「人間の尊厳」と「生命の神聖」

「人間の尊厳」と「生命の神聖」
-古い規範概念の再検討
坂井 昭宏
はじめに
本科研費研究会は応用倫理研究会との共催で、昨年7月 31 日、シンポジウム「人間の
尊厳について」(北海道大学大学院文学研究科 W517 室)を開催した。このシンポジウムの
主題として「人間の尊厳について」が選ばれたのは、生物医学研究におけるヒト胚の使用
に関わる倫理的諸問題の解決に「人間の尊厳」アプローチは果たして有効であるか、とい
う現在の応用倫理学研究者に共通の問題関心に基づく。また、この概念を基本原則の第一
とする現在のドイツ・フランスの生命倫理の有効性を問うという関心もある。言うまでも
なく、報告者の一人である盛永審一郎氏は、それを積極的に支持する立場であり、筆者は
以前からそれに批判的な見解を抱いていた。すなわち、「人間の尊厳」をヒト胚に適用す
ることは、この概念の不当な拡張であり、この概念が本来もっている規範的拘束力を弱体
化するというのが、その主要な理由である。さらに、この概念をヒト胚研究の倫理的諸問
題に適用する際に、多くの論者はたとえば論点先取などの誤謬推理に陥っているのではな
いか、という疑問もある。
しかし、筆者のこうした関心は主として「人間の尊厳」概念の定義とその使用法に関す
る批判的な分析に向けられているのであって、必ずしもヒト胚の道徳地位や生物医学研究
におけるその取扱い、という本来の課題に対して何ら積極的な提言をなすものではない。
他方、「人間の尊厳」論者が積極的な発言を試みているのは、現在と未来の人間社会のあ
り方に対して深刻な危機感を抱いているからである。これに対して、「メタという視点」
から「人間の尊厳」論者の片言隻句を取り上げて批判するのは、倫理学者として甚だ不謹
慎という非難を免れないであろう。(拙稿「編集後記-メタという視点」、「応用倫理学研究」
第 3 号、2006 年 1 月、135-7 頁参照)
そこで、本稿では「人間の尊厳」論法の批判的検討だけではなく、この問題に対する筆
者自身のアプローチの概要を示しておきたい。その基本的な視点は「人間の尊厳」ではな
く、「生命の神聖」を規範原則として採用することによって、たんにヒト胚や胎児だけで
はなく、絶滅危機種や実験動物などの道徳的地位を確定し、そこからそれぞれに応じた取
扱いを導き出そうとするところにある。また、そのために、あらかじめ「生命の神聖」と
いう概念を明確にしておきたい。これは「人間の尊厳」についても同様である。というの
は、「生命の神聖」や「人間の尊厳」などの古い規範概念は、実践的な指針を導き出すた
めの基礎概念として有名無実である、という厳しい批判に曝されているからである。
第一に、K・バイエルツや D・ビルンバッハーから見れば、こうした概念は理性的論証抜
きの「一撃必倒論法」(knock-down argument)として機能している。「生命の神聖」も「人
間の尊厳」も「他を凌駕する最高の価値である」と想定されているから、こうした概念に
訴えると、唐突に論争は終末を迎える。自分に好ましくない実践に反対する道徳的指令に
-1-
確固とした理性的論証を与えることが困難である時に、それを回避する手段として、こう
した概念に「固有の強さとそれに伴う感情」が利用されているというのである。(Cf. Kurt
Bayerts,“Introduction: Sanctity of Life and Human Dignity, ”in K. Bayerts(ed.), Sanctity of
Life and Human Dignity, Netherlamd: Kluwer Academic Publishers, 1996, p.259-60,
p.xi-xiii、 & Dieter Birnbacher,“Ambiguities in the Concept of Menschenwürde,”in K.
Bayerts(ed.), op. cit., p.100;菊地恵善「D. ビルンバッハー「人間の尊厳という概念の曖昧さ
について」(要約)」、「続・独仏生計倫理資料集」(上)、平成 16 年2月、46-52 頁参照)
バイエルツは「人間の尊厳」概念の哲学史的反省に基づいて、一種の哲学的諦観に辿り
着いた。「人間の尊厳概念はそれを破壊することなしに保持することはできず、また人間
の尊厳概念を認めることなしに、それを放棄することはできない。」(Bayertz, K.,“Human
Dignity: Philosophical Origin and Scientific Erosion of an Idea,”in K. Bayertz(ed.), op. cit.,
pp.88-9;渡辺貴史「K・バイエルツ「人間の尊厳-ある観念の哲学的起源と科学的浸食」(要約)」、
「続・独仏生計倫理資料集」(上)、平成 16 年2月、39-45 頁参照;クルツ・バイエルツ「人間
尊厳の理念-問題とパラドックス」吉田浩幸訳、L・ジープ、山内廣隆、松井富美男編・監訳『ド
イツ応用倫理学の現在』ナカニシヤ出版、2002 年、150-173 頁参照)バイエルツのこの議論
に関しては、§2で再び言及する。他方、ビルンバッハーによれば、「人間の尊厳」論法の
行きすぎた使用は、この概念の権威と道徳的な力を弱める。「その意味に主観的で流行の
内容を密輸入することによって、この概念が規範的な力を失い、たんなる表情豊かな身振
りに終わるなら、嘆かわしいことである。」(Dieter Birnbacher, op. cit., p.108-9)こうした
反省から、ビルンバッハーは独自にこの概念の再構築を試みた。バイエルツのこの試みにつ
いては、§2とむすびにおいて概観する。
第二に、現在の「ポストモダンの状況」では「人間の尊厳」や「生命の神聖」などの用
語に標準的な理解を見出すことは困難であるという批判がある。周知のように、こうした
概念は何れもユダヤ-キリスト教の伝統にその起源をもつが、現在の非宗教的な多元性によ
って特徴づけられる社会においては、もやは神への訴えは意味をなさない。したがって、
T・エンゲルハートによれば、「そうした概念はそれらの伝統的な正当化とその意味内容を
規 定 す る た め の 準 拠 点 と を 失 う 。 」 (H. T. Engelhardt, Jr.,“Sanctity of Life and
Menschenwürde: Can These Concepts Help Direct the Use of Resources in Critical
Care?”in: K. Bayertz(ed.), op. cit., p.206)
また、一般的に言って、こうした概念が何を要求するかに関する「内容豊かな理解を、
一般的で非宗教的な仕方で確立できるようには思われない。」特定の道徳的選択は、それ
がいかに薄いものであっても、それに先行する道徳的合理性、道徳的言説、特有の道徳的
感受性に関する特定の内容豊か(content-full)な理解の是認あるいは受容に依存する。人は
自分が証明しようとするものを前提にしなければならない。すなわち、[道徳的選択の特性
の集合を是認するためには、人はすでに特定の道徳観を引き受けているのでなければなら
ない。」困難は、非常に多くの道徳的観点が存在し、それらが相互に両立不可能であると
いうことである。したがって、「標準的(canonical)で内容豊かな道徳を、一般的で世俗的
-2-
な言葉で正当化することができないことは、ポスト・モダンの根本にある認識論的条件で
ある。」(ibid., pp.211-2)T・エンゲルハートはこう結論する。
同様に、K・ワイルズによれば、ポストモダンの条件はたんに道徳の多元的共存だけでな
く、道徳的言語がその基礎から切り離されたという条件によって特徴づけられる。ある特
定の道徳的枠組みの外では、「生命の神聖」と「人間の尊厳」という言葉が何を意味する
か、なぜそれらが重要なのかを説明することができない。
「近代の哲学的希望は、理性はすべての男女が彼らの理性的行為者としての本性によって共
有する内容豊かな非宗教的道徳を発見できるということにあった。概念的困難は、道徳的合理
性に関する特定の見解の基礎を正当化することに存する。特定の道徳的な自己拘束(moral
commitments)なしには、道徳的論証は空虚に留まる。たとえば、自然法の第一原則「善を行
い、悪を回避せよ」は、それが実践理性を導くことができるために内容を必要とする。また、
何がなされるべき善であり、回避されるべき悪であるかを知るためには、善と害悪の序列を仕
分けしなければならない。しかし、共有された、あるいは拘束的な標準的価値の序列がないの
で、内容豊かな道徳的論証を展開することはまったく不可能である。」(Kevin Wm. Wildes, S.
J.,“The Sanctity of Human Life: Secular Moral Authority, Biomedicine, and the Role of the
Stare,”in K. Bayertz (ed.), op. cit., p.244;稲益達朗・菊地恵善「K・Wm・ワイルズ「人間生命
の尊厳-世俗的道徳的権威、生物医学、国家の役割」(要約)」、「続・独仏生命倫理資料集」(上)、
132-38 頁参照)
T・エンゲルハートについては別の小論で論じたので、ここでは繰り返さない。(拙稿「編集
後記-応用倫理学に応用すべき規範的原則はあるのか」、「応用倫理学研究」第2号、148-50
頁参照)ワイルズの見解については、§3の後半で詳しく取り上げることにする。
最後に、むすびでは上述のように「人間の尊厳」概念のビルンバッハーによる再定義を
概観するとともに、筆者がこの概念を採用しない理由を述べる。その理由の一つに、この
概念の最近の「価値下落的用法」はその規範概念としての有効性を弱体化するということ
がある。その典型がクヴァンテの「人間の尊厳」と「生命の質」評価との両立論である。
クヴァンテは着床前診断による受精胚廃棄を承認する条件として「理性的-相互主観的基
準」を提唱する。しかし、クヴァンテは多くの「人間の尊厳」論者と同様に、ヒト胚と具
体的人間とを同等の「尊厳」の担い手と見るから、その基準は遺伝的欠損をもつ受精胚と
同時に、そうした遺伝的障害を現実にもつ子供や成人にも無条件で適用される。クヴァン
テはそうした障害をもつ人間に対する非自発的安楽死をも容認せざるをえないのである。
「他の事例、すなわち非自発的積極死的安楽や着床前診断の場合を考えてみよう。理性的主
体がある境遇と条件の下にある生命を生きようと欲するか否かを判断するために、我々は理性
的かつ間主観的基準に依存しなければならない。すでに見たように、非常に慎重でなければな
らないとしても、そうした判断を下すことはできる。しかも、我々はそれを逃れることができ
-3-
ない。現代技術はこうした状況と意思決定を我々に課しているからである。」(Michael
Quante“Quality
of
Life
Assessment
and
Human
Dignity:
Against
the
Incompatibility-Assumption,”unpublished paper)
このように、本稿の目的とするところは、最近の批判を媒介にして「人間の尊厳」と「生
命の神聖」という古い規範概念の明確化に努めると同時に、それらの有効性を再検討する
ことにある。
ところで、この「生命の神聖」アプローチそのものは余りにも月並みである。その基本
的な主張は「すべての生命を大切にしょう」、「いかなる生命であれ、正当な理由なしに
それを破壊することは倫理的に許されない」ということに尽きるからである。他方、「ヒ
ト胚を破壊することは子供を殺すことに等しい」というタイプの論法には、何かしら知的
好奇心を刺激するものがある。この主張は、それを正当化する何らかの理由なしには受け
入れられないからである。そこで、この主張は直ちに「ヒト胚を破壊することは「倫理的
には」子供を殺すことに等しい」と言い換えられる。たとえば、「人」と「ヒト胚」とは、
「生命体としての存在のあり方に差異があるにしても、いったん生まれた存在として、し
かも「ヒト」になりうる存在として、「人」と「ヒト胚」は倫理的な位置づけに関して差
異はない」というのである。この議論はおおよそ以下のように続く。(島薗進『いのちの始
まりの生命倫理』春秋社、2006 年 1 月、32-33 頁参照)
「生殖医療においては余剰胚として通常の胚と区別されるが、倫理的な位置づけという観点
からすれば、通常の受精胚も余剰胚も同等である。」「これは、死刑を宣告された人とそうで
ない人が、「人」としては存在の等しい尊厳をもつことと同じであり、中絶される胎児を実験
目的で使うことができないように死刑囚の身体を実験目的で使うことが許されないのと同じで
ある。」「さらに、受精胚と人クローン胚も・・・倫理的には同じ重みをもつ。」(前掲書、33 頁)
このような考察の後に、「たとえ倫理的な位置づけに関しては[ヒト胚は]「人間」と同
じであっても・・・」という語句が見出される。
「「人の生命の萌芽」という、ヒト胚の規定のなかの「萌芽」という表現が、「人間の尊厳」
を言う時のその「人間」とまったく同一のものではないという判断を示している。そこで、ヒ
ト胚の研究・利用がいかなるものであれ、「人間」の存在を手段としてはならないという最高
の倫理規範にそのまま抵触するわけではないことから、たとえ倫理的な位置づけに関しては[ヒ
ト胚は]「人間」と同じであっても、存在性格は異なるという解釈の可能性を容れる概念とし
てある。」(同、33 頁)
この一連の議論のなかで、読者は「人間とヒト胚は倫理的な位置づけに関して差異はな
-4-
い」ことが論証されたように思うかもしれない。しかし、その過程で論じられているのは、
「受精胚と余剰胚は同等である」、「死刑宣告を受けた人もそうでない人も等しい尊厳を
もつ」、さらに「受精胚と人クローン胚は同じ重みをもつ」ということである。実際、誰
もこうした点には疑問をもたないであろう。また、この文脈の趣旨は、死刑囚を実験目的
に使用することが許されないのと同様に、余剰胚や人クローン胚を実験材料にすることは
許されないということにあるように見える。
しかし、ここで論証されるべき点は、じつに「人」と「ヒト胚」との間に「倫理的な位
置づけに関して差異はない」ということであった。もしそうであるなら、死刑囚を実験目
的で使用することが倫理的に認められないのと同様に、余剰杯を実験材料にすることも許
されない。しかし、このことが論証されないうちに、「ヒト胚」と「人間」の倫理的な位
置づけが同じであるかのように議論は進行するのである。
これに対して、同じ人類の成員であっても、そのあり方に応じて道徳的地位の違いを認
める見解、すなわち「ヒト胚を破壊することは子供を殺すことと同じではない」という主
張は余りにも常識的で、特別の概念装置が必要であるとは思われない。実際、「培養皿の
なかのヒト胚を破壊することは、母胎内の胎児を殺すことと同じではない。」「母胎内の
胎児を殺すことは、元気に遊び回っている子供を殺すことと同じではない。」それゆえ、
「ヒト胚を破壊することは、子供を殺すことと同じではない。」あるいは、「子供を殺す
ことは不正であって絶対に許されない。」「胎児を殺すことは不正である。」しかし「胎
児を殺すことは、子供を殺すことと同じではない。」したがって、「胎児を殺すことは子
供を殺すことと同様に不正なのではない。」我々は常識的にこのような推論を受け入れて
いるし、それが根本的に誤っているようにも思われない。倫理的問題に関して真理は哲学
的思弁ではなく、むしろ常識的判断にあると筆者は考えている。
§1ヒト胚研究のあり方
第一に、ヒト胚研究のあり方に関する筆者の見解は、一昨年夏に公表された総合科学技
術会議の報告書「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」(平成 16 年 7 月 23 日)とそれほ
ど変わるところはない。
「ヒト受精胚は、母胎にあれば胎児となり、「人」としての誕生しうる存在であるため、「人
の尊厳」という社会的価値を維持してゆくためには、ヒト受精胚を特に尊重して扱うことが不
可欠となる。このため、ヒト受精胚を「人」と同等に扱うべきではないとしても、「人」へと
成長しうる「人の生命の萌芽」として位置づけ、通常の人の組織、細胞とは異なり、特に尊重
されるべき存在として位置づけざるをえないのである。」(「ヒト胚の取扱いに関する基本的考
え方」、5 頁)
「したがって、その目的の如何に関わらず、ヒト受精胚を損なう取扱いが認められないこと
を原則とする。しかし、人の健康と福祉に関する幸福追求の要請も、基本的人権に基づくもの
である。このため、人の健康と幸福追求の要請に応えるためにヒト受精胚の取扱いについては、
-5-
一定の条件を満たす場合には、たとえ、ヒト受精胚を損なうような取扱いであるとしても、例
外的に認めざるをえないと考えられる。」(同、6 頁)
また、ヒト受精胚尊重の原則の例外が許容される条件として、同報告書は、期待される
研究成果が「そのようなヒト受精胚の取扱いによらなければえられない」ということ、言
い換えれば、他の手段によってはそうした成果は期待できないことを前提として、(1)「生
命科学や医学の恩恵及びこれへの期待が十分な科学的合理性に基づいたものであること」、
(2)「人に直接関わる場合には、人への安全性に十分な配慮がなされていること」、(3)「そ
のような恩恵及びこれへの期待が社会的に妥当なものであること」という三つ上げ、さら
に(4)「研究目的でのヒト受精胚の作成・利用においては、その取扱い期間を原始線条の形
成前までに限定すべきである」としている。また、(5)「これらの条件を満たす非知受精胚
の取扱いであっても、人間の道具化・手段化をもたらさないよう、適切な歯止めを設けるこ
とが必要である」と付け加えることも忘れていない。
同報告書のこのような考え方を、筆者はおおむね妥当であると考えている。上述の(1)
期待される研究成果が科学的合理性に基づくこと、また(3)それが社会的に妥当であること
は、個別の事例に則して検討する以外にはないと考えるからである。同時に、(4)について、
研究目的でのヒト胚の取扱期限をなぜ「原始線条の形成前」に制限するのか。また(5)につ
いては、何をもって「道具化・手段化」と言うのか。こうした問題に関して十分の説得的
な理由を与えることは、おそらくきわめて困難であろうと考えている。しかし、だからと
いって、ヒト胚の研究利用を全面的に禁止すべきであるとは考えていない。同様に、だか
らといって、ヒト胚の取扱いを研究者個人の恣意的判断に委ねてよいということにはなら
ない。
同報告書に関わるもっとも重要な問題は、むしろ生命倫理専門調査会における審議のあ
り方と生殖補助医療研究におけるヒト胚使用の現状にあると考えられる。前者に関しては、
本報告書の体裁それ自体が、事実を如実に物語っているのでここでは言及しない。(島薗進、
前掲書、7-12 頁参照)
後者に関して、同報告書に添付された「最終報告書に対する共同意見書」で、専門委員
を務めた石井美智子、位田隆一、勝木元也、島薗進、鷲田清一は、次のように述べている。
「研究目的でのヒト受精胚の作成については、原則として禁止されるべきである。しかし、
生殖補助医療の研究にヒト受精胚を作成し使用することは例外として許される場合がありう
る。だが、これらを例外として認めるには、その実情についての調査がなされておらず、認め
る条件や根拠についても議論がなされていない。さらに例外として取扱うに際しての法的制度
的検討もなされていない。今後、早急にこれらの点を審議した上で、例外としての取扱いの是
非について改めて決定されるべきである。」(同、④頁、島薗進、前掲書、282-2 頁)
この共同意見書が指摘する諸問題が未解決である以上、筆者としても生殖補助医療研究に
-6-
おけるヒト胚の使用に先立って、この分野での「研究倫理」の確立を強く要求せざるをえ
ない。言うまでもなく、その研究倫理には実験動物の取扱いに関する何らかの指針が含ま
れていなければならない。
第二に、その理論的な基礎づけに関しても、筆者に独創的なアイデアがあるわけではな
い。筆者の手法は応用倫理の領域でよく見られるように、伝統的な「生命の神聖」概念を
基にヒト胚の「道徳的地位」(moral status)を確定し、そこからそれに対応した取扱いを
導 き 出 そ う と す る に す ぎ な い 。 メ ア リ ー ・ A ・ ウ ォ レ ン 「 道 徳 的 地 位 」 (Mary A.
Warren,“Moral Status,”in R. G. Frey & C. H. Wellman (eds.), Companion to Applied
Ethics, Oxford: Blackwell Publishing, 2003, pp.439-50)に従ってその概要を示すと、おおよ
そ以下のようになる。
(1)道徳的地位の諸原則
1.生命尊重原則(respect for life principle)
他の健全な道徳原則を侵すことのない十分な理由なしに、生命有機体に危害を加え破壊する
べきではない。
2.虐待禁止原則(anti-cruelty principle)
それ以上の目標、すなわち、(1)他の健全な道徳原則に整合的で、(2)人間、あるいは感覚能力
にのみ基づく道徳的地位よりもいっそう強い道徳的地位をもつ他の存在物の生命維持に必要で
ある目標に適した方法が他にない場合を除いて、感覚能力のある存在物を殺し苦痛を与えるべ
きではない。
3.行為者の権利原則(agents' right principle)
道徳的行為者は生命と自由の権利を含めて、平等の基本的権利をもつ。
4.人間の権利原則(human rights principle)
我々自身の能力と原則3の範囲内で、感覚能力をもつが、理性的行為者に必要な能力を欠い
た人間は、道徳的行為者と同じ基本的権利をもつ。
5.特定種間の原則(interspecific principle)
上記原則1~4の範囲内で、混合社会共同体の人間以外の成員(non-human members)は、
それらの感覚能力に基づく道徳的地位以上に強い道徳的地位をもつ。
6.生態系原則(ecosystem principle)
生態系に重要な役割である種に属し、人間の活動によって危機に曝されている生命体は、上
記原則1~5の範囲内で、それらの内在的特性に由来する道徳的地位よりもいっそう強い道徳
的地位をもつ。
7.尊重推移原則(transivity of respect principle)
上記原則1~6の範囲内で、また利用可能で道徳的に認容可能な範囲で、道徳的行為者はあ
る種の存在物に対して、それらの内在的な特性に基づくよりもいっそう強い道徳的地位を相互
に帰属させることを尊重すべきである。(Mary A. Warren, op. cit., p.446-7)
-7-
(2)ヒト胚と胎児の取扱い
「こうした原則に基づくなら、人工妊娠中絶に道徳的に問題が生ずるのは、ただ胎児が感覚
能力をもつようになってである。人間の接合子、胚、感覚能力をもつ以前の胎児は、生命ある
有機体であることによってある道徳的地位をもつ。しかし、それらは感覚能力をもつ存在物と
道徳的な等価物ではない。死が感覚能力をもつ存在物を傷つけるような仕方で、それらを傷つ
けることはできない。それらは感覚能力をもつ以前であるから、まだ人間の社会共同体の成員
ではない。さらに、それらは絶滅の危機に曝されているような生態的に重要な種ではない。あ
る人々は感覚能力をもつ以前の胎児に価値を認め、それを保護しようとするかもしれない。し
かし、尊重推移原則は彼らが女性の基本的な道徳的権利を侵害するような仕方でそれを保護す
ることを正当化しない。初期の人工妊娠中絶は女性の生命と自由と身体的全一性を保護するた
めに、女性が必要とする選択肢の一つである。こうした理由で、それは道徳的に殺人に等しい
のではないし、女性の自発的な意思決定以上の正当化を必要としない。胎児が感覚能力をもつ
ようになると、その道徳的地位は幾分か変わる。それは苦痛を感じ快楽を享受する存在物であ
るから、虐待禁止原則によって保護される。また、それは子供に非常に似ているから、我々が
それを保護しようとするのは当然である。しかし、後期の人工妊娠中絶も時には道徳的に正当
化される。たとえば、女性の生命と健康の保護、胎児自身の生存と最小限の生命の質を閉め出
すような致命的な異常、などである。」(ibid., p447)
筆者はこのようなメアリー・A・ウォレンの考え方に対して、細かな点を除いて、それほ
ど多くを付け加える必要を感じない。二つほど、ウォレンと筆者と違いを指摘しておく。
第一に、ウォレンはヒト胚に単なる有機体以上の道徳的地位を認めようとしないように見
えるが、これは正しくはない。それは人間共同体の現実の成員ではないが、その可能的な
成員であるから、尊重推移原則によって母親の胎内の胎児以下ではあるが、それに準じた
道徳的地位を認められるであろう。また、それは人間の血液、細胞、組織などの他の身体
派生物以上の道徳的地位を占め、同時にそれらとともに商品として売買不可能な事物の部
類を形成するであろう。
第二に、ウォレンはそれを正当化する十分な理由がある場合、人工妊娠中絶があたかも
善悪無記の行為であるかのように論じている。筆者は「それは道徳的に殺人に等しいので
はない」という点で、また正当な理由がある場合には、そうすることが道徳的に許容され
るという点でウォレンに同意するが、その行為自体が不正であることに変わりはないとい
う立場をとる。さらに、それを正当化する理由には、それが「女性の自発的な意思決定」
であることを前提とした上で、それ以上の理由が必要であるとも考えている。
ところで、K・バイエルツは「人間の尊厳」概念と同様に、「生命の神聖」概念は哲学
文献では論争の的であり、その理由の一端は「どちらの用語も正確に定義されていなかっ
たという事実」にあると指摘した。(K. Bayerts ,“Introduction: Sanctity of Life and Human
Dignity, ”in K. Bayerts(ed.), op. cit., 1996, p.xiv-v)「生命の神聖」に関して言えば、第一に
-8-
それは生命のすべての形態に及ぶのか。それとも、人間にのみ限定されるのかという問題
がある。もし生命それ自体が神聖であるとするなら、人間の生存権は他の動物や植物のそ
れと同等ということになる。また、それを人間の生命に限定するなら、人間の生命と人間
以外の生物の生命との間の生の截然とした区別をどのように倫理的に正当化するかが問わ
れるであろう。さらに実践的な問題として、すべての人間生命が考えられうるあらゆる状
況において不可侵と考えられるべきなのか。人間生命を保持するためには、どれほどの価
値もけっして高くはないと考えるべきなのか、という問題もある。(ibid., p.xv)
この概念の定義に関しては§3で考察するが、バイエルツの指摘する諸問題に対して上述
のウォレンの諸原則がすでに明快な回答を与えることが理解されるであろう。また、バイ
エルツの言う実践的な問題は、それ自体が規範概念としての「生命の神聖」に対する批判
と見なすことができるが、それが妥当するは「生命(延命)至上主義」(vitalism)にすぎない。
カイザーリンクはこれを以下のように規定している。
「生命至上主義とは、人間生命の存するところ、たとえばそれがたんなる物質代謝と生命過
程であっても、またそれが胎児の生命であるか、遺伝的障害者の生命であるか、苦痛に満ちた
生命、脳死の状態にあるか、臨終間近の生命であるかに関わらず、あるいはどれほど損傷が激
しくても、あらゆる手段を使って可能なかぎり長く生命を維持しようとしないのは不正である
と考える考え方である。」(Edward W. Keyserlingk,“Sanctity of Life and Quality of Life-Are
they Compatible, ”in Gragg, W.,(ed.), Contemporary Moral Issues, Macgraw-Hill, 1983,
p.124 :E・W・カイザーリンク「生命の尊厳と生命の質は両立可能か」、加藤・飯田共編『バ
イオエシックスの基礎』東海大学出版会、1988 年、6 頁)
いわゆる「生命の尊厳」(SOL, Sanctity of Life)対「生命の質」(QOL, Quality of Life)と
いう周知の図式は、「生命の神聖」をこの意味で理解した上で成り立つ。また、この図式
の下で不毛の論争が繰り広げられたことは事実である。しかし、この意味での「生命の神
聖」は、ウォレンの言う「生命尊重原則」とは無縁である。
「生命の神聖」について、カイーザーリンクはすでに「もう一つのいっそうよい意味と
選択」の可能性を示していた。すなわち、その神学的起源によれば、人間の生命は尊重さ
れるべきであり、けっして正当な理由なしに奪われたり、変質されるべきではない。なぜ
なら、人間ではなく、神だけがその完全な支配権を有しているからである。同時に、この
同じ伝統は、神はこの支配権のなかの幾つかを、つまり生命に対するある支配、生死の問
題についての責任ある決定に至るまで、人間に委託し分け与えていると主張している。し
たがって、カイザーリンクによれは、「神の与えたその責任を引き受けることは「神を演
じる」(playing God)ことではなくて、「人間である」(being human)ことである。」(op. cit.,
p.125)これは、後述の「管財人職務」(stewardship)の世俗的理解と見ることができる。
ここから、カイザーリンクは SOL と QOL の両立可能性を追求するのであるが、これは
本稿の主題ではない。むしろ、注目すべきことは、カイザーリンクが「生命の神聖」概念
-9-
の源泉を聖書ではなく、我々人間の原初的経験に求めていることである。カーザーリンク
は E・シルズを引用して次のように言う。
「生命が神聖であると考えられる理由は、生命の起源となる超越的な創造主の啓示だからで
はない。生命が神聖だと考えられるのは、それが生命だからである。神聖という観念は生きて
いる(being alive)という原初的な経験、あるいは、生命力(vitality)への根源的な感覚と、それ
が終息することに対する根源的な恐れを経験することから生まる。人は自分自身の生命力、自
分の血統とその種の生命力に畏敬の念を覚える。この畏敬の念が神聖の特質であり、それゆえ
に畏敬の念は神聖の受容なのである。・・・もし生命の神聖が失われるなら、他の何ものも神聖で
はなくなるだろう。」(Edward Shils,“The Sanctity of Life,”in Edward H. Labby(ed.), Life or
Death: Ethics and Options, Seatle: University of Washington Press, 1968, pp.12-3; Cf.
Keyserlingk. ibid., p.125-6)
このような方向で理解された「生命の神聖」が、ウォレンの言う「生命尊重原則」と強い
親近性をもつことは明らかである。
他方、周知のように、D・ドゥオーキンは「神聖」概念の源泉を自然と人間との「資本投
下」(investment)に求めた。
「一つの人間生命体(human organism)の生命が、たとえどのような形態であれ、尊重
(respect)と保護(protection)を命じるのは、それが表現する複雑で創造的な投資投下(creative
investment)のためである。また、それは我々が古い生命から新しい生命を生み出す神的な、
あるいは進化の過程(devine or evolutionary processes)に驚嘆し、それによって人間が数百世
代にわたる諸文化および生活と価値の諸形態を吸収し継続し、ついには心生活を開始し開花さ
せるに至る国家と社会と言語の過程に驚嘆し、また個人が自己自身を形成し再形成する内的な
個人の創造と判断の過程に驚嘆するからである。・・・人間生命が意図的な破壊に感じる恐怖は、
こうした資本投下の各次元での内在的な重要性について我々の共有する言葉で表現できない感
覚を反映する。」(Ronald Dworkin, Life's Dominion, New York: Vintage, 1994, p.84;R・
ドゥオーキン『ライフズ・ドミニオン』水谷・小島共訳、信山社、1998 年、137 頁)
こうした考え方は、容易に自然と人間の資本投下の量に基づく人間生命の比較考量に道を
開く。無力な乳児の生命よりも屈強な青年の生命を尊重すべきである、というのである。
しかし、これは我々の日常的な道徳的直観に反する。たとえば、「女性と子供優先」が海
難救助の際の行動指針だからである。
また、若い女性の自分自身による資本投下を阻害するという理由で、自分の身体に宿っ
た自然の資本投下の成果である胎児の生命を自由に処分してよい、というのは納得できな
い。一般的に言って、胎児と成人女性との道徳的地位の違いを承認することは、いかなる
場合でも後者は前者に優先するということを意味しない。むしろ、それは後者は前者には
- 10 -
問われることのない義務があることを承認することでもある。しかし、ここではこれ以上
の論及はできない。
§2人間の尊厳
さて、「人間の尊厳」(Menschenwürde)という概念は、何を意味するのであろうか。
「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ保護することは、すべての国家権力
の義務である。それゆえに、ドイツ国民は世界における各人間社会・平和及び正義の基礎
として不可侵の、かつ譲渡しえない人権を認める。」
言うまでもなく、これはドイツ基本法第1条第1項と第2項であるが、M・ホーネッカーは
「こうした人間の尊厳に対する公約は、絶対的道徳原則として理解されるべきなのか」と
問うている。すなわち、「人間の尊厳の訴えは義務論的な意味であって、目的論的考察や
選択肢の比較考量にいかなる余地も残さないのか」というのである。(Martin Honecker,“On
the Appeal for the Recognition of Human Dignity In Law and Morality,”in K. Bayertz (ed.),
op. cit., pp. 259-60)
この概念がドイツ基本法に取り入れられたのは、言うまでもなく、ナチスの残虐行為に
対する反動としてであった。一般的に言えば、大量殺戮、奴隷制、誘拐、拷問、自由の剥
奪、政治的人種的宗教的理由による迫害などに対抗する規範概念として「人間の尊厳」が
提唱され確立されてきたのである。こうした歴史的経緯を踏まえて、ホーネッカーは「人
間の尊厳に対する言及は否定的な機能、すなわち侮辱行為を識別する機能しか示さない」
と断定する。この言葉に訴えるだけでは、その積極的な理解には十分ではない。
「人間の尊厳は不可侵であるから、「それゆえに」ドイツ国民は・・・不可侵の、かつ譲渡し
えない人権を認めるという公式の註解が、明らかに人間の尊厳という法的規範のいっそう詳細
な解釈は、個々に規定された人権の助力をえて成し遂げられるべきであることを証明してい
る。」(Honecker, ibid., p.262)
したがって、人間の尊厳が個々の人権の基礎として理解されるとしても、「人間の尊厳は
そこから個々の要求が積極的に演繹されうるような原則ではない。」(ibid., p.263)人間の
尊厳への訴えは、ある種の境界を設定するにすぎないのである。
「ドイツ基本法の義務論的基礎は、その適用の過程における目的論的論証を排除しない。身
体的人格の権利は、政治的人格の自己決定の権利と比較考量されなければならない。危害を禁
止する古い原則(nil nocere)は、何が患者にとって危害であり、危害が何を意味するかに関する
合意を必要とする。患者、近親者、医師の利害、さらに社会の利害に関する議論は、人間の尊
厳原則に対する訴えから切断されも除外されもしない。結果を評価し選択肢を考量することと、
- 11 -
人間の尊厳原則による態度決定は、原則的に二者択一的であるのではない。人間の尊厳が不可
侵であるとしても、その不可侵性への訴えがどういう意味でなされているのか、を明瞭にする
必要がある。」(ibid., p.264)
「人間の尊厳」概念に実質的な内容を与えるのは個々の人権である。これがホーネッカー
の理解である。
同様に、D・ビルンバッハーもそれに固有の内実を認めない。「強い意味での人間の尊
厳が含意しているのは、その担い手が一連の道徳的権利を所有し、こうした権利によって
他者には一定の消極的(不作為)義務と積極的(作為)義務が生ずる」ということである。また、
そこには少なくとも以下の五つの権利が含まれる。
(1)軽蔑や侮辱という意味での尊厳の侵害を免れたままでいる権利
(2)最小限の行為の自由と決定の自由への権利
(3)いわれのない苦境のなかで援助を求める権利
(4)苦痛からの自由という意味での最小限の生命の質への権利
(5)承諾なしに深刻な仕方で他者の目的のために道具とされない権利
言うまでもなく、(4)は尊厳死の権利を意味し、(5)はいやゆる手段化・道具化の禁止に対応
する。ドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会答申は「人間の尊厳についての積極
的な定義は見つからない」としながら、「人間の尊厳の保護」を以下のように概括してい
る。(『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報』松田純監訳、知泉書院、2004 年、
25-6 頁参照)
(1)権利についての基本的な平等の保護
(2)人格の自由権と不可侵性への権利の保証
(3)社会保障の請求権
(4)政治的参加権の保証
ここで、これら二つのリストの差異について議論する必要はない。迫害や抑圧の具体的な
あり方が、それに対応する権利と義務を浮かび上がらせるからである。また、カントを引
用するまでもなく、「尊厳」(Würde)という概念の定義に「交換不可能」「比較考量不可
能」ということが含まれるのであるが、これに関してビルンバッハーは次のように論じて
いる。
「道徳的権利はそれ自体としては比較考量可能である。道徳的諸義務の間でと同様に、道徳
的諸権利の間でも衝突は起こりうるし、そうした衝突は財ないし価値の比較考量によって解決
されねばならない。・・・しかし人間の尊厳概念に含まれる道徳的諸権利に対してはこのことが当
- 12 -
てはまらない。こうした権利は比較考量可能ではないのであり、競合する道徳的義務とも、競
合する他の部門の道徳的権利とも比較考量不可能である。人間の尊厳概念に含まれる道徳的諸
権利はむしろ絶対的な優位、もっとうまく言えばほとんど絶対的な優位にある。というのも、
それら同士がつねになお競合することもありうるからである。」(D・ビルンバッハー「人間の
尊厳-比較衡量可能か否か」忽那敬三訳、「応用倫理学研究」第2号、92 頁、94 頁; Cf. Dieter
Birnbacher,“Ambiguities in the Concept of Menschenwürde,”in K. Bayerts(ed.), op. cit.,
pp.112-3)
ビルンバッハーは「尊厳」を一連の権利の集合と見て、それに他の諸権利に対する「ほと
んど絶対的な優先性」を帰属させる。筆者はこの見解に賛成である。というのは、「人間
の尊厳」はこうした理解で、またそのかぎりで十分な規範的効力を発揮しうると考えるか
らである。
他方、「尊厳」は憲法によって保護される権利や利益とは別個の独自の価値であると主
張するなら、それはそうした価値や権利に何を加えるのかを明らかにする必要がある。し
かし、この点はそれほど明確ではない。たとえば、ホセ・ヨンパルトによれば、「この尊
厳」は「人間の自由や生命とまったく同じものではない。」
「というのは、場合によっては、我々は正当な理由に基づいて人間の自由や生命を奪うこと
がありうるが、これは「自由と生命の尊重」の例外になっても、「尊厳の尊重」の例外にはな
らないからである。つまり、一定の行為(自由又は生命を奪う行為も)が、「人間の尊厳」を犯
すかどうかという判断を下すためには、その行為の正当性をも考慮する必要がある。したがっ
て、人間の尊厳を尊重するということは、人間とその自由、生命、名誉等を不当に扱わないと
いう意味である。換言すれば、人間の尊厳を尊重するということは、無条件の自由(不当なこと
もできる自由)、又は生物学的な意味の生命を尊重することではないということである。」(ホ
セ・ヨンパルト『人間の尊厳と国家の権力』成文堂、1990 年、66 頁)
この主張は容易に受け入れることはできない。というのは、肝心の「尊厳」が「人間の自
由と生命の尊重」以上の意味をもつことは何一つ論証されていないからである。
第一に、「正当な理由に基づいて人間の自由や生命を奪うこと」は、「自由と生命の尊
重」原則の例外ではない。「自由と生命の尊重」原則は「正当な理由なしに人間の自由や
生命を奪うべきではない」を意味するからである。言い換えれば、「一定の行為(自由又は
生命を奪う行為)」が正当な理由を欠くと判断されるとき、それは「自由と生命の尊重」原
則に違反するという理由で道徳的に非難することができる。第二に、「人間の自由、生命、
名誉等を不当に扱わない」という義務は、「自由、生命、名誉等の尊重」原則から導き出
されるのであって、「尊厳」に訴えて正当化する必要はない。第三に、「無条件の自由(不
当なこともできる自由)、又は生物学的な意味の生命を尊重すること」は、例外的状況を除
いて道徳原則として認めることはできない。
- 13 -
したがって、上述の引用箇所で「尊厳」が何らかの積極的意味をもつとは考えられない
のである。また、ヨンパルトは別の箇所で「殉教者」を例にして、彼らは「命よりも自ら
の良心と人間の尊厳を尊重した」と言う。「この簡単なことから言えるのは、「生命」と
いうものは価値あるものと認められても、最高の価値、つまり「人間の尊厳」ほどの価値
をもっていないということである。」(同、242 頁)しかし、ここでも「人間の尊厳」は無
益である。殉教者は自分の生命を選ぶか、自分の信仰と良心とを選ぶかという二者択一的
状況で、後者を選択したにすぎないからである。ビルンバッハーが正しく注記したように、
「人間の尊厳」を構成する諸権利は、「それら同士がつねになお競合することもありうる」
のである。
多くの論者は、「人間の尊厳」の実質的内容を手段化・道具化の禁止に見ている。島薗
進がヒト胚の研究利用に慎重論の立場をとる理由も、ここにあるように思われる。人工妊
娠中絶もヒト胚の研究利用も「人になりゆく発生段階の存在を破壊する」という点では共
通であるが、前者では「胎児の生命を絶つという行為の是非が問われる」のに対して、後
者では「生命を絶った後、その存在を利用するということが初めから想定されている」か
らである。
「他者の生命(の萌芽)を断つ(破壊する)という点では、両者は同じ事態を含むが、後者におい
ては、さらに生命を絶たれた存在を不特定多数の人が利用して何かを行うという事態が伴って
いる。ここでは、受精胚は手段としての地位におかれることになる。」(島薗進、前掲書、51
頁)
しかし、議論の要点は、むしろ「(他者の)生命の萌芽を断つ(破壊する)こと」は「他者の生
命を絶つこと」に等しいのか否かにある。もし両者が倫理的に等しい行為であるなら、前
者はそれ自体として道徳的に不正であるが、そのこと自体は論証されていない。他方、も
しそうでないなら、言い換えれば、ヒト胚が人間の尊厳の担い手でないなら、それを手段
として使用することに倫理的な非難の余地はない。
ビルンバッハーは「人間の尊厳」の積極的な内容をその手段化・道具化の禁止に見る見
解に対しても疑問を呈している。「他者の目的のために人間を利用することのすべてを、
人間の尊厳に反すると見なさねばならないかのように理解すべきではないのは当然であ
る。」(「応用倫理学研究」第2号、93 頁)要するに、カントの言う「たんに・・・のみ」に厳
しい条件をつける必要がある、というのある。
「通常は他者のための非自発的な利用のみが人間の尊厳に反すると見なされているが、これ
がすでにその十分条件ではない。目的のための手段としての非自発的な利用のすべてが人間に
尊厳に反するのでもなければ、他の理由によって道徳的に正当化されないわけでもない。・・・
一般に非自発的利用が人間の尊厳に反すると見なされるのは、それが一人の人間に著しい損害
を与える時か、あるいはその道具化が自由の剥奪や自尊心の破壊といったより広い局面での人
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間の尊厳への違反と結びついている時だけである。」(ビルンバッハー「人間の尊厳-比較衡量
可能か否か」、前掲書、93-94 頁)
したがって、「どのような人間の手段化・道具化を道徳的に許されない実例と見なすか」、
また「なぜそれが道徳的に許されないのか」を明確に論証しないかぎり、「人間の尊厳」
が何を意味するかは十分に解明されたとは言えないのである。実際、ドイツ連邦憲法裁判
所も手段化・対象化の定式に「控えめな評価」を示していると言う。
「人間をたんなる客体に貶めてはならないという一般的な公式は、人間の尊厳を侵害するケ
ースが見出されるような方向を示しているだけである。」(『ドイツ連邦議会審議会答申 人間
の尊厳と遺伝子情報』松田純訳、知泉書院、2004 年、25 頁)
実際、我々の日常的な道徳的直観によれば、いわゆる「代理母」は女性をたんなる手段と
して取り扱うことの典型的事例と見なされている。同時に、代理出産をそれを志願する女
性の自発的な意思に基づく雇用労働の一形態と見なすことも可能である。
「代理母、代理出産は約 10 ヶ月間拘束されて、その間には休憩時間もない。しかし、その
期間が終われば、代理出産仕事から解放されるのだから、カントの主張を拠り所にして、代理
母、代理出産の禁止の理由にすることはできない。」((加藤尚武「方法としての尊厳」、「続
独仏生命倫理研究資料集(上)」平成 16 年2月、56 頁)
たんに女性が手段化・道具化されているということだけでは、代理出産を道徳的に不正で
あると非難することはできない。そのためには、それ以上の理由、「出産」(子供を産むと
いうこと)に関するいっそう強固な規範原則が必要である。同様に、ヒト胚の研究使用に関
しても、それがたんに手段化されているということだけでは、それを道徳的に非難するに
は不十分である。
しかし、おそらくそこではヒト胚はたんに手段化されているだけではない。研究の過程
でそれが破壊されることが問題なのだ、と反論されるであろう。ヒト胚は現実の人間と同
等の道徳的地位をもつ。生きているヒト胚を破壊することは、生きている人間を殺すこと
に等しい。議論の焦点は、「人間の尊厳」をヒト胚に適用することに是非にある。
しかし、「人間の尊厳論」者はこの点を首尾よく論証することができない。「人間の尊
厳」という概念は、余りにもカント倫理学と強く結びついている。「目的の国においては、
すべてのものは価格をもつか、尊厳をもつか、その何れである。価格をもつものは、その
もの代わりに何か他のものが等価物とされることができる。これに対して、あらゆる価格
を超えていて、したがっていかなる等価物も許さないものは、尊厳をもつのである。」(『道
- 15 -
徳の形而上学的基礎付け』103)
カント倫理学は「人格」(Persön)と物件(Sache)の価値二元論であるから、たとえば「ヒ
ト胚」が「人間」の成員であることを認めると、また生物学的にはそれは「犬」でも「猫」
ではなく、紛れもなく「ヒト」であるから、またそのかぎりでそう認めざるをえないので
あるが、そこからいかなる論証もなしに、「ヒト胚を毀損することは人間の尊厳に対する
侵犯であり、道徳的に不正である」という結論が自動的に導き出される。
こうした議論の典型をドイツ連邦議会「現代医療の法と倫理」審議会答申に見出すこと
ができる。
「人類に属しているということに人間の尊厳の妥当性を求め、その妥当範囲をまだ生まれて
いない人間、さらに受精卵にまで拡大することは許し難い自然化(Naturalisierung)だと見なす
人々がいる。しかしその際、次のことが見逃されている。すなわち、尊厳を人間という生き物
に結びつけ、まだ生まれ出ていない人間にまで尊厳の担い手を拡張するのは、人間の尊厳が人
間としての人間に属しそれ以外のどんな特性にも依存しないという人間の尊厳の規範的な要請
から帰結するということ、これが見逃されている。したがって立証責任は、[人間の尊厳を]
制限する側が引き受けなければならない。」(『ドイツ連邦議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝
子情報』、9 頁)
ここには、明確に「人間」概念の二義性を利用した論点先取の誤謬がある。問題は、「人
間としての人間に属しそれ以外のどんな特性にも依存しない」という条件をどう理解する
かにかかっている。この語句を否定的に、人間としての人間に属し「それ以外のどんな特
性」、たとえば人種、性別、国籍、身分、思想、宗教、財産、精神的身体的能力の違いな
どに「依存しない」と理解するかぎり異論の余地はない。
しかし、これを肯定的に「人間としての人間に属し」それ以外のどんな特性にも依存し
ないと読み、そうした特性をヒトの遺伝的形質として理解するなら、間違いなく「人間の
尊厳の要請」から受精卵を含めて「まだ生まれていない人間」が「尊厳の担い手である」
ことが帰結する。
(1)人間の尊厳は、人間としての人間に属しそれ以外のどんな特性にも依存しない。
(1')人間としての人間に属する特性をもつものは、すべて人間の尊厳の担い手である。
(2)ヒトとしての遺伝的形質はすべての人間のもつ特性である。
(3)それゆえ、すべてのヒトは人間の尊厳の担い手である。
これに以下を加えると、いっそうわかり易いかもしれない。
(4)ヒト受精胚はヒトである。
(5)それゆえ、ヒト受精胚は人間の尊厳の担い手である。
- 16 -
しかし、これは論点先取の誤謬である。「人間の尊厳」という時の「人間」は倫理的な概
念であり、「ヒト」は生物学的概念である。議論の争点は「人間の尊厳」という用語を使
用するとき、その「人間」は「ヒト」と同じ意味であるか否かという点にある。言い換え
れば、ヒトの外延は人間のそれと同一であるか否かが論証されるべき焦点である。また、
ここでは、両者を同一視する立場が「人間の尊厳」の「許し難い自然主義化」であるとし
て批判されている。これに対して、上述の論法は自己の主張を反復するだけで、それを正
当化する理由を何一つ述べてはいない。
この点を明らかにするために、(2')を立ててみよう。(1')(2)(2')から(3')が導かれる。
[定義]ヒトとしての遺伝的形質をもつものはすべてヒトである。
(2)ヒトとしての遺伝的形質はすべての人間のもつ特性である。
(2')すべてのヒトが人間なのではない。
(3')それゆえ、すべてのヒトが人間の尊厳の担い手なのではない。
したがって、(1')(2)から(3)を導くためには、そこに(-2')を加える必要がある。
(-2')すべてのヒトは人間である。
(1')(2)に(-2')を加えれば(3)が帰結し、同じ(1')(2)に(2')を加えれば(3')が帰結する。上述の
ように、議論の争点はまさに「ヒト」と「人間」が同じ意味であるか否かにある。しかし、
(1')(2)から(3)が帰結すると主張する論者は、暗黙のうちに(-2')を前提に加えているにもか
かわらず、そのことに気づかずにこの推論を正しい推論であると信じているから、論点先
取という批判を免れることはできない。他方、「自然主義化」に反対して、(2')を主張する
論者は、遺伝的形質をもつことは人間としての道徳的地位をもつための必要条件ではある
が、それだけでは十分ではないと主張しているのである。カントの別の言葉を思い起こそ
う。「道徳性と、道徳性を備えることのできる人間性とが、それのみが尊厳をもつ当のも
のである。」(「道徳の形而上学的基礎づけ」105)
むろん、上述の(1')と(2)にある「人間」をすべて「ヒト」と置き換えるなら、論理的な
誤謬を回避することができる。
(*1')ヒトとしてのヒトに属する特性をもつものは、すべてヒトの尊厳の担い手である。
(*2)ヒトとしての遺伝的形質はすべてのヒトのもつ特性である。
(*3)それゆえ、すべてのヒトはヒトの尊厳の担い手である。
言うまでもなく、我々は「人間の尊厳」について論じているのであって、「ヒトの尊厳」
ではない。
- 17 -
しかし、この種の誤謬を見出すこともそれほど困難ではない。アンジェラ・セラは受精
後2週間以内の胚を「前胚」(pre-embryo)と呼んだ発生学者 A・マクラレンの見解を科学的
に批判した後で、「生きている胚は、配偶子の融合以降、たんなる処分可能な細胞の塊で
はなく、真のヒトである」と主張している。(アンジェラ・セラ「ヒト胚・処分可能の細胞の
『塊』か、『ヒト』か」秋葉悦子訳、「理想」2002、No. 668、103 頁)引用箇所は、以下のよ
うな論証の省略形として理解できる。
(1)配偶子の融合以降の生きている胚は、真のヒトである。
(2)胚はヒトと同じ倫理的地位をもつ。(同、96 頁参照)
(2-1)通常のヒト個体と同じ条件でのみ研究に使用できる。
(2-2)その条件には被験者の安全と利益が含まれる。
(2-3)胚研究はその対象となる胚を破壊する。
(3)それゆえ、胚を研究対象とすることは許されない。
A・セラは「人間」についてまったく顧慮せずに、じつに「ヒト」が尊厳の主体であるかの
ように議論を進めているのである。
実を言うと、先の引用箇所にはまだ疑問が残されている。「生きている胚」という表現
である。ヒト胚の生死の基準はどこにあるのか。ヒトの死の条件に従って、ヒト胚として
の有機的統合性が維持されていることであると答えよう。しかし、ヒト胚の有機的統合性
を構成する要件は、母体から独立して生存可能な「ヒト」の有機的統合性を構成する要件
とは異なる。また、二つの個体についてその有機的統合性を構成する要件が異なれば、そ
れらは別個の類に配属される。したがって、ヒト胚は「ヒト」ではないということも可能
である。また、「死んだ胚」は「ヒト」ではないのかという疑問も残る。
さらに、先の「現代医療の法と倫理」審議会答申は「人間としての人間に属する特性」
を「ヒトの遺伝的形質」とするのであるが、これは一つの解釈にすぎない。それをいっそ
う狭く、たとえば、感覚能力、自己意識、合理性などとして理解することも可能だからで
ある。したがって、立証責任は人間の尊厳を制限する側だけでなく、それを拡張する側に
もあると言うべきであろう。もし「人間の尊厳は時間とともに獲得されたり失われたりす
るものではない」と反論するのであれば、死んだ人間にも生きた人間と同等の道徳的地位
を認めざるをえない。人間はその死を迎えるとき、同時に自己の遺伝的形質をすべて失う
ということはありえないからである。
「人間の尊厳論」者はこの結論を躊躇しないように見える。「脳死が人の死であるから、
脳が発達するまで人は存在しない」という見解に反論するために、次の主張がなされてい
る。
「脳の発達以前の、接合子の初期胚に至る段階の有機体においては、その生命活動のすべて
を統合するもの(DNA)が存在する。したがって、その有機体が死んでいると宣言することも、
- 18 -
ヒトの種の仲間と同視するのを否定することもできない。」(秋葉悦子「ヒト胚の尊厳-人格主
義の生命倫理の立場から」、「続・独仏生命倫理研究資料集(上)」平成 16 年2月、114-5 頁)
誰も「脳の発達以前の、接合子の初期胚に至る段階の有機体」が「ヒトの種の仲間」であ
ることを否定しない。問題は、「その生命活動のすべてを統合するもの(DNA)が存在する」
かぎり、「その有機体が死んでいる」と宣言できないという点にある。もしそうなら、脳
死者ばかりではく、心肺機能が停止した者に対しても「死んでいる」と宣言できない。こ
れは「いかがわしい結論」(『ドイツ連邦議会審議会答申』、10 頁)以外の何ものでもない。
人間の死は、人間身体を構成する個々の細胞の死滅によって定義されてはいない。「人間
の尊厳」論者は我々の経験における「誕生」と「死」という言葉のもつ重さを余りにも軽
視している。
他方、死者と生きた人間との間に道徳的地位の違いを認めるなら、言葉のもっともふつ
うの意味で「生まれた」(誕生)後の、すなわち母胎から分離独立した後の新生児と「生ま
れる」(誕生)前の胎児との間にその違いを認めることも、また母親の胎内にある胎児と着
床前の受精卵の間にそれを認めることも、けっして理由のないことではない。反対に、受
精卵も胎児も生きた人間も死んだ人間も、すべて尊厳の担い手であることに何ら変わりは
ないと言うのであれば、それらの間のある道徳的地位の違いを示すための別の基準を提示
する必要がある。しかし、「人格」と「物件」の価値二元論はこうした事態に対応する術
をもたないのである。
このように、この種の「人間の尊厳」論法は論点先取の誤謬を犯しているのであるが、
カントの権威とともに無批判的に受け入れられる傾向がある。問題は「ヒト胚はヒトの生
命の萌芽であるが、人間と同等の道徳的な地位を認め、人間と同等の道徳的な取扱いをな
すべきか」という形で提起されるべきであろう。
さらに、「人間の尊厳」アプローチは「種差別」という批判を免れない。D・ビルンバ
ッハーは以前は「種差別(speciesism)という批判は当たらない」と論じていた。
「「人間の尊厳」原則を受け入れることは、他の生物種を無視して人類に特権を与えること
を意味しない。人間はまさに人間であるという理由で、その功績や資質に関わりなく、最小限
の保護が与えられるべきであると要請し、同時に感覚能力をもつ動物は、まさに感覚能力をも
つ動物であるという理由で、人類に対してもつ価値の有無に関わりなく、同様の保護が与えら
れるべきであると要請する道徳的立場に矛盾は含まれない。」(D. Birnbacher,op. cit., p.114-5)
しかし、最近の講演原稿では、ビルンバッハーも率直にその「人類優先主義」を認めてい
る。たしかに、「人間の尊厳」を「人間はまさに人間である」という理由で、人間には「最
小限の保護が与えられるべきであると要請する」道徳的立場として理解するかぎり、それ
は「感覚能力をもつ動物」の道徳的地位についていかなる含意ももたない。しかし、その
理由を「人間はまさに人間であって、たんなる動物ではない」と言い換えるなら、否応な
- 19 -
しに「人間」と「感覚能力をもつ動物」の間に何らかの道徳的地位の違いを認めざるをえ
ないからである。
「人間の尊厳は、生物学的な種であるホモ・サピエンスのメンバーすべてに対して、そして
それに対してだけ当然与えられるとされる。人間に特徴的な能力の幾つか、あるいはそのすべ
てにおいて人間よりも優れているが、生物学的には人間と類縁関係にはないものとしての火星
人を仮想したとして、同様の点で人間よりも優れているロボットの場合でも同じことが言える
が、こうした火星人が人間の尊厳の担い手として考慮されることはないだろう。能力的にみて
平均的な人間の能力に少なくとも近いような高度に発達した個々の動物に対しても同じことが
当てはまる。」(「人間の尊厳-比較衡量可能か否か」、前掲書、90-1 頁)
したがって、たとえ「人間の尊厳」に依拠して、ヒト胚の取扱いに関する説得的な議論を
構築できたとしても、その議論の妥当性は「人間」にのみ限定され、たとえば絶滅の危機
に瀕している生物種の道徳地位に関する考察には適用することはできない。これに対して、
M・A・ウォレンは進んで機械や人工的生命体にもそれなりの道徳的地位を認める。
「快苦やその他の意識的状態を経験できる機械が存在し、生命有機体と同様の特徴的な
機能を示すなら、人工的生命体と見なされるべきである。慈悲原則の保護下におくために
は、自然の有機体である必要は認められない。それがどの程度の道徳的地位をもつかは、
その機能に依存する。」(M. A. Warren, op. cit., p.449)
さらに、バイエルツは「人間の尊厳」概念について独自の哲学史的な分析を試み、その
成果に基づいて「人間の尊厳」概念を放棄した方がよいと主張する。この概念に固執する
かぎり、我々は深刻なジレンマに直面せざるをえないからである。「すなわち、「人間の
尊厳」概念を種の無制約的な主体性の意味にとるか、あるいは自己の本性を神聖で不可侵
としてと宣言するか、というジレンマである。」(Bayertz, K.,“Human Dignity: Philosophical
Origin and Scientific Erosion of an Idea,”in K. Bayertz(ed.), op. cit., p.88)
前者の場合、各個人は自己の自由な形成者、自律的な行為の主体として、自己自身を種
の側の自己展開の果てしない過程に投げ入れるであろう。言い換えれば、各個人は自己の
欲するように、遺伝子を操作しその身体的精神的能力を向上させようと試みるであろう。
これは人間が自己自身を種の自己決定と自己改変の素材として譲り渡すことであり、各個
人はその都度の選好以外に、それを阻止するいかなる理由も見出さないであろう。やがて、
「人間の主体性までが技術支配の対象となるであろう。自律的な人間は消滅する。」(K.
Bayertz, op. cit., p88)
後者の場合、ヒト胚研究の成果によって、人間がその身体的精神的能力を向上させよう
と試みることは、人類の長い歴史を通して継承されてきたその自然本性を改造することで
あり、人間を正体不明のキメラに作り変えることである。これは「人間の尊厳」に反する。
- 20 -
多くの論者はこのように主張している。「しかし、それは人間の尊厳の哲学的概念が克服
したはずの固定的な人間本性の概念に立ち戻ることである。」(ibid., p88)
しかし、バイエルツによれば、我々の状況はそれを簡単に放棄することを許さない。「こ
の概念は余りに深く近代の思考に埋め込まれているので、容易に放棄できるものではな
い。」実際、「人間の尊厳」概念とそれに結びついた規範的方向づけを放棄すること自体
が、現在じつに多くの論者に見られるように、他でもない「人間の尊厳」を根拠になされ
ている。したがって、この概念を放棄することはできない。「要するに、「人間の尊厳」
概念はそれを破壊することなしに保持することはできず、また人間の尊厳概念を認めるこ
となしに、それを放棄することはできないのである。」(ibid., p88-9)
ここで、バイエルツの哲学的思弁に惑わされる必要はない。「人間の尊厳」概念から両
立不可能な選択肢が生ずるのは、第一にこの概念を個人を超えて「人類」にまで不当に拡
大したからである。ビルンバッハーの指摘するように、「人間の尊厳」の日常的用法では、
それは「一方で人間生命の初期と剰余の段階(人間の胚、胎児、死体)に拡張され、他方で
は個人から人類という種に拡張されている。」(Birnbacher, op. cit., p115)第二に、個人の
恣意的な身体的精神的能力の増強を規制する原則として「他者危害(防止)原則」以上をも
のを認めようとしないからである。しかし、この点については、ここでこれ以上論究する
ことはできない。
§3生命の神聖
本論の冒頭で述べたように、「生命の神聖」は「人間の尊厳」とともに、最近の生命倫
理に関する関する論争において同じ役割を果たしている、という批判がある。K・バイエ
ルツは以下のように論じている。
「「生命の神聖」と「人間の尊厳」は異なった歴史をもち、前者は主として英語圏で、後者
はドイツ語圏を根城とするが、それぞれの文化的伝統において同様の「戦略的機能」(strategical
functions)を果たす。それらは困難な異論の多い論争を終結させるために用いられる。これは
優しい抱擁の形で共通の確信に訴える。「生命の神聖」と「人間の尊厳」への訴えは「停止信
号」として機能し、それ以上の議論に終止符を打つ。「生命の神聖」と「人間の尊厳」は、ま
さにそうした岩あるいは杭である。」(K. Bayerts ,“Introduction: Sanctity of Life and Human
Dignity, ”in K. Bayerts(ed.), op. cit. p.xi-xii)
また、ワイルズは「一般的で世俗的な生命倫理は、「生命の神聖」や「生命の尊重」と
いう用語を使用するとき、言語の混乱に陥る危険がある」と警告する。この警告は、最終
的にはナンシー・クルーザン事件に関する彼自身の論評によるのであるが、部分的には D
・キャラハン、D・クラウザー、W・フランケナなどの研究のサーベイに基づいている。
ワイルズによれば、フランケナの仕事はたんに「生命の神聖」という用語の曖昧さを指摘
するだけでなく、一般的で世俗的な生命倫理においてこの用語を使用する際の概念的な困
- 21 -
難を指摘している。「この用語の説明はじつに多様であるから、一般的で世俗的な生命倫
理において、それが正しい解釈であるかを選び出す方法が存在しない」というのである。
(Kevin Wm. Wildes, S.J.,“Sanctity of Life: A Study in Ambiguity and Confusion,”in
Kazumasa Hoshino(ed.), Japanese and Western Bioethics: Studies in Moral Diversity,
Kluwer Academic Publishing, 1997, p.97;ケヴィン・W・ワイルズ「生命の神聖性-その曖
昧さと混乱」(星野一正編『死の尊厳』思文閣、1995 年、148 頁)
さらに、いっそう急進的に、T・エンゲルハートは「宗教的起源から切り離して、一般
的で世俗的文脈において「生命の神聖」と「人間の尊厳」に標準的で内容豊かな概念を確
立することは不可能である」と論じている。(H. T. Engelhardt, Jr., op. cit., p..216)
ワイルズやエンゲルハートの指摘を待つまでもなく、「生命の神聖」を何らかの理論構
築のための規範原則として使用するために、あらかじめこの概念をどういう仕方で理解し
ているかを明示する必要がある。J・F・キーナンは「生命の神聖」に「絶対不可侵として
の神聖」(sanctity as absolute inviolability)と「生命の尊敬としての神聖」(sanctity as
reverencing life)とを区別して、以下のように論じている。(James F. Keenan, S. J.,“The
Concept of Sanctity of Life and Its Use in Contemporary Bioethical Discussion, ”in K.
Bayerts(ed.), op. cit., pp.1-18)
古来、ラテン語の「神聖」には「尊敬すべき」と「不可侵」という二つの意味(sanctitas,
qualitas illa, quae venerabiles et inviolabiles sunt)があった。しかし、この言葉はやがて
「不可侵の」(inviolabilis)を、いっそう一般的な「尊敬すべき」(venerabilis)に対立する
ものとして強調するようになった。この意味だけに限定するなら、「生命の神聖」は義務
を課すのではなく、制限を課す。この用語は我々のなすべきことではなく、なすことので
きないことに関わる。(ibid., p3-4)
「いかなる人間も自分自身の権威によって自分の生命を処理する権利をもたない。神だけが
生命の作り主であるから、生命に対する絶対的支配権をもつ。」(“Euthanasia,”in New Catholic
Encyclopedia, vol. 5, p.639)
「こうした[余剰胚を破壊する]仕方で行為するとき、研究者は神の地位を簒奪する。たとえ
このことに気がづかないとしても、彼が誰に生き続けることを許し、誰を死に送るかを恣意的
に選択して無防備な人間を殺すかぎり、彼は自らを他人の運命の支配者としているのである。」
(Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith, Donum vitae, 1987)
言うまでもなく、キーナンはこの見解を無条件で支持しようというのではない。「こうし
た「生命の神聖」概念の使用をどう判断すべきなのか。」(Keenan, ibid., p.5)これが、イ
エズス会神父キーナンの問題提起である。
キーナンは三つの事例、(1)ナンシー・クルーザン事件に見られるような持続的な植物状
態の患者からの水分栄養補給など生命維持装置の撤去、(2)人工妊娠中絶、(3)生命の神聖を
「神の命令」とする解釈を上げて、「絶対的不可侵性」という意味での「生命の神聖」を
- 22 -
批判的に検討し、この用語はこうした事例では加重な負担を課され、自分の土俵に立てな
くなったと判定する。
第一の事例に関しては、カトリックの伝統では生命維持に関する医療上の意思決定にお
いて、一般に「患者の状態」が重要視されている。「生命の神聖」原則が禁止するのは、
無辜の生命の直接的奪取であって、ある患者に対する通常以上の生命維持装置の留保ある
いは撤去は、生命奪取の禁止と混同されるべきではない。これに対して、ある論者は「あ
らゆる人間の生命は平等であり、その状態に関わりなく価値がある」という「生命の神聖」
原則を覆すことなしに、「生命の状態」(condition of life)基準を使用することはできない
と反論した。しかし、この反論には、人間の平等と生命の平等は区別可能であり、生命維
持装置の撤去に関する意思決定では「生命の状態」要因を重視する必要がある、と答える
ことができる。「生命の質は生命の神聖原則に内在的である。あらゆる人間は生きる権利
をもつが、治療の適切さは患者の状態に依存する。」(ibid., p.7)実際、誰も死を無際限に延
長させる絶対的命令があるとは信じていないのである。
第二に、カトリックの伝統では、「生命の神聖」原則に基づいて誰も無辜の生命を直接
的に殺害する権利をもたないと論じられるとき、議論の矛先は安楽死、医師の介助よる自
殺、人工妊娠中絶、幼児殺しに向けられている。しかし、人工妊娠中絶はこの原則の枠を
超えている。カトリックの伝統のなかで二重結果原則によって正当化される事例を除いて、
人工妊娠中絶はかつて認められたことはなかった。しかし、6世紀から 12 世紀まで「形
相をもたない胎児」(unformed fetus)と「形相をもつ胎児」(formed fetus)との区別を支持
する一つの矛盾のない立場があった。「この立場では、人工妊娠中絶はどちらの場合でも
不正であるが、後者だけが殺人に該当すると主張する。」(ibid., p.8)、
さらに、第三に「生命の神聖」の根拠を神の絶対的命令におく考えは世俗社会では通用
しない。以上の考察から、キーナンは「「生命の神聖」原則が、生命は絶対的に不可侵で
あるという制限的主張に移し替えられるなら、それは実際にその規範的な力を弱体化する」
(ibid., p.10)と結論する。
他方、キーナンによれば、最近のアメリカ合衆国において「生命の神聖」という用語は、
しばしば「絶対的規則ではなく、他と競合する原則として、いかにして州の利益が「二つ
の別個であるが、相互に関連し合った関心、特定の患者の生命保護に対する関心と、すべ
て生命の神聖を保護する関心」とを取り入れるかを規定する際の一つの原則として」使用
されている。(ibid., pp.10-11)こうした用法は、「生命の神聖」の新たな役割、基本的な心
構え(disposition)、あるいは態度を伝える特定の建設的で文脈依存的な概念装置としての
役割を教示する。
「その制限的で絶対的な用法から解放されるとき、この用語は新たな方向づけを獲得する。
我々のなすことのできないもの、我々の踏み越えることの許されないものを強調する代わりに、
「生命の神聖」はその十分な意味において我々がなすように要求されていることに対する義務、
すなわち生命を維持する義務をもたらす。・・・生命の神聖が制限的な意味で使用されるとき、そ
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れは神の支配を強調する。他方、いっそう普遍的で一般的な意味で使用されるとき、それは我
々の[神の被造物の]管財人としての職務(stewardship)を強調する。この支配権(dominion)
と管財人職務との区別は、いっそう制限的な定義においても使用されていたが、それはもっぱ
ら我々は支配権を享受しないことを強調するためであった。・・・[他方、]制限的な意味から解
放されるとき、管財人職務は境界線ではなく任務になり、心構え(disposition)に適用すること
ができる。つまり、我々が医療、遺伝子操作、環境問題、動物の権利に関わる諸問題に直面す
るとき、この心構えが我々に義務を教えるのである。」(ibid., p.11-12)
絶対的で制限的な解釈が放棄され、「生命の尊重としての神聖」として理解されるなら、
この原則の適用範囲はほとんど普遍的に拡張される。「この原則に基づいて、道徳的規則
が組み立てられ、人間の権利が主張され擁護され、文化的政治的社会的に優先すべき事柄
が確立されてきたのである。」また、神聖の根元は神の活動よりも、むしろ生命への畏敬
というありふれた人間の経験に求められる。したがって、この論法は禁止命令ではなく、
生物という種に属することが何を意味するかに関する反省に訴える。「それは直観的であ
るが、それを主意主義的な根拠ではなく、理性的で反省的な根拠に訴えることを可能にす
る。」(ibid., p.12-13)
以上のキーナンの「生命の神聖」概念の世俗化の試みから、この用語に伴う哲学的な困
難の大部分が、これを「絶対的不可侵としての神聖」の意味でのみ理解してきたことに起
因することが容易に理解できる。また、先に論及したウォレンの「生命尊重原則」、すな
わち「他の健全な道徳的原則を侵すことのない十分な理由なしに、生命有機体に危害を加
え破壊するべきではない」という原則は、「生命の尊敬としての神聖」という意味で理解
された「生命の神聖」原則と実質的に異なるところがないことも容易に理解できるであろ
う。
しかし、こうした「生命の神聖」の世俗的解釈の可能性にもかかわらず、ヒト胚の道徳
的地位に関するカトリックの見解に何ら変わりはないと反論されるかもしれない。「人間
の生命はその始まりから「神の創造的な活動」を伴うから神聖である。」神だけがその始
まりから終わりまで、人間の生命の主である。「何人もいかなる状況においても、自分自
身のために無辜の人間を直接的に破壊する権利を主張することができない。」(Donum
vitae)
「人間の尊厳の尊重は、人間の胚に対するすべての実験的な操作と搾取を排除する。」
(Pontifical Council on Family, Charter of the Rights of the Family, 1983)
「その目的が、たとえば科学、他の人間あるいは社会に対する予見可能な利益のように、ど
れほど高貴であっても、それは生きている人間の胚や胎児に対する実験を、生存可能であるか
否か、また母親の子宮の内部にあるか外部にあるかにかかわりなく、けっして正当化すること
ができない。」(Donum vitae, 1987)
- 24 -
「人工妊娠中絶の道徳性についてのこのとらえ方は、人間の胚芽(embryo)に介入する近頃の
方式にも当てはめられなければなりません。それ自体は合法的な目的のために行われるとして
も、胚芽の殺害(killing of those embryos)を不可避的に含む方式があるからです。・・・生物医学
の研究分野で広がりと見せつつあり、またいくつかの国々で適法であると認められている、胚
芽に関する実験がそうした事例です。・・・しかしながら、人間の胚芽や胎児(fetus)を実験対象と
して用いるのは、人間の尊厳に対する犯罪(crime against their dignity as human beings)を引
き起こすといわなければなりません。人間は生まれたばかりの子供であれ、他のすべての人間
同様、敬意を払われるという権利(right to the same respect owed to a child once born, just as
to every person)をもっているからです。」(Pope John Paul II, Evangerium Vitae, 1995;『教
皇ヨハネ・パウロ二世回勅 いのちの福音』裏辻洋二訳、カトリック中央協議会、1996 年、128
頁)
実際、ヒト胚の道徳的地位とその研究上の取り扱いに関するカトリックの見解はまさに確
乎不動である。問題は、こうした見解が倫理学的に正当化できるか否かである。教皇庁教
理省『生命のはじまりに関する教書』(Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith,
Donum vitae, 1987)は以下のように論じている。
「卵子が受精した時から、父親の生命でも母親の生命でもない新しい生命が始まる。それは
それ自身で成長する新しい人間の生命である。もしそれがすでに人間でなかったなら、それは
けっして人間にはならないであろう。」(Sacred Congregation for the Doctrine of the Faith,
Declaration on Procured Abortion, 1974)
「この教えは現在なお妥当であり、もし確認が必要なら、人間に関する生物科学の最近の知
見によってさらに確認される。すなわち、それは受精の結果である接合子(zygote)において、
新しい人間個体(human individual)の生物学的アイデンティティー(biological identity)がすで
に構成されていることを認める。たしかに、実験データはそれだけで我々を霊魂(spiritual soul)
の承認へと導くのに十分でありえない。それにもかかわらず、人間の胚(human embryo)に関
する科学の結論は、理性の使用によって人間生命の最初の出現時に人格の現存(personal
presence)を識別するための貴重な兆候を提供する。人間個体はどうして人間人格(human
person)でありえないのか。・・・この教えは変わらなかったし、今なお変えることができない。
したがって、人間の生殖の成果はその存在の最初の瞬間から、すなわち接合子が形成された瞬
間から、その身体と霊魂の全体 (his bodily and spiritual totality)における人間に道徳的に帰
される無条件の尊重を要求する。」(Donum vitae);前掲『いのちの福音』122-3 頁参照)
ここには、「生物学的アイデンティティー」という概念を媒介にして、生物学的概念「人
間個体」と倫理的概念「人間人格」との外延的同一性を論証しようとする試みが見られる。
(1)身体と精魂との全体性における人間[の生命]は、無条件に尊重しなければならない。
- 25 -
(2)最初期の接合子には、人間個体の生物学的アイデンティティーが形成されている。
(3)人間個体の生物学的アイデンティティーは、人間人格の現存の予兆である。
(4)それゆえ、最初期の接合子はすでに人間人格である。
(5)最初期の人間の胚[の生命]も、大人や子供と同様に無条件的に尊重すべきである。
しかし、この推論は成り立たない。第一に、「人間個体」と「生物学アイデンティティー」
はともに生物学的概念であるから、そこから導き出される結論も生物学的なそれに留まり、
それ以上には及ばない。いわゆる倫理学の「論理学的自律」である。しかし、おそらく『生
命のはじまりに関する教書』の著者はこの批判を受け入れないであろう。余りに形式的に
過ぎるからである。もう少しこの論証の趣旨に即した分析と考察が必要であろう。
これが成り立たないとする第二の理由は、「生物学的アイデンティティー」が何を意味
するのか明確ではないという点にある。『いのちの福音』(前掲書、123 頁)には「その生
命体が何になるのかというプログラム、すなわち、一人の人格、すでに十分に決定された
その特徴的な諸側面を備えた個人の人格のプログラム」(program of what this living being
will be: a person, this individual person with his characteristic aspects already well
determined)という表現が見られる。しかし、これは余りに決定論的であるから、ここで
は遺伝情報と初期胚におけるその発現として理解することにする。では、これは誕生後の
人間に何をもたらすのか。「種の同一性」、「個体的同一性」、「人間人格の独自性」
(personal identity)の何れであると考えられる。したがって、(3)はそれぞれ(3')、(3'')、(3''')
として書き換えることができる。
(3')人間個体の生物学的アイデンティティーは、種としての人間の現存の予兆である。
(3'')人間個体の生物学的アイデンティティーは、人間個体の現存の予兆である。
(3''')人間個体の生物学的アイデンティティーは、人間人格の独自性の予兆である。
しかし、(3')と(3'')は陳腐な真理にすぎない。
さらに、(3''')は誤りである。人間個体の生物学的アイデンティティーは、人間人格の独
自性の必要条件でも十分条件でもない。一卵性双生児の事例が示すように、それはその必
要条件ではない。同一の遺伝情報をもつ二人の異なった人間人格が、それぞれ別個の独自
性をもつことは否定できない。また、人間人格の独自性を人物の「物語的同一性」(narrative
identity)に求める考え方に従えば、あたかも芝居の途中で主人公が交代したときのように、
同じ人物の物語同一性が異なった二人の人間人格によって受け継がれることも可能であ
る。したがって、一人の人間人格が独自の個性をもつことから、その人物の生物学的アイ
デンティティーがつねに同一であることは帰結しない。
しかし、『生命のはじまりに関する教書』の著者は、おそらくこの批判も受け入れない
であろう。人物同一性に関する身体交換の仮説に基づいて、人間人格の独自性(性向、欲求、
感情、信念などの心的状態)とその担い手(身体)とを分離可能であるかのように考えるのは
- 26 -
間違っている。人間人格の「自然本性は同時に身体的であり霊的(corporal and spiritual)
である。」(Donum vitae)
「人間身体はその霊魂との実体的合一(its substantial union with a spiritual soul)のゆえに、
組織、器官、機能のたんなる複合体と見なすことはできない。・・・人間身体は人格の組成的な部
分(constitutive part)であり、人格はそれを通して自分自身を発現し表現するのである。」
(Donum vitae)
これはカトリックに伝統的な質料形相論による「人間」理解であり、人間人格は「その霊
魂と身体との全体」、いわゆる心身合一体として定義される。これは、いわゆる「パーソ
ン論」と同様に一つの哲学的見解である。したがって、それが人間人格の同定基準として
何らかの精神的身体的機能を採用するかぎり、パーソン論に対する批判はこの見解にも妥
当する。何らかの精神的身体的機能を基準として設定するなら、人間個体という集合の中
にその基準に照らして人間人格に該当しない剰余が残るからであり、その剰余のゆえに、
それは差別だという批判を招くのである。この見解が外見上そうした批判を免れているの
は、人間人格の「自然主義化」による。言い換えれば、それが人間人格を人間個体と同一
視し、さらにヒト胚を人間個体として同定するからに他ならない。しかし、すべてのヒト
胚は人間個体であるが、このことはすべての人間個体が人間人格であるか否かという争点
にはまったく関係がない。(秋葉悦子「ヒト胚の尊厳-人格主義の生命倫理の立場から」、「続
・独仏生命倫理研究資料集(上)」平成 16 年2月、114-5 頁参照)
事実、ある生命体を人間人格として同定するためには、カトリックの見解に従えば、そ
れが人間人格に固有の霊魂の働きを示すのでなければならない。問題は、最初期の接合子
に「それだけで我々を霊魂(spiritual soul)の承認へと導くのに十分な」実験データが見あ
たらないことである。古い教義が蘇る。「あらゆる人間の霊魂は受胎の瞬間に神によって
直ちに創造される。」しかし、理性的論証では信仰に訴えることはできない。そこで、『生
命のはじまりに関する教書』の著者は「生物学的アイデンティティー」という二義的な概
念に訴えて、最初期の接合子の振る舞いはじつに人間人格の現存の予兆を示すから、前者
は後者と同等の道徳的地位をもつと論じたのである。しかし、これは中間概念の二義性に
基づく誤謬推論に他ならない。
第三に、「生物学的アイデンティティー」に訴える論証は、「いかがわしい結論」を導
く。すでに「人間の尊厳」の自然主義化に関して論じたように、人間個人の生物学的アイ
デンティティーは、最初期のヒト胚や胎児の段階から、子供、大人、そして死後の身体に
至るまで寸分変わることなく維持される。ある人間個体の身体を構成する個々の細胞の死
はその個人の死を意味しないし、その個人の死が直ちにその身体各器官、組織、細胞の死
をもたらすわけではない。したがって、「生物学的アイデンティティー」を根拠にヒト胚
に人間人格と同じ道徳的地位を認めるなら、死後の人間身体にもそれを認めなければなら
ない。死体を火葬に付すことは、生きた人間を火炙りの刑に処することに等しい。
- 27 -
それだけではない。反対に、生きた人間と死後の身体が同じ道徳的地位をもつなら、人
間人格を殺すという行為は、その道徳的地位にいかなる変化ももたらさない。これは『生
命のはじまりに関する教書』の倫理学的分析から導き出されるたんなる論理的結論なので
はない。「人間の尊厳」論者が好んで用いる修辞的表現である。
「国家権力は、人間の尊厳を侵すことはできても、侵された人間は人間としての尊厳を失わ
ない(依然として尊厳を有している)。例えば、ナチの強制収容所で殺害されたユダヤ人は、確
かに人間の尊厳が侵されたと言えるが、人間としての尊厳を失ったことにはならない。・・・この
ように、人間にとって最大の価値をもつといわれる「生命」、「自由」を奪っても、その人間
の尊厳は奪われないのである。これは一見、不思議なことのように思われるかもしれないが、
実はこの「不思議な」ことに、人間の尊厳を正しく理解するための鍵がある。すなわち、この
ことによって、「人間の尊厳」というものは、人間の生物学的な生命、又は外的な自由に内在
するものではないということが証明されるのである。」(J・ヨンパルト、前掲書、68 頁)
では、ナチの収容所で虐殺された一人のユダヤ人の尊厳は、その人物の死後、何によって
担われているのか。上述の主張の趣旨を理解することは、それほど困難ではない。尊厳は
人間人格に内在する絶対的価値であって、生物学的生命とは異なる。したがって、そのユ
ダヤ人から生物学的生命を奪うことができても、彼の人間人格を奪うことはできない。た
とえ身体的生命が消滅しても、その尊厳は彼の人格とともに不滅である。しかし、この種
の説明は、霊魂不滅の教説なしには受け入れ難い。さらに、人間の死後に残された身体は
たんなる「物件」(sachë)にすぎないのか。もしそうなら、死体は産業廃棄物と同様の道徳
的地位しかもたないことになる。議論の行き詰まりは明らかである。
他方、『生命のはじまりに関する教書』の論証を忠実に受け入れるなら、そのユダヤ人
の死後の尊厳は彼の死後の身体によって担われていると結論しなければならない。生死に
関わらず、彼の生物学的アイデンティティーに変化はないからである。「無辜の人間の生
命を奪ってはいけない。これは我々人間のもっとも基本的な道徳規範の一つである。こう
教えられるとき、我々はその生命を人間の誕生と死によって区切られた「いのち」として
理解している。この「いのち」は産声とともに始まり、息を引き取るときに終わる。しか
し、『生命のはじまりに関する教書』の著者は、他の多くの「人間の尊厳」論者と同様に、
誕生という区切りを無視して人間人格の生命をその最初期の胚にまで拡張した。それと同
様に、今度は死という区切りを無視して、人間人格の生命=死を人間身体を構成する全細
胞の死滅時まで延長せざるをえないのである。これはまさに「いかがわしい結論」に以外
の何ものでもない。
さて、キーナンが上述のような「生命の神聖」概念の世俗化を試みたのは、主としてナ
ンシー・クルーザン事件に関する論争を機縁としてであった。他方、ワイルズは同じこの
事件を考察の対象として、キーナンとは正反対の結論を導き出している。ワイルズによれ
- 28 -
ば、「生命の神聖」という用語は非常に曖昧であるから、この事件に関する二つの対立し
合う選択の双方を支持することが可能である。「ある特定の道徳共同体や道徳的言説
(moral narratives)の文脈の外では、「生命の神聖」は少なくとも次の仕方で解釈すること
が で き る 。 」 (Kevin Wm. Wildes, S.J.,“Sanctity of Life: A Study in Ambiguity and
Confusion,”in Kazumasa Hoshino(ed.), op. cit., pp.98;ケヴィン・W・ワイルズ「生命の神聖
性-その曖昧さと混乱」、前掲書、150 頁)
(1)「生命の神聖」原則は、いかなる犠牲を払っても人間の生命を救済することを要求する。
(2)「生命の神聖」原則は、人間生命に結びついた諸価値を守ることを要求し、たんなる生物 的
生命を救おうとするなら、そうした価値は危機に曝されることもありうる。
言うまでもなく、(1)「生命の神聖は他の価値を凌駕する」という意見はミズーリ州最高裁
判所判決の立場であり、(2)は後述のように、ワイルズ自身の立場でもある。
すでに見たように、エンゲルハートは「宗教的起源から切り離して、「生命の神聖」あ
るいは「人間の尊厳」の標準的で内容豊かな概念(canonical content-full notion)を一般的
で世俗的文脈において確立することは不可能である」 (H. T. Engelhardt, Jr., op. cit.,
p.215)と論じていた。同様に、ワイルズも「生命の神聖」概念の標準的解釈が特定の道徳
共同体に依存的であることを強調する。ある特定の文脈の外部では、「生命の尊重」や「人
間の尊厳」は原則というよりも、たんなる「標語」にすぎないというのである。
「こうした用語が理解されうるのは、ある道徳の共同体の言語内においてである。その道徳
共同体から切り離されるなら、そうした用語は曖昧で無益になる。すなわち、そうした用語は
選択のための原則を確立するよりも、数多くの争点と態度をもたらす。さまざまな見解をもつ
人々がそうした用語のまわりに集まってくる。かくして、「生命の神聖」原則の標準的解釈
(canonical interpretation)を確立することは不可能になる。」(K. Wm. Wildes, op. cit., p.99;
前掲書、151 頁)
ワイルズは別の論文で以下のように論じている。偉大な道徳的言説(grand narratives)
がその信頼を失ったポストモダン状況では、内容豊かな道徳的論争を特定の道徳的伝統の
外部で理性的論証によって解決することはできない。「生命の神聖」や「人間の尊厳」の
ような道徳用語は、「一般の世俗的議論では支離滅裂にならざるをえない。」したがって、
生物医学の領域においても他の領域においても、必要なのは「内容の道徳」(moral of
content)ではなく、むしろ「手続きの道徳」(moral of procedure)である。
「道徳的多様性(moral pluralism)を前にして、特定の道徳を強制する国家の権威は消失した。
国家の役割は市民の自由で平和な交換(exchanges)を可能にすることである。すなわち、その機
能は市民の合意事項を実行し、同意を欠いたプライバシー侵害から市民を保護し、共有資源を
- 29 -
市民に配分することである。内容豊かな道徳を強制することは国家の役割ではなく、ある特定
の共同体の任務となるであろう、プライバシーの保護という条件下で初めて「生命の神聖」と
「人間の尊厳」の多様な理解が開花するであろう。」(Kevin Wm. Wildes, S. J.,“The Sanctity
of Human Life: Secular Moral Authority, Biomedicine, and the Role of the Stare,”in K.
Bayertz (ed.), op. cit., p.254)
ワイルズの哲学的立場が、エンゲルハートと同様にリバタリアニズムにあることは明らか
である。これに対して、ホーネッカーは以下のように反論している。たしかに、人間の権
利の解釈と適用は、その一般に受け入れられた普遍性にもかかわらず、文化的宗教的コン
テキストに依存する。
「しかし、原則上の相対主義とポストモダンの恣意性原則は、人間の諸権利に関する見解の
多様性から帰結するのではない。何よりも、「人間の権利」原則には堅い核がある。個人の身
体的権利の承認が基本である。生存権が生命倫理の基本である。・・・人間の諸権利に関する多様
な拡散的見解にもかかわらず、この人間の権利の堅い核は世界的に認められなければならない。
また、こうした権利は「尊厳」という一語で要約される。」(Martin Honecker,“On the Appeal
for the Recognition of Human Dignity In Law and Morality,”in K. Bayertz (ed.), op. cit.,
pp.263-4)
「人間の尊厳」と同様に、「生命の神聖」にも堅い核がある。ウォレンの言うように、「他
の健全な道徳原則を犯すことのない十分な理由なしに他の生命有機体に危害を与え破壊す
るべきではない。」この原則がさまざまな状況に適用され、そこからさまざまな結論が導
かれる。時には、同一の事例に対して相互に対立する見解が主張されることもある。しか
し、それはそれぞれの見解が依拠する理由の違いによるのであって、それによってこの原
則が反証されたことにはならない。
ところで、なぜワイルズは「生命の神聖」の「標準的な解釈」を特定の道徳共同体に依
存させるのだろうか。ワイルズによれば、「キリスト教においては、人間の生命が神聖な
のは、人間が神の似象を担っているからであり、仏教においては生きとし生けるものはす
べて神聖であるから人間の生命も神聖である。」(Wildes, op. cit., p.94:前掲書、146 頁)
この見解は妥当である。なぜ人間生命が神聖と見なされるのかに関して、キリスト教の伝
統と仏教の伝統では理解が異なる。この意味でその「標準的」理解は各道徳共同体に相対
的である。しかし、このことはこの概念の普遍的な理解と承認を妨げない。
また、ワイルズは「生命の神聖」というとき、その「神聖」がどう理解されているのか
について何も述べていない。ナンシー・クルーザン事件の争点は、キーナンが区別したよ
うに、この「神聖」を「不可侵」の意味で理解するか、「尊敬」の意味で理解するかにあ
ったのである。
さらに、ワイルズは「こうした(宗教的)言説の内部においてさえ、特定の選択に関して
- 30 -
このような用語の理解には曖昧さがある」と述べている。「生命の神聖」や「生命の尊重」
という用語は、「一つの道徳的伝統の内部でさえ定義するのが困難であるから、一般的で
世俗的な言説では余りにも曖昧であり、やがてその意味を失う」というのである。したが
って、次のように問うことができる。「生命の神聖」概念が曖昧であるのは、その標準的
な理解が各道徳共同体に相対的であるからではなく、そもそも一つの道徳共同体の内部に
解釈の対立があったからではないだろうか、と。
ワイルズはカトリックの伝統を振り返って次のように述べている。スコラ哲学時代には、
「人間の神聖は自分を知り神を知る人間の能力に存する」と考えられた。これに対して、
20世紀の神学者たちは「人間の人格についてそれほど理性主義的ではない、いっそう調
和のとれた統合的な見方」を求め、「理性的なものを人間の生命の関係的社会的文脈」に
位置づけた。
「現代のラテン神学では、生命の神聖に関するこれら二つの条件は「管財人の職務」
(stewardship)という主題の下で融合された。生命は神からの賜であり、ある目的をもった
賜であるから、人は与えられた生命のよい管理者であるべきだ、というのである。人間生
命の神聖に関するこれら二つの条件は、異なった道徳的指令に繋がる。第一に、罪のない
人間の生命を奪うこと[自殺、人工妊娠中絶、殺人]の禁止である。・・・同時に、この伝統は
たんに生命の保護だけでなく、生命はよく使用されるべきだということに省察の眼を向け
た。」(ibid., p.92:同、144 頁)
ワイルズは後者の「生命はよく使用されるべきである」という指令について、この箇所で
はこれ以上論じていない。しかし、ナンシー・クルーザン事件を契機に露呈した「生命の
神聖」の解釈(1)と(2)の対立に関して以下のように述べている。
「後者[(2)]の解釈によると、生命の神聖はたんに生物学的な生命ではなく、自己意識的
な道徳生活を通して達成されるべきである。これが、ローマカトリックの通常(ordinary)
と通常以上(extraordinary)の手段という伝統的な区別の背景にある解釈である。そこに
は、もしたんなる生命の延長を他を凌駕する善とするなら、他の道徳的価値の位置が混乱
するであろう(Pope Pius XII)という認識がある。」(ibid., p.99:同、150 頁)
ワイルズ自身が(2)の立場に立つことは明らかである。ワイルズは「生命の神聖」を絶対不
可侵とする解釈(1)をミズリー州最高裁判所判決に帰着させた上で、「生命の尊重」や「人
間の尊厳」は「ある特定の文脈の外部では原則というよりも標語にすぎない」(ibid., p.99)
と断定したのである。しかし、これは正しい理解とは言えない。「その道徳共同体から切り
離されたから、そうした用語が曖昧で無益になった」のではない。(Cf, Wildes, ibid., p.99;前
掲書、151 頁参照)
むしろ、解釈の対立はカトリックの伝統の内部にあった。それを顕在化させたのは、ジ
- 31 -
ョン・J・パリスによれば、ニュージャージー州カトリック協議会のナンシー・ジョーブ事
件に対する 1986 年の法廷意見書(New Jersey State Catholic Conference Brief,“Providing
food and fluids to severely brain damaged Patients,”1987)である。不可逆的昏睡状態にあっ
たカレン・クィンランからは生命維持装置の撤去を認め、痴呆状態のクレア・コンロイから
は水分栄養補給の停止を承認していたのに、そこには「あらゆる事例で水分栄養補給のた
めの人工的な医療措置を受け入れ、一度始めた後はそれを継続する義務がある」とあった
からである。「カトリック共同体は正当にもニュージャージー州の司教たちのこの新しい
声明に当惑した。」(John J. Paris,“The Catholics Tradition on the Use of Nutrition an
Fluids,”in Kevin Wm. Wildes, S. J., Francesc Abel, S.J., John C. Harvey(eds.). Birth,
Suffering, and Death: Catholic Perspectives at the Edges of Life, Kluwer Academic
Publishers, 1992, pp.189-208)また、キーナンが注目したのはそれに先立つクレア・コンロ
イ事件に関する同じカトリック協議会の法廷意見書(A Matter of Conroy, 1984)であった。
「この一般的で絶対的に限定的ではない用法が、「事前の指示書」に関するあるイギリス
国教会派の手紙に現れ、やがて全米司教プロライフ委員会の栄養水分補給に関する教書で
推奨されたのある。」(Keenan, op. cit, p.11)
したがって、ワイルズやエンゲルハートの社会に見られる「生命の神聖」の解釈の対立
は、その内部の有力な道徳的言説の伝統における解釈の対立の反映にすぎない。道徳共同
体はつねに多元性を宿している。ある規範概念に対する理解の多様性と解釈の対立は、必
ずしもポストモダンの兆候なのではない。それは何時の時代に見られるありふれた現象に
すぎない。新たな事態に直面して、「人間の尊厳」や「生命の神聖」などの伝統的な規範
概念はたえず反省を余儀なくされる。その解釈をめぐって激しい論争が繰り広げられ、そ
こからその時代と社会の標準的な理解が形成され、「内容豊かな道徳」が再構築されるの
である。
実際、キーナンの指摘するように、「生命の神聖」原則が生命の絶対的不可侵性を主張
する義務論的原則としてのみ理解されるなら、その規範的な力を弱体化し、やがてその規
範原則としての地位を失わざるをえないであろう。このことは、おそらく「人間の尊厳」
に関しても同様である。むしろ、こうした規範概念の硬直した理解がリバータリアンの跋
扈を許す、と見るべきであるように思われる。
むすび
しかし、ここで次のような反論がなされるであろう。すなわち、キーナンが「生命の神
聖」概念の世俗化を試みたのと同様に、「人間の尊厳」概念の世俗化も可能であろう。ま
た、本論でも繰り返し論及したビルンバッハーの二つの論文をそうした意味で理解するこ
とも可能ではないか、というのである。最後に、ビルンバッハーによるこの概念の再定義
を簡単に紹介し、それに関する私見を述べておきたい。
D・ビルンバッハーによれば、「人間の尊厳」概念の日常的用法では二つの方向に、一方
で人間生命の初期と剰余の段階(人間の胚、胎児、死体)に、他方では個人から人類という
- 32 -
種に拡張されている。すなわち、ビルンバッハーの戦略は、この概念の担い手を生命の発
生期と死後の人間、現に生きている人間、類としての人間の三つに分け、それぞれに固有
の義務を見定めることにある。
「その日常的用法には、「人間の尊厳」の一元的で同質的な概念ではなく、むしろさまざま
な意味の家族的集合(a family of meanings)がある。「人間の尊厳」の核心的意味ではその担い
手として個人的主体が必要とされるが、拡張された意味ではその必要はない。「人間の尊厳」
は前者の意味では最小限の個人的権利を要請するが、後者の意味では権利に対応しない義務を
要請する。というのは、権利の担い手が存在しないからである。前者では尊重と保護の対象は
具体的個人であるが、後者ではいっそう抽象的な何ものか、人間性、人間生命、あるいはその
特殊な嗜好によって定義された人類の同一性と尊厳である。」(D. Birnbacher,op. cit., p115-6)
実際、「誰も人間の死体と生きた人間を同じように尊重しなければならないとは主張しな
いだろう。」(ibid., p118)拡張され道徳的に弱い意味での「人間の尊厳」は、たんに人間生
命だけでなく、すべての人間的なものがもつ規範的特性である。人間の死体、死んだ胎児、
人間の身体器官にも、ある程度の尊重が認められなければならない。
他方、個人的な強い意味での「人間の尊厳」は、意識の能力をもつ人間に特有の規範的
な性質であり、「ほぼ絶対的な道徳原則」として機能する。それは「主体的権利の集合」
に他ならないからである。この意味での「尊厳」は初期の人間の胚には帰属しないし、脳
の部分を欠いた胎児にも帰属しないだろう。「生物学的な意味では人間であっても、何か
を経験する能力を欠いた存在を、死、苦痛、自由の喪失という脅威から保護することに何
の意味もない。」(ibid., p119)
したがって、拡張された意味における「人間の尊厳」は、個人の自律や科学的進歩のよ
うな他の価値のために放棄することができる。「人間の胚や人間の死体に払うべき尊重は、
何れの場合にも意識と自己意識の能力をもった人間人格に払うべき尊重よりも弱い。」
(ibid., p116)「人間の尊厳」原則が生きている人間に適用されても、それは「敬虔」(piety)
原則以上の重さをもちえない。ヒト胚の破壊を伴う研究について、ビルンバッハーは「道
徳的な財との比較考量が基本的に容認されている」(「応用倫理学研究」第2号、102 頁)と
いう立場に立つ。
保守的な「人間の尊厳」論者の側から見れば、このようなヒト胚の消費的研究に好意的
な理解はいわば背信行為に等しい。当然、厳しい批判は免れない。たとえば、「人間は睡
眠中には意識を失っているが、その人に「人間の尊厳」を認めないのは不合理である。同
様に、胎児もやがて意識をもつようになるのだから、胎児も「人間の尊厳」の担い手に含
めるべきである」、という反論である。この批判に対して、ビルンバッハーは以下のよう
に答える。
「この反論は「傾向性」(disposition)と「可能性」(potentiality)とを十分に区別していない。
- 33 -
意識をもつ能力は「傾向性」であり、それが実際に行使されなくても所有される特性である。
他方、初期の人間の胚が意識をもつと言われるのは、たんなる「可能性」の意味においてであ
る。また、「傾向性」は非傾向的性質に付随するから、正常な中枢神経系のような非傾向的性
質の所有が、意識をもつという傾向性をもつ必要条件になる。妊娠3ヶ月以内の接合子が意識
の能力をもつのは「可能性」の意味においてであり、通常の新生児がこの能力をもつのは「傾
向性」の意味においてである。したがって、それらの道徳的地位にも違ってくる。生物学的意
味での人間のクラスは、強い意味での「人間の尊厳」の担い手のクラスと一致しえないのであ
る。」(ibid., p119-20)
ここで、ビルンバッハーはかつての人工妊娠中絶論争における線引き問題を援用して、初
期のヒト胚は「人間の尊厳」の担い手ではないと論じているのである。筆者はこの種の議
論にそれなりの説得力を認める。
しかし、私見によれば、ヒト胚の道徳的地位と胎児のそれを同列に論じることは正しい
とは言ない。研究使用の対象となる受精胚(余剰胚)と中絶論争の対象である胎児との間に
ある決定的な差異が見逃されているからである。すなわち、前者は培養皿のなかにあり、
後者は母胎のなかにあるという点である。言い換えれば、「生命の始まりは受精か、着床
か」という論点に関して、筆者は「人工受精の場合には、後者にある」という立場をとる。
「ヒト胚は、いったん子宮に着床すれば成長して人になりうるものである」が、着床しな
いかぎり人にはなりえないからである。
ところで、周知のように、現在のヒト胚の道徳的地位に関して各国の対応には大きな違
いがある。他方、各国の憲法に示される人権のカタログにはほとんど差異が見られない。
ビルンバッハーの再定義の試みの理論的長所の一つは、こうした事実に適切な説明を与え
ることができる点にある。
「具体的概念としての「人間の尊厳」には、それに関わる個人の利益と必要によって強い正
当化が与えられる。他方、抽象的意味での「人間の尊厳」には、観察者の感情との関係で弱い
正当化しか与えられない。強い原則は人間の基本的必要の比較的安定した集合を媒介にして正
当化されるのに対して、拡張された概念にはそれに匹敵する基本的な正当化が存在しないから、
その正当化は価値と尊厳に関する文化依存的な観念を含まざるをえない。」(ibid., p116-7)
生物医学研究においてヒト胚の使用がいかなる制限もなしに承認されるべきであるという
主張は、間違いなく「生命尊重原則」に違反する。しかし、それを絶対禁止すべきである
という立場に立つかぎり、いかなる合意もいかなる妥協も成り立たない。実際、ヒト胚の
道徳的な地位に関して、各国がまさにそれを人権問題として論争を繰り広げるというのは、
けっして歓迎すべき事態ではないであろう。
以上が、ビルンバッハーの「人間の尊厳」の再定義の試みの概要である。この試みは、
ドイツ語圏ではあまり高い評価を受けていない。絶対的な尊重に値するのは「人間である
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かぎりの人間」ではなく、「人間の尊厳」概念そのものであるかのような印象を受ける。
実際、ドイツ基本法に「人間の尊厳」条項は、議会の三分の二の多数をもってしても変更
できないというから、この概念自体が神聖・不可侵の絶対的権威と見なされていることに
間違いはない。
昨年秋、静岡大学で開催された国際シンポジウムで、M・フックスは次のように述べてい
る。
「哲学的論争のコンテキストにおいても、人間の諸権利の上位で反論の余地のない性格との
関係で、人間の尊厳の保証を空虚な文言として、実質的な含意をもつ規範というよりも、むし
ろ実質的な断定として提示する人を見出すのは比較的まれである。(ビルンバッハー)」(Michael
Fuchs,“The German debate on bioethics: Some characteristic features,”in International
Symposium on Life and Care: Bioethics on Comparative Cultural Perspective, Shizuoka
University, 2005, p.5:M・フックス「生命倫理をめぐるドイツの議論」松田純ほか訳、「国際
シンポジウム いのちとケア-生命倫理の国際比較」静岡大学、23 頁)
しかし、ここには誤解がある。ビルンバッハーは「人間の尊厳」の「価値下落的用法」と、
それが「一撃必倒」的論法として機能していることを批判するにすぎない。すでに見たよ
うに、この概念は最後の切り札として、つまり自分の主張を正当化する義務を放棄し、そ
れを隠蔽するための呪文として使用されている、というのである。また、ビルンバッハー
やホーネッカーの理解は、「人間の尊厳」はそれ自体としてはたんなる形式に留まり、そ
の具体的な内実は憲法で保障される人権によって与えられるということであった。
実際、すでに言及した「現代医療の法と倫理」審議会答申は、「人間の尊厳」がどうい
う価値や利益を保護の対象とするかに関して、肯定的な定義はこれまで成功しなかったし、
それが可能であるか否かも疑わしいから、「残された道は、人間の尊厳に対して侵害され
た事態からアプローチする試みである」と述べている。
「人間の尊厳が不可侵であるという原則に関しては、人間の尊厳が侵害されるのはどのよう
な状況においてであるかを確定することにすべてがかかっている。明らかにそれは一般的に言
えることではなく、いつでも具体的なケースについてのみ言えることである。」(『ドイツ連邦
議会審議会答申 人間の尊厳と遺伝子情報』、23-4 頁)
同様に、フックスがこの講演で結論として述べていることは、この概念が実質的には議
論の「枠組み」を提示するのみであり、その内容は考察の対象となる事態によって与えら
れるということである。
「人間の尊厳の原則は倫理的判断と政治的意志決定の過程のための重要な枠組みを設けてい
る。・・・人間の尊厳は憲法の作成者自身が解釈を与えないことを選んだ概念であり、結果として、
- 35 -
我々は個々の事例のすべてにおいて人間の尊厳が誰に帰されるのか、また尊厳を着せられた人
は何を要求してよいのかを、前もって判断することはできない。」(Michael Fuchs, op. cit., p.20.
:前掲書、35 頁)
したがって、ある概念が明確な定義も標準的な解釈ももたないなら、それをその内実の面
では「空虚」であると言ってもそれほどの行きすぎではない。また、問題となる当の事態
の性格によっては、それがもたらす議論の枠組みそのものが不適切ということも十分にあ
りうることである。
「日本はすでに「人間の尊厳」を謳った世界人権宣言や国際人権規約などを承認している。
後戻りは不可能である。人間の尊厳の概念史の深みをおさえながら、いま直面している論点を
理解し、いかなる意味で受容するのかを明確にしなければならないであろう。」(松田純『遺伝
子技術の進展と人間の未来』知泉書館、2005 年、70-71 頁)
この主張を、筆者は「ドイツ的な熱狂から距離をとって、理性的な観点から」受け止めた
い。そうするなら、「後戻りはできない」としても、そこで立ち止まって方向を変えるべ
きだ、という結論に至ることも十分に考えられるのである。
さて、すでに見たように、筆者は「人間の尊厳」の理解そのものに関しては、ビルバッ
ハーのそれを基本的に指示する。しかし、最近の「人間の尊厳」論法の乱用に関しては批
判的にならざるをえないのである。その理由は、第一にこの概念はその「種差別」のゆえ
に、応用倫理学の諸問題を解明するための規範原則としての妥当性と有効性に欠ける点に
ある。一般に「人間の尊厳」論者はヒト胚の道徳的地位には敏感であるが、絶滅危惧種の
それには無関心である。
第二に、ビルンバッハーも認めるように、「この概念はまだ重要な役割を担っている。
我々の哲学的多元性の世界にあって、「人間の尊厳」はごく少数の共通の価値の一つであ
るように思われる。」(Birnbacher, op. cit., p.109)他方、すでに見たように、「人間の尊
厳」に対しても「生命の神聖」と同様に、リバタリアンからその規範概念としての有効性
に根本的な疑義が提出されている。しかし、ビルンバッハーを除いて、「人間の尊厳」論
者はこの批判を真剣に受け止めようとはしない。むしろ、その妥当性と有効性とを過信す
るあまり、「人間の尊厳」論法の「行きすぎた使用はこの概念の権威と道徳的な力を弱め
る」という事実を自覚するには至らない。
その典型として、M・クヴァンテの「人間の尊厳」と「生命の質」評価とを両立させよう
とする試みを上げることができる。(Michael Quante“Quality of Life Assessment and
Human Dignity: Against the Incompatibility-Assumption,”unpublished paper;盛永審一郎
「胚研究と人間の尊厳」、「応用倫理学研究」第 3 号、66-8 頁参照)クヴァンテは「人間の
尊厳」と生命権とを区別した上で、着床前診断による遺伝的欠損をもつ胚の廃棄を承認す
- 36 -
る。しかし、これには「いのちの選別」に繋がるという根強い批判がある。
総合科学技術会議「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」は、この問題に結論を下す
のを回避した。
「ヒト胚の着床前診断については、診断の結果としてのヒト胚の廃棄を伴うということが、
ヒト胚を損なう取扱いとして問題となる。母親の負担の軽減、遺伝病の子をもつ可能性がある
両親が断念しなくてすむ、着床後の出生前診断の結果行われている人工妊娠中絶の回避といっ
た、着床前診断の利点を踏まえて、これを容認すべきか否かが問題となるが、着床前診断その
ものの是非を判断するためには、医療としての検討や、優性的措置の当否に関する検討といっ
た別途の観点からの検討も必要があるため、本報告書においてその是非に関する結論を示さな
いこととした。」(「ヒト胚の取扱いに関する基本的考え方」、8 頁)
また、日本産婦人科学会は着床前診断に以下のようなガイドラインを示している。
「本法は重篤な遺伝性疾患にかぎり適用される。適応となる疾患は日本産婦人科学会におい
て申請された疾患毎に審査される。なお、重篤な遺伝性疾患を診断する以外の目的に本法を使
用してはならない。」(同学会会告「「人の体外受精・胚移植の臨床応用の範囲」ならびに着床
前診断」に関する見解」平成 10 年 10 月、平成 11 年 7 月改訂)
日本産婦人科学会がこのガイドラインに従って着床前診断の実施を承認したのは二例のみ
であり、何れも対象となった遺伝性疾患は筋ジストロフィーであった。
他方、ドイツ、オーストリア、スイスは着床前診断の実施を法律で禁止し、イギリス、
フランスは、スエーデンでは法規制の下での実施を承認している。最近の新聞報道では、
日本産婦人科学会は着床前診断の対象を習慣流産の患者にまで広げることを決定した。(毎
日新聞2月 19 日朝刊)このガイドラインに従わないで、独自に着床前診断を実施している医
療機関もあった。議論の焦点は、着床前診断の対象とする遺伝性疾患をどこに限定するの
かに移っているように見える。
クヴァンテはその基準として、具体的に言えば、遺伝的欠損をもつ胚を廃棄するための
基準として「相互主観的-理性的基準」を提唱する。それは実際にさまざまな遺伝的障害を
もつ人々の「生命の質」の評価に基づいて形成される。
「この障害ないし病気をもって現実に生きている人が、彼自身の生をこの事実に基づいて生
に値しないものと評価していない(あるいはそうしないだろう)ということを理性的に追体験し
て理解しうるならば、我々は胚の廃棄のための根拠としていかなる障害やいかなる病気を受け
入れるべきではない。」(盛永、前掲書、67-8 頁参照)
ここで、この基準が妥当であるか否かを問おうというのではない。何らかの基準に基づい
- 37 -
て、重度の遺伝的欠損をもつ胚を選別すること自体が不正である、と言うのではない。
問題はクヴァンテのように、ヒト胚と具体的個人にまったく同じ道徳的地位を認めるな
ら、否応なしに遺伝性の障害をもつ人間の非自発的安楽死をも容認せざるをえないという
点にある。すなわち、この基準は直ちにそうした障害に苦しみながら生き続けているもつ
個人にも適用され、こうした人々を死に至らしめる行為は「人間の尊厳」に違反しないと
是認されるからである。クヴァンテは着床前診断という迂回路を介して、「生きるに値し
ない生命」の抹殺を理論的に正当化している。というのは、クヴァンテの基準は次のよう
に読み替えることができるからである。
「この障害ないし病気をもって現実に生きている人は、自分自身の生をこの事実に基づいて
生に値するものと評価していない」ということを理性的に後から追思考しうるならば、「我々
は胚の廃棄及びこの障害ないし病気をもっている人の安楽死のための根拠として当の障害や病
気を受け入れるべきである。」(坂井・盛永「対論-ヒト胚研究と人間の尊厳」、「応用倫理学
研究」第 3 号、80-2 頁参照)
クヴァンテはこのような結論を回避できない。本論の冒頭で紹介したように、クヴァンテ
はむしろそれを積極的に引き受けようとしているように見える。
しかし、「人間の尊厳」は「生命の質」の評価に基づく障害者の非自発的安楽死を絶対
に認めないであろう。それはあらゆる差別を非難し、すべての人間に人間らしく生きるこ
とを保証する規範原則である。クヴァンテの両立論は、バイエルツの指摘したように、不
当に拡張された「人間の尊厳」概念に依拠する。このような「人間の尊厳」論法の不適切
な使用は、文字通りその規範原則としての妥当性と有効性に壊滅的な打撃を与えることに
なるのである。しかし、この点に関する詳しい論評は別稿に譲らなければならない。
第三に、「人間の尊厳」論者はバイエルツの指摘したパラドックスに陥らざるをえない。
バイエルツの指摘するように、T・エンゲルハートは自己の自由な形成者、自由で自律的な
判断の主体の観点から、言い換えれば、いわゆる「自律原則」を楯に人間の遺伝的形質の
自由な改造を容認する。他方、「人間の尊厳」を「人類」に適用して、E・ベンダは国家は
そうした人類改造計画をけっして承認すべきではないと反論する。両者の主張は、何れも
「人間の尊厳」という古典的な規範概念に訴える。そのかぎりで、この対立は克服不可能
である。(クルツ・バイエルツ「人間尊厳の理念-問題とパラドックス」、前掲書、170-173
頁参照;「対論-ヒト胚研究と人間の尊厳」、同、83-4 頁参照)言うならば、「人間の尊厳」
論者は自らのよって立つ哲学的基礎を反省しようとはしない。こうした理由で、筆者は「人
間の尊厳」概念それ自体よりも、むしろ「人間の尊厳」概念を不当に拡大して使用する論
者に批判的なのである。
以上の考察から明らかなように、古色蒼然たる「生命の尊厳」概念を、また同様に条件
付きではあるが、「人間の尊厳」概念を本来の独立した「規範概念」として復活させよう
とする筆者の試みは、たんにそれが筆者自身の道徳的直観に適合するという個人的な理由
- 38 -
にのみ基づくわけではないのである。
付記
冒頭で述べたように、本稿はシンポジウム「人間の尊厳について」(2005 年 7 月、
北海道大学大学院文学研究科)のために用意された研究ノートを基に、新たに書き下したも
のである。その最初の草稿は「巻頭言 ありふれた考え」という表題で「応用倫理学研究」
第 3 号に掲載した。また、本稿の§3と§4の該当部分に若干の加筆訂正を加えて、「「人
間の尊厳」自然主義化のいかがわしい結論-メタ倫理学的分析」という表題で、「続・生
命科学における倫理的法的社会的諸問題」(「英米、独仏、日本における生命倫理思想の比
較思想論的検討およびその社会的応用に関する研究」平成 16-17 年度科学研究費補助金(基
盤研究(B)(2))課題番号 16320002、研究代表者 飯田亘之、平成 17 年度研究成果報告書、
2006 年3月刊行予定)に掲載した。
国内外のヒト杯研究の現状に関しては、独仏生命倫理研究会主催のシンポジウム「胚の
取扱いをめぐる内外の諸問題」(東京芝浦工大田町校舎、2005 年 8 月)での討論から多くを
の刺激を受けた。その詳細は「生命科学における倫理的法的社会的諸問題 I」(2005 年 3
月)を参照されたい。また、ヒト胚研究に関する筆者の見解の一端は、「フランス生命倫理
関連法-コランジュ教授の講演に対する質疑応答」(「続・独仏生命倫理研究資料集(下)」
434-63 頁)に示されている。
「人間の尊厳」概念に関する筆者の理解は、昨年3月、本科研費研究会と独仏生命倫理
研究会との共催で開催した D・ビルンバッハー教授の講演会とそれに続く質疑応答に多く
を負うている。ビルンバッハー教授の講演録は「人間の尊厳-比較考量可能か否か」(忽那
敬三訳、「応用倫理学研究」第2号、88-104 頁)、質疑応答の概要は「ディーター・ビル
ンバッハー「人間の尊厳-比較衡量可能か否か」講演会記録」(財団法人ファイザーヘルス
リサーチ振興財団平成 15-17 年度国際共同研究(B)研究代表者 飯田亘之、2005 年 10 月)
に収録されている。
M・クヴァンテの PID 容認論については、盛永審一郎「胚研究と人間の尊厳-ドイツ生
命倫理論争」(「応用倫理学研究」第 3 号、61-73 頁)と盛永氏とのメールによる討論から
多くを学ぶことができた。その大部分は「対論 ヒト胚研究と人間の尊厳」(「応用倫理学
研究」第 3 号、2005 年1月、74-84 頁)に掲載されている。
Michael Quante,“Quality of Life Assessment and Human Dignity: Against the
Incompatibility-Assumption,”unpublished paper は、本年 3 月末に開催予定の同氏の講
演会(3 月 24 日、東洋大学)のための草稿であり、企画者である高田純氏の厚意で閲読する
ことができた。
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