ヘリポート建設阻止協議会 命を守る会 パンフレット

21世紀・子や孫たちに伝えるものは…
殺りくの軍事基地ではなく
豊かな自然と平和です
ヘリポート建設阻止協議会
命を守る会
ヘリポート建設阻止協議会
命を守る会とは?
けんせつそしきょうぎかい
けっせい
ヘリポート建設阻止協議会 命を守る会は1997年1月27日に結成されました。
さ
こ
ふ て ん ま
当時、SACO(日米特別行動委員会)で1996年12月4日に出された最終報告で普天間
基地代替の海上基地を「沖縄本島東海岸に建設」と発表され、「キャンプ・シュワブ
沖」への移設が押し付けられようとした時期でした。
「新たな基地が造られると大変なことになる」
「どうにかしなければならない」
そういう思いを持った有志達が集まり、何回も会合を開いた結果、地元から反対の
声を上げようと立ち上がりました。
会の名前も直接的な目的である「ヘリポート基地建設に反対する」ことといわゆる
ぬちどぅたから
そんげん
「何でも反対」「反対のための反対」ではなく、「命どぅ宝」という人間の尊厳を訴
きちょう
えることを運動の基調に据えたものであることを内外へアピールするために「ヘリポ
けんせつそしきょうぎかい
ート建設阻止協議会 命を守る会」としました。
私たちのメンバーは農業やサラリーマンなど、職種はさまざまです。しかも反対運
動の経験者もいない中でのスタートでしたが、保守や革新という枠組みにとらわれる
ことなく、「新たな基地はいらない」「もうこれ以上の基地押しつけはいやだ」とい
がんば
う思いで一致して今日まで頑張っています。
ご し え ん
ごきょうりょく
おねが
どうか、皆様方の御支援、御 協 力を心より御願い致します。
し
ゅ
し
私たち「命を守る会」の思い、訴えの趣旨
へ
の
こ
現在、辺野古の集落はキャンプ・シュワブに囲まれています。今までは何とか海の
いこ
豊かさを残してきたのですが、ここに新しい基地ができたら私たちの憩いの場すら無
せいかつかんきょう
はかい
くなってしまいます。いくらお金をくれても生 活 環 境が破壊された場合は何にもな
りません。
「1959年に何故、キャンプ・シュワブができたのか」と年配の方に聞きました。その
方は「仕方がなかった」と言いました。今、私たちが親になった現在、子供たちに同
じ返答をするのはいやです。
私たち「命を守る会」は今あるキャンプ・シュワブを無くそうとか、安保に反対だ
しぼ
というのではありません。あくまでも新たな基地建設に絞って反対していこうと言う
てっていてき
ことです。これさえできないのに他のことはできません。徹底的に新しい基地建設を
がんば
阻止しよう、絶対阻止しようと頑張っています。
- 1 -
ある「命を守る会」のメンバーは自民党支持者で元名護市長の後援会もしていまし
た。しかし、この問題では一切妥協できません。地域で反対の声を上げるのは勇気が
必要です。しかし、今こそ勇気をもって立ち上がらないといつ立ち上がるのでしょう
か!
ひがい
基地ができ、新たな被害が出てからでは遅いのです。
ちゅ
うみ
子や孫達に残せる財産、それはジュゴンの住む美ら海であるし、何よりもかけがえ
のない人間の命、地域に生きる人々の尊厳を守ることではないでしょうか!
ちょうせんはんとう
米ソの冷戦が終わって、朝 鮮 半 島でも
南北和平の動きが強まっている時代に、
なぜ沖縄に新しい基地が必要なのでしょ
うか。安保条約が必要というなら、なぜ
それを沖縄だけに押し付けるのでしょう
か。平和憲法は沖縄では米軍優先の日米
地位協定が全てだといっても過言ではあ
りません。どうか皆さん、私たちの思い
を全国に伝えてください。
へ
の
こ
辺野古区
げんきょう
●現 況
せたいすう
2003年10月1日現在、世帯数559件、人口1,458名、面積10.8㎢です。
沖縄本島東海岸に位置し、名護市街地より南東に12㎞、国道329号線が集落の北側
を通る。那覇市から65㎞、車で約2時間を要し、本島を縦断するように走る沖縄自動
車道を利用すると約1時間30分の道程である。
ほうしゃじょう
集落は国道329号の南西側へ放 射 状に広がる。集落の低地は区事務所、公民館、農
協等の公共施設、また拝所がいくつもあり、集落の中心地である。集落西側を久志岳
へ
の
こ
へ
の
こ
と辺野古岳を水源とする辺野古川が太平洋へと注ぐ。また北側の台地には米軍基地と
ごばんめじょう
接するように碁盤目状に区画された新しい集落が形成され、米兵相手の商店や飲食店
が軒を並べている。しかし、近年は一時の面影は薄れ、ほとんどの商店、飲食店はシ
ャッターを閉め、わずか十数件が営業を続けるだけである。
●あゆみ
へ
の
こ
へ
の
こ
うぇーざとばる
辺野古の発祥地は辺野古川河口西方の丘陵地一帯の親 里 原と伝えられる。
- 2 -
き
ん まぎり
琉球王府時代、17世紀中頃までは金武間切に属し、18世紀初めには名護間切、金武
く
し
お お ぎ み
間切より分割、久志間切を設置した。その後、大宜味間切より東側一帯(現在の東村)
が久志間切に属するようになった。
1908(明治41)年、久志間切から久志村へと改称され、1923年には久志村に属して
せだけ
いた東村が分離、独立した。そして戦後、1945年の一時期には久志市、瀬嵩市が設置
されたが、翌年には解消された。以後、1970(昭和45)年に合併して名護市制が施行
された。
現在、旧久志村は13の行政区から成るが、この間、行政区の変動が数回にわたって
くり返された。
へ
の
こ
1967(昭和42)年に辺野古区と隣の久志区の一部から豊原区が分区した経緯がある。
ふたみ
おおかわ
おおうら
せだけ
ていま
みはら
あ
ぶ
かよう
そ こ に や
注・二見以北10区…二見、大川、大浦、瀬嵩、汀間、三原、安部、嘉陽、底仁屋、
て
に
や
天仁屋の10区
く べ さ ん く
く
し
とよはら
へ
の
こ
…久志、豊原、辺野古の3区
↑
・久辺3区
へ
の
こ
辺野古入り口に建つ「一里塚」
●産業、文化、芸能
へ
の
こ
辺野古の産業別就業者の構成を合併直後
の1972年から1995年に実施された国勢調査
資料から見ると1970(昭和45)年に第三次
けんちょ
産業の割合が顕著である。この理由は1960
(昭和35)年に勃発したベトナム戦争に伴
うものと思われる。1956年に供用を開始し
へ
の
こ
とくじゅ
たキャンプ・シュワブは地元辺野古のみならず、沖縄中から特需を求め、米兵相手の
商店や飲食店が急増した。
へ
の
こ
辺野古には指定された文化財はないが、集落の入り口には近世初期に設置されたも
いちりづか
ので県内でも数か所しか残っていない貴重な史跡「一里塚」がある。これは道路新設
すくみち
に伴って元の場所(旧「宿道」)より移設、復元したものである。その他、18世紀中
頃に設置されたハル石が3基確認されている。ハル石は検地に伴って設置されたもの
である。
へ
の
こ
民俗芸能は市内各地でも盛んであるが、辺野古区の「七福神」は村踊りの演目中で
も毎年演じられる楽しい踊りである。
- 3 -
キャンプ・シュワブ
●沖繩戦末期、沖縄戦後の状況
へ
の
こ
1945年4月、沖縄上陸を果たした米軍は集落東方辺野古崎一帯(現キャンプ・シュ
ワブ)をまず制圧。米軍駐屯基地が設置されて沖繩戦末期、大浦崎収容所として伊江
島や本部半島から追われた避難民、難民を中心に4万∼5万人が収容されていた。翌
年11月、帰村許可が下り、1947年10月になり、やっとほとんどが終了、もとの落ち着
きを取り戻した。当時142世帯、612人を数えた。
だんきゅうじょう
収容所跡地は段 丘 状の地形で川が流れ、水田と畑として活用されていた。畑のイ
モは戦時中は貴重な食糧として住民の飢えをつないだ。
今、集落の前に広がる海からは豊かな海産物が採れて住民の憩い、交流の場として
親しまれている。
●基地建設に至る経緯
へ
の
こ
くにがみ
ひがし
き
ん
1955年7月、久志村辺野古を含む国頭村、 東 村、金武村等北部一帯の東側山岳部
し
さ
分の軍用地接収が突如、米軍に示唆された。折からの軍用地接収反対、軍用地料一括
かんてつ
払い反対等「四原則」貫徹を守る闘争が沖縄中でくり広げられている時期、自分達に
は関係の無い事として遠巻きに見守っていた住民も「軍用地接収反対」の意見書を久
いやおう
志村へ要請する等、否応なく闘争の中に巻き込まれていった。この強権発動に近隣の
ぎ
の
ざ
金武村、宜野座村ではいち早く村民あげての抗議大会が開催された。
1956年、米政府は一括払いの妥当性や新規接収を是認する「プライス勧告」の発表
は火に油を注ぐ形となり、全県民が一斉に立ち上がり、「島ぐるみ闘争」へと発展し
ていった。しかし、米軍は布令、布告を公布。軍事基地として強制接収していった。
へ
の
こ
辺野古区では1955年の収用予告以来、米民政府と水面下で交渉が続けられていた。
しかし、民政府は集落を含め、新規の接収を通告するなど、急を要する事態へ発展し
ていった。そして島ぐるみの闘争に水をさすかのように収用予定地内についての条件
や基地建設に伴う労務の地元優先等の条件で新規の土地接収契約が締結された。しか
し、地主の中には先祖代々の土地を守る為、契約を拒否する者も出た。
これは以後の土地闘争の転換を予測する事にもつながっていった。米軍との闘争が
平行線をたどる中、四原則貫徹と一括払い阻止等を優先とする条件闘争とに県民が分
断される事となった。ついに1958年、米軍と沖縄との一括払い阻止の解決等の共同声
明を発表、1959年には布令布告。米軍の基地政策が1972年の日本復帰までの間、本格
化し始める事となった。
- 4 -
大浦崎収容所 →
●現況
キ ャ ン プ ・ シ ュワ ブ は弾
薬 庫 地区 、キ ャ ンプ ・シュ
ようりくかん
ワ ブ演 習 場 、 揚 陸艦 と水陸
両 用 強 襲 車 に よ る強 襲揚陸
演 習 場 、 そ の 為 の演 習海域
を 備 え る 米 海 兵 隊の 総合訓
練基地である。兵員は約2,800人。陸上におけるあらゆる種類の訓練が行われている。
さいるい
基地内にはNBC(核、細菌、化学)戦用の「催涙ガス室」や「危険可燃物倉庫」「危
険廃棄 物貯蔵室 」等 がある 。
か
で
な
演習場 の面積は 嘉手納基地 と
同じ約20㎢。ここにはピスト
ルやライフルの射撃場に
はくげきほう
迫撃砲 、戦車砲 の射撃場 、障
害物訓 練 コース 、戦闘訓練場
等があ り 、連日 訓練 が行われ
ている。
へ
の
こ
↑ 国道329号線より撮影した辺野古集落の景観。左手の先がキャンプ・シュワブ
★一括払い
軍用地料の永久使用料を一括払いするというもの。その時点での最低評
価額であり、将来における貨幣価値の変動を全く無視していた。
★島ぐるみ闘争
プライス勧告から始まった米軍への全県的な抵抗運動。地料の2倍
及び毎年払いを勝ち取る。
★布告、布令、指令
米軍、米民政府が出した法令の形式。復帰まで約1,400件が出
され、人権侵害なども少なくなかった。
★プライス勧告
1956年6月8日に発表された米下院軍事委員会特別委員会の沖縄報
告書。団長がメルヴィン・プライスであった事からこの名称で呼ばれる。在沖基地の
重要性と具体的に11項目を勧告。この中の一項目に一括払いが含まれていた。
★四原則
「土地を守る四原則」が正式名称。①米軍用地地料一括払い反対。②土地
の適正補償。③米国軍による損害の適正な賠償の支払い。④新たな土地収用の反対。
- 5 -
ジュゴン
●ジュゴンの生態
ほにゅうるい
ジュゴンは海で一生を過ごす哺乳類の一種です。
主にオーストラリア北部の海を中心に8万頭前後、沖縄から一番遠い場所ではア
フリカ大陸の東海岸に7千頭前後、インド洋一帯からフィリピンや中国南部の海に
1万5千頭前後、合わせて約10万頭が生息していると言われていますが、その生態
についてはまだ詳しい調査が行われていません。沖縄県近海でも50頭いるかどうか
わからないと言われています。
おくびょう
ちょうかく
人なつっこいイルカやクジラと違い、ジュゴンは臆 病な動物です。聴 覚が優れ
ており、わずかな音にも反応して逃げてしまうそうです。沖縄では特に戦後、それ
て
こ
まで手漕ぎが主だった漁船に動力化が進んだ事で人目に触れることが減ったと考え
られています。
オーストラリアに住むコアラがユーカリの葉しか食べないのと同様、ジュゴンは
うみくさ
うみくさ
アマモなど数種類の海草しか食べません。当然、海草がない地域では生活する事が
できません。
また長い間、オーストラリア近海に住むジュゴンと離れていた為、多少の変化を
あしゅ
生じた亜種の可能性もあると専門家の間では言われています。
●沖縄のジュゴン
沖縄の海にも昔からジュゴンは暮らしていました。沖縄では石器時代からジュゴ
ンを捕っていたとも言われています。
あらぐすく
近年「ちゅらさん」で有名になった八重山諸島小浜島の近くに新 城島があります。
りゅうきゅう
沖縄県がまだ琉
ほかく
球王国であった時代、この新城島の島民だけがジュゴンの捕獲を
許されていました。島民は年に一度だけジュゴンを捕獲して干し肉を作り、それを
ねんぐ
あらぐすく
国王への年貢としていました。このような歴史を持つ故でしょうか、 新城 島には人
魚神社があります。
沖縄県は本土より遅れて1879年に廃藩置県が行われました。王府による統制が無
くなった所為でしょうか、最近の研究によれば1894年から1904年までの11年間で170
頭のジュゴンが捕獲されたそうです。これにより明治以降、ジュゴンが漁の対象と
なっていたことがわかります。捕獲された地域は山原沿岸から新城島のある八重山
諸島まで沖縄県全域に広がっています。当時はジュゴンが国際的にも貴重な動物で
あったとは誰も知らなかったでしょう。それ故に捕獲され、食用になったことを私
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達が非難することはできません。しかし、現在の私達はジュゴンが国際的にも保護
が必要な動物であることを知っています。それにも関わらず、ジュゴンの貴重な生
息地域に軍事基地を造ろうとしているのが、私達の日本政府であり、アメリカ政府
であります。
●ジュゴンの伝説
東洋にも西洋にも人魚の伝説があります。東洋の人魚伝説はジュゴンに接した人
達によって始まったと考えられています。また西洋の人魚伝説はアメリカ大陸でマ
ナティーと出会ったヨーロッパ人が始めたと言われています。
みやこ
や え や ま
沖縄では宮古、八重山地方で人魚伝説があります。人魚をいじめた為に津波が来
たり、逆に人魚と仲良くなって津波が来る事を教えられて助かったという話も残っ
ています。一部でジュゴンは悪い知らせを持ってくる存在とも言われています。197
へ
の
こ
9年1月に一度、辺野古沖でジュゴンが発見され、本部町にある海洋博の水族館で保
護された事もあります。また同じ時期、八重山地方でも確認されているそうです。
そして米軍のヘリポート計画が持ち上がった1997年1月、その存在を再確認された
事は偶然でしょうか?
やんばる
●ジュゴンと山原
ジュゴンが暮らす海にはプランクトンのような小さな生物を含めて本当に多くの
動植物が暮らしています。
おんなそん
きんちょう
やんばる
恩納村と金武町より北を山原と言います。ジュゴンもそうですが、この山原の大
きな自然の中にはノグチゲラやヤンバルテナガコガネ、そしてヤンバルクイナなど
の貴重な動植物がたくさん生息しています。これから新しい動植物が発見されるか
もしれません。
海と陸が相互に補い合って豊かな自然が維持されている事はこのパンフレットに
目を通されている皆さんもご存じでしょう。どちらか一方でも破壊されるようなこ
とになれば当然、残る一方も失うことになります。私達はこれ以上、豊かな自然を
破壊して良いのでしょうか?
べ
い
ぐ
ん
じ
け
ん
じ
こ
米軍による事件、事故
沖縄が本土復帰した1972年から2002年までに米軍構成員等による犯罪検挙総数は
5,157件、検挙された人数は5,038人になります。性犯罪は118件となっていますが、
1995年9月の少女暴行事件や2001年6月に北谷町で起きた女性暴行事件のように全
てが報じられているわけではありません。
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復帰した1972年から2001年までに157件の事故がありました。この内、人身事故は
21件です。
また米軍演習による原野火災等は425件で累計焼失面積は32,141,289平方㍍です。
普天間代替施設が辺野古沖合へ建設されれば必ず報じられない事件、事故が発生
するでしょう。
ここまで掲げた事件、事故の数字はあくまでも沖縄が本土へ復帰した後の数字で
す。米軍が沖縄を支配していた1945年から1972年までの数字は皆さんで想像してみ
て下さい。
き
ち
ひ
が
い
基地による様々な被害
●嘉手納ラプコン
沖縄は空も米軍によって支配されています。
か
で
な
き
ち
嘉手納ラプコンと言うものが嘉手納基地の中にあります。ラプコンというのはレ
き
ち
ーダー進入管制空域と言う英語 Rader Approach Contorol の略です。嘉手納基地か
ら半径80㌔、高度6,096㍍までは米軍の支配下にあります。久米島も半径48㌔、高度
1,524㍍までは米軍が空を管理しています。この嘉手納ラプコンに何らかの支障が生
じた場合、那覇空港での離着陸は全て中断することになります。この為に上空で何
時間も嘉手納ラプコンの復旧を待たされた民間機は少なくありません。
米軍から民間機に対して許されているのは高度300㍍から600㍍の間というわずか
な範囲です。必然的に民間機は低空飛行をする事になります。しかし、それで米軍
機が高度600㍍以上を飛ぶわけではありません。特に米軍の戦闘機は民間機と同じ高
度で飛行し、山間部や市街地の上空を我が物顔で飛んでいます。
那覇空港へ着陸する民間機は海岸線に沿って飛行します。逆に那覇空港から離陸
する民間機は一気に上昇して嘉手納ラプコンの管制下から出ます。この様に離着陸
への危険性を伴っている民間空港は那覇空港だけでしょう。
せんき
●洗機場
私達が愛車を洗車するように米軍もまたあらゆる航空機を洗機します。これは嘉
手納基地、普天間飛行場を問わず行われていることですが、風向きによってはフェ
ンスの外側、民間地域へ水しぶきが飛散することになります。機体の洗浄などに米
軍は多くの化学薬品を使っています。しかもそれは垂れ流しに等しい状態です。米
軍はアメリカ本国では厳しい環境基準を遵守しているにもかかわらず、この沖縄で
は全く環境を守ろうとしていません。
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仮に普天間代替施設が完成した場合、米軍は環境基準を遵守するでしょうか。
●爆音
き
ち
たっち
あんど
ごー
嘉手納基地、普天間飛行場でも行われているtouch and goという戦闘機の離着陸
訓練があります。この時の爆音はとても耐えられるものではありませんが、これが
へ
の
こ
辺野古沖合へ来るのです。爆音もまた風向き一つで風下にいる人たちへ多大な影響
を与えます。普天間飛行場の欄でも触れましたが、学校の授業を中断させ、睡眠障
害をもたらし、聴覚に異常を与え、さらには爆音に対する母体のストレスから胎児
や乳幼児が低体重であったり、生育に悪影響をおよぼしています。
●環境汚染
1981年に返還された北谷町のハンビー飛行場跡は現在、通称ハンビータウンとし
て住宅や店舗が建ち並んで賑わっていますが、2002年1月30日に工事現場から廃油の
入ったドラム缶が41本も見つかりました。幸いにして検査の結果、特に有毒な物で
ずさん
はなかったようですが、米軍の杜撰さを改めて感じる事ができた事件ですし、同様
き
ち
とうき
に海上基地から廃油等を海中へ投棄されたらどうなるでしょうか?
また航空燃料には自動車燃料や軽油に比べ、多くの有害物質が含まれています。
その排ガスは現在でも嘉手納基地や普天間飛行場周辺で問題になっていますが、そ
れもキャンプ・シュワブ沖へ来ることになります。
へ
の
こ
せっしゅ
しょくもつれんさ
辺野古近海の動植物が必然的に摂取する事になります。それが食物連鎖でいずれ
私たち人間へ来るわけです。
れっか
●劣化ウラン
米軍は先の太平洋戦争で核兵器を利用し、広島と長崎で多くの人を苦しめました。
わんがんせんそう
れっか
ベトナム戦争では枯れ葉剤を利用しました。近年では1991年の湾岸戦争で劣化ウラ
わんがんせんそうしょうこうぐん
ン弾を用いてイラク国民のみならず、従軍した多くの米兵が湾 岸 戦争 症候 群という
原因不明の病気で苦しんでいると言われています。
れっか
ひがい
沖縄でも劣化ウラン弾による被害がありました。久米島の近くに鳥島という無人
島があります。ここは現在、米軍の射爆撃場となっていますが、ここで1995年末か
れっか
ら1996年初めにかけて劣化ウラン弾が約2,000発も演習に使用されていました。これ
が米軍から公表されたのは約1年後の1997年1月になってからです。米軍は「誤射」
であったと発表しましたが、その様な事があり得るでしょうか?
●思いやり予算
日本政府には「思いやり予算」というものがあります。計算方法にもよりますが、
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米兵一人あたりに年間1,300万~1,600万円を私達の税金から支出しています。これ
が米兵の電気、ガス、水道等の光熱費や高速道路の料金、住居や娯楽施設等の建設、
基地従業員の給料などに使われています。1979年度から2001年度までに3,842件、4,
727億円が使われています。この「思いやり予算」を私達の福祉や医療等に使えば日
々の生活が今以上に充実したものとなるでしょう。
●軍事演習
訓練は早朝から夜間までほぼ24時間、繰り返しています。米軍は訓練を行う際、
ぼうえいしせつきょく
防衛施設局を通じて「00:01~24:00 一般演習」と連絡してくるのみです。そこには
演習の内容に関しては一切記されてはいません。
辺野古では水陸両用車がリーフ内を踏み荒らしています。揚陸艦への水陸両用車
の乗降訓練などで水陸両用車のキャタピラがサンゴや海草を踏み潰し、赤土で海の
おび
色が変わります。これだけでもジュゴンは脅えてリーフへは近付かないでしょう。
そこへ基地の建設工事が始まればどうなるでしょうか?
ふ
て
ん
ま
ひ
こ
う
じ
ょ
う
普天間飛行場
普天間飛行場は1945年、沖縄戦の最中に米軍が本土決戦へ向けて滑走路を建設し
て現在に至っています。
●位置
宜野湾市のほぼ中心にあり、宜野湾市の面積で約25%を占めています。
普天間飛行場周辺には市役所などの公共施設を始めとして幼稚園から大学までの
教育施設、そして何よりも住宅が密集しています。幸いにして飛行場周辺にある住
宅地域への事故はありませんが、飛行場内や山間部、海上では付属品の落下や墜落
などで乗員に犠牲者が出ています。周辺住宅地でもいつどの様な事故が起きても不
思議ではありません。
●規模
き
ち
2,800㍍の滑走路1本を持つ面積480㌶の基地です。兵員数は約2,500名でヘリコプ
ターを中心として輸送機、戦闘機など約70機が常駐しています。
ひがい
●被害
消防や救急などの緊急車両は常に普天間飛行場を迂回して現場へ向かうことにな
ります。また普天間飛行場に隣接した場所に教育施設があり、航空機の騒音で授業
が中断することは1日の内で1度や2度ではありません。その騒音が地域住民に睡
眠不足や聴力の低下など健康へ大きな影響を与えています。
- 10 -
普天間代替施設
へ
の
こ
辺野古沖合に計画されている代替施設は面積が約200㌶と計画されています。確か
に面積では縮小されるでしょうが、新しい基地を設けるのですから当然、最新設備
を備えることになるでしょう。
当初の計画では普天間代替施設全体の長さ1,500㍍、幅600㍍が、1998年11月の県
知事選において軍民共用空港案が出てきました。これは長さ約2,600㍍、一部長さ約
2,700㍍、幅約730㍍、面積約200㌶、滑走路の長さ2,000㍍という案です。
米軍の側から見れば住宅地等の民間施設がない分、訓練が行いやすくなるでしょ
へ
の
こ
う。しかし、辺野古を含めて滑走路の延長線上には多くの集落があります。この集
ひがい
落が昼夜を問わず軍事演習の被害を受ける事になります。
き
ち
へ
の
こ
き
ち
リーフ上に基地ができれば辺野古漁港から半径1,000㍍以内に基地が来ます。丁度、
泉州沖5㌔に位置する関西新空港が1㌔沖合へ来たと言う感じでしょうか。
もちろん
風景が変わることは勿論のこと、夜間照明で住民のみならず、陸海の生物にも影
響を与えることになるでしょう。
き
ち
基地の建設工事でも海は間違いなく破壊されるでしょう。そしてどの工法で造ら
れたにしても海流が変わり、周囲の海にどの様な影響を与えるのか、想像もできま
せん。
お
MV-22
機種
定員
速度
高度
す
ぷ
航続距離
CH-46E 17名 267㌔ 4,270㍍ 1,020㌔
MV-22
れ
ぃ
OSPREY
最大積載量
4.08㌧
24名 582㌔ 7,925㍍ 3,892㌔ 12.98㌧
左の表は海兵隊
が現在、主に使用
し ている CH46-Eヘ
きしゅ
リと後継機種とされているMV-22 OSPREYとの簡単な比較表です。このMV-22 OSPREY
が普天間代替施設へ配備が予定されています。
すいちよくりちやくりく
MV-22 OSPREYは垂 直 離 着 陸が可能な飛行機です。そして最大積載量がCH-46Eのほ
ぼ3倍ですから離陸の際に出る爆音も間違いなくCH-46Eヘリの倍以上となるでしょ
う。また航続距離も3倍となります。仮に普天間代替施設が基地の整理、縮小に繋
がったとしても軍事的には強化されることが理解していただけるでしょうか?
またMV-22 OSPREYは試験飛行を幾度となく繰り返していますが、事故も多く、す
でに30名近い犠牲者を出し、欠陥機種とも言われています。この様な機種が辺野古
に来たらどうなるでしょうか?
余談ですが、OSPREYというのは鷲鷹科みさごの意味だそうです。
- 11 -
軍民共用空港
みさわ
き
ち
日本には唯一、青森県三沢市に軍民共用空港があります。基地面積は三沢市の5
分の1を占めています。滑走路の長さ約3,200㍍、幅約45㍍です。1か月平均で約6,
き
ち
000回の離着陸があります。三沢基地の中心機種はF-16ですが、米軍機が絶えず演習
を繰り返す為、滑走路の延長線上にある400戸と地元の中学校、小学校が騒音に耐え
かねて移転しました。さらに600世帯が移転を望んでいます。
き
ち
三沢基地を利用する民間機は1社が1日東京4便、大阪2便、札幌1便の合計7
便です。同じ青森県内にある青森空港は2社が1日東京10便、大阪4便、札幌3便、
名古屋2便、福岡と広島へ1便、海外にはハバロフスクとソウルに1便の合計23便
き
ち
です。三沢基地を離着陸する民間機を利用して東京や大阪へ出かける人は年々増え
ていると言いますが、それは米軍機が演習を行う合間をぬい、移転した400戸や移転
き
ち
を望む600戸の犠牲の上に成り立っているわけです。沖縄県では嘉手納基地や普天間
き
ち
飛行場の周辺がそうであるように移転する先がありません。多くの人々が基地を囲
むフェンス沿いに住宅を設けています。多くの人達が戦前から住んでいた地域から
離れずに暮らしているのです。
現在、普天間代替施設では東京、大阪、中部へ向けて1日3往復が考えられてい
ますが、国内の大手各社はこの軍民共用空港に路線を開設しても採算が合わないと
言っています。
決定された位置と工法
2002年7月29日月曜日の午前中、首相官邸において第9回「普天間飛行場代替施
設協議会」が行われました。
へ
の
こ
この席上、代替施設はその位置を名護市辺野古沖のリーフ上、埋め立て方式で軍
民共用空港とすることで政府、沖縄県、名護市が基本的に合意しました。
代替施設は長さ約2,500㍍、幅約730㍍、面積は約184㌶になります。滑走路の長さ
かんちょう
まんちょう
は2,000㍍になります。代替施設の海面からの高さは干 潮時で約5㍍、満 潮時で約
- 12 -
3㍍になります。当初の計画より長さで約100㍍、面積で約16㌶は小さくなっていま
す。現在使われている普天間飛行場の面積は約481㌶です。確かに面積の上では普天
間飛行場より代替施設は約297㌶も小さくなりますが、それで許されるという問題で
はありません。
代替施設の長さが約200㍍短くなりましたが、これは滑走路の長さが変わったので
はなく、滑走路の両端に設けられているオーバ-ランを米国の基準である一端300㍍
から日本の基準である一端150㍍へ縮めただけです。オーバーランは航空機が離着陸
- 13 -
に失敗した際、少しでも余裕を持ってブレーキをかけるために設置されているもの
へ
の
こ
です。これが短くなれば事故の際、特に辺野古沖に計画されている代替施設の場合
は海中へ落ちる航空機が出てくることでしょう。
工期は9年半が予定されており、建設費は約3,300億円、年間の維持費は約8,000
万円が予想されています。
政府は環境アセスメントに3年の年月を費やす計画を持っています。しかし、3
へ
の
こ
年で辺野古沖に住むサンゴやジュゴン、その他多くの生物が救われることはありま
せん。
代替施設協議会の詳細は http://www.kantei.go.jp/jp/singi/hutenma/ です。
2003年12月19日
へ
の
こ
2003年12月19日に東京で第2回代替施設建設協議会が行われました。席上、辺野古
- 14 -
沖に計画されている代替施設の面積がこれまで計画されていた約184㌶に護岸部分と
なる23㌶を加えた207㌶になることが明らかになりました。また施設建設に必要な資
材などを製作、保管する場所としてキャンプ・シュワブ北東部に面している大浦湾
において新たに約31㌶を埋め立てること、海上にも必要な物資を仮置きするために
ぎせい
約3㌶が必要との案を出しています。合計約34㌶の海が新たに犠牲となるわけです。
一度埋め立てられた海が施設工事の終了後、土砂を取り除き、以前のように魚介類
が遊泳する場所に戻るでしょうか。また米軍や日本政府が一度埋め立てて設けた場
所を元に戻すでしょうか?
米軍は1966年、ベトナム戦争の最中にキャンプ・シュワブの沿岸を埋め立てて軍
港と滑走路を設ける計画を持っていました。今、その計画が改めて検討されている
せんぱく
ように見えて仕方がありません。さらに今回の約31㌶には作業に必要な船舶の仮泊
場所は含まれていません。当然、次に問題になってくるのはこの点でしょう。
さぎょうせんぱく
近い将来、資材の製作、保管場所に軍事物資が並び、作業船舶の仮泊場所が軍港
として転用される可能性も否定できません。
だいたいしせつけんせつきょうぎかい
代替施設建設協議会は http://www.kantei.go.jp/jp/singi/daitai/ です。
在日米軍施設は日本国内に89施設、面積は約3万1,350㌶です。その内、沖縄県内
は37施設、約2万3,450㌶ですが、面積では全体の約75㌫が集中していることになり
ます。これだけは忘れないでいて下さい。
- 15 -
追記
軍民共用空港
軍民共用空港ではありませんが、ある資料によれば長崎空港には毎年200回以上も
米軍機が飛来しているとのことです。確かに長崎県内には佐世保基地があり、佐世
保基地の近郊に米軍が所有する飛行場が無い以上、長崎空港が用いられることにな
るのでしょう。
米軍機が絶えず離着陸を繰り返している三沢とは違いますが、米軍が「必要」と
言えば長崎空港はいつでも米軍最優先の空港にされてしまうのではないでしょう
か?
嘉手納ラプコン
2004年12月5日、2007年度末までに嘉手納ラプコンが持つ沖縄上空の管制権を日
本側へ移管することで日米両政府は合意した。但し、これで日本の民間機が優先的
な扱いを受けるわけではなく、あくまでも米軍機が優先されることは移管以後も変
わらない。
また嘉手納ラプコンの他に日本には横田ラプコンが有ることを記憶に留めておく
必要があるだろう。横田ラプコンは東京都内にある横田基地に置かれ、東京都と栃
木県、群馬県、埼玉県、神奈川県、山梨県、新潟県、長野県、静岡県の空を管理し
ている。日本の首都上空ですら米軍が優先であることを忘れてはならない。
オスプレイ
2006年6月2日にジョセフ・ウェーバー在沖米四軍調整官が2014年から2016年の
間に沖縄県へMV-22 オスプレイが配備されるとの発言をしている。翌3日、外相ら
はこの発言の真偽を米軍へ確認したが、正式なことはまだ何一つ決まっていないと
の回答を得ている。しかし、将来的にも絶対に配備されないと言い切れるわけでは
ない。台風回避を理由にB-52 爆撃機が嘉手納基地へ飛来したように何らかの些細な
理由を用いてMV-22 オスプレイがある日、突然に沖縄県内の基地へ姿を現す可能性
も否定できない。
2006年4月7日
2006年1月22日、名護市長選挙の投開票が行われ、島袋吉和氏が当選しました。
- 1 -
そして4月
7日、島袋
吉和氏は防
衛庁の額賀
長官と会談
を行い、そ
の席上で「普
天間飛行場
代替施設の
建設に係わ
る基本合意
書」に署名
してしまい
ました。
島袋吉和
市長が署名
した「基本
合意書」に
記された案
はこれまで
一度も検討
されたこと
の無い、V
字滑走路案
が私達の前
へ突然、その姿を現したのでした。おそらく政府や防衛庁は事前に検討し、用意し
ていたことは想像できますが、しかし、滑走路が2本に増えるというのは沖縄県民
は誰一人として考えていませんでした。これは反対派のみならず、賛成派も驚愕し
た事実が物語っています。そして同じ日、残念ながら名護市に隣接する宜野座村の
東肇村長も同じ「基本合意書」へ署名をしています。
確かに2005年10月12日、政府は膠着状態である普天間移設問題に対し、キャンプ
- 2 -
・シュワブ沿岸の浅瀬案、キャンプ・シュワブ内の陸上案を持ち出してきました。
これは命を守る会とその活動に共感して下さり、県内や県外、そして海外からも
駆け付けて下さった多くの人々が防衛施設庁などが行うリーフ上での事前調査に対
して阻止行動を行ったが、その結果、当初の日程通りに調査が行えなくなったため、
政府は反対派の阻止行動を比較的受けにくいキャンプ・シュワブ内、またはその沿
岸案を持ち出してきたのである。
前項の図をご覧になれば一目瞭然ですが、離着陸によって滑走路を使い分けるこ
とにより、決して住宅地の上空を米軍機は飛行しないというのが政府の見解です。
しかし、米軍が「必要」と言えばいつでも2本の滑走路を同時に使用することが
出来ますし、それを日本政府や沖縄県が阻止することは出来ないでしょう。
そして図の沿岸埋め立て部分を見ていただければこれが1966年に米軍が計画した
滑走路案と類似していることに気付かれるでしょう。違う点と言えば1966年の計画
では約3,000㍍の滑走路が一本であったのを今回は1,600㍍の滑走路が2本になった
ことでしょうか。
航空機は日進月歩の勢いで進化しています。現在、普天間飛行場は2,800㍍の滑走
路1本ですが、これが2本になるとは言え、1,600㍍になることを拒否していません。
普天間代替施設において米軍がヘリコプターやMV-22 オスプレイなどの垂直に離着
陸可能な航空機、短距離で離着陸が可能な航空機を前提にして代替施設を建設する
ことが見えてこないでしょうか。
2006年5月4日、沖縄県の稲嶺惠一知事は沿岸案に反対すると同時に「暫定ヘリ
ポート案」を提示しました。
稲嶺知事は当選以来、普天間移設の問題に関しては軍民共用、運用開始後15年で
の返還、リーフ上案以外は認めないなどを掲げてきました。これらの条件が受け入
れられない以上、県外移設と訴えてきましたが、政府と名護市が県の頭越しに「基
本合意」をしたからでしょうか、県外の移設先が決定されるまでの「緊急措置」と
して「暫定ヘリポート案」を提案していますが、政府によって検討される気配はあ
りません。
2004年8月13日
2004年8月13日金曜日、午後2時18分の事です。
- 3 -
おきなわこくさいだいがく
普天間基地の真横にある沖繩国際大学の構内に普天間基地所属のCH-53D大型ヘリ
ついらく
が大学本館横に墜落、炎上しました。この事故によりヘリコプターの乗員3名が負
傷しましたが、教職員や学生、一般市民には1人の死傷者も出ませんでした。しか
し、一瞬の差というのでしょうか、「あと数センチ」「あと数秒」「あと一歩」とい
うわずかな差でヘリから飛び散った破片で負傷、もしくは一命を奪われていたかも
しれない人は大勢いました。例えば沖繩国際大学では窓際に席を持たれていた職員
は偶然、この日を休まれていましたが、出勤されていたら飛び散った破片で負傷し
ていただけで済んでいたでしょうか?
墜落直後から現場では放射性物質の存在が疑われていました。実際、測定器を利
用したところ、自然値の5倍に達する放射能が測定されました。そして9月3日、
米軍は事故機に放射性物質であるストロンチウム90を含む部品があった事を認めま
はんげんき
した。ストロンチウム90は半減期が約28年半という強い放射能を持っています。ま
ちくせき
た体内に入ると骨の中のカルシウムと入れ替わり、蓄積する事になります。
返還される基地
2006年5月1日、日米両政府は嘉手納基地以南の5基地の全面返還、1基地を一
部返還することで合意した。返還の実施される時期に関しては海兵隊8,000人のグァ
ムへ移転が終了する2014年以降と言われているが、特に明示されているわけではな
い。
全面返還される5基地
キャンプ桑江は約68㌶
普天間飛行場は約480㌶
牧港補給地区は約270㌶、正式名称はキャンプ・キンザー。広大な遊休施設でもあ
る。
那覇港湾施設は約55㌶、那覇軍港のことである。キャンプ・キンザー沖にある浦
添埠頭地区沖に代替施設を建設することが求められている。
第1桑江タンクファームは約16㌶、陸軍貯油施設の一部であり、普天間飛行場へ
の送油を受け持ち、普天間飛行場の移転と共にその役目を終えるわけだが、当然、
代替施設に新たな貯油施設並びに送油施設が必要となることだろう。
一部返還されるのはキャンプ瑞慶覧である。約640㌶の総面積からどれだけの面積
が返還されるのか、まだ決まっていない。
- 4 -
年月日
ヘリ基地問題の主な経過
1956.11.16キャンプ・シュワブとして使用開始。
1957.7.1キャンプ・シュワブ訓練場として追加使用を開始。
1959.7.1キャンプ・シュワブL
ST係留施設として追加使用を開始。
石川市の宮森小学校に米軍戦闘機が墜落。児童ら17人死亡、121人が負
1959.6.30
傷。校舎や住宅の全半壊は25棟、乗員は脱出。
1959.10.3キャンプ・シュワブが完成。
1960.10.1辺野古の世帯3
18、人口1,389人
1965.10.1辺野古の世帯3
09、人口2,139人
1965.10.25平良市池間島の西海岸でジュゴンを捕獲。
1969.12.6名護市内と辺野古間の山中に米軍戦闘機が墜落。
1970.10.1辺野古の世帯5
10、人口1,928人
キャンプ・シュワブ、キャンプ・シュワブ訓練場、キャンプ・シュワ
1972.5.15
ブLST係留施設が統合、「キャンプ・シュワブ」として提供開始。
1956年に辺野古弾薬庫、辺野古海軍弾薬庫として使用開始された両施
1972.5.15
設が統合、辺野古弾薬庫として提供開始。
1977.6.15施設管理権が陸軍から海兵隊へ移管される。
1979.6.22C
H-46が名護市の畑に不時着する。
1984.6.14C
H-53が名護市の漁港構内に不時着する。
1985.7.12C
H-53が国頭山中の林道に墜落、乗員4人が死亡。
世界初の米軍基地包囲、8団体主催の「カデナ基地包囲大行動」で嘉
1987.6.21
手納基地を2万5,000人の「人の輪」で包囲。
1990.8.51
987年6月に続き、「人間の鎖」で嘉手納基地を包囲。
1994.11.16キャンプ・シュワブ内で米軍ヘリが墜落。
「戦後50年・沖縄平和大行動」を締めくくる普天間基地包囲行動に1
1995.5.14
万7,000人が参加
1995.9.4米海兵隊員による少女暴行事件が発生。
1995.9.21県議会、全会一致で暴行事件の抗議決議。
大田昌秀知事、県議会で米軍基地強制使用のための代理署名拒否を表
1995.9.28
明。
米兵による少女暴行事件に抗議する県民総決起大会。8万5,000人が参
1995.10.21
加。
年月日
ヘリ基地問題の主な経過
1995.11.20S
ACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)発足。
1996.4.12日米両政府は普天間基地を5∼7年で全面返還すると発表。
1996.4.15S
ACO中間報告で米軍施設の20%返還、ただし県内移設の条件付き。
「日米地位協定の見直し及び基地の整理、縮小に関する県民投票」は
1996.9.8
投票率59.3%、89%(有権者の54.4%)が基地縮小に賛成。
橋本首相、県民へのメッセージで普天間飛行場代替施設として「撤去
1996.9.17
可能な海上施設」案を発表。
1996.10.2C
H-46が名護市嘉陽小学校前の海岸に不時着。
1996.11.16久間章生防衛庁長官が「キャンプ・シュワブ沖が有力」と言及。
SACO最終報告発表、「沖縄本島東海岸沖」に代替施設建設が盛り込ま
1996.12.2
れる。
1996.12.21基地縮小、県内移設反対県民大会が行われ、2万2
,000人が参加した。
1997.1.27命を守る会を結成。
1997.3.25橋本首相−大田知事会談。首相が名護市に国立高専設置を提案。
1997.4.9比嘉鉄也名護市長が事前調査受け入れを表明。
1997.5.6事前調査阻止のため、監視行動開始。
「ヘリポート基地建設の是非を問う名護市民投票推進協議会」略称、推
1997.6.6
進協が結成。
1997.7.12命を守る会、事務所開き。
1997.8.13推進協1
9,735人の条例制定署名を提出。
那覇市で反対県民大会7,000人参加、名護市で市活性化促進市民大会5,
1997.9.16
600人参加。
1997.10.2名護市議会、4択にねじ曲げた市民投票条例可決。
市民投票推進協が発展的解散、新たに「海上ヘリ基地反対 平和と名護
1997.10.17
市民主化を求める協議会」略称、ヘリ基地反対協議会が結成。
久間防衛庁長官、海上ヘリポート基本案を名護市、県などに提示し、
1997.11.5
協力を要請する。
政府主催の復帰25周年記念式典、橋本首相が「沖縄経済振興21世紀プ
1997.11.21
ラン」の策定計画を発表。
1997.12.21市民投票で反対派5
2.85%で勝利する。
年月日
ヘリ基地問題の主な経過
比嘉市長、橋本首相との会談で海上基地の受け入れと市長辞職を表
1997.12.24
明。
1998.1.5岸本建男名護市助役、市長選出馬を表明。
1998.1.7玉城義和県議、市長選出馬を表明。
1998.1.13辺野古沖合でジュゴン1頭をテレビ局が撮影。
1998.2.6大田知事、海上ヘリポート建設の受け入れ拒否を表明。
1998.2.8名護市長選、賛成派が推薦した岸本建男氏当選。投票率8
2.35%。
自民党幹部が橋本首相に対し、海上案を断念し、キャンプ・シュワブ
1998.4.8
内の陸上案を検討するよう進言。
「5.17普天間基地の無条件返還を求める県民大包囲行動」が行われ、
1998.5.17
1万6,000人が参加。
1998.6.15大田知事が3選出馬を表明。
1998.10.23名護市東海岸で県内新聞社がジュゴン3頭の撮影に成功。
1998.11.2野中広務官房長官、「海上基地にこだわらず」と発言。
1998.11.11小渕首相、海上基地見直しを表明。
県知事選で稲嶺恵一氏が37万4,833票を獲得、初当選。投票率76.54
1998.11.15
%。
1999.4.29政府、沖縄サミット開催を決定。
1999.9.24名護市辺野古区が移設に反対決議。
1999.10.15県議会、普天間基地の早期県内移設要請を決議。
1999.11.22稲嶺知事、普天間基地の移設先に辺野古沿岸域を表明。
名護市議会、普天間飛行場の辺野古沿岸域への移設整備促進決議を可
1999.12.23
決。
岸本名護市長、普天間基地の名護市への受け入れを表明。ヘリ基地反
1999.12.27
対協議会、市長リコール宣言を行う。
政府と県、北部市町村で普天間飛行場移設に伴う「北部振興」「移設
2000.2.10
先・周辺地域振興」両協議会の合同初会合を開催。
2000.4.24ヘリ基地反対協議会、臨時総会。市長リコールを事実上断念。
国、県、宜野湾市で構成する「跡地対策準備協議会」が発足し初会
2000.5.31
合。
2000.6.17本部港でジュゴン1頭を確認
年月日
ヘリ基地問題の主な経過
2000.6.21命を守る会、ヘリ基地反対請願署名行動開始。
在沖米軍基地の現状と平和への願いを国内外にアピールする嘉手納基
2000.7.20
地包囲行動、2万7,100人が参加者した。
沖縄サミット開催。命を守る会、森首相とクリントン大統領への直接
2000.7.21
請願行動。署名数17,801筆。
2000.8.10命を守る会、東京に於いて首相官邸、米大使館へ要請行動。
政府、県、名護市等で構成する「普天間基地代替施設協議会」が発
2000.8.25
足。
2000.10.3第2回代替施設協議会
2000.10.17防衛施設庁、ジュゴンの予備的調査を1
0月下旬から行うと発表。
2000.10.31第3回代替施設協議会
2000.11.29第4回代替施設協議会
2000.12.21名護市民投票3周年市役所包囲行動。
2000.12.23名護市民投票3周年「やんばる平和まつり」が行われる。
2001.1.16第5回代替施設協議会
第6回代替施設協議会。政府のジュゴン予備的調査で本島東側で5
2001.3.6
頭、西側で1頭を確認したと報告。
2001.5.19命を守る会2
001年度定期総会。
2001.6.8第7回代替施設協議会 三工法八案が出る。
2001.10.8岸本名護市長、2期目へ向け出馬表明。
名護市・3区(辺野古、久志、豊原)合同委員会行政連絡会議が発
2001.10.11
足。
2001.12.21名護市民投票4周年市民集会
2001.12.27第8回代替施設協議会 岸本市長、海上基地のリーフ上案で合意。
2002.1.3宮城康博氏が名護市長選に出馬表明。代替施設受け入れ撤回が公約。
2002.2.3名護市長選にて岸本氏再選。投票率は過去最低の7
7.66%。
2002.10.4熊本県牛深市沖でジュゴン1頭を確認。
2002.7.29第9回代替施設協議会。位置、工法が決定。
2002.11.18稲嶺知事再選。
2002.12.21「
市民投票5周年映画とシンポジウムの夕べ」が行われる。
2003.1.28「代替施設建設協議会」が発足、初会合を行う。
年月日
ヘリ基地問題の主な経過
第2回代替施設建設協議会、事業主体を防衛施設局に決定。護岸部分
2003.12.19を含めて埋め立て面積は約2
07㌶、大浦湾西岸海域を一時埋め立てる考
えも提示。
2003.12.21名護市民投票6周年の集会が辺野古で行われる。
2004.3.9大浦湾においてジュゴン1頭を確認。
辺野古沖でのボーリング調査実施に県が公共用財産使用協議書へ同
2004.4.7
意。
那覇防衛施設局、地質調査を行うため、辺野古に資材搬入を始める。
2004.4.19
反対派の座り込みが始まる。
2004.4.26読谷村沖の定置網にジュゴン1頭迷い込むが無事、救出される。
那覇防衛施設局が環境影響評価(環境アセスメント)の方法書を公
2004.4.28
表。公告縦覧がスタート。
2004.5.16「5
.16普天間基地包囲行動」が行われ、1万6,000人が参加した。
沖縄国際大学構内に普天間基地所属のCH-53Dヘリが墜落、乗員3名が
2004.8.13
負傷。
辺野古沖ボーリング調査の準備が那覇防衛施設局によって始められ
2004.9.9
る。
2004.12.7阻止行動をしていた女性が負傷する。
2004.12.10阻止行動をしていた男性が負傷する。
2004.12.27那覇地裁へボーリング調査の差し止めを求める訴訟を行う。
名護市街地
宜野座 IC
R.329 バイパス
第二辺野古
バス停
久辺
郵便局
那覇空港
GS
辺野古
バス停
辺野古
交番
キャンプ・シュワブ
守る会はココ
公園
那覇 IC
港
車では約1時間半…
那覇 I.C.→宜野座 I.C.→国道 329 号線を北上、辺野古漁港を目指して下さい。
バスでは約2時間半…
系統番号 111 の高速バスで那覇空港→那覇 B.T.→宜野座 I.C.または世冨慶に
て沖繩バスの系統番号 77 に乗り換えて辺野古までお越し下さい。
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2000 年5月 12 日 初版発行/2002 年3月 31 日 新装一版/2002 年7月 31 日 新装二版
2003 年3月 31 日 新装三版/2004 年1月 31 日 増補一版/2004 年3月 31 日 増補二版
2004 年 12 月 31 日 年表追加/