文献講読 2004 2004/4/21 テクトニック・カルチャー/ケネス・フランプトン[著] 4章 フランク・ロイド・ライト p132−p167 シカゴ ・19 世紀後四半期、ドイツ文化の影響が隆盛を極めていた。 ・ゴッドフリート・ゼンパーのシカゴ建築への影響が広範かつ強かった。 ・サリヴァン、ライトはドイツ語を解し建築実践の基本を再定義することに積極的な人々に囲まれてい た。 ゼンパーの思想の普及 フレデリック・ボウマン 独立柱の基礎工法の定式『あらゆる建物における基礎の技法と独立柱工法の詳細図解』 翻訳、演説、講演によるゼンパーの理論の講釈。 ジョン・ウェルボーン・ルート ゼンパーの論文「建物様式の彼方に」を翻訳。 ゼンパー理論の2つの論点 ・あらゆる建設形態の原型的な起源は織物の生産にあり、紐の結び目とは初源的な結合としてある。 ・人類学的に言って建物の技芸はそのモチーフの多くを応用芸術に負っている。 オーウェン・ジョーンズ ケルト起源の反体制派であり様式の折衷闘争という精神的破錠を克服するための「異」文化の探求。 『アルハンブラ宮殿の平面、立面、断面、そしてディテール』を出版し、エキゾチックな異世界のヴィ ジョンを拡大。 『装飾の文法』によりオリエント文化の装飾の紹介。 結構形態の優位性、自然界からもたらされた装飾 ルイス・サリヴァン ・周囲に偏在するドイツ的環境とボザールで受けた教育の狭間にいた。 ・アドラーと組む前からドイツ形而上哲学に通じていた。 ・ジョーンズからの影響。 多彩色装飾 自然の形やパターンを抽象化したもの。 着色された割肌の耐力レンガ(テキスタイル)。 『人間の力の哲学による一つの建築装飾体系』 ジョーンズの仮説的プログラムを実証。 形態学的で幾何学的な変態を示す。 ・後期の装飾は結構的聖典とでも言うべき超神学に依存する。 網目上の表面を、有機的変態の翻案と繰り返しや、意識的な自然と文化の融合に依存する。謎めいた 言語としての石化したテキスタイル。 フランク・ロイド・ライト (1867−1959) ・装飾を製造加工工程から得ようと試みた。 ・機械に本来備わっている性能に従ってそれを稼動した場合にのみ起こる機械による省力化の文化的可 能性を模索した。 初期の木造住宅 ・反復的モデュールの秩序に従って計画、機械生産。 ・垂直材が隠蔽されたバルーン・フレーム構法。 水平な庇をつくる。 組積造の横積みのような水平線を隠喩的に模倣。 「森の時代」 1896 年 ロミオとジュリエット風車塔 1901 年 リヴァー・フォレスト・ゴルフ・クラブ 1902 年 ロス邸 夏の小屋 アーサー・ハートレー邸 建築結構の空間を織り上げていくアプローチ ・モデュールの秩序は地方の環境によって変化し、それは建築の基本的な考えであると同時に建設労働 の短縮を図る経済的、民主的、機械的な手段であった。 森の時代 3 フィート・グリッド テキスタイル・ブロック住宅 16 インチ角のグリッド ユーソニアン住宅 13 インチ幅の目透かし目地 ・汎用性があり、耐火性に優れた現場打ちの一体型による鉄筋コンクリートにより脅威に晒される。一 つの型枠を繰り返して使用した。 1901 年 コンクリート造の銀行 1906 年 ユニティ・テンプル テキスタイル・ブロック 「頑丈で硬く、しかし薄っぺらでなく、腐らず、塑造でき、不必要な素材の偽りがどこにもなく、し かも機械生産され、機構的に完璧である。機械の真髄である規格化をここで初めて建築家が獲得し たように見えるかもしれない。」 ・一体成型のコンクリートの本質的な分節の不明瞭さに気づき、コンクリートの分節コンクリート・ブ ロック、テキスタイル・ブロックを試みる。 1906 年 ハーリー・E・ブラウン邸 1908 年 エヴェリー・クーンリー邸 タイル塗装 1915 年 A・D・ジャーマン倉庫 模様ブロック ミッドウェー・ガーデンズ 構造体でないブロック 1922 年 東京帝国ホテル 装飾彫り大理石 1921 年 アルバート・M・ジョンソン邸 モザイク状ブロック 1923 年 ラ・ミニアトゥーラ テキスタイル・ブロック・システムに必要な統辞 法の具体化 1927 年 サンマルコス システムのずれ 1924 年 フリーマン邸 1 つおきに間引かれたモザイク状模様 1929 年 リチャード・ロイド・ジョーンズ邸 過渡的、大きなブロックの構成 ・存在論的で表象的な結構形態のきわめて込み入った統合に向かう。 1925 年 ナショナル生命保険ビル ・コンクリート・コアから吊るされたガラスと鉄で織られた組織によって練り上げた超高層ビル。 「壁は 自らを重みや厚みとしてあらしめることをやめたのである。」 ・外壁を支える主構造体として2通りのコンクリート製の樹木状の上部構造を考える。ジョンソン・ワ ックス本社ビルの連続性と分節の本質の先取り。またオリエント文明への依存性がより構造的なレヴ ェルにまで拡大したあり方を示す。 1939 年 ジョンソン・ワックス本社ビル ・空洞のガラス管によりテキスタイルの隠喩にたよる。 ユーソニアン住宅 ・中西部文化への回帰によるテキスタイル結構の最終段階。配置と層の組み合わせによる3次元のマト リクスで構成されている籠と捉えられる。 ・標準的な製材と一致する寸法をモデュールとし用材切り出しにおける無駄を低減した。ディテールを 標準化し構法の組み立て手順をつくる。ゼンパーの四つの要素(炉、基礎、枠組み/屋根、囲いの被覆) を組み入れているようにみえる。 ・多くの開放的な空間のシークエンスが組み込まれている。 ・アメリカの郊外地域に住む中産階級のために設計された。 1932 年 マルコム・ウィリー邸 1939 年 ハーバード・ジェイコブス邸 すべての活動のための小さな空間 ブロードエーカー・シティー ライトの理想主義的で平等主義的な社会経済原理の仮定をユーソニアン住宅と共有している。デカルト 的土地区画対して織られた、汎文化的でエコロジカルなタピストリーである。 文献講読 2004 2004/4/28 テクトニック・カルチャー/ケネス・フランプトン[著] 5章 オーギュスト・ペレ −古典主義的合理主義 p168−p215 古典主義的合理主義:ペレの建築は、鉄筋コンクリート構造の古典主義的な構造的合理主義であった。 新たな試みとして柱によるフレームの表現やフリープラン、一方で古典的な規範や、フランスの伝統的 なゴシックを再解釈し発展させようとした。 鉄筋コンクリート −ペレ以前 ローマ時代)〈セメント構法〉−パンテオン 1800 年頃) ルイ・ヴィカによる水硬性セメント技術 1850 年頃) ジェゼフ・モニエによるワイヤーで補強されたプレファブの規格製品 1879 年) フランソワ・エヌビックによる鉄筋コンクリート構法の完成 ペレの経歴 −2つの対照的な経験 ・施工業者だった父の刺激的で挑戦的な現実性 −実践 ・エコール・デ・ボザールで受けた特権的な教育 −理論 −建築教育における実践と理論という昔ながらの対立の中で、ペレは実践の観点からボザールを中退 する ペレにとっての鉄筋コンクリート ・グレコ・ゴシックの理想型の核心にあった亀裂を和解させる完全に均質なシステム ・プラトン立体と構造合理主義の結構表現性を結び付けるもの ・古典化された合理主義のより理想化された形態+フレームの優位性 −3つの独創的建物 「サン・マロのカジノ」 (1899) 「フラクリン通り25番地のアパルトマン」 (1903) 「ポンチュ通り51番地のマルブフ車庫」 (1905) ・鉄筋コンクリートが分節的な統合体として構法を詩的に表現しないことを理解 ⇔エヌビック自邸のハンチのついた梁、最大圧縮モーメントの建築結構的隠蔽 「フラクリン通り25番地のアパルトマン」 (1903) ・鉄筋コンクリート・フレームのポレミカルな賞賛 ・フレームの直接的表現と、フレームと充填壁の分離 ・木工品的外観 −ペレの〈木工技術〉表現へのこだわり ・外観はギリシアよりはゴシックに親和的 「ポンチュ通り51番地のマルブフ車庫」(1905) ・打放しコンクリートのフレームは伝統的な古典的要素を暗示するよう操作 −ジャイアント・オーダー、コーニス、クリアストーリー ・ネオ・ゴシックあるいは原アール・デコ風の「薔薇窓」 −ギリシア的感覚を中和 ・露出した打放しコンクリートとフレーム ・ファサードは結構的に操作 −外観の直角形態と内部のハンチのついた支持柱 ・施設の社会文化的位置付けの違いによって、建築に階層的な調整をする −シンケル 「シャンゼリゼ劇場」(1913) ・構造的合理主義の手法の発展 ・フォワイエ部分のパラディオ風のABABA布置 −表象的な柱型を通してファサードに投影 a/ABABA/a ・柱型の頂部は細い金色の帯でまとめる ・〈本当らしさ〉の原理 −隅部に柱型を配して仮想上の支持能力を表層 「ノートルダム・デュ・ランシー教会」(1923) ・古典合理主義とグレコ・ゴシックの最終的な融合 ・先駆的なフリープランの本質に到達 ・非耐力壁の内側に立てられた28本の自立円柱のネットワークから構成 ・先細りの柱 −(存在論的)仕上げのないコンクリートによる構造体の表現 (表象的) 型枠材の形状が表面に痕跡を残している ・柱の面取りが作る両義的な形状 −意識的な二重の参照 ①ドリス・オーダーの先細りになっているフリューティング ②典型的なゴシックの束ね柱形状 ・自立した柱 −森林効果 ・コンクリートのひしゃげたバレル・ヴォールトの形態 ・ゴシック的要素 −2フィート角のプレキャスト・コンクリートが周壁のカーテンウォールを構成 正方形平面の尖塔と鐘楼 −擬・ゴシックとなった点で失敗 結構的な分節表現のより直接的なレヴェルへと回帰 「バレ・ド・ボワ」(1924) −木構造の力業、標準的な工場生産部材、支持する部材と支持される部材、日本の構法 「装飾博劇場」(1925) ・教唆的で意欲的な仕事 ・グレコ・ゴシック言語の統辞法を古典主義的合理主義の分節的な規制への変容させることを試みる −新しいフランスのオーダーを発展させようとする ・ヴォリューム全体にパラディオ風システム ・仮説的施設 ・内装 −模造、水晶プリズムのような美しさを実現する契機 −異なる光の状態に対応したこの非物質化されたアウラ ・その他の結構的特質 ①オリエントを喚起(日本、イスラーム) ②新しいフランス的な古典的合理主義オーダー −フリューティング、通気口を兼ねたフリーズ 建築への体系的で調整的なアプローチの確立を模索 ・異なる施設に階層的に異なる表現を与え得るものとなる −ナバール・ベイ邸(1931)のフレームと充填壁、ル・アーブルの復興計画での列柱 ・ペレの手法と統辞法は2つの主要作品において一般的システムへと結晶化する −レヌワール通り51番地のアパルトマン(1932)、土木事業博物館(1937) 生産を極大化するよりも合理的であること ・ペレにとって反復的な部品はある特定の物件のための要素としてデザインされた結構的な単位 ・現場打ちコンクリートとプレキャスト、そしてぴしゃん叩き仕上げ 「レヌワール通り51番地のアパルトマン」(1932) ・伝統的なフレンチ・ウィンドウの規範的あり方の再確認 ・「縦長の窓は、人間の額縁である」⇔「水平連続窓」(ル・コルビュジェ) ・「フレンチ・ウィンドウ」−人間の存在を示すもの ブルジョワの室内の上品さ、規則、空間、 光のグラデーション →人間の行動に規範的な抑揚 「土木事業博物館」(1937) ・ペレの経歴の中で最もよくできた都市的モニュメント ・構造的に古典的な列柱が強いモニュメント性を表現 ・ジャイアント・オーダーと上方にいくほど太くなる柱 −(ペレ)グレコ・ゴシックの理想型と近代のテクノロジーの影響によるその変容に焦点を置く、 「ジョンソン・ワックス本社」(ライト)構造合理主義に近い有機的連続性に対する彼の好み ・柱を直接脱型しつつ、それ以外のコンクリート部分はぴしゃん叩き −自らのコンクリートの統辞法を瞠目すべき精度の水準に持ち込む 意図せぬ非結構的効果をもたいらしている ・「建物の中の建物」という形式 −柱を皮膜の内部 →皮膜の両側 →皮膜の外部に配置する表現にいたる ・柱型のあいだにできたヴォイドに空調ダクトがまわされる −カーンを先取り ・ペレにとって容積の音響学は存在論的価値をもっている −空間的特性のさらなる表明 ・すべての要素はそれが作られている素材、それが作られた手法に忠実に従う 最終的には、自らの作品に彼が文明の根本的な基準と見なしていたものを導入し得るようになる −螺旋階段 ペレの言説(p206‑p212) ・『建築理論への寄与』(1952) ・建築、技術、構法、装飾、フレーム、ポール・ヴァレリーの影響 ・特質とスタイル −「スタイル」とは「複数形を持たない言葉」 ・ルネサンスへの軽蔑 ・ペレは自身のことを「建設者」−A&Gペレ建設、繊細な技法を近代の施工法で行う ペレの結構の線 (1)建築に不可欠な統合の原理としての構造骨格の表現 (2)技術的・詩的な支点としてのジョイントに置かれた強調 (3)ある種の文化の連続性を依然として保ち得るようになされた伝統的な特徴の再解釈 (4)主要な鍵となる要素(コーニス、フレンチ・ウインドウ、螺旋階段)に結果的に置かれた強調 (5)規範的文化を継承し発展させることを目的とした、その伝達手段としての合理性へのこだわり ペレの今日的における重要性 ・アヴァンキャルドの表現性とは距離を置きつつ、20世紀後半における2つの落とし穴、模倣混成的 な歴史主義、還元的な機能主義を回避して、その作品の線を保ったこと ・結構と切石組積の要素が弁証法的に結合され得る未来を示す ・他の構造材にペレの方法論を変換する可能性 ・ペレの遺産の限界と可能性の双方が、その影響の両分的な性質へと反映される ・アントニン・レーモンド −ペレの構造古典主義を日本の条件に適応 文献講読 2004 2004/5/12 テクトニック・カルチャー/ケネス・フランプトン[著] 6章 ミース・ファン・デル・ローエ −アヴァンギャルドと継承 p216−p271 ミースの経歴の三つの異なる要素 ・時代の持つテクノロジーの可能性 ・アヴァンギャルディズムの美学 ⇒抽象空間と結構形態が相対的に両立できない ・古典的ロマン主義の結構的遺産 シンケル的時代(1911〜1915) G グループ時代(1919〜1925) ヨーロッパでの抽象の時代(1925〜1938) イリノイ工科大学(IIT)時代(1938〜1950) モニュメンタルなテクノクラート的実践の時代(1950〜彼の死まで) 第一の時代 ベルリンの(シンケル派)価値観に漬かっていた。 クレーラー=ミューラー邸・・・・シンケルのイタリア的手法の近代版 第二の時代 アヴァンギャルド芸術に直接的に影響される。 年表 1925 年 レンガ構法の組積造 1938 年 アメリカ合衆国に移住 1945 年 IIT 同窓会記念ホールの鋼製規格品のフレームのモニュメント性とともに仮説的 な階層性の全領域を表現し始める。 1946 年 ファンズワース邸 1949 年 レイクショア・ドライヴ 860 最後の 20 年 テクノロジーのモニュメント化 1956 年 クラウンホール 1957 年 シーグラムビル 1962 年〜1968 年 新国立ギャラリー 素材。コンクリート、鋼鉄、ガラス。鉄筋コンクリート構造は基本的に骨格である。 ↓ 骨格フレームの重要性 抽象美学と結構形態のあいだの潜在的な対立 「ウルリヒ・ランゲ邸第2案、フッベ邸」(1930 年代) ・・・アヴァンギャルドの空間概念の影響を受けつつ、伝統構法的な方法でつくられているという 点で重要。 「バルセロナ・パビィリオン、テューゲントハット邸」・・・フリープランがはっきりと表れる。 これら初期の作品における空間的な字油の唯一の仄めかしは〈連続〉プランニングという創意。 ミースの作品の結構的な高潔さが、彼が構に置く強調や、本質的に誌的な行為としての建物の技芸に彼 が与えた重要性にあることははっきりしている。 「神はディティールに宿る」という彼の有名なアフォリズ ムもこのことを表している。 ミースにとって崇高なものとは素材自体の特性と、注意深いディティールによるその本質の顕在化にあ る。 1926 年のヴォルフ邸から 1933 年のライヒスバンク設計競技への参加に向けてのミースの実践 ・美的意図を強調すること ・扱う材料の本質への関心 ・作品の制度的な位置付けへの関心 異なる素材の特性の対立・・・二項対立的手法 1920 年代後半にミースの建築における主要な素材とみなせるものにはっきりと変化がある。 クレフェルトの住宅のレンガ耐震壁→・シュトゥットガルトの産業工芸展でのガラス産業の展示。 ・モード展での絹の展示 ↓ 重く不透明な素材から軽く半透明なものへの移行。・・・結構的でもあり美的でもあった。 「テューゲントハット邸」 ・・・ここでの最も直接的な結構表現は、地下に引き込まれて居住空間をベル ヴェデーレに変換してしまう長さ 80 フィートの板ガラスの壁の〈ディテ ィール設計〉である。 「三つの中庭を持つ住宅」 ・・・実現されなかったが、多くの点でミースのコートハウスの最も典型的な もので二つの要素に分類できる。 ・トラヴァーチンの舗石ともども住宅の領域を規定しているレンガ壁の〈切石組積的〉な領域 ・非物質的な〈結構的〉領域・・・空間を囲むガラスや大理石の薄板を張った壁、クロムめっき柱。 これに続くウルリヒ・ランゲ邸とフッベ邸はこの三つの中庭の定式から得られた一連の組み合わ せをさらに発展させたもの。 ミースは構法の秩序が建築の質を保証する唯一のものと見なしていた。 ・・・構造によって我々は哲学的な観念を持つのである。構造とはすみからすみまで最後のディ ティールにいたるまで、すべて同じ観念で造られたものである。 ミースは〈建物(Bauen) 〉と〈建物芸術(Baukunst)〉、建物と建築を区別し続ける。 ミースの結構的な変化 1938年にワイオミングに計画されたレザー邸では依然として十字断面形柱が採用されているが、 この時点から、彼の結構の焦点はレンガとガラスの充填壁を嵌め込んだ露出したスチールフレームへ と移行していく。 ドイツでは柱は円形か十字形だった。→H 形、I 形鋼 ドイツでは柱は一般的に壁や窓からはっきり分離していた→建物の外壁と一体化した要素となっ ている。 ・・・ミースの一般的な焦点はいまや、モダニズムの普遍的な空間からフレームとジョイントの 優位へと移り始めた(ロウ) 1945年の IIT 同窓生記念ホールでミースの表現はさらにモニュメント的なものとなる。これは 一つにはスチールフレーム全体に耐火被覆が必要であったこと、また加えてこのホールがこの時点で キャンパスで最も名誉ある建物として建てられたことによる。 ここでの主要な結構要素は表象的な鋼鉄断面の〈芸術形態(Kuntsform)〉とコンクリートによって 耐火被覆された鋼鉄の〈本質形態(Kernform)〉に分解される。 1940年代半ばに計画された3つの仕事はミースのその後の経歴の出発点ともなる。 (ファンズワース邸、ドライヴイン・レストラン、レイクショア・ドライヴ860) 「ファンズワース邸」・・・アヴァンギャルド的な空間の範型 骨組フレームとして自らを示している→過去からの継承 ガラスのプリズムとプラットフォームの非対称の集合体 →シンケルのイタリア的構成を偲ばせる 「レイクショア・ドライヴ860」 ・・・二次元的なフレーム・システムとして窓面を支えているマリオンがこれら の鋼板のさらに外側につけられており、そうすることで一連の構成は連続 的なカーテンウォールとして与えられている。 家具と大スパン構造物を例外とすれば、ミースはジョイントの結合とその工法をあまり強調しない 傾向があった。 ミースは自らの時代のテクノサイエンス的文明をそのまま、あたかも文明がいまやえることのでき る唯一の真正な形態はこの「ほとんど無」であるかのように、表現しようと試みた。 ミースにとっての建物の技芸とは、現実の平凡さにおける精神の具体化を意味した。つまり其れは 結構形態による技術の精神化のことである。 文献講読 2004 2004/5/19 テクトニック・カルチャー/ケネス・フランプトン[著] 7章 ルイ・カーン −近代化と新しいモニュメント性 p272−p331 カーンは近代のテクノロジーを制度的施設形態に統合させることを目指した。それは構造形態と素材技 術の結構表現やサーヴド・サーヴァントという概念の導入を通して実践された。また、幾何学的形態やプ ラトン立体の多用し、建築の永続性、時間を超えた建築=ものとしての建築のあり方を示した。 カーンにとってのモニュメント性 ・モニュメント的形態の第一条件────量塊の形状や類型ではなく結構的構造 ⇔ギディオン、セルト、レジェによる「モニュメント性の九原則」 (1943)で示された社会政治的な姿勢 とはまったく異なるアプローチ カーンにおける構造合理主義的性格 ・標準化技術による普遍的な建築要素(I 型鋼)に対する批判 →応力図の示す優美な形態の創造をもみ消し、技術の表現の場を制限する ⇔ミース────圧延鋼製梁を 20 世紀の典型的構造として受け入れた ・より有機的な、ネオ・ゴシックとも呼べる溶接鋼管可能性を支持 → ・荷重に応じて変化する断面 ・溶接による連続した構造的統合体 ・力の流れを表象する形態 ・溶接鋼管同様、鉄筋コンクリートの有機的な可能性を感じつつ、しかし結構的見地から見た欠点によ り、この時点では新たなモニュメント性の素材として採用しなかった 近代化への関与 ・設備には構造体と同じ結構的位置付けが与えられるべきである ・「サーヴァントとサーヴド」という理論的対比の定式化 →20 世紀後半において建物の付帯設備が増加するとから起きる問題を回避 ↓ なかでもセントラル空調システムは目覚しい発展を遂げ、ダクトを収容するための吊り天井を取り 払い、より開放的な空間を得ようと試みた ↓ 建物の根本構造は内部と外部の両方に向けて明白にされなければならないというカーンの超越論的な傾 向が窺える。 「シティー・タワー計画」(1957) ・三対構成の四面体の秩序原理は自然界にある結晶の構造とその形態においてほとんど同じ「超越論 的な」構築として構想された ・ 「サーヴァント・スペース」は三角グリッド構成の床と四面体の柱頭内部で洗面所を収容するために 利用される空間ではなく、メンテナンス用およびダクトとパイプの水平配管用のキャットウォーク の空間にも適用された →構造主義の原理はもはやディテールを注意深く作るだけの問題ではなくなり、階層的な空間を提 供することまで含まれるようになった ・骨格フレームとその皮膜の結構性と、切石組積的な基段のあいだの対比 空洞の構造体への執心 ・空洞の構造体────カーンにとって還元不能な要素、生涯を通して変わらぬ主題 →それは建物の文化における究極の形態素としてあるものだったり、それなしでは何も作り出すことが できないものだった ・建築・都市双方のレヴェルにおいて適用 建築 「イエール大学アートギャラリー」────三角グリッドの床 「トレントン・ユダヤ・コミュニティーセンター」────フィーレンデール・トラス 「リチャーズ医学研究棟」────中空の床梁 都市 「フィラデルフィア都市計画」────高架道建築 「イエール大学アートギャラリー」(1951‑1953) ・直交幾何学の使用→その後のカーンの発展にとって決定的なものとなる ・北面と南面とで異なった構造表現 →シティー・タワー計画での結構的/切石組積的の相互作用を想起させる ・三角グリッドの床は構造ネットワークとして機能すると同時に供給皮膜としても機能する 「ペンシルヴェニア大学リチャーズ医学研究棟」(1957‑11961) ・考えられるすべてのスケールでの中空構造体の使用 ・サーヴァントとサーヴドの分節、設備機械類の完全な統合 ・静力学的な重さと空気の排出における「重力/浮揚」の対話的表現 近代化とモニュメント性のあいだの緊張 ・柱と壁の存在論的な区別への強い意識→ミース風のフリープランに対する抵抗 「ミッドタウン・フィラデルフィア計画」(1957) ・モニュメント的な形態に対する思考の展開 →初期の結構表現性への注目から都市施設の独特な特質を視野にいれるようになる ・自動車交通による都市の破壊に対して「高架道建築」と人間のための建築を区別する →「サーヴァントとサーヴド」概念の都市への適用 骨組構造から組積造へ ・1950 年代後半以降の作品では組積造が決定的な役割を果たすようになる →スクリーン壁として表現されたり、耐力コンクリート・ブロック壁のような、一種の圧縮皮膜壁と して表現された 「合衆国領事館計画案」(1959‑1961) ・組積造による箱入れの技法 極端な気候条件への結構的解答 →太陽光を制御するため、構造体の外皮が部分的にスクリーンで覆われている 表象的な側面 →建物の正面の切り抜かれたスクリーンと屋根の上のモザイク状の天蓋は、この建物の名誉ある位置 付けを表象する カーンにおける構造の観念 ・第一のレヴェル────宇宙の基本的な分子の秩序であるとカーンが考えていた四面体、八面体シス テムによる普遍的な空間の構造化 ・第二のレヴェル────片持ち梁、カテナリ−、アーチ、ヴォ−ルト、バットレス、橋といった建築 文化の長い伝統を持つ修辞を採用した細かな構造の秩序 →上記二つのレヴェルの融合────ベイのシステムとはルームのシステムである ex.・リチャーズ研究棟の塔 ・キンベル美術館の擬・ヴォ−ルト ・エレノア・ドネリー・エルドマンホールの千鳥配置された八角形の区画ユニット ・第三のレヴェル────上記の「箱入れ」の秩序 →三つのレヴェルの融合─区画、構造、箱入れがある工程において現場打ちコンクリートの組織とし て一つに融合し、隙間的空間のほとんど無窮の連鎖をうみだしている ex.・バングラディッシュ国会議事堂 ・エクセター図書館 「エクセター図書館」(1967‑1972) ・三つのレヴェルが相殺し合うほどに混ざりあっている唯一の作品 ・図書館の四周をまわる、閲覧室のある外周壁を支持しているレンガの支柱は、書架を支える鉄筋コ ンクリート柱システムとはまったく性質が異なる ・この建物における過剰な構造は仮面のようなファサ−ドとは関係ない 初源的な幾何学の使用 ・近代的な施設の形態は幾何学的に決められた形態、あるいはプラトン立体から生じた絶対的な平面形 態の使用を通して、施設として喚起されなければならない →デカルト的価値観に対する懐疑 ・ブレ−やルドゥ−とは異なり、カーンは初源的な幾何学形態をそれだけで使うことはほとんどなく、 つねにより複雑な集合体の要素部分として用いた 「ロチェスター・ユニタリアン教会」(1959) ・上記のプラトン立体の初めての使用 ・その構造が〈いかに〉を分節的に表現するのとは対照的に、その施設を〈もの=何〉として表象す るものだった 「ソーク生物学研究所」(1959‑1965) ・知的作業のための構想的な領域と経験的探求のための作業的な領域に対して別々の物理的な環境を 提供する ・トラヴァ−ティンで覆われた切石組積的な基壇は一種の聖域として表現され、ここではすべての立 ち上がりや側壁などがそれぞれのあり方でアクセスやジョイントの地点を収めている 「キンベル美術館」(1966‑1972) ・一つの支配的な結構要素であるバレル・ヴォ−ルトが作品の全体的な性格を決定している →擬・ヴォ−ルト屋根の細穴と分節された構造が光の供給源となる ・他の決定的要因は切石組積の基礎で、建物をその敷地へはっきりと統合するものとしてある →より大地的な側面において自然の現前を喚起する ・古拙的で化石的でそして彫刻的なトラヴァ−ティンと集合体でありながら鋳造物であるコンクリー トの対比 ・擬・ヴォ−ルト形態の最終的展開 →経験技術的なネオ・ゴシックと形態的純粋さを目指すグレコ・ゴシックの両義性 文献講読 2004 2004/5/26 テクトニック・カルチャー 8章 / ケネス・フランプトン(著) ヨーン・ウツソン−汎文化的形態とその結構の隠喩 p.332 405 ヨーン・ウツソンの業績に最も特徴的な側面 ・構造と構法の表現性への強い関心 ・近代運動の結構的な線に根ざしており、オーギュスト・ペレからカルロ・スカルパへと向かう連続的 な発展の線に属していると思われる。 ウツソンの建築の特徴 ・ヨーン・ウツソンの作品は第一世代の合理主義への傾向に代わって、第三世代の環境秩序の有機的思 考への転換を先取りしている。 ・汎文化的な志向、ヨーロッパ中心主義の領域外部から霊感を得ようとする傾向 =1949年フランク・ロイド・ライトに会って深く影響されてから、ライトと共有したもの ・有機的断面をした無柱構造を好む。 ・結構形態の構法論理と幾何学の統合論理に支配される =この二つの前提はシドニー・オペラハウスにおいて融合をとげた 1945 年 建築家で、建築史家のトビアス・ファーベルと共同事務所を設立 彼らは自らの建築形態をエリートの文化からではなく、自然や地域的な形態から引き出そ うとした。自分たちの加算的組み立てのモデルを増殖や成長といった自然の形態に求めた。 1948 年 モロッコに短期間滞在=東洋に親近感を持っていたことを示す 1949 年 北米へ タリアセン・ウエストでライトに、シカゴでミースに会う機会を得ている。 ミースの影響:・素材の本質的特性に対するミースの感性 ・合理的でモデュール化された正確なディテールへのミースの関心 ・圧延加工された鋼鉄標準製品の断面形の応用→ウツソンなら三次元的な曲面 の制作に用いるだろう生産の論理 1952 年 ウツソン自邸→ライトとミースから吸収した原理を統合したもの 1953 年 ランゲリニア・パヴィリオン→ネオフランク・ロイド・ライト的 パゴタの形態が効果的に再解釈 1947 年 フランク・ロイド・ライトによるジョンソン・ワックス・リサーチセンター ウツソンの結構的イマジネーションとライトによる範型を違ったプログラムに応 用するウツソンの能力を示す。 エリック・アンド・へニー・アンダーソンと共働 1954 年 スウェーデンのヘルシンボリ、エリーネベリ地区の集合住宅とタウンセンター計画 1955 年 バルト海のボーンホルム島、スヴァネーケ・シーマーク給水塔←唯一実現 1959 年 支那の伝統的な建設方法を研究するために極東へ 12世紀支那の建設マニュアルである『営造方式』と出会う。 『営造方式』・・・20世紀のはるか前から支那の基本的な建設規則 加算的手法 標準化された部材が相互に噛み合うことで成り立つ木部材の統合、多様な 建設の型が生み出され得た。 頂点へと上昇していくように梁が積み重ねられていく形 ↓ 支那建築の屋根に独特な曲線 同じ部品から全く違う屋根の形態を組み立てることができるため、支那各地の気候に合 わせて変形できる。 耐震性能を有する。 支那からの帰途日本に立ち寄り、伝統的な日本建築の統辞法にも出会う。 1957 年 『営造方式』の根本原理をシドニー・オペラハウスの展開に適用 1960 年 インド、ネパール、チベットを訪れ、さらに東洋での見聞を深める。 1962 年 シルケボー美術館 ライトのグッケンハイム美術館の影響 土工事(アースワーク)と屋根工事(ルーフワーク)の対立 ・相互に対抗しあう、とともに補足し合う対立 ・階層の複雑化の度合いによって異なる3つの類型(重要な違いは土工事と屋根工事の間に渡された壁 にある。) 第一の型:主要な壁の要素は耐力壁で、これは住宅とアトリウムの双方を囲い、とともに 中庭の内側を囲っている軽量のスクリーン壁とも平行 ex.1958年キンゴ 1963年フレデンスボーの集合住宅 第二の型:折板コンクリート・スラブの屋根が立ち上がってきた土工事の上に架けられる。 ex.1964年ウツソン自邸 1963年チューリヒ・オペラハウス 第三の型:階段状の基壇の上にシェル型の屋根工事が置かれる。 シドニー・オペラハウスでその頂点に達する。 ウツソンの作品 <有機的>な形態と<幾何学的>な形態を結び合わせ、後者から前者を生み出す稀な力量を示している。 (ジー クフリート・ギーデキオン) ex.キンゴ・フレデンスボーの集合住宅やオーデンセとビルケホイの計画でこのことが明らか 折板スラブ工法 大スパンを完成させるために折板スラブ工法を大スパン工法の基本表現として選択 1958 年 ホイストロップ高等学校の主入り口計画(直角的な幾何学と規則的な比例においてマヤ遺 跡を彷彿とさせる。) 1060 年 コペンハーゲンでの世界見本市会場計画 1061 年から 65 年 1964 年 ベイヴューの自邸 チューリヒ・オペラハウスの入賞作 小さな都市を喚起させるようなやり方 二重壁が巡らされ、その間の空隙が「サーヴァント」スペースとして機能 シェル構造 シェル構造の屋根は公共的で象徴的な要素であり、それを搭載する基壇や折板屋根から 区別されている。 「シドニー・オペラハウス」 1957 年 国際設計競技案として計画 1973年 彼の監理なしに竣工 シェル:ある単一半径を持つ基本単位から様々な曲率をもつアーチ型の部材を切り出す案 →この提案は結構的な考えと構造上の合理性が必ずしも一致する必要のないことを証明する ものかもしれない。 →この不調和はダミッシュによるヴィオレ=ル=デュクの批評、構法上の方法と建築結構的 な結末がつねにずれていたことを彷彿とさせる。 建物を<形づくる>(フォーム)とともに敷地を<変容させる>(トランスフォーム)した。 つまり、特定の場所生を実現しただけでなく、国家のためのイメージをも創造した。 ・モデュラー化されたプレキャストのコンクリートの要素からシェルを形成すべきというウツソンの 主張=ネオ・ゴシック的 1977 年 バウスヴェア教会:当時のウツソンの結構のヴィジョンの理想形 一方で北欧ゴシック・リヴァイヴァルの延長とも見なされ、他方その断面形はパゴタ形へ のウツソンの嗜好から導かれたもの→この西洋と東洋の範型の融合のうちにはまたもライ トの変わることのない霊感 ウツソンとペレ ・すでにある素材と構造方法が異なる建設形式においても元の結構的性質を保存する。 =ゼンパーの<素材変遷理論>を彷彿とさせる。 ・コンクリート構造のスケルトンによるフレーム構造から、この同じ一体成形素材によってそっくりそ のままシェルのヴォールトへと移行する。 ・連続した同じ素材のこの移り変わりは、側廊の半・世俗的なあり方から身廊の聖的な性質への移り変 わりを表象する。(シェル形態の象徴性) パゴダ風ヴォールト(汎文化的性質)であるが、伝統的な支那屋根の構法から結構として距離を取り、 光の調節ヴォールトが外部に現れていない点でバロック的 ウツソン、カーン、ペレの共通点 ・三人には結構的形態の存在論的廉潔についての、同じものがある。 ・合理的・経済的構法への主張→プレファブ・システムへの精通を示す。 地域的条件から発生するとともにそれを超越し、そうすることで一種の文化的移植を通して異なった伝 統を再統合、再賦活という世界文化の理想型に関わり続けた。 加算的建築 「工業的に生産された建物単位が調整されることなしに建物の加算されるときのみ、これらの使用の一 貫性は成就される。こうした純粋な加算的原理は同一表現を持つ新しい建築形態へと結果する。」 合理的で半・工業的な生産の利点 ウツソンの目的はテクノロジーのシステムの純粋に方法論的・経済的な洗練を称賛することではなく、 結構的な目的のために構法の生産論理を利用すること 1966 年ファルム・タウンセンター 異なる二つの汎文化的範型が統合:中近東のバザール、支那の伝統 考察 ウツソンは、構造と構法の表現性へ強い関心を持ち続け、それを追求する上で有機的思考、汎文化的志 向、加算的建築というものを取り入れていった。そして表現としては、住宅のアトリウムでの片勾配の屋 根、コンコース空間での折板スラブ屋根、より大きな空間でのシェルのパゴダ形態へと進んでいった。 文献講読 2004 2004/6/2 テクトニック・カルチャー 9章 カルロ・スカルパ / ケネス・フランプトン[著] ―ジョイントへの崇敬 p.406〜449 スカルパの作品は、結構的真性の顕示としてだけではなく、この時代の二つの主要なユートピア―― ライトの有機的なユートピアと、近代主義者のテクノロジーのユートピア――への批評でもある。 そして徹底的な反ユートピア主義者として、スカルパはつねに敷地の制約と与件を独特に表現した。 カルロ・スカルパ略歴 1906 年 6月2日ヴェネチアに生まれる 1908−19 年 ヴィチェンツァに住む 1922−24 年 建築家 V.リナルドの事務所にて協働する 1923−26 年 施工管理者として最初の仕事につく 1926 年 王立ヴェネチア建築大学において、G.チリリ教授の助手として、教職者の道を歩み始 その後、ヴェネチアに帰る める 1934 年 オノリナ・ラッツァーニと結婚 1935 年 息子トビア生まれる 1945 年 フランク・ロイド・ライトにヴェネチアで会う 1962 年 ヴェネチアからトレヴィソ近郊のアゾロに移る 1967 年 アメリカを旅行 フランク・ロイド・ライトの作品を視察 ルイス・カーンに会う 1968 年 日本を旅行 1972 年 アゾロからヴィチェンツァに移る ヴェネチア建築大学の学長になる 1978 年 11 月 28 日仙台にて客死 結構的な凝結としてのジョイント ・スカルパの作品を通してジョイントは一種の結構的な凝結として扱われている。 その結合部分が分節であるか軸受けであるか、さもなくば階段やブリッジのようなもっと大きな単位 をひとまとめにするものかにかかわらず、それは全体を部分において体現する交差部なのである。 ・スカルパの過度に分節的なジョイントは、我々の功利主義的な時代の経済的便宜性への批判的コメン トであるとも、あるいはそうではなく古典的形態の詩的な真実性に匹敵できない我々の無能を補償し ようとする英雄的な試みであるとも、読めるかもしれない。 ・スカルパはジョイントを機能的な接合部としてだけではなく、自己目的化した職人術のフェティッシ ュな祝福としても発展させた。 ・また、規範的なジョイントとそれに付随する皮膜の他にも、スカルパはしばしばイコン的な焦点によ ってその作品をまとめた。 ex. ・オリベッティー・ショールームでの暗い水盤の上に置かれたアルベルト・ヴィアーニの金属 の抽象彫刻 ・カステルヴェッキオ美術館でのカングランデ像 ・スカルパの作品に繰り返し表れるヴェシカ・ピサス ヴェシカ・ピサス 一種の結構のイコンとしてスカルパの作品に大きさを変えて繰り返し表れる二つの円形のモチーフ。 互いに噛み合ったこのイコンは東洋の陰陽の象徴を髣髴させる一方、それはまた太陽の普遍性と月の 経験性との対比をも表象する。 スカルパは構法化された装飾への執心にもかかわらず、決して機能に無関心だったわけではない。そ れどころか機能上の目的はつねにスカルパの建築において優先される要件だった。それゆえ彼の結構の 表現は機能の合目的性と装飾の官能性のあいだでつねに揺れ動いており、そうであるゆえ、1932 年のピ エール・シャローのガラスの家におけるのと同じく、スカルパの表現においてもどこからが装飾でどこ までが機能なのかもはや区別できない。 境界、基準面、尺度、そして装飾、これらがスカルパの建築を経験するときに思い浮かぶ主題である。 「クエリーニ・スタンパーリア財団」(1961‑63) ・広場の堅い大地とシェルの変容としてのパラッツォを結ぶ一種の蝶番としての橋。 ・両側の地面レヴェルがほぼ同じであるにもかかわらず、作為的に非対称な形態をしている。この非対 称は二つの異なる条件――ゴンドラが通過できる十分な高さと、建物の入り口の楣の下をくぐるアプ ローチ――を満足させる必要から出てきた。 ・基礎床板を既存の壁から分離された一枚岩のコンクリートの浅皿としている。 ・この都市の季節的な高潮の水位に対応するとともにそれを表象している。 ・既存のポルティコを通って直接ゴンドラでアクセスできる。→ヴェネチアの伝統を体現 「カステルヴェッキオ美術館」 (1953‑65) ・コンクリートの交差梁が、リヴェット接合された加工鋼製梁によって中央部で支えられている。 →この軸受けの引き延しは、五つの立方体に分割され、一列に並べられた1階の空間の連続性から出て きた。 スカルパの古拙的なものへの親和性は、彼の形態の彫刻的な単純さだけではなく、彼のジョイントの 様式化した精巧さにも明白に表明されている。スカルパはただ〈支持と荷重〉を並置するというより、 支持の終点を「引き延した」のである。 不在の柱の点を画定することで、鉄筋コンクリートと鋼鉄の間のヒンジ・ジョイントは、外見上は異 なる素材の異なる挙動に追随するために導入されてはいるが、組合せ鋼製梁の特質ともどもこの空間の 分節にとって重要なものだろう。 →不在の柱の暗示 コンクリートの床は浅い溝によって周囲の粗いプラスターの壁から切り離されており、この溝はまた この床を浮かんだ基準面として設定している。 →クエリーニ・スタンパーリアと同じくここで我々はヴェネチアの伝統的な土工事へと回帰する。こ れはつまり高潮による過剰な水を収容するために周囲に溝を巡らすもののこと。 「ブリオン家墓地」(1969‑79) ・ヴェシカ・ピサスが究極の象徴として用いられた。 持ち上げられた基準地盤面が空間の遊離性、外界から切り離されている感覚を担う主要な装置になっ ている。 こうしてスカルパにとっての地上階とは単に実用的に地面を覆う抽象的な平面ではなく、むしろ触覚 的な羊皮紙として読まれるべき持ち上げられた人工的な基準面だった。 「ヴェローナ市民銀行」(1973‑83) ・結構の見地から見た銀行業務ホールの最も目を引く側面は構造の真性さを損なわずに天井が吊られて いるあり方である。 →面取りされた型枠で打設されたコンクリート梁の下面とそれを支えるコンクリート柱は打放しのま ま。 スカルパの建物における基本構造の表現的真性さへの関心はルイ・カーンの考え方にも通じるもので ある。 このことは晩年のもう一つの作品、ヴェネチアのグラン・カナルに面するマジエリ財団の建物からも 明らかである。 スカルパの作品は体系的に分析することが困難である。なぜなら最終的に彼の業績は連続体としての み理解されうるものだから。 彼の場合には人間主義的あるいは有機的な意味での理想的全体像という意図がまるでなく、おそらく 他でもないこのことこそが彼を歴史の主流から切り離している。 そこにはただ「物の近さ」と、部分から部分、ジョイントからジョイントへの連続的な移行があるだ けである。
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