民主化ドミノと脱宗教という幻想

『現代宗教 2012』
(ドラフト)
「民主化ドミノと脱宗教という幻想」
塩尻和子
東京国際大学国際交流研究所長
1、
誰にも知られない砂漠に
リビアを四二年にわたって支配した特異な独裁者、ムアンマル・アル=カッザーフィー(カ
ダフィー)は、八カ月におよぶ内戦を経て、二〇一一年一〇月二〇日、
「撃たないでくれ」
という言葉を最後に殺害され、五日後の二五日に「誰にも知られないように」リビア砂漠の
奥地に埋葬された。BBC やアル・ジャジーラなどの報道によれば、シルト地方に住む親族
と暫定政府の要人たちの立ち合いのもとで、四男のムウタシムや、最後まで行動を共にした
側近らの遺体とともに、イスラームの儀礼に則って葬られたと伝えられる。イスラーム法に
よると一般には、人の死後、できるだけ素早く、二四時間以内の埋葬が奨励されているが、
死去から五日後の埋葬というのは、
イスラーム法に拘泥しないことが多かったカッザーフィ
ーらしいということができるかもしれない。
日本の新聞は、墜ちた独裁者カッザーフィーの埋葬は簡素な儀式で執り行われた、と報じ
たが、イスラームの葬送儀礼は本来、簡素なものである。おそらく世界の宗教の中で、もっ
とも簡素な葬送儀礼であろうと思われる(1)。また、すぐに砂で覆われて、誰の墓かわから
なくなる、という埋葬方法は、カッザーフィーの墓が信奉者にとって聖地となることを恐れ
たために採用されたとも報じられるが、
このような埋葬方法はサウジアラビアなどでは王族
にも適用されている。イスラームの葬送儀礼では、珍しいことでも特別なことでもない。
カッザーフィーの死をうけて、
一〇月二三日にリビア全土の解放を宣言した暫定国民評議
会は、
この後のリビアの再建についてイスラーム法シャリーアを法制度の基本とすると発表
し、その一例として四人までの妻帯を許可し、また預貯金に利子をつけることを禁止すると
した(2)。四二年にわたるカッザーフィーの政治理念とは隔絶するかのような発表に、欧米
では宗教の厳格化と過激派イスラーム集団の勢力拡大を懸念する声も上がっている。
しかし、
イスラームを国教とする国であれば、イスラーム法を第一の基本として国家の法律を制定す
ることは、特別なことではない。
一月一四日のチュニジアのいわゆるジャスミン革命の成功から、リビアのカッザーフィ
ーの死亡まで、九か月あまり続いたアラブの「民主化ドミノ」では、反政府運動の主体は
1
若者を中心とした一般市民であり、アル・カーイダなどに代表される過激派イスラーム集
団の参加は見られなかったといわれる。新聞などでは、どこにも宗教色のない革命といっ
た表現も用いられていた。しかし、
「宗教色」とは何を指すのだろうか。これまでは反政府
運動の前面にでていた過激派や戦闘的な集団が先頭にたつことがなかった今回の社会変革
は、宗教とは無縁の環境下で実施されたのであろうか。
イスラームは本来、精神生活と日常生活のすべてを対象とする包括的な宗教であり、政
教一致こそが理想である。しかし、この理想は正しく理解されていないどころか、イスラ
ームの後進性をあげつらう際によく用いられる表現である。イスラームの「政教一致」は
宗教的な理想であり、歴史上、一度も実現されたことは、ない。宗教の教えと規律が個人
の精神生活と日常生活だけでなく、社会や国家の統合理念として政治の在り方にまで影響
を及ぼすことは、イスラームだけの現象ではない。政教分離を謳うキリスト教でも、世俗
社会とのかかわりを絶つことを教義とする仏教でさえも、社会が宗教の教えに則って運営
されるということは重要な理想であり、政教一致であるとして否定されるものではない(3)。
また、イスラームと民主主義は相いれないという議論も喧しいが、イスラームは草創期
から衆議制度(シューラー)を認めており、国民の合意のもとに政治を行なうという民主
主義的な理想をもっている。しかも、長期独裁政権に反対する現在のイスラーム政党は、
これまでも民主主義的政治を求めて闘っており、民主的社会の建設を希求してきた(4)。こ
れらの点については後述するが、その前に今回の、いわゆる民主化ドミノについて、リビ
アとチュニジアの事例を中心に、簡単に経過を追ってみたい。
2、
燎原の火のごとく(5)
二〇一一年は北アフリカから中東一帯にかけて、市民を中心とする社会変革が広がる年
となった。口火を切ったのはチュニジアの市民革命で、一月一四日には二三年間君臨した
ベン・アリー大統領が国外へ脱出、二月一一日にはエジプトでムバーラク大統領が辞任し、
三〇年間にわたった独裁政権が崩壊した。その余波をうけて、はやくも二月一五日には、
リビアの東部都市、ベンガジで反体制デモが拡大し、瞬く間にキレナイカ地方一帯に広ま
った。
しかも、中東地域には、君主制を敷いている国を別にしても、共和制を採りながら独裁
的な長期政権を戴く国家が多い。アルジェリアやエジプトだけでなく、立憲君主制のヨル
ダンやバハレーンでも、チュニジアの暴動を契機として、物価安定、失業問題の解決、言
2
論の自由、平等な市民権などを求めて市民デモが起きている。
リビアの最高指導者カッザーフィー大佐は特異な政治的理想を原理として欧米列強を敵
視する政策を掲げて四二年間にわたってリビアを支配してきた独裁者である。そのために、
反体制派は、人権擁護や中東の民主化の観点から、国際世論の支持を早くから取り付ける
ことに成功していた。反体制運動の初期から、チュニジアとエジプトの事例をもとに想定
すると、カッザーフィーの政権が崩壊するのも、時間の問題だと見られていた。さらに、
チュニジアやエジプトと同様に、騒乱の早い時期から、リビア国軍の中には反体制派に与
する将軍や部隊が多く、三月五日には離反した元閣僚や有識者たちによって「暫定国民評
議会」がベンガジに設置され、リビアを代表する正当な組織であると宣言された。これを
欧米だけでなく、中東諸国までが認めるに至って、カッザーフィー政権の維持は難しい状
態になってきた。
しかし、政権側は以前から国軍のほかに、豊富な資金によって十分な装備を与えられた
傭兵を、アフリカ各地から雇用していた。金で雇われた彼らは、武器を持たない一般市民
に対して容赦ない攻撃を加えるという事態が生じた。そのために、カッザーフィー政権は
外国人傭兵を使って自国民の殺戮を開始し、数千人ともいわれる多くの市民が犠牲になっ
たと伝えられる。
このような事態を、人道的見地から座視することはできないとして、フランス・イギリ
スを中心に、国連安全保障理事会による飛行禁止区域の設定と対リビア制裁強化の決議が
採択され、NATO によるリビア空軍の施設や軍事基地や戦車などの破壊を目的とした空爆
が開始された。それから七か月が過ぎて、ようやく最後の砦、シルトが陥落し、カッザー
フィーも殺害されたのである。
3、
カッザーフィー政権の軌跡
チュニジアのベン・アリーやエジプトのムバーラクとは異なり、カッザーフィーがなぜ、
ここまで長く、大きな犠牲を払いながらも強硬に抵抗をつづけたのか、その理由を語る出
来事がある。NATO 軍は四月三〇日夜にカッザーフィーの住居であるバーブ・アル・アズ
ィーズィーヤを空爆したが、ここはリビアにとって象徴的な場所である。一九八六年四月、
当時のアメリカのレーガン大統領の命令に基づいてアメリカ空軍と海軍の合同作戦によっ
て、トリポリ空港とバーブ・アル・アズィーズィーヤの兵舎一帯が爆撃された。この攻撃
の際に、カッザーフィー自身は日常的に使用していた地下壕にいたと思われ、まったく被
3
害をうけなかった。しかし、家族の住居の玄関あたりには爆弾が落ち、爆風によって二人
の息子が負傷したが、その一人は、カッザーフィーの後継者と目されたていた次男のセイ
フ・アル・イスラームだといわれている。
爆撃の跡がのこる住居部分は半ば廃墟となっているが、そのまま保存されて、最近まで
「アメリカの蛮行の記念碑」として、賓客に公開されていた。この記念碑の前庭ではテー
ブルが設えられて、公式の晩餐会が催されることがあった。バーブ・アル・アズィーズィ
ーヤは、軍事基地と支配者の住居が一体化した、いわばリビアの「大本営」であり、外部
は物々しく警備されていたが、内部は四二年もの独裁政治を敷いてきた支配者としては、
かなり質素な「王宮」であった(6)。
カッザーフィーの革命と、それを理論化したジャマーヒーリーヤ体制は、これまで中東
やアフリカで傍若無人の振る舞いをしてきた西洋列強に対抗してリビアの自立を図り、そ
れによって、これまで搾取されてきたアフリカの真の独立を打ち立てようとするものであ
った。リビアは第二次世界大戦後の一九五一年に連邦制の王国として独立したが、王国政
府は社会の急激な変化に対応することができず、リビア各地で激しい抗議運動が展開され
るようになっていた。カッザーフィーを中心とする若手将校団は、一九六九年九月に、王
権を廃止し共和国制を樹立することを目的とした無血革命を成し遂げた。やがて、カッザ
ーフィーは首相職や革命評議会議長の職を相次いで辞任し、
「大佐」という称号だけを名乗
り、国民からは「革命の指導者」と呼ばれた。
七六年から七九年にかけて、リビアの政治体制を決定する『緑の書』三部作が発表され
た。『緑の書』で強調されている点は、
「第三世界理論」と称されるもので、共産主義でも
資本主義でもない第三の独自の視点から社会を包括的にとらえた、ある意味で理想社会論
である。七七年に人民による直接統治を目指した「ジャマーヒーリーヤ」制度が採用され
たが、これは第三世界理論に基づく政治制度である。政府も議会も否定して、西洋諸国に
はない独自の民主主義を育てようとして採用したシステムである。
カッザーフィーは『緑の書』で円形の図表を描いて国家構造を説明しているが、円の中
央へ行くほど権力が集中してくることが読み取れる。直接民主主義といいながら、実際に
は完全なピラミッド型になっていて、容易に独裁が生じやすい構造になっていることが理
解される。若きカッザーフィーが理想とした直接民主主義体制は、ピラミッドの頂点にし
か決定権がなく、途中の段階では、誰も責任をとらない構造になっていた。
私は二〇一一年の一月中旬までは、
「現在の政権が(大量破壊兵器廃棄などの)外交面で
4
一定の成果をしめしつつある状況のなかでは、反政府勢力が勢いを得てなんらかの騒動を
起こす可能性は、今の時点ではかなり低いとみられている」(7)と考えていた。しかし、チ
ュニジアの市民革命が成功したころから、次はリビアで反体制運動がおこる、という確信
をもった。その理由は、直接民主主義ジャマーヒーリーヤのシステムが、決して言論の自
由や基本的人権が保護される民主主義的な政治体制ではなかったからである。
リビアは天然ガスや良質な石油などの豊かな天然資源によって、周辺の国々と比較すれ
ば、国民の基本的な生活は、政府によってかなり保護されていた。医療、教育、基本的な
食糧支援なども、質さえ問わなければ十分に行き渡っていた。四〇%ともいわれる若者の
失業率の高さも、ほとんどの単純労働をアフリカからやってくる労働者に委ねたり、熟練
労働や専門的な職業を近隣の中東諸国からの出稼ぎ者に請け負わせたりした結果でもある。
特に高学歴のリビアの若者の多くは、アフリカや近隣のアラブ諸国からの出稼ぎ労働者の
上に位置する仕事でなければ、就業しようとしないのが実態であるとみられる。
イギリスの歴史学者ジョン・アクトンは「権力は腐敗する、専制権力は徹底的に腐敗す
る」と言ったことで知られるが、リビア砂漠の遊牧民の出自を誇りとしてきたカッザーフ
ィーも、彼の息子たちも、国民の生活や教育水準を向上させようと努力することはほとん
どなく、外国資本への投資を含めて莫大な不正蓄財を保有していた。外国訪問時にもテン
トを張り、ラクダを連れて行くという生活様式に固執したカッザーフィーは、一見、質素
な生活をしているようにみえるが、飛行機にラクダを乗せて行き、滞在先でテントを張る
ことは、現代では非常に経費がかかることである。時おり、海外で醜聞をまき散らす息子
たちの行状も、国民にとっては腹に据えかねる事態であったであろう。
4、
ベンガジの誇り
今回のリビアの反政府運動が、首都のトリポリからではなく、東部地域の都市ベンガジ
から開始されたことから、リビアの歴史的特徴がうかがえる。リビアの地理的な区分は、
大きく分けて西部のトリポリタニア、中南部のフェッザーン、東部のキレナイカに分けら
れる。一九五一年に連邦制の王国として独立したのも、この地理的区分のそれぞれの自治
制を認めて連邦制としたものであった。紀元前二〇〇〇年ころから現在のレバノンやシリ
アからフェニキア人が入植してトリポリを中心として港湾都市を建設し交易事業で繁栄し
て以来、フェキニア人の末裔という伝統は、現在でもリビア国内のあちこちに生きている。
フェッザーンを中心とする内陸部の砂漠地帯では先史時代から近年まで、遊牧や半遊牧
5
の原住部族が自由に移動しつつ暮らしていた。しかし、ローマ帝国やオスマン帝国、イタ
リアなどの外国勢力は、古代から近代にいたるまで、これらの内陸部の遊牧の商人たちを
懐柔することによって、中央アフリカから地中海へと続く隊商路を確保していた。特にロ
ーマ帝国はアフリカの物産の集積地としてフェッザーンの隊商路を重要視したために、こ
の地域にもローマの文化が及んでいた。
七世紀にイスラーム教徒のアラブ軍がアラビア半島から北アフリカに侵攻してきてから
は内陸部にもイスラームが浸透したが、周辺で興亡を繰り返したイスラーム政権はリビア
に政治の中心を置かなかった。当時、リビアの地中海沿岸は海賊が横行する地域となって
おり、一五五一年にリビアを征服したオスマン帝国も、海賊の支配を黙認していた。
リビアで独立した王朝が成立したのは、一七一一年になってからであり、トルコ軍人と
リビア人女性の間に生まれたアフマド・カラマンリーが興したカラマンリー王朝が初めて
のリビア人王朝であるといわれる。王朝は一二四年続いたが、一八三五年にふたたびオス
マン帝国に占領され、トリポリは軍事基地に改変されてしまった。
カラマンリー朝がオスマン帝国に滅ぼされてから一〇年後、リビアではオスマン帝国の
支配に対する抵抗運動が広がってきた。この抵抗運動は、ムハンマド・アリー・アル・サ
ヌーシー(一七八七?~一八九五)が創始したイスラーム神秘主義教団のサヌーシー教団
に率いられた反乱軍によって、リビア東部のキレナイカ地方と西南部のフェッザーン一帯
に展開された。この抵抗運動にはイタリアが介入したために、オスマン帝国は一九一二年
のローザンヌ条約で、リビアをイタリアに譲渡したが、イタリアの占領政策はオスマン帝
国の支配とは比較にならないほど過酷なものであった。特にサヌーシー教団の指導者ウマ
ル・アル・ムフタール(一八五八~一九三一)に率いられたキレナイカ地方の人々の抵抗
運動に対する弾圧は残虐なものであり、三〇年間にわたるリビア支配下で、全リビア人の
四分の一が死亡したと伝えられるほどであった。
対イタリア抵抗運動の闘士、
「砂漠のライオン」と呼ばれたウマル・アル・ムフタールは
カッザーフィーが最も尊敬する勇士であるといわれ、最近までリビアの一〇ディナール紙
幣に、その姿が印刷されていた。彼の出身地キレナイカ地方、とくにその中でも中心都市
のベンガジは、現在でも反権力意識が強い地域だといわれており、リビアでの反政府暴動
はベンガジから起こるという傾向がある。
二〇一一年二月に勃発した反カッザーフィー運動が、ベンガジから起こり、たちまちキ
レナイカ地方一帯に燎原の火のように広まっていったことは、リビアの近代史からみれば、
6
当然のことであった。反政府運動に参加する若者たちは、かつての首都の誇りを取り戻す
べく、イドリース国王の写真や旧王国時代の国旗を掲げたりして気勢を上げたのである。
5、
新政権の行方
二〇一一年一月一四日にベン・アリー大統領が国外へ逃亡したチュニジアも、二月一一
日にムバーラク大統領が辞任を発表したエジプトも、市民の反政府運動が開始されてから
それぞれ九日後と一八日後に政権が崩壊している。しかし、この両国も、その後の新政府
の樹立と政治的安定には予想外の時間がかかりそうである。リビアでは、二月一五日にベ
ンガジで数百人規模の反政府運動が開始され、二〇日には反体制派がベンガジを制圧し、
シルト湾沿岸の都市ミスラータとトリポリの西側の小都市ザーウィヤまでも制圧したと伝
えられた。三月五日にはベンガジで暫定リビア国民評議会が発足し、アブド・アル・ジャ
リール前司法担当書記(法務大臣相当)が議長に就き、リビア国民を代表する唯一の機関
として、八日には EU を訪問するなどの外交活動を活発化させてきた。しかし、その後も、
カッザーフィー側は強気の発言を繰り返し、傭兵を投入して反政府運動を弾圧し続けてい
た。
三月一七日には国連安保理による「対リビア飛行禁止区域設定と制裁強化措置」が決議
され、即時停戦と市民に対する暴力と攻撃の停止が要求されるなど、EU 諸国や NATO 加
盟国だけでなく、近隣の中東諸国からも、カッザーフィー一族の資産凍結、経済制裁措置、
停戦の要求と、リビア国民評議会の承認などが続いていたが、反政府運動勃発から八か月
をへて、一〇月二〇日にカッザーフィーが殺害され、ようやく激しい内戦が一応の終結を
みた。
両隣の二国と決定的に異なる点は、カッザーフィー政権が国際社会から完全に包囲され
た挙句に NATO 軍の攻撃によって崩壊したことであり、これによって、今後のリビアの政
権が、欧米による石油や天然ガスの利権に左右される危うさが、すでに指摘されている。
誰もが当たり前と考えていた欧米列強の世界支配の体制に反旗を翻し、これまで誰も考え
なかった「第三世界理論」を現実の政治に具体化させようとして、じつに四二年間も戦い
続けたカッザーフィーが、最も嫌っていた欧米主体の世界支配の洪水が目前に迫っている。
カッザーフィー体制崩壊後のリビアが、新しく民主主義国家として生まれ変わるために、
リビア国内の「部族」の動向が問題視されることがある。たしかに、カッザーフィー自身
もカッザードファと呼ばれる部族に属し、シルトの南方約四〇キロメートルの砂漠の遊牧
7
民のテントで生まれている。リビアの遊牧民は、部族社会同士の抗争を繰り返してきた、
というより、比較的自由に砂漠を移動して生計を立てていたと思われる。キレナイカを中
心にフェッザーンにも勢力を伸ばした、神秘主義教団サヌーシー教団の精神的指導の伝統
は、今でもリビア人気質に大きな影響を与えている。サヌーシー教団の活動によって、リ
ビアの人々は、個々の部族の利害関係によって対立するのではなく、遊牧民の伝統と文化
を守りつつ、自立した共存社会を形成してきたからである。トリポリ大学のサワーニ―教
授も「部族は政治的にそれほど重要ではない」と語っている(8)。
長期に君臨した独裁政権が崩壊したのち、新しい国造りのための新指導者を選択する総
選挙でさえも、やっと実施されはじめたチュニジアやエジプトと比較して、現政権が崩壊
する前から、国民評議会を結成し、堂々と国際社会と向き合っているリビアの人々の素早
く手堅い対応をみていると、部族社会の対立や、トリポリとベンガジの長年のライバル関
係などを超えて、共通するフェニキアの伝統のもとに集結することができるのではないか
と期待している。それを支える精神的基盤が、リビア人の心の故郷サヌーシー教団であり、
イスラームである。
6、
地中海ブルーの国(9)
話が前後するが、ここでチュニジア情勢について検討しよう。地中海に面した北アフリ
カの小国、観光地として名高いチュニジアで二〇一〇年一二月中旬から市民暴動が起こっ
た。二三年間にわたってこの国を支配したベン・アリー大統領は、独裁政権でありながら、
これまで近代化に成功した政権として世界からその手腕が認められてきた。ベン・アリー
長期政権も、西側から評価されてきた政治的経済的手腕の陰で、一族の汚職や不正蓄財は
相当なものであったらしい。大統領は一月一四日の夕刻(現地時間)
、突然、国外へ逃亡し、
サウジアラビアに亡命した。市民による独裁政権打倒の成功はジャスミン革命ともてはや
され、いわゆる「アラブの春」の先駆けとなった。それから九カ月余を経て一〇月二三日
に制憲議会選挙が実施されたが、政権転覆を担った若者や市民に新政権樹立への熱意は失
せている。その間隙をぬって、イスラーム主義政党のナフダ(ナハダ、復興の意)が九〇
議席を獲得して第一党に躍進し、各党はナフダを中心に連立を模索していると伝えられる。
チュニジアでは旧政権下ではイスラーム政党は非合法とされ、ナフダの指導者ガンヌー
シーも二二年間もイギリスへ亡命していた。これまで宗教的には寛容な政策が採られてい
たこともあり、市民革命の最中ではイスラーム的集団の陰はほとんど見られなかったが、
8
新政権樹立へむけて、ここでもイスラーム色が復活しつつある。
チュニジアは、紺碧の地中海と澄み切った青空が美しく、古代ローマ帝国に滅ぼされて
わずかに残るカルタゴ遺跡と、威容を誇るローマの市街地や劇場・競技場の遺跡のコント
ラストだけでなく、変化に富んだ自然と南仏を思わせる近代的なリゾート、エキゾティッ
クなイスラーム式バザールの光景、精巧な細工物や香料、オリーブなどの土産物、それに
旅人に親切な穏やかな国民性も相まって、世界中の観光客を惹きつける、北アフリカ随一
の観光地である。日本人にとっても、「カルタゴの国」として、歴史のロマンが味わえる地
でもある。チュニジアのように地方へ行っても、清潔で味わい深い観光が楽しめる国は、
それほど多くはない。
ほとんどの国民がアラビア語とフランス語をバイリンガルに話すことができ、教育水準
も高い。ベン・アリー大統領は失脚直前まで、親日家を自称し科学技術立国である日本を
見習いたいと言っていた。三年前に二九名のチュニジアの大学院生が、円借款による奨学
生として日本各地の大学院に留学した際にも、大統領の親日家ぶりは強調されていた。
しかし、チュニジア政府による高等教育の奨励策は、皮肉なことに、高学歴の若者の人
口を増加させ、大卒者の失業率を高める結果となった。チュニジアの失業率は一四.七%
だといわれるが、特に大卒者の失業率は二五%にも達する。これといった産業もなく、天
然資源も乏しく、日本の本州よりすこし狭いチュニジアにとって、「教育」は、ある意味で
希望の光であったはずである。今日の世界的な不況は、観光立国に大きな痛手を与え、物
価の高騰を招き、若者の失業率を高める結果となってしまった。それも、とりわけ国家の
期待を一身に背負った大卒者の失業率を高めてしまったのである。
7、
焼身自殺の衝撃
イスラームの教えでは、人の命は神から与えられたものであり、人が自ら奪ってはなら
ないとされている。人生に失望すること自体が全知全能の神の恵みや予定を否定すること
につながるために、自殺は極めて大きな罪である。そのために、原則として自殺者には葬
儀を行なうことは許されていない。しかし、二〇一〇年一二月一七日、チュニジア中南部
の地方都市シーディ・ブジッドで失業中の青年が、警官による野菜屋台の排除に抗議して
焼身自殺を図ったことについては、一般的な自殺とは判断されなかった。それは自らの命
をもって政府に覚悟の抗議をした殉死であると受け止められた。
しかし、この抗議の焼身自殺が、国中を揺り動かし、二三年間も君臨した大統領を追い
9
出すことに繋がるほどの大きな衝撃を与えたことは、神によって禁止されている自殺とい
う行為をあえて犯すほど青年が切迫していたことを示している。しかも多くの国民が、こ
の青年と同じような困窮した状況下におかれていたことをも、明らかにしたのである。
チュニジアは観光立国だけあって、表面的には宗教的規制は緩やかである。国民の多く
は伝統をよく守り宗教熱心であるが、他人の行為には干渉しないようにみえる。
このように宗教的には寛容なチュニジアであるが、青年の焼身自殺がこれほどまでに多
くの人々の感情を揺り動かした原因となった。自殺した青年は盛大に葬られたのである。
これを契機として失業問題や諸物価の高騰等に苦しむ若者を中心とした市民の怒りが、国
中に広まる抗議行動となって、治安部隊と衝突して多くの死傷者が発生したのである。
8、
インターネットの広がり
ベン・アリー政権は、末期になるほど言論統制を強め、街にはつねに秘密警察が目を光
らせており、夜中の通行はいたるところで検問を受けた。私が二〇一〇年五月にチュニス
を訪れた際には、昼間でも幹線道路で検問を受けることがあった。同様に、インターネッ
ト上の発言もかなり厳密に統制されていた。しかし、個人の電子メールやフェイスブック、
ツイッターなどまで、すべて規制をかけることはできなかったようである。一二月の焼身
自殺のニュースはたちまち、ネットに乗って国の内外まで広まっていった。翌年一月一一
日に、ついに政府は全国の高校、大学の一時閉鎖を命じた。一二日にはチュニス郊外で死
傷者を伴う暴動が発生し、一四日には首都でゼネストが実施されるまでになった。ベン・
アリー大統領はテレビで、失業対策と雇用創出、言論の自由の保障、二〇一四年の次期大
統領選挙へは出馬しないことなどを明言したが、その二日後の夕方、家族とともに国外に
脱出し、サウジアラビアに亡命した。
この政府転覆は、中東地域で民衆による初めての政権交代劇であり、チュニジアを代表
する花にちなんでジャスミン革命と呼ばれている。軍隊や治安部隊によるクーデターでは
なく、国民の意思に基づく民衆革命であるとして評価される一方、長い間、強権支配のも
とにあった新政府には、政変後の政治をうまく主導する才覚があるかどうか、不明な点が
多い。すでに、一〇月二三日の制憲議会選挙の結果を不服とする若者たちの反新政府運動
も報じられている。混乱が長引けば、軍隊がクーデターに走る可能性があることも懸念さ
れている。
10
9、
民主化ドミノとはなにか
本稿ではエジプトの事例は扱わないが、
チュニジアに始まり、
エジプト、
リビアへと移り、
紆余曲折をへながらもそれぞれの長期独裁政権を転覆させ、
同時に周辺のシリア、
ヨルダン、
バハレーンなどのアラブ諸国でも反政府運動を引き起こしたことで中東の「民主化ドミノ」
とよばれる現象は、何を意味しているのか、考えてみたい。
もともと中東北アフリカの国々は、二〇世紀初頭までオスマン帝国の領土内にあって、そ
れぞれが独立した国民国家の体制を取っていなかった。
やがてオスマン帝国の弱体化に伴っ
て西洋列強の植民地となり、その後、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけて旧宗主国
から独立した国々である。現在の「国境線」は国民国家の独立に際して人工的に設定された
ものである。
その間、これらの国々は西洋列強による植民地支配と、独立後のアラブ・ナショナリズム
に翻弄されただけでなく、イギリスの三枚舌外交(10)によって一九四八年にイスラエル国
が建設されるにともなって四次にわたる中東戦争を戦い、社会的にも経済的にも疲弊した地
域となっていった。しかし、石油や天然ガスの発見によって、これらの地域は豊かな自然エ
ネルギーの供給源としての重要な役割が認められるにいたって、
非民主主義的な長期独裁政
権の存在は、欧米にとっては戦略上、有利な材料となった。中東に民主主義を育てるといい
ながらも、欧米首脳は、現地の民主主義運動の抑圧を黙認してきたのである(11)。
グローバル化した世界の中では、通信手段の発達によって、あらゆる情報が一瞬にして世
界を席巻する。チュニジアの地方都市で起こった青年の焼身自殺という衝撃的な事件が、イ
ンターネットに乗って世界中に伝えられ、これまで抑圧されていた若者や一般市民が、権力
による迫害を恐れず声を上げることを止めなかった。これまで独裁者側を支援してきた欧米
諸国も、もはや独裁政権を守ることができず、手のひらをかえすように市民の側に立ったの
である。いいかえると反政府運動が、政治的イスラーム集団によって主導された運動ではな
かったために、欧米諸国が市民の側を承認することができた、ということもできよう。
一九二二年のオスマン帝国の滅亡から現在まで、
中東北アフリカ諸国でそれぞれの国民国
家が成立する過程を概観すると、今日の市民運動の本質が見えてくる。民主主義を標榜する
大国の世界戦略上の作戦によって、
長期間にわたって民主的ではない強権的政府を押し付け
られてきた人々の不満が、あるきっかけで爆発し、それが次々と連鎖現象を起こしているの
だということができよう。しかも、参加者たちは、この運動が流血の惨事を伴わないで成功
することは極めて稀であることも承知しているのである。
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このたびの民衆革命運動の最中には、政治的イスラーム集団は影をひそめていたが、運
動が一段落した途端に、今度は穏健なイスラーム集団が政治の表面に躍り出てくるように
なった。そこで、イスラームが表面化することによって、アラブの民主化が阻害されるの
ではないかという議論がおこってくるようになった。
かつて日本もブッシュ前大統領から「戦後、日本人が民主化されるとは思わなかった」
と言われたことがある。しかし、アメリカ型の民主主義だけが民主主義ではない。今日、
日本はれっきとした民主主義国家であるが、日本には日本流の議会制度や法制度があり、
日本の民主主義体制とアメリカの民主主義体制は同一ではない。世界には、それぞれの国
や土地にふさわしい民主主義があることは当然のことである。アメリカ型の民主主義が施
行されないからといって、イスラーム国には民主主義は定着しないと決めつけることはで
きない。
アラブの民主化ドミノには、一九一一年にイタリアによるリビアの植民地化から始まっ
た西洋列強の北アフリカ支配と独裁の長い歴史を振り返り、自国にふさわしい民主主義を
打ち立てようとする市民の意識が働いていることを忘れてはならない。
10、 アラブの春は「春」ではない
開放的で寛容なイスラーム国家チュニジアに、穏健で自由な、チュニジアらしい民主主
義的国家を建設するためにも、観光立国として復活するためにも、若い人々に将来への希
望を持たせるためにも、どのような政治体制が選ばれるのか、ここ数か月はチュニジアか
ら目を逸らすことができない。しかし、チュニジアのナフダが民主的な選挙で選ばれ、国
民の合意のももとでイスラーム法を基本とする国家再建に取り掛かるのであれば、それは
チュニジア人の選択として尊重すべきである。かつてアルジェリアで行われたように、国
民が選んだ政権を、外部から強権的に排除することは、もはや許されない。
前述のように、隣国のリビアでも、九か月におよぶ苛烈な内戦を経て新政府が樹立される
道筋が見えてきたが、暫定国民評議会のアブドゥル・ジャリール議長は、今後のリビアの再
建についてイスラーム法シャリーアを法制度の基本とすると発表した。この動きが両隣の新
政権に大きな影響を与えることは確実である。
エジプトでも穏健派といわれるムスリム同胞
団の活動が活発化している。
チュニジア、リビア、エジプトの三国は、イスラーム国家であるが、スンナ派が圧倒的多
数を占めている。その点では一二イマーム派シーア派が支配するイラン・イスラーム共和国
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のような、いわゆる「神権政治」は行なわれることはないと思われる。イラクのようなシー
ア派とスンナ派の宗派対立もほとんどみられない。しかし、欧米諸国だけでなく、反政府運
動を担った若者や市民からも、自らも敬虔なムスリムでありながら、イスラーム政党の急激
な台頭については、懸念の声が寄せられるようになってきている。市民のアイデンティティ
であり、社会の統合理念でもあるイスラームと、政治活動において実施されるイスラームの
理念との乖離は、小さくはないからである。
イスラームは日常生活全般にかかわる包括的な宗教であり、
個人的にも社会的にも宗教の
規範を遵守することが求められるために、イスラーム政党の台頭は、新政権の動向とあわせ
て、今後、注意深く検証していくことが必要である。
いつから誰が言い出したのかわからないが、プラハの春を真似て、今般の反政府運動の成
功について「アラブの春」という言葉が用いられている。二〇一一年のノーベル平和賞受賞
者のひとりにイエメンの女性運動家が選ばれ、サハロフ賞などの人権活動に与えられる賞も
「アラブの春」の当事者たちに授与されると発表されている。たしかに、国軍の支援を受け
る形で、比較的順調に独裁政権が崩壊したチュニジアとエジプト、九か月にわたる激しい内
戦を経て多くの犠牲者を出したままで新政権へ移行するリビアの三国は、一応の「春」をみ
たであろう。しかし、これらの国々が変革の主体となった若者の支持を取り付けて新しい政
府を発足させ、新たな国家の建設を成功させるためには、乗り越えなければならない難問が
山積している。そういう意味では、諸手を挙げて歓喜に浸る余裕はない。
いまや、現地の人々には不評のこの言葉が一人歩きしているが、中東地域の春は冬から夏
へ向かう過渡期であり、熱風や砂嵐が吹き、気候が急変する季節でもある。理不尽な内政干
渉によって社会システムが破壊されたかつてのアルジェリアやイラクの轍を踏むことなく、
日本をはじめとする国際社会が人的にも経済的にも、息長い支援をすることが必要なのは、
これからである。
民主化運動が向かう先は、
国際社会が望むような安易な民主化ドミノでも脱宗教化でもな
く、自由と人権が守られる市民社会の実現であり、日常的な宗教生活の安定であろう。その
ことを忘れるなら、今後の運動の方向性によっては、アラブに嵐が吹くことが懸念される。
二〇一一年一一月中旬にチュニスおよび地方都市を訪れた筆者は、国内あちこちにフラン
ス語とアラビア語で「自由はいつまで続くのか」
(Libération jusqu’a quand?: Aḥ̣rār lākin
ilā imta?)という標語を見つけた。民衆蜂起によって成功した政権交代劇の今後について
不安感を抱く人々が多いことが実感できる標語である。しかも、街路の光景から、できるだ
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けアラビア語を使用しようとするアラブ化と、女性のベール姿が急増したことに象徴される
イスラーム化とが、急速に進んでいることが覗える。「民主化ドミノ」は決して脱宗教化で
は、ないのである。
注
(1) 拙著『イスラームの人間観・世界観』一六-二三頁を参照されたい。
(2) http://www.aljazeera.net/ 一〇月二三日の国民評議会の声明
(3) 拙著『イスラームを学ぼう』六八-七六頁、アメリカの政治とキリスト教の関係
については『アメリカのグローバル戦略とイスラーム世界』
(明石書店,二〇〇九
年)を参照。
(4) 臼杵陽『アラブ革命の衝撃』
(青土社、二〇一一年)一九三-一九六頁を参照され
たい。
(5) リビア情勢に関しては、拙稿「リビア情勢を読み解く」(『中東研究五一一号』
中東調査会、二〇一一年、一七-二三頁)、塩尻宏著「リビア
カダフィの理
想と挫折」(『世界10』岩波書店、二〇一一年)二〇-二四頁などを参照さ
れたい。
(6) 拙著『リビアを知るための 60 章』明石書店、二〇〇六年、一三四-一四一頁。
カッザーフィー時代のリビアについては、この拙著を参照されたい。
(7) 前掲書、一九三頁などを参照されたい。
(8) 朝日新聞朝刊二〇一一年一〇月二二日、
「オピニオン」参照。一〇月二一日の朝日
新聞朝刊の掲載されたトリポリ大学のシャクリーン教授の意見も参考になる。
(9) チュニジア情勢に関しては拙稿「チュニジアで何が起きているのか」
(
『世界3』
岩波書店、二〇一一年三月一日、二五-二八頁)を参照されたい。
(10)イギリスが一九一五年から一九一七年にかけて、互いに矛盾する外交上の約束
をしたこと。フサイン・マクマホン書簡、サイクス・ピコ協定、バルフォア宣言
の 3 つを指し比喩的に三枚舌外交という。
(11)臼杵、前掲書、一六八-一九六頁を参照されたい。臼杵は中東近代史の流れを
解説しながら、アメリカの国際戦略のもとで中東の民主化が阻害された経緯から
今日のアラブ民衆革命の本質を明快に説明している。
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