3>さらに高機能化するメディア

<3>さらに高機能化するメディア、HET技術、Bodyware
この講義では、ここまで「環境化=遍在化=ユビキタス化するメディ
ア」および「可搬化=身体化=ウェアラブル化するメディア」という視
点から、主として1980年代以後のデジタルメディアの展開につい
て、実際の画像や資料を提示しつつ、できるだけ多面的に紹介し、その
人間的社会的な意味について検討してきた。
ここまでは「実現化した、または、ほぼしつつある」デジタルメディア
やテクノロジーの検討が多かった。その意味で、未普及とはいえ、今後
普及していく可能性の高いものが多かった。この講義は2000年前後
から実施しているが、話題の一定数には、すでに既視感すらある。
ここからは、上の視点をさらに拡大して、「まだコンセプトだけのメ
ディア」「とても広義のメディア的な行動」さらには20世紀までの
「人間の条件を変えかねない技術の可能性」などについて同様に検討し
ていく。
キーワードとしては、
HET Human Enhancement Technology 「人間増強技術」とでも
訳すのか、「自然状態の人間の能力を補完し増強させる技術」の総称。
「プロステティック (補綴)prosthetic」「サイボーグ cyborg」など
先行する色々な名称もある領域。「ドーピング」などもこの領域の問
題。障がい者への対応からも発達してきている。
ただし、欠損→補完→増強の流れ(普通よりも「できない」状態
disableである→その不足を補完するable→ならば「普通よりもできる
more able ようにできないか」の流れ)はいつもある。
Bodyware ボディウェアと訳すか、携帯・可搬・小型メディアの発展
型として、人体と一体化するような機能をはたす装置、メカニズム類の
総称。上のHETの具体的な手段になる人体密着、内蔵される機器や装置
類など。メガネは外せるのでBodywareとしては本格的ではない。心臓
ペースメーカーになると外せないのでBodywawreだろう。このような
「内蔵、留置される性質」がボディウェアの特徴といえる。
これらは21世紀になって本格的に、「現実的に」(フィクションでな
く、大学などの実研究として)考えられるようになった。主に理工、医
学的なジャンルで実施されているが、その意味や倫理問題については社
会科学でも検討されている。
以下、具体例を、研究経緯などと共に紹介検討していく。
[前史]
・マーシャル・マクルーハンの「メディア」論:60年代に話題になっ
た。カナダの英文学の教授だったマクルーハンが、「人間の拡張 Extension of Man」としての電子メディアの可能性を論じた多くの論
評を発表した。「電子メディアによって世界が グローバルビレッジ 化
する」「テレビは人間の視覚の拡張である」などの視点は、様々に喧伝
されたが、実証的な社会調査ではなく、メディア評論の領域だった。そ
の後、インターネットが実現した90年代にも、ふたたび注目された。
・「サイボーグ」の比喩。「cybernetic organism」の省略表現で、と
りわけ1960年代以後に、ポピュラー科学や大衆文化の領域で、しばし
ば参照されるようになった表現である。この発想には、いくつかの代表
的な転換点がある。
a) クラインズとクラインの「サイボーグ・マウス」 →画像
しばしば引用されるマンフレッド・クラインズとネイザン・クライン
の共著「サイボーグと宇宙」という題名の論文が、『宇宙科学』誌に掲
載されたのが1960年である。
これは「地球外環境を地球化するよりも、人体を地球外環境に適応させ
たらどうか」という発想に基づくもので、当時の楽観的な宇宙開発科学
からの影響が強い。「バラ色の未来」の時期。
この論文中で、「浸透圧ポンプを尻尾に移植されたラット」が紹介さ
れている。これが最初の実在した「サイボーグ」である。このポンプか
ら、コントロールされた率で、注射がラットの血中に投与される仕掛け
で、これにより、人工的な体内代謝(ホメオスタシス)が新規に導入さ
れ、生体の内部状態を無意識に制御するとされた。現在の目からすれ
ば、生化学的サイボーグと呼ばれるタイプのものである。薬物・化学物
質の定期的な投与によって、生体の内部状態を、変更された一定状態に
維持するもの。ある種の麻薬、向精神薬、ドーピング、化学的去勢など
に近い。
この後、このような生化学的な投与につきない、さまざまな人工器官
が開発されているが、いまだ一般化したものは、それほど多岐にわたっ
てはいない。脳死患者からの臓器移植は一般化しつつあるが、人工器官
はまだ少ない。人工心臓など。
b) ポップ・カルチャーにおける「サイボーグ」イメージ 現実的な具体化とは異なって、大衆文化では、大量の「サイボーグ」
イメージが使われてきた。具体例は大量にあり、ごく一般的なので、こ
こでは少し異なった領域から実例を挙げる。
本学園出身の作家、安部公房の初期作品に「サイボーグ」または身体
改造の話が多くある(医学部出身のためか?)。長編「第四間氷期」
1959が、海面上昇による大陸の水没に備えて、水棲人を製造する物
語。(たまたま60年代のソ連映画にも「水棲人」がある。これはわり
と普遍的に想像されることのようだ。)同様に「飢餓同盟」1954で
は、人間の脳神経系を鉱物探知機に転用する発想が描かれ、「R62号
の反乱」1956は、自殺志願者の脳に電極を埋め込んでロボット化して
利用する話である。
これらのイメージが、上に引用した実際の「サイボーグ」が試行され
る60年代以前の、50年代から構想されていたことは興味深い。(た
だし、「サイバネティックス」そのものは、第二次大戦で発展したロ
ケット技術から派生した学問として、50年代には注目されていた。ギ
リシャ語由来の「舵取り」から、目的地まで航路を制御してロケットを
到達させる技術、のこと。ノーバート・ウィーナーの造語)。
サイバネティックスの発想からサイボーグの発想へは、比較的移行し
やすい。そもそもサイバネティックスが、生命体と機械との相違を強調
するというよりは、むしろ、「この両者に共通で使えるような制御のメ
カニズム」を問題としていた。
c)「サイボーグ宣言」以後
「サイボーグ」という表現とそのイメージが一般的にアカデミズム内部
(とりわけ文科系で)でも注目されるようになったのは、ダナ・ハラ
ウェイ「サイボーグ宣言」(1985)によるところが大きい。また、この
時期までに、とりわけ映像メディアなどを中心として、あいまいながら
もこのイメージがしばしば用いられ一般的になっていたことも無視でき
ない。
ハラウェイの論文は、基本的には社会主義フェミニズムの論文であ
る。ただし、そこでの分析概念として、この用語を導入したことが目新
しかった。ただし、この論文での用法は、むしろ「混合した」「ハイブ
リッドの」という意味に近い。文化に拘束された存在としての人間が、
どれほどさまざまな「文化的な補完装置」に依存しているかを、この表
現で指摘したことが重要かつ印象的だった。
生まれたままの人間は、まだ自我も人間性も充分に持たないので、
「人間へと成長していく」ために、周囲の社会環境を必要とする。そし
てこれらの社会環境は、ほとんどが人工的なものであり、したがって、
人間が人間に育つということ自体、「たえず人工物(=文化、科学な
ど)を自己の内部に取り入れる」ことに他ならない。
このような文脈から、比較的身近な場所に「サイボーグ」の存在を指
摘した(たとえば黒人女性は、性別・人種的な文化的混合体という意味
でサイボーグだ、というように)ことが、この主張の影響範囲を広げる
ものとなった。以後、「∼はサイボーグだ」という表現が、「∼は境界
的だ」「∼は複合的だ」といった表現に替わって、いろいろな文脈で頻
出する。ただし、これらはあくまで比喩としてのものであることに注
意。社会への浸透は高めただろう。
以上を「前史」として、2000前後から、「現実的な研究」の領域
でも、これらを意識した、あるいはそれに触発された研究が現れてく
る。それらは現在では、上のHETやbodyware、あるいはH2.0(ヒュー
マン2.0)などの各種の呼び名でも研究が具体的に進められている。
「人間性Human nature (人間的自然)」への人間による介入はどこ
まで認められるのか?、という意味で、議論を呼びつつ、なお進行して
いる最広義の「メディア」的動向ともいえる。
以下では、そのような実例を可能な限りで検討する。
1)化学的HET:栄養問題、ドーピング、デザイナーズベイビーなど:
・分かりやすい実例「ケンドール・ホーリンガーの場合」
一見して健康そうな女児であるが、ある程度珍しい個人特性と、生活
史をもっている。これまで存在したことのない生活条件でもある。
*「完璧な(ある側面の)メディア的コントロール」の実例ともいえ
る。「ほぼ全ての栄養摂取が管理されている」
*「メディア的制御」の大胆な結果ともいえるだろう。そのため、外見
と行動が一見して「どうなっているか」よく分からない。
このように、「一見してそれと分からない」部分での身体へのメディ
ア的な介入が一般化する傾向があり、一定の混乱を起こしている。例:
「障がい者マーク」の不正使用。「内部障がい者」への対応問題。
・ドーピングが疑われた事例:Flo-Jo
(例:80年代のオリンピックメダリスト(女子100、200mメダ
ル保持者)だが、ドーピング説はずっとあった(証明はされなかっ
た)。1998に心臓病で他界。華美な選手服やファッションはカモフ
ラージュとも された。
・さらに「デザイナーベイビーDesigner Baby」の問題
何でも金銭で買える時代になると、普通なら金銭では購入できないこ
とまでが、この欲望の対象となる。愛情や世話、介護などのヒューマン
サービスはその典型で、そもそもは「家族という代替できないはずの関
係」の中で提供されていたサービスがすでにおカネを媒介し行われてい
る。
類似の異例な「金銭で買える(かもしれない)サービス」として、い
わゆる妊娠、出産、子供の選別、といった領域がある。いずれも「短
所、欠点の克服」という目的(遺伝病の事前治療など)で研究が始めら
れたが、想像できるように、すぐに「もっと長所を伸ばしたい」(さら
に望ましい子供を選択して作る)方向へスピンオフされるようになって
いる。「同じコストがかかるなら、より望ましい子供を生んで育てた
い」という傾向性:それをどう考えるか?
代理母出産、別人の精子卵子、といった領域はすでに現実の社会問題
化している。関連する領域として、遺伝病の事前スクリーニング、男女
生み分けなどがある(このあたりは合法性が微妙)。
さらに「特定の能力を並外れてもっている子供を作る」ことが、しば
しば話題とされている。ここから「デザイナーズ・ベイビー」の問題と
なる。
ロナルド・グリーン「ベイビーズ・バイ・デザインBabies By
Design」(2007)によると、いわゆるスーパーアスリートの場
合、その達成の一定程度は、ほとんど遺伝的に決定されるものである。
これらの競技では、「磨かねば光らないが、光らないものは磨いても限
度がある」。「高身長者のうち、プロバスケのスター選手になれるのは
一握りだが、低身長者が本格的なプロバスケのスター選手となること
は、ほぼまったくない」。
であるならば、遺伝的要因を妊娠前に整えないかぎり、これらの競技
のスター選手は生まれようがない(そうした遺伝要因を備えている子供
が、偶然、あとからこれらの競技に取り組むことはままあるが)。
過去数年間に、スポーツ競技の達成に直接影響する遺伝子が、多く特
定されるようになっている。好例は「インスリン様の成長因子I」とい
うもので、筋肉の増強に影響することが知られている。この因子を生産
するように遺伝子操作した無害のウイルスを作り、それをマウスに注射
して、このIGF-Iがマウスの細胞に移るようにした。結果はきわめて顕著
で、筋肉量と成長速度が15∼30%も増大した。中年のマウスに注射
したところ、老齢になっても筋肉の老化が起こらなかった。これをさら
に改良した実験で、「シュワルツェネッガーマウス」が作られたが、サ
イズは同じでも、骨格筋が20∼50%多くなった。
これらの実験は、遺伝的に筋肉強化が行える可能性を示している。
これらの実験を行った研究者には、全世界の選手とコーチからの照会
が殺到した。とりわけ、遺伝子操作したウイルスを注射して、「局部的
に筋肉の遺伝的な能力を高める方法」は、標準的なドーピング検査では
発見されないことが関心の的となった。これが「遺伝子ドーピング」と
呼ばれるものであり、90年代後半から開発が行われるようになってい
る。(部分の機能を高めるのではなく、筋肉の遺伝子そのものを改変す
る点で、従来のドーピングと異なる。)これは生命倫理(バイオエシッ
ク)の問題となる。
現在、およそ90種類の、スポーツ能力に直接影響する遺伝子が特定
されており、その遺伝子的な改良の方法も研究されている。たとえば、
あるタイプのアスリートは、酸素を運ぶ赤血球が生まれつき遺伝的に多
いために、持久力が高い。赤血球生産因子エリトロポエチンEPOを投与
すれば、赤血球を増加させることができ、98年のツールドフランス
は、この不正使用が問題化した。また、ACTN3と呼ばれる遺伝子が、
高速で伸び縮みする筋肉繊維に影響しており、スプリンターでは、これ
が例外的に多くなっている。すでにIOCの反ドーピング委員会では、
「人体にある人工的に変更した遺伝子を発見することができるか」を研
究しはじめている。
しかし、なぜこれは問題なのか? たしかにステロイドやEPOは人体
に危険であり、東ドイツ(当時)の女性アスリートだった人々の間で
は、体毛の増加、男性化、不妊などの健康問題が、おそらくステロイド
投与の結果として発生している。同様の危険として、筋肉だけが増強さ
れた場合、靭帯や
が切れることがある。しかし、遺伝子ドーピングで
は、部分的な筋肉だけに作用するので、全身への危険はより低いと考え
られている。
このようなEPOは禁止されているが、他方で、多くのアスリートが、
低圧地域での訓練を行っており、原理と効果は似たものである(赤血球
の酸素運搬能力を高める)。したがって、あるタイプの人工的な措置は
社会的に承認されており、別のタイプは(原理が同じでも)社会的に認
められていない、ということになる。「Live high, compete low(高
いところで生活して、低いところで競争しよう)」はアスリートの標語
になっている。別例では、グラファイトのテニスラケット(=反発力増
強)、ネオプレイン製の競泳水着(=摩擦低減)も、議論はあったが承
認されている。つまり、すべての「人工的」手段が違法というのではな
い。そもそも社会が認めていない薬物投与などが、競技内部でも認めら
れない、ということになる。例:パラリンピックでの「正当性」
多くのスポーツでは、努力も必要だが、生まれつきもきわめて重要な
基礎体力である。ある運動生理学者によれば「熱意あるアスリートに
とって最も重要なことは、適切な両親を選ぶことである」。(ちなみに
これは、音楽家なども同様。)
もし「生まれつき」という不平等なものごとで、アスリートの優劣が
決まってしまうのであれば、なぜ、その「不平等」を「是正」するため
の遺伝子ドーピングは違法とされるのだろうか? とはいえ、もちろ
ん、すべての身体的な介入には危険が伴われることは重要であり、看過
できないのは当然であるが。
本日の出席と質問:ーーー
1)成績評価と期末テストの実施について、同意するかどうかを回答し
てください。簡単にYes No でよい。名前はフルネームで、文中に。
ーーーーーーーーーー
最終的にこれら全ては、「身体とメディアの相互関係」としても捉えら
れるが、「人間的自然Human natureへの人為的介入は、それも自然の
うちか、それとも文化的逸脱か」という問題軸でも把握できることであ
る。21世紀に入り、先端科学分野を中心に非常に活発化している研究
領域ではある。現実的な技術革新にとどまらず、文学、アート領域など
でもさかんに扱われている。
(1)現代アート、ポップアート、テクノアート領域での新しい身体感
覚の表現:必ずしも正確な技術水準の反映とはいえず、誇張したイメー
ジ表現であることも多い。ただし、ありうべき可能性についての印象的
な提示になっており、大衆意識に全般に影響している可能性はある。ス
テラーク、オルランOrlan、森、マシュー・バーニー Matthew Barneyな
どなど多い。
森万里子の一連のセルフパフォーマンスアート写真作品(90年代):
アニメ的な色彩感覚や身体感覚などが話題となった。渋谷駅前のカプセ
ルのパフォーマンスなどにも、身体感覚、Bodyware的な感覚が強調さ
れている。ただし、これらは基本的にアート作品なので、紹介のみとし
て、作品論を展開することではないだろう。
オルランの一連の「パフォーマンス・アートとしての美容外科手術」:
フランスのメディア・アーチスト、オルランの一連の作品が、このテー
マである。「OMNI」などビデオアート作品として。(近年、レ
ディー・ガガのビジュアルイメージに対して、剽窃だと主張した)。
バーニーの「クレマスター3」(2002):DVDでも提供されてい
る。NYグッゲンハイム美術館内部などをロケ地としたビデオアート作
品。違和感を与える各種の人物が登場する(当人も)が、エイミー・
ミューリンズを起用した部分がかなりインパクトが強い。
ミューリンズ(マランス)はパラリンピックのGメダリストで、モデ
ル、役者など多面的に活躍している障害者。「膝から下の欠損」を逆手
にとり、そのことが可能にする可能性を提示していることが多い。(も
はや既視感のある人工義足のイメージはおそらくこの人あたりが最初
期)。MITメディアラボの「人間の適応性に関する新科学シンポ H2.0」
2007などにも登場。
ニック・ナイトの障がい者ファッション写真:意図的に演出して、イ
メージの変更を求めるものだろう。類似の「既存イメージ、先入観の変
更」を意図したメディア表現はこのところ数多い。
(2)結果的にデジタル画像研究になっているもの:静止画像合成など
はかなり一般化しているので、それらを応用した実用化が、各種のコン
セプトで試行されている。
「可視的人間」計画:医療分野でのデジタル展開:
図は、アメリカ医学図書館が1994年に最初に公開した
「VHP(Visible Human Project)可視的人間計画」の画像、「最初の可視
的男性」である。当時、非常に話題になったもの。
これは、テキサス州在住のある強盗殺人犯が、1993年に死刑執行
されたのちに、コンピューター上で、その画像を徹底的に医学的に再構
成したものである。95年には、心臓発作で亡くなった59歳の女性か
ら、やはり最初の「可視的女性」が作られた。図参照。本人や親族の同
意を得て行われたものだが、「バーチャル死体」などとして、メディア
的な注目を受けていた。
H・G・ウェルズの「透明人間invisible man」の発想を逆転させ
て、人間の身体のあらゆる部分が、解剖、MRI撮影とCTスキャン、冷凍
保存、1ミリ厚のスライス化、デジタル撮影、などの方法によって、
「そのすべてが目に見えるように」記録されることになった。さらに
データ形式で、ネット上で医療関係者に配布される目的で行われた。
「もっとも人目に立つ人体」、「内部の全てがデジタルデータとして展
示された最初の人間」だった。可視的男性は、約1900枚のスライス
写真から構成され、15ギガバイトのデータ量だった。可視的女性はさ
らに細かく撮影され、およそ5200スライスから構成された。
さらに、これを臓器ごとに追跡することもできれば、血流や鼓動、外
傷などの生体へのトラウマへの反応を再現することなど、各種の生体反
応を仮想的に再現することもできるように作られた。これにシミュレー
トされた「外科手術」を試みた外科医もいたという。「ダヴィンチの解
剖図以来もっとも精密な人体解剖図」などと呼ばれ、あるいは「サイ
バースペース上の人体」などとも報道された。
この計画そのものは、完全に医学的な用途をもったものだが、これが
与える印象は強く、リアルな存在とバーチャルな存在、そのままの見え
方と構成された見え方について、いろいろなことを考えさせるプロジェ
クトとなっている。
現在では、インタラクティブDVDとして国内でも一般販売されてい
る。
https://www.youtube.com/watch?v=dPPjUtiAGYs
ついで、図は、1993年秋のニュース雑誌「TIME」特別号の表紙
「アメリカの新しい顔」と題された女性のポートレイトである。一見し
てどのような人種に属するかが判別できないこの女性の写真には、「ど
のようにして移民たちは、最初の多文化社会に形を与えるか」という副
題が記され、「彼女はいくつかの人種の混合から作られた」というコ
ピーが付されていた。
実際には、この女性像は、複数の人種の写真を、コンピューター上で合
成することで作られた合成写真である。「イブ」と呼ばれたこの女性
は、グラフィック的には「15%がアングロサクソン系、17.5%が
中東系、17.5%がアフリカ系、7.5%がアジア系、35%が南
ヨーロッパ系、7.5%がヒスパニック系」という特徴から成り立つ
モーフィング画像で「アメリカで増加する人種間婚姻のインパクトを画
像的に表現するため」に、「人種の異なる7人の男性と7人の女性から
生まれる可能性がある子供」の画像を掲載したという。
この画像を見る者は、それが多様な人種の特徴を備えていることにも
驚かされるだろうが、それ以上に、この画像が、「実在の人間のそのま
まの写真ではない」ということにも驚かされる。1990年前後に、い
わゆる「バーチャル・リアリティー(人工現実感)」が話題になって以
来、この画像のような、「単純な物理的世界に、そのままで存在してい
るわけではない種類の存在」をめぐって、多くの思弁的な議論が行われ
てきた。
図 90年代∼、日本の芸能プロに所属した「最初のバーチャル・アイ
ドル」、DK-96、DK-2001「伊達杏子」 マスコミ研究では、リップマンの「世論」やダニエル・ブーアスティン
の「幻影の時代」以来、「メディアが演出する疑似現実」についての多
くの議論があるが、近年ではデジタル装置による擬似的な現実をめぐっ
て、とりわけ多くの考察が行われている。
ーーーー
以下、マスコ研究史でも触れている学説史を簡単に:
リップマンWalter Lippman の「世論」1922:人々は、直接に知るには
あまりに広大な現実環境ではなく、それについての主観的でバイアスの
かかった虚構である「疑似環境pseudo-environment」を構成し、その
内部に個々人が住んでいる、とする。「物理的には同一の世界に住んで
いても、異なった世界の中で感じたり考えたりしている」という。
ブーアスティンDaniel Boorstin の「幻影の時代」The Image 1962 で
は、メディアによってあらかじめ計画され、演出された事件のことを
「疑似イベント Pseudo-event 」と呼んで、その半・現実的な性質を指
摘している。あらかじめ予測されて演出されているので、まったくの
「ニュース」ではない、ということ。ここからメディアによる現実の構
成、ということが説かれる。
関連する発想としては、ラング夫妻 Kurt & Gladys E. Lang による
「マッカーサー凱旋パレードのテレビ的構成」1953 の研究がある。
「テレビ的に再構成される現実の実態」を検討したもの。
これらについてはマスコミ理論史(コミュニケーション講義Ⅶ)で論じ
ている。
ーーーーー
HET技術の到来とともに、「どれが本当のその人なのか」が判然としな
いケースもでてきている。
Oscar Pistorius 2 modes:
1:
2:https://www.theguardian.com/world/2016/jun/15/oscarpistorius-removes-prosthetic-legs-walk-sentencing-hearing
HETのため、そもそも人間のあり方が状況次第で多様化し、それを誇張
してメディアが現実構成するため、「違うモードで極端に印象が異な
る」状態が報じられることが増えている。
(3)障がい者関連は近年、メディア論的にも注目されている。障がい
があってもアクセスできる=ユニバーサルデザインであること、誰もが
いつか関係する可能性があること、「人にやさしい」が、子供、家族、
高齢者、障がい者にやさしいことと近い関係にあること、などによる。
障がい、健常いずれも、「目につかない」場合があることには要注意
だろう。
例:心臓ペースメーカー移植者の電車内行動(迷信に近い携帯電話の電
波への恐怖など)、オストメイト使用者の対人行動、などなど。これら
は単純なスティグマではない(一見して見えないから)が、明らかに行
動への制約がある障がいである。また、「判明した」「影響された」場
合には、対人的にも、身体的にも、ある程度の精神的負担となりうる。
ドーピングも、障がいではないが、「目につかない」身体への介入であ
る。内蔵関係、ホルモン内分泌関係、情報関係などは、しばしばそのま
ま「外見」には反映しないので、要注意。
本日の出席と質問:ーーー
1)本日挙げた「画像的な表現」のどれか
について、感想をあるていど詳しく。
ーーーーーーーーーー
「外見」「演技」「現実構成」をめぐる社会科学的な議論
前回、身体のハードウエア化、メディア化の傾向を示すいくつかの実
例を例示した。よしあしはともあれ、このような傾向はごく現実的でも
あり、今後とも続くとみられる。身体の外見について、各種の社会科学
的な議論があるのでそれをここで補う。
基本的に「人の外見」は「所与のものである」ため、あまり論じられ
なかった時代が長い。また、性差が大きい領域でもある(ここしばらく
は女性文化と関連していたが、いつもそうだったわけでもない)。ただ
し、いくつかの社会科学的な検討もあった。
(1)ガルが先駆となった骨相学、ロンブローゾの犯罪者の分類など
この関連の前史としては、18世紀のドイツ∼フランスの生理学者ガ
ルによる、頭蓋骨の形状と性格の関連性についての研究(のちに「骨相
学」と呼ばれた)や、19世紀イタリアの犯罪学者/精神医学者のロン
ブローゾによる、犯罪者についての形態学的な研究がある。ここでは、
一定の性格や人格が、特定の身体的な外見と一致している、とみなされ
ていた。「犯罪者の外見」など、一定の外見をしている者は、たとえば
犯罪者になりやすいと仮定された。外見と自己についての決定論であ
り、「外見が自動的に性質を含意している」。
例:「ありがちな整った顔」を示す美容外科の手術マニュアル
典型的な「整った顔型」については一定の合意がある。逆に、それに完
全に合うわけではないタイプについて注目させるようなコンテンツが増
えたりもしている。
(2)ジェームズ、クーリーの自我論
心理学や社会学の自我論の領域では、「自我」(自分自身、その意
識)というとらえどころのない存在を把握するために、19世紀末に心
理学者のジェームズが「社会的な自己」という発想を導入している。そ
れは、「自我」のうち、「相手によって知られる部分」のことを意味す
る。「その人自身が、自分について持つ考え」ではなく、「その人の周
りの人が、その人をどう考えているか」が、その人の「社会的な自己」
である。人間は多くの知人を持つので、それらの知人がその人のことを
「どう考えているか」の合計として、ある個人の「社会的な自己」があ
るとした。この発想は、自我の社会的・対他的な意味、「他者への現れ
方」を強調した点できわめて重要だった。
この「社会的な自己」の発想に影響されたアメリカの社会学者チャー
ルズ・H・クーリーは、「鏡に映った自己looking-glass self」という
概念を用いた。ある人が、「相手から自分への反応」を手がかりにして
自己認識を作り出すとき、これが「他者という鏡に映った自己」だとし
た。当然だが、他者の反応が「本当の自分」を正しく反映しない場合も
ある。このとき、その人は、他者の「間違った」反応にもとづいて、自
己認識を形成してしまう。前回示したように「美の基準」などは時代と
場所で変動するので、別の社会では現状と異なる「鏡に映った自己」を
形成したはずの人が、現状の自己イメージを形成している可能性はいつ
でもある。「ある村にとても醜い人がいた。目が2つしかなかった。そ
この住人はみんな3つあるのに」などの逸話で示される。外見と社会環
境は相互に作用している。
提示: よくある「変装ルポ」の実例。「外見を変えることで、社会的
評価がどう変化するかが示される。
このように、外見と他者評価、自己意識は密接に関連する。ただし、
ジェームズもクーリーも、こうした彼らの自我論を、特に「外見」につ
いての考察と関連させて多く論じたわけではなかった。
(3)ゴフマンとスティグマの研究
戦後アメリカの社会学者アーヴィング・ゴフマンの仕事に「スティグ
マ」についての研究があり、ここでの問題関心と部分的に重なってい
る。「スティグマ」とは、説明的に言えば「目につく傷」のこと。同じ
傷跡であっても、それが首から上にある場合と、下腹部にある場合と、
片方の腕にある場合とで、それが「目立つ」度合いや、それが含意しう
る意味合いは、大きく異なる。ゴフマンは、社会を一種の劇場、行為者
を俳優とみなす演劇的視点を採用していたが、こうした「劇場としての
社会」では、自己の「印象管理」が重要な問題となる。そして、スティ
グマを持った個人の場合には、印象管理の問題は、一般人よりも複雑に
なりがちである。
ゴフマンは、自己の印象管理という視点から、「傷ついた外見」によ
るスティグマの問題として、「外見」の問題が社会学の研究対象となっ
た初期の実例。
(4)ガーフィンケルと「パッシング」の研究
戦後アメリカの社会学者ハロルド・ガーフィンケルは、会話分析など
を含むエスノメソドロジー学派の創始者として知られる。そのガーフィ
ンケルの主著『エスノメソドロジーの研究』に、「アグネス」と呼ばれ
る人物の研究があることは有名。アグネスは、ある時、ガーフィンケル
が知るようになった学生だが、普通に交渉しているぶんには、「ありが
ちな女性」のように見えていた。しかし、実際には男性として生まれた
人だった(らしい)。
このアグネスの実例から、ガーフィンケルは、彼の関心である「社会
秩序がたえず再構成される」という問題を考える。ガーフィンケルによ
れば、ある個人が「その人がそのように見えようとしている存在」とし
て「通用(パス)できるpass」ということによって、その個人の周囲
での、「ミクロな社会秩序が再構成され続けている」わけである。ある
個人がそのような存在として通過できる、通用する、ということをさし
て「パッシング」できる、と呼んだ。ここから、さまざまな社会的な存
在が、どうして、そのような存在として通用しえているのかが、日常的
な場面において考察される。それはごく小規模な場面での、「社会的な
現実の構成」に関する問題となる。
(提示:FTMなど)
以上は、「ある個人が、身体のもちうる情報チャンネルを動員し、
もっとも広義のメディア的な演出によって、特定の印象を成立させよう
としている作業」の研究ともいえる。
このようにして、ガーフィンケルの場合にも、その中心課題だった
「社会秩序問題」の系のひとつとして、個人の「らしさ」の成立が検討
されていた。
ゴフマン、ガーフィンケルともに、いわゆる主流派の社会学からは周
辺的とみなされていた社会事象を詳細に検討することで、社会学に新生
面を拓いた人たちであるが、この両者ともに、現象としては少なくとも
「外見と自己」にかかわる論文を記していることは特記されてよいこと
であろう。
なお、表情、動作と感情の関係を検討した先駆者としては、「人およ
び動物における情動の表現」を書いたチャールズ・ダーウィンと、それ
に影響されて「身振り言語論」を展開した実験心理学の開祖、ドイツの
ヴィルヘルム・ヴントの存在がある。この両者が非言語コミュニケー
ション(広義のここでのテーマ)研究の先駆者といえる。
とりわけ、
「心理的な自己(内心)」
「その周囲の身体上の情報チャンネル」
「それに密着する各種メディア」
「その個人(各種メディア補助を受けた人間)が遂行する役割演技」
「それら役割に対応する社会制度と地位」
などが、一見して必ずしも整合的でない場合も多くなっている。*これ
を前回紹介した各種の実例に適用してみると興味深いだろう。
前出のパフォーマンスアート作品やビデオアート作品について、上のよ
うなことを推測してみるといい。
義肢補綴、運動能力回復→増強の流れ
局地的に戦争状態が続いており、それは障がいを負った兵士などを多数
生み出しつづけている。各国に派兵しているアメリカではそれへのリハ
ビリ技術が各所で研究されている。まったく現実的な目的での身体修復
技術だが、与える印象と可能性が、既述した論点とも重なり、印象深い
可能性を考えさせるものになっている。
提示:ジェシー・サリバンの実例
クラウディア・ミッチェルの実例
*これらは日本のNHKでも特集が組まれ、もはや想像上の問題ではな
く、現実的な課題となってきている。
本日の出席と質問:ーーー
1)外見と自己意識について、ズレや不一致
に悩んだ経験など実体験を入れて、講義から
考えたことを論じてください。
ーーーーーーーーーー
いわゆる「不気味の谷」について
提示画像類のいくつかについて、いわゆる「Uncanny不気味」な例
外的印象があることは事実。uncannyがここ20年ほどの時代のキー
ワードなのも事実。ロボット技術の進展とともに、人間の外見を模した
ロボット類が多く開発され、それらがまだ「人間とまるで区別できな
い」ではないので、不気味な印象を与えている。
学術用語ではないが、この現象(似てみえるが、どこか違う)について
不気味の谷uncanny valleyと総称されることがあり、例示しておく。
提示:「人を模した機械」と「機械を模した人」:この落差。
ケヴィン・ウォーウィックの実験とその反応
当時(2002頃)、国内マスコミでも話題になった出来事だが、英
国レディング大学のサイバネティクス学の教授、ケヴィン・ウォー
ウィックKevin Warwickが自分の神経系に信号読み出し電極を短期間イ
ンプラントし、その信号をコンピュータに送って各種の機械の制御を試
みる実験を行った。
ウォーウィックは多岐にわたる研究開発を行ったが、基本的に工学の
学者で、特に自動装置(印刷の制御、北海漁業の水揚げ自動機械な
ど)、障害者の補助装置(怪我人が回復するにつれて補綴に依存しなく
なる運動補助システムなど)、自律型ロボットなどを開発していた。こ
れらの研究結果から以下のような発想を持った。
(1)機械知能はネットワーク化が容易だが、人間の脳はスタンドアロ
ンだ。
(2)コンピュータは大量の次元で情報を処理できるが、人間は数次元
だけだ。
(3)コンピュータの世界知覚は無数の方法によるが、人間の知覚は少
数だ。
(4)コンピュータは速いが、人間の脳は遅い。
(5)コンピュータはよい長期記憶を持つが、人間はすぐ忘れる。
(6)機械は長距離でエラーなく並列(パラレル)通信できるが、人間
は短距離でエラーが多く、時系列的(シリアル)通信しかできない。
(7)将来の機械知能は、セル(演算素子)の数は無限にみえ、それら
の結合点も無限にみえる。人間の脳の進化は遅い。短期でみれば人間の
脳のセルの数は変わらない。
(Kevin Warwick, I, Cyborg(2002)から要約)
以上の諸点から、(近い将来にシンギュラリティー(技術的特異点)
が来ると仮定して)、機械と人間の共存をはかるために、可能なかぎり
機械の特性を人間が利用することが望ましいと言う。ここからマン=マ
シンのインターフェイスについて各種の実験を行った。
(1)簡単な小型の発信装置を腕に埋め込み、その信号によって、イン
テリジェントビルのドア開閉などを行うもの。装着者が近づくと自動的
にドアが開閉する。これは大成功し、ふたつのことが確認された。
(1)インプラントによる環境の制御は快適に感じられることが多かっ
た。(2)他方、当然だが管理側からは装着者の挙動はすべて分かって
しまう。これらの結果の社会的意味を考察しつつ、以後の実験を進め
る。
なお、これらの実験は全てメディアに公開されつつ行われた。
(2)第二の実験はさらに本格的なもので、左腕の神経に直接に接触す
る100本のピンをもった小型の電極板を埋め込み、ここから神経信号
を読み出し、その信号によって外部の機械(ロボットアームなど)を制
御する。すでにステラークらが「皮膚の上からの電位差でのアーム制
御」は実行していたので、著者は「インプラント」によってこの方向を
一歩進めた。(この業界にも競争がある)
(3)上の第二実験は、第一のものよりずっと危険なので(神経を傷つ
ける可能性がある)、新たに小型の電極を開発。左手首に外科的に埋め
込み、信号を読み出す装置は腕にくくりつけ、その装置から信号をコン
ピュータに送出し、かつコンピュータからの信号を受け取る。
(4)上記の状態で、
・腕の神経に指示を与えて、外部のロボットハンドを操作する
・仮想空間内部で、人間の代理(アバター)を操作する
・レゴの小さなロボットを命令で走行させる
・赤外線センサーなどの追加感覚器を装着し、そのインプットを受け取
る(暗闇で行動できるなど)
・インターネット経由で、イギリスからアメリカへ信号を送り、アメリ
カの装置を操作する
などのマン=マシン系の制御実験を試み成功している。
(5)もっとも興味深い実験として、パートナーに同様のインプラント
を行い、相互の神経の間での信号の授受を行った。おそらく史上初の
「無媒介のコミュニケーション」の実験であり、その意味で重要だろ
う。現状ではまだ「意味のある信号の授受」まではいっていない(ま
た、そのためにはB-BI 脳ー脳インターフェイスが必要となるだろう)
が、これが発展すれば、関連領域への影響は甚大となる。直接のコミュ
ニケーションはこれまで「不可能」とされていたからであり、「胡桃の
殻の外側へは出て行けない」ことが、すべての人文社会系の学問の基本
的な大前提だったからだ。
以上、ウォーウィックの実験はやや危険なものであるが、それがとも
あれ実行されたことは興味深い。ここまでくると、もはや「欠損の補
完」ではなく、「感覚装置などの拡大」である。
マン=マシン系の制御(これはよくある)にとどまらず、マン=マン
系の直接コミュニケーションの可能性が示唆されたことは非常に重要と
いえる。
ただし、信号を授受したのが末梢神経であって、いわゆるBMI BrainMachine Interface まで深入りしていないのは穏当なところだった。こ
の後、各国でBMIでの制御の研究が活発化する。視覚の補綴などでは、
BMIの領域に踏み込んでいる。
この時点でのウォーウィックの意図は、「人間の能力の部分的な補完」
までだった。
この実験:末梢神経ーM インターフェイス
他には: B-B(Brain - Machine) インターフェイス
B-B(Brain - Brain)インターフェイス
上2者までくると、かなり「根本的な変化」が予想されるもの。
これらの実験に加えて、可能性のレベルでは、「E医療」(パーキン
ソン病などの神経刺激による治療)、「記憶の拡大」(神経と外部メモ
リを直結することで多くの新しいメモリを受け取れる「即時の学習」の
可能性)、「テレパシー的交信」(神経信号の交換による考えただけで
の意思疎通)などの可能性が真剣に考えられている。
すべてコンセプト段階でしかないが、これらの可能性がまじめに考え
られていること自体が驚きだろう。
ウォーウィックの実験は多くの賛否両論を起こしたが、実験そのもの
はきわめて注意深く行われた。だが、批判的なコメントで、次のような
点を指摘している学者がいる。すなわち「外科的なインプラント」とい
う極端な方法以外にも、人間の能力を増大させる方法は存在しているは
ずだ。「教育」ということ自体が、人間の脳への人工的な影響の行使な
のであり、こうした教育によっても、いっそうシステマチックに人間の
能力を開花させることはできるだろう。我々は、もしウォーウィック流
の表現を使うならば、そもそも「人間であること」において生まれなが
らに「文化/自然の複合体=サイボーグ」なのだから、というわけであ
る。
関連する例:2004年の報道で、「ソロバン暗算の日本一」選手権の
話題があった。重要なのは「暗算中の名人の脳の活動部位が測定され
た」こと。「暗算の時には、暗算名人の脳では、通常人の「計算を行う
中枢」は、とくに活動的ではなかった」。かわりに活動的だったのは
「視覚化をつかさどる脳の部位」だった。
つまり暗算名人の脳では、「計算」が行われているわけではないらし
い。むしろ「脳内に視覚化されたバーチャル・ソロバンが高速に利用さ
れて、このソロバンを使い演算が遂行されている」。
したがって厳密な意味では、暗算名人は「普通人のような数の演算を
しているのではなく」、「脳裏のバーチャル・ソロバンを高速に操って
いるだけ」ということ。人間の脳内にソロバン装置が存在してはいない
から、教育と訓練で、脳内に人工的に(まったく外科手術的にではな
く)作り込まれた「想像上のバーチャル・ソロバン」による高速演算が
可能となっている。
これは前に述べた「文化や教育による特殊技能の発達」の方向性を支
持している。
とはいえ、ウォーウィックがいう人間の限界のいくつかは「文化によ
る訓練」では克服できない限度があるので、ウォーウィック的な方向が
すべて否定されているともいいがたい。いずれにせよ「人間の能力開
発」という見地から、多くの可能性が試行されている現状があるのは事
実である。
ーーーーーーーーー
7/8の出席とコメント:
「授業評価アンケート」のため、コメント課題はなし。
「コメント用紙」に学籍番号、名前だけ記入してください
すぐに回収します。
ーーーーーーーーー
5)高機能の環境/密着/内蔵型メディアの可能性と問題点
これらの高機能メディアの将来的な可能性については各種が検討され
ている。障害などがある場合には、ある種の補綴は不可欠であったり、
あるいは生活の質を向上させうるものである。長引く戦争が、多くの障
害者を生み出しており、それへの対応策という側面もある。これらの
ニーズ(高齢、障害、戦争、災害など)は、全体として、こうした需要
を喚起しているものと考えられる。議論の余地なく必要とされるこのよ
うなニーズ以外には、どのような可能性と問題点が考えられるだろう
か。
(1)問題の構図
カプセル人間仮説にもとづいて説明すれば、提起された当時の「カプセ
ル人間」観:
「さまざまなメデイアのカプセルを通して、ゆるやかに関係しあう若
者」
これが現状では、いっそう先鋭化して:
「大量の感覚のモーダルを演出し、構成した上で、電子メディアを媒介
して、きわめて疎遠な関係性を維持している多くの人々」
当初想定されていたのは、「テレビやマンガ、音楽などの在来メディア
を話の媒介などに用いて、距離をおいてつきあっている人々」のこと
だった。これに、能力、身体機能、外見、性格、などなどの多くの対人
感覚のモーダルが加わってきたために、いっそう「カプセル」の外皮が
厚くなっている。距離をおいた親密さ(ネット上での匿名でのやりと
り)と、物理的に近接した疎遠さ(隣室の自殺)の並立にともなう混
乱。
その原因:
1)個人主義の進行:確実なのは自分の(その時点での)意思だけ。そ
れが満足されればそれでいい。長期的な視野、予測はあまりない。例)
子供を作る選択=数千万円の支出、とだけとらえる発想。ニュースは
ネットで。欲しくないものは、そもそも視野に入れる事も望まない。意
志的ともいえるが、勝手ともいえる。
2)貨幣経済の進行:支払う金銭の多寡に応じて、あらゆる財とサービ
スが購入できる。どのようなものであっても。
3)環境、身体のコモディティ化:私有財産としての「自分の持ち物と
しての周囲の環境」「自分の持ち物としての自己(の能力、特性、身体
などなど)」。より望ましい方向へ意図して変えていけるもの、所有
物。何かの「入れ物」→何の?
4)ライフチャンスの豊富化と多様化:「選ぶことができる大量の選択
肢がある」という感覚。それらは多様な可能性を含んでいるので、「ど
のような個人であってもそれらのライフチャンスに参加することができ
る」という感覚。「誰でも参加できる」ともいえるし、「誰もが参加さ
せられる」ともいえる。可能性の放棄にともなう「枯れた安定感」はな
かなか得られない。現代生活の特徴ではあるが。
5)常識的な区別のあいまい化:「しかるべき場所と時間にしかるべき
事をする」「ものごとにはふさわしい取り合わせがある」という意識の
希薄化。
基本的には、自由主義的かつ世俗的な貨幣経済社会の帰結ともいえる。
しかし、それがこのような形態にまで到達すると予測されていたかは不
明。
(2)さまざまな可能性
とりたてて障害があるわけではない個人の場合、このようなメディア
には、どんな利便がありうるだろうか。
感覚の拡張:欠損感覚を補完する、という意味での視覚や聴覚への補
完(不足を通常へ)は、すでにある程度まで行われている。ただし、上
記ウォーウィックも指摘していることだが、「そもそもその生命体に自
然には備わっていない感覚領域」についての増強は行われていないし、
技術的に可能かどうかもよく分からない。ただし作業する上で有効な感
覚がありうることはあるだろう。
精密部品などで、アジア人女性(小さい器用な手)でしか製造できな
いものがあることは知られている。また、自然写真家にとって、動物の
臭跡がトレースできる装置は有効であろうし、それがウエアラブルであ
ることで便利な場合もありうる。
人間の感覚インプットは脳の高機能性に比べて限定的なので、類似の
実例は色々とある。ただし、普段の日常生活でそれらは必要ではないは
ずで、オンオフが完全に自律的に行えないと困るはずだ。時計職人から
航空機パイロットまで、視覚や聴覚を補強する多数の装備を使っている
ことはままある。こうした場合にウエアラブルは業務上便利だろうが、
それをインプランタブルにするほど必要かどうかは疑問。最終的に、
「日常生活でまで追加知覚が必要となる」というのは、そもそも「普通
に暮らしやすい社会に住んでいるかどうか」が疑わしい。例:人間の声
紋が聞き分けられる人、というのは、個人を判別するのには貴重な能力
を持っていることになろうが、それほどまでに「他人を判別せねばなら
ない」という生活は、楽しいかどうか分からない。
生化学的な補綴としては、「精力剤」「眠気防止剤」「睡眠促進剤」
「筋力増強剤」など、これもいろいろなものが考えられたり、実行され
たりしている。運動競技大会などでは、これらがドーピングとして問題
化する。
抗うつ剤などは近年では必要な場合も多いが、効果が強力なものの場
合、「人格そのもの」への影響が出てくる。「プロザック」剤などで
は、ほとんど人格が変わってしまうとすら言われる。このことをどう考
えるかは微妙である。補綴に頼らずとも、たとえば宗教への入信や、ク
ラブ加入など、社会文化的な要因によっても、人間の人格は大いに変化
しうるので、「何が自然か」はそもそも決めがたいからである。
人間の場合、もともと社会文化的にきわめて可塑性が高い。生後の教
育で、かなり多様な環境へ対応できるので、そもそも「これこそが何よ
りも自然なありようだ」という状態が、なかなか決めがたい(実例はす
でに示した)。とはいえ、長期の使用で身体への悪影響などが出ないこ
とは、まず確認されるべき問題である。
運動の拡張:上記の薬物投与による運動能力への介入に加えて、さま
ざまなデバイスによる補綴などが理論上は考えられる。また、事実、障
害がある場合などには、運動能力の補完が必要になることが多い。とは
いえ、後述する論点であるが、「特定の用途に特化していない」という
のが人体の特徴のひとつである(そのために、出生後の訓練で、色々な
可能性が伸ばしうる)のだから、この部分をあまりに制約することは、
従来的な意味での(過去20万年ほどはずっとそうだったような)人間
性に介入することになる。ただし、特殊な作業(災害現場、戦時など)
では、しばしば効率の高い運動能力が求められているのも事実。
知能の拡張:この部分がもっとも難しいだろう。理由は、「知能」が
簡単に定義できないものであるためである。「100メートルを速く走
る能力」というものはほとんど一意的に決められる。ところが、何を
もって「知能の拡張」とするかはきわめて難しい問題であり、このため
に、知能への人為的な介入は、とりわけ注意深く行われるべきものと
なっている。(このことが、多くの場合に、やはり「知能への人為的な
介入」の一形態である「教育制度」がなかなか改変できないことの一因
である。)
上のウォーウィックによれば、「追加の記憶容量」や「加速された学
習」などが、知能の拡張として想定されているものである。たしかに、
自分の脳の中に、ほとんど自動的に、大量の外国語が暗記できれば、そ
れは便利なことに違いない。とはいえまた、「大量の外国語の習得が必
要になる人生」というものが、そのまま「よい」ものかどうかは分から
ない。同様にして、各種の技能が短期間に習得できることのみをもっ
て、そのまま「よい」ことかどうかは分からない。
生活の質の向上:障害者の自立支援という意味からは、QOL改善は重
要である。高機能メディアがこれに貢献することはままある。ただし、
とにかく短期間に一定の労働や学習が行えることそれ自体は「よい」こ
とであるかもしれないが、「人口の全て」が同じように短期間で同じ労
働や学習が行えるようになれば、結局、能力差が生まれることはないの
で、「単に生活が忙しくなるというだけ」のことであり、運用の問題が
検討される必要がある。「高学歴化」にも、このような側面がないわけ
ではない。
時間の有効利用:記憶などは効率的に行ってよいか。
労働時間の軽減:単純労働は軽減できた方がよいか。
片手間の労働:それでも多忙であれば、マルチタスクが有効かどうか。
などなど、いろいろな問題が考えられる。ただし、「できてもしない」
行動方式がかつては存在していたわけだが。
(2)問題点 結局のところ、何がこのような技術展開の浸透を「ためらわせる要因」
なのか?
以上検討した「ウエアラブル」「ユビキタス」「インプランタブル」
メディアのいずれについても、一定の「違和感」や「ためらい感」が感
じられるものと思われる。それがほとんど生理的な嫌悪感に近いという
場合も多いはずである。では、なぜゆえにそのような印象が抱かれるの
だろうか。いくつかの原因が考えられる。
自然主義:天然自然が一番よい、とする考え方は根強いものである。
とりわけ、外科的なインプラントなどの場合には、この感覚が強く感じ
られるものと思われる。生活上で必要でない限りは、「手を加える」こ
とは「自然の摂理」に反する、という発想である。
「内部の豊富さ」への希求:人間(を含む生命体)は、一見そうみえる
ほどには自己完結的な存在ではないが、それでも、「完結した皮膚の内
側だけ」が「その個人」である、という印象は強い。したがって、その
「内部にある豊富な能力」こそが「個人の能力」であって、その外部
は、いわば当人にそのまま属してはいない、という印象がある。外部装
置への依存は、「当該個人その人」の価値とは異なる、という感じが出
る。高地トレーニングはよくても、ドーピングは不可、というのもこれ
に近い部分がある。
自律性・非依存性:素材工学が進歩しつつあるので、補綴といっても生
まれつきの身体と一見区別しがたい外見になることは予想される。ただ
し、生命体の場合、かなり悪条件でも「自己再生」するのであり、これ
が非生命と決定的に異なる点である(同様に、異常な増殖の原因にもな
る)。自己再生素材はまだ先の話題。自己再生する、ということは、外
部からのメンテナンスがいらないということであり、つまり独立してい
て自律的である、ということ。これが尊厳の感覚と結びついている。
「自分の人生は自分が決める」。(ただし、メンテの必須な場合も実際
にはままある)。
人間には一定程度の生まれつきの適応力があり、これが行動上の可塑
性を生んでいる(同時に長期の教育の必要をも生んでいる)。人工物で
は、プログラムや組み替えによって可塑性を実現するが、これらは外部
依存的にはなる。非依存的であって、「どこであっても、ある程度は
やっていける」ということは重要である。ただし、たとえば独立性を重
んじるアメリカ社会でも、自動車には極度に依存している(開拓期の馬
車への依存がそのまま続いている)。つまり非依存性といっても、ある
程度は文化的に相対的であるともいえる。
レイモンド・カーツウェルによる未来予測 もっとも大胆なメディア論的な未来像ともいえる。トランスヒューマニ
ズム、ポストヒューマニズム、などとも呼ばれる一連の技術思想の動向
を代表するものになっている。
『シンギュラリティーは近い:人間が生物学を超える時』(和書での邦
題は『ポストヒューマン誕生』)は、アメリカの発明家で未来予測家と
して知られるカーツウェルが2005年に刊行した650ページの大部
の著作である。同書には多くの特徴があるが、何よりも重要なのは、
「GNR(遺伝子科学、ナノテク科学、ロボット科学)によって、人間
がその生物的な限界を超えることが、今後数十年のうち、とりわけ20
30∼2040年代までに可能になりうる」ことを主張している点。同
様の論理から、「現在50代の人間には、寿命が飛躍的に延びる可能性
がある」と論じている点も重要。
この後者のために、GNRがさらに発展するのを待つあいだ、どのよ
うに「健康を維持するか」まで論を進めており、この「健康維持」のた
め自前のサイトを運営するほどになっている。
本書が検討しているのは可能性の話にすぎないが、多くの未来予測本
が一定の「方向性」としては当たっていたように、この本も方向性とし
ては当たっている可能性がある。空想として書かれたものではない。裏
表紙の宣伝文は、ビル・ゲイツ、マービン・ミンスキーらそうそうたる
面々による。版元も一般向け大手総合出版のバイキングプレス(ペンギ
ンブックスの一部門)であり、あまりいい加減な著作とは考えにくい。
Singularityとは「技術的特異点」と訳されるが、「ある臨界点に近づ
くと予測できなかった特異な現象が発生する、そのポイント」のこと。
具体例としては、1/Xの値は、Xがゼロに近づくにつれて、無限大に
近づくなど、それまでとは性質の異なった現象が発生するが、これが特
異点。
カーツウェルの議論は、技術の進歩、とりわけコンピュータ技術の進
歩から、それまでの「人間の条件:が変わってくる特異点が迫ってい
る、という認識にもとづいている。
カーツウェルの実績として、よく知られたものは「フラットベッドス
キャナー」という存在を発明したこと。さらにこれを光学読み取り器と
組み合わせて、視覚障害者のための「読み上げマシン」を開発した。し
ばしばコンサートで目にする機会がある「カーツウェルのキーボード」
は、この読み上げマシンの購入者だったスティービー・ワンダーの依頼
で開発されたものという。逐一列記しないが、ある程度は信頼できる発
明家、未来予測家として評価されている人。
その主張は、もっとも基本的には、MITなどの研究者たちの立論に
依拠している。MITメディアラボのマービン・ミンスキーらが多年にわ
たって指摘していたことは、「人間の心は脳にあり、脳はそれ自体が
(複雑だが原理は同じ)計算機だ」ということ(「心の計算説」)。こ
れは認知科学、脳の認知的研究、ロボット開発の基本にある考え方。心
が計算機なら、高度化したコンピュータで脳の代理ができるという大胆
な発想。
このことは、1)脳の研究をコンピュータの研究として行える。コン
ピュータとしての脳機能の解明ができる、2)高度なコンピュータには
精神や意識がありうるかもしれない、3)人間の脳のメディアが、生物
学的な「生まれ持ったそのもの」でなくてもかまわない、といった大胆
な可能性を意味している。とりわけ3)は、持続性が限られる生命体の
有機物の脳を、いっそう安定な構造物(電子メモリーなど)で置き換え
るきわめて大胆な可能性を示唆しており、これが「不死性」を意味しう
るとされる。さらに、そのような安定な意識体(意識をもった何らかの
安定な構造)による宇宙植民の可能性などさえ示唆されている。それが
大量に生まれてくれば、そのような存在によって「宇宙が目覚める」と
いう遠未来の進化の段階が現れる、とすら示唆される。
以上の論点に加えて、さまざまなかたちで人間を補佐したり改良した
りする、各種の可能性が、G gene、N nano 、R robot の領域から
網羅的に検討されているのが本書であり、これまでにも多くあった未来
予測本の中でも、かなり広範囲なものといえる。
前出のウォーウィックらと同様に、ここでの前提も、「人間がこれま
で自然進化の過程で獲得してきた性質は、もはや、自然が有効に機能し
ていない現代の文明社会では有効でなくなっており、不利なことも多く
なっている」ということ。この具体例は、肥満や(当人も発病してい
る)糖尿病などの文明病であり、これらは「生存のためのプログラム」
が悪作用をもたらしている(余剰な栄養まで取り込んでしまうので病気
になる)といえる。したがって、現状にふさわしいように、身体の方を
設計しなおせばいいという発想をとる。栄養摂取法、血液コントロー
ル、感覚知覚、脳機能などについてこの可能性を指摘している。
器官の機能を分析(リバース・エンジニアリング)して、それを別の
もので置き換えるという作業が、2030年代までには、相当まで行え
るようになる(つまり2030年代まで生存することが重要だ)とい
う。脳神経系、生殖器、感覚器官以外は、ほとんど置き換えられる、と
いう予測をたてている。この時点での人間の身体を、「ヒューマンボ
ディ2.0」と呼んでいる。
さらに、この時点では、脳機能のリバース・エンジニアリングと再構
成が、侵襲性の低い方法で安全に行えるようになるという。
医療MRI類似の脳内信号読み取り、埋め込みではなく無線によるナ
ノロボット制御での脳機能刺激など。たとえば生体内の情報伝達には、
きわめて遅い生化学反応が使われているだけだが、これらの制約が20
40年代くらいには取り払える。この段階が「ヒューマンボディ3.0」
と仮称されるが、ここではもはや、それまでの外見すら問題とはならな
くなり、自由に選択ができるという。ただしこうした改良は、いわゆる
「人工物」で「自然」の身体を置き換えることではない、とカーツウェ
ルはいう。この時点では、もはや「機械」といっても、現状あるような
機械メカではなくなっており、機械ということの定義が無意味化してい
る、ということのようだ。
このような状態が到来しても、我々が到達できる宇宙には、別種の知
的生命は存在していない、と推測している(SETI関連のデータから推
測。本書では、ほとんどの主張が、一定程度の実証的根拠とともに提出
されている)。したがって、宇宙進出がありうるとしても、それは人間
が宇宙に出て行くことだけだ(宇宙人は来ない)、とされる。その場合
ヒューマン・ボディ3.0の人体の方が適応性にすぐれているので、進出
は簡単だと述べている。
2030年代までに、機械と人間、現実とバーチャルリアリティ、仕
事と遊びの区別はなくなってしまうだろうと推測する。
「シンギュラリティー主義者」の世界観について、いくつかの要約を
行っている。
1)永遠に生きるのに充分なだけ長く生きるための方法はすでにある。
2)我々の身体は、過去の時代の遺伝プログラムで制御されている。そ
れを修正するための、通常とそれほど変わらない生化学的な方法もすで
にある。
3)人間の身体は遷移的なもので、その構成分子はいつも置き換わって
いる。変わらないのは身体と脳の「パターン」だけだ。
4)身体の健康と精神の到達範囲を最適化することで、これらのパター
ンを改善することができるし、それをするべきだ。
5)我々には身体が必要だが、それは意図的に変更できる。
6)あらゆる形式の知識は貴重である。身体と脳に埋め込まれた知識も
ふくめてそうである。その損失は悲劇である。
7)情報は知識ではない。大量の情報から意味あるものを選び出すのが
知識だ。
8)ある個人のもつ知識をバックアップする方法がないので、人の死は
悲劇だ。(なのでそれをバックアップすればいい)。
9)伝統的な宗教の主要な役割のひとつが死の合理化だった。死がなけ
れば生は耐え難いとされる。だが、特異点の到来で知識が爆発的に増大
するので、生はより耐えやすくなり、人生は本当に意味あるものになる
だろう。
10)我々の人生の目的は、いっそう高い「秩序」をめざしての、増大
する知識の創造と観賞だ。
11)宇宙の目的もこれと同様だ。
12)我々は、今世紀じゅうに、非生物的な知性の自己増殖を通して、
この太陽系を知性で充満させることができる。
レイモンド・カーツウェルによる未来予測 もっとも大胆なメディア論的な未来像ともいえる。トランスヒューマニ
ズム、ポストヒューマニズム、などとも呼ばれる一連の技術思想の動向
を代表するものになっている。
『シンギュラリティーは近い:人間が生物学を超える時』(和書での邦
題は『ポストヒューマン誕生』)は、アメリカの発明家で未来予測家と
して知られるカーツウェルが2005年に刊行した650ページの大部
の著作である。同書には多くの特徴があるが、何よりも重要なのは、
「GNR(遺伝子科学、ナノテク科学、ロボット科学)によって、人間
がその生物的な限界を超えることが、今後数十年のうち、とりわけ20
30∼2040年代までに可能になりうる」ことを主張している点。同
様の論理から、「現在50代の人間には、寿命が飛躍的に延びる可能性
がある」と論じている点も重要。
この後者のために、GNRがさらに発展するのを待つあいだ、どのよ
うに「健康を維持するか」まで論を進めており、この「健康維持」のた
め自前のサイトを運営するほどになっている。
本書が検討しているのは可能性の話にすぎないが、多くの未来予測本
が一定の「方向性」としては当たっていたように、この本も方向性とし
ては当たっている可能性がある。空想として書かれたものではない。裏
表紙の宣伝文は、ビル・ゲイツ、マービン・ミンスキーらそうそうたる
面々による。版元も一般向け大手総合出版のバイキングプレス(ペンギ
ンブックスの一部門)であり、あまりいい加減な著作とは考えにくい。
Singularityとは「技術的特異点」と訳されるが、「ある臨界点に近づ
くと予測できなかった特異な現象が発生する、そのポイント」のこと。
具体例としては、1/Xの値は、Xがゼロに近づくにつれて、無限大に
近づくなど、それまでとは性質の異なった現象が発生するが、これが特
異点。
カーツウェルの議論は、技術の進歩、とりわけコンピュータ技術の進
歩から、それまでの「人間の条件:が変わってくる特異点が迫ってい
る、という認識にもとづいている。
カーツウェルの実績として、よく知られたものは「フラットベッドス
キャナー」という存在を発明したこと。さらにこれを光学読み取り器と
組み合わせて、視覚障害者のための「読み上げマシン」を開発した。し
ばしばコンサートで目にする機会がある「カーツウェルのキーボード」
は、この読み上げマシンの購入者だったスティービー・ワンダーの依頼
で開発されたものという。逐一列記しないが、ある程度は信頼できる発
明家、未来予測家として評価されている人。
その主張は、もっとも基本的には、MITなどの研究者たちの立論に
依拠している。MITメディアラボのマービン・ミンスキーらが多年にわ
たって指摘していたことは、「人間の心は脳にあり、脳はそれ自体が
(複雑だが原理は同じ)計算機だ」ということ(「心の計算説」)。こ
れは認知科学、脳の認知的研究、ロボット開発の基本にある考え方。心
が計算機なら、高度化したコンピュータで脳の代理ができるという大胆
な発想。
このことは、1)脳の研究をコンピュータの研究として行える。コン
ピュータとしての脳機能の解明ができる、2)高度なコンピュータには
精神や意識がありうるかもしれない、3)人間の脳のメディアが、生物
学的な「生まれ持ったそのもの」でなくてもかまわない、といった大胆
な可能性を意味している。とりわけ3)は、持続性が限られる生命体の
有機物の脳を、いっそう安定な構造物(電子メモリーなど)で置き換え
るきわめて大胆な可能性を示唆しており、これが「不死性」を意味しう
るとされる。さらに、そのような安定な意識体(意識をもった何らかの
安定な構造)による宇宙植民の可能性などさえ示唆されている。それが
大量に生まれてくれば、そのような存在によって「宇宙が目覚める」と
いう遠未来の進化の段階が現れる、とすら示唆される。
以上の論点に加えて、さまざまなかたちで人間を補佐したり改良した
りする、各種の可能性が、G gene、N nano 、R robot の領域から
網羅的に検討されているのが本書であり、これまでにも多くあった未来
予測本の中でも、かなり広範囲なものといえる。
前出のウォーウィックらと同様に、ここでの前提も、「人間がこれま
で自然進化の過程で獲得してきた性質は、もはや、自然が有効に機能し
ていない現代の文明社会では有効でなくなっており、不利なことも多く
なっている」ということ。この具体例は、肥満や(当人も発病してい
る)糖尿病などの文明病であり、これらは「生存のためのプログラム」
が悪作用をもたらしている(余剰な栄養まで取り込んでしまうので病気
になる)といえる。したがって、現状にふさわしいように、身体の方を
設計しなおせばいいという発想をとる。栄養摂取法、血液コントロー
ル、感覚知覚、脳機能などについてこの可能性を指摘している。
器官の機能を分析(リバース・エンジニアリング)して、それを別の
もので置き換えるという作業が、2030年代までには、相当まで行え
るようになる(つまり2030年代まで生存することが重要だ)とい
う。脳神経系、生殖器、感覚器官以外は、ほとんど置き換えられる、と
いう予測をたてている。この時点での人間の身体を、「ヒューマンボ
ディ2.0」と呼んでいる。
さらに、この時点では、脳機能のリバース・エンジニアリングと再構
成が、侵襲性の低い方法で安全に行えるようになるという。
医療MRI類似の脳内信号読み取り、埋め込みではなく無線によるナ
ノロボット制御での脳機能刺激など。たとえば生体内の情報伝達には、
きわめて遅い生化学反応が使われているだけだが、これらの制約が20
40年代くらいには取り払える。この段階が「ヒューマンボディ3.0」
と仮称されるが、ここではもはや、それまでの外見すら問題とはならな
くなり、自由に選択ができるという。ただしこうした改良は、いわゆる
「人工物」で「自然」の身体を置き換えることではない、とカーツウェ
ルはいう。この時点では、もはや「機械」といっても、現状あるような
機械メカではなくなっており、機械ということの定義が無意味化してい
る、ということのようだ。
このような状態が到来しても、我々が到達できる宇宙には、別種の知
的生命は存在していない、と推測している(SETI関連のデータから推
測。本書では、ほとんどの主張が、一定程度の実証的根拠とともに提出
されている)。したがって、宇宙進出がありうるとしても、それは人間
が宇宙に出て行くことだけだ(宇宙人は来ない)、とされる。その場合
ヒューマン・ボディ3.0の人体の方が適応性にすぐれているので、進出
は簡単だと述べている。
2030年代までに、機械と人間、現実とバーチャルリアリティ、仕
事と遊びの区別はなくなってしまうだろうと推測する。
「シンギュラリティー主義者」の世界観について、いくつかの要約を
行っている。
1)永遠に生きるのに充分なだけ長く生きるための方法はすでにある。
2)我々の身体は、過去の時代の遺伝プログラムで制御されている。そ
れを修正するための、通常とそれほど変わらない生化学的な方法もすで
にある。
3)人間の身体は遷移的なもので、その構成分子はいつも置き換わって
いる。変わらないのは身体と脳の「パターン」だけだ。
4)身体の健康と精神の到達範囲を最適化することで、これらのパター
ンを改善することができるし、それをするべきだ。
5)我々には身体が必要だが、それは意図的に変更できる。
6)あらゆる形式の知識は貴重である。身体と脳に埋め込まれた知識も
ふくめてそうである。その損失は悲劇である。
7)情報は知識ではない。大量の情報から意味あるものを選び出すのが
知識だ。
8)ある個人のもつ知識をバックアップする方法がないので、人の死は
悲劇だ。(なのでそれをバックアップすればいい)。
9)伝統的な宗教の主要な役割のひとつが死の合理化だった。死がなけ
れば生は耐え難いとされる。だが、特異点の到来で知識が爆発的に増大
するので、生はより耐えやすくなり、人生は本当に意味あるものになる
だろう。
10)我々の人生の目的は、いっそう高い「秩序」をめざしての、増大
する知識の創造と観賞だ。
11)宇宙の目的もこれと同様だ。
12)我々は、今世紀じゅうに、非生物的な知性の自己増殖を通して、
この太陽系を知性で充満させることができる。
当否はともあれ、近年刊行された科学技術による近未来像としてもっと
も大胆な予測を行なっており、メディアの未来的な展開の可能性として
も注目されるだろう。