古代中国の彗星予言(前)(後) 目次 はじめに 四 『史記』の彗星記録 一

古代中国の彗星予言(前)
(後)
目次
はじめに
四
『史記』の彗星記録
一
彗星の占い
五
『漢書』の彗星予言
二
『春秋』に見る彗星予言(一)
六
『後漢書』と『續漢書』
三
『春秋』に見る彗星予言(二)
おわりに
注
注
以上、(前)
以上、(後)
はじめに
自然科学の発達した今日では、日食や月食がどのようにして起こるかということも、次
の日食や月食がいつ地球上のどの地点で何時何分から観測できるかまで知ることができる
が、古代人にとってこれらの現象は人知を越える謎であった。四季の循環、寒暖の調和で
さえ天の配剤と考える古代人にとって、日食も月食も、あるいは彗星や流星の出現もすべ
てが脅威であった。
しかし、天体の運行を観測する者にとっては、予測できない日食や月食ではあっても、
また彗星や流星が突如天空を走って人々を不安に陥れようとも、それらを同じように恐れ
て手をこまねいているだけでは済まされない。かれらは専門家として納得のいく説明を欲
した。
紀元前十二・三世紀の殷王朝、まだ狩猟採集の生活が中心であったこのころの亀骨文な
どにも風雨など天候を伺う記録が断片的に見えるが、殷の時代にはまだ天文観測には至っ
ていない。天体を観測し記録するのは周に入ってからである。
『尚書』堯典に「日月星辰を
暦象し、敬みて人時を授く」とある。これは堯が天文に通じた羲和を天文官とし、太陽・
月・星辰を観測して農耕に益ある暦を制するように命じたというもので、周王朝にはすで
に天文観測がさなされていたことを裏付けるものである。また、
『周易』に「仰ぎて以て天
文を觀、俯して以て地理を察す。是の故に幽明の故を知る」
(繋辭上)、
「天文を觀て、以て
時變を察し、人文を觀て、以て天下を化成す」
(賁卦・彖伝)と見えるように、天文は地上
のことともに変化の法則を知るために欠くべからざる観測の対象と認識されていた。「天、
神物を生じ、聖人、之れに則る。天地
變化して、聖人、之れに效う。天、象を垂れ、吉
凶を見す。聖人、之れに象る」
(繋辭上)とあるように、天の千変万化が吉凶を示している
と考えたからである。要するに、日月星辰の運行を観測するのは、それによって四季の変
遷を推察するためであり、より客観的な自然の法則を天文観測から獲得しようとする、原
始的ではあるが明らかに科学的精神のあらわれということができる。
古代人が自然の法則を知ろうとした時にさまざまな恐怖を経験したことであろうことは
想像に難くない。天文観測から吉凶を占う行為は、予測を越えた異変や法則に反する現象
を目の当たりにした時に生まれる恐怖から逃れようとする意志のあらわれ、不安を解消す
るための一助として生まれたと見ても大過ないだろう。しかし観測者がその主観を捨てて
客観性を求めようとする時、そこにある種の法則を見いだすことになる。その記録の積み
重ねが科学的な天文学として発展していったのである。
一方、天文観測から様々な占術が展開したことは中国の天文学の特色でもある。もちろ
んこのことは中国に限らない。バビロニアのタブレットを持ち出すまでもなく、古代ギリ
シャやインドでも同様である。古代人が天体の神秘に対峙した時に生まれる恐怖は普遍的
であったということである。しかし、中国の占いは実に多種多様で、しかも今日に伝えら
れていることは特筆に値する。
『周禮』には、保章氏・馮相氏・卜師・筮人・占夢・
祲などの職が見え、かれらが日
月星辰の運行を観察して妖祥を判別し、人間世界の諸事の吉凶を占い、その占いから未来
を予見する仕事を担う特殊技術者であったことがわかる。彼らは日食・月食や五惑星の会
合から天下の禍福を占うだけでなく、雲気や風、あるいは
祲といった太陽の周囲に現れ
る暈の様子などから、諸国の吉凶、作物の豊饒・凶作、水害や旱魃などを占うのである。
後世、望気や風角とも呼ばれるものも含め、太陽・月・星だけでなく、ありとあらゆる自
然現象から、果ては占夢のように夢から未来を占うものまで、実に多彩な占術が存在して
いた。現に『漢書』藝文志には太陽・月・恒星・惑星・彗星・流星の観測記録から生まれ
た占いの書に並んで、雲・雨・虹蜺・暈などの占いの書が記録されている。
さて、
『史記』天官書に戦国時代の「天數を傳える者」としてその名を連ねる魏の石申と
齊の甘公は、共に天文学の専門的知識をもとに活躍した占星術士である。占星術はすでに
戦国時代に盛んに行われていた。漢代には『天文気象雑占』や『五星占』
(共に馬王堆三號
漢墓出土帛書)などの占術書が生まれているし、唐には『大唐開元占經』
(瞿曇悉達等奉勅
撰)が編纂され、そこには先の石申・甘公の占星が多く引用されている。これらの事実か
ら、天文学と占術が時代を越えて受容されていたことがわかる。しかも、
『漢書』藝文志は
天文観測から吉凶を知ることを言うのみならず、
「聖王の政に参する所以」と、天文が現実
政治の反映であること、ゆえに吉凶を見て自らの政治を反省し、凶なれば身を愼み政治を
正すことを為政者に求めている。これこそが中国の占いが西洋のホロスコープ Horoscope
と違う点である。すなわち、ホロスコープが主として個人の運命を占い予見するためのも
のであったのに対して、中国の占いは国家や王朝のために生まれた国家占星術 Judicial
Astrology として発展したということである。
ただ、占いと予言は同じではない。占いが概ね漠然とした未来を言うのに対して、予言
は極めて現実的なことがらを具体的に説くものである。そして、予言が占いと決定的に違
うのは、占いが占ったことがそのまま意味をもつのに対して、予言が予言として認められ
て人々に記憶されるのは的中した場合に限られること、換言すれば、的中しなければ予言
にならないという点である。
ところで、古代人が数ある天文現象の中で、惑星の異常運行と共に最も恐れを抱いたの
が彗星と流星であろう。その色や姿、あるいは出現する方位によって、彗星は孛星・拂星・
茀星・掃星・天欃・天棓・天彗などと呼ばれ、また流星も天狗・天鼓・枉矢・長康等々の
呼び名があるように、その異名の多さから見ても当時の人々がいかに彗星や流星を畏怖し
たかを推察することができよう。
特に彗星は見るからに神秘的で、今日でも彗星の神秘に魅せられる人は少なくない。し
かし、今日では彗星を恐れることないし、ましてやそこに予兆を見ることもないが、古代
人は彗星の出現は予測できないだけに恐懼すべき神秘であった。神秘は想像をたくましく
する。彗星は我々に何かを語りかけているのではないかと思う。すると彗星への関心は益々
広がる。古代人が彗星に寄せた関心の大きさは、彗星の異名の多さとともにその詳細な観
察記録が語っている。
本稿は彗星の記録をたどりながら、そこに記録される言辞の歴史的変遷を整理し、彗星
に託された予言から漢代災異思想を管見しようとするものである。
おわりに
以上見てきたように、亡国・乱君・陰謀・動乱・用兵・戦闘、あるいは飢饉や疾病を予
測させる凶星として古来恐れられた彗星は、漢代以降もしばしば現れて人々を不安に陥れ
た。
『史記』や『漢書』では本紀と志の間に矛盾や不整合はあるものの、そこから伺うこと
のできる司馬遷や班固の彗星観は、基本的に「凶穢を掃除し、故きを除い新しきを布く。
故に掃星と言う」(『石氏占』)の思想を継承するものである。
漢代、天文観測によって確認された天体の異常現象は、ほとんどが社会に鳴らす警鐘の
役割を担った。彗星も例外ではない。司馬遷には彗星を天の譴責とする明確な考えはない
が、班固は災異説に基づいて前漢の彗星記録から時の政治を分析し、天子の軽挙や不仁、
皇后や外戚の驕恣・専横、更には司馬遷の意を受けて武帝による匈奴討伐や朝鮮撃破によ
る中国の疲弊を批判している。同時に、班固は災異を深刻に受け止めて身を正す宣帝や元
帝には実に好意的で、彗星の悪しき応験は無きに等しく、最も激しく非難攻撃する成帝と
対照的である。
『漢書』が「天文志」のみならず「五行志」にも彗星の応徴を記録するのに対して、司
馬彪は惑星をはじめ彗星や流星(客星)などの現象をすべて「天文志」に収めた。日食・
月食・虹・雨などの天体現象や気象は「五行志」に立てられており、必ずしもその区別は
明確ではないが、少なくとも彗星は服妖・鷄禍・羊禍・訛言などの不可思議な妖象と別扱
いにしようとする意図が見える。泰始三年(二六七)、晉の武帝が星辰讖緯の学を禁止した
ことの影響から、司馬彪は星辰の記録を「天文志」に一括し「五行志」と峻別したのでは
なかろうか。
しかしながら、司馬彪も「天文志上」に、
「孛星は惡氣の生ずる所、亂兵と爲す。其の徳
に孛る所以。孛徳は亂の象、不明の表。……或いは之れを彗星と謂うは、穢れたるを除い
て新しきを布く所以なり」と言い、司馬遷や班固と同様、古来の彗星観を踏襲している。
彗星は確かに暗い未来を予測させるが、同時に彗星はその箒をもって古い世界を掃除し新
しい時代を開くイメージを喚起し救いの余地を残している。たとえ天子の崩御や皇后・太
后の薨御があろうと、否、むしろ「凶穢」なる天子や皇后、あるいは外戚が一掃されるこ
とによって、決して絶望的になることなく、未来に可能性を見いだそうとする古代人の健
全な精神を見いだすことができる。・