はある程度の制約を受けるであろう。
第 2 は、私的基準の設定が、最低限の法令順守、倫理的に問題がないレベル、社会的に望ま
しいレベル等と選択でき、その内容が法的な最低基準を超え得ることである。つまり、国際組
織によって作られてきた法が、意味あるものとして国際社会に存在することになる。
第 3 は、政策の対象を一定の地域や国内に限定しないということである。グローバル化する
現在の社会の流れに逆行しない、至極当然な特徴とも言える。
これら新しいCSR政策は、従来の公的な法的拘束力のある国際基準との補完・強化関係を
築きつつ、これまでにない角度から世界の児童労働の削減に貢献し得る可能性を秘めているの
である。
スポーツの裏側に潜む児童労働
187
終章
本論文は児童労働という問題を軸に、スポーツという切り口からその核心に迫った。テレビ
の中に見るスポーツの世界というのは実に華やかである。しかし、その裏にある児童労働の存
在はなくなったわけではない。
論文中で述べてきたように、児童労働問題に対しては各国政府をはじめとしてさまざまなア
クターが存在する。そして、彼らがそれぞれの方法で解決の道を探った歴史がある。しかし、
児童労働はなくならない。
児童労働はいまだ多く実在し、また世界の四地域を見ていくと、アジア地域においてその数
が多く、アフリカ地域においてその割合が高く、欧州においてその存在が再び注目を集めつつ
ある。加えて、児童労働問題や児童労働による製品・商業的サービスは、世界中の国々・企業・
人々と密接な相互関係を持っているのである。経済のグローバル化が進み、人もモノも、一層
世界との距離が縮まっている。そんな世界に今現在も、働くことを強要され、学ぶことができ
ない子どもがたくさんいるという現状は、将来を考えてもプラスになることは少ないであろう。
国連やILOの法的枠組みは基準の遵守へ向けてさまざまな方法を有するものの、現在のと
ころ締約国の批准の有無や批准後の拘束力、さらには国を中心にグローバルな問題の解決を図
るその組織的あり方等の面で限界が見出されている。こうした中、多国籍企業の社会的責任政
策によって児童の保護と権利を守る試みが、その自主的かつ私的な基準という特徴の故に、従
来の法政策の補完・強化の役割として注目されているのだ。
では、企業の社会的責任が果たされるために必要なことは何であろうか。ここで忘れてはい
けないのが、世論、消費者、つまり私達一人一人の存在である。企業がCSRを遵守しようと
考えるのも、最終的には消費者の存在があるからであろう。だから私達は、きちんとCSRを
果たしている企業を正当に評価しなければならない。このような企業の取り組みを支えていく
ことこそが、一人一人の社会的責任である。
いずれにしろ、児童労働問題解消の手段が独りよがりの押し付けであってはいけない。一方
的な考えを押し付けるような政策をとったところで、働くことは止められず、ますますひどい
情況にもなりかねない。大切なのは、相手の目線に立った政策なのであろう。まずはこれを皆
が認識せねばならない。スポーツの世界におけるフェアプレーの精神とはいったい何か。その
スポーツで使われる道具が、アンフェアに生み出されたものであってはいけない。
188
国
際
法
【参考文献】
・白木朋子「グローバリゼーションと児童労働」
『法律時報』第 77 巻 1 号(2005 年)39-45 頁
・荒牧重人「子どもの権利条約と子どもの自己決定」
『法律時報』第 75 巻 9 号(2003 年)24-27
頁
・OECD編著/豊田英子訳『世界の児童労働』(明石書店、2005 年)
・平体由美「児童労働の地域的多様性」『連邦制と社会改革』(世界思想社、2007 年)19-46
頁
・ミシェル・ボネ/堀田一陽[訳]
『働く子どもたちへのまなざし』(社会評論社、2000 年)
・国際労働機関(ILO)ホームページ『児童労働(Child Labour)』
http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/ipec/index.htm
http://www.acejapan.org/
・特定非営利活動法人ACEホームページ
・ナイキホームページ
http://nike.jp/nikebiz/global/childlabor.html
・船尾修「サッカーボール1個から見えてくるもの
経済格差と児童労働」『世界週報』
vol.87(2006 年)30-33 頁
・香川孝三「パキスタン・インドにおけるサッカーボールの生産と児童労働」『国際協力
論集』第 10 巻2号(神戸大学大学院国際協力研究科、2002 年)31-58 頁
・白木朋子「サッカーボールと児童労働の事例から見るスポーツの可能性(小特集
スポー
ツと開発教育)」『開発教育』No.53(2006 年)185-196 頁
・岩附由香「ボールの向こうの児童労働(特集
子どもたちが作る未来)」
『国際協力』通号
562(国際協力事業団、2002 年)6-9 頁
・深沢宏「サッカーボールは誰が作るのか-搾取されるアジアの子どもたち」『スポーツ
で読むアジア』(世界思想社、2000 年)
・こどもくらぶ「きみの味方だ!子どもの権利条約」第1巻(ほるぷ出版、2003 年)
・吉村祥子「子どもの権利」『国際人権入門』
(法律文化社、2008 年)105-120 頁
・引馬知子「児童労働の削減を目指す国際的な法的取り組みと多国籍企業の社会的責任政
策」『社会福祉』vol.46(日本女子大学)47‐65 頁
・奈良林和子「エコノミスト・リポート
グローバル企業が陥る児童労働のリスク」『エ
コノミスト』vol.86 No.35(毎日新聞社、2008)89‐91 頁
・谷口玲子「多国籍企業と人権・児童労働問題」『農業と経済』vol.74(昭和堂、2008)
45‐49 頁
.
スポーツの裏側に潜む児童労働
あ
と
が
189
き
この卒論を書き上げてこれまでを振り返ると、様々な人への感謝の気持ちでいっ
ぱいです。本当にたくさんの人にお世話になりました。今の自分がいるのもその人
たちのおかげだと、卒業を前に心から思います。
とにもかくにもまずは、恩師でもある山本良先生に感謝しなければなりません。
正直な話、埼玉大学に入学したとき、私は勉強したいことが何なのか何もわからな
い状態でした。そんな私が国際法入門の授業において山本先生の講義を拝聴したと
き、それまで受けていた授業とは何か違う、勉強することの楽しさを感じたことを
今でも覚えています。この時にもう、山本先生の下で卒論を書くんだということが、
うすうす心の中にあったのかもしれません。そして、その通りに卒論を書かせてい
ただいて、また、その中でも叱咤激励をいただき今日まで来られたことを、本当に
うれしく思います。迷惑をかけたときもあったとは思いますが、見捨てることなく
ここまで指導してくださり、本当にありがとうございました。
また、永田先生、草野先生、山田先生のご指導にも感謝を表さないわけにはいき
ません。今回の論文を書くにあたり、国際法の知識を持つだけでは不十分でした。
国際関係における様々な角度からの知識を学ばせていただいたことは、自分の視野
を広げることにつながり、論文を執筆する上での力となりました。ありがとうござ
います。
最後にはなりましたが、この一年間卒業論文という大きな壁に一緒に立ち向かっ
た同級生の皆さん(もちろんO島君もです!)、共に演習を乗り切り、飲み会など
ではフレンドリーに接してくれた後輩の皆さん、そして、自分という人間を成長さ
せてくれたサークルやバイトのすべての仲間に、家族に、すべての人に感謝したい
と思います。悔いのない学生生活を送ることができ、最後を締めくくることができ
ました。
今まで、本当にありがとうございました。
吹 上 健 太
190
国
際
.
法
国 際 経 済
.
インドの経済成長分析
-サービス部門牽引型の発展か-
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL051
(論文指導
嘉数優香
永 田 雅 啓)
.
195
インドの経済成長分析
【要 旨】
問題意識
近年、BRICs と呼ばれる国々の経済成長が注目を浴びている。その中でもインドは、IT 産
業をはじめとする第 3 次産業中心の経済成長を遂げていると特徴づけられている。従来の経済
成長は、日本の高度経済成長期や現在の中国がそうであるように、製造業を核とした、いわば
第 2 次産業中心の経済成長である。果たしてインドの経済成長は、本当に第 3 次産業であるサ
ービス部門に牽引されてきたのだろうか。本論文は、その点について明らかにしていく。
主要な結論
1991 年の経済改革以降、自由化の推進を行ってきた結果、インドの経済は高く、安定した
経済成長を実現してきた。特に IT 産業の成長は著しく、世界市場においても確固たる地位を
確立しつつある。だが、
注目を集めている IT 産業は未だに GDP の 3%程度の産業でしかなく、
経済成長に対するサービス部門の寄与度は、今日評価されているほど高いものとは認められな
かった。また、インドの貿易依存度は 15% 程度に留まっており、サービス輸出の拡大がイン
ド経済の拡大に寄与したというよりは、むしろ内需の拡大によって経済が拡大したのではない
かと推測される。労働力構成も第 1 次産業に従事する人が多いことを考慮すると、インド経済
の成長がサービス部門によって牽引されてきたとするのには、現段階では不十分であると考え
る。
しかし、インドのサービス部門が秘める可能性は高い。今日の高い経済成長に甘んじること
なく、インフラ整備や雇用政策など残る課題を確実に解消していくことによって、今後サービ
ス部門が強固なインド経済の牽引役となることは間違いないだろう。
論文の概要
本論文では、第 1 章で本論文の問題意識を明らかにし、第 2 章で歴史的側面、特に経済政策
によってインド経済がどのような発展経緯をとってきたかを検証したあと、第 3 章でインド経
済の現状について他国との比較も交えながら、サービス部門牽引型の成長であるのか、検証を
深めていく。
196
国
際
目
経
済
次
第1章
問題意識と本論文の目的 ................................................................. 197
第2章
インド経済発展の経緯..................................................................... 198
第1節
第 1 局面:混合経済体制 ........................................................................... 198
第2節
第 2 局面:緑の革命 .................................................................................. 199
第3節
第 3 局面:工業部門重視 ........................................................................... 200
第4節
第 4 局面:自由化の進展 ........................................................................... 201
第3章
インド経済の現状............................................................................ 203
第1節
インド経済の概要(2007 年度).................................................................... 203
第2節
GDPに関する検証 ..................................................................................... 203
第3節
貿易に関する検証 ...................................................................................... 208
第4節
外資の参入状況.......................................................................................... 211
第5節
労働力構成に関する検証 ........................................................................... 212
第4章
まとめと残された課題..................................................................... 215
参考文献......................................................................................................... 217
197
インドの経済成長分析
第1章
問題意識と本論文の目的
近年、世界経済の成長の中心としてBRICs というグループが注目を集めている。BRI
Cs とは、ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の 4 国の
頭文字をつなげた造語である。国土面積や人口規模、経済規模が非常に大きいこと、また近年
の著しい経済成長などを理由に、世界経済の牽引役とされている。その中でも、サービス業中
心で経済成長をしているとされているインドに着目したい。
インド経済は 1980 年代から拡大傾向を示していたが、その拡大がより顕著になったのは
1991 年経済改革が導入され、経済自由化が本格化してからのことである。今や、インドの経
済規模は、国民総所得で見た場合、名目値で世界第 10 位、購買力平価では、アメリカ、中国、
日本に次ぐ世界第 4 位 1であり、その経済動向に世界の注目が集まっている。このようなイン
ドの目覚しい経済成長をリードしてきたのがサービス部門であるとされ、とりわけ成長力の高
い分野として、ITサービスや通信などが挙げられてきた。
従来、経済の発展は第 1 次産業から第 2 次産業中心の経済を経て、第 3 次産業へ移行すると
されており、成長は日本の高度経済成長期や、BRICsの中でも中国においては、第 2 次産業、
いわば製造業を中心として経済成長を遂げてきた。それらの国とは異なり、世界的な情報技術
(IT)ブームを背景として、IT 産業を核としたサービス業中心で成長を遂げてきたとされる
インドの経済成長は非常に特徴的である。
本論文では、インド経済の発展経緯、および現在のインド経済を中国・日本・米国との比較
を交えて検証し、インド経済の成長は本当にサービス部門によって牽引されてきたのかを明ら
かにする。
1
数字は世界銀行『世界開発報告 2008』より
198
第2章
第1節
国
際
経
済
インド経済発展の経緯
第 1 局面:混合経済体制
1947 年に独立したインド経済の第 1 局面は、1960 年代終わりまで続いた。この時期は、混
合経済体制が主流であった。「混合経済体制とは、経済開発において①政府が主に関与する公
共部門、②民間部門、③両者がともに関与する共通部門の 3 部門からなる経済体制を指す。こ
の体制は、特に公共部門に重点を置き、公的企業を経済開発の主たる担い手とする点で、社会
主義的であった。しかし、経済開発を主導する政府が民主主義のプロセスを経て国民の信頼を
得ている点では社会主義と大きく異なり、これがインド経済体制の大きな特徴となっている。
」
2
インドの混合経済体制の特徴として、公共部門重視、外資排除、国内産業保護政策の 3 点が
挙げられる。
まず、公共部門重視については、1948 年および 1956 年に「産業政策決議」が制定され、公
共部門および民間部門のそれぞれの活動範囲が明確に区分された。第 1 の部門は公共部門が排
他的に責任を負う分野であり、兵器、原子力、発電などの 17 産業がしてされた。第 2 の部門
は公共部門と民間部門の双方が参入可能な分野として設定され、アルミニウム、化学、工作機
械などが割り当てられた。第 3 の分野は民間にゆだねられる分野であり、消費財産業とサービ
ス産業が割り当てられた。また、この間、1951 年には、
「産業(開発・規制)法」が制定され、
国の開発計画に沿った分野に民間投資を振り分けるため、産業ライセンス制度が導入され、国
からのライセンス取得が義務付けられた。
次に、外資排除については、「外国為替規制法」が活用された。この法律により、インド市
場に進出しようとする企業は原則的に技術移転を行うことが求められ、その上、出資比率の上
限が 40%とされたために、結果的に外資系企業の参入が抑制されることとなった。
さらに、国内産業保護政策もとられた。具体的には、輸入代替工業化を推し進めるために、
輸入については、国産品と競合関係にない原材料・中間財・資本財といった品目が優先された。
また、消費財については、重要品ではないとして、輸入が厳しく制限された。
この結果、1960 年代の半ばごろまでに、インド国内ではインド企業が幅広い裾野をもつ工
業部門が形成され、短期的には国内の幼稚産業が保護・育成されたものの、長期的には工業部
門の国際競争力の低下を招く結果となった。
図 2-1 において、GDP 成長を上回る成長水準を実現している産業部門は年度別に見てみる
と、②の製造・建設・電気ガス水道供給と③の通商・ホテル・運輸・通信の分野が最も多い。
また、この二つを比べてみても、②の工業部門の成長率が著しく、この期間の工業部門の成長
率は平均してみても 6%を超える高い成長を示しており、ここからも工業部門が当時のインド
経済を牽引していたのではないかと推測できる。次いで④の金融・保険・不動産・その他の分
野、⑤の公共サービス分野の成長率が高くなっている。これより、当時の混合経済の実態、ま
2
みずほ総合研究所(2006)より
199
インドの経済成長分析
図 2-1 3
第2節
1968年
1967年
1966年
1965年
1964年
1963年
1962年
1961年
1960年
1959年
1958年
1957年
1956年
1955年
1954年
1953年
1952年
1951年
20
15
10
5
0
-5
-10
-15
1950年
%
た、公共部門に依存した経済成長もこの頃からその傾向があったことがうかがえる。
全体
①農林水産業
②製造業・建設業
③サービス業
④金融・保険
⑤公務サービス
第一局面におけるGDP成長率の変化
第 2 局面:緑の革命
1960 年代に入ると、インドを取り巻く国際・政治情勢が厳しくなってくる。1962 年に中印
紛争が勃発し、1964 年には第二次印パ戦争が起こり、その後に 2 回の干ばつが続いたため、
インドはスタグフレーション、財政難、食糧難という危機に直面することとなる。
そこで、1966 年に首相に就任したインディラ・ガンジーは、重工業を重視する政策から農
業開発を重視する政策へと転換した。これは外国からの自立を図るには自給自足が不可欠であ
るとして、灌漑整備拡大や高収量品種の投入などを行っていくものであった。この「緑の革命」
によって不安定で生産性の低い伝統的な農業体系が一変し、食料の増産に成功した。しかし一
方で、この政策転換によって工業化は停滞することとなる。輸入代替工業化はある程度発展し
たものの、それがさらに輸出志向型や国内消費型の工業化には発展せず、これにオイルショッ
クなどの外的要因も加わって、1970 年代には、経済成長のペースが低下した。その上、経常
赤字・財政赤字が拡大し、インフレが進行するなどが見受けられた。
図 2-2 において、緑の革命が行われた第二局面において、確かに農林水産業部門が GDP 成
長を上回る水準を実現している年が前回よりも増加したことがわかる。その一方で、インドの
灌漑設備普及率が未だに低いため、農林業の生産は、気候、特にモンスーン期の降雨量に左右
されてしまう傾向があり、農林水産業の成長率には大きなばらつきが見られる。平均的な成長
率を見ると、すべての部門が平均 4%以上の成長を遂げており、農業部門が他の産業部門に並
びうるまでに成長していたことがうかがえる。一方、第一局面では高い成長率をほこっていた
他の成長部門、特に工業部門の停滞が見受けられる。
3
インド政府中央統計局(CSO)広報資料より
凡例:①農業・林業・漁業・鉱業 ②製造・建設・電気ガス水道供給 ③通商・ホテル・運輸・通
信 ④金融・保険・不動産・その他 ⑤公共サービス(以下、図 1-4 まで同様)
200
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19
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19
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19
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19
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年
19
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年
19
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19
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年
%
10
5
0
-5
全体
①農林水産業
②製造業・建設業
③サービス業
④金融・保険
⑤公務サービス
-10
-15
図 2-2 第二局面における GDP 成長率の変化
第3節
第 3 局面:工業部門重視
1980 年代に入り食料の自給自足にめどがつくと、農業重視の政策から、再び工業重視の政
策へと転換する。1980 年代に入ると、アジアNIEs(韓国、香港、台湾、シンガポール)や
ASEAN 諸国が、日本をはじめとする海外からの直接投資を積極的に受け入れることにより、
技術の移転や生産能力の強化に成功し、経済を目覚しく発展させた。こうした状況を目の当た
りにしたインド政府は、過度な経済統制や外資排除政策が、技術移転などを通じた生産性の向
上や経済発展にマイナスの影響を与えていることを認識するようになる。
そこで、1980 年以降、混合経済が維持されたまま、部分的な自由化へと方向転換が図られ、
非農業部門の生産性向上や、近代化、国際競争力の強化が課題とされた。産業政策では、一部
の業種に対するライセンス取得義務が撤廃された。特に、大規模な投資と技術を要する自動車
産業と電子工業に重点が置かれた。貿易においても輸入ライセンスが緩和され、原材料や中間
財、資本財の一部が自由に輸入できるようになった。
この結果、経済成長率が加速したが、この高い経済成長は公共部門への投資に依存するもの
が多く、財政収支は大きく悪化することとなる。また、自由化に伴い、輸入が拡大したため、
貿易赤字も膨らむこととなった。
図 2-3 において、実際にこの期間に高い成長率を示したのは、④の金融・保険・不動産サ
ービス、②の製造・建築部門に続き、⑤の公共サービスが挙がる。この第三局面において非農
業部門の産業の成長力が回復したと捉えても良いだろう。
201
インドの経済成長分析
20
15
10
%
5
19
80
年
19
81
年
19
82
年
19
83
年
19
84
年
19
85
年
19
86
年
19
87
年
19
88
年
19
89
年
19
90
年
19
91
年
0
-5
全体
①農林水産業
②製造業・建設業
③サービス業
④金融・保険
⑤公務サービス
-10
-15
図 2-3 第三局面における GDP 成長率の変化
第4節
第 4 局面:自由化の進展
1990 年に湾岸戦争が勃発すると、インド経済は再び危機に直面した。湾岸戦争の勃発が、
石油および関連製品の輸入価格の上昇、輸出の減少、インド人出稼ぎ労働者からの海外送金の
減少をもたらしたために、インドの経常収支が悪化し、インドの外貨準備が激減した。
この時期に首相に就任したナラシマ・ラオと財務大臣に就任したマンモハン・シンは、経済
危機対策として、即座にIMFからの構造調整融資を要請した。このIMF融資の条件として打ち
出されたのは、マクロ経済安定政策と新経済政策である。マクロ経済安定政策として、財政支
出削減、金利引上げ、為替レートの切下げが実施され、新経済政策として、公共部門拡大優先
原則の撤廃、産業ライセンス制度の撤廃、外資による上限支出比率引上げが実施され、貿易や
直接投資の自由化が推進された。この経済改革の導入に伴い、インド経済はこれまでの閉鎖的
な経済政策を打ち破り、世界経済に対して徐々に開放的な政策へと転換していく。実質GDP
成長率は 4%~8%の間で安定して推移するようになり、都市部では中間層が台頭してきた。
また、グローバリゼーションとIT革命の流れは、技術力、英語力を兼ね備えた優秀な人材を抱
えるインドにとって有利に作用し、アメリカに対する輸出を中心にインドのIT産業が大きく成
長することとなった。「IT産業は、インドが先進国と競争できる産業として発達しつつある。
Tata Consultancy Services(TCS)、Infosys、Wiproの 3 社はすでに総収入が 10 億ドルを突
破し、2010 年までに世界 10 位入りを目指している。」 4
図 2-4 においては、第四局面の経済改革の結果が顕著に表れている。同期間において最も成
長を示した産業部門は、IT 産業を含む③の通商・ホテル・運輸・通信の分野である。③はすべ
ての年度において GDP 成長を上回る成長水準を実現しており、平均成長率も 9%を越える非
常に高い成長を遂げた。次いで④の金融・保険・不動産サービス分野の成長が高く、両者の成
長率は、他の部門を大きく引き離す結果となっている。このことから、これらのサービス部門
4
内川秀二『躍動するインド経済―光と影』より
202
国
際
経
済
が高い成長を牽引したのではないかと推測することが出来るだろう。
20
15
10
%
5
2005年
2004年
2003年
2002年
2001年
2000年
1999年
1998年
1997年
1996年
1995年
1994年
-10
1993年
-5
1992年
0
-15
図 2-4 第四局面における GDP 成長率の変化
全体
①農林水産業
②製造業・建設業
③サービス業
④金融・保険
⑤公務サービス
203
インドの経済成長分析
第3章
第1節
インド経済の現状
インド経済の概要(2007 年度)
インド財務相が発表した 2007 年度のエコノミックサーベイ(経済白書)によると、インドは
第 11 次 5 ヵ年計画(2007~2011 年度)に示した年率 9%の目標成長率達成に向け、民営化推進
や外資規制緩和を中心とする抜本的な経済改革を提案した。急速なルピー高(前年比 12%上昇)
を背景とする消費財およびインフラ部門並びに関連産業の停滞への懸念が示される一方、好調
なサービス部門や、直接投資の活況、貯蓄率の向上、インフレ率の低下などを背景に、インド
経済が力強い成長軌道に乗ったと報告された。
2007 年度における名目GDP総額は 1 兆 689 億 6523 万ドルにのぼり、実質GDP成長率は
9.0%となった。国際収支は前年度よりも悪化し、経常収支は-97 億 9525 万ドルであった。
輸出額は前年より約 300 億ドル増加し、1555 億 1249 万ドルへと拡大したのだが、輸入額の
増加は約 500 億ドルとさらに大きく、2359 億 1073 万ドルとなり、その結果、貿易収支は-
649 億 1961 万ドルと前年よりも悪化する結果となった。直接投資受入額は 192 億 8380 万ド
ルと前年より 80 億ドル増加している 5。
インドの貿易収支は恒常的に赤字を示している。国際収支上の構造は、慢性的な貿易赤字を
IT 関連ソフトウエアサービス輸出(サービス収支に計上)と労働者送金(雇用者報酬に計上)で補
填することによって国際収支が改善した時期もあったのだが、2004 年以降は貿易赤字の拡大
を受けて、経常収支の赤字が続いている。
第2節
GDP に関する検証
インド政府中央統計局によると、
2006 年度の GDP 成長率は 9.2%、2007 年度のそれは 9.0%
に達した。2005 年度が 9.0%であり、9%台が 3 年連続するのは史上初めてのことである。2003
年からはほぼ 8%台の成長率を持続させており、2007 年 4 月から開始された第 11 次 5 ヵ年計
画(2007/08 年度~2011/2012 年度)では年 9%の GDP 成長を目標として掲げている。
現在、インド経済の GDP に占めるサービス部門の比率は、先進国並みの 5 割に達している。
図 3-1 において GDP に占めるサービス部門の比率では、1998 年の 46.6%から 2007 年の 55.7%
と 10%近く上昇した。一方、同期間中、農林水産業部門のその比率は 28.9%から 19.7%に減
少し、工業部門のその比率は 25%弱の一定水準にとどまることとなっている。
5
JETRO 海外情報ファイル“JETRO‐FILE”インド基礎的経済指標より
204
国
際
経
済
60.0%
50.0%
40.0%
30.0%
20.0%
農林水産部門
20
05
年
度
20
06
年
度
q
20
07
年
度
a
20
04
年
度
20
03
年
度
20
02
年
度
20
01
年
度
20
00
年
度
19
99
年
度
19
98
年
度
10.0%
工業部門
サービス部門
(注) 実質 GDP 額から割合を算出
図 3-1 6
実質GDP産業別構成
また、表 3-1 において成長の中身を見ると、2000 年度以降の 7 年間について、GDP 成長を
上回る水準を実現している産業部門(表 2-1
斜体太字)は、商業・ホテル・レストラン、運輸・
倉庫・通信などのサービス部門に多く見受けられ、サービス部門が他の分野よりも継続的かつ
高い成長率を示しているのがわかる。
多くの報告書等でも、インドの経済成長がこのようなサービス部門に牽引されてきたという見方
が強い。確かに、近年に入り、サービス部門の成長が GDP 絶対額に占める割合も大きくなっている。
項目/財政年度
2000 年 2001 年 2002 年 2003 年 2004 年 2005 年 2006 年 2007 年
-0.2
6.3
-7.2
10.0
-0.0
5.9
3.8
2.6
Ⅱ工業
6.4
2.7
7.1
7.4
10.3
10.1
11.0
8.9
鉱業
2.4
1.8
8.9
3.1
8.2
4.9
5.7
3.4
製造業
7.8
2.5
6.8
6.6
8.7
9.0
12.0
9.4
電気・ガス・水道供給
2.1
1.7
4.8
4.8
8.7
4.7
6.0
7.8
建設
6.2
4.0
8.0
12.0
7.9
16.5
12.0
9.6
5.7
7.2
7.5
8.5
16.1
10.3
11.1
10.7
通商・運輸・通信
7.3
9.2
9.4
12.0
10.7
11.5
11.8
12.1
金融
4.1
7.3
8.0
5.6
8.7
11.4
13.9
11.7
公共サービス・その他
4.7
4.1
3.9
5.4
6.9
7.2
6.9
6.8
4.4
5.8
3.8
8.5
7.5
9.4
9.6
8.7
Ⅰ農業・同関連
Ⅲサービス
ⅣGDP
(注) 要素費用表示、1999 年度価格、対前年度変化率:%
表 3-1 7
6
7
部門別実質GDP成長率
インド政府中央統計局(CSO)広報資料より
アジア開発銀行(ADB)データベースより
q は速報値、a は事前予想値
205
インドの経済成長分析
これに関して、近年の日本、中国、米国と比較してみよう。表 3-2 の日本に関しては、飛び
ぬけた成長率を示している産業はなく、どの分野も比較的バランスよく成長しているかのよう
に見える。他方、中国と米国では特定の分野が経済成長を引っ張っているような印象を受ける。
今日、世界の工場と呼ばれるほどまでに成長した中国は、製造業・鉱業部門が著しい成長を示
していることが表 3-3 よりわかる。中国の経済成長は、工業部門によって牽引されてきたこと
がうかがえる。また、表 3-4 の米国はインドの成長傾向と似ており、サービス部門の成長率が
高いことがわかる。
項目/財政年度
2000
2001
2002
2003
2004
年
年
年
年
年
1.6
0.4
6.0
-5.8
-2.2
鉱工業
6.7
-4
-1.7
4.8
4.4
(うち、製造業)
7.2
-4.9
-1.9
5.4
4.6
-2.4
-3.8
-3.4
-1.8
-2.9
a -1.2
a 0.5
-1.5
-1.7
0.7
運輸・倉庫・通信
2.2
2.7
2.2
1.6
2.5
その他の経済活動
2.5
2.5
2.5
1.8
1.4
Ⅳ.GDP
2.9
0.4
0.1
1.8
2.3
Ⅰ.農業・同関連
Ⅱ.工業
建設
Ⅲ.サービス
商業・ホテル・レストラン
表 3-2 8
項目/財政年度
日本
部門別実質GDP成長率
2000
2001
2002
2003
2004
年
年
年
年
年
―
2.8
2.9
2.5
6.3
鉱工業
―
8.5
10
12.8
11.5
(うち、製造業)
―
―
10
12.8
11.5
建設
―
6.8
8.8
12.1
8.1
商業・ホテル・レストラン
―
7.8
8.1
9.1
6.3
運輸・倉庫・通信
―
9.3
7.9
6.3
14.9
その他の経済活動
―
8.3
9.3
8
6.3
8.4
7.2
9.1
10
10.1
Ⅰ.農業・同関連
Ⅱ.工業
Ⅲ.サービス
Ⅳ.GDP
表 3-3 9
8
中国
部門別実質GDP成長率
総務省 統計局『世界の統計 2008』より
a は飲食・ホテル業を除く
206
国
項目/財政年度
際
経
済
2000
2001
2002
2003
2004
年
年
年
年
年
8.4
-1.4
-2.9
10.3
-1.7
鉱工業
3.6
-5.9
2.1
2.4
4.6
(うち、製造業)
4.7
-6.0
2.5
2.0
5.2
建設
2.7
-1.6
-1.9
-1.3
2.5
商業・ホテル・レストラン
6.5
2.0
1.5
3.1
5.2
運輸・倉庫・通信
8.3
2.0
1.6
2.2
8.9
その他の経済活動
4.3
2.3
1.6
2.9
3.7
Ⅳ.GDP
3.7
0.8
1.6
2.5
3.9
Ⅰ.農業・同関連
Ⅱ.工業
Ⅲ.サービス
表 3-4 10
米国
部門別実質GDP成長率
このように、成長率に着目すると、インドの経済成長はサービス部門に牽引されてきた印象
を受ける。
各部門別の増加絶対額に着目し成長の寄与率を出すと、近年に入り、通商・運輸・通信の分
野が大きな比率を占めることがうかがえる。2000 年以降、通商・運輸・通信の分野の著しい
伸び、それに加えて金融の分野が高い寄与率を示し、サービス部門の占める割合が比較的高く
なっている。その一方で、農林水産業部門や鉱工業部門も依然として大きな割合を占めており、
サービス部門がインド経済全体の成長に与えている影響はこれまではそれほど大きくなかっ
たことが推測される。今日、インド以上に著しい経済成長を遂げている中国では、鉱工業部門
の寄与率の高さが顕著に現れる。また、サービス部門に強い米国では、農林水産業部門の寄与
はほとんど見受けられず、サービス部門に傾倒した経済がうかがえる。これらの国と比較して
も、インド経済は、サービス部門の絶対的な成長力によって成長を遂げた、とは言いがたい。
9
10
総務省 統計局『世界の統計 2008』および『世界の統計 2007』より
総務省統計局『世界の統計 2008』より
207
インドの経済成長分析
3000.0
2500.0
公共サービス・その他
金融
通商・運輸・通信
建設
電気・ガス・水道供給
製造業
鉱業
農業
2000.0
1500.0
1000.0
500.0
20
07
年
20
06
年
20
05
年
20
04
年
20
03
年
20
02
年
-500.0
20
01
年
20
00
年
0.0
図 3-2 インド経済における各部門の寄与
2500
2000
金融・公共サービス・その他
運輸・通信
通商
建設
鉱工業・電気・ガス・水道
農林水産業
1500
1000
500
20
00
年
20
01
年
20
02
年
20
03
年
20
04
年
20
05
年
20
06
年
20
07
年
0
図 3-3 中国経済における各部門の寄与
500,000
400,000
300,000
200,000
100,000
0
-100,000
2000年
2001年
2002年
2003年
2004年
その他の経済活動
運輸・倉庫・通信業
商業・ホテル・レストラン
建設業
鉱工業
農林水産業
-200,000
図 3-4 米国経済における各部門の寄与
208
国
際
経
済
インド経済では、実質GDP産業別構成、部門別実質GDP成長率の両方において、サービス
部門の著しい成長が見受けられる。実際インド経済に関して、
「1990 年代に成長率が加速した
ことが統計的に証明されたのは、サービス部門の商業と運輸・通信であった。」11という発表も
ある。しかし、実際に増加した絶対額を見てみると、経済成長に対する寄与率はそれほど高く
ない。サービス部門が高い成長率を示しているのは確かだが、現段階では成長過程ともいうべ
きであろうか。インド経済拡大を要因となってきたというにはまだ不十分であると考える。
第3節
貿易に関する検証
第 2 節において、サービス部門は高い GDP 成長率を示しているが、寄与度を考慮すると、
今日までの牽引力は評価されているほどではないのではないだろうか、と考えられる。では、
輸出に占めるサービス業の割合は果たしてどの程度あるのだろうか。サービス輸出の経済成長
に対する寄与率について検証する。
1991 年に経済改革が行われ、国際競争力が強化された結果、インドの財・サービス輸出は
2000 年の 599 億ドルから 2006 年には 1990 億ドルへと、6 年間で 3 倍以上増加している
12。
また、サービス輸出については、167 億ドルから 753 億ドルとこちらは 4.5 倍に成長を遂げた。
世界各国のサービス輸出額を見てみると、2006 年では、米国が 1 位、日本は 5 位、中国 8 位、
インドも 10 位に入っており、そのうちインドは 2005-06 年の伸び率が実に 35%という高い伸
び率を示している。
インドでは、輸出額に占めるサービス部門の割合は、1997 年までは 20%前後を推移してい
たが、1998 年に 25%を越え、それ以降顕著な伸びを示している。2006 年には 37.9%を占め
るまでに至った。2006 年の中国の輸出額に占めるサービス貿易の割合は 8.67%、日本では
16.0%、米国においても 29.18%となっている。また、これら三国の割合が安定的に推移して
きたのに対し、インドの割合は近年著しく伸びており、インドの輸出に占めるサービス部門の
重要性が高まってきていることがうかがえる。サービス輸入の割合に関しても、2006 年では
中国が 11.82%、日本が 20.23%、米国が 15.55%であるのに対して、インドは 27.60% と、
インドでは輸出・輸入の両者においてもサービス部門の果たす割合が大きいことがわかる。
11
12
中川秀次『躍動するインド経済 光と影』より
JETRO 海外情報ファイル“JETRO‐FILE”インド基礎的経済指標より
209
インド
中国
米国
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1997
1996
1995
1994
1993
1992
1991
40.0
35.0
30.0
25.0
20.0
15.0
10.0
5.0
0.0
1990
%
インドの経済成長分析
日本
図 3-5 輸出額に占めるサービス貿易の割合
このように拡大してきたインドのサービス貿易の中心を担う産業として注目されているの
が、IT産業である。2005 年では、インドのIT産業は 346 億ドルに達している。現在、世界の
ITサービスに占めるインドのシェアは未だに 3~4%にとどまっているが、ITサービスの海外
アウトソーシング(オフショアリング)先に占めるインドの割合は、ITサービス(ソフトウエア・
サービス)では 65%、IT活用サービス‐ビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)では 46%
を占め、2 位以下の国を大きく引き離している。現在、インドIT産業は年間約 30%の成長を示
しているが、今後ともこのような拡大ペースを続けた場合、2010 年までには世界のITサービ
スに占めるインドのシェアは約 15%に拡大し、名実ともにインドはIT大国としての仲間入り
を果たす見込みである
13。サービス輸出においても、2001
年以降、IT産業(以下、情報の分
野として分類)が輸出の 10%以上を占めており、2006 年では 14.67%を占めるまでに成長し
た。これは、サービス輸出の実に 40%近くに上る。情報の分野の輸出額は 2005 年-06 年にか
けて 32.6%と高い伸び率を示しており、2006 年では 2 位以下の国を引き離し、世界一の輸出
額を誇る。(図 3-6 参照)
13
小島眞
『インド経済拡大の現状と展望』より
210
国
30,000
際
経
済
29,186
25,000
21,040
20,000
12,987
15,000
9,680
10,000
7,596
5,289
5,000
0 India
Ireland
U.K.
U.S.A.
Germany
図 3-6 14
Israel
4,034
3,955
3,584
3,904
Canada
Netherlands
Spain
Sweden
2,958
966
China(11 位)
Japan(19 位)
世界各国の情報産業(Credit)
このように、情報産業の目覚しい成長は時おり注目を集めるが、インドの情報産業が本当に
経済成長・輸出拡大を牽引しているのかという点について、「インドのIT産業はソフトウエア
(ITサービス)に大きく傾斜し、売上全体の 8 割を占めるとともに、典型的な輸出主導型であり、
輸出が売上全体の 64%を占めている。
・・・(中略)・・・1990 年代を通じて、インドのITサー
ビス輸出は、年率で実に 50%の成長を遂げ、すでにインドで最大の輸出品目へと成長してい
る。
・・・(中略)・・・21 世紀に入っても、ITサービス輸出は年間 30%を上回る順調な成長を
続け、2005/06 年には 239 億ドルを記録し、2010 年までには 600 億ドルに拡大する見通しで
ある。」 15という、ITサービス輸出の拡大を絶賛し、経済拡大の一因として肯定する見解があ
る一方で、「1990 年代にIT産業が輸出を中心に急成長を遂げたが、ITおよびIT関連産業は
2003/04 年度においてもGDPの 3.5%しか占めておらず、サービス産業は国内需要に依拠しな
がら成長を遂げてきたといえる。」 16と、ITサービス産業が輸出拡大を牽引してきたとするに
は不十分であり、サービス業も輸出拡大によって成長してきたとは言いがたいとの見解もある。
確かに、インドの貿易依存度はそれほど高いものではなく、
(表 3-5 参照)GDP に占める輸
出の割合は中国などと比べてそれほど大きなものではない。これまでの経済成長がサービス輸
出の拡大に牽引されたとするには、インドのサービス輸出はまだ不十分であろう。だが、貿易
依存度は徐々に高まってきており、前述のとおり、近年のサービス輸出が著しく増加している
こと、また、そのサービス輸出に占める情報産業の割合の大きさ、また世界市場におけるイン
ドの情報産業の位置などを考えると、今後、情報産業によってサービス輸出が目覚しく拡大し、
その輸出の拡大によってインド経済が更なる経済成長を遂げるということは十分考えうるこ
とだろう。
14
15
16
国際貿易投資研究所「サービス貿易統計データベース」より 単位:100 万米ドル
小島眞 『インド経済拡大の現状と展望』より
中川秀次『躍動するインド経済 光と影』より
211
インドの経済成長分析
輸出依存度
輸入依存度
2002
2003
2004
2005
2006
2002
2003
2004
2005
2006
年
年
年
年
年
年
年
年
年
年
日本
10.6
11.1
12.3
13.1
14.9
8.6
9.0
9.9
11.3
13.3
インド
10.0
9.9
11.1
12.3
13.2
11.2
12.2
14.5
17.2
19.2
中国
22.4
26.6
30.6
33.4
36.9
20.3
25.0
29.0
29.0
30.1
米国
6.6
6.6
7.0
7.3
7.8
11.5
11.9
13.0
13.9
14.5
表 3-5 17
第4節
各国の貿易依存度
外資の参入状況
1991 年の経済改革によって、外資に対する規制緩和が進められた。それまでは、インドで
は外国人による持株が 40%までに制限されており、外国人による過半数支配は認められてい
なかった。それが 51%まで認められるようになり、現在では、政府の許可さえ得られれば 100%
出資も可能になった。また、経済改革によって、巨大な国内市場の形成が見込まれるとともに、
生産拠点としてのインドの重要性が高まっていくこととなった。
「このような経済改革は、1990
年代半ばに製造業に対する投資ブームを引き起こした。消費財への投資が撤廃されたことで耐
久消費財産業を中心に投資が増大する。この投資ブームは耐久消費財産業にとどまるものでは
なく、中間財、資本財、非耐久消費財産業にも波及効果を与えた。その結果、製造業登録部門
(大企業)への粗資本形成額つまり投資学は 1995/96 年度から急増した。投資に応じて生産も増
大し、1990 年代半ばには製造業は 10%前後の成長率を維持できた。しかし、この投資ブーム
は農業や電気・ガス・水道といったインフラ産業には影響を与えなかった。また、製造業未登
録部門(小規模企業)への投資は 1990 年代末には 1990 年代初めの水準にまで下がっているので、
投資ブームの影響は小さかった。投資ブームは製造業、運輸・通信、金融・保険に限定されて
いた。」 18このように、1990 年代末には製造業への投資ブームは終息したが、その一方で、サ
ービス部門への投資は 1997 年から急増した。サービス業全体への粗資本形成額は、1991 年
17 億 3527 万ルピーから 1995 年の 26 億 3002 万ルピーに増大した。近年では、コンピュータ
(ハード・ソフト)、通信、金融などといったサービス部門に対する直接投資がコンスタント
に増加し続けている。2005-06 年にかけて、コンピュータ関連産業に対する投資は 25.4%、通
信分野に対する投資は 10.3%の伸び率 19を示した。
直接投資の累積額からもうかがえるように(図 3-7 参照)
、海外からの直接投資の多くは、サ
ービス部門へ投入されている。図 3-3 によると、投資額の上位 3 位がサービス(金融・非金融)、
IT(ハード・ソフトウエア)、遠距離通信とサービス部門で独占されており、この 3 部門で全体の
45%以上を占めている。これは、インドのサービス産業の今後の成長に期待したものと考える。
17
18
19
総務省 統計局『世界の統計 2008』より
中川秀次『躍動するインド経済 光と影』より
JETRO「対内直接投資統計(業種別)
」より
212
国
際
経
済
サービス(金融・
非金融), 20.6%
その他
セメント
電気機器
医薬品
住宅・不動産
化学
電力
自動車
図 3-7 20
IT(ハード・ソフト
ウエア), 16.0%
遠距離通信, 8.7%
建設
部門別海外直接投資累計額の比率(2000 年 4 月~2007 年 8 月)
では、他の国の直接投資と比較してみよう。BRICsやCHINDIA(シンディア)などとい
った名称で呼ばれ、インドと比較されることの多い中国の直接投資を見てみると、2006 年の
主な投資分野は、製造業 57.7%、不動産 11.8%、金融 9.7%、リース・ビジネス 6.1%、交通・
運輸・通信 2.9%であり
21、ここでも、中国における製造業の占める割合が半分以上と大変大
きい。インドではIT産業、中国では製造業と、両国の重要視されている産業に対して投資が集
中する傾向にある。
また、中国に対する直接投資と異なる点は、インドはインフラに対する投資が少なく、イン
フラ整備がなかなか進まない点が挙がる。中国ではインフラ整備が進むことにより、製造業な
どの産業が発達するなどの直接的な影響に加え、国民の生活に不可欠なインフラが整備される
ことによって副次的にもたらされる経済効果がある。インドのインフラが整わないことが、諸
外国からのプラント参入を阻んでいるという点も指摘しなければならない。
第5節
労働力構成に関する検証
第 2 節でも触れたように、GDP に関しては工業化と都市化が進む中で、1980 年代以降農林
水産業の比率が休息に低下する一方で、サービス部門の比率が急上昇した。また、製造業の比
率も 15%付近で安定している。これに対して、労働力構成はどのようになっているのだろう
か。
表 3-6 を参照してほしい。第 1 次産業および第 2 次産業の就業者が減少し、第 3 次産業就業
者の数が増加していることがわかるが、GDP 比率ほど明らかな変化は見受けられない。また、
この調査の対象は公共部門と 10 人以上雇用している非農業民間事業所であるため、農業の比
率が極端に少なくなってしまう。
20
21
二階堂有子『対外自由化と経済成長』より
中国研究所『中国年鑑 2007』より
213
インドの経済成長分析
1980 年
全産業
農林漁業
鉱業
製造業
電気・ガス・水道業
建設業
商業、飲食、ホテル業
運輸、倉庫、通信業
金融、保険、不動産業
その他サービス
1990 年
2002 年
1980 年
1990 年
2002 年
22,305
26,353
27,206
1,290
1,423
1,339
5.78%
5.40%
4.92%
922
1,069
928
4.13%
4.06%
3.41%
5,872
6,327
6,217
26.33%
24.01%
22.85%
695
939
965
3.12%
3.56%
3.55%
1,141
1,201
1,082
5.12%
4.56%
3.98%
384
441
492
1.72%
1.67%
1.81%
2,722
3,075
3,085
12.20%
11.67%
11.34%
897
1,402
1,621
4.02%
5.32%
5.96%
8,392
10,476
11,477
37.62%
39.75%
42.19%
表 3-6 22
インドの就業構造
そこで労働力構成の変化を見てみることにする。図 3-3 においても、農林水産業の比率は低
下しているが、GDP の変化ほど大きくはない。GDP 比率では急上昇したサービス部門に関し
ては労働力構成ではわずかしか上昇していない。これは、1980 年代以降の社会変化の中で GDP
構成から見た主要産業は第 1 次産業から第 3 次産業へと移行したが、労働力に関してはそれほ
ど変化せず、依然として農業に依存しているということである。
80.0
60.0
40.0
20.0
0.0
1972年 1977年 1983年 1987年 1993年 1999年
第1次産業
図 3-8 23
第2次産業
第3次産業
インドの労働力構成
農村と都市別の就業構成を見てみよう。こちらでも第 1 次産業の減少が見受けられる。農村
では男女ともに第 1 次産業就業者の割合が減った。男性にいたっては、11 ポイントも縮小を
示している。その一方で、第 2 次・第 3 次産業の比率が徐々に高まっている。しかし、依然と
22
23
労働政策研究・研修機構『データブック国際労働比較(2005 年版)』より
公共部門と 10 人以上雇用する非農業民間事業所を対象とする
インド政府 National Accounts Statistics より
214
国
際
経
済
して農業を中心とする第 1 次産業に依存していると結論付けられるだろう。
農村
男
1983 年
女
1993 年
2004 年
1983 年
1993 年
2004 年
54.7
55.3
54.6
34.0
32.8
32.7
第 1 次産業
77.5
74.1
66.5
87.5
86.2
83.3
第 2 次産業
10.0
11.2
15.5
7.4
8.3
10.2
第 3 次産業
12.2
14.7
18.0
4.8
5.6
6.6
就業者・人口比率
産業別構成
都市
男
1983 年
女
1993 年
2004 年
1983 年
1993 年
2004 年
51.2
52.1
54.9
15.1
15.5
16.6
第 1 次産業
10.3
9.0
6.1
31.0
24.7
18.1
第 2 次産業
34.2
32.9
34.4
30.6
29.1
32.4
第 3 次産業
55.0
58.0
59.5
37.6
46.3
59.5
就業者・人口比率
産業別構成
表 3-7 24
労働力率と就業構造の変化
経済成長に不可欠な人的資本に関し、労働構成は未だに第 1 次産業に依存している現状が浮
き彫りになる。インドの優れた人的資本は注目を浴び、特に IT 関連産業に従事する労働者の
優秀さがインドの特長となっているのは事実である。だが、IT 産業などに従事できる高等教育
を受けた人材は 11 億人の人口のうち、現在 3 億人といわれる中間層の限られた人々である。
このように、第 1 次産業に大半の人びとが第 1 次産業に従事するインドの労働市場を考慮する
と、サービス部門の第 3 次産業は労働者にとって、まだ大きな労働市場になりえていない。今
のインドの段階は、農業部門の所得を拡大することで非農業部経済活動を活性化し、非農業部
門の雇用を拡大しようとしているところではないだろうか。今後は、いかに雇用を創出してい
くかが課題になるであろう。
24
木曾順子『インド労働市場に現状と労働政策
―雇用流動化の現状―』より
215
インドの経済成長分析
第4章
まとめと残された課題
11 億人の人口を抱え、日本の 8.8 倍もの広大な国土を持つインドは、その力を存分に発揮し
目覚しい発展を遂げている。高度経済成長期の日本や「世界の工場」といわれるまでに発展し
た中国の製造業を中心とする第二次産業中心の経済成長とは大きく異なり、インドは独自の発
展経緯をたどってきた。混合経済や農業部門の重視、工業部門重視への政策転換など紆余曲折
を経ながら、IT 産業を核としたサービス産業に重点をおくことでインドは今日の高く安定した
経済力を実現した。だが、1970 年代後半に文化大革命が終焉、80 年代にかけて改革・解放経
済へ移行し、年平均約 10%という右肩上がりの目覚しい経済成長を遂げている中国の経済と
は異なる点が多々ある。インドは、独立当初から 10%近い成長率を示したこともあり、1991
年に経済改革が行われた結果、経済成長率が飛躍的に成長したわけではない。だが、通貨・金
融危機で 98 年にマイナス成長となった多くのアジア諸国とは異なり、インドは 92 年以降平均
6.5%という安定した経済成長を続けている。これは経済改革以前の、マイナス成長となる年
が度々存在した頃と比べ、インド経済が好転していると捉えられるのではないだろうか。
1991 年の経済改革以降、自由化の推進を行ってきた結果、インドの経済は高く、安定した
経済成長を実現してきた。特に IT 産業の成長は著しく、世界市場においても確固たる地位を
確立しつつある。だが、
注目を集めている IT 産業は未だに GDP の 3%程度の産業でしかなく、
経済成長に対するサービス部門の寄与度は、今日評価されているほど高いものとは認められな
かった。また、インドの貿易依存度は 15% 程度に留まっており、サービス輸出の拡大がイン
ド経済の拡大に寄与したというよりは、むしろ内需の拡大によって経済が拡大したのではない
かと推測される。労働力構成も第 1 次産業に従事する人が多いことを考慮すると、インド経済
の成長がサービス部門によって牽引されてきたとするのには、現段階では不十分であると本論
文では結論付けた。
しかし、「『全国ソフトウエア・サービス企業協会(National Association of Software and
Service Companies:NASSCOM)―マッキンゼー報告 2002』によると、2008 年までにソフ
トウエアおよびサービス産業の収入は 490 億ドルに達し、ITES(Information Technology
Enabled Services:情報技術関連サービス)市場は 2003/04 年度の 36 億ドルから 2008/09 年
度までに 210 億ドルに拡大すると予想されている。この予想に従えば、GDPに占めるIT産業
のシェアは 2003/04 年度の 3.15%から 2008/09 年度までに 7%に上昇」25するとの予測がうま
れるほど、インドの情報産業に対する期待は大きい。
インドは、世界でも屈指の高等教育人口を抱える人材大国である。その優秀な人的資本を、
先進国より安価に提供できることはインドにとって強みである。世界的な熟練労総力の不足、
コスト削減による利潤増大への圧力などの要因によって、米国をはじめとする先進国企業がア
ウトソーシング先としてインドの重要性を認識し始めると、インドのこの市場で地位を確立す
るための努力が実りつつある。世界的にみると、企業は海外委託を通じて大幅な生産性向上を
達成しており、その成果は消費者、株主に還元されるとともに、あらたな事業に投資されてい
25
内川秀二『躍動するインド経済―光と影』より
216
国
際
経
済
る。さらに、労働者は海外に委託される仕事から解放され、新たな技術を取得し始めており、
それによってより付加価値の高い仕事へと移行している。その結果、企業は高収益および生産
性向上を達成できる。ゆえに、海外委託はサービス部門の重要産業として確立されたのであり、
その重要性は今後高まっていくと考えられる。このような経済の流れから考えても、アウトソ
ーシングを含んだインドの IT 産業が更なる拡大をみせ、サービス部門の拡大がインド経済の
成長をさらに促進すると考える。これまでも、インド経済にとってサービス部門は重要視され
てきたが、今後は名実ともにインド経済を引っ張る産業となるだろう。
また、道路、鉄道、空港、電力などといったインフラ整備が未だに大きな課題として残るイ
ンドにとって、IT 産業をはじめとするサービス部門に特化した経済成長は好都合だったと考え
る。サービス部門は工業部門に比べ、電力や通信といった最低限のインフラが整ってさえいれ
ば製造業のような大規模な投資は必要とされない。サービス部門に特化したことはインドの現
状に沿った選択であったと言える。
インドのサービス部門はまだ発展途中である。だが、IT 産業を初めとするインドのサービス
部門が世界市場でその影響力を強めてきたのは事実である。インドの潜在能力は高い。だが、
今後のサービス部門の拡大を期待して過大評価する傾向もある。インドには、雇用政策やイン
フラ整備などインドに残された課題がまだまだ多い。今後も 5%以上の安定した経済成長は見
込めるであろうが、これらの課題に確実に取り組むことで、それ以上の経済成長を期待するこ
とは可能である。
本論では、このような課題に十分に触れることが出来なかった。これらのインドの課題に踏
み込み、今後どのように解消され、新たな拡大局面に向かうのかという点に関しての検証が本
論の残された課題である。
217
インドの経済成長分析
参考文献
石上悦郎(2007)
「インド経済の現状―IT 化戦略の特徴―」財団法人日本 ILO 協会『世界の労
働』第 57 巻第 3 号
大塚恵一郎(2001)
「インド経済とソフトウエア産業」外国為替貿易研究会『国際金融』第 1077
号
木曾順子(2007)
「インド労働市場の現状と労働政策―雇用流動化の現状―」財団法人日本 ILO
協会『世界の労働』第 57 巻第 3 号
小島眞(2007)
「インド経済拡大の現状と展望」世界経済研究協会『世界経済評論』第 51 巻第
3号
社団法人中国研究所(2007),『中国年鑑』
総務省統計局(2008),
『世界の統計 2008』『世界の統計 2007』
中川秀二編(2006),『アジ研選書 No.2 躍動するインド―光と影』アジア経済研究所
二階堂有子(2008)
「対外自由化と経済成長―輸出促進を通じて「雇用なき成長」から脱却へ―」
日本貿易振興機構アジア研究所研究支援部『アジ研ワールド・トレンド』第 14 巻第
9号
日本貿易振興機構アジア研究所研究支援部「特集
インド経済―成長の条件」『アジ研ワール
ド・トレンド』第 14 巻第 9 号
みずほ総合研究所(2006),『BRICs』東洋経済新聞社
労働政策研究・研修機構(2005),
『データブック国際労働比較(2005 年版)』
参考資料
BOP;Balance of Payments Statistics(IMF)2008 年 8 月号
JETRO 日本貿易振興機構 http://www.jetro.go.jp/
India Union Budget & Economic Survey http://indiabudget.nic.in/
218
国
際
経
.
済
219
インドの経済成長分析
あ
と
が
き
―国際経済ゼミでの 4 年間を振り返って―
大学生活での 4 年間は本当にあっという間でした。高校生活とは違い、自分自身
が主体的に学ぶことの重要さを感じつつ、今まで以上に広がる自由にわくわくしな
がら、様々な分野に興味を持ち動き回っていました。
この 4 年間、永田先生をはじめとする多くの先生方に支えられ、また、たくさん
の温かい仲間に囲まれて、今春、無事卒業を迎えることを、本当に嬉しく、誇らし
く思います。
1 年の前期に受講した国際貿易論入門を通して、初めて本格的に触れた経済学の
奥深さと、永田先生の人柄に惹かれ、1 年の後期から、まるで飛び込むかのように
国際経済ゼミに参加したのを、今でも鮮明に覚えています。国際経済ゼミでの取り
組みの大変さは、私の予想をはるかに超えるもので、経済学の基礎も身についてい
ない私にとっては、必死になってついていくのがやっとでした。膨大な量の英語テ
キストの予習、ゼミ内で課される複数のテストに苦しみ、出来ない悔しさに「持ち
帰らせてください」とお願いし、テストを特別に持ち帰っては、テキストをめくり
辞書を何度もひきながら復習した頃もありました。そんな私にも、先生や先輩方は、
わかるまで何度も丁寧に指導してくださいました。また、一緒にゼミに入った菅原
さんの存在は本当に心強く、お互いに励ましあいながら最後まで頑張れたことはと
ても大きかったと思います。
2 年・3 年生になると同学年の仲間がゼミに増え、相変わらず遅くまで繰り広げ
られるゼミに苦労しながらも、学ぶ楽さを少しずつ見出せた気がします。永田先生
には、就職の相談にも親身にのっていただき、自分が社会に出るために何を学ぶべ
きかを意識し始めたのもちょうどこの頃でした。
4 年生では、いよいよ卒業論文に向けて始動。頭を悩ませてテーマを考えたり、
ゼミ合宿で遅くまで討論したり、なかなか進まない論文制作にうんざりしたりもし
ました。今まで何度か書き上げた小論文とは違い、明確な問題意識、徹底的なデー
タ集め・分析、深い考察などが求められ、自分自身の成長を感じながらも、どれを
取り上げても、まだまだ自分の力が不十分であることを痛感しました。それでも、
220
国
際
経
済
書き上げた時の達成感は今までにないものでした。また、専攻の発表会だけでなく、
3 月末には青山学院大学の経済成田ゼミとの合同発表会を設けていただきました。
専攻の発表会で指摘された点を修正し、また発表の場をいただけたというのは良い
機会だったのではないかと思います。
4 年間、国際経済ゼミに所属し、学び、経験したことが、これからどのように活
かされるのか、今はまだわかりません。ただ、4 年間頑張りぬくことが出来たとい
うことは、確実に私の自信へと繋がっています。
最後になりましたが、私の学生生活を支えてくれた先生方、仲間、家族に心から
感謝し、教養学部の更なる発展と後輩の活躍を祈って、卒業論文あとがきとさせて
いただきます。本当にありがとうございました。
嘉 数 優 香
.
中国経済と日本バブルの比較分析
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL170
(論文指導
呉
浩
永 田 雅 啓)
.
中国経済と日本バブルの比較分析
223
【要 旨】
問題意識
中国は改革開放の政策を取り込むことになってから、大幅な経済発展を果たしてきた。1990
年代後半から、GDP の成長率は10パーセント以上を維持してきた。特に 2008 年の北京オリ
ンピックと 2010 年の上海万博を控え、さらなる経済成長が期待されている。確かに、今まで
の GDP の大幅な成長は経済の繁栄をもたらし、株価など、特に 2006 年、2007 年の二年間に
高騰し、一時的に景気が異常に拡大した。しかし、それ以降、株価が急激に下落し、「中国バ
ブル」が崩壊したという見解が出てきた。
本論文では中国の 2000 年に入ってからの経済を考察し、特に不動産市場、株式市場の変化
を研究し、まず中国の「好景気」はどれほどの「バブル」を含めているのかを理論的分析を通
して、実証的に検討していきたい。そして、もし現在の中国が「バブル崩壊」であれば、過去
の例として、日本の 80 年代後半から 90 年代のバブルと比較分析し、それぞれのバブル膨張期
や崩壊後に起こった経済現象などから、バブルの発生と崩壊は中国の経済成長にどんな影響を
もたらすのかを分析していきたいと考えている。
主要な結論
まず、中国の不動産市場に関する考察により、地価の上昇幅は想像より低く、バブルである
とは考えられないという結論を得た。しかし、株価に関しては、その激しい上昇と下落はバブ
ルであると考えられる。
バブル膨張期の企業、金融業界の行動はバブル崩壊後の長期の不況に繋がると考えられるが、
中国と日本、それぞれの特徴を比較分析し、中国の金融機構がバブルに影響される程度は小さ
いと考えた。また、バブル崩壊の中国の金融システムの現状を考察し、バブル崩壊した今でも、
中国の銀行システムも経営状況が改善されつつあり、今回の株バブルの崩壊は長期的な不況に
は繋がらないと結論づけた。
224
国
際
目
経
済
次
はじめに......................................................................................................... 226
第一章
バブルに関する理論的な整理 .......................................................... 228
第一章
バブルに関する理論的な整理 .......................................................... 228
1.1
バブルの定義.............................................................................................. 228
1.2
日本のバブル景気 ...................................................................................... 228
1.3
バブルを検証する理論 ............................................................................... 229
1.3.1 GDPの成長と資産価格.................................................................................. 229
1.3.2 資産価格理論 ................................................................................................. 229
第二章
中国不動産価格と株価に関する考察 ............................................... 231
2.1
中国の不動産価格に関する考察................................................................. 231
2.1.1 不動産価格とGDPの成長 .............................................................................. 231
2.1.2 収益還元価格による検証............................................................................... 232
2.1.3 中国の不動産市場の政策............................................................................... 234
2.2
株式市場に関する考察 ............................................................................... 235
2.2.1 資産価格理論より、日中株式市場の考察 ..................................................... 235
2.2.2中国株式市場の金利修正PERの考察 ................................................................ 238
2.3 本章のまとめ ............................................................................................... 240
第三章
バブルの膨張期、実体経済への影響 ............................................... 241
3.1
バブル現象の経済成長への寄与度 ............................................................. 241
3.2
高騰する株価の背景にある企業と金融界の変化........................................ 243
3.2.1 バブル膨張期のエクイテイファイナンス実態の考察 ................................... 244
3.2.2 中国金融機構の貸出しの調査........................................................................ 245
3.3
本章のまとめ.............................................................................................. 246
中国経済と日本バブルの比較分析
第四章
225
バブルの崩壊後の金融システム ...................................................... 247
4.1
バブル崩壊後の日本 ...................................................................................247
4.2
中国銀行業界の現状について考察..............................................................248
4.2.1 中国銀行業の不良債権の現状 ....................................................................... 248
4.2.2 BIS規制の影響 .............................................................................................. 251
4.3
第五章
本章のまとめ ..............................................................................................251
結論.................................................................................................. 253
5.1
本論文の主要な結論 ...................................................................................253
5.2
中国経済がこれから直面する問題
-新BIS規制への対応- ...................254
参考文献......................................................................................................... 255
邦文著書 ...................................................................................................................255
洋著書 .......................................................................................................................255
参考資料とインタネット資料 ...................................................................................255
226
国
際
経
済
はじめに
問題意識
中国は改革開放の政策を取り込むことになってから、大幅な経済発展を果たしてきた。1990
年代後半から、GDP の成長率は10パーセント以上を維持してきた。特に 2008 年の北京オリ
ンピックと 2010 年の上海万博を控え、さらなる経済成長が期待されている。確かに、今まで
の GDP の大幅な成長は経済の繁栄をもたらし、株価など、特に 2006 年、2007 年の二年間に
高騰し、一時的に景気が異常に拡大した。しかし、それ以降、株価が急激に下落し、「中国バ
ブル」が崩壊したという見解が出てきた。
本論文では中国の 2000 年に入ってからの経済を考察し、特に不動産市場、株式市場の変化
を研究し、まず中国の「好景気」はどれほどの「バブル」を含めているのかを理論的分析を通
して、実証的に検討していきたい。そして、もし現在の中国が「バブル崩壊」であれば、過去
の例として、日本の 80 年代後半から 90 年代のバブルと比較分析し、それぞれのバブル膨張期
や崩壊後に起こった経済現象などから、バブルの発生と崩壊は中国の経済成長にどんな影響を
もたらすのかを分析していきたいと考えている。
主要な結論
まず、中国の不動産市場に関する考察により、地価の上昇幅は想像より低く、バブルである
とは考えられないという結論を得た。しかし、株価に関しては、その激しい上昇と下落はバブ
ルであると考えられる。
次に、バブル膨張期の企業、金融業界の行動はバブル崩壊後の長期の不況に繋がると考えら
れるが、中国と日本、それぞれの特徴を比較分析し、中国の金融機構がバブルに影響される程
度は小さいと考えた。また、バブル崩壊の中国の金融システムの現状を考察し、バブル崩壊し
た今でも、中国の銀行システムも経営状況が改善されつつあり、今回の株バブルの崩壊は長期
的な不況には繋がらないと結論づけた。
論文の概要
第一章では、中国経済と日本のバブルを比較するために、まず、バブルの概念と日本のバブ
ルが発生した具体的な時期を明確にした。そして、過去二年間に、中国の資産価格の高騰が本
当にバブルであるのかを検証するため、資産価格の理論を整理した。
第二章では、まず中国の不動産市場のバブルの存在を検証した。第一章で整理した理論を用
い、実際のデータを使って検証した結果、不動産市場にバブルは存在しないと判断した。そし
て、株式市場の株価の高騰と下落は、資産価格理論などに基づいた実証によって、2006,2007
年の株式市場には大きなバブルが存在すると結論した。
第三章は、バブル膨張期の実体経済についての分析である。まず、マクロ的にはバブルの膨
張が経済成長へ与える影響について考察し、中国の株バブルの膨張期に、投資や消費が増加す
る傾向があることが観察された。日本のバブル膨張期も同じ様な傾向がある。しかし、投資と
消費の増加そのものは関連性が強いので、この高い経済成長は必ずしもバブルがもたらして来
中国経済と日本バブルの比較分析
227
たものとは言えない。
また、中国のバブル膨張期にも日本と同じように、エクイテイファイナンスの大幅増加が見
られる。しかし、日本の場合と違って、そのエクイテイファイナンスされた資金は金融資産に
再投入することが見られないので、いわゆる企業が「財テク」に走る現象がなかった。その時期
の金融機構の貸出にも大きな拡大はなく、貸出総量は安定的と思われる。
第四章ではバブル崩壊後の日本はなぜ長期的な不況に陥ったを分析し、金融機構のクレジッ
トクランチが主な原因と考えられるので、それに対して、中国の現在銀行システムの現状を調
べた。その調べによって、不良債権の残高はまだ高いが、改善されている傾向が強い。特に国
有商業銀行の改善によって、バブル崩壊後の正常な経済活動の強い保障となる。また、BIS 規
制の基準を満たした銀行の数も大幅に増え、銀行業全体はより健全で安全な方向に向かうと結
論付けた。
第五章の結論では、全体的な分析によると、中国の経済成長は今回の株バブルに影響される
程度が小さく、バブルの崩壊による経済不況がないと結論した。しかし、世界経済景気の後退
などによって、中国経済発展にはまだ様々な問題があると考えている。
228
第一章
1.1
国
際
経
済
バブルに関する理論的な整理
バブルの定義
バブルとは実体経済の経済成長、つまり GDP の成長以上に、資産価格が上昇する経済現象
である。その実体経済の成長から乖離して成長する資産価格の成長は、ファンダメンタルの原
因から解釈できない。投機行為は主な上昇の理由となり、そして、その投機による上昇が、さ
らに投機を呼ぶという循環となり、資産価格が高騰する経済現象がバブルである。
バブルにより、実体経済にプラスの効果がある。一般に資産価格の上昇を背景として投資・
消費などが行われ、実体経済も活性化する効果がある。しかし、実体経済の成長では維持でき
ないほど高い資産価格なので、多くの場合、それまで 投機を支えていた何らかの期待・神話の
崩壊による合理的資産価格の低下などを引き金にして、投機の集中が終息し、資産価格が下落
することでバブルは解消される。
もともと価格上昇を前提に形成された資産価格であるため、価格下落が始まると急速にバブ
ル経済は収縮する。これがバブルの崩壊である。バブルの崩壊は、不良債権問題の発生を伴う。
これは、もともとバブル期の 資産価格の上昇が、返済可能な水準を越えて膨張した 負債を内
包していたためである。バブル崩壊で資産価格が下落すると、残された負債の返済による 貸借
対照表の調整は 投資の停滞をもたらす。こうしてバブル経済が実体経済へ好影響を与えていた
のと同じく、バブル崩壊は実体経済に大きな打撃を与えることになる。
過去の事例から見れば、十七世紀のオランダでのチューリップバブル、十九世紀のイギリス
での鉄道狂時代から最近のアメリカの住宅バブルの崩壊によって発生し、未だに続いている世
界金融危機まで、どれでも以上のバブル経済の特徴と当てはまる。
2006 年から 2007 年の間、北京オリンピックと上海万博を控え、中国の株式や不動産市場に
おける資産価格の高騰は注目されている。そして、その後の下落はまさに中国バブルが崩壊し
たという見解につながる。その投機対象が株や不動産であることは、1980 年代後半の日本の
バブル景気の時と一致する。そして、バブルが発生するまで、日中とも順調に経済成長を果た
している。日本と中国はその背景と状況が類似しているので、本論文で、1980 年代後半から
発生した日本のバブル景気と今の中国経済とを比較分析していきたい。
1.2
日本のバブル景気
日本のバブル景気は主に 1980 年代後半から 90 年代までの土地と株式市場における投機によ
る資産価格の激変である。その資産価格の急激な上昇と下落により、多くの投資者に対してだ
けではなく、日本の実体経済にも大きな影響を与えた。90 年代初めの資産価格の崩壊により、
金融機関に巨額の不良債権が発生し、貸し渋りになり、企業側は資金繰りが苦しくなり、経済
全体は長期の不況になった。
日本のバブル景気の正確な時期を年単位に見ると、その発生の始まりが 1987 年であること
229
中国経済と日本バブルの比較分析
は異論がないが、その崩壊の始まりを 90 年とするか 91 年とするかで見解がわかれている。も
し、地価と株価の下落、つまり、資産価格変動の方向性を重視するなら 1990 年から、株価や
地価の水準を重視するなら 1991 年からとする見解が妥当であろう。本論文では、株価や地価
が経済のファンダメンタルな水準からどの程度から乖離するかに基づいて比較分析するので、
資産価格の水準を重視し、バブルの崩壊期は 1991 として分析していきたい。
1.3
バブルを検証する理論
実体経済の成長により、株価、地価などの資産価格の上昇にはその合理性がある場合もある
が、実体経済の成長では説明できない資産価格の高騰は、一般的に投機によるものと認識され
る。今現在の中国の経済はバブルであるのかを確認するために、実体経済と資産価格が乖離す
る程度を考察していきたい。本論文で、以下の理論を用い、実際のデータを使って中国の資産
価格と実体経済との乖離度を分析する。
1.3.1
GDP の成長と資産価格
GDP と資産価格は密接的な関係がある。一般的な見解によると、GDP の成長は資産価格を
上昇させる。長期的に、名目 GDP の成長率は各資産価格の成長率と一致するはずである。こ
の理論によれば、GDP と資産価格の成長率を比較すれば、資産価格の上昇の正当性を確かめ
ることができる。次の節で、その原理に基づき、中国の不動産価格と株価の上昇はバブルであ
るかどうかを確かめたい。
1.3.2
資産価格理論
資産価格が変動する要因は収益と利子率の変化である。一定の条件では、資産価格は収益
と利子率だけで表すことができる。
r
P=i
t
‥‥‥‥‥‥‥‥
(1-1)
式1-1で Pt をt期の資産価格、rを収益、i を利子率とすれば、これらの要素から経済の
基本的な構造の資産価格を考察することができる。式1-1で表している資産価格はファンダ
メンタルズ価格という。株価の場合は「配当還元価格」という、不動産、地価などの場合は「収
益還元価格」と言うものである。
そして、ここでの収益、すなわち株については配当、土地については利用収益は、それぞれ
の収益の総額は GDP の一定率 e であることを仮定すると、次のようになる。
r=GDP・e
式1-2を式1-1に代入する。
‥‥‥‥‥‥‥‥
(1-2)
230
国
e=
Pt × i
GDP
際
経
済
‥‥‥‥‥‥‥‥
(1-3)
ここでは、株価、不動産価格等のそれぞれについて、e は一定となり、あるいは緩やかな傾
向性をもって変動するはずである。この式に資産価格、GDP、利子率を実際の数字を入れ、e
の変動を観察すれば、実際の資産価格がファンダメンタルズ価格からどれほど乖離しているの
かを判断できる。
中国経済と日本バブルの比較分析
第二章
2.1
231
中国不動産価格と株価に関する考察
中国の不動産価格に関する考察
2008 年オリンピックと 2010 年の上海万博を控え、中国の不動産価格が大幅に上昇すると考
えられる。これまでも中国、特に北京、上海の不動産価格がバブルになっているという見解が
少なからず出されている。実際に、中国、北京、上海の不動産市場は近年いったいどのような
変化が起こったのか、統計データを用いて分析していきたい。
2.1.1
不動産価格と GDP の成長
第一章の GDP の成長と資産価格の関係の理論を用い、中国における 1999-2000 年の全国
と代表的大都市である北京と上海の不動産価格指数と GDP の変遷を考察していきたい。
図2-1 中国の不動産価格指数と GDP
注)1、中国統計局中国年鑑資料より作成、1999 年の指数は100とする。
図2-1から見れば、1999 年から 2007 年まで中国の GDP はほぼ 100%増加した。GDP
と資産価格の関係の理論により、資産価格は GDP と同じ上昇率で上昇すれば、正常であり、
資産価格はバブルではないと考えられる。実際、中国の不動産価格指数を観察すると、1999
年から 2007 年まで、全国、北京、上海の不動産価格指数それぞれは50%、44%、72%
しか上昇していなかった。この統計だけから見ると、中国の不動産市場がバブルであるとは考
えにくい。図2-1の曲線を見ると、全国、北京、上海の不動産価格指数ほぼ同じ傾向で上昇
している。しかし、どれも GDP の曲線を上回っていなかったところから、地価がバブルとは
判断できない。
そこで、同じような理論を用い、1980 年代から 90 年までの日本の地価指数と GDP の関係
を考察する。図2-2は日本の全国、および東京、大阪の商業用地の地価指数の変遷である。
232
国
際
経
済
図2-2 日本の不動産価格指数と GDP
注)1、2001 日本経済統計年鑑、1960-2000 の資料より作成
2、1980 年の指数100とする
図2-2から見れば、1980 年から 90 年まで、日本の名目 GDP はほぼ70%上昇した。も
し資産価格が GDP と同じように上昇したのであれば、その資産価格の上昇は正常であるが。
その間の日本の全国、東京、大阪の地価指数はそれぞれ104%、322%、335%も上昇
した。全国の地価指数は GDP の成長と大して離れていなかったが、東京、大阪の商業中心の
大都会の地価指数は GDP から大きく乖離した。図2-2から、1980 年代前半まで、各地域の
地価指数は GDP と一致して成長しているのがわかるが、1980 年代後半から地価の急激な上昇
が見られる。もちろん、日本の経済は都市部に集中し、その分、地価が上昇することは正常だ
としても、主に投機などの要因により、それ以上に地価を高騰させたのではないだろうか。こ
の時期の日本の不動産市場は通常、バブルだと認識されている。
図2-1と図2-2を比較すると、中国の地価指数の変化は明らかに安定的で、日本のよう
に短時期に地価が大きく膨らむようなことはなかったと考えられる。資産価格と GDP の関係
からすると、むしろ中国の地価は未だ GDP の上昇に遅れている傾向も見られる。以上の本節
の中国の地価に関する考察により、中国の地価はバブルではないと結論付けられる。
2.1.2
収益還元価格による検証
第一章で言及した資産価格の理論によれば、資産価格は利子率と収益に影響される。しかし、
一般には逆に理解されていることが多い。例えば人々はよく不動産価格が高いから、賃貸料が
高くなる、というように考えている。実際には不動産価格から賃貸料への影響は小さいのであ
り、賃貸料に影響する主な原因はその不動産利用のサービスに対する供給と需要の関係である。
233
中国経済と日本バブルの比較分析
すなわち、供給と需要が賃貸料(収益)を決定し、これが不動産価格に影響する。式1-1に
現実の利子と収益とを代入すると「収益還元価格」を求められる。「収益還元価格」と実際の
不動産価格は理論的には一致するはずである。なぜなら、もし「収益還元価格」が実際の価格
より高ければ、土地や不動産を利用したい人はその不動産を買って利用する方がコストが低く
なる。もし「収益還元価格」が実際の価格より低い場合、不動産や土地を利用する人は買うよ
り、借りて賃貸料を払う方がコストは低くなる。しかし、この場合でも「収益還元価格」より
高い値段で資産を持つとすれば、その理由はその資産の値上がり(キャピタルゲイ)を期待し
ているからである。実際の価格が「収益還元価格」から大幅に乖離すればするほど、その資産
に対する投機行為の可能性が大きい。いわゆる、「バブル」が存在していることになる。以下
の表2-1には中国の暦年の全国及び北京と上海の不動産賃貸料変化指数のデータと利子率
(一年)であり、それぞれを式1-1の中の収益 r と利子率 i にあたった、「収益還元価格」
変化の傾向を求めていく。
賃貸料指数
年
利子率(一年定期%)
全国
北京
上海
1999
100
100
100
2.25
2000
102.4
166.6
95.8
2.25
2001
105.3
209
100.5
2.25
2002
106.1
225
99.5
2.25
2003
108.1
244.1
101.7
1.98
2004
109.6
252.4
107.2
2.25
2005
111.7
258.5
111.1
2.25
2006
113.2
266
115.5
2.52
2007
116.1
273.2
121.4
4.14
表2-1 不動産賃貸料変化指数のデータと利子率
注)1、中国統計局中国統計年鑑と中国人民銀行統計データより作成。利子率は毎年年
末の一年定期の利子率である。
2、1999 年の指数は100とする。
表2-1のデータを式1-1に代入して求められた「収益還元価格」指数の変遷は図2-3
のようになる。
234
国
際
経
済
図2-3 収益還元価格指数の変遷
図2-3から見れば、全国と上海の収益還元価格指数の変化はほぼ一致し、北京の収益還元
価格指数は異常に高いことがわかる。ここで、北京の異常な上昇は北京での不動産の賃貸市場
の超過需要が一つの原因と考えられるが、ひとまず北京の問題を別にしても、図2-1と図2
-3を比べてみれば、次のことがわかる。図2-1で現れている現実の中国の全国、北京と上
海の不動産指数の上昇は、いずれも図2-3の収益還元価格による資産価格の理論値より低い。
したがって、実際の不動産価格の上昇はファンダメンタルズから乖離していない、むしろ収益
還元価格による理論値より低いことが明らかである。資産価格の理論でも、このデータから見
る限り、中国の不動産市場には、バブルが存在していないと結論づけられる。
2.1.3
中国の不動産市場の政策
以上の考察により、中国の不動産市場は想像より価格の伸び率が低く、バブルでないことが
判明した。なぜバブルを抑制できたのか。政府によって不動産市場を抑制するために実施され
た政策がそのひとつの理由として考えられる。
2007 年9月27日、中国人民銀行中国銀行業監督委員会によって出された政策は不動産市
場のバブルの発生を防ぐために大きな効果があったと考える。その政策は不動産業者と消費者
両方の投機行為を制限している。
具体的には、銀行から不動産会社への貸出しに対する厳しい制限がある。まず、不動産会社
の自己資金はプロジェクト全体の資金の35%に満たさないと、施工許可をもらえないという
制限がある。そして、原則として不動産会社の資金調達は所在地の金融機構からしかできない
という制限がある。最後、土地の取引に対して、さらに厳しい制限があり、民間の不動産会社
には、土地の取引をするための資金を貸し出ししない。また、公的機関の土地取引は銀行が貸
し出しすることはできるが、融資額はその土地の総額の70%までであり、条件として、担保
付で、返済期限は2年までという制限がある。そのように、さまざまな制限があるため、不動
中国経済と日本バブルの比較分析
235
産の供給側の投機に大きな抑制効果が出ている。
また、住宅、商業用の需要側への貸出しにも、いろいろな制限がある。まず、銀行からの住
宅ローンを適用する対象は、完成した住宅だけとする、建設中のものは取引を禁止されていな
いが、ローンを組むことができないという制限である。そして、ローンを組むとき、頭金に関
する規定がある。個人の一軒目の住宅を買う、建築面積90平米以下の住宅であれば、頭金が
総額の20%となり、建築面積90平米以上の住宅である場合、頭金が総額の30%となる制
限がある。個人が二軒目またそれ以上の住宅を購入する場合、頭金は総額の40%となり、さ
らに、返済金利は普段の規定する金利の1.1倍以上となる規定があった。その規制があるた
め、低い頭金を払い、ローンを組み、多数の住宅を所有し、それを転売することが難しくなる
ので、個人の不動産投機を抑制する効果があると考えられる。
商業用不動産はさらに投機の対象になりやすいため、もっと厳しい制限がある。まず、銀行
からローンを組める対象として、完成されてすぐに使用できるものとする。頭金は該当商業用
不動産の総額の50%となり、返済金利は規定の金利の1.1倍またそれ以上となり、返済期
限も10年までという制限がある。
「商業住宅両用」という名目の不動産は頭金45%となり、
規定金利で返済するという規定がある。
バブルの発生の原因は簡単に言うと「貸しすぎ、借りすぎ」である。以上の様々な制限があ
るため、一定の程度に投機行為を制限している。これらが中国の不動産市場でバブルが発生し
ていないひとつの原因と考えられる。
2.2
株式市場に関する考察
2006 年-2007 年には中国の株価が大幅に高騰していた。そして、2008 年に入ると、株価
が急激に下がってきた。株式市場におけるそのような不安定な変化は、2006 年、2007 年の上
昇がバブルではないのかという強い疑問を抱えている。本節では第一章の資産価格の理論を用
い、日本、中国の株式市場のデータを扱い、それらを比較し、中国この二年間の株価の大幅の
上昇はバブルであるのかを確かめてみたい。
2.2.1
資産価格理論より、日中株式市場の考察
資産価格に大きな影響を与えるのは収益(株の場合は配当)と利子率である。そして、GDP
の成長とともに資産価格も上昇するはずである。ここでは、中国の株価の変化はファンダメン
タルズの面からどれほど乖離しているのかを、より定量的に考察していく。
236
国
際
経
済
株価総額(億元)
GDP(億元)
1999
26,471
89,677
2.25
2000
48,091
99,215
2.25
2001
43,522
109,655
2.25
2002
38,329
120,333
2.25
2003
42,458
135,823
1.98
2004
37,056
159,878
2.25
2005
32,430
183,217
2.25
2006
89,404
211,923
2.52
2007
327,141
249,530
4.14
2008.10
112,067
273,485
2.52
年
利子率(%)
表2-2 中国の株価総額、GDP,利子率
注)1、中国人民銀行のデータより作成。
2、株価について、2008 年10月まで時価である(総額は上海取引場と深セン取引場を足した
金額である)。
表2-2のデータを式1-3に代入して e の値を求め、そしてこの e の変動を考察してみ
たい。e の変動は以下の図2-4のようになる。
0.06
0.05
0.04
0.03
0.02
0.01
08
.10
20
20
07
20
06
20
05
20
04
20
03
20
02
20
01
20
00
19
99
0.00
図2-4 中国株式の係数eの変遷
237
中国経済と日本バブルの比較分析
同様に、表2-3に日本のデータを示す。
年
国債平均
利回り%
株価総額(10 億)
GDP(10 億)
1980
9.22
77,074.8
243,253.4
1981
8.66
91,905.7
261,027.5
1982
8.06
98,090.2
274,050.0
1983
7.42
126,746.0
285,578.0
1984
6.81
161,811.9
304,858.5
1985
6.34
190,126.6
325,791.9
1986
4.94
285,471.5
340,948.3
1987
4.21
336,706.6
355,837.0
1988
4.27
476,849.8
381,579.0
1989
5.05
564,536.5
409,602.1
1990
7.36
379,231.1
441,915.2
1991
4.78
377,924.4
469,229.8
1992
4.24
289,483.5
481,581.5
1993
4.21
324,357.5
486,519.1
1994
4.11
358,329.5
491,835.2
表2-3 日本株価総額、GDP,平均利回り
注)2001 日本経済統計年鑑、1960-2000 の資料より作成
表2-3のデータを式1-3に代入して e の値を求め、そしてこの e の変動を考察してみ
る。e の変動は以下のようになる。
図2-5 日本株式の係数eの変遷
238
国
際
経
済
第一章に整理された資産価格に関する理論によると、資産価格はファンダメンタルズ・モデ
ルから乖離していなければ、係数 e は理論上一定である。もしくは、一定の傾向を持って変化
するはずである。図2-4と図2-5を見ると、中国と日本の株価の係数 e の変化は同じよう
な動きをしていると考えられる。まず、中国の株に関する係数 e は、1999 年から 2005 年まで
ほぼ一定であることがわかる。そして、2006 年をはじめ、2007 年までの間に e は急激に上昇
した。その時点で e は従来の傾向値から乖離したが、それでも、この時期から(ずっとこの上
昇傾向を続ければ、また上昇した後の水準を維持できれば)、
「収益の期待成長率の高まり」と
解釈することが可能だった。しかし、2008 年10月までのデータで、株価総額の縮小により、
2008 年の e は従来の傾向値の付近に戻ってきた。また、日本の場合も同じ様な傾向を見られ、
特に 89 年のピークを超え、1990 年から e の数値がもとの値に戻りはじめたことが分かった。
中国の場合は、実体経済には大きな変化がない状況で、この 2006 年、2007 年の係数 e の激
しい変化をシステマティックに解釈するのは困難であり、2006 年から 2007 年までの間の株価
の動きはファンダメンタルズから乖離していることが明らかである。つまり、バブルは発生し
ていると結論づけられる。
もし、一定の傾向値をファンダメンタルズの水準とすれば、図2-4の曲線から 2007 年の
ピークの時の株価は傾向値のほぼ5倍の高さである。つまり、ピーク時の株価の80パーセン
トはバブルであると考えられる。
2.2.2中国株式市場の金利修正 PER の考察
PER とは株価収益率である。式で表すと、次のようになる。
株価収益率=
株価
収益
もし、株価がファンダメンタルズから乖離してなければ、収益は全て配当に回されると仮定
すれば、理論的に株価収益率は利子率の逆数と同じはずである。PER が高ければ高いほど、
株式市場にバブルが発生している可能性が高いと言われている。2007 年の中国の上海取引場
の加重平均 PER は60倍以上になり、これだけを見れば、株価の異常であることがわかる。
次に、金利修正PERとは、株価収益率に金利を乗じたものである。理論的に、ファンダメン
タルズに沿っているのであれば、金利修正PERの値は1になるはずである。ここで、中国上海
株式取引場の実際の状況を考察していきたい。以下の図2-5は上海株式市場の 1999 年から
2008 年10月までの加重平均PERと金利 1で作成した金利修正PERの変遷である。
1
ここの金利は最長期国債平均利回りの数字である。
「平成三年度経済白書」では同じような研究を
されたとき、そこの金利は最長期国債平均利回りであるため、上海株式の研究にも、最長期国債平
均利回りをとった。
239
中国経済と日本バブルの比較分析
3.0
2.77
2.64
2.5
2.0
1.5
1.0
0.5
.10
20
08
20
07
20
06
20
05
20
04
20
03
20
02
20
01
20
00
19
99
0.0
図2-6 中国株式の金利修正 PER
注)上海株式取引場ホームページのデータより作成。
そして、バブル時の日本の株価の金利修正 PER の変遷は次図に示される。
図2-7 中国株式の金利修正 PER
注)http://wp.cao.go.jp/zenbun/keizai/wp-je93/wp-je93bun-2-2-2z.html により引用
中国と日本株式市場の金利修正 PER の水準は、それぞれの市場の特徴によって違っている
が、傾向的に、同じような動きが見える。とくに、それぞれの市場では平均水準から乖離する
ことがあり、その乖離した部分はバブルであると判断できる。
240
国
際
経
済
図2-5を観察すれば、2000 年と 2007 年とに二つのピークがあることがはっきり分かる。
それ以外の年の金利修正 PER は大体1の付近にあり、ファンダメンタルズ水準から乖離して
いないことが判明できる。図2-5から、2007 年の時の金利修正 PER は2.64まで急激に
上り、全体の水準から大きく離れ、金利修正 PER の考察でも 2007 年の株式市場は異常、つま
り、バブルであることを証明できるだろう。それでは、2000 年の金利修正 PER 水準も高かっ
たのに、なぜ、バブルといわれなかったのか。当時の株式の市場の規模は今ほど大きくないと
いうのがひとつの理由である。確かに 2000 年は中国の株式にひとつの投資熱があった、この
年に株平均指数が初めて 2000 ポイントを超えていた。しかし、それでも、そのとき株式総額
は約 48,000 億元であり、GDP 総額の半分まで及ばなかった。図2-4にも、2000 年のピー
クは反映されていなかったので、(2007 年約 320,000 億元であり、GDP の1.5倍)株式市
場の変動は多かったが、経済全体に影響が小さかったため、バブルではないと考える。
2.3 本章のまとめ
本章では、中国の経済はバブルであるかどうかに疑問を持ち、特に不動産市場と株式を注目
し、理論的に実証してきた。まず、不動産市場においては、世の中に、中国不動産バブルが発
生していたという見解が多いが、本論文の実証分析の結果によると、バブルは存在していない
という結論になった。そのひとつ重要な原因として、中国人民銀行の貸出しの規制により、不
動産会社、消費者の投機行為を大いに制限していたためと考えられる。
また、株式市場において、資産価格の理論と金利修正 PER の考察ににより、バブルである
ことが判明できた。しかも、株式市場の拡大により、特に 2007 年のピークの時、株価総額は
480,000 億元となり、およそこの年の GDP の1.5の額である。そして、その後の株価の下
落により、株価総額の大幅な縮小は実体経済に必ず大きな影響をもたらしてくると考えられる。
以下の章では、中国株バブルの膨張と崩壊が中国の実体経済にどのような影響をもたらしてき
たのかを、日本の例と比較しながら、分析していく。
241
中国経済と日本バブルの比較分析
第三章
バブルの膨張期、実体経済への影響
前章の中国の統計データを使った検証により、2006 年から膨張し始め、2007 年ピークにな
り、そして 2008 年に急激に下落した中国の株式市場の激変はいわゆるバブルであることが明
白である。本章では、バブルの膨張期に高騰した株価は中国の実体経済に何をもたらしてきた
のかを検討していきたい。
一般的な経済学の理論では、資産価格の上昇は経済成長を促進する効果があると考えられて
いる。一つは、投資へのプラスの効果。「トービンのq」 2の理論によると、再取得価格が一定
だと仮定する条件で、株価が上昇すれば上昇するほど、「トービンのq」が大きくなるわけで、
投資が増加する傾向にある。そして、株式価格が高騰すると、企業にとっては資金コストが低
下するため、エクイティファイナンス 3が容易になるという効果がある。資金調達の面でも、
株価の高騰の時期に企業は投資を増やしやすい傾向がある。
もうひとつは個人消費に対する資産効果、すなわち、株価などの資産価格の上昇によって、
消費性向が高まるという効果である。本章では、まず、2006 年からの株価の高騰が中国の経
済成長に、特に投資と消費にどの程度寄与したのを考察したい、そして、当時の日本との異同
を探してみたいと考える。
3.1
バブル現象の経済成長への寄与度
年
投資
金額(億元)
消費
伸び率(%)
金額(億元)
伸び率(%)
2000 年
32,917.7
10.26
45,854.6
9.38
2001 年
37,213.5
13.05
49,213.2
7.32
2002 年
43,499.9
16.89
52,571.3
6.82
2003 年
55,566.6
27.74
56,834.4
8.11
2004 年
70,477.4
26.83
63,833.5
12.31
2005 年
88,773.6
25.96
71,217.5
11.57
2006 年
109,998.2
23.91
80,476.9
13.00
2007 年
137,239.0
24.76
92,458.0
14.89
表3-1 中国投資と消費の推移
注)中国統計局中国統計年鑑より作成
2
トービンの q 理論 (Tobin's q theory) とは、アメリカの経済学者ジェームズ・トービンが提唱し
た投資理論であり、トービンの q は株式市場で評価された企業の価値を資本の再取得価格で割った
値として定義される。(Wikipedia による引用)
3
エクイティファイナンス(equity finance)とは新株発行、CB(転換社債型新株予約権付社債)
など新株予約権付社債の発行のように、エクイティ(株主資本)の増加をもたらす資金調達のこと。
242
国
際
経
済
まず、表3-1は、2000 年から中国の国民総支出 4の中の投資と消費の名目金額の伸び率の
推移である。
2000 年に入ってから中国の投資は二桁の伸び率で上昇し、特に 2003 年から、投資の伸び率
はほぼ25%で維持されている。消費の方も同じように伸び率の上昇傾向が明白である。そこ
で、中国の株価バブルの時期とあわせて考察してみると、株式バブルの始めの 2006 年とピー
クの 2007 年の投資伸び率はそれぞれも24%前後であり、その前の年と比べても、それほど
激しい上昇が見られていない、逆にやや伸び率が低下することがある。表3-1から分かるよ
うに、2006 年、2007 年の株価の高騰は投資の増加に明らかな刺激を与えていたとは言えない。
次に消費の伸び率は 2006 年と 2007 年には確かに前年度より増加している傾向があるが、
それは必ずしも株価バブルに影響された増加だとは断言できない。
表3-2は中国の投資と消費の名目金額の対名目 GDP 比の推移である。表3-2を見ると、
投資の対 GDP 比は上昇傾向にある。しかも、2000 年から 2007 年までの間、投資の対 GDP
比はほぼ一定した増加傾向にあり、2006 年と 2007 年の株価高騰時にも、特にその傾向は変わ
っていない。2008 年の投資の伸び率に関してはまだ正式の統計データがでていないが、参考
として、民間機構の予測は大体25%前後であると言われている。もしその予測が正しければ、
2008 年に株価が暴落したにもかかわらず、投資の上昇傾向は変わらないことになるので、こ
こから見ても、中国株価のバブルと投資の増加との関係には常に相関関係があるとは言えない。
それに対して、2000 年から 2007 年ま
での間に、表3-1のように消費の絶対
対 GDP 比%
年
額は増加し続けているが、表3-2によ
投資
消費
2000 年
33.59
46.79
2001 年
34.44
45.54
2002 年
36.53
44.14
2003 年
41.11
42.05
2004 年
44.16
40.00
いるが、ここでは名目金額で計算されて
2005 年
48.22
38.69
いるので、もし、CPI の変化も考慮する
2006 年
51.61
37.76
と、また違う結果が出るかもしれない。
2007 年
54.57
36.77
り、消費の対 GDP 比は年々小さくなっ
ている。これは消費の成長が GDP の成
長に遅れているためである。2006 年と
2007 年の消費伸び率はやや高くなって
表3-2 中国投資と消費対 GDP 比の推移
注)中国統計局中国統計年鑑データより作成
国民総支出(GDE)=GDP、ここでは投資、消費は式 Y=I+C+G+(EX-IM)の中に I と C に
それぞれ該当するものとなっている。
4
中国経済と日本バブルの比較分析
243
表3-3は中国の 2000 年からの消費者物価
年
消費者物価指数(前年比)
指数の推移である。2006 年と 2007 年の変化と
表3-1の消費の伸び率とを比べてみると、消
2000 年
100.4
費者物価指数の上昇と名目伸び率の増加を相
2001 年
100.7
殺すれば、消費の実質伸び率は低下していたこ
2002 年
99.2
とが分かる。そのため、2006 年と 2007 年の株
2003 年
101.2
価の上昇は消費を促進する効果があったとは
2004 年
103.9
考えられない。
2005 年
101.8
以上の分析によると、中国の投資と消費の変
2006 年
101.5
動は周期性のものであり、それぞれ一定の傾向
2007 年
104.8
がある。株価の変動のテンポを合わせて見ても、
表3-3 中国消費者物価指数の推移
特に投資や消費などが、株価の変化に左右され
注)中国統計局中国統計年鑑データより作成
て変動してはいないと判断できる。中国の場合
は、2006 年と 2007 年の資産価格の上昇の時期に投資や消費が増加してきることは事実である
が、この資産価格の上昇がなければ、2000 年以降の中国の目覚しい経済成長がないと言える
ような状況ではない。
そして、日本のバブル時期の資産価格の上昇が経済にもたらしてきた引き上げ効果について、
野口(1992)による以下の見解がある。
原理的には、資産価格の上昇は消費や整備投資にプラスの効果を及ぼしうる。そして、実際、
1980 年代後半は、実体面でも力強い景気拡大が続いた時代であった。円高不況を克服した日
本経済は 87 年度から、90 年度まで、5%の実質成長率を維持した。88 年からは設備投資ブー
ムが始まり、90 年代の間にわたって、実質で二桁を超える伸び率が続いた。これは、高度成
長期の投資ブームの再来を思わせるものであった。……こうした事実と資産価格の動向とを結
びつければ、確かに、資産価格上昇が景気拡大の要因であったように見える。しかし、この間
の厳密な因果関係は決して明白ではない。
消費の資産効果については、1989 年度の「経済白書」が実証分析を行っている。この結果
を用いて計算すると、80 年代の後半に、資産効果は実質民間最終消費の年平均伸び率に対し
て、一割程度の寄与があったことになる。これをかなり大きいと評価することもできるが、同
時に、この時期の消費の伸びが資産効果だけによるものではなかったことも分かる。
上の見解のように、当時の日本と同じように、中国においても経済成長と資産価格上昇の動
向が一致しているが、これらの間の厳密な因果関係は明白ではないと考えられる。したがって、
中国の 2000 年以降の景気拡大と 80 年代後半の日本の高度成長はバブルによるものではないと
考えられる。
3.2
高騰する株価の背景にある企業と金融界の変化
株価の高騰によって、企業の融資方式や金融機構の貸出しにも大きな影響がある。企業にと
244
国
際
経
済
っては、株式市場で時価新株発行などによってエクイテイファイナンスを行うコストが低くな
る。特に 1980 年代後半の日本は典型的な例と見られている。当時の株価の高騰によって、企
業が金融市場でエクイテイファイナンスを行うコストは金融機構から資金調達(借り入れ)す
るコストを下回り、エクイテイファイナンスの金額は大きく増加した。しかし、エクイテイフ
ァイナンスで調達された資金はすべて実物投資に当てられたわけではなく、その中のかなりの
部分は金融資産の投資に回された。なぜなら、エクイテイファイナンスと金融資産の再投資の
金利差だけ、いわゆる「鞘取り」だけで、利益を得られるであるから。
そのようなインセンティブで、多くの企業はいわゆる「財テク」に走った。また、その金融
市場に再投入された資金は株式市場や土地、不動産市場の価格を再上昇させ、それによって、
企業側にとって、さらにエクイテイファイナンスがしやすくなった。このような資金の循環が
日本の 80 年代後半のバブルの成因の一つであると言われている。
また、エクイテイファイナンスの急増によって、エクイテイファイナンスのできる企業、主に
製造業大企業による銀行などの金融機構からの借り入れは少なくなる傾向があった。それととも
に 80 年代後半の日本の金融機構は貸出し先をシフトし、中小企業、不動産業などに融資先をシ
フトさせた。そして、当時の地価は高かったので、不動産会社は土地を担保として多くの融資を
受けることができた。この時期におけるこのような金融機構の行動が、後のバブルの崩壊後に金
融機構が大きなダメージを受けることになったひとつの主要な原因と考えられている。
本節では、中国の株バブルの膨張期におけるエクイテイファイナンスと金融機構の貸出しの
状況を分析していきたい。
3.2.1
年
バブル膨張期のエクイテイファイナンス実態の考察
株式市場融資(億元)
企業金融資産(億元)
1999
944.56
3,849.34
2000
2,103.08
4,362.11
2001
1,252.34
4,394.78
2002
961.75
4,501.01
2003
1,357.75
5,112.45
2004
1,510.94
5,612.77
2005
1,882.51
5,768.11
2006
5,594.29
6,212.05
2007
8,680.20
6,557.89
2008.10
3,193.52
6,948.33
表3-4 中国株式市場融資と金融資産の変遷
注)1、中国統計局中国統計年鑑データより作成
2、2008 年10月のデータは中国証券監督局データよるものである。
表3-4は中国の株式
市場の暦年の新発行株や
増発行株の毎年の総額と
企業金融資産 5の変化を表
しているものである。まず、
株式市場の新発株の欄を
見れば、2006 年、2007 年
の株価が高騰していたご
ろと前の年を比べると、上
に述べたように、株価の高
騰につれて、エクイテイフ
ァイナンスがコストが低
下し、企業が株式市場から
融資しやすくななったこ
5
金融資産とは、企業は所持している現金、預金、株と債券、そして、回収できる債権などの総額
を指していること。
中国経済と日本バブルの比較分析
245
とが明白である。2006 年と 2007 年のエクイテイファイナンスはそれぞれ 2005 年の3倍と4.
5倍近くまで上昇した。しかし、2008 年に入ると株価の暴落によりエクイテイファイナンス
も縮小し、2008 年10月までの統計データによると、前年度の半分までにも及ばなかった。
ここまでの分析によって、株価とエクイテイファイナンスが密接な関係があることが分かる。
80 年代後半の日本と同じように、企業は株価の高騰の背景で、低コストで多くの資金を獲得
した。
そして、企業金融資産の変化を見れば、企業の金融資産は年々増加する傾向にあることが分
かる。しかし、株価の高騰した 2006 年からの三年に注目すれば、株価の高騰によって金融資
産が急増したという傾向は見られなかった。しかも、2008 年に株価が暴落したにもかかわら
ず、金融資産の上昇傾向は変わっていない。
2006 年、2007 年に企業は株式市場から多くの資金調達ができたが、その年の金融資産の増
加をそれと比べると、僅かの伸びでしかなかった。ここから、企業はエクイテイファイナンス
で調達した資金を金融資産の増大に当てることは少ないのではないかと推測できる。つまり、
株価は高騰したが、中国の企業は 80 年代後半の日本のように「財テク」という行動には走ら
なかったと判断できる。
3.2.2
中国金融機構の貸出しの調査
1980 年代後半の日本バブルの膨張期に、株価の高騰によって、大企業は多くのエクイテイ
ファイナンスを行う一方、金融機関からの借り入れは減らした。そのため、金融機関は貸し出
しの対象を変えて、中小企業や不動産企業などにシフトしたという状況があった。金融機関の
そうした動きはその後のバブル崩壊と密接に関連していると思い、ここで、中国のその時期の
金融機関の貸出しの動きを考察してみたい。
図3-1 部門別の貸出し総量の変遷(単位:億元)
注)1、中国人民銀行データより作成。
246
国
際
経
済
図3-1は中国の 2004 年からの期ごとの部門別の貸出し総量の変遷である。時間軸をあわ
せてみれば、中国の株価の膨張期は 2006 年と 2007 年である。その年の貸出し量の動きを見
れば、農業部門と工業部門が上昇していることが分かる。そのほかは、ほぼ安定している。こ
こで、2008 年・第3四半期までのデータを取ってあり、2008 年は株価が暴落していた年であ
るが、工業部門と農業部門への貸出しの上昇傾向は変わっていなかった。
また、80 年代後半の日本の状況と比べてみると、日本では株価の上昇によって、大企業(特
に製造業)が銀行から離れていた。それに対して、中国では金融機関の貸出しの産業間の移動
が見られていない。これらから、中国の金融機関の貸出しの動きは株価と関係がないと推測で
きる。
3.3
本章のまとめ
本章では、中国の株バブルの膨張期(2006、2007 年)に、実体経済のさまざまの面で、ど
のような影響があったのかを考察してきた。まず、マクロ的にはバブルが実体経済の成長にプ
ラスの影響をもたらしてくると考えられている。実際の中国の状況を考察してみると、確かに
株価が高騰していた時期に、国民総支出の中の投資と消費が増加していた。しかし、その後の
株価が急落した 2008 年にもそれらの増加傾向は変わらないので、投資と消費の増加はバブル
と関係があるとは必ずしも判断できない。
また、株バブルの膨張期の企業と金融機関の分析によると、その時期の企業は株価高騰を利
用して多くのエクイテイファイナンスを行ったが、バブル経済期の日本と比べて、中国の場合
はその分の融資を金融資産の投資には回さなかったという違い点がある。また、金融機関の貸
出し傾向の分析によっても、貸出しの部門別の総量に変化は見られないという結論を得た。
中国経済と日本バブルの比較分析
第四章
247
バブルの崩壊後の金融システム
異常に高騰していた資産価格の急激な下落はバブルの崩壊といわれている。そのバブルの崩
壊は、単にその資産を持つ投資家に損失をもたらすだけではなく、歴史を振りかえれば多くの
場合、バブルの崩壊が不況の始まりになっていた。
4.1
バブル崩壊後の日本
日本は 1980 年代後半から 90 年代の土地、株のバブルの崩壊により、その後「失われた十年」
といわれる長期の不況に陥った。その原因については、様々な見解があるが、その中で主に認
識されているのはバブル崩壊後の金融システムにおいて、いわゆる「クレジットクランチ」6が
発生したと言われている。クレジットクランチにより、金融機構は企業へ貸し渋りをするため、
企業にとっては資金繰りが困難になり、正常の経済活動ができなくなる。それ故、金融機関の
クレジットクランチは実体経済に致命的なダメージを与える。
そして、バブルの崩壊と金融機構の「クレジットクランチ」とにはどのような関係があるの
か。まず、日本の場合は、バブルの膨張期に銀行などの金融機構が貸出し対象を製造業大企業
から中小企業や不動産業にシフトし、同時に日本では「土地神話」と言う考え方があるので、
だれも土地の価格が下がるなどとは思わなかった。土地の価格が高かったので、多くの場合に
土地の担保があれば、普段その土地の時価の70%までしか貸さないのが原則であっても、バ
ブルの膨張期には土地の値上がりの見込みを含めて、120%までの資金を貸し付けたケース
もある。そこでバブル崩壊すると、金融機構はその貸出し資金を回収できない場合、土地の担
保があったとしても、その土地の値下がりによって、全額は返済されないことも多い。そのた
め不良債権が発生し、金融機構が損失を被る。これが、クレジットクランチが発生するひとつ
の原因となっている。
また、1988 年に定められたBIS規制 7も、バブル崩壊後の日本で金融機構のクレジットクラ
ンチが生まれるもう一つの原因であった。当時の自己資本カウント方式である「自己資本に、
銀行が蓄積している有価証券の含み益を算入すること」によって、結局含み益の45%までを
自己資本へ繰り入れることが認められた。しかし、その後のバブルの崩壊により、有価証券な
6
クレジットクランチとは、金融システムが麻痺して危機的な状態となること。つまり、金融シス
テム全体が信用不安に陥り、金融機関にとって最も大切な信用創造(貸付と預金を繰り返すことで、
世の中のマネー流通量がふくらみ、経済活動を円滑にさせること)の機能が麻痺してしまう状態。
この状態では、金融機関が酷く信用不信に陥り、貸し渋りをするため企業などが高い金利を支払っ
ても資金調達が難しくなってしまう。経済活動全体が沈滞化することで、さらに信用不安を高める
というスパイラル的に悪化傾向が進んでしまう可能性がある。
7 BIS 規制とは BIS(国際決済銀行)の中に設置された、
「バーセル銀行監督委員会」で 88 年に定
められた多国籍に展開する銀行に関する監督基準規制のこと。国際業務を営む銀行にリスク込みの
資産総額に対する自己資本比率を8%以上保持することが課せられている。そして、それが維持さ
れない場合には、国際業務は認められないという形で、国際業務を行う銀行の競争条件の公平化や
金融システムの健全性、安全性の強化を図る措置である。
自己資本
自己資本比率=
総資本 ×リスクウェイト
(北澤正敏(2001)「概説現代バブル倒産史」より引用)
248
国
際
経
済
どの含み益は消滅し、自己資本
(単位:兆円)
暦年末(年)
総資産
自己資本
表面自己資本
比率の分子が小さくなり、8%を
維持することが困難になった。
比率(%)
表4-1に見るとおり、88 年
1984
209
8
3.82
に BIS 規制が実施されてから、
1985
238
8.6
3.61
国際業務に従事する金融機構が
1986
269
9.5
3.53
8%の自己資本比率を達するた
1987
306
11.4
3.72
めに、積極的に自己資本を補強し
1988
340
13.4
3.94
始めた。1988 年から 1991 年ま
1989
398
17.4
4.37
でに、自己資本はほぼ50%増加
1990
427
19.5
4.56
した。しかし、1991 年以降、株式
1991
421
19.8
4.7
バブルの崩壊によって、株など含
表4-1 日本の都市銀行、長期信用銀行の勘定
注)1、北澤正敏、2001、「概説現代バブル倒産史」P42
より引用
2、表面自己資本比率=自己資本÷総資産
み益を失われた銀行の自己資本
は縮小し、自己資本比率を維持で
きなくなった。そのため、分母の
リスクアセットを圧縮しないと
いけなくなるわけである。そこで、銀行がいわゆる貸し渋りをし始め、急激なクレジットクラン
チへつながっていったのである。そのため、正常な経済活動のための資金繰りも困難になり、日
本の経済はその後の長期の不況に陥った。
日本のこうしたパターンはバブル崩壊後の中国にはどれほど妥当するのか、中国の銀行業界
の現状を調べた上で、この点を分析していきたい。
4.2
中国銀行業界の現状について考察
銀行業の経営の安全性と健全性は経済全体に大きな係わりがある。日本の例では、バブル崩
壊によって、銀行システムがダメージを受け、そして、経済活動に大きな支障になるという不
況のパターンがあった。株バブル崩壊後の中国の銀行システムはどれほど影響されているのか
を、ここでは、中国銀行業の不良債権と BIS 規制による影響をそれぞれ考察していきたい。
4.2.1
中国銀行業の不良債権の現状
(単位:億元、%)
項目
2003
2004
2005
不良債権残高
不良債権比率
21,044.6
17,175.6
12,196.9 11,703.0 12,009.9
17.90
13.20
8.90
2006
2007
7.50
2008.3Q
12,654.3
6.70
5.49
表4-2 主要商業銀行 8の不良債権の変遷
注)1、中国銀行業監督委員会 2006,2007 年報とホームページのデータにより作成。
8
主要商業銀行とは主要商業銀行は国有商業銀行、株式商業銀行、都市商業銀行、農村商業銀行、
外資銀行のことである。
249
中国経済と日本バブルの比較分析
まず、表4-2は中国主要商業銀行の不良債権の残高と不良債権比率である。その不良債権
の変遷から見ると、とくに不良債権比率はとても高かったことが分かる。2003 年から 2008 年
第3四半期まで、不良債権を解消する努力によって、年々改善する傾向があるが(17.9%
から5.49%までの大幅の進歩がある。)、それにしても、今現在5.49%の不良債権の比
率は先進国と比べてとても高い水準であり、銀行業の経営が健全であるとは言えない。
しかし、2008 年第3四半期の時期にバブル崩壊の時期を合わせて見ると、2008 年は前年よ
り依然として改善傾向にあり、株バブルの崩壊は特に影響を与えていないと考える。もちろん、
株バブルと不良債権の発生の間にタイムラグがあるかもしれないが、少なくとも現時点で、影
響が見えてこない。もう一つの考えられる理由は、本論文の「2.1.3
中国の不動産市場
の政策」の中に述べたように、中国銀行業監督委員会(略:銀監会)の政策によって、融資を
制限する政策があるため、これが不良債権の発生を抑えていたと考えられる。
商業銀行
銀行業総資産シェア
(2007 統計)%
国有商業銀行
53.25
株式商業銀行
13.78
都市商業銀行
不良債権残高(億元)と不良債権比率(%)
2006
残高
2007
比率
残高
2008.3Q
比率
残高
比率
11,149.5
8.0
11,173.8
7.4
860.3
2.1
731.6
1.6
4.8
511.5
3.0
500.8
2.5
153.6
5.9
130.6
4.0
208.8
4.4
37.9
0.8
32.2
0.5
39.2
0.5
11,703.0
7.5
6.35
654.7
農村商業銀行
1.16
外資銀行
2.38
表4-3 中国主要商業銀行の不良債権の内訳
注)1、中国銀行業監督委員会 2006,2007 年報とホームページのデータにより作成。
2、2006 年年報により、国有商業銀行と株式商業銀行の不良債権のデータは合計となている。
また、主要商業銀行の不良債権の内訳を見てみると、総資産シェアの半分以上占めている国
有商業銀行 9で不良債権の60%以上の割合を占める。ほかの株式商業銀行などは規模が小さ
いので、不良債権比率が低くて経営状況が健全であっても、全体を平均すると不良債権比率が
高くなる。
また、中国特有の状況として、歴史的要因により国有商業銀行のなかにもそれぞれ役割があ
り、貸出し対象の違いによって不良債権比率の差も鮮明である。参考として、2006 年のイギ
リスの雑誌「The Banker」の年末の世界TOP1000 の中に入る中国の国有商業銀行の世界ラン
キングと不良債権比率を見ると表4-4のようになる。表4-4を見れば、国有商業銀行の中
9
国有商業銀行とは中国工商銀行、中国銀行、中国建設銀行、中国農業銀行、中国交通銀行である
五大銀行の銀行のことである。中国政府から出資し、世界でも資産規模上位100以内の銀行であ
る。
250
国
で中国農業銀行以外の銀行
際
経
済
10は不良債権比率が相対的に低く、自己資本比率も8%を超えて、
より健全かつ安全な経営状況である。中国農業銀行以外の国有商業銀行の経営状況が改善され
つつあると考えられる。
しかし、国有商業銀行の中でも中国農業銀行の不良債権率は 26.17%であり、先進国であれ
ばすでに破綻し、民事再生されるところである。しかし、ここでも、中国の特有の事情がある。
この五つの銀行は名前のとおりに大まかに融資対象を分けてある。中国農業銀行は農林水産業
に融資する役割(これは義
銀行名
2006 年ラ
ンキング
自己資本比率
不良債権比率
務ともいえる)がある。中
国には農業人口が多く、社
中国建設銀行
11
13.57
3.84
会安定のために政府が農業
中国工商銀行
16
9.89
4.69
部門に支援する方針がある。
中国銀行
17
10.42
4.9
農業部門に融資する場合に
中国農業銀行
60
na
26.17
は、融資のハードルがより
交通銀行
65
11.2
2.8
低く設定されている。主に
表4-4 中国の銀行の自己資本比率、不良債権比率
注)The Banker Top 1,000 World Banks '06 より作成
農業部門に融資する役割を
担っているのは中国農業銀
行なので、そうした緩い融
資条件では、貸し付けた後に多くの不良債権が発生するのもおかしくなかった。2007 年銀監
会の年報では、不良債権の発生する部門の詳しい調査統計があり、そのうち不良債権率トップ
なのは農林水産部門であり、その不良債権率は 47.1%である。ちなみに、中国農業銀行は国有
商業銀行の中で唯一上場しておらず、海外市場に進出していない銀行でもある。
以上の中国各商業銀行の不良債権の現状を見ると、全体的に見れば 2003 年から大きな改善
を見られるが、先進国と比べると不良債権比率は未だに高い。しかし、2008 年のバブル崩壊
は現在の時点で、銀行の不良債権率にまだ影響を及ぼしていないように見える。また、国有商
業銀行以外の商業銀行はより不良債権比率が低く、健全である。銀行業総資本の中で半分以上
のシェアを占めている国有商業銀行は不良債権比率が高く、より厳しい状況である。しかし、
その内訳を見ると、中国農業銀行以外の国有商業銀行の不良債権比率はそれほど高くない一般
10補足として、(金
敏堅、2007、「中国銀行業の躍進と加速する海外進出」、富士通総研)より
引用では
2007 年 7 月に英国の「Banker」誌が公表した“Top 1,000 World Banks '07”によると、世界銀行
の中核自己資本(ティア 1)のトップ 25 では中国工商銀行、中国銀行、中国建設銀行はそれぞれ第 7
位、第 9 位と第 14 位にランクインした。因みに、日本の三菱 UFJ、みずほグループ、住友三井は
それぞれ第 6 位、第 15 位、第 22 位であった。また、2006 年 6 月 12 日~07 年 6 月 12 日までの
平均時価総額トップ 25 では中国工商銀行、中国銀行、中国建設銀行、交通銀行はそれぞれ第 4、6、
7、19 位にランクインした。日本の三菱 UFJ とみずほはそれぞれ第 9、22 位にランクされた。中
国銀行業の躍進振りは目を見張るものがある。
中国経済と日本バブルの比較分析
251
的な水準である。中国農業銀行の不良債権比率が非常に高いことが国有商業銀行全体の不良債
権比率が高くなる主要な原因である。
4.2.2
BIS 規制の影響
2004 年2月23日に発表された「商業銀行自己資本比率管理方法」(原題:
「商业银行资本充
足率管理办法」)によって、2004 年4月1日から、1988 年の Basel I の基準で、各商業銀行
の自己資本を計算する行政命令が出た。表4-
年
銀行数
総資本シェア%
5を見ると、2004 年にその政策を実施してか
2003
8
0.6
ら、商業銀行の自己資本比率が年々改善されて
2004
30
47.5
いることが分かる。2008 年6月までの統計で
2005
53
75.1
は、銀行業の総資本の84.2%を占めている
2006
100
77.4
175銀行は自己資本比率8%をクリアでき
2007
161
79.0
た。そして、2008 年に株バブルが崩壊したと
2008.6
175
84.2
きでも自己資本比率が改善する銀行も増え続
表4−5
Basel I 基準を満たす銀行
けている。このことから、バブルの崩壊は銀行
注)中国銀行業監督委員会 2007 年報とホーム
の BIS 規制への達成には大きな支障になって
ページのデータにより作成。
いないと考えられる。
また、日本の場合と比べると、中国が「商業
銀行自己資本比率管理方法」を実施し始める時期がよかったとも言える。なぜなら、日本の場
合はバブル崩壊の直後に BASEL I を本格的に適用し始めた。それによって、自己資本比率8%
を満たすため、増資をしながら不良債権の処理をしなければならなくなり、銀行にとっては非
常に負担が大きかった。当時は景気が縮小しているのに、銀行はリスクアセットを縮小しなけ
ればならなくなり、貸し出しを圧縮しなければならず、さらに不況を強めたという状況であっ
た。
中国の場合は 2004 年から BASEL I を実施し始め、当時はその基準を満たせる銀行の数が
少なかったが、2008 年6月までに総資本の 84.2%を占めている175銀行がその基準に満た
せ、特に総資本の大半を占めている国有商業銀行のうち中国農業銀行以外の4大銀行は 2006
年にその基準を達成できた。その点については、日本はバブル崩壊、不良資産の処理の不利な
条件が重なっている状況で自己資本比率を上昇させていた。そのため貸し渋りが発生してもお
かしくなかった。中国の商業銀行では当時の日本より負担が小さいため、貸し渋りが発生する
可能性が低いと考えられる。
4.3
本章のまとめ
多くの場合、バブルの崩壊はその後の長期的な経済の不況に繋がると考えられる。その主要
な原因としては、金融システムがダメージを受け、クレジットクランチが発生するからである。
本章ではそれについて、90 年代のバブル崩壊後における日本の金融システムと現在の中国の
システムを比較し、前例としての日本で起こったことがこれからの中国にはどれほど当てはま
252
国
際
経
済
るのか検討してきた。
中でも不良債権の変遷と BIS 規制がもたらした影響に注目した。不良債権については、中国
では全体的に不良債権比率は改善されつつあるが、絶対的な水準ではまだ高かいように見える。
これは、中国特有の事情によって特定部門(農業)に多くの不良債権が発生し、全体の水準が
それによって高くなっているからである。現時点で見ると、2008 年の株バブルの崩壊は、不
良債権比率の改善傾向には大きな影響を与えていない。
BIS 規制の影響については、中国では 2004 年から商業銀行に厳しく8%自己資本比率の規
定を実施したため、2008 年までにこの基準を満たした商業銀行は総資本の 84%を占めるまで
になっている。しかも、日本と違ってバブルが崩壊する前までに大銀行はすでにその基準に満
たしていたため、バブルの崩壊による影響は小さかったと考えられる。そもそも、中国の商業
銀行は健全で安全な経営状況といえないが、今回の株バブル崩壊によって大きなダメージを受
けてはいなかったと判断する。中国特有の商業銀行業の国有体制も影響が小さかった一つの重
要な要因と考えられる。
中国経済と日本バブルの比較分析
第五章
5.1
253
結論
本論文の主要な結論
本論文では、まず中国における 2006 年と 2007 年の資産価格の上昇はバブルであるのかを
資産価格の理論や統計データを使って検証してきた。その検証によって、中国の不動産価格の
上昇は経済成長全体のテンポと一致し、不動産価格の上昇はファンダメンタルズから乖離して
おらず、正常と考えられる。これは、中国銀監会による不動産業に対する融資制限政策による
ものである。そして、株価の総額、GDP、金利などの関係から実証分析したところ、株価は大
幅にファンダメンタルズから離れており、2006、2007 年の中国の株式市場には大きなバブル
が存在していたことが検証できた。
また、バブルの膨張期の実体経済のパフォマンスを見ると、中国とバブル期の日本の両方で
投資旺盛、消費向上などの特徴が観察されたが、これは必ずしもバブルによる効果ではない。
中国の場合はバブルに入る前からすでに毎年20%以上の伸び率で投資が増え続けており、バ
ブルが崩壊しても投資が減る傾向が見れないため、バブルの膨張と投資、消費の増加は特に因
果関係があるとは考えられない。
そして、バブル膨張期の日本で、大企業がエクイテイファイナンスを行い、「財テク」に走
り、さらにバブルを膨らませたのに対して、中国の調査では、そうした傾向は見られなかった。
また、バブル膨張期の日本の金融機構が貸付対象を中小企業や不動産業にシフトしたのに対し
て、中国の金融機構の貸出の傾向は大きく変わることなく、バブル膨張期の銀行の貸出し傾向
は株価の高騰に影響されていなかったという結論を得た。
さらに、バブル崩壊後、日本が長期の不況に落ち込む一つ原因として、大量の不良債権の発
生によって金融機構が貸し渋りをしたため、正常の経済活動の支障になった点が挙げられる。
中国の銀行業界の分析では、全体的に不良債権減少の大幅の改善傾向が見られ、特に大規模な
国有商業銀行(中国農業銀行を除く)の改善傾向が明らかであり、健全かつ安全な経営状況に
向かう傾向が強かった。株価の下落もこの傾向に影響しなかったと判断できる。
当時の日本の金融機構が貸し渋りを起こしたもう一つ重要な原因は、バブル崩壊直後に本格
化した BIS 規制であった。中国では、2004 年からその規制を実施し、2008 年6月までにこの
基準を達成できた銀行は、総資本で 84%を占める。バブル崩壊の直後ではなく、崩壊するま
でに、すでにより健全な銀行システムが構築されていたので、バブルの崩壊後も正常の経済活
動に支障支をきたさない一つの保障となった。
以上の比較分析により、
日本の 80 年代後半のバブルと比べて、中国の実体経済は今回の 2006、
2007 年の株バブルに影響される程度が小さい。特に、銀行システムがより健全なものに改善
されている傾向が強い。そのため、今回の株バブルの崩壊は、中国経済の長期不況に繋がらな
いと結論付けた。
254
5.2
国
際
経
中国経済がこれから直面する問題
済
-新BIS規制 11への対応-
今回のバブルの崩壊は中国の経済成長に実質的な打撃を与えないと考えるが、中国がさらに
高成長を続けたければ、中国の経済構成、世界景気、そして銀行業のグローバル化などによっ
て様々な問題に直面している。
中国 2004 年 BIS 規制「BASEL I」に実施してから、商業銀行の自己資本比率8%に満たし
た銀行が大幅に増え、特に海外市場に進出する国有商業銀行は充足になったが。中国銀行業監
督委員会の 2007 年2月に発表した「中国银行业实施新资本协议指导意见」により、2010 年か
らすべての商業銀行は新 BIS 規制の基準で、自己資本比率を計りなおし、8%の自己資本比率
に達成できない銀行は、2013 年までにその基準に満たさないといけないという政策があった。
ある国有商業銀行の発言人の話によると、新 BIS 規制の基準で、現在の自己資本比率を換算
すると、すべての商業銀行の現在の自己資本比率を1%-5%が減ることになる。これからの
世界景気後退の下で、中国の商業銀行いかに自己資本を補強し、そして,リスクウェイト低い
資本を増加し、正常の金融活動ができるようにするの一つの問題だと考えている。
BIS 規制とは BIS 規制の内容を見直し、より金融機関のリスクを反映させたものが 2004 年に
公表された「自己資本の測定と基準に関する国際的統一化:改訂された枠組」(バーゼルⅡ、いわ
ゆる新 BIS 規制)である。新 BIS 規制では、リスクアセットの算式において、これまでの信用リ
スクと市場リスクに加え、オペレーショナルリスクを加味することが定められている。銀行は従前
の延長上にある規制のフレームワークに加え、先進的なリスク計測手法を選択することができる。
ただし、先進的なリスク計測手法を選択する場合、金融庁から認可されることが求められる。
(銀
行がどの手法を選択したかについては、各銀行のディスクロージャーを見れば確認することができ
る。) (ウィキペでリアによる引用)
11新
中国経済と日本バブルの比較分析
255
参考文献
邦文著書
1.奥村洋彦(1999)、
『現代日本経済論』東洋経済新報社
2.北澤正敏(2001)、
『概説
現代バブル倒産史――激動の15年のレビュー――』商事法務研
究会
3.櫻川昌哉(2002)、
『金融危機の経済分析』東京大学出版会
4.野口悠紀雄(1992)、『バブルの経済学――日本経済に何が起こったのか』日本経済新聞社
洋著書
1.N. Gregory Mankiw(2006),[Macroeconomics sixth edition] Worth Publishers
参考資料とインタネット資料
1.『2001 日本経済統計年鑑 1960-2000』インデックス株式会社
2.日本銀行ホームページ、http://www.boj.or.jp/
3.統計局ホームページ、http://www.stat.go.jp/index.htm
4.中国人民銀行ホームページ、http://www.pbc.gov.cn/
5.中華人民共和国統計局統計データベース、http://www.stats.gov.cn/tjsj/
6.国銀行業監督委員会ホームページ、http://www.cbrc.gov.cn/chinese/home/jsp/index.jsp
7.中国証券監督委員会ホームページ、http://www.csrc.gov.cn/n575458/index.html
8.金 堅敏(2007)『中国銀行業の躍進と加速する海外進出』、
http://jp.fujitsu.com/group/fri/report/china-research/topics/2007/no-70.html
9.国際決済銀行 – Wikipedia、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E6%B1%BA%E6%B
8%88%E9%8A%80%E8%A1%8C
256
国
際
経
.
済
あ
と
が
き
永田先生のご指導とゼミの皆さんの支え合いの中で、私はこの論文を完成す
ることができました。まず、ここでは、永田先生とゼミの皆さんを感謝します。
無事に締め切りまでに卒論を完成させたのは、私自分自身には「奇跡」であ
るようなことでした。でも私は自分の論文を読むたびに、その論文の中の考え
はまだまだ幼く、参考書籍の学習も、資料の調べはまだまだ不十分だと感じて
きます。これは論文を書き始めるのは遅かったからです。もうちょっと時間が
あったら、もっといい論文になれるだろうなと思っています。論文の作成を始
まる最初からの長い間に、論文はただのアイデアのままでありました。それで、
焦ってしまいました。これから卒論を書く後輩たちにも、きっと同じような問
題を直面すると思います。ここでは、自分なりに、アドバイスをしてあげたい
ので、役に立てればと思っています。
今考えたら、論文の作成でも、他の事をやるのでも、まず行動することがと
ても重要だと考えています。いくらいいアイデアであっても、そのままでは論
文にはならないと考えています。まず、はじめの一歩はとても大事だと思いま
す。なぜなら、計画通りにならないのは当然のことだと考えてもいいです。何
もやらずに悩んでいるより、とりあえずやってみるほうがいいと思います。そ
れで、やりながら、考え、そして修正していくのはベストだと思っています。
大学時代の勉強を振り返って見ると、ちょっと極端な話かもしれませんが、
私はゼミと卒論の勉強しか覚えていなかったです。時々あの分厚い英文の教科
書を見ると、あの時の自分はよく頑張ったなと思います。国際経済ゼミは大変
だったけど、楽しかったです。きっとゼミのみんなもそう思っています。ゼミ
で勉強したものはこれからの人生にきっと役に立つと思います。
呉
浩
.
中国インフラ整備と経済発展に対する
日本ODAの貢献
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL171
(論文指導
朱
敏 明
永 田 雅 啓)
.
261
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
【要 旨】
問題意識
1970 年代の後半になって文化大革命の混乱期を脱した中国は、それまでの鎖国状態から対
外開放へと路線(改革開放政策)を大転換した。生産力が低く輸出競争力も弱かった当時の中
国には、海外から積極的に技術と資金を取り入れて近代化を目指すこととなった。しかし、当
時の中国は、海外からプラントを輸入しようにも外貨が足りず、また、外貨を稼ぐために石油
や石炭などを輸出しようにも鉄道や港湾などのインフラ整備が不十分であった。中国経済を発
展させるためには、この外貨の不足、特にインフラの未整備という問題を解決する必要があっ
た。
主要な結論
●
改革開放初期に、中国経済インフラ整備と外貨を獲得するに対して、円借款の貢献
●
中国のインフラ建設に対して、総合的に円借款の貢献
●
中国経済発展に対して、インフラ整備の重要な影響
●
GDP 押上げ効果
日本の対中国政府開発援助は、1979 年以来中国沿海部のインフラ整備、環境対策、保健・
医療などの基礎生活分野の改善、人材育成など中国経済の安定的発展に貢献し、中国の改革・
開放政策を維持・促進させる上で大きな役割を果たしてきた。このような対中国政府開発援助
は、中国インフラ整備を支えるとともに、中国経済発展にも下支えしてきた。
262
国
際
目
経
済
次
問題意識と本論文の構成 ................................................ 264
第一章
I.1 問題意識: ...................................................................................... 264
I.2 主要な結論:................................................................................... 264
I.3
要旨 ............................................................................................... 264
I.4
対中ODAの構成と実績 ................................................................. 264
(1)対中ODA援助の3つの形.....................................................................264
(2)対中ODAの実績 ...................................................................................265
I.5
大型経済インフラ分野 (有償資金協力) .................................. 266
第二章
ケーススタディ............................................................... 268
Ⅱ.1
北京首都空港整備事業............................................................... 268
(1)背景:...................................................................................................268
(2)北京首都空港整備事業の概要 ..............................................................268
(3)北京首都空港整備事業の効果 ..............................................................269
(4)北京首都空港整備事業に関連した統計指標.........................................270
Ⅱ.2
北京市上水道整備事業 ................................................................ 273
(1) 背景:.................................................................................................273
(2)北京市上水道整備事業の概要 ..............................................................273
(3)北京市上水道整備事業の円借款の計画と実績 .....................................273
(4)北京市上水道整備事業の効果 ..............................................................274
(5)北京市上水道整備事業に関連した統計指標.........................................277
Ⅱ.3
大同・秦皇島間鉄道建設事業...................................................... 278
(1)背景:...................................................................................................278
263
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
(2)大同・秦皇島間鉄道建設事業の円借款の計画と実績 ..........................278
(3)大同・秦皇島間鉄道建設事業の効果 ...................................................279
(4)大同・秦皇島間鉄道建設事業に関連した統計指標..............................281
Ⅱ.4
上海宝山インフラ整備事業(1)(2)................................................. 283
(1)背景 ......................................................................................................283
(2)上海宝山インフラ整備事業の概要 .......................................................283
(3)上海宝山インフラ整備事業の円借款の計画と実績..............................284
(4)上海宝山インフラ整備事業の効果 .......................................................285
(5)上海宝山インフラ整備事業に関連した統計指標 .................................287
第三章―――まとめと残された課題 ............................................... 290
Ⅲ.1
改革開放初期に中国経済インフラ整備に対して日本のODA貢献。291
(1)交通運輸 ...............................................................................................291
(2)電力 ......................................................................................................291
(3)電信電話 ...............................................................................................291
(4)農業水利 ...............................................................................................292
(5)都市建設 ...............................................................................................292
Ⅲ.2
中国のインフラ建設に対して、総合的な円借款の貢献............. 292
Ⅲ.3
中国経済発展に対して、インフラ整備の重要な影響 .................. 295
(1)外貨獲得に寄与し、その後の発展に貢献した初期の円借款 ...............295
(2)総合的インフラは進出地域を決定する重要ファクター ......................296
(3)直接投資を呼び込む顔として効果の大きい空港整備等の象徴的インフラ296
Ⅲ.4
GDP押上げ効果........................................................................... 297
参考文献: .................................................................................... 300
264
第一章
国
際
経
済
問題意識と本論文の構成
I.1 問題意識:
1970 年代の後半になって文化大革命の混乱期を脱した中国は、それまでの鎖国状態から対
外開放へと路線(改革開放政策)を大転換した。生産力が低く輸出競争力も弱かった当時の中
国には、海外から積極的に技術と資金を取り入れて近代化を目指すこととなった。しかし、当
時の中国は、海外からプラントを輸入しようにも外貨が足りず、また、外貨を稼ぐために石油
や石炭などを輸出しようにも鉄道や港湾などのインフラ整備が不十分であった。中国経済を発
展させるためには、この外貨の不足、特にインフラの未整備という問題を解決する必要があっ
た。
I.2 主要な結論:
z 改革開放初期に、中国経済インフラ整備と外貨を獲得するに対して、円借款の貢献
z 中国のインフラ建設に対して、総合的に円借款の貢献
z 中国経済発展に対して、インフラ整備の重要な影響
z GDP押上げ効果
日本の対中国政府開発援助は、1979 年以来中国沿海部のインフラ整備、環境対策、保健・
医療などの基礎生活分野の改善、人材育成など中国経済の安定的発展に貢献し、中国の改革・
開放政策を維持・促進させる上で大きな役割を果たしてきた。このような対中国政府開発援助
は、中国インフラ整備を支えるとともに、中国経済発展にも下支えしてきた。
I.3 要旨
1979年の大平総理(当時)訪中の際、中国の近代化努力に対して日本としてできる限りの協
力をすることを表明して以来、対中ODAは、中国の改革・開放政策の維持・促進に貢献すると
同時に、日中関係の主要な柱の一つとして安定的な日中関係を下支えする強固な基盤を形成し
てきた。この点、中国側からも、首脳レベルを含め、様々な機会に謝意が表明されてきた。さ
らに、対中ODAによる経済インフラ整備等を通じて中国経済が安定的に発展してきたことは、
アジア太平洋地域の安定にも貢献し、ひいては、日本の中国における投資環境の改善や日中の
民間経済関係の進展にも大きく寄与した。近年、中国の経済発展が飛躍的に進んだという状況
を踏まえ、2005年4月の日中外相会談において、日中両国は、2008年の北京オリンピック前
までに円借款の新規供与を円満終了することについて共通認識に達しました。
I.4 対中 ODA の構成と実績
(1)対中 ODA 援助の3つの形
z 有償資金協力(円借款)
z 無償資金協力
265
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
z 技術協力
(2)対中 ODA の実績
表1-1
1980―2005年の日本の対中ODAの実績
(単位:億円)
年度
有償資金協力(円借款) 無償資金協力
1980
660.00
6.80
1981
1,000.00
23.70
1982
650.00
65.80
1983
690.00
78.31
1984
715.00
54.93
1985
751.00
58.96
1986
806.00
69.68
1987
850.00
70.29
1988
1,615.21
79.58
1989
971.79
56.98
1990
1,225.24
66.06
1991
1,296.07
66.52
1992
1,373.28
82.37
1993
1,387.43
98.23
1994
1,403.42
77.99
1995
1,414.29
4.81
1996
1,705.11
20.67
1997
2,029.06
68.86
1998
2,065.83
76.05
1999
1,926.37
59.10
2000
2,143.99
47.80
2001
1,613.66
63.33
2002
1,212.14
67.87
2003
966.92
51.50
2004
858.75
41.10
2005
747.98
14.40
32,078.54
1471.69
合計
出所:日本外務省対中ODAの効果調査
技術協力
5.64
10.17
19.78
30.45
26.77
39.48
48.10
61.92
61.49
40.51
70.49
68.55
75.27
76.51
79.57
73.74
98.90
103.82
98.30
73.30
81.96
331.62
326.88
340.86
283.73
52.05
2,579.86
合計
672.44
1,033.87
735.58
798.76
796.70
849.44
923.78
982.21
1,756.28
1,069.28
1,361.79
1,431.14
1,530.92
1,562.17
1,560.98
1,492.84
1,824.68
2,201.74
2,240.18
2,058.77
2,273.75
2,008.61
1,606.89
1,358.36
1,183.58
814.43
36,130.09
対中ODAは、1979年に開始され、2005年までに有償資金協力(円借款)約3兆2,078億を、
無償資金協力を1,471.69億円、技術協力を2,579.86億円、総額約3兆円以上のODAを実施して
きた。表1-1は1980-2005年の対中ODAの実績である
表1-1のとおり、日本の対中ODA援助の88.78%以上は円借款である。過去のODA事業で
は、中国に道路や空港、発電所といった大型経済インフラや医療・環境分野のインフラ整備の
ための大きなプロジェクトを実施し、現在の中国の経済成長が実現する上で大きな役割を果た
しています。
266
I.5
国
際
経
済
大型経済インフラ分野 (有償資金協力)
日本の主要な対中経済協力事例は、以下の通りである 1。
●空港
• 上海浦東国際空港建設事業(400 億円)
• 北京市首都空港整備事業(300 億円)
• 蘭州中川空港拡張事業(63 億円)
• 武漢天河空港建設事業(63 億円)
• 西安咸陽空港拡張事業(30.9 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 1,116 億円
●鉄道
• 北京-秦皇島間鉄道拡充事業(870 億円)
• 貴陽-婁底鉄道建設事業(300 億円)
• 重慶モノレール建設事業(271 億円)
• 北京市地下鉄建設事業(197 億円)
• 大同-秦皇島間鉄道建設事業(184 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 6,418 億円
●道路
• 杭州-衢州高速道路建設事業(300 億円)
• 梁平-長寿高速道路建設事業(240 億円)
• 河南新郷-鄭州高速道路建設事業(235 億円)
• 貴陽-新寨道路建設事業(150 億円)
• 黒龍江省黒河-北安道路建設事業(126 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 1,951 億円
●港湾
• 秦皇島港拡充事業(674 億円)
• 青島港拡充事業(597 億円)
• 河北黄力港建設事業(154 億円)
• 深セン大鵬湾塩田港第一期建設事業(147 億円)
• 大連大窯湾第一期建設事業(67 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 2,726 億円
●発電所
• 天生橋水力発電事業(1,180 億円)
• 江西九江火力発電所建設事業(296 億円)
1出所:<日本外務省対中
ODA 実績概要>
267
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
• 五強渓水力発電所建設事業(252 億円)
• 三河火力発電所建設事業(246 億円)
• 北京十三陵揚水発電所建設事業(130 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 4,882 億円
●肥料工場
• 渭河化学肥料工場建設事業(269 億円)
• 内蒙古化学肥料工場建設事業(214 億円)
• 九江化学肥料工場建設事業(214 億円)
これらのプロジェクト以外にこの分野での協力総額 1,063 億円
●製鉄工場
• 上海宝山インフラ整備事業(310 億円)
経済インフラ分野の有償資金協力(円借款)の合計は2兆6636億円であり、対中ODA
援助総額の約76%を占める。では、これほどの円借款は中国経済インフラ整備に対して、どの
役割を果たしてきたか。また、言い伸ばして、中国経済発展に対して、どのぐらい影響を与え
たか。以下四つのケースを例として、具体的に分析していきたい。
1. 北京首都空港整備事業
2. 北京市上水道整備事業
3. 大同・秦皇島間鉄道建設事業
4. 上海宝山インフラ整備事業
268
国
第二章
Ⅱ.1
際
経
済
ケーススタディ
北京首都空港整備事業
(1)背景:
北京首都空港の利用状況を見ると、中国の航空部門の発展と同様に1980~90年の10年間
に旅客数は4.4倍(年平均伸び率:約16%)、貨物量は2.5倍(年平均伸び率:10%弱)となっ
ていたが、1990年代に入っても旅客、貨物ともに年30%以上の伸びを示し、1992年には旅
客数は870万人(対前年比38%の伸び)に達していた。一方、アプレイザル時の旅客ターミ
ナルは当初年間利用客3百万人を設計条件として1980年に整備されたもので、その後2度にわ
たる増築を経て計画容量は増大していたものの、当時完全に容量オーバーとなっていた。ま
た、同ターミナルをさらにそれ以上増築することは物理的に困難であった。
第1期事業1のアプレイザルに先立って1990年に行なわれた中国側作成の需要予測では、
経済成長予測および当時の航空需要実績から、2005年には旅客数が20.5百万人、貨物量が243
千トンに達するものと見込まれていた。このような将来の需要増大に対応するため、本事業
は、中国の第9次5ヵ年計画(1996年~2000年)の重点事業として位置づけられていた。
以上の予測を踏まえ、滑走路等の施設については今後の需要増加に対応できるものの、旅
客ターミナル、貨物ターミナル等の諸施設については増強が不可欠と見込まれていた。円借
款対象は、上記事業に要する外貨資金全額である。
(2)北京首都空港整備事業の概要
z
中国人民共和国の経済は改革開放以来、急スピードで成長してきた。その中で航空輸送需
要の成長率は経済成長率の2倍となっており、空港整備事業の緊急性は非常に高いもので
ある。特に、中国の玄関と言われる北京首都空港は、整備の重要性が一層明確であった。
北京首都空港整備事業は1995年に着工し、1999年9月に完成した。その年の北京空港の旅
客量は既に1,819万人に達し、本事業前の設計能力(800万人)を遥かに超えた。
z
北京首都空港整備事業の実施により首都空港の旅客処理能力は旧旅客ターミナルの800万
人から2,700万人と一挙に3倍以上増加し、貨物取扱量も大幅に増加しており、所期の効果
が発現していると評価される。中国全体及び北京市の発展状況から見ても北京首都空港整
備は北京市および国全体にも大きく貢献した。
269
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
表2-2
借款契約概要
第1期
(1993年度) 第2期
(1995年度) 第3期
(1996年度)
円借款承諾額 8,106百万円
合計
13,435百万円
8,459百万円
30,000百万円
7,175 百万円
7,627 百万円
22,877 百万円
交換交文締結 1993年8月
1995年10月
1996年12月
借款契約調印 1993 年 8 月
1995 年 11 月
1996 年 12 月
借款契約条件 金利2.6%
金利2.3%
金利2.3%
返済 30 年
返済 30 年
返済 30 年
2000 年 7 月
2000 年 12 月
未完了
実行額
貸付完了
8,075 百万円
表2-3
北京首都空港整備事業の事業費
― 主要計画/実績比較
計画
実績
外貨
30,000 百万円
22,877 百万円
内貨
41,121 百万円
90,480 百万円
(3,427 百万元)
(6,334 百万元)
合計
71,121 百万円
113,357 百万円
円借款分
30,000 百万円
22,877 百万円
42.181%
20.181%
1元==12.0 円
1元==14.3 円
(現地通貨)
事業費総額内の円借款比率
換算レート
注:①フェーズ 3(1996 年度)のアプレイザル時は 1 元=12.0 円の換算レートを使用したが、中国側
は 1995 年末以降 1 元=14.3 円のレートを使用してきた。
② 工期:1994 年 1 月~1999 年 9 月 (計画より 1 ヶ月早く完工)
(3)北京首都空港整備事業の効果
新旅客ターミナルの開業(1999年9月17日)により、旅客処理能力は旧旅客ターミナルの
300万人から、新旧ターミナル合計で3600万人(ただし、旧ターミナルは新ターミナル開業
に合わせ使用停止し、現在運用再開に向け改築中)に一挙に増加した。以下は2000年まで北
京空港の主要な利用効果である。
1) 北京空港の利用旅客数
図2-1は北京首都空港の利用旅客数の実績である。1993年の第1期事業アプレイザル時
と1995年の第2期事業アプレイザル時の予測があるが、1995年に行なった予測は1993年に行
なった予測を大幅に上方修正している。例えば、2000年時点の需要は1993年の予測では
1,470万人と見込まれていたが、1995年の予測においては1993年予測比60%以上増
の2,388万人と見込まれた。一方、実績は2,169万人であり、旅客ターミナルは所期の効果を
発現していると評価される。
270
国
際
経
済
図2-1 北京空港の利用旅客数 1996-2007
:利用旅客数の実績(万人)
6,000
5,000
4,000
3,000
2,000
1,000
0
1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007
出所:アプレイザル時資料(中国民用航空局)、北京首都国際空港株式有限公司
2) 貨物取扱量
図2-2のとおり2000年の貨物取扱量は53万トンである。郵便物と旅客携行荷物を合計
すると貨物取扱量は77.4万トンに達し、中国における北京首都空港のシェアは19.4%と、中
国の民用空港中第1位に位置づけられる。但し、貨物取扱量は円借款対象の貨物ターミナル
だけではなく、別に空港内に建設された中国国際航空公司(CA)の貨物ターミナルの取扱
量を加算したものである。実施機関によると、CAは国際線が多いため、空港の維持管理を
行う北京首都国際机場股分有限公司の貨物ターミナルの処理施設より取扱能力が高く、利用
状況もより良好である。
160
140
120
100
80
60
40
20
0
図2-2 北京首都空港貨物取扱量の推移 2000-2007年
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
出所:アプレイザル時資料(中国民用航空局)、北京首都国際空港株式有限公司
(4)北京首都空港整備事業に関連した統計指標
2007
271
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
1) 北京市の経済成長と企業の投資状況
図2-3、4は北京市の名目地域内総生産(RGDP)と実質成長率、図2-5は北京市におけ
る海外直接投資と中国におけるシェアである。図2-4のとおり北京市の経済成長率は年 10%
前後の増加率で成長してきている。海外からの直接投資は 1994 年から 1997 年まで横ばいで
あるが、1998 年は伸び、中国におけるシェアも 4%を超えている。北京首都国際空港円借款事
業の完成は 1999 年であるが、空港の利便性向上という輸送インフラ整備の期待も、海外から
の投資増加にプラスの寄与をした。
図2-3 北京市の経済成長----<北京市の名目RGDP>
(単位:億元)
10,000
8,000
6,000
4,000
2,000
0
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007
出所:北京統計年鑑(北京市統計局編)
図2-4 北京市の経済成長----<実質成長率>
(%)
16
14
12
10
8
6
4
2
0
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
出所:北京統計年鑑(北京市統計局編)
2000
2001
2002
2003
2004
2005
2006
2007
272
国
際
経
済
図2-5 北京市における海外からの直接投資
(単位:万US$)
400,000
350,000
300,000
250,000
200,000
150,000
100,000
50,000
0
1992 1993 1994 1995 1996 1997 1998 1999
2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007
出所:北京統計年鑑(北京市統計局編)
2) 観光客の推移
アプレイザル時には本事業の効果として、観光客の増加とそれに伴う観光収入の増加、国際
会議および国際的行事開催の誘致など国際交流の活発化が挙げられていた。下記は北京市を訪
れた観光客の推移である。前年比にてやや減少した 1998 年を除き観光客数は一貫して伸びて
きている。今後、空港の整備は観光客数にもプラスに寄与すると考えられる。
図2-6 北京市への観光客数の推移
(単位 万人)
600
500
400
300
200
100
0
1992
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
出所:北京統計年鑑
注:外国人と中華人民共和国の特別行政区域等からの観光客数の合計
2006
2007
273
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
Ⅱ.2
北京市上水道整備事業
(1) 背景:
1980年代半ば、中国都市部では深刻な水不足の問題が見られた。当時、全国324の都市を対
象に行われた調査によると、180以上の都市で水不足問題が見られ(計1200万m3/日の不足)、
うち40都市は深刻な状況(計430万m3/日の不足)にあった。これら40都市の総人口は約3千万
人にのぼり、当時の中国における都市人口の約30%にあたる。
一方、北京市では北京市上水道整備事業アプレイザル時の1987年、地下水浄水場7ヵ所(総
処理能力140万m3/日)と表流水浄水場1ヵ所(処理能力17万m3/日)により浄水供給を行って
いたが、地下水の過剰汲み上げによる地盤沈下問題が発生し、工場の操業時間短縮(年率3%
の割合での給水量削減指導)など事実上の給水制限が行われていた。
さらに都市への人口集中により、北京市街地の給水人口は1987年の450万人から92年には
530万人への増加(年率3.6%の増加)が見込まれ、1人当たり水使用量も生活水準の向上によ
り、1987年の162㍑/日から92年には220㍑/日への増加(年率8%の増加)が見込まれていた。
この結果、1992年には87年の約1.5倍である240万m3/日の水需要が北京市街地では見込まれて
いた。
このため、当時建設中であった表流水浄水場(処理能力50万m3/日)第1期工事施設の処理能
力をさらに50万m3/日高め、処理能力100万m3/日とし、1992年以降の水需要に応えんとするた
めに本事業(第2期工事)が計画された。円借款対象は、上記事業に要する外貨資金全額であ
る。
(2)北京市上水道整備事業の概要
z
本事業で建設された浄水設備稼動以降、この施設で生産される浄水は常に国家および同社
の衛生基準を満たし、衛生問題を起した例はない。
z
本事業の完成により北京市の工場に対する給水制限が緩和され、現在は完全に廃止されて
いる。また、基礎インフラである浄水供給能力の向上は、北京市の経済発展に寄与してい
る。
z
北京市自来水集団は極力地表水を水源とし、地盤沈下を防止する方針であり、本事業もこ
のような努力の一環として効果を上げている。なお、大量の地表水の取水による生態系へ
の影響、および浄水供給量増加に伴う排水汚染などの環境に対する負の影響は現在のとこ
ろ見られていない。
z
本事業の実施に係る住民移転は、当時北京市政府のインフラ建設に関する予算案がすでに
決定済みであったため、住民移転関連資金の調達が一時的に遅れたが、その後、移転対象
住民への補償金は、朝陽区政府を通じて行われ、移転後特に問題は発生していない。
(3)北京市上水道整備事業の円借款の計画と実績
274
国
際
経
済
表2-4 借款契約概要
第1次
第2次
円借款承諾額/実行額
10,614百万円/10,614百万円
4,866百万円/4,697百万円
交換公文締結/借款契約調印
1988年7月/1988年8月
1989年5月/1989年5月
金利 2.5%
金利 2.5%
返済 30年(据置10年)
返済 30年(据置10年)
1995年8月
1996年5月
借款契約条件
貸付完了
表2-5 北京市上水道整備事業の事業費
― 主要計画/実績比較
計画
実績
外貨
15,480百万円
15,311百万円
内貨
5,542百万円
30,364百万円
(16,110万元)
(130,880万元)
合計
21,022百万円
45,675百万円
円借款分
15,480百万円
15,311百万円
73.63%
33.52%
RMB1=JP¥34.4(1988年
RMB1=JP¥23.2(実施期間加
平均レート)
重平均レート)
事業費総額内の円
借款比率
換算レート
注1:事業費の実績を計画に比すると、外貨支出に大きな差はないが、内貨支出は計画額を大きく上回
った。この原因は、①インフレよる資材の高騰、②計画外の住民移転・工場移転、および導水施
設の工事にかかる一時的な移転などによる補償費の計上にある。 インフレによる資材費高騰の
例として、鋼材価格が1988年のトン当たり平均1800元から1993~94年には4200~4300元へ、
セメント価格が1988年のトン当たり100元から1992年には300元への大幅な増加が挙げられる。
注2:工期 :1990年12月~1996年12月
(4)北京市上水道整備事業の効果
以下は、2002年まで北京市上水道整備事業の主要な効果である。
1) 北京市内の給水実績と本事業の役割
表2-6が示すとおり、本事業が完成した1996年以降北京市内の浄水供給量は99年まで増加
し、2000年に前年比マイナスとなった。その原因は、①工場の郊外移転により工業用水需要が
減少したこと、②北京市政府の市民に対する節水の呼びかけと節水措置の実施がある程度奏効
したこと、③北京市内への人口の流入が制限されたこと、などにある。
節水効果の大きな措置の一つとしては、従来の集団共用式メーターから近年世帯別のメータ
ーに転換してきたメーター制度の変化がある。これにより、従来無制限であった住民の水消費
の習慣は大きく変わり、2000年における1人当たり水消費量が前年に比べ減少することとなっ
275
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
た(表2-7参照)。このため、2000年に
3
おける北京市内給水量の実績はアプレイザル時の需要見込みを5万m /日下回った。
3
一方、本事業による給水量は、事業完成の1996年における34万m /日から1999年には50 万
3
m /日へと拡大し、利用率では同68%から100%へと上昇した。しかし、
2000年には給水量、利用率が共に低下した。これは前述した北京市内全体における浄水供給量
の推移状況と同様の背景を持つと言える。
表2-6
北京市内における浄水給水実績の推移
生活用水供給 工業用水供給 給水量合計
3
(万m /日)
3
(万m /日)
3
(万m /日)
本事業給水量 本事業設備利 本事業給水の
3
(万m /日)
用率 (%)
割合 (%)
1988
81
35
130
*
*
*
1989
83
35
133
*
*
*
1990
89
36
137
*
*
*
1991
98
35
145
*
*
*
1992
104
35
158
*
*
*
1993
112
34
169
*
*
*
1994
121
36
181
*
*
*
1995
125
35
185
*
*
*
1996
128
35
193
34
68
17.6
1997
134
34
196
45
90
23.0
1998
137
34
197
44
88
22.3
1999
146
31
203
50
100
24.6
2000
142
27
201
40
80
19.9
開始
完成
出所: 北京市自来水集団公司
注:
1. 「給水量」は「浄水供給量」を指す。
2. 「給水量合計」は生活用水と工業用水のみならず、農業用水と都市建設用水なども含む。
3. 「生活用水」は商業用水と住民用水の合計である。
4. 工期 :1990年12月~1996年12月
2) 上水道普及率と1人当たり平均水使用量
上水道普及率は北京市内に限って見れば、100%となっている。1人当たり平均水使用量(住
民生活用水)は本事業完成後より1999年まで増加が続いたが、2000年には前年比マイナスとな
った。その背景には既述のとおり、従来の集団共用式メーターから世帯別へと転換したメータ
ー制度の変化に伴い、住民の水消費習慣が改善された事情がある。一方、商業用水も含めた生
276
国
際
経
済
活用水の一人当たり水平均使用量は、2000年で255㍑/人・日であり、アプレイザル時の計画250
㍑/人・日を上回っている。
表2-7
北京市内上水道普及率と給水人口の推移
一人当たり平均水
上水道 普及率
使用量(住民生活
(%)
用水)(㍑/人・日)
給水人口
市内人口
(万人)
(万人)
1988
100
65
501
501
1989
100
70
510
510
1990開始
100
73
517
517
1991
100
81
522
522
1992
100
83
530
530
1993
100
89
539
539
1994
100
98
545
545
1995
100
101
549
549
1996完成
100
110
530
530
1997
100
114
536
536
1998
100
119
538
538
1999
100
128
542
542
2000
100
120
556
556
出所: 北京市自来水集団公司
注:工期 :1990年12月~1996年12月
3) 水質
水質基準は既存の国家の飲用水衛生基準に、北京市自来水集団公司が新たに15項目を追加し
企業基準として設定している。同社はこれまでの水質検査の結果がいずれも基準を満たしたと
説明している。
4) 北京市自来水集団公司財務的内部収益
表2-8
年
北京市自来水集団公司財務的内部収益1996—2002(単位:万元)
1996
1997
1998
1999
2000
2001
2002
完成
収入
8,269
11,145
15,254
21,032
28,191
32,692
43,589
費用
9,135
10,981
12,575
14,401
18,794
18,794
18,794
利益
-866
164
2,679
6,631
9,397
13,898
24,795
出所: 北京市自来水集団公司
注:工期 :1990年12月~1996年12月
277
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
(5)北京市上水道整備事業に関連した統計指標
1) 公衆衛生の向上
上水普及による水系感染病の改善を計る年度別の統計や調査報告が無いため、かかるインパ
クトを定量的に確認することは難しい。しかし、住民生活用水一人当たり使用量の増加は、一
般に住民レベルでの衛生環境の改善に寄与するとされ、本事業効果もかかる点において貢献し
ていると推量できる。また、実施機関によれば、本事業により建設された浄水設備稼動以降、
同公司が処理した浄水は常に国家および同社の衛生基準を満たし、衛生問題を起した例はない
との報告である。
2) 商業・産業活動の発展
本事業のアプレイザルが実施された1987年、北京市では工場の一時的な給水制限を実施して
いた。しかし、本事業の完成によりこのような状況が緩和され、工場の郊外移転による工業用
水需要の減少とあいまって、現在北京の工場では給水制限が完全に廃止されている。また、北
京市におけるGDPは安定して増加しており、基礎インフラである浄水供給能力の向上は、同市
の経済活動一般の発展の下支えに寄与していると考えられる。
表2-9
1996
北京市のGDP成長率と実績
1997
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
2005
9.2
9.6
9.8
10.2
11.0
13.7
10.2
10.7
13
11.1
GDP(億元) 1,615
1,810
2,011
2,174
2,479
2,818
3,130
3,663
3,800
4,222
年
完成
GDP成長率
(%)
注:工期 :1990年12月~1996年12月
3) 地下水保全・地盤沈下の防止
北京市自来水集団公司は極力地表水を水源とし、地下水の利用を減らすことにより地盤沈下
を防止する方針であり、本事業もこのような努力の一環として効果を上げている。下表2-1
0から、北京市内浄水供給量に占める地下水の比率が1996年の本事業竣工より確実に低下して
いることが確認できる。なお、大量の地表水の取水による生態系への影響、および浄水供給量
増加に伴う排水汚染などの環境に対する負の影響は現在のところ見られていない。
表2-10
北京市内給水量に占める地下水の比率の推移
(単位:%)
年
比率
1988
83
89
72
90
91
92
93
94
95
96
開
完
始
成
60
54
出所: 北京市自来水集団公司
注:工期 :1990年12月~1996年12月
54
56
57
54
50
97
98
99
2000
45
44
41
39
278
国
際
経
済
4) 住民移転
本事業の実施に係る住民移転は多額の補償金(人民元国内資金、4,002万元)を必要とした
が、当時北京市政府のインフラ建設に関する予算案はすでに決定済みであったため、本事業資
金もこの予算枠組みに制限され、住民移転関連資金の調達が一時的に遅れた。しかし、実施機
関によれば、その後市政府からの補償金支給は第9浄水場所在の朝陽区政府を通じて行われ、
移転後特に問題は発生せず、住民の生活基盤の安定における支障も見られていないとのことで
ある。
Ⅱ.3 大同・秦皇島間鉄道建設事業
(1)背景:
中国では、第 7 次 5 カ年計画(1986 年~1990 年)および第 8 次 5 カ年計画(1991 年~1995
年)の下で国民経済が発展し、エネルギー需要が増大していた。特に、経済発展の著しい沿岸
地方で石炭の需要が増大していた。1970 年代ならびに 1980 年代は輸送力が十分でなく、山西
省の何千万トンもの石炭を搬出できなかったため新しい炭坑の開発ができなかったが、アプレ
イザル時には、搬出路として鉄道建設を進めるとともに炭坑の開発を進めていた。当時、石炭
は豊沙大線(豊台-沙城-大同線)を使用して北京経由で秦皇島港へ輸送していた。豊沙大線
の輸送能力は 7,900 万トン/年に対し、
1987 年の実績では既に 7,900 万トン(この内石炭は 6,500
万トン)と飽和しており、これ以上の輸送力の増加は無理なことから、大秦線の建設に着手し
た。
大秦線は大同と秦皇島港を結ぶ、652Km の石炭輸送を目的とした鉄道である。この間を 2
期にわけ、1 期工事は大同‐大石庄間の 386Km と秦皇島駅・秦皇島港間の 24Km の合計 410Km
であり、中国側の資金手当により 1985 年 12 月に着手し、1988 年 12 月完成であった。第 2
期工事は大石庄‐秦皇島間 242Km であり、円借款により 1988 年に工事に着手し、1992 年に
工事完成であった。
(2)大同・秦皇島間鉄道建設事業の円借款の計画と実績
z
エネルギー消費構造の調整などもあり、予測通りの石炭輸送の伸びがみられなかったが、
本事業は確実に石炭輸送の需要を満たしており、また、在来の旅客線の石炭輸送代替の機
能も発揮している。そして、今後もより大きな役割を果たすことになると考えられる。
z
本事業完成後、本事業石炭輸送の目的地である中国沿海地区は著しい経済成長を達成して
おり、火力発電に消費される石炭量も増加している。本事業は当該地区の石炭供給増加と
経済成長に貢献したと思料される。また、この間、秦皇島港における石炭輸出も増大して
おり、本事業の貢献もあったとみられる。一方、石炭産出地の山西省への貢献もあったと認
められる。
z
中国鉄道部は植栽や騒音対策、汚水対策、煤塵対策など、環境への対応を適切に行っている
ため、環境へのマイナスの影響は特に見られていない。
279
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
表2-11
第1次
借款契約概要
第2次
円借款承諾額
実行額
12,131百万円
11,073百万円
6,279百万円
4,826百万円
交換公文締結
借款契約調印
1988年7月
1988年8月
1989年5月
1989年5月
借款契約条件
金利2.5%
返済30年
金利2.5%
返済30年
貸付完了
1993年8月
1994年5月
合計
18,410百万円
15,900百万円
表2-12 大同・秦皇島間鉄道建設事業の事業費 ― 主要計画/実績比較
計画
実績
18,410百万円
15,900百万円
41,283百万円
(1,200 百万元)
78,189百万円
(2,303 百万元)
合計
59,693百万円
94,089百万円
円借款分
18,410百万円
15,900百万円
事業費総額内
の円借款比率
30.841%
16.899%
換算レート
1元==34.4 円
(1988年)
1元==33.95 円
(1992年)
外貨
内貨
(現地通貨)
注)工期:1988 年 1 月~1992 年 12 月
(3)大同・秦皇島間鉄道建設事業の効果
事業目的は「秦皇島までの増大する石炭輸送需要に対処するため、大石庄-秦皇間に電化単
線の新線建設を行う」であったが、以下では本事業が 2000 年までこの増大する石炭輸送需要
に対して石炭輸送量の実績である
図2-7は中国北西部(山西省の北部、内蒙古の西部(神府、東勝))にて産出された石炭
の鉄道による輸送量と大秦線(大同~大石庄間の西区間と大石庄~秦皇島間の東区間)の石炭
輸送量について 1992 年以降の推移である。実施機関資料によると、北西部にて産出された石
炭の 50%強が鉄道によって輸送されてきた。鉄道輸送量に占める大秦線の輸送シェアは 1992
年の開通以来徐々に伸びており、2000 年の実績では大同~大石庄が 68%、大石庄~秦皇島が
54%となっている。
280
国
際
経
済
図2-7 大秦線の石炭輸送量
16,000
14,000
12,000
10,000
石炭の鉄道輸送量
鉄道(大同~大石庄区間)
鉄道(大石庄~秦皇島区間)
8,000
6,000
4,000
2,000
19
92
19
93
19
94
19
95
19
96
19
97
19
98
19
99
20
00
20
01
20
02
20
03
20
04
20
05
20
06
20
07
0
出所:JICA
工期:1988 年 1 月~1992 年 12 月
図2-7では、1990 年、1995 年、2000 年における、本事業対象区間(大秦線の東区間で
ある大石庄~秦皇島)と他の鉄道路線(北京-天津-秦皇島線と京秦線)経由で秦皇島まで輸
送される石炭輸送量について、実績を比較した。京秦線の輸送実績は 1995 年の 6,600 万トン
から 2000 年には 2,600 万トンへと減少し、北京-天津-秦皇島線も同様に 1995 年の 2,100
万トンから 1,490 万トンへと低下している。その一方で、大秦線は同時期に 2,000 万トンから
6,052 万トンに輸送量が増加しており、そのシェアは約 60%に達している。他の路線から大秦
線への石炭輸送の振り替えが既に行われていることがわかる。この結果、本事業対象区間の石
炭輸送需要への貢献度は高くなりつつある。
図2-8 秦皇島までの石炭輸送量の実績比較(万トン)
12,000
10,000
8,000
6,000
北京-天津-秦皇島線
経由
京秦線 経由
4,000
本事業
2,000
0
1990
1995
2000
出所:JICA
工期:1988 年 1 月~1992 年 12 月
2005
経由
281
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
(4)大同・秦皇島間鉄道建設事業に関連した統計指標
アプレイザル時には中国では石炭が第 1 次エネルギー消費量の4分の3以上を占めた。石炭
資源は山西省を中心とした華北地区に偏在し、東北、華東、中部・南部地区の石炭消費地は華
北地区からの石炭供給を必要としていた。アプレイザル資料によると、1995 年に鉄道輸送さ
れる石炭 10,600 万トンのうち 6,400 万トンは秦皇島港にて船積みされ、沿岸石炭需要と輸出
用に供給される予定であった。中国沿岸地域の石炭需要は 1995 年に 5,080 万トンに達した。
このように沿岸地区に対する華北地区からの石炭供給量が増加することにより、沿岸地区の生
産活動が増大し、沿岸地区経済発展が促進される効果があると期待されていた。
1) 沿岸地区経済へのインパクトと輸出の伸び
下図2-9は秦皇島港から船積みされる石炭の量とその中での移出量の推移である。国内供
給量は本事業の完成年である 1992 年以降ほぼ 5,000~6,000 万トンの水準で推移してきている。
輸出は 1991 年 1,187 万トンが 2000 年には 3,000 万トンを超え漸増傾向にある。輸出の伸び
により 2000 年に秦皇島石炭バースから船積みされた石炭量は 8,000 万トンを超える水準に達
した。
図2−9 秦皇島石炭バースから船積みされる石炭量の実績
(単位:万トン)
20,000
18,000
16,000
14,000
12,000
秦皇島石炭バース船積み石炭量
10,000
うち移出量
8,000
うち輸出量
6,000
4,000
2,000
2007
2006
2005
2004
2003
2002
2001
2000
1999
1998
1997
1996
1995
1994
1993
1992
1991
1990
0
出所:秦皇島港務局提出資料
概略すると、2000年に鉄道3路線によって秦皇島まで輸送された約10,000万トンの石炭のう
ち、80%が秦皇島港の石炭バースで船積みされ、うち50%が国内他地域への移出に、30%が
輸出されていることになる。2000年のデータ(表2-13)によると秦皇島港から国
内向けに移出される石炭の主な仕向先は、遼寧省、山東省、江蘇省、上海市、浙
江省、福建省、広東省、海南省の8省市である。同年に、これら8省市のシェアの
合計は90%を超えている。
282
国
表2-13
際
経
済
主要仕向け地別移出実績(2000 年)
(単位:万トン)
区 分
全石炭
バース
シェア
-(%)
遼寧
山東
江蘇
上海
浙江
福建
広東
海南
その他 合計
367
257
408
958
1,250
343
1,182
71
427
5,263
7.0
4.9
7.8
18.2
23.8
6.5
22.5
1.3
8.1
100.0
出所:秦皇島港務局提出資料
図2-10では 2000 年における主要仕向地 8 省市について、発電量の合計、うち火力によ
る発電量、そして火力に使用される消費石炭量を過去に遡ってみた。当該省市における火力発
電のシェアは総発電量の約 90%と高いシェアを占める。
図2−10 8省市における総発電量(億kWh)、火力発電量(億
kWh)、火力発電用消費石炭量の推移
(単位:10万トン)
6,000
5,000
総発電量
4,000
火力発電量
発電消費石炭量
3,000
2,000
1,000
0
1993
1994
1995
1996
1997
1998
1999
出所:中国電力年鑑
注: 1)8省市(遼寧省、山東省、江蘇省、上海市、浙江省、福建省、広東省、海南省)のデータの合計
2)1995 年のデータは未入手。
また、総発電量の伸びも高く、1999 年の発電量は 1993 年比で 1.61 倍に増加し、火力発電
量も同期間に 1.56 倍となっている。1996 年から 1999 年までの 4 年間に同地域における経済
成長をみると、海南省と遼寧省を除く 6 省市で年平均 10%以上の経済成長を達成しており、
経済成長に伴う電力需要に対応して供給が伸びてきたと考えられる。同様に、火力発電に消費
される石炭量も、13,094 万トン(1993 年)から 18,517 万トン(1999 年)と 5,400 万トン増
加している。大秦線の本事業対象区間は 1999 年に 4,700 万トンの石炭を輸送しており、需給
間の直接的な連関を辿ることは困難であるものの、事業は当該省市の石炭供給増加と経済成長
283
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
に貢献したと推定される。
2) 環境問題
環境への対応として、鉄道部は植生や生態系への影響に対処するために植栽を行ったり、騒
音防止のため学校に近接する場所では防音壁の設置等、適切な対応を行っている。また、汚水
対策として、国家基準を満たす汚水処理施設が設置されている。また、石炭輸送に伴って煤塵
が発生するが、鉄道部では水を撒いて最小限に抑えるようにしている。
Ⅱ.4 上海宝山インフラ整備事業(1)(2)
(1)背景
1) 港湾
上海港は中国南北沿海、長江流域そして国際輸送の中枢をなす中国最大の商業港であり、同
港のバースは市中心を流れる黄浦江沿いに建設されている。上海市中心から約20km 北に位置
する上海宝山地区のバースは、宝山鋼鉄公司内バース4基、宝山14 区港コンテナバース、石洞
口火力発電所1 期バースから成り立ち、1992年の貨物取扱能力は計2,940 万トン/年であった。
しかしながら、当時同地区における貨物取扱需要は2000 年には6,640 万トンに達するものと
見込まれていたため、既存の施設のみでは同地区の貨物需要に追いつかなくなることは確実で
あり、取扱能力の拡充が必要となっていた。
2) 発電所
中国全体の発電電力量は、90~93 年の間で年平均9.5%の伸びを示していたが、第八次国家
5 カ年計画(91~95 年)の92 年見直しによると、電力量が工農業生産の伸びに追いつかな
い状況が続くことが明らかであった。また、当時上海市の電力の逼迫状況はかなり深刻で、供
給予備力(供給力-最大負荷)、実際の需要量に対する供給量ともマイナス値が続いていた。
これは、電力需要のピークロードのみならず、近い将来ベースロードにすら対応できなくなる
懸念があることを示しているため、早急な改善が必要なことは明らかであった。
(2)上海宝山インフラ整備事業の概要
港湾、発電所ともに以下のとおり、計画通りのアウトプットであった。
1) 港湾
z
バース3 基(取扱能力:1,400 万トン/年、ヤード430,000m3)
z
荷役機械(1,800 トン/h×2、1,200 トン/h×2 等)
284
国
z
港湾管理設備(コンピューター等)
z
港湾サービス設備(タグボート)
z
給電、給排水、通信施設他
際
経
済
2) 発電所
z
出力350MW の火力発電設備一式(ボイラーおよび関連設備、蒸気タービ
z
ン および関連設備、発電機、変圧器、運炭・貯炭設備、灰処理設備等)
z
コンサルティングサービス(発電所:60M/M、大気汚染物質排出量削減
(3)上海宝山インフラ整備事業の円借款の計画と実績
表2-14 借款契約概要
案件名
上海宝山インフラ整備
上海宝山インフラ整備
事業(1)
事業(2)
円借款承諾額/
143 億9,300 万円/
実行額
127 億8,400 万円
交換公文締結/
1995 年1 月/
1995 年10 月/
借款契約調印
1995 年1 月
1995 年11 月
金利 2.6%、
金利 2.3%、
返済 30 年
返済 30 年
借款契約条件
貸付完了
2002年2 月
166 億600 万円/
81 億500 万円
2002年12 月
表2−15 上海宝山インフラ整備事業の事業費 ―主要計画/実績比較
計画
実績
外貨
30,999 百万円
20,890 百万円
内貨
16,614 百万円
21442 百万円
(1,422 百万元)
(1,420 百万元)
合計
47,613 百万円
42,332 百万円
円借款分
30,999 百万円
20,890 百万円
65.106%
49.348%
1元==11.7 円
1元==15.1 円
(現地通貨)
事業費総額内
の円借款比率
換算レート
注)工期:
z 【 港湾】1994 年 8 月~1999 年 3 月
z 【発電所】1995 年 1 月~1999 年 11 月
計画:8M/M)
285
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
(4)上海宝山インフラ整備事業の効果
1) 港湾設備拡充による石炭、鉄鉱石の輸送量増
本事業により建設された港湾バースの取扱貨物量とバース占有率は、図2-11、12 のとお
り供用開始後、年々上昇している。取扱貨物量は、2003 年に取扱能力1,400 万トン/年の約9
割にも達した。また、バース占有率と平均待ち時間はそれぞれ計画値の69%、27 時間に対し、
実績(04 年)では70%、19 時間となっており、利用状況は良好である。
図2−11 港湾バースの取扱貨物量
(単位:万トン)
1,400
1,200
1,000
800
600
400
200
0
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
出所:宝山鋼鉄公司
工期:【 港湾】1994 年 8 月~1999 年 3 月
注)上海市全体の港湾バースをみると、2003 年に3.16 億トンに達しており、本事業によるバース
の取扱能力1,400 万トン/年はその約4.4%に相当する。
286
国
際
経
済
図2−12 港湾バース占有率
(%)
80
70
60
50
40
30
20
10
0
1998
1999
2000
2001
2002
2003
2004
出所:宝山鋼鉄公司
工期:【 港湾】1994 年 8 月~1999 年 3 月
同バースの取扱貨物は表2-16 に示すように石炭と鉄鉱石である。石炭は製鉄用コーク
スの原料および発電所の燃料として、また鉄鉱石は生産用原料として、利用されている(宝山
鋼鉄公司)。
表2-16 港湾バースの取扱貨物の変化
(単位:万トン)
貨物内容
1999 年
2003 年
鉄鉱石
400
510
石炭
519
712
合計
919
1232
出所:宝山鋼鉄公司
工期:【 港湾】1994 年 8 月~1999 年 3 月
2) 発電所拡張による電力供給増
表2-17 のとおり、1999 年の本事業による発電機(3 号機)の運用開始後、発電量は年々
伸びて2003 年には2,428GWh/年に達しており、計画値の2,303GWh/年を超えている。また、
施設利用率と稼働率はそれぞれ計画値の75%、79%に対し、実績(03 年)では79%、92%と
なっており、稼働状況は良好である。宝山鋼鉄公司の1・2 号機が年数を経ているため、改修
点検に時間がかかる状況下、本事業による3 号機の位置づけは重要である。
過去数年間の実績では、宝山鋼鉄公司の全発電量のうち、95%前後が自社内で消費されてお
287
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
り、残りの5%前後が上海市の電力網に供給されている。上海市全体の電力需要をみると、90 年
代を通じて電力負荷は年間平均9.7%伸びており、現在も特に夏・冬のピーク時には電力需給
が逼迫している。
表 2-17 本事業による発電機(3 号機)の稼働状況
1999
2000
2001
2002
2003
439
2,071
2,076
2,390
2,428
施設利用率(%)
14
68
68
78
79
稼働率(%)
14
83
83
91
92
発電端発電量
(GWh/年)
出所:宝山鋼鉄公司
注)工期:【発電所】1995 年 1 月~1999 年 11 月
宝山鋼鉄公司の発電所は全部で4 機、合計1,200MW の出力で、本事業による発電機(3 号機)
の出力は350MW である。
3) 財務的および経済的内部収益
宝山鋼鉄公司の2001-2003 年間の損益計算書(表2-18参照)だけをみると、毎年売上が
増加しているほか、利益も大きく伸びており、高い収益性を維持していることがわかる。
表 2-18 損益計算書
(単位:万元)
2001
2002
2003
売上高
2,920,782
3,389,677
4,452,421
売上原価
2,316,525
2,445,558
3,082,543
28,574
32,806
36,775
一般管理費
159,305
193,997
215,794
営業利益
370,993
611,322
1,004,927
営業外費用
25,307
79,049
76,153
税引前利益
370,956
594,175
992,860
項目
販売費
出所:宝山鋼鉄公司
(5)上海宝山インフラ整備事業に関連した統計指標
1) 産業(鉄鋼業)の成長を通じた経済発展
宝山鋼鉄公司はその生産規模において中国国内最大の鉄鋼会社であり、たとえば粗鋼生産規
模は日本の新日本製鉄の約4 割である。1.1 に記述したとおり、本事業は同公司の第3 期拡張
288
国
際
経
済
工事に伴い、インフラの拡充を行ったもので、粗鋼の生産高は1999 年の750 万トンから2003
年には1,155 万トンへ増加した。また、宝山鋼鉄公司の主な顧客は国内のメーカーであり、鉄
鋼製品のなかでも熱延製品は国内シェアが56%に上る(03 年実績)。本事業実施前後におい
て、同公司の主な顧客企業の製品である自動車や家電の生産量は大幅に伸びており、自動車は
95 年の145.3 万台から03 年には444.4 万台へ、カラーテレビは95 年の2,057.7万台から03
年には6,541.4 万台へと急激な生産増が確認された。なお、99~03 年の中国全体のGDP 実質
成長率平均は7.98%であった一方、上海市の同成長率平均は10.78%と全国平均を上回る経済成
長を遂げた。
2) 環境へのインパクト
2000 年6 月に本事業による設備を含む宝山鋼鉄第3 期工事は、上海市環境保護局より「国
家および地方政府の定める基準に一致している」との認定を受けている。また、宝山鋼鉄公司
は1998 年に環境マネージメントシステムに関するISO14000 の認証をすでに取得済みである。
本事業による設備に関しては、以下の現状から、環境へのマイナスのインパクトを最小限にす
る努力がなされているといえる。
【港湾】
作業場の粉塵の観測値(03 年・04 年)は、国家規定基準値の範囲内であった(宝山鋼鉄公
司からの報告)。また、周辺の海域漁業への影響はなく、汚水についても排水路を経由して集
められ、粉塵等を沈澱させたうえで処理されている。
【発電所】
審査時の計画通り、低硫黄炭が使用されている(宝山鋼鉄公司からの報告)。また、排出口
の大気および水質のモニタリングを行っており、半年に一度、上海市環境保護局へ数値を報告
しているが、表2-19 のとおり2003と2004年の観測結果は、最新の排出基準上限値の範囲
内である。将来的には、脱硫装置の導入も検討されている。
289
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
表2-19 排出口の大気および水質測定結果
参考:中国国家
類別
測定項目
環境保護局
2003
2004
上限値2)
大気1)
水質
SO2
1,200mg/Nm3
411mg/Nm3
664mg/Nm3
NOx
650mg/N m3
385mg/Nm3
285mg/Nm3
粉塵量
200mg/Nm3
82mg/Nm3
90mg/Nm3
ph
6-9
6-9
6-9
BOD
60mg/l
1.1mg/l
1.3mg/l
COD
150mg/l
10.3mg/l
11.7mg/l
SS
200 mg/l
38mg/l
8mg/l
出所:宝山鋼鉄公司資料、中華人民共和国国家標準「火力発電所大気汚染物排気標準」GB13223-2003
注 1)本事業対象の第3 号機発電機のみに関する数値。
注 2) 大気については、排出基準規定「GB13223-2003」(04 年12 月公布、05 年1月1 日から施行)の2 級
基準9のもの。水質については、上海市の排出基準規定「基DB31/199-1997」の基準値。
290
国
際
経
済
第三章―――まとめと残された課題
中国インフラ整備と経済に対して、日本の ODA は主要な貢献は以下の四つであった:
z
改革開放初期に、中国経済インフラ整備と外貨を獲得するに対す
z
総合的に中国のインフラ建設に対す
z
中国経済発展に対して、インフラ整備の重要な影響
z
GDP押上げ効果に対す
結論として、まとめると、次の図の通りである。
日 本 の 対 中 ODA 援 助
いままで中国の海外援助国の中
の中、
ODA
に 、 日 本 国 か ら の援 助 額 は 第 一 位
である。
そして、日本の対中
経 済 イ ンフ ラ 分 野 の 有 償 資 金 協力
援助総額
ODA
(円借 款) の 合計は2兆6 636
億円であり、対中
の約七六%を占める。
中国の経済イン
フラ整備を進ん
だら、
改革開放当初は最
第二次製品(加工製
物流問題の解
外国から中国へ
市場の潜在力、
大の外貨獲得製品
品)の機械・輸送用
決、配送コスト
の直接投資、企
競争力の顕在化
である石炭(鉱物性
機械などを輸出で
削減が実現され
業進出を増加で
をする
燃料)を輸出できる
きる
た
きる
中国経済発展に対して、インフラ整備が健全するかとうかは極めて重要な要因である。日本
の対中ODAはちょうどこのところに大きく力を入れた。本論文のデータによると、日本の対中
ODAは経済インフラ分野の有償資金協力(円借款)の合計は2兆6636億円であり、対中
ODA援助総額の約76%を占める。
291
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
では、日本ODAの主要な4つの貢献に対して、個別的にまとめよう
Ⅲ.1
改革開放初期に中国経済インフラ整備に対して日本の ODA 貢献。
1980年代から90年代にかけての中国は、経済建設のために大規模なインフラ整備を数多く必
要としたが、日本の円借款は、その実施に大きく貢献したと言われた。中国側の研究によれば、
第六次五カ年計画(1981年―――
1985年)から第八次五カ年計画(1991年―――
1995年)
の期間中、中国が円借款を利用して建設したインフラ整備は以下のとおりである。
(1)交通運輸
交通運輸プロジェクトに利用された円借款は7876億8000万円であり、この期間中の円借款
全体の51.2%占める重点分野であった。
1) 鉄道:
この時期に中国が建設した鉄道電化総延長は10,875キロであるが、そのなかで円借款が利用
された部分は4407キロに上がり、全体の40.52%を占める。たとえば、上述した大同・秦皇島
間鉄道建設事業中242キロであった。
2) 道路:
海南省253キロ、青島――黄島間68キロ、合肥――銅陵間136キロの高速道路整備に円借款が
利用されたほか、重慶、武漢、黄石、銅陵の各都市における長江道路橋など橋建設にも円借款
が利用された。
3) 航空:
北京首都空港の拡張、武漢天河空港の建設、全国管制システムの構築などに円借款が利用さ
れた。
4) 港湾:
日本への石炭輸出に利用された石臼所港や秦皇島港のほか、青島、連雲港、深圳、海口など
で円借款が利用された。
(2)電力
この期間に中国が新設した発電施設の総発電能力は5820キロワットであるが、そのなかで円
借款が利用された部分は648キロワットに上がり、全体の11.13%を占める。たとえば、北京十
三陵揚水発電所、湖北鄂州火力発電所、五強溪水力発電所建設山西河津火力発電所、江西九江
火力発電所などに合計2681億2300万の円借款が利用された。
(3)電信電話
電信電話分野では968億400万円の円借款が利用された。特に、北京――瀋陽――ハルビン間の
光ファイブケーブル全長4707キロは、陸上最長の光ファイバケーブルであり、同時期に中国が
292
国
際
経
済
建設した光ファイブケーブル全体の16%を占める。その他、上海、天津、広州などのデジタル
制御電話、黒竜江、吉林、江蘇、浙江、福建などの電信ネットワーク拡張、国家経済情報ネッ
トワークシステムなどのプロジェクトも円借款を利用された。
(4)農業水利
江蘇省のツウユ河灌漑プロジェクト、遼寧省の観音閣多目的ダムなどの農業水利事業に総額
1172億5100万円の円借款が利用された。また、円借款を利用して六つの化学肥料工場が建設
された。。これら化学肥料工場の年間生産能力は143万トンに上り、同時期に中国で新設された
化学肥料生産能力254万トンの56%を占める。
(5)都市建設
都市建設分野では2695億8700万円の円借款が利用された。たとえば、北京市地下鉄建設プ
ロジェクト、四都市ガス整備プロジェクト、北京、天津、鄭州、徐州、南京、合肥、西安、重
慶、昆明、成都等の上水施設など。
Ⅲ.2
中国のインフラ建設に対して、総合的な円借款の貢献
では、総合的に円借款は中国のインフラ建設に対してどのぐらい影響を与えたか。中国のイ
ンフラ建設費と円借款の支出額を、暦年の比較から直観的にまとめてみよう。表3-1は、資
本形成を目的とする政府による固定資産投資である中国のインフラ建設費と円借款の支出額
を、暦年で比較したものである(1979-2005年)。注目したいのは、1992 年から1997 年ま
での期間である。インフラ建設費に対する円借款額は、それ以前は一桁であるのに対して、10%
を超える比率を示している。それはなぜかというと、以下の三つの原因を分析してきた。
第一は円・元の為替レートの原因である。この期間は1994年に1ドル/79円の円高を記録
と1995年4月19日
1ドル/79円75銭を代表して、円高であったの同時に、人民元が1
ドル/8.4元ぐらいの固定相場であった。だから、日本のODA(円)は人民元を為替した後
に、金額としてかなり増えた。
第二は、日本天皇陛下の中国訪問も一つの原因であった。1992年10月23日に、日本国明仁
天皇と皇后美智子様は中国北京に着きまして、6日間の中日友好訪問が開始した。これは、戦
後の中日政治関係最も重要なひとつ事件だけではなくて、日本の対中ODA援助に対してもある
程度促進した。
第三は、鄧小平様の南巡講話であった。1992年1月18日から2月21日まで、当時の中国
トップリーダ鄧小平様は上海、シンセイなどの南方都市で巡視するときに、中国改革開放と経
済発展について、重要な講話を発表した。彼によると、中国の改革開放、経済発展と資本主義
が同じな物かどうかは主要な問題ではなく、肝心な点は改革開放と経済発展は中国の人民、社
会生産力、総合国力に対して有利だか。彼の答えは有利であった。鄧小平様の対改革開放の態
度は当時の中国中共中央(官員たち)と中国人民にかなり影響した同時に、1989年に天安門事
293
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
件以来の中国政治の波風と気兼ねも完全に拭いた。その後、改革開放(経済発展)を中心する
中国特色の社会主義建設を正式的に開始した。これも、当時日本ODAの円借款額を増えた理由
のひとつであった。
残念ながら、1997年にアジア金融危機の爆発を含めて、中日政治関係の悪くなる、中国経済
上昇と日本経済の不況など複雑な原因はあって、日本の対中ODAは98年以後が徐徐に減った。
294
国
際
経
済
表3-1 中国経済と日本の対中ODA
(単位:百万米ドル)
中国GDP
中国政府支出
中国政府イン
フラ建設支出
日本ODA
円借款
円借款/
中国インフ
ラ建設支出
1979
263,189.71
82,430.23
33,099.04
5.70
0.00
0.00
1980
306,520.29
82,009.48
23,115.32
9.75
2.04
0.01
1981
293,857.44
66,787.33
15,109.74
61.09
34.40
0.23
1982
295,376.49
64,990.96
14,220.04
918.60
822.45
5.78
1983
314,632.79
71,343.90
17,461.42
831.53
710.40
4.07
1984
317,357.76
73,318.56
19,573.80
924.91
826.34
4.22
1985
309,078.22
68,249.30
18,884.04
925.28
823.43
4.36
1986
304,347.20
63,858.79
17,263.72
837.38
691.10
4.00
1987
329,851.43
60,776.98
14,014.67
799.99
611.53
4.36
1988
413,438.65
66,930.23
13,292.50
864.51
666.26
5.01
1989
459,783.27
74,998.61
12,793.78
1,149.65
923.26
7.22
1990
404,494.90
64,466.96
11,443.99
1,071.17
779.70
6.81
1991
424,116.17
63,617.73
10,512.47
832.22
570.75
5.43
1992
499,858.56
67,859.99
10,080.53
1,432.17
1,103.51
10.95
1993
641,063.87
80,568.07
10,273.07
1,655.29
1,322.26
12.87
1994
582,656.32
67,209.59
7,422.43
1,681.12
1,327.17
17.88
1995
756,961.71
81,707.30
9,450.13
1,508.72
1,143.86
12.10
1996
892,011.26
95,470.14
10,914.38
1,199.61
842.06
7.72
1997
985,047.89
111,384.32
12,298.22
996.84
673.68
5.48
1998
1,045,193.86
130,429.18
16,762.25
1,863.30
1,418.49
8.46
1999
1,100,769.48
159,305.05
25,567.84
1,817.96
1,345.81
5.26
2000
1,192,836.87
191,900.71
25,305.19
1,254.06
853.18
3.37
2001
1,316,552.90
228,372.84
30,332.47
1,352.37
988.40
3.26
2002
1,454,032.86
266,440.21
37,972.64
1,620.01
1,218.65
3.21
2003
1,647,925.58
297,811.17
41,431.48
1,509.80
1,077.60
2.60
2004
1,936,502.03
344,177.58
41,531.75
1,709.23
1,305.02
3.14
2005
2,302,723.84
414,070.72
49,318.80
1,922.64
1,625.38
3.30
出所:日本ODA と円借款データは、OECD (2007) 「International Development Statistics 2007
CD-ROM(containing Geographical Distribution of Financial Flows to Developing Countries
1960-2005)」により;
注)中国のGDP・政府支出・基本建設支出に関するデータは、『中国統計年鑑』(2007 年版、1992 年版)
における公表データ(人民元ベース)から換算;
換算用為替レート(ドル対人民元の各年平均値)は、International Monetary Fund(various years)
「International Financial Statistics」March 2008 CD-ROM の国別Exchange Rate(PRINCIPAL
RATE, PERIOD AVERAGE)により。
295
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
Ⅲ.3 中国経済発展に対して、インフラ整備の重要な影響
(1)外貨獲得に寄与し、その後の発展に貢献した初期の円借款
1970年代の後半になって文化大革命の混乱期を脱した中国は、それまでの鎖国状態から対
外開放へと路線(改革開放政策)を大転換した。しかし、当時の中国は、海外からプラントを
輸入しようにも外貨が十分足りず。だから、中国が改革開放政策を行った1980年代前半の対外
経済関係における最大の政策課題は外貨の獲得であった。当時、中国政府は最有力の戦略的輸
出産品として石炭を考えていたが、主要な炭坑地域は山西省などの内陸にあったため、鉄道の
整備により、沿海の港湾までの輸送インフラの建設が焦眉の急であった。
この時期に初期の円借款供与は鉄道案件(例えば:大同・秦皇島間鉄道案件)に注力し、また、
その後の港湾建設への協力により、中国のこうした輸出戦略による外貨獲得に大きく貢献した。
中国経済発展ため、海外のプラントを輸入す
る(当時中国が足りない物:電気製品、車な
ど。)
外貨を獲得する
中国の対外輸出港湾まで(海外輸出)
鉄 道 の 整 備によ り、 沿海
の 港 湾 ま で の輸 送イ ン フ
A
D
O
援助は大きく貢献
ラ の建 設 に 対 し て、 日本
の
した
中国内陸の石炭、石油
296
国
際
経
済
(2)総合的インフラは進出地域を決定する重要ファクター
実際に円借款を含むさまざまな資金ソースにより、基礎的なインフラが整備され、企業進出
が可能になったとの日系メーカーの指摘もある。具体的には中国での進出地域を決定する要因
としては(財)日中投資促進機構の調査(図3-1)においても第一、第二がそれぞれ「外国
企業優遇地区の存在」、
「有望な市場の存在」であるが、それに次いで「インフラの整備状況」、
「交通の便」などのようなインフラに関連した理由があり、同様な観点から大連、北京、威海、
上海、広州、西安への製造拠点(合弁会社)が設立されているというものである。進出目的が
中継輸出拠点としての進出の場合は港湾などのインフラが重要であることは周知の如くであ
るが、そうでない場合、すなわち進出目的が第三国への中継輸出拠点というよりも消費者に密
着して国内市場を狙う場合でも国内物流のためのインフラの整備状況が重要であるとされて
いる。
また、中国のWTO加盟に伴い、外国企業にも交通運輸セクターへの投資が開放されるが、
外資企業の運輸事業への投資を引き付ける前提となる道路建設は円借款や国際機関の借款が
大きな役割を果たしたと評価されている。具体的には上海を起点とした道路網は非常に整備さ
れ、物流ビジネスを展開しやすい環境整備となった。上海周辺に進出している日系の製造業に
とってもコスト競争力のある製品を上海から輸出できる。日系メーカーサイドからの認識にお
いても1995年前後より中国の物流事情は急激に好転し、鉄道、道路、橋梁の整備進展とトラッ
クの質の向上により、現在では小口の定期便混載便を除いて物流問題の解決はそれほど困難で
はないレベルに到達とされている。この結果、配送コスト削減が実現されたという。
図3-1
日本企業が中国進出の立地を決めた主な理由(%)
出所:日本外務省対中ODAの効果調査
(3)直接投資を呼び込む顔として効果の大きい空港整備等の象徴的インフラ
空港の整備により、投資家の印象を向上させ、直接投資を呼び込む力となっているとの指摘
もある。例えば、在上海の日系商社駐在員によると、浦東空港の建設は日本企業にとってもプ
ラスであると認識されている。空港は都市の「顔」であり、新しい国際空港が完成したことで
297
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
上海が大きく変わったことを外来者に強く印象付け、投資を呼び込む力となる、という。
いずれにしても、ともすれば「箱もの」建設として批判されがちなインフラであるが、日本企
業をはじめとするビジネスの進出前の立地決定や進出後のオペレーションといった投資環境
整備とそれに伴う経済発展・貧困削減に大きな影響を与えていると言うことが推測できる。
こうした直接投資によって、この20年間で輸出製品は大きく変わった。改革開放当初は最大の
外貨獲得製品である石炭(鉱物性燃料)を輸出するために鉄道、港湾を整備して、経済発展の
支柱としたが、現在、第二次製品(加工製品)の機械・輸送用機械が最大の輸出製品である。
また、この変化は単に製品の変化に止まらない。輸入を見ると前者は構成比でこの20年で
50.3%→10.2%となったものの、後者は4.7%→30.2%に跳ね上がっている。すなわち、前者は
単純な貿易取引きの製品であったが後者は外資企業などの垂直分業に関連する貿易、即ち投資
関連貿易である。
OECDは2000年10月9日に1979年の改革開放政策の開始以来、中国への直接投資は約3060
億ドルを超えたと発表した。これは米国に次ぎ第二位であり、過去20年間の世界中の対外直接
投資の10%、発展途上国が吸収した直接投資の30%を占める。1992年以前は中国への外国資
金流入といえば全体の60%が「借款」であったが、1992年の南巡講和以降は逆に「直接投資」
が70%を占めるようになった。こうした中国への直接投資の増加はインフラなどのハード投資
環境の整備が進んだことと、優遇措置、そして近年では市場の潜在力の顕在化によるところが
大きい。即ち、当初の開発目的である石炭輸出による外貨獲得から直接投資の呼び込み、加工
品の輸出へと貿易の高度化による開発政策になってきたが、こうした政策に円借款等のインフ
ラ整備は合致し、政策を支えてきたと言うことができよう。
Ⅲ.4 GDP 押上げ効果
中国経済インフラ整備に与えた効果と違って、対中ODAが中国経済に与えた効果の定量的な
測定に関しては、非常に難しいである。だが、経済発展のシンプルとしてGDPに対して、その
押上げ効果はマクロ的な試算用計量モデルが開発できると思う。
以下は試算用GDP押上げ効果の計量モデルである。
GDP押上げ効果=(実際ケースのGDP
― 対中ODAがなかった場合のGDP)
×100
対中ODAがなかった場合のGDP
このモデルを利用して、対中ODA開始から05年まで日本ODAの対中GDP押上げ効果を測定す
る。
以上の単純な数学計算結果が直観的に対中ODA開始から05年まで日本ODAの対中GDP押
上げ効果を表示できるかもしれないが、実際は対中ODAはこのぐらいの効果をしただけではな
い。もし生産効果などの要素を含めて考えれば、中国経済とインフラに対して日本のODAの貢
献はデータにより表示した数字の何倍あるいは何十倍になる可能性もある。
298
国
際
経
済
だが、これら定量的な測定に関しては、非常に難しいである。これもわれわれに対して、残
りされた課題である。
299
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
表3-2 日本の対中ODAによる中国のGDP押し上げ効果
(単位:百万米ドル)
中国実際ケースの
GDP
対中ODAがなか
った場合のGDP
GDP押上げ効果
(%)
1979
263,189.71
263,184
0.022
1980
306,520.29
306,510.54
0.003
1981
293,857.44
293,796.35
0.021
1982
295,376.49
294,457.89
0.312
1983
314,632.79
313,801.26
0.265
1984
317,357.76
316,432.85
0.292
1985
309,078.22
308,152.94
0.300
1986
304,347.20
303,509.82
0.276
1987
329,851.43
329,051.44
0.243
1988
413,438.65
412,574.14
0.210
1989
459,783.27
458,633.62
0.251
1990
404,494.90
403,423.73
0.266
1991
424,116.17
423,283.95
0.197
1992
499,858.56
498,426.39
0.287
1993
641,063.87
639,408.58
0.259
1994
582,656.32
580,975.20
0.289
1995
756,961.71
755,452.99
0.200
1996
892,011.26
890,811.65
0.135
1997
985,047.89
984,051.05
0.101
1998
1,045,193.86
1,043,330.56
0.178
1999
1,100,769.48
1,098,951.52
0.165
2000
1,192,836.87
1,191,582.81
0.105
2001
1,316,552.90
1,315,200.53
0.103
2002
1,454,032.86
1,452,412.85
0.112
2003
1,647,925.58
1,646,415.78
0.091
2004
1,936,502.03
1,934,792.80
0.088
2005
2,302,723.84
2,300,801.20
0.084
出所:日本ODA と円借款データは、OECD (2007) 「International Development Statistics 2007
CD-ROM(containing Geographical Distribution of Financial Flows to Developing Countries 1960-2005)」
により;
中国のGDP・政府支出・基本建設支出に関するデータは、『中国統計年鑑』(2007 年版、1992 年版)にお
ける公表データ(人民元ベース)から換算;
換算用為替レート(ドル対人民元の各年平均値)は、International Monetary Fund(various years)
「International Financial Statistics」March 2008 CD-ROM の国別Exchange Rate(PRINCIPAL RATE,
PERIOD AVERAGE)により。
300
国
際
経
済
参考文献:
小浜裕久、1998、『ODA の経済学 第2 版』、日本評論社
関山健、2008、『日中の経済関係はこう変わった―対中円借款30年の軌跡』、高文研社
毛里和子、2008、『日中関係――戦後から新時代へ』、岩波書店
長谷川純一、2008、『対中円借款と中国の開発政策-日本の政策、中国の政策-』、
国際東アジア研究センター
日本外務省:対中ODAの効果調査
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/hyouka/kunibetu/gai/china/koka/
日本外務省:対中ODA実績概要
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/chiiki/china.html
日本外務省:日本の対中ODA実績
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2002/gaikou/html/zuhyo/fig01_05_02_02.html
『円借款案件事後評価報告書2002全文版』、国際協力銀行JICA
『円借款案件事後評価報告書2004全文版』、国際協力銀行JICA
国家統計局、各年、『中国統計年鑑』(1990年~2000 年の各年版、2007 年版)、中国統計
出版社、北京
北京市統計局、各年、『北京統計年鑑』(1992年~1999 年の各年版)、中国統計出版社
OECD (2007) 「International Development Statistics 2007 CD-ROM(containing
Geographical Distribution of Financial Flows to Developing Countries 1960-2005)」
International Monetary Fund(various years)「International Financial Statistics」March
2008 CD-ROM の国別Exchange Rate(PRINCIPAL RATE, PERIOD AVERAGE)
.
301
中国インフラ整備と経済発展に対する日本 ODA の貢献
あ
と
が
き
卒業論文の作成過程について:
最初の卒論演習で先生は卒論のテーマを決めるのがとても重要な問題であり、早
めに決定すれば早めに本論に入れると教えた。私は大学院で日中関係を研究したい
ので、学部卒論のテーマを決めるのはそんなに難しくなかった。だが、テーマを決
めた後に、本論をどうやって書くのか、特にどこで論文の資料やデータを探すのか、
すごく困った。そのとき、永田先生と草野先生からいろいろな良いアドバイスをい
ただいた。その後、卒論演習を通して、徐々に論文を作成した。この過程で自分の
卒論テーマについて、以前十分に知らなかった知識が増え、いろいろな勉強になっ
た。
大学生活全般など:
私は中国からの留学生なので、入学した時から一番関心を持っていたのは学費、
生活費を作ることと勉強が両立するかという問題だった。私の場合は4年間の埼玉
大学の学費は全額免除をもらったので、他の私立大学の友だちに比べるとそれほど
両立しないということはなかった。
ゼミの思い出など:
永田先生のゼミについて、私の印象は国際経済の知識を勉強する同時に、英語の
能力もすごくアップできる。だが、ゼミの勉強は楽ではなかった。永田先生はやさ
しいが、ゼミの授業に対して十分なまじめさと努力を学生全体に要求する。授業時
間も授業前の予習時間も他の授業に比べると長かった。例えば、ゼミは14時半頃
に開始して一般的に20時ごろに終わる。予習は英語テキストで平均的に毎週35
ページを予習して、質問を出す必要がある。また、毎回、小テストがあり、大体4
ヶ月の間に小論文を2部書けなければならない。だから、もし、ただ単位をほしい
ためだけなら永田ゼミをとるのはやめてください。最後に、軽井沢の卒論演習合宿
も面白かった。もし時間があれば、皆さんも是非行ってください。
朱
敏 明
302
国
際
経
.
済
1930年代のアメリカ・イギリス・日本
の交易条件についての考察
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL094
(論文指導
菅原千草
永 田 雅 啓)
.
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
305
【要 旨】
問題意識
「交易条件」とは輸出財の価格と輸入財の価格の比のことであり,交易条件の上がり下がり
を見ることによって,その国が他の国に対して有利な貿易を行なっているか不利な貿易を行な
っているかを分析することができる。そして,貿易量を調整するための政策の一つとして,
「関
税」を挙げることができる。交易条件は関税政策によっても変化を見せるが,その中でも,輸
入品にある程度の関税をかけたとき,その国の交易条件は改善することが理論上説明できる。
それでは,1929 年にアメリカから始まった世界恐慌のなか,1930 年にアメリカがホーレイ・
スムート関税法を制定したのをきっかけに関税戦争が始まったが,そのような状況の中で各国
の交易条件はどのような変化を見せたのだろうか。そのような疑問から,本論文では特にアメ
リカ・イギリス・日本の 3 国を取り上げ,それらの国々は 1930 年代に交易条件がどのように
変化したのかを実証的に分析し,なぜそのような変化を見せたか,また,理論との比較を通し
て考察していくことを目的とする。
主要な結論
アメリカとイギリスは当時大国であり,世界貿易においても大きなシェアを持っていたため,
輸入財である原材料の価格が世界的に下がったことによって輸出財である工業製品の相対価
格が上がり,1930 年代に交易条件の改善が見られた。また,大国が関税政策を行なうことに
より,その国の交易条件の安定が見られた。一方日本は当時小国であったため,大国の関税政
策によって自国の貿易は不利になった。また,日本の国内価格の変動は世界の相対価格に影響
を及ぼすことは少ない。さらに,日本の輸出構成は一品が大きな比重を占めていたために,そ
の商品の価格変動が交易条件の不安定につながった。
論文の概要
本論文では,第 1 章で交易条件についての理論的側面を説明した後,第 2 章で 1930 年代の
アメリカ・イギリス・日本の交易条件がどのように変化したのかを実際のデータに基づき見て
いく。第 3 章では,第 2 章で得られたデータをもとに 3 国の交易条件がなぜそのような変化を
見せたのかを先行研究や他のデータと合わせて分析し,理論との比較を行なった後,第 4 章で
結論を述べる。
306
国
際
目
第1章
経
済
次
交易条件と関税についての理論 ...................................................... 307
1)交易条件について ............................................................................................... 307
2)関税の影響と交易条件改善の理論 ...................................................................... 309
第 2 章 1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件の変化 ............. 310
1)各国の交易条件の変化 ........................................................................................ 310
2)主要品目別価格の変化 ........................................................................................ 312
第3章
データの検証 ................................................................................... 317
1)アメリカ ............................................................................................................. 317
2)イギリス ............................................................................................................. 318
3)日本..................................................................................................................... 320
4)理論との比較 ...................................................................................................... 321
第4章
結論.................................................................................................. 323
参考文献......................................................................................................... 324
資料 ................................................................................................................ 324
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
第1章
307
交易条件と関税についての理論
1)交易条件について
交易条件(terms of trade)は
輸出財の価格/輸入財の価格
で表すことができる。輸出財の輸入財に対する相対価格,つまり,1 単位の輸出をすることで
何単位の輸入が可能になるかを表している。よって,自国の交易条件の値が高ければ,自国は
一定の輸出量でより多くの輸入をすることができ,より高い実質消費水準を実現することがで
きると考えられる。交易条件の値が高くなること,つまり同じ輸出に対してより多くの輸入が
可能になることを「交易条件の改善」といい,交易条件の値が低くなることを「交易条件の悪
化」という。
では,輸出財や輸入財の貿易量の変化は交易条件にどのような影響を及ぼすのかをここに示
す。なお,以下の説明は Paul R. Krugman,Maurice Obstfeld(2006)による。
話を単純にするために,ここでは 2 国(Home=自国,Foreign=外国)
・2 財(cloth,food)
モデルを用いる。Home は cloth(衣類)を輸出し,Foreign は food(食料)を輸出している。
価格を P とし,Home の交易条件を Pc/Pf で表し,Foreign の交易条件を Pf/Pc で表す。以
上を表にまとめたものが表 1-1 である。
表 1-1
国
輸出財
交易条件(相対価格)
Home(自国)
cloth(衣類)
Pc/Pf
Foreign(外国)
food(食料)
Pf/Pc
自国の交易条件(相対価格=Pc/Pf)を決定するために,世界における相対供給(Relative
Supply)と相対需要(Relative Demand)に注目する。図 1-1 は相対供給曲線・相対需要曲
線・相対価格の関係を表したものである。なお,図の(Qc+QC*)/(Qf+Qf*)は世界の相
対量である(なお,*は外国を表す)。相対供給曲線(図 1-1 の曲線 RS)は相対価格 Pc/Pf
が増えると相対量(=Relative quantity)も増えるので右上がりの曲線となる。一方,相対需
要曲線(図 1-1 の曲線 RD)は Pc/Pf が増えると相対量が減少するので右下がりの曲線とな
る。均衡相対価格(Pc/Pf)1 はこの RS と RD の交点によって決定される。この(Pc/Pf)
1 は輸入財に対する輸出財の価格であり,交易条件を表していると言える。
308
国
際
経
済
図 1-1 相対供給曲線と相対需要曲線
次に,自国が輸出財に偏った成長,もしくは輸入財に偏った成長をした場合,交易条件はそ
れぞれどのように変化するか見てみる。まず自国が輸出財(cloth)に偏った成長をした(cloth
の生産が上がった)場合,世界における cloth の生産が上がるため,相対供給曲線は RS1 から
RS2 へシフトする(図 1-2[a])。よって cloth の相対価格は(Pc/Pf)1 から(Pc/Pf)2
へ下がる。つまり,自国が輸出財に偏った成長をした場合,自国の交易条件は悪化し,外国の
交易条件は改善する。また,自国が輸入財(food)に偏った成長をした(food の生産が上がっ
た)場合,相対供給曲線は RS1 から RS2 へシフトする(図 1-2[b])。よって cloth の相対
価格は(Pc/Pf)1 から(Pc/Pf)2 へ上がる。つまり,自国が輸入財に偏った成長をした場
合,自国の交易条件は改善し,外国の交易条件は悪化する。
図 1-2
[a]輸出財に偏った成長
[b]輸入財に偏った成長
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
309
2)関税の影響と交易条件改善の理論
では,輸入品に関税をかけた場合,交易条件は改善するが,それはどのような理論によって
説明できるか。まず自国の輸入品(food)に関税をかけると,food の内部価格と外部価格の間
に差が生じる。つまり,輸入品に対する輸出品(cloth)の価格は相対的に安くなる。よって,
輸出品である cloth の相対需要がふえる。図 1-3 を用いて説明すると,相対需要曲線は RD1
から RD2 へシフトする。一方,輸出品である cloth の供給は減るので,図 1-1 の相対供給曲
線は RS1 から RS2 へシフトする。その結果,相対価格 Pc/Pf は(Pc/Pf)1 から(Pc/Pf)
2 へ上昇する。つまり,自国の交易条件は改善するのである。
図 1-3 関税が交易条件に及ぼす影響
以上より,輸入品にある程度の関税をかけるとその国の交易条件は改善するということが理
論上言える。しかしこのことは,関税をかける国が他に比べて大国である場合に言える。なぜ
なら大国であるほうが,内部価格が世界全体の相対需要と相対供給に与える影響が大きいから
である。よって,大国であれば,相対価格に与える影響が大きく,交易条件も変化する。
310
国
第2章
際
経
済
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件の変化
1)各国の交易条件の変化
1929 年に始まる世界恐慌,またそれによって 1930 年のホーレイ・スムート関税法に始まる関
税戦争の中,実際には各国の交易条件はどのように変化したのか。アメリカ,イギリス,日本
の交易条件を調べ,分析していく。アメリカについては『アメリカ歴史統計』(アメリカ合衆
国商務省)より単位価格を得て,交易条件を算出した。イギリスについては『イギリス歴史統
計』
(原書房)より交易条件のデータを得た。日本については『日本長期統計総覧
第 3 巻』
(日
本統計協会)の中の「主要商品の輸出数量及び金額」「主要商品の輸入数量及び金額」にある
品目別の数量と金額から輸出全体と輸入全体の輸出入価格指数を算出し,加重平均によって単
位価格を計算し交易条件のデータを得た。なお,日本のデータについては,輸出品目に「生糸」
を入れない場合のデータ,輸出品目に「生糸」を入れた場合のデータを作成した(「主要商品
の輸出数量及び金額」の「生糸」の欄には 1929 年のデータが抜けていたが,
「生糸」は当時の
日本の輸出の多くを占めていたことを考慮し,このように 2 つのグラフを作成した 1)。
図 2-1 各国の交易条件
[a]アメリカ
アメリカの交易条件
140
120
100
80
60
40
20
19
20
19
21
19
22
19
23
19
24
19
25
19
26
19
27
19
28
19
29
19
30
19
31
19
32
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33
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35
19
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19
37
19
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19
39
19
40
0
年次
1
日本の交易条件を計算するために用いた主要商品の輸出価格の合計は,生糸を入れない場合は輸
出総額の 10%前後,生糸を入れた場合は全体の 40%前後である。よって,生糸を入れたデータの
ほうがより正確であるといえる。
19
20
19
21
19
22
19
23
19
24
19
25
19
26
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19
31
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33
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年次
19
38
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33
19
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29
19
28
19
27
19
26
19
25
19
24
19
23
19
22
19
21
19
20
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
311
[b]イギリス
イギリスの交易条件
120
100
80
60
40
20
0
年次
[c]-1 日本(生糸なし)
日本の交易条件(生糸なし)
160.0
140.0
120.0
100.0
80.0
60.0
40.0
20.0
0.0
312
国
際
経
済
[c]-2 日本(生糸あり)
日本の交易条件(生糸あり)
180.0
160.0
140.0
120.0
100.0
80.0
60.0
40.0
20.0
19
36
19
35
19
34
19
33
19
32
19
31
19
30
19
29
19
28
19
27
19
26
19
25
19
24
19
23
19
22
19
21
19
20
0.0
年次
アメリカとイギリスは,どちらも似たような交易条件の変化を示している。1920 年から 1930
年にかけてはどちらの国も大きな変化は見られないが,1930 年以降,どちらの国も交易条件
は改善している。しかも安定したまま,どちらの国も交易条件の大きな悪化は見られない。一
方日本は,1932 年に交易条件が大きく悪化している。その後少しの改善を見せるが,安定し
ていない。
2)主要品目別価格の変化
3 国がなぜこのような交易条件の変化を見せたのかさらに細かく見ていくために,主要品目
別に価格指数の動きをグラフにした(図 2-2,図 2-3,図 2-4)。アメリカの単価は『アメ
リカ歴史統計』より得た 2。日本のデータは,
『日本長期統計総覧』より輸出入量と輸出入価格
を得て,そこから価格指数を計算して得た。イギリスについては,輸出入価格の単価のデータ
を得ることができなかった。
2
「原材料」とは,非食用で製造業が加工を行なっていない農業,林業,漁業,鉱業生産物。
「天然
食料品」とは,農民,漁民,牧場主,その他 1 次生産品生産者が販売した後,加工を行なっていな
い食用(人間および動物)製品。
「加工食料品」とは,生鮮食品の加工品,食用および精製油,油
かすおよびあら粉。
「半製造業製品」とは,加工初期段階の製造業製品。
「完成製造製品」とは,半
製造製品およびその他完成品により製造した高度加工製品(
『アメリカ歴史統計』)
。
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
313
図 2-2 アメリカの加工段階別輸出入単価
[a]輸出単価
加工段階別輸出単価(1967年=100)
180.0
160.0
140.0
120.0
原材料
天然食料品
加工食料品
半製造業製品
完成製造業製品
100.0
80.0
60.0
40.0
20.0
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0.0
[b]輸入単価
加工段階別輸入単価(1967年=100)
250
200
原材料
天然食料品
加工食料品
半製造業製品
完成製造業製品
150
100
50
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0
綿織糸
120.0
100.0
100.0
80.0
80.0
60.0
60.0
40.0
40.0
20.0
20.0
0.0
0.0
19
40
120.0
19
40
生糸
19
38
0.0
19
38
20.0
19
36
60.0
19
36
80.0
19
34
100.0
19
34
120.0
19
32
160.0
19
32
塩蔵,乾燥魚介類
19
30
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
小麦粉
19
30
180.0
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
米・もみ
19
30
0.0
19
28
40.0
19
28
60.0
60.0
19
28
80.0
19
26
100.0
19
26
140.0
19
26
160.0
19
22
0.0
19
24
60.0
19
24
80.0
20.0
19
24
年次
19
20
40.0
19
22
60.0
19
22
80.0
経
19
22
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
価格指数
100.0
19
20
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
120.0
際
19
20
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
国
19
20
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
314
済
図 2-3 日本の主要輸出商品の価格指数
豆類
200.0
180.0
160.0
140.0
120.0
100.0
40.0
20.0
0.0
緑茶
120.0
120.0
100.0
80.0
40.0
20.0
20.0
0.0
石炭
120.0
140.0
100.0
80.0
60.0
40.0
40.0
20.0
0.0
60.0
0.0
1940
80.0
1939
140.0
1938
160.0
1937
ゴム,樹脂
1936
19
40
19
38
19
36
0.0
1935
0.0
19
34
20.0
1934
20.0
1933
40.0
19
32
40.0
1932
繰綿
1931
60.0
19
30
60.0
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
大豆
1930
80.0
1924
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
米・もみ
1929
80.0
1928
100.0
19
28
100.0
1927
120.0
19
26
120.0
1926
40.0
1925
80.0
1923
100.0
1922
100.0
19
24
120.0
1921
140.0
19
20
年次
1920
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
0.0
1924
0.0
1924
19
22
60.0
1923
0.0
1923
600.0
19
22
20.0
1922
19
20
100.0
1922
20.0
1921
700.0
1921
1920
80.0
19
20
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
1924
1923
1922
1921
1920
120.0
1920
1940
1939
1938
1937
1936
1935
1934
1933
1932
1931
1930
1929
1928
1927
1926
1925
1924
1923
1922
1921
1920
価格指数
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
315
図 2-4 日本の主要輸入商品の価格指数
小麦
500.0
400.0
40.0
300.0
20.0
200.0
100.0
0.0
砂糖
120.0
80.0
60.0
60.0
40.0
羊毛
石炭
120.0
120.0
100.0
100.0
80.0
60.0
40.0
40.0
20.0
20.0
0.0
以上の品目別輸出入価格指数の結果を見ると,アメリカは,「半製造業製品」や「完成製造
業製品」の価格は輸出においても輸入においても変動が比較的少ない。原材料や食料品は,1930
316
国
際
経
済
年代前半に落ち込んでいる傾向がある。また,輸入単価の変動に比べて輸出単価の変動のほう
が激しい。一方日本の商品別の動きは,輸出・輸入とも商品によって違った動きを見せており,
しかも安定していない。
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
第3章
317
データの検証
1)アメリカ
1920 年代から 1930 年代にかけてのアメリカの貿易パターンは現在とは異なる。工業製品の
輸出の割合が輸入の割合に対して大きかった(図 3-1)。
図 3-1 アメリカ:輸出入の品目別構成比 3
品目別構成比(輸出)
100%
90%
80%
70%
完成製造業製品
半製造業製品
加工食料品
天然食料品
原材料
60%
50%
40%
30%
20%
10%
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0%
年次
品目別構成比(輸入)
100%
80%
完成製造業製品
半製造業製品
加工食料品
天然食料品
原材料
60%
40%
20%
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0%
年次
図 3-1 からわかるように,輸出総額においては「完成製造業製品」が大きな割合を占めて
いるが,輸入総額においては「原材料」が大きな割合を占めている。ここで,図 2-2 を見て
みると,アメリカの輸出入単価は,半製造業製品や完成製造業製品に比べて原材料は 1930 年
代に入ってからの価格の落ち込みが激しい。図 3-1 と図 2-2 を合わせて見てみると,アメリ
カは 1930 年代の輸出において,比較的価格の落ち込みの少ない完成製造業製品を主に輸出す
3
『アメリカ歴史統計』より商品別額と輸出入総額を得て計算した。
318
国
際
経
済
ることで貿易利益を得ていたと考えられる。
ここでは,アメリカの関税政策についても考慮に入れたい。1930 年 7 月に,アメリカでホ
ーレイ・スムート関税法が可決された。この法律によって,アメリカは最適関税とは言えない
くらいの高い関税率を設定するが,これに伴い,他国でも報復関税の措置がとられ,世界貿易
が縮小した。当時の関税は,相手国によって関税率を変える,輸入品によって関税率を変える
という措置もとられた。そのため,各国の関税政策は「生産のゆがみ」を誘発した。つまり,
関税によって貿易量を縮小させるが,相手国や商品によっては貿易量を調整するのである。ア
メリカに関して言えば,イギリスとカナダを重要な貿易相手国として位置付けた(カナダは地
理的に近く,イギリスは世界貿易においても大きなシェアを持っていたため[Mario J.Crucini,
James A.Kahn(2006)])。アメリカのような大国がこのように自国に有利な関税政策をとる
ことによって,世界の相対需要や相対価格にも大きな影響を与えられることができると考えら
れる。ここで,当時の世界貿易の数字に注目したい。表 3-1 は 1929 年から 1934 年の世界貿
易の総額を表したものである(井汲,1959)。この表から,当時のアメリカは世界貿易におい
て大きなシェアを持っていたことがわかる。
表 3-1 世界貿易(単位:100 万ドル)
年次
アメリカ
イギリス
日本
カナダ
ドイツ
世界全体
輸出
輸入
輸出
輸入
輸出
輸入
輸出
輸入
輸出
輸入
輸出
輸入
1929
5,157
4,338
3,549
5,407
969
995
1,224
1,299
3,211
3,203
33,021
35,585
1930
3,781
3,114
2,777
4,657
706
743
905
1,008
2,866
2,475
26,483
29,076
1931
2,378
2,088
1,772
3,585
547
589
623
601
2,286
1,602
18,908
20,795
1932
1,576
1,325
1,279
2,275
364
394
487
383
1,367
1,111
12,895
13,972
1933
1,279
1,118
1,217
2,070
365
379
422
285
1,160
1,001
11,740
12,484
1934
1,253
975
1,190
2,047
377
397
452
312
979
1,046
11,364
12,011
以上により,アメリカにおいては,輸入財である原材料の価格の落ち込みに対して,輸出財
である完成製造業製品の価格の落ち込みが少なかったことにより恐慌後に交易条件の改善が
見られたと考えられる。また,関税政策によって輸出入量の調整ができたことも大きな要因で
ある。また,アメリカが大国であったために,これらはアメリカの交易条件改善の要因になっ
たと考えられる。
2)イギリス
イギリスの貿易パターンも,アメリカと似た傾向が見られる。工業製品などの「主な完成品」
を主に輸出し,原材料や食料を主に輸入していた(図 3-2)。
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
319
図 3-2 イギリス:輸出入の品目別構成比 4
品目別構成比(輸出)
100%
80%
60%
主な完成品
原材料および主な未加工品
食料,飲料,たばこ
40%
20%
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0%
年次
品目別構成比(輸入)
100%
80%
60%
主な完成品
原材料および主な未加工品
食料,飲料,たばこ
40%
20%
19
40
19
38
19
36
19
34
19
32
19
30
19
28
19
26
19
24
19
22
19
20
0%
年次
Tse Chun Chang(1947)によると,イギリスにおいては,工業製品の促進と原材料の不足
を貿易に組み込むという貿易の特徴が見られる。よって、イギリスにおいても,自国で生産し
た工業製品を外国の安価な食糧や原材料と交換するという貿易パターンをとっていた。工業製
品は価格の弾力性が大きいため,世界恐慌で工業製品の価格が少し下がるだけで世界の需要に
大きく影響する。一方食料や原材料は必需品のため,価格の上下によって世界需要に大きな影
4
『イギリス歴史統計』より品目別輸出入額を得て計算した。
320
国
際
経
済
響を与えるということは少ない。よって,工業製品を輸出するイギリスの貿易は有利になり,
原材料を輸出する途上国の貿易は不利になるのである。また,工業製品においてはイギリスの
競争相手国の価格も同様な動きを見せたため,工業製品の価格の変化はイギリスの貿易規模に
は大きな影響を及ぼさなかったと考えられる。また,表 3-1 からわかるように,イギリスも
当時アメリカに次ぐ貿易シェアを持っていたことから,イギリスの輸出財の価格変動は世界需
要と世界供給に大きな影響を与えたと考えられる。
以上により,イギリスにおいても,工業製品の輸出によって貿易利益を得ていたこと,大国
であったことによって恐慌後に交易条件の改善が見られたと考えられる。
3)日本
日本の場合についても,輸出入総額に対する割合を見ることから始めたい。図 3-3 は日本
の主要商品の輸出入総額に対する割合を表したものである。
この図から,当時の日本の輸出は,生糸が大きな割合を占めていたことがわかる。アメリカ,
イギリスは工業製品という幅広い分野で輸出を占めていたのに対し,日本は生糸一品が輸出の
分野で大きな割合を占めていたと考えられる。また,図 2-3「主要輸出商品の価格指数」と
合わせて見てみると,生糸の価格は 1930 年代に大きく下がっている。これによって,生糸に
頼っていた日本の輸出は大きな打撃を受けたと考えられる。また,表 3-1 からわかるように,
当時の日本の世界貿易に対するシェアは小さかったため,アメリカやイギリスなどの大国の影
響を大きく受けていたと考えられる。
当時まだ発展途上の段階にあった国々の傾向として,自己の生産する農産物や原料などの価
格が大幅に下がったのに対して,輸入を必要とする工業製品の価格がそれほど低落しなかった
ので,不利な立場に追い込まれたものと考えられる(井汲,1959)。日本においても,輸出を
生糸に頼っていた上に,農産物や原料の価格が下がったので,交易条件にも影響を与えたもの
と考えられる。また,日本の主な輸入品であった繰綿については,1932 年に価格の下降が見
られるものの,その後すぐに上昇を見せているため,輸入財に対する輸出財の相対価格が下が
り,交易条件に影響を与えたと考えられる。
以上により,日本においては,輸出の割合を生糸一品が大きく占めていたこと,それによっ
て生糸の価格の下降によって大きな影響を受けたことが 1930 年代の交易条件の悪化につなが
ったと考えられる。また,世界需要や世界供給に影響を与えることが小さい小国であったこと,
そのために世界需要や世界供給の影響を受けやすく,交易条件の悪化や不安定につながったも
のと考えられる。
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
321
図 3-3 日本:輸出入の品目別構成比 5
品目別構成比(輸出)
100%
90%
80%
70%
60%
50%
40%
30%
20%
10%
36
35
19
34
19
33
19
32
19
31
19
30
19
29
19
28
19
19
27
26
19
25
19
19
24
23
19
22
19
19
21
19
19
20
0%
その他
絹織物
綿織物
生糸
綿織糸
石炭
塩蔵,乾燥魚介類
緑茶
小麦粉
豆類
米・もみ
年次
品目別構成比(輸入)
100%
90%
その他
木材
石炭
ゴム・樹脂
羊毛
繰綿
砂糖
大豆
小麦
米・もみ
80%
70%
60%
50%
40%
30%
20%
19
20
19
21
19
22
19
23
19
24
19
25
19
26
19
27
19
28
19
29
19
30
19
31
19
32
19
33
19
34
19
35
19
36
19
37
19
38
19
39
19
40
10%
0%
年次
4)理論との比較
ここで,交易条件の理論と照らし合わせて,1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易
5
『日本長期統計総覧』により輸出入総額と商品別額を得て計算した。なお,1929 年の生糸の輸出
額のデータは掲載されていなかったため,
「輸出総額に対する割合」の 1929 年の生糸の額は抜けて
いる。
322
国
際
経
済
条件の変化を考察していきたい。まず,アメリカとイギリスの交易条件は似たような動きを見
せており,しかも 1930 年代は交易条件が改善している点に注目したい。これは,アメリカ・
イギリスが大国であったことが 1930 年代の交易条件の改善につながったものと考えられる。
アメリカがホーレイ・スムート関税法を制定し,それに伴いイギリスも報復関税政策をとった
ことによって,アメリカ・イギリスの内部価格が世界全体の相対需要と相対供給に影響を与え
たと考えられる。また,1929 年から世界恐慌が広がった後,アメリカとイギリスの輸出財で
ある工業製品の価格の落ち込みは,輸入財である原材料の価格の落ち込みに比べて小さかった
ことにも注目できる。つまり,アメリカとイギリスにおいては,輸出財よりも輸入財において
「偏った成長」が起こったために,交易条件の改善につながったものと考えられる。図 2-2
のアメリカの輸出入単価の,原材料価格の落ち込みと完成製造業製品価格の落ち込みの程度を
比べると明らかである。
次に,日本において,交易条件が 1930 年代に大きく悪化したことについて考察したい。ま
ず,日本は当時小国だったために,自国の価格調整のための政策が世界貿易に影響を与えるこ
とは少なかったと考えられる。また,輸出の比重が生糸一品に偏っていたため,生糸の価格の
変化が交易条件に直接影響を与えることになった。1930 年代以降,主要な輸出商品の価格の
下降のわりには輸入商品の価格が下がらなかったために,交易条件の悪化につながったと考え
られる。
交易条件の理論は第 1 章で示したように,2 国・2 財モデルで説明されることが多い。しか
し実際の貿易においてはさまざまな財の交換がされているので,日本のように一品に偏った貿
易は,その価格の変動によって貿易全体に影響を及ぼすのである。よって,日本の交易条件は
1932 年に大きく悪化した後,改善を見せるが安定しなかったと考えられる。
1930 年代のアメリカ・イギリス・日本の交易条件についての考察
第4章
323
結論
アメリカ・イギリスは大国であったため,本論文の第 1 章
2)
『関税の影響と交易条件改善
の理論』に示したように,関税政策が交易条件の改善につながった。さらに 1930 年代に入り,
輸入財である原材料の価格に対する輸出財(工業製品)の価格が上昇したことも,世界恐慌の
最中においても交易条件の改善につながったと考えることができる。一方日本は当時小国であ
ったため,大国の関税政策によって自国の貿易が不利になったと考えられる。そして,輸出財
の価格の変動はあったものの,世界の相対需要に与える影響が少なかった。また,主な輸出財
に生糸が多くを占めていたため,世界恐慌の影響で価格が下がったことによって交易条件の悪
化につながったと考えられる。
324
国
際
経
済
参考文献
井汲卓一編(1959),『講座
恐慌論
第 4 巻』東洋経済新報社
伊藤元重(2005),『ゼミナール国際経済入門』日本経済新聞社
――――,大山道広(2004),『国際貿易
モダン・エコノミックス 14』岩波書店
Mario J.Crucini and James A.Kahn(2007),“Tariffs and the Great Depression Revisited”,
Federal Reserve Bank of Minneapolis
Paul R.Krugman,Maurice Obstfeld(2006),“International Economics THEORY & POLICY
Seventh Edition”,PEARSON Addison Wesley
Pedro Amaral and James C.MacGee(2007),“The Great Depression in Canada and the
United States:A Neoclassical Perspective”,Federal Reserve Bank of Minneapolis
Peter Alexis Gourevitch(1984),“Breaking with Orthodoxy: The Politics of Economic Policy
Responses to the Depression of the 1930s”,International Organization,Vol.38,No.1
(Winter,1984),pp.95-129
Timothy J. Kehoe(editor),Edward C. Prescott(editor)
(2007),“GREAT DEPRESSIONS
OF THE TWENTIETH CENTURY”,Federal Reserve Bank of Minneapolis
Tse Chun Chang(1947),“The British Balance of Payments,1924-1938”,The Economic
Journal,Vol.57,No.228(Dec.1947),pp.475-503
資料
犬井正監修,B.R.ミッチェル著(1995),『イギリス歴史統計』原書房
斎藤真,鳥居泰彦
総務庁統計局
監訳(1999),『アメリカ歴史統計
監修(1988),『日本長期統計総覧
第 2 巻』アメリカ合衆国商務省
第 3 巻
貿易.国際収支.通貨・金融.保険.
財政.国富.国民経済計算 / 日本統計協会編集発行』日本統計協会
.
あ
と
が
き
まずは,卒業論文を無事に書き終え,提出することができてほっとしていま
す。書いてみるとわかると思いますが,卒論作成という作業は思っていた以上
に苦労するものでした。多くの文献や統計資料を探したり,論文の構成を何度
も考え直したり,明確な結論を導き出したり……。
「もっと早くに取り掛かって
いれば良かった」と思うことがたくさんありました。
卒業論文というのは,大学で学んできたことの集大成になると思います。し
かし私の場合,ゼミについていくのがやっとでしたし,学んだことが十分に咀
嚼できているか自信がありませんでした。そのため卒論のテーマを決めるとき
は,自分が一番理解できた部分,自分が興味を持った部分につながるように意
識しました。また,難しいことはよくわからないので,とにかく結論を明確に
し,論点がずれないように気を遣いました。その結果,先生方から「結論が明
確でわかりやすい」という評価をいただいたことをとても嬉しく思います。
反省点としては,文献や資料探し,論文作成など,多くの点で取り掛かるの
が遅かった点が挙げられます。早くから資料などを揃え作業を開始していれば,
また違った角度から論文を書くことができたのではないかと思います。これか
ら卒業論文を書こうという皆さんには,あとで苦労しないように早くから論文
作成に取り掛かることをお勧めします。
卒業論文はひとりでは書けないと思います。先生やゼミの仲間の助言は卒論
を書く上でとても参考になりました。卒論を書くにあたり,多くの力を借りて
いたと思います。先生や友人たちにこの場を借りてお礼申し上げます。
卒業論文作成という作業は,4 年間という大学生活の中でも大きな比重を占め
ると思います。悔いの残らないように,頑張ってください。また,ゼミで学ぶ
ことは多くの刺激を得ましたし,ゼミ合宿はとても楽しい思い出となりました。
このような大学生活を送れたことに感謝します。
菅 原 千 草
.
キャップ&トレード方式の排出権取引は
日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
05LL166
(論文指導
渡辺知里
永 田 雅 啓)
.
329
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
【要 旨】
問題意識
京都議定書の第 1 タームが昨年 2008 年に開始された。排出量の削減目標を達成するために、
各国はそれぞれ様々な取り組みを行っている。その中で日本は、排出量削減を効率的に行うこ
とが出来るとされる「排出権取引」を国内で施行することには消極的である。
・キャップ&トレード制の排出権取引は「産業空洞化を惹き起こす」という理由で反対されて
いるが、それは、どのような過程で産業空洞化を引き起こすのか。
・どの産業分野においてどれだけのダメージを引き起こすのか。
が本論文の問題意識である。
主要な結論
EU-ETS(European Union Emission Trading System)1ではどの様なコストを産業に掛け
たのかを検証した。すると、排出権取引は 2 通りのコストを産業に対しかけることが分かった。
一つは、キャップ&トレード方式で各会社に配布された排出枠による、直接的なコストである。
もう一つは、EU国内の電力会社が排出規制のコストを価格転嫁することによって生ずるもの
で、電力を使用する産業に対して掛かる間接的なコストである。
EU-ETS で発生するようなコストは、日本でも同じような影響を及ぼすのだろうか。日本の
電力会社は、自由化が進められたものの地域独占的である。このようなことから、日本の電力
会社の排出枠コストは容易に価格転嫁できる。また、日本の産業に掛かりうる排出規制に関す
る直接コストであるが、日本の産業は、オイルショックを経験してから省エネルギー生産に政
策を転換したので、他国に比べ、エネルギー削減機会が少ない。このため 1 単位あたりの排出
削減を行うコストは他国に比べて高い。また、日本は貿易を重視した経済体系を取っており、
自由貿易体制下で加工貿易を重点的に行っている。その為、排出削減にかかる高いコストを価
格転嫁することは難しい。
以上から、日本でキャップ&トレード方式の排出権取引を行うことは EU よりもさらに経済
負荷を産業にかけるであろう、と考えられる。
1
2005 年 1 月に導入した EU 域内独自の排出権取引制度。
330
国
際
目
第1章
経
済
次
排出権取引に関する基本情報 .......................................................... 332
1.気候変動に関する取り組み ............................................................................... 332
第 2 章 EU-ETSにおいて排出権取引がどの様に産業にコストを生むのか.......... 336
1.排出権枠の割り振り .......................................................................................... 336
2.電力会社のコストのかかり方............................................................................ 338
(1) EU域内の電力会社 ........................................................................................................ 338
(2) 電力会社の独占の問題 .................................................................................................. 342
(3)エネルギー氷山............................................................................................................... 344
(4) 短期で排出権価格が燃料価格に影響を及ぼさない理由 ............................................... 346
(5) EUのエネルギー会社の限界費用から見る燃料転換 ..................................................... 346
3.産業のコスト..................................................................................................... 347
(1) EU-ETSの対象となる産業 ............................................................................................ 347
(2) 排出量削減コスト ......................................................................................................... 347
第3 章 キャップ&トレード方式の排出権は日本にどの様な影響を及ぼすのか ......... 350
1.日本はなぜ排出権取引を行わないのか。.......................................................... 350
2.日本の電力市場と産業 ...................................................................................... 352
3.自主規制について.............................................................................................. 356
(1) 経団連の自主規制 ......................................................................................................... 356
(2) 経済団体連合の自主規制の問題点................................................................................ 358
(3) 現在の日本の状況 ......................................................................................................... 358
第4章
まとめと展望 ................................................................................... 359
参考文献......................................................................................................... 361
331
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
参考ホームページ .....................................................................................................361
【補論】京都議定書と京都メカニズム .......................................................... 362
京都議定書 .......................................................................................................................... 362
排出権 ................................................................................................................................. 362
温室効果ガス....................................................................................................................... 362
付属書I国 ............................................................................................................................ 362
京都メカニズム ................................................................................................................... 364
共同実施(JI) ................................................................................................................... 364
クリーン開発メカニズム(CDM) .................................................................................... 364
排出権取引 .......................................................................................................................... 364
332
第1章
国
際
経
済
排出権取引に関する基本情報
1.気候変動に関する取り組み
1760 年から始まったといわれる産業革命以後、人類は、石炭や石油などの化石燃料を使い
続けてきた。20 世紀初頭に物理化学者のアレニウスが、化石燃料を燃やす人類の経済、産業
活動が温室効果ガスを生み出し、気候変動を引き起こす可能性について主張したが、個人の豊
かさを目的とし経済発展を目指す人々の耳には、その声は届かなかった。それから、60~70
年が経過し、戦争や国際連盟や自由貿易など、様々なことを経験した後、やっと人類は地球が
今危機的な状況にあることに気付いたのである。そして、その地球環境の危機的な状況という
ものは、今まで人類の豊かさを築くために行った行為の代償であるということについても理解
したのである。
図1-1
地球の気温変化のデータ
(出典)ICPP 第三次報告書
(産業革命以後の気温の上昇のデータ)
過去 1000 年の気温の偏差のデータをみても、産業革命以後の人類の経済活動が、地球環境
333
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
に大きな変化をもたらしたことは明らかである。1972 年の国連人間環境会議から、人類は環
境問題に対して真剣に議論するようになった。また、気候変動を引き起こすとされる温室効果
ガスの削減についても国連加盟各国が今までにない結束力で取り組むことを約束した。
表1-1
気候変動対策に対する歴史
1760 年
産業革命
化石燃料が大量に消費され、地球内での
温室効果ガスが増える
1972 年
第一回国連人類環境会議
「かけがえのない地球
The only one
earth」「宇宙船地球号」
地球に存在す
る資源の有限性を認識する
1988 年
トロント会議
気候変動に対しての国際的な共通認識を
持つ。
(トロント目標)
「究極の目標である CO2
濃度の安定化には、現段階〈1988 年〉の
大気の約 50%の排出削減が必要である
が、当面の目標として先進国が率先して
2005 年までに 1988 年の CO2 排出量の
20%を削減する」
1988 年
ICPP「気候変動に関する政府間パネル」
設置される。
1992~1993 年
第二回国連人間環境会議
「気候変動緩和の為の気候変動枠組約」
地球サミット
条約を批准する 150 カ国がサイン
(ブラジル・リオデジャネイ
先進国は 1990 年代末までに温室効果ガ
ロ)
ス排出量を 1990 年レベルまでに戻すこ
とを目指す
1994 年
1995 年 3~4 月
1995 年 12 月
「気候変動緩和の為の
翌年、毎年 1 回のペースで「機構変動枠
気候変動枠組み条約」発効
組み条約締約国会議」が開催される
第 1 回締約国会議(COP1) 「ベルリンマンデレード」
(ベルリン)
京都議定書の交渉開始
ICPP 第二次報告書
CO2 濃度を現在のレベルで安定化させる
ためには直ちに排出を 50%~70%削減し
なければならない。
334
1996 年 7 月
国
際
経
済
第 2 回締約国会議(COP2) 「ジュネーブ宣言」
(ジュネーブ)
京都議定書は法的拘束力のある設定をす
ること
1997 年
第三回締約国会議(COP3) 「京都議定書」採択。先進国の数値目標
(日本・京都)
が設定され、他の国と協力して削減目標
を達成する柔軟性措置(京都メカニズム)
が認められるも、制度の詳細は先送りに
1998 年 11 月
第 4 回締約国会議(COP4) 「ブエノスアイレス行動計画」COP6 で
(ブエノスアイレス)
1999 年 10 月
第 5 回締約国会議(COP5) 2002 年までに京都議定書を発効させるこ
(ドイツ・ボン)
2000 年 11 月
京都メカニズムの詳細を決定すること
と
第 6 回締約国会議(COP6) 具体的なルール作りが決裂。
(オランダ・ハーグ)
アメリカが京都議定書から離脱を表明
IPCC 第 3 次報告書
21 世紀までに世界の平均気温が 1.4℃~
5.8℃まで上昇と予測
2001 年 7 月
第 6 回締約国会議再会合
「ボン合意」京都議定書の運用ルールの
(COP6)(ドイツ・ボン)
中核要素についての基本合意
2001 年
第 7 回締約国会議(COP7) 「マラケシュアコード」議定書の運用ル
10~11 月
(モロッコ・マラケシュ)
ールに合意し、各国が批准できる状況が
整う。日本は 2002 年 6 月 4 日に批准
2002 年 4 月
イギリスの排出権取引
イギリスが世界で始めて排出権取引
(The United Kingdom Emissions
Trading Scheme=UKETS)を実施。
2002 年 10 月
第 8 回締約国会議(COP8) 「デリー宣言」途上国を含む各国が排出
(インド・ニューデリー)
削減のための行動に関する非公式な情報
交換を促進することを提言
2003 年 12 月
第 9 回締約国会議(COP9) 京都議定書実地に関わるルールが決定
(イタリア・ミラノ)
2004 年 12 月
第 10 回締約国会議(COP10) 「適応対策と対応措置に関するブエノス
(ブラジル・ブエノスアイレ
アイレス作業計画」に合意
ス)
2005 年
京都議定書発行
2005 年
EU で排出権取引
EU でキャップ&トレード制の排出権取
引(European Union-Emission trading
Scheme=EU-ETS
EU 域内排出権取引)
第1ターム(2005 年~2007 年)開始
335
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
2005 年 7 月
G8
地球温暖化も主要議題に加えられる
グレンイーグルズサミット
2005 年
COP11,COP/MOP2
11~12 月
(カナダ・モントリオール)
2006 年 11 月
COP12,COP/MOP
ポスト京都議定書についての検討開始
2007 年 2 月
IPCC 第 4 次報告書
温暖化が人為起源であることを断定
2007 年 6 月
G8
地球温暖化防止が主要課題に
ハイリゲンダムサミット
2007 年 6 月
2008 年
COP13,COP/MOP3
「バリ行動計画」2009 年までに時期枠組
(インドネシア・バリ)
みについて議論を終えることに合意
京都議定書の第 1 約束期間
2012 年までの 5 年間
の開始
2008 年
福田ビジョン発表
2008 年 7 月
G8
地球温暖化防止が主要課題になる。2050
北海道洞爺湖サミット
年までに世界の温室効果ガス排出量を
50%削減するという長期目標を世界全体
の目標として採択することを求めると宣
言
1972 年から今日までの約 35 年の歴史の中で、人類は、ICPP(国連の気候変動に関する政
府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change))で気候の変動に対して人類が及
ぼした影響やこの気候変動が地球の未来にどの様な影響を及ぼすのか調べた。そして、「気候
変動枠組み条約」を批准した国々は、温室効果ガスを削減するという大きな一つの目標を定め、
1997 年に採択された京都議定書によって、各国は具体的な削減目標に向けてスタートをきっ
た。京都議定書には、本論文の核となる排出権取引を始め、排出権を削減するための京都メカ
ニズムというシステムが採用された。具体的な活用法や法的拘束力、システム構築などは翌年
からの締約国会議(COP)で話し合われ、今年 2008 年より京都議定書第 1 タームが始まった
2。今年から始動された京都議定書であるが、排出権取引やクリーン開発メカニズム(CDM)
や共同実施(JI)は、2008 年よりも前から動き出し、市場を作っていた。特に、イギリス、
EUは先進的に排出権取引市場を域内に作り、様々な困難を乗り越えながら、経験や検証を繰
り返し、知見を広め、深めていった。また、その他の地域においても、その国の経済や社会、
国内の様々な意見とあわせて、排出権削減、排出権市場の効率的な運営について模索していっ
た。
2
京都議定書ならびに京都メカニズムに関しては、補論「京都議定書と京都メカニズム」を参
照。
336
国
際
経
済
第 2 章 EU-ETS において排出権取引がどの様に産業にコストを生むのか
1.排出権枠の割り振り
EU-ETS では、排出権をどの様に割り振ったのかをまず、検証したい。なぜなら、排出枠の
割り振りこそが、市場経済の需要や供給を決める根本であるからである。過度に負担となる排
出枠を企業に課してしまえば、企業は目標を達成できなくなってしまうし、国として経済成長
を止めてしまう。また、排出権を少なめに配分してしまえば、排出権市場はロング市場(供給
過多)となり、排出権価格は暴落してしまう。実際、2005 年から 2007 年までの第 1 タームは、
産業の意見を重視した甘めの排出枠の振り分けで、2007 年の第 1 タームの終了間際に過度の
ロング市場だということが分かり、排出権市場価格は 8€/kg まで下落した。また、未だ、排出
枠の割り振りで EU と裁判所で審議している企業もある。
排出枠は、過去の排出実績を元に配分する方法が取られた。東欧の国々は、発展の余地があ
り、産業をさらに発展させるために排出権は、今までの排出よりも多めに割り振られている。
また、すでに先進国のドイツやフランスなども BAU(Business as usual 何も排出権削減の
措置が取られなかった場合の排出量)に比べて緩やかな排出量となっている。この結果、2007
年 4 月に排出権市場はロング市場だということが判明した。それを受けて、第 2 期の排出権は
修正された。
表2-1
国名
国別の第 1 期、第 2 期のキャップ
第1期
2005 に確
予定されてい
キャップ
認できた
たキャップ
(2005-2007)
排出量
2008-2012
第2期キャップ
新しく追加さ
JI/CDM limit
2008-2012
れた産業の排
2008-2012
出権
in %
(in
relation
to
proposed)
in 2008-2012
Austria
33.0
33.4
32.8
30.7 (93.6%)
0.35
10
Belgium
62.1
55.58
63.3
58.5 (92.4%)
5.0
8.4
Bulgaria
42.3
40.6
67.6
42.3 (62.6%)
n.a
12.55
5.7
5.1
7.12
5.48 (77%)
n.a.
10
Czech Rep.
97.6
82.5
101.9
86.8 (85.2%)
n.a.
10
Denmark
33.5
26.5
24.5
24.5 (100%)
0
17.01
Estonia
19
12.62
24.38
12.72 (52.2%)
0.31
0
Finland
45.5
33.1
39.6
37.6 (94.8%)
0.4
10
156.5
131.3
132.8
132.8 (100%)
5.1
13.5
499
474
482
453.1 (94%)
11.0
20
74.4
71.3
75.5
69.1 (91.5%)
n.a.
9
Cyprus
France
Germany
Greece
337
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
Hungary
31.3
26.0
30.7
26.9 (87.6%)
1.43
10
Ireland
22.3
22.4
22.6
22.3 (98.6%)
n.a.
10
223.1
225.5
209
195.8 (93.7%)
n.k.
14.99
4.6
2.9
7.7
3.43 (44.5%)
n.a.
10
12.3
6.6
16.6
8.8 (53%)
0.05
20
Luxembourg
3.4
2.6
3.95
2.5 (63%)
n.a.
10
Malta
2.9
1.98
2.96
2.1 (71%)
n.a.
Tbd
95.3
80.35
90.4
85.8 (94.9%)
4.0
10
239.1
203.1
284.6
208.5 (73.3%)
6.3
10
Portugal
38.9
36.4
35.9
34.8 (96.9%)
0.77
10
Romania
74.8
70.8
95.7
75.9 (79.3%)
n.a
10
Slovakia
30.5
25.2
41.3
32.6 (78.9%)
1.78
7
Slovenia
8.8
8.7
8.3
8.3 (100%)
n.a.
15.76
174.4
182.9
152.7
152.3 (99.7%)
6.7
ca. 20
22.9
19.3
25.2
22.8 (90.5%)
2.0
10
245.3
242.4
246.2
246.2 (100%)
9.5
8
2298.5
2122.16
2325.34
2082.68
54.69
Italy
Latvia
Lithuania
Netherlands
Poland
Spain
Sweden
UK
SUM
(89.56%)
このように排出枠は国家に分配され、分配された排出枠は、各国の政府によって各セクター
に振り分けられた。
表2-2 EU-ETS がカバーする産業
エネルギーセクター
鉱物セクター
金属セクター
その他
2008年より
燃料、製油所、コークス
セメント、石灰、ガラス、セラミックス、
鉱石、鋳鉄及び製鉄
パルプ、製紙
石油化学、アンモニア、アルミニウム精錬
排出枠は、熱出力で 20MW を越える燃焼設備が対象とされ、その多くが産業設備とエネル
ギー転換と呼ばれる発電や蒸気発生器などの設備となった。排出枠は、国ごとに違いはあるも
のの、その約 7 割がエネルギー関連施設に振られている。また、その中でも EU-ETS の約 50%
の排出枠が発電に占められている。(全体として、エネルギー会社が 64%を占める。)この図
を見て分かるように、電力会社は、排出権取引において重要な存在となっている。電力会社と
338
国
際
経
済
排出権取引の関係は、排出権価格に大きな影響を及ぼすし、電力会社のもたらす電力は産業生
産の基盤となっている。
次項では、排出権と電力会社がどのよう関係を持っているのか調べるとともに、産業界に電
力会社がもたらす影響についても考える。
2.電力会社のコストのかかり方
(1) EU 域内の電力会社
EU-ETS の排出枠の 50%を受け持つとされる電力会社について調べる。EU 域内には、様々
な発電施設がある。原子力発電や再生可能エネルギー、石炭火力発電や天然ガス火力発電など
である。排出枠は、それぞれの施設の CO2 排出量によって振り分けられるので、発電燃料が
何なのかということは、とても重要である。グラフ 2-1から、グラフ 2-7 までは、発電燃
料別の国ごとの発電量のグラフである。
図2-1 EU 国別発電量
資料:EUROSTAT(以下、図2-2~7も同)
上のグラフは、EU 域内の国家別の発電量である。この図を見る限りでは、ドイツ、フラン
ス、イギリス、イタリア、スペインの発電量が目だっている。
339
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
図2-2 EU 域内の石炭(hard coal)火力発電量
図2-3 EU の天然ガス火力発電量
340
国
図2-4 EU の原油火力発電量
図2-5 EU の原子力発電の発電量
際
経
済
341
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
図2-6 EU の風力発電
図2-7 EU の水力発電
342
国
際
経
済
発電燃料にも国別の違いがある。発電量の多い上位 5 カ国のドイツ、フランス、イギリス、
イタリア、スペインの違いを見てみよう。発電量の最も多いドイツは石炭発電が約 45%を占
めている。フランスは原子力発電が盛んで、国家発電量の 75%を原子力発電で生産し、その
発電を他国(オランダなど)に売っている。イギリスは、石炭火力発電と天然ガス火力発電が
多く行われている。イタリアにおいては、原油火力発電と天然ガス火力発電が盛んである。ス
ペインは石炭火力発電が盛んであるが、天然ガス火力発電もそれに迫る勢いで増えてきている。
(2) 電力会社の独占の問題
EU 域内の電力会社は、過去数年の間に電力市場の自由化を自国で経験してきた。大半の自
由化は、スカンジナビア、英国、スペイン、オランダで行われてきたが、しかし、完全に自由
な市場は未だ EU ではまれである。ドイツでは、電力市場は自由化されたが、エネルギー会社
の分割は進んでいない。イタリアは国営の巨大企業の Enel の分割を始めたが、電力市場はフ
ランスやベルギーと同様に公共独占の性格を未だ持っている。スペイン、オランダ、英国では、
電力市場がすでに自由化された。電力市場を自由化するためには、巨大電力会社を分割したり、
様々な規制を制定したり、電力取引所を設立したりという多くの労力がかかる。しかし、それ
ぞれの国は電力も自由化を目指し、それを一つ一つクリアしてきた。自由化を進め、現在競争
は激化しているが、以前国内での競争であり、大半の消費者は自由化の恩恵が受けられないま
ま、特定の電力会社に固定化されている。
一般に、大口需要家向けの電力価格は、英国のように流動性のある電力市場を持つ国では、
基底電力の卸売市場価格に接近している。しかし、流動性のない(代替して使用することの出
来る電力供給会社)発電市場が独占や寡占されている国では、その価格は基底電力の市場価格
の 10%程度まで高くなる。これは、電力会社は EU-ETS が電力会社に課す排出権コストを簡
単に消費者に転化できることを意味している。
表2-3 EU 域内での電力会社の独占・寡占の状況
1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006
EU (25 countries)
:
:
:
:
:
:
:
:
EU (15 countries)
:
:
:
:
:
:
:
:
Euro area
:
:
:
:
:
:
:
:
Belgium
Bulgaria
92.3 91.1 92.6 93.4 92.0 87.7 85.0 82.3
:
:
:
:
:
:
:
:
Czech Republic
71.0 69.2 69.9 70.9 73.2 73.1 72.0 73.5
Denmark
40.0 36.0 36.0 32.0 41.0 36.0 33.0 54.0
Germany
28.1 34.0 29.0 28.0 32.0 28.4
Estonia
93.0 91.0 90.0 91.0 93.0 93.0 92.0 91.0
Ireland
97.0 97.0 96.6 88.0 85.0 83.0 71.0 51.1
:
:
343
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
Greece
98.0 97.0 98.0 100.0 100.0 97.0 97.0 94.6
Spain
51.8 42.4 43.8 41.2 39.1 36.0 35.0 31.0
France
93.8 90.2 90.0 90.0 89.5 90.2 89.1 88.7
Italy
71.1 46.7 45.0 45.0 46.3 43.4 38.6 34.6
Cyprus
99.7 99.6 99.6 99.8 100.0 100.0 100.0 100.0
Latvia
96.5 95.8 95.0 92.4 91.0 91.1 92.7 95.0
Lithuania
73.7 72.8 77.1 80.2 79.7 78.6 70.3 69.7
Luxembourg
Hungary
Malta
Netherlands
:
:
:
: 80.9 80.9
:
:
38.9 41.3 39.5 39.7 32.3 35.4 38.7 41.7
100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0
:
:
:
:
:
:
:
:
Austria
21.4 32.6 34.4
:
:
:
:
:
Poland
20.8 19.5 19.8 19.5 19.2 18.5 18.5 17.3
Portugal
57.8 58.5 61.5 61.5 61.5 55.8 53.9
:
:
Romania
:
:
:
: 31.7 36.4 31.1
Slovenia
:
:
: 50.7 50.3 53.0 50.1 51.4
Slovakia
83.6 85.1 84.5 84.5 83.6 83.7 83.6 70.0
Finland
26.0 23.3 23.0 24.0 27.0 26.0 23.0
Sweden
52.8 49.5 48.5 49.0 46.0 47.0 47.0 45.0
United Kingdom
21.0 20.6 22.9 21.0 21.6 20.1 20.5 22.2
Croatia
Macedonia, the former Yugoslav Republic
of
Turkey
Iceland
Norway
:
:
:
:
: 82.0 86.0 87.0 83.0
:
:
:
:
:
:
79.0 75.0 70.0 59.0 45.0 39.0 38.0
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
:
30.4 30.6 30.7 30.7 30.7 31.2 30.0
:
Switzerland
:
:
:
:
:
:
:
:
United States
:
:
:
:
:
:
:
:
Japan
:
:
:
:
:
:
:
:
出典:EUROSTAT Market share of the largest generator in the electricity market
表2-3は、EU 域内の各国における 1 番大きな発電会社の国内市場シェアを示している。
この表を見ると、東欧諸国とフランス、ギリシャ、デンマークの電力市場が独占・寡占市場で
あることが分かる。東欧諸国は、未だ共産主義の影響が残っており、電力市場が自由化した後
344
国
際
経
済
も、1つの電力会社が支配的である。一方、電力市場が自由化され、流動性の高いとされるス
ペインやオランダ、英国では表に示される通り、国の中の最も大きな電力会社のシェアも 30%
程度である。
電力市場で比較的寡占、独占が少ないように思える国においても電力価格が大幅に上昇して
いる。例えば、イタリアやドイツの電力価格はとても高い。また、2005 年までに大幅に下落
傾向を見せていた英国の電力価格も上がっている。これは、原油価格とガス価格の高騰が電力
価格を押し上げたためである。この結果から、燃料市場と電力市場は大きく関係しあっている
ことが分かる。排出権価格が電力価格に影響を及ぼしたかを検討するには、取引開始の 2005
年から 2006 年の電力価格の変化を見ることが重要である。
電力価格の上昇は、主に火力発電を行う国で見られる。原子力発電をに多くを依存するフラ
ンスや、再生エネルギーを使うリトアニアでは、電力価格の上昇は見られなかった。これは、
排出権価格が電力価格を押し上げうるということに繋がる事実である。これらの事柄から、EU
各国は様々な燃料で発電をしており、その発電燃料の価格変動は、電力価格の変動に直接関係
している。
(3)エネルギー氷山
前述したように、電力価格と発電の燃料となる燃料(石炭や石油、天然ガスなど)の価格と
排出権価格は深い相関関係を持っている。その相関関係は、大きな氷山に例えられる。海の上
に浮かぶ氷山の一角は排出権価格である。そして、その下に沈んでいるのが電力価格、そして、
電力価格の下に沈んでいるのが燃料価格である。波間に浮いている氷は、実は、目に見えない
海面下にその何倍もの氷の塊を持っているのと同じように、排出権価格は、実は、電力価格、
そして、もっと大きな規模の燃料市場と繋がっているのである。また、短期と長期では影響の
及ぶ方向が異なる。短期では、燃料価格が、排出権価格に影響を及ぼす一要因となる。長期で
は、逆に排出権価格が電力会社の燃料転換を起こし、燃料市場に大きな影響を及ぼす可能性が
ある。
短期の影響
短期では、燃料価格が排出権価格を変動させる一要因となる。これは、需要の変化が原因で
ある。例を挙げてみよう。
例えば、石油価格が何らかの原因で供給が不安定になるとすると、石油価格が上昇する。
→ 石油価格が上昇すると代替燃料の石炭への需要が増加する。
→ 石炭の需要が増加するとヨーロッパの電力会社の CO2 排出量が増加する。
→ 予想以上の CO2 の増加により、キャップを越えて、CO2 を排出してしまう可能性が高く
なる。
→ ヘッジの手段としての排出権の購入
→ 排出権価格の上昇
345
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
という流れで燃料価格の変化から、排出権価格の変化までが繋がる。そのほかにも、天候や気
温なども、燃料の消費状況や電力会社の発電量に大きな影響をあたえ、それが、排出権の需要
に変化を与え、排出権価格に影響を及ぼす。
他の例としては、
ポルトガルや北欧など水力発電の多い地域で少雨予想
→ 同地域での電力会社での石炭需要の増加
→ CO2 の排出量が増加する
→ 予想以上の CO2 の増加により、キャップを越えて、CO2 を排出してしまう可能性が高く
なる。
→ ヘッジの手段としての排出権の購入
→ 排出権価格の上昇
このように、短期での影響は、排出権市場や燃料市場での需要の変化から起きると考えられ
ている。ロンドンを代表する金融市場のプレーヤー達は、このように、「石油や石炭」などの
コモディティや「天候
ウェザー」から、排出権価格との相関関係を見出し日々売買を行って
いる。
長期の影響
十分に高い排出権価格は電力会社に燃料転換を促す。供給側の変化を生むのである。しかし、
燃料転換は、発電施設の変化でもあるので、短期で簡単に促されるわけではない。よって、長
期で排出権価格は燃料価格に変化を起こすといえるのである。
排出権価格が燃料価格を変化させる一番の要因は、
「排出枠が、発電施設の CO2の排出量別
に振り分けられる」ということである。水力発電、風力発電、原子力発電は CO2を排出しな
いので排出枠は、振り分けられない。また、石油や石炭は天然ガスよりも CO2排出量が多い
ので排出枠が多く振り分けられる。また、同じ燃料(例えば石炭)を使っていたとしても、発
電施設の効率性(1 単位あたりの電力を発生させる際の CO2 排出量)の違いによって排出枠
は異なる。事実、東ドイツでは、旧式の効率の悪い発電施設を使っていることによって排出枠
が大目に割り振られ、東ドイツにおける電力の市場価格も高くなっている。
現在の EU 域内の電力市場は、様々な原因によって独占寡占状態となり、排出権や燃料価格
の上昇などのコストを消費者に転嫁できるようになっているが、自由化が進めば、電力市場で
発電効率の悪い発電施設は淘汰されていくであろう。排出権価格が十分に高いとき、燃料転換
が起こる。これは排出量削減のためのコストを生産コストとして、今までの生産コストに計上
すると、石炭で発電を行うよりも、天然ガスで発電を行う方がコストの総計が低くなるからで
ある。石炭産出国や天然ガスを運輸するパイプラインの設置など、国や地域によって燃料転換
が起こる背景は異なるが、流れとしては石炭から天然ガスへの転換が行われるであろう。IEA
の調べでは、石炭火力からの脱却は、まず東欧において起きる可能性が高いことが分かった。
346
国
際
経
済
(4) 短期で排出権価格が燃料価格に影響を及ぼさない理由
原油について、おもに輸送用の燃料であることが明らかである。石炭は、製鉄の原料として
も使われ、一方で、ガス、再生可能エネルギー、原子力はもっぱら発電に使われる。
石油と原油は世界中に輸出され、国際的市場が形成されている。天然ガスについては、ガスの
液化により輸送することが可能になり、同様な国際的市場が形成されている。いくつかの燃料
が発電以外の目的で使われうる事実は、短期での電力市場が燃料市場に突き動かされる原因と
なる。その逆の、短期で排出権取引価格が電力市場、燃料価格に影響を及ぼすことはない。
図2-8
エネルギー氷山
流動性の
長
期
短
期
低い市場
排出権
電力価格
発電施設
天然ガス 石炭 原油 再生可能エネルギー
流動性の
エネルギー市場
高い市場
氷山のトップにある排出権市場は、電力市場(第 2 層)、燃料市場(最下層)に比べてとて
も小さく流動性に乏しい。その EU-ETS による排出権コストの導入は、下の層に対して直接
的な影響を与える。
(5) EU のエネルギー会社の限界費用から見る燃料転換
長期的に起こる燃料転換は、どの様にして起こるのであろうか。排出権価格がどうなったと
き、燃料市場に影響を及ぼすのかを調べた。IEA によるレポートに排出権価格が燃料の優先順
位を変えることを表したグラフがある。これを使って、排出権価格がどの様に燃料転換を引き
起こすか調べたい。
前述したとおり EU 域内にはガス火力発電所、石炭火力発電所、石油火力発電所、水力発電
所、原子力発電所、風力発電所が存在する。排出枠は、それぞれの発電所が CO2 を排出する
347
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
分割り振られる。すなわち、CO2 の排出のない水力、風力、原子力発電所には、排出枠は、割
り振られないが、CO2 を大量に排出する火力発電には排出枠は多く割り振られる。そして、火
力発電の中でも、その、エネルギー燃料が石炭よりもガスの方が CO2 排出量が少ないので、
ガス火力発電所のほうが排出枠は少なく割り振られる。しかし、石炭火力発電の方が、生産コ
ストが安いので優先的に生産されている。
3.産業のコスト
(1) EU-ETS の対象となる産業
EU-ETS は、様々な産業をカバーしている。エネルギーセクターでは、発電のための燃焼施
設や製油所、コークス、鉱物セクターでは、セメントや石灰、ガラス、セラミックス、金属セ
クターでは功績や銑鉄および製鉄である。その他の産業として、パルプと製紙が含まれている。
一般にこれらの産業は、更なる排出削減の機会に乏しく、排出権市場の影響は産業界にとって
マイナスに働く。2008 年から排出削減の対象となった石油化学、アンモニア、アルミニウム
についてはまだ、統計が出来ていない。しかし、アルミニウムについては、排出権削減対象と
なる以前よりも前に、電力価格が上昇し、大量の電力を精錬の際に使うアルミニウム産業では
コストは排出規制をかけられる前からかかっていた。
また、地域的に EU-ETS の北欧、西欧の国では、すでに産業の大部分で省エネルギー化が
進んでおり、これ以上の排出削減はなかなか達成できない状況である。これは、オイルショッ
クにより、他国の化石燃料に頼ることを少なくしようと人一倍努力し、省エネルギー化を進め
てきたわが国も同じ状況である。
(2) 排出量削減コスト
企業の排出権取引によって受けるコストの比重は、そのコストを価格転嫁できるか出来ない
かで大きく変わる。本論文での価格転嫁とは、排出量削減義務によって企業が受けた様々なコ
ストをそのまま、価格に反映させ、この場合は値上げを行うことである。値上げされた商品は、
当然のように消費者に対してマイナスの消費効果を生む。しかし、その商品が他社にはない製
品だったり、生活にどうしても必要な商品だったりすると、価格が値上げしても需要に大きく
響かない(価格弾力性が小さい)。この原理を使って、排出権取引でコスト以上の価格転嫁を
行い利益を出したのは、電力会社である。
一方、競合製品が多いもの、生活に無くても困らないもの、代替がきくものは、価格が需要
に影響する。EU-ETS の場合は、第 1 次アルミニウム精錬は、国際競争が激しく排出量削減に
よるコストが価格転嫁できないので、コストをそのまま受けてしまい大きな損を出してしまう。
このように価格転嫁できず、排出量取引という新たなコストをそのまま受けてしまう産業は、
排出量削減義務のない国や、排出量削減目標の低い国へと工場移転をおこなう。これが産業の
空洞化を引き起こすメカニズムである。
以下、産業の空洞化がどの様な産業に起こるかということを、産業の特徴面から見ていこう
と思う。
348
国
際
経
済
セメント・石灰
セメントのもととなる石灰は比較的、世界各所に存在する。また、重量あたりの単価は低い
ので輸送に適さず、輸出も他産業に比べて抑えられてきた。その為セメント産業は比較的地域
的な産業であるといえる。これはある程度は、コストを価格転嫁できるということである。し
かし、アフリカから安いセメントを輸入することも可能となってきている。
ガラス・セラミックス
製鉄
製鉄やガラスは、排出量を減らす能力はほとんど持っていない。しかし、この産業はアルミ
産業ほど国際競争ではないので、コストの増加を転化しやすい。
製紙・パルプ
最適化の余地が残されている。まだ、排出量を削減する努力を行うことが出来る。
アルミニウム
アルミニウムの精錬には、多くの電力が必要となる。今回排出枠によっておきた電力の価格
高騰によって、一番損をしたのはアルミニウム産業であるともいえる。
また、アルミニウムはグローバル市場で競争する産業であるので、価格転嫁を行うことも出来
ない。
排出枠を与えられた企業は、自社で排出量を削減する努力を行うか、排出権を排出権市場で
買って目標を達成する。企業が排出権購入のために使える資金の総額は、その企業が抱える追
加の排出権コストをカバーするために、その企業の製品価格をどの程度まであげることが出来
るかによる。競争やコスト高で価格転嫁を十分に行えない企業は、排出規制のない国へ工場を
移転する手段を取る。Oxera などの研究によれば、少なくとも EU 内の1つのアルミニウム工
場は EU-ETS による電力価格の上昇が原因で閉鎖されるといわれている。他にも、セメント
工場は、北欧から省エネルギー手段の利用可能性が高い南欧、もしくは東欧に移転する計画を
持っている。製油会社は、製造工程において更なる最適化の余地がほとんどない。しかしなが
ら、これらの産業の市場は、石油化学や電力と同様に地域的であり、あるいはエネルギーコス
トが全体の生産費に比べて小さな割合しか占めないため、価格に転嫁できる機会はより多い。
このように排出権価格は産業によって違った変化を促すが、まだ、その影響は少ししか市場に
現れてはいない。
キャップ&トレード方式の排出権取引は産業に空洞化を引き起こすのかという問いかけに
は、産業の空洞化を引き起こすまでは行かないが、産業に対して負のコストを課し、その産業
がグローバル市場で競争を行っていれば、その負のコストは価格転嫁できず、産業の空洞化に
繋がるであろうと思われる。その印象で最も可能性のある産業はアルミニウム精錬産業である。
EU-ETS はグローバル市場で競争する産業に対しては、産業の空洞化がおきないように(産
349
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
業の国際競争力が弱まらないように)排出規制を強くするのではなく、排出枠を無償割り当て
として無理のないように分配することを明言している。その無償割り当てを行う分野やその程
度に関しては。2013 年の第 3 タームに間に合うように EU-ETS の研究機関が調査していると
ころである。
しかし、無償割り当てを行っても、グローバル市場で競争を行う企業は競争力を持ち続ける
ことは出来ないという意見を持つ人もいる。これによれば、2008 年以降、様々な産業に対し
て新たに排出枠を設け規制をすると輸送などのコストが上昇し、折角無償割り当てで生産コス
トを増やさずに生産できたのに結局市場価格よりも高くなってしまい、国際競争に勝てなくな
るという。これに対して、EU-ETS は、2007 年に「排出削減を EU レベルで行っていない国
からの輸入を規制する」ということを明言している。これは一種の保護貿易と同じであるが、
ヨーロッパ市場の産業が世界で生き残ってゆくために EU-ETS がとった一つの手段なのであ
ろうか。
350
国
際
経
済
第 3 章 キャップ&トレード方式の排出権は日本にどの様な影響を及ぼすのか
1.日本はなぜ排出権取引を行わないのか。
第 1 章で述べた通り、日本は排出権取引においてキャップ&トレードを取り入れていない。
産業界における排出量削減は、各々の企業が出来る限り努力をして行う「自主規制」という形
を取っていた。日本政府は、希望者にのみ排出枠を配布する形を取り、一部で限定的なキャッ
プ&トレードの排出権取引市場を作ったが、排出権取引のアローワンス(枠)を自主的に取り
入れようとして、政府に名乗りを上げた会社は現在までに 160 社しかおらず、排出権取引市場
としては、遠く欧州に及ばない。
なぜ、日本は、キャップ&トレード制の排出権取引を行わず、自主規制のみで排出量の削減
を目指すのか。第 1 に産業界からの根強い反感があるからである。産業界での代表団体、経団
連は、キャップ&トレード型の排出権取引に対し、次のような主張をしている。
1.過去の省エネ努力の成果など、エネルギー効率を反映していない国別キャップ、例えば京
都議定書)の下では、各産業・企業に対するキャップも不公平となる。
2.排出削減目標を達成できない場合、排出権を途上国から購入するか、途上国への生産シフ
トを余儀なくされるため、日本産業の国際競争力が低下し、国益が損なわれるとともに、
地球規模では温室効果ガスを増加させる炭素リーケージにより地球温暖化防止にも逆行
する。
3. 長期的視点に立った設備投資や技術革新を停滞させ、成長戦略の障害となる。
4. そもそも、各産業・企業の成長、変動を踏まえた公平なキャップ設定は困難であり、公
正な競争が歪められる。
5. キャップを行政が設定するため官僚統制になり、省エネや温室効果ガス削減への取組み
が、市場メカニズムに則って評価されることが重要である。
6. キャップの達成に係るコストが、事業者のコスト要因となっても、消費者の意識や商品・
サービス選択等の行動の変化に繋がるような効果は期待できない。
7. エネルギーの大半を輸入する日本にとって、エネルギーの安定確保は不可欠であるが、
キャップ・アンド・トレードは、エネルギー調達に制約を加え、またエネルギーの選択肢
を狭めることになる。
出典:
『京都議定書後の地球温暖化問題に関する国際枠組構築に向けて』2007 年 4 月 14 日(社)
日本経済団体連合会
一方で最近では、有力経済人の意見も絶対反対派から、研究程度は認めようとする中庸派、
世界の情勢に乗り遅れまいとする積極肯定派まで、意見が分かれてきている(図3-1)。
このような経団連の主張するキャップ&トレード方式の排出権取引のデメリットは、企業の
生産活動における新たなコストが原因となり、派生する問題である。キャップ&トレード方式
の排出権取引は、地球上の温室効果ガスの総量規制にはならない。先進国で排出量規制を行っ
たとしても、規制をされた企業は排出量削減の義務のない国へと工場を移転し、そこで今まで
351
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
どおりに温室効果ガスを排出するだろうとの経団連は主張するのである。
また、キャップ&トレード方式の排出権取引を行うことによって、日本は国際競争力を損な
うという理論は、各企業に課せられた排出量削減により、商品生産の際に新たなコストが生ま
れるが、自由貿易下において、国際的な価格競争がある中で、排出量削減による新たなコスト
を製品の価格に反映できず日本の様な輸出貿易型の国家は損をしてしまうという考えなので
ある。(図3-2)
図3-1
キャップ&トレード方式による「排出権取引」導入をめぐる主要経済人の発言
(賛成派)
「導入することで市場メカニズムを活かし、最小のコストで温室効果ガ
スを削減できるのが私の考えだ。」
(リコー
桜井
正光会長)
導
入
「キャップ&トレード方式による排出権取引が世界のマジョリティーな
賛
らば、積極的に取り入れていく必要がある」
成
(キャノン
御手洗
富士夫会長)
(中庸派)
「研究するのは大変よいこと。反対。反対。を唱えるだけでは何も変わ
らない。」(トヨタ自動車
張
富士夫会長)
「排出基準の公正なあり方を検討するのは重要だが、取引制度を直ちに
導入する状況にはない」
(東芝
岡村
正会長)
導
入
(反対派)
反
「キャップ&トレード方式は、排出抑制につながらない上に、日本の国
対
際競争力を損なう。」(新日本製鉄
三村
明夫社長)
「EU の排出権取引制度は、総量抑制の面から失敗している。」
(東京電力
勝俣
資料:各新聞社より筆者が作製
恒久社長)
352
図3-2
国
際
経
済
キャップ&トレード方式の排出権取引から派生する諸問題
キャップ&トレード制の排出権取引
生産に関する新たなコスト
産業の空洞化
国際的な
価格競争力の低下
地球上の総排出量の増加。
または変化なし。
本論文では、排出権取引をキャップ&トレード方式によってどのような仕組み(メカニズム)
で企業のコストとなるのか、そして、それは産業の空洞化を引き起こすのか。という 2 本の軸
で展開してゆきたい。
今まで、EU-ETS に起こった出来事から考えて、キャップ&トレード方式の輩出権取引が日
本で行われたときに日本に産業の空洞化は訪れるのであろうか。これまでに分かったことは、
キャップ&トレード方式の排出権取引は、電力会社に多く振り分けられ、電力会社はその振り
分けられた排出枠のコストをそのまま消費者に転嫁できるということであった。
2.日本の電力市場と産業
日本の市場に置き換えて考えると、日本の電力会社もヨーロッパの市場と同じように独占寡
占の性格が強い。
353
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
表3-1
電気事業者別の CO2 排出係数
事業社名
排出係数(kgCO2/kWh)
北海道電力
0.479
東北電力
0.441
東京電力
0.339
中部電力
0.481
北陸電力
0.457
関西電力
0.338
九州電力
0.368
イーレックス
0.375
エネサーブ
0.429
エネット
0.423
GTF グリーンパワー
0.289
ダイヤモンドパワー
0.432
ファーストエスコ
0.292
丸紅
0.507
表3-1は、日本に存在する電気事業者別の排出係数である。それぞれの電気事業者は、名
称に地域の名前がついていることから明らかなように、地域ごとにすみわけを行っている。ま
た排出係数を見ても、各事業者によって生産 1 単位ごとの CO2 排出量が大きく違うことが分
かる。これは、電気事業者の持つ発電方法に違いがあるからである。たとえば、東京電力は原
子力による発電の比率が高く、中部電力は火力発電の比率が高い。その結果、排出係数に差が
出てくるのである。
現在、わが国の発電施設では、クリーンなエネルギーである原子力発電が推進されているが、
その割合は、全体の規模の 30%程度に留まる。下の円グラフを見ると、石炭火力発電とガス
火力発電が同程度行われていることがわかる。これにより、日本でキャップ&トレード方式の
排出権取引が行われたとき、電力価格が上げられる可能性があることが分かった。
354
国
際
経
済
図3-1 発電電力量の構成(2004 年度)
しかし、日本政府は、京都議定書の排出権 6%削減を達成するための 1 つの手段として、原
子力稼働率を上げることを掲げている。政府の試算として、日本全国の原発 55 基の稼働率が
全体で 1%上昇するだけで CO2の排出量を化石燃料系火力発電に比べ、0.2%ほど削減できる
そうである。こうして、現在以上の原子力開発等を図ることにより、2010 年に、電力業界全
体の CO2 排出原単位を 1990 年実績から 20%程度低減するよう努力し、これにより、1990 年
比、2010 年には発電電力量は約 1.5 倍の伸びが予想されるが CO2 総排出量は 1.2 倍程度の伸
びに抑えられる。このように日本全体として、発電は原子力発電に向かってゆくと思われるの
で、燃料転換は、他国よりも速くおとずれるかも知れない。その場合、価格転嫁も軽度ですむ
と予想される。
次に、日本の産業が背負うコストについての考察を行う。日本が、他の先進国と違うところ
は、省エネルギー化の進み具合である。日本は、エネルギー輸入国家である。自国内の資源に
乏しく、エネルギー系燃料の自給率は、原子力が 14%、その他の地熱発電などのクリーンエ
ネルギーが 2%ほどでその他のエネルギーはほとんどが輸入に頼っている。その為、他国に何
かあったとき、石油、石炭、天然ガスを他国に頼るわが国は大きなダメージを負ってしまう。
まさに、それが現実のものとなったのが 1970 年代の第 1 次、第二次オイルショックであった。
これをきっかけに日本はエネルギーを節約しながら生産する「省エネルギー産業」へとシフト
してきたのである。現在、日本の省エネルギー技術はとても高く、アメリカやドイツと比べた
とき、約 2 倍もの違いがある。
355
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
図3-4 GDP 当たりの一次エネルギー供給の各国比較(2003 年)
省エネルギー型産業であるということは、「すでに生産過程の最適化が出来るところまで進
んでいる」ということである。このため、アメリカやイギリスと同じ量の CO2を減らすとき、
日本はアメリカやイギリスよりも多いコストを払わねばならないのである。
表3-2
製造業のエネルギー消費原単位の各国比較
表3-2も日本が省エネルギー型であることを表している。鉄鋼、化学、製紙、セメントな
ど排出規制の対象となる産業においても、日本は他国よりも省エネルギー化が進んでいる。こ
れは、排出権規制の対象となりうる産業でも、さらなる省エネルギー化は難しいことを示して
いる。
356
国
際
経
済
また、日本は小さな島国で、今までの経済発展は国際貿易型産業が主導している。このため、
日本の産業はそのほとんどがグローバル市場で競争をおこなっていると考えられよう。排出規
制を行った場合、排出規制のコストは高いにも関わらず、そのコストは価格に移転することが
出来ない。このような状況下で無理なキャップ&トレード方式での排出権削減を行うと、産業
には大きなコストがかかり、工場の封鎖や移転が起こってしまう。
日本産業の特徴として、①省エネルギー型産業であること
②貿易重視型経済であることが
あげられる。これらの点から考えられることは、日本産業は、キャップ&トレード制の排出権
取引を行ったとき、EU-ETS よりも受けるダメージが大きいであろうということである。CO2
を単位減らすコストは、同じ先進国であるヨーロッパよりも大きく、キャップ&トレード制の
排出権取引が日本に産業の空洞化を引き起こす可能性は高いと考えられる。
3.自主規制について
(1) 経団連の自主規制
このような状況のもと、産業界は、それぞれ自主規制によって排出権削減に協力している。
省エネルギー化が進んだ日本では、更なる省エネルギー化は難しいとされているが、各産業は、
それぞれ目標値を掲げ、温室効果ガスの排出削減を行っている。
鉱業
温暖化対策
(目標) 非鉄金属(銅、亜鉛、鉛、ニッケル)について、2010 年には、エネルギー原単位を 1990
年比、12%減少。 フェロニッケルについて、同様に原単位の 5%削減を目指す。
廃棄物対策
(目標)
非鉄製錬所から出るスラグ、湿式製錬残さのリサイクル比率を、2010 年度には 99%に。(95
年度 88%)
非鉄製錬所からのスラグ等の最終処分量を、2010 年度には 1995 年度比、83%削減。
休廃止鉱山廃水処理澱物を 1986 年度比、2010 年度には 90%減容化。
セメント
温暖化対策
(目標) 1990 年度総燃料使用原単位の業界平均値はセメントクリンカー1kg あたり
2940kj(セメント1kg あたり 2720kj であり、ドイツセメント業界の 2005 年目標値を既にクリ
ア)。電力使用量の業界平均値はセメント1トンあたり 95.4kwh。いずれも先進諸外国の水準
を大きく下回る。 よって具体的な目標数値は提示しないが、可能な限りエネルギー消費の低
減を図る。
廃棄物対策
357
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
(目標)
セメント産業は既に年間 2,600 万トンもの各種廃棄物・副産物を資源として再利用。処理量の
拡大を積極的に推進していく。
製紙
温暖化対策
(目標) 2010 年までに製品あたり購入エネルギー原単位を 1990 年比 10%削減することを目
指す。(1973→1994 年:40%減) 国内外における植林事業の推進に努め、2010 年までに所有又
は管理する植林地を 550 千 ha に拡大することを目指す。
廃棄物対策
(目標) 2000 年までに古紙利用率 56%を達成。
2010 年までに産業廃棄物の製品あたり最終処分量を、1990 年比 60%削減。
鉄鋼
温暖化対策
(目標)生産工程における省エネルギーの推進。(エネルギー消費量で 2010 年には 1990 年比、
約 10%減) 地域社会との連携を通じた廃プラスチック、未利用エネルギーの活用。(約 3%相当
減) 鋼材の利用面での省エネルギーを可能とする高級鋼材の供給。(社会全体として同じく約
4%相当減) 国際技術協力による省エネ貢献。
廃棄物対策
(目標) 鉄鋼製造工程で発生する副産物(スラグ、ダスト、スラッジ)の 2010 年の最終処分
量を、1990 年比、75%削減、資源化率 99%を目指す。(90 年実績 95%)
2000 年のスチール缶リサイクル目標を 75%に設定し、更に高水準を目指す。
アルミニウム
温暖化対策
(目標)
アルミスクラップ使用等で地球的規模で 1990 年レベルを下回る CO2 排出量に抑制。
圧延・押出工程(国内)で 2010 年には 1995 年比約 10%の省エネの反面生産量増等で CO2 増加。
(28,000 トン/月の増加)
新地金に比べ3%のエネルギーで製造可能なアルミスクラップの使用比率を 2010 年には 30%
に拡大で、(1990 年 18%)海外で 106,000 トン/月の CO2 を抑制。
製品開発による CO2 抑制。300 トン/月の CO2 を抑制。
廃棄物対策
358
国
際
経
済
(目標)
アルミスクラップの使用比率向上。
アルミドロス残灰の再資源化。
産業廃棄物の再資源化。
資料:経済団体連合会
1990 年 18%→2010 年 30%以上。
1995 年 35%→2010 年 90%以上。
1995 年 24%→2010 年 50%以上。
自主行動計画より作製
このように日本では排出削減コストは高いとされながらも、各産業は自主規制をおこなって
いる。ある程度の排出権削減は必要であり、産業の空洞かも起こらないというのが産業界の見
解である。また、産業界は自主的に CO2 の排出削減に取り組み、1990 年から比べて産業界の
CO2 排出量は約3%削減することが出来た。
(2) 経済団体連合の自主規制の問題点
上記の議論からすると、排出権取引を行わなくてもよいように思える。しかし、この自主行
動計画には一つの大きな欠陥がある。それは排出量削減行動が重要視されて、実際の排出量削
減量までは言及されていないことである。つまり、100t排出量が削減できるであろうと考
え、削減努力を行えば、実際に排出量が減っていようが増えていようがかまわないのである。
また、自主目標で提示された排出量の削減が実際行うことが出来なかったとしても、あくまで、
自主規制は目標であるので罰則は存在しない。産業界として取り組んではいるものの、日本の
企業の大多数が未だに CO2 削減に積極的に取り組んではいない。「CO2 削減は必要だという
意識はあるが、実際に取り組んではいない」という認識を持つ会社が多く存在する。
(3) 現在の日本の状況
日本は京都議定書で6%の削減目標に対して、2005 年の排出量は 13 億 5900 万 CO2 トン
と、1990 年比で 7.7%も増加している。よって、2012 年までに 13.7%、実に 1 億 7800 万トン
という大量の CO2 を減らさなくてはいけない。現在の日本政府の方針として、森林整備によ
る森林吸収源で 3.8%、京都議定書で定められた排出権の購入により 1.6%を減らすといってい
る。しかし、マイナス 6%の目標達成には 1.7~2.8%、実際はそれ以上の不足が考えられる。
また、京都議定書の目標が達成できなかった場合は、次のタームに目標不足分×1.3 が追加され
るという罰則規定がある。また、国際約束が守れなかったとして信用が落ちてしまうことも不
安視されている。
以上のことから、経団連の産業の自主計画だけには任せておくことは出来ないことや工業の
みならず、一般家庭やサービス部門産業などの排出削減も視野に入れた包括的な排出量削減の
枠組みが現在の日本に必要なことは明らかである。経済に必要以上に過剰な負荷をかけず行う
ことの出来る排出量削減方法とはいったいどの様なものなのだろうか。
359
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
第4章
まとめと展望
本論文のテーマは、「キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起
こすのか。」であった。結論から行くと、排出規制は、日本の産業に対して、大きなコストを
背負わせるものになる。電力企業の地域独占、産業の省エネルギー化の発達、輸出型産業など、
これらの日本の特徴は、排出権取引を国内で実施されるとヨーロッパよりも深刻なダメージを
生むと考えられた。
しかし、このままでは、排出量削減目標も達成できないことも明らかである。どのようなプ
ログラムを組めば、日本は効率的に排出量を削減することが出来るのだろうか。
筆者は、開発途上国とリンクした(CDM(クリーン開発メカニズム)を多く売買できる)
キャップ&トレード制の排出権取引の国内実施が一番の方法だと考える。これにより、日本は
効率的に排出量削減目標を達成できると考える。CDMとは、第 1 章で説明したとおり、発展
途上国で排出量削減のプログラム(例:排出量の多い製造機械を、排出量の小さい製造機械に
置き換える。など)を行い、そこに先進国は費用やノウハウを提供し、そのプログラムで削減
できた温室効果ガスを排出権として、先進国が受け取ることが出来るという制度である 3。こ
れにより、日本国内で排出権削減を行うよりもはるかに低コストで排出量削減を行うことが出
来るのである。現在のCDMの買取先の多くはヨーロッパのキャップ&トレード制の排出権取引
である。日本も一部の商社でCDM排出権が売り買いされているがヨーロッパの商社の方が高
い価格でCDMを買い取ってくれるということで、発展途上国はヨーロッパを主な取引相手に
選んでいる。日本とヨーロッパで買い取り価格が違うのは、市場需要の差が原因である。
日本は、キャップが決められていないので、自主規制はあるが、実際、排出権を買うまでの
需要はない。ヨーロッパはキャップがあり、排出権を買ってでもキャップは守らなくてはなら
ない。ここに需要の差が生まれるのである。需要が多いほうが排出権価格も高くなるのは当然
である。ここで日本の場合を考えてみよう。日本は、排出権削減コストが高い。日本で排出量
削減コストが高いということは、CDM の潜在的需要が高いということである。もし、日本で
キャップ&トレード制度の排出権取引を行ったとき、その潜在需要は表出し、ヨーロッパの排
出権価格よりも高い価格で発展途上国の排出権を買うことが出来るようになる。これは、CDM
に対して、日本はヨーロッパよりも潜在的には優位に対することが出来るということである。
以上のような考察から、日本は単体でキャップ&トレード制の排出権取引を行うことは、国
内経済に大きなダメージを生み、産業の空洞化を引き起こすであろうといえるが、中国やイン
ドなどの発展途上国とリンクし、CDM を売買しやすい環境を整えれば、ヨーロッパにも対抗
できるだけの優位な環境を気づくことができ、また、排出権の削減責任も効率的に果たすこと
ができるといえよう。
排出削減は、地球市民としての義務である。多かれ少なかれ、遅かれ、早かれ、私たちは、
排出削減を行わなければならない。それは、一面的に見れば、産業の成長を阻む存在でしかな
いが、地球を住みよい星にするために必要な行動なのである。その為の方法として、今まで人
3
CDM については、章末の補論も参照。
360
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済
類が培ってきた経済やビジネスの知識を活かすことは、人類らしい手段なのである。発展途上
国とリンクしながら、ビジネスの手法を利用して、地球の危機を救うのは、新しい地球市民と
しての生き方なのかもしれない。
361
キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
参考文献
大串卓矢(2006)『なるほど図解
排出権取引のしくみ』中央経済社
北村慶(2007)『「温暖化」がカネになる
北村慶(2008)『排出権取引とは何か
環境と経済学のホントの関係』PHP 出版
知っておきたい二酸化炭素市場の仕組み』
PHP 出版
総務省統計局(2008)『世界の統計〈2008 年版〉』
日本スマートエナジー(2008)『最新
排出権取引の基本と仕組みがよ~くわかる本』
秀和システム
松橋隆治(2002)『京都議定書と地球の再生』NHK 出版
Kanen, Joost L.M. (2008) 〔大槻雅彦
上田善紹(訳)
『排出権市場の価格メカニズム
州に見る排出権取引の実態』金融財政事情研究会〕
International Energy Agency (2008) Issues behind Competitiveness and Carbon
Leakage --Focus on Heavy Industry--, IEA information paper, OECD
参考ホームページ
http://www.keidanren.or.jp/indexj.html
経済団体連合ホームページ
IEA(国際エネルギー機構)ホームページ http://www.iea.org/
EUROSTATホームページ
http://epp.eurostat.
省エネルギー庁ホームページ
http://www.enecho.meti.go.jp/
環境省ホームページ http://www.env.go.jp/
経済産業省ホームページ
http://www.meti.go.jp/
EICネットホームページ http://www.eic.or.jp/
ポイントカーボンホームページ
http://www.ghg.jp/pointcarbon/research/index.html
IAI(国際アルミニウム機構)http://www.world-aluminium.org/
欧
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【補論】京都議定書と京都メカニズム
ここでは、京都議定書ならびに京都メカニズムに関連した用語を整理した。
京都議定書
1997 年に京都で開かれた第 3 回気候変動枠組み条約締約国会議において採択された議定書。
ロシアの批准を受け、2005 年発行された。内容は、締約国の温室効果ガス排出量の削減目標
を数値化して、明らかにし、それを達成するためのシステム(京都メカニズム)などの方法を
示した。
温室効果ガスの上限値は各国の 1990 年における温室効果ガス排出量を基準とし、これと比
較した 2008~2012 年(第 1 約束期間)の 5 年間の排出量の増減率の形で各国が目標値として
設定することになっている。目標値が定められたのは OECD と経済移行国の合計 35 カ国であ
る。この 35 カ国は京都議定書では付属書 I 国と呼ばれる。(付属書 I 国と各国に設けられた
排出量削減目標量については次ページの表を参考)また、2012 年以降の 2013~2017 年の 5
年間を京都議定書の第 2 タームとして、以後 5 年単位で第 3、第 4 と続いていく。
排出権
一言で表すならば、各国が温室効果ガスを排出してよい権利。排出権は、法律上の権利では
なく、目に見えない無形財産である。地球の炭素処理能力を一つの資源と考え、各国に規制を
設けたことによって、今まで無限に排出してもよかった温室効果ガスの排出が有限になったと
考えることができる。次ページの付属 I 国と削減目標は、1990 年の排出量を 100 と考えたと
き、2005 年から 2012 年までの温室効果ガス排出量をそのときの何パーセント分使用してよい
かという権利である。
温室効果ガス
二酸化炭素(CO2),メタン、一酸化二窒素、ハイドロフルオロカーボン、パーフルオロカー
ボン、六フッ化硫黄など、温室効果を引き起こす気体。
付属書 I 国
OECD+経済移行国、合計 35 カ国に削減目標は設けられた。アメリカについで世界 2 位の
温室効果ガス排出を行う中国や経済発展に伴い排出量の増えるインドなどの発展途上国は、削
減目標は設けられなかった。また、自国の経済に大きな不利益を被るとして、アメリカとオー
ストラリアは 2000 年に京都議定書から離脱した。
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キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
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京都メカニズム
先進国は、すでに経済体制や産業生産が効率、省エネ化され自国のみでの排出権の削減は難
しい。特に日本は、1970 年代に起きた、オイルショックによって国として省エネルギー化政
策を進めていたので、自国だけで 6%もの排出量の削減は不可能であった。そのような先進国
が排出量の削減を火の可能にするための方法が「京都メカニズム」である。
海外で実施した温室効果ガスの排出削減量等を、自国の排出削減約束の達成に換算すること
ができるとした柔軟性措置。京都議定書において定められたもの。温室効果ガス削減数値目標
の達成を容易にするために、京都議定書では、直接的な国内の排出削減以外に共同実施(Joint
Implementation: JI)、クリーン開発メカニズム(Clean Development Mechanism: CDM、)、
排出量取引(Emission Trading: ET)、という 3 つのメカニズムを導入。さらに森林の吸収量
の増大も排出量の削減に算入を認められている。これらを総称して京都メカニズムと呼ぶ。共
同実施と排出量取引は先進締約国間で実施され、コミットメント達成を目的とした国内行動に
対して補完的であるべきと要求されている。CDM は先進国の政府や企業が省エネルギープロ
ジェクトなどを途上国で実施することである。
共同実施(JI)
地球温暖化対策にあたり複数の国が技術、ノウハウ、資金を持ち寄り共同で対策・事業に取
り組むことにより、全体として費用効果的に推進することを目的とするものである。先進国同
士が共同で排出削減や吸収のプロジェクトを実施し、投資国が自国の数値目標の達成のために
その排出削減単位をクレジットとして獲得できる仕組みである。
クリーン開発メカニズム(CDM)
同じく柔軟措置のひとつである「共同実施」に似ているが、発展途上国(非付属書 I 国)に
おけるプロジェクト投資を管理するものである。なお、同議定書には「排出量取引」「共同実
施」と合わせて、3 つの柔軟性措置が規定されている。具体的には、先進国と途上国が共同で
温室効果ガス削減プロジェクトを途上国において実施し、そこで生じた削減分の一部を先進国
がクレジットとして得て、自国の削減に充当できる仕組み。なお、このとき先進国が得られる
削減相当量を「認証排出削減量)」という。
ここで、注意しておきたいことは「共同実施(JI)」「クリーン開発メカニズム(CDR)」と
「排出権取引(ET)」の種類の違いである。JI や CDR は、排出権そのものを生産することに
よって排出権を得ることができるが、排出権取引は、排出権としてすでに生産され余剰された
ものが、不足しているところへと金銭的な売買によって移行することである。つまり、CDR
や JI などで生産された排出権も、排出権取引の対象となるのである。京都メカニズムとして
機能しているが、JI,CDR と ET は排出権の得方が違うところは気をつけておきたい。
排出権取引
あらかじめ定められた排出権に対して、排出権を超過して排出する主体と排出権を下回った
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キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
主体との間で、排出権を売買することで、全体の排出量をコントロールする仕組み。京都議定
書で定められている取引は、国同士が行うものだけであるが、EU-ETS や日本の域内市場では、
企業や自治体レベルで行われている。
図A-1
排出権取引の仕組み
出典:みずほ情報総研
JI,CDR,ET、京都議定書における柔軟性措置は、排出量削減が義務付けられた先進国におい
て、その削減義務が達成しやすくなるという目的と同時に、JI,CDR では、先進国や省エネ技
術の発達した国が発展途上国に対し、技術移転、資金提供を行うきっかけとなり、環境問題を
名目とした富の再配分が行えるような仕組みとなった。また、ET では、排出権の削減やその
為の規制がただの社会のコストになるだけということを防ぎ、排出権という無形財産を使った
新たな市場を作った。
366
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際
経
済
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キャップ&トレード方式の排出権取引は日本に産業の空洞化を惹き起こすのか
あ
と
が
き
私は、この論文を10年たって見返したときに面白いものになるようにという
ことを考えて書きました。
10年経ったら、社会はどのように変わっているのでしょうか。1990 年という
年に生きていた人は、バブルがはじけるとは考えていなかったでしょうし、2000
年に暮らしていた人は、今度はアメリカを端として世界全体が不況になろうとは考
えてもみなかったはずです。
なかなか、予想がつきづらい未来。先のわからない10年後だから面白い。考え
て、書いてみる価値があるのだと思いました。その中でも、今後5年、10年と日
本だけでなく世界全体のメイントピックとなりそうな「環境」分野に焦点を当て、
本論文を書きました。
10年後のそのときに、2009 年に私が予想した社会と、そのときの社会を照ら
し合わせて、どこが違い、どこがあっていたのかを確認したいと思います。
また、10年後のそのときに、私がどこにいて、どのような立場で社会と関りあ
っているのかは分かりませんが、2009 年の卒論を必死に書いていたころのような
ひたむきさや未来にかける希望を思い出してもらいたいと思います。
私が思い描いていた未来や夢を、叶えていても、違う形で生きていたとしても、
2009 年の学生生活最後の年末年始に必死で半分狂ったようになりながら論文に没
頭していた情熱や純粋さを思い出してほしいのです。
そう考えると、この論文は、私が、10年後の社会と未来の自分に送るラブレタ
ーなのかもしれません。
渡 辺 知 里
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済
国際関係論コース
卒業 論文選集
2008 年度
2009 年3月
埼玉大学 教養学部
現代社会専修 国際関係論専攻
〒338-8570 さいたま市桜区下大久保255
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