2007年10月

ISSN 1344 6622
(267)
人文・自然・人間科学研究
第 18 号
2007 年 10 月
論
文
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
ニュートン力学との対比を中心に
……………………………………………犬竹
正幸 ( 1 )
On Interpreting Benet’s Before An Examination ……………………David A. PRUCHA ( 18 )
Hoz y Encina de Santo Domingo de la Calzada
Primer milagro que da origen al pueblo jacobeo
………………………………Oscar Javier Mendoza GARC
A ( 25 )
que lleva su nombre
アニータ・ブルックナー
旧約聖書
天使の湾
を手がかりとして
における太陽の隠喩
………………………………………………………………北村有紀子
ロビン・フッド伝説と時代背景 ………………………………………………………野
( 43 )
要 ( 57 )
年季制度に関する経済地理学的考察
川俣羽二重産業を例に
…………………………………………………………小木田敏彦 ( 83 )
「ティアンギス」 と地域社会
…増山
久美 (100)
色光を用いたハトの部分逆転学習 ……………………………………………………木村
直人 (120)
メキシコ市大衆地区の青空市と地域住民のかかわりについての一考察
研究ノート
人文・自然・人間科学研究
投稿規定 ……………………………………………………………(129)
拓殖大学人文科学研究所
No. 18, pp. 117
人文・自然・人間科学研究
October 2007
カントの力学論における力, 慣性,
質量概念の検討
ニュートン力学との対比を中心に
犬
竹
正
幸
An Investigation of the Concepts of Force,
Inertia and Mass in Kant’s Theory of Mechanics
Masayuki INUTAKE
はじめに
カントはその批判哲学によってニュートン力学の哲学的基礎づけを与えた, という従
来からの解釈がある一方で, 近年ではその解釈は誤りであるとする議論も見られる(1)。
この問題を正確に論じるためには,
以下
理
批判
純粋理性批判
と略記) のみならず,
自然科学の形而上学的原理
と略記) の検討が不可欠である。 とりわけ
常に重要である。 というのも,
(第一版 1781 年, 第二版 1787 年,
批判
原理
(1786 年, 以下
原
は, この問題を考えるうえで非
のうちでは特定の力学理論への言及がきわめて
少ないのに対し, 原理 のうちにはカント自身の力学理論が展開されており, またニュー
トンへの言及, とりわけ
自然哲学の数学的諸原理
(1687 年, 以下
プリンキピア
と略記) への直接, 間接の言及が数多く見られるからである。
筆者はこれまで, カントの批判哲学とニュートン力学との関係をさまざまな角度から
論じてきたが(2), 本稿では
原理
の力学章に的を絞って, カントの力学論の内実およ
び, それとニュートン力学との対比を中心に論じることにする。 そのさい, カントがそ
の力学章で展開している力, 慣性および質量の概念の検討こそが, ニュートン力学との
異同を考えるうえで, もっとも重要な作業となる。 本稿の眼目は, 従来の研究ではほと
んど無視されてきたカントの質量概念にスポットをあて, この質量概念こそがカントの
力学とニュートン力学とを分かつ鍵概念であることを論証することにある。
―1―
1.
原理
の力学章に見られるカントの力概念
周知のように, カントは
原理
を四つの章に分け, それぞれ 「運動学」 (Phorono-
mie ), 「動力学」 (Dynamik), 「力学」 (Mechanik), 「現象学」 (Ph
anomenologie)
と名づけ, 各々の学の形而上学的原理の提示および, その証明を中心に論述を行なって
いる。 そのうち, 力概念をあつかっているのは, 第一章の運動学を除いた残りの三章で
あるが, ニュートン力学との内容上の異同という点から見て, 論考の主要対象となるべ
きものは, いうまでもなく力学章である。
カントは力学章の冒頭部分で, 「力学では運動状態にある物質のもつ力が考察され,
この力によって, この運動が他の物質に伝達される」 (Ⅳ 536) と述べ, さらに少し後
のほうで, 「ある物体の運動量が他の物体の運動量に対する比は, それぞれがおよぼす
作用の大きさの比に等しい」 (Ⅳ 539) と述べている。 つまりカントは, 運動状態にあ
る物体が他の物体に対して作用する力をもち, その力の大きさは運動量 ( は作用
をおよぼす側の物体の質量, はその速度) を尺度とする, と考えている。 このような
力概念はニュートン力学の力概念とはまったく異なっている。 ニュートン力学では, 力
は作用をおよぼす側の物体ではなく, 作用を受ける側の物体の運動状態の変化を尺度と
し, その力の大きさ は, ( は作用を受ける側の物体の質量, はその加速
度) で表わされる。 この数式は運動方程式ないし加速度の法則と呼ばれる。 ニュートン
が
プリンキピア
のなかで提示した運動の三法則と対応づけるならば, は運
動の第二法則に相当する(3)。
なお
プリンキピア
で示されている運動の三法則とは, 第一法則が慣性の法則, 第
二法則が上記の加速度の法則, 第三法則が作用反作用の法則である。 これに対してカン
トは, 力学章のなかで三つの力学法則を提示しており, 第一法則が物質量保存の法則,
第二法則が慣性の法則, 第三法則が作用反作用の法則となっている (cf. Ⅳ 537 ff.)。 つ
まり, 両者では慣性の法則および作用反作用の法則とが共通であるものの(4), カント力
学にはニュートン力学の第二法則 (現代風に表現すれば ) が欠けている。 その
代わりに, 力の定式としては上述したように という, 運動状態にある物体の
もつ他の物体に対する作用力という力概念がおかれているのである。
このようにカント力学とニュートン力学とで, その力概念がまったく異なるものであ
る以上, 両者の力学理論の内実は相異なったものとならざるをえない。 したがって, カ
ントによる力学の哲学的基礎づけがどのようなものであれ, それをニュートン力学の哲
学的基礎づけと解する余地はまったくない, といわざるをえない(5)。
カントは生涯, ニュートン力学の中心におかれている力概念に関して, 正しい理解に
―2―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
達することはなかった。 それはなぜだろうか。 なぜカントは, 運動状態にある物体のも
つ他の物体に対する作用力という力概念を保持しつづけたのであろうか。 この問題を考
えるためには, 批判期前におけるカントの自然哲学上の諸著作のうち, 当該の問題に特
に関連する三つの著作の内容をたどり直しておく必要がある。 それは
(1749 年),
自然モナド論
る。 まずは処女作
2.
活力測定考
活力測定考
活力測定考
(1756 年), そして
運動と静止
活力測定考
(1758 年) の三著作であ
から見てゆこう。
におけるカントの力概念
のテーマは, デカルトが力の尺度として運動量 を考えたのに対し,
ライプニッツがこれに反対して活力 を立てたことに端を発した, いわゆる活力論
争に対して, 両者を調停する試案を提示することにあった。 ここでは活力論争および
活力測定考
の詳細に立ち入る余裕はない (6)。 ただカントの力概念の由来をたずねる
という, 当面の課題に関係する論点だけを取り上げることにする。
まず活力論争について見ると, デカルトもライプニッツも, 運動状態にある物体が他
の物体に対して作用する力をもつと考える点では見解が一致しており, ただその尺度と
して をとるか をとるかという点でのみ見解を異にする(7) (ただし厳密にいうと,
ライプニッツは運動状態にある物体が他の物体に作用するという考えを否定する。 ライ
プニッツによれば, 真実には物質に内在する本質力が, 衝突などをきっかけとして, い
わば活性化することによって, みずから運動を産出するのである。 しかし, こうした力
の形而上学に踏み込むことのない数学的力学のレベルでは, 運動状態にある物体が他の
物体に対して作用すると語ってさしつかえない)。 そして, 運動量 を支持するデカ
ルト派は, 物体が運動するさいの所要時間を力の指標とすべきだと主張したのに対し,
活力 を支持するライプニッツ派は, 運動物体の通過距離を力の指標とすべきだと
考えた。 この基本的な対立軸は活力論争全体をつうじて変わっていない。
活力測定考
本論の冒頭でカントは, 「運動している物体は力をもち」 (Ⅰ17), その
力は 「抵抗に打ち勝ち, ばねを押し縮め, 質量を移動させる」 (ibid.) と語っている。
明らかにこの力は, 活力論争において共通の前提として認められていた力概念そのもの
であり, そして, およそ 40 年後,
原理
の力学章のうちでカントが提示した力学的な
力概念そのものである。 他のテキストによる確認作業を後回しにしていえば, カントは
この力学的な力概念に関するかぎり, 生涯にわたって同一の, しかも非ニュートン的な
力概念を抱きつづけたのである。
さて, カントはこれにつづけて, 「こうした力は物体にまったく外部から伝えられる」
(ibid.) とするデカルト的な力の理解と, 「物体には本質的な力が宿り, その力は延長
―3―
にさえ先立って物体に属する」 (ibid.) とするライプニッツ的な力の理解とを対比させ
る。 そして, デカルト的な力の理解は数学的に考察されるかぎりでの物体に妥当するの
に対し, ライプニッツ的な力の理解は, 数学的考察のおよばない形而上学的な考察の対
象としての 「自然の物体」 (Ⅰ139) に妥当すると語る。 このように, デカルト派とライ
プニッツ派, それぞれの主張が妥当する領域を区別するという仕方で両者の調停を図る,
というのが
活力測定考
全体をつうじてのカントの基本戦略である (こうした戦略の
適否, 成否についてはここでは問わない)。
ところで, カントの力学的な力概念を検討する場合に, それと並んで, カントが慣性
法則をどのように理解していたのかを検討することが不可欠の作業となる。 なぜなら,
作用を受ける側の物体の運動状態の変化のみを尺度とするニュートン力学の力概念は,
「すべての物体は, 外力によって状態の変化をこうむることがないかぎり, 静止状態も
しくは直線上の一様な運動状態を維持する」 (Pr., p. 13) という慣性法則と密接にかか
わっているからである。 したがって, もしカントがその力学において非ニュートン的な
力概念を保持しつつ, 同時に慣性法則をも主張しているとすれば, そこには解明を要す
る錯綜した問題が横たわっていることが予見されるであろう。
こうした観点から見るとき,
活力測定考
のカントは, 近代力学の基本原理たる慣
性法則の無理解の上に立つ, 基本的に中世スコラ的な運動論を展開していることが判明
する(8)。 カントは, ある一定の有限速度を境として, 二種類の運動を区別する。 第一の
種類の運動はその有限速度を超えた場合に生じ, 「運動が……物体中に保存され, 障碍
による抵抗がなければ無限に持続する」 (Ⅰ28) という性質をもち, 「自由運動」 (Ⅰ30)
と呼ばれる。 第二の種類の運動は, その有限速度に達しない場合に生じ, 「外力にのみ
もとづき, その力が持続しなくなるだけでただちに止んでしまう」 (Ⅰ28) ような運動
である。 第一の種類の運動は一見, 慣性法則に合致しているように見えるが, カントに
よれば, この運動は, 物体に内在する本質的な力すなわち 「活力」 によるものであり
(cf.Ⅰ148), したがって, 運動状態の持続には力は一切関与しないという, 近代力学的
な慣性概念に反している。 また第二の種類の運動が慣性法則に反していることは言うま
でもない。 そもそも慣性法則は, 速度のいかんによってその妥当性が左右されるべきも
のではなく, あらゆる運動に普遍的に妥当すべきものであろう。
興味深いことにカントは, わざわざニュートンの名を挙げて, 「それゆえ, ニュート
ンの規則 [慣性法則] は, [速度に関して] 無規定なままの意味では, 自然の物体には
妥当しない」 (Ⅰ155, 挿入引用者) と語っている。 すなわち, 慣性法則はニュートンの
言うような普遍的な法則ではなく, ある一定の有限速度以上で生じる 「自由運動」 につ
いてのみ成り立つ特殊法則であり, しかも, こうした運動は, みずからの運動状態を持
続させる原因としての力にもとづく, というのが
―4―
活力測定考
におけるカントの慣性
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
法則に関する理解の実態である。 つまり, カントは慣性法則について単純に無知なので
はなく, 誤解しているのである。 こうした誤解の根はどこにあるのだろうか。 また, こ
の誤解は後の著作では解消されているであろうか。 さらには, この誤解が解消された場
合, つまり慣性法則の正しい理解に達した場合, それはただちにニュートン力学的な力
概念へと導かれることを意味するであろうか。 こうした問題を考えるために, まず
リンキピア
3.
プ
の関係個所の内容を見ておこう。
プリンキピア
ニュートンは
における力と慣性
プリンキピア
冒頭の定義Ⅲにおいて, 「物質の固有力」 なるものを
次のように定義している。
定義Ⅲ
物質の固有力 (vis insita) とは, 各物体が現にその状態にあるかぎり, 静
止していようと直線上を一様に動いていようと, その状態を維持しようとする
抵抗の能力である。
この力はつねにその物体 (の物質量) に比例し, 質量の慣性となんらちがうところ
はない。 ……物体がその静止状態, あるいは運動状態からたやすく移されることが
ないのは, この慣性による。 このことから固有力は, いちばんよく内容をあらわす
名前として, 慣性力 (vis inertiae) と呼ぶことができる。 (Pr. p. 2., 挿入邦訳者)
ここに見られるとおり, 物質の固有力とは物質の慣性を意味する。 そして, この慣性
概念についてニュートンは, 「物体がその静止状態, あるいは運動状態からたやすく移
されることがないのは, この慣性による」 と, 近代的な慣性概念を明確に述べている。
だが問題なのは, その慣性が物質に固有の力と考えられており, 「慣性力」 とすら呼ば
れていることである。 これでは, あたかも運動状態の持続が, 物質に内在する固有の力
を原因とするものであるかのように読める。 しかし, そのような読解は, 運動状態の持
続には力は一切関与しないという, 近代力学的な慣性概念に根本から抵触するであろう。
こうした誤解を予防するかのように, ニュートンはこの直後に, 決定的に重要な次の
一文を挿入する。
しかし物体は, それに加えられた他の力が物体の状態を変えようとする場合にだ
け, この力 [慣性力] をはたらかせるにすぎない。 (ibid. 挿入引用者)
つまり, 物体は外力が加わるときにだけ, 状態変化のこうむりにくさという, その性
―5―
質を顕在化させる, すなわち慣性力をはたらかせるのであって, 外力の加わらない静止
もしくは一様運動の状態にあっては慣性力ははたらいてはいない。 したがって, この一
文によるかぎり, 慣性力は静止もしくは一様運動の状態を維持する積極的な原因とは考
えられていないのである。 しかしながら, 運動状態の持続には積極的な原因がないこと
を意味すべき慣性概念を, 本来, なんらかの原因を意味すべき力の名で呼ぶかぎり, 慣
性概念および力概念に関する誤解の発生は不可避であろう。
しかも, この一文につづけてニュートンが, この慣性力について次のように語ってい
るために事態はいっそう紛糾する。 すなわち, ニュートンによれば, 慣性力は静止状態
では 「抵抗」 とみなすことができ, 運動状態では 「インペトゥス」, すなわち 「物体が
障害物の抵抗に容易には屈せず, その障害物の状態を変えようとする」 (ibid.) 力とみ
なすことができる。 このインペトゥスなる力は引用から明らかなように, 運動状態にあ
る物体のもつ他の物体に対する作用力を意味する。 そうすると, ここでニュートンは,
運動状態の持続にかかわる慣性力が同時に, 他の物体に対する作用力でもあると主張し
ているように見える。 しかし, この主張を文字どおりに受け取ると, それは結局のとこ
ろ,
活力測定考
のカントが陥ったような, 中世スコラ的な運動論に類したものに行
き着くのではなかろうか。
慣性概念に関するニュートンの説明のこうした不明瞭さ, あいまいさは何によるのか。
それは, ニュートンが物体間の作用を語るさいに, 作用をおよぼす側面と作用を受ける
側面という, 本来, 峻別されるべき考察の二つの観点をはっきり区別しないまま, 同一
の物体について語っていることによる。 慣性は本来, 作用を受けるかぎりでの物体につ
いて語られるべき述語であり, これに対して 「インペトゥス」 ないし作用力は, 作用を
およぼすかぎりでの物体について語られるべき述語である (ただし, その力の尺度は何
かということは, また別の問題である)。 ところが, この観点の区別があいまいである
場合には, 一方で慣性という性質を力の名で呼び, 他方で作用力の出所を, 運動状態を
維持する性質のうちに求めるということが, いわば自然の成り行きとして生じる。
こうした観点の区別のあいまいさを典型的に示す表現が 「抵抗」 である。 ニュートン
にかぎらず, 当時多くの自然研究者たちが慣性を 「抵抗」 として表現した。 この 「抵抗」
は, 一方で本来の慣性, すなわち, 作用を受ける側の物体の状態変化のこうむりにくさ
を意味することもあれば, 他方で対抗作用, すなわち, 作用を受ける側の物体が作用を
およぼす側の物体に対し, 逆にその状態を変化させるような作用, つまり反作用を意味
することもある。 慣性と反作用とは力学的にまったく異なる概念であるにもかかわらず,
「抵抗」 という表現はこの区別をあいまいにし, それが慣性力なる概念の内容を形成す
ることになるのである。 こうして慣性力を同時に作用力とみなすという混同が, おのず
と生じることになる(9) (ニュートンの文章がこうした混同を助長していることはまちが
―6―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
いない)。
じつは慣性力と作用力との混同がはっきり見られるのは, ニュートンに先立つデカル
トにおいてである。 デカルトは 哲学原理 (1644 年) のなかで次のように語っている(10)。
各物体が他の物体に対してはたらきかけたり, 他の物体からのはたらきかけに抵
抗したりする力は何に存するか。 ……それは, いかなるものも, できるかぎり現に
それがおかれているとおりの状態を維持しようとする傾向をもつ, という点にのみ
存するのである。 これゆえに……静止しているものはその静止を固持する力, した
がって, 静止の状態を変えるかもしれぬものすべてに抵抗する力をもち, 運動して
いるものは, その運動, すなわち同じ速度をもち同じ方向に向かう運動, を固持す
る力をもつ。 そして, こういう力は, あるいは, それを有する物体の大きさや……
あるいは運動の速度によって測定されねばならない。 (デカルト, 上掲訳書, 88 頁)
ここに見られるとおり, デカルトによれば, 物体は運動状態を維持する力をもち, そ
の力によって他の物体にはたらきかけ, そして, その力は 「物体の大きさ」 (これを今,
「質量」 と読んでおく) と速度, すなわち運動量で測られる。 慣性力の名こそ用いられ
てはいないが, デカルトが, 運動状態を維持する力 (慣性力) を同時に, 他の物体に対
する作用力とみなしていることは明白である。
さて, そうだとすると, 歴史上, 最初に完全なかたちでの慣性法則を定式化した人物
として知られるデカルトは, 近代的な慣性概念を理解していなかった, ということにな
るのだろうか。 これに対しては, なかば然り, なかば否と答えることができる。 物体は
その静止状態であれ, 一様運動状態であれ, 「できるだけいつも同じ状態を維持し, 外
的原因によってでなければ, けっして変化しない」 (同上書, 84 頁) という一文は, 近
代力学の基礎におかれるべき慣性法則を明確に述べている。 しかし, 物体の静止状態も
しくは運動状態の持続がなんらかの力によるとデカルトが考えているかぎりで, 彼は近
代的な慣性原理の完全な理解には達していない, と言わざるをえない。
ところで, ニュートン自身は力および慣性の説明にまつわる上述した不明瞭さにもか
かわらず, 物体運動の数学的な取り扱いにおいて誤りを犯すことはけっしてなかった。
それは, 物体運動を数学的に取りあつかうさいの要となる運動の第二法則に関するかぎ
り, ニュートンの理解には一点の不明瞭さもなかったことによる。 運動の第二法則は次
のように定式化されている。
法則Ⅱ
運動の変化は, およぼされる起動力に比例し, その力がおよぼされる直線の
方向にそって生じる。 (Pr., p. 13)
―7―
ここで 「運動の変化」 を運動量の変化と解することがニュートンの意図にかなった理
解の仕方ではあるが, 議論を簡略化するために, 今はこれを速度の変化ないし加速度と
解する。 すると, この第二法則は, 「起動力」 すなわち, 物体の運動状態を変化させる
力としての 「外力」 の大きさが, 加速度に比例し, かつ, その外力がおよぼされる方向
にそって加速度が生じるべきことを語っている。 ここで, 慣性力と外力との関係を正し
く理解するうえで決定的に重要であるのは, 第二法則中の後半部分, すなわち, 外力が
およぼされる方向にそって加速度が生じる, という点である。 というのも, これによっ
て加速度の方向, すなわち運動変化の方向は外力だけによって決定され, 慣性力にはよ
らないこと, したがって, 慣性力と外力との合成によって物体運動を記述しようとする
なら, それは完全な誤りであることが明確に示されているからである (ただし, 力の合
成と運動の合成とは異なる。 慣性運動ないし等速直線運動と加速度運動との合成によっ
て運動を記述することはもちろん正しい)。 ニュートンは慣性を力の名で呼びはしても,
その慣性力と外力とを同列におき, 両者を合成することによって運動およびその変化を
説明する, などということは, けっしてしなかった (11)。 それは, ニュートンが慣性お
よび力の概念的理解に関してあいまいさを残しつつも, 物体運動の数学的な取りあつか
いの要となる運動の第二法則に関しては, 完全な明瞭さに達していたことを示すもので
ある。
4.
自然モナド論
カントに戻って,
を見てみよう。
および
活力測定考
自然モナド論
運動と静止
に見られる力と慣性
公刊の数年後に書かれた
自然モナド論
(1756 年)
の主要テーマは, 物質的世界の究極的な構成要素とし
て, 延長をもたない単純実体 (これが 「自然モナド」 と呼ばれる) を想定し, また, こ
の単純実体には本質的な力として引力・斥力が内在すると想定することによって, これ
らの力の相互作用をつうじて物質構造の説明を試みることにある。 この物質の本質力と
しての引力・斥力の概念は ( 原理
の表現を借りるなら) 「根源的な運動力」 (Ⅳ 536)
という動力学的な力であって, 力学的な力概念とは取りあつかいを異にするため, ここ
では割愛せざるをえない。
カントが
自然モナド論
のなかで, 力学的な力概念および慣性概念に関してどのよ
うな理解を示しているかは, 以下の文言から窺うことができる。
他の物体に衝突する運動体は, もしも運動状態にとどまろうとする慣性力をもた
なければ, 何の効果も発揮せず, どんな無限に小さい障碍によっても静止するであ
ろう。 実際のところ, 物体の慣性力は物体を構成するすべての要素の慣性力の総和
―8―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
である (そしてこれを質量という)。 それゆえ, 一定の速度で動いている要素はい
ずれも, 慣性力に乗じられないと運動の効果をまったく発揮しないであろう。 ……
物体の質量はその慣性力の量にほかならず, この慣性力によって, 物体は運動に抵
抗したり, 一定の速度で動いて運動のインペトゥスをもつ。 (Ⅱ 485, 挿入カント)
ここに見られるとおり, カントは 「[静止状態もしくは] 運動状態にとどまろうとす
る慣性力」 として慣性を理解し, しかもその慣性力は, 運動状態では 「インペトゥス」,
すなわち他の物体に対する作用力と結びつけられている。 ここでは,
活力測定考
に
見られた活力概念こそ姿を消しているものの, 慣性力は同時に作用力でもあるという理
解の図式は基本的に変わっていない。
ただし, より詳細に見ると, ここでカントは慣性力と作用力とを完全に同一視してい
るのではなく, 慣性力は質量 を尺度とするのに対し, 作用力は運動量 を尺度と
する, と明確に述べている。
活力測定考
では慣性力の尺度が何であるかは, はっき
りとは示されていないが, 「衝突する物体の速度の三分の一だけは, 衝突された物体の
慣性力によって奪われる」 (Ⅰ27) といった文言から見るかぎり, 慣性力の尺度は単な
る質量ではなく, 衝突する側の物体の運動量に対抗し, そうした運動量の一部もしくは
全部によって測られる, なんらかの量として考えられていたようである。 これに対して
自然モナド論
では, 慣性力は静止状態でも運動状態でも一定不変であるのに対し,
作用力は運動速度に応じてその大きさが異なる, という認識が見られる。 とはいえ, 慣
性を力の概念の下で理解しているかぎり, 慣性と作用力とがまったく別のものであるこ
とを理解するのは, なおきわめて困難であろう。 それでは,
に書かれた
運動と静止
自然モナド論
の二年後
(1758 年) では, 力および慣性の概念はどのように理解され
ているであろうか。
カントはこの
運動と静止
において, はじめて慣性力の概念を正面から批判し, 次
のように述べる。 「誰もが静止とみなす状態において物体が, 自分に作用をおよぼす他
のいかなる物体に対しても同程度の反作用をおよぼす」 (Ⅱ 19) という経験を説明し
ようとする場合に, 静止状態を維持する 「特殊な種類の自然力」 (Ⅱ 20) としての慣性
力が物体に内在すると想定するならば, たしかにそうした反作用の事実を説明すること
ができる。 しかし, そのような想定は, 「物体は, 自分に向かって衝突してくる物体が
自分に接触しないうちは完全に静止しているが, ……衝突の瞬間, その物体は衝突して
くる物体に向かって, 突如としてみずから運動を開始し, ……そうすることによって,
自分のうちから対抗力を取り出してくる」 (Ⅱ 19) といった, きわめて神秘的な性質を
もった力を仮構することを意味する。 このような想定をせずとも, 運動と静止に関する
相対的な理解にもとづいて, 見かけ上は静止している物体が, 衝突において 「接近して
―9―
くる物体の運動 [量] に相等しい」 (Ⅱ 18,挿入引用者) 大きさの運動を行なっていると
みなすことによって, かの反作用の事実を説明することができる。 したがって, 「慣性
力なるものは不必要に仮構された」 (Ⅱ 20) 概念にほかならない。 以上が慣性力概念に
対するカントの批判の概要である。
ここでカントが言わんとするのは以下のようなことである。 作用を受ける側の物体の
示す反作用は, 作用力に対抗すべき積極的な力であって, 物体の単なる慣性, すなわち
状態変化のこうむりにくさという受動的な性質にもとづくものではありえない。 とはい
え, その積極的な力を 「特殊な種類の自然力」 のうちに求める必要はなく, 運動状態に
ある物体のもつ作用力とまったく同じ種類の力と考えればよい。 そのためには, 反作用
を示す物体の静止状態は見かけにすぎず, 真実には運動状態にあるとみなす必要がある
云々。
ここで, 作用を受ける側の物体が示す反作用は, その物体の慣性にもとづくものでは
ない, という点はまったく正しい (反作用の大きさは作用の大きさだけで決まる)。 そ
してカントは, このことからして, 一般に運動状態にある物体のもつ作用力は慣性には
もとづかず, したがって, 作用力の概念は慣性概念から切り離すべきだ, という結論に
至った。 ところがカントは, その作用力の尺度として, 相変わらず運動物体の運動量
を考えている。 これは, われわれには奇妙に思われる。 というのも, その運動量 のうちに含まれている質量 は, ニュートン力学では慣性の大きさ, すなわち状態変
化のこうむりにくさの度合いを表わす量を意味し, したがって, 作用力を運動量で測る
かぎり, その作用力は, やはり慣性との関係において考えられているはずだからである。
このようにカントが一方で, 作用力の概念を慣性概念から切り離して考えるべきだと
しながら, 他方でその作用力を, 運動物体の運動量 で測ってよいと考えているとす
れば, その理由はただ一つ, カントが考えている 「質量」 の概念が, ニュートン力学に
おける質量概念とは異なっている, という点にある。 ニュートン力学における質量とは,
慣性の大きさ, すなわち物体の状態変化のこうむりにくさの度合いを表わす量を意味し,
「慣性質量」 と呼ばれるものである。 カントはこの慣性質量の意味での質量概念を理解
していなかったために, 運動状態の持続には力は関与しない, という近代的な慣性概念
に至りながら, ニュートン力学的な力概念を把握することができなかったのである。 こ
うした事情は
原理
にまで持ち越されるのであるが, その前に, ニュートンの質量概
念の内実を検討しておこう。
5. ニュートンの質量概念
ニュートンは
プリンキピア
冒頭の定義Ⅰで, 「物質量とは, 物質の密度と大きさ
― 10 ―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
(体積) とをかけて得られる, 物質の尺度である」 (Pr., p. 1) と述べて, 物質量ないし
質量を定義しているが, E. マッハも言うように, 物質の密度が物質量を体積で割った
商としてしか定義されない以上, この定義は循環している。 また山本義隆のように, こ
の定義の背後にニュートンの原子論的物質観が控えていることを読み取ることもできる
だろう (13)。 いずれにせよ, 質量の実質的な意味はこの定義のうちにではなく, 別のと
ころ, すなわち運動の第二法則のうちに求められねばならない。
すでに見ておいたように, 運動の第二法則は, 「運動の変化は, およぼされる起動力
に比例し, その力がおよぼされる直線の方向に生じる」 (Pr., p. 13) と定式化されてい
るが, これを今, 教科書的理解にしたがって次のように理解する。 (さしあたり物質量
という漠然とした意味のまま質量 m を用いて) 質量 の物体に一定時間 , 一定
の力を加えた場合, その力の大きさ は, 結果として生じた運動量の変化の時間的割
合 に等しい, という因果法則をこの第二法則は表わしている。 数式で表わ
せば,
さらに微分方程式のかたちに書き改めると,
(は加速度)
すなわち, 運動方程式ないし加速度の法則と呼ばれるものである。 この式を変形して,
ここではじめて質量 の明確な意味が定まる。 すなわち質量とは, 一定の力が加わっ
た場合の物体の加速されにくさ, 運動状態の変化のこうむりにくさの度合いを表わす量
であり, いいかえれば慣性の大きさを表わす量にほかならない。 まさしくそれゆえに,
この質量は慣性質量と呼ばれるわけである。
ただし慣性質量と呼ばれるからといって, この質量概念が慣性概念のうちにすでに含
まれているわけではない。 その理由は以下のとおりである。 上式 から明らか
なように, 慣性質量 m は, 力と加速度が比例関係にあることを示す比例係数として表
わされる量である。 ここで力と加速度とが比例関係にあることは, 運動の第二法則にお
いてはじめて示されることであって, 慣性法則のうちにすでに示されていることではな
い。 慣性法則は力と加速度とが対応すべきことを語ってはいるが, それがどのような対
応関係であるかについては語っていない。 したがって, 慣性質量の実質的な意味が運動
の第二法則のうちではじめて確定されるものである以上, 慣性質量の概念は慣性法則の
うちに含まれているわけではない。 この点をさらにいいかえると, 慣性法則が与えられ
た場合に, そこからニュートン力学的な力概念や質量概念が必然的に導かれるわけでは
なく, 非ニュートン力学的な力概念や質量概念を考えることも可能である。 その一つの
ケースにあたるのがカントの力学なのである。
― 11 ―
さて, この慣性質量は実際にはどのようにして計量されるのだろうか。 この点に関し
てニュートンは, 上述した
プリンキピア
の定義Ⅰの末尾で次のように述べている。
この物質量 [慣性質量] は, 各物体の重さによって知ることができる。 なぜなら,
私はきわめて正確に行なわれた振り子の実験によって, それが重さに比例すること
を見いだしたからである。 (Pr., p. 1, 挿入引用者)
ここでニュートンは, 慣性質量が重さに比例することを実験によって見いだした, と
語っている。 これはどういうことであろうか。 単純に考えると, 物体の重さは, 地球が
その物体におよぼす重力の大きさを表わしており, かつ, 地表の同一の場所では落下加
速度はすべての物体について等しいのだから, 二物体の質量を と , それぞれの重
さ (すなわち加わる重力) を と とし, その場所での落下加速度を とすると,
つまり質量は重さに比例する, と簡単に導くことができ, わざわざ実験によって確かめ
る必要はないように思われる。 だが問題は重さ, すなわち重力の規定の仕方にある。 周
知のようにニュートンによれば, 重力の大きさ は次の式で表わされる。
( は二物体の質量, は二物体間の中心距離, は重力定数)
このとき, 二物体の質量 , は慣性質量を意味するものではない。 なぜなら, , は重力を構成するファクターであって, その結果として生じる, 物体の加速度の逆比と
しての慣性質量を意味してはいないからである (山本義隆の表現を借りるなら, この式
における , は 「その物体の重力による結合の強さを表わしている」(14) のである)。
たとえば, 磁石同士の引力ないし斥力の強弱の問題と, その力によって生じる加速度の
大小の問題とは, まったく別の問題である。 これと同様に, 物体同士が重力で引き合う
場合の力の強弱の決定にかかわる物理量と, その結果生じる加速度の大小にかかわる物
理量とは, 概念上, まったく相異なるものである。 そこで, 物体の加速度の逆比で表わ
される質量が慣性質量と呼ばれるのに対し, 重さで測られる質量は 「重力質量」 と呼ば
れる (ちなみに, 重さ自体の計量値は山頂と谷底とで, また高緯度上と低緯度上とで異
なりはするが, 天秤ばかりで計量した重さの比は, 地球上どこででも, それどころか月
面上でさえ一定不変であり, 物体のこの性質が重力質量と呼ばれるのである)。
ところが慣性質量と重力質量という, 概念上はまったく異なるこの二つの質量が, 経
験的事実として正確に一致すること, このことを発見したのがニュートンによるかの振
り子の実験にほかならない。 両者がこのように, たまたま経験的事実として一致するか
― 12 ―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
らこそ, われわれは慣性質量を直接, 計量する代わりに, 重力質量を計量することによっ
て, 慣性質量で表わされているニュートン力学の諸法則を実験的に検証することができ
るのである(15)。
おそらくニュートンは慣性質量と重力質量とが概念上はまったく別ものであるにもか
かわらず, 経験的事実として両者が完全に一致するという事態に直面して, 深い衝撃を
受けたと思われる。 というのも, 先にも触れたように, ニュートンは原子論的物質観を
抱いており, 物質は徹頭徹尾, 受動的な存在者, それゆえまさしく慣性的 (惰性的) な
存在者とみなされる。 ところが, その物質の慣性・受動性の指標である質量が, 同時に
万有引力という能動的原理の指標でもある, ということが判明したからである。 ニュー
トンは重力を物質に固有の原理であるとはけっして認めず, それをエーテルやスピリッ
ツといった特殊な存在者に帰属させようとする傾向を示すが, それは, おそらくこうし
たことが理由となっていると思われる(16)。
慣性質量と重力質量との区別と一致に関するニュートンのこうした洞察について, マッ
ハは次のように評価している。 「質量概念の価値に対するセンスが彼をその先人や同時
代人から抜きんでたものにした。 ガリレイは質量と重さとが異なるとは思っていなかっ
た。 ホイヘンスもあらゆる研究において質量の代わりに重さを使っている」 (E. マッハ,
上掲訳書, 236 頁)。 「デカルトははっきりした質量概念をもっていなかった」 (同上書,
273 頁)。 「ライプニッツもデカルトと同様, ちゃんとした質量概念はもっていなかった」
(同上書, 274 頁)。 じつは, 質量と重さが異なるものと思ってはおらず, したがって,
慣性質量と重力質量との区別と一致という, ニュートン力学にとって決定的に重要な問
題に対する自覚がまったくなかったという点では, われらが哲学者もまた同様だったの
である(17)。
6.
原理
カントは
力学章におけるカントの質量概念
原理
力学章の定義Ⅱにおいて, 「物質量とは, 一定空間における運動可
能なものの多寡である」 (Ⅳ 537) と述べている。 この 「物質量」 はニュートンと同様,
「質量」 を意味しているとみなしてよい。 ところがカントは, この一文につづけて次の
ように述べる。 「物質のあらゆる部分がその運動において一斉に作用する (他を動かす)
とみなされるかぎり, この同じ物質量は質量と呼ばれる」 (ibid.)。 ここでわれわれの
問題関心から見て注目すべき点は, 物質量と質量との区別という点ではなく, 物質量な
いし質量が, 他の物体に対する作用力と関係づけられて語られている点である。 すでに
見たように, ニュートン力学における質量は慣性質量, すなわち作用を受ける側の物体
の状態変化のこうむりにくさの度合いを表わす量であった。 ところがカントは, ここで
― 13 ―
はっきりと, その質量概念を, 作用をおよぼす運動物体のもつ作用力を構成するファク
ターとして捉えている。 また別の個所では, 物質量ないし質量を実体の量とみなしたう
えで, この実体の量が 「他の物体を動かす原因として」 (Ⅳ 547 Anm.) 考えられねば
ならない, と語っている。 カントがその質量概念をニュートン力学における質量概念の
意味に理解していないことは, ここに明白である。
では, そうした質量はどのように計量されるのか。 カントは運動物体の運動量 を
その物体の作用力の尺度とみなしたうえで, 二物体が等しい速度で運動する場合の運動
量の差異が, その二物体の質量の差異を示すと考える (cf. Ⅳ 538)。 では, 等しい速度
で運動する二物体の運動量そのものは, どのようにして計量されるのか。 カントによれ
ば, それは 「[天秤における] 釣り合いを通じてのみである」 (Ⅳ 540,挿入引用者)。 し
かし, 天秤における釣り合いによって計量されるものは, 物体の重さ (の比) である。
これがどうして運動量を計量することになるのか。 カントは運動量のファクターである
運動速度として, 有限速度のみならず無限小速度も含めて考える。 つまり物体が静止状
態にあっても, (たとえば, ばねにつるされた物体が下方への運動傾向をもつように)
その物体が運動傾向をもつかぎり, その物体は無限小速度で運動をしており, したがっ
て運動量をもつと考えるのである。 それゆえに, (腕の長さの等しい) 天秤での釣り合
いは, 下方への運動量が等しいことを意味し, また, ガリレオの落体法則によって, 天
秤上の二物体の無限小速度はつねに等しいことがいえるから, 両物体の質量が等しいと
結論される。 あとは単位質量を適当に決めれば, 天秤による釣り合いを通じて物体の質
量を計量することができる, というわけである。 ここから明らかなように, カントは結
局のところ, 重さによって計量される質量すなわち重力質量を, それが慣性質量とは根
本的に異なるという自覚がまったくないまま, 自分の力学理論の基礎に据えるのである。
すでに見ておいたように, カントは処女作
活力測定考
および
自然モナド論
あ
たりでは, 慣性力という概念にもとづいて運動物体のもつ作用力を考えていた。 すなわ
ち, みずからの運動状態を維持する原因としての力が, 同時に他の物体に対して作用を
およぼす力である, と考えていた。 この慣性力の概念は, 運動状態の持続には力は関与
しないという近代的な慣性概念に対立するがゆえに, この時期のカントは慣性概念の正
しい理解にも達していなかった。 ところが
運動と静止
においてカントは, 慣性力の
概念を否定し, 衝突される側の物体の示す反作用は, 物体の慣性にもとづくものではな
く, したがって, 衝突する側の物体のおよぼす作用もまた物体の慣性にもとづくもので
はない, という認識を示し, そのかぎりで慣性概念の正しい理解に達している。 にもか
かわらず, 運動状態にある物体のもつ作用力はその物体の運動量を尺度とするという,
非ニュートン力学的な力概念を相変わらず保持していた。 この
運動と静止
おいてカントが抱いていた慣性概念および質量概念は, ほぼそのまま
― 14 ―
原理
の段階に
に受け継
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
がれる。
カントは
原理
力学章において, 力学の第二法則として慣性法則を掲げ (cf. Ⅳ
543), その証明に付した注解のなかで, 「慣性とは, 自分の現状を維持しようとする積
極的な努力を意味するものではない」 (Ⅳ 544) と述べる。 これは, 物体の静止もしく
は一様運動の状態の持続には力はいっさい関与しないという, 近代的な慣性概念に関す
る正しい理解を示している。 さらに
批判
のなかで, 「物体が一様な運動を行なって
いる場合には, 物体はけっして (運動の) 状態を変えているのではなく, 運動が加速な
いし減速される場合に, その状態を変えているのである」 (A207/B253 Anm.) と語っ
て, 単なる位置変化に対してではなく, 運動状態の変化に対して力が関与するという,
慣性法則の基本を正しく把握している。 すなわちカントは, 作用を受ける側の物体の状
態変化に力が対応すべきことを正しく理解している。 にもかかわらずカントは, この力
の尺度として, 作用を受ける側の物体の状態変化の大きさを採用することなく, どこま
でも作用をおよぼす側の物体の運動量を採用しつづけるのである。
このようにカントが処女作以来, 批判期に至ってなお, 非ニュートン力学的な力概念
を保持しつづけたことの根底には, やはり, カントの抱きつづけた質量概念が存してい
たと結論せざるをえない。 カントはけっして半端ではない
プリンキピア
への取組み
にもかかわらず, 慣性概念と重力概念との概念上の区別と経験上の一致という, ニュー
トン力学におけるアルキメデスの一点を, ついに
プリンキピア
から読み取ることが
できず, その結果, ニュートン力学の正しい理解に達することができなかったのである。
《注》
カントの著作の引用にあたっては,
純粋理性批判
は慣例にしたがって, 第一版を A, 第二
版を B で表記し, それ以外の著作はアカデミー版カント全集の巻号をローマ数字で表記する。
また, カントの著作の邦訳は岩波版カント全集 (全 22 巻) を利用した。 なお, すべての文献の
引用個所の訳出にあたっては, 邦訳を参照した場合には原則として邦訳にしたがっているが, そ
のつどことわることなく若干の修正を行なった個所もある。
なお, 本稿は平成 19 年度の拓殖大学人文科学研究所個人研究助成を受けた成果の一部として
発表されたものである。
(1)
カントの批判哲学がニュートン力学の哲学的基礎づけを意図したものである, とする解釈
を代表する者としては, M. フリードマンの名を挙げることができる。 また, 物理学者であ
るとともに科学史家としても知られる M. ヤンマーも, こうした解釈をとっている。 他方,
こうした解釈に異を唱える立場の代表として, E. ワトキンス, そして我が国では松山寿一
の名を挙げることができる。
M. Friedmann, Kant and the Exact Sciences, Harvard UP, 1992, pp. 136164.
M. Jammer, Der Begriff der Masse in der Physik, Darmstadt, 1964, p. 88.
E. Watkins(ed.), Kant and the Sciences, Oxford UP, 2001, pp. 136195.
松山寿一
ニュートンとカント
(晃洋書房
1997 年) 211 頁以下。
― 15 ―
(2)
以下の拙論を参照。
犬竹正幸 「カントの動力学的空間論」 (日本哲学会編 哲学 第 53 号, 2002 年, 107115 頁)
「カントにおける運動と空間」 (京都ヘーゲル読書会編
ヘーゲル学報
第 5 号,
2003 年, 102134 頁)
「ニュートン物理学と批判哲学」 (日本カント協会編
学と科学
日本カント研究 4カント哲
2003 年, 723 頁)
「自然哲学と自然科学」 ( カント全集別巻 カント哲学案内
岩波書店, 2006 年,
322338 頁)
(3)
cf. I. Newton, Philosophiae Naturalis Principia Mathematica, London, 1687, trans. by A.
Motte, revised by F. Cajori, Berkley 1946, p. 13. 川辺六男訳
(中央公論社 1971 年) 72 頁を参照。 なお
プリンキピア
自然哲学の数学的諸原理
からの引用個所の指定は, これ
以後カジョリ版英訳を用い, “Pr.” を添えて表記する。
(4)
ただし, 根本におかれる力概念が両者で異なる以上, 力の大きさの相等性を語る作用反作
用の法則は, その内容から見るかぎり, 両者で同一であるとは言えない。
(5)
ただし, 以上の主張はニュートン力学の理論内容とカント力学のそれとの不一致を根拠と
して導かれたかぎりでの結論である。 ニュートン力学にかぎらず, およそ力学理論を哲学的
に問題にする場合には, その理論内容の検討と並んで, そうした力学理論が依拠している根
本的な自然観, 物質観, ひとことでいえば存在論の検討が不可欠であるし, さらにはまた,
そうした力学理論が拠っている方法論ないし認識論の検討が不可欠である。 こうした観点か
ら見たとき, ニュートン力学に固有の問題として浮上するのは, これまで見てきた力概念の
ほかに, ニュートン力学の二大概念として知られる, 絶対空間と遠隔作用としての万有引力
という二つの概念に関する存在論的な身分や認識論上のはたらきといった問題であり, さら
にはまた, 「我, 仮説を捏造せず」 (Pr., p. 547) の標語に代表されるニュートンの数学的実
証主義の問題である。 こうした問題群のうち, 絶対空間, 万有引力, 数学的実証主義の問題
については, カントは
原理
のうちで, とりわけ動力学章および現象学章において正面か
らこれらの問題に取り組み, 批判哲学的な解決の試みを行なっている。 カントが批判哲学に
よってニュートン力学の哲学的な基礎づけを試みたという解釈に理があるとすれば, それは
こうした問題群に限定してのことである。 詳しくは上記注( 2 )に掲げた拙論を参照。
(6)
活力論争および
活力測定考
の詳細については, 以下の文献を参照。
I. Polonoff, Force, Cosmos, Monads and Other Themes of Kant’s Early Thought, Bonn,
1973, pp. 562.
M. Sch
onfeld, The Philosophy of the Young Kant, Oxford UP, 2000, pp. 1770.
大橋容一郎 「活力測定考解説」 ( カント全集 1 前批判期論集 岩波書店, 2000 年, 407419
頁)
松山寿一
若きカントの力学観
(北樹出版, 2004 年)
(7)
cf. I. Polonoff, op. cit., pp. 2225.
(8)
松山寿一は前掲書
若きカントの力学観
のなかで,
活力測定考
におけるカントのこ
うした中世スコラ的な運動論・力学論の出所を克明に追跡し, それが基本的にヴォルフの力
学の枠内にあることを突き止めた。 筆者もこれにしたがう。 なお,
活力測定考
に関する
以下の論述にさいしては, 松山の上掲著作に多くの示唆を受けたことをここに明記する。
(9)
ちなみに, 上述した活力論争にはデカルト派, ライプニッツ派のみならず, ペンバートン,
デザギュリエ, マクローリンといった, れっきとしたニュートン派の人々も参加していた。
しかも, かれらは非ニュートン力学的な 「運動状態にある物体のもつ力」 を認め, その尺度
としてデカルト的な運動量 を一致して支持していた (I. Polonoff, op. cit., pp. 22ff.)。
デカルト派, ライプニッツ派はともかく, ニュートン派までもが非ニュートン的な力概念を
― 16 ―
カントの力学論における力, 慣性, 質量概念の検討
認めていたという事実は, 現代のわれわれの目には非常に奇異に映るが, それにはおそらく,
ニュートン自身の不明瞭な説明に由来する, 力の理解に関する概念上の混乱という事態が関
与していたものと思われる。
R. Decartes, Principia Philosophiae, 1644. 井上庄七訳 哲学の原理 (朝日出版社, 1988
(10)
年)
(11)
この点について I. B. コーエンは次のように述べている。 「慣性力というこの力は, 状態の
変化ないし加速度を生み出しうる外力ではない。 それゆえ慣性力は, 力の三角形を描くこと
によって連続的な, あるいは瞬間的な外力と合成することはけっしてできない」。 I. B.
Cohen, “Newton’s concepts of force and mass, with notes on the Laws of Motion”, I. B.
Cohen & G. E. Smith (ed.), The Cambridge Companion to Newton, Cambridge UP, 2002,
p. 62.
(12)
cf. E. Mach, Die Mechanik in ihrer Entwicklung historisch-kritisch dargestellt, Leipzig
1883. 伏見譲訳
マッハ力学
力学の批判的発展史
(講談社, 1969 年) 227 頁を参照。
(現代数学社, 1981 年) 64 頁を参照。
(13)
山本義隆
重力と力学的世界
(14)
山本義隆
物理入門
(15)
よく知られているように, アインシュタインは慣性質量と重力質量とのこうした一致を偶
(駿台文庫, 1987 年) 92 頁を参照。
然的な一致ではなく, 原理上の一致とみなし (等価原理), この原理を一般相対性理論の基
本原理とした。
(16)
たとえば,
プリンキピア
第三篇の 「哲学することの規則Ⅲ」 のなかで, ニュートンは
「私は重力が物質に本質的なものであるとは少しも主張していない」 (Pr.p.400) と語り, ま
た,
光学
第二版序文で, 「私が重力を物質の本質的属性とは考えていないことを示すため
に, その原因に関する疑問を一つ付け加えた」 と述べておいて, その 「疑問 21」 では, 「こ
のエーテル媒質によって, これら大きい物体相互の引力が生じるのではないか」 と語ってい
る。 cf. I. Newton, Optics: or A Treatise of the Reflexions, Refractions, Inflections and
Colours of Light, London 1717. 田中一郎訳 光学 (朝日出版社, 1981 年) 3 頁および 219
頁を参照。
(17)
以下に詳論するように, 筆者は, カントがニュートン力学の力概念を把握できず, それゆ
えに (批判期においてすら) ニュートン力学とは基本的に異なった力学理論を抱きつづけた
根本原因を, 慣性質量と重力質量との区別と一致に関するカントの無自覚, 無理解に求める
解釈をとるが, 管見のおよぶかぎり, こうした解釈を示しているカント研究者は皆無である。
また, 上述したマッハは, カントについてはまったく触れていない。 わずかに, M. ヤンマー
が上掲著
質量の概念
のなかで, カントの質量概念に言及しているものの, その内容はカ
ントによる慣性力概念に対する批判の評価にとどまり, それ以上に踏み込んだ論述は見られ
ない。 cf. M. Jammer, op. cit., pp. 8589.
― 17 ―
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 1824
October 2007
On Interpreting Benet’s
Before An Examination
David A. Prucha
That American academics have not given Stephen Vincent Benet (18981943)
his posthumous due acknowledgements is an understatement, and one that may
now, in these times of seemingly social discontent, be looked upon with greater
attention than that at any time since the master was considered a top-tiered poet
and writer.
From Bethlehem, Pennsylvania, the young Benet, influenced by
modern realism and some of the romantic socialist ideology of the 19th Century,
notably that of William Morris, the pioneering father of Britain’s socialist movement of the same period, developed into a writer and poet at an early age, having
compiled and published his first collection of verse in 1915 at the age of 17. Sent
to a military academy in California by his father, the strict disciplinary upbringing
and disdainful brutality of the training at Hitchcock Academy in San Rafael inspired much of the content of his first early writings. Those experiences in California tapped into the creative genius of the young poet, and Benet thus devoted
himself to writing for the duration of his studies at Yale University. It is worth
noting that some of his peers included, among them, Thornton Wilder and
Archibald MacLeish, to which Benet may have felt inclined to pen his first novel,
The Beginning of Wisdom (1921), a biographical account of his life and studies at
the mere age of 23. Fittingly, however, this title conveyed his budding experience,
for he would continue his education at Sorbonne, France, meet and marry his wife,
the writer Rosemary Carr, move back to the United States, and pen three more
novels before returning back to France to focus on his 1929 Pulitzer Prize-winning
novel, John Brown’s Body, an epic tale of the American Civil War, considered by
those around him to be his best writing. Benet continued to write novels, short
stories, and worked for a stint in Hollywood as a playwright. Before his death in
1943, he was an influential writer in the corridors of Washington, and then President Roosevelt delivered a stirring prayer written by the author for a United Nations Day speech. That his themes attended to the minds and hearts of ordinary
Americans, and appealed to a wide audience, set his name among the great writers
and poets of the last century. As a teacher and forever a student, I would very
much like this paper to focus on Stephen Vincent Benet’s Before An Examination
(circa 191821) for the following reasons: in my last stylistic analysis (Prucha,
2006), my focus was the oft-quoted and well-known English literary giant William
Wordsworth’s Composed Upon Westminster Bridge, Sept. 3, 1803. Thus, it seemed
fitting for me to return across the Atlantic to the shores of America, and to choose
― 18 ―
On Interpreting Benet’s Before An Examination
an American poet for my next interpretation. Furthermore, from the corner of
novelty’s sake, I might add that I was also lured by the prospect of analyzing one
of America’s most prolific, yet under-rated literary masters of the last century. It
is not by mere coincidence alone that I chose this poem, for another reason is due
to the originality of the endeavor itself; I myself have yet to ‘uncover’ a hitherto
prior published account of this particular poem by this particular poet in stylistic
terms and under scrutiny for linguistic meaning. If I am mistaken, I offer my
lashing apologies. If I am not, I shall relish the opportunity to add to the body of
literature already in print. Finally, that I remember the toil and long nights spent
studying during my own years of university, I could not have chosen, in my opinion, a more nostalgic poem than this:
Before An Examination
The little letters dance across the page,
Flaunt and retire, and trick the tired eyes;
Sick of the strain, the glaring light, I rise
Yawning and stretching, full of empty rage
At the dull maunderings of a long dead sage,
Fling up the window, fling aside his lies;
Choosing to breathe, not stifle and be wise,
And let the air pour in upon my cage.
The breeze blows cool and there are stars and stars
Beyond the dark, soft masses of the elms
That whisper things in windy tones and light.
They seem to wheel for dim, celestial wars;
And I ― I hear the clash of silver helms
Ring icy-clear from the far deeps of the night.
(circa 19181921)
Upon reading this poem, written during his years at Yale University, I was
struck by a chord of familiarity. As the title suggests, Before An Examination has
an immediate association with the experiences of most students and teachers
alike. Most students have experienced taking examinations in one form or another, and teachers, who were once students themselves, are usually familiar with
giving tests. I found the central theme of rejecting stifling knowledge in favor of
unleashing the powers of the imagination to be wholly relatable to my experiences
as a student and a teacher. I was impressed that such a young poet could use a
number of interesting linguistic features in the construction of this poem, and I
would now like to attempt to identify these features, in the order of content, structure, and style. I should also like to show how the prominent components are
fore-grounded, and interpret the value of these features for an understanding of
the poem. Having therefore stated the central theme already, I would like to now
― 19 ―
embark upon my stylistic analysis and interpretation of the poem with a look at
the content.
The character in the poem is the speaker himself, obviously a student as the
title indicates, and the addressee seems to be a venerable old man, as the speaker
is “. . . full of empty rage / At the dull maunderings of a long dead sage” (lines 4 and
5). Then again in line 6, he refers again to the sage, going so far as to dismiss his
words as ‘lies’. However, this may be merely a reaction to the words which the
speaker has been studying in the confines of his room, and one could possibly
argue that the addressee is in fact the speaker’s own conscience, as the poem is
written in the 1st person singular. The question of who the addressee is could then
be further implicated to be the abstract concept of society as a whole, and particularly involving the educational establishment of teachers, in positions to impart
knowledge to those in lesser possession of knowledge, namely students. Not only
does the title lead the reader to suspect this, but the use of the word ‘sage’ in line
5, which has a dictionary meaning of ‘a venerable wise man’, also indicates a possibility for this more abstract concept of the speaker addressing the structure of
education in general. The overall tone of this poem is strongly contrasted between
the octave, which displays an attitude of frustration and rebellion, and the sestet,
which is one of creative imagination. This will become apparent during the analysis of the figurative language in the style description later in this paper.
Next, I turn my attention to the structure of the poem. While the poem is a
Petrarchan Italian sonnet with a rhyme scheme of abbaabbacdecde in the composition of this particular verse, Benet makes some deviations from the systematic
metrical patterns of most such poetry. For instance, the scanning of the poem
reveals that Benet was not a slave to the dictates of metrics, but neither did he
stray too far from the meter as to lose the musical value or emotional potential of
rhythmical repetition. While every line of his poem has five metric units (with the
possible exception of the 5th line, which could be read as a tetrameter, if one considers the last two stressed syllables as a spondee), only the first and last line of
the octave and all of the lines of the sestet (with the exception of the last line
which has anapestic and trochaic meters in the 3rd and 4th units, respectively) are
the usual sonnet rhythm patterns of iambic pentameters with rising meters in
each of the first feet of each line. Lines 2 through 7 of the octave begin with falling
meters, and this doesn’t seem especially important, until one considers that the
first four syllables of each of the lines 2 through 7 begin with a stressed syllable,
followed by two unstressed syllables, and then complimented with another
stressed syllable. The importance of this becomes apparent when the poem is read
aloud. The first line introduces a natural iambic pentameter rhythm, but quickly
changes the pace in the second line by reversing this pattern by beginning each of
the next six lines with falling meters. The effect of this gives the reader a sudden
back and forth feel in the octave, which Benet has used to accentuate his frustrated feelings about his studies, and which is contrasted sharply with the beautiful and clear rhythm of the sestet, which ends up with all iambic pentameter lines
― 20 ―
On Interpreting Benet’s Before An Examination
that begin with rising meters. Furthermore, the fact that Benet chose to begin the
poem with an iambic pentameter in the first line, then changed the rest of the
octave to pentameters with various feet patterns of stressed and unstressed syllables, and finally reverses back to an iambic pentameter in the final line, might
very well ‘trick’ the reader’s eyes, particularly when this poem is read aloud for its
rhythmic effect. The last line, reverting back to an iambic pentameter, seems to
indicate that the rough emotions of exhaustion and rage, coupled with the decisive
action of flinging open the window while rejecting the words of the sage in lines
2 through 7, have been cooled down by the fresh air in line 8. The fact that this
line reverts back to a calmer tempo in its metric pattern seems to confirm this.
With regards to the poet’s choice of rhyming words, I felt strongly that they are
mostly peripheral to the meaning of the poem, as grouping them together revealed
no particularly discernible feature which I felt was crucial to the meaning of the
poem, except for determining the rhyme scheme. Finally, I would like to take a
look at how the style of this poem helps to bring the reader to a closer understanding of its meaning.
The imagery and arrangement of a number of interesting lexical elements of
the first and second stanzas differentiate between the speaker’s rejection of knowledge from his reading and his clarity of imagination. The poem contains two
clauses in the first stanza, and three in the second. In the first clause of the first
stanza (lines 1 and 2), the subject ‘letters’ is introduced. In the next six lines, the
subject becomes the speaker ‘I’ in the first person, as introduced in line 3. In the
second stanza, the compound subjects are elements of nature, ‘breeze’, ‘stars’ and
with a modifying clause introducing another element of nature in ‘elms’ found in
lines 9 and 10. The last clause of the second stanza becomes the speaker, ‘I’, introduced in line 13. There is a clear contrast between the effect of the subjects on the
passive objects in the first clause of each stanza with the active response from the
speaker as the subject in the subsequent clauses, respectively, and which the images will support. In the first clause of the first stanza, an interesting metaphor is
created when the subject, ‘letters’, is personified as if letters have a life of their own.
This is done by the use of the verbs ‘dance’, ‘flaunt’, ‘retire’, and ‘trick’, which are
qualities usually done by humans. In the second clause, the subject ‘I’, which
refers to the speaker, a human, is doing an action of reading. In this action of
reading, the speaker becomes the passive object of the letters, leading to his lack
of interest and a general negative feeling toward his studies. This contrasts with
the strong physical action of flinging open the window in the second clause. The
figurative language supports this. In the first stanza, the speaker is bored and
irritated, as shown by the speaker’s use of such phrases as ‘sick of the strain’ and
‘the glaring light’ in line 3. ‘Sick of the strain’ has an implied connotation that the
speaker has had enough of the stress associated with studying for long periods of
time, and especially late at night, and particularly before an examination. ‘The
glaring light’ gives the reader a sense that the light is blindingly bright and obtrusive, rather than just bright. The first verb of action in the second clause is the
― 21 ―
first of a series of reactions which put the speaker on a course of action and, ultimately rejection, of all of the studying he has done until this point. He ‘rises’ (end
of line 3). He then ‘yawn’s’ and ‘stretches’ (line 4), which are actions usually associated with being tired. Then he ‘flings’ up the window (line 6), and ‘flings aside
the sage’s lies’ (line 6). The use of ‘fling’ here indicates a dramatic movement. The
speaker does not open his window with calculated calm, but he hurls it open in a
rather defiant gesture, which is reinforced by the mental action of rejecting the
words of the sage in the next phrase, when he ‘flings aside the sage’s lies’ (line 6).
In the next line, ‘choosing to breathe’ (line 7), the speaker demonstrates his rejection
of the sage’s words. The tenor of this metaphor is that the speaker wishes not so
much to breathe oxygen, as the vehicle suggests on the surface, but rather, he
wishes to free himself mentally from the shackles of the stifling knowledge that he
has been absorbed with in his room, as he clearly states in the second part of this
line, ‘. . . not stifle and be wise’ (line 7). In the final line of the first stanza, the
speaker shows his independence of studying by allowing the air to ‘pour in upon
my cage’ (line 8). In this line, the use of the verb ‘pour’ gives the reader another
metaphor which describes air as pouring, rather than rushing into his room. The
mental imagery here gives the reader a sense of one form of nature crossing
boundaries of physical properties which normally do not occur. In the first sense,
liquids usually pour into open spaces. Air, which cannot be seen but only felt,
‘pours’ into the room in order to stimulate the reader’s senses of an immediate and
complete change in the atmosphere, both mentally and physically felt by the
speaker. The fact that another metaphor ‘cage’, usually reserved for trapping
animals against their will, comes into play in the final word of the first stanza,
supports the image of the room as a place where the speaker had been trapped in
studies until he frees himself with his decisive action of throwing open the window and totally rejecting the stifling inert knowledge.
When one looks at the second stanza, one will find a similar pattern which
introduces another personification of elements of nature taking on lifelike qualities, with the speaker once again becoming the passive object, but this time with
a totally different outcome. For example, in the first clause of the second stanza,
the subject of the first two independent clauses, ‘breezes’ and ‘stars’ the ‘stars’ are
linked with a dependent clause with a subject of ‘elms’. ‘Stars’, however, are endowed with a special human quality that allows them to ‘whisper’ as humans
would. This personification plays on the speaker’s imagination, as he indeed begins to imagine in the next clause that these stars are ‘wheeling’ for ‘dim, celestial
wars’ in line 12. In the last clause of the second stanza, the subject becomes ‘I’ (the
speaker), and suddenly the speaker is struck by the clarity of his emotions and
senses, as his imagination becomes ‘icy-clear’ when he hears the ‘clash of silver
helms / Ring icy-clear from the far deeps of the night’ (line 14).
Similar patterns of inanimate subjects affecting the speaker as passive objects
by introducing them through personification metaphors at the beginning of each
stanza, and followed by the responses taken by the speaker as the subject in both
― 22 ―
On Interpreting Benet’s Before An Examination
stanzas, differentiate clearly between the two stanzas due mainly to the outcome
of the speaker’s responses. In the first stanza, the effect results in causing the
speaker to experience boredom, which results in his taking decisive action by
‘flinging up the window’. In the second stanza, the effect of the scene that lay before
the speaker, accompanied by references to human senses of touch, sight, and
sound, gives the speaker a clarity of imagination in the final clause.
Looking once again at the first clause of the poem, a paraphrasing for the
meaning might consist of the following: The speaker’s eyes have become fatigued,
because the letters he reads appear to dance as if they are showing off, then withdrawing. Interpretation: The speaker has reached a level of mental, and to some
degree physical exhaustion, because the eyes are already playing tricks on his
mind after long hours of studying alone at night in his room. The second clause
might be paraphrased as follows: Exhausted from both reading and the brightness
of the light, the poet stands erect, regroups himself despite feeling irritated toward
the perceived monotonous ramblings of a writer who is no longer alive, and
throws up his window with emphatic brevity, all the while considering the words
he has just read as doubtful, and rejects them completely by allowing the outside
air to refresh and revitalize him. Interpretation: The speaker has rejected his studies and doubted their worth, just as he changes his physical position in his room
to stand by the window at the late hour, much as anyone would want a ‘change of
pace’ after doing anything as vexing and mentally taxing as studying for an exam.
Paraphrasing of the second stanza itself might begin with the first clause
looking like this: Feeling a cool breeze, the poet looks past the images of elms in
the darkness, and with the thoughts of the exam far from his mind, he allows
himself to imagine he can hear the lifelike stars that appear to be whispering in
indiscernible tones accompanied by the effect of light. Interpretation: The speaker’s imagination, stymied and stunted during his studying for the exam, has now,
with his ‘change of pace’, begun to stimulate his creative instincts. The second
clause of the second stanza could be rewritten as: The stars seem to revolve
around far away, heavenly wars. Interpretation: Limitless imagination, buried for
the duration of his studying, is now fully underway. Finally, the last clause of the
poem can be rewritten thus: In the middle of this night, the poet’s intense imagination has become so defined that he hears silver clouds clashing in the distance
with a ringing clarity so sharp that it is as clear as ice. Interpretation: Untrammeled in his clarity, the author’s senses are so distinct, his imagination so profound, that in a very short time from this moment on, Stephen Vincent Benet, the
young writer and poet, will re-enter his room with enough creative energy to pen
a sonnet about studying for a test, something most of us would rather sleep off
than give in to our inner artistic instincts. Have we not felt these same feelings
ourselves, at least once before? Before an examination, perhaps?
― 23 ―
References
Benet, S. V. (1945). We stand united and other radio scripts. New York: Farrar and Rinehart.
Fenton, Charles A., Stephen Vincent Benet: the life and times of an American man of letters,
18981943. Westport, Conn.: Greenwood Press, 1978, 1960.
Quirk, R. & Greenbaum, S. (1973). A concise grammar of contemporary English. New
York: Harcourt brace Jovanovich.
Prucha, D. (2006). A stylistic analysis of William Wordsworth’s, Composed Upon
Westminster Bridge, Sept. 3, 1803. Takushoku Language Studies, 112 (2577).
Widdowson, H. G. (1992). Practical stylistics. Oxford: Oxford University Press.
― 24 ―
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 2542
October 2007
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO
DE LA CALZADA
Primer milagro que da origen
al pueblo jacobeo que lleva su nombre
Oscar Javier MENDOZA GARCA
Introducci
on
Santo Domingo de la Calzada se encuentra en la vertiente derecha del r
o Oja,
en el extremo occidental de la Comunidad Aut
onoma de La Rioja. Su origen va
unido a un personaje hist
orico, Domingo Garc
a (10191109), y a una calzada
romana desviada por
el para facilitar el camino a los peregrinos jacobitas que unos
cuatro kil
ometros al norte deb
an atravesar el r
o Oja. Asfue surgiendo en el
bosque de Ayuela en el siglo XII el “desv
o hist
orico” que pronto fue la unica v
a
jacobea de peregrinos que une N
ajera y Burgos1.
Domingo fue natural de Viloria de Rioja, por tanto “Riojano” 2 . Sus padres,
Ximeno Garcia y Orodulze, que eran “nobles y ricos”, le llamaron “Domingo, o
Dominico, que quiere dezir cosa del Se
nor” 3 y “le embiaron a Valvanera . . . a estudiar letras en la Rioja, quando por aquellos tiempos en Espa
na se manejavan
mas las ojas de azero, que de ciencias las ojas” 4.
Todo sobre el lo conocemos por la tradici
on que han heredado los primeros
escritores de su vida. A falta de escritos coet
aneos, los escritos posteriores han
hecho de este hombre un mito del que nos es dif
cil separar la realidad hist
orica y
o hacerse ermita
no dedic
andose a la oraci
on y
la leyenda5. Asse dice que decidi
penitencia en ese temido bosque de la Ayuela, “cuya extensi
on puede localizarse en
el area comprendida desde Valpierre hasta Villalobar y Leiva” 6. Entonces era un
bosque de encinas, robles y carrascas, poblado de ciervos y jabal
es. Por allencontr
o los restos de un palacio de los reyes navarros y una derruida ermita.
Algunos historiadores locales dicen que ese castillo o palacio fortificado “subsisti
o en lo que despu
es fu
e Hospital de peregrinos”, hoy conocido como “Palacio
7
a toda clase de penitenviejo” . Allrezaba, ayunaba, martirizaba su cuerpo y hac
cias. Trabajador como era, convirti
o aquel erial en un huerto que le daba ricas
coles y r
abanos.
Lo cierto, a pesar de la oscuridad documental, es que fue “un hombre del
Camino” conocido por sus obras humanitarias. La primera obra de Domingo fue el
desmontar y roturar parte de ese gran bosque para abrir una “calzada segura” a los
peregrinos jacobeos, originando el “desv
o hist
orico” 8, pues tuvo que ser testigo de
las penurias y dificultades de los peregrinos que por esas tierras, un poco m
as al
― 25 ―
norte, pasaban hacia Santiago. Quiz
a oy
o ese viejo cantar de labios de alg
un
peregrino de Santiago que por allpasaba :
Vos que and
ais a Santiago, /amire vuestra merc
e,
non ay puentes nin posadas, /nin cosa para comer 9.
Ante tal urgencia, levant
o alluna ermita en un claro del encinar desde donde
sal
a al encuentro de los peregrinos ayud
andoles a atravesar el vado y d
andoles
cobijo. “El ermita
no era enfermero, m
edico, cocinero, alba
nil y arquitecto” 10 . Al
ver el mal estado de la calzada empez
o a reconstruirla con mucho trabajo y tes
on,
y ashizo un puente para pasar el r
o Oja. Alfonso VI visit
o a Santo Domingo y le
concedi
o el sitio para edificar el templo. Tambi
en construy
o un hospital. Tuvo
disc
pulos que trabajaban a sus ordenes y asaquel encinar se fue llenando de vida.
“Las tres obras que deja hechas tras su muerte Domingo de la Calzada en 1109, un
hospital para pobres y peregrinos, una calzada con un puente de singular
importancia sobre el r
o Oja, y una iglesia consagrada a Santa M
, forman un
complejo a partir del cual surgi
o el burgo calceatense, conocido desde entonces con
el mismo nombre de su fundador : Santo Domingo de la Calzada.” 11 Esas obras
fueron la simiente del “burgo o burguete de Santo Domingo de la Calzada”, “villa
abadenga” de 800 habitantes ya a principios del siglo XIII gracias a los n
ucleos
colindantes (Margubete, al norte, y San Pedro, a los pies de la catedral) y a un
buen n
umero de oficiales y artesanos que se empadronaron12 , a repobladores
extranjeros (especialmente francos), y a los privilegios reales y los fueros concedio el t
tulo de
dos por Alfonso VIII en 1189 y 120713 . En 1333 Alfonso XI le otorg
14
“ciudad realenga” . Era preciso que el asentamiento fuera potenciado con vistas a
hacer m
as s
olida esa l
nea imaginaria entre el mundo cristiano y el musulm
an15.
1. Milagro de la hoz y la encina
Para deforestar aquel temido bosque de encinas regadas por el r
o Oja que
desciende de la sierra de la Demanda, en el Sistema Ib
erico, utiliz
o Domingo una
hoz, que hoy se conserva como reliquia en el Museo de la Catedral. El anverso de
dicha hoz es hierro forjado y ligeramente acerado, de epoca medieval. Su reverso
es un revestimiento de plata del siglo XVIII con la leyenda : “ORA PRONOBYS
BEATE DOMYNIZE” (Ruega por nosotros Bienaventurado Domingo). Hoz y encina est
an representadas tambi
en en el relieve de la cornisa de la fachada de la catedral ascomo tambi
en en otros dos escudos del ayuntamiento de la ciudad, uno de
ellos policromado, y en la fachada de la ermita del Santo, recordando tan singular
y legendario episodio del nacimiento de la villa. Junto con el “gallo y la gallina”,
hoz y encina son el centro del escudo de la antigua bandera de la ciudad de Santo
nos, la ciudad adopt
o la hoz y la encina
Domingo de la Calzada16 . Pasando los a
como elemento de su escudo ; m
as tarde se a
nadieron el gallo y la gallina, su
milagro m
as popular. El escudo actual, adem
as de a
nadir el puente para los
peregrinos, incluye el le
on y el castillo, todo ello bajo una corona real.
La Rioja es una tierra llena de leyendas. Tras el descubrimiento de la tumba
― 26 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
del Ap
ostol Santiago a principios del siglo IX se aparece este en su caballo blanco
y blandiendo la espada en el campo de batalla que libraba Ramiro I al frente de los
cristianos contra las tropas de Abderram
an II en Clavijo, cerca de Logro
no, la
noche del d
a 22 de mayo del a
no 844. El ap
ostol Santiago hab
a salvado a la cristiandad y consigui
o la liberaci
on del viejo tributo de las “cien doncellas” al pueblo
pagano. Posteriormente fue San Mill
an de la Cogolla quien tambi
en sobre un
caballo enarbolaba su espada serpenteada (para diferenciarla de la de Santiago)
contra las tropas musulmanas. Los tiempos de nuestro Santo, a pesar de la cita de
Texada en que afirma que en Espa
na se manejaban por entonces la ojas de acero
m
as que las hojas de escritos, ya son tiempos de paz en esa zona, el gerrear ya no
era menester, pero hab
a otras exigencias que el Santo, como hombre de gran fe,
trat
o de solventar, esta vez no con la espada sino con “una hoz de segar espigas”
con la que “desmonto el Monte todo . . . Raro milagro ! y que solo de nuestro Santo
se refiere” 17.
Es el primer milagro del Santo seg
un Texada, recopilador de la totalidad de las
tradiciones orales y escritas de la vida y milagros del Santo a principios del siglo
XVIII. Nos cuenta que va el Santo a pedir arboles para construir su hospital a los
vecinos de Fayola (despu
es “Ayuela”, poblaci
on desaparecida). El top
onimo nos
hace pensar en un bosque de hayas, aunque hubiera otros arboles como robles,
encinas, olmos y casta
nos ; se dec
a “lugar del Fagal” o Fayal o Fajal, del lat
n
18
“Fagus” (haya) . Ante la negativa de los vecinos, el Santo lleno de agudeza les
muestra un peque
na hoz y les pide que le dejen cortar con ella19. Los aldeanos de
Fayola se r
en de la ocurrencia y acceden pero al ver el destrozo, se lanzan airados
contra el Santo. Este, sin embargo, les demuestra que se atuvo a lo convenido,
exhibiendo las virtudes de la hoz, cortando en su presencia, con ella, una muy
gruesa encina20.
Texada, al igual que otros comentaristas posteriores, pone en relaci
on esa hoz
con la del Apocalipsis (uno como Hijo de Hombre llevaba “en la mano una hoz
afilada” : 14, 14 y ss.) : “aquella Hoz del Apocalypsi era Christo Nuestro Redemptor”, (para San Gregorio “la Hoz es la Omnipotencia” 21. Santo Domingo se convierte en imagen del Cristo segador y vendimiador omnipotente que hace justicia a los
pobres. Siega y vendimia son im
agenes del juicio divino en que Apocalipsis 19, 11,
describe a Cristo bajando del cielo montando “un caballo blanco”, cual antecesor
del Ap
ostol Santiago, para exterminar a los enemigos de la Iglesia, los infieles,
seguidores de la “Bestia que, teniendo la herida de la espada, revivi
o” (Apoc. 13,
14). Es un retrato del “D
a de Yahveh” (d
a de ira, se insist
a en la Edad Media y
posteriormente), d
a del juicio final, inspirado en diversas profec
as y que inspira
la figura de Santiago. Astambi
en “esa espada afilada para herir con ella a los
paganos” (Apoc. 19, 15) es el arma de la Palabra exterminadora, “espada aguda de
dos filos” (Apoc. 1, 16), Is. 11, 4 ; 49, 2 ; Os. 6, 5 ; Sb. 18, 15 ; 2 Ts. 2, 8 ; Hb. 4, 12. Como
otro Santiago, nos dice Texada, Domingo asisti
o y hosped
o en su Hospital a los
“Cavalleros de la gran Orden Militar de Santiago, que llaman de la Espeda” 22, algo
dif
cil de creer pues no disponemos de datos de la existencia de tal Orden en vida
― 27 ―
del Santo y que hemos de pensar se debe a la grandilocuente pluma del barroco
autor que aslo recoge de la tradici
on popular o que adelanta tal hospedaje a la
vida del Santo.
Como historias que tras a
nos de trasmisi
on oral han sido plasmadas en escritos de fe nos lo sigue describiendo un historiador de nuestro tiempo : “Con su hoz
milagrosa limpiaba las malezas de los bosques ; derribar
a troncos de fuertes encinas, y a su paso el pueblo, impresionado, hablar
a de unos hechos prodigiosos. Son
milagros y con el paso del tiempo impresionantes leyendas de m
stica fe”. Incluso
hay unos versos de Luis Hern
aez Tob
as que nos hablan de la figura de Santo
Domingo con su hoz, y a veces acompa
nado de su condisc
pulo Juan de Ortega :
Con la segur lo pintan en la mano/y en lo que fuera matorral y espinos
alzando albergues para peregrinos,/solo, o con Juan de Ortega, su paisano23.
No sabremos bien c
omo se ha formado la figura del Santo, pero adivinamos
que no es la historia distorsionada la que ha formado esas leyendas, sino que la
historia se ha compuesto con diversas tradiciones m
ticas. Texada se basa en un
culto al Santo muy elaborado durante siglos pero que nos muestra, con su descripci
on tan recargada, algunas ambig
uedades que podr
an responder a diferentes
personalidades del mismo Santo o m
as bien a algunos rasgos con los que se ha
querido caracterizar al Santo. Sin duda el lenguaje claro y luminoso para el hombre medieval se nos queda anquilosado despu
es de siglos sin poder llegar a comprenderlo 24. El mito se nos hace inevitable a la hora de indagar sobre alguien del
que no quedan “textos”.
Al hablar sobre acontecimientos que preceden a la
historia se ha recurrido exclusivamente a la arqueolog
a sin prestar mayor atenci
on a los mitos, que pueden ense
narnos mucho m
as que los huesos porque encierran en smismos m
as verdad sobre la identidad humana que ellos. S
olo el hombre
Escudo de Santo Domingo de la Calzada en la puerta del antiguo Hospital que se
conserva en la puerta lateral del Parador Nacional de la Plaza del Santo
― 28 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
es capaz de vivir lo imaginario como real y por eso ha necesitado de im
agenes,
25
s
mbolos, gestos, palabras y ritos .
2. Hoz y encinas hierof
anicas
Estudiemos estos dos elementos como manifestaciones de lo sagrado, la encina
como arbol sagrado y la hoz como manifestaci
on tambi
en de la omnipotencia divina. El mundo vegetal en general tiene un car
acter hierofante. Pero del arbol surgen expresiones como “axis mundi”, “arbol de la vida”, “arbol regenerador” 26. En
todas las religiones es el arbol un objeto especial de admiraci
on y adoraci
on. El
arbol enlaza la tierra y el cielo, se hunde en el suelo para manifestarse en las
alturas. Es s
mbolo de vida y fecundidad que siempre se renueva. Su hoja caduca
nos connota el resurgimiento de la vida y la perenne nos hace pensar en la inmortalidad. En la Edad Media s
mbolo del para
so era un arbol lleno de frutos (Gn. 2,
9 ; 3, 22). Para los vikingos era signo de la vuelta al principio estival, la primavera.
Concretamente, el roble, fue considerado en Europa dos mil a
nos antes de
Cristo como una divinidad, objeto de culto. Esas cualidades pasaron a otros arboles como la encina o el abeto. Cuando en oto
no amarilleaban las hojas del roble,
ca
an al suelo y quedaba un tronco limpio que segu
a siendo adorado por la gente
esperando su revitalizaci
on. Fue asel arbol un elemento importante en las religiones indoeuropeas paganas que Bonifacio, “ap
ostol de los alemanes”, cristianiz
o en
el siglo VII o en el siglo VIII, “quien intent
o hacer ver a los druidas paganos que el
roble no era arbol sagrado”27.
El bosque es de por slugar peligroso, opuesto al poblado como vemos en las
cuartetas del primer escritor en castellano, Berceo28. En La Rioja ha sido el bosque
lugar elegido para sus grandes santuarios : la Virgen de Valvanera (que se aparece
en un roble), el monasterio de Suso (arriba) de San Mill
an de la Cogolla, y la
Virgen de Nuestra Se
nora de Lomos de Orios, en Villoslada de Cameros. Es tambi
en lugar apropiado para el eremita occidental. Santo Domingo es una de las
muestras de esta vida de ascetismo. Con su hoz milagrosa tala la masa forestal en
provecho de los peregrinos, tala que despu
es redundar
a en un crecimiento urbano
y agr
cola. El bosque es aslo negativo, peligroso por la cantidad de animales
salvajes y salteadores, frente a lo positivo y seguro que es el poblado. Igualmente
ocurre en culturas orientales donde el bosque es el lugar m
as peligroso por estar
lleno de serpientes, tigres, animales malignos en general y fant
asticos como el
drag
on, lugar al que s
olo se puede acceder con el hacha, s
mbolo de justicia y
elemento imprescindible para defender la propiedad29. Santo Domingo escoge este
lugar arduo para vivir porque es alldonde mejor puede encontrarse con el diablo
(representado tantas veces como serpiente y otros animales salvajes que hab
a en
aquellos bosques) para enfrentarse a el y venci
endolo conseguir su santificaci
on.
Y esto es lo positivo del bosque que lo convierte en lugar sagrado, lugar en que se
desecha al diablo para dedicarlo y santificarlo a Dios, lugar pues de encuentro con
Dios.
― 29 ―
Por aquellos parajes ya exist
an dos lugares habitados en los que pudo
abundar el pino : Pino de Yuso y Pino de Suso ; incluso hab
a una iglesia dedicada
arboles que cortaba
a Santa Mar
a de Ambos Pinos 30. La leyenda nos dice que los Santo Domingo con su hoz de un solo tajo eran encinas. Como en esta regi
on del
valle del Oja se han usado en la Edad Media y hasta el siglo XVI tanto el castellano
como el euskera, pudiera ser que entonces se denominara a tal arbol “Arizta” en
lengua vasca, que es roble. Al perderse el euskera en La Rioja, el t
ermino fue
traducido por “encina”, asse puede ver en la antigua Virgen de Arizta aparecida
en una encina entre San Asensio y Briones. Allse erigi
o la ermita de Nuestra
Se
nora de Arizta (o “Aritzeta”, robledal), que se convirti
o en Nuestra Se
nora de la
Encina y “m
as tarde pas
o a ser denominada Nuestra Se
nora de la Estrella” 31 . El
roble es arbol ya adorado por griegos, lugar donde dan culto a su m
aximo dios
Zeus, y por italos, que lo consagran a su dios J
upiter. Es tambi
en el gran dios de
los b
arbaros arios, y los celtas de la Galia lo estiman como lo m
as sagrado ; la palabra “druida” no significa sino “hombres-robles” 32. Estos druidas realizaban los ritos
sagrados m
as solemnes con hojas de roble y con el mu
erdago que crec
a junto a
el. El roble por sus condiciones de dureza ha sido siempre garant
a de longevidad
ya que aguanta m
as que otra madera sin pudrirse y sus frutos han sido tambi
en
venerados y usados para curar enfermedades.
ovalo de encinas
En la Ermita del Santo encontramos la “Mesa del Santo” 33, ese cuyas ramas hacen dosel al lugar formando esa especie de mesa de cesped. El sitio
es sagrado por el hecho de que el Santo lo consagr
o haciendo allcaridad a los
peregrinos que pasaban camino de Santiago de Compostela. Esa “Mesa” pasa a ser
lugar sagrado delimitado y defendido por las encinas, que ser
an premonici
on de
esos muros que con el tiempo se construyeron para defender la ciudad de lo exterior, creando asun espacio etnoc
entrico bendecido donde emanan valores positiun se conservaban en el siglo XIX seis enormes encinas que
vos y curativos34. A
Encina conmemorativa en la Plaza de Espa
na contigua a la Catedral
― 30 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
seg
un escribe Madoz en 1946 “se cayeron hace pocos a
nos”35 . Seg
un la tradici
on
“es donde existieron 6 enormes encinas” y hasta la guerra de la Independencia fue
una dehesa poblada de encinas hasta el monte de Ba
nares. Sigue siendo hoy d
a
ese diminuto y nuevo bosque sagrado, al que los calceatenses se siguen acercando
cual peregrinos. En la misma expresi
on “se cayeron”, a
un en voga entre agricultores, taladores y maderistas, apreciamos esa personificaci
on del arbol que como
ser vivo acaba sus d
as al caer.
3. Antecedentes literarios
El problema de la deforestaci
on o roturaci
on para hacer asentamientos, lugares habitables, no se trata de una mera asimilaci
on de im
agenes b
blicas, pues
todo parece indicar un contexto hist
orico, nos dice un buen conocedor de la religiosidad popular del entorno : exist
a una rivalidad entre ganaderos y agricultores,
que ha continuado hasta nuestros d
as. Ganaderos eran los monjes, que con su
cayado dominaban a las fieras salvajes. Los agricultores ten
an como elemento
m
as propio de la labranza la hoz con la que segar las malas hierbas y recoger el
fruto del cereal y de la vid ; con la hoz dominan la naturaleza36, cortan las malas
hierbas en provecho del cereal, en fin, la hoz no coexiste con la naturaleza abrupta.
Nos parece una explicaci
on que no llega a explicar la formaci
on de esta
leyenda de la hoz y la encina. Esa rivalidad existi
o ya entre Ca
n y Abel en el
G
enesis y ha continuado como consecuencia del aprovechamiento y apropiaci
on
de terreno mostrenco, tierras vald
as o sin amo, “presura”, que se dio desde la Edad
Media. Los problemas ocasionados por esa necesidad de la expansi
on agr
cola han
continuado desde entonces, quiz
a hoy no tan encarnizadamente. Aunque esa era
la realidad, la formaci
on de la leyenda nos parece ha de ser buscada en otras
fuentes literarias ligadas al Camino de Santiago y, por supuesto, anteriores a su
formaci
on.
A diferencia de la tradici
on serrana, esta leyenda ha de ser emparentada con
la presencia de eremitas roturadores en los bosques de la novela francesa y bretana. La figura de Santo Domingo desbrozando el bosque no es caso unico y aislado sino tambi
en com
un con las novelas del ciclo bret
on. Chr
etien de Troyes escribe alrededor de 1180 Yvain o el Caballero del Le
on37. Yvain, que se vuelve loco al ser
rechazado por su esposa, huye de la corte y se va al bosque donde trabajar
a para
los dem
as como defensor de viudas y hu
erfanos. En el bosque encuentra una
peque
na caba
na y a un ermita
no que lleva una vida ecot
ecnica : tiene una casa,
desbroza el terreno y practica una agricultura rudimentaria, lo que implica una
conquista del mundo salvaje por el mundo civilizado.
Tambi
en Merl
n se convierte en un hombre de los bosques, en la Vita Merlini
(11481149) de Godofredo de Monmouth, texto que deriva de antiguas tradiciones
celtas. El tema del bosque como lugar del hombre salvaje es frecuente en la novela
on caballeresca en el mundo de las aventuras a
caballeresca38, es lugar de iniciaci
trav
es de la superaci
on de sus amenazas, y ases tambi
en lugar de purificaci
on o
― 31 ―
perfeccionamiento antes de pasar a otra etapa de la vida o incluso como preludio
del M
as all
a, del Otro Mundo39. En el Occidente medieval el bosque es lo que en
Oriente el desierto : lugar de refugio, de aventura y horizonte opaco del mundo de
las ciudades. En “Breta
na”, al menos, es donde se rompen las mallas de la red jer
arquica feudal. Yvain abandona la “cultura”, la econom
a agr
cola y el sistema
social organizado. El huerto o vergel es “lugar cercado, separado del resto del
mundo”, es una realidad geogr
afica y simb
olica a la vez.
Asocurre ya en el Antiguo Testamento, donde de Ca
n, labrador y despu
es
errante, surge la cultura urbana al construir la ciudad de Henoc en “Nod” (“Pa
s
desconocido”), al oriente del Ed
en (para
so terrestre, figuradamente lugar
agradable, ameno y delicioso) que habr
a de ser la ciudad de la civilizaci
on pastoral de su descendiente Yabal (Gen. 4, 17 y 21). El desierto era entendido como
lugar de desarraigo, de pruebas y lugar donde Dios educa a su pueblo. Tambi
en en
el Nuevo Testamente el desierto de Judea donde viv
a Juan el Bautista es lugar de
tentaciones para Jes
us. Con los textos de la Vida de Antonio (hacia el 360) del
obispo Atanasio de Alejandr
a y la Vida de Pablo de Tebas, primer eremita (hacia el
374379) de san Jer
onimo comienza la “epopeya del desierto” como lugar de espiritualidad. Es lugar por excelencia de lo maravilloso, donde los monjes del desierto
de Egipto se encuentran con Dios a quien van a buscar all
. Los primeros monjes
huyen de la ciudad buscando la soledad, pero esos monasterios cristianos que
construyeron se fueron convirtiendo en microciudades. El “desierto ciudad” de la
Vida de Antonio ya expresaba ese lugar del anacoreta con una misi
on tambi
en apost
olica. Caso posterior pero parecido es el de las Ordenes Mendicantes,
Dominicos y Franciscanos, que retirados del mundo para llenarse de Dios, salen a
la ciudad para predicar. Ahora ya, en Occidente, el desierto, como lugar de soledad,
es el bosque. Escrito alrededor de 640 por Jon
as de Bobbio Columbano (hacia 540
615), monje irland
es, elige la soledad forestal de Bobbio, en la Galia, porque le
gusta. En la Edad Media occidental el bosque es el lugar donde “el desbrozador
primitivo abandon
o de una vez por todas sus empresas profanas” para convertirse
en hombre “de la naturaleza al huir del mundo de la cultura”. Aunque era refugio
de siervos, asesinos, bandidos, y donde se realizaban cultos paganos, tambi
en
ten
a de positivo y “
util” el ser reserva de caza y frutos de la tierra (miel, cera,
madera, vidrio, metales) y lugar donde pac
an animales dom
esticos como los
cerdos. Es asel bosque un lugar que “prolongaba y completaba los campos del
hombre”, “suplemento de la actividad econ
omica” 40. Marc Bloch nos habla que la
selva medieval “abarcaba espacios mucho mayores que hoy” en los Caracteres
originales de la historia rural francesa que con “todo un mundo de bosqueros”,
na del ermi“distaba mucho de permanecer inexplotada o deshabitada” 41. La caba
ta
no es estaci
on de importancia en los viajes de iniciaci
on de los caballeros art
uricos, asIvain, el caballero del Le
on. Ivain se cura y percibe, en el signo de la dama
y en el castillo cercano, que la selva se ha poblado.
En la Vida de San Bernardo de Tir
on se habla de anacoretas que pueblan el
bosque. San Bernardo encuentra a Pedro cuando “arranca r
apidamente arbus― 32 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
tos”. En otros textos se ve el bosque como un para
so con materias primas donde
la madera es muy util para hacer vigas y construir. Es propio de la mentalidad
medieval el distinguir entre lo construido y lo salvaje, el ambito de la aldea habitada y la soledad del bosque. Son muchos los textos medievales que nos hacen pensar en nuestro Santo y su hoz.
La hoz fue ya instrumento sagrado de los pueblos celtas. Hemos de recordar
que esta zona de Santo Domingo fue en su d
a tierra de los berones, pueblo celta.
Sus druidas celtas usaban una hoz con hoja de oro para cortar el mu
erdago que
crec
a en las ramas de los robles y los tilos, que coc
an y beb
an en ritos inici
aticos
para mantener la fuerza y la salud42. Con la hoz se quiere mostrar el paralelismo
que tuvo Santo Domingo con aquellos druidas43.
Siguiendo con Yvain, vemos c
omo derriba a Harpin de la Montagne “como un
roble al que se derriba” (verso 4238). La realidad es que hay una transformaci
on
del paisaje rural representada por el gran movimiento de tala y desmonte que se
lleva a cabo desde el siglo X y que parece culminar en el siglo XII, con su momento
m
as algido entre 1075 y 1180. El espacio arrasado por desmonte es un fen
omeno econ
omico. Los signos cristianos aparecen tambi
en en la literatura : una
capilla, un eremita, un hombre (Yvain) que se enfrenta al mundo diab
olico para
44
cristianizarlo .
Este mismo aspecto roturador en pro del asentamiento para habitar de nuestro
Santo calceatense lo podemos ver en la novela de Melusina en prosa, de Jean de
Arras, de finales del siglo XIV : Melusina, es la art
fice de la prosperidad con su
pareja “roturando y construyendo villas y castillos, empezando por el castillo de
Lusignan”. Melusina se transforma en serpiente alada que vuela por la ventana y
Raimondin, su marido desesperado, se retira como eremita a Monserrat45. Sin embargo no son la bestias, sino la espesura, como lugar propio de los malos y de hacer
Hoz y leyenda de c
omo el Santo realiz
o la calzada
Al pie de la encina de la Plaza de Espa
na
― 33 ―
el mal, el adversario real de nuestro Santo. No es tal bosque lugar de “bestialidad” sino de “marginalidad humana” : bandidos del bosque, vecinos de Fayola o un
pastor de un pueblo cercano que destruye el huerto del Santo, bestias humanas, en
todo caso, hombres malintencionados con quienes se las tiene que ver nuestro
Santo. Se da aquuna caracter
stica que es la domesticidad contra el salvajismo,
el campo roturado frente al bosque, la agricultura contra la ganader
a46.
Nos es preciso adentrarnos en escenas de la evangelizaci
on de San Mart
n en
Francia en las que apreciamos unos rasgos similares en el desarrollo de su explicaci
on con la escena de los arboles abatidos por nuestro Santo Domingo. Hay cantidad de santuarios galos de arboles, fuentes y en lugares altos en la Borgo
na y es
ahdonde se multiplican las tradiciones de San Mart
n. Entre esas tradiciones por
desterrar costumbres paganas encontramos la titulada “El desaf
o del pino abatido”. Los paganos atan a Mart
n a un pino para probar si su Dios es verdadero o no.
Todos esperan la muerte de Mart
n. El arbol cay
o donde estaban todos los paganos que al un
sono proclaman el nombre de Cristo : “Christi nomen in commune ab
omnibus praedicari”. Y asel ejemplo y virtud de Mart
n hacen que el nombre de
47
n adopta el estilo de vida y actuaCristo sea recibido en otras regiones . San Mart
ci
on de los monjes de Oriente respondiendo a la violencia con gestos de sumisi
on
y de ofrecimiento de su vida. El distintivo de aquellos ascetas de Oriente era el
“pallium”, peque
no pa
no para cubrirse la cabeza, cuando los laicos y sacerdotes
andaban llevando la “paenula”, chubasquero que cubre todo el cuerpo48.
En todos los episodios de San Mart
n en su evangelizaci
on en el centro de
Francia sobresale la estructura dram
atica de la brutal ofensiva del santo contra los
santuarios rurales, la oposici
on de los paganos, los espectaculares milagros y la
conversi
on colectiva. Es esa manifestaci
on concreta de la presencia de Dios lo que
define esa forma de evangelizaci
on con esos relatos milagrosos que seg
un algunos
provienen de “la traditi
on de Marmourtier” y nos llegan a trav
es de Sulpice. El
fundamento de los relatos es la destrucci
on met
odica de los santuarios paganos
que despu
es oralmente lleva a diferencias en la explicaci
on. Los datos de esas
destrucciones van acompa
nados por los violentos problemas que contribuyen a
engrandecer las campa
nas y por el fen
omeno de conversiones en masa. Esta ret
orica sarc
astica de la forma de narrar de Sulpicio es com
un a disc
pulos y admiradores de profetas del desierto : aplicar a los santuarios paganos los m
etodos
49
ofensivos usados por El
as y Eliseo contra los altares de Baal .
Un relato m
as cercano a nuestro pueblo es el Poema de Fern
an Gonz
alez, escrito
por un cl
erigo a mediados del siglo XIII. Prenden al Conde Fern
an Gonz
alez en la
ruta jacobea de Cirue
na a Santo Domingo. Fern
an Gonz
alez y la infanta se meten
en un bosque, “un grand enzinar”, para escapar de los perseguidores. Allse encuentran con un malvado arcipreste del que se libran mat
andolo. Otra vez el bosque como lugar de maldad y del diablo. Al d
a siguiente vuelven a andar “por
medio la calada” 50.
Las vidas de santos en lengua vern
acula florecen con el auge de las peregrinaciones a Santiago. La literatura incorpara materia de origen folkl
orico a los ser― 34 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
mones y vidas de santos que despu
es vuelve a la tradici
on oral para solaz de peregrinos y sobretodo para promover un discurso inteligible para los creyentes, alejado de terminolog
a teol
ogica y enriquecido con esa forma de pensar mitopo
etica
t
pica de la Edad Media51.
4. Elementos derivados de la encina
Empu
nadura de la hoz
La hoz es para Santo Domingo un instrumento milagroso. Su empu
nadura
tambi
en estaba hecha de madera, aunque no se conseve en la hoz exhibida en el
museo de la catedral. Sin duda es la hoz esa variante del arbol que sustituye al
Santo y por medio del cual se expresa su poder, dando astestimonio de su ser
profeta, esto es, de su conexi
on divina, mediador entre Dios y los hombres. Como
en otros relatos de milagros de santos, tambi
en aquobservamos que antes de
realizarse el milagro hay siempre una invocaci
on a Dios : “encomend
andose a
Aqu
el que todo lo puede, se dirigi
o al bosque y comenz
o a segar la maleza para
adentrarse entre el denso y a
noso arbolado” ; “sinti
o en su brazo una potencia
sobrenatural y la hoz, dotada de inexplicable fuerza, cort
o de un golpe el m
as
grueso de los arboles . . . , sigui
o su tala taumat
urgica mientras con estruendo
inenarrable se desplomaban a diestra y siniestra las milenarias encinas atezadas
por el rayo, los rugosos robles, rivales del tiempo, las verdes hayas de madera
blanca y compacta, los pinos indiferentes al oto
no ; los chopos y los cedros disparados al cielo, los sombrosos olmos y todo lo que en fin se opon
a ante el” 52.
Ramas
Otros elementos utiles para hacer caridad, adem
as de los troncos eran las
ramas y hojarascas que “fueron empleadas como le
na y carb
on para proporcionar
lumbre hogare
na a los peregrinos que, helados de fr
o, acud
an a pedirle auxioricos sobre si Santo Domingo cortaba
lio” 53. No es preciso que aparezcan datos hist
de un solo tajo las encinas. Parece m
as l
ogico pensar que el culto popular que
atribu
a al Santo tales poderes divinos suscitara tal leyenda para mejor expresar
su bondad con los pobres. Y esto, ser
a ya suficiente motivo de valor y la mejor
forma de perpetuarse su persona.
El culto popular sigue devolviendo como ofrenda al Santo las ramas de esas
encinas rememorando el primer sepulcro r
ustico que tuvo. Los fieles siguen
enramando la tumba del Santo en su festividad, el d
a 10 de mayo por la tarde.
Despu
es de haber sido bendecidos los ramos, ramas de encina, “se colocan a modo
de diadema con flores, cubriendo la rejer
a que guarda la tumba del santo . . .
recuerdo de la hoz del santo que tantas encinas y robles tronch
o para realizar sus
54
obras ben
eficas” . Antiguamente se llevaban las ramas en carros tirados por
bueyes que entraban y daban vueltas en la Catedral ; una costumbre que fue
prohibida bajo excomuni
on “ipso facto” el a
no 1780 por el Obispo Porras55. En este
caso los ramos hacen de pared simb
olica, de protecci
on de lo que podr
amos
― 35 ―
considerar casa del Santo, su santo sepulcro. La tumba del Santo se asemeja asa
la “Mesa” de su ermita. El ramo y el enramar ha tenido siempre una funci
on curativa y de protecci
on, especialmente para las edades avanzadas.
Rueda
La rueda del santo, que se cuelga despu
es de la procesi
on del mismo nombre
en la iglesia durante las fiestas, “podr
a haber sustitu
do al “mayo”, aunque la
interpretaci
on piadosa la atribuya a la memoria de uno de los milagros del sana 11 de
to”. Flores y frutos cuelgan de la rueda como atributos de fertilidad56. El d
mayo, cerrando la procesi
on de las doncellas van mulas cargadas con la carne de
los carneros, legumbres, hortalizas, etc., y uno o dos carros con el cargamento de la
le
na que servir
a para cocinar los v
veres del almuerzo del santo. Son actos que
habiendo perdido el sentido originario ritual se han reinterpretado a la luz de la
historia y la leyenda del santo57.
Cayado
Tambi
en Santo Domingo porta un cayado, de madera, en todas sus representaciones. No es el unico santo con b
aculo. En ocasiones hasta son mujeres quienes
lo llevan haciendo ostentaci
on con el de su gran poder religioso y civil sobre una
gran comarca. Ya lo utiliz
o Mois
es para convertirlo en serpiente, s
mbolo del mal,
ante los egipcios, y para separar las aguas del Mar Rojo, y hasta para sacar agua
del pedernal. Lo utiliza San Vitores, obispo del cercano Cerezo de R
o Tir
on (Burgos), para luchar contra los moros y la “Serpiente”. Tambi
en San Mill
an de la
Cogolla cura a la gente con su cayado sac
andolo por ese ventanuco del Monasterio
de Suso (La Rioja) donde estaba emparedado. Y hasta Santo Domingo de Silos,
que vivi
o en estas tierras riojanas de San Mill
an ayuda con su b
aculo a las parturientas a tener buen parto. En todos los casos es como un alargamiento o extensi
on de la mano para sanar, perdonar de los pecados y bendecir, s
mbolo en
cualquier caso de que pose
an la fuerza del Dios Todopoderoso. Tambi
en con
nuestro Santo, quiz
a por ser siempre representado con edad avanzada (el “Santo
abuelito”), fue m
as f
acil para la devoci
on popular la idea de adjuntarle el cayado
como medio para la realizaci
on de tantos milagros que se le atribuyeron en la Edad
Media, como reconocimiento a su autoridad por ser el precisamente el autor de
grandes obras en el Camino de Santiago y el mayor benefactor de los peregrinos
jacobitas.
Maderos
Santo Domingo no s
olo dice a los de Fagal que ten
a muchos testigos de que
unicamente hab
a utilizado la hoz para cortar, tal cual hab
an acordado, “que no
metiesse en sus montes otra segur, ni destral, ni otro instrum
ento de cortar mas de
la hoz que les mostro”, sino que adem
as lo prueba delante de ellos : “llegosse con su
hoz al tronco de un gr
adissimo roble, y assi lo cort
o como si fuer
a una paja”. “Dos
maderas destas qu
e con la hoz corto, se muestran en su Hospital el dia de oy, que
― 36 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
tienen mas de vna bara de gruesso . . . ; un arbol grande y crecido, que al tronco
tiene una hoz” son “sin otr
os” las figuras del escudo de la iglesia y de la ciudad58.
Del m
as famoso de sus milagros, el del “gallo y la gallina” se conserva en la
Catedral el “madero del ahorcado”, quiz
a un trozo de ese le
no de encina que otra
vez es derribado como s
mbolo del mal, del enga
no, para mostrar la verdad y que
el poder divino del Santo continuara despu
es de tantos siglos y para siempre.
Vigas
Una de esas obras que el Santo hizo en favor de los peregrinos tras el hospital
fue la construcci
on de un puente sobre el r
o Oja y una iglesia para acoger a los
peregrinos. Se encontr
o a falta de vigas para continuar la labor de tal iglesia y es
con astucia y con la ayuda de su hoz milagrosa como va cortando los gruesos y
recios arboles de sus vecinos, quienes le permitieron talar con tal hoz s
olo durante
un d
a. El Santo convierte aslas encinas, y el bosque en general, en elemento de
construcci
on al servicio del peregrino. La madera de las encinas se convierten
asen vigas para tal iglesia, edificio que por su importancia para el culto p
ublico
requer
a de la madera m
as dura y resistente a las inclemencias del tiempo y al paso
de los a
nos.
En todas las culturas se ve esta transformaci
on del roble en viga, en algunos
casos vigas que se alargan milagrosamente seg
un sea necesario como expresando
simb
olicamente la recuperaci
on del arbol vivo y asel santuario como elemento
vivo. El milagro lo que manifiesta es la atribuci
on al Santo del poder divino para
hacer algo bueno y util para los necesitados.
Conclusi
on
Santo Domingo con la leyenda de su hoz pone las bases para crear un burgo en
favor de los peregrinos de Santiago que muy pronto fueron desviando el Camino
de Santiago que pasaba por Villalobar de Rioja, aprovechando la calzada romana
un poco m
as al norte, por el “enlace nuevo”, la nueva conexi
on hecha por el en
aquel bosque de Ayuela. Por haber iniciado el Santo ese “desv
o hist
orico” del
Camino Jacobeo, surgi
o en ese nuevo trazado el nucleo fundacional con el top
onimo de su nombre que muy pronto recibi
o el sobrenombre de “de la Calzada” y
habr
a de convertirse en una importante ciudad medieval en el Camino Compostelano.
La leyenda de la hoz, cuyos antecedentes podemos ver en la Biblia y en otros
escritos medievales, es un mito apropiado con que el pueblo trata de realzar y dar
a conocer la figura del Santo que, al igual que el “Hijo del hombre” que con su hoz
siega la tierra (imagen del juicio divino que nos describe San Juan en el
Apocalipsis 14, 14), va desbrozando el bosque, lugar del mal en general, de alima
nas peligrosas y de salteadores malignos, en favor del bienestar del hombre de
fe que peregrina, que va por el campo, hacia la tumba de Santiago, Ap
ostol de
Jesucristo. La hoz es uno de los atributos que el pueblo le aplica al Santo por creer
― 37 ―
es el m
as id
oneo para poder mostrarle como un hombre de fe, y por ser un instrumento muy apropiado con el que se pudiera expresar el poder de Dios que se
manifestaba mediante el para el bien del peregrino. No era necesario crear tal
arquetipo a tan gran personaje, pero ases la devoci
on popular medieval que a
falta de datos hist
oricos coet
aneos o a pesar de ellos y apoy
andose en tradiciones
literarias que corr
an por este Primer Camino de Comunicaci
on Cultural Europeo
que es el Camino de Santiago quiere hacerlo para sentirlo m
as cercano y mejor
darlo a conocer.
Hemos visto muchas similitudes con los relatos de San Mart
n al evangelizar
el centro de Francia, coincidencias especialmente en la forma de relatar. Dif
cil y
ardua labor la de discernir qu
e es verdad hist
orica y a
nadido legendario por el
pueblo en nuestro Santo. Queremos aclarar que esta disecci
on entre mito y realidad hist
orica en nada tendr
a porqu
e empeque
necer la figura del Santo, sino todo
lo contrario, pues podr
an sacarse a la luz facetas del Santo como animador y
colaborador con ese movimiento regio de repoblaci
on y de europeizaci
on que se
ven eclipsadas por los milagros en favor de los peregrinos que se le atribuyen en
su larga vida. Esa disecci
on es un intento en que han gastado su energ
a no pocos
investigadores y que pensamos no habr
a por qu
e hacer. Reconocemos esta leyenda como relato imaginario que nos aclara y adoctrina sobradamente sobre qui
en
era y c
omo actuaba nuestro Santo. Necesitamos expresar lo grandioso e imaginario con motivos y relatos reales para mejor aprehender la verdad que encierran y
que supera en valor incluso a la mera relaci
on hist
orica de sucesos. Aslo hicieron
nuestros antepasados y en este relato podemos apreciar su fe y devoci
on al Santo.
La hagiograf
a y la epica se mezclan en la literatura medieval. En este relato
de la hoz y la encina podemos apreciar la heroicidad y santidad con que nuestros
antecesores medievales ve
an el modelo vivo de Santo Domingo de la Calzada para
ashacerle m
as presente en sus devociones populares. La figura carism
atica de
Santo Domingo como quien es capaz de motivar a tantas personas en el servicio al
peregrino, y por tanto como animador del Camino, ha inspirado una larga tradici
on hagiogr
afica en favor de la devoci
on popular. El m
as cercano ejemplo es San
Juan de Ortega (11801163) que da nombre al cercano pueblo de los Montes de Oca
donde los peligros acechaban tambi
en a los peregrinos de Santiago.
Sobre la leyenda de la hoz y la encina se asienta la historia de una ciudad
hecha en el bosque para el peregrino jacobeo, la unica que ha sabido llevarse el
Camino de Santiago a su t
ermino en la epoca del Medioevo. La estructura de la
ciudad perpendicular al r
o Oja, en su margen derecha, nos prueba la singularidad
de ser la unica ciudad hecha para el Camino. Otras localidades se acomodan al
Camino creciendo en el, est
an “en” o son “por” el Camino como se hacen importantes, mientras que Santo Domingo partiendo de ser un bosque se hace ciudad
“para” el Camino gracias a la iniciativa, caridad y entusiasmo del Santo que con su
hoz comienza la deforestaci
on en “pro”, en favor del peregrino jacobita.
Esperamos que este peque
no estudio sirva de recuerdo y homenaje a Santo
Domingo de la Calzada y que ayude a difundir su vida y sobretodo el altruismo
― 38 ―
HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
que le caracteriz
o hasta su muerte en favor de los pobres y peregrinos del Camino
Compostelano.
1
2
3
4
5
6
Notas
Esta afirmaci
on, ascomo muchas de las notas y comentarios de este documento
fueron expresadas por el que subscribe en el libro segundo del grupo de investigaci
on
“Espada y Amor” sobre Literatura Medieval : The Sword and the Love II−Studies on
Medieval European Literature (t
tulo del original : Tsurugi to Ai to−Chuusei Romania no
Bungaku−II), Tokio, Universidad de Chuo, 2006, pp. 363395. Entonces, en japon
es,
pusimos m
as enfasis en explicar el hecho del “desv
o hist
orico” para mejor enmarcar
hist
oricamente al lector del porqu
e de este cambio. Ahora eludimos tan detallada
explicaci
on para centrarnos m
as en ese primer milagro que refieren al Santo Calceatense. Aunque basado en aquel escrito, consideramos este trabajo como original ya que la
redacci
on es diferente y aportamos nuevos datos y bibliograf
a sobre este relato de la
hoz y la encina que nos pueden esclarecer al tratar de dar una explicaci
on sobre su
sentido.
Fray Mateo de Anguiano, Compendio Historial de la provincial de La Rioja, de sus santos
y milagrosos santuarios. Reproducci
on facs
mil de la de 1704, Logro
no, Comunidad
Auton
oma de La Rioja, 1985, p. 91. La primera edici
on es de 1701, Madrid, Juan Garc
a
Infanz
on.
“de la mesma Rioja” : Compendio historial de Espa
na, 1571, (t. II, libro XI, p. 642).
Juaqu
n de Entreanbasaguas, Santo Domingo de la Calzada, el ingeniero del cielo, Biblioteca Nueva, Madrid, 1948, p. 20. “La Rioja, entre la vieja Basconia y la naciente Castilla,
del poderoso reino de Navarra, regido a la saz
on por aquel gran rey Sancho III, el
Mayor . . . , que m
as adelante hab
a de unir Castillla a Navarra cas
andose con do
na
Elvira, la hija del conde castellano Sancho Garc
a”, pp. 2021.
Joseph Gonz
alez de Texada, Historia de Santo Domingo de la Calzada, Abrah
an de la
Rioja, 1702, Imprenta de la viuda de Melchor Alvarez, Madrid, 1902, p. 44 ; “naci
o en la
Villa de Villor
a, en los fines de Cantabria, que es la Villoria Riojana”, acota siguiendo
el Offic. Sanct. Dom. Calce 3 at. Lecc. 4 (“in finibus Cantabriae”), p. 53.
La Rioja es parte integrante del reino de N
ajera-Pamplona entre los a
nos 923 y 1076 :
Alfredo Gil del R
o, La Rioja en Corte de Reyes. Esplendor y agon
a de un reino, Caja de
ahorros de Zaragoza, Arag
on y Rioja, Zaragoza, 1979, p. 79 ; Ver los dominios de Garc
a
el de N
ajera (1045) en p. 95.
Pedro de Vega (Jer.), (tacha a Gonzalo Oca
na), La vida y passion de nro se
nor jesucristo:
y las historias de las festividades de su santissima madre colas de los santos apostoles/
martires/cofessores/y virgines, Zaragoza Jorge Coci, 1516 (edici
on m
as antigua), p. 14.
En este escrito, conservado en la Biblioteca Nacional de Madrid, no encontramos en la
vida del Santo ninguna referencia a la hoz del Santo, ascomo tampoco en posteriores
ediciones de 1572 (en que no aparece Santo Domingo de la Calzada), 1578, o 1580
(Sevilla), que ya desde 1520 aparecen con el t
tulo de Flos sanctorum . . .
Joseph Gonz
alez de Texada, op. cit., p. 45.
Agust
n Ubieto Arteta, “Apuntes para la biograf
a de Santo Domingo de la Calzada”,
Berceo 82, 1972 (premiado en el XIV Certamen de Exaltaci
on de Valores Riojanos, Logrono, 1968), pp. 2536. El problema ya no es diseccionar y delimitar la realidad hist
orica
en su estricto sentido, esto es, escrita documentalmente, de la leyenda que se ha generado sino concienciarnos que en la misma leyenda es donde podemos descubrir la
verdadera realidad hist
orica. Se ha hecho excesiva distinci
on entre historia y mito,
haciendo creer que este era algo falso, cuando es en verdad la mejor expresi
on de la
realidad hist
orica y la unica que, en este caso, nos sirve para entenderla.
Eduardo Azofra Agust
n, “Desarrollo urbano de Santo Domingo de la Calzada en los
tiempos medievales. Nuevas aportaciones hist
oricas”, en III Semana de Estudios Medievales, Najera 37 agosto, 1992, IER, 1993, p. 27.
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25
Ces
areo Goicoechea, Castillos de La Rioja. Notas descriptivas e hist
oricas, IER, Logro
no,
1949, p. 105.
Agust
n Ubieto Arteta, Cartularios de Santo Domingo de la Calzada, Zaragoza, 1978,
Textos medievales 56, (Siglos XII y XIII, Logro
no, 1976), p. 14, y “Apuntes para la
biograf
a de Santo Domingo de la Calzada”, Berceo 82, Logro
no, 1972, pp. 2526.
P. Mart
n Brugarola, “Las tradiciones populares de Santo Domingo de la Calzada”,
RDTP, t. VI, cuaderno 4, p. 641.
Justo P
erez de Urbel, A
no Cristiano II, Madrid, Fax, 3edi., 1945, p. 348.
Ciriaco L
opez de Silanes y Eliseo Sainz Ripa, Colecci
on Diplom
atica Calceatense. Archivo Catedral (11251397), IER, Logro
no, 1985, p. 7.
Ib., doc. n.8, p. 27 ss.
Francisco Javier Goicolea Juli
an, “Sociedad y relaciones de poder en una ciudad riojana
a fines del Medioevo : Santo Domingo de la Calzada”, en Espacio, Tiempo y Forma, Serie
III (Historia Medieval), n.12, Madrid, 1999, p. 245. Santo Domingo trat
o de extender su
ambito territorial mediante la compra de t
erminos y aldeas que estaban bajo poder
se
norial, pues se quejaban los miembros de su concejo que ten
an pocos t
erminos.
Asdefienden haber comprado a Sancha Ruiz de Rojas la aldea de Villalobar, con el
privilegio de confirmaci
on del monarca Juan I (6 de diciembre de 1380), pp. 247248.
Eduardo Azofra Agust
n, Santo Domingo de la Calzada (La Rioja), Edilesa, Le
on, 1999,
pp. 57 ; Plano en 1300 y en el siglo XV en p. 10.
Oscar Javier Mendoza Garc
a, “De la vieja v
a al ‘enlace nuevo’ trazado por Santo Domingo de la Calzada en el Camino Jacobeo y morfolog
a del asentamiento a que da
origen”, Journal of The Institute of Cultural Science, Chuo University, n.53, 2005, pp. 227
250.
Santo Domingo de la Calzada (Plano tur
stico), editado por Corregimiento de Rioja,
Logro
no, 1993. Tambi
en aparece en la parte superior del gran Retablo Mayor, obra de
Dami
an Forment, siglo XVI.
Joseph Gonz
alez de Texada, op. cit., p. 107 (Milagro 1).
Fray Mateo de Anguiano, op. cit., p. 99 : “que era vn bosque muy dilatado, e impenetrable de ayas”.
Joseph Gonz
alez de Texada, op. cit., p. 130 (Milagro 7, segundo 7) : “mostroles una hoz
d
ebil de segar espigas” y poniendo en Dios toda su esperanza les pide “que a lo menos
le diessen lo que pudiesse cortar con aquella hoz”. Domingo “empu
n
o la hoz puesto de
rodillas, pidi
o
a Dios le favorecisse . . . aplic
o el debil instrumento para segar los troncos
robustos, que heridos de sus azerados dientes menudos, ca
an en tierra, como si espigas
debiles de secas ca
nas fueran ; desuerte, que en breve tiempo, tenia ya cortados quantos
arboles eran para su obra necessarios”. La obra era el “Hospital para los Pobres”.
Ib., p. 131 (Milagro 8) : “corri
o la hoz con violencia por el robusto endurecido trono,
burlador de siglos, y como si fuera una debil arista, le cort
o tan apriessa, que apenas
huvo distancia entre la promessa y la execuci
on, entre el primer corte de la hoz, y la
caida total de la encina”.
Ib., p. 107.
Ib., p. 154 : considerados como “defensa de los Catholicos, contra la insolencia Sarracena, guardando los caminos, para que los Peregrinos, que iban a Santiago, y los dem
as
passageros, hiziesen con seguridad sus viages, sin que los acometiessen, robasen, y
matassen los Moros, como lo intentavan”.
Alfredo Gil del R
o, Historia y antiguas leyendas de La Rioja, citado del mismo autor de
El Camino Franc
es a Compostela. Evocaciones y Leyendas siguiendo las estrellas, (Nueva
versi
on de La Ruta Jacobea siguiendo las Estrellas), Egartorre, Madrid, 1999, p. 237.
Tom
as Ram
rez Pascual, “Milagros de peregrinos a Santiago”, Berceo 146, 2004, p. 114.
Luis D
az G. Viana, “Cifrando y descifrando el mundo : la Etnoliteratura, una Antropolog
a desde lo literario”, RDTP t. LX, cuaderno 1, Madrid, 2005, pp. 910. Cita a
Ortiz Garc
a, Carmen para quien se trata “de dotar de una imagen vital las formas de
vida de nuestros antepasados”, en “De los cr
aneos a las piedras. Arqueolog
a y antropo-
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HOZ Y ENCINA DE SANTO DOMINGO DE LA CALZADA
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43
log
a en Espa
na, 18741977”, Complutum 8, pp. 273292, esto en p. 289. Cita tambi
en en
p. 14 a Julio Caro Baroja, para quien “en antropolog
a decodificamos lo codificado”,
Cuadernos de campo, Madrid, Turner-Ministerio de Cultura, 1979. “El antrop
ologo es
asinventor de la realidad”, p. 15.
Mircea Eliade, “La vegetaci
on. S
mbolos y ritos de renovaci
on” en Tratado de historia
de las religiones, cap. VIII, t. II, pp. 39108.
Casiano Florist
an, Las Navidades−S
mbolos y Tradiciones−, Madrid, PPC, 2001, p. 46.
En el mundo cristiano fue sustituido el roble por el abeto y, m
as tarde, por el pino como
s
mbolo para ahuyentar a los malos esp
ritus, recuerdo del rito precristiano de encender luces y enramar las puertas y ventanas. Los protestantes lo implantaron como
s
mbolo de la vida que renace y hoy nos es familiar en ambitos cristianos como no
cristianos como “
arbol de Navidad”.
Gonzalo de Berceo, Obra Completa, en “Vida de San Mill
an de la Cogolla”, pp. 117250,
Madrid, Espasa-Calpe, 1992, cuarteta 27 : “un fiero matarral, serpientes e culuebras”,
“un bravo logarejo”, lugar aspero por contraposici
on a lugar habitado, p. 133 (“poblado” de la cuarteta 114, p. 155, es contrario a yermo) ; cuarteta 30 : “bestias fieras”, que
a
un hay hoy, p. 135 ; cuarteta 42 : “logar pavoroso, era por muchas guisas bravo e perigloso”, p. 137 ; las notas las explica Brian Dutton, que comenta la vida de San Mill
an de
la Cogolla en esta edici
on.
The Sword and the Love II −Studies on Medieval European Literature, op. cit., pp. 373374.
Amplia bibliograf
a en Ito Susumu, Mori to Akuma (El bosque y el diablo), Iwanami
Shoten, Tokio, 2002, pp. 1553.
Luis Vicente El
as, “El medio f
sico en la tradici
on religiosa de la Rioja”, en Apuntes de
Etnograf
a Riojana 2, Madrid, 1983, Uni
on Editorial, pp. 127128.
Jos
e Antonio Quijera P
erez, “El tema m
tico de las apariciones de im
agenes en La
Rioja”, en Revista de Folklore (Director : Joaqu
n D
az), Obra Cultural Caja de Ahorros
Popular de Valladolid, Valladolid, 1987, t. 7, pp. 7984,
James George Frazer, La rama dorada, Fondo de cultura econ
omica, M
exico, Madrid,
Buenos Aires, 1984, traducci
on de la edici
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es abreviada por el autor, The
Golden Bough, 1922, pp. 196199.
Joseph Gonz
alez de Texada, op. cit., p. 87.
La Virgen de la Estrella (“de la Encina” en el pasado) sana de muchas enfermedades a
quien com
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la Rioja, de sus santos, y milagrosos santuarios, Madrid, 1704, pp. 564565.
P. Madoz, Diccionario geogr
afico-estad
stico-hist
orico de Espa
na y sus posesiones de Ultramar, Madrid, Imprenta Pascual Madoz y L. Sagasti, t. V, 1846, Madrid, p. 307.
Ver Jos
e del Salvador, Compendio de la vida y milagros de Santo Domingo de la Calzada
con su novena, Imprenta de Benito Cosculluela, Pamplona, corregida y aumentada por
Hilario del Rio, 2edi., Compa
n
a General de Impresores y Libreros, Madrid, 1843, VII ;
y por Jos
e del Salvador (en Valvanera). Sobre la eficacia de la hoz del santo para
detener (cortar) las crecidas del r
o Oja, bruscas y habituales, ver Oscar Calavia, op. cit.,
p. 86.
Les Romans de Chretien de Troyes IV, Ed. Mario Roques, Le Chevalier au lion, Par
s,
1957.
Jacques le Goff, Lo maravilloso y lo cotidiano en el Occidente Medieval, Gedisa, Barcelona,
1985, pp. 8285. Otros muchos ejemplos se pueden ver en su obra.
Carlos Alvar, Breve diccionario art
urico, Madrid, Alianza Editorial, 1997, pp. 3233.
Jacques le Goff, op. cit., pp. 2531.
Ib., p. 32, cita a Les caract
eres originaux de l’Histoire rurale fran
aise, Par
s, 1931 (nueva
en 1951).
Juan G. Atienza, Leyendas del Camino de Santiago. La ruta Jacobea a trav
es de sus ritos,
mitos y leyendas, Madrid, Edaf, 1999, 6edi., p. 206.
Ib., p. 123.
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58
Jacques le Goff, op. cit., pp. 112115, cita a G. Duby.
Jacques le Goff, Tiempo, trabajo y cultura en el Occidente medieval, Taurus, Madrid, 1983,
pp. 294295. “Los claros se abren bajo sus pasos, los bosques se trasforman en campos” y as
, “tanto y m
as que roturadora, Melusina se ha convertido en constructora”, p.
306.
Oscar Calavia S
aez, Las formas locales de la vida religiosa. Antropolog
a e historia de los
santuarios de La Rioja, CSIC, Madrid, 2002, p. 86.
Sulpice S
ev
ere, Vie de Saint Martin, Les Editions du Cerf., Par
s, 1969, t. I, pp. 281283.
Podemos ver este famoso episodio de la vida de San Mart
n en el cuadro del Museo
Nacional de Catalu
na, en Barcelona.
Ib., t. II, p. 799. San Mart
n responde a las agresiones de los paganos con la “no-violencia” evang
elica (p. 806).
Ib., pp. 738740. La importancia c
eltica de los arboles es com
un a la Galia, a Irlanda y
a la Espa
na del norte (p. 741).
Antonio Regalado, “Santos, h
eroes y peregrinos : Literatura y tradici
on oral en los or
genes del Camino de Santiago”, en Javier Garc
a Turza (Coordinador), El Camino de
Santiago y la Sociedad Medieval, cita en p. 112 el Poema de Fern
an Gonz
alez, ed. de Juan
Victorio, Madrid, 1981, pp. 151167, tiradas 582690.
Ib., p. 116.
Joaqu
n de Entreanbasaguas, op. cit., pp. 6364.
Ib., p. 65.
Rosa Mar
a Valdivieso Ovejero, Religiosidad antigua y folklore religioso en las sierras
riojanas y sus aleda
nos, IER, Logro
no, 1991, pp. 7071.
Agust
n Prior Untoria, “Notas para la Historia de la Catedral de Santo Domingo”,
Berceo 6, Logro
no, 1948, p. 110.
Rosa Mar
a Valdivieso Ovejero, op. cit., p. 64.
Ib., pp. 7172.
Fray Luys de la Vega (Jer.), Historia de la vida y milagros de Santo Domingo de la
Calcada. Dirigida a don Pedro Manso Obispo de Calahorra y la Calcada, Del Consejo de
su Magestad, (Microforma), Madrid, Biblioteca Nacional, 1991, reproducci
on de la edici
on de Burgos, Juan Baptista Varesio, 1606, pp. 5859. En portada se puede apreciar
bien que la hoz es una hoz mellada, con dientes como los de una sierra. Desgraciadamente esas dos maderas ya no existen.
― 42 ―
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 4356
October 2007
アニータ・ブルックナー
天使の湾
における太陽の隠喩
旧約聖書
を手がかりとして
北
村
有紀子
Metaphor of the Sun in Anita Brookner’s
The Bay of Angels :
Searching for Clues to The Old Testament
Yukiko KITAMURA
Summary》
This study aims to examine the influence of The Old Testament on Anita
Brookner’s twentieth novel, The Bay of Angels. Both as a protagonist and narrator,
Zo
e Cunningham believes in the aphorism of J. M. W. Turner, ‘the sun is God’, which
could be considered as a reflection of the Hebrew vision in The Old Testament. Moreover, Zo
e’s narrative is closely related to Ecclesiastes from the viewpoints of rhetoric,
subject and style. Although Zo
e is not religious and her Jewishness is never clearly
described, it should be evident that Brookner suggests the importance of the Jewish
legacy, not only in the Jewish tradition but also in various cultures and circumstances.
キーワード:アニータ・ブルックナー, 現代英国小説, 旧約聖書, 太陽, 隠喩
Ⅰ
アニータ・ブルックナー (Anita Brookner, 1928) の第 20 作 天使の湾 (The Bay
of Angels, 2001) では, 第 6 作
ふつりあいな同盟
(A Misalliance, 1986) において
と同様に, 「太陽は神である」 (the sun is God) という文言が, いわば通奏低音として
使われている(1)。 ジョン・ラスキン (John Ruskin, 18191900) により, 画家 J. M. W.
ターナー (Joseph Mallord William Turner, 17751851) が死ぬ数週間前に述べた,
と伝えられる一節である(2)。 この一節を考慮すれば,
天使の湾
の主な舞台である南
仏ニースで太陽が輝いているということは, 神性の臨在を意味することが分かる。 語り
― 43 ―
手の 「私」 ことゾーイ・カニンガム (Zo
e Cunningham) が孤児になるという悲劇的
な物語であるにもかかわらず, 一種のハッピー・エンドと言っても過言ではない前向き
な結末を迎えることができるのは, ひとえに太陽が, すなわち神の代替がニースに存在
するからに違いない。
では, どのような神が想定されているかと言えば, それは
旧約聖書
に登場するユ
ダヤの神だと考えられる(3)。 アニータ・ブルックナーは英国で生まれ育ったものの, 両
親はポーランド系ユダヤ人である。 ブルックナー自身はヘブライ語を習得することもな
く, 「私は棄教したユダヤ人です」 (I am a lapsed Jew)(4)とユダヤ教徒でないことを明
らかにしているが, ユダヤの文化的背景を完全に捨てたわけではない。 非ユダヤ的ユダ
ヤ人であるブルックナーは, 英国の亡命ユダヤ人を中心人物とする小説を折りに触れて
発表し, その過去と運命を描いている(5)。 また, ブルックナーは初期作品から一貫して
太陽や太陽光線に象徴的な意味をこめているが, その手法を支えているのは, 光と熱の
源泉として太陽を崇め, 太陽を神の隠喩とする 旧約聖書 の伝統である可能性が高い。
太陽に神性を見出すという発想自体は, 言うまでもなく人類史上, 様々な宗教や風習に
根付いており, ラスキンの場合は 「太陽は神である」 というターナーの一節においてギ
リシアの太陽神アポロンを想定していた(6)。 それがブルックナーの場合, 自身のルーツ
に引き寄せて, ユダヤ的な神を念頭に置いているということは充分ありうるだろう。 そ
もそも聖書時代のヘブライ人は美の理想を光り輝くものに求めていたため,
旧約聖書
(7)
では太陽や光とともに神が表現される 。 例えば, 神は 「光を衣として身を被っておら
れる」 (詩編 104・1) のであり, 「主は太陽, 盾。 神は恵み, 栄光」 (詩編 84・12) とも
述べられている。 複雑なユダヤ意識を持つブルックナーが,
天使の湾
では画家の言
葉を介して太陽に神のイメージを重ね, 密かにユダヤ性を表出しているとしても, 何ら
不思議ではない。
特に
るため,
天使の湾
旧約聖書
では, ゾーイが太陽をたえず意識し, 「コヘレトの言葉」 を賞賛す
やユダヤ的世界観との結びつきが深いのではないだろうか。 「コヘ
レトの言葉」 はヤハウェ信仰と異なる知恵文学であり, 歴史的主題を扱わないなどの特
徴ゆえに, しばしばその特異性を指摘されるが(8), ユダヤ教世界でもキリスト教世界で
もアウトサイダーであるブルックナーにとっては 「コヘレトの言葉」 が特異だからこそ
共鳴しやすい, という背景がある。 ブルックナーはユダヤ教やユダヤの民の歴史を称え
ることがないものの,
天使の湾
では 「コヘレトの言葉」 を極めて好意的に扱ってお
り, その傾倒ぶりは注目に値する。 独自の仕方でユダヤの伝統を脈々と受け継いでいる
ことを確信させるのである。
天使の湾
が知恵文学の様式で書かれ, 人間の死すべき
運命を中心的主題にするといった特徴を持つことも視野に入れると, ある意味でこの作
品は 「コヘレトの言葉」 の小説化ではないかとすら考えられる。
― 44 ―
アニータ・ブルックナー
英語圏では
天使の湾
の小説における太陽や
天使の湾
における太陽の隠喩
に関する論考や書評が合計 22 点以上発表されているが, こ
旧約聖書
の役割を論じた批評はまだない。 ブルックナーがユ
ダヤの遺産を継承する作家であることについては, 慧眼にもアランザズ・ウサンディザ
ガがこう述べている。 「ブルックナーは, ユダヤの伝統のみならずあらゆる文化や状況
において, 苦難や死といった人生の主要な側面を受け入れるために人間が必要とするこ
とを表現する上で, ユダヤの遺産の予言的かつ普遍的な価値を証明することにより, 自
分が受け継いだユダヤの遺産の重要性を示している」 (下線は引用者。 以下同様)(9)。 こ
のような見解を実証する試みとして, 本稿ではまず
天使の湾
における太陽や太陽光
線に関する記述に注目し, ブルックナーがターナーの文言などを通して, いかに神を表
現しているかを検討する。 その上で
約聖書
天使の湾
と 「コヘレトの言葉」, ひいては
旧
との関連性を考察し, ブルックナーがどのようにユダヤの遺産を活用している
かを探求したい。
Ⅱ
天使の湾
は, 語り手のゾーイが過去を振り返るかたちで進む。 1950 年代に生まれ
たゾーイは, 語りの現在において 「中年に近づきつつある女性」 となっている。 「太陽
は神である」 という一節が引用されるのは合計 3 回であり,
ふつりあいな同盟
で5
回引用されるのに比べれば少ない。 けれども, 物語の始めと終わりで効果的に活用され
ており,
天使の湾
の随所にある太陽や光への言及がターナーの言葉の響きを増幅さ
せるため, ゾーイが終始 「太陽=神」 を意識しているかのような印象を与える。
ターナーの一節が最初に引用されるのは, ロンドンで生まれ育ったゾーイが初めてニー
スで過ごした夏について回想する場面である。 ゾーイの父はゾーイが幼い頃に死んでお
り, ゾーイは母と二人で慎ましく暮らしていた。 ところが, 母が温厚で裕福なユダヤ人
のサイモン・グールド (Simon Gould) と再婚し, ニース郊外の白い邸宅 「レ・ミュ
エット (かもめ荘)」 に住むようになったので, ゾーイは大学に入る前の夏の休暇を彼
の地で過ごしたのだった。 ゾーイは 「私の人生で最も幸福なとき」 について, こう述べ
る。
(…) 私がニースですっかりくつろぐことはなかったものの, 強烈な光は心地よかっ
た。 それは, 私がそれまで陰鬱で暗い環境にいた後では思いがけないことだった。
太陽は神である, とあの画家は言った。 私は, 午後の日ざしが容赦なく照りつける
なかを歩きまわりながら, それが真実だと納得した。 たっぷり休憩しなさい, とい
う助言を私は軽蔑していた。 サイモンと私の母が自分たちの部屋へ引き上げると,
― 45 ―
私はそっと家を出て, 雲一つない燦然とした輝きのなかへ飛びこみ, バスに乗って
ニースへ行き, 少しの間, マセナ美術館の庭の日陰と静けさをうれしく思い, そこ
で本を読みながら座っていた。 すると私の特別な友人である 3 歳のオノレが, 遊び
に行く前に私にあいさつするのだった(10)。
このようにゾーイは, 熱気溢れるニースで 「太陽は神である」 という言葉が 「真実だ
と納得した」 のである。 幸福感に満ちたこの夏は原体験となり, ゾーイが何度もニース
へ行く一因となる。 ゾーイは, 自分がニースの若者たちに受け入れられ, 「従順な女子
生徒」 から 「恋と友情が共通の通貨」 である若者へ変貌をとげたことについても, 「光
の力によって, かつての私自身から生まれ変わったのだ」 と解釈する。 引用部分のよう
に
天使の湾
ではターナーの名前は言及されないままだが,
ふつりあいな同盟
で
は明記されているように, 「あの画家」 とはターナーを指す, と考えるのが妥当だろう。
重要なのは,
天使の湾
では画家の固有名詞が言及されないがゆえに, 「太陽は神であ
る」 という一節が謎めいて印象的になると同時に, この言葉そのものの存在感が高まる
ような効果があることだ。
こうして太陽が神の隠喩であることは, 物語が始まってまもなく明示されるので, 太
陽にまつわる記述は, 後の場面の展開を読者が予期する指針となりうる。 例えば, ニー
スでの夏の場面に続いて語られるロンドンでの冬の場面では, 一転して暗く, 日光がさ
していない。 太陽が, 神が不在なのである。 「2 月のある暗い日曜日の朝」, 「このひど
い日曜日の朝の陰鬱さのなかで」 と暗澹たる雰囲気が繰り返し強調され, 「意気消沈す
るくらい暗く, 静かで, 絶望的でさえあった」 と述べられる。 ゾーイの心理も暗い空模
様に同調している。 ゾーイは長年, 住み慣れたイーディス・グローヴのフラットから,
サイモンが用意してくれたフラットへ引っ越さなければならず, 憂鬱なのである。 そし
て読者の予想を裏切らず, 太陽の不在は, ゾーイのさらなる不運の予兆にもなっている。
「低くたれこめた空から激しいにわか雨が降ってくる」 なか, ゾーイは恋人アダムの家
へ行き, 彼の浮気相手と遭遇してしまうのである。 ゾーイは 「太陽よ, 太陽よ!」 と嘆
き, 「ロンドンの永続的な薄暗がりのなかでは, この事件は格好がつかず, 下手に片付
けられ, 優美でないように見えた」 と回想する。 このように太陽と神の恵みがなければ,
ゾーイは不幸で惨めな境遇に陥ってしまう。 太陽や光の描写は, 小説中の現実における
物理的な状況を説明するばかりでなく, 作中人物の内面心理をも映し出すのである。
ただし太陽が出ているからと言って, 必ずしもゾーイの心理が明るいわけではない。
ゾーイが大学を卒業した後, 早春にサイモンが浴室で転倒し頭を強打して死ぬと, ゾー
イの母は心身ともに衰弱し, 9 月にはニースの病院で死んでしまう。 母が死を迎えるの
は 「窓の向こうの空がかなり暗く」 なってからであるものの, 夜が明ければ 「部屋は再
― 46 ―
アニータ・ブルックナー
天使の湾
における太陽の隠喩
び光で満たされた」。 ゾーイが母の遺品を受け取った後でさえ, 窓の外では 「太陽が輝
いていた」。 時として太陽ないし神は, 冷酷無比の存在なのである。 ゾーイは 「まるで
重要なことは何も起きなかったかのようであり, 出たり入ったりすることは通常の流れ
の一部であるかのようであり, そして弔うことは自然の真の浪費にふさわしくない浪費
行為であるかのようだ」 と考える。 それでもゾーイは, 再びターナーの一節を思い出し,
太陽を切望する。
太陽が姿を消すといつもそうだったように, 私は悲しくなった。 太陽は神である,
というあの画家の宣言は, まだ有効だった。 創造性が求められているようだった。
けれども私に提供できるものは何もなかった。 私には, 未来がありうるという感じ
がまったくせず, 数え切れないほどの目前の任務をこなさなければという感じしか
しなかった。 いまや私は管理人の仕事をしなければならなかった。 手配したり, 人
に助言したり, 親切に尋ねてくれる人には説明したりせねばならなかった。 私の母
が生きていたときと違って, 人生はとても複雑だった(11)。
ニースでの最初の夏から数年経ったこの時点で, ゾーイの環境は変化しており, 母を
失った痛手は大きいが, 「太陽は神である」 という言葉は 「まだ有効」 なのである。
語りの現在においても, ゾーイの太陽崇拝はゆるぎない。 ロンドンで編集の仕事をし
ているゾーイは, 「冬が春へと変わる前の寒い晩に, 私は窓の外を眺めていて, 突然,
孤独を感じる」 のであり, 「これは太陽が出ていないせいだ, ニースに戻ればこの孤独
は消える」 と自分に言い聞かす。 ゾーイにとっては, 太陽の光り輝くニースへ戻ること
が 「真の帰郷」 を意味するようになる。 そして, いみじくもジャイルズ・ウォーターフィー
ルドが
天使の湾
に関する書評で述べているように, 「ニースは
用心深く曖昧な
ホ ー ム
仕方でではあるが
家庭のようなものに見えるようになる」(12)。 ゾーイは, 母の主治
医だったアントワーヌ・バルビ (Antoine Balbi) と交際しており, ニースであれば彼
の姉ジャンヌ (Jeanne) もまじえて, 「家族や歴史というものの幻影」 を抱くことがで
きるのである。 物語の最後に, 海岸線の美しいニースの 「天使の湾」 で日光を浴びると
きの喜びについて, ゾーイは次のように語る。
私はこの喜びが, 人生の短さを思い出させる何か超人的なもののおかげだ, など
と考える間違いをしない。 私はもう一度, 自然の力を意識している。 そして私は,
そのような瞬間に, 自然が完全であることや自然の有望さが完全であることを, 身
をもって知る。 人生は私をこうした受け入れ状態に導いたのであり, 結局, 私はそ
うした受け入れこそすべてだと理解している。 私はこの土地のすばらしさに参って
― 47 ―
おり, 本当の至福を知っている。 太陽は神である。 他のことについては知らない方
が, もしくはまだ知らない方が賢明だろう(13)。
このようにゾーイは, 「太陽は神である」 というターナーの言葉を自分の言葉である
かのように, 究極の真理として引き合いに出す。 「人生の短さを思い出させる何か超人
的なもの」 (any superhuman reminder of the brevity of life) とは, おそらく神を
指すと解釈できる。 いよいよゾーイが, 神に依存するつもりはないこと, そして自分に
とっては太陽が, ひいては自然が神の代替であることを表明しているのだ。
ちなみに作中では, 特定の宗教が絶対的な信仰の対象として描かれているわけではな
い。 作中の諸宗教にまつわる細部を見ておくと, 英国教会に関して, ゾーイは教会の外
観の醜さと牧師の不親切さを怪訝に思い, 自分と母が 「他の人々には一目で分かる, ひ
ねくれた性格のせいで, あの教会の特定のメッセージを受け取ることを阻害されている」
と考える。 ゾーイの母は, もともと宗教的ではなかったが, サイモンの死後はニースで
カトリックに帰依し, 助修女の運営する聖テレーズ療養所へ入り, 聖リタ教会へ通って,
最終的には同教会で葬式をしてもらう。 またサイモンは, ユダヤ人であるとは言え世俗
主義的であり, ユダヤ教徒には厳禁の火葬にされる。 したがって, 全体的に宗教性が濃
厚では決してなく, 宗教に対して懐疑的な雰囲気さえ醸し出されている。 ただ, 特にニー
スの場面では太陽が圧倒的な存在感を示しており, 「あの画家」 (=ターナー) という,
美術の領域に属す人物の言葉を通して, ゾーイが太陽に神性を見出すことが表現される。
美術史家でもあるブルックナーが
ふつりあいな同盟
や第 21 作
次なる大問題
(The Next Big Thing, 2002) においてと同様に, 宗教的な事柄を非宗教的に表現する
ための手段として, 美術の要素を導入しているのである(14)。
Ⅲ
ここで, ゾーイの宗教観を検討しておきたい。 ゾーイは多神教の 「神々」 (Gods) を
引き合いに出し, 「サイモンは本当に文字通り, 神々からの授かりものだった」, 「神々
でさえかなり限定された力で間に合わさなければならない」 などと述べることもあるが,
太陽に関する記述に比べれば, 実に散発的である。 ゾーイがそうした神々を信奉してい
るとは到底言い難い。 太陽を唯一絶対の存在として神と同一視する傾向から判断すると,
ゾーイの意識の根底にはむしろ 旧約聖書 の神が想定されているように見受けられる。
ゾーイがユダヤ教に帰依しているわけではなく, 異教的な神々に対して寛容だというこ
と, それでいて基本的には
旧約聖書
の文化伝統を受け継ぎ, 神についての見方や表
現方法を実践しているということは, 矛盾しないだろう。
― 48 ―
アニータ・ブルックナー
天使の湾
における太陽の隠喩
そうしたゾーイの宗教観は, 単数形の 「神」 (God) への言及の仕方に表れている。
「太陽は神である」 という一節以外に, ゾーイが 「神」 に言及する部分は作中で二箇所
だけだが, その一つでゾーイは母の再婚についてこう回想する。
私の母は, チェルシーの登記所で完全に世俗的な式をして結婚した。 これは私に
は, 完璧にふさわしく見えた。 というのもこの結婚は, それが実現したほとんど奇
跡的な仕方にもかかわらず, 神に祝福された結婚のようには見えなかったからだ(15)。
このように母の再婚が 「神に祝福された結婚のようには見えなかった」 とは, 母もサ
イモンも世俗的だったこと, そしてユダヤ教の視点から見ればユダヤ人のサイモンにとっ
て異教徒の女性との結婚は許されないことを踏まえているのだろう。 ゾーイ自身が世俗
的であるにせよ, 何らかのかたちで唯一の 「神」 を思い描いていることは確かである。
もう一箇所, 「神」 が引き合いに出される場面では, ゾーイが母の死後, あたかも 「神」
への信仰を否定するかのように見える。 しかし, だからと言ってゾーイが無神論者であ
るというわけではなさそうだ。
母のかつての仲間たちが一人か二人は祈りを捧げてくれるだろうということを私
は確信しており, そのことが他の何にもまして私を慰めた。 それ以外のことは, 私
がまったく信じていない神次第だったが, 彼女たちなら, より上手に暮らしたかも
しれない(16)。
ここでゾーイが 「まったく信じていない神」 とは, 聖テレーズ療養所におけるゾーイ
の母の仲間たちにとっての神, つまりカトリックの神を指すと考えられるのである。 ゾー
イがユダヤ系であることを明示する箇所はないものの, ユダヤ教の伝統に添う太陽観を
示す以上, カトリックの信仰を持たないことも納得がいく。 そもそもゾーイの全体的な
傾向として, 神に直接言及しないということ自体が, ある意味では極めてユダヤ的かも
しれない。 モーセの十戒には, 神の名を徒に唱えてはならないとある。 太陽や光によっ
て神を暗示するというゾーイの手法は,
以上のように
天使の湾
旧約聖書
に通底しているのである。
では, 神の表現の仕方が
いとは否定できないほか, すでに触れた通り, ゾーイが
旧約聖書
旧約聖書
の流れを汲んでいな
の 「コヘレトの言
葉」 を褒め称えている。 ゾーイは幼い頃, 学校の礼拝堂で牧師がその一節を引用して
「恐ろしい説教」 をするのを聞いて以来, 「 コヘレトの言葉
が聖書のなかで最も説得
力のある書だ」 と高く評価しているのである。 死に関するその説教について, ゾーイは
こう回想する。
― 49 ―
牧師が礼拝堂で 400 人の幼い女の子たちに向かって, 青春の日々にこそ創造主に
心を留めなさいと命じ, それから結局は消滅してしまうであろうあらゆる組織につ
いて詳しく話したことがあった。 窓, と牧師は自分の目を指しながら言い, 粉をひ
く女
ここで彼は歯ぎしりし
家を守る男と言い, ここで彼は自分の肺を私た
ちに示すかのように胸に手を押しつけた。 彼は, 生徒たちの忍び笑いを無視して,
いなごは重荷を負い, 欲望は挫けるだろう, と私たちに伝えた。 礼拝堂の後方の落
ち着きのなさは, こうしたことがまったくありがたく思われていないか理解されて
いないという, 彼への控えめな合図だったが, 彼は話し終えていなかった。 もし黄
金の鉢が砕けるなら, と彼は骨ばった指で額を軽くたたきながら言った。 あるいは
もし白銀の糸が断たれるなら
たりを両手で押さえつけた
ここで彼は自分を窒息させるかのように気管のあ
こうした問題について私たちはじっくり考えた方が
いいでしょう。 この時点で私は, 言葉がとても美しいことに気づいていたので注意
を払い, あまりうろたえはしなかった。 もしこれが皆に起こるのなら, きっと皆,
その衰弱に, あるいはむしろ崩壊にどう対応すべきか知っているのだろう。 そうい
うことについて, その牧師はとても詳しいように見えた。 実は彼は病気だったので
は, と私は思う。 確かに彼は, 怒れる人だった。 その特別な警告の後, まもなく彼
は姿を消し, 代わりに神経質な若者が来て, キリストがこのうえなく慈悲深いこと
や, 終わりは始まりにすぎないことを私たちに話した。 しかし, 私は肉体の消滅と
いうあの説明により惹きつけられていた(17)。
ゾーイはこのように語った後, 「私を, 私たち全員を待ち受ける忘却をあきらめて受
け入れることができた」 と悟りの境地に達したことを明かす。 ゾーイの心のなかで 「コ
ヘレトの言葉」 が大きな支えとなったことが推察される。 先の引用部分において, ブルッ
クナーは特に 「コヘレトの言葉」 を締めくくる終末論的認識を参照している。 下線部が
「コヘレトの言葉」 からの引用である。 まず, 牧師は 「青春の日々にこそ創造主に心を
留めなさい」 と命じる。 「幼い女の子たち」 に伝えるには早すぎる内容かもしれないが,
「コヘレトの言葉」 でも死や宇宙の終末に関心を持たない若者たちに向かってコヘレト
が説く一節であるため, 無知な年少者に語りかけるという設定は共通している。 その後
は, 死に関する一連の謎めいた比喩表現が引き合いに出されている。 「窓」 は目, 「粉を
ひく女」 は歯, 「家を守る男」 は胸や腕の隠喩なのである(18)。 これらから成る 「知恵の
家」 は, コヘレトによれば 「太陽が闇に変わる」 と崩壊する。 すなわち時間の経過とと
もに, 人の肉体は老いる。 「いなごは重荷を負い」 とは, 自然の衰弱現象を意味する。
そして 「黄金の鉢が砕ける」, 「白銀の糸が絶たれる」 とは, 生命の象徴が絶たれること
を指し, 古代の弔いの要素を反映しているようだ。 いずれの言葉も個人の死の現実を豊
― 50 ―
アニータ・ブルックナー
天使の湾
における太陽の隠喩
かな比喩で表現し, 人生の有限性を伝えているのである。 ディケンズを愛読する文学少
女のゾーイが, 牧師の説教を聴いて 「言葉がとても美しい」 と気づいたのは, 当然の流
れだろう。 この回想場面から, ゾーイにとって 「コヘレトの言葉」 が文学的な源として
一つの重要な位置を占めるようになったことが窺える。 引用部分の最後で仄めかされる
ように, キリストの慈悲や復活について, つまり
新約聖書
の世界についてのゾーイ
の関心は薄い。 むしろ 旧約聖書 の世界にゾーイは深い関心と理解を寄せるのである。
Ⅳ
こうしてゾーイが価値を認める 「コヘレトの言葉」 であるが, ゾーイが
天使の湾
の物語を語るにあたり深甚な影響を与えているのではないかと考えられる。 「コヘレト
の言葉」(19)と
天使の湾
を比較し, レトリック, 様式, そして主題の観点からできる
だけ具体的に分析したい。 まず, レトリックに関してゾーイが影響を受けた可能性があ
るのは, 太陽の描写の仕方である。 「コヘレトの言葉」 は
旧約聖書
のなかで最も短
い文書の一つだが, 太陽への言及は非常に多い。 とりわけ 「太陽の下」 (under the
sun) という句は 30 回も反復され, 「神の支配の下」 と同義で使われている(20)。 例えば
コヘレトは, 人生の空しさをこう嘆く。
太陽の下, 人は労苦するが, すべての労苦も何になろう。 (1・3)
太陽の下, 新しいものは何ひとつない。 (1・9)
太陽の下に起こることは, 何もかもわたしを苦しめる。 (2・17)
このような記述から, 太陽は必ずしも救済してくれず, 冷酷でさえあることが浮かび
上がる。 しかし, コヘレトによれば 「光は快く, 太陽を見るのは楽しい」。 「青春の日々」
は太陽に, 「苦しみの日々」 は闇に喩えられる。 人が肉体的に衰弱すれば 「雨の後にま
た雲が戻って」 来て, 太陽は二度と出ない。
旧約聖書
の各文書にたがわず, 「コヘレ
トの言葉」 では, 太陽が神の姿を示す天体として巧みに活用されており, D. B. ミラー
が指摘するように, 太陽の不在は死や非実在と結びつけられているのである(21)。
の湾
天使
の場合, 「太陽の下」 (under the sun) という句は使われておらず, 「日なたで」
(in the sun), 「日のあたるところへ」 (into the sun), 「日光にあたって」 (in the sunshine) など, 多様な表現が用いられているという違いはあるが, すでに検討した通り,
太陽は神の置き換えである。 太陽は, 無慈悲な場合もあるが, 基本的にはゾーイの喜び
の源なのであった。 そのように太陽を隠喩として多用する
天使の湾
のレトリックが
「コヘレトの言葉」 に依拠しているとしても, まったく不思議ではないだろう。
― 51 ―
次に様式に注目すると, 何よりも一人称で書かれていることが共通項として挙げられ
る。 「コヘレトの言葉」 について W. P. ブラウンは 「自伝的な論文」 と評しているが(22),
同様に
天使の湾
も, 自伝と客観的考察を組み合わせた一人称形式で書かれているの
である。 語りの現在において, コヘレトもゾーイも共に少なくとも中年になっており,
ある種の悟りの境地に達している。 そしてこの二人の語り手は, 個人的な経験を振り返っ
て考察し, 読者のために教訓を導き出している。 若さの喜びを味わった後, いかに苦悩
して生きたか, その奮闘こそが多くの人々を惹きつけて共感を呼ぶ, という構造になっ
ているのである。
様式に関するもう一つの重要な特徴として,
天使の湾
が 「コヘレトの言葉」 と同
じ知恵文学のかたちを取っていることも見逃せない。 知恵文学とは, 旧約文学の一類型
であり, 「通例, 神による啓示にではなく, 人間の日常的な経験に基づく知恵を扱う文
書」(23)を指す。 こうした 「知恵」 をヘブライ語ではホクマーと呼び, ブラウンが論じる
ように 「錯綜した人生を方向付け, 差し迫った時に神が示す道を見分けるすべ」(24)とし
たのだった。 「コヘレトの言葉」 がヤハウェ信仰と異なる知恵文学であるからこそ, 非
宗教的なゾーイにとっては
ちょうど作者ブルックナーにとってと同様に
やすかったに違いない。 「コヘレトの言葉」 は前述のように
旧約聖書
受容し
のなかでも独
特の位置を占めており, 歴史的主題や祭事的要素ではなく, 万人が体験せざるをえない
死という主題を中心的に扱っている。
天使の湾
は, ゾーイが家族を, とりわけ母を
亡くして途方にくれながらも, 「現在の混沌から秩序を引き出す」 ために努力した過程
を伝えている。 そして, どのようにゾーイが心の平安を得るに至ったか, いかにしてそ
の名前のギリシア語源通り 「生命」 を享受するに至ったかを表現しているため,
の湾
葉」 と
天使
は一種の知恵文学であると考えることができる。 興味深いのは, 「コヘレトの言
天使の湾
が同じ知恵を読者に示していることである。 すなわち, 不可避の死
を受け入れる備えをした上で喜びを楽しむ, という知恵を与えているのだ。 「コヘレト
の言葉」 では, 死や滅亡の空しさが説かれるなか, 次のような一節がある。
さあ, 喜んであなたのパンを食べ
気持よくあなたの酒を飲むがよい。
あなたの業を神は受け入れていてくださる。
どのようなときも純白の衣を着て
頭には香油を絶やすな。
太陽の下, 与えられた空しい人生の日々
愛する妻と共に楽しく生きるがよい。 (9・79)
― 52 ―
アニータ・ブルックナー
天使の湾
における太陽の隠喩
このようにコヘレトは, 飲食や身を清めること, そして伴侶との暮らしといった日常
の恵みを楽しむように勧めるのである。 一方 天使の湾 では, 物語の締めくくりにゾー
イが, 特に伴侶のもたらす喜びについて, 読者に語りかける。 「アントワーヌと交際す
る前の私の生活
哀れな娘の生活
を思い出せば, 私は充分, 現在を嬉しく思うこ
とができる」 とゾーイは述べ, ジャンヌが弟のアントワーヌと離れられないことに理解
を示し, 3 人の共同体に喜びを見出していることを語るのである。
私はロンドンにいるとき, 私たち 3 人があの暗く赤いダイニング・ルームにいて,
完全に嘘というのでもない, 一幅の調和の絵をなしているのを想像することができ
る。 私が弟を連れ去るのでは, とジャンヌ・バルビが恐れていることを私は知って
いる。 ちょうどアントワーヌがそれに気づいていることを, 私が知っているのと同
じように。 しかし, 私はジャンヌを傷つけたくないし, 彼らの生活を邪魔したくも
ない。 私たち 3 人がテーブルについているそのイメージには, 何か有効性があるに
違いない。 どこだったか私は覚えていないが, 遠くのギャラリーでだいぶ前に見た
絵のようだ。 やがてジャンヌと私は, 私たちが今そのふりをしている通り, 友達に
なるだろう。 これは急を要する問題ではない(25)。
こうして引き合いに出される 「一幅の調和の絵」 (a picture of harmony) が具体的
にどの作品を指すのか, 特定はできない。 しかし, ゾーイは読者に絵を想像させること
によって, 3 人の調和したイメージを視覚的に印象づけている。 ゾーイはコヘレトのよ
うな説教調では語らず, 自分の体験を明かすという姿勢を貫いているものの, 読者に知
恵を示していることには変わりないだろう。 たとえ法的な夫婦関係になくとも, 伴侶を
得て, 共同体に属し, 生活を分かちあうことが心の糧となる旨を伝えているのである。
天使の湾
も 「コヘレトの言葉」 も, 人間存在のはかなさを中心的主題とするだけに,
全体として陰鬱で不安な調子が支配的だが, なかにはこのような喜びの勧めも知恵とし
て含まれていることを確認しておきたい。
また, 改めて主題に着目すると, 「コヘレトの言葉」 と
天使の湾
では人間の死以
外にも共通する主題として, 善行の報われない現実が取り上げられている。
天使の湾
では, ゾーイの学生時代の恋人アダムとの関係を通して, 善人のゾーイがいかに報われ
ないかが描かれる。 魅力的な悪人のアダムが浮気しても, ゾーイは雨に濡れて惨めな格
好で登場した自分を責め, 「私だけが咎められるに値していた」 と考える。 そしてゾー
イは, アダムに尽くした挙句, 結局は彼が他の女性に心を移しても, 「再び私は自分自
身を責めた」 のである。 このように柔和で思慮深い善人のゾーイは, アダムとの恋愛に
おいて敗者となるが, まさに同じ構図が 「コヘレトの言葉」 ではこう語られている。
― 53 ―
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな, 賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。 (7・1516)
コヘレトは, 善行が報われずに苦しむ人間の原風景を知っており, そうした人間に向
かって語りかけているのである。 前述のようにゾーイが 「コヘレトの言葉」 について
「聖書のなかで最も説得力のある書だ」 と賞賛する背景には, 死のみならず善悪をめぐっ
てコヘレトがゾーイと同じ問題意識を持つゆえに共感できることが挙げられるだろう。
ここまで検討したように, 「コヘレトの言葉」 と
天使の湾
には, 太陽のレトリッ
クや様式, そして主題に関して共通性を見出すことができる。 語り手であり主人公でも
ある 「私」 の物語というだけであれば, ブルックナー作品のなかでも第 7 作
(A Friend from England, 1987) や第 13 作
人
ファミリー・ロマンス
英国の友
(A Family
Romance, 1993) などがあり, 珍しくないが, 死と対峙する姿勢が鮮明である点や知恵
を伝える様式となっている点までも重なるため, ゾーイが 「コヘレトの言葉」 から受け
た影響は決して小さくないだろう。
天使の湾
は 「コヘレトの言葉」 のある種の小説
化だと言っても, あながち的外れではないのである。
Ⅴ
思えばブルックナーは, 敬愛する文学作品を模倣し, 独自の小説を生み出すことに卓
越した作家である。 複数の研究者が報告するように, ブルックナーはバルザック, コン
スタン, プルースト, ソール・ベロウなどから啓発されて創作している(26)。 ただし, こ
うした近現代の作家たちからの影響よりも, 繰り返し小説中に顕在化するように見える
のが
真
からの影響である。 太田良子氏はブルックナーの第 5 作
旧約聖書
(Family and Friends, 1985) に関する論考において, 「聖書は
結婚式の写
ブルックナーの
多くの作品の重要なシーンで光となり影となって引用され, 用語の選択にも聖書の影響
が大きい」(27)と指摘しているが,
前述のように
天使の湾
聖書
のなかでも
旧約聖書
の影響が甚大だろう。
では, ゾーイが 「人生の短さを思い出させる何か超人的なも
の」 を否定しており, 表面上は宗教色が薄い。 しかし, 小説全体に響きわたる 「太陽は
神である」 というターナーの言葉, そして 「コヘレトの言葉」 との関連性を考慮すれば,
天使の湾
において
旧約聖書
が文学的源泉として重要な位置を占めていることは
明白なのである。
旧約聖書
のこのような活用の仕方は, ブルックナーがユダヤ人世俗主義 (Jewish
― 54 ―
アニータ・ブルックナー
secularism)
における太陽の隠喩
すなわちユダヤ人のアイデンティティーを持ちながらも, 宗教的側面
は受け入れないという現代的現象(28)
クナーは
天使の湾
旧約聖書
の流れを汲むことと密接な関係がある。 ブルッ
を信仰の中心としてではなく文学として受容し, 小説に昇華する
ことによって, ユダヤ的な発想や表現を間接的に伝えているのである。
同盟
ふつりあいな
のヒロインであるブランチ・ヴァーノン (Blanche Vernon) に比べれば,
使の湾
天
のゾーイはユダヤ人らしさが一層希薄であるものの, その小説世界はブルック
ナーの文化的背景にユダヤの伝統が色濃く残ることを反映していると考えられる。 ブラ
ンチにとって憧れの土地だったニースを新たな舞台とする意味では,
ふつりあいな同盟
天使の湾
は
の続編にあたる。 ニースに太陽が, 神の代替が存在し, 中心人物
を救うという続編は, 読者に希望を与えるものだ。 ブルックナーは, ウサンディザガの
論じる通り 「ユダヤの伝統だけでなくあらゆる文化や状況において」, より広い世界に
開かれたかたちで,
旧約聖書
というユダヤの遺産を
天使の湾
に作品化し, 悩め
る読者に救いを提供しているのである。
《注》
(1)
ふつりあいな同盟 におけるターナーの文言に関しては, 拙稿 「アニータ・ブルックナー
ふつりあいな同盟
における太陽の隠喩」 早稲田大学英米文学研究会編
ほらいずん
第
39 号, 2007 年, pp. 2132 を参照。
(2)
John Ruskin, “My Lord Delayeth His Coming,” 2 August 1874, Letter 45, The Complete
Works of John Ruskin, Tokyo: Hon-no-Tomosha, 1990, v. 28, p. 147.
(3)
ユダヤ教徒にとっては
(4)
John Haffenden, “Anita Brookner,” Novelists in Interview, London: Methuen, 1985, p.
聖書
と記すべきだが, 本稿では便宜上
旧約聖書
と記す。
67.
(5)
例えば, Family and Friends (London: Cape, 1985); Latecomers (London: Cape, 1988);
A Family Romance (London: Cape, 1993); The Next Big Thing (London: Viking, 2002)
など。
(6)
Dinah Birch, “‘The Sun is God’: Ruskin’s Solar Mythology,” The Sun is God, ed. J. B.
Bullen, Oxford: Oxford UP, 1989, pp. 109123.
(7)
トーレイフ・ボーマン
ヘブライ人とギリシア人の思惟
植田重雄訳 (新教出版社, 1959
年) p. 137.
(8)
例えば, W. P. ブラウン
現代聖書注解
コヘレトの言葉
小友聡訳 (日本キリスト教団
出版局, 2003 年) pp. 3940 を参照。
Ar
anzazu Usandizaga, “Motifs of Exile, Hopelessness, and Loss: Disentangling the
(9)
Matrix of Anita Brookner’s Novels,” Jewish Women Writers and British Culture, ed.
Claire M. Tylee, Newark: University of Delaware Press, 2006, p. 116.
Anita Brookner, The Bay of Angels, London: Viking, 2001, p. 23. 以下, 同書からの引
(10)
用は拙訳による。
Ibid., p. 191.
(11)
(12)
Giles Waterfield, “Zoe Finds Hope in This Tale of Two Cities,” Daily Mail, January 26,
2001, p. 58.
― 55 ―
Brookner, op. cit., pp. 216217.
(13)
(14)
次なる大問題
ではドラクロワの壁画を通して, 主人公が自己のユダヤ性と対峙する。
拙稿 「ユダヤと美術
大学英文学会編
使の湾
アニータ・ブルックナー
英文学
次なる大問題
における換喩」 (早稲田
第 91 号, 2006 年) pp. 2435 を参照。 なおブルックナーは,
天
が出版された際のインタビューにおいて, 美術史に関する教養が彼女の小説に及ぼ
している影響について問われると, 「 影響は
まったくありません」 と答えているが, これ
は ブ ル ッ ク ナ ー の 韜 晦 に 他 な ら な い 。 Anita Brookner, “Just Don’t Mention Jane
Austen,” interview by Robert McCrum, The Observer, January 28, 2001, p. 17 を参照。
(15)
Brookner, The Bay of Angels, op. cit., p. 18.
(16)
Ibid., p. 204.
(17)
Ibid., p. 110.
(18)
以下, 「コヘレトの言葉」 に関する解釈は, ブラウンの前掲書を主に参照した。
(19)
「コヘレトの言葉」 の英語版は, 現在の英語圏で一般的な新国際版に依拠した。 Inter-
national Bible Society, Ecclesiastes, New International Version, June 2, 2007, http://
www.ibs.org/niv/passagesearch.php? passage_request=Ecclesiastes+1&submit=Lookup
&niv=yes&display_option=columns. 日本語版は, 聖書 新共同訳 (日本聖書協会, 1996
年) に拠る。 以下, 「コヘレトの言葉」 からの引用には, 章節を括弧内に記す。
(20)
ブラウン, 前掲書, p. 41.
(21)
Douglas B. Miller, Symbol and Rhetoric in Ecclesiastes: The Place of Hebel in
Qohelet’s Work, Leiden: Brill, 2002, p. 145.
(22)
ブラウン, 前掲書, p. 48.
(23)
大貫隆編
(24)
ブラウン, 前掲書, p. 40.
(25)
Brookner, The Bay of Angels, op. cit., p. 213.
(26)
ブルックナーがバルザックやコンスタンから受けた影響に関しては, Eileen Williams-
岩波キリスト教辞典
岩波書店, 2002 年, p. 735.
Wanquet, Art and Life in the Novels of Anita Brookner, Bern: Peter Lang, 2004, pp. 145
147, 201203, 240241;現代女性作家研究会編 アニタ・ブルックナー
孤独のプリズム
(勁草書房, 1991 年) pp. 931, 3355 を参照。 プルーストからの影響に関しては, 拙稿 「ア
ニータ・ブルックナーとマルセル・プルースト
をめぐって」 (早稲田大学比較文学研究室編
ブルックナー
比較文学年誌
ロジエ通りでの出来事
第 39 号, 2003 年) pp. 4767
を参照。 ソール・ベロウからの影響に関しては, 拙稿 「アニータ・ブルックナーとソール・
ベロウ
ユダヤ性の表出」 (早稲田大学比較文学研究室編
比較文学年誌
第 38 号, 2002
年) pp. 137151 を参照。
太田良子 「第 5 章
(27)
孤独のプリズム
(28)
家族と友だち 」, 現代女性作家研究会編
アニタ・ブルックナー
(勁草書房, 1991 年) p. 109.
ユダヤ人世俗主義については, ニコラス・デ・ラーンジュ
訳 (青土社, 2004 年) p. 67 を参照。
― 56 ―
ユダヤ教とはなにか
柄谷凛
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 5782
October 2007
ロビン・フッド伝説と時代背景
野
要
The Robin Hood Legend and its Historical Setting
Kaname TAKANO
目
次
1. 英雄ロビン・フッド伝説
2. ロビン・フッドの起源
3. 中世バラード作品
4. ロビン・フッドの実在を探る研究史
5. ロビン・フッドの聴衆
6. バラードの起源
ホウルトの見解
7. バラードの聴衆と農民一揆の叛徒
ヒルトンの見解
8. 伝説伝播の背景
9. ロビン・フッド研究の展望
1. 英雄ロビン・フッド伝説
ロビン・フッドは, 世界で最もよく知られているイギリスの英雄の一人である。 彼が
実在したかどうかは今でもわかってはいない。 しかし, 彼が, 13 世紀から 14 世紀にか
けて, ヨークシャー南部のバーンズデイル Barnesdale 付近で活動し, さらにノッティ
ンガムシャーのシャーウッドの森を拠点にアウトロー outlaw の首領として活躍したと
いわれる話が, 世間に広まり, ロビン・フッド伝説になって, 長く伝えられていること
は事実である。 確かに, この人物に比肩できるほど時代を超越して, 社会的影響力を持
ち続けている英雄はいない。
中世イギリスにおける
アウトロー
とは, 法的意味をもっていた。 すなわち, 「王
国の法律の保護の外に置かれた人」 という意味である。 これは, 犯罪に対する終局的な
処罰であるともいえる。 アウトローは, 「存在を無視された人」 nonperson であった。
財産が奪われても, 殺害されても, アウトローに対する加害者は処罰されなかった。 こ
のアウトローの宣告は, 逮捕を脱がれ, 公判に付すことの出来なかった犯罪者に対して
なされた。 彼ら犯罪者は, 森のような, 国王の支配の及びにくいところに身を隠し, 武
装集団を作り, 地域の同情も得て, 権力による逮捕を免れていた。
― 57 ―
当時, アウトローが周囲の同情を得た理由には, 中世の裁判が, 腐敗しやすかったこ
とが挙げられる。 裁判が国王や有力貴族の力によって, 往々にして曲げられたからであ
る。 アウトローの物語には, 買収された裁判や不公平な陪審員が登場する。 これが, 民
衆の人気を博す理由の一つになった。
中世後期は, 封建地代, 賦役, 共同権, 労働規制および人頭税を巡って, 封建権力と
一般民衆との間の闘争が顕著になった時代である。 いつの時代においても, 権力に立ち
向かう勇姿は, 民衆の喝采を博した。 ここにロビン・フッドの普遍的魅力があったと思
われる(1)。
日本においても, ロビン・フッド伝説は良く知られている。 しかしその割には, ロビ
ン・フッドに対して関心をもつ研究者はあまり多くはない。 特に, その社会史的研究は,
ほとんど進んでいないのが実情である。 後述するイギリスの歴史学術誌
過去と現在
Past and Present で展開された論争は, 論争に加わった海外の研究者たちが幾度となく
来日し, ロビン・フッドに関する講演が開催されていながらも, わが国の学会では, 論
争そのものが積極的に取り上げられることはなかった。
本論では, 伝説の由来と中世の史料であるバラード作品を取り上げ, 伝説の本質的内
容を探っていく。 つづいてロビン・フッドの実在を探る研究や, 日本における伝説普及
の研究史を取り上げる。 そして本論の主要テーマである, 伝説の社会的背景に関する論
争と, その後の経過, 論争に加わった研究者たちの所説について詳述し, 伝説が広く伝
播した社会的背景について, 若干の考察を試みたいと思う。
2. ロビン・フッドの起源
ロビン・フッドの起源に関して, プール A. L. Poole(2) やトレヴェリアン G. M.
Trevelyan(3)のような歴史家たちは, 本来は森の妖精伝説に由来したものが, ロビン・
フッドになったのだと述べている。 あるいはライト J. Wright の言うように, 民衆の伝
説から伝わるテュートン人の神話, 妖精フードキンなどが伝説の起源であるという説も
ある(4)。 さらには, チャイルド F. J. Child の述べたように, バラードの作者の創作物
なのだと断言する説もある(5)。 その他には, 北欧神話に起源をもとめる説もあり, ロビ
ン・フッド発祥の地には, ロビン・フッドの丘, ロビン・フッドの泉, ロビン・フッド
の石などがあり, 果てはオークの木や切り株などにも起源があるとされている。 このよ
うな民間伝承などに由来する言い伝えなどは多数あり, それらの事柄が実際にどのよう
な関連性をもっているのか, 裏付ける史料は乏しく, 今のところまったくわかっていな
い。
ロビン・フッドの名前は, 1377 年のラングランド W. Langland の著書, 農夫ピアー
― 58 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
スの夢
The Vision of Piers the Ploughman に初めて登場する。 そこには次のような
言及がある。
I can nou
te perfitly my pater-noster as the prest it syngeth,
But I can rymes of Robyn Hood and Randolf erle of Chestre,
おれは《主の祈り》を, ふつうの司祭がやるようには正しくは言えぬのだ。
ロビン・フッドやチェスター伯ランドルフの詩ならば知ってはいるが, (6)
これが今のところ, ロビン・フッドに関する最も早い言及である。 この幻想詩は, 当
時の社会情勢を反映している。 そこでは, 堕落した聖職者の生活などが, 皮肉交じりに
批判されている。 確かに, この中で言及されているチェスター伯ランドルフは実在の人
物で, 1232 年に死亡し, そこから推測すれば, おそらくロビン・フッド・バラードは
13 世紀におけるバラードと呼ばれる叙事詩の形式の出現と同時代に始まったと思われ
る。
3. 中世バラード作品
ロビン・フッド伝説には, 初期の作品に新たな登場人物や脚色が加えられて変化して
きた歴史的経緯がある。 本来のロビン・フッド伝説の姿を伝えるバラード ballad(7) は,
中世オリジナルの作品であるため, 欠落箇所が多く, 完全なものは存在しない。 確認で
きるものは, これから紹介するわずか 5 作品にとどまっている。 登場人物は, ロビン・
フッドと仲間のリトル・ジョン, 粉屋の息子マッチ, ウィル・スケイスロックと, 宿敵
のノッティンガムのシェリフ (州長官) sheriff(8) とその部下たち, セント・メアリー
(聖マリア St. Mary) 教会の修道院長と修道僧たちである(9)。
5 つの作品の中で, 最初に取り上げるのは,
ロビン・フッド武勇伝
A Geste of
Robin Hood である。 これは 456 の 4 行連節 stanza からなり, 8 つの篇あるいは節
Fytte に分かれている。
第 1 節 The First Fytte の物語の冒頭で特徴的であるのは, 「ジェントルマン」 と聞
き手に呼びかけ, ロビン・フッドは自由な血筋の善良なヨーマンであると紹介されてい
る。
Lythe and listin, gentilmen,
That be of frebore blode ;
I shall you tel of a gode yeman,
― 59 ―
His name was Robyn Hode.(10)
耳をお貸しください, お聞きください
ジェントルマンの皆様
自由の血をひく方々;
善良なヨーマンの話をいたしましょう,
彼の名はロビン・フッドといいました。(11)
Robyn was a prude outlaw,
Whyles he walked on grounde,
So curteyse an outlawe as he was one
Was never none founde.(12)
ロビンは誇り高いアウトローであったのです,
それは彼がこの世にいたときのこと,
ゆえにこの礼節あるただひとりのアウトローは
彼のほかには誰もいませんでした。
And alsoo dyd good Scarlock,
And Much the myller’s son ;
There was no ynche of his bodi,
But it was worth a grome.(13)
そして善良なスケイスロックと
粉屋の息子マッチ;
身の丈が小さいものの
一人前の従者でありました。
バーンズデイルのアウトローたちの宿営において, リトル・ジョンはロビンに伺いを
立てる。 ロビンの心情が語られる箇所である。 ロビンは次のように答える。
‘But loke ye do no husbonde harme
That tylleth with his ploughe.’
「ただし, 農夫には危害を加えないようにしてくれよ,
自分の犂で耕す農夫には」
‘No more ye shall no gode yeman
That walketh by grene wode shawe;
― 60 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
Ne no knyght ne no squyer
That wol be a gode felawe.’(14)
「それと, グリーンウッドの木立を歩む
善良なヨーマンにも危害を加えないように
それから仲間になるはずの
騎士やスクワイアにも。」
‘These bysshoppes, and these archebisshoppes,
Ye shall them bete and bynde;
The hye sherif of Notyingham,
Hym holde ye in your mynde.’ (15)
あの司教たち, 大司教たち,
あいつらを打ち, 縛れ。
傲慢なノッティンガムのシェリフのことを
心に留めておけ。
ロビンは食事に招く新しい客を迎えてくるように仲間にいう。 リトル・ジョンたちは
客人を連れてくるために出かけて, 森で待ち伏せていると, 馬上の騎士がこちらに向かっ
てくる。 慇懃に出迎えたジョンは, 騎士をロビンの根城であるロッジ lodge に連れて
行く。 この騎士は, 殺人を犯した息子の保釈保証人となるために自分の動産を売り, 所
領を抵当に入れて, ヨークのセント・メアリー修道院の院長から 400 ポンドを借りてい
た。 ロビンは騎士に金を貸し, 従者にリトル・ジョンを伴わせ, 騎士にふさわしい馬と
衣装をあてがって送り出した。
第 2 節 The Second Fytte では, ヨークのセント・メアリー修道院の修道院長や高
位裁判官のもとへ騎士が現れる。 修道院長は支払いの猶予を認めようとしない。 騎士は
やがてテーブルに近づき, ロビンから借りた 400 ポンドを取り出す。 債務返済ができな
いと目論んでいた修道院長は狼狽する。 なぜならば, 債務不履行と引きかえに, 騎士の
所領を没収する意図が外れたからだ。 騎士は勝利して家に帰り, 400 ポンドを貯め, ロ
ビンに借金を返すためにバーンズデイルに出発した。
第 3 節 The Third Fytte では, リトル・ジョンが, ノッティンガムのシェリフの前
で, アーチェリーの競技会に参加する場面になる。 リトル・ジョンは弓を射て, 的板を
裂く。 腕前に驚くシェリフは名前を尋ねると, 「レイノルド・グリーンリーフ
Reynolde Grenelefe」 という偽名を名乗り, シェリフの居城で仕えることを承知する。
当然ジョンは, 最初から城内に乗りこむつもりだった。 シェリフとアウトローがなぜ敵
― 61 ―
対するのかは, 物語の中には書かれていない。 そこから推測すれば, この物語が編集さ
れた時代の読み手には, シェリフとアウトローたちとの確執を説明する必要はなかった
ことになる。 リトル・ジョンは, シェリフが狩りに出て留守の時に, 料理人と喧嘩をし
てしまう。 やがて料理人が手ごわい相手とわかると, ジョンは仲間に加わるようすすめ
た。 料理人は仲間となり, ジョンとともにシェリフの高価な品々を奪って, 森にいるロ
ビンのもとへと合流する。 やがてリトル・ジョンはシェリフを探しに行く。 よい狩り場
があるという嘘を言って, シェリフをロビンの居場所へと誘いこんだ。 誘い込まれたシェ
リフは, アウトロー式の生活の屈辱を強いられた。 もはやアウトローを捕らえないと約
束をし, 誓いをたてて, シェリフは釈放された。
第 4 節 The Forth Fytte は, 第 1 節の続きとなる内容だ。 再びロビンが同じように
仲間たちを使いにやって, 食事に招く客を探させた。 今度の客は修道士で, 護衛をジョ
ンたちに追い払われてから招かれた。 修道士の正体がセント・メアリー修道院の食料品
保管係長とわかると, ロビンはリトル・ジョンに荷物を開けろと命じる。 所持金は 20
マルクしかないと答えた修道士は, 実は 800 ポンドも持っていた。 修道士は金を巻き上
げられてロンドンに追い払われた。 やがて 400 ポンドの借金返済のためにロビンのもと
を訪れた騎士に, この巻き上げた 400 ポンドを与えた。
第 5 節 The Fifth Fytte は, ノッティンガムのシェリフが開催したアーチェリー試
合から始まる。 勝者には, 銀と金でできた矢が贈られることが約束される。 トリステル・
ツリー trystell tre のもとで聞いていたロビンは, 仲間たちと試合に参加し, 勝利する。
勝利の品を受け取る直後, ロビンは逮捕されそうになる。 シェリフに裏切られたことに
ロビンは気づく。 結局追撃隊を追い払ったが, リトル・ジョンは膝に傷を負った。 森を
行くとやがて城が現れる。 それはサー・リチャード・アット・ザ・リー Syr Rychard
at the Lee の城であった。 アウトローたちはこの親切な騎士 gentyll knyght の城に避
難する。 物語をつなぎ合わせたかのようではあるが, このサー・リチャードは, かつて
ロビンたちが債務の返済で助けた騎士とされている。 騎士はアウトローたちを歓迎し,
饗宴がひらかれる。
第 6 節 The Sixth Fytte では, 騎士の城が包囲され, シェリフは騎士が城でアウト
ローたちを匿っていることを非難する。 その後シェリフは国王に窮状を訴えるために,
ロンドンに向かった。 知らせを聞いた国王は 14 名の騎士を随行させ, ロビンおよび騎
士の逮捕に出立する。 その間にロビンと傷の癒えたリトル・ジョンは森へ帰っていた。
シェリフは逃げたアウトローたちの後を追い, 鷹狩りに出た騎士を待ち伏せして捕らえ
た。 騎士の妻がそれを知らせにロビンのもとを訪れる。 ロビンは仲間を呼び集め, ノッ
ティンガムヘ行った。 ロビンはシェリフを見事に射当て,
― 62 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
And or he myght up aryse,
On his fete to stonde,
He smote of the sherifs hede,
With his bright bronde.(16)
そして彼が起き上がれないでいるうちに,
その足で立つ前に
ロビンはシェリフの首をはねた,
きらめく刀で。(17)
ロビンは騎士を解放し, グリーンウッドへ帰り, 語り合う。
‘Tyll that I have gete us grace
Of Edwarde,our comely kynge.’ (18)
「我らが恩寵を得られるまで
我らがみめよき国王エドワードから。」
アウトローたちは, まだ面識のない国王を 「我らがみめよき国王」 と呼び, 自分たち
にいずれ恩寵があることを期待している。 アウトローたちが, シェリフやセント・メア
リー修道院院長たちにとった敵対的態度とはまったく異なり, 国王に対して好意的であ
る理由は何も書かれてはいない。 むしろ当時は, それを説明する必要がなかったのかも
しれない。
第 7 節 The Seventh Fytte は, 新たな展開となる。 国王はノッティンガムを訪れ,
騎士とロビンを捕らえることを決意する。 国王はヨークシャーのウェスト・ライディン
グ West Riding に あ る ネ イ ル ズ バ ラ ー Knaresborough 近 郊 の プ ロ ン プ ト ン 猟 園
Plompton Park に到達する(19)。 国王はこの騎士の領地を没収しようとするが, ロビン・
フッドの勢力範囲にあったため, 入手して転売することもできず, 数多くいた鹿もロビ
ンに捕われて, ほとんど見かけなくなっていた。 国王は半年間以上ノッティンガムに滞
在してロビンを探すが, 見つからない。 そこでついに国王は, ある森林官 forester の
勧めにしたがい, 選りすぐり 5 名の騎士を連れ, 修道士の僧衣 monkes wede に変装し
て森に入った。 ロビンは待ち伏せして国王と出会い, 金銭の支払いを要求し, 40 ポン
ドを手にする。 修道士に扮する国王を 「修道院長殿」 ‘Syr abbot’ と呼び, 敬愛する国
王のために, 拠点であるトリステル・ツリー trystell tre の下で食事の饗宴を開くこと
になる。 森には, ロビンがホルンを吹けば, いつでも 140 名の勇敢な仲間 wyght
yonge men が集結できる準備があることを知らされる。 やがて饗宴の後で, アウトロー
― 63 ―
たちはアーチェリーの競技会をひらく。 的を射損じた者はペナルティーとして頭を殴ら
れる。 ロビンは国王の取り巻きたちを殴るが, ロビンも失敗し, 「修道院長殿」 から驚
くほどの強さで殴られ, 彼が国王だとわかる。
‘My lorde the kynge of Englonde,
Now I knowe you well’ (20)
「我が領主, イングランド国王陛下
今, 私には, はっきりとわかりました」(21)
第 8 節 The Eighth Fytte で国王とともにアウトローたちは,
Whan they were clothed Lyncolne grene, (22)
リンカーン・グリーンの服を身にまとい,
ノッティンガムに帰る。 国王は騎士に所領の保有を許す。 そしてロビンは国王の下で 1
年 twelve monthes 仕えるが, 時が経つとロビンは退屈しはじめ, リトル・ジョンと
スケイスロック以外はすでにロビンのもとから去り, 宮廷の賛沢な世界で財産を使い果
たし, 国王と暮らすのは我慢できないと言い出す。 ロビンは国王に, バーンズディルに
自ら創建した礼拝堂を訪れる許しを得て宮廷を離れる。 その地に来てロビンは, 140 名
の勇敢な男達と再会し, グリーンウッドで 22 年間暮らす。 その後ロビンは, 瀉血治療
を受けにハダースフィールド Huddersfield 近郊のカークリーズ女子修道院長を訪ねた。
そこでは, サー・ロジャー・オブ・ドンカスターが, 女子修道院長と共謀し, ロビンが
殺害され,
武勇伝
は終わる。
この時代のバラードには, さらに
武勇伝
に書かれていない内容を示す作品がいく
つかあるが, その一つが 1450 年頃の手稿本である
ロビン・フッドと修道士
Robin
Hood and the Monk である(23)。 そこでは, グリーンウッドに暮らすロビン・フッドが,
リトル・ジョンを連れて教会に出かける。 その途上で二人は賭けをするが喧嘩になり,
ジョンはシャーウッドへ, 一方, ロビンはノッティンガムのセント・メアリー教会に向
かった。 教会を訪れたロビンを修道士が見つけ, ノッティンガムのシェリフに知らせる。
知らせを聞いて教会に駆けつけたシェリフとその部下は, ロビンと格闘となる。 史料欠
落のため突然場面が変わり, ロビンが捕らえられたことを知った仲間のリトル・ジョン
とマッチは, 一連の状況を知らせに国王のもとに遣わされた修道士とその従者をその途
上で捕らえ, 殺害する。
― 64 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
John smote of the munkis hed,
No longer woulde he dwell;
So did Moch the litull page,
Ffor ferd lest he wolde tell. (24)
ジョンは修道士の首を切り落とした,
もう待つつもりはなかった。
マッチは歳若い従者を同じ目にあわせた,
口封じにと。
二人は修道士から奪った手紙を国王のもとに届け, 国王はそれと引きかえに印章を渡
す。 ジョンとマッチはそれをシェリフのもとに届けた。 シェリフは二人を歓待し, 食事
の後には酒に酔って寝込んでしまった。 その隙に牢番をだまし, ジョンとマッチとロビ
ンは, シャーウッドに帰る。 ロビンはリトル・ジョンとの仲を取り戻し, 国王もだまさ
れたことを知りながらも, ヨーマンであるロビンたちアウトロー 一団の活躍を讃えて
物語が終わる。
‘I gaf theym grith’ then seid oure kyng;
‘I say, so mot I the,
Ffor soothe soch a yeman as he is on
In all Inglond are not thre. (25)
「私はあの者たちを赦したのだ」 とそれからわれらが国王様が言った。
「それはわが治世の繁栄を祈ってのこと,
いかにも, あのようなヨーマンは,
イングランド全体で三人とはいない。」
1503 年の
ロビン・フッドと陶工
Robin Hood and the Potter は, アウトローたち
と陶器売りの男が現れる。 ロビンとリトル・ジョンが通りかかった陶工から通行料を取
ろうとするが, 打ち負かされる。 この勝ち目がない相手と友情を交わし, お互いの服を
交換しあった。 その後ロビンは, 陶器売りに変装し, ノッティンガムで陶器を売るが,
やがてシェリフの会食に招かれ, 宴会の席で陶工になりすましたロビンが, アーチェリー
試合開催に加わることとなる。 やがてロビンにおびき出されて森にきたシェリフは, だ
まされた挙句に馬を奪われる。 しかし招かれたときに親切にしてくれたシェリフの妻に
‘Y schall her sende a wheyt palffrey,
― 65 ―
Het hambellet as the weynde;
Nere ffor the loffe of yowre weyffe,
Off more sorow scholde yow seyng.’ (26)
「奥方に白い乗用馬を送ろう,
風のように疾駆する馬だ。
彼女の愛がなかったならば,
おまえはもっと悲嘆の叫びをあげるところだがな。」 (27)
と恩返しをする。
続いて紹介するのが, 18 世紀にアイルランドの司教トーマス・パーシーによって発
見されたパーシー・フォリオ Percy Folio として知られる
ヴ・ギスボーン
ロビン・フッドとガイ・オ
Robin Hood and Guy of Gisborne(28)である。 そこでは, ロビンが二
人のヨーマンに殴られる夢を見る。 その夢に出てきた敵を探しにリトル・ジョン
Lytell Johan と二手に分かれて森に出かけるが, リトル・ジョンはシェリフに捕まる。
一方, ロビンの方は, 全身馬皮をまとったシェリフの密偵ガイ・オブ・ギスボーン
Guy of Gisborne に出くわす。 お互いがアーチェリーを競い合い, ロビンの腕前に感
服したガイが名前を聞いてくる。 お互いの正体が分かるとすぐに死闘となった。 ロビン
はガイを殺害し, その首を弓に突き刺して,
Robin pulled forth an Irish kniffe,
And nicked Sir Guy in the fface,
That hee was never on a woman borne
Cold tell who Sir Guye was. (29)
ロビンはアイルランド製のナイフを引き抜き,
サー・ガイの顔をめったぎりにした,
女から生まれた者は誰も
サー・ガイがどんな人物かわからなくなるほどに。
ロビンはシェリフのもとを訪れ, ガイのホルンを吹くが, それを聞いたシェリフはガ
イがロビン殺害を成功させたものと思い込む。 シェリフは, 面会に来たガイを偽って名
乗るロビンに褒美を約束する。 ロビンは, リトル・ジョンの身柄を求め, 殺すためであ
ると偽り, ジョンを救出する。 ロビンとジョンはシェリフの心臓を真二つにする(30)。
武勇伝 ではロビンが死をむかえる場面があるが, 同じように ロビン・フッドの死
Robin Hoode and his Death(31)では, カークリース修道院に瀉血治療に訪れたロビンが,
― 66 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
女子修道院長の策略で, 血を抜き取られて最期をむかえるという内容の作品もある。
4. ロビン・フッドの実在を探る研究史
ロビン・フッドが実在したとすれば, 何者だったのか。 この探求は, 15 世紀にまで
さかのぼる。 ある時はロビン・フッドとは, 年代記作家ウィンタン A. Wyntoun によ
れば 13 世紀に国王ヘンリー 3 世と対立したレスター伯爵シモン・ド・モンフォールの
従者であるとされたり(32), 16 世紀の年代記作家メイヤー J. Major によれば, 国王リチャー
ド 1 世の治世の実在の人物とされた(33)。 また, グラフトン R. Grafton が解説した印刷
物では, リチャード治世の困窮した貴族とする説があらわれてくる(34)。 この貴族説から,
さらにはロビン・フッドの出自を示す家系図まで捏造させたのが, マンディー A.
Munday であり, ハンティンドン伯爵と称する森に逃亡した貴族がいたとする説が出
現した(35)。 この貴族説はやがて否定されるが, 現代のロビン・フッド作品に長く影響を
残している。 スコットも, 彼の歴史小説でロビン・フッドに Locksley の別名を追加
し(36), この他にもノルマン人に反抗したサクソン戦士説(37), 13 世紀のシモン・ド・モ
ンフォールの乱に荷担した人物説(38)などの諸説が現れた。
このような年代記作家による虚構から, やがてロビン・フッドは, 史料の調査に基づ
いて研究されるようになる。 厳密な史料収集にもとづく研究が本格化したのは, 1795
年, リッスン J. Ritson の著書が出版されて以降である(39)。 彼はバラードの収集などの
史料の調査によって, ロビン・フッドの実在性を確信し, 研究を重ねた。 しかし 16, 17
世紀の史料に依存したため, ロビン・フッドを貴族であるとする, マンディーの家系図
を無批判に受け入れるという誤りを犯している(40)。
ハンター J. Hunter の説では, ロビン・フッドはエドワード 2 世の治世 (1307∼27
年) に実在し, ランカスター伯爵トーマスの反乱で敗走した王室衣裳部屋賃金支払の会
計記録中 the accounts of the King’s wardrobe wage payments に記載された門番
「ロバート・フッド」 Robert Hood で, 1323 年の国王エドワード 2 世の北部巡歴の時
との連関性が指摘されている(41)。 トレヴェリアンは, 初期のバラードで示唆されている
国王はエドワード 1 世であろうと推測している(42)。 やがて, 1228 年, 1230 年, 1231 年
の史料にある, ヨークシャーの Hobbehod に注目したオーエン L. V. D. Owen の説(43),
エントヴィッスル W. J. Entwistle の, 1198 年に死亡した人物などに実在性を探る説(44),
1296 年, サセックスの Gilbert Robynhod, 1316∼1335 年, ウェイクフィールド裁判
文書の Robert Hode of Newton, 1324 年の裁判文書の下男 vadlet の Robyn Hode,
1332 年のサセックスの Robert Robynhoud などの名前を列挙したチェンバース E. K.
Chambers の説など(45) の諸説が乱立したが, これらによってロビン・フッドの起源は
― 67 ―
ほぼ 13 世紀に落ち着くことになる。 この他にも, ポーイック F. M. Powicke の, シモ
ン・ド・モンフォールの乱の時代の伝説とウェイクフィールドのロバート・フッドとの
関連性について述べたものや(46), ハリス P. V. Harris の, ウェイクフィールドの裁判文
書等から, ヘンリー 3 世治世下の 1230 年のパイプ・ロウルズ Pipe Rolls 中にある逃亡
者ロバート・フッドを伝説のモデルとした説まである(47)。
日本における, ロビン・フッド伝説の普及について詳しく紹介している上野美子氏に
よれば, 1910 年 (明治 43 年), 複数の物語を集めたと思われる近藤敏三郎の翻訳や,
1922 年 (大正 12 年) 岡倉由三郎による Old English Ballads におけるバラード集があ
り, 1930 年代までには, 児童文学などを中心に, 物語の普及が進んでいたようである。
特に, 村山知義は, 1922 年に, マーシャル H. E. Marshall の 「ロビン・フッド物語」
Stories of Robin Hood を,
三つの物語
Three Stories の中に翻訳し, 公刊した。 や
がて村山は左翼運動へと身を投じ, 1920 年代後半以降, 左翼的劇団前衛座で, 急進的
な内容のロビン・フッド劇を公演した。 その創作劇は, 「君主に歯向かう森の義賊を革
命的なインテリとし, 百姓一揆とを結びつけた」 ロビンであった。 この劇は, やがて太
平洋戦争の時期に, 政治的理由によって上演禁止の措置を受けるが, 革命的アウトロー
としてのロビンを, 後に述べるヒルトンの論文が発表される以前に, すでに農民に味方
する英雄として取り上げた日本人がいたことは興味深い(48)。
中世の史料に関するものでは, 1979 年, 金山崇氏によるロビン・フッド武勇伝の抄
訳が存在する。 チャイルドによる 1492 年から 1534 年の間に出版された, 中世イギリス
のロビン・フッド写本を日本語訳にした最初のものであり, それまでに原典の翻訳がな
かったことは, 日本における関心の薄さを示す証左でもある(49)。
ロビン・フッドの写本に関して研究を進めた日本人研究者もいる。 宮利行氏は, 先
に挙げた, ロビン・フッドのバラード蒐集で知られる, トーマス・パーシーによる二折
判写本が, 焼却直前に買い取られたとする, 史料発見の経緯を報告している。 その史料
は, リッスンとの真贋をめぐる争いを経て, チャイルドの働きかけにより, 大英博物館
に収蔵されることとなった。 さらに 163060 年に制作されたと判断される 152 枚の 「ロ
ビン・フッド・バラードのフォレスターズ四折判写本」 にある 21 作品 「ロビン・フッ
ドと花嫁」 「ロビン・フッドとウェイクフィールドのビンダー」 などが, いくつかの競
売を経て, 英国図書館に収蔵された状況についても報告している(50)。
5. ロビン・フッドの聴衆
a.
過去と現在
誌上での論争
本論の冒頭で紹介したとおり, 1958 年にヒルトン R. H. Hilton が
― 68 ―
過去と現在
誌
ロビン・フッド伝説と時代背景
に寄せた論文は, ロビン・フッド論争を社会史の領域にまで拡げた。 ヒルトンは, ハン
ター説にあるウェイクフィールドのロバート・フッドがロビン・フッドのモデルになっ
たと考え, バラード作品に描写された状況は, 1381 年の農民一揆の時代に見るような
聖職者や貴族の支配体制に対する農民の不満を反映し, その時代, 社会的に抑圧された
人々にとってロビン・フッドとは, 自分たちの期待や願望を果たしてくれる夢のような
存在であったと推論し(51), ロビン・フッド伝説は貴族の戦争の挿話ではなく, 王室の裁
判官によってアウトロー化された農民の闘争の挿話であり, 自由身分のヨーマンが貧者
に与えるために富者から掠奪するという貴族や高位聖職者との闘争が伝説となったもの
であるとした。 バラードにはロビンが零落した騎士を助ける場面があるが, これは富裕
なヨーマンと下級ジェントリとの区別が曖昧になった当時の特殊な社会状況を示すもの
であると考えた(52)。
この説に反論したホウルト J. C. Holt は, ロビン・フッドの騎士的な礼儀作法は吟遊
詩人が伝えた騎士物語やフランスのカロル carol から派生したジェントリの文学であり,
それは吟遊詩人たちがジェントリの暮らすマナー・ハウスにいた聴衆に伝えたものであ
り, 金持ちから奪い貧民に分け与えるといった, 農民の聴衆に向けられているような記
述を示す箇所はバラード作品中には存在しないと主張した。 これはケァー W. P. Ker
が, ロビン・フッドの礼儀正しさは騎士階級に迎合するためのものだとする考えを踏襲
する形となる(53)。 さらにホウルトは
ロビン・フッド武勇伝
には 13 世紀の国王エド
ワード 2 世の北方巡歴や, 王室御料林の問題が物語として書かれたものであるとした。
これはオーエンの指摘したヨークシャーの逃亡者 Hobbehod 説に符合することにな
る(54)。
キーン M. H. Keen はこのホウルト説を批判し, ロビン・フッドはジェントリよりも
下の階級の弓術に秀でた英雄で, バラードは中世後期, 社会的に抑圧された人々の不満
を反映し, 宮廷や騎士についての記述は存在しないと, ヒルトン同様の説を発表した
が(55), 同じ年の別の著書では, ハンターのロバート・フッド説は支持せず, ロビン・フッ
ドを庶民の願望を体現してくれる人物であると結論した(56)。 キーンの批判にホウルトは
反論し, ロビン・フッドがヨーマンであっても, それが 14, 15 世紀の下層の人々の社
会的な不満を反映したのではないとした(57)。 こうした論争の過熱に対してアストン T.
H. Aston は, 「もしホゥルト氏が正しければ, もし, ロビンが農民層の英雄ではなく,
ジェントリの英雄であったなら, キーン氏は自説を修正しなければならない。 ……ロビ
ン・フッド伝説を, 農民の不満を表す文学と見なすことの重要な難点は確かに, 既存の
社会構造を彼ら (アウトロー) が基本的に受容していること, および (彼らと) 農民一
揆の社会的挑戦との間には著しい相違があることである」 とキーンを批判する(58)。 これ
についてキーンは, ロビンを革命家に仕立てようとするのではなく, 農民たちを, 部分
― 69 ―
的な改革者に仕立てようとしたのであって, 「彼ら農民たちは, (社会) 制度全体の再検
討を求めたのではなく, その制度の中で, 彼らにとって耐え難い特定の問題点の改善を
求めた」 (59)と答えている。 しかしアストンは, 当時の普通の農民の不満, すなわち, 地
代, 賦役, 土地保有条件, おそらく最も広範かつ恒常的なトラブルの原因であった共同
権, および土地の自由移譲, マナー役人の強奪, 等々をめぐる社会的不満が, バラード
の中にどこにも見られないと述べながら, 当時の深刻な社会的階層分化を指摘し, 貴族
の不満や農民層の不満とは別に, アウトローの不満も検討する必要があることを示唆し
た。 そして農民達が不満を抱いたこと, あるいはグリーンウッドの物語に聞き入ったこ
とを否定するものではなく, 彼の主人たち
マナー領主やリーヴ reeve など
と
の彼らの争いが, ロマンティックではあるが, 身の毛のよだつような調べの中で正義の
大勝利を収めるという物語が, 彼らを喜ばせたことを否定するものでもないとも述べて
いる(60)。 キーンはロビン・フッド・バラードが, 吟遊詩人が礼儀をわきまえた騎士の物
語をジェントリのマナー・ハウスで演じたもので, 農民へのいたわりは単なる正義心か
らであり, 農民一揆との接点は何もない, とこれまでの自説を撤回し, ホウルト説を認
めた(61)。 こうして
過去と現在
誌上で展開された論争は一時終息したかのように思え
た。
b. ドブスンとテイラーの見解
農民の抗議
ドブスン R. B. Dobson とテイラー J. Taylor は, ロビン・フッド・バラードの中に
登場する人物や地名を検討した。 ロビンは, もともとは民衆の出であったが, 吟遊詩人
によって名の知れた犯罪者や反徒たちが彼の周りに寄せ集められ, 義賊に仕立てられ,
やがて台頭しつつあった新たな階層である 「ヨーマン yeoman」 の英雄にされたと考
え, さらにアウトローたちがシェリフとの戦いを通じて, 正義が実現するという聴衆向
けの演出が施されるようになったと主張した。 ヒルトンとホウルトとの見解の相違に関
しては, 彼らはあたかも中立的態度をとっているかのようだ。 彼らは黒死病後の時代,
労働力不足と賃金の騰貴, 農奴制の衰退, 移動の自由の拡大に伴うイングランド農民の
社会的, 経済的地位の向上に関連づけて, グリーンウッドの伝説は 1400 年前後のイン
グランドの多くの人々の向上心を反映していると想定する(62)。 そしてロビン・フッド・
バラードや 武勇伝 で訴えられていることを, いずれか一方に偏って解釈するよりは,
ロビン・フッド伝説が農民の抗議の産物でもあり, ジェントルマン的な現実逃避の産物
でもあったと説明する方がより説得力をもつと考えている。 さらにまた彼らは, ロビン・
フッドは当時の新興階層のヨーマンであって, 当時の人々の願望を実現してくれる伝説
上の人物であると見なしている(63)。
― 70 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
c. マディコットの見解
民衆の不満
ロビン・フッド・バラードの 13 世紀起源説を否定したのは, マディコット J. R.
Maddicott である。 彼は裁判文書からロビン・フッド・バラードの登場人物を割り出
し, それが書かれたのは
農夫ピアース
よりやや早い 14 世紀前半に書かれたもので
あると主張した。 例えばヨークのセント・メアリー修道院長で, 1332∼1359 年に高利
貸しをしていた Thomas de Multon, 1324∼38 年, ヨークシャー出身の国王裁判所首
席判事 Sir Geoffrey le Scrope, 1334∼39 年, ノッティンガムのシェリフで, 1341 年
に職権乱用でアウトローとして法外追放され, 土地を王室に没収された別名も持つ謎の
人物 John de Oxenford やアウトローの James Coterel, Richard Folville などが挙げ
られている。 さらに彼は上記のノッティンガムのシェリフやアウトローたちに関係のあ
る北部ミッドランド地方は, ロビン・フッド発祥の地であることを指摘し, アウトロー
の評判が高まり, 道徳的にも動揺していた 14 世紀前半の状況の中で, 人々の抗議の声
が文学的形式をとって現れたのがロビン・フッド・バラードであると考えた。 類似の例
として彼が挙げているのは, 1338∼39 年の作品
国王の課税に抵抗する歌
Song
against the King’s Taxes である。 これは課税の実情に不満を訴えているだけでなく徴
税を行った人々の暴利や脱税している富裕層にも不平を述べている。 さらにもう一つの
作品
ハズバンドマンの歌
Song of the Husbandman では, 国王の (食糧) 徴発官
purveyors や徴税を強行するベイリフ bailiffs などが非難されている。
結局マディコットによれば, ロビン・フッド伝説はいろいろな 「風刺と不平の文学」
から由来し, 風刺や不平の訴えが数多くあった 14 世紀前半に創り出されたことにな
る(64)。
d. ベラミーの見解
貴族の聴衆
マディコットの見解は, ホウルトには受け入れることができなかった。 ホウルト説を
支持し, その証明を試みたのはベラミー J. G. Bellamy であった。 彼はロビンの王室と
の接点を強調し,
武勇伝
にあるように, 森で国王の変装を見破り, 国王が鹿を密猟
したロビンを許したのは, 二人が以前から面識があった可能性を示唆する。 国王との関
係はロビンの行動や品格から考えて, ロビンがジェントルマン出身で, かつて上流社会
で生活したことがあったからであろうと推察している。 さらに彼はロビンが, ウォレン
ヌ伯ジョンかランカスター伯トーマスに仕えていた可能性があり, ここに出てくる国王
は北部巡歴の期間から考えて, エドワード 2 世であろうと示唆した。 また彼は 1323 年
6 月の王室衣裳部屋会計簿中の給与台帳中に出てくる Robyn Hode という人物や,
1319∼27 年の王室裁判所の記録中に職権乱用で非難された Henry de Faucomberge が,
― 71 ―
実は
武勇伝
中のシェリフではないかと考え, ロビンが客としてもてなした Sir
Richard ate the Lee は, ジェントリ家系の末裔で, 1319 年にアークシーの主任司祭と
なったリチャード・ド・ラ・リーであり, atte が付されたのは韻律合わせのためか,
上流階級に迎合するためであろうと推測した。 以上のことからベラミーは, 1320 年ご
ろに起こった歴史上の事柄を, バラードの作者が, 1370 年代に誇張した犯罪話を好ん
だ貴族の聴衆を意識して編集したのであろうと結論づけた(65)。
6. バラードの起源
ホウルトの見解
ホウルトは伝説の起源を 13 世紀に求める自説を裏付けるために, 「ロビン・フッド」
を連想させる名字や渾名を史料として提示した。 例えば 1261∼62 年のバークシャーの
強盗犯 William Robehod, 1272 年のエセックスの窃盗犯 Alexander Robehood, 1272
年のハンプシャーの殺人犯でアウトローになった John Rabunhood, 1284 年サフォー
クの刑事犯で, 保証人を立てて釈放された Gilbert Robinhood, 1294 年のハンプシャー
の羊泥棒 Robert Robehood, 1296 年のサセックスの上納金記録集 Subsidy Roll 中に
現れるフレッチング Fletching の ‘Gilbert Robynhod’, 1325 年のロンドンの Katherine Robynhod , 1381 年 の サ セ ッ ク ス の ウ ィ ン チ ェ ル シ ー Winchelsea の Robert
Robynhoud などである。
ホウルトによれば, これらの Robinhood という名前は, リトル・ジョンと並んで,
当時刑事犯に使われた渾名であって, 彼らは伝説と結びついている人物であるに違いな
いと想定した。 フレッチングの Gilbert Robynhod は, レスター伯のサセックスにあ
る特権領中のマナの保有農民であった。 このフレッチングは, 1292 年に, ポンティフ
ラクト Pontefract のレイシー家 The Lacy の娘がランカスター家のトーマスと結婚し
たために, ランカスター伯の大所領の一部になった。 ポンティフラクトは, ロビン伝説
の発祥の地とされていることから, 伝説が吟遊詩人などによって, サセックスにも伝わっ
たのであろうと, ホウルトは考えている。 14 世紀に登場するもう一人の Katherine
Robiynhod は, 1325 年に, ロンドンの検屍官記録 Coroner’s Roll 中に現れている。
彼女の名字 Robiynhod は, 実は父親の名字であった。 この父親ロバートは, ロンドン
の市会議員で, 1294 年の記録には, ロンドンのヴィントリー区 Vintry Ward に持って
いた旅籠に, おそらく自分の名前に因んで, hostel Robin Hod という名前を付けた。
また, サセックスの Robert Robynhoud もまた, 父親譲りの名前であろう。 以上のこ
とから, Robinhood という名字が, 凶悪な刑事犯や, 彼らと対決した人々に, 繰り
返し結び付けられて, 彼らはロビン・フッドと呼ばれるようになったのであろう。 従っ
て, 13 世紀末, 伝説がすでに流布していたことは確かであると, ホウルトは主張して
― 72 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
いる(66)。
伝説の 13 世紀起源説は, クルック D. Crook によって発見されたもう一つの名前の
史料によって補強された。 1262 年 4 月 21 日金曜日かそれ以前の復活祭の第一週に, 財
務府のバロンたち, すなわち債務徴収官たちは, 国王の令状を受け取った。 それは, バー
クシャー Berkshire のサンドルフォード Sandleford の小修道院長が, 逃亡犯 William
Robehod の家財を不法に差し押さえ, 州の巡回裁判で 1 マルクの罰金を科されたが,
その罰金を免除する国王の令状であった。 この令状の受領は, 財務府の国王収入管理長
官ロジャー・ド・ラ・リー Roger de la Legh の覚書集に書きとめられている。
さらにクルックは, 国王巡回裁判に携わった人物である Gilbert of Preston, Martin
of Littlebury および Geoffrey of Lewknor が残した記録とされる, 1261 年のバーク
シャーのキンベリー・ハンドレッド Kintbury Hundred の王室裁判所記録 Crown
Plea の起訴状の中に, 裁判を拒否して逃亡してアウトローになった刑事犯や, 彼らを
匿った人たちの中に William son of Robert le Fevere を発見し, ハンプシャーのニュー
ベリー Newbury の南のインボーン Enborne 村出身のロバートの息子ウィリアムを,
上述のサンドルフォード小修道院長の事件に登場した William Robehod と同一人物で
あると断定した。 名前が異なる理由は, 1261 年と 1262 年に, 逃亡犯や刑事犯の名前を
記載する際に, ロビン・フッド伝説を知っていた書記が, 逃亡犯や刑事犯のウィリアム
を, ロビンとか, ロバートと書き換えることを思いついたためであろうと推測している。
「フッド」 hood という語も, そうした書き換えの折に追加されたと思われる。
なお, 上述の 1261 年のバークシャーの巡回裁判記録謄本 Berkshire Eyre Rolls が,
1261 年のオックスフォードシャーやグロスターシャーの巡回裁判記録謄本 Preston’s
Oxfordshire and Gloucestershire Eyres やグロスターシャーの巡回裁判記録謄本およ
び, 1261―62 年のノーサンプトンシャーの巡回裁判記録謄本とともに, 大法官ウォル
ター・オブ・マートン Walter of Merton によって王室会計長官に届けられたのは,
1262 年の 5 月になってからであった。 この遅延は, 財務府側から, オックスフォード
シャーやバークシャーのシェリフに復活祭召還状が送られていたためで, その間に, サ
ンドルフォードの小修道院長は, 国王の免除を獲得し, また, 伝説を知っていた裁判記
録を書いた書記や, 召還状を書いた書記, 令状を書いた大法官の書記, あるいは 「覚書」
の書記による名前の書き換えが起こったのであろうとクルックは述べ, それには, ロビ
ン・フッド伝説が影響を与えている可能性があると示唆している(67)。
7. バラードの聴衆と農民一揆の叛徒
ホウルトの著書
ロビン・フッド
ヒルトンの見解
に対する書評で, ヒルトンはホウルトに反論して
― 73 ―
いる(68)。 ホウルトが, この著書の中で, ロビン・フッドは誰かという問題に多くのペー
ジを費やして, 綿密に検討し, 結局, 13 世紀初期の南ヨークシャーの犯罪者を見つけ
出しているが, ロビンが実在したにせよ, そうでなかったにせよ, ロビン・フッド伝説
は, 実際の生活に根ざしていたのだから, ロビンが誰であったのかというより, その伝
説によって果たされた役割のほうが重要であるとヒルトンは主張している。
バラードの聴衆はジェントリであったとみなすホウルトの主張の中に, 彼の特有の主
観的要素をヒルトンは指摘し, 彼の貴族の歴史に関する専門的知識と偏愛が, バラード
の聴衆の貴族的環境を強調させたと指摘している。 また, ヒルトンは, ホウルトの方法
が, 古い年代記作者の方法に似ていると批判し, 聴衆に関してホウルトが集めた資料は,
13 世紀から 15 世紀まで, ほとんど無差別に集められていると指摘している。 ヒルトン
によれば, ホウルトが選んだ伝説の環境は, 実は貴族階級から外れたところにあったと
いうことだ。 巡回裁判ないし森林巡回裁判の訴訟記録を読む人は誰でも, 開放耕地も森
林地も, 大小貴族の従者たちによって荒らされていることに気付く。 多くの犯罪訴訟記
録から, 歴史家たちはこのような悪漢たちの姿を描いている。 ホウルトは, ロビン・フッ
ドの活動と, 貴族の周辺の犯罪者たちの活動との間の類似性を, ベラミーによって示唆
されているにもかかわらず拒否しているようであるとヒルトンは批判している。
さらに, バラード作者や吟遊詩人が 「自由な血の生まれのジェントルマン」 や 「ヨー
マン」 と, 聴衆に語りかける中世後期の傾向が, ホウルト説にとって有利であるかのよ
うに思われるが, ロビン・フッドについて最初に言及している
農夫ピアース
の中で
は, 「ジェントルマン」 とか 「ヨーマン」 という用語が一般的に使われていて, 付加事
項条例 the Statute of Additions (1413) 以後の法廷では必ず使われるようになったか
ら, 「ヨーマン」 は, ホウルトが考えているような貴族の家臣というよりむしろ自由身
分の保有農民であったと強調している。
ホウルトは, ロビン・フッドが体制転覆に味方したという考えを退けて, 犯罪的な盗
賊以上の者であったとする示唆を, 「死者の化粧」 として非難している。 これに対して
ヒルトンは, 1958 年の自身の論文を引用して次のように反論する。 「こうした経済的不
満や社会的不満の絡み合った歴史は, 富農や貧農, 隷属民, 自称自由民および自由民に
影響を及ぼし, 内乱の短命な勃発よりも, ロビン・フッドのバラードを生み出したよう
に思われる」 (69)と繰り返し述べている。
ロビン・フッド・バラードが, 農民の不満を背景としているというヒルトンの見解は,
ここでさらに一層強調されているように思われる。 ヒルトンは, ホウルトの 「社会史家
に対する敵意」 が, 聴衆に関するたくさんの有益な資料を集めながら, 聴衆に関するも
う一つの重要な要素を見逃していると指摘する。 ラングランドの
農夫ピアース
の出
版年とされる 1377 年から 4 年後の 1381 年に, それ以前の数十年の騒乱の時期を経て,
― 74 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
短命ではあるが最も顕著な中世ヨーロッパの叛乱の一つであるワット・タイラーの一揆
が勃発したが, この農民一揆には, 一つのイデオロギーとして 「自由への要求」 が秘め
られていたと, ヒルトンは強調している。 そして, その要求には, 隷属的土地保有から
の解放が含まれているが, それ以上の広範な自由が含まれていたと, ヒルトンは述べて
いる。 すなわち, 反乱に加わった者たちの多くは, すでに自由身分であり, 裕福でもあっ
たので, 彼らにとっての自由は, 法律上, 土地保有上の自由以上のものであり, その中
には農奴制の廃止が含まれていたのである。 しかし, 封建家臣や犯罪者たちを先ず考え
るホウルトの先入観が, 少なくとも人口の 80 パーセントを構成したハズバンドメンや
農村ヨーマンを全く無視させたのであると, ヒルトンはホウルトを批判している(70)。
最後に, 森のアウトローであるロビン・フッドたちと, ジェントリが主要部分を占め
る犯罪者たちとの間の類似性に関する説明でヒルトンは, ロビン・フッド・バラードの
ような文学が真実の生活を映し出すと考えるのは幻想であるが, 熱望の反映でもあると
している。 そして, その熱望は必然的に現実生活の経験から現れる。 吟遊詩人, 竪琴弾
きなどが, 隷農制や労働賦役や人頭税に触れないで, むしろ現実世界から解き放たれて,
労苦のない豊かさを享受している人々の夢想に触れているとしても驚くに当たらない。
しかしそれでも, モデルはいたに違いないとヒルトンは結んでいる。
8. 伝説伝播の背景
最後に, ロビン・フッド伝説の伝播の背景について, より新しい研究成果をいくつか
挙げて, 若干の考察を試みたい。 ホウルトは, 1225 年 7 月のヨークの国王裁判所で,
逃亡者と記録されている Robert Hod, 翌年の記録では Hobbehod と呼ばれている人
物を, 現在のところ実在した可能性のある唯一のロビン・フッドであるという。 しかし,
国王裁判所の裁判から逃亡し, アウトローになったこの人物ついては, 史料不足のため
これ以上のことは分らない。 ロビン・フッドが実在したにせよ, 実在しなかったにせよ,
1261 年のバークシャーの巡回裁判で, 強盗の廉で起訴され, 逃亡してアウトローになっ
た William son of Robert が, 翌年の記録では, 書記の手で Willliam Robinhood と
書き換えられた。 書記の心の中では, 彼はロビン・フッドであったのだ。 この例が示し
ているように, 現実の刑事犯人と英雄伝説が絡みあっている。 従って, ロビン・フッド
伝説には歴史上の事実と虚構とが混在している。 さらに聴衆受けを狙うように作り変え
られ, 話の内容が大きく膨らまされていった。 結局, ホウルトがいうように, 「さまざ
まなロビン・フッドが存在した(71)」。
これは, ロビン・フッドの身分についても言える。 ロビンは貴族であったのか, ジェ
ントルマンであったか, ヨーマンであったのか, あるいは自由農民であったのかは長い
― 75 ―
間論争されてきた問題である。
より新しい研究として, コス P. R. Coss は,
武勇伝
に使われた用語が, 紋章をつ
ける資格のある者たちと土地を耕す農民との社会的違いを説明しているとして,
伝
武勇
が騎士とは違う聴衆のために作られたと結論し, その作品 [武勇伝] の中に騎士の
儀式を風刺しているところがあることに気付いた(72)。
リッチモンド C. Richmond は, ロビン・フッドから, 「ヨーマンにふさわしい」 中
間的で過渡的な身分を連想した。 ロビンは, 単に中間規模の保有地をもつ富裕な農民か
らなる新興の農村エリートの夢や向上心ばかりでなく, 地位が下降移動して上層農民の
階層に仲間入りしたジェントリの年下の息子たちの夢や希望をも体現すると彼は主張す
る(73)。
2001 年に
過去と現在
誌に掲載された, ポラード A. J. Pollard およびアーモンド
R. Almond による論文では, ヨーマンは古英語のヤンガーマン yonger man に由来し,
やがて, そのヨーマンという語が, 社会的, 経済的地位を意味する語に変化し, 14 世
紀には, 役職上の地位を意味するフランス語の valet やラテン語の valettus の訳語と
して使われるようになり, 貴族の世帯のエスカイア esquire (騎士の下の身分) と従僕
groom の間に位置づけられるようになった, と説明されている。 ヴァレットとかヨー
マンは, 14 世紀後期から 15 世紀初期の富の格差が拡大した時代に, 地方におけるハズ
バンドマン husbandman とジェントルマン gentleman との間の中間的な社会範疇に
拡大され, ヨーマン層は, 多様な社会身分の者たちが入り混じった階層になった, と彼
らはみなしている。
ロビンと彼の仲間は, これゆえに森のヨーマンではないが, 森に避難した中間の社会
的身分のアウトロー化されたヨーマンであった。 それゆえ, ロビンとその仲間は, 森で
団結した逃走中の富裕なカントリーメンということになる。 森林を監視する森林管理官
に対して, 農民は農地を耕したのであれば, ヨーマンは森林を歩いたということにな
る(74)。
武勇伝
に
We be yemen of this foreste,
Under the grenewode tre,
We lyve by oure kynges dere,
Other shyft have not we. (75)
我々はこの森のヨーマンである。
グリーン・ウッドの木の下で
我らが親愛なる国王によって生き
― 76 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
余計なシェリフはいない。
とあるが, 彼らは, ホウルトがバラードで繰り返される狩猟の話については検討しなかっ
たことも指摘し, 森林管理官はヨーマンであり, 森林の侵入者の監視, 鹿の飼育と放牧,
御猟林の緑樹の保護, 無免許の放牧や違法な伐採の調査, 御猟林の管理などを行ったの
であり, ヨーマンは, 農民とジェントリの間の中間階層をなす裕福な農民ではなく, 慣
習的に森林を監視する人たちを言い表す用語として使われたと考えている。
そしてロビン・フッドは, そうした森林管理官たちの指揮官であり, 140 名の勇敢な
ヨーマンのアウトローの首領 master であるロビンが, 宮廷から森のアウトローの人生
に戻った時, その仲間が彼の帰還を歓迎することを見ても, 森の王としての存在が示さ
れている。 また, ロビンとその仲間たちは, リンカーン・グリーンと呼ばれる緑色の服
を身に着けるが, 森に入る際の衣装は, まさに森林管理官の服装そのものということに
なる。 森林管理官には, 騎馬管理官と徒歩管理官とがいた。 彼らはグリーンの服装で,
弓を携えて見回る。 その姿は, ロビン・フッドそのものであった。 彼らは狩猟の慣例や
用語に精通することを要求された。 これはまさにロビンの行動と一致する。
猟場の管理人である森林管理官のヨーマンと, アウトローのロビンとの一致しない点
は, 中世後期のヨーマンの森林管理官が, 多岐にわたる職務を果たし, 森林の中の鹿の
隠れ場所の草木を維持し, 鹿肉を保存する責任を有し, 複雑な組織に属していた点にあ
ると, アーモンドとポラードは指摘し, これら森林管理官の職務は, 通常, 廷臣または
貴族の家臣によって, 閑職として占められていたと説明している。
さらに, バラードにはトリスト tryst という語が使われている。 これは, いわば狩猟
を行う際の中継地のことで, ジェントリのハンターが, bowbeares (弓を運ぶ下役で,
猟場の侵害を監視もした) とか, fewterers (猟犬の世話をする下役) などの従者を連
れてトリストと呼ばれた, 鹿を受け取るために落ち合った場所であった。 それには, 目
立ちやすい樹木が指定された。 ここは, ハンティング・スポットとしても使われた。 バ
ラードによく出てくるトリステル・ツリーとは, まさにそうした場所であった。 そして,
あの騎士が, 借金返済の暁にロビンに歓迎されたところも, トリステル・ツリーの下で
あったと述べている。
ポラードは, 狩猟に携わる森林管理官は, 高貴な聴衆にも, 一般の聴衆にも馴染みの
人物であったため, ロビンは, ジェントリやヨーマンや民衆にとって, 身近な存在とし
て, 彼らの心に訴えることが出来たこと, 弓の名手として, 高貴な聴衆からも, 一般の
聴衆からも賞賛されたこと, 従って, ロビンは, 貴族の世帯に属しているものとみなさ
れる必要がないどころか, 新しい中間階層の代表とみなされる必要もないことを強調し,
ロビンはまさに社会的カテゴリーを超越した存在になっていると述べている(76)。
― 77 ―
バラードの聴衆の拡がりが, ロビンの身分を変化させたことは確かである。 ホウルト
は, ロビンが金持ちから奪うが, 貧者に与えてはいない点を指摘しているが, ロビンが
零落騎士のサー・リチャードを金銭面で援助したり, リトル・ジョンに, 農民を傷つけ
てはならないと諭す場面などに垣間見られるように, 聴衆の拡がりの過程で, バラード
が作り変えられたと考えることが出来るし, 当時の森林を取り巻く社会情勢の複雑さと,
衰退しつつあった森林管理の社会状況も説明できる。 貴族の館であるマナ・ハウスで語
られるロビンは貴族的に振舞い, 民衆に語りかける時は, 彼らが憧れるヨーマンになっ
た。 そのことは, ホウルトが追求してきたように, 13 世紀に起源があり, その裏づけ
がいかに詳細なものであったとしても, ジェントリとヨーマンの双方の聴衆に訴えると
いう混成した状況が生まれてこそ, ロビン・フッド伝説が存続する意味があったのだと
いえる。
ロビン・フッド伝説の伝播は, 中世後期の社会的, 経済的, 政治的変化と関連してい
る。 中世後期, 特に黒死病以後, イングランドの人口減少, 労働力不足, 賃金騰貴, 農
産物価格の低落, 地代収入の減少, 国民所得の縮小など。 こうした経済衰退から最も打
撃を受けたのは土地領主である封建貴族であった。 反面, 農民は, 土地の価値および地
代の低下, 賃金の高騰によって生活を向上させる機会に恵まれ, 不自由身分からの解放
を領主に求めて抵抗した。 その中で最も旺盛な上昇意欲をもって台頭してきたのがヨー
マンであった。 国王を除く封建貴族は衰え, 農村における農民生活は改善された。 特に
富裕な農民は, 生活様式や社会的地位において騎士 knight 階級と区別しにくくなった。
初め貴族のマナ・ハウスで語られたロビン・フッド・バラードは, 民衆の中に聴衆を見
出すようになった。
社会的, 経済的, 政治的変化は, 文学に影響を与えたと思われる。 ノルマン征服後,
イングランドの公式用語はフランス語であった。 しかし, 百年戦争を契機に, 国民的自
覚が高まり, 上述の中間階級の台頭, および読み書き能力の成長を背景に, 中英語が発
達した。 1362 年, 初めて議会や法廷で英語が公式に使われた(77)。 やがてチョーサー G.
Chaucer によって
カンタベリー物語
Canterbury Tales が著された。 そしてフラン
ス語やラテン語の詩などが英語に翻訳されるようになり, 貴族も積極的に詩人を後援し,
詩の英訳を依頼するようになった。 これは, 彼らが文化の主役の地位を追われそうな危
険を感じたためであり, こうした風潮の中で,
Monk,
フーク・フィッツ・ウォーリン
Bell および
ギャムリン物語
修道士ユースタシュ
Fulk fitz Warin,
Eustace the
アダム・ベル
Adam
The Tale of Gamelyn などのアウトローの英雄伝説が,
ロビン・フッド伝説と並んで語られるようになったと思われる。
それでは, ロビン・フッド・バラードと同時代のもので, 内容的にも多くの共通点の
あるアウトローの英雄伝説が, ロビン・フッド伝説ほど時代を超えて愛好されなかった
― 78 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
のはなぜか。 コスは,
武勇伝
を構成するテーマを検討して, 零落騎士と債務の返済,
ロビンのノッティンガムのシェリフとの闘争, ロビンの国王との面会といったテーマの
中のストーリーが, 細かい点で食い違いが見られるから,
武勇伝
は明らかに, 消滅
した小バラードや他の物語も取り入れて集大成された混合作品であろうと推測した。 コ
スのいうように,
武勇伝
を編集した詩人たちが何人いたのかは分らない。 そして,
編集した詩人たちが, 単にいろいろな話を繋ぎ合わせただけではなく, 吟遊詩人が語る
際にストーリーの変更すら行われたかもしれない。
結局, 同時代のロマンスが, 歴史的な話と宮廷貴族の話が多かったのに対して, ロビ
ン・フッド伝説は虚実が入り混じり, 騎士ロマンスと低俗な内容をあわせ持ち, 実在し
たのか虚構の人物なのかどうかさえも分らない。 それゆえに, 歴史事実を超越したロビ
ンの人物像が, 階層の上下を問わずさまざまな人々に愛好され, 後世に語り継がれたの
ではないであろうか。
9. ロビン・フッド研究の展望
ポラードの見解は, より新たな研究成果として興味深い。 ポラードは近年, 国際日本
文化研究センターの招聘により来日し, シンポジウムが開催され, その内容が書籍とし
て出版されている(78)。 ホウルトの来日講演において, 中世の日本とイギリスに関する社
会制度をめぐる座談会もおこなわれたように, ポラードも, 日本とイギリスの公家と武
家に関する講演をおこなった。 ロビン・フッド研究をおこなったこの二人が, 来日時に
日本の歴史に関して高い関心を抱いていることは意義深いことであり, 今後のロビン・
フッド研究にこのような比較研究が影響を与える可能性も否定できないだろう。
それらの成果報告や, 今回は紹介をしなかったロビン・フッドに関する研究報告はま
だ数多くあるが, 目下, 調査, 研究を進めており, 別の機会に論ずることとしたい。
《注》
(1)
P. E. Szarmach, M. T. Tavormina and J. T. Rosenthal (ed.), Medieval England: An
Encyclopedia, London, 1998, pp. 570571.
A. L. Poole, From Domesday Book to Magna Carta, Oxford, 1951, pp. 3435.
(2)
(3)
G. M. Trevelyan, O. M., History of England, London, 1973, p. 221. (トレヴェリアン著,
大野真弓監訳
(4)
イギリス史 1
みすず書房, 1973, 1989 年, p. 180.)
T. Wright, Essays on Subjects Connected with the Literature, Popular Superstitutions,
and History of England in the Middle Ages, London, 1846, pp. 164211.
(5)
F. J. Child, The English and Scottish Popular Ballads, Boston, 188298, iii, pp. 4243,
5556.
W. Langland, The Vision of Piers The Plowman, bText, 1377 (W. ラングランド作,
(6)
柴田訳
農夫ピアースの夢
東海大学古典叢書, 東海大学出版会, 1981 年, pp. 138139.)
― 79 ―
(7)
ballad は本来 「バラッド」 と表記されることが多いが, 本論では 「バラード」 と表記し
た。 原一郎氏は次のように述べている。 「筆録文学としてみるバラッドは, バラッドの形骸
であってもバラッドそのものではない。 何となれば, バラッドは口承による流動の間を生き
ていてこそバラッドたりうるからである。 イギリスにおけるバラッドの最隆盛期は 15 世紀
とされるが, バラッドがそれ本来の姿で生きていたのは 1400 年頃までのことで, その時代
には carole と呼ばれる円舞 (ring dance) に伴ってうたわれていたのであった。 その後吟
遊詩人 (Minstrel) や吟誦詩人 (Bard) の出現によって, 「うたいもの」 としてのバラッド
は, 「語りもの」 としてのバラッドにその地位を譲り, ために Song-leader (わが口説など
の音頭取りにあたる) は Minstrel や Bard に, 歌い手 (踊り手) は聴き手に変わり, コー
ラスやリフレーンも概ね消失し, バラッドもそれ本来の相を変ずるようになった」 (原一郎
バラッド研究序説
(8)
南雲堂, 1975 年, pp. 78)。
Sheriff は 「州長官」 と訳される。 王室の管理下で州を統括する役人。 本論ではシェリフ
と表記した。
(9)
中世のバラードには, まだ, 恋人マリアン Maid Marian と托鉢修道士タック Friar Tuck
は登場していない。 マリアンは, 1283 年頃の, アダン・ド・ラ・アール Adam de la Halle
の牧歌劇
ロバンとマリオン
Le Jeu de Robin et Marion の物語が, ガウアー J. Gower に
取り上げられ, タックは, 1417 年以後, ロバート・スタッフォードという礼拝堂付司祭が
使った別名として, 後の時代に付け加えられた。 J. C. ホウルト, 朝治啓三訳 ロビン・フッ
ド
(城戸毅監訳
中世イギリスの法と社会 ), 刀水書房, 1993 年, pp. 169170.
R. B. Dobson & J. Taylor, ‘A Gest of Robyn Hode, Child 117’, Rymes of Robyn Hood An
(10)
Introduction to the English Outlaw, Gloucestershire, 1997, p. 79: Gest. st. 1.
J. C. Holt, Robin Hood, London, 1982, pp. 109110. (J. C. ホウルト著, 有光秀行訳
(11)
ビン・フッド
ン・フッド伝説
中世のアウトロー
みすず書房, 1994 年, pp. 175176);上野美子著
ロ
ロビ
研究社出版, 1988 年, pp. 5860 参照。
(12)
R. B. Dobson & J. Taylor, op. cit., p. 79: Gest. st. 2.
(13)
Ibid., p. 79: Gest. st. 4.
(14)
Ibid., p. 80: Gest. st. 13, 14.
(15)
Ibid., p. 80: Gest. st. 15.
(16)
Ibid., p. 104: Gest. st. 348.
(17)
ホウルト著, 有光訳, 前掲書, p. 27.
(18)
Dobson & Taylor, op. cit., p. 104: Gest. st. 353.
(19)
Ibid., p. 105.
(20)
Ibid., p. 108: Gest. st. 411.
(21)
筆者訳。
(22)
Dobson & Taylor, op. cit., p. 109: Gest. st. 422.
(23)
Robin Hood and the Monk, in Thomas Percy, Reliques of Ancient English Poetry, London, 1765.
R. B. Dobson & J. Taylor, Robin Hood and the Monk, Child 119, op. cit., p. 119: Monk, st.
(24)
52.
(25)
Ibid., p. 122: Monk, st. 87.
(26)
Ibid., p. 132: Potter, st. 75.
(27)
ホウルト著, 有光訳, 前掲書, p. 53.
(28)
Robin Hood and Guy of Gisborne, Bishop Percy Folio Manuscript: Ballad and Romances,
186768.
(29)
R. B. Dobson & J. Taylor, ‘Robin Hood and the Guy of Gisborne, Child 120,’ op. cit., p.
― 80 ―
ロビン・フッド伝説と時代背景
144: Guy. st. 42.
R. H. Hilton, ‘The Origins of Robin Hood’, Past and Present, 14, November, 1958; re-
(30)
printed in R. H. Hilton (ed.), Peasants, Knights and Heretics, Cambridge, 1976, p. 232.
(31)
Robin Hood and his Death, Percys, 186768.
(32)
F. J. Amours (ed.), The Original Chronicle of Andrew de Wyntoun, Vol. I, Scottish
Text Society, 1907.
(33)
J. Major, History of Greater Britain, 1521, Edinburgh, 1892.
(34)
R. Grafton, Abridgement of Chronicles, 1572.
(35)
A. Munday, H. Chettle, Downfall and Death of Robert Earl of Huntingdon, 1601; W.
Stukely, The Pedigree of Robin Hood, Earl of Huntingdon, 1704; J. Ritson, Robin Hood:
A Collection of all the Ancient Poems, Songs and Ballads Now Extant, Relative to that
Celebrated Outlaw, London, 1887, 1997, p. xvi.
W. Scott, Ivanhoe, 1819. Ritson は, ロビン・フッドはノッティンガムの Locksley に生
(36)
まれたと述べている (Ritson, op. cit., p. ii.)。
(37)
A. Thierry, History of The Conquest of England, Ⅱ, 1825, trans. 1847.
(38)
J. M. Gutch, London & Westminster Review, 1840.
(39)
J. Ritson, op. cit.
J. Bellamy, Robin Hood an historical enquiry, London, 1985. (ジョン・ベラミ著, 鈴木
(40)
利章, 赤阪俊一訳
ロビン・フッド
歴史学からのひとつの試み
法律文化社, 1992 年,
pp. 17)
J. Hunter, ‘Robin Hood’ Critical and Historical Tracts, No. 4, London, 1852, Knight
(41)
(ed.), op. cit., pp. 187195.
G. M. Trevelyan, O. M., History of England, London, 1973, p. 221. (トレヴェリアン著,
(42)
大野真弓監訳, 前掲書, p. 180.)
(43)
L. V. D. Owen, ‘Robin Hood in The Light of Research,’ The Times Trade and Engineering Supplement, February, 1936.
(44)
W. J. Entwistle, European Balladry, Oxford, 1939, p. 232, 原一郎, 前掲書, p. 10.
(45)
E. K. Chambers, English Literature at the close of The Middle Ages, 1945.
(46)
F. M. Powicke, King Henry III and the Lord Edward, Oxford, 1947, pp. 529530.
(47)
P. V. Harris, The True about Robin Hood, Mansfield, 1973, pp. 7375, ‘Who Was Robin
Hood?’ Folk-Lore Quarterly, lxvi, 1955, p. 293.
(48)
Y. Ueno, ‘Robin Hood in Japan,’ Playing Robin Hood: The Legend as Performance in
Five Centuries, L. Potter (ed.), Delaware, 1998, pp. 136158.
Y.Ueno, ‘Murayama’s Robin Hood: The Most Radical Variant in Japan,’ T. Hahn (ed.),
Robin Hood in Popular Culture Violence, Transgression, and Justice, Cambridge, 2000.
(上野美子
(49)
ロビン・フッド物語
岩波新書, 1998 年, pp. 178192.)
金山崇 「中世ロビン・フッド小伝 (A Gest of Robin Hode) 抄訳」
世界口承文芸研究
大阪外国語大学口承文芸研究会, 1979 年, p. 271.
宮利行 「書物の錬金術
(50)
新たに発見されたロビン・フッド写本
」
図書 8, 1993
岩波書店, pp. 2630.
年
R. H. Hilton (ed.), Peasants, Knights and Heretics, pp. 221235.
(51)
R. H. Hilton and H. Fagan, The English Rising of 1381, Lawrence and Wishart, 1950.
(52)
(R. H. ヒルトン/H. フェイガン, 田中浩/武居良明訳
イギリス農民戦争
未来社, pp.
108112)
(53)
W. P. Ker, ‘On The Danish Ballads,’ Scottish Historical Review, v, 1908, pp. 396398; J.
― 81 ―
C. Holt, ‘The Origins and Audience of the Ballads of Robin Hood,’ Past and Present, 18,
November, 1960, p. 89.
(54)
J. C. Holt, op. cit., pp. 5354. (ホウルト著, 有光訳, 前掲書, pp. 9091.)
(55)
M. H. Keen, ‘Robin Hood − Peasant or Gentleman?,’ Past and Present, 19, 1961. repr.
in Peasants, Knights and Heretics, pp. 258266.
(56)
M. H. Keen, The Outlaws of Medieval Legend, London, 1961.
(57)
J. C. Holt, ‘Robin Hood: Some Comments,’ Past and Present, 19, 1961. repr. in Peasants,
Knights and Heretics, pp. 270272.
T. H. Aston, ‘Robin Hood,’ Past and Present, 19, 1961. repr. in Peasants, Knights and
(58)
Heretics, p. 270.
(59)
M. H. Keen, The Outlaws of Medieval Legend, London, 1961, 2000, p. 162.
(60)
R. H. Hilton (ed.), Peasants, Knights and Heretics, p. 271.
(61)
Ibid., p. 266.
Cf. M. M. Postan, The Medieval Economy and Society, London, 1972, pp. 143155. (M.
(62)
M. ポスタン著, 保坂栄一, 佐藤伊久男訳
中世の経済と社会 , 1983 年);R. H. Hilton,
The Decline of Serfdom in Medieval England, Macmillan, 1969. (R. H. ヒルトン著, 松村
平一郎訳
(63)
中世イギリス農奴制の衰退
1998 年)
R. B. Dobson and J. Taylor, ‘The Medieval Origins of the Robin Hood Legend: A
Reassesment,’ Nothern History, vii, 1972, pp. 130, Rymes of Robin Hood: an Introduction
to the English Outlaw, London, 1976, pp. 11, 3536.
(64)
J. R. Maddicott, ‘The Birth and Setting of the Ballads of Robin Hood,’ S. Knight (ed.),
op. cit., pp. 235255.
J. Bellamy, Robin Hood an historical enquiry, London, 1985. (ベラミ, 鈴木, 赤阪訳,
(65)
前掲書, pp. 6365, 7678, 8386, 9497, 100102, 158161, 200203, 207211.)
(66)
Holt, op. cit., pp. 5254. (ホウルト, 有光訳, 前掲書, pp. 8788.)
(67)
D. Crook, ‘Some Further Evidence Concerning the Dating of the Origins of the Legend of Robin Hood,’ S. Knight (ed.), op. cit., pp. 257261.
(68)
R. H. Hilton, ‘The robber as a hero,’ Times Literary Supplement, June 11, 1982, p. 631.
(69)
Hilton (ed.), op. cit., p. 233.
(70)
拙稿 「ロビン・フッド論争」 拓殖大学大学院紀要 23 号, pp. 323324 参照。
(71)
ホウルト著, 朝治訳 「ロビン・フッド」, pp. 162166.
(72)
P. R. Coss, ‘Aspects of Cultural Diffusion in Medieval England: Robin Hood,’ S.
Knight (ed.), op. cit., pp. 332343.
(73)
C. Richmond, ‘An Outlaw and Some Peasants: the Possible Significance of Robin
Hood,’ S. Knight (ed.), op. cit., pp. 363376.
(74)
R. Alomond & A. J. Pollard, ‘The Yeomanry of Robin Hood and Social Terminology
in Fifteenth-Century England,’ Past and Present, 170, 2001, pp. 5253, 57, 60.
(75)
Dobson and Taylor, op. cit., p. 103: Gest. st. 377.
(76)
A. J. Pollard, Imaging Robin Hood, Oxford, 2004, pp. 2956.
(77)
中島文雄著
(78)
アンソニー・ポラード, 朝治啓三訳 「イングランドにおける後期封建制度 (リッチモンド
英語発達史
岩波全書, 1951 年, pp. 1315.
シャーの場合)」 笠谷和比古編
国際シンポジウム
文閣出版。
― 82 ―
公家と武家の比較文明史
2005 年, 思
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 8399
October 2007
年季制度に関する経済地理学的考察
川俣羽二重産業を例に
小木田
敏
彦
An Economic Geographical Inquiry of
Apprenticeship
Toshihiko KOGITA
キーワード:マニュファクチュア, 年季制度, 出来高制度, 経済地理, 川俣羽二重産業
はじめに
経済地理学は在来工業が近代工業へと発展し得なかった理由を解明することを目的の
ひとつとしてきた(1)。 たとえば, 野原 (1960:21) は次のように指摘する。 「工業を近
代工業と在来工業という対立において把握することは, 地理学ではすでに定説である。
しかしその両者の概念規定は極めて不明瞭であり, 従って対立して把握することの意義
が十分に理解されているとは思われない。 その意義とは (中略) 近代工業となりえなかっ
た社会的経済的必然性の明確な把握をすることである」。
概念規定が不明瞭なまま定説化するには, 在来工業と近代工業の区別が自明でなけれ
ばならない。 野原 (1960:21) によれば, 近代工業とは産業資本に他ならず, 「原始蓄
積, 更に農工分離を徹底的になしうるであろうし, そこで作られた生産関係によって自
由競争を通じての資本の発展が保証される」。 しかし, 織物業の場合, 在来工業と近代
工業の区別は自明ではない。 織物業では自由競争の主たる担い手である 「工場制手工業
(マニュファクチャー) という経営形態自体マイナーな存在でしかなかった」 (牧野
1997:25)。 このため, 力織機化に関しては苦肉の解釈がなされる。
苦肉の解釈の典型例は, 福島県の川俣羽二重産業であろう。 山内 (1995) は川俣羽二
重産業の力織機化を地域振興策の問題として検討した。 地域振興策の主たる担い手は寄
生的な性格が強いとされる地主資本と商業資本であり, 電力会社設立などのインフラ整
備を行っただけではなく, 力織機のリース会社を設立するなどして, 力織機工場設立を
― 83 ―
手助けした。 在来工業と近代工業の区別が自明ではなくなるという問題は, 田村
(1987) にも見受けられる。 昭和恐慌期の秩父織物業では, 工業組合が力織機の貸与を
通じて生産調整を行っており, 力織機工場は近代工業として規定されているわけではな
い。
農工分離が見られないため, 賃機は在来工業の典型とされてきた。 しかし, やはり必
ずしも自明というわけではないようだ。 たとえば, 牧野 (1997:25) はマニュファクチュ
アがマイナーであった原因に関して, 賃機の方が合理的な経営形態であったことを示唆
している。 よって, マニュファクチュアの規模拡大を阻害していた要因の特定にこそ,
「工業を近代工業と在来工業という対立において把握する」 意義があると言えるのでは
なかろうか。 そこで, 川俣羽二重産業(2)を中心にこの問題について検討してみたい。
Ⅰ. 対象地域の概要
1. 川俣地方の特徴
表 1 にあるように, 川俣地方の特徴のひとつは, マニュファクチュアのみならず賃機
もあまり発達しなかったことである。 「工場」 は職工が 10 名以上, 「家内工業」 は職工
が 10 名未満のものが統計上の定義となっており多少の経年変化も見られるのだが, 力
織機化後まで, 本稿での検討にとって重要な傾向に大きな変化はない。 賃機の未発達は
地域性の問題ではなく, 純粋に応用ミクロ経済学的な問題であった。 詳細は省略するが,
川俣地方では大正中期の好況期に 「手織の賃機生産者の累年増加」 (川俣町 1982:764)
が見られ, 「家内工業」 と 「賃機」 が数の上で拮抗するようになったからである。 ただ
し, 賃機で織られていたのは節絹であった。
表1
伊達郡の生産状況 (1906)
工
場
家内工業
数 (戸)
4
1,458
10
270
手機台数 (台)
179
2,672
20
356
戸
注: 伊達郡統計書
織
元
賃織業
(川俣町 1982:692) より作成。
福井羽二重産業ではマニュファクチュアと同時に賃機も発達し, 賃機は力織機化にお
いても増大傾向を示した。 「最も大なるものは五百台の出機を有するものあり」 (川俣絹
織物同業組合 1910:86) という状況であって, 視察に訪れた川俣地方の同業者が驚く
のも無理はない。 先走ってこの対照性について説明しておこう。 マニュファクチュアの
発達は生糸商による信用供与によるものであったが, 賃機の場合も同じ要因によるもの
であった。 川俣地方はこれと全く対照的であって, 原料生糸の供給が不十分であったた
― 84 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
めに, マニュファクチュアも賃機も発達し得なかったのである。
原料生糸の供給が不十分であった状況に関して, 次のような記述がある。 「川俣町附
近農家ノ養蚕兼機業家ニ在リテハ従来自家製出ノ折返生糸ヲ用フルモノ尠ナカラザリシ
モ近来ハ自家産出ノ繭ハ之ヲ繰糸スルコトナク生繭ノ儘之ヲ売放チ原料糸ハ別ニ之ヲ買
入スル傾向トナレリ。 而シテ川俣町所在ノ各専門機業家ニ在リテハ一様ニ多量ノ原料仕
入ヲナサヾルベカラザルヲ以テ原料仕入ハ各機業家ノ最モ苦心スル」 (日本銀行調査局
1915:14) 点である。 分業は市場の広さによって制約されるという観点に立った場合,
この記述に関しては次の 3 点が重要である。
第 1 の点は, もともと羽二重産業は農家の副業であり, 副業的機業家は自家製の原料
を使用していたということである。 川俣絹織物同業組合 (1910:86) は, 福井羽二重産
業に関して 「副業者は自から養蚕製糸して原料を得て之れを製織する組織は絶無と称す
可く」 と報告しているが, この記述は力織機化期においても副業的農家の大部分が自家
製原料を使用していたことを示唆している(3)。 賃機に関しては生産用具に注目が集まり
がちであるが, 自給原料であるがゆえに副業的機業家は独立生産者としての地位を保ち
得たのである。
規模の大きな機業場について見てみよう。 「所謂
バツタン
式ナル織製ニ就テハ三
十余台の多数ニ及ビ当時川俣地方機業家ノ第一ニ指ヲ屈セラルゝニ至」 (三浦 1913:20)
った香野三左衛門の機業場は, 農商務省 (1998) にも登場する。 労働は年間を通じて 17
時間であって, これは農商務省 (1998) に掲載されている機業場の中で最長である。 ま
た, 次に述べる川俣地方の賞与規程も香野機業場のものと推察される。 「製糸時期後即
ち普通七月初旬より旧盆, 旧正月より祭市 (旧暦九月一日) まで, 祭市より年末まで,
年末より養蚕期までの各四期間の製織高を工女の技量に応じ予定し, その予定高以上の
織上高の多少に従い賞与率を異にし, なるべく製織高を多からしむることにのみ全力を
用ゆ」 (農商務省 1998:387398)。 「養蚕期」 や 「製糸時期」 があることから, 川俣地
方では規模の大きな機業場の中にも自給原料を使用する場合があったことがわかる。
第 2 の点は, 大正初期に副業的機業家が自家製原料の使用をやめ, 自ら原料を購入す
るようになったということである。 この変化に関して重要なのは, 副業的機業家の間で
も技術進歩が見られたということである。 「目下足踏機一台ノ買入代価ハ三十五円以上
四十円以下ノ處ニテ従来手織機ヲ使用セシ向ハ競フテ足踏機ヲ整ヘ」 (日本銀行調査局
1915:32) ていた。 「足踏機発明せられて以来近郷の農家争ふて之を使用し今日に於て
は各種足踏機を合して約壱千台に到るべく益々の増加傾向あり」 (大石・山根 1917:
101)。 そして, 足踏機の普及に並行して賃機の発達も見られた。
第 3 の点は, この変化が原料生糸の十分な供給を前提条件とするということである。
原料生糸の流通拡大における一大契機となったのは, 1913 (大正 2) 年における保証責
― 85 ―
任川俣信用購買販売組合の発足であった。 力織機工場経営者は原料の仕入れに 「最モ苦
心」 していた。 このため, もともと川俣信用購買販売組合の購買部は原料生糸の共同購
入を計画していたのだが, 営業開始とほぼ同時に共同購入は中止となった。 川俣信用購
買販売組合の信用部では, 営業開始ととも組合員機業家に力織機 1 台あたり 40 円の旧
債返済資金の貸し出しを行った。 これによって, 総額約 6 万円ほどの市場購買力が生ま
れた。
これにより次のような状況となった。 「市場は原料生糸の集散豊富にして組合員は各
自希望に依り生産と適当なる現物の撰択購入に便なるか為組合より現物供給を行ふも組
合員に満足を与ふる能はさりしは遺憾にして購買高僅かに八百九十一貫余価格五萬九百
六十円に過ぎざりき」 ( 福島民報
1914 (大正 3) 年 1 月 26 日)。 一般に共同購入によ
る大口取引によって, 原料を安く仕入れることが可能となる。 しかし, 需要が減少する
小口取引の原料価格はその下落幅をさらに上回る勢いで低落する。 この結果, 組合員に
よる共同購入という協調戦略の放棄につながった。 そして, 共同購入に利用する予定だっ
た 6 万円も原料購入のための貸付に流用されたため, 市場購買力はさらに高まった。
川俣地方には座繰による綛糸業者も存在し, 地域間分業も見られた。 綛糸とは経糸用
の生糸であって, 2 釜以上の所有者は川俣絹織物同業組合に強制加盟となった。 しかし,
綛糸業者も副業であって, 自家製の繭への依存度が高かった。 このため, 原料生糸の供
給が不十分だった。 よって, 川俣地方にとっての最大の課題は, 生糸の国内市場の中に
編入されることであった。 実際, 原料供給に関しては, 次のような記述がある。 「原料
生糸中縣内ノ産出ノ分ハ其全額ノ五割ニ当リ縣外ノ分ハ名古屋地方案出ノモノ二割其他
ノモノ三割ノ割合ナリトス」 (日本銀行調査局 1915:14)。 「縣内ノ産出」 には伊達郡北
部の器械製糸も含まれており, 川俣地方以外から生糸が供給されるようになった。
足踏機の普及によって, 農業と織物業は新たな結合の段階に入った。 しかし, 経済地
理学では農業と織物業の結合を前近代性の象徴と見なしてきたのであり, この新結合を
どのように評価するのかに関しては後段でもう一度検討する必要があろう。 さしあたっ
て自家製原料の使用は 「遅れた」 状況だとする点に問題はないはずであって, この意味
において新結合が近代化の一局面であることに間違いはないだろう。 振り返ってみて,
その 「遅れ」 の原因は何かと問うた場合, 資本系譜の問題より, 「権原問題 (entitlement problem)」 (セン 2001) の方が重要であった。 つまり, 川俣町には原料生糸を引
き寄せるだけの市場購買力が欠如していたのである(4)。
2. 川俣羽二重産業の沿革
力織機化以前, 川俣地方の多くの機業家は自給原料を使用する独立生産者であった。
こうした中から, 力織機を導入し 「専門機業家」 へと上昇する者が登場することとなる
― 86 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
のだが, この過程は産業組合(5)設立を中心に見ていくとわかりやすい。 1905 (明治 38)
年 8 月に川俣町では無限責任川俣羽二重生産購買組合が設立された。 前年には生絹県外
搬出が県令により禁止され, この年から県が等級づけの検査を実施するようになった。
産業組合設立はこうした福島県の勧業政策の一環であって, 県令第 44 号において 「輸
出羽二重ノ改良発達ヲ目的トスル共同整経組合」 の補助規程が定められている ( 福島
民報
1905 (明治 38) 年 8 月 10 日)。 また, 同年には川俣町の有志 80 余名が 「川俣電
気会社設立協議会」 ( 福島民報
1905 (明治 38) 年 9 月 12 日) をも開催しており, 本
格的な工業化へと向けて始動したことがわかる。
1905 (明治 38) 年, 川俣羽二重産業は好況期を迎えていた。 しかし, 同時に 1902
(明治 35) 年と 1905 (明治 38) 年は冷害による大凶作の年でもあった。 これによって,
福島県全体で土地集積が急速に進展し, 寄生地主制が成立した。 土木工事には救済事業
としての役割があったため, 寄生地主層を中心として耕地整理が活発化した。 耕地整理
は明治農法導入の前提条件であった。 このため, 耕地整理に並行して, 寄生地主層は明
治農法を積極的に導入しようとした。 詳細は不明であるが, 川俣町でもこの時期に耕地
整理が行われている。 そして, この耕地整理は工業化の意味を大きく変容させるもので
あった。
資本制農業が成立しなかったため, 日本には農業革命がなかったというのが通説となっ
ている。 しかし, 耕地整理は多くの土地なし農民を生み出した。 よって, 耕地整理以前
の小農と耕地整理以後の小農を同列に扱うことはできない。
伊達郡統計書
によれば,
1893 (明治 26) 年当時, 川俣町の農家数は全世帯数に等しい 799 戸となっている (川
俣町 1982:601)。 水田と畑地の小作地率はそれぞれ 66.7%と 70.0%であり, 1 戸あたり
の平均規模は 0.6 反と 1.3 反であった。 しかし, 耕地整理後の 1911 (明治 44) 年, 農家
戸数は 160 戸に激減している (川俣町 1982:746)。 川俣町全体の耕地面積は水田が約
50 町, 畑が約 100 町であったことから, 小農政策に沿って 1 町規模の小農が生み出さ
れたことがわかる。
川俣羽二重産業における力織機化の特徴は, 「土地の状况に依り商農者が生活困難な
ママ
るに依り機業経営の志想興りたるの点」 ( 福島民報
1911 (明治 44) 年 2 月 8 日) で
あった(6)。 1908 (明治 41) 年 9 月には有限責任川俣輸出羽二重生産販売購買信用組合が
発足した。 発起人が作成したと見られる 「川俣町機業現況調」 (「農商工関係書類綴」(7))
によれば, 機業戸数は約 400 戸とされている。 この産業組合の発足は地域振興策の一環
であって, 川俣電気会社開業に合せて組織された。 開業式典は皇太子の東北巡啓にも合
わせて行われた。 祝賀会席上において, 横浜の財界人であり, 電気会社役員でもあった
大谷嘉兵衛は 「川俣町の羽二重業は其副業を脱して本業たらんとす, 本日の祝賀会は即
ち其境界線なり」 ( 福島民報
1908 (明治 41) 年 10 月 2 日) と祝辞を述べている。 こ
― 87 ―
の祝辞は地域振興策の本質が専業化支援であったことを端的に物語っている。
福井羽二重産業において電力供給開始とともに力織機が急速に普及していったのとは
対照的に, 川俣羽二重産業では開業後約 1 年間力織機化がほとんど進展しなかった。 こ
の原因に関係するものとして, 次のような新聞報道がある。 「香野三左衛門は (中略)
此地の大養蚕家なり。 (中略) 此地にて最も風変りは, 羽二重の機台を全部取付け居宅
裡の工場は蚕室と変じ白粉を付けたる工女は忽ち赤の襷と早変り或は桑摘みに或は除沙
に (中略) 川俣の工女蚕を真似て好く豹変す」 ( 福島民報
1908 (明治 41) 年 6 月 11
日)。 香野機業場では依然として自家製の原料を使用していたのである。
1910 (明治 43) 年の好況期に川俣町は急速な力織機化を遂げた。 ここでは要点のみ
を記そう。 マニュファクチュアが未発達である場合, 「貨幣の集積」 と 「貧民の遊離」
は個性的な過程となり得る。 川俣町を代表する機業家は羽二重商を兼営していることが
多かったのだが, 「貨幣の集積」 という条件は地域振興策によって大幅に緩和されてい
た。 「貧民の遊離」 に関しては, 耕地整理が重要な役割を果たした。 通常, 「貧民」 は労
働者に転落するのだが, 川俣地方の場合には力織機工場を開設する者もいた。 山内
(1995) が指摘するように, 川俣町には力織機のリース会社が存在した。 「功労者・納税
者表彰関係書類」 (8)によれば, 1910 (明治 43) 年 2 月 11 日に地主の渡辺弥七は成産合
名会社を設立し, 「貸附数四百四拾七台」 に及んだ。 これは川俣町全体の力織機台数の
30%に相当する。 1914 (大正 3) 年 2 月 11 日に解散となっているが, これに伴って力
織機台数の大幅減少が見られなかったことから, 最終的には所有権を放棄したものと推
察される。
「功労者・納税者表彰関係書類」 によれば, 渡辺弥七は 「明治四十三年一月二十三日
溜屋綛製造所 (一家経営) ヲ創メ私金ヲ出シテ自ラ機業ヲ経営スル力ニ乏シキ三十六工
場ニ原料トシテ供給」 した。 よって, 次の新聞報道には十分な裏づけがある。 「現時の
工場主は機械屋と貸付屋と原料屋との勧誘に基づき他に恰当の業務が無いが為めに初め
た種の者が多い」 ( 福島民報
1911 (明治 44) 年 2 月 6 日)。 「貸付屋」 とは成産合名
会社, そして 「原料屋」 とは溜屋綛製造所のことである。 溜屋は羽二重の委託販売業務
をも兼営しており, まさに地主資本丸抱えの力織機工場もあったのである。 ちなみに,
「機械屋」 とは力織機メーカーであり, 「機台は月賦償還の高利支払契約である」 ( 福島
民報
1911 (明治 44) 年 2 月 6 日) とあることから, 力織機は分割払いで購入するこ
ともできたようである。
力織機化後にも産業組合が相次いで設立された。 1911 (明治 44) 年に改良組と称さ
れる産業組合が結成され, これを契機として機業家団体が乱立することとなった。 表 2
にあるように, 改良組は経営規模が比較的大きな機業家の集団であった。 資本系譜で見
ても羽二重商を兼営する者が多く, 自力で 「貨幣の集積」 を行った経営者である。 これ
― 88 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
表2
川俣町における産業組合 (1912)
組合名
戸数 (戸)
台数 (台)
平均規模 (台)
改良組
15
534
35.6
川俣組
40
419
10.5
共同組
39
364
9.3
大正組
7
109
15.6
その他
14
72
5.1
(計)
115
1,498
13
注: 川俣・小高産業組合関係書類 所収の無題の資料より作成。 川俣・
小高産業組合関係書類 に関しては, 本文注(10)を参照せられたい。
に対して, 川俣組は 「貧民の遊離」 による経営者を中心に組織されたと言っていい。 前
述の川俣信用購買販売組合は, 政府から 18 万円の低利融資を受ける見返りとして, 以
上の機業家団体を統合したものであり, 役員にはさらに寄生地主や羽二重商も名を連ね
ていた。 よって, 文字通り町ぐるみの機業家支援策であった。
Ⅱ. マニュファクチュア発展の制約要因について
1. マニュファクチュアの概念
福井市は生糸の集積地でもあった。 これは福井羽二重産業において, マニュファクチュ
アや賃機組織が発達した結果である。 これに対して, 独立生産者でありながら, 川俣地
方ではマニュファクチュアがほとんど発達しなかった。 この原因について検討するに際
して, まずはマニュファクチュアの概念を再確認しておこう。 マニュファクチュアは問
屋制と不可分の関係にあった。 マニュファクチュアは 「経営の中心に
職場
をもって
いたことはもちろんであるが, さらにそれを取巻くいわば外業部として, 多かれ少なか
れさまざまな小生産者たちに仕事の下請をさせており, そうした外業部をもあわせて一
個のマニュファクチャーを形づくっていた」 (大塚 1973:119)。 このため, 商業資本と
しての性格を強める場合と産業資本としての性格を強める場合とがあった。
この他の特徴として, 大塚 (1973:111) は 「 職場
業
は, 多かれ少なかれ
家族的協
を土台としそれに雇傭労働者が付加されるという形をとっていた」 点, および
「 徒弟
はマニュファクチャー期を特徴づける賃銀労働者の存在形態の一つとなってい
る」 点を指摘している。 厳密に言えば 「徒弟」 は賃銀労働者ではなく, 住み込みで修業
を行っていたのであるが, この 2 つの特徴は川俣羽二重産業にも当てはまる。 川俣地方
では 「農家が自ら収穫したる繭を完全に保管して老媼は綛絲を繰製し婦女には機織に従
事して主人は毎市川俣に往復して緯糸を切出」 ( 福島民報
― 89 ―
1909 (明治 42) 年 3 月 13
日) すといった 「家族的協業」 が見られた。 また, 女工の雇用には年季制度が採用され
ていた。
川俣羽二重産業に関しては, 年季制度が経営を不安定化させているとする指摘がある。
「副業的機業家にして家族以外の数人の工女を買入 (敢て買入れと云う) 半工場的に発
達したるものは偶ま相場の暴落を来せは殆んと堪へ得さる悲境に陥り終に失敗に帰す
(中略) 副業的機業家の根本たる基礎は全家族に於て経営し監督費省き忠実に勤労して
賃金たる部分をも併せて収益となすにある」 ( 福島民報 1910 (明治 43) 年 3 月 31 日)。
「敢て買入れと云」 っているのは契約の際に両親に前資金を支払ったからであって, 年
季制度は人身売買にも似た制度であるとして社会的非難を浴びていた。 しかし, 川俣町
の年季制度は他の地域で見られたものと別段変わったところがなく, この指摘は年季制
度の本質的な問題点を突いたものと見ることができる。
石井 (1991:219) は 「機業場内部の労働条件は製糸業などよりもさらに劣悪だった
ようである」 と述べている。 しかし, 問題の本質は織物業において年季制度の伝統がよ
り強固であったということである。 桐生・足利地方は年季制度の伝統が強固であった機
業地として知られるが, 横山 (1949:174
175) が 「足利・桐生を辞して前橋に至り,
製糸職工に接し更に織物職工より甚だしきに驚けるなり」 と述べていることや, 農商務
省 (1998) の 「生糸職工事情」 が 「坐繰工女の現状」 に一章を割いていることは意外に
知られていない。 製糸業における年季女工の方が遥かに劣悪な労働条件の下に置かれて
いたのである(9)。 そこで, 川俣地方を中心にして, 年季制度の状況について見てみよう。
2. 川俣地方における年季制度
過酷な労働条件
川俣町における年季制度の概要に関する史料は 2 つある。 1891 (明治 24) 年 10 月に,
川俣町が絹織物の売買の状況や女工の取り扱い方に関する調査を行っている (川俣町
1979:248
250)。 その中に 「工女取扱及年期重ナル出処」 という項目がある。 また,
1893 (明治 26) 年 4 月に, 福島県知事日下義雄は川俣地方の絹織物産業の状況につい
て調査を行わせている。 その 「復命書」 (川俣町 1979:187190) には 「職工使役ノ状
況」 という項目がある。 以下, 順番に見ていくことにしよう。
「工女取扱及年期重ナル出処」 によれば, 女工には 「通常工女」 と 「特別工女」 とが
ある。 「特別工女」 とは 「衣服雑費等ヲ自弁シ単ニ伝習ヲ目的トスルモノ」 であって,
通勤女工であったと見られる。 これに対して, 「通常工女ハ概シテ年令十三年以(上)二
十年ヲ程度トシ, 多ク山形宮城ノ諸県及本県各郡ヨリ来ルモノニシテ, 其雇人契約ハ短
キ三ヵ年長キ七ヵ年期」 であった。 一般に年季女工は 「住み込み」 という形態をとるこ
とが多かった。 この問題に関しては次のような指摘がある。 「土着子女は家にありては
― 90 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
賃機を織る方, 工女となり年期間覊足せらるるより利益あり」 (農商務省 1998:321)。
自宅で働いた方が高収入だったため, 近隣からの労働力供給が少なかったのである。 こ
のことは高賃金を得られるならば, 通勤女工となり得ることをも示唆している。
川俣地方に話を戻そう。 前貸金に関して, 「工女取扱及年期重ナル出処」 には 「五円
乃至拾円ヲ貸与」 とある。 「職工使役ノ状況」 にも 「拾円若クハ六七円ヲ前貸シ而シテ
五年乃至七八年間ノ年季契約ヲ為ス」 とあることから, 5 円から 10 円の間だったこと
がわかる。 見習期間は 2∼3 年だったようであり, 「職工使役ノ状況」 には次のように記
されている。 「雇入レノ当初ハ重ニ糸繰ノ簡易ナル仕事ヲ取ラシメ漸次技ノ熟スルニ至
リ始メテ織機ニ従事セシムルノ順序ニテ, 独立シテ一切ノ機杼ヲ能クスルニハ大約二年
乃至三年ヲ要スル」。 最初は緯糸下拵に従事し, 経糸下拵, そして製織という順序で女
工は技術を身につけていったのである。
年季女工は賃金労働者ではない。 「職工使役ノ状況」 によれば, 「雇役年間ノ賃金トテ
ハ別ニ定マリタルモノアルニアラス只食住一切ト極メテ粗悪ナル暑寒ノ衣服及壱ヶ月年
間十数回ノ休業日等ニ些少ノ小遣銭ヲ与フルノミ, 以上ノ費用 (食費トモ) 一切ヲ籠メ
テ壱人一ヶ月金二円内外ノ平均ナリト云フ」。 しかし, 粗末な食事で, 長時間労働を強
いられていた。 「職工使役ノ状況」 によれば, 「工女所得ノ僅少ナル斯ノ如クナルニ拘ラ
ス一日ノ労働時間ハ概シテ十六時乃至十八時ニ至ルモノアル而シテ三食トモ概ネ粗悪ナ
ル麦飯ニ食塩ヲ混入セル味噌汁位ニ過キス」。
福島県は長時間労働で悪名が高かったようであり, 農商務省 (1998) において悪質な
事例として紹介されている 3 つの事例のうち, 2 つが福島県のものである。 川俣地方に
関しては, 次のように報告されている。 「労働時間は午前五時より午後十時までの十七
時間を普通とし, 早じまいの工場にて午後九時, 遅じまいの工場にては午後十一時まで
とするを以て, 早じまいの所にても一日十六時間, 遅じまいのものに至りては実に十八
時間の労働時間なりとす。 しかも好況の際の市日の前夜には, 僅かに数銭を懸賞して午
前二, 三時まで労働せしめ, 甚だしきは徹夜業をなさしむること珍らしからず云々」
(農商務省 1998:315)。
分布と経営状況
川俣地方の中でも, 年季制度を採用する機業場は主に川俣町に分布していたようであ
る。 「復命書」 (川俣町 1979:187190) の 「絹織物現況」 には, 「川俣町製絹家ハ平素
多少ノ職工ヲ常雇セル」 とある一方で 「各村ノ如キ謂ユル職工ナルモノハ其実半農半工
ノ姿ニテ毎戸子女ノ農間ヲ計テ機織ニ従事スル者」 とある。 足踏機の普及後も, 周辺農
村における副業的農家の状況には大きな変化が見られず, 「所謂女子ノ手間仕事ニ過ギ
ザレバ多キモ二三台少キハ一台ヲ運転スルニ止マ」 (日本銀行調査局 1915:31) った。
― 91 ―
よって, 「副業的機業家にして家族以外の数人の工女を買入 (敢て買入れと云う) 半工
場的に発達したるもの」 は, 川俣町にほぼ限定されていたと見ていいだろう。
表 3 と表 4 は, 川俣町が行った 「明治四十二年五月機業家負債及び貯蓄調」 (川俣町
1979:366367) より, 筆者が作成したものである。 「上」 「中」 「下」 は無定義で用いら
れているのだが, 一戸あたりの平均の負債が 「中」 で約 980 円, 「下」 で約 400 円であ
り, 「上」 は負債ゼロであることから, 明らかに 「上」 「中」 「下」 は経営状況による分
類ではなく, 基本的には経営規模をあらわすものと考えられる。 よって, 「中」 は 「副
業的機業家にして家族以外の数人の工女を買入 (敢て買入れと云う) 半工場的に発達し
たるもの」 であると見ていいだろう。 これに対して, 「下」 は 「全家族に於て経営」 す
る副業的機業家と見られる。 いずれにせよ, 重要なのは定義ではなく, ただ働きなのに
赤字とはどういうことなのかということである。
表3
川俣町の機業家の経営状況 (1909)
上
中
下
16
125
負債アル工業戸数 (戸)
0
125
174
負 債 総 額 (円)
0
112,500
67,500
一 戸 平 均 負 債 額 (円)
0
980
400
総工業戸数 (戸)
174
一戸最高負債 (円)
15,000
一戸最低負債 (円)
300
負債種類
事業資金 (円)
95,000
生 計 費 (円)
85,000
注:「明治四十二年五月機業家負債及び貯蓄額」 (川俣町 1979:366367) よ
り作成。
表4
年
機業家の貯蓄額の推移 (19001909)
次
金額(円)
増
減
1900 (明治 33)
26,500
1901 (明治 34)
25,000
1902 (明治 35)
25,000
1903 (明治 36)
23,000
1904 (明治 37)
23,000
1905 (明治 38)
25,000
1906 (明治 39)
25,000
1907 (明治 40)
26,000
1908 (明治 41)
12,000
14,000
1909 (明治 42)
0
12,000
1,500
2000
2000
1000
注:「明治四十二年五月機業家負債及び貯蓄額」 (川俣町
1979:366367) より作成。
― 92 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
注目すべきは, 負債種類のうち事業資金が 9 万 5,000 円であるのに対して, 生計費が
8 万 5,000 円にも及んでいることである。 表 4 に関しては, 「明治四十二年五月機業家負
債及び貯蓄調」 に次のような但し書きがある。 「生計ニ関スル負債増減ノ状況, 本項ハ
貯蓄増減ノ状況ニテ類推アレ」。 つまり, 貯蓄額の増減は生計費の負担がどれだけ経営
を逼迫させているのかに関する指標だということである。 表 4 によると, 1909 (明治
42) 年時点において貯蓄はゼロとなっている。 よって, 現時点で 「上」 は負債を抱えて
いないが, このまま推移した場合, 大きな負債を抱えることが予想される内容となって
いる。 このことから, 生計費の負担により経営が逼迫していたことがわかる。
3. 年季制度の経営効率
不採算部門と休業コスト
年季制度に関して, 従来は女工が置かれた過酷な労働条件に関心が集中してきたと言っ
ていい。 しかし, 本稿で問題としたいのは経営効率である。 まず重要な点は, 年季制度
が恒常的に不採算部門を抱え込んでいたということである。 「工女取扱及年期重ナル出
処」 によれば, 「雇人ヨリ向フ二年間位ハ収支相償ハサルモノニシテ, 其後三年ハ漸ク
技芸熟達シ工女ト利益ヲ折半スルモノノ如シ」。 前述のように見習期間は 2∼3 年であっ
たから, 見習女工が担当している工程は大部分が不採算部門だったということになる。
大半の熟練女工は年季明けと同時に工場を去っていくのであって, もし急速な規模拡大
を図ろうとした場合, まずこの不採算部門を拡大しなければならなくなる。
「続明治三十二年八月川俣羽二重機台及び職工数調」 (川俣町 1979:200205) には,
242 戸の機業家についての所有台数と女工数が示されている。 前述の香野三左衛門は 16
台の手織機を所有し, 女工 16 人, 男工 20 名を雇用していることになっている。 これは
明らかなエラーであり,
町史
編纂者は 「20」 という数字にエラーがあるとしている。
しかし, すべての機業家に関して, 手織機台数と女工数が一致していることから, エラー
は 「男工」 の方であって, 実は見習女工を示しているものと考えられる。 この問題は統
計上の 「工場」 の解釈にも大きく関係する。 「職工」 を製織女工と定義すると 10 名以上
の機業場は 4 つにしかならないが, 「職工」 に見習女工を加えると 40 戸以上にもなるか
らである。
以上の資料解釈は次の記述ともよく符合する。 「川俣町某機業場の如きは僅かに八畳
二間四畳一間に雇主家族および二十七人の工女就辱す」 (農商務省 1998:408409)。 香
野機業場の場合は 36 人であって, 9 人の開きがあるから別の機業場に関する記述であ
ると思われるが, 外見上小規模に見えたとしても見習女工を加えると従業員は相当な数
に上ったことがわかる。 また, 製織女工と見習女工の数には一定の組み合わせが見られ
る。 「続明治三十二年八月川俣羽二重機台及び職工数調」 によれば, 手織機 1 台の機業
― 93 ―
家は 2 名, 2 台の機業家は 3 名, 3 台の機業家は 4 名, 4 台の機業家は 5 名, 5 台の機業
家は 7 名, 6 台の機業家は 8 名の見習女工を抱えていた。 見習女工の数は必ず製織女工
の数を上回っていることから, 年季制度において不採算部門が大きな比重を占めていた
ことがわかる。
マニュファクチュアに関して, 大塚 (1973:120) は 「諸労働者間に一定の合理的な
比例関係が経験的にうちたてられ, したがって経営の構成はおのずからそうした労働者
の組み合わせ一単位の倍数とならなくてはならぬ」 と述べている。 注目すべきことに,
4 人の製織女工に 5 人の見習女工を 1 単位と考えた場合, 香野機業場が 4 単位で構成さ
れているということである。 このような比例関係はマニュファクチュアの技術的狭隘性
の一側面とされているのであるが, 機業場で見られる分業関係は, 作業効率上の観点よ
りも, 不採算部門を最小化せざるを得ないという経営上の観点から検討する必要がある
ように思われる。
「復命書」 (川俣町 1979:187190) の 「絹織物現況」 には, 不況期に年季制度が抱え
る最大の問題が記されている。 「川俣町製絹家ハ平素多少ノ職工ヲ常雇セルモノナレバ
仮令休業スルモ尚ホ之レニ衣食セシメサルヘカラス」。 つまり, 盆と正月のお仕着せと
毎日の食事代が固定費用となっていたのである。 このため, 製品価格が損益分岐点を下
回った場合でも, 固定費用の一部を回収するために, 営業は続けられた。 「空ク衣食セ
シムルヨリハ多少ノ不引合ハ免レサルモ寧ロ休業ノ全損ニ勝レリトノ考へヨリ (中略)
持続シ居ルノ実況ナリ」。 この場合の 「全損」 は休業コストである。 これに対して, 家
族主義に立脚する副業的機業家は休業コストが小さいため, 「絹織物現況」 によれば,
「休業スルノ却テ得策ナルヲ以テ (中略) 休業者ノ多数ヲ見ルニ至リタル次第」 であっ
た。
奉公という社会システム
年季制度には, 他にも次のようなデメリットがあった。 「(一) 工女を随時解雇せられ
さること (二) 養成に幾多の損失を為すこと (三) 熟練せる工女の勤続せさること (四)
損益計算の明確ならさること (五) 工業監督の行はれさること (六) 家族の労働者と均
衡を得さるか為め生する種々の弊害等」 ( 福島民報
1910 (明治 43) 年 3 月 31 日)。
このうち, 「(一) 工女を随時解雇せられさること」 は, 「(二) 養成に幾多の損失を為す
こと」, および 「(三) 熟練せる工女の勤続せさること」 と密接に関連する。 年季女工は
年季明けを心待ちにしていたからである。
1911 (明治 44) 年 12 月 15 日付の
福島民報
に 「川俣機業
工女の書簡」 という
記事が掲載されている。 女工が両親に宛てた手紙の写しである。 その書面には 「一年も,
早く仕事を覚えて家に帰るを楽しんで居ります」 とある。 「工女取扱及年期重ナル出処」
― 94 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
によれば, 川俣地方の場合, 「年期間該業ニ勤務抜群セシモノ」 に対しては年季明けの
際に贈答品が与えられただけではなく, 「嫁期ニ至リ本人ノ志望ニヨリ重ニ地方ニ婚嫁
スルモ多シ」 とも記されている。 つまり, 優等女工に対しては契約期間を短縮する場合
もあったのである。
織物業は労働力供給を奉公という社会システムに依拠していた。 奉公は一種の教育制
度であり, 女性の多くが結婚前に他家にて礼儀作法や行儀, 家事・裁縫などを躾けられ
た。 副業を習うこともあった。 「工女雇入に際しその年齢により契約年限を定むるも,
年期の終るとともに婚嫁に適するが如くその年限を定むるものあり。 工女の多くは二十
歳前後に至ればあるいは郷里に帰りて婚嫁し, 結婚後あるいは自ら機を立て賃機をなし,
あるいは全く機業をなさざるものあり。 これ工場主をして, 織物工場は一の伝習所にて
純然たる職工なく皆伝習工女なりと唱えしむる所以なり」 (農商務省 1998:305306)。
力織機化後も, 「(一) 工女を随時解雇せられさること」 が解決したわけではない。 不
況期の機業経営に関して, 日本銀行調査局 (1915:12) は次のように報告している。
「職工ノ減員ヲナスハ機業家ノ最モ苦心トスル處ナレバ機業家ハ機台ノ運転ヲ休止スル
モ尚職工ノ解雇ハ勉メテ之ヲ避ケントシツヽアルモノヽ如シ」。 そして, その理由とし
て次の点を指摘している。 「何トナレバ職工ハ一ノ技術者ニシテ其技術ヲ修得スルニハ
一定ノ練習期間ヲ要シ之ヲ失フ時ハ他日好況ノ時機ニ際シ直ニ之ガ補充ヲナシ能ハザル
ヲ以テナリ」。 結婚により多くの女工が工場を辞めるため, 慢性的な労働力不足の状態
にあったのである。
雇用形態と労働意欲
「着せ損, 食わせ損」 を最小化する方法のひとつは, 仕事の呑み込みが早く長時間労
働に耐える体力を有する年齢層を年季女工にすることである。 出来高制度の場合, 女工
には一定の生活能力が必要であった。 このため, 「米沢市における織物工場にはほとん
ど十二, 三歳の幼者なく, その最幼者といえども十五, 六歳以上なり。 また同地方にお
いては工場内において管巻および繰返をなさず管巻は工女自ら夜間これをなすものとし,
繰返は総て繰返業者の賃仕事にして工場における職工の仕事たらず, 職工は専心製織に
従事するものの如し。 従って管巻および繰返のため幼者を置くの要なく, 殊に徒弟制度
は全然行われず」 (農商務省 1998:303)。 繰返や糊付といった下拵工程は織物業の中で
最も低賃金労働であり, コスト削減のための幼年者の雇用は織物業の悪弊であった。 そ
して, 「管巻および繰返のため幼者を置く」 必要がある点は, 年季制度の経営効率を低
下させる要因であった。
「(四) 損益計算の明確ならさること」 に関しては, 家計と経営が未分化であった事実
を指摘すれば十分であろう。 しかし, 「(五) 工業監督の行はれさること」 は女工の勤務
― 95 ―
態度に関連する問題であり, 基本的には監督者を置くことによっても解決しない。 川俣
地方ではないが, 桐生・足利地方の年季女工に関しては次のような指摘がある。 「桐生・
足利辺の工女ほど仕様のなきはなし。 油断して居れば手を休めたがる, 骨折った者に物
を遣れば己の腑甲斐なきを忘れて主人を恨み, 業務に精を出せば自己の将来のためにな
るは判りきって居る事なるに, 物日の来るのを二十日前より数えて業務に心を入れず,
少し油断して居れば台なしな物を拵えて平気で居る。 手弁当持ちて日にいくらと賃銭を
遣る米沢 (羽前) の方はどらほどよいか知れぬ」 (横山 1949:122)。
これとは対象的に, 桐生・足利地方の賃機業者に関して, 横山 (1949:132) は次の
ように述べている。 「ある人は足利人を見て, かれらはただ働くために世に産れ出たる
ものなるべしと驚けることあり。 桐生は足利と人気を異にし自ずから都会の観をなせり
といえども, 一般賃業者が業に勤勉なること, 恐らくは他地方人の及ぶところにあらざ
るべし」。 洋の東西を問わず, 出来高制度と比べて, 年季制度や徒弟制度には労働意欲
を刺激する要因に乏しい。 たとえば, アダム・スミスも次のように述べている。 「長い
徒弟修業という制度は, 青年を勤勉さにむけて育成する傾向をもたない。 出来高で働く
やとい職人は勤勉になりがちであるが, それは勤勉に励むだけ自分の利益になるからで
ある」 (スミス 2000:216)。 よって, マニュファクチュアが問屋制と不可分の関係にあ
るのは, 徒弟の怠惰が原因であるように思われる。
4. 力織機化による制約条件の緩和
出来高制度の導入
力織機化により, 「(二) 養成に幾多の損失を為すこと」 という問題点は大幅に改善さ
れるが, 奉公という社会システムに依存している以上, 「(一) 工女を随時解雇せられさ
ること」, および 「(三) 熟練せる工女の勤続せさること」 という問題点に関しては, 大
きな改善が望めない。 また, 「(四) 損益計算の明確ならさること」 という問題点に関し
ても, 零細資本の場合, 家計と経営の分離が見られたわけではない。 たとえば, 日本銀
行調査局 (1915:26) は次のような報告を行っている。 「川俣地方ノ悪弊トモ云フベキ
カ詳細ナル決算ヲナスモノ少ナク只大体ノ損得勘定ヲナスニ止マル」。
この点は同業者間でも問題視されていた。 たとえば, 伊達郡保原町のある機業家は,
「川俣の如き所謂家族工業の小機業家に於ても毫も収支算を不問に附し唯漫然として羽
二重業は利益なるものと考ふ」 ( 福島民報
1911 (明治 44) 年 2 月 18 日) るのは危険
極まりないと批判を浴びせている。 よって, 力織機化によって, 大きな改善を望み得る
のは 「(五) 工業監督の行はれさること」, および 「(六) 家族の労働者と均衡を得さる
か為め生する種々の弊害等」 だということになる。 より具体的に言えば, 出来高制度を
導入することによって女工を自律的な労働者へと変貌させることである。
― 96 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
この問題に関連して, 力織機化後に次の 2 つの変化が見られた。 ひとつは出来高制度
導入により, 女工が経済的に自立したことである。 新聞でも次のように報じられている。
「工女も雇人であるのみならず工女の多くは工賃を以て生活して居ることに成つた」
( 福島民報
1911 (明治 44) 年 2 月 6 日)。 もうひとつは工場間での労働力競合が活発
化したことである。 この問題に関して, 前述のある機業家は次のように述べている。
「現下の実情を見るに比較的大工場の方か志望者多く供給円満であつて小規模の機業家
の方か不足て且つ工女の品性も見劣りする様に思はる (悉くとは言わぬ)」 ( 福島民報
1911 (明治 44) 年 11 月 13 日)。
工場間での労働力競合は頻繁な女工のフローの始まりでもあったようであり, 川俣絹
織物同業組合解散問題が起こった際に, 解散に異議を唱える川俣町選出議員は 「目下力
織機工女取締りに最も苦心しつヽあるにより之れが取締方法を設け風紀を取締ると同時
に力織機業者の便益を計」 ( 福島民報
1913 (大正 2) 年 3 月 25 日) ることによって,
解散支持派の切り崩しを図った。 周辺農村の副業的機業家にとって関心が薄かったこと,
および女工取締は川俣信用購買販売組合を主体としても可能であったことなどから, 結
局は失敗に終るのだが, 以上のような状況から力織機化によって労働市場が成立したと
見ることができるのではないだろうか。
年季制度の成立条件
年季制度は, 賃金が労働者の生活可能な水準を下回っている状況で成立する雇用形態
であるように思われる。 このことを裏づける史料として, 「六台ノ力織機ヲ以テ経営ス
ル工場ノ収支計算」 (「川俣・小高産業組合関係書類」(10)) をあげることができる。 これ
は福島県輸出羽二重検査所の便箋に手書きで書かれたものであり, 1913 (大正 2) 年頃
に行われた試算であると推察される。 注目すべきは, 支出の項目に 「織賃」 と 「食費
(横糸繰及管捲二人)」 という項目があることである。 「織賃」 は 1 疋 35 銭で, 月 25 円
20 銭となっている。 一般に女工 1 人 2 台持ちであったから, 製織女工は 3 人であった
と見られる。 よって, 女工の平均月収は 8 円 40 銭だったことになる。
これに対して, 「食費 (横糸繰及管捲二人)」 は 1 人あたり 3 円 60 銭となっている。
これは緯糸下拵が 2 人の年季女工の担当であったことを示している。 経糸下拵に関する
項目が欠如しているのだが, これは川俣町の場合, 力織機化の際に経糸を力織機に設置
する筬通工程が専門業者として独立したからである。 このように, 零細工場では経済的
に自立が可能な製織女工に対しては出来高制度が採用され, 経済的に自立が不可能な下
拵女工に関しては年季制度が採用されていた。 よって, 雇用形態は資本の社会的性格を
示すものではなく, 賃金が労働者の生活可能な水準を上回るか下回るかの問題であった
ように思われる。
― 97 ―
おわりに
本稿は織物業において 「工場制手工業 (マニュファクチャー) という経営形態自体マ
イナーな存在でしかなかった」 原因を年季制度に求めた。 年季制度は不採算部門を構造
化し, 不況時の休業コストをも引き上げた。 また, 女工に一定の生活能力を要求しない
ため, 著しく生産性の低い年少者を排除する要因に乏しく, 不採算部門の縮小が困難で
あった。 このことに加えて, 採算部門における労働意欲を刺激する要因にも乏しく, 労
働力供給を奉公という社会システムに依存していたため, 熟練女工に長期勤続を期待す
ることができなかった。 この結果, 年季制度を採用した機業場は, そもそも経営規模の
拡大が困難な状況にあった。
川俣町では力織機化に伴う労働生産性の向上によって, たしかに年季制度が衰退した。
しかし, それでもなお近代工業と在来工業をやみくもに対立させて把握するのは賢明で
はない。 第一に零細力織機工場では出来高制度と年季制度の併用が見られた。 年季制度
は賃金が労働者の生活可能な水準を下回っている状況で成立する雇用形態であった。 第
二に, 力織機工場も労働力供給を奉公という社会システムに依存していた。 力織機工場
も社会に完全に埋め込まれていた。 第三に, 力織機化後, 周辺農村に足踏機が普及し,
農業と工業の新結合が見られた。 これに並行して, 賃機の発達も見られた。
近代工業と在来工業の区別は曖昧であって, 賃機を在来工業とする従来の区別はかな
り恣意的である。 冒頭で述べたように, 牧野 (1997:25) はマニュファクチュアがマイ
ナーであった原因に関して, 賃機の方が合理的な経営形態であったことを示唆している。
年季制度は経営規模の拡大が困難であったという事実, および年季制度と出来高制度が
労働意欲に与えた影響の著しい対照性は, この見解を支持するものである。 賃機の場合,
織元と織子との間には賃労働関係が成立しているのに対して, 年季制度には賃労働関係
が見られない。 この点から見ても, 賃機の方が資本主義的な経営形態であると言える。
《注》
(1)
背景に地域性に対する次のような考え方がある。 「経済現象の空間的展開にみられる差別
性の少なからぬ部分は, 時間的な前後関係, 発展段階の差異に求められうる」 (川島 1986:
9)。
(2)
羽二重は輸出向絹織物であり, 福井・石川・川俣 (福島) が三大産地であった。 それぞれ
の製品種には違いがあり, それぞれ重目・中目・軽目と呼ばれた。 力織機化に関しては先駆
的であって, 1910 (明治 43) 年頃に各産地に急速に普及した。
(3)
このような遅れた生産形態でありながら, 川俣地方の軽目羽二重は高い国際競争力を有し
ていた。 これは川俣羽二重産業がニッチ産業であったことを意味する。 よって, 川俣羽二重
産業の発達は小農の市場適応力の高さを物語っている。
― 98 ―
年季制度に関する経済地理学的考察
(4)
生産者にとって, 高い価格, あるいは低い取引費用で販売できる産地は魅力的である。 こ
の意味で, 川俣市場は魅力に欠けていたため, 他の地域から生糸が供給されなかったという
ことである。
(5)
同業組合は粗製濫造問題を克服するために組織されたものであり, 当初は自主的な品質管
理を使命とした。 同業組合は営利事業を行うことができなかったため, それを補うために産
業組合が必要であった。 産業組合には信用組合, 販売組合, 購買組合などがあり, 複数の機
能を備えた組合もあった。
(6)
「商農者」 とあるが, ひとつの職業で生計を成り立たせることができなかったのであって,
現代風に言えば 「インフォーマル・セクター」 に近い。 もともと農民は自給的生活を送って
おり, 様々な仕事の技術を身につけていた。 「百姓」 とは多彩な仕事の意であって, 「商」 も
何かを作って売る仕事であったと見られる。
(7)
川俣町史資料。 年度別に川俣町役場の文書が整理されている。
(8)
川俣町史資料。
(9)
裏を返せば, 器械製糸によって女工の労働条件は大きく改善されたということである。
(10)
福島県史資料。 福島県庁の文書のうち, 両産業組合に関するものがまとめられている。
参考文献
石井寛治 1991
日本経済史[第 2 版]
大石為石・山根竹爾 1917
東京大学出版会
川俣羽二重沿革誌
川俣二七新報社
大塚久雄 1973
欧洲経済史
川島哲郎 1986
経済地理学の課題と方法, 川島哲郎編
川俣絹織物同業組合 1910
岩波書店
北陸地方
視察報告書
経済地理学
朝倉書店, 114
川俣絹織物同業組合
川俣町 1979
川俣町史
第3巻
資料編
近代・現代
川俣町 1982
川俣町史
第1巻
通史編
川俣町
田村均 1987
昭和恐慌下の秩父織物業
川俣町
工業組合の成立と産地再編成
, 地理学評論 60:
213236
日本銀行調査局 1915
野原敏雄 1960
川俣羽二重ニ関スル調査
日本銀行調査局
在来工業の展開と地域経済の役割
岐阜県明知町の製糸工業の場合
, 経済
地理学年報 6:2134
農商務省 1998 [初版 1903]
牧野文夫 1997
て
上
招かれたプロメテウス
三浦宇十郎 1913
山内太 1995
職工事情
岩波書店
風行社
川俣羽二重沿革小史
川俣町
日露戦後期における地域振興策とその性格
福島県伊達郡川俣町を事例とし
, 土地制度史学 (147):3854
横山源之助 1949 [初版 1899]
日本の下層社会
セン, A. 著, 黒崎卓・山崎幸治訳 2000
岩波書店
貧困と飢饉
スミス, A. 著, 水田洋監訳・杉山忠平訳 2000
岩波書店
国富論
― 99 ―
1
岩波書店
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 100119
October 2007
(1)
「ティアンギス」 と地域社会
メキシコ市大衆地区 (2) の青空市と
地域住民とのかかわりについての一考察
増
山
久
美
‘Tianguis’ y la sociedad local de la Ciudad de M
exico :
un estudio sobre la vinculaci
on del mercado al aire libre
con los vecinos en la colonia popular
Kumi MASUYAMA
はじめに:問題の所在
メキシコには先スペイン期から続くティアンギス (tianguis [スペイン語]) と呼ば
れる青空市がある。 ティアンギスとはナワ族の言語ナワトルで 「市 (いち) (tianguiz)」
を意味する。 かつてアステカ帝国の首都テノチティトラン (現在のメキシコ市) では,
交易の中心としてティアンギスが繁栄を極めていた [De Rojas, 1988]。
メキシコ市(3) は都市の規模では世界最大であり, 16 行政区からなる連邦特別区
(D.F.) と, メキシコ州の 35 町村から構成されている。 本稿で取り上げるのは連邦特別
区内の大衆地区である。 近年, グローバル化, 都市化の波はメキシコ市の大衆地区にま
で押し寄せ, 町は急速に変化している。 1994 年の北米自由貿易協定 (NAFTA) 発効
でメキシコがグローバル経済体制に参入して以後, 大衆地区にも外資系の大型スーパー
マーケットやファーストフード店が競うように進出しており, 公共施設に関しては, 貧
困対策に力を注いだロペス・オブラドールが市長を務めた 2000 年 12 月から 2005 年 7
月に, 医療機関や教育機関がとりわけ急増している(4)。
こうしてなおも発展が続く都市大衆地区において, ティアンギスは至る所に存在し,
膨大な数の小商人に買い物客が加わり戦場のような活気を呈している。 現在, 多くの文
献はティアンギスを 「定期市」 「移動市」 として扱っているが, 実際のところ地域住民
は 「常設市」 も含め, 青空市を総括してティアンギスと呼び, 日常的に慣れ親しんでい
る。 都市整備の面で問題を多く抱えるものの(5), 彼らにとってティアンギスは欠くこと
― 100 ―
「ティアンギス」 と地域社会
のできない存在となっている。
青空市をはじめ路上における物売りについては, 貧困対策のための必要悪だという見
方が強い [Mendoza, 1994]。 貧困層の生存のために重要な存在となっていることは,
これまでの諸研究でも明らかである [Cross, 1998; Pe
na, 1999; 丸谷, 2003]。 しかし,
地域社会が発展を続ける今日にあって, 政治的経済的な側面のみに焦点を合わせて都市
のティアンギスを解釈するのでは, もはや不十分である。 筆者が最初に滞在した 1980
年代初頭には, この地域には公設市場しか存在しなかったので, ティアンギスは経済生
活上重要な役割を担っていた。 ところが現在では, 低所得者が多く居住する大衆地区と
はいえ, インフラの整備が進み, 公共施設, 娯楽施設, 大型店が増えるなど町の発展が
めざましく, 概して彼らの生活水準も教育水準も上昇している。 彼らの経済生活の沈滞
だけがティアンギスの存続と繁栄の理由という説明は説得力に欠ける。 ティアンギスと
地域住民との間には, 経済的な要因と, それを基盤としてそこから派生した密な結びつ
きがあるに違いない。 その結びつきが地域社会の存立を助けているのではないだろうか。
この疑問に解答を与えるためには, ティアンギスをマクロな社会構造のなかで分析する
のではなく, 地域社会のなかに位置づけてミクロな空間に視座を置いて人々とのかかわ
りを分析する。
本稿は, 大衆地区におけるティアンギスと地域住民との結びつきを検討するものであ
る。 具体的には, ティアンギスとはいかなるものかを提示した上で, 人々が日常の生活
でどのようにティアンギスにかかわっているかについて議論を進め, 双方の関係を探っ
ていきたい。
Ⅰ. 先行研究:メキシコを中心に
市場 (いちば) に関する研究については, 古くは 1940 年にマリノフスキーとデ・ラ・
フエンテがメキシコのオアハカ州で市の民俗学的調査を実施している。 オアハカ市の常
設市場を中心に周辺の村落がそれぞれ異なる曜日に定期市をもつことから, 彼らはオア
ハカの市場網を太陽系市場組織と名づけた [マリノフスキー, デ・ラ・フエンテ, 1987]。
バタージャは, モレロス州クアウトラの祭りの市 (feria) を考察して, 市は地方的
レベルにおける社会構造のための軸の一つであり, 異なる村落社会のメンバー間の家族
的宗教的な絆だけではなく, 友情の絆をも築き強固にすると述べる [Batalla, 1971]。
彼は, 市場を物資の交換のみならず, さまざまな人間関係が結ばれる結節点として, そ
のネットワーク機能を強調している。
インフォーマルセクターとしての市場を, 政治的経済的角度から分析したものでは,
デ・ソトのリマ市におけるインフォーマル経済の研究がある。 彼は, 常設市場や公共輸
― 101 ―
送の大部分がインフォーマルな活動によって成り立っている実態を挙げ, ペルーのよう
な国家体制の下では, 経済発展はフォーマルな活動を通してのみ起こるわけではないと
述べる [De Soto, 1989]。
クロスも, メキシコ市の露店商人と国家の関係に関する研究で, インフォーマルな経
済活動は, 彼らが生き延びるために会得した経験と手腕の結果であり, それがメキシコ
の全体社会のなかで政治的経済的に重要な役割を担っていると結論づけている [Cross,
1998]。 両者とも国家というより包括的な社会のなかに貧困層のインフォーマルな経済
活動を位置づけ, 彼らの活動を否定的に捉えることなく政治的経済的発展の可能性をも
視野に入れ分析している。
近年顕著なのは, ジェンダーの視角からの研究で, いずれも女性と貧困とインフォー
マルな経済活動を結び付けている。 女性の労働市場への参入は 1970 年代以降増加傾向
にあったわけだが, 1980 年代の経済危機以前は, おもに高等教育を受けた独身女性で
あったのが, 経済危機以降は高等教育を受けていない主婦と母親の参入が急増した(6)。
ペドレロの調査によれば, 彼女たちの大部分は物売りなどの小商売に従事しており, 主
な商売内容は家事の延長であるという。 小商人全体の 3 分の 1 は女性である。 彼女たち
が行う小商売は, 男性の収入と比較すると低収入であることが少なくないが, 家計を支
えるための重要な収入源であり, 貧困化を抑制していると主張する [Pedrero et al.,
1995]。 ガイタンとロペスは, 経済危機の 1980 年代に, 女性はインフォーマルセクター
において専門性が低く低収入の 「万屋 (mil usos)」 になったと説明する [Gait
an y
L
opez, 1988]。
パチェコは, メキシコの主要都市で調査を行った結果, 大都市では子どもを 1 人抱え
た女性のほうが子どものいない女性よりも, インフォーマルな労働市場へ多く参入して
いることから, 夫婦生活が破綻しシングルマザーが家計を支える必然性が生じるライフ
サイクルの時期と, 子をもつ女性がインフォーマルな労働市場へ参入する時期の一致を
指摘している [Pacheco, 1988]。
こうして今日, 貧困問題の一角に, インフォーマルな経済活動を行う場としての市場
をおくことが市の研究の主流となっている。 このような分析は, 社会構造上の問題を指
摘する点で評価できる。 しかし, 市場を貧困層の救済の場としてとらえ, その受け皿的
な役割のみを強調することは, 市場とそこにかかわる地域の人々の関係を無視するだけ
でなく, 両者を社会的劣位に置くことにもなりかねない。 そこで本稿では視点を改め,
ティアンギスと人々の結びつきに焦点を合わせて地域のありかたを探る。 ティアンギス
の小商売をめぐって大人と子どもとではかかわり方が異なることから, 分析の際には両
者を分けて検討する。 以下, 詳細なデータを提示して, 地域住民の暮らしの中で両者の
関係を読み解いていくことにする。
― 102 ―
「ティアンギス」 と地域社会
Ⅱ. ティアンギスの実態
1. 調査対象地区とその周辺地域の商業的様相
メキシコ市の連邦特別区を構成する行政区の一つイスタパラパ区 (図 1 斜線部分) 南
部, トラウアク区と隣接するサン・ロレンソが本研究の調査対象地区である。 イスタパ
ラパ区は行政区のなかで最大の人口を抱えているが(7), そのなかでもサン・ロレンソに
は低所得者が多く居住しており(8), 不法に土地を占拠したパラカイディスタ(9)と呼ばれ
る人々も少なくない。 サン・ロレンソは連邦特別区とはいえ, 1980 年代は農村的な部
分をそこここに残していたが, 1990 年代に都市化が加速し, 2000 年代は急速かつ不均
衡な都市化によって表出したさまざまな問題が深刻化している。
図 2 は, イスタパラパ区サン・ロレンソ周辺地域の地図である。 中央東寄りに公営墓
地とショッピングプラザ A が存在しており, それらを含めた西側がイスタパラパ区で,
南東がトラウアク区である。 北西から南東にトラウアク大通りが走っており, この通り
に沿って商業地帯が広がる。 もとはそこここにエヒード(10)が点在してティアンギスに土
地を提供していたが, 1990 年代に開発が進み, そのような場所に大型店舗が進出する
図1
連邦特別区地図
連邦特別区 (D. F.)
図 2 の範囲
出所:Gobierno de la Ciudad de M
exico, Tl
ahuac: monograf
a (Ciudad de
M
exico, COMISA, 1996) に筆者が修正加筆。
― 103 ―
図2
サン・ロレンソ周辺の地図
出所:Ciudad de M
exico, Area Metropolitana y Alrededores, Gu
a Roji 2007
に筆者が修正加筆。
ようになった。
この地域にはショッピングプラザが 2 つある。 1 つはチェーン・ストアのウォルマー
ト (Wal-Mart) を中心にいくつかの店舗とレストラン, 複合映画館, 子ども遊園地が
併設されたショッピングプラザ A (11)で, もう一つは別のチェーン・ストアのボデガ・
アウレラ (Bodega Aurrer
a) を中心にいくつかの店舗が併設されたショッピングプラ
ザ B (12) である。 そのほかエレクトラ (Elektra) などの家電専門店や, エスペランサ
(Esperanza) などの靴専門店, マクドナルド, ケンタッキー・フライドチキン, ドミ
ノピザなどのファーストフード店, 複数の銀行が進出している。 これらの店舗はいずれ
もチェーン・ストアである。 日本でいうところの百円均一ショップ(13)も, 2005 年から
2006 年にかけて相次いで開店している。
このように, 大通り沿いに近代的な店舗が急増する一方で, 伝統的な小商店は大通り
のみならず裏通りにも無数に散在している。 公設市場 (mercado) は各地区に設置さ
れている。 そして多くの場合, それらの公設市場を取り囲むように常設ティアンギスが
存在し, さらにその周辺に曜日の異なる小規模の定期ティアンギスが開かれており, ま
さにマリノフスキーが提唱した太陽系市場組織の様相を呈している。 筆者の観察では,
10 年以上に及ぶ大型スーパーマーケットなどとの競合にもかかわらず, ティアンギス
― 104 ―
「ティアンギス」 と地域社会
は衰退するどころか, 益々活気を帯びて地域と渾然一体となっている(14)。 そのティアン
ギスとはどういうものか, リーダーへの聴き取り調査と参与観察資料を中心にみていく。
2. サン・ロレンソ通りのティアンギス
国立統計・地理・情報科学研究院 (INEGI) によれば, 連邦特別区 16 区全体で 1,066
のティアンギス (常設と定期を含む) と, 312 の公設市場が存在している。 そのうちイ
スタパラパ区には 305 のティアンギスと 20 の公設市場が存在しており, ティアンギス
の数は連邦特別区のなかで最大である [INEGI] (15)。
サン・ロレンソ通りの常設ティアンギスを対象にとった(16)。 このティアンギスはサン・
ロレンソ地区では唯一常設で, もっとも大きく, 地区の商業の中心地となっている(17)。
サン・ロレンソ通りを中心に常設されており, 同通りに面したサン・ロレンソ公設市場
を囲むように広がっている。 そのリーダー, ドン・コルレオーネ (仮称) からの聴き取
り調査結果を以下に提示する(18)。
このティアンギスは, 現在のリーダー, ドン・コルレオーネが所有して 28 年になる。
彼はティアンギスを統括するほか, 全体としてのティアンギスが円滑に営業できるよう
に, 行政や警察とさまざまな交渉も行っている。 ティアンギスにおいては絶対的権力を
有する彼も, かつてはティアンギスの小商人の一人にすぎなかった。 その経験を活かし
て, 自分が所有するティアンギスの規則を決定するという。
2006 年 9 月の時点でティアンギスタ (tianguista:ティアンギスの小商人) の登録
者数は 2 千人以上だというが, 出入が頻繁に行われるのでドン・コルレオーネも正確な
数を把握していないとのことだ。 ドン・コルレオーネと 4 人の手伝い (ayudante) (19)
が毎日見回り, 管理を行う。 定休日はなく, 年間を通して一定の場所に立つ。 全体の営
業時間は早朝 5 時 30 分―22 時 30 分だが, その範囲でティアンギスタはそれぞれの都
合に合わせた時間帯に商売を営む。
登録資格は, 国籍を問わず 16 歳以上であること。 これは, 義務教育が小学校 6 年,
中学校 3 年であるため, 原則として 15 歳以下の登録は認められないからである。 登録
は随時行われており, 必要な書類は出生証明書, 現住所が証明できるもの (パスポート
や運転免許証), 写真, 障害者の場合は障害者カードである。 優遇措置として 60 歳以上
の高齢者と障害者は, 登録料など全てが免除される。 これらはティアンギス組合で定め
た規則であるが, 実際はドン・コルレオーネの判断で登録が許可される(20) 。 現在,
10∼80 歳代の幅広い年齢層のティアンギスタが登録している。
ティアンギスで商売をするには, 登録料 (1 年 200 ペソ[約 2 千円]), 場所代/商売代
(1 m×1 m, 1 日 7 ペソ [約 70 円]), 清掃代/ゴミ処理代 (1 日 7 ペソ) をドン・コル
レオーネに支払わなくてはならない。 特定の場所に店を構えずティアンギス内を売り歩
― 105 ―
く行商人(21)の商売代は 1 日 5 ペソ (約 50 円) である。
店舗の形態は, 金属製パイプで組み立ててビニールシートで覆った簡易店舗, 手押し
車に商品を乗せた可動式店舗, 路上に直接ビニールシートを広げ商品を並べた店舗, 商
品を持って売り歩く 4 種類である。 大多数は組み立て式簡易店舗であるが, もっとも費
用のかかるこの形態にしても 5,000∼6,000 ペソ (約 5∼6 万円) あれば十分準備が可能
である。
商品に関しては, 「子どもの教育上害のないもの」, 具体的にはアルコール飲料, 風俗
関係の商品, 麻薬等以外であれば何を販売しても構わない。 というのは, この地域は低
所得層の家族が居住する住宅地であり, 幼稚園, 小学校, 中学校等の教育機関が複数存
在しているため, 買い物客には学校帰りの子どもを連れた家族連れが多いのである。 ま
たティアンギスタも子ども同伴が少なくない。 ドン・コルレオーネは, 7 つの地区にティ
アンギスを所有しているが, サン・ロレンソでは子どもの生活環境を悪化させないよう
配慮しているという(22)。 この点において, 市中心部歴史的地区周辺のティアンギスとは
大きく異なる(23)。
販売禁止商品を販売したり, 商売中に飲酒行為を行ったり, 客や他のティアンギスタ
とトラブルを起こしたりすると, ティアンギスタは罰則として 3 週間の営業停止処分を
受ける。 度重なる違反行為など悪質なものは永久追放となる。
年に一度の行事として, 12 月に市内ビージャスのグアダルーペ寺院と, メキシコ州
トルーカのチャルマへ巡礼旅行を実施しており, 自由参加ではあるが, 多くのティアン
ギスタが参加して商売繁盛の祈願をするとともに交流を深めている。 この際にかかる食
費などの費用は, 全額ドン・コルレオーネが負担する。
表 1 と表 2 はサン・ロレンソ通りのティアンギスの店舗数と商品の種類を示したもの
である(24)。 食料品とその他を合わせると店舗数は 978 におよぶ(25)。 調査は平日に実施し
たのだが, ドン・コルレオーネによれば, 週末はさらに増加して 1,900 店舗を超えて範
囲が拡大するという。 店舗の種類は混在しているが, 工具, 家電部品・自動車部品・自
転車部品, 便器, 水道蛇口, 鎖, アンテナ, がらくたなどの店舗はサン・ロレンソ通り
のトラウアク大通りとは反対のはずれにある。 食料品は 287 店舗あり, 全体のなかで占
める割合は 29.3 パーセントである。 食料品以外は 691 店舗で, 全体の 70.7 パーセント
である。 食料品に関しては, 冷凍食品を除けば大抵のものは売られている(26)。 商品のな
かには, DVD や携帯電話など時代を反映するものがある一方で, 古着, がらくた, 家
電・自動車部品, 便器にいたるまで蚤の市を彷彿させるものもある。 概して食料や衣類
や雑貨などの最寄り品を扱っており, 買回り品はなかった。 それらは 1∼2 人で容易に
運搬できる小型の, しかも廉価の商品であり, 少ない資本と少人数で営む小商売
(micronegocio) (27)であることを示している。
― 106 ―
「ティアンギス」 と地域社会
表1
サン・ロレンソ通りのティアンギス (食料品の店舗数)
食料品の種類
商人の
性別*3
野菜, 果物
タコス
肉
菓 子
トウモロコシ (生, 茹で)
シャーベット (nieve)
魚
ホットドック, ピザ
揚げ豚皮風スナック
インゲン豆, パスタ, 米
唐辛子
生ジュース
トルタ (サンドイッチ)
食用ウチワサボテン
シーフード料理
男女
男女
男女
男女
男女
男
男女
男女
男女
男女
女
男女
男女
女
女
店舗数
82
39
22
21
15
14
10
8
8
7
7
7
6
6
5
食料品の種類
薬 草
チーズ, クリーム
かき氷 (raspado)
菓子パン
ナッツ類
チュロス*1
揚げトルティジャ
ポテトチップス
タマーレス, アトーレ*2
清涼飲料水
惣 菜
飲料水
ドーナツ
サルサ (調味料)
モーレ (調味料)
商人の
性別
女
男女
男
女
女
男女
女
男女
女
男女
女
男
男女
女
女
店舗数
3
3
3
3
3
2
2
2
2
2
1
1
1
1
1
計 287
出所:現地調査より筆者作成。
*1 棒状の揚げパン。
*2 タマーレスは, トウモロコシの葉で包んで蒸したトウモロコシ粉のパン。 アトーレは, トウモロコシ粉で
作った熱く甘い飲み物。
*3 ティアンギスタの性別。 男女は 1 店舗に男女, 或いは同一店舗でも日時によって男女異なり, 明確でない
もの。
表2
商品の種類
衣 類
古 着
CD, DVD
工 具
靴
がらくた(ch
achara)
家庭用品
下 着
独立記念日の装飾品
自動車部品
靴 下
リュックサック
家電部品
ファンシーグッズ
文 具
本, 雑誌
布 地
切 花
玩 具
化粧品
サン・ロレンソ通りのティアンギス (食料品以外の店舗数)
商人の
店舗数
性別*1
男女
男女
男
男
男女
男女
男女
女
男女
男
女
男女
男
女
男女
男
女
女
男女
女
160
69
55
51
38
26
24
21
21
16
16
16
16
12
9
9
9
8
8
6
商品の種類
自転車部品
貴金属
靴紐, クリーム
皮製サンダル
便 器
水道蛇口
ビニール袋,シート
金 物
鎖
香 水
眼 鏡
ベルト
テーブルナプキン
時計
バッグ, 鞄
鍵
ぬいぐるみ人形
ポリバケツ
アンテナ
15 歳パーティ用ドレス
商人の
店舗数
性別
男
男女
男女
男女
男
男
男
男
男
男女
男
男
女
男女
男女
男
男女
男
男
女
6
6
6
6
5
5
4
4
4
4
4
4
3
3
3
3
3
2
2
2
商品の種類
携帯電話
靴磨き
野球帽
香
熱帯魚
小 鳥
風 船
ヘチマタワシ
食器 (陶器)
荷車 (diablo)
ゲーム
民芸品
リボン
キーフォルダー
携帯電話ケース
オルゴール弾き
家 具
アニメポスター
スポーツ用品
腕時計ベルト
商人の
店舗数
性別
男
男
男
女
男
男
男
女
女
女
男
女
女
男
男
男
男
男
男
男
2
2
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
1
計 691
出所:現地調査より筆者作成。
*1 ティアンギスタの性別。 男女は 1 店舗に男女, 或いは同一店舗でも日時によって性別が異なり, 明確でな
いもの。
― 107 ―
ティアンギスタの性別と商品との相関は, 必ずしも特定の商品と明確に結びついてい
るわけではないが, いくつかの商品においてはティアンギスタの性差が見られた。 例え
ば食料品 (ただし肉, 魚など解体作業に重労働を要するものは男性が多い) や衣類のティ
アンギスタは比較的に女性が多く, とくに下着, 靴下, ファンシーグッズ, 布地, 切花,
化粧品については全員が女性である。 一方, CD, DVD, 工具, 自動車部品・自転車部
品・家電部品, 便器, 蛇口, 鎖, 鍵, アンテナのティアンギスタは全員が男性である。
このことから, ガルシアとララが述べるように, ティアンギスタは普段家庭内で役割を
担っている領域に係わる商品を扱う傾向が, 緩やかながら見られることが筆者の調査で
も明らかになった [Garc
a y Lara, 2000]。
このようにティアンギスは, 登録・販売方法・扱う商品のいずれにおいても最低限の
規則があるのみで, 柔軟性に富み, 僅かな資本金で商売が可能だ。 商売そのものはティ
アンギスタの裁量に委ねられている。 また, 高齢者や障害者など社会的弱者のために優
遇措置を設けたり, ティアンギスタを巡礼旅行へ招待したりするなど福祉面での配慮も
ある。 これらのことが, 小商売を試みようとするさまざまな世代の人々を惹きつけてい
ると思われる。
Ⅲ. 地域住民とティアンギス
1. 女性の購買行動
さて, このようなティアンギスを生活空間の一部にもつ地域の人々にとって, ティア
ンギスはいかなる存在なのか, また彼らはそこにはどのように関わっているのだろうか。
先ず, 商業的にこれほど近代と伝統がせめぎ合う地区で, 人々の購買行動がどうなって
いるのか, どの程度ティアンギスを利用しているのか示す必要があるだろう。 表 3 は,
サン・ロレンソを中心としてイスタパラパ区側とトラウアク区側に居住する 20∼50 歳
代の 26 人の女性を対象に実施したアンケートの集計結果である(28)。 ティアンギスの予
備調査から, 買回り品を扱う店舗がないことが分かっているので, 質問事項は最寄り品
に限定した。
回答者が従事する職業は, 副業も含めて商人
販売のタンダ (頼母子講, 無尽)
(29)
ティアンギス, 公設市場, カタログ
が 10 人と多い。 買い物の回数は, 家族成員が
多いほうが比較的頻度が高い。 家族成員数の多寡と購入場所との相関はみられない。 生
鮮食料品に関しては 26 人中 24 人がティアンギスと公設市場を利用するが, 主食のトル
ティジャ(30)は全員がトルティジャ屋で購入している。 日用品は 11 人がティアンギスを,
10 人がスーパーマーケットを利用しており, 若い世代にスーパーマーケット利用者が
多いことが表から分かる。 衣料品と靴については, 13 人がティアンギスか公設市場を
― 108 ―
「ティアンギス」 と地域社会
表3
サン・ロレンソ周辺住民 (女性) の購買行動
家族
婚 姻
買い物
年齢
身分・職業 成員
の有無
回 数
数
A
22
B
23
C
24
D
26
E
26
F
26
G
28
H
28
I
29
J
30
K
30
L
31
M
32
N
32
O
32
P
33
Q
33
R
34
S
34
T
35
U
35
V
38
W
40
X
43
Y
51
Z 無回答
無
無
有
有
有
有
無
有
有
有
有
有
有
有
有
有
無
有
無
有
有
有
有
有
無
無
保育士
保育士
主婦
主婦
主婦,商人
保育補助
労働者
主婦
商人
主婦
主婦
主婦
労働者
商人
主婦
労働者
保育士
商人
商人
エアロビクス講師
商人
商人
商人
労働者
D.F. 職員, 商人
主婦,商人
5
2
5
5
4
2
3
5
7
4
7
6
4
5
3
3
3
4
3
5
3
8
5
3
5
3
週 3∼4
週 5∼6
週 3∼4
毎日
週 3∼4
週 1∼2
週 1∼2
週 1∼2
毎日
週 1∼2
毎日
毎日
週 5∼6
毎日
週 3∼4
週 3∼4
週 1∼2
毎日
毎日
週 1∼2
週 1∼2
毎日
週 3∼4
毎日
週 1∼2
週 1∼2
(N−26)
生鮮食品
購買場所
トルティジャ
購買場所
日 用 品
購買場所
衣料品・靴
購買場所
ティアンギス
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス,公設市場,S
雑貨店
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
雑貨店
ティアンギス
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス,公設市場,S
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
トルティジャ屋
公設市場
S
S
S
S(v)
ティアンギス, 公設市場
S
S
ティアンギス
S
ティアンギス
S(v)
雑貨店
ティアンギス
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
雑貨店
ティアンギス
ティアンギス
S
ティアンギス
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
公設市場
S(v)
雑貨店
専門店
特定せず
ティアンギス,公設市場,S
専門店
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス, 公設市場
ティアンギス
S
ティアンギス
専門店, S
ティアンギス
S(v)
専門店
ティアンギス
S
特定せず(v)
ティアンギス, 公設市場
専門店
ティアンギス
専門店
ティアンギス
特定せず(v)
ティアンギス, 公設市場
専門店
ティアンギス
ティアンギス
出所:アンケート調査より筆者作成。
注:S はスーパーマーケット。 (v)はスーパーマーケットのクーポン券(vale)を使用。
利用しているが, 全体として購入場所を特定しない傾向にある。 この表から明らかなの
は, 食料品とその他の商品で人々が購入場所を分けていることだ。 これは, 彼女たちの
多くが, 生鮮食料品は他の店よりティアンギスや公設市場のほうが新鮮であり, まとめ
買いをすることで値引きの恩恵にあずかれると考えていることによる。 スーパーマーケッ
ト利用者のうちクーポン券 (vale) を使い購入する 5 人 (E, L, P, V, Y) は, 会社
や公教育省 (SEP) (31)など所属機関からクーポン券 (vale) を支給されるのでなければ,
スーパーマーケットは利用しないだろうと答えた(32)。 また, 小商売を営む 10 人 (E, I,
N, R, S, U, V, W, Y, Z) は, おもに商品の購買とは異なる目的, つまり商品の
種類・品質・値段を調べるために, 時折スーパーマーケットや新たに開店した百円均一
ショップへ偵察に行くという。
ティアンギス利用者全員に, 利用する理由を訊ねたところ, 一様に, 店先で選んだ商
品をその場ですぐに購入できる, 店主とのやりとりがある, 時にはおまけをつけてくれ
る, という返答であった。 そして彼女たちが特に強調したのが, 「子どもの頃から慣れ
親しんでいるから」 という理由である。 つまり, ティアンギスを好んで利用する最大の
理由は, スーパーマーケットと比較すると安価であるという単純に経済的な問題ではな
― 109 ―
かったのだ(33)。 しかも同様の意見は, 多くの住民からも聞くことができる。 彼らが使う
この表現には 2 つの意味がある。 一つは, 子どもの頃から習慣的にティアンギスで買い
物をしているという意味と, もう一つは, 子どもの頃から本人或いは家族など身近な人
が, 何らかのかたちでティアンギスの商売にかかわっているという意味である。 この地
域ではそれほど小商売に携わる人が多く, 「物売り」 は収入を得るための一般的な手段
となっている。
2. 住民と小商売
地域の人々がどのような職業に従事するのか把握するため, 筆者は 1999 年に, サン・
ロレンソを中心にイスタパラパ区とトラウアク区の小・中学校で, 家族成員の職業を問
うアンケートを実施している [増山, 2001]。 本稿の調査対象地区は全てその地域内に
あり, 人々とティアンギスの結びつきを論じるのに有効であると思われるため, ここで
はその集計結果を紹介する(34)。
大人たちと小商売
表 4 から, 主婦, 肉体労働者
主に工場労働, 土木建築労働従事者
行商, 露店, ティアンギス, 公設市場, 小商店
, 商人
が多数を占めていることがわかる。
ここで説明を加えなければならないことは, 肉体労働者と商人が, 必ずしも, 低学歴や
無学のために選択肢がないという閉塞的状況におかれ, これらの職業に従事せざるをえ
ないという訳ではないことだ。 同アンケートで最終学歴も問うたのだが, 彼らのなかに
は高等教育を修了した者も含まれている。 とくに商人に関しては, 「たとえ工場労働に
よる収入のほうが勝っても, 彼らは通りでの物売りを生活手段として選ぶ」 [Cross,
1998] と, クロスが物売りの証言をひいて述べているように, 筆者も全く同様の意見を
人々から聞いている。 ある小商人が話すところによると, 高等教育を修了して専門職に
表4
職業・身分
人数
%
家族の職業
職業・身分
人数
(N−1,183)
%
職業・身分
人数
%
婦
343 29.0%
技術者
16
1.4%
掃除夫
9
0.8%
肉体労働者
298 25.2%
会計係り
16
1.4%
保
8
0.7%
商
159 13.4%
左
13
1.1% コンピュータ技師
7
0.6%
主
人
官
母
事務員
86
7.3%
仕立て屋
13
1.1% スタイリスト
7
0.6%
タクシー, バス運転手
49
4.1%
警察官
10
0.8%
看護婦
6
0.5%
教
師
33
2.8%
電気工
10
0.8%
医
師
5
0.4%
秘
書
31
2.6%
農
夫
10
0.8%
電話交換手
5
0.4%
18
1.5%
機械修理工
9
22
1.9%
連邦特別区職員
0.8% その他
出所:増山久美, 2001, 「メキシコ市東南部の子どもたち
「下層」 における事例研究
カ研究年報 日本ラテンアメリカ学会, No. 21 を修正。
注:全体 2,629 人から乳幼児, 学生, 無職, 無回答の合計 1,446 人を除いたもの。
― 110 ―
」
ラテンアメリ
「ティアンギス」 と地域社会
就く者のなかにも, その職場を去り小商売を始める者がいるという。 このような小商人
たちが主張するのは, 工場や大手スーパーマーケットなどでは, 監督, 上司といった目
上の者に使われ, 労働を強制されるが, 通りの商売は, 時間的な拘束がなく, 通行客と
つかの間の会話を楽しむこともでき, その種の仕事の最大の魅力は, 独立した店主とし
て努力と工夫次第で収入増加や店舗拡大を図れることにあるという点である [増山,
2001]。 なかでもティアンギスは集客力があるので, 通りに個人的に露店を出すよりも
収益率が高く, またリーダーがさまざまなトラブルの回避を図ってくれることから, 彼
らはティアンギスに店舗を持とうとする。
ここでいう主婦は, 大部分が専業主婦ではなく, 機会をみつけては洗濯屋, 掃除婦,
公設市場, ティアンギスなどの手伝いをして収入を得ている。 子どもを抱える主婦が,
家庭外労働が可能なのは, この地域の居住形態に拠るところが大きい。 メキシコの他都
市同様ここでも核家族の割合は高いのだが(35), 完全な核家族ではなく, 同じ通りや同じ
地区に親族が近住することで拡大家族の機能を有しており, 育児の面で相互扶助網が築
かれているので, 主婦は家庭内労働の合間に家庭外労働に従事できる [増山, 2004;
2005]。 彼女たちが商売へ参入する場合, まず, 家庭で準備できる料理の下ごしらえな
ど, 間接的にかかわる仕事や, 不定期の手伝いから始める。 そして子どもが小学校へ入
学するころになると, 本格的な商人としてティアンギスや公設市場などに店舗を構える
のが一般的である。 何年か経ち商売が安定すると, そこへ主婦である他の女性親族が加
わることもよくあることだ。 彼女たちの多くはまとまった資金を持ち合わせておらず,
金融機関とも繋がりがない。 そこで, 親族・友人・隣人たちとタンダを組織して, 順番
に当たると仲間が納めた会費を商売に投資する。 このような講に参加することで彼女た
ちは資金を調達し, 小商売を実現させる。
教師や連邦特別区職員
主に公立学校職員と清掃業者
は, 公務員でありながら
商人や運転手としても働くなど, 副業を併せ持つ場合が多い。 サン・ロレンソのある小
学校では教職員 22 人中 18 人が何らかの副業を持っている。 教師が副業を持つ背景には,
1 つに公立学校が午前と午後の 2 部制を導入しており, 生徒だけではなく, 校長以下用
務員に至るまで全ての教職員が交代することから時間的なゆとりがあることと, もう 1
つに教師たちは, 政府の政策で給与を据え置かれており, 物価の上昇によって総体的に
生活水準が低下したことがある。 こうしたことから, 公立学校の教師の多くはインフォー
マルな経済活動を行い, 収入の増加を図っているのだ。 ティアンギスなど路上での小商
売に従事する教師たちは, 一方で給与は低いが公的保障(36)が受けられる公務員を続けな
がら, 他方で何ら公的保障はないが創意工夫で公務員給与を超える収入が期待できる小
商売を営むという職業の 2 本立ての利点を主張する。
ともすれば我々は, 低所得者たちに言及する時に, 彼らの多くは低学歴であるために
― 111 ―
未熟練労働に従事する他なく, インフォーマルセクターに参入していく, という貧困に
ついての宿命論のごとく否定的な見方をしがちであるが, 調査からは, 小商売に可能性
を求めて進取的にティアンギスに参入する大人たちは少なくないことが分かる。 このこ
とから, ティアンギスは社会の底辺に置かれている人たちの受け皿として役立っている
だけではない, ということも我々は考慮に入れなければならない。
子どもたちと小商売
この表中には学生は算入されていないが, 彼らもまた学業の傍ら, 授業のない半日を
家族の商売の手伝いをしたり, 小商売を行ったりして路上で過ごすことが少なくない(37)。
ティアンギスで親の商売を手伝うある小学生は, 上手な商売とは, ①気前よく味見をさ
せる, ②おまけをつける, ③量り売りのものは秤を揺らして目方をごまかす, ④目方の
多いものは前もって目盛をプラスにしておく, といった手法を客を見極めて使い分け,
手際よく行うことだと筆者に話す。 ごまかしばかりでは客が離れるので注意を要し, 常
連客には増量サービスを心掛ける, 感謝の気持ちを忘れないなど, 工夫も必要だという。
つり銭が不足した場合, 隣近所のティアンギスタから借り, 調味料や材料の不足も同様
に間に合わせる。 急用で一時的に店を留守にする時でも, ティアンギスタ同士が普段か
ら協力し合い信頼関係を構築していれば安心して頼むことができる。 親がティアンギス
タ仲間とタンダやカハ・デ・アオッロ (貯蓄金庫) (38)を組織して会費を商売に投資する
ことが日常的に行われており, このような資金繰りの方法も, 親の商売を手伝う過程で
身につける。
小学生の頃から商売を手伝っている子どもは, 中学生になれば一人前とみなされ, 店
を任される機会が増えてくるので, 自然と責任感も強くなる。 小さな屋台ではあるが彼
らは店主として商いを行うようになる。 こうして彼らは 「小さな大人」 であることを目
指す。 日本のような先進諸国では, 子どもが子どもらしくいられない 「小さな大人」 と
いう言葉はしばしば否定的に捉えられるが, 彼らは 「小さな大人」 であることに誇りを
持っている [増山, 2001]。 「子どもの労働については弊害ばかりが注目されるが, 彼ら
が収入を得る手段を見出すために自己の能力を使うならば, その一生において彼らにと
り最も価値あるものの萌芽を自己のなかに発達させうる」 [野中, 1996] と野中が述べ
るように, 小商売において子どもが習得する数々の有益な事柄のあることも忘れてはな
らない。
こうして子どもたちは, 小商売の方法次第でいかようにでも儲けられること, ティア
ンギスタ同士のネットワークや客との繋がりが重要だということを, 経験を通して学ん
でいく。
― 112 ―
「ティアンギス」 と地域社会
おわりに
以上, メキシコ市大衆地区におけるティアンギスと地域の人々とのかかわりを検討し
てきた。 都市化, グローバル化とともに, 大型スーパーマーケットなど近代的な店が増
加する商業の激戦区で, 現在もティアンギスは繁栄を続ける。 そこでは, 教育機関が多
い地域に合わせて, 生活環境が頽廃しないようにリーダーが定めた規則内で, あらゆる
商品が売られている。 小商人たちとのやりとりを通してそれらの商品を購入しようと,
人々はティアンギスに集来する。 そこは単に商品と貨幣の等価交換を行う交易の場であ
る以上に, ティアンギスタ同士がネットワークを築き, またティアンギスタと客が顔を
付き合わせ言葉を交わす交流の場でもあるのだ。
周辺に居住する様々な世代の, 異なる立場の人々が, 本業であれ副業であれ, また直
接的であれ間接的であれ, 少なからずティアンギスの小商売にかかわっており, 収入を
得ると同時に, 経済活動を通して相互扶助的人間関係を構築するなど多くの社会的利便
性を獲得している。 彼らは恵まれた就労環境にあるとは言いがたいが, 所与の環境のな
かで自由な労働の選択を行っており, 彼ら自身が事業経営の主体として, 努力と工夫を
重ね小商売を成功させることで生活をよりよいものにしようとしている。
このように, 子どもたちの眼に見える 「社会」 で, 家族, 隣人, 教師など彼らを取り
まく大人たちが小商売を営んでおり, 彼らは身近な大人たちのこうした路上での労働を
ごく当然のこととして捉えている。 「社会化の過程では, 子どもや若者たちがかかわる
さまざまな大人が役割のモデルや社会の代理人として重要であるが, 自分自身であるこ
とや有能感の認識, 一貫したアイデンティティの機能もまた重要である」 [コールマン,
ヘンドリー, 2003] とコールマンとヘンドリーは述べているが, 本稿で示したように,
子どもや若者はそのような大人たちを見ながら, 或いは自らも小商売にかかわり大人た
ちと接することで, それらを形成していく。 その意味では, 路上におけるティアンギス
は重要な社会勉強・職業訓練の場となっている。 学歴重視の現代社会において, 若者た
ちが長期に渡る学校教育の場から労働の場への急な移行に失敗したり, 社会生活に必要
な対人的・社会的訓練の欠如から逸脱したりする問題が深刻化していることを鑑みれば,
この大衆地区では子どもの頃から小商売にかかわることで広義の教育が実践的にうまく
行われていると言えよう。 このようにティアンギスが地域社会で果たす役割は非常に大
きい。
彼らの日常生活には, 小商人になるための訓練的な要素が随所にみられる。 この地域
社会で成長する過程で, 彼らは次第に 「商う」 ことを自分のものにしていくのだ。 すな
わち, 彼らは徐々に 「潜在的な小商人」 になっていくため, 時として高等教育を受けた
― 113 ―
者がインフォーマルセクターに参入する際生じる心理的な隘路は最小化されており, 容
易に小商人としてティアンギスに参入するのである。 ティアンギスは, こういった人々
の商売への意欲と, 全体社会の変化に柔軟に合わせた創意工夫が資することで, 活性化
と成長を遂げ, 今日に至るまで持続し繁栄している。 端的に言えば, 地域住民とティア
ンギスは経済活動を通して相互に社会化を行う関係にある。
ブルデューは, 「下層階級の人々にとって, 他にはいかなる可能な言葉遣いもなけれ
ば生活様式もなく, 親戚関係もない。 可能なものの世界は閉ざされている, そのなかで
社会化されることで彼らはその性向を強化する」 [ブルデュー, 1990] と閉塞的かつ否
定的に下層階級を捉えている。 だが, 本稿の議論を通して結論を出すならば, 彼らは,
時々刻々と変転する全体社会に柔軟に対応し, 所与の環境のなかで最善の選択を行って
漸次生活を変えながら, 一方で, ティアンギスと地域住民が相互に社会化を行うことで
その性向は強化され, 地域社会の結びつきが堅固になると, より積極的な解釈が可能で
あろう。 都市化とともに匿名化が進み, 地域コミュニティの崩壊が危ぶまれる今日, 本
稿で示した都市大衆地区のティアンギスと住民の関係は, 地域を支える経済のあり方,
つまり相互扶助の信頼関係の上に成り立つティアンギスと, それをめぐるコミュニティ
のありかたとして一つの可能性を提示する。
メキシコ政府が, 路上の小商売に対して, 今後どのような政策を打ち出すかにより,
ティアンギスと地域住民がかかわるかたちはまったく異なると思われる。 学校教育が 2
部制から 1 部制に移行されることになった場合, 教職員や学齢期の子どもが日中路上か
ら姿を消すことが多分に推測されるので, ティアンギスをめぐる人間関係は大きく変わっ
てくるに違いない。 また, 大型店がクーポン券配布などの戦術をより強化するようになっ
た場合も状況は異なるだろう。 こういったことからティアンギスが衰退の途を辿るよう
なことになれば, 日本の都市のように地域住人同士の結びつきが一気に希薄化するかも
しれない。 それと同時に地域の治安の悪化も考えられる。 しかしながら, たとえ路上か
ら小商人たちを排除する政策が強制的に執行されても, 大型店がさまざまな作戦をもっ
てしても, 彼らが小商売に生かしてきた持ち前の創意工夫で, 存続する手段を編み出す
可能性は十分考えられる。 その一つとして, 本稿の表 3 が示すように, 生鮮食料品は他
の商品と比較すると世代にかかわらず住民の多くがティアンギスで購入していることか
ら, 生鮮食料品への特化が挙げられよう。 小規模の定期ティアンギスのなかには古着を
中心に扱うものがあるのだ。
イリイチは, 「通りは主としてそこに住む人々のためにあった。 人々はそこで育ち,
そこで自己の生に立ち向かい, それを制御することを学んだ」 と述べ, 「共用地的」 環
境には知の伝達という利用上の価値があることを強調した。 そして, 経済成長がこの環
境を破壊するとして, その過程を 「貧困の現代化」 と名づけた [イリイチ, 2006]。
― 114 ―
「ティアンギス」 と地域社会
この大衆地区の共用地的環境が将来的に変化することで, ティアンギスの形態がいか
に変わるのか, それによりティアンギスと地域住民のかかわり方がいかに変化していく
のかは全体社会の動向によるだろう。 メキシコへのグローバル資本の参入や, 賃金決定
メカニズムなどマクロな経済構造からの分析と, ミクロな視点の参与観察を併せたより
多角的な研究が不可欠である。 今後の課題としたい。
付記
本稿は, 2007 年 6 月 2 日, 3 日に開催された日本ラテンアメリカ学会第 28 回定期大会 (於南
山大学) での報告 「「ティアンギス」 と地域社会
メキシコ市大衆地区の青空市と人々のかか
わりについての一考察」 がもとになっている。
《注》
(1)
ティアンギスには青空定期市と青空常設市があるが, 本稿で扱うのは青空常設市である。
(2)
マヌエル・カステルがメキシコ市の経済活動人口を 5 層に分けているが, そのうち 61%
を占める下の二つの層の職業従事者が今日においてもこの地域の居住者の多くを占めると推
定される。 つまり準専門家, 下級官吏, 商店主, 事務員, 給仕, 屋台・露店商人, 運転手,
未熟練・半熟練・熟練労働者, 農業労働者, 兵士, 左官, 行商人などであり, 本稿で 「低所
得層」 とはこれらを指す (Castells, oct.-dic., 1977)。
また近年, 多くのラテンアメリカ研究者たちが, 従来 「貧困層」 (本稿では 「低所得層」)
と称してきた人たちを指して “pueblo popular” 「大衆」 の語を使っているが, それはラテ
ンアメリカ諸国においてこの層が人口の半数以上を占めているからである。 メキシコも例外
ではない。 そこで本稿では貧困層が多く居住する地区の意味で 「大衆地区」 を用いる。
(3)
メ キ シ コ 市 大 都 市 圏 を 指 す 。 2000 年 国 勢 調 査 に よ れ ば 人 口 17,844,829 人 , D. F. は
8,720,916 人である
INEGI [Instituto Nacional de Estad
stica, Geograf
a e Inform
atica
国立統計・地理・情報科学研究院] 。
(4)
前メキシコ市長アンドレス・マヌエル・ロペス・オブラドールは, 貧困層に様々な援助を
行った。 大衆地区におけるこれらの機関の設立もその一貫で, サン・ロレンソでは例えば,
イスタパラパ専科病院 (Hospital de Especialidades Iztapalapa) やメキシコ市立大学第 2
キャンパス (Universidad de la Cd. de M
exico CampusⅡ) がある。
(5)
ティアンギスは公道を占拠するため, 交通渋滞を引き起こしたり, ゴミを不法に投棄した
り, 下水など公共工事を妨げたりするなどの弊害が生じており, また衛生面においても改善
すべきであることから, これまでに政府はティアンギスを公設市場 (mercado) に移転さ
せる政策をとってきた。
(6)
1981 年から 1987 年の短期間で, メキシコ国民の 10 人に 9 人が貧困状態に陥った。 1992
年現在, 国民の半数は生活必需品を満たせず, 1,700 万人は極貧である。 この状況で多くの
女性はインフォーマルセクターに参入した
Welti y Rodriguez, 1994 。
(7)
2000 年国勢調査では人口 1,773,343 人で, メキシコ市全体の約 10%を占める。
(8)
イスタパラパ区の経済活動人口 705,741 人 (イスタパラパ区全人口の 39.8%) の月収水準
は, 無収入 2.3%, 最低賃金未満 10.2%, 最低賃金から最低賃金の 2 倍未満 37.9%, 2 倍か
ら 3 倍未満 19.3%, 3 倍から 5 倍未満 13.3%, 5 倍以上 11.1%, 無回答 5.9%。
メキシコ連邦特別区全体の経済活動人口 3,582,781 人 (全人口の 41.6%) の月収水準は,
無収入 2.2%, 最低賃金未満 8.4%, 最低賃金から最低賃金の 2 倍未満 31.8%, 2 倍から 3 倍
― 115 ―
未満 18.9%, 3 倍から 5 倍未満 14.9%, 5 倍以上 18.1%, 無回答 6.3%である INEGI, 2000 。
連邦特別区の最低賃金 (月収) は 1,137 ペソ (2000 年 1 月現在 1 ドル=9.8 ペソ, 約 116
ドル)。
(9)
paracaidista (スペイン語で落下傘兵の意味)。 所有者がいる空き地などに一夜にして住
居群を作り, 不法に住み着いてしまう人々をメキシコではこう呼ぶ。
(10)
一定範囲の土地の利用権を国から与えられた農民の集団組織およびその土地。 本稿では土
地のこと。
(11)
AV. TLAHUAC, COL. SAN LORENZO TEZONCO, DEL. IZTAPALAPA.
(12)
AV. TLAHUAC, COL. MIRASOLES, DEL. IZTAPALAPA.
“Todo a un precio (全品均一価格)” の店で, Waldo’s (11.30 ペソ [消費税込み 13 ペソ])
(13)
と Prichos (12.50 ペソ) (2006 年 8 月現在 1 ドル=10.8 ペソ)。
クロスによると, イスタパラパ区の小商人は 1980 年から 1990 年の 10 年間で 5,055 人か
(14)
ら 7,094 人に, つまり 40%も増加しており, 1991 年の調査ではメキシコ市全体の小商人の
半数以上がここに集中している
(15)
Cross, 1998, p. 92 。
国立統計・地理・情報科学研究院の統計資料では, ティアンギスを常設と定期に分けてい
ないため, 両者の具体的な数字は分からない。
(16)
このティアンギスを調査対象とした理由は, 筆者の留学当時 (1982 年) からの友人を通
じて知り合った知人がこの地区に多く居住しており, 人的接触や資料の入手が可能だったこ
と, さらに販売商品が多種に渡り, 偏りがないので, 一般的なティアンギスの事例として取
り上げるには最適であると思われたからである。 友人の知人を何人か介してこのティアンギ
スのリーダーを紹介してもらった。
(17)
サン・ロレンソ地区には小規模の定期ティアンギスがいくつかあるが具体的な数字は入手
していない。
(18)
聴き取り調査は, 2006 年 9 月 9 日にリーダーの事務所を訪問して行った。
(19)
4 人の手伝いは, ドン・コルレオーネの息子, 息子の友人, ドン・コルレオーネの友人 2
名で構成され, ティアンギスの管理手伝いとしてドン・コルレオーネに雇われている。
(20)
ティアンギスのリーダーはティアンギス組合に所属している。 なお, 今回はティアンギス
組合と行政上の手続きについては調査していない。
(21)
例えば近年では, ボン・アイス (コロンビア企業) やヤクルト (日本企業) の販売人。
(22)
ドン・コルレオーネが所有する 7 つのティアンギスについて具体的な資料は入手していな
いが, 彼によると経営戦略として地区 (居住者の経済的水準) ごとに扱う商品の種類・品質
が異なるようにしているという。
(23)
市中心部のテピートやラグニージャでは, 売買可能なものならいかなるものでも商品とし
て販売されている。 麻薬も公然と取引される
キノネス, 2007 。
筆者は 3 日に一度ティアンギスを観察していたが, 主として 2006 年 9 月 12 日 12 時から
(24)
15 時 30 分に実施した調査資料を使用する。 ティアンギスタの性別に関してだが, 同じ店舗
でも日時により異なったり, 男女複数であったりして明確でない場合が少なくない (家族と
思われる)。 そういったものは表 1 と表 2 に 「男女」 と表記した。
ティアンギスが包み込んでいる公設市場は 166 店舗 (食料品 93 [食堂 11], その他 (73)
(25)
である。
(26)
メキシコの大衆地区では日本ほど電子レンジが普及していないので, 冷凍食品はそれほど
一般的ではない。 筆者が同地区で 1999 年に実施したアンケートでは, 家に電子レンジを所
有する者は 387 人中 139 人 (35.9%) である。 参考までに他の家電を挙げると, テレビ 382
人 (98.7%), 冷蔵庫 345 人 (89.1%), 洗濯機 295 人 (76.2%), ビデオデッキ 275 人 (71.1
%), 電話 240 人 (62%), 携帯電話 69 人 (17.8%) である。
― 116 ―
「ティアンギス」 と地域社会
本稿では便宜上, スペンサーやカルバハルなどが定義する, 店主を含めて 6 人以下の, 製
(27)
品またはサービスを提供するユニットを指す
Spencer, 1986; Carvajal y Gonzales, 1990 。
調査は 2006 年 8 月から 9 月に, イスタパラパ区側の Barrio Guadalupe, Barrio San An-
(28)
tonio, Barrio San Lorenzo, El Molino Tezonco と, トラウアク区側の Granjas Cabrera,
Los Olivos において, 戸別訪問あるいは路上で実施した。 アンケート回答者は, 筆者の友
人・知人から紹介された人たちである。 アンケートの質問項目 (スペイン語) は以下のとお
り。
1. Nombre (estado civil), 2. Edad, 3. Ocupaci
on, 4. N
umero de miembros familiares
(los que viven y comen con Ud.), 5. Cu
antas veces va de compras a la semana
generalmente? (tache × ), 6. D
onde compra alimentos (verduras, frutas, carnes,
huevos, quesos, etc.) generalmente? (tache × ), 7. D
onde compra tortillas
generalmente? (tache ×), 8. D
onde compra leche generalmente? (tache ×), 9. D
onde
compra los art
culos de uso diario, ropa, zapatos generalmente? (tache ×), 10. Utiliza
Ud. supermercado generalmente? (tache × y escriba el motivo), 11. Cu
antas veces va
al supermercado a la semana generalmente? (tache × ), 12. El nombre del
supermercado que utiliza Ud. generalmente. (tache × o escriba el nombre concretamente)
親族や, 信頼のおける友人, 隣人同士で即席に組織される講。 5 人から組織可能だが, 大
(29)
人数だと問題が起こりやすいので, 10 人前後で組織されることが多い。 責任者が, 一定の
日に, 予め決めた会費をメンバーから徴収し, その日の順番に当たるメンバーに全額を渡す。
最後の順番までいくとタンダは解散される。 詳細は増山 (2005) 参照。
(30)
トウモロコシ粉で作る円形の薄いパン。 メキシコ人の主食である。
(31)
Secretar
a de Educaci
on P
ublica 日本の文部科学省にあたる。
(32)
スーパーマーケットと提携を結び, クーポン券を社員に支給する民間会社や国営組織が増
加している。 一般的に, 15 日おきの給料日と年 2 回の賞与支給時に社員に手渡される。
(33)
ティアンギスの生鮮食品の価格 (スーパーマーケットの価格) をいくつか挙げると, パパ
イヤ 1 キロ 6∼7 ペソ (7∼10 ペソ), マンゴー 1 キロ 8∼10 ペソ (10∼12 ペソ), メロン 1
キロ 7∼9 ペソ (9∼12 ペソ), 各種唐辛子 1 キロ 7∼9 ペソ (9∼13 ペソ), オアハカチーズ
1/4 キロ 11∼13 ペソ (14∼18 ペソ) である。 スーパーマーケットでは価格に 15%の消費税
(IVA) が加わる。
アンケート調査は, 1999 年 6 月∼7 月にイスタパラパ区とトラウアク区の学校 7 ヵ所で実
(34)
施した。 7 校を順次直接訪問し, 教師の許可を得てクラスでアンケート用紙を配布し, 筆者
の補足説明のあと子どもたちにその場で無記名回答してもらった。 将来設計や社会問題につ
いて問うため, 調査学年は小学校 (午前の部 6 校 287 人), 中学校 (午前の部 1 校 100 人)
とも最高学年に限定し, 合計 387 人の協力を得た。 回答中で家族成員として提供された資料
の総数は 2,629 人分に及ぶ。
ラテンアメリカ諸国のなかでは, メキシコがもっとも核家族の割合が高い。 上位 3 カ国を
(35)
挙げると, メキシコ 74.5%, アルゼンチン 64.8%, ボリビア/ウルグアイ 59% Vald
es y
Gomariz, 1995 。
(36)
例えば教職員とその家族は, 国家公務員社会保障公社 ISSSTE (Instituto de Seguridad
Social al Servicio de los Trabajadores del Estado) の医療センターを無料で利用できる。
また定年退職後は年金が支給される。
(37)
メキシコでは, 子どもの数に対する学校不足を解消するための措置として, 公立の小中学
校は 2 部制をとっており, 子どもたちは小学校入学時に午前の部か午後の部を選択しなけれ
ばならない。 午前の部は 8 時∼12 時 30 分 (休憩時間 10 時 30 分∼11 時), 午後の部は 14 時
― 117 ―
∼18 時 30 分 (休憩時間 16 時 30 分∼17 時) で, 授業は実質 4 時間である。
金融機関の積立定期預金にあたる。 通常 20∼30 人で組織される。 1 年満期で, 満期終了
(38)
まで積立金は利子つきで貸し出され, 分配時に利子がプラスされる点でタンダとは異なる。
詳細は増山 (2005) 参照。
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― 119 ―
人文・自然・人間科学研究
No. 18, pp. 120128
October 2007
色光を用いたハトの部分逆転学習 *
木
村
直
人
The Partial Reversal Learning with
Colored Stimuli by Pigeons
Naoto KIMURA
実験的行動分析 (The Experimental Analysis of Behavior) では弁別刺激提示下
でのオペラント反応の生起頻度を分析する手法が通例であるが, 離散型の同時弁別学習
においては, 被験体は同時に提示される二つの刺激, 正刺激 (以降 と略記する)
と負刺激 (以降 と略記する) 間の弁別を求められる。 を選べばそれが正答で,
への接近には報酬 (強化) が与えられるが, を選ぶとそれは誤答でなにも与え
られない (非強化)。 一方の刺激が正解で他方が誤りであるから, どちらかを選ばなく
てはならないという一見素朴な学習課題であるが, 被験体がどのようにして正解に到る
のかについては異なる理論的立場が存在し, その実験手法にもさまざまなものが存在す
る。
この古典的な弁別学習に関する理論は, と の機能をどのように捉えるかによっ
ていくつかのタイプに分けることができる。 どちらか一方の刺激が弁別習得に排他的な
効果をもっていると主張する理論があり, これを単一過程説と呼ぶことができる。 この
タイプの理論は の持つ接近傾向の重要性だけを強調するか, の回避傾向だけを
重要とみなすかでさらに区別することができる。 もうひとつの理論的立場は, 弁別の習
得においては接近と回避の両過程が同時に機能しており, どちらか一方の過程だけを重
要視することはできないとするもので, こちらは二過程説と呼ぶことができる。
単一過程説の立場をとり, を経験することによる誤答 (非強化) だけが弁別習得
に効果を持つという負刺激単一過程説を主張するものとしては Harlow & Hicks
(1957) がある。 これに対して正刺激単一過程説を主張するものには Ettlinger (1960)
がある。 これらの研究は同時弁別において正負刺激のどちらが弁別習得に関与している
かを直接調べようとしたものであり, 同じリーサスザルを用いながら正反対の結論を主
本研究は故八木冕博士の指導により行ったものである。 また実験実施にあたっては上村佳代子,
内田雅人, 木内千枝子諸氏の協力を得た。
― 120 ―
色光を用いたハトの部分逆転学習
張していることは興味深い。
これに対して同時弁別学習において , のいずれを被験体が選択するかは, 両
刺激に対する反応傾向の相対的強さに依存すると考えるのが二過程説である。 すなわち
への接近傾向も からの回避傾向もどちらも存在するが, どちらかがより重要で
弁別習得により強く関与しているとする。 このタイプの理論では , の相対的重
要性を調べることが必要となり, その方法として提案された手法の一つが Thompson
(1954) の考案になる両義手掛り課題 (PAN-ambiguous cue problem) である。 これ
は正刺激 (), 負刺激 () のどちらか一方と両義刺激 () とを対にして提示し,
ペアと ペアのどちらの習得がより容易かを調べることにより, 正負刺激の相
対的重要性を知ろうとするものである。 両義刺激は ペアにおいては負刺激として
機能し, ペアでは正刺激として機能する。 Yagi & Kimura (1982) によれば, ハ
トを被験体とした場合 ペアよりも ペアの方が正答率が高く, このことは両
義刺激が獲得した としての接近傾向の方が回避傾向よりも高いことを示している
と考えられる。 この の弁別刺激としての相対的重要性の高さはサルにおいても見
いだされている (Fletcher & Garske, 1972; Hall, 1980)。
この両義手掛り課題以外にも正負刺激の相対的重要性を調べる方法が考案されており,
それが置き換え刺激法 (replaced-stimulus method) と呼ばれる方法である。 置き換
え刺激法では, 被験体はまずある刺激対 ( と ) を用いた同時弁別訓練を受ける。
弁別訓練完了後 あるいは のどちらか一方が次の訓練でもそのまま残され, も
う一方の刺激が新奇刺激と置き換えられ, 新たな刺激対を使って同時弁別訓練が与えら
れる。 置き換え条件では新 と旧 でテストが行われるので, 旧 からの
回避傾向がそのまま残り, 新 の選択は訓練開始からチャンスレベル (50%) を上
回るであろうと予想される。 同様に 置き換え条件では新 と旧 でテストが
行われので, 旧 の選択は訓練開始からチャンスレベルを上回るであろう。 このよ
うに先行学習の影響が後の学習になんらかの影響を及ぼすことを転移 (transfer) と呼
び, 特に促進的影響を及ぼすことを正の転移 (positive transfer) と呼ぶ。 置き換え刺
激法ではどちらの条件においても正転移が予想されるが, 両条件のどちらがより大きな
正転移をもたらすかによって正負両刺激の相対的重要性が推測できる。 リーサスザル,
ラット, ネコにおいて 置き換え条件においてより大きな正転移が生じること, つ
ま り を 避 け る 傾 向 が へ の 接 近 傾 向 よ り 強 い こ と が 明 ら か に さ れ て い る
(Riopelle, 1955; Stevens & Wixon, 1975; Warren & Kimball, 1959)。
この置き換え刺激法をさらに変形したものが部分逆転学習 (partial reversal learning) である。 置き換え刺激法が先行学習で用いられた弁別刺激の一方をそのまま残し
それからの正転移を見ようとするのに対して, 部分逆転学習では先行学習での あ
― 121 ―
るいは としての特性を逆転させる。
反復部分逆転学習では二つの条件が設定される。 その一つは正刺激逆転条件 (
逆転群) であり, 先行学習での を逆転して とし, 新奇刺激とで刺激対を
作る。 以前 であった刺激が になるので, への接近傾向が誤反応を生
じさせ逆転課題の習得は妨害されることになる。 また負刺激逆転条件 ( 逆転群)
では, 以前 であった刺激を回避するため誤反応が生じ, 正刺激逆転条件と同
様に習得は妨害される (木村, 1990)。
このようにどちらの逆転条件でも, 先行学習において弁別刺激が獲得した特性は逆転
課題に対して妨害的影響を及ぼすことになり, これを負の転移 (negative transfer)
と呼ぶ。 先行 からの負転移量と からの負転移量を比較することによって, と の相対的重要性が推測できる。 木村 (1990) によれば, 特に逆転課題の習得過
程初期において負刺激逆転条件 ( 逆転群) でより多くの誤反応が生じており, これ
は先行 からの回避傾向が への接近傾向よりも大きいことを示している。
同時弁別課題における正負刺激の相対的重要性を明らかにしようとした三手法を概観
したが, 残念ながらこれらを用いた研究に一貫した結果が得られているとは言い難い。
その理由は用いられている実験手法の違いのみならず, さまざまな実験条件の差違が結
果に影響を及ぼしていると考えられるからである。 たとえば被験体として用いられてい
る種 (サル, ラット, ネコあるいはハト), 被験体がナイーヴであるかどうか (弁別学
習の経験を積んだ個体, 未経験の個体), 被験体にどのような反応を要求するか (走路
を走る, オブジェクトを操作する, レバーを押すあるいはキーをつつく), 弁別刺激と
して用いる刺激は何か (複雑な三次元オブジェクト, 明暗の縦縞か横縞, 色光刺激ある
いは図形刺激), 学習完成の基準をどこにおくか (80%の正答率あるいはさらに厳しい
連続 10 正反応) などが直ちに思い浮かぶ。 特にサル (多くはリーサスザルであるが)
を被験体に用いた場合には, その知能の高さゆえに学習完成までに要する試行数は少な
く, ハトやラットより学習進行過程を明らかにしにくい。 また課題を何度も繰り返せば
サルは学習の構え (learning set) を身につけてしまい, 直前の試行で正答であった場
合にはその刺激を選び続け, 誤答だった場合にはもう一方の刺激を選ぶという方略
(win-stay, loose-shift) を採るようになる。 つまり正負の刺激特性にあまり依存しな
いで学習を完成させてしまう。 ラットは標準的被験体として用いられてきているが, 視
覚刺激の弁別において有利とは言い難く, 弁別刺激の選定に困難がある。
実験条件の細部によって結果が影響を受けやすいことを念頭に置き, 本研究では先行
研究の実験手続をほぼ再現した上で弁別刺激のみを変化させた。 部分逆転学習に関する
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色光を用いたハトの部分逆転学習
先行研究 (木村, 1990) では, ハトを被験体とし弁別刺激に図形刺激を用いて の
相対的重要性が明らかにされているが, より弁別が容易であると思われる色光を用いた
場合にも, はたして同じ結果が得られるかどうかを確認することが本研究の目的である。
方
法
被 験 体
12 羽の実験歴のないデンショバト (Columba Livia) を使用した。 被験体の自由摂
食時体重が安定したのち徐々に給餌量を減少し, 被験体の体重は実験期間を通して自由
摂食時体重の 80%に維持された。 被験体は実験セッションの間を除いて, 水と塩土を
個別飼育ケージで自由に摂取できた。 安定体重維持のため, 必要な場合には実験セッショ
ン終了後ケージにて混合穀物を与えた。
装
置
2 個の反応キーと給餌装置を備えた実験箱を自作し使用した。 反応キーの大きさは直
径 18 mm, その間隔は 60 mm であった。 各反応キーの背後にあるプロジェクターによ
りキー上に 6 色の直径 18 mm の円を照射することができた。 各々の色光は豆球を光源
とし, 白色光変換フィルターとコダック・ラテン・フィルターを通して得られた。 光源
が A 光源 (色温度 2,848 K) であると保証できないので各色光の正確な波長は不明で
あるが, 便宜上色彩を赤, 燈, 黄, 緑, 青, 紫とする。 実験箱の後部上方に豆球による
室内灯を設けた。 セッションの間, 換気のためにファンを作動させ, さらに外部騒音を
隠蔽するためにホワイト・ノイズを流した。 実験箱の天井部はハーフ・ミラーとなって
おり内部の観察が可能であった。
手
続
試行間隔や習得基準および刺激逆転の方法など実験の基幹に関わる手続は木村
(1990) と極力同じになるようにした。
被験体はまず反応キーへのつつき反応を自動形成され, さらに連続強化にて左右両反
応キーへのつつき反応を均等に強化された後, 6 羽ずつ 逆転群と 逆転群に分け
られた。 6 色光を色彩環様に並べ, となり合わない色光同士を対として 5 対の弁別刺激
対を用意した。 これらを任意に 逆転群の被験体の第一課題として割り当てた。 逆転群の被験体には各刺激対の正負を逆にして割り当てた。
被験体はまず色光を弁別刺激とする同時弁別学習を一課題受けた。 一日の実験セッショ
ンは 60 試行 (trials) からなり, 一回の試行 (trial) は左右の反応キーへの正負刺激呈
示で始まり, どちらかの刺激へのつつき反応をもって終了した。 つつき反応が正答つま
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り正刺激 () への反応であった場合には直ちに両弁別刺激が消え, 強化子として麻
の実が 3 秒間呈示される。 つつき反応が誤答, つまり負刺激 () への反応であった
場合には両弁別刺激が消え強化子は提示されない。 これで一試行が終了し, 10 秒間の
試行間隔をおいて次の試行が始まる。 試行間には室内灯は消灯する。 正刺激が呈示され
る位置は改良ゲラーマン系列 (Fellows, 1967) に従って左右均等に配分された。
この同時弁別学習を一課題与えられ学習完成基準に達した後に, 各被験体は部分逆転
学習を連続して四課題与えられた。 学習完成基準は 「最終 20 試行中で 90%の正反応,
かつその最終試行は連続して 10 正反応」 という比較的厳しいものとした。 第一課題の
弁別学習が完成した翌日のセッションから部分逆転課題となり, ここでは弁別刺激対が
部分的に逆転され, 逆転群では前課題での正刺激を負刺激とし, それと新奇刺激と
で刺激対が作られた。 逆転群では前課題での負刺激を正刺激とし, それと新奇刺激
とで刺激対が作られた。 そして先述の学習完成基準に達するまで訓練が継続された。
結果と考察
反復部分逆転学習では先行課題からの負転移に注目するので, それによって生じると
予想される誤反応の様子に着目するのが適当である。 そこで第一課題と逆転課題のパフォー
マンスを知るために二つの測度, クライテリオンまでの誤反応数と誤反応率を見てみる。
まず第一課題完成までに要した試行数を見てみると, 表 1 に示すように, 弁別刺激に色
光を用いた本研究では同時弁別の習得は大変速く, クライテリオンまでに要した試行数
(クライテリオン試行は除く) は 7 試行 (中央値) を要したに過ぎなかった。 これは図
形刺激を用いた木村 (1990) の中央値 67.5 に比べて約 1/10 であった。
表1
クライテリオンまでの試行数 (中央値) と誤反応率 (中央値)
逆転群
クライテリオンまでの試行数
クライテリオンまでの誤反応率
逆転群
第 1 課題
5.5
9.0
逆転課題
44.0
24.5
第 1 課題
32.2%
39.7%
逆転課題
58.7%
54.1%
図形刺激を用いた場合には弁別習得が比較的ゆっくりであり 50%に近い誤反応率が
長く続くが, この理由の一つにはハトが位置偏向を示し一方の反応キーをつつき続ける
ことがあげられる。 木村 (1990) ではクライテリオンまでの誤反応率が 49%という高
い値を示しているが, 本研究では 36% (中央値) であった。
次に各群の逆転課題におけるパフォーマンスを, クライテリオンまでの試行数と誤反
― 124 ―
色光を用いたハトの部分逆転学習
応率によって比較してみる。 逆転群における四逆転課題を通してのクライテリオン
までの試行数は 44 (中央値) であり, 逆転群では 24.5 試行 (中央値) であった。
群間にかなりの差があるように見えるが, 個体間および課題間の誤差が大きくこの差は
有意ではない 。 木村 (1990) では 逆転群の方が有意に高い
誤反応率が得られているが, 本研究の 逆転群では 54.1%, 逆転群では 58.7%
(ともに中央値) で群間に差は認められなかった 。
さて, 本研究で用いられた部分逆転学習では先行経験の影響を逆転課題における負転
移で見ようとしているが, その影響つまり誤反応を生じさせる効果は特に新しい逆転課
題に入ったところでより強いと考えられる。 そこで逆転課題完成のクライテリオンまで
の試行を均等に三期に分けることにより, 各期で誤反応がどれほど生じたか見ることで,
弁別習得過程をより詳細に分析してみる。
表 2 は 逆転群と S-逆転群の弁別完成までの各期における誤反応率を示している。
逆転課題初期において誤反応率は 逆転群で 84.3%, 逆転群で 85.0%と高い率を
示しており, 両群とも先行課題からの負転移の影響が大きいことが分かる。 木村
(1990) では弁別初期における誤反応率は 逆転群で 54.2%, 逆転群で 60.7%で
ありこの差は有意であったが, 本研究では有意差は認められなかった 。 木村 (1990) では各期の試行数が 100 試行を超えるので, さらに細かく習
得過程を分割し逆転課題初期をさらに三分割して誤反応率を算出している。 それによれ
ば初期の第 1 ブロックにおける誤反応率は 逆転群で 57.9%, 逆転群で 70.8%と
なっている。 本研究の逆転課題初期における誤反応率は表 2 に見るようにこれよりも高
いものとなっているが, 色光を弁別刺激にした本研究ではクライテリオンまでの試行数
が少なく, 各期をさらに分割することは行わなかった。
表2
逆転課題のクライテリオンまでの
各期における誤反応率 (中央値)
逆転群
逆転群
初
期
84.3%
85.0%
中
期
57.3%
68.7%
後
期
30.7%
29.1%
以上のように色光を用いた部分逆転学習では次のことが明らかとなった。
1. 逆転, 逆転両群ともに逆転課題において第一課題よりも弁別完成までに
多くの試行数を要した。
2. 逆転, 逆転両群とも逆転課題初期においてチャンスレベルよりも高い誤
反応率を示した。
これらは先行課題での正負両刺激が逆転課題習得に妨害的効果を及ぼしたこと, つま
― 125 ―
り両刺激とも大きな負転移をもたらしたことを示すが, 負転移量に群間差は認められず,
正負刺激の相対的重要性に違いはなかったといえる。
部分逆転学習は先行学習で弁別刺激が獲得した への接近傾向あるいは から
の回避傾向を逆転させるため, 多くの誤反応を生じさせ逆転課題完成までのプロセスを
長引かせるという特徴がある。 このことは弁別習得過程を詳細に分析する際には大変有
利となる。 なぜなら弁別がゆっくり進むことにより, 逆転された刺激特性がどのように
失われ, 新しい刺激特性が獲得されていくかを行動上で見ることができるからである。
逆転条件では, ハトは以前 であった刺激へ長く接近し続けるが, 誤反応 (非強
化) の経験によりやがてそれへの接近を止め, もう一方の新規な刺激へシフトするよう
になる。 この際の誤反応がどれほど多く生じるかを知れば, 逆転条件で生じた誤反
応数と比較することによって正負刺激のどちらがより大きな効果を持っていたかが推測
できる。 この論拠にしたがって行われた先行研究では期待通りに逆転学習に数百試行を
要し, そのおかげで漸進的な弁別学習習得過程を明らかにすることができた。 しかしな
がら, より弁別が容易であろうと思われる色光を弁別刺激に用いた本研究では, 図形刺
激を用いた先行研究と同じ結果を得ることができなかった。
表 1 に示したように, 色光を刺激として用いた場合クライテリオン以前の試行数はわ
ずかに 7 試行 (全被験体の中央値) にすぎず, これは図形刺激を用いた場合の約 10%
である。 また逆転課題においても 33.5 試行 (逆転課題通しての全被験体の中央値) で
しかなく, これは図形刺激の場合の 157 試行 (逆転課題通しての全被験体の中央値) の
約 21%である。 擬人的な言い方をすれば, 色光を用いた場合, ハトはなかなか刺激間
の区別がつかないということがなく, こちらが正答ということが分かるや否や突然に弁
別を習得するように見える。 また色光刺激では学習完成までの試行数, 誤反応数に個体
差と色光対による課題間差が比較的大きく, ハトによって弁別習得が速かったり遅かっ
たりするために群間比較が困難であった。 これらは実験計画において大きな弱点となっ
ている。
本実験では図形刺激を用いて得られた弁別刺激の相対的重要性に関する結果を色光刺
激を用いて検証しようとしたが, 期待された結果を得ることができず, 同時弁別学習実
験におけるさらなる研究上の課題が示唆されることとなった。 その一つは被験体にとっ
ての図形刺激と色光刺激の手掛かり価の違い, そしてもう一つは実験手続の改良である。
図形刺激を用いた先行研究では, ハトは弁別習得までに数百試行を要し, 大きな負転
移による多数の誤反応が生じる時期から正誤が半ばする時期を経て, 徐々に正反応が増
加していくという漸進的なパフォーマンスの推移が見られたのだが, 同じ図形刺激でも
被験体にサル (ニホンザル) を用いた場合には, 本研究と同様な弁別習得の速さと大き
な個体差があることが知られている (八木・古坂による未発表データ)。 5 頭のニホン
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色光を用いたハトの部分逆転学習
ザルに 20 種の 3 次元オブジェクトを使って部分逆転学習を 19 課題連続して与えたこの
実験では, 逆転課題のクライテリオンまでの試行数は平均 7.3 試行にすぎず, また 逆転群と 逆転群間の誤反応数の違いは個体間差に隠蔽され, 明瞭には見いだすこ
とができなかったのである。
ハトはヒトと変わらない色感覚を持ち, それゆえに弁別学習実験に利用し易い動物で
ある。 食物となる種子や捕食者である他の動物といったハトにとって有意味な具象物な
らば, ハトはそれらに対して生得的な偏好あるいは嫌悪を持つこともあろう。 しかし,
円や正方形といった抽象的図形刺激はハトにとってそもそも中性的な刺激特性しか持た
ず, それゆえに手掛かり価は小さく, 弁別は困難であり試行錯誤にもとづくかなりの訓
練経験が必要であり, かつその過程は漸進的なものとならざるを得ないと思われる。 そ
れに対して具象物ではないが, 色光刺激は図形刺激よりも高い手掛かり価を持つと思わ
れる。 そのことは本実験において, 図形刺激を用いた場合よりもはるかに弁別習得が速
かったことからも推測できる。
このように手掛かり価が高く容易に弁別が可能な刺激を用いた実験では, 弁別習得が
速やかに進行してしまうため, 従来の手続ではその過程の詳細が捉えきれないと思われ
る。 このことは比較的知能が高いサルにおいて抽象的三次元オブジェクトを用いた実験
にも言えることであろう。 同時に提示された刺激のどちらかを選ぶという単純な手続の
同時弁別学習ではあるが, 本実験での実際の試行においては手続上改良すべき点がある
と思われる。 たとえば, 試行間隔には実験箱内は消灯され試行の開始とともに弁別刺激
が点灯するが, この時被験体が実験箱内のどこにいるか, そして点灯した弁別刺激に注
意を向けているかはあくまで被験体まかせになっており, ハトがたまたま刺激点灯時に
どちらかの反応キー間近にいた場合には, それにクチバシを伸ばし正反応あるいは誤反
応として記録されてしまうことがあった。 このような不具合は試行開始のための反応キー
を設置し, 被験体に弁別試行を開始させることにより防ぐことができるし, そうすれば
弁別刺激に十分に注意を向けた状態で刺激間の選択をハトに行わせることも可能となる。
加えてこの方法によれば, 弁別刺激が提示されてからの反応潜時を測定することも可能
となり, それはどれほど速く弁別刺激へ接近したかあるいはそれから回避したかを表す
測度となりえ, 弁別刺激のどちらを選択したかだけに依る分析よりも詳細な弁別過程の
分析が期待できよう。
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紀
要
人文・自然・人間科学研究
は, 拓殖大学人文科学研究所 (以下 「本研究所」) が発行する紀要
であり, 研究成果発表の場の提供と, それによる研究活動促進への寄与を目的とするものである。
発行回数
人文・自然・人間科学研究
(以下 「本紀要」) は, 原則として年 2 回 (10 月および 3 月) 発行
する。
編集委員会
本紀要の編集は, 本研究所編集委員会 (以下 「編集委員会」) が担当する。 編集委員会は, 本規
定に定める投稿原稿のほかに, 必要に応じて寄稿を依頼することができる。
投稿資格者
本研究所所員・本研究所客員研究員および拓殖大学非常勤講師とする。 拓殖大学非常勤講師の投
稿については, 別途定めた規定に従うものとする。
原稿の種類
論文・研究ノート・研究動向・資料・討論・研究会記録および公開講座記録とする。 以上のいず
れにも当てはまらない原稿については, 編集委員会において取り扱いを判断する。 また, 編集委員
会が必要と認めた場合には, 新たな種類の原稿を掲載することができる。
論
文:その長短・形式にかかわらず, 独創性および学術的価値のある研究成果をまとめ
たもの。
研 究 ノ ー ト:研究の中間報告で, 将来, 論文になりうるもの。 新しい方法の提示, 新しい知見
の速報などを含む。
研 究 動 向:ある分野の研究成果を総覧・整理しまとめたもので, 研究史・研究の現状・将来
への展望などを論じたもの。
資
料:調査結果・記録・統計など資料的価値のあると思われる情報を吟味し, それに解
説をつけたもの。
討
論:本紀要に掲載された論文等に対する批判・質問および執筆者からの反論・回答。
研 究 会 記 録:本研究所主催の研究会の講演内容および質疑の概要。
公開講座記録:本研究所主催の公開講座の講演内容の詳細な記録あるいは概要。
二重投稿の禁止
他の刊行物に公表済みの原稿あるいは投稿中の原稿は, 本紀要に投稿できない。
原稿の使用言語
日本語および英語とする。 その他の言語で執筆を希望する場合は, 事前に原稿提出先 (下記) に
申し出て, 編集委員会と協議する。 なお, 外国語原稿の場合は, その外国語に通じた人の入念な校
― 129 ―
人文・自然・人間科学研究
投稿規定
閲を受けたものに限る。
原稿の長さ
日本語および全角文字で記す場合, 本文と注および図・表を含め, 原則として 24,000 字以内
とする。
欧文の場合, 本文と注および図・表を含め, 原則として 48,000 字以内とする。
同一タイトルの投稿
本紀要の複数の号にわたって, 同一タイトルで投稿することはできない。 ただし 「資料」 の場合
は, 同一タイトルの原稿を何回かに分けて投稿することができる。 その場合, 最初の稿で全体像と
回数を明示しなければならない。
要
約
原稿には, 研究の目的・資料・方法・結果・結論などの概要を簡潔に記述した外国語による要約
(100∼150 語) をつけることができる。 ただし, その外国語に通じた人の入念な校閲を受けたもの
に限る。 また, 要約には日本語訳を添える。 なお, 要約には, 図・表や文献の使用あるいは引用は
避ける。
原稿執筆要領
原稿の執筆はワープロを使用する。 執筆の細部については, 別途 「原稿執筆要領」 を定める。 投
稿者は, 原稿執筆要領に則って原稿を作成・執筆しなければならない。
原稿の提出要領
1.
「原稿提出用紙」 の各欄に所定事項を正確に記入する。 とくに “原稿提出に当たっての確認事
項” の各項目は, 一つ一つ入念に確認すること。 未記入・未確認のものは, 原則として受け付け
ない。
2.
プリントアウトした原稿を 2 部提出する。 原稿は, 要約・本文・注・文献資料表・図・表・図
や表のタイトルと説明および出典, の順にまとめる。 各原稿には, 上記の 「原稿提出用紙」 を必
ず添える。 図は, この段階では, 版下原稿を複写したものを提出する。
3.
提出先
下記のいずれかの部署の担当者宛へ提出する。
文京キャンパス:研究支援課
八王子キャンパス:八王子学務課
北海道短期大学:学務課
原稿の返却
原稿は, 図・表を含め, 原則として返却しない。
原稿掲載の可否
編集委員会が審査し決定する。 その手続きは次の通り。
1.
原稿の内容に応じて編集委員以外の査読者を選び, 査読を依頼する。 それとともに編集委員の
中から担当委員を選ぶ。 査読者および担当委員は, 原則として各 1 名とするが, 場合により複数
名とすることもある。
2.
査読者および担当委員は, 論文・研究ノート・研究動向・資料および討論については, 以下の
10 項目について原稿を検討し, 査読結果 (掲載の可否・原稿種類の妥当性についての意見や原
― 130 ―
稿に対するコメントなど) をまとめ, それを編集委員会に報告する。
1)
タイトルは内容を的確に示しているか
2)
目的・主題は明確か
3)
方法・手法は適切か
4)
データは十分か
5) 考察は正確かつ十分か
6) 独創性あるいは学術的価値 (資料的価値) が認められるか
7) 構成は適切か
8) 文章・語句の表現は適切か
9) 注や参考文献の表記は, 執筆要領に添ったものになっているか
10) 図・表の表現は適切か
3.
編集委員会は, これらの報告に基づいて, 委員の合議により, 掲載の可否, 原稿種類の妥当性
および次項の 「審査結果のお知らせ」 に添える文書の内容などを決定する。
なお, 掲載の可否については, ①このままで掲載
必要
②多少の修正の上で掲載
③大幅な修正が
④掲載見送りの 4 段階で判定する。 ③については, 執筆者の修正原稿を査読者と担当委員
が再査読し, その結果に基づいて, 編集委員会が掲載の可否等を決定する。
4.
研究会記録および公開講座記録の原稿については, 原則として掲載する。 ただし, この場合も
編集委員の中から担当委員を選び, 担当委員は上記項目の 8) 等を検討する。 その結果, 執筆者
に加筆修正を求めることがある。
審査結果の通知
編集委員会は, 原稿掲載の可否を, 「審査結果のお知らせ」 により執筆者に通知する。 上記②③
④の場合, および原稿種類の変更が必要と判断した場合は, その理由あるいは修正案などを記した
文書をこれに添える。
審査結果に対する執筆者の対応
掲載の可否について②③と判定された場合, 執筆者は, 審査結果あるいは添付文書の趣旨に基づ
いて原稿を速やかに修正し, 修正原稿を編集委員会に再提出する。 ただし, ④の場合も含めて, 審
査結果あるいは添付文書の内容に疑問・異論等がある場合, 執筆者は, 編集委員会に文書によって
その旨を申し立てることができる。
最終原稿の提出要領
執筆者は, 加筆修正が終了した段階で, プリントアウトした最終原稿 1 部に, 電子媒体 (フロッ
ピーディスクあるいは CD) を添えて提出する。 その際, 必ずプレインテキストファイルを添える。
また, 電子媒体のラベルには, 原稿のタイトル・執筆者名・文書ファイル名・および文書作成に使
用したソフト名 (バージョンも含む) とパソコンの OS 名またはワープロの機種名を明記する。 図
がある場合は, その版下原稿を提出する。
校
正
校正は三校まで行う。 執筆者は初校および再校のみを行う。 執筆者の校正は, 正確かつ迅速に行
う。 また, その際の加筆・修正は最小限にとどめなければならない。 三校は編集委員会が行う。
― 131 ―
人文・自然・人間科学研究
投稿規定
抜き刷り
抜き刷りは, 50 部までは執筆者 (複数の場合は, 代表執筆者) に進呈する。 それ以上の部数が
必要な場合は, 50 の倍数の部数で編集委員会に申し込む。 その場合, 50 部を超えた分は有料とす
る。 その料金については別途定める。
その他
本規定に定められていない事項については, 編集委員会が投稿者と協議の上, 編集委員会が判断
する。
投稿規定の改正
本規定の改正は, 編集委員会が原案を作成し, 本研究所会議に報告して承認を求める。
付
記
本投稿規定は, 2006 年 4 月以降に投稿される原稿から適用する。
以
― 132 ―
上
執筆者および専門分野の紹介 (目次掲載順)
犬竹
正幸 (いぬたけ
まさゆき) 政
デヴィッド・A・プルーカ
経
学
部
教
授
哲学
商 学 部 特 任 講 師 Applied Linguistics・TESOL
オスカル・ハビエル・メンドーサ・ガルシア
外国語学部特任講師
文化人類学
北村有紀子 (きたむら
ゆ き こ) 政 経 学 部 非 常 勤 講 師
英文学・比較文学
野
要 (た か の
か な め) 政 経 学 部 非 常 勤 講 師
中世イギリス社会経済史
小木田敏彦 (こ ぎ た
としひこ) 政 経 学 部 非 常 勤 講 師
経済地理・社会経済史
増山
久美 (ますやま
く
社会人類学・地域研究 (メキシコ)
木村
直人 (き む ら
な お と) 商
表紙ロゴ
み) 外 国 語 学 部 非 常 勤 講 師
拓殖大学論集
学
部
准
教
授
実験心理学・学習心理学
は, 西東書房, 二玄社のご協力をいただきました。
2 社に感謝申し上げます。
編集委員
「拓」
次の 2 項目を合成
手偏
西嶽華山廟碑 (西東書房刊, p. 12 の 「持」 より)
石
西嶽華山廟砕 (西東書房刊, p. 15)
「殖」
西嶽華山廟碑 (二玄社刊, p. 90)
「大」
西嶽華山廟碑 (西東書房刊, p. 9)
「學」
史晨後碑 (二玄社刊, p. 52)
「論」
尹宙碑 (西東書房刊, p. 36)
「集」
西嶽華山廟碑 (西東書房刊, p. 11)
音在
坂田
謙介
貞二
犬竹
佐藤
人文・自然・人間科学研究
2007 年 10 月 20 日
印
刷
2007 年 10 月 25 日
発
行
編
集
正幸
健生
第 18 号
ISSN
裕子
正男
小川
高橋
肇
都彦
木村
松下
直人
直弘
13446622 (拓殖大学論集 267)
ISSN
拓殖大学人文科学研究所編集委員会
発行者
拓殖大学人文科学研究所長
発行所
拓殖大学人文科学研究所
〒1128585
㈱ 外為印刷
下條
正男
東京都文京区小日向 3 丁目 4 番 14 号
Tel. 0339477595
印刷所
遠藤
下條
Fax. 0339472397 (研究支援課)
02886650
THE JOURNAL
OF
HUMANITIES AND SCIENCES
Number 18
October 2007
CONTENTS
Article :
Masayuki INUTAKE
An Investigation of the Concepts of Force,
Inertia and Mass in Kant’s Theory of Mechanics
David A. PRUCHA
On Interpreting Benet’s Before An Examination
( 1 )
( 18 )
A
Oscar Javier Mendoza GARC
Hoz y Encina de Santo Domingo de la Calzada
Primer milagro que da origen al pueblo jacobeo
que lleva su nombre
Yukiko KITAMURA
( 25 )
Metaphor of the Sun in Anita Brookner’s
The Bay of Angels :
Searching for Clues to The Old Testament
( 43 )
Kaname TAKANO
The Robin Hood Legend and its Historical Setting
( 57 )
Toshihiko KOGITA
An Economic Geographical Inquiry of Apprenticeship
( 83 )
Kumi MASUYAMA
‘Tianguis’ y la sociedad local de la Ciudad de M
exico :
un estudio sobre la vinculaci
on del mercado
al aire libre con los vecinos en la colonia popular
Study Note :
Naoto KIMURA
(100)
The Partial Reversal Learning
with Colored Stimuli by Pigeons
Instructions to Authors
(120)
(129)
Edited and Published by
INSTITUTE FOR RESEARCH IN THE HUMANITIES
TAKUSHOKU UNIVERSITY
Kohinata, Bunkyo-ku, Tokyo 112 8585, JAPAN