吃音の社会学にむけて 立命館大学生存学研究センター 渡辺克典 私は、 「社会学」という視点から吃音について考えています。吃音研究において、 「社会」 は吃音の原因としての「他者の反応」におかれることがあります。有名なところでは、ウ ェンデル・ジョンソンによる3次元モデルがあります。ジョンソンは、吃音の症状そのも の(X 軸) 、聞き手の反応(Y 軸) 、話し手の反応(Z 軸)からつくられる「箱の大きさ」を 吃音の問題としてとらえました。ジョンソンやヴァン・ライパーによる吃音研究は、1960 年代後半に日本語に翻訳され、日本の吃音者の当事者団体である「言友会」の設立にも大 きな影響をあたえています(ジョンソン著・内須川洸訳『どもりの相談』日本文化社やヴ ァン・ライパー著・田口恒夫訳『ことばの治療』新書館は 1967 年に和訳され、当時の吃音 者に知られるようになりました) 。ただし、私はこのような理解は、「社会」を狭い意味で とらえていると考えています。ここでの「社会」とは、狭い意味での社会であり、家族や 同級生、仕事仲間といった具体的な他者による反応を通じて「自分とはどういった存在で あるか」という自己認知に影響をあたえるものとして位置づけられています。 しかし、そもそも、ある発話が吃音であるか、そうでないかといった区分は、ある「社 会」の中にいることによって生じてくるものです。このことを考えるために、ひとつの思 考実験をしてみるとわかりやすいかもしれません。極端な例を出してしまえば、世の中に 1人しか人間が存在していないのであれば、発話の仕方はひとつしかなく、そこに「吃音」 という現象は存在しません。人間が2人しか存在していないのであれば、そこにあるのは 2人の個人間の違いだけであり、それが障害であり治療すべき対象であるといった事柄は 生じてきません。ある発話であり治療すべきであるといったことがもちあがってくるのは、 3人以上集ったとき、2人が「正常な発話」であり1人が「正常でない発話」といったよ うな場合にのみ生じることになります。吃音者が2名であり、非吃音者が1名であるなら ば、 「障害」とみなされるのは「非吃音者」であるといったことも考えられるのです。 じつは、ジョンソンやヴァン・ライパーらは、このような発想から文化間比較といった かたちで調査もおこなっていました。「吃音とみなされる」発話は、文化により異なってお り、それが吃音の出現率に影響をあたえるのではないか、といった仮説をもっていました。 この知見やその後の調査には、人類学者や社会学者も関わっていたことが知られています。 私の関心のひとつは、このような仮説を引き継ぐことにあります。 仮説の引き継ぐに当たって、次のような組み替えをおこなっています。私たちが生活を 送っている「社会」とは、 「望ましい発話」と「望ましくない発話」に対して<区切り>を おこない、それにもとづいて治療や対処をおこなっている社会である、ととらえます(図) 。 望ましい発話 発話障害 改善 推奨 正常な発話 治療 吃音の特徴は、その判定基準が曖昧である点にあります。たとえば、非吃音者であって も、日常会話においても緊張した場面において「どもる」ことがあります。この場合、吃 音者が吃音症状を発したとしても、他者が「相手が緊張しているのだ」と解釈することで 会話がおこなわれる場合もあります。また、親しい人との間では、吃音症状が会話の非流 暢さを引き起こさない場合もあります。私が「吃音と社会」という課題において考えたい ひとつの問いは、そもそもこのような<区切り>を作りだす私たちの「社会」とはなんな のだろうか、という問いです。そこには、国際的な比較もありえますし、歴史的な分析も ありえると考えています。このような発想で、「吃音と社会」をとらえてみたいと考えてい ます。
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