中国伝来文化についての論文

中国との友好親善のために
2015年6月3日
国土政策研究会
会長 岩井國臣
はじめに
これから長期的に見て、世界平和のため日本がやるべきもっとも基本的なことは、日米同
盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図ることである。
日本は、古来、中国の伝来文化によって自国の文化を作ってきた。もちろん、わが国に
は、 中国から新しい文化が伝来するはるかに前から、世界に誇るべき優れた技術を持っ
ていたのであって、中国に迎合する必要はさらさらない。しかし、21世紀に おいて、
中国がアメリカと並んで世界の強国になるのは間違いないし、だからこそ、中国という国
の真の姿を知った上で、言うべきはきっちり言いながら、中国の発展のために大いに力を
貸すべきである。私は、真の日中友好親善を望んでいる。そのような観点から、中国のこ
とをいろいろと書いてきている。その中から、これだけのことは是非日本人に知っておい
て欲しいというものを取りまとめることとした。それがこの「日中友好親善のために」と
いう論文である。
日本中国友好協会というのがあり、各都道府県にも日中友好協会というのがある。お互
いに連携してさまざまな活動をやっておられる。素晴らしいことだ。そういう団体との交
流はできないが、私にだって、日中友好のために独自にできることがある。
ひとつは、靖国問題を解決する必要性の国民世論に訴えることであり、二つ目は、古代
において中国伝来文化によって日本が作られてきたという歴史認識の普及啓蒙活動であ
り、三つ目は、日中戦争に対する正しい歴史認識の普及啓蒙活動である。 そのためにこ
の一連の論文を書いた。
さて、冒頭に述べたように、 これから長期的に見て、世界平和のため日本がやるべきも
っとも基本的なことは、日米同盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図ることであ
る。しかし、皆さんの中には、日米同盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図るなん
てことは、矛盾であって、夢物語ではないかと思われる人も多いかもしれない。たしかに
私は、親米派であり、かつ、親中派である。これは矛盾でもなんでもない。禅の言葉に、
「両頭截断」という言葉があるが、ものごとのには必ず両面があるので,それにこだわっ
ていてはいけないということを言っている。「あなたは善人ですか?・・・そうですね
え。善人と言えば善人だし,悪人と言えば悪人ですね。善人でもないし悪人でもない。あ
あ,やっぱり私は善人です。」・・・という訳だ。その「両頭截断」のひとつの例が、
親米派であり、かつ、親中派であるということであって、 これは矛盾でもなんでもない
のである。
梅原猛は私にこう語ったことがある。「西洋文明は戦いの文明である。このままではもは
や世界はやっていけない。新しい文明をつくっていかないと人類は滅びる。もちろん、そ
の新しい文明 とは私たちの東洋文明ではない。西洋文明と東洋文明の融合のなかから第
三の文明が誕生してこなければならない・・・」と。私は、梅原猛のいうとおり第三の文
明を思いながら、アメリカに遍することもなく、中国に遍することもなく、日本独自の第
三の道を歩んでいこうと思う。
私の尊敬する佐伯啓思が、だいぶ前になるが「自 由と民主主義はもう止める」という本
を出した(2008年11月,幻冬舎)。日本の行末を指し示しており,非常に説得的で
良い本だ。しかし,「親米保守」 という言葉について,語義矛盾の響きがあるという点
に関しては,それなりに気持ちは判るが,私は意見をことにする。私は「親米」であり
「保守」である。 「親米」と「保守」は決して矛盾はしない。確かに佐伯啓思が言うよ
う に「自由と民主主義を標榜するアメリカの価値観はもはや世界に通用しないことがは
っきりしてきた。」ということだが、今後,新たな世界文明を築くために は,ようやく
日本の出番がやってきたいうことである。アメリカにないものを日本は持っているから
だ。それは「和」の精神である。「平和」の精神と言っても よいし,「違いを認める文
化」と言ってもよい。或は「共生」の哲学と言ってもよい。。日本の政治家は、わが国の
「歴史と伝統文化」に自信を持って、世界に堂々と「和」の思想・「共生」を熱っぽく語
るべきだ。日本は「和」の国であ る。「和のスピリット」の国なのである。
この論文では、中国に対する思いを存分に書いたので、以下において、私がアメリカをど
う見ているか、少し述べておきたい。
アメリカは自由の国家であるし、また多民族国家でもある。アメリカのなかにはさまざ
まな人がいて、 ハト派というか穏健派も少なくないらしい。世界各国にいる親米派との
ネットワークによって、アメリカを変えていこうという動きもあるらしい。そういう人た
ちはどのようなアメリカを目指しているのか。そこが問題だが、浅海保の著『アメリカ、
多数派なき未来』(二〇〇二年・ETT出版)によれば、目標は「価値 観の多様化(ダ
イバーシティー)」だそうだ。いろんな価値観を許容する、いわゆるダイバーシティー国
家を理想とする人たちが少なくないということらしい。
ダイバーシティー国家はサラダボウル国家ともいう。サラダボウルはいろんなものが混
じりあっている という意味である。そういう価値観の多様化した国家に変えていこうと
考えている穏健派がいるということは、アメリカの将来に希望が持てる。世界各国にいる
親米派とのネットワークによって、アメリカを変えていこうというアメリカ内部の動きに
希望を持とう。
アメリカは偉大な国である。オバマ大 統領の誕生ひとつとっても、アメリカの政治的
ダイナミズムはすごい。では、アメリカの偉大さの秘密はどこにあるのか。アメリカの偉
大なところは、もちろん デモクラシーに起因しているが、その源泉は地域コミュニティ
にある。ボトムにおけるコミュニケーションがすごい。アメリカの偉大さの秘密、それは
ダイバー シティであり、タウンシップである。
中国もこの論文で縷々述べているように素晴らしい国である。日中友好親善を願う私の気
持ちは非常に強い。私たち日本人は、三国志などの多くの歴史小説を読んで、中国の英雄
豪傑に憧れを持っているし、そういう歴史も知っている。また、中国の童話や伝説を書い
た本も多いので、何となく中国に足して親しみを持っている。中国を起源とする文化もか
なり日本化されいるとはいえ、中国伝来文化が今なお私たちの身の回りに息づいている。
アメリカ人では到底理解し得ないことも私たち日本人なら理解できることが多いだろう。
したがって、日本は、これから、世界の強国アメリカと中国の掛橋になり得る。いや、そ
うしなければならないのである。
中国との友好親善のために
はじめに
目次
前編
第1章 靖国問題
第1節 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄
第2節 靖国参拝の問題
第3節 枢密院が軍の台頭を許した
第4節 血盟団事件
第5節 三つの重大な事実誤認
第2章 未知の中国
第1節 シヴァ教と老子
第3節 玄牝の門
第3節 多神教の国、中国
第4節 天の道
第5節 道教の神々・・・その実例
第6節 道教の神「にゃんにゃん」
第7節 泰山府君
第8節 道教の神「西王母」
第9節 帮(ほう)を知らずして中国を語る事なかれ!
第3章 辛亥革命と孫文
第1節 日清戦争について
第2節 辛亥革命について
第3節 孫文について
1、孫文と日本
2、対華21ヶ条
3、孫文とソ連
4、孫文と中華人民共和国
中編 道教について
1、道教の始祖「老子」
2、北京・白雲観
3、泉州・関岳廟
4、武当山の武当道
5、道教の生命力
6、今後に期待するもの
7、おわりに
後編・・・中国伝来文化と日中交流の現在・・・
第1章 道教に思いを馳せて!
第1節 吉野
第2節 明日香
1、道観・両槻宮
2、道教思想の顕われ・山形石と石人像
第3節 伊勢神宮
第4節 平安京
1、桓武天皇
2、四神相応の地・平安京
3、神泉苑
4、大将軍八神社
第2章 明日香と阿知王
第1節 はじめに
第2節 阿知王の子孫が日本を支えた! 第3節 医心方と民間療法
第4節 桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)
1、概要
2、阿志神社(あしじんじゃ)
3、なぜ檜前寺と於美阿志神社が荒廃したのか?
第5節 甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)
1、甘樫坐神社は「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」
2、中臣神道
3、東漢氏の遺産・「祓いの神道」
4、中臣神道のプロトタイプ
第3章 中国伝来の医療・・・医心方とその周辺
はじめに
第1節 中国伝来文化と医心方
1、漂着した外来文化
2、中国伝来文化について
(1)縄文商人
(2)弥生時代から古墳時代にかけての中国伝来文化
(3)飛鳥時代の中国伝来文化
3、明日香と医心方
(1)甘樫坐(あまかします)神社の盟神探湯(くがたち)
(2)盟神探湯に使われた火傷の治療薬・猪膏(ぴんいん)
4、医心方とは?
(1)槙佐知子のお陰
(2)医心方と民間療法
第4章 日中交流の現在・・・現状と課題
おわりに
中国との友好親善のために(前編)
第1章 靖国問題
第1節 日本の「歴史と伝統・文化」の心髄
私は、奈良時代(ならじだい)は日本の骨格ができた極めて画期的な時代であったと考え
ている。
奈良時代とは、710年(和銅3)に元明天皇が平城京に都を移してから、794年(延暦
13年)に桓武天皇によって平安京に都が移されるまでの約80年間をいうが、この8世紀の
初めに、国号を倭から「日本」と改めたと中国史書にみえる。
この遷都には藤原不比等が活動したが、律令国家制度についてもその完成は藤原不比等
の手になるといってもいい。奈良時代の前・飛鳥時代の「飛鳥浄御原令」「大宝律令」
が、日本国内の実情に合うように多方面から検討され、試行錯誤の結果、遂に藤原不比等
の手によって律令国家という天皇中心の中央集権国家が完成したのである。
藤原不比等の目指した律令国家は、いうまでもなく中臣神道が精神的支柱であり、天皇
中心の中央集権国家とはいうものの、藤原一族の絶大な権力を作り上げるものでもあった
のである。藤原一族の横暴は長屋王の変にその極に達したのかも知れないが、そこが日本
の歴史のおもしろいところで、河合隼雄のいう「ゆり戻しの現象」が始まる。主役は、聖
武天皇と良弁のコンビである。二人とも藤原であって藤原でない。そこが実におもしろ
い。そして、さらにおもしろいというか、不思議にさえ思えるのは、その良弁が明恵に繋
がっているという点である。明恵も藤原であって藤原でない。
私は、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、その「ゆり戻し現象」だと考えている。
日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は、山口昌男のいう「両義性社会」と言っても良いし
(参考1、参考2、参考3)・・・・、中沢新一のいう「対称性社会」と言っても良いか
もしれない。私は、私流に・・・「違いを認める文化」とか「両頭截断」と言っている
のだが、この場面では、「ゆり戻し現象」と言った方が判り良い。藤原不比等の手によっ
て律令国家という天皇中心の中央集権国家がまさに完成した・・・その時に、聖武天皇
と良弁のコンビによって、「ゆり戻し現象」が起こって、わが国は「両義性社会」という
か「対称性社会」が維持されるのである。
藤原不比等が、紀記を背景につくり挙げた「中臣神道」に対抗して「東大寺の仏教」が誕
生する。
以前に触れたように、東大寺は不思議な寺院である。寺院としての性格は、明らかに律令
仏教であるが、山林仏教としての性格もすでに色濃く帯びているのだが、その点はこれか
らゆっくり説明するとして、ここでは靖国問題に関連して、日本の「歴史と伝統・文化」
の心髄というものを意識していただければそれで良い。
日本の「歴史と伝統・文化」の心髄は何かと河合隼雄に聞いたら、河合隼雄は「心髄が
ないのが心髄だ」と言っていたが、私は、上記のように考えている。日本の「歴史と伝
統・文化」の心髄は、大事な時にきっちり「ゆり戻し現象」が働くことである。わが国
は、ヨーロッパやアメリカのような非対称な社会ではないのである。この際、ヨーロッパ
やアメリカという国については、中国やロシアも含めて先進諸国といいかえてもいいかも
知れないが、わが国は「非対称な社会」ではないのである。
わが国では、大事な時にきっちり「ゆり戻し現象」が働くのである。明治から終戦まで
の軍国主義に対して、今は、その「ゆり戻し現象」として平和主義が定着している。今
もっとも大事なことは、憲法改正である。わが国の自主憲法を創ることだ。しかし、それ
は、現在の平和憲法を下敷きに・・・最小限の修正を施すだけでいいのではないか。大
事なことは、日本の「歴史と伝統・文化」の心髄というものを意識して、明治とははっき
り決別することだ。靖国問題についても、表面的な議論だけでなく、日本の「歴史と伝
統・文化」の心髄というものをはっきりさせて・・・もっともっと奥深い議論をしなけれ
ばならないのではないか。
明恵は、わが国の生んだ・・・歴史上最高の思想家である。自然の叡智を兼ね備えた明
恵の智恵「あるべきようは」を学ばなければならない。そうすれば、靖国問題の解決や明
治という時代の総括も、自ずと答えが出てくるはずである。私のもっとも言いたいことは
このことだ。
第2節 靖国参拝の問題
私はすでに「邪馬台国と古代史の最新」という小論文を書いた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/mokuji.pdf
その「おわりに」で次のように述べた。
『 日本は異国の神も含めて神々の国である。私達はそういう「日本の歴史と文化」に自
信と誇りを持とう!「日本の歴史と伝統文化」の心髄は「相手の立場に立って考えること
である」。そして天皇は「日本の歴史と伝統文化」の象徴であるが故に、わが国民統合の
象徴なのである。私達は天皇とともにそういう「日本の歴史と伝統文化」を今後とも末永
く引き継いでいかなければならない。それが「日本の精神」だ!
ところで、「靖国神社」には、現在、天皇は靖国神社にお参りされていない。誠に残念な
ことである。天皇が靖国神社に参拝される、その日の一日も早く来ることを念願して、そ
してまた、「日本の精神」を生きる私達のこれからに生き方を思案しながら、筆をおきた
いと思う。』・・・と。
「日本の歴史と伝統文化」の心髄については、私のブログに書いたのでそれを是非ご覧戴
きたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-a1d1.html
さて、日本国民統合の象徴である天皇が靖国神社に参拝されない、このことは由々しきこ
とであると私は思う。政治家にはこの由々しき事態を真剣に考えてもらいたいのだ。中国
がどうのこうのということではなく、公式参拝などとんでもないことである。さらに私
は、国会議員の靖国参拝すら大いに問題があると考えている。天皇が参拝されないのに何
故国会議員が参拝するのか? 私はかって、「空なる天皇」というテーマで天皇についてひとしきり勉強をしてきた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/ku/index.html
そしてまた、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の5冊目「天皇はん」を書いた。
http://honto.jp/ebook/pd_25231958.html
そこにも書いたが、私は、天皇に特別の親しみも持っているし崇拝もしている。崇拝して
いるが故に、『天皇と鬼と百姓と』という電子書籍を書いたのである。天皇のいやさかを
祈ってのことである。
http://honto.jp/ebook/pd_25249961.html
そのような私の感覚から言えば、天皇が靖国参拝されるのなら私も参拝するけれど、天皇
が参拝されないのに参拝するなどいうことはとんでもないことである。したがって、私の
感覚から言えば、国会議員はできるだけ早く天皇が靖国参拝できるような状況を作るべく
努力すべきであって、今の状況下で靖国参拝をするなどとんでもないことである。
昭和天皇は昭和50年11月を最後に二度と靖国神社に行かれていない。これは昭和53
年10月にA級戦犯14人が合祀された時からということであろう。平成18年7月20
日の日本経済新聞によると、昭和天皇が昭和63年4月28日に、当時宮内庁長官だった
富田朝彦に、「A級戦犯合祀」について極めて不快感を持っていることを明らかにされて
いた。徳川義寛の「侍従長の遺言・・・昭和天皇との50年」(1997年1月、朝日新
聞社)によってもそのことを窺い知ることができる。
また、「A級戦犯合祀」を強行したのは松平宮司であるが、その前の筑波宮司は一部の勢
力から強い働きかけがあったにもかかわらず、頑としてそれを拒否していたらしい。とい
うことは、「A級戦犯合祀」が靖国神社に一貫した考えではなかった。「富田メモ」によ
ると昭和天皇は、松平宮司に対し厳しい非難を向けておられたらしい。
このようなことを考え合わせると、昭和天皇の意向ははっきりしているし、多分、今の平
成天皇もそれを引き継いでおられるのだと思う。しかし、私の考えは、天皇の意向がどう
のこうのと斟酌するのは誠に不敬なことであるので、ともかく天皇が参拝されるかされな
いかその行動を見て、それに従っておればそれで良いというものだ。
それでは、どのようにして天皇が靖国参拝できるような状況を作ればいいのか? それが
靖国問題の核心である。天皇が靖国参拝できるような状況を作る努力を国会議員にはして
ほしい。
冒頭に述べたように、天皇は「日本の歴史と伝統文化」の象徴である。その天皇が靖国参
拝をされないのであるから、靖国神社は「日本の歴史と伝統文化」にそぐわない異質のも
のである、ということだ。だから、天皇が靖国参拝できるような状況を作るためには、少
なくとも、天皇が象徴天皇になられた武家社会から始めて、明治以降の国家体制のどこに
問題があったのかを明らかにしなければならない。私は、明治以降の国家体制の中で最大
の問題は、「枢密院」の存在であったと考えている。靖国問題については、「枢密院」に
ついての勉強から始めて、明治以降の歴史的な動きに関して正しい歴史観を構築しなけれ
ばならないと思う。国民の共通感覚としての明治以降の歴史認識を確立しない限り、靖国
問題は解決しない。
第3節 枢密院が軍の台頭を許した
枢密院(すうみついん)は、枢密顧問(顧問官)により組織される天皇の諮問機関。憲法
問題も扱ったため、「憲法の番人」とも呼ばれた。明治21年に創設され、戦後は当然廃
止された大問題の組織であった。ド ナルド・キーンの著書によれば、明治に入って暫く
経った明治7年12月、岩倉具視は、嘉永6年のペリー提督率いる米国艦隊の来航以来の
激動の日々を振り返 り、その大勢を天皇に上陳した。岩倉は言う。廃藩置県、岩倉使節
団の欧米派遣等々の大事が首尾よく成功を収めたのは、ひとえに国家の難局に際しての陛
下の英断に帰するものである。一方でまた、数々の悲惨な出来事があった。事実、混迷の
20年を経た今、初めて国内は平和、四海また静穏になったと言えるかもしれない。これ
までにも増して陛下は鋭意精励し、国家の大計の下に諸臣を育成し、上下一致協力して復
古を旨とした維新の聖意を貫徹していかなければならない。その成否は、ひとえに陛下の
手綱さばき如何にかかっていると、岩倉具視はとんでもないことをご進講申し上げるので
ある。もともと公家である岩倉としては当然の考えであったかもしれないが、我が国の歴
史認識からすれば、歴史の流れを無視した公家の発想であり、近代国家を歩み始めた日本
としては当時も問題視されていたのである。
伊藤博文のまったく正論というべき意見もあったということは決して忘れるべき
でない。ドナ ルド・キーンの著書によれば、斬新派である伊藤は、天皇の将来の役
割について深く憂慮していた。外債募集、及び地租米納論を否定した天皇の裁断は、
もはや 受動的、象徴的役割にとどまることなく自ら重大な決定に積極的に関わりた
いという天皇の意思の表明ではないか、と伊藤には思われた。伊藤が恐れたのは、
こ のことが天皇の政治的責任問題の発生や、天皇制の是非を問う論議にまで発展す
るのではないかということだった。伊藤の考えでは、天皇はあくまで天皇を輔弼
(ほひつ)する内閣の象徴的な指導者としての役割を演じることが望ましい。特に伊
藤は、政治的責任のない宮中派(公家)が天皇を通じて影響力を振るうことを心配
し た。それは内閣の国家運営の不安定に繋がるだけだ、と伊藤は考えた。伊藤博文
の考えはまったく正しい。そのとおりだ。しかし、伊藤の上には、三条実美太政 大
臣、たるひと親王左大臣、岩倉具視右大臣という三人の権威ある公家がいたので、さ
すがに伊藤といえども自説を押し通すことはできなかったようである。
ドナルド・キーンの著書によれば、立憲改進党の党首・大隈重信も、改進党権勢
大会で演説したように、立憲君主が率いる英国式議会制民主主義の確立を強く望んで
いた。ドナルド・キーンの著書 によれば、大隈重信は、その演説の中で、自分が考
える民主政体における君主の・・・・積極的というよりはむしろ象徴的な役割を強
調した。大隈重信は決して 皇室に献身的でなかったわけではない。同じ演説の中
で、大隈重信は次のように述べている。「維新中興の偉業を大成し、定刻万世の基礎
を建て、そして、皇室 の尊栄を無窮に保ち、人民の幸福を永遠に全うせんことを冀
望(きぼう)する。」・・・と。
象徴天皇の考え方がすでにこの時期に大きな政治課題として浮上していた というこ
とは、私にとって、大変な驚きであるが、よくよく考えてみれば、それは必ずしも驚
くに当たらないことかもしれない。そもそも幕藩体制の天皇は典型 的な象徴天皇で
あり、その起源は古くそもそも武家社会が発足した鎌倉時代までさかのぼる。すで
に「武家社会源流の旅」で述べてきたように、いうまでもなく 象徴天皇の思想的裏
打ちは明恵の「あるべきようわ」にある。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/bukesya2.html
伊藤博文や大隈重信の如何にも進歩的に見えながら実は歴史的にはそれがむしろ日
本の伝統といえる考えにもかかわらず現実の流れはそうは流れなかった。三人の権威
ある公家の意向というか時代の流れというものが、憲法の草案作りの流れをも決め
ていったようである。この年、板垣退助は凶徒から襲撃を受けあの有名な言葉「板
垣死すとも自由は死せず!」を叫んだ。すべて時代の流れである。私が思うに、その
大勢は王政復古がなった時点で固まったのである。明治憲法も王政復古が原点であ
る。孝明天皇が生きていたら、公武合体がなったであろうし、違った 政治体制に
なっていたかもしれない。そうすれば伊藤博文や大隈重信の影響力がもっと発揮でき
たかもしれないと思うのだ。まことに残念なことである。
国務大臣の出席にしても、内閣と枢密院が対立すれば定数からいって採決では枢密院
の案が通り、内閣が反対し続けるならば自ら参加した採決の結果に従わないことと
なり筋が通らないこととなるので、国務大臣が採決に参加できるという規定はかえっ
て内閣に不利に働いた。
軍部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さない」という戦術
を枢密院でも閣議でも使ったのである。大臣がいないと内閣は総辞職になるので、枢
密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったの
である。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくようになった。
枢密院と内閣の政策が対立した場合、話し合いによりどちらかが譲歩するケースが多かっ
たが、1927年(昭和2年)には台湾銀行救済のための第1次若槻内閣による緊急勅令案を19
対11で否決し内閣を総辞職に追い込んだ。
似たような問題として、1930年(昭和5年)、浜口内閣におけるロンドン海軍軍縮条約の
批准問題がある。このときは、条約批准を目指す政府(立憲民政党濱口雄幸)と、枢密
院、軍部、鳩山一郎らを中心とする野党政友会が対立し、内閣が軍部の意向に反して軍縮
を断行するのは天皇の統帥権を侵すものである(統帥権干犯)との非難が浴びせられ、加
藤寛治軍令部長による帷幄上奏まで行われ、枢密院でも反浜口内閣の動きが大いに顕在化
した。しかし、浜口首相は元老西園寺公望や世論の支持を背景として枢密院に対して断固
とした態度で臨み、枢密院のボスとして知られた大物顧問官の伊東巳代治が要求した資料
の提出を拒むほどであった。『東京日日新聞』をはじめとする大新聞も猛烈な枢密院批判
で内閣を擁護した。だが海軍軍令部長加藤寛治大将など、ロンドン海軍軍縮条約の強行反
対派(艦隊派)は、統帥権を拡大解釈し、兵力量の決定も統帥権に関係するとして、浜口
雄幸内閣が海軍軍令部の意に反して軍縮条約を締結したのは、統帥権の独立を犯したもの
だとして攻撃した。そして、昭和5年11月14日、浜口雄幸総理は国家主義団体の青年に東
京駅で狙撃されて重傷を負い、浜口内閣は1931年(昭和6年)4月13日総辞職した(浜口8
月26日死亡)。
その後、若槻第二次内閣は、若槻が内閣で軍をコントロールしたいという信念の持ち主で
あったため、軍は若槻の追い落としを狙っていた。そこで枢密院が利用されたのである。
上述のように、 軍部は、気に入らない政策があると、「大臣が辞めて、大臣を出さな
い」という戦術を枢密院でも閣議でも使った。大臣がいないと内閣は総辞職になるので、
枢密院でも閣議でもしぶしぶ軍部の言う事を聞かないといけないようになっていったので
ある。こうやって、軍部の発言力がだんだんと高まっていくようになった。明治以降の国
家体制の中で最大の問題は、「枢密院」の存在であったのである。
憲政常道による議会政治が始まったのは大正十三年であって、それから八年間は民政党、
政友会の二大政党が交互に政権を握るという、憲政常道による議会政治が確立したかの加
く見えた。 しかし、昭和7年5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸におい
て、白昼、軍人によって暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相と
なったのである。 それからは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という
首相を生み出すのである。
ご承知の方も少なくないと思うが、いわゆる「血盟団事件」というのがある。この事件は
涙なくして語れないのであるが、実は、五・一五事件勃発の切っ掛けを作ったのは「血盟
団事件」であって、そういう意味では、血盟団事件は戦前の誠に忌まわしい事件である。
しかしながら、そういう暗殺に命をかけた国士とでもいうべき人たちが出たのも、結局
は、枢密院と内閣の不協和音による政治の腐敗が原因であり、その根本原因は「枢密院」
というおおよそ民主制とは相容れないシステムにあったといわざるを得ない。
第4節 血盟団事件
茨城県大洗町の立正護国堂を拠点に政治運動を行っていた日蓮宗の僧侶である井上日召
は、1931年、彼の思想に共鳴する近県の青年を糾合して政治結社「血盟団」を結成し、
性急な国家改造計画を企てた。その方法として彼が考えたのは、政治経済界の指導者をテ
ロによって暗殺してゆくというものであった。「紀元節前後を目途としてまず民間から血
盟団が行動を開始すれば、これに続いて海軍内部の同調者がクーデター決行に踏み切り、
天皇中心主義にもとづく国家革新が成るであろう」というのが井上の構想であった。
井上日召は、政党政治家・財閥重鎮及び特権階級など20余名を、「ただ私利私欲のみに
没頭し国防を軽視し国利民福を思わない極悪人」として標的に選定し、配下の血盟団メン
バーに対し「一人一殺」を指令した。血盟団に暗殺対象として挙げられたのは犬養毅・西
園寺公望・幣原喜重郎・若槻禮次郎・団琢磨・鈴木喜三郎・井上準之助・牧野伸顕らな
ど、いずれも政・財界の大物ばかりであった。この血盟団のテロに恐れをなした池田成彬
ら財界人は三井報恩会などで俗に言う「財閥の転向」を演出することになる。
井上はクーデターの実行を西田税、菅波三郎らを中心とする陸軍側にもちかけたが、拒否
されたので、1932年(昭和7年)1月9日、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟
郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城と協議した結果、2月
11日の紀元節に、政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することを決定し、藤井斉ら地
方の同志に伝えるため四元が派遣された。ところが、1月28日第一次上海事変が勃発した
ため、海軍側の参加者は前線勤務を命じられたので、1月31日に海軍の古賀、中村、大
庭、民間の古内、久木田、田中邦雄が集まって緊急会議を開き、先鋒は民間が担当し、一
人一殺をただちに決行し、海軍は上海出征中の同志の帰還を待って、陸軍を強引に引き込
んでクーデターを決行することを決定した。
1932年(昭和7年)2月9日、前大蔵大臣で民政党幹事長の井上準之助は、選挙応援演説会
で本郷の駒本小学校を訪れた。自動車から降りて数歩歩いたとき、暗殺部隊の一人である
小沼正が近づいて懐中から小型モーゼル拳銃を取り出し、井上に5発の弾を撃ち込んだ。
井上は、濱口雄幸内閣で蔵相を務めていたとき、金解禁を断行した結果、かえって世界恐
慌に巻き込まれて日本経済は大混乱に陥った。そのため、第一の標的とされてしまったの
である。小沼はその場で駒込署員に逮捕され、井上は病院に急送されたが絶命した。
目標変更の指令を受け、菱沼の新目標は三井財閥の総帥(三井合名理事長)である團琢磨
となった。團琢磨が暗殺対象となったのは三井財閥がドル買い投機で利益を上げていたこ
ととも、労働組合法の成立を先頭に立って反対した報復であるとも言われている。菱沼は
3月5日、ピストルを隠し持って東京の日本橋にある三井銀行本店の玄関前で待ち伏せし、
出勤してきた團を射殺する。菱沼もまたその場で逮捕された。
四元は三田台町の牧野伸顕内大臣の動静を調査していた。
警察はまもなく、2件の殺人が血盟団の組織的犯行であることをほぼ突き止め、全員を逮
捕した。裁判では井上日召・小沼正・菱沼五郎の三名が無期懲役判決を受け、また四元ら
帝大七生社等の他のメンバーも共同正犯として、それぞれ実刑判決が下された。しかし、
関与した海軍側関係者からは逮捕者は出なかった。四元は公判で帝大七生社と新人会の対
立まで
り、学生の就職難にあると動機を明かしている。
血盟団事件のあらましは以上のとおりである。憲政常道による議会政治が始まったのは大
正十三年であって、それから八年間は民政党、政友会の二大政党が交互に政権を握るとい
う、憲政常道による議会政治が確立したかの加く見えた。 しかし、昭和7年5月に5・
15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって暗殺された。犬養
毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それからは日本は軍人に
依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。
血盟団事件は涙なくして語れないのであるが、実は、五・一五事件勃発の切っ掛けを作っ
たのは「血盟団事件」であって、そういう意味では、血盟団事件は戦前の誠に忌まわしい
事件である。私は、枢密院の存在と同時に、軍部の暴走を許したもう一つの原因だと考え
ている。
血盟団事件のことについては、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の第7巻「野生の思
考と政治」の第6章で少し書いたので、それをここにアップしておく。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kyouwa06.pdf
私は結盟団事件の被告であり、その後、山本玄峰 の直弟子となった四元義隆(よつも
とよしたか)さんから「暗殺なんてものはやってはならない」ということをはっきりと聞
いた。四元義隆は、今西錦司とは肝胆相照らす仲だったので、私を今西錦司の系譜に連な
る者と見ておられて,たびたび酒の席に呼んでいただいた。松尾稔君が今西錦司の直伝弟
子であるので同席することが多かった。四元義隆さんは私らに暗殺はイカンと仰ってた。
このことは皆さんに是非お伝えしなければならないだろう。四元義隆さんの言葉の意味は
実に重い。
なお、私の電子書籍「祈りの科学シリーズ」の第7巻は、次のとおりである。
http://honto.jp/ebook/pd_25231960.html
ところで、四元義隆さんのことについては、拙著「桃源雲情」(平成6年12月、新公論
社、現在絶版)で少し触れたことがあるので、以下にその一節(p67 黒もじの杖)を紹
介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kuromoji.pdf
第5節 三つの重大な事実誤認
靖国問題については、我が国の歴史と伝統文化について、国民の共通認識ができない限り
その解決はおぼつかない。それでは、私たちが持つべき歴史認識とはどういうものである
のか?それが問題の核心である。日本的精神とはどういうものであるのか、ということで
ある。私たちが持つべき歴史認識とは、日本だけの独善であってはならないというのは当
然であって、関係国の歴史認識との間にもし大きな違いがあれば、私たちの歴史認識につ
いて考え直す余地があるということであろう。歴史認識については、何よりも事実関係を
はっきりさせなければならない。
私たちが持つべき歴史認識について、それが国民の共通認識となるためには、多くの国民
が歴史的事実を正しく認識しなければならないのは当然である。しかし、日本国内には、
三つの重大な事実誤認が大手を振ってまかり通っているように思われる。
第一は、大東亜共栄圏構想に関する事実誤認である。西欧列強の植民地を解放してその国
の独立と発展を支援するという、「大東亜共栄圏」という構想を抱いた正義漢が日本にい
たのは事実である。しかし、日本国として独立運動を支援するというよう事実はなく、日
本は、西欧列強の植民地よりさらに苛酷な暴力支配を行った。300年余にわたる列強の
支配の手法を一気に1∼2年で行ったのである。日本が独立運動を支援したというのは、
まったくの事実誤認である。
第二は、「真珠湾攻撃のルーズベルト陰謀説」というのがある。アメリカが資源の乏しい
日本を禁輸で追いつめていったことは事実である。しかし、それは、日本がドイツとソ連
との会戦に便乗して、日本軍がフランス領インドシナに進駐したなど、日本の政策の強引
さに起因するものであって、アメリカが太平洋戦争の勃発を画策したというという「真珠
湾攻撃のルーズベルト陰謀説」というのは事実に反する。保坂正康はそのように言ってい
る。
以上のことは、保坂正康の「<靖国>という悩み」(2013年4月、中公文庫)に取り
上げられており、それを読んでいただくとして、ここでは以上の指摘にとどめておきた
い。中国との友好親善を進めるという立場から、今私は靖国問題を取り上げているので、
その文脈から言えば、次の三つ目の事実誤認がもっとも重大である。
第三番目の事実誤認、これもまずは保坂正康の見解を紹介して、それ以降の勉強を始める
こととしたい。保坂正康は次のように述べている。すなわち、
『 戦後(まもなくの)昭和史解釈では、表現は雑
であるにせよ左派はともかくとして
右派であっても、満州事変、そしてそれ以降の戦争の流れについて史実の記述では、(実
証を重んじるという点で)一定の了解があったのだ。昭和史論争の後、昭和史の解釈で
は、いわば実証的な検証を行う研究者や作家、ジャーナリストも登場して、ここの史実に
ついてはさらに深く解明される方向に向かった。』・・・と。
しかし、現在では、実証性を重んじて日中戦争を語る学者や作家、ジャーナリストが少な
くなった。したがって、靖国神社の遊就館におけるひん曲がった歴史観が一人歩きするよ
うになるのである。これは国内問題である。こんな状況を許していたのでは、保坂正康が
言うように、「いずれ靖国神社そのものが国民からは浮き上がった存在になるのではない
か。」・・・と思われる。したがって、私は、遊就館に見られるような「ひん曲がった歴
史観」を抹殺するために、この際、日清戦争から始まる日中戦争について、中国人の歴史
観に重大な関心を持ちながら、じっくり日中戦争の流れというものの勉強をしたいと思
う。
第2章 未知の中国
第1節 シヴァ教と老子
ハイデガーが言うには、「エートス・アントロポイ・ダイモーン」という言葉をヘラクレ
イトスが使っている。これはギリシャ人の思考を非常にうまく表現しているという。
「エートス」親しくあるもの、「アントロポイ」は人間、「ダイモーン」はギリシャの
神々である。だから、「人間にとって親しくある場所は神の近くにいることである」とい
う意味だとハイデガーは言っている。政治家は「ニヒリズム」の問題とは真正面から向き
合わなければならないのであって、ハイデガーがいう「故郷喪失」の現実を直視してほし
い。民主主義の原点である「地域コミュニティ」がなくなっているのである。この状態を
放置したままでは、日本の元気再生は望むべくもない。政治家に期待するところ大であ
る。
シヴァ教は、自然を生きることを人生の目標としている。自然を生きるとは、ただ単に自
然の中に生きるのではなく、自分自身も自然の一部であることを自覚して、自然の原理、
老子の言い方で言えば、道、つまり宇宙の実在というか天の指し示すところに従い生き
る、そういう生き方をいう。
すなわち、シヴァ教の目標とする生き方は、正に老子の理想とする生き方と同じである。
したがって、私は,老子の哲学の源流にシヴァ教があると思う。
「シヴァとディオニュソス・・・自然とエロスの宗教」(著者・アラン・ダニエル、訳
者・浅野卓也と小野智司、2008年5月、講談社)という名著があり、その中でアラ
ン・ダニエル は次のように言っている。すなわち、
『 シヴァ教は本質的に自然宗教である。ディオニュソス同様、シヴァは、天界における
神聖なヒエラルキーの諸相のなかの一点を表象し、このヒエラルキーは地上の生の総体に
関わる。霊妙なる存在と有限の命をもつ生き物とのあいだに現実的な同盟関係を打ち立て
ることで、シヴァ教はつねに都市社会の人間中心主義に対抗してきた。シヴァ教の西洋的
な形態としてのディオニュソス教もまた、人間が野生の世界、山や森の獣との交感状態に
ある段階を表彰するものである。
シヴァと同様、ディオニュソスは植物の神、樹木とブドウの神である。また動物の神、
とりわけ牡牛の神である。この神はわれわれ人類に、聖なる法をふたたびみいだすよう教
え、人間の法を捨て去るよう諭(さと)すのである。魂と肉体の力の解放をめざすディオ
ニュソス崇拝は、都市型宗教から激しい弾圧を受け、既存の社会に属さないアウトサイ
ダーたちの異形の守護神として描かれてきた。(中略)しかしながら、シヴァ神の神秘的
な呪力をまったく無視することはできなかった。都市を治める人びとに敵視されたにもか
かわらず、シヴァ=ディオニュソス崇拝にはつねに一定の役割が与えられてきたといえよ
う。』
『 極東の宗教について言えば、道教へのシヴァ教の影響は明白なもので、またジャイナ
教の合理主義が儒教に甚大な影響を及ぼしてはいるが、本書で論ずることはしない。後に
仏教を介して、ジャイナ教とシヴァ教の影響は再び中国、東南アジア、チベットでマハー
ヤーナ・タントリズムという形態で現れるが、それはシヴァ教とジャイナ教のある種の融
合体に他ならないことだけ述べておこう。インドのタントラ文書は、「中国の儀礼」の存
在についても頻繁に言及している。』・・・と。
では、老子の哲学を理解する一助として、かって私がシヴァ教について書いたものをここ
に紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nietye03.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nietye08.pdf
これらは私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」の中の第23章と第8章であるの
で、全体の脈絡を知るには是非次を読んでいただきたい。
今、日本もそうだが、世界は「人間が生きる最高の価値観」を失ってニヒリズムに陥って
いる。そのニヒリズムから脱却して私たち人間が生き生きと生きていくためには、何をな
すべきか? それを一言で言えば、ニーチェの考えを中心としてハイデガーやホワイト
ヘッドらの哲学のいいところ取りをして、ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方向を見
定めて、具体的な運動を展開することだ。そうしないと狂い死にしたニーチェの亡霊は浮
かばれまい。
第2節 玄牝の門
私の電子書籍に「書評・日本の文脈」というのがある。
その第4章「形はリズム」 http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bunmya04.pdf
で、内田樹が能についての語りの中に「玄牝の門」というのが出て来る。
それに対し私は少し解説をしているのだが、その部分を再掲すると次の通りである。すな
わち、
『 能ってかなり変わった舞台構造ですよね。舞台の右側の隅に切戸口(きりどぐち)が
あります。お茶室の躙(にじ)り口と同じで、腰を屈(かが)めないと通れない小さな四
角い穴が開いていて、いろんなものがそこから出入りする。(中略)舞台の上には目付柱
(めつけばしら)とうのがあります。このはしらはどんな場合でも絶対必要なんです。能
舞台ではなくて、劇場やホールで能をやる場合があるが、その場合でも必ず柱を一本立て
る。
面をつけると視野が狭くなりますから、目付柱がないと距離がわからずシテが舞台から
落ちるから、という合理的な説明もされるんですけれど、僕はそれだけじゃないだろうと
思うんです。切戸口というのは、中沢さんが言うとおり、子宮口ですよね。切戸口が老子
の言う「玄牝(げんぴん)の門」だとすると、ちょうど対角線にある目付柱はファロス以
外にはありえないようですよね。そう考えると能舞台はエロス的な構成になっていること
がわかります。』
上記の中で内田樹が言っている老子の「玄牝(げんぴん)の門」とは、「谷神不死。是
謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。緜緜若存、用之不勤。」に出てくるのだが、この文は
「万物を生み出す谷間の神は、とめどなく生み出して死ぬ事は無い。これを私は「玄牝
(げんぴん) ‒ 神秘なる母性」と呼ぶ。この玄牝は天地万物を生み出す門である。その存在
はぼんやりとはっきりとしないようでありながら、その働きは尽きる事は無い。」と解釈
されているので、「玄牝(げんぴん)の門」は女性の穴のことを言っていると思われる。
ファロスというのは男性の性器である。
それでは、「中国的精神」を知る上で、老子の思想に関連する「玄牝の門」というものを
深く知る必要があるので、以下において、その解説をしておきたい。
老子は、「宇宙の実在」を「道」と言っているが、時には、「天」と言ったり、「天地」
と言ったり「谷神(こくしん)」と言ったりしている。上記の文は「
谷神(こくしん)は死せず。これを玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、これを天地の根
(こん)と謂う。緜緜(めんめん)として存(そん)する若(ごと)く、これを用いて勤(つ)きず。」
と読むが、その意味は「谷間の神は奥深い所で滾々と泉を湧き起こしていて、永遠の生命
で死に絶えることがない。それを玄牝(げんぴん)---神秘な雌のはたらきとよぶ。神秘な雌
が物を生み出すその陰門、それこそ天地もそこから出てくる天地の根源とよぶのだ。はっ
きりしないおぼろげなところに何かが有るようで、そのはたらきは尽きることがない。」
という意味である。
老子はどうも、女が子供を産むということを終始念頭においていたようで、それに対する
哲学的思考を重ね、宇宙の原理を悟ったらしい。
ハイデガーの根源学というのがある。私の論文「霊魂の哲学と科学」の第2章「呪力につ
いて」の中で詳しく述べたのでそれを是非ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rei02.pdf
その要点のみここに述べておこう。
ハイデガーの「根源学」では、人間社会に実存している現象、木にたとえれば生い茂って
いる枝や葉のことであるが、枝葉を見てその根っこの部分を認識しようとするものであ
る。根っこの部分とは、物事の本質を意味するが、それは目に見えない。目に見えないも
のをどう認識するのか。その方法が根源学である。
今ここでの文脈で言えば、「女が子供を産む」という現象をみて、それをもとに哲学手金
思考を重ねて、宇宙の原理、万物生成の原理を考えたのが老子である。
老子は、「道、一を生じ、一、二を生じ、二、三を生ず。三、万物を生ず。万物は陰(い
ん)を負い、陽(よう)を抱き、冲気、もって和(わ)と為す」と言っているが、この文
で、「道」は「宇宙の実在」、「一」は天地の始め、「二」は陰と陽、「三」は冲気の意
味である。冲気とは陰と陽とを組み合わせるものである。一、二、三というのは、男子が
あり、女子がある、二になる、子供が産まれる、三になる、それからだんだん大勢子供が
できる。そういうことを老子は着目し、根源的な思索を重ねていったらしい。
老子の哲学は奥が深くて難しいが、その根源に「玄牝の門」があるのは間違いない。そこ
で、私は、その根源の所を私なりに必死になって考え、秩父神社のご神体「武甲山」の神
について書いた。老子の考えた「宇宙の原理」「万物生成の原理」の現れが「武甲山」の
神であるというのが私の結論だ。次をご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/bukouka.pdf
第3節 多神教の国、中国
中国と言えば、儒教の国、礼を重んじる国というのが一般的な認識ではなかろうかと思
う。それはそれで間違いではないが、実は、儒教には致命的な欠点があって、その欠点を
補っているのが道教である。私は,道教こそ真の宗教であって、儒教の欠点を補ってなお
余りあるものがあると考えている。儒教というのは、人間社会の秩序を守るために、人間
関係のあるべき姿を説いたものであって、人と神との関係はほとんど語られていない。し
かし、人間が幸せになるには、神を常に意識し、神頼みをしなければならない。エイト
ス、アンドロボイ、ダイモーン。人は神の近くにいるのがいちばん幸せなのである。
日本も多神教の国であり、さまざまな神がいるが、面白い神というのはそうはいない。と
ころが、中国には、面白い神がたくさんいて、しかも、神と人間の間を取り持つ仙人がい
る。仙人は、山の霊魂の助けを借りて、人々に夢と希望を与え、また厄介な病気を実際に
治すのである。面白い神の存在、不思議な仙人の存在、これらはすべて道教の為せるとこ
ろであって、私は,これが中国のいちばん素晴らしいところである、と思う。
中国社会の特徴として、幇ほうという組織があるが、これは、儒教が生み出したもので
あって、一大欠点を有している。その欠点を道教が補うことができるのだが、それを世界
の人々に、新たな哲学と科学で語らねばならない。ここに、私は,中国的精神の可能性を
見ている。これを語ることは、中国と同じように多神教の国である日本に課せられた責任
である。いやいや、責任であると同時に、私は,特権であると思う。
第4節 天の道
老子の言う「道」は、儒教の道とは違い、宇宙の実在のことである。すなわち、ひとつの
哲学であると言って良い。儒教で言う仁義礼智(じんぎれいち)は、人間社会の道徳では
あるけれど、宇宙の実在、万物生成の原理を指し示すものではない。これに対し、老子の
「道」は、宇宙の実在、万物生成の原理を指し示すものである。したがって、西洋哲学、
東洋哲学などすべての哲学と学問的に比較検討ができ、今後の新たな哲学を構築する要素
を持っている。老子の哲学は、西洋哲学、東洋哲学などすべての哲学と相性がいいと言っ
ても良いのである。
私が少し前に書いた「さまよえるニーチェの亡霊」という電子書籍がある。
http://honto.jp/ebook/pd_25249963.html
その中の第8章「ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方向性」で、私は、次のように述
べた。すなわち、
『 今、日本もそうだが、世界は「人間が生きる最高の価値観」を失ってニヒリズムに
陥っている。そのニヒリズムから脱却して私たち人間が生き生きと生きていくためには、
何をなすべきか? それを一言で言えば、ニーチェの考えを中心として、ハイデガーやホ
ワイトヘッドらの哲学のいいところ取りをして、ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方
向を見定めて、具体的な運動を展開することだ。そういった新しい哲学、すなわちニー
チェとハイデガーとホワイトヘッドの統一哲学が形而上学的に誕生するにはかなりの年月
がかかるかと思われる。現在の状況からして、それを待っているわけにはいかないという
のが私の認識であり、したがって、私は、せめてその方向性を見定めて、具体的な運度を
展開すべきだと申し上げている。』・・・と。
しかし、 老子を多少勉強して、今思うことは、西洋哲学だけでなく、東洋哲学やインディ
アンの哲学的思考(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/intetuga.html)などすべてのも
のも視野に入れるべきだということで、その際、老子の哲学は特に注目されるべきではな
いかと思う次第である。まだまだ勉強が足りないが、現在の知見によって、多少、老子の
哲学について説明をしておきたい。
私は先に、「玄牝の門」という題のブログで、『 そういう風に万物が発生していくけれ
ど、実在そのものは静かにじっとしている。万物はみな自然にそれから産まれるけれど
も、産みっ放しで一切干渉しない。』・・・と申し上げたが、実在が静かであるというの
が老子の根本の思想になっている。活動を好まず、静止を喜ぶというところが「易」と
違っている。「易」は、何か行動を起こすための技術であって、活動的である。それに対
し、老子は、「静」ということが道として大事であると言う。清静ということが老子の根
本の思想なのである。
王たるもの、神のような生き方をしなければならない。これを「玄徳」というのだと老子
は言っている。老子は、政治についても、彼の哲学思想にもとづき、当然、無為自然でな
ければならないという。そして、老子は、『 大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽(た
いぎ)あり。国家昏乱(こんらん)して忠臣あり。』・・・と言っている。孔子は「仁」
を説いたし、孟子は「仁義」を説いた。大道、すなわち「天の道」に従っていれば、
「仁」とか「仁義」などという必要はない。もっぱら「天の道」に従うことを考えれば良
いのである。老子は哲学的にそう言っているのである。これは実に一面の真理であると思
われる。一つの理想であろう。現実には、孔子や孟子が説くように、「仁義礼智(じんぎ
れいち)」がないと人間社会はうまくいかないが、私は、老子の哲学思想のように、「天
の道」に従うことを常に心がけなければならない思う。
「エイトス アンドロポイ ダイモーン」。私達は、「自然を生きなければならない」の
である。
第5節 道教の神々・・・その実例
道教の神々には面白い神が多い。ネットサーフィンをしていて面白い祭をいくつか見つけ
たので、まずそれを三つほど紹介したい。それによって道教の神々には面白い神が多いと
いうことをまずは実感してほしい。
一つは台湾の嘉義縣布袋鎮で行われている「王爺信仰」という祭である。この祭は福建省
でも行われているそうだが、千歳信仰とも言われ、台湾中南部で最も盛んな道教信仰のひ
とつであり、王爺(千歳)は天に替わって世の中をよく治め、人々のために疫病や邪悪な
ものを取り除いてくれると考えられている。祭の様子は次のホームページを見てほしい。
http://blogs.yahoo.co.jp/sekkie_taiwan/31899396.html
「遶境」というのは普段安置されている神が町に出てきて、地域を歩いて回ることだと
ホームページで説明されているが、日本の神幸祭(しんこうさい)と同じと考えて良いだ
ろう。違う点は、神道の場合は一般に神霊が宿ったご神体であるのに対して、道教の場合
は神像である点だ。「三牲」というのも面白いけれど、私が特に面白いと思うのは、女性
が道路を縦一列に横たわっている場面が出て来る、その点だ。縦一列に横たわった女性の
上を神を乗せた神輿が通り過ぎていく。横たわった女性は、神輿の下から神に子供の授か
ることを祈るのだそうだ。面白いですね。
二つ目は、陝西省漢水上流域の洋県やその周辺地域で行われている「掃五窮(そうごきゅ
う)」という祭だ。
http://www.china-view.org/CV/2009/10/post_144.html
ホームページでは、『 掃五窮には一般的に5∼7人、あるいは9∼11人が参加し、彼
らは黒ひげの霊官、赤ひげの霊官、土地但、天官などの道教の神さまに扮する。なかには
孫悟空やナタなど民間に伝わる物語の登場人物に扮したりもする。神々は一人ひとりそれ
ぞれに役割がある。例えば赤と黒の霊官は雷で災いや邪悪なものを門の外に追い出すとい
う門を守る門将として家を守る。「黒の霊官」はお金を司ることから人々は「財神」と呼
ぶ。「土地但」は案内人としての役割がある。気候を順調に保ち、五穀豊穣を司り、家や
商店の主人のために貧困払いをする。「天官」は福をもたらし、掃五窮の神々のなかでも
主神の地位にある。
「孫悟空」はその正義と非凡な武芸で掃五窮のなかでも保護神の役割を果たし、「ナタ」
は勇気と知恵と孝行を象徴する。「送子娘娘」という女神は子どもを授けるとされてい
る。』・・・と説明されている。孫悟空が神として出てくるのも面白いが、五人の神がそ
れぞれ役割分担をしているという点が特に面白い。「ナマハゲ」を思い出しながらそんな
ことを思った。日本の神もさまざまだが、「掃五窮(そうごきゅう)」のように明確な役
割分担をありませんからね。
三つ目は、杭州市かどこか地方都市の郊外で行われている道教の祭である。この祭の詳細
がYouTubeにアップされているので、それをここに紹介したい。
http://www.youtube.com/watch?v=9ALeMr9uVpk
神獣である龍や獅子の舞いは、長崎や神戸や横浜で中国人が行う道教の祭で見ることがで
きるので、多くの方が知っているかと思う。しかし、上記のYouTubeに出て来る不思議な
人形を被った見たこともない面白い「舞」が道教の神に奉納される。不思議な人形が両手
を大きく振ってゆっくり歩く、それだけのことだが、私が面白いと思うのはその歩き方で
ある。私は、人間の歩き方に特別の興味をもっていて、10種類ほどの歩き方をそれぞれ
名前をつけている。その中で、能や日本舞踊に見られる「舞い舞い」というのがあるが、
これは自然の「気」に合わせて足を運ぶ、神と一体になった姿である。その際の重要なポ
イントは、「間」の取り方である。その微妙な間をとった歩き方が上記のYouTube
に出て来る。
不思議な人形が両手を大きく振ってゆっくり歩く、その足の運び方にご注目願いたい。誠
に微妙な「間」がある。私達は今年もこのように無事祭ができる。これもあなた
様のお蔭である。これからもあなた様と一体になって生きていくので、引き続きこれから
も私達を慈しみお守りして下さい、と言っているようだ。
さて、「中国怪奇物語(神仙編)」(駒田信二、昭和57年、講談社)の中に面白い道教
の神が出てくるので、そのことを申し上げておきたい。金鶏洞、石婆神、紫姑神という神
である。内容は紙枚の関係上省略するので、上記の本を読んでいただきたい。中国がまさ
に神々の国であることを実感できるかと思う。
第6節 道教の神「にゃんにゃん」
「にゃんにゃん」はわが国におなじみの道教の神である。沢史生の「閉ざされた神々」に
よると、中国の福建省から広東省の海岸に展開する海辺の民「蚤民族」は、もともと閔国
(ビンコク、福建)の民だったが、秦の始皇帝によって蛮族として駆逐され、以後、海辺
でかろうじて生息する賤民水上生活者として、実に21世紀に至る今日まで虐げられた底
辺の生活を強いられてきたという。秦以降の歴代王朝もこの民族に対する「賤視差別政
策」を中断することなく、彼らの陸での生活を決して許さなかった。したがって、彼らは
常に海をさすらい、新天地を求めて島々を渡り歩き、遂に日本にも辿り着いたのである。
その地が、南かごしま市である。これが世に言う「阿多族」であり、「阿多隼人」の祖先
である。この「阿多隼人」については、私の論文「邪馬台国と古代史の最新」の第7章第
1節に詳しく書いたのでそれを是非ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai07.pdf
海辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。正式には
「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。この神は、海
を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持
ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀られている。この神の溺死体
が漂着したところが南さつま市の野間岬である。野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒
書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着したのでこれを野間岳に祀ったと記されている。
「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。
媽祖(まそ)すなわち「にゃんにゃん」は、まったく道教の歴史と関係がないのだが、ア
タ族や華僑にとっては正真正銘の道教の神なのである。
日本の媽祖Ṫとしては横浜媽祖Ṫが有名であるが、媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験
譚と結び付くなどして、古来、各地で信仰されるようになった。
江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南Ḉ摩地域を中心に現在30例以上確認されて
いる。江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を得た東皐心越が伝
えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られている。また、それを模した
とされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町の弟橘比売神社(天妃神社)、小美
玉市の天聖寺にも祀られている。
青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の
名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996
年(平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾
の媽祖信仰の総本山である雲林県の北港朝天宮と姉妹宮である。
2000年(平成12年)以降、長崎市の長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネット
ワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている。興福寺に媽祖をお迎えするこ
とで祭りが始まる。
また、沖縄県八重瀬町港川にあるうたき、唐の船うたき(とうのふにうたき)は、かつてそ
の地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖が祀られている。
第7節 泰山府君
泰山府君(たいざんふくん)は、中国五岳の筆頭・東岳・泰山(とうがくたいざん)の神
であるが、・・・・・
道教では特別の響きを持つ極めて重要な神である。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/taizan2.htm
その泰山府君(たいざんふくん)は、我が国でも、深い信仰を集めている。京都の修学院
離宮の近くに赤山禅院という寺がある。赤山禅院は、都の表鬼門を守護する方除けのお寺
であるが、日本最古の「みやこ七福神」の寺としても親しまれている。また、比叡山延暦
寺・天台随一の荒行・千日回峰行・赤山苦行(800日目)の寺である。この寺の本尊であ
る赤山大明神は、実は、泰山府君(たいざんふくん)のことである。赤山大明神のことに
ついては、「平安遷都を訪ねて」という次のページからお入り下さい!最後の文章の
「赤山大明神」をクリックすれば、「赤山大明神」という私が苦心して創った貴重なペー
ジに飛びます。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/heian1.html
なお、泰山府君(たいざんふくん)は命を司る神として信仰されているため、感覚として
は、地獄の閻魔大王と同一視される向きもある。小野篁(おののたかむら)が珍皇寺
(ちんのうじ)及び福生寺の井戸から地獄に出入りして談合していた閻魔大王は、案外、
泰山府君(たいざんふくん)であったのかもしれない。珍皇寺については、次の「地獄を
旅する」というページをご覧下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/jigokuta.html
泰山府君は日本になじみの深い呼び名であるが、中国では、太山府君(たいざんふくん)
と一般的に書かれるようである。もちろん、中国でも、泰山の信仰と結びつきが強いの
で、泰山府君とも書かれことがある。道教では一般的に東嶽大帝(とうがくたいてい)と
呼ばれる。その祭の様子知るには次のホームページが良いであろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/bao1gua4/30431444.html
第8節 道教の神「西王母」
中国では、西王母はさまざまな姿で顕われ、人びとに敬愛され祀られている。もっとも格
式の高い女神である。まずそのイメージを次のYouTubeで描いてもらいたい。
http://www.youtube.com/watch?v=HZEUhOqNEhU
その祖廟は新疆ウィグル自治区の「天山天地」にある。
天山天池は天山山脈ではなくその北に位置するのボゴダ山脈にある。ボゴダ山脈も
5,000m級の 山々が連なり、烏魯木齊郊外から冠雪した山々を望むことができる。こんな
砂漠の中に忽然と存在する山脈。ここには下界の砂漠とは違った世界がある。またさまざ
まな種類の薬草も採れるようだ。それでは、その様子を次のホームページでご覧戴きた
い。
http://www.arachina.com/heritage/tianshan/
さて、私はかって、「七夕祭りの再魔術化」という小論文を書いたことがあるが、その中
で、「 繋(つなぎ)のカミ・石棒と柱・・・はたまた猿田彦」「西王母と七夕伝承」
「 八本の柱」というタイトルで、西王母の本質に迫る論考を行った。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba08.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba09.html
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tanaba10.html
西王母の本質は「柱」である。中国古代神話との繋がりでいえば「世界樹」ということに
なるが、中国の場合でいえば、世界樹は崑崙山のことであるから、西王母は「八本の柱」
で象徴されるのである。そして、「七夕祭り」というものは、西王母に関わる祭というこ
とであるので、その本質的な意味を忘れないように、「七夕祭り」には「八本の柱」を祀
らなければならない、というのが私の主張である。
なお、世界樹については、中国にとどまらず、日本も含めて世界中にある観念であるが、
そのことについては、中西進の「日本の文化構造」(2010年3月、岩波書店)に詳し
く論考されているので、是非、それを読んでもらいたい。
さらに、その世界樹というものは、「地母神の象徴である」ということが、森雅子の研
究論文「西王母の原像・・・中国古代神話における地母神の研究」によって明らかになっ
ているので、是非、それも読んでいただきたい。
http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=59004
老子の「道」は、宇宙の実在、万物生成の原理を指し示すものであるが、慈母神である西
王母はまさにそれを象徴している。
第9節 帮(ほう)を知らずして中国を語る事なかれ!
中国という国には、儒教の教える倫理、道徳によって、利害を超えて、義や信を重んじる
仲間の輪というものが数多く見られる、世界でも稀有な素晴らしい国である。もちろん、
義や信を重んじると言っても、その程度は様々であるし、利によって繋がっている輪も少
なくはない。
小室直樹は、利を求めず、相手のためには死をも厭わない、というような仲間の輪を究極
の幇と言っているが、実際の中国社会では、そこまでいかない幇が一般的ということであ
ろう。
橋爪大三郎は、帮は任意に作ることができる契約の一種であり、血縁集団と官僚組織とは
区別される第三の自発的組織である、と言っている。その典型は組織暴力団であり、学校
も幇だし、職業集団、同業組合、宗教団体も幇だと言っている。要するに宗族(父系の血
縁集団)と国(国家元首と政府すなわち官僚組織)との間の中間組織であると言っている
のである。
このように小室と橋爪の認識が違うが、これは、小室が歴史的な認識をしているのに対
し、橋爪は現実の中国社会を見つめて認識しているからである。私は、先に幇の持つ本質
的というか致命的な欠点があるということを指摘しておいたが、歴史認識にもとづいて中
国的精神の可能性を考えている立場から、小室の認識に関連して、この際、その根拠を明
らかにしておきたい。
小室の認識では、幇はコミュニティと言い換えて良い。コミュニティの致命的な欠点は、
マイノリティが出てくるということであり、どうしても神の助けが必要なのである。ここ
に、道教の絶大な存在価値がある。道教によって、マイノリティが救われるのである。
コミュニティにおけるマイノリティの問題、すなわち、神への祈りの問題については、次
をページの冒頭の部分と第3節を是非ご覧いただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/eros15.pdf
これは、私が電子書籍、祈りの科学シリーズを書いた所以でもある。
http://honto.jp/ebook/pd-series_B-MBJ-27435-9-124989X.html
幇(ほう)に見られる儒教の精神と道教の精神とが車の両輪の如く動いているからこそ、
中国は世界でも稀有な素晴らしい国なのである。今後さらに、究極の幇ならずとも、それ
に近い幇が数多くできて欲しい。私は、中国人が三国志など歴史的な書物を大いに読むこ
とを願っている。大いに歴史を紐解くことだ。
第3章 辛亥革命と孫文
第1節 日清戦争について
日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年にかけて行われた主に朝鮮半島をめぐ
る大日本帝国と大清国の戦争である。
朝鮮半島では、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、
1894年春に全羅道古阜郡で、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力
蜂起した。反乱軍は全
準という知将を得て5月には全州市一帯を支配下に置いた。これ
に驚いた時の政権は、清国に援軍を要請したのだが、天津条約にもとづき、日清互いに朝
鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して
清国軍と対峙することになった。これが日清戦争の発端である。
日本軍は、近代軍としての体をなしていなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼
東半島などを占領した。
ちなみに、日露戦争はその後10年後のことであるが、明治維新以降に軍の近代化を進め
てきた日本は、日清戦争の時はすでに相当の軍事力を保持していたのである。翌年の4月
17日、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から領土(遼東半島・台湾・
澎湖列島)と多額の賠償金を得ることになった。しかしその直後、ロシア・フランス・ド
イツが日本に対して清への遼東半島返還を要求した。いわゆる三国干渉である。日本は三
国干渉を受け入れたが、私は当時の外務大臣睦奥宗光のさすがの外交感覚であったと思っ
ている。
明治の政治が懐かしい。近代日本は、大規模な対外戦争をはじめて経験することで近代国
家に脱皮し、この戦争を転機に経済が飛躍したのである。 な日本とは対照的に日清戦争
の敗戦国・清は、戦費調達と賠償金支払いのために欧州列強から多額の借款を受け、また
複数の要衝を租借地にされてしまった。その後、義和団の乱で半植民地化が進み、辛亥革
命に向かうこととなる。辛亥革命は、支那事変に至るまでの歴史の大きな渦であり、その
歴史認識をしっかり持っておかなければならない。
さて、日清戦争で私たちが認識しておかなければならないことに、 琉球処分(りゅう
きゅうしょぶん) の問題がある。日清講和条約と列強との外交力によって、日本はそれ
まで確定していなかった琉球の国境が確定するのである。
現在、日本国民は、沖縄が日本であることは誰も当然だと思っているが、明治以降、中国
とは領土争いがあったのである。この問題に関連して、この際、 琉球処分(りゅうきゅ
うしょぶん)のことを説明しておきたい。
琉球処分とは、日清戦争の20数年前のことであるが、従来の琉球王朝を廃し、県を置い
た日本の施策の事である。鹿児島県は、琉球王朝の施政は時世に合っておらず不都合が多
いとして、指導のため、明治5年1月5日、奈良原幸五郎、伊地知貞香を送った。
これに応じて外務省から次の3ヶ条の指示があった。伊地知らは国王にこれを伝えた。そ
して、明治5年9月14日、天皇より、尚泰を藩王に封じ、華族に列せらるる詔勅が下され
る。さらに、明治5年9月28日、琉球藩の外交権を、外務省に移す。
琉球藩は清国との絶交命令に動揺し、以後、撤回するよう請願を繰り返す。1879年(明
治12年)1月26日、松田道之再度琉球に出張し、清国との絶交を督促する。同意得られ
ず。1879年3月27日、松田道之三度琉球に出張。首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県
を布告した。
清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13年)、日本政府は日
清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに、沖縄本島を日本領とし先島諸島を清
領とする先島諸島割譲案(分島改約案)を提案した。清も一度は応じ仮調印したが、「清
は八重山諸島と宮古島を望まず、琉球領としたうえで清と冊封関係を維持したままの琉球
王国を再興させる」という李鴻章の意思よって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ
状態になった。
最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台
湾を割譲とともに琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。琉球処分以降の、
中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では
一応の決着がついていたことが判明している。
現在でも、中華人民共和国は公式の場にて日本の沖縄に対しての領有権を認めており、日
中共同声明で日中両国の主権及び領土保全の相互尊重を表明している。ただし、現在、尖
閣諸島については両国に見解の相違があるのは事実で、歴史認識の如何に難しいかを物
語っているように思われる。 尖閣諸島の問題だけではない。沖縄本土に関する問題で琉
球帰属問題が再燃される心配もなきにしもあらずだ。しかし、沖縄と日本との関係を古代
までさかのぼってこと細かく明らかにしておけば、その心配は私は無いと思う。沖縄の言
葉は明らかに日本語であり中国語ではないので、古代から日本人と沖縄人とは明らかに同
じ民族である。
歴史認識というのは確かに難しい問題である。しかし、何よりも大事なのは歴史的事実で
あり、歴史的事実に関する研究の積み重ねがあれば、日中間における歴史認識の違いとい
うものは次第に小さくなっていく筈である。繰り返すが大事なのは歴史的事実である。靖
国神社・遊就館に見られるような「ひん曲がった歴史観」は事実に反しており、論外であ
る。その他にも重大な事実誤認がある。
第2節 辛亥革命について
辛亥革命とは、中国で清朝をたおし中華民国をたてた革命(1911年)のことである。こ
れは日本で言えば、明治維新に相当する。事実、辛亥革命の中心人物である「孫文」は、
明治維新をお手本にしたし、日本の中にも随分「孫文」をバックアップした人がいた。日
本抜きに辛亥革命はあり得なかったというほどに、辛亥革命は日本との繋がりが深い。
清朝末期、外国の侵略をふせげず政治(せいじ)は混乱(こんらん)をきわめた。1911年10
月、孫文の中国革命同盟会が湖北省の武昌で反乱をおこすと、16の省がつぎつぎと清朝
からの独立を宣言(せんげん)。各省代表が南京に集まり、1912年には、孫文を臨時大総
統に中華民国臨時政府を成立させた。アジア最初の共和国(きょうわこく)であった。清
朝は袁世凱を討伐(とうばつ)にむかわせたが、彼は新政権と交渉して、清帝を退位させ
て自分が孫文にとって代わり、専制的な政治をしたため、革命の理想はやぶれたのであ
る。
辛亥革命を理解する上で、中国の独立に向かう歴史の大きな流れを私達はしっかり頭に入
れておく必要がある。その上で、辛亥革命のなんたるやを理解し、その後、何故反日運動
が起こっていったのか、その正しい歴史認識を、私達日本人は今こそ、しっかり持たなけ
ればならない。中国の独立に向かう歴史の大きな流れは、1840年のアヘン戦争からは
じまる。そして1868年の明治維新。明治維新というものが中国の独立運動に与えた影
響の大きさは決して忘れてはならない。明治維新以降日本は近代化を進め、1894年の
日清戦争、そして1904年の日露戦争の勝利を勝ち取るのである。この日清戦争と日露
戦争というものは、中国の歴史を左右するほどの大きな影響力を持っていたのであるが、
日本はその後の対中国政策を正しく展開していたら、中国と日本の歴史は大きく変わった
であろう。ここに日本として反省すべき重大な要点がある。その一つが、1914年の最
一次世界大戦の17年後に起こった、満州事変である。満州事変の辺りから、日本の軍部
の傍若無人が始まる。
辛亥革命の主たるスローガンは「駆除韃虜、回復中華」、つまり「打倒清朝」である。
韃慮とは韃靼人の蔑称であり、韃靼とは元来モンゴルを意味しているが、この場合は清帝
国の支配者である満州人のことである。つまり「駆除韃慮、回復中華」 とは、満州人を
追い出してシナ人の独立を回復することであった。すなわちシナ人としての、民族独立で
ある。歴史的な前例を考えれば、モンゴル人を万里 長城の北に追い出して、明がシナ人
の独立を回復したのと、全く同一の現象であると言える。
1840年のアヘン戦争により、清朝は欧米列強と外交で対峙する必要に迫られた。一部官
僚と知識人により1860年代から1890年代にかけて洋務運動が発生、欧米の知識を導入し
て殖産興業・富国強兵を目指す政治活動が提唱された。しかし、清朝内部の自発的なこの
運動では北宋より続いてきた文官偏重の伝統的な政治体制の改革は限定的なものに留まっ
た。さらに、1894年の日清戦争で日本に敗れた事で洋務運動の限界が露呈することに
なったのである。しかし、1900年に義和団の乱が発生、進駐した8ヶ国連合軍によって
北京が占領されるという事態が発生し、清朝の威信は失墜。孫文などの革命勢力は、満州
族を満州に追い出して漢民族の明王朝が支配していた黄河・長江流域とその周辺地域に漢
族の国家建設を目指そうとしたのである。辛亥革命を支持する外国人も少なからず存在
し、特に梅屋庄吉などの日本人による支援が顕著であった。東京で成立した同盟会を初め
多くの革命団体が日本で組織・運営され、北一輝を初めとする日本人も同盟会に参加し、
武装蜂起に参加した日本人にも多くの死亡者が出ている。
「駆除韃虜、回復中華」 つまり「打倒清朝」 をスローガンとする武装蜂起を中国では
「起義」というが、中国は広大な国であるだけに、各地で多くの「起義」が勃発する。第
一広州起義、恵州起義、黄岡起義、第2回恵州起義、 安徽起義、 欽州起義、 鎮南関起
義、 欽州、廉州起義、 河口起義、 庚戌新軍起義、黄花崗起義(第二次広州起義)などで
ある。
マレー半島での革命活動も活発であった。当時のマレー半島は中国本土以外で華人人口が
最も密集し経済的にも発展していた。孫文は数度にわたりマレー半島を訪問し 現地の華
人に対し革命への参加を呼びかけ、多くの華人から支持を受けていた。そのためマレー半
島は革命活動の主要活動地域の一つとされる。
第3節 孫文について
1、孫文と日本
辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。ま
た、中華人民共和国でも「近代革命先行者(近代革命の先人)」として近年「国父」と呼
ばれている。
孫文が日本亡命時代には東京の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に
「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の「中山」という名字が気に入り、
自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名
乗っていた。号の「中山」は貴族院議員の中山忠能の姓から来ている。 孫文が日比谷公
園の界隈にある邸宅の「中山」という表札に重大な関心を持ったのは、表札の字が立派な
字であったということだけではないだろう。孫文は、日本の明治維新を理想としていた。
そして、ご承知のように、明治政府は明治天皇の下、日本国の近代化を進め、軍事力も日
露戦争に輝かしい勝利と治めるまでになっていった。その明治天皇を産んだご生母が中山
忠能の娘中山慶子(よしこ)である。私は、孫文は「中山」という表札を見て、明治維
新、明治天皇を連想し、「中山」を号するようになったのではないかと思う。日比谷公園
の界隈にある「中山」の邸宅は別邸であって、本宅は京都御所の一角にある。そしてそこ
で明治天皇はお生まれになるのである。
中山邸は日比谷公園にもあったようだが、本宅は京都御所の中。
それでは、ちょっと横道にそれるが、京都御所の中の中山邸にご案内しよう。
京都御所を取り巻く御苑の北の端は、かの有名な「猿が辻」からすぐのところに、板塀で
仕切られた 屋敷跡がある。その庭の一角に、一棟の小さな家が建っている。明治初期、
初めて古都に住むことを許されたアメリカ人宣教師たちは、自分たちの家を 探す当座の
間だけ、家具調度など身の回りの品々を置く倉庫代わりにこの家を使ったことがある。今
となってはほとんど目をとめる者とてないが、この家は寛永 7年(1854)4月の内
裏を全焼させた大火をまぬがれたばかりでなく、明治元年(1868)の事実上の東京遷
都後の荒廃と破壊をも生き抜いた数少ない公 家屋敷の一つである。
人の出入りを禁じるように周囲に板塀をめぐらせた外側には、「祐井(さちのい)」と記
された 小さな 木柱が建っている。板塀の内側には、より重々しい石碑があるのが塀越し
にかろうじて目に入る。過去を物語るこの二つの標識だけが、ここを訪れた者 に次のこ
とを教えてくれる。この家は江戸末期に立てられた伝統的な日本建築の一つ・・・それも
実にありきたりの・・・・というだけでなく、はるかに重要な 意味を持っている、と。
事実、この家で明治天皇が生れ、「祐井(さちのい)」の水で産湯を使ったのだった。明
治天皇が御所の中でなく、このような質素な家で生れたのは宮中の慣習によるものだっ
た。生母中山慶子(よしこ)(1835∼1907)は、懐妊が 明らかになるや御所の
局(つぼね)を出なければならなかった。出産は建物を穢す(けがす)、と古くから信じ
られていたからである。代々、天皇の御子は宿下 がりした生母の家の近くで生れるのが
普通で、それも用済みの後は壊される別棟で生れることが多かった。皮肉にもこの小さな
家は壊されるどころか、かってそ の周囲に見事な屋根を競い合っていた公家たちの凝っ
た屋敷よりも長く生き延びることになった。御子の誕生にあたり慶子の父、権大納言中山
忠能(ただやす)(1809∼88)は敷地内の屋敷の隣に、この「産所」を建てた。当
初は、近隣の公家の 邸内の空地を融通してもらうつもりだった。生れてくる子供は、或い
は将来天皇になる皇子かもしれないのだった。にも拘らず忠能の土地借用の申し出は、こ
と ごとく断られた。仕方なく忠能は、狭い自分の屋敷内に産屋を建てなければならな
かった。忠能は当時の多くの公家がそうであったように、浴室と厩のついた二 間だけの
質素な家を建てる費用さえ賄えないほど貧しかった。建築の費用の大半は、借金しなけれ
ばならなかった。
皆さん方には、明治天皇誕生の家を見るために京都御所に出かけてほしい。きっと何か響
き合うものがあるに違いない。そしてできれば「孫文」まで思いを馳せていただければあ
りがたい。
京都御所は見るところが多く、四季折々何度も出かけ下さい!
京都御所は広すぎて中を歩くのはちょっと大変ですが、
一度は歩いてどこに何があるかを確かめておくとよいと思います。
そして、四季折々出かけて下さい。
まずは春先ももの頃・・・・、ここをクリッ ク!
そして桜ですね。
[八重桜1] [八重桜2] [八重桜3] [八重桜4]
[枝垂 れ桜1] [枝垂 れ桜2] [枝垂 れ桜3]
ここもクリックし て下さい!御苑の桜情報ページ(リンク)です。 私の桜情報です!
[蛤ぐり御 門] [正面の大通 り]
[内裏] [猿が辻] [猿が辻2]
[公園内の散 歩道]
さて、中華民国の国立中山大学および中華人民共和国を代表する大学のひとつである中山
大学、南極大陸の中山基地、そして現在台湾や中国にある「中山公園」、「中山路」など
「中山」がつく路名や地名は孫文の号・孫中山からの命名である。
「孫文」は、清国広東省香山県翠亨村(現中山市)の客家の農家に生まれる。アメリカ新
領のハワイにいた兄の孫眉を頼り、ホノルル市のイオラニ・スクール卒業。同市のプナホ
ウ・スクール にも学び西洋思想に目覚めるが、兄や母が西洋思想に傾倒する孫文を心配
し、中国に戻された。帰国後、香港西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ革命思
想を抱くようになり、ポルトガルの植民地のマカオで医師として開業した。
清仏戦争の頃から政治問題に関心を抱き、1894年1月、ハワイで興中会を組織した。翌
年、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起(広州蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本に
亡命した。1897年、宮崎滔天の紹介によって政治団体玄洋社の頭山満と出会い、頭山を
通じて平岡浩太郎から東京での活動費と生活費の援助を受けた。また、住居である早稲田
鶴巻町の2千平方メートルの屋敷は犬養毅が斡旋した。1902年、日本人の大月薫と駆け落
ちに近い形で結婚した。1905年にヨーロッパから帰国をする際にスエズ運河を通った際
に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日
本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文
の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれる。長い間、満州民族の植民
地にされていた漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめたい」と言ってきた。同
年、宮崎滔天らの援助で東京池袋にて興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結
成。
宮崎滔天
(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/339.htmlより)
頭山満
(http://www.toyamamitsuru.jp/より)
1911年10月10日、共進会と同学会の指導下、武昌蜂起が起き、各省がこれに呼応して独
立を訴える辛亥革命に発展した。当時、孫文はアメリカにいた。独立した各省は武昌派と
上海派に分かれ革命政府をどこに置くか、また革命政府のリーダーを誰にするかで争った
が、孫文が12月25日に上海に帰着すると、革命派はそろって彼の到着に熱狂し、翌1912
年1月1日、孫文を臨時大総統とする中華民国が南京に成立した。1913年3月、国会議員選
挙において中国同盟会を発展させ、孫文が理事長である「国民党」が870議席の内401議
席を獲得。 同党の実質的な指導者である宋教仁を総理とした。宣統帝の退位と引き換え
に清朝の実力者となった袁世凱はアメリカの政治学者グッドナウ(英語版)による強権政
治(中央集権的な統治)の意見を取り入れ、自身の権力拡大を計り、宋教仁を暗殺し、国
民党の弾圧をはじめた。 これに伴い、同1913年(大正2年)7月、袁世凱打倒の第二革命
がはじまる。1914年に孫文は中華革命党を組織するが、袁は議会解散を強行した。1915
年には共和制を廃止、帝政を復活させ、袁世凱自らが中華帝国大皇帝に即位する。 直ち
に反袁・反帝政の第三革命が展開される。この頃、各地で地方軍人が独自政権を樹立し、
「軍閥割拠」の状況であった。孫文は、西南の軍閥の力を利用し、1917年、広州で広東
軍政府を樹立する。 しかし、軍政府における権力掌握の為に、広西派の陸栄廷を攻撃し
たことが原因となり、第一次護法運動は失敗に終わり、また、第二次護法運動は陳炯明と
の路線対立により、広州を追われた。そして、孫文は一時、日本へ亡命した。日本亡命時
には「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言
葉を犬養毅へ送っている。
ところで、先にも述べたように、憲政常道による議会政治が始まったのは大正十三年(1
924年)であって、それから八年間は民政党、政友会の二大政党が交互に政権を握ると
いう、憲政常道による議会政治が確立したかの加く見えた。 しかし、昭和7年(193
2年)5月に5・15事件が勃発し、犬養毅が、首相官邸において、白昼、軍人によって
暗殺された。犬養毅は憲政常道による議会政治の最後の首相となったのである。 それか
らは日本は軍人に依る恐怖政治が行われ、遂に東条英機という首相を生み出すのである。
ところで、八年間の憲政常道時代の最初の政府は三派連合(政友、民政、革新)内閣で、
民政党の加藤高明が首相であった。その加藤首相が昭和二年一月病死した為めに若槻禮次
郎が内閣総理になった。これが第一次若槻内閣である。そして田中義一内閣、濱口雄幸内
閣と続く。若槻が二度目に内閣の首班になったのは、昭和五年十一月十五日浜口首相が東
京駅において兇漢の為めに狙撃され、その経過が悪かった為めである。そして浜口は翌年
四月若槻にその地位を引き受けてもらったのである。そして、第二次若槻内閣の後が犬養
毅内閣である。加藤高明と若槻禮次郎は憲政会総裁、田中義一と犬養毅は立憲政友会総
裁、濱口雄幸は立憲民政党総裁であった。これらの総理大臣は、選挙で選ばれて総理に
なった人たちであるので、一応、国民の代表であったと言い得る。そのような民主的な政
党政治の最後の総理大臣が犬養毅であって、彼の考えはある意味で国民の考えでもあった
のである。だから、犬養毅が「孫文」を支援したということは、当時の国民の意思でも
あったといってもけっして言い過ぎではないと思う。私達はこのことをけっして忘れては
ならないであろう。歴史的な経緯から多少の行き過ぎがあったとしても、その都度、軌道
修正をして、「孫文」を支援するという犬養毅の考えを貫いておれば、日中関係の歴史は
間違いなく今とは変わったものになった筈である。何故犬養毅の考えを貫くことができな
かったのか、大いに反省すべきことではなかろうか。
犬養毅
(http://www.city.okayama.jp/tokyo/nissi/16fy/040515bokudo/bokudo.htmより)
2、対華21ヶ条
対華21ヶ条要求とは、第一次世界大戦中、日本が中華民国政府とおこなった外交交渉に
おいて提示した21か条の要求と希望のこと。二十一か条要求などとも呼ばれる(中国語
版では「二十一条」)。これが孫文をして抗日運動に向かわせる原因となった。
第一次世界大戦が欧州で始まり、日本は第三回日英同盟協約により1914年8月23日にドイ
ツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦した。中華民国はドイツ権益が中華民国政
府の管理下におかれるべきと要求したのだが、日本政府は戦時国際法上の軍事占領として
日本軍が管理するべきものとした。日本政府としてはドイツと開戦したのであり、休戦後
の講和条件によって山東半島の対ドイツ租借権をドイツから継承したのち中華民国に返還
する意向であり、一方で中華民国の主張は対独租借条約の文言に「他国に譲渡せず」の文
言があり中華民国に直接返還されなければならないとした。欧州では第一次世界大戦が継
続中であり、日本政府としてはドイツとの休戦・講和が成立するまで山東膠州湾のドイツ
権益を占領する必要があり、膠済鉄道や青島税関は日本が戦時接収していた。軍事占領は
権益の帰属を確定させるものではなく、日本政府が一方的に中華民国に返還した場合、戦
争の推移や講和条件の如何によっては日本政府がドイツあるいは中華民国に対して山東の
一方的返還について多額の賠償義務を負う可能性がある。日本政府は袁世凱大統領と直接
交渉することで事態の打開に動いた。1914年12月3日、加藤高明外相は、駐華公使日置益
に対華要求を訓令し、翌1915年(大正4年)1月18日、大隈重信内閣(加藤高明外務大
臣)は袁世凱に5号21か条の要求を行ったのである。
大隈重信内閣(加藤高明外務大臣)が清朝(袁世凱)に行った「5号21か条の要求」は、
主に次のような内容であった。
第1号 山東省について。*ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること。* 山
東省内やその沿岸島嶼を他国に譲与・貸与しないこと。*芝罘または竜口と膠州湾から済
南に至る鉄道(膠済鉄道)を連絡する鉄道の敷設権を日本に許すこと。*山東省の主要都
市を外国人の居住・貿易のために自ら進んで開放すること。
第2号 南満州及び東部内蒙古について。*旅順・大連(関東州)の租借期限、満鉄・安奉
鉄道の権益期限を99年に延長すること(旅順・大連は1997年まで、満鉄・安奉鉄道は
2004年まで)。* 日本人に対し、各種商工業上の建物の建設、耕作に必要な土地の貸
借・所有権を与えること。*日本人が南満州・東部内蒙古において自由に居住・往来した
り、各種商工業などの業務に従事することを許すこと。*日本人に対し、指定する鉱山の
採掘権を与えること。* 他国人に鉄道敷設権を与えるとき、鉄道敷設のために他国から
資金援助を受けるとき、また諸税を担保として借款を受けるときは日本政府の同意を得る
こと。*政治・財政・軍事に関する顧問教官を必要とする場合は日本政府に協議するこ
と。*吉長鉄道の管理・経営を99年間日本に委任すること。
第3号 漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中華民国最大の製鉄会社)について。*漢冶萍
公司を日中合弁化すること。また、中国政府は日本政府の同意なく同公司の権利・財産な
どを処分しないようにすること。*漢冶萍公司に属する諸鉱山付近の鉱山について、同公
司の承諾なくして他者に採掘を許可しないこと。また、同公司に直接的・間接的に影響が
及ぶおそれのある措置を執る場合は、まず同公司の同意を得ること。
第4号 中国の領土保全について。*沿岸の港湾・島嶼を外国に譲与・貸与しないこと。
第5号 中国政府の顧問として日本人を雇用すること、その他。*中国政府に政治経済軍事
顧問として有力な日本人を雇用すること。*中国内地の日本の病院・寺院・学校に対し
て、その土地所有権を認めること。*これまでは日中間で警察事故が発生することが多
く、不快な論争を醸したことも少なくなかったため、必要性のある地方の警察を日中合同
とするか、またはその地方の中国警察に多数の日本人を雇用することとし、中国警察機関
の刷新確立を図ること。*一定の数量(中国政府所有の半数)以上の兵器の供給を日本よ
り行い、あるいは中国国内に日中合弁の兵器廠を設立し、日本より技師・材料の供給を仰
ぐこと。*武昌と九江を連絡する鉄道、および南昌・杭州間、南昌・潮州間の鉄道敷設権
を日本に与えること。*福建省における鉄道・鉱山・港湾の設備(造船所を含む)に関し
て、外国資本を必要とする場合はまず日本に協議すること。*中国において日本人の布教
権を認めること。
第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山東省権益が日本に譲
渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。五・四運動である。
この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大していく。
保坂正康によれば、宮崎滔天や山田良政・山田純三郎らが孫文の革命運動を援助した理由
のひとつは、明治維新または自由民権運動の理想が日本で実現できなかったことの代償で
あったという。しかし孫文自身も1919年に次のように発言しているそもそも中国国民党
は50年前の日本の志士なのである。日本は東方の一弱国であったが、幸いにして維新の志
士が生まれたことにより、はじめて発奮して東方の雄となり、弱国から強国に変じること
ができた。わが党の志士も、また日本の志士の後塵を拝し中国を改造せんとした。また
1923年には、次のように発言している。日本の維新は中国革命の原因であり、中国革命
は日本の維新の結果であり、両者はもともと一つのつながって東亜の復興を達成する。
このように明治維新への共感にもとづき日中の連携を模索した孫文にとって、日本による
対華二十一ヶ条要求は「維新の志士の抱負を忘れ」、中国への侵略政策を進展させること
であった。
3、孫文とソ連
日露戦争での苦戦が続く1905年1月には首都サンクトペテルブルクで生活の困窮をツァー
リに訴える労働者の請願デモに対し軍隊が発砲し多数の死者を出した(血の日曜日事
件)。この事件を機に労働者や兵士の間で革命運動が活発化し、全国各地の都市でソヴィ
エト(労兵協議会)が結成された。そして、遂に、1917年にロシア革命が起きる。
先程述べたように、第一次世界大戦後の1919年1月のパリ講和会議によってドイツから山
東省権益が日本に譲渡されたのを受けて、中国全土で「反日愛国運動」が盛り上がった。
五・四運動である。この運動以降、中国の青年達に共産主義思想への共感が拡大してい
く。陳独秀や毛沢東もこのときにマルクス主義に急接近する。この反日愛国運動は、孫文
にも影響を与え、「連ソ容共・労農扶助」と方針を転換した。旧来のエリートによる野合
政党から近代的な革命政党へと脱皮することを決断し、ボリシェビキをモデルとした。実
際に、のちにロシアからコミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎え、赤軍に
あたる国民革命軍と軍官学校を設立した。それゆえ、中国共産党と中国国民党とを「異母
兄弟」とする見方もある。
国民党の指導者孫文はソ連の援助を受け入れたが,中国共産党との合作においては党と党
との提携ではなく,中国共産党員が個人として国民党に加入する党内合 作の形式を要求
した。1924年1月,国民党第1回全国大会は〈連ソ・容共・労農援助〉の新政策を決定し合作は
正式に発足した。この大会には165名の代表が参加,すでに国民党に入党していた多くの
共産党員も参加した。大会は,〈大会宣言〉および党の〈総章〉〈政綱〉等を採択,そ の中で〈連
ソ・容共・労農援助〉の三大政策(この名辞はのちに提唱されたものだが)を確立し,国民党の
主義として三民主義に新しい内容を与えた。すなわ ち,反帝国主義と民族自決・国内各民
族平等を内容とする民族主義、平民が自由と権利を享有し売国奴・軍閥の自由と権利を認
めない民権主義、地権平均・資本 節制を実行し労働者・農民への援助と彼ら自身の奮闘に
よって彼らの生活の保障と解放をめざす民生主義、である。
1924年10月、孫文は北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。同11
月には日本の神戸で有名な「大アジア主義講演」を行う。日本に対して「西洋覇道の走狗
となるのか、東洋王道の守護者となるのか」と問い、欧米の帝国主義にたいし東洋の王
道・平和の思想を説き、日中の友好を訴えた。
1922年に広東駐在武官となった佐々木到一は、 当時、中国国民党の本拠であった広東で
国民党について研究し、その要人たちと交わり深い関係を持った。佐々木は後年国民党通
と言われる。孫文が陳炯明を追 い払うと要請を受け、孫文の軍事顧問となる。佐々木は
孫文の軍用列車に便乗して国民党の戦いぶりを観察している。また列車の中で孫文から蒋
介石を紹介され た。なお人民服(中山服)のデザインも佐々木の考案に基づいたされ
る。佐々木は1924年に帰国するが、その後も孫文とは交遊を続けた。
1928年1月、蒋介石が国民革命軍総司令に復職。佐々木は総司令部に従軍を申し入れ許可
され4月、北伐が再開され北伐軍と共に従軍した。総司令部は日本側との衝突が起こりそ
うになった場合の連絡役を佐々木に期待した。前年とこの年と二度に渡る日本軍の山東出
兵で、中国側の敵愾心が高まっており同年5月、日本軍と国民革命軍が武力衝突(済南事
件)。佐々木は両軍の使者となって停戦の折衝にあたるが途中、中国兵に捕らえられ暴兵
と暴民にリンチされる。蒋介石の使いに何とか救出されたが、佐々木の中国観に大きな変
化が起こったとされる。状況報告のため帰国。佐々木の発言が革命軍の肩を持つような記
事に捏造され新聞記事で出たり、暴行を受けながら、おめおめ生きて帰ってきたと卑怯
者、売国奴あつかいをされた。このため転地療養を命じられるが、田代皖一郎支那課長か
ら戻って欲しいと要請を受け南京に戻る。しかしこれ以降、中国側が佐々木との接触を
断った。蒋介石は済南で佐々木を見舞った時、日本軍の行動に強い不信の念を表明し、日
本軍との提携の望みはなくなったと語ったという。
1922年のコミンテルン極東民族大会において「植民地・半植民地における反帝国主義統
一戦線の形成」という方針採択を受けて、1923年1月26日には孫文とソビエト連邦代表ア
ドリフ・ヨッフェの共同声明である「孫文・ヨッフェ共同宣言」が上海で発表され、中国
統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し、ソ連との連帯を鮮明にした。 この宣言
は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告であった。ソビエト連邦の
支援の元、2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次広東政府)した。
しかし、連ソ容共への方針転換に対して、反共的な蒋介石や財閥との結びつきの強い人物
からの反発も強く、孫文の死後に大きな揺り戻しが起きることとなる。
コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿うように中国国民
党の再編成と強化を援助するため1923年に中国に入り、孫文の軍事顧問・国民党最高顧
問となった。ボロディンの進言により1924年1月20日、中国共産党との第一次国共合作が
成立。軍閥に対抗するための素地が形成された。黄埔軍官学校も設立され、赤軍にあたる
国民革命軍の組織を開始する。1925年にはソビエト連邦により中国人革命家を育成する
機関を求める孫文のためにモスクワ中山大学が設立された。
1925年、孫文は、有名な「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志
よって須く努力すべし)」との一節を遺言に記して(実際には汪兆銘が起草した文案を孫
文が了承したもの)北京に客死し、南京に葬られた。その巨大な墓は中山陵と呼ばれる。
霊枢を北京より南京城外の中山陵に移すにあたり、31日国民政府中央党部で告別式を行
い、国賓の礼を以て渡支した犬養毅が祭文を朗読。 霊柩は犬養毅、頭山満の両名が先発
して迎え、イタリア主席公使・蒋介石と共に廟後の墓の柩側に立った。孫文没後の国民党
は混迷し、孫文の片腕だった廖仲愷は暗殺され、蒋介石と汪兆銘とは対立、最高顧問ボロ
ディンは解雇されるなどした。以降、蒋介石が権力基盤を拡大する。
4、孫文と中華人民共和国
孫文は決して民主制を絶対視していたわけではなく、中国民衆の民度は当時まだ低いと評
価していたため民主制は時期尚早であるとし、軍政、訓政、憲政の三段階論を唱えてい
た。また、その革命方略は辺境を重視する根拠地革命であり、宋教仁らの唱える長江流域
革命論と対立した。また孫文はアメリカ式大統領制による連邦制国家を目指していたが、
宋教仁は議院内閣制による統一政府を目指した。 このように、孫文は終始革命運動全体
のリーダーとなっていたのではなく、新国家の方針をめぐって宋教仁らと争っていた。
1905年に中国同盟会が創設されたときに「韃虜の駆除・中華の回復・民国の建立・地権
の平均」の「四綱」が綱領として採択され、孫文はこれを民族(韃虜の駆除・中華の回
復)・民権(民国の建立)・民生(地権の平均)の三大主義と位置づけた。そして1906
年に「四綱」を「三民主義」へと改めた。すなわち、三民主義は1906年に孫文が発表し
た中国革命の基本理論であり、のちに中国国民党の基本綱領として採用され中華民国憲法
にその趣旨が記載されるに至ったものである。孫文は、三民主義の一つに民族主義を掲
げ、秦以来万里の長城の内側を国土とした漢民族の国を再建すると訴えていたが、満州族
の清朝が倒れると、清朝の版図である満州やウイグルまで領土にしたくなり、民族主義の
民族とは、漢とその周辺の五族の共和をいうと言い出した。しかし、この五族共和論は、
すべての民族を中華民族に同化させ、融合させるという思想に変貌する。1921年の講演
「三民主義の具体的実施方法」では「満、蒙、回、蔵を我が漢族に同化させて一大民族主
義国家となさねばならぬ」と訴え、1928年には熱河、チャハルのモンゴル族居住地域、
青海、西康のチベット族居住地域をすべて省制へと移行させ、内地化を行うという政策に
変わってく。
では、ここらで少し一休みして、「万里の長城」についてご説明しておきたいと思う。ま
ずは、次のホームページをご覧戴きたい。
http://www.china8.jp/heritagedetail/1.html
このページの中にある地図をズームアウトないしズームインしながら見ていくと、「万里
の長城」の位置関係を理解できるかと思う。案外、北京に近いですね。大雑把に言うと、
「万里の長城」は、下の図、これは日本が朝鮮や台湾を統治していた戦時中の地図です
が、これで言うと、朝鮮と満州国の国境から満州の南側をとおって、現在の内モンゴルの
南側に延々と続く世界最大の構造物である。
「万里の長城」は、秦の時代から作られ、明の時代にもっとも盛んに作られた、中華を象
徴するまさに歴史的に巨大な遺産である。
中華を象徴するまさに歴史的に巨大な遺産・万里の長城の位置図
( http://wadaphoto.jp/kikou/banri.htm より)
なお、中華民国の領土の変遷は、次のページの中に「中華民国の領土の変遷」という地図
があるので、それをクリックすると時代の変遷が判るので、是非、ご確認下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E6%B0%91%E5%9B%BD
%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2
さて、武昌起義によって、1911年10月11日午前、武昌全域が決起軍の支配下に置か
れ、夜には謀略処が設置された。起義とは義のために立つという意味で、中国の維新のた
めの武装蜂起のことを言う。武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほう
き)は、1911年10月10日に中国の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとな
る事件である。
武昌市街図・各隊の進攻
武昌にある湖北軍督府跡(紅楼)
武昌起義で中華民国湖北軍政府が掲げた十八星旗(鉄血十八星旗、別名・九角十八星旗)
満洲人の支配に対し、漢民族を主体とする内地十八省を象徴する18個の黄色い星に、
古代の九州を象徴する九角の黒い星をあしらう。
後に五族協和を象徴する五色旗に替えられた。
謀略処(参謀本部)により中華民国軍政府鄂軍都督府(中華民国湖北軍政府)の成立が宣
言され、同時に軍政府の檄文と『安民布告』が発表され、国号を中華民国と改め、清朝の
年号である宣統を廃止して黄帝紀元の採用を発表、宣統3年を黄帝紀元4609年とした。軍
政府は参謀部、軍務部、政事部、外交部を設置、咨議局大楼を事務所とし十八星旗を軍旗
とした。謀略処は軍政府名義により『布告全国電』や『通告各省文』などの電信を全国に
発信している。
その直後、清朝は、北洋軍を派遣し武漢三鎮江北漢口及び漢陽を攻撃、以前罷免されてい
た北洋軍の袁世凱が再び召還して北洋軍内部の人心動揺を抑えた。11月1日、清朝政府は
袁世凱を内閣総理に任命、海外華僑や留学生及び国内世論の間に袁世凱による初代大総統
の気運が高まった。11月9日、黄興は袁世凱に書簡を送りナポレオンやワシントンの資格
を持ってナポレオン、ワシントンの功績を作るべしとし、袁世凱に民主的に選出された総
統となることを求めた。11月16日、パリ滞在中の孫文も国民軍政府に対し袁世凱の総統
就任に同意の意向を示す電報を送信している。
袁世凱
( http://www.vmlab.jp/blog/tsujii/2008/10/post-207.html より)
革命軍は陽夏防衛戦を展開したが清朝の北洋軍に敗北、11月27日には江南武昌に撤退し
ている。47日間の作戦の中で1万人強の死傷者を出したが、武昌防衛は堅持していた。そ
の間に中国15省が次々と清朝からの独立を宣言し、内地十八省中で清朝の統治が及ぶの
は甘粛、河南、直隷(おおむね現在の河北省)のみとなり、独立した各省では一部が革命
党の主導を受けたほか、大部分は諮議局メンバーによって政治運営が行われた。
甘粛省 河南省 河北省
さらにその後もさまざまな武力衝突があったが、遂に、12月2日、革命軍は南京城を攻
略、これにより長江以南の地域はすべて革命軍の支配下に置かれることになった。そして
同日、イギリス駐漢口領事館の斡旋により革命軍と清軍の間で停戦協定が成立した。
そして、12月4日、宋教仁、陳其美等は、上海における各省代表の沈恩孚、兪寰澄、朱葆
康、林長民、馬良、王照、欧陽振声、居正、陶鳳集、呉景濂、劉興甲、趙学臣、朱福 、
さらに章炳麟、趙鳳昌、章駕時、蔡元培、王一亭、黄中央、顧忠琛、彭錫范な どを召集
し、上海江蘇省教育総会にて会議を開催、投票方式により孫文への帰国要請と政治参加を
求める公電発信を決定した。12月25日、フランスのマルセイユより孫文が上海に帰国し
た。孫文は多くの革命団体より支持を受ける人物であり、大総統就任が期待される人物で
あったため、立憲派及び旧勢力より孫文は袁世凱から大総統の座を奪い取るものであると
認識されていた。
12月28日、南京で臨時大総統選挙予備会議が開催され、29日に臨時大総統選挙が実施さ
れた。臨時政府組織大綱第1条で「臨時総統は各省都督代表がこれを選挙し、投票総数の
3分の2以上の獲得で当選とされ、投票権は各省1票」と規定されていた。選挙に参加した
のは直隸、奉天、山東、山西、河南、陝西、湖北、湖南、江西、安徽、江蘇、浙江、福
建、廣東、廣西、雲南、四川の17省45名の代表であり、孫文は17票中16票を獲得し、中
華民国初代臨時大総統に選出されたのである。
12月8日、袁世凱は唐紹儀を内閣総理大臣の全権代表として派遣、12月9日には唐紹儀は
武漢に赴き黎元洪やその代表との会談を行い、同日各省代表は伍廷芳を停戦交渉の全権代
表に選出した。
列強諸国の介入もあり、清朝政府代表の唐紹儀と各省代表の伍廷芳は上海イギリス租界で
交渉を開始、その結果、袁世凱は宣統帝の退位を支持することを 条件に、各省代表は袁
世凱の中華民国大総統への就任を支持した。成立したばかりの共和国から内戦や外国軍隊
の介入を未然に防止する観点からも、孫文もまた 中国の統一と袁世凱を首班とする共和
政府の樹立に同意している。
唐紹儀 伍廷芳
1912年1月1日、中華民国臨時政府が正式に成立、孫文が臨時大総統に就任した。1月2
日、孫文の大総統就任を知ると、袁世凱は唐紹儀の交渉代表資格を停止している。
1月16日、袁世凱は朝廷からの帰路、東華門丁字街で同盟会京津分会組織の爆弾による暗
殺計画に遭遇している。この暗殺は失敗したが、17日に袁世凱は革命勢力に対し暗殺活動
の停止を要求している。
1月20日、民国臨時政府は袁世凱に対し、皇帝の退位と優待条件を提示、1月22日に孫文
は袁世凱が宣統帝の退位に賛成するのであれば自らは大総統職を辞任し、袁世凱の就任を
要請する声明を発表した。地位が保証された袁世凱は清朝に対する圧力を強め、慶親王奕
と那桐への政治工作、隆裕太后の寵愛を受けた太監である張蘭徳に賄賂工作を行い、
「時局の大勢は既に決し、もし革命軍が北京に到達すれば皇帝の生命の確保もおぼつかな
いが、退位することで優待条件を受けることができる」と退位を勧めた。
1月29日、清朝は朝議により宣統帝の退位を決定、2月3日には隆裕太后は袁世凱に全権を
委任し、民国臨時政府との皇帝退位条件の交渉に当らせた。
3歳の宣統帝(右)
2月6日、臨時参議院は皇帝退位のための『優待条例』と張謇が起草した『退位詔書』を
承認した。承認された優待条件は下記の通りである。
1.
大清皇帝尊号は今後も使用可能であり、民国政府により外国君主と同等の待遇を受
ける。
2.
民国政府は毎年400万元を皇帝に支出する。
3.
皇帝は暫時紫禁城に居住し、後に頤和園に移る。
4.
清室の宗廟は民国政府により保護を受ける。
5.
光緒帝王の崇陵建設費用は民国政府が支出する。
6.
宮廷内の雇人は継続して雇用される。
7.
皇室の私有財産は民国国軍により保護される。
8.
禁軍は民国陸軍に編入する。
皇帝退位に伴う優待条件以外に清皇室及び満蒙回蔵各王族の待遇条件7条も同時に定めら
れた。
2月12日、清朝内閣総理大臣袁世凱等の内閣勧告により宣統帝の母后である隆裕太后は清
皇室への優待条件を受け入れ、『退位詔書』を発布、清朝最後の皇帝、宣統帝の退位と袁
世凱が組織する共和政府への権限移譲が行われた。この時に、有期限の元号は廃止され、
1912年を元年とする無期限の民国紀元(中華民国暦)が施行された。『退位詔書』は張
謇により起草、臨時参議院を通過したものである。しかし袁世凱により全権組織された共
和政府という表現は袁世凱により追加されたものである。これにより清朝は死滅し、
2000年以上続いた帝政は終に廃止されたのである。
「ラストエンペラー」は、1987年公開のイタリア、中華人民共和国、イギリス合作による
清朝最後の皇帝で後に満州国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いた歴史映画である。
この映画がYouTubeで紹介されているので、それを次ぎに紹介しておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=mTTeE1Lhbkg
http://www.youtube.com/watch?v=IbyHSmIR9fA&list=PL8FDACDBCB7A4B2A7
http://www.youtube.com/watch?v=CppajH6il5Q&list=PL96ACDB31E24545B7
http://www.youtube.com/watch?v=OEBStAjm1Eo&list=PL8FDACDBCB7A4B2A7
宣統帝退位後の1912年2月13日、孫文は辞表を提出し、臨時参議院に対し袁世凱の大総統
就任を推薦した。2月15日、臨時参議院は袁世凱の第2代臨時大総統就任と南京を首都と
することを承認、3月8日には『中華民国臨時約法』を制定した。
3月10日、袁世凱は北京で中華民国第2代臨時大総統に就任、この直後より諸外国からの
政府承認が中華民国に行われた。袁世凱は北京兵変を理由に北京に遷都している。
袁世凱の就任後強力な中央政府の保持に努め、一部革命メンバーによる各省の分離独立の
動きを阻止している。同時に袁世凱は積極的に列強との間にモンゴル及びチベットに対す
る主権承認交渉を行っている。
これより1928年までの期間を「北洋時期」と称し、当該期間内の中華民国政府は「北洋
政府」と称される。
1913年2月、『臨時約法』の規定に従い、中国史上初めての国会選挙が実施された。選挙
の結果は中国国民党が第一党の地位を占め、宋教仁を総理大臣とする内閣組閣準備が進め
られた。しかし3月20日、宋教仁が上海で暗殺された。この暗殺の背景には袁世凱の指示
があったことから、7月には孫文により第二次革命が計画され、袁世凱に対する武装蜂起
が実行されたが、程なく鎮圧されている。第二次革命を阻止した袁世凱は自ら皇帝を自称
しようとしたが、支持を得られずに失敗し、間もなく病死した。袁世凱の死後、中国は軍
閥割拠となり、孫文は広州で護法政府を組織し(第三次革命)、中国の政治情勢は分断と
動乱の時代に突入した。
孫文の二回の護法運動は、軍人の支持により開始されたものであったが、軍人の支持を失
うことで失敗に終わった。護法運動の後、孫文は、自分で軍隊を創設し革命を進めるよう
になった。連ソ容共政策が開始され、1923年1月26日、上海における孫文とソビエト連邦
代表アドリフ・ヨッフェの共同声明は中国統一運動に対するソビエト連邦の支援を誓約し
た。孫文・ヨッフェ宣言は、コミンテルン、中国国民党および中国共産党の連携の布告で
あった。ソビエト連邦の支援の元、1923年2月21日、広東で孫文は大元帥に就任(第三次
広東政府)した。コミンテルンの工作員ミハイル・ボロディンは、ソ連共産党の路線に沿
いながら中国国民党の再編成と強化を援助するため1923年中国に入り、孫文の主要な顧
問となった。ボロディンの進言により1924年、中国国民党に中国共産党員を受け入れる
第一次国共合作がなされ、黄埔軍官学校も設立された。護法運動の理念は、強化された中
国国民党の軍事力を背景に、最終的に、蒋介石の北伐で結実することになった。
護法運動(ごほううんどう)は、1917年から1922年にかけて孫文の指導の下、中華民国
北京政府の打倒を図った運動のこと。中国国民党の歴史の中では「第三革命」とも称され
る。ただし、日本では護法運動と第三革命は必ずしも同義ではない。
国共合作を行った孫文は大正13年(1924)に日本の神戸高等女学校で有名な「大アジア
主義」の講演を行なったのち、北京に戻って肝臓がんで死去した(1925[大正14])。
そのとき、孫文は遺言で墓を南京郊外の紫金山に指定し、そこに葬られた。
南京郊外の紫金山の孫文の墓(中山陵)
( http://blogs.yahoo.co.jp/axttony/archive/2007/03/24 より)
昭和12年(1937)12月、日本軍が南京を攻めたとき、紫金山に大砲を上げて撃つと狙い
がつけやすかったにもかかわらず、松井岩根司令官は「孫文の墓があるところだから遠慮
しよう」といって使わなかった。それぐらい気を使って南京を攻めた。孫文の死去により
国民党は求心力を失い、激しい党内権力闘争が始まった。その凄惨さは北洋軍閥間の内戦
以上だった。孫文の急死と共に国共合作の矛盾は表明化し、その中で台頭したのが黄埔軍
官学校長の蒋介石だった。
では最後に、孫文の遺言をご紹介してこのページを終わりたいと思う。彼は次のように
言っている。すなわち、
『 余の力を中国革命に費やすこと40年余、その目的は大アジア主義に 基づく中国の自
由と平等と平和を求むるにあった。40年余の革命活動の経験から、余にわかったこと
は、この革命を成功させるには、何よりもまず民衆を喚起 し、また、世界中でわが民族
を平等に遇してくれる諸民族と協力し、力を合わせて奮闘せねばならないということであ
る。 そこには単に支配者の交代や権益の確保といったかつてのような功利主義的国内革
命ではなく、これまでの支那史観、西洋史観、東洋史観、文明比較論などをもう一度見つ
め直し、民衆相互の信頼をもとに西洋の覇道に対するアジアの王道の優越性を強く唱え続
けることが肝要である。
しかしながら、なお現在、革命は、未だ成功していない──。わが同志は、余の著した
『建国方略』『建国大綱』『三民主義』および第一次全国代表大会宣言によって、引き続
き努力し、その目的の貫徹に向け、誠心誠意努めていかねばならない。』・・・と。
中国との友好親善のために(中編)
道教について
1、道教の始祖「老子」
日中両国の関係には古い歴史があり、日本の文化は、中国からの伝来文化に負うところが
極めて大きい。中国からの伝来文化は多彩を極めているが、その中で、私は、道教に重大
な関心を持っている。道教の始祖が「老子」であるからだ。
( http://japan.visitbeijing.com.cn/play/legends/n214781816.shtml より)
老子は、「宇宙の実在」を「道」と言っているが、時には、「天」と言ったり、「天地」
と言ったり「谷神(こくしん)」と言ったりしている。「 谷神(こくしん)は死せず。これ
を玄牝(げんぴん)と謂(い)う。玄牝の門、これを天地の根(こん)と謂う。緜緜(めんめん)と
して存(そん)する若(ごと)く、これを用いて勤(つ)きず。」と老子は言っている。そこで私
は、老子の勉強するには、玄牝の門から入っていくのが良いと考え、とりあえず玄牝の門
について書いた。老子はどうも、女が子供を産むということを終始念頭においていたよう
で、それに対する哲学的思考を重ね、宇宙の原理を悟ったらしいが、詳細については次の
ページをじっくりご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rousi01.pdf
2、北京・白雲観
先程述べたように、私は道教について重大な関心を持っている。そこで道教の神について
は、以前、おおよそのことが知りたくて、手始めに少し書いた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doukyou01.pdf
しかし、道教についてより詳しい勉強をするには、窪徳忠の「道教の神々」(1996年
7月、講談社)が良いので、以下において、それに従って勉強していきたいと思う。
窪徳忠は、道教の神々について詳しい説明をしているのだが、まず冒頭で次のように言っ
ている。すなわち、
『 日中両国の関係には古い歴史があり、日本の文化は中国の影響を多く受けている。け
れどの、それを忘れて、戦後特に最近は、口ではアジアの一員などと言いながら、中国を
軽視する感が深い。(中略)古く中国の人びとのあいだに起こり、儒教や仏教やその他外
来宗教を容れながら今日に至っている道教という特殊な宗教を知るのが中国や中国人を知
るもっとも良い方法であるにもかかわらず、日本人はその実体をほとんど知らない。』
『 政府が道教を迷信と見る態度を改めた結果、各省や市に道教協会が続々と成立し、機
関誌を発行したり、台湾の中華民国道教会と交流するなど、活発な活動を行っている。道
観(道教の寺)や廟の増・改築も盛んである。したがって、祭の道観や廟は参詣人で大混
雑の有様である。(中略)道教の研究も盛んで、大陸では神々の伝記、道教史、教理から
道教音楽などの書物が盛んに出版されている。この点は、台湾も同様である。中でも圧巻
は、大陸での「中華道教大辞典」の上梓で、日本版の道教辞典など比較にならない優れた
内容である。』
『 道教は、すでに戦前から迷信だとしてインテリからいたく攻撃され、戦争中には仏教
の寺院に相当する「道観(どうかん)」の多くが軍隊や警官隊の駐屯場、学校、工場など
に転用されていた上に、中華人民共和国成立後は、道観の所有地も道士たちの自活できる
に足るごくわずかの土地だけを残して、大部分は一般に開放させられていた。しかも、仏
教の僧尼にあたる道士や女冠たちは布教を禁止され、自活が要求されていた。』
『 北京の白雲観(はくうんかん)は全真教という道教教団の本山格の道観であるが、そ
の由緒ある道観を政府が直営で保護、修復を始め、戦前の1957年に組織された中国道
教協会も再度活動しだした。文革中に兵舎とされてすっかり荒れはててしまった白雲観
が、兵舎としての使用は禁止され、修復された。(中略)道士の説明によると、百万元
(当時は一元約85円)かかった修理費はすべて国費で賄われた。』・・・と。
では、白雲観の現状をネットサーフィンによって紹介したい。
白雲観は、北京市の西便門外約1kmにある道観である。地下鉄の駅(木犀地駅)から徒歩
100m。この駅の近くには首都博物館や中国科学院などがある。
北京・白雲観の牌楼
( http://japanese.cri.cn/941/2012/09/21/145s198632.htm )
中国の「廟会」は日本の所謂「縁日」に当たる。中国の春節、つまり旧正月の期間を代表
する行事である。「廟会」では、軽食や買い物用の屋台などが並び、伝統舞踊や「雑技」
「獅子舞」など、さまざまな催しが行われる。
では、境内のさまざまな風景を紹介しよう。
さあここらで日本との繋がりの関係で、ぜひとも説明しておきたいことがある。一つは沖
縄の「石敢當(せっかんとう)」との繋がりであり、二つ目は「七福神」との繋がりであ
る。
私はかって妖怪の勉強をした時、その関連で沖縄の「石敢當」のことにも触れた。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/akuryou3.html 妖怪はおおむね夜中に走り回るのだが、時によりスピードがつき過ぎてT字路で曲がりき
れないことがあるらしい。そのためにT字路の正面の家に妖怪が突入することがあるよう
で、これを弾き返すために「石敢当」が家の塀に張り付けてある。このような魔除けの風
習は、どうも中国伝来のものらしく、白雲観に「大影壁(だいえいへき)」という大規模
な魔除けがある。
白雲観の大影壁
( http://bbs.big5.voc.com.cn/topic-1424268-1-1.html より)
窪徳忠はその著「道教の神々」(1996年7月、講談社)の中で次のように述べてい
る。すなわち、
『 私たちの乗ったバスが白雲観に近づくと、「万古長春」と墨書した紅殻色の「大影壁
(だいえいへき)が、以前と変わらない姿で牌楼前にたっているのが目に入った。影壁と
は、魔除けや悪風よけの目的で、家や廟の門前か入ったすぐ突き当たりのところに立て
る、衝立て様の壁である』・・・と。
次に、「七福神」との繋がりについて、少し説明をしておきたい。その内に機会を見て
「七福神」の詳しい説明をしたいと思っているが、ここではとりあえず、白雲観にその繋
がりを思わせるものがあるということだけ、説明しておきたい。白雲観に「八仙殿」とい
うのがある。ここに八人の仙人が祀られている。
白雲観の八仙殿
( http://bbs.big5.voc.com.cn/topic-1424268-1-1.html より)
白雲観に祀られている八人の有名な仙人・「八仙」は、李鉄拐(りてっかい)、漢鍾離
(かんしょうり)、呂洞賓(りょどうひん)、藍采和(らんさいわ)、韓湘子(かんしょ
うし)、何仙姑(かせんこ)、張果老(ちょうかろう)、曹国舅(そうこっきゅう)であ
るが、中国では、次のような絵がおなじみの絵となっている。
八仙絵図
船尾から右回りで何仙姑、韓湘子、藍采和、李鉄拐、呂洞賓、鐘離権、曹国舅、
船外に、張果老
日本の「七福神」は、この八仙絵図の影響を受けていると言われているが、実は、日本の
七福神にはインド系の神が3神といちばん多く、中国系と日本系がそれぞれ2神であるの
で、中国の八仙絵図がそのまま日本の七福神になっている訳ではない。
3、泉州・関岳廟
泉州市中心に位置し1000年の歴史を持つ関帝
で、正式名は通淮関岳
。現在
は関羽と岳飛を祀っているが、元々は関羽だけを祀っていた。民国三年(1914)
に岳飛が合祀されたため関帝
から関岳
に。関羽は「三国志」(西暦200年頃)の
英雄、岳飛は南宋代の悲劇の英雄で、どちらも武の神様になっているのだ。
本殿
( http://pub.ne.jp/kikunori/?cat_id=141581&page=3 より)
本殿の左側に関羽、右側に岳飛が祀られている!
( http://pub.ne.jp/kikunori/?cat_id=141581&page=3 より)
本殿に入ったすぐ左側に鐘楼、右側に太鼓がぶら下がっている。
( http://pub.ne.jp/kikunori/?cat_id=141581&page=3 より)
本殿の内陣
( http://pub.ne.jp/kikunori/?cat_id=141581&page=3 より)
この内陣の写真を良く見て下さい! 膝あてのクッションにひざまづこうとしている女性
がいますね。その前方に、線香をあげる香炉があり、さらにその前にお供え物をのせる机
がある。参拝者は、まず神に酒などの供え物を供え、線香を立てて拝んでから、頃合いを
見て「ポエ」を取り、願い事を口の中で念じながら、やや前方か右前方に「ポエ」を投げ
るような格好で地に落とす。「ポエ」とは貝殻に似せて、片面が平、もう固めんが膨らみ
を持った半月型の占具の一種で、二個で一組である。材料は、台湾や東南アジアでは木か
竹根だが、泉州のものは竹の幹製である。投げた結果、二個とも平面が上向きなら神の冷
笑を、ともに下を向けば怒っていることを、それぞれ示し、ともに願いのおもむきは拒否
された現れとする。一個の平面が上を、他の平面が下を向くとシンポエ(聖笞)と言っ
て、嘉納(かのう)のしるしとされている。
シンポエ(聖笞)
( http://4travel.jp/travelogue/10112842 より)
さて、関岳廟から北へ10キロほどいったところに「清源山の老君岩」がある。だから、
「清源山の老君岩」は関岳廟の別院だという感覚で、泉州にお出かけの節は、是非、両方
とも参拝したいものだ。
https://maps.google.co.jp/maps?client=firefox-a&rls=org.mozilla:ja-JPmac:official&hl=ja&q=%E8%80%81%E5%90%9B
%E5%B2%A9%20%E6%B3%89%E5%B7%9E&bav=on.2,or.r_cp.&bvm=bv.
53899372,d.dGI,pv.xjs.s.en_US.E_HR746bqA4.O&biw=1183&bih=606&dpr=1&u
m=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
上のページをクリックすると、老君岩の場所が出て来る。地図を縮小すると泉州市の中心
市街地が出て来るが、その中心市街地の中山公園の少し南に関岳廟がある。
清源山・老君岩
清源山は国家重点風景名勝区に指定されている。
海抜495mの低い山だが、多くの奇岩・洞窟があり、古く唐の時代から知られる景勝地である。
この入り口に鎮座するのが ”老君岩”。現存する老君石彫坐像としては中国最大のもので、
高さ5,63m 幅8,01m 厚さ6,85m。
昔はここに道教の
があったそうだが 文化大革命で破壊されてしまい、今は坐像だけ。
( http://blogs.yahoo.co.jp/chuanyuanhao/17305756.html より)
4、武当山の武当道
窪徳忠はその著「道教の神々」(1996年7月、講談社)の中で、武当山の武当道につ
いて次のように述べている。すなわち、
『 武当道は、湖北省丹江口市の南にある武当山を本拠とする道教教団である。この山
は、玄天上帝(げんてんじょうてい)のいるところとして古くから有名な名山だった。武
当道の成立時期はよく判らないけれども、10世紀のごく始めには成立していたらしい。
元代にはかなりの数の道観が山中に建てられていたが、元末の争乱で壊され、武当道もし
たがって衰えた。明の成祖は、その歴史と由緒とを考えて、15世紀の初めに太祖夫妻の
霊を慰め、人民の幸運を祈ることを目的として、山中に道観を四宇も建てさせた。それか
らやや教団が復活したけれども、15世紀半ばからは管理する宦官に利用されて教団の権
威は衰えてしまった。ただ、雲南省方面の人びとの間では、かなり信仰を集めていたのだ
ろう。』・・・と。
武当山は、以上のように、昔から道士(道教の修行者)たちの修行の場となっていた歴史
的な道観であり、1994年には世界遺産にも登録された。この武当山は、漢方薬と拳法
の中心地でもあり、中国武術 である「武当拳」の発祥地としても知られている。
( http://japanese.cri.cn/782/2013/08/02/241s211221.htm より)
( http://japanese.cri.cn/782/2013/08/02/241s211221.htm より)
( http://japanese.cri.cn/782/2013/08/02/241s211221.htm より)
武当拳は、太極拳、形意拳、八卦掌などを指す。東洋哲学の重要概念である太極思想を取
り入れた拳法で、健康・長寿に良いとされているため、格闘技や護身術としてではなく健
康法として習っている者も多く、中国などでは市民が朝の公園などに集まって練習を行っ
ている。日本国内でも愛好者は多く、「太極拳のまち」を宣言した福島県喜多方市のよう
に、自治体単位で太極拳を推進している例もある。
中国市民の太極拳風景
( http://yositeru.com/40travel/10overseas/200209china/china_5.htm より)
さて、武当山については、次のホームページは素晴らしいので、是非、ご覧下さい!
http://www.ww-trip.com/world/china/hubei/hubei_taizipo/hubei_taizipo.htm
武当山にも、白雲観で説明した「大影壁(だいえいへき)」があるので、次にそれを紹介
しておきたい。
武当山の大影壁(だいえいへき)
( http://www.nanjing-tour.com/ryokoujouhou/taizibo/taizibo.html より)
5、道教の生命力
窪徳忠はその著「道教の神々」(1996年7月、講談社)の中で、道教の生命力という
か信仰心というものの根強さについて次のように述べている。すなわち、
『 山東省威海市の郊外には、もと竜王を祀った
があったが、文化大革命で竜王像は撤
去され、漁具の置き場にされた。ところが、漁師たちは、文革中にもかかわらず、大
日
の出漁前にその建物前で礼拝して大漁を願うのが常だったという。上海市南西部の松江県
では、以前にあった
が取り壊されて、別の場所にあった天后宮が移設された。もちろ
ん、内部は何の神も祀っていない。それでも村人たちは、あたかもそこに媽祖(まそ)像
が祀られているような形で参拝していたという。さらに驚くべきことは、山東省のある村
では、禁止された
神(そうしん)の祀りを、文革中に門を閉めて家族で秘かに行なって
いたと聞かされた。このような実状を知ったならば、政府も方針を変え、「宗教の自由」
のもとに、道教の信仰を認めざるを得なくなるのは、当然であろう。まさに、民衆の信仰
心の勝利であろう。』・・・と。
確かに、信仰心というものは逆境にあってもそう簡単に衰えるものではない。否むしろ、
逆に、逆境に会えば会うほど信仰心というものは、強くなるのではなかろうか。中国の道
教の場合、戦前戦後を通じて酷い逆境に会ったことがあるので、今後復興に向けて力強く
歩んでいくのではなかろうか。私は、そのように思い、道教の将来に大いなる期待を持っ
ている。
道教の修道院は、北京の白雲観ほかに、上海の白雲観や四川省西都の青城山などがある。
そこでは若い道士たちの養成が始まっている。女性道士もいるようだ。道教の研究は、北
京の「中国社会科学院世界宗教研究所」の道教研究室がもっとも盛んであるが、上海、四
川、江西などの社会科学院でも宗教研究に力を入れ始めたらしい。各地域の大学や研究機
関、道観、道教協会などと連携をとりながら精力的に道教の研究が始まっていると考えて
良さそうだ。
さてここで、「榕江(ろんじゃん)」近くの「摆贝(ばいべい)」という村の様子を知ら
せてくれるホームページを紹介しておきたい。歴史的に有名な道観とはまた別に、人びと
の日常生活と深く繋がって、日常の生活空間の中に道教が息づいていることを感じ取って
いただきたい。
http://blogs.yahoo.co.jp/nabesan88com/55016100.html
そのホームページの中で私の注目するのは、橋のたもとに祀られている道祖神のような石
像を祀った祠があることもさることながら、次の写真である。彼の説明文とともにここに
ピックアップしておこう。
鼓楼のある広場は川沿いにひろがる村の真ん中にあり、私の泊った旅館の向かいに侗族の
祖先神である「萨玛(さぁまぁ)」を祀る
がある。
村の中には吊脚楼や石造の建物も多いが、本来は平屋が多かったんじゃないかと感じた。
家の中にも道教の祭壇がある。
道観とは、道士のいる規模の大きい施設だが、
と呼ばれているものもあるし、祠と呼ば
れているものもある。その他いろいろの呼び名のものもあるが、私のイメージとしては、
道観は大規模、
は中規模、祠は小規模というイメージであるが、そういう大雑把な理解
で良いのかどうかはまったく自信がない。しかし、ここで私の言いたいことは、中国に
は、日常の生活空間の中に、ここで紹介したようなさまざまな「道教の祠」があるのでは
ないかということだ。
道教の神々には面白い神が多い。以前に、ネットサーフィンをしていて面白い祭をいくつ
か見つけたので、それを紹介した。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doukyou01.pdf
その一つは、台湾の祭であるが、あとの二つは、中華人民共和国の祭りである。その内、
杭州市かどこか地方都市の郊外で行われている祭の詳細がYouTubeにアップされているの
で、それをもう一度ここに紹介しておきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=9ALeMr9uVpk
神獣である龍や獅子の舞いは、長崎や神戸や横浜で中国人が行う道教の祭で見ることがで
きるので、多くの方が知っているかと思う。しかし、この祭りに出て来る不思議な人形を
被った見たこともない面白い「舞」が道教の神に奉納される。不思議な人形が両手を大き
く振ってゆっくり歩く、それだけのことだが、私が面白いと思うのはその歩き方である。
私は、人間の歩き方に特別の興味をもっていて、10種類ほどの歩き方をそれぞれ名前を
つけている。その中で、能に見られる「舞い舞い」というのがあるが、これは自然の
「気」に合わせて足を運ぶ、神と一体になった姿である。その際の重要なポイントは、
「間」の取り方である。その微妙な間をとった歩き方が上記のYouTubeに出て来る。
不思議な人形が両手を大きく振ってゆっくり歩く、その足の運び方にご注目願いたい。誠
に微妙な「間」がある。私達は今年もこのように無事祭ができる。これもあなた様のお蔭
である。これからもあなた様と一体になって生きていくので、引き続きこれからも私達を
慈しみお守りして下さい、と言っているようだ。
確かに、 道教の神々には面白い神が多い。たまたまネットサーフィンで見つけたものを
紹介したが、中華人民共和国には、私たちの知らない面白い道教の祭りが沢山あるのでは
なかろうか。今私の言いたいことはそのことであり、「民衆道教」の中華人民共和国での
広がりに思いを馳せている。
6、今後に期待するもの
今、中国では、全国的に儒教ブームが起っているようだ。2013年10月13日(日)の
NHKスペシャル「中国激動・・・<さまよえる>人民の心」という番組でそう言ってい
た。その放送の「あらすじ」は次の通りである。すなわち、
『 先に富める者から豊かになれ 鄧小平氏による改革開放の壮大な実験から始まり、急
速に経済成長を続けてきた中国。しかし今、貧富の格差が拡大するなど、 13億すべて
の民に「豊かさの約束」を唱え続けることが難しくなってきている。2回目は、経済的な
成功に代わる新たな 心のより所 を模索し始めた中国の 人々の内面に迫る。
今、人々の間で急速に求心力が高まっているのが、2500年の伝統を誇る中国生まれ
の 儒教 だ。「他人を思いやる」「利得にとらわれない」ことを重要視 する儒教にこ
そ、中国人の心の原点があるとして、儒教学校の設立や、儒教の教えを経営方針に掲げる
企業が続出。現代風にアレンジした新興グループまで登場 し、中国全土に儒教ブームが広
がろうとしている。
国も、かつては弾圧の対象でもあった儒教を認め、支援することで人々の心を掌握しよう
としている。孔子の故郷、山東省曲阜では国が主催する孔子生誕祭が盛大に行われるな
ど、仁徳の国を復活させるための取り組みも始まっている。
拝金主義の夢から覚め、「心の平安」を求める人々――。次なる時代へと向かおうとする
中国の姿を描く。』
私はこの番組を見て、「儒教と道教との繋がり」、言い換えれば「孔子と老子との繋が
り」について考えてみた。
白川静は、その著「白川静の世界Ⅲ・・思想・歴史」(立命館大学白川静記念東洋文字文
化研究所代表加治伸行、2010年9月、平凡社)のなかで次のように述べている。すな
わち、
『 「ノモス」とは、法律・習慣・制度の意味で、広く人為的なものを言う。白川におい
てはこの語は「イデア」(永遠の実在、真実在)と対照されてしばしば用いられ、いわば
世俗的といった広い意味において用いられているようである。(中略)このようなノモス
的世界における光輝に満ちた孔子の物語はその展開とともに、数多(あまた)の孔子につ
いての神話や説話を派生させて今日に至る。しかし、これに対して白川の提起する「孔
子」という物語は誠に対照的であり、斬新で、孔子の面目を一新せしめる。』
『 孔子の世系についての「史記」などにしるす物語は、すべて虚構である。孔子はおそ
らく、名もない巫女の子として、早く孤児となり、卑賤のうちに成長したのであろう。そ
してそのことが、人間についてはじめて深い凝視を寄せたこの偉大な哲人を生み出したの
であろう。』
『 孔子没後の弟子たちはノモス的世界に適応するノモス派と反ノモス派とに分かれ門戸
の見を争い(儒家八流)、主流を占めたのはノモス派であった。孟子や荀子はこの系譜に
連なり、孔子のイデアの後継者とは言い難いと白川は見る。それでは、孔子の思想のイデ
アの継承者はもはや現れなかったのか。白川はこの継承者こそ荘周(道家の荘子)である
というのである。(中略)白川は、孔子から顔回へ、顔回の思想の後継者から荘周が登場
したとするのである。』
『 すなわち、孔子においては、晩年の仁に処(お)る「巻懐」は「斯文」の探求・実践
における一つのあり方としての隠居であるが、荘周は「 巻懐の人」をノモス的世界に実体
化して、人の生き方の一つの型としての隠者の思想を説いた。両者は、ノモス的世界にお
いては、治者の思想を説く儒家と、それを否定する隠者の思想を説く道家として截然(せ
つぜん)と分たれる。だが、そこにはイデアにおいては通底するものがあるとするのであ
る。』・・・と。
以上のとおり、孔子は、幼少の時代は、シャーマンの世界で育ったのであり、神というも
のの存在は、疑う余地のないものであった。世の乱れを深刻に受け止めた若き孔子は、必
死の勉強をして、論語という倫理道徳の哲学書を生み出す。しかし、それは,彼の最終到
達点ではない。彼が理想とする最終到達点はその先にあった。幼少の時代に身体に浸み込
んだ神への畏敬の念が沸々と湧き出してきたのである。それが老子だ。そのことをいちば
ん判っている人物は道家の荘子である。老子は実在の人物ではないから、実在の人物とし
ては,孔子の後継者は荘子である。
荘子は、道家であり,道教の宗教哲学者である。それも孔子の後継者と言われるほど偉大
な哲学者である。
儒教も道教も大きく見れば変わりはなく,ノモスに焦点を当てれば儒教になり,イデアに
焦点を当てれば道教になる。したがって、今劇的に始まった儒教ブームは、今後の道教の
力強い復活を約束するように思われる。それが私の大いなる期待だ。
7、おわりに
私は、前に「老子」について書いた。まだまだ未熟だけれど、最新の認識を書いたもの
だ。私はそれ以前にシヴァ教が世界最強の宗教だと書いたことがあるが、そういう認識は
訂正しなければなるまい。「老子」についての最新の認識は次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rousi01.pdf
今ここでの文脈において、その要点をピックアップしておこう。
老子の言う「道」は、儒教の道とは違い、宇宙の実在のことである。すなわち、ひとつの
哲学であると言って良い。儒教で言う仁義礼智(じんぎれいち)は、人間社会の道徳では
あるけれど、宇宙の実在、万物生成の原理を指し示すものではない。これに対し、老子の
「道」は、宇宙の実在、万物生成の原理を指し示すものである。したがって、西洋哲学、
東洋哲学などすべての哲学と学問的に比較検討ができ、今後の新たな哲学を構築する要素
を持っている。老子の哲学は、西洋哲学、東洋哲学などすべての哲学と相性がいいと言っ
ても良いのである。
私が少し前に書いた「さまよえるニーチェの亡霊」という電子書籍がある。
http://honto.jp/ebook/pd_25249963.html
その中の第8章「ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方向性」で、私は、次のように述
べた。すなわち、
『 今、日本もそうだが、世界は「人間が生きる最高の価値観」を失ってニヒリズムに
陥っている。そのニヒリズムから脱却して私たち人間が生き生きと生きていくためには、
何をなすべきか? それを一言で言えば、ニーチェの考えを中心として、ハイデガーやホ
ワイトヘッドらの哲学のいいところ取りをして、ニーチェの哲学を超えた新しい哲学の方
向を見定めて、具体的な運動を展開することだ。そういった新しい哲学、すなわちニー
チェとハイデガーとホワイトヘッドの統一哲学が形而上学的に誕生するにはかなりの年月
がかかるかと思われる。現在の状況からして、それを待っているわけにはいかないという
のが私の認識であり、したがって、私は、せめてその方向性を見定めて、具体的な運度を
展開すべきだと申し上げている。』・・・と。
しかし、 老子を多少勉強して、今思うことは、西洋哲学だけでなく、東洋哲学やインディ
アンの哲学的思考(http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/intetuga.html)などすべてのも
のも視野に入れるべきだということで、その際、老子の哲学は特に注目されるべきではな
いかと思う次第である。
上述したように、道教の研究は、北京の「中国社会科学院世界宗教研究所」の道教研究室
がもっとも盛んであるが、上海、四川、江西などの社会科学院でも宗教研究に力を入れ始
めたらしい。各地域の大学や研究機関、道観、道教協会などと連携をとりながら精力的に
道教の研究が始まっていると考えて良さそうだ。当然、道教に関連する「宗教哲学」の研
究も力強く進むと思われるので、宗教哲学としてはシヴァ教の哲学を習合して、「哲学道
教」、つまり道教の宗教哲学が、多分、東洋哲学を代表するものになるだろう。
また、「民衆道教」、つまり道教の実践活動が、多分、「タオイズム」として世界に大き
な影響を与えるだろう。
このようなことを考えたとき、道教こそ世界最強の宗教になる可能性は十分にある。それ
が私の「今後に期待するもの」だ!
中国は、道教という世界最強の宗教を擁し、天命政治を実践する世界最強の国家である。
今後、世界は、新たな文明において、中華、すなわち中国を中心に動いていくものと思わ
れる。習近平を今皇帝と仰ぐ中華人民共和国は、自信を持って進んでもらいたい。キリス
ト教を恐れることはないし,民主政治に惑わされることはない。中国の歴史と伝統文化に
根ざした自らの世界平和路線を歩んでいけば良いのである。
中国との友好親善のために(後編)
・・・中国伝来文化と日中交流の現在・・・
第1章 道教に思いを馳せて!
第1節 吉野
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、「日本国内にも随分多くの道教文化の遺跡がある中で、奈良県吉野郡吉野町
の宮滝遺跡こそは古代人も文献にはっきりと記録した道教文化ゆかりの地である。」と述
べている。そこで、まず「宮滝遺跡」から勉強を始めたいと思う。
「日本の道教遺跡を歩く」では、その宮滝遺跡についてこう述べている。すなわち、
『 宮滝が古代史の上で脚光をあびるようになったのは、末永雅雄氏(初代奈良県立橿原
考古学研究所長、1897∼1991)によって、昭和5年(1930)10月に着手さ
れた発掘調査からである。(中略)調査は昭和13年まで断続的に続く。(中略)末永氏
は「持統天皇の吉野宮と考えても良いのではないか」という。』
『 謎の多い古代史の中でもとりわけ理解に苦しむのは、飛鳥時代末の持統天皇の吉野宮
への行幸の多さであろう。(中略)文武天皇にじょういするまでの11年間になんと31
回も行幸している。即位前には夫と共に二回、譲位後も一回の計34回訪れたことが「日
本書紀」や「続日本紀」に記載されている。何故、持統天皇はこれほどまで吉野を訪れた
のか。「日本書紀」や「続日本紀」を読む限りなにも判らない。』
『 吉野に行幸したのは、実は天武・持統だけではない。「日本書紀」によると、最古の
例は応神天皇。(中略)次いで雄略天皇が二回、(中略)持統天皇以後も文武天皇が二
回、元正天皇が二回、聖武天皇が二回と、奈良朝までしばしば吉野への天皇行幸があっ
た。何故、古代の天皇はこれほど吉野にひかれたのか。その謎を解く鍵こそは道教思想に
ある。吉野宮つまりこの宮滝の地は古代人にとって道教の解く不老不死の世界である「神
仙境」、あるいはそこに最も近い所と考えられたからだ。11年間の在位中に31回も訪
れた持統天皇は、そこで道教思想に基づく「祭天の儀式」を行なうために来たのではなか
ろうか。それにはまず、吉野は神仙境という証拠を示そう。』・・・と。
「日本の道教遺跡を歩く」ではそう述べた後、「懐風藻」という、わが国最古の漢詩集を
もとに、宮滝の地が古代人に道教の解く不老不死の世界である「神仙境」と認識されてい
たことを、「日本の道教遺跡を歩く」の中で縷々述べられている。その点については、こ
こで省略するので、是非、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、
2003年10月、朝日新聞社)を読んでもらいたい。ここでは先を急ぎたい。「日本の
道教遺跡を歩く」では次のように述べている。すなわち、
『 実は、「万葉集」は三船の山や象山(さきやま)など吉野川近くの山がうたわれてい
るが、最も重要視すべきものは、宮滝の南の喜佐谷の彼方に、緩やかな二等辺三角形の
ピークを覗かせる「青根ヶ峯(859m)」である。(中略)青根ヶ峯は金峯山(きんぷ
せん)の一角をなしている。金峯山は「金の御嶽」とよばれ奈良・平安以降に信仰を集め
た聖山。大峯修験道という山岳信仰の行場で知られるが、それは奈良・平安になってにわ
かに注目されたというよりは、古い信仰をベースにして生まれたというのが定説であ
る。』・・・と。
吉野について「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年1
0月、朝日新聞社)が述べている要点は以上の通りである。以下において、「宮滝」や
「青根ヶ峯」を中心に関連する事柄を紹介していきたい。
吉野における 宮滝、喜佐谷川、青根ヶ峯
( http://www.kintetsu.co.jp/nara/history-culture/Travel/Michi/B20035.htm より)上の図面を
見ながら地理的な説明をしたいと思う。まず、吉野川について。四国三郎という言葉がある。四国三郎は、
坂東太郎の利根川、筑紫次郎の筑後川に次いで大きい川という意味であり、四国の吉野川を指す。しかし、
紀の川の上流を昔から吉野川と呼んでいる。県境で呼び名が変わると考えて欲しい。同じ紀ノ川水系ではあ
るが、橋本市から下流を流れているのが紀ノ川、五條市から上流を流れているのが吉野川である。五條市か
ら上流へ遡ると、近鉄の下市口と大和上市を経て、宮滝に行き着く。近鉄は、大和上市から紀ノ川から離れ
て、終点・千本口に至る。通常、吉野と言っているのは、吉野山のことだが、近鉄の終点・千本口からロー
プウエイで行く。宮滝は吉野川沿いにあるので、いわゆる吉野とはかなり離れている。行政としては吉野町
なので、吉野の宮滝といっても間違いではないが、宮滝は吉野川本川の秘境であることをしっかり認識して
おいて欲しい。
宮滝のすぐ上流に国の直轄ダム・大滝ダムがある。大滝ダムの湖岸には「森と水の源流
館」があるので、是非、宮滝に行ったついでにそこまで足を伸ばして欲しい。一見の価値
がある。
森と水の源流館
( http://togaria.exblog.jp/14772847/ より)
奈良県吉野郡川上村大字迫地区。丹生川上神社上社跡地の3年にわたる調査の結果、数多
くの縄文遺構が出土した。中でも人々を驚かせた のは、30センチほどの直立したまま
の石棒が当時のままの姿で発掘されたことだった。このほかにもやや傾いたままの石棒が
2基、磨石、石皿、などの他に環 状配石遺構(ストーンサークル)も検出されている。
( http://www5c.biglobe.ne.jp/izanami/koramu/omosiroi2002niukawakami2.htm より)
この立石の根元には楕円形の石が3個支えとして置かれ、中の1個は地面にしっかり埋め
込まれていた。この立石とストーンサークルの配置から考えると、縄文時代にここで何ら
かの祭祀がおこなわれていたことは紛れもない事実だろうと言われている。平成14年4
月29日にオープンした川上村の「森と水の源流館」では、この宮ノ平遺跡から出土した
立石遺構や縄文人が生活に使ってい たと思われるさまざまな石の出土品が展示されてい
る。橿原考古学研究所の発掘調査の結果。近畿地方でも縄文遺跡はいくつか出土している
が、立石を伴う環状配石遺構(ストーンサークル)の発掘は他に例がなく、宮の平遺跡は
たいへん貴重で重要な遺跡だと報告されている。
では、「森と水の源流館」の中に入ってみよう!
なお、図面に津風呂湖というのが見えているが、この湖は宮滝の下流で合流する津風呂川
の上流に作られた人造湖(ダム湖)である。観光地になっているので、宮滝に行ったつい
でにここへも是非足を伸ばして欲しい。http://tuburoko.jp/
さあそれでは、いよいよ、宮滝の説明に入るとしよう!
宮滝には滝はない。宮滝の滝は「たぎつ」(水が激しく流れる)の意味である。先の地図
にある赤線が「万葉の道」と呼ばれている散策路であるが、それが吉野川を渡る所が柴橋
である。その柴橋の中ほどから下流を向くと、「たぎ(滝)つ瀬」の様子を想像すること
ができる。昔は、もっと水量が多かった。大滝ダムの影響で現在では環境に配慮しつつ
も、多少、水量が少なくなっている。ちなみに、宮滝の名前の由来は「たぎつ川にある
宮」の「滝の宮処」だと言われている。
白州正子は、「かくれ里」(1991年4月、講談社)の「吉野の川上」で、「南国栖の
あたりで、吉野川は右へ屈折し、『滝つ瀬』となって流れるが、その急流にえぐられた奇
岩が、異様な姿で川床をうねって行く。竜神の信仰は、このような景色から想像されたに
違いない」・・・と書いている。
柴橋から下流の吉野川・「たぎ(滝)つ瀬」
( http://homepage3.nifty.com/kkoon/road/n_kinki/minami_miyataki/record.html より)
この柴橋の下流(先の地図で言えば左側)に宮滝遺跡がある。
宮滝遺跡の発掘の歴史は古い。
http://nevertolate860.blog129.fc2.com/blog-entry-626.html によれば、
「 高見村中黒の人である木村一郎氏は明治初期から宮滝の遺物を集めていた。木村氏は
やがて東京にでた。当時著名な喜田貞吉博士に宮滝の吉野離宮説を話していたようであ
る。やがて山本源次郎氏、中岡清一氏、岸熊吉氏にひきつがれ、昭和5年末永雅雄氏の発
掘調査が始まった。末永雅雄氏は当時京都大学考古学教室に席をおき、考古学史上燦然と
輝く、石舞台古墳(昭和8年)や唐子鍵遺跡(昭和12年)の発掘をてがけておられた。こ
の発掘は8年間に及び「宮滝の遺跡」という大部の報告書を発行した。その後時間をお
き、昭和50年当地に幼稚園建設にともなう、事前発掘がおこなわれ、翌年から「宮滝遺
跡範囲確認調査」が開始され国家補助金が交付された。その後昭和62年第38次の調査ま
で積み重ね、いまや遺跡の全体像がおぼろながら見えてきたのである。」・・・とある。
末永雅雄は、冒頭に述べたように、 初代奈良県立橿原考古学研究所長である。宮の遺跡
が「吉野宮」の遺跡だとつきとめたのは末永雅雄の功績であると言って良い。
宮滝遺跡検出遺構図
( http://nevertolate860.blog129.fc2.com/blog-entry-626.html より)
上の図にうっすらと斉明朝という字が見えているが、奈良県のホームページには、吉野歴
史資料館の館長の話が載っていて、それによると、吉野宮は斉明朝のときに造営されてい
る。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/column/c21/index.html
「吉野歴史資料館」は、宮滝遺跡のすぐ近くにある。これは是非とも見なければならな
い。宮滝遺跡の詳しい説明、つまり「吉野宮」の詳しい説明がなされている。
( http://small-life.com/archives/12/09/0920.php より)
( http://www.town.yoshino.nara.jp/about/shisetsu/dentou/midokoro-shiryokan.html より)
「吉野歴史資料館」は、縄文、弥生、飛鳥、奈良時代にわたる複合遺跡・宮滝遺跡。各時代の特徴と様子
を、さまざまな発掘成果とともに展示・解説する。キャンプ地のように良い気候時のみ移動してきて暮らし
ていたという縄文人。稲作に頼らない集落作りをした弥生人。常識とは少し違う 宮滝の人々 の暮らしぶり
はとても新鮮だ。縄文後期の標準土器である宮滝式土器、弥生人が葬られた壷棺など、見どころは多い。飛
鳥時代の吉野宮も、奈良時代に造営された吉野離宮の姿も鮮明になりつつある。コーナーでは復元模型など
を展開。幻の宮を現代に甦らせている。
( http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_manyo/m04/ より)
( http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/bunarintokodaisi/
jiyomontoasuka/D/5/miyataki.html より)
さて、宮滝遺跡をより深く理解するには、古代において道教が大和朝廷にどれほどの影響
を与えていたか、もう少し勉強しておかねばなるまい。それには、次のようなほーむぺー
じがあるので、ここに紹介しておきたい。
古代信仰と道教:http://www2u.biglobe.ne.jp/%257egln/77/7725/772504.htm
飛鳥時代の道教文化:http://www.ab.auone-net.jp/~koinyawa/taoism.html
天皇という称号:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/shotoku/tennougou.htm
道教と天武天皇: http://manoryosuirigaku2.web.fc2.com/chapter1-16.html
天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月に、大海人皇子を病床に呼び寄
せて、後事を託そうとした。蘇我安麻呂の警告を受けた大海人皇子は、倭姫皇后が即位し
大友皇子が執政するよう薦め、自らは出家してその日のうちに剃髪し、吉野に下った。
吉野では鸕野讃良皇女(持統天皇)と草壁皇子らの家族と、少数の舎人、女儒とともに住
んだ。
翌年、天武天皇元年(672年)6月に、大海人皇子は挙兵を決意して美濃に村国男依ら使
者を派遣し、2日後に自らもわずかな供を従えて後を追った。美濃には皇子の湯沐邑が
あって、まず挙兵した。皇子に仕える舎人には美濃の豪族の出身者があり、その他尾張氏
らも従った。大海人皇子は不破道を封鎖して近江朝廷と東国の連絡を遮断し、兵を興す使
者を信濃や東海などに遣わした。
大和盆地では、大伴吹負が挙兵して飛鳥を急襲、占領した。
大海人皇子は東国から数万の軍勢を不破に集結せさ、琵琶湖東岸を進んでたびたび敵を破
り、7月23日に大友皇子を自殺に追い込んだ。
壬申の乱に勝利した天武天皇は、天智天皇が宮を定めた近江大津宮に足を向けることな
く、飛鳥の古い京に帰還した。天武天皇2年(673年)閏6月に来着した耽羅の使者に対し
て、8月に、即位祝賀の使者は受けるが、前天皇への弔喪使は受けないと詔した。天武天
皇は壬申の乱によって「新たに天下を平けて、初めて即位」したと告げ、天智天皇の後継
者というより、新しい王統の創始者として自らを位置づけようとした。
このことは天皇が赤を重視したことからも間接的に推測されている。壬申の乱で大海人皇
子の軍勢は赤い旗を掲げ、赤を衣の上に付けて印とした。晩年には「朱鳥」と改元した。
日本では伝統的に白くて珍しい動物を瑞祥としてきたが、天武天皇の時代とそれより二、
三代の間は、赤い烏など赤も吉祥として史書に記された。赤を尊んだのは、前漢の高祖
(劉邦)にならったもので、秦を倒し、項羽との天下両分の戦いを経て新王朝を開いた劉
邦に、自らをなぞらえる気持ちがあったのではないかと推測される。
このようにして天武天皇の新時代が始まるのであるが、天武天皇は、道教に対する信仰心
と深い知識をお持ちであったようで、上記「道教と天武天皇」というホームページから、
その要点を抜き書きしておきたい。「道教と天武天皇」というホームページでは、次のよ
うに言っている。すなわち、
『 天武天皇は、吉野宮(宮滝遺跡)を訪れた以外は、飛鳥を安住の地として一度も外部
に出ていません。天武天皇が道教思想に基づいて大和三山(耳成山・畝傍山・天香具山)
の中心に計画して持統天皇の代になって完成した藤原京は、手狭になった飛鳥京を移転す
るためでした。』
『 持統期になって、都が飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)から北飛鳥の藤原
京に移されました。その新都は天武天皇が道教の方位学や地勢学、現代風に言えば風水に
基づいて場所を定めて、前漢・隋・唐の都だった長安を模して造営された、壮大な計画都
市でした。』
『 天武天皇が崩御したのは十五年(686年)の九月で、その二ヶ月前に天皇の病気回
復を祈って、年号が「朱鳥」と改元されました。朱鳥は道教の四霊獣神(四神)の一で、
よみがえりの地と考えられた南方を守る朱雀(すざく)のことであり、天武天皇が信奉し
た道教の思想に拠ったものです。』
『 宮は藤原京のほぼ中心に位置して、宮から真南に伸びた大路の出口に朱雀門が設けら
れ、その延長線上に、天武・持統合葬陵(野 口王墓)が設営されています。ちなみに、青
木御陵とも言われるその陵は、他の治定陵と違って、明治13年(1880年)に発見され
た『阿不幾乃山陵記』 (あおきのさんりょうき)という十三世紀の書物によって、現在
埋葬者が確定している唯一の古代陵で、八角墳です。(中略)「八」は道教で宇宙や全世
界を現した数字です。』・・・と。
さて、いよいよ「青根ヶ峯」の説明に移ろう!
仙境は山地にある。宮滝のように清らかな水と滝つ瀬と呼び得るような美しい風景に恵ま
れているとともに、植生豊かながなければならない。植生豊かな山には必ずさまざまな動
物がいる。そういう山地には、縄文時代から人々が住み着いていた筈だ。したがって、そ
こには縄文遺跡がなければならない。さらに、そういう山地が、仙境と意識されるには、
奥山に神の降臨する聖山がなければならない。宮滝は正にそういう仙境である。宮滝の奥
山に見える聖山こそ冒頭に述べた「青根ヶ峯」である。
( http://pub.ne.jp/luckfield/?entry_id=3531488 より)
「青根ヶ峯」への登山については、次のホームページに詳しく書かれているので、それを
ご覧戴きたい。
http://sakag.web.fc2.com/oomine1.htm
冒頭に述べたように、 「青根ヶ峯」は金峯山(きんぷせん)の一角をなしている。金峯
山は吉野山から山上ヶ岳に至る連峰の総称である。通常、地図の❶の金峯山寺を金峯山と
言ったりするので紛らわしいが、厳密には、吉野山から山上ヶ岳に至る連峰の総称である
ことを認識しておいて欲しい。また、吉野山とは、先に掲げた地図で言えば、近鉄の終点
「千本口」から「青根ヶ峯」に至る尾根筋を言う。これも、一般的には、金峰山寺、吉野
脳天大神、吉水神社、勝手神社、喜蔵院、桜本坊、竹林院、如意輪寺、吉野水分神社など
の下千本、中千本、上千本を言っているようだ。厳密には、金峯神社や青根ヶ峯などの奥
千本も含んだものが吉野山である。もう一度地図を掲げておこう。
なお、吉野山については、後醍醐天皇のことに触れておかねばなるまい。紆余曲折の後、
後醍醐天皇が京都からこの吉野山に難を避けられ、いわゆる南北朝時代が始まったのであ
る。それは、壬申の乱において天武天皇がこの吉野に拠点を置かれた、そのことに習って
のことであって、吉野が再起を図るにふさわしい場所であるからである。ただし、皇居は
宮滝ではなく、難攻不落の地形をした吉野山であった。そのことについては、吉野町の公
式ホームページに正確に書かれているので、この際、紹介しておく。吉野町の公式ホーム
ページには次のように書かれている。すなわち、
『 1336(延元元)年、吉水院に難を避けられた後醍醐天皇は、次に蔵王堂の西に
あった実城寺を皇居とされ、寺号を金輪王寺と改められました。後醍醐天皇は悲運の生涯
をここで閉じられましたが、その後、南朝3代の歴史が続きます。徳川時代になり家康
は、吉野修験の強大な勢力を恐れて弾圧政策をとり、寺号を没収。もとの実城寺に戻し、
直轄の支配下におきました。明治時代になると廃仏毀釈の嵐にのまれて廃寺に。いまは南
朝妙法殿が建ち、皇居跡公園として整備されて、後醍醐天皇以下、南朝4帝の歌碑も建っ
ています。』・・・と。
http://www.town.yoshino.nara.jp/kanko-event/meisho-kanko/shisetsu/yoshinoyama/
kokyoato.html
蔵王堂は、上の図の丸1であるし、その他にも吉野山には丸3の吉水神社など後醍醐天皇
ゆかりの場所が多い。しかし、道教とは直接関係がないので、ここではこれ以上触れな
い。
道教に思いを馳せるには、吉野観光として、是非とも時間を作って、「青根ヶ峯」まで登
り、再び下って上千本から、さらに「吉野・万葉の道」を下って、「宮滝」と「吉野歴史
資料館」を見て欲しい。
吉野には良い旅館が多いし、宮滝から近鉄「大和上市」までバスもある。では、宮滝の風
情のある町並みを紹介しておこう。
( http://blogs.yahoo.co.jp/maritesuhimek/29223919.html より)
それでは最後に、吉野山の観光ハイライトを紹介しておきましょう!
http://www.youtube.com/watch?v=D8jo4PtUOv0
http://www.youtube.com/watch?v=TH04rAJPzco
http://www.youtube.com/watch?v=qnu8iFN8gDU
http://www.youtube.com/watch?v=BeuakXdVdN8
http://www.youtube.com/watch?v=SozP498Hdpk
第1章 道教に思いを馳せて
第2節 明日香
1、道観・両槻宮
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、「古代の日本には、道教の強い影響があったとしても、道教寺院は建てられ
た形跡がないというのが今までの通説であったが、実は、今の奈良県高市郡明日香村に宮
都のあった7世紀頃、道教寺院が建てられていた。」と述べている。そこで、まず「明日
香の遺跡」から勉強を始めたいと思う。
「日本の道教遺跡を歩く」では、飛鳥の遺跡について次のように述べている。すなわち、
『 「道教は日本列島に上陸しなかった。その証拠に道教関係の建物が建てられた形跡が
ない。」 これが今までの通説であった。だが実は、今の奈良県高市郡明日香村に宮都の
あった7世紀頃、道教寺院が建てられていたのである。それも天皇によって。こういえば
思い当たる人があるに違いない。次のような記載が「日本書紀」の斉明2年(656)の
条にあるからである。「田身(たむ)の嶺(みね)に周れる垣を冠らしめ、また嶺(た
け)の上の両(ふた)つの槻(つき)の樹の辺(ほとり)に観(たかのど)を起て、号
(なづ)けて両槻宮(ふたつきのみや)とす。亦(また)天(あま)つ宮と曰(い)う。
(注: 田身(たむ)の嶺(みね)は、「日本書紀」の斉明2年(656)の条には、山
の名なりとの注釈があり、その後の条では、多武峰(とうのみね)とも書かれているよう
だ。)』
『 女帝・斉明天皇が「 田身(たむ)の嶺(みね)」に建てたこの両槻宮は、道教寺院
ではないかといち早く指摘したのは、東京大学教授・黒坂勝実であった(大正12年、史
林第8巻1号)。(中略)黒坂は、両槻宮を道教の道観としている。(中略)昭和40年
代になって、やっと「観とは道観のことか」とかく「日本書紀」の評釈書も出始めた。』
『 多武峰(とうのみね)は今でこそ談山神社の神域となっているが、もともとは寺域で
あった。藤原鎌足の子定慧(じょうえ)が、摂津国鴨下郡阿威(あい)山(現在の高槻市
阿武山)の鎌足の墓を多武峰に移葬して墓の上に十三重塔を起てのが始まりと伝えられ
る。飛鳥時代末からは藤原一族の庇護を受けて、各所に堂塔が建立された。平安時代中期
には、「談山権現」の神号を受け、神仏習合が進んだが、明治維新の廃仏毀釈で、仏教色
が一掃されて談山神社となったのである。』
『 両槻宮跡についてはほかにも候補地がある。その一つは地元の桜井史談会代表幹事
だった松本俊吉氏らが主張しているもので、(中略)尾根続きで南に1.5キロほど離れ
た場所にある冬野である。今は「ふゆの」と呼ばれているが、もともと「とうの」と言わ
れていたという説である。(中略)その冬野には、今、尾根筋に数軒の民家があるが、明
治年間までは20数軒近くあったという。飛鳥や多武峰に向かう近道が古くからあり、峠
の休憩所として栄えたらしい。(中略)標高677mと、周囲の山並みの中ではずば抜け
て高い冬野の最高点付近は意外に広く関西電力のマイクロウェーブのアンテナが立ってい
る。そのすぐわきに大きなイチョウの木があり「琴比羅大神」と刻んだ石柱が一つあっ
た。そのいわれについてはよくわからない。松本氏は「眺望も良く、平地があることと、
古代の土器片が散布していることから、両槻宮の候補地としてふさわしい」という。(中
略)見下ろすと、杉木立の間から伝飛鳥板蓋宮のある明日香村の中心部が望める。』
『 斉明天皇がやはり同じ年に作った吉野宮から見上げられる聖なる山「青根ヶ峯」が見
える。その後方には大峰修験道の根本道場のある山上ヶ岳とそれに連なる大峰山系も望め
る。斉明天皇が冬野に両槻宮を建てても決して不思議ではないと思われた。』
『 冬野に両槻宮があったという確証はないとしても、このあたりに道観がつくられた理
由の一つのを、一帯が仙境と意識されていたことに求めても良いかも知れない。(中略。
注:「日本の道教遺跡を歩く」には、古代においてこの冬野が仙境と意識されていたこと
が縷々述べられているが、ここでは省略する。)』
『 日本書紀では、両槻宮を「亦曰天宮」とある。(中略)その「天宮」とは実は、中国
六朝時代に成立した道教教典「老子中経」などに登場する用語である。神仙になったもの
しか行けない、天上世界の宮殿のことである。飛鳥人たちは、天皇や皇子は神界と人間の
間を行き来できる神、つまり神仙と考えていたようだ。』
『 斉明天皇が「天宮」ともいわれた両槻宮をつくったのはなぜか。それはおそらく、漢
の武帝の故事にならい、不老長寿をもたらしてくれる神仙を迎えようとしたのではなかろ
うか。自らつくった後飛鳥岡本宮から見上げる多武峰は特別な意味をもつ場所であること
は想像に難くない。そこに「両槻」の名を付けた宮殿をつくったのは、たまたま二本の槻
(つき)の木があったという簡単なことではない気がする。(中略)二本の樹木を宮の名
とするには特別の意味があったと思われる。例えば漢鏡には、瑞祥(ずいしょう)を表現
するものとして「木連理(もくれんり)」(連理枝)の図柄がよく見られる。また、道教
の神、東王父(とうおうふ)がいる扶桑(ふそう)の木は「両根を同じくして偶生し、相
ひ依倚す」(海内十洲記)とあるからだ。』・・・と。
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)の説明はこの後も続くのであるが、とりあえずここまでの所で私の補足説明をして
おきたいと思う。
( http://www.tanzan.or.jp/image/map2_0.jpg より)
談山神社へは、桜井市からバスで行くのが良い。約30分である。談山神社にはホテルも
あるので、是非、宿泊して談山神社をゆっくり見て、冬野まで足を伸ばしたいものだ。
( http://mohry.web.fc2.com/070211tounomine.htm より)
上の図に多武峰という山頂が書かれているが、実は、多武峰という山は二つある。談山神
社の西北の山と上の図に書かれた冬野の裏山である。「日本の道教遺跡を歩く」(福永光
司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、多武峰は談山神社の神
域だと述べているが、両槻宮が建立された頃はまだ談山神社はなく、その後、談山神社の
認識として、西北の山を含む談山神社の神域を多武峰というようになったらしい。しか
し、私は、両槻宮が建立された多武峰は冬野の裏山だと考える。すなわち、私は、談山神
社は冬野を含んだ広範囲な区域を談山神社の神域と考えたい。それほど談山神社は歴史的
価値の高い神社であるからだ。
蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足は、
蘇我氏による専横に憤り、大王家(皇室)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子(後の孝徳
天皇)と接触するも、その器ではないとあきらめる。そこで鎌足は、中大兄皇子に近づ
く。蹴鞠の会で出会う話は有名。場所がその談山神社である。談山神社の出会いが契機と
なって蘇我氏打倒の計画を練ることになったのである。そして遂に、皇極天皇4年(645
年)6月、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日
には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。
談山神社は、中臣鎌足と中大兄皇子が、後年いうところの「大化の改新」の談合をした
「場所」である。
では、談山神社に関する代表的なホームページを次に紹介するので、それを見て、是非、
一度は機会を見て談山神社にお出かけ下さい!
http://www.tanzan.or.jp/haikan.html
http://www.kasugano.com/kankou/tanzan/
http://koza5555.exblog.jp/i11
さて、冬野で申し上げたいことが二つある。
一つは山道のことである。自動車時代になったのは極く最近のことであり、昔は山道が盛
んに使われた。旧石器時代や縄文時代の幹線道路はもちろんのこと、近年まで人々は尾根
筋を中心とした山道を往き来したのである。したがって、冬野は交通の要所であって、峠
には茶店があって繁盛したにちがいない。古代の状況は想像するほかないが、冬野が交通
の要所であったことは間違いない。そして、斉明天皇の建立した道観に奉仕する人たちが
住んでいたことに想いを馳せて欲しい。
言いたいことの二つ目は、冬野の近くの多武峯(とうのみね)は、現在、関西電力のマイ
クロウェーブの中継基地があるということだが、そこからの四方を眺める眺望が素晴らし
いということである。「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、20
03年10月、朝日新聞社)では、『 吉野の青根ヶ峯や山上ヶ岳などの聖山も望め、斉
明天皇が冬野に両槻宮(ふたつきのみや)を建てても決して不思議ではない。』・・・と
書いている。ひとしきりネットサーフィンをやってみたのだけれど、多武峯からの景色が
見つからなかったので、ここでは、そのイメージだけ示しておくので、多武峯から四方を
眺める眺望が素晴らしいというを想像して欲しい。そして、多武峯が仙境であったことに
想いを馳せて欲しい
では、冬野というところについて、詳しい説明をしておきたい。
冬野
( http://ameblo.jp/sunmoon69/entry-10869868103.html より)
冬野
( http://blog.livedoor.jp/satoyamasukune/archives/51325602.html より)
冬野は明日香村に属するが、車で行く場合は、石舞台のある明日香村の中心地から、飛鳥
川に沿って吉野方面に南下し栢森(かやのもり)から行くか、石舞台の東の細川というとこ
ろから行くか、いずれにしても上畑の集落を目指す。
上畑の集落
( http://howapi.la.coocan.jp/zaurus/fuyu_tou.htm より)
先に示した地図で、談山神社からの山道は車では行けない。このルートは昔の山道である
ので、歴史的な意味があるし、良いハイキングコースなので、ほとんどの人は談山神社か
らのルートを行く。したがって、ネートサーフィンしていると、下の画像が多く、現在の
冬野の画像が見当たらない。しかし、現在の冬野はほとんど人影を見かけないが、立派な
集落で、昔は人びとがイキイキと暮らしていたのだ。一口に冬野と言っても、上の画像と
下の画像では随分趣が違う。上は、狭いながらも車も通れ、舗装もしてあって、町の風
景。下は田舎の風景そのもの。古代からの山道についてはのちほど詳しく述べる。とりあ
えずは、現在の冬野を紹介したい。
冬野(談山神社からのルート)
( http://blog.livedoor.jp/satoyamasukune/archives/52042647.html より)
冬野のすぐ近くに宮内庁管理の「亀山天皇の皇子・良助親王の墓」があるが、上畑からき
て、少し先まで立派な道路がある。その先200mほどは狭い道路になるが、冬野の集落
に着く。
良助親王の墓
( http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_03_23.htm より)
談山神社からくる山道は、上畑、 良助親王の墓からの車道にTの字にぶつかる。下の地図
で言えば、木村氏宅の少し西である。木村氏宅から裏山まで車道がついていて、その奥に
波多神社がある。手前に、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、
2003年10月、朝日新聞社)に述べられている関西電力のマイクロウェーブがある。
ここが多武峰であり、冬野の裏山だ。冬野城の跡もあり、多武峰の頂上付近は結構広い。
道観(どうかん)・両槻宮(ふたつきのみや)が建立されたのも十分頷ける話だ。
冬野の裏山(電波塔と波多神社)
( http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin2-41.htm より)
冬野の裏山(電波塔と波多神社)
電波塔の左手に冬野城跡の主郭が広がっている。
( http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin2-41.htm より)
波多神社
西方の畑集落の名からも、波多・秦氏との関連に興味深いものがあるが、詳細は不明。
( http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin2-41.htm より)
波多神社の裏
( http://gfi402.web.fc2.com/narakokujin2-41.htm より)
私は、先に、「自動車時代になったのは極く最近のことであり、昔は山道が盛んに使われ
た。旧石器時代や縄文時代の幹線道路はもちろんのこと、近年まで人々は尾根筋を中心と
した山道を往き来したのである。したがって、冬野は交通の要所であって、峠には茶店が
あって繁盛したにちがいない。古代の状況は想像するほかないが、冬野が交通の要所で
あったことは間違いない。そして、斉明天皇の建立した道観に奉仕する人たちが住んでい
たことに想いを馳せて欲しい。」・・・と申し上げたが、冬野を中心とする山道に関する
ホームページがあるので、次にそれを紹介しておきたい。
http://blog.livedoor.jp/satoyamasukune/archives/51325602.html
さらに、江戸時代、松尾芭蕉が冬野の臍峠(へそとうげ)を通っており、「笈の小文(お
いのこぶみ)」に「臍峠、多武峰より竜門へ越道也」の前文がつけられた「多武峰、雲雀
より空にやすらふ峠哉」と詩っているので、そのホームページも紹介しておきたい。
http://www.haikai.jp/joho/oinokobumi/oi8yosin.html
以上、斉明天皇が「道観・両槻宮(ふたつきのみや)」を建立された多武峰(とうのみ
ね)について縷々説明してきた。では、そもそもいよいよ「両槻宮(ふたつきのみや)」
とはどういうものなのか?「両槻宮(ふたつきのみや)」というものが道教とどのように
繋がっているのかを解説しておきたい。
冒頭に紹介したように、 「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、
2003年10月、朝日新聞社)では、『 斉明天皇が「天宮」ともいわれた両槻宮をつ
くったのはなぜか。それはおそらく、漢の武帝の故事にならい、不老長寿をもたらしてく
れる神仙を迎えようとしたのではなかろうか。自らつくった後飛鳥岡本宮から見上げる多
武峰は特別な意味をもつ場所であることは想像に難くない。そこに「両槻」の名を付けた
宮殿をつくったのは、たまたま二本の槻(つき)の木があったという簡単なことではない
気がする。(中略)二本の樹木を宮の名とするには特別の意味があったと思われる。例え
ば漢鏡には、瑞祥(ずいしょう)を表現するものとして「木連理(もくれんり)」(連理
枝)の図柄がよく見られる。また、道教の神、東王父(とうおうふ)がいる扶桑(ふそ
う)の木は「両根を同じくして偶生し、相ひ依倚す」(海内十洲記)とあるからだ。』
・・・と述べている。
この文章に関連して、補足説明が必要な事柄が二つある。一つは、漢の鏡の図柄でよく見
られるという「木連理(もくれんり)」が何故道教と関係があるのか、二つ目は、「扶桑
(ふそう)の木」が何故道教と関係があるのか、ということである。
木連理とは、中国における祥瑞(しようずい)の一種。根や幹は別々だが,枝がひとつに
合わさっている木のことである。吉川忠夫は次のように説明している。すなわち、
『《白虎通》封禅篇には,王者の徳のめぐみが草木にまでおよぶとき,朱草や連理の木が
生ずるといっている。男女のちぎり深い仲のたとえにも用いられ,白居易(楽天)の《長恨
歌》に〈天に在っては願わくは比翼の鳥となり,地に在っては願わくは連理の枝となら
ん〉とうたわれているのは有名。』
・・・と。(http://kotobank.jp/word/%E9%80%A3%E7%90%86%E3%81%AE
%E6%9C%A8)
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、その木連理が漢の鏡に図柄として描かれているというのだ。まずそれを見て
みよう。
三段式神仙鏡
( http://www.murakami-kaimeido.co.jp/kokyo/kan/kan_13.html より)
これが通常私たちが目にする漢の鏡の一つ「三段式神仙鏡」であり、「日本の道教遺跡を
歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)で述べている
「木連理」とは、「三段式神仙鏡」のことである。
http://www.murakami-kaimeido.co.jp/kokyo/kan/kan_13.html では、次のように
言っている。すなわち、
『 この 鈕を挾む2本の平行線で内区を3段に分かち、各々に神仙像を入れるのでこの
名がある。内区を見 る方向は、本鏡のような4方向からのもののほか、2方向、1方向
の例があり一定しない。中央の2 神は冠の形状から見て、西王母(写真左)と東王公
(写真右)である。写真上の区画では、中央の玄武の背中から柱がのびて、上の華蓋(け
がい)を支え、右に 北極の神・天皇大帝(てんこうたいてい)が正面向きに座す。写真下
の区画では、両側からのびた樹木が中央で8の字状に絡んで輪をつくり、侍者を従えた神
仙 が向かい合っ て座している。』・・・と。
しかし、どうも図柄がはっきりしないので、私は、ひとしきりネットサーフィンをして、
もう少し図柄のはっきりした「三段式神仙鏡」のホームページがないか探してみた。あっ
た!あったのだ。 霍 巍の「三段式神仙鏡とその相関関係についての研究・・・その日中
文化交流史における位置づけを考える」という論文(日本研究19号、35ページ)であ
る。
http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1902.pdf
このホームページに掲載されている「三段式神仙鏡」は次の通りである。
写真下の区画では、両側からのびた樹木が中央で8の字状に絡んで輪をつくっている。こ
れが「木連理」である。確かに、 侍者を従えた神仙 が向かい合っ て座している。
中段に描かれている2神は冠の形状から見て、西王母(写真左、冠に横櫛をさしている。
これは女性。)と東王公(写真右)である。これもはっきり判別ができる。
では次に、「扶桑(ふそう)の木」が何故道教と関係があるのか、ということについて説
明しよう。このことについては、中西進がその著「日本の文化構造」(2010年3月、
岩波書店)の中で詳しく説明している。すなわち、
『 世界樹といわれる巨樹は天地の中央にあり、傘を広げたよう枝を伸ばしている。そう
して、太陽はこの傘に沿って昇ってゆき、また降ってゆくことになる。だから東にある時
は西の枝によって西半分がおおわれ、西にある時はその逆となる。この太陽と木との関係
でいえば、「山海経」には、黒歯国の北に湯谷という水の沸騰している谷があって、その
湯谷のほとりに扶桑の大木があったというが、さて湯谷で太陽が水浴をし、一個の太陽だ
けが扶桑の木をのぼっていくという。この話も謎だらけの話だが、同類の話は「淮南子
(えなんじ)」にも見え、要するに太陽が一日に一個、湯谷を出て扶桑の木の東の枝をの
ぼり、頂上から今度は西の枝に渡って降りつづけるという話らしい。(注:扶桑に木は世
界樹であるということ。)』
『 古今東西、世界樹と目されるものが水のほとりにあることは共通した要素で、「古事
記」のものも兎寸河のほとりにあるといい、中国でも、黄河のほとりにあるといい、扶桑
も湯谷のほとりにあった。』
『 この扶桑という桑について嬰児の誕生を語る説話があるのも、桑が世界樹と見なされ
た時に、これが生命の木だと考えられたゆえの説話であろう。「呂氏春秋」では有仙氏の
女子が空桑に嬰児を発見する話がある。「楚辞」の「水辺の木、彼の小子を得」もこの故
事をさすものとされる。緯書の「春秋演孔図」では孔子の母が黒帝と交わって孔子を空桑
の中に生んだとされる。大聖の出生を世界樹の下で語るのは、釈迦の母、摩耶夫人がア
ショカ(無憂樹)の下で釈迦を生んだのとひとしい。』・・・と。
中西進の「扶桑」に関する説明は以上の通りであるが、「扶桑」が中国における世界樹で
あって、そこに 西王母と東王公がいる。その図案が「三段式神仙鏡」に描かれているの
である。以上の中西進の説明でよくご理解いただけたと思う。また、中西進の説明の最後
のフレーズによって、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、20
03年10月、朝日新聞社)で述べている『扶桑(ふそう)の木は「両根を同じくして偶
生し、相ひ依倚す」(海内十洲記)』という文章の意味もお判りであろう。老子のいう
「玄牝(げんぴん)の門」と繋がっている。つまり、宇宙の原理を絵であらわすとすれ
ば、「木連理」とか「扶桑の木」ということになる。これは道教の奥深いところだ。で
は、「道観・両槻宮」という項の最後に、以前に書いた「「玄牝(げんぴん)の門」とい
うホームページを再び掲げておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/genpimon.pdf
2、道教思想の顕われ・山形石と石人像
今まで、第1項の「道観・両槻宮」では、斉明天皇によって建立されたその場所・多武峰
を探るとともに、両槻宮の持つ道教的な意味を説明してきた。この第2項では、斉明天皇
のつくった不思議な石像、山形石と石人像について、それが持つ道教的な意味について説
明する。まずは、斉明天皇のつくったその石像について、「日本の道教遺跡を歩く」(福
永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)でどのように述べている
か、それを見てみよう。「日本の道教遺跡を歩く」では次のように述べている。すなわ
ち、
『 斉明天皇が道観を建てたことは明らかであるが、皇極・斉明紀にはほかにも天皇が道
教思想に通じていたことを示す記述がある。皇極紀元年(642)、天皇は南淵(みなぶ
ち)(明日香村稲淵)の河上に行き「跪(ひざまず)きて四方を拝み、天を仰ぎて祈
(こ)ひたまひし」とある。この四方拝も道教の祈拝の一つである。』
『 そのほかには明日香村石神の石神遺跡(須弥山遺跡)から出土した二つの石造物であ
る。男女が抱き合う形の石人像と三つの石を重ねた山形石である。明治35年6月に、水
田の中で見つかり、東京帝室博物館に送られ、倉庫の片隅でほこりまみれになっていた。
昭和11年春、当時、同博物館にいた石田茂作氏がそれに気付き、「奈良時代出土品展覧
会」に出陳して以来注目されるようになった。その展覧会中に、出土地の地主である辻本
定四郎氏が来訪して、石田氏に発掘を以来、5月から二週間現地調査をした。その結果、
庭園に関係する遺物であろうと見通しを立てた。その後、昭和50年代に奈良国立文化財
研究所が、付近を数次にわたって発掘、建物や庭園遺構を確認している。おそらくは、斉
明朝頃のものではないかと見られており、山形石の石人像はまぎれもなく、その池のため
につくられたものであることが明らかになった。』
『 この石造物の一つ、山形石は、斉明天皇が化外の民をもてなす時に作った須弥山像で
はないかという説が戦前からいわれており、「須弥山石」の別名がある。「日本書紀」の
斉明紀には、須弥山について次のような記録がある。①斉明三年(657)7月、須弥山
の象を飛鳥の寺の西に作り、また盂蘭盆の会(え)を設けき。暮(よる)、吐噶喇(とか
ら)人に響(あ)えたまひき。ある本に曰く、堕羅人(たらのひと)なりといへり。②斉
明五年三月、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷(えみし)を響へた
まひき。③斉明六年五月、石上池の辺に須弥山を作り、高さ廟塔(とう)の如し。以ちて
粛慎(みしはせ)47人に響へたまひき。 山形石を須弥山と考える人は、以上の三カ所
の須弥山のうち②が位置的にも石神遺跡と一致するのではないかと見る。』
『 その須弥山である。これは何を表現しているのか。従来は仏教的世界観の中心にある
山とのみ解釈してきたが、むしろ道教的世界観にもとづいた聖なる山、崑崙山を表してい
ると考えられないであろうか。道教教典の「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」の巻21
によると「三界図に云う。其の天の中心、皆崑崙有り。又の名須弥山なり。其の山高潤に
して四方を傍障す。日月、山をめぐりて互いに昼夜をなす。」とあって、須弥山は崑論山
の別名と意識されていた。これはおそらく、仏教が西方から中国に伝わった時に、仏教的
な楽土思想が伝統的な中国の神仙思想と習合したためと思われる。日本でよく知られる須
弥山図に法隆寺金堂の玉虫厨子のものがある。山頂に一堂と樹木があり、左側にはその中
部に三足の烏を描いた太陽を、右にウサギの絵をもつ太陽を描いているが、これは「雲笈
七籤(うんきゅうしちせん)」の描写そのものであり、神仙思想による崑論山の投影であ
ると見ることもできる。さて、その山形石だが、表面に山か雲のような造形があり、三層
あわせた高さは137センチ。6世紀の宗教地理書「水経注」河水篇によると「崑崙の山
は三級からなる。下を樊桐(ばんどう)といひ一名を板桐、次を玄圃(げんぽ)といひ一
名を 風(ろうふう)、上を層城といひ一名を天庭といふ。この天庭が太帝の居(すま
い)である」と書き、崑崙は三層からできているといっており、なぜ山形石が三つ重ね
だったか、これでわかる。』
『 ところでこの山形石を崑崙山と解することを一つの選択肢とするならば、同時に出土
した石人像は、仙像である可能性が高い。それは道教の神・東王父と西王母(せいおう
ぼ)ではないだろうか。「水経注」のその崑崙の記述の中にも 東王父と西王母は「陰陽
相須(あいもち)ふ」とあり、陰陽相和したペアを大事なモチーフにするのは、これもま
た道教の大きな特徴だからである。』
『 崑崙山、つまり須弥山は天帝の住まいである。天帝の近くに、いつでも行けるのは、
神仙以外にはない。神仙の到来を待ち望み、自らを神仙に仮託しようとした斉明天皇に
とって、須弥山像を身近かにおくことは、重要な意味があったと思われる。多武峰の両槻
宮を、天上の天帝の都とすれば、須弥山像のある場所は、地上の天帝の都という認識のも
とにこうした建造物がつくられたのではなかったのか。』
『 皇極・斉明というのは、もとより漢風のおくりなである。「皇極」とは太極と同じで
世界の中心という意味であり、「斉明」とは神の祭りを熱心にする人ということで、いず
れも「礼記」や「書経」に見られる言葉である。したがって、それ自身道教と直接関わり
がないが、斉明天皇の道観や吉野宮の造営などといった神仙思想への傾倒を意識しての命
名であるようだ。』・・・と。
須弥山が宇宙の中心であるという世界観は、元来、インドのものである。それが道教にも
影響を与えたが、仏教において成熟するようだ。 仏教宇宙観は「倶舎(ぐしゃ)論」
(5世紀頃、世親作)に詳しく、それによると宇宙空間(虚空)には巨大な風輪が浮かん
でおり、その上に水輪が、さらにその上には金輪(こんりん)が浮かんでいる。わが国で
は、江戸末期にはこの仏教宇宙観を一般に易しく理解させるため、リンが鳴り太陽と月が
時計仕掛けで動く模型を考案した。これが「須弥山儀」である。
水輪と金輪の境目は「金輪際」と称され、金輪上には海水が満ちてあり、最外周は海水が
流出しないように鉄でできた鉄囲山(てっちせん)で囲まれている。金輪の中央には金・
銀・瑠璃・玻璃の四宝でできた須弥山がそびえ立っており、その高さは海抜8万ヨージャ
ナ(1ヨージャナは約7Km)。その周辺を九山八海(くせんはっかい)が交互に存在
し、八海には八功徳水(はっこうどくすい)が満ちている。海中の四方にはそれぞれ東勝
身洲(とうしゅうしんしゅう)、南贍部洲(なんせんぶしゅう)、西牛貨洲(さいごけ
しゅう)、北倶廬洲(ほっくるしゅう)の4島があり、我々人間は南方の贍部洲に住んで
いる。ただし、この地下には恐ろしい八大地獄が待ち構えているという。この贍部洲のみ
を模型にしたものが「縮象儀(しゅくしょうぎ)」である。
須弥山が宇宙の中心であるという仏教宇宙観がどういうものであるかは、まず代表的な
ホームページを紹介しておこう。
http://tobifudo.jp/newmon/betusekai/uchu.html
また、上の文章に出てくる 「須弥山儀」と「縮象儀(しゅくしょうぎ)」については、
次のホームページに詳しく説明してあるので、それをご覧戴きたい。
http://www.ryukoku.ac.jp/about/pr/publications/63/05_treasure/index.htm
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/old/ja/exhibition_ja/20030619-20030801_001_00
2_006_ja.html
須弥山(しゅみせん、サンスクリット:Sumeru)は、古代インドの世界観の中で中心に
そびえる山。インド神話ではメル山、メルー山、スメール山ともいう。
これらの山は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山である。この世界軸と
しての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されているが、世界
最古の宗教と言われているシヴァ教において、どのような世界観を持っていたか、それを
ここに紹介しておきたい。アラン・ダニエルーの「シヴァとディオニソス・・・自然とエ
ロスの宗教」(2008年5月、講談社)に、シヴァ教の世界観の中で中心にそびえる聖
なる山について次のようにのべらている。すなわち、
『 シヴァの楽園のあるカイラス山は、素晴らしく美しい庭で覆われている。そこでは、
ありとあらゆる種類の動物、ニンフ、精霊といった仲間たちが神を取り巻いている。この
悦びにあふれる場所には、幸福をもたらすすべてがある。裸身のヨーガ修行者の格好をし
たシヴァも、そこで暮らしている。「シヴァ・プラーナ」のルドラ・サンヒター18
章)』
『 カイラス山は、シヴァの住まう光り輝く至福の山である。』
『 人間の世界で、シヴァは半狂人の物乞いとしてあらわれるが、神々がカイラス山を訪
ねると、シヴァは眩しいばかりに美しいすがたに変わる。』
『 ヒンドゥー寺院は山を表象する。聖域の鐘楼や尖塔を見ると、山のファロス的な外貌
が連想される。山という魔術的な場に近づく時、人は畏敬を感じる。そこは神々が住まう
場所、賢者が聖なる霊感を授かるためにこもる場所である。』・・・と。
世界最古の宗教・シヴァ教の聖なる山を中心とした宇宙観が、バラモン教、ジャイナ教、
ヒンドゥー教、仏教に受け継がれてるが、特に、仏教において独特の進化をする。中国に
おける聖なる山は、本来、須弥山(崑崙山)であったが、 仏教宇宙観の進化とともに天
台山において重要視されるようになる。天台山の仏教宇宙観が最澄により天台宗にも伝え
られるので、平泉は毛越寺のかの有名な浄土式庭園も天台山の宇宙観を表象している。こ
のように、世界最古の宗教・シヴァ教の聖なる山を中心とした宇宙観は、仏教を通じてわ
が国に多大な影響を与えているのだが、私としては、道教の宇宙観を重視したい。それ
は、世界最古の宗教・シヴァ教の聖なる山を中心とした宇宙観の心髄は、多の宗教に受け
継がれていなく、道教にのみ受け継がれていると考えるからである。それは何か? それ
は老子の道、すなわち宇宙の原理である。このことは誠に重要で、のちほど少し触れる
が、その前に、天台山の宇宙観と須弥山式庭園に関連する代表的なホームページを紹介し
ておきたい。
http://www.ncku.edu.tw/ chinese/journal/JRCS4/06.pdf
http://muso.to/teienn-moutuji.htm
今ここでの文脈から言えば、道教において、須弥山を中心とした宇宙観がどのように認識
されていたか、そのことが問題である。
先に述べたように、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、200
3年10月、朝日新聞社)では、『 道教教典の「雲笈七籤(うんきゅうしちせん)」の
巻21によると「三界図に云う。其の天の中心、皆崑崙有り。又の名須弥山なり。其の山
高潤にして四方を傍障す。日月、山をめぐりて互いに昼夜をなす。」とあって、須弥山は
崑論山の別名と意識されていた。』としか述べていない。当時、中国では、須弥山を中心
とした宇宙観が識者の間では常識になっていたので、道教は道教なりに須弥山(崑崙山)
を中心とした宇宙観を持っていたことは間違いないが、その宇宙の構造がどのようなもの
として認識されていたのかは、判らない。 すなわち、文中の三界図というのが仏教でいう
ところの三界と同じような概念であり、宇宙の構造を言ったものではない。今私が、明日
香の須弥山石に関連して問題にしたいのは「道教が宇宙の構造をどのように認識していた
か」である。道教が認識していた宇宙の構造は、第1項において、「扶桑(ふそう)の
木」についての中西進の説明を紹介した。すなわち、中西進はその著「日本の文化構造」
(2010年3月、岩波書店)の中で、「世界樹といわれる巨樹は天地の中央にあり、傘
を広げたよう枝を伸ばしている。そうして、太陽はこの傘に沿って昇ってゆき、また降っ
てゆくことになる。」と述べている。宇宙は、太陽の運行する傘によって三分されている
というのだ。これを現在の知識に照らして言えば、傘の部分を太陽圏とするなら、大気圏
と太陽圏と太陽圏外宇宙ということになろうか。私は須弥山石は、この表象であると思
う。こういう認識は道教独特のものであろう。
老子の言う道とは、宇宙の原理のことであり、人間は宇宙の原理にしたがって生きていく
ことが大事なのである。だから、道教では、宇宙の原理について思索を重ねるとともに、
天の構造についても以上のような考えを持っていたようだ。須弥山式庭園も宇宙を意識し
た空間であるが、斉明天皇の作った明日香の庭園も宇宙を意識した空間であったのであ
る。先に述べたように、その庭園で化外の民をもてなすとともに、その庭を身近におくこ
とは自らを神仙に仮託しようとした斉明天皇にとって特別の意味があったのである。
斉明天皇は、明日香の「石神の庭」で化外の民、蝦夷や異国の人たちをもてなしたらし
い。「石神の庭」とは、飛鳥の石神遺跡の庭園遺構のことで、昭和50年代に奈良国立文
化財研究所が発掘調査によって確認したものである。
斉明天皇は、新羅と唐の連合軍と白村江の戦いを戦って大敗を喫した。「日出(い)ずる
処(ところ)の天子、日没する処の天子に書を致す。恙無(つつがな)きや」という国書
を隋に届けた大和朝廷としては、大ショックであったに違いない。そこで斉明天皇として
は、自らが太く神仙と繋がっていることを示すために両槻宮を建立する必要があったし、
蝦夷や異国の人たちに大和朝廷が異国の文化をも取り入れた大国であることを示すために
「石神の庭」を作る必要があった。私はそう考える。「石神の庭」の造築に当たっては、
わが国伝統文化を駆使するのは当然として、中国伝来の文化をも駆使した。総力を挙げた
ということである。中国伝来の文化の中に道教文化と
教(ゾロアスター教)文化があっ
た。したがって、石神の庭には築山と池の他に、中国伝来のさまざまな石造が作られた。
須弥山石と石人像は道教のものだが、その他の石造については、中国伝来のものであろう
が詳細はよく判らない。須弥山石と石人像は明らかに道教のものであるが、噴水の仕掛け
の部分については、どうも
張は、
教(ゾロアスター教)文化の技術によるものらしい。松本清
教(ゾロアスター教)の影響を重視しているが、それはその通りだとしても、須
弥山石と石人像は明らかに道教のものである。「石神の庭」は正に国際感覚に満ちた庭
だったのである。
なお、松本清張は、「石神の庭」は未完成に終わり、多武峯の両槻宮も完成しなかったと
見ているが、それは如何なものであろうか。私は、やはり、完全に完成したものかどうか
は別として、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年1
0月、朝日新聞社)で述べられているとおり、多武峯の両槻宮はそれなりに建立されたと
考えている。
飛鳥資料館の屋外に展示されている須弥山石
( http://person.mizutani-its.com/gif/asuka.html より)
飛鳥資料館内の須弥山石(三段であることがよく判る)
( http://gedano.blog92.fc2.com/blog-entry-1021.html より)
須弥山石の噴水
( http://murata35.chicappa.jp/kansaitanboki/2000.07/asuka/sekizobutu.htm より)
石人像の噴水
( http://ryokan.taishoro.com/2009/02/post_360.htm より)
上述したように、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003
年10月、朝日新聞社)では、『 ところでこの山形石を崑崙山と解することを一つの選
択肢とするならば、同時に出土した石人像は、仙像である可能性が高い。それは道教の
神・東王父と西王母(せいおうぼ)ではないだろうか。「水経注」のその崑崙の記述の中
にも 東王父と西王母は「陰陽相須(あいもち)ふ」とあり、陰陽相和したペアを大事な
モチーフにするのは、これもまた道教の大きな特徴だからである。』・・・と述べている
が、この点が道教の心髄をついたもっとも大事な点である。しかし、この点については、
いずれ機会を見て説明したいと思う。
老子の言う道とは、宇宙の原理のことであり、人間は宇宙の原理にしたがって生きていく
ことが大事なのである。道教ではそう考える。だから、道教的に言えば、哲学者とか思想
家は、宇宙の原理について思索を重ねることが大事なのである。その助けを借りて、私た
ちは、 今こそ、最新科学に則り、天の神話を語らねばならない。霊魂の存在とかあの世
の存在とかを語らねばならない。すべて正しい道を歩いていくためである。老子的に言え
ばということだが、私はそう思う。
祈りは、人間が生きていく上で、必要である。科学と宗教は互いに足らざる所を補い合い
ながら、共に、人間が幸せになるように、正常な形で進歩していかなければならない。
荘子は、神が居ても居なくてもどうでもいい。祈りがあってもなくてもどうでもいい。大
事なことは、自分なりの生き方で人生を必死で生きていけば良いと言う。それはその通り
であろう。しかし、それは,よほどの人でないとできないことだ。あれほど意志の硬い
ニーチェでさえ、東洋の神に憧れながらも遂に神との繋がりを持つことがでかなかったた
めに、狂い死にしたではないか。私は、やはり、祈りは必要であるし、神は必要であると
思う。宗教は必要である。どんな宗教でも人々の救済に向かわなければならない。
須弥山は、神、天帝、黄帝の住むところという昔の神話を耳にしても、現代の人は、そん
な非科学的な話は信じられないと、聴いた瞬間にそう思ってしまうだろう。したがって、
今こそ、最新科学に則り、天の神話を語らねばならない。そこで私は、いずれ機会を見
て、天の科学を語ろうと考えている次第である。
第3節 伊勢神宮
聖山というものは、神との有力なインターフェイスである。
仏教世界観は、それを前提とした世界観であるが、最初に聖山を神との有力なインター
フェイスとして重視したのは、シバ教である。
世界最古の宗教・シヴァ教の聖なる山を中心とした宇宙観を持っていた。そのことについ
ては、すでに第2節「明日香」第2項「道教思想の顕われ・山形石と石人像」で述べた
が、これがもっとも大事なところであるので、もう一度ここに述べておきたい。
須弥山(しゅみせん、サンスクリット:Sumeru)は、古代インドの世界観の中で中心に
そびえる山。インド神話ではメル山、メルー山、スメール山ともいう。
これらの山は、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山である。この世界軸と
しての聖山はバラモン教、仏教、ジャイナ教、ヒンドゥー教にも共有されているが、世界
最古の宗教と言われているシヴァ教において、どのような世界観を持っていたか、それを
ここに紹介しておきたい。アラン・ダニエルーの「シヴァとディオニソス・・・自然とエ
ロスの宗教」(2008年5月、講談社)に、シヴァ教の世界観の中で中心にそびえる聖
なる山について次のようにのべらている。すなわち、
『 シヴァの楽園のあるカイラス山は、素晴らしく美しい庭で覆われている。そこでは、
ありとあらゆる種類の動物、ニンフ、精霊といった仲間たちが神を取り巻いている。この
悦びにあふれる場所には、幸福をもたらすすべてがある。裸身のヨーガ修行者の格好をし
たシヴァも、そこで暮らしている。「シヴァ・プラーナ」のルドラ・サンヒター18
章)』
『 カイラス山は、シヴァの住まう光り輝く至福の山である。』
『 人間の世界で、シヴァは半狂人の物乞いとしてあらわれるが、神々がカイラス山を訪
ねると、シヴァは眩しいばかりに美しいすがたに変わる。』
『 ヒンドゥー寺院は山を表象する。聖域の鐘楼や尖塔を見ると、山のファロス的な外貌
が連想される。山という魔術的な場に近づく時、人は畏敬を感じる。そこは神々が住まう
場所、賢者が聖なる霊感を授かるためにこもる場所である。』・・・と。
私は前に、「大山に対する古代の信仰は、山頂から出土する種々の遺物から十分推測でき
る。」と書いたことがあったが、これは大山の山頂から縄文時代の遺物が出ることを踏ま
えて書いたものである。縄文人大山との関係については、伊勢原を紹介する時に、次のよ
うに書いた。
現在、伊勢原は大山と切っても切れない関係の町であることは言うまでもないが、
実は、
大山との関係は縄文時代に遡るようだ。
大山の山頂に縄文時代の祭祀跡が発見されているが、
大山は縄文時代から信仰の山としてあがめ奉られていたのは間違いない。
大山は古代から神々の住処であったのだ。
このことを知る人は少なかろうが、
大山山麓に住む縄文人が大山をあがめ奉っていたさまを想像して欲しい。
小林達雄は、その著書「縄文の思考」(2008年4月、筑摩書房)で縄文人と山との
繋がり詳しく述べている。北海道の大雪山の山頂にも石器が出ているのだ そうだ。それ
が発見された大正年間から侃々諤々の議論があり、 狩猟目的、採取目的、交通目的、避
難目的、宗教目的等 いろんな説が発表されている。
小林達雄は言う。「大雪山の例は、北海道でもっとも高地の遺跡であるが、その中心
の白雲岳はなだらかな相当広い緩傾斜に立地しており、土器は未発見なが ら、石鏃など
の製品と多数の石器製作にかかわる石屑がある。ごく少数のメノウ製品以外はすべて黒曜
石で、7カ所以外の原産地を含んでいる。その量と内容は 単なる交通路あるいは旅の途
中に仮泊した程度を超えている。つまり冬を除く、いずれかの季節で活発に利用されたこ
とを窺わせる。しかも周辺一帯からは早期 の石刃鏃をはじめ、石鏃の形態からは縄文晩
期及び続縄文時代の特徴がみられ、再三再四にわたって幾度となく活動の場となっていた
ことを物語る。したがっ て、大雪山を仰ぎ見ていた縄文集団のいたことは充分に想像さ
れるものの、そうした純粋な信念に突き動かされて登山したという痕跡を分離独立して遺
物や遺構 から窺い知る証拠はない。」・・・と、誠に慎重な言い方をしているが、総合
的な判断として、彼は大雪山の例を宗教的儀式の場所であったと言い切っている。
小林達雄の上記著書によると、岩手県下には極めて興味深い発見があるという。八甲
田山から縄文晩期の石刀の完成品が発見されているのだそうだ。石刀は石 棒・石剣と並
んで日常的道具とは明瞭に区別される。縄文人の世界観に由来する「第2の道具」を代表
する石製品である。これが残された山頂は高さの故だけで なく、日常行動圏の範疇を超
えた性格を自ら備えている。また、中村良幸によれば早池峰山頂上から縄文土器と石器一
点が発見されている。これまた日常生活舞 台の域をはるかに超えている。
縄文人が信心から登山した例は、小林達雄の上記著書にさらにいくつか紹介されている
が、ここでは省略する。ただし、私が先の述べた大山の例について、彼も少々述べている
ので、それを紹介しておきたい。
「神奈川県大山頂上からは縄文土器の破片60点、注口土器(ちゅうこうどき)と二
個体以上の深鉢が発見されている。発掘調査した赤星直忠は、小出義治 共々、縄文人の
関与には否定的で、<縄文土器は山伏が塚をつくるときに埋めた><鎮めもの説>をとっ
ている。縄文人の所業と心をみくびっていまい か。」・・・と。
さらに彼は言う。「(注目すべきは)西井龍儀の富山県鉢伏山についての意見であ
る。鉢伏山は標高がせいぜい520メートルであるが、<標高500メートル の山頂部
での居住がなされたとは考えにくい。付近で見られる縄文時代の遺物とは時代背景、社会
環境が異なると言わざるを得ない。・・・鉢伏山そのものが山 麓の人々から崇められた
とみたい。山頂部の古代遺跡はそうした人々の畏敬のこもった奉賽品>ではないか、とみ
るのである。この意見こそ傾聴に値す る。」・・・・と。
彼は引き続き言う。「ムラを取り囲む自然環境を単なる景観としてではなく、景観の中
にいくつかの要素の存在を意識的に確認することによって自分の眼で創る風景とする。そ
の風景の中に特別視した山を必ず取り込もうとしてきたのが縄文人流儀であったのだ。
そうした山は、単なる風景を構成する点景ではなく、その霊力をもって縄文人の相手
をするようになる。縄文人は仰ぎ見ることで、はるかに隔たる空間を飛び越 えて情意を
通ずるのだ。その積極性の典型的現れが、ストーンサークルや巨木柱列や石柱列や土盛遺
構の位置取りを山の方位と関係づけて配置したことである。 さらに、そうした山頂、山
腹と二至二分の日における日の出、日の入りを重ね合わせる特別な装置を各地、各時期に
創り上げたのである。
しかし、ム ラと山頂との距離はいかに頭の中で観念的に越えて一体感に浸ることがで
きたとしても、物理的距離は厳然として存在し、信念、信仰の縄文人魂だけでは到底埋
めることはできない。手を伸ばしても届かない山頂を呼び込むことは不可能だ。この壁を
打開するために、ときには縄文人は自ら山頂をめざす決意を新たにし て、ついに実行に
移したのだ。その時期がいつであったかは特定できないが、その発意は神奈川県大山出土
の注口土器の存在から、少なくとも縄文後期に始まっ ていることがわか
る。」・・・・・と。
旧石器時代から、場所によっては、山は、石器の採掘場所であったり、狩猟採取の場
所であったり或は山道であったりしたが、縄文時代になって、すでに、宗教 目的で人々
は登山をするという場合も増えてきた・・・、このことは日本人の自然観というか宗教観
を考える上で大事なことである。
小林達雄は、上記の著書の中で言っている。すなわち、『 登山は、平坦地を歩くの
とは訳が違う。自らの身体を叱咤激励し、吹き出す汗を流れるにまかせ、疲 れてしびれ
る足をかばいながら、じりじりと頂上に這い登る気力を奮い立たせねばならぬ。まさにこ
の肉体的試練あってこそ、体内に気がみなぎり、初めて山の 霊力との接触を確信できた
のだ。これは後世の修験者の修行が、肉体への過酷なほどの自虐的な鍛錬とひきかえに、
ようやく求める境地に達することが許された ことに通ずるのである。こうした信仰は現
代にまで、さまざまなカタチで継承されていることを知るであろう。』・・・・と。まさ
にそのとりである。
以上に述べたように、聖なる山は 神との有力なインターフェイスであり、そこで祈りが
捧げられたのだが、頂上に登山するには大変なことであり、日常的な祭祀はその聖山の
「里宮」で行なわれたのである。多分、伊勢神宮がそうだろう。
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、伊勢の聖山・朝熊山について、次のように述べている。すなわち、
『 神仙世界から波が寄せてくる国、そこにそびえる霊のより来る高山ともあれば、古代
の人たちが朝熊山を特別な山と見なしたことはうなずけよう。そのことがわかれば皇祖神
天照大神を祀った伊勢神宮がなぜ朝熊山の近くにあるのか理解できる。』
『 遣唐使たちが訪れた長安城の南郊には、終南山という山がそびえ、その北麓には、唐
の皇室、李氏の遠祖とされる老子をまつった宗聖観が建っていた。皇室の遠祖をまつる宮
殿を「神宮」と呼ぶことは中国最古の歌謡集「詩経」の魯頌(ろしょう)「 宮(ひきゅ
う)」の神楽歌につけられた鄭玄(じょうげん)の注に「周王朝の遠祖たる姜 (きょう
げん)の霊の寄る所、故に廟を神宮と曰ふ」とあるのにもとづく。終南山にある道教寺
院・宋聖観とは神宮のことなのである。その神宮である宋聖観のそばを田峪川(でんよく
がわ)が流れている。この山と川の関係が伊勢にも当てはまる。田峪川に代わるものは、
もちろん五十鈴川である。』
『 聖なる山と、清浄な川を特別に意識して、宋聖観のような祭祀の場所を作るのは、中
国の南北朝、隋唐時代の道教の特徴であった。遣隋使、遣唐使たちの見聞を通じて、大和
朝廷の高官たちはそのことを知っていたにちがいない。伊勢神宮の造営に、この道教思想
が大きな影響を及ぼしたことは想像に難くない。』・・・と。
伊勢の聖山・朝熊山
( http://iseshimaskyline.blogspot.jp/2012/04/416-416-416-416-20-416-416-416.html より)
伊勢の聖山・朝熊山からの眺望
少し前に出れば足元に「二見が浦」が見えるし、
写真の中央に伊勢湾口の「神島」が、
そして渥美半島の向こうに「富士山」が見える。
「富士山」の左先に、鹿島神宮がある。
ご来光を拝むと、それは自ずと鹿島神宮を拝んでいることになる。
( http://photozou.jp/photo/show/210023/118443388 より)
朝熊山には、山頂近くに、金剛証寺という古寺がある。創建は6世紀半ば、欽明天皇が
僧・暁台に命じて明星堂を建てたのが初めといわれているが、定かでない。「日本の道教
遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では
「飛鳥時代には、すでに信仰の場となっていたらしいという寺伝もある。」と述べている
が、藤原不比等が皇祖神「天照大神」を祀りはじめたときには、朝熊山が信仰の場になっ
ていたことは間違いないと思う。その後、平安時代の825年(天長2年)に空海が真言密
教道場として金剛證寺を中興したと伝えられている。金剛證寺はその後衰退したが、14世
紀末の1392年(明徳3年)に鎌倉建長寺5世の仏地禅師東岳文昱(とうがくぶんいく)が
再興に尽力した。これにより東岳文昱を開山第一世とし、真言宗から臨済宗に改宗し禅宗
寺院となり、現在に至っている。
朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に
塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習が始まった
が、地元では現在もその風習は無くなっていないようだ。
1925年(大正14年)にケーブルカーが開通、昭和になってからは内宮前から登山バスが
運行されるなどで朝熊山へ登る人が激増したが、第二次世界大戦中の1944年(昭和19
年)ケーブルカーの線路が軍用のため金属供出により徴収され廃線となり、一般の朝熊山
への入山が禁止され金剛證寺は衰退した。戦後には伊勢湾台風などで被害を受けるなど衰
退の一途をたどった。1964年(昭和39年)の伊勢志摩スカイライン開通後には参拝客も
再び急増し、1979年(昭和54年)に仁王門が再建されるなど、往時の賑わいを超えるま
でに復興した。皆さんも、お伊勢参りの折は、是非、朝熊山に登り、金剛証寺にお参りさ
れると良いと思う。
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、次のように述べている。すなわち、
『 この朝熊山は、霊魂が集まる山とされ、今も篤い信仰に支えられている。近年まで
は、南伊勢と志摩半島一円では、男女とも13才になると、1月13日に朝熊山に登る習
わしがあった。いわゆる十三参りと呼ばれる成年式儀式である。また死者を埋葬した翌
日、霊をこの山の奥の院に送るため岳参り(だけまいり)を行ない、慰霊供養したのち死
霊をシキビの枝にのせて帰村する。』・・・と。
では、朝熊山・金剛証寺のホームページを紹介しておこう。
http://www.iseshimaskyline.com/kongoushouji.htm
http://guide.travel.co.jp/article/958/
私は、「藤原不比等が皇祖神・天照大神を祀りはじめた」と上述したが、この点について
は、すでに詳しく書いた私のホームページがあるので、この際それを紹介しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai07.pdf
上述したように、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003
年10月、朝日新聞社)では、『 伊勢神宮の造営に、この道教思想が大きな影響を及
ぼしたことは想像に難くない。』と述べているが、このことに関連して、次のようにも述
べている。すなわち、
『 桜井徳太郎氏は、伊勢神宮そのものが、朝熊山の里宮として成立したとする説を提起
している。(中略)朝熊山があるからこそ、伊勢神宮がここに遷座した。その理由を説明
するには、飛鳥時代末の天武・持統天皇が、伊勢国にどういう思いを知る必要がある。天
照大神が伊勢に祀られたのは、垂仁天皇の時代であると「日本書紀」は伝えるが、五十鈴
川のほとりに社殿が整備されるのは、天武・持統天皇の時代であることは誰も認める。2
0年ごとにご神体を移す式年遷宮が初めて行なわれたのは、持統四年(690)のこと
だった。』
『 伊勢神宮の場合、ご神体は「皇太神宮儀式帳」(804)によると鏡とある。(中
略)道教の根本教典「南華真経(なんげしんきょう)」(荘子)に至人(道を体得した
人)の徳を鏡に譬えたことや、6∼7世紀の南北朝、随唐朝の道教教典が宇宙の最高神
「天皇大帝」や「元始天尊(げんしてんそん)」の権威のシンボルを鏡や剣とした神学教
典を根本に踏まえていることは明らかである。』
『 天武天皇は、死後この世とあの世の境、常世の重浪帰する国にいたのである。天武天
皇が、天帝に仕える最高官僚「瀛真人(おきのまひと)」の諱を持つことを考えれば、希
望通り神仙となったと見なされていたのであろう。持統天皇はその姿を夢のうちに見て、
自らも神仙に憧れていただけに、「天武天皇は伊勢国におられる。うらやましいこと
だ。」という趣旨の歌を詠われた。万葉人にふさわしく、極めて率直な心の表現といえ
る。』・・・と。
さらに、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10
月、朝日新聞社)では、伊勢神宮が道教と深く繋がっていることに関して、次のように述
べている。すなわち、
『 「皇太神宮儀式帳」(804)によると、社殿新築の際の用材や「心の御柱(しんの
みはしら)」を伐採する前に行なう祭祀などに五色の薄絁(うすぎぬ)や金属製の人形
(ひとがた)を使うとある。道教教典の「抱朴子(ほうぼくし)」登渉 によると「山中
で五色の繒(きぬ)を大きく石の上に懸ければ、求むる所必ず得らる、すなわち願い事必
ずかなう。」とあり、五色の薄絁(うすぎぬ)は、道教関係の儀式で盛んに使われてい
る。伊勢神宮の場合、この五色の薄絁(うすぎぬ)が「見ることはもちろん、語ってもい
けない。」と言われる「心の御柱」を建てる際に重要な役割を果たしている。(注:「心
の御柱」を伐り出す「木本祭」は、神宮の域内で、夜間に行われ、それを建てる「心御柱
奉建祭」も秘事として夜間に行われる。猿田彦神社の宇治土公宮司に聞いた話による
と、伊勢神宮でもっとも重要な行事であり、猿田彦神社の宇治土公宮司がそれを司祭する
のだそうだ。)』
『 いつ頃に起源するかは詳らかではないが、外宮の神官であった度会氏(どかいし)
が、内宮と外宮の中間にある岡崎宮で、道教の神・泰山府君(たいざんふくん)を祀る山
宮祭を主宰したことは先人たちが論考している(佐藤虎雄「北辰の崇敬と度会氏の岡崎
宮」(神道研究4ー2・3、1942年)。』
『 三重県志摩郡磯部町上の郷に「伊勢神宮別宮の伊雑宮(いぞうのみや)がある。鳥羽
から10キロ、朝熊山のほぼ真南である。祭神はやはり天照大神で、漁師や海女の崇敬が
篤い。この伊雑宮では毎年6月24日に華やかな田植え祭のあることで知られる。香取神
宮、住吉大社のお田植えとともに、日本三大お田植え祭とも言われる。このお田植え祭
に、興味ある祭具が登場する。神田の脇に、忌柱が立てられ、そこに巨大な二個のさしば
のついた「忌竹(いみたけ)」と呼ばれるものが飾られる。さいばは上にあるのは円形
で、下は普通のうちわの形をしており、俗に「軍配うちわ」と呼び習わされているそう
だ。忌竹の高さは14・5m、上の円形さしばは直系2・5m。下の軍配うちわは縦m、
横幅はもっとも広い肩の部分で3m。問題はこの下の軍配うちわである。五色の帆に風を
いっぱいにはらませた千石船が進んでいる様子を描いているが、その帆に大きく「太一」
とある。「太一」とは言うまでもなく道教の最高神、天帝のことである。』
『 内宮、外宮のいちばん外側の垣根には、東西南北四つの門があり、その門の前に蕃塀
(ばんぺい)という独立した垣根がある。どこの神社にもあるというものではない。これ
は中国で「泰山石敢当」などと刻んで魔除けに使った石敢当の変形したものではないだろ
うか。』・・・と。
伊勢神宮別宮の伊雑宮(いぞうのみや)のお田植え祭
( http://plaza.rakuten.co.jp/kotoha/diary/200710280000/ より)
伊雑宮のお田植え祭に登場する道教の最高神・天帝「太一」
( http://picture.studio-mm.info/img/utiwa.jpg より)
蕃塀(ばんぺい)
( http://www.yoitokose.jp/ise/encyclopedia/h0004.php より)
なお、上述の蕃塀(ばんぺい)に相当するのが、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、
千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では「泰山石敢当」と言っている
が、道教では「大影壁(だいえいへき)」である。この「大影壁(だいえいへき)」につ
いては、私の書いたホームページがあるので、ここに紹介しておく。私はそのホームペー
ジで次のように述べている。すなわち、
『 さあここらで日本との繋がりの関係で、ぜひとも説明しておきたいことがある。一つ
は沖縄の「石敢當(せっかんとう)」との繋がりであり、二つ目は「七福神」との繋がり
である。私はかって妖怪の勉強をした時、その関連で沖縄の「石敢當」のことにも触れ
た。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/akuryou3.html 妖怪はおおむね夜中に走り回るのだが、時によりスピードがつき過ぎてT字路で曲がりき
れないことがあるらしい。そのためにT字路の正面の家に妖怪が突入することがあるよう
で、これを弾き返すために「石敢当」が家の塀に張り付けてある。このような魔除けの風
習は、どうも中国伝来のものらしく、白雲観に「大影壁(だいえいへき)」という大規模
な魔除けがある。』
『 武当山にも、白雲観で説明した「大影壁(だいえいへき)」があるので、次にそれを
紹介しておきたい。』・・・と。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doukyoni.pdf
白雲観の「大影壁」 武当山の「大影壁」
第4節 平安京
1、桓武天皇
桓武天皇は、平安京を作った。その時の思想は道教思想であった。そのことをきっちり理
解するのは、桓武天皇という人がどのように道教とかかわっていたのか、それを理解しな
ければならない。そこで、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、
2003年10月、朝日新聞社)では桓武天皇についてどのように述べているか、その点
から話を始めたい。「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、200
3年10月、朝日新聞社)では、桓武天皇について次のように述べている。すなわち、
『 道教に通じた小野一族が高野に住んでいた。』
『 道教の水の神の河伯(かはく)の末裔といわれる百済氏を祖とした桓武天皇の母・高
野新笠は、この高野に何らかのゆかりがあったのであろうか。定説では、母が大枝真妹
(おおえのまいも)であるが、大枝朝臣は土師氏の一氏族・毛受腹(もずばら)の家系に
つながるので、京都市と亀岡市の市境近くは京都市西京区の大枝で生まれたとされるが、
「高野」の二字が、どうも気にかかる。というのは、京都は洛北の高野川の北岸に平安前
期の小野瓦窯跡があり、これがあるいは土師氏と関わりがあったのかも知れないと思われ
るからである。高野新笠の姓、高野朝臣(たかののあそみ)は、宝亀年間(770∼78
0)につけられたといわれている。(注: 高野朝臣という氏姓は、新笠でんが光仁天皇
の側妾となった際に下賜されたもの。)』
『 当時の社会制度から考えると、山部王(桓武天皇の若い頃のの名前)は母方の家族の
中で育ったと思われる。(中略)その間の山部王が学問を学び、思想上大きな影響を受け
たとすればそれは母方一族によるものであることは否定できない。(注:上述したよう
に、母方一族は道教の水の神の河伯(かはく)の末裔であるし、その一族が住んでいた高
野には 道教に通じた小野一族が高野に住んでいた。)』
『 桓武天皇の満腔(まんこう)の信頼を得て後宮を取り仕切った女性に尚侍百済王明信
(ないしのかみくだらのこしきみょうしん)という人物がいる。山部王だった若い頃の桓
武天皇が愛した女性とも言われるが、交野の百済王一族出身と見られる。河内交野郡は、
難波百済郡とともに百済王氏の本拠地で、百済氏は奈良時代後期には百済寺を建立するな
ど仏教信者であった。しかし同時に、彼らも道教的な思想背景をもっていたことは、交野
という地理的環境を考えると疑いない。例えば交野には天野川や星田、星の森といった地
名が残り、北斗七星を神格化した「妙見さん」を祀る社殿もある。星の信仰は本来道教的
なものである。天野川には神仙世界と人界を結ぶ仙女伝説のあったことも平安時代の曾禰
好忠の歌集「曾丹集」が記録している。』
「 もうひとつの例を挙げよう。交野山西側ふもとの交野市倉治(くらじ)に七夕姫を祀
る機物神社(はたものじんじゃ)がある。室町時代の創建と言われ、現在は南向きの社殿
があるが、どうやら古いものであるらしい。その証拠には、同神社のもともとのご神体は
交野山でなかったかと思われるからである。西側に入る一の鳥居の前に立つと交野山の磐
座がすっぽりと鳥居の中に入る。それが決して偶然でないことは、鳥居から現在の社殿に
向かう参道がその最短距離となる真東に向かわず、まずやや南東方面の交野山に向かって
いることでもわかる。山や岩などをご神体とするのは奈良桜井市の大神神社(おおみわじ
んじゃ)の例でも知られるように、古いタイプの神社と言われる。このことから同神社
は、渡来人の里だった頃に、すでに建てられていたと考えられるのではないか。七夕伝承
は。道教的世界観に関係するもので、七夕姫は道教の神・西王母(せいおうぼ)より派生
した神人と見られていることから、同神社の存在は当時の渡来人の精神生活を投影してい
るように思われる。いずれも傍証でしかないが、交野の渡来人たちが道教的文化・習俗を
持ち込んでいたと考えるのは決して無理な推論ではないようだ。』
『 桓武天皇の交野行幸については、従来は単に「遊び」と考えられてきた。確かに、
「続日本記」には「行幸交野放鷹遊猟」と書かれたくだりがあり、鷹狩りを楽しんだこと
は疑えない。しかし、目的は、本当に鷹狩りだけだったのだろうか。(中略)交野は桓武
天皇にとって天武・持統両天皇の山川祭祀の場であった「吉野」と同じ場所、すなわち、
神仙境、あるいは神仙境に最も近い所と考えられてたらしい。』
『 桓武天皇にとって天武・持統天皇の「吉野」に代るものが「交野」であったのであ
る。』・・・と。
以上の説明の中にあるように、桓武天皇が若い頃、たびたび「交野」に出向いて、百済王
一族と交流。道教が身に付いた。その「交野」は、京都と奈良の中間、木津川が淀川に合
流する大山崎の少し下流にある。大山崎は、豊臣秀吉が明智光秀と織田信長の弔い合戦を
戦った所で知られているが、淀川の右岸川近くに長岡京があるし、淀川左岸川近くに岩清
水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)がある。石清水八幡宮は、旧称は男山八幡宮。三重
の伊勢神宮・京都の賀茂神社とともに日本三社の一社。「交野」はそれらに近い。
https://maps.google.co.jp/maps?q=%E4%BA%A4%E9%87%8E&oe=utf-8&aq=t&rls=org.mozilla:ja-JPmac:official&hl=ja&client=firefox-a&um=1&ie=UTF-8&sa=N&tab=wl
「交野」が道教の聖地であったことは、上述した通りであり、特に説明はいらないだろ
う。関係のホームページを紹介しておこう。皆さんも、機会があれば是非「交野」にお出
かけ下さい。
http://murata35.chicappa.jp/shuhenkaido/katanogahara01/index.htm
2、四神相応の地・平安京
以上述べた通り、桓武天皇は、道教というか道家の思想を若い頃からしっかり習得してい
たようである。母親高野新笠が何らかの形で百済王一族と繋がっていて、百済王一族の聖
地交野に若い頃から度々遊びに行き、親しく師事する人から、大陸文化を教わった。その
中に、きっと道教なり道家の思想があったにちがいない。
まず桓武天皇が全力を上げて取り組んだのは、平安京の建設である。長岡京では何故思い
もよらぬ不幸な出来事が次々と起こったのか? どうもそれは,風水でしか説明ができな
いのではないか。風水的に見てもっとも良い地域はないか? 山背(やましろ)は風水的
に見てどうか? 陰陽師の出番である。山背の地こそ風水的に見て最高の地である。
経済的な背景をもとに、実質的に山背への再遷都を勧めたのは秦氏であった。
注: http://www.historyjp.com/article.asp?kiji=70:平安初期、驚異的な地理感と卓越した土木技術のノウハウを駆使して皇
室に仕え、桓武天皇の治世に貢献した和気清麻呂は、秦氏らの 協力を得て、平安京の遷都を実現させました。当時、朝
廷において強い影響力を持っていた有力者である秦氏は、平安京の造営にあたり、そのプロジェクトを推 進するために
平安京の大内裏を含む土地や多くの私財を献上した陰の立役者です。
政治的な決定は、和気清麻呂ならびに大納言藤原小黒麻呂(おぐろまろ)と左大弁紀古佐
美(きのこさみ)らが行なった。かくして、桓武天皇の強い意思が、思想的にも経済的に
も、さらには政治的にも実力者に支持されて、平安京建設という具体的なビッグプロジェ
クトとして実現されたのである。
それでは、以下において、桓武天皇の行なった「四神相応の平安京の都市建設」について
説明をしていきたい。四神相応の地とは、「東に流水あるを青龍といひ、南に沢畔あるを
朱雀といひ、西に大道あるを白虎といひ、北に高山あるを玄武といふ。」がそろう地であ
る。これについては、「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、20
03年10月、朝日新聞社)では、次のように述べている。すなわち、
『 和銅元年(708)に元明天皇が発した「遷都平城詔」(続日本紀)には、『朕、祇
(つつし)みて上玄に奉りて、宇内に君とし臨み、菲薄(ひはく)の徳を以て、紫宮の尊
きに処(お)れり。(中略)平城の地は、四禽図(しきんと)に叶ひ、三山鎮を作(な)
し、亀巫(きふ)並びに従ひぬ」とある。「上玄」は天、紫宮は天帝の居所をいい、いず
れも用語は道教的である。四禽とは、青龍(東)・白虎(西)・朱雀(南)・玄武(北)
を指すことは言うまでもない。新都造営にあたっての土地の卜占(ぼくせん)は陰陽寮の
陰陽師に課せられていたことは、「令義解(りょうのぎげ)に、その職掌として「掌(つ
かさど)らむこと、占巫して地相(み)ること」とあることからも明らかである。この陰
陽師の職掌をもって、道教そのものであるとはいえないとしても、それが道教の方術と共
通のものであることは確かである。おそらく、このような土地の占いの方は、推古紀10
年(602)10月の条に百済の僧・観勒(かんろく)によって暦の本・天文地理の書・
遁甲方術の書がもたらされたとあるように、飛鳥時代には知られていたのであろう。四神
については、道教教典「淮南子(えなんじ)」天文訓の五星(木星、火星、土星、金星、
水星)についての記述の中にある。また、「抱朴子(ほうぼくし)」の雑応篇には、老君
(老子)が神亀を腰掛けにし、どうじ20人を従え、左には青龍が12、右には白虎3
6、前に24の朱雀、後に72の玄武が控えているとある。いずれにしても「淮南子」や
「 抱朴子」においては、四神思想は道教の体系の中に組み入れられていたとみることが
できる。』
『 平安京の建設に当たっても四神相応の地を占ったことはいうまでもない。 大納言藤
原小黒麻呂(おぐろまろ)、左大弁紀古佐美(きのこさみ)らを遣わして、山背国葛野
(やましろのくにかどの)の土地を調べに行かせた時、東大寺沙門・ 賢璟(けんきょ
う)が従ったことが、鎌倉末期の仏教史書「元享釈書(げんこうしゃくしょ)」にしるさ
れている。 村井康彦氏によると、賢璟は皇太子時代の桓武天皇に、室生の山中で延寿法
をほどこしていて、それが機縁となって、賢璟は密教寺院・室生寺を開創するという。こ
の賢璟が延寿法をなし得ている点に、道教思想の影響が感じられる。』
『 四神相応の地とは、平安時代の陰陽家・安倍晴明撰の「簠簋内伝(ほきないでん)」
巻四に「東に流水あるを青龍といひ、南に沢畔あるを朱雀といひ、西に大道あるを白虎と
いひ、北に高山あるを玄武といふ。」がそろう地とある。(注:平安京はまさに理想的な
四神相応の地である。)』・・・と。
( http://www7a.biglobe.ne.jp/ k-bunka/koramu2013.html より)
( http://blogs.yahoo.co.jp/kirifurikogen/35809576.html より)
船岡山から平安京を見る
( http://kyotofusui.jp/tabinikki/12-funaokayama.html より)
船岡山は、現在、立派な公園になっているし、織田信長をお祀りしてある建勲神社もあっ
て、景色も楽しみながらゆっくり散策したいところだ。近くに、蓮台寺や大徳寺や今宮神
社もある。船岡山は、平安遷都の際、都市計画の起点になったところで、風水思想での
「竜頭」に当たる大変意味のあるところだ。また、頂上には古生層が出ていて、地質学的
にも大変興味のあるところでもある。
船岡山の頂上
( https://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=10000010 より)
さあそれでは、蓮台寺、大徳寺、今宮神社のご案内をするとしよう。まず私のホームペー
ジを見てもらいたい。これは、私が実家に帰ったとき、朝の散歩に出かけたときのものだ
が、まあこれは概論みたいなもので、詳しいホームページは、のちほど紹介する。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/tabi21.html
さて、このホームページでは、船岡山のことを「竜頭」と言っている。風水ではそういう
言葉はないのだが、私が勝手にそう言っている。ここではその理由を説明しておかねばな
るまい。私の風水論である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/omouhuu.pdf
建勲神社、蓮台寺、大徳寺、今宮神社の詳しいホームページは次をご覧戴きたい。
建勲神社 http://yukiko8bell.blog100.fc2.com/blog-entry-214.html
蓮台寺 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/12bou.htm
蓮台寺のしだれ桜 http://blogs.yahoo.co.jp/yamaibaaosainaikyo/60134532.html
大徳寺 http://odekake.huuryuu.com/daitokuji.html
今宮神社 http://www.ne.jp/asahi/zoo/affe/offmi/sinsengumi2/imamiya/imamiya.htm
3、神泉苑
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、神泉苑について次のように述べている。すなわち、
『 二条城南に、史跡、神泉苑という庭園がある。今は小さくなってしまったが、平安京
造営時には南北400m、東西200mという広大な庭園で、中島のある大池や高殿も
建っていたらしい。桓武天皇は延暦19年(800)に行幸したのをはじめ、なんと27
回もここを訪れている。そして次の平城天皇が13回、嵯峨天皇が40回、淳和天皇10
回と、平安初期の天皇たちが足を運んでいる。従来の学説によると、漢の武帝が上林苑に
昆明池・甘泉宮をつくった故事にならい、その名も甘泉宮にならって神泉苑としたとされ
る。しかし、この説はすこぶる疑問である。「淮南子」には、崑崙より流れる四水をもっ
て天帝の新泉と呼ぶとある。つまり、崑崙の東北より流れ出るのは河水、赤水は東南より
出、その東に弱水、また洋水は西北より流れるという。おそらく神仙のいわれは、ここに
あるのではなかろうか。』
『 神泉苑がつくられたところは、もともと京都盆地北部の複合扇状地の末端にある湧水
池を利用している。清い水の湧くところ、それは聖なるところであり、桓武天皇は長岡京
における交野、飛鳥京における吉野のような神仙世界に近づける場所として造ったのであ
る。』
『 「続日本後記」の天長十年(833)には、11月15日に仁明天皇の即位に際する
大嘗会が行われ、その翌日、豊楽院(ぶらくいん)で催された宴楽には悠紀(ゆき)と主
基(すき)の標が立てられ、前者には二羽の鳳凰をとまらせ、日輪と半月輪の形、天老と
麒麟の像がしつらえられ、後者には西王母が舜に世界の地図を捧げる像、西王母秘蔵の仙
桃を盗む童子の像および鳳凰、麒麟などの像が配されたということが記されてい
る。』・・・と。
以上のとおり、神泉苑が如何に道教思想と結びついていたかが判る。
さて、平安京は、風水思想によりその骨格が定められた。竜頭である船岡山と龍穴である
神泉苑の位置基本として、都の中心線・朱雀大路が計画された。朱雀門は朱雀大路の北端
にある。その奥は大極殿と大内裏である。朱雀門と神泉苑はほとんど隣接していると考え
て良かろう。それほど離れてはいない。その中間にわが朱雀高校がある。したがって、わ
が高校は朱雀門や神泉苑の跡地にあるようなものだ。そのようなことで、私は神泉苑につ
いて、特別の愛着を持っていて、今までいろんな場で神泉苑ならびに関連記事を紹介して
きた。それぞれだぶっている部分も多いが、それぞれ私の思い出が詰まっているので、こ
こに紹介させていただく。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sinsenen.htm
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sinsenen1.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/tabi08.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/sigenoi.htm
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/onryou.html
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/mizuhu.htm
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/kuukai.html
現在、神泉苑は御池通りに面しており、通りの北側に二条城がある。御池通りには地下鉄
東西線が通っているが、その工事に当たって発掘調査が行われ、いにしえの神泉苑の状況
が判ってきた。その様子は、地下鉄二条駅の通路に展示コーナがあって、簡単な説明がな
されている。すなわち、
『 神泉苑内には、大池、泉、小川、小山、森林などの自然を取り込んだ大規模な庭園が
造られており、敷地の北部には乾臨閣(けんりんかく)を主殿とし、右閣、左閣、西釣
台、東釣台、滝殿、後殿などを伴う宏壮な宮殿が営まれていました。』・・・と。
なお、京都市の公式ホームページ「京都市情報館」というのがあって、神泉苑について次
のような説明がなされている。すなわち、
『 平安京が造られた時,大内裏の南東に建設された苑池。当初の敷地は,北は二条大
路,南は三条大路,西は壬生大路,東は大宮大路に囲まれた東西二町 (約250メートル),
南北四町(約500メートル),総面積約13万平方メートル。かつて湖底だった地形の名残り
がそのまま苑池として造作された広大な ものでした。 中島のある大池を中心に,敷地
北東の泉から小川がそそぎ,乾臨閣(けんりんかく)を正殿にして,左右に楼閣や釣殿,滝
殿などが配置され,外周には柳が植えられていました。 延暦18(799)年7月19日,桓武
天皇(かんむてんのう)の神泉苑行幸を最初として,歴代天皇行幸の場となり,詩歌管弦,
は やぶさを放って水鳥をとらえる遊猟,魚釣りなどの遊びが行われました。また,元慶8
(884)年9月,舟三艘が神泉苑に贈られていることから,舟遊びも行 われていたようです。 』・・・と。
( http://www3.ocn.ne.jp/ tohara/shisenen.html より)
( http://www.shinsenen.org/kaisetu.html より)
( http://kakitutei.gozaru.jp/kyoto07jan/13-2-1.html より)
さあそれでは、あらためて現在の神泉苑を紹介します!
( http://kyoto.graphic.co.jp/blog/archives/tag/%E5%88%9D%E8%A9%A3 より)
( http://kyotonomori.web.fc2.com/natu/jin/index.html より)
( http://京都のitベンチャーで働く女の写真日記.com/kiji.html?entry=2010-06-14-01 より)
( http://blogs.yahoo.co.jp/slowlifeeye/55143253.html より)
「日本の道教遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新
聞社)では、 神泉苑がそこに造られた理由を清らかな水が湧いていたことに求めている
が、そんな単純なものではない。
平安京は、龍神の働きによって、永きに渡って繁栄が約束された都である。まあいうなれ
ば、龍の都である。したがって、風水思想によって、龍穴に皇居、大極殿が造られた。風
水思想によれば、もし龍穴の近くに龍の口があれば、この上ない理想的な都となる。神泉
苑は正に龍の口でもあったのである。
龍の口といえば、猿沢の池が、芥川竜之介の短編小説にもあるように、有名であるが、神
泉苑がむしろ歴史的には重要である。その歴史的な意義を話す前に、不思議な龍神の話を
紹介したい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/ryuuhusi.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/amagoisin.pdf
さて、神泉苑の龍の口が果たした歴史的な意義について、話をする時が来た。御霊信仰の
話である。
「いかみの怨霊」と「早良親王の怨霊」と「淳仁天皇の怨霊」を天皇にまつわる怨霊が怨
霊の代表例であるが,その他にも平安の頃に非業の死を遂げた皇族は多い。
人々は天変地異の勃発や疫病の流行などを怨霊のたたりによるものと考え,それら怨霊を
祀り(まつり)だした。御霊会(ごりょうえ)という神事の発生である。
資料に初めて見えるのは,863年に平安京の神泉苑で執行されたものである。かの有名
な京都の祇園祭もその本質はあくまでも御霊信仰にあり,本来の名称は梢園御霊会(ぎお
んごりょうえ)であって,八坂神社の社伝では869年に天下に悪疫が流行したので人々
は祭神の牛頭天王(ごずてんのう)の祟りとみてこれを恐れ,同年、全国の国数に応じた
66本の鉾を立てて祭りを行い,神輿(みこし)を神泉苑に入れて御霊会を営んだのが起
りであるという。
さて、かの有名な安倍晴明は,平安時代の偉大な陰陽師である。陰陽道そのものは奈良
時代に確立された宮中の専門組織であるが,庶民相手の民間陰陽道がなかった訳ではな
い。否,むしろ民間陰陽道は民衆を巻き込んで大きなブームを作っていったのである。民
間陰陽師が全国を回りながら,方角や暦の吉凶,占い,加持祈祷をして人々のハートを
キャッチしていったらしい。平安時代の妙見信仰や室町時代の七福神信仰や江戸時代の庚
申信仰などはその流れであるという。 こっくりさん、方位や家相判断、九星占い、姓名
判断などもその系譜らしいし、また大本教や金光教などの新興宗教も民間陰陽道の流れを
汲むものと言われている。 逆に,宮廷陰陽道は、空海によって密教が誕生すると、その
勢いに押されて次第に衰退していったようである。
密教の僧・道賢の力によって、菅原道真の怨霊をのりきった朝廷は、積極的に御霊会
(ごりょうえ)を主催していく。祇園御霊会である。いうまでもなくそれが今の祇園祭に
繋がっていく。今宮御霊会や船岡山御霊会などが誕生するたびに、密教はこれを抱き込み
統合することに成功する。都では、怨霊は人々の不満を 糾合する神となった。怨霊が守
護神に変身したのである。「ひっくり返し」が起っている。朝廷における暗殺や理不尽な
配流もなくなった。そして祭りの誕生だ。実にいい。何という知恵か。すばらしい。
このように、御霊信仰は素晴らしい日本人の発明だと思うが、 御霊会(ごりょうえ)と
いう神事が、日本で最初に行なわれたのが神泉苑だということは十分認識していて欲し
い。
なお、怨霊信仰については、私の電子書籍「怨霊と祈り」に詳しく書いたので、是非、読
んでもらいたい。
http://honto.jp/ebook/pd_25231956.html
4、大将軍八神社
大将軍八神社は、平安京の建設とともに造られた道教ゆかりの神社である。「日本の道教
遺跡を歩く」(福永光司、千田稔、高橋徹共著、2003年10月、朝日新聞社)では、
大将軍八神社について次のように述べている。すなわち、
『 上京区にある大将軍八神社も道教ゆかりの神社である。長安城にならって、かって平
安京の西北を守護するために祀られた大将軍信仰の名残である。大将軍は、太白星(金
星)の精で、方角の吉凶を司る神として崇拝された。太白星はその方位によって戦争の勝
敗、国家の吉凶、革命、兵乱をもたらすものと「史記」天官書にあり、軍事を司るものつ
まり、大将軍と呼ばれたらしい。その大将軍を、西北に祀るということは、つまり、唐代
においてはシルクロードにつながるその方角がもっとも外敵の侵入を受けやすかったから
である。』
『 子の大将軍信仰は後世にも及んだらしく、室町時代の百科辞書「拾芥抄(しゅうがい
しょう)」にはいくつかのものが記され、上、中、下の三つの大将軍堂があったことが知
られる。ここにいう上の大将軍堂が上京区の大将軍八神社のことであろう。また、山城名
勝志」には大将軍社は宮域の四方にあったとし、四社を記している。これらが平安京の成
立時から鎮座していたかは疑わしい。大将軍が方角の神として崇拝されたのは、わが国の
陰陽道による変容であろう。大将軍は、十二支の年によってその存在する方角を変えると
され、(中略)12年で一回りする。その方角を侵すと必ず災いを受けるといわれ、例え
ば、棟上げ、井戸掘り、墓づくりなどは避けるべきだとされた。』・・・と。
以上に述べられている通り、平安京の建設とともに造られた道教ゆかりの神社は大将軍八
神社のみである。では、早速、大将軍八神社にご案内するとしよう。まず、「ここ大将
軍八神社」をクリックして下さい。地図が示されるので、ひとしきりその場所をご覧戴
きたい。近くに、怨霊信仰にもとづいて建立された菅原道真を祭神とする「北野天満宮」
と桓武天皇の母親・高野新笠と深い繋がりのある「平野神社」があることを確認できるだ
ろう。
神泉苑を西に行けば、千本通りでJR山陰本線二条駅に突き当たる。千本通りは、言わずと
知れた朱雀大路(すざくおうじ)である。少し上がったところが朱雀門である。私の母
校・朱雀高校の少し西側である。
朱雀門(コンピュータグラフィックで再現した画像)
( http://kytfushimi.exblog.jp/11029344 より)
宇治の平等院に「葉二(はふたつ)」という名笛が残っている。元は朱雀門の鬼の笛で
あったところから、別名「朱雀門の鬼の笛」という。その笛を吹ける者がいなかったの
で、天皇の命により、浄蔵という笛の名手が、月のあかるい夜、朱雀門にきてその「葉
二」を吹いた。そうすると、朱雀門の上から、鬼が大きな声、でそれを褒め称えたとい
う。笛には摩訶不思議な力があるようだ。
皇居・大極殿は、「千本丸太町上がる西入る」の場所に造られた。そこが「龍穴」の位置
だったからである。今は遺跡があるだけで何の面影も残っていない。したがって、ここで
は、イーメージを紹介しておく。
大極殿のイメージ
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会の目玉として
平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があった千本丸太町に計画された
が、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月
15日には、平安遷都を行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあ
たる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
( http://everkyoto.web.fc2.com/report452.html より)
ここらで「京都の通り」の話をしておこう。古来、東西の幹線道路は、丸太町通から始ま
るとと考えて欲しい。南に向かって、丸太町通り、竹屋町通り、夷通り、二条通り、押小
路通り、御池通り、姉小路通り、三条通り、六角通り、凧薬師通り、錦小路通り、四条通
り、綾小路通り、仏光寺通り、高
り、
通り、松原通り、万寿寺通り、五条通り、雪駄屋町通
屋町通り、魚の棚通り、六条通り、七条通り、八条通り、九条通りと続く訳だ。京
都人でもこれらを覚えるのは大変なので、これらを覚える「歌」がある。丸太町通りがそ
ういう東西幹線道路の起点になっているのは、平安京の時代に大極殿の南に面していたか
らである。現在も、丸太町通りは明治までの皇居・京都御所の南側に面している。昔は、
大極殿の南に多くの人が住んでいたので、そういう人たちから見て、北は大極殿や京都御
所に向かうので、北に行くことを「上がる」と言う。南に行くことを「下がる」という。
これは京都独特の言い方である。私が大学を卒業するまで育った家は、「東堀川丸太町下
がる」である。こういう言い方をする。大極殿址の石碑の立っている所は、千本丸太町に
あるが、丸太町通りに面している訳でもなく、少し路地を入った所であるので、場所の説
明としては、千本丸太町としか言いようがない。小さな家の密集地帯なのである。した
がって、当時の面影はまったくないという訳だ。再開発をして、それなりの環境整備をす
れば良いと思うが、地域住民にそんな気はないらしい。
さて、大将軍八神社は、千本中立売の少し西に行ったところにある。一条通りである。一
条通りというのは、平安京の北の端にあたり、当時の東西幹線道路であった。現在では、
千本通りから東は中立売通り(なかだちゅうりどおり)と言うが、平安時代の一条通りと
ほぼ同じと考えてよい。その千本中立売から東に15分ほど歩いて行くと堀川通に出る
が、そこにはかの有名な「一条戻り橋」がある。「一条戻り橋」については、私の書いた
詳しいホームページがあるので、是非、読んで欲しい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/modoriba.pdf
第2章 明日香と阿知王
第1節 はじめに
これから長期的に見て、世界平和のため日本がやるべきもっとも基本的なことは、日米同
盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図ることである。
日本は、古来、中国の伝来文化によって自国の文化を作ってきた。もちろん、わが国に
は、中国から新しい文化が伝来するはるかに前から、世界に誇るべき優れた技術を持って
いたのであって、中国に迎合する必要はさらさらない。しかし、21世紀において、中国
がアメリカと並んで世界の強国になるのは間違いないし、だからこそ、中国という国の真
の姿を知った上で、言うべきはきっちり言いながら、中国の発展のために大いに力を貸す
べきである。私は、真の日中友好親善を望んでいる。そのような観点から、中国のことを
いろいろと書いてきている。
今までの一連の流れは次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nagare2601.html
平安京における中国伝来文化について書き、魔界戻橋まで書いたところで、京都の魔界に
ついて書きたくなって、魔界中の魔界、六道の辻を書いた。ついで、知られざる清水寺を
書き、その関連で知られざる四天王寺を書いた。さらに、知られざる建仁寺を書き、その
関連で明恵を書いた。知られざる建仁寺の中のえびすホアカリ考は、私の力作である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rokudouno.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kiyomizude.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakennin.pdf
それらを書き終えたところで、再び中国伝来文化として、医心方について書き始めた。医
心方は阿知王の末裔・丹波康頼の書いた奇跡の書である。これは古代の漢字で書かれてい
るので、現在の中国人でも現代語に訳すことが難しいとされている。医心方については、
日中広しといえども、何と言っても槇佐知子が第一人者である。すなわち、槇佐知子によ
り『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻。巻一・巻二・巻二十五は、2分冊刊)が
1993年から刊行開始された。これは快挙である。
槇佐知子の『全訳精解 医心方』は、東洋医学の源流を照らす画期的業績で、今では、
専門家の間でなくてはならない文献となっている。しかし、私たち一般人にはそれを読む
ことは金銭的にも内容的にも難しい。しかし、槇佐知子は、『食べものは医薬 「医心
方」にみる四千年の知恵』(同上)をはじめ、多くの関連書籍を刊行しているので、私た
ち一般人もそれらを読んで大変勉強になる。その内、私は、「王朝医学のこころ・・国宝
<医心方>に学んで」(2005年3月、四季社)」と「改訂版・病から古代を解く・・
大同類聚方探索」(2000年6月、新泉社)と「今昔物語と医術と呪術」(1993年
4月、築地書館)と「自然に医力あり」(1997年2月、筑摩書房)の四冊によって、
医心方の勉強をした。以下において、槇佐知子の四冊の著書と言えば、この四冊を指して
いる。このことを予めお断りしておく。
そのようなことで「医心方」(原書)は奇跡の書であり、これは専門家でも読むことがで
きないのであるが、槙佐知子のお陰で私たちもその一端に触れることができる。私は槙佐
知子の四冊の著書を読んで、強く思うのは「医心方」(原書)は奇跡の書であるというこ
とである。平安時代に日本人が、中国ではもうその頃使われていない漢字を使って「医心
方」を書くことができたのか、まったく驚きというか不思議ではないか。この「明日香と
阿知王」という小論文は、その点に焦点を当てて、阿知王、正式には 阿知使主(あちの
おみ)というが、その人の象徴する中国伝来文化の日本に与えた影響の大きさを書くとと
もに、阿知王の子孫が如何に朝廷に貢献したかを書いたものである。阿知王の本拠地は明
日香である。したがって、この小論文は、明日香を本拠地とする阿知王のことを書いたも
のであるので、題は「明日香と阿知王」とした。
明日香には高松塚古墳やキトラ古墳や石舞台などよく知られている遺跡があるが、それら
高貴な方を支えた実力者に阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」がい
るのであって、私たちの歴史観を育てるためには、阿知王ならびにその子孫である「東漢
(やまとあや)氏」のことを知らねばならない。私は、中国伝来文化の日本に与えた影響
というものを考えた時、明日香のもっとも誇るべき光り輝くものは、「東漢(やまとあ
や)氏」の祖・阿知王ではないかと考えている。その光り輝くものを見るのが「観光」で
ある。明日香の観光の目玉は、阿知王であり、その現実の観光資源としては阿知王をを祀
る「於美阿志神社(おもあしじんじゃ)」だと私は思う。
第2節 阿知王の子孫が日本を支えた! 「日本書紀」には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖・阿知使主(あちの
おみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来
帰り」と伝わる。
また、『続日本紀』によれば、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君
子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと伝わっている。阿知王
は、東漢(やまとあや)氏の祖であるが、『続日本紀』には、東漢氏の由来に関して、
「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優
れていたことが書かれている。
阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞ
れの時代に大きな働きをした。その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出回って
いる系図によると、坂上田村麻呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(たんば
の やすより)である。
阿知王の子孫は、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国と続くが、坂上大国
の子供に坂上犬飼と丹波康頼(たんば の やすより)がいるという系図があるのだが、坂
上犬飼の子供が坂上苅田麻呂であり、その子が坂上田村麻呂であるから、その系図によれ
ば丹波康頼(たんば の やすより)は坂上田村麻呂の「大叔父」になる訳だ。 坂上犬飼と
丹波康頼(たんば の やすより)が兄弟だという系図は間違いだという見解もあるので、
坂上田村麻呂の「大叔父」が丹波康頼(たんば の やすより)であるというのはともか
く、丹波康頼(たんば の やすより)が本来坂上氏であることは間違いない。 丹波康頼
(たんば の やすより)は、本来坂上氏であるが、永観2年(984年)に『医心方』全30巻
を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より「丹波宿禰」姓を賜り、以来医家として
続く丹波氏の祖となったのである。
阿知王は、「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80
冊とともに、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大
国などを経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。当初、その
「中国の医学書80冊」は明日香にあったに違いない。
丹波康頼(たんば の やすより)の子孫は、代々朝廷の典薬頭を世襲し侍医に任じられる
者を輩出、その嫡流は室町時代に堂上家となり錦小路家を称した。子孫のうち著名な者と
しては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務
めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。薬学者の丹波敬三がい
る。また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・義
隆親子や作曲家の丹波明が末裔にあたる。
丹波康頼(たんば の やすより) により朝廷に献上された医心方は、当初宮中に納められ
ていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家(和気氏の子孫)
に下賜された。また丹波家においても医心方は秘蔵されていたとされるが、これは、少な
くとも丹波氏の末裔である多紀家(半井(なからい)家と並ぶ江戸幕府の最高医官)にお
いて幕末までに多くが失われていたとされ、多紀元堅が復元し刷らせている。幕末に、江
戸幕府が多紀に校勘させた「医心方」の元本には、半井家に伝わっていたものが使用され
た。この半井本は、1982年同家より文化庁に買い上げがあり、1984年国宝となってい
る。現在は東京国立博物館が所蔵している。
私は、阿知王の子孫が日本に貢献した最大のものは、以上述べてきた医療に関わる文化面
にあると考えているが、もちろん政治面でも大きな役割を果たしたのであり、坂上田村麻
呂を見れば判るように、そのことは言うまでもないであろう。坂上田村麻呂については、
次を参照されたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai08s.pdf
坂上田村麻呂の場合は、軍事面で朝廷を支えたということだが、東漢(やまとあや)氏
は、その語学力を生かして外交面でも朝廷で中心的な役割を担ったのである。
阿知王が明日香に来て間もなくの頃、阿知王とともに明日香にやってきた子供の「都加使
主(つかのおみ)」は、早々と天皇のために重要な役割を担っていたようなので、そのこ
とをここで少し紹介しておきたい。
雄略天皇の崩御のあと、天皇の位の継承を巡って「星川皇子の乱(ほしかわのみこのら
ん)」というのが起こった。それは朝廷と地方の大豪族・吉備との衝突でもあったのだ
が、「都加使主(つかのおみ)」は 総大将・大伴室屋を支える副大将として活躍するので
ある。
雄略天皇は、吉備上道臣田狭(きびのかみつみちおみたさ)が自分の妻・稚媛(わかひ
め)の美しさを自慢するのを聞いて、田狭(たさ)を任那の国司と して派遣した後で、稚
媛(わかひめ)を奪って妃とした。 任那に赴いた田狭を待っていたのは、 妻・稚媛が雄
略天皇に略奪されたとの報だった。田狭は新羅と同盟して天皇を討伐する事を企図する
が、日本と不仲だった当時の新羅には入国する事も出来なかった。田狭の動きを知ってか
知らずか、天皇は吉備弟君と 吉備海部直赤尾(きびのあまのあたいあかお)、西漢才伎
歓因知利 (こうちのあやのてひとかんいんちり)の3人に、新羅討伐を命じる。吉備弟君
は、田狭の次子だった。新羅討伐の為に百済へと赴いた弟君に田狭は使いを送り、叛乱の
意思を告げる。これに賛意を示した弟君は、田狭と共に新羅・百済と同盟し、天皇討伐計
画を練り始める事になった。しかし、この事態を見逃せなかった弟君の 妻・樟媛(くす
ひめ)は、 夫を殺して計画の妨害を図った。この為、田狭の計画は頓挫してしまう。こう
した状況下で、稚媛(わかひめ)は、雄略天皇との間に星川皇子を儲けた。
稚媛(わかひめ)は雄略天皇が死ぬと、星川皇子に反乱を起こすよう説いた。星川皇子
は母の言葉に従い、反乱を起こし、大蔵を占領した。しかし大蔵に火を放たれ、星川皇子
と稚媛(わかひめ)のほか異父兄の兄君(田狭と稚媛の子)など従った者の多くが焼き殺さ
れた。吉備上道臣(きびのかみつみちおみ)は星川皇子を助けようと軍船40隻を率いて
大和に向かったが、殺されたことを聞いて途中で引き返した。
このように、「星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)」は、新羅や百済が絡んだ争乱な
ので、当然、新羅や百済に対する外交が重要で、 都加使主(つかのおみ)の根回しが
あって新羅や百済は反乱軍に味方をするような馬鹿なことはしなかったのであろう。私
は、 都加使主(つかのおみ)の功績は誠に大きったと考えている。
「都加使主(つかのおみ)」は 大伴室屋直属の部下として活躍するのであるが、その後
阿知王の子孫が東漢氏と呼ばれるようになってからは、阿知王の子孫は蘇我氏直属の部下
として活躍する。 飛鳥が政治の中心地となるのは蘇我氏の勃興による。蘇我氏が台頭し
たのは、雄略天皇の頃、蘇我満知(そがの まち)が大蔵の管理をすることになってから
である。蘇我氏は東漢氏を中心とする帰化人を管理することによって、経済官僚として登
場してきたのである。
この時代は、倭の五王の時代であり、朝鮮半島や中国との軍事的、経済的関係が深 い時
代であった。こういう時代に、国際状勢に通じ、文書を書く能力を持っていた帰化人の力
がますます必要になり、東漢氏を管理する蘇我氏の力がますます強くなっていったのであ
る。明日香における蘇我氏の遺跡は石舞台をはじめ数多いが、私は、蘇我氏を逆賊だと
思っているので、地域の光り輝く観光資源としては推奨できない。しかし、物語としては
けっこう面白いので、蘇我氏のことを書いた私のホームページを参考に供しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/soganokoto.pdf
第3節 医心方と民間療法
医心方(いしんぼう)とは平安時代の宮中医官である鍼博士丹波康頼撰による日本現存最
古の医学書である。 中国にも現存しない二百以上の文献から撰集したもので、文献学か
らも非常に貴重なものである。
全30巻、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技医
学思想・房中術などから構成される。27巻分は12世紀の平安時代に、1巻は鎌倉時代に書
写され、2巻と1冊は江戸時代の後補である。本文はすべて漢文で書かれており、唐代に存
在した膨大な医学書を引用してあり、現在では地上から失われた多くの佚書を、この医心
方から復元することができることから、文献学上非常に重要な書物とされる。漢方医学の
みならず、平安・鎌倉時代の送りカナ・ヲコト点がついているため、国語学史・書道史上
からも重要視されている。東アジア(特に漢字文化圏)における所謂「古典」というもの
の扱いは、新しい書物を為す場合の引用源として使用される。つまり、新しい書物は、古
い書群から本文を抜き出してきて、編み直したものであるわけである。
鍼灸医学の書は、明清に至るまで、その殆どが内経などの編み直しと言ってもよい。つま
り、由来のわからない文を為すことを忌むのが、東アジアにおける古典の扱いであった。
医心方は、この点で非常に優等生的な書と言える。
医心方は、撰者丹波康頼により984年(永観2年)朝廷に献上された。これは宮中に納め
られていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家に下賜され
た。また丹波家においても秘蔵されていたとされるが、これは少なくとも丹波家の末裔で
ある多紀家(半井家と並ぶ江戸幕府の最高医官)においては、幕末までに多くが失われて
いたとされ、多紀元堅が復元し刷らせている。幕末に、江戸幕府が多紀に校勘させた「医
心方」の元本には、半井家に伝わっていたものが使用された。この半井本は、1982年同
家より文化庁に買い上げがあり、1984年国宝となっている。現在は東京国立博物館が所
蔵している。
槇佐知子により『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻。巻一・巻二・巻二十五は、2
分冊刊)が1993年から刊行開始された。 槇佐知子の『全訳精解 医心方』は、東洋医学
の源流を照らす画期的業績で、今では、専門家の間でなくてはならない文献となってい
る。しかし、私たち一般人にはそれを読むことは金銭的にも内容的にも難しい。しかし、
槇 佐知子は、『食べものは医薬 「医心方」にみる四千年の知恵』(同上)をはじめ、
多くの関連書籍を刊行しているので、私たち一般人もそれらを読んで大変勉強になる。そ
の内、私は、「王朝医学のこころ・・国宝<医心方>に学んで」(2005年3月、四季
社)」と「改訂版・病から古代を解く・・大同類聚方探索」(2000年6月、新泉社)
と「今昔物語と医術と呪術」(1993年4月、築地書館)と「自然に医力あり」(19
97年2月、筑摩書房)の四冊によって、医心方の勉強をした。以下において、槇 佐知子
の四冊の著書と言えば、この四冊を指している。このことを予めお断りしておく。
それでは、 槇佐知子の『全訳精解 医心方』 の内容を以下に紹介しておこう。
巻一A・B 医学概論篇Ⅰ・Ⅱ
巻二A 鍼灸篇Ⅰ
紀元前から唐代までの鍼灸書から撰出した当巻は『医心方』30巻中唯一鍼博士康頼の自
序がある入魂の巻。孔穴名や壮数、禁鍼・禁灸のツボや为治の対象が現代とは微妙に異な
る。タイムカプセル『医心方』に、進化を続ける現代鍼灸をかさねた温故知新の書であ
る。
巻二B 鍼灸篇Ⅱ
来診者の徒歩・乗り物の種類に応じた待ち時間、感情の起伏や消化時間と鍼灸の是非、男
女・年齢・体質による鍼灸の工夫、灸の点火法の貴重なデータ等の実用例から鳩摩羅什が
医書を訳した証明まで。陰陽道、天文、易と鍼灸、九九の歴史に新たな資料となる記述が
あり各分野必見の書。
巻三 風病篇
本来、風病は病名ではなく病因を指し、中風は邪風による損傷、癩は邪風による皮膚の異
常だった。インドの原始仏教や道教、神道、密教、陰陽道とのかかわり、祭祀や習俗の原
点がみえ各分野の研究に新たな視座を与える。
巻四 美容篇
髪に関するさまざまな悩みや美肌への願望は昔も今も同じ。洗髪剤、養毛剤、毛生え薬、
白髪対策。シミ・ソバカス、イボ・ウオノメ、ナマズ肌、ワキガの治療法。現代人も驚く
美肌パック。魏や隋の後宮の秘方等々『長恨歌』や『源氏物語』を読む上でも参考にな
る。
巻五 耳鼻咽喉眼歯篇
蓄膿症・血膜炎・虫歯など七十一章に渡って耳鼻科・眼科・歯科に関わる当時の理論や治
療法を載せる
。
巻六 五臓六腑気脈骨皮篇
胸・心・脇・腹・腰・腎・肝・脾・肺・大腸・小腸・胃・胆・三焦・膀胱・筋・骨・髄・
肉・皮・脈・気病など、症状のある部位別に分類。現代に生きる湯薬、丸薬、薬酒のルー
ツや僧の治療法が目立つ。
巻七 性病・諸痔・寄生虫篇
男性の性器にかかわる諸病と痔疾、寄生虫症の理論と治療法を収める。痔には仏典からの
抄録もある。今昔物語に登場する寸白の正体と治療法など古典や衛
生史の研究資料としても貴重な巻である。
巻八 脚病篇
脚気・中風・リューマチから瘭疽・アカギレまで。現代の脚気と同定されていた古方の脚
気は、『枕草子』の「あしのけ」に該当する手足の病状の総称であった。唐代を代表する
医学者でもある鑑真の処方も含み、書誌学的にも重要な巻。
巻九 咳嗽篇
今日の医学では咳はカゼの徴候だが、古代中国医学では風病と咳は全く別なものと考えら
れていた。風病は巻三にあるが、巻九は咳嗽や喘息のほか、呼吸器、胃病、シャックリな
どが十八章におさめられている。本書には咳の薬として現代でも著名な処方が見られる。
巻十 積聚・疝瘕・水腫篇
種々の結石による激痛のほか、心筋梗塞、潰瘍、穿孔、浮腫、腹水、胃炎、肝炎、黄疸さ
らに癌を含む重篤な病症や条虫、住血吸虫、回虫など寄生虫症に関する理論と約二百の治
療法(温熨法・灸法・洗滌薬・塗布薬・内服薬・薬酒)が、千年のタイムカプセル、国宝
「医心方」から初めて蘇る。
巻十一 痢病篇
これまで暑気あたりや日射病とされてきた霍乱(カクラン)はどんな病気だったのか。疫病
も含む下痢を便の色や症状で分類し、薬方やツボを発見した古代人。現代の処方や灸の源
流や生活史の資料などもぎっしり。
巻十二 泌尿器科篇
口渇を伴う多尿と尿閉、錬金術の石薬の副作用による類似症状など、従来の消渇の定説を
覆えす理論のほか、泌尿器系の諸症、大小便の便秘と失禁、血尿、血便、下血、結石など
についての諸説とユニークな治療法を収める。
巻十三 虚労篇
巻十四 蘇生・傷寒篇
古典に登場する蘇生法や薬法には、現代の習俗や年中行事にかかわるものもある。王朝人
を脅かしたもののけは、中国からの外来思想であった。傷寒では著名な張仲景の説は載せ
ず、他の多くの文献の学説や治療法を紹介、従来の傷寒=チフス説が覆える。
巻十五 癰疽篇 悪性腫瘍・壊疽
古代の癰疽(悪性腫瘍・壊疽)には、現代病といわれる糖尿病、癌、結核、性病など重篤な
病気が含まれている可能性がある。その原因がストレスや食生活のほか錬金術による薬
(水銀・砒素)の服用にあると指摘し、状況に応じた治療薬、方法を呈示。現代医学の基本
をここに見る。
巻十六 腫瘤篇
生命にかかわる根の深い疔や、口中のできもの。結核性の瘰癧がつぶれて瘻管
となったものや、潰瘍、瘤、さまざまなできもの、腫れもの等々の治療法を四十一文献か
ら転載している。
巻十七 皮膚病篇
現代医療でも治療困難な皮膚病と、古代人は如何に戦ってきたか。0.3ミリのヒゼンダニ
の存在を裸眼で確認したり、洗浴、瀉血、排膿、切断、灸、罨法、塗布薬、内服薬など工
夫をこらした。現代医療に通じるものや『ヨブ記』の灰治療に共通するもの、梅毒の定説
を覆す記述等々を満載。
巻十八 外傷篇
湯火によるヤケド、打ち身、くじき、骨折、毒虫・毒蛇や獣による咬傷、狂犬に咬まれた
ときなど、古代の人々は、どのような知恵で手当てをしてきたのだろうか。
巻十九 服石篇Ⅰ
古代中国の道教の人々は金石玉丹で製薬した。いわゆる錬金術で草薬より薬害が劇しく、
誤れば死を招く。そのため超人的な修行をした者にだけ製法が伝えられた。本書には服石
の禁忌と薬害の治療法や唐招提寺の開祖鑑真の秘方がある。
巻二十 服石篇Ⅱ 薬害治療
紀元前から不老長寿薬として、極秘に製法が伝授された錬丹術(錬金術)。その薬は賢者の
石とか仙薬と呼ばれたが、百種以上の薬害があった。現代にも通じるその治療法を初めて
明らかに。
巻二十一 婦人諸病篇
乳房や子宮のポリープ、人には言いづらい多様な症状についての治療法が網羅された『婦
人諸病篇』。国文学に精通する筆者が「医心方全訳精解」に30年を費し、遂に著わす本書
は、王朝文学や人間学、社会史、女性史、宗教など各分野に新しい視座を与える。
巻二十二 胎教出産篇
妊娠月別針灸禁止のツボ及び諸注意、胎教、ツワリの治療法、妊婦と胎児のための養生
法、流産防止と妊婦の諸病の治療法ほか、胎児と母体保護のための三十七章より成る。国
宝半井本の中で流転の運命をたどった貴重な巻。
巻二十三 産科治療・儀礼篇
既刊の巻二十二に続く産科篇。穢れの思想の源流を始め、出産時・産前産後の禁忌・呪
法・儀礼のほか、難産・逆児・死産や産後の諸症に関する理論と治療法を五十章にわたっ
て収める。仏典からの抄録、奇想天外な薬剤等、考古学・歴史・古典・民俗学に役立つ。
巻二十四 占相篇
不妊の悩みの解決法、男女の生み分け方、生年月日、時刻、星宿、七神、人相、
体形等による占い、父母兄弟姉妹との関係、わざわいを避けるための命名法、孔子や伍子
胥の人相もあり、歴史や古典が面白くなる必見の書。
巻二十五A 小児篇Ⅰ
儀礼、命名、育児、治療など八十八章。出生児の大半が六歳前に死亡した古代の命名や儀
礼・呪術にこめた切実な祈り。知恵熱、疳疾、先天的疾病、皮膚病ほか小児特有の治療法
を網羅した「小児篇」は二分冊で刊行。現代人が学ぶべき育児法も数多あり、各分野の研
究者必携の書。
巻二十五B 小児篇Ⅱ
小児特有の夜泣きやひきつけ、種々の疫病、皮膚病や腫瘍、運動機能障害、言語障害、過
食症、けがや誤飲の応急処置等々にみる古代人の驚くべき知恵と工夫。現代中国で癌治療
に生かされている薬の記述もある。『源氏物語』の解釈や民俗学、動植物、土石鉱物の研
究にも役立つ貴重な書。
巻二十六 仙道篇
何日も飲まず食わずで耐える術や丸薬、虎・狼・鬼を避ける術から、火遁水遁の術まで、
これまで架空の人物とされてきた仙人たちのさまざまな処方―忍法虎の巻とは、この巻の
ことを言ったのでは、と思われるおもしろさ。
巻二七 養生篇
健康や養生に対する老荘哲学の理念、精神衛生、未病対策などが盛り込まれ、さまざまな
分野の研究者に役立つ。
健康に適した日常の坐臥・歩行・姿勢、衣食住や罪に対する意識など、興味深い知識が満
載されている。
インドのバラモンの秘方や吐故納新術、ヨーガや太極拳、五禽戯のルーツ、庚甲信仰、ひ
なまつりの起源にもふれる。
巻二十八 房内篇
かつては性愛の秘本として医心方の代名詞にされ、"発禁の書"となった「房内篇」。国文
学に精通する筆者が「医心方全訳精解」に30年を費し、遂に著わす本書は、王朝文学や人
間学、社会史、女性史、宗教など各分野に新しい視座を与える。
巻二十九 中毒篇
食事・酒・水に関する諸注意、飲食・飲酒による諸症の治療法、断酒法、食べ合わせと食
中毒、誤って異物を呑みこんだ場合の救助法など、古代ならではのユニークなものから現
代に通じるものまで五十一章に収める。
巻三十 食養篇
天地陰陽の交わりによって五行の気を享けて生じた穀物24種、果物41種、肉類45種、野
菜52種を収める。その効能だけでなく、なまだと害のあるもの、多食してはいけないもの
等の指摘もある。食文化を知る上で必見の巻。
丹波康頼の医心方は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法
にも大きな影響を与えた。それは、槙佐知子の著書「今昔物語と医術と呪術」(1993
年4月、築地書館)を見ても明らかだ。その本では次のように述べられている。すなわ
ち、
『 これまで不明とされてきた今昔物語の編著者は、医心方と何らかのかかわり合いの
あった人物ではないだろうか。例えば、医心方を
した丹波康頼の一族で、当時編集に参
与した者ではないか。あるいはまた、写本した人物とか・・・。そして「彼」は老子や張
湛の言葉に共鳴し、さめた眼で実社会を眺めつつ、筆をとったものと思われる。』・・・
と。
今昔物語は、世間で広く読まれた書物であるので、そこに書かれた医術や呪術は広く世間
に浸透していって、いわゆる民間療法を作り上げていったのである。 丹波康頼の医心方
は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法にも大きな影響を
与えたのである。
高松塚古墳やキトラ古墳は、明日香が大和朝廷の政治的重要な地域であったことを示して
いるが、それが庶民の生活文化に影響を与えた訳ではない。一方、阿知王のもたらした中
国の80冊の医学書は、丹波康頼をはじめとして多くの人びとの手によって民間療法とい
う形で庶民の生活文化になった。したがって、阿知王は、日本の民間医療の大恩人という
ことができる。漢方薬、神農祭、庚申待ちなども、阿知王のもたらした中国の80冊の医
学書が基になって、日本文化になったものであり、阿知王は、大和朝廷の大恩人ばかりで
なく、日本文化の大恩人でもあるのである。
第4節 桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)
1、概要
桧隈寺(ひのくまでら)と 於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、 明日香村の檜前(ひ
のくま)というところにある。
檜前の地図は次をクリックしてください。
http://www.its-mo.com/map/top_z/124032651_488900626_14/
桧隈寺(ひのくまでら)と於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、高松塚古墳とキトラ
古墳のほぼ中間、山間の狭い地域にある。阿知王が、渡来してきてそこに住みつき開拓し
た地域である。阿知王の一族が営んだ寺として桧隈寺(ひのくまでら)があるが、 於美
阿志神社(おもあしじんじゃ) はその鎮守の社(やしろ)であったらしい。祭神は阿知
王御夫妻である。
於美阿志神社(おもあしじんじゃ) については、次のホームページが判りよいので、まず
それを紹介しておきます。
http://www.genbu.net/data/yamato/omiasi_title.htm
また桧隈寺については、次のページをご覧ください。
http://www.bell.jp/pancho/asuka-sansaku/hinokuma.htm
現在の於美阿志(おみあし)神社は、1907年(明治40)、寺跡に移されたものであ
る。その時の事情なり状況について、私は知らない。然るべき調査が必要だ。私が想像す
るに、ほとんど無きに等しい状態ではなかったか。肝心の桧隈(ひのくま)寺自体がほと
んど無きに等しい状態であったようだ。
本居宣長の『菅笠日記』は、彼が明和9年(1772年)に飛鳥・吉野を訪ねた時の記録
であるが、宣長が訪れた当時の檜隈寺は十三重石塔(現在は重要文化財になっている石塔)
と仮の庵が残るのみで、境内には古瓦が散乱していたという。
『日本書紀』の朱鳥元年(686年)8月条に「檜隈寺、軽寺、大窪寺に各百戸を封ず。
三十年を限る」と見えるのが文献上の初出である。『書紀』のこの記事から、当時檜隈寺
が存在したことがわかるが、この寺名が正史にみえるのはこの時のみである。
鎌倉時代の『清水寺縁起』には大和国高市郡檜前郷に「道興寺」という寺のあったことが
みえ、中世には道興寺と呼ばれていたことがわかる。1908年に大阪府中河内郡で出土
した永正10年(1513年)銘の梵鐘には「大和国高市郡檜前」「奉道興寺鐘」という
文言があり、当時、道興寺が存続していたことがわかる。
現在の於美阿志(おみあし)神社は1907年(明治40) に移設されたものであるとして
も、明日香に阿知王を祭神とする於美阿志(おみあし)神社が現に存在している。その歴
史的意義を考えて、明日香のこれからの観光に役立てるべきである。観光とは光り輝くも
のを観るものである。於美阿志(おみあし)神社は本来光り輝くものであるが、今は埃に
まみれてしまっている。これではいけない。大いに磨きをかけて輝かせようではないか。
阿知王を祀る神社は全国にいくつかあるので、これからの課題として、於美阿志(おみあ
し)神社が中心となりそれら神社と連携して、合同のお祭りを構想すべきである。中国か
ら「道教」の僧侶に参加してもらうのも大変意義のあることである。
2、阿志神社(あしじんじゃ)
阿知王を祀る神社が全国にいくつかある中で、渥美半島の伝承は大変面白いし歴史的な意
味もあるので、ここにその伝承に触れておきたい。
渥美半島の真ん中あたりに「阿志神社」という小さな神社がある。これからこの神社にま
つわる伝承を紹介するのだが、まずは、渥美半島というところについての歴史認識をお話
ししておきたい。
渥美半島というところは日本の中でもっとも古くから栄えたところで、最初の日本人はこ
の渥美半島に住みついた。おおよそ5万年前のことである。その人たちのあるグループ
は、数百年の年月を経て、豊橋から設楽、飯田、伊奈と北上し、諏訪湖に至る。そして
八ヶ岳周辺に住みついてのち、全国各地に拡散していく。黒潮に乗って船で東北方面に向
かったグループもあったようだが、旧石器人の全国拡散は八ヶ岳に住みついた人たちが中
心であったようだ。旧石器時代から縄文時代のわが国の中心は八ヶ岳であったようだ。渥
美半島の人たちと諏訪湖の周辺に住む人たちの間に交流があったようで、それを証明する
ものとして、渥美半島の付け根の高師というところと諏訪大社のあたりから出土する「高
師小僧」と呼ばれいている縄文製鉄がある。「高師小僧」の出土した所は、現在、三河黒
松で有名な「高師緑地」として市民に親しまれている。
渥美半島には、縄文∼弥生時代に、吉胡・伊川津・保美の三大貝塚をはじめ、数多くの遺
跡が存在するし、古墳∼奈良時代の遺跡として城宝寺古墳、向山古墳群、山崎遺跡、藤原
古墳群などの遺跡が存在する。奈良時代になってからも、旧石器時代から縄文時代の海上
交通を引き継ぐ形で、太平洋側の豪族は舟運に長けていたようである。「白村江の戦い」
の総司令官は、現在の静岡県静岡市清水の豪族「庵原氏」であった。
奈良時代の東海道というのは、陸路もあったけれどやはり中心は海上交通であったよう
だ。そして陸路といえども海上交通を中心に道の整備を行われたので、現在の東海道とは
まったく違う道路網が形成されていたのである。その一つの例が渥美半島であって、渥美
半島に東海道が通っていた。
『続日本紀』延暦四年(785)六月の条には、「東漢氏の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾
孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともに
やってきた」と、阿知王の末裔で下総守の坂上苅田麻呂が述べたと書かれているが、坂上
苅田麻呂は下総守を拝命していたのである。そして、ご承知のように、上総国と下総国の
場合、元々東海道は海つ道(海路)であり、房総半島の南部の上総国の方が畿内により近
い位置関係にあったのがその由来とされたのであって、奈良時代の交通は海上交通が中心
であったのである。下総国は、東海道に属する一国であり、
飾、千葉、印旛、匝瑳、相
馬、猿島、結城、岡田、海上、香取、埴生の11郡であり、現在の東京都
飾区や千葉県
佐原市を含んだ広大な国であったのである。
このようなことを考えていくと、下総守の坂上苅田麻呂は海上交通を重視していた可能性
が高く、その要衝の地として渥美半島に一族を置いていた可能性がある。そのときに「阿
志神社」が創建されたのではなかろうか、私はそんな風に想像している。
さて、「阿志神社」の最古の記録は「文徳実録」 に「仁寿元年(八五一)冬十月従五位
下 を授く」とある。「延喜式神名帳」にも 「渥美郡一座阿志神社」とあり、郡内唯 一の
式内社となっている。阿志神社の源は、大和朝廷に文化・技術をもたらした 渡来人の阿
智使主を祖神とする奈良県明 日香村の「於美阿志神社」であることは言うまでもない。
「阿知神社」は、戦国時代から江戸時代初期にかけては 荒廃していたが、寛文四年(一
六六四) 田原藩主となった「三宅能登守康勝公」によ り再興されたと伝わっている。夢
枕に立った神様からお 告げがあったとされており、領内三十三 ヶ村に命じて社殿を造営
し、燈籠二基を 奉納した。代々の藩主も厚く崇敬し、参 勤交代の際には参拝して道中の
無事を祈 ったと伝えられており、大草村から伊良 湖村にいたる表浜一帯が氏子であっ
た。
ちょっと話が長くなって恐縮であるが、三宅能登守康勝が田原城の城主になったいきさつ
を説明しておきたい。
田原は渥美半島の中央部にあり、明応4年(1495)戸田弾正左衛門宗光が田原城築いた。
戸田氏は藤原氏の末裔といわれているが、碧海郡上野庄の庄官だった宗光は西三河から渥
美半島に移り、田原に居住した一色七郎の遺領をうけて田原城を築き、これを本拠として
渥美半島を統一したのである。
さらに東方に進出しようとした宗光は、田原城を子の憲光に譲り、二連木城を築いて移
り、東三河の宝飯、八名2郡勢力を伸ばした。その後、松平清康や今川氏の攻撃をうけた
が、よく防ぎ、天文6年(1537)4代の宗光の代には吉田城を攻略している。子の尭元の天
文15年、抬頭してきた今川義元に吉田城は奪われた。天文16年、今川義元のもとに人
質として送られる松平広忠の嫡子竹千代(後の家康)を塩見坂に奪って、尾張の信長に
送った。竹千代を奪われた義元は大いに怒り、同年9月、田原城を攻略、ひとまず戸田氏
の名は消える。その後、義元部将、岡部石見守輝忠、朝比奈肥後守元智が城代として入
城。永禄3年(1560)桶狭間に義元が敗死すると、家康は本多豊後守広孝に田原城を攻撃さ
せ、広孝を城主とした。広孝の子、康重の天正18年(1590)徳川氏の関東移封と共に本多
氏も上野臼井に移り、東三河の大部分は吉田城主池田輝政の領有となった。慶長5年
(1600)池田氏は播州に移封、翌6年、戸田尊光が父祖伝来の地に再入封、その後、55年
目に御家再興がかなった。尊光、忠次、忠能、忠昌の三代60年続いて寛文4年(1664)肥
後天草富岡城に移り、代わって三宅康勝が入城したのである。
三宅一族は、すべて名前に「康」の字がついており、その名から徳川家康の重鎮であった
ことが伺えるが、実際に徳川幕府の重鎮であったのである。松平家に松平元康(後の徳川
家康)が現れると、三宅正貞は永禄9年(1558年)に松平元康の家臣となった。その
子が三宅康貞であり、三宅康勝はそのひ孫である。その後、江戸時代には挙母藩主を務め
た後、田原藩主として幕末まで存続した。この田原城主・三宅氏の江戸藩邸付近の坂が東
京の最高裁判所付近の三宅坂である。
田原城は、田原市の市立博物館のあるところにあった。
堀や石垣など当時の面影も残っているので、皆さんも機会があれば、「阿志神社」と田原
城を目玉とした渥美半島の観光に出かけられると良いでしょう。
3、なぜ檜前寺と於美阿志神社が荒廃したのか?
檜前寺並びに於美阿志神社が無きに等しい状態になってしまったのか? それには深い理
由がある。それをこれから説明したいと思う。
梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で次のようにいって
いる。すなわち、
『 天武6年(677)、天武帝が東漢直らに次のような詔(みことのり)を出したの
は、はなはだ注目されることである。「なんじらがやから、もとより七つのあやしきこと
を犯せり。ここを以て、小墾田(おはりだ)の御代(推古朝)より、近江のみかど(天智
朝)に至るまでに、常になんじらは謀るを以てわざとする。今わが世にあたりて、なんじ
らのあしきかたちをせめて、おかしのままに罪すべし。今よりのち、もし犯すものあら
ば、必ず赦さざるかぎりにいれむ。」 この詔にあるように、漢直は、推古朝から天智朝
まで、たえず政治の裏方の主役をつとめたのである。陰謀が、彼らの伝世の業であったの
である。「七つのあやしきこと」というものが何であるか分からないが、その中に再三に
わたる裏切りがあったことはまちがいがない。政治の世界には、いつも暗いものがある。
そしてその政治権力が安定せず、時代が変革を必要としていればいるだけ、陰謀と裏切り
がを必要とする。天武帝は、この変革の時代を終わらせる任務を持って、政治の舞台に登
場したのである。そういう天武帝に、この政治の裏面で絶大な力を振るっていた東漢氏の
存在は、まことに不気味なものに映っていたに違いない。実際、蘇我氏も、藤原氏も、そ
の権力の多くを東漢氏の陰謀と裏切りに負っていた。崇峻を殺し、推古朝を実現したのは
東漢の力である。そして、豊浦や飛鳥への都の遷移は、東漢氏の力を借りずには不可能で
あったろう。そして、この蘇我氏の滅亡も、彼の一族の裏切りのせいであった。以後の
数々の策謀、おそらく日本書紀の本文に記せられないさまざまな歴史の秘密に、この東漢
氏はかかわっているにちがいない。そして壬申の乱の勝利にも、この東漢氏一族の寝返り
が大きく貢献したのである。ここで、東漢直らに異例の詔が出されたのは、このような東
漢氏のもつ不気味な力を恐れたためであろうか。ここで天皇は、東漢氏の罪を指摘しなが
ら、それを罰してはいない。ただ、今後はもう許さないと警告しているだけである。私
は、この頃は、前に比べれば、東漢氏の役割は少なくなっていたと思う。それは、百済と
高句麗の滅亡によって、多くの遺民が日本に亡命したためと、中国との直接な文化的交流
によって海外の書物を読み、国際的状況に通じる人間が増えたためである。もはや、書物
や技術を東漢氏が独占するわけにはゆかない。』・・・と。
阿知王の末裔東漢氏は、蘇我氏に仕えてその繁栄を誇ったが、中大兄皇子と中臣鎌足が蘇
我入鹿を暗殺を見て、利あらずと判断、結局は蘇我入鹿を裏切った。結果として中臣鎌足
側に貢献したことになるが、天武天皇は東漢氏一族を信用ならぬ一族と認識していたので
ある。それが上の詔(みことのり)であるが、このような詔が出るということは異例のこ
とであり、東漢氏一族はもちろんのこと、藤原一族の心にも深く浸み込んだであろう。
この天武天皇の詔(みことのり)以降、東漢氏一族は隠忍自重の日々を過ごしたに違いな
い。やがて、坂上氏は藤原氏に重用されることになるが、それは奈良時代末期から平安時
代初期にかけてのことであって、もはや飛鳥時代のことは遠い昔のこととなっていた。仮
に阿知王並びに東漢氏一族の栄光が坂上氏の記憶に残っていたとしても、飛鳥の地におい
てそれを表だてることはまったく意味のないことであった。せいぜい奈良時代末期から平
安時代初期にかけて坂上氏一族の支配する地において、祖先神を祀ることが関の山であっ
たのである。
以上述べてきたような事情によって、檜前寺並びに於美阿志神社は、荒れ果ててしまった
のである。
しかし、今となっては、中国伝来文化に国民こぞって感謝の気持ちを表す意味からも、ま
た闇に隠れてしまった歴史の真実に光を当てるという意味からも、於美阿志神社の祭りを
大いに盛んにしたいものだ。
第5節 甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)
1、甘樫坐神社は「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」
国営飛鳥歴史公園はよくできた立派な公園であるけれど、歴史上もっとも画期的な出来事
にスポットライトが当たっていないので、私としては大いに不満である。国営飛鳥歴史公
園は、祝戸地区、石舞台地区、甘樫丘地区、高松塚周辺地区、キトラ古墳周辺地区の5地
区からなっているが、肝心の甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)が 甘樫丘地区に入って
いない。すぐ近くにありながら公園区域から外れているのだ。甘樫坐神社(あまかします
じんじゃ)は「明日香村大字豊浦字寺内626」にある。
日本書紀と古事記は画期的な本であるが、それらはどのような目的のために書かれたの
か? それを語る場所としては、日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじん
じゃ)という場所しかない。場所の哲学というものがあって、それによると、歴史的な場
所というものは、表面的なものだけでなく、歴史の闇に隠れた部分をも暴き出して、その
意味するところを明らかにしなければならない。歴史の闇に隠れた部分をも暴き出したも
のに梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)がある。これからそれに基
づいて、日本書紀と古事記がどのような目的のために書かれたのかを説明したい。それを
説明し得るのは日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)という場所し
かないのである。甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)は、まさに「場所の論理」でいう
ところの「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」なのである。
2、中臣神道
梅原猛が言うように、 記紀神話は、藤原不比等の「祓いの神道」によって作成された神
話である。そして、この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀神話に よっ
て、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるように
なったのである。実は、藤原不比等の深慮遠謀というテーマで私は天照大神のことを書い
たが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の神聖化を図ったというところに
あったのだが、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわち中臣神道の創造にあったという
ことは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集
英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼から鱗が落ちる思いである。梅原猛
の慧眼に今更ながら感服している次第である。
「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。
この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに
分割した。即ち、政治を司る 不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神
を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神
を
司ることは一 族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力
的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代
だった。
そのような状況の中で、危機感を持ったのが秦氏であり、秦氏の場合は見事に中臣神道に
対抗して「八幡大菩
」を誕生させた。
しかし、そのような中で没落していった忌部氏という名門氏族がいる。忌部氏は古くから
神を祀る氏として天皇に仕えてきたが、藤原の政治力を背景にした中臣神道に圧倒され て
宮廷の神事から遠のいてしまった。伊勢神宮も、伊勢の地元神としての元来の姿を奪わ
れ、中臣支配の許、皇室の祖先神たるべく神道理論を構築していくので ある。
中臣氏は諸国の神社祭祀を画一化していく。地方独自の祭祀形式は現在にまで一部は残る
が、神殿内の祭壇は中央のそれと特に変わる ことはない。中央に鏡、両側に
を立て、
酒、水、塩などを奉る。神社に参ると神主が紙垂を沢山束ねた大麻を振って私たちの不浄
を祓い浄めてくれる。祓い浄め、実はこれが中臣神道の真髄なのである。鏡は天照の御魂
である。天照は地上に降る孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に天の岩戸の前に掲げられた
鏡を渡して、これを天照と思って大事に祀れ、と言った。このときから鏡 は天照の象徴と
なった。日本の神々は二種類に分けられる。高天原に発する天津神と土着の国津神であ
る。全国の神社は圧倒的に国津神の社が多い。しかしそれ らの社にも一様に正面に鏡が
据えられている。私たちは大国主や大国魂といった国津神の祀られている神社に参って、
実は正面の鏡を通して天照を礼拝している のである。神主が大麻を振る姿は誰もが思い浮
かべる神官の印象であろう。大麻で以て神主は参拝者の穢れを祓っているのである。この
祓え浄めを神道の中心理論として 構築したのが中臣氏であった。
以上の通り、藤原不比等の深慮遠謀によって創られた天照大神と記紀神話によって、中臣
神道は日本神道の中心祭祀となったのである。
3、東漢氏の遺産・「祓いの神道」
梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」
は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言ってい
る。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点
のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、
『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢
氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたこと
によってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。
(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫
は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこ
と、医心方のことを忘れてはならない。)』
『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から
実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふ
つう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の
中心的行事ではなかった。』
『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つに
なったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じる
のである。』
『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓
いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝
詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の
祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹
請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五
帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、
南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』
『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひと
がた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を
祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。し
かし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百
官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがな
され、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪
を、この六月の
(つごもり)、あるいは十二月の
(つごもり)を期して、水に流して
やる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事
であると思う。』
『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、
「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと
思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろ
う。』・・・と。
4、中臣神道のプロトタイプ
梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」
は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言ってお
り、上でその事を述べた。しかし、実は、その原型となる神事を朝廷で行ったのは允恭
(いんぎょう)天皇であり、梅原猛は、次のように述べている。すなわち、
『 甘樫丘は允恭帝の時に盟神探湯(くがたち)が行われたところであり、それは氏姓
(うじかばね)の混乱を正すための、裁判の丘である。天武帝はどこかでこの允恭帝の意
志を受け継いでいる。天武帝は氏姓の混乱を正すために歴史の編纂を志され、遂に新しく
「八色の姓」を定めるとともに、律令の基礎をつくり、また、新しい祓いの神道を始めら
れた。』
『 この天武帝の精神を受け継ぎ、律令を完成したのが、藤原不比等といってよかろう
が、不比等は天武帝から、国史の編纂、律令の制定、祓いの神道の定例化など多くのもの
を受け継ぎ、それを完成せしめたのである。甘樫丘で允恭帝が行った盟神探湯(くがた
ち)の神事の精神こそ、不比等の政治の精神であったのである。その意味で飛鳥は、ここ
においても不比等の中に生きているのである。』・・・と。
まずは、盟神探湯(くがたち)についての音声による簡単な説明があるので、それを聞い
てください。
盟神探湯(くがたち)については、日本書紀の允恭天皇四年九月条に、このような記事が
ある。
『 諸氏姓の人を斎戒沐浴させ盟神探湯(くがたち)させられた。味橿丘(うまかしのを
か)の辞禍戸岬(ことまがとさき)に探湯瓮(くかべ)を据え、諸人を引いていき、「実
を言うならばなんともなく、偽る者は必ず火傷する」と言った。諸人は木綿襷(ゆふたす
き)を着けて
に赴き探湯した。実を言う者はなんともなく、実を言わない者はみな火傷
したので、ことさら偽る者は愕然として退き、
に進まなかった。これより後、氏姓は定
まり、偽る人はいなくなった。』・・・と。
当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばらばらに出自を飾って氏姓の乱
れが激しかった。そこで允恭(いんぎょう)天皇はこれを正そうとされ、味橿丘、つまり
現在の甘樫丘の先端部分で盟神探湯(くがたち)を行わせたのである。
なお、 盟神探湯については、 前之園亮一の論説「宋書南斉書・名代・猪膏から見た氏姓
成立と盟神探湯」(2003年3月、学習院史学の黛弘道先生退任記念号)によれば、火
傷の治療薬として猪膏(ぴんいん)が大量に用意されたらしい。
前之園亮一は、『 湯による火傷の治療には2週間以上もかかるので、盟神探湯の裁判を
受ける被判者一人一人に相当の量の猪膏(ぴんいん)が必要である上に、盟神探湯裁判で
は氏姓を争う双方の氏族が集団で争うので、一回の盟神探湯で何十人、何百人という火傷
の患者が発生し、その治療に膨大な猪膏(ぴんいん)を必要としただろう。』・・・と
言っている。また、彼は、阿知王の一族によって、後年医心方に書かれたようないくつも
の治療法が適宜適切に使われたことを示唆している。
允恭(いんぎょう)天皇の行った盟神探湯(くがたち)は、神事のみならず、火傷の治療
にも阿知王の一族が重要な役を担ったのである。
第3章 中国伝来の医療・・・医心方とその周辺
はじめに
これから長期的に見て、世界平和のため日本がやるべきもっとも基本的なことは、日米同
盟を基軸にしながらも中国との友好親善を図ることである。
日本は、古来、中国の伝来文化によって自国の文化を作ってきた。もちろん、わが国に
は、中国から新しい文化が伝来するはるかに前から、世界に誇るべき優れた技術を持って
いたのであって、中国に迎合する必要はさらさらない。しかし、21世紀において、中国
がアメリカと並んで世界の強国になるのは間違いないし、だからこそ、中国という国の真
の姿を知った上で、言うべきはきっちり言いながら、中国の発展のために大いに力を貸す
べきである。私は、真の日中友好親善を望んでいる。そのような観点から、中国のことを
いろいろと書いてきている。
今までの一連の流れは次の通りである。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nagare2601.html
平安京における中国伝来文化について書き、魔界戻橋まで書いたところで、京都の魔界に
ついて書きたくなって、魔界中の魔界、六道の辻を書いた。ついで、知られざる清水寺を
書き、その関連で知られざる四天王寺を書いた。さらに、知られざる建仁寺を書き、その
関連で明恵を書いた。知られざる建仁寺の中のえびすホアカリ考は、私の力作である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/rokudouno.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/kiyomizude.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sitennouji.pdf
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sirakennin.pdf
それらを書き終えたところで、再び中国伝来文化として、いよいよ医心方について書き始
めることにした。医心方は阿知王の末裔・丹波康頼の書いた奇跡の書である。これは古代
の漢字で書かれているので、現在の中国人でも現代語に訳すことが難しいとされている。
医心方については、日中広しといえども、何と言っても槇佐知子が第一人者である。すな
わち、槇佐知子により『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻。巻一・巻二・巻二十
五は、2分冊刊)が1993年から刊行開始された。これは快挙である。
槇佐知子の『全訳精解 医心方』は、東洋医学の源流を照らす画期的業績で、今では、
専門家の間でなくてはならない文献となっている。しかし、私たち一般人にはそれを読む
ことは金銭的にも内容的にも難しい。しかし、槇佐知子は、『食べものは医薬 「医心
方」にみる四千年の知恵』(同上)をはじめ、多くの関連書籍を刊行しているので、私た
ち一般人もそれらを読んで大変勉強になる。その内、私は、「王朝医学のこころ・・国宝
<医心方>に学んで」(2005年3月、四季社)」と「改訂版・病から古代を解く・・
大同類聚方探索」(2000年6月、新泉社)と「今昔物語と医術と呪術」(1993年
4月、築地書館)と「自然に医力あり」(1997年2月、筑摩書房)の四冊によって、
医心方の勉強をした。以下において、槇佐知子の四冊の著書と言えば、この四冊を指して
いる。このことを予めお断りしておく。
そのようなことで「医心方」(原書)は奇跡の書であり、これは専門家でも読むことがで
きないのであるが、槙佐知子のお陰で私たちもその一端に触れることができる。私は槙佐
知子の四冊の著書を読んで、強く思うのは「医心方」(原書)は奇跡の書であるというこ
とである。平安時代に日本人が、中国ではもうその頃使われていない漢字を使って「医心
方」を書くことができたのか、まったく驚きというか不思議ではないか。
第1節 中国伝来文化と医心方
1、漂着した外来文化
文化とは、人間が生きていく上で必要な教養の総体である。その文化の形成過程において
技術、宗教、政治、芸術の専門的な活動というもが当然あるしまた必要であるが、最終的
には多くの人びとの共通感覚として日常生活に生かされなければならない。したがって、
私は、文化のうち生活文化に特に重大な関心を持って中国伝来文化を見ていきたいと考え
ている。
文化というものは、それぞれの時代で然るべき変形を受けてはいるが、前の時代の影響を
受けている。したがって、現在の生活文化についても、相当古い時代の影響を受けてい
る。
例えば、照葉樹林文化論というものがある。照葉樹林文化論とは、1970年代以降の日本
の文化人類学において一定の影響力を持った学説である。具体的には、日本の生活文化の
基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一
帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は
共通の起源地から伝播したものではないかという仮説である。照葉樹林は日本南西部から
台湾、華南、ブータン、ヒマラヤに広がる植生である。佐々木高明は、西日本の照葉樹林
文化に対応させるかたちで東日本にナラ林文化という概念を設定し、中国東北部や朝鮮半
島に広がるモンゴリナラやブナ林の分布する地域にみられる文化要素との関連も示唆して
いる。
具体的には、根栽類の水さらし利用、絹、焼畑農業、陸稲の栽培、モチ食、麹酒、納豆な
ど発酵食品の利用、鵜飼い、漆器製作、歌垣、お歯黒、入れ墨、家屋の構造、服飾などが
照葉樹林文化圏の特徴として挙げられる。照葉樹林文化論を肉付けする形で稲作文化や畑
作文化なども考証されている。
しかし、照葉樹林文化は、日本列島に影響を及ぼした様々な文化圏のうちの一つに過ぎな
いのであって、旧石器時代には、北方から黒曜石文化が日本に入ってきているし、南方か
ら黒潮文化が日本に入ってきている。
黒曜石文化については、次のホームページを参照していただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/20070901.html
また、黒潮文化については、照葉樹林文化論の他に、次のホームページをも参照していた
だきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai07.pdf
では、黒潮文化の一つの例として「アタ族」ついて説明したい。
宮本常一は、南方から「アタ族」という海洋民族が渡来したとして、この「アタ族」の船
は集団移住のための外洋航海船だから当然構造船のはずで、したがって当然、鉄釘を使用
していたとして、アタ族の技術能力を評価し、その技術の中に製鉄技術を推定された。そ
の後、広州で、秦漢時代(紀元前221∼西暦220)の大規模な造船工場の遺跡が発見
され、その船台から幅6∼8m、長さ20mの木造船が建造されたようで、多くの鉄鋳
物、鉄釘、鉄棒や砥石などが発見された。それらの技術は、広東省「広州」からの渡来
民・アタ族によって日本にもたらされたと見なされている。
また、「アタ族」中心地、現在の南さつま市地方には「にゃんにゃん」の信仰が根付いて
いる。道教の神「にゃんにゃん」はわが国におなじみの道教の神である。 沢史生の「閉
ざされた神々」によると、中国の福建省から広東省の海岸に展開する海辺の民「蚤民族」
は、もともと閔国(ビンコク、福建)の民だったが、秦の 始皇帝によって蛮族として駆逐
され、以後、海辺でかろうじて生息する賤民水上生活者として、実に21世紀に至る今日
まで虐げられた底辺の生活を強いられて きたという。秦以降の歴代王朝もこの民族に対
す
る「賤視差別政策」を中断することなく、彼らの陸での生活を決して許さなかった。した
がって、彼らは常に海 をさすらい、新天地を求めて島々を渡り歩き、遂に日本にも辿り
着
いたのである。その地が、南かごしま市である。これが世に言う「アタ族」であり、「阿
多隼人」の祖先である。この「アタ族」の信仰する「にゃんにゃん」ならびに道教の神々
については、次のホームページに詳しく書いたので是非それをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/doukyou01.pdf
海 辺の民「蚤民族」(アタ族)が祀りすがった神が「にゃんにゃん」である。正式には
「媽祖(まそ)」または「娘媽神女」で、別名「天后」「天妃」ともいう。 この神は、
海を放浪するアタ族のために、自ら海中に身を投げて航海の安全を祈ったという伝承を持
ち、南は海南島からマカオ、台湾、沖縄に至るまで、広く祀 られている。この神の 死
体
が漂着したところが南さつま市の野間岬である。野間岳の中腹にある「野間神社」の由緒
書きには「娘媽」の死体が野間岬に漂着し たのでこれを野間岳に祀ったと記されてい
る。「娘媽」は「ノーマ」または「ニャンマ」と読む。 媽祖(まそ)すなわち「にゃん
にゃん」は、まったく道教の歴史と関係がないのだが、アタ族や華僑にとっては正真正銘
の道教の神なのである。
日本の媽祖廟としては横浜媽祖廟が有名であるが、媽祖は日本在来の船玉信仰や神火霊験
譚と結び付くなどして、古来、各地で信仰されるようになった。
江戸時代以前に伝来・作成された媽祖像は、南薩摩地域を中心に現在30例以上確認されて
いる。江戸時代前期に清より来日し、水戸藩二代藩主徳川光圀の知遇を 得た東皐心越が
伝えたとされる天妃神の像が、茨城県水戸市の祇園寺に祀られている。また、それを模し
たとされる像が、北茨城市天妃山の弟橘姫神社、大洗町 の弟橘比売神社(天妃神社)、
小美玉市の天聖寺にも祀られている。
青森県大間町の大間稲荷神社には、天妃媽祖大権現が祀られている。元禄9年に大間村の
名主伊藤五左衛門が水戸藩から天妃(媽祖)を大間に遷座してから300周年を迎えた1996
年(平成8年)以降、毎年海の日に「天妃祭」が行われている。この大間稲荷神社は台湾
の媽祖信仰の総本山である雲林 県の北港朝天宮と姉妹宮である。
2000年(平成12年)以降、長崎市の長崎ランタンフェスティバルにおいて、長崎ネット
ワーク市民の会の企画運営で「媽祖行列」が行われている。興福寺に媽祖をお迎えするこ
とで祭りが始まる。
また、沖縄県八重瀬町港川にあるうたき、唐の船うたき(とうのふにうたき)は、かつてそ
の地に難破した中国の貿易船の船員が建てた祠であり、媽祖が祀られている。
現在は、横浜中華街の「媽祖廟」の祭りとして「媽祖祭」が盛大に行われている。現在媽
祖廟があるのはここだけだし、ここの媽祖祭は長崎のものよりも文化的価値が高いように
も思われるので、私としては、この際、媽祖信仰と関係のある人たちが横浜の「媽祖祭」
に友情出演することを提案しておきたい。
秦の時代の伝承としては、以上の媽祖伝説の他に「徐福伝説」というのがある。日本が縄
文時代から弥生時代へと変わろうとしていたとき,秦の時代の中国に徐福(じょふく)と
いう人物がいた。徐福は長い間中国 でも伝説上の人物だったが、現在では、実在の人物
だとされている。徐福は、司馬遷の『史記』の知見をもとに、始皇帝に、はるか東の海に
蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があって仙人
が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと申し出た。始皇帝はそれを受け入れ、
徐福は、大勢の技術者や若者を伴う大船団を編成し出発。何日もの航海の末にどこかの島
に到達した。実際,徐福がどこにたどり着いたかは不明だが,「平原広沢の王となって中
国には戻らなかった」と中国の歴史書に書かれている。しかし、一般には、この「平原広
沢」は日本であるとも言われている。実は中国を船で出た徐福が日本にたどり着いて永住
し、その子孫が「秦」(は た)と称したとする「徐福伝説」が日本各地に存在するので
ある。徐福が大勢の技術者や若者を伴って日本にやってきたのは間違いない。秦の時代か
ら中国からの伝来文化はあったのだ。この際、私としては、「徐福伝説」を残す日本各地
域が連携して、「徐福祭」を催すことを提唱しておきたい。その際、徐福の子孫が中国に
現存していると言われているので、そういう人たちをお招きすれば良い。これからの日中
友好親善に大いに役立つだろう。
以上のように、日本は、古来、漂着してきた外来文化が日本にとけ込んでいった。しか
し、何と言っても中国が隆盛を極めるにつれて外来文化と言えば中国伝来文化と見なされ
るほど、交易商人ないしは国家的な力による中国からの伝来文化が中心となってくる。以
下、そのような中国伝来文化について考えてみたい。
2、中国伝来文化について
(1)縄文商人
縄文時代の商人ネットワーク。交易の主人公は当然商人だ。卑弥呼の朝貢も国ベースの交
易だが、それには商人が深く関与していた。卑弥呼の朝貢にも、当然、商人が深く関与し
ていた。したがって、魏志倭人伝を正しく理解するには、商人の存在を考えねばならな
い。道中の道案内だけでなく、魏の王への橋渡しを商人のボスがやったのである。
魏志倭人伝の時代、当時の商人のボスはどういう人か? 大陸にネットワークを持つと同
時に、倭の国にもネットワークを持っている人であろう。倭の国のネットワークとは、渡
来人のネットワークである。それは日本海沿岸の渡来人の多く住む所である。
では、縄文時代、当時の商人のボスはどういう人か? この時代、まだ安曇一族とか海部
氏というものは存在しない。それぞれの地域で海の民が活躍していただけだ。広い範囲で
それらを束ねる権力者はまだ登場していない。したがって、海の民の活躍を知るには、歴
史的な文献ではなく、考古学に頼るしかない。しかし、考古学によって、海の民のおどろ
くベき活躍が判明している。海の民は、三万年前に熱海を拠点として大活躍をしていたの
だ。 熱海の「海の民」の回帰的威信財「黒曜石」は、江ノ島に河口をもつ境川を通じて
相模原台地まで運ばれたが、それも当然舟運によった。熱海の「海の民」の太平洋の支配
は、少なくとも、相模湾と駿河湾に及んでいたと思われる。さらに、最近の研究による
と、長野県の黒曜石が関東一円に広がっていることがわかってきた。これは一人の縄文人
が、たまたま移動したレベルではなく、交易で広く流通させたことを想像させる。
また、三内丸山遺跡から出土した翡翠の産地は、新潟県の糸魚川周辺だったこともわかっ
ている。長距離輸送を行ったのだ。そして、これは長い時間をかけて人の 手を通じてリ
レーのように渡って行ったと考えるよりも、翡翠を扱う商人が遠路運んだと想定した方が
無理がない。おそらく貨幣のように、価値ある品として代 償物資と交換したのだろう。
そこには交換レートみたいなものが必要だし、売り手市場・買い手市場が存在しただろ
う。
この問題については、考古学的な証拠はないので、頭の中で想像するしかない。黒曜石や
翡翠を遠路はるばる運んできて、またもとのところまで帰らなければならない。交易をし
て交換物を持ってもとのところまで帰るとしたら、その交換物は軽くて持ち運び易いもの
でなければならない。それは何か? そんなものを想像することができるか? 私には
おおよそ想像できない。私は、黒曜石や翡翠を遠路はるばる運んできた人たちは、黒曜石
や翡翠とその地域の特産品と交換したのだと思う。その地域の特産品は、近隣の部族と交
換できる。黒曜石や翡翠を遠路はるばる運んできた人たち、それは縄文商人と言って良い
人たちであるが、縄文商人は黒曜石や翡翠を遠隔地まで運んできて、またもとのところま
で帰っていく。その帰り道を想像してほしい。近隣から近隣と渡り歩きながら、それぞれ
の地域の特産品を商取引きしたのである。その渡り歩いた人達こそ商人以外の何ものでも
ない。間違いなく縄文商人は存在したのである。
(2)弥生時代から古墳時代にかけての中国伝来文化
歴史の連続性というものを考えたとき、弥生時代から古墳時代にかけても交易商人の活躍
はあった訳で、クニグニができていくとそれら交易商人によって朝鮮半島をへて中国の文
化が日本に入ってきたと思われる。
丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から鉄
器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知られ
ている。このため丹後が古 代の鉄生産の一つの根拠地として位置していたのではないか
と考えられている。ガラスの釧(くしろ)で一躍有名になった岩滝町の大風呂南遺跡(弥生後
期後半)だが、じつは 「鉄」の遺跡としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の
鉄剣が出土しているが、その内9本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るため
の素材だった可能性もある。」と岩滝町教育委員会文化財調査員の白数(しらす)真也氏は
語る。
邪馬台国より前の時代に、丹後地方では中国からの伝来技術によって、ガラス製品や鉄器
の製造が行われたということは、歴史認識として私たちはしっかり頭に入れておいた方が
良い。
後漢時代、後漢の光武帝が「漢委奴国王」と刻印された金印を日本の王に授けたという話
はあまりにも有名であり、いろいろな書物も出ているので、ここでは、邪馬台国以前にお
いても国家的な力によっても中国からの伝来文化があったという点だけを指摘するにとど
めて、以下においては、あまり知られていない話として、青銅鏡の話を少ししておきた
い。
弥生時代の中期、北部九州では、甕棺墓に前漢鏡が副葬されるようになった。北部九州で
も玄界灘沿岸の地域では、須玖・岡本遺跡や三雲遺跡などで20枚とか30枚もの大量の
青銅鏡を副葬した甕棺があるが、墓に銅鏡を副葬するという風習は、古墳時代にも引き継
がれて、日本全国に広まったようだ。
中国では、青銅鏡は、夏の時代から墓に副葬される葬具として重用されてきた。漢の時代
に入り、それ迄の多くの墓は王候貴族のものだったが、武帝時より官僚層まで造墓が盛ん
になる。前漢中期には民営の工房もでき、青銅鏡は売買の対象になっていたようだ。当時
の青銅鏡は、道教の影響を深く受けており、神獣鏡や画像鏡の神や主要人物には道教信仰
の神仙や伝説人物が多いのが特徴的である。
邪馬台国の時代より前、後漢後期の鏡「三段式神仙鏡」が日本に入ってきていたらしい。
前橋市天神山古墳から出土した「三段式神仙鏡」が邪馬台国の時代より前に日本に入って
いたという確証はないが、中国では当時公益商人の手によって売買されていたことを考え
ると、公益商人によって日本にもたらされたと考えても決して荒唐無稽の話ではなかろ
う。
前橋市天神山古墳から出土した「三段式神仙鏡」は、明らかに道教の神仙思想を象徴した
ものであるので、私は、「三段式神仙鏡」の伝来とともに、道教の神仙思想も日本に伝
わってきたと考えている。斉明天皇は道教の神仙思想によって二つの宮殿「宮滝宮」と
「両槻宮」を作るが、漢の時代から道教の思想は日本に伝えられていたのではないか、と
いうのが私の考えである。
さて、邪馬台国の時代にどのような中国伝来文化があったのだろうか? 景初2年6月(238年)に女王・卑弥呼は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派
遣して天子に拝謁することを願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送った。 首都洛陽
への長旅には、きっと交易商人が同行していろいろな便宜を図ったに違いない。 卑弥呼
の使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、それに班布2匹2丈など多くの献上品を
献じた。
皇帝はこれを歓び、女王を「親魏倭王」と為し、金印紫綬を授け、銅鏡100枚を含む莫
大な下賜品を与え、難升米を率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為した。下賜品は、金
印紫綬や銅鏡の他に、銀印青綬、緑地交龍(赤地にミズチと龍の模様を織る)錦五匹、締地
銘粟罫(赤地に細かいケバの付いた毛織物)十張、著締(茜で染めた赤色の 布)紺青(色の布)
五十匹、紺地句文錦(曲線的な模様の入った錦織)三匹、細班華罫(細かいまだら模様の入っ
た毛織物)、純白の絹布五張、金八両、五尺刀二 振り、真珠、鉛丹各々五十斤などであ
る。
これらの下賜品については、邪馬台国を大いに刺激し、その後、邪馬台国は交易商人を通
じてそれらの品々の生産技術の習得にも努めたものと思われる。朝貢外交というものは、
それが契機となって民間レベルの交易を盛んにするという経済効果があるというのが私の
考えである。したがって、邪馬台国の時代に、中国から多くの文化が日本に入ってきて、
日本文化の形成に計り知れない影響を与えたと私は考えている。しかし、そういう状況の
中で、日本の骨格を作るような画期的な中国伝来文化があった。それは100枚の青銅鏡
である。青銅鏡については、上述のように、後漢の時代から日本に入ってきていたが、魏
王から卑弥呼の送られたという100枚の「三角縁神獣鏡」は、台与の時代になってから
ではあるが、それまでの銅鐸による祭祀を根本的に変え、鏡による日本の神道の原型がで
誕生した。その陰の立役者は物部氏である。上述した丹波王国の古代文化は、若狭から琵
琶湖を経て近江王国、そして遂には葛城王国に伝わり、それが、台与の時代、邪馬台国に
伝わる。もちろん、文化というものは、その時代時代で新たな発展をするので、邪馬台国
の文化は大和朝廷の文化の基礎を成すほど成熟したものになっていた。邪馬台国の文化を
象徴する大人物は物部氏である。物部氏を語ることなくして邪馬台国の文化を語ることは
できない。ではこれから邪馬台国の文化を象徴する大人物、物部氏については次のホーム
ページに詳しく書いたので、是非、それをご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamatai10mt.pdf
(3)飛鳥時代の中国伝来文化
明日香には高松塚古墳やキトラ古墳や石舞台などよく知られている遺跡があるが、それら
高貴な方を支えた実力者に阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」がい
るのであって、私たちの歴史観を育てるためには、阿知王ならびにその子孫である「東漢
(やまとあや)氏」のことを知らねばならない。私は、中国伝来文化の日本に与えた影響
というものを考えた時、明日香のもっとも誇るべき光り輝くものは、「東漢(やまとあ
や)氏」の祖・阿知王ではないかと考えている。
「日本書紀」には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖・阿知使主(あちの
おみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来
帰り」と伝わる。
また、『続日本紀』によれば、阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君
子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと伝わっている。阿知王
は、東漢(やまとあや)氏の祖であるが、『続日本紀』には、東漢氏の由来に関して、
「神牛の導き」で中国漢末の戦乱から逃れ帯方郡へ移住したこと、氏族の多くが技能に優
れていたことが書かれている。
阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞ
れの時代に大きな働きをした。
「都加使主(つかのおみ)」は 大伴室屋直属の部下として活躍するのであるが、その後
阿知王の子孫が東漢氏と呼ばれるようになってからは、阿知王の子孫は蘇我氏直属の部下
として活躍する。 飛鳥が政治の中心地となるのは蘇我氏の勃興による。蘇我氏が台頭し
たのは、雄略天皇の頃、蘇我満知(そがの まち)が大蔵の管理をすることになってから
である。蘇我氏は東漢氏を中心とする帰化人を管理することによって、経済官僚として登
場してきたのである。
この時代は、倭の五王の時代であり、朝鮮半島や中国との軍事的、経済的関係が深 い時
代であった。こういう時代に、国際状勢に通じ、文書を書く能力を持っていた帰化人の力
がますます必要になり、東漢氏を管理する蘇我氏の力がますます強くなっていったのであ
る。明日香における蘇我氏の遺跡は石舞台をはじめ数多いが、私は、蘇我氏を逆賊だと
思っているので、地域の光り輝く観光資源としては推奨できない。しかし、物語としては
けっこう面白いので、蘇我氏のことを書いた私のホームページを参考に供しておこう。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/soganokoto.pdf
わが国の現在の神道は、藤原不比等が物部神道に道教の祓いの思想によって改良をくわえ
て大改革をしたものである。しかし、鏡が御神体であるという本質は台与の祭祀の時とな
んら変わっていない。それでは、藤原不比等が物部神道に改良を加えた大改革について、
その経緯を説明するとしよう。
梅原猛が言うように、 記紀神話は、藤原不比等の「祓いの神道」によって作成された神
話である。そして、この「祓いの神道」を国家計画化した古事記、日本書紀神話に よっ
て、正に祓いこそ、日本神道最高の、或いは唯一の神事であるかのように思われるように
なったのである。実は、藤原不比等の深慮遠謀というテーマで私は天照大神のことを書い
たが、その真意は、不比等が政治の安定化のために天皇の神聖化を図ったというところに
あった。しかし、不比等の狙いは「祓いの神道」、すなわち中臣神道の創造にあったとい
うことは思いもよらなかった。このたび梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、
集英社)を読んで、初めてそのことを知った。まさに眼から鱗が落ちる思いである。梅原
猛の慧眼に今更ながら感服している次第である。
「祓いの神道」は、記紀神話を基盤としながら現在見るような神道の形式を整えていく。
この中では中臣氏の功績がもちろん大きい。藤原不比等の時代、彼は一族を二つの流れに
分割した。即ち、政治を司る 不比等の子孫を藤原姓とし、他を元の中臣姓に戻し、神祇
を司らせた。中臣氏は祭祀を職とする氏として歴史に登場する。中臣の姓に戻って神祇を
司ることは一 族の誇りでもあった。奈良、平安時代は藤原氏の権勢の許、中臣氏は精力
的に、中臣神道がそれ以外の神祀りを駆逐して日本神道の本流となるべく努力した時代
だった。
中臣氏は諸国の神社祭祀を画一化していく。地方独自の祭祀形式は現在にまで一部は残る
が、神殿内の祭壇は中央のそれと特に変わる ことはない。中央に鏡、両側に榊を立て、
酒、水、塩などを奉る。神社に参ると神主が紙垂を沢山束ねた大麻を振って私たちの不浄
を祓い浄めてくれる。祓い浄め、実はこれが中臣神道の真髄なのである。鏡は天照の御魂
である。天照は地上に降る孫の邇邇芸命(ににぎのみこと)に天の岩戸の前に掲げられた
鏡を渡して、これを天照と思って大事に祀れ、と言った。このときから鏡 は天照の象徴と
なった。日本の神々は二種類に分けられる。高天原に発する天津神と土着の国津神であ
る。全国の神社は圧倒的に国津神の社が多い。しかしそれ らの社にも一様に正面に鏡が
据えられている。私たちは大国主や大国魂といった国津神の祀られている神社に参って、
実は正面の鏡を通して天照を礼拝している のである。神主が大麻を振る姿は誰もが思い
浮
かべる神官の印象であろう。大麻で以て神主は参拝者の穢れを祓っているのである。この
祓え浄めを神道の中心理論として 構築したのが中臣氏であった。
以上の通り、藤原不比等の深慮遠謀によって創られた天照大神と記紀神話によって、中臣
神道は日本神道の中心祭祀となったのである。
梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」
は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言ってい
る。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点
のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、
『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢
氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたこと
によってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。
(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫
は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこ
と、医心方のことを忘れてはならない。)』
『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から
実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふ
つう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の
中心的行事ではなかった。』
『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つに
なったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じる
のである。』
『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓
いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝
詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の
祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹
請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五
帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、
南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』
『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひと
がた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を
祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。し
かし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百
官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがな
され、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪
を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流して
やる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事
であると思う。』
『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、
「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと
思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろ
う。』・・・と。
以上述べてきた通り、藤原不比等の大改革によって「中臣の大祓の祝詞」が作られ、それ
に基づいた記紀神話が創造された。しかし、その「祓いの神道」は初めて天武天皇によっ
て開始されたものであり、それは東漢氏の伝える道教の儀式が律令の精神によって改造さ
れたものである。 すなわち、わが国の現在の神道は、藤原不比等が物部神道に道教の祓
いの思想によって改良をくわえて大改革をしたものである。
しかし大事なことは、鏡が御神体であるという本質は台与の祭祀の時となんら変わってい
ないということである。そして、その鏡が象徴する本来の思想は、道教の「神仙思想」で
ある。天照大神は、その「神仙思想」にもとづき創られたわが国の「神仙」である。
3、明日香と医心方
(1)甘樫坐(あまかします)神社の盟神探湯(くがたち)
阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそれぞ
れの時代に大きな働きをした。その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出回って
いる系図によると、坂上田村麻呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(たんば
の やすより)である。
阿知王の子孫は、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国と続くが、坂上大国
の子供に坂上犬飼と丹波康頼(たんば の やすより)がいるという系図があるのだが、坂
上犬飼の子供が坂上苅田麻呂であり、その子が坂上田村麻呂であるから、その系図によれ
ば丹波康頼(たんば の やすより)は坂上田村麻呂の「大叔父」になる訳だ。 坂上犬飼と
丹波康頼(たんば の やすより)が兄弟だという系図は間違いだという見解もあるので、
坂上田村麻呂の「大叔父」が丹波康頼(たんば の やすより)であるというのはともか
く、丹波康頼(たんば の やすより)が本来坂上氏であることは間違いなく、坂上田村麻
呂とは近い親戚であったことは念頭に置いておいて欲しい。
阿知王は、「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80
冊とともに、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大
国などを経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。当初、その
「中国の医学書80冊」はきっと明日香にあったに違いないし、それに基づく医療がきっ
と明日香で行われたに違いない。それをこれから探ることにしよう。
日本書紀と古事記は画期的な本であるが、それらはどのような目的のために書かれたの
か? それを語る場所としては、日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじん
じゃ)という場所しかない。場所の哲学というものがあって、それによると、歴史的な場
所というものは、表面的なものだけでなく、歴史の闇に隠れた部分をも暴き出して、その
意味するところを明らかにしなければならない。歴史の闇に隠れた部分をも暴き出したも
のに梅原猛の著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)がある。これからそれに基
づいて、日本書紀と古事記がどのような目的のために書かれたのかを説明したい。それを
説明し得るのは日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)という場所し
かないのである。甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)は、まさに「場所の論理」でいう
ところの「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」なのである。何故なら、 甘樫
坐神社(あまかしますじんじゃ)は盟神探湯(くがたち)の行われた「場所」であるから
である。
まずは、盟神探湯(くがたち)についての音声による簡単な説明があるので、それを聞い
てください。
盟神探湯(くがたち)については、日本書紀の允恭天皇四年九月条に、このような記事が
ある。
『 諸氏姓の人を斎戒沐浴させ盟神探湯(くがたち)させられた。味橿丘(うまかしのを
か)の辞禍戸岬(ことまがとさき)に探湯瓮(くかべ)を据え、諸人を引いていき、「実
を言うならばなんともなく、偽る者は必ず火傷する」と言った。諸人は木綿襷(ゆふたす
き)を着けて釡に赴き探湯した。実を言う者はなんともなく、実を言わない者はみな火傷
したので、ことさら偽る者は愕然として退き、釡に進まなかった。これより後、氏姓は定
まり、偽る人はいなくなった。』・・・と。
当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばらばらに出自を飾って氏姓の乱
れが激しかった。そこで允恭(いんぎょう)天皇はこれを正そうとされ、味橿丘、つまり
現在の甘樫丘の先端部分で盟神探湯(くがたち)を行わせたのである。
(2)盟神探湯に使われた火傷の治療薬・猪膏(ぴんいん)
盟神探湯(くがたち)については、 前之園亮一の論説「宋書南斉書・名代・猪膏から見
た氏姓成立と盟神探湯」(2003年3月、学習院史学の黛弘道先生退任記念号)によれ
ば、火傷の治療薬として猪膏(ぴんいん)が大量に用意されたらしい。前之園亮一は、
『 湯による火傷の治療には2週間以上もかかるので、盟神探湯の裁判を受ける被判者一
人一人に相当の量の猪膏(ぴんいん)が必要である上に、盟神探湯裁判では氏姓を争う双
方の氏族が集団で争うので、一回の盟神探湯で何十人、何百人という火傷の患者が発生
し、その治療に膨大な猪膏(ぴんいん)を必要としただろう。』・・・と言っている。ま
た、彼は、阿知王の一族によって、後年医心方に書かれたようないくつもの治療法が適宜
適切に使われたことを示唆している。允恭(いんぎょう)天皇の行った盟神探湯(くがた
ち)は、神事のみならず、火傷の治療にも阿知王の一族が重要な役を担ったのである。
「医心方」には、猪膏(ぴんいん)の用途が多数記載されている。なかでも盟神探湯(く
がたち)との関連で興味をそそられるのは、火傷の薬としての用途である。「医心方」に
見える猪膏(ぴんいん)を用いた火傷の治療法を槙佐知子の訳に従って列挙すると、次の
通りである。
火傷がすでにできものになった患者の治療法(「葛氏方」)・・・猪膏(ぴんいん)と米
の粉を練り合わせ、一日に五、六回、塗ること。
湯火による火傷が爛れた場合の治療法(「極要方」)・・・猪膏(ぴんいん)で柳白皮を
煎じて患部に塗ること。
火による火傷の治療法(「千金法」)・・・丹参(たんじん)を多少にかかわらず羊の脂
で煎じて患部に塗ると、あらたかな効き目がある。羊の脂がない場合には猪膏(ぴんい
ん)を用いよ。死んだ鼠一匹を猪膏(ぴんいん)で煎じて、すっかり溶けてしまってから
患部に塗ると治り、あとが全く残らない。
火による火傷で爛れた瘡(かさ)を治して、そのあとに毛髪を生やし伸ばす処方(「耆婆
方」)・・・柏樹白皮を用意して粉末にし、猪脂に混ぜて塗布すると良い。また、それを
煎じて、その煮汁で患部を洗うこと。
火による火傷の瘡や灸による治療法(「蒯繁方」)・・・柏樹白皮五両、甘草一両、竹葉
三両、生地黄五両。四種類のすべてを綿に包み、苦酒(す)五合にひたして一晩漬けてお
く。これを猪膏(ぴんいん)一升で煎じて竹の葉が黄ばんだら火からおろし、滓を除いて
患部に塗り付けること。
4、医心方とは?
(1)槙佐知子のお陰
医心方は阿知王の末裔・丹波康頼の書いた奇跡の書である。これは古代の漢字で書かれて
いるので、現在の中国人でも現代語に訳すことが難しいとされている。医心方について
は、日中広しといえども、何と言っても槇佐知子が第一人者である。すなわち、槇佐知子
により『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻。巻一・巻二・巻二十五は、2分冊刊)
が1993年から刊行開始された。これは快挙である。
槇佐知子の『全訳精解 医心方』は、東洋医学の源流を照らす画期的業績で、今では、
専門家の間でなくてはならない文献となっている。しかし、私たち一般人にはそれを読む
ことは金銭的にも内容的にも難しい。しかし、槇佐知子は、『食べものは医薬 「医心
方」にみる四千年の知恵』(同上)をはじめ、多くの関連書籍を刊行しているので、私た
ち一般人もそれらを読んで大変勉強になる。その内、私は、「王朝医学のこころ・・国宝
<医心方>に学んで」(2005年3月、四季社)」と「改訂版・病から古代を解く・・
大同類聚方探索」(2000年6月、新泉社)と「今昔物語と医術と呪術」(1993年
4月、築地書館)と「自然に医力あり」(1997年2月、筑摩書房)の四冊によって、
医心方の勉強をした。以下において、槇佐知子の四冊の著書と言えば、この四冊を指して
いる。このことを予めお断りしておく。
そのようなことで「医心方」(原書)は奇跡の書であり、これは専門家でも読むことがで
きないのであるが、槙佐知子のお陰で私たちもその一端に触れることができる。私は槙佐
知子の四冊の著書を読んで、強く思うのは「医心方」(原書)は奇跡の書であるというこ
とである。平安時代に日本人が、中国ではもうその頃使われていない漢字を使って「医心
方」を書くことができたのか、まったく驚きというか不思議ではないか。
丹波康頼(たんば の やすより)は、本来坂上氏であるが、永観2年(984年)に『医心
方』全30巻を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より「丹波宿禰」姓を賜り、以来
医家として続く丹波氏の祖となったのである。
丹波康頼(たんば の やすより)の子孫は、代々朝廷の典薬頭を世襲し侍医に任じられる
者を輩出、その嫡流は室町時代に堂上家となり錦小路家を称した。子孫のうち著名な者と
しては、『医略抄』を著した曾孫の丹波雅忠、あるいは後世において豊臣秀吉の侍医を務
めた施薬院全宗や江戸幕府の奥医師・多紀元孝などが挙げられる。薬学者の丹波敬三がい
る。また医家ではないが直系であり、鎌倉にある丹波家、分家である俳優の丹波哲郎・義
隆親子や作曲家の丹波明が末裔にあたる。
丹波康頼(たんば の やすより) により朝廷に献上された医心方は、当初宮中に納められ
ていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家(和気氏の子孫)
に下賜された。また丹波家においても医心方は秘蔵されていたとされるが、これは、少な
くとも丹波氏の末裔である多紀家(半井(なからい)家と並ぶ江戸幕府の最高医官)にお
いて幕末までに多くが失われていたとされ、多紀元堅が復元し刷らせている。幕末に、江
戸幕府が多紀に校勘させた「医心方」の元本には、半井家に伝わっていたものが使用され
た。この半井本は、1982年同家より文化庁に買い上げがあり、1984年国宝となってい
る。現在は東京国立博物館が所蔵している。
私は、阿知王の子孫が日本に貢献した最大のものは、以上述べてきた医療に関わる文化面
にあると考えているが、もちろん政治面でも大きな役割を果たしたのであり、坂上田村麻
呂を見れば判るように、そのことは言うまでもないであろう。
(2)医心方と民間療法
医心方(いしんぼう)とは平安時代の宮中医官である鍼博士丹波康頼撰による日本現存最
古の医学書である。 中国にも現存しない二百以上の文献から撰集したもので、文献学か
らも非常に貴重なものである。
全30巻、医師の倫理・医学総論・各種疾患に対する療法・保健衛生・養生法・医療技医
学思想・房中術などから構成される。27巻分は12世紀の平安時代に、1巻は鎌倉時代に書
写され、2巻と1冊は江戸時代の後補である。本文はすべて漢文で書かれており、唐代に存
在した膨大な医学書を引用してあり、現在では地上から失われた多くの佚書を、この医心
方から復元することができることから、文献学上非常に重要な書物とされる。漢方医学の
みならず、平安・鎌倉時代の送りカナ・ヲコト点がついているため、国語学史・書道史上
からも重要視されている。東アジア(特に漢字文化圏)における所謂「古典」というもの
の扱いは、新しい書物を為す場合の引用源として使用される。つまり、新しい書物は、古
い書群から本文を抜き出してきて、編み直したものであるわけである。
鍼灸医学の書は、明清に至るまで、その殆どが内経などの編み直しと言ってもよい。つま
り、由来のわからない文を為すことを忌むのが、東アジアにおける古典の扱いであった。
医心方は、この点で非常に優等生的な書と言える。
医心方は、撰者丹波康頼により984年(永観2年)朝廷に献上された。これは宮中に納め
られていたが、1554年に至り正親町天皇により典薬頭半井(なからい)家に下賜され
た。また丹波家においても秘蔵されていたとされるが、これは少なくとも丹波家の末裔で
ある多紀家(半井家と並ぶ江戸幕府の最高医官)においては、幕末までに多くが失われて
いたとされ、多紀元堅が復元し刷らせている。幕末に、江戸幕府が多紀に校勘させた「医
心方」の元本には、半井家に伝わっていたものが使用された。この半井本は、1982年同
家より文化庁に買い上げがあり、1984年国宝となっている。現在は東京国立博物館が所
蔵している。
槇佐知子により『全訳精解 医心方』(筑摩書房、全30巻。巻一・巻二・巻二十五は、2
分冊刊)が1993年から刊行開始された。 槇佐知子の『全訳精解 医心方』は、東洋医学
の源流を照らす画期的業績で、今では、専門家の間でなくてはならない文献となってい
る。しかし、私たち一般人にはそれを読むことは金銭的にも内容的にも難しい。しかし、
槇 佐知子は、『食べものは医薬 「医心方」にみる四千年の知恵』(同上)をはじめ、
多くの関連書籍を刊行しているので、私たち一般人もそれらを読んで大変勉強になる。そ
の内、私は、「王朝医学のこころ・・国宝<医心方>に学んで」(2005年3月、四季
社)」と「改訂版・病から古代を解く・・大同類聚方探索」(2000年6月、新泉社)
と「今昔物語と医術と呪術」(1993年4月、築地書館)と「自然に医力あり」(19
97年2月、筑摩書房)の四冊によって、医心方の勉強をした。以下において、槇 佐知子
の四冊の著書と言えば、この四冊を指している。このことを予めお断りしておく。
それでは、 槇佐知子の『全訳精解 医心方』 の内容を以下に紹介しておこう。
巻一A・B 医学概論篇Ⅰ・Ⅱ
巻二A 鍼灸篇Ⅰ
紀元前から唐代までの鍼灸書から撰出した当巻は『医心方』30巻中唯一鍼博士康頼の自
序がある入魂の巻。孔穴名や壮数、禁鍼・禁灸のツボや为治の対象が現代とは微妙に異な
る。タイムカプセル『医心方』に、進化を続ける現代鍼灸をかさねた温故知新の書であ
る。
巻二B 鍼灸篇Ⅱ
来診者の徒歩・乗り物の種類に応じた待ち時間、感情の起伏や消化時間と鍼灸の是非、男
女・年齢・体質による鍼灸の工夫、灸の点火法の貴重なデータ等の実用例から鳩摩羅什が
医書を訳した証明まで。陰陽道、天文、易と鍼灸、九九の歴史に新たな資料となる記述が
あり各分野必見の書。
巻三 風病篇
本来、風病は病名ではなく病因を指し、中風は邪風による損傷、癩は邪風による皮膚の異
常だった。インドの原始仏教や道教、神道、密教、陰陽道とのかかわり、祭祀や習俗の原
点がみえ各分野の研究に新たな視座を与える。
巻四 美容篇
髪に関するさまざまな悩みや美肌への願望は昔も今も同じ。洗髪剤、養毛剤、毛生え薬、
白髪対策。シミ・ソバカス、イボ・ウオノメ、ナマズ肌、ワキガの治療法。現代人も驚く
美肌パック。魏や隋の後宮の秘方等々『長恨歌』や『源氏物語』を読む上でも参考にな
る。
巻五 耳鼻咽喉眼歯篇
蓄膿症・血膜炎・虫歯など七十一章に渡って耳鼻科・眼科・歯科に関わる当時の理論や治
療法を載せる
。
巻六 五臓六腑気脈骨皮篇
胸・心・脇・腹・腰・腎・肝・脾・肺・大腸・小腸・胃・胆・三焦・膀胱・筋・骨・髄・
肉・皮・脈・気病など、症状のある部位別に分類。現代に生きる湯薬、丸薬、薬酒のルー
ツや僧の治療法が目立つ。
巻七 性病・諸痔・寄生虫篇
男性の性器にかかわる諸病と痔疾、寄生虫症の理論と治療法を収める。痔には仏典からの
抄録もある。今昔物語に登場する寸白の正体と治療法など古典や衛
生史の研究資料としても貴重な巻である。
巻八 脚病篇
脚気・中風・リューマチから瘭疽・アカギレまで。現代の脚気と同定されていた古方の脚
気は、『枕草子』の「あしのけ」に該当する手足の病状の総称であった。唐代を代表する
医学者でもある鑑真の処方も含み、書誌学的にも重要な巻。
巻九 咳嗽篇
今日の医学では咳はカゼの徴候だが、古代中国医学では風病と咳は全く別なものと考えら
れていた。風病は巻三にあるが、巻九は咳嗽や喘息のほか、呼吸器、胃病、シャックリな
どが十八章におさめられている。本書には咳の薬として現代でも著名な処方が見られる。
巻十 積聚・疝瘕・水腫篇
種々の結石による激痛のほか、心筋梗塞、潰瘍、穿孔、浮腫、腹水、胃炎、肝炎、黄疸さ
らに癌を含む重篤な病症や条虫、住血吸虫、回虫など寄生虫症に関する理論と約二百の治
療法(温熨法・灸法・洗滌薬・塗布薬・内服薬・薬酒)が、千年のタイムカプセル、国宝
「医心方」から初めて蘇る。
巻十一 痢病篇
これまで暑気あたりや日射病とされてきた霍乱(カクラン)はどんな病気だったのか。疫病
も含む下痢を便の色や症状で分類し、薬方やツボを発見した古代人。現代の処方や灸の源
流や生活史の資料などもぎっしり。
巻十二 泌尿器科篇
口渇を伴う多尿と尿閉、錬金術の石薬の副作用による類似症状など、従来の消渇の定説を
覆えす理論のほか、泌尿器系の諸症、大小便の便秘と失禁、血尿、血便、下血、結石など
についての諸説とユニークな治療法を収める。
巻十三 虚労篇
巻十四 蘇生・傷寒篇
古典に登場する蘇生法や薬法には、現代の習俗や年中行事にかかわるものもある。王朝人
を脅かしたもののけは、中国からの外来思想であった。傷寒では著名な張仲景の説は載せ
ず、他の多くの文献の学説や治療法を紹介、従来の傷寒=チフス説が覆える。
巻十五 癰疽篇 悪性腫瘍・壊疽
古代の癰疽(悪性腫瘍・壊疽)には、現代病といわれる糖尿病、癌、結核、性病など重篤な
病気が含まれている可能性がある。その原因がストレスや食生活のほか錬金術による薬
(水銀・砒素)の服用にあると指摘し、状況に応じた治療薬、方法を呈示。現代医学の基本
をここに見る。
巻十六 腫瘤篇
生命にかかわる根の深い疔や、口中のできもの。結核性の瘰癧がつぶれて瘻管
となったものや、潰瘍、瘤、さまざまなできもの、腫れもの等々の治療法を四十一文献か
ら転載している。
巻十七 皮膚病篇
現代医療でも治療困難な皮膚病と、古代人は如何に戦ってきたか。0.3ミリのヒゼンダニ
の存在を裸眼で確認したり、洗浴、瀉血、排膿、切断、灸、罨法、塗布薬、内服薬など工
夫をこらした。現代医療に通じるものや『ヨブ記』の灰治療に共通するもの、梅毒の定説
を覆す記述等々を満載。
巻十八 外傷篇
湯火によるヤケド、打ち身、くじき、骨折、毒虫・毒蛇や獣による咬傷、狂犬に咬まれた
ときなど、古代の人々は、どのような知恵で手当てをしてきたのだろうか。
巻十九 服石篇Ⅰ
古代中国の道教の人々は金石玉丹で製薬した。いわゆる錬金術で草薬より薬害が劇しく、
誤れば死を招く。そのため超人的な修行をした者にだけ製法が伝えられた。本書には服石
の禁忌と薬害の治療法や唐招提寺の開祖鑑真の秘方がある。
巻二十 服石篇Ⅱ 薬害治療
紀元前から不老長寿薬として、極秘に製法が伝授された錬丹術(錬金術)。その薬は賢者の
石とか仙薬と呼ばれたが、百種以上の薬害があった。現代にも通じるその治療法を初めて
明らかに。
巻二十一 婦人諸病篇
乳房や子宮のポリープ、人には言いづらい多様な症状についての治療法が網羅された『婦
人諸病篇』。国文学に精通する筆者が「医心方全訳精解」に30年を費し、遂に著わす本書
は、王朝文学や人間学、社会史、女性史、宗教など各分野に新しい視座を与える。
巻二十二 胎教出産篇
妊娠月別針灸禁止のツボ及び諸注意、胎教、ツワリの治療法、妊婦と胎児のための養生
法、流産防止と妊婦の諸病の治療法ほか、胎児と母体保護のための三十七章より成る。国
宝半井本の中で流転の運命をたどった貴重な巻。
巻二十三 産科治療・儀礼篇
既刊の巻二十二に続く産科篇。穢れの思想の源流を始め、出産時・産前産後の禁忌・呪
法・儀礼のほか、難産・逆児・死産や産後の諸症に関する理論と治療法を五十章にわたっ
て収める。仏典からの抄録、奇想天外な薬剤等、考古学・歴史・古典・民俗学に役立つ。
巻二十四 占相篇
不妊の悩みの解決法、男女の生み分け方、生年月日、時刻、星宿、七神、人相、
体形等による占い、父母兄弟姉妹との関係、わざわいを避けるための命名法、孔子や伍子
胥の人相もあり、歴史や古典が面白くなる必見の書。
巻二十五A 小児篇Ⅰ
儀礼、命名、育児、治療など八十八章。出生児の大半が六歳前に死亡した古代の命名や儀
礼・呪術にこめた切実な祈り。知恵熱、疳疾、先天的疾病、皮膚病ほか小児特有の治療法
を網羅した「小児篇」は二分冊で刊行。現代人が学ぶべき育児法も数多あり、各分野の研
究者必携の書。
巻二十五B 小児篇Ⅱ
小児特有の夜泣きやひきつけ、種々の疫病、皮膚病や腫瘍、運動機能障害、言語障害、過
食症、けがや誤飲の応急処置等々にみる古代人の驚くべき知恵と工夫。現代中国で癌治療
に生かされている薬の記述もある。『源氏物語』の解釈や民俗学、動植物、土石鉱物の研
究にも役立つ貴重な書。
巻二十六 仙道篇
何日も飲まず食わずで耐える術や丸薬、虎・狼・鬼を避ける術から、火遁水遁の術まで、
これまで架空の人物とされてきた仙人たちのさまざまな処方―忍法虎の巻とは、この巻の
ことを言ったのでは、と思われるおもしろさ。
巻二七 養生篇
健康や養生に対する老荘哲学の理念、精神衛生、未病対策などが盛り込まれ、さまざまな
分野の研究者に役立つ。
健康に適した日常の坐臥・歩行・姿勢、衣食住や罪に対する意識など、興味深い知識が満
載されている。
インドのバラモンの秘方や吐故納新術、ヨーガや太極拳、五禽戯のルーツ、庚甲信仰、ひ
なまつりの起源にもふれる。
巻二十八 房内篇
かつては性愛の秘本として医心方の代名詞にされ、"発禁の書"となった「房内篇」。国文
学に精通する筆者が「医心方全訳精解」に30年を費し、遂に著わす本書は、王朝文学や人
間学、社会史、女性史、宗教など各分野に新しい視座を与える。
巻二十九 中毒篇
食事・酒・水に関する諸注意、飲食・飲酒による諸症の治療法、断酒法、食べ合わせと食
中毒、誤って異物を呑みこんだ場合の救助法など、古代ならではのユニークなものから現
代に通じるものまで五十一章に収める。
巻三十 食養篇
天地陰陽の交わりによって五行の気を享けて生じた穀物24種、果物41種、肉類45種、野
菜52種を収める。その効能だけでなく、なまだと害のあるもの、多食してはいけないもの
等の指摘もある。食文化を知る上で必見の巻。
丹波康頼の医心方は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法
にも大きな影響を与えた。それは、槙佐知子の著書「今昔物語と医術と呪術」(1993
年4月、築地書館)を見ても明らかだ。その本では次のように述べられている。すなわ
ち、
『 これまで不明とされてきた今昔物語の編著者は、医心方と何らかのかかわり合いの
あった人物ではないだろうか。例えば、医心方を撰した丹波康頼の一族で、当時編集に参
与した者ではないか。あるいはまた、写本した人物とか・・・。そして「彼」は老子や張
湛の言葉に共鳴し、さめた眼で実社会を眺めつつ、筆をとったものと思われる。』・・・
と。
今昔物語は、世間で広く読まれた書物であるので、そこに書かれた医術や呪術は広く世間
に浸透していって、いわゆる民間療法を作り上げていったのである。 丹波康頼の医心方
は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法にも大きな影響を
与えたのである。
高松塚古墳やキトラ古墳は、明日香が大和朝廷の政治的重要な地域であったことを示して
いるが、それが庶民の生活文化に影響を与えた訳ではない。一方、阿知王のもたらした中
国の80冊の医学書は、丹波康頼をはじめとして多くの人びとの手によって民間療法とい
う形で庶民の生活文化になった。したがって、阿知王は、日本の民間医療の大恩人という
ことができる。漢方薬、神農祭、庚申待ちなども、阿知王のもたらした中国の80冊の医
学書が基になって、日本文化になったものであり、阿知王は、大和朝廷の大恩人ばかりで
なく、日本文化の大恩人でもあるのである。
おわりに
これからも日本は日米同盟を基軸に生きていかなければならないが、同時に中国との友好
親善にも力を注がなければならない。中国との友好親善を図るには、中国伝来文化を知り
それに感謝することは極めて大切なことである。私たちは、「歴史の駅」という構想にも
とづいて、地域の歴史的な観光資源に光を当てて、地域連携を図りながら地域再生に寄与
しようとしているが、明日香はまさしく中国伝来文化を知る上で最高の「場所」である。
したがって、多くの人に明日香を知ってもらいたい、中国伝来文化の大恩人・阿知王を
知ってもらいたい、そんな想いから、私は前に、「明日香と阿知王」というテーマで小論
文を書いたことがある。この論文の中の明日香に関連する記述は、その小論文によってい
るので、明日香に関することは、上述した事柄の他に、その元になっている次の「明日香
と阿知王」という小論文を、是非ご覧戴きたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/asukaati.pdf
その小論文の要点は、上述のものとダブっている部分が多いが、次の通りである。
① 「医心方」(原書)は奇跡の書である。この「明日香と阿知王」という小論文は、そ
の点に焦点を当てて、阿知王、正式には 阿知使主(あちのおみ)というが、その人の象
徴する中国伝来文化の日本に与えた影響の大きさを書くとともに、阿知王の子孫が如何に
朝廷に貢献したかを書いたものである。
② 明日香には高松塚古墳やキトラ古墳や石舞台などよく知られている遺跡があるが、そ
れら高貴な方を支えた実力者に阿知王ならびにその子孫である「東漢(やまとあや)氏」
がいるのであって、私たちの歴史観を育てるためには、阿知王ならびにその子孫である
「東漢(やまとあや)氏」のことを知らねばならない。私は、中国伝来文化の日本に与え
た影響というものを考えた時、明日香のもっとも誇るべき光り輝くものは、「東漢(やま
とあや)氏」の祖・阿知王ではないかと考えている。その光り輝くものを見るのが「観
光」である。明日香の観光の目玉は、阿知王であり、その現実の観光資源としては阿知王
をを祀る「於美阿志神社(おもあしじんじゃ)」だと私は思う。
③ 阿知王の末裔、つまり東漢(やまとあや)氏の末裔には朝廷の重臣が多く、彼らはそ
れぞれの時代に大きな働きをした。その中にかの有名な坂上田村麻呂がいる。 世に出
回っている系図によると、坂上田村麻呂の「大叔父」が「医心方」を書いた丹波康頼(た
んば の やすより)である。丹波康頼(たんば の やすより)は、本来坂上氏であるが、
永観2年(984年)に『医心方』全30巻を編集し朝廷に献上、その功績をもって朝廷より
「丹波宿禰」姓を賜り、以来医家として続く丹波氏の祖となったのである。阿知王は、
「中国の医学書80冊」を持って日本にやってきた。そして、その医学書80冊ととも
に、それを読む漢文の知識が、都加使主、坂上駒子、坂上弓束、坂上老、坂上大国などを
経て丹波康頼(たんば の やすより)へと伝承されいったのである。当初、その「中国の
医学書80冊」は明日香にあったに違いない。
④ 坂上田村麻呂の場合は、軍事面で朝廷を支えたということだが、東漢(やまとあや)
氏は、その語学力を生かして外交面でも朝廷で中心的な役割を担ったのである。阿知王の
子孫が東漢氏と呼ばれるようになってからは、阿知王の子孫は蘇我氏直属の部下として活
躍する。蘇我氏は東漢氏を中心とする帰化人を管理することによって、経済官僚として登
場してきたのである。
⑤ 今昔物語は、世間で広く読まれた書物であるので、そこに書かれた医術や呪術は広く
世間に浸透していって、いわゆる民間療法を作り上げていったのである。 丹波康頼の医心
方は、天皇や貴族の治療が目的で書かれたものかもしれないが、民間療法にも大きな影響
を与えたのである。高松塚古墳やキトラ古墳は、明日香が大和朝廷の政治的重要な地域で
あったことを示しているが、それが庶民の生活文化に影響を与えた訳ではない。一方、阿
知王のもたらした中国の80冊の医学書は、丹波康頼をはじめとして多くの人びとの手に
よって民間療法という形で庶民の生活文化になった。したがって、阿知王は、日本の民間
医療の大恩人ということができる。漢方薬、神農祭、庚申待ちなども、阿知王のもたらし
た中国の80冊の医学書が基になって、日本文化になったものであり、阿知王は、大和朝
廷の大恩人ばかりでなく、日本文化の大恩人でもあるのである。
⑥ 桧隈寺(ひのくまでら)と於美阿志神社(おもあしじんじゃ)は、高松塚古墳とキト
ラ古墳のほぼ中間、山間の狭い地域にある。阿知王が、渡来してきてそこに住みつき開拓
した地域である。阿知王の一族が営んだ寺として桧隈寺(ひのくまでら)があるが、 於
美阿志神社(おもあしじんじゃ) はその鎮守の社(やしろ)であったらしい。祭神は阿
知王御夫妻である。現在の於美阿志(おみあし)神社は1907年(明治40) に移設され
たものであるとしても、明日香に阿知王を祭神とする於美阿志(おみあし)神社が現に存
在している。その歴史的意義を考えて、明日香のこれからの観光に役立てるべきである。
観光とは光り輝くものを観るものである。於美阿志(おみあし)神社は本来光り輝くもの
であるが、今は埃にまみれてしまっている。これではいけない。大いに磨きをかけて輝か
せようではないか。阿知王を祀る神社は全国にいくつかあるので、これからの課題とし
て、於美阿志(おみあし)神社が中心となりそれら神社と連携して、合同のお祭りを構想
すべきである。中国から「道教」の僧侶に参加してもらうのも大変意義のあることであ
る。
⑦ 阿知王を祀る神社が全国にいくつかある中で、渥美半島の伝承は大変面白いし歴史的
な意味もあるので、ここにその伝承を詳しく書いた。本文4の(2)「阿志神社(あしじ
んじゃ)」を読んでいただき、是非、渥美半島の観光に出かけて欲しい。
⑧ 阿知王の末裔東漢氏は、蘇我氏に仕えてその繁栄を誇ったが、中大兄皇子と中臣鎌足
が蘇我入鹿を暗殺を見て、利あらずと判断、結局は蘇我入鹿を裏切った。結果として中臣
鎌足側に貢献したことになるが、天武天皇は東漢氏一族を信用ならぬ一族と認識していた
のである。それが上の詔(みことのり)であるが、このような詔が出るということは異例
のことであり、東漢氏一族はもちろんのこと、藤原一族の心にも深く浸み込んだであろ
う。この天武天皇の詔(みことのり)以降、東漢氏一族は隠忍自重の日々を過ごしたに違
いない。やがて、坂上氏は藤原氏に重用されることになるが、それは奈良時代末期から平
安時代初期にかけてのことであって、もはや飛鳥時代のことは遠い昔のこととなってい
た。仮に阿知王並びに東漢氏一族の栄光が坂上氏の記憶に残っていたとしても、飛鳥の地
においてそれを表だてることはまったく意味のないことであった。せいぜい奈良時代末期
から平安時代初期にかけて坂上氏一族の支配する地において、祖先神を祀ることが関の山
であったのである。このような事情によって、檜前寺並びに於美阿志神社は、荒れ果てて
しまったのである。しかし、今となっては、中国伝来文化に国民こぞって感謝の気持ちを
表す意味からも、また闇に隠れてしまった歴史の真実に光を当てるという意味からも、於
美阿志神社の祭りを大いに盛んにしたいものだ。
⑨ 日本書紀と古事記は画期的な本であるが、それらはどのような目的のために書かれた
のか? それを語る場所としては、日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじん
じゃ)という場所しかない。甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)は、まさに「場所の論
理」でいうところの「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」なのである。
⑩ 梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神
道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言って
おり、上でその事を述べた。しかし、実は、その原型となる神事を朝廷で行ったのは允恭
(いんぎょう)天皇である。当時、諸氏族は数多くの支族に分かれて乱立し、てんでばら
ばらに出自を飾って氏姓の乱れが激しかった。そこで允恭(いんぎょう)天皇はこれを正
そうとされ、味橿丘、つまり現在の甘樫丘の先端部分で盟神探湯(くがたち)を行わせ
た。
⑪ 盟神探湯(くがたち)については、 前之園亮一の論説「宋書南斉書・名代・猪膏か
ら見た氏姓成立と盟神探湯」(2003年3月、学習院史学の黛弘道先生退任記念号)に
よれば、火傷の治療薬として猪膏(ぴんいん)が大量に用意されたらしい。前之園亮一
は、『 湯による火傷の治療には2週間以上もかかるので、盟神探湯の裁判を受ける被判
者一人一人に相当の量の猪膏(ぴんいん)が必要である上に、盟神探湯裁判では氏姓を争
う双方の氏族が集団で争うので、一回の盟神探湯で何十人、何百人という火傷の患者が発
生し、その治療に膨大な猪膏(ぴんいん)を必要としただろう。』・・・と言っている。
また、彼は、阿知王の一族によって、後年医心方に書かれたようないくつもの治療法が適
宜適切に使われたことを示唆している。允恭(いんぎょう)天皇の行った盟神探湯(くが
たち)は、神事のみならず、火傷の治療にも阿知王の一族が重要な役を担ったのである。
日本書紀と古事記は画期的な本であるが、それらはどのような目的のために書かれたの
か? それを語る場所としては、日本広ろしと言えども甘樫坐神社(あまかしますじん
じゃ)という場所しかない。甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)は、まさに「場所の論
理」でいうところの「論点や議論の隠された所としての場所(トポス)」なのである。その
甘樫坐神社(あまかしますじんじゃ)を勉強して、まさか「医心方」が関連してくるとは
思いもよらなかったが、そのそも明日香のことを書きたいと思った動機は「医心方」であ
るので、私としては意を強くしているところである。「医心方」(原書)は奇跡の書であ
ると痛切に感じる。そういうことで、最後に「医心方」のことを書いてこの小論文を終わ
りたい。
「医心方」には、猪膏(ぴんいん)の用途が多数記載されている。なかでも盟神探湯(く
がたち)との関連で興味をそそられるのは、火傷の薬としての用途である。「医心方」に
見える猪膏(ぴんいん)を用いた火傷の治療法を槙佐知子の訳に従って列挙すると、次の
通りである。
火傷がすでにできものになった患者の治療法(「葛氏方」)・・・猪膏(ぴんいん)と米
の粉を練り合わせ、一日に五、六回、塗ること。
湯火による火傷が爛れた場合の治療法(「極要方」)・・・猪膏(ぴんいん)で柳白皮を
煎じて患部に塗ること。
火による火傷の治療法(「千金法」)・・・丹参(たんじん)を多少にかかわらず羊の脂
で煎じて患部に塗ると、あらたかな効き目がある。羊の脂がない場合には猪膏(ぴんい
ん)を用いよ。死んだ鼠一匹を猪膏(ぴんいん)で煎じて、すっかり溶けてしまってから
患部に塗ると治り、あとが全く残らない。
火による火傷で爛れた瘡(かさ)を治して、そのあとに毛髪を生やし伸ばす処方(「耆婆
方」)・・・柏樹白皮を用意して粉末にし、猪脂に混ぜて塗布すると良い。また、それを
煎じて、その煮汁で患部を洗うこと。
火による火傷の瘡や灸による治療法(「蒯繁方」)・・・柏樹白皮五両、甘草一両、竹葉
三両、生地黄五両。四種類のすべてを綿に包み、苦酒(す)五合にひたして一晩漬けてお
く。これを猪膏(ぴんいん)一升で煎じて竹の葉が黄ばんだら火からおろし、滓を除いて
患部に塗り付けること。
以上である。「医心方」は面白い!
第4章 日中交流の現在・・・現状と課題
昨年(2015年)の訪日中国人観光客は年間おおむね500万人。一方、中国メディア
の澎湃新聞は2015年10月「中国を訪れる日本人旅行客の数が日増しに減少してい
る」ことを案じる記事を掲載した。
また、訪日中国人留学生は、現在、年間おおむね8万人であり、訪中日本人留学生はその
一割にも満たない。国民の数からしてやむ得ないとは思うが、アメリカへの留学生がやく
1万人であることを考えると、もっと中国への留学生が増えて欲しい。これから中国が世
界の大国になることを考えると、私はそう思う。
日中間の友好都市提携については、1973年の神戸市と天津市との提携が第1号である
が、これは中国側から見ると、海外の地方政府との最初の友好都市提 携ということにな
る。日中間の友好都市提携は、その後も順調に増加し、特に80年代においては、中国側地
方政府が日本の地方公共団体との友好都市交流を、 経済社会の近代化(改革開放)を進
めるための有効な手段のひとつと見なしたこともあり、その数は急激に増加した。
90年代に入り、その増加傾向は鈍化したものの、2000年10月現在、日本の34の都道府県
を含む270の地方公共団体が友好都市提携を締結するに 至っている。日中間の友好都市提
携の特徴としては、日本側は基本的にひとつの地方公共団体が中国のひとつの地方政府と
友好都市関係にあるのに対し、中国側 の地方政府は、その多くが日本の複数の地方公共
団体と友好都市関係にあることを指摘することができ、省レベルでも約3分の1の地方政府
が日本の複数の都道 府県と友好提携を結んでいる。また、日本側は、友好都市の地域的
な分布に格差がないのに対し、中国側は、沿海部の江蘇省、浙江省、河北省、山東省、遼
寧省 などは比較的多くの友好都市を抱えているが、内陸部の貴州省、雲南省、チベット
自治区、青海省、新疆ウイグル自治区では日本との交流がほとんどなく、地域的な交流格
差が大きいことが挙げられる。
日本中国友好協会というのがあり、各都道府県にも日中友好協会というのがある。お互い
に連携してさまざまな活動をやっておられる。それら活動に心から敬意を払うと同時に、
それらの活動が今後ますます発展することを心から願わずにはいられない。
日中友好のために私が独自にできることは、ひとつは、靖国問題を解決する必要性の国民
世論に訴えることであり、二つ目は、古代において中国伝来文化によって日本が作られて
きたという歴史認識の普及啓蒙活動であり、三つ目は、日中戦争に対する正しい歴史認識
の普及啓蒙活動である。 そのためにこの一連の論文を書いた。
また、新疆ウィグル自治区との交流を深める必要があるとの観点から、「シルクロードと
天山」というエッセイも書いた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/siruten.pdf
そこで、私は次のように述べた。すなわり、
『 日本と中国は、これからお互いの国のことをよく知らねばならない。そのために必要
なことは交流である。交流の基本は人々の交流であるが、都市レベルで姉妹都市ないしは
友好都市関係が締結されれば、個人レベルの交流も深まるだろう。私はそんなことを考え
ていて、今回のエッセイを書き終えたところで、新疆ウィグル自治区の代表的な都市と日
本の代表的な都市との間に姉妹都市関係ないしは友好都市関係を締結することを提案した
い。
新疆ウィグル自治区の代表的な都市として、このエッセイでは、首府・ウルムチ、一大観
光地のトルファン、クチャを紹介した。都市間の姉妹都市関係ないしは友好都市関係は、
それ以外の都市であってももちろん良い。しかし、私としては、世界平和ということを意
識しているので、クチャとの交流を重視したい。
上述したように、これからの世界平和のためには、どうしても日中の友好親善を図らなけ
ればならない。日本はこれから、米中の橋渡しをすると同時に、日中協力して人類哲学を
作らなければならないという課題を抱えている。人類哲学というのは、梅原猛のいうこれ
からあるべき哲学のことであるが、それは、釈
の教えと老子の教えを統一したものであ
る。したがって、日本としては、仏教伝来の源に厳然と輝く鳩摩羅什を意識して、奈良市
とクチャとの姉妹都市関係ないしは友好都市関係を模索すべきである。奈良市とクチャと
の交流が深まれば、奈良市を訪れる中国人が増えるし、その分、仏教に対する中国人の理
解が深まるのではないかと思われる。
大洞龍明という人は、2009年に鳩摩羅什顕彰会を設立され、2013年にキジ故城
跡、クチャ杏花公園に鳩摩羅什の立像が建設、 そして、鳩摩羅什顕彰会では、現在、
「法華経」の翻訳者・鳩摩羅什の記念館がキジル石窟の近くに建設中である。大洞龍明と
いう人のやってこられたことは素晴らしい。もし、そのような活動を今後奈良市がやって
いけるとしたら、素晴らしいことだ。
竜樹はインドの人であるが、その教えは鳩摩羅什によって中国に伝えられ、三論宗が成立
した。三論宗は、日本に伝わった最初の宗派仏教であるが、それは、高句麗の僧・慧潅に
よって日本に伝えられたのである。慧潅は初め入唐し て嘉祥大師吉蔵から三論宗を学
び、推古天皇33年に来朝して宮中で三論を講じ、元興寺に勅住して盛んに唱導した。中
国では吉蔵以後三論宗の系統は明瞭を欠 き、いずれかといえば衰運を
ったが、我が国
において隆盛に向ったのである。中国では鳩摩羅什が開祖で嘉祥大師吉蔵が大成者とされ
ているが、そのお陰で奈良仏教が盛んになったのである。
三論教の寺院といえば、 元興寺・大安寺だが、 華厳宗に大きな影響を与えたと言われて
いる。華厳宗は言わずと知れた東大寺が総本山であり、全国の国分寺はその子院である。
そのようなことで、奈良市は鳩摩羅什の顕彰をしながら、クチャとの交流を深めてもらい
たい。このエッセイを書き終わるにあたって、特にそのことを申し上げておきた
い。』・・・と。
なお、1982 年(昭和57年)10月27日に、埼玉県と中華人民共和国山西省との友好県省
が締結 されて、平成4年に満10年を迎えた。これを記念して、両県省友好のシンボル施
設として「埼玉県山西省友好記念館(神怡館)」が当時の両神村に建設され、平成4年5
月14日にオープンした。埼玉県と中華人民共和国山西省との交流を願いながら、その紹
介をしている。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sinikan.pdf
日中友好親善は極めて大事である。中国との友好親善を願う私としては、最近の二階俊博
訪中団のことに触れておきたい。
日米同盟を基軸とする日本のあり方について明確な考えを持っている安倍総理に共鳴する
所が多いが、靖国問題や歴史問題に関して、私は、安倍総理の考えに反対である。二階俊
博が 靖国問題や歴史問題に関してどのような考えを持っているかはよく判らないが、二
階俊博が親中派の実力政治家であることは、私としてはうれしいことであり、彼の行動を
支持したい。しかし、彼の行動と私の行動とは接点がまったくなく、私は私なりに、 中
国との友好親善のために言うべきはしっかり申し上げていきたいと思う。
おわりに
この論文の第1章第2節「靖国参拝の問題」で述べたように、天皇は「日本の歴史と伝統
文化」の象徴であるが故に、わが国民統合の象徴なのである。私達は天皇とともにそうい
う「日本の歴史と伝統文化」を今後とも末永く引き継いでいかなければならない。それが
「日本の精神」だ!
日本国民統合の象徴である天皇が靖国神社に参拝されない、このことは由々しきことであ
ると私は思う。政治家にはこの由々しき事態を真剣に考えてもらいたいのだ。中国がどう
のこうのということではなく、公式参拝などとんでもないことである。さらに私は、国会
議員の靖国参拝すら大いに問題があると考えている。天皇が参拝されないのに何故国会議
員が参拝するのか?
私は、天皇に特別の親しみも持っているし崇拝もしている。崇拝しているが故に、『天皇
と鬼と百姓と』という電子書籍を書いたのである。天皇のいやさかを祈ってのことであ
る。そのような私の感覚から言えば、天皇が靖国参拝されるのなら私も参拝するけれど、
天皇が参拝されないのに参拝するなどいうことはとんでもないことである。したがって、
私の感覚から言えば、国会議員はできるだけ早く天皇が靖国参拝できるような状況を作る
べく努力すべきであって、今の状況下で靖国参拝をするなどとんでもないことである。
天皇制にも関連して、 佐伯啓思の「正義の偽装」(2014年1月20日、新潮社)というまあ驚
くべき本が出た。佐伯啓思はものの見方が確かである。私が大いに教えられる思想家は中
沢新一と佐伯啓思の二人であり、その二人の著書はほとんど全部読んでいる。今度はどん
な本が出るのか、いつも心待ちに待っているが、ようやく佐伯啓思の新しい本が出た。そ
れが「正義の 偽装」であるが、これは画期的な本である。あるべき政治形態として民主
主義が世界を闊 歩しているが、彼は、民主主義に疑問を投げかけ、出版社をして「民主主
義の断末魔が聴こえる」と言わしめている。ともかくすごい本だ。
「明治憲法は、統治の基本、国民(臣民)の権利、義務などを天皇 の名で示した。そのため
に憲法の正当性天皇制度に委ねられ、天皇制度の正当性は日本の 歴史そのものに帰着す
る。」という佐伯啓司の指摘は極めて重要な指摘である。我が国 は、律令国家という国
としてのきっちりした形が定まって以来、天皇を中心に歴史を刻ん できた。したがって、
天皇は、我が国の歴史と伝統文化の象徴であり、天皇の正統性は、 佐伯啓司の指摘どお
り日本の歴史そのものに帰着するのである。
日本の国の形、「国体」というものは、天皇の権威と政治の権力の複合形態である。この
認識がもっと国民の間に浸透していけば、西洋型民主主義とは一味違う日本型民主主義が
成熟していく、と佐伯啓司は言っているのだ。私もまったく同感だ。日本の場合、政治権
力の横暴を抑制するのは天皇の権威である。
天皇の行われる行事はさまざまだが、人々の心に大きな作用を及ぼし、公のために尽くす
精神を生じせしめているのだと思う。佐伯啓思は、「日本の場合、政治権力の横暴を抑制
するのは天皇の権威である。」と言っているが、今の政治家は天皇の権威というものにあ
まりにも鈍感だ。佐伯啓思の「正義の偽装」を下敷きに展開した私の天皇論を是非じっく
り政治家にも読んでもらいたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tennouron.pdf
さて、私は最後に、習近平に期待するものが非常に大きいので、その点について少し触れ
ておきたい。
私は、今までシヴァ教が世界最強の宗教だと思ってきたが、どうも中国が道教の研究を国
家レベルでやっているようなので、今後、道教は中国の天命政治と深く結びついて、人び
との心の奥にしみ込んでいくように思われ、将来、道教は世界最強の宗教になる可能性が
ある。
日本の文化は歴史的に道教の影響を深く受けているので、道教が世界最強の宗教になれ
ば、今後、日本の文化ももっともっと国際的なものになっていくかもしれない。日本の文
化的な動きが中国との友好親善のおかげで良い方向に向かっていってもらいたいものだ。
私はそういう願いを持っており、私が中国の天命政治に深い関心を持つ所以でもある。
天命思想による政治、それが中華のあるべき政治であるが、はたして習 近平がそういう
政治を今後やっていけるかどうか? 私は、今皇帝になった習 近平に是非それをやって
もらいたいと願っている。そのためには、孟子の天命政治を貫いてほしいし、日本と一緒
になって世界平和路線を歩んで欲しい。それが習 近平に期待するものである。
そのためには、習 近平が今皇帝として中国共産党王朝に君臨し、中国共産党の中で絶対
的な権力を持たなければならない。その前提条件として、習 近平は軍を掌握することと
農民の支持を受けることが必要である。その上で、中華政治として世界平和路線のための
政策を打ち出すことが必要である。覇権主義はもってのほかである。習 近平がそれらの
ことができる人物であるのかどうか、次の論文で少し突っ込んで考えてみた。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/tenmeirikai.pdf
第1章では、世界には歴史的に二つの政治形態が存在するが、中国の天命政治には、民主
主義とは一味違う長所がある。そのことを説明した。天命政治は、老子の「道」、「宇宙
の原理」に従う政治である。
第2章は、毛沢東の長征がどのように行われたのか、そして何故毛沢東が中国国民統合の
象徴になっているのかを説明した。
第3章は、天命政治の本質について、具体例を以て説明するとともに、習近平が実際に天
命政治を行い得る人物であることを説明した。
習近平は、現在、「民族主義に支配されたネット世論」と「軍を中心とした対外強硬論」
という二つの爆弾を抱えているようだ。中国が今後10年で米国と肩を並べる強国になる
ことは間違いない。私たちは、中国が軍事大国として日本の脅威になることを望んでいな
い。日本と中国が相互に信頼し尊敬し合える国になって欲しい。そのために何ができるの
かを、我々は考えていかなければならない。 私は、中国の天命政治に大いなる期待を
持っている。 歴史と伝統文化に根ざし、発展させた新たな中華文明の出現のために私た
ち日本人に何ができるかを考えねばならない。日本と中国が一緒になって、世界平和を実
現する「新たな世界文明」を創っていきたいものだ。
交流とは、相手の立場になって考えるところにその哲学的な意味合いがある。したがっ
て、文化交流は、相手の人の日々の生活を支えている相手の人の生活している国又は地域
の文化を理解し尊重するというところにその哲学的な意味合いがある。
人々との交流の中で人々の気持ちにも気を配りながら、権威にへつらうことなく、世の中
すべてのものを自分を取り巻く環境として受け止め、あくまでも自分自身の考えと意志で
行動する、それが尊厳を生きるということだ。これは自立した自己を生きると言い替えて
も良い。
目まぐるし移り変わる社会において、自立した自己を生きていると、ふらふらすることな
く、安定した人生を送ることができる。不安のない人生ということだ。
自立した自己を確立する、そのためには、独善に陥ってはならず、できるだけ文化の違う
人たちとも付き合って、より客観的な感覚を身につける必要がある。特に、現在のような
インターナショナルな時代をおいては、異なった文化を持つ他国の人たちと交流するのが
いい。中国好きの私としては、中国人との交流を深めたいと願っている。また、靖国問題
は、日本の純然たる国民問題としてどうしても解決しなければならないと考えている。草
の根レベルの日中友好親善のための交流と靖国問題の国民世論への働きかけ、それらのた
めに微力ながら私としてできる限りの努力をしたいと思っている。
日本と中国とが世界をリードする立派な国になるため、日中友好親善がもっともっと深ま
ることを心から願いながらこれからもいろいろと書いていきたい。最新の記事は次の通り
である。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/nityuusaisin.pdf
また、この論文に書いたこと以外にも中国の伝来文化と関係のある事柄は多く、この論文
に書ききれなかった。さらに、この論文に書いたことについても、さらに詳しいことを知
りたい場合もあるだろう。それらについては、適当はキーワードで、私のホームページ内
検索エンジンで検索してもらいたい。例えば、論文の中に日米同盟という言葉が出てくる
が、それで検索すると、100近いファイルが検索される筈だ。似たような内容のファイ
ルも多いが、100近いファイルを読んでいただくと、日米同盟に関する私の考えを深く
知ることができるだろう。