プログラム(PDFファイル、含発表要旨)

身体の思考
感覚の論理
UTCP ワークショップ
日程:12 月 11 日(土)
会場:東京大学駒場キャンパス 12 号館 1225 教室(入場無料)
(京王井の頭線駒場東大前駅下車)
主催:東京大学大学院総合文化研究科 21 世紀 COE
共生のための国際哲学交流センター (UTCP)
〒 153-8902 東京都目黒区駒場 3-8-1
tel: 03-5454-4379
http://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/
「身体の思考・感覚の論理」と題されたこのワークショップは、同名の研究会が母体となって企画されました。UTCP の支援のもと若手研究者
で組織されたこの研究会で私たちは、西洋の哲学的伝統においては二次的な位置づけを与えられることが多かった身体や感覚に関して今日どのよ
うな思考が可能なのか、討議を進めてきました。今回、私たちの研究の成果を公に発表するとともに、皆さんのご批判を仰ぐ機会に恵まれたこ
とを光栄に思っております。
このワークショップは、三つの軸にそって構成されています。まず、第一セクションでは、
「意識」という囲い込まれた領域の同一性に「心」を
閉じ込める西洋哲学の伝統的な考え方に対して、より身体に広がりを持った活動として心をとらえる新しい心の哲学の可能性を、現象学、認知科
学、生態心理学などとの対話を通じて検討します。それに対して第二セクションは、そのようにして 20 世紀以降新たなトポスとして浮上した身体が、
再び新たな同一性へと囲い込まれる危険性を、美学的ならびに政治的問題として検討するとともに、非同一的な生成変化のトポスとしての感覚に
ついて思考する可能性を模索します。そして最後に第三セクションは、技術に媒介された感覚知覚についての思考としてのメディア論の一つの系譜
を検討します。近代化に伴う知覚経験の変容と相即して展開された思考と実践を読解するこの試みにおいて賭けられているのは、美学=感性論的
なものとして構築された身体の経験の歴史性にほかなりません。
このように様々な領域と方法を横断しながら展開するこのワークショップの構成は、それ自体、身体が新たな哲学の場として持つ豊かさを指し
示していると言えましょう。このワークショップが新たな思考の可能性に向けての一つのささやかな寄与となることを私たちは願ってやみません。
■ 第一セッション (10:30-12:10)
■ 第二セッション (14:10-15:40)
■「身体は心について何を教えてくれるのか?」
■「死を知る動物」
̶̶ジル・ドゥルーズの生成変化論における全体性の問題」
意識から身体へ̶̶新しい身体の哲学を求めて
鈴木貴之(UTCP)
身体から感覚へ̶̶身体の危機と別の方向=感覚
千葉雅也(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
■「認識論と存在論の交錯
̶̶J.J. ギブソンの生態学的心理学に関する哲学的考察」
■「接続詞を感覚すること̶̶ゴダール作品の音 - 映像分析」
■「生態心理学の哲学的含意と科学的含意」
■「日本的身体論の形成̶̶京都学派を中心として」
コメンテーター 河野哲也(玉川大学文学部人間学科助教授)
コメンテーター 前田英樹(立教大学文学部フランス文学科教授)
■ ラウンド・テーブル (13:00-14:00)
■ 第三セッション (15:50-17:30)
荒谷大輔(UTCP)
染谷昌義(UTCP)
司会 信原幸弘(東京大学大学院総合文化研究科助教授)
■ 前田英樹(立教大学文学部フランス文学科教授)
■ 大澤真幸(京都大学人間・環境学研究科助教授)
■ 河野哲也(玉川大学文学部人間学科助教授)
司会 小林康夫
(UTCP 拠点リーダー/東京大学大学院総合文化研究科教授)
平倉圭(東京大学大学院学際情報学府博士課程)
横山太郎(東京大学大学院総合文化研究科助手)
司会 松浦寿輝(東京大学大学院総合文化研究科教授)
感覚から歴史へ̶̶美学=感性論としてのメディア論
■「触覚、この余計なもの̶̶マクルーハンにおける感覚の修辞学」
門林岳史(UTCP)
■「映画のなかの自然美
̶̶後期アドルノの映画美学における知覚の問題」
竹峰義和(UTCP /東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
■「都市・メディア・女給
̶̶初期成瀬巳喜男メロドラマにおけるモダニティの経験
御園生涼子(UTCP /東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
コメンテーター 大澤真幸(京都大学人間・環境学研究科助教授)
司会 田中純(東京大学大学院総合文化研究科助教授)
第一セッション 意識から身体へ̶̶新しい身体の哲学を求めて
■「身体は心について何を教えてくれるのか?」
鈴木貴之(UTCP)
現代の心の哲学や心の科学は、心とは脳にほかならないということを
論の側からは、単に独断的環境一元論として切り捨てられるだけである
ことになるのである。
本発表においては、ギブソンが志向する「実在論」が、哲学的にみ
てどのような射程をもちうるものなのか、検討してみることにしたい。
基本的な前提としてきた。これに対して、現在では、われわれが身体を
持ち、環境の中で活動する存在であるということが、心を理解する上で
決定的に重要であるということが、さまざまな論者によって指摘されて
いる。では、この「身体化された心」という見方は、現在の心の哲学
■「生態心理学の哲学的含意と科学的含意」
染谷昌義(UTCP)
や心の科学にどれだけ根本的な修正を迫るものなのだろうか。
本発表では、先駆的な研究者であるメルロ=ポンティやギブソンの議
これまで現象学者は、知覚経験が知覚主体の生きられた身体的運動
論を参照しながら、身体化された心の重要性を唱える論者たちの中心
性に依存した「意味」や「価値」によって組織化されていることを常に
的な主張を明らかにしたい。そして、身体化された心に関する多くの論
強調してきた。たとえば、歩行中のわたしが目の前に立ちはだかる「壁」
点は、心に関する現在の標準的な見方と両立可能である一方で、標準
に出会う。わたしはその物体を「壁」という意味で、あるいは「歩行
的な見方と両立不可能な、より革新的な主張は、標準的な見方に対す
を邪魔するもの」、「その向こう側へ行くことを通せんぼするもの」とい
る代替案としては十分に説得的ではないということを明らかにしたい。
う価値で知覚する。こうした知覚の「意味」、行為の可能性として知覚
される「価値」とは、今後どのような経験が可能であるか、どのような
■「認識論と存在論の交錯
̶̶J.J.ギブソンの生態学的心理学に関する哲学的考察」
荒谷大輔(UTCP)
多くの論者が指摘するように、ギブソンが提示する直接知覚論には、
実在論的な含意が含まれている。「心理学(psychology)」と呼ばれ
る学問は、歴史的にみて、ロック以来の認識批判の系譜に属し、「魂
(psyche)」と呼ばれるべき内面性に関する事柄を扱うものであるが、
しかし、生態学的「心理学」として展開されるギブソンの認知論は、
認識を何らかの内面的な事柄として取り扱うことを拒否することにおい
て、まさに「心理学」という学問が持っていた枠組み自体を揺るがすも
のになっている。こうした意味において、
ギブソンの生態学的心理学とは、
ロンバードらが指摘するように、単に認識論的な枠組みにとどまること
なく、進んで存在論的な審級を問題にするものであるということができ
る。
だが、ギブソンの生態学的心理学は、「心理学」が持っていた認識
論的な枠組みを越え出でながら、それに変わりうる新たな視角を提示し
えているであろうか。確かに、認識論的な枠組みにおいて世界の事象
を記述することは、常にある限界を持つ。認識論は、それが「認識論」
である以上、意識に立ち現れる経験をもとにして世界を記述しなければ
ならず、そうした経験から離れて「実在」を語ることはできない。認識
論にとっての存在とは、結局のところ、認識される限りでの存在でしか
ありえないのである。しかし、認識論が原理的に持っているそのような
限界を指摘し、実在をこそ論じるべきとしただけでは、議論は平行線を
辿るだけであろう。ロックの認識批判において目指されていたのは、ま
さに我々の認識される限りでの存在を、経験からかけ離れたものを論じ
る「形而上学」から解放することであった。ギブソンが、認識とは別の
次元に「存在」を措定し、認識論的な枠組みからの解放を宣言したと
しても、それが単なる素朴な実在論への回帰にすぎないならば、認識
身体的行為が可能であるかの下絵を描く規則のようなものである (「地
平」)。そしてわたしはこのような「意味 ( 連関 )」・「価値 ( 連関 )」に
おいて知覚するからこそ、壁をよけたり、回り道をするなどの一連の行
為をするのだと。
よろしい。現象学者は知覚経験の本質を汲み取っている。しかし彼ら
は、記述的もしくは解釈学的ではない仕方で、こうした「知覚意味」を
探究できる可能性を否定するのではないだろうか ( 少なくとも「知覚意
味」
の自然化を拒否するのではないだろうか )。というのも、
現象学者は、
意味や価値、人間行動についての「科学」は規範性や歴史性を機軸と
する独自の方法と水準で考察されるべきだと考えるからである。他方、
意味や価値や人間行動を自然主義的・物理主義的な仕方で解明しよう
とする認知科学者や心の哲学者たちは、「知覚意味」を、たとえば脳や
身体の物質組織が持つ機能状態に還元しようとする。彼らの志向では、
知覚認識についての問題を「意味」や「身体性」という概念に押しつけて、
その科学的探究を棚上げする哲学的言説は胡散臭く思われるのである。
本発表では、生態心理学にとって論者が最も重要と考えている生態
光学 ( 環境情報論 ) の内実を指摘し、知覚認識の問題の半分を存在論
の問題として解決しようとする点に生態心理学独自の革新性を探る。そ
の上で、先に提示した意味や価値についての両極端の立場に対し、そ
れぞれ次のような批判を提起し、現象学とも認知科学とも異なる仕方で
「知覚経験」、「知覚意味」を解明するオルタナティヴな「科学」の可
能性を示したい。
1) 現象学者は「意味」を崇拝するのをやめよう。意味は環境内に実在
し、かつ意味についての科学は可能である。それが不可能だと思われ
るのは、偏狭な自然科学観を持っているからである。
2) 物理主義的唯物論者は「意味」を物質過程に還元するのをやめよう。
還元以外の仕方で意味の存在は確保することができる。それが不可能
だと思われるのは、不完全な存在論 ( 物理学 ) に依拠しているからであ
る。
第二セッション 身体から感覚へ̶̶身体の危機と別の方向=感覚
■「死を知る動物
̶̶ジル・
ドゥルーズの生成変化論における全体性の問題」
千葉雅也(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
フェリックス・ガタリとの共著『カフカ̶̶マイナー文学のために』
を嚆矢として、1970 年代中頃からのドゥルーズ哲学は、何よりも「動
物への生成変化」(devenir-animal) をモデルとすることで、様々な「生
成変化」すなわち「他者になる」(devenir-autre) という経験を説いた。
けれども「動物」というモチーフは、人間中心主義への批判を担うこと
は明らかだが、結局のところ諸々の他性の一例でしかないはずだ。しか
し他方で、晩年のドゥルーズが「生」という言葉に執着を深めたことを
鑑みるなら、
「動物」にはより包括的な意味において「生の哲学」のニュ
アンスが込められていたとみることもできる。アラン・バディウはこの文
脈を強調することで、差異の複数性を生きた「全体」へと綜合するよう
な「大動物」こそがドゥルーズ哲学のエンブレムであると要約し、そこ
に潜在的なファシズムの危険性を指摘した。本発表では、バディウの批
判を引き受けつつ、ドゥルーズにおける「動物」の理論的地位を、(1)
ならない。たしかにゴダールの音 - 映像編集は離散的であり、対象の同
一性やひとつの明瞭な
「意味」
に帰着させることができない。しかしショッ
トあるいはシークエンスには、それら離散的な音 - 映像諸要素が時間
的に変動しながら重ね合わされることで生まれる高次の知覚的パターン
が存在する。リテラルな意味では感覚されることができないこの高次パ
ターンの個体性̶̶いわばイメージの個体性̶̶こそ、観者が画面に
経験する出来事である。
本研究は、ゴダールの音 - 映像編集における「裂け目」を名指すた
めにドゥルーズが用いた「〈と(et)〉の技法」という議論を批判的に参
照し、そこに W. ジェームズ『根本的経験論』(1912)の「接続詞を
感覚すること」という議論を対置することによって、「裂け目」それ自体
の「度合い」を問題化する。さらにそこから、ジェームズの思考を発展
させた生態心理学者 J.J. ギブソンの「形なき不変項」という概念を導
入することで、要素的音-映像の重ね合わせによって生まれる高次パター
ンを第一次的な知覚対象とする経験分析の方法論を提示、ゴダール作
品の新たな分析を可能にする。またそのような高次パターンが、ゴダー
ル作品の中心的テーマとされていることを明らかにする。
モーリス・ブランショを参照した「死」と文学をめぐる議論、また連関
するカフカ読解、そして (2) ヤコプ・フォン・ユクスキュルと共にスピノ
ザを読むドゥルーズが繰り返し言及した「ダニ」の生態学という二つの
背景において再読する。そこで、前者において語られる「動物こそは死
ぬことを知っている」という命題の射程を、後者が提起する「哲学的動
物」のあり方、限られた他者関係しかもたず、それぞれが「ひとつの世
界」へ分裂するという状況に接続する。バディウが危惧する全体性の暴
力よりも、むしろ分裂し孤立する暴力への直面にこそ「動物」の倫理的
な賭金があることを明らかにしたい。
■「日本的身体論の形成̶̶京都学派を中心として」
横山太郎(東京大学大学院総合文化研究科助手)
西田幾多郎に代表される「京都学派」の哲学者たちは、のちの現象
学的身体論に通じるような身体観を提示した。彼らは自己と世界の原初
的媒介者である「身体」の分析を通じて、近代合理主義が拠って立つ
主観─客観、精神­物質といった二元論の枠組みを批判したのである。
こうした身体論は 20 世紀初頭の世界的な思想の流れを汲むもので
あるが、日本の伝統的な身体文化をめぐる言説との相互参照のうちから
■「接続詞を感覚すること
̶̶ゴダール作品の音 - 映像分析」
平倉圭(東京大学大学院学際情報学府博士課程)
映画監督ジャン=リュック・ゴダール(1930-)は、音と映像をしば
しば意図的に「ずらし」、画面に経験される知覚対象の同一性を不確
定化するという特異な編集を行っている。
ドゥルーズの
『シネマ2』
(1985)
をはじめ先行研究はこの事態に注目し、
ゴダールの音-映像編集には「裂
け目」があり、
そこに「外部」が開かれているということを強調してきた。
だが映画が音 - 映像のレイアウトをめぐる具体的な実践である以上、
たんに「裂け目」があるというだけでは作品の実相を分析することには
身体の文化的な固有性を理論化・自明化していった点にその独自性が
ある。しかしまた、その点においてこうした身体論の試みは、もともとの
近代認識論批判の立場(日本的「身体論」)から転じて、本質主義的
日本文化論の再生産を導いてしまう(「日本的身体」論)という危険性
をも孕んでいるのである。
本発表では、以上のような問題意識にもとづき、戦前の哲学的身体
論の展開を概説したうえで、その理論構成がいかに「日本的なもの」と
相関するのかを読解し、このときに現在までさまざまなかたちで現れ続
ける「日本的身体論」の母型が形成されたその機制を内在的に明らか
にすることを目指す。
第三セッション 感覚から歴史へ̶̶美学=感性論としてのメディア論
■「触覚、この余計なもの
̶̶マクルーハンにおける感覚の修辞学」
門林岳史(UTCP)
マクルーハンはメディアを人間の感覚の延長と定義した。それに応じ
て、アルファベット、活版印刷技術の二つのテクノロジーによって口承
文化が文字文化に移っていくという彼のメディア史観は、支配的な感覚
器官の聴覚から視覚への推移として理解することが可能である。しかし、
アの美的知覚というべきものを萌芽的ながらも構想しているという事実
である。すなわち、アドルノの主張によれば、映画の知覚形式は「自然
美」のそれと本質的に親和しており、複製テクノロジーによって「自然
美」の知覚経験をミメーシス的に再現することのなかに、映画の美学的
潜勢力があるというのだ。本発表においては、「映画という透明画」に
おける映画と知覚をめぐるアドルノの省察を、
『美学理論』における「自
然美」についての議論との関連において検証することにより、最晩年の
アドルノの映画美学の理論的枠組みを明らかにしていきたい。
例えば、口承文化はしばしば「聴覚ー触覚的」と形容され、また、文
字文化、視覚文化によって特徴づけられる機械時代のつぎに来るとされ
る電気時代が、触覚性によって特徴づけられるように、この視覚/聴覚
の修辞的な二項対立は、触覚という余計な感覚によって不安定なもの
にさせられている。本発表では、まず、マクルーハンにおける触覚のメ
タファーを、アリストテレス∼アクィナスの共通感覚論、ヒルデブラント
∼ヴェルフリン∼ベレンソンにおける美術史の概念的な構築の二つの源
■「都市・メディア・女給
̶̶初期成瀬巳喜男メロドラマにおけるモダニティの経験」
御園生涼子(UTCP /東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
家制度の桎梏に苦しむ貞淑な妻、子を思う母の愛、身分違いの恋で
泉にたどる。そして、それらから抽出可能な、「共感覚、諸感覚の統合
引き離される男女。一九三〇年代の成瀬巳喜男作品は、明治新派悲劇
作用としての触覚」と、「視覚的な体制から阻まれたもの、視覚的無意
の流れを汲むメロドラマの記号に満ちている。しかし実際のフィルム体
識としての触覚」という二つの触覚の規定の緊張関係においてマクルー
験は、その道徳律に導かれた物語が予想させるものとはかなり異なっ
ハンにおける触覚性を位置づけることで、60 年代の「新たな感性」(ソ
たものだ。スクリーンに溢れるのは、自動車、洋装の女性、銀座の街
ンタグ)とマクルーハンとの関係に 向けて展望を開きたい。
角を彩るショウウィンドーといった近代の都市生活を象徴する数々のモ
チーフであり、それらを巡る恐怖とファンタジーが物語を動かす決定的
■「映画のなかの自然美
̶̶後期アドルノの映画美学における知覚の問題」
竹峰義和(UTCP /東京大学大学院総合文化研究科博士課程)
メディアとしての映画を「文化産業」という概念のもとに激しく批判
しつづけたTh.W.アドルノであるが、1966 年、映画にたいする自
らの否定的な見解を再考するような一つのテクストを発表する。すなわ
ち、「映画という透明画」と題されたニュー・ジャーマン・シネマについ
てのエッセーがそれであり、そのなかでアドルノは、ベンヤミンの複製
技術論の議論を再検証しつつ、「文化産業」のシステムに還元されない
「芸術としての映画」の可能性について改めて思索をめぐらせたのであ
る。なかでも注目すべきは、そこでアドルノが、映画体験における知覚
形式の問題に着目し、イマージュの知覚という観点にもとづく映画メディ
な契機となっている。速度、ショック、センセーションといった言葉で
表現されるこうしたモダニティの経験は、ベンヤミンやクラカウアーが近
代的都市環境を特徴づけ、知覚の変容をもたらしたと主張する身体的・
知覚的な刺激経験とパラレルな関係にある。一方、メロドラマのドラマ
トゥルギーは、このようなモダニティの経験を一見否定し、断罪してい
るかのように見える。しかし、本当にそうだろうか?都市空間が生み出
した新たな日常生活についての言説は、関東大震災前後を境に拡大し
たマス・メディアの網を通じて、絶え間ない変化を繰り返しながら表現
されていった。大衆誌や新聞、レコードといった新メディアとの混淆状
態からメロドラマ映画が大量に生産したモダニティの言説は、大衆を恐
れさせると同時に強く魅惑したのではなかったか。本発表では、大戦間
期に大衆の想像力を席巻したモダニティ経験を牽引する言説装置として
のメロドラマ映画の側面を、とりわけそこで描かれた女給やモダンガー
ルといった新しい女性の形象に焦点を当てつつ、明らかにしていきたい。
University
of okyo
T
for Center
Philosophy