質 疑 応 答 1.スライドの資料もいただけると・・・ 提供可。やはりカラー

エピソードで綴るパリとフランスの歴史
第1回:総論(4 月 23 日)
質 疑 応 答 〔回答は常体で標記〕
1.スライドの資料もいただけると・・・
提供可。やはりカラーでないとリアリティが出ないと思われるため、USBメモリー
を携帯されたい。授業終了後に備え付けのPCから直接コピーしてもらう。
2.フランス式の植民地政策とイギリス式の植民地政策の違い? 日本はフランス式を
真似て朝鮮を支配したとか読んだことがあり、それをするとうらみが残るとか…?
難しい質問である。まず「植民地」とは何かをはっきりさせなければならない。ひと
口に植民地 colony といってもさまざまで、それぞれ歴史的変遷を遂げており、字義は分
かれる。大別すれば以下の 6 種類である。
① 商業拠点として植民…地中海沿岸ポリス(フェニキア、ギリシャ、ローマ)
② 移動植民(ゲルマン人)…ローマ帝国領の侵犯、傭兵隊、スラブ人地域に定住
③ 貴金属採掘植民…中南米鉱山
④ 商業的植民…貿易拠点(インド、東南アジア、華僑)
⑤ 栽培植民…綿花、タバコ、砂糖、コーヒー(アメリカ大陸 plantation)
⑥ 帝国主義植民…列強による進出により政治・経済・文化・社会の全面的支配
さて、質意は、最終⑥のタイプの宗主国と植民地の関係をみるときイギリス型とフラ
ンス型があるが、戦前日本はどちらの型に属するかという問いと解したい。
イギリス型が間接統治、フランス型が直接統治である。日本は間接統治と直接統治の
折衷型と言われてきた。日本については台湾、朝鮮、満州ではそれぞれニュアンスがあ
り、一概に直接・間接の中間型とは言いがたい。大雑把に言うと、台・朝・満の順に直
接統治→間接統治の度あいが強くなる。日本については筆者自身それほど明るくないし、
現下において日・韓・朝の摩擦が大きくなっているため不用意な発言は差し控えさせて
いただく。ここではイギリスとフランスの比較が主題であるので、この両国の歴史的経
験について原理的・法則的な事柄を述べることにとどめたい。
間接統治とは植民地をひとつの行政単位とみなし、植民地の政治・経済・社会機構の
主幹部門を宗主国が派遣した者が抑える方式である。よって、植民地において宗主国と
植民地出身の者の共同統治というクッションが入ることになる。そのため、宗主国はこ
れら出自を植民地に有するエリートの育成のために意を注ぎ、積極的に特別待遇を与え
て宗主国での教育を施す。それはむろん植民地を宗主国のために従属させるための政策
である。宗主国と植民地国は別個の存在であり、経済制度や社会・文化(宗教)制度で
は宗主国から逐一干渉を受けることはない。言語が強制転換させられることもない。
しかし、クッション役のエリートは宗主国と植民地国の利害の板挟みになって苦労す
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る。このエリートが現地人の利害優先に転じたとき、植民地の独立気運に拍車がかかる。
そうした“寝返り”の原型は 18 世紀後半における合衆国の独立に見ることができる。
宗主国出身の者が植民地で多数を占めつつ独立した場合は宗主国と植民地の関係は良
好な状態にとどまるが、宗主国出身者が少数派のまま独立すると複雑な問題を残すこと
になる。たとえば、南アフリカやアフリカ諸国、インド、パキスタンでは幾つか紛争の
因をかかえることになった。
直接統治とは植民地を宗主国と原則同等のランクにおいて ― いわば植民地まるごと
宗主国の州・府・県のようにみなし ― 統治する形式を指す。植民地側は政治・経済・
文化(言語)も同化を迫られる。今のアフリカで庶民までもがフランス語で話すのはこ
のせいである。さすがにフランスは宗教までは強要しなかった。というのは、19 世紀後
半になると、宗主国フランスでも政教分離の原則が確立されていたから、植民地に押し
つけるべき国教がなかったのである。だが、宗主国も植民地国も同等というのはひとつ
の擬制であって実態からはかけ離れている。もし字義どおりの同等ならば、これは「併
呑」であり、植民地側に一時的な屈辱感があっても徐々に宗主国に馴化していけばよい
ことになる。じっさい、フランス本土に隣接する地域フランドル、アルザス、ロレーヌ、
フランシュ=コンテ、ブルターニュ、アキテーヌ、バスク、ラングドック、コルシカなど
はこの部類だったから、時間が経つうちに徐々にフランスに同化していった。
3.人種別の人口増加率は? 移民(特にイスラム教徒)およびその二世の人口増加が
多いといえるか?
まず「人種」と「移民」は別の概念である。私たちは「人種」
「民族」
「国民」
「教徒」
「語族」を同じものと考えがちだが、すべて分けて考えなければならない。日本人はこ
れら 5 つのカテゴリーをほぼ同一視したうえで考察してかまわない唯一の国民である。
科学論文では正確な規定にもとづいて論を進めなければならない。このうち、後のほ
うの3語、すなわち「国民」
「教徒」
「語族」はわかりやすいので、先に説明しておこう。
「国民」とは政治的、行政的区分である。たとえば、朝鮮民主主義人民共和国と大韓
民国を思い浮かべてみればよい。同一の人種・民族であるが、この国家は別々の行政区
分を成している。
「教徒」とは宗教的区分である。同じ国民の中にもカトリックとプロテスタントに分
かれる区分を想起すればよい。
「語族」とは言語的区分である。その意味で後述の「民族」の下位概念だといいうる。
イギリス人とアメリカ人は同じ語族ではあるが、同じ民族と見なすことはできない。ま
た、いかに流暢な英語を話し、アメリカ文化を身につけようとも、日系二世のアメリカ
人は人種的には日本人である。
さて、
「人種」と「民族」の問題に移ろう。まず、
「人種」は、人目につきやすい人間
の形態学的特徴に関する集団的概念である。したがって、人種は遺伝形質(髪・皮膚の
色、骨格の形、身長、鼻・瞼の形、眼裂の形、頭蓋骨、顔面、血液型など)の統計学的
処理によって理解されるものであり、同じ人種の中に上記要素がすべからく規則的に認
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められるものではない。たとえば、金髪は北欧人のシンボルともいえる特徴であるが、
その成員の 4 分の 1 は金髪ではない。それゆえに、人種というのは基礎概念であって、
○○人種というものが存在するのではないという学者もいる。また、ユダヤ人種なるも
のを人はしばしば想定するが、これもまちがっている。ユダヤ人とはユダヤ教に帰依し、
それゆえ独特の風俗習慣をもつ集団をユダヤ人という、いわば文化的区分である。ポー
ランド人のユダヤ人には金髪が多く、スペインのユダヤ人には黒髪が多いといったあん
ばいだ。
「人種」が生物学的概念であるのに対し、
「民族」は文化的概念である。他から区別さ
れる何らかの文化的共通項を指標として互いに伝統的に結ばれていると自ら認める人々、
もしくは他の人々によってそのように認められる人々といえる。その場合の文化的指標
とは言語・宗教・世界観(歴史認識)
・社会構造・経済生活・その他の生活様式すべてを
包括する広義の文化である。民族分類のなかで最も広汎に使われる基準は言語である。
そのわけは、民族成員間のコミュニケーションは言語を通じて行なわれるのが大前提に
なるからである。言語は人々の思考様式や心性と密接に関わっていると考えられるから
である。
次に「移民」についてふれよう。これも曖昧な概念で、その定義が必要である。ここ
では意味を広くとり、単純に「出自を別の国にもつ長期滞在者」とする。本当のところ
は以下についてそれぞれ厳密に吟味しなければならない。
① 国籍または市民権をもつかどうか
② 居住許可権(ヴィザ査証)をもつかどうか
③ 年金などの社会保障を受けているかどうか
④ 労働ヴィザをもつかどうか
⑤ 事実的就労機会をもつかどうか
⑥ 季節的労働のための来訪かどうか
⑦ 長期滞在の観光かどうか
⑧ 他国に帰化した者の出戻り的滞在であるかどうか
⑨ 旧植民地者であるかどうか
人口動態を上記の①~⑨に絡ませて論議するとき、それぞれ別の態様にならざるをえ
ない。たとえば、①のなかでのいわゆる帰化した白人移民の人口動態と⑤のなかでの不
法就業の旧植民地人の人口動態を比較するとき、同一結果に落ち着くはずがない。
そこで、質問の意を「フランスに長期滞在しているイスラム教徒の人口成長率が高い
かどうか?」と受けとめて回答することにしたい。
まず、イスラム教徒はマグレブ諸国出自の者がほとんどすべてと考えてよい。彼らは
人口停滞が続く[注:戦争で多数の青壮年男子を喪失]なかで戦後復興による労働力不足が深
刻化した時(1945~1974 年の「栄光の三十年」
)
、それに対処するため、フランスは大
量の旧植民地のマグレブ3国の出身者を受け入れたが、原則は単身の男子であり、妻を
帯同しての移民ではなかった。妻がいたとしても、彼女は母国に居残っていた。男子は
帰化を許されなかったので家族との別離状態がつづき、人道上の問題が生じていた。一
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方、独身男子がフランスで配偶者を見つけるのは容易でない。だから、出生率云々は問
題になりようがなかった。
しかし、第一次オイルショックとともに「栄光の三十年」が終わり一転して経済不況
を迎えると、就業機会も急減したため、彼らを補助金付きで帰国奨励政策がうちだされ
た。その一方で「家族再会法」により家族を呼び寄せる懐柔策もなされたが、帰国奨励
政策のほうが強かった。フランスの労働組合が移民の帰化に賛成しなかった(低賃金圧
下力となったから!)ことも理由のひとつにある。
だが、社会党のミッテラン大統領が就任すると、不法滞在者の滞在許可およびその更
新が緩和され、同時に一定条件のもとに帰化策も推進された。しかし、
「選択的移民策」
[注:経済・学術・科学・文化・スポーツなどで特別の能力をもつ人材の移民を推進する策]により、
質の高い分野の労働力は受け入れても3Kなど現業部門は難色を示し、そのうえで移民
の社会的統合策も推進するという矛盾に満ちたものとなった。
平等主義をたてまえとするフランスは少数者保護のためのアファーマティブアクショ
ンを採らない国である。よって、教育や技能面での不利をかかえたままの移民二世や三
世は社会的に上昇できる道が閉ざされることになった。時々、パリ郊外のスラム街に住
むマグレブ難民の青少年が暴動にたちあがるというのはこうした背景をもつ。
10 年間住めば滞在許可の自動更新権が取得できるが、それを取得するために別のハー
ドル[注:フランス憲法の遵守宣誓、フランスの諸原則の遵守、十分なフランス語力]が加わるとい
うぐあいに、移民にとって居住は難しくなりつつある。
移民二世・三世の出生率の問題だが、フランス生まれの女性より移民女性の出生率が
高いというのはじっさいそう言われている。
「そう言われている」という曖昧表現をした
のは、
「移民」とは曖昧概念であり、また、基礎とすべき母集団をどう捉えるかで異なっ
た結果になるからだ。1995 年の古いデータだが、フランス生まれの女性の合計特殊出生
率は1・6人であるのに対し、移民女性のそれは2.5という数値があった。ところが、
2000 年になると、移民女性は2.2に落ちている。それは、受け入れ側フランスの態度
ひとつで女性の年齢構成が変わってきたからだ。
移民女性の3分の1 は 18 未満の時に、また3分の1 は 18 歳から 27 歳までの間に、
残り3分の1 は 27 歳よりあとに移住してくる。一方、13 歳以前に移住してきた移民女
性の出生率はフランス生まれの女性の出生率とほとんど変わらないのに対し、25 歳ある
いは 30 歳でフランスに入ってきた女性の出生率はフランス生まれの女性の出生率にく
らべて、はっきりと高い。が、これらの女性の出産履歴の調査をしてみると、フランス
に移住してくる前の年齢で彼女たちが生んだ子供の平均数はフランス生まれの女性が同
じ年で生んでいる子供の平均数より少ない。出生率がかなり高いと思われている北アフ
リカ、サハラ以南アフリカからの移民女性だけをとっても、移住以前の年齢での出生率
はフランス人のそれとほとんど変わらない。出生率が上がるのは移住後である。子沢山
の女性が移住してくるよりも、子どものいない、または子どもの数の少ない女性が移住
してきて、その後に子供を産むというパターンが多い。ともかくも、移民女性を受け入
れる条件を考慮しないで、単純に平均的なフランス人女性と比較して出生率の高い低い
を問題にしても意味がない。
(c)Michiaki Matsui 2015
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