坐禅と数息観について

法話/坐禅と数息観について
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◆法話1
坐禅と数息観について
白田
劫石
きょうは「坐禅と数息観」というものを中心にしてお話を申し上げ
たいと思います。
二十一世紀を迎えまして科学が非常に高度に発達してきまして、そ
れからITの進歩による情報化社会というものも、非常に急速に進み
経済も非常にグローバル化しています。
その中で特に日本人はヨーロッパ人と違いまして、心の支えである
宗教というものを持たない。ヨーロッパ人ですとキリストの教えであ
るとか、イスラムの教えという信仰を持っていますが、日本人は仏教
に対して心からの信を持つという状況にありません。
無宗教ということは、ヨーロッパ人に言わせますと人間として信用
さんげ
ができないと言います。神を信じ神というものの前に懺悔するという
ことをやっている人、或いは断食をしたり祈りをしたりしている人々
と違って、無宗教の日本人は日常生活の中に埋没をしているというこ
とで、本当の心の主人公を見失ってしまっている。従って、物事の本
末、軽重、人間の一生で一体何が一番大事なのか、人間として正しく
生きるということがどういうことなのであるか。 或いは人間として、
生涯しなければならない生活の意味は一体何なのであるか?という基
本の問題について何も考える事なく一生を終わっている。
東洋の宗教というものは、ヨーロッパのように一神教、一つの神様
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を信ずるという、そういう形の宗教ではありません。むしろ、自然と
いうものが持っている恵みというものに感謝をする。そしてそういう
天地の恵みというものをシッカリと受けとめる、という形の宗教かと
思うのです。
儒教の中に「中庸」という書物があります。その中に「誠は天の道
なり、これを誠にするは人の道なり」という言葉があります。私達が
いささ
生きている天地自然というものには 些 かも「偽り」というものはあ
りません。正しい自然の理法に従って動いています。その中に「誤魔
け
化し」というようなものは毛一つも無い。本来「人間の道」というも
のは、そういう「天地の誠」というものを自分の心の中に取り戻して、
「誠の心」に還ることである。そして「誠」というものをこの世にお
いて実践していく、そういう意味であります。
そこで、その「誠にする」、「これを誠にする」という事に関わっ
てくるわけですが、私達が今日「禅」と言っております、そういう修
行を一口で言えば「これを誠にする」という「道」であります。それ
に尽きるというふうに思います。
禅というのは色々な使い方をされておりまして、私達がここで行じ
ております「禅」というものと、例えばカルチャーセンターで行われ
ております坐禅というものが同じか?或いは比叡山の天台宗のお坊さ
んは坐禅を致します。又、真言宗のお坊さんも坐禅を致しますが、そ
ういう坐禅と、私達のこの達磨大師から伝わっている坐禅が同じか?
といいますと違うんですね。何処が違うかといいますと、元々、お釈
迦様という方は、王家と妻子を捨てられて出家をして、そして道を求
めて六年間難行苦行をされ、その結果最後には今まで自分の受けてい
た教え・教説というものを全部離れて、菩提樹の下で坐禅をしてそし
て悟りを開いた。仏教というものができたわけです。従って坐禅とい
うものは「釈尊の教え」というものの根幹の意味を持っている、重さ
を持っている。ところが釈尊が帰寂される。死なれ仏滅後になります
法話/坐禅と数息観について
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と、生きた釈尊がおられないものですから、釈尊の書かれたもの或い
は、釈尊の残された教え・説法というものを沢山集めて、それを「お
けつじゅう
経」にするということで、 結集 という事が行われるようになるわけ
です。そうしますと生きた人はいない。残された文字でありますから、
どうしても仏教というものは、経典・お経というものを中心とするよ
うになってくるわけです。
例えば天台宗ならば「法華経」というお経を中心とするし、真言宗
ならば「大日経」というお経を中心とするように、それぞれ自分の宗
旨の持っている宗門の経典、中心の経典をどうするかによって宗旨が
違ってくるわけです。
そういう中で坐禅というのがどうなりますかといいますと、「人間
の心というものはやっぱり戒律をしっかり守って、智慧というものを
身につけて、その上ではじめて心の静けさ、禅定というものが得られ
やかま
るんだ。」ということで、戒律を 喧 しくいったり、或いはお経文の智
慧というものを身につけようという、そういうものと合わさった「禅」
というものが、修せられるようになったわけです。
お釈迦様が死なれてから千年、紀元六世紀の時に、インドから達磨
大師が中国に来られて「新しい道」を開かれたわけです。その「新し
い道」というのが何かというと、今まで他の宗教が説いておりました
戒律や、或いは色々な難行苦行であるとか、お経であるとかを一切離
れて、ただ一つ坐禅だけによって、「釈尊の仏の道」というものが明
らかになるんだ。つまり、他のものは一切いらない、坐禅だけでいい
きょうげべつでん
ふりゅうもじ
んだということで、教外別伝・不立文字となるわけです。教外別伝と
いうのは、色々の教えが説かれている、そういう説かれている教え、
そういう難しい経文を離れて、或いは文字というものを離れて、「人
間の心そのものの本当の姿というものを坐禅によって取り戻す」「本
来の自分に還る」「正しい心になる」ということを坐禅だけでやると
いうことです。
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従って、この坐禅の中にはただ体を良くするとか、精神的に安定す
るとかいった次元だけではなく、お釈迦様が体得された非常に高い仏
の智慧であるとか、慈悲であるとか、或いは道徳的な戒、清らかな心
であるというものが全部含まれている。従って他に何もいらない。そ
れは何故かといいますと、元来お釈迦様が悟られたものは、外から与
えられる教えではないからなのです。自分自身が持っている、人間と
しての心というものの本体を、坐禅を通じて悟られる。それによって
仏教を開かれたのであって、元来そういう文字とか、教説とかいうも
のは一切必要ない。そういう事を達磨大師は言いました。更に「直指
人心
見性成仏」、即ち自分の心の本体というものを指さし、本心本
性を見て仏の境涯を得る。そういう事を中国に来て示されたのであり
ますが、はじめ梁の武帝という方と色々仏教について問答されたので
すが、武帝にはそういう事は判らない。「機熟せず」という事で、少
林寺に行かれて九年間の面壁。ただ坐禅だけをするということをされ
たわけです。
げじゅ
皆さんの前に有りますこの道場の床の間に掛かっています偈頌の
ぼだいもとじゆ な
菩提本樹無し
ほんらいむいちもつ
本来無一物
また
明境亦台に非ず
ひ
何れの処にか塵埃を惹かんや
大変難しいのですが、達磨大師から六代目の、六祖慧能大師の作られ
たものでありますが、これは「人間の心というものは、本来本当に立
派な、本当に美しい、清らかな徳、或いはそういう心の働き、絶妙な
心の働き、全ての徳目、徳相というものを持っている。何一つ外から
教えられたり、与えられたりする必要がない。つまり、人間が自分自
身の本当の心に還れば、本当の仏教というものの目指しているところ
の、仏の境涯というものが得られるんだ。人間の心というのは、実は
何にも無い本当の無一物の処に還った時に、正常な姿というのが出て
法話/坐禅と数息観について
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くるのだ。」という意味です。
げじゅ
実はこの偈の前に、神秀という方の偈頌が無いと良くわからないの
で挙げておきますと、
ぼだいじゅ
身は是れ菩提樹
めいきょう
心は 明境 台の如し
じじ
時々に勤めて払拭し
じんあい
ひ
な
塵埃を惹かしむること莫かれと。
げじゅ
というものです。これに対し前の六祖の偈頌が示されたのです。見る
人が見れば、両者の境涯の深浅は明らかなのです。
そういうことですから、この我々の行っている坐禅というものの中
には、仏教で六波羅蜜というのがありますが、例えば布施、人様にお
じかい
布施をする。それから戒律を守る持戒。辱めを受けたならばそれを凌
にんにく
ぐ忍辱。修行に精進をする精進。それから智慧、つまり仏の智慧とか、
戒律とか慈悲がそのまま全部その坐禅の中に入っている。或いは逆に
いいますと、そういうものを含んでいる坐禅。ただ自己の精神的な統
一だけをする坐禅ではないということで、これを伝法、法を伝えると
ころの坐禅、祖師禅といっております。
我々の行じている坐禅というものには、深い、宗教的な、神聖な意
味が含まれております。個人がチョットやってみようというような、
カルチャーセンターでするようなものではなくて、非常に深い意味と、
味わいと、徳目というものが含まれている。そういうことをまず第一
に良く良く理解して頂きたい。つまり軽率にしない。今まで、今日こ
の法が伝わっているというのは容易ではありませんので。非常に深い、
立派な法というものが伝わっているという事、自分がそれに参じると
いうことについて、その重みというものをしっかりと受けとめて頂き
たい。その事をまず初めに申しておきます。
坐禅の仕方についてはすでに、色々とお聞きになっていると思うの
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ですが、もう一度繰り返してみますと、坐禅はまず足を組みます。足
け つ か ふ ざ
は ん か ふ ざ
を組む時に結跏趺坐と半跏趺坐があります。結跏趺坐の場合は、右足
もも
を左の股の上に、それから左足をその右足の上にというふうになりま
す。半跏趺坐の場合は、左足を右の股の上にと示されております。何
故かといいますと、これは後で言いますように、手を組むわけですが、
その右手の甲が左の足のかかとの上に、左手の甲が右足のかかとの上
に丁度交差するのです。坐禅で一番大事な事は背筋を伸ばすというこ
とです。この背筋というのは、もちろん人間の生理的な機能の上でも
大変重要なのですが、心を正すという上においても、背筋を真っ直ぐ
にするというのはものすごく大事なのです。坐禅の場合には、顎を引
いて、背筋を真っ直ぐにする。地球の中心に向かって背筋が垂れてい
るように、そういうように顎を引いて、背筋を真っ直ぐにする。
ひじ
それから手は組むわけですが、この時に肘を脇につけないようにし
て少し前に出す。右手の上に左手を載せて、親指と親指を軽く触れる。
この時にこの触れ方が大変大事でありまして、眠っている人の坐相を
見ますと親指が離れている。あまり強くくっつけると、体に力が入っ
て本当に息が数えられない。それで親指と親指が微かに触れるという
のですが、触れていないのでもなく、触れているのでもない。離れて
もいけないし、くっついてもいけない。薄紙一枚、フワーッと触るく
らいのところに置いていただいて、それで自分の心を左の手の上に置
く。
息を数える場合に頭で数えてはいけない。頭で数えたのでは数息観
にならない。体の力を抜いて肩の力を抜いて、全体の力が下に腰の方
に垂れるように。大きな山を見た時に、大きな山というのは本当にズ
ッシリしていますが、そういうように肩を張らないし、かといってダ
ランとしない。ゆったりとしておりながらしかも動かない。あまり固
くなりますと続かないです。あまり柔らかくなりますと、眠くなりま
たなごころ
すから。そういうことで左の手の上に、 掌 の上に自分の心を置き
法話/坐禅と数息観について
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なさい。これは『坐禅儀』には書いてありませんが、そういうふうに
いわれております。
背筋を真っ直ぐにして、左手の上に心を置いて、親指を微かに触れ合
う。強くなく離してもいけないし、くっつけてもいけない。顎を引い
て、そうしますと、静かな本当に静かなそういう心になります。それ
かたち
で 姿 はできました。
次は目ですがあまりパッチリ開いて前方を見てもいけないし、閉じ
はんがん
てもいけないのです。半眼を開くといいますが、自分の1メートルく
らい前に視線を落とす。「見る」というのはこちらの意識が向こうに
いきますから、「見る」のではない「視線を落とす」のです。
ようしん
そして、坐禅の前にはかならず「揺身」というのをやります。「揺
身」というのはどうするかといいますと、身体を左右にゆっくり揺る
がす、前後にも身体を揺るがす。そうしますとピタッとした時に、非
常に静かな場所がありますからゆっくり左右、前後に身体を揺るがし
て、そしてちょうど中間で静かに止める。これは大事な事でこれをや
りませんと、本当に決まるところがビシッと決まりません。「揺身」
をしっかりやられたら良いと思います。
それで今度は息を数えるわけですが、これは大変重要なことであり
まして、まず「数息観」をやる場合に根本的に必要な条件は何かとい
いますと、自分の心の中に一物も置かない、空っぽにするということ
です。
皆さん一人一人世間で難しいお仕事をしたり、難問にあたったり、
家族の問題をお持ちになっていると思います。けれども道場の門に入
ったならば、そういうものは全部棚上げにします。そうしないと本当
の静けさは実現できません。世間の事は全部棚に上げてしまう!
れる!
忘
道場に入ったならば、本当に天地乾坤ただ一人になる。そう
いうふうにならないと本当の数息観はできません。心の中に世間のも
のが色々あったり、そういう物が心中にありますと数息観はできない。
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人間というものは非常に賢いものですから、色々な事を考えながら息
を数えられるのです。何かを考えながら一から百まで数える、それは
数息観ではありません。そうではなくて、そういう心の中を全部空っ
ぽにしてしまう。世間の事を全部棚に上げて腹の中に何も置かない。
かんきいっそく
それを『坐禅儀』は「喚気一息」という。「喚気一息」というのは
はら
肺に溜まっている汚い空気を全部吐き出す。つまりそれは、自分の肚
に持っている雑念というものを全部吐き出すということです。「喚気
一息」の「喚」は「気」をゼロにする。そうでなくても雑念がパッパ
ッと入ってきますから。「数息観」というのは、私達のする仕事の中
でこれ以上易しい事は無い、息を数えるのですから。けれども逆にこ
れ以上難しい事もない。
私の師匠の耕雲庵老師という方は、「数息観というものは修行の終
りょうひつ
わった後でも、全部済んだ大事 了畢 をした人でもなかなか容易でな
い。」と言われております。それ程非常に深くて容易でないものであ
ります。
そういうふうにして喚気一息をして、肚の中の物を全て吐き出しま
す。息というのは呼吸ですね。私は医師ではありませんので良くはわ
かりませんが、身体と心というのは非常に影響し合うところがあるよ
うなのですね。もちろん非常に高い次元の精神作用というのは身体と
関係ないでしょうが、丁度呼吸というのは身体と心というものの接点
というか、そういうような状況の中にあるというふうに聞いておりま
す。例えば非常に恐ろしい事に会うと心臓がドキドキする。不安であ
ると身体が悪くなる。そういうような精神的なものがすぐ身体に影響
します。逆にだからこそ、今度はそういうような状況を精神によって、
それを正しい方向に正すということができるわけです。
私は毎日血圧を測っておりますけれども、お医者さんのところに患
者が行きますと、血圧が上がってしまいます。そういう時お医者さん
は「ゆっくりと息を数えなさい。10まで数えなさい」と言います。す
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ると血圧が下がってしまいます。そういう事ですね。呼吸というのは
そういうような働きをもっているのですね。息というのは死ぬと息を
引きとると言いますが、人間の生命を支えているものですね。空気を
吸って血液の中に酸素を取り入れて生命を保っている。息というのは
生きる。気というのは人間の心。ヨーロッパの哲学ではあまり言いま
せんが、心というものが正しくても気というものが無いと駄目ですね。
元気!
元気というものが無いペチャンとしているような人は、ど
んな立派な考えを持っていても駄目でしょう!
孟子が「天地浩然の気を養う」といっていますが、気がショボショ
ボしてしまって元気が無い、それを病気というのです。そういう病に
なっている「気」を本来の姿に立ち戻す。そして本当の命の泉という
か、そういうものを引き戻すというのは息なんです。呼吸を整えると
いう事を通じて人間の心というものは、本来の姿に戻ってくるのです。
ところがこれが大変難しい。
実際におやりになってわかると思いますが、数えられないのです。
さっき言いました、初めにゼロにするという意味ですが、ゼロにした
時に1から数えます。次に、2、3、4……といった時に、パッと「う
ちの息子はどうなんだろう」「昨日あそこで会った人は……」とパッ
と出てくるんですね。
そのような時に『坐禅儀』では「もし念起こらば覚せよ」自分でア
ッ起こったなと思え。そういうふうに覚さないと、次から次にあの時
はああだったこうだったと、次から次へ自分の想念が起こって数を忘
れてしまいます。イケナイと思って又やるが、又同じ事になってしま
います。ですから「念起らば」雑念がチョットでも起こったならば即
ち「覚せよ」、ああ起こったなと自分ではっきり目覚めよ。それでそ
の念を斬ってしまう。先に行かせない!
そういうふうにいっており
ます。
それをやりませんとただ坐っているだけでは、息なんて数えられる
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ものではありません。
そういうように「数息観」というのは難しい。しかし非常に大きな
力を持っている。
私の師匠の先に言いました耕雲庵老師という方は、旧制二高の時に
元東北大学学長の奥様(坐禅の大家なのですが)に、「坐禅をするな
らば一日線香一本、一炷香坐りなさいよ」と言われて、その時から八
十五歳で亡くなられるまで、それは毎日一日といえども欠かされた事
は無い。朝六時に起きるのですが必ず数息観をする。数息観というと
数息観だけだと思うでしょうがそうでは無いんです。数息観というの
は、この一日は尊ぶべき一日である、この行あらん一日、自らも愛す
べし、自らも尊ぶべしということで、この一日の重さは、数息観によ
ってガラッと変わるんです。
そういうふうにして毎日六時に起きたならば、必ず数息観をやる。
耕雲庵老師という方はもう線香を用いたりしません。もう息の長さは
決まっているんです。初めから幾つ数えた時は何分ということがわか
た
るんです。そして数え終わったらお茶を点てるという生活をずっとさ
れておられました。
そういう事で呼吸という事は後でも申し上げますけれども、今日は
ここ
折角来られて坐禅という事を身につけられて、此処道場だけではなく、
ご自分の家に帰られても、ずっと全てを忘れて、その時だけはしっか
りと自分を取り戻す。どんなことがあっても他の事を考えない、その
時だけは坐禅によって自分を取り戻す。一日一炷香。一炷香は四十五
分位ですが長すぎるなら半分に折ってしまう。ただ続けるという事が
大変大事です。
そういうふうにしてやっておりますと、いざという時にですね、何
か大きな事に出会った時に己を取り戻す事が早いんです。巻き込まれ
ない。前後不覚になって何をするかわからないという混乱が無くなる
んです。息を数える事によって自分自身を取り戻す。そういう力がで
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きますし、それから物事には順序がありますが、その順序を誤らずに
一つ一つ片付ける。そういう力も落ち着きも出てきます。その時に数
どこ
を数えるというのは何処でやっているのか?
頭で数えないようにかかとの皮で数えなさいといいます。これは難
しいことです。かかとの皮ですから力が全部下の方へ向かいますね。
かかとの皮で数えなさい、そうすると頭に血が上らないですから、自
せいかたんでん
然に臍下丹田の方に力がスーッといきます。実際問題として実行する
というのは容易ではありません。かかとの皮でしっかりと修行するな
んていうことは、なかなかできない事でだいたい肩に力が入ります。
力が入って何か心に持つということになります。
坐禅をする時に一番大事な事は何かといいますと、『坐禅儀』では
こうしん
こうしん
「肎心」をあげています。「肎心」といいますのは、自分で自分の心
うけが
を 肯 う、或いは自分を欺かない、自分を誤魔化さないと言う事で坐
禅で非常に大事です。人が見ていないから、誤魔化すという事はでき
るわけですけれども、自分で自分を誤魔化さない。途中で雑念が起き
たらこれを捨てる。必ずこれをやる。数えているようなふりをしない。
己を偽わらない。つまり真っ正直に、本当に自分に対して、正直に自
分を大事にする。自分を偽らない、自分を裏切らない。
ヨーロッパの人は、個人ということを厳しくいうわけですが、クリ
スチャンの人、ヨーロッパの人というのは、自分に対する責任という
考え方なんです。自己に対する責任。日本人はそれは少ないんです。
自分の命というのは、自分自身で勝手にできるのではないか?とんで
もない事です。自分自身の持っている命は自分自身では勝手にできな
い。それは自分に対する責任ということで、自分がこの世に生まれて
ゆえん
きた、その所以というものは何であるか?一生の間一体自分は何をし
たら良いか?ということをしっかりと見つめる。
自分自身として他の人にできない、必ず一人一人には絶対に他では
できない、そういうものがある筈です。その人でなければならないた
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だ一つのものがある。そういうものをしっかりと手放さない。そして
自分がこの地上に生まれてきたこの八十年の生涯。自分が何であるか
ということを自分自身に肯えるように。そういう修行が禅なんです。
難しい事は何も無い。けれどもこれ以上に難しい事は無いんです。己
を偽らないそういう時に本当に天地を仰いで天に恥じず。そういう堂
々とした「天地浩然の気」が養われてくる。そういうような数息観と
いうものをやりますとどうなるか?
心の中にも濁ったものが、心の濁りといったものがあるんです。コ
ンチクショウとか、シャクだとか、恨めしいとか、色々の濁りが、或
いは波がある。水が汚なかったり水が波立ったりしている時には、水
の底にある玉というものが見えないんです。水が定水、定まった水、
静かになると同時に、心がザワザワしない。ザワザワしないで澄んで
きた時に、初めて底にある玉、立派な心の玉の光というものが上に出
つか
てくるんです。そうすれば自然にその玉を掴むことができる。そうで
なければ見えないんですから掴めない。
数息観をしますと定水、定まった水、ザワザワしなくなると同時に
濁りが全部とれるという、そうすることによって底にあるところの心
の玉、儒教では明徳といいます。人間が持っている心の宝の玉、徳。
そういうものの光が自然に現れてくる。ああしろこうしろというので
は無い。別に戒律を守ったり、道徳的に悪いとかではなく本当の自分
の正しい心に還れば、自然に人様に対しては迷惑をかけない、慈悲の
心が湧いてくるし、物事の善悪が良く見えて、智慧が湧いてくるし、
先程言ったように外から教える必要はないので、本当の心に還れば、
本来持っている心の働きというものが自然に出てくる。これはしかし
口では言いますが容易ではありません。
人間の心というものはものすごくしぶとい。なかなか自分では、荒
馬に乗ったように手綱を引き締めようとしても、どんどん下の畑に行
って荒らしたり、悪いことをしたり、手綱を引こうにも引けないです。
法話/坐禅と数息観について
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自分自身で長い間悪たれ放題しているから、わがまま放題、ほったら
はず
かしだからなかなか道を行かない。道を外れてしまって人を蹴飛ばし
たり、畑のものを取ったりする。手綱をしっかり締めて道を静かに歩
く。段々心がそういうふうにして落ち着いてくると、こちらの方が向
こうへ行けと言わなくても、静かにトボトボ道を通り歩いている。孔
のり
子様は「七十にして心の欲するところに従って則を超えず」と言って
います。何もああしろこうしろじゃなくていいんです。そういうふう
にして数息観というのは非常に色々の効力を持っています。
がんぎょうもん
最後に昔から伝わっている「菩薩の 願行文 」というのがあるので
すが、これを皆様に紹介したいと思います。
でし
それがし
こ
弟子某甲謹んで諸法の實相を観ずるに、皆是れ如来真實の妙相にして
じんじん
塵々刹々一々不思議の光明にあらずと云うことなし
*1
こ
より
。之れに因て
いにし
たま
古 え先徳は鳥類畜類に至るまで、合掌禮拝の心を以て愛護し給えり、
われら
しんみょう
おんじき えぶく
もと
だんぴ
かるが故に十二時中吾等が 身命 養護の飯食衣服は素より高祖の暖皮
ごんげん
あえ
肉にして、権現慈悲の分身なれば、誰か敢て恭敬感謝せざらんや
なおしか
いわ
*2
、
れんみんけんねん
無情の器物猶然り。況んや人にして愚かなる者には、ひとしお憐愍眷念
たと
あくしゅうおんてき
ののし
し、設え 悪讐 怨敵と成って吾を 罵 り吾を苦むることあるも、此れは
むりょう ごうらい が けんへんしゅう
是れ菩薩権化の大慈悲にして無量劫来我見 偏執 によって造りなせる
きみょう ごんじ
けんじょう
吾身の罪業 *3 を消滅解脱せしめ給う方便なりと一心帰命言辞を 謙譲
じょうしん
にして深く 浄信
*4
とうじょう
いちげ
を起さば、一念 頭上 に蓮華を開き一華一佛を現
そうごん
けんてつ
じ随處に浄土を荘厳し、如来の光明脚下に見徹せん。願くばこの心を
あまねく
しゅち
まどか
以て 普 く一切に及ぼし、吾等と衆生と同じく種智を 圓 かにせんこ
とを。
(*1)花が咲いているのも、ミミズが土ではっているのも、水が落ちてくるのも、
雪が降るのも、一々光明でないものはない。
(*2)私達は食事をしたり、着物を着たりして寒さを防いだりしています。食事
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というのは当たり前と思っておりますが、他の生物の命を頂戴したり、或
いは他の植物をいただいたりしている訳です。天地の恵みをいただいて生
きているわけです。感謝しないわけにはいきません。
よこしま
(*3)自分が長い間人に悪い事をしたり、 邪 な事をして罪を犯しているという
こと。
(*4)本当の「誠」というもの。
これが「菩薩の願行文」です。
禅の方では食事というのは非常に大事なので、その事により自分自
身の今を長らえている。事は生理的な満足ではないんで、宗教的な深
い心というものがなければならない。数息観というものの味わいがそ
ういうところまでいけば本物です。なかなかそこまでいかない。そう
いうような気持ちで、昔から坐禅をしているということを心にとどめ
ておいて、前にも言いましたように、できればこれを機縁に、なかな
か忙しくて、この道場に来られないということもあるでしょうが、ご
自分の家で一炷香の坐禅をされ、そしてその一日を無駄にしない。こ
の一日は尊ぶべき一日である、この行事ある、この数息観のこの一日
というのは本当の一日になる、という心で坐禅をしていただきたいと
思います。
これで私の話を終わります。
(2001年12月2日 房総道場での初心者坐禅体験教室での講話より)
■著者プロフィール
ごつせき
白田 劫石 (本名/貴郎)
大正4年、東京生まれ。東京帝国大学倫理学科
卒業。元千葉大学名誉教授。昭和12年、両忘協
会立田英山老師に入門。人間禅第三世総裁・師
ません
家。庵号/磨甎庵。平成21年2月帰寂。