四島交流訪問に参加して 松永圭子 9 月 15 日より 19 日まで行われた、今年で 25 年目の北方四島ビザなし交流に、根室会よ り参加しました。 事前に、第 1 回研修 9 月 1 日(東京) 。第 2 回研修 9 月 14 日(根室)がおこなわれま した。 9 月 15 日(木) 根室 結団式 団員 総数 62 名(外務省・内閣府・国土交通省からと、 通訳 7 名・交流専門家 5 名・医師 1 名含む) ① 児玉泰子団長より、四島交流事業の留意事項 四島交流の目的は、「平和条約が解決されるまでの間、相互理解の増進を図る事。 四島交流は領土交渉の場ではない。ロシア人現島民と積極的な交流や意見交換を 行い、相互理解の増進を心がけ、様々な交流行事を通じて日本の魅力を紹介したり、 意見交換を行う中で日本の存在を意識させる。」と再度確認。 ② 鈴木咲子氏(択捉島出身の語り部)の終戦前の島の暮らし、引き揚げなどの話 ③ 石川一洋氏(NHK解説委員)の講演「最近の日ロ関係と北方領土」 ○宿泊はすべて交流の船・えとぴりか(1124 トン)に戻り船内泊。すべて団体行動。 グループでの行動が多い。との事でした。 ○事前にテスト問題が渡されており、北方領土の地理や歴史、訪問事業の目的などが 学習することになり、答え合わせがされました。 ・1855 年(安政元年) 日魯通好条約。両国の国境は択捉島とウルップ島の間と決まる。 1875 年 樺太千島交換条約。千島列島を譲り受ける代わりに樺太全島を放棄。 1945 年 終戦 1951 年 サン・フランシスコ平和条約。千島列島と南樺太の権利権限を放棄。 などの経緯。北方 4 島は外国の領土となっ 内岡港 た事のない日本固有の領土である。 ・面積は沖縄本島が 1,207 ㎞に対し、 択捉島 3,167 ㎞、国後島 1,489 ㎞ 国後島 択捉島 ・サケマス、ホタテ、カニ、エビ、ウニ、昆 布などの水産資源に恵まれ。クジラ、アザラ 古釜布港 シ、ラッコなどの海の生き物が泳ぎ。エトピ リカ、シマフクロウ、タンチョウなどが舞い。 陸上には熊、狐が住み。高山植物が咲き乱れ 根室市 ている。そんな自然がいっぱいの所です。島固有の生物もいます。 ・この地方は、ロシア本土と比べ、給料を非常に高くして人を集め、今は終戦時島に いた日本人の人口 17,291 人を超えつつあるそうです 出 航 を 待 つ え と ぴ り か 乗船式。 根室港出発 16 時 15 分 9 月 16 日(金) 国後島 ○入域手続き(北方領土は日本の領土なので、入国 とは言わない)を済ませ、はしけにて国後島 古釜布港上陸。 国後島の夜明け 国後島古釜布港 たは 沿し 岸け 警に 察乗 ?っ て い ○島にはバスがないので、島民所有の 21 台の車に 分乗して移動。 ○古釜布墓地 墓参。きれいに整 備されていました。 ○別のグループは 古 釜 布 墓 地 車 に 同 乗 の 三 人 海洋鳥類学者の 小城春雄先生を中心に、海岸でロシアの子ども 15 人と漂流物調査。 韓国や日本などから のロープやプラスチック類などが多いそうです。この調査は今回が最終とのことでした。 ○文化会館、博物館の視察。現地の係員が説明し てくれました。 「白いヒグマなど島固有の希少生 物が沢山あり、ここは自然の宝庫。2 万年前は北 海道から千島列島まで陸続きだった。」と言うの が興味深かったです。 説博 明物 を館 受で け係 る員 か ら ○島のシンボル的なロシア正教会見 学。きらびやかで荘厳。神父様のスタ イルもカトリック教会と似ていまし た。子どもが遊んでいました。可愛い 子たちで一緒に写真撮影してくれま した。 ○商店視察、小さな個人商店が並んで いました。肉・魚・野菜などの店は少 なく、日常の買い物は別の場所かな? ロシア正教会で と思いました。日常の買い物の 場を見てみたかったと思いました。 ○朽ち果てて打ち捨てられた漁船と思われる船の残骸が 岸辺に複数ありました。韓国の業者が、上の鉄の部分だけ を切り取って持って行ったと言っていました。韓国も北方 領土で経済活動をしているようです。 ○緊急避難所兼宿泊施設「日本人とロシア人の友好の家 (通称ムネオハウス)での夕食交流会 夕 食 交 流 会 友好の家と歓迎セレモニー 国後島はまだ整備がされていないようでしたが、2007 年 から始まった、クリル諸島(千島列島のロシア名)社会 経済発展計画により、千島列島に多額の資金を投入、こ の 5 年間ほどで経済発展し、所得はアップ。空港・住宅・ 病院・スポーツ施設、文化会館などが建設され、道路整 備などが進んでいる。との事でした。 副挨 行拶 政す 長る ダ ジ ラ コ 9 月 17 日(土) えとぴりか船内 ○択捉島上陸の予定が悪天候のため上陸できず。昼食に おにぎりを食べて天候の回復を待っている。 午後上陸断念決定。 ○船内で前日の国後島プログラム報告会。石川一洋氏の お話。小城先生から足の黄色いのがウミネコ。足のピンク なのがカモメなどの見分け方。渡り鳥・スズメも渡る。な 昼食中のえとぴりか船内 どの話を聴けたのも楽しい時間でした。 択捉に上陸できなかったのは残念でしたが、各地から参加した人たちと交流でき、様々 な話を聞く事が出来て有意義でした。 9 月 18 日(日) 択捉島 択捉島へ月岡港より上陸。車 21 台に分乗。 ○ここもクリル諸島社会経済発展計画での発展は目覚ましく、道路は一部舗装され、街 もカラフルで永住する人も増えて来ているとの事でした。 ○スポーツ文化会館。プールや行政区の建物などが出来、半年前に移転したそうです。 文化会館でベルウーソワ地区長と面会。 挨 拶 す る 地 区 長 「一部に両国関係の強化に快く思わない人 もいるが、燐善関係強化につながる」と挨 拶されました。 ○紗那墓地墓参。当初の予定では、草取り・ 清掃をすることになっていま したが、前日上陸できなかっ た事で日程がつまり、墓参の み。ロシア人の墓と混在して いたが、手入れがされず 荒れていました。草取りなど の整備をしたかったです。 紗那墓地墓参 ○択捉は活火山が多く温泉がある。 オダイバケ温泉を視察。公園のような 可愛らしい作りで島民の憩いの地。案 内をしてくれた他の車の運転手で、政 府の税金の使い道を監視する仕事を していて、島の現状に詳しい若者は、 択捉に来て 8 年になるそうですが、 オダイバケ温泉 一緒に足湯をしながら「ここに永住する気があるのか」を聞いたところ、 「暮らしやすく なってきているのでそれも良いかと考えるようになっ ロ シ ア 戦 争 記 念 碑 てきている」と言っていました。 ○別の班は、文化交流で陶芸・日本庭園の手入れ・ヤ ンケトウ孵化場の見学。 ○ロシア戦争記念碑見学。1945 年~1945 年の戦死者 を刻んでいる。 ○ホームビジット。3~6人に分かれて ロシア人家庭を訪問。私の班が訪れた家 のご主人は話好きな人でした。班の中にロ シア語の出来る人がいたので、いろいろ聞 くことができました。ご主人は元々エンジ ニアだが、建築関係や水産加工などいくつ かの仕事を経験したと言う年金生活者。ご 主人は地理や歴史が好きで、テントを持っ て択捉島内の火山や海岸を回っているそ うです。50 年前に作られたと言う皮で出来 た大きな地図を開いて火山や港など、自分 が行ったところを説明してくれました。 ホームビジット 以前日本人が暮らしていた地は今無人になっている所が多いとの事です。子どもたちに も教えているそうです。択捉島は熊の多い地なので奥さんは心配していましたが・・。 奥さんは現職の小学校の先生。沢山の料理を用意してくれていました。畑作りをしてい て、トマトやキュウリ、ピーマン、芋なども栽培。チーズなどの乳製品もありました。 島には牛も飼われています。添加物を少なく心がけた生活をしているそうです。生活が 豊かになっている事を実感しました。「日本人と一緒に暮らすようになったらどうです か?」と聞いたら、 「ここには多くの人種が各地から来ている。日本人とも一緒に暮らせ るだろう。 」と言っていました。ここで暮らす人の宗教はほとんどがロシア正教。モスク はないがイスラム教の人もいるとの事でした。 ○別飛水産加工場視察。オートメィション化された工場で。鮭を加工していました。筋 別飛水産加工場。本田幹事長が歩いている 子と白子は塩漬して、日本にも輸出している。頭と身は冷凍して、中国などへも輸出し ているそうです。300 人ほどの従業員が 2 交代で 24 時間操業していて、もっと従業員を 増やす予定との事でした。 ○ヤスニー空港視察(施設外から。滑走路の写真の撮影を禁止された) 。 ○市内散策・買い物。その後夕食交流会・コンサ ート。賑やかに交流。 夕 食 交 流 会 前日上陸できなかったため、日本料理交流と紗那墓 地の草取りが出来なかったのは残念でした。 今回、様々な場で、ロシア語の分かる方と同席が出 来、いろいろな話が出来てとてもラッキーでした。 私達はロシア語を勉強するようにテキストをもらいました が、全然覚えられませんでした(ごめんなさい) 。 この事業を行うために、団長はじめ事務局の皆さんのご苦労 は大変なものだったと思います。何から何までの心遣い、準備 本当にありがとうございました。 交流の為に必要な物資を日本から持ち込みました。若者中心 でサポート隊が組織され、荷物の上げ下ろしを受け持ってくれ ました。お世話になりました。 サポート隊の活躍 9 月 19 日(月) 国後島古釜布湾着。出域手続き解団式。根室港入港 12 時 9 月 15 日に、17 人が乗った稚内のサンマ漁船がロシアに拿捕され、国後島に曳航されて いました。漁船の食料備蓄が心配で、日ロ政府で話合い、人道的立場から、帰路国後を通 った私たちの乗っている「えとぴりか」に備蓄していた水や米などの食料を漁船に届けま した。 国後や択捉に上陸する際、港や艀のロシア警備隊の写真を撮ってはいけない!日本側が 作った地図を持ち込んではいけない!(島名がロシア語の呼び名と違う、という事で以前 上陸を拒まれた事があった、と根室の友人から聞きました)など、訪問を通じて、ロシア に実効支配されている事を痛感しました。 歯舞村(現・根室市)に生まれ育ったので、「千島列島は樺太千島交換条約で、平和に正当 に日本の領土となったもの。戦争で奪ったものではない。島よ帰れ!」と思って来ました。 北方領土が平和条約の締結により、日本人もロシア人も一緒に住み、自由に行き来出来る ようになる事。漁業資源が豊富なこの海域で、日本の漁船が安全に操業出来る事を一日も 早くと願い、これからも返還運動に参加して行きたいと思います。 えとぴりかの船員さん えとぴりか全景 エトピリカの船尾 児玉泰子団長(右から 2 人目) 石川一洋NHK解説委員 (中央) 参議院議員大塚耕平氏と えとぴりかでの食事 海洋鳥類学者の小城春雄 先生(後ろ左端)、鈴木宗 男氏(前左端) 標津会小田桐秀人氏(左) と根室会本田幹事長(右) エトピリカで同室の 3 人 語り部の鈴木咲子さん(左) ロシア語の出来る学生 佐堀さん(中央) 観測中の小城先生 根室会の2人
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