2001 年 11 月 18 日 収穫感謝祭説教

2001 年 11 月 18 日
収穫感謝祭説教
題目:感謝の霊的意味
聖句:詩篇第 22 篇 3 節
説教:チョ-・ヨンギ牧師
今日は、
“感謝の霊的意味”と言う内容で、皆さんと一緒に恵まれたいと思います。
私たちは父母の恵みに感謝し、先生の恵みに感謝し、恵みを施して下さった隣の人に
感謝します。しかし、このような感謝は、客観的に見る時には、非常に自己中心的で、
利己主義的であると言えます。何故なら、この様な感謝は自分個人の利害関係に直接的、
間接的に関連されているからです。私たちは、自分に有益にならない時、自分に損害が
来るとか、苦痛が来る時には感謝をしません。その理由は、感謝に対する私たちの理解
がそれ程、浅はかであるからです。聖書には、自分に有益である時だけでなく、損害や
苦痛が伴う時にも、すべての事において感謝しなさいと命令しているのです。何故でし
ょうか?
第一、不平は、悪魔が私たちの心を開く鍵であるからです。
アダムとエバは何故、堕落したのでしょうか?悪魔が成功的に彼らの心の中に不平を
植えつけてやったからです。悪魔はエバに来て、“あなたがたは、園のどの様な木から
も食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか?”と、この様に怪しい事を吐
き出しました。神様は、「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しか
し、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あな
たは必ず死ぬ。」と仰せられましたが、これを逆に解釈して“あなたがたは園のどのよ
うな木からも食べてはならない、と神は本当に言われたのですか?”と蛇は女に言いま
した。これは既に、アダムとエバの心の中に不平を植え付ける悪魔の悪巧みであったの
です。エバは、“私たちは、園にある木の実を食べて良いのです。しかし、園の中央に
ある木の実について、神は「あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れても
いけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。
」と仰せになりました。
”と答えました。
「あなたは必ず死ぬ」と仰せになりましたが、「あなたがたは死ぬといけないからだ」
とは仰せになりませんでした。そこで悪魔は女に、“あなたがたは決して死にません。
あなた方がそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神の様になり、
善悪を知る様になる事を神は知っているのです。”と言いました。善悪を知るという事
は、主観的な行いをする事ができると言う事なのです。神様の様になると言う事なので
す。“あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたが神のようになり善悪を思いのま
ま判断する主権的な神様になるから神様が、この様になるのを妬んで、善悪を知る木の
実を取って食べない様にされたのだ。”とこの様に不平を植えつけてやったのです。神
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様に対する不平が結局には、反逆罪を犯せ、堕落させ、エデンの園から追放される様に
なってしまったのです。ぞっとする程の事ではありませんか?悪魔はあらゆる悪巧みを
尽くしてついには、神様に不平をつぶやかせ、呟いた彼の心の門を開いて入って行き、
反逆の罪を犯せてしまったのです。ですから、恨みとつぶやきとは、悪魔が人々の心を
占領する鍵となるのです。
民数記 第 21 章 4 節から6節に見ますと、荒野で神様に対して、イスラエルの民が
呟いた為、燃える蛇に噛まれて死んだ事件が記録されています。「彼らはホル山から、
エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなく
なり、民は神とモーセに逆らって言った。『なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから
連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこの
みじめな食物に飽き飽きした。』そこで主は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民
にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
」と記されています。
皆さん!この事件を見ますと、イスラエルの民の不平不満は理解できます。彼らは荒
野を通過しながら険しく、非常に疲れ苦しかったのです。そして、充分な食料も水もな
かったのです。つぶやくのも理解できます。しかし、それにも拘わらず、恨みつぶやき
は、遂に彼らに審判を来たらせてしまったのです。荒野には原来、燃える蛇が多く住ん
でいましたが、神様が守って下さったのです。しかし、恨み呟いた時、神様はその守っ
て下さった御手を離してしまわれたのです。そうするや、荒野に住んでいた燃える蛇の
群れが飛びかかってが、神様が守って下さったのです。しかし、恨み呟いた時、神様は
その守って下さった御手を離してしまわれたのです。そうするや、荒野に住んでいた燃
える蛇の群れが飛びかかってイスラエルの民たちを噛んで多くの人を死なせました。結
局、恨み、つぶやくのは、神様を離れて行かせる悪魔の悪巧みに過ぎなかったのです。
イスラエルの民が神様を恨んだ為、神様の御怒りに触れた事件は民数記第 11 章にも記
録されています。民は酷く不平を鳴らして神様に呟いたので、主の火が彼らに向かって
燃え上がり宿営の端を舐め尽くした事がありました。エリコ偵察の後、彼らの悪行で
10 名は疫病で死んでしまい、この話しを聞いて、その夜を泣き明かし恨んだ、この民た
ちは皆、荒野に向きを変えさせ滅亡させてしまわれたのです。
民数記第 14 章 27 節から 30 節に、
「いつまでこの悪い会衆は、わたしにつぶやいて
いるのか。わたしはイスラエル人が、わたしにつぶやいているつぶやきを、もう聞いて
いる。あなたは彼らに言え。これは主の御告げである。わたしは生きている。わたしは
必ずあなたがたに、わたしの耳に告げたそのとおりをしよう。この荒野であなたがたは
死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者た
ちはみな倒れて死ぬ。ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたが
たを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決してはいることはできない。」と仰せ
になりました。何と恐ろしい審判であり、神様の御怒りであったのでしょうか?彼らは
神様の御前で恨み呟く事ができる条件があったのです。何故なら、乳と蜜の流れる地で
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あると思って偵察しに入って行って見ましたら、非常に瘠せた土地であったのです。そ
して、その町々の城壁は高く、そこに住む人はネフィリム人とアナク人であったので到
底、彼らが比較して見ても、自分たちが蝗の様に見えたのです。攻め上がって占領する
事ができないと思ったのです。呟く理由が幾らでもあったのです。彼らが神様の御言葉
を信じないで呟き恨んだので、神様の御怒りに触れて彼らは見捨てられてしまったので
す。ですから、神様の御前で恨み呟くのは、悪魔に胸を開いてやる事だけでなく、神様
の御怒りと震怒の審判を催促する道となるのです。ですから、百害無益な事が、この恨
みと呟きであるのを私たちは良く知っています。それにも拘わらず私たちは何時も恨み
呟きます。感謝と賛美は実践しようと決心をし、私たちが訓練をしなかったら実践する
事ができません。なぜなら、アダムとエバ以後、堕落した私たちは原来、心情が呟き、
恨む様に造られているのです。心に変化を受けずには、恨みと呟きの世界を離れる事が
できません。離れませんので常に、悪魔から盗まれ、殺され、滅亡され、神様から御叱
りを受け、審判を受け、神様の御怒りに触れる事が多いのです。
第二、感謝の霊的意味を深く考えて見なければなりません。
詩篇 第 50 篇 23 節に、
「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。そ
の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。
」と記されています。感謝は神
様の能力と、救いと、恵みを賜る鍵になるのです。恨みと、呟きと、嘆きは、悪魔に私
たちの心の門を開き、私たちを占領させる鍵になるのであり、感謝と賛美は、神様に鍵
を捧げ、私たちの心の門を開いて私たちの中に入って来られて、救いと祝福と恵みを与
える道となるのです。聖書に見ますと、ヨシャバテ王とモアブ人アモン人の連合軍との
戦争に対した話しが記録されています。ヨシャバテ王がユダを治めていた時、モアブ人
とアモン人の連合軍が攻めて来ました。ユダの王ヨシャバテは突然、敵の侵攻を受けて、
慌ててどうして良いかわかりませんでした。彼は驚き恐れました。それで彼は民と一緒
に主の宮に入り、主の助けを求めて大声で叫び求めて祈りました。
歴代誌第二 第 20 章 12 節から 13 節に、
「『 私たちの神よ。あなたは彼らをさばい
てくださらないのですか。私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力
は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、
あなたに私たちの目を注ぐのみです。
』ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの
幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。
」とこの様に切実に祈る時、主の霊がレビ
人ヤハジエルの上に臨み、
「この戦いは、あなたがたの戦いではなく、神の戦いである。
明日、彼らの所に攻め下れ。あなたがたと共にいる主の救いを見よ。
」と仰せられたの
です。それでヨシャバテ王は戦争上行った事のない珍しい事をしたのです。彼らは戦場
に出て行きながら軍隊の前に聖歌隊を組織して、聖歌隊に聖なる着物を着させ、賛美を
しながら進み行かせました。この記事は 歴代誌第二第 20 章 20 節から 23 節に記録さ
れています。
「『こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、
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ヨシャパテは立ち上がって言った。
「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを
聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利
を得なさい。
』それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を
着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うため
であった。
『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。
』彼らが喜びの声、賛美の声をあ
げ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の
人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。アモン人とモアブ人はセイル山の住民に
立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに
力を出して滅ぼし合った。
」と記録されています。神様の驚くべき奇跡であるのです。
彼らが賛美を始めた時、神様が奇跡を起こして下さったのです。じっとしていれば神様
の奇跡は起りません。神様に感謝と賛美を捧げた時、神様の奇跡が現れたのです。です
から、私たちの感謝と賛美は、神様に奇跡を起こされる動機を付与するのを知る事がで
きます。恨み、呟き、嘆きは悪魔を招く動機になりますが、感謝と賛美はヤエ-なる神
様を招待する動機となるのです。ヨシャバテは神様に感謝し、賛美した結果、大勝利を
得、戦利品を分捕るのに3日がかかりました。神様が感謝と賛美の中に臨在されて奇跡
を現わして下さった事実を歴史的に証明したのです。私たちは、新約聖書に見ますと、
パウロとシラスが福音を証した為、逮捕されて牢に入れられた事件があります。彼らは
ピリピの町で占いの霊につかれた女奴隷を救ってやりました。占いの霊に憑かれて占い
をしながら彼等の後に付いて来て困らせるので、パウロは振り返ってその霊に「イエ
ス・キリストの御名によって命じる。この女から出て行け。
」と命じると即座に霊は出
て行き、正常になりました。この女奴隷が占いをして金を多く儲けましたが、儲かる望
みがなくなったので女奴隷の主人はパウロとシラスを捕えて役人たちに訴えました。長
官たちは、ふたりの着物をはいで何度もむちで打たせました。そしてピリピの奥の牢に
入れ、足に足かせをかけて投獄しました。彼らは恨み、呟く条件が多かったのです。“福
音を証ししたのに何故?神様は私たちをこの様に監獄に入らせるのでしょうか?”と恨
む事もできるでしょう。多く鞭打たれた背中からは血が流れ、腹も減るし、真っ暗闇で
湿り気のある奥の牢で足かせをかけられているのですから、嘆いても理解ができます。
しかし、彼らはそうしませんでした。
使徒の働き第 16 章 25 節から 26 節に「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ
賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が
起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてし
まった。
」と記されてあります。真夜中頃、祈りつつ神様に感謝と賛美を捧げるや、神
様が送られた地震が起ったのです。獄舎の土台を揺れ動かし、すべての人々の足かせを
解いてしまわれたのです。賛美を私たちがして、自由と解放を与えるのを見せて下さっ
たのです。私たちは心が苦しく悲しく苦痛の時、賛美を神様に捧げますと、その束縛か
ら解放を得る事ができます。私たちの生活と環境が苦痛と悩みで縛られた時、神様に感
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謝と賛美を捧げますと、神様は自由と解放を来らせる大きな地震を起こして下さるので
す。霊的な揺れ動き、私たちの生活を揺れ動かして暗闇の勢力を追放し、自由と解放を
来らせる力が即ち、賛美にあると言う事を見せてくれるのです。感謝は、神様が臨在さ
れて一緒に働かれる道を開いてくれるのです。それだけではありません。獄舎の扉が全
部開いたので看守は囚人たちが逃げてしまったものと思い、驚いて自殺しようとした時、
パウロは大声で「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。
」と叫んだので、看守
が駆け込んで来て、
「先生方。救われる為には、何をしなければなりませんか。
」と言い
ました。この時、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家
族も救われます。」と言いました。この話しを聞いた看守は、彼とその家族全部が悔い
改め、その日にバプテスマを受ける様になったのです。感謝と賛美が自由と解放を来ら
せるだけではなく、他の人たちも救われる門を開いてやったのです。皆さん!信じない
人は、私たちイエス様を信じている人が何時も、恨み、呟き、嘆いているのを見たら如
何にして、心に感動を受けてイエス様を信じる事ができるのでしょうか?しかし私たち
が苦痛と煩いの中でも感謝し、賛美し、涙を流しながら主に栄光を捧げましたら、信じ
ない人たちがこれを見て素晴らしく思う事でしょう。
“どのようにして、あのような困
難で苦しい中でも涙を流しながら感謝を捧げるのであろうか?その理由が何処にある
のだろうか?”と質問する事でしょう。しかし、彼らがその訳を聞き、心が感動され、
キリストを救い主として迎え入れる奇跡が起る事でしょう。ですから、感謝と賛美は私
たちの敵を追い出す力となり、感謝と賛美は私たちを悪魔の束縛から解放と自由を与え
る驚くばかりの奇跡となり、福音を証しする大きな原動力になるのです。
第三、私たちが感謝する為には、どうすれば良いのでしょうか?
私が前にも申し上げました様に、アダムとエバは生まれた時から、その子孫たちの心
の中には、恨み、呟き、嘆く様に造られたと言う事なのです。ですから、今日において
も、この世には呟きと嘆きで満たされているのです。私たちは何処へいっても、2・3 人
が集まった所にいって見なさい。恨みと呟きと嘆きの話しを聞きます。これは心理的に
その様になっているのです。それで、私たちの人生が常に悪魔から盗まれ、殺され、滅
亡されるのです。悪魔に私たちが占領される鍵を与えた為、私たちのアパ-トの門を開
けて入って来て、初めから占領しているのです。ですから、この悪魔を追い出し、神様
が私たちの中に入って来られて、イエス・キリストによって、救いの恩寵を施して下さ
るためには、私たちが感謝するのを学び、訓練し、そして常に関心を注いで感謝する人
生を営まねばなりません。不平不満を呟くよりは、感謝の条件を探さなければなりませ
ん。不平不満な事柄がどんなに多い事でしょうか?しかし、その様な条件の中でも、感
謝すべき事柄を私たちが探してこそ、私たちが感謝する事ができるのです。
詩篇 第 50 篇 14 節から 15 節に、
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いを
いと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。
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あなたはわたしをあがめよう。
」と記しています。先ず第1に、神様に感謝の生贄を捧
げた後、苦難の日には神様に叫び求めますと、神様が救って下さり、そして結局には神
様に栄光を捧げる事ができますと記されてあるのです。ですから、私たちが神様の御前
に進み出る時には、先ず第1に感謝の生贄を捧げながら神様の御前に進み出なければな
りません。皆さん!今年の 11 月 10 日の新聞報道に出ました様に、19 歳になった娘が
1月に 400 万ウォンもする課外費をくれないと争って、気力が尽きた母親の顔を手で押
さえて死なせた悲痛な事件を見る事ができます。その間、母親がどれ程努力して 400 万
ウォンずつ 1 月の課外費を準備してやった事でしょうか?400 万ウォンと言えば大きな
金額です。彼女の母親が何処から、この大きな金額を準備したのか想像する事ができま
せん。しかし、課外をさせても効果がないから止めましょうと言うのに、母親と争って
結局は首を締めて殺してしまったと言うのは眞に、感謝することを知らない今日の世代
を見せてくれるのです。今まで顧みてやった事に対して、少しでも感謝をしたとしたら、
この様な事は起らなかった筈です。子とは言えません。それに比べましたら皆さん!ア
メリカに渡って行った淸教徒が不幸と苦痛の中でも神様に感謝した事件を記憶して見
ましょう。1620 年9月、イギリスで 102 名の淸教徒たちが、イギリスのジェ-ムス一
世の国教政策によって酷い迫害を受けるや、これを避けて信仰の自由を探してメイフラ
オ‐と言う小さな帆掛け船に乗って、新大陸に向って出発しました。2ケ月以上を大西
洋で航海するのに、この小さな帆掛け船が荒波を押し退けて航海するにはどんなに多く
の困難と試練を体験した事でしょうか?66 日目に九死一生で北アメリカに上陸してむ、
定着する所を探しながら聖誕節の次の日にフリマス・フロックに定着して冬を過ごす間、
惨くて酷い寒さと、風土病と、アメリカン・インデアンの襲撃を受けて、航海をして来
た人たちの中で半分以上が死んでしまいました。生き残った人たちは不屈の信仰で、第
1に教会を建て、あらゆる苦難を耐えつつ土地を開墾して春にはトウモロコシを蒔いて、
秋には大豊作となり、彼らは神様に涙を流しながら感謝の生贄を捧げ、又、農作をする
のに助けてくれた隣のインデアンたちを招いて3日間大きな宴会を設けたのが、今日ア
メリカが記念している秋の収穫祭りを行う様になったのです。この秋の収穫祭りがアメ
リカの宣教師を通して全世界に広まって行き、韓国の私たちの教会でも秋の収穫祭りを
行う様になったのです。その時に、この淸教徒たちの子どもたちに聖書勉強をさせる為
に建てた学校が、今日のハバ-ド大学、プリンストン大学の様な世界的大学に発展した
のです。しかし、ケネディ大統領が法律で学校での祈りと聖書勉強を中止させた後には、
アメリカの青少年たちの犯罪が急増し、性的に堕落し、新生宗教の温床となり、遂には
ニュヨ-クの世界貿易センタ-のテロ事件が起り、アプカン戦争が起り、この結果、ア
メリカが罪を悔い改め、罪を告白して神様に立ち返る契機となってしまったのです。皆
さん!ですから、私たちが私たちの人生の中で不平、呟きを探せば、幾らでも探す事が
できます。しかし、色々な不平や呟きの事件の中でも感謝すべき事などを探せば多くの
感謝すべき事柄を探す事ができるのです。ですから、不平や呟きなどを払い除けて、そ
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の中にある感謝の宝を探して、それを持って感謝しなければなりません。何故なら、私
たちの人生は、恨みと呟きか、感謝と賛美かの霊的戦争をしているのです。私たちの毎
日毎日の生活は、私たちの心の中で不平か、感謝か、賛美か、恨みかの戦争であるので
す。霊的戦争であるのです。この戦争で負ければ放浪の人となり、戦争に勝てば祝福を
受けるのです。私たちの生活の中での不平や呟きたい誘惑に敵対してこれを追い出さな
ければなりません。常に私たちの心の中には恨み、呟きたい誘惑があるのです。アダム
とエバも誘惑を受けたのですから、私たちも誘惑を受けるしかないのです。恨みや呟き
たい思いが何時も出てくるのです。心の中には恨みや呟きたい誘惑が満ち溢れているの
です。
箴言第 4 章 23 節に、
「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれ
からわく。
」と記されています。心から感謝と賛美を捧げれば、命に満ち溢れ、恨み、
呟けば死亡が満ち溢れてしまうのです。或る村にぶつぶつと沸き上がる温泉があり、そ
の側には氷の様に冷たい水が湧く不思議な所がありました。村の人たちは洗濯物を運ん
で来ては、熱い水で浸して洗濯物をそこで煮詰めました。その次には、その側にある冷
たい水で洗濯物を洗いましたから本当に便利でした。それで多くの見物人たちが、其処
に来ては、
“うわ-珍しい。熱い温泉があると思えば、その側に冷泉があって洗濯物を
煮詰める事もできるし、洗濯物を洗うとは本当によいところだ!”と、それでその人た
ちは“こんなに良い環境を下さった神様に感謝しましょう”と言いましたら、観光案内
人が言いました。“いいえ。ここの人たちは不平だらけなのです。
”“何故でしょうか?”
と聞きましたら、“神様が熱い水を下さり、冷たい水も下さったから、どうせの事なら
石鹸水まで下さったら良いのに、私たちに石鹸を持って来させるとは”と呟きながら洗
濯物を煮詰め、水洗いする時毎に恨み、呟いたと言うのです。人間が呟こうとすれば、
何事でも呟く条件があるのです。しかし、感謝しようとすれば又、幾らでも感謝する条
件が私たちの中にあるのです。私たちは隣との対話の中でも感謝よりは不平を話す様に
と心理的に堕落しているのです。今は人たちが出会いますと、すぐ他人のうわさや、恨
んだり呟く様に心理的に堕落しているのです。
詩篇 第 34 篇 13 節から 14 節に、「あなたの舌に悪口を言わせず、くちびるに欺き
を語らせるな。悪を離れ、善を行なえ。平和を求め、それを追い求めよ。」と命じられ
ました。また、詩篇第 141 篇 3 節に、
「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの
戸を守ってください。
」と記されています。これほどに、私たちの心に決心をして、唇
に見張りを置いて、恨み、呟きが入って来ない様にし、感謝をする様に努力しなければ
なりません。隣との対話の中で、私たちは感謝の言葉が出て来て、恨みや呟きが出て来
る事が無いように関心を注がなければなりません。そして感謝は、私たちが唇で先ず感
謝をしなければなりません。
ピリピ人への手紙第 4 章 6 節に、
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝を
もってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさ
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い。
」と記しています。感謝は、神様の能力が施される道となるのです。
ヘブル人への手紙第 13 章 15 節に、「ですから、私たちはキリストを通して、賛美の
いけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではあり
ませんか。
」と記されています。賛美の生贄を神様に常に捧げるのが、私たち救われた
人たちの唇の果実であるのです。感謝と賛美は、神様に捧げる芳ばしい生贄となるので
す。或る牧師さんの妻が胃癌の宣告を受けました。50 歳にもならないのに胃癌にかか
ったのを考える時、あまりにも口惜しくてたまりませんでした。昔、神学校で夫と一緒
に勉強し、そして教会を開拓しながら苦労したのが記憶されて、このように早めに胃癌
にかかって死ぬのは、この夫と結婚した為だ!そうだ無能な夫と一緒に牧会をすると言
いながら教会を開拓すると言っては、余りにも苦労をし、心を痛ませ、苦しんだから胃
癌にかかったのだ!と思って、夜になれば夫の胸倉を掴んで“何故私が先に死ななけれ
ばならないのでしょうか?私と一緒に死にましょう。
”と大声で叫びました。或る日の
事、夫はノ-トを持って来ながら夫人に“あなたは今までずっと不平をつぶやきました
が、呟きながらも死ぬ事ができ、感謝しながらも死ぬ事ができます。しかし、神様の御
前に進み行く時、感謝しながら死ぬのが良いでしょうか?不平を呟きながら死ぬのが良
いでしょうか?ですから、このノ-トに感謝すべき人たちを過去、感謝をしなかった人
たちの名前を全部書いて、感謝すべき条件を書いて、住所を探して行って感謝をしてか
ら死になさい。
”と言いました。それでこの夫人は、なる程と思って感謝すべき人たち
の名前を全部書いて、その翌日から力の続く限り、家々を訪問しながら“本当に有難う
御座いました。今まで助けて下さって有難う御座いました。この世を離れる前に挨拶し
に参りました。ただ、ただ感謝で御座いました。
”と挨拶しながら回りましたが、皆、
死ぬといった人が感謝しながら暮らし長生きする様になったのです。彼女は感謝をして
回った後に、病院に行って検査をして見ましたら、癌は皆、癒されてしまったのです。
恨みと呟きは妻の命を縮めましたが、感謝と賛美は、癌を滅ぼす治療の働きを起こさせ、
感謝している間、治療が継続され、彼女は癌から癒されてしまったのです。ですから、
唇で感謝すると言うのは、素晴らしい治療の御働きと恩寵を賜る道となるのです。
第四、私たちは捧げ物を携えて神様に感謝しなければなりません。
詩篇 第 96 篇 8 節から9節に、
「御名の栄光を主にささげよ。ささげ物を携えて、
主の大庭にはいれ。聖なる飾り物を着けて、主にひれ伏せ。全地よ。主の御前に、おの
のけ。」と記されており、マタイの福音書第 6 章 20 節に、
「自分の宝は、天にたくわえ
なさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
」と
記されています。又、ピリピ人への手紙第 4 章 18 節から 19 節に、
「私は、すべての物
を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、
満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物
です。また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたが
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たの必要をすべて満たしてくださいます。
」と記されています。私たちが神様の御前に
進み出る時には、唇で感謝の生贄を捧げるだけでなく、実際に供えものを携えて神様に
感謝を捧げますと、神様は喜んで下さるのです。
ルカの福音書第 6 章 38 節に、
「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々
は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてく
れるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」
と記されてあります。私たちが物質で感謝しますと、神様も物質で私たちに報いて下さ
るのを知らなければなりません。聖書に私たちの主が最も大きく感激され、感謝すべき
事は、マリヤが香油の入った石膏の壷を割った事です。その国では、処女が嫁入りする
時、石膏の壷の中に油を入れて持って行きます。所でマリヤは嫁に行く為に、今まで長
い間貯めていた香油を持って行って、石膏の壷を割って香油をイエス様の髪に塗り、足
に塗り、彼女の髪の毛で足を拭いました。すべての弟子たちはこれを見て、憤慨して叱
りました。しかし、イエス様は何と言われたでしょうか?「この女は、わたしに対して
立派な事をしてくれたのです。この福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語
られて、この人の記念となるでしょう。」と言われました。イエス様は、苦難の十字架
の死を前にした、この場所でマリヤがキリストの恵みと救いに感謝して、彼女が持って
いる最も貴重な香油の壷を割って、その香油をイエス様の髪に塗り、足に塗ってから自
分の髪の毛で、拭ってくれたのに対して、ありがたく思われたのです。主は大きな勇気
と力を得たのです。イスカリオテのユダは、
“何の為に、こんな無駄な事をするのか。
”
と大声で叱りましたが、イエス・キリストの為にする無駄は、幾らしても良いのです。
私たちが肉体の為の無駄は良く無いけれども、神の御子イエス様の為なら、主に栄光を
捧げる為の無駄は聖なる無駄であり、幾ら無だ使いをしても、これは惜しくありません。
キリスト教新聞を見ますと、イ‐・ヨンヒ-執事さんの証しが記録されています。教会
学校1年生の息子が、良いバイオリンを買う為に、2 年間貯金した通帳を、夏のサンデ
イスク-ルで献金として捧げました。息子は誕生日を前にして、最も貴重な物を捧げた
いので祈りの中で、母親と相談して、
“私が 2 年間、バイオリンを買う為に貯金したお
金を神様に感謝の献金として捧げたいのです。
”と言って母親から“そうしなさい。
”と
の承諾を得たので、この子は感謝の献金として捧げました。丁度その時、夫の事業が最
も厳しい時期であったので、切実な思いで祈っていましたが、1月も経たない内に奇跡
が起りました。今まで集金も良くできずに苦労をしましたが、意外にも良く集金ができ、
職員もわずか1人でありましたが、6 人に増やされる驚くべき祝福を受けたのです。息
子が純粋な心で、困難の中でも神様に感謝の献金を捧げたので、この家庭に祝福を神様
が報いて下さったのです。
詩篇第 50 篇 23 節に、
「感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その
道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。
」との御言葉が成就されたのです。
アメリカの或る事業家が自動車事故で独り娘が精神病にかかって病院に入院してい
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ました。自動車が衝突して脳に損傷を起こしたのです。3年後、車を運転して娘の入院
した病院に行く途中、側道に車を停めて大声で泣いていましたが、神なる聖霊様に言わ
れました。
「あなたの娘が自動車事故で脳に損傷を受け、精神異常になったのを感謝し
て見た事がありますか?」との御声が聞こえました。彼は答えました。
“私の娘が事故
で脳損傷を受けて精神異常になったのに、それがどうして感謝なのでしょうか?”と反
問しました。神様は、「この事件自体が感謝なのでは無く、神が臨在され、神が顧みて
下さるのを思って、あなたが感謝をすれば、感謝を通してわたしが働く事ができる筈な
のに、何時も恨み、呟き、嘆いたので、それがあなたと、わたしの間に仕切りの壁とな
って、あなたの娘を助けてやる事ができないのです。」と言われました。それで、この
父親は大きく悟り、悔い改め、
“神様!わたしの娘が自動車事故で精神病院に入院して
から 3 年目になるのを感謝します。天の父なる神様が私を悔い改めさせて下さり、感謝
します。私の娘によって感謝申し上げます。
”と涙を流しながら感謝をして、自動車を
運転して病院に行きましたら、医者たちが驚いた目を大きく開いて彼を迎えました。
“あなたの娘さんに驚くべき奇跡が起ったのです。今まで、人事不省であったのに、今
朝からは人を見分け、お父さん!お父さん!と父親を探しています。
”精神病棟にいる
娘が“お父さん!私が何故ここに来ているのでしょうか?お父さんは何故、私をここに
捨てたのでしょうか?”と言うのでした。ハレルヤ!神様の能力が現れて癒されました
との証しを読んだ事があります。感謝を捧げる時、感謝を通して神様の御手が現れたの
です。何故、感謝をしなければならないのでしょうか?環境が感謝をする事のできない
時に何故、感謝をしなければならないのでしょうか?それは、私たちが感謝をするのは、
神様の御手を招いて来る道となるのですから、病気にかかった人が医者を探す様に、飢
えた人が食べ物を探す様に、困難におかれた時に神様の御助けを求める道が即ち、感謝
なのです。感謝が神様を招いて迎え入れる道であるからです。私たちは、神様と悪魔と
の間で常に霊的戦争をしながら暮らしているのです。この戦争の中で確実に悪魔を迎え
入れる道は不平であり、恨みなのです。しかし、感謝もまた、確実に神様を迎え入れる
道となるのです。神様は感謝と賛美を住まいとして御座を設け臨在されるのです。です
から、私たちは霊的戦争 Spiritual
Warfare をしているのです。毎日毎日、小さな事から
大きな事まで、心の中で神なる聖霊様と悪魔が戦っているのです。私たちが感謝の門を
開けば聖霊様が来られて、神様の能力が現れるのです。恨み呟きますと、神様を出て行
かせ、悪魔を迎え入れて、盗まれ、殺され、滅亡される目に遭うのです。あれか?これ
か?の選択は私たちの心の中にあるのです。即ち、これが霊的戦争であるのです。感謝
しても良く、しなくても良いのではありません。恨んでも良く、恨まなくても良いので
はありません。私たちの人生が永遠に幸いとなり、すべての点でも幸いを得、健康にな
り、命を溢れるばかりに得て、すべての事を働かせて益となる結果を得たいと思うなら、
感謝をしましょう。しかし、盗まれ、殺され、滅亡され、苦痛と悲しみを受けたい時に
は、恨み、呟きましょう。選択は私たちにあるのです。
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詩篇 第 22 篇 3 節に、
「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まい
としておられます。
」と記されてあります。イスラエルが賛美する時、その中に主が臨
在して下さると記しています。主が臨在して下さるので、神様の救いの奇跡が現れるの
です。
テサロニケ人への手紙第一第 5 章 16 節から 18 節に、
「いつも喜んでいなさい。絶え
ず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあっ
て神があなたがたに望んでおられることです。
」と記されています。神様の御旨であっ
て、人間の願いではないのです。ですから、私たちが神様の御旨を受け入れて、いつも
喜び、絶えず祈り、すべての事について感謝するこの事柄を力の限り行えば、神様が私
たちと一緒にして下さって、大きな恩寵と祝福と栄光を与えて下さるのです。
“祈り”
愛に満され聖であられる天の父なる神様!アダムとエバ以後、私たちは絶え間のない
霊的戦争をしているのです。エデンの園でアダムとエバが霊的戦争に敗北して、神様に
感謝、賛美、栄光を捧げずに、悪魔の暗示を受けて、恨みと不平と嘆きで、神様に逆ら
って凄惨な破滅の道を歩むようになりました。天の父なる神様!ただ今、救われた私た
ちも、絶え間なく悪魔の暗示と誘惑につまずく時があまりにも多いのです。私たちは恨
み、不平、嘆く心理的傾向性を持っています。天の父なる神様!ただ今、イエス様の尊
い血潮で私たちの心を占領され、御言葉と聖霊様が力を注がれ、恨み、不平を呟く所で
感謝と賛美を捧げる事ができる様に助けて下さい。恨みと不平を選ばないで、感謝と賛
美を選んで霊的戦争に勝利する事ができます様に、天の御国が私たちの心の中に臨在し
ます様に、イエス・キリストの御名でお祈り申し上げます。
ア-メン・・・・・・
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