Budoshop Top Pageに戻る Mas Oyama のページ 大山倍達の履歴書 Mas.Oyama 大山倍達年表 Special thanks for Mr.Mitsuyoshi Matsumoto このページは多くの極真研究家、ファンのご協力で作られています。内容の充実をはかるために新たな資料、写真などご協力下さい。 このあと、資料を整理しながら写真なども加えていきたいと思います。 1923,6,4 1925,3 1926,12,10 1936,11,3 崔承鉱・金芙蓉の子として生まれる,大山倍達東京市に生まれる 大山倍達満州に渡り┬匹姉の家に預けられる 藤巻照子(智弥子)辰蔵と栄の長女として生まれる ソウルの小学校に入学┬匹この頃から十八手の中国拳法を学び始める 山梨少年航空学校に入学 1939, 3 1939, 9 船越義珍先生の門をたたく 拓殖大学で学びながら空手2段をとる,太平洋戦争開戦 飛行整備兵として東京関東周辺で軍務に従事決戦に備える? 1941, 4 1945.8.15 B-29爆撃機 敗戦 1946, 4 早稲田大学体育科入学 早稲田大学在籍証明書 1946, 6 1946,10 1947,9,28 1947,10,6 1950, 11 作家吉川英治┬匹尾崎士郎氏宅を訪問┬匹知己を得る 身延山に入り空手の修業に精進する 京都新聞,新聞,,京都円山公会堂で戦後初の全日本空手道選手権大会に出場し優勝, 大山留壱琴(長女)生まれる (27才)千葉の館山で牛と対決┬匹以後屠殺場のそばに住居を構え修練を積む。倒した牛の数47頭┬匹4頭は即死。 羽田空港からパンアメリカン航空機で初の訪米、ウエーキ島、ホノルル(羽田からホノルルまで約18時間途中給油休憩を含む)経由サンフランシスへの旅であった。 大山倍達はいろいろな面で「記録破り」のタイトルを持っているが、この訪米を手始めに亡くなるまでいったい何回海外に出かけたのであろうか。当時日本から海外 へは大半の人が船舶を利用せざるをえず、多くの日数を必要とした。もっとも海外旅行、渡航自体が不自由なそんな時代に最先端をゆく飛行機での訪米は極めて贅沢 なもので快適なものであったと断言出来る。ただし、乗り物としての飛行機が好きかどうかは別問題であるが。B377の曾孫にあたる現代のB747-400ジャンボに比べ ると当然性能には格段の差はあるが、与圧キャビン、ターボ付きエンジンの当時のハイテク機で2階建になっていてサロンまで設けられおり、名前のとおり高々度を 快適に飛行していた。(B377 Stratocruiser)大衆化された現代の旅客機とは桁違いの良質のサービスが提供されたのである。乗員乗客約100人、巡航速度およ そ500Km/h。この機体はほんの数年前まで日本各地を猛烈に爆撃、広島長崎に原爆を投下多くの惨禍を与えたあのB−29爆撃機の民間機転用型である。戦争末 期、特攻を決意していた大山倍達はこのことを知っていたのだろうか? (B377Stratocruiser)Top speed 375mp/h,巡航speed 300mp/h,航続距離4,600miles,飛行高度33,000feet 1951, 4 Boeing 377(旅客機) 乗客乗員約100名 Boeing 377(C-97輸送機) ゴールデン・ゲート上空 羽田空港からパン アメリカン航空機 で渡米 現代の旅客機の主役であるB747ジャンボ・ジェットともっとも似 ている点がこの「サロン」である。ただし、ジャンボとは逆で客室の 下部にあった。客室から螺旋階段を下りて行くと「サロン」があり、 定員14名のカクテル・ラウンジとして乗客の団欒の場として利用さ れた。 羽田∼ウエーキ∼ホノルル∼サンフランシスコ 1951, 7 1951, 6,14 1951,3,7 1952,3,29 1952,3,23 1952,10,11 1952,11,1 1952,11,1 1952,12,25 1952 1952,3 1952 1952,7,18 NY上空のB377 阿佐ケ谷(東京)の曽根道場で柔道の修業を開始 東亜新聞,新聞,,(唐手の崔選手錦を飾って来社)唐手選手崔永宜は唐手紹介のため4月1日渡米したが去る16日半年ぶり横浜に帰ってきた、23日には本社に来訪、 アメリカ32州及びカナダ、キュ−バ、メキシコを巡遊した土産話をした。氏は懸賞付きの試合(1回10萬)を3回行いエキビジションを34回テレビジョンに9 回ニュ−ス映画に3回プロレスラ−との試合3回この全試合に全勝した。唐手に関する単行本を刊行のため余念がないがこれが済み次第年末に再度渡米、帰路サンフ ランシスコ,(竹島の帰属を調査) 大山倍達智弥子結婚 午後2時10分パンアメリカン航空機で渡米、シカゴのプロレス協会の招きで遠藤幸吉とともに渡米┬匹デモンストレーションと空手の指導┬匹この間真剣勝負7回, 東京新聞,新聞,,((I[;1]>^Y=L_[Z=X]8^協会の招待で空手の崔永宜(28)四段と┬斌炳柔道の遠藤幸吉六段(26)が渡米することになり22日午後6時から丸ビル精養軒 で送別会が行われた”空手”の公式渡米は戦前戦後を通じて初めてのことだそうだ。出発は29日午後2時羽田空港から、ウエーキ、ハワイを経てロサンゼルスに2 週間滞在、警察官にケイコをつ けたり、テレビジョン、映画での技術公開レスリングとの試合などをやってから、ニューヨーク、シカゴ、ワシントン、桑港、カナダ を転戦、8月ごろ帰ってくる予定 崔君は松涛流、剛柔流をマスターした空手の達人で拓殖大出身、「先輩諸氏のお言葉通り勝敗を越えた東洋人としてのスポーツマ ンシップを発揮してきたいと思います」とは遠藤君と共に交々語ったその”首途”の弁, 東亜新聞,新聞,,(豪華な土産話アメリカを唐手行脚の崔選手歓迎会開く)唐手道普及と試合のため北米32州カナダ、キュ−バ、メキシコ、フィリッピン各国を巡り、全 勝の輝かしい記録を立てて帰国した崔猛虎選手歓迎会が去る4日豊島区目白3丁目の崔氏宅で盛大に開かれた。歓迎客には日本唐手界のホ−プである崔選手を祝して 澤井大 拳法会会長山田拳法会会長城同副会長、日本プロ柔道協会の牛島8段曹寧権大韓青年団団長湯浅目白警察署柔道師範、山木中大唐手部部長、和田日大唐手部 部長等斯界一人者が一堂に会する賑やかさであった。ここで崔選手の戦績を見れば対レスリング試合30回、唐手術公開30回、千弗懸賞試合3回、テレビ出演9 回、ニュ−ス映画出演3回と記録破りの精力的公演であると共にこの全試合に全勝したことは驚くの他はない。何しろ唐手公開はアメリカで最初の試みとて行く所興 奮と驚嘆の拍手の嵐が巻き起こったという。人間技とは思われぬ唐手に対する報道は全米国紙が大々的にとり上げ、数万の観衆を前にしての煉瓦割り、石割り、板割 りの公開は爆発的人気をもたらした。崔選手の豪華な土産話の後、今後の唐手界のあり方について真摯な討論がとり交わされた。唐手界は今なお多くの流派が乱立し てまさに群雄割拠の現状で柔道界の如く統一されないところに大きな悩みがある。崔選手の要望として「唐手は総合武術である見地からレスリング、ボクシング柔道 の長点を取り入れると共にプロ唐手を編成すること」が提案され全員これに賛成今後の研究が約束された。唐手をプロに編成するためには今後技術的にも研究を重ね 興業価値あるものにすることが先決問題と言えよう。それが為には先ず唐手と柔道が渾然一体となった新しい技法が生み出されなければならないだろう。今度初めて 米国に紹介され大好評を博した唐手は対外に躍進すべき日本の特技武道であり選手の生活保障、選手養成機関の設置等幾多の問題を解決すべく努力しなければならな い。なお崔選手の豪華な紀行文は現在執筆中であり近く公にされよう(写真は崔選手の妙技),(土建業間組の英断只見川の発電工事に韓国人を大量任用) 東亜新聞,(在外同胞を語る唐手で三万浬を行脚して崔永宜)アメリカを東西南北おまけにカナダ、メキシコ、キュ−バなどを計算に入れれば私の歩いた距離は既に三万 浬を越えるかもしれない。外交官か余程金のあるバイヤ−でもなければ望むべくもなかった現状で詳細にアメリカを見る機会を得たことは幸い中の幸いであろうか。 殊に多くの在米同胞と心を分かちあって語りあえた事などはそう滅多にない幸福の一つであろうと思うのである。だが、私が最近心に思うことは「アメリカは私に とっては何と不自由な所だろう」と言うことである。一寸街を歩くにも通訳を連れ添わねばならぬし、下手にひとごみを歩こうものなら通行人は一斉にふりかえって 奇異に思うのか頭のてっぺんから足の先までなめる様に見つめて行くのだからおだやかではない。おまけに肉やパンばかりで私の腹はおさまりがつかない。万事こん な具合だから旅先で同胞に会うと言うことは九死に一生を得る例えにも似てその時の喜びはとても表現出来る種類のものではなかった。特殊な場合で相当努力するこ となしに感情や生活条件の一致しない土地に住むことは出来ない。だから同胞の住むところは、あるとすれば相寄って数軒あるか又全然ないかのどちらかである。こ のことは韓国人のみならず日本人、中国人、黒人、その他にも共通の様であった。帰日間際の約一月はホノルルで過ごしたが米本土に較べれば別天地の感があった。 一寸国際色に富んだ東洋のどこかの街の様な感じがするくらいに東洋人の数はアメリカのどこよりも多い。在ホノルルに同胞5千人と言われているからその数は日本 人20万に比べれば拾う程しかない様なものだが、よく 合し互助しあっていた。留守番みたいにたった一人しかいない領事館の指図にもよく理解して従う所等は特 に一世に強い祖国愛のしからしむるゆえんでももあろうが、李大統領が亡命中に植え付けた政治訓練の結果からであろうとかと思う。老顔に深いしわを寄せながら韓 国戦線の記事を丹念に読むのは在留一世である。だから祖国の戦災復興の献金とか、戦災孤児の為の救援物資の回収等には年老いた一世が手弁当のいでたちで一軒一 軒根気よく廻り歩く。祖国の苦しみは我が身の苦しみだと言うとおり一連の理屈は誰でも知っているがだがそう簡単に行かないのが普通だ。 東亜新聞,8月の初め私が┬瀕富$ぢを訪れた頃丁度世界注視の中行われた大統領選挙の最中だったのでその噂で賑わいどこへ行っても話題は絶えなかった┬匹やがて 李承晩再選の報が伝わった時は浮き立つ足も地につかぬといった風に祝電を打ったり┬品棆の名花を飛行機に積み込んだりするあたりどう見ても表面的な儀礼のみで はないようであった┬鼻それもそのはずで最も同胞に支持の多い同志会は李大統領が亡命中に組織したのだし┬匹大統領とは長い年月共に生活したのだという身近な 感じがあるからだろう┬鼻会が発行する┬柊良捶週報┬稗は唯一の┬品欷湶$ぢ国文┬稗新聞であるが私の訪米は特に第一面に騒々しく飾られていた┬鼻それまで┬秒 數渕洳$ぢや米国の新聞┬匹雑誌等で大げさな宣伝もあったので私の空手を見たがる同胞も多かったから┬匹従って私も一席の座興と喜んで応じた┬鼻色々と空手術を 見せた後┬柊強い┬品烟$ぢや石や板割りをする為に手の拳を鍛える┬苗攬呑五として┬匹金槌で手の甲を叩く練習をするのだ┬稗と言って実演をして見せた所突然年 老いたおばあさん連が二三人駆け寄ってきて┬柊殻$ぢもういいからお止めなさい┬稗と言って痛かったろうと言わんばかりに手をさするのである┬鼻十年を余る私の ┬表累安生活の中でこのような温かな雰囲気に遭遇した記憶は一度だになかった事だ┬鼻同胞とは父母兄弟を意味する代名詞かもしれない┬鼻同胞の主だった職業は 会社員┬匹飲食┬匹涼$ぢ業┬匹筑鋪按の経営などが主だったところだが日本の様な貧乏生活者は皆無と言ってよい┬鼻殊に私が┬彪J舗の飛行場で迎えられた韓国人 数人(在┬彪J舗同胞全員)の場合は┬匹在米同胞並びもない裕福さで豪勢な商店を持っているものだから私もつい本当ですかと聞き返す程だった┬鼻留学生の事につい ては私も彼等とそう年も違わない青年として充分関心もあったが一々大使館か領事館にでも聞き出す様なことをしない限りはたしかな報告はとても出来ない┬鼻しか し私の最も滞在日数の長かった┬鋲V岼犬雫剤ほ襲歉湶修鞭$ぢ等にはそれぞれ三十名前後の学生が勉強している┬鼻あたかも世界的な流行であるかの様に┬匹衛惷に 於ても特に仕送りの少ない外国人の場合は尚更の事┬姫拱涓$ぢなしには学生生活は有り得ないの感があった┬鼻杤榎賞拿では先月まで国務総理の重職にあった張沢相 氏の令息も┬姫拱涓$ぢをしているとの話をしているのだからかなりの重い負担に違いない。他の国の大臣の息子なら最新型の自動車を学校に横付けして学生生活を楽 しむところだろうと思うと、私は戦う祖国の姿を数千里の海を隔ててまで見る現実に痛く感なきを得なかった。しかし半面何と美しい光景だろうと思う喜び喜びも多 少はあった。いずれにしても私のこの度の訪米における一つの心残りは彼等留学生に満足な慰めも与えることなく勿々に終わった事である。来春、アメリカプロレス リング協会、シカゴ本部の斡旋で柔道の木村七段等と再渡米して英、仏や欧州諸国をも廻る予定になっているからその時こそは米国留学生と辛酸を分かつ語らいをし ようと期待している所である。(筆者略歴ー全北金堤郡龍池面出身29才、日本航空学校卒、東京拓大中退、建青韓青評議員、日本空手大会優勝、各大学で空手を教 授、本年四月より七月まで米、加、キューバ、メキシコ、フィリッピンを巡業全勝す), 東亜新聞,(再渡米の途へ崔猛虎選手)昨年唐手紹介のため渡米した崔選手は全米巡遊全勝の記録を立てて帰日した。その後各方面の推挙もあり唐手道確立のためにと 「唐手読本」を執筆中であったが五百頁に上る同原稿を脱稿近く出版社に廻す運びになっている。更に同氏は今春再渡米するが今度は二、三年米国に腰をすえ、新し いスポーツとしての唐手を全米に普及指導する方針であるといわれる。韓国人としては既にプロレスラーに転向した力道山が在米活躍中であるが崔猛虎選手の渡米に よって韓国スポーツ界の米国進出は目覚ましいものがあるといえよう。 週刊サンケイ,週刊誌,,大山四段アメリカ武者修業の紹介特集記事(大山四段帰国土産話)が4頁 新聞(空手アメリカを往く)とHonolulu Star Bulletin の空手記事写真付き 新聞、アメリカ各地での様子他 羅府新報(和文)空手名人ロサンゼルス(羅府)に、大山6段月曜夜TV出演などの記事 1953,4 1954,1,19 アメリカ再訪問┬匹シカゴで牛と格闘┬鼻手刀で牛の角を折り猛牛を一撃で倒し空手の威力を示し好評を博する 新聞,,渡米遠征時の記事(英文)と帰国後の”演武会”入場券の写真, 1954,1,15 新聞(大角をポキリ)牛と格闘、空手に軍配14日午前11時から館山市八幡海岸で行われた闘牛の模様をリポート(写真付き) 1955,2 アメリカ再訪┬匹南米┬匹ヨーロッパを回る┬鼻プロレスほかの格闘技と対戦┬匹ウイスキーのビン斬りのデモンストレーションが大人気┬鼻 1955,9 シカゴで牛と再対決┬匹好評であったが動物愛護協会からクレームがつく, 1955,2,5 京都新聞(勝負師の世界)明日から連載手刀十年、力道山の「鉄腕」は好評のうちに本日終了しました。次回連載「手刀十年」は空手八段大山倍達氏が昭和22年空 手全日本空手道選手権を獲得し、27年プロレスラー遠藤幸吉とともに米本土に渡って空手武者修業を行い連戦連勝、帰国後ニュース映画撮影の為猛牛と空手の一 騎打を行った闘争などなまなましく執筆されます。ご期待下さい。(春の選抜出場栄えの20校決まる京都からは平安高校) 1955,2,6 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」1/牛をなぐる) 1955,2,7 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」2/アメリカ遠征), 1955,2,8 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」3/アメリカ遠征/人間の手でない!), 1955,2,9 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」4/アメリカ遠征/乱暴者出現), 1955,2,10 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」5/アメリカ遠征/必殺の挑戦),猪谷はじめてのジャンプ 1955,2,11 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」6/アメリカ遠征/不当な怒り), 1955,2,12 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」7/アメリカ遠征/脱出!?), 1955,2,13 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」8/アメリカ遠征/もう最後だ!), 1955,2,14 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」9/アメリカ遠征/強敵現る!),大相撲名古屋場所若ノ花はやくも土 1955,2,15 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」10/アメリカ遠征/死闘に興奮), 1955,2,16 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」11/アメリカ遠征/角は折れぬか!?), 1955,2,17 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」12/アメリカ遠征/小手しらべ!?), 1955,2,18 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」13/アメリカ遠征/いよいよ決行!), 1955,2,19 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」14/アメリカ遠征/血まみれの闘い!), 1955,2,21 京都新聞,新聞,,(勝負師の世界「手刀十年」15/アメリカ遠征/角は折れた!), 海外支部の第1号の栄誉はのボビー・ロー支部長(現在8段国際委員)で 場はホノルルにである。 当時、これらの認可証に使われたマークは現在の観空マークとは異なる。 太陽に向かって両手を合わせた図柄が用いられている。 (写真を下に掲載) いまの極真会館がかたちをなさない時代のことであり、したがって支部認 可状などの準備もなくて「手書き」のものである。 極真会会長・大山倍達 とある このページのTopにもどる 1960,3 1960,7 1961,4 欧州を振出に米国に渡る, (上の認可証に使われるマークのイメージ原型) 第2回全ハワイ空手道選手権大会開催┬匹この年米国┬匹西欧などの16ケ国に合計72支部道場発足, サンフランシスコに道場開設, 1961,7 1961,11 1962,2 1962,7 1962,11 1962,4 1963, 1963,1,14 1963,10 1964,1 第3回全ハワイ空手道選手権大会開催┬匹ロスアンジェルスに道場開設, NYマディソンスクェアーガーデンにて第1回北米┬謬-((IL_]D-((IER]D開催┬匹大山館長最高審判長をつとめる, 米国を中心に南米西欧へ空手普及と修練の為遠征し各国国技と対戦, 第4全ハワイ空手道選手権大会, 帰国┬匹大山道場は黒帯20人達成┬匹外国からの入門希望者増える, 米国┬匹欧州┬匹南アフリカ各地を回る, 週刊大衆,週刊誌,,(負けることは自分が死ぬことだ)実力日本一空手八段大山倍達氏┬匹対談質問集色々, 日刊スポーツ,新聞,,(記事と写真)タイ式ボクシングになぐり込む空手黒崎健時4段ら極真会21、30日バンコクで, 旧極真会館の建設に着手┬匹米国コネチカット州ハートフォード市で第2回┬謬-((IL_]D-((IER]D北米空手道選手権大会開催, タイ式ボクシングに挑戦大沢昇らが対戦し3戦中2勝し日本空手の威信を高める, 1964,4 国際空手道連盟極真会館会長に佐藤栄作氏┬匹副会長に毛利松平氏就任,11月9日佐藤栄作首相誕生 1964,6 1964,2,24 1965,1 1965,3 1965,5 1965,6 1966,2 1966,4 1966,5 1966,6 1966,7 1966,8 1966,9 1967,4 1967,8 1968,2 1968,4 1968,6 1969,9,20 1970,9,26 1971,10,24 1971,10,21 会館竣工┬匹連盟極真会館正式発足┬匹米国アトランタのジョージア大学に招かれ約1ケ月指導にあたる, 日刊スポーツ,新聞,,(記事と写真)他流試合空手が勝つタイ式ボクシングになぐり込んだ空手黒崎4段ら(2ー1で日本選手勝利中村忠ら), 埼玉県奥秩父の三峰神社で冬季合宿開始┬匹以後会館の重要行事として恒例となる, 2万枚の写真と┬匹3千枚の原稿をもとに空手界のバイブル”This is Karate”出版, ((I=C(0L^%1F0Y本部で100人組手達成, 渡米┬匹空手普及支部設立, 空手指導の為に黒崎健時をヨーロッパに派遣, "ダイナミック空手""出版", 「近代カラテ」創刊, 大山茂他指導員を米国に派遣, 第1回全米支部長会議ロスアンジェルスで開催┬匹北米地区連盟設立┬匹中村忠責任者になる, 南米地区連盟設立┬匹田中真己責任者になる, ((I 「Vital Karate」出版┬匹加藤重雄指導員をオーストラリア派遣, ((IY/8%NW]@^0本部道場で100人組手達成, 小倉指導員ブラジルに派遣, 「世界けんか旅行」出版, 諸国歴訪の視察旅に出る, 第1回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手48名ボクサー┬匹キックボクサー┬匹柔道などからも参加もあり七千人を越す観 客を集めた、1位山崎照朝,2位添野義二3位長谷川一幸4位朴邦治5位ポール・ジャクソン6位利川重男, このページのTopにもどる 第2回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手48名1位長谷川一幸2位山崎照朝3位添野義二4位増田賢一5位金次憲6位佐藤 定志┬匹会館以外からは大山総裁に倣い山篭り1年の後参加した富樫宜資選手が活躍した, 第3回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手48名八千人の観衆を集め1位佐藤勝昭2位大山泰彦3位大石代悟4位三浦美幸5 位金城憲一6位吉岡幸男, 喜久子(三女)生まれる 第4回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手48名一万一千人の観衆を集め1位三浦美幸2位ハワード・コリンズ3位佐藤俊和 1972,10,22 1975,6,19 4位山崎照朝5位添野義二6位今泉幸久, 第5回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手48名、一万人の観衆を集め1位盧山初雄2位山崎照朝3位佐藤俊和4位佐藤勝昭 5位富樫宜資6位松友登喜良┬匹浜井識安┬匹二宮城光, 東京スポーツ,新聞,,大木が爆弾発言「空手の大山、俺と戦え!」, 1975,7,3 東京スポーツ,新聞,,大木 空手の大山激突、力道山を侮辱した覚えない 大山空手は後ろを見せぬ, 1975 1975 1975 1975 アサヒ芸能,週刊誌,,特別読物大山倍達わが青春と闘魂の記録0一日8時間柿の木にこぶしを叩きつけた超人修業、極真空手に開眼するまでの血みどろの苦業, アサヒ芸能,週刊誌,,特別読物大山倍達わが青春と闘魂の記録%ヤクザ不良外人を敵に回したケンカ旅の日々, アサヒ芸能,週刊誌,,特別読物大山倍達わが青春と闘魂の記録<邪道呼ばわりの非難と戦う極真空手の極意, アサヒ芸能,週刊誌,,特別読物大山倍達番外編私のヒ孫弟子┬斌湶綾ヘ( の空手はショーダンスだ!一に日本空手、二にタイ式ボクシング、カンフーはずっと下, 第1回世界大会(第7回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会)都立東京都体育館┬匹世界32ケ国より参加選手128名、二万三千人の観衆を集め1位佐 藤勝昭2位盧山初雄3位二宮城光4位大石代悟5位佐藤俊和6位東孝7位チャールズ・マーチン(米)8位フランク・クラーク(米)((I$アメリカのオリバー選手の巧 技が観客をうならせた, 東京スポーツ,新聞,,猪木(アリ戦対談)空手の大山外から三発内へ一発左足蹴れば倒せる, 雑誌,,異色インタビューC猪野健治”乾坤一擲”勝負の世界, 第8回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手128名、一万二千人の観衆を集め1位佐藤俊和2位二宮城光3位東孝4位沢柳俊 夫5位三瓶啓二6 位エディー・フレイジャー7位野口敏郎8位中山明, 第9回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館参加選手128名、一万三千人の観衆を集め1位東孝2位中山猛夫3位中村誠4位浜井識安 5位中村辰雄6位三瓶啓二7位廣重毅8位斎藤良二, 第10回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館1位二宮城光2位三瓶啓二3位中村誠4位廣重毅5位三好一男6位瀬戸秀二7位鈴木勝8 位川畑幸一, ブラジル政府とヨルダン王室から勲章授与される 第11回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会都立東京都体育館1位中村誠2位三瓶啓二3位東孝4位野口敏郎5位廣重毅6位三好一男7位川畑幸一8位 立崎辰雄, 第2回世界大会1位中村誠2位三瓶啓二3位┬紐茄- ((I32X1Q=4位東孝5位ハワード・コリンズ6位バーナード・クレトン7位セノ・マクサー8位川畑幸一, 1973,11,4 1975,11 1976,5,14 1976 1976,10 1977,11 1978,11 1979 1979,5,18 1979,11 1980,9,6 1980,11 1981,11 1982 1982,11 1983,11 1984,1 1984,11 1984,4,22 1985,11 1985,6,9 1986,11 1986,6,8 1994,4,26 このページのTopにもどる 週刊読売,週刊誌,,空手家大山倍達氏の手刀これが原寸大(大山倍達拳の実物大写真), 第12回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位三瓶啓二2位中村誠3位為永隆4位松井章圭5位矢島史郎6位ミカエル・ソデルクヴィスト7位竹山晴 友8位白石昌幸, 第13回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位三瓶啓二2位中村誠3位松井章圭4位白石昌幸5位三好一男6位田中正文7位竹山晴友8位前田政利, 雑誌,,大山倍達┬紐茄- ((I32X1Q=と三瓶の世界大会を予想する, 第14回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位三瓶啓二2位水口敏夫3位松井章圭4位三好一男5位竹山晴友6位アデミール・コスタ7位脇内勉8位 増田章, 第15回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位大西靖人2位小笠原和彦3位竹山晴友4位三好一男5位増田章6位水口敏夫タ7位三瓶啓二8位松井章 圭, 第3回世界大会1位中村誠2位三瓶啓二3位松井章圭4位アデミール・コスタ5位大西靖人6位ニコラス・コスタ7位田原敬三8位ディブ・グリーブス, 第16回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位黒沢浩樹2位竹山晴友3位水口敏夫4位木元正資5位小笠原和彦6位五来克仁7位敷島知章8位湯沢元 美, 第1回全日本ウエイト制大会軽量級1位大賀雅裕2位中江辰美3位中島春男中量級1位柿沼英明2位佐藤光昭3位柚井知志重量級1位七戸康博2位西山芳隆3位外 舘慎一, 第17回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位松井章圭2位黒沢浩樹3位増田章4位ジェームス・北村5位緑健児6位大賀雅裕仁7位内山武盛8位小 井義和, 第2回全日本ウエイト制大会軽量級1位緑健児2位三明広幸3位豊田宣邦中量級1位入来武久2位橋爪秀彦3位三和純重量級1位七戸康博2位西山芳隆3位金山裕 文 第18回オ−プント−ナメント全日本空手道選手権大会1位松井章圭2位増田章3位八巻建志4位小井義和5位七戸康博6位奥村幸一7位小笠原和彦8位桑島保浩, 第3回全日本ウエイト制大会軽量級1位梶原隆広2位桜沢正大3位今西俊彦中量級1位橋爪秀彦2位岡本英樹3位草階誠重量級1位西山芳隆2位金山裕文3位井口 勝利, 大山倍達肺がんのため聖路加病因で逝去享年71才 アメリカBlack Belt誌より1994年度 Black Belt栄誉殿堂入りの盾が贈呈される 1994,6 ページのTOPに戻る
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