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キリストの肉と血

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キリストの肉と血
新約単篇
ヨハネによる福音
キリストの肉と血
ヨハネ
6:48-53
ヨハネの福音書には、最後の晩餐の記事がありません。その代わりに、キ
リストの肉と血という、晩餐のお言葉と重なる文がここにあります。
48.わたしは命のパンである。49.あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食
べたが、死んでしまった。 50.しかし、これは、天から降って来たパンであ
り、これを食べる者は死なない。 51.わたしは、天から降って来た生きたパ
ンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与え
るパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 52.それで、ユ
ダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができ
るのか」と、互いに激しく議論し始めた。
53.イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血
を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。 54.わたしの肉を食べ、わた
しの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させ
る。 55.わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だから
である。
ヨハネは「神の思いに通じた人」という綽名を持つことで、知られていま
す。それで、晩餐のパンと杯のお言葉の背後にある、天の父の意志を汲み取
って、書き留めたものかも知れません。
もつとも、昔のローマの教会は、その趣旨を取り違えた結果、一つの思い
込みと、一つの押し付けをいたしました。
「人の子の肉を食べ、その血を飲む」を、そのまま聖餐式のパンと杯の意
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キリストの肉と血
味に短絡したのは、宗教の神秘性に憧れる人間の習性から、無理もないとも
いえます。しかし、その思い込みを利用した教会は、「このパンを食べる時
は、「これはパンではなく、文字通りキリストの肉であると信じて食べよ。
また、杯の中にあるのはブドウではない。キリストの血を飲んでいるのだ…
…と教えたのです。
これと関連して、教会の権威を裏付ける必要から、「このパンをキリスト
の肉に変える力を、誰が持つか。誰が祝福した時だけ、ぶどう酒はキリスト
の血に変わるか―その大役を果たす人の資格と任命が必要になります。司
祭や牧師の按手式と教師叙任の始まりです。
私自身の小さなレジスタンスを告白すれば、私はこの五十数年の福音の仕
事を、「教職に正式に任命する按手礼なしで続けてきたこと」です。
私たちはむしろ、パウロの言葉にある「私の記念として」に基づいて主の
食卓では、「イエス・キリストの死と復活」の意味に思いを集中し、パンと
杯を各人が、感覚的にどう捉えるかは、自由にしています。
「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ」の「食べる」、「飲む」と
いう言葉は元来、自分の身に「栄養として摂りいれる」時と同じに、霊の養
分、生命力として摂取すること―キリストの死を自分のための死と受け止
め、これを告白するところに重点があります。
「わたしは命のパンである」「わたしの血はまことの飲み物である」を、
人類救済のための教理やたてまえとしてでなく、「キリストの死と復活は、
ほかならぬ私の命になっているのだ」と受け止めること。ヨハネは元々そう
いう意味で、「食べよ」、「飲め」という主の言葉を書きとめたのです。
(2003/10/05)
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