2 度の引退乗り越え

ママが挑む大舞台 ☆1☆
2 度の引退乗り越え
競泳自由形──ダラ・トーレス(米国)
北京五輪に挑むママさん選手は、柔道の谷亮子(トヨタ自動車)だけではない。出産を経験しても頂点を狙う選手は少なく
ない。
加齢が競技力低下に大きく影響を及ぼすとされる競泳界で、2 度の現役引退を乗り越え、ダラ・トーレスは 5 度目の米国五
輪代表を目指す。4 月に 41 歳となる 1 児の母は「若い選手と競うのは楽しい。14 歳のときと同じ喜び」と話し、強豪のそろ
う 6、7 月の代表選考会でも有力候補だ。
衝撃的な復活劇は昨年 8 月の全米選手権だった。その 1 年 4 カ月
前に娘のテッサちゃんを出産したにもかかわらず、競泳強国で層が
厚い自由形の五十メートルと百メートルを 40 歳で制した。五十メ
ートルは 7 年前のシドニー五輪で出した自身の米国記録を 0 秒 10
更新する 24 秒 53 だった。
17 歳で 1984 年ロサンゼルス五輪に出て、ソウル、バルセロナ五
輪にも参加した。その後一線から退き、テレビ番組のキャスターや
モデルとして活躍した。ところが「やり残したことがある」と約 7
年の空白の後に復帰、シドニーの舞台を踏んだ。これまで四百メー
トルリレーの 3 個を含めて金メダルを四つ獲得した。
水泳との縁は簡単には切れない。出産後にマスターズの大会でト
ップ選手と変わらないタイムを出した。AP通信によると「みんな
が寄ってきて、
40 歳代の選手を五輪で見たい、
なんて言うんだから。
持ち上げられちゃった」と話した。
ニューヨーク・タイムズ紙が昨秋、その五輪挑戦を特集した。薬
物の助けがあるのでは、という疑問の声があるのは「分かっている」
。昨年何度もドーピング検査を受け、将来の検査に備えて
血液も保存したという。そんな姿勢を理解し、復帰を手助けするローバーグ・コーチは「彼女は完ぺきを求めるし、良心の人
だ」と評した。
(5 回掲載の予定です)
(
「京都新聞」2008 年 3 月 18 日付)
競泳の全米選手権、女子 100 メートル自由形で優勝したダ
ラ・トーレス=07 年 8 月、インディアナポリス(ロイター
=共同)
ママが挑む大舞台 ☆2☆
メダルを娘の胸に…
クレー射撃──中山由起枝(日本)
2 年半のブランクを経て復帰したクレー射撃女子トラップの中山由起枝(なかやま・ゆきえ)
(日立建機)は、心強い「コー
チ」を持つ。おもちゃの銃を抱え、練習場によく顔を出す 6 歳のまな娘、芽生(めい)ちゃんだ。
「撃ち終わった空薬きょう
を集め、お片付けするのがうちのコーチの役目」と屈託なく笑う。
北京五輪代表を争う石橋良重(いしばし・よしえ)
(東京都協会)
と一騎打ちの選考会は 4 月の五輪テスト大会(北京)を残すだけと
なり、合計点で大きくリード。14 日、熊本県内の強化合宿で一日
400 発を撃ち終えると「集中できた」と充実感をにじませた。
子育てと競技を両立させる道は平たんではなかった。
「子どもが中
耳炎になったとか、発熱したと聞けばもう試合にならない」
。何回も
「これで良かったのか」と考え込んだ。だが最近は、遠征で家を空
ける度に泣いていた娘も五輪マークを「ママの目標」と理解して「頑
張ってね」と逆に励ましてくれるという。
埼玉・埼玉栄高ではソフトボール部の捕手で高校総体準優勝と活
躍した。実業団 10 社以上の誘いを断り、クレー射撃部を創設した
日立建機に入社。21 歳で初出場した 2000 年シドニー五輪は惨敗で
泣き崩れた。
練習に取り組む中山由起枝=熊本県益城町
「周囲の期待と射撃への恐怖感でもう逃げだしたかった」と翌年
に結婚して引退。だが出産して「過去の栄光と、今いる自分のはざま」で自問自答する日々が続いた。離婚もあって落ち込ん
でいるころ、母のひと言で気持ちが固まった。
「子どもに自慢できるママになってみなさいよ」
03 年 3 月、五輪への再挑戦を決め、昨年 4 月のワールドカップで復活優勝し、日本の北京五輪出場枠も獲得した。29 歳の
母は「北京で娘にメダルを掛けてあげたい」という夢を胸に秘めている。
(
「京都新聞」2008 年 3 月 19 日付)
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ママが挑む大舞台 ☆3☆
V3 で息子の誇りに
女子フルーレ──バレンティナ・ベッツァーリ(イタリア)
鋭い眼光が際立つ彫りの深い顔が、2 歳の息子ピエトロ君の話になると、とろけるように崩れた。北京五輪でフェンシング
女子フルーレ個人 3 連覇を狙うバレンティナ・ベッツァーリ(イタリア)は「子どもにはつい甘くなっちゃうの」と照れ笑い
を浮かべた。
五輪は 1996 年アトランタ大会で銀メダルを獲得し、シドニー、
アテネと連覇した。34 歳の今も第一線で活躍し、ワールドカップ
(W
杯)は通算 60 勝が目前だ。
2005 年 6 月に出産。
妊娠中は 53 キロの体重が20 キロも増えた。
「普段は毎日 5 時間は練習するので大量に食べる。休んでも食欲が
減らず、
太り過ぎて元に戻すのが大変だった」
。
必死に体を絞り込み、
4 カ月後の世界選手権で 4 度目の優勝を遂げた。
子育てをしながらの現役続行は「生活リズムが一変し時間に追わ
れる」が、息子とサッカー選手(セミプロ)の夫が大きな力を与え
てくれる。出産して初めての世界制覇で「誇りに思える母親になろ
うと一層頑張れる」ことを実感したという。
昨年の世界選手権も頂点に立った。女王でい続けることの重圧か
ら解き放ってくれるのもピエトロ君だ。
「常に受けて立つという心構
北京五輪への意欲を語るフェンシングのバレンティナ・ベ
えは相当なストレスになる。いつたたき落とされるかと思うと正直
ッツァーリ(共同)
怖い。でも息子と過ごす時間は、そんなことを一切忘れられる」
男女を通じてイタリア選手初となる五輪の同一種目 3 連覇を達成できるか、国内での注目度は高い。
「夢をかなえて歴史に
名を残したい。優勝すれば、世界中のママたちを勇気づけられると思う」と使命感に満ちた表情で言った。
(
「京都新聞」2008 年 3 月 25 日付)
ママが挑む大舞台 ☆4☆
夫の勧め 3 度目狙う
ビーチバレー──佐伯美香(日本)
「結婚と出産はわたしの夢だった。その両方がかなった後も、半年くらいでもう試合に出たくなったんです」
。北京で 3 度
目の五輪出場を狙うビーチバレー女子の佐伯美香(さいき・みか)
(ダイキ)は恥ずかしそうに笑った。1 年のうち約 9 カ月間、
夫の福井公彦(ふくい・きみひこ)さん(43)と 5 歳の長男健太(けんた)君を松山市内の自宅に残しての競技生活は 6 年目
だ。
36 歳の佐伯はバレーボールで 1996 年のアトランタ五輪に出場し
た。ビーチバレーに転向し、2000 年シドニー五輪で 4 位に入賞。
01 年に結婚して引退を表明した。
翌年、健太君を出産。その後はコーチを務めたが、公彦さんの勧
めもあって 03 年に現役に復帰した。佐伯は結婚当時のことを「競
技を続けられる環境があったのに、一度は引退を選んだことを後悔
している」と話す。結局、アテネ五輪には出られなかった。
公彦さんは復帰を促した理由をこう語る。
「妻はバレーを取れば何
が残るの、という感じの人。僕はシドニー五輪を観戦し、非常に感
動した。子供も五輪を見れば、ママが頑張る姿を目に焼き付けられ
る」
五輪に出るには毎年、世界各地で行われるワールドツアーを転戦
し、
ポイントを積み上げる必要がある。
佐伯が家を空けるときには、
五輪出場へ向け練習に励む佐伯美香=神奈川県の平塚海岸
会社員の公彦さんがほぼ 1 人で健太君の面倒を見る。佐伯は「夫は
不平を言わないが、想像以上に大変だと思う」と感謝している。
北京五輪後は国内で競技を続けたいという。
「今までは家庭を放棄してきたようなもの」と冗談めかしたが「五輪の後は今ま
での分を取り返したい」と優しい口調で言った。
(
「京都新聞」2008 年 3 月 27 日付)
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ママが挑む大舞台 ☆5☆
家族一丸で雪辱期す
女子マラソン──ポーラ・ラドクリフ(英国)
昨秋にモナコで開催された国際陸連(IAAF)の年間表彰式に出席した女子マラソン世界記録保持者のポーラ・ラドクリ
フ(英国)は、冗談交じりにこう言った。
「五輪へ向けた高地トレーニングの場所を選ぶ上での決め手はベビーフードが手に入
るかどうかね。娘にいつもと同じものを食べさせたいから」
昨年 1 月にアイラちゃんを出産。コーチでもある夫のゲーリー・
ラフさん(37)との二人三脚に幼い長女が加わり、途中棄権したア
テネ五輪の雪辱を期す北京は家族一丸での挑戦となる。
マラソンは母親となった後も第一線で活躍を続ける選手が多い。
1980 年代の名選手、イングリッド・クリスチャンセン(ノルウェー)
は長男を出産後の 85 年に 2 時間 21 分 6 秒の世界最高記録(当時)
を樹立した。出産を経験したことによる生理的変化がプラスに働く
との説もあるが、同選手は「子供を産んだ幸福感が何よりの後押し
だった」と述懐している。
2 時間 15 分 25 秒の世界記録を持つラドクリフは復帰へ向けた練
習中に骨盤の中央にある仙骨にひびが入り、足踏みを余儀なくされ
た。長時間に及ぶ難産の影響という。だが苦労を味わっても「
(出産
は)それを超える価値があった」と軽やかに乗り越え、昨年 11 月
出産後のニューヨークシティー・マラソンで優勝し、子ど
もを抱いて喜ぶポーラ・ラドクリフ=07 年 11 月(ロイタ
のニューヨークシティー・マラソンで見事に優勝を飾った。
ー=共同)
約 2 年ぶりに走ったマラソンの終盤は、リズムを保つために「ア
イ・ラブ・アイラ」と呪文(じゅもん)のように唱えながら走ったという。ゴール後はまな娘を抱き、観衆の祝福に満面の笑
みで応えた。感動のシーンが北京でも再現されるか。=おわり
(
「京都新聞」2008 年 4 月 3 日付)
※ ほぼ同様の記事が、
「共同通信社ニュース特集:北京五輪」
(2008 年 4 月 11 日、
http://office.kyodo.co.jp/sports/olympics/beijing/kyodonews/topics2/050/)に掲載されている。
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