老いの道標 - 横浜ケーブルビジョン株式会社

老 いの道 標
登 山と人・文明・文化=環境
(実 践 的 総 合 人 間 学 )
田 中 文 夫
2
老 いの道 標
3
老 い の 道 標
登山と人・文明・文化=環境(実践的総合人間学)
プロローグ.
第1章.
仕事と山と人生と
山 の 還 暦
・・・・・・・・・・・・・・1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・11
1. 丹沢(寄沢) 滝郷沢
11
2. 丹沢(寄沢) 地獄ザリ
12
3. 谷川岳一の倉沢南陵
14
4. 韓国 ウルサンバイとインスボン
5. ヒマラヤ登山中のヒゲ
6. 古き山の道具
16
21
22
7. ネパール ヒマラヤ P29南西壁遭難
23
8. 家族で アンナプルナ トレッキング
9. 大学生たちと穂高へ
10.32年振りの夫婦山行
31
39
(アイガーから唐松岳)
11.今ふたたび、丹沢へ還る
50
12.山旅の記憶スケッチ展
76
13.地球温暖化とヒマラヤ氷河湖の肥大化
第2章.
82
ヒマラヤ遭難登山隊長の自省
1.「山岳遭難とリーダー意識」を考える要因
2.遭難時におけるリーダーの意識
3.その後のリーダー意識の変遷
第3章.
45
・・・・・・・・・・89
90
104
108
ある遭難が別な遭難を生む(情緒の伝播) ・・・・111
1.遭難対策は登山の第一条件
2.遭難が遭難を呼ぶ
111
113
-2-
3.小説とP29遭難
117
4.P29遭難と難波康子さんのエベレスト遭難
5.遭難の誘因子
第4章.
122
失敗に学ぶ
1.失敗の種類
・・・・・・・・・・・・・・・・124
125
2.判断と責任の限界
126
3.登山の安全性と危険性
128
4.登山の失敗に学ぶ
第5章.
130
3.11とクライシス・マネジメント
1.クライシスとリスクを区別
136
2.クライシス・マネジメント
143
3.リスク・マネジメント
第6章.
・・・・135
156
中村純二博士の「正・反・合と進化」から考える ・161
1. 中村純二博士の正反合
161
2. 「正・反・合」 ~ 弁証法からの複合論
3. 「合と新」のグループ
第7章. 老いの道標
174
・・・・・・・・・・・・・・・・・182
1. 戦後世代と日本国憲法
182
2.失って(体験)気づく、幸せという心の居場所
3. 欲求と欲望の考察
193
195
4. 死生観~はかなさという情緒
5. 差異共存未来社会の模索
エピローグ.
163
166
4. スポーツと 人―文化―文明
【追 補】
118
学者と技術者と
201
206
・・・・・・・・・・・・・206
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 216
-3-
プロローグ.
仕 事 と山 と人 生 と
2013.10
昭和 21 年 3 月生まれは、 「団塊の世代」 よりちょっぴり早い生れ。太平洋戦争終戦をま
たぐ人達と、同じ学年となります。日本人の平均寿命が 80 歳を越える現在、大量な団塊世
代の定年退職と、その後の人生設計においては、少子高齢化社会問題が噴出しています。
高齢者の長寿命化と、それを支える子や孫の世代の少子化は、逆ピラミッドな社会構成とな
り、子や孫の世代が支えきれない底辺(基礎)の弱体化を招いています。
社会の常識は 「長生きは良い事」 となっています。果たしてその通りでしょうか。寿命の
長短は文化国家の指標ではなく、その中身、「いかに生きているか」 を問うことが、文化の
指標と私は考えるのです。しかしこの意見は、健常者側の論理から出るものです。
生まれながらの障害者にとり、一日でも長く生きていたい望みは、切実なものです。私の
三男は障害(水頭症)をもって生まれましたが、5歳半の短命で亡くなりました。もっと長く生き、
人間模様の様々なドラマを味わってほしかったのですが、かないませんでした。健常者にと
っての “障害” は、障害者にとり “日常” であります。もはや一方向から述べる時代ではな
くなり、より多方向から論ずる複合社会となっています。
宇宙における物質の様々な関係は相対的であり相対力学を生みます。しかし地球に生き
る生命体は相対的ばかりでなく、相補的でもあります。例えば動物は、色々な種の動物生命
体を食べ合いながら(食物連鎖)それぞれ種の生命維持と持続を図る相補的関係にあります。
人間を物質としてだけ扱えば相対的関係の見立てとなり、弱肉強食な権力者支配の社会と
なります。一方生命体として扱えば、強者が弱者を支え合う相補的関係に気付き、生命体の
維持・継続を図る文化社会をつくります。同じ種の中の生物でも、強弱の自然差は生じます。
身体的強弱、精神的強弱、状況認識と判断力の強弱、それらいずれにも万能な人間は、果
たして存在するでしょうか。それを架空な神として崇めるのではなく、実在として存在している
のか、私は常々疑問を感じています。人はどこかに欠点があり、それを補い合うのが人間の
-1-
社会であると。地球の生命体を一方向から見、考えるのではなく、相対的かつ相補的関係
の両面を統合した複合的視野で世界を理解してゆけば、もっと豊かな地球環境が理解でき
ることでしょう。この複合的視野こそが、文化度のバロメーターであると私は考えます。
では、 “人間的に生きるとは” どのようなことなのでしょうか。そんなことを知りたくて、私は
18 歳から山登りを始めました。二十歳の誕生日は、八ヶ岳の雪洞の中でした。仏教や哲学・
思想、文学書籍を読みあさり、青春の心を惹きつけたのは、ニーチェの 「ニヒリズム」 という
考えでした。ニーチェのニヒリズムや 「超人」 の思想は、ある面強者の理想主義です。人間
知性の理想として、神をも消し去ってしまう意思の論理(神は死んだ・・・という主張)と、神に代
わりうる 「超人」 的 「理性」 の設定です。この頃の私は、弱者なるがゆえに弱者を否定しよ
うとしていました。理想を追い求める青春のエネルギーと向上心は、ひ弱だった青年の私で
さえも、ヒマラヤ登山ができるまでになります。32 歳の時、ヒマラヤ大岩壁の中で、1000m 上
部の氷河崩落雪崩により仲間との生死を分けます。この体験は、人生最大の試練でした。し
かしこの体験こそが、私の第二の人生の出発点です。
自然の中であるがままを受容する、真の 「知性」 の自覚です。
ヒマラヤの試練に偶然生き残り、その後の結婚と三人の男児出生。三男は障害をもって生
まれ、幼くして死んでしまいました。この障害をもった我が子の受容と、障害によって教えら
れる日常の在り方、社会が無意識となる 「日常」 の中には、どれだけの非日常的偶然と日
常の努力が潜んでいることか、改めて気づかせてくれました。無意識な日常が、どれほどの
微妙なバランスと偶然の上に成り立っていることか、障害をもって生まれた我が子は教えてく
れました。それゆえ三男への追悼文には、 『人は皆、この世に遣わされた未完成な神様で
はないのか!』 (拙著 : 青春のヒマラヤに学ぶ、 P-43、 文芸社、 2001)と書きました。
現代生命科学は生物の “いのち(生命)” を唯物的に分解し、生物の特別な “いのち(生
命)” の力を否定します。生命現象は、水、脂質、糖、タンパク質、核酸(DNA と RNA)の五つ
の生体分子の構造と機能から説明可能になったといいます。生命を育む水、生命を養う糖
(エネルギー)、生命を包む脂質(細胞膜)、生命を操るタンパク質(酵素)、生命を紡ぐ核酸(遺
-2-
伝子情報)の五つに大別できると。地球上のすべての生命体は、同じ生体分子、同じ代謝系、
同じ遺伝暗号表をもつことから、35 億年前に 1 種類の生命体から起源したといわれます。さ
らに進化の目的は、遺伝暗号表を守りぬくことにあったのではないか、と云います。(宗川吉
汪 : 総合人間学会 Newsletter 第 24 号、 2013.12) しかし物質としての生命体(身体)はそうで
あったとしても、人間特有の “情動(心)” まで説明しきれるのでしょうか。このことは今も学び
の中核にありますが、まだ答えは見つかっていません。人類を束ねるパラメータとして 【神さ
ま】 という概念を導入すれば、心の統合は容易かもしれません。しかも “人=神様” ではな
く、人(心) ≒ 神(概念)、だからこそ 71 億人余の人々(2013.12 現在)が、少しずつ異なった何
かを持って生まれるのでしょうか。障害を持って生れた三男は、そのことに気づかせてくれま
した。しかし人(心) ≒ 神(概念)に見立ててしまうと思考停止となり、近代科学社会以前に戻ります。
人の意識(知性+感性)を取り込んだ、文明・文化そして環境の総合を考えてみたくなります。
68 歳の今、私は現役の株式会社代表取締役ですが、取り締まるべき社員はゼロ。なぜな
らば、設計技術者は組織 「経営者」 ではなく、蓄えた様々な知識を用いて最適な技術の選
択と適用の判断を果たすことが大切と考えているからです。設計とは 「判断(決める)」 を意
味します。一般的な理解において 「設計」 とは、設計図面作成のことを示します。しかし正
しい意味での設計図面とは、設計者の判断を具現化し、他者へ伝える 「メディア」 の機能
です。それゆえに設計者は、技術と社会の最適化を心掛け、常に現役として社会貢献を果
たすべき者であり、会社経営とは役割が異なります。私が社員を雇用しない理由は、自立し
た設計者(プロ)として常に生涯現役であるべきと思っているからです。もちろん自立といって
も、孤立を意味するわけではありません。建築設計の分野では、建築意匠・構造、電気設備、
給排水衛生空調設備、昇降機搬送設備等が、専門分化しています。加えて現代は、高度
情報通信分野は建築設備と異なった専門分化し、ハードウエア、ソフトウエアを含めて別な
分野を成しています。それらを統合するチームプレイが必要なのですが、既に一人の建築
家の頭脳では負えません。その取りまとめをおこなう新たな統合者が求められていますが、
-3-
生身な人間の頭脳では、とても間に合いません。それゆえ安易に “神様” を登場させます
が、私は神を前提とした思想や統治を容認することはできません。もし人間一人一人が未完
成な神様であるならば、失敗はつきものとして失敗判断を補償する、修正機能(フィードバック
機構)が不可欠となります。であるなら、一人の絶対的統合者にゆだねるのではなく、文化と
文明に精通したゼネラリストと、各々の分野のスペシャリストを統合する、総合調整・制御機
構が必要となります。複雑な世界の認識と統合・制御は、複雑系社会となった現代の要請と
考えるのです。
これまで三十年余は睡眠も惜しんで設計に取り組んできましたが、世に言う 「定年退職」
の時期を迎えてみると、業務中の突然死を考えます。専門分野を一人で抱え、その途上で
突然死が襲った場合、チームプレイのおおきな障害となります。そこで世代交代を考えます
が、知識と創造、経験を組合せた判断の分野では、安易な代替は容易でありません。
知識は知れば知るほど、未知なる世界は底しれず広がります。人類知識の集積は、宇宙
の生い立ちから未来・未知への予測に至るまで、思考や創造、実証を続けています。そのよ
うな人類科学と哲学への興味は、若きころから今に至るまで持続していますが、生業でない
ために没頭することが叶いませんでした。
子供の頃から何となく電気が好きで、小学校の作文には 「ラジオ屋さんになりたい」 と書
いた記憶が残っています。といいますのも、貧しかった子供の頃はまず職を得て働き、対価
の報酬を得て生活しなければなりません。それでも五人兄姉で末子の私は、より高度な職を
得るために、ただ一人だけ工業高校の電気通信科へ進むことができたのです。大学へ進み、
研究者の道があることなど、全く知るべくもありませんでした。
電気通信という科目は電気の基礎理論、無線通信、自動制御、真空管やトランジスタの
物理・回路等々、理論と実践を学びます。照明の光や通信電波は電磁波であり、その電磁
気力は宇宙を構成する4つの力(電磁気力、強い力、弱い力、重力)のうちの一つです。また電
位差のある間を、電子の持つ(-)電荷が移動することを電流と呼びますが、この電子はクオ
ーク、ニュートリノと共に素粒子3兄弟と呼ばれ、放射性物質の自然崩壊を招かぬよう、「弱
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い力」 で原子の中を取りまとめています。さらに光となる光子は、クオークやヒッグス粒子とと
もに 「強い力」 を構成し、原子核が崩壊しないよう取りまとめています。
他方、電気通信という学科はかつて、ラジオや無線機器のメカニカルな部分と、電波伝播
を担うアンテナ理論など、通信の手段のみを教えていました。ヒットラーがラジオを活用して
ナチス・ドイツの意思統一を図ったと言われるように、通信結果の社会的効果等については
何も触れられません。今でこそその分野は 「情報」 となり、ハードウエア(機器)、ソフトウエア
(プログラム)と分かれて理解され、さらに情報通信効果の社会性も 「情報学」 として、多様な
研究と成果をあげています。統計学と組み合わせることにより、マスメディア論にもなります。
素粒子物理学から電磁気学、情報・社会学、生物学、さらに哲学や倫理・宗教学へ至るま
で、宇宙における人間を幅広く捉える知の総合体系は、未開拓な分野となっています。2006
年、「総合人間学会」 が設立されました。 『人間とは何か。生きるとは何か。自由意志とは
何か。自己とは何か。人間はどこから来て、どこへ行くのか』 を、学際的に問うています。
浅学な私でさえも、それぞれ分野の知見、法則、理論から、それらを総合理解してみたい
誘惑は捨てきれません。電気を基礎とした、世界解釈の試みです。
子育てが終わり、住宅ローンも終わり、生業の見切りを付けた今こそ、知ることの楽しさに
向かう時と考えました。限りあるおまけの人生の中で、「今がその時」 だと思うのです。お金
を集めること(仕事)ではなく、自ら知ることへの探求とその成果(?)を、子や孫の世代に役立
つものとなれば・・・・と、ある面で遺書の意識をもって取り組む決意を固めたところなのです。
そんな昨今、妻が食卓テーブルに乗せていた一冊の本を、何気なく手にしました。【長生き
が地球を滅ぼす】(本川達雄・著 2012.8.15 文芸社・刊)でした。私も文芸社から2冊出版した過
去があり、親近感もわきました。私の読書は読みながら線を引き、本に書き込みをするので、
妻とは別なものが必要となります。早速インターネット販売で同書を取り寄せました。併せて
【生物学的文明論】(本川達雄・著 2011.9.30 新潮社・刊)も取り寄せます。
「目からウロコ」 ・ ・ ・
生物多様性と生態系、生物の形と意味、生物のデザインと技術、生物のサイズとエネルギ
-5-
ー、生物の時間と絶対時間、「時間環境」 という環境問題、ヒトの寿命と人間の寿命、そして
「長生き」 が地球を滅ぼす・・・・・・これまで工学的、唯物的に論考してきた同類のテーマが、
生物の視点を通してみると、一瞬のうちに統合する感覚を得ることとなります。
私は電気の設計技術者(建築設備士)ですから、生物の有機世界は苦手な分野でした。光
や電磁波、電流・電圧・抵抗(逆らう)・コイル(遅らせる)・コンデンサ(蓄える)といった無機物な
機能を対象としています。電気の論考は物理に基礎をおき、数学的解析と理解による、抽象
的な思考となります。電気はエネルギーであって、そのエネルギーは自然の代謝に代わり、
人為的・機械的に人工社会として、人間生命を環境の中で代謝し続けることにあります。
私がこれまで間欠的に続けていた、電気理論からの自然理解と人間社会理解を重ねる思
考の試みは、無機な世界を有機な世界に適用し、その統合を図ろうとイメージしていました
が、どうもうまくまとまりません。それは客観と主観を平面的(二次元)に組み合わせる試みで
あり、「客観は主観の普遍的部分」 であることの論証でもありました。
科学論文は変化する宇宙(自然)の中から普遍性を切り出し、公理、定理、原理、法則へと
定着させてゆきます。主観は、他者の目には見えにくい抽象性かつ個体的なものであり、具
象を備えた普遍性に欠けるものとして、切り捨てられました。しかし 「意識の時間」 における
「現在」 とは一瞬の中にあり、過ぎ去った時間はすでに 「過去」 のものとなってしまいます。
意識における現在は無きに等しい瞬時であり、意識の領域のほとんどは蓄積された 「過去
の時間」 の中に保存されます。さらに想起する意識は 「未来の時間」 の中に写し出されま
す。このように意識の時系列は過去・現在・未来の連続した直列順序関係ではなく、互いに
並び立った並列共存関係の中にありそうです。そして 「現在」 とした入力ゲートから記憶の
蓄積を継続しつつ、「現在」 意識(気づき)は選択した記憶の次元(過去・現在)から選択して
出力する。それはちょうど、コンピュータを動かす論理回路に等しい働きとなります。しかしこ
こに問題点が生じます。 「過去・現在」 は実体験を経たデータとして記憶に蓄積され、その
データの普遍性が認められれば客観性を獲得できます。しかし 「未来」 は現在よりも先の
次元にあり、未体験領域の中にあります。物質の最小単位となる量子の世界の基本原理、
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「不確定性原理」 によれば、未来における量子の位置は不確定であり、確率的な推計しか
できません。このことは科学の求める 「客観的証明」 とは、少し様子が異なります。過去・現
在・未来が同居する意識の世界は、実在の世界とは次元を異にしていると考えられます。車
椅子の物理学者として知られるイギリスの理論物理学者、スティーヴン・ホーキング博士は、
宇宙の時間を 「実数の時間軸」 と 「虚数の時間軸」 として構造的に捉え、一般相対性理
論が破綻する 「特異点定理」 を証明しています。「実数の時間軸」 とは時間と空間が分か
れ(4次元)、過去・現在・未来の時限区別もでき、私たちが実感できる時間の世界です。「虚
数の時間軸」 の世界では時間と空間、過去・現在・未来の時限区別もつかない混在状態な
多次元世界で、私たちには実感することができないといわれます。それゆえに実験で証明で
きない、虚な理論ということになります。このように人間の脳は、認識・記憶・蓄積・比較・判
断・創発等一連の意識・情動処理を瞬時におこなえる、自立創発型コンピュータでもありま
す。現代人の脳が感知できる四次元世界の中で、「過去・現在・未来」 という時限記憶の蓄
積が混在しています。その取り出しが自在なことは、「虚な世界観」 を脳内構築することがで
きるのでしょう。人間は脳内コンピュータのプログラムを常に自ら創発・更新できることにおい
て、現代のメカニカル・コンピュータを遥かに凌ぐ性能があります。しかしながら蓄積・処理能
力においてはすでに、メカニカル・コンピュータに追い越されてしまいました。
その例として、2013 年 3 月 30 日の将棋電王戦第 2 局において、佐藤慎一四段がコンピ
ュータソフト 「ポナンザ(Ponanza)」 に敗れました。コンピュータソフトは、局面におけるパタ
ーン認識とその処理能力に優れており、思考の疲れもなく、局面という 「点」 においては最
強の手を打ち続けられる。人間脳は全体構想と流れの 「線」 の中で思考し、創発する。し
かしその過程における疲労は集中力を切らせ、創発の思考回路に停滞を招くこともある。だ
から均衡している場合、人間脳はコンピュータソフトに敗れることもあるのです。流れの洞察
や直感的発意がプログラム可能となるのか、人工知能はまだその領域に達していないとい
います。そして人間の意識の創発は脳の特定部位によるものではなく、脳と身体の総合シス
テムにより、「気づき」 の意識が始まるといいます。その 「マインド・タイム」 までもプログラム
-7-
可能となるか、未知な領域にあると云われますが、今後の探究テーマです。
このように 「意識の構造」 においても、実態をともなって具現される 「実の領域」 と、実
態がともなわない思考の中から想起される 「虚の領域」 の組み合わせと仮定するならば、
ホーキング博士の宇宙観に相似(フラクタル) したものとなります。特に電気技術者は 「実数 +
虚数=複素数」 という数学を活用します。二次元平面ではX軸を実数とし、Y軸を虚数とし、
ベクトル表現をおこないます。あるベクトルと別なベクトルとの角度差を位相角といい、平行
線の交差により、ベクトル相互の合成をおこないます。この合成したベクトルを複素ベクトルと
呼び、X軸目盛は実数、Y軸目盛は虚数となります。同様に空間は、X・Y・Zの三次元ベクト
ル表現となります。さらに時間を加えると、X・Y・Z・tの四次元表現となります。しかしこれら
はいずれも連続な時間の中にあり、虚数といっても実感できる身体領域の中にあります。四
次元以上の多次元な虚数時間の思考世界は、その構成イメージがまったく分かりません。
「意識の構造」 における客観と主観の関係も、実数と虚数からなる複素数の関係と同様
に仮定できるならば、「客観(実の領域) + 主観(虚の領域)=意識(複素領域)」 となります。客
観のみで主観を排除するならば、表現された世界は半面落ちで不完全なものとなります。主
観は己自身が見、感じ、意識する原点であり、客観性はその主観が他者とも共通する普遍
的部分のことであり、主観(意識)の一部であるとも云えます。
例えば私たちの 「愛」 は、数学的にどのような表現ができるのでしょうか。 「愛」 の関係
性を虚(本音)・実(建前)の構造と理解すれば、オイラーの公式 【e±iθ=cosθ±sinθ、θ=
πの場合 :
eiπ+1=0 】 のように、虚数 「i」 をもちいて近づきそうです。数学者・吉田武
氏は、『 「虚」 と 「実」 、 「円」 と 「三角」 を結ぶ 「不思議な環」 を、これは 「オイラーの
公式」 と呼ばれる人類史に残る不朽の名作』 (吉田武 : 「虚数の情緒」 P-583) と記すように、
三次元空間の螺旋状表現で近づくことができるかもしれません。
しかし 「目からウロコ」 、生物における 「ネズミの時間、ゾウの時間」 は 「相対性理論」
に通じるものがありました。生物の 「食物連鎖と共生」 は 「相補性理論」 に通じるものがあ
りました。人間の知性に生物環境の理解を組み合わせると、人類の未来に適合する知性の
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在り方へと辿り着けるかもしれません。
一方で私は、18 歳から登山を始め、10 年後の 28 歳でヒマラヤ遠征登山に参加しました。
さらに 4 年後の 32 歳の時、同じヒマラヤ岩壁登攀の最中、1,000m 上部の氷河崩壊雪崩に
遭遇してしまいました。雪崩落下地点近くには 6 名がいて、テントの外には 4 名がいました。
外にいた3名の仲間が死亡となり、生存は私のみでした。その時私は登山隊長という役割を
担っており、この希にない体験はその後、私の第二の人生への 「道標」 となりました。
青春の時、前後を振り返らずに命をかけたヒマラヤ登山は、35年が過ぎた今でも悔いのな
い人生の一駒でした。それゆえ、今の 「おまけの人生」 の中で、一日、一日を悔いなきよう
ベストを尽くすことが、生き残った者の責務と思っているのです。だから、“生きることはただ
長く生き残れば良いのではなく、いかに今日一日を過ごすか” に重きをおいています。墓も
出来上がり、いつ死んでも家族が困らぬよう、準備は整っています。5歳半ばで死んでしまっ
た三男と一緒に、その墓で同居したいと思っています。
【長生きが地球を滅ぼす】・・・・まさしく長く生きることが目的ではなく、子や孫がより充実し
た人生が過ごせるよう、この論考が参考になればと思うのです。
ヒマラヤ遭難の年末、エベレスト山麓の旅で妻となる 10 歳若い女性に出会いました。それ
から35年、今は長男夫婦と孫3人、そして次男とその彼女。1+1⇒9 へと、少子化を食い止め
ています。残念ながら3男は、5歳8ヶ月の幼児期に亡くなりました。障害をもって生まれた三
男は、日常で気づかない多くのことを気づかせてくれました。健常児にとり何も意識しない日
常が、障害児にとってはどれほど努力しなければ獲得できないことだったのか、無意識な日
常の大切な存在に、改めて気づかせてくれました。そのことは丁度、日常と大きく異なるヒマ
ラヤ登山の体験と、ぴたり重なり合うことでもあります。ヒマラヤ体験が先にあったからこそ、障
害(水頭症)を持って生まれた三男を自然に受け入れ、大切に育てることができたのでしょう。
これらの体験を含めて妻は家族看護学博士を得、現在は医科・医療系大学で家族看護
学(教授)を教えています。テーブルに置いてあった専門誌や学術論文のいくつかを読むと、
ある一つの課題に対し、過去から現在に至る多くの研究者の論旨展開を引用し、自己の論
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旨を代替している論文が多くあります。その論文は多岐にわたる引用の結果、 「だから論者
はどのように考えるのか」 が不明確となっています。客観を優先し、主観は排除すべきなの
か、私から見ればそのような論旨は 「魂の抜け殻」 のように思えます。主観における背反性、
つまり 「見る私」 と 「見られる私」 の表裏関係の中から、他者にも共通する類似性、規則
性、法則性、論理性などを見出すことができましょう。他者(客観)と私(主観)の関係における
特異性と共通性、そのことをメタ言語で表出することが論文ではないかと考えるのです。
そこで私は電気技術者ですから、実数と虚数が織り成す複素数的人間理解をしてみたい
と思ったのです。宇宙を形成する目に見えない電磁気力を意識し、学術論文形式でなく、も
っと自然で根本的で、より総合的な人の意識―文明―文化=環境の理解を言語(メタ)化し、
構造を提示してみたいと思ったのです。これはまた、 「総合人間学」 の一つでもあります。
もし 「客観は主観の普遍的部分」 と説明できるなら、主観は数学的 「虚数の世界」 、客
観は 「実数の世界」 に例えられ、「実数+虚数=複素数」 となり、複素的世界観を表現で
きるのではないかと考えたのです。「虚の世界」 は人の時間意識や感性の問題が扱え、「実
の世界」 は目にみえ、音に聞こえ、匂いを嗅ぎ分け、触れた感触を体感します。実在する三
次元世界に 「時間」 を加えた四次元世界を考える複素的世界観は、どのように表現できる
でしょうか。学術論文的にではなく、文化的遊びを含む未来思考を心がけたいと思います。
大乗仏教の 「般若心経」 では 278 文字の中に、世の中の全てをまとめたと云います。よく
知られた一文に、「色即是空、空即是色」 があります。この世にあるすべてのものは因と縁
によって存在しているだけで、その本質は空であること。その空がこの世にそのまま存在する
ものの姿であることを示します。しかし私は 「因と縁」 の部分を、「宇宙の必然」 と読み替え
たいと思います。山岳体験は宗教的修行と様式、内容が異なりますが、悟りに至る境地は近
似しているように思われます。そのことを、現代語で書き改める試みとも言えましょう。
ヒマラヤ遭難から “おまけの人生” を与えられ、文化研究の途上とした 「老いの道標」
は、未来に向かって歩む子や孫たちの迷路の中で、一つの 「道標(ケルン)」 になることがで
きたら大変喜ばしいものです。
- 10 -
第1章.
山
の
1.丹沢(寄沢) 滝
還
郷
暦
沢
1965 年
6 月 27 日
(2013 年 10 月
山行日
文・構成)
私が初めて丹沢に入ったところが「滝郷沢」でした。
1964 年(S-39)4 月、一般には知られていませんが、NHKを始めとする放送局専門機器メ
ーカーとしては有名な、池上通信機㈱へ入社しました。入社してまもなく、同じ高校で1年先
輩の山岳部OB、八木武夫さんと出会ます。私は送信機や調整卓等を担当する音声設計課
に配属され、八木さんは映像部門を担当するカメラ課でした。
この年 10 月は、東京オリンピックでした。新幹
線や高速道路、そしてテレビのカラー放送が始ま
ります。 会社には山岳部があり、社会人山岳会
でも活躍されていたSさんをはじめ、当時の世相
を反映した勤労者の、夜行日帰り日曜登山が活
発におこなわれます。
入社して1年の間、八木先輩に連れられ、週末
の丹沢通いとなります。初めて入った丹沢が、
「滝郷沢」 。深夜、小田急線・渋沢駅から歩き出
し、中山峠を越えて宇津茂に下り、水車が廻る寄
村を過ぎ、寄沢の河原でツエルト(仮設テント)を被
F1涸滝の懸垂下降練習
って夜を明かします。
夜明けをまってから出発し、涸滝を登ります。投降を繰り返し、ここで岩登りの基本、三点確
保と懸垂下降を覚えます。この沢を気に入ったのは、乾いた岩と下山路でした。当時はまだ
炭焼き小屋があり、山腹から谷筋を見下ろしながら降りる、陽当りの斜面が好きでした。
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2.丹沢(寄沢) 地 獄 ザ リ
1965 年
9 月 26 日
(2013 年 10 月
単独行
文・構成)
今から48年も前の単独行でした。
当時、寄(やどろぎ)に入るためには、深夜、小田急線・渋沢駅から中山峠を越えて
宇津茂に下り、ゴットン、ゴットン水車が回る寄の畦道を歩きます。この記録のコー
ス・タイムからすると、この時は新松田からバスで宇津茂まで入ったようです。
最初に地獄ザリを登ったのは、高校の同期生・杉山美裕君とでした。丹沢に岩壁が
ある・・・!と、胸躍らせます。しかし触れる岩はみなボロボロで、グラグラした岩
は、まさに地獄の崩(ザレ)でした。それでも未来の大岩壁を夢み、友と結んだザイ
ルワークが楽しみで、未来への出発点となります。
その後二人は別々な社会人山岳会へ入りましたが、それでも所属を離れ、よく一緒
に登りました。丹沢山塊の氷瀑登攀、春の前穂高岳屏風岩東稜、谷川岳一ノ倉沢滝沢
リッジの冬季登攀等々、数えきれません。なかでも屏風岩東稜では、最終ピッチでハ
ーケンが抜け、トップを登っていた杉山君が墜落しました。確保していた私は1m も
跳ね上がりましたが、確保のハーケンが抜けず、なんとか止めることができました。
危機一髪!その翌年の 2 月、谷川岳
一ノ倉沢滝沢リッジで、今度は私が
墜落します。最終盤のドームを登る
オーバーハングの乗っ越しで、アブ
ミ(ロープの梯子)を掛けたボルトの
リングが外れ、15m ほど落下。気が
つくと基部のデブリ (雪の吹き溜ま
り)に埋まり、全く無傷でした。私
の、たった一度の墜落経験です。
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夢かない、1974 年横浜山岳協会ネパール・ヒマラヤP29 南西壁登山は、隊員 18
名の大部隊でしたが、杉山君も一緒でした。丹沢からヒマラヤへ羽ばたいた、思い出
の所です。
地獄ザリ から高松山方向を望む
1965.9.26 【コース・タイム 】
地獄ザリ終了点 から足元をみる
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3.谷 川 岳 一 の 倉 沢 南 陵
1966 年 10 月 16 日
(2013 年 10 月
山行日
文・構成)
丹沢の地獄ザリから、谷川岳へと飛躍しました。パートナーは杉山美裕君です。
すでに二人は社会人山岳会へ入りました。私は東京のコンテニュアスクラブ、杉山君は横浜
の蝸牛山岳会です。当時は異なった山岳会
どうしで登ることは、原則禁止されていました。
万一事故を起こした場合、お互いの山岳会
がどのように協調できるのか、未解決だった
からです。解決するよりも、禁止する方が簡
単です。私たちは山岳会の許可を求めるの
ではなく、届けだけを出して勝手に行ってし
まいました。ずいぶんと身勝手だったと思い
ますが、私たちの言い分は、「自由意思の尊
重」 でした。その傾向は杉山君よりも、私の
方が強かったと思うのです。それゆえ杉山君
は蝸牛山岳会への所属を続け、私は別な同
人組織の山岳会、「山岳同人・風」 を立ち上
南陵テラスにて杉山君(左)と私
げたのです。
そして 1974 年、横浜山岳協会 P29 南西壁登山隊 18 名の中には、杉山君を含めた蝸牛山
岳会から 4 名が参加し、私が立ち上げた山岳同人・風からも 4 名が参加しました。この頃は
すでにお互いの実力を認め合い、山岳会相互の壁は低くなっていました。しかし私はいつも、
遭難事故への対処を常に考え、できるだけの対策を図ってきたつもりです。山岳同人・風の
とき、随分と困難な登攀をおこないましたが、遭難事故はありませんでした。
山は 「好きな時に、好きな人と、好きな山を登る」 自由意思の行為です。登山組織はそ
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れをより良くするため、一つはパートナーが見つけられること、もう一つは万一遭難事故等を
生じた場合に支援し合える、相互扶助組織であることをモットーとしました。さらに山岳保険
加入は会員の条件で、遭難捜索費用の担保をおこないます。登山は自由意思の作為です
から、その結果の自己
責任は、できる限りの
対策を図ります。唯一
担保不可能なことは、
生命の保障です。
内気で臆病だった
私が、なぜこ のように
強くなれたのかは不可
解なのですが、山をと
おした自然にもまれ、
真理にめざめる心の
強さを、身をもって体
験から得たからでしょ
う。
この写真、当時の体
重は 53kg だったと思
います。しかし 48 年過
ぎ た 今 で は 、 63kg と
体型は変わりました。
今 再 び 、 週 末 には 丹
沢へ通い、身体を動
かしているところです。
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4.韓国 ウルサンバイ(蔚山岩)とインスボン(仁寿峰)
遠征期間:1967 年 12 月 30 日~1968 年 1 月 13 日
東京都山岳連盟日韓親善東京登山隊参加
(2013 年 10 月
文・構成)
東京の社会人山岳会、コンテニュアスクラブへ入会して3年目、21 歳の時です。
クラブの代表は遠藤登さん。元・拓殖大学応援団長のいかつい体型に似合わず、気配
りを欠かさない交友の広い方でした。加盟する東京都山岳連盟の有志たちにより、
「100$遠征」と称し、隊員の自己負担はポッキリ一人 100$です。円は固定為替の
時代で、1$=360 円です。私は神奈川
県立秦野高校で、理科の実習助手をしな
がら一級無線技術士の資格をめざし、独
学の勉強をしていました。月給は約 3 万
円 の 時 代 で す 。 で す か ら 100 $ =
¥36,000- は、
月給 1 ヶ月強となります。
親元で生活していた当時、費用捻出は困
難でありませんでした。学校長へは海外
研修届けを出し、許可を得て参加となり
ます。
東京都岳連傘下、コンテニュアスクラ
ブ5名、昭和山岳会2名、獨標登行会1
名、東京都庁山岳部1名、ヤングクライ
マースクラブ1名、拓大山岳部 OB1名、
遠藤隊長、古井さん、田中
合計11名だったと思います。当時から遠征記録がまとめられた記憶はなく、記録と
して残るのはこの写真と、私の記憶だけとなります。
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隊長はコンテニュアスクラブの遠藤登さん、副隊長は獨標登行会の往古豊秀さん。
隊員はコンテニュアスクラブ=古井孝明さん、佐藤功さん、末吉孝史さん、私、昭和
山岳会=村山靖和さん、岩崎元郎さん、東京都庁山岳部=大田原昭夫さん、ヤングク
ライマースクラブ=森谷重二郎さん、拓大山岳部=菊池(名前?)さんです。
九州の小倉駅集合。小倉の港から韓国船で釜山港へ。渡る玄界灘の大波にもまれ、
船酔いは激しく、キムチの香りいっぱいの船底で、冷凍マグロのように横たわってい
た記憶が残ります。釜山の税関で、持ち込んだ石油ストーブが検閲対象となりました。
家電製品のストーブだったために、登山にどのように使われるのか、税関のみならず、
ごくごく普通な疑問です。当然お世話になる方へのお土産だったわけですが、どのよ
うな処理がされたかは、全く記憶に残っていません。
釜山からソウルまでは列車に乗り、ソウルの金さんのご自宅にお世話になりました。
韓国に「金」姓はたくさんいます。お世話になった金さんは社長さんとかですが、韓
国山岳界での立場を平隊員は知りません。当時韓国は、朝鮮戦争(1950~1953 年休戦)
後 14 年しか経っておらず、焼け野原が散在していました。ソウルの街中でも、天秤
で水を担いで運ぶ姿を見かけます。日本式な銭湯があり、皆で入浴にいきました。
ソウルからバスでソクチョ(束草)へ行きますが、途中幾度も検問があり、検閲官
がバスの中へと乗り込んできて、乗客をすみずみまで見渡します。38度線の検問所
で一時停車。外に出て写真を撮っていたらアメリカの守備隊に見つかり、フィルムを
引き抜かれました。その程度で済み、スパイ罪で捕まらなかったのは幸いです。休戦
中とはいえ、まだまだ南北対立が激しく、ソウル出発前には「山中で北朝鮮のビラを
持っていたらスパイ罪で捕まるから、絶対に拾わぬように」という訓示を受けていた
のです。その国の状況に応じ、一挙手一頭足に気配りしなければならないのは、異国
を訪ねる基本的な心構えでした。
登山は、ソラクサン(雪岳山 : 1,708 m )への凍った谷を遡るパーティと、麓の幅 2km 以上
に広がる高さ 200m ほどの垂直な花崗岩のバットレス 「ウルサンバイ(蔚山岩)」 を登る、二つ
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のパーティに分かれました。私は後者のウルサンバイに入り、初登攀ルートを目指します。パ
ートナーはYCCの森谷さん。体が大きく体重の重い森谷さんは、垂直とオーバーハングの
人工登攀を担当します。少し傾斜が落ち、裂け目(クラック)のあるフリークライミングは、私がト
ップを受け持ちます。韓国から合同参加した “李” さんは、佐藤さんと後続で登ります。二
日がかり、8ピッチだったでしょうか、詳細は忘れてしまいましたが、垂直な花崗岩の初登攀
は、心地良いものでした。
このルートは 「日韓親善東京登山隊ルー
ト」 と命名されましたが、その後のホローがな
いために、今はどうなっていることでしょうか。
オーバーハングの乗っこしで、アブミを一台残
置してきたのが心残りでした。
燃料を床下にどんどん詰め込んでしまいます。
すると時間遅れで床の温度が上昇し、今度は
床が熱すぎて居られません。温度を下げようと、
床下の燃料に水をかけ、床上にも水をまきま
ウルサンバイの岩壁
室はオンドルで暖めます。最初は冷たいので、
↓
登攀の間に泊めていただいた、寺の離れの
す。床隅に置いた、ホエブス(小型コンロ)燃料のガソリンタンクはパンパンになり、いつ爆発
するかわからぬ状態です。おそるおそると外に持ち出し、冷やします。
ソクチョからソウルへ戻るバスは馬力が出ず、登り坂では皆が降りてバスを押します。その
うちにガス欠となり、止まってしまいました。ホエブスの余ったガソリンをバスに注ぎ込み、や
っとのことで給油地へ辿り着きます。もう半世紀も前のことです。
ソウル近郊の岩山、インスボン(仁寿峰 810. 5m )の花崗岩も手ごわいものでし
た。細かいスタンスのフェイス登攀、40m 以上のチムニー登攀、霜で凍った岩隅をデ
ィルファー登り、スケールは小さいですが難しくも快適な、冬の韓国でした。
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【以降登攀ルートはインターネット写真から複製】
記憶が薄れ、緑線の登攀ルートは確かではありません
1P=人工(垂直~オーバーハング)、
2P以降=フリー(クラック~トラバース~フェイス)
最近の登攀ルート図より
(緑線は登攀ルート)
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仁 寿 峰 ( イ ン ス ボ ン )
(緑線は登攀ルート)
記憶が薄れ、登攀ルートは確かであり
ません。全てフリークライム。
正月だから上部岩壁は霜で
凍っていました。
最近の登攀ルート図
(緑線は登攀ルート)
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5.ヒ マ ラ ヤ 登 山 中 の ヒ ゲ
1974 年横浜山岳協会 P29 南西壁登山隊
ツラギ氷河BCにて
(2013 年 11 月
文・構成)
1974 年春、横浜山岳協会・P29南西壁登山隊、ベースキャンプでのひと時です。
ヒマラヤは乾燥しているので、二ヶ月お風呂に入らなくてもだいじょうぶ。垢がたま
ると爪先でガリガリ掻きむしり、フッーと一息吹き
かけると、垢は吹き飛ばされてゆきます。残された
肌はサラサラと、赤みを増した外皮が現れます。
ヒゲも伸びてきます。美しいヒゲ、醜いヒゲ、人
様々な形状を呈します。髭面は好きでありませんが、
面倒なのでそのまま伸ばします。私のヒゲは、醜いヒゲ
面でした。生涯ただ一度、髭面の写真です。
石積みのカマドに大鍋をかけ、いつもお湯が沸いてい
るベースキャンプは、憩えるところです。BCで飲むティ
ーは、真綿にしみこむよう、身体の隅々にまでしみわた
ってゆきます。ヒマラヤで水分は、一日4㍑以上取らない
と脱水症になると言われます。喉が乾き、身体は自然にそれらの量を欲します。だから我慢
しないで欲求を満たします。人間の身体の自動制御機構は、たいしたものです。「欲求と欲
望」、この違いを冷静に見つめられるようになったのも、ヒマラヤという大自然の中で、人が生
きることを学ぶ実践においてです。「欲求」 は人それぞれが生きるために備えている必要条
件。「欲望」 は、さらによりよく生きるためにどうしたいか、という十分条件。それゆえに、「欲
求」 はできるかぎり満たす必要がありますが、「欲望」は環境に合わせてコントロールする必
要があります。私が探索している 「人の意識・文明・文化=環境」 の中で、欲求は文明要
素、欲望は文化要素とも言い変えられます。
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6.古 き 山 の 道 具
2013 年 11 月
(2013 年 11 月
自宅にて
文・構成)
かつて使用していた山の道具です。今ふたたび、まだ使えるこれらの道具を携え
て、雪山へ行きたい気持ちが芽生えてきました。
アイスバイル = シャルレ G
ピッケル(上) = シモン スパーE
ピッケル(下) = シャルレ モンブランガイド
アイゼン = ショイナード
登山靴
= カモシカ オリジナル
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7.ネ パ ー ル ・ ヒ マ ラ ヤ
P29南西壁遭難
遠征期間:1978 年 7 月 22 日~1978 年 10 月 22 日
ツラギの会
P29南西壁登山隊
(2013 年 11 月
文・構成)
1978 年 9 月 14 日 11 時 40 分、
第2キャンプから 200m 余の地点に、
垂直で約 1,000m
上部にあった氷河の塊が落下。第2キャンプ付近にいた6名の内、3隊員死亡事故が
発生。強烈な爆風により、埋設固定なきものは、全て吹き飛ばされました。
- 23 -
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氷塊落下地点の近くには2隊員(高橋、万実)、C2テント内には2名(柏森、サーダー)、テ
ントの外には2隊員(牛沢、田中)がいました。結果は、以下の通りです。
高橋隊員 : 直後から捜索しましたが発見できず、行方不明。
万実隊員 : 直後の捜索により、クレバス内で発見。全身打撲で意識がありませんでした
が、テントまで運搬の途上で絶命。
牛沢隊員 : C2キャンプ下部にある岩壁を落下。雪の中から発見しましたが絶命。
田中隊長 : 牛沢隊員と並んで立っていましたが、C2下部の氷壁で停止、無傷。
柏森隊員 : C2テントの奥にいたため、テントが潰されただけで無傷。
サーダー : C2テントの入口にいたため、テントの外へ吐き出されましたが、無傷。
爆風による風速、風圧は計算できませんが、氷河の氷に固定なきものは全て吹き飛ばされ
ました。人間はもとより、デポジットしていた装備、食料、酸素ボンベ等、全てが飛散。
C2~C1間にある 「死んだ氷河(大阪大学:住吉氏命名)」 は、モンスーンの降雨によって流
された岩砂に覆われ、表面が褐色となっていました。しかしこの爆風をともなう氷塊の飛散に
より、一瞬の間に氷河一帯は白色へと一変します。
C2から直線で約 2,000m 下部に設営していた第1キャンプ(C1)では、家型テントのポール
が折れました。キッチン・サイトでは、石積壁にフライシート屋根をかけていましたが、フライシ
ート屋根は吹き飛ばされてしまいました。
C2より約 500m 上部の第3キャンプ(C3)には白石副隊長、アンテンバ・シェルパがいました
が、飛散した氷片が舞っただけで、メンバーへの影響は全くありません。
C1からC2に向かって荷揚げ中のサンテンバ・シェルパは、牛沢隊員発見地点の近くにい
ました。傾斜が緩い平坦なところでしたから、10m くらい飛ばされただけで無傷でした。
爆風による結果は、「死亡」 と 「無傷」 の両極端へと分かれます。その理由・原因はなん
であるのか、また、氷河崩落を予測できたか・否か、以降に述べます。
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【 氷河崩落を予測できたか、否か 】
第2キャンプ(C2=5,240m)の予定地は計画
当初から決めており、その通り実施しました。
1974 年の横浜山岳協会隊においては第4
キャンプ(C4=5,400m) でしたが、全く同じ場
所となります。南西壁基部へ至る約 1,200m
のアイス・リッジが始まる出発点で、平らな氷
河台地です。アイス・リッジ側面上部からの
雪崩を警戒していました。側壁の高さは約
500m、氷に覆われているため、降雪時の積
雪が崩れるだけで、降雪量を注意していれ
ば、危険は少ないものでした。
1974 年、横浜隊の時はここに連続 33 日間
滞在し、最も安定・安全なキャンプ・サイトと
いう認識を
横浜山岳協会隊:C4=1974 年 3 月 27 日建設~4 月 28 日撤収
もちました。
写真奥の
岩壁は垂
直 1,000m
ほどの高
度差があり
ます。その
上部は氷
河となり西
側へ傾斜
ツラギの会:C2=1978 年 9 月 3 日建設後 ~ 憩いのひと時
- 26 -
しています。その氷河は崩壊し、大音響とともに西壁を滑り落ちてきます。右下の写真は、
1974 年横浜山岳協会隊の時、その氷河崩
壊雪崩を写したものです。この時南西壁側
には大音響とともに雪片が舞いますが、風
圧は感じません。今回、第3キャンプの状
態が、それに当たります。まさか南側にある
C2キャンプ地側への崩落は、全く考え及
びませんでした。
西壁の雪崩=1974 年 3 月~4 月
横浜山岳協会隊
夕焼けの西壁と点線は右写真の雪崩部分
崩落氷河と思われる部分
1978 年 9 月、C2上部のア
イス・リッジを登ると、右写真
のように、垂直 1,000m 上部
の氷河末端部が写っていま
した。まさかこの氷塊が崩れ
て落下してくるとは、全く予
期しませんでした。
1978 年 9 月 C2上部
アイス・リッジ登攀中の私
- 27 -
【 何が生死を分けたか 】
ことの詳細は拙著 『青春のヒマラヤに学ぶ(文芸社:2001.1.1 刊)』 によります。 ここでは重
複もありますが、新たな記述を試みています。
この遭難は、私自身 「一生のトラウマ」 であり、生涯背負い続ける 「責任」 でもあります。
そして設問に対する答えは、今もって 「確かなことは分からない」
というものでもあります。
1978 年 9 月 14 日、11 時 40 分という時刻において、メンバー諸君がいた場所(位置)こそ
が 「生死」 を分けた要因であり、次には多少の運命的素因を考えることができます。
もし時刻が1時間早かったなら、崩落地点近くには6名が集まって作業をしていました。そ
の時ならば、おそらく6名死亡は確実だったでしょう。しかし昼食時刻が近づき、C2テントへ
4名戻ったことは、各々の任務と意思にもとづく必然でした。
C2に戻った4名の内、C3から下降してきた柏森隊員は、「疲れた」 といってテントの奥で
休みます。サーダー(シェルパのリーダー)ペヌリ・シェルパは昼食用にと、テント内の入口付近
でお湯を沸かしていました。隊長の私と牛沢隊員は、テント入口側の外で並び立ち、ぼんや
りと岩壁を見上げながら、サーダーが入れてくれたコーヒーを飲んでいるときでした。
6名の結果は、先に記した通りです。テントの中にいた二人は無傷でした。問題はテントの
外にいた、私と牛沢隊員との違いです。氷河崩落地点から私たち二人の位置を見れば、ほ
ぼ同一点とみなせます。だから同じ結果であっても良いはずですが、全く正反対な結末とな
りました。なぜ牛沢隊員が死亡となったかは、推測するしかできません。そしてなぜ私が助か
ったのかは、私自身が証言することはできます。
<私の証言>
私と牛沢隊員はまだアイゼンを付け、手袋を外してコーヒーカップを持っ
ていました。C2直下は傾斜が急な氷壁であり、その上に薄く雪が付着しています。飛ばされ
た時、私は猫が爪を立てるように、氷壁に素手の爪を立て制動を試みました。一瞬だったの
ですが、まるでスローモーション映画の一駒一駒のように、刻々の状況は鮮明でした。鼻の
孔に雪片が詰まり、耳穴にも詰まります。やがて息苦しさを感じてきましたが、見開いた目は
足元の固定ロープを見つけました。ロープにつかまろうとした寸前、流れは止まります。固定
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ロープにつかまり、立ち上がってあたりを見回すと、静寂な白一色の世界です。固定ロープ
の位置からして、私がどこに飛ばされたかは直ぐに理解できました。振り返ると 1~2m 後ろで、
小さいながらもクレバスが開いています。私は全くの無傷でした。
右隣に牛沢隊員がいるはずなので見回しますが、人影は全くありません。固定ロープにつ
かまり、C2へ駆け上がると、サーダーのペヌリ・シェルパが、トイレとしていた方角からヨロヨロ
と戻ってくる姿に出会います。潰されてはいましたが、流されなかったテントの中から、柏森
隊員が靴下のまま飛び出してきました。
牛沢隊員の姿は、どこにも見当たりません。私が流された方角からすると、さらに下部岩壁
を落下している可能性が大です。しかし私は、高橋・万実隊員やその他のキャンプ状況も把
握しなければなりません。テントの中に残されていたトランシーバーを見つけ、C3の白石副
隊長、C2の御園生隊員と連絡がとれ、捜索の割り当て指示を出します。
牛沢隊員は予測の通り、C2下部岩壁を落下していました。C1から捜索に出た御園生隊
員とシェルパ3名により、岩壁下の雪のデブリ(雪溜り) の中で発見されました。首にワイヤー
が巻き付き、骨が折れています。脈拍、呼吸もなく、瞳孔も開き、顔色も変色し、死亡を確認。
同じ点にありながら、なぜ牛沢隊員が死亡、私が生存していたのか、今もって不可解なこと
です。多少の運命的要因を考えることはできますが、私は運命論者でありませんから、運命
にまかせることはできません。しかしまた、科学的必然性を持ち立証をすることもできません。
『青春のヒマラヤに学ぶ』 ではジャック・モノーの 『偶然と必然』 の書を引き、「偶然」 と
いう答えを導いています。その後私の科学的知見の学習は、この疑問から出発しているとい
えます。 「我々登山者の系と、西壁氷河運動の系とが、偶然に重なり合った結果の遭難事
故である」
と。さらに 「氷河運動の系を、登山者側で察知できなかった結果である」 とも。
量子力学を導いたヴェルネル・ハイゼンベルグの 「不確定性原理」 や、ニールス・ボー
アの 「相補性理論」 への興味が増し、「多世界解釈」 や 「複素的世界観」 の模索など、
宇宙論、素粒子論、電磁気力等々、不確定性という偶然をいかに理解、説明できるのか、今
もって学習と模索は続いています。この遭難事故は、私の科学的探索の原点にあります。
- 29 -
P29 南西壁
← 南峰 7,514m
崩落氷河↓
C7 予定
氷河崩落
高度差= 1,000 m
C6 予定
C5 予定
C3=5,640m
C4 予定
C2=5,240m
C1へ
死んだ氷河へ
南西壁と死んだ氷河
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8.家族で アンナプルナ・トレッキング
期間:2000 年 3 月 26 日~4 月 2 日
結婚 20周年 : 家族4人で
1978 年末エベレストで出会い、1980 年に結婚した妻と私は、3人の息子を得ました。1995
年夏、三男は5歳の幼少期で突然亡くなってしまいます。2000 年春、長男は高校3年、次男
は中学1年になる春休みを利用し、家族4人で8日間のネパール旅行をおこないました。
我が家の旅行は、いつも自前の計画です。航空券は、旧知の前谷さんが社長をしている、
㈱アドベンチャーロードにお願いします。ネパールの手配は、これまた旧知の大河原ご夫妻
の Himalayan Journeys (ヒマラヤン ジャ-ニーズ)に、メール連絡でお願いします。
為替レートはホテルベースで、【 1$=118 円=65.50 Rs 、1Rs=1.8 円 】、銀行ベース
で、【 1$=110 円=68.0Rs 、1Rs=1.6 円 】、4人で総額費用は 100 万円弱となります。
長男は5歳時にグアム旅行へ行っていますが、次男は初めての海外旅行です。妻は三度
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目のネパール、私は何度目かもう分かりません。初日、カトマンズのホテルに落ち着くと長男
は、 「もう帰りたい」 と言い出します。人ごみにまみれるのが苦手のようです。ポカラへ移動
しトレッキングが始まると、野山の開放感と雑踏がなくなり、長男も落ち着きます。
ポカラへ向かうフライトの機内から、マナスル3山(マナスル、P29、ヒマルチュリ)が右手に
マナスル
8156m
ヒマルチュリ
7884m
P29
7835m
南西壁
見えます。息子たちには、かつて父が挑んだ 「P29南西壁」 を指さして教えますが、無言
で見つめているだけです。ヒマラヤといっても、遠くの雲とあまり変わらない景色だからでしょ
うか。かつてそこに生死のドラマがあり、父の葛藤があったことは、この記録とともに、記憶を
呼び覚ましてくれるかもしれません。そんな記憶を、子の遺伝子に焼き付ける旅なのです。
ヒマラヤンジャーニーズのポカラ事務所で、ガイドの Lobsang D. Sherpa (ロブサン シェル
パ) とポーターの Nima Sherpa (ニマ シェルパ) と合流します。ガイド料は一日 10$、ポータ
ー賃は 5$です。アンナプルナホテルでランチを食べ、チャンドラコットへ向け出発。
- 32 -
カーレまでランドローバーに乗り、1 時間
のトレッキングでチャンドラコットへ到着。
すぐに少女たちが集まり、妻は千羽鶴を教
えます。小学校へも顔出ししますが、まだ
慣れない息子たちは会話ができません。
英単語と身振りだけでも結構通じるのです
が、やはり尻込みしてしまいます。
丸太に板を打ち付けたチャンドラコットの
ガイドのロブサン シェルパ
ロッジは、床が傾いています。木のベッド
にシュラフ (寝袋) をのばして眠ります。息
子たちは登山やキャンプでテント生活を経
験しているので、テントよりは快適です。ベ
ジタブル・カレーの夕食と、チャパティの朝
食、宿泊代を含めた一泊の総額は、945Rs
(\=1,700-) となりました。シティホテルは国
際価格ですが、山に入ったロッジでは、こ
少女に千羽鶴を教える
のように安上がりにすることができます。慣
れてくると、このようにオリジナル・トレッキ
ングでメリハリをつけ、状況に合わせてア
レンジするのも旅の醍醐味です。
ガイドのロブサンは日本語ができず、英
語とネパール語で話します。ガイドは資格
を要しますが、ポーターは不要。多国語を
話せないと、ガイドにはなれないので、職
Annapurna South
能に応じて賃金が異なる能力主義です。
- 33 -
7,219m
Annapurna Ⅰ
8,091m
Annapurna South
7,219m
チャンドラコット出発時のアンアプルナ
トレッキング2日目は、アンナプルナの山々を間近に見上げながら、ビスターリ、ビスターリ
(ゆっくり、ゆっくり) 歩きます。日本の山ならばテントや食料、水と炊事用具の全てを背負って
歩きますが、ヒマラヤトレッキングではポーターのニマさんが背負ってくれます。貴重品だけ
は自分で背負います。使用人を使ったことのない日本の生活から考えると、一見贅沢に見
えます。しかし仕事のないネパールの人々にとっては、観光客の荷を運ぶことが現金収入を
得る良い機会なのです。ガイドは客の荷を運ばなくてガイドが仕事となり、ポーターは客の荷
を運ぶことが仕事となり、分業が明確です。このように職能に応じて対価も異なる能力主義
は、大陸で生き抜くことの知恵なのでしょう。さらにお互いの職能を侵さない、暗黙のルール
もあります。例えばガイドがポーターの荷を背負ったとすると、ポーターの仕事を奪うことにな
るのです。ポーターが重い荷を背負っても、ガイドは平然としています。贅沢とは異なり、現
地で雇用を作り出すことは、ネパールの人々の生活向上にとり、少しは貢献をします。ネパ
ールに限らず、雇用創出の大切さはヒマラヤ登山隊の経験から学んだことでした。
- 34 -
チャンドラコットからポタナまでの道
のりは、アンナプルナの山々を左に見
ダウラギリ
8,167m
アンナプルナ南峰
7,219m
上げながら歩きます。扁平な石を敷き
詰めた道や、モンスーン前でまだ丈の
低い草の道です。ヒマラヤの形相は日
本のアル プス と異 なりま す。た とえ、
3,000m が 8,000m になったからといって、
見上げる高さが 2.5 倍になるわけでは
奥にはダウラギリ山群も見えてきます
ありません。空間は圧縮され、一見北
アルプスのようですが、歩けば日本感
アンナプルナ南峰・Ⅰ峰
覚の約3倍はかかります。
アンナプルナ街道の拠点ポタナに
入ると、行き交う人々も増えます。他の
日本人トレッカーもいます。広くて小奇
麗なレストランに入り、昼食。「ロブサン
さん、ニマさんも一緒に食べよう」、とい
います。宿泊地で彼らは、我々と別に
アンナプルナを見ながらチャンドラコットからポタナへ
食事をとります。サーブ(主)とサーバン
ト(従)の意識は、ヒマラヤ登山初期から
の、イギリス仕込みが健在です。日本
Annapurna South
Annapurna Ⅰ
には 「士農工商」 の身分制度があっ
たとはいえ、戦後社会の日本人は、主
従関係が薄くなりました。登山隊がシェ
ルパを雇用しても、お友達感覚の扱い
が多くなり、西欧の登山隊から批判さ
ポタナのレストラン
- 35 -
れることもありました。一方の慣習から見
ればそのような批判も出ますが、歴史や
社会は日々変化しています。過去の背
景を知り、新たな関係を築くことが大切
と思うのです。こんな小さな体験でも、息
子たちが実際を知り、小さなことでも伝
えたい、旅の思いがありました。
ポタナへ早く着いたので、予定を早め
ダンプスのホテルに宿泊
ダンプスまで足をのばします。ダンプス
はポタナより大きな村で、過去に幾度も
訪れました。学校訪問や民族ダンスの
歓迎を受けたこともあります。
ダンプスは開発が進み、プール付ホテ
ルがありました。一泊一人 500Rs (約
\900-) 、ツインのベッドが入っていま
す。プールで水浴びするような暑さでは
ありません。ここから携帯電話がつなが
ダンプスからの日の出
ると、ホテルマネージャーはまだ大型だ
った携帯電話を、自慢げに見せます。
芝庭の白い椅子にもたれ、燦々とふり
7,219m
アンナプルナ南峰
そそぐ日差しを浴びながら、ヒマラヤの
山々を望むのは最高の贅沢です。
一泊二食付、4人合計=2,915Rs (約
\5,200-) 現地交渉しながら歩む旅は、
オリジナル旅行の楽しみです。
ダンプスのホテルの庭に憩う
- 36 -
トレッキング三日目はダンプスからポ
カラへと、約3時間の歩行です。棚田
の細い道を下りながら、途中にある茶
店で、休憩です。次男が日本から持
ってきた清涼飲料水、 “ナッチャン・
ボトル” の空を取り出すと、現地の娘
さん(若いお母さん?) は、アンモナイト
の小さな化石と交換してくれと言って
ポカラの宿泊 : ホテル・トルシェ
きます。どのみち我々には不要となる
のですが、現地では貴重な水溶ボトル
です。物々交換は、即刻成立。こんな
身振り手振りのささやかな息子たちの
交渉が、異民族と触れ合う体験を残し
てくれます。10 年以上たった今でも、
折に触れて飛び出すエピソードです。
ポカラの “ホテル・トルシェ” は室内
ホテル・トルシェの憩い
も広く、ベッドも大きく、日本の一般ホ
テルよりも快適です。息子たちはホテ
ルのスタッフに、 「超 (ちょー) おいし
い」 という日本語を教えます。もし今も
ポカラで、 「ちょー○○○」 という言
葉が流行っていたら、我が家の成果
の一端です。アンナプルナを背景とし
たポカラ郊外の油絵は、今も我が家の
居間の壁を飾っています。
カトマンズ
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トリブバン空港の国内線待合室で
カトマンズ の コテージ・ オー ロラは、
1978 年の遠征隊宿舎として以来、カトマ
ンズを訪れるたびに顔を出します。右の
写真は移転後ですが、宿舎だった頃は
少し離れた所です。庭が広かったので
遠征隊準備には最適でした。
オーナーのナラヤン・バイジャさんはト
リブバン大学でコンクリート工学を教える
移転後のコテージ・オーロラ
教授ですが、私と同い年。1970 年の大
阪万博で来日以来、得意の日本語で会
話をします。奥様の菊江さんは東京出
身、二児の母です。
ちょうどこの時は、私たちの結婚 20 周
年でした。オーロラを訪ねると、菊江さん
手作りのケーキとネパール料理で歓待さ
れました。そういえば、私たちの新婚旅
行もカトマンズで、移転前のオーロラへ
コテージ・オーロラの菊江・バイジャさん
宿泊したのでした。
両家の子供たちは年が近く、食事の後
は遊園地の観覧車を乗りにゆきました。
回転のスピードが早く、「超コエー・・・」
という我が家の息子たちの感想です。
ナラヤンさんご家族はメルボルンへ移
住され、オーストラリアの永住権を獲得さ
れましたが、交流は今も続いています。
菊江さんお手製のケーキ
- 38 -
9.大 学 生 た ち と 穂 高 へ
期間:2006 年 8 月 12 日~14 日
2006 年、私は還暦の年です。次男は、医療従事者を目指して大学1年生です。その年の
夏、同期入学の友人3名で穂高へ行きたいと言います。次男は中学が終わるまでには、立
山、槍ヶ岳、前穂高岳、唐松岳~白馬岳、アンナプルナ・トレッキング等々へ、親と一緒に出
- 39 -
かけていました。友人達は登山経験がなく、そんな友達を引き連れて行く自信がないのも、
次男はよく承知していました。大学生になり、いまさら親がかりでもないのですが、私も休み
がとれ、一役買うこととします。
次男は高校野球、友人たちは高校サ
ッカーで過ごしていましたから、体力的
には私よりずっと上手です。その彼らに、
私の経験と知識を少し加えれば、夏の
穂高は難しくありません。案の定、歩行
では常に置いて行かれます。私はすで
に、自分の体を持ち上げるだけで精一
杯。若者たちは節目のところで待ってい
カッパ橋の大学生3人
てくれます。
晴天の空は、慶応尾根を回り込み、パ
ノラマコースに入ると雲行きがあやしくな
りました。屏風のコルの手前から、激し
い雷雨に見舞われます。岩の窪んだと
ころでフライシートを被り、しばし雷鳴と
同居します。ヒマラヤ 6000m では、雷雲
の中で行動したことがあります。ピッケル
はブーンと唸り、金属に触れる肌はビリ
ビリ感じます。雷と同電位になってしまえ
ば、落雷はありません。電気には 「キル
ヒホッフの法則」 というのがあります。
「同じ電位の点を電気的に結んでも、そ
の回路に電流は流れない」 というもの
パノラマコースから涸沢へトラバース
- 40 -
です。つまり雷は大地に対して放電
するのです。電圧は高く、その割に電
流は少ないですから、広範囲に破壊
するエネルギー量はありません。しか
しながら人の心臓を通過すると、致死
にいたる電流値ではあります。雷鳴は、
いつの時も心地良い気はしませんが、
通り過ぎるのを待つばかりです。1 時
間もすると雷雨は去り、カラットした
パノラマコースから涸沢へトラバース
清々し空気を感じます。
さあ、出発。屏風のコルを廻ると、
涸沢のテント群が見えてきます。小さ
な岩場の通過には、固定ロープが張
られています。若者たちは何の気に
もせず、すいすい歩いてゆきます。
夕刻、まだ明るいうちに涸沢へ到
着、テントを張ります。石畳の上はゴ
涸沢へ到着
ツゴツしていますが、文句は言えませ
ん。大学生は3人用テントに入り、寝
袋に入ります。私は一人用テントを張
り、ザックの中に足を入れます。これ
まで夏山で寝袋を使ったことはなく、
還暦になってもまだ、その意地が残っ
ています。ガスコンロに火を点け、夕
食の支度です。
涸沢を出発
- 41 -
2日目朝、今日も良い天気です。テント地から雪
渓を横断し、奥穂のコルに向いザイテングラード
を登ります。健脚で落ち着いて登れば簡単です。
下りを急ぐと時々転倒事故が生じ、死亡者も出し
ているところです。若者たちはグングン先を行き、
遅れる私を待ってくれます。体重と闘いながら、
私はゆっくりと続きます。降りてくる人の中から、
「ヒマラヤのベテランが登っている」 と声がかり、
どうしてわかるのか不思議に思えてきます。
ザイテングラードの登り
まだ結婚前年だった 5 月のゴールデン
ウイークに、妻と二人で奥穂のコルから涸
沢に向かい、グリセードで降りたことがあり
ました。上部は急なのでザイルを結び、交
互に滑りながらスタッカットで降ります。そ
の時は滝谷を登ったつもりが、出合いを
一本間違え、登り着いたところは涸沢岳
でした。今思い返すと、ヒヤヒヤものです。
ザイテングラードから下を見ると
この話、息子達はまだ知りません。
穂高岳山荘から奥穂高岳への登りは、天
気がよければ難しくありません。山頂へた
どり着くと 「マンセー」 と、集団の大きな声
が聞こえます。見回すと、韓国の団体さん
が大勢います。同じモンゴリアンの、顔つき
が似ているので気づきませんでしたが、韓
国からの団体ツアーでした。
奥穂高岳山頂
- 42 -
3190m
私は山にいるときいつも不安を抱え、
心から楽しんだことは一度もありません。
しかし家に帰ってから思い返すと、不安
や苦しかったことも全て、楽しみに変わり
ます。そんなことをいじいじと繰り返し、半
世紀になろうとしています。
子育てを過ぎ、子が自立してゆく経過
を見守る時を迎えました。子の自立にとり、
前穂高岳からの下り
どこまで干渉して良いのか、事々に考えさせられま
す。獅子は子を崖から落とすという、背水の陣の教
育法もあれば、知識と技の伝承という方法もあります。
今回の同行は、山の知識と技の伝承とともに、崖に
向かって登る自主性の尊重、といった点に落ち着き
そうです。しかしながらもっと学んでほしいものは、リ
ーダーとしての在り方です。不確定な未来への不安
に耐える信念の持続と、それに対する指導力の発揮
です。ドグマ(一人よがり)はいけませんが、理性の裏
重太郎新道の下り
付けを備えた信念は不可欠です。
「学ぶ」 とは、そのことの繰り返しで、
経験に裏付けされた理性をもって信念を
持続しつつ、指導力を発揮することにあ
ります。経験だけでなく、知識だけでもな
く、知識に基づいた経験と、経験からフイ
ードバック (帰還) させた知性の練磨を、
日々続けてほしいと願うのです。
- 43 -
重太郎新道から岳沢を見下ろす
奥穂高から前穂高にいたる吊尾根は岳
沢側を歩きます。前穂高岳(3090.2m)か
らは、重太郎新道を下ります。前穂直下
はしばらく岩場が続きますが、難しい岩場
ではありません。次男はすでに小学生の
夏、この重太郎新道から前穂高岳往復を
しています。私が引率し、小学生仲間3人
とでした。下山の前日には台風が接近し、
岳沢のテント場
岳沢の水が増水しましたが、なんとか渡れ
畳岩
る水量で、無事帰ることができました。
今回は大学生です。天気も良く、何ら問
題はありません。岳沢ヒュッテ近くのテント
場に設営します。 ヒュッテにいたネパー
ル人は、かつてヒマラヤ遠征で雇用したサ
ーダー、ペヌリ・シェルパの弟だと言いま
す。彼らは兄弟といっても顔が似ていない
下山中の岳沢、右手後方の岩壁は「畳岩」
場合も多いのですが、まあいいや・・・と思い、話を合わ
せます。そのうちに彼は、我々のために缶ジュースをサ
ービスしてくれます。何はともあれ、ありがたく頂戴するこ
とにしました。
岳沢からの帰りは、河原伝いから森林帯へと入ります。
後方に見上げる畳岩も、かつてルート開拓した岩場で
す。妻とも一度、中央部分を登っています。そんな話は
若者にせず、森林浴に浸ります。ほどなく上高地に到着。
人、人、人・・・で、溢れていました。
上高地付近の森林帯
- 44 -
10. 3 2 年 振 り の 夫 婦 山 行
<アイガーから唐松岳 >
期間 : 2013 年 10 月 11 日~14 日
(2013 年 10 月
文・構成)
2013 年 10 月、妻と二人だけの山行は、32 年振りでした。
“子育て前の山行” とした32年前、1981年夏を、スイス・アルプスで 1 ヶ月間過ごしました。
これが夫婦二人だけの、最後の山行です。ツェルマットの登山者用ホテル・バーンホフに泊
まり、クライマッターホルン(氷壁ルート)、マッターホルン(ヘルンリ稜)を登りました。それからグ
リンデルワルトへ移動して、アイガー(ミッテルレギ山稜)を登ったのが、主な成果です。
最初は足ならしにと、クライマッターホルンの長い氷壁ルートを登り、雷雲の中を登りきっ
たロープウエイ駅で、始発まで仮眠。次はマッターホルン北壁も、と意気込んでいましたが、
下降ルート確認のために登ったヘルンリ稜では私の調子が上がりません。頂上一歩手前の
ソルベイ小屋で高度障害を自覚し、無理せずに引き返すこととしました。それまで私はヒマラ
ヤの岩壁を登っていましたから、高度障害の自覚症状はよくわかります。出発の日まで忙し
かった設計業務は、徹夜の睡眠不足と過労が
重なり、高所にとっては大敵です。加えて、茅
ヶ崎(私の生まれた隣の市)から来た日本人パー
ティが、数日前に北壁で転落死したという情報
を耳にします。私たちは、北壁への一歩を踏
み出す勇気が出せませんでした。マッターホ
ルン北壁は断念し、アイガーへと転進します。
アイガー東山稜(ミッテルレギ山稜)は、日本近
代登山の重鎮、日本山岳会創設者でもある槙
有恒さんが、1921 年 9 月に初登攀されたルー
トです。登る右手は東、北壁側、左手はカリフ
ィルン氷河へと切れ落ちた山稜。1981 年当時、
1981 年 8 月
- 45 -
アイガー山頂 (スイス)
東山稜は初登攀からすでに 60 年が過ぎ、多くのクライマーに登られる、代表的なルートとな
っていました。日本人は我々二人だけ。ガイドは、もちろん私です。ミッテルレギ小屋に泊ま
り、早朝にスタート。さしたる困難に出会うこともなく、短時間で雪の山頂まで登った記憶にあ
ります。むしろ困難は、下降にありました。西壁はどこでも降れそうなのですが、広い斜面が
突如断崖に切れ落ち、迂回するはめとなります。下降技術は難しくありませんが、ルートファ
インディングの難しさと、うんざりするほどの下降時間の長さは、登るよりも大変だった記憶に
あります。地球温暖化の影響を受け、現在西壁は下降ルートでないそうです。
あれから 32 年が過ぎました。私たちは、男児3人を誕生させました。末子は5歳で亡くなっ
てしまいましたが、長男には子が3人(孫)、いまだ未婚の次男は彼女もできたので、私たち
の子育ては終わりです。そんな時節の中突然に妻が 「山へ行きたい」 と言い出しました。
大学山岳部時代紅一点だった妻は、この
32 年間、子育てと大学教員の職を併せ持っ
て奮闘し、山らしい山へはほとんど行けませ
んでした。それでも時には家族や息子の学
友を連れ、夏の槍ヶ岳、春の八方尾根、夏の
八方尾根~白馬岳、ネパールヒマラヤ・アン
ナプルナト・レッキングなどへ出かけています。
しかし近年は椎間板と脊椎に痛みを感じ、荷
10 月 12 日 ダケカンバの中を行く
ポツポツ雨が降り出し、この先強風と降雨
を背負うのがままなりません。
10 月 12 日、秋の八方池周辺は、紅葉もさかりを過ぎていました。唐松岳と白馬3山はす
でに葉の枯れた褐色となり、南面のガレた岩肌は、降雪と見まちがうほどの白さです。ガレの
突き上げには、まだ雪渓が残ります。昨年、降雪が多かった名残でしょうか。八方池周辺ま
では観光ゾーンです。老若男女、赤ちゃんから超高齢者まで、カラフルでさまざまないでた
ちの人々で溢れています。池の先は、登山ゾーン。秋の稜線は、葉が落ちて赤い実をぶら
- 46 -
下げたナナカマドや、風雪に耐え芸術的に変形したダケカンバの太い幹が目立ちます。す
でに西高東低、冬型気圧配置の始まりとなったこの日、稜線から舞い降りるガスの流れは、
刻々とダケカンバ帯までを冷雨でつつみます。冷雨と強風にたたかれながらハイマツ帯を辿
り、岩肌が出てくるころには唐松岳頂上山荘に到着。古い雨具を容易にすり抜けた雨粒は、
衣服の中へ染み込んできます。視界は小屋の廻りだけ。濡れた身体で山荘に入ります。
3年前に建替えられたという山荘は、2,620m、天上のホテルです。檜の香りもプンプンと、
上下2段式、6名並びの下段の奥に入ります。1室2段、左右併せて24名分の布団が敷きつ
められています。合計5室ですから、単純計算で120名収容でしょうか。この日はほぼ満室
でした。私たちのゾーンは2組の夫婦です。その間の2名分が空となり、ゆとりをもって眠るこ
とができます。中央通路には除湿機が回り、ジメジメした感じはありません。1階には乾燥室
を備え、濡れた雨具を吊り下げて、一気にバーナーで乾燥させます。何回か繰り返すと、宿
泊客全ての雨具は乾きます。トイレは水洗式。食堂は広く70名分くらいのテーブルが用意さ
れています。夕食は先着順に、2回に分かれて食べます。壁際の暖炉は食堂の雰囲気を暖
めるのでしょうか、薪に火はありません。数台の石油ストーブが焚かれ、暖かな室です。
山荘のオリジナルカップに注がれる、ドリップ・コーヒー1杯 500 円は高所価格なのでしょう。
それでも飛ぶように注文が出されます。私たちも、一人で3杯飲みました。コーヒーの味と香
り、価格とのバランスは、“雰囲気”です。美味しさを味わえる雰囲気の中で飲むことは、酒の
味わいと同じなのかもしれません。酒を
飲まない私たちにとり、コーヒーは最良
のアシストとなります。
強風と雨は夕方からミゾレに変わり、
夕食を終えたころには風雪となってきま
した。強風は朝まで続きます。この夜は
本州に初冠雪を記録したといい、山荘
周辺は2~3cm の雪が積もりました。
10 月 13 日
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唐松岳頂上山荘前からの日の出
13 日、褐色だった山肌は一夜で真っ白となり、ご来光に赤く染まります。小屋の出入口に
下がった温度計は、-8℃を指しています。きのうと同じ、ご来光のしばらく後からガスが湧き
出し、強風にのって飛び交います。日の出
からの光は、山道の雪をわずかながら溶か
します。初冠雪だから、雪の下はまだ凍っ
ていません。スリップの危険は感じません
が、身体の硬い最初はゆっくりと、足元を
確かめながら下山にかかります。
山は下りの方が難しく、技術と慣れを要
します。八方尾根は初心の登山者が多く、
10 月 13 日
前日は無雪の露岩
下りでは幾組も追い越します。下りの要点
は、腰を引かないことです。斜面とフラット
に足を置くと同時に体重を乗せる。そのた
めには、膝関節を柔らかに動かし、筋肉の
強さも必要となります。言葉ではやさしい表
現ですが、マスターするには経験を要しま
す。若き頃に馴染んだスタイルは、年老い
▲私
ても身体が覚えていてくれます。そのイメ
ージは残っているのですが、関節の柔軟
さと筋肉の強さはイメージと異なり、「・・つ
もり」 が、そうならないことが多々あります。
高齢者の心すべき点です。降雪は、前日
の雨の範囲と同じく、2,300m 付近から上
でした。その境目にはナナカマドの赤い実
が白雪に映えます。八方池まで下ると、秋
- 48 -
10 月 13 日
初冠雪の八方尾根を下る
の3連休を楽しむ行楽の人々の群れに飲み込まれます。二車線ならぬ登降二列、相互歩行
の山道は行き交う挨拶も必要なく、白馬の街を見下ろしながら歩を進められます。振り返ると、
白馬3山上部の初冠雪はガスに巻かれていま
すが、少しずつ青空が広がりはじめています。
リフトの乗り継ぎ駅付近は紅葉が盛りで、初冠
雪の白さに映えます。ゴンドラに乗り換える、う
さぎ平の展望レストランは総ガラス張り。鹿島槍
ケ岳、五竜岳、唐松岳、白馬鑓ケ岳、杓子岳、
白馬岳、大パノラマの昼食です。
眺望の素晴らしさに引けをとらない、1998 年
第2ケルン付近にて
長野オリンピック滑降コースは、とても私たちに
は怖くて滑れません。しかしクライマーは、もっ
と急峻な谷をグリセードで降りるんだ、と、負け
惜しみの口上を述べたてます。その違いは、ス
ピード感にあるのでしょうか。どうも私には、スキ
ーのスピード感についてゆけません。
ゴンドラリフト・アダムの終点から約 10 分。
リフトの乗り継ぎから白馬3山
「白馬 樅の木ホテル」 は長野オリンピックより
はるか前に築造され、杉林に囲まれた瀟洒な
ホテルです。色付いた二枚の落ち葉を足先に、
一人露天風呂につかりながら、木々をわたる風
のゆらぎが耳元を揺らします。目隠し壁の向こう
では、妻もおなじ湯浴みをしています。
32 年振り、子育て終えた夫婦の山行でした。
10 月 13 日(泊)白馬樅の木ホテル
- 49 -
11.今 ふ た た び 、 丹 沢 へ 還 る!
2013 年 6 月より
【2013 年 5 月】 17 年間をともに暮らした猫(ハッピー)は、歯槽膿漏の悪化から食物摂取
ができなくなりました。胃瘻は選択肢から外し、自然死を選びます。私もまた歯槽膿漏の歯
茎を 1 年以上も治療し続けていましたが、猫にも同じ病があるとは知りませんでした。ハッピ
ーは火葬にし、まだ我が家にいます。すでに 3 年前、我が家の墓は完成しているのですが、
まだ空っぽです。5 歳で亡くなった三男、コリー犬のスカイ、拾い猫のハッピーらの遺骨は、
私の入墓と共にその墓で一緒に暮らすことにします。
5 年前に自宅を増築し、その一室を事務所としました。設計業務の連絡は、そのほとんどを
インターネットでおこなうため、外出の機会はめっきり減ります。そのために、足腰の弱体化
【 表丹沢地図 】
- 50 -
をひしひしと感じるようになりました。通勤電車の超混雑や駅までの徒歩は、それなりに日常
のトレーニング効果があり、体力維持の役割を十分果たしていたのです。
私自身、長生きを望んでいるわけではありません。しかしヒマラヤ遭難を経、生きながらえる
ことになると、死んでしまった仲間のためにも、自ら命を断つことはできません。生死を分け、
偶然に生を得たその後の生き様の中で、後悔を残さぬ日々でいたいと願うのです。
それゆえ、“今ふたたび、丹沢へ還り!”、健やかな日々を過ごしたいと思います。
人生 60 年は 「還暦」 です。私の山は 50 年。人生の還暦とは異なりますが、似たようなも
のです。丹沢からヒマラヤへ、そして子育てを終えた今、ふたたび丹沢へ。無理なく、無理せ
ず、できる範囲で、山歩き続けたいと思うのです。アルピニズム(より高く、より困難を目指す登山
形式)とはサヨナラをし、文化登山へ移行です。
【2013 年夏】 街の気温は 34℃を超える猛暑でした。丹沢の木かげは 28℃です。山の気
温は 100m 上がると 0.6℃下がります。1000m で-6℃ですから、計算と合致します。大倉から
三ノ塔へ登り、烏尾山から下ります。噴き出した大汗のおかげで、体重は 5kg も減りました。
以前は 「ヒル」 など気になりませんでしたが、気がつくとシャツの脇腹に、血糊がベットリ
付いています。痛みはなく、ヒルの残骸もな
<寄沢上部を望む>
く、ただ血糊だけが残っていました。それか
らも二度、足元にヒルがたかっていましたが、
喰われるまでにはいたりません。山小屋の
主人に聞くと、近年は鹿の繁殖とともに、ヒ
ルも多発しているそうです。以来、草むらや
落ち葉の茂みに座り、休憩のザックを置かな
いよう気を付けます。
塔ヶ岳から大倉尾根を下ったとき、単独の
飯塚女史に出合いました。一緒に降りながら話が進むと、女史の住まいと私の実家はすぐ近
くでした。意気投合し、再び山へ。いま人気の鍋割山へ鍋焼うどんを食べに、二股コースか
- 51 -
ら登ります。次は寄(やどろぎ) 沢から鍋割峠
を経由して、鍋割山へ登ります。
【11 月 4 日】 天気はめまぐるしく変わり、
天気予報は午後の晴れを報じます。朝方は
雲が薄かったので、予報を期待して出かけ
ます。しかし寄の雲はだんだんに下がりはじ
め、雨山、檜岳、鍋割山は姿を見せません。
昼近くになっても、秋冷の雨はいっこうに止
寄沢をつめ、雨山峠の直下
む気配もなく、ときおり強さを増してきます。
鍋割峠への分岐点とおぼしきところから、
赤布を頼りに分け入ってみます。ガレと落ち
葉の斜面を 200m も登ると赤布は絶え、ブッ
シュに行く手を阻まれます。踏み跡はなく、
雨の中このまま進むには女史の負担が重す
ぎると考え、引き返します。ふたたび雨山峠
へのコースに戻り、沢筋を通って雨山峠へ。
雨山峠の道標
雨の中、休憩もそこそこに出発、鍋割峠
へ向かいます。稜線の青白いザレの岩場に
鎖がかかります。しかし固定ボルトはグラグラ。
鎖につかまらないのは、かつての意地。墨
絵のような灰色の稜線には、ひときわ鮮やか
にモミジだけが浮き上がります。
軟弱となった太ももの筋肉は悲鳴をあげま
す。痙りそうになった筋肉の疲労を、なんと
かごまかして登れるのは経験のたまものです。
- 52 -
雨山峠~鍋割峠 稜線のモミジ
鍋割峠も雨雲の中。峠から寄へ下る道
標が見えます。ここからの下りは、なんとな
く雨山峠への路に合流するそうですが、
過去に沢筋で流されて遭難があり、その
レリーフが登山口にあるそうです。
峠から鍋割山へはあと 500m の登り。右
手には富士山が見えるはずですが、雲の
鍋割峠の道標
中。かつて登った地獄ザリも見えません。
枯葉を落とした樹林の間の階段路を登る
と、鍋割山頂です。
晴れた日の鍋割山頂は、人・人・・・人で
いっぱい。名物の 「鍋焼きうどん」 は、行
列ができます。雨の日は待つこともなく、
鍋焼きうどんで身体が温まります。ザック
にはガスコンロとクッカー、水 2 ㍑とブルマ
鍋割山へ登る右手に富士山
ン・コーヒーパックをしのばせていますが、
雨の中ではそんな気分になれません。温
かいうどんと休息で、筋肉は元気を取り戻
します。相変わらず雨は止みません。午
後 2 時に下りはじめ、後沢乗越から二股
を経由し、大倉に着いたのは4時 30 分。
外灯が灯りはじめています。
一日中雨の中で疲れましたが、39,000
歩で踏破した充実感が残ります。
晴れた日の鍋割山頂は人・人・・人
写真は、その 12 日後のものです。
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【2013 年 6 月以降】
足繁く丹沢通いが始まりまし
た。大倉から 「風の吊り橋」 を
渡ると、橋のたもとに茶房があ
ります。 「おおすみ山居(さんき
ょ)」 といい、京都西翁院の
「淀看席 (よどみのせき) 」 を参
考にしたといわれます。 「山居
(さんきょ)」 とは山小屋のことで、
おおすみ山居 2013.11.16
この地は中世の頃から 「大住
郡(おおすみぐん)」 と呼ばれ、この山居の名
付けの元となります。
【7 月】 烏尾山の小屋でコーヒーを飲み、
休んでいたときです。女性単独の老女史で
す。「足が痙ったので、ここから下山したい」
と小屋の主に道を問い、一人で下山してゆ
きました。私も同じ路を降るつもりだったので、
コーヒーを飲み終えてから後を追います。す
おおすみ山居 抹茶と和菓子
ぐに追い着き、様子を尋ねると、痙攣は収まったようです。 「また足が痙ったらお手伝いしま
すから、しばらくエスコートします」 と言って、老女史の後をついてゆきます。無事に新茅山
荘まで降り立つと、あとはゆるやかな下りの戸川林道です。老女史にとっては初めてのコー
スということで、大倉のバス停まで同行することにします。途中お年を聞くと、77 歳というお答
えでした。私は 67 歳ですから、10 歳先輩となります。
私の 10 年後は想像できませんが、高齢者の単独登山には考えさせられるものがありまし
た。自分は良いと思っても、周囲へどれほど迷惑をかけてしまうのか・・・・・と。かといって、家
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にこもって身体を衰えさせ、社会福祉の手間と費用を増大させることはもっと悪行です。私が
丹沢廻りを再開したのも、家にこもり軟弱化した身体をリフレッシュし、平穏な心根でいたいと
思ったからでした。山行は、自らの健康チェックを果たします。毎年通知が届く高齢者の
「特定健康診査」 より、よほど安価で全身バランスのチェックができます。
【8 月】 盛夏には、冷抹茶で汗だくの身体をクールダウンします。
これまでは、橋を渡るたびに見下ろしていた山居。アルピニストを気取った 「山や」 にとり、
茶房は別世界。一度入ってみたいと思っても、なんとなく気後れを感じます。風流を楽しむ
のが 「文化」 ならば、アルピニズムとは異なった、文化登山に気持ちを切り替えてみると、
その垣根は低くなります。
【11 月】 和風庭園 「谿風(けいふう)の庭」 は秋の盛りです。紅葉の前、濡れ縁に腰掛け、
和菓子とともに温抹茶で一服。
【11 月 23 日】 今日も大倉から三の塔を一周し
てきました。最近の日常は、椎間板の接合状態から、
腰痛と下肢の痺れがとれません。看護学博士の妻
からは、 「ザックを背負って山道を下るなんて、一
番腰に悪い」 と毎々言われます。我慢できる痛み
なので、私は無視。しかしながら街で、電車やバス
で座ると苦痛です。大倉から歩き始めても、腰の痛
戸川林道の紅葉 2013.11.23
みと足の痺れは続きます。ところが牛首からの急な
登りは、痛みを忘れさせていました。
富士山を正面に見据える快晴の三の塔は、山ガール、山ボーイ、山バーヤ、山ジーヤで
にぎわっています。烏尾山へ向かう岩まじりの急な下りは、一列渋滞。どんな格好をしていて
も、岩場の降りや身のこなしで、登山技術は見抜けます。渋滞を避け、烏尾山から下ります。
コルセットで腰を締めつけ、色づいた山肌をながめながら、戸川林道に降り立ちます。林道
は紅葉が鮮やかで、風に舞っています。そして今日も 「おおすみ山居」 で一服。
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【12 月 30 日】 西高東低の気圧配置は、典型的な冬
型です。日本海側は吹雪、太平洋側は快晴が続きます。
三ノ塔から見渡す 360 度の展望は、雲一つありません。10
日ほど前に降った雪が残っていますが、稜線は雪混じり
の泥道となり、ぐちゃぐちゃです。さすがに夏の賑わいは
去りましたが、それでも 7~8 人はいます。同じテーブルに
座る二人連れの青年は、即席ラーメンをつくるためにガス
コンロを取り出しましたがライターを忘れ、他のグループの
樹林の路
火を借りています。
私はおにぎり 2 個とドラ焼き1個を食べ、ポ
ットに入れた温かいブルマン・コーヒーを味
わいます。コーヒーは一人で飲むより、心通
う二人、またはそれ以上で飲んだ方が味わ
い深いのですが、今日も一人です。
相模湾は逆光を反射させ、キラキラと魚の
ウロコのように輝きます。箱根から富士山へ、
さらに鍋割山の稜線越しには、南アルプスの
三ノ塔からの塔ヶ岳
白き峰々が浮き上がります。塔ヶ岳から丹沢
山方向は残雪も多くなり、三峰方面へかけて
雪化粧も濃くなります。その右手には遠く、都
心のビル街が見えますが、老眼には輪郭が
ぼやけます。大山の北面は雪が残りますが、
南面はすでに溶けてしまったようです。湘南
の海岸線に続く江ノ島の突起は、老眼にも良
三ノ塔からの富士山と塔ヶ岳
く分かります。
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【 2014 年 1 月】 週末毎に三ノ塔往復
をしています。4 日、12 日、18 日と。12 日の
雪が一番多く、5cm 程度が山頂付近を被っ
ていました。山頂にはテントが一張り、中か
らストーブの音が聞こえます。ラーメンでも
作っているのでしょうか。
【 1 月 18 日】 山頂の小屋前に、雪ダ
三ノ塔、小屋前の雪ダルマ
ルマが残されていました。11 時半の気温は
9.8℃。先週は 1.8℃でしたから 8℃も高く、
雪ダルマはいつまで耐えられるでしょう。
この日は最近見かけない、小型のキスリ
ングザックを背負った、ニッカボッカ姿の単
独登山者に出会いました。私が山を始めた
半世紀前には、横幅が2尺4寸のキスリング
小型キスリングとニッカボッカ姿
に 50kg の荷を詰め込み、ヘトヘトになって合宿参加です。
その背負った姿が 「カニ」 に似ているため 「カニ族」 と
呼ばれ、列車の中では邪魔で嫌われ者の別称でした。
ファッショナブルな現代の登山スタイルを気にする風もな
いその登山者に、うかつに声をかけることはできません。
すっかり常連客となった 「おおすみ山居」 。枝ばかり
おおすみ山居 2014.01.18
の木々に、紅梅、白梅の小さな生命(蕾) が芽吹いていま
す。そんな枝に吊り下がり、風のままに揺れる萎びた紅葉
に、老いの生命のシブトサを感じます。でも私ならいさぎよ
く地に還り、若芽の肥しになる方を選びます。生命の世代
交代は、生物に皆等しく種の継承、代謝なのですから。
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枝に吊り下り風に揺れる紅葉
【 2 月 1 日】 小春日を通り過ぎ、春の陽気です。
すっかり表丹沢の雪は溶け、春霞のように遠景はぼ
や け ま す 。 三 ノ 塔 頂 上 の 昼 時 、 気 温 は 9.3 ℃ 。
1,000m 下の街では[ 9.3 + 0.6×10=15.3℃] 、計算
上と符合します。しかし風は冷たく、陽が射さない避
難小屋の中は寒く、コンロで沸かしたカップラーメン
雪が溶けた塔ヶ岳方面
とブルマン・コーヒーは、冷えた身体を温めます。
ストック・デビューのこの日、買ったばかりのカーボンファイバー
ストックを下山路に使ってみます。昨今の丹沢は、登山路確保の
ため、丸太留めや木製階段がいたるところに整備されています。
子供や若者には何でもない段差ですが、筋力が衰え歩幅の狭
まった高齢者にとっては、段差と歩幅が合いません。老人にとり、
丸太や木製階段は障害物に感じます。結局、膝関節痛や足の
神経痛がなければ、ストックは無用の長物でした。しかしこのこと
ストック下山の飯塚さん
は、身体が柔らかい人にとっとっての話です。身体が硬く、膝・股・
腰関節の柔軟性に欠ける人は、ストックが有効でしょう。四足歩行
は、重力を分散吸収させるからです。
人間は二足歩行することにより、脳を発達させてきました。ストッ
クを使うと四足歩行となり、人間たる能力を発達させるのではなく、
後退させます。若者や健常者はストックなど使わず、全身のバラン
スを司る神経回路を鍛えた方が良いと思うのです。
「おおすみ山居」 では、春の訪れを感じさせます。紅梅も開花
し、蕾みは大きくふくらんできました。白梅は少し遅れています。乾
いた土の上で、水仙が白く艶やかな花びらを広げています。
24,000 歩。飯塚女史との一服は、温抹茶と梅の和菓子でした。
おおすみ山居に咲く花
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【 2 月 9 日】 8 日深夜、東京都心で 27cm の積雪を記録し、45
年ぶりの大雪と報じています。9 日、意気込んで三ノ塔へ出掛けま
す。・・・が、何と、雪がありません。太平洋側低気圧通過による、里
雪型の降雪でした。
交通機関の乱れは少なく、相模鉄道線と小田急線の乗り継ぎ
は順調です。渋沢駅から大倉行きのバスは、登山客で一杯。路肩
に積み上げられた残雪で狭まった車路は、大型バス
林道の雪
の交叉に時間がかかります。
いつもより 1 時間以上遅れ、9:45 大倉を出発。
13:00 三ノ塔着。夏場より 30 分程時間がかかります。
歩き始めの晴れ間は木々の枝葉についた雪を溶か
し、まるで雨が降っているようです。青空は次第にガス
で覆われ、山頂から山腹を隠してゆきます。山肌の降
雪は少ないのですが、吹き溜まった斜面は膝までもぐ
ります。すでに先行者の踏み跡が残され、雪の階段と
なります。しかし丸太の段々より踏み込みが柔らかく、
足への衝撃を和らげてくれます。
山頂の避難小屋付近に雪はなく、ぬかるんだ土があ
らわです。ガスに巻かれて視界はありませんが、雲の
山腹からの景色と樹林帯
層は薄そう。ガスの奥には青空が透け、晴天の気配が
感じられます。
「おおすみ山居」 に
客はなく、雪景色の庭
園を独り占めして今日
も一服。
雪の「おおすみ山居」
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三ノ塔の避難小屋
【 2 月 16 日】 14 日から 15 日朝方まで降っていた大
雪は、東京から放射状に延びる日本の物流、交通機関
に大きな打撃を与えました。横浜の我が家の車の屋根に
は 44cm 積っていました。16 日、妻と次男は自宅で雪のト
トロを作ります。私は一人で恒例の三ノ塔廻りです。
小田急線渋沢駅前は、タクシーを待つ登山者の行列で
自宅前、雪のトトロ3体
す。大倉行きのバスが走らず、見知らぬ4人でタクシーを
乗り合わせます。さすれば回転良く、待ち時間が減らされ
ます。ほどなく順番が廻ってきました。
9:15 大倉を出発。すでに先行者の踏み跡(トレール)が
残され、三ノ塔 12:40 着。牛首までの林道は、先週よりも
少なめな雪。根の張りが弱い杉の木は、斜面で雪の重
みに倒されています。その何本かには、スギ花粉がはち
大倉から望む三ノ塔
切れんばかりに膨らんでいました。
牛首から上部の斜面は先週よりも降雪量が多く、膝くら
いまであります。先行のトレールは夏道のように迂回せ
ず、かなり直上してゆきます。降雪から一日が過ぎている
ため、雪も少しは締まってきており、踏み固めればスタン
スになります。丸太の階段よりも足腰に優しく、先々週か
ら用いたカーボンファイバーストックが役立ちます。アイ
ゼン不要な雪道ならば、ストックはバランスを保つ有効な
補助具でした。
快晴の空は青く、台風一過ならぬ風雪一過。三ノ塔山
頂の気温は 8.4℃。風は冷たいのですが陽射しは暖かく、
富士山はもとより湘南の海、新宿副都心方面まで一望です。
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林道に倒れた杉
三ノ塔頂上では、念願の山G(ガール)さんと
お友達になれました。マラソンやトレイルランナ
ーから冬の登山を始めているという女史。牛首
からの登りでは元気よく追い越されてゆきまし
たが、10 分程の遅れで山G(ジー)なる私も山頂
に到着。冷たいミカンとポットの温かいコーヒー
でおもてなし。冬山でスカートをはいた姿の写
真を、撮らせていただく許可を得たのです。
三ノ塔:富士山をバックに山G・永長さん
まさかスカートで冬のテント生活はできないでしょうが、
日帰りの山行ならば “そんないに寒くない” と云われます。
山G(ジー)なる私には、信じがたい言葉です。
下山は一緒となりました。山G(ガール) の女史は、初め
て使うスノーシューで勢いよく下ります。遅れがちとなる、
山G(ジー)の私は妙案をめぐらせ、比較的表面の締まって
きた雪面を、シリセード(お尻で滑る)で追い越します。体力
ではすでにかなわないので、格好を気にせず省エネで対
抗。幸いユニクロで買った内張り付きズボンは破けずに、
スノーシューの永長さん
まんまと大成功。グリセードは格好良いのでしばしば使っ
てきましたが、シリセードは格好悪いのでよほど疲れた時
以外はやりませんでした。しかし今、若きパワーを凌ぐ老い
のテクニックとして、丹沢では初めてのシリセードを試みま
す。徒歩で腰までもぐることもなく、短時間の省エネ下降は
大正解。滑り終わって気がつくと、スカートの山Gさんはシ
リセードができません。山G(ジー)は、そのことをすっかり忘
れていました。今度、ズボンの時に教えますから・・・・・ネ!
三ノ塔、山腹斜面の雪
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【 2 月 19 日】 大雪がもたらせた残雪
の中、日本山岳文化学会有志が平日
の 「おおすみ山居」 に集結しました。
他に訪問客はいないと思い計画したの
ですが、ぱらぱらと客は絶えません。大
雪の寒さで木々の芽吹き、開花は遅れ
気味です。二週前とあまり変わらず、白
梅の開花が遅れています。紅梅は五分
おおすみ山居の前庭にて
咲き程度でしょうか。ロウバイの枝は、ま
だ黄色い蕾です。
山居の休憩入口に、雪と風で折れてしまった 「河津
桜」 の枝が、大きな瓶に水差しされています。そのうち
の数本を、帰りのおみやげにいただきます。
縁側で一列に向かい、温抹茶と梅をあしらった和菓子
紅梅と風の吊り橋
や自家製甘酒を舌で味わいながら、ガラス戸越しに雪
景色の日本庭園を目でも味わいます。真冬の平日、昼
前の優雅で贅沢な時間帯。90 歳の中村先生を筆頭に、
85 歳の奥様、70 歳代の日本山岳文化学会役員諸氏
(西本さん、佐々木さん、砂田さん、相原さん)、67 歳の私、
そして 26 歳の次男という、山岳ならではの集いです。
老若の違いがあっても、山と文化を語り合い、心通じる
この集いは、孤高の楽しみにない共に有ることの喜び
を教えてくれます。過度な文明進化の時間に追われる
こともなく、人と自然がとともに 「有る」 ことの文化を、
背に感じるひと時です。運転手を務めてくれた次男の
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抹茶を味わい主庭を観賞
名前 「有(ゆう)」 は、共に有ることを象徴し哲学
的意味を込めた名前です。しかし今は山に有り、
文化を語り論ずる理の場ではありません。共に
味わい記憶に刻み付ける、山岳文化の感性の
中にいます。
「風の吊り橋」 を渡り、ラーメンとソバの昼食を
とります。そして山岳スポーツセンターの主、相
風の吊り橋と大倉周辺
原さんのご案内で、ビジターセンターと山岳スポ
ーツセンターを見学します。ビジターセンターに
は、丹沢山系に生息する動物の剥製や植物・歴
史を語る、展示品や写真が並びます。
スポーツセンターではなんといってもクライミン・
ウオールです。東京大学構内に、日本で最初に
作られたクライミング・ウオールの中心は、中村先
風の吊り橋と後方は三ノ塔
生でした。昨年末にそれを見学してきたばかりの
面々は、ここでも目を輝かせます。次男坊曰く、
『みんな少年のように目が輝いていた』 と。
それぞれ老齢の
身に様々病をかか
えながらも、動ける
かぎり行動し続け
山岳スポーツセンターにて
る、山岳高齢者が身をもって示す 【老いの道標】 です。病
院勤務の看護師で、入院高齢者を見続ける次男坊に、こん
な素敵な高齢者達がいることを示せた一日でした。
次男坊曰く、 『楽しい一日だった。ありがとう!』
15m のクライミングウオール
- 63 -
【 2 月 22 日】
雪の丹沢詣が続きます。今日も三ノ塔
を往復。渋沢駅前に大倉行きバスはなく、電車から降りた
登山者もまばらです。バスを待つまでもなく、タクシーで大
倉へ。大倉の少し手前で、登山者を詰め込んだ定期バス
を追い越します。渋沢駅の大倉行きバスが出発し、直後
三ノ塔の避難小屋
に私が乗った電車が到着したようです。
大倉には、すでに到着していた登山者を含めて大勢います。
ほとんどの人々が、大倉尾根の登山者です。身なり、装備ともに
ファッショナブルな人々の中を抜け、ビジターセンターの前で靴
紐を締め直し、古いオーバーシューズを付けます。
三ノ塔尾根の登山者は少なく、静かな山と森林プロムナードが
楽しめます。大雪から一週間が過ぎ、雪面はほどよく固まり階段ス
ロープとなります。先行者の足跡には4本爪、12 本爪アイゼ
樹林帯の踏み跡
ンが刻印されています。装備に頼る登山技術の低下は、目
を覆うばかりです。私は牛皮で底が固い冬用の靴をはき、キ
ックステップを使うまでもありません。雪山の基本はキックス
テップ歩行であり、氷結した処がアイゼン歩行です。省エネ
歩行は、勿論キックステップ。トレールを外れた樹林帯には、
おおすみ山居の前庭
先週シリセードで滑った溝跡が残されていました。
夏時間と同じ、大倉から 3 時間で三ノ塔着 11:30、気温 4.1℃。
曇天の空は塔ヶ岳を見え隠れさせています。三ノ塔山頂の雪は相
変わらず少なく、避難小屋周辺に雪はありません。
大雪で折れてしまった梅や山茶花の小枝が、「おおすみ山居」の
玄関前で迎えたくれました。19 日のお礼とともに記念の集合写真を
スタッフに渡し、今日も温抹茶で一服、・・・さらにおまけのもう一服。
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おおすみ山居の玄関前
【 3 月 9 日】
先週は、腰痛からくる左足神経痛で
休みました。今日もまだ左足の神経痛が残り、出足は
ゆっくりです。三ノ塔尾根はグループの行列がなく、単
独者も多々います。幾人かに追い越されながらもゆっ
くりと牛首に到着。オニギリとドラ焼きの朝食に、ポット
の熱いコーヒーを飲みます。
なぜか不思議に、牛首から上部の登りになると、足の
残雪の舗装道路
痛みが気にならなくなります。昨年 11 月以来同じです。
昨日も天気が良く土曜日だったために、残雪は踏み固
められ舗装道路のようです。気温が高いので残雪は氷
化せず、夏場の雪渓のよう。その中にアイゼンの爪痕
がくっきりと残され、「雪にはアイゼン」 が定着してしま
雪のない三ノ塔
ったようです。ストック同様、登山装備の標準化意
識が読み解けます。道具以前の歩行基礎技術は、
どうなってしまったのでしょうか。勿論私はアイゼ
ンなし。下降の雪面も、踏み固められた舗装径を
外れ、陽に溶けて締まった雪の斜面にキックステ
ップ。柔らかに膝のクッションを使えば快適、快速、
紅梅と風の吊り橋
森林プロムナード
腰への衝撃も少ないのです。
三ノ塔着 11 時。大倉からは 2 時間 45 分で夏
場と同じタイムです。頂上の気温は 4.2℃。
三ノ塔尾根の下りは森林プロムナード。樹間の
白梅と風の吊り橋
寒アヤメ
小径をハミングで辿ると 「おおすみ山居」 。花
も咲きそろい、訪問客で賑わいます。中国伝説
の仙女 「西王母」 のお菓子と温抹茶で一服。
- 65 -
抹茶と西王母
水仙
【 3 月 15 日】
3 月 15 日
3 月 21 日
前日、街には雨が降
りました。「山は雪か
も!」 と期待を込めて
いま し た が、 三 ノ 塔 尾
根の下部は雨とミゾレ
で雪はありません。牛
首で朝食のおにぎりを
食べていると、、厚木高
校山岳部一行の7~8
人に追いつかれます。
大学受 験で 東工 大に
合格したと云い、つか
の間の安息の春を山で
迎えているようです。
そういえば先週は小
田原高校山岳部の一
雪は山の様相を変える(たった6日の違い)
行、10人程と行き交いました。彼らはアイゼンをきかせて、元気よく降りてゆきす。
私も約 50 年前、県立秦野高校で理科の実習助手と山岳部の顧問をしていました。丹沢
で沢登りを教え、飯豊山縦走に同行したことがあります。大学山岳部は部員の減少で存続
が危ぶまれる昨今、高校山岳部の存在確認は嬉しいかぎりです。
引率教師の中年太りの体型と息切れを読み取り、牛首から先は私が先行します。残雪の
上に昨日の新雪が数センチ積り、ほどよく固まって歩きやすい。ガスの流れは早く、稜線や
山頂を見せては隠します。腰痛、神経痛も気にならず、真っ白な三ノ塔へは高校生たちより
15 分も早く到着です。気温 2.1℃、ガスに取り囲まれています。(写真左)
- 66 -
【 3 月 21 日】 今日は私の誕生日、68 歳になりました。昨日も雨
でしたが、今日は3連休の初日、快晴で気温も高く、まさに “春分
の日” です。先週の雪はすっかり消え(前頁写真:右側)、春山その
ものの穏やかさです。雪化粧は、山の様相を変えます。
三ノ塔山頂の気温は 9.5℃と高いのですが、冷たい北風が強く、
体感温度は下がります。太平洋低気圧が発達し、気圧配置は西高
東低型。瞬間風速 20m を超えたところもあると、ラジオが報じていま
三ノ塔の下り階段
す。それゆえ、いつもの泥路は固く締まっています。大倉からは夏
よりも速く、2 時間半で登ってきたので時間の余裕を感じます。乾い
た尾根路にふと思い立ち、烏尾山まで足を延ばすことにします。
烏尾山に向かう三ノ塔の急な下りは、日陰の一部を除けば雪が
溶けました。泥にまみれることなく烏尾山へ。ちょうど上がってきた
ばかりの烏尾山荘の主・三木さんに、今年初めての再会です。
日陰は雪が残る
予約が入り、今夜は4人が山荘に泊まるそうです。恒例
のドリップ・コーヒーを入れてもらいますが、誕生プレゼント
と言ってお金を受取りません。三木さんは 65 歳、都内・板
橋の在住ですが車で丹沢へ。毎回 20~30kg の荷上だそ
うです。外に並んで立ち、快晴の山々を見渡します。
烏尾山に向け三ノ塔の下り
烏尾山からの富士山
三木一則さん
- 67 -
烏尾山荘
【 3 月 29 日】 冬は過ぎました。すっかり春山です。
麓の桜や桃や木蓮が満開です。「おおすみ山居」にも
水の流れが復活し、やはり日本庭園には欠かせない
“せせらぎ” です。杉花粉を飛ばせ終えたのでしょう、
朽ちて褐色になった杉の実のジュウタンが、樹林の小
径となりました。三ノ塔山頂の気温は 15.1℃。街は
烏尾山~塔ヶ岳方面
20℃を超えています。半袖シャツと薄手のズボンは汗も
少なく、大倉から三ノ塔尾根を 2 時間 15 分で登ります。
雪が消えたヤビツ峠からの登山者も増え、いよいよ春
山本番となりました。
三ノ塔から烏尾山の下り口に、お地蔵さんがいます。
誰が編んだのでしょうか、手編み毛糸の帽子、マフラー、
コート姿にて、寒い冬を耐えました。足を止め、心ばか
三ノ塔の下りに望む富士山
りのお賽銭を納めます。
富士山よりも高く、西の空から乳白の高層雲がたな
びいています。飛行機雲も一条の白い帯を、天空に拡
散させています。明日の予報は雨。
霜と雪で表土がゆるんだ急な下りの烏尾尾根は、まだ
登山者も少なく、踏み跡が定まっていません。先週に
続き、古い山の歌を口づさみながら一気に下ります。
水の流れる「おおすみ山居」
三ノ塔 → 烏尾山
三ノ塔下り口のお地蔵さん
- 68 -
【 4 月 5 日】
山裾はソメイヨシノが満開で、春爛漫。大
倉バス停の公園も、桜からチュウリップまで色鮮やかで、行
楽客がにぎわっています。今日は雲の変化が激しく、天候
は安定していません。牛首までの三ノ塔尾根下部は、杉と
檜で緑の樹林の中、青空をバックにホワイト・ピンクの山桜
三ノ塔尾根の山桜
が映えます。汗かきな私はすでに半袖シャツに薄手のズ
ボン、頭のタオルは額の汗を吸い取ります。大陸の寒気団
が南下して、冷たい北西の風を吹き付けてきます。先週と
同じ、2 時間 15 分で三ノ塔着。11 時の気温は 3.7℃、2 月
並みの気温です。
青空は一変して雪雲に覆われ、ちらちら雪片が舞いま
三ノ塔の避難小屋
す。大倉尾根の花立から上は雲に隠れ、丹沢山から三峰
方面にかけては雨か雪か、無数の白濁した筋が激しく降り
注ぐ様子が見て取れます。雨に濡れたくないので、早めに
烏尾尾根を下ることにします。それでも烏尾山荘の三木さ
んにコーヒー入れてもらい、オニギリ食べてから下山。
三ノ塔 → 烏尾山への下り
烏尾尾根下部で、先行の老齢5人組パーティを追い越し
ます。「早いですねー!」 と彼ら。 「ストックは使わずに、
連続動作でなめらかに降りたほうが膝への負担が少ないで
すヨ!」 と私。「でも年取ると筋力が衰えてなかな駆け下り
ることが難しくなる!」 と両者。戸川林道をし
戸川林道で見た「日本カモシカ」
ばらく同行します。・・・と、路傍の斜面に
「鹿」 を発見。どっしりと佇むその姿は、公園
に見る鹿の艶やかさにはない、山中で一冬を
生き抜く厳しさを感じます。
大倉バス停の公園
- 69 -
おおすみ山居「一人静」
【 4 月 12 日】
脚力の衰えを実感するここ数年、
岩登り、沢登りから遠ざかっていました。冬が終わり
春を迎えると、ヒル(蛭)の活動が始まります。鹿の増
殖につられて、近年の表丹沢は特にヒルが多くなっ
たと、山小屋の主は口をそろえます。昨夏には脇腹
を喰われたので、ヒルが出る前に一度 「新茅ノ沢」
新茅ノ沢で一番大きいF5
を登っておこうと意を決
します。今なお三十余
年前にツェルマット(スイ
ス) で買った、クレッター
シューズ (岩登り用靴) を
はきます。こんな古い靴
で沢を登ると、以前に若
倒木の枝に咲く山桜)
残雪、倒木、岩で荒れた沢筋
きクライマーから笑われ
ました。今は沢登り用の
フェルトシューズがありま
すが、私は靴底が曲が
らないクレッターシュー
ズの爪先で、バランスク
ライミングが好きです。
残雪は雪渓となり、ス
ノーブリッジの底には水
烏尾山直下の急なガレ沢
枝沢の合流点に残る雪渓
流を隠しています。陽に溶けた雪面は柔らかく、キックステップにちょうど良い。冬の尾根で
は雪の多さを感じませんでしたが、沢筋へ押し流した岩や倒木が行く手をさえぎり、これまで
になく荒れています。倒木をまたいだり、くぐったり、枝が腕に刺さったり、足元のガレは崩れ
- 70 -
てしまいますが、他に誰もいないので、落石を
気にせず登ります。
烏尾山へ突き上げる急なガレ沢は特に崩
れやすく、浮き石が積み重なっています。チョ
ックストーンとオーバーハングが合わさったよう
三ノ塔の親子連れ
な岩、これまでいつも登っていましたが、腰痛
と神経痛の今日はエスケープします。そのまま、
雪解けでゆるくなった土と岩と枯れ枝の急な斜
面を登り、烏尾尾根の一般道へ出ます。一般
道をたどれば、ほどなく烏尾山頂。12 時 15 分
着、気温は 14.7℃。沢の遡行で 2 時間 30 分も
かかってしまいます。先行者の痕跡はなく、シ
ーズン初遡行ではないかと思います。予想通
戸川公園 6 万本のチューリップと三ノ塔
り、ヒルには会いませんでした。
乾いた喉に、烏尾山荘主・三木さんのドリップ・コ
ーヒーは、格別に美味しく喉を通り過ぎます。小屋の
中にはこれから塔ヶ岳まで行く、山G、山Bの5人組
が賑やかに、カップ麺のランチです。私はズック靴に
履き替えて、下山は三ノ塔経由。雪の心配がなくな
戸川公園の桜と三ノ塔
ったヤビツ峠からの登山者が急増し、老若男女、親
子連れ、グループ、単独、多彩です。
大倉バス停前、戸川公園は 「花とみどりの祭典」
で賑わっています。6 万本のチューリップ畑の上に、
今辿ってきたばかりの三ノ塔が鎮座しています。
心なごむ、春の丹沢山麓です。
おおすみ山居の桜と風の吊り橋
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【 4 月 27 日】
この半年間、椎間板の接合状態
が不安定で、左足の痺れと痛みが続いています。
先週は日常の痛みが辛く、山はお休みしました。今
日も休むか迷いますが、思い切って出かけます。一
度座ると痛みが生じ、腰骨のぶら下がりをすると解
消します。相模鉄道線に座った痛みは、小田急線
に立っていても顔が歪みます。どこで引き返すか迷
三ノ塔下りから見る富士山
いながら、バスは大倉へ。
稜線の雪が消えたので、今日は買ったばかりの
ズック靴です。岩に滑らぬよう、靴底のゴム(?)と形
状をチェックし、お店の床で滑り具合を確認しまし
た。先々週まで履いたズック靴は、買ったばかりの
稜線の山桜と登山者
雨の時、街の点字ブロックで滑り、見事に
宙へ投げ出されました。今日は足元が軽く、
スイスイ身体が持ち上がります。足と大地の
フィット感よろしく、これまでにない軽快さを
感じます。足腰の痛みもなくなり、快調。三
ノ塔へはこれまで最短の 2 時間 10 分です。
10 時 25 分着、気温 16.6℃快晴。
山桜の咲く稜線は、陽射しの暑さの中にも、
行者ケ岳~塔ヶ岳
行者ケ岳の鎖場
爽やかな風が吹き抜けます。
行者ケ岳の鎖場は行列に並
び、政次郎尾根を下ります。
「おおすみ山居」 の 「御衣
黄(ごいこう)桜」 が満開です。
おおすみ山居の御衣黄桜
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行者ケ岳鎖場の渋滞
【 5 月 3 日】
GW後半 4 連休の始まり。近場は
空いているかと思いながら、これまでより 1 時間早く、
6 時に家を出ます。大倉出発 7 時 35 分。三ノ塔 9
時 45 分着、18.6℃。ヤビツ峠からの人達でしょう、
すでに頂上は賑やかです。雪の多い富士山は、冬
より薄めな姿。稜線の山桜も終盤にさしかかり、紫色
三ノ塔から塔ヶ岳までの表尾根
のカタクリは足元に群生しています。
夏の蒸し暑さの前に一度、表尾根を歩いておこう
と、塔ヶ岳へ向かいます。木の叉小屋でコーヒーブ
レイクに立ち寄ると、カキ氷が美味しそう。欲求のま
まに、両方たのみます。オニギリを食べ、汗も乾いて
から出発。11 時 50 分、塔ヶ岳着。人・人・人・・・・、
春がすみ前、360°の展望です。
表尾根からの富士山
塔ヶ岳からの下りは、コルセットを腰に巻きつけま
す。大倉尾根の行列をさけ、戸沢への分岐点から天
神尾根を下ります。荒れ気味で急な下りは腰にひび
きます。段差の大き
な丸太階段をさけ、
木の根の段差を巻
きます。誰もいない
塔ヶ岳山頂の人・人・人
と思いきや、花立山荘へ荷揚げのお兄さんが登ってきまし
た。さらに女性 3 人組と、カップル 1 組を追い越します。戸沢
出合の河原は、テントと車で賑わっていました。
作治小屋は屋根の葺き替え中、冷たい蛇口の沢水で顔を
戸沢出合、奥は塔ヶ岳
洗います。戸川林道から 「おおすみ山居」 へ、15 時着。
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【 5 月 10 日】
ヒルの繁殖前に源次郎沢を登っ
ておこうと思い立ちました。鼻歌まじりで登下降して
いた昔と違い、今は全身がギクシャク。30 年以上も
来ていないので、気がついたら本谷 F1 の標識です。
出合から間違えていました。本谷を登る意欲はなく、
ここで引き返します。天神尾根入口の標識がある右
本谷F1
の流れをそのまま登れば、源次郎沢でした。椎間板
の調子が悪く、コルセットをしたまま天神尾根を登り
ます。時々源次郎沢に、人声が響きます。
大倉のバス停にクライミング・コンペの看板がありま
した。時刻も早いので、2 月に行った山岳スポーツ
センターを覗いてみます。このような大会を見るのは、
初めて。すでに一般女子の部が始まっており、競技
者のコールを聞いてびっくり。成人女子と思いきや、
みな小学生です。オール神奈川の看板ですが、秋
田、山梨の県外参加者がコールされ、さらに驚きま
す。身の軽さ、しなやかにスムースな体重移動。重
クライミング・コンペ風景
力に逆らって登る気持ち良さが思い返されます。準備を見て
も、死の意識なんて当然ないことでしょう。競技スポーツとなっ
た 「クライミング」 は、オリンピック種目の候補となる時代です。
スポーツクライミングは山岳自然の総合化ではない、登山の
局所化ですが、一方では登ることの原型でもあります。遊び
の世界のその先の、記録を求めるスポーツの世界。自然に逆
らう快感とともに、未知への探求を含む、知性と感性の織りな
す人間総合力も磨いてほしいと願いました。
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15mのクライミングウオール
【 5 月 17 日】
先週間違えた源次郎沢へ出かけます。
戸沢出合まで車で来る人が多く、戸川林道を歩く 1 時間の
間に、10 台以上の車やタクシーが追い越します。林道歩き
と汗かきは、老いた身体への準備運動。硬く弱くなった筋
肉を、ほぐします。手抜は、事故の元ですから。
今日は間違いなく源次郎沢へ入ります。すぐ先を行く単
独の若者は本谷と間違えたのでしょう、引き返します。沢の
中は倒木や浮いた岩が多く、雑然とした感じ。冬の雪が重
かったのでしょうか、新茅ノ沢と同じ荒れた様子。やがて先
F9 を登る私:倉田さん撮影
行する 4 人パーティに追いつきます。女性 3 人、男性 1 人、
リードは女性の倉田さん。全員沢登りスタイルで決めてい
ます。かつての沢登りは、岩壁登攀の登竜門でした。今で
は沢登り、それ自体を楽しんでいる様子です。新茅と同じ
く、残置ハーケンやボルトが多く残され、部分的にフィック
スロープやシュリンゲがあります。それらを自由に使い、安
全を確保しています。ストイックなアルピニズムとは違い、
「遊び」 そのもを楽しんでいる様子です。後続は女性の単
独者。気がつくと、半袖の左肘をヒルに喰われていました。
登攀を終えた 4 人グループ
F10 を登る倉田さん
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4 人グループを追い越す
格好良い沢登りスタイル
12.山 旅 の 記 憶 ス ケ ッ チ 展
2013 年 11 月 20 日~25 日
東京大学名誉教授・中村純二博士(宇宙光学)
と奥様(あやさま)は、晩年を世界の山旅にお出
かけです。毎年3ヶ月間にわたるご夫婦での旅
は、登山、スケッチ、オーロラ観測、各地の歴史
検証等々です。その成果は毎年、日本山岳文
化学会で発表されています。
1984 年、東京大学スキー山岳部カラコルム学
術登山隊では、先生が総隊長、奥様は調査隊
銀座:柴山ビルの入口にて
員として参加されました。登山は 「K7
(6,934m) 初登頂」 を果たされ、先生と奥様は
氷河調査等をされています。 (資料 : 「K7初登
頂」 : 東京大学スキー山岳部カラコルム学術登山隊
1984)
あや様は東京芸大図案科卒で、その報告書
には氷河の淵に咲く、多くの草花のスケッチを載
柴山画廊にて
せておられます。その後世界の山旅で、多くのス
ケッチを残されているそうです。そんなスケッチの
代表作を、初めて企画された個展で多くの人々
へと公開されました。「素人個展ですから・・・」 と、
ご謙遜されます。
スペイン、ポルトガル、イギリス、イタリア、スイス、
オーストリア、ノルウエー、ギリシャ、ブルガリア、
ルーマニア、スロヴァキア、パキスタン、そして日
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山旅のスケッチ展示
本と、さらに展示できないほどの山々の旅です。
特に目を引くのは、チェルピーノ (マッターホル
ンのイタリア側) や、ラ・メイジュです。
日本の丹波篠山の景色や、電車の待ち時間
にスケッチされたといわれる人物画なども、民
族の特徴が見事に表されていました。
日本人の心から、世界の異民族の人々との
ふれあいへと、先生と奥様のバイタリティは並
外れておいでです。1951 年から始まった日本
チェルピーノ(マッターホルン)
の南極観測、その第1次から第3次までの観
測隊員と、樺太犬、タロー、ジローらとともに第
3次越冬(最初の観測)隊員としてご活躍された
未知への探求魂が、その少年のような目の輝
きを、いつまでも持ち続けておられます。第1
次観測隊を運んだ宗谷の船上で、奥様の双
子ご出産(男女) を知らされるエピソードは、N
HKテレビの報道番組、 “プロジェクトX” で
中央=中村先生と奥様(あやさま)
報道され、広く知られました。
宇宙光学博士の先生は、南極で初めてオー
ロラ観測をおこなわれました。若き頃から日本
の山にも登られ、日本山岳会副会長も歴任さ
れています。日本の歴史にも造詣が深く、日
本山岳文化学会では、 「日本の自然に培わ
れてきた日本人の心と、それを伝えゆく責任」
を、2012 年の第 10 回大会で講演されました。
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説明のひとコマ
科学ばかりでなく、歴史や風土に培われる心
の問題に至るまで、文化人とした幅広い素養
で、日頃のご指導や交流をしてくださいま
す。
奥様もまた、陶芸や機織り染色などで作品
を残されます。 「素人ですから・・・」 と、これ
もまた、謙遜されます。
説明の一駒
11 月 3 日は文化の日。1946 年 5 月 3 日、
戦後の新しい日本国憲法は制定されました。
私が生まれた 44 日後です。平和と文化の力
を重視し、憲法公布日となる 11 月 3 日を記念
し、 「文化の日」 が定められました。その日
を前に、今年(2013)の朝日新聞は、憲法制
定で尽力した、時の憲法担当国務大臣・金
森徳次郎を見直すべく記事が掲載されまし
個展の一息
た。新憲法は特に、第9条、①戦争の放棄、②戦力の不保持、③交戦権の否認、を特徴とし
た、世界初の平和憲法樹立であります。戦争放棄をうたう憲法は、人類初の試みです。人類
のあくなき欲望を前に、自ら戦う術を放棄する決断は、個の胆力を超えた世界へと波及する
わけですから、個の判断限界を超えたものとなります。しかしながら、誰かが、どこかの国が、
いつか、いずれかに、決断しなければならない “人類の英断” です。第二次世界大戦とい
う大惨禍を経たればこそ、敗戦国から提起する、日本国憲法制定の決断は正しかったと思う
のです。時の政府、第一次吉田茂内閣の憲法担当国務大臣となり、制定の要として尽力さ
れた金森徳次郎大臣の胆力を再評価すべく、朝日新聞報道でありました。実はこの金森徳
次郎国務大臣のご息女が、中村先生の奥様、あや様であることを知ったのは、今年(2013)
になってからでした。前記の朝日新聞記事コピーを持参し、先生のお宅を訪問したのは、文
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化の日の 4 日前でした。しばし雑談の中で、 応接間にかけられている書、「四時潅花 (徳次
郎)」 へと話題が移ります。 「いつもお花に水をあげましょう!」 という、日常への配慮、気
づきこそが大切であることを教えて下さいます。
天皇機関説事件により、岡田啓介内閣法制局
長官を辞任されます。10 年の浪人時代を経た戦
後、第一次吉田内閣で憲法担当国務大臣に復活起用された金森国務大臣。世界初の平
和憲法制定となる執行原動力は、晴耕雨読の浪人生活で培った知力と胆力であることを、
ご息女のあや様を通し改めて実感することとなります。
その後国立国会図書館初代館長となられ、『真理がわれらを自由にする』 と書き残された
筆跡は、東京本館目録ホールに掲げられているといわれます。真理を悟る知力、自由を担
保する胆力、そしていつも花に水やりを怠らない日常の小さな気づかいこそが、あらゆる
人々が人として立ち振舞う基礎ではないかと、私は理解しました。
私は今、「人~山~文化~文明=環境」 について考えています。特に日本山岳文化学会
設立 11 年目にして、今、 「文化の力」 に注目するのです。そのことは前記の、平和憲法制
定の決断や、『真理がわれらを自由にする』 という書に、通じるのではないかと思います。
人類の生存エネルギーを、欲求≒文明、欲望≒文化、として置き換え、文化と文明を分け
て考えますと、人類の歴史と環境をよりよく理解することができます。その研究成果は別な機
会へと移し、本稿では単純化して考えてみます。
人間の 「欲求」 を、生存のための “必要条件” とするならば、 「欲望」 は生存にとって
の “十分条件” を満たすものとなり、よりよく生きるための付加価値と考えられます。 「欲
求」 は最小限満たさなければ生存は維持できません。 「欲望」 はゼロから、限りなく無限に
至るまで、数え切れないステップがあり、貧富の差、貴賤の差、大小・強弱の差等々、様々な
差異や格差を生じます。
「欲求」 は生存のための必要条件ですから、欠かすことなく絶えず供給して補わなけれ
ばなりません。我慢はできますが、限界を越すと死に至ります。文明はまた、一日も欠けるこ
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とのない連続した日々という歴史の中で、人類継続という一方向に向かって進化し続けます。
それはけっして逆戻りできない未来へ向かって、前進、進化するばかりです。そうしないと、
人類は滅びてしまうからです。
一方 「欲望」 は生存の十分条件ですから、絶対不可欠なものではありません。 「より・・・
という向上心、高揚心(感)、快楽心(感)、充足心(感)、優越心(感)、・・・・・」 、登山ではア
ルピニズムとする、 「より高く、より困難を目指して登る」 登山スタイルがありました。戦後の
登山界においては、エベレスト初登頂がその最大な目標でした。地球の有限な環境の中で、
エベレスト初登頂への評価は、一回きりの出来事でしかありません。後世の人々にとっては、
同じ評価を二度かち得ることはできないのです。だから次は 「より困難、あるいは他の初も
の」 を目指します。しかし有限な地球環境の中では、どちらも無際限ではありません。「人類
初ものを得る」 という欲望を満たすことは、ただ一回限りのことでしかありません。人類社会
はそのことを頭でわかっていても、初ものを得たい欲望を、捨て去ることができません。それ
ゆえに、様々なバリエーションを考え出します。「女性初、単独初、○○初、・・・・」 と、様々
な条件設定のバリエーションです。この様々なバリエーションこそが、文化の多様性を形成
する中身となり、多様な様式を設定してゆきます。そのことは、オリンピックの種目変遷の中
に如実に表れています。これからも 『人類初・・・』 を目指す要素は、人類の能力的ファクタ
ーへの限界挑戦、つまり時間と距離の更新記録となりましょう。そして 『人類初・・・』 という
枠を取り払ってみると、 『個体体験として初・・・』 という枠の設定に変わります。人類は個体
再生産(出産)により種の保存を図るわけですから、『個体体験として初・・・』 というテーマは
永遠に繰り返し、継続可能となります。繰り返しによる継続可能とする様態の多様性こそが、
文化の様々な存在様式となるのです。
『人類初・・・』 という枠組の設定は、人間 「欲望」 の位相ではなく、「欲求」 の位相で理
解するほうが的確ではないかと思います。人間の進化・向上心は、人類存続の必然的欲求
として、存続への一方向性を特徴とするのです。このように、文明要素として理解するのが私
流でもあります。いかに早く走るか、いかに遠く・高く飛ぶか、いかに長時間潜水できるか、
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等々、宇宙空間においても同様で、速度、時間、距離という運動能力の物理的指標の記録
更新の中に、『人類初・・・』 という概念は残されます。この欲求は人類が生き延びるために
不可欠な、生存欲求から生じるもので、存続への必要条件であり、進化の一方向性と合致
する文明的行為と位置づけられます。『人類初・・・』 という概念を、生存の必要条件と理解
し、整理するのが私の論考です。
一方、欲望を掻き立てる力(ON)/捨て去る力(OFF)、欲望を制御する力(Control)、こ
れらは “文化を文化として存在” させている人類社会の 「意志」 と、私は考えます。
戦後日本が平和憲法を定めたように、国家としての戦いを捨て去る力は、人類史上初め
ての決断として、大いなる存在意義を認めるものです。それゆえに、日本国憲法を 「世界遺
産へ登録」 し、人類相互不戦の誓を世界へ向けて発信すべきと私は考えるのですが、いか
がなものでしょうか。同様に、情報と生産・物流・消費の即時的グローバル化が進んだ平準
化社会の中で、「文化の力」 を改めて見直すべき時にあると、私は思っています。
平準化されつつある現代社会の中で、人類の欲望はいきづまり、吐口も多様化して思わ
ぬ手段を行使する人も出てきます。顕著には、特異犯罪となって社会問題を産み出します。
人類社会は平準化されつつ、人工社会で囲い込みます。欲望を満たすため、人工化はま
すます進みます。その結末は、自己破壊(自殺)となることが私の推論ですが、それゆえにも
っと自然や人々の心の中に自己を開放する 「文化の力」 が、今こそ必要と思うのです。
文明と文化を分けた論法でゆきますと、科学は文明要素、芸術は文化要素になります。
現代は、とかく科学の文明要素が圧倒しています。科学の合理性を含め、文化のフィードバ
ック(欲望の制御)が、なかなか掛けられません。文明と文化の位相、さらに人の意識を統合す
る視点(複素な多次元世界観)を提起するのですが、理解されることを切望するばかりです。
中村先生は科学者としての研究・観測・教授らの文明要素とともに、世界の山々を訪れ、
自然、風土、歴史、社会らの文化要素も探索される総合人として、多くの人々から尊敬され
ています。その一端を奥様と共にされ、このたび奥様により、『山の記憶スケッチ展』 を開示
されたことは、後人の私たちにとっても大変励みになるところです。
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13.地 球 温 暖 化 と ヒ マ ラ ヤ 氷 河 湖 の 肥 大 化
都市が発生した熱と二酸化炭素、フロンガス等の激増にともない、地球温暖化の影響を
顕著に受けているのが山岳氷河です。氷河の後退(溶けて小さくなる)、氷河湖の肥大化(溶け
て水となって溜まる)は、そのことが目視できる現象です。
2007 年 12 月、朝日新聞報道で、ネパール・ヒマラヤ、ツラギ氷河湖の 1978 年と 2007 年の
比較写真と短い記事が掲載されました。1978 年は私たちがツラギ氷河湖末端の脇をベース
キャンプ(BC)として、P29南西壁登山をしていた時です。次頁写真の赤色▲記号位置がベ
ースキャンプ(BC)と第一キャンプ(C1)です。ツラギ氷河湖末端の草地、エーデルワイスや
名も知らなぬ白や黄色の花々が咲いています。C1への登路は、BCから水の流に沿い、サ
イドモレーン(崩れた岩石が積み重なった斜面) を下り、氷河湖の水辺へ降り立ちます。高さ約
50mの氷河末端まで、いつ崩れるか不安と危険を感じながら、水面すれすれにサイドモレー
ンを伝います。氷河湖の水には石灰質の土砂や雲母が混じり、夏から秋にはエメラルド色に
なります。氷河から流れ出る水は川となり、 「ドウドウ ・コシ」 という川の名前があるように、乳
白色に濁ります。ネパール語で 「ドウドウ」 は 「乳」 を、 「コシ」 は 「川」 を意味します。つ
まり 「乳の川」 です。ツラギ氷河湖から流れ出す川は 「ドナコーラ」 と呼び、大きな河 「マ
ルシャンディコーラ」 に合流する手前が 「ナジェ」 の部落です。もしこの氷河湖が決壊する
と、 「ナジェ」の部落は一挙に流されてしまうことでしょう。
ツラギ氷河が溶けてできる氷河湖
氷河湖から流れ出るドナコーラ(川)
(1974 年 5 月:横浜山岳協会)
(1974 年 5 月:横浜山岳協会)
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ツラギ氷河湖
Google
ツラギ氷河の末端と氷河湖の先端
(1974 年 4 月:横浜山岳協会)
2009 より
陽に溶けてツラギ氷河の上に小川が流れる
(1974 年 4 月:横浜山岳協会)
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ツラギ氷河湖衛星写真を CAD 加工
Google
2009 より
←ドナコーラ
ツラギ氷河
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ツラギ氷河湖の等高線表示図
Google 2009 より
←ドナコーラ
ツラギ氷河
BCに咲くエーデルワイス
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氷河湖の面積は Google の衛星写真データから、製図用コンピュータソフト(CAD)によって
周点をプロットし、一つの面を作成すると、面積は自動的に計算されます。その結果湖面の
面積 A ≒ 0.964 [km2] (東京ドームの 20 倍)、周囲の長さ ΣL≒ 6.0 [km] 、直線長手方向
La ≒ 2.5 [km]、 幅 Lb ≒ 470 [m] となります。氷河末端の氷の高さを 50m とし、その三
分の二が氷河湖に埋まっているとすれば、氷河湖の深さはおよそ 100mと推計できます。そ
の結果推定保水量 ΣZW ≒ 71.8 「Mt」 (東京ドーム 58 個分) と計算できます。
前頁図から推計し、ドナコーラの川幅を 20m、深さを 1m(渡渉実績あり)、水の流失速度を
毎秒 1mと仮定すると、年間流出量は約 0.63 [Mt] です。したがってツラギ氷河湖保水量が
零(0)となるには約 110 年かかります。それだけ膨大な水が溜まっているのです。
しかし湖が肥大化することは、流失よりも流入が多いことを示します。流入とは氷河の氷が
溶けることを意味します。朝日新聞報道写真から、29 年間で湖面面積が約 2 倍になったと読
み取ると、氷河湖に流入する水量は毎年約 1.86 [Mt] と計算できます。流出量が年間 0.63
[Mt] ですから氷河湖に溜まり肥大化する水量は計算上、毎年 1.23 [Mt] となります。すると
毎年約 42mの長さで肥大化する、単純計算の結果です。
ツラギ氷河湖を支える末端のモレーン(土と岩の堆積場所)がどれほど水圧に耐えられるか、
私には推計できません。氷でせき止めている氷河湖は容易に決壊し、下流の部落を流失さ
せていますが、ツラギ氷河湖の末端は氷でなく、モレーン(土と岩の堆積場所)であることから
容易に決壊しないとは思われますが、安心はできません。人工的に排出する水路を作り、水
力発電所を設ける案はすぐに思い浮かびますが、計画推進、実行力はともないません。
ちなみに発電量の試算を以下に試みます。
【その1】 単純計算の例
湖面標高(4,060m)と下流のナジェ(Naje) との標高差 H = 2,200mのにより毎秒の水流を
ドナコーラ排出量 Q = 20 ㎥/s、発電機器効率α= 0.7 とした氷河湖の発電能力です。
① 発生電力量 : P = 9.8×H×Q×α = 9.8×2,200×20×0.7 ≒ 301 [Mw]
② 年間発生電力量 : E = P×24×365 = 301×24×365 ≒ 2.63 [Twh/年]
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原子力発電所1基で 100 万 KW とすれば、300 [Mw] は 30 万 KW となり、原子力発電
所1基の三分の一に相当し、火力発電所一箇所に相当します。
地球温暖化によって氷河湖へ流入し溜まる水量の方が多いわけですから、計算上
この発電量は持続的に活用することができることになります。さらに人工水路を増すこと
により、水力発電能力を増加させることも可能な単純計算の例です。
【その 2】 下流に小水力発電所を設ける例
取水口と発電所の高度差 H = 100 m、導入管水量 Q = 1.0 ㎥/S (500φ,v=5m)、
発電機器効率 α= 0.7 とした場合。
① 発生電力量 : P = 9.8×H×Q×α = 9.8×100×1.0×0.7 ≒ 680 [Kw]
② 年間発生電力量 : E = P×24×365 = 680×24×365 ≒ 6.0 [Gwh/年]
【写真】 Khopasi 発電所
右の写真はカトマンズ郊外、Khopasi の発電所です。
1956 年、ソ連援助により設置されましたが老朽化激しく、
3台ある発電機の内運転しているのは1台です。(2007)
・発電機出力= 800kw×3 台 (3φ3W 6.3kv)
氷河湖の水量は、このような発電所を 20 箇所以上造る
ことができるわけですから、驚くべき水エネルギーを保有
していることになります。
3φ3w6.3kv 800kw 発電機×3台
(1956 年ソ連援助で設置)
Khopasi 発電所(2007 年撮影)
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第2章.
ヒマラヤ遭難登山隊長の自省
2012 年 10 月:記
2014 年 5 月:推敲
日本山岳文化学会・野村仁氏の 「山岳遭難史にみるリーダー意識の変遷(Ⅲ)」 におい
て、 「1970 年代、社会人山岳会または同人グループの遭難報告より」 は、1978 年ヒマラヤ
登山と遭難死亡事故のリーダー2例が上げられています。カラコルム山群ハッチンダール・
キッシュの山森欣一氏 (現:日本山岳文化学会副会長) と、ネパール・ヒマラヤP29南西壁
の私・田中文夫 (元:日本山岳文化学会評議員)であります。
これに先立つ 2006 年~2007 年、野村氏は 「山岳遭難史にみるリーダー意識の変遷
(Ⅰ)(Ⅱ)」 を日本山岳文化学会論集第4号、第5号に発表されています。2007 年 11 月 25
日の日本山岳文化学会大会シンポジュウムのテーマにもなり、野村氏は進行役を果たされ
ました。そのシンポジウムに私は参加しなかったので、同日、野村氏への手紙とともに 1978
年の私の遭難体験報告書を提供しました。
野村氏は 2010 年 11 月 27 日、日本山岳文化学会第8回研究発表大会で 「山岳遭難史
にみるリーダー意識の変遷(Ⅲ)」 を発表されます。その中に 「遭難報告書を注意深く読み
解くことにより、登山者の主体的な意識の在り方に迫り、登山史上の真実に迫ることができ
る」 、とあります。このことは遭難当事者達にとり、 『琴線』 に触れる微妙な問題でもありま
す。特に死亡事故の場合は報告書に現れる 「表の相」 と、その時現れない、または現わし
てはならない 「内の相」 があります。だからといって避けることでもありませんが、 『琴線』
に触れる微妙な問題には、時を経て理解と鎮静が進み、解消してゆけるものもあります。時
を経た後再びみなおすことは、より真実の多面に迫ることができます。時は情念を鎮めます。
野村氏の設問に私は 『琴線』 を引かれ(トリガー:Trigger)、三十余年を経た今ふたたび、
俎上のリーダー論を振り返ってみました。
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1.「山岳遭難とリーダー意識」 を考える要因
1)
対 象 の範 囲
リーダー論を展開する場合、単一山行のパーティ リーダーを対象とするか、大規模登山
の広義な組織をも含めた総合リーダー論とするか、その対象の範囲、思考方法、整理の仕
方等は異なってくるはずです。
例えば前記のヒマラヤ登山におけるリーダー意識の場合、単一山行であっても規模・時
間・費用・社会性等々、広義な組織と総合リーダー論を抜きにはまとめられません。一方国
内山行における単一遭難リーダー意識の場合は、そのグループのみを特定対象とした、狭
い範囲での山行意識、事前準備、行動におけるグループ心理と掌握、気象条件、そしてリ
ーダーの判断心理等々、広義な社会性や組織論は除外できます。
つまり対象を 「限定的」 に把握するか(国内単一山行等)、「総合的」 に把握するか(ヒマラ
ヤ登山等)、その思考対象、範囲、方法論は異なってくるはずで、全てを同一に論ずべきもの
ではないと考えるのです。もちろん、共通する部分も多くあります。
2)
「リーダー意 識 」
の捉 え方
一つの山岳遭難にともなうリーダー(隊長)意識は、以下の段階として捉えられます。
① 【事前】 その登山に臨むリーダーとしての意識 = 登山観、リーダー論、チーム
(組織)論、発想、計画、準備、遭難対策
② 【途上】 遭難時のリーダー意識(途上) = 具体的対応、ご遺族・メンバー・社会
への対応、情報管理、リーダーの心理と責任感
③ 【事後】 その後のリーダー意識の変化(事後) = ご遺族等への対応、メンバー
への対応、個人意識の変化、登山及び登山観の変化また、リーダー意識と山岳
遭難との関係性は以下の捉え方があり、リーダーの責任にも及ぶ。
また、遭難原因とリーダー意識の役割と責任の面からは、以下の場合が考えられます。
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① リーダーの意識によって山岳遭難を生じた場合
② リーダーの意識に関わらず山岳遭難を生じた場合
一つの山岳遭難事例を取り上げても、リーダー意識はこのように段階的、構造的に捉えら
れます。山岳遭難史上に位置付け、整理するならば、遭難事例ごとに上記内容を検証し、
整理する必要があるでしょう。
そこで一つの事例として、私がリーダー(隊長)となり、3隊員の遭難死亡事故を生じた
1978 年ネパール・ヒマラヤP29南西壁登山における当事者の自省をおこなってみます。
3)
社 会 人 山 岳 会 と山 岳 同 人
1970 年当時、私は既成山岳会への不満から、より理想的な山岳人集団を求めて 「山岳
同人風(ふう)」 を立ち上げました。1972 年の会報には、「山岳同人風、組織の意味と機能」
を示し、山岳人と理想な組織の在り方を表明、実践していました。
1970 年台は 「三人寄れば山岳会」 と言われたように、自由な雰囲気を求める 「山岳同
人組織」 が多くつくりだされています。私は社会人山岳会に多くあった、親分/子分、子弟
という、主従的関係が嫌いでした。酒を飲まない生真面目さが、そのような性向に馴染めな
かったのです。1967 年 12 月~翌年 1 月、東京都山岳連盟有志により韓国遠征(隊長:遠藤
登)を共にした岩崎元郎氏と私は、山に対して意気投合しました。その後コンテニュアスクラ
ブを退会した私と、昭和山岳会を退会した岩崎元郎氏との間で、新たな山の集まりを発足さ
せる動きとなり、そこで発足したのが 「山岳同人風(ふう)」 であります。そのメンバーのほと
んどが私の友人であったがために、岩崎氏は 「なかったことにしてほしい」 と手紙に記し、
別な集団 「蒼山会」 を立上げました。そして今も続く 「無名山塾」 へと至るのです。
その時私は既成山岳会の実情に対し、新たな山岳人の在り方を提起しました。この頃も
「未組織登山者」 という言葉がありました。この表現に私は、日本人社会の集団帰属意識を
感じます。個はすべからく組織に属していなければならないという風潮は、島国の中で農耕
社会を営んできた、日本人特有の社会意識が反映されたものと云えます。しかしその表現は
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民主主義を取り込んだ戦後社会の中で、多様化された個人の自由を一定枠に押し込めるも
のとなります。集団や組織は何故必要なのかを原点に、集団や組織の為に個人が有るので
はなく、個がよりよく生きるために組織を活用すると考えた結果が、同人組織でありました。
高名なジャーナリストだった本多勝一氏は、「山は死んだ」 としてパイオニアワーク論を発
表しました。しかしエベレスト登頂以降の多様化を迎えた登山とは、個の感性を開放した登
山となり、個の感性こそが多様なのだと私は考えます。別な表現をすれば、「多様化こそが
文化の中身であり、登山は文化として遊びの一種」 となるわけです。
(※ 遊びの社会性は、第6章:中村純二博士の 「正・反・合と進化」 から考えるを参照)
山岳人の集団化は一義的には仲間(遊び)としての集まりとなります。二義的には遭難対
策としての相互扶助であることを、同人組織の基礎とします。仲間意識においてゲマインシ
ャフト(横社会)な関係か、ゲゼルシャフト(縦関係)な関係かにより、山岳同人と山岳会と云う組
織の在り方が分けられます。実際はそれが混在し、時には縦、時には横と、日本社会の曖昧
さは山岳社会にも反映されます。都合の良い時に都合の良い論理を引出し、組織の運営管
理者はリスク管理をおこないます。山行管理の許認可制度は、山岳遭難を未然に防ぐ無謀
の排除という、予防原則の一般的手法であります。ことわざでは、「臭いものには蓋をする」
といいます。登山内容が高度になると、山行管理者の未経験な分野ゆえに無謀と困難の判
断が難しくなります。だから禁止することにより、とりあえず排除しておけば危機をまぬがれ、
管理者の責任回避ができます。そして排除される行為者側は未知なる領域へ挑むがゆえに、
山行管理者を説得する言葉と態度に欠けます。行為者側の願望が強くなるにつれ、双方の
軋轢と亀裂は深まってゆきます。そして分裂。現代社会一般においてはリスク・マネジメント
意識が高まり、安全管理基準(マニュアル)を整備して判断基準とするようになっています。
山岳遭難において、例え組織(山岳会等)の責任といっても、死者を生き返らせることはで
きません。あきらかに無謀な死に急ぎを阻止することはできます。しかしたいていはごく一般
的な危機管理手法で、予防原則(禁止) の適用となります。登山リーダーにおいて最も大切
なことは、第 5 章に述べる 「クライシス・マネジメント」 であると私は考えるのです。
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アルピニズムの実践者、冒険者、パイオニアワーカー等々、みな未知・未体験ゾーンだか
らこそ挑戦の意欲にかられます。安全を担保した行為ではあり得ません。それらの人々は自
らの意志をもち、自らの判断で、自らの命を担保とするのです。決して他人任せで納得する
人々ではないのです。
それゆえ、山行に対する責任を組織(許認可管理者)に求めるのではなく、個人にあること
を明確にしたのが同人組織であると、私は考えたのです。同じく遊び(登山)あう仲間であるこ
との認識と、遊ぶ(登山)ことは自己責任の範疇である原則に立ち、その中で個人の弱点(遭
難の時)を補い合う相互扶助組織として、同人組織を立ち上げたのです。
そのことは 1972 年発行の 「山岳同人風(ふう)」 会報第1号に、代表者意識として 「山岳
同人風・組織の意味と機能」 を発表しました。以下はその時の規約です。
山岳同人・風
第1条
【規
約】
1970 年
制定
(名称)
本集団は「山岳同人・風」と称する。
第2条
(目的)
本集団は社会人登山者集団であり、登山に関するあらゆる状況において、よりよい登山
者たらんとすることを目的とする。
2)登山の実践に当たり、よりよい仲間を得られることを目指す。
3)同人の事故時は、相互協力によって最善を尽くすことを原則とする。
第3条
(構成・運営)
本集団は登山同人によって構成され、別に定めるところにより運営される。
第4条
(山行・責任)
山行は総て同人の意志に基づき、事故時における責任は総てその登山者個人に帰する。
第5条
(遭難対策)
同人は山岳遭難保健に加入しなければならない。
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そして 1974 年、横浜山岳協会P29南西壁登山隊では、山岳同人風からも4名(全隊員 18
名)が参加しました。さらにこの考えの延長とし、1978 年ネパール・ヒマラヤP29南西壁を登る
ことを目標に特化し、意志ある者とその支援者で構成したのが 「ツラギの会」 です。
(※ ツラギの会 :マ ナスル南壁~P29西壁から流れ出すツラギ氷河から命名)
ツラギの会隊は 「この指止まれ」 の隊員編成であっても、すでに別な山岳会等での経験
豊かな隊員が多く、1974 年横浜山岳協会隊よりも確実に実力は上回っていました。隊長の
私はすでに一度経験したルートであり、5 歳年上の白石副隊長はマッターホルン北壁、ドリュ
北壁を登っています。御園生登攀リーダーは雪崩の巣、谷川岳一の倉沢滝沢第3スラブの
冬季登攀者でもありました。牛沢登攀リーダーは都立第一商業高校山岳部OBの現役エー
ス的存在であり、同じOBの中には昭和山岳会や朝霧山岳会等で活躍されている著名な山
岳人が多くいます。マナスル西壁のサミッター小原氏も、その一人でした。この4人を軸に4
パーティを編成し、順次ルート工作を展開する計画です。事前の3年に亘る国内トレーニン
グ山行では若手隊員がめきめきと実力をつけ、誰もがトップを登れる実力を有します。
しかし本論は、ツラギの会の隊員や、社会人山岳会と山岳同人の区別がテーマではあり
ません。山岳遭難に対し、私がどのようにリーダーとして考えており、どのような対応を図って
いたかを述べたいのです。
4)
ヒマラヤ登 山 隊 リーダー論
1978 年秋、 「ツラギの会P29南西壁登山隊」 として、P29南西壁へ向かった私の主要な
テーマは、新たなリーダー論、組織・運営論からのヒマラヤ岩壁初登攀でありました。たかが
登山でありますが、歴史を作った著名なリーダーシップ、軍隊組織における著名なリーダー
シップ、思想、哲学、宗教、文化、その他あらゆる事柄がリーダー論につながり、多くの読書
を重ねました。今でも 「あるべきリーダー論」 を考え続けていますが、P29南西壁登山の結
論は 「青春のヒマラヤに学ぶ」 (2001.1.1 文芸社:刊) にまとめたところです。
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1970 年に入り、私はヒマラヤ登山隊の運営論、組織論について自主的に学んでいました。
それまでのヒマラヤ登山史、日本の登山史を振り返り、登山を文化に位置づけるべく論考で
す。日本山岳会東海支部マカルー東南稜のリーダーであり、登山界の論客でもあった原真
氏から葉書の要請を受け、私の 「ヒマラヤ登山論」 を送りました。
このとき、新たなヒマラヤ登山観として私が主張した点は以下です。
① マカルー東南稜における 「契約的人間関係」 で山を登りたくない。
※ 激しい登山は至って情熱的行為であり、ビジネスではない遊び、文化を主張。
※ 欧州の登山家はスポンサーとの契約関係を結び、プロ・スポーツ化していた。
② 隊員は選抜でなく、一定レベル以上の意欲(情熱)あるメンバーの集合が好ましい。
※
選抜は切り捨て原理を含み、生産至上主義な経済社会体制に合致するが、多様化へ向
かう登山界は新たな組織論に、主体性と自己責任を導入するという主張。
③ 強者と弱者は補い合う関係で結合して登頂をめざす。目的達成への相補的関係が望
ましい。
※
相補性の原理 : 自主的メンバー構成の場合は、必ず強者と弱者が入り混じる。
親分~子分の関係でなく、強い者と弱い者が異なった能力で補い合い、相互に信頼でき
る関係(愛)が望ましい。
※
登山隊運営はシステマチックな合理性にもとづき、相補的関係の中から最良な解を選択
するのが望ましい。
当時の返信はなく、原真氏からは亡くなられる(2009 年)3~4年前に突然のお手紙と機関
紙を戴きましたが、この点に関する意見、論議はありませんでした。
1974 年春、私は横浜山岳協会による 「P29南西壁登山」 (申請上の隊長:田中文夫、実際
の隊長:古川純一:日本山岳協会アマ・プロ問題への対処による) に参加していました。横浜山
岳協会隊は横浜市、神奈川県、神奈川新聞、テレビ神奈川の後援と資金援助を受けたこ
とにより、公的性格を意識した運営となります。登山隊指揮は名実とともに実際の隊長、古
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川純一氏です。登山隊運営は公的組織を重んじる、副隊長の小林理伯氏が中心となりまし
た。私は登攀リーダー4人の内の一人であり、上記の①~③を実践する立場ではありません。
しかし私が学んでいたリーダーシップ意識からの発言と、申請上の隊長という名目をだぶら
せてしまった別の隊員からは、私を本当の隊長に推し上げようとする機運も生じましたが、私
は乗りませんでした。親子ほども年が違い、登山実績や名声も神様的存在だった古川氏を
押しのけて、青二才な私が実質の登山隊長であろうはずもありません。
公的責任と組織を重用する運営者(リーダーシップ)に対し、クライマー的個人尊重形性格
のメンバーは対立しました。ヒマラヤ岩壁初登攀をめざすクライマー的性格の登山観にとり、
横浜市、神奈川県から税金の一部である 「後援金」 を受けたことは、チーム統合にとって
不協和音の原因となりました。公的性格の登山隊は社会的なステータスを確保しますが、ク
ライマー的性格は公的縛りと自由意志の狭間で、最後までチームワークが乱れたのです。
この頃のヒマラヤ岩壁登攀をめざした従来形組織登山隊の多くは、リーダーとメンバーの
対立(内紛)が漏れ伝わっていました。トップ・リーダーは資金源(スポンサー)の組織プレッシャ
ーを受けます。そのプレッシャーを直接受けないメンバーは、純粋に登山目的達成に向か
い最大限行動しようとします。困難な状況に陥った時、リーダーとメンバーの意見、判断が乖
離します。登山隊は他組織から多額な資金援助を受けることにより、トップ・リーダーはその
対価を成果として支払う責任と義務の精神的負担を感じます。リーダー意識は登山でなく、
事業と化するのです。メンバーは事業の経過や意図を知らず、当初の登山目標と異なるル
ート変更や、登頂者人選への不満など、自己本位な不満が蓄積します。各々の限界が容易
に見出されるヒマラヤの非日常的な閉鎖環境の中にあり、個々の些細な不平不満は蓄積・
増幅され、何かを契機として爆発させます。横浜山岳協会隊も、例外ではありませんでした。
この経験をもとに、より自由意思を尊重した新たなヒマラヤ登山運営(リーダーシップ)を提起
し、実践したのが 「1978 年ツラギの会・P29南西壁登山」 の趣意でした。その主張は次の
基本原則にあり、リーダーシップ3原則、メンバーシップ3原則を併せ、準備の初期段階から
表明・確認していました。
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【基本原則】
①
ヒマラヤ登山は自己負担、自己責任でおこなう時代となった。
※ その社会性=多様な時代における登山、外貨の自由化(1978 年制限枠撤廃)、ヒマラヤ
解禁、余暇の増大
※ 外貨の自由化は、それまで学術団体でなければ調達できなかったドルの持ち出しが自
由化され、個人で調達できることとなった。このことは組織から個人へと移行できる大きな
要因となった。
② ヒマラヤ登山隊は既成組織や関係者の中から 「隊員を選抜」 するのではなく、
「意欲ある個人」 をもって、いかなる成功をもたらす組織(隊)を作り出すかの時代
に入った。
※ それゆえ、個人負担金は一人 120 万円、10 名合計 1,200 万円の予算で実施。
※ 1978 年の大学卒業初年度平均年収 127 万円:厚生労働省:賃金構造基本統計調査
【リーダーシップ3原則】
① (リーダーの立場)
生命を大切にし、お互い困難な体験を分かち合う仲間のリーダーである。
② (判断の基準)
P29南西壁登攀成功に対し、最大限有利な条件を引き出す。
③ (メンバーに対して)
公平無私でことに当たる。
※
努力することにより、良きリーダーはつくられる。
【メンバーシップ3原則】
① P29南西壁登攀成功のために、持てる力の出し惜しみをしない。
② 他人と違うからこそ、自分が存在できる。(つまり、他人も尊重)
※
大人として自主性を尊重するとともに、チームの一員でもあるから他人も尊重する。
③ 全体の中で意見を出し合って討議し、決定事項には従う。
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名義後援は ①横浜山岳協会 ②神奈川新聞社 ③テレビ神奈川からいただきましたが、
横浜山岳協会から 10 万円の寄付をいただいた以外、後援金は受けていません。また、仕事
関係から 10 万円の寄付を受けましたが、全額登山隊の会計に繰り入れ寄付金として明示し
ました。
1974 年の横浜山岳協会隊で記事になった縁で、担当記者を通じて朝日新聞社へ名義後
援を依頼をしましたが、成りませんでした。なぜ名義後援を必要としたかは資金調達問題で
なく、メンバーがなるべく休職扱いされるよう、社会的立場(ステータス)を高める配慮からでし
た。実際に休職扱いとなったのは 10 名の内 4 名だけで、残り 6 名は退職しての参加です。
その結果、身の丈に合った登山隊となり、遭難にともなう進退の判断は隊員個々の意見と合
議によって決めることができたのです。
遭難事故以降の行動指針は、隊長として私が示しました。カトマンズへ戻り、登山終了期
間までは皆従ってくれました。計画はカトマンズで自由解散でしたが、遭難死亡事故という
結果により、隊長指針は全員帰国し合同追悼会への参加を要請しました。しかし三隊員は
当初からの計画として、帰国しません。以降現在に至るまで、三隊員との関係を断ちます。
このように退職し、かつ自らの生命をかける登山への参加は重みがあります。一般社会で
理解しかねる馬鹿げた行為ですが、それゆえにヒマラヤ登山は 「文化(遊び) の粋」 とも云
えます。それだけ覚悟の隊員を統率するのですから、登山隊ルールとして、リーダーシップ
とメンバーシップを準備段階から明確に示し、隊員の自覚を促すねらいがありました。
またプロジェクトチーム(寄せ集め)であっても、登山隊は社会的組織ともなります。職責面
からは縦軸(ライン) の指揮系統、行動面からは横軸(スタッフ)系列の二重規範を伴います。
縦社会(ゲゼルシャフト)・横社会(ゲマインシャフト)の在るべき関係性を、リーダーとして私は初
期の段階から意識していました。たとえメンバーが理解できなくても、そのことは、社会性の
中で位置づけておかねばなりません。総論は登山趣意書としてまとめ、登山の目的、組織の
目的、リーダーシップ3原則、メンバーシップ3原則等々は仲間と話し合い、関係者へ事前に
公表していました。そしてなぜこのようなことが必要なのか、それを理解できるメンバーは当
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時、私の他にあと一人しかいませんでした。出発前の準備会、上野公園に集まった時、牛沢
隊員とそのようなテーマを話し合ったことがありますが、彼は遭難死してしまった。
リーダー論に関し、リーダーとメンバーとの意識は乖離していたと思いますが、逆にそのこ
とが強いリーダーシップを発揮できたと考えられます。リーダーとしての強い意志が継続でき
なければ、ヒマラヤ登山は出発さえできないことを、私は隊長として強く自覚していました。リ
ーダーとしての理念と意志と実行力を伴った全人格をかけ、先頭を切って新たなヒマラヤ登
山形態(自己負担による、意志ある個人の集合)を試みたのです。三十余年たった今でも、その
自負は継続しています。
リーダー論の究極は哲学・思想の形成であり、その時々の世界観(社会情勢)を反映します。
登山に限れば登山論、登山観であり、当然ながら歴史性が含まれます。それまで過去のヒ
マラヤ登山総論から、この登山にかなうヒマラヤ登山論の創出です。
リーダーシップとは、それを意識して実践することであり、実践の結果を受けてリーダー意
識はさらに変化します。つまり 「リーダー意識の変遷」 なのです。
5)
登 山 に臨 むリ ー ダ ー の意 識 と 備 え
登山計画と遭難対策は山行の表裏と、私は常に考えてきました。ヒマラヤ登山を実施する
以前の同人組織、「山岳同人・風」 においてもその考えは同じで、山行の自由意志と仲間
の確保とともに遭難対策、つまり山行の届け出義務、遭難救助保険の強制加入義務、遭難
時における最大限の相互扶助努力を規約としました。私の在籍中、遭難事故は一度もあり
ませんでした。
「山岳同人」 をどのように規定するのかは本論でありません。いかなる組織や個人であろ
うと、山は山であり、人間の側だけが論議している人間側の問題です。組織山岳会であろう
と、個人であろうと、山は区別をしてくれません。私は登山を始めた当初から、遭難(死)を常
に頭の中に秘め、それなりの対処を図ってきました。組織登山と個人登山では、遭難におけ
る対処法が異なります。個人登山で遭難した場合、その個人での対応はできません。それ
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ゆえ、志を同じくする仲間の相互扶助は不可欠です。そのために集うのが 「同人の意味」
と考え、基本的な登山者の在り方を実践したのです。
1978 年、P29南西壁登山においても、遭難対策は登ると同じ比重で考えていました。寄
せ集め登山隊(プロジェクトチーム)が、自己負担・自己責任でおこなうのだから、想定し得ぬ
万が一を想定し、事前に以下の対策をとりました。
【国内対策】
① 出発前トレーニング山行にそなえ、山岳遭難救助保険へ加入
※
生命保険 50 万円、遭難救助 100 万円 (海外遭難でも生命保険金一人 50 万円を受給
遺品回収ヘリコプター代金、隊長一時日本帰国費用等に充当)
② ヒマラヤ登山期間における海外旅行傷害保険へ加入
※
保険金一人 50 万円につき、掛け金 2.7 万円 (遭難死亡者生命保険金一人 50 万円を受
給し、死亡ご遺族へ全額返金)
③ 医師又は看護師の同行
※ 申請は隊長・田中の中学同期生 : 鈴木盛彦氏(医師:東京医大山岳部 OB:現・日本
山岳文化学会会員)、同行は遠藤ケイ子隊員(看護師:国立第2病院を退職参加)
④ 登山隊連絡会と留守本部設置
※
出発1カ月前に新宿で連絡説明会。親、兄弟、先輩、知人、共産党機関紙:赤旗の記者
(津山隊員の勤務先:あかつき印刷の関係からの記者参加→赤旗に記事掲載される)
※
留守本部長に富田栄吉氏をお願いし、不参加だった和田好弘氏(現:日本山岳文化学
会会員)、村松徳雄氏が留守本部員となる。いずれも国内トレーニング山行を共にし仲間
意識を育んだ。
遭難処理におけるトラブルの多くは、遭難対応費用出費にともなう資金不足にあり、事後
に隊員から資金回収しなければならない場合に生じます。まして死亡した隊員のご遺族か
らの徴収は、極めて困難となります。そのような過去の登山隊トラブルを聞いており、高額掛
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け金となる海外旅行傷害保険(山岳危険担保)に加入します。使途は救助費に当てることを
事前に隊員間で合意していましたが、死亡ご遺族へ全額返金することができました。
そのことは、国内トレーニング用で加入していた山岳遭難救助保険が適用できたからです。
海外での捜索救助費用は対象となりませんが、保険の基礎となる生命保険金は、死亡の場
合海外でも支払い対象となったからです。実際にヘリコプターを2度ベースキャンプまで飛
ばし、その費用に充てました。また、隊長として私が日本へ一時帰国し、速やかにご遺族へ
の説明と遺品引き渡しをおこなう費用にも充てることができたのです。
ヒマラヤ岩壁登攀事故の場合、医師の同行は絶対条件としませんでした。途上の救命と
医療行為は極めて困難で、外傷や体調不良への対応は看護師で可能と考えました。看護
師の遠藤隊員は、国立第2病院を退職してまで参加してくれたことに、敬意を払わなければ
なりません。
出発1カ月前の 「登山隊連絡会」 は、不可欠な集まりでした。1974 年横浜隊の写真を示
し、困難な岩壁登攀であることを説明します。関係する人々にどのような山へでかけるのかと、
事前の周知と万一事故を生じた時の連絡や顔合わせが目的でした。
しかし問題はこの企画の意図を外れ、不参加だった牛沢隊員のご遺族で生じました。牛
沢隊員は 「家族が心配するといけないから」 と、その理由を後日私に語ってくれましたが、
家族への説明不足でした。牛沢隊員は登山隊連絡会に、都立第一商業高校山岳部先輩で、
朝霧山岳会所属の梶山幸佑氏(元:日本山岳文化学会会員:2013 年 12 月ご逝去)の参加をお願
いしていました。しかし当日、梶山氏は欠席でした。ご遺族は登山内容をどれだけ理解され
ていたか分かりませんが、遭難事故説明会や合同追悼会ではテープレコーダーを持ち込み、
私の説明を録音されています。また遭難1周忌に当たって自宅を訪問した際、私は家に入
れてもらえません。しかし同じ一商山岳部 OG だったお姉さんの取り計らいで、ようやく家に
入ることができました。その後毎年一度の訪問を続けましたが、ご家族の心を開かれた感触
はその後もありません。年賀状を出しても返信はなく、10 年を過ぎた後、住まいを転居されま
した。転居先を知らされぬままに、訪問と年賀状は途絶えます。
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このようなトラブルを避けるためにおこなった登山隊連絡会でしたが、個々には個々の事
情があります。亡くなった、牛沢隊員を責めることはできません。一方でなぜか、外務省から
の遭難第一報は牛沢家に入りました。次の現地対策に述べますが、このトラブルを解決し、
登山隊留守本部長・富田栄吉氏へ連絡して下さったのが梶山氏でもあります。
また、連絡会に参加された万実隊員の父(福島県)は、平家の血筋と云われるように凛とさ
れ、一言も苦言は呈されません。秘境に近い福島県昭和村の実家へ、快く迎え入れて下さ
いました。さらに高橋隊員のご両親は遠方(秋田県仙北市)と高齢を理由に、連絡会への参加
はありません。しかし 「自分も冒険的なことは好きで・・・」 という父親の言葉と、無言で従う
母親の寡黙さのなかに、私はより深い悲しみを感じました。
【事故に備えた現地対策】
(シェルパ、ポーターは除く)
後方支援組織を持たないプロジェクトチームですから、万一の事故への備えは大切です。
そのために次のような備えをしていました。
① カトマンズ渉外隊員の駐在
1974 年横浜山岳協会P29登山隊へ参加した上村隊員は先発し、終了までカト
マンズに滞在します。カルカッタやネパールでの通関、カトマンズ渉外を担当。登
山期間中もカトマンズに滞在し、後方連絡と支援をおこないました。
※
上村隊員は牛沢隊員の先輩(都立第一商業)でもあり、1974 年横浜山岳協会隊以降、英
会話を学んでいました。登山隊としては渡航費用全額と滞在費の半額負担でありますが、
勤務先を退職して参加・支援してくれたました。実際目に見えぬ役割ですが、英語による
通関、渉外、遭難時における連絡拠点や情報収集として、大きな役割を果たしました。
※
これらの経験を生かし、今でも女性山岳ガイドとして活躍しています。
② カトマンズの連絡網確保
カトマンズの代理店、ヒマラヤンジャーニー(大河原氏)と緊急連絡網を確認。緊
急飛来用ヘリコプター代金 3000$を預託します。着陸マークの確認、電信文の
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書き方(特にヘリの要請期限)確認等をおこないます。
※ 現実となり、有効に機能しました。お金を預託していることから、飛ばせる側は安心
してヘリコプターを依頼できたと云います。また、遺品回収用に再度ヘリコプターは
BCを往復し、上村隊員が同乗しました。
③ 日本大使館
日本大使館(大橋氏)へは古川純一氏から戴いた衛星写真(名古屋大学提供)を
提出し、ヘリコプターの飛行ルートを事前説明していました。また隊員名簿を提出
し、緊急時の国内連絡先(富田)を確認します。事故発生の場合、ネパール政府、
日本大使館、ヒマラヤンジャーニーとの連絡手順も確認。
※ しかし実際は、この確認事項が生かされません。日本大使館は公電(遭難と死亡隊
員名)を外務省本省へ打電した際、国内連絡先までは内容に含まれなかったのでし
ょう。なぜか外務省からの第一報は東京都内の牛沢隊員の実家に入りました。外務
省は国内連絡先不明のいい加減な登山隊という最初の印象だったそうです。牛沢家
連絡以降に動いたのが梶山氏で、外務省に対し、しっかりした登山隊であることを説
明し、登山隊留守本部長・富田氏への遭難第一報の連絡をして戴きます。登山隊と
しては最善の方法を準備していたのですが、ただ一つ、日本山岳協会へメンバー変
更後の最終計画書を差替えていませんでした。国内初動の混乱は、大使館公電の
不備と、最終計画書の差し替え不備によるものと考えます。
【登山開始前ベースキャンプにおける行動指示】
登攀開始前、ベースキャンプでの全体会議において、日常の行動指示と、万一最悪事態
に陥った場合の隊長指示と隊員の判断について確認していました。
① 毎日の行動指示は、全て隊長から発信する。
※ 隊長は毎日の交信により行動管理グラフを記録し、高所順応と体調管理を把握。
② 最悪な事態においても隊長から指示を出すが、生死に関わる重大な最終判断は
- 103 -
隊員個々の判断によって行動しても良い。
※ 隊長はオールマイティではありません。全体的な動きからの指示は出せますが、離れ
た局所において生死に係る重大な最終判断は、その隊員個々の判断にもとづき行動
して良いことの確認。(自然の中における人間活動の限界)
2.
遭難時におけるリーダーの意識
遭難の詳細と経緯は拙著 「青春のヒマラヤに学ぶ」 (2001.1.1 文芸社) に詳述しました。
1)
もしリーダー(隊長)が死亡していたら
これは仮定の設問ですが、この可能性の実態はありました。もし隊長(私)が死亡していた
なら、この登山隊は空中分解したと思います。これまで記した事前準備において、唯一の準
備不足は 「隊長(私)が死亡した場合への対策」 であり、実際その危機があったのです。
氷河崩壊の爆風は隊長(私)をも吹き飛ばし、あと2m 氷壁を流されていたらクレバスへ転
落、どうなったていたか分かりませんでした。氷壁に素手の指を突き立て制動していましたが、
そのことが有効であったか、気休め程度であったのか、今でも分かりません。ともかく、全くの
無傷で生存していたのです。他方、第2キャンプの外に並んで立ち、お茶を飲んでいた牛沢
隊員はC2下部岩壁を落下し、死亡となってしまいました。
「この指止まれ」 で集まった登山隊であり、隊長の私(当時 32 才)は西欧形のリーダーシッ
プをとっていました。登山の指揮・運営の中核であるとともに、登攀リーダーの一人としてトッ
プでルート工作をおこないます。西欧形リーダーとは意志の中核であるとともに、先頭切って
行動するタイプであります。
一方古来組織形日本のリーダーは、殿(しんがり) から指揮をとり、先頭切って行動するこ
- 104 -
とはまれにしかありません。そのような組織形日本隊は、当時西欧のリーダー達から批判を
受けていました。
偉大な名クライマーであり、幾多の初登攀記録を持つあの古川純一氏(当時 50 才)でさえ、
1974 年横浜山岳協会隊では殿(しんがり) に位置し、私たち 28 才組の登攀リーダー達がロ
ーテーションを組んでルート開拓をおこなっています。
2) 遭難時におけるリーダーの指揮
無傷だった隊長の私は、爆風停止直後から第2キャンプに戻り、行方不明者発見の指揮
をとりました。その詳細は拙著、 「青春のヒマラヤに学ぶ」 に詳述しています。遭難発生時
は2隊員を発見し、死亡を確認します。高橋隊員は発見できず、捜索は継続とします。
遭難の夜、残る全隊員は第1キャンプに集結しました。合議により、今後の活動内容を決
めます。その詳細も拙著に詳しく記してありますが、組織登山隊でないために 「登攀は断念
し、ご遺族への対応を最優先する」 ことで全員の合意を得ます。隊長としてはそのことを主
導する考えを延べ、異論なく合意を得ることができました。
行方不明となった高橋隊員の捜索と撤収は白石副隊長にお願いし、隊長の私はBCに降
ります。リエゾンオフサー、日本大使館、留守本部等への報告書作成や、連絡手配等々、渉
外任務に当たるためです。
突然に、思いもよらぬ氷河崩壊爆風の、遭難死亡事故でありました。隊長としての私は、
これまた思いもよらぬ冷静な対応ができたものと思っています。その理由は前記の通り、事
前の準備を備えていたからと考えます。しかし隊員達の動揺は大きかった。プロジェクトチー
ムの目的壊失は協調性を失い、隊員は自らの殻に閉じこもるようになり、自己主張が強くなり
ました。
当初からリーダーとメンバーの登山意識は少し離れていたため、目的実現に向けた強いリ
ーダーシップを発揮することが出来ていました。しかし目的を失った遭難以降、これまでのよ
うに人心をまとめることは非常に難しくなります。自己中心的に変わってゆくメンバー達の心
- 105 -
に対し、私自身は嫌悪感を持ったことも事実です。そしてこのことが後に、私を山岳集団(山
岳会等)から遠ざける要因となったのです。
ベースキャンプ(BC)では遭難発生と同時に、雑用をしていたポーターの一人が腸閉塞の
症状を訴えていました。緊急にカトマンズへ搬送する必要が生じ、無電でヘリコプターを要
請します。飛来したヘリコプターには、連絡のためカトマンズへ送っていた津山隊員が乗っ
ており、 『ご遺族がカトマンズへ来られる』 という情報を伝えます。その情報を受け、隊長の
私は病気のポーターとともにヘリコプターでカトマンズへ戻ります。ポーターは病院へ直行。
診察の結果は軽症で、腸閉塞ではありません。そしてご遺族は、カトマンズへ来ておられま
せんでした。一時、搭乗者名簿に載っていたためですが、その後取り消されています。急遽
隊長の私が、日本へ一時帰国することでネパール政府の了解をもらいます。それゆえ再度
ヘリコプターをベースキャンプ(BC)まで飛ばし、遺品回収をおこないます。
遭難から 16 日後、隊長の私は一時帰国で日本へ戻りました。帰国翌日には、ご遺族への
遺品引き渡しと写真を添えた事故説明をおこないます。これら全ての国内準備は、富田氏を
中心とする留守本部により、用意されていました。
ポラロイドカメラによる遭難現場写真は、ネパール政府への初期説明やご遺族への最初
の説明に役立ちます。。一時帰国の際、35 ㎜カラーフイルムを現像し、ネパール政府、日本
大使館への正式報告書に添付します。説明文章とこれらの写真添付による報告書は、第三
者の理解を得るために大変役だったものと云えます。
一時帰国し、遺品の引き渡しと、ポラロイド写真を交えた事故説明がスムースにおこなえ
たのは、留守本部長・富田氏の尽力が極めて大きかったからです。私の長年の親友であり、
遠征メンバーのトレーニング山行を共にしていたことが、仲間意識の形成に大きく役立って
いました。
このようにご遺族への対応を最優先とし、その資金の裏付けを確保していたことは、既成
の組織形登山隊よりも迅速な対応が図れたものと思っています。例えば群馬県山岳連盟・ダ
ウラギリ隊は我々の 10 日後に雪崩遭難事故(田中の友人、深沢氏が死亡)を生じましたが、そ
- 106 -
の後登頂を継続して成功(山田昇氏らが登頂成功)しています。私が一時帰国した際にあずか
った群馬隊隊長の手紙は、日本で投函しました。
山岳雑誌の記事となったネパール政府観光省・シャルマ登山課長の談話では、 『群馬
隊の遭難はおかしいルートをたどった』 とされ、 『P29隊は不可抗力だった』 と評されたこ
との違いは、遭難事故への対応と事故報告の仕方の違いにより、評価が分かれたものと私
は考えます。我々はプロジェクトチーム(寄せ集め) ゆえに自主的対応を最大限図り、それな
りの準備と心構えをしていたつもりです。これまで私の登山経歴の中では一度も遭難事故を
生じたことがなく、事故処理の経験はありませんでした。しかし事前の準備と心構えは、いざ
現実となっても慌てることはありませんでした。
遭難は遭難であり、死亡した生命は取り戻せません。人為的な遭難であったか、不可抗
力な遭難であったか、当事者からの判定は出しにくいところです。たとえ不可抗力と思って
いても、長い年月を経なければ当事者としては言い出せない裏事情もあります。それは様々
な方々への心遣いでもあります。私は 20 年後の報告書において、ジャック・モノーの 「偶然
と必然」 を引用し、 『氷河崩壊の必然と、岩壁登攀行為の必然とが交差した、偶然であっ
た』 ことを表明しましたたが、第三書からの歴史的評価は知ることができません。
事後の合同追悼会の中で、行方不明となっている高橋隊員の彼女(?)から、 「彼を返し
て下さい」 と言われました。返答できませんでしたが、高橋隊員は日産自動車(エンジン設計
部署)を退社し、私のアパートからヒマラヤへと旅立ちました。 『死者を生き返らせることがで
きないからこそ生命ははかなく、生命を燃し尽くす激しい情熱こそが、生きていることの証し
である』 と、今でも私は強く思っています。しかし 「遺伝子操作」 や 「再生医療」 研究が
進化し、生命の再生が可能となった場合、 『生命のはかなさ』 を感じる人類の感性と倫理、
文化の中身は、大きく変化するでしょう。もしその特、この 「老いの道標」 が役立つのである
ならば、遭難死した隊員の山に向かった意志が役立つことでもあります。なによりも私は、生
きていることの 「情熱」 を、大切にしてゆきたいと思うのです。
- 107 -
3.
その後のリーダー意識の変遷
山岳遭難処理を終え、その後の対応や意識の変化を述べれば、以下のようになります。
1)
ご遺族への対応
死亡3隊員個々のアルバムを作成し、直近で各ご遺族を訪問して手渡しました。
毎年 9 月 14 日前後には、牛沢家(東京)~万実家(福島県)~高橋家(秋田県)を一人で
訪問しました。初日は東京の牛沢家を訪問し、そのまま夜行で秋田に向かい、大曲から
タクシーで高橋家を往復します。さらに夜行で福島を経由、会津若松から只見線に乗り、
会津川口から万実家まではタクシーで往復(一日数本のバス)、ふたたび只見線で小出に
向かい、小出からは上越新幹線で帰京となります。丸2日間半の行程です。初期には私
が元気で訪問することを喜んでいただきましたが、5年を過ぎるとお互いに負担を感じ合
うようになります。この訪問は 10 年間続けましたが、牛沢家の転居先不明もあり、その後
の個別訪問の旅は終えました。しかし遭難の真実と責任を、私は一生涯背負っているつ
もりです。
2)
P29へ
その後私は隔年おきにネパールを訪問しました。アルパインツアーのツアーコンダクター
3回、友人や家族と共に幾度もトレッキングへ出かけ、そのつどP29南西壁を機上から黙祷
します。しかし埋葬地までへは行けません。(トレッキング領域外にて、入山許可が必要)
数年前、古川純一氏から手紙を戴き、遺骨収集の話がありました。 『もし他の登山隊が入
る時、埋葬地が登山ルートの障害にならないか?』 というご意見です。日数と費用がかかり、
個人では動きがたく、いまだそのための行動は起こしていません。
- 108 -
3)
メンバーへの対応
遭難事故により目的を失って以降、それぞれのメンバーは自分の殻に閉じこもり、自己防
御反応をとる傾向が顕著となりました。隊長の私は事故処理や日本への一時帰国、残務整
理等々で忙しく、メンバーとのコミュニケイションが疎遠となってしまいます。それら心情変化
は前節2)の 「遭難時におけるリーダーの指揮」 に記したところです。
カトマンズでの解散は、当初からの合意事項でありました。しかし3隊員遭難死亡事故の
結果となり、解散における隊長としての要請は、「合同追悼会には全員出席してほしい」 旨
をお願いします。しかし3名の隊員は当初からの計画だからと言ってトレッキングを継続し、
合同追悼会へは参加しません。このことはリーダー意識にとって許しがたく、その後から現在
へといたるまで、3隊員とは交流を断っています。
各メンバーには元来所属していた山岳会があり、そちらへ復帰すればツラギの会は不要
となります。私自身、数名を除けば交流を継続したいと思うメンバーはおらず、登山隊残金
の清算をもって、強いて交流を望みませんでした。白石副隊長は登攀経験豊富であり、私よ
り5歳年上でした。職人気質なクライマー的性格は、隊をまとめて導くリーダーシップを苦手
とし、白石副隊長もそのことを良く自覚していました。それゆえに年功序列でなく、私が隊長
となっていたわけです。私の意識に一番近かったのは牛沢隊員であり、私とメンバーの中間
触媒役でもありました。牛沢隊員を失ったことは、リーダーシップにとって大きな痛手でした。
4)
個人的な意識変化
私自身も氷河崩壊の爆風に吹き飛ばされ、テントの外にいた4名のうち、ただ一人生き残
る偶然を体験しました。生きて残された理由は分かりませんが、空想的に述べれば 『ちゃん
と事故処理をしなさい!登山は危険だけど、人間を鍛えるに良い環境だよ!・・・・・ということ
を、生き残って社会へ発信しなさい』 と、私は理解しています。
山を止められるかもしれないと思い、一度は山道具を処分しました。山の会を主宰する気
にはにはとうていならず、個人山行や、ヒマラヤトレッキングのコンダクターをおこないました。
- 109 -
近年は単独行が多く、テント持参で好きな時に、好きな山へ出かけます。
遭難から 17 年後の 1995 年、脳に障害を持ち発育遅滞でも5才になった三男が、真夏の
暑い朝に突然死を迎えました。障害をもって生まれた時もそうでしたが、この 『突然死に対
する心の痛みと受容』 は、ヒマラヤ遭難体験を経た自然との対話から得られたものでありま
す。また、 『我が子を先に失う親の心の悲しみ』 を、遭難のご遺族同様痛いほど味わうこと
になりました。
私のリーダー的な性格は、他者に従属するよりも自ら判断・切り拓く事を好みます。その
後、山岳団体、組織から離れましたが、株式会社を起業し、設計業務に専念します。10 日間
不眠不休で働いた時は、まるで高所登山のようでした。神経は業務完遂に向かって極度に
集中し、心臓は高鳴り、呼吸も浅く数を増し、眠気も吹き飛んでしまいます。街の中にも、ま
るでヒマラヤ登山があるような、そんな体験もありました。
山岳組織に復活したのは 2003 年、創設された 「日本山岳文化学会」 からとなります。そ
の中で私の関心事は、もはや山岳登攀ではなくなりました。登山を文化として捉え、その登
山文化が一般社会の中でいかに活用できるかに関心が向きます。当然ながら社会を導くリ
ーダーシップには、いつも関心を持ち続けています。
【 自省所感 】
ヒマラヤ登山では精一杯の 「生命(いのち)」 を燃やしました。多くの大切なものも失いま
したが、これらの現実から私は、 『人生で何が大切なことか』 を体験を通して学ぶことがで
きました。そのことを綴ったものが、2001 年 1 月 1 日文芸社出版の 「青春のヒマラヤに学ぶ」
前篇に収録してあります。本来登山記録とは別に分けて出版すべきです。しかし、澤村幸蔵
氏(故人)の寄稿文にあるように、後篇の遭難登山体験があったからこそ学んだ前編の自省こ
そが、私の最も述べたかったことなのであります。
さらに 2003 年 8 月 15 日、日本文学館出版の 「頂きのかなたに」 では、その心情を私小
説として上呈しました。
- 110 -
第3章.
1.
ある遭 難 が別 な遭 難 を生 む
遭難対策は登山の第一条件
私は登山を始めた当初から、遭難事故は除きえないものと捉えています。登山形式・内容
は様々あり、遭難事故も様々となりますが、いかなる登山にあっても遭難事故はゼロとなりま
せん。なぜなら登山は、山岳自然に内包される行為だから、行為者が自然のもたらすあらゆ
る環境を事前に予測し得ないことによる 『不確定性原理』 が適用されるからです。自然環
境は行為者が予期できる必然の系と、予期できない必然の系とに分けられます。予期できな
い必然の系に出会った時(偶然)、行為者の側で対応しきれない場合は遭難事故となります。
量子力学の不確定性原理のように、偶然な出会いは行為者の側から予測不可能なのです
から、遭難事故の確率はゼロと成り得ません。そのことからも、登山から遭難事故は除き得な
いと考えるのです。それゆえ登山行為者は常に、成功への方策とともに失敗(遭難事故)への
対応を図っておかなければならず、このことを私は 『登山者の第一条件』 と考えます。
山岳という 「自然系」 の中にあり、生命体活動である登山者が携える 「人間系」 の存在
は、微力です。それはまた人間自身が自然系を構成する一存在者であることにもより、物質
(地球) を構成する最小単位となる分子(人の個) のような存在に例えられます。しかし人間を
自然系から区別する特別な理由は、人間に備わった知性にあります。そのことの事実は、知
性によって活動を続けている人類の歴史が証明し、それを私は 「人間環境」 として捉えた
いと考えるのです。
人間は自然系に含まれる存在でありながら、自然を搾取、加工して 「文明」 という 「人工
環境」 を築いてきました。その結果は自然系へ大きな影響を与え、自然そのものをも変容さ
せるまでになっています。人間は自然と対峙し、自然系の中における特異な存在者となり、
もはや自然系の中で無視できない存在者です。人間自身の持つ固有エネルギーは、微力
であります。しかしその微力な力は、原子核反応操作のよう、人間の小さな操作で原子核が
- 111 -
反応して莫大なエネルギー発生をさせます。原子核爆弾、原子力発電、核融合、そして核
利用廃棄物、今やそれらの原子力エネルギーは、地球そのものをも破滅させるに足りる量と
云われます。もはや人類は自然系に内包されるだけの微力な存在者ではなく、自然環境と
対峙すべく人間環境を問題としなければなりません。小さな力を積み上げた人類は今、自然
環境そのものを取り込んだ人間の作為(文明)を、改めて考え直さなければならない時節にあ
ります。その考える力こそが、 『文化の力』 であると私は考えるのです。
登山行為は文明的社会生活をおくる日常と異なり、山岳自然の非日常的環境に個々の
身体を晒し、むき出しな生命活動をおこなっています。山岳における人間個々の活動ポテン
シャルは自然環境に比べるまでもなく、あまりにも微力です。自然に個を晒し、自然と対峙し
たことのある登山者ならばこの感覚は容易に得られるものですが、近年のツアー登山のよう
にパッケージ化された行程にガイド同伴ともなればその感覚は薄れ、『登山者の第一条件』
はないがしろにされがちです。安全・安心を宣伝するツアー登山は、山岳自然の中で安全
が保障されているような錯覚を招き、登山者の自然に対する畏敬心を薄れさせることにもなり
ます。また、人が本来備えているべき動物的危険予知能力を、低減させてしまうことにもつな
がりましょう。
「人間活動の系」 において、それを取り巻く 「自然の系」 の全てを予知予測することは、
自然の系に含まれる人間知性の矛盾があります。ヴェルネル・ハイゼンベルクが位置と運動
量の不確定さを、ニールス・ボーアが時間とエネルギーの不確定さにつてまとめた「不確定
性理論」 は、量子の世界(ミクロな世界)においては、観測によって得られる結果が不確定で
あることを証明しました。宇宙の中における人間の 「個」 は、物質を構成する 「量子」 に当
てはまるとも言えます。量子の世界と同じく山岳環境においても、人間行動の位置と時間に
ともなう障害や危険となる自然の未来変容の全てを、人の側からその全てを観測(計測・察
知・予測)することはできません。目視や体感できる領域での障害や危険は予知できるものの、
視覚に映らず、感覚にもない、認識できない領域での危険までは対処できません。対処でき
る唯一の予防原則は、 「そこへ入り込まないこと」 となります。しかしそれでは登山や文化
- 112 -
は成り立たちません。
つまり、山岳遭難事故は無くし得ないのです。絶対に無くしたいならば、予防原則の立場
から登山行為を禁止する以外にありません。しかし学習や経験を積み重ねることにより、ある
程度の危険の予知や推察は可能となります。そのことから予防措置や対応策を講じ、遭難
回避に備えることはできます。無知、無策で自然環境へ立ち入ることは、遭難回避の能力が
ない無謀の誹りを受けることになります。登山を山岳文化に位置づけるためには、無謀の誹
りを受けぬよう、登山の本質を啓蒙発信する必要があります。
2.
遭難が遭難を呼ぶ
無くし得ない山岳遭難を知りながら、人々は何故に山を目指すのでしょうか。
それは文明的とする生存の必要条件たる無意識な欲求(日常性)と、それだけでは人の心
が窒息してしまうので、進化の合理性、合目的性さえも無視できる心の自由さを求めて感動
する非合理的感性(非日常性)からなる意思の力、つまり文化的欲求が作用すると考えるので
す。合理的、合目的な日常性の中にあり、非合理的な感性を味わうために、あえて危険な山
岳の非日常的世界によって中和を図るのです。危険は遭難を招き、遭難は死を招く。その
結果の悲劇と過程のドラマは、人々の心を揺さぶります。ロマンを好む人種の中から、いつ
しかふたたびその感情が呼び覚され、次なる冒険へと展開されてゆくのです。
もし人が合理的、合目的なことだけで満足できるならば、人間社会は文化を必要としないロ
ボトミーな管理社会に治まるでしょう。現代の電子・情報化社会は、それに一歩近づきつつ
あります。人間は情報に従順となり、羊のように群れを成して行動できます。一方ではまた、
現代の独裁的政治を変革する力となったインターネットの情報伝搬のよう、従順と思えた民
衆の感性に働きかけ、一挙に自由を求め行動を促したりもします。電子・情報化社会は諸刃
の剣の両面性を併せ持ちます。現代社会を築いた 「代議員制間接民主主義」 から、電子
ツールによる 「直接参加民主主義」 への模索は、すでに始まっています。限られた地域で
- 113 -
の 「電子投票システム」 は、個の意思を直接投じるとともに集計も即座に可能となり、「yes
or no」 の判断は客観的数値となって即座に示されます。代議士による間接民主主義から、
国民投票のような直接民主主義へと移行する試みはすでに始まっています。しかし電子投
票システムの、システムエラーや故意の操作の弊害も容易に想像でき、直接民主主義への
移行はまだまだ不透明な段階です。
人の体感は、進化に順応する合理性、合目的性ばかりでなく、その対極となる不条理さに
も憧れ、心のバランスを図ろうとします。知性と感性の発達した、人間存在の自己矛盾です。
その自己矛盾に気づき、人の心の感動を呼び覚まして他の人々の心へと伝搬する感性が、
文化の力の源です。日常の中にあっては、喜びよりも耐え忍ぶことの方が多いのですが、喜
びは耐え忍んだ後の一瞬に現れる非日常体験と云えます。この日常性の中に現れる非日
常性こそが、 「文化の力」 と云えましょう。日常としての文明力と、非日常としての文化力と
のバランスを図ることが、人間の生命活動と云えます。分子生物学的に書き改めると、 「動
的な平衡」 となります。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」 (福岡伸一:動的平
衡 P-232:木楽社、2009 年第 6 刷) と、分子生物学者は述べます。人間身体の分子は環境から
やってきて、一時の淀みとして身体を作り出し、死して再び環境へと解き放たれる。人類文
明進化の流れの中で、現在とする淀みの中で社会生活を過ごし、世代交代とともに忘れ去
られる。ほんの一部分だけが歴史として後世に残されてゆくとされます。類似した(フラクタル
な)感性もまた歴史やDNA同様、人々の心から心へと伝播してゆきます。
山岳遭難の悲劇的ドラマは耐え忍ぶ心とマッチング(整合)し、他者の心へと共鳴(共振)す
ることがあります。ある遭難は、次なる遭難の呼び水となることがあるのです。これを私は 『心
の琴線』 と呼んでいます。
電気回路として記述すれば、「ある複数回路(主体)のインピーダンス(負荷特性)がマッチン
グ(整合) することにより、合成負荷特性に変化した一つの回路に等価(合成) します。さらに
個々の負荷特性が互いに補い合って同調するならば、合成負荷特性は同一なものへと変
わって 「共振」 状態となります。ある一つの特性(例えば水晶振動子)と、その固有振動に共
- 114 -
振する電気回路は 「発振」 状態となり、電流から電波へと姿を変えて空中へ放射されるの
です。つまり人の心と同様に、ある人の心にマッチング(整合)することによって、他の人の心
へとその特性が伝播してゆき、姿・形を変えて伝播先に現れます。それぞれ特異性をもった
心へマッチング(整合・同調)作用を、 『心の琴線に触れる』 と表現してみたいのです。
f :発振周波数 [Hz] ←極度な集中(極限状態は発狂)
f = 1 / 2π√LC
L :コイル (インダクタンス) ←遅らせる性質
C :コンデンサ (キャパシタンス) ←蓄えてから放出する性質
さらに数学的な表現をすれば、実数と虚数からなる複素数に類似します。合理性、合目
的性は文明要素として実数に当たります。不条理さにあこがれる文化要素は虚数に当たり、
さらに次元を異にする人の心の要素を構成します。現実における人の立ち位置は、この実
数と虚数が織りなすベクトル運動のように、平面二次元から立体三次元ベクトルとして理解・
表現することができます。このことは “第6章.中村純二博士の 「正・反・合と進化」 から考
える”
人・文明・文化
=環境の複素的世界構造
を参照ください。
山岳遭難が 『心の琴線に触れる』 私の場合を取り上げて、以下考察してみましょう。
第一の遭難 はフィクションですが、私を山登りに引き込んだ動機となる、井上靖の小説
『氷壁』 です。この小説には、モデルとなった岩稜会の前穂高岳ザイル切断による遭難事
故がありました。小説のエンディングはこうです。 『好いた女性への思いを断ち切り、慕われ
る女性を受け入れるために彼女を山麓の宿(徳沢小屋)に待たせ、鳥も通わぬ滝谷を登って
新たな自分へと脱皮し、慕われる彼女へ会いにゆこうとします。しかし滝谷で落石に打たれ
遭難死してしまうが、その哀愁は彼女の心へと伝わり、読者の心を震わす』 物語です。この
小説、実はメロドラマなのですが、高校生だった私は青春の 『琴線』 をかき立てられ、高校
卒業式の翌日から同級生たちと雪山スキー遊びに入りました。
第二の遭難 は山登りを始めて 15 年、1978 年ネパール・ヒマラヤ、P29南西壁での遭難
死亡事故となります。ヒマラヤ岩壁登攀中、千m上部からの氷河崩落による遭難死亡事故を
- 115 -
体験したことは、第1章 “ネパール ヒマラヤ P29 南西壁遭難” に述べた事実です。
第三の遭難 はさらに 18 年後となります。1996 年 5 月、難波康子さんがエベレスト登頂後
に遭難死亡事故となったことです。私が前記第二の遭難を体験した 1978 年末、エベレスト・
トレッキングで難波(旧姓:田中)康子さんとの出会がありました。エベレストの山麓、ディンボ
チェのテントの中で、私の遭難体験と登山への取り組みを語ったことが、その後の難波(田
中)さんを冬山登山に向かわせました。それから 18 年後の 1996 年 5 月、彼女は日本人女性
二人目のエベレスト登頂を果たしました。そして下山の途上で嵐につかまり、遭難死亡事故
になったことは世界に報じられました。彼女のエベレスト登頂への動機づけ(琴線)として、私
の遭難体験を語ったことがその要因の一つと思っているからです。
この三つの遭難の直接的関連性はありません。高校生の時偶然に本(氷壁)と出会い、エ
ベレスト山麓で偶然に難波(田中)康子さんと出会います。この偶然の出会いこそが、それぞ
れの登山へ向かった動機づけとなり、そして遭難へ至る経過をたどるのです。しかし私は決
して、このことだけが主因であることを主張するものではありません。この論述は科学的客観
性に欠けるとして、科学論文からは排除されます。しかしながら文化要因は必ずしも客観的
データの証明なくしても、その推論構成に合理性と根拠があれば良いと考えるのです。文化
は科学と位相が異なります。(第 6 章.「人・文明・文化=環境の複素的世界構造」 参照)
です
から多くの動機づけの中の一つとして述べるのであり、これらの出会いだけが全ての根拠で
はく、別な必然性が当然あったであろうことも含むものです。ただ私自身にとっては象徴的な
出来事であり、30 余年たつ今でも、私の心の 『琴線』 を奏でるからであります。
出会いによる動機づけ(感動)は、人生ドラマ第一歩への契機となり得ます。 “類は友を呼
ぶ” 、つまり同類的性格は同質的行為を展開させます。遭難は悲劇ですが、それは行為途
上の結果であり、その行為と結果がもたらす感動や感傷は、同類性を持つ人々への心に浸
み込んでゆき、心の 『琴線』 を奏でるのです。それがまた次なる別な登山への動機づけと
もなり、図らずも遭難の連鎖性が生じてゆくと考えます。
このように人生とは、出会いを契機とした 「一人ひとりの物語(ドラマ)」 と思うのです。
- 116 -
3. 小説とP29遭難
もし私が小説 『氷壁』 を読まず、山登りと人間の背反的魅力(悪魔のささやき)に気づかな
かったら、1978 年ツラギの会P29南西壁登山は存在せず、遭難死亡事故はあり得なかった
という推論が成り立つ。このことは結果から導かれる一つの因果を示すだけであるが、その
因果関係にともなう動機づけ(琴線)こそが他者の心へ侵入し、他者に引き継がれ繰り返し現
れることとなります。そして他者の、次なる遭難事故へと引き継がれる要因となるのです。
18 歳の私が山登りに憧れたのは、人間ドラマにおけるストイックさとヒロイズム、ロマン(美)
への共感でありました。幼い頃から社会体験が乏しい小さな身の回りの世界で、内向的かつ
多感な思春期から青年期を過ごした私は、自然を相手とした人間活動の大いなるロマンチ
シズムに惹かれました。高校生の頃、私はよく相模川の土手に立ちつくし、遠く大山と丹沢
の山並みや富士山を遠望しながら空想しました。そして 『氷壁』 に出会い、自らの小さく狭
い世界を広げたいと、臆病ながらにおずおずと山岳の扉を開いたのです。山岳の世界は広
く深く魅力的で、次第にのめりこんでゆきました。哲学的な思索とともに、やがて好きな女性
を伴って岩壁登攀をするまでになり、そして 1974 年横浜山岳協会P29南西壁登山隊へ夫
婦で参加することとなりました。28 歳の時です。遠征出発直後に、「夫婦でヒマラヤ登山参加
は日本で初めて」 とする記事を、朝日新聞は全国版で報じました。その記事に影響を受け
たのか今でも分かりませんが、遠征を終えると妻は私の元を離れていってしまいました。その
寂しさや悲しさに負けまいと奮い立ち、再びP29南西壁へと向かったのが4年後、1978 年ツ
ラギの会P29南西壁登山でありました。その遠征登山は3年間の準備とトレーニングの後に
実現し、その中で前記第二の遭難死亡事故となってしまうのです。
P29遭難と小説 『氷壁』 との直接的な関連はありませんが、山へ向かう 「動機づけ(琴
線)」 こそが共通因子(DNA)であり、それぞれの山へ向かわせたものと私は考えるのです。
共通因子(DNA) たる動機づけは多様であり、画一的ではありません。私を山に向かわせた
主たる因子は、今振り返っても 「ロマン(美)」 への憧憬だったと思うのです。
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4. P29遭難と難波(田中)康子さんのエベレスト遭難
1978 年、P29南西壁遭難の年末から翌年正月にかけ、私はエベレスト山麓にいました。ツ
ラギの会で留守本部長を務め、遭難死亡ご遺族対応の矢面に共に立って苦労させてしまっ
た富田氏へ、慰労を兼ねたトレッキングをおこないました。往復航空券をお願いしたアルパ
インツアーでは、トレッキング・コンダクターが不足していました。そこで私に依頼が持ち込ま
れます。コンダクターを引き受けると旅費はタダ、おまけに日当をもらえます。行動の自由が
制限され、遠征登山と別な責任が加わりますが、一人分の費用削減は大きな魅力です。そ
して引き受けることにします。私が担当するグループ7名の主力は、千葉大学ワンダーホー
ゲル部 OBG の 4 名でした。一人で参加していたのが、難波(当時:田中)康子さんです。
1979 年 1 月 3 日、7名のグループは、体調により二つに分かれます。調子がよく、カラパタ
ールへ向かう3名はロブジェへ宿泊。残り4名はディンボチェへ宿泊し翌日はチクン方面へ
行くこととします。トレッキング中のテントは2名一張を使用していましたが、奇数メンバーだっ
たため、私はいつも一人でテントに入っていました。この夜のディンボチェは、康子さんのテ
ントも女性一人となってしまいます。夜も更ける頃、一人では怖いからと私のテントに入りたい
リクエストがあり、康子さんはシュラフと貴重品を持って私のテントに入ります。
この夜のテントの会話は拙著 『頂きのかなたに』 の中に、多少創作的に述べていますが
真意は変わっていません。康子さんが、私のP29遭難の悲しみや山登りを通した生き方に
感動をもって共鳴されたことは、後に彼女から届く手紙が物語っています。それまで夏山経
験しかなかった彼女は、冬山へも行ってみたい希望をもちました。成田から帰るリムジンバス
の中で、彼女からの申し入れにより、冬の八ヶ岳を登る約束となります。康子さんからの、スト
レートな依頼でした。
そして2月、赤岳鉱泉に宿泊。翌日、風雪の中を文三郎尾根から赤岳に登頂し、地蔵尾
根を下ります。風雪吹き抜ける中岳とのコル(鞍部)で、テルモス(保温ポット)から取り出して飲
んだブルーマウティン・コーヒーの味わいは、後に彼女をコーヒー党へと変えてゆきます。
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この冬山が、30 歳になった康子さんの遅咲きな冬山登山スタートとなりました。初めてピッ
ケルを持ち、アイゼンをつけ、風雪の中を登る本格的冬山登山で、その装備は私が提供しま
す。その後コツコツと 17 年をかけ、康子さんは7大陸最高峰(7サミット)登頂者となりました。そ
の最終章、1996 年 5 月 10 日、彼女はついに日本人女性二人目として、エベレスト山頂に立
ちます。しかし登頂後の下山で嵐につかまり、酸素も切れてサウスコルのキャンプ直前で遭
難死亡となります。このことは社会的栄誉とともに、国際公募からなる商業登山での大きな遭
難事件として世界中に報道され、栄光と悲劇、評価と批判の記録が残されました。
次の記述は、今も手元に残す彼女からの手紙による、私の所見です。
康子さんの登山は、7サミットの 「記録」 を求めていたこのように思われるかもしれません
が、私はそう思わないのです。彼女にとって登山記録の社会的意義は二の次でした。登山
は彼女自身の心の問題として、山岳自然の中で自然と同化できる精神(こころ)の安らぎを、
登山を通して高め感じ取っていたのだと思うからです。日常諸事に感動することが少なくなり、
醒めた心で淡々と爽やかに生きようとしていた彼女が、非日常な山岳の自然に感動できる自
分を再発見し、その精神(こころ)の高揚に自らが感動する。ただそのことだけに得意な英語
(外資系会社で秘書兼翻訳が仕事)を駆使し、リーダーに信頼を預け、自己責任、自己負担で
世界の山々を登っていたのです。彼女の主要な山行には、いつも信頼できるリーダー(ガイ
ド)がいました。山岳の危険はリーダーに預け、彼女は醒めた目で寡黙に山と交わりながら自
分の心の世界を調和させていた。自然に抱かれながらコーヒーの香りを楽しみ、信頼できる
リーダーに安全を託しながら精神(こころ)の安らぎを覚えてゆく。淡々とした爽やかさの中に、
寡黙で強い意志を秘めて行動する。行動する環境に一体感を感じ取る時、彼女は安らぎを
得て自己の存在を意識から消し去ることができたのでしょう。康子さんは、 「登山家」 と呼ば
れることに、きっと違和感を持っていたのではないかと思うのです。康子さんは登山家やクラ
イマーではなく、 「永遠なワンダラー」 の方が的を得ていると私は思うのです。
私のP29遭難事故への悲しみと対処に反応した康子さんの感性が、その後彼女の登山
の動機づけ(琴線)となった確信は、彼女の心情を綴った手紙の中から読み取れます。つまり
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私の遭難が、康子さんの遭難を誘引してしまったと考えるのが、私なりの解釈です。そして彼
女自身、人生途上における死の後悔は持ち合わせていなかっったと思うのです。彼女にと
っての死は、生を燃焼し尽くした結末であり、彼女はその結果をいつでも受け入れる心の用
意を持ち合わせていたと考えるのです。つまりそれは私自身の人生観でもあり、きっと彼女も
そのことに感銘(琴線)して、山にのめり込んだと思うからです。
死に直面した人の心への哀悼と自責。その悲しみを心に秘めながら、過去を映さず今日
を明るく振舞う。人は孤独な存在者であることへの気づき。康子さんの青春は、愛と別れを歌
ったアルゼンチンの歌姫、グラシェラ・スサーナの 『琴線』 とも重なり合います。その共鳴(マ
ッチング)は、登山行動となって表現され、ついにはエベレスト山頂へと辿り着き、遭難、この
世との 「粋な別れ」 の場面となります。
1979 年 3 月、私の誕生祝いの記念にと、彼女からスサーナのコンサートチケットが届きま
す。そして一緒にスサーナを聞いた最後の曲が 「粋な別れ」 であったのは、今振り返ると未
来を暗示していました。しかし以上のことはことさら客観性を論ずるものではなく、真実の一
端と考え及ぶ私の所見を記したものです。
1978 年ポスト・モンスーン期、私もまたP29南西壁登山では毎夜寝袋の中で、マイクロカ
セットテープから流れるグラシェラ・スサーナを聞いていました。変な日本語で歌う哀愁のメロ
ディーは、逆に私の心へ安らぎを与えてくれます。安らいだ私の心のステップは次に、哀愁
に負けまいとする強い意志が湧き出します。それはまた言葉に表しにくい ロマン(美)への憧
憬であったと思うのです。時同じ頃康子さんもまた、自宅でスサーナを聞きながら眠ってしま
うことが多かったと手紙に記しています。
私のP29遭難と、康子さんのエベレスト遭難は、直接的関係はありません。しかし康子さ
んがエベレストへ向かった 「動機づけ(琴線)」 として、シャンボチェのテントで語り合った遭
難の悲しみと山登りへの感動があったことは、彼女からの手紙から読み解けます。
エベレスト冬季登頂を果たしながら遭難死亡してしまった加藤保男氏を記念して、その後
エベレストクラブが作られますが、その中心は康子さんであり、自ら会員番号を1番としてい
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ます。彼女は私の名前も会員登録してしまい、私の名前は 40 番にあります。しかし私は会費
の支払いや集会への参加は一度もありません。たった一度、エベレストへの出発点、ルクラ
での出来事を会報へ寄稿したことがあるだけです。
1979 年 1 月 3 日、30 歳を目前としたディンボチェの夜から、康子さんはエベレストへ運命
の道を歩み始めたと言えましょう。その夜から 17 年後、寡黙ながらも一途に、思索よりも直感
的に行動(B 型)していた彼女は、ついにエベレストの頂きに到達してしまう。
そして・・・遭難死亡。
「類は友を呼ぶ」 という格言があります。遭難には、ある共通因子があるのではないかと、
私は考えるのです。その共通因子(動機づけ=琴線)に導かれ、それぞれの山へ向かう。その
動機づけ(琴線)は多様であるがゆえに、因果を伴う科学的決定論ではなく、知性と感性によ
る抽象の世界、虚な社会を含む文化論として捉え直す必要もあるでしょう。感性に触れるこ
のことは、感性が鎮まる 「時」 を要します。 「時」 を経て感性が知性へと再整理されるとき、
その知性は新たな 「道標」 にもなりえます。
人の心もまた自然界の量子のごとく、確率的運動によって未来は不確定(不確定性原理)
であります。しかし 「生きる」 ということは、その時々の不確定な未来世界に向かって今、判
断しなければなりません。だから日常で、感性というアンテナからキャッチした情報を知性へ
と定着させ、その日常の知性によって不確定な非日常への判断が可能となるのです。その
判断は確率的に高い未来への選択であり、必ずしも絶対的に正しい選択でないことは、不
確定性原理が示すところです。
康子さんを山に向かわせた主因は、自然に受容される自己との一体感の安らぎであった
ろうと、私は捉えています。その舞台が山であり、夢の終了点となった地上で最も高き頂き、
エベレストでした。その頂きを目指した行程(人生)こそが彼女の夢の実現であり、目標、ロマ
ンであったと思うのです。しかし高き山を目指し続けるかぎり、遭難(死)との出会いもまた覚
悟しなければなりません。その覚悟を彼女は、常々持ち続けていたと思うのです。
(合掌)
- 121 -
5.
遭難の誘因子
死は、人生という人間ドラマが終わる、その時です。このドラマが劇的なほど共鳴は深く、
多く、次なる他者のドラマを再生産させます。成功よりも失敗は、その中身が濃く、深く、広く、
重く、悲しい。それは偶然の巡り合わせの悪さとともに、成功では気づかない様々な無意識
の中に、気づき(意識づけ)を与えてくれます。人は失ってみないとと気付かない、大いなる愚
かなさを持ち合わせているからです。
“宇宙は正体不明の物質で満ちている” と題し、 『私たちの体をつくっているふつうの原
子でできている物質は宇宙全体で 4.4%・・・・私たちは、万物は原子でできていると、学校で
習ってきましたが、この宇宙にある原子を全部集めても 5%にもならないので、実は真っ赤な
嘘だったわけです。・・・今まで物質が宇宙の中心だと思っていました。でも、そうではなく、
実は物質は宇宙の中でほんのちょっとしかないマイノリティだということがはっきりしたのです。
それでは残りは何かなのかといえば、まだわかっていません。(村山斉:宇宙になぜ我々が存在
するのか:講談社:P-17)』 とあるように、人間理性と合理性からだけでは認識できない諸事象
の多くは、失敗の気づきによって学びとってきたことも忘れてはなりません。
失敗は、多くの非難を浴びます。成功は褒め称えられてヒーローになれますが、山岳登山
の成功条件は、たまたま天候や登山条件の巡り合わせが良かった偶然に依ることも多々あり
ます。成功経過における諸条件はとかく見過ごされ、無意識のままに忘れ去られる事も多い
のです。成功者は名誉を与えられますが、その名誉を維持するためには、別な新たな困難
に向け努力を背負う運命に変わったりもします。失敗をしない努力は当然ですが、万一失敗
であっても、成功では気づかない様々な諸事象への気づきを与えてくれます。そのことは次
なる成功への条件を明らかにしてくれることでもあります。ましてや何もしなければ、何の気
づきも得られないのです。
登山の本質は、ルールや場所を定めて人と人が競うスポーツとは異なります。自然の条件
は刻々と変化し、途中でリタイアできない場合もあります。スポーツ的要素は多いですが、特
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に高度な登山内容となれば、同一な自然条件の確保はできません。たった一度の失敗が、
自らの人生ドラマの終焉を迎えてしまいます。成功が偉大なほど、さらなる偉大な成功を期
待され、期待に応える真面目な繰り返しの中で、たった一度の失敗をしてしまう例は多くあり
ました。成功の余韻の裏側では、常に悪魔のささやき声が聞こえているのです。難波康子さ
んの一周忌を迎えたとき、彼女の実家を訪問してお母さんに会いました。もし康子さんが登
頂後に無事生還できたとしても、彼女の母は次なる悪魔の囁きの深みにはまる心配を語っ
てくださいました。
だからまた、それが登山の魅力ともいえましょう。悲劇は心の傷となり生涯忘れえぬ記憶に
刻まれるのですが、それ故遭難は人それぞれの 『琴線』 に触れ、個の秘め事となるのです。
それは個の数に等しく、多種多様な山への誘因子(DNA)となります。
遭難はいずれの場合も、【ある必然の系と、別な必然の系とが、偶然に遭遇した結果】、つ
まり 【偶然な出会いがもたらせた悲劇】 を示し、偶然な出会いは時を経て繰り返されます。
ある遭難への感動が、別な遭難への誘因子(トリガー)となり、遭難の再発生を生むことに連
鎖してゆきます。
では山岳遭難の繰り返しは防止できるのでしょうか?
登山の動機に感動(誘因子)がともなう限り、山岳遭難は防止しえぬものと私は考えるので
す。また感動なくして、登山文化は成り立ちません。「感動⇔登山⇔遭難」、この三竦みの中
心で、人の心は 『琴線』 を奏でていると理解します。もし山岳遭難がないとするならば、登
山はスポーツや観光の枠に納まり、自然と対峙する 「人間総合力」 の魅力は、半減されて
しまうでしょう。しかし第 6 章で述べるよう、文明の進化は文化の変化を招きます。21 世紀のこ
れからは、スポーツ登山や観光登山が山岳活動の中心となるのでしょう。心豊かに生きるた
めには、このような思考実験(推論)を併せて理解してゆかねばなりません。
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第4章.
失 敗 に 学 ぶ
近年、 『失敗学』 というジャンルがクローズアップされています。命名者は立花隆氏で、
2002 年には 『非営利活動法人・失敗学会』 が設立されています。会長は 『失敗学のすす
め』 の著者、畑村洋太郎東京大学名誉教授です。工学・経営学などを網羅的に含み、
「失敗は成功の基」 となりうるよう、失敗のヒューマンエラーを前向きに捉える分野です。そ
の分析により失敗要素を最小化し、あるいは除去して、成功を導き出そうとします。
iPS細胞の発見で 2012 年ノーベル医学・生理学賞受賞の山中伸弥・京都大学教授は、
失敗を重ねた末に、生命概念の見直しを迫る人類史上の一大発見と実用化への道を切り
開きました。このことは、 「失敗に学ぶ」 直近の最も良い例となります。しかしその中で、実
験マウスの生命は切り刻まれています。人間優先思想の隠蔽を、人類は胸に刻む必要を忘
れてはなりません。生命の継続には、食物連鎖のような循環の必要悪もあります。
山岳遭難における失敗は、 「取り返しがつかない」 結果に陥ることが多々あります。つまり
「死亡事故」 となるのです。この場合、失敗した当人にとっては、もはや 「取り返しがつかな
い」 ことであり、それ以外の他者にとっては貴重な事例の提供となります。もしヒューマンエ
ラーであるならば、近年はリーダーの刑事責任を問われる裁判事件も生じています。
『失敗学』 におけるヒューマンエラーについても、当然ながら刑事責任を負う場合がありま
す。しかし状況行為判断者(責任者)と行為被害者は、同一場所にいない場合が多くあります。
つまり判断者(責任者) は現場おらず、報告データに基づいた間接的判断となるのです。そ
の場合には、伝達ミス、確認ミス等のヒューマンエラーと、情報システムエラー等の装置不備、
故障等のメカニカルエラーが生じます。山岳遭難におけるヒューマンエラーは、判断者(リー
ダー)と被害行為者が同一環境の下にある場合がほとんどです。つまり判断者自身も被害行
為者と同じ危険な環境にあり、その中で直接的判断となりますからチェックや代替がかなわ
ず、多くの場合 「取り返しがつかない」 結果を生じます。
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山岳遭難の場合、 「取り返しがつかない」 ということは 『死』 を意味し、死は生にもはや
「後戻りができません」 。それゆえに山岳遭難死亡者は 「失敗に学ぶ」 ことがでません。
「失敗に学ぶ」 ことができるのは、遭難事故から生還し、死ななかった場合となります。その
他の人々は、生還者の体験や遭難の事例から、教訓として学習することになります。さらに
遭難原因の分析からは、同じことを繰り返さない指導効果を果たすことができます。
私自身はヒマラヤ遭難事故からの唯一生還者(テントの外に4人いた内、3人が死亡)として、
その体験とともに学んだことを以下にまとめてみました。
1.失 敗 の 種 類
失敗には起こるべくして起こる必然的な失敗と、全く予期できなかった偶発的な失敗とが
あります。また、取り返しがつく失敗と、取り返しのつかない失敗もあります。
1) 原因による失敗の種類
① 必然的な失敗 : 起こるべくして起こる失敗 : 普通の失敗
② 偶然的な失敗 : 全く予期できない偶然な失敗 : 予知領域外の遭遇
2) 結果による失敗の種類
① 取り返しがつく失敗
: 失敗から学習し次なる成功の糧となる失敗
② 取り返しのつかない失敗 : 死や破壊等にみる復元できない原型壊失の失敗
3) 責任が伴う失敗
① 責任を負うべき失敗 : 必然な失敗 :因果関係が判明している場合
② 責任を負えない失敗 : 偶発的な失敗:因果関係が判明していない場合
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2. 判 断 と 責 任 の 限 界
山岳自然環境の中にあり、 「人間の系」 は 「自然の系」 の一部分となります。人間の意
識から生み出される判断と責任の領域は、部分(人間)が全体(自然)を観て判断するという、
論理的パラドックの中にあります。それゆえに、人が現象を見極めて判断する場合、その判
断には部分(自己)としての限界がともないます。人間の判断に限界があることを認めれば、
自己としての責任も、おのずから限界があることになります。つまり、誰がその立場にあっても、
それ以上の判断と自己責任を負えない 「限界点」 があることを認めなければなりません。こ
の限界点を 『絶対的限界』 としてみます。
① 絶対的限界(客観的限界)=自然の系において復元不可能な状態に移行する点。
数学的にはカタストロフィーとも呼ばれ、以前と同じ状況に戻れない臨界点。
(例 : 死、破壊、消滅)
② 相対的限界(主観的限界)=個々の感覚の中で限界と感じる点。
前記①に至らぬ領域の範囲内で限界認知感覚領域は変動するが、まだ復元可能領
域にあり以前の状況に戻れる点。
(例 : もうだめだ・・・、もう死にそう・・・、といった個体的限界感覚)
人は意識・無意識に拘わらず、自ら感じる限界点があります。自身のコンディションや相手
次第でその限界点は変動しますが、日常環境の中で 「もうだめだ」 と思っても、まだ絶対的
限界までには余力があります。自己意識では耐え切れぬ思いで限界を感じても、まだ努力
や頑張りによって耐え、忍ぶことができる場合が多くあります。この感覚を意識する限界点に
は幅があり、個々によっても異なります。ですからこれを 『相対的限界』 と呼んでみますと、
『絶対的限界』 へ至るまでには、まだ 1/3 程度の余力を残している人間の安全装置とも云え
ます。 『相対的限界(主観的限界)点』 は訓練や経験を重ねるほどに幅を広げ、絶対的限界
点へと近づきます。それゆえに訓練を積んだ人ほど絶対的限界点までの余力が少なく、い
ざ限界を感じた時は絶体絶命のピンチとなってしまうのです。エベレスト下山中に遭難事故
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が多いのは、その現れと云えましょう。
『相対的限界』 には、自信、経験、訓練、努力といったヒュ-マンファクターにより、限界
の意識レベルに差を生じます。それゆえに、判断する者とされる者との関係においては、責
任と義務を生じる場合があります。日常環境における一般的登山行為は、②の相対的限界
領域での活動となり、相対的関係の中で 「契約」 を結んだとすれば、当然に契約履行義務
と責任、法的義務と責任が発生します。
[ 図―1]
遭難時リーダーの思考系統
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しかしより高度な登山行為では、①の領域への対応を前提に対策を講じる必要があり、そ
の責任も義務も、行為者自身が負うことが原則でした。しかし難波康子さんのエベレスト登山
のような商業登山の場合、自然環境は 『絶対的限界』 の中にありながら、登頂を請け負う
商業契約関係で挑むケースは、その契約条項の中に当然、 『絶対的限界』 状況に陥った
場合の免責事項が含まれなければなりません。そのことは一般的生命保険においても、自
然災害における免責事項が特記されているのと同類です。
第2章で述べた 1978 年P29南西壁登山において、すでに私は上記のことを意識していま
した。つまり ①の状況となり死者を出してしましたが、次のステップで何がベストとなるか、即
時な判断が出来ました。その対応は第2章に記した通りです。
失敗学において、「失敗時の社長の頭」 というブロック図があります。失敗した時に、トッ
プ・リーダーが何を考えていたかを系統的に表現したブロック図です。それを参考に、第2章
P29遭難時とそれ以降の、私の思考系統を [ 図-1 ] に示してみました。円の中心軸に
近いところは短期的なもの、円から遠のくほどに中・長期となりますが、各ベクトルの長さは時
間に比例していないので、座標点の時限はそれぞれ異なっています。とりわけ、思考の順序
と関連性を読み取っていただければと思います。
3. 登 山 の 安 全 性 と 危 険 性
登山の安全性とは登山の危険性を正面から受け止め、その対策を講じることに尽きます。
極論を述べれば、登山はしないことこそ安全であり、そのことは 「予防原則」 から導かれま
す。しかしそれでは、登山が否定されてしまいます。それでも登る登山の魅力とは、いったい
何なのでしょうか。答えは、1924 年 6 月エベレスト初登頂をめざして死んだイギリスの登山家、
ジョージョ・マロリーの名言とされる 『そこに(山が)あるから(Bacauase it’s there)』 にとどめて
おきます。
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安全登山とは、山岳環境において出来る限りの危険を予知し、出来る限りの対策を図るこ
とに尽きます。そのことは第3章第1節に 『登山者の第一条件』 と述べました。また遭難した
場合を想定し、事前に意識・学習しておくことも大切です。第2章で述べた私のヒマラヤ遭難
体験から、事前の意識・学習・対策は、万一に遭難を招いてしまっても、落ち着いて対処出
来ることを学びました。また事前の意識が高い者ほど、冷静さを確保しています。
1) 遭難予防原則
1) 危険な行為はしない
2) 危険な場所へ立ち入らない
3) 危険な仲間を避ける
遭難予防原則からは、山へ行かないことが結論として導かれる。
2) 登山の危険性
1) 登山の危険と困難は紙一重(同類性)
2) 登山はあえて困難(危険)な行為をする
3) 登山はあえて困難(危険)な場所へ立ち入る
4) 登山はあえて困難(危険)を(仲間と)楽しむ
それゆえ
1) 山岳登山行為は危険要因を含む
2) 山岳遭難対策は登山の第一条件
3) 安全登山対策
1) 登山者自身で危険性を自覚し責任を負う(自己責任)
2) 登山者自身が対策を講じる(安全対策)
3) 一人だけの遭難対策は限界がある。そのために組織化(相互扶助)が必要。
※山岳同人組織の原点
4) 組織的対応(遭難対策=安全登山)
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啓蒙、普及、学習、指導、訓練、体制、規制(法)、資格制度、相互扶助、
救助隊、保険、遭難対策基金、山岳利用税(入山税)、山小屋、医療体制
連絡網
5) それでも危険は除き得ない(自然の摂理)
4.登 山 の 失 敗 に 学 ぶ
第2章に述べましたよう、私はヒマラヤ遭難死亡事故を体験し、偶然にも生還してきたこと
から、失敗を糧として多くのことを学ぶことができました。死亡してしまった仲間の隊員3名に
とっては、 「取り返しがつかないこと」 となりました。偶然にも生還した私には、彼らの分も含
めて 「取り戻すこと」 が使命となります。しかし死者を生かして呼び戻すことではなく、遭難
の体験から得た教訓を社会へ還元することが、 「取り戻す」 ことの意味と考えるのです。物
質として社会へ還元することではなく、体験から得た 「心の問題」 、 「心の在り方」 、「その
後の私自身の生き方、考え方」 を社会へ提示することにほかなりません。この主観的テーマ
をどれだけ客観性と統合し、総合人間学の一端として表現ができるか、努力点となります。
日本山岳文化学会で論文発表もおこないましたが、その意図を伝えきれません。文部科
学省傘下の学術団体として、その論文に科学的表現を求められても、心や感性の表現は科
学で網羅できるものではありません。心や感性は 「虚」 な領域です。そこで思いついたの
が、数学的複素数(実数+虚数)を三次元ベクトル表現する 『人の意識・文明・文化=環境の
複素な世界構造(第6章)』 でした。さらに論文調文体を離れ、自由な表現へと移行してみま
した。学術論文としてでなく、体験・報告⇒論考・考察を一体的にまとめる、 『総合人間学の
一物語』 と考えたのです。失敗して気づく、様々な問題があります。その根底には 「意識と
無意識」 の領域にわたる 「体験⇒気づき⇒人間脳と心」 の問題もあります。もはや登山の
領域をはみ出した、まさに 『実践的総合人間学』 です。
- 130 -
1)
登山の文明史は、失敗を乗り越えてつくられる
登山の進化はスポーツ同様、ある目標を設定して乗り越えてゆきます。それは 「記録」 と
して残され、一つの記録は次々と新らたな記録に塗りかえられてゆきます。その記録は後戻
りすることなく前へ進む一方向性であり、登山の文明史的要素となります。しかし自然と対峙
してきた登山様式はスポーツ競技と異なり、一つの失敗で死を招く可能性を含んでいます。
登山者は常に、絶対的限界を見据えながら、相対的限界を乗り越えてゆく楽しみを求める
行為者でもありました。その証拠は、これまでもの登山史や文献によって積み上げられ、こと
さら立証しないでも公知の事実となって、記録に残されています。
その中でも特に、スイス・アルプス、アイガー北壁初登攀の歴史は顕著です。 「魔の山」
と言われ次々と犠牲者を出しながらも 1938 年、ヘックマイヤー、フエルク、ハラー、カスパレ
クによって初登攀が成されました。それ以降も遭難者は絶えませんが、人はある面、征服欲
にかられます。困難であるほどに立ち向かってゆく、自我の主張と自己確認の欲求を満たそ
うとします。裏を返せばまた、生きていることヘの自己証明でもありました。その行為は誰か
が止められるものではなく、危険を承知していながらも自己責任をもって行為することで、生
きていることの証しを実感する輩(やから)なのです。その行為は、自己への究極な問いかけ
となります。このような登山の激しい 「文明的自然な欲求」 が、初登頂、初登攀、さらに様々
な記録を打ち立て、登山の歴史をつくってきました。幾多の失敗(死)を乗り越えてつくられた
のが、登山の文明史といえましょう。
その結果 20 世紀末、ほとんどの登山課題は究められ、人類の課題を乗り越えながら進化
を促す登山目標が、見当たらなくなってきました。その課題(目標)というものは、人類史にお
ける進化の課題を意味しますが、現代においては人類の歴史的課題から、ヒトの個たる個人
的課題へと移行しています。つまり、登山の文明史観からすれば 『もはや山は死んだ』 こと
になり、文明史観的登山は終焉となりした。
- 131 -
2)
登山の文化史は、失敗から学ぶ
登山を個人的課題から取り組めば、人としての楽しみを享受する 「登山文化」 となります。
その積み重ねが 「文化史」 となるわけですが、文明史との大きな違いは 「意識的におこな
う(欲望)」 ことにあります。文明史への参加は、自然なままの欲求を体現する無意識な中で
も可能であり、 “人類初” といった絶対評価が目的にあります。しかし登山目標は科学の発
見、発明ほどの分野になく、エベレスト初登頂でほぼ終わります。次なる時代は多様化した
「人の心の進化」 の目標となりますから、その登山成果は個人の中に位置づけられます。
北極、南極、エベレストを地球 「第1の極」 から 「第3の極」 までとすれば、これは文明
史の目標となります。そして次なる 「第4の極」 を人それぞれの 【心への探求】 にあるとす
れば、その心を満たそうとする行為の中に目標が見出されます。時空を超えて宇宙を思考
する人の心は小宇宙にも例えられ、未だ解明されない神秘さがあります。個々が目指す発
見・探究・向上等の目標は、人それぞれの心に宿り、地球 「第4の極」 とした個の心への探
究となります。しかし個人なるがゆえに比較のパラメータは同一性を失い、その多様な探究
成果は他者との比較・序列化が困難となります。そのことは文明史の中へ位置付けるのでは
なく、個による探究結果や成果は 「文化史」 として整理、位置付けることが妥当ではないか
と私は考えるのです。登山ばかりでなく、山岳に関わる全てを整理し、【山岳文化】 としてま
とめあげることの意義は、文明的進化・発展の一方向性に対するアクセルやブレーキ、ハン
ドルの、調整的役割を果たせるものと考えるのです。
地球第4の極 『人の心への探求』 において、個の成功や失敗がもたらす体験・報告⇒論
考・考察が、他者への共鳴、共感を及ぼすそのことを 「文化」 として捉え、人間社会の多様
さとして理解されることが、文化の果たしえる役割ではないかと考えるのです。
失敗(死) を繰り返しても登山が繰り返されてきたという事実は、合目的性からは理解でき
ない情動の不可思議さでしょう。その過程や成果への共鳴は、次なる登山の動機となって立
ち現れ、登山文化は継承されます。成功や失敗に学ぶことは、様々な作品や生き様に表現
を変え、過去から現在へと積み上げられ、未来への動機付けとなって登山の文化史を成し
- 132 -
ます。そして成功よりむしろ、失敗に学ぶことの方が多いのです。なぜなら、人の感性は身近
で大切なものこそ、失ってみないと気付かない大いなる愚かさがあるからだ、と、ヒマラヤ登
山を通して私は気づかされたのです。
第2章で私の遭難事例を述べ、第3章で遭難の連鎖を取り上げたた意味は、上記の点に
ありました。このことはまた、プライバシーに立ち入ることにもなります。難波(田中)康子さん
のプライバシーにも触れました。彼女は自律した意思をもち、しっかりと現実を見つめていま
した。世界を旅する中にあえて自らの孤独を見つめ、その上で自身をそっくり受け止めてく
れる存在に出会うかと、彼女は能動的でマイペースな行動を続けていました。あえて自らの
孤独を見つめると現実に醒めてしまい、感動する心が少なくなっっていったと云います。そ
の感覚がまた彼女を、ピュワーで爽やかな印象としていました。しかし能動的な心の芯では、
情熱が渦巻いていたと思うのです。つらくても真実に立ち向かう強さは世俗におもねるもの
でなく、真に対象へ真正面からその心を伝える意思を持っていました。真実の心を伝えてお
きたいとする彼女の強き意思を込めた手紙は、今もなお私の 「琴線」 を震わせます。現実
に醒めていながらも、希望の物語への同調性がよかった彼女ならば、ブルーマウンティン・コ
ーヒーを飲みながら、プライバシーは一笑に伏すであろうと今も思うのです。
※初本 「頂きのかなたに」 (1999 年:文芸社:ペンネーム:麦田文)は書店へ 1,000 部配本前日、出
版停止、廃棄処分としました。康子さんのお母さまを訪ねて完成品を手渡し、出版の了解を得たの
ですが、その後に康子さんの妹さんから強い反対があったということで、お兄さまからの電話で出
版停止を求められました。肉親の憎悪を煽ってまで出版する意図はなく、初本は著者負担による
廃棄処分としました。私の手元に 100 部を残したのですが、すでに見本品として書店へ配本された
分は回収できなかったと思われます。その後書き改め、同じ題名と実名により、2003 年に日本文
学館から 200 部限定出版としました。
すでに述べましたよう、登山においてはすべての失敗から学ぶことができずに、二度と
「取り返しのつかない失敗」 もあります。登山の失敗から学ぶことが出来るのは、生還した場
合だけとなります。死したる仲間に代わり、その失敗原因を探り、分析し、次なる同じ失敗を
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繰り返さぬよう学習成果を伝える役割は、生還者の務めでもあります。生還者はまた、死して
も挑んだ目標への趣意を、次なる者たちへ伝える役目があります。その伝えることができる中
身こそが、 【登山(山岳)文化】 の内容となるのです。
では、失敗から何を学ぶことができるのでしょうか。私の体験からは以下となります。
1) 次なる成功への方策提言(失敗要因を取り除く) : 体験から学ぶ成功への方策
2) 自然を受容する心(非日常的体験) : 非日常体験から学ぶ日常の気づき(心)
3) 生きることの意味を知る(死ぬことを考える) : 非日常体験から得る諸相の限界
これらは山岳だけに囚われず、文化一般諸相を含みます。しかし山岳の非日常領域体験
からは、日常としての一般諸相(文化)へいかに取り込むことができるでしょうか。例えば日常
生活における特殊な体験、つまり身近な人の死や災害と直面した場合など、日常生活の中
で起こり得る 「絶対的限界状況」 において発揮することができます。さらにまた日常生活の
中でも、絶対的限界と相対的限界との見極めが容易となり、【心のゆとり】 を保つことができ
ます。それゆえ、有るがまま平静な心を保ちつつ、日常を過ごすことが可能となります。私が
ヒマラヤ遭難から得た、生きることへの知恵です。
第6章で 「正・反・合と新」 の登山に分類しましたが、文明史観的登山は 「正」 の登山、
文化史観的登山は 「反」 の登山に当ります。現代はすでに 「合と新」 の登山という、何で
も有りの時代です。この変遷は、第6章で述べていますが、併せて 「日常の中の非日常」 と
いう考え方は 「意識の対の構造」 として、 「文明と文化」 の中に生かされてきます。
生存への必要条件として 「文明」 を捉えると、 「文化」 は生存への十分条件の要素と考
えられます。さらに生活への必要条件を整える連続性を 「日常」 とすれば、生活の中での
十分条件たる 「文化」 は、 「日常の中の非日常」 として、時々に現実から離れて喜びを与
えてくれる 「遊び(ゆとり)」 の諸相、文化として現れます。そこに代表されるのが、ヒーロー、
スーパースター、アイドル等であり、非凡で非日常性の再現を、日常の限られた時間の中に
見せてくれるのです。
- 134 -
第5章.
3 .1 1 と クラ イ シス・マネジ メン ト
2011.03.11 東日本大震災と福島原子力発電所事故が発生しました。前者は千年に一度
と言われる自然大災害。後者は人体に極めて有害となる放射能汚染をともない、現代の文
明技術で制御しきれない、人為大災害。両者の性質は異なるものの、近代における明治維
新、太平洋戦争敗戦後の社会変革に次ぐ、日本社会の一大転換機となりました。
日本政府の対応は、震災処理と復興、原子力事故終息と放射能汚染防御の二正面作戦
となります。千年に一度と言われる未曾有な自然災害に対応するだけでも極めて困難な状
況に併せ、福島第一原子力発電所メルトダウン事故が加わり、誰がトップ・リーダーであって
もその対処は極めて困難を迫られたことに変わりありません。誰がトップ・リーダーを務めても、
国民を納得、満足させる判断や対処はできなかったと考えます。
特に福島第一原子力発電所事故に対し、自民党政権交代後の民主党政府(菅直人首相)
の対応は、国家統治能力の不慣れをさらけ出しました。リーダーシップの稚拙さは、特に際
立っていました。原子力発電所事故の検証は、政府、国会、民間、東京電力それぞれが事
故調査検証委員会を立ち上げ、各々報告書をまとめました。
自然大災害、原子力発電所事故と、その規模・内容において比較すべき対象となりませ
んが、山岳遭難事故への対応、対処においても、それらミニチュア版としての同類性があり
ます。これまで述べてきました山岳遭難体験は、危機への対応、対処、終息と受容等、これ
まで考え続けてきたものです。その視点から、菅直人首相をはじめとする時の民主党政府の
危機管理意識とリーダーシップについての考察を加えるとともに、 「リスク・マネジメントとクラ
イシス・マネジメント」 とを瞬時に区別して対処することを提言するものです。
クライシス・マネジメント(Crisis management) は第二次世界大戦後の東西冷戦・核開発競
争時代における安全保障が中心課題とされた危機管理手法として、リスク・マネジメント(Risk
management) を含む危機管理概念とされています。その起源は第一次世界大戦における
- 135 -
戦線拡大や、甚大な被害防止にあるとされますが、巷(ちまた)聞き慣れない言葉です。
リスク・マネジメントは一般的危機管理概念として普及し、国家からあらゆる企業・組織等
における安全・安心・防犯・防災から、個人の人生設計、家族の安心設計、山岳遭難対策
等々、あらゆる分野におよんでいます。
クライシスとリスクの判断概念は曖昧であり、そのために待ったなしの危機管理事象にお
いての対処を誤らせる事例が生じます。ここで問題としたいのは、福島第一原子力発電所
事故の問題です。
第4章.第2節に述べました 「絶対的限界」 と 「相対的限界」 の区分概念を適用するこ
とにより、危機管理における 「クライシス・マネジメント」 と 「リスク・マネジメント」 の適用を
即座に判断して対処にすることにあります。この区分概念による危機管理は、危機管理者(リ
ーダー) の最適判断をもたらすことと、併せて危機管理者(リーダー) の責任や人間的特性に
ついて考えてみます。
1.クライシスとリスクを区別
クライシス(Crisis) とリスク(Risk) は、ともに危機や危険を対象とする同類な用語です。
クライシスとリスク・マネジメントの対象範囲は、世界、国家、地域、地区、組織、個人、その
他様々な枠組みに分かれます。それら枠組みの特定された領域の中で、様々な危機管理
や脅威管理手法が図られる。さらに地球環境保全に至っては、宇宙の中で生存する人類の、
日常的危機管理が問われます。危険や危機の進行中において、マネジメント統括者(リーダ
ー)の意識と決断は、危機の進行を止めるか、破綻に導くか、重要なターニングポイントとなり
ます。危機発生の時限において、【元の状態に戻らない事態を対象とする 「クライシス・マネ
ジメント」 と、元の状態へ戻る事態の中で最小限の負担で危機を抑えようとする対象を 「リ
スク・マネジメント」 と区別】 します。この区別することにより、危機管理への対応と対処、決
- 136 -
断の意識レベルが明確に異なり、適正な危機管理対応を図ることの提言です。
これまでの一般的な理解において、 「クライシス・マネジメント」 は危機発生直後からの
対処法が中心となり、 「リスク・マネジメント」 は事前に危機の内容を把握・特定し、発生頻
度、影響度等を評価した後に対策を講じる、予防分析が中心と考えられてきました。
しかしこの概念区分は対象とする危機や危険を形象的に取り扱うものであり、それに対処
する危機管理者(リーダー)自身の人間的特性には触れていません。危機管理における最大
の問題点は、判断者自身の人間特性によるリーダーシップの発揮にあると考えることが、こ
の論考の主旨です。
危機管理者は危機対処へのリーダーであり、日常における危機への対処意識と自覚、心
情や哲学、それらを個と組織にどのように適用、訓練させるか、リーダーシップの判断基準
訓練(意識づけ)が、欠かせません。そこで新たな危機判断基準概念として、危機事象の段階
における 「相対的限界事象」 と 「絶対的限界事象」 との区別対処を導入し、[ 図―2 ]に
示す即時決断、最適判断をもって対処することが、危機への負担を最小化するものと考える
のです。その意識づけは自己学習と訓練を重ねることにより、リーダーたる自覚と最適判断
意識の向上をめざし、危機事態へ冷静な対応ができるよう備えておくものです。
[表―2] に示すよう、リスク・マネジメントにおいて危機(リスク)管理者は、段階的な責任分
担により組織化することができます。組織化は担当者の個性に左右されにくいメリットがあり、
通常はマニュアル化されます。危機の事象が相対的限界領域にある場合、個の自主判断
は難しいケースが多くあり、マニュアルや規則によって判断しやすくなります。しかしクライシ
ス・マネジメントにおいては絶対的限界領域にあることから、即座な判断が求められ、危機管
理者の人間的特性に係ってきます。即時の決断が、歴史的判断となる場合も多々あります。
3.11 福島第一原子力発所電事故対応は、その例をなします。
これまではリスク分析によって危機内容が把握され、マニュアルによって危機対応が体系
化されてきました。全ての危機がマニュアル通りであるならば、危機管理者の判断は不要と
なり、全てがオートマチックにコンピュータ・システムで対応可能となるはずです。たとえば国
- 137 -
際宇宙ステーションやイージス艦のように、コストを度外視すればかなりのことがコンピュータ
制御により対応可能です。現代科学と技術は、日進月歩の進化を果しています。
人為的計画の多くは、計画プログラムに沿って危機管理マネジメントの技術的対処を可
能とします。その考え方として、フェイルセイフ(Fail safe) という設計手法に基づき、宇宙ス
テーションや航空機、高速鉄道のよう、幾重ものバックアップ機能を組み合わせて安全を図
ります。しかしそれであっても、技術を運用する人の側のヒュ-マンエラーや、金属疲労によ
る機体破断のよう、材料耐久性のミスマッチングや、人知の気づかぬ小さなエラーが積み重
なり、より大きな危機や災害を招く要素は除きえません。
巷(ちまた)知られる 「ハインリッヒの法則」 は、“1件の重大な事故や災害の裏には29件
の軽微な事故や災害があり、さらにその裏には300のヒヤリ、ハットする事故や災害に至らぬ
気づきがある” と説明します。経験則からまとめた類似に 「マーフィーの法則」 もあります。
むしろ現実での重大危機対処は、マニュアル通りに展開されることの方が少ないのです。
特に自然要素に左右される計画遂行の危機管理は、常に自然がもたらす人知の気づかぬ
事象に遭遇し、思いもよらぬ危機をまねきます。従来の危機管理概念を[表―1] に示し、そ
の改善のために提起するのが [表―2]です。
[ 表―1 ]
これまでのリスク&クライシス・マネジメント概念
リスク・マネジメント
クライシス・マネジメント
目
的
予防
対処
対
象
発生前
発生後
段
階
把握・特定→評価→対策
予防→把握→評価→検討→発動
評価の尺度
発生確率×影響度
再評価
人間的特性
対象外
対象外
- 138 -
[ 表―2 ]
提起するリスク&クライシス・マネジメント概念
リスク・マネジメント
クライシス・マネジメント
領 域
日常的
非日常的
事象の限界
相対(主観)的限界
絶対(客観)的限界
状 態
元に戻れる
元には戻れない
マネジメント
危機負担を最小限化
危機回避又は新事態への対
(マニュアル、規則、定款、
処
(論理的意志)
契約、その他)
判断者と責任
段階的責任者(判断)
最高責任者(決断)
人間的特性
公共的(組織・集団)
個性的(歴史的な個性)
第4章.第2節に述べた、 「絶対的限界」 と 「相対的限界」 という概念から思考したもの
で、従来の危機管理はいずれも 【元に戻る】 ことを前提としています。新たな提起では、
【元に戻らない】 絶対的限界を意識付づけることにより、緊急度に応じた時間的差異が生じ
ます。その許容時間により、判断と対処の内容や手法が変わってゆくのです。戦場や大規
模災害等におけるトリアージ(triage:優先度を決定して選別)は、すでに救命救急現場で活用
されています。この場合、元に戻らない(例えば:死亡) 場合は後回しにされ、元に戻る(例え
ば:生存)方が優先されますが、原子力発電所事故のメルトダウンの場合には、元に戻らなく
ても最優先させなければ、より大きな被災となり生命の危機がより拡散してしまいます。
危機管理者は危機事象のリスクとクライシスの区別を真っ先に判断すべきで、その直観力
や経験、論理的洞察力が求められます。クライシスは限られた時限内に判断し、対処しなけ
れば、もう元へと戻れない一方向的緊急性があります。判断が遅れるほどに、災害は拡大し
ます。もう元へは戻れない限界点を超えてしまうため、その時限、その事象における最高意
思決定が必要で、この責務と権限の委任は出来ません。
- 139 -
リスクはそれよりも許容される時限の範囲が長く、元の状態へ戻れる領域にあるため、判
断に必要な双方向的思考が許されます。相対的限界を超えても、復興や復元、補償等で元
の状態に近づけることが可能なことを見究めます。それゆえ、リスク・マネジメントでは段階的
に管理者を定め、段階的、組織的に責務と権限を委任することが出来るのです。行政を担う
官僚組織は、その代表例であります。第4章で判断と責任の限界を述べましたが、クライシ
ス・マネジメントやリスク・マネジメントにおいても、 「絶対的限界」 と 「相対的限界」 を日常
的に意識し、訓練することにより、様々な危機に対して咄嗟の適切な判断ができるようになる
のです。
第2章でヒマラヤ遭難体験例を述べましたが、日常生活において危機への意識付と訓練
は、いざ危機の中に入ったっ場合でも、一瞬とまどった後に、すぐさま冷静な対処を可能とし
た経験を記したものです。トップ・リーダーは常に、重大で緊急度の高いクライシス・マネジメ
ントへの意識づけと、危機をも受容する心の訓練が不可欠なのです。トップ・リーダーは、ク
ライシス・マネジメントの責任と決断から 【逃げないで受け止める心】 が不可欠です。
日常社会においてはリスク・マネジメント領域がほとんどで、クライシス・マネジメントは稀と
なります。そのことは、日常領域における危機管理をリスク・マネジメントとし、非日常領域に
おける危機管理をクライシス・マネジメントに分けてみると、より理解しやすくなるのでしょう。
この二つの概念を明確に分け、意識付けと準備を整えることにより、危険や危機に立ち向か
うリーダー判断がより的確におこなえる経験は、第2章のヒマラヤ遭難体験で実感したところ
です。要素や規模によりその対処法は異なり、マネジメントの構造も、地球規模~国家規模
~地域規模~特定組織内規模~小規模~個人規模と異なります。しかしその本質的危機
特性は同類であり、リーダー意識の本質も同類となります。現代のグローバリゼイションは地
球規模で展開されており、自由意思にもとづく自由競争社会は、そのリスク・マネジメントやク
ライシス・マネジメントにおいても、自己負担、自己責任を旨とし、それぞれの領域における
主体者が負うことになります。
- 140 -
- 141 -
第4章. 「失敗に学ぶ」 で述べましたよう、ヒューマンエラーにおけるリーダーの立ち位置
が現場にあるか、現場以外にあるかにより、リーダーシップ不在のケースを生じます。山岳遭
難の場合、トップ・リーダーを含め全員が現場にいる場合がほとんどで、リーダーが被災者に
なると、リーダーシップの不在が生じます。
3.11 福島第一原子力発電所事故においても、管直人総理大臣(当時)が現場へ乗り込み、
指揮を執りました。もしその時、原子炉のメルトダウンから原子炉爆発が生じた場合、どうなる
でしょうか。総理大臣が欠けた場合には、副総理⇒官房長官等の委譲順位は定められてい
るようですが、国政の最高責任者としては危機現場へ乗り込むべきではありませんでした。
一方、政府等組織形リーダーシップは組織の指揮命令系統構造によっておこなわれるの
で、遅滞、歪曲、漏れ、妨害、遮断等の情報伝達不備を招きやすい。そのことはリーダーシ
ップ欠如と同等な障害となります。リーダーへの判断材料が提供されず、リーダーの判断が
伝達されず、 「取り返しがつかない状況を招く」 可能性を秘めています。一生に一度、起こ
るか起こらない大きな危機に対し、組織型訓練は十分とは云えません。それら危機のレベル
や範囲とともに、組織から個人までを対象とする様々な分野、領域での危機管理マネジメン
トが設定されるにしても、その運用上のトラブルまでは読み込めないものです。
現代社会は文明進歩に伴う人工都市社会が肥大化し、総合的・統括的に全てを把握で
きなくなり、価値判断の質の低下を招いています。そのことはさらに、 「総合人間力」 の低
下をもたらせることになります。文明肥大社会はそのマネジメントを、組織分散しなければ対
応できなくなりました。トップ・マネジメントに 「神」 を利用することは、もはや現代社会にお
いて出来ないのです(「神は死んだ」 : ニーチェ)。万能ではない人間の、「個の限界」 を見据
えなければならない現代社会において、トップ・リーダーの 「総合人間力」 は益々重要な
役割を担ってきました。その見識、覚悟、決断力は、文明と文化の歴史を踏まえた、理性の
明晰さと感性の多様性を含んだ 【総合人間力】 が求められます。リーダーシップの決断を
伝える言葉や文章には、人類へのメッセージ性が反映されていなければなりません。しかし
現実には、そのような 「人間」 が存在しない事実もまた理解しておかなければなりません。
- 142 -
2.ク ラ イ シ ス ・ マ ネ ジ メ ン ト
クライシス・マネジメントは、ある危機状態が元の状態へと戻らず、新たな事象へと展開さ
れる限界点、絶対的限界領域における危機管理マネジメントとなります。それは日常領域か
ら非日常領域へ移行する分界点であり、極めて重大かつ迅速な判断が求められます。国家
が戦争へ突入することや空想的地球防衛、軍事侵略や放射線被曝、大規模災害等が思い
浮かびます。山岳としては遭難死亡事故等、生命を失う危機はクライシス・マネジメント分野
となります。非常時における抑止や防衛、反撃から攻撃、制圧の手段には、軍隊を動員する
組織的クライシス・マネジメントがあります。いずれの場合も対処出来なければ、国家や地域
は破壊や崩壊、消滅となり、人々は多くの生命を失う絶対的限界領域に至ります。
クライシス・マネジメントは、危機が進行する中で絶対的限界点へ至る手前での判断・対
応となります。また、防ぎようのない大規模自然災害においては、事後処理の判断・対処とな
ります。それら事象は絶対的限界を過ぎると変形・変質し、もう元へは戻れません。この日常
から非日常的状態へと移行するクライシス・マネジメントは、トップ・リーダーの責務です。
2011 年 3 月 11 日発生、東日本大震災における広域地震大津波被害と、東京電力㈱福
島第一原子力発電所災害は、一首長、一株式会社社長の判断領域を遥かに超える甚大な
被災と、復旧、復興、廃棄には長い年月をもたらせる非日常事態となりました。国家行政トッ
プ・リーダー(首相) は、その非日常事態を掌握直後から、国家レベルの自然災害対処と文
明危機であることを即時に理解、判断出来なければなりませんでした。トップ・リーダーの役
割はまず、事態の限界を把握し、クライシス・マネジメントとなるか、リスク・マネジメントとなる
か即座に判断することにあります。トップ・リーダーはこの大災害をクライシスと判断し、最悪
事態対処への覚悟を決めるとともに、優先順位(Priority)に基づく大きな対処方針と、抜本
的対策への実行指示となります。
東日本大震災は、改めて自然災害の破壊力の大きさとともに、人が容易に制御できない
原子力活用文明の恐怖を、一瞬の間に現実の一大危機として晒してくれました。とくに原発
- 143 -
事故を机上のリスク・マネジメントで整備せざるをえない自治体や電力会社(原子力発電事業
者)、原子力安全保安委員会等は、想定領域をはるかに超え、人類危機レベルでのクライシ
ス・マネジメント意識が備わっていませんでした。メルトダウンによる格納容器の破壊と放射
性物質の飛散は、国内のみならず地球規模での核汚染による生命、財産、主権を脅かしま
す。この事態の終息は、何よりからも優先する緊急性をともなっています。一原子力発電事
業者(東京電力)、日本国内だけの問題では収まらず、世界へと波及する人類の危機となりま
す。現在の原子力事故終息技術においては、世界の英知を結集しなければならない未経
験な科学技術の領域にあるとされます。
国家規模における原子力事業マネジメントは法制化され、その権限と責任範囲、運用を
法に基づき、委任の組織化がされています。しかし 「元に戻らないクライシス」 と 「元に戻
すリスク」 の峻別概念はなく、緊急事態や非常事態の定義概念もなく、トップ・リーダー(主務
大臣)の 「意識」 に係るばかりの法体系となっています。
以下に関連法規を検証してみましょう。
1)
災害対策基本法
第2条は 【災害】 【防災】 その他の定義を定め、第3条以降では各々の責務が決められ
ています。その所掌事務機関として第 11 条以降 【中央防災会議】 等を定めます。中央防
災会議の会長は内閣総理大臣が当り、防災担当大臣以下、各委員によって構成されます。
国に準じ、地方防災会議も同様に組織されます。第三節では非常災害対策本部及び緊急
対策本部として、第 24 条以降、設置、組織、所掌事務、権限と委任等を定めています。そし
て同 24 条の中で 「非常災害が発生した場合において、内閣総理大臣は臨時に内閣府に
非常災害対策本部を設置することができる」 ようになっています。さらに第 25 条により非常
災害対策本部を組織し、その本部長は国務大臣があたるとしています。
しかし 【非常災害】 という言葉の定義はなく、非常災害と認定する者が誰であるか、法文
上の定めはありません。その任に当たるのが内閣総理大臣であろうことは、第 24 条を読めば
- 144 -
推定できます。つまり非常災害の認定は内閣総理大臣(トップ・リダー)の意識に係ることにな
ります。
同様に 【災害緊急事態】 の言葉の定義もなく、第 11 条によって内閣総理大臣は災害緊
急事態の布告について中央防災会議(会長は内閣総理大臣)へ諮問することになっています。
【災害緊急事態の布告】 は第 105 条に定めており、閣議を経て布告し、緊急災害対策本部
を設置します。災害応急対策は第五章、第 50 条以降で細かに規定していますが、動くのは
市町村、都道府県、各種行政機関、地方公共団体等であります。
以上のことから、 【非常災害】 や 【災害緊急事態の布告】 【激甚災害】 というクライシス
の判断は、一重に 【内閣総理大臣の意識】 に係っているということになり、その判断基準、
概念は示されていません。
ここに、クライシスとリスクを分ける考えを導入し、 「国家的クライシス・マネジメント」 の責
任者は内閣総理大臣とし、 「国家的リスク・マネジメント」 は内閣総理大臣からの委任により、
その責任者を担当国務大臣と明文化することを提起するものです。 「国家的クライシスの判
断」 は、当然に内閣総理大臣の専権事項であるはずです。それにより現行法体系は変わっ
てきますが、ここでは新たな法律の論考をおこなうものではありません。
2)原子力災害対策特別措置法
第1条は 【原子力緊急事態宣言の発出】 、 【原子力災害対策本部の設置】 、 【緊急
事態応急対策の実施】 等をもって、原子力災害から国民の生命、身体及び財産保護を目
的と定めています。同法第三章において 「原子力緊急事態宣言の発出及び原子力災害対
策本部の設置等」 、危機管理マネジメントを定めます。第 15 条で原子力緊急事態発生の
確認は主務大臣がおこない、直ちに内閣総理大臣へと報告。内閣総理大臣は直ちに 「原
子力緊急事態宣言」 を発し、以下を公示する。さらに閣議決定を経 【原子力災害対策本
部】 を内閣府に設置し、内閣総理大臣が本部長となって対策に当たります。原子力災害対
策本部員には、内閣総理大臣から任命された国務大臣や指定行政機関の長、内閣危機管
- 145 -
理監により組織され、危機管理マネジメントを掌握します。
一 緊急事態応急対策を実施すべき区域
二 原子力緊急事態の概要
三 区域内の様々な居住者に対して周知させるべき事項
次に内閣総理大臣は当該区域首長に対し、緊急事態応急対策事項(立退き避難、屋内避
難等) の勧告や指示をおこないます。緊急事態が収束されると 「原子力緊急事態解除宣
言」 を公示します。
原子力緊急事態応急対策の実施は、原子力事業者が当ります。同法第四章において
「緊急事態応急対策の実施等」 により、第 25 条、26 条に内容を規程しています。原子力事
業者の責務は第 3 条に定められ、第 4 条の国の責務よりも前にあります。原子力事業者の優
位性は、原子核制御技術及び廃棄物処理等の現代文明未解決部門を運用していることに
より、高度な専門性を有していることによるからでしょう。軍事同様、シビリアン・コントロール
が難しい部門であります。
しかし原子力の危機は放射能汚染物質が拡散すると、世界・人類の問題ともなります。原
子力専門家と国内法だけの問題でないことは、いまだ核燃料取り出しができず、廃棄作業
に移行できない福島第一原子力発電所事故とその経過が物語っています。世界の英知、
技術を結集し、最短期間をもって終息させなければなりません。
このクライシス・マネジメントこそが、内閣総理大臣の主務なのであります。
3)
有事法制
【有事】 とは、他国が日本の制空権、制海権を確保した上で地上軍を日本本土に上陸侵
攻することをいいます。軍事侵略に対応する国家防衛の場合をいい、大規模災害への対処
ではありません。また東日本大震災は、広域自然災害と原子力発電事故放射能汚染災害
の非常時とはいえ、憲法の枠組みを超える非常事態宣言や戒厳令の発布となる、国家緊急
権を発動する性質のものではありません。放射能汚染の拡散が国内規模で収まらない状況
- 146 -
となれば、前記に等しい非常事態宣言も考慮しなければなりません。
4)
憲
法
第 13 条には 「個人の尊重・幸福追求権と公共の福祉に反しない限り」 という定めがあり
ます。行政権執行に伴う公共と個人との乖離は、いつの時代、いつの危機事態にも生じま
す。執行する側の平等さと、受ける側の個人差との乖離は、これまでどこの国、どんな政治
体制においても、解消されていません。現代の日本は、その乖離が最も少ない部類の国に
あると思われます。
国家レベルの 「クライシス・マネジメント」 におけるトップ・リーダーの役割は、時代の文明
を背景として、文化的価値の統合をもった大局観を示し、公共の福祉の中に個人の権利を
位置付け、説得することにあると考えます。その歴史的価値基準を踏まえ、大局からの判断
を世界へ示し、国民へ説明・説得させるのが、トップ・リーダーの役割となるはずです。
5)
その他
内閣の職務、権限等は、憲法第 5 章(第 65 条~第 75 条)に定められ、内閣法第 1 条に
は職権、内閣法第 2 条には行政権行使にともなう国会への連帯責任をもっておこなわれま
す。しかし、平常時、非常時、を区別する概念は導入されていません。非常時における内閣
総理大臣の 「クライシス・マネジメント」 に類する危機管理職務の定めは、自衛隊法第 7 条
に自衛隊の指揮監督権が定められ、警察法第 6 章(71 条~74 条)に警察の緊急事態の特
別措置が定められています。
大規模災害に対し、アメリカのFEMA(Federal Emergency Management Agency of the
United States:アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁)のような、天災や人災に独立して対処でき
る国家組織は、日本にありません。
国家として対応しなければならない 「クライシス・マネジメント」 の領域において、3.11 東
日本大震災の菅首相を初めとした日本国政府危機管理者の対策は、後手に回っていると
- 147 -
マスコミを中心に、国会でも批判に晒されました。我々が報道から得る政府の危機管理情報
は、確かに為政者(リーダー)の認識の甘さと、腹が据わらぬ決断の曖昧さを露呈しています。
危機管理部署が乱立し、対策は二転三転する。リーダーシップの混乱や不在は災害対処の
遅滞を招き、時を失い、二次災害を誘引します。
3.11 東日本大震災は、誰が為政者であっても容易に収束できる事態にはなく、極めて困
難な判断に迫られていることは確かでした。戦争には指導者対指導者の戦略的駆け引きが
あり、敵味方の相対的判断を読み合うことが不可欠です。しかし自然災害・文明災害におい
ての対策・対処は、絶対的限界点を見据えた優先順位(Priority)の判断となります。敵対す
る相手との駆け引きではありませんから、判断は難しくありません。地球や国土を守るか、国
民の生命・財産を守るか、為政者の名誉を守るか、状況における絶対的限界点を把握でき
れば、判断の目的は単純化されます。その時優先順位(Priority)を決める人間力が不足して
いると、その判断は難しくなるのです。つまりは、人間力が必要なのです。
「クライシス・マネジメント」 よりも判断に困るのは、相対的限界領域における 「リスク・マネ
ジメント」 です。様々な領域において情報が混乱し、状況把握は勿論のこと、判断基準や指
揮・指令もあいまいとなりやすい。判断の基準価値も多様となり、それらに係るリスク調整は
容易でありません。しかし限界点までにはまだ余裕があるのだから、冷静に優先順位を考慮
して対処できるはずです。しかし現実の切羽詰まった危機状況を目にすれば、過大なプレッ
シャーがのしかかり、冷静でいられないのが普通です。この心理的な初期問題に対し、山岳
危機体験は心に少しのゆとりを与えてくれます。経験の蓄積は、腹を据えるのに時間をかけ
ません。要は腹を据え、覚悟を決め、無私な心境に、素早くなれることにあります。
トップ・リーダーはまず、予見を持たずに全てを受容する心の在り方が肝要です。次にこ
の危機が、 「クライシス」 か 「リスク」 かを即座に判断する能力です。例え 「クライシス」 で
あっても訓練していれば、一瞬の動揺の後にすぐに心の落ち着きを確保できるものです。第
2章.ヒマラヤ遭難体験で、私はそのことを実感しました。
危機でありながら危機でないと最初から予断することは、以後の対処を誤った方向へ導き
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ます。その予断は、危機の実態を自己の解釈に都合良い部分だけを拾い上げて構成し、全
体像を見失わせてしまう恐れがあります。事態の真実全てに目や耳をふさぎ、危機の本質を
歪曲させてしまうのです。それゆえ、予断の思惑と異なった危機があることへの気づきを遅ら
せ、結果に過ちを生じる場合が多いのです。相対的限界領域においては、特にこの予断が
介入しやすいのですが、絶対的限界領域では予断の介入余地などありようもない、客観的
な限界事象が相手ですから、成すべきことは容易に決まります。
福島第一原子力発電所災害初動における首相や官房長官発言からは、「予断」 の特徴
を多く見受けることができました。特に枝野官房長官発言は、予断の先走りと、容易に見破ら
れる実証力不足は、国民をさらなる不安に陥れてしまう効果がありました。国民に不安を与
えたくない予断の意図は理解しますが、説明の言葉にともなう人間力不足は否めません。
内閣官房長官は内閣事項の総括事務(内閣法第 12 条、第 13 条)を担う代表者であり、
総理大臣に代って内閣の公式見解を国民に向けて発信します。枝野官房長官は弁護士出
身であり、その発言には言質を取られぬよう、慎重に言葉を選んでいたよう見受けます。内
閣の職務は憲法第 73 条に定められ、法律の執行に当たる行政事務を総括している国家権
力の執行者です。内閣のスポークスマンたる官房長官の発言、その言葉にこそ言質を与え
て国民に説明し、その言葉の責任を負うことこそが内閣の職務と私は考えるのです。内閣の
発言に言質を与えると国会で上げ足をとられ、足元を掬われるから、それを避けるために言
質(責任)を伴わない言葉で説明する。もしこの推論が真実であるならば、内閣も国会も、何
と本末転倒していることでしょう。
リーダーの人間力はテレビ画面に映し出され、経験を経た者には一目で見破られるもの
です。今や昔の人となったマクルーハンは、テレビをクール・メディアと位置付けていました。
視聴者は冷静(クール)な立場で見ていることを指摘した言葉です。他方でホット・メディアは
ラジオであり、それを意識的に利用し、ナチス・ドイツ統合に役立てたのがヒットラーであった
と云います。
リーダー自身の経験がなくても、絶えざる日常の危機管理意識を磨くことにより、判断力、
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決断の時を察知する洞察力は磨かれます。冒険者、探検者、研究者、その他前例なき事象
に挑戦する人々は、未体験な不安をバネに絶えず危機管理意識を磨いている人達です。
「クライシス・マネジメント」 は百態百様、リーダー自らが意識し、対処すべき特性をもってい
ます。トップ・リーダーの弁解は危機に際して不要であり、危機の全てを責務とし受容してこ
そ、その責務が果たせるのです。そして出来ること、出来ないこと、を冷静に理性の下で判
断し、対処することにあります。出来ないことを出来ると言って空手形を切ることは、その場し
のぎでしかありません。後の結果を、さらなる不幸に陥れてしまう可能性が多いのです。その
ような対応が、未熟な民主党政権の落とし穴となりました。
原子力発電技術は、未だ人類が制御できない部分をともなった、未完成技術であることを
踏まえれば、政府は原子力事業者(東京電力)まかせではなく、人類文明の課題として、地球
規模プロジェクトで取り組む危機と受け止めなければなりません。政府には、対応を主導す
べきトップ・リーダーの決断と、意志伝達、何を目指すかという 「確かなメッセージ性」 が欠
けていました。政府(官房長官)から発信する言葉は多いのですが、言質を与えない弁解と映
り、いずれも国民にとっては政治家への信頼を失わせるものでした。
被災者は突然、肉親の死、恋人・友達・友人・隣人、その他多くの人々の死を見送りまし
た。思ってもみなかった非日常環境の中に閉じ込められ、一瞬にしてあらゆる生活基盤を失
ってしまった。生命維持に不可欠な衣食住、とりわけ食料、水、仮住い、情報は不可欠となり
ます。次に生活の持続と改善を図るためのライフライン(給排水、電気、ガス、情報)と医(医療)、
職(仕事)、住(住まい)、育(子供の教育)が欠かせません。それら非日常環境から日常環境へ
といかに短い期間で戻れるかが、復興の努力過程となります。そこには努力する意志ととも
に、より効果的なマネジメントが必要です。マネジメントをより有効に機能させる役割は、リー
ダーシップの存在と行政組織機能の円滑な運用にあります。その面からも、菅直人首相を
始めとした民主党政府首脳のリーダーシップが国会において問題視され、6 月 2 日の内閣
不信任決議案の採決(結果:否決)となりました。
原子力発電を推進してきた日本のエネルギー政策、環境政策の可否が浮き彫りとなり、
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再生可能エネルギーの活用と省エネルギー技術をより一層活用すべく、政策は方向転換を
図ることになります。最も有効な決断は、発電能力の限界を知り電気に頼り過ぎないことです。
発電能力に応じた節度ある電力使用、つまり 【節電と省エネルギー】 です。エネルギー多
消費文明に対し、環境バランスを図る文化の力を発揮すべき 21 世紀です。
※ 再生可能エネルギー : ①地熱エネルギー【地熱発電、地熱利用】、中小水力
発電 ②自然エネルギー【太陽光発電、太陽熱利用、風力発電、バイオマス・
エネルギー(発電、直接利用)、温度差エネルギー(氷雪利用)】 ③廃棄物エネ
ルギー 【ゴミ発電、黒液・廃材利用】
【電気エネルギーに関するコメント挿入】
私は電気設計技術者でもあることから、2004 年の日本山岳文化学会第2回大会において
「太陽光・風力発電と発光ダイオード照明による環境技術」 を発表しました。論旨、【太陽
光・風力発電と LED 照明は山岳地帯や第三世界などのインフラ整備に有効であり、配電網
が整備された都市環境では LED 照明等の省エネ効果が有効となる。このように環境に適し
た技術の使い分けが必要】 であることを述べました。
口演では 1990 年~2010 年までの日本のエネルギー概要をまとめ、現状の技術からする
と自然エネルギー(太陽光発電、風力発電、バイオマス発電)は蓄えるのではなく、配電線へ系
統連系(発電電力を配電線に供給)させるのが最良の方法であることを示しました。太陽光・風
力発電は原理的には良いのですがエネルギー密度が低く(取り出せる電力が少ない)、現状技
術ではその発電エネルギーよりも施設建設維持エネルギーの方が上回り、総合的には他の
発電エネルギーの負荷となってしまいます。自立型エネルギーでないことを、概略計算で示
しました。自然エネルギー変換技術の一大進化か、革新的エネルギーが発見されない限り、
小規模な再生可能エネルギー 【新エネルギー(自然エネルギー、廃棄物エネルギー)、地熱エ
ネルギー、中・小水力発電】 を含め、系統連系により集積利用せざるを得ません。また、発
電量が不安定な自然エネルギー利用においては、蓄電装置と組み合わせすることが良いの
ですが、それに適した蓄電装置がまだありません。その候補として電気二重層が大容量化さ
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れていますが、まだ大規模施設に実用的でないこと等を説明しました。
原子力発電は運転中における二酸化炭素(CO2)発生が少なく、2002 年の政府決定によ
る 「地球温暖化対策推進大綱」 では安全性を最優先に利用拡大を認めています。しかし、
施設建設や運転中における安全性の問題、使用済核燃料の処分・再利用問題等、未解決
技術を残したまま実用化を先行させています。また、使用済み核燃料の原子爆弾への転用
や核ジャック等、地球規模での安全保障問題も残されています。
地球を照らす太陽光は、高温重水素のプラズマ状態における原子核融合による放射熱
エネルギーの一種です。その原理を地球上で再現しようとする試みが 「核融合発電所」 と
なります。海中に膨大にある重水素と、トリチウムの原料となるリチウムは、南米、北米に大量
に存在し、海中からも採取できると云います。
しかしいずれも、熱エネルギーから電気エネルギーに変換させる効率は 30~40%程度と
なり、60~70%の排熱をともなうこととなります。この排熱を海へ流すことにより、海水温の上
昇、海流の変化を生じ、地球気候変動の一因であることの指摘は、東京大学名誉教授・中
村純二博士の指摘です(2013.11 日本山岳文化学会、大会発表)。排熱を再活用し、地域冷暖
房や温水に利用できますが、放射能汚染水は別で、膨大な放射能除去装置を要します。火
力発電と排熱再利用システムは 「コージェネレーション・システム」 と呼ばれ、エネルギー
利用効率は 80%台に及びます。その原型は船舶にあり、推進力機関、発電、蒸気、温水等、
最大限熱エネルギー利用を果しています。
地球文明活動による人工発熱が、太陽光エネルギーに比べて無視できない量に至ると、
太陽系における地球の熱収支が崩れ、地球環境を人為的に変化させることになります。この
ことはすでに、 「地球温暖化」 として気候変動諸現象は現実のものとなり、人々はそれなり
の体験を経て実感するところにいます。それゆえ核融合発電所を実用化させ、人工太陽が
地球に出来たとしても、次なる気候変動に人類がどのように対応・進化し続けるかが問われ
ています。気候変動を人為的に招く文明活動に対し、以下三つの対応が考えられます。
① 気候変動を最小化すべく文明活動を抑制、制御する。(文化力)
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② 気候変動を受け入れ、文明力の進化で適応を図る。(文明力)
③ 適応できず、人類が滅びる。
現代は二酸化炭素削減等、上記①の抑制、制御で対応することが世界の潮流となってい
ますが、人類の欲望は果たして抑制、制御の限界を保つ理性で、抑えることができるでしょう
か。本論の主張でもありますが、「失って、始めて分かる人間の愚かさ」 から考えますと、
「人類は滅亡してみないと分からない、人類の愚かさ」 となります。しかしそれでは【The
end 】 。滅亡する前に 「人類のクライシス・マネジメント」 が必要なのです。
私は電気技術者として、山岳文化環境論からエネルギーを無意識、無制限に使用する現
在の文明社会志向を批判してきました。資源と環境の限界を見据えた調和ある文明・文化
社会への意識転換こそが、【 21 世紀人類最大の課題 】 と考えます。これから目指す文明
の方向性は、意識しながら電気を使うことが不可欠です。省エネルギー技術、多様な自然エ
ネルギーのハイブリッド活用と系統連系(スマート・グリッド手法が普及)、一方向に進化する文
明を制御する、 「文化力」 の活用に期待するものです。
文明の大動脈流となる電力エネルギーと、山岳文化との直接的関係はありません。日本
山岳文化学会の主たる興味の中核が 「山岳」 であるため、東京電力㈱OB が多数在籍さ
れる当学会において、原子力発電の是非やエネルギー論争は発生していません。私が問
題としたいことも、電力エネルギー論争ではありません。大自然の中で人為活動している山
岳人の 「文化意識」 から、電力エネルギーを歯止めなく使用し続ける現代文明と文化社会
の在り方に対し、子や孫へ引き継ぐ 21 世紀の新たな方向性を提起したところです。
福島第一原子力発電所災害直後、東京電力㈱は計画停電を実施しました。ある地域が
一斉に電気を遮断された影響は、現代の文化生活がいかに電気に依存していたかを国民
に知らしめました。このことは、「失って、始めて分かる人間の愚かさ」 をまさに体験し、電気
の存在を再認識したことにあります。その詳細はここに書き記すまでもなく、カルチャー・ショ
ックの一面や、緊急電源遮断による生命維持装置の危機にまで及んでいます。日常に満ち
溢れている当たり前で気づかない存在(ライフライン他)が、いかに大事な役割を担っていたか、
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改めて認識され直します。仔細な気づきは、古来日本文化の感性だったはずです。
山岳体験は、日常生活の中での非日常体験にその特徴を見いだせます。登山行為は物
質的生産がなく、消費一辺倒です。文明が生産した衣食住を身に携え、天に向かってひた
すら苦痛に耐えて登るばかり。そのことに喜びを感じ(自然な欲求) 、再び意図して試みます
(意識的欲望)。繰り返すことの中から課題を見出し、その課題は 「文化の力」 へと化してゆ
きます。 「文化の力」 は最初に形あるものから、次第に形のない意識(心)の世界へと変遷
してゆきます。形と意識が調和するとき、心技体のバランスがとれた快適状態へと至ります。
一つの小さな宇宙の誕生です。酸素も薄くなる高峰での自然対峙を経てみると、日常の当
たり前で気づかなかった諸々に、改めてその大切さを気づかされます。その全てを自己の中
に受け入れてみると、 「受容の心」 が育まれるのです。
しかし 「受容の心」 だけでは、大震災被災者の復興に何の役にも立ちません。山岳体験
の非日常性を日常社会へアピールしても、満ちた文明社会の中ではただ通り過ぎるだけで、
定着に至りません。やはり 「大切なものを失って気づく、人間の愚かさ」 は、ここにもありま
す。では、山岳体験から大震災被災者へのカウンセリングは可能でしょうか・・・?
しかしそのことよりも被災者は、一刻も早く避難生活からの脱却(復旧)と、復興への歩みを
始める、生存の必要条件確保が先決ではないかと推察するのです。生活の必要条件となる
文明が確保され、生存の十分条件となる文化は、文明の後(位相の遅れ)から補完されます。
さらにその上(3 次元)に、理性と心の領域となる意識の世界、抽象の虚な社会が現れます。
もはやその領域は、電気技術者から離れます。
【コメント終了】
地球環境保全はリスクもクライシスも含まれます。地球温暖化防止対策については、これ
までの文明史を踏まえた、先進国と発展途上国との間で意思統合ができません。過去を斟
酌した公平を図り清算を第一とするか、過去は消去し未来へ向けた現在の公平から開始す
るか、過去を踏まえつつ未来に対する新たな公共(Commons)への意思統合は、交渉の入
口条件整備でさえ調整は困難です。しかし今や地球環境を論議するとき、第一に問題とす
べきは 「人類欲望の抑制(文化価値)」 についてです。新たな公共(Commons)を指向し、人
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類の欲望は無制限な自由競争でなく、人類存続の為に公知をもって個の権利は抑制され
なければならなりません。その為には、環境を共有する中でのリーダーを必要とし、公知を
語り、個を説得できるリーダーシップが不可欠となります。
問題はその歴史的背景をいかに正しくトップ・リーダーが認識するかです。危機の経験を
重ねることは不幸な事態ですが、平時においてこそ危機管理意識を高め、訓練やシュミレイ
ションを重ねておくことが、いざという時の危機管理に役立ちます。トップ・リーダーにとって
は、イメージトレーニングが大切です。アメリカ大統領が核弾頭の発射ボタンを常に保有管
理するように、平時においても国家的危機管理意識はトップ・リーダーに不可欠となります。
その意識による自己練磨は、緊急かつ非常時に冷静な対応を可能とする、唯一の道となり
ます。クライシスを想定したマネジメントこそが、トップ・リーダーたる役割と考えるのです。
それゆえ、トップ・リーダーの判断はどこが 「絶対的限界」 なのか、どこまでが 「相対的
限界」 なのかを常々考え、迅速に見究めることにあります。それ以降の対応は、それぞれ必
要とする組織的役割を設け、各々担当が受け持ちます。トップ・リーダーが目的実現を目指
す背景には、この 「クライシス・マネジメント」 の意識を平時から常態化しておく緊張が重要
であります。いつ起こるかわからない自然災害等に備えるには、リーダーの人間力による即
時的 「クライシス・マネジメント」 に大きく左右されます。
戦後半世紀以上を経た今の日本社会においては、三世代目の交代期となり、広島・長崎
の原爆被災体験も、語り部が極めて少なくなりました。日米安全保障条約や北方・南方・竹
島の領土問題等も、頭の中の観念論に収縮しつつあります。ジョセフ・キャロン元駐日カナ
ダ大使は、「グローバル化した世界の中で、今や国境は頭の中にあり、地理的に国境線を変
えるのではなく、変えるべきは感性にある。(2014.04.03 朝日新聞)」 と述べるよう、平面二
次元で考えていた地政学的世界は、まさに見えない意識の中、抽象の世界、虚な社会(第6
章.人の意識・文明・文化=環境の複素な世界構造)を加えて理解しなければ、再び戦火を交え
ることになってしまいます。虚な社会に国境はなく、人類みなひとしく対等になれるのです。
地球環境問題は統計数値から帰納するシュミレイション・モデルをよりどころとし、生活体
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験から演繹される提言や生活実感とかけ離れたコンピュータグラフィック化しています。太平
の世が続き、何事もなかったような日本国民の無意識を、かの東日本大震災は一挙に露呈
させてくれました。他方では静かで粘り強い東北人被災者の特性や、国民支援の輪や絆の
連帯意識が即座に広がりを見せました。国政のリーダーシップ不備を、国民のメンバーシッ
プが補ったとも言えましょう。近年のグローバリゼイションによる所得格差ほど国民意識の格
差は少なく、日本国民の同質性はまだ残されていることを大災害は証明しています。
ある領域のトップ・リーダーは、常にその領域における 「クライシス・マネジメント」 を心掛
けていなくてはなりません。国家とヒマラヤ登山隊とでは比較すべきスケールが異なりますが、
結果に死を招く 「クライシス・マネジメント」 の質と意識においては、国家も登山隊も同類な
ものと考えます。第2章.に述べた 「ヒマラヤ遭難登山隊長の自省」 では、その時トップ・リ
ーダーとしての 「クライシス・マネジメント」 について述べてみました。スケールこそ異なれ、
トップ・リーダーの意識と判断・責任の重圧は、第2章.にまとめた山岳遭難と事前の準備で
体験したところです。山岳遭難に備えるべくリーダーの資質は、広義なトップ・リーダーに通
じるものがあります。 「クライシス・マネジメント」 は画一的、マニュアル通りにゆきません。ト
ップ・リーダーの日常意識と人間力が発揮され、危機に面した対処の結末を分けます。
3.リ ス ク ・ マ ネ ジ メ ン ト
「リスク・マネジメント」 は、まず想定される危機の事態を把握し、その発生頻度と影響度を
評価し、いかに避けられるか、いかに被害を最小限に抑制できるか、いかに復元復興できる
か等、予防回避措置と復元回復対策との相対的比較検証考査プロセスでの判断となります。
想定される危機の結果と対策を把握し、相対的限界領域事象を比較検証しながら、相対的
バランスを図ることへのマネジメントとなります。また、 「リスク・マネジメント」 の領域を超えて
しまう復元不可能となる場合には、前記の 「クライシス・マネジメント」 となります。
- 156 -
日常的なリスク・マネジメント業務には生命保険、損害保険、賠償保険、貸借担保融資な
どの金融面や警察、消防、救急、防衛等の緊急措置対応があります。日常生活において常
に発生する 「リスク・マネジメント」 は、社会機構や社会制度に組込まれます。生命、財産を
脅かされる緊急措置には警察、消防、救急医療等、社会の公共機関が対応。リスクに対す
る経済的担保には各種保険があり、個人や法人等の危機意識と負担能力に応じた任意加
入が原則にあり、一方では薄く広く負担し合う公的制度もあります。これらのリスクは発生頻
度が高いがゆえに社会制度化されており、クライシスへの扱いとは異なってきます。
これら 「リスク・マネジメント」 は第4章の 「相対的限界」 の領域内にあり、生命、財産の
喪失を除けば、自己の責任と負担能力に相対的に依存する、自己判断領域にあります。事
前に予測・想定・投資を促し、予防、対策を図ることです。 「リスク・マネジメント」 ではそれら
の手順を定め、設計し、訓練や警告によって危険や危機に備えます。危機を乗り越える対
処により、もっと良い事態へ改善するか、もっと悪い事態へ進行するか、取り巻く環境におけ
る相対的限界領域において、各々の判断となります。このメリットとデメリットとの相対性の中
から、いかにデメリットを抑制してメリットを引き出すかというマネジメントは、 「相対的限界領
域内」 においての判断です。このマネジメントは、 「クライシス」 に至らぬ判断の先の、主
観的に感ずる限界領域までを対象とします。人が主観的に感ずる限界観にはまだ余裕が含
まれており、絶対的・客観的限界へ至るまでには、およそ 1/3 程度の余力を残しています。
それゆえ、 「リスク・マネジメント」 は主体的作為をおこなう全ての人々の判断意識の最初に
あり、別な表現では損得・利害・得失の計算・打算でもあります。このことは、誰でも普通にお
こなう日常的マネジメントで、意識しておこなうか、無意識のうちにおこなうか、様々です。こ
のように 「リスク・マネジメント」 はリスクの内容をを分析し、シュミレーション(損得勘定)をおこ
ないます。その手法モデルを提供するのが、乱数、確率、行列、サンプリング、検定等の統
計数学です。コンピュータソフトの EXCEL は、その計算を容易にしてくれます。しかし、リス
ク・マネジメントの分類や対処手法等は、論旨から外れるので省略とします。
必然性が高い日常性危機管理に対し、任意性が高い山岳遭難危機管理はどのような役
- 157 -
割を担うことが出来るだろうかという点から、以下論考を進めます。
日常性の危機管理と山岳遭難危機管理とでは、その本質を異にします。任意活動である
山岳遭難危機管理は、自己責任、自己負担が基本原則です。一方、日常生活にともなう危
機管理においては、必ずしも自己責任、自己負担の基本原則が相当とは限りません。日常
の社会生活の中においては、病気、事故、事件、火災等、誰にでも起こりうる類似した身辺
危機が様々潜んでいます。それら日常起こりうる身辺危機への対応は、広く浅く人々が支え
合う公的社会制度を確立して、各々が参加をしています。日常の小さな負担を蓄積し、罹災
した者の危機へ充当する相互扶助を社会制度として組み入れるものです。
さらに自然災害や原子力災害、戦争のような、日常生活者の意図しない自然や人為的強
制的罹災をこうむる場合は、社会の総力をもって罹災生活者保護や被災予防、防御対策等
を実施しなけらばなりません。この事態においては、リスクとクライシスが混在してきます。
昨今の山岳遭難においては、警察や消防機関に救助・搬出依頼する場合がほとんどで
す。入山の届け出、救命救急や検死など、法律や条例で定める行為もあり、公共機関の関
与が当たり前と思い込んでいる昨今の登山者像があります。
2011 年 5 月 15 日、山岳漫画映画 「岳(ガク)」 を妻(大学山岳部 OG)と一緒に鑑賞してきま
した。様々なシーンで間違いや不整合を指摘できますが、漫画と割り切ってしまえば、映画
そのものは景色がきれいで面白いものでした。しかし山岳遭難救助が警察行為の正規な業
務と認識されやすいシナリオに、私は危惧を覚えます。 「なぜ山に登るか」 を考え続けた
我々世代の登山行為は、山岳遭難危機管理を公共が負担すべき性質のものとは考えませ
んでした。個々の山行は個別限定的な個人の作為であり、自己負担、自己責任の範疇と考
え、それに対応する山岳人集団をつくって担保していました。遭難者自らが自己避難、自己
脱出、自己遺体搬出できるわけがなく、他者に依存せざるを得ないからです。そこで必要と
なるのが、遭難弱者を補う山岳救助搬送組織ですが、我々の世代は山岳会(部) や同人グ
ループ、同好会等の一次集団をつくり、組合や連盟、協会等のさらなる上位団体組織が形
成されました。今もそれら団体は残されています。山岳人集合の第一義は、同好の仲間集
- 158 -
団における共同行為者(パートナー)の確保と情報交換。第二義は、危機管理と遭難対策相互
扶助であります。しかしこれらのことを見捉えた集団、組織は少なく、第2章で述べた 「山岳
同人風」 の立上げは 1970 年であり、当時からこのことを意識してのことです。
山岳遭難危機管理、その本質は個別限定的な特性(自己責任)を持っているのですが、現
代は広域かつ不特定登山者の増加を対象とすると、仲間や集団による個別対応は不可能と
なっています。インターネットの出会い系サイトで出会うよう、インターネットで山行を呼びか
け、見知らぬ者どうしが駅で出会って合流し、登山に向かうこともあると云う時代になっていま
す。それゆえ個々の 「リスク・マネジメント」 はなく、警察・消防業務に頼らざるを得ないのが
現状となるわけです。このことが常態化し、映画 「岳(ガク)」 が制作、興業されるような文化
内容へと、現代は変わっています。その常態化の中で遭難を引き起こし、救助、搬出が生じ
ると、相応の負担は地方自治体にかかります。その出費は税金でまかなわれ、非納税者(地
域外)たる不特定登山者へ使われることを、納税住民が納得できるものでなくなります。
任意活動の山岳危機管理と、日常的な一般社会の危機管理との相違は、 「遊び(文化)
と業務(文明)」 の蓋然性をもって分けることができましょう。遊びには任意性があり、自己責
任の範疇です。業務には必然性がともない、公共の負担もやむなしでしょう。現代登山は
「遊び」 の分野であり、自己負担、自己責任の基本範疇です。 「遊び(文化)」 は、人がより
よく生きるために必要な、生存の十分条件を満たすものとなります。より良く生きたいがため
の文化行為となります。一方 「業務(文明)」 は、人が生存を続けるに当たっては不可欠なも
のであり、生存の必要条件となる必然性があります。これまでは山岳遭難に公共の税を投入
することに違和感がありましたが、今日の登山ブームから考察すると、もはや山岳の世界は
日常社会の中での非日常世界ではなくなり、日常社会の延長と化してしまいました。山荘は
ホテルのように改修、改築、新築され、個室、風呂、フルコースの食事・・・おもてなし等のサ
ービスを提供しています。それが良い、悪い、の判断を記するのは論旨でありませんが、日
常社会の延長であるならば、警察、消防、行政等、公共機関介入もやむなしです。もはや山
岳は非日常的ロマンの世界ではなく、日常が延長しているリアルの世界として、文化的より
- 159 -
文明的サービスの提供を、金銭の対価を支払って享受する時代なのでしょう。
日本山岳協会や勤労者山岳連盟はかねてからありますが、不特定登山者に対する遭難
救助搬出の力はありません。むしろ山岳漫画映画 「岳(ガク)」 の主人公やヘリコプター・パ
イロットのような人物象を組織化し、危機管理庁(仮定) の下に本格的山岳遭難救助機構を
編成するのも良いと考える今日です。そして登山者は、「登山料」 を支払うのです。さらに検
死業務の緩和や死体運搬等、法令の見直しも必要となることでしょう。
山岳行為は、人が生きるために必需な行為ではなく、よりよく生きたいがための自主行為
と捉えられます。特に山岳行為は日常社会から離れて、非日常な自然領域に分け入る行為
を楽しむことに特徴があり、行為の本質から見る分類では 「遊び(文化)」 の範疇となります。
特に 「登山」 は衣・食・住を背負って(昨今のツアー登山群はそうでなくなった)山を登る行為で
あります。日常社会の中で生み出された衣・食・住を消費する側であり、物質的な生産行為
でありません。若干寄与するものとしては、運動性、防水性、防風性、通気性、耐寒性、軽量
化等々の機能性を生かした素材やデザインへのアドバイスであり、近年は街頭のファッショ
ンに取り入れられています。しかし大災害において緊急に要するのは 「衣・食・住」 であり、
中長期では 「医・職・住・育」 が重要とされます。これらに対して山岳文化は、何が寄与でき
るでしょうか。
もし山岳人が被災者の側であったとすれば、その山岳体験は非日常な災害危機を乗り越
える知恵と忍耐力を確保することができます。山岳の非日常体験は大災害の被災者の現場
にオーバーラップし、非日常での生活技術(衣・食・住)、忍耐力(メンバーシップ)、目的意識(リーダ
ーシップ)を発揮させることも可能です。特に山岳遭難と生還の体験は、被災者へ勇気を伝え
ることができます。しかし被災直後の動揺期において、被災者はまだ聞く耳をもてない混乱
の時節であり、さらなる時を要するでしょう。山岳体験等の非日常体験を日常生活の中に取
り入れ、被災時の非日常事態に備えることは可能ですが、日常に満ち足りた備えなき人々
にとっては、即有効な手立てとは成りえません。なぜなら、人には、失ってみないと気付かな
い愚かさをも併せ持っているからです。
- 160 -
第6章.
中村純二博士の「正・反・合と進化」から考える
2013 年 12 月~2014 年 2 月
1.中 村 博 士 の 正 反 合
2013 年 12 月 16 日、第 1 章 12 節の中村純二先生と奥様から、銀座での個展や先生宅
訪問時の写真とともに、お手紙をいただきました。その末尾に、今夏(2013 年)おこなわれまし
た東京大学山の会・記念祝賀懇親会における、中村先生の乾杯音頭と挨拶文の写し、以下
を内容とした概要説明のお手紙をいただきました。
① 大学山岳部は戦後大きく変わり、「正→反→合」 の 「進化」 をおこない、ようやく
「合」 の立場に達した。
② 今後 「正」 のグループは 「反」 のグループともよく付き合い、ともに 「合」 のグルー
プの成長を見守りたい。
③ ところが 「合」 のグループは大学の授業に熱心で、講義や演習を休んでまでトレー
ニングや合宿に出かけることもなく、個人的にボルダリングで才能を現す学生が出るく
らいである。
「正」 の立場とは、世界の山岳界がエベレストやヒマラヤ 8,000m 峰の初登頂を目指し、
人類として未踏の高みへ到達するような登山様式とされています。
「反」 の立場は初登頂終焉以降、個人の能力や趣好に応じて岩登りやボルダリング、そ
の他様々な関わりで山に入る多様な登山様式とされています。
「合」 の立場とは、 「正・反」 次の世代として生まれた 「新しい世代」 で、 「正・反」
併せ持ち、かつ、旧来に囚われない自由な登山様式とされています。
そして 「進化」 とは、「正 → 反 → 合」 へと移行する様態を示されます。
- 161 -
- 162 -
2.「正・反・合」~ 弁証法からの複合論
哲学的な 【正 反 合】 の考え方は、ヘーゲルによって定式化された弁証法論理の三段
階を示すとされています。
ある判断を定立(正)とし①、それに矛盾する判断を反定立(反)とし②、正反二つの判断
を統合したより高い判断を総合(合)とする③、三段階です(大辞林 : 参照)。 このことは 『論
理的なものの見方』 に、三つの側面があることも示します。
① 抽象的側面あるいは悟性的側面 (定立=思惟の固定した規定性)
② 弁証法的側面あるいは否定的理性の側面 (反定立=反対となる諸規定への移行)
③ 思弁的側面あるいは肯定的理性の側面 (統合=対立する二つの規定を肯定的に解消
統合し、総合とする)
しかしこの三つの側面への移行は単純なものでなく、それらの隙間にこそ弁証法のダイナ
ミズムが存在するという解釈があります。その隙間における対話のせめぎ合い(弁証)こそが、
隠れて見えない重要なアクションである、という指摘です。これら三つの側面は直列に順序
だてて表出されるばかりでなく、時には並列に、時には前後逆転さえする脳の意識と言語機
能の多次元性を表します。
ヘーゲルの弁証法は 「対話なき弁証法」 と言われ、三段階の隙間にあるせめぎあいの
ダイナミズムに欠けると指摘されます。それを克服し対話によって立つ方法として、「正―正
―反―合」 という “複合論” が登場します。嶋喜一郎氏は 『複合論は認識の領域だけに
位置づく小さな道具(方法・技術)にすぎません(弁証法試論)』 として、複素数モデルを提示さ
れます。
例えば :
A = a + bi
実数部分 「a」 は 「自己表出」 、虚数部分 「b」 は
「指示表出」 とし、あるもの A の認識論理形式を複合構成します。
対話による思考方法(弁証法)は、異なった認識論理が二つ以上同じ場所にあることになり、
次の二つの 正 を選択します。
- 163 -
①
A = bi + a
②
B = c + di
この二つの論理の対話は、次の図のように表せるといいます。
【 第1段階 】
① A と ② B の対話(議論)の中で、お互いの理解・啓蒙・学習等により、「相反」 する
要素 (c,di,bi,a) が認識され、左右の四隅に 反 の要素として抽出されます。
反
c
A
←
bi
正
+
a
反
B’
di
c
→
←
c
+
B
di
bi
+
(対話)
bi
←
A’
→
a
bi
正
+
a
→
+
(総合)
←
合
c
+
合
di
di
→
a
合
【 第2段階 】
次に 反 の要素どうしが 「結合」 すると新たな論理が創出され、③ A’ と ④ B’ で
表わすことが出来ます。
③
A’ = di + a
④
B’ = c + bi
【 第3段階 】
第1段階における対話内容の総合 [ A×B ] と、第2段階において創出された新たな論
理内容の総合 [ A’×B’ ] は、同一場所にあってより高次な位相へと昇華します。
以上の段階をまとめてみると、次表となります。相反する相手と対話(弁証法)することにより、
より高次な合意へと至ることになります。会議は、関係者が集まって議論(対話)により意思決
定するものですが、「提案・質疑応答・議論・議決」 行為の内容です。議決された内容は
- 164 -
「決議」 となり、決議事項、決議内容、決議書となります。また、国会決議においては 「法
律」 となります。
「討論」 はディベートともいわれ、ある主題についての賛成・反対等の意見を表明、主張、
闘わせる(論破)ことで、議論のように多様な意見を聞き、学び合うものではないとされます。
第 1 段階
正 ① A = bi +
a
⇒
反
(対話)
正 ② B = c + di
⇒
反 bi , a
第 2 段階
③ A’ = di + a
(結合)
④ B’ =
合
A×B =
c , di
c + bi
(bi+a) × (c+di)
=bci + ac - bd + adi
第 3 段階
(総合)
= (ac-bd) + (bc+ad)i
合
A’×B’ =(di+a) × (c+bi)
= cdi + ac - bd + abi
= (ac-bd) + (cd+ab)i
A×B ≒ A’×B’ = x + yi
(昇華)
= C (より高次な位相)
弁証法 (dialectic ) : 思考を深める方法
<P-184 弁証法論理:参照>
対立した意見の持ち主が対話をおこなうことにより、互いにより深い思考に向かっていく方法。
討論 (debate ) : 論破により自己主張の正しさを論証する方法。
異なった意見の持ち主が議論を戦わせ、互いに自己主張が正しいことを論証する営み。
議論 (discussion ) : 多様な意見を学び合う方法。
異なった意見の持ち主が集まり互いの意見を語り合うことにより、多様な意見を学び合う営み。
- 165 -
3.「合と新」のグループ
中村先生の 【正・反・合・進化】 に話を戻します。現在の登山は、【正・反・合】 三つの
世代が共存しています。 「正」 の世代は戦前派と云え、少人数となりました。 「反」 の世代
は戦後派とも云え、団塊の世代とも呼ばれて定年退職期を迎え、あるいは過ぎ、新たに 「老
いの山」 に取り組んでいます。昭和後期から平成に亘る 「合」 の世代は、登山とともにスポ
ーツ要素が拡大浸透してきました。さらに近年 「合」 は進化し、 「新」 の世代を考えなけ
ればなりません。 「合」 と 「新」 は混じり合い、 「合と新」 にて括ることにします。つまり各
世代の表現は、 「正 ・ 反 ・ 合と新」 としてみます。
現代の電子空間情報社会(PC、SNS) は、 「合」 の多様化とともに、デジタル電子回路に
よる 「時分割、空間分割」 技術は、脳の次元意識を変えてゆきます。それらは 「サイバー
空間(cyberspace)、ネット空間(net space)」 とも呼ばれ、脳にバーチャル・リアリティ(仮想現実
感)を与えるようになりました。 「合」 の目に見える形での多様化から、 「新」 の目に見えな
い多様・多層化への進化を促します。多様性はさらなる重層構造(多層、多次元)となり、各
層(layer) の積み重ね構造となります。これまで身体がおこなってきた運動(登山も)は、電子
機器(ゲーム機)の中で仮想現実感覚に代替されるようになってきます。現在顕著なゲーム分
野は、野球、サッカー、バスケット、ゴルフ、マージャン、将棋、バトル、戦争等々、数え切れ
ない進化を果たし、ハードウエア、ソフトウエア、プレイヤーの一大産業となっています。映画
はすでにコンピュータグラフックス(CG)により、三次元映像感覚を見事に表現させました。そ
れらはいずれも脳が意識する 「虚な世界」 であり、現実の身体が存在している 「実な世
界」 とは異なる層(相)にあります。これまでは機械を用いず、脳と体の中から意識する 「心」
として、その実像を他者の前にさらすことができませんでした。目に見えない虚な世界だから
です。しかし現代の科学(分子生物学、他)とデジタル技術は、人間の 「心」 の解明に大きく
迫っています。
このような現代社会において、 「正・反・合」 のアナログ的感覚の分析だけでは足りず、
- 166 -
デジタル技術がもたらせる 「バーチャル・リアリティ(仮想現実=虚実)」 な感覚も、併せて理
解することが不可欠な時代に入ったと考えるのです。 「合」 の目視的多様性と、 「新」 の
虚構現実を組合せ、 「合と新」 へ進化する、新たなグループを考えなければなりません。こ
のことは山岳だけでなく、現代社会の共通現象です。
世代間ギャップで、何が一番異なるかを考えてみると、 「死生観」 が浮き上がります。ゲ
ーム機の中では、何度死んでも生き返ります。このゲームに慣れた小学生の多くが、リアル
な “自然生命感” を失っていると云われます。さらに在宅で、 “老いの死を看取る” 習慣も
薄れています。老いの病は病院へ隔離し、医師が死の判定を下す社会制度とも重なり、日
常生活の中に 「生と死」 を体験する契機が失われました。加えて技術は、iPS細胞を始め
とする再生医療の進化と、遺伝子操作による生命体の複製(クローン) も成功させ、従来の
「カタストロフ的死生観(生と死は断絶)」 へ大きな影響を与えています。これまで一人の人間
のサイクルは、出生をもって心身生命活動の始まりとなり、死をもって物質に還り生命活動は
終了することにありました。生と死は個体人間周期の始めと終わりであり、その前後は断絶
(カタストロフ)と認識されていました。
一方で技術は、機械をより人間に近づけようとするロボット化と、生物そのものの複製(遺伝
子操作)と再生(万能細胞)という二つの面から、 “人工的生命” を造る努力をしています。現
代文明は、これまでの生殖による生命継承、種の保存とは別に、人工的生命操作技術の開
発努力を、日進月歩の勢いで重ねています。このような技術進化の一方向性は、文明とする
人類欲求の必要条件であり、宇宙変容の方向性と位相を同じくするものと云えます。
“自然生命と人工的生命” の違いはまた、文化の一大転換をもたらせます。世の中は常
に移ろいゆくもので、同じもの同じことは永遠に続かないと、無常を唱える仏教。断絶のはか
なさを美しく語る文学。それらは過去の概念となります。 「生・反」 による登山意識もまた、
死を媒介として生を燃焼させるスタイルから、もはや死は交通事故のような想定外のアクシ
デントと受けとめられ、生死の意識を除外した 「スポーツ」 へと変遷してゆきます。では自己
に向かって問う哲学は、どうなるでしょうか。極論を示せば、もはや個性は無きに等しく、物質
- 167 -
の分子や元素同様、ある定型な種類に類型化されてゆくのでしょう。物質の最小単位を対
象とする素粒子物理学同様、人類行動の基本類型が集約され、基本類型哲学は社会学と
一体なものとなりそうです。重ねてこのことは推論による極論で、真実から帰納させる科学的
表現ではなく、推論による演繹です。
では、 「正・反の登山」 と 「スポーツ登山」 の違いは何かといえば、やはり前記の 「死
生観の違い」 にあると云えましょう。自然に分け入る 「正・反の登山」 の場合、 「安全(生)
の保障」 はありません。 「スポーツ登山」 とした場合、「安全の保障」 は競技開始の基本
条件となります。この違いによる行為者の意識と感性の差は大きく、行為者の性質を決定的
に異なるものとします。しかし単純なこの視点から論じた記述は、浅学にて知り得ません。
これまでのアナログ的身心体験(実体験)がデジタル的心身体験(疑似体験)に代わることに
より、脳の意識がバーチャル・リアリティを受け入れやすくなっている新世代を育むことになり
ます。それゆえに、 「新」 の世代は 「正・反」 の 「実存世界」 へのこだわりはなく、 「抽象
世界」 をも受け入れられる 「複素な世界観」 に至るのではないかと、考えるのです。
前節、 「弁証法の複合論」 にとらわれず、 「正・反・合」 を私の理解する言葉に置き換
えてみると、【正⇒文明、 反⇒文化、 合⇒複素な世界観】 となります。次頁の図、座標軸x
方向ベクトルを 文明=X 、y軸方向ベクトルを 文化=Y とすれば、その二つのベクトルが
織り成す二次元平面の層は 「実な社会」 、つまり実在する社会を表現します。そしてz軸方
向ベクトルを 人の意識=Z とすれば、人間の知性と感性によって意識される 「虚(抽象)な
社会」 を表現することができそうです。 「虚」 といいますのは 「目に見えない意識の中にあ
るもの」 を意味し、「人の心」 や 「群集・社会心理」 などと理解してみます。
正 = X =
文明
= (欲求) ⇒ (必要条件) ⇒ 「一方向進化」 = t4 (四次元)
反 = Y =
文化
= (欲望) ⇒ (十分条件) ⇔ 「循環再生」
合 = Z =
人の意識
= (知性+感性) ⇒ 人(理性 ・心) ⇒ 抽象的(虚)
|X|・|Y |= 「文明×文化」 = 「実な社会」 ⇒ (実存の総合)
|Z|=人(「知性+感性」 =人(理性・心) = 「抽象の世界」 ⇒ (人心の総合)
- 168 -
[ 図―3 ]
(父権社会的近代以降)
人の意識・文明・文化=環境の複素な世界構造
|Z | i =
人の意識
⇒ 人の意識
相対的限界/絶対的限界
日常の中の
(知性+感性)
フィードバック(生/負)
(権力価値調整能力)政治
非日常性
(理性 + 心)
(環境適応調整能力)思想
⇒ 権力(政治)・価値⇒ 幸福
<他者・差異性>
国家・支配という虚構→戦争
↓
(中心)
Z
虚な世界
意識 =|X|・|Y|i ←|Z| i
モード
(リアルタイムな環境)= 複素な多次元世界
バーチャル→ 不連続
抽象世界
理性+心
空、即非
● 意識
情
共鳴、共振
美
共感・感動
デジタル的
位相
(4次元意識)
<4Dメディアポイント>
θ
X
Y
意思
神(完全)
超人(ニーチェ)
(民主主義)
スーパースター(人)
実な世界
(4次元)
●N
相対多数決
<ソフトパワー>
(必要性への目的)
Y=文化
意識力
バランス
限界
人工物
自然物
優越願望
生存の十分条件
(意識の欲望)
(周縁)
国家法治主義⇔諸制度設計
主観
意味・価値の表現様式=時限性(情
t4
余剰
<ハードパワー>
(必要性への手段)
X=文明
実存世界
<公共 → 同一性>
自然代謝
生存の必要条件
(無意識な欲求)
客観
生命=種の継承保存 ・生死
日常性
食糧 ・労働 ・科学 ・技術
報)、 文芸・スポーツ・遊び・学習思
道具 ・都市 ・エネルギー
想・宗教・死生観・家族、 意味と価値
リアル→ 連続
の表現様式=歴史、戦争、資本(経済)
人間環境
進化の一方向性=成長、武器
アナログ的
(実存世界)
(抽象世界)
人工環境
意識 =|X|×|Y|i ←|Z| i = 「実な世界」 + 「虚な世界」
⇒ リアルタイムな環境 ⇒
人と環境の総和
⇒
複素な多次元世界
<4Dメディアポイント>
- 169 -
数学では有理数 (比で表せる数) と無理数 (比で表せない数) を合わせた数を 「実数 ( real
number)」 といい、その性質は 「連続性を持つ」 数とされ、電気信号に例えると 「アナログ
信号」 となります。人類社会は日々の連続を積み上げ、歴史を残してきました。一方、意識
によって創造された数を 「虚数(imaginary number)」 といい、目に見えず根拠のない架空な
数として編み出されたものです。
「虚数の2乗=-1 [ i
2
= (√-1)
2
=-1 ] 」 として、電気の計算や量子力学では
普通に使いますが、 「実な世界」 の一般的理解は難しいものです。さらに 「実数+虚数=
複素数」 とする、複層(複相)を考えるに便利な 「複素数(complex number)」 を用います。
光は波(波動)の性質と、粒子(物質)の性質を併せ持っていると物理学は云います。数学、
物理学、電気工学において、光の伝播はつぎのような波動方程式で表現されます。
[ D2 x +D2 y +D2 z - ( 1/v2 ) D2 t ] Ψ(x , y , z , t ) = 0
D : 微分記号
Ψ(x , y , z , t ) : 波動関数⇒心の関数(心→波)
アンダーラインの項が 「-」 となっていますが、「虚数の2乗 (i 2) = -1 」 という 「虚な時
間」 表現を導入すると次式に変換され、X,Y,Z,t の加法総合表現に変わります。
[ D2 x +D2 y +D2 z + i 2 ( 1/v 2 ) D2 t
(実な世界)
] Ψ(x , y , z , t ) = 0 (空、虚無)
(虚な時間)
(人⇒心の関数)
(虚な世界)
波動は時間的(t)、空間的(x,y,z)な振動減少とみなされますが、それはちょうど人間社
会での日々刻々な変化に類似したものと受けとめることができます。空間的(x,y,z)要素を
前記の 「複素な世界構造」 に照らして、X=文明、Y=文化、Z=人意識、としてみると、物
質(粒子)的存在となる 「実な世界(実存世界)」 と、波動(波)的存在となる 「虚な世界(抽象
世界)」 とに対比して理解できそうです。さらに波動方程式の 「右辺⇒0」 の理解は、仏教
的表現においては 「空」 の世界を示し、哲学的表現においては 「虚無」 の世界に当ては
まるのではないかと考えられます。
- 170 -
光子の 「粒子」 たる性質は電気場(E)、磁気場(B)のエネルギー(力)をもたらせます。
真空中の誘電率=ε0 、透磁率=μ0 とすれば、光の電磁波たる数式は以下となります。
[ D2 x +D2 y +D2 z -ε0
μ0
-ε0 μ0
D2 t ] ・ E = 0
[ D2 x +D2 y +D2 z
D2 t ] ・ B = 0
伝播速度=v 、光の速度=c とすると、
v = c = (1 / √ε0
μ0
) = 3 × 105 [km/s]
(地球一周≒4×104 [km] とすれば、光は1秒間に地球を7回半廻る)
(赤道一周≒4.77×104 [km] とすれば、光は1秒間に地球を 6.3 回廻る)
(極間一周≒4.90×104 [km] とすれば、光は1秒間に地球を 6.1 回廻る)
光子の 「波」 とした性質は互の干渉能力を持ち、干渉縞となって現れます。その縞模様は
人間の織り成す 「社会(心)現象(集合特性)」 と云えます。一方で粒子たる物質性は、一人
ひとり数えることのできる人間の 「個体性(独自性)」 を示すとも云えます。
「文明」 は人が生存を続ける上での必要条件であり、人として持って生まれた自然な 「欲
求」 として、その主たる目的は種(DNA)の保存となります。種の継承をより確実にするために、
科学の合理的知識によって技術を進化させ、エネルギーによって人の活動範囲と能力を増
幅させる道具(人工物) を作り出し、自然を人間生活に適する人工環境社会へと改造、その
領域を拡大し続けることにより、それを文明の進化として人類史を連ねてきたと云えます。
「文化」 は人が生存を続ける上での十分条件として、 「欲望」 の充足を図る情報(意味・
価値)様式と捉えます。生命維持の最低条件を文明が与えるものとすれば、文化は生命活動
における安全、安心、ゆとり、優越感といった心の表現様式、つまり意識の意味と価値を実
存世界の表現様式へと変換したものと云えます。それは必然から心身の開放をめざす文芸、
スポーツ、遊び(遊戯)とともに、原理・規則性に安寧をもとめる思想、宗教でもあります。
「人」 にそなわる知識と感性は、見えない人の意識の中に保存され、虚な社会、あるいは
抽象の世界として構成されます。文明と文化は見える現実社会の二つの軸ですが、知性と
感性は現実と関わりながらも見えない、人の脳と身体に宿る意識の世界です。それゆえに現
- 171 -
実の層(相)にありながらも、様々な層(相)を重ねる多様な存在となります。意識の層は多次
元、多層であり、価値が類似した同層(同相)の中では意識の権力構造が芽生え、政治力学
を発生させます。このことは文化と緊密に連動し、文明進化の速度を変える力ともなります。
人の意識(知性と感性)は、自然における人類の生物環境適応(文明適応)への調整を図る
とともに、人の欲望を満たす行為が自然環境をどれほど人工化させ、そのことが自然再生循
環にどれほど障害となるかという 「気づき」 を与え、文明を変えてゆく力となります。人類は
自然の全てを制御・支配しきれるのか、あるいは一生物として自然の中で適応進化を図るべ
きか、複素な世界観からは後者の立場を支持するものであります。
以上のことから中村先生の 「正・反・合」 に併せてみると、次表へと整理できます。
山岳人は 【合・反・正】 の順次に減少してゆきます。多数派 「合と新」 の世代は多層化
し、 「正・反」 による実存的登山観を超えたスポーツやレクリエイション、レジャーというよう
に、身心のバランスよりも頭脳的バーチャル化してゆきます。 「正 反」 の命(心身)を賭け
た冒険・探検・初登頂・初登攀は、過去の記録として歴史に残されますが、
「合と新」
世代の「感動」を呼び覚ますことができるでしょうか。もはや同類な思いは伝わらな
いと思うのです。そのことはまた、宇宙的進化の必然な帰結でもありましょう。
「合と新」 世代のテクノロジー、つまりコンピュータと感覚センサ、インターネットに代表さ
れる 「電子・ロボット化ネットワーク社会」 は 、人間の脳機能とともに五感を代替する各種
センサとも共生し、直接体験を経て獲得してきた知性・感性とともに、電子情報がもたらせる
蓄積プログラム知性・感性(バーチャル・リアリティ)へと変化をとげてゆくのでしょう。身心のアナログ
的形態よりも、頭脳のデジタル的バーチャル化が進むのでしょう。 「正・反」 は、ただ見守る
だけで精一杯な、飛躍的技術進化です。このように考えるとテクノロジーは、人間の特性ま
でを変質させ、文化要素も変えてゆきます。 「正・反」 の身心アナログ的体験世界から、
「合と新」 世代はコンピュータと情報のバーチャル・リアリティが加わる 「実と虚な世界」 、
つまり 「複素な世界」 へ進化してゆくと考えるのです。「正・反」 の世代としては、そのこと
の理解と論理的背景を少しでも把握し、位置づけてみたいと思うのです。
- 172 -
[表―3]
進化 = 正 ⇒ 反 ⇒ 合 への変遷 (中村先生の分類から)
正
状 態
反
1995年5月
エベレスト初登頂(イギリス)
20世紀後半
ヒマラヤ初登頂(8000m峰)
から
現代へ
合
未踏の高さへ:初登頂
岩登り、人工登攀、ボルダリング
(アルパインクライミング&フリークライミン
グ)
未踏のルート:初登攀
正・反こだわりのない
極地法登山
速攻登攀、競技登攀
心技体の練磨
個人の能力・趣好
学業優先
世界・国家目標達成の時代
単一目標(世界初)
個人目標達成の時代
多様化(自己充填・満足)
新しい世代
東京大学山の会 バルトロ、キンヤン、アラスカ、
シヴリン、K7、ヨセミテ
の例
チューレン
正・反の交流・支援 ⇒
ヒマラヤからボルダリングまで
新世代の育成
進化 = 正 ⇒ 反 ⇒ 合と新 の理解 (田中の分類)
呼 称
正⇒文明
反⇒文化
1次元 : 直線的
意 識
無意識なままに ⇒
意識的に ⇒
意識と無意識の複合
自然のままに一方向的に進化 自然に意識的に逆らう
身心= 体と心 [知性(意識) +
(科学、技術、生命、記録)
(思想、文芸、スポーツ、遊戯) 感性(無意識)]
進化の方向
一方向な宇宙時間の中で技術 一方向な宇宙時間の中で同質 多次元世界(少なくとも4次元)
的適応が進化を図る(直線性) 性が繰り返し現れる (周期性) を理解し、過去と未来を統合
~物質の性質
~波の性質
する今(脳と身体)
評価・比較
絶対評価・比較
1局面での強者/弱者
相対評価・比較
多局面での強者/弱者
絶対的単一要素
多様性の中で要素の条件設定 多層構造化(なんでも有り)
生命 : 自然の中
生命 : 自然の中
自然な欲求(本能)
意識的欲望(心=理性+感性) 局所化と統合(心身と世界)
必要条件(生存に不可欠)
十分条件(生存の付加価値)
人間の条件
数式表現
2~3次元 : 空間的
合と新⇒複素な世界
次 元
多次元 : 多次元、多局面
評価・比較は無意味
異なる次元・局面・世界相互の
比較は無意味
生命 : 自然 ⇒ 人為的
適正条件(生存の最適化)
探検・冒険・発明発見
開拓・開発・創造・模索
局所(部分)化と統合(全体)
人類史観
個人史観
宇宙史観
鳥の目(自然)
虫の目(心)
宇宙の心眼(目と心)
実数=a
虚数=b i
複素数 = a + b i
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【中 村 先 生 か ら の コメ ン ト】
2014.02.21 付 手紙
実数軸の自然な文明の時代、虚数軸の多様で自然を意識的に見る文化の時代、並びにこれら
を綜合した複素空間の宇宙空間的心の時代、と定義していただき、私まで不十分な点が補われ
た気がしているところです。
確かに 「反」 は単なる反発でなく、個人で多様な目標が持てる自己充実の時代で、すでに正
をも含む自由で新しい目標を意識した開拓、創造の時代です。そして 「合」 はまさに、地上の山
だけに拘らず、宇宙的で、学業や思想を超越した心の世代で、不確定性や相補性、統計情報を
もとりいれた、知性と感性をもつ人間の世代と云った気が致します。
人類が他の全ての生物と共に、どのようにこの限られた地球で存在し、平和に適意の日々をおく
っていくか、これまでの人間の歴史や自然史を顧み、客観的真実とともに心の充実や究極を求め
て、より高次な空間へ入り込んで行くべきだと思いました。
4.スポーツと 人―文化―文明
前節にて 「正・反」 と 「合と新」 の違いは何かといえば、 「死生観の違い」 にあると記
しました。 「正・反」 の世代は 「死の断絶」 の中から 「文化」 を産み出しましたが、 「合と
新」 の世代になると 「死の断絶」 意識は薄くなります。文明の技術は 「生命のバーチャル
化と、生命そのものの人為操作」 によって、自然とともにあった生命の概念を大きく変えよう
としています。 「新たな生命概念」 は、いまだ未統一にあります。
「死の断絶」 は多様な文化様式を生み出しましたが、自然の中で安全を担保し、死生観
を伴わない身体的行為へ移行してゆくと、その行為は 「スポーツ」 と呼ばれる分野へ展開
されてゆきます。 「正・反」 世代の死生観をともなった登山と、 「合と新」 世代の死生観を
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ともなわない登山との比較は、相(層)を異にして比較する意味を失います。同じ相に並べて
比較するのではなく、世代変遷の理解と、新たな未来への考察こそが、社会に役立つものと
なるでしょう。身体においても、知能においても、その比較競争は今後ますます 「スポーツ
の展開」 として進化・展開されてゆくことでしょう。
では 「スポーツの定義」 とはいかなるものとなるでしょうか。まず私が考える定義を提示し
ておきます。
【スポーツの定義 = 安全を担保した環境の中で心身により、自己と自然との対峙、また
は自己と他者との競争・競技により、自己の存在を再確認する行為とその記録】
『 よくわかる スポーツ文化論 』 (井上俊、菊幸一・編著、ミネルヴァ書房、2012 年) によれば、
1968 年の国際スポーツ・体育協議会(ICSPC) 「スポーツ宣言」 をとりあげ、 「スポーツの定
義」 は 【遊戯の性格を持ち、自己または他人との競争、あるいは自然の障害との対決を含
む運動】 と記述しています。 さらに 【 近代スポーツの特徴としては、①教育的性格、②禁
欲的性格、③倫理的性格、④知的・技術的性格、⑤組織的性格、⑥都市的性格、⑦非暴
力的性格】 を強調し、 【近代社会における人びとのライフスタイルにとって基本的に望まれ
ること】 をあげています。 【古代ギリシャ、ローマ時代にも 「スポーツ」 が存在していたとい
われるように、広い意味でのスポーツ的な営みはあらゆる文明において見出され、それぞれ
の文明や時代、社会の特徴を帯びながら、文化としての共通性をもって世界中に遍在して
きたものと考えられます】 と述べますが、 「文明と文化」 の違いに対する言及はありません。
文脈から読み解けば、 「ギリシャ文明、ローマ文明」 といった国家や社会といった実態(有
形) の総体を称して 「文明」 とし、法や制度、知識(哲学や科学)、芸術、遊戯などの意識に
刷り込まれる個別細分化した価値(意識、無形)の総称を 「文化」 としているように読み取れ
ます。
さらに同論は、 「スポーツをめぐる文化」 において、スポーツを三段階のピラミッド構造に
分けています。最下層は 「物質文化」 としての物的用具(用具、施設、衣服等) 、中間層は
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「行動文化」 としての技術体系(各種目の技術)と規範体系(ルール、フェアプレイ精神、スポーツ
マンシップ等)、上位層は 「観念文化」 としてのスポーツ論としています。
ではスポーツを特徴づける中心要素は何でしょうか。それは 『記録』 にあると云えます。
『記録』 が示す時間、距離(長さ、高さ)、重さ、回数というデジタル要素は、物理的因子
そのものであり、競技における客観的比較を可能とします。数値データを比較し、優劣を競
い、その中で優れていたいとする人間の欲望が育まれます。そして 『記録を求め、他者に
優越する欲求』 は、人間の闘争本能と優越感を満たします。人間の闘争本能は戦争から遊
戯に至るまで、様々に類別できます。途上国に対する先進国、オリンピックメダリスト、ノーベ
ル賞受賞等々、様々な類別呼称で優越が顕彰されます。その初源を 「遊戯」 に求め、そ
の成果を 『ホモ・ルーデンス』(1971 年 9 月:中央公論社) にまとめたのが ヨハン・ホイジンガ
でした。 「遊戯」 の根源を探り、文化の一つに 「スポーツ」 を取り込んでいます。冒頭の
「序説」 において、『遊戯は、ここでは文化現象として捉えられる。生物学的機能としてでは
ない。』 として、 「遊戯 ⇒ 文化」 をまず主張しています。さらに文化現象と生物学的機能
とを分けて考えていることに対し、私は 「文化現象 ⇒ 欲望の充足 ⇒ 文化」 と 「生物学
的機能 ⇒ 欲求の充足 ⇒ 文明」 という解釈を付け加えてみたいと思います。 (人の意
識・文明・文化=環境の複素的世界構造 : 参照)
部族集団生活の古代から都市国家生活に至る現代まで、人類の闘争本能は 「遊戯 ⇒
文化」 の範囲において平和理に活用されてきました。単純に個と個がジャレ合う遊びから、
統治の潤滑油(ガス抜き)となるまで、日常の中に組み込まれてきました。それが 「遊戯」 の
範囲を超えてしまうと、 「戦争 ⇒ 文明の興亡」 へと進んでしまいます。 「遊戯 ⇒ 文化」
の活用と尊重・充実は、オリンピック憲章に体現されるよう 「戦争 ⇒ 文明の興亡」 への抑
止力となれるのです。
一方で現代文化における遊戯要素の考察において、ホイジンガは 『時代感覚の差は、
たまたまその人が属することになった世代の差異によっているというだけのものではない。そ
れはその人の所有している知識如何にも、おおいに依存しているのである。一般に、歴史的
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視野の上に立った人は、瞬間という近視眼的な視野の中で生きている人より、過去というも
のを <現代> <今日> というイメージとして、その心に受け止めていることが多い。(P-325)』
と述べています。 <知識> は蓄えるだけでなく、蓄えた知識を活用し歴史的広い視野で物
事を考え <現代> を把握すること、今という瞬間を <今日> と捉えて対処すること、 <知識と
その活用の差> によっても時代感覚の差が生じることを述べます。このことを逆説的に考え
ると、「知識によって物事を考え、理解し、他者に伝えることの難しさ」 、極論を述べれば
「発信者の意図と受信者の理解には、両者の知識の差によって、全く同じように伝わらず差
異を生じる」 ことも示します。
【 『ホモ・ルーデンス』 の目次と項目ダイジェスト】
① 文化現象としての遊戯の本質と意味・・・・・文化因子の遊戯、自律的範疇の遊戯、他
② 遊戯概念の発想とその言語による表現・・・・・遊戯の概念、表現、真面目、他
③ 文化を創造する機能としての遊戯と競技・・・・・遊戯としての文化、競技は遊戯、他
④ 遊戯と法律・・・・・競技としての訴訟、権利をめぐる競技、裁判と賭け、他
⑤ 遊戯と戦争・・・・・闘争は遊戯、戦争の競技性、戦争の祭儀性と闘技性、儀式と戦術、
⑥ 遊戯と知識・・・・・競技と知識、哲学的思考の発生、競技は祭祀、社交遊戯、他
⑦ 遊戯と詩・・・・・詩は遊戯の中に生まれた、文化の遊戯相としての神話、他
⑧ 詩的形成の機能・・・・・形象化、抽象概念、擬人化、詩の諸要素は遊戯機能、他
⑨ 哲学の種々の遊戯形式・・・・・哲学的対話の起源、学問の闘技的性格、他
⑩ 芸術の種々の遊戯形式・・・・・音楽と遊戯、舞踏は純粋遊戯、造形芸術と遊戯、他
⑪ <遊戯ノ相ノモトニ>見た文化と時代の変遷・・・・・古代以後諸文化の遊戯因子、他
⑫ 現代文化における遊戯要素・・・・・スポーツ、職業、芸術、科学、政治・国際政治、
現代戦における競技因子、遊戯要素は不可欠
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それはさておきホイジンガは、 『スポーツが社会機能として、社会の共同生活の中で次第
にその意義をおし拡げ、次々と大きな分野を、その領域の中へ引き込んでいるのである。
(P-326)』 と、指摘しています。ホイジンガの指摘から 40 年以上過ぎる現代において、スポ
ーツは益々興隆をきわめています。身体の殺戮をともなう戦争ではなく、安全を担保したス
ポーツの闘争は、オリンピックやワールドカップ競技として、国家や地域の団結と力の誇示の
代理戦争でもあります。ナショナリズムを戦争へと駆り立てない 「ガス抜き装置」 として、十
分に機能しています。人類相互の闘争本能は弱められるのか、進化の欲求と等しく、人類を
人類たらしめてきた自然な欲望として、もう一度正面から見直さなければならないと考えるの
です。人類が滅びないためには、文明―文化―人の意識環境を宇宙の進化とともに、人間
環境として知識の活用、知恵の発揮が必要と考えるです。
さらにホイジンガは、 『スポーツの組織化と訓練が絶え間なく強化されてゆくと共に、長い
間には純粋な遊戯内容が、そこから失われてゆくのである。このことはプロの競技者とアマチ
ュア愛好家の分離の中に現われている。遊戯がもはや遊戯でなくなっている人々、能力で
は高いものをもちながら、その地位では真の遊戯者の下に位置させられる人々(プロ遊戯者)
が区別されてしまうのだ。これら職業遊戯者のあり方は、もはや真の遊戯精神ではない。そこ
には自然なもの、気楽な感じが欠けている。こうして、現代社会では、スポーツが次第に純
粋の遊戯領域から遠ざかってゆき、<それ自体の> sui generis(独自の) 一要素となっている。
つまり、それはもはや遊戯ではないし、それでいて真面目でもないのだ。現代社会生活の中
ではスポーツは本来の文化過程のかたわらに、それから免れたところに位置を占めてしまっ
た。本来の文化過程は、スポーツ以外の場で進められてゆくのである。(P-328)』 (論者注:
この記述は 1970 年代以前のアマチュア優位時代の考察)と、指摘しています。しかしホイジンガ世
代におけるオリンッピクは、アマチュア優先思想の時代でありました。1972 年、IOC 会長アベ
リー・ブランデージ退任以降はプロのオリンピック参加が次第に認められることとなり、次なる
問題としては “過度な商業主義” が蔓延するのです。
ブランデージ退任以前のアマチュア区分においては、① アマチュア(文化的)、② ステー
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トアマチュア(共産圏の国家支援プロ)、③ コマーシャルアマチュア(企業支援プロ)がありました。
アマチュアは貴族や市民の遊戯性を体現する演技者として文化的価値が高く、その貴族や
市民の観賞欲を満たす格闘技等の身体競技者は “プロ” として、アマチュアよりも一段下
層に位置づけられていました。身体競技の頂点に君臨してきたオリンピック運営は、近代オ
リンピックの創設者ピエール・ド・クーベルタン男爵の名言 『オリンピックで最も重要なことは、
勝つことではなく参加することである』 に代表されるよう、貴族趣味的文化性があったからで
す。併せてクーベルタン男爵は、 『同様に、人生において最も重要なことは、勝つことはなく
奮励努力することである』 とする、市民目線(奴隷制を残す未成熟社会の上に立った)への文化
的スローガン(ソフトパワー)も示します。
ホイジンガの指摘から 40 年以上過ぎた現代スポーツは、競技者と指導者さらに支援組織
のチームプレイとなり、個人的なアマチュア概念とは別物となっています。各種目競技団体
は国際化し、それら頂点の競技大会をオリンピック、ワールドカップ、世界選手権等々として、
戦争をはるかに超えた人類社会の一大イベントとなっています。イベント結果の情報価値は
競技者を離れ、送り手のメディア、受け手の市民・国民・民族、それぞれの文化圏を巻き込
んだ平和裡な代理戦争になり得ます。もはや遊戯の中の単純なスポーツではなく、文化によ
る戦争の抑止力あるいはガス抜きとも云えます。 『スポーツを通じて世界は一つになる』 や
『オリンピックは単なる世界選手権大会ではない。それは平和と青春の花園である』 というク
ーベルタン男爵の名言は、戦争に代わる平和裡なイベント(興行)として、世界のビジネスチャ
ンスを満たします。そして “過度な商業主義” は、感性の純真さ(文化性)を損なってゆきま
す。スポーツの最高峰・オリンピックはこのように、遊戯性をはるかに超えた文化のソフトパワ
ーを発揮します。しかしその持てるパワーの下で、純真な感性が蝕まれる副作用もあるので
す。ソフトパワーが秘める権力、政治、価値等の無形な存在は情報となって伝播し、人々の
知性と感性、そして心を満たします。 「実な社会」 も 「虚な社会」 をも含んだ、 現実社会
を構成します。純粋にスポーツを目指す目標は、自己又は他者との 「記録の比較、更新」
ですが、もはや哲学的 「虚無の世界」 、仏教的 「空の世界」 でもありません。むしろ一神
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教的 「神の世界」 に近づく目標となります。 「記録=神」 の世界です。
ホイジンガが、 『古代文化の中では、競技が常に神に捧げられた祝祭の一部をなしてい
て幸をもたらす神聖な儀礼として、不可欠なものとされていた。(P-328)』 と指摘しているよう
に、記録中心となった現代スポーツは、“ 祭祀への先祖返りに変遷している” と考察するこ
とができます。波動はサイクルといって周期性を繰り返します。文明―文化の大きなサイクル
変動の中で、スポーツは遊戯の祭祀性として様式を変え、オリンピック、ワールドカップ、そ
の他多くの国際大会となって、再び現代に蘇っているとも理解できます。
では、『記録を求め他者に優越する欲求』 は、どのように理解すればよいのでしょうか。私
は次のような三つの文脈を提示してみます。
文脈 ① : 無意識な欲求
(正の登山=文明進化の方向性=絶対的単一要素⇒成長)
「自己又は人類初として記録を求める欲求」 は、文明進化と方向性を同じくする生存の
必要条件に属します。この欲求は自然人として持って生まれた、未知なるものを知りたいと
いう知的欲求本能であり、自己または人類とする単一視野にたった 「即自欲求」 でありま
す。この即自欲求は自己又は人類の限界へ迫り、限界を知り、その限界領域を次々と拡大
更新する文明の位相に属するものとなります。いわゆる 「正の登山」 の立場です。
文脈 ② : 意識の欲望 (反の登山=文化享受の方向性=多様な中の条件設定⇒競争)
「記録によって他者に優越する欲望」 は、文化として価値の多様な表現様式でもあり、
生存にとっての十分条件に属します。他者と共生する社会の中で、他者との比較(競争)によ
って他者よりも優越したいという欲望(意識)を満たす、感性(心)をともないます。この 「対自
欲求」 は 「欲望」 という言葉に置き換えたほうが、その意味を適切に反映します。 「反の
登山」 の立場です。この 「欲望」 が抑圧される社会にあっては、教条主義的フラットな文
化となり、 「欲望」 を自由に発揮できる社会にあっては、多様な文化の花を開かせるわけで
す。今の日本は、この自由な領域にあると云えましょう。さらにつけ加えると、 「人が感じる美
とは、他者よりもほんの少し優れている」 ことの中にあると云われます。大きくかけ離れてしま
うと周囲の環境とかけ離れ、孤立した不安な心となるからです。
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文脈 ③ : 複素な多次元世界 (合と新の登山=幸福の方向性=なんでも有り⇒居場所)
文脈①と文脈②の、文明要素と文化要素は 「実な世界」 の二次元平面(東西南北)に現
れるます。さらに他者から見えず伝えにくい 「知的本能(理性)、感性(心)」 という 「虚な世
界(抽象の世界)」 が隠されています。 「正・反」 の二次元平面構造に 「虚な世界」 を加え、
新たな 「合と新」 の三次元立体構造(東西南北~空)、 「複素な多次元世界」 を考えてみる
と、より理解、説明が深まります。外部から見えず、他者に伝え理解しにくい 「理性と心」 の
「抽象の世界」 は、私たち一人ひとりの心身の内にあります。その一人ひとりによって家族、
職場、地域、国家、世界意識が構築されます。その 「複素な多次元世界」 は、身体によっ
て体現される 「実な世界」 と、目に見えない 「意識(知性+感性)」 からなる 「虚な世界」 が
統合されたものとなります。その図式は数学の複素数ベクトルで表現できることから、 「複素
な多次元世界」 と呼んでみます。 「合と新の登山」 は、この 「複素な多次元世界」 を理解
することにより、その行為と心の理解が深められると考えます。それゆえに 「正・反」 の 「実
な世界」 からだけでなく、 「虚な世界」 の見えない、伝えられない、意識の世界の表現を、
いかに他者と共有できるのか、新人類社会の理解と説明が今後重要になると思うのです。
「合と新」 による登山記録の複素な表現は難しく、また 「正・反」 の人々にとっては理解
しがいものでしょう。心性と身体性が複合する記録とは、一体どのようなものになるのでしょう
か。短絡的に述べれば、 『 なんでも有り 』 ということになりそうです。ある時はアルパインク
ライミングをおこない、また別な時はボルダリングをおこない、季節によっては詩情豊かな景
色とふれあうヒマラヤの麓へも行ってみるような、アナログ的連続性でない、デジタル的不連
続な発意の行為となり、その中心では心身の統合を図るバランス感覚が作用している、そん
なイメージが湧きます。「異なった次元の比較・評価は無意味」 となり、『 なんでも有り 』 と
なります。 「正・反」 による実存的体験と知識は、役に立たなくなるのでしょうか。このことへ
の論考こそが、この論旨の主題であります。つまり、18 世紀以降の社会をリードし、今なお進
化を続け、生命操作や人工知能を生み出している知性に対し、「体験して得る感性を取り込
んだ幸福という心の状態」 に価値を与える 「人の意識・文明・文化=環境」 の理解です。
- 181 -
第7章.
老 い の 道 標
『老いの道標』 は、「老いることへの道標」 と、「老いから若者への道標」 でもあります。
老いて死を迎える心への道標、さらに経験と知識を積み上げた道標が、子や孫やそれら
ともしび
に連なる人々の灯火となるならば、こんな嬉しいことはありません。
2014 年の今、世界は大きな曲がり角にあります。科学技術文明は人為的生命操作により、
生物の複製、人体再生、人工生命、人工頭脳に手をかけています。その進歩は、あくなき進
化への一方向を辿ります。また人間中心主義の文化は地球資源を乱活用して人工化を図り、
地球の生態系を破壊し続ける環境破壊は、自らの生存条件に危機を招いています。それら
はいずれも人の意識によって動機づけられ、評価され、幸福や不幸を招きます。
1.戦 後 世 代 と 日 本 国 憲 法
2014 年 5 月 3 日、憲法記念。憲法改正に意欲をもやす安倍首相の下で、今年は特に憲
法への問題意識が高まっています。秘密保護法の制定、集団的自衛権の解釈、そして憲法
改正の三位一体とする 『平和と戦争』 が主題です。今や国家間の紛争を武力で解決しよう
とする 【戦争】 を、積極的に遂行させる論理は世界から排除されますが、唯一テロリズムの
論理だけが戦いを遂行させています。国家間の戦争抑止力として核の保持、自己防衛戦力
の整備・増強、安全保障体制と国際条約の確認等からなる、【予防原則】 の見直しと整備が
積極的におこなわれています。
【予防原則】 という考え方は、【たとえ科学的知見が不十分であるにせよ、○○リスクへの
対策は講じられてしかるべきだ。 (岡本裕一郎、ポストモダンの思想的根拠、ナカニシヤ出版、
2005.07、P-215)】 と云うものです。この考え方は環境保護議論に由来しているとされますが、
環境問題だけでなく、不確実性社会の中であらゆる 「リスク管理」 の手法として用いられま
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す。日本の諺に 「臭いものには蓋をする」 とあります。不快なものは閉じ込めてしまう。ある
いは心配の芽を事前に摘み取って、排除する手法です。魔の山と云われた谷川岳登山に
おいても、1966 年 12 月に制定された 『群馬県谷川岳遭難防止条例』 は、予防原則適用
事例となります。予防原則は個の自由を縛り、脅しにもなり、基本的人権を侵すことにもつな
がります。国家・国民における公共の福祉と、個の基本的人権とのバランスを、常に考慮しな
ければなりません。しかしながら、公共と個の暗黙な権力意識の下では、とかく公共が優先さ
れます。この国家・国民権力が優先されがちなバランス関係において、個の基本的人権を
守る根拠として、成文法たる憲法の存在意味があります。【予防原則】 の過大な適用は常に、
個へ権力乱用につながります。そのことはまた、ポストモダン社会以降の現代にあって、「安
全管理思想」 と連鎖します。「セキュリティ」 と云う言葉の方が、現代社会では理解しやすい
ことでしょう。「リスク・マネジメントとセキュリティ」 は、基本的人権の尊重を図る民主主義国
家・国民社会の日常的、かつ権力との微妙なバランスの中にあり、現代から未来社会へと続
く重要課題であります。同様に、「地球環境破壊と自然災害対応」 は、人間社会と地球環境
とのバランスにおいて、予防原則の適用となります。宇宙、地球、国家、地域、都市、職場、
家庭、カップルと、それぞれの領域における予防原則は法、規則、規範、慣習、躾、等々で
日常生活をしばっています。今日のコンピュータと情報技術の進化は、軍事から日常の安
全・安心領域まで、安全管理体制の予防原則に最適ツールとして活用され、知らぬ間にモ
ニタリング(間接的監視)されています。そのような日常は、常に意識して公権と私権のバラン
スを図る努力を怠ってはなりません。その公知な基本原則が、憲法の成文です。
「戦争の予防原則」 には二つの視点が考えられます。[その一]、国家・国民の視点です。
たとえ敗戦になったとしても、残された国家・国民は全てが無になるわけではなく、何らかの
形で残されます。そのことは、 「国家・国民のリスク管理の視点」 となります。[その二]、個の
視点です。戦争での死者は、もはやよみがえることができません。そのことは、「生命のクライ
シス管理の視点」 となります。この二つの視点から戦争の予防原則を考えてみると、「自主
的安全管理思想」 の導入となります。「自らの生命をもって他者の生命を助ける」 という、追
- 183 -
い詰められた究極の心情表現は、ヘーゲルの弁証法論理による高次な思想へと展開され、
若者の情熱を戦争に駆り立てる道を開く可能性を秘めることにもなります。それゆえ憲法第 9
条は、「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」 をうたっているのです。
※ <ヘーゲルの弁証法論理=すべての物事に内在する矛盾によって自己を否定し、出現し
た他者と対立するが、この対立はさらに否定され、より高次な段階へと発展させる方法。>
憲法第 11条は、国民の基本的人権を定め、第 12 条は、国民に保障する自由と権利、義
務と公共の福祉のために利用する責任を定め、第 13 条は、公共の福祉に反しないかぎりで
個人の自由と権利等の尊重を成文化しています。さらに第 22 条は、居住、移転、職業選択、
国籍離脱の自由を定め、第 29 条は、財産権の不可侵を定めます。しかしいずれの条文に
いおても問題なのは、「公共の福祉」 という言葉が使われながら、「公共の福祉」 という言葉
の具体的な定義がなく、概念として述べていることです。
「公共の福祉」 は政治哲学の主要な概念として、政治権力が行使する予防原則と、法の
下で守るべき私権とのバランスを図る、重要な枠組みを与えるものとなります。また、自由主
義国家における 「公共の福祉」 と、社会主義国家における 「公共の福祉」 とは、言葉の
解釈が異なるとされます。さらに時の政治権力者の憲法解釈によっても、変わりゆく不確定さ
が残ります。さまざまな解釈がある中で、「公共の福祉それ自体が基本的人権制約の正当化
事由となるわけではなく、全体の利益が個人の権利・利益を凌駕することを意味するするも
のではない。(宍戸常寿;憲法解釈論の応用と展開;日本評論社;2011;P-11)」 と云う理解が、現
在の定説とされます。国民主権国家においての個は、主権者であるとともに、国家の構成員
でもあります。この重複関係におけるダブルスタンダード(二重規範)は、国民主権国家のか
かえるパラドックス(矛盾)です。それゆえに両者の視点を憲法に書き込み、「公共の福祉」 と
いう具体的定義のない概念により、状況に応じて解釈の枠内で適切な 「調整を図る」 こと
が、主権者たる国民の義務ではないかと、私は考えるのです。状況に応た適切な対応は言
葉として簡単ですが、実際の判断は難しいものとなります。内閣法制局による 「憲法解釈の
枠組提示」 は、現実整合への知恵を発揮する手段となります。その目的はあくまでも、憲法
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前文に書かれている崇高な人類への理想を実現することが目標となるべきです。しかし枠組
というグレーゾーンの存在は明瞭性を欠き、法律の客観的適用を困難にするとも云えます。
法律論からすれば当然な見解ですが、このグレーゾーンの存在こそが日本国憲法の特殊
性、かつ、人類の未来への希望を含んだ最上位法規と考えられます。宇宙の不確定性原理
は、現在の法規(立法)によって未来を縛ることが、不条理であることを示します。今の法律で
規程する良いことが、必ずしも未来で良いと決定できません。未来は不確定なのですから。
日本国憲法前文は日本国家だけでなく、人類共通の目指す理想と目的実現への努力を
表明しています。たとえ抽象的概念の言葉であっても、その有りよう、方向性は自明です。不
確定な未来を取り込んでいるからこそ、グレーゾーンをもった概念で良いと考えます。安倍
政権の集団的自衛権拡大による武力貢献ではなく、人類の未来を見据えた法の支配概念
とした日本国憲法のもつ意味を、今こそ世界に広め人類の平和に貢献すべき時と、私は思
います。日本国憲法には、最上位法規として立法の目的条項がありません。その役割を担
っているのが前文です。下位の法規には立法の目的や立法の趣旨条項があり、憲法の目
的を実現すべく各論構成です。もし反する場合は、憲法第 81 条の違憲立法審査権により失
効可能です。問題は最高裁判所の、違憲立法審査権の機能障害にあると思うのです。
日本の戦争終結は 1945 年 8 月 15 日とされ、私が生まれた 7 ヶ月前です。第二次世界大
戦国際法上の終結は 1952 年 4 月 28 日、サンフランシスコ条約が発効された日とされます。
それから 60 余年が過ぎ、ちょうど私の人生そのものが 「戦後史」 の時間帯となります。孫が
育ち、世代継承を果たして老いの途に辿り着きました。今は戦争体験なき三世代が、国民の
3/4 を占める日本です。そして戦争体験なき安倍政権により、平和を希求する日本国憲法は、
「戦後レジームからの脱却」 として見直し論議がされています。
日本で戦争体験のない人口比率統計は、2010 年において 0~64 歳までが 77%、15~64
歳までが 63.8%となっています(厚生労働省:厚生統計要覧 平成 15 年度、ほかによる)。 この統
計比率のままで、2015 年に選挙権を持つことができる戦後生まれの有権者を単純計算する
と、73.5%となります。この統計比率の 65 歳以上の有権者は 26.5%となりますが、2015 年ま
- 185 -
で減少を続けるわけですから、実際はさらに減少します。つまり憲法改正に必要な三分の二
以上(67%)の有権者数は、戦後生まれだけで可能となります。(73.5% > 67%)
戦後生まれの安倍晋三内閣総理大臣(1954.9.21 生)はじめ、閣僚の多くや国会議員の大
多数は、戦後派で占められるようになりました(注;衆議院議員 2013.8.12 現在⇒1944 年以前の生
まれ 13 名、1945~1984 年生まれ 443 名)。 安倍首相は 「戦後レジームからの脱却」 として、憲
法改正、特に第 9 条に規定する平和憲法の骨格部分、「戦争と武力による威嚇または行使
の放棄」 を定めた条文を、自衛隊とアメリカ等の集団的自衛権に即した改正をめざし、施策
見直しを急いでいます。 ※ <レジーム> = 政府の体制や制度 → 統治
安倍首相を始めとする代議士たちの法解釈は、「法を定めれば、その定めた範囲内で
“法に抵触しない” 限り、何をやっても良い」 と誤解した発言が多く見えます。 「法の支配」
による統治を、誤って理解していると思わざるをえません。「法の支配」 における 「法」 とは、
法体系における最上位な法(憲法)、あるいは基本法とされ、絶対的権力(者)から被治者(市
民、国民等)の基本的権利や自由を守るために、統治に用いる権力を法で拘束し、権力に制
限をかけるための決め事とされます。その原型は古代ギリシャのプラトンやアリストテレスの思
想にあると云われますが、欧米の民主主義を支えて今に至る、現代国家統治の基本原理と
なっています。つまり法で定めれば、どんな権力行使をしても良いのではありません。元来
権力の本質は、法があろうがなかろうが、力ずく、特に武力制圧、威嚇、支配をもって何でも
してきました。その暴力的な力から、被治者(市民、国民等)の基本的な生存権利や自由を守
るため、法によって権力行使に制限を加える 「理性的な制御装置」 のはずです。
私が理解する日本国憲法は、人類社会の理想を概念化したものであり、実務においては
現実にそぐわない面を残しています。日本政府はこれまで、現実と整合させるために憲法解
釈の柔軟な適用をおこなってきました。しかし戦後レジームからの脱却を中心にすえる安倍
政権は、正攻法の憲法改正をめざし、与野党代議士の多くもそれに呼応します。最も主題と
なるのが、憲法第 9 条の扱いです。これまでの人類史上、 「戦争放棄」 を最高法規に定め
た国はなく、日本国民は今、世界に 「道標」 のない未踏の道を歩んでいます。
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私が考える日本国憲法(戦後の新憲法)は、人類の理想を概念化したものとして、人類初の
試みと理解します。第二次世界大戦(日本は太平洋戦争)という近代文明間の戦いにおいて、
日本は無条件降伏による戦争敗戦国となりました。併せてユーラシア大陸東端の島国という、
地政学、戦略上、行き止まりの位置にあります。さらに日本国民の同質的勤勉性に望めるこ
とは、人類の理想に最も近い実験国家として、戦争を放棄した未来国家像への試みでした。
そもそも日本国憲法の原則、『 ①基本的人権の尊重(自由、福祉、平等、人権保障の限界)、
②平和主義(戦争の放棄)、③国民主権主義(民主主義)、④権力分立性(三権分立=立法、行
政、司法)、⑤法の支配(法治国家)』 は、18 世紀に起きたフランス革命の啓蒙思想(自由、平
等、友愛)と、フリーメイソンの基本理念(自由、平等、友愛、寛容、人道)に合致しています。
絶対王権に対する貴族の反抗から始まったフランス革命(1787~1787 年)は、やがて国民
議会(憲法制定国民議会)を発足させ、王政と封建制度を崩壊させ、共和制へと移行させます。
その約一世紀前(1938~1660 年)のイングランド、スコットランド、アイルランドでは、清教徒
革命(ピューリタン革命)による宗派戦争から、王政復古にいたる経過の中で、多くの清教徒や
カトリック信者らがアメリカ大陸へと渡りました。アメリカは、渡航者たち母国の植民地化され
ます。そして 1789 年、アメリカは独立戦争(1776~1789 年)により建国となりました。立憲連邦
共和国となったアメリカ合衆国は、厳格な三権分立と連邦政府の権限拡大、司法裁判所の
違憲審査制度により、議会が制定した法律の憲法適合性審査(違憲立法審査権)という重要
な憲法判断をおこないます。日本では憲法第 81 条に 「最高裁判所の法令審査権」 があり
ますが、なかなか機能しません。三権の長、最高裁判所長官は内閣の指名により、天皇が
任命(憲法第 6 条)することとなり、内閣の意向が色濃く反映されてしまうからです。
江戸時代末期の黒船来航、そのペリー提督はフリーメイソンであったと云われます。フリー
メイソンは 16 世紀頃、スコットランドやイングランドに 「友愛」 秘密結社として起源したとされ
ますが、秘密結社であることから、歴史の表舞台に登場しません。しかし歴史に関わる偉大
な人物(キーマン)を数多く見出し、今はその名も書籍やインターネット上で公知となりました。
一介の私たちにその真偽は定かでありませんが、世界情勢はもとより、近代日本の文明開
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花や、あらゆる世界のリーダーシップなど、その関わりを読むと現実的理解は深まり、自然な
物語として納得できるものがあります。
日本統治の連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーと、日本の首相吉田茂らもフリー
メイソンと書かれています。フリーメイソンについて日本では、暴露本的位置づけで多くの出
版物が書店に並び、インターネット上でも多くの情報が流れています。もはや秘密結社とは
言い難く、会員メンバーも断片的に公開されています。その真偽は全くわかりませんが、私
は 20 年以上も前から興味を持ち、諸書読んできました。
人には、個と群れ、主観(本音)と客観(建前)、欲求と欲望等、互いに矛盾する二重性(二
項対立) があります。個における自分との関係は 「倫理」 として、自分と他人との関係は
「法」 により、関係性の問題解決を図ります。歴史も同様に、表と裏が潜んでいます。歴史を
動かすターニングポイントの多くは、裏面に潜む人間関係にありそうです。歴史はそれらを
記録、記憶するだけであり、問題解決を図るのは、あくまでも個の判断の積み重ねとなります。
日本国憲法の理想主義も歴史の裏面を加えると、理解はより深まり納得します。
※ <フリーメイソン> = 16 世紀後半~17 世紀初頭に起きたとされ、個人会員からなる友愛結
社。その基本理念は 「自由・平等・友愛・寛容・人道」 とされます。
政治の表舞台の根源には、民族と民族を束ねる思想(宗教) 問題が横たわり、今もなおさ
なざまな紛争、衝突を繰り返しています。権力はその表部分を 「歴史」 として記録し、教育
を通して次世代へ継承してゆきます。歴史の裏面となる人の情念は御し難く、その目をそら
すためにも、科学や技術、スポーツの 「客観性」 という、「情念」 を除去したデータ信奉に
より混乱を排除できます。西欧に発する 「近代理性」 とは、主観とする情念を排除した客観
的思考を示します。客観的思考は科学を信奉し、中世の宗教的観念世界(主観)を論破して
きました。そして現代、原子力や生命科学、情報技術の進化により 「何でも有り」 の混沌社
会へと達っしました。主観とされる情動の世界は、意識の中(夢)で完結したユートピア(エデ
ンの園)から抜け出し、コンピュータ・シュミレーション可能なデジタル・バーチャルリアリティと
して出現しています。科学の客観が排除した主観の世界を、技術によってバーチャル化し、
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ふたたび意識の中に蘇らせています。その世界と現実を統合し、「複素な多次元世界」 とし
て第 6 章で提言してみました。そこに生きる新世代人類を、旧世代人間から帰納するには矛
盾が生じます。知らない世界を、古い言葉で知ったように論証(帰納法)できないからです。し
かしながら、古き知識からの演繹推論を、新世代人類に引き渡すことは可能だと考えます。
「日本国憲法は戦勝国から押し付けられたので、自前の憲法が必要」 とする見解は、も
はや時代錯誤な論議の前提条件と思います。この主張は、戦前生まれのタカ派といわれる
政治家と、戦後生まれの一見論理的な政治家に見られます。この主張は、憲法制定の経過
に対して不満を述べるだけであり、憲法として表明すべき内容(思想)に触れるものではあり
ません。例え押し付けられたものであってもその内容が、「良いもは良く、悪いものは悪い」
のであり、内実の視点から議論すべきであります。
現在の日本国憲法は欧米の立憲主義体制を鏡とし、さらに戦争加害と敗戦被害の反省
に立ち、 『戦争放棄と不戦の誓い』 を書き込んだ、人類の理想郷(ユートピア)を体現する思
いを表明した、世界中で唯一の 「未来志向憲法」 と思うのです。
一方、明治以降から戦前までの大日本帝国憲法(1889 年公布)は、第1条で天皇の主権を
定めています。第 4 条には、天皇の統治大権を定めています。明治維新の内乱を治める象
徴として、天皇を 「現人神」 とあがめ、神道の精神と武力によって築いた近代日本。文明の
進化欲求と世界の時流文化の欲望は、「大東亜共栄圏」 なる思想をもってアジアへ進出し、
武力による制圧、破壊と搾取、植民地化を図りました。戦争史は世界の時流とは云え、武力
によって無抵抗な生命を消し去って主張を通す、欲望の歴史でもあります。
「天皇主権説」 に対する「天皇機関説」 は、1900 年代から 1935 年頃まで憲法学の通説
とされます。大日本帝国憲法解釈において、国の統治権は法人(機関=君主・議会・裁判所)
たる国家にあり、天皇はその最高機関の主権者として、内閣をはじめとする統治権を行使す
るという考え方です。統治の意味での国家主権は国家(法人=機関)とし、国家意思最高決
定主権者の意味では君主(天皇)にあるとします。憲法に条規を定め、この定めによって君主
の行動を制限する立憲君主制(反対概念は専制君主制)は、天皇の超越的な神格性を否定し
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つつ天皇の権限を尊重する、政党と官僚の妥協でもあり、議院内閣制、政党政治、議会の
役割を重視した、大正デモクラシーを支えます。
しかし 1932 年 5 月 15 日、犬養毅首相が暗殺された五一五事件にみられるよう、政党政
治の行き詰まりと軍部の台頭により、天皇を絶対視する軍国主義に傾きます。そして 1935 年、
貴族院本会議における菊池:在郷軍人議員の演説に端を発し、「天皇機関説」 は排除され
ます。この時、枢密院議長らとともに辞職に追い込まれたのが、岡田内閣の金森徳次郎:法
制局長官であり、第1章12節、「山旅の記憶スケッチ展」 の中村あやさま(中村純二先生奥さ
ま)は、金森長官のご息女です。辞職後約 10 年の間、元長官は晴耕雨読の浪人生活を過ご
されますが、敗戦後の新憲法制定担当国務大臣として、第一次吉田内閣へ復帰されます。
中村純二先生宅の応接間に掲げられる金森徳次郎元大臣の書、「四時潅花」 は、「いつも
花に水をあげましょう」 という優しい気づかいの中に、平時こそ日常のもろもろを気づかって
小さな行為を積み上げましょうとする、非常時を通り過ぎた経験があったればこそ、真に大切
な日々の気づきを示唆するものです。同じような文脈は、サン=テグジュペリ 「星の王子さま」
にもみられます。毎日の食事と同じよう、毎日水を手向けることの意味が説かれています。
このような背景を理解すると、戦後世代の戦争体験なき政治家により、頭で考えるだけの
理念により、安易、拙速に、日本国憲法を変えるべきでないというのが私の意見です。
ある市民団体が 「憲法 9 条にノーベル平和賞を」 推薦する実行委員会をつくり、ノルウ
エーのノーベル委員会へ推薦書を提出、受理されたという新聞報道が、2014.04.20 付であ
りました。しかし私と妻は、ノーベル賞よりも 『日本国憲法を世界平和遺産へ登録する』 こと
の方が適切ではないかと考えるのです。少し実務性に欠けるとしても、日本国憲法は人類未
来への貴重な文化財産と云えます。実態、実務への修正は、憲法の下位法規改正で良いと
考えるのです。もはや日本国憲法ではなく、「人類の未来憲法」 と考えたいものです。
私の生誕地 「神奈川県平塚市(旧:中郡大野町)四之宮」 には、「前鳥神社」 があります。
祭神は①莵道稚郎子命(うぢのわきいらっこのみこと)、②大山咋命(おおやまくいのみこと)、③日
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本武尊(やまとたけるのみこと)の三柱です。天皇家(皇太子)も参内されたと聞くにおよび、私自
身のルーツと無関係ではない思いが生じます。「日ユ同祖論」 という巷の俗説があります。
日本人とユダヤ人の祖先は同じという俗説です。古代イスラエルの支族が日本へたどり着き、
皇室と神道を中心とした日本民族を形成していった、という俗説です。俗説はその証拠を
諸々取り上げますが、一介の民にはその真偽を確かめるすべはありません。そして私の仮
説なのですが、『私の先祖は古代イスラエルの失われた 10 支族の末裔で、族長の下僕とし
おおすみ
て大住の地に住んだのではないか』 、というものです。四之宮は相模 5 社の一つであり、毎
年 5 月 5 日に大磯町国府本郷の神揃山でおこなわれる国府祭(こうのまち)に、神輿を繰り出
します。20 歳の新成人が白装束でその神輿をかつぎますが、私が成人した時もその習慣は
残っていました。また、私の両親の実家は大山の麓、愛甲石田です。父方の男兄弟は皆鼻
が高く男前で、平均的日本人との違和感があります。多分父方の血統に、古代イスラエルの
DNA を受け継いでいるのかもしれません。私の DNA 検査はしていませんが、これまで対面
初期の段階で “鼻が高いですね” と幾度か云われたことがあります。古代イスラエル人の
形質的特徴として、①褐色人種、②黒髪・黒目、③背が低い、④縮れた髪、があるとされま
す。私に当てはめてみますと、①以外は該当します。①の褐色の肌でなく、モンゴロイド系黄
色ですが、幾代にもわたる混血と、母方(モンゴロイド系)とのハイブリッドを考慮すると、①は
黄色へと変質したのでしょう。スファラディ系ユダヤの祖はモンゴロイドとも云われます。私が
子供の頃、指導性、協調性に欠けると評されました。群れたり、じゃれたり、悪ふざけには興
味がなく、子供の頃から真実を知ることが好きでした。そして自分なりに考え、物語を組立て
るのです。始原な、哲学の始まりです。古代イスラエル人や日本人は YAP(-)遺伝子、Y 染色
体 DNA の D 系統を持ち、その気質は 「親切、勤勉、自分を捨てて他人に尽くす」 と云われ
ます。自ら振り返ると気質は適合し、次元の異なる協調や指導に、とても興味を持ちます。宇
宙、世界、社会を知り、人間はどこにいくのか、と考えるのが面白いのです。それゆえ私のル
ーツが、古代イスラエル人にあるのではないかと思えるのです。その契機は今年(2014)3 月、
生誕地の周辺(前鳥神社、真土大塚山古墳)を巡る平塚市のイベントに参加したことです。
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私は大野中学時代、卓球部と社会部の
1960、大野中学校社会部
部活動でした。1960 年(S-35)3年生の時、
平塚市が真土大塚山古墳の発掘調査を
おこないました。私立武相高校社会部と大
野中学校社会部が参加します。右の写真
は卒業アルバムの社会部員ですが、皆 3
年生で私が部長でした。大塚山はセミや
カブト虫が沢山生息する雑木林でした。
発掘現場で、右写真の勾玉を手にとって
見た記憶はあります。三角縁四神二獣鏡
は記憶にありませんが、細かな装飾品が
勾玉(平塚市HP)
沢山出土しました。
三角縁四神二獣鏡
(にこにこ写真館掲示板)
大和朝廷の東国支配のために派遣さ
れた宇治部の水系豪族が被葬者ではな
いかとされます。(今泉義廣・著:前鳥神社も
のがたり 2006.01.01:前鳥神社社務所・刊)
三角縁四神二獣鏡は権力の象徴であり、
前鳥は 「サキトリ(先取)」 とも表し、相模
川水系を管理する最適な要衝だったそう
前鳥神社正面
です。奈良時代の 『相模國封戸租交易
2014.06.01 撮影
おおすみ ぐ ん さ き と り ご う
帳』 には 「大住郡埼取郷」 と記載がある
そうで(前鳥神社パンフレット)、丹沢 「おおす
み山居」 とも関連します。前鳥神社と真
土大塚山古墳、私自身のルーツなど、次
なる探究テーマが増えました。
15 葉の菊花裏紋
16 葉の菊花紋は天皇家
16 菊花紋はシュメール王家の紋
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獅子像(左側)
2.失って(体験)気づく、幸という心の居場所
2014 年 6 月、総合人間学会第 9 回研究大会のテーマは、「成長・競争社会と<居場所>」
です。<居場所>には 「体の居場所」 と 「心の居場所」 の二面性があります。事前の配布
資料によると、以下のような<居場所>を取り上げています。
・原発事故被災者としての <居場所>
・脱成長と<居場所>創出のために・・・・・政治的エコロジーともう一つのグロ-バリゼイション
・<居場所がない>ということ・・・・・承認をめぐる闘争と病
・<希望のチカラ> ・・・・・
働くこと、生活すること、生きること
総合人間学会は 2006 年 5 月に設立されました。私はその報道を 7 月の新聞記事で知り、
入会への意欲を温めた後、インターネットを介して入会手続きを進め、2006 年 9 月に入会を
認められました。推薦者はなく、単独での入会です。
人文科学、社会科学、自然科学の枠を超えた研究者の学際的な協力により、 「人間とは
何か、生きるとは何か、自由意志とは何か、人間はどこから来てどこへ行くのか、」 等々の研
究を、 『総合人間学』 としてまとめようとする学会です。学者、研究者ではなく、電気技術者
の私は同様な疑問を青春のときから抱き、設計業務の合間を通してたくさんの関連書物を
読みました。加えて 18 最から始めた山登りは、生死と対峙する体験の中に、それらの疑問に
応えるべく現実(リアル)と、思考・感性の意識付を積み重ねます。私には既存学問の系統が
なく、学者でもなく、師事する先達もなく、ただ好きだからこそ約 50 年にわたって継続してき
たものであります。以上のことから、私が人間を総合的に考える視点は次のようなものとなり、
学習(理性)と体験(感性)の統合作業となるわけで、そこに複素な世界を観るのです。
① 電気設計技術者の視点 : 設計とな何か(デザイン) 、環境とは何か(環境デザイン)
文明と文化を支えるエネルギー(電力)、社会のコミュニケーション(情報)、社会現象
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は電気理論によって多くの説明が可能(抵抗、コイル、コンデンサ、マッチング、発振)、自
然界で働く力(電磁気力)、光(電磁波=粒子と波の性質)、
② 山岳体験の視点 : 生きるとは何か(体験=生の実感:死の予感:臨死の実感)、人間の
限界感覚(絶対的=客観的・限界、相対的=主観的・限界)、人間と自然の相互作用(環
境問題、受容の心=自然に内包される人間)、幸福とは何か(意識=気づき)、
2014 年の総合人間学会第 9 回研究大会のテーマ、「成長・競争社会と<居場所>」 は、
第 6 章.第 4 節、文脈 ① : 自然な欲求が <成長> に当たり、文脈 ② : 意識の欲望が
<競争> に当り、文脈③:複素な多次元世界が <居場所> に当たると考えるのです。
第 6 章は、日本山岳文化学会理事・中村純二博士(宇宙光学:東京大学名誉教授)との交
流により、登山様式の変遷を 「正・反・合と進化」 から考えたわけですが、振り返るとまさに、
総合人間学会の研究テーマと合致します。総合人間学会第 9 回研究大会の案内が届いた
のは 2014 年 4 月 14 日ですから、異なるアプローチから同一テーマにたどりついたことにな
ります。総合人間学会第 9 回研究大会シンポジウム趣意書にもありますように、今の日本社
会、世界情勢から人間考察をしてみると、アプローチは異なっても同じテーマとなる時代の
要請なのでしょう。
死に直面したヒマラヤ遭難体験は第 2 章に述べたところですが、本論随所に 『失わない
と気づかない人間の愚かさ』 を述べています。3.11 東日本大震災被害、福島第一原子力
発電所事故は、ヒマラヤ遭難体験とは比較すべきでないスケールですが、一個人に立ち返
ってみると、同類なストレスと責任を背負います。この体験から得る最も大切なことが、 <幸
せという心の居場所に気づくこと> です。 <持つことではなく、有ることに気づき、そして受
容する心> 、その心は今や複素な世界感覚の中にあります。その心にいち早く気づいてい
たのが半世紀以上前、ドイツの心理・哲学者=エーリヒ・ゼーリヒマン・フロムであり、フラン
スの飛行機操縦士で作家=アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリでありました。
総合人間学研究における二つの検証側面、①=分子生物学、脳神経科学、遺伝子科学、
精神医学、情報工学等の成果、がもたらせる<心の居場所>は、人間固有の実体的属性で
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はなく、身体の働きとしたシステムとして捉えることへの再考査、②=人間中心主義がもたら
せる地球環境存続の危機、が提言されています(総合人間学会、広報・会員拡大委員会よりみな
さまへ:2014 年)。
①=科学技術の進化、②=人間意識の進化、への理解は、私が考え続けている 「人の
意識・文明・文化の統合=環境の複素な世界構造」 の理解と同じものに思えます。総合人
間学会第 9 回研究大会のテーマは、 「成長=進化の方向性⇒文明、競争=意識の欲望⇒
文化」 から、展開・整理できるのではないかと考えるのです。
3.欲 求 と 欲 望 の 考 察
「人間開放の理論のために」 (真木悠介、筑摩書房、1971.10.20 初版第 1 刷)
この書を私が読んだのは 1972 年だったでしょうか。いたるところに書き込みと赤線を引き、
今も私の手元にしっかりとした製本で残っています。著者、真木悠介さんはペンネーム。本
名は見田宗介さんです。気鋭の社会学者として、時折新聞紙面に紹介されてもいました。東
京大学名誉教授、そして今、総合人間学会・顧問として、ふたたびお名前を拝見しますが、
お目にかかる機会はまだありません。中村純二先生(物理学)のお話によると、東大教養学部
時代には、見田先生(社会学)とたまにお会いする機会があったそうです。
1972 年の頃、私はネパール・ヒマラヤ遠征登山の準備中でした。そして登山とともに、「な
ぜ山に登るのか?」 、「リーダーシップとは?」 、「登山学とは?」 等々、本を読み、考える
ことが好きでした。前著における 「人間的欲求の構造」 (次頁 [表―4] )は、登山者の行動
意識と分類の理解に役立ちました。1973 年に私は、「登山者資質の構造」 という分類表
( [表―5] ) を作成しました。そして 『山登り-その社会学的研究と応用』 を書き始めたので
すが、1974 年春のヒマラヤ遠征登山を迎え、断筆となりました。しかしそこまで書いていた部
分は、 「青春のヒマラヤに学ぶ」 (文芸社:2001.01.01)の中に盛り込み、出版しています。
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[表―4]
(引用⇒真木悠介:人間開放の理論のために:P-103:筑摩書房 1971 年)
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[表―5]
(引用⇒田中文夫:青春のヒマラヤに学ぶ:P-77:文芸社 2001 年)
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1973 年、『山登り-その社会学的研究と応用』 をコピーして、見田先生へ送ります。そし
て先生から返信の葉書が届きます。今も保管してありますが、『山登りは、人間的な実践の
原型のようなところがあると思うのですが、そのような行動の中で、原理的な問題を考えてお
られる方に、小著がふれることができるということは、じつに愉快です。ご研究の成果をたの
しみにしています。』 (1973.07.13 付消印) とあります。
以来、続きを展開させるゆとりはなく、テーマも変遷してゆきます。老いを迎えた今ふたた
び時を得て、40 年前の論考に向き合っています。そして私も総合人間学会会員として、近
づいた意識の下で新たな展開を試みているところです。
【マズローの欲求段階説】
第1段階 : 生理的欲求 (physiological needs)
食欲、排泄欲、睡眠等の 「生きること(生命活動)」 に直結する欲求
第2段階 : 安全、安定の欲求 (safety-security needs)
危険や脅威、不安から逃れようとする欲求
第3段階 : 所属・愛情欲求/社会的欲求 (belongingness-love needs)
集団への帰属や愛情を求める「愛情と所属の欲求」又は「帰属の欲求」
第4段階 : 自我・尊厳の欲求 (esteem needs)
他人から尊敬されたい 「尊厳の欲求」 、人から注目を得たい 「名誉欲」・
「出世欲」 等
第5段階 : 自己実現の欲求 (self-actualization needs)
自分の世界観や人生観に基づいて、自分の信じる目標に向かって自分
を高めていこうとする欲求 (探求・自己啓発・創造性とチャレンジ)等
欲求に関する別な理論として、アメリカの心理学学者アブラハム・マズローにより、 『マズ
ローの欲求段階説(Maslow’s Hierarchy of Needs)』 が提唱されています。
第1段階の生命活動から順次に段階を上げて欲求は高まり、第5段階の自己実現欲求を
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満たすことを最上としています。このことは、進化の必然的発展段階と読み解けます。
また、ダグラス・マグレガーは 『XY理論』 を提唱し、 「X理論」 を低次な欲求段階、 「Y
理論」 は高次な欲求段階とします。X理論は 「人間性悪説」 とも云われるように、人間の本
性を 「怠け者・責任回避癖」 と見立て、Y理論は 「自主性・主体性・能動性・創造性」 とい
った進化を促す欲求、つまり人間進化のエネルギー源とも理解できます。
しかしマズローやマクレガーの欲求理論は文化や文明との関連付けに乏しく、本論での
考察対象にはなりません。
欲求と欲望の違いを表現しているのは見田理論で 「人間的欲求の構造」 の中で、「欲
求」 を、以下の三段階に分けています。
① 必要=欲求の客観的基盤
② 要求=欲求の一般的特性
③ 欲望=欲求の特定的方向性
「欲望」 を 「欲求の特定的方向性」 と位置づけ、主体的自己決定での 「自由による選
択可能」 としています。
私が考える 「人の意識・文化・文明=複素な世界構造」 から説明しなおしてみますと、
次のようになります。
「欲求」 は生存の必要条件として自然に湧き出るものであり、これを満たすことにより生命
の継続、種の保存を果たそうとする無意識な領域で、主に物質やエネルギーといったハード
パワーによる代謝作用をともなうものです。
「欲望」 は生存の十分条件として意識に係るソフトパワー(価値志向)なものであり、これに
同調(マッチング)できると、喜びや楽しみを感じることができます。欲(より〇〇)という意識です
から、最小限これがなくても生存を持続できる非物質的な価値意識です。
日常は欲求と欲望が渦巻く、「実な世界」 であります。欲求は満たさなければなりませんが、
欲望は理性による状況判断を必要とします。状況判断を電気的表現に代えると、「論理回路
へのフィードバック(帰還)」 となります。つまり出力要素(結果)の一部を取り出し、その要素を
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ふたたびプラス方向に判断(論理)すると出力を増大させ、マイナス方向に判断(論理)すると
出力を減少させ、設定(設計)レベルの定常状態を保ちます。判断する部位を、電気では論
理回路と云いますが、人の意識においては理性あるいは知性と云えます。しかし人間は感
性をともなう心によって、理性が定める定常レベルをはるかに超える、情熱をともなったソフト
パワーも発揮します。ある状況に知性と感性がマッチングして、「感動(共鳴、共振)」 という心
高ぶる心身状態となる時は、最大な人間力を発揮することができます。電気回路の現象に
置き換えると、「共振または発振状態」 と云えます。共振はスルーパスのようにそのまま相手
に伝わり、発振は電気回路内の電子の流れが電磁波を誘起させ、電波(電磁波)となって空
間へ放射されるのです。感動はスルーパスや電波のように、他の人々の心へと伝播してゆく
のです。人が理性のみなら機械(ロボット)に等しく、感性のみでは他者を受容できません。知性
で客観的(絶対的) 限界を知り、感性で主観的(相対的)限界を知り、感動で誘起した意思で
人間力を発揮してバランスを図る。このことが、心ある人間の選択ではないかと考えます。
第 6 章で文明と文化の位相を分けたと同じように、人間の欲求と欲望の位相も分け、文明
=欲求、文化=欲望へと区分してみると、進化の一方向性=成長⇒欲求⇒文明の位相と、
価値の表現様式=時限性(流行)⇒欲望⇒文化の位相という、二つのベクトル方向に分けら
れます。この二つのベクトル合成(力)が織りなす社会が 「実な世界」 であり、日常の連続性
(アナログ的)をもった実存世界となるわけです。機械(ロボット)ではない人間の不完全性は、日
常が連続する日々の中でストレスを溜めてしまいます。ストレス解消のためには、限られた時
間のなかで非日常的な世界に浸り、日常から離れてリフレッシュ(リセット)することが効果的で
す。人工環境を離れ、山岳自然環境へ入ることは、リフレッシュの代表例です。また都市生
活の中でリフレッシュする方法は、芸術観賞、スポーツ観戦、様々な遊戯等、ヒーロー、アイ
ドル、スターとの擬似一体感をあじわうこともあります。そしてシンデレラの魔法が解ける時間
になると、現実の日常生活へと戻ります。「欲望」 を持ち、解消することもできる人間の特性
と云えます。生存の必要条件とした 「欲求」 は、ただひたすら満たさねばならず、その方向
が宇宙の中に適応すれば存続となり、不適応なものは滅びてゆくことになるのでしょう。
- 200 -
「日常性」 の中にも必要となる 「非日常性」 は、劇場や球場、山岳等の非日常環境へ
と立ち入っての 「心身の体験」 を共にするものでした。しかし今やコンピュータ、情報社会
の中で、バーチャル・リアリティ(仮想現実)として脳が意識することにより、「心身の体験」 をと
もなう必要がなくなります。コンピュータ技術が進化することにより、人の意識はリアルかバー
チャルか、判別が難しくなりそうです。リスク管理のシュミレーションはバーチャルで良いです
が、生きていることの実感の素晴らしさは 「リアルな体験」 でこそ知ることができるのです。
4.死 生 観 ~ は か な さ と い う 情 緒
これまで近代社会の多くは、科学的実証主義による進化を果たしました。 「虚な社会」 、
「抽象の世界」 は科学的実証性に欠けるとして、排除されます。そもそも法治社会となる近
代以前の民は、宗教や軍事力等の権力によって支配されていました。武力はもとより、神話
による制度と戒律等の虚実な権力、その統治手法を変えたのが 「普遍性と客観性を取り入
れた近代科学の実証力と、資本経済を取り入れた法治主義社会」 への改革でした。
中世、天動説が常識だったキリスト教社会の中で、地動説を唱えて異端審問で終身刑と
なったガリレオ・ガリレイは、死後 350 年後の 1992 年にようやく、ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2
世によって異端審問の誤りを認められ、名誉回復が成されたといいます。この例のように、科
学の実証力が社会の主流となったのは、まだ近代に入ってからの短い間です。そして現代、
その科学のもたらす技術力は格段に進化し、人類の制御・抑制能力をはるかに超えるまで
に至っています。核分裂・核融合エネルギー利用と制御の限界、核廃棄物処理、遺伝子操
作による複製生命と再生医療等による 「自然な生死・寿命と人工生命・人為的延命の問題」
等々、人類の制御・抑制能力限界をはるかに超える、人工システム運用をしています。その
ことは、生殖行為による種の継承と、生死における倫理・社会問題として、未だ議論は成熟
していません。人類未来社会の中心課題として、主要な問題です。
- 201 -
分子生物学者・福岡伸一氏は 『動的平衡(木楽舎、2009、P-231~232)』 の中で、【生命体
を構成している分子は、すべて高速で分解され、食物として摂取した分子と置き換えられて
いる。身体のあらゆる組織や細胞の中身はこうして常に作り変えられ、更新され続けている
のである。だから、私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別
物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとして私たちを作り出し、次の瞬間
にはまた環境へと解き放たれていく。つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けてい
る。私たちの身体自体も通り過ぎつつ分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れの中で、私たちの身体は変わり
つつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が 「生きている」 ということなので
ある。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように 「動的な平衡」 という素敵な名前
をつけた。】 とし、【生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのもの
に依存しているのではなく、その流れもたらす “効果” であるということだ。生命現象とは構
造ではなく “効果” なのである。】 としています。つまり 「身体」 とは、環境の流れの中で
分子が一時的に滞留し、動的平衡を保った構造体であり、「生命現象」 とはその流れの
「効果」 であるとされます。
この 「効果」 は一人の人間にとっては一回限りの 「人生」 となりますが、人類の種の継
続からみれば、滞留したよどみの中で動的平衡を保った身体となり、連続した流れ(アナログ)
の中での固形物(デジタル・パルス→ノイズ)のような、ちっぽけな存在でしかありません。しかし
このちっぽけな存在の中にも一つ一つの意識があり、その意識はちっぽけな存在の生起・
消滅を 「はかない」 ものと捉えるているのです。
この 「はかなさ」 は、人の 「美意識」 に同調します。たった一度だけの現象と出会う感
動、再現性の少ない現象と出会う感動、出会いは 「感動の情緒」 を育みますが、別れは
「哀愁の情緒」 を記憶に残します。その印象を言葉に残せば文学となり、キャンバスに残せ
ば絵画となり、楽譜にのこせば音楽となります。しかしコンピュータの記憶装置にデータとし
て蓄積させ、いつでも取り出し再現できることは、感動と哀愁の情緒を失ってゆくことになる
- 202 -
のでしょう。反復可能なバーチャル・リアリティ=リアリティとなり、そこに 「感動」 という心の
作用は残るでしょうか。私たちの孫の世代では、このことを真剣に考えなけらばならないでし
ょう。それはまた、人の 「死生観」 においても当てはまります。
人工生命や人工知能、再生医療などの文明技術は、 「自然生命の死」 がもたらせる一
回きりの “はかなさ” という情緒的感覚を、きっと失わせることでしょう。そのことはまた、これ
まで山岳体験動機の大きな要因だった 「死生観」 をも、不要なものとしてゆきます。死生観
をともなわず、安全を担保して競う、「スポーツ」 そのもの文化へと、すでに山岳文化は舵が
切られています。 第 6 章、「反」 の世代の論者としては寂しい限りですが、「合と新」への変
遷の理由を少しでも理解、解明しておくことが、 『老いへの道標、老いからの道標』 となれ
るのではないかと、背伸びして思案するものです。
「合と新」 の 「何でも有り」 の世界は宇宙のカオス(混沌)と同類であり、社会的アナーキ
ー(無政府)な状態です。すでに数学の世界では、1983 年にマンデルブロによりフラクタルの
概念が導入され、各種のスケーリング法によって、カオスの中から複雑な相似形、近似形を
読み解き、解析手法を編み出しています。記憶の過程や自己相似性、カオスの複雑なフラ
クタル次元や臨界現象等々、コンピュータとの組み合わせにより自然現象のシュミレーション
は実態に近似してきました。その代表的なものには、天気予報があります。孫の世代までの
文明進化を見通せませんが、閉じられた世界の中には求心力と遠心力でバランスをはかり
ます。では 「どこで閉じるのか(閉鎖系)」 には様々な設定があります。宇宙の系、太陽の系、
地球の系、国の系、都市の系、家族の系、自己の系・・・・・。しかし人の意識は閉じられた系
になく、開放されて様々な系にアプローチします。さすれば 「人の意識とは、一つひとつの
宇宙次元」 なのでしょうか。その先はもう私に分かりませんが、人の意識とは、大変なものだ
ということが理解できます。
このようなことを考えていると、果てしなき宇宙も、人間の心も、スケーリング法を用いれば
同じように思えてきます。生命あればこそ心が有り、心があれば宇宙も理解できそうな・・・。
なんと人間は、素晴らしくも不可思議な生物ではないでしょうか。
- 203 -
5.差 異 共 存 未 来 社 会 の 模 索
第6章3節において、『(父権社会的近代以降) 人の意識・文明・文化=環境の複素な世
界構造』 を提示しました。「老いからの道標」として、次頁の 『(差異共存未来社会) 人の
意識・文明・文化=環境の複素な世界構造』 を提示することとします。
その違いは何か、以下に整理してみます。
1) 「公共」 概念の違い。
・従来 ・・・ 個々細部に至るまで社会規範を定め、その同一性をもって公共とする。
(細かなルール)
・未来 ・・・ 個々細部の違いを認めて出発点とし、共存の必要最小限を公共とする。
(大きなルール)
2) 「権力と価値観」 の違い。
・従来 ・・・ 国家(中心)という境界を定め、相対的多数を形成した価値観(権力)によ
り政治体制を整え(立法)、行政権力により執行(支配)する。境界周縁の
争いを巡る紛争解決の最終手段は戦争とした。国境や支配は概念に
すぎない。
・未来 ・・・ 男女・自他の自然発生的自主差異を受容し、ゆるやかな相補的結合によ
り集団社会を形成する。集団社会相互はインターネットウエブのように自
主・自由な結合により共存する。明確な国境や支配の概念はなくなり、パ
ラレルな差異を認める平和共存社会を目指す。
ニーチェは思想上で 「神は死んだ」 と提起し、ニヒリズムを展開しました。一方で量子力
学の 「不確定性定理」 は、自然界の未来は確率的に予測できても、絶対・完全がないこと
を明かしました。「神」 を完全者の代名詞としてきた人類の文化にとり、この両者の見解は衝
撃です。人間の心には 「神」 にすがりたいようなピンチは、幾度も訪れます。生死に直面し
た登山体験を通し、自らの 「意識と環境の関わり」 は別に探求し続けたいと思っています。
- 204 -
人の意識・文明・文化=環境の複素な世界構造
(差異共存未来社会)
[ 図―4 ]
|Z | i =
人の意識
⇒ 人の意識
相対的限界/絶対的限界
日常の中の
(知性≦感性)
フィードバック(生/負)
(権力価値調整能力)政治
非日常性
(理性≦ 心)
(環境適応調整能力)思想
⇒ 権力(政治)≦価値⇒ 幸福
<他者・差異性>
(個々中心)
男女・他者の差異受容→平和主義
意識 =|X|・|Y|i ←|Z| i
(リアルタイムな環境)= 複素な多次元世界
バーチャル→ 不連続
共鳴、共振
情
美
共感・感動
理性≦心
(4次元意識)
意識 <4Dメディアポイント>
抽象世界
位相
●
θ
X
Y
(相補主義)
差異相補性
<ソフトパワー>
(必要性への目的)
Y=文化
(4次元)
実な社会
不完全性
不確定性
意識力
●N
バランス
限界
人工物
自然物
優越願望抑制
生存の十分条件
(意識の欲望)
(ウエブ的連結)
Z
虚な社会
意思
↓
国際法治主義 ⇔ 諸制度設計
主観
意味・価値の表現様式=時限性(情
t4
余剰削減
<ハードパワー>
(必要性への手段)
X=文明
実存世界
<公共→差異共存>
自然代謝
生存の必要条件
(無意識な欲求)
客観
生命=種の継承保存 ・生死
日常性
食糧 ・労働 ・科学 ・技術
報)、 文芸・スポーツ・遊び・学習思
道具 ・都市 ・エネルギー
想・宗教・死生観・家族、 意味と価
リアル→ 非連続
値の表現様式=歴史、資本(公共財)
人間環境
進化の一方向性=成長抑制
異種許容
(実存世界)
(抽象世界)
人工環境
意識 =|X|×|Y|i ←|Z| i = 「実な社会」 + 「虚な社会」
⇒ リアルタイムな環境 ⇒
人と環境の総和
⇒
複素な多次元世界
<4Dメディアポイント>
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エピローグ.
学者と技術者と
2014.06.
エピローグをどのように締めるか、困っていました。ちょうどその時妻から、「早稲田大学で
構造構成主義のシンポジュウムがあるから一緒に行こう」 と誘いがありました。インターネット
で構造構成主義なるものをチェックすると、プロローグで述べた内容に類似する、文系と理
系を統合する学者サイドのアプローチと見受けます。しかし私は腰痛からくる神経の痛みで
座位が苦痛な状況にあり、不参加とします。出席した妻(看護学博士)にテキスト、『思想がひ
らく未来のロードマップ<構造構成主義研究6>』 を購入してきてもらいました。その後、イン
ターネットから 『構造主義とは何か (西條剛央、北大路書房、2013.05 第 6 刷)』、『構造主義科
学論の冒険 (池田清彦、講談社、2013.08 第 12 刷』 、 『現代思想の冒険 (武田青嗣、筑
摩書房、2013.06 第 20 刷)』 、 『現象学は<思考の原理>である (武田青嗣、筑摩書房、
2010.11 第 4 刷』 、 『実存からの冒険、西研、1995.12 第 1 刷』 、を購入しました。これらを
読み解き、論旨展開・応用は別な機会におこなうとしても、人文系の非データ的な部分を科
学として橋渡しをする思考方法、論理展開、構造構成概念の定式化を図り、哲学・人文系を
科学的に統合しようとする意図を読み取りました。
妻は看護学者(教授)です。看護は生身の人間が対象ですから、身体の医術医療的な理
系部分と、精神を扱う文系部分を併せ受け持ちます。しかし現代科学の専門深化の中で、
医療・治療技術は医師が負うとしても、そのケア技術は高度化しています。そしてなによりも、
病んだ人の心のケアは千差万別であり、これほど難しい課題はありません。それぞれ異なっ
た人格をもつ人を受け入れて看護することは、理屈から述べれば百人百通りのケアがあるこ
とにもなります。その中で共通する概念、理念、公理、定理は存在するのか、とても困難な課
題です。看護師業務は高度な医療・治療の技術部分と、一人ひとりで異なる心という精神部
分を統合し、個々の患者さんと対面する総合職種です。
近代以降の科学は要素解体深化を果たしてきましたが、それら解体した要素からの再統
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合は、おこなってきませんでした。現代、その科学的成果を批判的に総合・統合化する機運
が進んでいます。看護研究においても、科学と称し数量に変換して統計処理する量的研究
から、一人ひとりの人格差異を前提とした質的研究へと進化し、さらにそれらを総合的に捉
え直す研究として、「構造構成主義」 は役立っていると妻は云います。
研究の専門深化から総合化への流れは、時代の要請でもありましょう。文系の人間研究
分野において、2006 年 5 月、「総合人間学会」 が設立されました。その新聞報道を見て、私
も 2006 年 9 月に入会しました。哲学、法学、教育学、社会学・・・人文諸科学の研究者がほと
んどですが、数学者やジャーナリスト、技術者も若干名含まれます。私は電気、情報通信分
野の技術者として登録しています。
1960 年代から登場した 「構造主義」 はイデオロギーとしてでなく、方法論として現代に定
着しています。数学、言語学、生物学、精神分析学、文化人類学、社会学などに広く応用さ
れていると云われます。研究対象を構成要素に分解し、その要素間の関係を構造化するこ
とにより理解する方法論とされます。そして 1960 年代後半には、構造主義から 「ポスト構造
主義」 へと進化します。さらに 1970~1980 年代にかけて流行となった 「ポストモダン」 思
想へと変化をとげ、1990 年代で流行も廃れてきます。世はコンピュータと情報通信時代を迎
えました。ポストモダンの代表的思想家ジル・ドウルーズは、新たな社会像として 「自由な管
理社会」 を思い描いていたと云われます。そして 2001 年 9 月 11 日アメリカ、世界貿易セン
タービルに2機の旅客機を激突させた驚愕なテロ事件は、“テロとの戦い” と称し、世界をく
まなく監視・管理の対象とします。
人間を科学するハードサイエンスは、客観的で確実に再現可能なものにより、構造化が
図られます。それは量的なものとして数値化を図り、「客観的」として数理系実験科学者の立
場を築き、科学を呼称する文系部門も追従します。
他方で人間のための意味や価値という、質的な問題を扱い構造化することによって理解
を深めるソフトサイエンスは、心という多様さと曖昧さを対象としますので、その構造化モデル
は複雑多様となり、構築することができません。
- 207 -
プロローグにも記しましたが、私は電気技術者を今、現役引退するところです。
電気は宇宙現象から人間生活に至るまで、特に近代以降の文明・文化のインフラとして
主要機能を担っています。その主役の電子は、素粒子から電磁気力、電磁波、電気現象、
制御、情報通信、安全管理等々の主役です。電気、つまり電子の働きは、常に局所と全体
の関わりを構造的に捉え、理解、設計、説明を構成する、「構造構成主義概念」 を含んでい
ます。思想・哲学のよう、言語によって概念化するまでもなく、個々の素子特性という局所を、
目的という全体のために構造構成し、それを目的に向けシステムとして組立てることが 「設
計」 となります。様々な人間社会現象・機能は、電気の物理現象・機能に置き換えて理解、
説明することもできます。私は 15 歳から電気理論を学び始めて以降、いつも 「部分と総合」
に関心を持ち、システマチックに考えました。部分は個別現象であり、電気理論や電磁気学
で理解することができます。さらに 18 歳以降においては、登山体験と哲学的思考が加わりま
す。全体は宇宙であり、社会、人間であることの意識が加わります。部分は素粒子(電子)ま
で還元され、総合は宇宙まで拡がります。
18 歳で就業してから主に、電気回路や電気設備の 「設計」 を生業とします。電気回路の
設計は、全体(目的構成)を意識しながら部分詳細を構造化しますが、完結するまで幾度も部
分と全体の往復精査を繰り返します。常に全体(目的構成)を意識におきながら、部分詳細を
再構成し直す作業の繰り返しとなります。「設計」 とはこのように、あらかじめ定まっている機
能をそなえた素子(部分)を、目的概要構成(全体)に向けて構造化させることと云えます。す
べからく 「決めることが設計」 であり、計算は決定するための裏付け、設計図面は決定内容
を他者へと伝達するメディアとなります。「構造構成主義」 は無意識な技術者の実践があり、
学問的探究は設計の逆手順とも云えます。学問は不明な対象を構成要素に分解し、その構
造を明らかにして、全体構成とその意味(趣旨・目的)を理解し直す手続きと云えましょう。
このように工学的実務技術において、すでに 「構造構成主義」 手法は活用しているとこ
ろです。もし仮に電気設計の全てを図面ではなく言語表現したとすると、機能表現は可能と
しても、その動作内容を言語で説明することは極めて困難です。それゆえに部品の機能を
- 208 -
記号化(シンボル)し、機能構造(部分)と目的(全体)を結線図(シーケンス)として図解します。
機能を簡略化表現するためには、フローチャートやブロックダイヤグラムという図解方法もあ
ります。しかしここまではアナログ世代の手法であり、可視化が容易でした。そして現代のデ
ジタル世代において、機器の動作手順決定や指示は、コンピュータのプログラム言語によっ
て書き込み記憶させます。記憶素子内部の可視化はできなくなり、いわゆる 「ブラックボック
ス」 と称されます。それは脳や身体に刻まれた、暗黙知のような存在と同類です。
統合する目的はそれぞれの製品であり、建築物であったり、装置を複合機能させるシステ
ムでもあります。それゆえに学問分野での学際や総合、統合化への障害は、既成権威という
縄張り争い解消にあると思えます。つまり、宇宙から素粒子、社会から人、微生物や遺伝子
まで、様々な対象のどこまでを領域とするかが問題となります。そして環境の複素な世界構
造を階層ごとに捉えるとするなら、限りなく細断可能と云えます。
私は電気技術者であり、フローやブロックダイヤグラム、系統図等の図解に慣れています。
図解することは、全体と部分の関係を可視化するものです。それをどのレベルで切り取るか
により、表現方法や精密度が変わります。部分の詳細は限りなく細分化できますが、それが
全体とどのように関わるかを示すのが、その図解の役割です。つまり、技術の作為によって
実現させる関係(機能)と目的(結果)を、直視的にわかりやすく表現するものであります。
現代のコンピュータ時代において、プログラミングとはコンピュータ言語(無主観)により、あ
らかじめ設定した結果(答え)を求める、過程の関係性を定義しつくすこととなります。そのこと
は物事の関係性を特定し、あらかじめ定めていた機能を確保することにほかなりません。同
類で別な複数の作業に共通させる決め事(規約、手順書等)は、プロトコルと云います。定義さ
れ、決められた手順によって演算するのがコンピュータ(機械)であり、出た結果(出力)を再
認識して物質を制御すると、文明製品を造りだします。また同様な結果(出力)を再度機械へ
インプットして生産するのが、オートメイションとなります。
同様に人間社会のプログラムは個人の意識から始まり、複数への集団、組織へと波及し、
習慣、規範、規則、規程、法律等のプロトコルが定められます。共通する人の言語により、人
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の存在は制御されてゆきます。人間の言語には主観と客観が混じっているため、送り手と受
け手との間で理解の相違(誤解)を生じます。この曖昧さこそが人間的でもあり、文化必要の
要因ではないかと考えられます。全てがコンピュータ言語のように曖昧さを除いてしまえば、
結果(答え)はプログラム通りに収斂してゆきます。科学の法則が宇宙のプロトコルであり、人
類の進化プログラミングが文明の中身であるならば、人類はその必然性に則って進むほか
はありません。しかし意識が思考を刺激し、その思考が必然に抵抗、あるいは無視するなら
ば、進化のスピード(時間)や方向性(位相)を変えることができます。このことが文化の持つ意
味であり、役割(機能)であると考えるのです。進化に同調する心地よさは、美の原点となりま
す。一方進化に逆らい、無視することの心地よさもまた、美の反面であります。私が電気を好
きになったのは前者の 「無意識な欲求の同調」にありそうです。他方、登山による自然への
抵抗は、後者の美意識の 「意識的欲望の現れ」 と云えます。このような人間意識の二重性
により、文明と文化を分けて理解することができるのではないでしょうか。
マインド・タイム(ベンジャミン・リベット著、下條信輔・訳、岩波書店、2011 年 12 月、第 8 刷)による
と、『 「現在は、過去でも未来でもない。現在を経験するということはすなわち、無時間性の
現象である」 と。しかし、もし感覚刺激の経験が、0.5 秒間の遅延の後、実際に前に戻るの
であれば、この経験は事実上 0.5 秒前に起こった事象の一つとなるのです。したがって、主
観的な「現在」 は、実質的に過去の感覚事象であり、「無時間性の」 ものでは決してないの
です。』 、とあります。文章後半であるように、“ 現在の意識は 0.5 秒前という過去の感覚事
象のもの ” と云います。身体や感覚器官は、気づき(アウエアネス)の 0.5 秒前に体験を経た、
過去の事象を現在と意識するわけです。それゆえ 「その時」 という次元において意識は、
無意識なままで脳や身体の感覚器官へと、情報をインプットしているわけです。これが脳と
意識の今日的解釈となっています。経験の 「その時」 は無意識の領域ですでに始まり、そ
のあと約 0.5 秒後に気づき(アウエアネス)となって意識化される、と云うことです。この一人ひと
りの認識事象が 「主観(感性)」 であり、その認識事象が他の人々にも共通し、再現可能で
普遍的と認められるものを 「客観(理性)」 として区別しているわけです。つまり現象学的表
- 210 -
現をすれば、「客観は主観の普遍的な部分」 となりましょう。
デカルト (Cogito, ergo sum = 我思う、ゆえに我あり) に始まるとされる 「主客分離」 の二元
論的思想は、『真理の探求』、『哲学原理』、『方法序説』 などにより、自然学(科学)と形而上
学(精神の学)とに分かれてゆきます。デカルトの 「我思う」 は数学の公理のような、合理的
に真理を認めようとする理性であり、これが 「客観的」 という視点を与えるものとなります。こ
の客観的視点が自然学=科学の視点となってゆくわけです。もう一方の感覚的、悟性的、
精神的な 「我」 は形而上学として分離されてゆきますが、デカルトは虚像・誤謬・曖昧なも
のを除外して、合理的理性に収斂させた哲学原理を確立してゆきます。
近代科学の目覚しい発展は、神話や宗教が神の世界とした宇宙空間に、人類が長期滞
在できるまでの科学技術進化を果たしています。その事実は社会における 「科学的客観
性」 を 「情緒的主観性」 によって否定できない事実として積み上げてきました。それゆえ
科学的客観性は、情緒的主観性に優越してきます。学術分野も同様で、情緒的表現は退け
られ、科学的、客観的表現が優越してきました。科学的客観性によって説明する方法には、
帰納法と演繹法とがありますが、新たな発明や発見は 「帰納法」 によって説明・証明されま
す。一般にはこれが 「科学」 とみなされます。
※ 帰納法=個別的・特殊的な事象から、一般的・普遍的な規則、法則を見出そうと
する推論方法 (前提が真であっても、結論が真であるとは限らない)
※ 演繹法=一般的・普遍的な前提から、個別的・特殊的な結論を得ようとする推論
方法 (前提が真であれば、結論も真となる)
しかし現代、普通の人々も、その欠陥に気づきはじめました。帰納法によって排除した個
別事象、特殊事象こそが、それぞれの個体を識別し、個体の性質・特性の多様な存在であ
ることを見直し始めたからです。「総合的、統合的」 に宇宙、世界、人類、人間を見直す気
運は学問ばかりでなく、文化が文化である由縁を構造的に気づいたからでしょう。人間を細
胞や遺伝子レベルまで分解・理解してきた科学技術、ではその局所から宇宙・世界・人間の
- 211 -
全体を語る物語(演繹)があるでしょうか。・・・否。人類は、私たちは、私は“どこから来て、ど
のように生きて、どこへゆくのか” 、神話や宗教世界が失った 『大きな物語(思想)』 を探し
始めたと思うのです。つまり、新たな 『総合人間学』 をです。さらに宇宙の大きな物語(宇宙
の歴史)にまで関心をつなぐ人間知能は、個々独立した小宇宙とも考えられます。もしこの大
きな宇宙と小さな宇宙が相似であるならば、「フラクタル」 という数学的思考により、自己探
査することが宇宙を探査・理解する一つの手掛かりになるのかも知れません。演繹手法の活
用です。しかし物質は宇宙の 5%以下のマイノリティ (P-122) であることを忘れてはなりません。
フラクタル=(フランス語:fractale)フランスの数学者ブノワ・マンデルブロが導入
した幾何学の概念。図形の部分と全体が自己相似になっているものを云う。
無限な精度を求めれば計測も無限となる。それゆえスケーリング(ものさし)を定め
た有限の中に対象を取り込み、近似的に対象を補足、理解、応用することができる。
帰納法による科学的客観性は、無矛盾な論理の閉鎖系世界の中から人類の大きな物語
は説明できません。前提を真とする事実からは、演繹法によって開いた開放系世界、宇宙
へ向かい、大きな物語とする人間総合・統合の推論を組み立て直すことの意味が、理解して
いただけるかもしれません。
技術者としておこなう設計では、部分(部品) を全体に位置づけて目的(機能) を果たすた
めに構造構成をおこなうこと(システム・デザイン) が、私の業務でした。技術の世界では議論
する余地もない当然な手順です。客観性と帰納法により細分深化した学問の世界は、無矛
盾を求める閉鎖系に閉じ込められ、全体像や大きな物語を見失ってしまったのでしょう。宇
宙における人の存在は小宇宙であったとしても、その知性と感性(主観)は他者(客観)をも含
んだ世界の中で矛盾した存在となります。この小さくとも不可解な人間を、客観は説明しつく
すことができないのです。だから一人ひとりには、 「それぞれの小さな物語」 を生きることに
なります。
- 212 -
このように考えてくると、学問による文理統合は時代の要請でもありましょう。さらにもっと
「大きな物語」 の文脈から考えると、以下となります。
英語の源流とされる 「インド・アーリア語族」 の西欧アーリア族により、二進法からなる科
学文明と物質文化は極度に進化しました。その結果は地球環境破壊と人類の持続が究極
な問題となります。その行き詰まってしまった現代社会において、インド・アーリア系の 「実
な世界観」 とは別な、精神文化を育んだ東洋のスメル(シュメール)系 「虚な世界観」 とを統合
することにより、より総合的な宇宙観となって世界を考えることができ、必然で健全な進化の
方向に展開すると思うのです。これらについては今後の研究探査テーマとして、本稿では省
略したいと思います。
このように知の遍歴を振り返ってみますと、山岳体験や交流に動機づけられた、【生きるた
め、そして、生きた学問】 が展開できたのではないかと思います。青春に山と出会い、生死
の体験を重ねてみると、本当に大切なものは何か、と気づくことができます。そして知の探求
は果てしなく、知るたびに、気づくたびに、本当の喜びは 【真実と出会い、真実を知る心】
にあることを確信することができました。「物心がつく」 という意識形成の幼児期から死に至
るまで、人は意識し考え続けます。
2003 年 3 月、日本山岳文化学会発足から今に至るまで、中村純二先生と奥様(あやさま)
のご助言や交流は、親子に近い歳の違いを乗り越えて、未知に向かう探求者の有り様を示
してくださいました。分け隔てなく接して下さいます先生と奥様から、本当のもの、こと、を知
る姿を学びました。真の実力とは何か。知識を詰め込んで整理、披瀝することではなく、自身
で心から理解、納得し、そして新たな創意、工夫が未来に向かって何がしかの役に立ってく
れるような、そんな体験を通して語る 『小さな物語(知の体系)』 を目指しました。
末尾となりますが、妻には一番の感謝をしなければなりません。1978 年末、エベレスト山
麓の旅で出会ってからの長きにわたり、着かず離れず、ともに生活し歩んでくれた今、それ
ぞれが最も望むことに励んでいます。三男を失って以来妻は、障害者とその家族の理解と
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支援に尽力し、「レスパイト・ケア・サービス」 という新しい概念を組み立て、実践(NPO 法人立
上げ)、そして現在は家族看護学博士となって大学で教えています。
私は設計業務を引退とし、好きだった哲学と思索を、山岳体験を重ね合わせて論考する
時を持つことができました。『老いの道標』 を手始めとして、さらに探求が続けられたらと思
います。子供の頃から知ること(学び)、考えること(哲学)、考えを組み立てること(設計)が好き
で、さらに行動(登山等)をともなった心・技・体の統合と、宇宙の必然をより多く知ることが好き
なのです。老いを迎えた今も、その線路の上を歩き続けています。本書は 「老い」 を迎え
た電気技術者が、登山体験を経て学んだ 「小さな物語」 により、同じく老いる人々への
「道標(道しるべ)」 として、さらに子や孫たちへ老いからの道しるべ(道標)になれたら、との思
いを込めました。学術論文ではない、老いの小さな人生物語です。
2014.06.10
(終稿)
【 設計業務主要作品 】
神奈川県立歴史博物館(関内)、三ツ沢公園球技場(J リーグ)、かながわアートホール(音楽ホ
ール)、横浜港シンボルタワー(航路管制信号)、金沢シーサイドライン本社・車輌基地(並木中央)、
横浜市栄区庁舎(戸塚区の分区)、県営瀬谷団地(大規模団地:瀬谷区)、横浜市俣野公
園野球場(ナーター照明・スコアボード)、新潟航空基地(国交省)、成田空港第2滑走路レーダー
基地(国交省)、花巻法務支局(国交省)、鹿島法務支局(国交省)、高崎職安(国交省)、
相模車輌検査場(国交省)、岐阜刑務所(法務省) その他公共建築、民間建築多数
【 著
書 】
・青春のヒマラヤに学ぶ : 文芸社、2001.01.01 刊行
・頂きのかなたに : 日本文学館、2003.08.15 刊行
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ISBN4-8355-1085-2
ISBN4-7765-0055-8
【 論
文 】
日本山岳文化学会 論集収録
・山岳文化環境(試論)
2004.11
第1号
・太陽光・風力発電と LED 照明
2005.11
第2号
・山村文化環境における電力照明と光害
2007.11
第5号
・山岳登山体験による文化と文明解釈の試み
2008.11
第6号
・山岳文化環境(その 1) ―
2010.11
第8号
山岳文化と総合人間学の融合(抄録)
【 所
属 】
・株式会社 システム・デザイン (代表取締役)
・株式会社 都市環境設計 (専任・電気担当主任技術者)
・建築設備技術者協会 正会員 (建築設備士)
・日本山岳文化学会 正会員 (前・評議員)
・総合人間学会 正会員
【 師
事 】
中村 純二 (博士)
(東京大学名誉教授=宇宙光学、第1~3次南極観測隊員、第3次越冬隊員
日本山岳会・元副会長、日本山岳文化学会・理事)
老 い の 道 標
登山と人・文明・文化=環境
(実践的総合人間学)
2014 年 6 月 10 日
著
URL :
者
終
稿
田中 文夫
hottp://home.catv-yokohama.ne.jp/55/f_tanaka
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【追 補】 中村純二先生からのコメント
◇
2014.05.29
正反合とは世の中の進歩の方式を、ヘーゲルが言い出した
言葉ですが、田中さんは複合論を越えて、人と山との対峙法
について深く考究され、私の方でも特に 「新と合」 の田中さ
んの高度な考えに、改めて教えられている状況です。
正に複素数的な死生観や宇宙史観が、今後の登山者の心
2014.02.19
丹沢:大倉にて
や魂の在り方まで変えていくのかも知れません。
今後の田中さんの論考の充実を期待して居りますが、学者と技術者も、より広い思
考法に立たないと、これからの社会を狂わしそうですね。
◇ 2014.08.05
『老いの道標』 では、私共のことまで詳
しく言及して頂いて恐縮です。正反合はヘ
ーゲルによる哲学的な進化の定式化を、
我々(東大) スキー山岳部の状況にあては
めて、部員や若いOBの奮起をうながした
だけのものですが、大きく取り上げて頂き、
私自身ももう少し考えてみたく思っていると
ころです。
そして日本山岳文化学会にとっても、こ
れからの登山や文化、自然や日本人の考
え方に至るまでの何等かの参考にでもな
れば等と考えているところです。これらの
点では田中様とも、もう少しお話合いでき
ればと、期待する次第です。 ~ 略 ~
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~ 略 ~
【追 補】
家 族 で祝 ってくれた引 退 記 念
2014.07.06
家族からの感謝状はノーベル賞や勲章よりも尊いものでした
感謝状
横浜港一周レストラン船=ロイヤルウイングで、家族の会食
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【追 補】
庭木に鳩の巣
2014.07
2014 年 7 月 10 日 台風
8号襲来。庭のノーセン
カズラをロープでしばっ
ていると、鳩の巣を発
見。鳩は【平和の象徴】。
7 月 24 日 18 時頃 バタ
バタとガラス窓をたた
き、雛の巣立。穏やかな
世界を願う。毎朝啼き声
7 月 14 日:庭木の鳩の巣で一日中温める母鳩
で目覚めるこのごろ。
7 月 22 日:大きくなった2羽の雛
7 月 14 日:庭木の鳩の巣
7 月 24 日:巣立ち(母鳩と2羽の雛)
7 月 25 日:母鳩が車の扉横のフェンスに飛来
「お礼にきたんだね!」と妻と孫娘の会話
7 月 17 日:くちばしくっきり2羽の雛
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