日本国民性の研究(中)

日本国民性の研究(中)
目
「解放」大正十年四月特大号
次
◆社会制度より見た国民性◆
法制史上より見た国民性
文学博士
三浦 周行
経済上より見た国民性
法学博士
滝本 誠一
家族制度の崩壊と我が国民性
法学博士
河田 嗣郎
社会観念は日本歴史になし
文学博士
久米 邦武
徳川時代の民事裁判
白柳 秀湖
我が国の売春制度の考察
宮武 外骨
特殊部落より見た社会
正親町季董
◆哲学倫理より見た国民性◆
日本哲学
文学博士
金子 筑水
儒教と日本国民性
文学博士
宇野 哲人
老荘思想と我が国民の性格
文学博士
三宅 雪嶺
女子の貞操に現われた日本国民性 女子高師校長 湯原 元一
◆信仰生活より見た国民性
神道と国民性
清原 貞雄
仏教と日本の国民性
東洋大学教授 島地 大等
我が国民性と往時の切支丹
文学博士
新村
出
一キリスト教徒の見た日本国民性
沖野岩三郎
民間信仰に現われた国民性
加藤 拙堂
法制史上より見た国民性
文学博士
三浦
周行
一
この問題を取扱うについて、まず考えねばならないことは、国民性というものは古今
を通じて変るものであるかどうかである。国民性のある部分には変わらないと見えるも
のもないではない。けれどもそれは見えるというだけの話であって、仔細にその性質、
事情を吟味して行くと、時代の相違もあって必ずしも同一でないと解るものが多い。つ
まりある時代に鮮明であったものが、次の時代には不鮮明になって来る、いやまったく
跡形もなくなったかと思われるものさえある。それはどうしでも国民性の変遷としか思わ
れない。
しかし国民性が変化をするについては、国民性の成立にはかなり長い年代を経た
ものである上に、周囲の自然の偉大な力も手伝っているのであるから、よほどの強い原
動力がなくてはならない。それは国民を抱擁する環境に格別の変化がない限り、人為
の力であることは言うまでもない。
私は今ここにそれらの動力について力説しようとするものではないが、政治上の原
因も重なものの一つであった。政治家がこれまでと全然異った方針を立て、国民をそ
の方向に導こうとし、しかもその努力がかなり長く続き、かつ強い力で押し進めた場合
には、いつしか国民性を動揺変色させることが出来た場合がないではない。それから
今一つは文化的原因といおうか、とりわけ宗教の力は著しいものであった。
個人にしてもよく性質の変わる場合があるのと同様に、国民性も長い間には変化が
起るのは決して不思議ではない。後者についていえば、武家政治が行われた後の国
民性と公家政治の下にあった時代のそれと比べるとすぐにわかるように、ほとんど同一
国民とみられないものもある。国民が仏教の信仰に浸潤する前と後では、非常な大き
な変化を見る。もっと具体的に説くなら、戦国時代から江戸時代にかけて、国民に対
する極端な強圧的恐怖政治が行われたため、少からず国民性をいじけさせ、権力の
前に卑屈な因循なものとした。前者についていえば、仏教の中でももっとも一般に広
がった念仏信仰が国民の死に対する恐怖を去り、むしろ死を美化し憧憬するまでにい
たった。その影響が内的生活を一新したことを認めなければならない。これらの変化の
中には外部の強い圧迫があり、雪に折り曲げられた竹のように、本来の性情を曲げる
ことがあっても、それはもともと一時的なことであって、圧迫の手がゆるむか取り去られ
ると、またもとの形に戻ってしまうことがあるから、一概に変化と見るわけにいかない場
合もある。ただ、圧迫が長期に続けば、矯正に時間を要するのは言うまでもない。
二
私は法制史上から我が国民性を考察して、一層上述の感を深くする。今日世間の
一部ではしきりに政府の非立憲を攻撃し、さらに司法権の乱用から人権侵害を叫ぶ声
が高まって来たが、それというのも、結局我が国民が従来法律に対して無知であり、権
利に対して盲目であった反映である。実際国民の間には正常な権利を法廷で争うこと
さえ好まない風がある。諸般の法律規定が国民一般にどれほど知られているか、思え
ばまことに心細い次第である。しかしこの国民性も今は変化をしつつつある。こういう非
難の声が高まって行き、社会に相当な反響を与えつつあることは確かだ。極めて僅か
な金銭の不当徴収を不法とし、また電車の無効乗車券を有効と主張して官公庁を訴
えること。発掘品の不当買い上げについて国を訴えること。電車や汽車の轢死につい
て、また婦人の貞操の蹂躙について損害賠償を請求すること。これらは従来ほとんど
例を見なかったことである。これらの事件は今日でこそ、新聞記事として多少とも社会
の注目を集めているが、いずれありふれた事実となって、誰も見向きをしなくなるであ
ろう。社会現象として注意に値する事象である。
三
しかしながらこうした権利の執着は決して今に始まったことではない。鎌倉時代など、
生命に次ぐほどの大切な所領が他人に侵害されると、当然自己の権利であると信じら
れた場合には法廷に訴え、あらゆる努力を払って主義を貫徹するという風であった。
十年、二十年と続いた訴訟事件はこの時代には珍しいことではなかった。この主義の
前には兄弟もなければ親族もなく、法律で訴訟の提起が許されなかった親に向ってさ
え、ともすると口実を構えて訴えかねない勢いであった。主人の不当な処分に対して
は諌争、直言し、中にはすねて出家し、自分と主人を捨てた熊谷直実のような者も出
た。自分の主張に対する粘り強い執着力は格別であって、負けても負けても容易に諦
めようとしない。幕府も提出された証拠書類に無効と書き付けて、将来の乱訴のもとを
断とうとしたが、それでもその反古同様の古文書を破棄しようとしない。当時源平交替
という一種の革命説が行われており、平氏の北条氏時代に敗訴になった訴訟も、その
うちに北条氏が亡んで源氏の政府に代った場合、あらためて提出すれば勝訴になな
るかもしれないからであった。
実際この時代には人権を尊重して、その保障や他人から侵害された場合の救済に
向っての道具立てが相当に備わっていた。貞永式目という法律はこのために制定され
たもので、各条文にはこれに関する規定が数多く載っている。今から千百年前の大宝
令にすでに遺産の分配制が規定されているが、その中には女子の特有財産を認めて
いる。貞永式目も同様で、女子に実子のない場合、遺産を養子に相続させることを認
めた。夫婦財産制についても、夫は妻の財産を管理するが、妻が死んだ場合は、遺産
は夫に行かず子に行く。夫が相当の理由なく妻を離縁した場合は、夫は先に妻に渡し
た財産を取り戻すことは出来ない。これらは一例に過ぎないけれども、現行の民法より
よほど進んだ立法といえる。ただ立法が進んでいるというだけでなく、当時の婦女子も
自己の権利の主張に臆していない。規定を無視した夫の不法な処分に異を唱え、法
廷に訴えて主張を貫徹した例もある。一事が万事で、ほかもこれで類推出来よう。当時
の訴訟法は、人権の伸長に非常に添うように整備されていた。原告から訴状が出され
ると、裁判所で受理して被告に示し、答弁を求める。被告が答弁を出すと、裁判所は
原告に示して反論を許す。これを三回繰り返すと書面審査を打ち切って双方を裁判
所に呼び口頭訊問に移る。つまり対決である。判決の言い渡しの後でも、不服な者に
は、控訴に相当する機関も備わっていたから、終審までにはかなりの時日を要したの
も当然であろう。
裁判では、本奉行が原告側に立ち、合奉行が被告側に立った。また本奉行の監督
官として、証人奉行というものがあった。陪審制の採否は今や世上の一問題となって
いるが、この時代には、土地の所有権が係争問題になった場合、土地の古老の証言
を得て決める慣例であった。不完全ながら一種の陪審制であったといえる。軍人であ
る武士も戦場での戦功は一々戦友の証言を取って届出たり、大将の承認を求めて論
功行賞を申請するのが当時の手続きとされていた。行賞が遅れた場合に督促するの
も決して僭越だとか不規律だとはみなされなかった。これらは今日の軍人に見られな
いことで、仮に今こういう申立てをすれば、軍隊はもちろん、世間からも狂人扱いされる
にちがいない。
四
同じ武家時代であっても江戸時代になって来ると、人民の訴訟紛議はなるべく表沙
汰としないで、いわゆる示談内済で闇から闇へ葬ろうとする。それがまた非常に組織的
に出来ていて、まず当事者の隣家の五人組から名主の玄関、奉行の白洲と背中を合
せたようにこの方針で打消しにかかった。その上世間の道学先生や旦那寺の和尚さん
までが従順の美徳や事の穏便を力説し、和解に終らせた者ほど名判官と立てられて
いた。腰の強いものがあってこの難関を潜り抜け、裁判を仰いでも、始審はすなわち終
審であって、泣き寝入りのほかなかった
お上にお手数をかけては済まないというのが、当時の虐げられた国民の心理状態
であった。幕府も民事訴訟、特に貸金銀出入といって金銭貸借に関する訴訟は、当事
者間で解決するもので、決して公儀の裁決を煩わすものではないとの理由から、一時
受けつけないないこともあった。また月を限って受理を許したこともあった。しかもそれ
がこの時代きっての大法律家であった八代将軍吉宗の命令であったから驚くではない
か。そういえば将軍直轄の武士である旗本御家人を保護してその債務を廃棄し、債権
者の江戸蔵前の札差商人の権利を没収した棄捐令(きえんれい)を出したのも、この
時代の名老中、松平越中守定信の方寸から出ていたのである。
ではその間のどれが我が国民性の本色であろうか。それについては今さら考察を
費やすまでもなく、鎌倉時代は一般政策から推しても解るとおり、極めて自然的であっ
て、社会の要求に伴う立法を精神としていたにもかかわらず、江戸時代はまったく正反
対に極端な圧制主義であり、不自然であり、人為的である。自家保全の政策の犠牲と
して人権の抑圧を意図したものであった。両者の隔たりはまったく異なった政策の表
現であった。我が国民性は由来現実的であり実利的であり、したがって楽天的であっ
た。むずかしい哲理や空想に耽って、人為的な教えのために自然性を損なうことを好
まない。昔からいう「言挙げしない国」とはこの一面を示したものものである。儒教や仏
教も皆外来の思想で、かなり深奥な哲理を含んでいるにしても、国民にとっては皆一
様に一種の現実的功利主義化されてしまった。仏教の各派も我が国にあっては皆現
世の福祉を祈る祈祷教になりすましている。この意味からいえば、真の仏教は真宗だ
けといってよいかもしれない。けれどもそれさえ阿弥陀様に歴代の門主(法王)が結び
つけられて一種の祖先崇拝となり、民衆の信仰に妥協している。キリスト教が過去に振
るわなかったのも、祈祷教になり得なかった点にあったからであろう。
こう考えてみると、我が国民性は権利思想に目ざめる素質をもっていたのであり、こ
れを行くところに導いて行った鎌倉幕府は、さすがに今の中産階級に相当する地主の
武士を踏台にして立っただけのことはある。徳川幕府が無暗に人権を押えたのは、国
と国との間の生存競争が激しかった戦国の領主が、領内の人民を圧迫した余風を受
けたのと、織豊二氏の後の社会秩序が紊乱し切った戦国時代に対する反動的政策と
して極端な階級制度の復旧を図ったことによる。過去にないほどの太平の世が小三百
年も続いて、戦国の余風が覚めてしまっても、なお政策を改めず、この不自然な圧迫
を続けた幕府の根気にも驚くが、その治下にあった人民の辛棒強さにも呆れる。
五
これほど長く続いた後は、たとえそれが国民の本性を歪めたものであっても、そう容
易に変革が出来るはずがない。我が国民性の上に投げられたこの暗い陰欝が、いつ
までも長くこびり着いて、国民を法の前に無関心にしてしまったのも不思議ではない。
私は今ようやく国民性の一部が麻痺状態から目ざめ、本に立ちかえろうとしつつあるの
を認める。識者はよろしくこれを善導すべきであると思う。これを当面の問題としていう
なら、国民参政権の拡張とか、別けても婦人問題は国民性の根本的考察に伴った解
決をするべきであって、無暗に不自然で政略的な制圧を加えては、百害あって一利な
しと信ずる。
なお権利思想の発達は、個性の発揮つまり個人主義を意味するものである。世間
では余りに個人主義を高調すると、国家のためにする犠牲的精神の衰退を招くと信ず
る者もあるが、すべての事物は極端に走れば弊害を見るものであり、それを理由に全
部の価値を判断するのは、正に議論の出発点を誤っている。自己の正当な権利に対
して盲目的であれば、個性に対する自覚のない国民は、国家に対しても頼母しい国
民といえまい。かの公家と武家の二つの政府が両立していた鎌倉時代に、国民は
各々所属を異にしており、同じ武士であっても、一方を御家人というのに対し、一方を
非御家人といい、互いに相反していたばかりか、将軍直轄の武士でさえ、前にも述べ
たように、利害関係の異るため分裂を来していた時も時、あの欧亜を席巻してきた元の
来寇があった。幕府はこの未曾有の困難に対する国民の不一致を懸念したのである
が、事は意外にも彼らの燃えるような愛国心の発揮となり、幕府が朝廷に請い、一時そ
の兵士を将軍の指揮下に移した。彼らは喜んで将軍の命令下に一命を投げ出し、幕
府が敵国に対して遠征を企図した際には、先きを争って志願した。これは今の国民に
は自国のことながら余りに耳遠い話であるが、近く個人宗の本家本元である英仏諸国
の国運を賭しての大戦に、国民が一致奮闘した事実は、我が国民の記憶に新たなとこ
ろである。私はこの点から考えても、平生国民が法の前に無関心であったり、かえって
これを閑却したりする態度を残念に思う。一日も早くこの国民性の暗黒点が取り去られ、
本性に立ちかえり、権利思想に目ざめて国家の利害を自己の利害としつつ、一人でも
多く国家組織の一要員に洩れない自省とその実現を要求してやまない。最後に私は
この私見について読者が拙著『法制史の研究』に収めた「日本人に法治国民の素質
ありや」の一編を参照されることを望んで筆を置く。
経済上より見た国民性
法学博士
滝本
誠一
世界の各国民には皆ある種の特徴があり、世人は普通これを国民性といっている。
国民性という性の一字は何となく、自然に具備して生付いた天性を意味するように聞こ
える。日本の国民性といえば大和民族は世界の他の国民とは先天的に種類を異にし、
歴史、習慣、その他四囲の環境の相違などに起因する差異ではなく、あたかも国学者
の言う神随(かんながら)の特殊な国民であるかのように思われている。しかし私がここ
で国民性と称するのは、そんな神臭い一定の不変のものではなく、英語の national
character をいうのであって、それは矢張り歴史、習慣および四囲の環境等によって常
に緩やかな変化、発達をしている一般的な動向を意味するのである。平たく言えば、
上記の原因によって形成された国民の癖を指摘するに過ぎない。ここに私がいう「経
済上より見た国民性」の内容は、日本には経済上古今永久に、他の文明国と異なる根
本的特徴があるというのではなく、今日現に国民の一般的気風つまり従来の癖が、経
済上どのような効果を表わしているかを研究しようとするのである。
我が国の封建制度が崩壊したのは僅か五十余年前のことである。当時の歴史を詳
しく観察すれば、ある些細な点では多少の差異があるだろうが、社会組織上の大体の
現象は、西欧十五、六世紀の特徴であった中世紀主義(mediteranian)の発動に酷似
している。徳川政府転覆当時の社会状態は、慶長、元和頃つまり徳川氏創業時代頃
の西欧の社会状態とほぼ似ていたと思われる。彼我の間の文化進歩の差はほとんど
三世紀の隔たりがあった。にもかかわらず、日本は維新以来一足飛びの進歩をとげ、
今やとにもかくにも世界の強国の仲間入りをして、大いに誇っているのである。しかし
情けないことには、我が国の進歩は概して政治制度の上に現われた表皮的なもので
あり、社会の内部における骨髄はそれほどの発達をしていない。ややもすれば封建の
遺風を残しているのは残念なことである。
社会学上の原則であるが、日本が西欧の制度、文物を移入するに際し、もっとも速
やかに、もっともよく同化したものは、国民性が適応し合致したものである。たとえば、
国民が尚武の気性に富み、軍事が社会組織の唯一の要素であったから、西欧の軍政
および軍事に関する技術は、最もよく消化吸収され、生硬な模倣の痕跡を残さなかっ
た。本家本元のドいツ帝国に比較しても決して遜色なかったし、さらに進んで、これを
凌駕するに至ったのは紛れもない事実である。この成功は明治政府の努力によるのは
もちろんであるが、根本は尚武的な国民性が順応し、摂取し、我がものとしたのであっ
て、政府はお膳立てをしたに過ぎない。
国民性が受入れ易いものは入りやすく、そうでないものは入り難いのは、学術界に
おいても同様である。今や我が国が軍事のほかに世界に誇ることが出来る学術は、医
学、医術である。日本の医学が維新以来長足の進歩をして、欧米に劣らないことは世
界が認めている。これは封建時代から医術を重んずること盛んであり、極端な鎖国主
義を取っていた時代にも、医者に限って蘭方を採用することを許可し、医書や医薬の
輸入を許可していたのである。一般国民も蘭方を毛嫌いせず長期間快く受納してきた。
外物排斥の熱度が頂上に達した時も、国民の迫害はなかったのである。これがもっと
もよく国民性に合致した証拠であり、今や国内の僻地でもことごとく西洋医にかかり西
洋薬を服し、誰も怪しむ者はいない。
これに反しキリスト教が思いのほかに発達せず、上流紳士や知識階級の大部分は
ややもすれば軽蔑の態度を取っている。外国の伝道会や宣教師が金銭と労力を多大
に払いながら努力しているにもかかわらず、効果が伴っていない。これは三百年の間
国民に封ぜられた宗教であり、日本の歴史、習慣、周囲の環境などがなお受け入れる
状態に至っていないからである。これと同じく憲法政治が当初の期待に沿う運転が出
来ないのは、政党の弊害が続出して、腐敗、堕落の極に落ち入ろうとしているためで
あって、憲政有終の美は前途遼遠の有様である。これは僅か三十年来の経験であり、
一般国民はこれまで心にも行為にもまったく準備していなかったことで、歴史的な国民
性に適応しないことを実行したからである。憲法政治がしっくりと国民性にアダプトする
のはなお数十年の訓練を必要とする。
さてそこで、社会の基礎を形成するもっとも重大な問題である経済は、日本の国民
性と調和して、立派に成長しているかどうかが当面の問題である。日本が世界の一等
国として、英米仏独諸国と対等に扱われるかどうかは、この問題の解決次第で決まる
のである。私は既往の歴史に徴し、現在の事実に照らして考えると、残念ながら現在
の経済状態は国民性に背反していると断言せざるを得ない。
我が国現下の経済状態が国民性と背反する根本的理由は、今日の経済上の施設が
ほとんど欧米に範を取り、一朝一夕に造り出した机上の製作品であるのに、国民性は
前に述べたように長い歴史、習慣、および周囲の環境などによって自然に形成された
生産物であるという事実にもとづく。手腕の優良な技術者は自家の製作品を国民性に
照合して調和を保つ工夫をめぐらしはするが、今日経済上の施設に対して立案
(initiative)の責に任ずる者は国民性を顧みることなく、無造作に製作したものを無理押
しに実行しようと試みる。幸いにしてまぐれ当りに国民性に合致すれば、陸軍制度のよ
うに成功することもあろうが、多くはそんなに甘くは行かず、実際上往々行詰まりを免れ
ないのである。勧業、農工両銀行のような金融機関の設備があっても、産業上に貢献
することは稀であって、多くは政党者流または少数の有力者の手中に利用されている。
また輸出交易品に関する検査取締法が存在していても、これまた有力な大資本家の
寡占を助けるにとどまって、肝心な小事業者のためにはかえって発展を妨げる利器に
すぎない、などの結果が生じている。
明治維新は政治の中心が転覆して新たな機関が組み立てられたという点で大改革
であったには相違ない。しかし単に徳川政府が崩壊し明治政府が出来たということと、
日本国民の一般的気風すなわちナショナルキャラクターを変革したということは、全然
別の問題であって、国民の気風の変革は徳川氏軍職奉還の十数年前の米使ペルリ
の渡来とともに欧米文明の新空気に接触した時から始まったのである。我が国の政治
組織の革新は一朝に成就したが、国民の気風の変遷は容易には出来なかったのであ
る。故に明治初年と徳川の末年とは制度上の外形の相違が著名であつたほど、民心
の変化は明らかではなかった。その後半世紀を経過した今日でも徳川時代の遺風は
なお社会の各方面に残留している。機会のあるごとに種々の仮面の下に現われつつ
あるが、中でもはなはだしいのは経済方面の事実である。例えば官吏を取り込み、官
庁に依頼して一獲千金をせしめようという旧式の遣り方が事業家の本職であるかのよう
に思っているのが、都会と地方を問わず、一般の資本家の経済思想である。この思想
は元来封建式の官史万能主義に淵源するのであって、国民の大多数がこんなことを
考えている間は、真の経済上の発展はとうてい期待できない。近年世上に政商という
言葉が流行し、新聞紙上などに時々目にするが、これらの人々がのさばっている間は、
社会が経済的に発展する望みはないのである。
西欧でも十六、七世紀頃にマーチャント・アドべンチュラーズというものがあり、当時
の政府に取り込み種々の利益を渡して貿易上の特権を得ていた。この特権を後ろ盾
にして事業経営をしていたので、彼らは皆政商であった。当時モスコヴィ会社、リヴァ
ント会社、イーストランド会社、東インド会社などを組織していた商人は、会社そのもの
が政治上の一大機関であり、政商であった。この時代の商人は何れも個人として独立
の事業に従事する気力に乏しく、ややもすれば攻府もしくは官吏と結託して仕事をす
る傾向があった。中世紀主義の遺臭が残っていたのである。我が国の徳川時代の商
人は何事もお上の御威光を借りなければ手出しができず、賄賂、請託を事業成功の
唯一の秘訣としていた。この弊風が極点に達したのは天明寛政の頃より天保弘化の間
(十八世紀末から一九世紀の初期)であり、松平樂翁、水野忠邦らの改革が目的を達
することが出来なかったのも、まったくこのためであった。賄賂、請託によって仕事をし
たのは内外同一の事実であるが、どちらも中世紀主義、封建主義の残滓であって、旧
式事業家の踏襲であった。
日本の封建時代に非常な富豪となり、社会一般の羨望をひきつつあった人々が、
家産を集積したもっとも手近かな方法は、大名旗下その他の武家を相手としたご用達、
つまり金貸業であった。武家武人の貧窮が益々激しくなるとともに、金貸業はいよいよ
盛んになり、武家武人の收得の大部分は金貸業者に吸收されてしまった。武家武人
が財政上の智能に乏しく、臣下の用人と商人とが結託し、種々の奸計をめぐらして彼
らを欺いたのである。江戸の札差および大名の用達商人らが濡手に粟の大儲けをし
つつあったのはまったくそのためであった。これがもっとも盛んに行われたのは大阪で
あって、同地の富の大部分は大名貸と称する大名専門の金貸業によって蓄積された
のである。もちろん大名貸が行われるには双方の間に色々の取引や謀計があり、相互
の関係は複雑を極めた。しかし要するに賄賂と請託が基本であって、諸大名の役人は
おおむね大阪の奸商の手中にまるめられ、場合によっては自分の主人より商人の方
を尊重することもあった。
当時各藩何れも大阪に留守居と称する役人を置き、倉庫の取締り、米穀その他国
産物の売捌きなどをさせていた。しかし彼らの職務のもっとも重大なものは借入金に関
する交渉であって、彼らはそのため商人たちとは親しく交際をし、始めは主人のために
富商を取込んで、金策の便を図る目的であったのが、主人の財政がますます困難に
なるに従い、ついには主客の地位は転倒し、商人あるを知って主人あるを知らないよう
な醜態を演じることも少なくなかった。これは大名にとって止むを得ない次第であり、大
阪の商人に依頼して金を融通しなければどうにもならない窮状に落ち込んでいたのだ。
故に大阪の富豪には藩政府自ら頭を下げ平伏していたので、蒲生君平が「大阪の商
人一たび怒れば天下の諸侯は皆震え上る」という次第になったのである。海保青陵の
「善中談」に次の一節がある。
諸侯が大阪で金を調達するには一万両借りるに五〇〇両ほど入用がかかる。貧
しい諸侯は千両借りるのに二〇〇両かかる。これは紙一枚で大金を借りるからこうな
るのだ。さらに月に六サイとか三サイとか銀主振舞ということをする。また優秀な人物
を大阪に置いておかねばならない。小諸侯は折々には家老自身が大阪に下り銀主
と掛合い、豪家に平あやまりする。豪家は楼(青楼または酒楼をいう)に上がっても
座蒲団の上に座り、家老は君侯御目見のとおりの式で、豪家の御杯を頂戴する。笑
止千万なうえ、この費用は巨額に上る、云々。
この記事を見ても大阪の商人が大名を手中に翻弄し、いかに暴利を貪っていたか
明らかである。「甲子夜話続編」(松山静山著)に鴻池がつぎのように富を作ったことを
記している。
世に称する大阪の豪商鴻池は同家の者が七軒あり、皆富豪である。西国の諸侯
の廻米の用を受けて財貨 を積んだ。福岡、佐賀の両侯が巨頭であった。一侯に土
蔵一つ宛を造り、その侯家の金銀はすべてその蔵に納め他と混じることがない。よ
ってその侯の融通が悪くなり、蔵の財が不足する時は、他の六家に割付けて財を集
め用を足す。財がもとに復するときは、利を添えて六家に分け返す。こうして七家は
富を等しく築き、長く衰えることなしという。
徳川時代における富の三分の二は大坂にあるといわれていたが、同地に名のある
富豪は、みな前記の手段によって富を作った。正しい事業に従事して、正常に儲けて
いたものはまことに少数であった。梅辻飛騨守が天保の末年に計算したところによれ
ば「大阪にて当時諸大名へ用達した金高はおよそ六千万両と相見え、云々」とあり(斎
庭之穂)、これは諸大名より大阪へ廻送する米高の中、商人の手中に帰する部分など
を差引勘定した金高と同額になる概算であって、およそ六千万両が大名へ貸越しにな
っていたのである。当時の六千万両は今日の六億円どころではない、非常に巨大な
金額であった。大阪の商人は諸大名の富を吸收してぼろい儲けをしていたのである。
封建時代の商人が大名貸を最も有利な事業とし、相当の資本を有する者は大阪のほ
かどこにもあった。京都、大津、伏見などの商人も盛んに大名貸を行った。各所の富
豪の名を得たものは大むねこれに成功した者である。しかしこの業務に従事していた
者がすべて成功したわけではない。これによって身代をつぶしてしまった者も少なくな
い。三井高房の著作による「町人考見録」を見ると、京郡だけでも大名貸により身代を
潰した者は多数あったが、これらの失敗者も元はたいてい大名貸で産を造った者であ
って、結局元々の事だと「考見録」の著者は云っている。
諸大名の金借り役人、留守居などは、それをおとりにうまく言い逃れるから、ついに
世話ばなしにいう鼠の油揚とやらの罠にかかる。それならこの取引は中止すればよい
のに、博奕を打つ者は始めから負けるとて取り掛かる者は一人もない。また町人に金
を借りておけば、金回りはよくなり、万一町人が破産でもすれば借金の棒引きができる。
大名貸の金銀は、約束のとおり取引が行われれば、この上ない成功である。人数はか
からず、帳面一冊、天秤一丁で済む。寝ていて金を儲けるとはこのことである。古語に
いうように一得一失どころではなく、こんなうまい話は尻に大きな返りがあるから、大名
貸には近寄ってはならない。よくよく考えなければならないことである。(商業叢書本一
五七八頁)
私は今ここで大名貸の利害得失を評論するのではない、この記事によって大阪の
商人に限らず、京郡などでも大名貸が盛んに行われていたことを証明すればよいので
ある。
封建時代における殖産の方式はたいていこのようなものであって、近世の産業とは
大いに性質を異にしていた。真正の事業家の眼で見れば、らちもないやり方であった。
まことに幼稚な経済社会であった。徳川政府が崩壊し、明治維新の世の中になっても
御用商人はいたるところで暗躍し、暴利をむさぼっている。地道に正当な産業に従事
し、自家の手腕と勤労とで、正しく儲けている富豪はほとんど皆無である。
しかしながらこれは前に述べた我が国民性の一部分であって、政治機関の新陳交
代もこの遺産を一掃する力はなく、天明寛政のそれと同じく、天保弘化のそれのように
悪毒をそのままに過ごしてしまった。
憲政実施以来、世論の力が次第に高揚し、正義の観念もやや発達して、極端に悪
辣な行為は出来なくなったので、御用商人が漸次毒手を緩めつつある傾向は疑いな
い。それでもなお我が国の大多数の事業家は、すっかりと伝来の悪癖を改めていない。
機会があれば官吏を取り込み、官庁に依頼して、濡れ手に粟の儲けを得ようと構えて
いる。目下議会の審議中である米穀法案も、中身の組織は必ずしも不可とはいえず、
果して提案者の目的どおり実行されるならば、一般国民のために至極の良法であるが、
上記のような悪癖を脱しない限り、経済界に大きな効果をもたらすことは出来ない。果
してよくこの法を善用し利用しうるかが重大な問題であって、例の政商の手中の道具と
なり、いたずらに国益を空しくして、奸富を増長する結果とならないようにしなければな
らない。国民のこのような悪癖は一時に根治できず、むしろ気長に経済的理性の発達
を待たねばならないという意見もあるが、私はこの際勉めてこの理性の発達を妨害す
るあらゆる施設を排除し、封建の遺風である特権主義の下に行動する卑劣な根性を
断ち切るよう当局者に希望する。経済の発展のためには、この封建主義に起因する悪
癖のすべてを駆逐することが、今日の急務である。
家族制度の崩壊と我が国民性
法学博士
河田
嗣郎
一
現在多くの人が、日本の家族制度を日本に特別に存在する制度であるかのように
心得ている。そして種々の機関で発表される学者の論文または講演なども、これを日
本の特別の制度として、国民性と結びつけて考える向きが少くない。私はそのような見
解に賛成できない。
家族制度は一つの社会制度であり、古くより存在して長い歴史をもっている以上、
その国の民族性と密接な関係を有し、したがって民族性の異なるにつれて多少制度と
しての面目を異にするのは当然である。しかしながらその制度としての骨子について
見れば、一般文明国民は等しくこれを有し、この制度を経過してきたものであり、制度
組織の根本義については世界共通のものと考える。もっとも私のいう意味はモルガン
氏などが考えているように厳格な意味における同一性を認めるというのではない。モル
ガン氏は家族制度の種々の形態を分類して、これを文明発達の順序とし階級的に並
列する。そしてあらゆる民族は各階級を経て進化していくという。私はそれほど厳密に
家談制度の形態的普遍性を主張することは出来ないと思うが、ただ私は、制度はそれ
自身制度としての構成において共通なものがあると同時に、諸民族の発達の径路もお
おむね類似するものであるということだけは承認しなければならないと信ずる。したがっ
て私は家族制度に関しても欧米先進国が経過した過程を踏んで、わが国の事情も進
化して行くものと考える。
二
家族制度を問題として論ずる場合、論者はまずもって制度の意味について限定し
ておく必要がある。従来世上に行われた議論は、この意味の限定を欠いたために、弁
論や攻撃が無意義な水掛論に終わったり、問題が核心に触れなかったりした。人はよ
く欧米の文明国民は今や個人主義の生活をし、われら日本人はなお家族制度の生活
状態を続けていると断じ、両者の間には根本的相違があると前提して、社会生活の諸
種の問題を判断しようとする。その場合、家族制度の意味の取りかたによっては、我が
国の現状に適合しない議論となり、また問題の核心に触れたものにもなる。その場合
の意味が家長的大家族制度と解釈すれば、欧米先進国はすでにこの状態を脱してい
るが、日本はまだその殻のうちに包まれているといえよう。しかしもしその家族という意
味を現代式な夫婦本位の小家族制度と解するなら、それは欧米先進国民でも決して
その域を脱して純然とした個人主義的生活に入っているものではない。依然として家
族制度のもとに生活しているのである。わが国民中の少なからずの部分、特に知識階
級は、現在ほとんど欧米同様の家族的生活をしているのであって、彼我の間に論者の
考えるような根本的な差異は存在しない。だから家族制度を問題とする場合は、その
字義の意味を充分に限定してから議論に入るを要する。そして私は現今論じられつつ
ある家族制度の必要だとか、家族制度の瓦解に対する憂慮であるとかいうものは、前
に挙げた二つの意義の中では昔風の大家族制度を意味するものと解釈し、ここでは
その意味の家族制度の運命に関し考察する。
三
この意味の家族制度は、家という観念を基礎とするものであって、その観念には三
つの重大な要素が備わっている。それは家の永久性、家の経済、家の統制権である。
この三要素が完全に具備されるて始めて家族制度は存在できる。まず家の永久性に
は常に宗教的神聖が加味され、祖先崇拝が始終附隨している。これにより祖先の霊的
庇護のもとに一家は財産を所有し家の経済を行いつつ、永久に存続するものとなり、
一家を作る権力はいかに新陳代謝しようとも、家という共同体は永久に存続するとされ
るのである。そして共同体としての家族は父親によって統御され、父親は戸主権として
家の祭祀を行い、家の財産を管理し、家人を統御して教育、取締および労働の按配
などを行ってゆくのである。故に一家が永続的のものである限り、これを統御する家長
権もまた永久的なものであって、これを永久にするために家督相続の制度が設けられ、
また養子の制度が併せ用いられる。そして家長権は家人に対しては絶対的な権利で
あり、家人はこれに絶対的服従の義務を負うことによってその統御権が維持されるの
である。
このような制度の家族組織は、古く欧米先進国にも行われ、我が国にも古来行われ
てきた。前者にあってはすでにギリシャ、ローマ時代にこれを見、わが国では武家時代
にその完成をとげた。しかるに近代文明の発達とともにこのような家族制度は漸次崩
壊せざるを得なくなった。欧米先進国では現在ほとんど崩壊し、我が国では今まさに
同一の状態に陥ろうとして、その間に諸種の問題が発生しているのである。崩壊の原
因は何かというと、結局近世文明における国家組織の完成と個人主義の勃興であって、
その機運の動くにつれて家という観念が衰亡せざるを得なくなった。宗教的権威に対
する近世一般の否定的傾向に押され祖先崇拝の意義が消滅し、また一方では個人主
義の勃興により個人の生存を超える一家の永続という観念も次第に亡びて来たのであ
る。また産業革命の結果として家の経済も自ら瓦解し、機械の発明とともに家庭産業
は衰滅して工場組織がこれに代り、同時に個人的企業と個人的労働とが原則となり、
経済上の個人主義が確定されることになった。なお家の統御に関する家長権に対して
は、国権の確立による大きな制限が加えられた。家人に対する教育および取締りは大
部分はこれを国家が直接行うことになり、他面一家経済の衰退のため、これに関する
家長の管理権も必要の少いものとなってしまった。家長権の氷久性も漸次不必要とな
って家督相続や養子制の精神的内容は亡び、制度としての価値も無くなってしまった
のである。こうして家族制度の依って立つところの要素が、ひとつひとつ壊されて来た
から家というものは到底存在し得なくなり、したがって一家に属する人々はその家族の
一員としての意味よりも一個人としての意味の方が強く考えられるようになった。加えて、
近時民主主義の伝播は家人の家長権に対する服従心を弱め、成人した男子が独立
するのはもちろん、女子もまた追々覚醒し自己の人権的独立を要求するようになり、し
かもこれらの独立的傾向は近時における経済上の個人主義的制度の完成のために
一層容易になっている。
このようにして現今すでに欧米先進国は家長的家族制度を瓦解し終り、我が国も
特にこれと同様の状態を現わそうとしている次第であって、今や人々はこの古い家族
制度を捨て新しい家族制度に入ろうとしつつある。この新しい家族制度は前に述べた
ように、夫婦を本位とし婚姻関係を主体に置く制度であって、共同生活体としての意義
は大家族制度に比べて非常に薄弱である。つまり夫婦と未独立の子女とが結合して
消費の経済を共にする団体に過ぎないのであって、家という観念はほとんど伴わず、
家長権はしたがって非常に微弱なものとなっている。
四
そこで問題は、わが国における家族制度の維持だとか家族制度の瓦解の機運をど
のようにすべきかということになる。ある種の人は現今なお昔の家長制としての家族制
度をある限度まで維持しなければならないと力んでいる。しかし私の考えによれば、す
でに人々の気風つまり精神上においても、また経済生活の実際においても、かつて欧
米で大家族制が打破されたた事情と同一の実情を社会は構成しつつある以上、家族
制度の地位は一角づつ破壊され、早晩欧米と同様の小家族制度に入るほかはないの
である。現に国民中の少なくない部分はすでに進化をし終えており、実は問題は時間
の問題にすぎなくなっている。この大勢に気づかずに、囚われた道徳上の見地より今
後ながく家族制度の維持を計ろうとしても、それはとうてい不可能である。なお現今欧
米諸国では個人主義の徹底的要求のために小家族制すら脅かされ、婚姻関係の弛
緩は家族的結合をも不可能とする傾向を現わしてきている。この際わが国が一時代遅
れ、従来の家族制度の維持を企てるなどは、一種の時代錯誤である。まして家族制度
をわが国民性に特別のものだという考えは、私の論ずる限りではない。
社会観念は日本歴史になし
文学博士
久米
邦武
一
最近西洋の文明が我が国民性に重大な影響を及ぼし、新旧思想の混乱は将来の
日本人の死活問題となっている。なるほどもっともなことだが、それは六、七十年前に
始まった問題である。ひそかに痛心していたところ、欧州に空前の大戦が勃発し、幾
百万の壮丁を殺し、千何百億という資産を無駄にして初めて平和を叫び出したのは、
自火で自焼した灰寄せのつぶやきに等しい。日本にとっては川向いの火事同然で、
それ見たことかという位置にあるから、何も慌てることは少しもないと私は思っている。
戦争が起った初期、私はある識者に、我が輸入品の首位を占めるのは棉花で、次は
羊毛だが、輸出品の一位は生糸絹織物であり、これで両方平衡が取れている。しかし
生糸はなお増進しつつあるから、西洋の購買力の減退で大きな影響を受けるのでは
ないかと問うた。その人の答えは、西洋人が絹を肌着に用いるようになったのは最近の
ことであり、婦人らは大満悦の最中だから、需用は増進する一方で少しも懸念はないと
いわれた。なるほど明治の初めまで西洋は絹を男子のネク夕いに用いていた程度で
あったから、まだ流行は半ばにも達しないとは信じたけれど、さりながらとかく贅沢品の
筆頭であれば油断はならない。ただし日本の生産業はまだ附焼刄であるから、死活問
題ではあるまいと思った。しかし戦後の景況を眺めると二年たたない内に生糸は大暴
落となり、蚕業地の大凋落となったにも拘わらず、都の婦人は絹が安くなったとますま
す洒落ている。戦後の西洋の大狼狽はこれで類推されるが、日本では狼狽するに及
ぶまい、国民性の変化を気遣うのは過去の問題で、これから自重して二の足を踏まな
いよう戒める時期ではあるまいか。
この国民性の研究について、私には社会制度を皇室史より見た問題をあてられた。
国民性はナショナルティ、社会はソサエティの翻訳語で、皆日本にはこれまでの思想
にない語であり、また皇室史とは国史を帝国史と換言したのか、これも少し思想の混乱
かと感じる。全体に皇帝とは、意義に大きな変化はないが、西洋諸国が帝と称するの
に対し、日本は特殊の国体を有する自尊心から、明治大変革の初めに取出された字
句である。その時の思想でいうならば、国民性も皇民性というのが早判りではあるまい
か。皇国史といえば思い出すのは明治変革の初めに国学者がキリスト教、仏教を憎悪
し、皇室が衰えたのは外国の教えを信ずらからだと激烈に排斥し、その余塵は漢籍も
外国の学ということになり、天皇の皇を取って京都に皇学校を建てることに定まったが、
教授となるに芳ばしい人がなく、因循する内に江戸解城となり、新政府が建って、昌平
坂の学問がそのまま大学と改称され漢学を教授した。だが西洋学を蕃書取調所で扱う
のでは西洋学家が折合わず、大学南校と改めた。また医学家が世界の強国となるに
は医学を興して国民の頭脳体質を強健にすることが根本の務めだと論じ出し、そこで
下谷の大病院も大学東校となった。ほどなく江戸は東京となり、京都の皇学は消滅し
東京に三大学が並び建った。しかし大学別当松平春岳公も始めは昌平の大学に出仕
し、漢学の徳教が依然として根本となったけれど、漢学の才力家は皆事功を立てる職
に就き、博士にはさしたる人物がなくて振わず、次第に西洋学の天下となった。これは
皇室史より見た社会変化の一頁に当ててもよいと思う。
二
皇室史と社会制度とは縁が遠く、それに国民性を附加した問題には当惑するが、そ
れについては五十年前が回顧される。それは明治五年でしかも当時はまだ旧暦であ
った。私は岩倉全権大使の秘書官として、正月より米国のワシントンに随行していた。
五、六月まで滞在の予定となり、一行は退屈していたが、私は書記官の薩摩出身畠山
義成氏と同宿し、米国憲法の歴史を翻訳しようと申合せ、大使にも申し出て着手した。
畠山氏は、文久三年鹿児島でイギリスとの海戦の講和後に、藩が八人の少年書生をイ
ギリスに送った一人で、その時は杉浦弘蔵と変名していたが、至って純粋穏健な篤学
者かつ勉強家であった。朝夕翻訳に従事していたのを副使の木戸孝允公が聞いて、
俺も加わろうかと言われたが、私は止めて、これまでは訳語の難かしいのは原語のまま
記し、なるべくはかのゆく方法を取り、やがて一冊の草稿が出来るので、再び訳語を定
めて文を修める時に監修してもらいたいと約束した。それまでは折々来て原稿を見て
おられたが、程なく稿を終え、そこで木戸公が朱筆を取って稿本の最初から修文され
ることになった。その劈頭の文が「政府の要はソサイチーとジョスチスにあり」と書いてあ
った、政府の原語は「ガバメント」であったが、これは日本でその頃は朝廷と訳していた。
大政府と訳したいところだが「グレートガバンメント」とはなく、また共和政治に朝廷はな
いので、訳語は初めから異議なく政府と定めていた。しかし「ソサイチー」と「ジョスチス」
の訳語が紛糾した。
その席で華英対訳書数冊を調べてみたが「ジョスチス」は公正な判決を下す語で、
正義、司直、正直などの訳語があった。私はその中より正義を選び、畠山氏は直の字
が欲しいといっていた。一方の「ソサイチー」には会社、社会、社交、会衆などの訳語
が若干あった。だが会社は既に十年来「コンパニー」にあて、長崎ではオランダ語の
「コンパクニー」を支那訛りで「コンパン」といって仲間商法に用いていたが、単純には
会と社になる。社は神社にまぎらわしい。支那では詩社など文人の会に用いるが、日
本では頼山陽の詩に「薩摩の兵児組を十八結交して健児社を作った」とあうのが流行
し、書生間に聞き慣れていたので、世間では組という語が穏やかとして、三井組、小野
組、大倉組などと使われていた。私は組よりも座というのが適当だといったが、能芝居
のようだと嫌い、会社はコンパニーとまぎれる、逆に社会というのもおかしい。かつ正義
と同じ動きを帯びた語であるというので社交と定めた。そのとき私が古漢文にすれば、
「政者は仁義を行うに在る」と言う意味である、仁の字は本来二人以上が親交する意
味であると言ったところから話が進み、「ソサイチー」という語は「コンペニー」のように組
織的のものをさすが、ただ多数人の会衆を名づけるものかとの議論になった。畠山と
同じ遣英学生の森有礼は留米弁務使(後の公使)で同席していた。四人の雑談であっ
たが、森はその頃よりローマ字に改める論を主張して畠山と常に論を闘わせていた人
で、訳語には沈黙していたが、「ソサイチー」の本義には口を容れた。両人ともにキリス
ト教信者で、ただ生活のための衆合ではなく、互いに愛の情をおしひろめて博愛、い
や、生活のための衆合だから博愛を教えるなどと言った。終に木戸公の判断で、衆民
は俗な衆合だから布教の必要が起ったらしい、との結論になった。
この頃までは西洋の思想に接触した矢先で、まだ訳語がまちまちであったが、訳語
が一定したのは詳しく吟味した結果でもないのである。東西洋の気風が絶対に異る以
上、当てはまる字が時の都合で定まったのである。会社を逆さに書いた社会は「ソサイ
チー」になって意義は判らない。支那では会社を公司とも書く。日本では固有語の仲
間も座もあるがあまり用いず、組合、商会などという。また株式の字も判らない字である。
全体として東洋には財用に関する必要語に乏しい。まず「エコノミー」という語を経済と
訳して澄ましているが、これは経国済民の切り語であり、「広く民に施して衆を救う、尭
舜もこれを病めり」というすばらしい意味の「ポリチカル・エコノミー」という語に当てたも
のか、家庭的な倹約という意味で用いたのか、普通には理財とも訳される語が、経済
で押し通しているのを見れば、「エコノミー」をよく了解した者は少ないだろう。「ソサイ
チー」もそれと同様で、政要の第二として挙げられる語が、社交や社会で話しすまされ
ているのは、果してその人がこの語の原義を了解しているかが怪しまれる。この不了解
な語を口拍子に唱えて変革などを論ずるのは険難(けんのん)ではあるまいか。近頃
問題になっている「デモクラシー」という語も、前に話した米国憲法史に「デモクラシー」
党と「レポブリカン」党とある。その意義を質問したけれど、元来連邦政治の事は根本
的によく了解できず、明確に判断出来なかった。日本は一系の皇統を戴いて独立した
特殊の連島国であるから、このような語には理解力が乏しい。一知半解(なまはんか)
に世界の流行につられることは慎まねばなるまいと思う。
三
要するに西洋は立君国でも、民主国でも「ソサイチー」つまり社会が原素となって結
晶した国民であって、何事も煎じつめれば生活問題つまり生存競争が根底にあって、
そこから幹も枝葉も繁っている。しかし東洋の諸国はその根底がまったく忘れられてい
る。彼らも怪訝に堪えないであろうが、まったく理解できないのである。私がまったくの
東洋思想の中から出て太平洋を航し、「デモクラ」の米国に着き、彼らの社会に親しく
接触した時の怪訝は実に大きかった。堂々たる紳士がしかも白髪を見る歳になって、
老婆になりかけた妻と手を携えて来賓の席に徐歩してくる図などは、正面に見るに忍
びないほど恥ずかしく、街車に乗れば食料買出しのバスケットを持った下婢に白髪の
老人が立って席を譲るのを、婢はすましこんで坐る。はなはだしいのは衆人の群中で
夫婦が接吻するのも見た。米国では五倫ことごとく滅却し、ただ夫婦情ありの一倫で持
切っていると評したが、ある西洋通が話すには、米国で男女誰もが洛涙する場合が三
つある。一はキリスト教の説教、二は夫婦の別離、三は給金を減らされた時、それに違
いない。木戸公がある碩学篤実の老博士に会見しての帰り、私にアレだからと嘆息し
て語られるには、老博士が説明中に夫婦より親しいものはないと話すから、「ノー」父母
があると答えたら、怪訝な顔でしばし考え、なるほどそれも親しい、けれども妻には及
ばない。その証拠は閣下が使命を果して帰国されたとき、父母に逢いたくともまず妻に
接吻する前に対面はできまいといった。また「ノー」。日本では父母に対面する前に妻
と話はできないといったら、驚いた顔でまた考え込み、なるほどそれも一理だが、その
風習では青年が働かないようになりはしないかといった。アレだから話が不調和に終わ
る。これから日本の行末はどうなるかと嘆息された。これも根本の生活問題が本となる
社会主義から出た間違いである。給料が減るのは正面の失望であり、これに落涙して
泣かないものは白痴といわれるであろう。米国の牧師ジェルベッキ氏は当今の聖人と
いわれた温厚清潔の君子であったが、私が太政官に奉職の頃、用度課で毎月正金を
取寄せて月給を払う相手が一人あった。それがヴェルベッキ氏で、雇用契約書に正金
何円と書いてあった。用度課は手数が煩わしいから紙幣に換算しようといったが堅く聞
き入れなかった。これが給料の社会上に重要な現われである。財を重んずるも輕んず
るも一得一失あろうが、東洋にない「ソサイチー」といい、「エコノミー」とい、「デモクラシ
ー」ということの西洋における根本問題について、なまじいの充填訳語では、絶対に国
民性の相違した人が理解できることではない。
社会ということは五十年前までまったく思想になく、「ソサイチー」の訳語に困るほど
であった日本が、今は堂々と官司を置けるようになったのは、全国民にとってそれほど
貴重なものであったろうか。一部の国民には必要であっても、一般にはやはり意味の
判らないものが過半数であろう。私は意味の判った者の一人として、ここに話すが、西
洋で社会というのは生活が本になり、神より受けた身体を相互に大切に生かすために
交わっている。その中で男女相配偶して夫婦となり、子を養育して天職を果たすのが
大切な務めである。自身があって夫婦があり、そして親子がある。親子からが他人の始
まり、これで社会ができて、その集積が国家となる。だから西洋では単に国民の口(人
数)のみを数える。もし非運で夫婦になれない場合は他人よりもわが生命を保存する。
結局個人主義が徹底するのである。しかし東洋では、身体は父母から受け、家族が本
になり、子孫繁栄が祖先にたいする務めとなっていた。社会ということを知らなかった
のである。父母あり我も兄弟もあり、成長して夫婦あり、子孫繁昌し、その家族の集まり
が国家となる、故に国民は戸数を数え、口より戸を重んじ、妻子がともに死んでも家名
を汚さない決心であった。子孫繁昌の積りがだんだんと進み、世の中が複雑になって
社会と呼ぶようになつたけれど、本を洗ってみればこういう結論になるのではあるまい
か。神の観念も、本を洗えば国土の境遇で違って来たので、まだ文字もない古い時代
には風雨随時、五穀豊穣を神に祈り、したがって国土安全、息災延命を祈るのが本で
はあるまいか。日本に新嘗祭の風があり、今も氏神に年々祭礼しているが、元は世界
で一般的だったようである。それが家族的に発達しあるいは皮肉に生活を主とし個人
的になったのは、境遇から分かれたというのが歴史的な観祭である。
人の交わりからいえば、仁は二人と書いて親と読む字である。また倫というのは二
人相倫ずるので、人倫などの熟語になっているが、西洋の哲学では倫理の原義を何と
説くか。儒学の五倫ということは、古代に舜帝が普通教育に五教を布かせた。五教と
は元、父、母、兄、弟、子の五品の家族が親和する狭義の教えであったのを、後に妻
を加えて六親とし、ついに儒学で君臣、父子、夫婦、長幼、朋友の五倫と広義に説い
たのである。しかしなお男女、兄弟、親戚の倫もあり、五には限れない。五倫五常など
と五に限るのは、その頃流行の五行にあてはめた風習にならったもので、実際には五
で収まらないことが多い。五穀というが米麦豆粟黍(きび)稗(ひえ)の六穀でなければ
ならない。場合には九穀とも百穀ともいう。人倫も五つには限らない筈である。が支那
では五倫、五常、忠孝、親相などと数え立てるけれど、日本にはこれに当る語はない。
倫という字は前にいった組に当る。また伴「とも」という語は供とも書き、主人に隨従する
人で、古代には京都貴族を首長とした伴部(ともべ)という地方の団体が、伴雄を頭に
立て、賤民の奴婢を使役し地方を開墾した。これを部曲(かきべ)といい、こうして郷村
は開かれていった。今の華族、士族、平民の階級はここに始まった。支那の古代の閭
里(りょり)の制もこれに似て、その中に仁愛を数えていたけれど、日本にそんな教えは
なかった。日本の人倫は「なさけ」をかけ「いたわる」のが国民性というべきでしょう。現
に私が少年の時、先輩が仁を講じて、人間は二人寄れば相親愛する、犬猫などは噛
み合う、これが人の禽獣より偉い所と教えられ、長くこれを信じていた。が、だんだん外
国人の社交の実際を見聞するにつれて、二人寄って仁愛するという天性が怪しくなり、
矢張り動物の例に洩れないのではないか、人性の善悪論も性悪の方が近いと思うよう
になってきた。
日本人と支那人の人倫における情愛はまだ相近いが、西洋人とは絶対の差がある。
例えば国民の良賤の差別はほとんど世界を通した習法だが、日支の賤民を労働に使
役する西洋人の態度は実に厳しい。説明すれば頁を費すので結論を言うに止める。
日支ともに民の良賤を士と民あるいは上輩下輩と差別し、同室に坐わることも直接に
言語を交わすことも出来ない法式であったが、日本は両者の接近が早く進み、明治の
初め賤民に苗字を許し、家を認めて差別を縮小した。士民の別はほとんど無意義にな
っており、日本の国民性が光っている。支那人はまだこの差別に執著し、士は徒手の
生活に溺れ、労働を恥辱とし賤民の仕事だとしている。彼らを苦力と呼んで土足にか
け、凌辱している状態を見れば、苛酷に使役して来た習慣が推察されるのである。西
洋は元来生存競争という争いの基礎の上に築かれた社会であるから、古来スレーブと
いう奴婢を牛馬同然に、いや、それよりも不仁愛に虐使してきた。我が古代に賤民を
奴婢といい、資財帳に記入してあるのを見れば、西洋のスレーブと同じではないかと
思うだろうが、あれは家を認めないから戸籍に記入されず資財帳に記入したものであ
る。とても彼らの思想には理解が難しい。また部曲の民で開墾といえば、所有の田地
が生産資本であり、これの年貢や契約の問題が起るだろうが、申合せか約束のような
疎略なものであって、お人好しの日本人自らも不文明と甘受せざるをえない。
四
ここから皮肉な問題に移る。歴史観は止めて性善性悪の談に入ろう。性善説は義外
の論でその法則は時々の適宜に作り合せたものとの疑問が解けない。私が洋行した
のは明治の初めで、まだキリスト教は厳禁され、併せて仏教を斥け、全国神葬祭に改
めることになった最中であった。西洋人から宗教を問われたときの答えを算段し、神道
は説明が面倒だから仏教と言おう、あるいは俺は儒教と答えるという。私は宗教はない
と答えようといったら西洋通が止めて、それは我れは悪人だと自縛するのと同様だとい
う。西洋は性悪説で、無宗教の野蛮人は獅子虎よりも智恵があるだけ怖い物としてい
るから、新らしい国人に宗教を問うのはその禁忌に触れないためであろうと戒められた。
これにあきれた私は、それほどまでに人類を性悪、獰猛なものと思う西洋人の根性が
わかると思った。各国巡歴の際にキリスト教とモラルは一か二かと、我が留学生の間に
質問したが明解を得られなかった。西洋ひいきの人が弁解する「悪に強い者は善に強
い」というのが結論になったと記憶する。ならば「ソサイチー」と「ジョスチス」は、猛獣の
ような獰猛な人類の群れを調教し制裁するものとなる。過酷のようだが社会が生存競
争の上に築かれていれば、キリスト教の説教だけでは覚束ないではあるまいか。
要するにこの問題は、国の境遇の相異から来る行違いである。境遇とは国土の良
悪である。本来生物は土に着いて生活するのが本分で、土地には天が四時に代謝を
する大仕掛がある。それについて銘々が応分の労働をすれば生活の資料は無尽であ
る。故に良土の国民に生存競争はないはず、だが単に水草のみ生ずる漠野に住むも
のは、牧畜して肉を食って生活する。しかし人は肉食のみでは生存できない。よって
他に穀物の供給を仰ぐ必要がある。それでここに天産の豊かでない第三国が肉を加
工した物を製して行商する。これらは皆その国の境遇である。古代は西の大陸におい
て、支那は甲の国、蒙古は乙の国、そして西域の諸国は第三国であった。甲は冨饒だ
から勤倹貯蓄に勉めて生存競争を言わなかった。乙は生活の資が乏しいからややも
すれば他国に向い侵略し、支那を襲った後は七百年前に成吉思汗の黄禍が極西ま
で奔騰したのである。余勢は東海に独立した我が日本にまで軍艦を送って、殲滅され
る狂態を演じたのである。第三の西域諸国は勤倹では間に合わない貧国だから、他
国に贅沢をそそのかして工産物を売り付けた。そのため自国も贅沢になり、貧富の懸
隔は往々餓死者が出るまでに広がり、ここに生存競争は高調した。同じ境遇の極西は
東進を封鎖されていたのが、蒙古の黄禍後より世界に活動を始め、ここ四百年来はそ
の風潮を極東にまで打ち寄せ、文明開化、生存競争をかかげ、贅沢をそそのかせた。
我が勤倹自存の風は翻弄され、最近の思想の混乱は死活問題を高調するに至った。
無形の蒙古襲来といってもよい。しかし今度の欧洲の大戦争はその行止りで、世界改
造などの声も聞える。改造とは歴史を無視した言であり、我が国民性に立返って心を
澄して見れば、社会思想、労働問題などは都会に執着し、機械の側、鉱物の間に住
む一部の人たちがの唱える声に過ぎないのではあるまいか。
徳川時代の民事裁判
=公事師および公事宿の研究=
白柳 秀湖
一
東西商工都市の異同
欧洲の商工郡市と日本の商工都市とを比較して、近世資本主義の発達が東西とも
に同じ過程を経ていることを事実の上に証明し、人間の歴史がすべて経済的法制の
支配を受けることは、私が半生にわたる努力の結果わかった。私は東西の商工都市の
歴史を(1)発生の原因、(2)郡市の特徴、(3)最後に商工中産階級が如何にして封
建諸侯の勢力をくじき、如何にして専制君主の権力を制限し、利潤取得の権利と通商
貿易の自由とを基礎条件とする近代国家を建設するに至ったかについて、種々の形
式による意見を世に問うた。その中には従来日本の平民史を書く人に、幾分の功績を
認めてもらいたいと信ずる二、三の思案もあった。私が今ここに発表する中世都市のロ
ーマ民法学者と、徳川時代の諸都市に現われた公事師との比較も、私の純粋な思索
に出たもので、私の知る限りでは、日本における最初の着眼であると思う。
公事師の研究は、次の東西商工郡市の比較において第七項の特徴に属する。こ
れまで発表した各種の特徴に関する研究について、その要目だけを表示して本編と
の関係を明らかにする。
東西商工都市の特徴比較表
1.都鄙の分業
西洋 テーべ、メンフィス、バビロン、ニヌア、スサ、エクバタナなど古代の都市には、
地方との経済上の分業はなかったが、中世の諸都市は純然とした商工都市であり、古
代のように農業者(地主)を含まず、両者の間にはっきりした経済上の分業があった。
日本 仁徳天皇の難波、元明天皇以下七代の奈良および初期の京都には、地方と
の間に経済上の分業はなかったが、中世以降に発達した諸都市、例えば大阪、堺、
京都、江戸には地方との間に截然とした経済上の分業があった。西洋の発達と軌を一
にする。
2.都市の城壁
西洋 中世の都市には自営の目的で築造された城壁があるのが普通である。
日本 日本の商工都市には城壁はない。ただし近古以降、諸侯の館は西洋の築城
法により城壁を囲らしたが、市民は城壁の外に置いた。(近古以降の諸侯が市民を城
璧の外に置いた理由は別に考察する。近く単行本として発行の予定)
3.都市同盟
西洋 諸侯は群盗の襲撃を防ぎ、運輸、交通の安全を保持するため、武装的同盟を
結んだ場合がある。ハンザ同盟、ライン同盟などがこれである。
日本 三都の同業者間に締結された商業上の組合があった。暗に相助けて水陸の
安全を保障した事実はあるが、欧洲のように諸侯その他に対して武装的なものではな
かった。ことに都市そのものが同盟に加わった事実はない。
4.商業制度・金融機関
西洋 地中海沿岸の諸国に種々の金融機関が発達し、とりわけ為替業は十二、三世
紀の昔から隆盛を極めた。中世の諸都市におけるこれら金融機関や商業制度の発達
は目覚ましかった。
日本 商業制度、とりわけ金融機関の発達は、主として江戸時代に属するが、その進
歩は極めて速く、元禄のころには大概のものは備わった。(町人の天下)
5.市民兵
西洋 都市は多く市民兵を持っていた。諸侯は群盗の襲来に対し自ら防戦した。後
には時に都市より兵を発して諸侯と戦い、他の都市と争った。
日本 市民兵はなかったが、町奴(第一期)、町火消(第二期)があった。富裕な町人
の抱えとなって、消極的に町人の生命財産を保護した。総称して侠客という。多くは浪
人であった。
6.独立の行政、司法機関
西洋 多く独立の行政、司法機関を持った。
日本 なし
7.御用法律学者
西洋 ローマ教会の利子禁止法に反対し、市民のためにローマ民法を有利に解釈
する御用法律学者があった。近代国家の立法の基となった。
日本 差添人として奉行所に出頭し、富裕な町人の代理として大いに弁じた。また地
方の荷主その他との訴訟に関与した。弁護士の始まりである。
上表のように、日本の商工都市には西洋のような独立の行政機関、司法機関こそな
かったが、他の特徴は大体備わっていた。彼が独立の都市、自由の都市として持って
いたものを、我は裕福な町人もしくは組合のものとして持っていたのである。しかも最
後に掲げたローマ法学者と公事師との比較を除いては大抵世に知られている。ここで
は徳川時代の公事師に関する考察を記して、有志の教えを乞いたいと思う。(この研
究は昨年中「実生活」に発表する積りで緒論だけを書き、事に妨げられて中止したこと
がある。)
二
都市の発達とローマ法王
順序としてまず欧洲の歴史に中世市民権の擁護者として現われたローマ法学者と
は何ものかを明らかにし、次いで我が公事師のことに及びたいと思う。
欧洲における商工都市の発達は十二世紀の末に十字軍が起って、雲霞のような大
軍が頻繁に欧亜の間を往来する頃から、軍旅の要衝である地中海沿岸の諸港がとみ
に繁栄を加えたのに端を発している。イタリーのミラノ、べネチア、ピザ、フレンツェ、ジ
ェノヴァなどがまず発展し、十二世紀に入るとこれらの都市を中心として為替業が大に
起り、カムプソレスと称する一種の銀行業もあって、世界金融の権はほとんどこれら数
個の郡市に帰した観があった。東西貿易の進展につれ、フランスでも、アルル、マルセ
ーユ、ニースが繁昌して、商工業者の勢力は実に侮り難いものとなってきた。ところが
このような世界の大勢に対し、第一に不安を感じたものはローマ教会であった。当時
欧洲の諸侯を総轄して事実上征夷大将軍の地位にあったものはローマ法王であった。
法王は世界を通じてもっとも大きな荘園の所有者であった。ベルギーにおいてもフラン
スにおいても、寺領は国土の三分の一を占めていた。これらの寺院を管轄して欧洲の
人心を統一するローマ法王は、封建制度が続く限り、いかに強大な君主の力も法王の
支配権を覆えすことは出来なかった。ところがこの時に当って、地中海沿岸の諸都市
に起った通商貿易は、欧洲人の新しい欲望を刺戟し、流通自在な貨幣経済は自給自
足の荘園経済を脅かし、封建制度を根底から揺るがせた。今までは土地が経済の本
であった。人間の生活はすべて土地によって支配された。諸侯はその領土を家人およ
び多くの臣属に分配して一家の中心となり、諸侯の家人および臣属は各々分配された
土地に定住してさらに従臣を養い、名実ともに地頭として土着の農奴を支配した。諸
侯の中ではその家柄のもっとも高く血統のもっとも正しい者が、王として多くの土地を
所有し、国内の諸侯を総轄した。しかしその勢力は、欧洲全土にわたって何れの国王
よりも広大な荘園を有するローマ法王の権力には及ばなかった。ゆえに土地経済を維
持することにもっとも強く利害を感じたものはローマ法王であった。法王が何者よりも先
に郡市の勢力に着眼し、その芽を摘もうと企てたのも決して偶然ではない。
都市の商人も初めは、諸侯もしくは寺院の領民としてその支配を受けた。日本と同
じように、後には小諸侯が民間に下って商人となるものも少くなかったであろうが、大部
分は農奴の一部で、領主からは農奴以下に蔑視されたものであろう。ところが都市の
発達とともに、いつしか地方の農民と分業の関係を生じ、諸種の商業制度、とりわけ金
融業が盛大となるにつれ、実際の力は農民はおろか地頭よりも領主よりも偉大なもの
になってしまった。しかも貨幣は土地と違い、いかに多く蓄積しても流通自在だから、
地頭や領主が禁ずる道がなかった。貨幣の力は土地に劣らず、土地経済の上に立つ
国王および諸侯は、新たに勃興した都会の大商人をどうすることも出来なかった。ロー
マ教会は何とかして商人の暴富に制限を加える必要に気付いたのである。これが利子
禁止令の起るもとであった。
三
利子禁止令の由来および根拠
都会の商人の暴富を制限することについては各国ともに諸侯なり、将軍なり、国王
が相当に頭を悩ませた。日本でも室町時代には「徳政」、徳川時代には「冥加金」、あ
るいは厳重な「奢侈禁止令」や「通商取引の制限」など史上にその例は多い。欧洲に
おいて第一に商人の暴富制限を実行したものは、ローマ教会であった。法王はまず聖
書の戒律により、いやしくもキリスト教徒である者は金銭を融通して利子を取るべから
ずと厳重に通達した。利子の禁止は、商人の蓄財を制限する方法としては極めて姑息
な手段のようであるが、実は資本主義の咽喉元を掴んだ巧妙な手段であって、私たち
は今さらのように教会側の鋭利な着眼に驚く。なぜなら貨幣の特色は融通自在な点に
ある。土地経済が貨幣経済に劣る重要な点は流動性の利かないことにある。ところが
貨幣の融通性は利子を収めることによって初めて安全となるもので、もし利子が禁止さ
れたら、貨幣融通の効用はほとんど失われてしまうからである。ローマ教会が市民に対
して利子の取得を禁じたのは、正に資本主義の咽喉元に白刄を突き付けたものであ
った。商工業者はこのため長い間苦しみ抜いたのである。自由と平等はフランス革命
の標語となっているが、その由来は天賦人権などいう難かしい思想にはなく、封建の
鎖国主義に対して通商貿易の自由を要求し、教会の利子禁止令に対して致冨の機会
の平等を絶叫した中世市民の熱烈な要求に発したものである。
利子禁止令を出したローマ教会の根拠は、ルカ伝の第六章の第三十四節と第三
十五節に次のように説かれている。
報酬を得ようと思って貸す者には、何の功徳もない。悪人は報酬を得るために、
また悪人に貸すのである。 同胞を愛し、善を行い、何ものをも望まず、貸し与えよ。
そうすれば功徳は大きい。そして神の子となれる。神は、恩を忘れる者や不善者に
まで慈善を施されるではないか。
ルカ伝のこの一節はキリスト教の神髄ともいえる山上の垂訓、つまり五か条の戒律
(マタイ伝第五章)を説き直したものであって、要するに「無我愛」の精神を教えたもの
である。
しかし聖書の根拠のみで、人民の実生活を律することは困難であった。そこで教会
はこの宗教上の戒律に加え、ギリシャ、ローマ時代の哲学者の説も引用し、学者に教
会にとって有利なローマ法理論を宣伝させた。アリストテレスが、「金銭が金銭を生むこ
とはできない」と主張したこと、カトーが「高利を貪る者は盗賊に等しい」と叫んだこと、
キケロが「高利は殺人罪に該当する」と云ったことは、教会の御用学者により巧みにロ
ーマ法の解釈に援用された。
ところがローマ法の実際は、確かに利子の取得を正常と認めているので、これを教
会の有利に解釈するには、かなりの努力を必要とした。十三世記から十四世紀にかけ
ては、著名の法律学者がすべて教会のお抱えとなり、ローマ法と教会法との矛盾を除
去し、法王の利子禁止令を国王や領主の行政命令と等しく、人民の上に効力を及ぼ
そうと努めた。だが大仕掛けな教化と宣伝にもかかわらず、郡市の発達は止まず、十
五世紀に入ると法王の訓令はますます衰えていった。反対する学者の論究もいよいよ
熾烈を極め、その背後にある商工中産階級の勢力がいかに強大になりつつあるかを
思わせるのであった。
四
教会学者と市民学者
教会の御用学者が全力を傾注して、利子取得の違法を嗚らしたのに対し、市民の
側にもその御用を勤める学者があった。盛んに教会側の学説を反駁し、ローマ法を正
解して、利子取得の自由を主張した。
十三世紀に入っては、内地の郡市も大いに開け、ハンザ同盟、ライン同盟などが盛
んに活動した時代となった。商工中産階級もローマ教会の挑戦に対し、指をくわえて
引込んではいなかった。彼らはこの時すでに多くの国王、領主に迫って自治権を得、
城壁の中に独立の行政府と裁判所をもっていたばかりか、自ら兵士を雇い、将校を養
って外敵の襲来に備えたほどであるから、ローマ法の学者を雇って教会法に反論する
くらいは朝飯前の仕事であった。新しい勢力のもとには、古い勢力の下で志を得られ
なかった少壮学者の集まるのが例である。十五世紀以後、市民のために利子取得の
自由を強調する優秀な学者が続々現われた。アンゲルス・ド・クラヴァシオ、ガブリエ
ル・ピエルは当時の有名な学者で、さらにヨハン・エック(一四八六~一五四三)が出
て、さしも堅固に築き上げられた教会法も、根底から動揺を始めた。エックはドイツの大
富豪フッガー家の保護を得て大いに利子取得の正義を主張した学者で、当時教会法
の最高学府であったボローナ大学に出て、五時間の長い弁論をふるった。十六世紀
に入っては有名なルーテルが贖罪法を提げて教会に逆襲を加え、商工中産階級の
勝利がこの時に萌してきた。ルーテルは利子禁止問題に関しては教会法の正当なこと
を認めたが、この時における市民の実力は最早一個人ルーテルの裏切りを意に介す
る必要はなかった。ヨハン・カルヴィン(一五〇九~一五六四)クラウヂウス・サルマシウ
ス(一五八八~一六五三)クリストフ・ベゾル(一五七七~一六三八)など有力な学者は
大かた市民権の味方であった。
日本は西洋のような訳にはいかなかった。しかしこの階級制度の緩慢な血族主義
の国家にも、資本主義の発達はあり、市民権成長の跡は充分に認め得るのであるから、
何か中世都市の弁護士に類するもの――少しでもその跡を止めるものがありはしない
かと久しく注意していたが、近頃に至り、徳川氏の中期に江戸を中心として盛んに町
人階級の利用するところとなった公事師というものが、後世の弁護士の初期形態となっ
たものであることに気付いた。素町人とさげすまれて農奴以下に取扱われた町人が、と
もかくも法廷でその利益を主張し、たとえ低級なものではあったが公事師と称する代人
を使用して自己の弁護をさせるというところまで漕ぎ付けたことは日本相応の発達であ
り、決して軽視してはならない。公事師の人格や能力を西洋のローマ民法学者と比較
すると、多少滑稽の観がなくもない。公事師は当時の社会一般からはひどく嫌われて
いた。ことに是非善悪にかかわららず、法廷で事を争うのを悪いこととして敬遠して来
た日本の国民は、公事師という名を聞いただけで眉をしかめた。しかしいかに嫌っても、
いかに嫌がっても災難が自分の身にふりかかって、いよいよ白洲に出なければならい
となると公事師大明神であった。金があって自由が利くほどの町人は、公事師を呼ん
で代人もしくは差添人として白州で自己の利益を主張させた。社会が公事師を嫌った
ということ、公事師の品性が概して卑しいものであったということと、公事師が町人に利
用されるようになつたことは、別個の問題として取扱うのが至当である。今日でも新聞
記者、弁護士、代議士などはとかく十把一束に取扱われる傾きがある。仮に新聞記者、
弁護士、代議士の中に一人の尊敬に値する人物がないとしても、代議制度が施行さ
れ、弁護士法が制定され、新聞紙が発刊されているという事実はこれを別個の問題と
して取扱わなければならない。公事師の出現もこの意味において軽視してはならない
のである。
五
大石内蔵助と公事宿
元禄十四年十月七日大石内蔵助良雄はいよいよ復讐の決心を固めて、一行十人
と京郡を立ち、十月二十六日、同志がかねて準備した川崎の平間村の農家に足をと
めた。密かに江戸の様子を伺っていたが、別に故障もなさそうなので十一月五日に江
戸に乗込み、先発の伜主税の滞在している日本橋石町三丁目の小山屋に投宿した。
この小山屋は当時江戸の人が公事宿と呼んでいたもので、諸国の豪傑や裕福な
荷主などが江戸の商人から取引の事で訴訟を起されると、四、五人の親類縁者を差
添人として同伴し、長逗留をしたものである。当時公事宿は日本橋馬喰町を中心とし
て軒を並べ、訴訟によって衣食する公事師も、多くはこのこの宿の周囲に住居を構え
ていた。公事宿と公事師とが一つ所に集まっていた光景は、ちょうど近頃の日比谷、
京橋に似たものがあったに相違ない。大石が公事のためと称して小山屋に投宿したの
はさすがに考えたものである。主税は垣見左内という近江のある豪家の若主人と称し、
このたび江戸の商人から奉行所へ訴訟を提起されたので出府したと触れ込んだので
ある。また内蔵助は、塩見五郎兵衛という左内の叔父であり、左内弱年のため差添人
として下りたものであると言い触らした。当時の習慣で訴訟はともすると半年も一年も長
引いた。公事のために来たといえば多人数が同じ宿に長逗留をしても、人に怪しまれ
る気遣いはない。また外部から浪人どもが頻繁に出入りしても、公事の相談、打合せ
のためといえば誰も眼をつけるものはない。大石はこうして巧みに世間の注目を避け
た。
この一事によって知れるように、当時の法として、江戸の者が地方の者を相手に訴
訟を起した時には、地方の者が必ず江戸に呼出されることになっていた。そこで地方
から出て来て、伝馬町辺の公事宿に泊り込み、費用お構いなしの長逗留をして訴訟
に勝とうという者は、何れもその地の屈指の豪族で、生半可な荷主では対応できなか
った。仮に自分の申立てが通り、訴訟に勝ったにしても費用負けをして結局損になる
ので、たいていの者は自分の方に充分な理があっても、江戸の商人から訴訟を起され
ると、泣寝人りして不当な言い分を容れてしまった。そこで江戸の質の悪い商人は公
事師と共謀し、地方の金持に無理難題を吹きかけ、訴訟を起すと脅して金を出させた
ものらしい。一体徳川氏の制としては法廷に代人を許さないのが原則であり、公事師も
たびたび法令で厳しく取締りを受け、江戸を放逐された例もある。しかし病人や老幼婦
女のためには親類縁者の代人を許すという例外規定に附け込み、取締りの法が乱れ
た幕末になると、ことに訟廷に賄賂が公然と行われるようになってからは、公事師が想
像以上にはびこった。善良な地方の荷主は公事師のためにひどく悩まされたのである。
『正宝事録』という本に次のような達しが載っている。
樽屋藤左衛門殿へ。町中の名主並びに町の者が川行事に呼ばれ、次のような書
付を渡され、これを貴殿に見せるよう申し付けられたので通知する。
一、公事訴訟をすゝめ、目安を認め、たくみな事を教え、諸事の出入を取持ち、
礼金を取る仕事に従事する者は、常々調べたうえ、町に置かないよう申付ける。
一、困難な公事訴訟に、遠国の者を目安、裏判並びに指紙をもって呼集める者
は、今後過怠牢に入れ、または過料を出させることとする。
これを見ると、いかに悪質な公事師がはびこり、地方の人が訴訟に悩まされたかがわ
かる。文政五年正月、大目付に下された命令書に次のようなものがある。(天保集成経
綸録)
貸金銀、売掛等の出入についての出訴においては、公事に馴れた者を同居の
親類、あるいは召使と申し て差出し、または相手方に十分掛合いもせず訴えたり、
相手の死亡、欠落、あるいは名前違いなどが多くみられる。その上僅かな滞納であ
っても相手が出府の路銀、雑用を厭うのを見込み、あるいは滞納がない者にまでも
相応の解決金をせしめる目的で出訴したり、貧窮、愚昧な者に金を貸し、証文を質
に入れて儲ける、あるいは高利で貸し付けた金高を小作米の名目に変えるなど、
頻々に起っている。近来出訴の数がみだりに増え、奉行の裏判を軽々しく心得るの
は誠に不埒である。よって、同居の親類、召使を除き、公事に馴れた者を代理に差
出すことを禁止する。また相手方の死亡、欠落または断絶、名前違いなどが無いよ
う、相手の当人はもちろん、村役人にも得と掛合った上、出訴せよ。もし公事に慣れ
た者を親類、召使と偽り、その他不埓な出訴をした場合は、本人はもちろん、村役
人までも取り調べる。以上きつく申付ける。
六
奉行所の空気一変する
なぜ公事師というものが起ったかといえば、はじめ幕府がなるべく訴訟を少くしようと
いう趣旨と、裁判中に当人に対する一切の保証をさせようという目的から、原告、被告
ともに必ず家主、名主、五人組等を同伴して出廷させることとし、これを差添人と呼ん
だ。また病人や老幼婦女の出廷には特に扶助者を附けることを許し、これを介添人と
呼んだ。差添人、介添人の外に、当人が病気で出廷出来かねる場合や他に止むを得
ない事情を認めた場合には、特に代人の出廷を許すこともあった。初めは差添人も代
人も、かかりあいで止むを得ず出廷したに違いないが、場馴れて来ると法廷がさほど
恐ろしい所でなくなり、一般人のいやがる奉行所に平気で出入りすることを自慢するよ
うになった。私は小説や講談が、当時の下情を知り、それによって平民の歴史を作る
にはもっとも必要な材料であると信じ、多年これを調べて来た。小説や、講談で事実を
証明することは出来ないが、下層の人情風俗を知るにはこれによるほかない場合があ
る。学者がこれを馬鹿にするのは、彼らがかつて平民の歴史に指を染めたことがない
からである。世上に流布する「雷電為右衛門」「小野川喜三郎」の講談は、一般人が法
廷を恐れたのに対し、場馴れた町役人などが法廷に出入りすることを大の誇りとし、人
の依頼を引受けて差添人となるのを喜んだことが眼に見るように読み立てられている。
寛政三年吹上御苑に上覧相撲の催しがあり、その準備として町奉行池田筑後守が、
勧進元の錣山(しころやま)喜平次と伊勢海村右衛門を突如呼出したとき、両人は奉
行所の差紙と聞いて震え上った。
錣山喜平次、伊勢海村右衛門は余りに口を利きません人達でございますから、
お町からのお呼出というので胆を潰してしまいました。これが家主とか公事師とかい
うものになりますると、お町奉行の控所で弁当を喰わなければ弁当の味が分らんな
ど申しますけれども、相撲年寄などは滅多にそんな所へ出たことが御座いません。
いろいろ心配を致しました末、町役人の久右衛門という人は番所好きでございます
から、この人に聞いてみようと錣山喜平次は早速久右衛門の宅へやってまいりまし
た。喜「今日は」女房「オヤ何か御用ですか」喜「ヘい且那はお在りで御座いますか」
女「今帰って来たばかりですよ……」「ちょっとあなた何ですよ、錣山さんがお出でに
なりました」久「アヽそうか、オヤ喜平次さん、こっちへ御出でなさい」喜「御免なさい、
今日も番所へお出かけで……」久「私は用があってもなくっても番所へ出ないと心
持が悪い。番所の腰掛けで飯を食べるのが一番うまいので……」喜「ヘー、私達は
お町から呼びに来られるとゾッと致しますが、あなたは腰掛で弁当を食わなければう
まくないとおっしゃるのは、よほど変ってお出でですネエ」久「アハ…………いヤ喜
平次さん馴れてしまうとアンナ面白い所はありませんよ、碁や将棋をさしているより余
程面白い。金貸しの一件だの、姦夫の一件だのいろいろお訴えがありますよ。そう
いう人達の差添をしてやるとキット若干宛になりますからネ。これでもマア商法と同じ
ですよ」(中略)久「ヘーそうですかい。明日は何時ですえ」喜「八ッ半時のお召で御
座います」久「お係りは」喜「南で……」久「南なら池田筑後守様ですネ」喜「ヘエ」久
「もっとも今月は南のお係りだ。北なら初鹿野河内守様だが何ですよ。池田様はな
かなか如才ないお和らかなお奉行様ですよ。それに八ッ半のお呼出では御吟味で
はない」喜「ヘエ」久「何か他に御用があってお呼出しになったのでしょう」喜「なぜ
ですか」久「なぜかというと朝御登城になりまして、八ッ四分のお下りです。八ッ半に
罷出ろというなら御下城の後でお調べになるのだ。お奉行様直々のお調べですよ」
町役人が差添人として仕事ぶりを振回すさまが眼に見るようではないか。こうして都
市の発達につれ、町人が追々奉行所を民事訴訟の目的に利用するようになり、後に
は一般人も奉行所に出るのを何とも思わないようになったらしい。元和参年五月の布
達に、
(前略)
一、評定所へ公事訴訟に出る者の内、見舞と名付け、用のない者が大勢いる。今
後は訴訟にたずさわる 者および老人、病人、女、わらべ、聾唖者の介添え人
のほか、無用の者は一人も出てはならない。もし違反する者があれば、取調べ
の上刑を申付ける。
とあるのを見ても、天和頃からすでに奉行所の空気が一変しつつあったことを知る。
公事師というものは、このような空気の中から生れたものと見て差支えなく、家主、名主
の場所馴れた者以外、浪人ものなども交って、盛んに学問や弁才の切売りをしたので
ある。公事師の身元をただせば、素性はいろいろであったろうが、働きは差添人では
なく、代人としてであった。
七
「天下の町人」から「町人の天下」へ
徳川氏の裁判制度は、御定書百ヶ条の冒頭に次のように定められている。
目 安 裏 判 の 事
一、寺社並びにその門前、関八州の外の私領、関八州の内において、寺社領と御
府(江戸)内間の出入には、月番寺社奉行の裏判を要す。
一、関八州の御料、私領、関八州の外の御料より御府内の間の出入には、月番勘
定奉行の裏判を要す。
一、江戸町中、寺社領の町、寺社門前ならびに境内借他の者と御府内の間の出入
には、月番町奉行の裏 判を要す。
以上双方の各家主、五人組の立会を要す。もし不正があった場合は、七日
以内に双方が出席して対決し、裁決により裏判を渡す。これは金銀の貸借に
限る。担当者が内容の誤った裏判を出した場合は、評定所に双方を呼び出し
て再度吟味し、裁許を仰ぐ。地方に住む者は、決められた日に評定所に出頭
し裏判を再発行してもらう。裏判は三奉行のうち月番が初印を押し、一同連印
する。
一、一万石以上の一領一家中の場合は、ほかに差し支えなければ、領主が吟味し、
刑を下すことが出来る。
ただし島流しに相当する場合で遠島がない国は、永牢または親類縁者に厳
重に預けおくこと。
一、山城、大和、近江、丹波の四ヶ国は双方ともに京都奉行が取扱う。
一、和泉、河内、摂津、播磨の四ヶ国は双方ともに大阪町奉行が取扱う。
ただしこの八ヶ国内においても、京郡、大阪町奉行の誤りおよび他国との出
入に関する場合は、寺社奉行月番が初印を押す。双方の担当者が同一人の場
合に江戸へ出訴した場合は担当者の所属する奉行所に差し戻し、江戸では取
り上げない。
徳川時代に民事の訴訟が三都、特に江戸に発達したのはこの制度によるものであ
った。京都、大阪にも公事師というものがいたであろうが、三つの高等裁判所がすべて
江戸に設置され、事件が少しでも江戸にかかるものは、高等裁判所の所轄と定められ
ていたので、少し大きい事件となるとすべて江戸で取扱われたのである。この制度の
下で三都の市民と諸侯の領民とを比較すると、ほとんど自国民と奴隷との懸隔があっ
たとも云い得る。しかし三都の市民とて金がなければ裁判所を利用することは出来な
い。ある者は浮浪人としてお膝元の警察から睨まれ、ある者は危険人物として関八州
の手に追い回され、彼らの不安な生活は農奴に近い諸侯の領民より惨めなものがあっ
たに相違ない。ただ裕福な町人は黄金の力によりある程度まで思いのままに裁判所を
利用することが出来た。西洋の中世都市に見るような独立の裁判所こそなかったが、
三都の町人は、諸侯の領民の夢にも知らない訴訟の自由を得、一歩一歩生命財産に
対する保障を確実にしつつあった。生命財産の保証といっても、充実した彼らの財力
からすれば、不満なものであったかもしれないが、農奴に等しい諸侯の領民の境遇を
考える時、彼らは昂然として「天下の町人」を誇らざるを得なかった。
西鶴が京郡の町人に代って「ここは王城だから、何をしても誰れも咎める者はない」
といい、大阪の市民に代って「ここも天下の町人だから、世間を恐れず、思い思いのこ
とが出来る」と云ったのは、徳川時代の裁判制度と対照して初めてその意味の深さを
知る。「天下の町人」を誇った三都の金持がその財産を子に譲り、さらにそれが孫の名
に書替えられないうちに「町人の天下」が来た。
我が国の売春制度の考察
宮武
外骨
母系制度が廃れた後の女は男の奴隷または玩弄物になって、常に掠奪、売買など
の対象物にされていた。したがって後世の財産結婚、門閥結婚、落籍結婚、または政
略結婚などにより成立した妻という者は、自由意志に基くのでなく、男に都合のよい強
制配偶の奴隷である。今は貴婦人と呼ばれている衣裳人形の連中も、一種の売春婦
に過ぎない。しかしここでいう売春とは、そのような広義の売春ではなく、普通一般の解
釈と同じもので、商品としての女が男より代償を得て、暫時一身を放置する虚偽の生
殖を業とする者を云う。考とは我が国の史籍の記述によって、その発生、進化などの径
路を叙述することで、売春考はつまり一夜妻の史論である。
〇
サブルコの時代
「ああ売淫国」とは往年ある人が我が日本を罵った言葉であるが、古今内外を通じて
売淫国でない国はあるまい。世界各国の歴史を見れば、二千年の昔あるいは三千年
前に、売春が行われたことが明記されている。日本国民性の研究資料としては諸外国
の事例を述べる必要もないから略しておくが、我が日本においても有史以前すでに行
われていたに違いない。岩戸舞の名物女、神々の前で陰部露出の振舞をされた天鈿
女命(あめのうずめのみこと)は、今の芸妓娼妓の二枚鑑札同様で、白拍子兼遊女の
祖であろうとの臆測もあるが、遊女として確実に史実に表われているのは、天智天皇
時代(千二百五十年前)の「万葉集」にある遊行女婦である。これを後世遊女と略称す
るようになったが、遊行女婦の読みはサブルコ(佐夫流児)または「うかれめ」で、サブ
ルコは戯れ女、「うかれめ」は心の浮いた女の意味である。後の学者はこの遊行女婦と
肩書する者のみを遊女と認めているが、私は「万葉集」前半所載の「いらつめ」または
「をとめ」(郎女、女郎、娘子、嬢子などと書いた)とあるのも遊女だと断定する。つまり
遊行女婦の名が起こる前の「いらつめ」「をとめ」の名称には遊女を含めたと云うのであ
る。後の学者はイラツメ(淑女)ヲトメ(娘子)の敬称を賤業婦の呼名に使ったとは思わ
ないのであらうが、この時代の「いらつめ」「をとめ」は敬称でなく、「いらつめ」は「色之
女(いろふめ)」、「をとめ」は「小之女(をふめ)」で、男称の「色之子(いらつこ)」「小之
子(をつこ)」の対で、要は愛する女の意味である。たとえこの二語を敬称だとしても、
後世に遊女を「きみ」と称し、流れの君、浮れの君、立君、辻君、厨子君、格子の君、
遊君などの敬称もあるので不思議はない。遊女を賤業婦と卑しむのは近世のことであ
る。だから私は「万葉集」第二巻所載の石川郎女を始めとして、亘勢郎女、依羅娘子、
坂上郎女、阿部郎女などはすべて遊女だと見る。その証明としては、第一の石川郎女
は久米禅師、大津皇子ほか多数の馴染男があるのに、なお押かけ売春として大伴宿
禰田主の家に行き、それを断わられたので「風流男(みやびと)と吾は聞けるを宿貸さ
ず、吾を帰せりおそ(愚鈍)の風流男」と詠んだのである。これを放浪的売春の遊行女
婦サブルコ、うかれめでなくて何かといいたい。古い「平民新聞」に婦人の独身生活と
いう思想が売淫行為を助成する例としで下田歌子を挙げ、彼女は名誉と権勢を獲るた
めに………………、……………………と掲載したが、これが事実とすれば、石川郎
女は下田歌子のような女であって、本職の遊行女婦ではあるまいと私に語った友もあ
るが、奈良朝前後の遊行女婦は、紳士国の淫奔娘であって賎家の出でなく、生活の
ための売春でもなく、当時の名門権勢家に近づくことを名誉として行ったもので、物品
の報酬を唯一の目的としたのではなかったともいえる。ならば石川郎女には下田歌子
のような女子教育という本職はなく、また定まった夫もない独身生活者で、全くの遊行
女婦であったのである。次に身を老嬢で終った坂上郎女などは和歌の達人として数十
首の名歌を残しているが、その歌の過半は男たらしの挑発的呼出状である。このほか
阿部郎女、紀郎女、娘子児島の歌なども皆同型のものである。ある学者は万葉集所載
の歌を評して、真摯な思想の流露であると云ったが、私は同集にある数百首の歌は、
淫奔な遊行女婦が男を欺瞞し翻弄した虚偽の恋文にほかならないと信ずるのである。
この時代になぜこんなに売春婦が頻出しただろうか。この種の売春婦は、すでに上
代から行われているもので、虚偽恋愛的な和歌も盛んに贈答したのであろうが、ただ
記録が存しないまでで、遅くとも人皇時代の当初から行われていたものであろう。男子
専横の極み女子を奴隷扱い物品扱いにし、一方階級制度を確立して一部の上級者
が労役を卑しんだ結果、職業婦人になることを好まない淫奔女子あるいは強制服従を
快しとしない新らしい女たちが、男を翻弄し、美貌と詞藻を道具にして愉快な放縦生活
をしたのは当然の帰着である。加えてこの時代より鎌倉時代頃までの社会道徳は、個
人の独占に属しない女の放縦を咎めないで、むしろ上流者の愛玩物として必要視さ
れていた。遊行女婦として尊貴の顕門にも出入が出来たことによっても、それは明か
である。
それではこの時代には、貧のための売春はなかったか。男が女を手なづけるため
に、女に物品を贈るとか、労力を貸すとか、あるいは歓心を買い、慰藉のために、雄鶏
が好餌を雌鶏に与えて誘致するような報償を出すことが女子中心の時代から行われて
いたのであるが、男子専制の時代になってもその習性が失せないので、下等な石川
郎女が各所に散在していたに違いないと思う。また仏教の輸入以来僧侶が多く出来、
妻帯を禁じたので、各所に隠し妻の妾商売の女も増加し、一夜妻の発生も必要となっ
たのであろう。
〇
流れの君と白拍子の時代
「いらつめ」「をとめ」の汎称名詞から特殊な専門名詞に変ったサブルコ、遊行女婦
とは、浮浪的行商淫婦つまり押かけ売春婦の意味であるが、平安朝時代になってから
は、いつか一定の場所に常住して行旅の客を捕えることになつた。川尻、江口、神崎、
蟹島、室、高砂など船舶の出入りが激しい土地、国司巡使、月卿雲客の往来が多い
渡津に居を構えた船饅頭、朝妻舟、いわゆる「流れの君」がそれである。しかしこの時
代に遊女すべてが渡津に集ったのではない。都会および各地の宿駅には従来のウカ
レメが存在していたのである。それはその土地限りの勢力で、顕門貴紳の多くが皆「流
れの君」を愛したことは、「大和物語」や「大鏡」所載の亭子の帝(宇多天皇)が川尻の
遊女白を召寄せられたことや、同じ遊女大江玉淵の娘に袿衣(うちぎ)袴などを贈った
ことで明らかである(その記事の一節「亭子の帝が鳥養の院に行かれた。例のごとく御
遊びがあった。このあたりのうかれめが大勢集まっている中で、音おもしろく教養ある
者がいるかと聞かれたので、遊女たちが申すには、大江の玉淵の娘というものが珍しく
来ていますと答えたので」云々とある)。またこの後太政大臣藤原伊通が川尻の遊女
加禰の方に通ったこと、関白藤原の道長が川尻の遊女小観音を愛したこと、宇治大納
言藤原頼通が江口の遊女中君を愛したこと、その他月卿雲客が神崎に遊び蟹島に遊
んだ事実が旧記にあるので「流れの君」の全盛が察せられる。「松屋筆記」にある大江
匡房の遊女記(原漢文)によると、神崎の項に「門戸を連ねて人家絶えることなし。遊
女群がって小船に乗り旅船に着き、枕席を勧める。声は渓雲を越え、韻は水風にこだ
まして、客は家を忘れる。船は舳先を争い、ほとんど海水がないように見える。天下第
一の楽地である……………これみな倶尸羅(ぐしら)の再来、衣通姫の後身である。上
は卿相から下は庶民まで遊女に慈愛を施さない者はいない。」とある。また枕席の報
償物を分配する項には「客の持物を団手という。仲間で分けるとなると恥も遠慮もなく、
大小の奪い合いは乱闘に等しい。絹は寸尺を切り米は升斗を争う」云々とある。艶冶
嬌態の美貌に似ず、物貨争奪の醜態は察するに余りがあろう。
こうなると異性籠絡、貴紳翻弄の名誉を保持したイラツメ、サブルコの正体は消えて
しまい、報償物件を主とするようになったことは明らかで、やがて抱主占有の商品制度
に変化する基礎を形成したものと見なければならない。語をかえて云えば、第三者の
囚われ者になる可憐な少女を増加する因は、この時代であったと思うのである。
このように「流れの君」が全盛を極めた原因には種々あるが、要は当時上流の風俗
が乱れて、「伊勢物語」や「源氏物語」などの題材にされたほど淫蕩淫靡に陥っていた
時代の産物である。遊女も顕門貴紳の嗜好に迎合して、歌を詠み舞曲を巧みに演じ
たが、次第に売春を専門とする傾向が生じてきた。「流れの君」の末路は、一方に舞曲
を本位とする「白拍子」という売春婦を生んだ。
白拍子は鳥羽天皇の永久三年に、島の千歳と和歌の前が舞い始めた曲の名から
出た舞妓の名称である。磯の禅師が元祖という説もある。服装が白の水干に立烏帽子
で、白鞘巻の太刀を持っていた。酒宴の席にはべって座興を助ける特殊な職業婦人
としては、独立が保ち難いのは当然であり、酔客の要求に余儀なくされて一種の売春
婦となったのである。後鳥羽天皇と亀菊、平清盛と祇王妓女、源義経と静御前などの
関係が知られているが、あまり長続きせず、源平時代以後は消えてしまった。そして社
会道徳も多少進歩したので、上臈が女郎になることも次第に少なくなっていった。
〇
クグツメの時代
鎌倉時代に入ってからは、諸国にクグツメ(傀儡女)という宿場女郎が盛んに現われ
た。これは従来の土娼(下等売春婦)が発達したもので、流れの君や白拍子などの変
形も加わったのである。この土娼が発達したのは、長者という娼業専門の資本家が出
来、人買という女子仲買の専業者が出来て狩出しに努めたのと、一方には戦敗者の
遺族が衣食に窮して堕落し、戦乱後の不景気と人情の軽薄化とで娘を売る親が増え
たなどが原因である。そして関西と鎌倉との交通も頻繁になったので、道中の無聊(ぶ
りょう)を慰める手立てが必要となったことなどが相まって、繁昌を助けたものと見る。こ
の時代に全国各地の宿駅に売春婦のない所はないようになり、ことに東海道中の各宿
駅には、舞曲兼業の上妓から飯盛兼業の下妓に至るまで、貴賤の旅客の要求に応じ
た。中でも鎌倉幕府に近い相州の各宿駅、片瀬、手越、黄瀬川、腰越、稲村ヶ崎、小
磯、大磯、宿河原、化粧坂などには立派な娼家があって、源頼家、工藤祐経、祐成な
どの関係で、手越の少将、黄瀬川の亀鶴、大磯の虎御前、愛寿などという名妓は後世
にも知られるようになった。
このように宿駅の土娼が盛んになったのは、無論交通旅客が多くなったためである
が、また一面にはかれこれの戦乱が絶えなかったので、陣中に武将が遊女を引入れ
たこと、「妓者は軍士と無妻者を待つ」で、兵卒が下等娼婦を買いに行ったこと、また
平時には武士が狩猟に出て、宿泊中の遊興が豪奢に行われたなどで、 一層土娼が
盛んになったのである。そこで遊女の争論を裁決する遊女別当という官職も出来、芸
能ある者を選びおいて、召に応ずるよう命令を出すこともあった。
そしてこのクグツメは奴隷制度に似ていたのである。長者という抱え主の権力は強
大で、娼婦に対する圧迫は尋常ではなかった。鎌倉幕府が倒れるとともに、相州の各
宿駅は衰微したが、全国各地の娼家は相変わらず盛況で、その後大した変化もなくて、
足利時代を過ぎ、元亀天正の戦国時代に入ったのである。ここに特記しなければなら
ないのは、室町時代の前頃よりクグツメのほかに湯屋風呂女(湯女)という湯屋を根拠
とする遊女が各地に出来て、これが明治の初年頃までも断続していたのである。
足利義春時代に幕府は傾城局を新設して遊女取締りの新令を出し、遊女稼ぎは官
の認許を受ける制度を布いた。遊女一人に年税十五貫文を課した。従来公娼私娼の
別はなかったが、この時初めて公娼制度が行われたのである。これより公娼の遊女は
質が低下して劣等になるとともに、一方にはカゲマと称する変態売春の男娼が流行す
るようになった。男娼の流行は、戦国時代に陣中へ女子を引入れることを巌禁した反
動として、美少年の小姓を同伴して枕席にはべらせたもので、その風習が伝播して市
井にも現われるようになった。
〇
公娼私娼大繁盛の時代
官許の遊女という公娼制になった後、遊女が都会の各所に散在するよりは、一ヵ所
に集まって賑かな方が景気が好く、客足も多かろうとの見込みで、天正十七年に官許
を得て、京は冷泉万里小路に新屋敷を開いたのが例になり、慶長元和寛永の頃江戸
の吉原、京の島原、大阪の新町などの大遊廓が出来た。一ヶ所に集ると抱主その他の
競争心も起り、金使いの多い遊客を迎える策としては、遊女その者の選抜を第一とし
なければならないので、人買を八力に走らせて芸能ある人物を狩り集めることになった。
そのため足利末期の遊女よりは相当上品な者も多くなったが、後には世の泰平無事
が続いて、上玉を手に入れることが困難になったので、容貌の美しい貧家の幼女を買
入れて、遊芸はもちろん書画や和歌の修養までも仕込む「子飼」法が行われた。
こうして幕府は集娼制の遊廓を利用して、謀反人や大盗賊を捕える手段にした。な
お江戸参勤交代のお国侍どもには、吉原を性慾発展の遊興所としたのであるが、後
には大大名の仙台伊達綱宗、高田の榊原政元、名古屋の徳川宗春なども遊びに行っ
たのである。中でも仙台様が三浦屋の高尾に振られたという事実は著明なことである
が、武家の大権力のあった武断専制時代の、町人百姓が小侍の刀の鞘に触れても斬
捨にされた時代に、氏素性も知れない遊女の身が奥州六十二万石の大殿様に肱鉄
砲をくらわせたということは、古来絶無の容易ならない大問題で、今ならお上の威信を
傷つけしたがって社会の秩序を乱すものとして、攻府当局者が新聞記事の差止命令
を出すような重大事件であった。しかし当時は遊女の思想悪化とも認めず、抱主さえ
何らの咎めも受けなかったのである(高尾が舟中で釣りをし、斬にされたということは嘘
で、まったくのねつ造である)。なぜかと言えば、当時の遊女にはフリという超対不可侵
の大権威を持たせていたからである。その訳は男には上淫を好む性情があって、王侯
の妃をも犯したいと思うものであるが、吉原の遊廓では商略上この性情を利用して、遊
女に上﨟風の粧飾をさせ、それに権威と見識を持たせ、太夫様、この若様と敬称し客
より上席に座らせた。諺にも「遊女に挨拶なし」というように、客に対して低頭の礼式を
させず、ハリという意地とフリという一種の拒否権を持たせるなど、いたずらに倨傲尊大
な態度を取らせたのである。そして客を「買人ども」とか、「とられん坊」とか呼んで侮つ
た。この商略は甘くあたって、都人士は我勝ちに遊女の歓心を得ようとし、逆鱗に触れ
ないように苦心と注意を払って通ったのである。
吉原大火後の仮宅営業がいつも繁昌したのは、客の好奇心による点もあるが、主
には「鳳凰も目白押し」の混雑中に行けば、平素格式高い花魁でもまさかフリはすまい
とか、あるいは大いにもてたいとかで通っていく士が多かったのであろう。それほど吉
原の娼権は強大であって、客が何者でもおのれの気に向かない客は遠慮なしに振っ
たのである。特に旗本、御家人、お国侍などの武士に対しては、一層猛烈であった。
中でも勤番者を大いに嫌って、浅黄裏、新五左、武右衛門などと呼んで蔑視した。こ
れは「ぐわち(不粋)」なのに加え、一種の反感から出たのであろう。士農工商の四階級
の外に置かれた遊女の身としては、権勢ある武士との添寝は名誉であるはずだが、多
少の無理も嫌味も我慢して柔和に服従することなく、廓の掟以上、またはその正反対
の行為に出たのは、何か理由があったのであろう。彼らは常に武士と威張って、庶民
を塵芥(ちりあくた)と見る横暴者である。庶民の敵は、治外法権のこの土地で懲らしめ
てやろうとする暗々の憎悪心もあった。少なくとも江戸っ子客の教えたとおり「武士たる
ものを背中であしらい」「昨日は宿直今晩は床の番」の憂き目を見せたのであろう。高
尾が綱宗を振ったのも、野暮な馬鹿殿様が嫌であったばかりでなく、大名面の横柄を
憎んだ結果かもしれない。奴隷制度の渦中にも民権を主張する反抗者、武断政治を
呪う危険思想家があったと見ねばなるまい。しかしフリという大権威の発揮も長くは続
かず、遊女遊客ともに堕落し漸次俗化し、芸能あり見識ある者は消えて、寛政以後は
京の島原、大阪の新町その他全国の宿駅、津々浦々に入る娼婦と変わりない者にな
った。これも徳川幕府が漸次権勢を失って行った経路に似ている。
さて元和以後の泰平は、全国の娼家が全盛を極めたほか、私娼もまた活発に横行
した。古くは大阪の商家に連葉女を抱え置いて仕入客を饗応するものがあった。湯治
場、風呂屋には湯女が多く居た。勧進歌にあるように比丘尼は丸太に化け、また綿摘
み草餅は本職でなく、戸外には橋姫、辻君、夜鷹、引つ張りがあった。水上には下関
の手たたき、大阪のピンショ、鳥羽の把針兼、江戸の船饅頭、函館の鴈の字、吉原外
の岡場所には金猫銀猫、蹴転、麦飯、アヒルなど数十ヶ所があって日夜の客が絶えな
かった。変態売春の若衆、陰間は寛文延宝元禄享保と続いて流行し、若衆の向うを張
った深川の羽織芸妓、粋者は吉原行を野暮として両国辺の茶屋遊び。こうして徳川は
明治、江戸は東京と変った。
〇
続いては偽自由の明治大正
王政復古の大維新を叫んで首尾よく政権を握った明治政府の役人たちは、開港通
商、文物輸入の唱導をしたせいで、人権の擁護をいわざるを得なくなり、明治五年に
奴隷売買制の娼妓解放を断行した。それはほんの束の間のことで、従来の妓楼を貸
座席営業として許可し、娼妓は任意の出稼ぎという鑑札を与えた。しかし貸座席とは旧
のままの牢獄で、出稼ぎとは名目だけ。自由廃業も容易に出来ない囚われものであっ
た。それが今日までなお連続している。この明治大正にも時々の栄枯盛衰があって、
下層社会は生活難の声が高くなり、「勤めさえすりゃお召の着物、うちじゃご飯も食べ
かねる」遊女が年々歳々増え、なお海外に輸出される娘子軍も少なくない。一方各地
の私娼も旧に勝る繁盛で、手段や名称は変って矢場女が銘酒屋女になり、円助半助
が大正芸者、高等内侍がハイプロと新しい名前に変ったばかりである。要求はますま
す多く、供給もそれ相応に増え、いかに警視庁や各府県の警察が撲滅策に苦心して
も効果はなく、いたるところでもしもしの呼び声が聞こえてくる。
虚偽の生殖行為である売春は、人道問題の上からいえば人権侵害であり、個人道
徳の上からいえば破倫、破廉恥、社会風致の上からいえば陋俗邪淫、国民衛生の上
からいえば悪疾媒介である。この醜行為の非道背理は何人も認め何人も解するところ
であるにもかかわらず、なおこれを売りこれを買う者が多い。古今内外の為政者はこれ
を根絶しようとして、種々の法を実施したが、何ら効がなかった。それはないはずで、か
つて新人某氏は「売淫制度の基礎となっているものは、私有財産制の確立による富の
乖離と婦人の屈従である。だから私有財産制の上に立つ現在の社会組織が根本的に
革新されない限り、どんな予防策、どんな政治策も売淫業の存在を根絶することは出
来ない」と喝破した。この論をほかにして救治根絶の法はない。したがって現制度の革
新、これを「解放」に待つのみである。
特殊部落より見た社会
正親町
季董
一
「特殊部落より見た日本国民性の研究」という解放社の課題に対しては少し見当違
いかもしれないが、自分は特殊部落より見た社会について少しく述べて見る。
特殊部落という名称は不当な名称であって、この名称では国民のどの部分を指す
ものかを知るのに苦しむが、要するに明治四年に明治大帝が天地の公道に基くべしと
宣せられ、穢多の賤称を廃し、四民平等と仰せられた聖断によって新しく平民となった
旧穢多に属する国民を指した名称である。この意味から言うと特殊の文字を冠すること
は、明治大帝の趣旨に反する訳である。前には内務省は細民部落と称していたが、名
実相伴わないという非難から特殊部落と改称したのだが、矢張り工合の悪いのに苦し
んでいる、大木伯の主宰する公道会では苦しまぎれに一部同胞または少数同胞と称
えている。いずれにしても一見差別的な意義を有する点では適当な名称ではない。こ
とにこの種の部類に属する人士にとっては、これらの名称が一般人の想像以外に不愉
快に響くので、この社会に住む私の友人の多くが不満を訴えている。彼らが言うには、
特殊、一部、少数、細民などの侮蔑的名称で呼ばれることは不快かつ苦痛にたえない、
我らはむしろ率直に旧穢多または新平民と呼ばれる方が事実にかなって結構であると
言う。何らかの理由で新たに華族に列せられた者が成上り者と呼ばれて不愉快を感じ、
新華族と呼ばれれば格別不愉快を感じないのが人情であろう。自分のように近く華族
を辞して平民となった者に対し、人がもし成下り者と呼ぶならば成下ったと考えていな
い自分は不快に感ずるが、新平民と呼ばれたら何の不快も感じない。
法律制度の上では、我々日本人は平等無差別である。しかし事実の上から見ると
我々は決して平等無差別ではない。現に族称の上からも華士族平民の区別があって、
士族の名称こそ今日では名実共に無意義のものとして、何人の注意も引かずまさに消
滅しつつあるけれども、華族と平民とは両々相対して、ますますそれぞれの色彩を異
にする傾向がある。前者は皇室から特殊の待遇を受けるほか、貴族院令、華族令、世
襲財産法などの特別法によって保障された多くの特権がある。自から平民の上に高く
置いているのに対して、平民は華族の有するこれらの特権に深い考慮もなく、因襲的、
感情的に華族の優越的地位を黙認している。世界の大勢、国民思想の傾向から見て、
華族という特権階級の存在が有益か有害かの議綸は、しばらく他の機会に譲るとして、
瑕在の華族の制度は極めて不徹底かつ無意義である。歴史的に家門を尊ぶ意味の
公卿、大名、神官、僧侶出身の華族がある一方には、国家に功労ありと認められた士
民が新たに爵を授けられたことによって生じた華族がある。そしてそれらが一列平等に
特権を世襲することは不条利である。旧公卿大名出の華族が因襲的に非現代的な封
建時代の殿様気質を伝えているのはしばらくおくとしも、平民出の新華族が旧華族が
遺伝的に有する殿様気質に感染し、あるいは強いてこれを模倣するのは、どのような
心理状態に基くのか、解するに苦しむのである。その一因は少なくとも現在の華族制
度の不徹底から来ていると信ずる。華族ばかりか我国の文武の官吏が下級者に対す
る態度、使用者階級の被使用者解級に対する態度は、依然として封建的、階級的で
ある。封建制度滅亡以来五十余年の現代に、なおこの思想が国民の頭から消え失せ
ないのは、目前に華族という特権階級が封建時代思想の標本として存在するからでは
あるまいか。この封建思想の伝統が形を変えて現われたのが、今日の国民思想と相容
れない官僚思想、軍国主義であって、あらゆる社会問題の原因は、何れもこの二つの
矛盾した思想の衝突に外ならない。華族は自ら殿様気分を持っており、使用人を家来
と呼び、官吏は絶対的優越の態度で下級官吏に臨み、その間に往々公私を混同して
いる。旧幕時代の士農工商の階級思想は多少形を変えて、大正の日本国民の態度
に現われているのである。このように頭に冠を、胸に裃を、足に洋袴を着けたような日
本の鵺(ぬえ)的社会であればこそ、法制上の差別が撤廃されて以来五十余年の大
正の今日まで、特殊部落問題つまり旧穢多に属する一部国民の問題が重要な社会問
題の一項目として現存するという不合理を見るのである。
二
特殊部落つまり旧穢多に属する国民は全国を通じて百五十万人いる。穢多の起源
歴史を論ずることは目的ではないが、要するに古い時代の帰化人の一部、皇族の死
に殉死を装って人別から除かれた者、高貴な者の陵守、貴族の世を逃れた者、織田
豊臣の遺臣であって徳川の禄を食(は)むことを潔しとしない者などを、徳川幕府が政
略上の必要から穢多、非人と称し、極度の差別的制度を設けて、特に一般社会の嫌
悪する職業に従事させ、彼らの人格を認めなかったというのが近古の歴史である。明
治大帝がこのような人道に反する陋習を打破された聖断は、人類平等主義を高調され
た卓見であって、世界万国に及ぼしても誤りない真理である。
特殊部落の問題は法制上すでに解決された問題であるが、多年の因習や感情の
ために依然未解決である点で、重大な社会問題である。国家内にこのような差別問題
を閑却しながら、国際人種無差別問題を平和会議に持ち出した日本政府が、列国の
黙殺を破って恥を内外にさらしたのは当然である。今日一般社会はもちろん、特殊部
落に属する国民も、何ゆえに彼らを嫌悪するのか、何ゆえに彼らが社会の侮蔑を蒙り、
除け者扱いされるのかを考えると、因習的感情以外に何の根拠もない。人の浮き沈み
は多いもので、咋日まで専用の自動車内に豪然として葉巻の煙をはいた官公吏、事
業家が、今日は囚人自動車の中で悄然とするのは、都会では何の関心も持たれない
が、、地方の状況を見ると人事面の環境はほとんど変化がない。因習や感情の社会的
勢力が強大なのである。特殊部落は、一般の住民と全然離れた場所に存続することが
多いため、一般社会との交渉は都会人の想像以上に少ない。私は部落問題に関し、
これまで多少の研究もし、見解を発表したこともあるが、いずれも局外者としてのもので
あったから、ここでは旧穢多の一員としての立場から社会に対する注文を述べてみよう。
漫然とした想像ではなく、この社会の先覚者である知己友人の共通意見でもある社会
観を紹介するのである。つまりこの中での自分は部落民の一員である。
三
祖先の系図を洗い立てて、自分たちの祖先が日連を出し、児島高徳を出し、あるい
は部落が古代の文武貴紳の隠遁地であったこと、さらに織田信長の家臣が徳川に屈
従するのを恥じた武士であったことを考えると、素性の上では今日の新華族や公卿大
名出の華族に対しても、恥じることは少しもない。自分たちは不幸にも徳川幕府の政
略の犠牲となって、多年人間外の境遇に置かれたが、明治大帝の聖断によって数百
年の間否定されていた人格を回復した。四民平等の天日を拝むことが出来るようにな
った聖恩を深く感謝するとともに、いまさら過去の恨み言を述べる必要はないと思う。
ただ法制上は一般国民と同等な権利義務が与えられたのに、事実上は一般社会から
侮蔑、排斥を受けていることについては大きな不満を感じる。我らが尊敬する原首相
は、口癖のように日本が五大国とか四大国の一つになったと繰り返し、国民の慢心と
増長を奨励されているが、多少事物を解する者なら、なるほど個々の事物については
日本が優る点もあろうが、公平に全体を観察すれば有名無実の虚名に過ぎず、物質
的にも精神的にも欧米の先進国に対して四、五十年後方を歩いている。国民は原首
相の発言に無関心であって当然である。日本は朝鮮、台湾の新国民をいかに待遇し
ているか。法制上同等の権利と義務を有している我々祖先伝来の国民がいかに社会
の冷遇に泣いているかを放置して、人種の国際的差別を唱えてみたところで一笑に付
されて当然である。
私は特殊部落が因習または感情以外にも、一般社会から軽侮、嫌悪を受けるいく
つかの欠点があるのを承知している。しかしそのために法制上付与された権利を割引
される理由を認めることは出来ない。部落民の通有性として、猜疑心が強く、向上心や
貯蓄の念に乏しく、保健衛生の思想に欠けていることは事実であるが、それは数百年
来社会が部落民を人間扱いせず冷遇し圧迫してきたために養成された第二の天性で
ある。自分たちもこの性癖があることは分っているから勤めて矯正に努力している。部
落自身が自発的に自分たちの向上発展に努力し、部落を向上、進歩させる覚悟で進
んでいる。社会の理由のない障壁の撤廃と相まって部落問題は解決するのである。部
落の友人一人が戯れて語った。我々は新たに平常の国民と認められ、人間扱いを受
けることは光栄なことだが、一般国民と同様に租税を納め兵役に服しながら、社会から
冷遇されていることを思うと、兵役、納税の義務がないばかりか皮商売、雪駄直しのよう
な独占的商売があり、不自由ながら生活難を知らなかった穢多時代が恋しくなると。こ
のような冗談を言う責任は当然社会が負わなければならないと思う。
以下、部落民の立場から社会に対する二、三の要望事項を述べてみる。中には社
会の覚醒によって解決に一歩を進めつつある項目もあるが、大部分は部落民が抱い
ている共同の希望である。
特殊部落民の数が全国で百五十万人に達する一事を見ても、部落問題は極めて
重大な社会問題である。内務省も部落内部の向上発展については相当の力を注ぎ、
幾多改善の事実を認められるが、さらに特殊部落についての一般社会の固定観念を
破り、理由のない障壁を撤廃するための政策を希望する。これは単に部落の利益ばか
りでなく、社会共同の利益のために要望するのである。この問題の解決に直接あたる
のは、地方長官であるから、長官は、部落と一般社会の意思疎通と融和のために、努
めて両者が接触する機会を講ずべきである。従来地方では、特殊部落は独立の村あ
るいは字にまとまっており、某村某字といえばただちに特殊部落であることが知れる。
町村の併合とか、小学校の児童の共同就学については、一層の努力を希望する。特
に町村の下級官吏の無理解な行動と発言を戒め、また小学校の教員に対しては、将
来の国民である児童の頭に差別観念の種子を蒔かないように指導されたい。ある地方
の小学教員が教室で特殊部落の児童に、お前らの小便は前から出るのか後ろから出
るのかと聞いたという。このような思慮のない教員が児童を毒する弊害は実に恐ろしい。
日連上人や児島高徳を持ち出すまでもなく、現代に特殊部落から出ている文武の
官吏、学者、商工業者など、社会で重要な地位を占めている人は決して少なくない。
それらの地位にある人たちのこれまでの経験は、一般社会の想像を絶する苦心があっ
たのである。部落民として社会から受ける精神的な苦痛に加え、自分をくらますために
戸籍を幾度か変更して辛うじて道を開き、社会上相当な地位を得たために、逆に郷党、
祖先を地をやむを得ず縁切る実例も決して少なくはない。これら部落出の立身者が公
然と名乗るだけの勇気を持てと注文するものがあるが、それは皮相な考えであろう。彼
らが素性を隠すための惨憺たる苦労をしていることを知れば、無理な注文であることが
わかる。昔は文武の優越階級が世に容れられずに特殊部落に投じ、今は部落出身者
の優越者が立身出世のために郷党と絶縁するという不思議な悲劇が行われているの
である。このような不条理な現実が存在する以上、部落出身の有為な人材のために立
身の道を開くことが、人物払底の日本の現状を救うためにも必要である。彼らの転籍
廃家などの戸籍法上の手段は特に簡易に取扱うことを希望する。なおこの機会に、出
身を明言して社会の各方面に活動しつつある部落の先覚者の勇気に対して敬意を表
するものである。
先年の米騒動に際し、暴動に加わった特殊部落民が多かったため、部落と暴動と
は付物のように説くものがある。これも皮相な考えである。なるほど工業都市の周辺に
部落がある地方では、自然に部落民も工場の労働者となる場合が多いが、彼らは部
落民であるゆえに一般労働者以下に扱われている実例は少なくない。教養の低い彼
らが暴動に参加したからといって、部落民が国家社会に対して危険だと即断するのは
間違いである。一般に部落民の思想は、少なくとも現在のところ危険性を帯びていな
い、と私は断言する。しかし部落民の自覚と向上心が進めば、社会に対する不平不満
はますます高まるに違いない。社会の部落に対する理解が遥かに遅れた場合は、思
想上の問題が発生する恐れがある。特殊部落が危険思想の温床となる可能性は、部
落に対する社会の認識と理解次第である。社会の先覚者はこの点に深い注意を払わ
れるよう希望する。部落の青年たちの思想上の進歩向上はまことに喜ばしいが、一面
において憂慮を禁じ得ないのである。
先般築地本願寺で開催された大木伯主宰の公道会第二回同情融和会は、各府県
の部落の有力な代表者が数百名出席した。第一回の倍の盛況であった。来会された
名流貴紳の演説は内容が立派で、自分たちの境遇にに対する熱い同情に感謝した
が、自分たちにとっては、千万言の同情よりも一つの実行を希望する。今日大都会で
は特殊部落が問題となることは少ないが、地方の状態は都会の識者の想像を絶する
ものがある。社会問題として部落問題に注目される識者、篤志家諸君は、地方旅行に
際して部落の実情を深く視察し、真相を究められることを希望する。商工業者が職工と
して、また一般人士が使用人として、部落の子弟を雇用し、さらに進んで通婚が普通
になれば、不条理な社会問題である特殊部落問題の解決は、決して至難の業ではな
いと信ずる。
日本哲学
文学博士
金子
筑水
第一
日本民族と哲学――この課題は一見何でもないように見えて、その実まことに困難
な問題である。ともかく二千年の歴史を持つ民族の哲学は、そう手短には概論できな
い。日本民族と哲学の関係については、さまざまな方面からさまざまに解釈し批判する
ことが出来る。故にここでは単に全体観察のそのまた全体観察をある特殊な方面から
極めて簡単に行うに過ぎない。
我々は例えば印度哲学または支那哲学、ドイツ哲学などの言葉を平生使い慣れて
いるが、それとほぼ同じ使いかたで果たして「日本哲学」という言葉を使い得るであろう
か。印度や支那やギリシヤやドイツにそれぞれ独特の哲学があったように、口本にもま
た日本独得の哲学があったと言えるであろうか。これまで普通に考えられたところでは、
日本には固有の哲学はなかった、日本民族は特殊の哲学を持たなかった、哲学的に
は日本はゼロであったという。おおざっぱにこう言ってしまえばそれまでである。しかし
日本にもまったく哲学がなかったわけでもなく、またみようによっては確実に「日本哲学」
と名づけられるものがあったとも言える。では日本哲学と名づけられるものは、その本
質は何で、その根本特徴は何かという問題も起ってくる。単にこれだけの問題――日
本哲学があったかどうか――さえ、普通に考えられるほど簡単ではない。
第二
まず普通に主張されることから調べて行く。果して日本には日本固有の哲学がなか
ったであろうか。日本固有ということを、もっとも現密な意味に解釈すれば、そうした哲
学は日本にはなかったとも言える。例えば印度哲学は、印度民族が創造して他民族に
まで影響を及ぼした哲学であり、イギリスの経験哲学といえば、他民族の追随を許さな
いアングロ・サクソン独特の哲学である。またドイツ哲学は、イギリスの経験派哲学ある
いはフランスの唯理派哲学から、種々複雑な影響を受けたにかかわらず、その基本に
はどこまでもドイツ独特の理想的精神を宿して、いつまでも変化しない一種の恒久性
を備えていた。このような民族の独自の創意に成り、他民族にまで深い影響を与えたと
いう意味で、日本に果して日本独得の哲学があったかと問われれば、我々は遺憾なが
ら否と答えざるを得ない。かような意味において日本がこれまで哲学的でなかったこと
は、普通に認められた事実であった。過去において日本人が所有した哲学は、仏教
の中に含まれた哲理であったり、我民族独自のものではなかった。明治以後は、主と
して欧洲哲学が輸入され、大正の今日でもなお同一の輸入時代の感がある。つまり外
国の哲学を敏活に採用し模倣する能力は備えていたが、みずから独力で固有の哲学
を創造する力を欠いていた。というのが今日までの普通の解釈であった。他の方面に
関しても、日本民族はたいてい外国文明の模倣者であつたように、哲学においても、
それが創造中の創造であるだけ――ことさらそうした傾向を免れなかった、というのが
普通の解釈である。
私も強いてこの解釈に反対する者でない。残念ではあるが事実は否定できない。
けれどもここで吾々が注意したいことは、日本には日本独創の哲学が無かったというこ
とから、ただちに日本には何らの哲学も無く哲学的には日本民族はゼロであった、哲
学と日本民族とは永久に無関係である、と速断することは、かえってまた事実を曖昧に
し、日本文明の特徴をさえ誤解することである。なぜなら独創の大哲学を持たなかった
ことと哲学的には何ものも持たなかったこととは、必ずしも同一ではない。たとえ外国か
ら採用した哲学にせよ、それを自己のものとして所有したかぎり、その民族は哲学的に
決して皆無であったと言えない。仏教哲学にせよ支那哲学にせよ、日本民族がそれら
を自己のものとして所有したかぎり、まったく仏教哲学をも支那哲学をもあるいは欧洲
哲学をも所有しなかったことではまったくない。少なくとも日本民族が印度哲学をも支
那哲学をもあるいは西洋哲学をもあわせ所有し、しかもある程度まで巧みにこれらを調
和して所有したことは明白である。これはすでに日本民族が哲学に特殊な開係を持っ
ていた訳で、決して無関係であったとは言えない。いや、それよりより一層深くかつ重
大な意味がある。見方によってはそこに一種の「日本哲学」があるとも考えられる。
ここで吾々は哲学と民族との関係を考えなければならない。一民族が一民族として
立派に立っているかぎり、それが哲学なしに――何らの意味においても哲学なしに存
立するということが果たして可能であろうか。哲学はそれほど民族的生活に無関係なも
のであろうか。もちろん今日でも哲学を人間生活もしくは人間存在には直接な関係を
持たない遊びごとのように考えている人もある。けれども正しく完全に哲学が何である
かを理解する者にとっては、決してただの遊びごとではなく、反対に人間の生存そのも
のに直接な関係を持っているものと考えられる。この意味においては、哲学は各個人
各民族の存在の意義であって、個人や民族が一個の存在を保っているかぎり、彼らは
すべて自己の哲学を所有するのである。自己存在の精神または意義なしに存在して
いる民族は極めて野蛮であるか無自覚かである。一定の立派な存在をつづけている
民族は、何らかの意味において自己存在の精神つまり哲学を持つていない道理がな
い。哲学は民族生活の根本精神にほかならない。
哲学をこのようにみる者に取っては、日本民族に哲学が無かったということは考えら
れない。「日本哲学」と名づけらるものが無いということからすでに疑問である。なるほど
日本民族は今日までは独創的哲学の賦与者――他民族に哲学を寄与する者――で
はなかった。けれども彼らが少なくとも他から哲学を寄与された者――哲学の受容者
であったことだけは疑いない。他の方面においても、与える者と与えられる者――附与
者と受容者との区別がある。概して言えば今日までの女性は、与えられる者であって、
与える者ではなかった。与えられるということも、決して無下に卑下されることでない。
将来のことは別として、少なくとも過去の歴史において、日本民族は哲学の被寄与
者であり受容者であった。単に外来哲学の受容者であったばかりでなく、同時にまた
その調和者であり、修正者であった。外国哲学を適正に受容するには、同時にこれを
修正し調和しなければならない。こうして二千有余年の歴史の間には、いつともなく一
種固有な「日本哲学」が徐々に萌芽し発育していった。日本民族の存在がこの哲学と
極めて密接な関係をもっていることは言うまでもない。ただこの「日本哲学」は、その本
質が充分我々に明確にされていない。自己の姿が自己に不明瞭であるように、「日本
哲学」の特徽も日本民族にとってかなり不明瞭である。我々は出来るだけこの特徴を
明らかにしなければならない。
第三
私はここで「日本哲学」の特徴を研究しようとは思わない。そんな大きな仕事が簡単
に出来るものでない。ここでは単に問題提出の意味で、ほんの思いついたままの日本
哲学の特徴二、三を挙げることに留める。精確なことは専門学者の研究にまかせる。
(第一)日本哲学の第一の特徴と思われるものは、それがあくまで実行本意の精神に
貫かれていることである。過去の日本哲学としては仏教や儒教や老荘教のほかになく、
そして仏教や儒教はどこまでも実行本位の宗教や学問であったから、日本哲学の精
神はあくまで実行的であったと言える。西洋哲学に慣れている我々は、ややもすれば
過去の歴史を無視する傾きがあるが、西洋哲学を受け容れるまでの土台には、すでに
特定の日本哲学があったことを忘れてはならない。王朝時代から鎌倉時代、それから
徳川時代に至るまで、日本民族――少なくともその一部は、支那哲学と仏教哲学とに
よって訓練され教育され指導された。この訓錬指導によって、日本文明は徐々に生長
し発育したのである。そこで今日から過去の哲学を振返ってみると、日本民族が受容
した仏教や儒教は徹頭徹尾実行的なものではなかったが、最古代のことは別にして、
平安朝時代にはすでに天台および真言の大乗仏教が充分に発達し、また鎌倉時代
には禅宗が一時に発達したのであるから、知識的、瞑想的、理論的な方面が着しく発
達したとも想像されるが――事実またこの方面も可なり発達したに相違ないが――こ
れらの知識的理論的な発達も、実に実行の補助のための道具であって、実行を引離
しては、これらの理論はすべて無意味なものであった。例えば一念三千とか、真如の
理法とか、三世因果の法則とか、理論としても深奥微妙ではあったが、結局は善根を
積んで即身成仏の大理想に達するための方便にほかならなかった。したがって理論
のために理論を行うとか、空理のために空理を弄ぶということは決して日本哲学の精
神ではない。ことに日本に移植された仏教哲学は、どこまでも安心と信念と成仏との実
行を眼目としたのであった。
隨唐の文明が早く古代において移植されたことは別として、支那哲学――とりわけ
儒教が仏教と並んで日本哲学の基礎となったことは、これまでの日本哲学がいかに実
行本位のものであったかをもっとも雄弁に語っている。儒教は実行哲学であって、その
ほかの何ものでもなかった。修身斉家――一身を修めてこれを天下に拡充することが
儒教の眼目であって、自然を語り理論を闘わすようなことは、決して本意ではなかった。
ことに徳川時代に現われた日本的儒教をみれば、すべてが実行本位の工夫であって、
これをほかにしては知識も理論もなかったのである。孔子みずから怪力気神を語らず
と教えたように、ミスチックな空理空想は儒家のもっとも排斥するところであった。儒教と
は面目を大いに異にする黄老の学も、その精神はやはり実行的であって、その談理も
実は実行の工夫にほかならなかった。日本哲学が支那哲学によって巌密に実行的に
養育されたことは明らかに彼我の民族上の類似を証明している。
明治大正に降って、西洋の万有哲学が輸入され、理智の学はますます発達し、実
行本位の哲学は、一時全く力を失った観を呈した。しかし永い間養われた精神は、決
して一朝にして消滅するものでない。理論はいかほど発達しても、結局それは実行の
ための手段に過ぎないとは、最近代において再び国人によって主張されようとしつつ
ある。日本哲学の根本精神は、依然としてこの点にあると考えられる。
(第二)実行本位が日本哲学の精神であったから、その学修および練磨の主体は主
観であり、心であり、理想であり、仁慈である。この理想をただ練磨し発揮するのが、修
学の一切の眼目とされた。主観の工夫または理想の発揮がひとえに日本哲学の目的
であった。この根本特徴は、明治以後に輸入された西洋哲学に比較すれば、一層明
白である。西洋哲学のすべてではないが、ほとんど大部分は実在の学であり万有の学
である。理想派の哲学すらも、心体を主として実在的に取扱っている。つまり西洋哲学
は著しく客観の哲学である。これに比べれぱ、これまでの日本哲学は純粋に主観の学
であり訓練である。仏教の教義は極めて複雑深奥ではあるが、要は一心の観念にあっ
て、この心、この菩提心を修めること――つまり悟道が一切である。心外無別法。この
心をほかにしてはすべて無意味であるというのが仏教の奥義であった。
仏教ばかりか、儒教がまた道の学――心の学――性の学であって、実行道徳のた
めの人間学であったことは今さら説明するまでもない。万有とか自然を窮めることは、
決して儒教の眼目ではなかった。
心の学、主観の学であったと同時に、日本哲学の精髄はどこまでも純粋な理想の学
――慈悲仁愛の学――であった。大慈大悲のこころ、これが仏教の理想であって、こ
の心の発揮はやがて即身成仏の妙境となる。ただ真の光は諸々の煩悩のために蔽わ
れるから、まず諸欲諸悪を絶たなければ菩提心に達しがたい。こうして一面理想主義
的な仏教は、一方で鋭く禁欲主義的な傾向を鼓吹した。禁欲的傾向については、仏
教ほど著しくはなかったが、理想主義的兼節制的傾向は儒教並びに老教も、仏教と
根本精神を同じくした。儒教は幽隠の心や仁の心が人心の本体で、ただこの仁心を発
揮することが人間生活の極意であると教え、孝を百行の本としその心を拡大して治国
平天下を理想としたのである。
このように日本在来の哲学は、理想の発現を根本として、人生の平和と安寧を目的と
した。これに対して西洋哲学は――とりわけ近代哲学は――力の哲学、人間力増進の
哲学、自然征服の哲学、欲望充足の哲学であり、一種積極主義の哲学であることを示
した。日本があまりに理想主義的な哲学であったのに対して、西洋は反対に現実主義
の哲学であった。理想主義はややもすれば消極主義に傾いたのに反し、現実主義は
あくまで積極主義の哲学であった。明治以後に輸人された西洋哲学がどれほどまで従
来の哲学を征服し、そこにどのような統一が行われるか、これは今後決定される問題
であろう。
(第三)以上は主として在来の日本哲学の内容に即しての観察であるが、さらに我々
はこれを形式の方面から観察することができる。この方面から見て特に感じられる点は、
激越な情熱とか深刻を極めた神秘的傾向とかいうものが、日本哲学にはなんとなく縁
遠いことである。仏教そのものには、本来多分の情熱があり神秘が存在したにかかわ
らず、この方面が日本において格段の発達を遂げたとは思えない。深い情熱や、高い
神秘は、例えば強くロマンチックな、あるいはアいデアリスチックな哲学には根本傾向
としてあるが、全体としての日本哲学から判断すれば、どの方面からみてもそれはうか
がわれない。もちろん仏教や老荘学派には、特殊な神秘的傾向があったのだから、鎌
倉時代、足利時代、徳川時代、それぞれの時代には、例えば一休、芭蕉流のミスチシ
ズムはあったに相違ないが、それらのミスチシズムとても、すこぶるる淡々白々としたも
のであって、虚無恬淡がむしろ根本であったとも考えられる。壮烈とか激烈とか奔騰と
か雄大とかのすべて破格な風調は決して全体としての日本哲学の精神ではなかった。
深刻とか壮烈とかに対して、むしろすべてが小じんまりとし、まとまりがつき、いずれかと
いえば恬淡としてさっぱりした風調が、古来の日本哲学の特徴ではなかったか。国民
性は必然この点にも現われたと考えられる。
‐
儒教の影響から考えればこの点は一層明白である。儒教的精神が実行本位であっ
ただけ、奔騰的情緒や怪力乱神的ミスチシズムは、我国では出来るだけ排斥され除
去されたに相違ない。ことに徳川期に現われた哲学的潮流をみれば、それがいよいよ
実行本位であっただけ、いよいよ着実に穏健に実際的に傾いたことは疑われない。
明治以後ことにロマンチックなドイツ哲学などが輸入されたにかかわらず、日本に
おける哲学的精神がこのため急に一変したとも思われない。ミスチックな脈が今人によ
って多少教養され追求されているにせよ、この方面の精神がどれほどまで日本哲学に
移植されるかは、今日なお不明な問題である。
(第四)ついでにもう一つ特徴と思われるものを加えて置きたい。一言に何と言ってよ
いか自分にも分からないが、強いて言えば、一種特別な聡明さとでも形容できようか。
西洋風の合理性とも違うが、とにかく知能方面から見る一種軽快で敏捷な聡明さであ
る。豪放とか壮烈とか情熱とかが日本哲学の特徴でないとすれば、それとは全く趣を
異にする鋭敏な聡明さが特徴であることは、何人にも容易に推察される。古くから各種
の大乗仏教が輸入され、さらに支那哲学までが輸入されて、それらが立派にこなされ
たばかりか、日本式に調和されたことは、日本人でなければ所有できない一種特別な
聡明性の結集といわなければならない。このほか日本人の手に成った哲学上の著述
と思われるものをみると、いずれも気のきいた、まとまった、鋭敏な聡明さに満たされて
いて、すべてがいかにも気持よく整った感銘を与える。日本民族は感情の民族だなど
言われるが、その感情はロシヤ風な激烈で深刻なものではないから、むしろ知的に理
性的に非常に明るくかつ軽快なのが根本特徴と言える。これまでの哲学上の著書に
は、遺憾なくこの方面の特質が現われている。
仏教および儒教の直覚的知識に養われた日本民族は、さらに西洋風の科学的な
いし経験的知識に養われて、理智方面の聴明さはいよいよ広げられ、強められた観が
ある。今日までの情況から推せば、日本人は深刻な哲学的思索よりも、一層鋭敏な科
学的研究に適合するのではないかという疑いさえ起ってくる。
しかしながら、総体的に観察して、日本人が今日まで固有の大きな哲学を創造でき
なかったことは、何としても日本民族の大きな欠点と言わなければならない。哲学は生
活の知的シンボルである。独創的哲学を所有しない民族は、同じく独創的生活を所有
しない民族である。我々の今日までの日本哲学は、学習時代、修養時代のものであっ
て、その進歩と大成とは必らず今後に属するものであることを、あくまで信じたい。
儒教と日本国民性
文学博士
宇野
哲人
一
我が日本国民は鈍重というよりは、むしろある点から見れば軽浮である。よくいえば
俊英である。だから多くは新奇を好み往々にしてこれに熱中する。その結果として在
来の自己の特長を投げうって、新来の外国の文明を是非なく模倣し、崇拝することもあ
る。しかしやがて自己意識が覚醒して来ると、熱中し崇拝した外来の文物に対する批
判的精神が旺盛となる。そしてこれを消化し栄養物を吸収して、自己の血とし肉としそ
の他は排泄する。これ実に我らの祖先の遺風である。仏教に対する我が国民の態度
がそうであり、儒教に対する態度もそうであった。キリスト教はもちろん、その他の種々
の外来思想に対しても将来必ずそうなるであろう。そして是非そうなければならない。
仏教およびその他の思想との関係は、問題外だから今は措(お)き、ここには儒教と我
が国民性の関係について、過去、現在、未来にわたって一通り考察してみようと思う。
二
一口に儒教といっても、孔子が今をへだてること約二千四百年前に儒教を開いてか
ら、今日に至るまで種々の変遷があって、決して同一のものとはいえない。多くの学者
の承認するところによると、大別して四大変があったといわれている。それは孔孟時代
の原始儒教、漢唐の訓話学、宋明の性理学および清朝の考証学である。詳細に区別
したなら、孔子と孟子はすでに思想が一致しない位だから、その他も推して知ることが
出来るであろう。今は以上の四大変の特長をそれぞれ論定するのが目的ではないの
で、暫く措くが、応神天皇の十五年(晋の武帝太康五年、西暦紀元後二八四年)に百
済の使阿直岐が来朝し、翌年百済の博士王仁が来朝して、論語十巻千字文一巻を
献上した。儒教伝来の当初はもちろん、その後引続いて多くの学者が三韓から来朝し、
さらに直接隨唐と交通するにおよび、儒教は潮のように我が国に流入した。偉大な影
響を及ぼした各種の文物とともに、伝来した儒教はいわゆる漢唐の訓話学である。宋
明の性理学は南北朝以後に伝来して徳川時代の文明の基調となり、清朝の考証学は
徳川時代の中葉以後に伝来して、学界の一角に勢力を占めるに至った。これらの学
派はそれぞれ異った色彩があるとともに、当然異った影響を我が国に与えたが、各学
派を通じて一貫した精神、つまり儒教の大精神は我が国民に対して終始一貫した影
響を与えている。この儒教の大精神は我が国民に全然欠乏していたある物、または我
が国民性と全然反対なある物ではなく、むしろ大体において我が国民が本来所有した
ものであり、ただ充分に明快な概念となっていなかったものであった。故に他の多くの
思想が種々衝突矛盾を起して、漸く同化したのと異り、我が儒教はほとんど何の衝突
も矛盾もなくして、我が国民固有のもののように受け取られた。ある点から見れば儒教
は我が国で大成されたともいえる。聖徳太子は我が国を大乗仏教相応の地と申された
とのことであるが、私は我が国を儒教相応の地といいたいと思う。
三
我が国民に与えた儒教の影響のもっとも重なものは、大義名分の教えである。日本
書紀の天孫降臨章に見える神勅に、
豊葦原千五百秋之瑞穂国、これは吾が子孫が王となる地である。皇孫はよろしく
行って治めよ。そこは富み栄える天壌無窮の地である。
とある。神勅は日星のように明確である。のちに歌聖柿本人麻呂はこれを歌に詠んだ。
天照らす太陽の女神は、天下を支配する。葦原の瑞穂の国は、天地が寄り合う極
地。この地を治める
神は、天雲をかき分けて降臨された、光り輝く太陽の女 神で
ある。
これが国体の淵源であり、我が日本建国の大精神であり、我ら国民の祖先の理想で
ある。ゆえに儒教の大義名分説はまったく何の衝突矛盾も無く、我が国民性と融和し
たのである。聖徳太子の憲法十七条にも、
詔を謹しんで聞く。君は天であり、臣は地である。天が地を覆えば、四時は順行し、
万気は通ずる。地が天を覆えれば、すべては壊れる。
とも
国に二君なし。民に二人の主はいない。国民を率い治める主は王である。
とも述べられたのは、我が国体の基礎となる大憲であるが、同時にまた非常に儒教に
負うところがある。前者は易の繋辞、管子に似て、後者は礼記の曾子問、坊記および
孟子、詩経などに基づくこと、すでに前人が指摘したところである。その他十七条の内
十二条までは易経、書経、詩経、左伝、論語、孝経、孟子などにより、管子、荘子、法
家等の文にも出入しているのを見ると、太子の儒教に対する学殖の偉大さを知るととも
に、太子が儒教を材料として、我が国固有の精神を発揮された見識に敬服せざるを得
ない。こうして儒教の大義名分説が我が国民性と渾然融和したのは、千数百年の遠い
昔であるが、時の世に盛衰があって、天日の光が薄くなるかという時にも、この大精神
は勃然として起るのを常とした。和気清麿が僧道鏡の非望をくじいた例がそれである。
大日本史はその時の経緯を述べて、路豊永が清麿に向って、「道鏡が天位に登れば、
何の面目があって彼に仕えることが出来よう。私は二、三の友人と伯夷のように遊ぶつ
もりだ。」といったので、清麿は死を誓って往った、と説いてあるのを見ると、和気公の
気節凛として奪うことができないものがあったのはもちろんだが、師友の激励も大いに
あずかって力があったと思う。大槻磐渓が詩に厳師路豊永があり、高風早学により伯
夷を演じた、と詠んだのは、決して誣言ではないと思う。
先に述べたとおり百済の阿直岐が入朝した時、主として彼に師事して経典を学ば
れたのは聖徳太子であった。博士王仁の来朝も太子の御希望によったと想像される。
もちろん太子は王仁に師事された。太子の学殖が豊富で見識の高邁なことは、十余
年後に高麗からの文書に「高麗王日本国に教える」とあるのを怒って引破られた逸話
によっても想像できる。応神天皇が崩御されて太子が当然即位されると思われたのだ
が、位を仁徳天皇に譲り、身を殺して仁を成すという壮烈な行為をあえて取られた。た
とえ父帝の意にそむくとも、弟が兄を越えるのは名分上許せないと信じられたからであ
る。叔斉が国を伯夷に譲ったのにならわれたことは申すまでもあるまい。後世水戸義
公が伯夷伝を読み、弟が兄を越えて藩主となったことを悲しみ、ただちに位を兄の子
に伝えて己の志を貫いたのも、同様の動機によるもので、我が儒教の名分説の影響で
ある。
儒教の大義名分説が、我が国固有の道徳と融和して偉大な効験を顕わしたことを、
歴史上の事実を引用して流用するなら、分厚な大冊となりとうてい小論文の能くすると
ころでないから、今一つだけ述べることにする。儒教の大義名分を鼓吹した春秋学の
精神は、我が国に伝来して源親房卿の神皇正統記となり、水戸義公の大日本史となり、
水戸学派の国体論となり、山崎闇斎学派の尊王論となった。その結果勤王の志士が
並び立って、ついに王政維新の基を開いたということを明言しておく。
支那では易世革命が勢いを得たために、孔子春秋の大一統の精神は、充分に実現
することが出来なかった。革命を絶対に非として、湯武の放伐を非難する巌正な儒者
が時に出現したけれども、支那においてはこの正論、つまり孔子の真意は充分に実現
出来なかった。孟子も革命観については、孔子と大きなへだたりがある。万世一系の
天皇が統治し給う我が国においてこそ、孔子の大義名分論は完全に実現されるので、
私が我が国を儒教相応の地といい、儒教は実に我が国において大成されたというの
はこのためである。特に注意する必要があるのは、我らの祖先が儒教を学び、支那風
を崇拝しつつ、孟子以後の革命観を排して、孔子の大義名分説を取り、適正な取捨を
した態度は、まことに立派な美風であった。
近時国民を不安に導いた某重大事件における杉浦先生の態度は、実に儒教の大義
名分論に基づく確固不抜の精神が躍如しているのを覚え、襟を正すものがある。平素
の修養は彼のように非常の時に当って、大きな効果を表わすものである。名分の観念
が薄くなり、ますます薄くなろうとする今日、我が国民は先生の風を見て、大いに学ぶ
ところがなくてはならない。
四
古来東海の君子国と称された我が国では、礼儀を尊重する美風が広く行われてい
た。草莽(そうもう)の時代から漸次文化が発達進歩すると、礼儀の風俗が次第に整頓
して来る。儒教の世界では礼楽の政が世に行われるのを理想とする。我が国にも推古
天皇の御代に冠位十二階が設けられてから、大宝令の制定などはまったく儒教の精
神によったものである。冠婚葬祭を人生の四大礼と称し、徳川幕府の末葉まで相当の
礼法により各人の行為を律した。儒教では礼儀三百、威儀三千と称して、相当に煩雑
である。支那ではむしろ繁文縟礼(じょくれい)がひどく、いたずらに形式的に流れたの
で、孔子はすでにその弊害を歎いたほどである。孔子はもちろん空文虚礼よりは誠意
ある礼を喜んだ。我が国では幸いに礼儀を尊びつつ、いたずらに形式的に流れる弊
は少なかった。大体我が国民は、礼儀はもちろんすべての点で中庸を得ている。これ
は我が国民性の美風である。近年に至って中庸を罵り、煮え切らない、不徹底、妥協
だという。一考を要するとは思うが、特に礼儀については近年ほとんど乱雑を極めてい
る。千有余年養ってきた礼儀の美俗が、一朝にして破壊されるのは、いかにも残念で
ある。善に従うのは登り、悪をするのは下るようなものだから、放縦乱雑を喜ぶのは人
情の弱点である。そして現代では往々不作法な者は却って持てはやされる有様である
が、これは是非とも排斥するように、社会の風潮を養成したいものである。
五
義理は儒教で特に重視されるものの一である。孔子は「得を見て義を思う」といい、
「不義にして富み、かつ貴であるのは浮雲のようなものだ」といっている。富貴を好むの
は人情の常であるが、富貴を求めるなというのではなく、義つまり正義の観念から批判
しているのだ。正義かどうかを考察し、正義なものを取るのである。得を見て義を思え
ば官公吏として汚職の罪を犯す者はないであろう。特に孟子は極力義と利の弁を明確
にしようと務めた。孟子七篇の大要は主として第一章の梁恵王に仁義を説いたところ
にある。文が長いのを厭わず全文を挙げる。
孟子、梁の恵王に会った。王は「あなたは千里の道を遠いとしないで来た。わが
国を利するためであるか」と。孟子答えて「必ずしも利のためではなく、ただ仁義をま
っとうするためである。王は何によって我が国を利するか考え、大夫は何によって我
が家を利するか考え、士庶人は何によって吾が身を利するか考える。上下こもごも
利を考えるから国は危い。立派な国でありながら君を殺す者は、必ず立派な家の者
であり、立派な国とそのその王を殺す者は、必ず立派な家である。万のうちの千、千
のうちの百はそうであり、決して少なくはない。義を後にして利を先にすれば、奪わ
ずにはおかない。しかし仁であれば親を捨てる者はいない。義を守る者が君をない
がしろにする例は、かつて存在したことがない。王は仁義をいえばよく、利をいう必
要はない。」
国利民福を棄てゝ顧みるなというのではない。もっぱら功利の立場から国民に臨み、
国民が一斉に功利に走れば、手段を択ばず、方法を論ぜす、ただ自己の利を図って
他人の利害を顧みず、奪わずにはおかない。これは決して国家の幸福ではない。逆
に正義に基く行動は、ついには国利民福に至る。大学の「国は利を利としない。義を
利とする。」とはこのことである。
我が国でも従来義に富み、利を軽んずる美風は、長く国民の信念であった。特に武
士階級は義を重んじた。義のためには生命をなげうって顧みなかった。浅野四十七士
の復讐は無数に文飾され、長く国民性を涵養するものとなった。市井の無頼漢の内に
も、いわゆる侠客というものが起って、幾多の弊風を伴いつつも、義を見て勇む美風の
ために国民の尊敬を受けた。直江山城が釆配を執る手に金銭を握るのを潔しとしなか
ったという逸話は、当時義として賞せられた。尾羽打ち枯らした浪士が、謡曲を誦して
門毎に一文二文の合力を乞いつつ扇子の上に金銭を受け、あえて手に触れなかった
ほどであった。武士は食わねど高楊枝との俗諺さえもある。利を軽侮する風潮はこうし
て養成され、算数に明らかなことは決して武士の名誉ではなかのである。
維新の始め、先覚者の二、三は大いに実利実学を鼓吹して、一世の思想を動かし
たから、本来利を好む人情はどっと拝金宗に走った。利によって動けば怨は多くなる。
不義の富貴は浮雲のようなものと教えても、利を重んぜよ、義理など旧弊のことを唱え
るのは貧乏士族の負け惜しみだ、金があれば何事も心のままだ、などと黄金万能を宣
伝されては、心が崩れるのは当然である。今日我が国の風潮は利益一点張りで、上下
交々利を追いかけている。これは決して喜ぶべき現象ではない。今後は大いに質実
剛健な儒教の精神を鼓吹して、我が国本来の美風を回復する必要がある。
大学に「馬を養えば鶏豚を飼わず、伐木の家は牛羊を養わない」とあるのは、家国
の士大夫として栄誉と俸禄とを戴く者は、民と利益を争わない意味である。今や重職
に就いて相場を左右し、巨利を得、これを問う者あれば言を左右にし、人を欺き己を
欺いて顧みざる者がある。孟子は古代の聖人を説いて、「一人の善人を殺して天下を
取っても褒めたことではない。」といった。今や部下数百の生霊を徒死させて、己れの
責任を知らず、返って栄爵を受けて得意な軍人がある。手腕才幹があればこれを利用
し一世に笑われる行為にも顧みず、人心日に離れても傲岸一筋の者がある。ただ自
己の利のみに走り、正義の何物であるかを知らない者が天下に溢れている。「義を正
し、利を謀らず。道を明らかにし、功を計らず。」を信条とする儒教の精神は全然見るこ
とがない。如何にも義理堅かった我が国民の美風は一掃され空しい有様になってしま
った。
六
儒教と日本国民性との関係について、論ずることは無数にある。忠孝仁義等の語句
は、現今の青年には耳遠いことになっており、堅苦しい儒教の経典よりは、現代的な
文語に親しむこととなっている。しかし何といっても千数百年間、仏教と並んで国民の
思想を支配した儒教の影響は、すでに国民の血肉となっている。吾々の先祖の識見
によって儒教の長所を採用し、短所を棄てているために、従来儒教の影響によって成
立っている我が国民性は、将来にも是非存続させていきたいと思うが、これに反して儒
教に反対の傾向を帯びてきた近時の風潮を大いに憂うるものである。
老荘思想と我が国民の性格
文学博士
三宅
雪嶺
一
嵯峨天皇の遺詔に、
「私は昔不徳であった。久しく帝位に就いたが、毎夜悩み抜き、庶民のことを考え
た。しかし天下は聖人の大賢が支配する。私の愚考では及ばない。よって万機の務
めは、賢明な者に任せ、一林の風を心から愛し、思欲無位無号、山水を詣で逍遙し、
無事無為に琴書を愛し…………」
とあるのは、明らかに老荘趣味を示す。
当時、支那で韓退之が老仏を排斥し、議論になっていたようだが、日本がこれに注
意を払ったのは徳川時代に入ってのこと。その前は儒仏といっても老を含み、儒といっ
ても儒老混合の状態であった。退之が広く知られなかったことは、空海が同時代に留
学して、少しも退之の消息を知らさなかったことでも察し得る。
空海は文才あり能文でありながら、韓柳の影響を受けず、彼らが改めようとする六
朝以来の文体によっている。もし退之を知っていたなら、彼が仏を排斥するのを好まな
かっただろうが、退之はそれほど空海を気にせず、空海が仏骨表を贈っても、感謝文
を送って来ただけで、一般の風潮をどうすることも出来なかったらしい。漢で儒教を興
した頃から道教と混化し、どれほど離そうとしても離れず、混化するのを普通とした。特
に唐は李氏のはからいで、老子を先祖として玄々皇帝の号を奉るほど、道教に重きを
置いた。老荘の趣味が世に広く行われたのである。
宋になって、道学が起り老仏と争ったが、老仏を混えたことも少なくない。表面で争
っても、議論では老仏の論法を使い、時として老仏とそっくりなことがある。儒教と道教
は社会における立場を異にしてはいるが、人生観は要するに支那民族の同じ思想に
過ぎない。
また同じ遺詔の中に、
「人の死は心亡われ形が残る。魂は天に昇り、体は地に帰る。今生の尭舜の徳は
不能となり、死は何の役にも立たず国家の費えとなる…………」
とある。これも儒老を通じての思想であり、東アジアの思想である。儒がしきりに老仏
を攻撃し、我が徳川時代にその流れを汲んだが、支那で学問を好む者は老仏を合わ
せ学んだ。日本では少くとも私が学んだ。
倫理的方面で老学を避けても、文学的方面では欠くことが出来ないと考え、荘子は
誰もが読まなければならないと思った。帰去来にしても、赤壁賦にしても、老荘の思想
が現われている。荘子は文学のために必要とし、老子はそうでないとしても、荘は老に
基づくのであり、老子の道徳教は短かくて、一とおり目を通すに骨が折れない。これに
関連した書物は特殊の趣味があり、経書の堅苦しいのを逃れ、悠々自適の感想を得
るところが多い。どこまでも儒教を立てようとしつつ、老荘関係の書を読むのが良いと
思う。
二
徳川時代の儒者が老荘の書を異端として退けたと聞いて、私はすべて読んだ。多く
は特別に避けるまでもなかった。支那で、老仏排斥の声が揚ったけれど、日本では道
教というものがあるかないかわからずに経過してきた。支那では漢唐の儒は老を兼ね、
我が王朝時代はその兼ねたものを儒教とする状態であった。加えて仏教が我が国に
盛んに入って、支那で新たな派が出るごとにこれを取入れようとし、留学生が次から次
へと新仏教を持って帰った。
仏教は上下均しく奉ずべきものと定まり、これに疑いを容れようとせず、疑うと何かの
制裁を受けるものとされた。仏教に力を込め、しきりにこれを研究したので、老荘は注
意を免がれた。読むべき書物として読む位のことにとどまり、ここから人生観を得ようと
する思いには到らなかった。聖人の学の名の下に従属したものになっていた。
王朝時代の聖人は、儒教道教をまとめて理解し、支那の学と印度の学は相対した。
支那では儒と道とが争っているとは考えなかった。考える興味も持たなかった。徳川時
代でも、仏教を排斥する者があっても、道教を排斥しようとするものはなかった。そこが
支那と異ったところである。
どこでも、他から思想が入り込むのは、必ずそれを受け容れるだけの素地があるか
らであって、まったく縁のないところにはいることはない。同じように輸入しても、国情の
如何により差異を生ずる。
支那では道教と仙人は密接な関係があるが、日本では仙人を求める嗜好が比較的
薄い。仙人として知らている者は非常に少ない。日本の老荘の書を読んでも、仙人は
あまり出てこない。それだけ支那の老荘とは違っている。老荘は支那の産物であり、支
那人の方がその思想をよく消化し、同化し得る訳であるが、日本ではこれと違い、多少
日本化したところがある。相応に老荘の書を読み、列子を読んだりするけれど、韓退之
のように老荘思想を排斥した者はいない。日本で虚無恬淡を理解しないではないが、
それで特別に何ほどの影響もない。
三
頼山陽は気節を尊びながら、しきりに荘子を講じた。講義の最中に父の喪を聞いた
ので、以後荘子の講義を止めたという。支那でも、蘇東坡は気節を重んじつつ荘子を
好んで読んでおり、また仏教をも好み、世間を超越するようなところがある。
山陽は世間を超越しようとはしない。他にも荘子を読む者は多く、絵でもこれを面白
がり、愉快に思いながら、日常の行為に素直に取り入れている。真に思想を吸収する
よりも、規矩に拘泥せず自由自在の言いまわしを面白がったりする。
華宵(画家、姓は高畠)の夢に無政府主義があった。無何有郷と云っても同じであ
るが、これについて興味を催しつつ、これにならおうともせず、さりとて怪しみもしない。
面白いこととして、日常茶飯事にも用いる。書生が昼寝する時、華宵に「遊んで来きま
す」というようなことをいった。無政府国に行って遊んで来ると言ったのであって、角を
立てて聞けば穏やかでないが、言うものは何とも思わず、聞くものもまた何とも思わな
かった。
このようなことで、思想が動くものとは思わなかったのだ。
旧幕の末、尊王攘夷で奔走した連中に、幕府の正学と称する朱子学を好まない者
が少なくなかった。陽明学に傾く者があり、身を僧籍に置いた者がある。陽明は純粋の
儒と称するけれど、老仏の汎神論的なところがある。志士が朱子学を好まないのは、幾
らか反抗的精神があったからであるが、それでも尊王論にには変らない。明治になっ
て真宗僧侶の島地黙雷が荘子を講じたことがある、そして自ら阿禰陀を拝んで止まな
かった。
老荘趣味を帯びるとすれば、多少洒脱な気分があり、その思想を研究するに力を用
いるまでに至らなかった。支那では、老荘の思想を日常生活に現わし、あるいは道子
となって特殊の服を着たりする。日本ではこの類のことがない。思想において仏教に蔽
われ、主として文学的方面に用いられたにすぎない。
日本人は従来の習慣であきらめの早いところがある。悠々自適を念じても仙人にな
ろうとは考えず、拘束がきつくなれば、これを突破するか、自ら消滅するか、何れかを
選べとなる。日本には大塩平八郎のような分子がある。相当に哲理を好み、世の雑事
を超脱するようで、奮激するとことさら渦巻の中に身を投げる。そこに特殊のあきらめが
あるのだ。
日本人が老荘に興味を覚えても、このあたりで支那と違うのが日本の特徴である。
女子の貞操に現われた日本国民性
東京女子高師校長
湯原 元一
一
近着のドいツ書の中にドクトル・ヨツト・クルーゲという人の処世論「生活の支配およ
び生活の奉仕」と題する一書があった。読んで行くと、著者は男子の性質は、「私の方
へ」Her du mir であって、女子は「君の方へ」Him du dirと言い、言葉は極めて簡
単だが、なかなかうまく両性の性質を言い表わしている。男子は我が強くて支配欲に
富み、何んでも我が手元に引寄せ、我が物にしなければ休まない。したがって彼らの
多くはややもすればエゴイスト、利己主義の人になり易い。しかし女子は心が優しいの
で、従順で他人のための奉仕、尽力を苦にしない。こうして男子の娶るに対して、女子
は嫁ぐのである。この意味において女子は一種のアルトルイス、つまり愛他主義の人
であるとも言える。
礼記に「婦人は人に従う者なり、幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、夫死し
ては子に従う」とあるのは、儒教のいわゆる三従の教として、名高いものである。しかし
翻って考えてみると、これは聖人などの教というよりも、女子固有の前に述べた「君の
方へ」という性であるとも言える。女子は他から教えなくても、多数は自然にこの三従の
道を踏んで行くのである。
女子には、この三従という厭な服従が余儀なくされていると言えば、一見、女子の
人格を無視した嫌いがあるが、しかしこれに反して、この三従をその性のままに自ら進
んで行うものと見れば、そこに却って女子の男子にも勝る高尚な品位が認められると
思う。
人のためにすることは、見様によっては、善にも悪にもなる。利益のために人のため
にするのは貪慾の奴隷だが、義務のために人のためになるのは正義の君子である。
自律的つまりアウトノームにするか、他律的つまりベテルノームにするかによって、同じ
行為にも、善悪の差別が生じる。
ドイツ人はドイツのビールとドイツの女子を自慢する、フランスの女の愛は結婚中、イ
ギリスの女の愛は一生、ドイツの女の愛は未来永劫まで、などといって嬉しがっている。
しかし我々から見ると、ドイツの女がさほどとも思えない。我が国の女子こそ夫婦の契り
を二世三世までと信ずる者が多いようである。クルーゲの注文に合う「君の方へ」の性
質を持つ女子はドイツより日本に多い。
我が国ではかなり古くから女子の貞操を婦徳の随一と教えてきた。しかし上古の時
代には、何事も自然に任せて、形式ばったことをしなかったので、古事記などを読むと、
男女の関係はかなり自由であって、女の方で婿を選ぶ例もあり、女子の位置は案外高
かった。源氏物語には、道学者の間では淫書と言われるまでに、男女の自然の性情を
大胆に直写している。しかしこの時代には貞操観念が全くなかったというわけではない。
かの須佐理姫が「私はもともと女でありますから、あなたをおいて男はなく、あなたをお
いて夫はありません。」と歌ったのは、我が国の女子に特有の「君の方へ」の性質の自
然の発露であった。後世のように一定の教義によって女子の性情を規範する教育の
結果ではなかったのである。こんなことが始まったのは、儒教が勢力を得てから後のこ
とである。
儒教では易に「婦人は貞なものが吉、一にこれで終わる。」とあって以来、二夫にま
みえないことを婦徳の根本と教えてきた。日本でもこれが採用されて、とりわけ徳川時
代になってからは、幕府も大いに奨励した。加えて小説や演劇においても貞女は最も
人気ある主人公として盛んに民衆の間に持て囃されたので、ここに貞操論が勃興して、
一世を風靡するようになった。しかも貝原益軒の「女大学」などが広く世に行われたの
で、その気勢はますます上がる一方であった。その結果であろう、当時はかなり多くの
貞女が生まれた。とりわけ上流社会ではこの説が強く行われ、あたら歳若の婦人が多
くこの議論の犠牲になった。しかし議論の内側には、相当に反対の事実もあった。とい
うのは、当時は七去の教えというものがあったが、七去の理由がなくてもいわゆる三下
り半で勝手に妻を追い出すことが出来たのである。妻を勝手に追い出すことが出来た
世の中で、二夫にまみえずと責めても、その実行は覚束ないに決まっている。尼寺で
も随所に建てて収容しなければならない。だからこそ当時に限って特に寡婦が多かっ
たという事実もないようである。
大宝令によると、七去に対して三不去がある。結婚の当時貧乏で後に金持ちになっ
た夫は、妻を離婚できないというような例が、三つ挙げてある。なかなかよく考えたもの
で、これなら七去の説明もやりやすい。ところが益軒の女大学には、七去だけを抜いて
三不去を取り上げていない。女子の教訓のためにするのであるから、わざと略したかも
知れないが、要するに公平を欠いた見方である。
このように一方で貞操論を強調しながら、他方で七去その他の理由を公認するとす
れば、女子の立場はほとんどなくなってしまう。もし女子を子種を取るに必要な一種の
道具とみるのであれば、貞操を責めるのが間違っている。貞操を責める以上はこれを
人格として取扱わなければならない。人格として取扱う以上は三行半などで離婚する
ことは許されないはずである。こんな点を考えてみれば、当時の貞操論も実は当時流
行の男尊女卑の一般思想の産物で、深く哲学的に考慮されたものとは思われない。
どの国でも人情には大した相違はないが、気質にはかなりの差がある。例えば支那
の女子は、我が国の女子に比べれば、よほど勝気で、強情なようである。偉い賢婦烈
婦もあるがまたいちじるしい悪婦奸婦もあった。呂后の戚夫人に対する虐待は有名な
話である。それで、儒教においては成るべくこれを抑え付けるようにして、従順貞淑の
徳を養うことを女子教育の第一義として悪婦の跋扈を防いでいる。「婦の字は女に従
い、帚に従う。女は帚を持って、清掃に奉ずるからである」などとも云って、女子は下女
の役を務めるものとみる。さらに「牝鶏が朝起きしない家は傾く」という諺もあって。巌に
女子の差出口を禁じている。とはいうものの支那には「畏内」といって、ひどく妻君を畏
れたものが、立派な人の中にも多かった。
二
以上は文字上に現われたところからみた支那の女性観である。実際について見て
も、支那の女子には気が強くて御し難い悍馬が多いようである。あるいはそれ故にこそ
貞操論を盛んに唱えるのではないかとも思う。穴隙を掘って隣室を覗くなどは、決して
只の形容ではないと聞いている。これに対すると、日本の女子は気質が誠に従順で優
しい。支那で婦徳を形容するのに用いる静かで温順しいというような意味の色々の文
字は、むしろより良く我が国の女子に適している。恐らくこの点では我が国の女子は世
界にも比類がないかと思われるほど勝れている。
そしてこの柔順な気質は、儒教の貞操観念を取入れるのに最も適している。「君の
方へ」の性質を比較的多く持つ我が国の女子が、夫のために甘んじて犠牲となるのは
当然である。一定の明確な観念に到達しなくても、夫に対する愛情を永遠に保持しよ
うとする特有の優しい気質が強いからである。その上有り難い聖人の教えとして懇篤に
その必要を説き聞かすのであるから、貞操論は何時しか男子ばかりでなく、女子にも
異義なく承認されるようになったのである。
しかも貞節論をもっとも力強く支持したものに、当時の封建制度があった。封建制
度においては特に君臣(主従)の義を重んじ、「忠臣は二君に事えず」を原則とする。
これに対比して夫婦の間にも「貞婦は二夫にまみえず」との原則を生じたのである。女
大学には「女子には別に主君なし。夫を主人と思い、敬い慎んで仕えよ」と教えている。
君臣の関係と夫婦のそれとは、根本の性質が異なり、前者は義、後者は情を主とする
から、一諸に論ずるのは不合理であるが、当時は何事にも専制主義を重んじた時代だ
から、こんな不合理な対比に何の非難もなく、いかにももっともだと思われたのである。
しかし封建制度の撤廃とともに君臣の観念も変ったので、まさか妻は臣民が天皇に
対し奉る心をもって夫に仕えよ、とはいえないようになった。それで夫婦の間の法律開
係も、西洋の立法例にならって、今日の親族法のように改められたのである。大体の
主義としては、男女をほとんど同等にみて、ただ多少従来の家族制度を重んずる意味
から幾分女を抑え、義務を重くしたばかりである。昔のように男の方で勝手に三行半で
離婚は出来ないばかりか、女の方でも、夫に悪い所があれば、裁判所に訴えて離婚が
出来るようになった。離婚の理由も十箇条ばかりこの法律に規定してある。それで今日
我が国の女子の位置は、昔に比べると非常に高くなったが、それでもなお満足せず、
結婚などに関する法律の改正を促し、女子の自由をさらに拡張しようとする運動が起
っている。法律上では、女子は必らずしも二夫にまみえてならないと命ぜられてはいな
いが、だからといって女子の貞操はどうあっても構わないという訳ではない。これは道
徳問題として法律の規定にかかわらず依然として残っている。しかし道徳問題として見
ると、封建制度の時代とは、よほど異った見地から論じなければばならない。君臣の関
係を、直ぐ夫婦の関係の上に適用することは無論出来ない。法律上男女は同等にみ
られている以上は、道徳上の責任においても、男女によって激しい差別があってはな
らない。したがって貞操は単に女子の道徳であるばかりでなく、同時に男子の道徳で
なければならない。女子が二夫にまみえてはならないように、男子も二妻にまみえては
ならない、と云う結論に到着せざるを得ない。一夫一婦を両性倫理の根本とする以上、
それは当然のことである。
今日、教育ある我が国女子の間には、追々とこんな議論をし始めている。無論女子
の貞操を無視するのではない。かえって貞操を全うするために、男子の貞操を要求す
るのである。しかもこの要求は立派な道理の根拠を有するから、いずれは実現されるで
あろうと思う。世間の一部では、法律上で特に貞操を保護しない上に、女子の方でこ
んな要求を男子にするのを見て、婦徳の荒廃だなどと考える者があるが、実はそうで
ない。今日の女子が上古のように性情一点張りで、自然のままの性的生活をして行く
ことは、無論出来ない。だからといって儒教の教えそのままに、貞操を無理に強いられ
ては満足しない。教育によって覚醒された今日、女子が進んで行く方向はほぼ決って
いる。彼女らに特有な従順にして優しい気質は決して失われていない。彼女らの夫に
対する愛情も、今と昔で変りはない。二夫にまみえることは、もとより好まないところであ
る。ただ社会組織の欠陥が彼女らの希望を実現させないから、この点に向って反抗す
るまでである。そしてその目的は言うまでもなく、この欠陥を補って各自が貞操をまっと
うすることにある。異常な論者は別ににして、真面目に一夫一婦の主義に反対し貞操
観念を破壊しようと企てるものはいない。
要するに我が国の女子の貞操観念は、古代には極めて薄弱であって、儒教によっ
て始めて意識的に教えられたが、それは他律的であって、しかも他の事情はこれをま
っとうするためには極めて不適当であった。そして今日は貞操観念が、他律的より自
律的に移ろうとしている時代である。言葉を換えて云えば、我が国の女子は、今やそ
の特有の「君の方へ」の性質に相当する男子に対する態度を、自覚の結果として自律
的に決定しようとしているのである。
神道と国民性
文学士
清原
貞雄
一
神道という信仰が吾々大和民族の国民性を醸成したのか、または吾々の固有の国
民性が神道という一種特別の信仰を生み出したのかということは、ちょうど卵と雛と何れ
が先きに出来たかということに似寄っており、要領を得ない考案である。そしてその間
には他の色々な事情が互いに因果関係を結んでおり、決して単純に考えられない問
題である。しかし大体において、大和民族の国民性情が神道という一種の信仰を作り
出したと考えたいと思う。ここに「神道と国民性」と題したのは、「神道を考察する時、そ
こに国民性情がいかに現われているか」を意味しているのである。そして神道が主とし
て原始神道つまり外国の思想信仰の影響を受ける前の神道を標準にして論じている。
しかし、神道が外来の思想信仰に接してどのような影響を受けたか。または受けなかっ
たか、どのように調和したか、あるいは調和しなかったか、ということもまた国民性を示
す一つの材料である。今これらについて大体の考察をして見たいと思う。次には行論
の方法(あるいは形式)であるが、これを長所と短所とに分けて論ずることも出来る。あ
るいは道徳、感情、理解性などに分けて論ずることも出来る。しかし場合によっては必
ずしも確然と区別し得るものではない。第一の場合においては長所であると同時に短
所であることが多い。第二の場合で云えば、道徳的にも感情的にも根拠を持っている
という場合も少くない。よって区分して論ずるのは不便である。それから国民性を論ず
るといえば、一も二もなく美点のみを羅列して、いや、何もかも美点と解釈して我田引
水あるいは附会牽強までして国民性を論ずる流儀の論者がある。これは贔屓の引き倒
しである。私はなるべく公平に、神道を通じて観察される国民の特性を、長所短所、美
点弱点ともに考えて見たいと思う
二
まず神道は、宗教の中では現世的である。現今の仏教その他の宗教や思想の影
響を著しく受け容れている神道は別として、原始神道においては未来世という観念の
存在はほとんど認めがたい。「夜見の国」という死後人間の行く場所に関する伝説は残
っているが、それは人が死んで誰もが行く所であるという風には物語られていない。ま
た、そこの有様は何ら現世と異なった生活を示していない。もちろん現世を捨てて未
来に到達する美しい世界であるなどという風には少しも物語られていない。ほとんど現
世以外の考えは原始神道では認められていなかったと考えても差支ないほどである。
これは一面には国民の性情が楽天的であることと、他の一面では国民の考え方が浅
薄であることを示している。このように二つの方面に分れてはいるが、実は基く所は一
つにあるので、これは風土の影響によるものと考えられる。国民の生息する世界は小さ
い島国で、他の大陸国に見るような雄大な威圧的な自然や風光はほとんどない。皆小
規模な愛らしい風景に接している。底の知れない深山、物凄い渡れそうもない大河は
見当らない。たかが二、三日も歩けば突き抜けられる小さい山や、小舟が一艘あれば
自在に渡れる狭い川ばかりである。山や川が大神秘を人間に吹き込むことはほとんど
ない。あらゆるものを焼き枯らさずにおかない暑熱は見ることができない。冬期何ヵ月
かを陰鬱な吹雪に閉ぢ込められ、血も肉も凍ってしまうような八寒地獄の苦痛を受ける
機会はない。すべてが中庸である。四季折々の風情はむしろ美しさ、楽しさを教えるも
のであって、厳しい苦しさを与える場合は極めて少ない。また島国に孤立して国をなし
た結果.折々他の劣等土民と小さい戦争をする機会はあっても、常に終局の勝利は
自分の側にあったので、他の大陸に国をなし時々強大な大敵のために襲撃されて、
親を殺され妻を奪われ子をさらわれ、部落を挙げて焼土に化するという悲惨な運命に
はほとんど遭遇していない。大体において妻子もろとも楽しい生活を続けて天寿を完う
した後に老いて死んで行く。激しい煩悶や苦痛を呉えられていいない。そこにどうして
現世の事物をすべて悲観し否定して、あらゆる希望を未来世に繋ぐという厭世的な宗
教なり信仰なりが起り得ようか。何事も現世を楽しみ、現世に満足し、現世の幸福のた
めに祈る神道の信仰は、この楽しい、中和な周囲の環境から生れ出たものにほかなら
ない。浅薄といえば浅薄であろうが、その浅薄は必ずしも智能の劣等を意味するもの
ではない。生活が苦痛というよりもむしろ楽しいから楽天的なので、この現世に満足し
ているから未来世を考えなかったのである。考える必要がなかったのであり、後に仏教
が輸入されて未来世に対する教義を教えられても、国民は仏教の教義として知識的に
考えたばかりで、国民の内的生活との交渉は極めて薄かった。未来世への橋渡しとし
て意味のある諸仏に対しても、やはり現世の福祉を祈ったではないか。これが本当に
未来教として国民の間に生きて来たのは、ずっと後世、真宗が樹立されてから後の話
である。当初に未来世ということを知る力がなかったのではなく、知る必要がなかった
のである。知ってもその必要を認めなかったのが何よりの証拠である。
!
三
次に、神道の根本義は祖先崇拝である。もちろん神道は要素が多岐多様であるが、
中核をなしているものは祖先崇拝である。これは今さら云うまでもない。祖先崇拝は歴
史上いかなる社会にもかつて存在したが、多くは亡びて終った。ただ吾が国だけに比
較的完全に保存されて来た。それは主として社会組織によるところであるが、国民が
むしろ感情的であることを示している。西洋人が日本人を評して、喜怒哀楽を面に現
わさない国民である、感情性の発達が足らぬ国民であると評するのを往々聞くが、これ
は元より皮相な観察であって、日本人が人前で喜怒哀楽を容易に面に現わさないの
は、本来の性情に反して、多年の間の修養によって克ち得た仮相である。武士階級が
社会全般の原動力となった時代に発達した武士道や、侠客仲間に発達した男伊達と
いうものが強いた一種の修養によって養われた二次的の性情から表面上日本人が無
表情に見えるまでであって、一面儒教の影響も大いにあずかって力があるが、決して
国民本来の面目ではない。まだ儒教の影響も大きくなく、武士道などということが発達
しなかった時代におけるの国民の心の扉として選ばれた万葉集などを見るなら、日本
国民がいかに感情に生きた国民であったかが、明らかに窺われる。誰しも自分を慈育
して呉れた父母を愛慕しないものはないが、感情の強い日本人が父母を思う情は一
入深くなければならない。生前愛してくれた父母が死んだ後までなお忘れかねて、生
きたままのように仕えたいと思うのが子の至情である。この至情が祖先崇拝の起る原因
の一つである。ある一派の社会学者や宗教学者は祖先崇拝を蛮人の死者に対する恐
怖心に基いて起ったものであると説明する。しかし吾が神道についてはどうしてもこの
ことは当てはまらない。恐怖心から父母の霊位を礼拝したとする証拠はどこにもない。
生前自分を愛護したように、死後ももまた冥々のうちに自分ならびに自分の子女等を
護って呉れるものと考えて奉仕したとしか思われない。子としての情がこのように信じさ
せるまでのことであって、別に理窟を立てたものではない。一般社会においては文明
が進んで行くにしたがって、祖先の霊を崇拝するよりも、より合理的と思われる信仰を
理窟の上から打ち立てて行き、そしていつしか祖先の霊位を拝し祭るという単純な信
仰は斥けられ忘れられてしまう。しかし本人の場合は、父母、祖父母などに対する愛慕
の念を忘れ去るには余りに感情が強く、子としての至情が熾烈で、また純であったこと
が他の社会と趣を異にして、今日まで祖先崇拝を維持している理由であろうと思う。も
ちろんこれには社会的な色々の事情も手伝っているであろうが、この愛慕の念が強い
ことが確かに一つの理由であると思う。
四
次に祈祷心理から見た日本人の国民性である。世界の文明諸国の内で日本人ほど
公徳心の乏しい国民はないとはよく論じられる。また現在、公衆道徳に対する訓練とい
う点から見ると、西洋の諸文明国に比して日本が遥かに劣っていることは否定出来な
い。しかしこれは社会上の色々な事情からこうした訓練を受ける機会がなかった結果
であって、大和民族が本来利己一点張りの民族であったとは、古神道の上からは認め
られない。神道の方で行う祈祷を観察すると、どこまでも国家的であり、社会的である。
国家のために祈り、社会共同のために祈るのが常に中心であって、個人的な幸福を
祈る場合はほとんど認められない。これを耶蘇教なり仏教なりと比較するとよほど趣が
異っている。現今耶蘇教や仏教が国家なり社会なりといかに調和を図りまた保ってい
るかにかかわらず、その根本原理はどこまでも個人的である。耶蘇教で重んずるのは
博愛であるが、それは神の思召にそい、神の恩寵を受けて未来世において天国に生
まれるための一つの手段として博愛主義を実行するのである。博愛そのものが終局の
目的ではない。究極の目的はやはり自己未来の幸幅である。仏教においても、現在、
国家主義や、忠君愛国ということとどのような関係を結んでいようとも、それは後世にお
ける一つの変装(それが同化であるとも、進歩であるとも、堕落であるとも見方によって
はどうでも見られるが)であって、本来の面目から云えば、現世の苦悩を脱して未来世
における安楽を求めるのが究極の目的であって、どこまでも自己本位である。何か少
しの面白くないことがあると云うので、父母妻子の悲歎困惑をよそに見て、独り山に入
って仏門に入るのを当り前のように考えた平安朝頃の仏教かぶれの公卿達や、父や
母の血涙をもって諌めても頑として聞かずに信仰のため(天国に行きたいため)改宗よ
りも刑死の方を選んで従容と死についた徳川時代の禁教以後の天主教徒の心持には、
自分を愛し、自分を頼る周囲の人々が泣こうが困ろうが、ただ自分さえよければよいと
いうところがあるのではないか。しかもこれは耶蘇教や仏教の根本原理からいえば少し
も間違ってはいないのである。
神道における祈祷は直接祈る事柄がそのまま目的であって、他の目的に対する手段
でも何でもない。試しに祝詞式についてどのようなことを国民が神に祈祷するかを見る
と、すべて国家のためであり共同のためである。国家のために五穀の豊穣を祈る、朝
廷の栄えと御世の平穏無事とを祈る、春日祭や広瀬大忌祭、天皇、朝廷、君臣百官
の夜昼の守りを祈る、平野祭や久度古開の祭り、その他月次祭、大祓、道饗祭など、
あるいは民衆のために災害を祈祷し疾病を免れることを祈る。すべて公衆のためまた
は国家のためでないものはない。自分一個の幸福のために祈るものは一つも見当らな
い。神道を通じて見た国民性は決して公共心に欠如していないと論ずる理由である。
五
次に神道を通じて見た国民の性情が極めて自然的であるということである。いわゆる
「神ながら言挙げしない国」という語は昔からかれこれ理窟を云わない国ということであ
るが、ただ口で理窟を云わないばかりでなく、考え方、信じ方、すべて理窟を抜きにし
て素直であった。感ずるままに信じ、思うままに理解したように思われる。したがって物
事に大きな疑問を起さない。日本にいわゆる成立宗教なるもの、つまり自然のままの
信仰に満足せず、ある人為的に作られた宗教が発生せず、後世まで当初の信仰の祖
先崇拝が維持された――中途に仏教のような成立宗教が輸入されたにもかかわらず
――理由の一つはここにある。一面においては極めて楽観的であり、したがって万事
浅薄な点があることは争えない。古神道は、後世の神道学者がよくいうように、深遠な
六ヶしいものでは決してない、簡純なものである。簡純ということは価値が少いという意
味では決してない。巧妙な論理を立てて他宗との宗論に打勝っても、自分はそれに絶
対安心して信仰することは出来ない宗教と、理窟は何だか知らないが、ただ心の底か
ら信じられるから信ずる、という宗教とどちらが優れ、また劣っているか、軽々に判断す
ることは出来ない。宗教は信仰であって理論ではない。いくら理屈が進み向上しても、
信仰を失えばもはや宗教ではない。宗教信者が他派を互いに迷信呼ばわりするほど
愚かな話はない。誰か烏の雌雄を知らんやで、要するに水掛論である。とにかく神道
は本来簡純なものである。悪い方面から云えば大和民族の性情の浅薄な、上滑りな、
徹底を求めない点から来ている。日本にこれまで大発明のなかったことも、一つは外
部からの刺戟が足らなかったからであるが、一つはこの満足し易い性質から来ている
のである。善い方面から見れば、軽快な、淡泊な、素直な点である。古来国民の長上
に対する服従がよく行われたが、よい意味においても悪い意味においてもこれから来
ている。歴史上、他の国々に見るような残忍酷薄な事例に乏しかったこともここから来
ている。これはやはり最初にも述べたような風土その他四囲の環境上の影響を受けて
いることはいうまでもない。
考え方が自然的であるということは神をいかなるものと見たかという点にも表われて
いる。神の性質には普通人に近い性情を帯びたものが沢山ある。神が人に化して在
家の子女に通ずるということは、そのもっとも著しいものであって、神といえども特別に
理想化されたものではなく、ある点では人間と同じように情を持っているものと考え、そ
の間に人為的な考案を加えて修正することはなく、語り伝えられるままに信じて疑わな
かったのである。
こういう風であるから、道徳についてもあまり厳格には考えなかった。復古国学派の
人々が、我が国の上代には、言挙げはしなかったが五倫五常の教えは完全に備わっ
ていたと主張するのも、ただ自然に行われたと主張すれば差し支えないが、口で言わ
ないだけで各人皆五倫五常に対する善悪の批判をわきまえていたという意味なら間違
っている。上代人は善悪にある程度まで超越していたとみるのが、もっとも妥当であろ
う。ただ思うままに振舞ったが、自然に大きな過悪もなかったというまでで、自分なり他
人なりの行為に対してやかましい道徳的批判は下さなかった。極めて自由で自然な考
え方を持っていたと思う。
六
清浄を貴ぶということも、神道に現われた国民性の特色の一つであろう。神道では
穢れをもっとも忌む。祝詞の中に見えた「天津罪」「国津害」と称する罪悪観の中にも、
農業を故意に妨害するとか、動物などに対して不仁な行為をするとか、自分の血族の
ものを犯すというような不倫な行いとかが有るにはあるが、中には純然たる穢れに属す
るものがある。人間が心から犯した悪行と、自然に人間が被った穢れをほとんど同一
視しているのは、上代人の素朴な大まかな考え方が現われているのであるが、同時に
穢れをいかに重大視したかが窺われるのである。古神道の神事中では重要事の一つ
であった六月と十二月の大祓は、まったくこの罪と穢れを神の慰霊を借りて払い落す
のが目的であった。また禊(みそぎ)ということも後世では単なる形式になってしまった
が、本来は何か穢らわしいものに接近した場合に、実際に河辺や海に行って身体を
洗い清めたもので、こうして始めて安心出来たのである。取り立てて穢らわしいものに
触れなくても、神を祭る時には事前に必ず文字通りの清めを行う。これは今でも神職の
間に厳格に行われている。このようなことは耶蘇教にも仏教にも聞かないことである。
日本人の清浄を好む心持から生れたものである。神社、神事に関係したものがすべて
白色を貫くことも同一の理由から来ている。社殿は必ず白木造であり、祭服は白色で
あり(現今種々の色別けをするのは、後世位階ということが定まってから設けられた制
である)、幣帛も染めない木綿が本式で、五色の旗を用いるなどは、後に支那の五行
思想の影響を受けて現われた事実に過ぎない。
七
国民が快活であることも神道の祭祀に現われた一つの特色である。宗教といえば概
して陰欝を連想する。重くるしい気持が伴う。そうでなくても哀愁的な気分が勝つのが
普通である。禁慾的である。しかるに神道ではすべて明るい。荘重ではあるが陰欝で
はない。神々しいことは荘厳を意味するけれども、仏教の方の寺院の本堂に入った時
とは余程趣きが異なっている。祭事に用いる楽器も仏教など聞いていて物悲しくなるよ
うなものとは違って余程陽気なものである、活発なものである。気分の浮き立つようなも
のである。中でも著しい特色は神祭に酒を用いることである。酒の性質については今さ
らここに述べる必要はないが、神を祭るに酒を必須の品と認めているところに快活な国
民性が極めてよく現われている。神前に読み上げる祝詞も極めて明快なもので、仏教
での談経声明とは余程様子が違っている。これらは前にも云ったとおり国民が現世主
義であり、楽天的であることとまったく関連しているのである。また祝詞式の出雲国造
神賀詞に現われている国体の形容や、大祓詞に見えた天津神が出現して罪という罪
を払い清めることの形容は、極めて雄渾な趣きがあり、祈年祭の祝詞に見える天照大
神に国土平定、異族克服の祈願の条は極めて生々発展的な点がある。これらは皆国
民の快活性と結んで始めて解釈できるものである。
このように神道では生々発展主義であるとともに、一方では保守的であり、秩序を重
んずるという点がある。祖先崇拝がそもそも保守的であり懐古的であるところからもそれ
が言える。神道の祖先崇拝は、儒教が入り、仏教、耶蘇教が入って来ても一向に衰え
ない。これが国民の保守性に富んでいる事実を有力に説明している。家を重んじ名誉
を尊び主君に忠愛を尽すことも、祖先崇拝の観念と離れることの出来ない関係を保っ
ている。武士が戦場に出て名を重んじ、命を鴻毛の程合いに比するというのも、一に
祖先の名を恥かしめず、進んで家名を宣揚しようというのが主な目的である。皇室に対
し忠義を尽すことは、必ずしも今日唱導されている君民同組、宗家支族という関係に
基いて理論の方から実行されたものでないかも知れないが、少くとも自分の父祖以来
仕えて来た君主という点から、自分の祖先を崇拝することと関連した意味は明かにある。
八
最後に神道の沿革の上から見て、国民性が極めて融和的であるということが考えら
れる。宗教的信仰は多くは排他的、不調和的なものが多い。相接するとき他を滅ぼす
か、自分が排斥されるかの場合が多い、耶蘇教の歴史はことごとくそうである。神道は
この点が余程趣きを異にしている。支那から輸入された儒教や道教、引き続いて輸入
された仏教などは、ことごとく神道に取り入れられている。ことに支那の陰陽五行説、讖
緯(しんい)説などは非常に密接な関係を神道と結んでおり、また支那で拝祀された
色々な神がやはり我が国でも排斥されずにある範囲で信仰されている。仏教とはいわ
ゆる本地垂迹の関係によってほとんど同一視されるまでに結びついてしまった。また
仏教の神、ことに天部諸神などで我が神々に伍して同様の崇拝を受けたものも沢山あ
る。本地垂迹説が僧侶の細工であったにせよ、そうでないにせよ、一般の信仰界には
絶大な勢力を張ったことは、いかに国民性が拘泥しない、調和的、融合的なものであ
るかを示す。ただしこれがよい事か悪い事かは別問題である。
要するに、神道という限られた範囲の観察点から見ても、我が国民性の大体をうか
がえる。国民の考え方が現世的であること、楽観的であること。したがって多少浅薄な
点があること、淡泊であり物に拘泥せず調和的であること、理窟にうとく情に強いこと、
考えが自然的で感ずるままに信じて疑わない性情を持っていること、つまり万事に素
直であること、多少保守的懐古的であること、道徳的に云えば公共的であることなどが
主なもので、これらの中には美点長所と思われるものも、短所欠点と思われるものもあ
る。美点であると同時に短所という同一性情の両面であるものもある。そしてこの内に
は、現今吾々の間でなるほどと肯かれるものもあれば、今ではよほど変化していると思
われるものもある。長所でしかも現今亡びまたは亡びようとしているものがあれば、これ
の復活に吾々は努めなければならないと思う。
仏教と日本国民性
島地
大等
一
日本人は宗教を理解できる国民かということは、ほとんど問題にならないほど自明な
事実であるにかかわらず、一部の学者は古代日本の国民性として諸々の特色を数え
る中に、現実的であり楽天的であることを必ず云々する。ややもすればこれを日本国
民性の誇りとさえ考えているものがあるから、こんなことまでが問題になるのだ。どこの
種族を問わず、太古未開の時代は現実的であり楽天的でないものはない。人文の発
達とともに段々深く広く高いものに進んで行くところに価値がある。素朴な現実主義や
楽天思想はちょっと人好きはするが、事実浅薄なものであって、ほとんど無内容に近
いものである。私たちの考えでは、もっと深いところに国民性の誇りはありはしないかと
思う。清浄を尊ぶことも、模倣性に長じていることも、茶人趣味に富むことも、それぞれ
特色として見るべきではあるが、根本的に日本人は宗教的に成立っている国民である
ことは疑いないと思う。古事記、日本書紀に現われている神話とか迷信から参考になる
ことは多いが、特に重要なことは天孫降臨の伝説の中心である天勅そのもの、いや天
勅の今一つ奥底に潜んでいる天照大神と天孫との胸にあり、胸に刻み付けられた天
壌無窮という信念、この信念を日本民族のすべてに通じ、古今変らず伝えているところ
に日本の国民性の特異があると思う。またこの信念は名のとおり信念であって、天照大
神にとっても天孫にとっても絶対的のものであって、その表現が天勅であり、これが日
本民族の伝統的精神となったのである。日本民族、日本の国民性の根底はこの信念
に立脚しているものであり、したがって日本国民性の基本的素質は宗教的なものであ
る。個々の国民にはこれを自覚しているものもありいないものもあるが、国民全体として
は論理や歴史を超越してこの信念を固有し、かつこの実現に向って順逆ともに努力し
ているところに、日本人は立派に宗教を理解し得る国民であることを立証している。日
本人は浅薄な楽天家でも現実主義者でもなければ、また低級な祈祷好きな迷信家で
もなく、天勅の奥底に潜んでいる高遠な信念理想を仰信し理解して、歩一歩相携えて
これを実現するため努力する能力を有する国民である。そこで私は日本人は宗教、特
に高尚な宗教を理解し得る国民であると信ずるものである。とかく日本の国民性という
問題についてはさして要もないことを喋々し、あるいはそれは文化の過程であって、特
異な民性と認めることではないことも、強いて大和民性に数えるし、民性の根本的なも
のを見逃すものもある。たまたまこれを注意する者も、論ずるにしたがって次第に拠り
所を失う者もある。ここにこれを一言して、以下の所論の序に代える次第である。
二
であれば、日本人は仏教を取入れる能力があるかという問題が次に来る。この問題
に関しても、また一部学者の議論に賛成し兼ねる点を一言しておかねばならない。と
かく一部学者先生たちは、日本人はどんな宗教でも教学でも攝取し、かつこれを日本
化する偉大な力を持っていると考えている。この思想は一切の思想や主義がやがては
日本化するという思い上りではないか。このような思想は過去の歴史の説明としては相
当の理由もあるらしいが、であるからといって、将来もそうだと断言は出来ない。日本の
自然と文化が、何物でも同化する力を持っているとも見られるが、また何物であっても、
日本の自然と文化に接触するときは自然にこのような形態を取るものとも云われる。し
かし日本に感化力ありと見ることも一面の真理であるが、反対に入つて来た教学その
ものに日本に対する同化力があったと見ることもまた半面の真理である。儒教には本
来、禅譲放伐という日本としては喜べない思想を持っている。これは確かに日本にとっ
ては恐ろしい過激思想である。しかし一部論者の説では、日本個有のある力によりこ
れを日本化し、日本的な儒教に改造したと見ているのであるが、儒教そのものの立場
からいえば、本来の性質を少しも失ってはいないので、日本に入った後、日本の文化
と自然とに儒教みずからが同化し今ある形態を備えたのである。それは儒教の一変態
に過ぎないともいえる。水が方円の器に隨って形を変えるように、将来その説がどう変
わるかわからない。つまり日本に偉大な感化力があると見る見方も一見識であるが、ま
た他の一面には入って来た教学そのものが、同化力を持っているという見方も認めな
ければばなるまい。近代のように交通の便が世界的に拡大され、日本の文化が万国
的関連を持つようになれば、感化の力も薄らぎ同化の必要も減って来ることはやむを
得ない。そこで従来のように楯の一面のみを眺めて自大思想に陥ってはならないので
ある。したがって、神道は固有の思想であり、儒教は外来の思想であるというような立
場から特殊な見方をする態度を改めて、仏教であっても基督教であっても、それぞれ
の教学をそれぞれ独自の実態、実相として公明正大に研究する態度を失えば、日本
の国民性を如実に正しく検討することは困難であると思う。一言で云えば、従来のよう
な誤った自大思想ではなく、正しい公平な態度に立って過去現在の教学を研究し、そ
の実相を究めて将来に資すべきであると思う。
仏教が日本の民性とどんな関係を持っているかという問題も同じことである。外来思
想ではあるが、日本の偉大な感化力によって日本民性との融合を見た、と考える論者
は、一方的な考えをする人間だと言うのである。日本民性には元より感化力もある、し
かし相手に同化力のあることをも忘れてはならない。固有のあるものを捨てて新来のあ
るものに革新する向上性というものもある。それと同時に仏教を立場として見る時は、
仏教にも偉大な同化力があって、自ら進んで日本の民性に同化したのである。ことに
同化とともにその固有の思想信仰を日本民性に宣伝し、何物かを吹き込み、これを感
化したところがあったことを忘れてはならない。日本が仏教に与えた感化力と、仏教が
日本民性に与えた感化力との質と量に関する考察が公明正大に行われなければなら
ない。おもねってはならない。曲がりくねってはならない。日本の国民性という問題に
対すると、ただちにその議論をそれに持っていこうとする。その気持は国民としては誠
に尊い本能、いや信念であるが、信念は信念として一度は冷静に公正に検討し、現今
および将来に資する必要がある。
三
仏教と日本民性との交渉を論ずるには、是非仏教そのものの性質について知る必
要がある。仏教とは何かという根本間題を論ずる暇はないが、とにかく仏教は単なる宗
教 Religion ではないことを知らねばならない。世人は訳もなく仏教を宗教と定めている。
それがいろいろな誤解の基になっている。仏教の内容には哲学もあり宗教もある。強
いて総称すれば一個の教学である。この教学を国家とか国民性という概念に結び付け
て論ずる場合には、当然ここに論理的な仏教と歴史的な仏教との二個の考察を区別
する必要がある。論理的仏教とは、仏教の哲学――根本原理である。全人類に普遍
妥当性を持つ力である。各民族各種族を平等に活かす力である。仏教独自の教学的
説明によれば、全法界の生命であり光明である。究境的文化価値を人類に賦する使
命を持つばかりでなく、自然の上にも一様に恵沢を光被する真理の太陽であり空気で
ある。であるから、必ずしも印度に発生したからとて印度思想でもなく、東洋思想に固
着するものでもない。全人類の要求に妥当し、どの民性にも生命を賦するものである。
だから仏教は達磨阿育(ダルマ・アショカ)大帝が西洋紀元前第三世紀の頃仏教の世
界的宣伝を試みてから、印度の故地を離れて世界的に突進している。婆羅門(ばらも
ん)教などはちょうど日本の神道のように、その国土を離れては意義を失う性質のもの
であって、世界的ではあり得ない。仏教の哲学が何物をも超越しており、しかも何物を
も活かすということが、その根本原理であることが世界に生活するどの国民とも同化し
感化しうるゆえんである。重ねていうが、仏教の論理的特質は一切を超越しつつ一切
を活かすという点にある。ものを区分し、排斥し、争い戦うことは仏教の理想ではない。
何物をもその価値を認め、その意義を表現できるようにし一切を活かすところに特色が
ある。今日本という国家、民性とこの思想との関係を考えると、確かに仏教思想は少し
も損傷することなく、固有の本義を保存してきている。歴史を回顧すれば、日本民性と
仏教の論理的価値との関係は、上古より近代に進む間に次第に深まってきている。し
かしこの方面は与えられた問題とはやや異なるので深入りしないでおく。
歴史仏教は、印度に現われた釈尊の人格およびその教化を出発点として今日に至
るまでの二千五百年間の教学の歴史を考察するものである。仏教の専門的見地から
すれば、前に述べた論理的仏教が示す理想は、必ずしも限られた東洋とか世界人類
とかに妥当する真理ではなく、地球の衛星である月にも、太陽およびこれを中心とした
太陽系の一切の星の世界にも、さらに我らの属さない一切の天体にも、すべてに妥当
する真理をいうのである。この意味においては、仏教は余りに空漠としていて我らには
何の交渉もないように感じられるが、実際にこれを究明すれば、終局的には我らが歴
史的仏教の啓導によって得た信念そのものとなる。この信念が論理的仏教の実際的
本質である。決して空漠で捉えどころがないというものではない。一面理想的であって
同時に現実的なものであり、このことにより、論理的仏教と歴史的仏教は一致するので
ある。
四
歴史的仏教は、人類の歴史に示した仏教の痕跡であるから、あるいは大小、あるい
は深浅さまざまに、その流伝の地域および時代に応じて種々の足跡を残してきた。今
これを細説する暇はないが、誰もが知るように、我が日本に伝え日本の民性を啓明し、
日本的仏教形成したのは、歴史的仏教の日本における特色である。これについては
日本文化の太祖であり、日本仏教の高祖ともいえる聖徳太子の偉勲を讃仰しなけれ
ばならない。太子は十七条憲法を制定し、固有の国民的信念をはじめて文字に示し
一君万臣の大本を明らかにし、よって大和民族の万古変わらない精神的規範を示さ
れた。以来東大寺の建立が護国の思想を本にし、伝教大師は鎮護国家を唱え、弘法
大使は教王護国といい、栄西禅師は興禅護国といい、親鸞聖人は真俗二諦と教え、
日連上人は立正安国と叫び、いずれの時代、どんな聖人が現われても一様に、この
国家の民性の中核に向かって唱導を行った。この問題はおそらく細説を要しないだろ
う。ただしこれに付帯してぜひ言っておきたい大切なことが二つある。その一は、一部
仏教徒が考えているように、日本の仏教は絶対的国家国民という範囲から一歩も出る
ことが出来ない性質のものかどうか。他の一つは、仏教が国家的であることは日本の
民性によって形成されたもので、仏教本来の性質ではないという論議は、果たしてどう
かという点である。
後の方から論ずると、大乗仏教の見地からすると国家観念の大小は絶対的なもの
ではなく、人間思想の過程であると見る。さらに一歩を進めると、一部学者の言うように、
仏教が日本に来る前は国家主義の要素はなかったというのは、妥当ではない。仏教が
国家、特に国王として心得ること、および国王に対する臣道を教えているところはかな
り多い。仁王般若経や金光明最勝王経は特にこの問題を扱っており、心地観経は四
恩の一としての国恩に報いることを説いている。さらに大小乗ともに諸種の本生譚(ジ
ャータカ)を調べてみると、原始的本生譚の尸毘王や鹿王譚、そこから派生した各種
の比喩的本生譚には、国家と国王の問題が扱われている。これら道訓の歴史的具体
化を見ても、アショカ大王の事績は適切な例である。また二千有余年王統が連続した
シーハリース家の国家がある。仏教の教学は国家、国民を軽んじこれに対する教義、
道徳を説かないという非難は極めて皮相な声である。
五
次に一部仏教徒が考えるように、仏教は国家国民という枠から一歩も外へ出ないと
考えるのも誤りである。過去の仏教徒は決してそうは考えなかった。まず聖徳太子の憲
法そのものが、この点を明らかに示されている。憲法の第二条がそれで、「四生の終帰、
万国の極宗」という崇高な理想の下に、すべてのものが平等に相携えて進め、と教え
ている。万国の極宗とはインターナショナルな理想であり、四生の終帰とは生きとし生
けるもののともに持つ理想である。万法一如 all is one の理想に立って進む理想とは
何か。この理想の前には、何物も平等にひざまずくものでなければならない。この至高
な理想を説いて日本民性のよりどころを教えたのが第三条であり、それは国家を中心
とした民性の帰着点である。つまり太子の十七条憲法は第三条に国民性の立脚点を
述べ、第二条に人類共通の至高理想を掲げたものであり、両者を合わせて示された
のである。太子以後に現われた各時代の聖賢はみなこの点で一致している。愛国者
の日連上人は真の愛国者であった。それゆえ鎌倉の官僚を相手に戦うことも辞さなか
った。性格があくまで円満であった法然上人すら教家官僚の迫害にもかかわらず、小
松谷で超然として念仏しておられたのである。親鸞聖人も、道元禅師も,伝教大師も、
明恵上人も、みな国民生活に即してさらに一歩高いところから批判をし、指導もされて
いる。現実生活以上の世界に立って、現実生活を大観し指導しておられるのである。
この別天地を持っているところが、聖賢の聖賢たるゆえんである。したがってこれらの
古聖前賢は一面極めて従順な国民であり、忠実な国民道徳の実行者であるとともに、
一面においては十善の宝座にあった聖太子に何の顧慮もなく、同じ立場に立って教
示されたのである。この事実に照しても、仏教の性質が一面国家国民の性質と完全に
調和し来ったものであると同時に、また別に大処高処に立ってこれを批判し啓導して
いることを忘れてはならない。
六
最後にこのような仏教が特に日本の国民性に直接及ぼした感化を具体的に語る順
序になった。しかし今私はこれを細説する余裕がない。これらの感化が今や一大変化
をもたらしつつあること、およびその将来をも併せ論ずることの必要を覚えるのであるが、
今はすべてこれを控える。ただここには仏教思想の何が国民性にもっとも強度の感化
を与えたかを一言して稿を終ることにする。
日本の国民が物事に淡泊であるとか、墨絵好きであるとか、冷熱急変性とか、茶の湯
式の趣味に富むとか、仏教の無相主義に関係が厚いことは想像できる。また潔癖性と
か、善悪観念に敏感であるとかいうことも仏教と関係が多い思う。しかしこれらの枝葉
末節の問題は別にして、国民性の研究の根本問題の一つは、仏教的信仰の中で特
に生死輪廻と因果応報の関係である。いろいろの思想のうち、この二つの思想は重大
な関係を持っている。この二つの思想は素朴な楽天家で現実主義者であった日本民
族に、深遠な世界観と人生観を与えた。ここにはじめて日本民族は哲学者となり宗教
者となったのである。個人と国家あるいは国家と世界という平面生活からさらに宿世来
生という一面を加えて、我らの先祖は一個の立体的に完成した哲学と宗教を持ち得た
のである。こうして得たものは国民の肉となり血となり、以後の国民生活を統一したので
あった。この思想はたとえば国民性の中枢である国体観念に対する関係では、その観
念の絶対的意義を信念的に把持するのに大いに貢献している。恐らくどんな哲学も、
宗教も、仏教のこの思想のようにわが国体の根本義を合理的に説明できるものはある
まい。吾らの祖先はこの信念から表裏なく誠実に一君万臣の信念に安住できたのであ
る。これと同時に、また上御一人にしても現在の御境遇に満足遊ばされず、十善の果
報を得られるようさらに来世観の上より一層反省自修にいそしむという尊い御事蹟が
段々に歴史の上に積み重ねられることも、ごの思想からの当然の帰結であると思う。私
は最近大無量寿経を一読して、この思想の内容を明らかに出来たのである。
国民性の研究ということは、極めて具体的な問題であって、私の論述は不充分なも
のであると思うが、いまさらに稿を継ぐ時間を有しないので、遺憾ながらここで筆を収め
ることとする。いたずらに冗漫に流れ要を得ない責は全く私にあり、切に江湖諸賢の補
導を仰ぐ次第である。
我が国民性と往時の吉利支丹
文学博士
新村
出
一
この題の下に私の所見を述べることになつたのであるが、私は維新以後の両者の
関係にまで論及しようとは思わない。維新前の基督教つまり史上に、吉利支丹と日本
の国民性が如何に接触し、その間にどのような交渉があったかを考察するのが私の主
題の範囲である。なぜなら基督教と国家思想との関係は明治二十年代頃に我国の学
者間に一大問題となってすでにその当時一通り論じ尽された観があり、今日もはや事
新しくそれを記憶から喚起して説く必要はないと思うからである。それゆえ私がこれより
論ずるところは一箇の歴史的研究に過ぎず、日本における基督教の史論という意味の
ものであると了解されたい。なおいま一つ断っておくことは、本題に国民性という文字
を冠してあるが、これは必らずしも巌重な意味の国民性なるものの交渉をいうばかりで
ない。国民的な信仰、感情、思想、習慣などの各方面に対する吉利支丹との関係をい
ったものに外ならない。
二
切支丹が日本に渡来した時代を回顧すると、第一にはその時代が戦国時代であっ
たこと。つまり学問が衰微していた時代で、国民的な自覚がまだ発達していない時代
であった。我が国に学問が復興し、同時に国民的自覚が喚起されたのは徳川時代以
後の現象である。ゆえにその時代の前に渡来した最初の吉利支丹は、まず当時の権
勢ある豪族および富力を有する商人、それから僧侶、平民、貧民という階級の順に伝
播されたのであり、云い換えれば吉利支丹は最初自覚のない階級に宣伝されたので
ある。これらの階級は要するに知識上の愚民とみなしてよいものだから、基督教に対し
その反響あるいは批判は起り得なかったのである。ただ僧侶のうちには、新たに渡来
した宗教について反対の声を挙げたり、この新宗教に対し自己を擁護し、あるいは弁
護する態度を執ったものがあるに過ぎなかった。国民一般は前述したようにいまだ国
家的ないし国民的自覚がなく、結果として基督教に激しい反感を抱かなかった。そし
て反対の声を出し、ことに批判的態度を示したのは、徳川氏の初期時代以後、主とし
て儒家によってであった。仏教の方面ではただ自己と異った宗派に対する反対を試み
る程度のものに過ぎず、そうでない場合も幕府の命令をうけて僧侶が破邪の説法をし
た程度に終わったのである。儒家では、徳川氏初期に吉利支丹に最初の批評を敢て
した学者は林道春、熊沢蕃山らである。徳川中期になると水戸の森厳塾、江戸では荻
生徂徠、新井白石など、末期では水戸の学者たちであった。要するに徳川時代以前
においては吉利支丹は国民的感情には殆んど触れなかったと云ってもよい。一方仏
教と吉利支丹との論争は、相互の宗派間の争いが拡大されたようなものであって浄土
宗と日連宗との宗論がやや高じた程度のものに過ぎなかった。蕃山もすべての論著に
おいて徳川幕府の宗教政策を非難し、幕府が仏教を奨励して吉利支丹を抑圧するの
は矛眉であると喝破している。彼はこの矛盾は、諺にいう前門の虎を防いで後門の狼
を防がないのと同じで、仏教がすでに日本に渡来したことは吉利支丹の入るのを導く
ものに外ならず、仏教が吉利支丹の前振れあるいは先陣を切ったものであるといって
いる。彼は吉利支丹のことを南仏(南蕃の仏という意味)と呼び、仏教は西域より渡来し
たから西仏と呼んでいた。吉利支丹というような名称をつけるから仏教と違うように思え
るが、日本の国民の立場から観れば南仏も西仏も要するに同じことである。一を揚げ
て他を抑える、つまり夷をもって夷を制するという政策は愚の至りであると蕃山は論じて
いる。これは一理ある議論であって、宗教として考察する場合は決して蕃山の論ずるよ
うに仏耶両教を同じ宗教のうちの異った宗派だとするわけにはゆかないが、日本それ
自身の固有の思想感情という方面よりいえば、これを大観して同一視することも出来る
のである。徳川時代に仏教徒が耶蘇教を論じたものも、儒者が耶蘇教を論じたものも
当を得ていないが、少なくとも国民性、あるいは国民思想という方面からみれば儒者の
方がまだしも当っているといえよう。
次いで慶長年間より南蕃人が吉利支丹を利用して日本を略取するのだという妄想
や誤解を生じたことがちらほら見うけられる。見方によっては慶長以前の天正のころよ
り兆していたとも考えられる。このような迷想は元和、寛永頃には漸次具体的に表われ
てきて、ついに南蕃人の排斥、放逐の事実となり、島原、天草の戦乱を生ずるに至っ
た。この天草戦乱がわが国民に国民的自覚を喚起したことは、鎌倉時代における蒙古
襲来が国家的観念をわが国民に与えたと同じ趣きがあり、この二大事件は国民的自
覚を史的に観察する上で大きな類似点を認める。そして注目すべきは天草戦乱以後、
つまり寛永以後になると国民の耶蘇教に対する態度が戦国時代の耶蘇教渡来当時に
比べると非常に変って来た。最初日本に耶蘇教を宣伝したザビエル聖人が日本から
本国あるいは印度へ送った報告をみると、日本人は好奇心に富んで、感受性に豊か
である、また理解力に長じ、自然界の現象が起こる理由、例えば日月の運行、海潮の
干満、風雨の発生などの自然現象の原因を追究する科学的精神をもっている。日本
人のこのような性質を利用して、耶蘇教を布教したなら必らず好結果を得られるであろ
うと意見を寄せている。決して耶蘇教は日本人の信仰感情に適応しないとか、国民的
な反発に出会ったということは述べていない。また初期の耶蘇教の宣教師は、もっぱら
仏教の形態を模倣して耶蘇教の宣伝に利用したという痕がはっきり残っている。他面
当時の朝野の人々は、仏教が欽明天皇朝に始めて朝鮮よりわが国に渡来した際の朝
野の人士の考えと比較すれば格段の相違があった。一つは当時耶蘇教の東洋にお
ける立脚地は印度つまりポルトガル領のゴアであったことから、天竺の偉大な僧侶が
新しい教えをわが国にもたらしたと軽く考えていた。天文年間の古文書または戦国時
代の記録をみると、耶蘇教の宣教師を天竺の高僧とか天竺の人とか記載してあるもの
が多いのである。のみならず初期の宣教師の本国に宛てた報告書にも同様なことが書
かれていて、したがって教会の名称なども山口の大道寺、平戸の天門寺など仏寺と同
様な名を記していた。そして教会堂の建築においてもほぼ仏教寺院と大差ない様式を
襲用したものであったらしい。少なくとも西洋の教会堂の建築より日本在来の寺院の建
て方に近かったようである。また京都に布教した最初の宣教師はあえて僧侶の風態に
変装して来た形跡があり、宣教師が日本の還俗僧を採用して布教に使った事実も残
っている。要するに耶蘇教は渡来の初期には方便として仏教の形式を利用したのであ
る。
これに反して支那に入った耶蘇教の宣教師の態度をみると、よほど日本と相違した
点が多い。支那では拝礼問題が非常に喧しく論議された。これは儒教と耶蘇教との接
触に際して、支那在来の「礼」に関して起きた大問題であって、ほとんど百数年間に渡
った係争事件であった。問題の中心の一つは耶蘇教の「神」を支那語にどう訳すかと
いう訳語に関するものであった。イギリスであればゴッドというのを当時南蕃ではデウス
Deus というラテン語で呼んでいた。このデウスという語をどう訳すればよいかは実に当
時の支那の信者、ことに学問ある信者間にやかましい問題となり、また支那の知識階
級に布教する場合、宣教師自身の重大問題と考えられていた。宣教師の間では天主、
天、上帝などと訳していた。そしてこれらの訳語の適否が、明末清初における支那布
教界の論議の的となっていた。なぜなら、天、上帝の文字は古典における字義と宋学
における字義とは同一でないからであって、かような字義の解釈上の論争が学者と宣
教師を巻き込んだのである。結局デウスは天主、天、上帝との三様の文字を同様に使
用しても差支えないという解釈によってようやく解決を見たのであった。
間題の中心の二は次のようなものであった。支那人の祖先崇拝、葬礼、孔廟参拝、
釈奠(せきてん)の儀式などと耶蘇教の神の礼拝との対立衝突であって、これは前者よ
りも一層支那人の実生活に交渉する重大な問題であった。もし耶蘇教が神以外のもの
に対する礼拝をあくまで拒否するなら、支那の信者は到底科挙に及第して任官するこ
とは出来ない。また自己の実生活の向上安定を計ることは出来ない。宣教師は信者を
得ることが非常に困難となる。実生活に影響するばかりか、この問題は宗教的意昧に
おいて精神的に複雑な関係を有するものであるから、最初の宣教師はこのような特別
な場合、つまり祖先崇拝ないしは孔廟参拝などは許容して差支えない。少なくとも支
那の布教上一時的の便法として許容しておこう。精神上あるいは本質的にこれを是認
することは耶蘇数として不可能であるが臨機応変で一時許しておいてもよかろうとして
いた。しかしこんな妥協的ないわゆる軟派の意見を排斥して、絶対に神の礼拝を主張
する強硬な論者もあって、同じ教団の内でも宣教師によって硬軟二派に分れる状態で
あった。また教団全体として許容論と非許容論とが対立して互いに争い、双方引かず
ついにローマ法皇の裁断を仰ぐため、支那の宣教師から使節を派遣するとか、法皇の
方から高位の宣教師が清朝に派遣されるなどの動きもあって、この論争は一世紀余り
続き、十八世紀の半ば、乾隆帝の初めに、布教政策上の見地から許容論が是認され
て解決を告げたのである。これが支那における耶蘇教と国民思想または国民感情との
衝突の一事例である。
三
しかし日本ではこのような重大問題が起らないうちに鎖国となり、耶蘇教は禁止され
てしまった。徳川時代に儒学が勃興した結果、国民思想がめざめた時分にはすでに
禁教時代に入っていたから、支那のような問題は発生せずに終った。ただ漠として耶
蘇教は国家を害するものであるとか、南蕃人が国を奪う手段として吉利支丹を広めた
のであるという一種の脅迫観念にとらわれていたのみであって、支那のような現実的な
問題は起らなかった。日本の還俗憎ハビアンの著「破提宇子」とポルトガルの宣教師フ
ェレイラ(忠庵)の「顕偽録」は、ともに吉利支丹を排斥した著述であるが、思想問題の
中枢には触れていない。
降って徳川時代の末期に我が国に開国問題が起ると、学者とくに水戸の学者が耶
蘇教は国家のために有害であると絶叫した。これが日本における学者の声として、国
民思想の中心に触れた最初のものであった。水戸においては耶蘇教問題の由来は古
い。その端初は元禄年間に発しており、今日水戸の彰考館の文庫を尋ねると吉利支
丹に関する書籍が非常に多いのに驚く。その記録の蒐集、整理、編纂なども良く行届
いており、永年水戸学者が耶蘇教を国家として如何に処分するか、また将来同様な場
合に遭遇する場合いかに処置するかを研究していたことがわかる。なかでも文政、天
保年間の会沢正志の意見や論著はもっとも卓越したものであり、また藩主徳川斎昭の
明朝破邪集の翻刻および息距篇と題する日本吉利支丹史の編纂はとりわけ注目すべ
きものであつた。
以上のような著述が維新前の国民思想対耶蘇教関係の産物の隨一といってよいも
のである。会沢正志の論著のうちにはかなり謬見や極端な論議もあるが、しかし極めて
真摯な態度で儒教および国防道徳の立場より吉利支丹を論じて欠陥を鋭く突いた。
総じて仏教であれ耶蘇教であれ宗教それ自身の本質からいえば、哲学や科学の本体
と同じく、決して常に国家と調和し得るものでなく、時として衝突も免れないものである。
それを宗教の方面からなり、国家の方面からなり、調和を求めて両者がある程度まで
妥協してゆきつつあるところに、国家における宗教や学問の意義なり生命なりがあるわ
けである。仏教においても守護国家または鎮護国家というような精神は、日本でも伝教、
弘法などによって説かれていて、それ以来同様な精神、思想はわが国仏教の間に普
遍している。それは結局宗教が国家に順応しているものにほかならない。なお禅宗に
ついていえば興禅護国の観念、日連宗の立正安国の観念なども、宗教対国家の調和
の表現と見なすべきものである。そしてこれらは取りも直さず宣伝者の側で教を布く上
において調和的な態度を取った結果である。もし徳川時代あるいはそれ以前に耶蘇
教が順境に保護され順調に布教することが継続出来たなら、あるいは当時の吉利支
丹も支那における場合のようにある程度までわが国民思想に適応するように調和され
たかもしれない。耶蘇教そのものの本質からいえば、都合よく融和してかかるということ
は、不合理でありまた不可能かもしれないが、日本の国民性は元来調和性、中和性に
富んでいるので、そのため徹底性を欠き、終始一貫しないところがある。この特質によ
りあるいは宗教の側からではなく、国民性の方面よりほどよく融和することが出来たかも
知れない。
一方当時の耶蘇教の状態をみると、その背後には今日よりも遥かに勢力を持ったロ
ーマ法皇が厳に存在し、他面には国勢の張っていた旧教諸国が威を揮っていたから、
これらのために日本における吉利支丹は日本の国民性に対し便宜上中和策を受入れ
なかったかもしれない。
以上の言はただ私の仮想から出たものに過ぎない。最初述べたように諸問題が起る
前に耶蘇教が禁止されてしまったからである。されど結局吉利支丹のために日本の国
民の自覚が喚起されたということ、ならびにこれによって日本の国民性が大いに陶冶さ
れたということは、観方によってはもっけの幸いであり、ほとんど期待しなかった意外の
善い結果を得た。禍いを転じて福としたものであると云えよう。
一キリスト教徒の見た日本の国民性
沖野
岩三郎
一
日本最古の宗教とユダヤ教
「記紀」の二書に現われた古代日本の宗教とユダヤ教とは、非常に類似した点が多
い。西洋人は日本を偶像教国だと思っているが、純粋な日本の偶像というものが一体
どこにあるだろうか。日本の神社には鏡、璽,剣などの記念品はあるが、偶像というもの
はない。
偶像がないのになぜ太古から宮があったかというと、日本の宮つまり神はユダヤ教に
おけるモーゼの幕屋(まくや)つまり後のエルサレム神殿と同じである。もちろんその構
造はアラビヤの沙漠中でモーゼが考案したものや、栄華を極めたソロモンの建造した
ものと、日本太古の「底津石根に宮柱太く打立て、高津御空に千木高く衝き立て、千
尋の拷繩(たくなわ)を以て百結びに結びつけ、八十(やそ)結びに結び下げ、柱は太
く板は広くまた厚い」ものとはよほど違っているが、建造の精神は極めて似ている。
エルサレムの神殿には偶像がない。ただ「律法の櫃」または「約束の櫃」と称する記
念品を納めた箱を大切にしてあるだけだが、その箱の安置してある所を至聖所と称し
て最も聖い所としてある。だからユダヤの風俗習慣を守らない異邦人は異邦人の庭以
内に進入出来ず、肉体上の諸種の障りある婦人は、婦人の庭以内に進入できない。
男子でも聖所の中には入れず、専門の祭司も当番でなければそこに入ることが出来な
い。
日本の神社には鳥居があり注連縄(しめなわ)があり、白洲があり、神殿には祭司の
みが入り得るのである。神殿には拝む偶像も何もない。ちょうどユダヤの祭司が「約束
の櫃」と称する国民に取って貴重な記念品の側で、宗教上の儀式をしたように、日本
の祭司も同じように、鏡や璽や剣の貴重な記念品の側で、天神を祭ったのである。祭
った対象の神は、エルサレムの神殿ではエホバである。ゴッドである。無始無終の神で
あり、無量寿無礙光である。日本の神殿で礼拝したのは「天の御中主神」である。天神
地祇という皇天、后土というのは支那の思想であり、日本太古の民族が礼拝したのは
「天の御中主の神、すなわちもっとも高い天の中にいます神」であって、矢張り無始無
終、無量壽無礙光のゴッドであった。
常世の浪の重浪寄する国、傍国のうまし国である伊勢の神殿で、天照大神が新宵
祭に祭り給うた御神は決して偶像ではなかった。矢張り天の御中主の御神つまり天神
であった。その天神のために新宮を建て新しい御席を設けられた素戔嗚命はこのユダ
ヤ教でいえば至聖所の御席の下へ、そっと「放尿(いばり)し糞まりちらし給う」たので、
天照大神もまさかこの至聖所には……………と思われ、ただちにこの御席の上に坐っ
て御身を汚され、さてこそ岩戸にお隠れになったのであった。
素戔嗚命の犯した天つ罪の中でもっとも大きな罪は、この最高至聖の礼拝所を汚し
たとことであった。
後の世に伊勢大神宮と称する神殿は、天照大神がこの天神を祭られた至聖な神殿
であり最高の礼拝所であるのは論ずるまでもない。
印度の偶像礼拝が侵入して来た後世の習慣に囚われた人たちは、伊勢大神宮とい
えばすぐ、天照大神の偶像でも安置してそれを拝むように思い、出雲大社といえば大
国主命を祭ってあるように思われるが、押詰めて考えれば決してそうではない。伊勢派
と出雲派との合併問題が、程よく進んだ結果、出雲派の大国主命は、子たちにすべて
伊勢家へ降服するよう命じ、自らは「天の御殿のように宮柱太く」打ち立て、その宮殿
でもっぱら天神の祭祀をしたのである。
「吾治めし顕露の事は、これより後、天神の御子治め給うべし。吾は退いて幽冥の事
を治める」と云われた大国主の言葉は、外界の政治は伊勢家へ譲り、内にあって神を
祭ることは自分でするというのである。だから出雲の杵築の大宮は、矢張り大国主命が
天神を祭った御殿であり礼拝所である。
ユダヤでは予言者と祭司との二種があって、予言者はモーゼのように宗教にも関係
したが政治も行った。けれども祭司はただひたすら神事に従事した。天照大神は予言
者の、大国主命は祭司の位置に立ったのである。けれども政治と宗教とは決して区別
されたのではない。予言者が祈ったように天照大神も祈られた。大国主命は今後政事
に関係せずひたすら祭神のことに従うと誓ったのであった。
以上の事実を綜合して、私は日本太古の宗教とユダヤの宗教とはほとんど同一と言
っても差支のないほど似たものであると云いたい。
二
日本太古の風俗とユダヤ教
日本の太古には、「死荒れ、血荒れ」という言葉があった。死んだものの死骸に触れ
ることと、血を見ることを非常な汚れとした。親が死んでも神社の境内に入ることを許さ
れない、婦人の月経時にも御殿に近づくことを許されない。庖丁で誤って指先を怪我
しても祭の前に汚れたものとされた。だから負傷と汚れとは同一の語義で、「ケガス」と
いう言葉は「負傷した」ことから来ている。死んだ死骸に触れることをいかに忌んだかと
いうことは、出雲の千家の歴史を考えて見ても明瞭である。出雲大社の祭司は代々北
島家であったのが、北島家の家長が亡くなった時、相続人がその死骸に手を触れたと
いうので、千家がこれに代って出雲大社の祭主になったという話である。こんな著しい
例から考えて見ると、姥捨山という名が残っているのも、単なるお伽噺ではなく、死に
切らないうちに山へ捨てに行った習慣があったのかもしれない。
ユダヤの宗教でも死体と血に対しては、非常に穢れたものとしている。旧約聖書の
レビ記を見ると、死骸に触れた者も、月経ある者も出産した者も、みな穢れた者として
神殿に近寄ることを許されなかった。出産後二十三夜、神の宮に参ることを許されなか
った点も、日本と日数まで同じである。
「血を食うものは、民の中より立ち去らなければならない。」とレビ記十七章にある。
エノク、あるいはエリヤが地上で死なず、生きたまま天に昇ったという伝記、モーゼが
死んで葬られた跡がないこと、はるか後世になってキリストが復活して天に昇った、な
どという思想は、死体を極度に忌み嫌う国民の宗教的風俗の産物である。日本の「記
紀」を読んでみても、神代史には死あるいは死体の事を明瞭に書いていない。
伊弉冉(いざなみ)尊は、火の神を産んで、「美蕃登(みほと)焼かれて神去り」給うた
後にも、数知れぬ神々を産んだと書いてある。今日でも談話の中に「国常立尊(くにの
そこたちのみこと)が死んだ」という言葉を使えば、「死んだ」という言葉が、不敬に当る
ように思われる。また実際そんな言葉を吐くものを不敬漢だと罵る者が、神道者流には
少くないであろう。けれども日毎に生物は死んでいく。金鉄で作られていない肉体は
時々血を流す。ここにおいてその処分法を考えなければならなくなる。
三
穢多の起源
日本には昔、「穢多」というものがあった。何年頃からあったとか、何人種だろうとか
いう学者の研究に私は耳を貸さない。その名前は何時頃唱え始められたのであるか知
らないが、穢多というものの存在は「死に荒れ、血荒れ」を嫌う日本人には太古から必
要不可欠なものであったに相違ない。
日本の服忌令は、支那や西洋の人たちが喪に服するという意味とは違う。近親に死
なれたので、謹慎して哀悼の意を表するとか、故人を追慕して閉居するとかいうのでは
ない。
人が死んだ以上、必ず其の屍骸に手を触れるに相違ない。親が死ねば子が、子が
死ねば親が、骨肉の関係が深ければ深いほど多く死骸に触れるから、その人たちの
「汚れ」は神の前に深いのである。
一人の親の葬式をすれば二年も三年も、神殿の鳥居をくぐれない。従弟ハトコが死
んでも一ヶ月二ヶ月は汚れている。葬式に立会った人たちも、その日一日は神殿の注
連繩をくぐれない。他人の家に入ることも許されない。自分の家にだつて、塩をまいて
潔めなければ入ることが出来なかった。これは今日でもなお昔気質の所では実行され
ている。血荒れについてもそうである。月経時の婦人が納戸以外に出ることを許されな
いとか、三宝大荒神を祭ってある竃(かまど)の前を通行出来ないとか、神社の鳥居を
くぐることを許されないなど、今日でも田舎に行けば、隨所に発見出来る。
「藁(わら)の上から育てた」という言葉が、どんな貴婦人の口からでも吐かれる。近々
十数年前までその実例を見ることが出来たように、昔の日本の婦人は子を産む時、座
敷の上で産むことを許されないで、土間へ藁を敷いて産んだのであった。そして出血
した汚れを身に負っている婦人として取扱われ、三十三日間は別鍋で炊いた御飯を
食べたのである。
鵜萱葺不合命(うかやふきあえずのみこと)の産れ給うた記事を読んでも解るとおり、
日本の太古では神様でも、海や川の岸へ仮小屋を建てて出産された。蟹が這い寄る
ので、箒で蟹を掃った天之忍人命(あめのおしひとのみこと)は蟹守職という専門家で
あった。後の掃部頭はそれである。伊井大老も掃部頭であるから、太古であればさし
づめ竹箒をもって、産屋の周囲を掃く役目であったのである。なぜ神様でも仮屋の中
で御産をされたかといえば、出血の汚れを厭ったからである。
伊弉諾(いざなぎ)命ですら、黄泉国で伊弉冉命の死骸を見たというので、日向の
橘の小門の檍原(あはぎはら)で、「私は悪いことに、ひどく穢れた国へ行ってきた。禊
(みそぎ)して汚れを洗い清めよう」といって川の中ほどの瀬に入って全身を洗い、着て
いたものはみな投げ捨ててしまった。天神七代の神ですら身の汚れを信じ、すすぎ清
められたのである。天神以上にさらに畏れ多い神の存在を信じられた証拠であるとい
えよう。
日本人が肉食しなかったのは仏教が教えたということは大きな誤りである。魚肉を食
って獣肉を食わなかったのは、魚を料理しても多くの流血を見ないが、獣を殺せば多
量の血が流れるからである。つまり魚肉を食っても「血荒れ」の汚れを受けないが、獣
身を食えば汚れた身になるからである。
家畜が死ぬ。誤って虫けらを踏み殺す。時々負傷して血を流す。どうしたって人間
生きて働いている以上、「死荒れ」・「血荒れ」の禁を犯さないではとうてい生きていけな
い。そこで「禊」と「祓い」の必要が生じる。この「禊」の執行については、旧約聖書のレ
ビ記に実に明細に書いてある。ユダヤでは、死骸に触れた者も、月経のあったものも、
子を産んだものも、腫物を患ったものも、皆な川水で身を浄め衣類を洗わなければな
らなかった。それは単に清潔衛生からでなく、法律の条文として宗教上の巌重な儀式
としてであった。ユダヤの禊は後に洗礼となった。
日本には「祓(はら)い」というものがある。「禊」をするには到らない汚れは、神主が
代理になって祓い落してくれる。ユダヤにも祓いと同じ儀式があって、それを罪祭、燔
祭(はんさい)、火祭などと言って、祭司の所へ羊だとか山羊だとか、野菜や麦粉など
を持って行って、罪を潔めてもらうのであった。
日本にも「祓い」の専門家があって、宿屋へ泊っても、路傍で火を焚いても、必らず
神を汚す行為があるに相違ないので、とにかく専門家に祓ってもらった。こうなると神
主はいつもいつも無料では出来ないので、祓ってもらった人は、神主に対して何か品
物でも金銭でも(当時は金銭は無かったろうが)渡さなければならなかった。
たびたび祓いにやって来て、そのたびごとに品物を御礼に出すのも面倒だから、月
に一回とか二月に一回とかに、まとめて御礼を出す。それも面倒だと言うので、毎年六
月と十二月の二回に謝礼をすることになる。祓いをする人も、ついには月次になって、
お礼を呉れる時だけ祓うようになる。そして品物や金銭を謝礼に出すことを「払い」とい
うようになり、一時払い、月末払い、六月、十二月の二回の「大払い」というようになった。
それが味噌醤油呉服の代価を支払うことにも広がり、今では「はらい」とは金銭の「払い」
になっている。催促くらいでは払わないので、証書にして印紙を貼ったり、はては裁判
沙汰にまでなるのである。
神代でもこの「はらい」がとどこおったことで空前の大裁判があった。素戔嗚(すさの
お)尊の乱暴がそれである。とうとう天安河原の会議で、素尊に対して、手端(たなすえ)
の吉棄物(よしきらいもの)、足端(あなすえ)の凶棄物(あしきらいもの)といって、手や
足で作ったいろんな品物を千の倉に一杯徴収する議決をしたのであった。その支払
い命令を実行したのが天之児屋根命であった。その大祓いから起源したのちの六月、
十二月の大祓いに読む「祝詞」の中にある「国津罪」の、白子、胡久美(瘤、腫物)、自
分の母を犯す罪、自分の子を犯す罪、母と子を犯す罪、子と母と犯す罪、畜物を犯す
罪……などの条は、同じく旧約聖書レビ記十八章に犯してはならない理由まで明細に
記してある。
大祓いが一般公衆に向って平等に行われるようになったのは、「死荒れ、血荒れ」を
犯した者、死んだ者に触れたものや、血を見たものは、すべて神の前に汚れたもの、
つまり「穢多」を祓うためである。
明治維新まで「穢多」と言って忌み嫌ったのは、人格を卑んだのでもなく、人種が異
るといって嫌ったのでもなかった。「火」を忌んだのである。「死荒」「血荒」を犯して汚れ
ているものと火食を共にしなかったまでである。
「死荒れ、血荒れ」と火の関係は旧約聖書レビ記の二十一章以下に明かにしてある。
民数紀略三章には、シナイの野でアロンの子たちが、神の前に汚れた火を献げたため、
ただちに神罰を得て死んだとある。日本人が昔穢多と一つの火では暖を取らなかった
こと、神に灯明を供える時も普通の火ではなく新らしく石を打って出した火を用いたこ
と、清浄を火に求め火を清浄とする念もユダヤ人と同じ思想である。
ユダヤではこの汚れの罪を持っていない人、つまり死人に手を触れたり、血を見たり
しなかった人を聖別された人といい、そうでない者を汚れた人として扱った。ユダヤに
も「穢多」という部類があったのである。日本では「火を別にする」といい、ユダヤでは
「異火」といった。
ところが、禊や祓いがあって祭司神主が罪を洗い清めてはくれるが、だんだん人口
が増えて、世の中が複雑になると、こういう汚れを毎日毎夜、年百年中、身に引受けて
くれる種類の職業を必要とするようになる。人が死んだといえばすぐ手伝いに行き、犬
が死んだといえばすぐ屍骸を捨てに行き、猪や鹿を捕ったといえばすぐそれを屠りに
行く者、「死」と「血」も平気な、そして神聖な神殿の鳥居の中や、注連繩の中に入る権
利を放棄して、多くの人々のために義侠的な社会奉仕をしようと決心した人間を、町々
村々には必ず数人必要とするようになって来たのである。
ユダヤにはそういう義侠的な社会奉仕家が現われなかったが、日本には現われた。
その義侠家を「穢多」という可哀そうな名をつけたのである。そして彼らは「死荒れ、血
荒れ」の常習犯であるから、普通の人と、一つの火で飯を食うのも、煙草を吸うのも、手
を暖めることも許されなかったのである。無論結婚もしなかった。
こうしてこの社会奉仕者たちは、たがいに結婚して獣肉や鳥肉を扱う専門家の群を
作った。彼らは「新しい村」を作らざるを得なかったのである。そして穢多村が起り、神
社の祭祀から除外され、軽蔑された。これは実に日本古代の神祭、神(かん)ながらの
道が生み出した悲劇であった。日本に神ながらの道の流れを汲む神道が、古代のまま
存在する以上、穢多というものは消え去らないのである。広義の穢多も狭義の穢多も
………。けれども牛肉を食ったり、獣の皮を首に巻付けたりする文明人や、死骸を解
剖する博士たちにとってはもう穢多という特別の階級があるはずがない。彼らはみなな
古代の神道からいえば穢れた者つまり穢多であるから。この意味で云うと、世界には十
数億の多数の穢多がいるのである。
四
日本の人情とユダヤ人の心理
日本人は祖先崇拝を非常にやかましく言う国民である。先祖を崇拝する国民である。
家々に氏神を祭る国民である。この点はユダヤ人も同様である。古えの日本人が開国
の祖を崇拝したように、ユダヤ人も開国の祖を崇拝した。昔の日本人が天照大神を尊
敬したように、ユダヤ人もアブラハムを尊敬した。古えの日本人が天御中主神を拝んだ
ように、ユダヤ人はエホバを拝んだ。
太古の伊勢、出雲両家が中心を争ったように、ユダヤ人はイスラエルとユダとの二
族に分れて争った。しかし結局高天原族が勝利を得て、天孫民族が我が日本を治め
たように、ユダヤでもエルサレム中心説が勝を占めたのであった。
ユダヤ人が自らを神の選民だと高く思っていたように、日本人も自らを神国の民だと
思っていた。ユダヤ人がシナイ山の上から神勅が下ったと信じていたように、日本人も
高千穂山上に天孫が降臨したと信じていた。そしてユダヤ人がエルサレムを中心とし
て全世界の諸国諸民をことごとく總(す)べ治め得ると信じていたように、日本人にもそ
うした強烈な心がなお今日までも存在している。
日本人には排外的思想が強い。排外には二種ある。それは他を軽蔑するのと、他
を征服しようと欲する二つである。欧米人の中にある排外思想の多くは前者に属する。
異色人物を軽蔑したり、劣等視するのであるが、単に劣等視したり、軽蔑したりする排
外思想には、相手方を憐れがり、自分たちと同じ程度まで教育し伝道しようとする精神
がある。そして自らを先進国として誇る稚気がある。後者の他を征服しようとする排外
思想には、そういう憐欄の情や伝道の精神は見いだせない。
ユダヤ人唯一の歴史である旧約聖書は現世に残っているヘブリュー語五千六百四
十二語で記されているが、そこに横溢している思想は、征服的排外である。彼らは全
世界から選ばれた神民であって、異邦人はことごとく自分以下の汚れたものだと思っ
ていた。彼らユダヤ人は剣をもって異邦を征服しようとはしたが、異邦人に対して自分
の神を教えようとも、異邦人を救済しようともした形跡がほとんどない。ヨナがニネベの
町へ伝道に行ったことが詳しく書かれた唯一つの異邦伝道書である。これに引きかえ
彼らの征服心は実に旺盛なものであった。旧約書に記された霊教談に対する戦争記
事は実に残酷を極めたものである。
基督教が生まれた理由はそこにあった。この傲岸なうぬぼれの強い国民に対して、
奮然と立って改革の斧を揮ったものが、洗礼のヨハネとキリストイエスであった。ヨハネ
は劈頭第一に、ユダヤ人の頑迷な祖先崇拝を罵り、「君たちは、吾らの先祖にアブラ
ハムがいたとは思っていけない。私は君たちに告げる。神はよくこの石をもアブラハム
の子とならしめ給うのだ。今や斧は樹の根に置かれた。すべて善い果実を結ばない樹
は、折られて火に投げ入れられる!」と云った。口を開けばすぐ、「我々はアブラハム
の子孫だ!」と自負して全世界における最高の国民だと自惚れていた彼らの誤った祖
先崇拝を猛烈に痛罵したのである。この精神によって起ったヨハネは間もなく殺された。
ヨハネの後を襲って起ったキリストは征服的排外思想の中心であるエルサレムの御
殿に突貫して叫んだ。「私はこの神殿を壊し、三日の後再建する!」キリストの意志は、
異邦人の庭、婦人の庭、祭司の庭、至聖所など数個の階級を設けて神と人とを遠ざけ
るところの邪魔物であるエルサレムの神殿よりも、三日で建築できる仮小屋の中での真
正な礼拝が人間にとって貴いと言われたのである。やがて全世界を征服して、神意攻
治をこの神殿の中から全世界の諸国諸民の上に行おうなどと夢想していた当時の宗
教家や政治家たちを罵倒したのである。この宮殿も今に「一つの石壁も石の上に崩さ
れずにはおかれまい」といってエルサレムの滅亡を予言したのであった。
征服的排外思想は、他を征服できるか、逆に自ら悲惨な敗残を遂げるか、どちらか
である。キリストはユダヤの前途を深く憂いたから、こういったのであった。しかし彼の廓
清運動は僅か三年で終わった。彼がこのために十字架の極刑に処せられたからであ
る。しかしヨハネとキリストはユダヤ教からキリスト教を生み出した。愛国教を愛人教に
変えた。国家教を世界教にした。今の日本にもヨハネやキリストを必要とするのかどう
か、それは国民各自が顧みるときだと思う。
五
新日本とキリスト教
ユダヤ教に酷似した旧日本の思想界へ、まず植え付けられたものは儒教であった。
儒教と前後して陰陽道が入って来たらしく、後に仏教が渡来し、初めて日本は新しい
国となった。ユダヤ教から生まれ変わったキリスト教が、祭祀的罪悪観よりも人間個
人々々の内心に重点を置いたようにように、新日本へも儒教の道徳が輸入された。そ
れは従前のような人間自然の性情に順応したものより、更に厳格な方面に一歩を進め
たものであった。忠といい孝という、仁といい義という。これらの支那から輸入された形
象文字が、新日本人の頭をよほどハイカラにした。加えて仏教が人心に食い込んで来
た時、新日本には哲学が与えられた。宿命的な運命観、人生観が与えられた。こうし
た新日本は今日までおよそ千五百年を過している。けれども天孫民族が、高天原から
持ち来たした日本魂は、依然として深く根底に残っている。
ユダヤ人とキリスト教とが全然区別されたようには、旧日本と新日本とは変改されな
かった。儒教という古い道徳の衣に包まれては見たが、日本魂は矢張り日本魂として
残っていた。いわゆる和魂漢才であった。仏教という宗教哲学は、一時日本人のすべ
てを魅了した。しかしそれは矢張り外皮にだけしか及ばなかった。日本魂は依然として
日本魂として残っていた。天照大神をも大国主命をもことごとく本地垂迹説で仏化し、
あらゆる明神を権現様にして見たが、出雲も伊勢も諏訪もむかしながら泰然として日本
の神社である。どんな教えが来ても、どんな哲学が来ても、何ともすることの出来ない
日本魂というものは、日本の国土とともに厳然として存在している。それは伊弉諾、伊
弉冉尊時代から連綿として存続している日本魂があるからである。
千数百年の間、儒教や仏教の外皮を被っていた新日本は明治維新後、突如として
旧日本本来の面目を発揮して、排仏毀釈を唱え出し、仏寺を壊し僧侶を斥けたのであ
った。続いては事を干戈に訴えて、千五百年前に儒教を伝えてくれた支那を平身低
頭させ、彼の教えた忠義の二字をこちらから解釈して見せた。
遅ればせに入って来たキリスト教などは、こういう時になるとほとんど取るに足らない
微力であった。 旧日本に酷似したユダヤ人は、固く自分たちのユダヤ教を守って、今
や全世界に散在している。あくまで排外的であって団結心の強いユダヤ人は、日本の
ように干戈に訴える力を有していない。しかし彼らは驚くべき財力を持っている。彼らは
財力によってやがては全世界を買取ろうと計画しつつある。この金力こそ彼らの取る精
鋭な武器である。
旧日本から復活した近代日本――太古の宗教生活に戻った日本――にはもう儒教
も陰陽道も仏教もない。なおさらキリスト教もない。ただ存在するのは日本魂である。維
新の日本魂である。この日本魂はいかなる国情とも調和し得るものではない。いかなる
宗教も哲学もこれを何ともすることができない。実に世界にただ一つの強い強い力を
持った日本魂として、偉大な決心をもって復活して来た近代日本よ。御身は今や天
(あま)の浮橋に乗って、天(あめ)の瓊矛(ぬほこ)を執り、新しい意能碁呂(おのころ)
島を南方に産んだ。また生国足国(いくくにたるくに)としての大八島を西の対岸に産
んだ。さらに海神(わたつみ)、木神(きのかみ)、野神(ののかみ)を産もうとしている。
行けども行けども尽きない広い野の神を産んだ新日本は、今やしきりにその野に金山
の神、つまり金山毘売命(かなやまものみこと)を産もうとしている。
現代日本が生成化育の大業をするためには、「荒振る神の多いこと、ああいやだ、
いやな国なことだ」と叫んで、十拳(とつか)の剣を浪の穂にさかさまに刺し立てて少し
も異としない国民。そして彼らは、底津石根に宮柱太く打立て、高津御空に千木高く
衝き立てた靖国神社に祭られることをのみ願うのである。
ユダヤ教から新たに出たキリスト教は、遂にユダヤ人に一人の信者も得なかった。け
れどもキリスト教を創造した者は矢張りユダヤ人であった。現代日本における仏教家も
キリスト教家も、等しく日本人である。しかし旧日本に復活した維新の日本魂を所持す
る日本人にとって、彼らはユダヤ人に対するキリスト教徒である。ユダヤ人にはユダヤ
教があり、強烈な愛国的ユダヤ教がある。旧日本には旧日本の風俗があり宗教がある。
これには一指を染めさせないのが、真の日本魂であろう。改革を叫ぶ国民は「とつ国
人(外国人)」ではないか。日本魂を持たない国民が、この光輝ある日本魂を羨んで、
かれこれ言ったとて決して恐れる必要はない。ユダヤ人が金力で全世界を買おうとす
る時、武力ある者は武力によってのみ事をなすと考えるのが当然である。こう考えること
が、復活する太古の日本人の考えであろう。「異数の徒よ、夷狄の輩よ、お前たちはた
だ手を袖にして傍観するがよい。」こんな返辞が、仏教徒にもキリスト教徒にも、今や等
しく投げつけられているのではなかろうか。
「潮沫(しおなわ)の留る限り、狭き国を広く」せよと雄叫(おたけ)びする国よ、とこし
えに雄々しかれ。仏教もキリスト教も太古の日本とは何の関りもないであろう!
民間信仰に現われた国民性
〇
加藤
拙堂
民間信仰と国民性
日本で宗教とされるものは、神道と仏教とキリスト教である。しかし国民多数の信仰を
支配するものは、正常な意味における神道でも、仏教でも、キリスト教でもない。それは
一種奇態な信仰で、文化史上においてはもっとも幼稚な原始民族の信仰の混合した
ものに過ぎない。私はこれを称して民間信仰と呼び、堂々とした経典や、合理化された
その解釈や、文化的に改訂された尊厳な儀式の上に現れた表面的のものよりも、国民
心理の秘奥に触れることが多いものとして観察する価値があると信ずる。何となれば、
これらの民間信仰は、当該社会の自然と人事状態の中で発生し、濃厚な国民的色彩
をもって原始信仰を醸成し、文化の発展に伴って漸次に取捨され、なお多くの原始信
仰を残留し、ついには他より輸入した優秀なる宗教をも次第に堕落迎合させて、自己
の要求に応ずるよう改訂させる力を有するものだからである。この民間信仰を閑却して
は真に国民性を洞察することは出来ない。
神道は我が民族の原始信仰である。自然物象と関連した八百万の神々は、思想と
自然の展開によって一神観によって統一されるか、汎神観によって綜合されるか、何
れかの気運に逢着せざるを得なかった時、優秀な教理を有する仏教が輸入され、つ
いに本地垂迹や両部習合の説によって包容されるに至ったのであるが、包容された原
始信仰は依然として命脈を保ち、包容の原理として説示された哲学は、いかに精通博
大なものであっても民衆の耳に入ることはかなわなかった。民衆はただ自己が要求す
るままの神を造り仏を描いて信仰を持続し、表面の教理とはほとんど没交渉な迷信を
も造り出した。しかも他より来てこれを助けたものは支那の民間信仰である陰陽道であ
るから、我が民間信仰は原始信仰の残留と既成社会の堕落、これに加えて陰陽道の
混和によって築き上けられたものと見て差支ないのである。
〇
信仰の対象
真の宗教は霊格ある神仏を信仰の対象とするのであろうが、民衆の信仰は必ずしも
そうではない。彼らは自然に対する驚異に基く原始的な信仰をもとに天文地象を神と
して拝脆するのを怠らない。天照大神を日とし、月読命を月とした我が民族の信仰は、
大日如来と大神とに本迹の関係を想定した。また三日月妙見大権現に月の崇拝を改
めず、月待日待の習俗は今も各地方に残る。北斗を神とする北辰妙見の信仰はなお
都人士の胸を去らず、七夕の星祭は少しく廃れたが、慧星を凶年の兆とする俗信は容
易に去らない。ことに我が国の地理的特質である山岳の起伏は、山岳に対する多大の
崇拝の情を我が民族に注いだ。山岳は仏教の錬心の道場とした観念と連合して、山と
いう山に山神のない山はなく、ついに一種我が国特有の山岳宗教である修験道を産
んだ。日本は世界の暴風地帯に属し、かつ国土は狭く長い。中央に背梁山脈があっ
て暴風が一たび雨を伴って来ればたちまち氾濫の恐れがある日本にあっては、風神
水神を祀る信仰は早く、風を志那都比古(しなつひこ)、志那斗辨(しなとべ)の神とし
た。水は罔象(みつはつ)の神とし、仏教渡来後には印度の諸神と習合し、龍を風雨を
掌るものとした。川には水神があり、池には辨財天女の祠があり、氾濫を防ぐ堤防には
水神に犠牲を供した人柱の伝説が諸所に残る(河内の茨川堤、摂津長柄の人柱、備
前の幾多明神などはその例である)。山に天狗あり、水に龍あり、そして豊葦原の瑞穂
の国として五穀の豊饒を祈る我が国には保食(うけもち)の神は倉稲魂(うかのみたま)
として稲荷の名で山村水郷に奉祀されている。狐は神使としてあがめられ、天体地象
さては動物に至るまで神祀されるばかりか、老樹古木は神座として注連縄張りで祀ら
れ、常陸の大杉明神、播磨の高砂神社のように植物崇拝の面影を残す。その他奇岩
怪石(たとえば陸中の三石明神)、珍樹妙木(たとえば越後の三度栗、つなぎ榧(かや)
または片葉蘆)など神視まではしないが幾多の伝説が付加されて驚異の情を寄せられ
ている。広い海洋には大綿津見の神がいるとし、竜宮伝説はつとに我が民族の心裏
に反映し、浦島寝ざめの物語は早くから伝えられている。海上保護としては八幡、観
音、少し遅れて金毘羅の信仰は、諸種の驚異譚とともに今も船乗りの間に喧伝されて
いる。
〇
生殖崇拝
生殖と創造とは原始民族がもっとも想到しやすいところで、日本の万物創造の神話
が伊弉諾、伊弉冉の二神が産んだものとしたのも、この連想によるものである。天の浮
橋に立ち、天瓊矛(あまのぬほこ)で海浜を探り、海水の滴が固って国が出来た神話
は、後年大陸思想の混入により哲学化(?)されて、伊弉諾(男)伊弉冉(女)の二神を
陰陽に見立てた。大極が両儀を生ずるとする支那哲学は、混沌たる宇宙の中で清い
ものは上って乾(けん)となり、濁ったものは下って坤(こん)となり、上は乾道男となり、
下は坤道女となり、乾は陽、坤は陰と陰陽の両儀に分れた。これがさらに分れて木火と
なり、金水となり、これに中央の土を加えて五行と称し、天地万物みなこの範疇を出な
いとする陰陽道は、男女二神によって万物成るという信仰と抱合した。その思想はさら
に天地万有をすべて金胎両部の曼茶羅に包容し、地、水、火、風、空、識の六大によ
り万物を説明する印度伝来の真言密教と混淆し、万物を分って色(物質)心(精神)の
二つとした。色には地、水、火、風、空の五元素があり、これを胎蔵界曼荼羅と称した。
心には識があり、これを金剛界曼荼羅と呼んだ。胎は理であり、諸法一如にして平等
の境、静なるが故に陰とした。金は智であり、決断が簡単で要を得ておりよく活動する
から陽とした。陰は女であり、これは伊弉冉、陽は男であり、これは伊弉諾である。この
二神の和合は理と智の冥合であり、理智の冥合は大日如来の境地である。こうして邪
道立川流というものが出来た。立川流は、天にあっては陰陽の二気、神にあっては諾
冉の二神、仏にあっては金胎両部の大日如来、陰陽合して万物生じ、理智冥合して
仏教が出来た、とする。男女の交わりは二であり一であるから理智の冥合であり成仏の
もとであり、これこそ他の教えを超絶した大秘密であると揚言した。そして赤水心経、白
水心経などの経を偽作し、男女陰陽の道を即身成仏の秘術だと広宣したので、生殖
崇拝はその極に達した。
この教えは一時非常な勢いを得たが、後、正常な真言の学僧によって打破され、経
などは焼かれ、教義は撲滅された。しかし生殖崇拝の思想はいまだに亡びず、理想化
された歓喜天の崇拝は別にしても、もっとも露骨な生殖器崇拝が、幸(さい)の神、道
祖神、金精(こんせい)明神、カリタ明神、道鏡宮などの名によって僻地に行われてい
るのは否定出来ない。これらは風俗上取締るべきものであろうが、哲学が除去されて
いるだけに、むしろ無邪気な原始信仰の名残りとしてその性情の自然的流露と見てよ
いのではあるまいか。
〇
山岳教
山岳が国中に起伏する我が国の自然状態は、勢い山岳崇拝の情が起きることは前
にもいったとおりである。これによって生まれた修験道は、大陸宗教の感化を受けた混
合物で、山岳を身心鍛錬の霊場としている。始祖の役行者は国中の高山を飛行して
通力を得たとされ、修練の地である大和の金峰山(海抜五千七百尺)より紀伊の熊野
に達する山岳重畳の場所を修行の本場とし、ここを巡錫する人を峰人と唱えた。その
他、豊前の彦山、伊予の石槌、伯耆の大山、羽前の羽黒を初め、高山峻岳を登って
身心を練る者を、その名のように山岳に起き臥して苦行するので山伏と称した。本尊も
柔和の仏ではなく、憤怒の形相激しい神である。行者は金蜂山に入る時、神が釈迦の
像となって現われれば、その形は衆生を助けるものではないと退け、次に弥勒の形に
なって現われればなお不十分と退け、ついに蔵王権現となって恐ろしい容貌を示すの
を見て、これが我が国の本態だとして祀った、という伝説がある。もしここに国民性を見
ようと思えば、武断的な我が民族の趣味に適合する。彦山の大飛行夜叉、羽黒の能
除太子も顔貌の醜悪さで畏れられた。ただ姿が麗わしい富士山は花咲那姫を女神と
して浅間権現と崇られ、加賀白山は伊弉冉の尊を中心として妙理権現とされている。
これらを例外として多くは恐ろしい神として祀られているのである。
この修験道は金峰山も大蜂を主とする当山派(真言宗醍醐派)と熊野三山を主とす
る本山派(天台宗聖護院派)のほかに比叡山には別に北嶺の回峰がある。これら修験
に属するもののほか、我が国第一の高峰富士山を中心とする山岳宗教には富士行者
の角行東覚を祖とする一派があり、徳川時代には富士講というものが盛んであった。
今も神道実行教、丸山教会などにその面影を見る。その他木曾の御岳は御岳教とし
て教義づけられているなど、各所の山岳はみな神として祀られており、もし双峰対立す
るものであれば、男女の二神とみて、「筑波根の峰より落ちる、みなの川、恋ぞつもりて
淵となりぬる」類の伝説となる。常陸の筑波は伊弉諾、伊弉冉の二神に儀せられ、下
野の二荒山は男体、女体の名によって呼ばれ、噴火の山々には熱湯湧出より連想し
て地獄の伝説が加わり、越中の立山、陸奥の恐れ山など、畏怖すべき迷信を誘うもの
がことに多いのである。
〇
因果と干支(えと)
このように自然の状態が我が国特有の民間信仰を発生させたばかりでなく、人事の
不可解に対する解決を宗教に求め、その理が高すぎて解し難いとなれば自己の知識
に適合するものに就こうとする。この民情に投合しようとする教義宗教が盛んになると
堕落を伴い、ついには成立宗教の教義とは非常に離れた迷妄の信仰を抱くようになる。
仏教が三世因果を読き、輪廻転生を談じ、地獄極楽を語るなど、理が高く、中身の深
いものもあるが、民間信仰として現われる場合は、高いものは低められ、深いものは浅
くされる。我が民族の原始的信仰ともいえる日本武尊が変じて白鳥となり、田道が死ん
で蛇となったという転生観や、三世因果の道理も、具体的に前生の業因を現在に、現
在の果報を未来生に想到して、幾多の伝説を生み出した。「日本霊異記」「因果物語」
等の怪談を信じ、その果て、徳川時代においては「参世相大雑書」がほとんどの民間
各家に置かれて、人事判定の模範書となったのである。
古来、氏素性を貴び、先天的に貴賤を区別し、かつ多くは職業をも世襲してきた我
が国の習俗は、なぜこの素性に生まれ、なぜこの職業の家に出たかを思い、運命の禍
福を感じざるを得なかった。生年月に関する運命観は陰陽五行説とともに輸入され、
陰陽を木、火、土、金、水の五行に分ち、この五行にもそれぞれに陰陽があるとしてこ
れをえ(兄)と(弟)に分ち甲、乙、丙、丁、戊、已、庚、申、壬、癸の十干とし、これを陽
としてまとめ、さらに陰として十二支を立て、この十二支をまた陰陽に小分し、之れを十
二月に配し一月(寅)二月(卯)三月(辰)四月(已)五月(午)六月(未)七月(申)八月
(酉)九月(戌)十月(亥)十一月(子)十二月(丑)とし、更にまたこれに十干を加えて干
支納音と称し、六十年目に還元する暦算の法により自分の生年月の運命が定まるもの
とした。これを月にも時にも応用して、一切を干支によって規定し、その根本の五行に
は相生と相剋があるとする。木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生
じ、水は木を生ず(相生)るが、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋し、木は土を
剋し、土は水を剋す(相剋)。よって木性の人と火性の人とは相和すが、火性の人と水
性の人とは相剋せざるを得ないと、決まっている。当人の意志を聞くことなく瞬間の見
合いで生涯の大事を定める我が国の結婚風習は、今もってこれを唯一の判定基準と
する傾向がある。その他この五行と干支の迷信は方位方角にまで及んで、我が民間
信仰の大部分を支配しているのである。
この五行と干支の説は早く平安朝の頃より行われたのであるが、これと関連して我
が民間信仰に多大の影響を与えた九星の説は、徳川時代に入って輸入された。一白。
二黒、三碧。四緑、五黄、六白、七赤、九紫の分類を生年月日と方位方角に配当して
連命判定の材料とするので、今では大郡市の新聞までが、日々掲載して民衆に迎合
している
我が民間の宿命観はこのほかに、「柳荘相法」「神相全篇」などによって支那より伝
えられた人相、手相は日本で特殊な発達をし、最近では骨相学まで応用されて民間
信仰に大きな勢力を有するのである。
〇
宿命と卜占
人間には宿命の観念があり、この予知と転換を望まざるを得ない。先きにのべた五
行、干支、九星の判断もその予知法であり、これに使われた方位、方角、家相、地相も
また予知法であり、人相、手相もそれにほかならないが、そのほか最も盛んに行われる
のは、周易より出た卜筮(ぼくぜい)の法である。我が民族は神話時代にすでに太卜
(ふとまに)の占いがあり、神功皇后の頃には亀卜の法が伝えられたといわれるが、一
たび卜筮の法が伝えられてより、これを最も正常なものとした。筮竹を算え、算木を置
き、乾、兌、離、震、巽、坎、艮、坤の八卦とこれらの交錯による六十四交をもって吉凶
禍福を予知する法は、一種の哲学と関連して行われた。この判定は専門家によらざる
を得ないものの、民間で容易に行われるのは、元三大師によって伝えられたといわれ
る神鬮(おみくじ)判断である。神前または仏前に備え付けてあるおみくじ箱を振って
一本を抜き、そこに記入してある一から百までの数字を神職または僧侶につげれば、
吉、大吉、半吉、凶、大凶など判断を書いてある紙をもらう。自分でこれをしようと思え
ば、夕占問(ゆうげどい)といって夕暮れ時に十字路に立ち、道行く人の言語により判
定する辻卜というものがあった。今はその文句を書いた紙片を煎餅袋などに入れて売
る。昔はこれを真面目に判断材料としたので、今も辻占の紙片によって喜憂する情は
去り難いものがある。古くは石を挙げてその軽重で禍福を占う石占があったが、今は神
社の鳥居、仏閣の塔などに石を投げ、どこに止るかを見て願い事がかなうかどうかを占
う。待つ人を畳の目を数えて来否を判ずる畳算、銭を投げてその表裏により吉凶を卜
する銭占、五臓の疲れといわれる夢によって将来の禍福を判ずる夢占など、ほとんど
数えきれないほどの卜占の方法が行われた。広く使われる諺などを見ても、「茶柱が立
つと縁起がよい」「家の中に鳥が入れば吉事がある」「犬の長啼は不吉の兆」「帯が自
然に結べるのは縁起がよい」「イタチ道を横ぎれば凶」など、俗にいう「御弊かつぎ」の
風は我が民族の心裏に去り難い印象を与える。それが推理力を減殺する力になった
ことは見逃せない。
〇
怪異・憑依
人事の吉凶禍福を語ってここまで来たが、我が民間信仰について欠かせないもの
が憑依(ひょうい)である。五行、干支、八卦、九星などは支那の大きな感化によるが、
これは主として仏教の俗化によって発生したと思われる。死霊、生霊が身にまとわり付
くというものである。恨みを含む死者の霊は死んでもなおこの世にとどまって、復讐す
るという考えである。これを信じて諸種の怪異談を作り上げ、王朝時代の文学より近く
は徳川時代の作品に至るまで幽霊の怪談は多い。ことに足利時代の謡曲は、古来の
伝説に基いて死霊、または生きながら肉体を離れた霊魂の形を現わし、怨みあるもの
を苦しめる霊の物語が豊富である。これらの作品がまた民間信仰に影響して、我が民
族に恐怖の情を少なからず与えている。こればかりか天狗とか狐が人に付いて祟りを
するという信仰は幾多の伝説を作った。この伝説は潜在意識に入り自ら憑依を宣言す
る二重人格を作り出した。山神を汚した罪により天狗に付かれ、狐の子を苛めた罪で
狐に付かれたなどという伝説はいたるところに伝えられている。これらの霊を使役して
憑依を専門に行う世襲的な家系があるとして、開東の尾先狐、芸備の外道(いたちの
ようなものと想像される)、四国の犬神、信越の飯綱、伊予と安芸の海岸地方に行われ
るトウビョウ(蛇のようなものと想像される)などを持つ家筋とは結婚を避け、またこの家
筋のものに憎まれると、必らず霊が付くと信じられている。
〇
祈祷・禁厭
この憑依は先きにあげたる宿命占いとともに、自己の意志では左右できないもので
あるから、憑依の除去、運命の転換は、神仏の霊力に頼るほかない。ここから祈祷と禁
厭が我が民間信仰の当然の結論として要求される。憑依のような霊怪なものに対して
は、専門的な神秘的祈祷が要求される。一般的な消災招福にも祈祷は求められ、消
極的に火難、水難、剣難、盗難の除去を祈るとともに、出世開運の祈祷も盛んに行わ
れる。諸所の神社仏閣はこれにより収入の大部分を得ているといっても差支えない。
それにも各々専門があって、水難救済は金毘羅に、火災保険は愛宕や秋葉に、盗難
除けは秩父の大口真神に祈る。その祈祷をうけたと説明する符札を家に貼ることによ
って災を避け、守り札を所持することによって福を招くとの信仰は、民家の入口や屋根
裏を観察しても明らかである。どの家にも幼児にお守袋をさげさせているのでも知るこ
とが出来る。
専門家に依頼するもののほか、自ら祈願を凝らす形式には、自己の慾望を制限す
ることによって神仏に祈願の実現を願うものがある。茶断ち、塩断ち、断食があり、頭髪
を剃って祈願するのもある。厳冬三十日単衣をまとって詣でる寒参り、水浴して神仏に
祈る水垢離(こり)、百たび参詣の意をもって祠堂を廻る百度参り、報賽を約して祈願
成就すれば絵馬を納めるとか、鳥居を献ずるとか、その神仏の愛好するものを献納す
るとか、ことに面白いのは日を限って祈る日限地蔵のようなものもある。形式も一ならず、
むしろ滑稽に属するものも少なくない。お染風邪という流行性の感冒が流行った時、
「久松留守」と書いて門に貼り、天然痘の流行に対して「鎮西八郎在宅」と書いたものも
あつて、無邪気な性情の発露を見る。徳川時代には疫病が村里に流行った時、代官
屋敷より「普天の下、王土にあらざるはなし。汝、何が故に立ち入るか、早速、退去す
べし、然らざれば津島牛頭天王に奏上し、きっと冥罰を蒙らせる。疫病神へ」と書いた
紙片を請い得て、村の入口に貼り、災厄を免れようとした例さえある。
その他、禁厭の法のもっとも普通なものを挙げれば、蟹の甲は悪病除けになるとい
って諸方の民家に吊され、屋根裏に鮑貝を挿せば小児の夜泣を止めると信ぜられ、
三角の銀杏を持てば狐狸に化されず、二十一波の銭は消災の験(しるし)があるなど、
今でも民間に行われている。
・・・・・・
以上は我らが迷妄だとする民間信仰の概観で、云い洩らしたものも少からずある。
かつその推移変遷には一定の理路があって、当該社会に反映してきたのであるが、た
だ面影が今日残っているものを平面的に列叙したに過ぎない。しかもこの中にも、我
が民族の性情は発露しているので、堂々と宗教哲学が講義される帝国大学の門前に
九星判断の店が並んでいたり、文明の利器である電車の中に人相家相の広告が幅を
きかせていても誰も怪まないであろう。