新宅博明「人生の苦楽について」 こんにちは。 2時間、頂いております、長いとうれしいんです、しゃべる人間は。聞かれる方は大変だと 思いますけど、よくおいで下さいました。 午前中はある保育所で保護者の方と職員の方に、 「子供の心の発達」のお話しをして参りました。 ご紹介いただきましたように、私は僧侶です。そこで、今日は、人生の苦しみや楽しみ、 喜びといったテーマですが、皆様本当にこのテーマで、よくお集まりになられましたね。 すぐお役に立つようなことではないので申し訳ないですが、このテーマにさせて頂きました。 人生の大先輩の方が沢山いらっしゃる前で気は重いですが、自己紹介から始めさせて頂きます。 現在64歳です。体重が46kg です。何ぼ食べても肥えません。どうやったら、50キロ 超えて人生を終えられるかというのが私の課題です。技がございましたらお教えくださいませ。 あの~、冗談のときは笑っていただいてよろしいですからね。そんな難しげな話では ございません。今日は気楽にさせていただきます。 それで、先ほどの保育園ですが、お寺さんですので、会場の私の後ろに、仏さんが安置して ございました。そこでもお話しいたしましたが、子供から大人になるときに、二つの大仕事が あります。思春期の二つの課題です。一つは親の追い越しです。子供は親を追い越して いくんです。子供が小さいときには親は背も高く見上げるようですので偉大なんです。 ご飯も3杯ぐらい食べるでしょ。自分は小さなお椀ひとつが精一杯なのに。だから尊敬して もらっていますよ。この時の親は上の位置なんです。 ところが、その後、残念ながら親は成長しません。子供が成長してきます。下からだんだん。 その、(精神的に)斜め下ぐらいになった時にですね、この人、ほんまに偉い人かな、どうかな、 と次第に疑うのです。親と真横になった時には、子は大腹を立てまして、鉄砲玉を打ちまくり ます。 その時に「価値観」という鉄砲玉を使います。およそ13歳から14歳のころ、 子供は「価値」を自分の中に作り始めます。「価値を知り初める」と言います。それは、 親なる者の「値踏み」ですね。 それで、ある日突然、無様なものを見てしまってですね、なんや、この人、ただの おばんやないか、ただのおっさんやないかと思うんですね。 ・・・・抜いたんです。 子どもにとっては冴えない話なんです。親を抜いて「よっしゃぁ」と、元気には ならないのですよ。それまで頼っていた、すがって依存していたのですけれど、磐石な親に すがっていたのに、自分の価値観で測ってみたら、たいしたことないという瞬間にグラっと くるわけですよね、これが。こりゃあいけんと思って身を起こすんです。それが分離です。 依存と分離。まあ、自立でもよろしいですけれども。で、その依存状態から分離して、 精神的に自立した時、親を抜いたということになります。ただし、これが長くかかるんですよ。 経済的に豊かな国では、大人になる時期が先へ先へと延びます。思春期の遷延現象(センエン ゲンショウ)と申します。現在では、遅い子で、30歳位でしょうかね。 このように、親を追い越していくんですが、問題はその次なんです。親御さんが、神様でも 仏様へでも手を合わせて、頭(コウベ)を垂れて、礼拝しているという姿を見せておくと、 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 1 新宅博明「人生の苦楽について」 後に効き目が現れます。親だけが偉いと思っている子は、親を抜いたら自分がえらいでしょ、 怖いものないでしょ。だけど親が頭を下げて礼拝している姿を見せておくと、 目に見えないけれども「絶対者」がいるということがわかる。畏れ多いという存在が。 これは、ご飯を拝まれてもいいですよ。 「いただきます」といって、手を合わせて拝むというのは どの宗教でもなさることなので。親が頭を下げて拝んでいる存在があるということを見せておく 必要があると思います。 親を抜いたら終わるんじゃないんです。人生の中で畏れ多いものって大事ですよ。いわゆる 「権威」ですそういうものを育んでおくというのは大事です。 みなさんのお手元に喋りたいことはおおよそ文字でお届け致しております。みなさんのは 字が細かいんです。僕のはめちゃくちゃ大きいですよ。20ポイントで打っておりますから。 実は、そうしないと見えないんです。 資料の順番にお話しして参ります。難しい漢字もここに書いております。学生さんは勉強の つもりで。しかし、就職試験に絶対出ません。テストもございません。今日のは。 宗教という日本語ですけれども、今から話すことは私のお寺にお越しになられた、他の お寺さんからお伺いしたことばかりでございます。まして、学術論文ではありませんので 出典は何と尋ねられても解りません。私が以前にお聴きしたことばかりですからご了解下さい。 でも、 「教え」というのは基本的にはそういうものなんですよ。口伝(くでん)といいますので。 口で伝えるんです。仏教では口のことを「く」と読みます。ですから、お師匠さんから承って、 次へ繋いでいくのが基本でございます。 はじめに「宗教」という言葉ですが、これは明治になってできた日本語だとお聴きしたことが ございます。それまでは、仏教と神道はあったとおもいますけれど、明治になっていっぱい 宗教が入ってきます。イスラム教もキリスト教ももちろん入ってきてます。そしてレリジョン という英語が入ってきたときに、それに対応する言葉を作る必要がありました。外国に国を 開いたものですから。そうすると、レリジョンという言葉をどう訳すかをみんなで考えた そうです。その時に、人間が生きていくときに一番大切な教えだから「宗(ムネ)」とする 教えにしようと。それで「宗教」の語を作ったと聞いてます。 人が人生を送っていくときに一番大事にするもの。それが「宗」ですから。まだ根拠は 調べていませんけれども、ああ、そうかと思いました。 ですから、飾りものでも知識でもないはずです。宗教は。 知っとけばいいというものではないです。まことの宗教は、その人の生き方・終わり方・ 次の世まで規定するものです。資料に「その先までも決めてあるもの」と書かせていただき ました。 「臨終」という言葉があります。これ、なかなか意味がよくわかりませんよね。実は2つ 漢字が省略してあります。 「臨命終時(リンメイシュウジ) 」これはお経の中に出てくる漢文です。 「命終わる時に臨みて」です。 それから、日常よく使う言葉に「往生(オウジョウ)」があります。「今日は雪が降って往生し たでぇ。」と いうのは誤用です。死のことを往生と云うのです。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 2 新宅博明「人生の苦楽について」 「おじいさん、99歳、大往生じゃったねぇ。」と田舎では言うんですけど。「往生」には 「生まれる」という字が入っていますでしょ。「生まれて往く」と書いてありますよ。「往生」と は、どっかへ生まれていくんですよ。死が消滅になってないのですよ、正しい宗教では。 「ほう!次ぎに生まれていくのか、そんじゃったら、行ってみよう」という気になりますよね。 どんな所だろうみたいな。なかなか明るいですよ「往生」は。人は先が読めんときに 「不安」になるといわれていますが、生まれていくのならば「安心」ですね。 このレリジョンを、英英辞典で見ましたら、ビリーフ(信じること)、イン、ア、スーパー ヒューマン(人間を超えた)、コントローリング、パワー(制約・規制力)とありました。 レリジョンは、「人間を超えた、制約・コントロールする力を信じること」という意味でした。 Religion(belief in a superhuman controlling power) レリジョンは印欧祖語からきている言葉です。同じく、ラテン語にはレリガーレという言葉が ございます。意味は英語で言うとバインドストロングリィ、強く縛るという意味です (L religare 意味 bind strongly 強く縛る) 。 ドイツ語で見てみますとスペルが全く一緒でレリギオンと言います。西洋の言語は印欧祖語か ら分化したことがわかります。 この、レリジョンという単語の意味を考えてみますと、何番目かのところに「結ぶ」と 書いてあるんですね。こっからがなかなかおもしろい。2つ意味があると思います。縛るという のはよくわかりますよ。人間は生まれたまんまの状態で規制を加えなかったら動物と 変わりませんからね。本能のままに動くんですから。だからぐるぐる縛って、これは躾でしょ。 加えて、「結ぶ」というのが入っているのは、あれはひょっとしたら「契約」ではないかと 思います。人間と神との契約の意味なら通じますね。 仏教では「契約」という考えはないですが、ユダヤ教、それからユダヤ教から分かれた キリスト教、キリスト教から分かれたイスラム教、あの3つは宗教としては同根ですよね。 だからあの3者は「契約」という点では共通していると思います。神と人間との契約なんです。 ところで、中東のある国に、日本人のビジネスマンが入国する時、自分の宗教を書く欄が あるんですね。その時、その日本人の方が空白にしました。自分は無宗教だから書かないと いって、書かれませんでした。そうすると、その国は入国をさせなかったんです。 宗教を持ってない者は入れられないと言われたそうなんです。それで、びっくりして「仏教」と 書いたら、ではどうぞとなりました。 これは作り話かどうか、よくはわかりませんが、あり得ると思います。神との契約を重んじる イスラム教等は、人間同士は当てにならないので、その人が神と約束してるのだったら、 その人間は当てになるんですよ。なんとなく分かりますよね、保証付きのようなものです。契約、 大事ですよね。きっと、裁判なんかでは「神に誓って」とおっしゃるはずです。神なるものが 保証のもとになっていると、ぼくは理解しています。神と契約した人は人間として付き合える けれど、神と契約していない人は人間として信用できない。分かりやすいですね。出入国という 話で、はあ、そういうこともあるんだなと思いました。 次に「宗教はみんな同じよ」と言いますのはね、これは宗教というか信仰にちょっと入って 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 3 新宅博明「人生の苦楽について」 いるように見えますが、実は違います。 一緒よねと思っている人を、旅に例えると、まだ出発されていないんですよ。どこへ 行こうかな、温泉にしようかな、海辺もいいかなと、炬燵へ入ってプランを考えている人に とっては、思案の段階にあるといえます。ところが、カバンをもって家を出る時は、 もう目的地は決まっているわけです。カバン持って、駅に行って、切符を買わないと いけないでしょう。だから、宗教はみんな一緒という人は、宗教が動きを伴うことを ご存知ない方です。知識としての宗教段階でしょうか?歩み始めた人は、行き先が 決まりますのでね。 どういうものを選ばれるのかが問題なんですけど。若い人、正しいものにお入りくださいね。 家族との縁を切れとか、社会常識から外れたものはいかがかと思います。 あれは合唱の仲間だったと思いますが、鳥取県の大会に行く時に、車に分乗して出発しました。 広島インターチェンジから入りましたが、走っていると、どうも後続車が2台ほどおらんように なりましてね。携帯にかけて、どこに行ってるのかと尋ねると、いや、志和とか字が出てるって 言うのですね。志和だったら大阪の方に行くでしょうっていうと、しまったと気付いてその二台 は途中で高速を下りたんです。 これでいいと思っているときは、迷いが深いんですよ。これでいいのかな?思いだしたときに 迷いに気づくんです、その時から本当の道に戻る努力を始めます。大事なんですよ。最初から 本当のルートに乗っていればいいですけれども、怪しい教えでこれでいいんじゃとか、教育方針 もそうですけど、叩きまくらにゃいけないと思い込んでいる時、それは迷いが一番 ひどいんですよ。これでいいんだろうかなぁと疑念が生じ始めたときに、本当の道を探し 始めますから。 とにかく、その時には三次で会おうということになりました。三次のインターで待つから、 そこにおいでとなりました。その人は、あれっと思ったから救われました。 先ほどの「契約」ですが、それは素晴らしいことです。神と契約する場面の一つに、 古い映画ですが「十戒」があります。結構面白いですよ、懐かしい俳優が出ています。 チャールトン・へストン、ユールブリンナーって。モーゼが、エジプトから、奴隷になった ユダヤの民を連れて脱出するのですよね、あの劇は。聖書の中にも、 「出エジプト記」にその記述 が出ています。エジプトを出発してユダヤの民を連れて、故郷に帰ろうと、カナンの地へ戻って 行くのです。セシル・B・デミル監督が特写を使って、海の中へ道が開けていくのですけどね。 結構感動的なんです。中学校の頃に見たのですけどね。その中で、シナイ山のふもとに民を 置いて、モーゼが上がっていきます。ユダヤの聖者ですから。神から十の戒めを授かります。 十戒です。汝なになにする無かれって10ほどあるのですよ。他の神を拝むな。私の名前を みだりに呼ぶな。安息日を守れ。母を敬え。殺してはならん。淫(ミダ)らな性を営んでは ならん。あとは、隣の人の物を盗んではいけない。偽証(ギショウ)してはならんとか、 十の戒(イマシメ)がきます。正しい宗教には戒律(カイリツ)が伴います。 ここからは躾(シツケ)に関連してきますが、正しい宗教には教義(キョウギ)教え、と戒律 (カイリツ)戒(イマシメ)・ルールとが必ずセットしてあります。ユダヤ教の場合はこの 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 4 新宅博明「人生の苦楽について」 十戒ですけれども。仏教で代表的なのは五戒、五つの戒めなんですが、内容はほとんど一緒です。 殺生してはいけない。物を盗んではいけない、淫らな性交をしてはいけない、嘘をついては いけない、酒を飲んではいけない。これが五戒です。そして、この戒律が、社会生活の規則の 根底を形作っています。 人間社会の初期で、宗教が支配していた時代は、その宗教にくっついている戒め、ルールを 守って生活しているので、世は乱れていなかったと思います。ところが、だんだんと戒めを 守らなくなって、宗教が堕落していく面もございましたので、やむなく戒律の上に「道徳」とか 「倫理」というものをつくらざるを得なくなったわけです。これでも治まらないので、やむなく 「法律」を作ったんですね。逆に申しますと「戒律」さえ守れば、道徳も法律もいらない はずなのです。人間社会でしてはならないことがみんな入っているわけなので、守らないから 次を作らないといけない。それも守らないからまた作らないといけない。法律を作ると次は 抜け穴を探さなきゃいけない。きりがないです。追っかけっこみたいなものです。 江戸時代に日本にやってきた宣教師が、本国に送った書簡に、日本人は非常に道徳観、 倫理観のレベルが高いと報告しています。 火盗改めや銭形平次の番組のように犯罪が多くは無かったようで、南町奉行も、暇だったとか。 事件がないのでは、映画になりませんからね、だからいっぱい脚本家が創作するのですけれども。 江戸は犯罪の少ない都市だったのです。もちろん幕府が縛り上げたかどうかは知りませんが、 非常にレベルが高かったんです。そんな細かいところまで法律は決めておりませんでしたので。 法度はございましたけど。今の世の中はというと、どうも気になるのですよね。産地の偽装とか。 最近、自分で自分を律するということが弱くなってきているのかなと思って仕方ないのです けれど。まあ、最終的には、消費者が判定を下しますがね。戒律が基本ですね。戒律が 守られれば法律はいらないと私は感じています。 次は、この戒律、ルールですけれど、仏教の教典の中に、このルールばっかり書いてある本が ございます。仏教で守らねばならないと規定されたものを、集めてある本のことを 「律蔵(リツゾウ)」と申します。もちろんまずは佛法ですから、教えが書いてある教典を 「経蔵(キョウゾウ)」と申します。お釈迦さんが説かれた教えに対して、後のお弟子さん達が いろいろと解説を付け加えます。それを論蔵(ロンゾウ)と申します。経蔵、律蔵、論蔵と3つ 並びます。この3つの蔵を「三蔵(サンゾウ) 」と申します。 ははあ、悟空のことかな、と思われましたね。実は三蔵法師なるものは、あれは小説の 主人公なのですよ。もちろん、孫悟空も沙悟浄も猪八戒もですけれども・・・・小説の キャラクターですね。実際、モデルになっていますのは、玄奘です。唐の時代の高僧で、 国禁を犯して、中国から西の関所を闇に紛れて通って、インドまで教典を取りに行かれた方が、 玄奘(ゲンジョウ、ゲンゾウ)です。これは実在の方です。 インドに修行に行かれて、必要な教典や、向こうの言葉を学び、翻訳できるだけの能力を備え て、向こうの教典を、ロバの背中に積んで帰って来られました。大歓迎を受けたんですね。 それで、その玄奘が、「大唐西域記(ダイトウサイイキキ)」偉大なる唐の国の、西の地域に ついて書いたという紀行文、旅行記、それが大唐西域記という本なのです。それは玄奘が旅行し、 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 5 新宅博明「人生の苦楽について」 見聞きしたことを書かれた旅行記ですから。玄奘という方は、後の世に、逸材という意味で 「釈門千里の駒」と讃えられた方だそうです。 この「大唐西域記」を、ネタ本にして、明の時代に、呉承恩(ゴショウオン)という方が 「西遊記」という小説を書かれたことになっています。その西遊記の主人公を三蔵法師という 名前にしたんです。元々、教えと、規律と解釈に詳しい人を「三蔵法師」と中国の人が 崇(あが)めて呼びましたので、実際は何人もいらっしゃるのです。だから、三蔵法師は 固有名詞ではなくて、位といいますか、敬称であり、尊称です。 少しなじんで頂けるかなと 思いましてご紹介いたしました。 それで、宗教についての次の話題ですが、若い頃ホームスティを引き受けたりして、 ドイツの方を何人かお世話申し上げたのですが、だいたいの方は宮島へ行かれます。広島に 来られる前に京都とか奈良へも行かれています。それで、家にお泊めしたときに、宮島は、 神社だけど、京都には寺院が多いという話になってきて、どこが違うのかと問われたのです。 そっくりではないかと。屋根は同じ様になっているし。いやあ、中におられるのが違うんですと、 寺院はブッダ、仏がおられます、神社にはゴッド・日本の神様がおられますと言いますと、 「うーん」と納得されないんです。そして同じ質問がもう一度来るのですね。何を答えれば いいのか、簡潔に答えなければいけないので・・・・日本の神様は人間の願望を叶えてくれ、 仏様は人間の本性を知らしめ、欲望をコントロールします、と言ってしまいました。それで 一応追求を逃れました。当たっているかかどうかわかりませんけど。 したがって、戦勝祈願、武運長久、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛は神社のお仕事なのです。 自分の欲望を叶える。 私の属する宗派は、そんなことは申しません。だって頼まれても困りますよ。受験でも、 来ちゃったらみんな入れなきゃ、落とされないじゃないですか。商売繁盛でも商売敵が揃って来 たら、できませんよね。野球の戦勝祈願なんて特にそうですよね。両方来ちゃったら、両方に OK、OKって言ったら責任はどうなるのでしょう。だから難しいことだとは思うのですが、 それ以上は申しませんが、神社と寺院は違う。不思議だったんでしょうね。よう似とるのうって。 次は昔の道角でね、そっち行けばお稲荷さんがある、こっち行きゃあ、天神さん拝んで、あっ ちこっち拝みまくってしまう人は、信心深い人ではなくて迷信深い人ですね。怪しいでしょ。 ついでにあれにも頼んどこ、これにも頼んどこうって、一体あんたの本心は何だって。大体、唯 一・一人なはずなのです、絶対者というものは。 次に、仏教理解の前提として、少し哲学的になりますが2つお話をいたします。 一つの軸は時間ですね。時間なるものをどう考えるか。古い歌謡曲ですが、 「♪げんざいかこみらい」というのがあったのですが、続きは知らないんです。昔の歌ですが、 私の印象は強烈でした。「現在」「過去」「未来」で、時間の軸を網羅しているように見えますが、 仏教で言うと、すべて「現世」のことです。私には、昭和19年に生まれてからの過去があって、 これから生きてれば未来がある。それは私の「現世」今の境涯での話なのです。「現世」の中に 「現在」と「過去」と「未来」が存在しています。これはお分かりですよね。 現在・過去・未来とは「現世」という大枠の名での話なんですよ。科学は現世の事しか 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 6 新宅博明「人生の苦楽について」 問いません。前の世は問いません。これ、プラスチック(マジックを持って)、プラスチックの 前の世は何とかいうことは科学の世界では申しませんよね、このプラスチックの来世は何かとは 絶対言いませんよ。これ、物質ですから、現世しか問いません。 ところが、キリスト教は来世を説きます。復活して昇天します。イエス・キリストは復活して 天に昇って行きます。あれは来世ですよ。だからキリスト教は「現世」と「来世」を説くのだと 私は理解しています。 これらに対して、仏教は、三点セットが揃ってます、これだけ自慢して居るんですけれども 「過去世」があるんです。「過去世・かこせ」があって「現世げんせ・げんぜ」があって 「来世・らいせ」がある。いわゆる「三世・さんぜ」です。これで筋が通るのですね。 この発想は、数学の「0ゼロ」を発見したインドだから可能だったのではないでしょうか。 西洋ではありません。ゼロの発見は、革命的なことなのですよ。ゼロを発見したということは、 マイナスの世界があるということ、プラスの世界があるということで揃うのです。 ゼロの発見があって初めてマイナスの世界が出てきます、数学では。 「現世」をゼロにすれば、「過去世」が見えてきますよね。仏教では、過去世と現世と来世と。 従って、今の私達の世界は仏教のから申しますと現世の話です。 先年、本学の伊藤先生が現職でお亡くなりになられました。葬儀場からご遺体をお見送り するとき、教え子の皆様が、西行法師の作られた歌を柿本先生の指揮で歌われました。 「ほろほろと なく山鳥の 声聞かば 父かとぞおもう 母かとぞおもう」という歌です。 あの歌詞の意味は三世の発想でないと判らないはずですよ。 この歌は「生まれかわり」ということなのです。父母が生まれかわって、山鳥になったのでは ないかという捉え方です。現世では自分の親だったけれど、なぜか来世で、畜生道におちて 山鳥になっているんじゃなかろうか。それに「信時潔」という方が作曲なさってね。 「輪廻転生」という発想は仏教でないと無理です。輪廻を繰り返す「悠久のいのち」の今が、 今の私ですよ。 どういう世界を生まれ変わってウロウロしているのかというと。資料の一番最後のページに 十の世界をくっつけております。そちらをご覧頂ければと思います。十界と書いています。 下から、地獄、餓鬼(ガキ)、畜生(チクショウ)、阿修羅(アシュラ) 、人間、天上(テンジョウ)、 声聞(ショウモン)、縁覚(エンガク)、菩薩(ボサツ)、仏と読みまして、これが仏教で言う 十の世界です。今、たまたま私達は人間界に生まれさせて頂いています。十界のほとんど、 ど真ん中。それで地獄から天上界までが迷いの世界です。天上界といえば、天人の世界ですから、 寒いなと思ったらあったかくなり、お腹空いたなと思ったらご馳走が来て、寂しいなと思ったら いい音楽が聞こえてくる、そういう申し分のない世界のことを天上界と申しますけれども、 その世界に住んでいると、余りにも環境が良すぎて満足し、真実を求めないから、また堕ちて いくんですね。下のほうへ。従って、悟りの世界ではないということになっています。 上の四つは行ったことがないので解りにくいですよ。私はいつもそう思うんです。下の六つは、 過去世で自分が経験してるから、何となく理解できるんですよね。 例えば、地獄、現代風に言えば、自分のなしたことで自分が責めを負う自業自得の 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 7 新宅博明「人生の苦楽について」 世界ですのでよくわかりますよね。 餓鬼というのは足るを知らない世界ですので、満足を知らないので、あれ欲しい、 これ欲しいって。だから子どものことを餓鬼って言うんです。子どもはお菓子、カステラでも 何でも、両手に持って口にくわえてもまだ欲しがりますよね。ああいうのを餓鬼というのですよ。 足るを知らないから、だからいい意味ではないのですよ。 畜生、これは動物ですから、本能のまま動いていますよね。 阿修羅、これは心の中のいい心と悪い心がいつも抗争して対決して争ってる世界で、非常に 苦しいですよ。良心の呵責に悩むといったような世界。 人間界はご存じ、今のこの境涯です。 天上界は先ほどの、申し分のない世界なんですけれども。こっから上がわからんのですよ、 悟りの世界ですから。 声聞、仏の教え聴いて悟ることを、喜びとする世界。解らないですよね~。仏さんの話は 聴きたくない、できるなら儲け話が聴きたい。自慢話がしたい、人の不幸を聴きたいです。 真実の話しなど、受け止められなくて、聴きたくないんですよ。 縁覚、縁にふれて、天地自然の変化を見て覚りを開く。ますます分からない世界ですよね。 雲水という言葉をご存じですか、雲水さん。京都の辺りには、隊列をなして歩いておられますよ。 あれは行雲流水といいまして、行雲流水の雲と水とで雲水さんと省略しているのです。まさに これです。空をゆく雲の流れとか、川水の流れを見て真理を悟るんですって。私には分からない。 菩薩、これは仏になるために悟りを開こうと修行なさっている方が菩薩です。お地蔵さんの 正式名称は「地蔵菩薩」です。傘地蔵という童話がございますが、あの雪の中をお地蔵さんが 歩いてこられますが、あれは何体かご存知ですか。就職試験みたいですね。今の話、今の お手元の資料に答えが出ています。傘地蔵は何体でしょうか。この傘地蔵さんは、 六道能化(ロクドウノウケ)といいまして、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、六つの世界 に担当者を一人ずつ配置してありますから、六体です。地蔵さんは六体をもって、正式とします。 実は、お釈迦さんがこの世から消えられた後、次にこの世に現れる仏さんを、 弥勒菩薩(ミロクボサツ)と申します。未来仏です。弥勒菩薩は56億7千万年将来に、 この世に現れて来られるのです。その間、仏さんがこの世におられないので、代わりに 地蔵さんが担当なされます。長時間労働で忙しいですよ、五六億七千万年、働かなきゃ いけないのですから。しかも地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六つの担当者がおらますが、 救うべきものが多数ですから、六人はもうふらふらでしょう、きっと。 仏は、衆生(衆多の生・シュウタノショウ)を救済することをお仕事にしておられる。 さて、前半の最後当たりで「時間」のことを申し述べてきたんですが、時間というものを、 生きている自分の身の上に置き換えてみると、それは「寿命」なんです。 なぜかと申しますと、日めくりのカレンダーがございます。今日、帰りにぼくが車でガーンと いって、この世におさらばしますと、明日からの日めくりは僕にはいらないのですよ。 時間は命です。一人ひとりの身に置き換えれば分りやすいんですよ。これは、抽象的な問題では 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 8 新宅博明「人生の苦楽について」 ないですから。時間は寿命です。 だから、子育て中に、友達が誘いに来て、片付けずに外に走って出ようという子を、 こっちでアイロンでもかけながら、 「あんた片付けずに、遊びに行ったらいけんで。 」といっても、 聞きやしません。まあ、たいてい、「今日も元気だね、ママは。」としか思ってくれません。 大声を出しても。 まず、スイッチを切って、その場へ自分で行って、 「片付けてもらうと、この部屋がきれいになって助かるんだけど。」といえば、こりゃあ効くよ。 目が笑っていないのが入ってますけれどね。ちょっと離れたところでアイロンがけに命を 使いながら、どんなに言っても聞きはしません。ところが、アイロンをやめて、わが身を運んで、 「片付けてほしいんだけど。」と、親がオモチャに手を伸ばしはじめると、迫力が全然違います。 命がここへ来ていますから。アイロンの時には命は向こうにいますから。わが身をおく というのは重要な意味があるんですよ。 ここで2時間の講演をお約束させていただいてますが、今、家が火事になっても、 どうすることも私はできません、自分の人生の持ち時間は、わが身の置いているところで 使うのですから、自分の身を置いているところが一番大事なんですよ。その寿命を使って ますから。 地御前に「光の園摂理の家」というキリスト教系の児童養護施設がございます。あそこへね、 盗みの治らない子がおりました。小学生の女の子です。どうしても近所の店から盗ってくる。 どうやっても治らなくて、万策尽きて、かなり、以前の園長先生ですけれども、困り果てて、 とにかく、ご飯の前に1時間ほど掃除の時間があるのですけれど「あなたは掃除はいいから、 礼拝堂においで」と言って、十字架の前に毎日夕方1時間一緒に座られたのです。毎日それを しちゃったんです。すると、盗みが治ったんです。それは、園長先生がしなきゃいけない 仕事を置いて、毎日1時間その子の為に時間を費やしているんです。伝わるよね。あれは 感動しました。時間は命ですね。命の中に真実が入ってる。キリスト教ですけれども。教義の話 じゃないですよ。何が大事なのかということがよく伝わったんですね。どこに身を置くか、 身を置いた場所が一番大事なんですから。その女の子の横に座って、1時間の自分の時間を 提供なさったというのは、効きましたね。 次は「空間」です。世の中は時間と空間で成り立っています。空間というのは広がりです。 知的障害児の施設、六方学園について社会福祉で説明すると、学生の多くはコメントカードに 六法学園と書かれるんです。六法とは、福祉六法といいまして、生活保護とか児童福祉とか 身体障害、知的障害、老人福祉、母子福祉のことを福祉六法というのです。学園名は「六方」と いいます。六つの「方角」なんです。 さて、点が動くとどうなりますか。線になりますよね。線が動くと面になります。 面が動くと空間、立体になります。数学いうのは想像力ですから、計算力は一部分です。 見えない世界を想像できるのが数学の力なんだそうです。円が動いたら円柱。四角いのが 動いたら柱。空間というのは今の成り立ちで生じます。このホールは、この空間ですが、 これが無限に広がったのが宇宙です。宇宙空間。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 9 新宅博明「人生の苦楽について」 四方というのは、東西南北で、平面です。六方というのはそれに上下を加えます。 東西南北で平面、上下の軸を加えたら「立体」で、広がると宇宙になります。無限の空間です。 ちなみに、四方八方の八方というのは、西南・東南・南西・北西を入れたものです。 それに上下を加えたら十方になりますから、十方山というのがあります。山口県との県境に。 十方も六方も、全宇宙を二つの漢字で表現したのです。 それで、六方学園の由来ですが、あるお経の「六方段」がそれです。 四方+上下=六方の諸仏がこの子らを守ってくださっている、という意味なんです。 それで、この空間なのですが、空間が無限なのが仏様、空間が有限なのが私たち。もちろん、 時間も有限です、人生何年ですから。 人間の空間には限りがあるというのは、ここへ一枚の紙がありましたら、私の視界(空間)は ここで止まるんですよ。四畳半の部屋に行きましたら、四畳半の障子の向こうは 見えないですから、私には。 人間はたいしたことないですよ、薄い紙一枚あるだけで、外が見えないですから。 さえぎられれば、限りがあるんですね。時間的にも空間的にも有限なのが人間なんですね。 でも、欲だけは無限に持ってるんですよ。だから苦しい。有限な自分なら、欲も有限なら いいんですけど、欲は無限なんですね。それで、苦しいんです。それを全部救わないと いけないのですから、仏様は時間も空間も無限でないと無理です。それが私と仏の関係性に なります。 無限なる存在との出会いと私は書かせていただいています。絶対者としての仏の存在は 基本的には無限なはずです。だから、どんな人でも救えるし、どんな人の考えもわかるし、 どんな人のところへでも飛んでいってくれるのですね。いつでも、どこでも、だれにでも、 いいですよね、どこへでも来てくださいますので。 次の仏教の理解の二番目のポイントですが、仏教では偶然と必然ということを教えます。 偶然は「たまたま」必然は「あたりまえ」ということになります。これを世間では よく取り違えます。偶然と必然の正体は何かということを。 そこに、皿が割れるのはなぜかと書いています。落とせば割れますよね。あれは偶然ですか、 必然ですか。たまたまか当たり前か。 粘土をこねているときは割れはしません。まあ、ゆがみはしますが、柔らかいときには 割れはしませんよね。釜の中で何千度かで焼いて完成した瞬間に無理な力が加わると割れる という性質を中へ持つんですよ。自性(ジショウ)といいます。皿の自性とは、完成した瞬間に、 無理な力が加わると割れるという性質を持つんです。 それで、次の「死の原因」はという問いかけがお分かりでしょ。 家で皿を割ったら、あんたが皿を割ったといいます。家では、僕は原因ではない と言うんですよ。僕は原因ではなくって、きっかけを与えたんです。原因ときっかけというのは そういう構造です。皿が自ら割れるというものをもってらっしゃるのを、私がたまたま 明らかにさせてあげただけで私が割ったんじゃあないんですよ。お釈迦そうおっしゃていますよ。 この原因ときっかけを、取り違えたりするんですけど。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 10 新宅博明「人生の苦楽について」 そこで「死の原因」は何でしょうね。死因ですけど。さあ、死は避けて通れませんが、 死因は何でしょうか。なんぼでも思い浮かびますでしょ。厚生労働省の死因トップ3の 新性悪生物とか、脳血管障害とか心疾患とかありますが、あれは原因ではないですよ。 交通事故も。あのたくさん並ぶ原因はお釈迦さんからいうと原因ではないですよ。何でか、 それは、死という結果がひとつなので、必ず原因もひとつでないと話があわないのです。 では、いっぱい並ぶのは何かというと、あれは「きっかけ」です。そうしないと 説明がつかないでしょう。 もう、お分かりでしょう。死の原因は誕生です。3200グラムの大きな元気な赤ちゃんが 生まれましたという瞬間が、死の原因です。あとはどれも皆きっかけです。早いこともあるし、 遅いこともあるし。でも必ず結果はきます。何がきっかけかということにもよりますけれども。 人間に平等に与えられているのは生と死だけ。あとはみんな不平等ですよ。見てくれから 何からみんな違いますからね。だけど生とところが世の中の人は、きっかけが原因だと 勘違いなさるから、あちこち拝んで歩くんです。サプリメントをたくさん食べたりね。 それは無理ですよ、避けられません。原因は生まれたときに内包しているんですから。 死の原因は誕生であるということは、知識のレベルとして知っておいてください。 死だけはみんな一人ひとり平等に与えられていますよ。これは、因果律では、 結果が一つならば、原因は一つでなければならないからです。 余談ですが、原因と結果の取り違えは、あるお嬢さんが、ちょと精神的に調子が 悪くなられたことがあるんですよ。それで近所の噂話では、失恋が原因ということに なったのです。その頃僕は三次の児童相談所にいました。そこで精神科のお医者さんに、 失恋が原因で調子が悪くなったようだと話してみましたら、それは違うだろうと おっしゃるんですね。どうしてですかと聞きますと、それは精神的な変調がもとで 恋が成就しなかったんじゃないかと考えるのが適当ではないかとおっしゃたんです。 ぼくは、そういう捉え方があるんだなぁ、精神科のお医者さんだなと思いましたね。 感心しました。 本論の仏教ですけれども、2500年前に、北インドに釈迦族という一族がおりました。 歴史的にはアーリア人ではないらしいです。インドの土着の民族のようです。釈迦族で、 みなから選ばれた王さまの子どもがお釈迦さんです。釈迦族の王子ですが、 ゴータマ・シッダルータという名前でした。 王子ですので、ずっと遊んでいてもいいのですが、なぜか彼はずっと苦悩をもって おられたのですね。悩んでおられました。並の若者ではなかったんですね。それで、 お城を捨てて、位を捨てて、ジャングルの中に入って行かれました。それを出家といいます。 すべてを捨てて家をでるから「出家」といいます。 また、出世という言葉があります。「ありゃ、出世しちゃったで」というのも誤用です。 会社などで、役が上がることが出世ではないのです。出世というのは仏の世界から 人間の世界に伝えるために出てくることを出世といいます。字の通りです。お釈迦様は、 仏の世界から仏の教えを伝えるために人間に姿を変えて出てこられた方だから、 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 11 新宅博明「人生の苦楽について」 出世(よにいずる)といいます。本来はその時だけに使うものです。お経の中に出てきます、 お釈迦如来様がこの世に出てこられた所以(ゆえん)は何かとの部分です。 それで、仏というのは実はインドの言葉ではブッダといいます。それを中国で漢文に訳す時に 「佛陀」と音訳(音写)しました。 翻訳の仕方に2種有りまして、意味を翻訳するときは意訳と申します。発音を翻訳するときは 音写といいます。 漢字は、もともと意味を表す表意文字ですけれども、象形文字が基ですから。時には発音を 表すのに使いますよね。漢字は表音文字と表意文字の機能を有しています。 だってアメリカのこと米国と申しますでしょ。あそこの国は米を作らんよ。パンですよ。 麦国ではなく、なんで米国なんですか。あれ亜米利加と音写したか、発音の機能を使ったん ですよね。 それで仏(フツ)という漢字を使ったのは、音を使っただけなんですよね。でも、日本人は これに平仮名を付けました。ここは意味があります。ほとけと読ましたのです。あれは「ほどく」 が元の意味です。煩悩に縛られた私を、ほどいてくれる。「ほどく」が「ほとけ」になったとの ことです。 それで私達は何で縛られて言うかというと、欲です。欲と怒りと愚痴で身動きのとれない 状態を解き放つので「ほとけ」と言います。 どういう教えかと言うところに入って参ります。唐の時代に白楽天という詩人がおりました。 かつて、中国の杭州の太守という役人だったそうです。白楽天はそこに赴任して暇を持て余して おりました。 地元の役人が、「都の長安と違い何もございませんで。」とご機嫌取をする中で、 「最近、木の上で修行している者がおる。人が住んでいる。 」と白楽天に言いました。 それで、白楽天は退屈しのぎに行ってみるかと言って、馬に乗って、家来を連れてその場所に 行かれたようです。 そうすると、確かに木の上に巣を作って人がいる。破れたような衣がヒラヒラしている。 その姿がカササギに似ていたので、地元の人たちはカササギ禅師と呼んだり、 樹上上人(ジュジョウショウニン)と呼んでいました。本当は道林という方です。 それで、下から白楽天が、 「松の上に住んでいると危ない。 」と声をかけたそうです。一応挨拶代わりに。 そうしますと、道林禅師が、松の上の危険性と、薪の上の危険性はどちらが大きいかと太守に 向かって問いかけたそうです。 「わしは松の上におるが、おまえは薪の上におるではないか。」と申したそうです。 すごいです。私は松上(ショウジョウ)にあるけど、おまえは薪上(シンジョウ)にあるでは ないかと。 白楽天は地方の長官ですから、部下が皇帝に讒言(ザンゲン)をすれば首をきられますよね。 謀反と言うだけで処刑になりますから。そんな危ない蒔の上にあなたはいるんだ。 薪の上だったら火を点けたら燃えるじゃないかと切り返しをなさったんです。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 12 新宅博明「人生の苦楽について」 うむ!と思って、さらに、そこで何をしているのかという風に問いかけると、インドから 伝わってきた教えの修行をしていると言ったそうです。その教えはどんな教えかと問いますと、 「諸悪莫作(ショアクマクサ)」(諸々の悪はなすなかれ)、「衆善奉行(シュウゼンブギョウ)」 ( 多 く の 善 は 行 い て )、「 自 浄 其 意 ( ジ ジ ョ ウ ゴ イ )」( 自 ら そ の 心 を 浄 く す る )、 「是諸仏教(ゼショブツキョウ) 」これ諸仏の教えなり、と答えたそうです。 白楽天は、 「そのような、いいことをしなさい、悪いことをするなという、そんな分かりきったことをあ なたは有り難がっているのか、そんなことは3歳の子どもでも知っているよ。」と言い捨て、 山を下り始めたそうです。 その背中に向かって道林禅師は、 「3歳の童子よくこれを知るといえども、八十の翁これを為す事あたわず」と言いました。 さすがは白楽天、ハッとして、直ちに下馬し、平伏して教えを請うたのでした。 杭州に西湖という景勝地があります。その近くに仏閣を造って、そこに道林禅師を招きました。 後に広化寺というお寺になりました。これは故事に残っています。その杭州にある西湖を 凝縮した形で真似たのが浅野の泉庭といわれた、広島の縮景園です。そっくりなはずです。 広島と関係あるんですよ。 それで、仏教自体の話になりますけれども、お釈迦様は真理に目覚めた人です、私達は 真理に目覚めておりません。起きてはいますが、見えてません。 仏のことを、如来とも言いますが、それは一如(イチニョ)の世界から来た人ということです。 真如(シンニョ)の世界から来た人とも申します。 一如は面白い説明を聞かせて頂いたことがございます。字からの解釈ですので本当かどうか よくわかりません。一如とか真如という言葉を悟りの世界ではよく使います。一如は 「ひとつのごとし」と読みますね。一つではないのです。でも「如し」の世界です。 これは、赤ちゃんと母親の関係に近いのです。他人ではあり得ない関係性です。赤ちゃんと 生んだ母親は同じ者ではないですから。でも一つの如しですから。赤ちゃんがぐずると 母親は敏感です。赤ちゃんが心配で心配でかなわないですから。親が不安になると、今度は 赤ちゃんの顔が緊張してきます。あれは一つのごとしの世界なのですね。赤ちゃんの気持ちと 自分(母親)の気持ちが、ほとんど一体になっています。他人ならそんなことはないのですよ。 仏の世界というのは私達の苦しみをそのまま自分の苦しみになさる世界なんです。 そういう意味で一如といい、そこから来られたから如来、一如来生(イチニョライショウ)と 言います。 次に、仏教という言葉には、二つのとらえ方があります。 一つは、お釈迦様が説いた教えという捉えと、二つ目は、仏になるための教えという捉えです。 お釈迦様は何を覚られたか(発見したか)というと、 『原因はきっかけを得て、芽を吹くよ(結果が出るよ)。 』ということです。 これは発見であって発明ではありません。きっかけのことを縁と申します。原因はきっかけ(縁) があると結果が生ずるよというのが、仏の教えの本質です。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 13 新宅博明「人生の苦楽について」 例えば。ここにコップがあります。これに水が入っています。これが原因ですよ。 これを横にするという縁を与えるとこぼれます。結果はこぼれた水と空っぽのコップです。 これを飲みますと、僕の中に入ります。こぼすのと飲むのでは結果が違ってきます。 問題が続くんです。 こぼれた水は、次の原因になります。因といいます。ほっとくというきっかけを与えると 蒸発します。拭き取るとハンカチが濡れます。結果が違ってきます。濡れたハンカチが 次の原因になります。ズボンに入れるとズボンが濡れます。ここに干しておくと、 しばらくすると乾いてきます。1回でおわらないんですね。 原因にきっかけがあると、結果が生じて、それがまた次の原因になって、どういうきっかけを 与えると、どういう結果が現れるか、いくつでも分かれていくんです。人生、そうなってきて いませんか。ハンカチを拾ったばかりに一緒になったとか、あの時に拾わなかったら そうはならなかったかもしれないのに。因果とはそういうものです。 従って、仏教は運命論を否定します。運命はありません。何によってどう変わるか わ か ら な い の で す か ら 。 こ う な る 運 命 だ っ た と は 仏 教 は 申 し ま せ ん 。「 因 果 の 道 理 」 に 反していますから。あやしい教えではないです。非常に科学的です。それを 「因縁生起(インネンショウキ) 」と申します。縁起と略しますが、因は縁によって生じるという 法則です。この法則からはずれたことは、この宇宙にはありません。因果の道理からはずれた ことはこの世では起こってないはずです。それをお釈迦様は悟られた(発見された)のです。 確かに、自分を取り巻いている状況は、時々刻々とこの因果の法則に従って、客観的に、 粛々と進んでいるにもかかわらず、その中心にいる私は「思うようならない」と悶えている。 それが苦しみの姿です。 それが苦です。思うようにいかないから腹が立ち、悲しいわけでしょ。 人間の苦悩の根源は、因果の道理で動いているのに、自分だけは例外であってほしいのですよ。 それが苦悩の根源です。これが今日の話の要点です。 人生をどう見るか、ハイウェイか宙づりかという話を、よく一口法話で致しますが、 申しあげてみましょう。人生をどういう風に前提にするかによるのかというと、ハイウェイを 大きな車でスーッと走るのが人生だと思っていると、パンクしたりぶち当たったりするのは 避けたいです。嫌なことは避けたいものです。それで、あっち行って拝んだり、こっち行って 拝んだり、お払いをしてもらったりということになります。 本当は、ハイウェイを走っているのではなくて、ヘリコプターに三本か四本の綱で宙づりで ゆらゆらして行くのが人生なのです。もともとが。 事故に遭わないとか、心臓が動いているとか、隣の人が刃物をもっていないとか、 そいう条件がたまたまあるので、ぶらぶら行っているから、逆に、いつ落ちても不思議では ないんです。前提が逆なんです。順調に行っているという何本かの綱が、切れたら落ちるんです。 それが必然です。 たまたま生かしてもらっているんです。それが人生です。だから、たとえば、朝起きたときに、 子どもに、よう起きたねといってやって下さい。よう夕べ死ななかったねという意味なんです。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 14 新宅博明「人生の苦楽について」 夕べのお休みが、今生の別れになるんですよ、生きているということは。 夜、息が続いていたから、心臓が止まらなかったから、朝起きてきたんです。 たまたまなんですよ。あたりまえじゃないですよ。夜中に亡くなる人もいます。 また、最悪のお子さんに対しては、居てくれるだけでうれしい、成績悪くても、わるさしても、 居てくれるだけでうれしいと言って下さい。存在を褒めましょう。命というのは保証は 無いんですから。いつ落ちるかわからない、これが実態です。 それで、私達は人生に苦しみがあると思っています。人生に苦あり、だから避けようとして、 いい話はないかとウロウロするんです。お釈迦様は「人生は苦なり」とおっしゃっています。 『人生に苦あり』なのか、 『人生は苦なり』なのか、二字違いでえらい違いです。前提が違います。 『人生は苦なり』とお釈迦様がおっしゃっています。なぜかというと、もう一度繰り返しますと、 因果の道理で自分の周りのことが全部動いているのに、自分に関しては、因果の道理を 受け取りたくないんです。自分の思うとおりになりたいです。人生は苦なりというのは そういうことです。それで、古来、四苦八苦とか生老病死、生まれて老いて、病になって、 死ぬことに、もう四つ付け加えて、八苦と申しております。四苦八苦の中身です。 最後は文殊の知恵についてです。三人寄れば文殊の知恵と申しますけれども、あれは、 いいアイデアが出ると言うレベルのものではございません。智慧の慧という字は、知識でも 知能でもありません。文殊の智慧のことは僧侶の資格を授与される講習会で習ったんです。 ① 曲がった道を文殊菩薩が歩かれると真っ直ぐになるそうなんです。曲がった道も 文殊菩薩が歩かれると真っ直ぐになる。 意味は、歩む先が左に曲がっていますと、私達はまっすぐ行くのが当たり前と思って いますから、角へ来ると仕方なく左に曲がります。も少し行くと今度は右に曲がるでしょ。 私達は、最初にはじめの角までの道の方向が、この道の進むべき方角だと勝手に決めて しまうのです。だから、曲がった場所に来ると、えぇ、また曲がって、次ぎも曲がるなんてと 不可解に思うわけです。 文殊菩薩はどうなさるかというと、道があったら、「真ん中をあるこうね」といいながら、 真ん中を歩いて行かれます。ずーっと真ん中を歩こうというのを、中道といいます。 曲がり角が来ても何にも問題はないです。ずっと真ん中を歩いてるだけですから。 文殊菩薩の智慧とは、自分の狭い考えから開放されておられる状態を言うのです。 ② 上り坂もそう、文殊菩薩は平地と同じ脈拍で歩かれるんです。 だからしんどくないんです。登りがきつければゆっくり歩いて行かれるのです。 下りになったからと言ってよろこばれてもいない、同じ脈拍で行く。道に合わせて どうのこうのではなく、こっちが道に合わせる。それが文殊菩薩の智恵です。 ③ 最後に、茨の道を歩くと、自分にささったりして痛いですけれども、文殊菩薩が歩くと 茨が全部花に変わると言うんです。 それは、文殊菩薩は、棘一つ一つに、あなたは輝いているねと褒めながら行かれますので。 いばらの棘はほんとにきれいですよ。私達は、急いで通るからあっちこち刺さるんです。 棘道でとげひとつひとつを褒めれば、確かに花ですよね。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 15 新宅博明「人生の苦楽について」 そういう3つの例えで文殊の知恵の説明がありました。 最後に、私の母が「人間というものはね」と申しました。私は過保護に大事に育てて もらったのですけれどもね。母が言ったのは、「人間は、苦しみの先端を捕まえたときに 喜びというよ。」と言いました。家を建てた時はうれしいでしょう。だけどだんだん古くなって くる。喜びだったけど、それを握っているとだんだん苦しみになってくるんです。地価が 下がったり、吹きつけをしなくてはいけないようになったり、ガスコンロが最近の家は IHになったり。初めは喜びだったんですよ。だけどだんだん苦しみに変わってきます。 入学がそうでしょう。やった、通ったと思ったら、次から苦しみになっている。 「 苦 し み の 先 端 を 捕 ま え た と き 、 喜 び と い う ん だ よ 。」 っ て 、 母 は 変 な こ と を 言 っ て 無くなりましたが。人生の苦楽、決めるのは、その時の自分の都合です。 中国の故事に「人間万事塞翁が馬」があります。これは、要塞の近くの村に住む、翁と息子と 村人の話です。 ① 飼い馬が一頭逃げました。村人が悪かったねーと見舞いに来ました。 ② ある日、其の馬が野生の馬をいくつか連れて戻ってきました。村人がよかったねーとお 祝いを言いに来ました。 ③ 息子が野生の馬を調教していたら、落馬して怪我しました。村人が、悪かったねーと見 舞いに来ました。 ④ 間もなく、役人が徴兵に来ましたが、怪我の息子は免れました。村人が、良かったねー とお祝いに来ました。 こんな物語ですが、解説では「禍福はなお、糾(あざな)える縄の如し」とあります。一 般的には良いことあれば悪いこともある、良いことや悪いことは、コロコロ変わり、決まっ ていないなどの譬えです。 しかし、決まっていないのではなくて、むしろ何が良い、何が悪いという良し悪しは誰が どうやってきめているかを、ここでは問題にしたいのです。 武田信玄が甲斐を出発して京に上るときに途中で信長軍と対峙します。信長はもうだめだ と思ったんですね。ところが野田城の手前で信玄の軍勢が動かなくなってしまったんです。 戦国随一と云われた甲州騎馬軍団が止まったんです。あの信玄が、鉄砲傷か労咳(肺病)で 死んだんです。信長はきっと喜んだでしょうね。人の死というものは悲しみのはずなんです けれど、信長にとって信玄の死はすごい喜びだったんです。 苦楽を決めるのはそのときの自分の都合です。自分に都合の良いことがいいことです。どん なにいい事でも自分にとって都合の悪いことは嫌な事なのです。 苦楽を決定するのは、其の時の自分の都合である。これが結論であります。自分の本性が見え てきましたね。 ご静聴ありがとうございました。 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 森:新宅先生ありがとうございました。私は新宅先生とは30年来のお付き合いがありまして、 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 16 新宅博明「人生の苦楽について」 新宅先生がお経が上手なのを知っておりました。例の透き通るお声でお経を聴かせて頂くという のはよく存知ていたのですが、今日のように、宗教的なお話しを聴かせて頂くのは初めてでした。 ほんとに僧職なんだと感じました。私が聴いていて一番感じたのですが、今日は宗教のお話しだ ったんですけど、新宅先生が子どもの相談場面で、常に私の先輩でいらっしゃたんですけれど、 新宅先生の相談は、いつも背景に流れている宗教的なものを臨床心理学的に子ども、保護者、保 育者や園長先生への援助の根本となるお話しをしていただいたような気がします。宗教的なこと もそうなんですけれども、自分を如何にどういう風な位置に置いて生きていくのか、自らの気持 ち、気持ちをいかにコントロールしていけるかということも含めて、今日はいいお話しを聴かせ て頂きました。今日は本当にありがとうございました。 比治山大学短期大学部キッズサポートシステムKiss 講演会 H20.12.6 www.hijiyama-u.ac.jp/users/yokyohp 17
© Copyright 2025 Paperzz