アグリツーリズモによる持続的農村の形成:イタリア南チロル地方

アグリツーリズモによる持続的農村の形成:イタリア南チロル地方ボルザーノを事例に
五艘みどり(帝京大学)
Keyword: 農村、観光、アグリツーリズモ、持続性(サステーナビリティ)
、ボルザーノ
1. はじめに
2. イタリアにおける農業の変遷と農村の観光化
1) 研究の背景と目的
1) イタリア農業の変遷
アグリツーリズモとはイタリアにおいて農家が行う観光
1861 年に統一される以前のイタリアは、複数の国に納め
事業を指す。イタリアでは 1985 年にアグリツーリズモ法が
られ、その経緯も長く文化的背景も異なっていた。気候や
制定され、各州が独自の規定を加える形で、農業の観光化
地形以上に、地域の政治や文化が農業に与えた影響が大き
による安定的な農村の発展を試みてきた。制定後 30 年が経
く、統一後にも北部・中部・南部では農業の環境が大いに
過し、アグリツーリズモの発展した地域が明確になってき
異なっていた。北部はロンバルディア州やヴェネト州を中
たが、なかでもトレンティーノ=アルト・アディジェ州ボル
心に都市商人の投資に支援された先進的な集約的大農場経
ザーノ自治県における発展は著しいものがある。ボルザー
営がされる一方、南部は都市に住む貴族による「ラティフ
ノは南チロル地方と呼ばれ多くが山間部に位置し、夏は登
ォンド(大都市所有制)
」が残った関係で後進的な粗放農業
山、冬はスキー客などで賑わう。だが農業においては傾斜
が行われ、また中部では「メッツァドリア」という地主と
地ゆえに耕作面積が小さく、積雪による農閑期の長さから
小作人が作物を折半するような農家自立性を高める方向の
採算性の面でも不利な条件を抱える地域であった。また戦
農業が行われていた。こうした歴史は第二次大戦後の現代
後の都市の工業化による農村の人口流出は日本と同様に起
においても農業の強弱を反映することとなった。
きており、社会問題化していた。こうした背景から、1990
1962 年の時点で EU 前身の組織である EEC にすでに加盟
年以降に積極的にアグリツーリズモを導入し、農業と観光
していたイタリアは、その後の EU 農政の影響を強く受ける
の共存による農村の持続を図る取組みを進めた。
こととなった。CAP 政策と呼ばれる EU 共通農業政策におい
本研究は、持続的農村の形成せしめる指標となり得るも
ては、農産物の市場統合と自由化が行われた。これに由来
のを指摘することを目指し、ボルザーノ自治県を対象に、
するデカップリング政策においては、農家への所得補償を
アグリツーリズモの発展過程を明らかにし、農村における
減らす代わりに、農法の転換支援に補助金を出すことを決
観光産業を成功に導いた要因を明確化することを目的とし
定した。イタリアはこれを受けて農家への観光産業参入支
ている。農村部における人口減少と後継者不足は、欧米の
援を積極化することができたのだった。
みならずアジア諸国でも問題となっており、少しでも多く
の事例の蓄積が問題解決への一因になると考えている。
2) アグリツーリズモの登場と発展
アグリツーリズモはトスカーナ州の元貴族シモーネ氏に
2) 研究の方法
より提唱され、1965 年にはアグリツーリズモ協会が設立さ
本研究は文献調査と現地調査をもとにしている。文献調
れている。当時彼が有する広大な敷地は、貧しい農村と化
査は、欧米を中心とする先行研究をレビューした後、ボル
し生産されたワインも安値で取引されていたことから、農
ザーノ自治県の農業と観光の状況を把握するため、州や県
業と観光の統合を目指し、イギリスやフランスの先進事例
の発行物およびオーブンデータを活用した。地域における
を学びながら試行錯誤で取組みを展開していった。これと
詳細な資料は、現地調査にて収集し、現地調査は、2016 年
は別に 1973 年、トレンティーノ=アルト・アディジェ州ト
3 月 9~24 日に実施した。現地調査では、南チロル農業組
レント自治県の条例にアグリツーリズモが登場した。隣接
合であるレッド・ルースターへ、農村観光発展の経緯や戦
するオーストリアでは農村観光が盛んで、影響を受けた取
略についてのインタビューを行った。またアグリツーリズ
り組みであったことが伺える。
モ経営者へ、収入状況や観光事業の支援環境などについて
こうした動きを受け、1985 年にアグリツーリズモ法が制
インタビューを行った。さらに滞在を通して農業および観
定された。制定当初はアグリツーリズモの促進が主な目的
光の現状における視察を実施した。
であったが、2006 年の改正法では届け出の簡易化や、経営
者の施設改修の簡素化などにより更なる促進を目指す内容
るため、代表者名に男性が上がる傾向があることが考えら
の他、農場には農業関連設備や器具の展示をする、利用者
れる。
のためのレクリエーションやスポーツ活動などのメニュー
を揃えるなど、地域の特色を反映するような項目が並んだ。
2) レッド・ルースターの設立と展開
なお、同法はあくまで国が大枠を制定したという段階のも
南チロル農業組合であるレッド・ルースターは 1999 年に
のであり、これに州や市が個別に規定を設けることとなっ
設立され、ボルザーノを拠点に活動を行っている。南チロ
ている。
ル地方では農村における互助組織(コーポラティブ)が 19
世紀から存在し、その活動の歴史は古いのだが、1985 年の
3. ボルザーノにおけるアグリツーリズモの発展
アグリツーリズモ法の制定以後、農村に観光産業が芽生え
ると、この活動を後押しすることが必要となり、レッド・
1) 南チロル地方の農業環境とアグリツーリズモの発展
ルースターが設立されることとなった。現在 6 名の研究員
イタリア北部は比較的豊かな農村を抱えるイメージがあ
がおり、それぞれに 1~2 人のアシスタントがつく。ここの
るが南チロル地方は山間部を多く含むゆえに各農家の耕作
活動の中心は農業マーケティングであり、いわゆる日本の
面積が少なく、積雪による農閑期の長さから、農業におけ
農協の事業内容とは異なっている。ヒアリングを快諾して
る採算性は厳しい地域であった。だからこそ、農業を補完
くれたヘインズ博士は、オーストリアの文化社会学の研究
する意味で観光産業としてのアグリツーリズモに期待が寄
者で 30 代の若手であったが、研究所のメンバーはこのよう
せられる傾向があった。またトレント自治県がイタリアの
に外国の研究者が多く、人的資源においては立地のメリッ
アグリツーリズモという言葉の発祥地ということが示すよ
トを最大限に活かしていると言える。
うに、国境を接するオーストリアなど農村観光先進国であ
ヘインズ博士によると、1980 年代からアグリツーリズモ
る諸外国からノウハウを吸収しやすい環境にあったことが、
数は増加の傾向にあるが、宿泊者数はそれを大きく超えて
その発展を後押したと言えよう。
著しく伸びているという。つまり、レッド・ルースターが
ボルザーノはイタリアにおいてアグリツーリズモが最も
設立され農家を様々な方法で支援した結果、これだけの成
発展した地域の1つである。2013 年時点でアグリツーリズ
功を招いたのであると言うのである。具体的にレッド・ル
モ数はイタリア全体で 20,897 軒あり、トスカーナ州 4,108
ースターの活動内容を述べると、アグリツーリズモのレー
軒に次いで、ボルザーノを含むトレンティーノ=アルト・ア
ティング、生産物のプロモーション、農家向けのセミナー
ディジェ州が 3,506 軒と続き、州別では全国 2 位となって
の 3 点に集約される。
いる。さらにトレンティーノ=アルト・アディジェ州のアグ
アグリツーリズモのレーティングは、観光客向けのアグ
リツーリズモのうち 97%にあたる 3,098 件がボルザーノに
リツーリズモ紹介冊子に掲載されている。宿泊施設の規模
集中している 1。
や内容、バリアフリー対応、乗馬などのスポーツアクティ
アグリツーリズモの発展に関しては、レッド・ルースタ
ビティ、通信環境や農産物の種類など、約 20 点の項目につ
ーが州統計をもとに 1999 年と 2011 年を比較し分析してお
いて観光客が宿泊施設選択の目安にできるよう公開し、最
り、それによると 2011 年現在、ベッド数 22,288 個で 47.9%
も良い評価をエーデルワイスの花 5 つとして掲載する。レ
増、来訪者数は 301,302 人で 177.6%増、宿泊日数は
ーティングの目的は観光客の利便性もさることながら、実
2,021,734 人で 153.4%増となっている。アグリツーリズモ
際にはアグリツーリズモの経営者がレーティングを見てよ
の規模は1.5 倍程度拡大しているが、
さらに来訪者数は2.7
り良いサービスの向上を目指すことを目的としている。レ
倍もの増加を見せ、著しい発展を遂げていることがわかる。
ッド・ルースターは、全てのアグリツーリズモに約 100 問
ボルザーノのアグリツーリズモの特徴は、1 軒辺りのベッ
16 枚の審査シートを渡し集計している。当然、レーティン
ド数は 8.7 台と全国平均 13.2 台に比較して少ない。また女
グを良しとしないアグリツーリズモ経営者もいるため、レ
性経営者率は 12.9%で、全国の 35.6%に比較して少ないこと
ートのダウンは基本的にしていないとのことであった 2。
が挙げられる 1。理由としては農業規模が小さいため付随す
生産物のプロモーションは、1 農家 1 農産加工品の生産
る建物も小さいということ、アグリツーリズモの経営は実
を支援し、加工品を観光客向けの農産物加工品冊子で紹介
質的に女性が担っている所も多いが、農閑期が長いこの地
している。すべての農家がアグリツーリズモに参入できる
域では男性も積極的にアグリツーリズモ経営に参加してい
わけではなく、農業のみで精一杯の農家も存在する。こう
した農家は農産加工品を生産すればレッド・ルースターが
ヒアリングから得られた最も驚くべき点は、収入の割合
冊子を通してプロモーションするので、立寄り観光客に販
であり、農業収入と観光収入の割合は、グルベルホフは 2:8、
売することが可能となり、時には生産体験などのアクティ
オッケンデルホフは 3:7 に上り、農業収入を観光収入が圧
ビティを提供することができる。このようにアグリツーリ
倒的に上回っている点である。
ズモを経営しない農家も、観光産業の恩恵を受けることが
できるようにしているのである。
農家向けセミナーは、アグリツーリズモ経営の方法、ア
◆ヒアリング対象のアグリツーリズモの概要
アグリツーリズモ名
経営形態
グリツーリズモの改修ノウハウ、農産物加工品の開発方法
グルベルホフ
オッケンデルホフ
代表:男性
代表:女性
家族経営(4 人)
家族経営(3 人)
など、多岐に亘る。農家は観光産業における経験は無いた
宿泊施設規模
4室
6室
め、レッド・ルースターの研究員または外部から講師を招
農業の生産物
リンゴ 55%,ブドウ 20%
ブドウ 70%(ワイン生
いて、長期の研修を実施する。研究の期間は、1 日あたり
と生産割合
ほし草 10%,その他野
産), リンゴ 30%
およそ 7 時間で短くて 3 日間位から、長いと 1 ヶ月という
菜と果物 10%
ものもある。低料金であるが農家から一定額を収受してい
収入の割合
農業:観光 = 2:8
農業:観光 = 3:7
る。こうして農家が円滑にアグリツーリズモに参入できる
立地
山間部
市中心部近郊の街道
支援体制を整えているのである。これらの 3 つの活動内容
に加えて、近年力を入れているのが、伝統的な工芸品であ
沿い
・乗馬, ハイキング
・チロル料理レストラン
るクラフトの復興である。山間部ゆえに木材を使用したク
(多種のフットパス)
(終日営業)
ラフトは伝統的に盛んであったが、近年は衰退傾向にあっ
・400 年前の建物を
・サイクリングロードが
た。これを観光客向けに土産品として販売するのみでなく、
改修し使用
近郊に有り
これまで以上の技術の向上を目指し、クラフト専用のプロ
モーション冊子を使用して紹介している。
特徴
レッド・ルースターに確認を取ったところ、一般的なア
グリツーリズモの観光収入割合は全体の 6 割以上であろう
レッド・ルースターは農家からの広告収入と市からの補
とのことだったので、この 2 軒の結果は特別なものではな
助で成り立っており、こうした研究者の人件費も賄ってい
いことがわかる。いずれの農家も観光収入なしでは生活が
る。広告収入というのは協賛金という言い方もされるが、
成り立たないことを指摘していた。農業に観光となると当
アグリツーリズモ紹介冊子に掲載するのに 1 アグリツーリ
然ながら生活は忙しい。工業化による人口流出も経験した
ズモあたり年間 5 ユーロ、農産物紹介冊子に掲載するのに
こうした地域では、
「ふるさとに住み続けられることができ
1 農家あたり年間6 ユーロといった具合に収入を得ている。
ることが幸福である」ということも語っていた(グルベル
ヘインズ博士によると、こういう仕組みはオーストリアの
ホフ経営者ヒアリングより)
。
農村観光に似ているということで、やはりここでも国境を
なす外国から影響を受けていることが伺える。
グルベルホフは 400 年前の宿場町の建物を改装したアグ
リツーリズモで、周辺に多数の整ったフットパスがあり、
徒歩や乗馬で多方面にハイキングできる。こうしたフット
3) アグリツーリズモによる農家の変化
パスはアグリツーリズモがこの地に根付いた 1990 年代以
ここではアグリツーリズモを導入して農家はどう変化し
降、ドイツ人観光客が訪れるようになり、利便性や安全性
たのかについて、経営者ヒアリングから取りまとめておく。
の向上の要望が示された結果整備が進んだもので、現在は
ヒアリングを実施したのは、外国人旅行者の受入れに積極
観光協会が主体となって整備している。今やそのルートは
的と考えられる 2 軒であり、概要は表の通りである 3。
かなり細かく網の目のように地域に広がり、観光客のみで
グルベルホフは山間部、オッケンデルホフは市中心部近
なく地域住民に不可欠な交通網となっている。
郊で立地特性は異なるが、ボルザーノ市内はバスの利便性
が高く、中心部から山間部へ容易に移動することが可能で
4. 考察
ある。いずれのアグリツーリズモも大切にしているのは自
家または周辺で生産された農産物・酪農品を使用したチロ
ル料理である。オッケンデルホフはレストランも併設し、
この収入を観光収入として計上している。
1) ボルザーノにおけるアグリツーリズモの成功要因
ボルザーノ自治県の農村部では、生業である農業を対象
に観光産業を育成し、農家における農業収入の不足を補填
ニティの強化という意味で、持続的農村のあり方に多いに
する形で、農家の持続性を形成することに成功したと言え
貢献したと考えられるのである。
る。この地域では比較的豊かな農村を抱える北部であって
も農業の環境が厳しく、地域の存続における危機感が高か
5. おわりに
ったことから観光産業創出へ意欲的であったことが伺える。
だがボルザーノにおけるアグリツーリズモの最たる成功
本論では、ボルザーノにおけるアグリツーリズモの発展
要因としては、立地が挙げられる。まず当該地域は、オー
過程と成功要因を示すことができ、またこの要因は持続的
ストリアやスイスと接し、また比較的距離の近いドイツも
農村を形成せしめる要因の一部となっているであろうとい
含め、こうした農村観光に歴史を持つ外国からいち早く情
うことを指摘するに至った。
報を収集することができた。そして、主な公用語がドイツ
今後の研究に向けてであるが、持続的農村を語るには、
語であることからドイツ語圏の研究者など海外知識層の活
何をもって持続的とするのか、その指標の明確化が重要に
用も可能であった。さらにボルザーノ中心部には外資系企
なると考えられ、その指標をイタリアの事例研究の継続尾
業なども集まり、経済が低迷するイタリアにおいてはまだ
もとに具体的に提示したいと考えている。
経済活動が比較的盛んであるということだった。
こうした立地という要因に加えて、農業研究所であるレ
ッド・ルースターの存在が大きい。観光を活用していかに
農業を強くするか、その徹底したマーケティングと施策は
目を見張るものがある。こうした組織が存在する農村地域
はイタリアでもそう多くないと考えられ、この地域におい
【謝辞】
・南チロル農業組合のヘインズ博士からは多くの資料を
含む情報提供を受け、感謝申し上げたい.
・本研究は JSPS 科研費 15HD6622 の助成を受けたもので
ある.
てはある意味幸運であったとも考えられるのである。
さらに、ボルザーノを始め南チロル地方には、独自のア
【補注】
イデンティティが存在している点が挙げられる。ボルザー
1 ISTAT より 2013 年度のデータを使用している.
ノの言語はドイツ語 26%、イタリア語 74%、ラディン語 1%
2 南チロル農業組合より提供された資料 Urlaub auf dem
である 4。ボルザーノは国境沿いゆえに統治国が代わってき
Bauernhof, Kriterienkatalog, Red Rooster より引用
た背景から、特殊なアイデンティティを持つ。
「頭脳はドイ
3 ボルザーノのアグリツーリズモはスキーリゾートを除
ツやオーストリアにルーツがあり、文化はイタリアにルー
き 3 月に休業する傾向だが、中には通年営業を行う農
ツがある」という自負に加え、農村部では集落ごとに異な
家もおり、こうした農家は Booking.com のような世界
る文化がある。いわゆる独立心の強さのようなものが、農
で一般的に使用される宿泊予約サイトを通して集客し
村を持続させるエンジンになったのではないかと考えられ
ている。今回はこの Booking.com を通して英語対応可
るのである。
能な 2 軒を抽出した。
4 The Complete South Tyrol2014 (Folio) より引用
2)農家の持続と、持続的農村の形成
ボルザーノは観光により持続的農村となったのであろう
【参考文献】
か。ボルザーノの事例は、観光の導入により農村が農業を
堺憲一(1988)
:近代イタリア農業の史的展開. 名古屋大
強化させ、農家として持続していくことを可能にさせたこ
学出版会
とを明確にした。農業収入を上回る観光収入の存在は、農
宗田好史(2012)
:なぜイタリアの村は美しく元気なのか.
村が魅力のある地域であることを農家に再認識させ、農家
学芸出版社.
の経営における自信を認識させることに成功した。従って
Lane, Bernard(1994): “Sustainable Rural Tourism
経済的効果という面では、農村の持続性を形成する一因と
Strategies: A Tool for Development and
なったと考えられる。
Conservation.” Journal of Sustainable Tourism
しかしながらこれらに加えて、クラフトに見られる文化
の再生や、アグリツーリズモに積極的に関与する女性の活
動の活性化は、地域のアイデンティティの向上や、コミュ
2(1-2):102–11.