レジュメ

2015 年度夏合宿研究発表原稿2
「文化論」
明大雄辯部 1 年 政治経済学部
美上 駿
(序)
「文化」という言葉は幅広い意味内容で使われる。風習、衣食住、芸能、音楽、など
の意味で用いられる。しかし、何が文化的であり、何が文化的でないか、個別的な事
例を挙げて判断することは難しくないかと思うが、総論として「これが文化だ」と言う答
えを持っていますか?すぐに答えが出るものではないと思う。
本研究は、そのような、広く使われている言葉であるが、それと同時に意味内容が曖
昧な「文化」という概念の枠組みを明らかにすることである。
ここで言う枠組みとは定義のことではない。ある文化と他の文化の境界線はどこで引
けるのか。文化と文化は何によって分かれるのか。といったことを明らかにしていこう
というのがこの研究の目的である。
しかし、なぜ今文化なのか。
現代は、人類史上最も人や物が国境を越えて簡単に安全に移動しやすい時代となっ
た。その反面、宗教上の対立、移民問題、スカーフ問題、ヘイトスピーチなどが起きて
いる。
もちろんそのような問題は今に始まったものではないし、国が解決策を打てばいい話
のように思う。現代でこのような問題が我々にとって問題となるのは、インターネットや
テレビといった情報の発達より世界が身近に感じられ、先に挙げた問題がより身近に
感じられるようになったからである。
(情報を得た先に、自分がどのような意見を持つのか。意見というような立派なもので
なくとも、感情でも構わない。)
民族差別、宗教対立、これらの問題の原点には文化摩擦がある。問題が文化摩擦で
あれば解決策は個々人が互いの文化を認め合えばいい。それですむ。しかしそれが
出来たら問題はない。
こうした問題は国などが政策的に、制度化などを行い、権力を通じてでしかおさめら
れない。
そのようなときには、単に目の前で起こっている事象に対して政策を打つのではなく、
その問題の根源に目を当てなければならない。
一言で文化摩擦というのなら、どの文化と文化の、どこの部分が摩擦を起こしている
のか、を突き止めなければならない。
この研究では、そのような文化摩擦の根源を探るうえで役立つ、文化と文化の境界、
文化と文化を分かつ物。を掘り下げていきたい。
「文化」の枠組みを明らかにするために、以下のことを考える。
文化の定義、文化の構成要素、文化と文化的なもの、文化と下位文化、慣習の科学
(文化の定義)
まず、文化の定義とは何か。
「文化」という言葉には定まった定義はない。また「文化」は、幅広い学問分野にまだ
がる研究対象であり、数多くの定義が存在する。含まれる学問分野には言語学、民
俗学、民族学、文学、文化人類学、社会学、教育学、心理学、歴史学、経済学、政治
学、地理学、芸術がある。
ではなぜ文化という言葉に定義がないのか。それは、文化とは何かとか、その文化に
誰が属しているのかとかいったことに関する規則が定まっていないからである。
しかし逆に、文化に誰が属するのかという決まりがない事が、文化と言う言葉が様々
な規模の集団において適応可能であり、その集団の中で共有されている価値観、態
度、信条、行動といったものの元をただしていってぶつかる、心理的現象であるといえ
る。
後々話すが、目に見える形で現れているものが文化的なものであり、文化とは目に見
えないがその集団の中で共有されている物だ。という考え方はここからきている。
文化と心理学を結びつけて理解するということは取り立てて目新しい物ではなく、
1970 年代から既に始まっている。分野としては比較文化心理学という分野が成立し
ている。アメリカの心理学者 Triandis が自身の論文の中で、「心理学者が探求しようと
している時間や場所に左右されない人間の普遍的な行動原理や原則の発見などは、
例えば、人間は食べる、寝るといった基本的欲求を持つといってしまえばそれで済
む。」といっており、「心理学的に意味のある現象は、文化の影響を受けるものであり、
結局のところ、そうした文化の違いを反映したものにならざるを得ない」と結論付け、
以降、比較文化学の研究に生かされるようになった。
文化研究に心理学が参入して出来た比較文化心理学が中心になって研究している
分野は、知覚と認知の問題、社会心理学の問題、価値と態度の問題、文化とパーソ
ナリティの問題、ジェンダーの問題、発達と育児の問題、精神衛生とセラピー、エスニ
シティと文化変容の問題、仕事と組織心理学の問題がある。
本研究では、文化を心理学を元に考えていきたいと思うが、まずは文化の定義の話
に戻って、そこから考える。
文化が幅広い学問文化にわたり、定まった定義はないとは言ったが、当たり前のこと
ですが、文化が何らかの形で関わる分野の学者が定義を定めずに研究をしていたわ
けではない。
例えば、歴史家の内藤湖南は文化を、国民全体の知識・道徳・趣味等を基礎として築
かれているものと定義し、文化人類学者のレヴィ=ストロースは物体・行為・出来事・
関係・性質の意味内容を象徴する物で、歴史的に伝えられる意味のパターンだと文
化を定義した。
ここで、文化が心理的現象であるということを踏まえつつ、文化の定義を暫定的に決
めたい。人類学に共通する文化の定義とは、文化はある集団において共有されてい
るシステムであるというものであるが、ここでは、人類学者の吉田禎吾が文化の定義
についてのいくつかの流れに整理された物をもちいて、最大公約数的ではあるが文
化の定義としたい。
その流れとは、大きく分けて四つに分かれている。それはそれぞれ文化を、生活様式
の体系、自然環境に対する適応の体系、観念の体系、象徴の体系と見るものであ
る。
まず、生活様式の体系とは、文化を特定社会の人々によって習得され共有され伝達
される行動様式ないし生活様式と見なすもので、例えば知識、信仰、芸術、道徳、法
律、慣習などがある。
次に、自然環境に対する適応の体系とは、文化を、人間が環境に適応するのに必要
な技術、経済、生産に結びついた社会組織の諸要素と見るもの。
観念の体系とは、文化を、共有される観念の体系、概念、規則、意味の体系。あるい
は、知覚、信仰、評価、通達、行為に関する一連の基準とするもの。
最後に、象徴の体系だが、これは、物体、行為、出来事、性質、関係などの文化を、
人間精神の生み出した意味内容を表す媒体手段、つまり象徴として捉える見方であ
り、先ほどのレヴィ=ストロースの立場である。
本研究では、文化はこの4つの性格を持ちながら文化というものが成り立っていると
定義して次に進む。
(文化を構成するもの)
文化は幅広い意味で使われているが、果たしてそれらは文化と同義なのか?
一般的に世間の人々が持っている文化の概念とは、D.マツモトが行ったアンケート
による調査に基づくと、「信条、表現(言葉)、人種・民族、特徴、家族、宗教、結合、歴
史、規律、相違、趣味、類似性、教育、アイデンティティ、下位グループ、環境、人」で
ある。この中で逆に文化と同義でない物といえば、人種があげられるが、それであっ
ても他のものは文化に含まれるものである。
人種が文化に入らないのは、ある人がある人種に生まれたからといってその文化を
受容するとは限らないからである。これは文化が学習によって身につくからであり、人
種は学習によって身につくものではないので両者は区別されるものである。
民族はしばしば人種と文化の両方の意味を持って使われる事がある。民族は同じ国
籍、出身地、文化、言語を持った人間の集団をあらわす言葉で、ある文化の構成員
の特徴を現すのに使われる語句。民族集団を理解し表現する時にその民族が共有し
ている文化を用いて説明するので文化の中に民族は入る。
文化と呼ばれる枠組みの中にいったいどのような要素が入っているのか?
今度は学者の定説を持って来たい。
P.R.Harris と R.T.Moran の分類によれば、言語とコミュニケーション、衣服(服飾文化)、
食文化、時間間隔、褒賞制、人間関系と組織関係、価値観と規範、文化の構成員が
持つ自己意識と空間意識、思考回路と学習過程、信念や態度がある。
文化の構成要素はそれぞれが独立性を持っているわけではなく相互に関連性を持っ
ている。そのため、あるひとつの構成要素が変化すると他の要素も大なり小なり影響
を受ける。
このように、文化の具体的要素は多様性に富んでいる。
アメリカの文化人類学者 Ruth Benedict は文化の多様性の反面、文化にはある特徴
があるという。彼女は次のように書いている。
「世界の慣習の多様性はただ無限に記録されるわけではない。・・・文化的行動の特
質は、それが地方的なものであれ、人為的なものであれ、大きい多様性を備えた物だ
とはっきり理解したとしても、・・・また統一されてゆく性質を備えている・・・。」
彼女はズニ、ドブ、クヮキゥトゥルの三つの文化を例に挙げ、その 3 つの文化がまった
く違う文化であることを文化の統一性に寄せて書いている。文化間で差異が生じるの
は、その文化ごとに、行動が方向づけられているからだという。単にある慣習がある
かないかという違いだけではなく、その文化全体での方向性が異なる事が文化間の
差異を生むのだ。文化の慣習の多様性が統一されていくのは、道徳や価値観を含む
制度による。
これは後に考える、文化と文化的なものの違いの部分で、文化が統一されていく経緯
が示そうと思う。
(文化と文化的なもの)
文化とは実際には見ること、感じること、聞くこと、味わう事が出来ない存在です。普
段、我々が見ている文化とは、実際には文化そのものではなく、活動、考え、儀式、伝
統などを行う上で生じる行動における相違を見ているのだ。つまり、我々は文化の顕
在性を見ているのである。
挨拶を例に取ると、アメリカ人は握手をするが、軽くお辞儀をする人や、深々とお辞儀
をする人、眉を動かすだけという人もいる。
このように、行動や異文化の顕在性から、相手との間に文化的な相違が背後にある
ことを読み取っている。
しかしこれだけではなく、文化は、他の文化との類似性や相違性を見つけながら、自
身の文化の概念を強化していく。これは先ほど引用した Ruth Benedict の文化が統一
されていく経緯に当たる。
これは人々が、同一の集団における類似性や異なる集団間に存在する相違点を観
察し、「文化」という言葉を観察する際のレッテルとして扱うことによっておこる。そのレ
ッテルは、「文化」の様々な側面、例えば態度、振る舞い、価値観、食糧、衣服などに
対して貼り付けられ、同一の集団の類似性なり異なる集団との相違性に気づくことに
よって強化されていく。
これを具体的に説明したい。
同一の集団の中における類似性はその集団の結束を強める。逆に同一の集団の中
で異なるものが出た時には、個人ないし周りの人間がそれを正す。身近では子供の
誤った行為を大人が正すことや集団スポーツで同じユニフォームを着用すること、広く
見渡すと、法律の規定や道徳に沿った正義などによって働くものだ。
異なる集団を観察して見つけた、その異なる集団と自分との相違点、あるいはその異
なる集団と自分の集団との間の相違点は、それを発見することにより自分の、あるい
は自分の集団の特徴や類似性の発見につながる。
(文化と下位文化)
文化の枠組みがそのまま国家の枠組みに合致するとは限らない。比較文化学では、
全体集団、主に国家レベルの文化を文化と呼び、国家とは異なるある特定の集団が
もつ文化を下位文化と呼んで区別している。
国家レベルで見たときの文化について。
ここで、心理学者の bond と smith の文化に対する定義を紹介したい。その定義とは、
「『文化』は、ある集団のメンバーに利用可能な行動レパートリーの範囲を制限する共
通の制約条件」というものである。
彼らはこの制約条件について、遺伝的なものについてを内的条件、生態環境や社
会経済的条件による物についてを外的条件と定義し、これが社会的認知、集団過程、
対人過程、組織行動などに影響を与えると論じました。
しかしこれではこの定義が実情に沿うものか断言できない。
ここで文化を検証可能なレベルにまで引き下げたオランダの組織人類学者 Hofstede
の研究結果を引用しようと思う。
重要なのはこの Hofstede の研究。
彼は40カ国、延べ 116000 人に対してアンケートを通じて調査を行い、「文化」の特
性を発見した。
Hofstede は「文化」を「人々に共有されている心理的プログラム」と定義し、その心理
プログラムを規定するものとして価値を想定しており、その価値は「人々の欲望の客
体としての価値」と「人々のりそうとしての価値」の二つに大別されると指摘している。
Hofstede はこの調査では文化、つまり国家単位での文化に注目していて、4つの文
化次元の因子を発見した。それは権力の格差、不確実性回避の傾向性、個人主義
対集団主義、男性価値対女性価値の4つである。
権力の格差は企業などの組織の中でのいわゆる上司と部下の間の権力格差が文
化によって決まっているという仮設に基づいている。
不確実性の回避とは、その国民がどこまで不確実なもの、言い換えれば曖昧なもの
を許容できるかということで、この許容水準も文化によって決まるという仮説の元に成
り立っている。
個人主義対集団主義では、個人の私的で自由な時間、仕事などでの自由の度合い、
自分の技能・能力の発揮などに焦点が当てられ、組織に対する個人の独立性が考察
された。
男性価値対女性価値については、社会の中での男女の関心や役割の分担の観念
を示すものである。
この調査の結果に関しては表を参考してください。この研究によって国家間の文化
の違いが数量的に分析された。
補足して説明したいのが、次の表に関してですが、これは、4つの文化次元の因子
のうち、高い相関関係が見られた2つ、権力格差と個人主義対集団主義の因子につ
いての表です。何をしているかというと、権力格差と個人主義・集団主義の傾向という
のはそもそも概念の異なるものだと Hofstede 氏は語っていて、権力格差については
権力を持つものに対して感情的に依存しているということであり、個人主義や集団主
義は集団や組織に対する個人の感情の独立性や依存性を図っているものであり質
的に異なると語っています。また、常にこの相関が成り立っているわけではないという
事をおっしゃっていて、それがこの図によって示されています。例えばこの図ではフラ
ンスやオーストリアなどを見ればこの事がわかる。
では下位文化について。冒頭で、国家が制度によって問題を解決することが必要との
趣旨を話したが、全体集団レベルでの文化の話にもつながるので、少々触れたい。
下位文化とは先に述べたように、全体社会内部の集団における文化を指す。
特に下位文化の成立条件として挙げられているものは、「人の生理的・心理的・社会
的活動の基盤を構成する『自然環境』」、「その自然との人の『関わり方』」、「とりわけ
衣食住といったものの供給や、入手・獲得・生産の『可能性や困難さ』と『その効率』」
がある。
地球上の各々の地域での「自然の条件」が様々に異なるので、それぞれ異なった手
段で「基本的欲求」の充足が行われた。(基本的欲求とは生理的欲求、社会的・文化
的欲求、成長や完成への欲求を指す。)
下位文化はその集団によって性格は異なるが、その集団の中の個人に目を向けると、
その集団の特色を見ることができる。
アメリカの心理学者 Schwartz.S.H は Hofstede の価値の部分に着目し、個人レベルに
おいて価値の構造を調べ、20カ国に対して調査を行い、10個の価値類型を発見し
た。
価値類型は普遍主義(universalism)、仁愛(benevolence)、伝統(tradition)、同調
(conformity)、安全(security)、権力(power)、達成(achievement)、快楽(hedonism)、刺
激(stimulation)、自主独往(self-direction)の10個。
Schwartz はこの価値類型同士を両立しうる物と両立し得ない物でわけ、
self-direction / stimulation vs. conformity / tradition / security, hedonism vs.
conformity / tradition と分けている。
隣り同士の分類は両立し、そうでないものは両立しないことを彼は発見した。
Schwartz はさらに文化レベルでの価値の構造についても分析し、Hofstede の個
人主義対集団主義の因子に関して Openness to change vs. Conservatism(個人を、
自立した存在と見なすか集団に埋没した存在と見なすか)と Self-enhancement vs.
Self-transcendence(個人的な目標を追及するか集団目標の追求を目指すのか)の
二本の軸を抽出した。
レジュメの円グラフの一番外側に書かれている 4 つの英語はそのことを指す。その
集団の中の個人の価値観を指標に取ることで、Hofstede の挙げた4つの因子のうち
の一つ、個人主義対集団主義の部分が細分化されて理解できるようになった。
以上をまとめると、文化を分けるものとしては権力の格差、不確実性回避の傾向性、
個人主義対集団主義、男性価値対女性価値の4つ、そしてそのうち個人主義対集団
主義の因子に関しては、S.H.Schwartz の、個人を独立した存在とみなすか集団の中
に埋没した存在とみなすか、個人的な目標を追及するか集団の目標の追及を目指す
のかと細分化でき、個人の色が色濃く絡むような下位文化を分けるものとしては、普
遍主義、仁愛、伝統、同調、安全、権力、達成、快楽、刺激、自主独往、の 10 個の因
子がそれぞれあることがわかった。
(慣習の科学)
しかし、なぜこのような指標が必要なのか。自分はどんな人間だと見られているのだ
ろうとどれだけ考えてみてもわかりえない、というよくある言葉と同じことだ。どれだけ
自覚的になろうとしても、自分の体に染み込んで無意識に自分の行動を規定するよう
な文化のことなど、自分でどれだけ意識しようとしても限界があるからだ。
「人間は誰も、世界を生まれたままの目で見ていない。人間は慣習や制度の信じ方
のある決められた一組によって編集された世界を見ているのである。…人は生れたと
きから、その生れ落ちた場所の慣習が人間の経験や行動を形成していく。話ができる
ようになったとき、人は彼の所属する文化の一つの産物に過ぎなくなる。」
「慣習のくせが彼のくせとなり、慣習の信条が彼の信条となり、慣習にとって不可能な
ことは彼にとっても不可能になる。」
今までは文化の中身についての議論をしてきたが、今度は、文化がどのように人々
に染み込んでいくのかを見たいと思う。
この慣性の科学を、認知発達と結びつけて明らかにしていきたい。
ここでピアジェとエリクソンの認知発達理論を用いる。ピアジェは子供が青年になるプ
ロセスにおいて 4 つの段階を経験するといった。感覚運動期、前操作期、具体的操作
期、形式的操作期である。
感覚運動期とは、0 歳~2 歳。見知らぬ人や物が怖いといった不安はこの次期に共通
している。この頃に行われるものは、後発模倣、言語習得、心的な想像であり、赤子
が自身の生れ落ちた文化の慣習を習得している時期である。
前操作期とは、2 歳~7 歳。ピアジェはこの時期を5つの特徴という観点から定義して
いる。その 5 つの特徴とは、保存、中心化、不可逆性、自己中心性、アニミズムである。
保存とは、物体の物理的な量が物体の外観が変化しても変わらないということを認識
する能力のこと。中心化とは、問題の一面にしか焦点を当てない傾向を差す。不可逆
性とは、あるプロセスを元の状態にもどすことを想像する能力のないことを差す。自己
中心性とは、他人の立場に立ち、その人の視点を理解する能力が欠如していることを
差す。そして最後にアニミズムとは、無生物を含めあらゆる物に生命が宿っていると
考えることであり、自分のそばにある本を「本が疲れている」や「おやすみが必要」と
考えることである。
具体的操作期とは、6,7 歳~11 歳ほどまで。単純に言えば、前操作期を克服してゆく
時期。実際の物事や出来事に関して考える能力が付き、物音を多面的に見たり、あ
るプロセスを元に戻す方法を考えたり、自分と違う考えが存在することを理解し始め
る。
形式的操作期とは、約 11 歳~成人期まで。哲学など、抽象的な概念などについても、
論理的思考が発展する。
このピアジェの理論はシェイヤーやデミトリオといった学者によって、様々な国の子供
でも当てはまるのか調査がなされており、全く違う文化圏の子供であっても同じような
順序を辿って成長していく事がわかっている。
ここでは慣習の科学を子供が学び取るという論旨のためにピアジェの理論は妥当性
がある。しかし、ピアジェの理論における批判を紹介すると、文化によっては、教育シ
ステムの違いなどから、全ての国の子供が同じ教育水準で教育を受けているわけで
はないから、ピアジェの理論の第 4 段階の形式的操作期をどれほど達成できるかは
必ずしも均等にはならない。その点においては文化によっては達成されない。文化に
よって理論が適応されないという結果が出ることもある。
子供たちはこのような経過を経て自分の周りの事物を学習していくのである。
エリクソンの理論は、社会的感情発達理論といい、ピアジェの理論と平行して見てい
きたい。
エリクソンは人の一生に 8 段階の、克服を迫られる葛藤や緊張があるという。
まず 1 段階目、基本的信頼 対 基本的不信。1 歳まで。乳幼児が保護者あるいは周
りの人とどのような関係を築くかによって克服できる程度が異なる。
2段階目、自律性 対 恥と疑惑。1~3 歳。乳幼児が自力で立ち上がり動き回れるよ
うになると、行動範囲が広がる。こうして得ていく新しい能力や新しい環境に対して自
分がどのように振舞うべきなのかが問題となる。
3 段階目、積極性 対 罪悪感。3~5 歳。子供は自分の目的達成のために動き回る
ようになるが、周りの人がこの子供にどのように接するか(子供の活動を妨げるか放
任するか)で子供の克服度合いが変わる。
4 段階目、勤勉間 対 劣等感。6~12 歳。この年齢の子供は、小学校に代表される
正式な形をとった指導が始まる。その中で勉強することへの倫理や訓練といった勤勉
の意識が芽生えると同時に、生産性の意識が未発達なために劣等感を感じる。
5段階目、アイデンティティ 対 役割葛藤混乱。思春期。思春期は生物的、生理的に
変化が生じる時期だが、個人のアイデンティティ、所属場所、人生の中での果す役割
を探し、見つからないことに葛藤し混乱するというもの。
6 段階目、親密性 対 孤立。21~40 歳。人間は社会的な動物である。というエリクソ
ンの立場から、個人が他者と緊密な関係を気付けるかどうかというのがここの対峙点
である。
7 段階目、生産性 対 停滞。45~65 歳。この時期は、自分の人生が生産性のあるも
のだったかどうかという疑問に直面する。この問いに対し望ましくない結果に陥ると生
きていることの目的や有益性を疑問視することになる。
8 段階目、自我の統合性 対 絶望。老年期。人生の最終段階では、人生を振り返る。
そこで自分がどのような問題に直面しどのような解決策を講じてきたかを考える。そ
の各々のステップに対して、誇りに思えると自分の人生および自分自身に対する統
合性という意識が芽生えるが、逆の場合には、絶望感と嫌悪感に陥る。
エリクソンの社会的感情発達理論には、対峙点の連続の中で、個人が文化を見につ
けていく、「文化の慣習がその人の慣習となる」、その「自文化」化が一生を通じて行
われていく過程が示されている。
(総論・まとめ)
文化というものは、ある集団に共有されたシステムだが、全体社会・国家レベルの文
化と、そうではない下位文化とに分けられる。
個人的にはこの二つの分類とその分類の中での集団と集団のわけ方を、ある国際問
題、文化間対立がおきたとき、その対立軸がどちらの軸での対立なのかを見極めるこ
とを通じて、問題の根源がどこにあるのかを探るための指標に出来たらと考えてい
る。
文化の違いは見れば解かる。という人もいるかもしれないが、目に見えるものは文化
が顕在化した形であり、その根底にある文化にも目を向けなければ、対立の背景に
はらむ問題の根源にはたどり着けない。
だが、自力で自分の文化を理解することは難しい。それは、人間が成長する過程で習
得し、その習得した文化のバイアスで持って世界を見る他ないからであり、その文化
の中で生まれ、生きているかぎり、文化の慣習が自身の行動を規定してゆく。
そのようなときに、上の二つの分類に用いたように数値的に、自他の文化の相違を視
覚化して問題点を発見し解決の糸口を見つけて言って欲しいと思う。
人がどこまで行っても自文化について自覚的になることは不可能であるかぎり、一番
の解決方法は権力が制度を整えるなどして対立を調停することだ。
しかし、文化間の対立は、その文化の構成員同士の価値観の摩擦や衝突によって起
こるものであることは忘れてはならない。一歩引いた目で自文化と他文化を見つめる
ことこそが、そのような問題において個人が成せることだ。
(結び)
世界中を人が行き来できるようになった時代、世界規模で人口の移動が起きている。
移民・移住の流れは、単なる人の移動にはとどまらず、その人とともに文化も移動し
てゆく。文化摩擦、現代の問題のそこには心理学的、文化を背景とした問題がある。
簡単になくなるものではないのは、文化が社会心理的なものだから。
だからといって問題を見過ごしていいとは思っていない。
文化とは実は知らず知らずの内に自分の体にしみこんでいる物であり、恐らくどれだ
け自分がその事実に自覚的であったとしても足りることはないものだろう。
現代の国際問題等において存在する文化摩擦による問題の解決策として個々人に
対して提示できるものは、自分の文化を痛烈に体験する経験、他の文化を肌でふれ
てみて、カルチャーショックを受けること。これが自分の考える、自分の体に染み付い
た文化の慣性を自覚させてくれる物だと思う。
日本人が「日本」や「日本的なもの」に目覚めたのは、近代、欧米の全く違う文化を社
会のレベルで感じ取ったからだといわれる。文明開化と銘打って西洋近代化を目指し
たのは時の権力者だが、その風潮を笑った庶民の方に「日本」や「日本的なもの」とい
った意識が芽生えていったのは、西洋近代化を目指す権力者を通じて、西洋とは異
なる日本というものを自覚し始めたからではないだろうか?
とはいえ、西洋と比較してばかりの日本文化論が誤っているという指摘は存在し、そ
れは正しい。しかし、西洋と比較して日本文化が浮き彫りになってきたという事実から
は、自分の文化に自覚的になる事が、他の文化にふれてみることによるものだという
ことを裏付けていることに他ならない。