WIJC160703不確定な時代を確信をもって生きる

1
2016 年7月3日 聖書:ローマ8章 28-39 節
タイトル:不確定な時代を確信をもって生きる
序 論
●昨日無事帰りました。約 1 ヶ月間にわたる、私の訪日宣教のためにお祈りを頂いたこと、また留守の
教会を守ってくださった皆様がた、かおる師、また講壇からのメッセージの御用を引き受けてくださ
った先生方、沢山の方々に心から感謝したい。
●今回、いつもとほぼ同じようにタイトなスケジュールを組んで、少しオーバーな言い方だが、「日本
全国」を巡回をした訳であるが、例年と少し違った点は、「脊柱管狭窄症」という病と言うか、痛み
を抱え、戦いの中での旅であったことであった。
●そのために、どれだけ多くの方々が、心配し、祈り、手伝い、特別なご配慮、様々なご手配をくださ
ったか分かりません。改めてそれらの方々に心から御礼を申し上げたい。
●さて、今回の旅で、6月 1 日、日本に着き、最初に感じたのは、この国は、日本全国「東京都」にな
ったのかなと言うことでした。最初の 2 週間ほど、来る日も来る日も、朝、テレビのニュースを見る
と、出て来るトピックは、ほぼ全部「舛添東京都知事」の問題ばかりであった。
●ほんの数か月前に、こちらの桜祭りのパーティーで、同じテーブルでお食事をし、名刺を交換し、少
しではあったが、会話を交わし、桜の女王を選ばれ、嬉しそうに冠をかぶせておられる姿を見ていた
者として、ほんの数か月後に、このように苦闘している姿を見ることに、人生の、というか、ものの
あわれを感じていた。
●更に、この訪日中に起こった大きなこと、それは、世界中を動揺させた英国のEU離脱問題であった。
●世界は揺れ動いている。特に、近年を振り返ると、それは、世界を文字通り震撼させたあの 9・11
から始まった。そして、世界に経済的な大きな打撃を与えたリーマンショック。更には ISIS や難民問
題で世界は、政治的、経済的に、平和、安全、共存の問題で揺れ続けている。
●その後、日本では、特に、5 年前の前代未聞の大地震と津波、更には原発災害が襲って全国をひっく
り返した。そして、更に今年の熊本地震である。
●そのような、次の瞬間は勿論のこと、これから、一体何が起こるのかが分からない実に不確定な時代
にあって、人々は不安で、確信の持てない人生を送っている。
●今年のアメリカの大統領選挙の候補者の人気の傾向にもそれが顕われていると思う。すべてが不確定
で不安なとき、人々は、溺れる者、ワラをもつかむような思いで、強い者、確信をチラつかせる者に
しがみつき、身を任せようとする。
●第二次大戦のとき、社会的、経済的に苦しむドイツ国民たちは、ヒットラーが見せた、いかにも確信
に満ちた言葉に、姿に魅せられ、飛びついたのである。しかし、そこに大きな間違いと悲劇があった。
●私たちも、今、このような不安定の時代にあって、何に飛びつくか、身を任せるべきか、気をつけな
ければならない。
●今日お読みした聖書の箇所、ローマ書 8 章 28-39 節であるが、ローマ書は、クリスチャン生涯と
は何か、クリスチャン信仰と何かの教科書のようだとも言われる。
●その教理の部分 1-8 章と、実践部分 12-16 章の中間に、イスラエル民族を中心に神様の人類救済
計画を記しているが、その教理部分の最後が、今日の箇所である。
●その教理部分、即ち、キリスト教信仰と生涯の何たるかを締めくくるとき、パウロは、そこに溢れて
来る人生の確信の喜びを抑えることができないで、まるで雄たけびを上げて、叫んでいるようにさえ
思える。
●なぜ、パウロは、そのように確信に満ち溢れた生涯を送ることができたのか?! そこに三つの理由
が示されている。
本 論
Ⅰ.第一は、私の人生と、世界の成り行きを掌握しておられる神への信頼である。
A,それが、28節でパウロが言っていることである。「・・・・」
1.神様はご計画をもって、私たちの人生を、世界を導き、見守っておられる。言い換えるなら、
地上で起こっているすべてのことで、神様の手から離れて、無計画に、偶然に起こっている
ことは何一つない。
2
2.確かに、神様は人に自由を与えられた。神様が人に何かをさせているのではない。
3.しかし、同時に、人に自由を与えたからと言って、神様は、私たちに対して、世界に対して、
どうすることもできないのではない。神様の無限の知恵と力によって、その人の自由意志か
ら出た、CHAOS と言いたい混乱の中でも、尚、すべてを「掌握」しておられるのである。
4.何べんもお証しするように、あの9・11のとき、「レッツ・ロール」と言ってテロリスト
と戦かいその地上の命を失ったトッド・ビーマーの奥さんリサ。その時彼女は二人の小さな
男の子とお腹に女の子を遺され、愛する夫を突然失った未亡人であった。一体これからどう
して生きていくのかと不安に沈んでも仕方なかった彼女は言った。今でもトッドを思い、泣
きながらベッドに入ることもある。しかし、そんな中でも、私が今も、朝起きて、前に進め
るのは、これらのことが偶然に起きたのではない。神様が、全部知っておられる。その神が
今も、EVERYTHING IN CONTROL と言ってくださっていることを信じるからであると。
5.パウロは言う。「すべてのこと」と。即ち、悪しきことも、突然のこと、予想外のこと、万
事休すと思えること、不幸としかみえないことも、どんなこともである。
6.そのすべてが、神様のご計画と御手の中にあって、良きことに、益に変えられるというので
ある。この確信こそが、私たちをどんな不確定の中にあってもささえるのである。
B.しかし、ここで大切なことがある。それは、「益」となるとはどういう意味かである。
1.先日、日本で一人のクリスチャンの婦人が、私に尋ねた。それが正にこの質問であった。
「先生、それは、地上的な意味でも、色々と良いことがあると言う意味ですか?」と。
2.私は答えた。神様は、私たちに地上的にも、例えば、あのときのあの苦しみがあったから、
今日、こんなに、一つになって皆で力を合わせて生きる家族になれたねとか、
3.また、苦しかったあの出来事が、いわゆる「災い転じて福となる」式に、失敗したことが、
苦しかったできごとが、きっかけとなって、物質的にも、かえって豊かな生活に変わってい
くこともある。
4.しかし、私たちの人生において、地上にいる間に、すべてのことが、このような地上的、物
質的な意味で益に変わっていかないこともある。
5.ただ、そのような例は、必ずしも多くは無い。大体は、憐み深い神は、大同小異、物質的に、
或いは、地上的、現生的にも、「良い」ことを見せてくださる。
6.しかし、同時に、ここにある「益」の究極的な意味は、物資的、地上的なものではない。そ
れは、29-30 節に書いてある通りである。
7.一言で言うなら、「御子イエス様に似る者となる」こと、そのために、神様は、すべてのこ
とを益とされるのである。
8.昨年、私は、日本に行ったとき、「志村けん」に間違えられたことをお話しした。今年は無
いかと思っていたら、旅の最後の日、福岡、博多で、どうも高校生くらいの女の子が、私を
「志村」と間違えたようであった。ニコニコ笑って、挨拶するようにお辞儀して来た。
9.志村氏には失礼だが、私に取ってそれは必ずしも光栄ではない。イケメン・タレントならも
う少し違ったかもしれない。しかし、それがいずれであれ、誰であれ、そのようなことと比
べられないこと、それは、私たちがイエス様に似ていると言われることである。人生の最高
の栄誉である。
10.最近の大統領選で悲しいことは、かつては Family Value とか、Character Matters と言
われたが、今は、そういう人格的なことに人々が関心が薄いことである。
11.しかし、物も、財産も、地位も、名誉も、知識はいつか廃れる。しかし、人格は永遠であ
る。その人格が最高の人格者イエス様に似る。聖書は、それが最高の益だと言うのである。
Ⅱ.パウロを確信のある人生に導いた第二の理由は、「罪の赦し」である。
A,なぜ、罪の赦しが大切か? それは、罪が赦されたときはじめて、今、学んだ「すべてを掌握してお
られる」神様と一つになれるからである。
1.どんなに、神様がすべてを支配し、すべてをその御手に掌握しておられると信じても、もし、
この神様と一つになっていると言う確信がないなら、私たちに確信は出てこない。
2.私たちが神様と一つになること、一つであることを邪魔しているものは何か? 罪である。
3
3.神様に自分の罪を全部赦して戴いたという確信をもつまでは、神と一つである確信もない。
4.だからあらゆる悪条件の中、不安定な時代に確信をもって生きる人生のためには、罪の赦し
の確信が必要である。
5.ダビデがそうであった。彼は王でありながら、部下の妻と姦淫の罪を犯し、それを隠すため
にその部下を殺すという大罪を犯した。誰も真相をしらなかった。そのままそれを覆い隠す
こともできた。しかし、彼の心がそれを許さなかった。彼は最早人生を確信をもって生きる
ことができず、毎日を呵責と不安の中に過ごした。彼はついにある日、神様に罪に赦しを求
めて神様に祈った。詩篇 32 篇 1-5 節
6.英国で昔、強盗殺人の罪を犯した男がいた。別の男が冤罪で捕まり、死刑にまでなった。彼
自身は、カナダに逃げて、そこで結婚もし、一般の社会人として普通の家庭生活をしていた。
そして、ある時家族で英国に家族旅行をした。あるショッピングセンターで買い物をしてい
たとき、突然店の外を「その男を捕まえろ」と叫びながら警官が走って行った。その時、彼
のすべての過去の記憶がよみがえった。彼はそこにへなへなと座り込んでしまった。その日
から彼は、その記憶と呵責を拭えず、既に時効になっていたのに自首したとのこと。心に罪
の赦しの確信がないとき、人は決して幸せにはなれない。
7.元赤軍派の死刑囚もそれを必要としていた。日航機ハイジャックで無期懲役となった丸岡修
受刑者が死亡した。彼は、刑事裁判で一貫して否定し続けたドバイ事件とダッカ事件への関
与を全面的に認めて謝罪する「遺書」を残していた。「無実を信じて応援してくださった
人々を欺いてしまい深くおわびします」とつづっている。遺書を書いた理由は「墓場まで過
ちを持ち込むわけにはいかない。死が現実になったところで決心した」としている。これも
また、人が死という現実の前に、自分の罪を詫びて、赦されたと言う確信を持つ必要を物語
っている。
B.パウロは、罪が自分の罪が赦された確信を、33-34 節までで述べている。
1.それは、イエス様による罪の赦しの確信であった。それはイエス様の十字架と復活、そして、
大祭司としてのイエス様の執り成しである。
2.即ち、イエス様は、いつも私たちが、悪魔に言い負けて、だまされて、「私の罪はやっぱり
まだ完全には赦されていないのだ」と失望するとき、イエス様は弁護士のように私たちのそ
ばに立って、十字架と復活を根拠に執り成し、救いの確信をくださるのである。
3.31-32 節をみるとき、正にこの確信があったからこそ、あらゆ、る人生の局面で、神が
共におられると言う事実を常に確信し、力強く生きることができたことが分かる。
Ⅲ.パウロがどんな人生の中でも、確信をもって強く生きることができた第三の理由は、パウロがキリスト
との強い愛で結ばれていたからである。
A,そのことが、35-39 節に書いてある。
1.彼の人生は、波乱万丈であった。信仰のゆえに迫害を受け、追われ、苦しめられ、死ぬよう
な目に遭い、明日、次の瞬間何が起こるか分からない、不安定そのものの毎日であった。
2.しかし、そこにあるのは、不安ではない。苦悩や愚痴や、失望・落胆の声ではなかった。彼
は叫ぶように言った。「これらすべての中にあっても圧倒的な勝利者となるのです」と。
3.そして、その理由と秘訣を、彼は「私たちを愛して下さった方によって」と言った。
B.人が一番強いのは、愛を知ったとき、愛に生きるときである。世界で一番強いのは愛である。
1.昔、こんな言葉があった(今は勿論死語であるが)、「女は弱い。しかし、母は強い」。母が
強いのは、母が子供を愛しているからである。
2.聖書も言う。「愛は死のように強く、・・・大水もその愛を消すことができません」(雅歌
8 章6-7節抜粋)。
3.しかし、人の愛は弱い。すぐに冷えてしまう。また、自己中心で、曲がってしまっている。
(1)人間の愛は、because の愛である。「・・・だから、愛する」の愛である。条件付きの
愛である。好きだから、金持ちだから、ハンサムだから、背が高いから、地位があるか
ら、良い人だから、親切だから、自分の子供だから、・・・愛すると言う、自己中心、
自分中心の愛である。
4
(2)また、それゆえに弱く、もろい愛である。これらの条件が少しでも変わると、簡単に冷
めてしまい、変わってしまう。
(3)ましてや、自分中心だから、自分を捨ててまで、その人を愛し続けることはできない。
(4)だから、人の愛によって、人間が強くなれることには、限界があり、短期的である。
(5)それゆえ、私たちには、人間の愛以上の愛が必要である。
4.パウロは、その愛を、キリストによる神様の愛の中に見出した。キリストの十字架の死によ
って顕された神の愛である。
5.その愛を知ったとき、パウロは、どんな人生の境遇の中にあっても、強く、確信をもって生
きることができるようになった。
6.それは、正に同様にキリストの愛を知った多くの聖徒たちの姿からも分かる。彼らは皆、苦
難と波乱の人生であった。しかし、その中で今パウロのように勝利の人生を送ったのである。
(1)C.T. Studd
(2)Hudson Taylor
(3)ツィンツェンドルフ伯爵
(4)マザー・テレサ
C. 多くのクリスチャンが、信仰生活を誤解している。
1.普通に世の中で言う「宗教」をしている感じがする。その本質・究極は「信じていると、や
はり何か良いことがある」である。
2.しかし、聖書の言う信仰は、神と人が愛の関係に入ることである。
3.聖書には、神と人間の関係を表すいくつかのイメージ、譬えがある。
(1)羊飼いと羊
(2)ブドウの幹とブドウの枝
(3)父と子
(4)夫と妻
4.これらは、永遠に人と神との関係を表す。どれも大切な譬え、絵である。
5.しかし、この中の究極は、夫と妻である。だから聖書の結論の書とも言える、「黙示録」は、
花嫁と花婿のイメージで締めくくられていると言える。
6.私たちの信仰の究極は、神様との愛の関係である。
(1)マザーテレサの最後の言葉は、Jesus, I love you であった。
(2)事業に失敗し、すべてを失い、ガンで死を目の前にしていた私の父に、私の牧師が言っ
た言葉、「あなたは今も、神様が病気を治すとか、事業を回復するとか、何かあなたに
良いことをしてくれると期待し、願っていますか? でも、本当の宗教は違うんですよ。
本当の宗教は、あなたを愛して、あたなたのためにすべてを与えてくれたお方に、あな
たもすべてを与えて愛することですよ」と。父はその通りにした。それは全く心の中の
ことであった。しかし、そのとき、父は変わった。輝き始めた。それからの父の生涯は
わずか3日であったが、母は言った。「長く連れ添ったが、あんなほほ笑みを見たこと
はなかった」と。
結 論
●これからも、私たちの人生も、世界も、浮き沈み、不安定が続くであろう。
●その中を、キリスト者として、キリストにあって確信をもって生きる人生を歩みたい。