2011 年度 多摩美術大学大学院美術研究科 修士論文 2011, Master Thesis, Graduate School of Art and Design, Tama Art University 題目/Title 「不思議の国のアリス」を巡る私の絵画 My painting concerning “Alice’s Adventures in Wonderland” 著者名/Name 小堀由弥子/Kobori Yumiko 学籍番号/Student ID number 31012032 博士前期課程 絵画専攻 油画研究領域 Oil painting Field, Painting Course, Master Program 1 ―目次― ■序章 存在と価値 1.存在とは何か 1 2. 「絵」の価値 ■第1章 1-2 ファンタジーと現実 1.二つの世界 2 2. 『不思議の国のアリス』 3.登場人物と現実世界 4.言葉遊び 2 2-3 3 5.媒体としてのアリスの世界 ■第2章 4 アリスと量子論 1.王様の夢の中のアリス 4-5 2. 『シュレーディンガーの猫』について 3.重なり合う存在 5-6 4.絵描きとしての思考 ■第3章 6 二つの世界と絵画 1.媒体としての絵画を考える 2. “絵にしかない世界” 3. 「IRINKUS」の制作 4.さいごに 5 6 6-7 7 8 2 ■序章 存在と価値 1.存在とは何か 現在私達が生きているこの世界、社会、空間が、果たして本当に存在しているのか、な どと思ったことはないだろうか。おそらく、そんなことは考えたこともない、と言う者が 多いだろう。しかし私がこれから伝えようとしている事柄から、自分達を取り巻く世界そ のものの存在について少し考えてみて欲しい。これは私の勝手な願いであり、生活してい く上での必須事項でも何でもないから、無駄なことと思われるかもしれない。しかしこの 無駄なことこそ、日常を面白くする素晴らしいスパイスなのである。 さて、先にも述べたように、私達が生きている世界の存在の有無についてだが、これは 実に突拍子もない考えであろう。何しろ今自分がものを考え、感じて、息をしていること に何の違和感も感じないのだ。私自身こんなふうに考えるようになったのも最近のことで、 それは生来私がやってきた「絵」に深く関わっている。まずはそのことから述べていきた いと思う。 2.「絵」の価値 私は大学・大学院と、学校という場で絵を描くことに携わってきたが、印刷技術の発展 やパソコンが一般的に普及している現代において、 「絵」という至極原始的なツールを用い て生きていくことに疑問を感じてしまった。 「絵」を売り社会で生きる術である「金」に換 える。だが、財布の紐も固くなっている不況の現代、高価な1点ものより印刷の安価なも の、 複製で充分という風潮なのは間違いない。 その上様々な技術がニセモノの価値をグン、 と上げてホンモノとの差を縮めているのだ。価値が変わらないのであるならば、高価なホ ンモノと安価なニセモノの二択で、ニセモノを選んでしまう心理も頷けるのである。 何も「絵」が高価で手にしにくいという問題だけではない。 「絵」の展覧会においても、 わざわざ時間をかけて画廊や美術館に足を運ぶより、自宅のパソコンで机に向かって、座 りながらにして「絵」を見ることができてしまうのだ。 「絵」は、買うことにも見ることに も現代では多くの障害があるのである。 何故私がこんな今「絵」を描いているのかと言えば、それは“描くことが好きだから” ということに尽きる。何のきっかけがあったのか自分でも分からない、気付いたらずっと 「絵」を描いていた。使い終わったコピー用紙の裏側とペンさえあれば黙々と「絵」を描 いている子供だった。それは純粋に描くことが楽しいと感じていて、自分の考えた空想上 の人物や、理想の家――様々なものが紙の上に現れることが快感だったのだ。現在も自分 が「絵」を描く根本的な理由はそこにある。しかし社会で生きる術として「絵」を選択し てから、ただ自分が好きで楽しいから、という理由だけでは済まなくなってしまった。自 分で楽しむだけの「絵」から他人を楽しませる「絵」にする必要があるからである。そこ に上記の障害が立ちはだかる。それならば現代の流れに従って印刷やパソコンを大いに使 用すればよい、という考えもあるが、私は昔のように黙々と、支持体をコピー用紙の裏か 3 ら真っ白いキャンバスに変えて「絵」を描いているうちに、今現在自分が作り上げている、 この絵の具ののったキャンバスにしかない価値があると感じたのだ。 ■第1章 ファンタジーと現実 1.二つの世界 人にみせる絵画を考えたときに、幼い頃から「絵」を頭の中の想像物を具現化したもの として楽しんできた私にとって、やはり“絵にしかない世界”というものは非常に重要な 役割を果たしている。 「絵」は“空想の世界”と、それを見ている“自分が今生きている世 界”を行き来するための橋渡し役で、二つの世界を繋ぐ扉のような存在なのである。しか し“空想の世界”が本当に何もかも現実味のない、かけ離れた存在であってはいけない。 これは私の持論であるが、 “空想の世界”には現実とリンクする要素がないと、突き放され てまるっきり入り込む隙がなくなってしまうのである。 有名なファンタジー小説である『ハ リー・ポッターシリーズ』では、主人公であるハリーは実在する都市であるロンドンの、 はたまた実在するキングス・クロス駅から列車に乗って魔法界にあるホグワーツ魔法魔術 学校へ行くし、 『指輪物語』ではホビットやエルフ、ドワーフ、魔法使いという多彩な種族 の中に“人間”という存在がある。だからこそ人々はストーリーに溶け込むことができる のだ。 2.『不思議の国のアリス』 もう一つ有名な著書を挙げるとすると、 『不思議の国のアリス』だろう。 『不思議の国の アリス』は、おそらく世界で最も有名な童話ではないだろうか。一説によれば、聖書の次 に世界中で読まれている本である。この物語は、作者ルイス・キャロル(本名はチャール ズ・ラトウィッジ・ドジソン)が、ある夏の日、アリス・リデルという少女とその姉妹達 を相手に、即興で話した物語がもとになっている。このアリス・リデルこそ物語のヒロイ ンであるアリスである。 物語は、アリスがウサギを追って、垣根の下にある大きな穴から地下の世界へ迷い込ん で始まる。その地下の世界でアリスは体が大きくなったり小さくなったり、マッド・ティ ーパーティーのシーンでは、答えのないなぞなぞを出題されたり…と、おかしなことがた くさん起こる。一見なんのとりとめもないストーリーに思えるが、作者ルイス・キャロル は物語に様々な仕掛けを施している。そして、そのことは私が絵画を制作する行為に多大 な影響をもたらしているのである。 3.登場人物と現実世界 『不思議の国のアリス』のストーリーの中で、非常に有名な“マッド・ティーパーティ ー”のシーンを少しばかり解説したいと思う。私がアリスの話を知ったきっかけは、幼少 期に見たディズニーのアニメーション映画からで、この“マッド・ティーパーティー”の 4 シーンがとても印象に残っている。その名の通り、狂った、どこか底知れない恐怖さえも 感じる場面でもある。 このシーンに出てくるキャラクターを紹介しよう。まずは三月ウサギ。これは、オスの ウサギが三月の発情期に狂ったようになることから「三月ウサギのように狂った」という 言い回しがあり、アリスの時代(19 世紀イギリス)によく使われたので、“マッド・ティ ーパーティー”のメンバーに抜擢されたようだ。次は帽子屋。こちらも「帽子屋のように 狂った」という慣用句から来たキャラクターである。それというのも、当時、帽子の素材 となるフェルトの製造に水銀を使用したため、帽子屋は水銀中毒にかかり幻覚に襲われる ことが少なくなかったからだそうである。そしてあまり目立たないが、ヤマネがいる。何 故ヤマネがパーティーに出席しているかというと、当時イギリス・オックスフォードあた りにいた通称“マッド・ハッター”という、いつもシルクハットをかぶった男がいて、眠 っている者を放り上げて起こすという乱暴な目覚ましベッドを発明したらしい。この男が パーティーに出席している帽子屋のモデルであるならば、夜行性で昼間いつも眠っている のを叩き起こされてしまうヤマネが、帽子屋の隣に座っているのもおかしくないという見 解である[注1]。 各々のキャラクターにきちんと由来があったことを私が知ったのは最近のことであるが、 この事実を知った方がより魅力的なシーンに感じられはしないだろうか。きっとこの物語 が発表された当時はキャラクターの由来が分かり易かっただろう。自分の知っているもの が姿を変え、現実では出会うことのなかったこれらのキャラクターが、新しい世界を作り 出しているのだ。水銀中毒で幻覚、などというと子供のために作られた話にしてはいささ かブラックな気もするが、そこを楽しんでしまうのはお国柄であろう。 4.言葉遊び そしてこのシーンで面白いのはキャラクターだけではない。マッド・ティーパーティーの 場面だけに言えることではないが、前にも述べた通り作者であるルイス・キャロルは、ス トーリーの端々に様々な言葉遊びを組み込んでいる。 パーティーでのおかしな会話には、英単語というものをとても面白く使用していて、 「you should say what you mean(自分の意味する通りのことを言うべきだ)」という三 月ウサギに対して、アリスが「I mean what I say(私が言った通りのことを意味している) 」 と言い、これはどちらも同じことだと訴えると、だったら、と帽子屋が「I see what I eat (私は食べるものを見る)」も「I eat what I see(私は見るものを食べる) 」も同じか、と アリスをやりこめるのである。 また違う会話の場面では、ハートの女王主催の音楽界で帽子屋が“きらきら星”の歌の パロディを調子外れに歌い始めると、女王が、こいつの首をはねよ!と叫んだという。そ れは何故かというと「He’s murdering the time(時間を殺そうとしている)」からなのだ。 Murdering the time というフレーズは、リズムをとれずにめちゃくちゃに歌うという意味 なのだが、熟語として初めて成り立つ言葉を直接的に解読して生まれた、それこそめちゃ くちゃなやりとりである。時間を生きもののように扱うのも面白いところだ[注2]。 5 5.媒体としてのアリスの世界 少しだけではあるが、アリスのストーリーの面白さを紹介したところでもう一度思い出 して欲しいことがある。それは恐らく英単語の件で感じて頂けたのではないだろうか。 『不 思議の国のアリス』というストーリーがあって、アリスという登場人物がその世界の中で 色々なことに出会うという文章――本を“読んでいる自分”がいるということに。それは キャロルの仕掛けた様々な言葉遊びによる、物語の世界観に浸るというよりも、まるで難 解な数式や化学式でも眺めているような頭の痛さに似ているからかもしれない。子供向け のファンタジーと数学や化学だなんて似ても似つかないもののように思えるのだが、作者 であるキャロルが数学の教師であったためにできた技であろう。 『不思議の国のアリス』という話は、 “アリス”という普通の女の子や馴染みのある言葉 からできたキャラクターによって、奇想天外な世界の中に読み手を入り込み易くさせ、尚 且つ“読んでいる”という現実として実際行われている行為も忘れさせない。物語に浸っ てきた、と思いきや、あくまでこれが本という媒体であることも思い出してしまうのであ る。まさに、ワンダーランドへ迷い込んだアリスそのものと言えよう。アリスはウサギの 穴からであったが、私達は本という入口から不思議の世界へ落ちてしまったのだ。そして 出口は文章のあらゆる場所に散らばっている。 ■第2章 アリスと量子論 1.王様の夢の中のアリス さて、 『不思議の国のアリス』には『鏡の国のアリス』という続篇があることをご存知だ ろうか。私がアリスの存在を知ったきっかけであるディズニーアニメーションでは、タイ トルは“不思議の国”のアリスだが、実はこの『鏡の国のアリス』の内容が混ぜ合わさっ ていて、トゥイードルダムとトゥイードルディーというふたごの登場もその中のひとつで ある。このふたごとアリスのやり取りに、こんなものがあるので紹介したいと思う。この 場面もまた、私の「絵」の考え方に大きく影響している。 ――森の中に迷い込んだアリスが、そこで出会ったダムとディーのふたごに「セイウチ と大工」という長い詩の朗読を聞かされていると(この詩の内容も面白いので、興味があ れば是非見てみて欲しい)うなり声のような声が聞こえてくる。その正体は眠っている赤 の王様(『鏡の国のアリス』で登場するチェスの駒のキャラクターのひとり)のいびきだっ た。それを見てディーは、今、王様はアリスの夢を見ているが、もし王様が夢見ることを やめたら、アリスは消えてしまう。アリスは王様の夢の中にしかいないものだからだ・・・ と。それを聞いてアリスは、私はほんものよ!と思わず泣き出してしまう。それがほんも のの涙だとでも思っているのか、と今度はダムが言う――。 鏡の国、という夢まぼろしの世界に自分はいると思っているアリス。だが実は、アリス 自身が夢の中の存在だとしたら? 上記のふたごとのやりとりは、物語のクライマックスでアリスが夢から覚めて現実に戻 ってきたときにも関係している興味深い場面である。いったいこの夢は自分の夢だったの 6 か。それともダムとディーの言うように、これは赤の王様の夢で、自分はその夢の一部だ ったのか。アリスは自身に問いかける。 この疑問は最後までわからないまま物語は終わってしまう。アリスは眠っている王様を 起こして、自分が本当にそこに存在している、ほんものであることを立証せずに物語が進 んでいってしまうからだ。答えのない問題だ。この問題は、アリスが王様を起こさない限 りずっと分からないまま。そしてこれは、アリスが自分の存在を証明できず、証明するま では“今ここにいる自分”と“王様の夢の中の自分”というふたつの存在があるというこ とである。証明するまでアリスはそこにいるし、いないとも言えるのだ。 2.『シュレーディンガーの猫』について アリスがほんものか否かという問題は、 『シュレーディンガーの猫』という量子論に関す る思考実験に通ずるものがある。 まず、蓋のある箱を用意して、この中に猫を一匹入れる。箱の中には猫の他に、放射性 物質のラジウムを一定量と、ガイガーカウンターを一台、青酸ガスの発生装置を一台入れ ておく。もし箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出すと、これをガイガーカウンター が感知して、その先についた青酸ガスの発生装置が作動し、青酸ガスを吸った猫は死んで しまう。しかし、ラジウムからアルファ粒子が出なければ、青酸ガスの発生装置は作動せ ず、猫は死なない。 この実験において、猫の生死はアルファ粒子が出たか否かのみにより決定すると仮定す る。そしてアルファ粒子は原子核のアルファ崩壊に伴って放出される。例えば箱に入れた ラジウムが一時間以内にアルファ崩壊して、アルファ粒子が放出される確立が 50%だとす る。観測者がこの箱の蓋を閉めてから一時間後に蓋を開けて観測したとき、猫が生きてい る確率は 50%、死んでいる確率も 50%である。したがって、箱の中を確認するまでこの 猫は生きている状態と死んでいる状態が1:1で重なり合っていると解釈しなければなら ない[注3]。 『シュレーディンガーの猫』の場合、観測者と対象物――箱の中の猫は別のも のであり、『鏡の国のアリス』の場合は観測者と対象物は同一のもの――アリスであるが、 これというのは、観測者自身が、観測した瞬間に存在するか消滅するかが決定されるとい う違いである。 3.重なり合う存在 生きるか死ぬか、あるかないか、という対照的で矛盾した状態は、普通同時に存在し得 ないものだと思うが、この『シュレーディンガーの猫』の実験や、 『鏡の国のアリス』のア リスとふたごのやりとりから考えると、そういった重なり合った状態が起こり得るのであ る。 ちなみに、 『シュレーディンガーの猫』の実験への解釈としては様々なものがあり、その 中の理論でアリスの状態を解釈すると、 “コペンハーゲン派”ならば「王様を起こしたアリ スが残り、夢の中のアリスが消える。または、夢の中のアリスが残り、王様を起こしたア リスが消える。」となる。また、“エヴェレット派”ならば「アリスが王様を起こした瞬間 に、夢の中のアリスと現実のアリスと、それぞれが実在するふたつの世界に分岐する。」と 7 なる[注4]。 この実験への解釈は今でも議論の対象として扱われ一向に解決されないのであるが、こ の問題の解決は量子力学の専門家に任せるとして、私は絵描きとして『シュレーディンガ ーの猫』を考えたいと思う。 4.絵描きとしての思考 『シュレーディンガーの猫』や『鏡の国のアリス』に見られるような、矛盾した関係の ものが同時に存在するという状態は、なんとも不思議である。私はこの問題のことを考え れば考えるほど頭が回らなくなってきてしまうから、このことについて論理的に研究して いる専門家には驚嘆する他ない。物理だの、量子力学だの、そういった類の学問は昔から 苦手である。しかし、矛盾した状態が重なり合うという事象を知ったとき、私は不可能な ことが可能になったような、まるで魔法でも使えるようになったかのような気分になって しまった。そう言うと少し大げさかもしれないが、自分が今までに体験したことのない世 界が考えようによっては存在することに喜びを感じたのだ。もしも今自分が生きているこ の世界が、誰かの夢だったらどうだろうか。本や映画で想いを馳せるよりも、より実感と して異世界を感じ取れたのである。これはファンタジー愛好家にとってはとても重要なこ とだ。 私は絵を描くことによって、自分の頭の中にある想像上の世界を具現化してきたが、そ れはあくまでビジュアルイメージを表面的に描いただけのものであった。これだけでは、 ただ何があって何がこうなっていて、というように文字で羅列しているのと変わらないの ではないだろうか。それこそ、印刷で事足りるのではないだろうか。 「絵」を描くからには、 そこにしか持たない“何か”を加える必要があるのだ。もしもルイス・キャロルが画家で あったならば、ただの表面的な「絵」はまず描かないはずである。 ■第3章 二つの世界と絵画 1.媒体としての絵画を考える 『不思議の国のアリス』がもしも一枚の絵だったら、いったいどんなものになるのだろ うか。うさぎの穴に落ちたアリス、現実と幻想とが折り重なった世界。キャロルはそれを 「本」という媒体を上手く使って表現した。それならば、 「絵」というものを表面的ではな く、もっと物質的に考えるべきである。キャンバスの表面しか見ないのでは、デジタルな 手法で簡単に表現できてしまうのだ。 2.“絵にしかない世界” そこで私が考えた「絵」にしかできない表現は、 “空間の操作”である。私は「絵」とい うものを『シュレーディンガーの猫』でいう「箱」 、『鏡の国のアリス』でいう「赤の王様 の夢」の役割にできると考えた。そして重なり合う二つの矛盾した関係を、 「私達が絵を見 8 ている世界」と「絵の中の世界」に分類する。この二つの世界は、決して同じでない、別 の世界だ。しかしこれらが重なり合ったとき、絵の鑑賞者である私達は異世界を体験でき るのである。それには“絵の中の空間”が重要で、それは単純に奥行きがあるように見え るとか、平面的に見えるということである。奥行きが感じられる絵は、見ていて実際に絵 の中まで歩いて行けそうに思えるし、平面的な絵は目の前に迫ってくるような圧迫感があ る。 こういった現象は絵の中の線の角度や、絵の具ののせ方や色使いによるもので、所謂目 の錯覚で起こるものだ。トリックアート美術館などを思い浮かべて頂けると分かりやすい だろう。 “絵の中の空間”というものはほとんどが目の錯覚で成り立っているのである。実 際はキャンバスや、それぞれの支持体にそれぞれの描画材料がのったものに過ぎないので ある。私達はそのことを再認識したとき、ハッと現実に引き戻される。 『不思議の国のアリ ス』がしたように、鑑賞者は目の錯覚によって異世界を行き来しているのだ。 「絵」はどうしても二次元的なものに捉えられるが、実際は三次元のものである。そし て、 「絵」に描かれたものは四次元のものである。この四次元であるというのは、「絵」を 自分の頭の中のものを具現化したことによってできる“異世界”と捉えるからである。 こうして改めて考えてみると、 「絵」というものは実に様々な次元を持っていることに気 付かされる。これを最大限に生かすことが、私は“絵にしかない世界”に近付く術ではな いかと思うのである。 3.「IRINKUS」の制作 目の錯覚を利用した“空間の操作”をするにあたって、絵の具の表現は大切な役割を持 っている。今まで勉強してきた絵画技法・構築法などをフル活用して、私は絵を描いてみ ることにした。 「IRINKUS[図1]」というタイトルの絵を描いたとき、私が最初に決めたことは机の傾 きであった。四角いキャンバスに対して平行でもいけないし、全体のパースがぴったり合 っていてもいけない。机の歪みは、鑑賞者にどこか不安定なイメージを与えるためのもの である。そして人物は、あくまで自然な表情を持たせるように描いた。絵の中の人物とい うのは、鑑賞者である人間が一番感情移入できる箇所である。ここであまりにもデフォル メを施した人物が来てしまったら、せっかく歪んだ机も正当化され過ぎてしまうし、鑑賞 者にとってかけ離れた存在になってしまうのだ。その人物は、机があって、椅子に座って いる、という奥に行く空間があるが、周りの壁は“絵の世界の壁”というより“実際に鑑 賞者がいる世界の壁”のように見える表現をした。その壁には、 “絵の世界の物体”を“ら くがき”のように絵の描き手の生臭さを感じられるように描いた。他にも様々な“こう見 えるけどこう”を繰り返し描いていった。 そうして「IRINKUS」という絵は出来上がった。この絵のタイトルである「irinkus」 とは、フランスの思想家ロジェ・カイヨワが執筆した『遊びと人間』の中で、 “遊び”を4 つに分類した中のひとつの言葉である。 「irinkus」はめまいを楽しむ遊び、例えばメリー ゴーランドやブランコのことで、 “空間の操作”による絵の世界と現実との行き来にめまい を感じるように、と思って描いたために付けたタイトルなのである。 9 4.さいごに 「IRINKUS」という作品は、私の幼少期の写真を元に制作したもので、日常の何気な いひとコマを切り取っただけのものである。私にとっては懐かしく、しみじみと幼かった 日々を思い浮かべるのだが、大人になってしまった今、幼かった私はもはや別の人物と変 わりはないと思えることもある。確かに同じ人物であるのだが、ここからが子供でここか らが大人、というはっきりした境目はなくとも、別の世界を生きているもののように思え ないだろうか。彼らの見る世界は私達も過去に見てきたはずの世界なのだが、何か見えな い囲いによって時の経過と共に閉ざされてしまうのだ。 私達が生きているこの空間では、様々な世界が存在していて、それは絵の中の世界、本 の中の世界、大人の世界、子供の世界――、そして、私達個人がそれぞれ持っている世界、 自分のいる世界を感じられるものの数だけ存在する。しかし、存在しないかもしれない。 それは自分の世界が夢の中だけの出来事かもしれないからだ。何かを感じて生きていると 思っても、何かの拍子に蝋燭の炎のように消えてしまうかもしれない。だがそれを証明す ることはできないし、自分の存在を実感して生きているのだから、 『鏡の国のアリス』のア リスのように、そんなことはあるはずない、ほんものだと思うのである。 これはひとつの可能性である。私が描く「絵」を見て、シュレーディンガーの猫が・・・ などと思う鑑賞者はまず現れないだろうが、それはそれで良いのである。 “絵の中の世界” の存在、 “私達が生きる世界”の存在が交錯して、ひとつのキャンバスを眺めることでアリ スがうさぎの穴に落ちたような体験ができれば、それは「絵」を鑑賞するものにとってと ても面白いものになると思うからだ。 「絵」という原始的なツールが、現代の科学ではまだ まだ真似できないものであることが伝わるのならばそれは素晴らしいことで、それが私の 望みなのである。 10 [注1]… 桑原茂夫、「図説 不思議の国のアリス」、河出書房新社、48~49 頁、2007 年 [注2]… 桑原茂夫、「図説 不思議の国のアリス」、河出書房新社、49~51 頁、2007 年 [注3]… http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3 %83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%8C %AB、2011 年 11 月 16 日 [注4]… http://q.hatena.ne.jp/1139913801、2011 年 11 月 16 日 [図1]… 「IRINKUS」 、1620×1303mm、2009 年制作 11
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