情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー

情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
橋場 利幸
1. 人工知能とその挫折
コンピュータは知能を持てるのか
■「かな漢字変換」の舞台裏
いったいコンピュータには「知能」があるのだろうか。
このような状況を考えてみよう。あなたはキーボードに「a k a i h a k o g a a r u」と打ち込む。パ
ソコンのディスプレイには「あかいはこがある」と表示され、スペースバーで漢字変換を命じると「赤
い箱がある」という文字に変換される。「赤井葉子が或」でも「赤井は子がある」でもない。なかなかこ
のコンピュータは賢そうだ。もしかしたらこのコンピュータは知能を持っているのかもしれない。コン
ピュータがチェスの世界チャンピオンに勝ったという話を聞いたことがあるし1、人工知能を搭載した
エアコンも売られているそうだ。なんといっても、漢字変換のように言葉を扱えることは、何よりも知
性を証明しているではないか。
コンピュータがひらがなを漢字に変換している仕組みを考えてみよう。まずコンピュータは「あか
いはこがある」という単語を、内蔵の日本語辞書で調べる。しかしこのような長い語は見つからない
ので(もちろん人間用の国語辞典の見出し語にも掲載されていないだろう)、漢字変換に失敗する。
そこでコンピュータは「調べた文字が長すぎたのだ」と考え、今度は後ろから 1 文字削って短くした
「あかいはこがあ」という単語を調べてみる。しかしこれも見つからないので失敗し、さらに 1 文字削
った「あかいはこが」の場合も失敗する。「あかいはこ」も辞書になく、「あかいは」も失敗した後で、よ
うやく「あかい」という語が辞書に見つかった。ここでようやくコンピュータは「赤い」に漢字変換を行
い、残った「はこがある」を再び辞書で調べようとする。「はこがある」は辞書にないので失敗、「はこ
があ」も「はこが」も失敗するが、「はこ」が辞書に見つかり「箱」に変換し、再び残りを調べる。以下同
様である。
これは「最長一致法」という方法で、経験的に最も長く一致するほうが正しく変換されることが多い
という戦略(「ヒューリスティックス」とよばれる)で変換を行ったものである。「あかい」は「赤い」とも
「亜」+「かい」(少し無理があるが)とも変換できるが、前者が3文字で辞書引きが成功し、後者は
「亜」の 1 文字でしか辞書引きが成功しないので、より長いほうで漢字変換するという方法である。
上記の例ではこの方法で上手くいったが、いつもそうとは限らない。そのため、実際の変換では、
複数の文節を考慮しながら変換処理を行ったり、統計的に正しい変換になる頻度の高いものに変
換したり、そのパソコンの利用者がよく変換するものを学習機能で覚えさせるといった手法を併用し
て変換させる。それでもなかなかこちらの思うとおりの変換がされないことは、皆さんもよくご存知の
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ことと思う。
図は実際にコンピュータ上で実行した、最長一致法による辞書引きの様子である2。画面上では
ひらがなではなくローマ字で変換処理が行われているが、入力された文「akaihakogaaru」が後ろ
から一文字ずつ削られながら辞書引きされている様子がお分かりになるだろう。
最長一致法による辞書引きの様子
このような「からくり」を知ってしまえば、ただひらがなを漢字に変換するシステムは、もはや知能
を持っているとは考えられないだろう。
しかしもう少し知的に見えるのは、コンピュータによる翻訳やコンピュータとの対話システムである。
WEB ページの中には、外国語のページを日本語に翻訳するものや、日本語を外国語に翻訳して
くれるサービスもある。また、こちらから何か文を入力すると、コンピュータが自動的に応答をしてく
れるような対話システムを持ったサイトも存在する。後者のような対話システムの中には、こちらの言
葉から特定のキーワードを抜き出して、あらかじめ用意した返答を返すような、あまり「知的」とはい
えないようなシステムも存在するが3、高度な対話システムでは、「形態素解析」「構文解析」「意味
解析」「文脈解析」といった、少々「知的」な処理が行われている。
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「形態素解析」は先にあげた単語への切り出し処理と辞書引きである。「構文解析」は、文が文法
的に正しいかどうか(たとえば、文は名詞、助詞、動詞の順で並んでいるなど)のチェックである。こ
れによって「赤い箱がある」はよいが、「が赤いある箱」は正しい文として認められないというチェック
が行える。「意味解析」は、文法的に正しくとも意味が通らない文をチェックする。たとえば「無色透
明の観念が猛烈に眠っている」は文法的には正しいが、意味的にはそうではないだろう。これらの
処理を行った後、対応する他の言語の翻訳文や、何らかの応答文を生成するのである。「文脈解
析」では、指示語「その」「この」が指示している内容をチェックし、それに矛盾がないかをチェックし
たりする。たとえば、「赤い箱がある。その箱の上にまりがある。その箱は青い。」という文があった場
合、「その」が「赤い箱」を指示していることを理解し、「その箱が青い」という文が入力された場合、
先の言葉と矛盾していることをチェックする4。
しかしこれらの処理を行ったなら、コンピュータは知能を持っているといえるのだろうか。そもそもコ
ンピュータが知能を持っていえるといえるための条件は何なのだろう。
■「チューリングテスト」で「人工知能の知能」を測る
第二次大戦中に相手国の暗号を解読したことでも知られる数学者アラン・チューリングは、もしも
コンピュータがその姿を隠した状態で人間と文字だけで会話をし(現代的に言えば WEB ページ上
での会話「チャット」に相当する状況である)、相手に人間と会話していると思わせることができれば、
そのコンピュータは知性を持っていると判定してよい、と考えた5。言い換えれば、「コンピュータとの
会話」を「人間との会話」と取り違えてしまうなら、そのときそのコンピュータは知能を持っているとい
ってよいということである。
この判定方法は、一般に「チューリングテスト」と呼ばれる思考実験であるが、1990 年以来、実際
に人間とコンピュータが参加して、壁の向こうにいる会話相手を欺くチューリングテストの競技会(ロ
ーブナー賞)も開催されている。
チューリングテスト
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それでは会話ができるというだけで、コンピュータが知能を持っているといってよいのだろうか。
チューリングは、知性を持っているかどうかの判定は、身体的外見(「人間そっくりの人工の皮膚
を持っている」とか「美人コンテストで目立つ」とかいったこと)などから切り離してできると考えている。
チューリングは、人間の身体的能力と知的能力の間に、きわめて鮮明な境界線をひくことができる
と言っている。そうして、知性を持っているといえる典型例は、会話ができるということであると考える
のである。
チューリングの知能判定基準は、知性を持っているための「必要条件」ではなく、「十分条件」を
提示しているテストであることに注意しなければならない。チューリングテストは、「コンピュータが人
間をだませるほどスムースな会話ができるならば、知性をもっていると判定するのに十分」と言って
いるだけで、「知性を持っていると判定するためには、人間を騙せるほどの能力が必ず必要」である
といっているわけではないのである。小さな子どもは多分チューリングテストにパスできないだろうが、
だからといって知性を持っていないわけではないだろう。チューリングテストは、人間を騙せるような
会話をこなせない小さな子供に知性がないとは言っていないのである。
またこのテストでは、流暢な会話を人間とできさえすれば、その会話をどのような方法で行ってい
るかは一切問うていない。それが人間の脳とそっくり同じ方式で会話していようと、デジタル方式で
処理しながら会話をしていようと、われわれには想像もできないような方法で宇宙人が会話していよ
うと、その処理の中身は一切問題にしていないのである。処理方法に関しては全くのブラックボック
スでよろしい、とこのテストは言うのである。
しかし人間とまったく異なるように見える方法をとるコンピュータに、人間と同じ意味での知性があ
ると考えることには抵抗がないであろうか。
これについてチューリングは、そもそも人間の場合にも、私たちは他人の内面を確かめることは
不可能なのに、なぜ機械にだけ例外を認めるのかといっている。私たちは他人の見ている色が、自
分の見ている色と同じ事を確かめることはできないはずだ。たとえあるものの色を、私も私の友人も
「赤」と読んでいたとしても、私が「赤」という言葉で名指している感覚と、友人が「赤」という言葉で名
指している感覚が同じ感覚であるという確証は永遠に得られないだろう。もしかしたら、神様から見
ると、私が「赤」という言葉で名指している感覚は、友人が「青」という言葉で名指している感覚と同じ
かもしれない。
人間の場合でも「内側から確かめる」ということができない以上、コンピュータも人間の場合と同様
に扱うのがフェアだろう、というのがチューリングテストの考え方である。
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?
他者の頭の中を確認できるか
■「中国語の部屋」のアメリカ人
しかし、本当に「内側」の処理を無視してコンピュータに知能を認めてしまってよいものかどうか。
たとえチューリングテストをパスするコンピュータに知能があるように見えたとしても、コンピュータ
は何の「意味」もわからず、単にプログラムから指示された一定の規則に則って動いているに過ぎ
ないはずだ。言ってみれば、わたしたちが理由も分からず、単に方程式の「解の公式」を使って機
械的に方程式を解いているようなものである。このようなしくみで動いているコンピュータに、果たし
て知性を認めてよいのか。
言語哲学者ジョン・サールは、コンピュータが形式的操作を動作原理として持つ以上、コンピュ
ータは決して人間と同様な意味での理解は持ち得ないとする。そのために提示されるのが「中国語
の部屋」という思考実験である6。
コンピュータ上で知能を創ろうとする研究は人工知能(AI: Artificial Intelligence)と呼ばれる
が、サールはこの AI 研究を二つの立場に分類する。「弱い AI」と「強い AI」である。
「弱い AI」の立場は、心の研究においてコンピュータが持つ主たる価値は、私たちに非常に強
力な道具を提供する(心理学的仮説を定式化してプログラムを作り、それが人間のように上手く動く
かどうかをコンピュータ上でテストすることができる)ということで、コンピュータそのものに知能がある
とか、人間が AI システムと同じであるといったことは主張しない。サールはこのような立場には何の
異論もないという。
「強い AI」の立場においては、コンピュータはもはや単なる心の研究の道具ではない。適切にプ
ログラミングされたコンピュータは「心」に他ならないのである。正しいプログラムさえ与えれば、コン
ピュータは実際に物事を理解したりすることができる。コンピュータにおけるプログラム(ソフトウェ
ア)とハードウェアの関係と、人間の心と脳との関係は同じで、人工知能を持ったコンピュータのプ
ログラムは、人間の心的過程をそのまま表現しているモデルであると考える。サールが批判の俎上
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に上げるのは、この「強い AI」という立場であり、そのために提出されたのが「中国語の部屋」であ
る。
ある部屋の中にアメリカ人が住んでいる。そのアメリカ人は中国語がまったくわからず、漢字を見
ても何かの絵(このアメリカ人は「漢字をミミズがのたくったような模様とは違うものとして識別できる
かどうかさえ自信のないレベルの中国語の理解力」と想定されている!)のようにしか見えない。そ
の部屋には窓が二つ開いているだけで、他に出入り口などはなく、これが唯一の外界との交流窓
口である。部屋の外にはたくさんの中国人が行き来しているが、部屋の中のアメリカ人は、この二つ
の窓を通してしか外の世界と交渉できない。アメリカ人が住んでいる部屋の中には、たくさんの規則
が書かれた紙が張ってある。そこには「これこれの形が書かれたカードが一つ目の窓から入ってき
たら、いくつかのことをしてから、部屋の中の棚にあるこれこれの形が書かれたカードを探して、二
つ目の窓から外に出せ」といった規則が無数に書いてある。規則そのものは英語で書かれている
ので、アメリカ人にも理解できるようになっている。部屋の中の棚には、漢字で書かれたカードがた
くさん積んである。
さて、部屋の外の中国人は、一つ目の窓から一枚のカードを部屋の中のアメリカ人に渡す。しば
らくすると二つ目の窓からカードが出てくる。中国人たちは、一つ目の窓から渡すカードのことを
「質問」とよんでおり、二つ目の窓から出てくるカードを「答え」とよんでいる。外の中国人たちはこの
ように考える。「部屋の中のアメリカ人は中国語がわかっているぞ」と。
中国語の部屋
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これがサールの「中国語の部屋」という思考実験である。すでにお分かりかと思うが、部屋の中の
アメリカ人はコンピュータ、外の中国人は人間のことである。そうしてサールはこのように断言する。
「このアメリカ人が中国語を理解しているとは誰も思うまい。コンピュータもこれと同様、たとえうまくチ
ューリングテストをパスしたとしても、言葉を理解しているとはいえないのである」。つまり、コンピュー
タはたとえ言葉をうまく操っているように見えたとしても、所詮は規則の一覧表に則った形式的な記
号の操作をしているだけで、そこには本当の意味での言葉への理解は生じない。意味なしの形式
的な操作は決して理解であるとも知能を持っているともいえない、ということである。
この議論に対してはいくつかの反論が出されているが、その中には例えば次のようなものがある。
確かに部屋の中のアメリカ人は中国語を理解してはいないだろう。しかし部屋全体(アメリカ人+規
則表+漢字カード+部屋)では中国語を理解しているとみなせるのではないか、というものである。
これに対してサールは、仮にアメリカ人が規則表と漢字カードをすべて頭の中に記憶し、彼一人で
部屋全体の役割を果たしたとしても、結局このアメリカ人が形式的操作をしているという事実には変
わりはない。形式的操作のみからは決して意味は生じてこないので、やはりこのアメリカ人は中国
語を理解しているとは言えず、結局は同じことであるという。
コンピュータがたとえチューリングテストをパスするほど巧みに言語を操っても、形式的な規則に
のっとっているだけならば、コンピュータは決して考えているとはいえない。このことを、サールは言
語学の言葉を使って「コンピュータには構文論はあっても意味論はない」といっている。
「構文論」とは、語をどのような順番で組み合わせれば正しい文になるかといった形式的規則に
関するものである。たとえば、文は名詞、助詞、動詞の順で並んでいるなどといったもので、先にあ
げた自然言語処理のプログラムでは構文解析の部分がこの仕事を行う。「意味論」は、語と事物の
関係(その語が現実世界の中で何を指し示しているか、たとえば「りんご」という語で指示されている
実際のものは何かなど)、文と世界の状態の関係(ある文が現実世界のどのような状態を指示して
いるか)に関するもので、その文が何を主張し、どのような場合にその文が真(正しい言表)または
偽(間違った言表)になるのかを確定する。
サールが「中国語の部屋」の議論で、コンピュータには構文論(文法)はあっても意味論はないと
いうとき、コンピュータの会話には、現実世界との関係が生じていないということが主張されているの
である。
このサールの議論は強力である。今後技術が進歩し、コンピュータが私たちに知能があるように
見せかけ、実際に私たちを完全に騙せるようになったとしても、コンピュータが知能を持つことは決
してありえないという主張だからである。ただしサールは、人間も一種の機械であるという立場を取
っており、将来人工的な物質で考える機械のようなものができる可能性は認めている。サールのこ
こでの論点は、人工物で知能を作れるかどうかということではなく、あくまで語の形式的操作のみで
動くような現在のデジタルコンピュータによる言語処理は決して理解とはいえない、という点にある
ことに注意されたい。
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■「常識」を持てないコンピュータ
「人工知能研究は、科学よりも中世の錬金術に似ている」。こう指摘して AI 研究者の激しい怒りを
招いたことで知られるヒューバート・ドレイファスは、AI 研究が始まったころから人工知能批判を続け
ている哲学者である。ドレイファスは、コンピュータが「常識」をもたない限り決して知能を持つことが
できないという。
ここで考えられている「常識」とは、私たちが生活を行う上でほとんど意識されることもなく利用さ
れているような、暗黙の知識のことであり、意識上に明確化されることがほとんどない、もしくはほぼ
不可能な知識のことである。そのような知識なしでは、私たちは生活すらできないような、社会生活
のうえで身についてきた知識である。ドレイファスは、このような非明示的暗黙知は、明確なコンピュ
ータプログラムとして表現することは不可能である以上、人工知能が知能であることはありえないと
指摘する7。
非明示的な暗黙知を持てずに苦しむロボットを、心の哲学・科学哲学を専門とするダニエル・デ
ネットはこのように表現している8。
名前を R1 というロボットがいた。このロボットは機械であるからバッテリーで動いている。バッテリ
ーは彼にとっては人間の食料と同様、大切な命綱である。さて、そのバッテリーに、悪人によって時
限爆弾が仕掛けられた。R1 は果敢にもそのバッテリーを救出に向かう。彼は人工知能ロボットであ
るから、もちろん「ワゴンを部屋から引っ張り出す」「ワゴンの上に爆弾がのっている」という知識を持
っている。彼はその知識にしたがって、何の疑いもなくワゴンを部屋から引っ張り出した。任務完
了。
ところが部屋の外で彼を待っていたのは、ワゴンの上にあった爆弾の爆発であった。R1 はバッテ
リーともども鉄屑となってしまった。
R1 にとっては、「ワゴンを部屋から引っ張り出す」「ワゴンの上に爆弾がのっている」という知識は
あっても、それらの知識の関係が理解できていなかったのだ。「ワゴンを部屋から引っ張り出せば、
ワゴンの上の爆弾も部屋の外に出てしまう」という、人間にとっての「常識」「暗黙知」は、人工知能
にはなかったのである。
そこで R1 の設計者はこう考えた。「R1 にはいささか慎重さが足りなかったようだ。自分の行動が
もたらす帰結を見通せるような予測能力がなかったのだ。次のロボットは、自分の行動の帰結として、
自分の意図したものだけではなく、副次的効果についての帰結も認識できるようにしよう。ロボット
は周囲の状況の記述から副次的効果を演繹できるようにしよう。このロボットを R1D1 と名づけよう」
またしても、バッテリー貯蔵庫に時限爆弾が仕掛けられた。R1D1 はバッテリー貯蔵庫に向かう。
今度はひとつの知識がもたらす結果も考えにいれた上で、彼は「慎重に」行動してくれるはずであ
る。確かに彼は、軽率に行動せず、行動の前に慎重に考え始めた。「只今、ワゴンを部屋から引っ
張り出すことの帰結を証明中です…ワゴンを部屋から引っぱり出しても部屋の壁の色が変わらない
ことを演繹したところです…只今ワゴンを引けば車輪が前よりもよく回転することになるだろうという
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証明に取り組みはじめました…」
時間切れ。時限爆弾は爆発し、哀れな R1D1 は R1 と同じ運命をたどってしまった。
R1D1 の設計者はこう考えた。「R1D1 はいささか慎重すぎたようだ。慎重すぎて余計な事まで心
配しすぎるのは良くない。われわれはロボットに、関係のある帰結と関係のない帰結の区別を教え
てやり、関係のないものは無視させるようにしよう。今度のロボットは R2D1 と名づけよう」
またしても、バッテリー貯蔵庫に時限爆弾が仕掛けられた。R2D1 はバッテリー貯蔵庫に向かう。
ところが彼は貯蔵庫の前で立ち止まったまま動かない。設計者は R2D1 を怒鳴りつける・「いったい
どうしたんだ。どうして何もしないんだ」。R2D1 はこう答える。「しっ、お静かに。只今、無関係な帰
結を探索中です。何千もの帰結から無関係な帰結を探し出して、それを無視するのに忙しいので
す。関係のない帰結を見つけると、それを無視するもののリストに載せて…」
時間切れ。時限爆弾は爆発し、かわいそうに R2D1 も R1、R1D1 と同じ運命をたどってしまっ
た。
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最初のロボット R1
「R1 の予備バッテリーのある部屋に時限爆弾が仕掛けられた!」
「 PULLOUT(WAGON, ROOM) と 計 画 し ま す 。 も ち ろ ん
time bomb
battery
ON(BOMB, WAGON) という知識は持っています…」
→ 爆発! 製図板に戻る
「演繹ロボット」 R1D1
「次のロボットは、自分の行動の帰結として、自分の意図したものだけではなく、副次的効果についての帰結も
認識できるようにしよう。ロボットは周囲の状況の記述から副次的効果を演繹できるようにしよう」
「只今、PULLOUT(WAGON, ROOM) の帰結を証明中です」
「…ワゴンを部屋から引っぱり出しても部屋の壁の色が変わら
ないことを演繹したところです…」
「…只今ワゴンを引けば車輪が前よりもよく回転することにな
るだろうという証明に取り組みはじめました…」
→ 時間切れ。爆発! 製図板に戻る
「分別のある演繹ロボット」 R 2D 1
「われわれはロボットに、関係のある帰結と関係のない帰結の区別を教えてやり、関係のないものは無視す
るようにしよう」
「只今、無関係な帰結を探索中です」
「何千もの帰結から無関係な帰結を探し出してそれを無視する
のに忙しいのです. 関係のない帰結を見つけると、それを無視
するもののリストに載せて・・・」
→ 時間切れ。爆発!
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人間にとっては、意識にすら上らないような「常識」がある。しかしこの「常識」を、明示的なプログ
ラムとして人工知能に持たせるのがいかに困難なことだろう。私たちにとってはきわめて簡単なこと
が、ロボットにとっては大問題になることを、この例は示している。しかし、ロボットにとって極めて困
難なことであっても、私たちはこのような「常識」を軽々と使いこなしながら生活している。これをデネ
ットはこのように表現している。
「今、自分で夜食を作るとする。どんなふうにすれば夜食ができるか。おそらくこれほど簡単なこと
はあるまい。私は薄切りにした七面鳥の残りとマヨネーズが冷蔵庫にあり、またパンがパン箱にある
のではないかと考える。それにビールも冷蔵庫にあるだろう。これらを一緒にすれば結構な夜食に
なるに違いない。そこで私は幼稚なほど単純な計画を立てる。まず冷蔵庫を調べて、必要なものを
取り出し、それからサンドイッチをつくってビールと一緒に喉に流し込もう。ナイフと皿、それにコッ
プも必要になろう。私はこの計画をすぐ実行に移し、それはうまくゆく。大偉業…この程度のことを
するのにも、私は実に多くのことを知っていなければならない。パンのことや、マヨネーズの塗り方、
冷蔵庫の開け方、また摩擦のおかげで七面鳥がパンの間から落ちないことや、慣性のおかげでパ
ンをのせた皿を安楽椅子の側のテーブルに運ぶときパンが皿から落ちないことを知っていなけれ
ばならない。さらにビンからコップへビールを注ぐ仕方についても知っておく必要がある。過去の経
験の積み重ねによって、幸いにも私はこのような生活上の知識をすべて身につけている。もちろん
必要な知識の中には生得的なものもあるかもしれない。例えば、あまりにも当然のことだが、私はビ
ールがコップに注がれたとき、それはもはやビンの中にはないということや、左手にマヨネーズ容器
を持っているなら、それと同時に左手に握ったナイフでマヨネーズを塗ることはできないということを
知っていなければならない。これらのことはおそらく、私が生まれつき知っているもっと根本的なこと
がらの直接の帰結、ないしその具体例であろう。そのような根本的な事柄というのは、例えばあるも
のがある場所にあるとき、それは同時に別の場所にはないという事実や、二つのものが同時に同じ
場所にあることは不可能であるという事実や、行為が行われると状況が変わるという事実などのこと
である。これらの事実が何らかの経験から学ばれたというのはきわめて想像しがたい…われわれは
数え切れないほどの事実を知っているのである。すなわちマヨネーズはナイフと接触してもそれと
融合しない、パン切れはエベレスト山よりも小さい、冷蔵庫をあけても台所で核による大惨事は起こ
らない…」(下線は引用者による)
AI システムに上記のような常識を、明示的なコンピュータプログラムとして持たせること(そのプロ
グラムは無限の長さになるだろう)は、まず不可能であるし、たとえ膨大な常識を明示的ルールに変
換し、それを巨大なデータベースにすることが成功したとしても、先のかわいそうなロボットの例で
見た通り、今度は「どのルールがどのルールに関係するのか」「どのルールがどのルールに関係し
ないのか」を見極めるのが大問題となる。私たちは「パン切れはエベレスト山より小さい」というルー
ルが、夜食を作るときに役立たないことを知っている。知っているというよりも、そもそも意識のレベ
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ルには上ってこないのだ。しかし AI システムにそれをどう教えればよいのか。AI システムは、どの
ルールがどのルールと関係がないのかを計算しているうちに「フリーズ」してしまうだろう。
結局のところ、私たちはこのような「常識」を、身体を持って世界と関係しながら学んでゆくがゆえ
に持つことができるのである。「知能は理解を要求し、理解はコンピュータに常識という背景を与え
ることを要求するが、その常識を成人した人間が持っているのは、彼が身体を持ち、技能を通じて
物質世界と相互作用し、ある文化へと教育されるからだ」とドレイファスはいう9。もっと正確にいえば、
私たちが「身体を持ち」世界と関係するのではなく、私たちそのものが「身体である」ということなの
だ。身体を欠いた AI システムが知能を持つことは、決してありえないというのがドレイファスの主張
なのである。これは実質的に、先のチューリングテストへの「無効宣言」とみなせるだろう。
実はアメリカのある企業で実際に「巨大な常識データベース」を構築するプロジェクトが存在した
が10 、結局いまだ人間並の知能を持ったコンピュータは実現されていない。実現されたのは、路
線・運賃探索システム、音声認識システム、翻訳システムなど人間の知能の特定部分だけに限定
されたもののみである。その後、完全な AI システム構築の試みは挫折し、AI 研究の主流は「コンピ
ュータにできることはコンピュータがアシストする」が、「人間にしかできない部分は人間に行っても
らう」といった分散協調処理の流れになってきたように見える。かな漢字変換において、コンピュー
タはあらゆる変換候補を表示し(このような「力業」ならコンピュータは得意である)、知能を持たなけ
れば判断できない部分は人間に任せて変換確定をするのはその一例である。
しかし最近、このような人間とコンピュータの「共生システム」は、神経科学の急速な発達とともに、
思いもかけぬ展開を見せることになった。人間とコンピュータが物理的に一体化してしまう「サイボ
ーグ技術」の出現である。
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2. 「水槽の中の脳」とコンピュータ
サイボーグ技術は科学技術の進歩の必然か、許されざる人体改造か
■「水槽の中の脳」は人間か
あなたの友人が、不幸にして事故にあってしまった。
彼は両腕を切断しなければならなくなり、義手を使用することになった。言うまでもないことだが、
彼は依然としてあなたの友人であり、あなたと同じ「人間」である。
不幸にして、その友人はさらに両足を失い、義足を使うことになった。その場合でも、もちろん彼
はあなたの友人であり、同じ「人間」である。さらにその友人は病気を患い、視力を失って義眼を使
うことになり、手術で人工臓器を埋め込むことになった。その場合でも、彼はあなたにとって友人で
あることに変わりはないだろう。もちろん彼は私たちと同じ「人間」である。
それでは、もしこの友人が脳以外のすべてを失ってしまったら、どうだろう。
彼はひどい病気と怪我のために、脳以外のすべてを失ってしまった。今や彼の脳は特殊な培養
液の満たされた水槽の中にあり、彼の脳神経の末端はコンピュータに接続されている。コンピュー
タからは、健常な場合とまったく同様な感覚が得られるような電気信号を脳に流しているので、彼は
自らが「水槽の中の脳」ということをまったく感じない。さて、この場合でも「彼」は依然としてあなたの
友人であり、私たちと同じ「人間」なのだろうか。
水槽の中の脳
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情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
アメリカの哲学者ヒラリー・パトナムが取り上げた「水槽の中の脳 (Brain in a vat)」という思考実
験は、少し前までは、まるで SF かハリウッド映画のような話の「思考実験」だと考えられていた11。パ
トナム自身もこの例を「哲学者たちによって議論される SF 的可能性」と言っている。
しかし、近年の脳科学研究とコンピュータ技術の進展は、この例がもはや「SF 的可能性」ではな
いことを私たちに教えている。脳とコンピュータを接続する技術は「脳‐コンピュータインタフェース」
とよばれるが、この研究成果が医療・福祉・軍事などの分野で実用化されつつあるのである。
■サイボーグ技術が人類を変える
2005 年 11 月、NHK は「立花隆最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」という番組を放
送した12。立花氏は、情報技術を利用してコンピュータと脳が直結される様子をアメリカと日本で取
材し、それを「人間のサイボーグ化」として番組で紹介したのである。この番組は大変に反響が大き
く、その後いくつかの続編番組が制作されたり、番組が放送関連の賞を受賞したりした。立花氏の
研究室で制作した WEB ページ「SCI」にも数多くのアクセスがあったという。
NHK の WEB ページより
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情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
番組で紹介されたのは、次のような実例である。
自分の脳波を読み取って意思どおり自動的に動く義手「ロボットアーム」、外界の映像をサングラ
ス状のビデオカメラで読み取って目の不自由な人の脳に視覚情報を伝える装置、耳の不自由な人
のために脳に埋め込まれる「人工外耳」、脳に細いワイヤーを埋め込み一定の電流を送ってパー
キンソン病やジストニアを抑制するコンピュータ装置(脳深部刺激療法 DBS)、ラットの脳波に電流
を流してコンピュータで遠隔操作する「ロボラット」、手の不自由な人の脳波を読み取ってパソコン
画面上のマウスを本人の意思どおりに動かす装置、脳の記憶中枢である海馬を IC チップで再現
する「人工海馬」などである。実際に電極を手術で脳内に差し込んだり、利用者自らがパソコンの
USB 接続のように頭皮にコンピュータのコネクタを差し込んだりするようなケースはショッキングであ
る。立花氏自身が自身の腕に電極を差し込み、パソコンからの電気信号を受け取る実験をする様
子が紹介されている。
近代科学技術は自然を数学的に把握し支配可能なものにすることを目標としてきたが、神経科
学やコンピュータ技術の発達によって、いまや人間を技術的に支配可能な対象とできるようになっ
たのである。
■「福祉」と「人体実験」のあいだ
もちろんこの技術の福祉利用のメリットは十分に評価されなければならない。
電気工事の事故で手を失ったジュシー・サリバンさんがロボットアームの技術で第二の腕を得た
り(サリバンさんは「世界最初のサイボーグ」と呼ばれた)、やはり事故でガラスの破片が眼に入って
視力を失ったイエンス・ナウマンさんがビデオカメラ信号をコンピュータで脳に送る人工の眼を得た
り(ただし現在の技術では数個光の点が見えるだけだが、それでもナウマンさんは「あるのと無いの
とではぜんぜん違います」といっている)、パーキンソン病で体の震え止まらず歩くことすら困難だ
ったロナルド・リドルさんが、電極を脳に埋め込んでコンピュータで電流を流す脳深部刺激療法で
日常生活を送れるようになった様子などが番組で放送されている。これらの皆さんを見ると、本当に
良かったという思いでいっぱいになる。
一方で、サイボーグ技術はさまざまの問題を引き起こすことも予想される。
脳の電気信号を読み取り、それをインターネットや携帯電話でロボットアームに送れば、遠くにあ
る「自分の腕」をリモートコントロールすることもできるが、これが犯罪などに悪用された場合、いった
いどちらの場所にいるのが犯人になるのだろう。ロボットスーツを着て、通常の人間の何倍もの力を
出せるようになれば、店舗破壊による強盗行為はずっと容易になる。人工海馬があれば、努力して
勉強しなくても膨大な知識を脳に蓄えることができるし、個人の過去の記憶をまったく異なったもの
にしたり、都合の悪い記憶を消したり、記憶を電子的に操作することができるかもしれない。
また、神経科学とコンピュータ技術の結びつきによって、個人情報に関するさまざまな問題が生
じる懸念もある。脳の状態をコンピュータで制御可能という研究が進めば、逆に脳のさまざまな状態
15
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
を、コンピュータを使って知ることができるようになるからである。これまで他人にはわからなかった、
その人のプライバシーを機械で調べることができるのである。
他にも、臓器移植手術における脳死問題のように、新たな技術開発の「実験台」として人間の尊
厳が犯される可能性もある。日本で最初の心臓移植手術が行われたときに生じた問題を思い出し
て見ればよいだろう13。
精神倫理を専門とするスタンフォード大学のハンク・グリーリー教授は、「予測」「正確無比な嘘発
見器」「健康な人を改良する」という三つの分野でこのような技術が悪用される懸念があると指摘し
ている14。コンピュータで脳の状態を予測し、その人がアルツハイマー病や凶悪犯罪者になる可能
性が高いと診断されると、その人の差別につながるのではないか。またコンピュータでその人の心
を調べることができれば、司法の場における証言の真実性もチェックができるだろうし、脳の状態を
調べてテロリストかどうかを空港でチェックすることが行われるかもしれない。一般家庭でも子供や
配偶者に対して使用したい人が出てくるかもしれない。さらには、健康な人の思考力や記憶力の強
化のために、この技術を使いたい人も出てくるだろうし、他人の心を操作する可能性も十分あるだ
ろう。社長が社員の心を管理したり、教師が学生の心を管理したりするのである。
軍隊が兵士の心を管理したりしたいと思うかもしれない。DARPA(米国防省高等研究計画局)も
この技術に関心を持っているという。NHK の番組では、軍事的応用が検討されているものとして、
着れば通常の人間では出せないような力を出せるようになるロボットスーツ、脳で考えられただけで
発射できる銃なども紹介されていた。ロボットスーツがあれば戦車では入れないような場所に重い
機材を持った人間が入ってゆくことができるし、イラク戦争では、すでにコンピュータが人間の判断
なしで自動的にテロリストと考えられる人物への爆撃が行われ、その動画も報道されている。
■「技術の進歩」は「使用の正当化」を保証するのか
このような技術を手にして、人間はいったいどこに行こうとしているのか。
脳とコンピュータが直結した「脳‐コンピュータインタフェース」が技術的な実現は、パトナムが
1982 年の時点では「SF 的可能性」として提示した「水槽の中の脳」が、いまや SF ではなくなったこ
とを、はっきりと示している。人間のサイボーグ化は科学技術の進歩の必然なのか、それとも許され
ざる人体改造なのか。美容整形手術がメディアによって「プチ整形」なるキャッチコピーで一挙にそ
の敷居を低くされたように、「人体の情報化」も何の苦もなく乗り越えられるのだろうか。立花氏は、
人類がこれまで経験したことのない進化のスピードに直面しているというが、それは進化なのか、破
滅なのか。
「近代的人間という人間形態は…人間が自分自身を技術的に制作するということに向かって突
進するかのように、時として見える。このことが成功するならば、その場合には人間は自身を…空中
に向かって爆破したのだ」
16
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
人間が「理性」という自らの能力に溺れて自滅してゆくさまを、このように指摘したのはハイデガー
であった15。ギリシャ以来、西洋文明は人間の有限性を乗り越え、永遠の真理を追究してきた。そ
の行き着いた先が近代科学技術であり、人間が人間自身の力だけですべてを理論的に理解し、
自己正当化しようとする姿勢である。その最終目標は人間が自身の理論に基づいて、人間のコピ
ーすなわちサイボーグ、さらには人工生命・アンドロイドを作り上げることにあるのだろうか。
私たちは科学技術による可能性のどこまでを許し、どこからを許すべきではないのか。何が善で
何が悪なのか。「技術的進歩が可能であるからといって、常にその発展と使用が正当化されるもの
ではない」16ということが理解されなければならない。真剣に検討すべき時期が、すでに目の前に
来ているのである。
いったい私たちにとって科学技術とはどのような存在なのであろうか。
17
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
3. あえて、コンピュータを投げ捨ててみる
科学技術と人間中心主義の驕り
「技術を使い方次第の何か中立的なものだと観ずるなら、そのときこそ却って私たちは最も忌まわ
しく技術に身を売り渡されているのである」(マルティン・ハイデガー)
■技術は善なのか、悪なのか
現代人にとって、情報技術を使いこなしてゆくことは必須の能力とされているようである。パソコン
やインターネットを使いこなす技術は、「コンピュータリテラシー」などと称され、読み書きの能力と同
様、最低限必要な教養で、もはやこの技術抜きで社会生活はできないと考えられている。
しかしこの技術に関連するさまざまな問題が、今や社会的に無視できないような状況に突入して
いることも、また事実である。
電子掲示板が原因となった小学生同士の殺人事件、「学校裏サイト」によるいじめや自殺、見ず
知らずの人間が集団で自殺する「ネット自殺」、ネットゲームのために日常生活が破綻する「オンラ
インゲーム没頭症」。これらは、情報技術がなければ決して生じなかっただろう。すでに小学校から
子供・保護者対象の携帯電話・インターネット対策講座が開催される時代になっているのである。こ
のような状況を見ると、コンピュータとインターネットを生み出した近代科学技術に問題の原因を帰
したくなるような議論も生じてくるだろう。
悪いのはパソコンやインターネットを生み出した科学技術なのか、それともそれを利用する人間
や社会なのか。
一方に科学技術そのものは善でも悪でもないという考え方がある。それが良いものに見えたり、
悪いものに見えたりするのは、利用する人間や社会の側の責任である。科学技術そのものは中立
的なものであって、たとえば原子爆弾の研究開発そのものには倫理的責任はなく、それが悪用さ
れるのは人間の問題であるということになるだろう。他方で、そのような技術が開発・流通しなけれ
ば問題が生じることはなかった、悪いのはそのような技術を開発する行為や技術そのものである、と
いう考え方もある。この考え方によれば、私たちは個々の技術について、それが良いものなのか悪
いものなのかを判断した上で、その技術を利用すべきであるということになろう。
■「技術の本質」に潜む闇
ハイデガーは、近代科学技術は善でも悪でもないようなものでは、決してないという。「もし技術を
使い方次第の何か中立的なものだと観ずるなら、そのときこそ却って私たちは最も忌まわしく技術
に身を売り渡されているのである」とハイデガーは糾弾する17。
それでは、問題は個々の科学技術について善悪を識別することにあるのだろうか。そうではない。
ハイデガーは、問題が科学技術そのものを成り立たせている「技術の本質」、個々の技術を成り立
18
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
たせる成立根拠のうちにあると考えている。ハイデガーはこのような根拠のことを「立て‐組み
Ge-stell」と呼んでいる。
「立て‐組み」とは、自然を自らにとって役立つものとしてのみ考えさせるように、人間を挑発する
ような根拠であり(ハイデガーはこの言葉に、自然からエネルギーを無理やり「引っ立てる」といった
ニュアンスを込めている)、これが近代技術を支配している、とハイデガーは見ている。これが明確
に現れたのが近代の自然科学であり、ここにおいては、自然は算定可能な役立つものの「貯蔵庫」
とみなされるのである。ここには、西洋思想のうちに深く根を下ろす「人間中心主義」の傲慢な態度
がある。ハイデガーの思想のうちには、そのような態度に対する強烈な批判が満ちている。
そもそも現在私たちが知るような自然科学が成立したのは、近代になってからであった。それは
自然現象を神話的・宗教的な説明ではなく、実験的手法を武器として数学的に把握することを目
指してきた。
近代科学の父とされるガリレオ・ガリレイは「世界という壮大な書物はそれを構成する言葉を理解
し、文字が読めない限り理解できない。この書物は数学の言葉で書かれており、その文字は三角
形や円などの幾何学的図形であり、これらなしには人間はこの書物の一語も理解できない」と、数
学によって自然を把握する機械論的自然観を宣言した。17 世紀の哲学者たち、例えばルネ・デカ
ルトは「人間以外の動物は意識や心をもたない機械であり、動物の振る舞いは機械的に説明でき
る」と考えたし、トマス・ホッブスは「考えるとは計算することであり、それは足し算や引き算と同じで、
すべての思考はこれら二つの心の操作として理解することができる」といった。
もちろん近代の思想のすべてがこのように考えられたわけではなかったとしても、すくなくとも科
学的認識においては、自然は数学的に計算可能な対象という性格で姿を現すように要求され、逆
に数学的に計算可能ではないものは存在しないと見なされていたのである。そうして産業への応用
を伴った自然科学の圧倒的な成功とともに、次第に従来の宗教的世界観ではなく、自然科学的な
世界観こそが真理だと考えられるようになってきたのである。現代の私たちも、やはりこのように考え
ているのではないだろうか。
■科学的認識と人間中心主義の傲慢
しかし、近代科学によって成立したこの自然観、機械論的自然観は、果たして唯一の正しい自
然把握なのだろうか。
例えば、古代ギリシャ時代は現在とまったく異なる自然理解がなされていた。アリストテレスにお
いては、石が下に向かって落ちる理由は、石の自然本来の場所が地面にあるからであるし、火が
上に向かって燃え上がるのは、火の自然本来の場所である天に向かうからだと考えられた。つまり、
生物も無生物も、すべてのものは本来の場所や状態を持つのであって、自然物が様々な振る舞い
をするのは、自然本来の場所や状態に達することが、ものの本性だからなのである。宇宙のすべて
のものはそれぞれ最終の目的、あるいは目標をもつのであり、その宇宙の原動力が神と考えられた
のである。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ビンチも、大地(=地球)は植物的霊魂をもち、その肉は
19
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
土地であり骨は岩石の構造体で、その血は水の集まりであり、呼吸と脈拍は海の満ち引きであると
考えていた18。
果たして近代科学的な自然の見方こそが正しく、古代ギリシャやルネサンス期の見方は幼稚で
間違っているのかどうか。
実際、わたしたちの日常において科学的認識によって把握できないものでも、それの存在を信
じるような場合はあるだろう。古来日本人は自然に対して、霊性的(スピリチュアル)な見方、たとえ
ば畏敬の念を持っていたのではなかっただろうか。私たちが自然を把握する方法は、機械論的な
もののみに尽きるわけではないだろう。鎌倉期の臨済宗の禅僧である大燈国師は、ものごとを本当
に見ること(仏教でいう「正見」)について「耳に見て眼に聞くならば疑わじ おのずからなる軒の玉
水」と詠んだ19。耳で見て、眼で聞けるならば、軒から落ちる水の音はなんと自然に響くことだろうか。
このような自然把握は、近代科学とは相容れないものだろう。
何も自然科学的な認識方法が間違っているといいたいわけではない。それの有用さは十二分に
認められなければならない。しかし、あくまでそのような科学的認識は、わたしたちの認識の一つの
方法に過ぎないということを忘れてはならないのである。にもかかわらず、いつの間にか私たちは科
学的認識に特権的な地位を与え、それが世界の本当の解釈だと考えるようになってしまった。近代
科学の見方とは、自然に対して私たち人間が考えた説明どおりに現れるように強制し、ほかの見方
を切り捨てるような態度である。そこにはあるひとつの見方を絶対視する態度がある。このような態
度によって、徐々に自然は恐れや畏敬の対象から、人間によって活用したり搾取したりできるような
対象の集合物に過ぎないものへと変化し(ハイデガーの言葉で言えば、そのように自然をエネルギ
ー貯蔵庫として「引っ立てて」)、科学技術によって支配される対象へと変化する。そこには人間中
心主義の傲慢な態度がないであろうか。
自然に対する見方は、やがて人間に対しても行われるようになる。人間も、材料やエネルギーと
同様経済的な供給源として算定されるのが、現代企業社会である。
私たちが対象に対して、自分に都合のよいようなひとつの見方を投影していることは、いつの間
にか忘却されてしまった。人間に都合の良い自然支配の結果が、現在、環境破壊や地球温暖化と
いう現象に現れていることを考えると、1950 年代からなされたハイデガーの指摘はまことに予言的
である。
しかし技術による自然支配は、近代以前にもあったのではないか。例えば風車はどうであろうか。
これに対して、ハイデガーは風車と科学技術は異なるという。確かに昔の風車もひとつの技術であ
るが、それは風の流れそのものを変えるわけではなかった。風車の羽は自らの回転を自然の摂理
としての風に任せていた。しかし現代の技術は、自然に向かってエネルギーを取り出して、その本
質を変えるように強制している。土地は石炭や鉱石を採掘するために取り立てられ、農業は自然を
強いてエネルギーを取り立てる動力化された食品産業となった。いつの間にか自然は私たちにと
って都合のよい資源倉庫、調達物の倉庫のようになってしまうのだ。ハイデガーはこのような態度は、
人間中心主義が深く根を下ろした西洋思想(コンピュータは間違いなくこれが生み出したものであ
る)がたどり着く必然的な運命であり、それは西洋思想の原点であるギリシャですでに始まっていた
20
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
と考えている。
■「放下」‐技術から一歩身を引く
それでは私たちはこのような運命から逃れることはできないのか。「されど危機の存するところ、お
のずから救うものもまた芽生う」。詩人ヘルダーリンの言葉を引用しつつ、ハイデガーは、技術的見
方が蔓延する危険がきわまる現代にこそ、逆転の可能性があることを示唆する。1955 年に彼の故
郷メスキルヒで行われた講演会で、ハイデガーは次のように語っている20。
「私共は、もろもろの技術的な対象物の避け難い使用ということに対して『然り』と言うことができま
す。そしてそれらの技術的な対象物が私たちを独占せんと要求し、そのようにして私共の本質を歪
曲し、混乱させ、遂には荒廃させることを、私共がそれらの対象物に拒否する限り、私共は同時に、
『否』と言うことができます」21
確かに現代人にとって科学技術の恩恵なしに生きてゆくことは難しい。しかし、盲目的に科学技
術へ突き走るのでもなく、逆に科学技術を「悪魔の業」として呪詛するのでもない、残された道があ
る。それは科学技術の本質たる「立て‐組み」の支配から一歩身を引くことである。私たちは技術的
なものを使用しながらも、それらをいつでも解き放てるような態度を持つことによって、自らを技術に
妨げられないようにすることができる。さらには技術的なものを最も奥深い点では自らにかかわるこ
とのないものとして、そのままに放置することもできる。私たちは、免れることのできない技術的なも
のの利用に対して、「然り」ということができるが、また同時に、それら技術的なものが私たちに独裁
権を要求し、私たちの本質を歪曲し、混乱させ、ついには荒廃させるようになる事を拒否するため
に、「否」ということができるのである。
技術的世界に対する同時的な「然り」と「否」、肯定と否定の態度を、ハイデガーは「物への放下
die Gelassenheit zu den Dingen」とよぶ。これは私たち自らが、技術的世界の中で蔽われてい
る意味に向かって開き置く態度であるという。
このような態度は、メディアリテラシーにおいていわれる「メディアに対して批判的な距離をとる」と
いう態度とも共通しているかもしれない。しかしメディアリテラシーが個々のメディアやそのコンテン
ツの真偽について批判的な距離をとるというレベルに止まっているのに対して、ハイデガーはすべ
ての技術の成立根拠たる「技術の本質」そのものに対して距離をとることを要求していることを見逃
してはならない。「この技術は良い」「この技術は悪い」といった「あれかこれか」の選択ではなく、問
題はすべての近代科学技術を成り立たせている私たちの思考の枠組みのうちに、つまり自然や人
間を自分に役立つ都合の良い対象としてみるような見方のうちにあるのだ。人間中心主義の慢心
を諌めるハイデガーのこの批判は、「ディープ・エコロジー」に通じると指摘する研究者もいる22。
果たして私たちは情報化社会の中で、ハイデガーの言うような態度をとってゆくことができるので
あろうか。あるいはもっと別の道があるのであろうか。
21
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
■「放下」から霊性へ‐造られしものを眺めつつ、造り主のみ心を味わう
私は、それに対するヒントが、同じハイデガーの講演の中の言葉にあると思う。
「私たちは技術的な対象物を、私たちの日々の世界の内に入り来らせます。そして同時に、それ
らの対象物を外に、すなわち、物としてそれら自身の上に置き放ちます。それらのものは、決して絶
対者ではなく、それら自身、一層高きものに差し向けられているのであります23」(下線は引用者)
技術的なものは、われわれに何ものかを示す契機であること。それらが、技術自身を超えた「一
層高きもの」を示していること。これらのことを十分認識していた一人の人物のことを考えてみたい。
1923 年の来日以来、50 余年にわたって日本にキリスト教をのべ伝えた宣教師であり、日本人以
上に日本に対する深い理解をもっていたことで知られるヘルマン・ホイヴェルス神父は、深い霊性
をたたえた人物であったと伝えられる24。そのホイヴェルス神父が、あるとき北海道の製紙工場の組
合に招待され、労働、学問、信仰について講演する機会を持った25。
ホイヴェルス神父は技師に案内され、工場内のさまざまな機械設備を見学する。北海道の山林
からの丸太の山、その丸太が水に流れてくる様子、機械で切断され加工される様子、熱と圧力で
パルプのように加工される様子などを見て、神父は製紙工場の技師たちの大変な知識に、「驚くべ
き知識だと思いました。あらゆる哲学にまさる知識ではないでしょうか。なお人間の科学と工業の偉
大な仕事のために、大変な力の誇りを感じることも不思議ではないと思いました」と感じながらも、一
人の労働者に対してこのように尋ねる。
「たとえば、朝から晩まで、年がら年中、三分の一に切った丸太をくさびの下に立てる仕事、これ
は人間の心を満たすでしょうか」
それに対して、工場の案内者は、
「まあ、この工場でも人々の文化的な教養、娯楽などのために十分努めています。また、それだ
けではまだ足りないときには、このように先生にお願いして、労働、学問、信仰についての講演を頼
んだわけであります」と笑いながら答える。そばにいた一人の技師は「昨晩の講演の終わりにお歌
いになった『Die ganze Welt ist wie ein Buch‐全世界は書物のごとし』の歌詞を書いてください
ませんか」とホイヴェルス神父に依頼する26。神父は喜んでその歌詞を技師に書き贈る。
このようなエピソードがあった後、神父は次のように書いている。
「まことに北海道においても、世の中は神のお書きになった本のようです。この本を人々がもっと
熱心に読まなければなりません。この工場では山林の材料を切ったり、薬品に浸したり、幾度も機
械のなかを通したりして平気で使っていますが、どうか、この材木に適した本質を備えたもうた神を
忘れないでください。また、この工場で製造した紙を使う新聞・雑誌・出版社のほうで、せっかく
人々のために読み物を提供するのですから、ときどきは、そのなかにも昨晩の歌の終わりにあった
22
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
『Lasst uns dem Herrn lobsingen‐われわれは、そろって神をたたえよう』のような文章も出たらよ
いと思います。同時に神の備えた北海道の森をつつしんで使うように、切にお願いいたします。」
技術のただなかにあっても、その技術に支配されない「放下」という態度は、ホイヴェルス神父の
言う「造られしものを眺めつつ、造り主のみ心を味わう」27こと、つまり各々の技術的対象物は、その
材料も含めて、私たちに与えられているのだという意識をもつこと、そうしてそのように私たちに与え
てくれる根源的存在があるのだということ、この理解によってはじめて完成されるのではないだろう
か。
1
1997 年 5 月 11 日、IBM のコンピュータ「ディープブルー」がチェスの世界チャンピオン、カスパ
ロフに勝利した。このディープブルーは、過去百年の序盤戦と数十億の終盤戦のシナリオデータ
ベースを搭載し、256 個のチェス専用プロセッサを積んだ超並列コンピュータで、1 秒間に数億通
りの計算をするという。(『デジタルを哲学する』黒崎政男、PHP 新書、p.151 参照)
2
画面上で実行しているプログラムは、質問応答システム TQAS(田中穂積ほか『LISP で学ぶ認
知心理学 3 言語理解』東京大学出版会)にもとづいて、筆者が改造を加えながら Common Lisp
(X-LISP) 上に移植したものである。システムの制約上、日本語表示(漢字)はされていない。また
文の終端記号は、通常日本語で使われる「。」ではなく「/」にして処理している。
3
このような定型文によって対話するようなシステムは、コンピュータ科学者ジョセフ・ワイゼンバウム
の ELIZA と呼ばれるシステムが最初のものである。これは人工知能のように「知的」なプログラムに
基づくものではないことから、俗に「人工無能」とも呼ばれている。興味のある向きは「人工無能」や
「ELIZA」といったキーワードでインターネットを検索してみるとよい。実際に試せる自動対話システ
ムがいくつかあるはずである。
4
このようなしくみは TMS(Truth Maintenance System)と呼ばれている。
5
アラン・チューリング「計算機械と知能」(『マインズ・アイ』ホフスタッター、デネット編著、TBS ブリ
タニカ所収)
6
ジョン・サール「心・脳・プログラム」(『マインズ・アイ』ホフスタッター、デネット編著、TBS ブリタニ
カ所収)
7
ヒューバート・ドレイファス『コンピュータに何ができないか』黒崎政男、村若修訳、産業図書。
8
ダニエル・デネット「コグニティヴ・ホイール ─ 人工知能におけるフレーム問題」『現代思想』
vol.15-5, p.128-150, 1987 所収。このような問題は、一般に「フレーム問題」といわれる。なお、蛇
足かと思うが、デネットが取り上げたロボットの名前は、映画「スターウォーズ」に登場するロボット
R2D2 のパロディである。R2D2 よりも劣ったバージョンという意味で、R1 と命名されているのだろ
う。
9
10
ドレイファス、上掲書、p.5。
1984 年テキサスの企業が立ち上げた CYC 計画。ティム・クレイン『心は機械で作れるか』土屋
23
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
賢二監訳、勁草書房、p.183 参照
11
ヒラリー・パトナム『理性・真理・歴史』野本和幸訳、法政大学出版、p.6。ただしパトナムはこの例
を外部世界の実在を疑う懐疑論の例として提示しているだけで、人間のサイボーグ化について取り
上げているわけではない。
12
NHK スペシャルのサイト:http://www.nhk.or.jp/special/onair/051105.html
13
臓器移植に関する問題に関しては、立花隆『脳死』中央公論社、小松美彦『臓器移植の本当の
話』PHP新書、共同通信社社会部移植取材班『凍れる心臓』などを参照。
14
立花氏のサイト「SCI」(http://sci.gr.jp/project/nhksp/itv-greely/)による
15
マルティン・ハイデガー「ピュシスの本質と概念について」『道標』辻村、ブフナー訳、創文社、
p.317。
16
この言葉は、私の恩師が定年退官されるときに書かれたものである。「今日、毎日のように、生命
の起源に関して、また生命を終了させる器具の装備に関する装備に関する議論が行われている。
私たちは、学生たちに対して、技術的進歩が可能であるからといって、常にその発展と使用が正当
化されるものではないということを理解させるよう、努めなければならない。科学の素晴らしい可能
性とともに、その限界もまた考察されるべきなのである。」(マヌエル・アモロス「上智大学における三
十四年を振り返って」上智大学哲学会編『哲学論集』第 26 号、1997 所収)。
17
ハイデガー『技術論』小島威彦、アルムブルスター訳、理想社、p.18。
18
ティム・クレイン、上掲書を参照。
19
鈴木大拙「禅の哲学について」『大拙禅を語る‐世界を感動させた三つの英語講演』重松宗育
編、ア-トデイズ。
20
ハイデガー『放下』辻村公一訳、理想社。
21
ハイデガー『放下』、p.26。
22
ティモシー・クラーク『マルティン・ハイデガー』高田珠樹訳、青土社、p.80。
23
ハイデガー『放下』、p.26。
24
ホイヴェルス神父から 30 年以上指導を受けた田村襄次氏は、ホイヴェルス神父を近世の神秘
家だと指摘している。「ヘルマン・ホイヴェルス師は神秘家であった。神と直結せる人であった。よく、
いまでも私がホイヴェルス師をたたえる言葉は、同師が神と直結せる人であったという点である。む
ろん、同師よりももっと宣教の上手な人もいたろう。司牧においても優れた人もいただろう。華々しい
活動をなさった人もいたと思う。ただ、私が同師を尊敬するのは、ホイヴェルス師が神と直結なさっ
ていたことである。学識でもなければ、著によってでもない。それらを抜きにして神と直結し、それを
ごミサによって勝ち得られたことである」(田村襄次「近世の神秘家」『わがヘルマン・ホイヴェルス神
父』中央公論社所収。土井健郎・森田明編『ホイヴェルス神父‐信仰と思想』聖母の騎士社に再録)
25
ヘルマン・ホイヴェルス「北海道の森」『時の流れに』女子パウロ会所収。
26
この詩句について、ホイヴェルス神父は別の機会に次のように書いている。「私がまだギムナジ
ウム二年生の時、エマヌエル・ガイベルの朝のさすらいという詩を学びました。その中の Die ganze
24
情報技術のゆくえ‐人工知能、サイボーグ、ハイデガー
Welt ist wie ein Buch‐全世界は一巻の書物のごとし‐という一行は、夢見る私の心を捉えました。
そして確かにその一行は、私の運命をきめたのです。私はその書物の中から三つの優れた美しい
ページを、ぜひ開いてみたいものだ、という憧れにかられました。その三つのページとは、ラインと
アルプスと、そして東洋(モルゲンラント)であります。そしてこの少年の夢は、それから間もなく満た
される時が来ました。(「来日三十八年の思い出」『人生の秋に ヘルマン・ホイヴェルス随想集』春
秋社(旧版)、所収)
27
「Contemplatio すなわち、造られしものを眺めつつ、造り主のみ心を味わう!」(上掲書『時の
流れに』、p.5)
25