第1章 山の魅力

第1章 山の魅力
!
!
私は、この「山地拠点都市構想」という論文で、「知恵のある国家」とは何かを論じなが
ら、かって大平正芳が提唱した「田園都市構想」や竹下登が提唱した「ふるさと創成」に
代る「山地拠点都市構想」を提唱しようとしている。これを国の指導的立場にあるリーダー
のみならず、一般国民にもご理解いただくためには、まず山の魅力を感じてもらわねばな
らない。山には誰でも気軽に行ける里山と特別の人が行く奥山がある。奥山にはいわゆる
霊山も含まれるが、里山と奥山、この二つの山にはそれぞれの魅力があるけれど、山とい
うことで共通する部分も少なくない。「山の霊魂」という観点からは、里山も奥山も区別
なく、「山の霊魂」という観点に立って、その共通する部分に注目すれば、それで充分で
ある。かかる観点から、この章では、里山と奥山の区別をすることなく、ともかく「山の
魅力」を語りたい。「山の魅力」について、まずは私の体験を紹介し、次いで町田 宗鳳
の語る山の魅力を紹介することとしたい。
!
!
!
!
第1節 オールランドな山登り・・・京大山岳部の思い出
!
山登りにもいろいろあって、京都大学の山岳部に入ったばかりの新人時代、私たちは、
リーダーのデルファーこと高村さんや新人係のコッテこと松浦さ んなどからオールランド
な山登りというものを教わった。岩登り、沢歩き、スキー登山あるいは春、夏、秋、冬と
もかくオールランドに登りなさいということで あった。ただ、登るべき岩場、沢などに
ついては、訓練の場合は別として、いろいろ記録を調べ出来るだけ人の行っていないとこ
ろを選んだ。いわゆる「初登山」だ。こういう行き方は、今西錦司、桑原武夫、西堀栄三
郎、四手井綱彦、川喜多二郎、梅棹忠夫、藤平正夫(日本山岳会現会長)から続く伝統な
のだろう。 朱雀高校山岳部時代の山登りとは当然様変わりして本格的なものになった訳
だ。私は別段、これというほどの記録もないけれど、それでも先輩あるいは同僚のお蔭で
そういう精神だけは身についたかもしれない。未知のものに対する挑戦の精神である。と
いうと誠にキザに聞こえるけれど、それが今の実感である。どんな山登りでも、その時々
において自分なりの新しい発見というものがある。しかし、「初登山」の場合、たとえそ
れがどんなにささやかなものであっても、自分たちだけが初めてそれを知ったという喜び、
それは何事にも代え難い。
黒部渓谷の支流北又谷の完全遡行は二度目に成功した。二回とも松尾稔君(名古屋大学
元総長)と一緒だったかと思う。北又谷には物凄い絶壁からなる瀞(とろ)があって、一
回目はそこをどうしても通過できず、雨のため退却。二回目にアップザイレンが連続して
できるところを捜し出して、何とかそこを通過することが出来た。誠に残念なことには、
後輩が我々の記録をみてそのルートに入り、遭難死したが、そういう難所をやっとの思い
で通過して見た「魚止めの滝」の景観は今でも目に焼き付いている。滝の高さは60∼7
0mもあったろうか。滝の上は岩が削られて丸い窓のようになっている。その「丸 窓」か
らほとばしる激流。どこまでも深い滝壺の色。回りに絶壁のいよいよ神秘的なその佇まい。
忘れられない景観だ。佐渡から新潟に向かう連絡船から見た満月に映える「金波、銀波」
を絵にしたような景色も忘れられない景色だが、やはり山には心に焼き付いた景色がいく
つかあって、私の人生をそれだけ豊かにして いるようだ。
!
北海道の日高山脈にあるルートルオマップ川の完全溯行は失敗に終わったが、まずは人
の行かないところだけに、私たちだけの自慢話がいくつかある。 安田君(元大日本土木
社長)と一緒だった。完全溯行もこれで成功かと思った頃、雪渓が我々の行く手を遮った。
今にも崩れ落ちそうなので尾根に逃げるこ とにしたのだが、雪渓の上を恐る恐る左岸に
渡って尾根に取り付こうとしたとき、誰かがトンと足で雪渓を叩いた。その途端、雪渓全
体がどどっと一気に崩れ落 ちたのである。皆が渡り終わったときで何ともなかったのだ
が、寒気が背筋を走った。そのほか、夜のテントの周りを熊にうろうろされた話、寝袋の
中までバルサンを焚いてもどうにもならなかった猛烈なヤブ蚊の群れ、背丈の倍ほどもあ
る笹薮の海のなかで身動きが取れ無くなりそうになったこと、ながい冬の分を急い で取
り戻すかのようにともかく夏の日高山脈は生命力が旺盛だ。
!
そういった難行苦行をして思うのは、やはり自然との付き合いの難しさということだ。
特に春先は鳥の声で雪崩が起こることもあるし、私たちは、雪崩の起こりそうなやばい雪
渓を通過するときは夜も明けやらぬ早朝とした。沢歩きをしているとしょっちゅう、蝮(ま
むし)に会うし、薮こぎをしていてスズメバ チに会うことも少なくない。蝮もスズメバ
チも下手をすると命を落としかねない。見かけたときはできるだけ静かにして、ともかく
相手を刺激しないことだ。ちなみに、沢歩きはわらじが一番いい。最近はいろいろ渓流釣
り用の地下足袋が出ているが、やはり普通の足袋にわらじを履くのがいい。いちばん滑ら
ないし、いちばん足にやさしい。しかし、もっとも肝心な点は蝮対策である。蝮は紺色を
嫌うそうで、紺染めの足袋とズボンを履いていると蝮に噛まれない。能の出そうな 山に
入るときは、昔、馬が着けていたような出来るだけ大きな鈴をぶら下げて歩くといい。熊
が近付いて来ないのだ。熊の場合はともかく急に出くわさないよう にするのが原則だが、
もし近くに来たときは死んだふりをしているのがよい。日高で、私たちはテントの中で死
んだふりをして助かった。
動物と付き合う場合、人間も動物だが、ともかく動物と付き合う場合、相手をむやみに
刺激しない方が得策だ。相手の嫌がることはしないほうがよい。 これは「共生」の原則
の一例だと思う。こういうことは、オールランドな山登りをやっていると自然に身につく
ことなのかもしれない。
ところで私が、これからの文明の在り方、あるいは人間の生き方に関連して思うことは、
山登りのように非日常的な体験というよりむしろ日常的な体験の中で、自然とどう付き合っ
ていくのかということである。今、農業や林業は危機存亡の時だと言われているが、農業
や林業は、ただ単に食料や木材資源を供給するというだけでなく、文明論的に言って、そ
こに自然との共生の世界が在るという点にこそ重要な意味がある。今後、我が国が新たな
文明というものを意識して「共生社会」を目指すのならば、農業や林業を疲弊させてはな
らない。農山村地域に広がる自然との共生の世界を大事にしていかなければならない。
民俗学者の宮本常一は、その著書「忘れられた日本人」の中で自分の祖父について「そ
の生涯がそのまま民話といっていいような人であった。」と述 べ、その生涯を語りなが
ら、子犬や亀、みみずや蟹など、動物と人間が親しみ合い、ともに生きていた世界を描き
出している。そして、「世間の付き合い、あるいは世間体というものもあったが、はたで
見ていてどうも人の邪魔をしないということが一番大事なことのようである。」と言って
いる。私が、オールランドな 山登りをやり、身体全体で自然を感じ、そして思うことは、
結局は人間の生き方の問題であり、文明の在り方の問題である。農に生きる人、山に生き
る人には、自ずと「野生の思考」というか「野生の精神」が身に付くが、私たち町に住む
都会の人間はそうはいかない。だからおおいに山登りをやって「野生の精神」を身につけ
る必要がある。これは「野生の精神」と言っていいかどうか判らないが、山では苦しいこ
とが多いし不便なことが多い。私たちが入った頃の京都大学山岳部では、特に山の道具が
不足していて山では不便を強いられた。しかし、「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」」と先
輩から言われていろいろ工夫もしたし、自ずと苦労は厭(いと)わないようになっていっ
た。こういうものが「野生の心」とか「野生の精神」とどう繋がるのか繋がらないのか判
らないが、「野生の心」とか「野生の精神」について私なりにいろいろ考えてみたい。
!
!
!
!
!
!
第2節 北又谷の強烈なインプレッション( 全国初の完全遡行)
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
第3節 秩父・・・心の故郷がここにある
!
奥秩心の故郷がここにある奥秩父は、
荒川・多摩川・笛吹川・千曲川の源流で
あるその奥深い森林と深く刻まれた渓谷
の大自然はすばらしい。
私は20年ほど前、秩父の里の生活を求
め、マルチハビテーションよろしく秩父
市に居を定めたことがある。そして、奥
秩父の山や谷を歩くためのベースキャン
プとして山小屋も建てた。
!
山小屋付近からはすばらしい景色が広がっ
ていて、私には心に残る思い出はいっぱ
いだ。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
秩父山小屋にてオフラインミーティング !
秩父は私の心の故郷である。当時、秩父の魅力を少し書いてことがある。今それを振り
返っているところだ。また、下記に示した・・当時のホームページも懐かしい。
!
地域づくりの哲学 地域づくりの実践
「ふるさと創生・ 新たな展開を期して」
1997'7'5'島根での講演
!
私の川づくり・地域づくり語録
多摩川 奥秩父
!
!
!
!
!
第4節 多摩川源流日記
過日、「多摩川の源流を訪ねる会」で多摩川の源流を旅した。丹波山で泊まり、笠取
山の水干(みずひ)神社にお参りする旅である。白装束こそしていないが、「六根清浄、
お山は晴天」・・・・信仰の山登りにも似たすがすがしい源流登山である。
「多摩川の源流を訪ねる会」も会を重ねて今年で15年目になる。これを始めた三谷さん
や梅田さんの最初の思いはまあたいしたこともなく「多摩川の源 流はどうなっているの
か? ちょっと行ってみるか。」という程度のごく軽い気持ちであったようだ。しかし、
会を重ねる内に、多摩川源流のすばらしさに引き 込まれて、今では、「多摩川沿いに住ま
う多くの人々が真の多摩川を知り、人の手によって、人の輪によって、クリーンな多摩川
を復活させる先駆けにになれば と思っています。そして、21世紀には、是非ともさらに
美しい母なる多摩川を次の世代に手渡していきたいと思っています。」と言っている。す
ばらしい活動 目標ではないか。
「富士に登るも一歩から」の喩え(たとえ)のように、何ごとも最初はあまりあれこれ
考えずにともかく始めることなのであろう。堀内さんが「軽卒のす すめ」を言っておられ
るが、何か閃い(ひらめい)たら、一見軽卒に見えようともともかく始めるのがいいのか
もしれない。西堀栄三郎さんの有名な言葉に「石 橋は叩いて渡れない」というのがある
!
当日は、いつものように川崎班と世田谷班とに分かれてバスで丹波山に向かった。途中、
羽村堰を見て、奥多摩湖で昼食。丹波山では、中村文明さんが中心となってシンポジュー
ムが開かれ、私たちも参加した。夜は「かどや旅館」でいつもの楽しい交流会だ。食べ切
れないぐらいの山の幸に舌鼓(したづつ み)を打つのもいつもの通りだ。地元の奥さん
たちがもてなしてくれる。すっかり恒例になってしまった。私は明日の朝が早いので少し
早い目に寝たが、呑んべ いたちは夜遅くまでワイワイガヤガヤやっていたらしい。
丹波山は夜の明けるのが遅い。次第にまわりが白々(しらじら)と白みはじめると、西
の山がモルゲンロートに輝きはじめ、ようやく神々が目覚めはじ める。妖怪どもは身を
潜め(ひそめ)、人々の生活が始まる。実際の生活は端(はた)から見るほどには豊では
ないのかもしれないが、丹波山の生活は、その風 土に恵まれてイキイキと輝いていると私
には見える。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
道ばたにはいろんな花が咲き乱れ、石造も美しい。河原の小川は美しくすがすがしい。
やっと山の畑に日がさして、・・・・川もキラキラ輝きはじめる。さあ、一日の始まり
だ!
!
さあ、それではこれから「多摩川の源流・水干(みずひ)」へ行こう! 登山口は、一
の瀬高原キャンプ場の 少し先の作場平(さくばだいら)である。バスで行くのだが、途
中、尾崎行雄の碑の前で記念写真をとった後、国道からいよいよ一の瀬の渓谷の林道に入
る。目 眩(めくらみ)のするほどの大渓谷だ。よくもこんな急峻な渓谷にこんな道がで
きたものだ。ほとほと感心する。全国的にも有数の林道だろう。ひとしきり一の 瀬渓谷
の大景観を楽しみながら、一の瀬高原キャンプ場は「しゃくなげ荘」の横を通って作場平
に向かう。
登山道はから松の林の中をゆるゆると登っていく。いくつかの沢を渡って、ゆっくり
ゆっくり登っていくのだ。体に心地よい疲れを感じながら登っていくのだが、やっぱり休
憩のひとときはほっとする。梢と空がどこまでも美しい。しばらく登って、通称バス通り
という平たんな道に登り着く。今日はいつになく富士山が美しい。 大菩
嶺もすばらし
い姿を見せている。「まゆみ」の花に見とれているともう笠取小屋だが、リュックサック
を小屋においてただちに出発。空身(からみ)で行くのだ。20∼30分で多摩川の源流・
水干(みずひ)に着くのだが、道はゆるやかでルンルン気分・・・。
さあ、着いた! 多摩川の源流は水干(みずひ)という岩からシミ出る一滴水である。こ
れが水干神社の御神体になっているのだが、この水干(みずひ)の上に水神社の碑や水神
社の祠がある。
水干(みずひ)からは笠取山に登るのが一般的なのかもしれないが、笠取山は急峻であ
るので、これを省いて、笠取小屋の付近を楽しむのいいかも・・・・.雁坂峠への分かれ
道を過ぎて、笠取小屋に向かう。 雲取山へはこの道を行く。平たんで楽しい道だ。笠取
小屋で大菩 嶺を見ながらの昼飯はほんとうに夢のようだし、付近の散策は実に楽しい。
春先に泊まりに来よう。多摩川源流の旅は「夢の旅」・・・、生きる喜びをかみしめる旅
である。是非、皆さんにもおすすめする。
!
!
!
!
第5節 思い出の山さまざま
!
!
私は京都育ちである。小学生から中学生にかけて、ボーイスカウトでキャンプに出かけた
りしていたので、山とは必ずしも縁がなかった訳ではないが、意識的に山に行くようになっ
たのは、やはり高校時代の山岳部に入ってからのことである。京都大学の山岳部の時代は、
第1節に述べたように、良い先輩に恵まれて、本格的な山登りをやった。一年の三分の一
を山に入っていたこともある。建設省に入ってから以降は、参議院議員時代もそうだし、
今もそうだが仕事が忙しく、本格的な山登りはできなくなってしまった。しかし、今思い
出すと、今までに随分いろんな山に行ったなあと思う。そのときの印象が走馬灯のように
次々と思い出される。そのときの印象に合うホームページをウェブサイトからピックアッ
プして、以下に紹介することとしたい。
!
!
最初に紹介するのは、おおむね哲学と関係のあるものだが、最近、私が作ったホームペー
ジである。山高くして尊うとからず。 館山市布良(めら)の「大山」は、低いけれど素晴
らしい山だ。私は、布良(めら)の「大山」を日本三代「大山」のひとつと考えている。
!
館山市布良(めら)の「大山」http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/meraooya.pdf
!
鞍馬・貴船 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/tabi/kura.html
!
比叡山 http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/yokawa.html
!
稲荷山 www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/inarituka.pdf
!
秩父郡宝登山(ほどさん) http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/hodosan.pdf
!
!
!
!
次に、京都では、山を語る上で「京都の北山」は欠かすことのできない大きな存在だ。今
西錦司の原点が「京都の北山」にある。私も高校時代によく「京都の北山」に行き、沢歩
きやら薮こぎを身につけた。鞍馬からおおむね尾根伝いに日本海まで抜けたこともある。
では人のホームページであるが、「京都の北山」のホームページをひとつ紹介しよう。私
の抱くイメージと大分違うけれど、お許し願いたい。
!
京都の北山 http://blogs.yahoo.co.jp/toshio_trekking/28290628.html
!
!
!
京都といえば、大文字山や愛宕山を抜きにはできないので、他人のホームページではある
が、私の抱くイメージに近いものを紹介しておく。
!
大文字山 http://www12.plala.or.jp/ochikasan16/daimonnji.html
!
愛宕山 http://blog.goo.ne.jp/hozugawa/e/854fb360f189c3d96a87714d69c26191
!
!
!
!
高校の山岳部に入って間もない頃、琵琶湖の西にそびえる比良山で、ひどい悪天候の中、
私たちのパーティーが遭難し、一年先輩が岩から落ちて死んだ。1000メートルそこそ
!
この山であっても、天候次第で遭難することもあることを学んだ。貴重な経験だ。その遭
難事件で山岳部の活動が途絶えがちになったが、私は、それではダメだと思い、盛んに山
に行った。一般学生の募集を行い、伊吹山に行ったことがある。その結果若干部員が増え
たと思う。
!
比良山 http://d.hatena.ne.jp/fumi_isono/20121104/1352395094
!
伊吹山 http://ameblo.jp/gobankan-b/entry-11078319447.html
!
夏の乗鞍岳 http://blogs.yahoo.co.jp/peachchi777/63447741.html
!
夏の北岳 http://one9638.blog79.fc2.com/blog-entry-170.html
!
夏の富士山 http://blogs.yahoo.co.jp/skerokero8/36609798.html
!
!
!
!
京都大学山岳部では、本格的な山登りをやった。その代表的なものとして、北又谷完全
行を第2節で紹介したが、その他にも思い出の山行が少なくない。私たちは少しでも荷イ
メージに比較的合うものをピックアップしたものである。
!
なお、京都大学の一年生の冬は、妙高高原の笹が峯の我が山岳部のヒュッテで、スキー合
宿をする習わしになっている。ヒュッテの近くで4∼5日スキーの手ほどきを受ける。そ
れが終わると、いきなり妙高の外輪山までシールをつけて登っていく。そして外輪山から
滑り降りてくるのだ。私は多少だが高校時代にスキーの経験があったが、下に滑り降りて
くるまで何度転んだか・・・。ひどいときは、樅の木(たんね)の根元が大きな穴になっ
ているので、そこに落ち込んで人に助けてもらう始末。何ともはや・・・。もちろん、ボー
ゲンを基本に滑り降りる。急な斜面のところは斜滑降、斜滑降の連続だ。情けないことと
きたらありゃあしない。それでも怪我をせずに何とかヒュッテにたどり着くことができた。
そのときの印象に合ったホームページを探したが、イメージに合うものはひとつもなかっ
た。そりゃそうだろう。私たちへたくそが気合いだけで山スキーをやっているのだか
ら・・・。
!
!
冬の富士山 http://first-ascent.net/archives/tag/%E5%86%AC%E5%AF%8C%E5%A3%AB
!
厳冬期の北岳 http://rock-and-snow-kuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_9b8b.html
!
!
白馬岳 http://www.shinshu-tabi.com/hakubaziri.html
!
剣岳(つるぎだけ) http://unpo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/2-8885.html
!
早月尾根 http://nakayamayu.web.fc2.com/record/2009/0912hayatsuki/index2.html
!
立山のカール http://nan-an.sakura.ne.jp/photogallery/2009/05/post-55.html
!
後立山連峰 http://www.jalps.net/non/atotateyama/index.html
!
大雪山 http://ganref.jp/m/minisam606/reviews_and_diaries/diary/4813
!
駒ヶ岳 http://deer2010.blog96.fc2.com/blog-entry-85.html
!
!
!
!
なお、深い雪の中をラッセルして白山に登ったことがある。しかし、そのときのイメージ
に合うホームページがひとつも見つからなかった。ただ、頂上の雪の状態に近い写真が、
見つかったので、それを紹介しておく。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
建設省に入ってからは、仕事が忙しく、本格的な山登りはできなかったが、それでもいろ
いろな山に登った。特に、思い出深いのは、「源流を訪ねる会」のことである。私が仲間
にいろいろと山の話をしていたら、写真家の井出さんを中心に「源流を訪ねる会」が広島
にもできて、まず最初に太田川の源流の沢歩きをして、冠山のまさに水の湧き出るところ
(太田川の水源地)に源流の木柱を立てた。また、広島山岳会の兼森志郎さんとの交流も
貴重な体験である。当時の会長・三好さんらと恐羅漢山(おそらかんやま)にある広島山
岳会の山小屋で正月を過ごそうではないかと誘われて、東京に帰らず山で正月を迎えたの
も懐かしい思い出である。兼森志郎さんのお蔭だ。彼は今、日本の祝日として「山の日」
をつくろうという運動を展開中である。
!
それでは、建設省時代の思い出深い山のいくつかを紹介しておこう。人のホームページで
はあるが・・・。
!
佐賀県天山(てんざん) http://blogs.yahoo.co.jp/jtqqp754/62117823.html
!
脊振山(せぶりやま) http://www.ne.jp/asahi/tokyo/ono/yama/kokunai/seburiyama.htm
!
英彦山 http://ada-kitakyu.com/kinkou/hikosan/hikosan.html
!
宝満山 http://d.hatena.ne.jp/NAMARI/20110302/1299076921
!
福岡県福智山 http://blogs.yahoo.co.jp/homanbokka/23615571.html
!
大分県法華院温泉と九重連山 http://blogs.yahoo.co.jp/mountain_star_flower/38013484.html
!
大山(だいせん)http://4travel.jp/traveler/planetginga/album/10379400/
!
広島県恐羅漢山(おそらかんやま) http://www2.bbweb-arena.com/higejiji/osora080210.html
!
島根県安蔵寺山(あぞうじさん)
http://www2.bbweb-arena.com/higejiji/azouziyama080420.html
!
島根県三瓶山(さんべさん) http://outdoor.geocities.jp/fajar_5353/shimane/sanbe.html
!
鳥取県那岐山 http://www.geocities.jp/hino8224/nagi0701.htm
!
鳥取市九松山と本陣山 http://ameblo.jp/onyourmark/entry-11229850903.html
!
広島県比婆山 http://outdoor.geocities.jp/fajar_5353/tree03/hiba.html
!
広島県冠山 http://blogs.yahoo.co.jp/reeeeee98/59987874.html
!
!
広島県宮島の弥山(みせん) http://kooikerfondier.seesaa.net/article/311316853.html
!
島根県大万木(おおよろぎ)山 http://blog.goo.ne.jp/yaji3331/e/c2cba574d7a9f7ddf141b122bfebc521
!
!
広島県八幡原高原と臥竜山
https://www.daiwahouse.co.jp/shinrin/blog/blog_detail.asp?bukken_id=geihoku&blog_id=46
!
!
なお、 宮崎県大崩山(おおくえやま)は、あけぼのツツジが素晴らしい。私は、うっすら
とガスのかかった五葉松の原生林に咲いているあけぼのツツジが忘れられない。私には忘
れられない景色が三つある。それは剣大沢の両側の峨々とした岩壁と真っ白な雪渓、その
上に見える紺碧の空。それと佐渡島から新潟に帰る舟の中で見た金波銀波の輝き。それと
大崩山(おおくえやま)のあけぼのツツジである。私のイメージに合う写真はネットサー
フィンをやったけれど遂に見つからなかった。そのような訳で私のイメージには合わない
けれど、ともかく五葉松とあけぼのツツジの写真を掲げておく。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
参議院議員になってからは、ほとんど山に行く機会がなかったが、それでも北海道と秩父
を中心にいくつかの山に登った。それぞれに思い出深い山である。
!
!
!
城県八溝山(やみぞさん)http://yamayama.jp/yamizo/yamizo.htm
!
北海道白滝の黒曜石原産地「赤石山」 http://www.geopark.jp/geopark/shirataki/
!
北海道白滝の比麻良山(ひまらやま) https://www.yamareco.com/modules/jqm/detail.php?did=223577
!
!
甲武信岳 http://d.hatena.ne.jp/shimokita101/20120527/1338118068
!
両神山 http://ruu8713.at.webry.info/200911/article_6.html
!
秩父御岳山 http://members2.jcom.home.ne.jp/wm-aoki/newpage143.html
!
雲取山 http://karake-877.at.webry.info/201203/article_9.html
!
!
!
私の思い出に残る山の内、私のイメージに合うホームページが見つかったのは以上である
が、この他にも私の思い出に残っている山がある。それを順不同に列挙しておく。静岡県
愛鷹山、丹沢山隗、新潟県焼山、三重県藤原岳、三重県御在所山、三重県多度山、広島県
三倉山、恐山、山梨県丹波山村丹波天平山、同じく 沢山、三峰神社の奥の院妙法ケ岳、
秩父市と川上村の境・十文字峠、秩父市丸山、鹿児島県栗野岳、高千穂峰、いわき市石森
山、静岡県十国峠、静岡県香貫山、高知県横倉山、四国カルストなど。
この中で、特に、栗野岳の思い出が懐かしい。栗野岳には、四元義隆さんと一緒に登った。
そのときに、今西錦司の「黒もじの 」の話を聞いたが、この際、後日談をしておきたい。
私は電子書籍「祈りの科学シリーズ(1)」の「<100匹目の猿>が100匹」の第1
2章「今西錦司 直観を語る」に書いたが、今西錦司は次のような不思議な話をしてい
る。「外なる神」の助けによる「直観」の事例として紹介しておきたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-cf08.html …
!
「黒もじの 」、この話は、ひとつの科学的事実としてその原因究明に多くの科学者に力
を注いでほしいと思うぐらい重大な話だと私は考えているが、この話を知ることができた
のは四元義隆さんのお蔭である。それでは、四元義隆さんと一緒に栗野岳に登ることになっ
たいきさつなどを書いた当時のホームページを振り返っておきたい。
!
奥秩父は、荒川、多摩川、笛吹川、千曲川の源流である。その広大な山地には、2,000m以
上の山が20もあって、北ア ルプス、南アルプスに次ぐ高山地帯を形成している。その、奥
深い森林と深く刻まれた渓谷の大自然たる姿はすばらしい。私のこれからの人生で、奥秩
父の山や 谷をできるだけ歩きたい、そのような想いから、一昨年、マルチハビテーショ
ンよろしく秩父市に居を定めた。当分金帰月来の週末だけの生活にならざるを得な いの
で、地域に融け込むにはまだまだ時間がかかりそうであるが、秩父は、その歴史も古く、
伝統・文化が豊か、人情も豊かであるので、奥秩父の大自然もさる ことながら、里の生
活にも大いに胸をふくらませている。
!
!
山登りにもいろいろあるようで、今西錦司さんによれば、いわゆる山きちがいにも地域
主義と全国主義というのがあると言う。地域主義というのはある地域の 山を全部登って
からまた次の地域の山を登る、それに対し全国主義というのは全国の山を次々と計画的に
登る、それぞれそういう登り方をいうのだそうだ。今西 錦司さんはいうまでもなく全国
主義で、その全国1200座登山はあまりにも有名だ。今西さんの山登りは、常に「未知
なるものに対するあこがれ」というもの が基本になっているのだろう。いずれにしろ1
200座というのは前人未踏の大記録だ。私は、京都大学学士山岳会(AACK)や日本山
岳会の会員だと言って も、今西さんはおろか私の仲間と比べてさえそれほど山に行ってい
る訳ではないし、今西さんを引き合いに出しながら自分の話をするのは誠に恐れ多い。で
も話 の都合上許していただきたいと思う。私の場合は、若干の例外を除き、ほとんど奥
秩父に焦点を絞ってこれからの山歩きをしようと思っている。今西さんのよう に奥義を究
めている訳でもないので、何度も同じ山を登らないとその山の良さが解らないのだ。しか
し、私の場合も、常に何か新しい発見があって、その都度ワ クワクしていることに変わり
はない。まあ、これも広義の地域主義だと思うが、私のような山登りがあってもいいだろ
う。
!
!
鹿児島県に栗野岳温泉という温泉がある。鹿児島空港から高速道路を北に行って15分
ぐらい、栗野インターで降りる。川内川の上流、もう宮崎県の県境に近 いところだ。温泉
は、栗野岳の中腹にあり、昔の湯治場だが大自然の中の実にいい温泉だ。西郷隆盛が気に
いっていたのだそうで、旅館がただ一軒、南州館とい う。湯の種類がいくつかあるが、蒸
風呂がとてもいい。裏に地獄があって、その蒸気は鹿児島空港からもよく見える。
!
!
九州地方建設局河川部長時代、あれは昭和62年の晩秋であったであろうか、栗野岳に登
ろうとして栗野温泉に泊まった。その夜、栗野町長の薬師寺忠澄さんと 水上勤の「ブン
ナよ木から降りてこい」に纏わる話などをしながら食事をしていた。突然薬師寺さんに電
話があり四元義隆先生が来られたとのこと。町長はとん で帰られたが少し経って又来ら
れ「四元先生があなたに会いたいと今来られた。すぐ玄関まで出て欲しい。」とのこと。
私はびっくりしたがともかく玄関まで降 りていった。もちろん初めてのご挨拶である。四
元先生は、今西錦司さんとは哀歓照らす仲で、会って話をしているとどちらもお互い勇気
が沸いてくるという。 ともに超一流の人物ならではの気合だ。
!
!
四元義隆先生は、一般にはあまり知られてないかもしれないが歴代総理の指南役と言われ
た方で、吉田茂がフランスに外遊中四元先生を呼んで次の総理について 意見を聞いたと言
われている。四元先生は「池田がいいでしょう」と言われそれで池田勇人が総理になった。
そんな逸話が残っている。四元先生の話はそれぐら いにしておくが、ともかく大変な人物
が私に会いに来られたのだ。京都大学の山岳部で私が今西先生の後輩になるというの
がその理由だったらしい。そして、明 日は君と一緒に栗野岳に登ろうということになっ
て、翌日御一緒したのだった。
!
今年の5月の連休にも栗野岳に登った。四元先生の直弟子である薬師寺さんや四元先生
とは東大柔道部の後輩に当たる農林省の黒沢君(構造改善局次長)など 何人かと一緒だっ
た。四元先生は御自分の庵で待っておられたが、薬師寺さんは四元先生のために黒もじの
を切ってこられた。黒もじの
についてはこんな話 がある。・・・・・・・どの山で
あったろうか。
!
!
今西さんは、いつものように頂上でウイスキーのポケットびんを空けその後気持ちよく下
山していたのだそうだ。すると何かが後ろからしきりに今西さんを呼び 止める。で後ろ
を振り返るとそこに黒もじの木が今西さんの
さんの黒もじの
にして欲しそうに立っていた。それが今西
だ。・・・・・今西先生はその黒もじ の
を愛用し、四元先生と会う
時もいつも持っておられた。四元先生はそれを懇望されたのだそうだが、今西先生はそれ
だけは絶対に手放されなかった。どんな 大事な人でもそりゃあ手放せないだろう。薬師
寺さんはそれを知っておられ四元先生のために切ってこられたと言う訳だ。薬師寺さんの
四元先生に寄せる深い敬 愛の情を感じる。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
その話しを想い出しながら私が思うのは、「今西錦司の黒もじの
」つまり直感につい
てだ。今西錦司さんは、直感力について「山に登ると、目、耳、鼻など 五感が鋭くな
る。山という別世界、いわば非日常の世界に入ったとき、人間は日常生活では緊張してな
い部分が緊張し、その世界で働かなければならないように 五感が働いてくれるものだ。
今、日本ならずアメリカ辺りでも座禅やヨガが流行しているが、これも非日常の世界に触
れて自分の体と心を研ぎ澄ますという意味 で、山の世界に通じるところがあると思う。」
こう言っておられる。私も、山のお蔭だろう、割に直感が働く方かも知れない。写真を取
るとか、植物採取をする とか、バードウオッチングをするのもいいとは思うけれど、とも
かく五感全体を働かし身体全体で自然を感じるという行き方のほうが私は好きだ。そんな
山登り が好きなのだ。これからもせっせと奥秩父の山に登ってせいぜい五感を磨きたい
と思っている。
!
!
その話しを想い出しながら私が思うのは、「今西錦司の黒もじの 」つまり直感につい
てだ。今西錦司さんは、直感力について「山に登ると、目、耳、鼻など 五感が鋭くな
る。山という別世界、いわば非日常の世界に入ったとき、人間は日常生活では緊張してな
い部分が緊張し、その世界で働かなければならないように 五感が働いてくれるものだ。
今、日本ならずアメリカ辺りでも座禅やヨガが流行しているが、これも非日常の世界に触
れて自分の体と心を研ぎ澄ますという意味 で、山の世界に通じるところがあると思う。」
こう言っておられる。私も、山のお蔭だろう、割に直感が働く方かも知れない。写真を取
るとか、植物採取をする とか、バードウオッチングをするのもいいとは思うけれど、と
もかく五感全体を働かし身体全体で自然を感じるという行き方のほうが私は好きだ。そん
な山登り が好きなのだ。これからもせっせと奥秩父の山に登ってせいぜい五感を磨きた
いと思っている。
!
五感を磨く事のできる「身体と脳の学習プログラム」というのが、子供の教育を考える
場合の基本であると思う。
!
かって、養老孟司(ようろうたけし)の「バカの壁」(2003年4月、新潮社)とい
う本がベストセラーになったことがある。彼は、かって永く東大の解剖学の 教授をしてい
て、まあいうなれば脳の専門家である。「唯脳論」などという本も書いているのだが、彼
のいうことには吃驚することが多く、目からウロコが落ち るようなことが多い。「バカ
の壁」もそうだ。例えば、『 現状は、NHKの「公平、客観、中立」に代表されるよう
に、あちこちで一神教が進んでいる。それが正 しいかのような風潮が中心になっている状
況は非常に心配です。安易に「わかる」、「話せばわかる」、「絶対の真理がある」など
と思ってしまう姿勢、そこか ら一元論に落ちていくのは、すぐです。一元論にはまれば、
強固な壁の中に住むことになります。それは一見、楽なことです。しかし向こう側のこと、
自分と違 う立場のことは見えなくなる。当然、話は通じなくなるのです。』・・・・など
と言われると、もう吃驚してしまう。しかし、養老孟司の言うことは真実である と思う。
科学的であると思う。
さて、 神話を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。宮沢賢治の童話や草野
心平の詩を語るには「場所の持つリズム性」が重要である。私たちは、そういう 「場所
の持つリズム性」に着目すべきであって、子供や若者はそういう「場所」の発するリズム
に耳を傾けなければならないのである。「場所」の発するリズ ム、それは風土の発する
リズムということかもしれないが、そういうリズムに耳を傾けることによって具体性の世
界と深く結び付いた感性というものが養われる のである。そのために「山地拠点構想」
を提唱したいと思っているのだが、ここではその補強として養老孟司の身体論を紹介して
おきたい。
養老孟司は、その著「バカの壁」の中で「身体」について極めて重要なことをいってい
る。人間は「身体」を通じていろんなことを学習していく。学習 というと「脳」の問題だ
と思われがちであるが、そうではなくて、「身体」を通じて学習する部分というのが非常
に大きい、というのが養老孟司の認識の基本で ある。これは、西田幾多郎の「場所の論
理」や中村雄二郎の「リズム論」と同じ認識である。「戦後、我々が考えなくなったこと
の一つが<身体>の問題で す。」と養老孟司は鋭く指摘しているが、確かに戦後の日本に
は身体をあまり動かさない頭でっかちの・・・まあいうなれば不健全な人間が増えてしまっ
たよう だ。不健全な人間が多くなれば国家自体も健全であるはずがない。国家が健全で
なければいよいよ不健全な人間が増えていくという・・・・悪循環に陥ってしま う。それ
を正すには、やはり原点の問題、つまり「身体」の問題に戻ることだ。養老孟司は次のよ
うに言っている。すなわち、
『 江戸時代には、朱子学のあと、陽明学が主流となった。陽明学というのは何かといえ
ば、「知行合一(ちこうごういつ)。すなわち、知ることと行な うことが一致すべきだ、
という考えです。しかし、これは「知ったことが出力されないと意味がない」という意味
だと思います。これが「文武両道」の本当の意 味ではないか。文と武という別のものが並
列していて、両方に習熟すべし、ということではない。両方がぐるぐる回らなくては意味
がない、学んだことと行動と が互いに影響しあわなくてはいけない、ということだと思
います。
!
赤ん坊でいえば、ハイハイを始めるところから学習のプログラムが動き始める。ハイハ
イをして動くと視覚入力が変わってくる。それによって自分の反 応=出力も変わる。ハイ
ハイで机の脚にぶつかりそうになり、避けることを憶える。または動くと視界が広がるこ
とがわかる。これをくり返していくことが学習 です。
この入出力の経験を積んでいくことが言葉を憶えるところに繋がってくる。そして次第
にその入出力を脳の中でのみ回すことができるようになる。脳の中でのみの抽象的思考の
代表が数学や哲学です。
赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積
んでいく。しかし、ある程度大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてし
まう。これは非常に不健康な状態だと思います。
仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。限定化す
るということはコンピュータならば一つのプログラムだけをくり 返しているようなもので
!
す。健康な状態というのは、プログラムの編成替えをして常に様々な入出力をしているこ
となのかもしれません。
私自身、東京大学に勤務している間とその後では、辞める前が前世だったんじゃないか、
というくらいに見える世界が変わった。結構、大学に批判的な 意見を在職中から自由に
言っていたつもりでしたが、それでも辞めてみると、いかに自分が制限されていたかがよ
くわかった。この制限は外れてみないとわから ない。それこそが無意識というものです。
「旅の恥はかきすて」とは、日常の共同体から外れてみたら、いかに普段の制限がうる
さいものだったかわかった、ということを指している。身体を動かすことはそのまま新し
い世界を知ることに繋がるわけです。』・・・と。
そうなのだ。身体を動かすことはそのまま新しい世界を知ることだ。私たちは、新しい
世界を知るためには、ともかく身体を動かすことを考えねばなら ない。本を読んだりテ
レビを見ることも必要だけれど、私たちはもっと身体を動かすことを考えなければならな
い。そう考えれば、私たちの学習プログラムは無 限にある。私たちは、養老孟司が言う
ように、「身体と脳の学習プログラム」をいろいろとつくり出さなければならない。それ
がこれからの教育の基本だ。私たちは、「場所のもつリズム性」に 着目して、さまざまな
舞台装置をつくっていかなければならない。私たちは、「場所のもつリズム性」に着目し
て、さまざまな仕掛けをしていかなければならな いのだ。それが「山地拠点構想」だ。新
しい川づくりだ。新しい森づくりだ。新しい村づくりだ。いろんな人たちの出合いの場づ
くりだ。それがこの本のねらいである。
私は京都大学の山岳部に入って最初に京都の大原にある金比羅という岩場で岩登りの手ほ
どきを受けた。 http://4travel.jp/traveler/aoitomo/album/10718677/
!
その後いろんな岩場で岩登りの訓練を受けた。その中で、兵庫県のどこであったかその場
所を思い出せないが、川に面した岩場だった。夜はその対岸の河原に寝っころがってヴィ
バーク(野宿)をした。私たちは、テントがなくとも、大きなビニールシートがあれば寝
袋一つでビバークができる。天候の如何に関わらず・・・だ。天気のいい日は、夜空を見
ながら寝るのは実に楽しい。そのときのことである。私たちは蛍が乱舞するのを見た。見
たのだ。その後私はいろんなところで、蛍を鑑賞したが、あの河原で見た蛍の乱舞ほど見
事なものを見たことがない。今もなおあのときに風景が目にこびりついて離れない。
そこで私は考えるのだが、里を流れる川の河原をベースにして子供たちのための「身体と
脳の学習プログラム」を作りたいということと、できれば蛍の乱舞するような水環境を取
り戻したいということだ。
!
さて、「奥」とか「穴」とか「洞窟」というのは、ひとつの「シニフィエ」であって、自
然の霊力を感じることのできる特殊な空間である。そこでは、南無妙法蓮華経を唱えても
良いし、自分の好きな真言を唱えても良い。私の言う「エイトス・アンドロ・ポイダイモー
ン」という呪文でも良い。そうすることによって、その空間には自然の霊力が満ちてくる。
だいたい仏間はそう空間になっているし、神社仏閣はそういう空間のことだ。宗教とはまっ
たく離れて、住居の中にあって良いし、オフィスビルの中にあっても良い。そこで私は、
その考えを延長して、地域構造を構想したい。上記のようなイメージの里の川の河原はそ
ういう場所になりうる。
!
浄土の思想は、 円仁(慈覚大師)から始まり、元三大師、源信でほぼ完成・・・・・、
法然、親鸞へと繋がっていく。一般的には、極楽といえば、法然の浄土宗や親鸞の浄土真
宗を頭に浮かべるが、その源流をたどれば源信の「往生要集」にいく。宗教に関心をもつ
人であ れば源信を知らない人はないであろう。紫式部も源信の影響を受け、世界の名著・
源氏物語は源信の思想を背景にして出来上がったと言って過言ではない。源信は誠に偉大
な人である。しかし、実をいうと、浄土教えの源流をたどっていくとあの・・・・「円仁
(慈覚大師)」にいくのである。
!
比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)の・・・・
常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方
の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念
じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏
として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々
を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱え
て、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿
弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も伝えられる
ようになった。
この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が
源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。源信と恵心院
については、次のような私のホームページがあるので是非ご覧下さい。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
!
修行僧に必要なのは読経(どきょう)であるが、私たち一般の人間には、そういう宗教的
生活はおおよそ無縁である。しかし、日常の生活空間に「奥」の空間があれば、自然との
響き合い、「山の霊魂」との響き合い、神や仏との響き合いができる。
!
上述のように、「奥」の空間というのは、ひとつの「シニフィエ」であって、自然の霊力
を感じることのできる特殊な空間である。そういう空間は、顕微鏡の中にもある。顕微鏡
で生物の細胞の動きなどを観察していると、生命の不思議を感じ、自然の摩訶不思議なと
ころにある種の感動を覚えることがある。自然の不思議を感じること、それは「身体と脳
の学習プログラム」の根本的要素である。上述したようなイメージの里の川の河原は、
「身体と脳の学習プログラム」実施のひとつのフィ−ルドであろう。私がそういったこと
を自信をもって言えるのも山の体験のお蔭である。
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
!
第6節 町田 宗鳳の語る「山の魅力」
私たちは、特別な知識がなくても、一般的に、山に入れば深い感動を覚える。しかし、
「山の神」の存在に注目すれば、全国各地の「山の神」を通じて、その地域の山の魅力を
より深く感じることができる。町田 宗鳳は、その著書「山の霊力」(2003年2月、
講談社)で一般的な「山の魅力」について語ると同時に、地域の祭りや風俗と「山の神」
との関係を語っている。その他、特殊な山として、「験を修める山」と「魂が蘇る山」に
ついて語っているが、前者の修験道の山である出羽三山、比叡山、愛宕山、大峰山、山上
が岳、そして後者の山である御岳山、高野山、立山、恐山、白山、剣山、石鎚山、屋久島
については、まあ特別な山であり、書かれた書籍も多い。したがって、ここでは、町田
宗鳳の語る一般的な「山の魅力」と山の魅力と「山の神」との関係を紹介することとした
い。
(1)一般的な「山の魅力」
1、日本の山は、個性が豊かである。北海道から沖縄まで日本列島の風土は非常に変化に
富むが、それと同じように全国に散らばる山々の姿も、地域によって大きく異なる。ほと
んど一年中、雪をかぶっている険峻な山もあれば、今も噴煙を吐き出している活火山もあ
る。雄々しき岩壁を天にそそり立たせる山もあれば、女体を思わせるような柔らかく優し
い山もある。だから、山に登って飽きるということがない。私も世界各地を旅してきた人
間の一人だが、これほど山容の豊かな風土を持つ国も珍しい。いわゆる「日本百名山」と
呼ばれる山々をひとつひとつ丹念に登っている人びとが多いのも、むべなるかなである。
しかも、それらの山が人びとの暮らす都会から、けっしてかけ離れた距離に存在する訳で
なく、その気になりさえすれば、ありがたいことにいつでも訪れることができる。外国の
高い山が、ベースキャンプに到達するまで、何日も歩き続けなくてはならないところにあっ
たりするのと比べて、日本の山々は人間の生活空間と隔絶した場所にある訳ではない。人
間界とつかず離れず、ちょうどいい具合の場所に堂々と横たわっている。
2、日本はどこに行っても、里人たちは祠(ほこら)を建てて山の神を祀り、それを中心
として、さまざまな祭典を営むだけでなく、山を精神的鍛錬の場とする習俗を伝えている。
登山そのものを教義の中心にすえている宗教というのは、世界広しといえども、日本の修
験道ぐらいのものである。おまけに山にまつわる伝承文学となれば、これは日本の独壇場
に近い。もちろん外国にも山に関連する物語は多々あるが、日本人ほど山という空間に対
して想像をたくましくし、盛りたくさんの説話を世代から世代へと語り継いできた民族も
少ない。物語の世界で山姥(やまんば)、雪女、山男、山童(やまわらわ)、河童、ひと
つ目小僧、鬼、天狗、仙人など、さしもの深山幽谷も多彩な住民でひしめきあっている。
最近、日本の山を埋め尽くしている宗教色抜きのハイカーでさえ、山の頂上に至れば、ご
来光を拝んだり、そこにある祠に手を合わせたりしている。
3、山の風景は美しい。アルプスやヒマラヤのように純白の雪をかぶって、神々しく天を
突く山の姿は、おのずと人間の崇高な感情を抱かしめる。神に出会ったときの敬虔感情も、
かくなるやと思わしめるものがある。いや、そのような容易に人をよせつけることのない
孤高の山との出会いは、崇高な感情、といったよそよそしいものではなく、全身がわなわ
なと震えるような強烈な肉体感覚をともなった、一種の宗教的体験と言った方がよいかも
しれない。そんな山の不思議な魅力に取り憑かれて、どれほど多くの人間が山で命を失っ
ていったであろう。また、そんなに聳え立つほどの高さがなくとも、日本ならどこにでも
ある里山のように、その瑞々しい緑に覆われた穏やかな山並みに、魂が揺さぶられるよう
な深い郷愁を覚えた経験は、誰にでもある筈だ。低くて小さい丘のような山でも、妙に存
在感のある山もある。
兎追いしかの山、
小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷。
!
如何にいます、父母
恙(つつが)なしや、友がき、
雨に風につけても、
思いいずる故郷。
!
こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん、
山はあおき故郷、
水は清き故郷。
!
今やこの文部省唱歌をいつでも歌えるというのは、中高年層に限られるようになったのだ
ろうか。それにしても日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ね合
わせ、自分の深層心理に不思議な精神空間を構築し、そこにはえも言われぬノスタルジア
を覚えてきたのである。特に日本人の場合、たとえ都会の中で、日々、多忙な生活を送っ
ていたとしても、いつか暇ができれば、山間のひなびた温泉に出かけて、のんびりと清流
でも眺めながら、湯に浸かってみたいという思いを心の片隅に秘めている人が、年齢層に
かかわらず多い。若い女性向けの月刊誌でさえも、しばしば温泉つきの山宿特集を組んで
いる。そのように、どこか日本人には子が母を求めるように、山を懐かしむ心情がそなわっ
ているようだ。
4、日本中の山々が、年中あまり色彩的変化のない針葉樹林に覆われるよおうになったの
は、ここ100年ぐらいのことである。植林されたことのない山は、劇的にカラフルであっ
た。春から夏にかけて、その緑は日増しに濃くなっていく。まるで赤ん坊の細かくて柔ら
かい髪が、大人の太くて硬い髪に変わっていくようだ。秋がやってくると、その毛皮の緑
色が、誰の仕業なのかいきなり燃え立つような赤や黄色に変わってしまう。紅葉は細胞内
の葉緑素が分解しておきる現象などという無粋な科学的知識を持ち合わせなかった古代人
は、その音楽的といえる色彩の変化に身体全体で感動していたのかもしれない。(中略)
山は生きている。きっと生きている。古代人はそう感じていたにちがいない。いや色彩だ
けではない。山はいくつも自分の声を持っている。春風のそよぎは楽しい山の笑い声、走
り抜ける木枯らしは山の悲しみを伝えるため息、猛り狂う吹雪は山の咆哮(ほうこう)。
その声を聞いているだけでも、山が感情を持っている激しい生き物であることを古代人誰
も疑わなかったのではないか。おまけに山は動く。雨の中では遠く霞んで見えた山も、雨
上がりには手の届くほど近くに寄ってくる。いつの間に動いたのであろうか、恐ろしく速
足(はやあし)である。
5、宮沢賢治が、山の頂(いただき)に小さな太陽が浮かんだ「日輪と山」という不思議
な水彩画を残している。山の端(は)に太陽が昇り、そして沈むのを麓から眺めた、あの
構図こそ古代日本人が山に抱いてきた宗教感情を如実に表現しているような気がする。太
陽は山の懐から現れ、山の懐に隠れてゆく。山と太陽は同じ「いのち」を分かち合ってい
るのだ。種山(たねやま)が原や岩手山は賢治の「物質的想像力」の供給源となっていた
と思われるが、彼の四次元的世界では山と太陽が親子のように結ばれていたのだろう。
!
!
!
!
!
!
!
宮沢賢治の「日輪と山」
!
6、たとえどんなに穏やかな姿をしている山であっても、もしそこに日没後、ただ一人残
されるようなことがあれば、人はとたんに、山がそれまで決して見せることのなかった不
気味な魔性に包まれて、思わず震え上がるであろう。漆黒の闇の中、どこからくるともわ
からない不気味な物音に起こされると、動物の目か、はたまた妖怪の目か、ギラギラと鈍
く光って、こちらを睨んでいる。いかに腹の据わった人間でも、思わず鳥肌の立つ思いを
するのが、夜の山である。私はむしろ、そのような山が秘める得体の知れない不気味さこ
そ、山の本質があるのではないかと考えている。
!
(2)「山の神」との関係
1、いつ龍神が日本の山々に飛来したか、その答えを知っているのは、豊かな水の恵みを
必要とする稲作農耕をはじめた人々である。(中略)山の神の進化は、オロチから龍神へ
の変身にとどまらない。たとえば、柳田国雄は、「民俗学事典」に、サルやオオカミが山
の神、あるいはその使者であると記しているが、(中略)やがてはクマ、シカ、ウサギ、
イノシシ、タヌキ、イタチなども、山の神の姿として理解されるようになった。
2、「山の神」(言叢社)は、ネリー・ナウマンというドイツの民俗学者が、1960年
代に大量の資料を集めながら著した貴重な民俗誌である。その中で、愛知県北設楽郡の慣
習が紹介されているが、地元の人たちはイノシシが泥浴びをする場所であるノバタを、山
の神のいますところとして神聖視したそうである。
!
3、新潟県中頸城郡春日村(現上越市)では、「狼送り」という風習があった。
!
4、荒々しい山の神を自分たちの側に引き寄せたのは誰かといえば、猟師、木こり、炭焼
き、木地師、タタラ師、石工、杜氏などの山麓に居住し、自分の生業に山との直接的な関
わりを持つ山の民たちである。つまり彼らは、狩人の神、木こりの神、木地師の神、炭焼
きの神、タタラの神などの職能神として山の神を拝むことになったのである。
!
5、稲作農業が定着するようになると、こんどは農民たちは山の神を田の神として変身さ
せ、平地に立派な神社を建て、今日の神道に繋がる道筋を開いたことになる。この山の神
が田の神に変身していくプロセスをビジュアルに見せてくれる山のひとつが、秋田県の田
代岳(1178m)である。
!
6、網野喜彦が指摘しているように、いわゆる百姓という言葉は、けっして農民と同義で
はなく、そこには漁師や回船業など、さまざまな生業を持った非農業民も含まれている。
集落が拡大するにつれ、行商、店子(たなこ)、大工、職工など数限りない専門的職業が
発生したのであり、それはとりおなおさず、地上に存在する職業の数だけ、職能神が増え
たことを意味する。そして遂に八百万(やおよろず)の神々といわれるまでに、日本人は
多種多様の神を崇めるに至った訳でだが、それらの神々が最初に出会ったのが、山という
神話的空間にほかならなかった。
!
7、弥生時代になると、コメを育てることに命をかけていた農民にとって、水の確保と太
陽の動きが何よりも大きな関心事であった。そこに水分(みくまり)信仰と太陽信仰を二
本立てと山岳観が発生することになった。平地に定住することになった彼らは、自分たち
のムラからあまり遠くないところにあるいちばん高い山を、水と太陽の光をもたらしてく
れる神々の住処(すみか)と定め、それを遥拝(ようはい)した。
!
8、漁師がなぜ山とのかかわりあいをもったのであろうか。そんな疑問を抱いたのは、那
智大社のすぐ隣にある青岸渡寺(せいがんどじ)に、立派な大漁旗が奉納されているのを
見たときである。
!
9、実は海に生きる人びとも、山と海とが有機的に結びついてることを経験則から知って
いたのである。(中略)山の体液ともいえる川が、広葉樹林で培養された栄養素を海へと
運び、近海に豊かな魚介類を呼び寄せる訳だ。
!
10、また海に出た漁師が、山の頂や、山腹に突き出る巨岩などをたよりに、航行距離や
方向をさだめる習慣を持っていたことも、海と山を一体化した信仰が生まれる原因のひと
つとなった。(中略)熊野3600峰のヘソにあたる位置に玉置(たまき)神社がある
が、そこにも大漁旗が奉納されている。この神社には、今でも神代杉などの古木が鬱蒼と
茂っており、本州に残る秘境のひつと言って良いかもしれない。しかし、玉置山は、その
頂上から天気の良い日だけ、熊野灘がかろじて見えるほど、海から離れている。それでも
熊野の漁民たちは、玉置山をおのが霊山として拝んだのである。(中略)平安時代から皇
族や公家が足しげく参詣した熊野三山も、もともとは山の民が崇めた山の神、海の民が崇
めた海の神、農民が崇めた田のが出会い、時には争い、時には妥協し、やがて一つの合体
神として祀られるようになった長い歴史があると受け止めるべきであろう。
!
11、神の山地から平地への下降、山の神から田の神への移行の過程で登場したのが、マ
レビト信仰である。マレビトは年に一度、人里に出現するが、そのとき秋田のナマハゲの
ようにいかにもグロテスクな姿をして現れるのは、それが古代社会の動物神の名残を留め
ているからである。それは、人間の前に現れるカムイが、必ずクマというハヨクペ(仮装)
を必要としているとされるアイヌの信仰と同じものである。沖縄諸島には来方神としての
アカマタ・クロマタを迎える儀式が伝わっている。
!
12、日本に現存する祭りの大半は、稲作農耕民による田の神にまつわるものであると考
えて良いが、その中にも注意深く観察していけば、田の神以前の祭祀の要素が残っている
ものが、結構多い。その一つが、どこの神社の祭りにも見られる神輿かつぎである。初期
の田の神は、おとなしく社(やしろ)に鎮座する神ではなかった。早春に山から麓に下り
てきて、里人のために稲の生育と収穫を見守り、晩秋になって用が済めば、ふたたび「見
るなの座敷」である山の懐深くに潜む。山から平地、平地から山へ旅するからこそ、マレ
ビトである神は霊験を持つのであり、山という秘密の聖空間から切り離されるわけにはい
かなかった。神は年に一度、わが故郷に旅することによって、その霊験をあらたかなもの
にすることができるのである。(中略)現代の祭りでも、神輿が本社からお旅所まで担が
れていくのは、明らかに「旅する神」の名残であり、お旅所は神々の原郷である山、ある
いはそこに設けられていた山宮に相当するのである。
!
13、神輿の移動だけでなく、金田一京助が紹介している山里の祭りにも、山の神と田の
神とかかわりが明白にうかがえる。それは金田一の故郷である岩手県盛岡市郊外の「春田
打(はつたうち)」という田の舞である。若い女性の面をかぶった男性が、田植えから稲
刈りまでの所作を舞ってみせるのだが、土壇場になって醜悪な面にかぶり替え、舞を終え
るという。それについて、金田一は次のようにコメントしている。「この最後の瞬間の醜
い女の面こそは、私の地方の山の神で、つまり半年の田の仕事が済むと、若い美しい里の
神が、山へ上がって、あの山の神になるという舞の意味であった。春から夏にかけての、
生育の季節の神が若い女の神で、秋から冬へかけて山仕事になる季節の神が、年上のこの
意地悪い醜い顔した山の神なのである。
!
14、サルタヒコが、天つ神として降臨してくるニニギノミコトの道案内をするというス
トーリーは、国つ神と天つ神との間に講話が成立していることを、神話の読者に印象づけ
るために作られたのではないか。明治維新の後、国家権力が神道を政治化してしまったこ
とによる大きな過ちは、本来、山岳おはじめとする自然との深いかかわりの中で有機的な
性格を帯びていた国つ神の存在意義を否定し、神ながらの道を天つ神の独壇場としてしまっ
たことである。そのため、古代から連綿と続いてきた神々の細胞分裂が完全に停止し、国
家と天皇のみに集約される無機的な神々のイメージが、日本神道に定着することとなった。
そのように考えれば、「神は死んだ」というニーチェの言葉を借りてきて、明治から終戦
までの国家神道台頭の時期に当てはめて良いのかもしれない。粘菌の研究で世界に名を馳
せた啓蒙的なエコロジスト南方熊楠が、政府による神社合祀政策に猛烈に反対したのは、
その結果、鎮守の森の生態系が破壊されることを恐れたからだとされているが、ほんとう
は天つ神と国つ神の間に存在していた絶妙のバランスが壊れてしまうことを、直感的に理
解したからではなかろうか。
!
15、大和族と出雲族の間に、一種の平和協定が成立し、それぞれ面目を保ちながら割拠
したとしても、すべての先住民が新興の国家権力に対して帰順を示した訳ではない。人跡
未踏の山間部に逃げ込んだ弱小部族は、その後どうなのであろうか。まつろわぬ人びとは、
国つ神になりそこねて、鬼になったのである。日本人が抱いている鬼のイメージは、
頭に角を持った赤鬼青鬼であるが、あれは土着の民の不覊(ふき)の精神、あるいは反逆
性を誇張したものかもしれない。鬼といえば、丹波大江山が有名であるが、この山の鬼も
山城の土地から追放されてしまった先住民の難民化した姿であろう。(中略)特に東北地
方に鬼伝説が多いことも、近畿地方から見れば僻地である東北の山々は大和朝廷の影響が
及びにくく、蝦夷(えみし)と呼ばれる先住民が分散して生き残っていたからである。(中
略)内藤正敏氏の「鬼の風景」という論文に、津軽富士として有名な岩木山(1625m)
の鬼伝説が紹介されている。江戸時代に全国を旅していた菅江真澄(すがえますみ)の「外
浜奇勝(そとがはまきしょう)」にも、岩木山の鬼のことがふれられている。(中略)岩
木山はガスが発生しやすく、頂上が見えることがまれであるから、鬼伝説誕生の地として、
いかにも似つかわしい。
!
16、いわゆる国見山というのは、権力者が登り、そこから見渡す限りの土地を自分の国
と見定め、国誉めの言葉を称えるなどの宗教的儀礼を行った霊山のことである。
!
17、天つ神を迎える霊的空間である猟んな神奈備山は、その歴史をめぐって神話の果た
す役割が非常に大きいことが特徴であり、エリアーデの考えを借りれば、天・地・人を繋
ぐ「宇宙軸」なのである。日本を代表する神奈備山となれば、純白の冠をかぶった富士山
をおいてないだろう。この山は高さだけでなく、日本一秀麗な姿を持つ山でもあり、葛飾
北斎から梅原龍三郎まで、富士山は日本絵画史の中でもっとも頻度の高い画題のひとつと
なってきた。(中略)日本中にある霊山は、いずれも神々の臨在を人びとに強く感じさせ
る霊的な場所と考えて良いが、富士山はその代表格である。神の「いのち」を目の当たり
にする神秘的空間として、浮き世暮らしをする麓の人間が、今も昔も不思議な思いで仰ぎ
見てきたわけである。(中略)実は富士山が生ける神のごとく、人びとの尊崇の対象となっ
てきた背景には、それが最近まで活火山であったという事実がある。富士山が休火山にな
りすまし、人間の接近を許すようになったのは、比較的最近のことである。有史以来、1
8回も噴火を繰り返し、平生でも空高く噴煙を上げ続けて富士山に対して、日本人が冒し
がたい畏怖の念を抱いていた時間の方がはるかに長いのである。(中略)富士山は不死山
にも通じるが、人びとがこの山に抱く感情の深層には、不老長寿への本能的ともいえる願
望が込められているのである。いつも変わらずその毅然とした姿を仰ぐ者は、そこに神の
無限生命を感じ取ってきたにちがいない。(中略)それにしても富士山頂からご来光を一
目見ようと、蟻の行列のごとく夜を徹して懸命に登ってくる老若男女を見ていると、この
山の存在が日本人の深層心理にどれだけ大きな刻印を押してきたか、改めて思い知らされ
るのである。
!
!
以上、町田 宗鳳の考えている「山の魅力」を紹介したが、その中で、宮沢賢治の「日輪
と山」という絵を紹介した。この「日輪と山」という絵は、古代から連綿と続いてきた「日
輪観」を表したひとつのシニフィエである。日本人の「日輪観」のシニフィエについては、
かの有名な「山越阿弥陀図」というのがある。
「山越阿弥陀図」についてはかってそのホームページを作ったことがある。 2005年7
月3日、多摩美術大学で川本喜八郎の人形アニメーション映画「死者の書」の試写会があ
り、それに感動して作ったのである。「死者の書」は、折口信夫の書いた小説であるが、
松岡正剛をして「この作品が日本の近代文学史上の最高成果に値する位置に輝いているこ
!
!
とを言わねばならない。この一作だけをもってしても折口の名は永遠であってよい。」と
言わしめている。私にはそこまで言う知見がないけれど、立派な小説であることは判る。
この折口信夫の「死者の書」に関連して、「山越阿弥陀図」については後で詳しく解説す
るが、まず川本喜八郎の人形アニメーション映画「死者の書」の試写会に関連する私のホー
ムページを見ていただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/yamagosi.pdf
!
私のホームページには、代表的な三つの「山越阿弥陀図」を紹介したが、その他にも多く
の「山越阿弥陀図」がある。問題は、「山越阿弥陀図」というものが何を意味するシニフィ
エなのかということだ。実は、折口信夫が「山越しの阿弥陀像の画因」という「山越阿弥
陀図」の何に感動して「死者の書」という小説を書いたか、その動機とも言える「山越阿
弥陀図」の解説をしているのである。原文は次の通りであるが、少々長いので、要点を以
下に解説しておきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/oriyamago.pdf
!
「山越阿弥陀図」というのは、宮沢賢治に「日輪と山」と同じように日本人の「日輪観」
を暗喩するシニフィエであると同時に、日本人の「死生観」と「浄土観」を暗喩するシニ
フィエでもある。
まず日本人の「死生観」について述べよう。日本人の「死生観」は、日本人の「霊魂観」
と言って良い。日本人は人間の魂(たましい)は蘇るものだと考えてきた。最近は、間違っ
た科学的知識に毒されて、魂が蘇るなんてことは迷信であると考えている人が多い。しか
し、「霊魂」というものは実際に存在するし、プラトンが言うように不死なのである。こ
のことについて私は「霊魂の哲学と科学」という電子書籍を出版しているので、それを是
非読んでいただきたいが、古来、日本人の感覚としては、「霊魂」は蘇るのである。
京都の大文字焼きというのがあるが、あれは正式には「五山送り火」という。 園祭とと
もに京都の夏を代表する風物詩の一つである。この送り火としては東山如意ケ嶽の「大文
字」がもっともよく知られ、それゆえ送り火の代名詞のごとくいわれているが、そのほか
に金閣寺大北山(大文字山) の「左大文字」、松ヶ崎西山(万灯籠山)・東山(大黒天
山)の「妙法」、西賀茂船山の「船形」、及び嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」があり、これら
が、同夜相前 後して点火され、これを五山送り火とよんでいる。
!
!
大文字に代表される送り火の起源についてそれぞれ俗説はあるものの不思議と確実なこ
とはわかっていない。まず、送り火そのものは、ふたたび冥府にかえる精霊を送るという
意味をもつ宗教的行事であるが、これが一般庶民も含めた年中行事として定着するように
なるのは室町から江戸時代以後のことであるといわれている。古くは旧暦7月16日の夜、
松明の火を空に投げ上げて虚空を行く霊を見送るという風習を記した史料 がある。これ
に対して現在の五山の送り火は山において点火されるという精霊送りの形態をとっている。
!
!
なお、京都には、祇園の近くに「六道の辻」というところがある。御盆には、地元では
「六道はん」といっているが、六道詣りという精霊迎えの行事が行なわれている。これは
他に例を見ない京都らしいお盆の行事であるので、この際、紹介してきたい。随分昔に作っ
たホームページであるので、写真も悪いし、リンクの切れているのもある。その点、お許
しいただきたい。「六道詣り」の雰囲気ぐらいは感じていただけるのではないかと思う。
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/6doutuji.html
!
!
お盆には先祖の「霊魂」は家に帰ってきて、家族に供養されて、ふたたび天空に帰って行
くのである。お盆の供養というものはそういうものである。そんな迷信はごめんだという
人は、よほど依怙地な人で、京都では多くの人がお盆の供養をする。全国各地で精霊流し
が行われているけれど、これも先祖を家にお迎えして行うお盆の供養である。
!
日本人の「霊魂観」に関してもうひとつの霊を紹介しておきたい。それは山形の例である。
山形の風土論や景観論を考えるとき、欠かせないのが端山・深山だ。山脈に連なる山々で
里に近く、あまり高くもなく美しい山が端山と呼ばれ、里に住む人々に親しまれていた。
端山の奥にさらに高く聳えるのが深山である。この重なるように結び会う端山と深山の形
が山形に住む人々に篤い信仰心を育んできたのである。人間にとって死は最大の関心事で
ある。かつて端山の近くに住む里人も、死と死後の世界のことを葬送の中で想念したと思
う。里人が死ぬとその屍は端山の麓に葬った。肉体が腐敗する頃、その人の魂は肉体を離
れて美しい端山の頂きに登ると考えた。端山に登った霊は、残してきた子供や家族を山頂
からじっと見守って、三十三年のあいだ頂きに止まるという。そしてさらに高い深山に登
りそこから天のアノ世に行くと考えたという。天に昇った先祖の雲は、お正月にお彼岸に
お盆にと年に数回里に帰り家族と交じり、死者と生者は永遠に関わり語り続けると考える
のである。それは、死はすべての終りではなく、コノ世のひとつの終りであるという。こ
れは人生最大の苦である死を越える人間の叡智であると思う。端山・深山信仰の名残は県
内各地にある。米沢地方の「羽山と吾妻山」、長井地方の「葉山と朝日岳」、上山地方の
「葉山と蔵王山」、村山地方の「葉山と月山」、庄内地方のでは「羽黒山と月山」「葉山
と麻耶山」などである。
山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。このような精神世
界こそ日本人の心の原風景でもあって、全国に共通する日本人の「霊魂観」を表している。
!
!
では次に、日本人の「浄土観」について解説したい。浄土思想については、先に述べたの
でだぶるけれど再掲してのち、その補足として町田 宗鳳の説明を付け加えることとしたい。
!
浄土の思想は、 円仁(慈覚大師)から始まり、元三大師、源信でほぼ完成・・・・・、
法然、親鸞へと繋がっていく。一般的には、極楽といえば、法然の浄土宗や親鸞の浄土真
宗を頭に浮かべるが、その源流をたどれば源信の「往生要集」にいく。宗教に関心をもつ
人であ れば源信を知らない人はないであろう。紫式部も源信の影響を受け、世界の名著・
源氏物語は源信の思想を背景にして出来上がったと言って過言ではない。源信は誠に偉大
な人である。しかし、実をいうと、浄土教えの源流をたどっていくとあの・・・・「円仁
(慈覚大師)」にいくのである。
!
比叡山の浄土教は、承和14年(847年)唐から帰国した円仁(えんにん)の・・・・
常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)に始まる。金色の阿弥陀仏像が安置され、四方
の壁には極楽浄土の光景が描かれていた。修行者は、口に念仏を唱え、心に阿弥陀仏を念
じ行道したのである。この念仏や読経(どきょう)は曲節をつけた音楽的なもので、伴奏
として笛が用いられたという。声美しい僧たちがかもしだす美的恍惚的な雰囲気は、人々
を極楽浄土への思慕をかりたてた。また、熱心な信仰者のなかには、阿弥陀の名号を唱え
て、正念の臨終を迎え、臨終時には紫雲(しうん)たなびき、音楽が聞こえ、極楽から阿
弥陀打つが25菩薩をひきいて来迎(らいこう)するという、噂(うわさ)も伝えられる
ようになった。
この比叡山は円仁によって始まった常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)の行道が
源信に引き継がれ極楽浄土の思想が「往生要集」として確立するのである。源信と恵心院
については、次のような私のホームページがあるので是非ご覧下さい。
!
!
http://www.kuniomi.gr.jp/togen/iwai/esin-in.html
さて、この源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田 宗鳳は次のように述べている。
!
1、慧心僧都(えしんそうず)の根本信念は、 称讃浄土仏摂受経(しょうじゅぎょう) か
ら来ていると思われるのである。此聖(ひじり)生れは、大和 上郡――北 城郡――当
麻村というが、委(くわ)しくは首邑(しゅゆう)当麻を離るること、東北二里弱の狐
井・五位堂のあたりであったらしい。ともかくも、日夕二上山(ふたかみやま)の姿を仰
ぐ程、頃合いな距離の土地で、成人したのは事実であった。
2、山越しの阿弥陀像の残るものは、新旧を数えれば、芸術上の逸品と見られるものだけ
でも、相当の数にはなるだろう。が、悉(ことごと)く所伝通り、凡(すべて)慧心僧都
以後の物ばかりである。
3、 山越し阿弥陀像は比叡の横川(よがわ)で、僧都自ら感得したものと伝えられてい
る。真作の存せぬ以上、この伝えも信じることはむつかしいが、まず凡 そう言う事のあ
りそうな前後の事情である。図は真作でなくとも、詩句は、尚僧都自身の心を思わせてい
るということは出来る。横川において感得した相好とす れば、三尊仏の背景に当るもの
は叡山東方の空であり、又琵琶の湖が予想せられているもの、と見てよいだろう。聖衆来
迎図以来背景の大和絵風な構想が、すべ てそう言う意図を持っているのだから。併し若
(も)し更に、慧心院真作の山越し図があり、又此が僧都作であったとすれば、こんなこ
とも謂(い)えぬか知らん。この山の端と、金色の三尊の後に当る空と、
とを想像せしめる背景は、実はそうではなかった。
(さざなみ)
4、慧心の代表作なる、高野山の廿五菩薩来迎図にしても、興福院(こんぶいん)の 来
迎図にしても、知恩院の阿弥陀十体像にしても、皆山から来向う迅雲に乗った姿ではない。
だから自ら、山は附随して来るであろうが、必しも、最初からの必 須条件でないといえ
る。其が山越し像を通過すると、知恩院の阿弥陀二十五菩薩来迎像の様な、写実風な山か
ら家へ降る迅雲の上に描かれる様になるのである。結局弥陀三尊図に、山の端をかき添え、
下体を隠して居る点が、特殊なのである。謂わば一抹の山の端線あるが故に、簡素乍らの
浄土変相図としての条件を、 持って来る訣なのである。即、日本式の弥陀浄土変として、
山越し像が成立したのである。ここに伝説の上に語られた慧心僧都の巨大性が見られるの
である。山越し像についての伝えは、前に述べた叡山側の説は、山中不二峰において感得
したものと言われているが、其に、疑念を持つことが出来る。
!
5、源信僧都が感得したと言うのは、其でよい。ただ叡山横川において想見したとの伝説
は伝説としての意味はあっても、もっと切実な画因を、外に持って居ると思われる。幼い
慧心院僧都が、毎日の夕焼けを見、又年に再大いに、之を瞻(み)た二上山の落日であ
る。今日も尚、高田の町から西に向って、当麻の村へ行くとすれば、日没の頃を択ぶがよ
い。日は両峰の間に俄(にわ)かに沈むが如くして、又更に浮きあがって来るのを見るで
あろう。
6、私の女主人公南家(なんけ)藤原郎女(いらつめ)の、幾度か見た二上山上の幻影は、
古人相共に見、又僧都一人の、之を具象せしめた古代の幻想であった。そうして又、仏教
以前から、我々祖先の間に持ち伝えられた日の光の凝り成して、更にはなばなと輝き出た
姿であったのだ、とも謂(い)われるのである。
!
ここに慧心僧都とか慧心院僧都とか源信僧都と折口信夫が書いているのは、源信(げんし
ん)のことである。源信(げんしん)は、慈覚大師の流れを む天台宗の高僧。浄土真宗
では、親鸞が選んだ七高僧(1龍樹、2天親、3曇鸞<どんらん>、4道綽<どうしゃく
>、5善導、6源信、7法然)の第六祖とされ、源信和尚、源信大師と尊称される。
天慶5年(942年)、大和国(現在の奈良県)北
城郡当麻[2]に生まれる。幼名は「千菊丸」。父は卜部正
親、母は清原氏。
天暦2年(948年)、7歳の時に父と死別。
天暦4年(950年)、信仰心の篤い母の影響により9歳で、比叡山中興の祖慈慧大師良源(通称、元三大
師)に入門し、止観業、遮那業を学ぶ。
天暦9年(955年)、得度。
天暦10年(956年)、15歳で『称讃浄土経』を講じ、村上天皇により法華八講の講師の一人に選ばれる。そ
して、下賜された褒美の品(布帛〈織物〉など)を故郷で暮らす母に送ったところ、母は源信を諌める和歌
を添えてその品物を送り返した。その諫言に従い、名利の道を捨てて、横川にある恵心院(現在の建物は、
坂本里坊にあった別当大師堂を移築再建)に隠棲し、念仏三昧の求道の道を選ぶ。母の諫言の和歌 - 「後の
世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ」
永観2年(984年)11月、師・良源が病におかされ、これを機に『往生要集』の
述に入る。永観3年(985
年)1月3日、良源は示寂。
寛和元年(985年)3月、『往生要集』脱稿する。
寛弘元年(1004年)、藤原道長が帰依し、権少僧都となる。
寛弘2年(1005年)、母の諫言の通り、名誉を好まず、わずか1年で権少僧都の位を辞退する。
長和3年(1014年)、『阿弥陀経略記』を
述。
寛仁元年6月10日(1017年7月6日)、76歳にて示寂。臨終にあたって阿弥陀如来像の手に結びつけた糸を手
にして、合掌しながら入滅した。
!
!
以上、源信と「山越阿弥陀図」との関係について町田宗鳳の見解を述べてきたが、私も
「山越阿弥陀図」は源信の創作に始まるものと思う。まず間違いなかろう。
!
さて、源信はどういう心情で「山越阿弥陀図」を書いたのだろう。その資料がないので、
想像するしかないが、私の想像するところを書いておきたい。
上述したように、 山形の優れた山々の景観は、県民の心に深く影響し精神世界を育てた。
このような精神世界こそ日本人の心の原風景でもあって、全国に共通する日本人の「霊魂
観」を表している。山こそ私たち日本人の心の故郷なのである。町田 宗鳳も「町田 宗鳳
は「日本人は実際の出身地とは無関係に、山と故郷のイメージを重ね合わせ、自分の深層
心理に不思議な精神空間を構築し、そこにはえも言われぬノスタルジアを覚えてきたので
ある。」と語っている。
さて、話はごろっと変わるが、弥盛地(いやしろち)の話である。「弥盛地(イヤシロ
チ)」についての一つの大事な現象、これをご理解いただくには「系統発生」のことを語
らねばならない。私たちがみんな生まれるときに経験する「系統発生」について、私の電
子書籍「女性礼賛」の第2章に詳しく書いてあるので、是非、熟読していただきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/onna02.pdf
!
この「系統発生」というのはまことに摩訶不思議な現象であり、シェルドレイクの「形態
形成場の仮説」を前提に波動というものを考慮しない限り、理解することはできない。そ
れと同じような波動現象が「弥盛地(イヤシロチ)」でも起こっている。この波動現象は
人間のみが感知しうるものであろう。
!
「弥盛地(イヤシロチ)」には二つの力が働いている。一つは山や川からやってきて人間
以外のものにも働く波動の力、もう一つは人間のみに働く波動の力、前者を「風水的現象」
と呼び、後者を「地域の系統発生」と呼ぼうと思う。これらの波動現象については、私の
説明を補強又は関係するものとして関英男の研究がある。関 英男は日本を代表する電気
工学者である。東京工大卒業後、東京工大・ハワイ大学・電気通信大学・千葉工業大学・
東海大学の教授を歴任したが、電波関係の著作も多く、電波工学の世界的権威として知ら
れている立派な科学者である。勲三等瑞宝章を受章。この方は日本サイ科学会を創設する
などサイ科学の研究・発展・啓蒙に努められたのである。私は関英男の提唱する「サイ科
学」に重大な関心を持っており、彼の最新の著書「生命と宇宙」(関英男、平成10年3
月、飛鳥新社)から、私の提唱する「祈りの科学」を補強又は関係の深い部分を紹介して
おきたい。
http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/sekihido.pdf
!
私は、 先に述べたように この世はすべて「波動の海」であるが、関英男は波動にも
「念波」と「天波」が二種類の波動があるという。そしてその「念波」に関連して、関英
男は私のいう「外なる神」を宇宙創造の神様と呼び、その「外なる神」が発する波動を「天
波」と呼んでいる。さらに、私たちに内在する「内なる神」が発する波動を「念波」と呼
んでいる。私がいう「外なる神」や「内なる神」については、電子書籍「祈りの科学シリー
ズ」(1)の「<100匹目の猿>が100匹」の第10章と 第13章を是非読んでも
らいたいと思うが、私の主張は「神に祈りを捧げれば、神はそれをかならず聞きとどけて
くれる。」というものである。しかし、関英男の主張はさらに先を行っていて、宇宙創造
の神には「意思」というものがある、というものである。私には、宇宙に意思があるかど
うかは判らないが、「内なる神」の発する波動と「外なる神」の発する波動との共振現象
があるのは間違いないと思う。さらに、それとは別個に「外なる神」の発する波動という
ものがあって、それが人間も含めてあらゆる生物と「響き合う」のである。前者は私が主
張する「地域の系統発生」の現象であり、後者は「弥盛地(イヤシロチ)」でも起こって
いる「風水的現象」である。
縄文遺跡というのは、「地域の系統発生」型のイヤシロチである。縄文遺跡に静かにたた
ずんで神に「祈り」を捧げれば、きっと縄文の声が聞こえてくるはずだ。山は縄文人の日々
の生活空間であった。男は狩猟に明け暮れ、女子供は山菜採りに明け暮れた。縄文人の魂
が今なお天空に存在するので、山に入って祈りを捧げれば、きっと縄文人と響き合うこと
ができる筈だ。かかる私の「地域の系統発生」ということからも、山は私たちの「魂の故
郷」であることは間違いない。源信は、比叡山において、きっとそういう「地域の系統発
生」を感じたに違いない。これが源信が「山越阿弥陀図」を書いたときのひとつの心情で
ある。
!
次に、山によって源信はなぜ浄土を思い浮かべたか、その「山の浄土性」について説明し
たいと思う。
ホワイトヘッドのプロセス哲学は、私のもっともなじみやすい哲学である。私たち日本の
「やおよろずの神」を説明し得る哲学はホワイトヘッドの哲学だけである。ホワイトヘッ
ドの哲学については、私の電子書籍「さまよえるニーチェの亡霊」の第4章に詳しく書い
たので、是非、それを読んでほしい。
ホワイトヘッドの哲学は、活動存在、エネルゲイア、抱握、永遠的対象という概念からな
りたっている。生成と変化という語は、従来同一の事態を指すものとして曖昧に扱われて
きたが、ホワイトヘッドは両者を明確に区別している。現実の存続物にはそれなりの本質
的な意味がある。しかし、その本質的な意味を生じせしめているのは、生成と消滅をくり
返す「活動的存在の世界」、つまり「量子の世界」である。すなわち、現実の存在の本質
は「生成と消滅」にある。そこで生じた本質的な意味を私たちは「橋」という変換機能に
よってはじめて「抱握」しうるのである。心や神は「活動的存在の世界」、つまり「量子
の世界」におわす。しかし、そのままでは私たちはそれを「抱握」できない。私たちは
「橋」という変換機能によってはじめて心や神の存在を「抱握」しうるのである。この文
脈ではざっくり言って「抱握」は「感じる」のことであると考えてもらっていい。
ホワイトヘッドの哲学については、次の素晴らしいホームページもあるので、これも是非
勉強してもらいたい。
http://www.geocities.jp/hakutoshu/index.htm
また、延原時行の著書「ホワイトヘッドと西田哲学の<あいだ>」(2001年3月、法
蔵館)もホワイトヘッドのプロセス哲学を勉強する良い教科書であると思うので、興味の
ある方は是非購読願いたい。
!
さて、東の山際からぬっと出てくる朝日は、生成を象徴している。だから、これを拝んで
一日の元気な活動を祈るのである。また、西の山際から静かに沈む夕日を見て、私たちは
安らかな眠りと明日の幸せを祈るのである。山の日輪は、生成と消滅を繰り返す永遠的存
在である。死と再生を象徴していると言って良い。私たちの魂は、死と再生を繰り返す永
遠的存在なのである。そのような心象を縄文人は持っていたし、源信も何となく感じてい
たのではなかろうか。
先程述べたように、山は私たち魂の故郷である。そして今述べたように、山の日輪は、死
と再生の象徴である。その二つが重ね合う時、そこに「浄土」の心象が形成される。これ
が私のいう「山の浄土性」である。極楽浄土は山のかなたにある。
!
!
折口信夫には、「死者の書」を書く前、たった一枚の「当麻曼陀羅」があっただけだ。中
将姫が蓮糸で編んだという伝承のある曼陀羅だ。折口信夫はこれを見つめ、これを読み、
そこに死者の「おとづれ」を聞いたのである。そして、それに発奮し、松岡正剛が「日本
の近代文学史上の最高成果に値する」と極めて高い評価をする書き上げたのが「死者の書」
である。そのあらすじは次の通りである。
!
天武天皇の子である大津皇子は、天武の死後、叔母であり、天武の后である持統天皇に疎
まれ、謀反を理由に殺されて、二上山に葬られてしまう。それから約百年の時が経った。
墳墓の中で無念の思いで目覚めた王子の霊は、周囲を見回し独白を始める。そして既に朽
ち果てて衣のないことを嘆きつつ起き上がろうとする。一方奈良に住む信心深い藤原家の
郎女(いらつめ)は、写経に明け暮れる日々であったが、秋の彼岸の中日に、幻のように
二上山の二つの峰の間に浮かぶ男の姿をみて、憑かれたように家からさまよい出た。郎女
は一人で二上山の麓の当麻寺まで歩いてきて、寺で保護される。神隠しにあったとみた奈
良の家からは連れ戻しに人が来るが、郎女は拒み寺にとどまることになる。郎女の夢の中
にのみ幻の男は現れる。霊的な男女間の交流があるともみえるが、すべては夢うつつの世
界の中での出来事である。男が衣を持っていないことを知った郎女は、衣にと思い、蓮糸
で布を織ろうと試みる。秋の彼岸の中日に、郎女は再び二上山の山越しに浮かぶ男の姿を
仰ぎ見る。それは極楽浄土図や尊者の姿と重なり、幻のように美しく雲の中に展開してい
た。やがて郎女は苦心して蓮糸で布を織り上げるが、それは棺にかける布のようで寂しく
見えた。郎女は思いついて奈良の家から彩色を取り寄せ、筆をとって幻に見た華麗な浄土
図を布に写し取り、完成させていく。
!
このあらすじを語るUTubeは次のものが良いでしょう。
http://www.youtube.com/watch?v=oCrNXhsQY0Y
!
!
ところで、折口信夫が「当麻曼陀羅」によって聞いたという死者の「おとづれ」の場面、
これはこの「死者の書」という小説の象徴的場面である。これのUTubeもあるのでここ
に紹介しておく。
!
http://www.youtube.com/watch?v=wUORTsrI-Ho
!