スペイン紀行ー前編 - kobelconet.com

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斎藤勝郎です。長文で気が引けていましたが
よろしければ見てください
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スペイン紀行 -前篇
(マラガからグラナダへ)
晩夏の太陽がまぶしい9月上旬、スペ
イン北部からフランスにまたがる“バス
ク”の「巡礼街道」をあるいた。
中世以来、北ヨーロッパのキリスト教
徒たちはパリを経由してはるばるピレネ
ー山脈を越え、キリスト教三大聖地の一
つといわれるスペイン北西端のサンテイ
アゴ・デ・コンポステラを目指して数千
ザビエルの日本人教化絵図
キロをあるいた。バスクはこの巡礼のみち
の難所、ピレネー山地の入り口にあたる。巡礼街道はここから本番に入る。
エルサレム、ヴァチカンと並んで、なぜ地の涯てのサンテイアゴ・デ・コン
ポステラが三大聖地なのか不思議だが、古来、この大陸が果てる西端の地に十
二使徒の一人、聖ヤコブ(サン・テイアゴ=大ヤコブ)の遺体が安置されてい
ると信じられてきた。
巡礼街道
聖地を訪れる善男善女たちは、巡礼の
象徴とされる帆立貝印の宿から宿へと、
聖ヤコブとともにあるいた。道すがら、
聖人のご利益を実感したいと願う人々に
とって、巡礼のみちは、道のりが長いほ
どよかったに違いない。はるかな遠国の
僻地でなければならなかった、という説
がある。信仰とはそんなものかもしれな
「巡礼街道」の巡礼者(バスク)
い。
四国お遍路がそうである。わたしは定年後、74歳まで9年がかりでお遍路
をした。行っては帰り、帰ってはまた行く「区切り打ち」だったが、1500 キロ
ともいわれる全行程を寸土も余さずわが脚で歩きとおした。
「同行二人」
(家内
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を入れて三人)のご利益を身をもって感じた?一人といっていいのではないだ
ろうか。
そんなことから、いつかヨーロッパの巡礼街道を、形だけでも歩いてみたい
という気持ちが消えなかった。
さいわい、イギリスに娘がいる関係で毎年ヨーロッパを訪ねている。年が明
けると、今年はどこにしようかと家族で話しているが、春が過ぎるころ、娘か
ら、
「ピレネーバスクのど真ん中でバスク語を教えている友人がいる。フラン
ス・バスクだけど、いいところですよ」
といってきた。
バスク、、、いいじゃないか、願ってもないところだと、一も二もなく飛びつ
いた。
南蛮のみち
バスクというと、北アイルランドのよ
うな抵抗勢力とかテロの代名詞のよう
でなにか物騒な感じがしないでもない。
それは間違いだ。日本人からすれば、キ
リスト教を日本にもたらした(1549 年)
宣教師、フランシスコ・ザビエルの「生
国」である。司馬遼太郎ファンのわたし
にとっては「南蛮のみち」でもある。
ザビエルの紋章
思いだすのは先年亡くなられた元神鋼社長(元神戸商工会議所会頭)牧冬彦
氏のこと。名社長、文人社長といわれた。牧氏もわたしも司馬遼太郎記念館・
友の会々員だった。年齢もちがう元社長は雲上人だったが、友の会の定期講演
会などでよく顔をあわせた。
「僕は『街道をゆく』シリーズの大ファンでしてね。ヒマを見ては文庫本片
手に旅行してました。なかでも『南蛮のみち』は忘れられません、なにしろス
ペイン・ポルトガルを旅したときの教科書でしたから」
と、いっていたのをおもい出す。
ここは牧さんにもあやかれるチャンスではないか、あるいは現地でひょっこ
り会えるかもしれない、
「や~、斎藤さん、よく来てくれましたね、一緒にあるきましょうか、、」
と。そうおもうと、いよいよスペイン旅行への期待が膨らんだ。
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今回のスペイン旅行では、バスク巡礼街道は旅の終着点である。同時に、い
うまでもなく主目的地でもある。
ナバーラ王国・パンプローナ
ピレネー山中のザビエル城
サンジャン・ピエ・ド・ポールと神父カンドウの生家
山深いウレぺル村の二日間
など、など、多くを書きたいとおもう。詳しくは後半に譲ることにする。
ビスケー湾とメキシコ湾流
まずは、旅程に従って南スペイ
ンから書きはじめる。
8月31日早朝、2時起きして
ロンドン・ガトウィック空港から
マラガに飛んだ。ジブラルタル海
峡へと続くコスタデルソル(太陽
海岸)である。
途中、機上から見るビスケー湾
は大きくて広かった。時おり、雲が立ちこめ視界をさえぎるが、それはこの時
期、大西洋を南下するメキシコ湾流がたっぷり水蒸気をふくむことよるとみら
れる。
この暖流のおかげで、細長く大西洋岸に横たわるポルトガルはヨーロッパで
もっとも温暖で住みやすい国といわれている。国民性も、おだやかで秩序的で
あり、さらに内気でシャイなところがわが日本人と似ていなくもない。すくな
くともスペイン的激情がない。
南蛮の国ポルトガル、昔懐かしい名画「リスボン特急」
大航海時代の幕開け、エンリケ航海王子
万里の波濤を越えたバスコダガマ、、
ザビエルもポルトガル王から派遣された宣教師だった。エトランゼの旅情を
誘ってやまない国であるが、今回は素通りすることになる。
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マラガ・トレモリノス
マラガはピカソの生まれた町で知られている。古くは東方の地中海最深部か
らフェニキア人がはじめてこの地に海洋商業文化をもたらした(前15世紀ご
ろ)。カルタゴやローマの支配のあと、イスラム文明がここに上陸し(711 年)
以来、約800年のキリスト教徒を巻き
こむ攻防のイベリア半島中世史がはじま
る。
マラガ空港に着いたのは朝の8時半。
コミューター列車で一時間ほど西に向か
い、トレモリノスで降りた。この駅(地)
名は、震えるような器楽音-トレモロを
連想させる。哀調と情熱のフラメンコの
国に来ているんだとおもった。
ホテル「ルナ・ブランカ」
(白い月)の
女性オーナーが出迎えてくれた。宿、旅程などは娘にまかせている。日本人女
性二人「Chizuko & Reiko SL」が経営しているホテルを予約したらしい。レ
イコさんは40歳前後に見えた。
ロンドンから直行しました― というと、彼女は宿のブリーフィングのあと、
これからのスペイン観光コースについてまことに要領よく説明してくれた。
日本人のウーマンパワーを見せてもらったようで、こころ強くおもった。
この日は彼女のすすめで、小一時間
ほど路線バスに乗りジブラルタルがす
ぐそこという、コスタデルソルを一望
に見下ろす観光地ミハスを訪ねた。南
地中海特有の迷路のように入りくんだ
白い家並みで知られる。わたしは映画
でしか知らないが、いわばアルジェか
カサブランカのカスバのようだ。サイ
ドを目隠しした馬が曳く観光馬車を楽
しんだ。
目隠しした馬の観光馬車
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ハポン氏のこと
前々日の長時間フライトの疲れで 、夕刻になってダウンしてしまった。家
内と娘には悪かったが、これからの日程を考え、夜の外食を遠慮してホテルで
一人おとなしくすることにした。二人はビーチの賑わいを楽しんだようである。
地のパエリヤがとても美味しかったよと、ご機嫌で帰ってきた。
ホテルでゆっくりできたおかげで、わたしはスタッフと仲良しになった。
じつは、日本を発つ前、友人S氏から宿題をもらっていた。パリに長かった
S氏のいうには、スペインにハポン(Japon)姓の日本人の末裔がいるはずだ
から調べてくれという。
スペインに長く駐在した彼の友人が、帰国後、この薀蓄話をある新聞社に持
ちこみ、対談に及んだ。記事を読んだ流行作家(逢坂剛)がこれに興味をもち、
本を書いたことから知られるようになったのだと。
早速、レストランで寛ぎながらマ
ネジャーに訊いたところ、彼は大い
にうなずき、
「そうなんですとも、知る人ぞ知
る事実です」
といってくれ、話が弾んだ。それ
がきっかけで、
「あとで、横に座ってもいいです
か?」という。これは取っておきのオ
白い家並みが美しいミハス
モロイ「実話」が聴けるかと期待し
たが、それっきり現れない。あとで娘にいったら、よくある手ですよ、といっ
て笑っていた。そういえばその後、ロンドンでもそんなことをいわれた。
あなたが気に入りました、、、という客へのリップサービスのつもりらしいの
である。
以下、S氏への報告の形で書いてみる。
『
ハポンのこと、コスタデルソルのマラガで「追認」できましたよ!
ホテルのマネジャーがいうには、セビリア近郊に200人ほどのハポン
氏の村があるそうです。ほとんどが同姓らしい。由来は、仰言るように
伊達藩の支倉常長・慶長遣欧使節団の残留組が残した血。
「1613 年から 19 年まで6年も留めおかれたら、現地彼女もできるわ
な~」といったら、マネジャー氏が助平そうな顔して、
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「その通り、だって男ですもの!」
と、満面に笑みを浮かべて同意してくれた。
ハポン氏はスペイン各地にいるらしい。
あとで調べてみたら、その頃、日本では鎖国に向けてキリシタン追
放令や禁教令が相次いで発布され帰国が困難だった。結局、団長以下
ほんの僅かしか帰国できず、それもルソンで船を乗りかえ石巻港に忍
びこむように入国したようです。政宗にいいつかったイスパニアとの
通商協定は果たされなかったが、報告の義務があったのでしょう。政
宗には南蛮交易を手にして、あわよくば家康にとって代わろうという
野望があったといわれますから。真面目な伊達の侍たちはカトリック
大国で洗脳されてしまったのか、フェリペ3世に謁見した常長自身、
受洗してドン・フェリペ・フランシスコになっています。
これを物語ふうに脚色すれば ―- ス
ペインは情熱の国、とくにアンダルシア
はフラメンコの本場、恋多き地方です。
純朴な伊達の田舎侍たちは、望郷の想い
にさいなまれながらも、
「あなた、行かないで! わたしを捨て
て行かないで! 一人ぼっちにしない
で!」
と、追いすがるカルメン嬢の妖しい美
貌とジプシーの情熱に負け、帰るに帰れ
なかったのではないだろうか。真相は誰
イスラムの狭い小路
にもわからない、、、』
しかし、この話はS氏の友人の思い込みがあるようにもおもう。歴とした史
実であり、わたしも、たしか遠藤周作の慶長遣欧使節を扱った「侍」で読んだ
ことがあるからだ。あんがい昔から知られていることではないだろうか。
グラナダへ
翌日、高速バスでグラナダに行った。一時間半、アンダルシアの高原をぬけ
ていく。
ここで、植生について触れる。マラガでは、南国種のブーゲンビリヤやハイ
ビスカス、夾竹桃などが咲き乱れ、椰子の木やフェニックスがよく見られた。
なぜか、ユーカリが多かった。盆地のグラナダに来てもそうである。
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いまにも恐竜が現れそうな ”ジュラ紀” の大シダ系や余分な小枝を削ぎ落し
たような奇怪な樹形のヒマラヤ杉に似た大木があり、どこか沖縄の植生に似て
いる。
ところが、高原をゆくバスの車窓から眺める、波うつ丘陵の風景はどうだ。
点在する牧草地やオリーブ畑のほかは岩山や荒れ地が続く。
グラナダ、マドリード間を走る特急列車 -4時間半かかった- から見たカ
ステイリアの風景はさらにひどかった。赤茶けた半砂漠が延々と続いている。
スペインは、ピレネー山麓と南のアンダルシアを除けば緑も何もないメセタ
(階段の踊り場)の国といわれるのがよくわかる。
グラナダに着いた。終着駅でバ
スをのりかえ、指定の場所で出迎
えにきたコリンさんに会った。5
0代に見える長身のイギリス人で
ある。不在中のフラットオーナー
(陶芸家)に代わって、しばらく
の間ロンドンからグラナダ
アルバイシンから見た宮殿の全景
に来てフラットの管理をしている
同好の仲間といっていた。
職業柄か物腰し、話し方がもの静かで、所作もゆったりと親切丁寧である。
わたしには好もしいジェントルマンに見えて気に入ったが、あとで娘と家内が、
「あの人、もしかして、これじゃない、、?」
といって、首をわずかにかしげ、片手を斜交いに頬にあてるしぐさをした。
同性愛者? そういわれると、そう見えなくもないが、、、この際、どうでもい
いことじゃないか。
アルハンブラ宮殿
グラナダといえばアルハンブラ宮殿である。イベリ
ア半島の後ウマイア朝が四分五裂したあと、キリスト
教徒のカステイリア・アラゴン連合王国に降る(1492
年)まで約250年続いた最後のイスラム・ナスル朝
の拠点である。
イスラム文化を残しつつも、宮殿の内部装飾はキリ
スト教様式に変えられているとばかりおもってい
たが、それは間違いとわかった。
見張りの鐘楼
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レコンキスタ(国土回復運動)完了後の
16世紀に入ってから建てられたカルル 5
世宮殿を除けば、ほかの宮殿は壁や天井に
植物や幾何学図文が上下左右に連続するア
ラベスク装飾がびっしり施されている。イ
スラム以外のなにものでもない。
「ライオンの間」では、ライオン像の移
設作業工程が展示してあったが、日本で見
る遺跡修復作業の域を出るものではなく、
宮殿のアラベスク模様
庭園に咲く花(白い花が多い)
ざっと見てまわった。
緑の「アラベスク」迷路
壮大な宮殿庭園をあるいた。名は知らないがこの世のものとはおもわれない
美しい花々が咲き乱れ、一角に、これも連続するアラベスクではないかとおも
わせる緑の木立の連なりがあり、うっかり方向を失なう。
庭園散策のあと、砦に立って風に吹
かれながらグラナダの全景を眺めた。
800年におよぶイベリア半島の民
族・宗教の攻防の歴史がしのばれて感
慨ひとしおだった。スペイン版「荒城
の月」である。
(377)宮殿から市街を一望
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城塞から見下ろす川をはさんだ一帯
をアルバイシンの丘という。宮殿ととも
に世界遺産に含まれる。イスラム時代の
迷路のような白壁の家が立なちならん
でいる。
丘のはずれに、ヒターノと呼ばれるス
ペインジプシーの住む一角があり、岩山
を穿った妖しい洞窟酒場でカルメン嬢
たちが観光客相手に情熱のフラメンコを
向こうの丘一帯がアルバイシン
踊っていると聞いた。せっかく洞窟の近くまで行きながら、酒場に入らずじま
いだったのはまことに残念だった。
----------------------------------斎 藤 勝 郎
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