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アフラシヤブ・バダルベイリによる初のアゼルバイジャンバレエ『乙女の塔』で主役ギュリヤナグを演じるガマ
ル。 1940年撮影
中心舞台で
アゼルバイジャン初のバレリーナとしての人生
文:Gamal Almaszade
著者近影
ガマル・アルマスザデ(1915−)が少女だった頃、バレリーナになるという考えは恥ずべき事だった。「良い
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お嬢さん」は人前で、しかも脚を出して踊ったりするものではなかった。実際、オペラ歌手ショヴキャト・マメド
ヴァがアゼルバイジャンで初めてチャドルを着けずに舞台で歌ったとき(大騒ぎになり、彼女は舞台から引きずり下
ろされた)、ガマルはまだ3才だった。
父親の反対にもかかわらず、ガマルはバレエの訓練を続け、アゼルバイジャンでは初めての世界的なバレリーナに
なった。1940年、25才の時に、彼女はアゼルバイジャン初のバレエ「グィズ・ガラスィ(乙女の塔)」の主役
を演じる。このバレエは、彼女の夫アフラシヤブ・バダルベイリ(1907−1976)によって、ガマルのために
創作された作品だった。現在[訳注:2002年]87才のガマルは、その生涯と、アゼルバイジャンバレエの誕生
において自身が果たした重要な役割について回想する。
私が10歳のとき、バレエのレッスンに通っているシューラ・ステパノヴァというロシア人の友達がいました。当
時、バクーにはバレエ学校はなく、1923年に「キヴォルコフ・バレエスタジオ」という私立の教室が開かれたば
かりでした。レッスンから戻るといつも、彼女は先生から新しく習ったバレエの動きを私に見せてくれました。とて
も羨ましく思ったものです。レッスンのたびに、その日に勉強したことを見せてもらうのが待ち切れない思いでし
た。
ついに私は、自分もスタジオに行く決心をしました。ただし、家族には内緒でした。登録に行くと、教官たちに名
前を尋ねられました。私は「アルマスザデです」と答えました。彼らは非常に驚きました。これまで、アゼルバイ
ジャン人の女子生徒が入学したことはなかったのです。入学金は6マナトでしたが、私は5マナトしか工面すること
ができませんでした。それでも、先生たちはバレエを学びたいという私の熱意を感じ取り、入学を許可してくれまし
た。
バクーのキヴォルコフ・バレエスタジオの生徒たち。左端がガマル。1929年4月2日撮影なお、当記事の写真
はすべてガマル・アルマスザデの提供による。
長い間、私のバレエ教室通いのことは母しか知りませんでした。母は私に協力し、秘密を守ってくれました。靴
職人だった父は、私のレッスンのことを知りませんでした。スポーツの教室に行っていると思っていたのです。
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1926年、バレエスタジオの生徒たちはオペラ劇場でレオ・ドリーブの「コッペリア」を披露しました。第2幕
の始め、幕が上がると、舞台にはコッペリウス博士の作った数多くの人形たちが立っています。観客は静まり返って
いました。その時、客席にいた一人の子どもが叫びだしました。「ママ、ママ、見て!あれ、ガマルだよ!」美しい
桃色のドレスを着た人形−私です−は突然、舞台の縁に駆け寄り、その少年、つまり弟のアンヴァルを落ち着かせる
と定位置に戻り、また命のない人形になりました。観客の多くはその出来事を面白がったようですが、母と弟は即座
にホールから引き出され、私も教官たちから厳しく叱責されました。
父の反対 FATHER’S DISAPPROVAL
「コッペリア」の公演で、私の秘密は露頭してしまいました。父はその知らせにショックを受けました。自分の娘
が劇場の舞台で踊っていたという事実を受け入れられなかったのです。父は怒り狂い、家じゅうの物を叩き壊しはじ
めました。私は恐怖を感じて隠れようとしましたが、見つかってしまいました。部屋の中央にあった机の周囲を走り
回りながら逃げる私を、父は手にステッキを持ち、こう叫びながら追いかけました。「正気か?マシャディ・ハジバ
ラの娘が、野郎どもの前で脚を出して踊ってるなんて!お前を殺してやる!」
母は、父をなだめて私がバレエのレッスンを続けられるよう説得してくれました。最後には父もスタジオでの稽古
を続けることに同意しましたが、二度と舞台に上ってはいけないと言いました。1930年、私はバレエスタジオを
卒業してオペラ劇場に職を得ました。同時に、父の忠告に従い、師範専門学校にも入学しました。当時、父は私が学
校に行って教師になるだろうと考えていました。オペラ劇場での仕事のことは知らなかったのです。
劇場で働き始めてからの数年のことを思い出します。私たちの公演はいずれも大変な成功をおさめていましたが、
上演のあった夜は、いつも家に帰るのが怖かったものです。父が激怒するのではと恐れていました。ただ、どんなに
隠しても、遅かれ早かれこの秘密は父の知るところとなるだろう、ということも分かっていました。
ある日、私は控え室でメークをしていました。演目が始まる直前に突然、手荷物預り室の女性職員が部屋に駆け込
んできて「あなたのお父さんが観客席に来てるわよ!」と私に知らせたのです。どうしていいか分かりませんでし
た。でも、出演をやめることはできません。落ち着くのだ、と自分に言い聞かせて舞台に出ました。終演後、家に帰
るのが恐ろしく、劇場の中をずっと歩き回っていました。夜、帰宅した私に父は何も言いませんでした。その後、父
はよく公演を見に来るようになりましたが、私の演技について何か感想を言うことはありませんでした。
父は私に、結婚したら好きなことをしてよいと言っていました。ですから、16才の時にアフラシヤブ・バダルベ
イリに求婚されたのは私にとって幸運なことでした。当時オペラ・バレエ劇場の支配人だった彼は、私のバレエ出演
が認められるように力になってくれました。
アゼルバイジャンの偉大な作曲家ウゼイル・ハジベヨフも私の人生に重要な役割を果たした人物です。彼は私の将
来を考えてロシアへの留学を勧め、また、私の向上心を鼓舞してくれました。
ロシア留学 STUDY IN RUSSIA
1932年に、ハジベヨフの勧めに従い、私は専門的なバレエ教育を受けるためにモスクワに行き、ボリショイ劇
場のバレエ学校に入学しました。そこで私は、レオンティエヴァ、チェクリギン、モナホフといった著名な舞踊家の
指導を受けました。
翌年、アフラシヤブと私はレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルグ)で勉強を続けようと決めました。私
はレニングラード舞踊学校に入学し、世界的に有名なバレリーナであるガリーナ・ウラノヴァの母親で、かつ教師
だったマリア・ロマノヴァ‐ウラノヴァの講義を受けました。私の才能に、マリアは大変喜びました。彼女が、私に
は他の生徒よりも熱心に接しているのを感じました。当時、私は学校で「アルマズ(ダイヤモンド)」と呼ばれてい
ました。
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1936年、レニングラード舞踊学校を卒業した私は、バクーに新しく設立されたオペラ・バレエ劇場のソリスト
になりました。私が申し分ない教育を受けてきたことを知ったハジベヨフは、アゼルバイジャン国立交響楽団にアゼ
ルバイジャン民族舞踊団を設け、私を団長に任命しました。1937年から1938年まで、私はこの舞踊団の団長
として働きました。
ハジベヨフは民族舞踊団に、アゼルバイジャン国内のあらゆる地域の民族舞踊を収集し、それを舞台で上演すると
いう任務を課しました。私たちは音楽家・作曲家・カメラマンなどから成る特別な調査団を編成し、彼らを国内各地
に派遣しました。収集された各地の踊りは、民族舞踊団の演目に加えられた後、専門的なレベルで上演されたので
す。
「乙女の塔」 “THE MAIDEN’S TOWER”
1940年、アゼルバイジャン人によって創作された初のバレエ「乙女の塔」が上演されました。作曲者は私の夫
アフラシヤブです。私は振り付けを担当し、また、主役である少女ギュルヤナグを演じました。1938年から
1940年まで、私たちは自宅でこのバレエの準備に取り組んでいました。アフラシヤブと私はアゼルバイジャンバ
レエの創生における推進力だったと言うことができるでしょう。
「乙女の塔」は常に、私の最愛のバレエです。母親にとって、最愛の子とは初めての子どもではないでしょうか?
初演の時、私はとても興奮していました。幕間のたびに舞台裏に駆け込んで水を飲んでいました。息もできないほど
興奮していたのです。
このバレエの筋書きは、その歴史を少なくとも12世紀にまで遡ることができるバクーの名所「乙女の塔」にまつ
わる伝説を基にしています。貧しい青年がハンの娘と恋に落ちるのですが、ハンは自分が娘と結婚しようとします。
ヒロインは、塔から身を投げて父の意を拒否するのです。「いつまでも幸せに暮らしました」という結末ではありま
せんが、“愛は悲劇のうちに終わるかもしれないが、美徳は常に勝利する”という含意のこめられたバレエです。
このバレエが始めに書かれた際、ソビエト的な思想に合致するように、ハンは非常に忌まわしい悪人として描かれ
ました。筋書きは1998年、アフラシヤブの甥で、音楽院の学長でもあるファルハド・バダルベイリによって完全
に書き替えられました。彼は、このストーリーの詳細部分がアゼルバイジャン人には現実味をもって響かないだろう
と考えたのです。近親相姦はアゼルバイジャン、またイスラム教文化圏において非常な大罪とされており、おとぎ話
や伝説で警告する必要はない、ということです。「乙女の塔」はいくつかの点で画期的な出来事と考えることができ
ます。他の殆どの古典バレエでは、物語は舞台上のバレリーナ達が特定の動きを模倣することによって進行します
が、「乙女の塔」ではそうした身振りの表現ではなく、全てが踊りの動作そのものによって表されます。たとえば、
乙女が青年への愛を表現するとき、彼女は踊りによってのみそれを行ないます。相手役の男性への特定のジェス
チャーなどはありません。愛は、感情とバレリーナの動きで表されます。他のダンサーとの相互的な動きは用いられ
ないのです。
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指揮者ニヤジ(写真右) 1970年代撮影
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旧ソ連邦の他の共和国では、初期の民族バレエはその国の民俗伝承に基づいたものでした。結果として、非常に単
純なストーリーのものも見られます。「乙女の塔」の話の筋も非常にわかりやすいものです。ただし、導入部分は夢
のように描かれ、バレエ全体の中では幕間の短い劇のようになっています。そのようにして、ダンサーたちは純然と
舞踊技術を見せることができるのです。こうした短劇の使用は、非常に多くの古典バレエに取り入れられている手法
です。
「乙女の塔」を観れば、これはアゼルバイジャンのバレエだとすぐに感じられるでしょう。婚礼の場面では、アゼ
ルバイジャンの伝統的な舞踊が登場します。ここで私は、アゼルバイジャンの女性たちが踊るときの実際の手の動
き、いわゆる「アゼルバイジャンの手」の発想を用いました。これは手にのみ適用されます―足には応用されませ
ん。この演出は現在もバレエに用いられています。
「乙女の塔」が1949年に再演されて以来―55年間、私の弟がこのバレエの美術を担当しています。また、彼
は民族的な要素と古典的要素の双方を取り入れた衣装をデザインしました。たとえば、踊り子のスカートは脚が見え
るように短めに作られています。結局のところ、バレエとは脚の芸術なのです。衣装には軽いシフォンの袖とタイツ
も用いられています。民族舞踊の場面では、しかし、踊り子たちはアゼルバイジャンの民族衣装を着るのです。
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左: 国内各地の舞踊収集・文書作成作業。1930年代から1940年代にかけて
右: 同僚らと共に、アゼルバイジャン近代音楽の創始者ウゼイル・ハジベヨフを囲む。花柄のワンピースがガマ
ル。
多彩な役柄 VARIETY OF ROLES
バレリーナとしての経歴の中で、私は非常に多くの役柄を演じてきました。たとえば、ロシア人作曲家レインゴリ
ト・グリエールの「赤いケシの花(ソビエト連邦では『赤い花』という題で上演されることもある)」の主人公であ
る中国人の少女を演じたことがあります。このバレエの舞台は1920年代の中国です。少女タオホアは悪い資本家
リー・シャンフーに搾取されています。言うまでもなく、この筋書きはソビエト思想の宣伝に貢献するためのもので
した。
アドルフ・アダンの「海賊」ではメドゥーラ役を演じました(1936)。アサフィエフの「バクチャサライの噴
水」ではマリア(1939)、アレクサンドル・グラズノフの「ライモンダ」ではライモンダ(1943)、チャイ
コフスキーの「白鳥の湖」ではオデットとオディール(1945)、同じくチャイコフスキーの「くるみ割り人形」
ではマーシャの役です。
1952年に、私はその働きを評価され、ソビエト連邦の国家賞を受賞しました。翌年から、私はアゼルバイジャ
ン国立オペラ・バレエ劇場のバレエ演出家として働き始めました。ここで、私はソルタン・ハジベコフの「ギュル
シャン」(1950)、ガラ・ガラエフの「七人の美女」(1952)、チャイコフスキーの「眠れる森の美女」
(1955)、アダンの「ジゼル」(1961)、ミンクスの「ドン・キホーテ」などを含む、数多くのバレエを上
演しました。
1959年、私はソビエト連邦で最も栄誉ある称号のひとつ「ソビエト連邦人民芸能家」の地位を授与されまし
た。
海外巡業 TOURING ABROAD
インド、ネパール、フランスといった、ソ連邦外の国に巡業に出ることもありました。国外にグループで公演に出
る時にはいつも、KGBからの「保護者」が付けられました。実のところ、フランス公演の際に私たちに同行した男
性は非常な好青年でしたし、私は彼をよく知っていました。でも、彼に何ができたでしょうか?団員たちがソビエト
の政策方針に反することを行なっていないと確認するのが、派遣された彼の任務だったのです。
1969年のフランス巡業の期間中にKGBは、当時その地に滞在していた偉大なバレエダンサー、ルドルフ・ヌ
レエフ(1938−1993)と話をしないよう、私に警告しました。ヌレエフは1961年にソビエト連邦から亡
命していました。ところが、ある日の公演で、彼は私のまさしく隣の席のチケットを買ってしまったのです。誰が彼
にその席から立ち退くように言えるでしょうか?これは偶然だ、と彼は言いました。こうして、私には彼と話をする
機会が生じたのです。フランスからの帰国後、私はKGBに逮捕されるかもしれないと思っていましたが、そうした
事にはなりませんでした。
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1974年に、私はバレエ団の団員たちと再びフランスへ公演に行きました。この時、当局はダンサーのうちの一
人、バリシニコフという青年の出国を許可しませんでした。彼は非常に落胆していました。[訳注:1985年の米
国映画『白夜(White Nights)』で亡命ダンサーの役を演じたことでも知られるミハイル・バリシニコフは結局、
同1974年のトロント公演中に亡命する。]
1970年から1972年の間、私はイラク文化省の招待で、イラクで仕事をしました。民族舞踊を上演できる専
門的な舞踊団を結成したい、というのが彼らの依頼でした。結局、50カ国以上での国際的なダンスフェスティバル
に参加した非常に優秀な舞踊団の創設に成功しました。
私はまた、バクーでの舞踊専門学校の設立にも尽力しました。ヘイダル・アリエフ[訳注:当時のアゼルバイジャ
ン共産党書記。後にアゼルバイジャン共和国大統領に就任]のもとに自ら出向き、この学校の設立について陳情しま
した。また、舞踊家その他のメンバーへのアパート支給や賞の授与も要請しました。
舞踊は私の人生でした。ソビエトのバレエ学校は、才能あるバレエダンサーを数多く鍛え上げてきました。私はそ
の一人になることができたのです。私は規律正しい生活を送ってきました。たとえば、多くのバレエダンサーとは違
い、私は煙草を喫いません。また、傲慢になることもありませんでした。成功は自然に私に巡ってきたともいえま
す。
1960年代以降、ダンサーとしての出演はしていませんが、今でも私の舞台を覚えているファンのことを耳にし
ます。とても嬉しいことです。バレエは若さの芸術です。観客が常に私のことを年若い少女として記憶していてくれ
ることを願っています。
アフラシヤブ・バダルベイリのバレエ「乙女の塔」の改訂と再演については、AZER.comおよび本誌1999
年冬季号に掲載の「バレエ『乙女の塔』:ソビエト思想宣伝を排した筋書き」を参照のこと。
Azerbaijan International誌2002年秋季号より翻訳・転載
Copyright 2002 Azerbaijan International
Web site: www.azer.com Mail: [email protected]
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