自 動 車 屋 人 生 半 世 紀 とモノづくりへの思 い 2004.1.23 林 裕 1. 自 己 紹 介 家 庭 環 境 私 の 祖 父 は北 海 道 の 酪 農 家 ,父 はY電 機 の 技 術 者 の 家 庭 に 生 まれ た。出 生 当 時 は目 黒 区 碑 文 谷 に住 んでいたというが,全 く記 憶 がない。兄 弟 姉 妹 6人 (一 番 下 は双 子 の妹 のため) の丁 度 真 ん中 であった。記 憶 に残 っているのは武 蔵 野 市 吉 祥 寺 に移 り住 んでからである。 一 番 影 響 を受 けたのは父 からであった。昭 和 の初 め NHK のラジオ放 送 が愛 宕 山 から流 さ れたころ,W大 の電 気 工 学 科 を出 てY電 機 に就 職 したが,NHK の放 送 を受 信 すべく,当 時 と してはかなり高 級 の高 周 波 2段 増 幅 ラジオ付 の電 蓄 を設 計 し,且 つスピーカーやフォノモータ ー(ダイレクトドライブ式 )に至 るまで自 作 し,キャビネットは特 注 のものをあつらえる程 の徹 底 ぶ りであった。 そのため,私 の心 には,技 術 屋 たるものは欲 しいものがあればトコトン研 究 し,自 分 で工 夫 し てモノに完 成 させるのが使 命 だという風 に焼 き付 いてしまったのである。 父 は音 楽 に興 味 があり,ビクターの音 楽 愛 好 者 協 会 の SP レコードを集 めたアルバム上 下 2 巻 を持 っており,子 供 たちにも良 く聴 かせてくれたものである。そのレコードの中 には,パブロ・ カサルスのチェロ,ミッシャ・エルマンとフリッツ・クライスラーのバイオリン,アンドレス・セゴビヤの ギターの名 演 奏 が含 まれていたのをハッキリと覚 えており,後 述 の私 の楽 器 つくりに少 なから ず影 響 を与 えることになる。父 はまた,写 真 にもこっていて,自 分 で引 き伸 ばし機 を作 って趣 味 に活 かすなど,夜 の余 暇 を惜 しんでやっていた。お陰 で肺 結 核 に罹 り療 養 を強 いられた時 期 があったという。自 宅 には写 真 暗 室 がなかったから,安 全 灯 一 つの中 で遅 くまで作 業 をして いた。小 学 生 の低 学 年 であった私 は子 供 ながら,引 き延 ばし作 業 の露 光 スイッチ係 を手 伝 わ されて,眠 さの余 りにスイッチを押 したまま眠 り込 んでしまって怒 られたことを覚 えている。 高 校 時 代 には物 理 担 当 の先 生 から放 送 部 をやれといわれ,初 代 放 送 部 長 になったが,一 緒 にやった仲 間 の中 には NHK の名 アナウンサーとなった相 川 浩 君 がいた。彼 は昨 年 末 惜 し まれながら世 を去 った。あてがわれたのは校 内 放 送 用 のアンプ1台 であったから,レコード1枚 掛 けられず校 内 放 送 にもならなかった。仕 方 なくレコードピックアップのカートリッジを買 って き て,アームは自 分 で真 鍮 板 を加 工 して作 り何 とか格 好 を付 けた。 そうこうしている間 に電 気 工 学 志 望 の1学 年 上 の兄 が,オーディオアンプを自 作 しているのを 見 て回 路 図 の見 方 や設 計 の仕 方 を教 わり,門 前 小 僧 となって行 った。そのような事 情 で友 人 の 親 戚 か ら高 級 電 気 蓄 音 機 の 製 作 を 依 頼 され た 。 当 時 は 家 電 メーカ ー 製 電 蓄 の 完 成 品 の 市 販 はなく ,部 品 が漸 く市 場 に 出 回 った時 期 であった。 キ ャビネッ トは こんな形 の ものというこ とだけ指 定 された以 外 は,特 注 で日 本 では最 高 級 の音 質 のものを作 ってくれと一 任 されて受 注 し て し ま っ た 。 当 時 貧 乏 学 生 で あ っ た 我 々 兄 弟 は , 軍 隊 の ジ ャ ン ク部 品 を 買 って き て 組 み 立 てていたのから比 べると,至 福 の一 時 であった。 1 2. 自 動 車 への興 味 私 は 物 心 つ いた 時 から 自 動 車 に興 味 を抱 き,以 後 60余 年 を経 た今 日 に至 っ ても相 変 わらずである。私 の小 学 生 時 代 は第 二 次 大 戦 中 であったため,大 抵 の子 供 たちは戦 争 に使 われて華 々しい 戦 果 を挙 げる手 段 となった飛 行 機 を好 んだが,私 は学 校 の工 作 で2∼3機 をつ くった程 度 で,あとは自 動 車 の模 型 つく りを貫 いた 。 兄 は模 型 飛 行 機 をつく って 1937 年 型 ビ ュ ー イ ッ ク ( Buick) は子 供 部 屋 の天 井 いっぱいにぶら下 げ るほどであった。 そのようにして自 動 車 に関 する興 味 はどんどん高 まって行 ったが,第 二 次 大 戦 が激 化 すると ガソリンが統 制 下 に置 かれ,それまでガソリンを燃 料 にして走 っていた民 間 用 の自 動 車 (軍 需 工 場 用 達 の車 を除 く)は姿 を消 していった。国 産 化 されたシボレー,フォード,純 国 産 のダット サン,日 産 (グラハム・ページの国 産 化 ),トヨタ,オオタや,輸 入 車 のクライスラー,デソート,ダ ッジ,プリマス(クライスラー社 ),キャデラック,ビューイック,ポンティアック(GM社 ),ハドソン, ナッシュ,スチュードベーカー,ベンツ等 いずれも左 ハンドル車 が颯 爽 と走 る姿 が街 から消 えて いった。僅 かに官 公 庁 の公 用 車 と軍 用 車 がガソリンで走 る程 度 であった。 私 の自 動 車 への興 味 はつのるばかりであった。1944年 ころには,大 ていの乗 用 車 は木 炭 車 に改 造 さ れ, トラック も薪 ガス自 動 車 に 変 換 された。 直 ぐ 近 所 に あっ たかなり 大 きな運 送 会 社 でもシングルタイヤを履 いたフォードのトラック1台 だけを残 して代 用 燃 料 車 に転 換 されて行 き,エンジンの始 動 は困 難 を極 めた。薪 ガスが発 生 し可 燃 ガスが出 るまでに30分 は要 してい たと覚 えている。始 動 の時 はスターターモーターではとても無 理 で,上 記 のたった1台 残 ってい たフォードのガソリン車 で1台 づつ次 々と牽 引 し てエンジンを掛 けていき,掛 かったエンジンは その日 の 仕 事 が終 わる までは停 めないで使 うと いう有 様 で あった。掛 かったエンジンもその 出 力 は正 規 のガソリンエンジンの半 分 程 度 であったといわれ,平 地 でもやっとこすっとこ走 る程 度 で あっ た 。 ま し て や 登 り 坂 に 差 し か か っ た 時 の 走 り 方 は 惨 憺 た る も の で あっ た 。 こ の 状 況 は 終 戦 後 も燃 料 事 情 が改 善 するまで暫 く続 いた。 これに対 して,バス会 社 (今 の関 東 バス,当 時 は小 野 田 バス,中 島 自 動 車 ,進 運 ばすなどと 社 名 が変 遷 して行 ったが,大 部 分 は1934年 ∼1937年 型 のフォードであった)は戦 後 比 較 的 早 期 に天 然 ガスボンベを後 部 に直 立 して搭 載 して走 るようにして安 定 運 行 を確 保 したと記 憶 している。 3. 終 戦 迫 り戦 時 型 車 の出 現 そうしてい よいよ終 戦 間 近 になると,戦 時 型 ト ラックと称 して,ヘッドライトは真 ん 中 1灯 ,ラジ エータグリルもなく,フェンダーは平 板 を曲 げただけのような単 純 な形 になり,運 転 台 は木 製 と 2 なり,4トン車 でいえば前 輪 のブレーキドラムのない大 変 危 険 な「後 2輪 ブレーキ式 車 」が出 回 った。 4. 終 戦 後 の驚 き 一 番 大 きな驚 きは終 戦 後 進 駐 して来 た 米 国 進 駐 軍 の GMC の 2.5 トン車 で代 表 さ れる軍 用 トラックの性 能 の良 さであった。ガ ソリンの臭 いをプンプンさせながらも如 何 な る坂 もものともせず,力 強 く走 る様 は米 国 の圧 倒 的 な機 動 力 と強 さを印 象 づけるも のであった。時 に小 学 生 6年 であった。 進 駐 軍 は家 族 を伴 って次 々と進 駐 してき て,最 新 型 乗 用 車 を駆 って東 京 中 を走 る 1946 年 型 オ ー ル ズ モ ビ ー ル ようになった。 これは自 動 車 キチガイとい ( Oldsmobile) われた私 にとっては大 変 嬉 しいことであっ た。 5. 進 駐 軍 総 司 令 部 の前 の車 列 進 駐 軍 総 司 令 部 のあった明 治 生 命 ビルの 前 の外 堀 通 りには,総 司 令 官 マッカサー元 帥 のキャデラックを始 め,ピカピカの車 がズラ リと並 んで停 められていたのをよく見 に行 った ものであった。 中 学 生 になった私 は荻 窪 −東 京 駅 丸 の内 東京都営トレーラーバス(金剛) 南 口 間 の都 バスの路 線 に時 々乗 りに行 った。 1949 年 ( 都 バ ス 50 年 史 よ り ) 最 初 は GMC の 2.5 トントラックに簡 単 な車 体 を架 装 したもの,次 は,その車 を牽 引 車 に して,旧 東 京 市 営 の青 バス(ダイヤモンド の1935∼1937年 ころ)のものからエンジ ンを降 ろして,フルトレーラーバスに改 造 し たものを引 っ張 ったトレーラーバス,その次 が金 剛 製 作 所 製 の牽 引 車 で引 っ張 るトレ ーラーバスと段 々に国 産 化 されて行 った。 この車 は民 生 デイゼル(現 在 の日 産 ディー ゼル)のユンカース式 対 向 ピストン式 2気 筒 6 0 P S とい う小 さ な エ ンジ ン し か つい て い な かったので,平 地 ではそこそこに走 ったが, 民 生 (Krupp-Junkers)KD2 型 エ ン ジ ン 3 青 梅 街 道 が中 央 線 をまたぐ陸 橋 にさしかかると自 転 車 と同 じ程 度 の速 度 に落 ちてしまい,乗 客 はじっと我 慢 を強 いられた。その内 ,日 野 重 工 (現 在 の日 野 自 動 車 )の強 力 なエンジン 搭 載 のトレーラーバス牽 引 車 が登 場 して動 力 性 能 が飛 躍 的 に改 善 された。更 に 1948 年 に なり,いすゞと民 生 デイゼルがディーゼルの単 車 のバスを試 験 的 に投 入 した。前 者 はガソリ ン6気 筒 をディーゼルエンジンに乗 せ換 えた 民 生 KB3 型 都 営 バ ス ( 1949 年 ) もの,後 者 はかつて 軍 用 トラック に 使 った3気 筒 90 PS エンジン搭 載 の高 床 式 トラックシャシにバスを架 装 したもので,6ヶ月 ほどの間 実 用 に 供 されディーゼル車 の燃 料 経 済 性 と高 信 頼 性 が実 証 され,以 後 いよいよ東 京 都 と京 都 市 営 バスにディーゼル車 が本 格 的 に投 入 さ れて行 った。 6. 見 学 に行 ったのが縁 の始 まり 私 は特 に民 生 が車 の始 動 性 の良 さと力 強 い走 りで,荻 窪 の陸 橋 も難 なく越 える性 能 に なり,日 本 でもこんな技 術 が出 来 たのだと大 日本初モノコックリヤエンジンバス 変 心 強 く思 った。続 いてボンネット形 で低 床 BR30 型 ( 1950 年 90PS) 式 の KB3B 型 本 格 的 バスや,日 本 初 のモノコ ック式 リヤエンジンバス BR30 シリーズ(車 体 は富 士 産 業 (現 在 の富 士 重 工 業 )開 発 による)が 急 速 に普 及 して行 った。以 後 私 は高 校 時 代 から民 生 デイゼルを訪 ねて,とうとう大 学 卒 業 後 就 職 してしまった。 同 社 は私 の入 社 した1年 前 に,UD 型 と称 する 新 型 の2サイクル式 高 性 能 エンジンを発 表 して 世 の中 の脚 光 を浴 びた。 7. 入 社 してビックリ 入 社 して会 社 へ行 くと,新 型 エンジン搭 載 の フ レ ー ム 付 バ ス シ ャ シが 所 せ ま し と 並 ん で い た 。 さすが自 分 が憧 れて入 った会 社 はすごいと喜 ん でいていたのもつかの間 ,これらは初 期 不 具 合 のため に購 入 を キャ ン セ ル さ れた 車 で ある こ と を 先 輩 から知 らされた。よく聞 くと噴 射 装 置 を始 め 細 かいところで耐 久 性 不 足 部 分 が露 呈 して,サ ービス員 達 が大 変 な思 いをして客 先 対 応 をして UD 型 エ ン ジ ン 断 面 図 ( 1955 年 ) 4 いるとのことであった。その時 の思 いはま るで舟 底 に穴 のあいた舟 に乗 り込 んだ 切 迫 感 であった。このままにしていたら サービス補 償 費 がどんどんかさんで会 社 がつぶれてしまうのではないかと,また, 当 社 の製 品 を買 って下 さったお客 様 に は大 変 な迷 惑 をかけているのだという, すまない気 持 ちでいっぱいになった。 実 習 期 間 を終 えて与 えられた仕 事 は 燃 料 噴 射 装 置 の改 良 であった。当 時 日 本 ではヂーゼル機 器 ㈱という会 社 (現 在 のボッシュ)がドイツのボッシュ社 のライセ UD6 型 エ ン ジ ン (1955 年 230PS) ンスを得 て噴 射 ポンプ等 の噴 射 装 置 を 製 作 していたので,そこから UD 型 用 の噴 射 装 置 を購 入 していた。ところが,ボッシュ社 の 図 面 は本 来 4サイクル用 のものであったため, これを2サイクルエンジンに取 り付 けると,いろ いろと問 題 が起 きた。勿 論 ポンプの回 転 速 度 が4サイクルの2倍 になるので,当 時 予 想 され 必 要 と思 われた設 計 変 更 は織 り込 まれて改 良 は加 えられていたけれども,実 用 してみると 各 種 の問 題 が早 期 に発 生 し,故 障 が頻 発 し 6 RFA101 型 エ ア サ ス 高 速 観 光 バ ス た。耐 久 試 験 や各 種 機 能 試 験 を重 ねて一 つ ( 試 作 車 1956 年 230PS) ひとつ着 実 に改 良 して行 ったが,モノを造 っ てくれるのは ヂーゼル機 器 であり , 設 計 変 更 に はボッシュ社 の承 認 を 要 すること になっていた らしく,折 角 案 出 した改 良 案 も生 産 品 に反 映 されるまでの時 間 の長 くまどろっこしさを感 じた。 その他 エンジン各 部 分 の不 具 合 対 策 をするにも,先 ず現 象 そのものを計 測 する必 要 があっ た。特 にエンジンの噴 射 系 統 と動 弁 機 構 の異 常 現 象 に関 しては,高 速 現 象 を把 握 する必 要 があった。 日 本 初 3 軸 10 ト ン 積 み ト ラ ッ ク 6TW10 型 しかし,当 時 の民 生 デイゼルにあっ たのは機 械 式 の計 測 装 置 が主 体 で,10kHz を超 える周 波 数 特 性 の要 求 を満 たす計 測 装 置 は皆 無 に近 い状 態 であった。 5 私 は,学 生 時 代 に自 分 で製 作 した LP レコード用 のピックアップ を会 社 に持 ち込 み部 品 の動 きを 計 測 して,それをブラウン管 オシ ロスコープ(これも父 の会 社 のY 電 機 から借 用 したもの)上 に表 示 して見 せて,電 子 計 測 のいか に優 れたものかであるかをアッピ ールした。 それから数 年 間 というもの私 は エンジンのいろいろな現 象 の電 電磁式ピックアップによる動弁装置の動き測定 子 計 測 化 に尽 力 した。即 ち,噴 射 装 置 のタペットのジャンプ(跳 び上 がり)現 象 やタペットスプリングのサージング現 象 から始 ま って,そのまま動 弁 機 構 の高 速 におけるジャンプとスプリン グのサー ジ ン グ現 象 の 計 測 に もそのまま使 うことができ,エン ジンの高 速 化 に大 変 役 立 っ た。現 在 は光 学 的 に高 速 度 カメラで撮 影 可 能 なものだが, 当 時 はそのようなものはなく, 電 磁 式 ピックアップで測 って いった。これは正 に趣 味 の延 フェーズシフト式電子捩り振動計システム図 長 を会 社 でやらせて貰 ってい るようなものであった。 また,エンジンのシャクリ現 象 というものも発 生 したが,燃 料 噴 射 が毎 回 同 量 でなく,一 回 置 きに噴 射 してみたりする ものである。この現 象 が起 こる と車 両 が前 後 方 向 に振 動 し ながら走 行 するので,立 席 を 有 するバスでは乗 客 の快 感 を 左 右 する大 変 重 大 な問 題 で あった。 これにも小 型 の電 磁 ピクアッ プを噴 射 ノズル針 弁 の先 端 に 捩り振動計ブラウン管への表示 6 設 けてその動 きの速 度 を電 磁 式 に検 出 して,それを積 分 回 路 によりリフト量 に変 換 して見 ると, 噴 射 の状 況 が手 にとるようにはっきりしたのである。 エンジンの高 速 化 につれて,クランクシャフトの捩 り振 動 もこれを阻 む重 大 な障 壁 になった。 私 はエンジン本 体 については担 当 ではなかったが,これについても電 磁 ピックアップの応 用 で クランクシャ フトの捩 れ を測 定 する 方 法 を開 発 して,自 動 車 技 術 会 に 発 表 した。 発 表 当 日 私 は米 国 に留 学 中 であったので論 文 提 出 のみに終 わった。これにより長 いクランクシャフトのフラ イホイール端 と前 端 2箇 所 に電 磁 式 ピックアップを取 り付 け,72 枚 の歯 車 がピックアップの前 を通 過 する時 期 を検 出 して,前 後 端 での時 間 差 から捩 れ角 を検 出 するものである。この電 子 回 路 は全 真 空 管 式 で設 計 し,この技 法 はライバル社 でも活 用 して大 いに役 立 ったと40年 後 に感 謝 されたものである。 こうして UD エンジンは必 死 の努 力 の結 果 改 良 が進 み故 障 も少 なく信 頼 性 も向 上 して行 き, 市 場 では愛 好 ファンも段 々と増 えていった。 この UD 型 エンジンの最 大 のうまみは,小 型 軽 量 のエンジンから当 時 の業 界 では最 高 出 力 を誇 り,最 強 のトラックやバスを出 しては世 に問 うたことであった。 民 生 がわが国 最 初 に開 6TW10 型 シ ャ シ 平 面 図 ( ス パ ゲ ッ テ ィ 式 ド ラ イ ブ 方 式 ) トラニオン部正面図 (両側ひっかけ式) 側面図 6TW 系 サ ス ペ ン シ ョ ン 7 発 したエアサスペンション付 リヤエンジン型 バス 6RFA110 シリーズは,230PS の最 強 力 エンジ ン搭 載 により最 高 速 度 120km/h という観 光 バスとしてすばらしい性 能 を発 揮 した。また,民 生 用 トラックとしてはわが国 初 の3軸 トラック 6TW10 型 シリーズは,わが国 最 強 のトラックとして頼 りにさ れた。 特 に当 時 , 幹 線 道 路 の 国 道 1号 線 ( 東 海 道 ) で すら路 肩 か ら外 れる 事 故 が頻 発 していたので,道 路 へ引 き揚 げる牽 引 車 役 として当 てにされていた。 しかしこのエンジンシリーズは高 出 力 ではあるものの,構 造 が複 雑 の上 ,熱 負 荷 が高 いので 高 級 な材 料 を用 いた り , 特 別 な加 工 方 法 も要 求 され ,ど うし ても高 価 格 にな りが ち であった。 それに段 々と排 気 と騒 音 で代 表 される公 害 問 題 に関 する社 会 の関 心 が大 きくなると,2サイク ルエンジンの限 界 が見 えてきた。先 ず騒 音 (ルーツブロワーの駆 動 音 と独 特 の燃 焼 音 )で,次 ぎにエンジンの熱 効 率 の低 さで,欧 米 の新 型 エンジンに対 して 10%以 上 負 けていた。最 後 の 排 ガスの有 害 成 分 (NOx と未 燃 HC)であった。NOx の発 生 については当 時 学 者 にもその発 生 メカニズムが不 詳 であったので,どうやって対 策 するのか見 当 をつけ難 かったが,その解 明 が 進 む に つれ て 2 サ イク ル エ ン ジ ンの 限 界 がは っ き りし て 来 た ので , い よい よ 4 サ イク ル へ の 切 替 に踏 み切 った。競 合 他 社 は一 貫 して4サイクルであったが,いずれも戦 時 中 に国 家 統 一 型 設 計 の商 工 省 標 準 型 エンジンに起 源 を有 するものであったので,間 接 噴 射 式 (燃 焼 方 式 )で あった。この方 式 は他 の方 式 である直 接 噴 射 式 に比 べて熱 効 率 が低 い部 類 に属 しており, 欧 米 の先 進 的 なものの直 接 噴 射 式 4サイクルに比 べてやはり 10%程 度 熱 効 率 が低 かった。 8. 新 方 式 エンジン 私 がやったのはその最 先 端 の直 接 噴 射 式 の4サイクルであった。これが望 ましい型 のもので ある こ と は 文 献 調 査 で も 判 っ て い たの で , 会 社 の 上 層 部 に 提 案 す る 努 力 は し た が , な か な か 聞 き入 れて貰 えず,決 断 が下 るまでに2年 余 りの長 きを要 した。 結 局 私 が社 命 により米 国 に2サイクルエンジンの勉 強 に行 かされて,調 査 をしている内 に明 白 になったことであった。2年 間 の米 国 留 学 を終 えて帰 ってきた翌 日 から,かねてより提 案 して いた4サイクル直 噴 式 を計 画 するグループに組 み込 まれた。幸 いに2サイクルエンジンは直 噴 式 であったし,その燃 料 噴 射 装 置 の困 難 さの克 服 には1日 の長 があった当 社 は比 較 的 早 期 に開 発 に成 功 し,5年 の開 発 期 間 の後 1969 年 4 月 に発 売 にこぎ着 けた。しかし残 念 ながら 8 競 合 他 社 もこの種 の主 エンジンの開 発 を進 めて おり,いすゞと日 野 に半 年 から1年 発 売 時 期 で 差 をつけられてしまった。 このエンジンの構 造 は大 変 シンプルであり, 誰 にでも容 易 に受 け入 れられるものであり,それ まで使 用 者 に強 いていたメンテナンスの煩 わし さからも解 放 し大 変 喜 ばれた。 9. ターボ過 給 エンジンへと発 展 し業 界 標 準 へ こうして,日 デのエンジンは4サイクルの直 噴 式 に切 り替 えられ,その後 アメリカで発 達 したタ ーボ過 給 及 びインタークーラー装 着 によって出 力 レベルが約 2倍 にまで向 上 し,しかも熱 効 率 も更 に5%程 度 向 上 するに至 るのである。 私 が担 当 していた間 には残 念 ながら燃 料 噴 射 装 置 の電 子 制 御 はモノにならなかったが,そ PD6 型 直 接 噴 射 4 サ イ ク ル エ ン ジ ン ( 185PS 1969 年 ) の後 燃 料 噴 射 装 置 の電 子 化 が 1990 年 以 降 の10年 ほどの間 に急 激 に進 み,業 界 の標 準 になっている。 機 械 工 業 製 品 の有 るべきに姿 に関 していう ならば, ① 機 械 はシンプルでなくてはならない(シン プルイズザベスト) ② 今 や世 界 中 のライバルがしのぎを削 って 研 究 をしているので,その動 向 を見 極 め て,将 来 どちらの方 向 に進 むべきか確 た る根 拠 を以 て,大 まかに見 極 める必 要 が ある。 わが国初直噴ターボ過給エンジン ③ ユーザーの使 い方 を徹 底 的 に調 査 して, PD6T 型 その製 品 のどこに不 満 があり(不 便 を感 じ ( 260PS 1971 年 ) ており),どうなって欲 しいかという希 望 を 知 り尽 くすことである。 ④ 今 や電 子 制 御 があらゆるものに応 用 されているので,電 子 技 術 (通 信 技 術 を含 む)をフル に活 用 して新 しい付 加 価 値 を製 品 に織 り込 む事 が必 要 である。 ⑤ 今 後 はナノテクノロジーという新 分 野 の発 展 も横 目 で睨 みながら,新 製 品 の開 発 を進 める 必 要 があるのではないかと思 う。 9 10. 人 生 仕 事 ばかりでは長 持 ちしない 私 は日 デ に在 籍 し 第 一 線 技 術 者 で活 躍 し ていた間 は,表 向 きはそれこそ仕 事 一 筋 であ った。しかし,仕 事 ばかりでは人 生 が続 かな いことも事 実 であった。私 は音 楽 にも興 味 を 持 っていたが,それもちょっとしたきっかけから そうなったように思 えて仕 方 がない。 一 つは幼 少 のころ,母 に連 れられて日 本 橋 の三 越 本 店 に行 き,パイプオルガンの壮 大 で 胸 を圧 迫 するような低 音 のすばらしさである。 自 作 の LP レ コ ー ド 用 ピ ッ ク ア ッ プ 次 は高 校 の放 送 部 でレコードコンサートを ( バ リ ア ブ ル レ ラ ク タ ン ス 式 1952 始 めて(私 は技 術 係 で器 材 を作 ったり操 作 し 年) たり),バイオリンを弾 いていた友 人 の音 楽 解 説 を聞 く内 に段 々はまりこんで行 った。最 後 の決 め手 は,ワンダ・ランドフスカの演 奏 した 片 面 たった3分 のレコード(ヘンデル作 曲 調 子 のよい鍛 冶 屋 )を聞 いてからである。この人 ほど表 情 豊 かに,ある時 はゆっくり,またある 時 は早 く,楽 器 の音 色 を次 々に変 えて弾 くの に感 動 した。そのレコード演 奏 に,すっかり心 を奪 われてしまった。特 に最 後 の変 奏 を非 常 な早 さで弾 き始 め,終 わるときは音 色 を変 え 自 作 の ハ ー プ シ コ ー ド ( 1966 年 ) ながらテンポも徐 々に落 として終 末 をゆったり したテンポで迎 える辺 りは,これこそ自 分 の理 想 の演 奏 であると感 じてからである。 以 後 私 は,ランドフスカ演 奏 のレコードを集 め始 め,バッハ作 曲 の平 均 律 クラビア曲 集 の中 から1枚 の 中 古 L Pレコードを手 に 入 れて から である。 当 時 日 本 では LPレコード の生 産 はし て おらず,恐 らく米 進 駐 軍 の持 ち込 んだレコードが中 古 で出 回 ったのであろう。以 後 私 はこの人 のレコードを出 来 る限 り集 めた。LP レコード用 のピックアップも 33・1/3rpm のフォノモーターも 自 作 した。 私 は仕 事 で疲 れたと思 っても,この人 の演 奏 するレコードを聞 きながら仕 事 をすれば家 で何 時 間 で も 続 け る こ と が でき , し か も い ろ い ろ な 新 し い ア イ デ ィア が 生 ま れ て く る と い うお ま け ま で 付 いてくる。 私 はこの楽 器 を何 とかして手 に入 れたいと思 い,中 古 品 をヨーロッパに駐 在 している商 社 員 の友 達 に探 して貰 ったが,見 つからなかった。ところが,アメリカという国 は大 した国 で,日 曜 大 工 のための組 立 キットが Zuckermann というニューヨークの会 社 から売 られていることを大 学 の 教 授 から教 えて貰 い,しかもそれを組 み立 てた人 が別 の教 授 にいるということまで判 り,それを 見 せ て 貰 って こ れ なら自 分 でも でき る と 確 信 して , そ の キット を ポ ケッ トマ ネ ー で買 っ て 帰 り, 1 10 年 半 掛 けて組 み立 てた。因 みに価 格 は1台 800 ドル(当 時 は 360 円 /ドル)であった。 私 は米 国 留 学 時 代 の短 い休 みを活 用 して,例 のランドフスカの住 んでいた家 を探 し出 し, 彼 女 の楽 器 や楽 譜 の資 産 を管 理 している弟 子 で友 人 と自 称 するデニス・レストーさんに面 会 し遺 品 の数 々をみせて貰 った。 ところが,帰 国 後 私 の次 ぎにランドフスカの住 居 を訪 ねた日 本 の女 流 ハープシコード演 奏 家 の風 間 千 鶴 子 氏 が演 奏 会 を開 くに当 たり,私 の自 作 楽 器 を演 奏 会 場 に展 示 させてくれない かとという話 が持 ち上 がり,上 野 の文 化 会 館 小 ホールに展 示 して貰 う機 会 を得 た。また,妹 が 奉 職 していた東 京 女 子 大 学 の聖 歌 隊 のコンサートにこの楽 器 を提 供 する機 会 も得 た。この時 日 本 には ハー プ シコ ード とい う 楽 器 は7 台 位 しか な か ったら し いの で,我 が 楽 器 は時 々 あち こ ちのコンサート会 場 に提 供 された。調 律 には東 京 芸 大 の器 楽 科 出 身 の調 律 師 堀 栄 三 氏 が 来 てやってくれたが,その調 律 をやってくれた人 は私 のへぼい楽 器 に触 発 されて,それから独 自 に調 査 研 究 の末 , 日 本 における 著 名 なハー プシコード( 他 に鍵 盤 式 古 楽 器 全 般 ) の製 作 者 になるのである。彼 は私 の知 る限 りでは150台 以 上 の楽 器 を作 ったそうで,生 涯 楽 器 製 造 に没 頭 した。彼 の作 品 は2段 鍵 盤 の演 奏 会 用 の本 格 的 なもので,NHK のコンサートや,レコ ード録 音 用 に使 用 されている。 彼 は礼 儀 正 しい人 で,機 会 あるごとに私 を日 本 におけるハープシコード製 作 者 の草 分 けだ と言 って呉 れている。 こ の よ う にし て 完 成 した 楽 器 で ある か ら , 本 来 な ら 弾 いて 楽 し むべき も ので あるが , 現 実 は さ に非 ず大 変 厳 しいものである。ちょっといたずら弾 きするにしても,その度 に調 律 しないと誠 に 不 愉 快 な音 しかしてくれないのである。美 しい和 音 を楽 しむようになるのには調 律 を30分 以 上 続 けないといけなかった。しかし,調 律 には相 当 の神 経 の集 中 を要 するので,そのあとではもう 疲 労 感 の方 が先 に立 って演 奏 を楽 しむなんてものでなかったのである。 その頃 電 子 楽 器 各 種 が出 現 し,電 子 技 術 により,何 の音 でもそのままディジタル録 音 (専 門 的 にはサンプリング)してくれるサンプラーという電 子 キーボードがローランド社 から発 売 になっ た。私 はこれも私 が求 めていた機 能 を充 足 してくれるものであると思 って,図 に示 す様 なコンピ ューター・ミュージックシステムを構 築 した。これでやれば,最 も良 い状 態 での自 分 の楽 器 の音 色 を1オクターブにつき1音 程 度 の割 で入 れておくと,いつも調 律 のベスト・コンディションの音 色 が 楽 し め る の で あ る 。 し か も , 演 奏 デ ー タ は , 別 の シ ー ケン サ ー と 称 す る 機 器 に 記 録 で き る ので,あとで再 生 することもでき,ミスタッチを修 正 したり,テンポを変 えて演 奏 させることもでき る。これを応 用 すると,ヤマハで発 売 しているピアノプレーヤー用 演 奏 データの中 から,著 名 な 演 奏 家 の演 奏 になるバッハやヘンデルの曲 を私 の楽 器 の上 で演 奏 して貰 えるというものであ る。 現 在 はキーボード楽 器 メーカーから電 子 ピアノとして,ハープシコードの音 色 の入 ったものが 販 売 されているが,私 のシステムのようにハープシコードの多 彩 な音 色 を発 生 しうるものはない。 しかも,市 販 され始 めたのも5年 程 度 経 ってからであった。 このシステムの最 大 の効 能 は,録 音 の際 にスタジオが不 要 であるというところである。自 分 の 家 でまともに録 音 をするには,家 族 全 員 に協 力 を要 請 し静 かにして貰 うのだが,その協 力 は 11 何 分 も長 続 きできない。近 所 の犬 が吠 えたり,電 話 が掛 かってきたり,飛 行 機 の爆 音 も遠 慮 な く入 ってしまうのだが,そういう煩 わしさから開 放 され,演 奏 に集 中 できるということである。 12 再 び自 動 車 に話 を戻 して,私 は米 国 留 学 の前 に小 型 ディーゼルエンジンの設 計 をした。日 産 自 動 車 の要 請 により,全 く真 っ白 な紙 に計 画 する段 階 から関 わった。ボ アとストロークなど基 本 諸 元 の決 定 のほか, 主 運 動 部 品 と燃 料 噴 射 装 置 の計 画 を行 いヂーゼル機 器 に発 注 した。このエンジン は 私 の帰 国 し た 年 からセ ドリック タク シー に 搭 載 されて街 を走 り出 した。エンジンの設 計 者 としては自 分 の設 計 したエンジンの載 った車 を自 分 で所 有 するということが願 望 であった。しかし,タクシー仕 様 では自 家 用 車 に向 か ないため , 自 分 の好 む ガソリン の中 古 車 を買 ってきて,またタクシー上 がり のディーゼル車 から新 車 に乗 り換 えた人 か らそのお古 の車 を無 償 で譲 り受 けて,搭 載 されていた SD20 型 エンジンと動 力 伝 達 系 H130 型 セ ド リ ッ ク 車 か ら 降 ろ さ れ る の組 み替 えを行 い,改 造 届 けを出 してディ 6 気 筒 ガ ソ リ ン エ ン ジ ン ( 1975 年 頃 ーゼル車 に直 し,変 速 機 もオーバードライ 自宅車庫にて) ブ付 の4段 というタクシー仕 様 では設 定 さ れていない車 を作 り上 げ,日 産 自 動 車 の設 計 の人 にも乗 ってもらった。こうして,330 シリーズ ではフロアシフトの5段 変 速 機 仕 様 車 が発 売 になり,これでやっと新 車 を買 う気 になれた。この 時 自 力 で初 めて新 車 というものを手 にする喜 びを味 わうことができた。 11.まとめ 以 上 私 の自 動 車 業 界 にいて 50 年 間 に亘 る機 械 技 術 者 としての経 験 から思 うままに述 べさ せて頂 いた。技 術 の内 容 でなく,技 術 屋 人 生 の生 き方 のご参 考 になれば幸 いである。 13
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