オーストリア近現代史邦語文献目録抄 小沢 弘明 第一次世界大戦後のオーストリアとその国際関係における位置を考察するばあい、従 来の視点は 1918∼1919 年のドイツとオーストリアの合邦(Anschluss)および 20 年後 の併合(Annexion)をめぐるものであった。オーストリア政治における三陣営それぞれ の独墺合邦構想とその対抗としてのドーナウ連邦構想、1919 年のサン=ジェルマン条 約による合邦の禁止とドイツオーストリア共和国のオーストリア共和国への改名、「生 存不能性」に関する議論と強いられた独立、これらが注目を集める論点である。 しかし、地域と地域構想の再編という観点から現代オーストリアを捉えるばあい、よ り小さな地域(さしあたり、ここでは州[ラント]レベルから考えることにするが)ごとの 特徴や偏差を理解せずに、共和国全体についての議論で済ませるわけにはいかない。地 域独自の再編構想と共和国の再編構想の対立・葛藤・同調の経過の中にこそ、再編の内 実が示されるからである。 この検討の前提条件として、日本国内で発表された基本文献の目録を作成し、どのよ うな論点に関心が寄せられてきたかを時系列で理解できるようにした。もとより、本目 録は網羅的であることを意図してはいない。まずは、各地域と地域再編の論点を示した 後、文献目録を付すこととする。 一、ブルゲンラント ブルゲンラントは、ハプスブルク帝国崩壊までハンガリー王国の一部をなし、西ハン ガリーと呼ばれた。第一次世界大戦後にサン=ジェルマン条約とトリアノン条約の結果、 オーストリア共和国領となったが、ブルゲンラント・クロアチア人、ハンガリー人、ユ ダヤ、ロマが多く居住する複合民族地域となっていた。オーストリア内でドイツ系住民 の割合が最も少なく、プロテスタントの割合が最も多く、最も農業的な州というオース トリア他地域と異なる特徴を有していた。ハンガリー王国時の婚姻法が適用される一国 二制度もブルゲンラントの「ハンガリー性」を示している。同時にブルテンラント・ク ロアチア人とブルゲンラント・クロアチア語 の存在は、北はモラヴィアに至るまで散在するクロアチア系住民の文化と生業の分析の 必要性を示している。 83 1. 三谷惠子「南スラヴ語の指示代名詞とブルゲンラント・クロアチア語について」 『Dynamis: ことばと文化』10 号 (2006), 90-126. 2. 三谷惠子「南モラヴィアのクロアチア語: 言語の維持と社会的背景に関する一考察」 『スラヴ研究』58 号 (2011), 61-90. 3. 三谷惠子「異国の中の祖国̶ブルゲンラント・クロアチア人の過去、現在、未来」 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/kokai/2007/mitani.pdf 4. 小澤幸夫「ハイドンゆかりの地を訪ねて」 『麒麟 (香川大学)』19 号 (2010.3), 43-61. 5. 大島一「オーストリア・ブルゲンラント州におけるハンガリー人マイノリティの言 語問題: ドイツ語との二言語使用状況に関する調査および考察」 http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/pdf_seminar/20100218_oshima.pdf 6. 大島一「オーストリア・ブルゲンラント州におけるハンガリー語話者調査記録旅行 誌」 http://www.umiznet.com/de/datenbanken/ddb/fachbereichsarbeiten/UMIZ_repor t_japanisch.pdf 『金沢大学文化資源学研究』12 号(2013.2), 133-142. 二、フォアアールベルク オーストリア最西端の州フォアアールベルクは、アールベルク山地の西、スイスと国 境を接し、1918/1919 年のオーストリア合邦計画が挫折していく際には、スイスと独 自に合邦交渉を進めていた。繊維産業の中心地であるフォアアールベルクは、繊維産業 の市場という観点からは、スイス・ドイツと関係が深く、労働市場という観点からはイ タリアとの関係が密接であった。そのため、フォアアールベルクはウィーンを中心とす るオーストリア東部との関係よりも、スイス・ドイツ・イタリアとの関係で理解するこ とが必要な地域でもある。 1. 井出策夫「オーストリアの工業: Voarlberg 州の繊維工業を中心として」 『学芸地理』 24(1970): 17-34. 2. 黒澤隆文「19 世紀東スイス・フォアアールベルクの農村工業と世界市場」『経済論 叢別冊 調査と研究』(京都大学経済学会)11(1996): 88-107. 84 三、ティロール・南ティロール ティロールは、ロンドン条約によってイタリアの戦争目的政策の対象となり、第一次 世界大戦後、ブレンナー峠以南の南ティロールはイタリア領となり、Alto Adige とい う名が与えられることになった。ファシズムとナチズムの双方によって翻弄された南テ ィロールについては、「南ティロール問題」という慣習的な問題の理解が存在するが、 1918/1919 年には独自にドイツとの合邦を模索した時期も存在した。また、ここには、 ナポレオン戦争時以来のティロールの郷党意識とオーストリア概念との関係など、地域 主義と国民国家との関係という論点系列に関わる問題が多く含まれている。 1. 飯塚浩二「ティロールの首都インスブルック優秀な Tiroler Volkskunstmuseum」 『社 會經濟史學』6 巻 3 号 (1936.6), 369-377. 2. 土屋正三「インスブルックにおける第 9 回オリンピック冬季大会と警察̶警察海外 資料̶28̶」『警察研究』35 巻 11 号 (1964.11), 120-128. 3. 嘉納孔「サン・ジェルマン平和条約による南チロルの割譲̶「南チロル問題と国際 法 (The Problem of South Tyrol, A Study in International Law) 」の第一部として」 『神戸法学雑誌』 21 巻 3・4 号 (1972.3), 119-146. 4. 前田タケ子「チロル地方 (オーストリア) 食生活文化考」『兵庫女子短期大学論集』 10 (1978.3), 92-98. 5. 山本充「オーストリア・チロル州における農業地域構造の変化̶標高段階を指標と した考察を中心として」『筑波大学人文地理学研究』14 号 (1990.3), 211-230. 6. 岡部由紀子「オーストリア・チロル地方テルフス謝肉祭の 54 日間」『季刊民族学』 20 巻 1 号 (1996), 74-89. 7. 木戸伴雄「観光都市における交通管理̶インスブルックの VKZ プロジェクトを事例 に」『月刊交通』28 巻 10 号 (1997.10), 81-95. 8. 岡部由紀子「春をよぶチロルの仮面祭」『季刊民族学』23 巻 1 号 (1999.1), 56-67. 9. 横山秀司「オーストリアのティロール州におけるソフト・ツーリズムと Ruhenebiet (静かな保養地域) 」『九州産業大学商経論叢』40 巻 3 号 (1999.11), 153-183. 10. 池永正人「オーストリアアルプスにおける山岳観光の発展と山地農民の対応̶チロ ル州フィス村を事例として」『人文地理』51 巻 6 号 (1999), 598-615. 11. 岡橋秀典「アルプス農村における住民の景観意識と景観保全: オーストリア・チロ ル州ナッタース・ムッタース 2 村の事例から」『地誌研年報 (広島大学総合地誌研究資 料センター) 』10 号 (2001), 35-68. 85 12. 呉羽正昭「東チロルにおける観光業と農業の共生システム」『地学雑誌』110 巻 5 号 (2001), 631-649. 13. 大澤元「避暑地南チロル」『長野県看護大学紀要』5 号 (2003), 75-84. 14. 國重裕「南ティロール文学はわれわれに何を語りかけているか?̶サビーネ・グル ーバー『漂泊』(1996) を参照項に」『ドイツ文学論攷』46 号 (2004), 65-80. 15. 村越信子「チロル民族芸術博物館についての一考察」 『東京家政大学博物館紀要』9 号 (2004.2), 147-161. 16. 小澤俊夫「糸つむぎ 東チロル・サンクトユスティーナ村の二週間」 『子どもと昔話』 23 号 (2005.4), 4-11. 17. 増田正勝「インスブルック大学の大学記念碑とその歴史意識」『広島経済大学研究 論集』28 巻 4 号 (2006.3), 1-20. 18. 小谷明「チロルの祭り̶オーストリア、アクサムス村のヴァンペラーライテン」 『季 刊民族学』32 巻 4 号 (2008), 55-72. 19. 山田素子「イタリア・南チロル地方の伝統木造建築の保存と修復̶ボルツァーノ自 治県における民家改修のケーススタディー」『住宅建築』403 号 (2008.11), 126-136. 20. Werner Stuflesser, "Organised Diversity Management in Europe and the Case of South Tyrol" (ヨーロッパの組織的多様性管理とイタリア南チロルの事例)『メディ ア・コミュニケーション研究 (北海道大学) 』60 号 (2008.11), 3-12. 21. 上松美和子「南ティロルの言語政策̶第二次世界大戦終結までの変遷」『東海大学 紀要 (外国語教育センター) 』31 号 (2010), 33-49. 22. 「イタリア南チロルにおける高収益を維持するリンゴ栽培」『海外果樹農業ニュー ス』111 号 (2011.2), 62-64. 23. 織野英史・磯本宏紀「ティロールへ負子と連枷を見に行く̶四国の有志による民具 調査」『民具研究』144 号 (2011.10), 88-91. 24. 今井敦「南チロルの歴史」 『Cronaca: 日伊協会会報』133 号「特集 イタリアの中 のドイツ 南チロル 」(2012.4), 3-7. 四、ケルンテン ケルンテン、とりわけ南ケルンテンは、オーストリアとセルビア・クロアチア・スロ ヴェニア王国との係争地となり、1920 年には住民投票(Volksabstimmung)によって帰 属が決定された。単にドイツ系住民とスロヴェニア系住民との相互関係というだけでな く、ヴェンド人 Windisch という帰属の形成過程など、検討すべき主題は多い。また、 86 スロヴェニア系住民のオーストリアへの帰属決定のプロセスや、自決 (Selbstbestimmung)概念と具体の意思決定との相互関係など、理論と現実との関係に ついて示唆する点も多い。 1. 木内 信藏「オーストリア ケルンテン地方の都市」 『地理学評論』16 巻 2 号(1940), 132-135. 2. F. ヤウス「ケルンテンの電力経済」『東北地理』15 巻 2 号 (1963.7), 67-69. 3. 赤司英一郎「クラーゲンフルト市のローベルト・ムシル・アルヒーフ」 『オーストリ ア文学』6 号 (1990), 39-43. 4. 海堀正博「オーストリアの渓流流域における古くからの施設の維持について̶オー ストリア国ケルンテン州での Studienreise に参加して」 『新砂防: 砂防学会誌』51 巻 5 号(1999.1), 78-81. 5. 南谷和伸「マルジナリア ハントケのケルンテン̶ドイツへの同化と反抗の風土」 『ド イツ文学論攷』42 号 (2000), 131-138. 6. 馬場 優「再国民化の比較政治学: ヨーロッパ・デモクラシーのジレンマ ケルンテ ン州の民族問題とオーストリア連邦制」『社会科学研究年報(龍谷大学社会科学研究所)』 43 号(2013.5), 103-115. 五、シュタイアーマルク シュタイアーマルク、特に下シュタイアーマルク(Untersteiermark)のセルビア・ク ロアチア・スロヴェニア王国への割譲は、「下シュタイアーマルク」という地域概念が はらむ問題性とともに、「スロヴェニア」という地域概念に対しても問題を提起してい る。ケルンテンに比し、地域概念についての論及は少ないものの、問題系列としては同 質のものとして研究されねばならない。 1. 中村浩之「グラーツでの一年間から (技術紀行) 」 『土木技術資料』18 巻 5 号 (1976.5), 266-270. 2. 島田荘平「レオーベン鉱山大学で暮して」 『日本鉱業会誌』102 巻 1177 号 (1986.3), 159-161. 3. 高辻知義「グラーツ訪問の記」『オーストリア文学』14 号 (1998), 43-47. 4. 富山典彦「Mariä Himmelfahrt im Sonnenschein, gibt es reichlich guten Wein.: 『シュタイアーマルクの農民暦』にみるオーストリア人の季節感について (黒崎宏教 87 授・藤本淳雄教授退職記念号) 」『ヨーロッパ文化研究 (成城大学文芸学部) 』18 号 (1999.3), 23-67. 5. 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター編『新発見「豊臣期大坂図屏風」の 魅力̶オーストリア・グラーツの古城と日本・新発見「豊臣期大坂図屏風」を読む: 国 際シンポジウム報告書』(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009), 93p. 6. 蘆田智絵「オーストリアの親教育 Elternbildung に関する一考察: シュタイアーマ ルク州の事例より」『広島大学大学院教育学研究科紀要』61 号 (2012), 35-40. 7. 久保山裕史・堀靖人・石崎涼子「オーストリアにおける丸太の生産・流通構造の変 化について : シュタイヤーマルク州の小中規模林家を中心として」 『林業経済研究』58 巻 1 号 (2012.3), 37-47. 8. 飯野祐樹・大野歩・七木田敦「就学前施設における動物介在教育に関する研究: オ ーストリア・グラーツ市の事例より」『幼年教育研究年報』34 号 (2012), 79-84. 9. 長谷部純・黒田健一・佐々木剛志他「オーストリア Styria 州における流水型ダム」 『ダム技術』304 号 (2012.1), 15-30. 六、ザルツブルク ザルツブルクは、ドイツ、とりわけバイエルンとの相互関係から把握すべき存在であ って、20 世紀の政治史においても、オーストリア全体とは異なる政治状況の下にしば しば置かれてきた。文献目録からは割愛したが、音楽祭に対する言及の多さに比し、ザ ルツブルク現代政治の特徴を把握しようという研究は少い。 1. 市川定夫「われわれは原子力なき社会を求める̶ザルツブルク非核市民会議の報告」 『朝日ジャーナル』19 巻 27 号 (1977.7.1), 36-39. 2. 森川京子「学校音楽教育についての一考察: ザルツブルクの場合」 『兵庫教育大学研 究紀要. 第 2 分冊, 言語系教育・社会系教育・芸術系教育』16 号 (1996), 155-162. 3. 金井年「都市建設と大司教̶ザルツブルク大司教ヴォルフ=ディートリヒ=フォン= ライテナウによる架橋工事を例に」 『金沢経済大学論集』31 巻 2・3 号 (1997.12), 19-31. 4. 海堀正博・丸井英明・木村正信「オーストリア国ザルツブルク州における危険区域 図に関するワークショップ」『新砂防』51 巻 3 号 (1998.9), 81-84. 5. 西京子『ザルツブルクからの贈り物̶スパイスと木の実の工芸』(海鳥社、2001). 6. 小澤祥司「オーストリア・ザルツブルク州の取り組み̶新築建築の多くに太陽光と バイオマスが導入されている理由」『ソーラーシステム』105 号 (2006), 18-23. 88 7. 後藤秀和「サルツブルク史と史料管理行政̶権力と地域の視点から」 『学習院大学文 学部研究年報』53 号 (2006), 19-43. 8. 山川和彦「オーストリア・ザルツブルク州におけるクリスマス市に関する一考察」 『麗沢大学紀要』84 号 (2007.7), 191-211. 9. 蒲谷昌生「ザルツブルクとグラーツで見た自然エネルギー利用施設」 『ソーラーシス テム』108 号 (2007), 8-16. 10. 清水美和「ザルツブルクから見た東アジア」 『学士会会報』866 号 (2007.9), 11-15. 11. 後藤秀和「近世サルツブルクにおける屠畜と食肉価格」 『高崎商科大学紀要』25 号 (2010), 203-214. 12. 小島郁夫「慰霊施設としてのホーエンザルツブルク」『軍事史学』47 巻 3 号 (2011.12), 113-131. 七、下オーストリア 下オーストリアについては、南ボヘミア、南モラヴィア、スロヴァキアとの境界領域 についての理解が必要である。Waldviertel などの地域研究に加えて、民族学・言語学 の貢献による研究が存在する。下記はそのうち言語学習という観点から子どもの交換 (Kinderwechsel)を扱ったものである。 1. 松岡弘「ヴェクセル: 多言語社会の中の第二言語学習の一風景̶チェコ・モラヴィ ァ地方と下オーストリア州の間の子供交換」『日本語と日本語教育 (慶應義塾大学日本 語・日本文化教育センター) 』37 号 (2009.3), 93-114. 八、西ハンガリー ここでは、ショプロンについての希な邦語文献を一点だけ挙げる。 1. 田中俊成「ハンガリーショプロン大学での 12 カ月間の滞在」『木材保存』23 巻 5 号 (1997.9), 251-259. 九、ウィーン ウィーンについては、文学や音楽を除けば多数の文献があるわけではない。歴史学や 社会科学の分野では、「ウィーン」を単独の地域として理解することはもはやできない 89 であろう。こうした都市内の地域研究(Stadtteilarbeit)は、ウィーンの社会空間の差異 を考慮に入れたものでなければならない。市内区(Innere Stadt)、市外区(Vorstadt)、郊 外区(Vorort)といった三層構造だけでなく、現在の 23 区それぞれの社会構造による差 異をウィーンという地域の再編過程に位置付けるという作業が必要となるだろう。 1. 小山秀子「維納市にける幼稚園に就いて」 『幼兒の教育』26 巻 2 号 (1926.2), 23-28. 2. 中沢一夫「ウィーンの都市計画の概要」『新都市 (都市計画協会) 』28 巻 11 号 (1974.11), 43-58. 3. 河竹登志夫「ウィーンにおける川上一座」 『比較文学年誌 (早稲田大学比較文学研究 室) 』18 号 (1982.1), 1-31. 4. 安川舜朗「ウィーンの言葉̶方言形態論素描」『追手門学院大学文学部紀要』16 号 (1982), 195-212. 5. 「ナチスドイツのウィーン要塞 (特集) 」『SD: Space design: スペースデザイン』 257 号 (1986.2), 5-28. 6. 河合研一「ウィーンにおける高齢化社会と社会福祉サービス」 『法律論叢 (明治大学 法律研究所) 』58 巻 4・5 号 (1986.3), 77-106. 7. 上野卓郎「抵抗下ウィーンの労働者スポーツ」『一橋論叢』103 巻 3 号 (1990.3), 340-349. 8. 稗田昭人「ウィーンのまちづくり」 『新都市 (都市計画協会) 』49 巻 6 号 (1995.6), 85-92. 9. 中村静夫「都市形成過程にみるヴィーンの都市計画思想」『大妻女子大学紀要 家政 系』33 号 (1997.3), 145-170. 10. 伊藤哲夫「ウィーンにおける近代集合住居について」 『国士館大学工学部紀要』30 号 (1997.3), 39-58. 11. 河田智成「アドルフ・ロースのウィーン中心街区計画について」『日本建築学会計 画系論文集』500 号 (1997.10), 251-258. 12. 河野純一「ウィーンのドイツ語̶代名詞・数詞」 『横浜市立大学論叢 人文科学系列』 50 巻 1 号 (1999.3), 71-82. 13. 牧恵子「ウィーン初等教育における実践報告」『名古屋短期大学研究紀要』38 号 (2000), 225-237. 14. 関野満夫「ウィーン市財政の史的展開̶「赤いウィーン」の財政政策」『経済学論 纂』 41 巻 1・2 号 (2000.7), 103-123. 15. 山下敦「ウィーン八区 ヨーゼフシュタット̶ミロ・ドールのウィーン」 『共立女子 90 大学文芸学部紀要』47 号 (2001.1), 101-124. 16. 三浦泰之「ウィーン万国博覧会と開拓使・北海道」『北海道開拓記念館研究紀要』 29 号 (2001), 177-206. 17. 仙波玲子「1890 年代ウィーンの「神経芸術」」『国際言語文化研究 (鹿児島純心女 子大学国際人間学部) 』8 号 (2002.1), 51-61. 18. 加藤哲男「ウィーンの都市計画」『名古屋産業大学論集』2 号 (2002.3), 54-61. 19. 野田裕康「ウィーンの都市構造と住宅政策」 『日本不動産学会誌』17 巻 1 号 (2003), 77-86. 20. 田中まり「ウィーンのヴェネツィア̶19 世紀末ウィーンの大衆娯楽施設」 『金沢星 稜大学論集』37 巻 2 号 (2003.12), 65-75. 21. 西村康「ウィーン大学考古科学研究所」『文化財と探査』5 巻 1 号 (2004), 20-24. 22. 今村哲也『ウィーン警察官教育の法と命令: 法化社会オーストリアの執行組織』(関 東学院大学出版会、2005). 23. 小林純「ヴィーン住宅建設史のひとこま (上・中・下) 」 『社会主義』517 (2005.10), 98-103; 518 (2005.11), 101-106; 519 (2005.12), 64-69. 24. 土居義岳「ウィーンのガゾメーター̶幸福なるポチョムキンの都市」『穹+』11 号 (2006), 2-5. 25. 澁澤幸子「ウィーンのトルコ人街ブリュンネン通り」『Anatolia news』118 号 (2007.1), 24-28. 26. 森川進一郎「欧州連合 (EU) 東方拡大とドイツ・オーストリアにおける多文化共生: ベルリンとヴィーンを中心に」『人文論集 (兵庫県立大学経済学部) 』42 巻 1 号 (2007.3), 29-46. 27. 笹川和郎「ヴィーン市社会住宅政策の歴史と現状の総括̶80 年の歴史と現在の革 新的発展 (その 1) (その 2) (その 3) 」『月刊住宅着工統計』265 号(2007.4), 6-10; 266 号 (2007.5), 6-11; 267 号 (2007.6), 6-11. 28. 清水正徳「ウィーン時代のトロツキー̶その足跡を追って」 『トロツキー研究』56 号 (2010), 101-123. 29. Alfred Mansfeld 著、志田昇訳「ウィーンとトロツキー」『トロツキー研究』56 号 (2010), 80-100. 30. 上野卓郎「赤いウィーンの労働者オリンピアード・1931 年」 『一橋大学スポーツ研 究』29 号 (2010), 25-31. 31. 澁澤幸子「ウィーン包囲」を想いつつウィーンを歩く」『Anatolia news』119 号 (2011.3), 17-21. 91 32. 東原正明「ウィーンにおける赤と緑の連立: 2010 年市議会選挙と赤緑連立政権の 形成」『福岡大學法學論叢』56 巻 4 号 (2012.3), 499-538. 33. 池田直隆「軍事史関係史料館探訪(67)ウィーン軍事史博物館」『軍事史学』48 巻 2 号 (2012.9), 193-196. 34. 田中達也「オーストリアの学校制度改革: ウィーンを中心に」『国際教育』18 号 (2012.9), 35-43. 35. 鼠入隆志「ITS 世界会議ウィーンとウィーンの都市交通 (1) (2) (3) 」『鉄道車両と 技術』18 巻 11 号 (2012.11), 16-23; 18 巻 12 号 (2012.12), 18-26; 19 巻 1 号 (2013.1), 18-26. 36. 小谷一夫「ウィーン伝説考: 旧市街の言い伝えについて」『兵庫県立大学環境人間 学部研究報告』15 号 (2013), 89-98. 37. 柴山多佳児「Wien Hauptbahnhof ウィーン中央駅の暫定開業」『鉄道ピクトリア ル』63 巻 4 号 (2013.4), 119-123. 十、オーストリア一般 オーストリア一般については、20 世紀初頭からの文献を掲載した。「オーストリア」 という地域概念の歴史的変遷について理解しなければ、20 世紀オーストリア史におけ る節目の年である、1907 年、1918 年、1934 年、1938 年、1945 年、1955 年、1986 年等の含意をそれぞれ理解することはできないであろう。 1. 農商務省山林局『墺太利国森林視察復命書』(農商務省山林局、1901). 2. 隈徳三『墺匈国軍政規要: 附・欧洲諸強国』(八角堂、1903). 3. 逓信省郵便貯金局『独白瑞洪墺国郵便小切手及振替計算制度調書』(郵便貯金局、 1910). 4. カール・レート『墺国郵便貯金機関小切手制度』(郵便貯金局、1910). 5. 農商務省商務局調『墺太利保険業令』(生産調査会、1911). 6. 農商務省商務局調『仏墺及匈国ニ於ケル家畜保険』(生産調査会、1911). 7. 小野村幸二訳『墺地利民事訴訟法』(有斐閣、1912). 8. 農商務省工務局編『墺匈国ニ於ケル工業保護政策』(生産調査会、1912). 9. 坪井九馬三『墺匈国と其皇室』(冨山房、1914). 10. 鹿子木員信『アルペン行』(政教社、1914). 11. 『墺匈國ニ於ケル戰時財政經濟施設ノ概要: 大正五年二月調』(日本銀行調査局、 92 1916). 12. 大日本文明協会編『墺地利匈牙利』(大日本文明協会事務所、1916). 13. 阿部秀助「最近に於ける墺国の財政」 『三田学会雑誌』10 巻 4 号 (1916.4), 521-532. 14. 「民族主義の研究(墺国に於ける独逸民族の地位)」『三田学会雑誌』10 巻 12 号 (1916.12), 1625-1646. 15. 『墺洪聯合議會 (デレガチオン) ノ經過 1917 年 12 月中』(外務省臨時調査部、 1918). 16. 外務省臨時調査部編『独墺革命事情摘要』(外務省臨時調査部、1918). 17. 衆議院議員選挙法調査会『舊墺太利帝國下院議員選擧法』(衆議院議員選擧法調査 會、1920). 18. 『同盟及聯合国ト墺地利国トノ平和条約並議定書』(朝陽会、1920). 19. 外務省『対墺平和条約解説概要』(外務省、1920). 20. 久留義郷『敗残の国々を辿りて: 独墺及巴爾幹』(日本評論社出版部、1921). 21. 「墺國兒童保護事業の情況」『幼兒教育』21 巻 6 号 (1921.6), 215-217. 22. 斎藤常三郎『墺太利破産法及和議法: 並・独逸破産予防業務監視法』(弘文堂書房、 1922). 23. 稲原勝治『ドン底に沈める独墺』(世界思潮研究会、1922). 24. 『常設国際労働機関ニ於ケル独墺両国ノ加入ノ承認』(外務省臨時平和条約事務局、 1922). 25. 加治時次郎『世界戦後の独墺に於ける基督教社会主義』(生活社、1923). 26. 日本銀行編『墺太利新発券銀行ノ設立: 其設立経過ト国際聯盟墺国救済問題』(日本 銀行調査局、1923). 27. 東京市政調査会『ウイーン市財政事情』(東京市政調査会資料課、1924). 28. 日本銀行『墺太利經濟事情並ニ英国 Trades Union Congress ニ就テ: 倫敦代理店 監督役大正十四年九月廿九日附報告』(日本銀行調査局、1925). 29. 「墺太利の成人敎育」東京市編『東京市社会教育叢書 第 6 輯 欧洲大陸に於ける成 人教育』(東京市、1925). 30. 『独墺救貧制度及救貧統計』(社会局社会部保護課、1926). 31. 貯金局編『業務資料: 墺太利郵便小切手制度関係法規第12輯』(貯金局、1927). 32. ワルター・シッフ著、長崎常訳『墺国農産政策』(文明協会、1928). 33. 荒木光太郎『墺太利学派経済学』(日本評論社、1929). 34. 『墺太利労働保険法』(社会局労働部、1930). 35. 『墺太利職員保険法』(社会局保険部、1931). 93 36. 農林省畜産局訳編『畜産彙纂』第 52 号 (墺太利牧野政策) (農林省畜産局、1932). 37. 生命保険会社協会編『墺太利保険契約法: 一九一七年一二月二三日』(生命保険会社 協会、1933). 38. 東京商工会議所『インフレーションに関する調査』第 1 巻 墺国諸産業に及ぼした るインフレーションの影響 (東京商工会議所、1933). 39. 『一九三一年墺國煙草專賣局年報: 昭和九年五月調査 前編』(專賣局長官官房總務 課、1934). 40. 文部省実業学務局『墺太利ノ新教育制度』(文部省実業学務局調査室、1934). 41. 「オ−ストリ−の幼稚園: キンダーガルテン、ペタゴギークに據る」 『幼兒の教育』 (1934.2), 7-12. 42. 山崎光子編『ベルギイ・オーストリヤ・ハンガリイ神話と伝説』(趣味の教育普及 会、1935). 43. 経済倶楽部『経済倶楽部講演』第 104 輯 (最近に於ける墺太利の対外関係・北支の 資源に就て) (東洋経済出版部、1935). 44. 『獨墺合邦と之に伴ふ經濟問題に就て』(日本銀行調査局、1938). 45. 渡辺経済研究所『独墺合併の経済的意義』(渡辺経済研究所、1938). 46. 日本工業倶楽部経済研究会編『独墺合邦まで: 其の背景となつた独逸経済』(日本工 業倶楽部経済研究会、1938). 47. 大野慎『爆発する世界改造の発火点: 独墺合邦後に来る欧洲の新事情』(亜細亜出版 社、1938). 48. 日蘭商事株式会社編『墺太利・ボヘミヤ・モラヴィヤの併合と独逸非鉄金属工業及 電気工業』(日蘭商事、1939). 49. 芦田均「墺太利滅亡史の考察」『史学』19 巻 4 号 (1941), 1-65. 50. 国際思想研究所 調査『独・墺併合の真相に就いて 1 』(国際思想研究所、1942). 51. 国際思想研究所 調査『独・墺併合の真相に就いて 2 』(国際思想研究所、1942). 52. 入江啓四郎「オーストリアの独立とドイツ資産問題」『財政経済 (大蔵財務協会) 』 2 巻 9 号 (1948.9), 9-18. 53. 「戦後におけるオーストリアの賃銀物価問題」『海外労働経済月報 (労働大臣官房 統計情報部) 』1 巻 7 号 (1951.6), 12-22. 54. 「オーストリア社会党」『外務省調査局第四課 調査と資料』1 巻 10 号 (1951), 28-31. 55. 川田寿「オーストリア労働組合」『海上労働』5 巻 8 号 (1952.8), 14-16. 56. 田岡良一「オーストリアの永世中立」『国際法外交雑誌』55 巻 5 号 (1956.11), 94 489-515. 57. 金東鎮「オーストリア中立について」『コリア評論』5 巻 1 号 (1960.12), 13-18. 58. 清水望「オーストリアの憲法裁判所」『早稻田政治經濟學雑誌』187 号 (1964.6), 1-24. 59. 戸田武雄「オーストリア・マルクス主義について」『駒沢大学経済学論集』2 巻 2 号 (1970.11), 76-89. 60. 工藤美知尋「オーストリア永世中立の成立過程」『政経研究』8 巻 1 号 (1971.6), 145-170. 61. 田坂仁郎「オーストリアにおける賃金・価格政策」『レファレンス』23 巻 4 号 (1973.4), 8-24. 62. 麻生茂「オーストリアにおける連邦軍に対する文民統制」 『レファレンス』23 巻 5 号 (1973.5), 5-33. 63. 飯豊道男「オーストリアの村での暮し」『実践英文学』7 号 (1975.7), 61-71. 64. 飯豊道男「オーストリアにおける口承文芸の採話」『ドイツ文化 (中央大学ドイツ 学会) 』24 号 (1977.3), 55-97. 65. 山崎泰彦「オーストリアの医療保障」『季刊社会保障研究』13 巻 2 号 (1977.9), 61-72. 66. 鈴木隆雄「オーストリア人神話̶アウストロ・ファシズムの時代におけるヴィルト ガンスの「オーストリア講演」」『人文学報』142 号 (1980.3), 83-114. 67. 豊田尚「オーストリアの農業統計」 『経済学論纂』27 巻 1・2 号 (1986.3), 189-212. 68. 内山隆夫「ネオ・コーポラティズムとその秩序政策論的定位̶オーストリアの「物 価・賃金問題同権委員会」を中心にして̶」 『經濟學論叢 (同志社大学)』39 巻 1 号 (1987), 598-638. 69. 中里皓年「オーストリアの外国人労働者問題」『世界経済研究年報 (近畿大学世界 経済研究所)』9 号 (1988.10), 101-125. 70. 内山隆夫「オーストリア・ケインズ主義̶第 1 次石油危機下のオーストリアの経済 政策」『産業経済研究』30 巻 3 号 (1989.12), 365-407. 71. 福田紀夫「オーストリア連邦公務員制度」 『人事院月報』43 巻 5 号 (1990.5), 26-29. 72. 佐々木英一「世紀転換期におけるドイツ・オーストリア社会民主党・自由労働組合 の職業訓練改革論̶国立教習作業場 (Staatslehrwerkstatt) をめぐる論議を中心に̶」 『鹿児島大学教育学部研究紀要 教育科学編』43 号 (1991), 185-210. 73. Ernst Fischer 著、土屋明人訳「オーストリア的国民性格の発展 (抄) 」『九州ドイ ツ文学』6 号 (1992), 1-30. 95 74. 村松恵二「<オーストリア>イデオロギーの論理構造̶戦間期オーストリアにおける ド イ ツ 国 民 意 識 と オ ー ス ト リ ア 国 家 意 識 の 分 裂 」『 法 学 』 55 巻 6 号 (1992.1), 1046-1069. 75. 松倉耕作「オーストリア 1 子相続法」『南山法学』17 巻 2 号 (1993.9), 113-153. 76. 藤内和公「オーストリアにおける労働時間短縮」 『季刊労働法』169 号 (1993.12), 117-143. 77. 森光昭「極右主義とオーストリア自由党」 『熊本大学教養部紀要 外国語・外国文学 編』32 号 (1997), 91-100. 78. ゲルハルト・エアシュニッグ「オーストリアにおける社会的パートナー制」『労働 法律旬報』1456 号 (1999.5), 40-49. 79. 佐藤伸行「オーストリア 極右台頭で歴史認識問われるオーストリア」『世界週報』 81 巻 12 号 (2000.3), 6-9. 80. 伊澤友之「オーストリア「中立」の現状と課題」 『海外事情』48 巻 9 号 (2000.9), 69-83. 81. 野田裕康「オーストリアの税制改革∼新政権の課題∼ ̶所得・資産課税を中心と して̶」『二松学舎大学國際政経論集』9 号 (2001.3), 171-186. 82. 原俊彦「オーストリアの出生動向と家族政策」 『北海道東海大学紀要 人文社会科学 系』14 号 (2001), 141-165. 83. 坂野久「『オーストリアドイツ語』をめぐって」 『近畿大学語学教育部紀要』2 巻 1 号 (2002), 1-10. 84. 村上了太「オーストリア・タバコの民営化過程」 『商経論集』31 巻 1 号 (2002.10), 85-99. 85. 松倉耕作『概説オーストリア親子法』(嵯峨野書院、2003). 86. 東原正明「極右政党としてのオーストリア自由党: ハイダー指導下の台頭期を中心 に」北海学園大学博士論文 博士 (法学), 2004. 87. 松岡由季「オーストリアとホロコースト (上) ウィーンの記念碑から考えるオース トリアの戦争責任」『戦争責任研究』43 号 (2004), 59-67. 88. 松岡由季「オーストリアとホロコースト (中) 反ユダヤ主義の温床と戦後補償問題」 『戦争責任研究』44 号 (2004), 44∼49,43. 89. 松岡由季「オーストリアとホロコースト (下) 映画に見るオーストリアの犠牲者神 話」『戦争責任研究』45 号 (2004), 48-53. 90. 松倉耕作『オーストリア婚姻・離婚法』(嵯峨野書院、2005). 91. 坂野久「オーストリア第二共和国の言語政策」『近畿大学語学教育部紀要』7 巻 2 96 号 (2007), 65-85. 92. 松倉耕作「パートナー婚に関するオーストリア政府草案について」『名城ロースク ール・レビュー』9 号 (2008), 295-318. 93. 坂野久「オーストリアの土着少数派と言語政策」 『近畿大学語学教育部紀要』9 巻 2 号 (2009), 185-211. 94. 上原史子「冷戦の終焉とオーストリアの中立」 『国際政治』157 号 (2009), 99-114. 95. 岩城ゆかり『新自然派ワインを求めて―オーストリアワインの魅力』(柴田書店、 2009). 96. 大友由紀子「オーストリアにおける家族農業経営の存続戦略̶農場継承者のライフ コース調査データを使って」『社会情報論叢 (十文字学園女子大学社会情報学部) 』13 号 (2009.12), 65-83. 97. 松村和徳・木川裕一郎・畑宏樹・山田明美『オーストリア倒産法』(岡山大学出版 会、2010). 98. 坂野久「 EU の言語政策と「オーストリアドイツ語」」『近畿大学教養・外国語教 育センター紀要 外国語編』2 巻 1 号 (2011), 1-19. 99. 伊藤圭介・平沢公彦・堀部泰正「オーストリア林業から学ぶ」『中部森林技術交流 発表集』 (2011), 117-121. 100. 髙橋義彦「政治思想学会研究奨励賞受賞論文 エリック・フェーゲリンのウィーン: オーストリア第一共和国とデモクラシーの危機」『政治思想研究』12 号 (2012.5), 342-370. 101. 井上尚英「産業医倶楽部: 化学戦からみた第一次世界大戦(24)ドイツとオースト リア・ハンガリー帝国の崩壊と化学戦の意義」『産業医学ジャーナル』35 巻 6 号 (2012.11), 69-80. 102. 田中達也「戦後オーストリアにおける幼稚園の発展過程」『川口短大紀要』26 号 (2012.12), 81-94. 103. 恒川隆男「オーストリア文学にみられる村と農民」 『世界文学』116 号 (2012.12), 33-46. 104. 瀬川裕司「オーストリア映画史 (2) 1914 年から 1925 年まで」『明治大学教養論 集』364 号 (2003.1), 105-127. 105. 横山秀司「オーストリア・アルプスにおける山岳景観の保全」 『日本山岳文化学会 論集』10 号 (2013.2), 139-143. 106. 奥正嗣「オーストリア立憲主義の展開: 厳しい時代的潮流の中で (1848 年∼1934 年) 」『関西大学法学論集』62 巻 4・5 号 (2013.1), 1545-1596. 97 十一、ハンガリー ここでは、1945 年までのハンガリーについて、とくにツラニズムに関わる同時代文 献を掲げた。 1. 松波秀實『匈牙利王国森林視察復命書』(松波秀實、1902). 2. 農商務省農務局『仏蘭西匈牙利馬政要覧』(農商務省農務局、1902). 3. 農商務省農務局『伊国及匈牙利国桑樹栽培法』(農商務省農務局、1902). 4. 農商務省商工局『匈牙利和蘭瑞典露西亜伊太利工場ニ関スル法令』(農商務省商工局、 1904). 5. 外務省臨時調査部『革命後ノ洪牙利政情 大正 8 年 4 月調査』(外務省臨時調査部、 1919). 6. 朝陽会編『同盟及聯合国ト洪牙利国トノ平和条約』(朝陽会、1921). 7. 『洪牙利養老癈疾及遺族保険法』(社会局労働部、1932). 8. 野副重遠『日本民族指導原理としての汎ツラニズム』(ツラン協会、1932). 9. 野副重次『汎ツラニズムと経済ブロック』(天山閣、1933). 10. 野副重次『ツラン民族運動と日本の新使命』(日本公論社、1934). 11. 今岡十一郎『ツラン民族運動とは何か 吾等と血を引くハンガリー』(日本ツラン協 会、1933). 12. 吉川兼光『友邦洪牙利』(新英社、1938). 13. メゼイ・イシユトワーン著、今岡十一郎譯『日本と洪牙利』(非売品、1938). 14. メゼイ・イシュウトヴアン『ハンガリー人の見た日支事変』(日洪文化協会、1938). 15. フエルヂナンド・メツゲル譯『洪牙利史』(牧製本出版部、1939). 16. 日本文化中央聯盟編『新しき盟邦ハンガリー』(日本文化中央聯盟、1940). 17. 今岡十一郎『ハンガリー民族詩』(愛国新聞社出版部、1941). 18. 今岡十一郎『ツラン民族圏』(竜吟社、1942). 19. 今岡十一郎『洪牙利より観たる汎スラヴ主義と汎ゲルマン主義』(日洪文化協会、 1944). 20. 今岡十一郎『欧洲文明に於ける洪牙利の位置』(日洪文化協会、1944). 21. アウノ・ア・カイラ 著、今岡十一郎訳『汎ツラン主義と大東亜新秩序』(帝都育英 工業学校、1944). 98
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