人類と戦争の歴史―どうしたら人類は戦争をなくせるか

人類と戦争の歴史―どうしたら人類は戦争をなくせるか―
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
〔1〕人類と戦争の歴史―どうしたら人類は戦争をなくせるか―
本 書 は 、 137 億 年 の 地 球 と 人 類 の 歴 史 を 述 べ て い る 『 自 然 の 叡 智
人類の叡智』
(http://21nssr.institute で(無料)閲覧できる)から、人類の戦争の歴史の部分を要約
したものである。図表について赤字で図 1(図 8-4)のように記しているのは、図 1 は本
書での通し番号、カッコ内の図 8-4 は『自然の叡智 人類の叡智』の第 8 章の 4 番目の図
として初出したものを引用していることを示している。
目次
第1章
人類の誕生と争いのはじまり
【1】 人類の誕生
【2】 創造と模倣・伝播の原理
【3】 ホモ・サピエンスと言語の獲得
【4】 ホモ・サピエンスの世界への分散(8.5 万年前~1.1 万年前)
第2章
農業の開始と戦争の開始
【1】 農業の開始と農業定住社会の新社会システム
【2】 農業定住社会と戦争の開始
【3】 国家の成立と統治の仕組み(政治)の創出
【4】 支配者階級と被支配者階級の統治の原理
【5】 戦争技術の進歩と軍需産業の出現
第3章
古代の戦争
【1】 古代(紀元前 3000 年~西暦 500 年)の戦争
【2】 最初の東西文明の対決・ペルシア戦争
【3】 マケドニアの軍事革命とアレクサンドロス大王のペルシア遠征
第4章
中世の戦争
【1】 中世(西暦 500~1500 年)の戦争
【2】 イスラム世界の成立
【3】 中世の文明の衝突・十字軍
【4】 史上最大のモンゴル帝国の成立
第5章
近世の戦争
1
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
【1】近世(西暦 1500~1800 年)の戦争
【2】ヨーロッパの絶対王政
【3】ヨーロッパ最初の国際戦争・三十年戦争
【4】近世ヨーロッパの兵器革命
【5】戦争の大規模化と軍事費(金融革命)
第 6 章 19 世紀の戦争―植民地獲得戦争の時代
【1】19 世紀(1801 年~1900 年)の戦争
【2】国民国家(民族国家)とは何か
【3】徴兵制と軍国国家の成立
【4】プロイセンの軍事革命とドイツ帝国の成立
第 7 章 帝国主義と第 1 次世界大戦
【1】20 世紀前半(1901 年~1945 年)の戦争
【2】世界をおおった植民地主義・帝国主義
【3】覇権の交代期の欧米列強の同盟政策
【4】 第 1 次世界大戦
第 8 章 戦争と平和に関する思想と国際法
【1】戦争と平和に関する思想
【2】戦争法を中心とした国際法の歴史
【3】ヴェルサイユ条約とヴェルサイユ体制
【4】国際連盟と不戦条約
第 9 章 帝国主義と第 2 次世界大戦
【1】ドイツの戦争
【2】イタリアの戦争
【3】日本の戦争
【4】アメリカの戦争
第 10 章 国際連合の設立と第 2 次世界大戦後の戦争
【1】1945 年までの戦争のまとめ
【2】人類の戦争防止の機構―国際連合の設立
【3】国際連合の集団安全保障制度
【4】国連設立の趣旨を戦後 70 年堅持した日本
【5】第 2 次世界大戦後の戦争
2
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
【6】米ソ冷戦と原水爆対立
【7】朝鮮戦争
【8】ベトナム戦争
【9】アフガニスタン戦争(ソ連のアフガニスタン侵攻)
【10】国連の機能が発揮されたゴルバチョフ時代
【11】超大国ソ連の崩壊と冷戦の終結
第 11 章 冷戦後(アメリカ1極時代)の戦争
【1】冷戦後(1989~2010 年)の戦争
【2】唯一の覇権国家となったアメリカ
【3】アメリカ 1 極時代の戦争―アフガニスタン戦争とイラク戦争
第 12 章
2010 年以後の時代
【1】これから予想される戦争・紛争
【2】これから覇権の交代期がやってくる
【3】衰えをみせはじめた覇権国家アメリカ
【4】これからの覇権交代期に最も起きうること
【5】集団的自衛権行使に転じて歴史に逆行する日本
第 13 章 どうしたら人類は戦争をなくせるか
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 1 章 哺乳類から人類へ
【1】人類の誕生
どの時点から人類といえるか、いろいろな考えがある。哺乳類の中から社会性をもった
霊長類(真猿類)が現れたときとなると 3000 万年ぐらい前からとなるし、類人猿の中から
2 足歩行を始めた種(つまり、人類)が現れたときとなると、700~500 万年前となるし、
ホモ・サピエンス(現世人類)が現れたときとなると 20 万年前となる。しかし、これらは
いずれも自然の中で狩猟採集生活をしていたので、他の一般的な生物(動物)と基本的に
は同じであるとして、生物一般に含め、人類が独立したのは人類が自然界に働きかけて農
畜産業を開始した 1 万年前からであるという考えもある。
もう、3000 万年前ごろの真猿類の時代から群れは単なる群れではなく、個を認識した群
れになっていた(それには真猿類の目の発達が大きくかかわっていた)。彼らは群れ社会を
うまくおさめるためにプリミティブ(初歩的)な社会システム(社会の仕組み。社会のル
ール)を生み出していた。
ニホンザルなどの霊長類の社会では一般的に、①血縁制(母系制。ニホンザル社会は乱
交であり、近親相姦を防ぐためオスが群れを離脱する)
、②順位制(食物・メスをめぐって
争わないようにあらかじめ(腕力で)順序を決めておく。基本的にオスの世界は腕力が支
配)、③リーダー制(リーダーは劣位者・弱者の味方)、④縄張り制(エサ場を体をはって
でも守る)が社会システムとして織り込まれている(現在のニホンザルの生態から推測。
たぶん、試行錯誤のうちにこのようなルールをきめて、それを守ってきたのであろう。守
らなかったものもいただろうが、それは絶滅して残っていないのであろう)
。
類人猿のゴリラの社会は、単雄複雌のゴリラ型社会(一夫多妻・ハーレム制)である。
したがって、メスにありつめぬ 1 人オスやオス・グループがあって、コンテスト(オス同
士のメス集団の奪い合い)によって、勝負をきめるきわめて不安定な社会である。のっと
ったオスは前夫の子供を殺す子殺しもシステムに組み込まれている。確かに父子の関係は
はっきりしていて、仲むつまじいが、権力の移行のたびに嵐がおとずれる。
類人猿のチンパンジーの社会は、①父系制(乱交の近親相姦を防ぐためメスが離脱する)
、
②順位制、③縄張り制、④殺し・食肉(他のサル類と異なって狩猟をする)であることを
述べた。そのほかの類人猿のテナガザル、オランウータン、性を中心にしたピグミーチン
パンジー(ボノボ)についても、それぞれの社会システムをもっていたが、それは省略す
る。
筆者は『自然の叡智
人類の叡智』では、チンパンジーと人間の共通の祖先から、一部
のものが 2 足歩行を開始した 700~500 万年前から人類の歴史がはじまったとしている。
700~500 万年前の自然環境の悪化(寒冷乾燥化した)がひどくなったとき、森林が消え
ていくなかで、チンパンジーとヒトの共通祖先の類人猿の一部が(それが人類の祖先にな
ったが)
、食料を探すために木から降り、2 本の足で歩き始めた。熱帯雨林が失われるとい
う困難に直面し、せっぱ詰って、食糧を探すために(長時間をかけて)2 足歩行という新し
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
い能力を身につけ、捨て身で歩き始めたといってよかろう(2 足歩行が 4 足歩行よりエネル
ギー消費は少ないので合理的とはいえる)。
2 足歩行によって、人類は食べ物を求めてより長い距離を移動していった。そのため必然
的に人類の体型は背骨がまっすぐになり、足が伸び、2 足歩行に適するように(長時間をか
けて)進化していった。いったん進化がはじまると、人類は、いっそう、その能力を伸ば
していった。2 本の足で歩き、その結果、自由になった手を使い始めた。手が使えるように
なると、食べ物を集めるのも便利になった。集めてきて、より多くの食物をあてがわれた
子供は、生存機会がそれだけ高まっただろう。
このように 2 足歩行が他の一般の生物(動物)と人間をわけるきっかけとなり、その 2
足歩行が人間の身体にも脳にも大きな影響を与え、人間の最大の特徴となる(長時間をか
けて)脳の進化をうながし、それがまた、人間の生活を変えていったという相互作用があ
ったのである。そうして生き残ったのである。絶え間なく変動する環境こそが、人類を進
化させたといえる。
類人猿のなかでチンパンジーは熱帯雨林という昔ながらの住み慣れた環境に残った保守
的な動物といえる。したがって、たぶん、その後もあまり進化がなく、現生のチンパンジ
ーは以前の姿をそのまま残しているのだろう。正確に言うと一般の生物は遺伝子による進
化だけであるから変化(進化)には長大な時間がかかる。人間だけが遺伝子による進化の
ほかに、脳の発達によって新しい社会システム(文化)をつくり出し、その変化によって
進歩していったので変化が速いのである。
図 1(図 8-4)のように、250 万年前のホモ・ハビリス以降のホモ(ヒトという意味)
が付くもの、つまり、180 万年前からのホモ・エレクトス、60 万年前からのホモ・ハイデ
ルベルゲス、20 万年前からのホモ・サピエンスはすべて我々人類に直接つながるご先祖で
ある。
図 1(図 8-4) 人類の進化(推定を含む)
この間にも別の多くの人類の系統があったが、200 万年前とか 150 万年前とかに絶滅して
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
消えてしまったものがいたことがわかっている。
この人間圏を動かしている原理・原則があるのかないのか。
『自然の叡智 人類の叡智』
で述べたように宇宙圏はアインシュタインの一般相対性原理で説明され、地球の物質圏の
物理的な動きはプレートテクトニクス(とプルームテクトニクス)によって説明され、生
物圏はダーウィンの進化論で説明されるような何か、指標になるような原理原則があるの
かと考えて、筆者は人類の歴史から 2 つの経験則を導入した。ひとつは狩猟採集時代から
現代まで続いている「創造と模倣・伝播の原理」であり、もうひとつは 1 万年前の農牧業
の開始以後から現代まで続いている「支配者階級と被支配者階級の統治の原理」である。
【2】創造と模倣・伝播の原理
まず、
「創造と模倣・伝播の原理」を述べる。
250 万年前のホモ・ハビリスは石器を発明し、狩りをはじめ、肉食をするようになった。
ここから「創造と模倣・伝播の原理」がはたらくようになった。ある者が石器を発明し使っ
ているのを見た者が真似(学び)をしてやってみる。便利であれば、他の者がまた、真似
(学ぶ)をする。この創造と模倣・真似(学ぶ)はホモ(人類)の特技となった(チンパ
ンジーなども簡単なことはやるが、長続きがしない。真似ることは人類の立派な特技であ
る。真似ることがなければ、このように社会システムが普及しない)
。
図 2 のように、一般の人間の個々の生活は平凡で良い考え、良い行為も(●で示した)、
悪い考え、悪い行為も(●で示した)あるだろう。それらの連続で時間がすぎていって、
あまりプラス、マイナスのないことで日常生活はすぎていくが、ときにはすばらしい考え、
行為があるかもしれない。たとえば、前述した石器の利用という考え、行為が起こった。
それは便利であることがわかり、周囲のものが真似(模倣)をした。それを見た周囲のも
のがまた、真似(模倣)をした。こうして周辺に伝播していって、いつの間にか、誰でも
図 2 「創造と模倣・伝播の原理」による人間の社会システムの向上
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
石器を使うのが当たり前(常識)になった。もちろん、この間には途中で誰かが改良して、
あるいは、別の用途の石器を発明するというように、石器の種類と用途が広がっていった。
このように石器は、最初は 100 万年ぐらいほとんど変らなかったが、やがて、創造(改
良)が加えられ、多様化し、長い年月の積み重ねののちに、石器から青銅器に変わり、青
銅器は鉄器に変わり、その後も変化・発展して、ついに現代の技術社会に至った。そのよ
うな社会システムの蓄積(創造だけでなく、不要になったものは廃止され、その結果の蓄
積)が現代の社会システムとなっている。
◇石器製作と肉食のはじまり、火の利用
人類は(すべてアフリカに住んでいたが)
、250 万年前のホモ・ハビリスの時からホモ属
となりオルドヴァイ石器を発明し、狩を行い肉食をはじめ、180 万年前からホモ・エレクト
スとなった(図 1 参照)
。このホモ・エレクトスの時代は長く、170 万年前には無毛となり
(遺伝子解析からわかった)
、160 万年前には火を使用しはじめ、アシュール石器を発明し
た。
このように、ホモ・エレクトスの時代には、いろいろな新しい社会システムが発明され
たが、そのなかで家族の発明がもっとも大きな社会変革であっただろう。
肉食をはじめて 100 万年もたつと、体の変化も大きかったが、象徴的なことは、脳の大
型化であった。
脳容量はチンパンジーあるいは猿人の段階で 350~400 立方センチメートル、
肉食をはじめたホモ・ハビリスが 600~700 立方センチメートル、そしてホモ・エレクトス
のとき 1000 立方センチメートルとなった(現代人は 1450 立方センチメートル)。チンパン
ジーと比べれば、ホモ・エレクトスは 3 倍になった。脳が大きくなったということは、生
まれてくる赤ん坊の頭も大きくなったということである。
チンパンジーの社会は乱交であり生まれた子供は基本的にはメス(母親)だけで育てる
(父親がいない)
。たぶん、チンパンジーと人類の共通の祖先から分れた人類の祖先も最初
のうちはチンパンジーと同じような社会システムをとっていたのだろう。やがて頭が大き
くなり、難産だったり、未熟児が生まれ、養育期間も伸びていったりすると、はたしてメ
ス(母親)だけで、エサをとるために木登りしたり、移動しながら子育てができたのだろ
うか。母子ともに死ぬことも多くなり、ホモ・エレクトスは絶滅の縁に立たされたことだ
ろう。
◇家族の形成
ここであるオスが特定のメスの手助けをしたのだろう。このようなペアが無事危機を乗
り切ったことがわかると、ほかのものも真似をしただろう。つまり、「創造と模倣・伝播の
原理」が働いたのである。ペア型システムの方が子供の生き残る率が少しでも高いと数代、
数十代重ねるうちに社会はペア型社会、つまり、家族、一夫一婦制の社会に変わっていっ
たのであろう。
ダーウィンの進化論は、そのときの自然環境にもっとも適したものが生き残る率が高い
という意味で自然選択説ともいわれるが、社会も同じで(社会システムの社会選択説、社
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
会淘汰説といってもいいかもしれない)
、人間の社会の中で家族システムが残ったというこ
とはそれがもっとも適していたことを証明しているのである(あいかわらず、乱交を続け
たグループもいただろうが、それらは絶滅して残ってはいないのだろう)
。
ホモ・エレクトスが家族制度を生み出した状況証拠としては、性的二型の縮小である。
性的二型が生ずる原因の一つは、ゴリラの社会のように複数のメスを束ねる(性を独占す
る)リーダーの座をめぐる力による闘争が、オスをますます強く大きくしていった結果で
ある(ダーウィンはこれを性選択あるいは性淘汰といった)。ゴリラの体重の性差は 1.63
~2.37 倍で、オランウータンでは 1.90 倍である。チンパンジーなどもかつては(ゴリラと
分かれた 800 万年前ごろ)もっと大きな性的二型があったであろうが、順序制などができ
てからは、メスをめぐるオス間の争いが減り、性的二型もオスがメスの 1.27~1.36 倍ぐ
らいに縮小している。チンパンジーから 300 万~200 万年前に分かれたボノボは生殖から切
り離された性によって、性的二型がさらに縮小してほとんど雌雄同形になってきている。
初期人類もルーシーの時代(314 万年前。図 1 においてアファール猿人の時代)にはオス
はメスの 2 倍ほどあったが、ホモ・エレクトス段階ではオスはメスの 1.2 倍程度になって
いる。ホモ・エレクトスの時代に(脳が急速に増大し)急速に性的二型が縮小した。この
時の性的二型の縮小は集団内でのメスをめぐるオス間の調整の仕組み(一夫一婦制)がで
き、争いが減ったことにあると考えられている。
その後も 1.2 倍の差は残っているが、これは狩猟採集の長い時代の仕事の分担からきて
いる(1.1 万年前の農業開始まで。農業開始後も男女で肉体労働の差はあった)
。だから、
160 万年以上、現在のレベルの性的二型が維持されているのである。今日では、道具(機械)
の進歩が性による労働の分業をほとんど無意味にしつつあるが、これはほんの最近のこと
である(将来の人類の性的二型はさらに縮小するかもしれない)
。
人類が選んだやり方は、群の中に家族という新しい社会単位を形成することだった。こ
の最初にできた家族がペア型(一夫一婦型)であったか、一夫多妻型であったかであるが、
原則はペア型であっただろう。多分、集団で狩りをする社会において、分配に大きな差を
つければ、狩りがうまくいかなくなっただろう。あまり分配に差がなければ、基本的には
一家を養うのが精一杯であっただろう。そうなると一夫一婦制となる。
それに現実にある動物社会でも、一夫多妻制、複雄複雌制では、必ずメスにありつめぬ
オス・グループが存在し、きわめて不安定な社会になっている。ゴリラの社会など必ず腕
力(暴力)がともなっている。これでは集団(社会)の安定ということの解決にはなって
いない。だから、一夫多妻制、複雄複雌制として出発しても、そのような社会は滅びて、
結局、ヒト社会は一夫一婦制に落ち着いたのであろう。
◇教育のはじまり
さて、ホモ・エレクトス時代の家族の形成は、いろいろな波及効果を及ぼしたと考えら
れている。ヒトの手は右利きが 90%、左利きが 10%である。しかし、野生チンパンジーの
道具使用には、集団レベルでの右利きは認められない。ということは、ヒトになってから
8
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
右利きは形成されたものと思われる。190 万年前、ツルカナ湖畔のコービフォラでヒトによ
って作られた石器のフレーク片は、左手で石核をもち、右手でハンマー石をもって叩いた
ことを示しているという。
母親は、家庭にあり、左手で赤ん坊を抱き、右手では石器を使って堅果や地下茎を叩き
割ったのである。このため女性は道具の扱い能力にも優れているという。そして、女性は
男性より高い言語能力を示す(これは現在でもいろいろな研究で示されている)
。いつも子
供に話しかけていたのであろう(男性の仕事は狩りであり、目配せをすることはあっても、
しゃべってはならなかった)
。まず間違いなく、言語を話し始めたのは女性であり、母親で
あった。それも左手に抱いた赤ん坊に(意味があってもなかっても)語りかけていたのだ
ろう。
このことは何を意味するか。母親は子ども(男女とも)をだきながら教育をした。その
子が女(母親)になって子ども(男女とも)をだきながら教育をした。・・・狩猟採集生活
の 160 万年間、これが繰り返された。男女の脳にはハードウェア的にはまったく能力に差
がないことが現代の科学で証明されている(教育環境、学校などでの議論は、せいぜいこ
こ 1 万年間のこと。この 1 万年間の時代に女性は本質的に劣るなどといわれてきたが、今
では男女の能力にまったく差がないことが科学的に証明されている。継続は力なり。歴史
で時間の持つ意味は大きい。1 万年程度で人間の本質は変わるものではないようだ)
。
◇ヒト重層社会の形成
家族は自然界から食料を獲得・採集するとか、子供を育てるとか、やがて、老人や病人
の面倒をみるとか、そういう目的のための最小単位であり、実際には親、兄弟、姉妹、親
戚などが集まって協力して生活をしていく群生業集団を形成したのであろう。しかし、こ
のようにホモ・エレクトス時代にヒト社会は、食と生殖の社会システムである家族制度を
形成したが、それだけでは完結しなかった。初期人類には生業集団だけではすまされない
ことがあった。生業集団はそのなかで配偶者をみつけることはできないという宿命をもっ
ていた。
インセスト(近親相姦)回避のための仕組みはヒトとチンパンジーの祖先(父系社会)
の時代から娘が年頃になると出て行くことであった。それで、このホモ・エレクトスの時
代にもメス(娘)は年頃になると、生まれた家族と集団から自然に別れて他の集団に移っ
ていったであろうが、それがだんだん制度化(社会システム化)されて、やがて部族間の
婚姻制度となっていったのであろう(家族の性生活は隠微にする、しかし、みなに家族を
認知してもらっておく必要がある。そのためにも婚姻という儀式は必要であったのだろう。
歴史がさかのぼれる限り、原始社会からこれは行なわれていた)
。
最初生殖という目的でできた生殖グループは、そのうちに、たんに繁殖という生物学的
機能にとどまらず、分散、点在する資源の情報の伝達、交換、あるいは生業集団のあいだ
で食行動に際して起こるさまざまな緊張関係の軽減など、社会的機能もはたすようになっ
たと考えられる。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このことは、現存する狩猟採集民の社会がそうであることと共通している。多分、狩猟
採集という性格が、つまり、危険をともなう中でみんなを信頼し、こころを一つにして目
的を達成し、その成果(獲物)を平等に分けあい、各家族で消費する(蓄積は残らない。
蓄積技術がなかった)という性格が 160 万年前のホモ・エレクトスの原初家族の時代から
ずっと変わらないで、現代の狩猟採集民の平等・対等である社会の根幹になっているので
あろう。
しかし、重層社会になると、多くの生業集団との接触の頻度が高まるので、配偶者の交
換、情報の交換など、よい面の接触ばかりではなかったであろう。
家族を基本単位とするヒト社会の形成によって、武器を使っての戦いも増えたかもしれ
ない。戦争が人類の歴史に登場したのは、比較的最近のことであるという主張の根拠は、
霊長類や狩猟採集民には戦争がなかったという認識によっている(狩猟採集社会は貧富の
差がなかったのなら、奪う物もないはずであるから争いもなかっただろうと、のちの経済
社会的な見方からだけ見るとそうなる。しかし、食料をめぐっての縄張り争いはすべての
真猿類の時代からやっていたので、ヒト社会になっても狩り場争いはあっただろう。それ
に争いは経済的なものだけではない。たとえば、一夫一婦制の社会システムができたとい
っても、男女間の愛憎事件は現代でもあとを絶たないではないか)。
絶えず移動していけば、いろいろなところで他の集団と衝突することになったであろう。
狩用の武器をもっているとそれを使う事態も発生したであろう。一人身だったら逃げたほ
うがいい場合もあっただろうが、子供や女たちを守るために戦うことになったこともあっ
ただろう。はじめから、女を奪おうとして襲撃してきたこともあっただろう。最近まで残
っていた狩猟採集の社会やアメリカ・インディアンの社会でも、
(貧富のない平等社会では
あったが)
、女をとった、とられたという話から起きた戦いにみちみちていた。
いずれにしても、家族を単位とした親、兄弟、姉妹、親戚などが集まって協力して生活
をしていく群生業集団の外に生殖(婚姻)
・情報交換などを目的としたヒト重層社会が形成
されていった。このように人間圏は、図 2 のように、次々と新しい社会システムの創造と
模倣・伝播によって向上していったのである(図 2 の黄色の矢印の方向へ)
。
【3】ホモ・サピエンスと言語の獲得
人間圏においても、現在、わかっているだけでも、図 1(図 8-1)のように、20 種ぐら
いの種がいたが、現代人に直接つながるホモ・サピエンスは 20 万年前に現れた。ホモ・サ
ピエンスが獲得した最大のものは言語であったといわれている(脳容量は 1450 立方センチ
メートルでとまったままである)
。
最近、分子遺伝学の研究から、我々の言語能力がいつ芽生えたかを裏づける言語遺伝子
FOXP2 が発見された。この遺伝子が言語に影響を与える現在の形になったのは、分子時計の
考えで調べたところ、20 万年前という結果になった。まさにホモ・サピエンスへの進化に
よって得られたものであったことがわかった(人類の言語能力はさらに古い 200 万年前の
10
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
時代から発達してきていたが、
言語遺伝子 FOXP2 は言語の統合能力をスイッチオンさせた)
。
現代人は、なんらかの障害がない限り、すべての人間は言葉を学ぶ能力をもち、2~3 歳
の子供のころから言葉を覚える。これは肉体的には喉頭と声帯がきちんとできていて、脳、
声、意識が、三位一体でパッケージになっていなければならないとされている。どんな言
葉でも、言語の習得能力に違いはみられず、また言語にかかわる中枢もみな同じである。
そしてこれらの事実は、言語が全てのヒトに共通する生物学的基盤の上に成立しているこ
とを明らかに示している。
◇非遺伝的適応能力=社会システムあるいは文化の創造
ホモ・サピエンスの脳は大きくはならなくなったが、質的に変化したということは、一
言でいえば、遺伝子にはよらない適応能力、つまり非遺伝的適応能力がついてきたという
ことである。
この言語が生み出したさまざまな能力は(言語の統合能力であるが)、石器をはじめとす
る道具の製作や使用、共同作業などの新たなハードやソフトを生み出したが、たとえば、
文化、知性、相互理解、洞察力、助けあう心、慈しむ心などを急速に発展させるようにも
なった。人類が進化の過程で獲得してきた言語能力によって、人類は明らかに他の生物と
一線を画しはじめた。明らかに人間圏は生物圏とは別の道を歩み始めた。
ホモ・サピエンスの段階になっての文化(社会システム)は明らかに大きな速度で変わ
り始めた。ホモ・サピエンスは石器製作の面でも能力を発揮し、すでにアフリカにいる段
階で、その後、
(出アフリカをして世界へ分散する過程で)ヨーロッパやその他の地域で発
見される高度な石器や骨角器などを発明していたことがわかっている。たとえば、尖頭器
は両面を二次加工した剥片(はくへん)で、槍の先端部になるように尖頭にされていた(こ
の石刃石器は 3 万前に東洋の小島日本に到着し大いに模倣され普及した)
。
次にアフリカのホモ・サピエンスが発明したのが、タンザニアのムンバで発見された7
万年前ごろの細石器であった。この細石器は、長さは 25 ミリ以下で、小さいが精密に調製
されており、用途は幅広く、槍、小刀、矢など、柄をつけた複雑な道具や武器に利用され
た。武器につけた細石器は損傷しても簡単に修理したり、つけ替えたりすることができた。
これも大変な優れもので(現代であればノーベル賞もので)
、これは、アフリカのホモ・サ
ピエンスが発明したもっとも洗練された石器であり、特徴的なものであった。
この細石器が、アフリカ以外で発見されたもっとも古い記録は 3 万年前のスリランカで
あり、出アフリカしたホモ・サピエンスが持っていた道具と考えられている。この細石器
は、ヨーロッパでは、ほとんどは最後の氷期以降の 8000 年前に現れた。日本には 1 万 5000
年前ごろに到着しているので、ヨーロッパ経由ではなく、後述する中央アジア・シベリア
横断経路だっただろう(シベリアのマリタ遺跡でも発見されている)
。
その他の尖頭器、貝採集、長距離の交換、漁労、骨角器、採鉱、表示のある(彫った)
物品などはホモ・サピエンスによって 14~10 万年前に発明された。また、細石器、ビーズ、
壁画などもホモ・サピエンスによって、ヨーロッパへ入る前に試みられていた。
11
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このように、4 万年前のヨーロッパで花開くホモ・サピエンスの文化の多くは、アフリカ
にいるときのホモ・サピエンスがすでに発明し、あるいは試みていたことであり、ホモ・
サピエンスの能力がアフリカにいるときからきわめて高かったことがわかる。ということ
はヨーロッパのホモ・サピエンスだけでなく、他の方面に分散したホモ・サピエンスも同
じような能力をもっていたのである(後世の歴史家がヨーロッパのホモ・サピエンスの優
秀性だけを強調するが、そのようなことはない)
。
さまざまなホモ・サピエンスの行為のなかで、驚くべきことは、長距離間の交換、つま
り、道具や未加工の黒曜石といった重要な物を携えて、300 キロもの距離を交易あるいは移
動したということである。少なくとも 14 万年前から始まっていたと考えられている。
10 万年以上前のものと推定される擦(す)れた面をもつヘマタイト(赤鉄鉱)鉛筆も、
南アフリカ各地で発見されている。さらにブロンボス洞窟からは、オーカーと呼ばれる赤
い鉄鉱石のかけらが発見され、この石をこすりあわせると赤い粉末が落ちる。この粉を使
って、ホモ・サピエンスは壁に模様を描き、体や顔に塗って装飾に使っていたと考えられ
ている。オーカーについていた模様は、格子状のダイヤモンド模様だった。この幾何学模
様は明らかにデザインで、形を認識し、それを石の上に新たに創造する行為であった。こ
の模様こそが人類最古の芸術であると考えられている。
具象壁画のはっきりした最初の証拠は、ヨーロッパではなく南アフリカのナミビアで発
見されている。推定年代は 6 万年前から 4 万年前のあいだとされていて、ヨーロッパで一
番早いショーべの壁画より早い。壁に絵を描き、首飾りをつくることは自らを飾る行為で、
これこそ人類が自我をもちはじめた証拠であると考えられている。
この事実は、ホモ・サピエンスがそれまでにはない脳の使い方をはじめたことを意味す
る。壁画、幾何学模様などの物的なものしか遺物として残っていないが、そこにはホモ・
サピエンスが芸術や儀式などの抽象的な思考を持ちはじめていたことがわかる。それらは
高度な言語を通じてはじめて可能になることであった。
少なくとも 10 万年前からベンガラのような顔料を用いていたようである。顔料は壁や物
に描き、ボディ・ペインティング、埋葬用、また革の保存に使われた。ホモ・サピエンス
の埋葬の証拠は 10 万年前のものが知られており、ベンガラで着色された人骨が見つかって
いる。また様々な副葬品が埋葬地跡で発見されている。
現在でも、世界中で残存している狩猟採集民の多くはベンガラを儀式的な用途に用いて
いる。赤い色はどの文明でも普遍的に血、セックス、生と死を表していると主張されてい
る。ヨーロッパのショーベの洞窟壁画には半身が人間で半身が動物の生物が描かれている。
このような神人同形の例はふつう、シャーマニズム的習慣と関連している。
◇宗教の誕生
宗教は人から人へと伝えられる言語のようなコミュニケーションを必要とするので、宗
教の誕生は言語にあったという説もある。宗教の本質は共同参加にあり、人々が集まって
宗教儀式を行った。英語の religion(宗教)は「結び付ける」を意味するラテン語 religare
12
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
から派生している。社会的に結束させるというのが宗教の本来の役割であったようである。
宗教儀式には歌や踊りなどヒトを感動させる行為が含まれている。みんなで歌い、踊れ
ば、気持ちが高揚してきて自分たちは同じ宗教的考えを共有しているとの思いが強まって
くるのである。それができないものは「たかり屋」「よそ者」として追放されたのであろう。
当初の宗教は信用できない者をコミュニティから追い出す役割を担っていたというのであ
る。
その後、コミュニティが闘うときには宗教はヒトを鼓舞する手段になった。これは首長
も権力者もいない狩猟採集民社会では重要な役割となっただろう。ホモ・サピエンスが完
全に人間の言葉を話せるようになったのは、出アフリカの直前だったので、この現代的な
言語の発展をもって宗教も生まれたと考えられている。
◇争いの発生
ホモ・サピエンスの社会は、けっしてよい面ばかりではなかっただろう。ホモ・サピエ
ンスは、狩猟採集民で平等主義の小規模社会に暮らしていた。その社会には、財産も首長
も社会的順位もなかった。しかし、この集団では闘争が絶えなかっただろう。自分たちの
縄張りを守るために闘ったし、近隣の集団を急襲していただろう(現在の野生の霊長類も
たえず、餌場の縄張り争いをしている)
。集団の人数が 150 人以上になるなど一定の規模を
超えれば、頭(かしら)や裁く者のいないところではいさかいはもっと頻繁になり、集団
は血縁関係のある小集団に分裂したことだろう。
現存する未開民族の人類学的研究と旧石器時代の遺跡や人骨などの証拠をもとに、イリ
ノイ大学シカゴ校の人類学者ローレンス・キーリーは、闘争は、未開社会では日常茶飯事
で、およそ 65%が、年がら年じゅう交戦状態にあり、87%は年に 1 回以上闘っていた、典
型的な未開社会では毎年、人口の約 0.5%が戦闘で失われていたという。狩猟採集民であっ
たホモ・サピエンスも、同じような状況であったと想像されている。
【4】ホモ・サピエンスの出アフリカと世界への分散(8.5 万年前~1.1 万年前)
10 数年前までは、現在の世界を構成している人々は、図 3(図 9-3)のように、その地
域で進化した人々がそのままその地域の人々になったとする多地域進化説が支配的であっ
た。その地域で進化したとは、最初、180 万年前にアフリカを出た(その後も何度か出た)
ホモ・エレクトスの子孫が、たとえば、ジャワ原人が東南アジア人、北京原人が中国人、ク
ロマニオン人がヨーロッパ人などになったと考えられていた。
ところが、分子遺伝学が進歩して、1987 年、カリフォルニア大学バークレー校の分子遺
伝学者 A・C・ウィルソンらは、世界の主な人類集団の遺伝子をミトコンドリア DNA で比較
し、DNA 配列の異同に基づいて新説を発表した。それは、図 4(図 9-2)のように、すべて
の現代人(ホモ・サピエンス)は、およそ 20 万年前にアフリカに生きていたあるグループ
の女性の子孫であるというもので、アフリカ単一起源説(単一系統進化説)といわれてい
る。
13
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 3(図 9-3) 多地域進化説とアフリカ単一起源説
図 4(図 9-2) ミトコンドリア DNA による系統樹
その後、行われた遺伝子分析は、すべて、このアフリカ単一起源説を裏づけるもので、
アフリカで分岐し始めた祖先の小さいグループまでたどっていくことができることを示し
た。
最初の核となったホモ・サピエンスは拡大や分裂をおこない、まず、アフリカに広まっ
た。その後、図 4(図 9-2)のように、新しい突然変異が 8 ~6 万年前より以前にアジア
に現れるようになった。このことから、ホモ・サピエンスはアフリカで進化し、そのうち
のあるものが 8 万年前より以前にアフリカからアジアへ移動していったことがわかった。
しかも、1 つの出アフリカ・グループがアフリカを後にして、世界へ旅立っていったという
ものである。
そして現在では、この 8 万~6 万年前より以前にアフリカを出たホモ・サピエンスの 1 グ
ループが、世界に散らばって現在の世界の人々を構成しているというアフリカ単一起源説
(出アフリカ説)が支配的になっていて、進化のシナリオが大幅に書き換えられてきてい
る。
この事実が意味することは、現代の人類社会でもっと強調されるべきであろう。たった 8
14
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
万 5000 年前にアフリカを出た(たぶん)150 人程度の 1 グループが現在の世界人口 72 億人
のすべての先祖であること、人類は 8 万 5000 年前まではみな親兄弟の仲であったこと、と
いう事実は歴史をみる見方を、そして世界の平和を考えるにあたって、我々の考え方をコ
ペルニクス的に転換させる契機となるだろう。
現世人類の遺伝的多様性がきわめて小さいこと(つまり、人類はみな大変良く似かよっ
ているということ)は、人類のアフリカ単一起源説に基づき、ホモ・サピエンスの 1 グル
ープがボトルネック効果により、その後、増加していったことを示している。
このボトルネック効果とは、集団遺伝学における用語で、ビン首効果ともいわれている
が、これは、細かいビンの首から少数のものを取り出すときには、平均的なものではなく、
元の割合からみると特殊なものが得られる確率が高くなるという原理である。集団遺伝学
に当てはめると、生物集団の個体数が激減することにより遺伝的浮動(偶然性に左右され
る遺伝子プールの偏り)が促進され、さらにその子孫が繁殖することにより、遺伝子頻度
が元とは異なるが均一性の高い(遺伝的多様性の低い)集団ができることをいう。
具体例を述べると、たとえばアメリカ先住民(アメリカ・インディアン)はほとんど血
液型がO型であるが、2 万数千年前あるいは 1 万数千年前に氷河期のベーリング海峡(凍っ
ていてアジアとアメリカはつながっていた)を横断したごく少数の家族(偶然にもO型の
血液型の者が多かった)が、その後、増大してすべてのアメリカ先住民になったため、O
遺伝子の頻度が高くなったと考えられている。このような現象をボトルネック効果あるい
はビン首効果といっている。
これと同じことが、8 万 5000 年前(後述する理由で 8 万 5000 年としたが)にアフリカの
1 グループが出アフリカをして、世界に広まったとしたら(現実そうであるが)
、すべての
ヒトは似かよっているといえるだろう。現在、72 億人をこえた世界中の人々はすべて 8 万
5000 年前に出アフリカをした人々(多分、百数十人の親類縁者だっただろう)の子孫であ
るということである(正確にいうと、そのときアフリカに残った数万、あるいは数十万の
の子孫は別であるが)
。
人類の歴史をみると(生物一般でも同じであるが)、猿人、原人の各段階で進化するとい
うことは、このビン首効果で促進されてきたが(つまり、突然変異を起こした特定の遺伝
子をもったグループが増大した)
、これから、ホモ・サピエンスがアフリカを出て、世界中
に拡散するにあたって、各地の多様な地形、気候などの環境によって、少数のグループに
分断、孤立することは頻繁に起こったことであろう。そのときこのビン首効果がきいて、
予想以上のスピードで多様化していったと考えられている。しかし、多様化したといって
も、色が変わったとか、背が高くなった、低くなったというようなことで、種がかわるほ
どの変異はしていない。あくまでホモ・サピエンスはホモ・サピエンスである。
その肌の色とか、背が高いとか低いとか、髪が黒いとか金髪であるとかなどの違いは、
決して、種が異なるわけではないが、従来、このような形態の違いが、人種が異なるとし
て考えられ、差別の理由となったこともあった。しかし、くりかえしになるが、ホモ・サ
15
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ピエンスはあくまで同一種であり、形態的なちがいは、世界に分散したここ数万年の間に
各地の環境に適応した結果、現れてきたもので、その種そのものは基本的にみな同じで、
みなホモ・サピエンスである(種が同一かどうかの見極めは、子供ができるかどうかであ
り、人類はすべて互いに子供を残せるので同一種であることは歴史が証明している)
。
さて、ホモ・サピエンスが具体的にアフリカを出た時期であるが、海水面の低下の状況
(海峡の幅)
、海水の汚染度(海水が少なくなり汚染して海岸採集ができなくなる)
、7 万
4000 年前にあったスマトラのトバ火山噴火の前にインドからマレー半島を通過しているは
ずであること(トバ火山噴火の火山灰の下からホモ・サピエンスの遺跡が出てきている)、
中国柳江には 6 万 8000 年前のホモ・サピエンスの遺跡があること、オーストラリアには 6
万年前のホモ・サピエンスの遺跡があることなど、これらの条件にあうように出アフリカ
のその時期を推定すると 8 万 5000 年前ごろであったと推定されている。
その後の具体的な世界への分散状況は『自然の叡智
人類の叡智』に記したので省略す
るが、図 5(図 9-4)のように、アラビア半島(西アジア)からインド(南アジア)に入
り、7 万 4000 年前までには東南アジアに入っていったことが分かっている。東南アジアか
ら東アジア(中国)には 6 万 8000 年前に、オセアニア(オーストリア)には 6 万年前に進
出したことが遺跡でわかる。東アジア(中国)への延長線で朝鮮、日本へは 5~4 万年前に
第 1 陣が到達している。
図 5(図 9-4) 出アフリカ後の世界分布状況
草思社『人類の足跡10万年全史』
南アジアから中東を通ってヨーロッパには 4 万年前に入った。また、南アジアから北に
上っていったホモ・サピエンスは 4 万 3000 年前に中央アジアのステップに出て、西に向か
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ったものは 3 万年前にヨーロッパに第 2 陣として入っていった。東にシベリア方面に向か
ったものはベーリング海峡(当時は凍っていた)を渡ってアメリカ大陸に入った。アメリ
カに入った時期については、いろいろな説があるが、南アメリカの最南端フェゴ諸島には 1
万 500 年には到達していた。
この南アメリカ南端到達で、8 万 5000 年前にアフリカを発ったホモ・サピエンスの世界
分散の長い旅は終わり、それぞれの地域でそれぞれの人類の歴史がはじまったのである。
そう考えると、たとえばインドの歴史は 7 万 4000 年、中国の歴史は 6 万 8000 年、オース
トリア(アボリジニ)の歴史は 6 万年、日本の歴史は 5~4 万年、ヨーロッパの歴史は 4 万
年、アメリカ(インディアン)の歴史は 3~1 万年の歴史しかない。人類はまだ、ほんとう
に若いという気がする(最近、原発の放射性廃棄物を 10 万年も管理する議論があるが、誰
も責任をもって管理することなどできない相談だろう)
。
第 2 章 農業の開始と戦争の開始
【1】農業の開始と農業定住社会の新社会システム
人類にとって(もちろん、他の動物にとっても)食料は不可欠のものである。チンパン
ジーなどの類人猿の段階でも、ホモ・エレクトスの原人の段階でも、出アフリカをしたホ
モ・サピエンスの時代にも、縄張りをつくり食料を求めて狩猟採集の移動を繰り返してい
た。それがところによっては、1 万年くらい前から一定の場所に定住し、農耕・畜産つまり
農業を開始した。西アジア(図 6(図 10-1)のレバントの肥沃な三日月地帯)と東アジア
(中国長江流域)に農業の 2 大起源地があった。自然の動植物を狩猟採集するのではなく、
自分たちで自然の環境や動植物に働きかけて食料を生産するということは、人類にとって
大きな飛躍であった。
狩猟採集と農業を比較した場合、農業が潜在的にもっている大きな人口を支える力は、
あらためて強調するまでもない。一般に狩猟採集民の人口扶養力は 1 平方キロメートル(k
㎡)当り 1 人であるといわれている。農業の生産形態あるいは発展段階によっても異なる
が、狩猟採集よりも農業は 100 倍以上の人口扶養力を持っていることは確かである。
人類が農業を開始しないで狩猟採集の生活を続けていたとしたら、現在の地球人口は 1
億人ぐらいが限度だっただろう。というのは、世界の総陸地面積(148,940,000k㎡)から
南極大陸(14,400,000 k ㎡)を差し引くと、134,460,000 k ㎡になる。仮に 1k ㎡に 1 人
の狩猟採集民が住めるとすると、1 億 3446 万人しか住めないことになる。しかし、実際に
は現在の地球人口は 72 億人であるから、1 k ㎡に平均 53 人がすんでいることになる。
人類は定住生活にはいって、ますます、その本領をはっきして知恵と工夫を重ねて、図 2
(「創造と模倣・伝播の原理」による人間の社会システムの向上)のように、定住社会の衣
食住の社会システムを作り出すようになった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 6(図 10-1) 肥沃な三日月地帯
中央公論社『世界の歴史1』
たとえば、食料を生産する技術(農業技術)にも、農業で使う道具(鎌、鍬、鋤など)
を作る技術、それらを使う技術、農作物の管理技術、家畜を管理する技術、収穫した食料
を加工・保管・管理する技術など一連の技術の体系、つまり、農業生産の仕組み、社会シ
ステムが必要になった。
それにはハード技術だけでなく、作り方、使い方、管理の仕方などの方法、ソフト技術
も含まれている。人類は農業定住社会に入り、いくら単純な社会とはいえ、食料を生産す
るためには、それに必要な食料生産(農耕・牧畜)システムが存在するようになった。そ
れに関連して、単純ではあったが、水利土木・灌漑・貯蔵(地下保存・燻製など)システ
ムも必要となってきた。
その他、収穫した食料を加工する製パンや酒の醸造などの食品加工システム、食料など
の運搬・輸送(車輪、船など)システム、衣料・着物を作る繊維・縫製システム、木製品・
石器・土器(やがて青銅器・鉄)などの木工加工・製陶・精錬システム、日干しレンガなど
でつくる住宅・都市・城壁などの建築システム、その他諸々の多くの日常品をつくる技術・
システムが現れた。あまり有り難くはないが、戦争の武器、攻城技術、防衛技術も進んだ。
この農業定住の時期に、人類は金属を発見し金属器製作技術を発明した。それまでの農
民は主として磨製石器を使って農業生産システムの鍬や鋤を作っていたが、その後、青銅
器の発明があると、青銅器の鍬や鋤を作るようになった。狩猟用の道具(それは武器にも
なった)も新石器時代人は黒曜石などの細石刃などの弓矢や槍を使っていたが、青銅器が
18
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
発明されると、弓矢や槍も青銅器で作られるようになった。また、鉄器が発明されると、
農具も弓矢も槍も鉄製となった。
このように新しい材料、技術(種となる技術という意味でシード技術という)が発明さ
れると、それに関連する社会システムが新材料、新技術に置き換えられ、次々と社会シス
テムが時代にあわせて高度化されていくようになった。ハード中心の例を上げたが、ソフ
トでも同じであった。
農業定住から 4000 年ほどの間にその技術・システムは様々な領域で発展を遂げ、紀元前
3500 年頃には、中近東の人々はすでに、近代の産業革命以前の文明的生活の基礎となる、
ほぼ全ての(初歩段階のものではあるが)技術・システムを身につけていたと言われている。
◇新社会システムの導入によって問題を解決する
人類は今まで見てきたところまででも、古来、人口増加、それによる食糧不足、またそ
れに起因する社会的なゆきづまりなど、種々の困難を克服してきたが、それは、そのおり
おりに、新しい社会システムを発明(開発)し、導入してきたからである。
天変地異に満ちた地球環境、変動きわまりない気候変化、増加する人口と不足する食糧、
得体の知れない疫病の蔓延、繰り返される外敵の略奪など人類は多くの困難に遭遇したが、
その都度、新しい仕組み、社会システムを開発導入することによって、問題点を解決し、
人類は次の時代へと進むことができたのである。
このように農業定住の開始は、新社会システムの導入を促進し、その社会の高度化に大
きく貢献するようになった。しかし、この農業は地球上、どこでもすぐにできるというも
のではなく、どこに住むかによって、運不運があった。農業は、西南アジアと中国では紀
元前 1 万年くらいからはじまり、図 7(図 10-21)のように、それが「創造と模倣・伝播の
原理」で伝播していって、
遅いところでは紀元前 2000~1000 年くらいからはじまっている。
この農業開始の早いところと遅いところの 8000~9000 年の差はその後の発展に大きく影
響を与えることになった。農業の開始は前述したように人口の増大につながり、人口の増
大は人類社会に基本的な変革をもたらすことになったからである。変革というより、でき
たばかりの人類社会は新しい社会の仕組み(社会システム)をこれからほとんどすべて作
っていくことになるが、農業で先行した地域はその社会システムづくりでも先行し金属器
使用でも、文字の使用でも先行し、ついには国家の形成でも先行することになったのであ
る。
19
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 7(図 10-21) 農業・金属・文字の創造と伝播、古代国家の形成
◇部族社会から首長社会へ
人類は農業定住とともに急速に人口の増大を引き起こしはじめた。小規模血縁集団から
数百人規模の部族社会に発展した。さらに農業にとって条件のよいところでは、人口の急
増が起きた。そのようなところでは、たちまち、数百人が限度である部族社会システムを
超えてしまった。部族社会より大きくなると、次の段階の社会の仕組みが必要であった。
つまり、部族社会が発展し、人口が数千人から数万人規模になると、もうこの段階では、
大部分が血縁関係でつながっていない人々であり、互いに名前すら知らない間柄になった。
個々の人間は、さまざまな欲求の塊であり、それらが集まった氏族や集団にもそれぞれの
欲求があった。以前はトラブルがあれば出て行けばよかったが、農業定住社会になってか
らは、それはできなくなった。
それぞれの縄張りができていて、狩猟採集社会のように出て行けばすむというものでは
なくなった。防御のためにはある程度の人数も必要だった。こうなると集団内で発生する
もめごとやいざこざが問題化する可能性が格段と高くなってきた。人類は、他人と日常的
に向き合うなかで、もめごとやいざこざを問題化させずに解決する方法を見つけなければ
ならなくなった。
こうして歴史的に部族社会の次に出現したのが、首長制社会であった。これは権力を行
使できる人間を首長だけに限定するもので、もめごとやいざこざを問題化させずに解決す
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
るには有効であった。そして、ある人望のあるものが何らかの仕方で首長に選ばれて、統
治をはじめるようになった。
首長は、それとわかる場所で執務をとっていた。首長は外見によって遠くからでも識別
できた。首長は重要な情報を独占し、重要な決定をことごとく下した。首長が存在する社
会では、混乱は見られなかった。首長に出くわすと、平民は、特別の儀礼にのっとって敬
意を表すことが義務づけられていた。
首長 1 人でこれらの仕事をこなせなくなり、そのうち首長にかわって実務をこなす官僚
ができた。官僚と言っても親類縁者や取り巻き連がなった。首長のために、徴税もすれば、
灌漑の指揮もとり、賦役も行っていた。このように首長社会の官僚システムは、さまざま
な種類の仕事を汎用的にこなしていた。
現代の社会なら、このような首長をどのように選び、どのように交代させるか憲法など
で規定されている。しかし、当時の首長は、最初は人望があるもの、あるいは司祭者、あ
るいは敵を破った指揮者などが選ばれたとしても、その首長は自分の息子にやらせたいと
いう欲望を抑えられなくなり、そうしただろう。やがて世襲されるようになっていった。
権力が 1 ヶ所に集中すれば、必然的に、権力者が自分や自分に縁のある者のために権力
を利用しようと思えばできる社会になった。たとえ、1 代目の首長そのものが潔癖・公平な
人物であったとしても、その親類縁者、取り巻きが周囲を固め、彼らの欲望が影響力を発
揮するようになっただろう。そうした社会では、権力者グループだけが、重要な情報に関
与でき、全体の意思を決定でき、物品を再分配できただろう。
◇貧富の差と支配階級の発生
首長やその家族、および官僚たちをまかなっていたのは、農民の労働によってもたらさ
れた余剰食料であった。農具や武器などが高度になり、それを専門につくる職人が現れた
が、彼らも余剰食料によって支えられていた。したがって、首長社会は多くの食料を必要
とした。また、非常のための蓄えも、近隣首長社会との争いのためにも多くの蓄えが必要
だとして多くの農産物や物品を徴収するようになった。その一部は農民や職人にも再分配
されたが、その多くが首長者グループで私物化されるようになった。こうして富裕者グル
ープができた。それを世襲で何代も続ければ富裕者階級、支配者階級が形成されることに
なった。そのような社会は必然的に収穫量の多い農業が発達した社会で成立した。
このようにして権力が特定の人々の意向にしたがい、権力を手にした人々が自分たちを
エリート階級、支配者階級に仕立てていくことが可能になった。現に人類の歴史はすべて
の地域でそのように動いていった。
専門の職人によって作られた工芸品や、遠隔地との交易によってもたらされた希少品な
どは、特別品として首長のためにとっておかれた。首長の手元に贅沢品が集中していたこ
とは、首長の墓を見ればわかる。首長の墓は特別に大きく、その中からは贅沢品が多く見
つかり、普通の農民の墓との区別がつけやすかった(首長社会になるまでは、平等な埋葬
が行われていた)
。
21
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
首長社会と部族社会は、寺院などの複雑な公共建築物の遺跡の有無によっても区別でき
た。また、最高位の首長の居場所であったところが、他の人々の居場所であったところよ
りも明らかに大きかった。行政に使用された建物や道具類が見つかったりすることからも、
首長社会は部族社会と区別できた。
このようにして、現実の世界では、首長社会は首長の家系と平民階級とに 2 分されてい
った。首長の一族郎党からなる支配者階級と平民階級の被支配者階級が発生したのである。
後で述べるように、当時の社会では戦争がつきもので、敗れた集団はすべて奴隷にされた
から、首長の属する階級(支配者階級)と平民階級(被支配階級)と奴隷階級の少なくと
も 3 つの階級が生まれた。婚姻は同じ階級の男女の間だけで行われるようになった。
首長制社会は、集権的に統治される社会となり、不平等な社会に陥っていった。富を平
民から吸い上げ、首長たちによる搾取をいとも簡単に可能にする社会であった。首長およ
び首長の取り巻き連によって、どのようにでも決められるのであるから、当然、首長およ
び取り巻き連の欲望によって都合のよいように処理されていった。
しかし、首長制社会という階級社会において、労働の産物が上流社会に渡ってしまうこ
とに平民たちは我慢できないものが出てきた。階級間の搾取を可能とする統治システムは、
虐(しいた)げられた平民によってくつがえされる危険性を秘めていた。
平民より贅沢な生活を堪能しながら、平民を抑えておくために、支配階級は、知恵をし
ぼらなければならなくなった。まず、①民衆から武器を取り上げ、エリート階級を武装さ
せた(軍隊を持った)
、②集めた富を民衆に人気のあるやり方で再分配して彼らを喜ばせた、
③独占的な権力を利用して、暴力沙汰を減らし、公共の秩序を維持して、民衆が安心して
暮らせるようにした(これが本来の首長の役割であったはず)、④イデオロギーや宗教でエ
リート階級の存在や行為を正当化した、⑤外敵からの危機をあおり積極的に外征をした、
などの方法をとるようになった。支配者階級は、これらの①から⑤までの方法をさまざま
に組み合わせて、この問題に対処していった。
【2】農業定住社会と戦争の開始
農業の開始は余剰食料、余剰財産を生み出すことになり、これという食料の蓄えや財産
を持っていなかった狩猟採集社会にはなかった新しい闘争の火種をもたらすことになった。
農業定住後、首長制社会が成立すると、首長は被支配者階級の反乱を防ぐために、民衆か
ら武器を取り上げ、エリート階級を武装させて、軍隊を持った。首長制社会は、官僚・警
察(兵)
・司法システムの確立によって、集団(社会)内部の闘争は減少してきた。
しかし、首長制社会(小国家)と首長制社会(小国家)の間の境界地域では、狩猟採取
の時代の縄張り争いと同じように紛争が頻発するようになったが、これは単なる闘争では
なく、小国家という組織と組織の大規模な闘争、つまり戦争と呼ばれるものになった。
この前期新石器時代には、図 8 のように、弓、投石器、槌矛(つちほこ)
、斧(おの)の
強力な 4 つの新しい武器が発明された。これらの武器は、発明されたときには、やはり、
22
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 8 武器(兵器)と戦争技術の進歩
狩猟目的であったと思われるが、後には旧石器時代からの槍とならんで、紀元 1000 年以降
に至るまで、最も有力な武器として戦争にも使用されるようになった。新石器時代の洞窟
壁画には、今度は弓矢が動物に対してだけでなく、人間にも向けられている絵が描かれて
いた。これは明らかに新石器時代初期には強力な軍隊が存在して戦闘が存在していたこと
を示している。
投石器は、初期の単純な弓よりも威力があり、射程距離でも正確さでもまさっていた。
図 9(図 10-38)のように、大きな石を二つ折りにした皮革や布にくるみ、一端のループを
手首に通すか手に巻き付けるなどして手に固定して他端とともに握り、
(ハンマー投げのよ
うに)頭上で振り回すか(オーバースロー)、体側面で振り回す(アンダースロー)かして、
勢いをつけて適当な位置で握った手を緩めるとひもの片方が手から抜けて石が勢いよく飛
ぶというものである(ルネサンス期のミケランジェロのダビデ像は投石器を持っている)。
図 9(図 10-38) 投石機と攻城戦用投石機
23
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アッシリアの浮彫に見られる戦闘描写では投石兵は弓兵の後方に並んでおり、投石器に
よる石弾の射程は当時の弓による矢の射程より長かったと推測されている。投石器から放
たれるこぶし大の重い石は、頭蓋骨を砕き、腕や肋骨や脚を折るほどの威力があった。さ
らに時代が下がると、投石機(カタパルト)と呼ばれる機械のようなものに進化した。甲
冑に身を固めた兵士に対してさえ有効だった(図 9(図 10-38)参照)
。
農業定住後の前期新石器時代の人類が,槍、弓、投石器、槌矛、斧、短刀といった強力
な攻撃兵器を開発し、使用していたことは、人類社会に重大な変化をもたらした。その変
化の大きさは、東地中海地方全域にわたって、紀元前 8000 年から 4000 年にかけての都市
が要塞化されていたことを見ればわかる。
図 6(図 10-1。P18)のエリコ、ムレイベット、チャタル・ヒュユク、ベイダ、アリコ
シュ、テペ・グラン、テル・エス・サワン、エリドウ、ハジュラル、シアルク、ビブロス
のように独自の基礎の上に経済発展をとげた都市は、小なりとはいえ、都市国家の中心で
あったが、それらの都市は最初から防備施設を持っていた。それらの遺跡の多くが要塞(か
ならずしも城壁で囲われていたわけではないが)で防備を固めていた。
ここに「戦争技術における矛盾の原理」が働きはじめた。中国の『韓非子』
(紀元前 3 世紀
中頃)の故事に、
「どんな盾も突き通す矛」と「どんな矛も防ぐ盾」を売っていた楚の男が、
客から「その矛でその盾を突いたらどうなるのか」と問われ、返答できなかったという話
がある。もし矛が盾を突き通すならば、
「どんな矛も防ぐ盾」は誤りになり、もし突き通せ
なければ「どんな盾も突き通す矛」は誤りになり、ここから「矛盾」という言葉が誕生した。
しかし、現実には軍事技術は、この「矛盾の原理」で進歩していった。強力な矛には強力
な盾で防御しなければならない。強力な盾にはさらに強力な矛で攻撃しなければならない。
その矛に対しては、さらに強力な楯で防御しなければならない。
・・・・、このように次の
戦争には必ずより強力な新兵器があらわれ、人類の限りない武器(兵器)の強化・拡大競争
が起こったのである。
このように社会をより良くしようとする人間の「創造と模倣・伝播の原理」を戦争技術に
利用(悪用)することが起った。技術は良くも悪くもない、それを使う人間によって技術
は良くも悪くもなる。古来、戦争は生きるか死ぬかの血みどろの戦いであった。人間は手
段を選ばず、その時代のすべての(悪)知恵をしぼって考えられるあらゆる技術、手段を
投入して戦争技術の開発・導入に精魂を傾けた。ここに戦争システムというものが社会に
組み込まれていくことになった。
狩猟採集社会でも縄張りがあったが、かなり流動的なものであった。しかし、農業定住
社会の生活基盤は農耕を行なう土地となった。牧畜民にとっては牧草地であった。農耕地
となると固定的なもので所有関係が明確であった。農業の開始は余剰食料、余剰財産を生
み出すことになり、これという食料の蓄えや財産を持っていなかった狩猟採集社会にはな
かった新しい闘争の火種をもたらすことになった。
農業時代になると、人口が増大し、それぞれの時代にはそれぞれの農業技術で限度一杯、
24
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
それぞれの土地に農民が張り付いているのであるから、戦争に敗れるということは、皆殺
しにされるか、残ったものもすべてが奴隷にされ、土地は併合されて新しい農民が送り込
まれるというものであった。勝ったほうは、労働の分化も進んでいるので、敗者を奴隷と
して使った。こうして、戦争の開始は、人類社会に奴隷制という社会システムも持ち込む
ことになった。
もっと後の時代になると、敗者の自治性を奪い、政治的に併合し、食料や物品を税とし
て納めさせる方法をとるようになった。これは、これからの歴史時代を通じて、国家や帝
国のかかわる戦いの通常のなりゆきであった。
◇(小)国家間の本格的な戦争の開始
首長社会になり、首長(小)国家と首長(小)国家の間の境界地域では、狩猟採取の時
代の縄張り争いと同じように紛争が頻発するようになったが、これは単なる闘争ではなく、
(小)国家という組織と組織の大規模な闘争、つまり戦争と呼ばれるものになった。
たとえば、2006 年に発掘されたシリア・イラク国境にあった最古級の都市国家であるハ
モウカル遺跡(図 6(図 10-1。P18)参照)では、発掘とともに、多数の墳墓や住居の跡
から、ここは紀元前 3500 年頃の攻城戦により攻め落とされて破壊されたことがわかった。
非常に多くの粘土でできた球が見つかっており、これを弾丸のように放って建物や籠城し
ている軍勢を攻撃したとみられる(この段階では投石器ではなく投石機が使われていた)。
黒曜石製品を作る工房や土器片などが多数発見されており、ハモウカルは大量の道具や武
器の生産、およびアナトリア南部とメソポタミアを結ぶ交易で栄えた都市国家であったよ
うである。
その遺跡の上の層からは、ウルク期後期にさかのぼる多数の食器や壺や印章などの遺物
が見つかっており、このハモウカルは南方から拡大してきたウルクとの戦争で滅ぼされ、
その後はウルク人が住むようになったようである(このあとメソポタミアのシュメール国
家の興亡が続くことになる)
。このように敗れた方は虐殺され、奴隷にされて売り飛ばされ、
土地はならして、勝者がすむという本格的な戦争の時代に入っていったのである。
このような状態では、恐怖からの逃避、生命の確保という人間の本能から、首長が独裁
であろうとなんであろうと、とにかく農民は土地・領土を守ってくれる強い首長を望むよ
うになった。首長の方も、自らの存在価値を示すために積極的に食料と土地と奴隷という
戦利品を求めて、各地で襲撃や征服戦争をはじめるようになった。その後、長く続く遊牧
民と農業定住民の対立も、おそらくこの時代に始まったと思われる。遊牧民の生活する草
原地帯はとくに天候・気候に左右される食料生産が不安定な土地であったからである。
その争いは、その後、絶え間なく国境や食料・土地をめぐる争いや戦争という形をとって
続くようになった。そして戦争と虐殺が繰り返されつつ、首長制社会はより大きな国家へ
と統合されていった。
◇支配者階級と宗教
支配者階級は、被支配階級を軍事的におさえこむことが基本であったが、長期的には④
25
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のように、支配者階級の存在や権威を正当化するイデオロギー(理論、理屈)を作り上げ、
それを平民に広めて統治する方が利口であると考えるようになった。このイデオロギーの
役割は、時間の経過とともに、宗教がになうこともあった。
農業革命の結果、狩猟採集集団社会から、首長制社会への移行は、新たな社会的、政治
的環境を反映した、より専門化され発達した宗教を生みだすことになった。狩猟採集の時
代から人類最古の組織原理は「血縁」であったが、家族 → リニージ(同祖集団) → ク
ラン(氏族) → クラン連合(部族) → 部族連合(民族)へと、血縁的正統化の論理に
よって拡大されていった。それにしたがい、小集団や部族の超自然信仰やシャーマニズム
(巫術。ふじゅつ)もまた個人単位のものから社会単位のものへと変化した。問題とされ
ることも、個人の単純な願いごとから家族や氏族、民族や首長制国家の問題へと大規模化
ないし複雑化し、個人を越えた威力や生命力は部族神、国家神のかたちでまとめあげられ
ていった。
事実上の血縁関係の後退は神話的な血縁関係によって補完され、首長制や王制へ宗教的
にも連続的な進化がはかられた。日本の古事記・日本書紀、中国の神話、中東、インド、
ギリシャ、ローマ、ヨーロッパ、北欧など世界中の神話にはみな同じような流れがある。
都市文明をともなった古代文明のうち、最も非血縁的であるかにみえるメソポタミア文
明においても、いろいろな方面からいろいろな民族がメソポタミアに集まってきており、
非血縁的な集団だったが、その宗教の内実は「位階化神話の高度化」であった。エジプト
でも同様にみられる神々の階層化と広大な宇宙論とが集大成され、「古代宗教」となった。
人類は、いまやシャーマニズムなどの発生当初の原始宗教から古代国家の組織宗教として
の古代宗教の段階に進んできていた。
宗教と権威の結びつきは、エリート階級による富の取得を正当化するというメリットの
ほかに、次の点で首長社会の利益となった。
第 1 に、社会全体で 1 つの宗教を共有することによって、赤の他人同士が、互いに殺し
あうことなく一緒に暮らすための下地ができた。つまり、赤の他人同士が、血縁にもとづ
かない共通の絆を、宗教というかたちで持つことができるようになった。
そして第 2 に、この結びつきが、赤の他人であっても他の人々のために進んで自己を犠
牲にすることを民衆に動機づけ、戦場で命を落とすこともおそれない兵士を作りだし、武
力による征服や抗戦を社会全体として効果的に行えるようにしていったのである。
このように従来の個人的宗教を支配者階級・首長制国家にとって都合のいいようにする
には、首長(国王)が政治と宗教の両方の権力を握ることであった。農業革命から生まれ
た首長制国家は首長、王が政治的と精神的な二重の指導者を演じる神政であった。現在の
人類学者は実質的に全ての地域で首長制国家が宗教的権威を通して政治的権力を正当化し
ていったという事実をつかんでいる。
農業革命に続いて、発明された文字は、このような組織宗教の神話を記録するためにも
用いられるようになった。最初の宗教的な記述は宗教史の始まりを示していた。古代メソ
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ポタミアの紀元前 2000 年紀初頭に作成されたシュメール語版『ギルガメシュ叙事詩』は、
最初の文学ともいわれるが、神話でもある(ギルガメシュは、紀元前 2600 年ごろ、シュメ
ールの都市国家ウルクに実在したとされる王)
。古代エジプトで発見されたピラミッド文書
は知られている中でもっとも古い宗教的記述の一つで、紀元前 2400~2300 年頃のものであ
る。文字は宗教的習慣に永続不変の概念を与え、組織宗教の維持に重要な役割を果たした。
【3】国家の成立と統治の仕組み(政治)の創出
◇メソポタミア国家の成立
このようにして、最初に農業がおきた西南アジアにおいて、その後の社会システムの形
成も先行し、部族社会から首長社会へ発展し、青銅器・鉄器が使用されるようになり、文
字・数字も発明され統治に利用され、幾多の戦争が重ねられ、メソポタミアでは紀元前 3300
年ごろに(農業が開始されてから 5000 年ぐらい後)、図 7(図 10-21。P20)のように、
世界最初の国家が生まれた。
その過程を振り返ってみると、メソポタミアの最初の農業は、種をパラパラまいて、天
水にたよるだけで、雑草をとるようなこともせず、あとは実れば収穫するというきわめて
簡単な農法(天水農業)であった。図 6(図 10-1)のように、メソポタミアの周辺の丘陵・
高原地域はそのような天水農業に適していた。しかし、その後、人口が増大し、人々は丘
陵・高原地域から、低地のいわゆる「肥沃な三日月地帯」に広がっていった。
しかし、ここは肥沃ではあるが、雨が降らなかった。上流で雨がたくさん降ると洪水に
なり、メソポタミア南部は常にチグリス川とユーフラテス川の氾濫に悩まされていた。こ
のままではこの土地は使えなかった。
そこで人々はこの低湿地帯に、氾濫にそなえて堤防を築き、盛り土をして土地を高くし、
排水用の運河などを建設した。このように人類が知恵をほどこしてはじめて「肥沃な三日
月地帯」は人工の農地となったのである。これによって雨はめったに降らないものの、上
流からの豊富な河川水が流れてくるし、川床が周囲の平野より高い位置にあったため、川
から耕作地まで水をひくことができた。
このように灌漑農法を導入するようになり、年間降水量 200 ミリメートルの限界線を超
えて(日本の年間降水量は 1800 ミリ。普通、200 ミリ以下では農業はできない)周辺地帯
に農業を拡大し、穀物の収穫を大幅に増加させることができるようになった。この灌漑技
術が持ち込まれた結果、メソポタミア南部の肥沃な扇状デルタ地帯に大きな可能性が開か
れ、人口密度は急速に増加し、新たな農業村落が数多く建設された。このユーフラテス川
岸の農業生産力は犂(すき)の発明によって更に増大した。
いくつかの都市が建設されたが、その中でもエリドゥは最古のもので紀元前 4900 年頃に
建設された(シュメール王名表では人類最初の王権が成立した都市とされている)。そのエ
リドゥ遺跡に建てられていた簡素な神殿は 1,000 年以上にわたる神殿の拡張工事の跡が見
られ、何度か建て替えられて紀元前 2100 年までにはジグラト(神殿)へと発展していた。
27
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
エリドゥはその地方の宗教的な中心地となり、その周辺の農業村落群を支配していたと思
われる。
最初にメソポタミア南部に入って定住したのはシュメ-ル人であった。シュメ-ルとは、
メソポタミア南部をさす古代の呼び名であり、シュメール人といってもシュメ-ル人が何
者であったかは、よくわかっていない。そのころ、三日月地帯を囲む周辺部には、ハム語
族、セム語族、インド・ヨーロッパ語族、カフカス諸語族が住んでいたが、そのうち、こ
れらの民族が農業で豊かになったメソポタミアの低湿地滞に、どんどん流れ込んでいった。
紀元前 3400 年頃になるとウルクはほぼ 1 万人、紀元前 3000 年紀に入ると最盛期を迎え、
ほぼ 5 万人台に達した。
都市国家の誕生は、図 2 のように、新しい社会システムをたくさん生み出すことになっ
た。都市生活者の大半は日々自らの耕地に出かける農業従事者たちでもあったが、これら
の都市には彼らとは別に常勤の専門職、たとえば書記、金属加工職人、石工、彫刻師、陶
工、織工やパン焼き職人、そしてビール醸造職人などが生活していた(都市ができて、は
じめて、これらの専門の職業が出現した)。つまり、都市は世界初めてのものを次々に生み
出していった。
◇文字の発明
人類最古のシュメール文字は、簡単な絵文字であった。アシの茎を使って粘土板に絵文
字を刻み、それを焼いて仕上げた。最古の粘土板に刻まれていたシュメ-ル語の内容は、
覚書や、品物の目録や、受領書など、おもに経済活動に関するものであった。この文字が
発明されると、さまざまな仕事が一定の手順で正確に行えるようになった。灌漑、収穫、
農作物の貯蔵といった社会の発展に欠かせない複雑な作業が、文字の発明によってスムー
ズに行われるようになった。
◇加工貿易のはじまり
シュメールの建物は、平らまたは凸の日干しレンガで作られていた。モルタルあるいは
セメントはまだなかったので、平凸のレンガは(丸みを帯びて)多少不安定であった。シ
ュメール人のれんが工は、レンガの隙間を瀝青(コールタールなど)
・穀物の茎・沼地のア
シ・雑草などで埋めていた。
しかし、この食料の生産以外にメソポタミア南部はこれといった資源はなかった。確か
に河原の粘土は豊富であったから、ジグラト(神殿)も住宅も泥の日乾しレンガでつくり、
楔形文字も粘土板に書いた。
その他の物質はすべて交易に頼らざるを得なかった。メソポタミア南部からは金属はい
っさい産出しなかった。石器時代にも、農具をつくるために必要な黒曜石やフリント(火
打石)を遠くから取り寄せていた。
シュメール人はガラスも発明したし、紀元前 3000 年紀のはじめには銅の鋳造も行ってい
た。その他にも、シュメール人の技術には、のこぎり・革・のみ・ハンマー(つち)
・留め
金・刃・釘・留針・宝石の指輪・鍬・斧・ナイフ・槍・矢・剣・にかわ・短剣・水袋・バ
28
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ッグ・馬具・ボート・甲冑・矢筒・さや・ブーツ・サンダル・もりなどがあった。これら
の物品はシュメールで作られ、周辺地域に輸出された。
このようにはじめて工業(工芸)都市が生まれ、遠隔地との交易がはじまった。チグリ
ス・ユーフラテス両河の平原には、原材料、鉱物、樹木がほとんどなかったので、それら
の原材料物資は輸入された。はじめて原材料が輸入され、工芸製品が輸出されるという関係
が成立した。シュメールは世界最初の加工貿易国家でもあった。
その輸送は船で行われた。シュメールは農業用水路が多く、シュメール人は、3 つの主要
なボートの型を持っていた。革製のボートは、動物の皮で作っていた。 帆掛け舟(早くも
風力利用の帆掛け舟を発明していた)は、瀝青(コールタール)で防水をしていた。 木製
オールの付いた船は、上流に行くときは、近くの岸から人や動物によって引く方式であっ
た。
シュメール時代のすぐれた印章や工芸品に必要な金属(もちろん、武器や農具にも必要
であったが)は、すべて交易によって得ていた。遠く離れた地中海東岸からペルシア湾沿
いのイランやバーレーンにいたる広範な地域に、交易網を張り巡らしていた。紀元前 2000
年頃には、はるかインダス川流域からも物資が運ばれてくるようになった。当然、ウルの
町にはユーフラテス川に 2 つの港があった。当時の海岸は現在よりもずっと内部に入って
いたので、ウルからペルシア湾は近かった。石材・銀・銅・木材が、インドやアフリカか
ら輸入された。ラクダの隊商が、雄牛に引かれた荷車やそりとともに、品物をシュメール
へと運んで来た。
そしてウル王朝後期の王たちのもとには、チグリス川下流に起こったエラム王国の首都
スサから、レバノンにある海岸沿いの町ビブロスまで、広範な地域から貢物が届けられて
いた。シュメールは世界最初の交易国家でもあった。
このようにシュメール人は、都市国家の新社会システムを数多く発明して、人類社会に
供給してきた。その後、「創造と模倣・伝播の原理」がはたらき、延々と我々はすべてこの
恩恵を受けているのである。
◇統治の仕組み(政治)もつくったメソポタミア国家
新社会システムは物品のようなハードウェアだけではなかった。法律や社会の仕組みな
ど統治するためのソフトウェアの分野でも新しい社会システムが生み出されていった。シ
ュメールは、国家統治システムでも、いろいろ新しい仕組みを生み出した。前 22 世紀末に
ウル第 3 王朝を建てたウル・ナンムと次のシュルギの 2 代で、国家の仕組みである中央集
権制度を整備した。
ウル・ナンムの息子シュルギ(第 2 代目。在位:紀元前 2094~2047 年)は、帝国支配の
ためのいろいろなシステム、仕組みをつくった。まず、シュメールとアッカドを包括する
統一的な行政体制と官僚機構をつくった。23 の属州を創設し、その各々の属州の 1 都市に
地方行政センターを設置し、文武一対の行政長官(知事)によって統治させ、「バラ税」と
いう月ぎめの税を王に対して納める義務を課した。
29
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
また、帝国内の結びつきを強化する目的から、幹線路が整備され、旅人が夜間安心して
逗留できるような宿場(駅)がそれらに沿って設けられた。
さらにシュルギは精力的に立法を押し進め、『ウル・ナンム法典』(かつてはウル・ナン
ムが作成したものだと考えられていたので、この名がつけられたが、実際に行ったのは 2 代
目のシュルギだった)を発布し、法規定においては、犯罪行為を特定して、そのそれぞれ
に対しての処罰を用意した(いわゆる判例法)。これはバビロニアのハンムラビ王(在位:
前 1792~前 1750 年)の有名なハムラビ法典の形式にも受け継がれている(ハンムラビ王が
立派だったのはその法を石碑に記して公表したことだった)
。
ウル第 3 王朝の創設者ウル・ナンムは、土台が 60×45 メートル、高さが 30 メートルを
超える壮大なジグラト(神殿)を建設した。ジグラトはレンガ製の多層建築物で、階段を
昇った頂点には月神ナンナルを祀る神殿があった。メソポタミア南部は石材が全くないと
ころだったが、人類は知恵を出し、日干しレンガをもちいた建築技術を発達させ(日干し
レンガの材料はいくらでもあった)
、柱と階段をもつ大規模な建物がつくられるようになっ
たのである。為政者は自らの権威を示すために大がかりな記念建造物をつくるようになっ
たが、その最初のものといえよう。それが建築技術を発達させることにもなった。
シュメールの宗教は、政治と深いかかわりを持っていた。すべての土地は究極的には神
のものであり、農民は豊かな実りを祈って、また、感謝して、収穫物を神(神官階級)に
奉納していた。もともと王は軍事面の指導者であったが、神官も兼ねるようになった。
シュメール時代は、王や神官は神の代理人であるという位置づけであり、神官階級の台
頭につながっていった。彼らは経済的な特権をあたえられ、特殊な技能や知識の習得につ
とめることができるようになった。世界で初めての教育制度がつくられ、神官階級の子弟
は楔形文字を覚え、楔形文字で書かれたテキストを暗記し、書き写しするようになった。
◇戦争技術も発達させたメソポタミア文明
シュメール人は戦争の防御の技術にも創意と工夫を重ねた。シュメールの都市は、日干
しレンガの城壁で防御された。シュメ-ル人は、彼らの都市間の包囲戦によく従事した。
このころの戦争では、敗れたものたちはすべて奴隷として使役された。女性の奴隷は、織
物・圧搾・製粉・運搬などで働いた。すべての古代文明が、この後出てくるギリシャ、ロ
ーマを含めて、戦争と奴隷制の上になりたっていた。
人類はこの時点までに、支配者階級と被支配者階級(平民としての農民、職人、商人な
ど、つねに支配される社会層)の他に、ものの数にいれない奴隷という制度、社会の仕組
みを作り出していて、その上に文明を築いていったことがわかる(人類は国家を形成した
古代から 20 世紀前半まで、基本的に少数の支配者=富裕者階級と大多数の被支配階級とい
う社会の仕組みをつくって、被支配者階級の犠牲(納税・賦役・兵役など)のうえに、国
家を統治していた)
。
シュメ-ル人の軍隊は、ほとんどが歩兵で構成されていた。そのうち軽装歩兵は、戦斧・
短剣・槍を装備していた。正規の歩兵は、さらに銅製の兜・フェルト製の外套・革製のキ
30
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ルト(縫い合わせ)などを着用し、後述するギリシャと同様に重装歩兵を主力とし(ギリ
シャの方が模倣した)
、都市防衛に適したファランクス(重装歩兵による密集陣形)を編成
していた。
図 8(P23)のように、シュメ-ル人は戦車を発明し、初期の段階ではロバを牽引に利用
し、投石器や単純な弓を使用した(後に合成の弓を発明した)
。その後、ロバにかわって、
馬が牽引するようになり、戦車も改良されて、戦車は戦場で大いに威力を発揮するように
なった。鞍(くら)や鐙(あぶみ)などの馬具の発明がまだなく、乗馬による戦闘が未熟
な時代には戦車が威力を発揮したのである。
シュメ-ルに出現した戦車は、たちまち、古代オリエント世界に模倣・伝播し、ヒッタイ
ト、アッシリア、古代エジプト、ローマ、ペルシア、古代中国、古代インドなどで使用さ
れた。つまり、戦車はメソポタミアで発明され、「創造と模倣・伝播の原理」によって、た
ちまち、四方に広がったのである。戦争の技術はとくに伝播速度は速く、普及範囲が広かっ
た。
また、たちまち、改善というより、より威力、殺傷力の強いものに改変されるのが軍事
技術の常であった。近東のものは 2 輪で馬を 2 頭から 4 頭立て、エジプトでは乗員 2 人、
ヒッタイト、イスラエル、アッシリア、中国などでは 3 人、多くはサスペンションがなく
皮革や柳のような柔軟な材料で編んだ床に振動を吸収させていた。どの地域でも戦車に乗
って戦った兵士の多くは貴族やその子弟などで、御者を担当する者はその部下や奴隷が主
だった。
やがて戦争が激しくなり、従来の神官兼支配者から軍隊の司令官に権力が移っていった。
軍隊の司令官が平時にも権力を手放さず、しだいに力をつけて王となっていった。各地に
王朝が成立し(神官政治は終わり)
、たがいに抗争を繰り広げていった。
実り多き社会システムを生み出したシュメールも滅亡の時がきた。シュルギによって最
大となったウル第 3 王朝も、その孫の代で、現在のイランに至る交通路(鉱物資源の獲得
に必要)を巡るエラムとの争いから、エラム人による長い包囲戦の末にウルは陥落し、ウ
ル第 3 王朝は滅亡した。シュメール人は、文字、記念建造物、正義と法の概念、宗教など
多くの公共財(社会システム)を人類社会に残して姿を消してしまった。これが戦争に敗
れた国の運命であった。
【4】「支配者階級と被支配者階級の統治の原理」
◇国家成立の理由=一元的に統治する(支配する)ため
メソポタミアつまり西南アジアの農業システムを受け入れて急速に発展したエジプトも
紀元前 3100 年ごろに(農業開始後 2000 年ぐらい後、これは例外的に短い)
、統一国家を形
成した。
もう一つの農業がおきた中国においても、図 7(図 10-21。P20)のように、 夏(か)
であれば紀元前 2070 年頃(黄河農業から 5000 年ぐらい後)に国家の形成があった。
31
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国家は首長制社会になかった特徴をいくつか備えていた。首長制社会の多くが、一つの
言語・習慣を共有する人々の集団であるのに対し、国家には、言語・習慣を共有する人々
の集団が複数存在するのが一般的であった。強力な国家は、次々と隣国を戦争で破り、征
服して形成された国家、つまり、国家の中に多くの民族を包含しているような国家はとく
に帝国といわれることがあった(最初の帝国はアッシリアであった)
。帝国のなかでは、中
心となる民族(征服民族)が支配階級となり他民族を支配した。
国家の官僚は、その人の経験や能力を少なくともある程度考慮したうえで選ばれる専門
家であった。官僚は専門的技能を必要とし、教育を必要としたので、支配者階級、富裕者
階級の子弟が独占するようになり、国家の支配者階級・貴族階級を形成するようになった。
長期的に見ると、人間集団はだんだん大きくなり、より複雑になって国家を形成すると
いう傾向にあった。そして、国家そのものも小さなものから大きなものへと集約されてい
く傾向があった。
国家は、より単純な社会集団にくらべて優れた武器や技術を所有し、より多くの人口を
抱えているのが普通であった。国家が小さな集団に対して勝利できた理由はそこにあった。
国家は兵力や軍事物資を戦局に集中させやすかった。そして、国教や愛国心が兵士を決死
の覚悟で戦わせた。愛国心のために戦うという考え方は、国家成立以前の集団の考え方と
根本的に異なっていた。小規模血縁集団や部族社会の人々には、愛国心とか、殺されるの
を覚悟の上での戦闘といった考えはまったくなかった。愛国者や狂信者が恐ろしいのは、
敵を打ち負かし、殲滅させるためには、自分たちの一部は死んでもかまわないと思って戦
うからであった。このような宗教的な愛国心にかられた狂信主義は、国家が誕生するまで、
どこにも存在しなかったのではないかと考えられている。
国家の成立を説明する理論として、かつては大規模な灌漑施設の建設や治水管理には、
集権化された国家が必要であったといわれてきた。この理論はメソポタミア、中国北部、
メキシコといったところで、国家という社会形態が人類史上初めて姿を現した頃に、時を
同じくするように、大規模な灌漑施設が築かれるようになったという事実を前提にしてい
た。
しかし、最近の研究では、これらの大規模施設は国家ができた結果であって、国家がで
きた原因ではないことがわかってきた。たとえば、メソポタミアについて述べたように国
家ができる前に、彼らは共同で堤防を築き灌漑運河を作っていた。その結果、多くの人が
集まってきて国家が生まれた。同じように中国北部でも、国家が成立する以前に、すでに
小規模な灌漑施設が構築され、この親族、部族などで作った小規模な灌漑施設で農業を行
なうようになっていた。
どの地域でも、大規模な灌漑施設が登場するのは、国家の誕生からかなり時間を経てか
らであった。それらは国家が形成された結果登場した二次的産物であって、国家が形成さ
れた理由ではなかった。国家が形成された理由は「一元的に統治する(支配する)」ためで
あった。一部の支配者階級の発生とそれによる支配権の独占は問題であったが(たぶん、
32
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
当時の人間は問題とは思わず、当然と思っていたかもしれないが)、人口が増え、多様な人
間が織りなす社会は一元的に統治される必要があったことは確かだった。それで国家の成
立となったのである。
では実際の世界で古代国家の形成はどのように進んだのであろうか。図 7(図 10-21。
P20)のように、メソポタミアでは紀元前 3300 年(農業が開始されてから 5000 年ぐらい)、
エジプトでは紀元前 3100 年、中国では夏であれば紀元前 2070 年(黄河農業から 5000 年ぐ
らい後)、殷であれば紀元前 17 世紀、中米やアンデス地方では紀元前 1000 年頃であった。
それらの先進地域の国家統治システムがその他の地域に伝播していっていった様子は図 7
(図 10-21)に示したとおりである。
◇人間の本質と国家統治システム
国家の形成の過程も、できた結果の国家の統治システムも「創造と模倣・伝播の原理」が
はたらいたのか、ほぼ同じように支配者階級と被支配者階級、そして戦争の犠牲者である
奴隷がその下に置かれるような身分制かつ専制独裁国家であった。
人類の歴史において、はじめから民主主義というような発想はなかったし、具体的に民
主主義国家というような国家もできなかった(古代ギリシャのアテナイは例外的に一時的
に民主的な国家であったが、国民の 3 分の 1 は奴隷という奴隷制国家であった。古代ロー
マの前半の共和政の時代にも戦争で敗北した民族が奴隷とされていた)
。これは人間の本質
からすると理解できることである。
20 世紀のアメリカの心理学者アブラハム・マズロー(1908~1970 年)は、人間の「欲求
段階説」
(図 10(図 10-37)参照)において、人間の基本的欲求を底辺の方から、次のよ
うに①生理的欲求、②安全の欲求、③所属と愛の欲求、④承認(尊重)の欲求、⑤自己実
現の欲求の 5 段階があるという。
①生理的欲求:生命維持のための食欲・性欲・睡眠欲等の本能的・根源的な欲求である。
この欲求が満たされない場合、人間は生きていくことができなくなる。
②安全の欲求 :安全性・経済的安定性・良い健康状態・良い暮らしの水準など、予測可
能で、秩序だった状態を得ようとする欲求である。病気や不慮の事故などに対するセーフ
ティ・ネットなども、これを満たす要因に含まれる。 この欲求を満たすために一生涯を費
やす人が、世界にはたくさんいる。
③所属と愛の欲求: 情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに所属して
いるという感覚である。この欲求が満たされない時、人は孤独感や社会的不安を感じやす
くなり、鬱状態になりやすくなる。 この欲求が十分に満たされている場合、生理的欲求や
安全の欲求を克服することがある。
④承認(尊重)の欲求: 自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求
める欲求である。尊重のレベルには二つある。低いレベルの尊重欲求は、他者からの尊敬、
地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができる。高いレベ
ルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自立性などを得ることで
33
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
満たされ、他人からの評価よりも、自分自身の評価が重視される。
⑤自己実現の欲求 :自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化したいと思う欲求
である。すべての行動の動機が、この欲求に帰結されるようになる。
図 10(図 10-37) マズローの欲求(要求)階層ピラミッド
『自然の叡智 人類の叡智』でも述べてきたように、人間は単細胞、多細胞、原生動物、
・・・、
脊椎動物、哺乳類、霊長類、類人猿、ホモ・ハビリス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエ
ンスと 40 億年を経過してきたまぎれもない動物である。食料・水をとらなければ生きてい
けない。食欲を絶つことは死を意味する。食欲は本能である。
同書で 10 億年前、多細胞になったとき、性が誕生したと述べた。160 万年前のホモ・エ
レクトスの段階で一夫一婦制の生殖システムを生み出したのではないかと述べた。その仕
組みはことの次第から以心伝心の形で引き継がれてきているが(公式には婚姻制度として
社会システムとなっているが)
、うまく機能してきたようである。うまくいっていなかった
ら、人類はほろびていただろう。現に 72 億人までに人類が増加したということは、この生
殖システムがうまく機能していることを示している。性欲も本能であろう。
ここまでの人間の本質は、第 1 は食欲、第 2 は性欲であったことには異論はないであろ
う(ここまでは、生物圏の動物に共通するものである)
。しかし、人間は単に生物圏にとど
まらず、頭脳の発達とあいまって人間圏を形成していった。この人間圏を形成するにした
がって、新しい社会システムを生み出して、単なる動物を脱して、食欲、性欲の他に、人
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
間固有の本質を加えていった。農業定住社会になり、部族社会になり、その規模も大きく
なっていくと、人間の本質についても,変わってくるであろうし、より複雑になってくる
であろう。
食欲、性欲に次ぐ、第 3、第 4 の人間の欲求は何か。マズローが②に置いた「安全の欲求」
のなかの経済的安定性・良い暮らしを得たい、今、安定しているなら、それを未来永劫続
けたいという欲求も第 3 の本能といってよいほど大きい。これは親族の安泰、あるいは食
欲・性欲を含めた一族・一門・一党・一派・一階級の安定的支配などの形で歴史を動かし
てきたともいえる。
マズローは、③として「所属と愛の欲求」を置いている。食欲・性欲の延長線上にある
母性、父性、血族、親族の安泰、優遇をはかりたいという欲求が第 3 の本能的なものとな
るかもしれない。歴史時代に入ってからも親族のために命を捨てる、逆に戦争などで親族
を人質・捕虜にとることなどは枚挙にいとまがなかった。
マズローは、④として「承認(尊重)の欲求」を置いている。自分が集団から価値ある存
在と認められ、尊重されることを求める欲求、いわゆる「名誉欲(男女とも)」、「男(女)
の野心」も歴史上大きな役割を果たしてきている。名誉のためには死をも惜しまなかった男
女の例も枚挙にいとまがなかった。動物は決してこのようなことは考えないから、人間独
自のものであろう。
さて、それでは人間の第 3、第 4 の欲求は何であろうか。
しかし、このように人間がもつ欲求は個別に分れているとは限らない。たとえば、ヒト
が「ヒトを支配する」ことができれば、マズローが②に置いた「安全の欲求」のなかの経済
的安定性・良い暮らしを得たいという欲求も満たせるし、マズローが③に置いた「所属と
愛の欲求」である食欲・性欲の延長線上にある母性、父性、血族、親族の安泰、優遇をは
かりたいという欲求も満たせるし、マズローが④に置いた「承認(尊重)の欲求」である自
分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求も満たされることに
なる。現実の歴史上の為政者もほとんど例外なしに、これらの欲求をすべて満たしていた。
つまり、
「ヒトを支配すること」ができればすべてを得ることができる、ヒトを支配すれ
ば、すべての欲求が満たされるということになる。ヒトにとってこれほど手っ取りばやい
方法はない。食欲、性欲の次になる第 3 の欲求は一言でいえば、
「ヒトを支配すること」と
いうことになる。いや、
「ヒトを支配すること」ができれば、食欲、性欲も思いのままにな
るから、
「ヒトを支配すること」が最大の欲求といえるかもしれない。
このように考えると、人口が増えて社会が複雑化する中で、初期の人類が短絡的に「ヒト
を支配する」という欲求にとりつかれるようになったとしてもおかしくはない。
逆に言えば、人間として最もさけるべきことは(前述の、①、②、③、④が満たされな
くなる可能性があるから)
、
「ヒトに支配されること」であるといえよう。
つまり、人間がもつ欲求の最大限のものは「ヒトを支配すること」となる。最初に権力を
とったものが、単純に自分の欲求にしたがって「ヒトを支配した」と考えれば、そしてその
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
最初の統治システムが、「創造と模倣・伝播の原理」によって、伝播していったと考えれば、
古代、中世、近世の国家が基本的に専制独裁国家になったのも理解できる。
◇「支配階級と被支配階級の統治の原理」
古代、中世、近世の国家の歴史をみると、国家は永続するものではなく、一種のライフ
サイクルをもっていることがわかる(エジプトの場合は異例に長かったが、実際には初期
王朝、古王国、中王国、新王国、後期王国などに分かれていた。ローマも 1000 年続いたと
いわれるが、王政、共和政、帝政、軍人皇帝時代など政体は大きく変わっている)
。
新しく国家を創設した者やそのグループ、あるいは前代の国家を打ち倒して国家を奪っ
た者やそのグループは、支配者階級となった当座は強力な統治力(軍事力)をもって統治
を行うことが多く国家は大いに隆盛に向かうが、やがて支配者階級の欲望の増大、横暴、
堕落が激しくなり、被支配者階級(国民)の支持を失っていく。
時間が経つにしたがい、統治の仕組み、つまり、国家の諸々の仕組み、社会システムは
現実から乖離するようになってくる。支配者階級が時代の変化、国民の要望にあわせて、
社会システムを改革・変更すればよいのだが、支配者階級はますます階級の維持安泰につ
とめ、保守的になっていくのが常で、社会システムの改革など望むべくもなかった。
そのようなとき、外敵の侵入や干ばつ・洪水・疫病の蔓延などの自然災害をきっかけに
広範な反乱がおき、為政者グループは倒される。それにとって替わった為政者グループも
再び同じことを繰り返す。つまり、もっともな大義名分をもって政権についた新しい為政
者グループ、あるいは支配者階級も人間がもっている欲求には勝てなくなり、やがて暴政・
堕落・衰退し、社会システムが時代にあわなくなり、滅亡することになる。それにとって
かわった為政者、為政者グループ、支配者階級もまた同じことを繰り返す。
人類社会は 5 千数百年前に古代国家を創造して以来、19 世紀に至るまで、その統治シス
テムは変わることはなかった。基本的には支配者階級の独裁国家であった。民主主義国家
はやっと 18 世紀のアメリカ合衆国の独立をもってはじめて出現することになる(前述した
古代ギリシャのアテナイや古代ローマの初期の共和制国家は奴隷制国家であった)。
以上のことから、古代、中世、近世、その後も含めて、歴史を動かすもっとも大きな原
動力は「支配者階級と被支配者階級の統治の原理」としたのも、人間の持つもっとも大きな
欲望が「ヒトを支配すること」と「ヒトに支配されたくないこと」であることを考えれば
それは容易に理解できるであろう。
つまり、人類の歴史を動かす第 2 の原理(第 1 は「創造と模倣・伝播の原理」)は、この
支配者階級と被支配者階級の葛藤・闘争の歴史として現代まで続いてきたといえよう。
【5】戦争技術の進歩と軍需産業の出現
◇戦争技術の進歩
新石器時代から金属器が使用される時代になると、金属製の新兵器が次々と発明され、
戦争はさらに激しく本格的なものとなり、国家の統一、拡大が促進されるようになった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 7(図 10-21。P20)および図 8(P23)のように、メソポタミアもエジプトも紀元前
3500 年頃から青銅器時代に入り、金属加工技術の発達により青銅製の刀剣が作られるよう
になった。さらに紀元前 1500 年頃から鉄器時代に入り、鉄の刀剣が作られ、やがて鉄を高
温の炉で精錬した鋼が用いられるようになった。これらの材料の進歩は農業用の道具(農
具)の進歩にも大きく貢献し、農業システムが一新されることになったが、戦争用の道具、
武器や兵器の進歩(?)にも大きく貢献し、戦争システムが格段に強力になり、国家の統
合が促進されるようになった。図 7(図 10-21)において、青銅器時代、鉄器時代がそれぞ
れの地域で始まると間もなく、それぞれの地域に統一国家が出現したことがわかる。
青銅器時代(紀元前 3500~紀元前 1500 年)の始まりは、金属製の兵器の使用によって、
戦争は新石器時代よりもはるかに多くの人命を奪う行為となった。この青銅器時代に登場
した最も重要な新兵器は戦車であった。この時代には、また、長距離兵器としての複合弓
(ふくごうきゅう)も発達した。
攻撃用兵器は多様化して、大ざっぱに長距離、中距離、短距離の三つのカテゴリーが出
てきた。当時の中・長距離兵器、すなわち投げ槍、矢、投石器や弩砲(どほう)は、戦闘開
始の衝突の際に使われるのが普通で、それだけで戦闘の決着がつくことはほとんどなかっ
た。最後には槌矛あるいは戦斧(せんぷ)、槍や剣を手にした人間同士が激突した突撃戦で
勝敗が決した。
◇軍需産業の登場
青銅器時代(のちの鉄器時代にはさらに)に兵器製造技術が発達し、古代中近東の諸国
家が強大化した結果、組織された軍需産業が現れた。図 11(図 10-41)のように、エジプ
トの壁画には、弓矢、楯、戦車の車輪その他の軍需品を生産する兵器工場が描かれている。
ファラオが独自の兵器工場を持っていて、この中王国時代(紀元前 2040~1782 年)の絵で
は職人が弓と矢をつくっている。このように戦争は発足したばかりの人類社会に軍需産業
システムも組み込むようになった。
図 11(図 10-41) エジプト中王国時代の兵器工場
ここに我々人類は大きなジレンマ(矛盾)をしょいこむことになった。人類社会を向上
させるためには、新しい知恵、工夫を生み出さなければならない。それによって社会システ
ムを向上させるのである。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、我々はその社会を守るために、その技術を使って強力な武器や兵器や防御機器
をつくる軍需産業システムも持たねばならないという(しかも、相手もそうするので、そ
の優れた兵器技術はやがて威力を大きくして我が身を襲ってくるという)ジレンマに陥る
ようになった。
人類が農業を興し都市を築き文字を発明し、先史時代から歴史時代への境界を越えたば
かりの頃、人類は組織化された戦争の技術がすでに発達していて、広範に普及伝播してい
った。ここに例示した中近東は農業の発祥の地で社会の進み方が早く、戦争も頻発し、そ
のため戦争兵器も世界の先端を走っていた。ここから戦争兵器も世界の他の地域に伝播し
普及していったのである。「創造と模倣・伝播の原理」は武器・兵器にも真であった。
チグリス・ユーフラテス川およびナイル川流域を中心とする社会は、そもそもの最初から
戦争を通じて形成されたのであり、戦争の技術は初期文明を特色づける最も重要な要素の
一つであった。
この地域では、各国ごとに、複雑な組織と細部までゆきとどいた効果的な指揮系統を持
つ軍隊が形成され、効率のよい兵站(へいたん)組織と軍需産業に支えられていた。軍隊
はだいたい 2 万人規模で、戦略、戦術に深い理解を示す将軍たちの指揮のもとに、しのぎ
をきずっていた。この段階で、すでに組織化された偵察部門や兵站部門、特殊な作戦任務
を持つ重装備および軽装備の歩兵隊と戦車隊は高度に発達をとげていた。その後の軍隊が
もつ機能はすでにすべて備えていたといえる。あとは、時代時代の技術革新に応じて、軍
隊の装備も戦争の形態も変化させていけばよかった。
戦争を構成する 3 つの不可欠の要素(機動力、防護力、攻撃力)はたがいに密接なつな
がりを持っているので、そのうちの一つが変れば他の要素もそれに応じて変らざるをえな
い。これから後の人類史は技術革新が出るたびに、この戦争の三要素は大きく影響し、そ
れをうまく利用したものが、ときどき軍事的天才とか、英雄とかといって称賛されるよう
になった(もちろん、それに失敗し敗れて消えていったものがはるかに多かったが)
。
◇恐るべき軍事国家・アッシリア帝国
農業がもっとも早く起こり、国家ももっとも早く起こった西アジアのメソポタミアでは、
図 7(図 10-21。P20)のように、シュメール(ウルク期なら紀元前 4300 年、ナスル期な
ら紀元前 3100 年建国)に続いて、バビロン第 1 王朝(古バビロニア王国)
、ヒッタイト、
フェニキア、イスラエル、アッシリア、新バビロニア、ペルシアなどが興亡したが、はや
くも恐るべき軍事国家が出現した。
アッシリアが非常な成功を納めたのはヒッタイトから 学んだ鉄の力による。優秀な製鉄
技術を持ち、鉄製武器などで装備された勇猛果敢な 軍隊を率いて、次々と周辺の諸民族・
諸国家を征服していった。
アッシリア人は効果的な攻囲戦の技術を身につけており、弩砲(どほう)はじめ、多く
の新兵器を発明していた。図 12(図 11-9)はアッシュル・ナシルパル(在位:紀元前 883
~859 年)の時代の浮彫であるが、これによってその戦闘の様子がわかる。この戦車には御
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
者と弓兵、およびこの 2 人を守るため 2 人の楯持ちが乗っていた。
右の浮彫は 6 輪の移動式攻城塔と破壊槌であった。車輪のついた移動式の塔に乗って城
壁まで近づき、破城槌をふるったのだが、塔は破城槌の使い手を保護する役割も果たした。
また塔の城壁から反撃してくる敵軍に矢を射かけるために弓兵を乗せられる余裕もあった。
図 12(図 11-9) アッシリア帝国の古代のハイテク兵器
アッシリア軍は早くもこのような戦闘機械を生み出して、実戦に投入したが、こような
機械だけでなく、従来からの梯子(はしご)を使ってよじのぼったり、土を盛り上げた傾
斜路をつくることによって城壁を乗り越えたり、ときには地下道を掘って侵入したり、ケ
ースバイケースでそれらを併用したりして、柔軟に攻める訓練を受けていた。アッシリア
人は弓兵および槍兵のほかに、投石兵も使った。投石機は、高角射撃ができたので、銃眼
つき胸壁や市の内側にいる防衛軍兵士を攻撃するには特に効果的だった。
こうして、前 8 世紀の ティグラトピレセス 3 世、サルゴン 2 世(在位:紀元前 722~前
705 年)の時には大帝国となった。 とくに、サルゴン 2 世はイスラエル王国を滅ぼし、エ
ジプトをパレスチナ から逐い、バビロンを陥れた。その子セナケリブ(在位:紀元前 704
~前 681 年)は、都をニネヴェに移した。
アッシュル・バニパル王(在位:紀元前 668~627 年)のときエジプトまで進軍し、ファ
ラオを上エジプトに閉じ込め、デルタ地方(下エジプト)を併合した。そしてキプロスも
シリアも征服し、紀元前 646 年、エラム王国の一部も征服した。アッシリアは、はじめて
肥沃な三日月地帯をすべて統一した大帝国となった(図 13(図 11-1)参照)
。
アッシリアは、
いままでとは異なった方法で領土を統治した。
そのやり方は図 14
(図 11-8)
のように、征服地の地方領主たちはアッシリア王の封臣になり服属する。彼らが毎年十分
な貢納品をアッシリア王に対して送り続ける限り、彼らの地位は保証される。しかし、い
ったんその支払いが滞ると、それはすべて反逆行為とみなされ、圧倒的な軍隊によって罰
せられ、その国は併合されアッシリア人の総督が配置されるというものであった。また、
とくに反抗的な民族に対しては全人口の強制移住措置などが取られた。これがアッシリア
の侵略における典型的な伝統的政策となった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 13(図 11-1)メソポタミア
創元社『世界の歴史2』
図 14(図 11-8) アッシリア帝国の支配構造
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このように帝国(英語: Empire、ラテン語: Imperium、中国語: 帝國)とは、複数のよ
り小さな国や民族などを含めた広大な領域を統治する国家のことをいうようになった。語
句に「帝」という字が入るが、
「皇帝が支配する国家」とは限らず、王政、寡頭制、共和政
などの場合も含まれる(ローマ帝国の前半は共和政であったが、一般にローマ帝国として
一括していることが多い)
。
以後の人類の歴史では、国家が「帝国」を国号として公式に使用する場合、国号ではな
いが通称として使用する場合、歴史的または比喩的に「帝国」と他称される場合などがあ
った(日本も戦前は大日本帝国と称していた)。
いずれにしても多民族、多国家を軍事的に支配するのであるから、強力な軍事国家であ
ったことは共通している。その最初の帝国がアッシリアであった(19 世紀後半、帝国主義
という言葉ができたが、これは一つの国家が、新たな領土や天然資源などを獲得するため
に、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めようとする
思想や政策であり、かつての帝国のような奴隷化などの露骨な政策は影をひそめたが、そ
の思想的なところは同じであった)
。
アッシリア帝国は、オリエントの歴史にとって重大な意味を持っていた。オリエント全
域に同一の統治体制と法体系が行きわたったからである。被征服民が別の場所に強制移住
させられたり、徴兵された兵士が各地に派遣されたりしたことも、帝国内を均一化する効
果があった。また、アラム語が共通語として広められた。こうしてアッシリア帝国のもと
でオリエント全体ははじめて帝国として統一された。
サルゴン 2 世はニネヴェ近郊のコルサバドに壮大な宮殿を建設したが、その宮殿は全長 1
キロ半以上におよぶレリーフ(浮き彫り)で飾られていていることで有名である。このレ
リーフを見ると各地から略奪した富で、豪華な宮廷生活が繰り広げられていたことがわか
る。
アッシュル・バニパル王は、首都ニネヴェに王宮や世界最古の図書館を建設して、古代
メソポタミアに関する記録や文学作品の粘土板を大量に収集させた。1850 年から行われた
ニネヴェの発掘によって、2 万点以上の粘土板文書(楔形文字)が発見され アッシリア学
成立の基礎となった。その文献やその他の資料から当時のアッシリア帝国を支えた軍事中
心の思想を推測することができる。
王たちの偉業をたたえるレリーフには、略奪、奴隷、串刺しの刑、拷問、被征服民の強
制移住などの様子が繰り返し描かれている。アッシリア帝国は、残虐な征服と強圧的な支
配を徹底的に行った世界最初の帝国でもあった(人類が戦争でいかに残虐な行為を大々
的・組織的に行なうかを記録にとどめた最初であった)
。
アッシリアの総合戦略は、二つの問題に対処すべく立案されたものであった。一つは、征
服した諸地域をいかにして隷属のもとにとどめておくかであり、もう一つは帝国の辺境地
方をどのようにして防衛するかであった。彼らはのちのローマ帝国のように軍隊を全地域
の辺境にわたって分散配置するというような余裕はなかった。彼らは帝国内の戦略的要所
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
には守備隊を駐屯させたが、つねに中央に強力な予備軍を保持し、直接、王の指揮下にお
いていて、ことが起った地点にいつでも派遣するようにしていた(現在のアメリカの世界
戦略も基本的にはこれと同じである)。このように、対外的防衛のみならず国内の治安維持
の必要から、アッシリアの総合戦略がかたちづくられたのである。
アッシリア帝国に対する脅威が主として国内にあったことから(国外-当時のオリエン
トの地域-は前述のようにすべて征服したから)
、王は、総合戦略の一環として徹底的な恐
怖政治をしいた。つまり、恐怖政治を実践し、宣伝することによって、被征服民を従属状態
にとどめておこうというのがアッシリアの総合戦略であった。その絵画芸術を見ると、アッ
シリアへの抵抗が愚行であると思わせるような実例が、リアルに描かれていて、ぞっとする
ほどである。炎上する都市やアッシリア軍兵士に捕らえられた女子ども、撃破されて潰走
する敵、死体となって横たわる敵、切り落とされた人間の首の山などを描いた絵は、アッ
シリア帝国の総合戦略の欠かせない一部であった。
ただ、恐怖を与えるだけでなく、それは確実に実行された。アッシリア王は帝国に対す
る反逆行為には容赦なく苛烈な軍事的報復を加えた。バビロニアはよくたたかれたが、サ
ルゴン 2 世の次のセンナケリブ王(在位:紀元前 705~681 年)のときは、徹底していた。「朕
は暴風のように敵を圧倒した・・・市の広場は死体で埋まった・・・市内のすべて、家と
いう家を、土台からてっぺんまで破壊しつくし、火をつけて焼いた・・・城壁も神殿も神々
も、聖堂の塔も、何もかもすべて倒して・・・市の中央に運河を掘り抜き、そこへ大量の
水を注ぎ込んだ・・・洪水を起こし、破壊の仕上げをした・・・今後、このような都市のあ
った場所や神殿や神々が思い出されることがないように・・・ただの草原同然にしてしま
ったのだ」と語っているように、バビロニアを破壊しつくした。
このアッシリアの総合戦略を支えていたのは史上最強の軍隊であった。男子は全員、徴
兵された。アッシリアは鉄製の武器に加え、攻城用の工兵隊をもっており、それまで難攻
不落だった城壁も破ることができた。鎖帷子(くさりかたびら)で武装した騎兵隊もあり、
そうした部隊を総動員して敵に襲いかかったのである。不信な者たちをアッシュール神が
征服するという宗教的な熱気(洗脳)もアッシリア軍の快進撃を支えた。アッシリアは後
の軍国国家の見本となるような戦争の知恵をいろいろ生み出した最初の国家であった。
アッシリア人がその総合戦略を推進するうえでよりどころとした軍隊は、重装備および
軽装備の歩兵を統合した戦力であり、槍兵、弓兵、投石兵、突撃隊、および工兵から構成
されていた。そして騎兵隊を正規軍の部隊としてとりいれた最初の大国だったが、つねに
軍の最良の戦力として目覚ましい働きをしたのは戦車隊であった。
アッシリア軍の全体の規模はわかっていないが、最近の研究では 10 万人から 20 万人の
兵力と見積もられている。アッシリア王が古代世界ではかつてない大軍を動員していたこ
とは確かであった。紀元前 900 年頃から紀元前 612 年にかけて、アッシリア軍は、古代近東
世界に並ぶもののない陸上戦力を誇っていた(現代のアメリカと同じように)。
それでもアッシリアは敗れた。被征服民に対する抑圧が過酷すぎたので、アッシュル・
42
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
バニパル王が亡くなった翌年、バビロンで反乱が起こり、帝国は早くもほころびを見せ始
めた。この反乱を支援したのが、新バビロニア(カルデア人)と、新たに登場したインド・
ヨーロッパ語族の隣国メディア王国であった。新バビロニア王国は、紀元前 612 年、ニネ
ヴェを陥落させてアッシリア王を殺害し、紀元前 609 年に帝国を完全に滅ぼした。
第 3 章 古代の戦争
【1】古代(紀元前 3000 年~西暦 500 年)の戦争
◇古代国家の歴史
古代の世界(紀元前 3000 年~西暦 500 年)で興亡した国家の概要は、図 15(図 11-2)
のようになる。
農業がもっとも早く起こり、国家ももっとも早く形成された西アジアでは、前述したよ
うにシュメール、バビロン第 1 王朝(古バビロニア王国)、ヒッタイト、フェニキア、イス
ラエル、アッシリア、新バビロニア、ペルシア、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、
パルチア、ササン朝ペルシアなどが興亡した。
その西アジアの農業が伝播して興った古代エジプトでは、紀元前 3100 年の初期王朝から
古王国、中王国、新王国、プトレマイオス朝などが興亡した。
ヨーロッパでは紀元前 2000 年紀のエーゲ文明、ミケーネ文明、古代ギリシャ、マケドニ
ア、アレクサンドロス帝国、ローマ帝国(王制、共和制を含む)
、西ローマ帝国などが興亡
した。
インドでは紀元前 2300 年に起こったインダス文明、間があいて、紀元前 7 世紀の 16 王
国、マガダ王国・ナンダ朝、マウリヤ朝、クシャナ朝、グプタ朝、バルダナ朝などが興亡
した。
以上は西アジア起源の農業が伝播した世界であったが、もう一つの農業の起源地である
中国では紀元前 2070 年に興った夏王朝、殷王朝、周王朝、春秋戦国時代を経て、はじめて
中国を統一した紀元前 221 年の秦王朝、その後、紀元前 202 年~西暦 220 年の漢王朝、西
暦 184~589 年の魏晋南北朝時代の国家が興亡した。
中国周辺で興った国々としては、まず、ユーラシア草原地帯では、スキタイ、鮮卑、柔
然、突厥などが興亡した。
東南アジアでは、南越国、扶南国、マレー半島の頓遜など、チャンパ(林邑国)が建国
した。朝鮮半島では、衛氏朝鮮、高句麗、百済、新羅などが興亡し、日本では古墳時代に
大和朝廷が成立した。
なお、サハラ以南のアフリカでは、古代エジプト文明が伝播して、現在のスーダンの地
にクシュ人のクシュ王国が最初はケルマに(紀元前 2600~1520 年)、つぎにナパタ(紀元前
1000~前 300 年)、最後にメロエに (紀元前 300~紀元後 300 年) 成立した。また、イエメ
ン地方から紅海を渡り移住してきたセム語族が現在のエチオピアに築いたアクスム王国は、
1 世紀に成立し、12 世紀まで存在した。
43
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 5(図 11-2) 古代の世界
44
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
中央アメリカでは、紀元前 1200 年頃から紀元前後にかけて、メキシコ湾岸の湿地地帯で
オルメカ文化が興り、西暦 300~1200 年にユタカン半島を含む現在のメキシコ南部にかけ
てマヤ文明が興った。また、西暦 500 年ないし 600 年頃にはメキシコ中央高原のテオティ
ワカンが繁栄した。
南米アンデスでは、紀元前 2800 年というメソポタミア、エジプトに次いで古いカラル遺
跡やシクラス遺跡が最近発掘されたが、この位置づけは、まだ、はっきりしない。従来の
南米最古の国家は紀元前 200 年から西暦 600 年頃までの北海岸のモチェ、
南海岸のナスカ、
北高地のカハマルやレクワイ、南高地のティワナクなどがあった。
オーストラリアでは、6 万年前に渡来した先住民アボリジニは、国家形成をすることなく、
部族の形態のままだった。
以上が紀元前 3000 年から西暦 500 年までの古代世界で形成された国家のほぼすべてであ
る。
この古代において、各地で国家が起こったが、それは戦争によるものであったので、多
くの戦争があった。その中でわかっているもので、主な戦争を記すと以下のようになる(☆
印は『自然の叡智 人類の叡智』に記しているもの)
。
☆紀元前 1285 年頃-カデシュの戦い (古代エジプトとヒッタイトの戦争)
☆紀元前 12 世紀頃-トロイア戦争
☆紀元前 770 年 - 紀元前 403 年 春秋戦国の戦闘
☆紀元前?-紀元前 646 年 アッシリアのオリエント統一
☆紀元前 492 年 - 紀元前 449 年 ペルシア戦争(古代ギリシャの戦争)
☆紀元前 431 年 - 紀元前 404 年 ペロポネソス戦争(古代ギリシャの戦争)
☆紀元前 395 年 - 紀元前 387 年 コリントス戦争(古代ギリシャの戦争)
☆紀元前 403 年 - 紀元前 221 年 戦国時代 (中国)
☆紀元前 334 年 - 紀元前 323 年 アレクサンドロス大王の東征
☆紀元前 4 世紀- ディアドコイ戦争(アレクサンドロスの後継者争い)
☆紀元前 343 年 - 紀元前 290 年 サムニウム戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 264 年 - 紀元前 241 年 第一次ポエニ戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 229 年 - 紀元前 219 年 イリュリア戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 218 年 - 紀元前 201 年 第二次ポエニ戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 215 年 - 紀元前 205 年 第一次マケドニア戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 200 年 - 紀元前 196 年 第二次マケドニア戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 171 年 - 紀元前 168 年 第三次マケドニア戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 150 年 - 紀元前 148 年 第四次マケドニア戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 149 年 - 紀元前 146 年 第三次ポエニ戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 206 年 - 紀元前 202 年 楚漢戦争(漢の建国)
☆紀元前 192 年 - 紀元前 188 年 シリア戦争(古代ローマの征服戦争)
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
紀元前 181 年 - 紀元前 179 年 第一次ケルティベリア戦争(古代ローマの征服戦争)
紀元前 165 年 - 紀元前 142 年 マカバイ戦争
紀元前 153 年 - 紀元前 133 年 ヌマンティア戦争(第二次ケルティベリア戦争)
紀元前 155 年 - 紀元前 140 年 ルシタニア戦争(古代ローマの征服戦争)
紀元前 113 年 - 紀元前 101 年 キンブリ・テウトニ戦争(古代ローマの征服戦争)
紀元前 111 年 - 紀元前 105 年 ユグルタ戦争(古代ローマの征服戦争)
☆紀元前 91 年 - 紀元前 88 年 同盟市戦争(古代ローマの内乱)
☆紀元前 88 年 - 紀元前 63 年 ミトリダテス戦争(古代ローマとポントス王国と戦争)
☆紀元前 73 年 - 紀元前 71 年 スパルタクスの反乱(古代ローマの奴隷反乱)
☆紀元前 58 年 - 407 年 ゲルマニア戦争(全 35 次)(古代ローマのゲルマニア征服)
☆紀元前 58 年 - 紀元前 50 年 ガリア戦争(カエサルのガリア征服戦争)
☆紀元前 49 年 - 紀元前 45 年 ローマ内戦(カエサルが勝利するまでの内戦)
☆紀元前 44 年 - 紀元前 30 年 ローマの内乱(オクタウィアヌスが政権をとるまでの内乱)
☆66 年~70 年 - ユダヤ戦争(帝政ローマに対するユダヤの反乱)
☆68 年
- 四皇帝の年(4 人が次々と帝位を争った年)
☆101 年~106 年 - ダキア戦争(帝政ローマのダキア征服戦争)
☆220 年~280 年 - 三国時代 (中国)
☆291 年~306 年 - 八王の乱(中国・東晋時代の内乱)
☆304 年~439 年 - 五胡十六国時代(中国・東晋時代の華北)
【2】最初の東西文明の対決・ペルシア戦争
古代の戦争の代表例として、ペルシア戦争(紀元前 492 年 - 紀元前 449 年)とアレクサ
ンドロス大王の東征(紀元前 334 年 - 紀元前 323 年)について述べる。
ペルシアは、紀元前 540 年頃、リディア王国、エジプト、マケドニアなどを征服し、ギ
リシャとペルシアは直接むかいあうことになった。紀元前 500 年にミレトスを中心とする
イオニア諸都市がペルシアに対して反乱を起こしたとき、ギリシャのアテナイが 20 隻の軍
艦を派遣したことがペルシアに懲罰の軍を派遣する口実を与えることになり、ペルシア戦
争が始まった。
紀元前 492 年、ペルシアのダレオイス 1 世は図 16(図 11-25)のように、トラキア、マ
ケドニア遠征を行ったが、アトス岬において猛烈な北風のために艦艇 300 隻、兵員 2 万人
を失い、失敗に終わった(第 1 回ペルシア戦争)
。
紀元前 490 年、ダレイオス 1 世は再び大軍を動かし、まずエレトリア(図 16(図 11-25)
参照。イオニアの反乱の際、アテネとともに軍艦を派遣していた)を攻撃、これを陥落さ
せた。ただちにアテナイに向かい、9 月初めアテナイから東北のかなり離れたマラトンへ上
、両軍は激突したが、結果は、アテナイ重装歩兵の密集隊の
陸(図 16(図 11-25)参照)
活躍でアテナイ側の勝利に終わり、ペルシア軍の大敗走となった。戦死者、ペルシア軍約
46
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
6400 人、アテナイ軍約 200 人であった(第 2 回ペルシア戦争)。
図 16(図 11-25) ペルシア戦争
文英堂『理解しやすい世界史 B』
当時のギリシャのポリスでは、すべての健康な男子市民は、自分自身の武器と武具を自
ら準備し、
ポリスのために戦わねばならなかった。
重装歩兵軍団の各兵士は、図 17
(図 11-27)
のように青銅の兜と胸当てをした上に、木製で青銅張りの直径 1 メートルほどの丸い盾を
左手で持っていた。戦いの目的は敵の密集隊形を突き崩し、突破することであった。
図 17(図 11-27) 重装歩兵軍団
47
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
創元社『世界の歴史2』
この戦法は個人単位では効果的に戦うことはできず、隊形を乱す行為は致命的となった。
そして多数の歩兵を必要とすることは勿論のことであった。そこで、小土地所有者である
中小農民(平民)が重装歩兵として軍事の主力となってきた(手工業が発達し、武器・武
具が安価になり、平民が武器を得やすくなったこともあった)。
マラトンの敗戦を知ったダレイオスは、ただちにより大規模な遠征の準備に取りかかっ
たが、紀元前 486 年に亡くなり、王子クセルクセス 1 世(在位:紀元前 486~前 465 年)が
後を継いだ。
クセルクセス 1 世は紀元前 480 年、空前の規模の大遠征軍を率いてギリシャに侵攻した。
ペルシア軍の兵力は、陸軍 30 万人、そして海軍は三段櫂船約 1200 隻位と考えられている。
まず、ペルシア軍は、 図 16(図 11-25)のように、マケドニアから南下して、紀元前 480
年 8 月、テルモピレーでスパルタの軍を破り、9 月についにアテナイのアクロポリスを占領
した。
アテナイのテミストクレスは、狭い水道での戦いに持ちこむ策略でペルシア海軍を誘い
出し、480 年 9 月下旬、夜明けとともに狭い水域で史上有名なサラミスの海戦(図 16(図
11-25)参照)が始まった。
当時、海の上でも技術進歩があり、海戦が大きく変化してきた。サラミスの海戦で威力
を発揮した三段櫂船は、図 18(図 11-26)のような衝角(しょうかく)を装備した船で、
漕ぎ手は武器、武具を必要としないから、貧しい市民、最下層の市民でも漕ぎ手として戦
争に参加することができた。狭い水道に殺到したペルシアの艦隊 500 隻に対して、ギリシ
ャの三段櫂船 310 隻が追い風を利用して、いわゆる衝角戦法(出来るだけ直角に近い角度
で相手の船にぶつかって打撃を与える戦法)で、狭い水域で大混乱に陥ったペルシア海軍に
襲いかかり、敵艦を多数撃沈して大勝利をおさめた(第 3 回ペルシア戦争。この戦法は、
次の 1000 年の間、海上の戦闘で使われた)。
図 18(図 11-26) 三段櫂船の軍艦と衝角戦法
創元社『世界の歴史2』
このサラミスの海戦はペルシア戦争の勝敗を決定づけた戦いであっただけでなく、ギリ
シャのその後の歴史に大きな影響を与えた戦いであった。三段櫂船の漕ぎ手は 1 隻あたり
200 人であり、アテナイの軍船 200 隻には漕ぎ手だけでも 4 万人以上が必要になった。当時
の無産市民(文字通り財産がないために、武器・武具を自分で買うことができなかった)は
約 2 万人と推定されているので、無産市民はすべて乗り組んだであろう。とくに無産市民
48
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の活躍が大きな比重を占めたので、戦後、従来、参政権を与えられなかった無産市民が参
政権を要求し、それが認められていくなかで、ギリシャの民主主義が完成していくことに
なった。
サラミスの敗戦後、紀元前 479 年、アテナイ・スパルタ連合軍はプラタイアに進撃して
ペルシア陸軍を撃破し(図 16(図 11-25)参照)
、ギリシャ側の勝利が確定した。このペ
ルシア戦争はギリシャ的なヨーロッパとアジアとが衝突し、ギリシャ的な自由な市民国家
がオリエント的な専制国家に対して勝利し、市民軍団への転換と市民政治力の強化という
観点から、以後のギリシャのみならず、後世のヨーロッパの歴史にも大きな影響を及ぼす
出来事であったといえる。
【3】マケドニアの軍事革命とアレクサンドロス大王のペルシア遠征
マケドニアが歴史的に注目されるようになったのは、フィリッポス 2 世(在位:紀元前
356~前 336 年)が権力の座についたときからであった。
フィリッポスの成功の鍵となったのは、彼が紀元前 350 年代に行った陸軍の再編成であ
った。戦術面でフィリッポスの功績とされる最大の革新は、有名なマケドニア密集軍団を
組織したことである。フィリッポスはマケドニアの歩兵隊を改編し、図 17(図 11-27)の
ような 16 列の密集方陣として編制し、新兵器の両手用の長い槍、すなわち長さ 6 メートル
(これはギリシャ軍の長槍の 2 倍。図 17(図 11-27)の絵はマケドニア軍団を描いている)
の歩兵用長槍で全兵士を武装させた。
縦横 16 列(16×16=256 人)の正方形の隊形 256 人からなるこの方陣はシンタグマと呼
ばれ、全部で 6 つのシンタグマ 1536 人で歩兵大隊を形成して戦った。長い武器で戦ったた
めにマケドニアの歩兵は、相手の長槍が届く前に、こちらの長槍で突けたので、ギリシャ
兵が着ていた重くて窮屈でしかも高価な鎧を、ほとんど着ないで済ますことができた。フ
ィリッポスの軍隊は単に図 17(図 11-27)のように形を整えただけではなく、たとえば、
密集軍が弧を描くようにくるりと向きを変え、どの方角にも対面できるように徹底的に鍛
え上げられていた。
さらに、フィリッポスは戦闘軍団を一つの大きいチームプレーにすることを考えていた。
図 19(図 11-30)のように、密集部隊に課せられた任務は敵を迎え撃ち、その隊列を釘づ
けにすることにあった(一種のおとりと考えてもよかった)
。敵の重装歩兵軍団などの主力
がマケドニア密集軍団に熱中しているあいだに、両端にいるマケドニア騎兵隊と軽装備歩
兵隊が敵軍の間隙をついて突入し、側面や後衛を攻撃したのである。マケドニア密集軍団
がテコでも動かない鉄床(かなとこ)となり、騎兵隊という槌によって敵軍は包囲され、
この鉄床に向かって追いやられ、戦闘のさなかに壊滅的な打撃を受けたのである。
ペルシアは前述したように史上はじめて騎兵隊を導入し、その戦術に優れていた。ギリ
シャは重装歩兵軍団を史上初めて導入し、その戦術に優れていたことは述べた。フィリッポ
スはこのペルシアとギリシャの軍事的伝統の最良の要素を結びつけて、しかも、いろいろ
49
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の附属部隊を有機的に付加して、完全に統合された軍事システムに仕上げたのである。
図 19(図 11-30) マケドニア軍の戦闘隊形
また、フィリッポスはペルシアのすぐれた諜報機関「国王の目」を参考に戦争史上初めて
系統立った諜報部隊を組織した。フィリッポスは敵を欺くため、積極的に対敵諜報手段を
使ったことでも有名であった。いわゆる陽動作戦をひんぱんにとった。
フィリッポスは兵站方法にも革命的な変化を起こし、陸路で大軍をすばやく移動させ、
ほとんどどこまでも行軍できるようにした。マケドニア軍は 1 日に平均 15 マイルの速さで
行軍できるようになった。この数字は 4 万人から 5 万人の軍隊の場合であった。騎兵ない
しは軽装備歩兵の特殊軍団なら 1 日 40 マイルないし 50 マイル行軍できた。かなり規模の
大きい軍隊で、この平均速度を凌駕することは、19 世紀に鉄道が整備されるまでは、容易
ではなかった。
《フィリッポスの新兵器開発》
また、フィリッポスはほとんど傭兵に頼っており、一年中進軍することができた。都市
は伝統的に包囲攻城によって攻略されたが、この時間のかかる戦術は、成功するよりも失
敗に終る方が多かった。都市を強襲して速やかに占領するために、フィリッポスは、市壁
を破壊することができる弩砲(どほう)などの攻城兵器を開発した。
ギリシャでスパルタ、アテネ、テーベなどが覇権を争っている頃、シチリア島のシラク
サの潜主ディオニュシオス 1 世がシチリアの支配をめぐってカルタゴを相手に紀元前 406
年から 367 年にかけて何度となく戦争を繰り返していた。ディオニュシオスはこの戦いの
なかで多くの軍事制度の改革を行い、それはエーゲ海地方全体に広まったが、その一つの
例が紀元前 399 年の新兵器開発制度と弩砲の開発であった。
この年、彼はシチリア全土とイタリア、ギリシャ、カルタゴから熟練工をシラクサに呼
50
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
び集め、武器をつくらせた。ディオニュシオスは職人たちに十分な報酬を払い、彼らを援
助して市のいたるところに作業場を建てさせた。そうした作業場の一つで、ある無名の軍
事技術者が弩砲(どほう。バリスタ)を開発したのである。この機械的装置は、引き金を
腹部で支えるようになっていたので、射手は片腕で引けるどんな弓より強力な複合弓を引
くのに両腕を使うことができた。古代の弓の最大有効射程にくらべ約 25%も増して、命中率
も向上した。
人間は、ある一つのものが開発されると、たちまち、それをもとに新しいものを開発(改
良)するものだと述べたが、この場合もそうだった。弩砲(バリスタ)は図 20(図 11-31)
のような機械に発展した。
図 20(図 11-31) バリスタ
こうなると、巻き揚げ機と土台が取り付けられ、機械の力で引っ張る仕掛けとなって、
腹部を傷つけることもなくなり、弓だけでなく投石器として使えるほど強力なものになっ
た。紀元前 350 年頃につくられたものは、最大有効射程距離およそ 300 ヤード(270 メート
ル)で、楯を射ぬくほどの威力があった(カタパルトとは「楯を射ぬくもの」の意)
。
この機械が自在継ぎ手つきの土台に据え付けられれば、どの方向にも向きを変えられ、射
撃の角度を調節することも可能だった。自在継ぎ手とは、2 つの材の接合する角度が自由に
変化する継手のこととであるが、すでに古代ギリシャのバリスタにも自在継手の原型のよ
うな機構が使われていた。このように武器・兵器の開発となると、人間の「創造と模倣・伝
播の原理」がフルに発揮され、新しいものが開発され、実戦に供されるとたちまち、相手側
もそれを試みるので普及が速かった。
てこを用いて弦を引き絞り、石や金属の弾、極太の矢(あるいは矢羽のついた槍)
、複数
の小型の矢、火炎瓶などを打ち出すこともできるようになった。矢弾を弾き出す動力は弓
が主だったが、複数の弓を並べたり、ひねった動物性繊維の太縄や金属製のばねを用いた
51
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
りするなどの改良を加えられたものもあった。白兵戦の支援、攻城戦における攻城兵器、
それらからの防衛に使われ、軍船に搭載されることもあった。なお、英語で弾道を意味す
るバリスティック (ballistic) はバリスタが語源である。
早くも紀元前 370 年頃にはギリシャのスパルタとアテナイでは弩砲が使われていた。紀
元前 354 年、テッサリア(ギリシャ中部)を攻めていたマケドニアのフィリッポスは腹弓
を使いこなす敵軍の砲兵によって撃退された。逆に紀元前 340 年、フィリッポスはビザン
ティウム(東ローマ)を包囲したときには、マケドニアの軍事技術者に開発させたねじれ
弩砲を配備していた。これは腹弓よりはるかに強力で、最高で重さ 50 ポンド(22 キログラ
ム)の石を飛ばせるものまであった。
しかし、この弩砲は城壁内からの反撃用に配備しても効果的であり、紀元前 340 年にフ
ィリッポスが弩砲と 100 フィート以上の攻城塔および破城槌によってペリントスを包囲し
たとき、ペリントス人はビザンティウムから弩砲を手に入れ、内から攻撃してきたのでフ
ィリッポスは攻囲をあきらめざるをえなかった。このように、要塞基地に対する攻撃能力
が進歩すると、それにともなって防衛能力も向上した。これは軍事上の技術革新がおちい
るジレンマ、すなわち「攻撃と防御の矛盾の原則」(矛と盾の原理)の一例であった。
やがて、フィリッポスの攻囲戦法がきわめて手のこんだものになり、マケドニア軍があ
まりにも強大化したために、アテナイは国境の要塞をもってしてもその進撃を妨げること
はできないと悟るにおよんで、紀元前 338 年にテーベと同盟を結んで、カイロネイアの野
でフィリッポスを迎え撃ったが、もはやギリシャ軍はフィリッポスの敵ではなかった(ギ
リシャ軍はフィリッポスの新兵器・新戦術の実験材料でしかなかった)。
これらの最新の武器と新しく登場した軽装備部隊の機動力に富む戦闘方法を駆使した軍
事技術の進歩は、紀元前 4 世紀の軍事革命ともいわれるもので、技術的にも概念的にも、
きわめて徹底的かつ急速に変化したので、ギリシャの将軍たちも国家自体も事態の進展に
ついていけなかった。このような戦闘に必要なすべての要素を統合できる人物は、マケド
ニアのフィリッポスしかいなかった(それを引き継いだアレクサンドロスは確かに軍事の
天才であったが、このフィリッポス軍団の兵器・兵士・戦術があったからこそ、あの奇跡
のような大遠征ができたのである)
。
《フィリッポス 2 世の王位と最強の軍隊を引き継いだアレクサンドロス》
フィリッポスは新兵器・新戦術でもってマケドニア周辺から制圧していった。トラキア
を占領し、周辺から産出する大量の金が以後、フィリッポスの軍資金となった。全ギリシ
ャを征服したフィリッポスはスパルタを除くギリシャ本土のすべての国々と島嶼諸国の多
くとコリントス同盟を成立させ、全ギリシャ軍を統帥する指導者に選ばれ、ペルシア遠征
の準備を整えた。
しかし、紀元前 336 年にフィリッポスは婚礼の祝いの席で若いマケドニアの貴族に暗殺
されてしまった。暗殺の真相はいまもって明らかではない。
彼の息子である 20 歳のアレクサンドロス 3 世が王位を継承した。アレクサンドロスは、
52
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
哲学者アリストテレスが彼の家庭教師であったように、立派な教育を受け、想像力に富み、
勇気があるが向こう見ずでもあり、激情家でもあった。すでにカイロネイアの戦いでは精
鋭の近衛騎兵隊を率いて軍事的な天賦の才を発揮していた。フィリッポスはそのアレクサ
ンドロスに最強の軍隊を残して逝ってしまった。
《アレクサンドロスのペルシア遠征》
紀元前 334 年、本国マケドニアの留守をまもるアンティパトロスに、1 万 2000 人の歩兵
と 1500 人の騎兵を残し、アレクサンドロスは、5000 人の騎兵隊、1 万 2000 人のマケドニ
ア歩兵、1 万 2000 人のギリシャ重装歩兵と 8000 人の補助部隊(投槍兵、投石兵、測量技師、
包囲戦技師、書記、および医療部隊を含む)で構成される 3 万 7000 人前後の軍隊でペルシ
ア遠征に出発した。
具体的なアレクサンドロスのペルシア征服の状況は省略するが、図 21(図 11-32)のよ
うに、紀元前 330 年、ペルシア帝国を滅亡させた。
図 21(図 11-32) アレクサンドロス大王領の最大領域
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
第 4 章 中世の戦争
【1】中世(500 年~1500 年)の戦争
◇中世国家の歴史
『自然の叡智 人類の叡智』の中世の世界では(西暦 500~ 1500 年)では、図 22(図
12-3)のように、中世ヨーロッパ諸国、中国でいえば隋・唐から明の時代まで、その他の
地域については西暦 500 年から 1500 年までに成立した国家の歴史を述べた。
53
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 22(図 12-3)
中世の世界
54
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、古代からそのまま続いていたが、その他、中世にヨ
ーロッパに成立した国は、イングランド、スカンディナヴィア諸国、スペイン、ポルトガ
ル、スイス、ロシア、ブルガリア、ハンガリー、ボヘミア王国(チェコ)
、ポーランド、セ
ルビア、ルーマニア、アルバニアなどがあった。
アラビア半島でイスラム教をおこした開祖ムハンマド(570 年頃~632 年)の死後、ムハ
ンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった 4 人のカリフたちが構築した
国家は、正統カリフの時代、ウマイヤ朝の時代、アッバース朝の時代と発展し、イスラムの
世界は、図 23(図 12-48)のように、西はイベリア半島のピレネー山脈まで、東はコーカ
サス山脈とアム川(オクサス川)に沿った地域にまで及んだ。こうして新しく世界史の舞
台に登場したイスラム教徒による大征服は、8 世紀の中頃、西ヨーロッパ、小アジア、中央
アジア、コーカサス山脈の地方で、ようやく終わりを告げることになった。
イベリア半島のイスラム国、アフリカのイスラム国、トルコ人のイスラム化とセルジュ
ーク朝の西進、十字軍とエジプトのイスラム王朝、エジプトのマムルーク(奴隷)朝、オ
スマン帝国、ユーラシア中央部のイスラム化とティムール帝国などイスラムの国々が興亡
した。また、中世のインドでは、統一国家はおこらなかったが、インドに進出してきたイ
スラム教徒によるインドのイスラム化が進んだ。
中国史には古代、中世、近世などの時代区分はあまりないが、一応、ヨーロッパの中世
の時代区分にあわせて、隋王朝(581~618 年)
、唐王朝(618~907 年)
、五代十国時代(907
~960 年)
、北宋(960~1126 年)
、中世の北方国家の興亡(遼、西夏を含む)
、金(1115~
1234 年)と南宋(1127~1279 年)
、元帝国(モンゴル帝国)
(1206~1368 年)
、明王朝(1368
~1644 年)の時代までを記した。中世の中国では、中国北方民族との関わりが強くなった
ので、遼、西夏、金、モンゴル帝国などもあわせて記した。
また、中国周辺の国々として、朝鮮、日本、東南アジアにおいて勃興した国々について
記した。
アフリカについては、地中海側はイスラム化したので前述したイスラムの世界に記した
が、サハラ以南のアフリカについては、ノバティア王国、マクリア王国、アルワ王国、フ
ンジ王国、アクスム王国、ザグウェ朝、エチオピア帝国ソロモン王朝、マプングブエ、グ
レート・ジンバブエ、モノモタパ王国、トルワ王国、ガーナ王国、マリ王国、ソンガイ(ガ
オ)王国、カネム王国、ボルヌ王国、イフェ王国、ヨルバ王国、ベニン王国、コンゴ王国
など中世に成立した国々をすべて記した。
このように中世のアフリカではかなりの国が成立していたが、近世になると大航海時代
の到来とともにヨーロッパ諸国の進出がはじまり、奴隷貿易の開始、植民地化などによっ
てアフリカはヨーロッパ諸国によって侵略されるようになっていく。
南北アメリカの中世については(これもヨーロッパの時代区分でいう中世であるが)、中
央アメリカについてはアステカ帝国、南米アメリカについてはワリ文化期、シカン文化・
チムー王国・チャンカイ文化・パチャカマ文化・ティティカカ文化の後期中間期、そして
55
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
インカ帝国について記した。
世界が中世期にはいっていても、オーストラリアとその周辺島嶼のアボリジニは以前と
あまり変わることはなく、狩猟採集生活を営んでいたと思われる。
図 23(図 12-48) イスラム世界の拡大
創元社「世界の歴史4」学研教育出版「よくわかる倫理」
この中世の主な戦争を記すと以下のようになる(☆印は『自然の叡智
56
人類の叡智』に
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
記しているもの)
。
☆533 年~534 年 - ヴァンダル戦争(東ローマ帝国とヴァンダル王国との戦争)
☆535 年~554 年 - ゴート戦争(東ローマ帝国と東ゴート王国との戦争)
☆663 年
- 白村江の戦い(日本・百済軍と唐・新羅軍との戦争)
☆663 年~651 年 - イスラム教徒のペルシア征服
☆718 年~1492 年- レコンキスタ(スペインにおけるキリスト教徒のイスラム教徒再征服
戦争)
☆722 年~804 年 - ザクセン戦争(フランク王国カール大帝のザクセン征服戦争)
☆751 年
- タラス河畔の戦い(イスラム帝国と中国・唐との戦争)
☆907 年~960 年 - 五代十国時代(唐の滅亡から北宋の成立までの間の戦乱)
☆1019 年
- 刀伊の入寇(女真族(満洲民族)の海賊が壱岐・対馬、筑前に侵攻した
事件)
☆1066 年
- ノルマン・コンクエスト(ノルマン公ウィリアムのイギリス征服)
☆1096 年~1099 年 - 第 1 回十字軍
☆1147 年~1149 年 - 第 2 回十字軍
☆1187 年~1191 年 - 第 3 回十字軍
☆1202 年~1204 年 - 第 4 回十字軍
☆1217 年~1221 年 - 第 5 回十字軍
☆1228 年
- 第 6 回十字軍
☆1248 年~1254 年 - 第 7 回十字軍
☆1270 年
- 第 8 回十字軍
☆1205 年~1209 年 - 西夏遠征(モンゴルの第 1 次~第 3 次西夏征服戦争。1218 年第 4~5
次)
☆1211 年~1215 年 - 第 1 次対金戦争(モンゴルの金征服戦争。1230 年~1234 年、第 2 次)
☆1219 年~1222 年 - チンギスカンの西征
☆1235 年~1241 年 - 第 1 次モンゴル・南宋戦争
☆1236 年~1241 年 - バトゥの西征(モンゴルのロシア・ヨーロッパ征服)
☆1253 年~1259 年 - 第 2 次モンゴル・南宋戦争
1253 年~1254 年 – モンゴルの雲南・大理遠征
☆1253 年~1260 年 - フレグの西征
☆1260 年~1264 年 - モンゴル帝国帝位継承戦争(フビライとアリクブケの戦い)
☆1268 年~1279 年 - 第 3 次モンゴル・南宋戦争
☆1274 年~1281 年 - 元寇(文永・弘安の役)
1296 年~1333 年 - スコットランド独立戦争
1314 年~1429 年 - 三山時代(北山、南山を中山王が統一し琉球王国建国)
☆1370~1405 年-ティムールの征服戦争
57
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆1337 年~1453 年 –英仏 百年戦争
☆1419 年 - 応永の外寇(李氏朝鮮による対馬侵攻)
☆1453 年
1453 年
– オスマン帝国による東ローマ帝国・コンスタンティノープルの陥落
- 志魯・布里の乱(琉球王国の後継者争い)
☆1455 年~1485 年 – イギリス・バラ戦争
【2】イスラム世界の成立
中世においても多くの戦争があったが、まず、イスラム世界が戦争と征服によって成立
したことをあげねばならない。
アラビア半島の商業都市メッカに生まれたムハンマド(570 年頃~632 年)は、イスラム
教を興した。このイスラム教は、ムハンマドの「ウンマ」(イスラムの共同体)という考
えの中に明らかにされているように、イスラム教は信仰であるとともに、法や政治、社会
制度にも深く関わっている聖俗一致の宗教であり、ムハンマド自ら剣をもち、馬に乗り、
自ら率先し突っ込んでいって、アラビア半島に住む他の部族を征服して広めていった。
ムハンマドが 632 年 6 月 8 日に没したとき、ムハンマドの古くからの友人であったアブ
ー・バクル(在位:632~634 年)が後継指導者に推戴され、初代カリフ(
「神の使徒の代理
人」
)に就任することが正式に決まった。ムハンマドの死が伝わると、アラビア半島各地の
アラブは、その死によって盟約は解消されたものと考え、ウンマ(イスラムの共同体)か
ら離脱する動きを示した。そこで、アブー・バクルは、633 年、将軍ハーリドをつかわし、
離反の民をすべて平定させた。
さらに、アブー・バクルは、シリアへも遠征軍を派遣することが得策と考え、総てのア
ラブに手紙を送って聖戦(ジハード)を呼びかけ、彼らに聖戦の功徳を鼓吹し、またロー
マ(東ローマ帝国)の素晴らしい戦利品の獲得を促した。アブー・バクルは、いまや戦利
品の獲得は、以前のような略奪行為の結果ではなく、神の道のために戦うことの結果であ
ると意義づけたのである。遊牧民の古い殻をぬぎすて、武力によって新天地をもとめる大
征服時代のはじまりであった。
634 年にメディナでアブー・バクルが没し、ウマルが第 2 代目のカリフ(在位:634~644
年)になったが、征服戦争は続けられた。やがて、図 23(図 12-48-①)のように、アラ
ブ・ムスリム軍は、東方ではササン朝ペルシアを倒し、イラク、イランを支配下におさめ、
西方では東ローマ帝国にシリア、エジプトからの撤退を余儀なくさせた。この大征服を可
能にしたのは、両帝国(ササン朝ペルシア、東ローマ帝国)による統治の弱体化、民衆の
離反、新興のアラブ・ムスリム軍の志気の高さなどいろいろ考えられるが、何よりもアラ
ブの征服軍が、イスラムによって十分に統制された規律ある軍隊であったことが挙げられ
よう。
◇「コーランか、税を払うか、剣か」
一般にアラブの征服軍は、
「コーランか剣か」の二者択一を迫ったといわれているが、実
58
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
際には、そうではなくて、
「コーランか、税を払うか、剣か」の三者から一つを選ばせたの
で、かなり、短期間にしかもスムーズに征服が進んだといえよう。つまり、アラブの征服
には、①イスラムに改宗するか、②人頭税を支払って従来どおりの信仰を保持するか、③
これらを拒否してあくまで戦うか、の三通りがあったことになる。ただし、③のように異
教徒があくまでも降伏を拒否し、武力による征服が行われた場合には、生命の安全は保障
されないのが原則であった。
634 年から第 2 代カリフとなっていたウマルにとって、広大な征服地を国家として形づく
る仕事があった。バドルの戦い(624 年)のあと、ムハンマドは自らに戦利品の 5 分の 1 を
取得する権利があるものと定めていた。この権利はのちのカリフにもそのまま受け継がれ、
征服の拡大につれてメディナに運ばれてくる戦利品は莫大な量に上った。残りの 5 分の 4
は戦いに参加した戦士たちの間で配分されたが、獲得した土地そのものは共同体のものと
され、戦士には分配されないのが原則であった。
◇アラブ帝国=アラブ人主体のイスラム国家体制の確立
しかし、ウマルは、征服が一段落した時点で、征服地ではアラブ人ムスリム優越のもと
で非アラブ人・非ムスリムを支配するために彼らからハラージャ(地租)
、ジズヤ(非改宗
者に課せられる税)を徴収する制度を考案し、メディナから新たなアーミル(代行者を意
味するアラビア語。徴税官)を派遣し、アラブ戦士にはその税収入を用いて一定の俸給を
支払うことを定めた。このようにして異民族を支配する祭政一致の帝国支配体制が占領支
配地にしかれた。
軍事的な抑えとしてアミール(軍事を担当する総督はアミール)を指揮官とするアラブ
人の駐留する軍営都市(ミスル)を建設した。ミスルを通じて張り巡らされた軍事・徴税
機構を生かすための財政・文書行政機構がディーワーンであり、ウマルはこのような中央
集権的な国家体制を築き、後の歴史家からアラブ帝国といわれるアラブ人主体のイスラム
国家体制を確立した。
ウマルは、また、前述したように、ヒジュラ(622 年。メッカからメディナへの遷都)の
あった年を紀元 1 年とする現在のイスラム暦を定め、コーランとムハンマドの言行に基づ
いた法解釈を整備して、後の時代にイスラム法(シャリーア)にまとめられる法制度を準
備した。
638 年、ウマルはムスリムによって征服されたエルサレムに入り、エルサレムがイスラム
共同体の支配下に入ったことを宣言するとともに、聖地におけるキリスト教徒を庇護民(ズ
ィンミー)とし、彼らがイスラムの絶対的優越に屈服しジズヤ(税)を支払う限りにおい
て一定程度の権利を保障することを約束した。
このとき、エルサレムの神殿の丘に立ち入ったウマルは、かつて生前のムハンマドが足
をかけた聖なる岩を発見した。ウマルはそのとき、そのかたわらで礼拝を行って、エルサ
レムにおいてムスリムが神殿の丘で礼拝をする慣行をつくった。その聖石は現在では岩の
ドームに覆われている。
59
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ここはユダヤ教とキリスト教にとっても、ともに聖域である神殿の丘であった。これに
よって、エルサレムは、イスラムにとっても、メッカ、メディナにつぐ第三の聖地に定め
られ、後に十字軍をはじめ、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の長い複雑な抗争の歴史
を生み出すことになった。
644 年、ウマルがメディナのモスクで礼拝中に奴隷に刺殺されると、クライシュ族のウマ
イヤ家のウスマーンが、生前のウマルの指名にもとづいて第 3 代カリフ(在位:644~656
年)に就任した。
ウスマーンは預言者ムハンマドが没して十数年、様々な形で伝えられるコーランの章句
を整理し、統一する必要があると考え、コーランの編纂事業を開始した。このとき現在に
伝わるコーランの原型がつくられた。
656 年 6 月、ウスマーンは下級兵士の不満派に襲われ、命を落とした。次のカリフをめぐ
って、ムハンマドの従兄弟(いとこ)にして娘婿のアリーと、ウスマーンと同じウマイヤ
家のムアーウィヤが争ったが、曲折を経て、アリーが第 4 代のカリフに就任した。
アリーはムハンマドの最愛の家族の一人であったばかりでなく、若いときからムハンマ
ドの片腕として、バドル、ウフド、ハンダク、ハイバルなどすべての戦いで先頭に立って
敵軍に突撃し敵側の名高い勇士を倒し、勝利をもたらした人物で、初代カリフのときもア
ブー・バクルとともに候補に上がったが、若年であるという理由だけで外されたといわれ
ていた。
人物としては誰も文句はなかったが、ここで、やっかいなことが起こった。ウスマーン
を襲った反乱軍がアリーを推戴したことにより(アリーにとっては大変なありがた迷惑で
あっただろう)
、彼はウスマーン殺害の黒幕ではないかと疑われた。少なくとも反アリーの
陣営からそのような疑惑が流された。
このためアリーと第 4 代目のカリフを争い敗れたウマイヤ家のムアーウィヤが、シリア
でカリフを宣言した。カリフのアリーは反アリーの陣営(ムアーウィヤなど)を戦場で 2
度にわたって破ったが、661 年 1 月、アリーはクーファのモスク近くでハワーリジュ派(過
激派)の刺客によって暗殺された。このアリーの暗殺により、(すでにカリフを宣言してい
た)ウマイヤ家のムアーウィヤは単独のカリフとなり、自己の家系によるカリフ位の世襲
を宣言し、ウマイヤ朝を開くことになった。
このとき、イスラム共同体は、ムハンマドの従兄弟アリーとその子孫のみがイスラム共
同体を指導する資格があると主張するシーア派(「アリーの党派(シーア・アリー)」の意)
と、それ以外のスンナ(スンニ)派(「ムハンマド以来の慣習(スンナ)に従う者」の意)
へと大きく分裂した。結局、イスラム帝国はウマイヤ家のムアーウィア(在位:661~680
年)がカリフ位を世襲して支配することにした。
ムアーウィヤは首都をダマスクスにおくと、常備軍を編成し、非イスラム教徒に税を課
すことで、軍事費を捻出する体制を作り上げ、正統カリフ時代より続いていた大征服活動
を継続して展開していった(図 23(図 12-48)-①)の茶色部分)
。そして、次の攻撃対
60
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
象は主としてササン朝ペルシアとの抗争で衰弱していた東ローマ帝国であった。
すでにイスラム軍は、海軍を建設して 630 年代から 640 年代にかけてキプロス島を略奪
し、7 世紀の終わりには、キプロス島はアラブ軍と東ローマ帝国の両者で分割された。
その後、アラブ人の攻撃によって、東ローマ帝国はコンスタンティノープルを 2 度にわ
たって包囲され、領土がバルカン半島と小アジアだけに縮小してしまった。しかし、とも
かくこの時点で、この東ローマ帝国方面に対するアラブ軍の進出はいちおう阻止されるこ
とになった。
6 代目カリフのワリード 1 世(在位:705~715 年)の治世である 8 世紀初頭にウマイヤ
朝は最大版図となり、アラブ帝国といわれるようになった(図 23(図 12-48-①)参照)
。
西に進んだアラブ軍は、711 年、ジブラルタル海峡をわたってイベリア半島へと進出した。
ここで西ゴート王国を滅ぼし、ピレネー山脈を越えて、フランク王国領内に入った。その
勢いは、図 23(図 12-48―①)のように、732 年、トウール・ポワティエ間でフランク王
国のカール・マルテルに敗れ、食い止められた。その結果、ピレネー山脈の南側まで戻さ
れた。
東へ進んだアラブ軍はアゼルバイジャンで遊牧民のハザール族に敗北し、図 23(図 12-
48-①)のように、751 年、
(すでにアッバース朝になっていたが)タラス川の戦いで玄宗皇
帝時代の唐王朝の軍勢に勝利し、イスラム勢力の国境線はコーカサス山脈とアム川(オク
サス川)に沿った地域で定着した。
こうしてイスラムの世界は、図 23(図 12-48)のように、西はイベリア半島のピレネー
山脈まで、東はコーカサス山脈とアム川(オクサス川)に沿った地域にまで及んだ。
この新しく世界史の舞台に登場したイスラム教徒による大征服は、8 世紀の中頃、西ヨー
ロッパ、小アジア、中央アジア、コーカサス山脈の全ての地方におよんで、ようやく終わ
りを告げることになった。
【3】中世の文明の衝突・十字軍
◇皇帝と教皇の支配するヨーロッパの成立
ヨーロッパの中世は、476 年に滅亡した西ローマ帝国のあとにできたのが、サリー系フラ
ンク族が打ち立てたフランク王国であり、これが西ヨーロッパの源流となった。フランク
王国は、800 年に「ローマ皇帝」を戴冠したカール大帝のころ最盛期をむかえ、ヨーロッパ
の中世の骨格となる封建制とキリスト教による統治が確立されたが、カール大帝ののち、
間もなくしてフランク族独特の分割相続によって、西フランク(フランス)
、東フランク(ド
イツ)
、中部フランク(イタリア)に分割された。
フランク王国の寄進によって教皇領は増大し、また、皇帝に戴冠させる権限をもった教
皇は、
「帝冠(現実世界の権威)
」と「神の承認(宗教世界の権威)
」の二つの権限を持つと
いうことがわかり、10 世紀になると教皇の発言が大きな重みをもつようになっていった。
このように、中世にはヨーロッパはキリスト教、イスラム圏はイスラム教と色分けがさ
61
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
れていたが、宗教を大義名分にして、戦いが行なわれたこともあった。それが 11 世紀末か
ら始まり、200 年間続いた十字軍である。
十字軍はエルサレムをめぐる争いであるが、当時、エルサレムはユダヤ教、キリスト教、
イスラム教のすべてに共通する聖地であった(これは現在も同じである)
。
この大規模な東方への軍事遠征は、キリスト教の聖地であるエルサレムへの巡礼が、現
地を支配するイスラム教徒によって危害が加えられているという認識のもとに開始された
ものだったが、当時、本当にそうだったか。
◇エルサレムの状況
エルサレムは長らくエジプトのファーティマ朝(イスラム・シーア派)の管理下にあっ
たが、1065 年からエジプトを襲った「7 年の大飢饉」で、ファーティマ朝はすっかり弱体化
してしまった。これに乗じて、セルジューク朝(イスラム・スンニ派)はイラクからシリ
アへと勢力を拡大していった。
1073 年にはセルジューク朝の 3 代目スルタンのマリク・シャー(在位:1072~92 年)に
忠誠を誓うトルクメン(トルコ系の遊牧民)の首長アトスズが、図 24(図 12-55)のよう
に、エルサレムを無血のうちに占領した。アトスズは、エルサレムは神の聖地であるので
部下が略奪するのを禁止した。セルジューク朝支配下のエルサレムでは、異教徒を含む住
民の安全は保障され、新しいモスクやマドラサ(学院)の建設が行われた。
1092 年にセルジューク朝の最盛期を現出したスルタン、マリク・シャーが亡くなると、
セルジューク朝は内紛続きで事実上の分裂状態になり、アナトリア(現在のトルコ)方面
はセルジューク朝の分家のルーム・セルジューク朝の統治下にあり、エルサレムがあるシ
リアはシリア・セルジューク朝の統治下にあって、しかもあとを継いだ兄弟の間で争って
いた。
1098 年 7 月、ファーティマ朝はセルジューク朝に 1076 年に奪い取られたエルサレムを再
び奪回することに成功したが、図 24(図 12-55)のように、それから 1 年後には十字軍の
集団がエルサレム城内になだれ込んだのである。いずれにしても、「トルコ人によってキリ
スト教徒の聖地巡礼が妨害されている」という事実はなかったようである。
◇東ローマ皇帝の軍事援助要請
それでは、なぜ、十字軍の遠征になったのであろうか。
東ローマ(ビザンツ)帝国は、1071 年、小アジアのマラズギルドでセルジューク朝軍に
大敗を喫してからは、図 24(図 12-55)のように、徐々に帝国領の縮小を余儀なくされて
いた。そこで、東ローマ皇帝アレクシオス 1 世はローマ教皇に東ローマ帝国への傭兵の提
供を要請した(十字軍のような独自の軍団ではなかったといわれている)。具体的には、1095
年 3 月、東ローマ皇帝アレクシオス 1 世はピアチェンツアの教会会議に特使を派遣し、ロ
ーマ教皇ウルバヌス 2 世(在位:1088~99 年)に対セルジューク朝戦への援助を求めた。
62
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 24(図 12-55)
11 世紀のイスラム世界
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
この求めに応じて、1095 年 11 月、教皇ウルバヌス 2 世は、フランス中部の都市クレルモ
ンの公会議を召集した。「神はキリストの旗手たるあなたがたに、私たちの土地からあの忌
まわしい民族(トルコ人)を根絶やしにするようくりかえし勧告しておられる」と教皇が
述べたら、数千人にのぼる群集は熱狂したといわれている。直ちに騎士と雑多な民衆から
なる十字軍が結成され、これらの集団が東方へ出発したのは、翌 1096 年 8 月のことであっ
た。
◇第 1 回十字軍
フランス、ドイツ、イギリスの諸侯に率いられたこの十字軍は、図 24(図 12-55)のよ
うにコンスタンティノープルを経由して小アジアに入り、1098 年、激戦の末にトルコ人の
将軍ヤーギ・スィヤーンが守るアンティオキアを占領した。アンティオキアから南下した
十字軍は、セルジューク朝の領域とベイルート以南のファーティマ朝の領域を何の妨害も
なく通過することができた。土地の人々は、十字軍を「聖地への巡礼団」と誤解し、彼らに
糧食を提供し、道案内までつけてやった。
しかし、1099 年 6 月、エルサレムに到着した「巡礼団」は凶暴な武装集団へ変貌した。7
月 10 日、十字軍は城壁を乗り越えて市内に乱入し、老若男女を問わず、数え切れぬほどの
ムスリムとユダヤ教徒を殺害した。イスラム側の伝承によれば、このときアクサー・モス
クで殺されたムスリムの数だけでも 7 万人に達したといわれる。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
勝利をおさめた十字軍の騎士たちは、聖墳墓教会に集まり、聖地の解放を許し給うた神
に感謝の祈りを捧げた。続いて彼らは、「聖墳墓教会の守護者」としてフランス人のロレー
ヌ公ゴドフロワ・ド・ブイヨンを選出した。これが、およそ 200 年にわたって続くエルサ
レム王国(1099~1291 年)の成立であった。
図 25(図 12-57)のように、このエルサレム王国の北には、十字軍によって征服された
エデッサ伯領、アンティオキア公国、トリポリ伯国などもおかれ、エルサレム王国は、こ
れらの十字軍国家に対する宗主権も有していた。
図 25(図 12-57) 十字軍兵士の建てた諸国
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
イタリアの都市国家であるヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサがヨーロッパとの海上交通
や兵站路を確保するとともにレバント貿易に従事した(ここにイタリア諸都市の中東交易
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の確保という意図がみえる)
。またテンプル騎士団、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)といっ
た騎士修道会が組織されてエルサレム王国を防衛することになった。
キリスト教徒によるエルサレムの攻撃と殺戮の報は、翌月にはバグダードにもたらされ
たが、このときのアッバース朝カリフ(第 28 代)のムスタズヒルに独自の軍隊はなく何も
できなかった。前述のように、エルサレムの支配権も、十字軍の到来直前にセルジューク
朝からファーティマ朝へと変わったばかりであった。異教徒に聖地を奪われ、岩のドーム
をキリスト教会に転用されたが、結局、40 年間、イスラムの側からは何の反撃もなかった。
この第 1 回十字軍は、これ以後 200 年近く続く十字軍遠征の中で最初にして唯一最初の
目的がそれなりに達成された遠征だったといわれている。まず、エルサレム王国、アンテ
ィオキア公国などの十字軍国家と呼ばれる国家群をパレスチナとシリアに成立させて、巡
礼者の保護と聖墳墓教会の守護という宗教的目的と領土的野心を満たすことができた。君
主たちは西欧の中世の安定によって久しく失っていた武力の矛先を東方に見出し、占領地
から得た宝物によって遠征軍は富を得ることができた。
また、十字軍国家の防衛やこれらの国々との交易で大きな役割を果たしたのはジェノバ
やヴェネツィアといった海洋都市国家であり、これらイタリア諸都市は占領地との交易を
盛んに行い、東西交易(レバント交易)で大いに利益を得ることができた。援軍を要請し
た東ローマ帝国も十字軍国家が設立されたことで、直接にイスラム諸国からの圧力を受け
ることがなくなった。これによってアナトリア(現在のトルコ)地方の支配権を大きく取
り戻し、再び繁栄の時代を迎えることができた。
その後も十字軍は、第 2 回十字軍(1147~49 年)
、第 3 回十字軍(1189~1192 年)、第 4
回十字軍(1202~1204 年)
、第 5 回十字軍(1217~1221 年)
、第 6 回十字軍(1228~1229 年)
、
第 7 回十字軍(1248~49 年)
、第 8 回十字軍(1270 年)と行なわれたが省略する。結局、
ヨーロッパ側がエルサレムを確保した期間は 1099 年~1187 年および 1229 年~1244 年とい
うことになる(以後、20 世紀までイスラムの支配下におかれた)
。
【4】史上最大のモンゴル帝国の成立
◇ユーラシア大陸中央部に成立した諸国家
ユーラシア大陸には、図 26(図 11-73)のように紀元前から、スキタイ、匈奴、鮮卑な
どが遊牧国家を形成してきた。彼らは農耕国家とは形態が異なる遊牧国家であった。中国
政権の強弱によって南下、拡大や北上、縮小を繰り返してきた。ユーラシア大陸は、陸続
きであったので(国境がはっきりしてしていなかった)
、中国方面だけでなく、遠く西方の
ヨーロッパや中東やイラン、インドの方面に南下することもあった。モンゴル系、トルコ
系、イラン系などと呼ばれることもあるが、その境界はかならずしも明らかではなかった。
65
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 26(図 11-73) 世界の国家の興亡
66
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
中世のユーラシア大陸においても、9 世紀後半の唐の時代から 10 世紀の五代十国時代に
かけて、北方民族が南に張り出し、中国本土は混乱した。そして、契丹族の遼、タングー
ト族の西夏、女真族の金が華北に建国し、(北)宋は 12 世紀には江南に移り、南宋として
生きながらえるしかなかった(図 26(図 11-73)の⑧)
。
そして、13 世紀のはじめに北方で興ったモンゴルは急速に拡大し、南宋を滅亡させただ
けでなく、遠くヨーロッパや中東のイスラム圏やインドまで進出し、ユーラシア大陸の大
部分を支配下におさめ、
「モンゴルの世紀」を現出した(図 26(図 11-73)の⑨)
。これが
人類史上最大のモンゴル帝国の出現であったが、その中味を大別すると、インド、中央ア
ジアを征服したチンギス・カンの征服事業(1212~1227 年)
、バトウのヨーロッパ遠征(1236
~1242 年)
、フレグの西アジア遠征(1252~1260 年)から成っていた。
◇モンゴルの軍事・生産・生活一体型の構造
13~14 世紀のモンゴル帝国の時代の発端はチンギス・カンから始まるが、チンギス・カ
ンが歴史にその名が知られるようになるのは、1206 年 2 月、クリルタイ(部族集会)で諸
部族全体の統治者たるカン(汗)に即位してモンゴル帝国を開いたときからである。
チンギス・カンは、腹心の僚友(ノコル)に征服した遊牧民を領民として分け与えた。
この僚友とオングートやコンギラトのようにチンギスと同盟して服属した諸部族の指導者
を加えて、貴族(ノヤン)と呼ばれる階層に編成した。これは支配者階級の形成であった。
最上級のノヤン 88 人は千人隊長(千戸長)という官職に任命され、その配下の遊牧民は
千人隊(千戸)と呼ばれる集団に編成された。また、千人隊の下には百人隊(百戸)、十人
隊(十戸)が十進法に従って置かれ、それぞれの長にもノヤンたちが任命された。
中世は封建制の時代、つまり、主従の関係が土地を介して行われてきたといわれいてい
る。ヨーロッパや中国、あるいは日本の歴史でもそうだったが、主人が土地を安堵し、従
者はそれに応えて軍事面での義務を負うというものであった。
モンゴルのように遊牧民の場合は、土地は土地でも牛や羊を養う牧草地(草の質なども
考慮して)を使用する権利(一種の縄張り)が基本であり、農業地帯の封建制度と異なっ
ていた。しかし、遊牧民にとって牧草地は我々農耕民にとっての水田と同じように大切な
ものであり、いろいろ工夫、手を加えていた。この牧草地の使用権と義務となる軍事がセ
ットになり、その上に身分制度などの社会制度が組み立てられていた。いわばこれが遊牧
国家の封建制度ということになる。
モンゴルを特徴づけた強力な軍事制度は、この遊牧国家独特の封建制度の上に成り立っ
ていた。戦時においては、千人隊は 1000 人、百人隊は 100 人、十人隊は 10 人の兵士を動
員することのできる軍事単位として扱われ、その隊長たちは戦時にはモンゴル帝国軍の将
軍となるよう定められた。各隊の兵士は遠征においても家族と馬とを伴って移動し、1 人の
乗り手に対し 3、4 頭の馬がいるため、常に消耗していない馬を移動の手段として利用でき
る態勢になっていた。つまり、平時においても自領内を絶えず良好な草地を求めて移動す
る生活をしているモンゴルでは、戦時にはそのまま戦場をめざして移動する軍事・生産・生
67
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
活一体型の構造であった。
《牧草地があるかぎり続けられる征服戦争》
戦時になると(遠征の実施が決まると)、千人隊単位で決められた兵数の供出が割り当て
られ、各兵士は自弁で馬と武具、食料から軍中の日用道具までの一切を用意した。軍団は
厳格な上下関係に基づき、兵士は所属する十人隊の長に、十人隊長は所属する百人隊の長
に、百人隊長は所属する千人隊の長に絶対服従を求められ、千人隊長は自身を支配するカ
ンや王族、万人隊長の指示に従う義務を負った。軍規違反に対しては過酷な刑罰が科せら
れ、皮袋に詰めて馬で生きたまま平らになるまで踏み潰したり、生きたままで釜ゆでにし
たりすることもあったという。
このような態勢であったので、大陸における機動力は当時の世界最大級となり、爆発的
な行動力をモンゴル軍に与えていたと見られる。千人隊は高原の中央に遊牧するチンギ
ス・カン直営の領民集団を(南向きの)中央として左右両翼の大集団に分けられ、左翼と
右翼には高原統一の功臣ムカリとボオルチュがそれぞれの万人隊長に任命されて、統括の
任を委ねられた。
このような左右両翼構造のさらに東西では、東部の大興安嶺方面に、チンギスの 3 人の
弟ジョチ・カサル、カチウン、テムゲ・オッチギンを、西部のアルタイ山脈方面にはチン
ギスの 3 人の息子ジョチ、チャガタイ、オゴデイにそれぞれの遊牧領民集団(ウルス)を
分与し、高原の東西に広がる広大な領土を分封した。これはいわば親藩ということになろ
う。
チンギスの築き上げたモンゴル帝国の左右対称の軍政一致構造は、モンゴルに恒常的に
征服戦争を続けることを可能とし、その後のモンゴル帝国の拡大路線を決定づけた。軍事
的に領土を急拡大した点では、古代ローマも似ているが、ローマ共和国の限界は、健全な
ローマ市民兵が何年も故郷を離れるようになると、厭戦(えんせん)気分が募り、結局、
傭兵制度に変更せざるをえなくなったという問題点があった。
これに対して、軍隊・遊牧生活一体のモンゴルの場合は、牧草地さえあれば、どこまでも
拡大可能であったといえよう。ユーラシア大陸は当時ヨーロッパまで草原が続いていた。
したがって、モンゴルの限界は草原がつきたところ、南方の多湿地帯や西アジアの沙漠、
水上の戦闘などは機動や兵站に難があって、エジプト、インド、ベトナム、インドネシア、
日本などではことごとく敗れている。
《軍の編成》
おのおのの軍団は先鋒隊、中軍、後方隊の 3 部隊に分けられた。先鋒隊は機動力の優れ
た軽装の騎兵中心で編成され、前線の哨戒や遭遇した敵軍の粉砕を目的とする。中軍は先
鋒隊が戦力を無力化した後に戦闘地地域に入り、拠点の制圧や残存勢力の掃討、そして戦
利品の略奪を行う(先鋒隊は敵軍の粉砕に徹し、絶対に略奪をやってはならなかった)。全
軍の最後には、後方隊が家畜の放牧を行いながらゆっくりと後に続き、前線を後方から支
えた。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
後方隊は兵士たちの家族など非戦闘員を擁し、征服が進むと制圧の完了した地域の後方
拠点に待機してモンゴル本土にいたときとほとんど変わらない遊牧生活を送っていた。前
線の部隊は一定の軍事活動が済むといったん後方隊の待つ後方に戻り、補給を受けること
ができた。部隊の間には騎馬の伝令が行き交い、王族・貴族であっても伝令にあえば道を譲
るよう定められていた。
個々の兵士は全員が騎馬兵であり、速度が高く射程の長い複合弓を主武器とした。遊牧
民は幼少の頃から馬上で弓を射ることに慣れ、強力な騎兵となった。兵士は遠征にあたっ
て 1 人当たり 7~8 頭の馬を連れ、頻繁に乗り換えることで驚異的な行軍速度を誇り、軽装
騎兵であれば 1 日 70 キロメートルを走破することができた(中世ヨーロッパの歩兵の行軍
速度は 1 日 20 キロメートル)
。また、衰え弱った馬を解体して食糧(肉、内臓、血)、武器
(骨、腱)
、衣類(毛皮)と徹底的に利用したため、編成や食糧調達に長い時間を割かれる
心配が少なかった。
《戦闘方法》
戦闘ではスキタイ以来の遊牧民の伝統と同じく、最低限の弓矢や刀剣で武装した主力の
軽装騎兵によって敵を遠巻きにし、弓で攻撃して白兵戦を避けつつ敵を損耗させた。また、
離れた敵を引き寄せて陣形を崩させるために偽装退却を行い、敵が追撃したところを振り
向きざまに射るといった戦法もよくとられた。弓の攻撃で敵軍が混乱すると刀剣(サーベ
ル)
、鎚矛、戦斧、槍を手にした重装騎兵を先頭に突撃が行われ、敵陣を潰走させた。
追撃の際、兵士が戦利品の略奪に走ると逆襲を受ける危険があったことから、チンギス・
カンは、戦利品は追撃の後に中軍の制圧部隊が回収し、各千人隊が拠出した兵士の数に応
じて公平に分配するようにした。
攻城戦は、モンゴルにはほとんど都市が存在しなかったため得意ではなかったが、撤退
を装って守備軍を都市外に引きずり出すなどの計略をもってあたった。金に対する遠征で
は、漢人やムスリムの技術者を集め、梯子や楯、土嚢(どのう)などの攻城兵器が導入さ
れ、中央アジア遠征では中国人を主体とする工兵部隊を編成して水攻め、対塁(たいるい)
建築といった攻城技術を取り入れた。サマルカンドで火炎兵器の投擲機(とうてきき)、カ
タパルト式投石器などの最新鋭の城攻兵器の技術を入手したが、これらはホラズムやホラ
ーサーンの諸都市に対する攻撃で早くも使われた。
都市の攻城にあたっては、あらかじめ降伏勧告を発し、抵抗した都市は攻略された後に
他都市への見せしめのために徹底的に略奪され、住民は虐殺された。その攻撃は熾烈を極
めチンギス・カンの中央アジア遠征のとき、バーミヤーン、バルフなどの古代都市はほと
んど壊滅して歴史上から姿を消した。反対に降伏した都市に対しては法外でない程度の税
金を納めさせ、モンゴルへの臣従を迫り、モンゴル帝国の監察官を置く以外は以前と変わ
らない統治を許し、宗教に対しても寛大だった。
◇チンギス・カンの征服事業
着々と帝国の建設を進めたチンギス・カンは、中国に対する遠征の準備を進め、1211 年に
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
金と開戦した。三軍に分かれたモンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥
深くへと進軍し、金の軍隊を破って北中国を荒らした。
1214 年、万里の長城のはるか南まで金の領土を征服・併合したところで、チンギス・カン
は金と和約を結んでいったん軍を引くが、和約の直後に金がモンゴルの攻勢を恐れて黄河
の南の開封に首都を移したことを背信行為であると咎め(これを口実にして)、再び金を攻
撃した。
1215 年、モンゴル軍は金の従来の首都、燕京(えんけい。現在の北京)を包囲、陥落さ
せた。このとき、チンギス・カンはのちに行政で活躍する耶律楚材(やりつそざい)などを
見出して側近とした。燕京を落としたチンギス・カンは、将軍ムカリを燕京に残留させてそ
の後の華北の経営と金との戦いに当たらせ、自らはモンゴルに引き上げた。
チンギス・カンは将軍ジェベに 2 万の軍を与え、1218 年までに西遼(カラ・キタイ)を征
服・併合した。この遠征の成功によってイスラム王朝の大国、ホラズム・シャー朝に接する
ことになった。チンギス・カンはホラズムに通商使節団を派遣したが、全て殺されてしまっ
た(この使節団自体が偵察・挑発部隊であって、当初からチンギス・カンの想定の範囲だっ
たとも考えられている)
。
その報復として、チンギス・カンは自らジョチ、オゴデイ、チャガタイ、トルイら嫡子す
べてを含む 20 万の軍隊を率いて中央アジア遠征を行い、1219 年にホラズムを三手に分かれ
て攻撃し、その中心都市サマルカンド、ブハラ、ウルゲンチをことごとく征服した。モン
ゴル軍の侵攻はきわめて計画的に整然と進められ、抵抗した都市は見せしめのため破壊さ
れた。ホラズム・シャー朝はモンゴル軍の前に各個撃破され、1220 年までにほぼ崩壊した。
ホラズムの君主アラーウッディーン・ムハンマドが逃げたので、チンギス・カンはジェベ
とスベエデイの追撃軍を派遣し、アラーウッディーンをカスピ海上の島で窮死させた。ジ
ェベとスベエデイはそのまま西進を続け、カフカスを経て南ロシアにまで達した。彼らの
軍はキプチャクやルーシ(ロシア)諸公など途中の諸勢力の軍を次々に打ち破り、その脅
威はヨーロッパにまで伝えられた(図 27(図 12-62)参照)
。
一方、チンギス・カンの本隊はアラーウッディーンの息子のジャラールッディーンを追っ
て、南下し、ニーシャープール、ヘラート、バルフ、バーミヤーンといった古代からの大
都市をことごとく破壊し、住民を虐殺した。山岳部のアフガニスタン、ホラーサーン方面
での戦いはいずれも最終的には勝利したものの、苦戦を強いられる場合が多かった。
チンギス・カンはジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い詰め撃破したが、
ジャラールッディーンはインダス川を渡ってインドに逃げ去ったので、追撃を打ち切って
帰路に着いた。寒冷なモンゴル高原出身のモンゴル軍は高温多湿なインドでの作戦は無理
だったようである。1225 年にモンゴルに帰国した。
西征から帰ったチンギス・カンは広大になった領地を分割し、長男のジョチには南西シベ
リアから南ロシアの地まで将来征服しうる全ての土地を、次男チャガタイには中央アジア
の西遼の故地を、三男オゴデイには西モンゴルおよびジュンガリア(現在の新疆ウイグル
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
自治区の北西部にある盆地を中心とした土地)の支配権を与えた。末子トルイにはその時
点では何も与えられなかったが、チンギス・カンの死後には末子相続(当時のモンゴルの慣
習)により本拠地モンゴル高原(と膨大な軍事力)が与えられることになっていた。
図 27(図 12-62) モンゴル帝国の発展
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
チンギス・カンが遠征に出ている間に、以前から臣下になっていたはずの西夏の皇帝は、
金との間に対モンゴルの同盟を結んでいたので、チンギス・カンはほとんど休む間もなく西
夏遠征に出発した。1226 年はじめ、モンゴル軍は西夏に侵攻し、西夏の諸城を次々に攻略、
冬には凍結した黄河を越えて、30 万以上という西夏軍を撃破、ここに西夏は壊滅した。
1227 年、チンギス・カンは西夏の首都興慶(現在の銀川)攻略に全軍の一部を残し、オゴ
デイを金領侵攻に向かわせ、自らは残る部隊で周辺の諸都市を攻略した後、夏の避暑のた
め六盤山に本営を留め、ここで西夏の降伏の報告を受け、金から申し込まれた和平は拒否
した。ところが、ここでチンギス・カンは発病、モンゴルへの帰途についたが、1227 年 8 月
陣中で死去した。
父の死から 2 年後の 1229 年に即位した第 2 代オゴデイは、トルイ(モンゴルの全千人隊
のうち 8 割を引き継いだ実力者)と協力して、1233 年、金朝を滅ぼした。1235 年、建設間
もないカラコルムで開かれたクリルタイで、オゴデイは中国の南宋とアジア北西のキプチ
ャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を決定した。オゴデ
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
イの治世にはこれ以外にも高麗やインド、イランに遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨
張を続けた。
◇バトウのヨーロッパ遠征
1236 年 2 月、モンゴル皇帝第 2 代オゴデイの命を受けてヨーロッパ遠征軍はバトウ(チ
ンギス・カンの長男ジョチの次男)を総司令官として、帝国全土の王侯、部衆の長子たち、
すなわり次世代のモンゴル帝国の中核を担う嗣子たちが出征するというはなはだ大規模な
ものだった。兵力は約 1 万人で征服目標はジョチ家の所領西方の諸族のすべてであった(ジ
ョチ家の所領の西の方、ユーラシア大陸の続く限り、ヨーロッパまでという意味だった)。
バトウの軍は、図 27(図 12-62)のように、1236 年の夏中を移動で過ごし、1237 年まで
の冬季に、アス人(カフカス地方の民族)とブルガル人(ブルガリア)を征服し、1237 年
の春、キプチャク草原全体に囲い込み作戦を実施して、カスピ海周辺からカフカス北方ま
での諸族を征服・帰順させた。
1237 年秋、ルーシ(ロシア)に入り、ウラジーミル大公国ユーリー2 世を戦死させ、ノ
ヴゴロド公国のアレクサンドル・ネフスキーやガリーチ公ダニールらを帰順させた。まだ小
村だったモスクワも攻略されたとみられている。1240 年春には、ルーシ南部に侵攻し、キ
エフを包囲して同地を攻略・破壊した。
1240 年春、バトウはカルパチア山脈の手前で遠征軍を 5 つに分け、それぞれに進攻させ
た。右翼はポーランド王国に侵攻し首都クラクフを占領し、1241 年 4 月ワールシュタット
の戦い(図 27(図 12-62)参照)でポーランド軍を破り、ポーランド王モンリク 2 世を処
刑した。シレジア、モラヴィア地方もバルダイが侵攻した。別の一隊は、カルパチア山間
のザクセン人を破り、ワラキア人(現在のルーマニア南部)を撃破した。
1240 年 3 月、バトウの本隊はトランシルバニアからハンガリーに侵入し、ペシュト市を
陥落させ、モヒーへ平原でハンガリー王ベーラ 4 世を破り、1241 年にはトランシルバニア
全域を征服し、クマン人、マジャール人などのハンガリー王国の残存勢力を掃討した。冬
には凍結したドナウ川を渡ってエステルゴム市(現在のハンガリー北部の都市)を包囲攻
撃した。
ここで 1241 年 12 月にオゴデイ皇帝の訃報が届き、1242 年 3 月、遠征軍全軍の帰還命令
を受けると、バトウ本隊はハンガリー支配を放棄して帰国の途についた(ハンガリーなどは
無になったが、バトウの支配したカルパチア山脈以東のルーシ(ロシア)諸国を中核とする
東欧の領土は、その後のジョチ・ウルスの基盤となった)。
◇第 4 代モンケの世界征服計画
1241 年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子
がいなくなり、1246 年、オゴデイの長男グユクが第 3 代カンになったが、わずか 2 年後の
1248 年に病死した。
1251 年、チンギス・カンの末子トルイの長男モンケが第 4 代カンになった。モンケは、
44 歳、満を持しての帝位であった。モンケは皇帝になると、第 2 代オゴデイから第 3 代グ
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ユクまでの不正・ゆがみ・よごれ・あか、いっさいの負の遺産を、それにかかわった人間
とともに一掃しようとした。オゴデイ家とチャガタイ家の反トルイ派は、根こそぎ粛清さ
れた。摘発は帝国全域におよび、財務官・徴税官・書記官などに至るまで、徹底した洗い出
しが行われた。
モンケは、また、チンギス・カンの初心に返って、帝国を建てなおし、失われていた中
央権力の威令を取り戻そうとし、次々と新政策を打ち出した。
軍事・政治上については、モンゴル本土は別枠として、他を大きく三つに分けた。図 27
(図 12-62)のように、①マー・ワラー・アンナフルから「北廻り」の全域は盟友のバトウ
のジョチ・ウルスに一任し(これはすでにバトウの遠征隊でほぼ実現していた)、②残るイ
ランからイラク方面の「南周り」の西方に対して第 3 の弟フレグ、③華北・タングート旧領
(西夏)・チベット方面などを含む東方は、次弟のクビライを総司令官とし、あらたなる拡
大戦争を組織することを発表した。
すべてを取り仕切るのは、モンケ自身であった。彼は、明らかに世界を意識して構想を
抱いていた。それは、おそらく世界征服計画であったであろう。彼はそれを可能であると
考えたようである。
②のイラン方面についてモンゴルは、すでにチンギス西征いらい、30 年ほどのかかわり
と間接統治の歴史があった。そのうえで、さらにモンゴル本土の千人隊より 10 人あたり 2
人を出させる方式で編成された大部隊を派遣することは、イランのむこう、つまり中東全
域からヨーロッパへの道をたどろうとしていたにちがいなかった。①のバトウの西征の、「南
廻り」版をくわだてたのである。そして①の「北廻り」と②の「南廻り」がヨーロッパで出会う
ことで世界征服が完成すると思っていたようである(実際にはモンケの意外に早い死でこ
れは頓挫することになったと考えられる)。
我々の現在の世界像は近代世界の主力となった海からの目線でつくられている(ユーラ
シア大陸の東の島国である日本人はとくにそうである)
。しかし、モンゴル帝国を頂点とす
るユーラシア世界史は、草原という帯で結ばれて動いていた。陸上帝国であったモンゴル
人には、図 27(図 12-62)のような世界(地図)が浮かんでいただろうと考えられている。
もちろん、当時は新大陸(南北アメリカ)やオセアニアは知られていなかったし、アフリ
カも(地中海沿岸以外は)未知の世界だったので、当時の世界は陸続きのユーラシア大陸
で世界のほとんどであると思われていた(実際、図 26(図 11-73)-⑨のように、ユーラ
シア大陸にも強力な国は当時存在していなかった)
。
バトウの副将として、すでにヨーロッパまで遠征してきたモンケには、③のクビライなど
を使って南宋を征服する、②のフレグのイラン、中東、南ヨーロッパ遠征を実施すれば、
①のバトウの「北廻り」遠征と合わせて世界征服が完成すると考えていたのだろう。 実際の
ところ、モンケの描いた世界構想は図 27(図 12-62)のように、短期間ではあるが概略達
成されたようにも思える。
◇フレグの大遠征
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1253 年、フレグは兄皇帝モンケの勅命により、西征軍総司令に任命され、イラン方面総
督であったアルグン・アカ以下のアムダリヤ川以西の帰順諸政権を掌握し、ニザール派、
アッバース朝、シリア、アナトリア、エジプト諸国を征服すべく出征した。
1256 年にフレグがイランの行政権を獲得し、のちのイル・ハン朝がイラン政権として事
実上成立した。フレグは同年、ニザール派(暗殺教団として恐れられていた)を攻撃し、
教主ルクヌッディーン・フルシャーが投降し、本拠地アラムート城塞が陥落した。イラン
を完全に制圧すると、1258 年イラクに入ってバグダードを征服し、アッバース朝カリフ・
ムスタアスィムを捕縛・殺害して同王朝を滅亡させた(図 27(図 12-62)参照)
。
1260 年 2 月には中東に入りアレッポを攻略し、同年 4 月にはダマスクスを陥落させるな
ど、快進撃が続き、次々と領土を広げていった。ここで長兄の皇帝モンケの訃報が届いた。
エジプト攻略を部下に任せ、フラグはモンゴルに帰還することにした(結局、フレグの
部下はエジプトに敗れ、フレグ遠征軍の快進撃はここでストップすることになった)
。
しかし、途中まで帰って、フレグの次兄クビライと弟アリク・ブケが長兄モンケの後継
皇帝をめぐって争いを始めたことがわかり、フレグはモンゴル帝国には帰還せずに中東地
域(現在のイラン付近)に留まり、ここに自立王朝として前述のイル・ハン国(図 27(図
12-62)参照。すでに来るときに建国していた。1256~1353 年)を治めることにした。1264
年に後継者争いに勝ったクビライが後を継ぐと、フレグはクビライの大カン位を支持した。
◇クビライの南宋攻撃
フレグの西への大遠征隊と並行して、1251 年、皇帝モンケは次弟クビライに、ゴビ砂漠
以南の南モンゴル高原・華北における諸軍の指揮権を与え、中国方面の領土の征服を委ねた。
クビライは 1253 年に雲南の大理国を降伏させた(図 27(図 12-62)参照)
。クビライは雲
南から帰還後は、南モンゴル(現在の内モンゴル自治区)中部のドロン・ノールに幕営を
移し、漢人のブレーンを登用して中国を支配する道を模索していた。
しかし、南宋を早急に併合することを望む皇帝のモンケはクビライの慎重策にしびれを
切らしたのであろう、1256 年に南宋攻略を自らの陣頭指揮によって行うことを決定し、ク
ビライをこの作戦の責任者から更迭してしまった。
1258 年、自ら陝西に入って親征を開始したモンケは、翌 7 月末に重慶を攻略した後、長
江上流から首都・臨安を攻めようとしたが、釣魚山の軍陣内で流行した悪疫にかかって 1259
年 8 月に死去した。
皇帝モンケの急死により、モンケの弟たち 3 人が後継者となる可能性が生じたが、フラ
グは遠く中東地域で征服事業を進めている最中であったので、皇帝位をめぐる争いは次弟
のクビライと末弟のアリク・ブケに絞られた。
モンケとともに南宋へ遠征を行っていたクビライは、軍を引き上げて内モンゴルに入り、
東方三王家(チンギス・カンの弟の家系)などの東部諸王の支持を得て、翌年の 3 月に自
身の本拠地である内モンゴルの開平府(後の上都。現在の内モンゴル自治区)でクリルタ
イを開き、皇帝位に就いてしまった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アリク・ブケは 1 ヶ月遅れて皇帝となり、ここにモンゴル帝国には東西に二人の皇帝が
並存し、モンゴル史上初めて皇帝位を武力で争奪する事態となった。クビライとアリク・
ブケの両軍は何度となく激突したが、もともとカラコルムは中国からの物資に依存してい
たため、中国を押さえたクビライ派に経済封鎖をされ、劣勢を余儀なくされた。1264 年、
アリク・ブケはクビライに降伏した。勝てば官軍で、この一連の争乱を勝利者クビライの
立場から、アリク・ブケの乱という。
◇第 5 代クビライ
クビライはいよいよ南宋討伐に乗り出した。1268 年、南宋の漢水の要衝襄陽の攻囲戦を
開始した。南宋を落とすには、その周辺国も整理する必要があった(図 27(図 12-62)参
照)
。そこで、当時、南宋と通商していた日本にも既に服属していた高麗を通じ、モンゴル
への服属を求めた。しかし、日本の鎌倉幕府はこれを拒否したため、クビライは南宋と日
本が連合して元に立ち向かうのを防ぐため、1274 年にモンゴル(元)と高麗の連合軍を編
成して日本へ送ったが、対馬、壱岐、九州の大宰府周辺を席巻しただけで終わった(文永
の役)
。
1273 年になると南宋の襄陽守備軍の降伏により南宋の防衛システムは崩壊した。元は兵
士が各城市で略奪、暴行を働くのを禁止するとともに、降伏した敵の将軍を厚遇するなど
して南宋の降軍を自軍に組み込んでいったため、各地の都市は次々とモンゴルに降った。
1274 年旧南宋の降軍を含めた大兵力で攻勢に出ると防衛システムの崩壊した南宋はもは
や抵抗らしい抵抗も出来ず、1276 年に首都臨安(杭州)は無血開城された。恭帝をはじめ
とした南宋の皇族は北に連行されたが、丁重に扱われた。その後、海上へ逃亡した南宋の
遺民を 1279 年の崖山の戦いで滅ぼし、北宋崩壊以来 150 年ぶりに中国統一を果たした。こ
れは中国史上はじめての北からの中国統一であった。
《元帝国》
クビライは 1260 年に即位し、世祖(せいそ)クビライ・カン(在位:1260~1294 年)と
なった。1264 年に都をカラコルムから大都(だいと。現在の北京)へ移した(図 27(図 12
-62。P71)参照)
。1271 年には国号も中国風に元(げん)と定めた。
内陸アジア一帯を支配下におさめたモンゴル帝国は、広大な領域内の交通路の安全を重
視し、その整備や治安の確保につとめた。幹線道路に約 10 里ごとに站(たん。駅)をおき、
官用で旅行する者に対して牌符(はいふ。通行証明書)を発行し、周辺の住民に馬・食料
などを提供させた。この駅伝制はチンギス・カンが創設し、元朝で完備された。これは、
商品の流通を重視したことのあらわれであり、また東西文化の交流にも大きな役割をはた
した。この繁栄の時代をローマ帝国のもたらしたパクス・ロマーナ(ローマの平和)にな
ぞらえてパクス・モンゴリカと呼ぶ。
◇モンゴル帝国の再来・ティムール帝国
モンゴル帝国(元帝国)の繁栄は約 1 世紀で、14 世紀の半ばに南方で明が興ると北方に
追いやられた。その後、図 26(図 11-73。P66)の⑩のように、チンギス・カンの再来か
75
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
といわれたティムール(1336~1405 年)は、サマルカンドを中心に帝国を広げ、インドを
征服し、エジプトのマムルーク朝を破り、1402 年にはアンカラの戦いでオスマン帝国を破
って一時的に滅亡させた。
ティムールは、チンギス・カン以来の軍律や 10 進法で編成された騎兵にアジア地域の先
進的な技術産業を活かした重装を施し、大砲や各種機械、爆発物、鉄砲を備える歩兵や工
兵を付随させる等、軍備にも意を注いだ。ティムールは軍事にかけては天才的で、生涯に
交えた戦いではほとんど負けたことがなく、また農村や都市の持つ経済的価値をよく理解
しており、彼の帝国に於いてはヤサ法典(慣習法)が施行された。また、彼が科学者や法
学者、知識人、技術者に対して非常に敬意を払っていたこともよく知られている。
征服した町や国から強制的に移住させた多数の石工を中心とした職人に、彼はサマルカ
ンドなどのモスクや記念建造物の建設を命じた。サマルカンドには様々な施設が建設・整
備されて繁栄を極め、チンギス・カンと比較して俗に「チンギス・カンは破壊し、ティム
ールは建設した」と言われる。しかし、敵が抵抗した場合、徹底的に虐殺し破壊しつくし
たことはチンギス・カンと同じだった。
ティムールは 30 年間でモンゴル帝国の西半分をほぼ統一することに成功し、東方のモン
ゴル帝国の大ハン直轄領(元)回復をこころざし、1404 年に明への遠征に向かったが、カ
ザフスタン南部で発病し、1405 年 2 月に没した。
◇中央ユーラシア世界の衰退
ティムール帝国の「輝き」を最後に、中央ユーラシア世界は落日をむかえたと言われて
いる。16 世紀以降徐々に進行した中央ユーラシア衰退の最大要因はなにかであるが、それ
は、中央ユーラシアの遊牧民がもっていた軍事的優越性が失われたことである。中央ユーラ
シアが有史以来他を凌駕しえたのは、最高の機動力を提供する馬に乗り、弓矢で武装した
騎馬軍団を擁していたからである(それに図 26(図 11-73。P66)の各図のようにユーラ
シア大陸は騎馬軍団がその性能をフルに発揮できるような地形になっていた)。
1453 年、巨砲の威力でコンスタンティノープルを征服したオスマン帝国は、火器の時代
が到来したことを世界に告げた。いち早くそれを学んだヨーロッパが、やがて世界を制覇
していくことになるが(図 26(図 11-73)-⑩参照)
、中央ユーラシアでは、周辺諸地域
が火器で武装した歩兵軍団の導入を進めるなかで、それまで最も成功していた騎馬軍団に
よる軍隊編成が抜本的に変更されることなく存続したのである(成功体験は革新ではなく
衰退をもたらすことを示している)
。
そのため、それまで最強だった中央ユーラシアの軍事力は周辺諸国に比べて相対的に低
下し、軍事的優越を前提に成り立っていた繁栄は失われることとなった。図 26(図 11-73)
でもわかるように、人類の歴史(ヨーロッパ、イスラム、中国、中央ユーラシアの歴史)
の中で、中央ユーラシアはたえず、遊牧国家が盛衰して大陸周縁部に大きな影響を与えて
きたが、16 世紀以降(近世になって)、中央ユーラシアは、ロシアと清という二大強国が進
出してくるなかで、周縁化していくことになった。モンゴル、ティムールの中央ユーラシ
76
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アの時代はすぎさっていったのである。大陸と騎馬軍団と弓矢の中世は終って、海と海軍
と火器の近世という時代がきたのである。それは近世のヨーロッパからはじまることにな
る。
第 5 章 近世の戦争
【1】近世(1501 年~1800 年)の戦争
◇近世国家の歴史
『自然の叡智 人類の叡智』の近世の世界(1500 ~ 1800 年)では、ヨーロッパのルネ
サンス、宗教改革、大航海時代と新大陸の発見、科学革命、啓蒙思想をまず述べた。
コロンブスの 1492 年の新大陸発見は、スペイン王との契約によって行なわれたので、南
北アメリカでの征服・植民活動は、まず、スペインが先行した。現在でいえばラテンアメ
リカといわれるメキシコ、カリブ海諸国、南アメリカの地域はスペインの植民地になった
が、ブラジルはポルトガル、北アメリカの現在のカナダ、合衆国部分などにはフランス、
イギリス、オランダなども進出した。
新大陸からの富はヨーロッパに、スペイン、ポルトガル、フランス、イングランド、オ
ーストリア、プロイセン、ロシア、スウェーデン、デンマークなどの絶対王政国家を成立
させた(図 28(図 13-10)の茶色の部分)。ヨーロッパには、その他にもポーランド、オ
ランダ、スイスなどの国家があった。そして、1630~48 年には、ヨーロッパ中の絶対王政
国家をまきこんだ最初の国際戦争といわれる三十年戦争が起こった。
ヨーロッパ近世後半では、絶対王制国家がゆきづまって、イギリスの名誉革命、フラン
ス革命などの市民革命や産業革命が起こった。
ヨーロッパ以外のイスラム、中国などでは相変わらず専制国家が続いていた。近世のイ
スラム世界では、オスマン帝国、イラン・サファヴィー朝、アフガニスタン・ドウッラー
ニー朝、インドではイスラム国家であるムガル帝国について記した。近世の後半になると
ヨーロッパ諸国のアジア進出が進み、まず、インドが植民地化されていった(図 28(図 13
-10)で黄色の部分は植民地化された国)
。
近世の中国とその周辺諸国では、中国・清朝(1636~1912 年)、モンゴル、朝鮮、日本、
東南アジアについて記した。
サハラ以南のアフリカについては、ダルフール王国、トルワ王国、モノモタパ王国、マ
ニカ国、チャンガミレ国、ベニン王国、オヨ王国、ダホメ王国、アシャンティ王国、コン
ゴ王国、ルバ王国、ルンダ王国などについて記した。
やがて、ヨーロッパ諸国は、ヨーロッパの工業製品をアフリカに輸出し、アフリカから
は奴隷を「商品」として新大陸に移送し、新大陸で生産された砂糖やコーヒー、ワタなど
熱帯産品をヨーロッパへ送るという、いわゆる「大西洋三角貿易」を大々的に行うように
なった。
77
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 28(図 13−10) 近世の世界
78
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
オーストラリアには、イギリス人のジェームズ・クックが 1770 年 4 月に到達し、イギリ
スの植民地となった。それから 18 年後、1788 年のはじめに、イギリス政府は、流刑囚を送
り込んでニューサウスウェールズ植民地を建設した。
この近世の主な戦争を記すと以下のようになる(☆印は『自然の叡智
人類の叡智』に
記しているもの)
。
☆1508 年~1516 年 - カンブレー同盟戦争(イタリア戦争に含まれる)
☆1521 年~1559 年 - イタリア戦争(ハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴ
ァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争)
☆1524 年~1525 年 - ドイツ農民戦争(宗教改革から起きた戦争)
☆1546 年~1547 年 - シュマルカルデン戦争(宗教改革から起きた戦争)
☆1558 年~1583 年 - リヴォニア戦争(ロシア・イヴァン雷帝の征服戦争)
☆1562 年~1598 年 - ユグノー戦争(フランス・ルイ 14 世のユグノー弾圧)
☆1563 年~1570 年 - 北方七年戦争(デンマークとスウェーデンの戦争)
☆1568 年~1648 年 - 八十年戦争(オランダ独立戦争)
☆1585 年~1604 年 - 英西戦争(1588 年の無敵艦隊(アルマダ)の海戦を含むハプスブル
ク朝スペインとイングランドとの戦争)
☆1592 年~1598 年 - 文禄・慶長の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵)
☆1605 年~1618 年 – ロシア・ポーランド戦争(ポーランド・リトアニア共和国の進攻で
モスクワ国家が無政府状態になった)
1609 年 - 琉球侵攻(薩摩藩は征夷大将軍徳川家康の承認の下、琉球王国を征服)
☆1611 年~1613 年 - カルマル戦争(デンマークとスウェーデンがカルマル地方を争った
戦争)
☆1618 年~1648 年 - 三十年戦争
☆1619 年
- サルフの戦い(ヌルハチ率いる後金(のちの清)が明の後金討伐軍を
破った戦い)
1621 年~1629 年 - スウェーデン・ポーランド戦争(スウェーデン王位継承権をめぐる戦
争)
☆1622 年~1890 年 - インディアン戦争(白人入植者によるインディアンの征服戦争)
☆1624 年
- 丁卯胡乱(後金の第 1 次朝鮮侵攻)
☆1636 年
- 丙子胡乱(後金の第 2 次朝鮮侵攻)
☆1638 年~1660 年 - 清教徒革命(1639 年~1640 年 - 主教戦争。1640 年~1649 年 - ア
イルランド同盟戦争。1641 年~1649 年 - イングランド内戦)
☆1643 年~1645 年 - トルステンソン戦争(三十年戦争の局地戦。デンマークとスウェー
デンの戦い)
☆1648 年~1653 年 - フロンドの乱(フランス貴族の反乱)
☆1652 年~1654 年 - 第 1 次英蘭戦争
79
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆1654 年~1667 年 - ロシア・ポーランド戦争 (1654 年~1667 年)(大洪水時代)
☆1655 年~1660 年 - 北方戦争(1655 年~1659 年 - スウェーデン・ポーランド戦争)
。
☆1657 年~1660 年 - スウェーデン・デンマーク戦争
☆1665 年~1667 年 - 第 2 次英蘭戦争
☆1667 年~1668 年 - ネーデルラント継承戦争(ルイ 14 世の侵略戦争)
☆1672 年~1678 年 - オランダ侵略戦争(ルイ 14 世の侵略戦争)
☆1672 年~1674 年 - 第 3 次英蘭戦争
☆1675 年~1679 年 - スコーネ戦争(デンマークとスウェーデンの戦争)
☆1683 年~1699 年 - 大トルコ戦争(第 2 次ウィーン包囲に続くオーストリア・ポーラン
ド・ヴェネツィア・ロシアなどの神聖同盟とオスマン帝国の戦争)
☆1688 年~1697 年 - 大同盟戦争(ファルツ継承戦争。ルイ 14 世の侵略戦争)
☆1689 年~1763 年 - 北米植民地戦争(ヨーロッパの戦争と並行して起こったイギリスと
フランスの植民地での戦争。1689 年~1697 年 - ウィリアム王戦争)
☆1700 年~1721 年 - 大北方戦争(ロシアのピョートル 1 世を中心とした北方同盟とスウ
ェーデンの戦争)
☆1701 年~1714 年 - スペイン継承戦争 (ルイ 14 世最後の戦い。1702 年~1713 年 - ア
ン女王戦争(北米植民地戦争)
)
☆1733 年~1735 年 - ポーランド継承戦争(ポーランド王位をめぐって、フランス、スペ
イン、サルジニア王国とロシア、ハプスブルク、ザクセン、プロイセンが戦争)
☆1740 年~1748 年 - オーストリア継承戦争(1739 年~1748 年 - ジェンキンスの耳の戦
争。1744 年~1748 年 - ジョージ王戦争(北米植民地戦争)
。1744 年~1748 年 - 第 1 次カ
ーナティック戦争(インドでの英仏戦争)が並行して行われた)
☆1750 年~1754 年 – 第 2 次カーナティック戦争(インドでの英仏戦争)
☆1756 年~1763 年 - 七年戦争(プロイセン及びそれを支援するイギリスと、オーストリ
ア・ロシア・フランスなどとの戦争。1754 年~1763 年 - フレンチ・インディアン戦争(北
米植民地戦争)
、1758 年~1763 年 - 第 3 次カーナティック戦争が並行して行われた)
☆1767 年~1799 年 - マイソール戦争(第 1 次~第 4 次。イギリスと南インドのマイソー
ル王国との戦争)
☆1768 年~1774 年 - 第 1 次露土戦争
☆1775 年~1783 年 - アメリカ独立戦争
☆1775 年~1817 年 - マラータ戦争(第 1 次~第 3 次。インドでのイギリスとマラータ同
盟との戦争)
☆1787 年~1790 年 - 第 2 次露土戦争
☆1788 年~1790 年 - 第 1 次ロシア・スウェーデン戦争
☆1792 年~1802 年 - フランス革命戦争
☆1798 年
- アイルランド反乱 (1798 年)
80
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
【2】ヨーロッパの絶対王政
中世のヨーロッパの封建制は多くの細かく分れた封建領主とその上に立つ国王という 2
重構造になっていた。しかし、やがて中世の後半に貨幣経済が進展し、社会の変動が起こ
ると、商人たちが力を得て台頭した。
一方で貨幣経済が進展すると、自給自足の地方経済に基礎を置く封建領主の力が衰え、
没落する者も現れた。貨幣経済の進展により広域流通圏が成立すると、小規模の封建領主
の立場は武力においても(それはつまり経済力においても)
、国王に対して不利になり、国
王が力を得て、ますます強力になり、結局、封建領主は滅ぼされるか、貴族として生き残
るしかなかった。こうして、中世から近世にかけてヨーロッパでは国王の絶対王政が誕生
した。
この近世のヨーロッパ諸国にみられた政治形態は、絶対王政、あるいは絶対主義ともい
う。スペイン帝国のフェリペ 2 世、イギリスのエリザベス 1 世、フランスのルイ 14 世が現
れ、絶対主義が全盛期をむかえた。続く 17,18 世紀にイギリスやフランスのように市民革
命が起こり、絶対主義の時代は終わる国も出てきたが、19 世紀の後半まで続いたところも
あった。
絶対主義とは、国王が常備軍と官僚とによって広域流通圏を一元的に支配する、中央集
権体制であった。つまり、絶対主義は封建領主が分権的に支配する中世社会を破壊し、広
域流通圏を基盤とする新たな国家であった。ルイ 14 世が典型的な絶対専制君主だったよう
に、近世のヨーロッパは戦争ばかりしていた。戦争のために国家があったといわれたが、
それは国民も国家経済も自由に恣意的にあやつることができた絶対王政であるから可能な
ことだった。
この国家を主権国家という(絶対王政国家では、主権は国王に属した)
。主権は神から王
に授けられたという絶対王政を擁護する王権神授説をはじめて唱えたのがジャン・ボダン
(1530~1596 年)であり、トマス・ホッブズ(1588~1679 年)の唱えた社会契約説は結局、
王権神授説を擁護することになった。
没落する封建領主と新興の市民(商人、資本家)の勢力均衡の上に成立した絶対主義は、
過渡的な政治形態で、やがて、市民の力の増大により均衡が崩れると(イギリスは 1688 年
の名誉革命、フランスは 1789 年からのフランス革命)、その歴史的役目を終えた。すなわ
ち、市民を主体とする市民革命によって、絶対主義は滅亡したのである。
◇ヨーロッパが突出した理由
近世の 300 年間を通じていえる最も大きな変化は、1500 年の時点では世界のレベルは経
済的にも軍事的にもほぼ同じであったものが、1800 年の時点ではヨーロッパが突出してし
まっていたということである。
1500 年の時点では、東洋の広大な帝国が莫大な富を蓄え、強力な軍隊を保有しているこ
とと比較すれば、むしろ、ヨーロッパは弱点ばかりが目立って、影が薄れてしまう状態だ
81
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
った。
ヨーロッパは地味の豊かさでも人口でも、世界最高というわけにはいかなかった。その
どちらの点でも、胸を張れるのは中国とインドだった。地政学的にも、ヨーロッパの「大
陸」はあまり恵まれてはいなかった。北側と西側は氷と水に閉ざされ、東側は開かれてい
たものの、陸づたいにしばしば侵略を受け、南側を包囲する戦略をとられればお手上げに
なりかねなかった。古代にはフン族に、中世ではイスラムやモンゴルに攻められた。
それが、この近世の 300 年の間に、最後尾にいたヨーロッパが突出してしまったその理
由はなにか。
ヨーロッパが伸びた第 1 の理由は、逆説的ないいかたになるが、そのような複雑・多様
性に富んだ、どうしようもない地形だったからであるといえる。
ヨーロッパは地理的に複雑・多様性に富んでいて、騎馬民族が迅速に大帝国を打ち立て
られるような広大な平原は存在しない。ヨーロッパには、ガンジス、ナイル、チグリス・
ユーフラテス、黄河、長江などの大河がなく、したがって、大河の流域に肥沃な地帯が発
達していることもなく、食料が豊富で、征服しやすい勤勉な農民が多く住んでいる地域で
もなかった。
ヨーロッパは地形的に分断されていて、人々は山や広大な森林によって隔てられた谷あ
いのあちこちにかたまって住んでいた。こうした地理的な特性のために、いかに強力な領
主が努力しても統一的な支配を確立することが困難であった。あのローマ帝国も統治しや
すい地中海側には大帝国を立てたが(地中海に面していたから、広大な帝国をつくるのに
海軍力が使えた)
、ライン・ドナウの北には、とうとう入れなかった。これはカール大帝も
オットー大帝も同じだった。あのモンゴルも何度か侵入・略奪まではできたが、ヨーロッ
パ全土が統治される可能性は小さかった。ハプスブルク家がヨーロッパの覇権に手をかけ
たときもあったがダメだった。17 世紀のルイ 14 世も 19 世紀はじめのナポレオンも力つき
た。
ヨーロッパが伸びた第 2 の理由は、前述のように強力な国家、為政者がいなかったので、
多様な商業活動が許されたということである。この地理的な多様性が創造性をはぐくみ成
長をうながしたともいえる。ヨーロッパは地方によって地形も気候もちがうことから、生
産物の量は少ないが多様であり、ここで生きぬく人々は古来、知恵をしぼり、森林を切り
開いてつくった街道づたいに物資を運び、交易にはげんだ。
政治と社会の中心があちこちに分散していたため、商業活動が自由に発展し、商人や港、
市場に対する管理が厳しくなかったことが重要なことであった。これは地理的条件で強力
な専制国家(帝国)が出なかったことと裏腹の関係にある。つまり、一円に統制するもの
がいなかったということである。人間の性質として為政者はどうしても多様性を許さず、
一律統治をもとめるものである(これは民主的な中央集権の官僚国家になっても同じであ
る)
。権力者もこれをまったく押さえつけることは自分の首をしめるようなもので、ある程
度自由にさせることしかなかった。
82
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヨーロッパには統一的な権力が存在せず(存在できず)、したがってそれぞれの商業活動
の発展が力づくで妨害されることがなかった。事業家や企業家を広範囲にわたって組織的
に収奪する徴税人もいなかった(中国(明、清)
、イスラム(オスマン帝国、サファヴィー
朝)、インド(ムガル帝国)などの絶対専制君主国の強力な官僚制ではそれをやった)。こ
うした徴税制度が東洋やイスラムの世界の経済の発展を大幅に遅滞させたのである。
ヨーロッパには多様性があった。一方に商人を略奪し追放する領主がいても(フランス
のユグノー追放、フランドルの織物職人の移住など)、他方にはそれを歓迎して受け入れる
国もあった(とくにイングランドやプロイセンが歓迎した)
。ラインラントの領主が行商人
に高い税金をかければ交易路がよそに移ってしまい(ヨーロッパ大陸の交通路は図 29(図
12-6)のように地形上ネットワーク状になっていた)、領主の懐に入る金もなくなってし
まうだけだった。
図 29(図 12-6) 13 世紀末の商業ルート
中央公論社『世界の歴史10』
絶対君主といえども(スペインの歴代王やフランスのルイ 14 世など)、借金を踏み倒せ
ば、次の戦争に備えるため、すみやかに資金を調達して軍備をととのえ、艦隊を整備しな
ければならなくなったとき、どこからも金が借りられなくなってしまった。また、東洋の
専制君主とおなじように、金の卵を産むガチョウを殺してしまうこともあったが、そんな
83
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ことをすれば、富が減り、軍事力も低下することは、目に見えていた(現にそうなった)。
このように、ヨーロッパでは(現在では)あたりまえのことがあたりまえとして通った
が、東洋やイスラム世界では専制君主にとって都合の悪いものは存在できなかった。
ヨーロッパ各地の政権はしだいに市場経済と共存することを学んだ。つまり、ヨーロッ
パの政権は、自分の恣意的な政治信条にあわせるのではなく、現実の実態にあわせて政治
をするほうが得策であることを学びはじめていた。つまり、現実の経済社会を社会システ
ムとして認めざるをえなかったのである。公平な法律制度を保証し、税金というかたちで
貿易の繁栄の分け前にあずかるようになっていった。アダム・スミスが、国富論で「遅れ
た野蛮な段階から脱して、豊かな繁栄した社会を築くために必要なことは、平和、低い税
金、そして寛大で公正な行政のみである・・・」と述べているのは、まさに実態がそうで
あったのである。つまり、当然のこと(正当なこと)を述べて、そのようになっていった
のである。
ヨーロッパが伸びた第 3 の理由は、第 2 の理由と実質同じであるが、強力な為政者がい
なかったということは、人間に自由な発想を許したということである。
『自然の叡智
人類の叡智』の思想・哲学と世界宗教の誕生で述べたように人類の発展
段階の初期において(古代ギリシャ、古代中国、古代インドなどで)
、自由な発想で多くの
思想や哲学・宗教がおこったと述べたが、それ以降、世界中で国家体制が確立されていく
と、統治者(支配者階級)に都合のよい思想・考え方のみが許されるようになっていった。
それがルネサンスの誕生のところで述べたように、中世も後半になってくると、ヨーロ
ッパで商業都市が発達し、その都市の中で「都市の空気は人間を自由にする」ことが起こっ
た。都市が発展し、そのなかである程度自由な発想が許される環境ができていったという
ことである。いったん、そのような環境ができると、人間のことであるから、「創造と模倣・
伝播の原理」で、つまり、それが人間社会にとって有用(有益)であるなら、その発想・考
え方は生き残り、次々と伝播拡大していくものである(思想の自然選択(自然淘汰)ある
いは思想の社会選択(社会淘汰)が起きた)
。
都市の中の中産階級の市民、
「ブルジョワ」とは「城塞都市(ブール)」の住民のことを意
味していたが、彼らは主従関係の網の目でおおわれた中世のヨーロッパ世界において、自
分たちの権利、つまり、自由に考える権利を自分たちの手で守ろうとする人たちだった。
そのような人たちが生まれてきたのである。これが中世の専制政治の世界にポッカリと
開いた自由の窓となった。
しかし、都市は古代文明でも中世のアジアやアラブでも大都市は興っていたが、西ヨー
ロッパのように都市生活の中から新たな政治的・社会的権力が誕生するといった状況は起
きなかった(古代ギリシャ文明は例外であるが、そのアテナイでも 20~30 万人のポリスに
すぎなかった。また、その 3 分の 1 は奴隷だった)
。それはなぜだったか。逆にいうと、な
ぜ、中世ヨーロッパだけ、都市から自由を求める市民が生まれたか。
それも、中世の都市のところで述べたように、中世ヨーロッパでは都市が略奪の対象と
84
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なることが非常にまれだったからである。ヨーロッパの政治権力は長く分断されていたた
め、権力者たちはライバルに打ち勝つために都市という「金の卵を産むガチョウ」を大切に
するようになった。多くの税を支払うことが可能な都市を優遇するために、王や領主たち
は都市に自治や特権を許可するようになった。領主の令状も、城壁にかこまれた都市のな
かでは無効であり、場合によっては都市があからさまに反封建制の立場をとることもあっ
たことは中世のイタリアの歴史で述べた。
一方、たとえばアジアやアラブの大半の地域では、戦闘があるたびごとに都市が繰り返
し略奪されていた。中国の各王朝、イスラムやモンゴル、ティムールなどユーラシア大陸
の周辺部の都市は寄せては返す騎馬軍団に徹底的に破壊さることを繰り返した。
中世後期になると、ヨーロッパの裕福な都市の商人階級の中からイタリアのコムーネ(自
治共同体)運動に似た動きが起こってきた。彼らはギルドや結社、組合といった独自の新し
い組織をつくり、そのことによって大きな力を手にするようになっていった(人間は個人
では各個攻撃をされ弱いが、組織、つまり、社会の仕組み、社会システムをつくり、権力
(支配者階級)にあたると強いということがわかった)
。イタリアだけでなく、フランドル
地方の都市もかなりの自由を謳歌していたし、ドイツ東部の都市はとくに独立性が高く、
それが 150 以上もの自由都市からなる強力なハンザ同盟の結成となっていった(彼らは具
体的な組織をつくっていた。思想だけではダメで具体的な社会システムにしなければダメ
である)
。
ヨーロッパが伸びた第 4 の理由は、多様な軍事勢力であった。ヨーロッパの(地理的・
地形的・国家的)多様性が商業の多様性を生んだが、多様性は商業だけではなかった。ヨ
ーロッパには経済力および軍事力の中心がいくつも存在した。イタリアのある都市国家が
繁栄すれば、かならず他の国が登場してきて傾いた秤を元にもどしてしまう。「新しい絶対
君主国家」が領土を広げれば、きっと競争相手があらわれてその行く手を阻もうとするの
である。
三十年戦争の大義名分は宗教戦争だったが、真の理由は、結局のところ、競争者が存在
したことであった。そして、ヨーロッパの特異な点は、対立するすべての勢力がいずれも
新しい軍事技術を獲得するチャンスをもっていたことで、そのうちの一つの勢力が決定的
な優位を占めるわけにいかないことだった(これは前述のネットワーク的商業と関連し、
武器・兵器・傭兵・軍事技術がそれを必要とするところへどこでも流れた)
。
たとえば、スイスの傭兵隊は金を支払ってくれれば、誰のためにも戦った。また十字弓
の生産地は一つでなかったし、大砲にしてもマスケット銃にしても同じだった。初期の青
銅砲にせよ、もっとあとの安い鋳鉄砲にしろ、あちこちで製造されていた。こうした火器
はウィールド地方(イングランド南東部)
、中央ヨーロッパ、マラガ(スペイン南部の都市)、
ミラノ、そしてのちにはスウェーデンなどの鉱山の近くでつくられていた。
同様に、造船業もバルト海や黒海をのぞむ各地の港でさかんだったから、一つの国が海
軍力を独占するとことは困難だったし、海の向こうにある武器製造の中心地を征服し、滅
85
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ぼすことも難しかった。ヨーロッパでは多くの政権が競いあっていて、たいていの国が独
立を維持するだけの軍事力を所有するか、所有する力があったのだが、そのうちどれをと
っても、大陸全土を制圧するほどに突出した力を獲得することはできなかったのである(そ
れだけの軍事力を得るには、まず、経済力を得る必要があったが、前述のように経済力・
商業力はヨーロッパではネットワーク的・分散的であった。史上初めてそれだけの経済力
をもったのは、産業革命後(19 世紀)のイギリスであった。そのときイギリスは世界の覇
権を握った)
。
結局、ヨーロッパ諸国が分立し対立しあっていたために(1500~1800 年のヨーロッパは
相互に多くの戦争をしあった)
、統一された「武力による帝国」が生まれなかったが、その
戦争の過程で軍事技術は飛躍的に進歩していった。
もし、16 世紀から 17 世紀のはじめまでにヨーロッパの専制君主が、中国の明帝国の大部
隊やオスマン帝国の強大な軍隊とぶつかれば、たちまち蹴散らされただろうが、その後は、
軍事力のバランスが急激に西欧へと傾いていったのである。
ヨーロッパが伸びた第 5 の理由は、第 4 の理由と同じことであるが、ヨーロッパ絶対王
政国家の軍拡競争で軍事技術の技術進歩が格段に進んだことである。
東洋やイスラムの専制君主国には周辺に競争相手がいなかった。それに対してヨーロッ
パでは、図 28(図 13-10。P78)のように、10 ヶ国ぐらいの絶対王政国家があって、いず
れも優るとも劣らぬ競争相手が分立していた。都市国家や、更に大きな王国同士が原始的
なかたちで軍拡競争をはじめたのである。このいわば自由競争体制のもとで、各傭兵隊長
は競って仕事にありつこうとし、同時に職人や発明家は製品を改良して、新しい注文をも
らおうと必死になった。
15 世紀初め、
(火薬が中国からイスラムを通してヨーロッパに伝播し)大砲が初めて用い
られたとき、その大砲は、西欧とアジアでは設計的にも有効性にもおいても、ほとんどち
がいがなかった。巨大な鍛鉄の筒から轟音とともに石の弾丸を発射すれば、たしかに脅威
を与えただろうし、それなりの効果もあった(1453 年、オスマン帝国は大砲でコンスタン
ティノープルの城壁を攻撃させた)
。だが、その後、つねに武器を改良しようと努力する意
欲があったのは、ヨーロッパだけだった。
ヨーロッパ人は火薬の性能を高め、小さくて(同じような強力な)大砲をつくろうと青
銅や錫の合金を使い、砲身や弾丸のかたちや材料、砲台や砲車に工夫をこらしつづけたの
である。この努力のおかげで、武器の能力と移動性は大幅に向上し、その所有者は非常に
強力な要塞でさえも攻め落とすことできるようになった。たとえばイタリアの都市国家は、
1494 年にイタリアに侵入してきたフランス軍が恐るべき青銅製の大砲を装備していること
を知って肝をつぶした。そして、当然のことながら発明家や学者の尻をたたいて、この大
砲に対抗できるものをつらせようとした。
これに対して、明では政府が大砲を独占していたし、インドのムガル帝国で権力を握っ
た支配者たちも武器を独占していたから、いったん覇権が確立してしまえば、ムガル帝国
86
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の軍隊の指揮者は、周辺の遅れた人々(槍で立ち向かってくる相手)を相手にしていたの
で、武器を改良する必然性がなくなった。オスマン帝国のイエニチェリ(新軍。世界初の
火器で武装した先鋭部隊だった)が、中世と近世の境目であった 1453 年にコンスタンティ
ノープルを大砲で陥落させたときは、東洋,イスラム、ヨーロッパを通じて、最新鋭の部
隊だったが、中東からバルカン半島、地中海を征服すると、イエニチェリは昔ながらの戦
闘方法に固執してあまり武器に関心をもたず、気づいたときにはすでに手遅れで、ヨーロ
ッパに追いつくことができなくなっていた。
ロシアもヨーロッパであるが、16~17 世紀の政治的統一と成長の段階では、地理的に西
欧からはるかに離れたところにあった。そのロシアもスウェーデン、デンマーク、ポーラ
ンド、リトアニアなどの北欧諸国との衝突を繰り返し、何度も痛い目にあって(たとえば、
ピョートル大帝も最初は破れた)軍事力が強化された。ここでマスケット銃と大砲を手に
入れたので、ロシアは、長い間の懸案だったアジア平原の騎馬民族の脅威を永久に排除で
きるようになった(中世までモンゴルなどの騎馬民族にたびたび侵略された)。
ロシアは、スウェーデンやポーランドのように同じ武器をもっている西側への進出は難
しかったが、火器をもっていない軍事力の劣る南(バルカン、オスマン)と東(中央アジ
ア、シベリア)の部族や諸汗国への領土の拡大ははるかに容易だったのでもっぱらこの方
面の侵略を進めた。
【3】ヨーロッパ最初の国際戦争・三十年戦争
三十年戦争への道は、ドイツ(神聖ローマ帝国)の宗教改革の「その後」からはじまっ
た。神聖ローマ帝国、ドイツには強大な王権による統一国家は生まれず、諸侯割拠の状態
が続いていた。そのような中で、宗教改革の結果生じたプロテスタントとカトリックの対
立は、1555 年のアウクスブルクの和議(宗教平和令)によって解決されたかにみえたが、
それは一時の妥協に過ぎなった。
ヨーロッパの宗教分布は,図 30(図 13-7)のように、プロテスタントはその後も勢力を
北ドイツに拡大し、それに対抗してカトリックのほうもトリエントの公会議(1545~63 年)
で教会の刷新を行って陣営を立て直して、巻き返しをはかった。
その際、アウクスブルクの和議のもつ「聖職者に関する留保」条項が最大の争点であっ
た。それは、聖界諸侯がプロテスタントに改宗すれば、その聖職と所領を放棄せねばなら
ないというのであるが、プロテスタントは、これは帝国等族(帝国議会を構成する聖俗の
諸侯と帝国都市)の同意を得ていないとして、その条項の無効と、既成事実の尊重を主張
した。神聖ローマ帝国、ドイツの帝国議会は紛争を収める力をもたずに麻痺状態となり、
事態は軍事力により決着せざるを得なくなった。
87
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 30(図 13-7) ヨーロッパの新旧宗教分布(1560 年)
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
カルヴァン派のリーダーであるプファルツ選帝侯(現在のドイツのラインラント=プフ
ァルツ州)のイニシアチブのもとに 1608 年「新教同盟」が結成されると、それに対抗して
翌年にはバイエルン侯マクシミリアンによって、オーストリアを除く多くのカトリック陣
営をまとめた「旧教連盟」が結成された。さらに新教同盟の背後には西欧のカルヴァン勢
力とくにオランダ(独立戦争中)があり、旧教連盟に対してはヨーロッパのカトリックの
盟主を任ずるスペインが後押ししていた。
◇三十年戦争の勃発
ボヘミア王に選出されたカトリック強硬派のフェルディナンド 2 世は、新教徒に対する
弾圧を始めたので、1618 年、弾圧に反発した新教徒の民衆がプラハ王宮を襲い、国王顧問
官ら 3 人を王宮の窓から突き落とすというプラハ窓外投擲(とうてき)事件が起った。フ
ェルディナンド 2 世は、これを受けてボヘミアへ派兵した。これが三十年戦争の始まりと
なった。
この三十年戦争は、アウグスブルクの和議から、半世紀近くたった神聖ローマ帝国の一
角でこの新旧教徒の争いから、三十年も続く前代未聞の国際戦争となってしまった。この
戦争は図 31(図 13-23)のように、ヨーロッパのほとんどの国をまきこんだ最初の国際戦
争だった。
その戦争は、主として神聖ローマ帝国を舞台として、4 つの段階に区分することができる。
88
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 31(図 13-23) 三十年戦争の参戦国
この 4 段階にわたる戦争は、それぞれハプスブルク帝国に対抗する勢力ないしは国家の
名前をとって、第1段階:ボヘミア・ファルツ戦争(1618~23 年)
、第 2 段階:デンマーク・
ニーダーザクセン戦争(1625~29 年)
、第 3 段階:スウェーデン戦争(1630~34 年)
、第 4
段階:フランス・スウェーデン戦争(1635~48 年)と称されているが、具体的な戦争の状
況は省略する。
◇ウェストファリア条約とウェストファリア体制
和平条約の国際会議は、現在のドイツのノルトライン・ウェストファリア州にあるミュ
ンスターに、イングランド、ポーランド、ロシア帝国、オスマン帝国を除いた全てのヨー
ロッパ諸国が参加していた。ヨーロッパ諸国とドイツの諸邦の君主が総計 194 人、全権委
任者 176 人が集まり、ヨーロッパの諸問題とドイツの国内問題が協議された。まさしくそ
れはヨーロッパで最初の国際会議であった。3 年にわたる交渉の結果、1648 年 10 月 24 日
にウェストファリア条約が結ばれ、ここに 30 年、1 世代にもおよんだ世紀の大戦争が終結
した。
ウェストファリア条約は、近代における国際法発展の端緒となり、近代国際法の元祖と
もいわれている条約である。その主な内容は、以下のとおりである。
89
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ドイツの国内問題としては、宗教問題と帝国国制の問題が重要であった。
◎そもそも戦争の発端となった宗教上の結論は、アウグスブルクの和議の内容を再確認し、
カルヴァン派を新たに容認した。宗派的対立の原因であった「聖職者に関する留保」条項
は破棄され、1624 年を標準年と定め、その時点での宗派の分布が基準とされた。議会及び
裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された。
◎神聖ローマ帝国内の領邦は主権と外交権を認められた。皇帝と帝国等族の二元主義は大
きく後者に傾き、
「ドイツの自由(すなわち帝国等族の自由)
」が国是となった。一方、
皇帝は、法律の制定、戦争、講和、同盟などについて帝国議会の承認を得なければならな
くなった。
戦争で勝利した側では、
◎フランスは、アルザス地方と、ロレーヌ地方のメッツ、トウール、ヴェルダンを獲得し
た(これから延々と続く独仏の争いの種がまかれた)。フランスの勢力は部分的にはライン
川まで進出した。
◎スウェーデンは、フォアポンメルン公位、ヴィスマール市、ブレーメン公位、フェルデ
ン公位などを獲得して、オーデル川、エルベ川、ヴェーザー川の河口をおさえ、帝国議会
の議席を得た(スウェーデンは大陸に進出した)
。
◎スイス、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、独立を承認された(神聖ローマ帝
国からの離脱を確認)
。
◎ブランデンブルク選帝侯(のちのプロイセン)は、ヒンターポンメルン公位を獲得し、
ザクセンとならぶ北ドイツの雄として登場することなった。
このウェストファリア条約の結果は、神聖ローマ帝国という枠組みを超えて全ヨーロッ
パの情勢に多大な影響を与え、その後のヨーロッパの国際情勢を規定することになった
(1789 年のフランス革命に至るまでの約 150 年間)
。
三十年戦争がヨーロッパ史上最初の近代的な国際戦争であったとすれば、それを終結さ
せたウェストファリア条約(1660 年のピレネー条約も含めて)は、ヨーロッパ史上最初の
多国間の国際条約であったといわれる。その意義を強調するかのように、たとえば 20 世紀
のヴェルサイユ条約と対比して、ウェストファリア条約が作り出したヨーロッパの新しい
国際秩序を、「ウェストファリア体制」と呼ぶことがある(三十年戦争後のウェストファリ
ア体制、次がナポレオン戦争後のウィーン体制、第 1 次世界大戦後のヴェルサイユ体制、
第 2 次世界大戦後のサンフランシスコ体制(国際連合体制)となる)
。
《三十年戦争の影響(ウェストファリア体制)―最後の宗教戦争だった》
ウェストファリア条約後のドイツ地方は、大国はもちろん、都市国家規模の自由都市や
小国までもが独立国としての権威を獲得した。三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけ
ハプスブルク家の敗北によって終わった。この条約で新教徒(とくにカルヴァン派)の権
利が認められ、帝国議会や裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が定められ
たこと、またカトリックの皇帝が紛争を調停する立場にあるわけではないことが確定した
90
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ことで、ドイツでは紛争を平和的に解決する道が開かれた。このため最後の宗教戦争とも
言われている。
《ドイツ領邦国家の分立が確定した》
神聖ローマ帝国は、皇帝・8 選帝侯・96 諸侯・61 自由都市の連合体となり、この後も、
実態のない名ばかりの国家として亡霊のごとく生き続けることとなった(1806 年にナポレ
オン・ボナパルトによって滅ぼされるまで存続しつづけた)
。ドイツは、帝国内の領邦に主
権が認められたことにより、300 におよぶ領邦国家の分立が確定した。
神聖ローマ帝国の組織は保存され、それら領邦国家の保存・平和的な紛争解決手段とし
て活用されることとなった。皇帝の権利は著しく制限され、いわば諸侯の筆頭という立場
に立たされることとなった。これにより、ハプスブルク家は依然として帝国の最有力諸侯
として帝位を独占したものの、帝国全体への影響力は低下し、自らの領地であるオースト
リア大公国やボヘミア王国、ハンガリー王国などの経営に注力せざるを得なくなった。
《戦争の規模も被害も拡大し、その性格も変った》
三十年戦争の社会・経済的影響は甚大なものがあった。何よりもそれを顕著にあらわし
ているのが、人口の減少である。ドイツ全体では戦前の約 1600 万人からいまや 1000 万人
となり、約 3 分の 1 減少した。メクレンブルク、ボメルン、テューリンゲン、プファルツ、
ヴュルテンベルクなどでは被害がとくに多く、半分以上の減少であった。もとより人口減
は、死亡者の数をあらわしているとは限らず、他地方への逃散もそこには含まれているが、
それにしても人口減の割合は第 1 次、第 2 次の世界大戦の犠牲よりも大きかった。
直接的な戦闘による被害は、確かに戦線が北上・南下しドイツの大部分が巻き込まれた
ので大きいものがあったが、これがすべてではなかった。むしろ軍隊による略奪が人々を
苦しめた。当時の軍隊は傭兵軍で、その維持は多分に現地での課税(略奪)によっていた。
しかも、その際、敵・味方の区別なしに現地で課税され、物資が暴力的に徴発された。当
時の傭兵は,国籍を問わず、ただ給料のみによって雇われたもので、軍人としての規律に
欠け、戦場では略奪・暴行・強姦のかぎりをつくした。
この戦争をまのあたりにしたオランダのグロティウスは、
「わたしはどのキリスト教国で
も、野蛮人も恥じるような無軌道な戦争をみる。戦争がはじまると人間は何の抑制もなく、
どんな罪を犯してもよいと考える」と、今日にも通じる平和を訴え、平時および戦時を問
わず国家が守らなければならない法の存在することを指摘して『戦争と平和の法』
(1625 年)
を著わし,近代国際法学の樹立を主張した。
《国家間の覇権戦争だった……フランスとスウェーデンが勝利した》
三十年戦争は、新教派(プロテスタント)と旧教派(カトリック)との間の宗教戦争と
してはじまったが、その後、宗教戦争はこの戦争の単なる一側面に過ぎなくなった。戦争
の第 2 段階から徐々に国家間の宗教闘争に名を借りた民族対立の側面が露わになり、ヨー
ロッパにおける覇権を確立しようとするハプスブルク家と、それを阻止しようとする勢力
間の国際戦争として展開されることになった(この三十年戦争以降の戦争は、宗教を同じ
91
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
くするからといった抽象的な大義名分ではなく、政治的決定に際しては現実政策が重視さ
れるようになり、極端にいえば、戦争ごとに組み合わせを変えて戦争が行われるようにな
る)
。
この反ハプスブルク勢力の中にはカトリック教国であるフランス王国も加わっていた
(つまり、旧教国のフランスが新教国側に加わったのである)。ブルボン朝の支配を確立し、
フランスの勢力拡大をねらう宰相リシュリューは、デンマークとスウェーデンのドイツ情
勢への介入を裏で手引きし、第 4 段階には直接軍事介入によって実力でハプスブルク帝国
をねじ伏せようとした。
もし、ドイツでハプスブルク家の支配が確立されれば、ハプスブルク家が支配するスペ
インとドイツに挟まれたフランスにとって大きな脅威となり,ブルボン朝の支配が揺るが
される危険性があった。ブルボン朝の安泰のためには,ハプスブルク家のドイツ支配は何
としてでも阻止しなければならなかったのである。
《覇権国家となったフランス……ルイ 14 世の侵略戦争時代》
フランス王国はカトリックでありながら戦勝国となった。ハプスブルク家の弱体化に成
功した上、アルザス・ロレーヌを得た(ここで戦争による領土獲得の味をしめた)フラン
スは、以後ライン川左岸へ支配領域の拡大をはかり、侵略戦争を繰り返すことになった。
スウェーデンもこの条約でバルト海沿岸部に領土を獲得し、その一帯に覇権を打ち立てた。
以後のヨーロッパは絶対王制国家間の戦争が繰り返されるようになった。
【4】近世ヨーロッパの兵器革命
政治の世界で武力が最後にものをいうのは、古今東西同じであった。近世の軍事力に変
化のきっかけがあったとすれば、それは画期的な火器の発明であったことは容易にわかる。
一般に火薬、羅針盤、活版印刷術をルネサンスの 3 大発明という。しかし、これらはヨ
ーロッパでは、ルネサンス期に実用化されたのであってルネサンス自体とあまり関係があ
るわけではない。また発明という点では羅針盤も火薬も、実は活版印刷術も早くから東洋
で実用化されていたので、現在では「3 大改良」という場合もある。
しかし、
「3 大改良」は、その後のヨーロッパで「創造と模倣・伝播の原理」で急速に普及・
改良が進んだ。羅針盤の改良は、もう少し広い航海術全体の改良となって、大航海時代の
幕開けにつながることになった。活版印刷術はルネサンスの書類や宗教改革の宗教書に出
版革命をもたらした。火薬は大砲、小銃の発明と攻城技術の変化となり、ヨーロッパの戦
争を一変させる兵器革命さらには軍事革命を引き起こすことになった(これが将来、ヨー
ロッパとアジア、イスラムとの軍事力の大きな差となり、植民地時代への道をひらくこと
になる)
。
ここでは兵器革命さらには軍事革命に関連あるものだけを記す。
◇火薬の普及と銃砲の発明
火薬も中国で発明され、その知識はイスラム世界を経由して、ヨーロッパにもたらされ
92
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たが、ヨーロッパで火薬の応用として銃砲が発明され、これがたちまち、実戦に使われる
ようになった。
《大砲の進歩》
オスマン帝国は、1453 年のコンスタンティノープル包囲戦で大砲(ウルバン砲)を採用
して戦果を上げたといわれているので、中国からイスラムへ技術伝播したことも確かであ
る。この後もオスマン帝国は同等の大型大砲を多数鋳造し、ヨーロッパ各国に恐怖を覚え
させた。
戦争の恐怖に絶えず脅かされていたヨーロッパでは、これを凌駕する大砲を開発しよう
と努力した。ヨーロッパ人は火薬の性能を高め、小さくても(同じように強力な)大砲を
つくろうと青銅の合金を使い、砲身や弾丸のかたちや材料、砲台や砲車に工夫をこらし続
けた。
早くも 1494 年にフランスのシャルル 8 世がナポリ征服のために侵攻してきたときに、イ
タリアの都市国家はフランス軍が恐るべき青銅製の大砲を装備していることを知って肝を
つぶした。これがその後、半世紀も断続的に続く仏独のイタリア戦争の始まりであったが、
このような戦争で兵器技術が格段と進歩した。この牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲が、
旧来の高い城壁を簡単に粉砕してしまった。そして、当然のことながら、為政者は発明家
や学者の尻をたたいて、この大砲に対抗できるものをつくらせようとした。と同時にその
ような大砲で攻撃されても耐えられる築城技術の研究も進められた。
それから 4 半世紀の間に、イタリア人の一部は城壁の内側に更に土塁を設けると敵の砲
撃の効果を減らすのに有効だということを知った。この土塁の前に深い溝を掘り、入りく
んだ稜堡を築いて、そこからマスケット銃や大砲の弾丸を浴びせることができるようにす
れば、包囲した歩兵部隊をほとんど寄せつけない砦ができることがわかった。こうしてイ
タリアの都市国家は再び安全を取り戻すことができた。つまり、強力な矛には強力な盾で
対応できるようになったということである。
また 1571 年のレパントの海戦におけるスペインを中心とした連合軍による地中海の覇者
オスマン帝国の撃破には、大砲の火力も大きく貢献した。その重砲のスペイン無敵艦隊も、
1588 年には、射程が長く弾の再装填がしやすい軽砲を用いたイングランド海軍に撃破され
るなど、海上でも大砲の技術進歩が激しかった(このように戦争のたびに、新兵器(進歩
した兵器)が現れ、それを駆使した側が勝利を収めた)
。
17 世紀前半のドイツ三十年戦争(1618~48 年)では、各勢力が野戦に適した牽引砲を使
用し、ドイツの国土や都市を荒廃させた。スウェーデンの王グスタフ・アドルフは大砲の
軽量化を推し進め、効果的に運用し、戦闘のみならず、戦争全体に革命を起こしたといわ
れている。戦争で大砲の比重が高まるにしたがい、都市と人間の被害も大きくなっていっ
た。
このようにヨーロッパでは、戦争の技術が加速度的に進歩するようになったのである
(1500 年から 1945 年までヨーロッパは、ほとんど戦争の連続であり、戦争技術(兵器技術)
93
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
が東洋、イスラムを圧倒するのは当然であった)
。
《小銃の登場》
銃の誕生には諸説があるが、戦史上初めて登場したのは、1420 年代初頭のフス戦争にお
いて、ボヘミアのフス派の軍隊がマスケット銃を組織的に運用し、ローマ教皇と神聖ロー
マ皇帝の騎士を主体とした軍隊を破ったことが上げられている。これによってヨーロッパ
の戦争に火器が登場し、急速に発達することになった。
戦争技術は、「創造と模倣・伝播の原理」により、より速く伝播するといったが、オスマ
ン帝国のイエニチェリ(新軍)は銃を主兵器とする軍団で、1473 年に白羊朝(14~15 世紀
の東部アナトリアのトルコ系イスラム王朝)の遊牧騎馬軍団を、1514 年にはイランのサフ
ァヴィー朝のキジルバシ騎馬軍団を破っている(中世のユーラシア大陸を席巻したモンゴ
ルなどの騎馬軍団(騎馬と弓術を得意とした)の時代が去ったのは 1500 年前後の小銃・大
砲などの火器の普及に関連することは述べた)。
イタリア戦争のさなか、1503 年のチェリニョーラの戦いでスペイン軍は史上初の塹壕と
小銃部隊でもってフランス軍騎馬軍団に大勝した。1526 年、インド進出を試みたバーブル
は 1 万 2000 という兵力でインダス川を渡河し、パーニーパットの戦いで、10 万の兵と 1000
頭の象軍を率いてあらわれたインド・デリー朝のロディー軍を鉄砲や大砲で迎え撃ち、1 万
5000 人以上をこの戦闘で倒し、バーブルによるムガル帝国建国のきっかけとなった。
ご存知のように日本には、1543 年にポルトガルから種子島に火縄銃と火薬が伝えられた
が、当時の日本は高い鉄の精錬技術と鍛鉄技術(刀鍛冶)を有していたので、またたく間
に、火縄銃の大量生産が行われ、早くも 1575 年の長篠の戦いでは、織田信長が大量の鉄砲
(3000 挺といわれている)を用いることで武田騎馬軍団に大勝している。
このように銃砲による戦争は、またたく間に,ヨーロッパから、イラン、インド、東洋
の島国まで伝播し、政治的統合を速めることになった。
銃の進歩はその後も進み、すでに 1540 年には現在の拳銃の原型が開発され、1650 年代に
は火縄式(マッチロック式)から火打ち式(フリントロック式)に変わり、片手で操作で
きる方式が発明されると、 馬上射撃用としても普及し、抜剣突撃戦術と併せて騎兵は再び
打撃力を回復した。
これらの新兵器は、16 世紀初頭から始まったヨーロッパ人による海外進出、いわゆる大
航海時代にも携行され、植民活動や同業者との争いに用いられた。とくに金属製の剣や銃
は金属技術をもたない新大陸(南北アメリカ)の文明を圧倒し、征服者側の数的な劣勢を
くつがえし、新大陸のいくつかの文明を短期間に滅ぼす要因ともなった(銃以上にヨーロ
ッパ人が持ち込んだ病原菌が原住人を滅亡させることもあった)
。
これから、新兵器によって脅し、屈服させ支配する、屈服しなければ絶滅させるという
人類古来の野蛮な支配方法がヨーロッパから世界に押し広げられていった。
◇その後の兵器技術進歩
ルネサンス期に進歩した銃砲技術はその後も進歩していった。
94
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
青銅製の大型大砲製造技術は、伝統的にイタリア人が握っていた。なぜイタリア人が青
銅鋳造技術を独占していたのか、それは、長らく教会の鐘を作り慣れていたからであった。
《イギリス》
しかし、その後、小型の鉄製大砲の鋳造技術は完全にイギリスに握られるようになった。
イギリスの鉄製武器の製造は、15 世紀の終わり、テューダー朝の開祖ヘンリ 7 世によって
初めて試みられた。彼はバラ戦争で白バラのヨーク家を武力で破り、王位を奪取したが、
その後も反乱が多く、彼は人一倍、武器開発には熱心で、フランスの技術者を招き、技術
導入しながら鉄製武器の生産を奨励した。このころのイギリスにはまだ森林が多く、木材
燃料が豊富で、かつ鉄鉱脈にも恵まれていた。ヘンリ 7 世は高価な青銅から安価な鉄製品
に代用させようとした。
ヘンリ 7 世を継いだヘンリ 8 世の時代になってから鋳鉄砲が初めて試作された。ニュー
ブリッジの王立製鉄所のラルフ・ホッジという職人が溶鉱炉から銑鉄を作る技術を開発し、
上質の鋳鉄砲を作ることに成功した。これがサセックスの鉄鋼業のルーツとなった。
当時、私掠船の発達によって大砲の需要は増し、これに対抗する商船も大砲で重武装す
るようになり、大砲の需要は一挙に増大した。この大型砲の需要で、各地に溶鉱炉が建設
され、エリザベス朝の 1570 年代には合計 9 つの溶鉱炉がフル稼働していた。イギリス製の
大砲は、鉄製大砲にありがちな砲身の炸裂がなく、小型で威力が高かった。
確かに、もろさの点で鉄製武器は、青銅製武器におよびもつかなかったが、値段が安く、
青銅製の 3 分の 1 ないし 4 分の 1 であった。武力衝突を繰り返す大陸諸国家にとって、消
耗品となった武器が大変安いということは魅力で、売れに売れ、鉄製武器は次第にイギリ
スの重要な貿易品となった。
こうして、イギリスは 16 世紀の後半、突如として武器大国に変貌した。そして、それは
新たな武器技術の幕開けであった。鉄製武器はイギリスの軍事海洋大国への道であり(1588
年にスペイン無敵艦隊を破った)
、軍事産業への、また、産業革命への兆しでもあった。
イギリスの鍛冶職人が引っ張りだこになり、かなりの技術者が大陸に渡ったので、エリ
ザベス女王は、ラルフ・ホッジに鉄製大砲製作の独占権を与え、他の鍛冶職人の密造を禁
じた。しかし、他の鍛冶職人が密造し、その製品をスウェーデン、デンマーク、フランス、
スペイン、フランドルへ密輸するのを防ぐことができなかったので、1574 年、エリザベス
女王は、大砲の輸出禁止令を布告した。これが最初の戦略物資の禁輸措置であったといえ
る。
《オランダ》
そのため、各国はそれぞれ模倣製造を行わざるを得なくなった。このころ海洋貿易の覇
者であったオランダは(オランダ独立戦争中でもあった)、イギリスから安い鉄製の大砲を
大量に輸入していたが(イギリスをはじめ各国の私掠船から自らを防衛しなければならな
かった)
、1574 年の無差別の大砲禁輸令で大いに困り、オランダは自国内に大砲鋳物工場を
建設することを余儀なくされた(このように、オランダは、エリザベス女王の特許を受け
95
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たドレークなどの私掠船と特許を受けた鉄製大砲の両面で窮地に追い込まれた)
。
そもそも、技術的にはイギリスより、オランダの方が先輩であり(オランダが最初の加
工貿易の産業国家となっていた)
、イギリス人にできて我々にできないはずはないと考えた。
その結果、たくさん武器製造会社がアムステルダムなどの主要都市に林立し、それを統
括するための方策が必要になってきた。オランダが考えた手は、イタリアと同じようにオ
ランダでも近代的な特許法を成立させ、これによって武器製造の促進をはかったのである
(銀行、株式会社などとともに近代的な特許法もイタリアで創造された)
。
《スウェーデン》
オランダの武器工場は、青銅製銃器の製作と鋳鉄製のものの試作をおこない、二面作戦を
とることにした。オランダ本国では高級で付加価値の大きい青銅製銃器を製作し、海外で
鉄鉱石が豊富で燃料材が潤沢なところに鋳鉄職人を派遣し技術指導して、安価で大量生産
が可能な鉄製大砲を作ることにした(製鉄には大量の薪炭が必要だった)
。オランダが最も
ふさわしい海外生産地として目をつけたのはスウェーデンであった(スウェーデンには豊
富な薪炭があった)
。こうしてオランダはスウェーデンに直接投資を行い、スウェーデンで
鉄製大砲の半製品をつくり、それをオランダ本国へ運んで、加工をほどこし完成品として売
った。
しかし、「創造と模倣・伝播の原理」で、スウェーデンは、またたく間に技術吸収を終え、
17 世紀には急激な技術革新に成功し、ヨーロッパきってのハイテク国として急浮上した。
とりわけ、1648 年に終わった三十年戦争で戦勝国になり(グスタフ 2 世アドルフの活躍も
この大量の大砲に支えられていた)
、北欧における軍事強国の地位も揺るぎのないものとし
た。
これでイギリス、オランダ、スウェーデンが武器産業国となった。スウェーデン製鉄製
大砲のほとんどはオランダに輸出された。しかし、製鉄には膨大な木材燃料が必要であり、
イギリス製は燃料費が高騰したため採算があわなくなった(すでに 16 世紀末、エリザベス
女王は森の無秩序な乱伐採を禁止した)
。そこで、イギリスもスウェーデンから大砲を輸入
するようになった。
かつての兵器独占生産国イギリスでさえも、環境問題には勝てず、鉄製大砲を輸入する
ようになった。当初はアムステルダムを経由して輸入されていたが、次第にスウェーデン
から直接輸入されるようになった。1670 年頃には、スウェーデン製大砲は、イギリス製と
まったく品質の点で差がなくなったといわれるようになった。
《フランス》
フランスでも、創造的な人間が出てきた。砲兵士官で技術者のグルボーバル(1715~1789
年)が出て、大砲に改良を行い、野戦での機動性が飛躍的に増したグリボーバル・システ
ム(1765 年制定)を生み出してから、フランスは陸軍大国となった(このお陰を最も受け
たのが砲兵隊からのし上がったナポレオンだった)
。当時、砲身は粘土の鋳型で作られてい
たが、出来上がった内腔は完全な円筒ではなかった(これでは爆発ガスがもれてしまう)。
96
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そこで、砲身全体が固定された強大なドリルビットに対して回転し、重力と歯車を利用
して切削部を前進させ、内側を切削した(これは後の工作機械の中ぐり盤の原理)。製造さ
れた砲腔と砲弾の公差は十分に小さく、砲身も薄く作成できたが射程を犠牲にすることは
なかったし、正確さを犠牲にすることなく砲身を短く出来た。短く、かつ薄い砲身は大砲
の軽量化をもたらした。グリボーバルは砲車の改良も行い、野戦での機動性を著しく高め
た。グリボーバルは、大砲をいくつかのサイズに標準化し、のちの製造技術に大きな影響
を与えることになった(互換性の考えの導入)。
この大砲が威力を発揮した最初は、アメリカ独立戦争の帰趨を決めたヨークタウンの戦
い(1781 年)であった(フランスはアメリカと同盟していた)。その後のフランス革命やナ
ポレオン戦争でも大いに使用された。
いずれにしても、このようにヨーロッパでは兵器(武器)の開発競争が起こって、兵器
(武器)の進歩が加速されていって、近世後半には東洋やイスラムの世界とは別次元の世
界に入っていった。
《海の上の兵器革命》
中世後半には造船業も海軍力もヨーロッパとイスラム世界、そして東洋で大したちがい
がなかった。中国の鄭和艦隊のインド・アフリカへの大航海やオスマンの艦隊がすみやか
に黒海や東地中海へ進出したことを考えれば、1400 年から 1450 年頃の人々は、この二つの
大国の海軍力の発展を予想するのは当然だっただろう。それに対して、ポルトガルの探検
家は 1490 年代にインドに達してはいたが、その船はまだ小さく(300 トンくらいのものが
多かった)
、すべてが武器を装備していたわけでもなかった。
しかし、ヨーロッパの世界進出が始まったとたんに、海軍の技術進歩が始まった。先行
するポルトガルとスペインの 2 国だけで全世界を独占することはできず、1560 年代にはす
でに、オランダ、フランス、それにイギリスの艦隊が大西洋を越えているし、それから少
しのちには、インド洋から太平洋に達している。熾烈な競争は海の上での軍事技術の競争
をもたらし、東洋やイスラムの海軍力をはるかに超えるようになるのは時間の問題であっ
た。
海の上の兵器革命は、結局、小型で強力な大砲の性能と数によるので、前述したように
イギリス、オランダ、スウェーデンなどが強力となっていった。
たとえば、イギリス(スコットランド)のカロン社で 1776 年に開発されたカロネードと
呼ばれる射程の短いずんぐるした艦砲は軍艦の破壊力を飛躍的に高めた。近距離用として
設計されたカロネード砲は砲身が半分以下であったので、従来のものと比べ軽量になって
おり、1 台あたりの砲員が少なくすみ、砲弾の装填速度も向上した。また、大きい砲弾が打
てるように口径が大きめに作られていたので、従来よりも強力な重砲弾が撃てて、その威
力はすさまじく「粉砕者」のあだ名が付けられた。
通常、運搬の際にだけ取り付けられた砲車が軽量化により取り付けたまま船体に固定す
ることも出来るようになり、運搬が容易になった。そのため、より多くの砲を軍艦に積載
97
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
することが出来るようになり、カロネードは導入当初はその圧倒的な火力が魅力となり、
イギリス海軍に積極的に配備されていった。1805 年のトラファルガーの海戦では、イギリ
ス海軍の戦列艦に載せられ、フランス・スペインの連合艦隊を撃破する大勝に貢献した。
このように戦争とはネルソンとかナポレオンとかの軍事的天才だけで勝てるものではな
く、ましてや、
(のちの日本国のように)神風に頼るものではなく、それを裏付ける軍事技
術なり装備なりがなければならない時代(つまり、それだけの経済力と技術力、というこ
とは国民の支持が必要)になってきたのである。
【5】戦争の大規模化と軍事費(金融)革命
ルネサンス期のイタリア戦争のとき、イタリア人は防御技術にも創造力を発揮し、城壁
の内側にさらに土塁を設け、この土塁の前に深い溝を掘り、入りくんだ稜堡を築いて、そ
こからマスケット銃や大砲の砲丸を浴びせることが出来るようにすることによって、包囲
した歩兵部隊をほとんど寄せつけない砦ができるようになったことは述べた。こうした複
雑な砦を築いて守らせるだけの人力を動員できた国家の防衛力は向上した。
これによってオスマン帝国の攻撃もかわすことができたし(ウィーン包囲戦は 2 度とも
オスマン帝国を撤退させた)
、マルタや北部ハンガリーのキリスト教騎士団も攻められなく
なった。たとえば、開けた平野で歩兵隊が圧勝したとしても、敵が防備の固い要塞に立て
こもってしまえば、勝敗を決することは容易ではなくなった。包囲戦では攻める方に戦争
が長引き多大の費用がかかるようにようになったのである。
アレクサンドロス大王やジンギス・カンのところで述べたように、一般的に武器技術や
戦法に飛躍的な変化があれば、それを握ったものによって、対立するすべての集団や国が
蹂躙され、一気に平定されてしまうのが普通だった。現に 1450 年から 1600 年までの期間
にも、
「武力による帝国」が世界各地で建設された。オスマン帝国、モスクワ公国(ロシア
帝国)
、インドのムガル帝国、中国の清帝国など、銃や大砲を手にしてあらゆる競争者を屈
服させた指導者が強大な国家を急速に築いていった。
しかし、ヨーロッパではこれが起きなかった。中世末期から近世前期のヨーロッパの絶
対王政は、どこよりも戦争を多くして、どこよりも戦争技術が発達していたから、画期的
な発明によって 1 国がすべての競争相手をしのぐような事態は起こらなかった。つまり、
画期的な武器や防護法が出ると、その相手がたちまち、それを模倣して次の戦いにその戦
法、その武器を使用してお返しをするので決定的な勝敗が不可能になるのである。ヨーロ
ッパの近世では、実に多くの戦争や戦闘があり、それについて記してきたが(『自然の叡智
人類の叡智』に記した)
、1 回の大会戦というようなことはありえなかった。
ただ一貫していえることは,時代と共に兵器や戦術の高度化にしたがって、戦争の規模
が大規模化してきたことである。前述したような稜堡を築いた要塞を攻撃し、あるいは包
囲するには、大規模な軍隊が必要だった。もちろん、かなり多くの騎兵と砲兵も動員され
はするが、主要な戦力は圧倒的に歩兵連隊にとって代られた。
98
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たとえば、神聖ローマ帝国(ドイツ)の 1529 年以前のイタリアをめぐるフランスとの戦
争で、いかなる国も 3 万人以上の兵士を投入したということはなかったが、神聖ローマ帝
国とスペイン王を兼ねていた皇帝カール 5 世は、1536 年のロンバルディアだけで 6 万人の
兵を動かし、1552 年のネーデルランドだけで 10 万 9000 人、ロンバルディア、シチリア、
ナポリ、スペインを含めると 15 万人にのぼった。1625 年のフェリペ 4 世の率いる軍隊は
30 万人、17 世紀末のルイ 14 世は 50 万の兵を動員していた。これらの軍隊で実際に数が増
えたのは歩兵、とくに重装歩兵だった。
戦争の大規模化は、必然的に軍事費の増大をもたらした。その典型例が、やはりカール 5
世であり、新大陸から上がってくる金銀(それは中南米の何百万という先住民の命を犠牲
にして得られたものだった)を湯水のごとく、すべてつぎ込んだが、それでも足りなかっ
た。皇帝は次から次へと新たな借金をしなければならず、皇帝の信用が低下するにつれて,
銀行家が要求する利子は高くなる一方で、定期収入のほとんどは過去の債務の利子支払い
に消えていった。
カール 5 世を継いだスペイン王フェリペ 2 世は 1557 年には、ついに破産宣告を余儀なく
された。敵方のフランスもまた同じ年に破産した。このため、両者は 1559 年にカトー・カ
ンブレジでの和平交渉に合意することになった。以後、スペインもフランスもたびたび破
産宣告を出したが、戦争はあいかわらず続いていた。両者はますます、銀行の信用を落と
していった。
◇資金力の競争―金融革命
戦争が大規模化し、その費用をまかなうという問題はすべての国に共通していた。どう
して戦争の費用をまかなうか、それが次の問題だった。つまり、次の段階では資金力の競
争となったのである。それに知恵を出し、いち早く成功したのがイギリスだった。
イギリスは、1694 年にイングランド銀行が創設されて(当初は戦時支出をまかなうため
だった)
、その少しあとには、図 32(図 13-36)のように、国債の発行が定期的になるとと
もに、株式市場が活発化し、
「地方銀行」が成長して、政府と事業家の双方に多額の資金を
提供するようになった。これを「金融革命」といっている。
このような効率よく長期的資金を調達すると同時に、債務の利子(および元金)の支払
いが定期的に行われる仕組みができたので、イギリスでは、図 32(図 13-36)のように、
それが戦時には国力を強化し、平時には政治的安定と経済成長の支えとなるようになった
のである。
18 世紀の紛争を通じて、イギリスもフランスも戦費にあてられる特別財源の 4 分の 3 は
借金でまかなわれていた。この場合、イギリスとフランスの公的信用制度には大きな差が
あり、イギリスには決定的な利点があった(図 33(図 13-17)のように、フランスには大
きなバラツキがあった)
。
イギリスは、その金融上の信用力から、オランダなどからの借金も可能となり、その応
援を得て戦いを続けることができたのである。たとえば、1689 年から 1815 年までイギリス
99
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とフランスが戦った 7 回の戦争も持久戦であったが、7 回のうち、6 回はイギリスが勝利し
た(アメリカ独立戦争のときだけ敗れた)。イギリスが勝利を握ったのは、信用を維持し、
軍事費を調達する能力であった。
図 32(図 13-36) イギリスの公債累積
イギリスのように「金融革命」が成功するには、議会が追加税収入を確保して国家債務
の確実な支払いを保証することが不可欠であった。つまり、国王の気まぐれではなく(絶
対王制国家の国王の強気な発言ではスペインやフランスの二の舞になることはもうわかっ
ていた)、国家の具体的な保証がなければならなかった。掠奪などに頼るのではなく、税収
という安定的な収入に頼らなければならないが、そのためには国民という大衆の支持を得
なければならなかった。そのためには、国民の代表―議会―市民革命―政治形態がかかわ
ってくることになるのである。
その点、イギリスでは市民革命を経てできたウォルポールから小ピットにいたる閣僚が
努力して銀行家をはじめ大衆に働きかけ、健全な財政政策を実施して、「経済的な」政府の
運営につとめ、議会を納得させることに成功した(中世の国王や絶対王制国家の王は議会
100
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を納得させられなかった)
。さらに、イギリスでは経済が着実に拡大し、一部の商業と工業
では驚くほどの伸びを示して(18 世紀後半にはすでに産業革命がはじまっていた)、関税収
入と間接税収入が増大したこともおおいに寄与していた。
図 33(図 13-17) フランスの 17~18 世紀の歳入と歳出
山川出版社『フランス史』
イギリスの国家的な信用のうえに、イギリス政府の国債がオランダ人をはじめとする外
国人にとってますます魅力的な投資対象になり、アムステルダムの市場ではそれらの債券
が恒常的に扱われるようになった。イギリスの人口はフランスの半分であり、税収入の絶
対額でも劣っていたのもかかわらず、税収をはるかに上まわる資金を戦争に注ぎ込み、フ
ランスおよびその同盟国との戦いで動員した艦船や人力に決定的な差をつけることができ、
勝利をおさめることができたのである。
この時代になると、平時でさえ、軍事力の維持に財政支出の 40%から 50%が費やされて
いたのである。戦時にはこの率は 80%から 90%にものぼり、しかも総額もはるかに多くな
った(図 32(図 13-36)の国債発行を行なっていたイギリスの場合)
。こうなると、もう、
一種の総力戦である。ヨーロッパの国内体制は、独裁的な帝国(ロシア、フランス、スペ
インなど)
、権力に枠をはめられた君主の国家(イギリス)、ブルジョワ共和国(オランダ)
とさまざまであったにせよ、ヨーロッパのすべての国が同じ困難に直面していた。
そこで、国民を納得させ、その総力を得やすいような政治体制が有利になっていくのが
時の流れであったといえよう。市民革命によって、議会制度をいちはやく取り入れたイギ
リスが金融革命に成功し、軍事的にも有利になっていったのは当然のことであったとも言
101
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
えよう。19 世紀がイギリスの世紀になったのは必然的であったともいえる。
第 6 章 19 世紀の戦争―植民地獲得戦争の時代
【1】19 世紀(1801 年~1900 年)の戦争
◇19 世紀の世界の歴史
『自然の叡智 人類の叡智』の 19 世紀の世界では、ナポレオン戦争、19 世紀の欧米列強
(ヨーロッパ以外から列強に仲間入りしたアメリカ、日本も記した)
、植民地から独立した
中南米諸国、植民地化されるアジア・アフリカ・オセアニア諸国にわけて、19 世紀の歴史
を述べた。
19 世紀の歴史を一言で述べると、一握りの欧米列強が圧倒的に強くなり、アジア・アフ
リカの発展途上国を植民地化し、世界を支配する帝国主義時代を準備する歴史であったと
いえよう。ここでいう欧米列強とは、イギリス、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、
オランダ、スペイン、ポルトガル、ベルギー、アメリカ、日本などである。
近世のヨーロッパ諸国は 300 年間、多くの戦争を行ない、その結果、近世末から 19 世紀
にかけて、絶対王政国家から国民国家(民族国家)への転換がはかられた。そもそも絶対
王政とは、没落する封建領主と新興の市民(商人、資本家)の勢力均衡の上に成立した過
渡的な政治形態で、やがて、市民の力の増大により均衡が崩れると(イギリスは 1688 年の
名誉革命、フランスは 1789 年からのフランス革命)
、その歴史的役目を終えた。すなわち、
市民を主体とする市民革命によって、絶対主義は滅亡したのである。
その転換点となったのが 19 世紀の最初に行なわれたヨーロッパ中を巻き込んだナポレオ
ン戦争であった。これは最後の絶対王政国家間の戦争ともみられるし、最初の国民国家(民
族国家)間の戦争ともみられる。あるいは 100 年後に起きる第 1 次世界大戦と対比して,
第0次世界大戦であったとみてもよい(現実にヨーロッパだけでなく、アメリカ、アジア、
アフリカの植民地でも戦闘があった)。
その結果できたのがウィーン体制であったが、ほとんどのヨーロッパ諸国では政治及び
軍事の中央集権化が進み、
(イギリスのように立憲君主国もあったが)ふつうは君主(国王)
のもとにこうした権力が集中し、税制が整備され徴税能力が高まり、国民に(民族)国家
意識を持たせ、戦争する国民国家(民族国家)となった。
《19 世紀後半は植民地獲得競争に専念》
ところが、19 世紀はじめのナポレオン戦争以後、19 世紀を通してヨーロッパでは列強ど
うしの戦争がほとんどなかった(列強同士の戦争は、クリミア戦争、普仏戦争程度だった)。
なぜ、ヨーロッパで戦争がなかったか。
近世が終ってみたら、外の世界(東洋やイスラムの世界)より、はるかにヨーロッパ国
民国家の軍事力は(産業革命後は経済力も)
、高いことがわかった。それでは、まず、外の
ほうから征服できるところは征服しよう(それを支配することによってさらに国力を高め
102
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
て次に備えよう)と打って出たのが 19 世紀後半の植民地獲得競争となったのである。この
植民地獲得競争にも列強間の調整が必要であるとして行われたのが一連のベルリン会議で
あった。この 19 世紀後半から 20 世紀初めにかけて、ヨーロッパ外(アジア・アフリカ)
では多くの戦争(植民地獲得戦争)があった。
したがって、ヨーロッパ列強はとりあえず、ヨーロッパでの決着は棚上げにしておき、
世界中で植民地獲得競争を行ない、あらかた獲得するところがなくなって、再びヨーロッ
パに帰って、はじめたのが第 1 次、第 2 次世界大戦であった(そのときは帝国主義といわ
れる、より獰猛な国家になっていたが。これは 20 世紀の歴史で述べることである)。
このような欧米列強を経済的に強化したのは、イギリスからはじまった産業革命の伝播
による工業の興隆であった。この産業革命は石炭をエネルギーにした繊維産業、製鉄業、
機械工業などであったが、19 世紀後半から 20 世紀初めにかけてドイツ、アメリカを中心に
して新しい科学技術をもとに起こった化学、電気、内燃機関(自動車)、鉄鋼、石油などを
第 2 次産業革命としてまとめた。いわば第 1 次産業革命で飛躍したイギリス、フランスな
どを凌駕する産業力をドイツ、アメリカが持つようになった源泉がこの第 2 次産業革命で
あったといえる。
植民地といえば、15 世紀末の大航海時代にいちはやく乗りだしたスペイン、ポルトガル
は、16~17 世紀にアメリカ新大陸やアジア、アフリカに広大な植民地を獲得していたが、
やがて、後続のオランダ、イギリス、フランスにその植民地が浸食されていった。そして
19 世紀のはじめ、ナポレオン戦争でスペイン、ポルトガルが大混乱におちいるとアメリカ
新大陸の植民地では独立運動がおき、1820 年代にほとんどの中南米諸国が独立した。
中南米諸国の植民地が独立したためスペイン、ポルトガルは衰えたが、前述したように、
欧米列強が新たに植民地活動に進出してきたのでアジア・アフリカ・オセアニアの災難は
19 世紀後半に本格化して 19 世紀末には帝国主義時代に突入することになり、列強国以外は
ほとんど植民地化(84%)されるという人類社会始まって以来の異常事態になった。
この 19 世紀の主な戦争を記すと以下のようになる(☆印は『自然の叡智 人類の叡智』
に記しているもの。★印は欧米列強とアジア・アフリカなどの途上国との戦争(いわゆる
植民地獲得戦争)
。19 世紀の戦争の 6 割がいわゆる植民地獲得戦争であったことがわかる)
。
1801 年~1805 年 - 第1次バーバリ戦争(アメリカとバーバリ諸国といわれたトリポリと
の戦争)
☆1803 年~1815 年 - ナポレオン戦争
☆★1804 年~1813 年 - 第 1 次イラン・ロシア戦争
☆1808 年~1809 年 - 第 2 次ロシア・スウェーデン戦争
☆1809 年~1825 年 - ボリビア独立戦争
☆1810 年~1821 年 - メキシコ独立戦争
☆1812 年~1814 年 - 米英戦争(1812 年戦争)
☆★1814 年~1816 年 - グルカ戦争(ネパール戦争。ネパール(シャー王朝)とイギリス
103
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
東インド会社の間で行われた戦争)
1815 年
- 第 2 次バーバリ戦争
☆1820 年~1823 年 - スペイン内戦 (1820 年-1823 年)(スペイン立憲革命)
☆1821 年~1829 年 - ギリシャ独立戦争
☆★1824 年~1826 年 - 第 1 次英緬戦争(ビルマ戦争)
☆★1826 年~1828 年 - 第 2 次イラン・ロシア戦争
☆1836 年~1839 年 - ペルー・ボリビア戦争
☆★1838 年~1842 年 - 第 1 次アフガン戦争
☆1839 年~1851 年 - 大戦争(ウルグアイで起きた内戦)
☆★1840 年~1842 年 - 阿片戦争(アヘン戦争。イギリスと中国の戦争)
☆1843 年~1852 年 - ロサス戦争(アルゼンチンの独裁者ロサスは英仏を撤退させた)
☆★1843 年~1872 年 - マオリランド戦争(英植民地ニュージーランドのマオリ族の鎮圧)
☆★1845 年~1848 年 - シーク戦争(第 1 次・第 2 次。インド植民地のシーク教徒を鎮圧)
☆★1846 年~1848 年 - 米墨戦争(アメリカがメキシコを破り、広大な領地を獲得)
☆1848 年~1850 年 - 第 1 次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセンとデン
マークの戦争)
☆1850 年~1865 年 – 中国・太平天国の乱
☆★1852 年~1853 年 - 第 2 次英緬戦争
☆1853 年~1856 年 - クリミア戦争
☆★1856 年~1860 年 - アロー戦争(第 2 次阿片戦争)
☆★1857 年~1858 年 - セポイの反乱(第 1 次インド独立戦争)
☆1858 年~1861 年 -イタリア統一戦争
1859 年~1863 年 - 連邦戦争(ベネズエラの自由党と保守党の戦争)
☆1861 年~1865 年 - 南北戦争
☆1864 年
- 第 2 次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(プロイセンがデンマ
ークを破る)
☆1864 年~1870 年 - 三国同盟戦争(パラグアイ戦争)
☆1866 年
- 普墺戦争(プロイセンがオーストリアを破る)
☆1870 年~1871 年 - 普仏戦争(プロイセンがフランスを破る)
☆★1877 年~1878 年 - 露土戦争
☆★1878 年~1881 年 - 第 2 次アフガン戦争(イギリスがアフガンを保護国にした)
☆★1879 年
- ズールー戦争(イギリスがアフリカでズールー王国を滅ぼした)
☆1879 年~1884 年 - 太平洋戦争(硝石戦争。ボリビア・ペルーとチリとの戦争)
☆★1880 年~1881 年 - 第1次ボーア戦争(イギリスが南アでオランダ系ボーア人と戦っ
た)
☆★1880 年~1899 年 - マフディー戦争(イギリスがアフリカでマフディー軍を滅ぼした)
104
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆★1884 年~1885 年 - 清仏戦争
☆★1885 年~1886 年 - 第 3 次英緬戦争
☆★1889 年~1896 年 - 第 1 次エチオピア戦争(イタリアがエチオピアを侵略)
☆1894 年
-甲午農民戦争(朝鮮で起きた農民の内乱)
☆★1894 年~1895 年 - 日清戦争
★1896 年
1897 年
- イギリス・ザンジバル戦争
- 希土戦争 (1897 年)
☆★1898 年
- 米西戦争(アメリカとスペインの戦争)
☆★1899 年~1903 年 - 千日戦争(コロンビアの内戦。アメリカによってパナマが独立)
☆★1899 年~1913 年 - 米比戦争(フィリピンがアメリカの植民地となった)
☆★1899 年~1901 年 – 中国・義和団の乱(義和団の変、北清事変)
☆★1899 年~1902 年 - 第 2 次ボーア戦争(イギリスはトランスヴァール共和国とオレン
ジ自由国を併合)
【2】国民国家(民族国家)とは何か
◇国民国家(民族国家)とは戦争する国家
19 世紀のヨーロッパは絶対王政国家から国民国家(民族国家)に変わったというが、こ
の新しくできた国民国家(民族国家)とは何か。絶対王政国家とどこがちがうか(21 世紀
の世界でも国民国家と国益が至上命題とされるが、そもそも国民国家の起源は何か)
。
国民国家はネイション‐ステイト (Nation-state) の訳語ではあるが、日本語の「民族」
の意味で使われることも多い。Nation-state は「1 民族により構成される国家」の意で用
いられることが多く、ヨーロッパは一般に「国民国家」成立のモデル地域とされており、
その先進国とされるのがイギリスであり、フランスであった。しかし、たとえば、イギリ
スでも歴史をさかのぼれば、ケルト、アングロ・サクソン、デーン、ノルマンなど多くの
民族から成り立っていて、純粋の単一民族国家なぞ存在しないともいえる。しかし、ここ
では、Nation-state を国民国家(民族国家)としておく。
この国民国家(民族国家)の形成についても、諸説がある。
〔1〕宗教改革の結果、支配者の宗教が優先するという原則によってキリスト教圏が分断
され、政治的権威と宗教的権威が一体となって、現世的な支配が国家ベースで広がるよう
になったという説。しかし、これは 16 世紀にはじまった宗教改革のあと、主な国で宗教を
王権の下におき、絶対王政国家になったときに達成されていた。つまり、これは絶対王政
国家ができた理由の一つである。中世では、ヨーロッパはキリスト教、中国は儒教、イス
ラム圏はイスラム教が支配する世界であったが、ヨーロッパだけが宗教が絶対王政国家の
もとにおかれた。その体制ができたのが三十年戦争後のウェストファリア体制であったこ
とは述べた。
〔2〕主流を占めていたラテン語に代わって、政治家、法律家、役人、詩人が自国語を使
105
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
うようになり、内と外との対比から、民族国家の力を強化して国益を守るべきであるとい
う国民意識が高まり、国民国家が形成されるようになったという説がある。しかし、これ
もルネサンスのときから、そのような意識は醸成されてきていたはずである。
さらに大航海時代がおとずれ、通信手段が発達し、物資がますます広い範囲で流通する
ようになり、印刷機の発明で外国のことがわかるようになり、航海上の発見により、人々
はこの広い世界に別の人々が存在することに気づいたばかりでなく、言葉や好み、文化、
宗教のちがいがあることにも目を開かれたのである。これによってさらに国民意識が刺激
されるようになったのである。
こうした状況では、この時代の多くの哲学者や文人が、(中世までの宗教を中心にした神
の国などより)民族国家こそ自然であり、市民社会の基本だと考え、民族国家の力を強化
して国益を守るべきであり、それには民族国家の支配者と人民が一体となって共通の国益
のために努力すべきだと主張したので国民意識が高まり(それに比例して、対外的に対抗
心、競争心があおられ)
、国民国家(民族国家)が形成されるようになったともいわれる。
つまり、外国(敵国、通商競争国)を意識し、自国の利益(国益)を守るために国内的に
団結すべきことを強調したというのである。
〔3〕戦争が国民国家(民族国家)をつくったという説。
前述した〔1〕も〔2〕も、すべて国民国家(民族国家)が誕生した遠因であろう。と
くに、
〔2〕の国家の支配者と人民が一体となって外敵から国益を守るべきであるという国
民意識が高まったということは現実にそのような戦争を体験したからであろう。
戦争の規模が大規模化し、戦費が大規模化してくると、とくに戦争に負けて悲惨な目に
あったとき国民国家(民族国家)の必要性を骨身にしみて思ったのではなかろうか。たと
えば、プロシアがナポレオンに負けて国土の半分近くも奪われて、さらに重い賠償金を課
せられたときに、国民すべてが、「ああ・・・国は強くなければならない」と思ったという。
それからプロシアはガゼン目の色を変えて改革し軍国国家に突っ走ったのである。
前述したように、近世の絶対王政のヨーロッパでは、平時でさえ、軍事力の維持に財政
支出の 40%から 50%が費やされていた。戦時にはこの率は 80%から 90%にものぼり、し
かも総額もはるかに多くなっていた。これで戦争に負けたら悲惨そのものだった(勝った
ら、負けた国から取り返せばよいと考えた)
。とにかく、(その戦争が為政者・支配者階級
の都合で起きたとしても、どちらに正当性があろうとも)戦争が起きてしまったら、勝た
ねばならぬ、この団結心が国民国家(民族国家)をつくらせたのである。そしてその大義
名分が「国益」であった。
しかも為政者・支配者階級は国民に国民(民族)意識をもたせるように導いた。支配者
階級にとって、外国との戦争に負けたら、支配者の座からすべり落ちることになる。どん
なことがあっても戦争には勝たなければならない、戦争に負けたら、国民はすべてを失う
ことになるという意識をもたせるように当時の為政者は国民をそのように導いた(紀元前
3100 年頃、メソポタミアやエジプトなどに最初に専制国家ができたときの理由は、負けた
106
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ら国民みんな奴隷になるから、専制であろうと独裁であろうと、とにかく国民は強い国王、
強い国家を望んだ。それが国家が誕生した一番の理由であったと述べたが、国民国家(民
族国家)も同じであった。さすがに戦争に負けても国民みんなが奴隷になることはなくな
ったが、国土割譲や莫大な賠償金がとられた。5000 年間、戦争の本質は変わっていなかっ
たのである)
。
イギリス人は(個人的な恨みはなにもないのに)スペイン人を憎み、スウェーデン人は
(何ら付き合ったこともないのに)デンマーク人を憎むように教えられ、オランダ人の反
逆者たちは(一度も見たことはなかったが)ハプスブルク家の以前の領主たちを憎むよう
にしむけられた。どこの国民もお互いに相手を敵国として国民に敵愾心(てきがいしん)
を持つように仕向けられた。
為政者・支配者階級は、なによりも莫大な戦費を調達しなければならない。これが恒常
化してくると国民の税金しかない。そのためには国民意識を高め、国民に税金を納めさせ、
国民が銃をとり戦う国民国家へ向かうしか方法がなかった。
近世のヨーロッパの絶対王政の為政者・支配者階級は 300 年間、かってに戦争をやって
きた。それがヨーロッパの近世という時代であった。その試行錯誤の経験の中から生まれ
てきた結論が、国民国家(民族国家)であったのである。もはや、国王の強制力で戦争を
やらせるような時代ではなかった。国民(民族)が勇んで銃をとるようにしなければなら
なかった。勝つために、国益のために、不平をいわずに重税に耐えるようにしなければな
らならなかった(国益とは、非常に曖昧な概念であったが、それを問うのはタブーであっ
た。政府が言うことが国益であった)。
つまり、国民に(民族)国家意識を持たせるようにしたのは、戦争する国家であったの
である。15 世紀末から 17 世紀末まで、ほとんどのヨーロッパ諸国では(英仏は百年戦争の
後)
、政治及び軍事の中央集権化が進み、ふつうは君主のもとにこうした権力が集中した(そ
れが絶対王政だった)
。19 世紀になるとこれをもう一歩進めて、議会を整え、国益を強調し
(民族)国民意識を高め、納税意識を高め、戦う(民族)国民に変えていったということ
になる。それが国民国家(民族国家)というものである。
そうなると国民国家(民族国家)が進歩であるといえるかどうか、疑問ではあるが、そ
れが現実だった。国民国家(民族国家)をつくったのは戦争する国家だったのである。国
益は至上命題であり、それを問うのはタブーとなった(イギリス、フランス、ドイツ、ロ
シア、イタリアなどヨーロッパの国々は(明治維新をやった日本も)
、みな同じで戦争に勝
つ国家をめざしていた)
。
◇中国やイスラム国家が衰えた理由
19 世紀まで東アジアの大国で通してきた中国やアジア・アフリカのイスラム国家があっ
さりヨーロッパ勢に敗れたのは、1842 年のアヘン戦争でもわかるようにヨーロッパの圧倒
的な軍事力の前になすすべがなかったことは確かである。しかし、その前に中国もイスラ
ム国家も衰退していたといわれている。
107
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
中世まであらゆる面で世界の先頭にあった中国が明代中頃から清代にかけて活力を失っ
た理由については、よくわかっていないが、専制国家の儒者による官僚体制のもとでの極
端な保守主義ではなかったかと推察されている。皇帝のもとで科挙制度を勝ち抜いて支配
者階級にのしあがった官僚はひたすら過去の遺産を維持し、おのれの地位を維持すること
にのみつとめ、中国という巨大な世界だけで十分で、海外に勢力を伸長し、貿易を拡大し
て未来を築くことなど考えもしなかったようである。
また、儒教の教理では戦争そのものが憎むべき活動であり、軍事力が必要になるのは野
蛮人が攻撃してくる恐れがあるときか、内乱を鎮(しず)めるときだけだった。官僚たち
は陸軍(および海軍)を嫌うばかりでなく、貿易商人にも疑いを抱いていた。私的な蓄財、
ものを安く買って高く売るという行為、豊かな新興商人の派手な暮らしぶりなど、すべて
が学者肌のエリート官僚たちがきらうところであった(しかし、当時の官僚は現代の官僚
と比較すると桁違いの蓄財をしていた。官僚のエリート意識は強烈で自分たちの上の存在
は(皇帝以外)許さなかった)
。といって官僚たちは庶民大衆に同情的ではなかった。明ら
かに支配者層として階級意識が強かった。したがって、圧政に苦しむ大衆の恨みが官僚に
対して向けられていた。
官僚は、市場経済が栄えるのを望まず、かといってこれを押しつぶしてしまうこともで
きず、たびたび個々の商人に干渉して財産を没収したり、商売を禁じたりした。もちろん、
対外貿易も官僚の統制下においてほどほどの朝貢貿易だけで、一般的に海禁政策がとられ、
国民の対外貿易はけしからぬことであった。その後の何世紀かに行われたポルトガルやオ
ランダとの外国貿易は贅沢品に限られ政府の管理下におかれていたのである(そのため、
密貿易、倭寇が暗躍したのである)
。
このようなことで、明王朝は 4 世紀前の宋の時代よりも活力が低下し、発展性に乏しく
なった。1644 年、明王朝に代わって、より精力的な満州族が政権をとったあとも、中国の
専制官僚制という体制は変わることなく、中国の衰退を押しとどめることはできなかった。
中国周辺国は中国と陸続きで中国の影響を強く受けたので、中国とほぼ同じような理由
で近世になると沈滞するようになった。
近世になるとイスラムの世界もオスマン帝国に集約されるようになったが、そのオスマ
ン帝国も停滞して内に向かった(明の衰退後、1 世紀を経てからであるが)
。1566 年以降、
13 代にわたって無能なスルタンが王位についたこともあった。しかし、外部の敵と指導者
の無能さだけで説明ができるわけではない。
それだけでなく、イスラム国家には、基本的な問題が生じてきていた。イスラム国家は
中国の明王朝と同じく、中央集権や専制から生まれる弱点を免れることができなかった。
独裁国家では常にそうであるが、明確な命令がないかぎり、官僚は支配者階級としての自
らの地位を維持することに汲々として、旧態依然に甘んじて変革を望まず、技術革新を阻
害するようになった(20 世紀後半のソ連も同じだった。すべて歴史には前例がある。つま
り、独裁国家では官僚は支配者階級であるから、そのままの治世を続けることが自分たち
108
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のためになったのである)
。
イスラム国家では、領土拡大がゆきづまって戦利品が入ってこなくなり(古代ローマ帝
国もそうだった)
、物価が高騰すると、イエニチェリ(新軍)の間に不満が高まり、国内で
の重税、つまり、略奪に頼るしか方法がなかった。いちばん被害を受けたのは農民で、土
地も蓄えも兵士の餌食になった。事態がますます悪化するにつれて、一般の役人までが略
奪に加わり、賄賂を要求し、商品を没収するようになった(独裁国家の官僚制度はすべて
堕落することは歴史が示している。ソ連もそうだったが、中国も今最大の問題になったよ
うである。人間の本質は多くの欲望を持つ動物であることを述べたが、独裁国家では民に
よる相互のチェックシステムがないので、その人間の本質がむき出しになってしまうので
あろう)
。
イスラム国家では、新しい収入源を求めて血眼になった政府は、徴税請負人にむやみと
強大な権力を与えてしまった。商人や企業家(ほとんどが外国人だった)は、いまや急に
重税を課され、あるいはおおぴらに資産を没収されるようになった。高い賦課金のために
通商ができなくなり、都市の人口は減少した(古代ローマ帝国の末期もそうだった)
。
インドを支配したイスラムの専制国家であるムガル帝国も同じだった。征服者たるイス
ラム教徒の支配者階級が、主としてヒンドウーであるおびただしい数の貧しい農民の上にあ
ぐらをかくようになった。ムガル帝国の支配者の暮らしは、ヴェルサイユの太陽王(ルイ
14 世)でさえもあきれるほどの贅沢さを誇示していた。召使や取り巻きが何千人もいて、
衣服や宝石は豪奢をきわめ、ハーレムがもうけられ、動物園がつくられ、大勢の衛兵が召
し抱えられた。そのうえ、デカン方面への戦争が続けられていた。
これらの費用をまかなうには組織的な略奪機構をつくりあげるしかなく、徴税人は一定
の額を納入するよう義務づけられていたから、農民からも商人からも等しく苛酷に税を取
り立てた。収穫量が多かろうが少なかろうが、商売の利益があろうがあるまいが、その税
制が「むさぼりつくす」制度だったのである。
しかも、巨額の年貢を取り立てられた人民への見返りはゼロに等しかった。ただ、ムガ
ル帝国はいすわって、重税をとって、何ら社会インフラも政策も行なわなかった。通信と
伝達の手段は改善されず、飢餓や洪水や疫病のときにも組織的に援助の手が差しのべられ
ることもなかった。しかも、そうした災害は珍しいことではなかった。とにかくインドの
非支配層はみじめであった。ムガル帝国も軍事力でイギリスに圧倒されたが、ムガル帝国
を滅ぼしたのは外部の敵ではなく、内部の崩壊だったのである(イギリスのインド植民地
化の言い訳にも一理はあった。イギリスはインドを植民地にして「インド貧民を救った」
のだと)
。
東洋の専制国家もイスラムの専制国家も 1000 年続いた中世の統治システムを 19 世紀ま
で延長しただけで、何ら変更も改革も行なわなかったのである。人口も増え、自然環境も
国民の意識も変化してきているのに、社会システムに何ら変更を加えないことは社会の後
退を意味していたのである。
109
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
【3】徴兵制と軍国国家の成立
◇徴兵制の前身・プロイセンのカントン制度
三十年戦争後の約 100 年の間にプロイセンをヨーロッパの強国に変貌させたのは、フリ
ードリヒ・ヴィルヘルム 1 世(軍人王、在位:1713~40 年)であった。
そのころ行われていた募兵の実態は、誘拐まがいの強引なやり方が横行していた。詐欺
によって兵士にする、つまり、兵士に知らせぬまま騙して連れてくるのはまだいいほうで、
部隊の兵員充足を任務とする将校は手段を選ばず、無防備に道を歩いていた農夫を無理や
り連行するというやり方だった。このようなやり方は地域住民の反感をかい、暴動騒ぎや、
若者の国外への集団逃亡といった事態を引き起こしていた。
そこで、フリードリヒは、1733 年にカントン(徴兵区)制度を創設した。全国は 500 戸
単位のカントン(徴兵区)に分けられ、各徴兵区はそれぞれ特定の連隊に対して兵役義務
を負う、というものであった。徴兵対象者は農村および都市の若い男子で、とくに貧しい
農村出身者が実際に徴兵されることが多かった。徴兵者が連隊から逃亡して村に逃げ帰っ
た場合、見せしめのために村全体が罰を受け、また逃亡兵の穴埋めは、必ずその出身の村
から代わりの者を徴兵することによって行われた。
最初の 1 年間に基礎訓練を受け、その後は年に 2 回ずつ、2 ヶ月間の軍事教練に服した。
兵士の勤務年限は平時においては 20 年とされた。今、我々が見る軍隊の行進、軍事訓練な
どはこのプロイセンの軍隊で発明さたもので、軍事教練はプロイセン人によって完璧の域
にまで推し進められた。2 年目からは 2 ヶ月のみ、という「賜暇(しか)制度」
(帰休兵制
度)によって農業に与える打撃は最小限に食い止められた。やがて連隊に地域性が生まれ、
そこへ同じ土地の出身者がたくさん集まって所属したことは、連隊の士気と団結に優れた
効果をもたらした。
地方貴族の長たる郡長は軍隊や軍事アカデミー(士官学校)に郡の貴族の子息を送らね
ばならなかった。また、外国の軍隊に仕えることは禁止された。やがて貧困な中小貴族に、
身分にふさわしい「仕事」と生計の手段を提供する軍隊に貴族たちはしだいに順応してい
って、かつての「義務」は貴族にとっては軍幹部になるという「特権」になった。
帰休兵についての裁判権は、基本的に、その兵が農民として所属する土地の領主ではな
く、兵士として所属する連隊にあった。結婚、移住の許可についても同様であった。毎年
の世代交代、そして連隊に欠員が生じたとき迅速に補充を行えるように、あらかじめ連隊
が徴兵義務者を把握しておく登録制度がもうけられた。登録されたものは赤いネクタイで
あるとか、赤い房飾りとかを身につけて一目でそれとわかるようにすることを求められた。
これによって連隊は安定した定員の充足を保ち、戦争によって多くの損害を被った場合
でも比較的短期間で戦力を回復することを可能にした。
村では徐々に軍事的な規律が根をおろしていった。「時間厳守、従順、そして服従」とい
う軍隊の方針が農民兵士を通して村々にも浸透したのである。近代ドイツに特徴的な「臣
110
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
従気質」の根源がここで生まれたといわれている。
このようなカントン制度によって、フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世の治世にプロイセ
ンの兵力は 3 万 8000 人から 8 万 1000 人へと大幅に増強され、総人口(220 万人)の 30 分
の 1 が軍人(将兵)という軍事国家となった。フリードリヒは、ほとんど戦争がなかった
この時期、たえず国家歳入のほとんど 3 分の 2 をつぎ込んで軍隊の拡充につとめたのであ
る。
フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世は、国土、資源、人口ともに比較にならないほど弱小
のプロイセンを、絶対主義的な軍事・官僚国家の強化によって、オーストリアの実力に匹
敵するほどの国に作り上げた。プロイセンの国家体制は、「創造と模倣・伝播の原理」によ
って、やがて他領邦にとってのモデルとなった。
このカントン制度により、プロイセンはその後も、その規模に不釣り合いな大きさの軍
隊を構築していくことになった。次代のフリードリヒ 2 世(フリードリヒ大王。在位:1740
~1786 年)没時には兵士数は 19 万人を数えた。これはドイツにおけるどの大領邦よりも抜
きんでて多く、オーストリアの 10 万人をも超えていた。当時のプロイセンの人口はヨーロ
ッパで 13 位であったが、兵士数は第 4 位であったという。しかもその軍隊は質も優秀であ
った。これがフリードリヒ大王のオーストリア継承戦争や七年戦争などの軍事的活躍の基
盤となったのである。
強力な軍事制度ができれば、「創造と模倣・伝播の原理」で、対抗する他国もそれを見習
うのがこの世界である。当然、プロイセンの成功は他国にも影響を与え、オーストリアな
どはプロイセンとの戦争のあと、これに類似した制度を導入して軍事力の増大をはかった。
そしてカントン制度は、フランス革命で国民皆兵制が生まれ、ナポレオン戦争ののち、シ
ャルンホルストらがプロイセンに一般徴兵制を導入するまで続いた。近代的な軍国国家は
このカントン制度からはじまったといえよう。つまり、軍事的天才といわれたフリードリ
ヒ大王(在位:1740~1786 年。オーストリア継承戦争や七年戦争に勝利した)にしても、
ナポレオンにしても、その前に徴兵制を創設して,当時の常識とは桁違いの兵を動員でき
たということがまずあった(つまり、軍事的天才の前に、それを可能とする社会システム、
社会の仕組みをつくっているのである)
。
《軍人階級の出現》
カントン制度は純粋な軍事上の貢献にとどまらず、社会の様相にも変化を与えた。その
第一は、カントン制度によって王国がその国民を把握できるようになったことである。当
時のプロイセンでは、貴族の土地に属する農民は貴族の全面的な支配を受けていて、国王
やその官僚はその国民を直接把握することが難しく、王領地以外で実際にその権力が及ぶ
のはせいぜい郡長までと言われていた。しかし、このカントン制度の発足によって、国の
力の及ぶ範囲が拡大し、それまでの国王-貴族-農民という重層構造に変化が生じた。プ
ロイセン国王は軍隊を通じて初めて国民を把握したと言われている。
第二は、貴族と農民との関係に変化が生じたことである。徴兵者は、帰休制度で畑に帰
111
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ったあとも、
「国王陛下の兵隊」(日本でいえば天皇陛下の兵隊)であるという意識と立場
から、それまで隷属していた貴族に対して、しばしば公然と反抗するようになった。とい
うのも帰休兵についてはその連隊に裁判権があったからである。
また徴兵されておらず名簿に登録されているだけの者でも、ことあるごとに連隊が口を
出して支配の優越を主張したため、農民はそれを後ろ盾と思うようになり、それまで当然
と思われていた貴族の支配力が揺らぐことになった。庶民の間に、何々という貴族の領民、
ではなく自分たちはプロイセン王国の臣民(日本でいえば天皇陛下の臣民)であるという
意識が広まった。同時に、彼らはそれまでの貴族の支配に異議申し立てをするようになっ
た。ただしこれとは逆に、軍隊における将校-兵士関係は、命令する者と命令に従う者と
しての役割、身分意識はかえって強化されていった。
また、当時フリードリヒ・ヴィルヘルム 1 世やフリードリヒ大王がすべての臣民に求め
た美徳、すなわち勤勉、倹約、忠誠といった価値観が、このカントン制度によって成り立
っていた軍隊を通じて人々の間に浸透し醸成され、それが 19 世紀に「プロイセン人意識」
としてドイツ人に知られるようになったとも考えられている。
このようにプロイセンで生み出されたカントン制度による常備軍は、多様な社会層を吸
収して、新しい社会集団を形成するようになった。17 世紀の前半までは、国の危機存亡の
折に君主によって雇われる一時的な傭兵軍が支配的であったが、17 世紀の後半になると、
有力な諸領邦において、平時にも維持される常備軍が形成され、時代と共に膨張していっ
て、兵力は 18 世紀末には神聖ローマ帝国(ドイツ)全体でみると(オーストリアを含む)
約 62 万 5000 人であったので、全人口のおよそ 2%強を占めていた。大きな社会集団になっ
てきた。
したがって軍隊は、貴族から下層民に至るまで、家督相続者以外の多くの人間を吸収し、
巨大な労働市場をも意味した。その内部構造をみれば、将校団は主として貴族から、兵士
の多くは農民や市民の次・三男、あるいは下層民からなっており、それゆえ軍隊は身分制
的な特徴をもっていた。
◇フランス革命戦争と徴兵制の創設
1789 年にはじまったフランス革命には、周辺諸国(すべて王政国家)が危機感を覚え、
対仏大同盟を組んでフランス革命に干渉した。1793 年春、第 1 次対仏大同盟軍がフランス
軍をフランス国内へ追い込んで危機的状況になったので、フランス国内はジャコバン(山
岳)派がジロンド派を一掃して独裁体制を固めた。
1793 年 7 月ロベスピエールは権力掌握を行なうと、8 月 23 日、国民公会は「国家総動員」
を発令し、徴兵制度を施行した。このフランス革命期に国民皆兵の徴兵制度をつくったの
は、ラザール・カルノー(1753~1823 年)だった。カルノーは、1773 年、工兵士官学校を
優秀な成績で卒業し、技術将校として任官していたが、余暇は数学や機械研究や著述にあ
てていた数学者でもあった。文学サークルでフーシェやロベスピエールと同席したことも
あったので、革命が起きると国民公会の議員として選出され、戦争が起きたら、その経歴
112
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
から前線各地に出向き活動していた。1793 年 8 月、カルノーは前線から呼び戻されて公安
委員会の委員となり、軍事に疎いロベスピエールや戦争大臣ブーショットを助け軍事問題
を担当すことになった。
いよいよ才能を発揮するときがきたようで、この時期のカルノーは 1 日 16 時間以上を執
務にあてたという。徴兵制度の整備、軍需工場の整備、軍制改革を指揮して総力戦体制を
確立し、当時史上空前の規模であった 14 個軍団の創設にあたった。また、10 月 16 日のワ
ッチニーの戦いでは、ジュールダンとともに実戦部隊を率い、自ら陣頭に立って勝利をお
さめた。フランス軍は再び優勢に立ち、カルノーは一連の功績から「勝利の組織者」と称
えられるようになった。
表 1(表 13-1)に各国の人口と兵力数を示すが、フランスが国民徴兵制をしいてから、
桁違いに多い兵力を得ることができるようになったことがわかる。各階層の国民を平等に
徴兵し、新たに 120 万人の兵士が軍に加わった。これは傭兵を軍の主力としていた当時の
ヨーロッパの君主制国家では前代未聞の想像できないほどの大兵力であった。
表 1(表 13-1) 大国の人口と軍隊の規模
ポール・ケネディ『大国の興亡』
この国民皆兵による徴兵制は、このフランス革命の時代からから始まった(その前にプ
ロイセンのカントン制があったことは述べた)。フランス革命以降、国家は王ではなく国民
113
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のものであるという建前になったため(絶対王政国家から国民国家への転換)、戦争に関し
ても王や騎士など一握りの人間ではなく、主権者たる国民全員が行なう義務があるという
ことになったのである。
徴兵制度で大量に徴兵されたフランス軍はさっそく、その成果を上げ始めた。1793 年 9
月、フランス軍はヨーク公の率いるイギリス軍をオンドスコートの戦い(9 月 8 日)で破り、
ダンケルクを包囲から解放した。10 月にはワッチニーの戦いでオーストリア軍に勝利した。
また、国内のトゥーロン攻囲戦でイギリス軍を撃退し、12 月 19 日にトゥーロンの奪回に成
功した。このトゥーロン攻囲戦勝利の功績により、当時 24 歳の砲兵士官ナポレオンは一挙
に准将(旅団長)へと昇進し、一躍フランス軍を代表する若き英雄へと祭り上げられた。
ナポレオンは軍事的天才といわれたが(もちろん、彼の軍事的才能は非凡なものであっ
たようだが)
、フランス軍が強くなったのは、国民皆兵による徴兵制度という新しいシステ
ムの導入による豊富な兵力、しかも初期の段階では革命意識で高揚した士気の高い兵力が、
豊富に得られたということが、もっとも大きな理由であった。
このあと、ナポレオンはどんどん出世して、1804 年に皇帝となり、ヨーロッパ中を巻き
込んだナポレオン戦争(1805~1815 年)へと突き進んでいったが、その具体的な状況は省
略する。ただ、ナポレオンは国民徴兵制で徴募された大量のフランス兵をヨーロッパ中の
戦争に送り込んでいったが、それは兵が消耗品にすぎなくなる戦争のはじまりでもあった。
ナポレオン皇帝の時代になると、国民徴兵制によって得られた大量の兵士によってフラ
ン軍は強くなったが、毎年 15 万人の兵士を新たに徴募して 50 万人以上の規模をもつ軍隊
を長期にわたって養わなければならなくなった。軍事支出は 1807 年にはすでに 4 億 6200
万フランに達していたが、1813 年には 8 億 1700 万フランにはね上がった。ナポレオンはタ
バコ税とか塩税とかアンシャン・レジーム時代の間接税など考えられるものをすべて復活
して増税をはかったが、とても足りる額ではなかった(もともとブルボン王朝の増税から
フランス革命は起こったのであるが、ナポレオンはそれを越える増税をした)。
結局、ナポレオンの帝国主義のかなりの部分が略奪によって支えられていた。略奪は、
まず、フランス国内で始まった。いわゆる「革命の敵」の資産を没収したり、売却したり
したのである。やがて、革命を守るためという名目の軍事作戦が拡大し、フランス軍が近
隣諸国に侵入すると、外国人にこの費用を払わせるのが理の当然ということになった。
敗戦国の王室や封建領主から資産を没収し、敵の軍隊や守備隊、博物館、宝物庫などか
ら戦利品を略奪し、戦闘をしかけないかわりに賠償金や実物賠償を取り立て、フランス軍
を衛星国に駐留させて相手国に費用を払わせるというやり方で、ナポレオンは膨大な軍事
支出を賄った上に、フランスに(そして自分自身のふところに)相当な利益までもたらし
た。
フランスが絶頂期にあったころに、この「特別支配地域」の行政官が手に入れた利益は
膨大なもので、ある意味ではナチス・ドイツが第 2 次世界大戦当時に衛星国や征服した敵
国で行った略奪を思わせる。もちろん、130 年後のナチスのほうがナポレオンを見習ったと
114
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
いえる。
たとえば、プロイセンはイエナの敗北の後、3 億 1100 万フランの賠償金を支払わされた
が、これはフランス政府の通常の歳入の半額に当たっていた。ハプスブルク帝国も敗戦の
たびに領土を削り取られ、そのうえ多額の賠償金を支払わなければならなかった。イタリ
アでは 1805 年から 12 年までの間、税収の半分をフランスにもっていかれてしまった。
まさにナポレオン体制は不滅とみえたそのとき、このシステムの最大の問題点が露呈し
てきた。ナポレオンの本音では兵士は消耗品であっただろうが、その消耗品にも限界があ
った。
ナポレオン戦争後半のアイラウの会戦では1万 5000 人、
フリートラントでは 1 万 2000
人が死亡し、バイレンでは 2 万 3000 人が戦死するか降伏し、アスペルンでは 4 万 4000 人、
ヴァグラムでは 3 万人の死傷者が・・・・・・。
歴戦の部隊が少なくなり、1809 年には(近衛兵を除く)ドイツ遠征軍 14 万 8000 人兵士
のうち、4 万 7000 人は徴兵年齢に達していなかった。ナポレオン軍には後になるほど、ヒ
トラー軍と同じく被征服国や衛星国の兵士が多く含まれるようになった。フランス側の人
的資源が枯渇しかけていたから、そうしたのだろうが、その行き着く先がどうなるかは明
らかであった。
ロシア遠征では 67 万 5000 人のうち、
フランス兵は 30 万人に過ぎなかった。
もちろん、大敗北でその多くがロシアの土になってしまった。まったく消耗品としか考え
られていなかった。
ナポレオン戦争の犠牲者は 200 万人といわれている。戦争の形態と武器は時代によって
変化しているが、軍事的天才といわれたナポレオンの戦術はアレクサンダー大王以来の古
典的戦術の最後で一部銃砲を取り入れた近代戦争のちょうど境目にあたっていたと考えら
れる。したがって、大まかにいえば、アレクサンダー時代の犠牲者が 20 万であれば、ナポ
レオン時代の犠牲者が 200 万であり、130 年後のヒトラー時代の犠牲者が 2000 万であり、
来るべき核戦争時代の犠牲者は 2 億人となるのは・・・このように戦争の犠牲者は戦争技
術によってエスカレートしていくのである。
ナポレオンが軍事的天才だったかどうかは別として、国民徴兵制で徴兵された豊富な兵
士を消耗品として使った最初の人物であったことは確かであった。人間を駒のように使う、
消耗品のように使う、だからナポレオンは強かった。だからナポレオンは英雄になれた。
今でもナポレオンを英雄だと思っている人がフランスだけでなく世界中にいるが、我々は、
英雄といわれるものの本質をもっと見るべきである。
《ナポレオンの矛盾と私欲―敵愾心から国民国家意識が生まれた》
ヨーロッパにおけるナポレオン体制は矛盾をはらんでいた。フランス国内の革命がどん
な長所や欠点をもっていたかはともかく、自由と博愛と平等をうたう国が、いまでは、皇
帝の命令のもと、フランス人以外の人民を征服して、軍隊を駐留させ、物資を没収し、貿
易を妨害し、多額の賠償金や税金を取り立て、若者を戦いにかりたてていたのである。
自由と博愛の旗をかかげて進軍して、虐殺して略奪して、自由と博愛を説教する。これ
で、はたして自由と博愛をもたらすナポレオン軍として歓迎する国民がいただろうか(現
115
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
在のアメリカは世界中に米軍を駐留させて、アフガンやイラクの人民に自由をもたらすと
いって、かの国民の生存の自由さえ危うくし、破綻国家にしてしまった。覇権国家とは、
いつの時代でも同じである)
。
ナポレオン戦争はドイツをはじめヨーロッパ諸国に国民国家意識をはじめて持たせるこ
とになったといわれている。それは他国民(フランス)に征服された民族がいかに惨めで
あるかをはじめて知った(フランスに対する)敵愾心から生まれたものであった。どんな
ことがあっても国家は強くならなければならないという意識だった。愛国心がこのような
敵愾心から生まれたことは不幸なことだった。フランス革命の自由・平等・博愛の正反対
の敵愾心から生まれた国民国家意識が誕生したのである(歴史書はフランス革命とナポレ
オン戦争を一緒にして、ナポレオン戦争は自由・平等・博愛の精神の輸出であったと評価
しているものが多い)
。
ナポレオンは、すでに従属国の元首に自分の家族をあて、身びいきをはじめていた。そ
れは革命の原則などまったく関係ない、人間誰もがもつ身びいきという欲望がなせるワザ
で、大義名分のない逸脱であった。しかも身内は権力におぼれ、政治を理解せずにナポレ
オンをいらつかせた。占領され、あるいは従属下におかれた地域では、占領軍の横暴は許
せないという気持ちは強くなっていった。
旧体制のくびきからの解放というのがフランス革命の革命輸出戦争ではなかったのか、
それがいまやナポレオンは愚劣な親族を元首として押しつけてはくるし、フランス占領軍
は略奪ばかりしている、このような革命という大義名分からも逸脱しているようなフラン
ス占領軍からの自国の解放が緊急に必要になっていると各国民は感ずるようになっていっ
た。
《歴史は繰り返す》
有名なフィヒテの講演「ドイツ国民に告ぐ」はその典型的な表現であった。プロイセン
は、重大な行政改革や軍制改革を内部から起こしていった。とくに重要なことは、軍制改
革であったが、その模範となったのが、皮肉なことに、軍事的天才ナポレオンそのもので
あった。軍事的にもナポレオンが生み出した(実際はカルノーが生み出した)国民軍の創
設、砲兵・騎兵・歩兵の連携(三兵戦術)、輜重兵(しちょうへい。兵站を主に担当する陸
軍の後方支援兵科)の重視、指揮官の養成などは、その後の近代戦争・近代的軍隊の基礎
となり、プロイセンにおいてクラウゼヴィッツによって『戦争論』に理論化されていった。
ナポレオンに徹底的にいためつけられたプロイセンが、ナポレオンを徹底的に学び、理論
化し組織化し装備化して、やがて、強くなって、ナポレオンの甥のナポレオン 3 世を降伏
させることになるがそれは 60 年ばかり先のことであった。
そのプロイセンから、今度はヒトラーが出てくるのは 130 年先のことである(そのヒト
ラーが手にしたのは砲兵・騎兵・歩兵・輜重兵なんかではなかった。ハインツ・グデーリ
アンが考え出した電撃機械化部隊だった。技術進歩によって戦争強度は 10 倍、100 倍にな
っていた。歴史は繰り返すという。それは欲望をもった人間は同じであるからだ。野心を
116
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
もった男(英雄といわれる)という点ではナポレオンもヒトラーも同じである。
(キチガイ
に刃物といわれるが)英雄に軍隊を持たせてはならない。必ず戦争をするから)
。
【4】1860 年代のプロイセンの軍事革命とドイツ帝国の成立
《鉄血宰相ビスマルクの登場》
ナポレオン戦争から、半世紀近くもたったプロイセンのことである。兄王フリードリヒ・
ヴェルヘルム 4 世が死去した 1861 年、ヴィルヘルム 1 世(在位:1861~1888 年)は既に
63 歳であったが、皇帝を継いだ。軍制改革の予算を巡って国会で追い詰められたヴィルヘ
ルム 1 世はこの窮状を打開するため、パリ駐在大使ビスマルクを召還した。
ビスマルク(1815~1898 年)は、1862 年、国王ヴィルヘルム 1 世によってプロイセン王
国の首相兼外相(プロイセン首相在位:1862~90 年、ドイツ帝国宰相在位:1871~90 年)に
任命された。この時、ヴィルヘルム 1 世と議会は兵役期間を 2 年にするか 3 年にするかで
対立し、ドイツ統一を目標とするヴィルヘルム 1 世は議会を説得するためにビスマルクを
起用したのである。
期待に応え、ビスマルクは軍事費の追加予算を議会に認めさせた。この時にビスマルク
は、
「今や大問題は演説や多数決ではなく鉄(武器)と血(兵士)によってのみ解決される」
という鉄血演説を行い、以後「鉄血宰相」の異名をとるようになり、その強引な政策は鉄
血政策と呼ばれた。
このとき国王ヴィルヘルム 1 世とその軍事大臣が自由主義者の反対を押しきって実行し
たのが独特の短期徴兵制度であった(これは 1860 年代の「軍事革命」といわれるものの一つ
であった)
。これはすべての成人男子が正規軍で 3 年の兵役をつとめ、その後 4 年間の予備
兵役ののち、国土防衛軍(後備軍)に移るというもので、これでプロイセンにはつねに 7
年にわたって動員できる兵員が確保されることになった。
後備軍が国内の守備と後方地域の軍務を引き受けたから、この制度をとったプロイセン
は、人口のわりにはどの大国にも負けないほどの大規模な実戦部隊を擁することができた。
この制度が可能だったのは、国民のあいだに少なくとも初等教育がいきわたっていたから
であった。急激に規模を拡大した短期徴兵制度を維持することは、教育水準の低い農民が
対象では困難であるといわれていた。
また、このように膨大な人数を統御できるすぐれた機構―ドイツ参謀本部があったこと
もみのがせない。50 万人ないし 100 万人の兵士を集めても、必要な訓練をほどこすことが
できず、衣料品や武器、食糧が不足し、しかも重要な戦場に移動させることができないと
したら、なんの意味もない。ドイツにはそれがすべて可能になっていた。この軍隊を統御
するのがプロイセンの参謀本部で、1860 年代初め以来、大モルトケの天才的な指導のもと
で「軍の頭脳」にまで成長していた。
プロイセンの参謀本部では、モルトケが士官学校から優秀な人材を選抜し、教育をほど
こして、将来の戦闘に備えた。実際の戦闘がはじまるずっと以前から、彼らは作戦計画をつ
117
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
くり、何度もそれを練り直した。戦闘や作戦について周到な研究が行われ、他の大国の戦
史も研究対象となった。特別の部局が創設されて、プロイセンの鉄道制度を管理し、部隊
や補給品が遅滞なく目的地に運ばれるよう目を光らせた。なによりも、モルトケが採用し
た参謀制度では、将校たちに大量の兵士集団を実戦で指揮することを教えようとした。
プロイセンの制度の重要な点は、それが失敗しないということではなく、将校たちが慎
重に過去の過ちを検討し、訓練方法や組織、武器を改善していったということだった。1866
年に野砲の弱点が明らかになると、プロイセン軍はたちまちクルップに新しい後装砲をつ
くらせ、1870 年にはそれが威力を発揮することになった。
モルトケは数個の軍を配備して、それぞれが独立して動けると同時に、たがいに支援し
あう体制をつくりあげたため、たとえ一つの軍がたたきのめされても、(事実、普墺戦争で
も普仏戦争でもよく起こったことだった)作戦全体が失敗することにはならなかった。
《シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争》
ビスマルクは、国内の体制が整うとさっそくドイツ統一の戦略を開始し始めた。まず、
1864 年にデンマークとのシュレースヴィヒ・ホルシュタイン問題を蒸し返しさせ、オース
トリア帝国も誘ってデンマークに圧力をかけた。ビスマルクは、列強を中立化させたうえ
で、デンマークに対し 48 時間の猶予しか与えなかった。
1864 年 2 月、プロイセン・オーストリア連合軍は、デンマークに宣戦布告し、シュレー
スヴィヒに侵攻した。これが第 2 次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争、あるいはデ
ンマーク戦争であった。デンマークは、プロイセン軍の圧倒的な軍事力の前になす術がな
かった。結局、デンマークは完敗し、屈服を余儀なくされた。10 月 30 日にウィーンにおい
て条約が結ばれ、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン両公国は、プロイセンとオーストリ
アの共同管理下に置かれ、後にプロイセンの州となった。この時の陸軍参謀総長は(大)
モルトケ(1800~1891 年)であり、これ以降も政治・外交のビスマルクと参謀総長のモル
トケのコンビは活躍することになった。
《普墺戦争》
ビスマルクはデンマークから奪ったシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国をいったん
はプロイセン・オーストリア両国の共同管理とした。しかし、これはビスマルクの策略で
あった。プロイセンはやがてオーストリア管理地域に介入し、オーストリアを激怒させた。
ここに普墺戦争が開始されることになった。
1866 年 6 月 15 日プロイセンは宣戦布告を行って、ホルシュタインのオーストリア管理地
域を占領した。プロイセンの行為を侵略的と見たハノーファー王国、バイエルン王国、ザ
クセン王国、ヴュルテンベルク王国、ヘッセン選帝侯国などはオーストリア側についたが、
北ドイツの小邦はプロイセンにつき、オーストリアのヴェネツィア領有を不満とするイタ
リア王国もプロイセンと同盟した。
開戦してからのプロイセン軍は、オーストリア側の予想を超えて迅速かつ整然とした進
撃を行い、オーストリア軍を 7 月 3 日ケーニヒグレーツの戦い(サドワの戦い)で包囲し、
118
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
殲滅してしまった。モルトケは、この普墺戦争では入念な研究準備の下に、わずか 7 週間
の戦争でオーストリアを屈服させた。
モルトケの戦史上の功績の一つは、当時の新技術である鉄道と電信を積極的に利用した
ことであった。電信により迅速に命令伝達し、大部隊を鉄道で主戦場に輸送して、敵主力
を包囲殲滅する戦術を確立したことにあった。第 2 次世界大戦におけるヒトラー・ドイツ
の無線を利用した戦車間の命令伝達、戦車部隊と航空機との直接交信による陸空の混合攻
撃電撃戦も、モルトケのこの影響の一つであった。
プロイセン軍は、丈夫で装填時間が短い鋼鉄製の後部装填式大砲や世界初の金属薬莢式
(やっきょうしき)軍用ライフルを装備し、装備の面でもオーストリア軍を遥かに凌駕し
ていた。プロイセン軍の新兵器の圧倒的な火力と速射力の前に、従来通り銃剣突撃を繰り
返すオーストリア兵は次々になぎ倒された。
オーストリアの大敗を見たフランスのナポレオン 3 世が戦争に介入し、ビスマルクもそ
れ以上の深入りをするつもりはなく、休戦が成立した。1866 年 8 月 23 日にプラハ条約が締
結され、プロイセンはシュレースヴィヒ・ホルシュタイン公国全域とハノーファー王国、
ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト自由市を領有し、ドイツ東西のプロイ
セン領は統合され、オーストリアは統一ドイツから排除されることが決まった。オースト
リア主導のドイツ連邦が解体されて、マイン川以北にプロイセンが 22 の邦国を統轄する北
ドイツ連邦が誕生した。
《普仏戦争》
普墺戦争においてオーストリアの敗北により「ドイツにおける主導権をめぐる戦い」はほ
ぼ終わりかけていた。しかし、ドイツ統一を目指すプロイセンにとって、南ドイツにおけ
るフランスの影響力が邪魔であった。
表面的にはフランスの人口がプロイセンよりずっと多かったし(ヨーロッパのドイツ語
人口の総数はフランスより多かったが)
、フランス軍はクリミア(クルミア)戦争とイタリ
ア(イタリア統一戦争に加担)
、それに海外で経験を積んでいたので(インドシナや中国・
メキシコ出兵)
、フランスのほうが強いようにみえた。
ビルマルクは、フランス皇帝ナポレオン 3 世に、近く起きる普墺戦争にフランスが中立
を保ってくれるならライン左岸を与えるようなことを匂わせていたので、ナポレオン 3 世
は、この普墺戦争に中立を守った対価として、プロイセンにライン左岸の割譲を求めたが、
ビスマルクはこれを無視した(ビスマルクはこれが次の普仏戦争の引き金になることを見
越していた)
。ナポレオン 3 世は面目をつぶされた(ナポレオン 3 世はイタリア統一戦争で
も、イタリアのカブール首相に対して似たような手法をとって、これは成功していた)。
そうした状況にナポレオン 3 世は危機感を覚え、プロイセン王家につながるレオポルト
公のスペイン王位継承問題について、ナポレオン 3 世は世論を上げて反対してきた。プロ
イセンのヴィルヘルム 1 世は身内のスペイン王位継承の辞退を表明したが、仏外相がさら
に永続性のある保証(プロイセン王家が今後ともスペイン王位を継承しないこと)を要求
119
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
してきた。
フランス大使は、1870 年 7 月 13 日朝、ドイツ西部の温泉地バート・エムスで静養中のヴ
ィルヘルム 1 世を訪ね、前述の保証のために会見を求めた。しかし既に王位辞退という形
で譲歩を行っていた国王は、未来永劫にわたって保証することは不可能であり、自分にそ
の権限はないとして、さらなる要求を拒否し、ベルリンのビスマルクにことの経緯を打電
した。
モルトケ、ローンとの食事の席で、国王からの電文を受け取ったビスマルクは鉛筆を片
手に電文に手を入れた。電報を意図的に短縮して、非礼なフランス大使が将来にわたる立
候補辞退を脅迫し、それに立腹した国王が大使を強く追い返したように改竄(かいざん)
した上で、新聞や各国に公表した。文章の省略によって大使の非礼、国王の大使への拒絶
が強調されたようである。これが有名なエムス電報事件である。
《罠にはまったナポレオン 3 世》
これをみたドイツの世論は沸き立ち、反フランスをバネにした国民意識がいっきに盛り
上がった。他方、大使が侮辱されたとみたフランスの世論も猛反発し、「プロイセンを倒
せ!」という声がパリ民衆のあいだで飛び交った。戦争を求める強い世論に流されるまま、
はやくも、フランスは翌 7 月 14 日に開戦を閣議決定し、7 月 19 日にプロイセンに宣戦布告
をしてしまった。ビスマルクのしかけた罠に、ナポレオン 3 世はまんまと引っ掛かったので
ある。こんなことで普仏戦争が始まってしまった。
あとはモルトケのおきまりのコースで決着がついた。宣戦布告後わずか 15 日でドイツ 3
個軍(30 万人以上)がザールラントとアルザスに進軍した。フランスの砲兵中隊は全土に
散らばっていて、容易なことでは集結できなかった。52 万人の兵力、質量とも優勢な火器、
円滑な輸送・兵站など準備万端整えられていたドイツ軍に対して、大砲を半分以下しかもた
ない 30 万人のフランス軍は、1 ヵ月半後、セダンの戦いでナポレオン 3 世は降伏し捕虜と
なってしまい、フランス第 2 帝政は崩壊した。
《突然浮上してきた軍事大国》
プロイセン・ドイツの勝利は明らかに軍事制度の勝利だった。イギリスの歴史学者・軍
事史家マイケル・ハワードは「国家の軍事制度は社会制度と切り離して存在するものではな
く、社会全体の一側面」であると述べている。
ドイツ軍部隊の勝利の背景には、ヨーロッパのどの国よりも近代戦に向けた国づくりを
進めていたプロイセンという国家があったからだった。いままでは統一していなかったか
ら目立たなかったが、ここに突然軍事大国が浮上してきた。ドイツ諸邦を合わせた人口は
すでにフランスのそれを上回っていた。鉄道の長さでもフランスをしのぎ、しかも軍事目
的に利用する体制ができあがっていた。
ドイツの国民総生産や鉄鋼の生産高はフランスを追い抜こうとしていた。石炭生産高は
フランスの 2 倍半に達し、近代的なエネルギーの消費量は 50%も多かった。ドイツの産業
革命は、鉄鋼と兵器生産の両方を手がけるクルップのような大企業を多く生み出し、プロイ
120
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
セン・ドイツの軍事力と工業力は格段に向上していた。
短期徴兵制度は国の内外の自由主義者の攻撃の的であり、このころ「プロイセンの軍国主
義」に対する批判が広がっていた。しかし、これが国の人的資源を軍事目的に動員する効果
的な方法であることは確かで、自由放任主義をとる西の国(イギリス)や、東の遅れた農
業国(ロシア)に差をつけることになった。そして、そのすべてを支えていたのが、初等
教育と技術教育の水準が高い国民と、他に類のない大学やすぐれた科学研究所、調査組織
などの存在だった(その後、このプロイセン・ドイツシステムを忠実に模倣したのが明治
維新をなしたばかりの日本だったことは言うまでもない)。
《ドイツ帝国の成立》
まだ、普仏戦争は続いていた。1871 年の年明けにはパリが包囲され、いまだパリ砲撃が
続く中の 1871 年 1 月 18 日、プロイセン王ヴィルヘルム 1 世はヴェルサイユ宮殿でドイツ
皇帝に即位し、ここにドイツ帝国の成立が宣言された。
1871 年 1 月末、パリは陥落した。ドイツはフランスの臨時政府と講和を結び、アルザス・
ロレーヌの 2 州と賠償金 50 億フランを獲得した。アルザス・ロレーヌはドイツ・フランス
の国境にあり、鉄・石炭が豊富で、両国の歴史的紛争地である。ビスマルクは、ナポレオ
ン 3 世降伏後もこの地を獲得するため戦争を継続したが、それは後にフランスの対独復讐
心を高める原因ともなった。
普仏戦争の目的は、北ドイツ連邦に属さないバイエルン王国をはじめとする南部諸邦に
北との連帯感を持たせ、ドイツ統一を実現することにあった。ビスマルクの目論みは当た
り、かつてのドイツ連邦からオーストリアとルクセンブルクを除いたすべての諸侯を、プ
ロイセンを盟主とする新国家のもとに集結させることに成功したのである。ドイツ統一は
ビスマルクの目論見通りになった。ビスマルクはドイツ帝国の初代宰相兼プロイセン首相
となり、1890 年に引退するまで 19 年にわたってビスマルク外交を展開した。
第 7 章 帝国主義と第 1 次世界大戦
【1】20 世紀前半(1901~1945 年)の戦争
◇植民地獲得競争から帝国主義戦争の時代へ
19 世紀の産業革命と軍事革命を終えたヨーロッパの列強は 19 世紀後半から 20 世紀初め
にかけて、世界に進出してアジア・アフリカの大部分を植民地化する帝国主義時代に入っ
た。
近世のはじまりの大航海時代から植民地獲得は図 34(図 15-6)のように、スペイン、ポ
ルトガルが先行していたが、17 世紀になると、イギリス、オランダ、フランスなどが進出
してきた。19 世紀のはじめのナポレオン戦争でヨーロッパが混乱しているときに、中南米
のラテンアメリカ諸国が独立し、スペイン、ポルトガルが後退した。19 世紀後半になると、
国家統一が遅れていたドイツ、イタリア、日本(明治維新という近代化)がそれぞれ国家
統一をすると、新たに植民地獲得競争に参入してきた。
121
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 34(図 15-6) 植民地主義・帝国主義時代の欧米列強
なお、ロシアやアメリカは陸続きの広大な土地が広がっていたので植民地獲得とはいわ
れていないが、19 世紀にはヨーロッパ列強と同じように、ロシアはバルカン半島、中央ア
ジア、シベリア、極東などに進出して多くの異民族を征服して支配下におさめ、アメリカ
はメキシコとの米墨戦争などで得た土地を加えて西部開拓を行い、世紀末には太平洋に至
り帝国主義的な太平洋進出を開始した。
122
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そこで、図 34(図 15-6)のように、1890 年頃から第 1 次世界大戦が勃発する 1914 年ま
での欧米列強というのは、大部分はヨーロッパ諸国であったが(イギリス、フランス、オ
ランダ、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア・ハンガリー)、ヨーロッパ以外ではア
メリカと日本が帝国主義列強として加わった。
帝国という言葉は、メソポタミアで多くの古代国家が形成されると、やがて(紀元前 8
~7 世紀)アッシリアが強力な武力によって他国家を征服し、図 14(図 11-8。P40)のよ
うに、アッシリア帝国の支配下に置いたのがはじめてであったと述べたが、このように、
帝国主義(英語: imperialism)とは、一つの国家が、新たな領土や天然資源などを獲得す
るために、軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略し、さらにそれを推し進めよう
とする思想や政策であると考えられている。
◇帝国主義とは資本主義の高度に発達した段階
この 19 世紀末から 20 世紀に出現した帝国主義は、一般に資本主義の高度に発達した状
態、すなわち、カルテル(企業連合)、トラスト(企業合同)、コンツェルン(資本統制)
などの独占資本主義段階の国家による世界的な勢力拡張の動きをさしている。
第 1 次産業革命(イギリスの産業革命)達成後、欧米先進国では自由競争のもとで 19 世
紀後半から重化学工業を中心とする第 2 次産業革命(ドイツ、アメリカが中心)がおこり、
資本主義経済がいちじるしく発達した。その結果、独占資本主義が形成され、生産と資本
を集中・独占した大企業が小経営者や民衆の犠牲のうえに繁栄した。
これらの独占資本主義は、銀行資本と産業資本とが融合した少数の金融資本によって、
一国の経済・政治・外交を支配するようになり、やがて金融資本は国内市場で満足せず、
より高い利潤を求めて、国外、とくに労働力や原料の安い地域に投資し、商品の輸出とは
別に、資本の輸出を大規模に行なうようになった。
具体的な帝国主義的政策を押し進めるにあたって、ⅰ)植民地の獲得、ⅱ)開発の遅れ
た国の保護国化、ⅲ)鉄道・鉱山などの利権の獲得、ⅳ)租借地や勢力範囲の拡大、ⅴ)
探検による領土の拡大、などの手段がとられた。植民地の獲得や再分割要求には武力が使
われ戦争の危機が増大した(19 世紀の戦争の一覧表の中で、黒色で記したものが植民地獲
得戦争であり、半分以上がヨーロッパ列強の植民地獲得戦争であったことがわかる)
。そし
て列強の自国民に対しては、民族主義にもとづき愛国心が鼓舞され、国家中心の軍事体制
を強化して戦争にそなえる傾向があった。
投下した資本を保護するには、資本の投下先を領土化するのがもっとも安全であった。
そこで金融資本は国家権力を利用して植民地の争奪を行い、アジア、アフリカ、太平洋諸
島の大半は、いずれかの国の勢力圏に組み入れられてしまった。これらの地域は近代化が
遅れ、まだ強固な国家権力が存在しなかったため、領土化されやすかった。欧米列強は、
まさに弱肉強食の政策を先を争ってとったのである。
それが植民地獲得の時代であったが、やがて世界分割が一通り終わると、列強同士の再
分割(共食い)の段階に入り、歴史上、帝国主義時代とは、その再分割をめぐって国際対
123
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
立が激化した 19 世紀末期以降の時代をさす。
この帝国主義国の国内では、独占資本の搾取に反対して労働運動や社会主義運動が高ま
り、また、植民地・従属国となった国でも民族意識が高まり抵抗の動きが現れたが、それ
らは列強の国家権力によって押さえ込まれた。
ロシアの革命家レーニンは、植民地再分割を巡る列強の衝突から、これを利用して共産
主義革命につなげようとする意図を持ち、
『帝国主義論』
(1917 年刊)を著した。 その内容
は、自由競争段階にあった資本主義において生産の集積がおこり、独占体が生まれる。同
時に資金の融通や両替など「ひかえめな仲介者」
(レーニン)であった銀行は、銀行自体も
独占体となり、資金融通などや簿記を通じて産業を支配するようになる。やがて銀行独占
体と産業独占体が融合・癒着した金融資本が成立する。金融資本は経済だけでなく政治や
社会のすみずみを支配する金融寡頭制をしく。巨大な生産力を獲得した独占体に対し、国
内大衆は貧困な状態におかれたままになり「過剰な資本」は国外へ輸出される。
この資本輸出先をめぐり資本主義国家の間での世界の分割がおこなわれる。やがてこれ
は世界のすみずみを列強が分割しつくすことになり、世界に無主地はなくなる(1913 年の
第 1 次世界大戦前には、まさにそうなった)
。資本主義の発展は各国ごとに不均等であり、
新興の独占資本主義国が旧来の独占資本主義国の利権をうちやぶるために再分割の闘争を
おこなう。世界は有限であるから、いつかは他の帝国主義国家から領土(植民地)を奪取
せねばならず、世界大戦はその当然の帰結である、と結論している(第 1 次世界大戦は現
に起こった)
。
レーニンの『帝国主義論』は、世界の資本主義体制の破局につながり、列強間で不可避
的に生じる衝突を予見し、そのときこそ社会主義革命の契機と捉えていた。資本主義は自
滅し、次の社会主義にとってかわられざるをえないというのがレーニンの主張であった。
レーニンのこの『帝国主義論』は、ロシア革命の直前の 1917 年出版されたので、その後の
帝国主義の行方は記されていないが、1917 年のロシア革命は成功した。
◇第 2 次世界大戦まで続いた帝国主義時代
このように帝国主義とは、資本主義の独占段階であり、世紀転換期から第 1 次世界大戦
までを指す時代区分でもあり、列強諸国が植民地経営や権益争いを行い世界の再分割を行
っていた時代を指している。
しかし、この時期のみを帝国主義と呼ぶのか、その後も帝国主義の時代に含めるのかに
ついては論争があるが、欧米列強の実体は何ら変わることなく(第 1 次世界大戦の戦勝国
が植民地主義、帝国主義を放棄することもなく、敗戦国の植民地を戦勝国が再分割し)、図
34(図 15-6)のように、第 1 次世界大戦後、20 年の戦間期をおいて、帝国主義的資本主
義は再び第 2 次世界大戦を起こしたので、少なくとも第 2 次世界大戦後までは帝国主義の
時代といってよいだろう。
このときの帝国主義には、第 1 次世界大戦後のファシズムも含まれる。 帝国主義国とい
われた国は、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、フランス、イタリア、ソ連(ソ
124
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
連はスターリンになってから帝国主義に参画した)
、オランダなどがある(第 2 次世界大戦
後、敗戦国の独日伊だけが帝国主義国であったような論調もあるが、そんなことはなく、
少なくともここに列挙した国々はこの期間、あきらかに帝国主義的政策をとっていたこと
では同じであった。第 2 次世界大戦を勝利に導いた 2 つの超大国アメリカとソ連は、第 2
次世界大戦後、米ソ冷戦時代に入っていったが、見方によると、帝国主義時代が延長され
ているともいえる。これは後述する)。
◇20 世紀前半(1901~1945 年)の戦争
欧米列強のアジア・アフリカ・太平洋の征服があらかた終ると、今度は列強同士はヨー
ロッパに帰って、再分割戦争を起こした。それが第 1 次世界大戦、第 2 次世界大戦であっ
た。
第 1 次世界大戦や第 2 次世界大戦では戦争はただの武力戦ではなくなり、国家がその経
済力・技術力などの国力を総動員し、非常に多大な消耗が長期間にわたるという新しい戦
争の形態である国家総力戦が発生した。その戦争形態を維持する必要性から「国家総力戦
体制」と呼ばれる戦時体制が出現することになった。
第 1 次世界大戦はナポレオン的な攻撃による短期決戦を目指して、両勢力が約 200 万と
いう大兵力を動員したものの、塹壕と機関銃による防衛線を突破することができず、戦争
の長期化と大規模化が決定づけられた。結果的にはこのような大戦争によりもたらされる
経済的または心理的な損害により、各国は深刻な社会的混乱や政治的な打撃を被った。こ
のような戦争を繰り返さないためにも国際連盟を通じた戦争の抑制が企図されたがアメリ
カは参加せず、またドイツは莫大な賠償金により経済的な打撃を受けていた。
第 2 次世界大戦においては再び大規模な戦争が繰り返され、この大戦ではせん滅的な長
期戦が展開されて第 1 次世界大戦の 2 倍の戦死者が出た。また航空機の発達によって航空
作戦が実施されるようになり、戦略爆撃では戦闘員だけでなく民間人にも多数の被害者が
出ることとなり、政治的または経済的な混乱が長期間にわたって続いた。戦争の最後には
原子爆弾も登場し、2 つの都市を消滅させてしまった。
この 20 世紀前半の主な戦争を記すと以下のようになる(☆印は『自然の叡智 人類の叡
智』に記しているもの)
。
☆1904 年~1905 年 - 日露戦争
☆1911 年~1912 年 - 伊土戦争
☆1912 年
- 第 1 次バルカン戦争
☆1913 年
- 第 2 次バルカン戦争
☆1914 年~1918 年 - 第 1 次世界大戦
☆1918 年~1919 年 - ハンガリー・ルーマニア戦争
☆1917 年~1920 年 - ロシア内戦(ロシア革命・対ソ干渉戦争・シベリア出兵)
☆1919 年~1922 年 - アイルランド独立戦争
☆1919 年~1922 年 - 希土戦争 (1919 年-1922 年)(小アジア戦争)
125
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆1919 年
- 第 3 次アフガン戦争(アフガニスタン独立戦争)
☆1920 年
- ポーランド・ソビエト戦争
☆1922 年~1923 年 - アイルランド内戦
☆1926 年~1949 年 - 国共内戦(中国)
☆1931 年~1933 年 - 満州事変(日本の中国侵略)
☆1932 年~1938 年 - チャコ戦争(ボリビアとパラグアイの戦争)
☆1935 年~1936 年 - 第 2 次エチオピア戦争(イタリアのエチオピア侵略)
☆1936 年~1939 年 - スペイン内戦
☆1937 年~1945 年 - 日中戦争(支那事変)
☆1938 年
- 張鼓峰事件(満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争)
☆1939 年
- ノモンハン事件(満州国・日本とモンゴル・ソ連との国境線をめぐる
戦闘)
☆1939 年~1945 年 - 第 2 次世界大戦
☆1939 年~1940 年 - 冬戦争(ソ連・フィンランド戦争)
☆1941 年~1944 年 - 継続戦争(第 2 次ソ連・フィンランド戦争)
☆1941 年~1945 年 - 独ソ戦
☆1941 年~1945 年 - 太平洋戦争(大東亜戦争、アジア・太平洋戦争)
【2】世界を覆った植民地主義・帝国主義
16 世紀にヨーロッパが新大陸(南北アメリカ)、アジア、アフリカに進出したときから、
ヨーロッパは植民地支配を開始していた。しかし、産業革命以前の世界の植民地は特産品
を対象にした点と線の植民地であったが、19 世紀の産業革命後の植民地支配は全面的な面
(領地)支配に代わり、植民地全体の産業を支配することになった。ヨーロッパが占領し、
あるいは支配していた地域は、1800 年には世界の陸地の 35%であったが、1878 年にはそれ
が 67%に増え、第 1 次世界大戦の直前の 1914 年には 84%を超えてしまった。
◇恐るべき軍事兵器
それがなぜ可能であったか。産業革命には下記のように 2 つの面があった。
産業革命→機械化→大量生産→大量輸出→発展途上国の産業衰退→植民地化
産業革命→機械化→高度兵器の量産化→軍事力による威嚇・戦争→植民地化
つまり、産業革命技術による武器の「飛躍的」な進歩が大きな意味をもっていたのである。
再三述べるように、技術はよくも悪くも使われる。高度な工作機械や繊維機械が安く速
く大量に作れれるようになるならば、武器のほうも当然安く速く大量に作れるようになる。
産業革命は武器革命でもあった。ヨーロッパは経済的にも軍事的にもアジア・アフリカに
対して圧倒的な優位をかちえたのである。
先込め式の銃を改善した元込め式の銃(撃発雷管、銃身の旋条など)が出現して発射速
度が大幅に高まった。そして、ガトリング機関銃、マキシム機関銃、軽量の野砲などの「火
126
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
器革命」が完成し、旧式の兵器に頼っている原住民は抵抗しようにも、まったくそのすべが
なくなってしまった。そのうえ、風があってもなくても動き、川をさかのぼって進む蒸気
機関を搭載した砲艦が登場し、すでに公海を支配していたヨーロッパの海軍は、アフリカ
のニジェール川やインドのインダス川、ガンジス川や中国の長江などを内陸部の奥深くま
で上ってくるようになった。
こうして、移動性と火力にすぐれたイギリスの甲鉄艦「ネメシス」は 1841~42 年のアヘン
戦争で、清国防衛軍の艦船を完膚無きほどに撃破してしまった。1898 年 9 月 2 日、イギリ
スのキッチナー将軍はスーダン征服戦のオムダーマンの戦いにおいて、マキシム機関銃と
ライフル銃で、夜が明けてわずか数時間のうちに 1 万 1000 人の死体の山を築いてマフディ
ー軍を撃滅し、味方はわずか 48 人の損害しか出さなかった。このような実戦の例は少なく
ても、その威圧によって、アジア・アフリカ諸国は沈黙させられた(現代でいえば、核兵
器所有国と非核兵器国が対峙するようなものであった)
。
この戦力の差と産業の生産性の格差とがあいまって(このように必ず産業力と軍事力は
あい携えて進んだ。それは工業技術の根っこは同じであるから)
、ヨーロッパ先進国は最も
遅れた国々にくらべて 50 倍から 100 倍の力を手に入れたことになる。西洋諸国の世界支配
は、ヴァスコ・ダ・ガマの時代以来の趨勢ではあったが、産業革命を経ることによって、
その前に立ちふさがるものはほとんどなくなったのである。世界の 84%を征服したのも、
その圧倒的な武力(の威圧)であった。ヨーロッパ列強は先物勝ちでアジア・アフリカ征
服に乗り出したのである。その先陣をきったのが産業革命で先頭を走っていたイギリスだ
った。
◇イギリス植民地帝国
《イギリスのカリブ海植民地》
カリブ海の黒人奴隷はプランテーション用労働力としてアフリカから連れてこられてい
たが、支配者の白人人口は非常に少なかったので(10 分の 1)
、アメリカの 13 州の植民地
の独立に際し、カリブ海植民地は独立の路線を採らず、イギリス帝国に留まった(イギリ
ス帝国の軍事力を必要としていた)
。このため、カリブ海のイギリス植民地はそのまま残っ
たのである。
《インドの完全支配》
1857 年に起こったインド大反乱(
「セポイの乱」ともいう)を契機に名目的な存在になっ
ていたムガル帝国を 1858 年に廃し、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国を成立させ
た。インド東部の国境が画定したのは、2 回のビルマ戦争(1824~26 年、52~53 年)につ
づき、フランスの影響が強まることに懸念をいだいたイギリスが、1885 年にビルマをイン
ド帝国に併合したことによる。
インドの北西では、英露の角逐のなかで、イギリス、アフガニスタン関係がつくられた。
イギリスは、アフガニスタンの頑強な抵抗にもかかわらず、第 2 次アフガン戦争(1878~
80 年)によってその外交権を奪い、
(領土を大きく縮小させて)英露の緩衝国とした。
127
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《東南アジア進出》
19 世紀初頭のナポレオン戦争はイギリスの覇権を樹立する契機となった。オランダが革
命フランスの勢力下に置かれたため、イギリスは南アフリカのケープ植民地やセイロン、
東インド(インドネシア)などオランダ植民地を続々占領した。
ウィーン条約によって東インド(インドネシア)はオランダに返還されたが、セイロン
やケープ植民地は返還されず、イギリスは 1815 年セイロン内陸部のカンディー王国を征服
してセイロン植民地を成立させた。
イギリスは、オランダの影響力が弱体化した東南アジアにも再び進出し、1819 年にシン
ガポール港を創設し、1826 年にはペナン、マラッカを含む海峡植民地を成立させた。イギ
リスはさらにマレー半島のスルタン諸国を保護領化して 19 世紀末には英領マラヤを成立さ
せた。
《オセアニア進出》
アメリカが独立したため、イギリスは流刑植民地をオーストラリアのニューサウスウェ
ールズに移すことを決め(それまではアメリカを流刑植民地にしていた)
、1788 年最初の流
刑植民団が送り込まれ、シドニーが創設された。
1801 年にはオーストラリア大陸一周航海によって大陸の全貌が明らかになり、1828 年大
陸全土がイギリス領と宣言された。内陸部への植民が進むなかで原住民アボリジニの大量
虐殺がしばしば発生した。
ニュージーランドは 1642 年にオランダ人タスマンが「発見」し、1840 年イギリスが原住
民マオリ族とワイタンギ条約を締結して植民地とした。イギリスはこのほかサモア、トン
ガ、フィジー、ソロモン諸島など南太平洋の島々を領有した。
《中国の半植民地化》
イギリスは中国(清朝)の広東開港によって 1711 年には広州に商館を設立し、中国茶を
輸入する広東貿易に従事したが、本国での紅茶ブームにより貿易赤字が急増したためイン
ドのアヘンを清国に売り込み(密輸出)
、清朝とアヘン戦争(1840~42 年)を引き起こし、
清朝軍を打ち破った。1842 年に結ばれた南京条約によって、清朝は香港をイギリスに割譲
し、広州、上海、寧波(にんぽー)
、廈門(あもい)、福州の 5 港の開港を余儀なくされた。
1856 年には太平天国の乱に苦しむ清朝に対して、アロー戦争(56~60 年)とも呼ばれる
第 2 次アヘン戦争を引き起こし、フランスのナポレオン 3 世を誘って再度清国を攻撃し、
南京、天津などを占領してしまった。戦争に敗北した中国は、1860 年の北京条約によって、
九竜半島(香港島の対岸)のイギリスへの割譲と天津以下 11 港の開港に同意させられた。
それ以後、中国は西欧列強による半植民地化への道を歩むことになった。
たとえば、図 35(図 14-51)のように、ロシアは露清秘密同盟条約(1896 年 6 月)に基
づいて東清鉄道の敷設権と経営権を得た。ドイツは膠済線(こうさいせん)
、イギリスは滬
寧線(こねいせん)
、広九線など、フランスは滇越線(てんえつせん)
、アメリカは粤漢線
(えつかんせん)
、ベルギー銀行団は京漢線と、それぞれ敷設権を獲得した。
128
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 35(図 14-51) 列強の中国侵略(1900 年前後)
さらに、列強は租借地の名目で軍事上、経済上の根拠地を次々に獲得していった。まず
1898 年 3 月にドイツは,ドイツ人宣教師殺害事件を契機に結んだ膠州湾租借に関する条約
によって膠州湾を 99 年の期限付きで租借した。また、ロシアが旅順、大連を 25 年の期限
付きで租借すると、それに対抗してイギリスも威海衛を租借した。
129
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
フランスは広州湾を租借したが、それに対抗してイギリスは 1898 年 6 月、香港地域拡張
に関する条約を結び、九龍半島(新界)と周辺諸島を 99 年の期限付きで租借した。すでに
みたようにイギリスはアヘン戦争で香港島を、ついで第 2 次アヘン戦争で九龍を割譲させ
ていたが、ここに九龍半島(新界)と周辺諸島を租借することにより、イギリス領香港植
民地は完成した。
列強は表 2(表 14-4)のように鉄道と租借地を中心に自国の勢力圏を設定した。このよ
うにヨーロッパ列強(+日本)は自国の勢力圏内では他国に権益を譲渡しないことを清朝
に承認させた(つまり、この時点で点から線でなく、面になりつつあった)
。
表 2(表 14-4) 列強の租借地
◇フランスの植民地
《アフリカのフランス植民地》
フランスはナポレオン戦争に敗退し、海外の植民地はほとんど失ったが、その後、また、
植民地獲得競争に参入し、図 36(図 14-55)のように、1830 年にアルジェリアに進出して
以来、1881 年にはチュニジアを、次いでサハラ砂漠一帯を領有した。
その後、フランスはアフリカ横断政策を考え始め、イギリスのアフリカ縦断政策(3C 政
策)とスーダン南部のファショダで衝突することになった。これをファショダ事件といっ
ている。ドイツ帝国の急速な進出に直面した 1904 年、両国は英仏協商を結んで、フランス
はエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの
優越権をそれぞれ認めることで決着をみた。
その後、第 1 次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タン
130
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ガニーカ。図 36(図 14-55)参照)を獲得したため、イギリスの大陸縦断政策は完遂した。
フランスは、ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フランスの横断政策は成らな
かったが、アフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し(図 36(図 14-55)
参照)
、事実上アフリカ大陸をイギリスと 2 分割したも同然でしあった。
図 36(図 14-55) アフリカ大陸の分割
《フランス領インドシナの成立》
フランス領インドシナ植民地の起源はナポレオン 3 世がフランス宣教師団の保護を目的
に 1858 年に遠征軍を派遣し、ベトナム中部のダナン(ツーラン)に上陸、ついでサイゴン
に転じ、コーチシナを植民地とし、海軍植民地省の管轄下にコーチシナ総督を設置した。
1863 年、ベトナムとタイに侵略されつつあったカンボジアがフランスに援助を求め、フ
131
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ランスの保護国になった。
1882 年にフランス軍がトンキン地方を占領すると、ベトナムの宗主国である清国の介入
を招き、清仏戦争(1884 年~1885 年)が勃発した。フランス軍はトンキン各地で清朝軍と
戦う一方、海軍が中国沿岸部を攻撃したため、清国は 1885 年の天津条約によってベトナム
に対する宗主権を放棄した。
1886 年フエに阮朝宮廷を置いたままアンナン、トンキンはフランスの保護国とされた。
1887 年 10 月、フランス海軍植民地省の一元的管轄下にアンナン・トンキン保護国とコーチ
シナ植民地およびカンボジア保護国を統括するインドシナ総督が設置され、インドシナ連
邦としてフランス領インドシナが成立した(図 37(図 14-53)参照)
。
その後、1893 年にはラオス王国を保護国とし、1900 年からは中国南部の広州湾租借地を
加えた。
図 37(図 14-53) 東南アジアの植民地化(19 世紀中~20 世紀初)
132
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1907 年にはタイ(シャム)からカンボジア北西部のバッタンバン、シエムリアップ、シ
ソポンの 3 州を得た。こうして、フランス領インドシナは、コーチシナ直轄植民地・直轄
都市(ハノイ・ハイフォン・ダナン)、タイから獲得した 3 州による直轄植民地と、アンナ
ン・カンボジア・ラオスの 3 保護国、保護領のトンキン、租借地の広州湾によって構成さ
れることになった(図 37(図 14-53)参照)
。
フランスはその他、中国にも欧米列強とともに進出したことは述べた。
◇オランダのインドネシア植民地
オランダ東インド会社は、ジャワ島内部の王朝間での戦争や、各王家内での後継者争い
などに介入することで、17 世紀後半にはマタラム王国を衰退させ、そして 1752 年にはバン
テン王国を属国とすることに成功した。しかし、19 世紀初頭、フランス革命以降のヨーロ
ッパ政局の混乱の波に襲われ、オランダ本国はナポレオンのフランスに併合され、また、
オランダの海外領土はイギリスの統治をうけることになった。
ナポレオン戦争後、イギリスはオランダに東インド(インドネシア)植民地を返し、1814
年、オランダとイギリスのあいだで締結されたロンドン条約では、オランダがスマトラ島
を、イギリスがマレー半島を、それぞれ影響圏におくことを相互に承認した。今日のイン
ドネシア・マレーシア間のマラッカ海峡に大きな国境線が引かれることになったのは、こ
の条約に端を発するものである。
◇ロシアの帝国主義的拡大
ヨーロッパから発展したロシア帝国は、図 38(図 14-15)のように、早くからバルカン
方面への南下政策や中央アジア、南アジア、シベリア、東アジア方面へ積極的な征服政策
を進めていった。陸続きであったので、征服した土地は植民地という目立った形ではなか
ったが、征服された住民は実質、植民地(侵略領地)と同じ取り扱いであった。19 世紀は
欧米列強によるアジア・アフリカの植民地化時代と位置づけられるが、その面ではロシア
も欧米列強の一つであったといえる。
《クリミア戦争、1854~56 年》
クリミア戦争は地中海進出をねらうロシアがオスマン帝国に対して起こした戦争であっ
た。1853 年 11 月、黒海南岸の港湾都市・シノープで停泊中だったオスマン帝国艦隊が少数
のロシア黒海艦隊に奇襲され、艦船のみならず港湾施設まで徹底的に破壊されるというシ
ノープの海戦が起きた。これによりイギリスでは世論が急速に対ロシア強硬論へと傾き、
フランスとともにオスマン帝国と同盟を結んで 1854 年 3 月 28 日、ロシアに宣戦布告した。
英仏連合軍の攻撃目標はロシア黒海艦隊の基地があるクリミア半島の要衝・セバストポ
リであった。ロシア軍は英仏艦隊から直接セバストポリを砲撃されないよう湾内に黒海艦
隊を自沈させ、陸上でも防塁を設けて街全体を要塞化したため、予想外の長期戦になり、
戦争は凄惨をきわめたが、
1855 年 9 月 11 日にセバストポリの陥落を見てロシアが敗北した。
133
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 38(図 14-15) ロシアの東方進出(19~20 世紀初頭)
《極東への進出》
クリミア戦争の敗北でバルカンへの進出に失敗したロシアは、アジア進出により積極的
に帝国の拡大をはかろうとした。ロシアは、アロー号戦争(1856~1860 年。清国と英仏の
戦争)に忙殺される中国清朝とは、1858 年のアイグン条約および天津条約(アロー号戦争
の結果、英仏露米と清国の条約)
、1860 年の北京条約を次々に結んだ。
1860 年の北京条約は天津条約の批准交換と追加条約であるが、それを仲介したロシアは
それを口実に清国と新たな条約を結んだ。この条約で清国は、ロシアに対しては外満州の
一部であるウスリー川以東アムール川以南の地域を割譲し、アイグン条約では清とロシア
の共同管理地となった地域(現在の沿海州)をロシア領と確定した(図 38(図 14-15)参
照)
。
ロシアはこの後すぐにウスリー川以東に沿海州を置き、念願の不凍港ウラジオストクを
建設した。また、ロシアはカシュガルやウランバートル、張家口での商取引の自由を得た。
ロシア帝国東部地域の開発が進むなか、多くの解放農民がシベリアへと移住した。また極
東における領土の整理も行われ、1867 年に開発の困難なアラスカをアメリカに 720 万ドル
で売却した。
1856 年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発
するようになった。日本とロシアは国境確定の交渉を行って、1875 年に、樺太での日本の
権益を放棄する代わりに、得撫島(ウルップ島)以北の千島 18 島をロシアが日本に譲渡す
る樺太・千島交換条約が結ばれ、日本とロシアとの国境が確定した。
《中央アジアへの進出》
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
19 世紀に入ると北カフカスの併合を完了したロシアは大カフカス山脈の南にまで勢力を
伸ばし、南カフカスを支配するカージャール朝イランとオスマン帝国からこの地方を奪い、
1806 年のゴレスターン条約でロシア帝国に併合した(図 38(図 14-15)参照)
。
ロシア帝国は、トルキスタン地方(トルコ系民族が居住する中央アジアの地域)では、
ブハラ・ハン国、ヒヴァ・ハン国を次々に保護下におき、1876 年にコーカンド・ハン国を
滅亡させた(図 38(図 14-15)参照)
。
《再び南下政策―露土戦争、1877~78 年》
ロシアは、東アジア、中央アジアへの進出が一段落すると,再びバルカン半島の南下政
策を考えるようになった。
1877 年 4 月、
ロシアは、
ブルガリア保護の名目で再びオスマン帝国に宣戦し露土戦争
(1877
~78 年)を開始した。バルカン半島とアナトリア半島東部が戦場となり、1878 年 3 月、ロ
シアの勝利で戦争は終わり、サン・ステファノ条約が結ばれた。
サン・ステファノ条約によって、オスマン帝国は多額の賠償金を課せられ、窮地に追い
込まれたが、英仏などの列強はこれに猛反発し(このオスマン帝国をめぐる外交問題を東
方問題という)
、1878 年 6 月~7 月にかけてドイツのビスマルク首相が呼びかけて開催され
たベルリン会議ではロシアの影響力を殺ぐ方向で条約内容が大幅に修正された。
◇アメリカの西方拡大と帝国主義的海外進出
イギリスからの独立をはたしたアメリカも、図 39(図 4-17)のように、19 世紀のはじ
めには西方に陸続きの広大な土地がひろがっていた(インディアンといわれる先住民がす
んでいた)
。
3 代大統領ジェファーソンのとき(1804 年 4 月)
、アメリカはフランスのナポレオンから
1500 万ドルという価格でルイジアナ全土を購入した。ミシシッピ川の西方に向けて 214 万
平方キロメートル(日本の約 6 倍)というアメリカの既存の領土 230 万平方キロメートル
にほぼ匹敵する地域を、アメリカはナポレオンの幾分気まぐれな新大陸構想の結果として、
首尾よく手に入れることができた(ナポレオンはヨーロッパ征服に野心を燃やしていた)。
しかし、スペインとの国境線を確定するときになって問題が生じてきた。スペインは、
ルイジアナを、ミシシッピ川西岸とニューオーリンズ市を包括するだけととらえていた。
アメリカ合衆国は、彼らが購入した土地は、リオグランデ川(現在のテキサス州とメキシ
コを分けている線)とロッキー山脈にまで達し、スペインの北の領地であるコアウイラ・
イ・テハス州の大部分を取り囲むと主張していた。このようにルイジアナの領域そのもの
に両者間に大きな見解の相違があった。
1819 年、第 5 代大統領モンロー政権の国務長官ジョン・クインシー・アダムズ(第 2 代大
統領ジョン・アダムズの息子)は、スペインに何度となく強い外交的圧力をかけた結果、
スペインは、図 39(図 4-17)のように、東のフロリダをアメリカに譲渡することにした。
合意(アダムズ・オニス条約)によると、アメリカは、居住者の主張する合計 500 万ドル
の補償金をスペイン政府に対して支払うことと、テキサスのサビーヌ川以西の地域と他の
135
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スペイン領地の主張を放棄することと引き換えに、スペイン領フロリダの領土権を受け取
った。
図 39(図 4-17) アメリカ合衆国の領土拡大
アダムズ・オニス条約は、大まかにフロリダとルイジアナをアメリカに与えて、スペイ
ンにルイジアナの西のテキサスからカリフォルニアまですべてを与えて、はっきりとした
境界を描くことで境界論争に決着をつけていた(つまり、これ以上、アメリカは西へ手を
出さないということが約束されていた)
。
正確な境界は、図 39(図 4-17)のように、メキシコ湾の北緯 32 度線から北にレッド川
沿いに北へ向かい、レッド川からアーカンザス川までに西経 100 度線、本流を西へ行き、
北緯 42 度の地点で北へ向かい、最終的に太平洋まで西へ伸びた(この時点では、図 39(図
4-17)において、テキサス、カリフォルニアはスペイン領となることが確定したが、オレ
ゴンのところは未確定でこれはイギリスと交渉すべきことであった)
。
ところが、それ以後もアメリカは力にまかせて、西へ西へと拡張する政策をとっていっ
た。このアメリカの領土拡大には、奴隷制を擁護するための議論と制度が、1820 年代から
30 年代、急速に強まっていったことがあった。奴隷制がいかに非人間的であったとしても、
人間(白人)の経済的欲望はそれを超えていたとみえて、その制度を抱えた南部が縮小す
るどころか、19 世紀の前半、猛烈な勢いで地理的には西に、大きく膨張していった。
ジョージア、さらにその西方のアラバマ(1819 年に州昇格。6 万人以上になると州に昇
格した)
、ミシシッピ(1817 年)
、ルイジアナ(1812 年)という新しい深南部諸州(ディー
136
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
プ・サウス)における黒人人口の増加は、この地域が奴隷制綿花プランテーションの中心
地として、いかに爆発的な勢いで開拓され、拡大したかを示している。
この深南部地域に入った白人野心家たちの勢いは、次はテキサスであった。その当時、
図 39(図 4-17)のように、テキサスはまだアメリカ合衆国ではなかった。1821 年、ミズ
ーリ州から入植を希望したモーゼス・オースティンの請願に対し、スペイン総督現地官憲
が 300 家族の入植を認めたことからアメリカ人の移住がはじまった。東部テキサス渓谷地
域の豊かな農地の多くは、たちまち黒人によって支えられた奴隷制綿花プランテーション
でうめられた。
はやくも 1830 年代には国境をはみ出して、メキシコ領テキサス地域にまで奴隷を連れ進
出していったのである。結局、陸続きであったので植民地経営と同じ論法で国境など考え
ずにアメリカ人は領土を拡大していった。1831 年のテキサス人口は 2 万人であったが、1836
年には 5 万 2000 人へと増加した。テキサスの黒人人口は 1850 年には 5 万 8000 人に増加し
た(その年の白人人口は 15 万 4000 人)
。
1829 年、メキシコ政府はアメリカ移民の増加を懸念し、アメリカからの移民を禁止し、
あわせてテキサスにおける奴隷制の廃止を宣言した(メキシコはもともと奴隷制禁止だっ
た)。しかし、アメリカ移民はその移民禁止も奴隷廃止令も無視した。テキサスの動きは、
やがて政治問題となり、1835 年、ジャクソン大統領は、メキシコ政府にテキサスの買収を
申し出た。前大統領アダムズ以来、アメリカ大統領としての再三の申し出であり、メキシ
コ政府は重ねてそれを拒否した。
ところが、1835 年、メキシコ政府の拒否を機に起こったのが、テキサス在住アメリカ系
住民による武装蜂起であった。蜂起から 1 年後の 1836 年 3 月、テキサスはついに一方的に
メキシコからの独立を宣言したのである。
アメリカではミズーリ協定によって、奴隷州と自由州の数的バランスを維持することに
なっていたので、この時は、マサチューセッツ州領域の一部をメイン州として切り離し、
メイン州の州昇格を認め、つまり、自由州を割って 2 つにして、数あわせをして、1845 年
3 月にテキサス併合は連邦議会両院協同決議という形で成立した。
オレゴン問題も、翌 1846 年 6 月イギリスとのオレゴン領土条約によって決着した。オレ
ゴン全域を合衆国が得るという要求は満たされなかったが、それでも図 39(図 4-17)の
ように、北緯 49 度線以南のすべての地が合衆国領土として確定した(そのときイギリスの
譲歩で獲得した領土が今日のワシントン州である)
。
テキサスの次はその先のカルフォニアであった。ポーク大統領は、メキシコと戦争を始
める前に、カリフォルニアまでの領土買収をメキシコ政府に申し出たが拒否され、戦争に
訴えた。このメキシコ戦争(米墨戦争)は、以後 2 年にわたった。
戦争開始とともに(戦争の理由はメキシコ兵がリオグランデ川を越境したということで
あった)、アメリカがいうようなリオグランデ川の越境問題とは全く関係なく、合衆国軍は
図 40(図 4-19)のように、メキシコ領内奥深くカリフォルニアにまず進攻し、さらに 47
137
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
年 9 月には首都メキシコ・シティを占領し、メキシコを完膚無きまでに打ち負かした。メキ
シコ軍はアメリカ軍の大砲による攻撃に耐えられず、物資も枯渇し、また指揮系統の分裂
によって混乱し、全くアメリカ軍の敵でなかった。明らかに計画的な侵略戦争であった。
そのメキシコ首都占領という事実のもとで、1848 年 2 月に締結されたグアダルーペ・イ
グルダ条約によって、メキシコはリオグランデ川国境の承認を強制されたばかりか、図 40
(図 14-19)のように、かつてテキサスが領有権を主張した領土のさらに倍にもあたる、
太平洋岸カリフォルニアにいたるメキシコ領を、わずかな金額で合衆国が買収することを
認めさせられたのである。
図 40(図 14-19) アメリカ・メキシコ戦争における合衆国の進行
このグアダルーペ・イダルゴ条約により、合衆国はリオグランデ川を境界とするテキサ
ス(テキサスも図 40(図 14-19)のように倍増された)とカリフォルニア、ニューメキシ
コ、アリゾナ、ネバダ、ユタ、コロラドの一部分およびワイオミングという広大な領域を
獲得した。これでアメリカ合衆国の骨格が出来上った。広大な潜在的な植民地を獲得した
と同じだった。
この 19 世紀はヨーロッパの列強も産業革命後の軍事力を背景に植民地獲得競争をやって
いたが、ある意味では陸続きのアメリカもロシアも植民地獲得競争に奔走していたという
点では同じであった。つまり、ナポレオン戦争のあと、100 年近くヨーロッパで大きな戦争
はなかったが(南北戦争とクルミア戦争以外に)
、列強はアジア、アフリカ、アメリカ、オ
138
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ーストラリアの後進国の植民地化に狂奔していたのである。クルミア戦争はその植民地獲
得競争でオスマン帝国の地でヨーロッパとロシアがぶつかった戦争だった。南北戦争はア
メリカ奴隷問題の決着のための戦争(内戦)だった。
《アメリカの帝国主義的海外進出》
アメリカは、1890 年代にはいって西部開拓の終焉によって、アメリカ人は更なるフロン
ティアを海外へ求め、
「外に目を向けなければならない」という意識が起こってきた。
1889 年に汎アメリカ会議が開催され、この力がアメリカのラテンアメリカ進出を促すよ
うになった。さらに、ヨーロッパ列強の帝国主義にあおられて、1899 年には、国務長官ジ
ョン・ヘイが門戸開放宣言を発して、中国市場での(列強の)機会均等などをとなえて、
海外、とくに太平洋、アジア方面に介入しはじめた。
《ハワイ王国の併合と太平洋上諸島への進出》
アメリカは、1898 年にハワイ王国をなし崩し的に併合、領土を太平洋にまで拡大し、こ
ぞって太平洋上の島々へ移住していったが、その状況を以下に述べる。
ハワイ諸島では、アメリカ合衆国からの入植者が増え、サトウキビ栽培や輸出などによ
って経済的にも力をつけはじめると、より親米的な政治を求める声が特に経済界から強く
なった。1887 年にクーデターが起こり、ハワイ王国のカラカウア王は修正憲法(銃剣憲法)
の成立を承認せざるを得なくなったが、この修正憲法によって国王の権限は制限され、ハ
ワイ王国は対米従属を余儀なくされた。
1891 年、カラカウア王が渡米先のサンフランシスコで客死すると、リリウオカラニは女
王として即位、共和制派との対決姿勢を強めた。1893 年 1 月 16 日、アメリカ合衆国と関連
の深いサトウキビを扱う業者らがさらに親米的な政権を打ち立てるため、政権の転覆を計
画した。アメリカ海軍艦 USS ボストンは、首謀者サンフォード・ドールとロリン・A・サー
ストンを保護する名目でホノルルに到着し、リリウオカラニを幽閉状態にした。
1893 年 1 月 17 日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の廃止を宣言した。翌 1894
年 7 月 4 日、ドールはハワイ共和国の成立を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。
1895 年 1 月に王党派による最後の大規模な武力蜂起が起きたが鎮圧され、1 月 16 日にはリ
リウオカラニも私邸から大量の武器が発見されたという理由で逮捕され、廃位された。
ドールはハワイをアメリカ合衆国に併合する条約を作り、この条約が成立したときハワ
イ準州の初代知事に任命された。1898 年 8 月 12 日、時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・
マッキンリーはハワイのアメリカ合衆国領への編入を宣言した。これによりハワイはアメ
リカ合衆国の準州として編入され、ハワイ王国の約 100 年間の歴史は完全に幕を閉じた。
1959 年 8 月 21 日には完全なアメリカ合衆国領としてハワイ州が成立し、今ではアメリカ
合衆国 50 番目の州として認知されている。しかし、1993 年 11 月、アメリカ合衆国議会は
ハワイ併合に至る過程が違法だったと認め、公式に謝罪する両院合同決議をした。
《米西戦争》
アメリカは、ハワイを併合した 1898 年、スペイン領キューバの独立戦争に便乗し、軍船
139
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
「メイン号」爆発事件を契機として(この爆発の原因は不明である)
、スペインとの間で米
西戦争を起こした。
米西戦争とそれに続く米比戦争に勝利すると、中米の多くの国からスペイン勢力を駆逐
して経済植民地(バナナ共和国といわれた)とし、キューバを保護国にし、プエルトリコ
を植民地にした(図 41(図 15-17)参照)
。
図 41(図 15-17) 西インド諸島の分割
《フィリピン独立を横取りしたアメリカ―米比戦争》
フィリピンは、最初、スペインの植民地であった。1898 年 4 月、米西戦争が起こるとフ
ィリピンのアギナルド(1869~1964 年)はアメリカ軍の援助で帰国し、独立を宣言して大
統領となった(1898 年 6 月)
。
ところが、1898 年 12 月 10 日にアメリカとスペインの間に結ばれたパリ講和条約によっ
て、スペインはアメリカにフィリピンの領有権を約 2000 万ドルで譲渡してしまった(アメ
リカはキューバ問題から米西戦争を起こしたが、フィリピンとは関係なかった)。つまり、
スペインからの独立間際のフィリピン独立派から、アメリカはフィリピンを横取りしてし
まったのである。
時のアメリカ大統領ウィリアム・マッキンリーは「フィリピン群諸島は合衆国の自由な
る旗のもとに置かれなければならない」とする声明を発表したが、アギナルドをはじめフ
ィリピン国民は一斉に激しく抗議し、1899 年 2 月 4 日、アメリカ合衆国との間に新たな戦
争が勃発することになった(米比戦争)
。アメリカ合衆国からは 8 月 14 日に 1 万 1,000 人
の地上部隊がフィリピンを占領するために送られてきた。
140
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
次の 10 年では、アメリカ軍はフィリピン軍に対抗するため,12 万 6000 人にも及ぶ大規
模な軍事力を必要とした。1901 年 3 月 23 日、イサベラ州で米軍に捕らわれたアギナルドは
4 月 1 日アメリカ支配への忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じた
が、アギナルドに従わず抵抗を継続した勢力もあった。
結局、米比戦争は 1899~1913 年という長期の侵略戦争となり、60 万人のフィリピン人が
殺害されたと言われている。アメリカもまぎれもない帝国主義国であることを証明した。
かくしてフィリピン最初の独立革命は挫折に終わり、フィリピンはアメリカの植民地とな
ってしまった。
《中国への進出》
中国においては、ヨーロッパ列強と日本によって中国分割が進もうとしていたので、1899
年に国務長官ジョン・ヘイは清の門戸開放・機会平等・領土保全の 3 原則を提唱し、中国
市場への進出を狙った。このような外交活動と歩調を合わせて、アメリカの軍事費も増大し
たが、防衛費にまわされる額は国民総生産の 1%に満たなかった(現在の日本と同じ)。
1900 年の義和団事件に際し、重ねて中国の第 2 次門戸開放通牒を各国に送った。義和団事
件に対する連合国としての出兵行動とあわせて、アメリカはこの 2 度の門戸開放通牒を通
して、存在感を強め、現実に図 35(図 14-51。P129)のように、遅ればせながら清国か
ら粤漢線(えつかんせん)
、広三鉄道などの利権を獲得した。
もとより、アメリカのそうした東アジア地域への関心は、その後ロシア、さらに日本と衝
突した。また中国との関係も、決して親密でも、また安定したものであったわけでもない。
しかし、重要なことは 19 世紀末から 20 世紀初頭の時期にアメリカ合衆国は、東アジアの国
際関係においてもはや無視できない国家のひとつになったという事実である。
《アメリカのラテンアメリカ支配》
1898 年、キューバのスペインからの独立反乱にアメリカ合衆国が介入し、米西戦争(ア
メリカ・スペイン戦争)を起こし、この戦争に勝利した合衆国は、キューバの憲法に自国
の干渉を規定したプラット条項を入れさせ、保護国とし、また、スペインからフィリピン、
プエリトリコ、グアムを獲得したことは述べた。
この米西戦争のころより、アメリカのモンロー主義はしだいに拡大解釈され、パン・ア
メリカ主義のもとに、ラテンアメリカ進出を正当化するものとなった。19 世紀末より、カ
リブ海をアメリカ合衆国の内海(うちうみ)にしようとするカリブ海政策が進められた。
セオドル・ルーズベルト大統領(在位:1901~1909 年)は、ビッグ・スティック・ディ
プロマシー(棍棒外交)といわれる強硬外交を進め、自国の権益をまもるためにたびたび
海兵隊を派遣した。たとえば、20 世紀はじめ、アメリカは、1903 年から 1905 年にかけて、
ドミニカ共和国の債務超過によりフランスが干渉する恐れがあったとき、ドミニカ共和国
を救済した。
また、1903 年にパナマをコロンビアから独立させ、パナマ運河の工事権と租借権を獲得
し、国内東西物流の安定を目的としたシーレーンを確保するため、パナマ運河の建設に着
141
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
工した。2 万人以上の死者と 10 年の工事を経て、果ては工兵まで投入して 1914 年に完成さ
せ、パナマから運河地帯の永久租借権を獲得した。
このセオドル・ルーズベルトの棍棒外交は、彼の後継であるウィリアム・タフト大統領
(在位:1909~1913 年)に引き継がれ、経済を重視したドル外交でラテンアメリカへの進出
をはかった。アメリカは明らかに帝国主義外交を開始していた。
◇遅れたドイツはアフリカと太平洋に植民地を獲得した
第 1 次世界大戦前のドイツの経済成長と軍国主義的発展は目をみはるものがあった。ド
イツの急速な工業の発展は全ドイツ連盟やドイツ艦隊協会などのような拡張主義者の圧力
団体がヨーロッパや海外におけるドイツの影響力の拡張を主張した。1895 年以降のドイツ
の支配層も大規模な領土拡張を実現する機が熟しつつあると信じていた。ドイツの皇帝ヴ
ィルヘルム 2 世自身、ドイツは「旧ヨーロッパの狭い世界の外に、なすべき大きな任務をも
っている」と宣言していた。
しかし、遅れて国家統一をなしたドイツには、もう、あまり、まとまった土地(植民地
化されていない国土)は、残されてはいなかった。そこで、瀕死の病人オスマン帝国を看
護しつつ(弱みにつけいり)
、3B 政策をかかげ、バグダード鉄道などによって、ベルリン、
ビザンティウム(イスタンブル)
、バグダードを結ぼうとして、先輩である植民地帝国・イ
ギリスと対立した。
また、ドイツはアフリカでも、トーゴランド、カメルーン、南西アフリカ、東アフリカ
など、4 つの地域の領有権を獲得したが(図 36(図 14-55)参照)、イギリス、フランスに
は遠くおよばなかった。後述するように太平洋の島々も植民地にした。
◇イタリアのエチオピア侵略
1861 年にサルデーニャ王国によるイタリア統一がなされイタリア王国が成立したあと、
1870 年に起こった普仏戦争によりローマ教皇領を守護していたフランス軍が撤退するとこ
れを占領し、翌年ローマへ遷都した。このようにしてイタリア統一がなると、イタリアは
他の欧米列強と同じように植民地獲得を模索し、帝国主義政策を展開しはじめた。
国内統一が遅れて、列強のなかで植民地獲得競争に遅れをとったイタリアは、アフリカ
の中で、まだ、どこも手を出していなかったエチオピアに目をつけた。イタリアはエチオ
ピアへの圧力を強め、1895 年エリトリアに接するティグレ地方に侵攻を開始し、
(第1次)
エチオピア戦争を開始した。
これを迎え撃つエチオピアのメネリク 2 世は、皇帝への即位以来、多額の資金を投じて、
フランスの支援でフランス式の大砲や機関銃で武装した陸軍を育成していた。1896 年 3 月、
アドワの戦い(図 36(図 14-55。P131)参照)でエチオピア軍 15 万人とイタリア軍 1 万
人が激突、エチオピア軍 1 万人、イタリア軍 8000 人の兵士を失って、イタリア軍の決定的
敗北に終わった。
この決戦における勝利により、エチオピアは欧州列強による植民地化を当面、回避する
ことができたが、1935~36 年の第 2 次エチオピア戦争で(ムッソリーニによる侵略戦争)、
142
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
結局、イタリアに併合されてしまうことになった。
また、イタリアは、後述するように、オスマン帝国の混乱につけいり、侵略戦争(伊土
戦争)をしかけ、1912 年にはリビアを植民地にした(図 36(図 14-55。P131)参照)
。
◇日本の朝鮮・中国への帝国主義的進出
1854 年に鎖国を止めたばかりの日本であったが、アジア諸国が列強の植民地や支配下に
置かれる中にあって、開国後、明治維新を行い、急激な殖産興業、富国強兵策をとった結
果、列強の最後尾につくことができるようになった。
台湾出兵(1874 年)
、朝鮮に対する不平等条約(江華島条約)の強制、さらには日清戦争
(1894~95 年)に勝利など、日本は、
「帝国主義」を実践する列強の一角に加わった。日清
戦争に勝利し、その下関条約(1895 年)によって、領土として、図 42(図 14-29)のよう
に、遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、賠償金 2 億両(3 億 1 千万円)の獲得、重慶・長沙・
蘇州・杭州の 4 港開港を清に認めさせた(しかし、
「三国干渉」により遼東半島は返還した)
。
図 42(図 14-29) 日本の植民地
143
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、図 35(図
14-51。P129)
、表 2(表 14-4。P130)のように鉄道と租借地を中心に自国の勢力圏を
設定したことは述べた。
このように,日本を含む欧米列強は中国の半植民地化、中国権益の分割を積極的に進め
て行ったが、そのような中で、とくにロシアと日本の利害が対立するようになっていった。
日清戦争終了後、三国干渉によって、日本から清国に遼東半島を返させたロシア帝国は
清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借した。また、シベリア鉄道及びその支線で
ある東清鉄道を建設し南下政策を進めていった。とりわけ、1900 年の義和団事件以降、ロ
シアは満州に軍隊を駐留させ、利権を確保していった。日本はロシアの動きを牽制すべく、
1902 年には、日英同盟を締結し、ロシア軍の満州からの撤退を要求した。
その後もロシア軍は満州から撤退をしないので、1904 年、日本はロシア帝国に対し宣戦
布告し、日露戦争が勃発した。陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物
量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功した。一方、日本海軍は最終的に
は日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を撃滅した。ロシアは、なお陸軍は維持していた
が、海軍力の大半を失い、国内でも革命運動が進行していたため講和に傾いた。日本も長
期戦には耐えうる経済力を持っていなかったので、外相小村寿太郎は米大統領セオドル・
ルーズベルトに仲介を頼み、講和に持ち込んだ。
1906 年、日本は、日露戦争を終結させたポーツマス条約により、ロシアは日本の朝鮮に
おいての政治・軍事・経済の優先権を認めること、図 42(図 14-29)のように、清領内の
旅順、大連の租借権及び、長春以南の鉄道とその付属の権利を日本に譲渡すること、北緯
50 度以南の樺太(すなわち南樺太)とその付属の諸島を譲渡すること、 オホーツク海、ベ
ーリング海の漁業権を日本に認めることなどを勝ち得た。そして日本はポーツマス条約で
獲得した遼東半島南部(関東州)に関東都督府を設置した。また、長春以南の東清鉄道を
南満州鉄道とし、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設置した。
その後、1909 年 7 月、第 2 次桂内閣が韓国(大韓帝国)併合を閣議決定した。1909 年 10
月 26 日、伊藤博文はロシアとの会談を行うため渡満し、ハルピンに到着した際、大韓帝国
の独立運動家・安重根に暗殺された。日本は 1910 年には日韓併合条約を結び、大韓帝国を
併合し、図 42(図 14-29)のように、ここに諸列強と並び、日本周辺に多くの植民地をも
つ帝国主義国家にのし上がった。
◇列強によるアフリカの全面的植民地化
1880 年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入るころは、アフリカ大陸のうち
ヨーロッパ各国の支配下に組み込まれた地域は、図 43(図 14-54)のように、大陸全体の
わずか 10%程度であった。
ベルギーやポルトガルがコンゴに進出すると、これらの動きに刺激されたフランスはコ
ンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフランス領赤道アフリカの礎を築いた。一
方、時を同じくしてドイツも 1884 年にカメルーンの保護領化を宣言するなど、植民地化・
144
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アフリカの分割が加速度的に進んだ。
図 43(図 14-54) 分割される前のアフリカの植民地(1880 年ごろ)
事態を収拾するために、ドイツのビスマルクが招集したのが 1884 年 11 月のベルリン(西
アフリカ)会議であり、そこで取り決められた一般議定書は、「アフリカ分割」の原則を定
めていた。これでは無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、以降
アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務づけがなされた。
しかし、その後、他の列強を大きくリードしてきたイギリスの勢力が相対的に低下した
こと、対ドイツ報復を優先させていたフランスが植民地争奪戦に本腰をいれたこと、とり
わけベルリン(西アフリカ)会議でのホスト役だったビスマルクが失脚し、「新航路政策」
を推進したヴィルヘルム 2 世がドイツの舵取りになり、本格的に植民地獲得に乗りだした
ことなどから、世紀転換期においてアフリカ争奪戦はより熾烈をきわめるようになり、そ
して、ついに第 1 次大戦以前には、アフリカ大陸の大部分が、図 36(図 14-55。P131)
のようにヨーロッパ諸国に分割されてしまって、植民地になってしまった。
145
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヨーロッパ列強はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニ
ズムの論理を唱え、
「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の
責務である」などといった自己中心的な正当性を主張していたが、人類史上でもまれにみ
る露骨な資本主義的利害と人種的な支配のみが前面に浮き出る「むき出しの帝国主義」が
ここにみられたのである。
一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民
地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられた。また、植民
地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が 1847 年に建国したリベリア共和国、峻険な高地に
拠り強固な軍事力をもってイタリアを排除したエチオピアの 2 ヶ国のみであった
(その後、
エチオピアもイタリアに併合された)。
このようにヨーロッパ列強に植民地化されたアフリカ諸国が、その植民地政策の手から
解放されるのは、一部の国を除き、第 2 次世界大戦後の 20 世紀半ば以降であった。
◇太平洋の分割
もう、残っているのは太平洋の島々だけとなった。太平洋諸地域への進出もイギリスが
最初であった。まず、イギリスは、オーストラリア、ニュージーランドとその周辺の諸島
を領有した。1901 年にはオーストラリア連邦が形成され、イギリス帝国内の自治領となっ
た。 しかしこの間、先住民のアボリジニは開拓とともに奥地に追われ、タスマニア島の先
住民は 1876 年に絶滅した。
イギリスはオーストラリア、ニュージーランドの他に、図 44(図 15-16)のように、北
ボルネオ(1888 年)
、ニューギニア島をドイツと分割して東北部(パプア、1884 年)やフ
ィジー諸島(1874 年)
、トンガ諸島(1900 年)を領有した。
イギリスについで太平洋に進出したのはフランスだった。フランスは、オーストラリア、
ニュージーランドの植民地経営を進めるイギリスに対抗してメラネシア、ポリネシアへの
進出をはかり、ニューカレドニア島(1853 年)やタヒチ島を含むソシエテ諸島など南太平
洋西部の諸島などを領有した。
以上のように、1880 年以前は、太平洋地域における植民地の支配は限られたものだった。
しかし、遅れてきたドイツが 1880 年代に太平洋に出現するようになってから(ビスマル
ク時代だった)
、状況は一変した。図 44(図 15-16)のように、その後、列強がこぞって
進出し、20 世紀初めまでに太平洋諸地域はイギリス・フランス・ドイツ・オランダ・アメ
リカ・ロシアによって主な島はすべて分割領有された。
ドイツは 1857 年にサモアに交易の拠点をおいていたが、1884 年にニューギニア東部を分
割する協定をイギリスと結んだ。そして 1886 年にはその境界線は西太平洋地域の分割へと
広がった。分割線の北側はドイツ領、南側はイギリス領となった。ドイツは具体的に、1884
年にはニューギニア島東北部、同年ビスマルク諸島、1886 年には赤道以北のマーシャル諸
島を領有し、
(ヴィルヘルム 2 世時代の)1899 年には米西戦争に乗じてカロリン諸島・マリ
アナ諸島・パラオ諸島をスペインから買収した。
146
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 44(図 15-16) 太平洋の分割
アメリカは、米西戦争(1898)でフィリピン、グアムを獲得し、また同年ハワイを併合
したことは述べた。 米西戦争当時、フィリピンでは、アギナルドの率いる独立軍がスペイ
ンと戦っており、アメリカは最初この独立軍を支援した。アギナルドは 1898 年、革命政府
を立てて大統領となったが、独立を認めないアメリカは(フィリピンをスペインから買収
したとして)
、1899 年から 3 年半にわたる米比戦争によってフィリピンを植民地にしてしま
った。
さらに 1899 年にはドイツ、イギリス、アメリカが協約を結び、イギリスはドイツのサモ
アの西側を領有することを黙認し、その代償としてそれまでドイツの勢力下であった西部
ソロモン諸島(ブーゲンヴィル島を除く)を入手した。最後の協定は、1906 年、ニューヘブ
リデス諸島について、イギリスとフランスによる共同統治の協定が正式に締結された。こ
れによって太平洋の主な島々も欧米列強によって、すべて分割されてしまった。
オランダは 1904 年、以前から植民地にしていたジャワ、スマトラ、ボルネオ南部、ニュ
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ーギニア西部をあわせてオランダ領東インド(インドネシア)をつくった。
なお日本は第 1 次世界大戦中に赤道以北のドイツ領諸島(南洋諸島)を占領し、戦後マ
ーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島、パラオ諸島を委任統治領(国際連盟から統
治を委任される)として、実質的には植民地として 1945 年まで支配してきた(太平洋戦争
中、これらの諸島では日米両軍の間で激闘が行われた)
。
◇世界をおおった帝国主義
このようにして、第 1 次世界大戦が始まる 1914 年には、冒頭で述べたように、ヨーロッ
パ系の白人が支配する地球上の土地は、84%になった(前述したようにアメリカ人と日本
人を含む)
。西ヨーロッパとアメリカ合衆国(+日本)の 10 ヶ国ばかりを「中核」とした
帝国主義的資本主義システムが、ほぼ地球全体を覆ったということである。
このように地球上の 8 割以上の地域を支配下においた欧米列強は、この帝国時代に大発
展をとげることになった。欧米諸国全体の工業生産は、劇的な発展をとげ、世界全体の蒸
気機関数は、1870 年から 1913 年までのあいだに、3.5 倍になった。ヨーロッパ大陸の人口
は、1 億 9000 万人から 4 億 2300 万人に 2.2 倍に激増したが、そのほか 4000 万人がアメリ
カなどに移住した。
まさに人類史上まれにみる弱肉強食の帝国主義が地球上を覆い、その行き着く先は帝国
主義国家どうしのつぶし合いの時代に入っていったのである。
【3】覇権の交代期の欧米列強の同盟政策
◇追い上げられた覇権国家イギリス
人類最初の戦争史『戦史(ペロポネソス戦争史)
』を書いた、古代ギリシャのトウキディ
デス(紀元前 460 年頃~紀元前 395 年)は、「戦争を不可避にしたのは、アテネの力の増大
と、これがスパルタに引き起こした恐怖である」と述べている。古代からの戦争の歴史をみ
ると、力のバランスの変化はつねに動揺をもたらし、ときには戦争を引き起こしてきたこ
とがわかる。
産業革命以来、工業力においては断然トップを走ってきていたイギリスがアメリカ、ド
イツに追い込まれていた。図 45(図 15-7)のように、アメリカにはすでに 1890 年代に追
い越されていたが、これは隔絶したアメリカ大陸の経済圏でのことであったのであまり目
立たない存在であった。これに対し英独の覇権争いが激しく、第 1 次世界大戦の直前には、
まさに英独が逆転する歴史的なところであった。
表 3(表 15-2)に大国の人口を示すが、当時はロシアとアメリカ(移民によって急増
しつつあった)が別格であったが、それ以下はドイツとオーストリア・ハンガリーと日本
が多少ヨーロッパ諸国より抜きんでていることがわかる。
19 世紀の最後の 25 年に大国の力関係に影響をおよぼした変化は、
広範で速度が速かった。
貿易と輸送通信網(電信、蒸気船、鉄道、近代的な印刷機械)が全世界に広がったことは、
科学技術面での新発見や工業生産の進歩が何年もしないうちに一つの大陸から別の大陸に
148
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
伝わり、広がっていくということを意味していた(人類の歴史を動かしているひとつの原
理が、「創造と模倣・伝播の原理」であるといってきたが、19 世紀後半の科学技術の発展は、
その拡散速度をいよいよ速めることになった)。
図 45(図 15-7)相対的にみた大国の工業力(1880~1938 年)
(1900 年のイギリスを 100
とする)
表 3(表 15-2) 大国の総人口(1890~1938 年)
(100 万人)
いままでは軍事力は必ずしも経済力とイコールではなかった。経済大国は、政治文化や地
理的な安全保障などさまざまな理由で、軍事的には小国であることを選択できるし、その反
面、大きな経済資源をもたない国が、強力な軍事大国となるべく社会を組織する場合もあっ
た。しかし、19 世紀半ば過ぎに起こったクリミア戦争やアメリカの南北戦争の例でもわか
るように、工業力にものをいわせる近代の戦争では、経済と戦略のつながりはいっそう緊
密になったことがわかる。
図 46(図 15-8)に鉄鋼生産高を示すが、鉄鋼生産高は工業化の指標であるとともに、
この時代の潜在的軍事力の指標としてもしばしば取り上げられるものである。アメリカは
149
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
すでにトップになっていたが、1890 年と 1900 年の間でイギリスはドイツに追い越され、以
後その差は拡大する一方だったことがわかる。
図 46(図 15-8) 大国の鉄鋼生産(1890~1938 年)
また、各国の工業化をはかる最良の尺度は、近代的なエネルギー(石炭、石油、天然ガス、
水力発電)の消費量である。これは、各国が石炭などの無生物エネルギー源を利用するのに
どれほどの技術力を持っているかを示すと同時に、経済的な活力を示すからである。それを
図 47(図 15-9)に示す。ここでもドイツがイギリスを激しく追い上げている様子がわか
る。このように、1914 年まではドイツが急激な変化をとげたことを明らかにしている。イ
ギリスとフランスとイタリアの成長率が比較的ゆるやかであった。
《まず、競争力を失ったイギリス製造業》
イギリスの衰退は、イギリスがまさに産業革命によって興隆させた工業からはじまった。
イギリスの工業は、この国が世界で最初の産業革命を達成したために、鉄と石炭をベー
スとする技術体系や設備やそれに合った教育体系、労働編成の社会体制などが定着してし
まった結果、ガスと電気を主体とした重化学工業の時代(「第 2 次産業革命」)には、対応
しきれなかった。たとえば、安価に、良質の鋼鉄を大量に生産できるようになったベッセ
マー法や化学肥料、化学薬品、化学染料、プラスチックなどは、いずれもイギリスで発明
されたのに、産業としてそれを発展させたのは、主にドイツやアメリカであった。
150
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 47(図 15-9) 大国のエネルギー消費(1890~1938 年)
また、蒸気機関車の鉄道網を完成させたイギリスは、既存施設を捨てることの経済的で
のデメリットのほか、技術教育の点でも、労働者の人員削減、配置替えなどという社会的
コストの点でも、これを電車に切り替えるのは容易ではなかった。このようなことが工業
のあらゆる側面についてみられたのである。
逆に、第 1 次産業革命に遅れをとった諸国は、自由に新技術を展開することが可能であ
った。ドイツなどの後発国は、イギリス製品から国内市場を守るために保護関税政策をと
ったが、かねて自由貿易主義をとなえてきたイギリスは、容易に保護政策はとれなかった。
しかし、また、ある意味では、イギリス以外の国の工業化は、
(国内にめぼしい投資先が
なくなった)イギリス・シティの金融資本にとっては、融資活動の場の広がりを意味した。
シティにとっては、他の諸国の工業化の進行は、むしろビジネス・チャンスだったのであ
る。シティが、イギリス製造工業が衰えたのちも(イギリス国内のニーズが満ちたので製
造業は衰えた)
、生き残ったのは当然であった。シティで活躍したロスチャイルドやベアリ
ングなど、マーチャント・バンカーと呼ばれる金融機関は、イギリス帝国内というよりは、
近代世界システムのあらゆる地域に投資した(国内よりも成長率の高い国外がよかった。
それは本国のライバルを育てることになり、本国を衰退させることになっても。現在の日
本のようなもの)
。
第 1 次世界大戦の直前でいえば、アメリカの海外投資は 5 億ポンドあまり、ドイツのそ
れも 12 億ポンド程度であったが、イギリスは 40 億ポンドを海外に投資して、それと海運
151
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
などの収益で貿易収支の赤字を補う「ランチェ(金貸し)国家」となっていったのである。
つまり、イギリスの物づくりはめっきり弱くなり、図 48(図 15-11)のように、商品貿易
収支は大幅な赤字となり、それを諸サービスおよび利子で収支を合わせる金融国家になっ
たのである。
図 48(図 15-11) イギリスの国際収支と資本輸出
山川出版「イギリス史」
(このようなことはイギリスに限ったことではない。ある意味では資本主義の当然の流れ
である(資本は最大の利潤に向かう)。産業革命を最初になしとげたイギリスで最初にあら
われた工業から金融資本への転換はその後の工業国にもいえる一般的な傾向である。国内
の工業化とインフラ整備が一段落すると国内需要が鈍化し、蓄積した資本は海外市場に向
かうことになり、それが海外の工業化を促進することになるのである。第 2 次世界大戦後
のアメリカもそうだったし、現在の日本がちょうど貿易収支が赤字になりはじめ、貿易外
収支(海外からの仕送り)でかろうじて黒字になっている時期である。)
(第 1 次世界大戦前のイギリスに返るが)これではいずれにしても物づくりが弱く、軍
事力がすべてを決める帝国主義時代には致命的な弱点となっていったのである。海外の工
業化が進むと、安価な工業製品が輸入という形でかえってくることになり、ますます、自
国の工業を弱めることになった。
イギリスの工業および商業の優位が崩れかけていた。石炭、繊維、鉄製品などイギリス
152
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
が主導権を握っていた産業では、この数十年間、生産高の絶対量は増加していたが、世界
の総生産高にしめるイギリスの割合はじりじりと減少していた。そして、重要性が増す一
方である新しい産業の鉄鋼、化学製品、工作機械、電気製品などの分野では、イギリスは
初めのうちこそ他国をリードしていたものの、たちまち追いつかれてしまった。イギリス
の経済力は、イギリスの海軍と陸軍、そして帝国としての国力などすべてのものの最後のよ
りどころであったが、それが弱体化してしまったのである。
《軍事力の衰退は同盟政策となった》
工業(製造業)の衰退は軍事力の衰退につながるものだった。かつてのイギリスの力を
示す指標にはいろいろあるが、イギリス海軍は、世界第 2 位と第 3 位の海軍を合わせた戦
力に匹敵していた。そして、イギリスは世界中にもっていた植民地に、海軍基地と電信中
継所の網の目をはりめぐらして(図 49(図 15-10)参照)
、最新技術による通信網を備え
ていたのである(現代のアメリカは世界中の同盟国にアメリカ軍事基地のネットワークを
もっているが、それは、かつてのイギリスの植民地帝国と同じである)。世界最大の商船団
が世界最大の貿易国の物資を運び、ロンドンのシティの金融サービスを通じて、イギリスは
世界最大の投資家、銀行家、保険業者、商品取引ディーラーとして世界経済に君臨してい
た。
図 49(図 15-10) 大英帝国の主要な植民地、海軍基地、海底ケーブル(1900 年ごろ)
ポール・ケネディ『大国の興亡』
しかし、19 世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追
いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイ
153
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ギリス、フランスによって色分けされていた植民地の再分割を主張するようになった。
このためドイツとの対立が激化した。イギリスは、かつての栄光ある孤立政策を放棄し
て対ドイツの安全保障策として、図 50(図 15-12)のように、フランスと英仏協商を、ロ
シアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、オーストリア、イタリアとの三国同盟に
対抗しようと試みた。
図 50(図 15-12) ヨーロッパの同盟政策の変化
文英堂『理解しやすい世界史 B』
世界的に見ると、アメリカの勃興によって、イギリスの利権(カナダ、カリブ海の海軍
基地、ラテンアメリカ貿易および投資)はヨーロッパのどの国よりも大きな影響を受ける
ことになった。
さらに、ロシアが国境を越えて拡大し、トルキスタンに戦略的な鉄道を敷いたので、こ
れの影響も受けることになった。このロシアの南下政策は近東やペルシア湾におけるイギ
リスの影響力を脅かすことになるのは明らかであり、いずれはインド亜大陸の支配にも影
響がおよびかねないものであった。
前述したように中国が分割されはじめ、この地域に新しい勢力が台頭してくれば、商業
権益に最大の被害を受けるのもイギリスだった。同じく、イギリスはアフリカや太平洋地
域でも 1880 年以降の植民地分割闘争で最大の影響を受けた国でもあった。
このように世界中に植民地や支配地域をもつ「太陽の沈むことなき世界帝国」イギリスに
とって、世界各国がそれぞれ相対的に勢力を増大し、それぞれがイギリスの領域に挑戦し
てくると、世界のあらゆるところで緊張感を高めざるをえない「気の休まることのない世界
帝国」イギリスになった。イギリスの政治家は全世界的な規模で外交と戦略面で駆け引きの
妙を発揮する必要にせまられていた。
1890 年に親政を始めたドイツのヴィルヘルム 2 世はそれまでの(ビスマルクの)平和外
交をやめて、「新航路」といわれる積極的な対外膨張政策(世界政策)に転換し、ビスマルク
がつくりあげた独露再保障条約をロシアの更新要求にもかかわらず、図 50(図 15-12)の
ように、満期終了と同時に破棄した。
154
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
独露再保障条約の更新を拒否されたロシアが、孤立をおそれてフランスに接近し、図 50
(図 15-12)の右図のように、軍事同盟を 1894 年に締結した。イギリスも工業力の低下、
帝国主義競争の激化、米・独の台頭によるイギリスの相対的地位の低下などにより、単独
でその国際的地位を維持することが困難となり、前述したように、1902 年には日英同盟、
1904 年に英仏協商、日露戦争後にはロシアとの対立を解き、1907 年に英露協商を結び、ド
イツを主要敵国とした。
この英露協商の成立によって、図 50(図 15-12)の右図のように、イギリス、フランス・
ロシア(+日本)3 国間の提携・協商関係が成立した。3 国の植民地支配体制を維持するた
めの協定であるとともに、三国同盟に対抗し、ドイツを包囲する外交関係となった。ヴィ
ルヘルム 2 世時代になって、ビスマルク体制は完全に崩壊し、図 50(図 15-12)のように、
対仏包囲網もいつの間にか対独包囲網に変わっていった。
《イギリスを追い上げたドイツの帝国主義的膨張政策》
ドイツのヴィルヘルム 2 世は、「ドイツの将来は海上にあり」といって、1898 年以降、大艦
隊の建造にのりだした。これに対してイギリスも新型戦艦を建造し、海軍力の伝統的優位の
維持につとめた。しかし、銑鉄の生産量は、1900 年にイギリス 910 万トン、ドイツ 850 万
トンが、1914 年にはそれぞれ、1042 万トン、1931 万トンと逆転、また鉄鋼生産も 1913 年
にはイギリス 770 万トン、ドイツ 1760 万トンとなり、ドイツがイギリスを凌駕したことは
明らかであった。
ドイツはオスマン帝国を保護国化し、1903 年バグダード鉄道敷設権を得て、図 51(図 15
-13)のように、いわゆる 3 B 政策(ベルリン~ビザンティウム(イスタンブル)~バグ
ダードを結ぶ政策)をすすめ、イギリスの 3C 政策(カイロ~ケープタウン~カルカッタを
結ぶ政策)と対立することになった。
ドイツの 3 B 政策は、同盟国のオーストリアを経てバルカン半島に至り、オスマン帝国
領の小アジア・メソポタミアを通過してペルシア湾に出て、インド洋に進出しようとするも
ので、スエズ運河を側面から脅かし、イギリスのインドへの通商路を断つものであったか
ら、イギリスはこれに脅威を感じた。
これらのドイツの進出はバルカン半島から中近東にむけられたものであったが、英仏協
商でフランスの優位が認められたモロッコに対しても、ドイツは 1905 年に第 1 次モロッコ
事件、1911 年に第 2 次モロッコ事件を起し、国際緊張を高めることになった。イギリスは
フランス側に立ってドイツに抗議したため、ドイツは孤立を深めた。
このように、早くから世界の植民地化を進め資源確保・貿易などで有利になっていたイ
ギリスを中心とする三国協商側を急速な工業化・軍事化によって追いつき、追い越そうと
したドイツなどの三国同盟側にはたえず激しい競争と緊張感がただようようになっていた。
あとは何かのはずみで火がつけば、いつでも爆発するおそれがあった。その火薬庫の火元
はバルカン半島だった。
155
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 51(図 15-13) 第 1 次世界大戦直前のバルカン半島
文英堂『理解しやすい世界史 B』
◇第 1 次世界大戦の導火線となったバルカン半島
オーストリア帝国は、1866 年にプロイセン王国の挑発に乗って普墺戦争を起こし、大敗
を喫した。その結果、ハプスブルク帝国は、1867 年のアウスグライヒ(妥協)によって、
図 52(図 15-14)のように、オーストリア・ハンガリー二重帝国となった。しかし、図 52
(図 15-14)のように、種々雑多の多民族国家であることには、変わりがなかった。当時
の帝国内には 9 言語を話す 16 の主要な民族グループ、および 5 つの主な宗教が複雑に入り
組んでいた。末期のオスマン帝国あるいは、後のユーゴスラビアのようにあやうい多民族
の集合体にすぎなかった。
そのようなオーストリア・ハンガリー帝国が、1908 年、オスマン帝国で青年トルコ人革
命が起きると、その混乱に乗じて、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ両州を併合した(図 52(図
15-14)参照)
。ボスニア、ヘルツェゴヴィナ自身が多民族のるつぼであった。
156
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 52(図 15-14) バルカンの民族分布
ここにはセルビア人が多く、南のセルビア王国への帰属を望む人々が多かった。またム
スリムも多く、彼らはオスマン帝国への帰属を望み、一方カトリック信者はオーストリア
への帰属を望んでいた。そうした民族だけでなく宗教的にも複雑な地域を無理やり併合し
てしまったオーストリア・ハンガリー帝国への反感があがるのも当然のことだった。
1912 年から 1913 年にかけて行われたバルカン戦争の結果、隣国のスラブ人国家であるセ
ルビアの領土が約 2 倍に拡張され、オーストリア・ハンガリー帝国は国内のスラブ民族運
動をさらに警戒する必要に迫られた。当時、バルカンではロシア帝国を後ろ盾とする汎ス
ラブ主義とオーストリア帝国・ドイツ帝国の支援を受ける汎ゲルマン主義が対立し、ゲル
マン民族であるオーストリアの占領下にありながら人口の大半がスラブ系であるボスニア
では、すでにオスマン帝国から独立していた同じスラブ系のセルビア王国への併合を求め
る大セルビア主義が台頭していた。
なかでもボスニアの首都サライェヴォはその典型的な都市であった(サライェヴォは、
第 2 次世界大戦後の旧ユーゴスラヴィアのボスニア・ヘルチェゴヴィナ共和国の首都であ
った)
。今から約 100 年前の(1914 年の)ボスニアの青年たちのあいだには、ボスニアの一
157
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
体性を保持しつつ(オーストリア・ハンガリー帝国からの)解放を成し遂げ、共和制にも
とづく南スラブの統一をめざす運動を展開していた。
そして彼らはハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)の皇位継承者フラン
ツ・フェルディナント大公夫妻がサライェヴォを訪問した 1914 年 6 月 28 日、大公夫妻歓
迎の群衆に紛れて 2 人を射殺してしまった。これがサライェヴォ事件である。
サライェヴォでのフランツ・フェルディナント夫妻の暗殺は、オーストリアを憤慨させた。
だがそれは皇位継承者の不慮の死を悼(いた)むというより、暗殺の背後にいると思われ
たセルビアに対する敵意からであった。スラブ系民族の自立運動に動揺していたオースト
リア支配層は、これを機会にセルビアとの戦争に勝利し、多民族帝国のたがを引き締め、
列強としての体面を守ろうとする強硬論が優勢になってきた。
《同盟関係が安易に戦争を決断さた》
このころ、ヨーロッパ列強は、図 50(図 15-12。P154)の右図のような三国同盟(ド
イツ、オーストリア・ハンガリー、イタリア)と三国協商(イギリス、フランス、ロシア)
の 2 同盟関係にあって、対峙していたことは述べた。
オーストリア・ハンガリー帝国は、セルビア単独との戦争には勝つ自信があった(また、
単独国同士の戦争であれば、勝敗も短期に決まると思われた)。しかし、このころの戦争は
背後の同盟関係や宗主国のことを考えなければならなかった。
オーストリアは、セルビアの守護者を自任するロシアの存在を考えれば、オーストリア
単独では戦争はできない。同盟国ドイツの支持の保証が必要であった。7月初め、ドイツ
の意向を確認する使者がベルリンに派遣された。ヴィルヘルム 2 世とベートマン・ホルヴ
ェーク宰相は、オーストリアを無条件で支持するというという重大な確約を与えた。
このとき、ドイツは、戦争がオーストリア・セルビア間に局地化されれば、オーストリ
アの勝利は確実であり、当てになる唯一の同盟国オーストリアは安定し、三国協商側は打
撃を受けるだろうし、ロシアが参戦しても、ドイツはロシア、フランスとの戦争のリスクは
引き受けられると考えていた(もうひとつの同盟国イタリアはオーストリアと国境の領地
をめぐって争っていたので、あてにならなかった)
。
この判断が大問題であった。前述したように第 1 位のイギリスを第 2 位のドイツが激し
く追い上げ、第 3 位、第 4 位のフランス、ロシアに差をつけていた。ドイツは 3~4 位と同
時に戦っても勝てると読んでいたが、それにイギリスが付くとどうなるかは考えていなか
った(イギリスはフランス、ロシアと協商を結んでいたのであるから、フランス、ロシア
が戦争に入れば、イギリスはフランス、ロシアの側に立つ可能性は十分あった)
。当時、ド
イツはフランス、ロシアとの両面作戦については、シュリーフェン計画を密かに持ってい
た。しかし、ドイツが考えた最悪の場合もそこまでであった(イギリスが参戦することま
では考えていなかった)
。
むしろ列強介入前に既成事実をつくるため、ドイツはオーストリアに行動を急ぐように
圧力をかけた。つまり、ドイツはこの事件を口実にして、この際、懸案事項の決着をつけ
158
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ることがよいとも考えたようである。それには戦争に勝てるという自信があったからに相
違ない。その自信の根拠がシュリーフェン計画であった。
《シュリーフェン計画という思い込み》
1894 年の露仏同盟(図 50(図 15-12。P154)参照。三国同盟から一方の当事国が攻撃
を受けた場合、他方の国が軍事的支援を行うことが定められていた)の成立によって国土
の両端を敵に挟まれたドイツは、対フランス・対ロシアの 2 正面作戦に直面する可能性が
出てきた。そこで、ドイツ参謀総長アルフレート・フォン・シュリーフェン(在職:1891
~1905 年)は、2 正面作戦に勝利するための手段としてシュリーフェン計画を立案した。
この戦争計画は、広大なロシアが総動員完結までに要する時間差を利用するもので(シ
ュリーフェンは一昔前のロシアを前提にしていたので、総動員にはかなり時間がかかると
見ていたが、ロシアもすでに鉄道時代に入っていたことを考慮していなかった)
、ロシアが
総動員を発令したならば、図 53(図 15-18)のように、直ちに中立国ベルギーを侵略して
フランス軍の背後に回りこみ、対仏戦争に早期に勝利し(計画では 1 ヶ月半で)
、その後、
反転してロシアを叩く計画だった。
図 53(図 15-18) シェリーフェン計画
159
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ドイツ参謀本部は大モルトケの普墺戦争、普仏戦争以来、電撃作戦を得意としており,
シュリーフェン作戦もそれに則って作成されたが、1890 年代に入るとロシアでも産業革命
が進展し、鉄道敷設距離は長大となっていた。この計画は 1906 年に小モルトケによって手
直しはされていたが、当初のシュリーフェン計画作成から第 1 次世界大戦がはじまる時点
までには 20 年経っていた(栄光の普仏戦争勝利からは 44 年経っていた。日本軍が栄光の
日露戦争勝利の突撃・大艦巨砲主義を 35 年後の太平洋戦争にもちこんだと同じ状況が起き
たのではないか。このように戦略家はかならず前の戦争の状況をもとに自軍に好都合な戦
略を立てるので、技術進歩の激しい時代には、いつでも予想を見誤るものである)。
シュリーフェン・プランがもつ本質的な弱点を知らない皇帝・官僚(外交官・軍人)が
過大に評価し、
(強力とみられた軍事力は強硬な外交を生み出す)強気の外交を進め、ドイ
ツを世界規模の大戦争へと突き落とす可能性の高い、きわめて危険な戦争計画でもあった
ことが今ではわかっている。
【4】第 1 次世界大戦
◇第 1 次世界大戦の勃発
ドイツ参戦の確約をもらうと(同盟関係があると安易に戦争に踏み切る例である)、オー
ストリアは懲罰的な対セルビア戦を目論み、1914 年 7 月 23 日セルビア政府に 10 ヶ条のい
わゆるオーストリア最後通牒を送付して 48 時間以内の無条件受け入れを要求した。セルビ
ア政府はオーストリア官憲を事件の容疑者の司法手続きに参加させることを除き(これは
国権に関わる問題である)
、要求に同意したが、オーストリアはセルビアの条件付き承諾に
対し納得せず(むしろセルビアが絶対のめない条件をこいに入れていた)
、7 月 28 日にセル
ビアに対する宣戦布告を行い、これをきっかけとして戦争が勃発した(しかし、このとき
は世界大戦になるとは誰も思っていなかった)。
直ちにロシアは対オーストリア戦を決断し、7 月 31 日には総動員が下令された。これで
ロシアがセルビア支援を明確にすると、ドイツは戦争を覚悟し、ロシアが総動員令を布告
した翌日、8 月 1 日、ヴィルヘルム 2 世はロシアに対して宣戦布告し、さらに 3 日にはフラ
ンスに対しても宣戦布告した。
露仏同盟はあったが、フランスがどう出るかわからないうちにドイツの方から宣戦布告
したのは、シュリーフェン計画により、早期にフランスを叩く必要があったからである。
これでは本末転倒もはなはだしく、作戦マニュアルにしたがって、ことを進めるために、
相手がどう出るかもみないで対仏宣戦を布告したのである。そこには外交も何もあったも
のではなかった。
ドイツによる突然の挑戦に直面したフランスは、総動員を下令し、8 月 4 日、フランス首
相ヴィヴィアンは、議会に戦争遂行のための「神聖同盟」の結成を呼びかけ、議会は全権
委任の挙国一致体制を承認した。フランスは 1871 年の敗戦でアルザス・ロレーヌを奪われ
たので、その奪還をめざす対独戦計画・プラン 17 はアルザス・ロレーヌへの急襲をもくろ
160
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
んでいた。
ドイツは計画通り(シュリーフェン計画通り)
、ベルギー侵攻を開始した。ドーバー海峡
を挟んでベルギーと向かいあうイギリスは、参戦をめぐって賛否が分れ、必ずしも最初か
ら参戦を決定していたわけではなかったが、ドイツが中立国ベルギーを侵攻したことで、8
月 4 日にドイツに対し宣戦布告を行った。
こうしてドイツはイギリスの中立化に失敗した。イギリスは、フランスとドイツの間で
戦争が発生した場合に、もしベルギーの中立が侵犯されれば、先に侵犯した側の相手側に
立って参戦すると常々表明していた(軍事専門家がつくったシュリーフェン計画には、こ
のイギリス参戦のおそれが組み入れられていなかった。この計画を承認したドイツの為政
者(政治家)がこれを無視したことは全く奢りとしかいいようがなかった)
。
このようにしてヨーロッパにおける 5 列強がすべて戦争に突入したのであるから、大戦
が勃発したといえよう(このように同盟関係は外交努力の間もなく連鎖反応的に大戦争に
拡大してしまうおそれがある。これは第 2 次世界大戦のときも同じであった)。ただ、イタ
リアは、三国同盟の規定でドイツがフランスと戦争した場合、ドイツ支援の三軍団をライ
ン地域に派遣することになっていたが、8 月 2 日にイタリア政府は中立を発表した。
各国の参謀たちは、スピードがすべてを決すると考えていた。衝突のきざしがあれば、
ただちに敵の機先を制して兵力を動員し、国境地帯にさし向けて相手側に乗り込むことが
肝要だと考えていた。とくにドイツ軍は西部戦線で速く勝利を得て、東部戦線へ向かう必要
があったから、なおさらスピードが重要だった。そこには外交官が出る幕はなかった。戦
略策定者が幅をきかせることとなったのである。
《想定外の長期戦になった理由》
1914 年 8 月、図 54(図 15-19)のように色分けされた。ドイツ、オーストリア・ハンガ
リー側(緑色)とロシア、フランス、イギリス、セルビア側(橙色)の参戦諸国では、兵
士たちが「落ち葉の散るころ」「クリスマスまで」の帰還を信じ、続々と前線に向かった。
彼らの頭のなかには、砲声が響くなか、騎兵がサーベルをきらめかせ、兵士が銃剣で突撃
する、何度か激突はあるだろうが、何度か繰り返せばいずれ決着は見えてくる、古典的な
戦場像しかなかった(前述したように 19 世紀にはヨーロッパではあまり大きな戦争がなか
ったので、100 年前のナポレオン戦争が想定されていた。100 年前といえば、現時点で考え
れば、日露戦争やこれから述べる第 1 次世界大戦をイメージすることと同じくらい古いこ
とであった)
。
なぜ、みんなが、このように短期戦と考えていたのに、実際には長期戦になったのか。
まず、複数の国が双方について戦う同盟による戦争では、戦闘が長引く可能性もそれだけ
高くなっていた。一方の戦争当事国が攻撃によって決定的な打撃を受けても、その国の同
盟国からの支援を受けて立ち直ることができるようになったからである(双方とも工業が
発展し、膨大な軍需品の支援を受けることができた。つまり、兵力(人間)が尽きるか、
経済力が尽きるか、それまで戦争は続くことになった)
。
161
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 54(図 15-19) 第 1 次世界大戦中のヨーロッパ
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
しかし、戦闘がはじまってすぐわかったことであるが、今度の戦争は武器が格段に高度
になり、速射砲と機関銃によって機動戦が不可能になり、多くの軍隊が塹壕に閉じ込めら
れてほとんど動きがとれなくなることが予測できていなかったことである。
それに双方とも産業革命後であり格段に向上した工業力により、砲弾・武器などが、そ
れも鉄道や自動車などで補給されるようになったこと、つまり、国民を総動員した総力戦
になってしまうことも想定されていなかった。
これと全く同じように、ヨーロッパの各国の海軍本部もきたるべき戦争を読みちがえて
おり、艦隊による決定的な衝突に備えていたものの、北海や地中海の地勢や、機雷や魚雷や
潜水艦などの新しい武器が伝統的な海上作戦を一変させることを正しく予測していなかっ
た。したがって、陸と海との両方において、戦争技術の進歩によって戦争が即決する可能
性はなくなったのである。
《凄惨な塹壕線》
大戦は、ドイツ側の攻勢で進んだ。シュリーフェン計画に従って、ドイツ軍主力は図 55
(図 15-20)のように、西部国境に集結した。2 週間に 22 万両を超える鉄道輸送によって、
160 万人の兵員がケルンのライン川鉄橋を渡り、防備の少ない中立国ベルギーに侵入した。
そこからフランスに進撃し、ドイツ・フランス国境地域に展開したフランス軍を背後から包
囲、降伏させようというのであった。開戦後 1 ヶ月は、ほぼ計画通りにいった。
162
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 55(図 15-20) 西部戦線
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
フランス政府は 9 月はじめ、危機の迫ったパリからボルドーに疎開した。フランス軍の
ジョッフル総司令官は、緒戦に敗北した軍団・師団司令官 140 人を罷免し、厳しい指揮で
防衛陣を立て直し、パリ防衛に全力をあげた。
9 月のマルヌの戦いで「不敗のドイツ軍」は前進がはばまれ、ついに後退した。この計画
は少しでも狂うと、あとは打つ手がなかった。神経の細い小モルトケ参謀総長はショック
から立ち直れず、ファルケンハインに後を譲った。開戦 1 ヶ月半で、
「電撃戦」のシュリー
フェン計画は破綻した。現在では、シュリーフェン計画の失敗は、戦術や技術的な原因よ
り、作戦計画そのものに無理があったとみなされている。
弾薬消費量も予想をはるかに超えた。ドイツ軍は開戦 2 ヶ月で備蓄砲弾量を使い果たし、
砲弾不足の危機に立った。砲弾の節約命令が出され、砲の支援なしで、人間で立ち向かわ
なければならなくなった。ドイツの砲弾生産は 1914 年 8 月で月産約 15 万発、1915 年はじ
めにはほぼ 50 万発、1915 年なかばには 100 万発を超えたが、それでも足りなかった。
事情はフランス側も同様で、フランス軍自慢の 75 ミリ野砲 3500 門に対し、国内の砲弾は
日産 1 万発(月産 30 万発)
、つまり 1 日 1 門 3 発しかなかった。これでは戦争にならない。
このときには前線では 1 門で数百発以上を撃つ事態になっていたのにである。フランス側
も備蓄はたちまち消えてしまった。つまり、このたびの戦争は、いずれの国も膨大な物量
を必要とすることを予想もしていなかったということである。
現実の戦争はどうであっただろうか。ドイツの機関銃手は、夜になって突撃してくるフ
ランス兵を 100 メートルまで引き寄せて、機関銃で応射したら、まるで草が刈り取られる
163
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ようになぎたおされた。夜が明けてみると機関銃の 100 メートル先に、200 人から 300 人の
敵の死傷者が横たわっていた。機関銃の前に突撃したのは、ドイツ兵も同じだった。
こうした戦闘が続いた結果、1914 年末で、ドイツ軍、フランス軍はすでにそれぞれ 68 万
人、85 万人の死傷者を出した。開戦時の軍の中核は 3 ヶ月で壊滅してしまった。将軍たち
が思い描いていた戦争は、主戦場の西部戦線では幻想でしかなかったことが明らかになっ
てきた。もうシュリーフェンもなにもあったものではなかった。塹壕を掘るしかなかった。
塹壕を掘って攻防を繰り返す長期戦になることが現実となってきた。
ドイツ軍はパリの 70 キロメートルの地点にまで到達したが、前述したように 9 月 6 日か
ら 12 日までの第 1 次マルヌの戦いにおいて進撃が停止した(図 55(図 15-20)参照)
。フ
ランス陸軍パリ防衛司令官のジョゼフ・ガリエニはタクシーを使った史上空前のピストン
輸送を実施し、防衛線を構築してドイツ軍の侵攻を阻止した。
莫大な損害を顧みず反撃に転じたフランス軍によって、ドイツ軍はエーヌ川のラインに
まで後退し、その位置で持久をはかるために塹壕を構築し始めた。フランス軍も緒戦にお
いて攻撃側の不利を悟り、これを見ると進撃を停止し、塹壕を掘り始めた。このようにし
て、その後 3 年間継続される西部戦線が構築されることになった。敵の後背を突こうとし
て両軍は北へ北へと延翼運動を始め、その結果「海への競争」によってスイスからイギリ
ス海峡に至るまでの両軍並行の塹壕線が形成された(図 55(図 15-20)参照)
。
この戦線は第 1 次世界大戦のほとんどの期間を通じて大きく変化することはなかった。
塹壕戦とは一種の要塞戦であり、前線生活の大部分は半地下生活になった。ドイツ軍が縦
深防御システムを整えた 1916 年以降、幅 5~6 キロから 10 キロの前線地域に三重の塹壕線
が形成され、塹壕の深さも時には 20 メートル以上にも達した。
フランス軍側も同じだった。
つまり、結論的にいうと、この塹壕線から数キロ、あるいは数十キロ前後の土地を取り合
って数百万人の人間が死傷したのである。
だが、連合側・同盟側双方の軍指導者は、それまでの作戦や戦術を変えなかった。司令
官が交代しても、後任は同じ軍事思想を身につけた軍人であり、ただ兵員と兵器の量をい
っそう増やし、攻撃場所を変えることがちがうだけであった。迫撃砲・火炎放射器・毒ガス・
戦車、さらに航空機と新兵器の開発があったが、それらの新兵器に対する防御策も次々と
生み出され、それらは決定的な手段にはならず、戦争は密度の濃い長期消耗戦になった。
消耗するのは膨大な物資と人間(人命)だった。
このような西部戦線の凄惨な戦場は、ドイツ・オーストリアとロシアが繰り広げた東部
戦線でも同じ状況であったが、ここでは省略する。
《植民地での戦争》
第 1 次世界大戦は、ヨーロッパ大陸内での戦闘だけでなく、図 56(図 15-21)のように、
世界中のそれぞれの植民地でも(アフリカ戦線、南太平洋、中国など)、戦争が行われ、
(な
んら関係のない)現地の住民が兵士として駆り立てられ、敵味方に分かれて相互に戦った。
まさに悲惨な世界大戦だった。
164
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 56(図 15-21) 第 1 次世界大戦中の世界
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
《オスマン帝国の参戦》
また、ロシアが 1914 年 10 月 31 日にオスマン帝国へ宣戦したことを契機に、オスマン帝
国は同盟国側(ドイツ側)に立って参戦した。ロシア帝国は、コーカサス方面から同盟国
側のオスマン帝国に進軍したがオスマン軍の猛烈な反撃に直面し、連合国に支援を求めて
きた。イギリス軍がアラビア半島や中東でオスマン帝国軍を追い詰めていった。
《イタリアの参戦とイタリア戦線》
イタリアは、1882 年からドイツおよびオーストリアと図 50(図 15-12。P154)のよう
に、三国同盟を締結していたが、同盟は防衛的なものであって、オーストリア・ハンガリ
ー帝国の攻勢にイタリアが参加する義務はないとして、1914 年 8 月に参戦せず中立を宣言
した。
しかし、イタリアは、かねてから領有権を主張していた南チロル地方、トレンティーノ
地方、トリエステ、イストリア地方、ダルマチア地方(いわゆる未回収のイタリア。イタ
リア統一のときに併合できなかった地域)をオーストリア・ハンガリー帝国から獲得する
ことを望んでいた。そこで 1915 年 4 月 26 日には、イタリアが三国同盟を放棄して協商国
側に加わるロンドン条約が結ばれるにいたった。そして翌 5 月 23 日、イタリアはオースト
リア・ハンガリー帝国に宣戦を布告した。
イタリアは迅速な奇襲攻撃でオーストリア領の都市を占領するつもりであったが、戦況
はすぐに西部戦線と同じような塹壕戦の泥沼にはまり込んでいった。
《ドイツの無制限潜水艦作戦》
第 1 次世界大戦がはじまると、連合国海軍はドイツ本国を海上封鎖した。貿易の途絶は
ドイツの士気と生産力に重大な影響を及ぼした。戦前、ドイツはイギリスとの建艦競争の
中で大洋艦隊を築き上げていたが、イギリス本国艦隊に勝利できる見込みは薄く出撃を避
け続けたため、制海権は常に連合国が保持していた。
そのような中で、デンマークのユトランド半島沖で生起したユトランド沖海戦(1916 年
5 月~6 月。図 54(図 15-19)参照)が第 1 次世界大戦最大の海戦であり、同大戦中唯一
の主力艦隊同士による決戦であった。双方とも勝利を主張したが、戦闘終了後、イギリス
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
には即時戦闘可能な弩級戦艦と巡洋戦艦が合わせて 24 隻残っていたのに対して、ドイツは
10 隻だけとなった。それ以後、ドイツ艦隊はこの数字では作戦は不可能になり港に後退し、
イギリス艦隊は制海権を維持し続けることになった。
このようにドイツは海軍力については、終始、劣勢であったので、1915 年 2 月、イギリ
ス海軍の北海機雷封鎖による事実上の無制限攻撃への不満や、数量制限のある潜水艦の運
用難などから、ドイツ海軍は、潜水艦によるイギリスの海上封鎖とその周辺海域での無警
告攻撃を宣言した。しかし、ルシタニア号事件などが発生し、アメリカの強力な抗議によ
ってわずか半年で潜水艦による無警告攻撃は中止した(ドイツ潜水艦によって撃沈された
ルシタニア号はイギリス船籍の客船で乗客 1198 人が死亡したが、そのうち 128 人が中立国
アメリカの乗客であった)
。
その後、戦争が長期化するとみたドイツは、再び無制限潜水艦作戦を決意し、1917 年 2
月、ドイツは、イギリスとフランスの周辺及び地中海全域を対象にした全船舶標的・無警
告攻撃の完全な無制限潜水艦作戦の実施を宣言した。この無制限潜水艦作戦の効果により、
同年前半にはドイツ潜水艦部隊の戦果は最高潮に達した。この攻撃で沈めた船舶・物資の
量は、1917 年 2 月から 7 月まで 1 ヶ月当たり 50 万トンまで達し、4 月に 86 万トンでピー
クを迎えた。
イギリスは多大な被害を受けたが、1917 年 7 月以降に導入した護送船団方式が効果を発
揮し、補給途絶の危機を脱した。また、アメリカの参戦の一因となってしまった。
◇戦争終結をはやめたアメリカの参戦
第1次世界大戦がはじまってもアメリカは中立を保っていた。アメリカが当初、第 1 次
世界大戦に参戦しなかったのは、当時モンロー主義を掲げ、交戦国のいずれとも同盟関係
になく、戦争に参加する根拠がなかったからである。また、貿易関係がただちに断たれる
わけではなく、戦争は直接の国益にかかわるものではなかった。むしろ、中立を保つこと
で、貿易などの経済的利益を保持できるはずだった。
1916 年の選挙で再選されたウィルソン大統領は、1916 年末、交戦国双方に平和を呼びか
けた。翌 1917 年 1 月には、どちらも決着をつけずに「勝利なく平和」を達成すべきことを
訴える声明を発表した。しかし、ドイツはその 9 日後、無制限の潜水艦攻撃(再開)の方
針を発表した。このためウィルソンは 2 月 3 日の両院合同会議において、アメリカがドイ
ツと国交を断絶するにいたったことを言明した。
その声明のなかで彼は、ドイツが無制限の攻撃を現実に行えば、アメリカの海員および
市民を守るために必要な措置をとると断言した。そのころ、アメリカ商船がドイツの無差
別攻撃を恐れ、出港を見合わせるため貿易が停滞し,経済的に大きな打撃をこうむりかね
ない事態になっていた。そこで 1917 年 2 月末、ウィルソン大統領は議会に商船武装法の制
定を要請した。
その直前にイギリスから,ドイツ外相ツィンメルマンがメキシコ駐在独大使にあてた極
秘電報を傍受したとの連絡があった。それは、もしアメリカが参戦したら、メキシコも対
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
米開戦するよう、ドイツとメキシコの軍事同盟を工作することを指示したものだった(ツ
ィンメルマン電報事件)
。さらにそれは,70 年前にメキシコがアメリカとの戦争(米墨戦争)
に敗れて割譲させられた地域、アリゾナやカリフォルニアなど(図 40(図 14-19。P138)
の土地)を奪還することを提案していたのである。
この電報は,商船武装法が審議され始めた 2 日後に公表され、1917 年 3 月 1 日の新聞に
いっせいに報道された。かつて領土のほとんど半分を奪われたメキシコがそれを取り戻し
たいと考えることは,十分ありううることであるが、しかし、それはもはや現実にはあり
えないことであった。しかし、そのようなことをいってドイツがメキシコを焚きつけよう
としたことにアメリカの世論は沸騰し、多数のアメリカ人は怒り狂った。同じ日に下院議
会は、40 対 13 という圧倒的な差で商船武装法を可決した。
3 日後、ウィルソン大統領は第 2 期就任演説において、アメリカが武装中立の状態に入っ
たことを声明した。2 週間後、アメリカ商船は武装したとはいえ潜水艦攻撃には十分に対抗
できず、5 隻が撃沈された。
他方、その数日前にロシアで 1917 年 2 月(新暦では 3 月)革命が起こり、ツァーリズム
の専制主義は打倒された。いまや、連合国はすべて民主主義を守るために戦っているとい
える状態になった(同盟国の主要国であるドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国、
オスマン帝国はいずれも帝政であった。連合国側でロシアが唯一帝政だったが、脱落した)。
アメリカが参戦する条件が整ったのである(「民主主義を守る戦い」。アメリカはレッテル
を貼るのが好きである。実際は帝国主義同士の戦いであったが)
。
こうして 1917 年 3 月 20 日、ウィルソン政府は閣議で参戦の方針を固めた。宣戦布告の
権限は議会にあるため、ウィルソン大統領は 4 月 2 日、議会に宣戦布告を求める教書を提
出した。自国の権利を守るためだけではなく、平和と正義のため、世界の人民を守るため、
世界の民主主義のために戦うという格調高い文面を読み上げた。4 日、上院は 82 対 6 とい
う大差で宣戦布告を決議した。
その 2 日後、
下院も 373 対 50 という圧倒的な差で可決した。
アメリカの参戦は、兵員面では時間がかかったが、物質面では直ちに第 1 次世界大戦を
戦っている両陣営の戦力バランスに影響を与えることになった(アメリカの参戦、ロシア
の脱落)。
第 2 次世界大戦は、表 4(表 15-4)のように、かりにロシアとフランスが、両国だけで同
盟側を向こうにまわして長期の総力戦に突入したとすれば勝利をおさめていたとは考えに
くかった。その点、イギリスが勢力のバランスという伝統的な理由から参戦したのか(イ
ギリスは過去数百年にわたって、ヨーロッパ大陸の戦争に参戦するときには必ず勢力のバ
ランスをとるように参戦していた)
、参戦した大義名分のように小国ベルギーを守るためだ
ったか、本音はわからないが、イギリスの参戦によって、協商側は有利になったが、2 年か
ら 3 年も戦闘をつづけても勝つことができなかった。
167
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 4(表 15-4) 1914 年における同盟各国の工業および工業技術の比較
ポール・ケネディ『大国の興亡』
協商側が数のうえでも工業力の面でも優位にあったにもかかわらず、なかなか勝てなか
ったのは、やはり今度の戦争の戦闘自体のあり方にみることができるのだろう。双方の数
百万の軍隊が、領土に何百マイルにもわたって布陣していれば、決定的な勝利をおさめる
ことは困難であったということになる。前述したように巨大になった工業力が武器弾薬、
食料を供給する持久戦になり、国力、戦力、兵員が尽きるまで勝敗が決しないものになっ
てきていたともいえる。もっと長期にもっと大きな優位がなければこの戦争は終わらない
のではないかと考えられた。
そのようなときにアメリカの参戦があった。アメリカは、何百隻という単位で商船をつ
くり出し、ドイツの U ボートが毎月 50 万トンあまりのイギリスや協商国の船舶を海に沈め
ているときにも、必需品を運ぶことができたのである。世界の食糧品輸出の半分はアメリカ
が占め、アメリカの食糧はいまや以前から取引のあるイギリス市場はもとより、フランス
やイタリアにも送出されていたのである。
したがって、アメリカの参戦は、経済力の点からみて、表 5(表 15-5)のように、勢力
のバランスを一変させ、同時に起こったロシアの崩壊を埋め合わせてあまりあるものだっ
たのである。協商側の生産力はいまや同盟国側を大きく上まわっていた。この経済力が軍
事力に転化するまでには時間の遅れがあったが、その巨大な力が効果を発揮するのは時間
の問題であった。
168
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 5(表 15-5) 戦費と総動員数(1914~1919 年)
◇総力戦の現実
近代的兵器が登場するまでの戦争においては、結果を大きく左右するものは、高度に訓
練された兵士の能力という「質」と、軍隊の規模や兵の数という「量」を基にした軍事力
であった。そこでは軍隊は主として傭兵によって構成され、産業や民衆(国民)は戦争か
ら距離を置くことができた。しかし、産業革命後の大量生産の時代と技術革新は、戦争の
質を大きく様変わりさせた。
19 世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これによ
り弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてき
た騎兵突撃が無力化された。一方で、第 1 次世界大戦において初めて本格的に投入された
飛行機、戦車などの攻撃的兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定
的な役割を果たすまでには至らなかった。第 1 次世界大戦における戦場の主役は、攻撃に
おいても防御においても歩兵だった。
このような防御側優位の状況のなかで、西部戦線では長期の塹壕戦が中心となった。ス
イス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル
銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらされた。
第 1 次世界大戦において,機関銃は大いに威力を発揮するようになり、突撃する歩兵が
鉄条網で足止めされたところを守備側が機関銃によって撃ち倒し、攻撃側は多数の犠牲者
を出した。これによって防御側優位の状況となった。そのため、双方とも塹壕にこもり陣
地を構築して戦線が膠着し、これが戦車を誕生させる要因になった。しかし、第 1 次世界
大戦での戦車の性能では前線を突破できなかった(20 年後の第 2 次世界大戦では陸上では
戦車が主力となった)
。
また、機関銃は航空機の武装としても取り入れられ、当初は地上用の改良型だったが、
169
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
高い発射速度とともにより軽量で加速度のかかった状態でも確実に作動するものが求めら
れ、プロペラ同調装置(プロペラ戦闘機の先端で機関銃の射撃で自らの高速回転している
プロペラを撃ち抜かないようにするための装置)が発明されるなど航空機専用の機関銃が
開発された。航空機の性能は急速に進歩し、戦争後半には爆撃もさかんに行われるように
なった。しかし、まだ、塹壕陣地を全て破壊する威力はなかった(20 年後の第 2 次世界大
戦では空爆によって都市は破壊し尽くされるようになった)
。
こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。
また、塹壕戦を制する目的で、第 1 次世界大戦では初めて化学兵器(毒ガス)が使われた。
開戦時にイギリス海軍大臣だったウィンストン・チャーチルは、
「第 1 次世界大戦以降、戦
場から騎士道精神が失われ、戦場は単なる大量殺戮の場と化した」と評している。
防御側が圧倒的に優位な状況になり、必然的に持久戦へと発展した。そうした戦局打開
のため、戦場以外において、大量に必要となった兵器・弾薬の生産や補給にかかわる産業
施設、人員や物資の輸送にかかわる鉄道やトンネル、一般船舶などが次第に攻撃対象とな
っていった。
このように、防御側優位の戦況、弾幕射撃と塹壕戦という新しい戦術、主戦場以外での
攻撃の結果、第 1 次世界大戦においては、弾薬・燃料の消費量の増大 、兵器の破壊・消耗
の増大 、戦闘員の死傷者の増大 、民間施設・非戦闘員への被害の増大 、これらの増大と
戦争の長期化に伴う戦争費用の著しい増加 という、戦争はそれまで予想されていなかった
様相を呈することになった。
とくに戦費の増大は、敗戦することの意味に大きな変化をもたらした。実際、第 1 次世
界大戦に敗れた国々は、参戦国すべての戦争費用・損害の責任を負わされる形で、後述す
るように、敗戦国だけではとても処理できないほどに膨れ上がった賠償責任を負うことに
なる。
《総力戦と統制経済》
総力戦は単に前線の戦争だけではなく、銃後といわれる国民生活全体に影響を与えるこ
とになった。
ドイツは 1914 年 11 月に始まったイギリスの経済封鎖によって,海外との通商を制限さ
れた。原料・労働力不足から、統制の網の目は軍需工業から工業全般へ、さらに農業や国
民生活全般に広げられた。
戦時統制経済においては、政府・軍は必要な生産量を指示し、関係企業が業種別に分れ、
200 以上の戦時統制会社にまとまって、発注量、原料を配分する仕組みであった。大量生産
の必要は、当然ながら大企業への発注を優先させた。ドイツの中小企業の 3 分の 1 は、原
料・労働力不足で閉鎖の憂き目をみた。
そのうえ、「必要なものが手に入るかどうかが重要で、価格は問題ではない。戦争に勝っ
たら,敵に払わせればよい」というのが政府や軍の基本姿勢であったから、価格設定は企業
に有利になった。クルップをはじめ、ドイツの主要軍事企業の戦時利益は莫大なものにな
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
り、鉄鋼業の利益は平時の 8 倍に達した。膨大な戦費は、すべて国債、つまり国家の借金
でまかなったのも、「勝ったら,敵から取る」式の考えからであった。こうした戦費調達方
式は戦争を長引かせる原因の一つとなったし、大戦中に始まり、戦後に連なるインフレー
ションの原因ともなった。ドイツの通貨流通量は大戦中 5 倍近く増大した。
《労働力動員》
開戦時、従業員 4 万 5000 人のフランスの兵器産業が,大戦末期には 200 万人に膨張し
た。武器弾薬や軍需品の大増産が開始されると、各国とも労働力不足に直面した。兵役に
ついていた熟練労働者が急いで工場に送り返され、
フランスではその数は 1915 年末で 50 万
以上になった。ドイツでも戦争末期にはその数は 250 万人、オーストリアでも 100 万人以
上になった。オーストリアでは種まき期と収穫期に 9 万人の兵士を援農要員として農村に
送り込んだし,両国とも多数のロシア兵捕虜を農作業に従事させた。
イギリス、フランスはここでも、海外植民地や自治領をもつ強みを発揮した。フランス
はアルジェリアなど植民地の労働者を使い、兵士も 50 万人以上を動員した。ドイツは占領
地のベルギーやポーランドからも労働力を強制的に集めたが、あまり効果はなかった。
ドイツでは大戦前期は、まず労働時間の延長、繊維・建設工業・家事奉公人など民需・
消費部門・農村からの移動、青少年・女性の動員でなんとかしのいだ。大戦中、繊維・食
品工業の労働力は 4 割、建設・製紙業で 2 割減少した。
しかし、やがてそれではすまなくなった。ヒンデンブルクは最高軍司令官の就任宣言で
「われわれは今後、兵員の数ではますます敵に劣ることを覚悟しなければならない。それだ
けに、工業でこの溝を埋める必要がある。人間や馬を機械で置き換えるのだ」と、弾薬・砲
生産の倍増、機関銃生産の 3 倍増を要求した。そのために、1915 年末に「愛国的労働奉仕
法」が帝国議会で採択され、17 歳から 60 歳の全男性に必要な労働を命じる権限が国家に与
えられ,労働者の職場移動も原則的に禁止された。ドイツでは、この法律によって全国民
と社会全体を動員する総力戦の段階に入った。
大戦下、女性は赤十字の看護婦や兵士慰問活動、社会事業での奉仕活動以外にも、それ
まで男性の職場であった軍需工場などで働くようになった。ドイツの 2600 の金属企業で働
く女性は,戦前は 6 万 3000 人、それが 1916 年には 26 万 6000 人を超えた。
イギリスでも大戦中に軍需産業の女性は、21 万人から 95 万人へと 5 倍近い増加とになっ
た。市街電車・鉄道など交通・運輸部門、郵便局員などの公共部門でも、出征男子のあと
は女性が埋めた。イギリスが 1918 年 2 月の選挙法改正で、30 歳以上とはいえ女性に選挙権
を認めたのは、戦時中の女性の貢献という背景なしには考えられないといわれている。
《食糧生産の減少》
統制経済はそれまで行政機構からもっとも離れていた農民の世界にも及んだ。国家統制
は農民から「自分の土地では自分が主人」という自負心を奪い,指定作物の作付け強制、販
売規制、自家消費制限、供出義務が厳しく課せられた。対策は軍需生産以上にその場しの
ぎであった。
171
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1915 年春、政府はドイツの基本食肉である豚の飼料に、穀物やジャガイモの使用を禁止
した。飼料輸入もできなかったので、代替飼料がなかった農民は、やむなく飼育数の 3 分
の 1 に当る 900 万頭もの豚を処分し,市場には一時的に豚肉が豊富に出回った。その後、
豚肉、ソーセージは姿を消し,政府をあわてさせたが、後の祭りであった。大戦後半の食
肉配給量は、平時の 5 分の 1 から 10 分の 1 に切り下げられた(図 57(図 15-25)参照)。
図 57(図 15-25) 物資の減少
農業が優位であったオーストリアでも、穀倉地帯であるガリツィア(現在のポーランド
地域)
,ハンガリーが戦場となり、労働力不足・輸送危機・天候不良が重なって、開戦 3 ヶ
月で大都市の食糧不足があらわれた。ハンガリーは 1915 年はじめ域外への食糧搬出を禁止
して、オーストリアから抗議を受けたが、この対立はその後も継続した。1916 年には配給
小麦粉は週 1 人当り 120 グラム、ジャガイモは戦前の 5 分の 1 になった。
《食糧配給制》
食糧生産量の減少は食糧配給制につながった。ドイツの食糧生産は大戦後半には半減し
た。それは前述のような原因の他に、戦前のドイツは家畜の飼料をはじめ、化学肥料の 3
分の 1 を輸入に頼っていた。また、召集によって農村の労働力は急速に不足し、そのうえ
農業用の馬も軍馬として供出させられたようなこともあった。
早くも 1915 年はじめ、主食のパン、ジャガイモは配給制になり、しかもパンは小麦粉以
外の非穀物(ジャガイモなど)の混入を義務づけられた戦時パンになった。混入率はその
後ますます高くなり、ジャガイモどころかトウモロコシ、カブなどが混ぜられて、水気の
多い異様なパンになった。統制対象は、やがて果物を含めてほとんどの食品におよび、衣
料・靴・石鹸などの生活物資も同じ運命をたどった。統制経済とは,一般の国民には厳し
い供給・消費制限であった。図 57(図 15-25)のように、食糧不足は同盟国側がはるかに
厳しくなっていた。
大戦下のドイツの日常生活をみると、配給を待つ店頭での長い行列から始まって,売り
惜しみ、買いだめ、ヤミ市場、農村への買い出し、1914 年末から導入された肉無し日、代
用食の隆盛、節約スローガンの横行、公園や森での薪拾い、教会の鐘も含まれる金属回収
にいたるまで、第 2 次世界大戦中の日本と同じ光景がそれより 30 年前のドイツで繰り広げ
172
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
られたのである(ドイツでは 30 年後の第 2 次世界大戦で、もう一度、もっと厳しい経験を
することになったが)
。
「食べられる野草一覧」パンフレットの配布、1 万品目を超える代用食(カブのマーマレー
ド、人造蜂蜜、トウモロコシ製の代用卵など)や味覚・香料・色素など化学添加物の開発
は、科学の国ドイツならではのことであったが、焼け石に水であった。
1916 年から 17 年にかけての冬は食糧事情が最悪になり、ドイツでは数週間もかぶらが主
食になったため、「かぶらの冬」と呼ばれた。大戦末期には、配給量では通常必要とされる
カロリーの 4 割以下しか摂取できず、ベルリン市民は生きているだけのぎりぎりの状態に
なっていたと考えられる。
燃料・エネルギー供給も,イギリスをのぞくすべての参戦国で危機に陥った。輸送危機
の最大の原因は、石炭不足にあった。ウィーンでは各家庭の暖房は 1 部屋に制限され,学
校・教会・役所の暖房は停止された。イタリアもイギリスから石炭の供給を受けなければ
ならず、イギリスはイタリア、フランス向けの石炭を運ぶためだけでも、常時 250 隻の船
を使っていたといわれる。
《統制経済とヤミ市場》
食糧配給制に明瞭にあらわれたように、国家は今や国民 1 人 1 人の生命と健康の維持手
段を直接にぎる存在になった。もちろん、小さな地域、邦の時代にはそのようなこともあ
ったであろうが、人口が数百万、数千万の国家を形成するようになってからは、はじめて
のことだった。
配給量は原則として平等であった。実際、配給の遅れや内容、量には苦情はあっても、
制度そのものへの反対はほとんどなかったし、ドイツでは戦後も数年間,続けざるを得な
かった。
だが、統制経済は一方で巨大なヤミ市場を生み出した。ドイツでは食糧の 3 分の 1 がヤ
ミに流れたという推測もある。統制経済とヤミ市場は表裏一体であることも、このとき明
瞭にわかった。こと食糧となると日々の生活、はては自分、家族の命にかかわるだけに、
誰 1 人、これを無視して過ごすことはできなかった。
金だけがものをいうヤミ市場は、人類が長い間につちかってきた人倫道徳もなにもない
世界を、当時世界最高の文明をほこるといわれた西欧という世界に現出させた。この金と
役得がはばをきかせる弱肉強食のヤミ市場を利用できるのは,収入の多い階層と戦時利得
で潤った大企業と国家の中枢を握る官僚・軍人などであった。一つの国家のなかに、公平
な制度と不公平なヤミの併存は、「飢えた階層」と「食べていける階層」を目で区別できる状
況をつくりだした。何も手段をもたない大多数の「庶民」は、「飢えた階層」となり、「飢える」
しかなかった。
ヤミ経済は「戦時利得者」を生み出した。ドイツの暴利業者裁判は 1 ヶ月 4000 件にもおよ
んだが、大戦中ウィーンだけで 400 人のあらたな百万長者が誕生していた。義務や負担だ
けは平等だが、権利と利益は不平等な社会、それを改革できない政治と国家への不満、反
173
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
感が国民のあいだに生まれてきた。国家はだれのものか、そして政府や議会はだれに開か
れているのかが、問われた。総力戦は逆説的に民主化効果をもったといわれるのは、人々
の政治への関心がこのときほど切実になったことはなかったからである。
このような場合、国家の形態(民主形態か、どうかなど)は、大きく影響してきた。ド
イツなどとは対照的に、イギリスでは戦時中に国民の所得格差はむしろ縮小し、平準化の
方向がみられた。ドイツでは皇帝(帝政)を隠れ蓑にした軍部独裁体制がますます強化さ
れ、そのうらで格差は拡大し、庶民(国民)は「飢え」させられ、玉砕一歩手前までに至っ
た。戦争はいつでも、どこでも同じように格差を増大させ、庶民(国民)を飢えさせる(20
年後の第 2 次世界大戦はさらに規模を拡大させていた)
。
《他国民への偏見・憎悪を増長させる戦争》
双方の総力戦の指導部は、「軽い気持ち」で「相手に痛恨の一打」を与えて、「一挙に問題解
決」をして、「(1914 年の)年末のクリスマスまで」には、帰ってくると、戦争をはじめた(無)
責任は棚上げにして、最初は,「武器弾薬が足りない」「国民の協力が足りない」「戦争に反対
する非国民がいる」などと言って、国民 1 人 1 人の生命と健康の維持手段まで直接握る総力
戦の体制を整えたが、つぎに残っていた国民の頭の中まで洗脳することを考えだした。
このように我々を苦しめるのは、すべて憎き敵国○○であると責任転嫁をしはじめた。
19 世紀末から 20 世紀はじめのヨーロッパにおいては、現在のように情報化が進んでいなか
ったし、初等教育制度もあまり整っていなかったので、国民が外国について、あまり知識
をもっていなかったし、また、関心もなかった。ましてや外国に憎しみを抱かなければな
らない理由もなかった。しかし、第 1 次世界大戦が起きると、すべて戦争指導部からのに
わか仕立ての誤った敵国情報で教育(とくに柔軟な頭の若いものに対する洗脳教育)した
ことが、その後の各国民の世界観に大きな影響を与えることになり、その一度、作られた
他国に対するイメージは現在にまで尾を引いている。
まず、「敵」の恐怖をかき立て、負のイメージを振りまいて,国民の戦意維持に努めた。
ドイツではロシアの「アジア的無知」やコサック兵士の野蛮が強調され,ゲルマンとスラブ
の歴史的抗争と結びつけられて、自らをヨーロッパ文化の守り手と称した。その後、ドイ
ツの最大の敵は、大陸の戦争に介入した「不実の国イギリス」となり、「新興ドイツへ嫉妬す
るイギリス」「アジア・アフリカ人の抑圧者」(ドイツもアジア・アフリカに植民地をもって
いたが)として非難した。
連合国側では、「軍国主義ドイツ」が前面に押し出され、ベルギーでの文化財破壊や婦女
子への暴行がドイツの「野蛮性」を証明するものとして宣伝された。
こうした戦意高揚宣伝に活躍したのはジャーナリズムだけではなく、教会や大学教授な
ども先頭に立った。彼らは少なくともその方面の専門家と認められていたので,その言動
は一般に正しいと思われていたから、効果は大きかったが、害も大きかった。オックスフ
ォード大学歴史学教授団がドイツの開戦責任を非難すると,ドイツの教授陣はそれに反論
する声明を出した。経済史家ゾンバルトは『商人と英雄』を発表して、イギリスを経済利
174
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
益だけで動く商人に見立て、逆にドイツ人を名誉を重んじる英雄であると自賛した。映画
も宣伝や啓蒙活動に利用され,大衆プロパガンダの原型がつくられた。
このように、他国民に白紙であった国民大衆に、他国民への偏見を強め、また、自国民
に対する定型化した自己理解(優越感、選民思想)を普及させて国民の同質的イメージを
強めていった。しかし、大戦後期にになると、勝利の見通しが得られないいらだちから、
手のおよばない外部の敵ではなく、内部の弱いものに内部の敵を求めはじめた(いじめの
論理と同じ)
。ドイツでは,ユダヤ人が兵役を逃れて、銃後で儲けているという悪意ある噂
が流され、軍当局はわざわざ軍のユダヤ人の比率を調査して、その噂の流布に手を貸した。
◇第 1 次世界大戦の終結と戦争原因
1918 年 11 月 11 日、ドイツ代表団は、パリ近郊のコンピエーニュの森で連合国との休戦
条約に調印し、第 1 次世界大戦は終結した。連合軍とドイツとの間の和平は、公式には、
1919 年のパリ講和会議と同年のヴェルサイユ条約によって確定した。
《第 1 次世界大戦―未曾有の人災》
古い思想の戦争のまま始められた第 1 次世界大戦は、開戦当時には予想もしなかった結
果をもって終了した。長期にわたった戦争は表 5(表 15-5。P169)のように、莫大な戦
費と多くの兵員を動員し、膨大な犠牲者を生み出した。
戦闘員の戦死者は 900 万人、非戦闘員の死者は 1000 万人、負傷者は 2200 万人と推定さ
れている。国別の戦死者はドイツ 177 万人、オーストリア 120 万人、イギリス 91 万人、フ
ランス 136 万人、ロシア 170 万人、イタリア 65 万人、アメリカ 13 万人に及んだ。またこ
の戦争によって、当時流行していたスペイン風邪が船舶を伝い伝染して世界的に猛威をふ
るい、戦没者を上回る数の病没者を出した。
最後にもう一度、第 1 次世界大戦の原因について考えてみよう。
《繁栄のなかでの富国どうしの戦争》
帝国主義的資本主義体制を支えた大きな要因は、世紀末から大戦直前まで約 20 年間持続
した各国の経済発展にあった(世界中の植民地や支配地を競争で搾取していたのであるか
ら、本国が経済的繁栄を謳歌するのは当然であった)。フランスでは 1900 年代(1900 年~
1910 年)の後半は、年 6%の高い成長率を記録し、
「ベル・エポック(良き時代)
」と呼ば
れた。
ドイツとアメリカの台頭で、「世界の工場」の地位を失ったといわれたイギリスは、世界
の貿易・金融センターへ変身することで、なお繁栄を謳歌していた。ドイツは、1890 年代前
半まで、200 万人を超える移民をアメリカに送り出していた国であったが、工業の急成長で、
移民の数を急激に減らしたばかりか、都市へ移動した農村労働力を、ロシア領ポーランド
など東欧地域から招いた 100 万人の季節労働者でまかなう労働力輸入国へと変貌した。
主要国の経済のパイが大きくなって、雇用の拡大、労働条件や生活の改善をうながし、
労働運動を穏健化させ、自由主義体制を継続させたのである。大戦前のエリート層は、恒常
的な経済発展が当然と思われ、楽観的な直線的進歩観が支配していた時代に生きていた。
175
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
経済発展と列強体制は、国内の政治参加・経済利益配分要求、中欧・バルカン地域の民
族運動の台頭、帝国主義的対立や軍拡競争をもたらしたが、その一つ一つをとれば、戦争
という手段で解決しなければならないほど切迫したものではなかった。
たとえば、大戦前のイギリス・ドイツの対立の象徴ともいえる 3B 政策と 3C 政策を見て
みよう。その中心は、トルコ、近東方面に進出してイギリスのインドへのルートを脅かすド
イツのバグダード鉄道建設にあると言われてきた。しかし、この問題は 1913 年 5 月、ほぼ
合意に達していた。バグダード鉄道の終点が(現在のイラクの)バスラであるなら、イギ
リスの権益にとって何ら脅威ではなく、イギリスはバグダード鉄道計画に反対しないとい
っていた。イギリスの歴史家ジェイムズ・ジョルは、戦争に直結するような深刻な特定の
政治的・経済的な原因はなかったと指摘している。でも世界大戦は起きた。なぜか。
《深刻な原因はなかった第 1 次世界大戦》
第 1 次世界大戦のきっかけとなったのがサラエヴォ事件であることは疑う余地がないが、
この事件から(第 1 次)世界大戦といわれるような大戦争が起きるには、それなりに大き
な原因があるはずだと研究されてきたが、なかなか、それが見つからないというのが結論
である。
国家間の外交、文化、経済、複雑な同盟関係、19 世紀に急成長したドイツを巡る国家力
バランスなどについて、1815 年のナポレオン戦争終結後のヨーロッパに注目した研究が盛
んに行われてきた。
一般的に第 1 次世界大戦の原因には複合要因が存在するとされているが、それらのうち
の幾つかを上げると、普仏戦争以来、数十年間大規模な戦争はおきていなかったことによ
る戦争記憶の風化、ナショナリズムの台頭 、未解決の領土問題 、複雑な同盟関係(三国
同盟、三国協商、日英同盟など) 、外交における通信の遅延、意図の誤解 、軍拡競争 、
軍事計画の硬直性などがある。しかし、一つ一つを検討すると戦争に至るとは思えないも
のばかりであった。
《領土拡張ゲームを競うような軽薄な貴族外交》
そのようななかで、外交官たちが起こした戦争という見方もある。ナポレオン戦争の最
終的な勝利者は、将軍でもなければ皇帝でもない宰相メッテルニヒであった。この悪しき
前例が、列強の宮廷人に野心を起こさせた。この時代の外交官には、地図上の領土拡張ゲ
ームを競うような軽薄さが見てとれた(19 世紀末から 20 世紀初めの世界分割競争はまさに
ゲームになっていた)
。
大戦前のヨーロッパ諸国をみると、主要列強は、共和制のフランス、アメリカを除けば、
なお伝統的要素の強い帝制か王制(イギリスは立憲君主制だった)であった。外務省など
中央国家省庁、国内行政機関、軍の要職に貴族出身者が多かった。
大戦前の大学生の数は、フランスで 4000 万人の国民のうち約 4 万人、ドイツで 6500 万人
中 5 万 5000 人、イギリスでは 4000 万人中の 2 万 5000 人にすぎず、同世代でも大学生の割
合は 1%に達しなかった。大学教育自体が社会上層の独占物であった。国民の圧倒的多数か
176
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ら遠く離れた貴族階級(支配者階級)が国政を動かしていたことはヨーロッパ列強に共通
していた。
オーストリア外相ベルヒトルト伯は、セルビア運動の弾圧を含む強硬なオーストリアの
最後通牒を作成した。ロシア外相サゾノフは、開戦に備えての軍の動員を、御前会議で取
りつけた。本当に平和のために尽力したのは、イギリス外相エドワード・グレイのみであ
ったといわれている。
また、この時代の外交文書は捏造が多いことも後に指摘されている。具体例を上げると、
フランスは「フランス人のごとき堕落せる国民を打ち砕くべし」という内容のドイツ皇帝
の手紙を捏造した。フランスの外交文書は、ロシアの総動員を自国民に伝えず、ただドイ
ツの脅威のみを強調した。ドイツの外交文書では、イギリスの威嚇が捏造されていた。ま
た、イギリス外相の和平に向けての努力は一切黙殺されてしまった。ドイツの駐露大使に
よる、当地の動員に侵略的意図はないという報告は削除されている。
当時の国民は、これら「捏造された外国の脅威」を信じるほかなかった(ビスマルクが、
ヴィルヘルム 1 世から受け取った電報を改竄(かいざん)して世間に公表したエムス電報
事件が普仏戦争の原因の一つとなったことは述べた。最近でもイラクに大量破壊兵器があ
るという証拠があるという情報からブッシュ大統領が開戦を決断したことになっていたが、
実際にはなかった。アメリカは、この情報を捏造した者を公表していない)
。
いずれにしても、当時の列強指導層(支配者階級)が戦争の悲惨さからかけ離れて、安
易な考えで戦争の決定を下し、国民を捏造された情報などで戦争にしむけていったという
のが真相であったようである。
《現状の一挙的突破の戦争も悪くないという意識》
ヨーロッパ列強指導層は、帝国主義時代といわれる 20~30 年間に世界の「後進国」を相
手に圧倒的な軍事力でもってこれを征服し、その搾取によって、それまでの発展や繁栄が
比較的順調だっただけに、その持続を妨げるような事態に、列強指導層は神経をとがらせる
ようになっていた。
なかでも、いらだちをもっとも強く示したのは、新興統一国家ドイツであった。ドイツ
は成立 30 年にして、軍事・工業大国へとのし上がり、電機・化学の新工業部門では世界の
トップに立った。たとえば、大戦前、18 人のノーベル賞受賞者を出して近代諸科学をリー
ドしたドイツは、既存の列強からそれにふさわしい待遇を受けることを期待していたが、既
存の列強からの対応は期待を裏切るものであった
(ノーベル賞は 1901 年からはじまったが、
ドイツ人の受賞者が圧倒的に多かった)
。
ドイツのいらだちは、将来の不安を一挙的な解決方法、すなわち戦争で取り除こうとす
る態度を助長したようである。戦争のリスクというと、現在からみれば何か異常な決意の
ように思われるかもしれない。しかし、当時の列強世界では、戦争は好ましくはないが国
際問題解決の最後の手段として、正常な思考のなかに常にあった。イギリスでも、ドイツ
でも、あるいはフランスでも、戦争を計算されたリスクとみなす傾向は強かった。
177
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なかでもドイツは普墺戦争、普仏戦争の勝利以来、約 40 年間で「不敗のドイツ」という
神話が定着し(それは日清、日露に勝利した日本が、約 40 年間で「神国日本」の神話が定
着したのと同じようだった)、戦争賛美や軍人の社会での地位の高さではきわだっていた。
在郷軍人会や陸海軍支援団体が、社会生活で大きな役割を演じていた。フランス、ロシアを
敵国に想定した周到な攻撃作戦計画、シュリーフェン作戦計画をもっていた(開戦と同時
に破綻するような非常識な計画であったが、当時は誰も批判するものがいなかった)。
大戦の原因を作り出し、そのなかでもっともいらだちを感じ、現状の一挙的突破を求め
たドイツ、オーストリアが、開戦に大きな責任をもつ、というのが近年の研究の結論である。
しかし、戦争に踏み切った諸列強の指導者や軍人は一様に、(第 1 次)世界大戦を始めるつ
もりはなかったと言っていた(戦争をしても以前のように短期に局部的で終わると思って
いた。小さな戦争であれば、かえって、それで問題が手っ取り早く解決できると思ってい
たのである)
。
《いつも裏切られる未来の戦争観》
彼らは戦争があったとしても、きわめて短期で終わるものと思っていた。未来の戦争観
は過去の戦争経験をもとにつくられる。当時の列強の軍部も例外ではなかった。ヨーロッ
パ列強同士の戦争は、半世紀も前の普仏戦争までさかのぼらなくてはならなかった。普仏戦
争は 9 ヶ月間の戦争であった。20 世紀に入ると、日露戦争が 19 ヶ月間続き、第 1 次大戦の
導火線といわれた 1912 年、1913 年の第 1 次・第 2 次バルカン戦争はいずれも 2 ヶ月で決着
した。列強の経験するそのほかの戦争は、ほとんどが植民地での戦争(「後進国(発展途上
国)
」相手の戦争)で、ヨーロッパ列強同士の近代戦の体験はないも同然だった。
ヨーロッパ列強同士は第 1 次、第 2 次の産業革命を終えており、その工業力は従来とは
比較にならないほどのレベルに達しており、それは武器が比較にならないほど強力で量的
にも大きくなることが予想されたが、それは一度体験してみなければ実感としてわからな
かったとも考えられる。
いずれにしても、大戦前には、ヨーロッパでの列強間の戦争は、相互の距離の近さと鉄道
や道路網の発達などから、すぐ動員できる兵力を使い、短期間で勝敗がつくという見方が
支配的であった。しかも、世界経済の時代という認識は、かえって短期決戦論という考え
を補強した。ドイツの作戦計画の基本をつくった参謀総長シュリーフェンは、「国民の生存
が通商と産業の継続に依拠する時代には、開戦によって停止された社会活動を再開させる
ため、戦争は迅速に決着をつけなければならない」と力説していたが、それは「ねばなら
ない」であって、本当に短期で決着がつく根拠はまったくなかった。
《人類は歴史からあまり学ばない》
来るべき戦争がどうなるか、誰にもわからなかった。シュリーフェンの言葉には、短期決
戦観のほかに、社会生活の外で行われる戦争という伝統的な考え方も含まれていた。彼が思
い描いたのは、将軍たちが大軍を率いて出征し、残された政府と国民が息をひそめて勝敗
の結果を待つという光景であった。来るべき戦争が過去のもの(たとえばナポレオン戦争)
178
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
と全く異なるものになることが少しでもわかっていたなら、指導層はあれほど安易に戦争
の決定をしなかったであろう。
しかし、人類は歴史からあまり学ぼうとしないようで、20 年後にまた、同じことを繰り
返すようになる(最近の日本の風潮も第 2 次世界大戦後約 70 年になり、店頭の雑誌類は「日
中もし戦わば」
「崩壊まじかな○○国」などの軽薄な記事で満ちていることは憂慮すべきこ
とである)
。
第 8 章 戦争と平和に関する思想と国際法
【1】戦争と平和に関する思想
ここまで、20 世紀前半の第 1 次世界大戦までの人類と戦争の歴史を述べてきたが、それ
では人類は「戦争をなくするために(平和のために)」何を考え、何を行ってきたかを述べ
てみたい。
《古代》
古代の思想家で、直接、
「平和論」を唱えたのは『自然の叡智 人類の叡智』の中国の諸
子百家のところで述べた中国戦国時代の思想家・墨子(ぼくし。紀元前 450~390 頃?)で
ある。
墨子は,分けへだてなく人を愛する兼愛のもとに、人々はたがいに利益をもたらしあう
兼愛交利説(けんあいこうりせつ)を展開した。
「兼(ひろ)く愛して交(たが)いに利す
る」ということ、つまり相手のためにすることは自分のためにするという功利的な性格も
あるということである(本来の意味の「情けは人のためならず」と同じ)
。墨子は「天下の
利益」は平等から生まれ、
「天下の損害」は差別から起こると考え、自他の別ななくすべて
の人を平等に、公平に隔たりなく愛すべきであるという博愛主義を唱えた。
墨子は、この兼愛交利と真っ向から対立するものが戦争であると考えた。墨子は非攻(ひ
こう)を説いて、国家間の戦争を否定する反戦思想を主張した。しかし、墨子は大国によ
る侵略のための戦争は否定したが、小国による防衛のための(自衛のための)戦争は認め
ている。墨子は、当時の戦争による社会の荒廃や殺戮による世の悲惨さを批判し、政治の
目的は人々の幸福にあるが、戦争は略奪・盗賊的行為であり、人々に何の利益も幸福もも
たらさない。他国を奪取して利益を得たとしても、蓄積された財貨を破壊する行為である
ことには変わらず、多くの人命も失われると説き、戦争では失うものの方がはるかに多い
として、他国への侵攻を否定する論を展開した。
『墨子』において、
「人一人を殺せば死刑なのに、なぜ百万人を殺した将軍が勲章をもら
うのか」と訴えている(この国家のダブルスタンダードをやめさせる社会システムをどう
して創るか。それには戦争行為を犯罪であるとしなければならない。その人類の論理を歴
史の中からどう組み立てるか)
。
ただし、墨子は、自衛のための戦争まで否定しているわけではない。そのため墨家は土
木、冶金などの面で技術の開発と活用に力を入れ、不落とよばれるほどの守城術を編み出
179
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
した。他国に侵攻され、助けを求める城があれば自ら助けにおもむいて防衛に参加し、撃
退にも成功した。万人に対する愛を説いたイエス・キリストより、数百年も早く兼愛を主
張していた墨家の思想が消えてしまって、その後、中国で起きてこなかったのは残念なこ
とであった(その後の中国の歴代国家はすべて専制独裁国家だったから(孫文の辛亥革命
まで)
、思想の自由はなかった)
。
この墨子とほぼ同じ時期に古代ギリシャでもソクラテスやアリストテレスが出て哲学を
興した。ギリシャにおいてアテナイとスパルタによって戦われたペロポネソス戦争が歴史
家トゥキディデスによって叙述され、戦争中には劇作家のエウリピデスやアリストファネ
スが平和主義的な思想を展開した。またアテナイの哲学者プラトンは『国家』の中で戦争
の原因として人間の欲望と国家の成り立ちとの関係を考察している。プラトンの見解によ
れば、人間の欲望は拡大し続ける性質を持つために、従来の自給自足の状態を離脱して他
国との関係が発生し、最終的には利害の衝突によって戦争が勃発する、と考えていた。
アレクサンドロス 3 世(大王)は古代ペルシアを征服し、ギリシャとオリエントの文化
を統合してヘレニズム文化を興したが、ここにポリスの市民から世界国家の市民としての
価値観が生まれストア学派が現れた。キプロスの哲学者ゼノンにより確立されたストア学
派は自然の法則と合致するように人間の理性をはたらかせる禁欲主義の倫理を提唱し、理
性によって全ての人間を平等に同胞とする世界市民主義と自然法の着想を展開した。この
思想はキリスト教や自然法思想へと受け継がれることになった。
《中世》
中世には正戦論が生まれた。正戦論とは、ローマ哲学とカトリックに起源をもつ、軍事
に関する倫理上の原則・理論であり、西ヨーロッパにおいては「正しい戦争」「正しくない
戦争」を区別することで、戦争の惨禍を制限することを目指して理論構築がなされた(聖
戦とは別の概念である)
。
つまり、際限のない中世の戦争・暴力という状況から、戦ってもよい戦争と戦ってはい
けない戦争を区別し、戦争・暴力の、行使・発生を制限することを目指して生まれたもの
である。この中世の正戦論については、「戦争法を中心とした国際法の歴史」において後述
する。神学者トマス・モアもこのような正戦論を主張しており、正戦の条件を定義してい
る。
《近世》
オランダの法学者フーゴー・グロティウスの自然法論で正戦論は神学的な性格から法学
的な性格を与え直され、戦争は正当な権利のため以外に戦ってはならないことを定式化し
た。グロティウスは後述するように『戦争と平和の法』を著し「国際法の父」といわれてい
る(グロティウスについては戦争と平和に関する国際法のところで述べる)
。
イギリスの哲学者トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』において共通の権力が確立さ
れる以前の人間本性と自然状態について理論的に考察し、そのような自然状態を万人の万
人に対する戦争であると論じた。逆の見解としてイギリスの哲学者ジョン・ロックはホッ
180
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ブズ的な戦争観ではなく、自然状態では人間は完全に自由な状態にあり、服従関係がない
平等な状態であるが、もし自然法が認識されずにある人物の権利が侵害されれば、当事者
は抵抗することが可能(抵抗権)であり、この状態を戦争状態にあるとしている。
哲学者ベネディクト・スピノザはホッブズが述べたような共通の政府が存在しない人々
の間で生じる戦争観を受け入れていたが、ロックのように戦争と道徳や法を両立させるこ
とはできないと考えていた。後述するように、ジャン・ジャック・ルソーは永遠平和のた
めの計画を作成し、ヨーロッパを単一の権威の下に統一することによって安定化を図るこ
とを提案した。
このころの哲学者には、まだ、ヨーロッパ中心であって、世界全体は視野に入っていな
かった(したがって、現代的な意味で解釈するには、「ヨーロッパ」を「現在の世界」と読
み替えれば、よくわかる)
。
《サン・ピエールの『ヨーロッパにおける永遠平和の草案』
》
ルソーに先行してサン・ピエールが『ヨーロッパにおける永遠平和の草案』を著してい
る。スペイン継承戦争(1701~1714 年)によってヨーロッパ全土が疲弊していた時代に、
サン・ピエールは国家連合による永遠平和の確立を訴えた。1713 年にはユトレヒト和平会
議が開催されたが、サン・ピエールはそこにフランス全権秘書として赴き、その経験をも
とに前書を著した(1717 年)
。
サン・ピエールは国家間の秩序が勢力均衡によって保たれる状態は、いずれは戦争を生
じさせ、平和を実現することはできないとして、戦争状態を永久の平和に変えるために、
ヨーロッパ諸国の同盟による国際組織の創設を説いた。
この同盟は永久に続くものであり、一度締結すると取り消しはできない。加盟国は全権
委任の代表を集めた定期的あるいは常設の会議を開催し、加盟国当事者の紛争はそこで調
停され解決される。それぞれの加盟国は,その会議において決定される分担金を出資し,
この諸国家連合による国際組織はこの分担金により運営される。
この会議において、構成各国に利益をもたらすための諸規定が作成され、多数決によっ
て可決される。諸国家連合は構成国の所有権と統治権を保障し、構成国家同士が武力によ
って相手国との問題を解決することを決して許さない。同盟の条約に違反する構成国は,
ヨーロッパ社会において関係を築くことができず、公共の敵とみなされる。
もしもある構成国家が戦争の準備をし、他の構成国家に武力を行使した場合は、全構成
国家が協力して、その武力行使をおこなった国家に対して攻撃的行動をとる。この点から,
従来の正戦論を放棄し、武力の行使は戦争廃止のための「国際的法組織」による制裁戦争
のみ認められるとした、集団安全保障の理論を展開させていることがうかがえる(これは
後述するように現在の国連憲章がいう集団安全保障制度で、現在、アメリカなどが行って
いる条約、同盟などによる集団的安全保障ではない)。これらは諸国家連合の基本条項であ
り、全構成国家の合意がなければ変更は不可能であると説かれている。
この国家連合による国際組織は加盟国の主権を否定するものではなく、加盟国を内外の
181
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
侵略から守るものであると考えられた。軍隊は国家連合への割り当て分のみ必要であり、
そのため軍事費は大幅に削減できる。従って,統治者は軍事以外の面での政策に力を入れ
ることができ、国内の人民の納税負担を軽減できる。また,統治者たちは,自らの国内に
対しては絶対的な権力を持ち続ける。
国家間は対等であり、紛争が生じた場合は連合議会が裁定する。この連合議会の議長は,
加盟国の輪番制とする。それ故、一部の支配者がいるわけではない。加盟国の自由は連合
諸国によって確立されるのである。これらは、ウェストファリア条約後の国家の勢力均衡
によるウェストファリア体制と、その結果もたらされる不断の戦争を批判し、はじめて「国
際的法組織」構想をその解決方法として提示したものであった。
《ルソーの国際的社会契約論》
このサン・ピエールの構想を読んだルソー(1712~1778 年)は、社会契約説の国際版と
もいうべき国際的社会契約―自然状態を解決する手段としての国家連合を考えた。
ヨーロッパが一種の社会を形成しながらも常に戦争を回避しえないのはなぜか。ルソー
はその答えを国家間関係が自然状態のままにあることに求めた。すなわち、真の社会は契
約によってのみ形成されるものであるが、ヨーロッパには未だそれを形成するための契約
がなされていない。したがって、ヨーロッパ列強の関係は戦争状態=自然状態にあり、講
和条約さえも「一時的な休戦状態」でしかない。なぜなら、ヨーロッパの社会(現在の世
界)は未だ「偶然によって形成されるかまたは維持されている結合」であるがゆえに「状
況が変われば不和と紛争に必ずや堕してしまう」類のものである。
したがって、その惨禍を免れるためには、
「人が何といおうと、今日もはやフランス人、
ドイツ人、スペイン人はいない。イギリス人でさえいない。存在するのはただヨーロッパ
・・・はない。
人(des Européens)だけ」なのである(「白人のアメリカ、黒人のアメリカ、
存在するのはただアメリカ人のアメリカだけ」はオバマ演説。筆者はアメリカの同盟、ロシ
アの同盟、中国の同盟・・・はない、存在するのはただ国連(世界政府的国連)の集団安
全保障制度だけと言いたい)。すなわち、ルソーは「ヨーロッパ」を一種の社会と見なし、
(紛争をなくするためには)国家間により緊密な契約を締結する以外にない、とルソーは
考えたのである。
『サン・ピエール師の永遠平和論抜粋』
(1756 年)のなかでルソーは次のように述べてい
る。
「われわれのだれもが自己の同胞の市民たちとは社会状態にありながら、残りの世界全
体とは自然状態を保っているので…全体にわたる戦争に火をつけている。…こうした危険
な矛盾を取り除く方法があるとすれば…連合政府の形態を取るほかにはありえない」
。ルソ
ーによれば、戦争は人間関係ではなく国家間関係であるがゆえに、「戦争に抵抗するために
は人民からなるひとつの社会をこそつくる必要がある」という。
また、
『ポーランド統治考』では、大国と小国の諸利点を結び合わす唯一の体系であると
いう意味において、
「国家連合という形式は…政治の傑作であるように思われる」と述べて
いる。また『社会契約論』では、
「大国の対外的な力を小国の平穏な治安とよい秩序にどの
182
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ように結びつけることができるかを…本書の続編において取り扱おうと企てていた。そこ
では、対外関係を論じながら、連合(conféderation)に論究することになるであろう」と
述べている。
『エミール』においても「どんなふうにしてしっかりした連合的な社会結合体を確立す
ることができるか、なにがそれを永続的なものにすることができるか、また、主権を損な
わないでどの程度まで、連合の権利を拡張することができるかを研究してみよう」と、そ
の研究計画構想の一端を明らかにしている。
このようにルソーは、国家の形成の「社会契約論」の次の大きな目標が世界平和のため
の仕組み作り(まだ、ヨーロッパという世界であったと思うが)に向かっていたのである。
ルソーは、サン・ピエールの構想を詳細に検討することによって、戦争という自然状態を
克服せしめるには「国家連合」という名の国際的社会契約が結ばれる以外に道はないとの
結論にたどりついたのである(現在、国連加盟国はすべて、
「国連憲章」という国際的社会
契約を守ることを誓って加盟しているのにそれが守れないのはどうしてか)
。
しかしながら、大国の君主の理性に信をおけなかったルソーは、直接民主主義が実現可
能な規模である小国による国家連合をこそ、最もすぐれた連合形態と見なした。この意味
において、彼は全ヨーロッパ規模での連合の形成は困難なものとしてその実現を悲観的に
見たのだった。
カントはヨーロッパ統合のサン・ピエール、ルソーの著作を読んで、
『永遠(永久、恒久)
平和のために』を著したことは後述する。その前にサン・シモンについて記す。
《サン・シモンの『ヨーロッパ社会の再組織について』
》
サン・シモン(1760~1825 年)はカントより後の人で、かつ、ナポレオン戦争後の人で、
『自然の叡智
人類の叡智』では、フランスの社会主義運動を起こした人として記してい
る。サン・ピエールが全てのキリスト教君主によるヨーロッパ連合構築を訴えたのに対し、
サン・シモンは『ヨーロッパ社会の再組織化について』のなかで「ヨーロッパ愛国心」に
裏づけられたヨーロッパ人民による議会政治を主張した。また、ルソーが小国による国家
連合を説いたのとは対称的に、サン・シモンはフランスとイギリスという大国をも含めた
「ヨーロッパの再組織化」を提唱した。それはまさに、フランス革命以後のヨーロッパが
共通の課題としてかかえていた社会の再組織化の問題に真正面から取り組むものであった。
また、
「各国の国民的独立を保持させながらヨーロッパ人民をただ一つの政治体にまとめ
ることについて」という副題が示すように、彼は国家を消滅させることなく、単一の制度
に基礎づけられたヨーロッパ統合の必要性とその手段を説いた。
サン・シモンは、ナポレオン戦争によって荒廃したヨーロッパがウィーン会議(1814~
15 年)を開催した年にこれを執筆した。彼は近代史上最初の国際組織化の試みとされる「ヨ
ーロッパ協調」および、勢力均衡政策による新秩序樹立を謳った「ただ単一の全体を形成
しているヨーロッパの名において」宣言(ウィーン体制)を、同時代人として冷ややかな
眼差しをもって眺めた。なぜなら、
「個別的な連合、利害の対立した同盟は、人々が何とか
183
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
回避しようと空しく試みたあの悲惨な戦争状態へと再びヨーロッパをおとしいれる」こと
になるだろうと、彼は見なしたのである。
サン・シモンによれば、そのような事態の根本的原因は勢力均衡であった。ウェストフ
ァリア条約(1648 年。三十年戦争後の講和条約)によって確立された勢力均衡はヨーロッ
パを二つの連合体に分割し、「戦争を生み出し合法的に永続化させるものであった」
。ゆえ
に、彼には、
「勢力均衡はおよそとりうる方策のうちで最も誤った方策」であり「平和をめ
ざして戦争しか生み出さなかった」という本末転倒な制度であったと考えていた。
その転倒を是正する構想の先導者としてサン・シモンはサン・ピエールをあげる。同時
に、サン・ピエールの計画は「ヨーロッパをひとつの政治制度によって統合するというこ
とに帰着する」けれども、それは共通の目的がないゆえに「絶対に実現できない」もので
あり、もしも実現可能であると仮定すれば、それは「人民に対する君主の権力をいっそう
倍化させ…専制的権力の保持を君主間で保障しあうこと以外の何ものでもないに違いな
い」と、その限界を指摘した(そのために、カントは後述するように共和制(民主制)国
家であることが条件であるとしている)
。
サン・シモンによれば、このような状況を打破しヨーロッパに永遠平和を確立するため
には「長続きしない信念や一時的な意見から独立した、事物の本性から引き出された諸原
理に支えられた、それ自体において強固な一政治体(constitution)」こそが必要である。
すなわち、それは、ⅰ)単一の構想に基づく同質的制度、ⅱ)各国政府から完全に独立し
た全体政府の樹立、ⅲ)一般的利益に意を用いうる地位におかれた政府構成員、ⅳ)世論
の力という四つの諸原則に導かれた「国民的独立を保持させながら一つに合体させるため
に設立される政治組織」である。
サン・シモンはこのように論じてヨーロッパを再組織化することが現実可能であること
を論じた。しかし、当時のヨーロッパは「まったく思弁的なもの」として取り上げなかっ
た(その後ヨーロッパは 2 度の大戦を経たのち、サン・シモンたちのめざしたように EU が
形成されたことはご存じのとおり)
。
このような平和主義の構想はイマヌエル・カントの『永遠平和のために』で体系化され
た。
《カントの『永遠平和のために』》
偉大な哲学者イマヌエル・カント(1724~1804 年)については、『自然の叡智 人類の叡
智』の啓蒙思想のところに記した。カントは東プロシアの政治・経済の中心地の港町ケーニ
ヒスベルク(現在はロシア領でカリーニングラードという)に貧しい馬具職人の子として
生まれ、そこで育ち、ケーニヒスベルク大学の教授として一生を送り、ケーニヒスベルク
から一度も出なかった。
カントの『永遠平和のために』
(1795 年)は、のちの国際連盟、国際連合にも関連すると
いわれている。
カントはこの『永遠平和のために』を現実には、フランス革命戦争中の第 1 次対仏大同
184
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
盟でフランスとプロイセンがバーゼルの和約を締結した 1795 年にケーニヒスベルクで出版
しており、理想論の哲学だけを述べていたわけではない(まだ、ナポレオンが出てくる前
であった)
。
バーゼルの和約は戦争の戦果を調整する一時的な講和条約に過ぎず、このような条約で
は平和の樹立には不完全であると考え(実際、10 年ほど後に再び戦火を交えることになる)
、
カントは永遠平和の実現可能性を示す具体的な計画を示そうとした。カントがこのように
考えたとき、その念頭にはサン・ピエールやルソーの平和構想があって、彼らの構想を評
価していたのである(カントはルソーの教育論『エミール』にも衝撃を受けたと述べてい
る)
。
カントにとっては、人間が追求しなければならない最高の目的は、道徳的・理性的な人格
であった。けっして手段とはならず、つねに目的として扱わなければならない人格どうし
の理想的社会を、カントは「目的の王国」と呼んだ。すべての人格が、たがいに尊敬しあっ
て交渉するような道徳的社会、徳と幸福とが結合して最高善が実現する理想社会、これが
カントのいう目的の王国である。
カントはこの目的の王国の理想を国際社会に適用し、すべての国家がたがいに目的とし
て尊敬され、手段として利用されることのない平和で理想的国際社会を構想した。『永遠平
和のために』のなかで、国家間の紛争を武力によってではなく、国家間の協力と協定によ
って解決してゆくことを強調している。永遠平和という理想を目標に、最終的には万民国
家が、現実的には民主的な国家間の協定による紛争解決のための国際機関がつくられなけ
ればならないとした。
カントの『永遠平和のために』は、永遠平和実現のための具体的プランだけでなく、そ
れが実現可能であると考える論拠を示し、そこからさらに政治と道徳の関係を扱っている。
本書の内容は永遠平和を確立するための予備条項と確定条項から構成されている。
第 1 章の予備条項では、人類が殲滅戦(せんめつせん)に突入するのを防止するための
諸条項が掲げられている。
ⅰ)第 1 条項―将来の戦争の種をひそかに留保して締結された平和条約(最近、締結され
たバーゼルの和約)は、決して平和条約とみなされてはならない。
ⅱ)第 2 条項―独立しているいかなる国家(小国であろうと、大国であろうと、この場合
問題ではない)も、継承、交換、買収、または贈与によって、ほかの国家がこれを取得で
きるということがあってはならない(それまでの戦争では国家は王侯によって、取引され
ていた)
。
ⅲ)第 3 条項―常備軍は、時とともに全廃されなければならない。
ⅳ)第 4 条項―国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない(イ
ギリスが戦争のために国債を発行するようになってから、戦争費用の調達が容易になり、
戦争の規模も大きくなったことは述べた)
。
ⅴ)第 5 条項―いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはな
185
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
らない。
ⅵ)第 6 条項―いかなる国家も,他国との戦争において、将来の平和時における相互間の
信頼を不可能にしてしまうような行為をしてはならない。
以上を禁止するための条項が列挙されている。
これら予備条項は平和をもたらすための準備的な段階であり、確定条項では具体的な平
和の条件が示されている。
ⅰ)第 1 確定条項―各国家における市民的体制は、共和的でなければならない(注:この
時点 1795 年では、アメリカ(唯一民主国家)
、イギリス(立憲君主政)
、フランス(共和革
命政府)、オランダ(共和政)以外の世界中の大部分は専制独裁国であり、機は熟していな
かった。その点、カントの平和論は遠い先のことだった(『自然の叡智 人類の叡智』で述
べたように、現在の世界(2010 年、後述する)は 64%が民主主義国家(人口割合で)とな
ったので(図 131(図 18-6。680)参照)、やっと、カントの平和論を論ずるときがきたと
言えよう)
。
ⅱ)第 2 確定条項―国際法は、自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである。
ⅲ)第 3 確定条項―世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければな
らない(この時代は、各国間の自由な交流も不可能だった。現在はほとんどの国で自由で
ある)
。
予備条項の中でも常備軍の全廃を示した第 3 条項は、常備軍の存在そのものが諸外国に
対して戦争の恐怖を与え、したがって無制限な軍備拡張競争が発生することになる。そし
てその軍拡によって国内経済は圧迫されるとその状態自体が攻撃の動機となる。つまり常
備軍は時期とともに全廃されなければならないとカントは考えた。
また国家が人を殺したり人に殺されたりするために人間を雇うことは、人間性の権利に
反するといっている。カントが倫理学の原理とした定言命法によると、人間は自他の人格
をつねに目的それ自体として扱うべきであって、たんなる手段としてのみ扱ってはならな
いとしている。これは国家についても言えることで、国家は国民といえども戦争のための
たんなる道具として手段的に扱ってはならないのである。常備軍の廃止は、カントの倫理
学からも帰結する条項である。
ただし、
「だが国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外か
らの攻撃に対して防衛することは、これとはまったく別の事柄である」と、今日のスイス
に見られるような国民が自発的に軍事的な教育訓練を実践して外敵に対する自衛手段を確
保することについては、カントは認めている(つまり、自衛は認めている。墨子もそうだ
った。もちろん、これは国連憲章の個別自衛権である)
。
予備条項は、殲滅戦を防ぎ、永遠平和への展望を開くための諸条件であったのに対して、
確定条項では、永遠平和が実現するための具体的な諸条件が提出された。つまり永遠平和
を実現するには、国内体制に関しては共和制の確立が(第 1 確定条項)、国際体制に関して
は自由な諸国家の連合制度の確立が(第 2 確定条項)、世界市民法に関しては普遍的な友好
186
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
権の確立が(第 3 確定条項)
、それぞれ必要とされるのである。
カントのいう共和制とは、自由と平等の権利が確保された国民が、共同の立法にしたが
っている国家体制で、しかも代表制を採用し、国家の立法権と執行権とが分離している国
家体制である。カントによると共和制は人間の法にもっともよく適合した国家体制である
が、カントのこうした考えの背後には、ロックに代表される啓蒙主義的な国家観がある。
ところでカントは共和制が永遠平和のためになぜ望ましいと考えているかというと、こ
の体制の下では、戦争をすべきかどうかを決定するには国民の賛同が必要であるが、国民
は戦争のあらゆる苦難を引き受けなければならないから、戦争という「割りに合わない賭
け事」を自分からすすんでは求めはしないであろう、というのがその理由である(注:逆
に言うと、王侯貴族、高級官僚など支配者階級は決して自分で戦争をしないので(国民に
戦争をさせるので)
、自分たちの利益、統治の都合で戦争を安易にやってしまうのである。
支配者階級、あるいは国家が形成されてからの戦争は、ほとんどそうだったことは『自然
の叡智 人類の叡智』でも述べてきたところである)
。
当時のヨーロッパは(世界はもちろん。アメリカ、イギリス、フランス、オランダ以外
は)
、すべて専制君主(独裁)国であった。国家の所有者である専制君主にとっては、戦争
はありふれた世間事であって、自分は労することなく、臣民を戦争の道具として使役でき
たのである。このような専制君主国が戦争を放棄するとは考えられないことであろう。
第 2 確定条項では、国家間の永遠平和を保証するものとして、自由な諸国家の連合が提
唱されている。カントは、かつてのローマ帝国のような、諸国家を征服した 1 世界王国(世
界帝国。覇権国家による世界統治)の出現による世界平和の維持を望まないのはなぜか。
彼によると、法は統治範囲が広がるとともに重みを失い、
「魂のない専制国家」が支配し(ロ
ーマ帝国や中国、イスラム、モンゴル、ロシアなどの世界帝国の治世の後半をみよ)
、世界
王国(世界帝国)は最後には無政府状態に陥るからである(現実の古代、中世、近世の歴
史を見ても、国家にはライフサイクルがあって、最後には混乱に陥って滅亡してしまうこ
とを述べた)
。
これに対して、理性の立場からすれば、諸国家がそれぞれ独立した単位として、1 国内の
共和的体制に似た世界共和国を形成することができれば、それが永遠平和の維持にとって
もっとも望ましいことである。しかし、それぞれが国家権力をもつ諸国は、理性が正しい
と認めることでも、具体論としては斥(しりぞ)けるから、そこで世界共和国という積極
的理念の代わりに、独立した諸国家の国際連合という「消極的な代替物」を、実現可能な
世界平和維持の手段と考えたのである。
国際法も、平和連合とも言えるこの国際連合を土台とする法でなければならない。した
がって、それはどのような形であれ、戦争を正当化するような法を含んではならない。グ
ロティウスは『戦争と平和の法』を書いたが(これは戦争と平和に関するルールを決めた
だけ)
、カントは国際法は「平和の法」に徹すべきとしている(戦争そのものは犯罪として
禁止されなければならない)
。
187
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 3 確定条項は,人間は世界市民として、どの外国でも訪問することができ、その地に
住む住民と交際を試みることが出来る権利、すなわち訪問権をもつことが示される。カン
トによると、人間は訪問権をもつが、世界市民法は、この権利を保障する範囲に限定され
なければならないとしている。現在では当たり前のようなことであるが、当時は、訪問す
ることは征服することだぐらいに考えているヨーロッパ列強諸国による植民地獲得は、原
住民を無に等しいものと扱う点で、世界市民法に対する明白な違反であると考えたのであ
る。カントは当時、中国や日本が鎖国政策をとったのは賢明な措置であったと語っている。
(植民地がほとんど独立した現在では、この点でも機は熟しているといえるであろう)。
カントは永遠平和がたんなる空想ではなく、それが実現可能であると論証しているが、
その部分が予備条項や確定条項に続く第 1 補説である。
カントのこの理念は、のちに国際連盟や国際連合として一部具体化された。彼はこの構
想を(国際連合ができる 1945 年から)150 年以上も前に提唱していたのであるが、まだ、
実効あるものとはなっていない。カントの臨終の言葉(80 歳)は、「これでよい」であった
いわれているが(1804 年)
、戦争を放棄した人類に対してカントが「それでよい」と言って
もらえるのはいつの日であろうか。
(カントの後、100 年後に植民地主義、帝国主義はピークを迎え、2 度の世界大戦を終えて、
150 年にして、はじめてカントのいう組織―国際連合が出来、それから米ソ冷戦などで、ま
た、70 年が過ぎて本格的に永遠平和のための戦争廃止を論ずることが出来るようになった
と筆者は考える。いや、いまや 21 世紀の世界では核兵器の拡散が急速に起こっている現実
を考えると、人類にとって今しか、戦争廃止のチャンスはないと考えられる。第 3 次世界
大戦のあとでは人類は滅亡しているかも知れないから)
。
《マディソンの「多数の方が公共善は達成しやすくなるという結論」
》
このカントより少し前に、独立したばかりのアメリカをどのうようなシステムで統治し
たらよいか、悪戦苦闘していた男「ミスターアメリカ憲法」ことマディソン(1751~1836
年。その後、第 4 代大統領となった)の話も今後の地球世界の仕組み作りに参考になる。
(マディソンについては『自然の叡智 人類の叡智』の「アメリカ独立戦争とアメリカ合衆
国」に記した。彼は、平等な権限をもつ 13 州をどうしたら一段上のアメリカ合衆国として
まとめられるかを考えた。現在、200 ヶ国近くある国家を一段上の国連という仕組みでどう
まとめるか。
「13 州」を「200 ヶ国」と置き換えて考える)
。
アメリカ独立戦争は、アメリカの勝利となり、1783 年、パリ条約が締結され、すべて終
わり、めでたしめでたしのはずだった。ところが、その時点でのアメリカは、アメリカ合
衆国憲法はなく、
(13 州が独立戦争を戦ったときの)アメリカ連合規約と連合会議でアメリ
カを運営していた(それでいけると考えていた。つまり、人間社会においては、物事をき
ちっとした社会システムに定着させないと、後に恣意的に運営されて結局、ダメになって
なってしまうことを示している)
。
しかし、アメリカ合衆国をしばらく運営してみたら、連合規約と連合会議に多くの問題
188
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
点があることがわかってきたのである。連合規約はアメリカ合衆国を独立・自由・主権を
有する州の恒久的同盟と規定し、宣戦と講和、外交使節の交換、条約の締結など対外関係
に関する権限を連合会議に与えた。連合会議における議決は各州 1 票とし、13 州のうち 9
票の多数をもって可決されることとした。大州と小州の間には、大陸会議発足当初から代
表権について対立があったが、当初からとられてきた各州 1 票の方式がそのまま採用され
てきた。
連合会議には国防、外交、通貨などの権限は認められていたが、課税権を持たず、対外
通商および諸州間の通商を規制する権限、常備軍を保持する権限もなかった。また各州か
らの拠出金によって運営されていたために、連合規約の時期のアメリカ合衆国の財政基盤
は脆弱なものであった。輸入税が独自の歳入源として挙げられたが、それを実現するため
の各州の賛成は得られなかった。外交的立場も弱いものであった(つまり、みんな自分の
州のことだけを考えていたのである。その上の「アメリカ合衆国」のことは誰も考えてい
なかったのである)
。
しかしながら、その後、やってみると連合会議にある程度の課税権が必要であることは、
1780 年までには多くの大陸会議の代表によって認識されるようになった。1777 年には連合
規約の審議において州の権限を守ることに必死だったノースカロライナのトーマス・バー
クは、3 年後には大陸会議に輸入税徴収の権限を与えることを提案するほどに変わっていた。
しかし、とくに関税収入の多いロードアイランドとニューヨークは輸入関税には反対だっ
た。
このように、独立以後、北西部領土問題のような州間の利害がからむ重大な問題がたく
さん生じてきて、問題が山積していった。スペインとの間で起きたミシシッピ川の自由航
行問題はニューイングランドなど貿易振興を急務とする 7 州と西部の開発に利害関心を抱
く南部の 5 州がまっこうから対立する形となった。
この間、ヴァージニアのマディソンは 1785 年にニューヨークに旅行して、各州が単独で
実施した関税が、いかに州間の軋轢を生じさせているかを目の当たりに見ていた。マディ
ソンはこのような実態をつぶさにみて、このままでは戦争になってしまう恐れもあると感
じた。
マディソンは 1787 年 4 月、
「政治制度の欠陥」と題する覚書を作成し、各州政府が連合
会議の政策に従わないのは、連合会議に政策を執行する強制力がないという連合制度の内
在的欠陥に由来していると結論した。この点を克服するには、連合政府を創設する手続き
を改革する必要がある、つまり、連合政府は州議会ではなく、直接人民の批准を得なけれ
ばならないと考えたのである。彼にとって、共和政とは、多数者が文字通り権力を握って
正義を実現することであり、共和政への脅威は逆に少数者が多数者を支配することであっ
た(これまでの人類の歴史の大部分は、専制政治にしても絶対王政にしても少数者が多数
者を支配した歴史であった)
。
これをどうやって防ぐか。共和政の実現に必要と考えたのは、第 1 に権力の乱用を防ぐ
189
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ために連邦政府に権力分立制を導入することであり、第 2 に各州政府で野心や私的利害を
追求する議員が派閥を作ることによって、多数派を占める状態を打開することであった(こ
れを世界の問題にあてはめると、一部の野心的な国家が同盟を結んで多数派を占めようと
する状態をどう打開するかということである)。
しかし、この第 2 の点は、共和国は小さい領土でしか存続できないという共和主義の見
方に深くかかわっていた。それをマディソンはスコットランド人の思想家デイヴィッド・
ヒューム(1711~1776 年)の論文に依拠しながら、広大な領土で共和国を実現するのは難
しいが、いったん実現できれば公共善はむしろ達成しやすくなるという結論に達した。
このマディソンの結論は、広大な領土では社会の利益が多元的になり、容易に多数派が
形成しにくくなることや、
「有徳かつ開明的な」人物が主導権を握る連合政府がさまざまな
利害に対して中立的な立場に立ち、公平な法律を制定しやすくなると想定していたのであ
る。これはその後の政治の歴史でも実証されており、マディソンの人類の叡知である(こ
れは 220 年ばかりたった現代の地球世界を考えるにあたっても有効であると考えられる)。
彼はヴァージニアにもどると、こうした事態を打開するためにヴァージニア州議会に働
きかけるとともに他の州にも働きかけ、1787 年 5 月にフィラデルフィアで「連合規約の改
正」を目的にして会議を召集することを提案した。この会議がアメリカ合衆国憲法をつく
ることになるとは、その仕掛け人の一人であるマディソン以外には思ってもいなかったで
あろう。
マディソンは思想・思索家だけではなかった。フィラデルフィア会議を成功させる周到
な準備もした。ワシントンの出馬が不可欠と考え、マウント・ヴァーノンに引きこもって
いたワシントンに丁重に働きかけて、了承を得たのである。ワシントンもまた連合会議が
機能不全に陥って混乱と暗黒に向かっていると感じていた。
ペンシルベニアからは大御所フランクリンが選ばれた(当時、81 歳だった)。こうして、
アメリカ全土で政治とはかかわりなく尊敬を集める 2 人の巨人がフィラデルフィア会議に
出席することになったのである。
ジョージ・ワシントン議長のもとで始まったフィラデルフィア会議が、
「連合規約の改正」
という目的を超えて、合衆国憲法案の起草へと向かう審議の基調を作り出したのは、1787
年 5 月 29 日の会議の冒頭で提案を行ったヴァージニアの代表エドマンド・ランドルフであ
った。ランドルフは、現下の情勢は北はニューハンプシャーから南はジョージアに至るま
で不満が充ちていて戦争の前夜であり、このままでは各州内部の民衆や民衆を扇動する勢
力によって、共和政は崩壊してしまうと危険性を訴えた。それは出席者すべてに共通する
思いであった。
それから 3 ヶ月、1787 年 9 月 17 日、憲法草案はフィラデルフィアの連合会議で完成され
たが、その様子は『自然の叡智
人類の叡智』で記した通りである。こうして世界最初の
民主主義国アメリカ合衆国憲法はなったのである(それから 158 年後の 1945 年、アメリカ
大統領ルーズベルトのもとに国際連合が設立され、戦争防止を旨とする国際連合は発足し
190
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たはずだったが、後述するようにルーズベルトの後継者たちは国際連合を(憲章第 51 条の
「集団的自衛権」を持ち込んで同盟主義を復活させたため)ないがしろにしたため、その後
の世界においても戦争が絶えない。マディソンから 220 年ばかり経った現在、アメリカは
人類初の具体的な集団安全保障組織である国際連合を実効あるものにする最大の責務を負
っている。現在の我々人類が当面している問題は 220 年前にマディソンがアメリカで当面
した問題と同じである)
。
【2】戦争法を中心とした国際法の歴史
以上、人類が「戦争と平和の哲学」の観点から、
「戦争をなくするために(平和のために)」
やってきた(考えてきた)ことを述べたが、国際法上の観点から、戦争をどう考えていたか
を述べる。
《古代》
古代ギリシャの都市国家間において今日の条約や慣習国際法に類する規範が存在し、ま
た都市国家間に発生する紛争について広く仲裁裁判が行われたことが知られている。
《中世の正戦論》
中世ヨーロッパの国王は、対内的には他の封建諸侯と権力を分かち合い、対外的には神
聖ローマ帝国に服する存在であり、宗教的にはカトリック万能の時代であった。
正戦論とは、ローマ哲学とカトリックに起源をもつ、軍事に関する倫理上の原則・理論
であり、西ヨーロッパにおいては「正しい戦争」
「正しくない戦争」を区別することで、戦
争の惨禍を制限することを目指して理論構築がなされた(聖戦とは別の概念である)
。つま
り、際限のない中世の戦争・暴力という状況から、戦ってもよい戦争と戦ってはいけない
戦争を区別し、戦争・暴力の、行使・発生を制限することを目指して生まれたものである。
中世の正戦論は、アウグスティヌスやトマス・アクナスが神学的な思想に基づいて展開
したスコラ的正戦論に始まる。キリスト教が述べている隣人愛などの教義と武力行使の正
当性についての整合性を持たせるための議論が行われた(教祖イエス・キリストは全面的
な隣人愛を説いており、戦争は当然禁じている)
。その際、神の命じた戦争の遂行を義務と
する旧約的聖戦観念と、ストア派とローマ法に由来する穏健で必要最小限度の暴力行使と
いう原則を結びつけたアウグスティヌスの説が大きな影響力をもった(中世の正戦論の系
譜にある思想家の名としては、アウグスティヌスの他、トマス・アクナス、グロティウス
などが挙げられる)
。
正戦論は、法的には、宗教的要素(キリスト教神学・教会法)と、世俗的要素(復活さ
れたローマ法・騎士の戦闘における慣習ルール)が絡み合って成立した。戦っても良い戦
争の条件は「戦争のための法(ラテン語の jus ad bellum。ユス・アド・ベルム)
」で、交
戦時の容認される戦い方は「戦争における法(jus in bello。ユス・イン・ベロ)
」で定め
られた。
「戦争のための法」には、戦争が正しい戦争となるための条件が 5 つ挙げられている。
191
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ⅰ)正しい理由(攻撃に対する防衛・攻撃者に対する処罰・攻撃者によって不正に奪われ
た財産の回復)の存在
ⅱ)正統な政治的権威による戦争の発動
ⅲ)正統な意図や目的の存在
ⅳ)最後の手段としての軍事力の行使
ⅴ)達成すべき目的や除去すべき悪との釣り合い
「戦争における法」には、戦争が正しく行われるための条件を 2 つ定めている。
ⅰ)戦闘員と非戦闘員の区別(差別原則)
ⅱ)戦争手段と目標との釣り合い(釣り合い原則=不必要な暴力の禁止)
しかし、この「戦争における法」の遵守は十字軍兵士には求められなかった。西欧の「正
戦論」はキリスト教世界内部における戦争の限界を定めたものであり、異教徒や異端者と
の戦争において遵守する義務が無く、特に「戦争における法」が無視され残虐な戦いが容
認された。
しかし、時を経て 15 世紀に入ると、北方十字軍として異教徒(時には非ローマカトリッ
クの正教徒を対象に含んだ)に対する侵攻・殺戮・略奪を行っていたドイツ騎士修道会を、
ポーランドのクラクフ大学学長パヴェウ・ヴウォトコヴィツがコンスタンツ公会議におい
て指弾し、教皇主義の立場から異教徒の権利を擁護した(コンスタンツ公会議、1416 年)
。
その後、16 世紀にはバルトロメ・デ・ラス・カサスが異教徒であるインディオへのスペイ
ンによる虐殺・圧政を非難した事例(バリャドリッド論争、1550 年~)も出て来た。
この正戦論と宗教戦争の聖戦とは別のものであった。正戦論はできるだけ戦争を限定す
ることにより、戦争の害悪を少なくしようとする理論であったが、一方、聖戦(宗教戦争)
には以下 4 つの特徴があり、非限定戦争になる蓋然性が高かった。
ⅰ)神による直接的、あるいは特別な人間や制度を通した間接的な命令で行われる。
ⅱ)宗教の、防衛・拡大・社会秩序の確立を目的とする。
ⅲ)宗教共同体と、それに属さない人々との間で行われる。
ⅳ)戦うことが義務となっている。
ⅰ)とⅱ)は正戦論における「戦争発動の正当な権利と正当な理由」に相当するが、ⅲ)
とⅳ)は聖戦独自のものであり、これにより人員・資源の動員が容易になりやすく、聖戦
は非限定戦争になりやすかった。また聖戦は善と悪の戦いとなり、支配者がこのような絶
対的価値にコミットしているために、相手との妥協が困難になり、交渉による戦争終結が
難しくなって無制限な殲滅戦となりやすかった。
このような中世の封建的秩序は 15~16 世紀のルネサンスの運動によってその基盤が切り
崩され、その後の宗教改革・宗教戦争はローマ教会の権威に決定的な打撃を与えた。国王
による国家の統一はこのような時代の背景の下にすすめられ、都市の商人や中産階級も中
世の封建的経済体制の桎梏(しっこく。自由を束縛すること)から脱却しようと欲して、
これに積極的に協力した。
192
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このような近代国家の成立を、理論面から根拠づけたのが 16 世紀後半のフランスのジャ
ン・ボダン(1530~96 年)が『国家論』
(1576 年)で述べた主権論であったことは、絶対
王政のところで述べた。彼は「国家の絶対的で永久の権力」である主権は国王にあるもの
とし(これを王権神授説という)
、それによって国王が他の封建諸侯やローマ教会の権威に
服さないことを説いた。ただし彼は、主権者といえども、神法、自然法、国家間の共通法
には従わなければならないとした。
《近世―国際法の誕生》
16 世紀の宗教改革以降、西欧でも非限定戦争になる蓋然性が高い宗教戦争=聖戦が勃発
していった。1618~48 年までヨーロッパ中の国々を巻き込んで戦われた三十年戦争は、
「ド
イツが人口のほぼ 3 分の 1 を失った」「人類の歴史上最も残酷で破壊的な戦争の一つ」とさ
れるほどになった。その講和条約、ウェストファリア条約は、ヨーロッパの国家体制を明
確に承認し、国家の独立と平等を基本観念とする近代国際社会の成立をもたらした。
この条約は最大で最後の宗教戦争といわれた(そして、最初の国際戦争といわれた)三
十年戦争の結末をつけたもので、その後のヨーロッパの国際体制を築いた条約であった。
新教の宗教上の地位を認めたこの条約は、ローマ教会の権威を失墜させるとともに、神聖
ローマ帝国からの各国の実際上の独立を承認した。
三十年戦争を経験した西欧では、その荒廃への反省から聖戦を否定し、主権国家から構
成される西欧国際政治の枠組みが形成されるに至った。三十年戦争後の戦争は主権国家ど
うし(絶対王政国家)の利害で戦争が戦われることが多くなった(しかし、これはヨーロ
ッパ世界でのことで、東洋やイスラムの世界では古代、中世の延長であったことは述べた)。
このころ、オランダのフーゴー・グロティウス( 1583 年~1645 年)は、自然法(人為
的に制定された法ではなく、人間の本性に基づく法)に基づく国際法の基礎をつくり、「国
際法の父」と称せられている。
グロティウスは、東インド会社による拿捕の妥当性を自然法に求め、1609 年、
『自由海論』
を著した。グロティウスはこの本により、海は国際的な領域であり、全ての国家は、海上
で展開される貿易のために自由に使うことができると主張した。この著作は、スペイン・
ポルトガルとオランダの戦争(オランダ独立戦争)という中で起きた具体的な国際紛争を
処理する過程で生まれたものである。
これに対し 1635 年、イギリスの法律家ジョン・セルデンは、
『封鎖海論』において、海
は原則として、陸地の領域と同じ適用を受けるものと主張した。海事法をめぐる論議が成
熟するにつれて、海洋国家は海事法の整備を推進することとなった。オランダ人の法学者
である Cornelius van Bynkershoek が自著『De dominio maris』
(1702 年)において、陸地
を護るために大砲が届く範囲内に海の支配権(領海)はその沿岸の国が保有すると主張し
た。この主張は各国で支持され、領海は 3 マイルとするとされた(その後、大砲の技術進
歩により、領海は 12 マイルとなっている。核ミサイル時代にはどう考えるか、人類は新し
い社会システムの構築が求められている)
。このように、徐々に海洋についての国際法的思
193
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
考が定着していった。
その後、グロティウスは、
『戦争と平和の法』(1625 年)を著して、戦争が法による規制
を受けるものであることを明らかにする「自然法論」を展開した。「わたしは、キリスト教
世界のいたるところで、蛮族にとってさえ恥ずべきこととされるような戦争に関する放縦
さをみてきた。人々が些細な理由からあるいはまったく理由もなしに武器へと殺到し、い
ったんこれを手に入れると、あたかも一片の布告によって公然と凶暴が解き放たれ、あら
ゆる悪行が許されるかのように、神法および人法に対する尊敬の念が消え失せてしまう」
ので、戦争の悲惨を抑制するという「人類の利益のため」に、これを論ずると述べている。
そこでは、単に戦争状態における法について論究されているだけでなく、その名の通り、
平和時における法や権利が、一国法の枠組みを超えた普遍的なものとして考察の対象とな
っている。国際(戦争)法でも、戦争の正当な原因が何であるかを論ずるものと、どのよ
うな手段であれば正しく戦争を遂行できるかを論ずるものとがあった。正戦論をうけて前
者をユス・アド・ベルム(jus ad bellum。戦争のための法)と呼び、後者をユス・イン・
ベロ(jus in bello。戦争における法)と呼んだ(ラテン語でそのまま用いられる)
。
グロティウスの『戦争と平和の法』では、第 2 編で防衛、権利の回復、刑罰など、戦争
の正当原因(ユス・アド・ベルム)を論じ、第 3 編で戦闘行為が不必要な破壊、略奪・暴
行に及ばないこと、捕虜には人道的処遇を与えるべきことなど、戦争遂行過程における合
法性(ユス・イン・ベロ)について記している。
この著作は、同時代において、またそれ以後の時代のヨーロッパにおいて、戦争と平和
に関する法や諸権利を考察する際の原点となり、グロティウスに「国際法の父」という位
置づけを与えることになった画期的なものだった。
17 世紀以降、国家間の紛争、戦争は頻発するようになったが、そこに、このように国際
法というルールをもちこんだグロティウスは高く評価された。ウェストファリア条約(1648
年)以降、国家間の紛争、通商および外交関係を規律する法として成立、発展していった。
《間口が広がった国際法》
グロティウスに続く学者の貢献としては、ズーチの『国際法論』(1650 年)、プーフェン
ドルフの『自然法と万民法論』
(1672 年)
、18 世紀に入ってバインケルスフークの『海洋領
有論』
(1702 年)
、ヴォルフの『自然法と万民法要論』(1750 年)
、ヴァッテルの『国際法』
(1758 年)などが、戦争法、外交使節制度、植民地の獲得、通商の方法、海洋の制度、条
約の締結、など多方面にわたって、国際法が論じられた。
間口が広がった国際法の中でも、わけても彼らの共通の関心事は戦争法であった。つま
り、正当な原因にもとづく戦争のみが法上許されるという考え方であった。たとえば、前
述のようにグロティウスは防衛、権利の回復、刑罰が戦争の正当原因であるとしたが、ま
た通商の自由の重要性を説いたゲンティリスによれば、航行の自由の否認は人類社会の利
益の侵害であるとして同様に戦争の正当原因とされた。この正戦論の考え方は、中世の神
学者が説いたスコラ的正戦論の観念を法の世界に引き継いだものであった。
194
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
伝統的な国際社会は、主権国家の並列状態のみが想定されており、したがって国際法の
主体となりうるものは国家のみであった。そのため従来的な国際法とは、国家間の合意も
しくは不文律のことのみを意味していた。会社などの法人や個人は国際法の主体となりえ
ず、せいぜい国家が国際法に関する権利を行使する過程で影響を受ける存在でしかなかっ
た。これはそもそもかつての国際法で紛争を抑制するために定められた国内管轄権に関す
る事項を規定しない内政不干渉の原則がウェストファリア体制で確立されたことに起因し
ている。
しかし、現代では、国際人権法、国際人道法に見られるように、個人も国際法上の権利、
義務の主体として位置づけられるようになった。また、国際環境法における「人類の共通
の関心事」あるいは「人類の共通利益」概念のように、「人類」概念も登場するに至った。
このように、今日では、従来の「国際社会」とは異なる、(個人を含む)諸国家の相互依存
性という結び付きを持った「国際共同体」という概念が、学説においてもまた実定法にお
いても、徐々に浸透してきている。
《自然法から法実証主義へ》
最初の国際法学者は、国際法の手がかりとして、しばしば自然法に規準を求めた。ヨー
ロッパでは自然法の観念はギリシャ時代にさかのぼる伝統的な法観念であった。グロティ
ウスは「自然法は正しき理性の命令であり」
、「神でさえこれを変更しえない不変のもので
ある」と述べている。さらに、この時期の学者が広く手がかりとしたのはローマ法であっ
た。またローマ帝政時代にローマ市民と異民族のあいだに適用された万民法は、各国の共
通法たる性格をもつ法として利用された。
しかし、彼らは自然法に立脚しつつも、国家慣行や先例、条約規定等の意義を無視した
わけではない。学者により差異はあるが、ゲンティリスやズーチは、国家実行や先例を重
視する方法をとり、法実証主義の先駆者ともいわれる。
18 世紀になると、実証的論証法は一段と顕著となった。ヴァッテル(1714~1767 年)は
自然法主義と実証主義を結びつけた。また、バインケルスフーク(1673~1743 年)
、また、
『最新ヨーロッパ国際法論』
(1777 年)の著者ドイツのモーゼル(1701~1785 年)、
『ヨー
ロッパ現代国際法論』のマルテンスなどは法実証主義の立場を徹底させた。たとえばモー
ゼルは戦争法における正戦論の考え方を明確に否定し、19 世紀の国際法において有力化す
る戦争の主権的自由(無差別戦争観)のとらえ方を明確に提示したのである。
《19 世紀の国際法》
近代国際法は、19 世紀に入って新たな発展段階を迎え、産業革命による機械工業の発展
と交通・通信手段の発達は、人や物の国際的交流を飛躍的に増大させるとともに、国際法
のめざましい発展を促す要因となった。その発展の特徴は、国際法の実定法化の進展、妥
当領域の拡大、規律内容の拡充であった。
産業革命による資本主義経済の発展に伴って国際関係はますます緊密化し、条約や国家
の慣行に基礎をおく実定国際法を確立していった。そして、資本主義世界市場が確立する
195
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
19 世紀半ばは、同時に伝統的国際法の一応の完成の時期であり、また、法実証主義の勝利
の時期でもあった。
戦争法の分野では、18 世紀中頃から正戦論を斥けつつ戦争の主権的自由を説く立場が有
力となった。すなわち、原因の正否を問わず戦争を容認し、交戦国を対等に扱う立場であ
った(
「正しい戦争」であると正戦論を主張しても、相手側も正戦論を主張するので正戦論
は機能不全を起こした)
。この考え方は、正戦論の機能不全と法実証主義の醒めた方法論の
所産であり、19 世紀にはこれが有力な立場となった(背景には産業革命によって強くなっ
た欧米列強は武力を背景に積極的にアジア・アフリカへ進出し植民地化する意図が働いて
いて、戦争を容認する姿勢があった)。これを反映するように、この時期には戦争の遂行の
仕方を規律する戦時国際法(交戦法規と中立法規)の発展をみた。戦争という異常な状態
を是認せざるをえなかった国際法は、これを「戦時国際法」の適用される特別の状態とし
て「平時国際法」から切り離し、それによって実定法としての平時関係の国際法の機能を
維持したのである。
その結果として、伝統的国際法は平時法と戦時法からなる二元的構造を有し、いったん
戦争がはじまると諸国間には平時法とはまったく内容が異なる戦時法が適用された。そし
て、戦時法は交戦国間に妥当する交戦法規と交戦国と中立国との関係を規律する中立法規
とに区分されたが、これらはともに戦争原因のいかんを問わず、また、どちらが先に攻撃
したかを問わず、交戦者を平等に扱うという無差別戦争観に依拠していた。
《世界最初の国際機関「赤十字社」の設立》
世界最初の国際機関「赤十字社」も戦争の中から生まれた(『自然の叡智 人類の叡智』
では 19 世紀のイタリア独立戦争(イタリア統一戦争)のところで述べた)
。
サルデーニャ王国は、1859 年 4 月 29 日にオーストリアに宣戦布告した。サルデーニャと
同盟していたナポレオン 3 世みずからが率いるフランス軍もただちに参戦した。これが第 2
次イタリア独立戦争だった(イタリア統一戦争ともいう)。
この戦争の中で、6 月 24 日のソルフェリーノの戦いはフランス・サルデーニャ連合軍、
兵力 11 万 8600 人、 大砲約 400 門 、オーストリア軍は兵力約 10 万人(デュナンによれば
17 万人)
、大砲約 500 門 で激突、まれにみる激しい戦闘となった。この戦闘で連合軍は約
1 万 7000 人を失い、オーストリア軍は約 2 万 2000 人を失った。
この 20 数万が激突して数万人の死傷者を出した凄惨な戦場を目撃した実業家アンリ・デ
ュナンは、その体験をもとに『ソルフェリーノの思い出』を著したが、その中で、デュナ
ンは戦争の犠牲者に対する支援を改善するために 2 つの提案を行った。それは、ⅰ)戦場
での負傷者と病人を敵・味方の区別なく救護するため、平時から救援団体を各国に組織す
ること、ⅱ)戦時下の救護員や負傷者を保護することに関して国際的な条約を結んでおく
など、各国の同意を得ることであった。
この 2 つの実現に向けて、1863 年に「五人委員会」がジュネーブに設立され、後に「赤
十字国際委員会(ICRC)」となった。やがて各国に赤十字社・赤新月社(イスラム国では赤
196
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
新月社という)が設立され、2013 年末現在、189 の赤十字社・赤新月社が世界で活動して
いる。2 つ目のデュナンの提案は、1864 年のジュネーブ条約(赤十字条約とも言われる)
の起草の基礎にもなった。
1864 年に赤十字国際委員会 (ICRC) が「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要
がある」として提唱し、スイスのジュネーブで「傷病者の状態改善に関する第 1 回赤十字
条約」
(1864 年 8 月 22 日のジュネーブ条約)が締結された。その後ジュネーブで締結され
た「傷病者の状態改善に関する第 2 回赤十字条約」
(1906 年)、
「傷病者の状態改善に関する
第 3 回赤十字条約」
(1929 年)
、
「俘虜の待遇に関する条約」
(1929 年)の諸条約も含めて「ジ
ュネーブ条約」と呼んでいる。
広義では、同じくで締結された戦争犠牲者保護のための 1949 年の戦争犠牲者保護諸条約
を含めて「ジュネーブ諸条約」ともいう。
赤十字国際委員会の主な活動目的は、武力紛争における犠牲者の保護・救援、そして国
際人道法の普及である。戦時に適用されるジュネーブ諸条約および同条約の加入国の政府
が参加する赤十字・赤新月国際会議によって公式に承認された独立の国際人道支援組織で
あり、NGO や国連機関とは異なる。
赤十字国際委員会は設立以来 150 年以上にわたり、ジュネーブ諸条約のもとで、捕虜、
傷病者、文民そして紛争の犠牲者の生命と尊厳を保護・支援しながら、国際人道法および
人道の原則の普及と促進に努めている。赤十字国際委員会は、第 1 次世界大戦と第 2 次世
界大戦で戦争捕虜や被災者救援のために大きな貢献をし、1917 年と 1944 年にノーベル平和
賞を受賞した。また創設 100 周年に当たる 1963 年にも、国際赤十字・赤新月社連盟ととも
に 3 度目のノーベル平和賞受賞を果たした。1990 年には国連総会決議によって総会オブザ
ーバーの地位も付与されている。ちなみに、ノーベル平和賞が始まった 1901 年、栄えある
第 1 回の受賞者となったのが、アンリ・デュナンである。
《万国平和会議での戦争の仕方の規制》
ロシアのニコライ 2 世の提唱で、1899 年と 1907 年にオランダのハーグで万国平和会議が
開かれた(ハーグ平和会議ともいう)。
ニコライ 2 世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891 年にフランスと結んだ協
力関係を 1894 年露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア・ハンガリー帝国のフ
ランツ・ヨーゼフ 1 世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世とも友好関係を保ち、万国平
和会議の開催をみずから提唱して 1899 年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功した。
この第 1 回の万国平和会議は、オランダのハーグで 26 ヵ国が参加して開催され、ハーグ
平和会議ともいう。ヨーロッパ以外からも日本や清などが参加している。会議ではハーグ
陸戦条約が採択された。これは戦闘外におかれた者の保護を目的としたもので、ダムダム
弾の使用禁止などを規定している。この条約が後にいわゆるハーグ法と呼ばれるものの一
つとなった。
それに 1864 年に締結されていた「赤十字条約」を海戦に適用するための 3 条約、他にも
197
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国際紛争が起きた際にその処理を武力に頼らず平和的に解決することを目的とした国際紛
争平和的処理条約が締結され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設
置などが規定された。
この平和会議は、紛争を調停、審査、仲裁裁判に委ねて、兵力に訴えることなく紛争を
解決せしめるための「国際紛争平和的処理条約」を採択した。「契約上の債務回収の為にす
る兵力使用の制限に関する条約」では、題名通り、債務回収が戦争の正当な原因には当ら
ないことが規定された(ナポレオン 3 世がメキシコに戦争をしかけ(1861~1867 年)、メキ
シコ帝国をつくったのは、メキシコが債務回収に応じられなかったことが名目だった)
。こ
こで法文化された戦争の法規慣習は、ほとんどがひとたび起こった戦争において、どのよ
うな手段を用いれば適法であるかを明らかにする戦争の仕方を規制するユス・イン・ベロ
であった。
第 2 回会議は 1907 年、アメリカ合衆国国務長官ジョン・ヘイが提唱して、44 ヶ国の参加
のもとに開催された。ハーグ陸戦協定が改定され、中立法規なども決められた。先回採択
の 3 条約を見直し、新たに 10 の条約を採択した。これによって、19 世紀までに形成されて
いた不必要な破壊や略奪・暴行を禁じ、捕虜には人道的処遇を求めるなど、個人の保護を
直接の目的とした戦争の慣行、つまり、ユス・イン・ベロはほとんど成分化された。
《ハーグ陸戦条約》
ハーグ陸戦条約は、第 1 回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル
条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のことで、1907 年第 2 回万国平和
会議で改定され今日に至っている。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規、陸戦条規とも言わ
れる。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用して
はならない戦術、降服・休戦などが規定されている。現在では各分野においてより細かな
別の条約にその役割を譲っているものも多いが、最も根源的な戦時国際法として、基本ル
ールに則って正々堂々と戦争を行うよう規定している。云わば「戦争のルール」で、この
条約締結のすぐ後に起きた日露戦争などのごく限られた戦争ではルールに沿って整然と行
われていた。
しかし、スペイン内戦から第 2 次世界大戦、ゲリラ戦術や途上国の戦闘などで凄惨な戦
争が生じ、その精神は破られてしまった。また朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン
戦争、イラク戦争他に見られるように、一向に遵守される様子はない。 イスラム教圏のゲ
リラや民兵組織ではハーグ陸戦条約よりもイスラム戦争法が優先される場合がある。そも
そもこれらの途上国・ゲリラのほとんどは、
「ルールに沿って整然と」戦っていたのではと
うてい先進国に勝ち目がなく、これらの国々のルールに沿わなくとも勝ちたいという発想
が、ハーグ条約が遵守されない背景にある(しかも、これら違反行為に対する制裁は民族
自決・独立に反するとしてまず行われない)
。
日本においては、1911 年 11 月 6 日批准、1912 年 1 月 13 日に陸戰ノ法規慣例ニ關スル條
198
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
約として公布された。他の国際条約同様、この条約が直接批准国の軍の行動を規制するの
ではなく、条約批准国が制定した法律に基づいて規制される。
第 2 回会議で第 3 回会議を 8 年以内に開くことが勧告され、1915 年に開催の予定だった
が第 1 次世界大戦勃発により実現しなかった。
《国際法の世界への拡大》
19 世紀半ば頃までは非ヨーロッパ世界、たとえばイスラム世界秩序や東アジア世界秩序
のように、独自の秩序原理を有する複数の「国際」秩序が存在し、ヨーロッパ国際秩序も
含めて、それらの内部においてだけでなくそれらの相互関係においても、相当活発な交流
が行われていた。
しかし、このような非ヨーロッパ世界秩序に属する諸国は、資本主義経済の円滑な展開
を保障する法制度を備えていなかったから、世界市場の確立をめざすヨーロッパ先進国は、
非ヨーロッパ世界秩序の打破に向かうことになった(背景には産業革命によって工業化し
たヨーロッパ列強からみたら、非ヨーロッパ世界が軍事的にきわめて弱いことがわかった
からであったことは述べた)
。
オスマン帝国、中国、日本などは、不平等条約によって、いわば半人前の主体として国
際社会に従属的に編入された。アフリカを中心とする広大な地域は、国際法の客体に過ぎ
ず、
「無主地」として先占による先進国の植民地支配の対象とされた。独自の秩序原理を有
するさまざまな世界秩序は、19 世紀の末までにこのような形でヨーロッパを起源とする国
際社会に編入されていったのである(第 1 次世界大戦前には世界の 84%が欧米列強の植民
地になったことは述べた)
。
さらに、当時の先進国は原料や市場を求める闘争において戦争を不可欠の要件としてい
た。したがって戦争に訴えることは主権の最も重要な属性と見なされ、伝統的国際法はこ
れを規制することはできずに、発生した戦争における国の行為を規制するという限られた
役割に甘んじなければならなかった。すなわち、戦争の原因の正否を問わず戦争を容認し、
交戦国を対等に扱う立場であった。これを反映するように、この時期には、前述したよう
に戦争の遂行の仕方を規律する戦時国際法(交戦法規と中立法規)の発展をみただけだっ
た。
このような状態で、人類は第 1 次世界を戦い、2000 万人という人類史上未曾有の犠牲者
を出す事態となったのである。第 1 次世界大戦後の戦争法を中心とした国際法をどう考え
るか、そこから国際連盟、不戦条約について以下に述べることにする。
【3】ヴェルサイユ条約とヴェルサイユ体制
◇戦争禁止への動き
中世のキリスト教神学の影響を受けて、正当原因に基づく場合に限って戦争は許容され
るという正戦論がみられたが、正当原因の存在についての判定者が存在しない国際社会の
現実において正戦論を実際に適用することは困難であった。
199
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
18 世紀から 19 世紀にかけて正戦論は影響力を失い、これにかわって、戦争に訴えること
は国家の権利ないしは自由であり、国際法上これを制約するものは存在しないとする考え
方が確立していった(植民地の獲得などヨーロッパ列強の利益(国益)がバックにあった
ことは述べた)
。
こうして、戦争に関する国際法の規制対象は、害敵手段の制限など戦闘に関する法規(ユ
ス・イン・ベロ)にかぎられ、戦争に訴える権利(ユス・アド・ベルム)については規制
が及ばないと考えられるようになった。もっとも、他方では、国際法上、戦時と平時との
区別がはかられ、戦争とは単なる武力行使ではなく、開戦宣言などの戦争の意思の表明に
より成立する状態ととらえられた。そうした意思表明をともなわない平時における武力行
使は、自衛や自力救済による場合を別として禁止されるというように、一定の制限が課さ
れた。
20 世紀にはいると、戦争に訴える権利や武力行使の規制が試みられるようになった(背
景には武器の殺傷力の高度化ということがあった)
。1907 年の第 2 回ハーグ平和会議で採択
された「契約上ノ債務回収ノ為ニスル兵力使用ノ制限ニ関スル条約」は、自国民に支払わ
れるべき契約上の債務の回収のため兵力に訴えることを制限した(第 1 条 1 項)
。この条約
は戦争にかぎらず兵力の使用一般を規制対象としたものの、債務国が仲裁裁判の申出を拒
絶したり仲裁判決の履行を拒絶した場合には、最終的に兵力を用いたり戦争を遂行するこ
とを禁止するにはいたらなかった。
しかし、その後、紛争の平和的解決手段の整備との関連の下に、一定期間戦争に訴える
ことを禁止する方式(いわゆる戦争モラトリアム)が現れた。1913 年から 1914 年にかけて
アメリカが他の国と締結した諸条約は、紛争処理のための調停委員会を常設し、その報告
が出るまでの間兵力の使用を禁止した。
この戦争の規制に対する動きは、第 1 次世界大戦後の国際連盟の設立によって、さらに
高まった。
《ウィルソン大統領の「14 ヶ条の平和原則」》
第 28 代アメリカ合衆国大統領トマス・ウッドロウ・ウィルソン(1856~1924 年)は、著
名な政治学者でもあり、悲惨な第 1 次世界大戦をみて、アメリカ参戦前の 1917 年 1 月、ど
ちらも決着をつけずに「勝利なき平和」を達成すべきだと主張し、仲介の労をとる態度を示
した。同時に彼は、戦後の平和機構としての国際連盟のアイデアを持っていて、アメリカ
が永続的な平和の基礎をつくることに参加する用意があると声明した(勢力均衡論ではな
く、カント的永遠平和論に立つものだった。カントは「勢力均衡論」では一時的な平和が
おとずれても、持続する平和は得られないと述べていた)。
「アメリカの参戦」で述べたような事情(ドイツの無制限潜水艦作戦)でアメリカは連合
国側に立って参戦することになったが、1917 年 4 月、参戦するにあたってウィルソン大統
領は、アメリカは世界の平和と自由、民主主義のために戦うのであり、征服や領土獲得、
あるいは物質的利益をめざすのではないと宣言した。そして「勝利なき平和」にもとづく「無
200
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
賠償」
・
「無併合」
・
「民族自決」などの講和の原則を主張した。
1918 年 1 月、ウィルソン大統領は、次の 14 ヵ条によってアメリカの戦争目的が宣戦布告
のときと変わっていないことを宣言し、さらに具体的な目標を掲げた。それが上下両院の
合同会議で発表された「14 ヶ条の平和原則」であった。それは以下のとおりである。
ⅰ)秘密外交の廃止
ⅱ)公海における航行の自由
ⅲ)関税障壁の撤廃と平等な通商関係
ⅳ)軍備の縮小(各国が安全確保に必要な最低限まで軍備を縮小すること)
ⅴ)植民地問題の公正な解決(民族自決の原則)
ⅵ)ロシアの完全独立とロシア領からの撤兵
ⅶ)ベルギーの主権回復
ⅷ)アルザス・ロレーヌのフランスへの返還
ⅸ)イタリア北部国境の修正
ⅹ)オーストリア・ハンガリーの民族自治
ⅹⅰ)バルカン諸国の独立保障
ⅹⅱ)オスマン帝国支配下の民族の自治、ダーダネルス海峡の航行自由化
ⅹⅲ)ポーランドの独立と海洋への出口保障
ⅹⅳ)国際平和機構(国際連盟)の設立(各国の政治的独立と領土保全のため)
この「14 ヶ条」の最後に出されたのが、国際連盟の設立構想であり、アメリカが世界平和
の主役を担っていこうとする意思を示したものだった。
《ウィルソンの理想を踏みにじったヴェルサイユ条約(ヴェルサイユ体制)
》
1919 年 1 月からパリで講和会議が始まった。参加したのは戦勝国側の 27 ヶ国だけで、敗
戦国は招かれなかった。また、アメリカ(ウィルソン)、イギリス(ロイド・ジョージ)
、
フランス(クレマンソー)
、イタリア(オルランド)
、日本(元首相西園寺公望)の 5 ヶ国
が重要事項を決定する最高会議のメンバーであり、他の国は関係する問題の会議に参加す
るのみだった。だが、アメリカ、イギリス、フランスの 3 大国が実質的に会議を行ったの
であり、日本とイタリアは,直接に利害の関わる事項以外はほとんど発言しなかったり、
途中で会議を離脱したりした。ドイツなどの同盟国側やソヴィエト政府は参加できなかっ
た。
会議は「14 ヶ条」を基礎にして始められたが、フランスのクレマンソー首相はそれに激し
く反発し、ウィルソン大統領やイギリス首相のロイド・ジョージと対立した。クレマンソ
ーは,フランスの安全確保を最大の目標とし、宿敵ドイツを徹底的に弱体化しようと画策
した。イギリス、フランス、イタリア、日本などの列強間には、
(勝った暁には、○○をや
る、認めるというように)戦後の領土や勢力範囲の再配分についての秘密協定が結ばれて
おり、講和会議はこれら列強の取引の舞台となり、ウィルソンの理想はまったく踏みにじ
られることになった。
201
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《ドイツに対する懲罰的・報復的な条約》
図 58(図 15-27)のようにアルザス・ロレーヌ地方のフランスへの返還だけではなく(ア
ルザス・ロレーヌは普仏戦争でドイツが獲得していた)
、隣接するザール地方を 15 年間に
わたり国際連盟の管理下に置き(この間のザール炭田の採掘権はフランスに)、その後住民
投票で帰属を決定することにした。また、ケルンやボンなどの都市を含むライン川左岸も、
同じ期間、イギリス、フランスが占領することになった。ラインの右岸(ラインラント)
の 50 キロの範囲まで,非武装地帯(軍事施設の禁止)にすることになった。
図 58(図 15-27) 第 1 次世界大戦後のドイツ
そのほか、ポーランド廻廊を新興国ポーランドに割譲した。つまり、ポーゼン州・西プ
ロイセン州をポーランドに割譲、これによって、ドイツ本土と東プロイセンは切り離され
た。ポーランド廻廊の海港都市ダンツィヒ(ポーランド・グダンスク)を国際連盟管理下
の自由市としてポーランドに港湾使用権が認められた。
さらにドイツはすべての海外領・植民地を放棄すること、ドイツとオーストリアとの合
併(アンシュルス)の禁止、シュレースヴィヒ北部で住民投票を行い帰属の決定などが決
まった。
また、ドイツの戦闘能力を大幅に制限することにした。徴兵制を禁止し、陸軍の兵力を
202
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
10 万人(将校 4000 人以下)にしただけでなく、性能の高い兵器を保有することも禁止した。
つまり、航空機・戦車ならびに戦闘車両・重火器・潜水艦・航空母艦・化学兵器の保有が
禁止され、9 ミリ口径の拳銃やベルト給弾式の機関銃も禁止された。
海軍については、戦艦 6 隻、軽巡洋艦 6 隻、駆逐艦 12 隻、水雷艇 12 隻とし、かつ戦艦
の備砲は 11 インチ以下、排水量 1 万トン以下、軽巡洋艦の排水量は 6000 トン以下、駆逐
艦の排水量は 800 トン以下、水雷艇の排水量は 200 トン以下とされた。
そのほかに、ヴィルヘルム 2 世を被告人とする国際戦犯裁判を実施することになり、日
本を含めた各戦勝国から裁判官が派遣される予定だったが、ヴィルヘルム 2 世がオランダ
に亡命したためこれは実現しなかった。
こうして、5 ヶ月間かかって、まとまった対ドイツ講和条約は、全体で 440 条におよぶ膨
大なものとなった。第 1 編は国際連盟の創設を決めたものだが、第 2 編以下はドイツをき
びしく制約するものだった。ドイツは領土の一部(約 10%)を周辺諸国へ割譲し、海外領
土を放棄し、巨額の賠償金を支払うことを求められた。しかも、5 日以内に受諾しなければ,
戦争を再開するという強圧的なものだった。
こうして、ヴェルサイユ条約はウィルソンの「14 ヶ条」とは大きく異なるものになった。
とくに賠償金については、フランスの強硬な主張とイギリスのやや消極的な主張、アメリ
カの反対が折り合わず、この段階では、暫定的に戦前の金平価で 200 億マルクとなった。2
年後のロンドン会議で、それは 7 倍近い 1320 億金マルクになった(これは、当時のドイツ
の GNP20 年分となり、返済不可能なものであることは明白であった)
。これはドイツに対す
る懲罰的・報復的な性格が強く、ドイツにとって苛酷なものだった。
戦後のドイツは返済に苦しみ、後にドーズ案、ヤング案、そしてローザンヌ会議により
ドイツの賠償額は 30 億金マルクにまで軽減されたが、ドイツにとって大きな負担であるこ
とには変わりはなかった。
《ポーランド、フィンランド、バルト 3 国の独立》
さらに講和会議は、ブレスト・リトフスク条約(1917 年のロシア革命後、ドイツとロシ
アで結ばれた講和条約)を破棄し、旧帝政ロシア領について、すでに宣言されていたポー
ランドやフィンランド、バルト 3 国(エストニア、ラトヴィア、リトアニア)の独立を決
定した(図 59(図 15-26)参照)
。しかし、この会議には,ソヴィエト代表は参加してい
なかった。
《ハンガリー、チャコスロバキア、ユーゴスラヴィアの独立》
連合国側は、ヴェルサイユ条約のほか、ドイツ以外の同盟国と個別に講和条約を結んだ。
対オーストリアについては、サン・ジェルマン条約であったが、連合国側は,オーストリ
ア・ハンガリー帝国に対しても、ヨーロッパの状況を一変させる決定を行った。すでに大
戦末期にハンガリーが分離し、敗戦直後に皇帝が退位し、共和制になっていたが、それを
正式に承認した。こうして,オーストリアは小国になり、ハンガリー、チャコスロバキア、
ユーゴスラヴィアの独立が国際的に認められた(図 59(図 15-26)参照)
。この条約は、
203
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヴェルサイユ条約の 3 ヶ月後にパリ郊外の町サン・ジェルマンで結ばれた。
図 59(図 15-26) ヴェルサイユ体制下のヨーロッパ(1918~37 年)
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
《イタリアの不満》
この関係で,イタリアはバルカン半島の付け根にあるトリエステを獲得した。しかし、
強く要求していたフィウメは認められず、同市は独立の自由市となった(図 59(図 15-26)
参照)
。イタリア代表はそれに強く反発し、一時、会議を離脱した。後にムッソリーニが政
権をにぎってまもない 1924 年、同市はイタリアに併合された。
《英仏の委任統治領という名の植民地》
さらに戦勝国側は、オスマン(トルコ)帝国にも、大幅に領土を縮小させるセーヴル条
約を翌 20 年 8 月に認めさせた(セーヴルはパリ郊外の地名)
。3 年後、それは新しいトルコ
政府とのローザンヌ条約に変わった。また、オスマン帝国は,バルカン半島側の領土の一
部をギリシャに譲り、シリア、パレスチナ、メソポタミア地方を手放した。これらの地域
は,フランスとイギリスの委任統治領となった(図 59(図 15-26)参照)
。
そのほか、対ブルガリアのヌイイ条約、対ハンガリーのトリアノン条約が結ばれた。
このような講和条約の結果、ドイツ、オーストリア・ハンガリー、ロシアの旧帝国の領
土から、民族自決の名のもとに多くの新国家が生まれた。
すなわち、ⅰ)フィンランド共和国(旧ロシア)
、ⅱ)エストニア共和国、ラトヴィア共
和国、リトアニア共和国(バルト 3 国、旧ロシア領)、ⅲ)ポーランド共和国(旧ロシア・
204
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
オーストリア・ドイツ領。ポーランド分割がもとに復した)、ⅳ)ユーゴスラビア共和国(セ
ルビア・モンテネグロ・旧オーストリア領)
、ⅴ)チェコスロバキア共和国(旧オーストリ
ア領)
、ⅵ)ハンガリー共和国(旧オーストリア・ハンガリー帝国から分離)の国々であっ
た(図 59(図 15-26)参照)
。
しかし 1 民族 1 国家を理念とする民族自決は、さらに多くの民族が入り交じっていた東
ヨーロッパでは安定した国家建設に結びつかなかった。
《植民地拡大をはかった日本》
ドイツはすべての海外領・植民地を放棄させられたが、これにからんで日本が、太平洋
のドイツ領だった南洋諸島の委任統治権を得た。さらに日本は,ドイツが中国の山東半島
にもっていた権益を獲得した。中国の袁世凱政権自身も、連合国の勝利が濃厚となった段
階で同盟国側に対して宣戦布告をしており、この会議にあたっては中国代表として顧維鈞
を派遣し、戦勝国としての待遇を求め、日本からの山東半島権益の返還を求めていた。結
果としてはヴェルサイユ条約において日本は山東半島の旧ドイツ権益の継承は認められた
ものの、中華民国はこれを不満としてヴェルサイユ条約に調印しなかった(中華民国では
五・四運動が起こり、反対運動が盛り上がった)
。
《ヴェルサイユ条約の問題点》
そもそもヴェルサイユ条約は、その制定に際してアジア・アフリカの解放という大義名
分が掲げられていたが、実際には、戦勝国の賠償規定だった。それまでの戦争において敗
北した国家は賠償を行っていたことと、第 1 次世界大戦が過去に類を見ないほど悲惨な損
害を生み出した戦争だったため、戦勝国(とくにフランス)は敗北した国家に対してその
償いをさせようとしたことが、この条約の過酷さを生んだ。この戦勝国の敗戦国への報復
的とも言える賠償条件を含んだ形で、この条約は成立した。いわゆる「ヴェルサイユ体制」
については条約締結の際にイギリス代表として参加した(過酷な賠償に抗議して途中帰国
した)経済学者ケインズは『平和の経済的帰結』の中で、これでは再び戦争が起こること
を予言したほどであった(実際、そうなってしまった)
。
その結果、この講和条約はその後のドイツ民族の住む地域のドイツ周辺国への割譲とい
うことを含め、ドイツ国民の民族意識を大きく傷をつけることとなり、このことがドイツ
民族というものをひとつにするというアドルフ・ヒトラーを中心とする国家社会主義ドイ
ツ労働者党(ナチス)に政権を握らせる一因となった。そして 16 年後の 1935 年、ヒトラ
ー政権のナチス・ドイツは一方的にヴェルサイユ条約を破棄することになる。
戦後、ドイツの軍事力は大幅に制限され、戦後、ドイツ大統領となったフリードリヒ・
エーベルトは軍事力を完全になくすことは出来ないと考え、ドイツ義勇軍やトゥーレ協会
を隠れ蓑として軍の連続性保持に努めた。また、あの手この手で基礎技術のノウハウを高
めていき、また、ソ連領内で密かに戦車訓練を行うなどして、結局、ヒトラーが再軍備を
宣言した際、迅速に強化することが出来たのである。
多くの識者が、このような結果になることを予想して警鐘を鳴らしたにもかかわらず、
205
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
英・仏などの戦勝国は(従来の戦争と同じように)その被害を敗戦国に一方的に負わせよ
うとした。このことが戦後の排外的ナショナリズムの高揚などの影響をもたらし、ひいて
は大恐慌とその後の世界経済の混乱へとつながり、再び 20 年後に世界大戦を引き起こす要
因となったといわれている。
そして、これは第 2 次世界大戦後で述べることであるが、ヴェルサイユ条約の過酷な条
件がナチスの台頭の原因、そして 1939 年から始まる第 2 次世界大戦の遠因となってしまっ
たため、第 2 次世界大戦の敗戦後のドイツには、連合国は東西両ドイツにも過酷な請求は
せず、逆に復興に力を貸すことになる。もっとも、これには第 2 次世界大戦後は第 1 次世
界大戦後とは異なり、戦勝国の間ですぐに冷戦が始まったため、両陣営がその最前線とな
った東西ドイツの復興に力を注いだ、という情勢も関係している。
同じく第 2 次世界大戦後、敗戦国になり、ヴェルサイユ条約時には戦勝国だった日本国
に対しては、第 2 次大戦後、戦場となったアジア各国の中には個別に賠償金の支払いを要
求した国もあったが、アメリカ、イギリス、オランダ、中華民国、フランス、オーストラ
リアといった主要交戦国は賠償を放棄したのは、過酷なヴェルサイユ条約の経験が生かさ
れたともいえよう(アジアでも米ソ冷戦が始まっていたこともある)
。
民族自決の原則はヨーロッパ以外では、ほとんど適用されず、植民地の独立要求は無視
された。また、第 1 次世界世界大戦中に日本が出していた「対華 21 ヵ条の要求」を不当とす
る中国の主張も無視された。ヨーロッパの新国家の国境は、ドイツの弱体化とソ連を封じ
込めるという意図から不合理な点が多く(ポーランド回廊など)
、民族問題の解決になるど
ころか新たな民族問題の原因となった。
《ヴェルサイユ体制》
第 1 次世界大戦は、ヨーロッパの君主制の消滅をもたらし、旧世界秩序を決定的に破壊
した(近世のヨーロッパの主流だった絶対王政は消滅した)
。ドイツ帝国、オーストリア・
ハンガリー帝国、オスマン帝国、そしてロシア帝国の 4 つの帝国が分解した。ホーエンツ
ォレルン家、ハプスブルク家、オスマン家、そしてロマノフ家の 4 つの王家は中世以来の
権力を持っていたが、この戦中あるいは戦後に没落した。
そして、この戦争は、ボリシェヴィキがロシア革命を起こし、20 世紀に社会主義が世界
に拡大する契機となった。
1919 年にパリ講和会議によってヴェルサイユ条約が締結され、戦後の世界の体制、ヴェ
ルサイユ体制が定められた。ドイツでは皇帝家であるホーエンツォレルン家を始めすべて
の王侯貴族が追放された。またドイツは、ヴェルサイユ条約により巨額の賠償金を科せら
れたために激しいインフレーションが引き起こされた。さらに条約によりドイツ人が居住
する領土を割譲させられたことで、ルール問題、ズデーテン問題、ポーランド回廊問題な
どが発生し、これらの問題は第 2 次世界大戦の直接の原因となった。
オーストリアでも 600 年以上にわたって君臨してきたハプスブルク家が追放された。多
民族国家だったオーストリアは、サン・ジェルマン条約により、民族自決の大義のもと旧
206
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
帝国内の地域がこぞって独立し、従来の 4 分の 1 にまで領土を減らされ小国に転落した。
中央ヨーロッパには新しい国家チェコスロバキア共和国とユーゴスラビア王国が生まれ、
ポーランド共和国が復活した(図 59(図 15-26)参照)
。
オスマントルコはセーヴル条約により多くの領土を減らされた。この時イギリスがアラ
ブ人とユダヤ人の双方にパレスチナでの国家建設を約束したことが後のパレスチナ(イス
ラエル)問題を発生させることになった。オスマン帝国は講和締結をめぐる論争の中で崩
壊し、近代民主主義国家トルコが誕生した。ギリシャとトルコの希土戦争は 1924 年に終わ
ったが、これが第 1 次世界大戦に直接起因する最後の戦争であった。
旧オスマン帝国の崩壊は現代につながる国際紛争の原因を生み出した。アラブ諸国とイ
スラエルの衝突、キプロスを巡るギリシャとトルコの対立、1980 年代のイラン・イラク戦
争、1990 年代の湾岸戦争とユーゴスラビア紛争、そして 21 世紀のイラク戦争である。いず
れも現在まで続く国際問題であり、後述する。
第 2 次世界大戦では中立を宣言したイランのガージャール朝も、オスマン帝国、ロシア・
イギリス両陣営の戦略の中に巻き込まれ、開戦前までにすでに弱体化していたとはいえ、
ますます混迷を深め、終戦後、間もなく、有力将校のレザー・パフラヴィーがクーデター
を起こし、数年後には皇帝の座もとった(パフレヴィー朝)
。
【4】国際連盟の設立
《原提案国アメリカが参加しなかった国際連盟》
パリ講和会議によってヴェルサイユ条約が締結され、戦後の世界の体制、ヴェルサイユ
体制が定められた。
ウィルソン大統領は、「14 ヶ条の平和原則」がほとんど実現しなかったものの、国際連盟
が認められたことで、ヴェルサイユ条約には調印した。1919 年 7 月に帰国したウィルソン
は、全国の 7 割に当る 33 州の知事が支持を表明するなど、大歓迎で迎えられた。
ところが、条約批准の権限をもっている上院議員の見解はそうではなかった。もっとも
大きな問題は、国際連盟規約第 10 条に関してだった(第十條 聯盟國ハ聯盟各國ノ領土保
全及現在ノ政治的獨立ヲ尊重シ且外部ノ侵略ニ對シテ之ヲ擁護スルコトヲ約ス右侵略ノ場
合又ハ其ノ脅威若ハ危險アル場合ニ於テハ聯盟理事會ハ本條ノ義務ヲ履行スヘキ手段ヲ具
申スヘシ)
。それは、侵略者に対し、加盟国が経済的および若干の軍事的制裁を行うべきか
協議するという項目で,ウィルソン大統領によれば、国際連盟の核心となるものだった。
ところが、反対や留保を主張する議員は,この条項によって、アメリカが国際的な義務を
負うことになる、主権を制限されることになると主張したのである。
ウィルソン大統領は最大限の努力で説得を試みたが、脳梗塞で倒れ、結局、1920 年 3 月、
条約は 49 対 35 で、必要な 3 分の 2 に達せず、とうとう批准されなかった。ウィルソン大
統領の「14 ヶ条の平和原則」は、イギリスやフランスなどにほとんど無視され、ヴェルサイ
ユ条約は彼にとって最悪の結果であったが、しかし彼は、人類がはじめて試みる世界平和
207
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の機関・国際連盟に望みをつないでいた。そのヴェルサイユ条約が批准されず、原提案国
のアメリカが国際連盟に加盟しないという奇妙なことになってしまった。
ウィルソン大統領は 1924 年に亡くなった。彼はアメリカ大統領として政治学者として,
多くの理想的政策を提案してきたが、彼の理想主義は、現実の前にことごとく敗れたとも
いわれている。こうなると、1919 年の彼のノーベル平和賞授賞だけが彼の世界平和の実現
の方向は間違っていないと評価してくれていたかもしれない(そのとおりで彼の世界平和
の思いは第 2 次世界大戦後の国際連合設立に生かされることになる)
。
◇国際連盟の仕組み
このたびのウィルソンの遺産となった国際連盟は、ヴェルサイユ条約の第 1 編:国際連
盟規約で規定された史上最初の本格的な国際平和機構であった。
国際連盟の機構は、総会、理事会 、事務局 、常設国際司法裁判所、国際労働機関の他
に常設委任統治委員会、常設軍事諮問委員会、軍備縮小委員会、法律家専門家委員会など
で構成されていた。発足当初の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリアの 4
ヶ国であった。
《国際連盟の集団安全保障制度―武力不行使の原則の採用》
国際連盟規約《前文》
締約国ハ 戰爭ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾シ 各國間ニ於ケル公明正大ナル關係ヲ規律シ
各國政府間ノ行爲ヲ律スル現實ノ規準トシテ國際法ノ原則ヲ確立シ 組織アル人民ノ相互
ノ交渉ニ於テ正義ヲ保持シ且嚴ニ一切ノ條約上ノ義務ヲ尊重シ 以テ國際協力ヲ促進シ且
各國間ノ平和安寧ヲ完成セムカ爲 茲ニ國際聯盟規約ヲ協定ス
連盟規約では、締約国は「戰爭ニ訴ヘサルノ義務ヲ受諾」するとされ(前文)、さらに連
盟国間で「国交断絶ニ至ルノ虞(おそれ)アル紛争」が発生したときは、仲裁裁判、司法
的解決、または、連盟理事会の審査に付することを定めた。
そのうえで、第 1 に、いずれの解決手段にも付さずに戦争に訴えること、第 2 に、仲裁
裁判・司法裁判における判決や連盟理事会の報告書が出されたのち 3 ヶ月以内に戦争に訴
えること(12 条 1 項)
、第 3 に、判決に服する国、および、紛争当事国を除いた連盟理事会
の全会一致の報告書(もしくは当事国を除いて、理事国すべてとその他の連盟国の過半数
によりえられた連盟総会の報告書)における勧告に従う国に対して戦争に訴えること(13
条 4 項、15 条 6 項・10 項)を禁止した。
したがって、規約は、戦争に訴えることが認められる正当原因については規律しなかっ
たものの、いわば手続き的な制約として戦争モラトリアムを採用するとともに、一定の場
合に戦争に訴えることを違法なものとしたということができる。しかし、連盟規約は戦争
を全面的に禁止するものでなく、また、武力行使一般を禁止するにはいたらなかった。
また、第 2 に、戦争に至らない武力行使、たとえば武力復仇について、連盟規約がこれ
を禁止したかどうかに疑問を残した(武力復仇とは、国際法上,自国に対する外国の違法
行為に対して、その中止や救済を求めて報復的になされる行為。本来であれば違法な行為
208
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
だが、相手側の違法行為と同程度である場合には違法性が阻却される)。
このように、国際連盟は、新しく集団安全保障の制度を採用し、これは戦争を是認した、
これまでの安全保障の方式である勢力均衡(balance of power)の方式に代えて戦争を違
法化し、これに違反して戦争に訴えた国に対しては、他の諸国が集団でこれを防止し制裁
する制度であったが、連盟における戦争の法的規則は不完全で抜け道を残していた(これ
を改善したのが後述する国際連合憲章である)。
国際連盟の最高決定機関は「総会」であり、また決定方法は多数決ではなく「全会一致」
を原則としていた。このため、国際紛争に対して、断固たる措置がとれなかったこと、ま
た、経済制裁を行うまでの権限を有するにとどまったことから、紛争解決に効果を発揮で
きなかった。
《国際連盟のその他の問題点》
また、その他にも最初から国際連盟には問題があった。原加盟国は 42 ヶ国であったが、
この国際連盟は真の世界機関というより、世界の一部を代表しているにすぎなかったとも
いえる。連盟発足時にはラテンアメリカ諸国 20 ヶ国とアジアから 6 ヶ国、アフリカから 2
ヶ国が加盟していたが(つまり、アジア・アフリカの大部分は、まだ、欧米列強の植民地
のままだった)、メンバーの半数近くはヨーロッパ国家であり、「ヨーロッパ諸国家のクラ
ブ」という性格が濃く、また政治家もヨーロッパ中心主義的発想を脱していなかった。
その後、加盟国は徐々に増え 1934 年のソヴィエト連邦の加盟で 60 ヶ国に達したが、こ
れ以降は脱退・除名等で加盟国が減少に転じていった。世界のおよそ半分はまだ独立を果た
せない植民地で、代表を送れなかった。それどころか第 1 次世界大戦で勝利した連合国側
に属した欧米列強は、従来通りの帝国主義的発想のままであり、植民地を多数所有してい
た。少なくとも日本とイタリアという 2 つの(遅れてきた)先進国は、まだ(むしろ、こ
れから)帝国主義的領土拡張をもくろんでいた。
前述のように提唱者がアメリカ大統領であるアメリカ合衆国自身は、モンロー主義を唱
える上院の反対(=共和党が多数)により国際連盟には参加しなかった。また、ロシア革
命直後のソヴィエト社会主義共和国連邦(1934 年加盟)や敗戦国のドイツ(1926 年加盟)
は、当初は参加を認められなかった。このように大国の不参加によってその基盤が当初か
ら十分なものではなかった。
こうして世界中の全加盟国(植民地はのぞく)による総会が設置されたが、ジュネーブ
でのその会合は、たまにしか開かれず、実質的な権限は理事会が握っていた。理事である 9
ヶ国には常任理事国 5 ヶ国(イギリス、フランス、日本、イタリア、のちにドイツ)と残
る 4 つの席には、各地域から選ばれた国が持ち回りでつくことになった。しかし、連盟の
取り決めは一層の平等を求める中小の国々と、特権を保持しようとする少数の大国との妥
協の産物であり、もちろん優勢な立場にあったのは少数の大国であった。
《当初は成功していた国際連盟の調停活動》
国際連盟のもっとも重要なことは、政治レベルの国際紛争、とりわけ地域レベルの問題
209
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
に関してであり、前述のような欠陥はあったが、初期においては、国際連盟はいろいろ成
果をあげた。
1920 年代前半には、連盟の力量と、同時にその限界を示す事件があいついで起った。1920
年早々フィンランド・スウェーデン間のオーランド諸島の帰属をめぐる紛争で、連盟は両
国の紛争を仲裁し解決した(国際連盟の次長:新渡戸稲造のいわゆる「新渡戸裁定」によ
り、フィンランドの自治領となっている)。
高等弁務官を派遣してダンチヒ自由市の管理にもあたった。また帰属をめぐってもめて
いたオイペンとマルメディで住民投票を実施し、両地区をドイツからベルギーに返還させ
た。
ビルナとメーメルをめぐるポーランド・リトアニア間の紛争解決においても(1920 年 10
月ポーランドがリトアニアのビリニュスを占領し、連盟を無視して併合した事件)
、また、
1922 年にはドイツ人とポーランド人が隣り合って暮らしていた上部シレジアの帰属という、
いっそう困難な境界問題にも決着をつけた。
1924 年にはイギリスとトルコ双方の主張を退け、元オスマン帝国領のモスルをイラク領
とする決定を下し、イギリスもそれを受け入れた。不満は少なからずあったが、こうした
扱いにくい紛争に連盟が関与したことで「敗者側も不本意な決定を受け入れやすくなった」
ということがあり、紛争解決に連盟は成果をあげた。
民族自決権の承認と保護に関する原則(ヴェルサイユ会議での主に英米の主張)は、1919
年にポーランドの新政権に初めて適用されたあと、中欧や南・東欧の多数の新国家にも拡
大された。新しい国家にだけ少数民族の公正な処遇を義務づけるこの二重基準に対しては
不満もあったが、組織的大虐殺をはじめとする不公正が、アルバニア、ラトビア、ポーラ
ンド、ユーゴスラビアといった新たに誕生したばかりの国や不安定な国で起こる可能性が
あり、少数派を「集団」として承認した 13 ヶ国は連盟の誓約を遂行し、何らかの国際的監
視の目にさらられることになった。
また、ヴェルサイユ条約にもとづき、列強が第 1 次世界大戦中、ドイツとトルコから奪
い取った「委任統治」領の査察に応じること、あるいは少なくとも報告書を提出すること
になっていたが、これについても連盟の監視のもとに置かれた。イギリスはもっとも素直
に応じたが、フランスはシリアとレバノンでの自国の行状を監督されることを嫌がった。そ
して日本は、ドイツから 1914 年に奪取した南洋諸島の統治に関する報告書提出の要請をい
っさい拒否した。しかし委任統治報告書の提出にばらつきがあろうとも、国民国家より上
部の機関である国際連盟に説明義務を負うという点で、先例がつくられつつあった。
その他にも、1922 年にオーストリアの、翌年にはハンガリーの国庫破産をくい止める国
際借款を斡旋した活動が上げられる。
1925 年、ギリシャが国境紛争を理由にブルガリアに侵入した事件があった。国際連盟理
事会はギリシャに厳しい警告を送ったため、ギリシャは撤兵して償金を支払った。
他方で、1923 年夏イタリアのムッソリーニが、ギリシャ・アルバニア国境紛争を口実に、
210
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
連盟にはかることなくギリシャ領のコルフ島を砲撃して占領した事件があった。ギリシャ
が国際連盟に訴えたにもかかわらず、イタリアは国際連盟調停を拒否して,関係国大使会
議で問題を解決した。このように国際連盟の調停は,大国の意向や当事者の同意に依存す
ることが大きかったのである。このように国際連盟の調停は大国がからむ問題については、
限界があったといえる。
◇不戦条約による戦争の違法化
第 1 次世界大戦後、その戦争の災厄の巨大さを目の当たりにしたことで、国際社会では
厭戦感が広がり、戦後の国際関係においては平和協調がはかられた。前述した人類史上初
の国際平和機構である国際連盟も、当初は国際問題の解決に期待通りの成果が出ていた。
また、1920 年代には、国際連盟の「枠外」で、結ばれたいくつもの国際条約があった。
1921 年から 22 年に行われた主要列強間のワシントン海軍軍縮条約(のちにロンドン軍縮条
約)といった軍縮条約が締結された。1925 年にはロカルノ条約(イギリス・フランス・ド
イツ・イタリア・ベルギーの 5 ヶ国における地域的集団安全保障条約)が締結された。
ロカルノ条約を成功させたフランスのブリアン、ドイツのシュトレーゼマン両外相が
1926 年のノーベル平和賞を共同受賞したこともあって、多くの国民が国際連盟中心の平和
がきたと楽観した。ジュネーブの国際連盟総会にはヨーロッパ各国首脳や外相がほぼ全員
出席するのが恒例になり、首脳同士が直接話し合う機会も増えた。
1926 年 9 月にドイツが国際連盟に加盟したことにより、ロカルノ条約が発効し、ドイツ
は国際社会への復帰を果たした。
《不戦条約の締結》
フランス外相ブリアンとアメリカ国務長官ケロッグの提唱により、1928 年 8 月にパリで
15 ヶ国が調印した「戦争放棄ニ関スル条約」
(不戦条約。ブリアン・ケロッグ条約ともいう)
も、ロカルノ精神によって成し遂げられた。
アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸
国をはじめとする 15 ヶ国が署名し、その後、63 ヶ国が署名した(これは当時のほぼすべて
の独立国であった)
。違反に対する制裁もないためその実効性は乏しいという批判はあった
が、これだけの国々が世界平和を求めて署名したことは画期的なことであった。また、国
際連盟に参加していなかったアメリカ・ソ連も加わったことの意義も大きかった。ケロッ
グは、この功績で 1929 年にノーベル平和賞を受賞した(ブリアンは授賞済み)。
この条約は正式には「国際紛争解決の手段として戦争に訴えないとする不戦条約」といわ
れ、国際紛争解決のため戦争に訴えることを禁止し、国家の政策手段としての戦争を放棄
。その結果、国際連盟規約違反の戦争に対する制裁として行う戦争、および、
した(1 条)
不戦条約違反に対する、あるいは、自衛のための戦争は別として、侵略目的の戦争は国際
法上違法なものとしてすべて禁止されることとなった。
《戦争放棄ニ関すスル条約》
人類ノ福祉ヲ増進スヘキ其ノ嚴肅ナル責務ヲ深ク感銘シ 其ノ人民間ニ現存スル平和及
211
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
友好ノ關係ヲ永久ナラシメンカ爲國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ卒直ニ抛棄スヘキ時機
ノ到來セルコトヲ確信シ 其ノ相互關係ニ於ケル一切ノ變更ハ平和的手段ニ依リテノミ之
ヲ求ムヘク又平和的ニシテ秩序アル手續ノ結果タルヘキコト及今後戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利
益ヲ増進セントスル署名國ハ本條約ノ供與スル利益ヲ拒否セラルヘキモノナルコトヲ確信
シ 其ノ範例ニ促サレ世界ノ他ノ一切ノ國カ此ノ人道的努力ニ參加シ且本條約ノ實施後速
ニ之ニ加入スルコトニ依リテ其ノ人民ヲシテ本條約ノ規定スル恩澤ニ浴セシメ以テ國家ノ
政策ノ手段トシテノ戰爭ノ共同抛棄ニ世界ノ文明諸國ヲ結合センコトヲ希望シ 茲ニ條約
ヲ締結スルコトニ決シ之カ爲左ノ如ク其ノ全權委員ヲ任命セリ
(全權委員名略)
因テ各全權委員ハ互ニ其ノ全權委任状ヲ示シ之カ良好妥當ナルヲ認メタル後左ノ諸條ヲ協
定セリ
第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家
ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如
何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス
第三條
本條約ハ前文ニ掲ケラルル締約國ニ依リ其ノ各自ノ憲法上ノ要件ニ從ヒ批准セラ
ルヘク且各國ノ批准書カ總テ「ワシントン」ニ於テ寄託セラレタル後直ニ締約國間ニ實施
セラルヘシ
《不戦条約の問題点》
この不戦条約にも多くの問題点があった。不戦条約では、開戦意思などの戦意の表明を
伴わない戦争(事実上の戦争)が禁止されたかどうかが争われた。不戦条約は「戦争」
(war)
に訴えることを禁止し(1 条)
、かつ、締約国はいっさいの紛争を「平和的手段」以外の方
法で処理・解決することを求めないことにした(2 条)。しかし、実効性をもつ紛争の平和
的解決手段の未発達ともあいまって、ここにいう「戦争」とは戦意の表明をともなうもの
であり、また、ここにいう「平和的手段」とは「戦争」以外の手段である、と解釈される
とする見解が生じた。実際、その後、正規の戦争にあたらず連盟規約や不戦条約には違反
しないとの主張の下に武力行使が行われた。1928 年から 1935 年にかけてのチャコ事件(ボ
リビア・パラグアイ戦争)
、1931 年の満州事変、1934 年のエチオピア事件、1937 年の日華
事変等の武力紛争が発生した(後述)
。
◇列強(連盟の常任理事国)が壊した国際連盟
1926 年にドイツが常任理事国として加盟すると、ブラジルとスペインはそれぞれ常任理
事国の地位を要求し、拒否されると連盟を離脱した。スペインはまもなく復帰したが、ブ
ラジルは戻らず最初の脱退国になった。
1925 年から始まったジュネーブ軍縮予備会議もはかばかしい進展がなく、1927 年のジュ
ネーブ海軍軍縮制限会議はフランス、イタリアが参加しなかったため流会になり、解決は
1930 年のロンドン会議に持ち越された。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ロカルノ条約の保証国であったイタリアは、1927 年には、戦後国境に不満をもち、ヴェ
ルサイユ体制の修正を公然と求めるハンガリーと友好条約を結んで、国際連盟への敵対姿
勢を見せつけた。これによって国際連盟の指導は、イギリス、ドイツ、フランス、イタリ
アの 4 国指導体制から、イギリス、ドイツ、フランスの 3 国体制へと縮小した。
1929 年 10 月、ロカルノ条約の主役シュトレーゼマン外相が死去した。この 1929 年 10 月
に世界恐慌がはじまり、ロカルノ体制を補強し、国際連盟を強化する努力はなおざりにな
り、世界平和への努力がなされなくなった。
国際紛争の解決を期待された国際連盟は、前述したように、1920 年代には小規模紛争解
決の成功例はいろいろあったが、1930 年代になり常任理事国である列強が当事者となる紛
争が起きると連盟は機能しなくなった。
《満州事変と日本の連盟脱退》
1931 年 9 月 18 日の夜、中華民国の奉天(現在の中華人民共和国遼寧省瀋陽)北方約 7.5
キロメートルの柳条湖(りゅうじょうこ)の南満州鉄道線路上で爆発が起こった(図 60(図
15-66)参照)
。10 時すぎのことであった。爆破の規模は小さく、直後の列車の通過に問題の
ないくらいのものでしかなかった。しかし、その結果は、極めて大きなものになった。
奉天の関東軍(南満州鉄道・関東州を守備する日本陸軍部隊)は、これを張学良(1928
年に関東軍が爆殺した張作霖将軍の息子)ら中華民国の東北軍による破壊工作と断定し、
直ちに中華民国東北地方の占領行動に移った。爆破地点近くの張学良軍の兵舎(北大営)
への攻撃を直ちに開始、爆音に驚いて出てきた中華民国兵を射殺し、北大営を占拠した。
続いて人口 35 万人の大都市、奉天城を、大砲を用いて攻撃した。関東軍は、翌日までに、
奉天、長春、営口の各都市も占領した。一晩で占領するとはあまりにも手回しがよすぎた。
そうしておいてから、旅順の関東軍司令部へ「暴戻(ぼうれい)なる支那軍隊は満鉄線を
破壊、守備兵を襲い、駆けつけたる我が守備隊と衝突せり」と報告した。爆破は満州制圧の
単なる「のろし」に過ぎなかった。事件は関東軍、お得意の自作自演劇の謀略であり実戦だ
った(1928 年に起こした張作霖爆破事件で関東軍は満鉄爆破を使ったが、その同じ手口を
使うお粗末さだった)
。
柳条湖事件の謀略の中心人物は、河本大佐(張作霖爆破事件の実行者)の後任で、満蒙
領有論者の関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀・石原莞爾(かんじ)中佐
が首謀者であった。第 2 次世界大戦後に発表された花谷正(当時、関東軍司令部付参謀。
最終階級は陸軍中将)の手記によると、関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑
十郎中将、参謀本部第 1 部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐らも、
この謀略に賛同していた。
213
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 60(図 15-66) 日本の大陸侵略
214
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
攻撃命令を出したのは出先の板垣大佐であった。「緊急突発事件」であったので、関東軍
司令官の権限を「代行」したという(大軍事行動が代行されたのである)。この報告を受けた
関東軍司令官・本庄繁中将は(もちろん、示し合わせのとおり)
、板垣の越権をとがめるの
ではなく、あろうことか、「支那軍膺懲」(ようちょう。こらしめること。
「暴支膺懲」とい
われた)のための出動に踏みきったという。こうして奉天での謀略は関東軍レベルでの軍
事行動へと転化した。翌朝 19 日、日本の陸軍中央は関東軍全面支持を決めた。
その後、緊急閣議が開かれた。時の内閣は第 2 次若槻礼次郎内閣、外相は幣原(しでは
ら)喜重郎であった。南次郎陸軍大臣はこれを関東軍の自衛行為と強調したが、幣原外相
は関東軍の謀略との疑惑を表明、外交活動による解決をはかろうとした。
しかし、20 日の陸軍首脳会談では、この機会を利用しての軍部主導による「満蒙問題の一
挙解決」の方針が決められた。
それを受けたかたちで、21 日の閣議は、このたびの事態を「事変」と見なすと決定した。
事変と呼ばれたものに、先に北清事変(義和団事件)、近くは済南事変があったが、要する
に、宣戦布告なき戦争である(日本はこのあとも満州事変、上海事変、支那事変と名付けて
戦争といわなかった)
。実際には戦争であったが、事変といったのは、国際連盟規約や不戦
条約で侵略戦争は禁じられていたこともあり、また、実務面からは、そのころのアメリカ
は戦時中立法をもっており、戦争になると両方に戦略物資を輸出しないことにしていたの
で、日本はアメリカからの石油などの輸入が止まると大変なことになるからであった。そ
こで戦争状態になっても事変と名付けたのである。そのほかにもジュネーブ陸戦条約に拘
束さないとか、いろいろ(戦争と言わないメリットが)あって意識的に事変と名付けたの
である(この戦争でないといいはる国や「自衛のため(の戦争)
」といいはる国に対処でき
なかったことも国際連盟の問題点だった)。
そして、21 日、林銑十郎中将の率いる朝鮮軍が、独断で(もちろん示し合わせて)越境
し満洲に侵攻したため、現地における鉄道爆破事件であった柳条湖事件が国際的な事変に
拡大した(当時、朝鮮までは日本国であり、日本国の朝鮮軍が中国へ越境侵攻したのであ
る。もちろん、中国は独立国で、国際連盟にも加盟していた)
。国境を越えて派兵するには、
閣議での経費支出の承認と天皇の「奉勅命令」の伝達が必要であるが、それを無視しての越
境であった。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令
官などと呼ばれた。
これは明白なる軍規違反であったが、政府も天皇も追認した。出先の謀略は、政府と天
皇に承認されて、公然たる国家意志の発動としての軍事行動に転化した。こうして出先軍が
作り出した事態(既成事実)を政府が追認するという新しいパターンが生み出された。24
日の閣議では「このうえ事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」の不拡大方針が
決定されたが、満州の現場はかってに動き出していた。
18 日夜の事件勃発と同時に、日本軍 500 人は、数時間の戦闘でわずか 2 人の犠牲者を出し
ただけで、7000 人が駐屯する中国・東北軍の北大営を占領した(蒋介石は共産党軍討伐を
215
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
優先し、日本軍とは戦わない方針で張学良にもそう命じていた)
。張学良の不抵抗命令を受
けて東北軍が撤退したからである。奉天城内の中国軍も戦うことなく撤退した。時に、張
学良麾下の東北軍は 18 万人、航空機 260 機を有するなど、奉ソ戦争後(その前に張学良は
ソ連と戦闘をまじえていた)
、装備もかなり強化していた。
一方、関東軍は、このときは、まだ 3 万人弱(本来、鉄道沿線の守備が任務だから)、も
し正面対決になっていたら、勝敗の帰趨は変っていただろう(関東軍が殲滅されている可
能性もあった)
。それにもかかわらず、張が戦うことなく「不抵抗将軍」の汚名をかぶること
になったのは、蒋介石の不抵抗主義があったからである。蒋介石は満州で日本軍と事を構
えることを避け(蒋介石は北伐の途中で来日して首相・田中義一と会い、共産党討伐を優
先し、日本とは事を構えないという暗黙の了解をとっていて、それをずっと尊重していた)
、
まず、共産軍の打倒を優先する方針で、張学良には「日本軍の挑発にのるな」と厳命して
いた。張は父の爆殺に至るまで、日本の横暴をいやというほど嘗(な)めさせられてきた
が、それでも、「挑発」をかわして、事を平和的に処理しようとしていた。
一方、謀略を企んだ側(関東軍)は明確な目標を持っていた。日本による満蒙の領有で
ある。関東軍参謀(前述の板垣と石原)は、軍司令官・本庄繁を押し切り、政府の不拡大
方針や、陸軍中央の局地解決方針を無視して、自衛のためと称して戦線を満州一円にいっ
きに拡大した。独断越境した朝鮮軍の増援を得て、管轄外の北部満洲にも進出した。とに
かく、とりあえず、既成事実をつくっておけば、とりあえず、拡大しておけばその分取り
分も多くなるとの論法であった。
アメリカのスティムソン国務長官は幣原外務大臣に戦線不拡大を要求し、これを受けた
幣原は、陸軍参謀総長・金谷範三に電話で万里の長城や北京への侵攻を進めると英米との
衝突が生じるため、戦線を奉天で止めるべきことを伝え、金谷陸軍総長はそれを承認した。
この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォーブスに伝え、錦州までは
進出しない旨を伝えた(錦州は図 60(図 15-66)の熱河省にある。逆に錦州の手前までは
進出するということだった)
。しかし、金谷陸軍総長の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら
関東軍は錦州攻撃を開始してしまった。スティムソンはこれに激怒した。
これで日本政府の「不拡大方針」はもろくも破綻し、日本のやり口は不戦条約違反と国際
的に非難されるようになった。前述したように、不戦条約(パリ不戦条約)は 1928 年 8 月
に調印された条約で 63 ヶ国が調印しており、具体策には欠けていたが、戦争否定の理念だ
けは体現していたから、日本が明らかに逆方向に動いていることを明示するものであった。
日本のあまりにも露骨なやり口に驚いた国際連盟は最初の融和的態度をあらため、10 月
24 日の理事会で期限付き撤兵案を採決した。結果は日本だけが反対の 13 対 1、満場一致で
ないため規約上、決議は成立したかったが(これが国際連盟の欠陥だったが)、日本の国際
的孤立がさらけだされたことは確かだった。
一方、関東軍は、国際世論の批判を避けるため、あるいは陸軍中央からの支持を得るた
めに、満洲全土の直接の領土化ではなく、急遽、傀儡政権の樹立へと方針を転換した。事
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
変勃発から 4 日目のことであった。特務機関長の土肥原賢二大佐は、清朝の最後の皇帝で
あった宣統帝・愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)に対し、日本軍に協力するよう説得
にかかった。満洲民族の国家である清朝の復興を条件に、溥儀は新国家の皇帝となること
に同意した。
関東軍は 1932 年 1 月の初め、張学良の東北軍が撤退した錦州を無血占領した。錦州の陥
落により満州の地における中国の行政は終わった。その数日後、天皇が関東軍に「忠烈を嘉
(よみ)す」との勅語を与えた。謀略も軍規違反も天皇と日本帝国への貢献として、勅語に
よりまるまる肯定されたのである。
アメリカの国務長官スティムソンは、1932 年 1 月 7 日に、日本の満洲侵攻による中華民
国の領土・行政の侵害と、パリ不戦条約に違反する一切の取り決めを認めないと表明し、
日本と中華民国の両国に向けて通告した(いわゆるスティムソン・ドクトリン)
。このステ
ィムソン・ドクトリンを中華民国政府はもちろん、イギリスなどヨーロッパ諸国も、消極
的ながら賛成した。しかし、日本はこれを「認識不足」だとして拒絶した。
関東軍は 1932 年 1 月以降、国際社会の目を満洲からそらせるために、国際都市上海で上
海事変を起こし、36 日間の戦闘によって、日本側の戦死者は 769 人、負傷 2322 人、中国軍
の損害は 1 万 4326 人、中国側住民の死者は 6080 人、負傷 2000 人、行方不明 1 万 400 人、
上海全市で約 15 億 6000 万元の損害という大暴虐を働いた。
この上海事変の間に、1932 年 2 月のハルビンの占領により、満州の重要都市はすべて関東
軍の手中に入り、関東軍は東北三省(いわゆる満州)を制圧した。この満州の軍事的制圧
と並行して、急遽、満州国づくりも裏方で進められ、1932 年 2 月に奉天・吉林・黒竜江省
の要人が関東軍司令官を訪問し、満洲新政権に関する協議をはじめ、張景恵を委員長とす
る東北行政委員会を組織した。東北行政委員会は 2 月 18 日に「党国政府との関係を脱離し
東北省区は完全に独立せり」と、中国国民党政府からの分離独立宣言を発した。そして 1932
年 3 月 1 日、満洲国の建国が宣言された。
以上が満州国建国の経緯である。
満州事変は国際連盟に加えられた決定的な一撃だった。1932 年 3 月、中華民国政府の提
訴により、満州国の実態を調べるために、国際連盟はリットン調査団を派遣した。調査団
は、イギリス人のリットンを委員長に、イタリア、フランス、アメリカ、ドイツの委員より
なっていた(アメリカは国際連盟に加盟していなかったが、調査団に加わった)
。この調査
団は、3 ヶ月にわたり満洲を調査し、9 月に報告書(リットン報告書)を提出し、10 月初め
に公表された。日本は、既成事実を固めるために、その直前に満州国を承認した。
報告書は、10 章からなるが、中国の無法状態に日本が悩まされていたことを事件の前提に
するなど、決して中国に好意的とはいえぬものだった。しかし、柳条湖事件いらいの日本
のやり口は自衛のための措置ではないことを指摘し、第 6 章では満洲国を取り扱っていて、
まず新国家の建設段階を述べ、日本の文武官の一団が、独立運動を計画し、組織したもの
と見なし、自発的独立を否認し、次に現満州政府の財政、教育、司法、警察、軍隊、金融
217
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を考察し、最後に在満中国人は一般に現満州政府を支持しないと結んで、満州国は住民の
意志によって出来たのではなく、日本が武力によって作り上げたもの、との判断を明確に
示した。
しかし、報告書は「事変前の状態に戻ることは現実的でない」という日本の主張をとり
入れ、日本の満州国における特殊権益を認め、日中間の新条約の締結を勧告して、日本が受
けやすように配慮もしていたが、日本政府はこの報告書を認めようとしなかった。くわえ
て、日本の新聞社 132 社は 12 月に「共同宣言」を公表し、それを受諾することは「満州国の
厳然たる存在を危うくする」から拒否せねばならないと主張した。日本では、満州事変の勃
発とともに、ジャーナリズムをあげて国策に追随する体制が確立された。
日本の行為を侵略としたリットン報告書を討議した 1932 年 2 月の国際連盟総会で、日本
代表の松岡洋右(ようすけ)外相は、「支那の無法律的国情が日中両国間の紛争の根本原因
であって、軍隊を多数保有する中国は平和の攪乱者であり、満州国の独立のみが極東にお
ける平和と秩序の唯一の保障である」と演説した。しかし日本の主張に耳を傾ける国はなく、
総会はリットン報告書を、賛成 42,反対 1(日本)、棄権 1(タイ)で可決した。可決直後、
席上で日本全権・松岡洋右は「もはや日本政府は連盟と協力する努力の限界に達した」と
表明し、連盟を脱退した(なお、脱退の正式発効は、2 年後の 1935 年 3 月 27 日)。そして
日本国内世論はこれを拍手喝采でもって迎えた。
この 1931 年から 33 年の日本による満州侵略は、ヴェルサイユ体制に対する最初の大き
な挑戦であり、それを崩壊させるきっかけとなった。連盟の常任理事国であるイギリス政
府は財政危機、労働党政権の崩壊、国内不安で身動きがとれなかった。イギリス自治領と
のあいだでも、外交政策を本国から切り離す権利を与えるかどうか再交渉中であり、なお
さら動けなかった。もう一つの常任理事国フランスはドイツが台頭してきたことが気にな
り、これも動けなかった。他の常任理事国ドイツとイタリアは、リットン報告書が提出され
ると日本が国際連盟の原則を無視し連盟を脱退するのを興味深く見守っていた。
1933 年 3 月、日本は連盟を脱退、翌年には海軍軍縮条約をも破棄して軍備の拡張につと
めた。この満州事変は、日本の武力による中国侵略の第一歩であり、ワシントン(海軍軍
縮)体制の崩壊をあらわす事件であった。また、日本の国際連盟脱退は、ヴェルサイユ体
制打破の最初の大きな動きとなった(続いてドイツが脱退し、1937 年にイタリアが脱退し
た)
。
この満州事変は典型的な侵略戦争で、日本は、中国の敵意と世界からの孤立と引き換えに、
日本に 3.5 倍する総面積 130 万平方キロ、人口 4300 万人(1940 年)もの満州を無理矢理に
手に入れた。
ところが、日本というか関東軍というか、その野望は満州国だけではおさまらなかった。
1933 年 2 月中旬に熱河侵攻作戦を起こし、
3 月初め、
省都の承徳を占領した(図 60(図 15-66。
P214)参照)
。さらに中国側の反撃を利用し、長城を越えて河北省に入り、5 月には北平(北
京)から 30 キロの線にまで攻め込んだ。以後も、日本の中国侵略は続き、ついに太平洋戦
218
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
争に突入するのである。
《ドイツの連盟脱退》
日本が満州事変を起こし、国際連盟を脱退した 1932 年から 1933 年頃、ドイツでは総選
挙でヒトラーのナチスが第 1 党となっていた。ドイツのヒンデンブルク大統領は、1933 年
1 月 30 日、ヒトラーを首相に任命し、組閣を命じた。ついにヒトラーとナチスはドイツの
政権を握った。
ヒトラーがやったことは、まず、国内の独裁体制の確立であった。ヒトラーは、
(何もし
ないで)内閣発足の 2 日後である 2 月 1 日に国会を解散し選挙日を 3 月 5 日と決定した。
国家権力を握ったヒトラーは、今度は自分の思うような選挙ができるようになった。ナチ
スはこれまで政治的利用を控えられていたラジオを利用し、公権力を使って社会民主党、
共産党はもちろん、与党以外の政党の集会を妨害し、彼らの機関紙の発行を差し止めるな
ど露骨な選挙活動妨害を行った(選挙期間中に何百人の死者が出た)
。
自由選挙とはほど遠い戒厳令下の選挙にもかかわらず、3 月 5 日の選挙でナチ党は議席数
で 45%の 288 議席を獲得したが、目標の過半数は獲得できず、連立与党の票をあわせてか
ろうじて過半数を得た。改憲条項を含む法案は国会の 3 分の 2 の賛成を必要としたため、
これでは憲法改正はむずかしいことになった。そこで、国会放火事件により非合法政党に
された共産党が獲得した 81 議席は再選挙を行わず議席ごと抹消したので
(憲法違反である)
ナチス党は結果的に単独過半数を獲得することとなった。さらに社会民主党や諸派の一部
議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党が掌握することになった。
このような準備をした上で、国会を開き、直ちに 1933 年 3 月 24 日には国家人民党と中
央党の協力を得て全権委任法(立法府が行政府に立法権を委譲する法律)を可決させ、議
会と大統領の権力は完全に形骸化した。この全権委任法によって、ナチスはこの法律を楯
にナチス以外の政党を解体に追い込み、1933 年 7 月 14 日には合法的に(実際には合法的で
はなかったが)1 党独裁体制を確立した(ヒトラーは 1 月 30 日の組閣から半年で 1 党独裁
体制を完成した)
。
ヒトラーは、日本の満州事変と国際連盟の関係を注目していたが、日本が国際連盟を脱
退すると 1933 年に国際連盟を脱退した。そして 1935 年 3 月にヒトラーはヴェルサイユ条
約を破棄、公然と再軍備を宣言した。1936 年 3 月にはヒトラーの機甲師団がヴェルサイユ
条約で非武装地帯にされていたラインラントを占領し、ヴェルサイユ体制の破棄の第一歩
を踏み出した。このように国内体制を固めたのち、いよいよ対外膨張政策を開始し、1939
年の第 2 次世界大戦に突入したのである。
《イタリアのエチオピア侵略と国際連盟脱退》
日本、ドイツの連盟脱退をみて、長年、現状維持に不満を覚えていたイタリアのムッソ
リーニは自らも行動に出る決心をした。イタリアはすでにリビアで大量殺戮爆撃をはじめ
数々の残虐行為による侵略を行っていたが、1935 年よりエチオピアへの軍事侵攻を開始し
た。エチオピアはアフリカで数少ない独立国で、国際連盟にも加盟していたので、このケ
219
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ースは満州以上にあからさまな侵略だった。1935 年から 36 年のイタリアの侵攻は、連盟の
加盟国によるもう一つの加盟国に対する明白な侵略行為であった。
しかし、エチオピア侵略に対する連盟の対応は、まったく不十分だった。国際機関が効
果的に機能するのは、大国が自らの利害関係を基盤に行動を起すことに同意するときだけ
しか動かないことを示した。イギリスは国内とイギリス帝国内の他の問題にすっかり気を
取られていた。フランスはドイツの台頭と、イタリアをヒトラー側に追いやるのではない
かとの懸念から、手出しができなかった。アメリカは貿易権を主張する以外に何もせず、
ソ連は傍観者にとどまり、日本は中国本土の侵略の準備に余念がなかった。
1935 年 10 月、国際連盟はイタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済
制裁を開始したが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。これは、
たとえ禁止したとしても、イタリアは国際連盟に加盟していないアメリカから購入するこ
とが可能であるから意味がないとする英仏の宥和政策に基づく主張が背景にあった。
イギリスとフランスの外相による 1935 年のホール・ラバル案は、ムッソリーニにエチオ
ピアの大部分を渡すが、大幅に領土が削られるエチオピアにはその代償として、ソマリラ
ンドの周辺領土を譲るというものだった。これは基本的にイタリアによるエチオピアの植
民地化を容認する内容で、あまりにイタリア寄りの内容であったため、エチオピアはこの
受諾を拒絶した。
結局、1936 年 5 月、イタリア軍が首都アディスアベバを占領して戦争は終結し、イタリ
アはエチオピアを併合し、イタリア領のエリトリア、ソマリランドを合わせたイタリア領
東アフリカの樹立と、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世の就任
を宣言した。世界注目のもとで国際連盟常任理事国イタリアはどうどうと典型的な侵略戦
争に成功した。
その後の国際連盟の展開は、凋落の一途だった。1937 年、日独防共協定に加入したイタ
リア王国は国際連盟を脱退した。これで常任理事国はイギリス、フランス、ソ連だけにな
ってしまった(1934 年、ソヴィエト連邦が国際連盟に加盟したことにより、同国が常任理
事国に加わった)
。
このように、国際連盟は日独伊という連盟の常任理事国が絡む大規模紛争の解決に対し
てほとんど無力であったため、崩壊してしまうことになった。その後も 1930 年代後半から
中南米諸国や枢軸側中小国の連盟脱退が急増していった。
《ソ連のフィンランド侵略(冬戦争)と国際連盟除名》
そして第 2 次世界大戦の勃発に伴い(1939 年 9 月のドイツのポーランド侵攻、ソ連もポ
ーランド侵攻)
、連盟は機能不全に陥り、1939 年 12 月の理事会においてソヴィエト連邦の
フィンランド侵略(冬戦争)を理由に常任理事国のソヴィエト連邦を除名したのを最後に、
理事会、総会ともに活動を休止した。
《不備だった国際連盟の集団安全保障制度》
以上のように、集団安全保障制度を確立する試みは、まず、国際連盟においてなされた
220
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
が、これは不十分なものにとどまった。連盟規約では、規約に違反する戦争は、他のすべ
ての連盟加盟国に対する戦争とみなされ、これに対する経済制裁が加盟国の義務として設
定された。すなわち、規約違反の戦争に訴えた連盟国に対して、他のすべての加盟国は、
いっさいの通商・金融上の関係の断絶、自国民と違約国民との間のいっさいの交通の禁止、
さらには、連盟国であるかどうかを問わず、他のすべての国の国民と違約国の国民の間の
いっさいの金融上、通商上または個人的な交通の遮断を行うものとされた(16 条 1 項)
。
しかし、軍事的制裁に関しては、連盟の約束擁護のために使用すべき兵力に対する連盟
各国の陸・海または空軍の分担程度を関係各国政府に提案することが、連盟理事会の義務
として規定されるにとどまり、加盟国の義務を設定するにはいたらなかった(16 条 2 項)
。
しかも、その実際の適用においては、規約違反の戦争の有無をどのように認定するかが
問題となるが、連盟規約は認定権についての明文規定をもたず、1921 年の第 2 回連盟総会
における解釈決議(規約 16 条の適用の指針に関する決議)は、連盟各国がそれぞれ認定を
行うものとした(同決議 3 項)
。
こうして、連盟の安全保障制度は制裁発動の集権的決定に欠け、不十分なものにとどま
ることとなった。実際にも第 16 条が適用された例は、イタリア・エチオピア紛争における
イタリアに対する経済制裁(1935 年以降)を除いてほとんどみられず、しかも、そこでは、
石炭・石油・鉄鋼などの重要物資が禁輸の対象外とされたように、実効性の乏しいものに
とどまった。
このように国際平和のための機関として国際連盟が設立され、いろいろな努力が行われ
たが、前述したような組織上の不備と、第 1 次世界大戦の原因と結果をめぐる多くの戦後
処理の失敗と、世界恐慌による経済危機により、共産主義がさらに勢力を得て、それに伴
いイタリアではファシズムが、ドイツではナチズムが台頭していって再びヨーロッパは戦
雲がたれこめるようになった。東洋では日本軍が広大な中国大陸ではてしなく侵略軍を進
め行っていた。
「全ての戦争を終わらせる戦争」とも言われた第 1 次世界大戦の終結のわずか 20 年後、
人類史上類のない被害をもたらす第 2 次世界大戦が再び繰り返されることになった。その
間の 20 年間は戦間期にすぎなかった。
第 9 章 帝国主義と第 2 次世界大戦
【1】ドイツの戦争
《ヒトラーの侵略開始》
第 2 次世界大戦の開始は、1939 年 9 月 1 日のドイツのポーランド侵攻からであったが、
図 61(図 15-46)のように、ヒトラーの侵略はその 1 年半前の 1938 年 3 月にオーストリ
アの併合、1938 年 9 月にチェコスロバキアのズデーテン地方の分割・併合、1939 年 3 月に
ミュンヘン会談の結論を無視した残部のチェコスロバキアの侵略・併合とはじまっていた。
オーストリアやズデーテンの併合はドイツ民族の統合という理屈があったが(侵略である
221
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ことには変わりないが)
、残部チェコスロバキアの解体は、ヒトラーが主張してきたヴェル
サイユ条約の破棄とも、ドイツ民族の統合ともなんの関係もなかった。単なる領土拡大と
戦略物資を獲得する純然たる侵略にすぎなかった。
ヒトラーは、チェコスロバキアの全面的併合から、さらに調子をあげ、1 週間もたたない
3 月 21 日に今度は矛先をポーランドに向け、ポーランド外相ユゼフ・ベックにダンツィヒ
自由都市(図 61(図 15-46)参照)の割譲を求め、ポーランド侵攻の準備を指示した。ま
た、その翌日 3 月 22 日にはドイツがリトアニアのメーメル地域(図 61(図 15-46)参照)
の割譲を要求すると、リトアニアは抗議の姿勢すらみせずに従った。
図 61(図 15-46) ドイツ、イタリアの侵略
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
イギリス・フランス政府も 1939 年 3 月 31 日、ポーランドに独立の保証を与える声明を
出し、4 月 6 日、ポーランドと相互援助条約を結んだ。これを受けてポーランドもドイツの
222
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
要求を拒否した。ポーランドのベック外相は国会で「われわれポーランド人はただ平和を守
れればよいとは考えない。人や民族、国家には、名誉というなにものにもかえがたいもの
があるのだ」と悲壮な決意を述べた。
イタリアのムッソリーニも 1939 年 4 月、突然アルバニアを併合した。イギリス、フラン
スは、ただちにポーランドと同じ保証をギリシャ、ルーマニアにも広げ、イタリアを牽制
した。そのため、イタリアはかえってドイツに頼ることになり、5 月、両国は「鋼鉄同盟」
を締結した。
ヒトラーは 1939 年 4 月、9 月 1 日以降実行できる対ポーランド作戦案の作成を命じ、イ
ギリスとの海軍協定、ポーランドとの不可侵条約の破棄を通告した。
イギリス・フランスはここにいたって、ソ連との共同行動を模索した。英仏は戦争勃発
に際してはポーランドに軍事的な援助を与えることを公表したが、その実行にはポーラン
ドと隣接するソ連の協力が不可欠であった。しかし、チェコスロバキアの同盟国でもあっ
たソ連は、ミュンヘン会談での英仏の態度に不信をいだき、むしろドイツとの関係改善に
関心を持っていた。
英仏両国は(外務官僚レベルで)6 月からソ連との交渉に入ったが、両国は全権をもたな
い外務官僚を交渉代表に派遣して、その熱意に疑いをもたせてしまった。やはりチェンバ
レンら英仏首脳はこの交渉に消極的で、8 月に始まった本格的な協議もすぐに行き詰まって
しまい、英仏とソ連の連携は頓挫した。
それに対しドイツでは、イギリス・フランスの干渉をはねのけてポーランド問題を円滑
に解決する、つまり、ポーランドに外交面で強圧をかけて屈服させるにせよ戦争に訴えて
撃滅するにせよ、英仏の介入を招くことなく行うにはどうしてもソ連との結託が必要と見
て(独ソ不可侵条約ができれば、英仏は参戦しなくなる可能性もある)、英仏と並行して秘
密裏にスターリン、モロトフと接触した。
英仏の対ソ交渉が失敗するのとほぼ同じ 1939 年 8 月には、ヒトラーはスターリン宛親書
を送って積極的姿勢をみせ、条約の早期締結を迫った。ソ連が望んだ経済協定が合意に達
すると、スターリンもドイツとの提携を了承した。
ソ連でも、英仏とドイツという対立する二つの陣営のどちらにつくかは、軍事的にも経
済的にもまだ弱体であった当時のソ連では重要な選択肢であった。1937 年から始まったス
ターリンによる大粛清でソ連軍の実力が大幅に落ち込んでいた事実もあったほか、1939 年
5 月にノモンハン事件が勃発し、日本と戦闘状態に入っていたことから(5 月以降 9 月まで
ノモンハンで激しい戦闘があった。日ソの休戦協定は独ソ不可侵条約の締結後であった)、
当面、ソ連が最も避けたいことは日独挟撃であったと考えられる。
リベントロップはすぐにモスクワに飛んで、8 月 23 日真夜中に条約に調印した。モスク
ワ滞在わずか 20 時間で条約を手にした彼は、帰国後大歓迎を受けた。
《独ソ不可侵条約》
この条約は全 7 条からなり、「第 1 条:独ソ両国は、相互にいかなる武力行使・侵略行為・
223
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
攻撃をも行なわない」、「第 2 条:独ソの一方が第三国の戦争行為の対象となる場合は、も
う一方はいかなる方法によっても第三国を支持しない」など、ごく平凡なものであったが、
必ず裏取引・秘密議定書があると、成立当初から疑われていた。事実、第 2 次世界大戦後
にそれは明らかにされている。
秘密議定書部分は全 4 条で、その内容は次の通りである(これは後の独ソ戦開始に関係
することになる)
。
第 1 条:バルト諸国(フィンランド、エストニア、ラトビア、リトアニア)に属する地域
における領土的及び政治的な再編の場合、リトアニアの北の国境がドイツとソヴィエト連
邦の勢力範囲の境界を示すものになる。このことに関連するビリニュス地域におけるリト
アニアの利権は独ソ両国により承認される。
第 2 条:ポーランド国に属する地域における領土的及び政治的な再編の場合、ドイツとソ
ヴィエト連邦の勢力範囲はナレフ川、ヴィスワ川、サン川の線が大体の境界となる。独ソ
両国の利益にとってポーランド国の存続が望ましいか、またポーランド国がどのような国
境を持つべきかという問題は今後の政治展開の上で明確に決定される。いかなる場合も独
ソ両国政府はこの問題を友好的な合意によって解決する。
第 3 条:南東ヨーロッパに関してはソ連側がベッサラビア(現在のモルドバのほとんどと、
現在のウクライナの一部を加えた地域)における利権に注目している。ドイツ側はこの地
域には全く関心を持っていないことを宣誓する。
第 4 条:この議定書は独ソ両国により厳重に秘密扱いされるものである。
この秘密議定書は、東ヨーロッパにおける独ソの勢力範囲の線引きが画定され、バルト 3
国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドをソ連の勢力圏に入れ、独ソ両国はカ
ーゾン線におけるポーランドの分割占領に合意していたのである。
1939 年 8 月 23 日、リベントロップ外相がモスクワで独ソ不可侵条約に調印し、それが発
表されると、反共のナチス・ドイツと、反ファシズムのソ連の和解は、世界を驚愕させた。
独ソ不可侵条約の成立は、ヒトラーのポーランド侵攻の決断にどのような影響を与えた
か。ヒトラーとしては、ポーランド侵攻を強行すれば英仏との戦争に発展する可能性を覚
悟しなければならなかった。当時の,両陣営の兵力はほぼ拮抗していた(表 6(表 15-10)
、
図 62(図 15-69)参照)
。
たとえば、師団数でいえば、ドイツの 103 に対して英仏の合計が 110 であった。爆撃機
はドイツの 1546 機に対して英仏は約半分の 722 機であったが、戦闘機ではドイツの 1179
機に対して英仏が 1157 機とほぼ拮抗していた。また、海軍力では英仏が圧倒していた。
もし、これにソ連が英仏側につけば(ドイツは強力に反共を唱えていた)
、ドイツは完全
に不利となり、ヒトラーは 1939 年に戦端を開くとは考えられていなかった。当時のドイツ
は、1944 年を完成年度とする軍備の大拡張計画を推進中であり、ヒトラーとしても英仏と
の戦争開始は 1 年半か 2 年先が望ましいと考えていたので、そうしただろう。
ところが、予想以上にうまく(早く)ソ連との間で不可侵条約が締結された。ヒトラー
224
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
が不可侵条約を喜んだのはまちがいないが、一時的にポーランド戦が局地化できるという
考えが浮かんだとしても、それで開戦を決意したかは疑わしいと考えられている。彼の決
意を楽にはしたが、最後の一押し以上のものでなかったという点では諸研究はほぼ一致し
ている。ヒトラーは、独ソ不可侵条約があれば英仏の介入は防げるかもしれないと(楽観
的になり)
、ポーランド侵攻計画を進めたのではないかとも考えられている。
表 6(表 15-10) 第 2 次世界大戦直前(1939 年)における各国戦力
図 62(図 15-69) 1939 年秋における独・英・仏の空軍と海軍
《ドイツのポーランド侵攻―第 2 次世界大戦 (1939~1945 年)の勃発》
1939 年 9 月 1 日未明、突然、ナチス・ドイツ軍がポーランド領内に侵攻した。ドイツ軍は
戦車と機械化された歩兵部隊、戦闘機、急降下爆撃機など機動部隊約 150 万人、57 個師団
で北部軍集団と南部軍集団の 2 つに分かれ、南北から首都ワルシャワを挟み撃ちにする計
225
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
画であった(図 63(図 15-67)参照)
。
ポーランド側は 40 個師団の兵力と 1100 両強の戦車、740 機強の航空機で対抗したが、戦
争準備ができておらず、小型戦車と騎兵隊が中心で近代的装備にも乏しかった。
ドイツ軍は戦車と航空機に守られた機械化部隊で,その戦法は急降下爆撃機ユンカース
Ju-87 と大群の戦車部隊を先行させ,その後に大量の機械化歩兵部隊が続く形の電撃戦で、
ポーランド軍の主力部隊は約 2 週間の戦闘で壊滅的な打撃を受け、敗退させられた。
図 63(図 15-67) 第 2 次世界大戦中のヨーロッパ(1)
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
また、後述するように 9 月 17 日には,独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づいてソ連軍が
東部ポーランドに侵攻した。
イギリス、フランスは、9 月 3 日、ポーランドとの相互援助協定に基づき、ドイツに宣戦
226
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
布告し、ここに第 2 次世界大戦が勃発した。しかし英仏は、
(第 1 次世界大戦のように)直
ちに救援のためポーランドまで進軍してドイツ軍と交戦することはなかった。しかも、両
国はポーランドとの相互援助協定があったが、ソ連軍がポーランドに侵攻したにも関わら
ず、ソ連に対しては宣戦布告はしなかった。
国際連盟管理下の自由都市ダンツィヒは、ドイツ海軍練習艦シュレースヴィッヒ・ホル
シュタインの砲撃と陸軍の奇襲で陥落した。9 月 27 日、首都ワルシャワも陥落した。10 月
5 日にはポーランド軍が最終的に降伏した。ここにポーランドはドイツとソ連によって図
64(図 15-68)のように東西に分割占領された。
図 64(図 15-68) 独ソのポーランド占領
9 月末にはパリにシコルスキ将軍を首班とするポーランド亡命政府が樹立された(のちに
ロンドンへ亡命した)。ドイツ軍占領地域から、ユダヤ人がゲットー(ユダヤ人が強制的に
227
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
住まわされた居住地区)へ強制収容されはじめた。
《帝国主義国家」の仲間入りをしたソ連》
独ソ両国は同条約の秘密議定書に従い、ドイツは同年 9 月 1 日にポーランドへ侵攻した。
これが第 2 次世界大戦のはじまりであった。このことはどこでも述べられている。しかし、
ソ連は 9 月 17 日にポーランドに侵攻、東西から分割占領した。
ここでとくに注目すべきは、
ソ連もドイツとともに侵略戦争を開始したということである。
ヒトラーは、イギリスとフランスは参戦しないだろうとみていたが、その思惑に反して、
9 月 3 日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第 2 次世界大戦が勃発した。しか
し、英仏はソヴィエト連邦によるポーランド侵攻に対しては宣戦布告を行わなかった。イ
ギリスとフランスのドイツに対する宣戦布告によって「まやかし戦争」と呼ばれる状態に入
った。つまり、戦争準備が十分でなかった英仏はドイツへの攻撃を行わず、ドイツもポー
ランドに大半の戦力を投入していたため、独仏国境での戦闘はごく一部の散発的なものを
除いて全く生じなかった。
西部戦線におけるこの状態は翌 1940 年 5 月のドイツ軍によるベネルクス 3 国侵攻まで続
いた。この間、8 ヶ月も英仏はドイツがポーランドや北欧を個別撃破するにまかせていたの
である(この間がドイツのもっとも苦しいときで、このとき英仏が西部戦線で最初から戦
端を開いてドイツ心臓部に突入すれば戦況は変わっていたともいわれている)。
1939 年 9 月中にポーランドを蹂躙した独ソ両国は、ポーランド分割のため、9 月 28 日に
は独ソ不可侵条約を前進させたドイツ・ソヴィエト境界友好条約が締結された。ソ連は、
秘密議定書に基づき、ドイツがフィンランドをソ連の勢力範囲の一つとして容認したと解
釈し、同年 11 月 30 日に軍を隣国フィンランドにも侵入させた。
この独ソ不可侵条約は、1941 年 6 月 22 日から開始された独ソ戦(バルバロッサ作戦)で
ナチス・ドイツがソ連に侵攻するまでこの条約の効力が続いた。その間のソ連の行動は、
ソ連と国際共産主義運動に深い傷を残した。ポーランド侵攻を承知で国益を優先し、ポー
ランドの東半分、リトアニアを除くバルト諸国やルーマニアの一部をナチス・ドイツと山
分けにしたソ連の拡張政策(それにフィンランドへの侵攻)は、火事場泥棒的行為との批
判を免れない。ソ連が秘密議定書の存在を戦後も長く否定し続け、50 年以上もたったソ連
崩壊直前にはじめて認めたこと自体、条約がいかに正当化できないものであったかを物語
っていた(いくら否定しても戦後ドイツサイドから明らかになっていた)
。
この事実は、人民戦線に結集し、反ファシズム運動に参加していた人々、国際主義やソ
連に理想を見ていた人々に深刻な衝撃を与えた。社会主義国ソ連は、崩壊 50 年前に、権力
外交の分野ではすでに「帝国主義国家」の仲間入りを果たしていたことを如実に示したので
ある。
《ドイツの北欧・ベルギー・オランダ・フランス征服》
半年間をおいた 1940 年 4 月 9 日の早朝、デンマークのユトランド半島はドイツと陸続き
であり、ドイツ陸軍部隊 2 個師団が侵入、また、ドイツ空軍の支援を受け、ユトランド半
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
島北端の飛行場があるオールボーへは空挺部隊の降下、首都コペンハーゲンにもドイツ軍
が進駐したことにより、開戦後 2 時間でデンマークは降伏した。
こうして北欧は図 63(図 15-67)のように、デンマーク、ノルウェーがドイツに征服さ
れ、スウェーデンが形式的に中立(親ドイツ)、バルト 3 国がソ連に侵略され、フィランド
がカレリア地域を割譲したが独立を守っているという状態になった。
このノルウェー侵攻の過程で,英独海軍の間で本格的な海戦が勃発し、ドイツ側の駆逐
艦隊が全滅する事態も発生し、ドイツ海軍力の弱さが暴露された。その結果、ヒトラーは
西部戦線での攻撃を本格化させ、イギリスを孤立させる必要性を痛感し、5 月 10 日、ドイ
ツ軍に西部戦線での本格的な攻勢を命令した。
ドイツ軍の主力であった A 軍団は、真ん中のベルギーとルクセンブルクの国境近くに広
がるアルデンヌの森林地帯を突破して、ソンム川沿いに一気にドーバー海峡をめざす作戦
に出た(図 63(図 15-67)参照)
。今回のドイツ戦車は少々の立ち木はへし折って森林を
突破するほど強力になっていたので、5 月 14 日にはセダン戦線を突破し、ドーバー海峡め
ざして突進していった。その結果、ベルギー方面に進出していた英仏連合軍は真ん中で分
断され、ベルギー地域が袋のねずみ状態になった。
5 月 19 日、ついにドイツ A 軍団の先頭を行く第 2 装甲師団がドーバー海峡に達し、連合
軍はフランス本土から切り離され、港湾都市ダンケルク周辺で完全に包囲された(図 63(図
15-67)参照)
。
新しく首相になったチャーチルは、5 月 27 日早朝、イギリスの大陸派遣軍とフランス軍、
あわせて約 35 万人をダンケルクから救出するよう命じた。イギリス国内から軍艦の他に民
間の漁船やヨット、はしけを含む、ありとあらゆる船舶を総動員した史上最大の撤退作戦
が開始された。この戦いにより、イギリス軍は約 3 万人の兵員を捕虜として失うとともに、
戦車や火砲、トラックといった重装備の大半の放棄を強いられたが、大半の兵は奇跡的に
ダンケルク脱出に成功した。
《イタリア参戦》
弱体だったイタリアは、開戦に際し中立を宣言、同盟国ドイツに対し、不即不離の態度
をとっていた。ドイツの優勢が明らかになると、ムッソリーニは 6 月 10 日、英仏に宣戦を
布告し、アルプス戦線でフランスへの攻撃を開始した。漁夫の利を得ようとフランス降伏
12 日前に参戦したので、ムッソリーニは、
「死の床の重病人に宣戦布告した」と批判された。
《パリ陥落、フランス降伏》
その後のフランスは、残存部隊やマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の部隊で防衛する
しかなかったが、フランス軍はダンケルク撤退以後、雪崩を打ったように崩壊が進み、と
うとう立ち直ることができなかった。
ダンケルク包囲網を解いて、ドイツ軍が怒涛のようにパリにむかって進撃を開始すると、
フランス政府は 6 月 10 日にパリを無防備都市と宣言して放棄し、
政府をボルドーに移した。
同日、前述のようにイタリアが英仏に対し宣戦を布告した。
229
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
6 月 14 日にはドイツ軍がパリに無血入城した。
南西部のボルドーに避難したフランス政府内では戦争続行か停戦かの議論が闘わされた。
レノー首相、マンデル内相、ドゴール陸軍次官らは無傷の海外領土や海軍に依拠して戦争
の続行を主張したが、ペタン副首相などの多数派は民間人の安全を確保するため、休戦を
主張した。結局、レノーに代って第 1 次世界大戦の英雄である 84 歳のペタン元帥が首相に
就任し、6 月 21 日に講和(降伏)を申し込み、翌 22 日に受諾された(5 月 10 日の戦闘開
始から 40 日ばかりで降伏したことになる)
。
7月初めにベルリンに凱旋したヒトラーは国民から大歓迎を受けた。それまではヒトラ
ーの野望に批判的であり、伍長あがり(第 1 次世界大戦時のヒトラーの軍歴)のヒトラー
の軍事戦略に内心懐疑的であった国防軍の首脳もヒトラーを「軍事の天才」と賞賛するよ
うになった。
このたびの西部戦線での戦闘で英仏連合軍は 13 万 5000 人もの戦死者を出したのに対し
て、ドイツ側の死者は 2 万 7000 人にすぎず、今や北欧ではノルウェーとデンマークが,西
欧ではオランダ、ベルギー、フランスが降伏した結果、図 63(図 15-67)のように、ソ
連を除くヨーロッパ大陸におけるドイツの圧倒的な優位は誰の目にも明らかであった。
《ドイツ電撃戦の威力》
このたびのフランス征服を成功させたのは、なによりもドイツの軍事理論と作戦及び戦
術能力の高さだった。このとき、規模は大きいが組織力に劣る連合国軍の歩兵大隊と機甲
師団は、ドイツのグーデリアンの戦車隊と機械化兵団に蹴散らされてしまったのである。
グーデリアン(1888~1954 年)は、電撃作戦の生みの親(発案と部隊育成)であり、そ
れを実践(実戦部隊の指揮)した野戦軍指揮官でもあった。彼の構想は戦車を主力兵器と
しつつも、戦車を歩兵の代わりにしようというのではなく、戦車にトラック・オートバイ・
装甲兵員輸送車により機動力を高めた歩兵および従来の砲兵よりも機動性の高い爆撃機に
よる火力支援等を組み合わせ、敵の強点ではなく弱点に対する電撃的な集中力と突破力の
発揮を目指したものであった。第 2 次世界大戦の緒戦の大勝利はこの電撃戦によるものだ
った。
このようにあらゆる戦闘で、攻撃側は優勢な空軍力を十分に活用することができた。こ
の点が第 1 次世界大戦の 1914 年から 16 年にかけての戦いとは異なっていた(今次大戦で
は矛の技術、つまり、戦車や航空機が強力になり、楯、つまり、塹壕では防げなくなった。
塹壕は簡単に突破された。それに思いがいたらなかったフランス軍部は貴重な戦争初期の
半年間以上をマジノ線で無駄な塹壕掘りをやっていたのである)
。
グーデリアンの編み出した戦車部隊の集中運用と航空支援に基づく電撃戦は、ポーラン
ド、フランスに続いて、のちにユーゴスラビア、独ソ戦緒戦にもドイツに大勝利をもたら
すことになる。
1939 年から 40 年にかけて決定的な勝利をおさめたドイツ軍は、石油および原料の供給源
を大幅に拡大することができた。まず、打ち破った敵の物資を思う存分に略奪することが
230
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
できた。実際に略奪したばかりでなく、フランスとイギリスの機先を制して大規模な軍事
行動を封じたために、ドイツ軍は当初予定していた資源を投入して大規模な戦いを展開す
る必要がなくなったのである。また、このフランス征服によって、陸地づたいにスペイン
(中立)の原料を輸送する道が開かれ、スウェーデン(中立)の鉄鉱石の輸送にあたって
も連合国側の攻撃を受ける心配がなくなった。
《イギリスの戦い(バトル・オブ・ブリテン)
》
次はイギリスだった。今やイギリスは孤立していた。ヒトラーは、イギリスが戦争の続
行を断念すると期待していた。しかし、1940 年 5 月、保守党・労働党の挙国一致内閣を組
織した首相のチャーチルは 6 月 14 日のラジオ演説で、大英帝国は断固として戦い続ける覚
悟で、人員と資源を総動員して戦時体制に入ると宣言した。チャーチルの非妥協的な姿勢
に激怒したヒトラーはイギリス本土への空爆とイギリス上陸作戦の準備を命令した。
イギリスは、1940 年には航空機と戦車の製造ではドイツを凌駕していた(表 7(表 15-11)
参照)
。しかし、イギリス自体の金やドルの準備高は不十分で、アメリカから供給された物
資の支払いには足りなかったが、ルーズベルト大統領は中立法を骨抜きにするとともに、
議会に働きかけてイギリスを支持することがアメリカ自体の安全保障につながると説得し、
武器貸与法を可決させ、
「基地の設置と交換に駆逐艦を提供」する取り決めをして、実質、
アメリカは中立をこえて、イギリスへの船団護送に踏み切っていた。その結果、主たる交
戦国はどちらも相手に決定的な損害を与えることができなくなった。
表 7(表 15-11) 大国の航空機の生産(1939~45 年)
ポール・ケネディ『大国の興亡』
ナポレオン戦争の時も、第 1 次世界大戦のときも、イギリス本土占領の困難さは圧倒的
に優位にあるイギリス海軍をさしおいて上陸することの困難さであった。図 62(図 15-69。
P225)のように、海軍力については、このたびも同じ状況にあった。ただ、日進月歩の航
空機時代に入っていた今次大戦では、図 62(図 15-69)のように、フランスが降伏した今
ではドイツがイギリスに空軍力で大きく優っているのは明らかだった。
231
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
結局、島国であるイギリスにドイツ軍が上陸可能になるためには制空権の確保が不可欠
であったため、1940 年 7 月 10 日以来、イギリスとドイツの間では「バトル・オブ・ブリテン」
(ブリテンの戦い)と呼ばれる空軍中心の激しい戦闘が展開されることになった。
第 2 次世界大戦は戦争技術開発の戦いでもあった。イギリスは,いち早く近代的なレー
ダーを開発し、レーダー網を活用した要撃体制を構築した。このレーダーの効果は大きか
った。実際、ドイツ空軍とイギリス空軍の 7 月中に行われた空中戦の損失割合は概ね 2 対 1
で、ドイツ空軍には爆撃機や偵察機が多数含まれるものの、イギリス空軍の戦闘機軍団が
善戦した。
結局、8 月から 9 月にかけての空中戦でイギリス側が 723 機を失ったのに対して、ドイツ
側は 1244 機も失い、ドイツは制空権を奪うことはできなかった。バトル・オブ・ブリテン
はイギリスの勝利となった。
イギリス本土への上陸作戦は中止されたものの、その後のドイツ側はイギリス側の抗戦
能力や抗戦意欲を削ぐため、爆撃機による軍需工場や都市への無差別爆撃は増加させてい
った。ドーバー海峡上空での戦闘はその後 3 年継続し、両軍とも新型機を繰り出して、制
空権の確保と両軍支配地域への攻撃にしのぎを削った。
1941 年 12 月のアメリカ参戦により 1942 年以降、アメリカ空軍のドイツ本土への昼間空
襲が増加し、ドイツ空軍は本土防空に専念し、ドーバー海峡上空の航空戦は終焉した。
《バルカン半島の戦い(ユーゴスラビア、ギリシャ、クレタ征服)
》
イギリス攻略に失敗したヒトラーは対ソ戦を考えるようになった(ちょうど 100 年前の
ナポレオンもイギリス上陸作戦に失敗するとロシア遠征を考えるようになった)
。その前に、
ヒトラーは、歴史的にソ連(ロシア)との関係が深いバルカン半島を押さえておく必要が
あると考え、バルカン半島の戦い(1940 年 10 月 28 日 ~1941 年 5 月 29 日)を行った。
もともとドイツは日独伊三国同盟の際、「軍事顧問団」と称する部隊を送り込み、半強制
的にルーマニア、ハンガリーを枢軸国(三国同盟)に加盟させていた。さらにソ連のブル
ガリアでの行動を警戒していたドイツは、1941 年 3 月 1 日ルーマニアからブルガリア首都
ソフィアに武力進駐し、三国同盟に参加させた。
ヒトラーは、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアに次いでユーゴスラビアに対し、日
独伊三国軍事同盟へ参加するよう圧力をかけていた。ユーゴスラビアの摂政パヴレは 1941
年 3 月 25 日にこの圧力に屈したが、3 月 27 日に反枢軸のセルビア人の陸軍士官達によって
クーデターが引き起こされ、摂政パヴレは失脚し国王ペータル 2 世による親政となった。
このため、バルバロッサ作戦(対ソ戦)を控えていたヒトラーはバルカンの不安定化に
より、遠征の際に後方を脅かされかねないと考え、バルバロッサ作戦を延期して(当初、5
月中旬に開戦しようと考えていた)
、バルカンへ軍事介入を行うことを決断した。
4 月 6 日、ドイツ空軍はベオグラードを爆撃し、枢軸軍はあらゆる方面からユーゴスラヴ
ィアに侵攻を開始し、ユーゴスラビアは僅か 11 日で降伏した。ユーゴスラビア軍の死者は
数千人を数え、ドイツ軍は 25 万 4000 人から 34 万 5000 人ものユーゴスラビア人捕虜を捕
232
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
らえた。イタリア軍は 3 万人の捕虜を得た。占領後の統治はクロアチア主導で行われ、秘
密警察を設置、反政府セルビア人を弾圧した。以後、山岳部でチトーがゲリラ戦を挑み対
独抵抗を継続した。
ユーゴスラビアを下したドイツ軍は 4 月 10 日、そのままギリシャ本土とエーゲ海島嶼部
へ軍を進めた。ドイツ軍とイタリア軍に挟撃されたイギリス軍とギリシャ軍は総崩れとな
り、4 月 27 日首都アテネが陥落し、4 月 30 日にはペロポネソス半島から戦車など重機材を
遺棄してクレタ島へ撤退し、ギリシャ本土はドイツ・イタリア両軍の共同統治下に置かれ
た(図 63(図 15-67。P226)参照)
。
ドイツにとってクレタ島の奪取は戦略的に重要であった(図 63(図 15-67)参照)。東
地中海で活動するイギリス地中海艦隊の重要な港となっているだけでなく、クレタ島に駐
留する連合軍の航空機は、枢軸国側のルーマニアの油田地帯をその航続範囲内におさめ、
これに対する脅威となっていた。さらにドイツにとっては独ソ戦を開始するにあたり、東
地中海の安全を確保しておくことは必要不可欠であった。
クレタ島周辺の制海権はイギリス海軍が握っており、制空権は枢軸国側にあったことか
ら、クレタ島への第一波攻撃は空から攻撃・占領するという空挺作戦がとられた。5 月 20
日、ドイツ軍はクレタ島へ大規模な空挺部隊を降下させ、大損害を被りながらも侵攻から
10 日後、クレタ島全域を占領した。クレタ島を掌握したことで不安要因を取り除いたヒト
ラーは、ひと月にも満たない 6 月 22 日ソ連侵攻に踏み切った。
《バルバロッサ作戦(独ソ戦)の開始》
1941 年 6 月 22 日(奇しくもナポレオンのロシア侵入と同じ日であった)午前 3 時 15 分
ごろ、ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を破り、図 63(図 15-67)のように、北はフィン
ランドから南は黒海に至る線から、ドイツ軍は全線いっせいに対ソ侵攻作戦・バルバロッ
サ作戦を開始した。ドイツ側の兵力は 152 個師団(約 300 万人)、戦車 3648 輛、航空機 2500
機にも達し、ドイツ軍が過去に投入した最大規模のものであった(もちろん,史上最大の
作戦であった)
。しかも、ドイツ軍のほかに、ルーマニア、フィンランド、ハンガリー、ス
ロバキアの軍隊(合計 60 万人)が加わり、3 方向に分れて攻撃を開始した。
ドイツは古来、西のイギリス、フランス、東のロシアから同時に攻められる両面作戦を
最も警戒し、ビスマルク、モルトケの時代から、シュリーフェン作戦を練って、それを避
けようとしてきた。ヒトラーは、独ソ不可侵条約を結んで、うまく両面作戦回避に成功し
ていながら、あえて自分から両面作戦(イギリスは決して降伏はしていない)を選んでし
まったことはどうしてだろうか。
ヒトラーは、著書『我が闘争』の中でも、ドイツ人がより広い生存圏を必要とし、それ
を東方に求めることを明らかにしていた。ヒトラーはスラブ人を劣等人種と見なしており
(ユダヤ人に対してもそうだったが、ヒトラーにはロシア人とユダヤ人はダブって考えて
いるところがあった。いずれにしても全く非科学的な理論であったが)、スラブ人が住む東
ヨーロッパの広大な土地から彼らを放逐して、そこにドイツ人の植民地をつくることが生
233
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
きる道だと述べていた。
だが、ヒトラーは、1939 年、ポーランド侵攻の直前にソ連と独ソ不可侵条約を締結した。
互いを敵視していたはずの独ソの条約締結は世界を驚かせた。しかし、ヒトラーにとって
この条約はイギリス、フランスを片づける間、東から背後を突かれないための一時的な保
険に過ぎないと思っていた(また、ドイツからソ連を突かなくても、いずれスターリンは
軍備が整えばドイツを突いてくると考えていた)
。彼は信念から真の敵はソ連であるという
確信は全く変えていなかったのである。
《絶滅戦としての対ソ戦》
それは、ヒトラーが開戦の約 2 ヶ月前に国防軍の将校を集めて、次のように言ったこと
からもわかる。
「ロシアに対するわれわれの任務、それは軍を粉砕し,国家を解体する、こ
れは 2 つの世界観の間の戦いである。ロシアの人民委員や GPU(取り締まり機関)の連中は
犯罪人であり、それなりに取り扱わなければならない。この戦いは西部(戦線)でのそれ
と極めて異なる。東部では苛酷なことが将来に対して寛大なことなのだ」と言って、親衛
隊全国指導者のヒムラーを長として、占領地区の人種的・政治的に「望ましくない分子」を
抹殺するための行動部隊を組織させた。つまり、東部戦線での戦いは西部戦線とはまった
く異なって、最初から「絶滅戦」の様相を呈していた。戦闘部隊のあとに続いて、ヒムラ
ーが組織した絶滅部隊が、絶滅行動をとって続いたのである。
この時点で、すでにポーランド占領の際に 300 万人ものユダヤ人の管理(後述)に直面
したナチス指導部としては、対ソ戦にあたって予想される多数のユダヤ人捕虜の扱いも問
題になった。
「ユダヤ人は人類の災厄(さいやく)である。ソ連という天国におけるように、
ユダヤ人を自由にさせておいたから、ソ連は人類に対するペストの温床となったのだ。ヨ
ーロッパにおけるユダヤ人がいなくなった時こそ,ヨーロッパ諸国の協調が妨げられなく
なるであろう」と言っているように、ヒトラーにとって反ソ主義と反ユダヤ主義は重なる
部分があった。
その上、ドイツ軍は食糧の現地調達主義をとったため、ソ連の一般民衆に大量の犠牲者
が発生したし(一般民衆に余裕食糧があるわけはないので現地調達=掠奪は即飢餓を意味
した。ナポレオンも現地調達主義だった)
、ソ連兵の捕虜には満足な食糧も与えられず,1941
年 12 月初めまでに限っても 140 万人もの餓死者が出たといわれている。また、ヒムラーが
指揮した行動部隊によって抹殺されたユダヤ人は独ソ戦全体を通じて総計 220 万人にも達
したと推定されている。
さらに、この独ソ戦の戦場におけるユダヤ人やスラブ人に対する民族偏見に基づく虐殺
行為の延長上に,収容所内のユダヤ人に対する「最終的解決」が生じてきたのである。つま
り、1941 年 7 月に(独ソ戦がはじまってすぐ)
、ゲーリングからユダヤ人問題の全面解決準
備全権に任命されたハイドリヒは、1942 年 1 月 20 日に、ベルリン郊外のヴァンゼーで会議
を召集し、収容所での「労働不能なユダヤ人の殺害」を決定したのであるが、その方法は
この独ソ戦開始半年間の絶滅部隊の経験から編み出されたのである。
234
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ユダヤ人問題については後述するが、要は独裁者ヒトラーの誤った信念、反スラブ・反
ユダヤ主義がこのバルバロッサ作戦に最初から組み込まれていて、ドイツ軍のソ連侵攻の
後方を行くヒムラー部隊が、220 万人のユダヤ人(あるいはスラブ人)を虐殺していったと
いう未だかつてなかった異常な戦争であった(つまり、独ソ戦開始ででホロコーストは始
まっていたのである)
。そして、その経験から(大量の人間を機械的に、つまり射殺や生き
埋めで絶滅させることは容易なことではないという経験)
、もっと効率的に絶滅させる方法
を考えろと言われて技術者が考えたのが、これまた未だかつてなかったガス室だったので
ある(つまり、ガス室のアイデアは独ソ戦開始のあとである)。
《いつ独ソ戦を始めるかだった》
このように狂気の信念に固まったヒトラーは最初から独ソ戦をやるつもりだった。問題
は,いつ開戦するかにすぎなかった。
1940 年、ドイツ軍は西方でフランスを瓦解させたが、バトル・オブ・ブリテンには敗北
し、イギリスを屈服させることはできなかった。そこでヒトラーは、海軍力が劣勢である
からやむを得ないが、陸上であれば勝てる、イギリスは後回しにして、大陸の方を先に片
付けようと考えはじめた。ナポレオンもそう考えたが、ナポレオンは敗れた。ナポレオン
と自分はちがう。ここでヒトラーはドイツの電撃作戦部隊を過大に考えたようである。ポ
ーランド、北欧、ベネルックス、フランス、バルカン半島での電撃戦で確信をもった。こ
れなら、ソ連の装備が整っていない今なら半年で倒せる。自分はナポレオンができなかっ
たことをやりとげると。
しかも、1940 年後半に入ると,東欧諸国をめぐって独ソの対立が目立つようになってい
った。それは、ドイツが西部戦線に没頭している間隙をついてソ連が第 1 次世界大戦時に
失っていた領土の回復にはしったためであった(ロシアでは第 1 次世界大戦の最中の 1917
年にレーニンのロシア革命が起き、ロシアが持っていた広大な領土が失われた)
。ルーマニ
アのベッサラビアと北ブロヴィナ、バルト 3 国などであった。それに対してドイツの方も
フィンランドに駐留し、また、ルーマニアでアントネクスを首班とする独裁体制の樹立を
援助し、ドイツ軍を進駐させたため、(ヒトラーからすると、なまいきにも)ソ連は不快感
を表明した。
ヒトラーは、ソ連側が要求したフィンランドからのドイツ軍の撤退や、ソ連とブルガリ
アとの相互援助条約の締結などの要求に対して賛成しなかった。ヒトラーからすれば、な
まいきにもソ連は北欧だけでなくバルカンも半分とろうとしていると。ソ連からすれば、
両方とも歴史的にはソ連(ロシア)の範疇でドイツの範疇ではないだろうと。このように、
独ソの溝はしだいに大きくなっていっていた。ここでヒトラーの心は決まった。ヒトラー
は 1940 年 12 月 18 日には、半年後の翌年 5 月 15 日までに対ソ戦の準備を完了するように
指示した「バルバロッサ作戦」命令に署名した。
このように独ソの対立は激化していっていたが、秘密裏に対ソ戦を準備していたドイツ
の作戦は同盟国の日本にはまったく知らされず(日独伊は三国同盟を結んでいた)、日本は
235
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
引き続きソ連との中立条約の締結の交渉を進めていた(日ソ中立条約についてはドイツを
仲介としてはじまったのであるから、もちろん、ヒトラーは知っていた。しかし、ヒトラ
ーは日本など期待しなくても、年内にソ連をかたずけられるとたかをくくっていたのだろ
う)
。ソ連側は、最初は日ソ中立条約には乗り気でなかったが、ドイツとの雲行きが怪しく
なると、独日両国からの挟撃を避けたい意図が強まり、一転して 1941 年 4 月 13 日に調印
に踏み切った。
このように三国同盟は同盟とはいいながら、相互の勢力圏を承認しあっただけで、共通
の作戦や共同の司令部の創設まで予定するものではなかった。それはファッシズムやナチ
ズムがその思想の中核に極端な(排他的・人種偏見的)ナショナリズムを内包していたため、
それぞれの国家利益を超えた共通理念(つまり、表に出して言えるような大義名分、人類
の普遍的理念を何ももたない反人類的目的の集団だった)を提示することが困難であった
からでもあった。
それに対して,後述するように、1941 年 8 月に米英の両首脳が「大西洋憲章」の中で戦
争目的として領土不拡大や民族自決権などの人類の普遍的理念を提起し、アメリカ合衆国
の参戦後には米英間に共通司令部まで設定して、枢軸国に対する戦闘を調整していったの
とは対照的であった。
《ヒトラーの対ソ奇襲の成功》
ヒトラーとドイツ軍指導部は、攻撃・占拠目標としてソ連の特定の地方および大都市を
割り当てた。まず、図 63(図 15-67。P226)のように、フォン・レープ将軍が指揮する北
方軍団がバルト 3 国を通過して北ロシアへ侵入し、レニングラード(現サンクトペテルブ
ルク)の占領もしくは破壊を目標とした。
次いでフォン・ボック将軍が指揮する中央軍団が、現在のベラルーシのミンスクからロ
シアの中西部を進軍し、スモレンスクを経てモスクワへの直接攻撃が目標となった。
フォン・ルントシュテット将軍が指揮する南方軍団が、ソ連最大の穀倉地帯であり、一
大工業地帯でもある人口密度の高いウクライナ地域を攻撃、キエフを攻略し、南ロシアの
草原を抜け東方のヴォルガ川、カフカスまで進軍するように計画を整えていた。ドイツ軍
の計画は最終的にはアルハンゲリスクからヴォルガ河口のアストラハンをつなぐ線まで進
出するものであった。
迎え撃つソ連軍は国境地帯を中心に 149 個師団(290 万人)
、戦車 1 万 5000 輛、航空機
8000 機を配置し、兵力はほぼ同等であったものの、戦車や空軍力では数の上ではむしろド
イツ軍を圧倒していたが、旧式が主であった。しかも、まったく不意打ちを受けた形とな
り、初日だけで 1800 機もの飛行機が失われた。
緒戦はまったくドイツ側の圧倒的優位のうちに推移し、最初の 3 週間でソ連軍はドイツ
北方軍団にリトアニアとラトビアの全域、エストニアの一部、中央軍団に白ロシア(現在
のベラルーシ)
、南方軍団にモルダヴィア、ウクライナのほぼ全域を明け渡し、ドイツ軍は
すでにレニングラードとキエフの近郊まで迫っていた。
236
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
7 月 3 日、開戦後初めてスターリンがラジオを通じて国民に直接語りかけ、この戦争を「大
祖国戦争」と呼んで,国民の愛国主義に基づく抗戦を訴えた。また、後退に際して一切の
利敵物を破壊する「焦土作戦」を命令し(ナポレオン戦争のときにもとられた)
、徹底抗戦
の姿勢を示した。
しかし、戦局は依然としてソ連側に不利であった。ソ連軍(赤軍)の前線部隊は混乱し、
膨大な数の戦死者、捕虜を出し敗北を重ねた。ドイツ軍は 7 月 16 日にスモレンスクを落と
し、9 月 8 日にはレニングラードを包囲し,19 日にはキエフを陥落させた。キエフでは 65
万人を超える捕虜が出たが、その多くはナチの強制収容所で死ぬことになった。
バルト海地域とレニングラードの占領が目的だった北方軍団は 1941 年 8 月までにレニン
グラードの南部周辺へ進軍したが、猛烈な赤軍の抵抗に阻まれた。ドイツ軍は装甲部隊が
レニングラードで市街戦に巻き込まれることを恐れ、第 4 装甲集団をモスクワ攻撃強化の
ため中央軍団に転属させ、レニングラードでは包囲と封鎖によって補給を絶つことを決定
した(兵糧攻めにした)
。しかし、結局、1944 年前半のドイツ軍の撤退まで多大な損害を出
しながらレニングラードは持ちこたえた。
そして 10 月 2 日には首都モスクワへの攻撃が始まり、国家防衛委員会は 10 月 15 日に首
都をモスクワ東方 960 キロのクイブイシェフに移す決定を余儀なくされた。それでもスタ
ーリンはモスクワに留まり、抗戦の指揮をとり続け、国民の抵抗を鼓舞した。
また、前述したナチス・ドイツ軍のスラブ人やユダヤ人に対する異常とも言える残虐行
為・絶滅作戦は、逆にソ連赤軍の戦意を高めただけでなく、一般のソ連国民の間にもドイツ
軍に対する報復感情が高まり、多くがパルチザンに加わるなどして、いやがうえにもソ連
の抗戦力を高めていった。
一方、
(冬将軍が迫った 10 月 2 日からのモスクワ攻撃開始など、予想以上に苦戦した)
ドイツは日本に対し、東から対ソ攻撃を行うよう働きかけたが、前述のように日本は独ソ
戦開始前の 1941 年 4 月 13 日には日ソ中立条約を締結し、「南進」に舵を切ってしまってい
た。日ソ中立条約で日本政府はソ連の脅威を回避し(独ソ不可侵条約により独ソ戦は起き
ないと信じ込んで)
、南方の資源確保を目指して、東南アジア・太平洋方面進出を決め、対
ソ参戦を断念していた。東京の諜報員ゾルゲはこの日本の対ソ戦放棄という決定的な極秘
情報をモスクワに送った(10 月 4 日付のゾルゲからの東京情報は、日本は南進を決定、日
本軍の極東ソ連への侵攻計画なしと伝えた)
。
今度はスターリンもゾルゲ情報を信じて、満州国境に張り付けられていたソ連軍精鋭を
ヨーロッパに振り向ける決定をした。
《米・英・ソ同盟の形成》
独ソ戦の開始は孤立した戦いを余儀なくされていたイギリスには僥倖(ぎょうこう)で
あった。チャーチルは7月7日にスターリンに親書を送り、ソ連に対する援助を提案する
とともに、ドイツの諸都市を空爆することでドイツ軍を牽制する意向を示した。実際、8 月
からはドイツ空軍の襲撃を避けながら、北極海・バレンツ海に面したムルマンスク経由で
237
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
イギリスの援助物資がソ連に送り込まれるようになった。
ルーズベルト大統領も開戦後ただちにソ連に武器貸与法の適用を決定したが、ソ連の持
久力には確信がなかったので、7 月末、腹心のホプキンス(対外折衝の補佐官的役割を果た
した人物)をモスクワに派遣した。ホプキンスはスターリンから,ドイツ軍が広大なロシ
アに展開し、伸びきった連絡線を守りきるのは不可能で、そこをたたく、
「高射砲とアルミ
ニウム(航空機用材料)とを与えてください、そうすれば 3,4 年間戦うことができます」
と聞き、ソ連には持久戦に堪えられる意思と能力があるとルーズベルトに報告した。
ルーズベルトはソ連がこの冬の到来まで持ちこたえられれば、ヒトラーを破る見込みが
出てくると考えて、8 月 30 日、陸海軍長官に対してソ連へのあらゆる軍事物資を供給する
準備を命じた。そして、9 月 28 日には、米英の代表がモスクワで、ソ連に対して優先的に
アルミニウム、戦車、航空機を供給することで合意した。
このようにして米英ソ 3 国間には事実上の「大同盟」が形成されつつあった。アメリカ
合衆国はまだ参戦前であったが、前述したように膨大な軍事物資を英ソ(中国にも)へ供
与して、事実上、連合国の戦闘を支えている状態になっていった。あとはどうやって正式
に参戦するかだった。
《第 2 次世界大戦の転機》
(歴史には「もし」は禁物といわれるが、「もし、日本がこのとき、真珠湾ではなくソ連を突
いていたら歴史はどうなっていたか」という仮説をよく聞く)現実には、この 1941 年末に、
スターリンはこの恐るべき日独からの両面戦争に突入することはなく(つまり、日本軍は
南進し、対米英戦に突入した)
、よく訓練されていて冬に強い師団をシベリアから移動させ
てドイツ軍に反攻を加え、ついに押しもどすことに成功したのである。
1941 年 12 月 8 日に日本軍がハワイの真珠湾を攻撃し太平洋戦争がはじまって、いまや全
世界を巻き込む戦いとなった。これは第 2 次世界大戦の転機であった。この転機はことの
成り行きでなったのか、誰かが意識的にやらせたのか。後述するように、その前の 11 月に
ワシントンで日米の最終的な和平交渉が行なわれていたが、ある朝(11 月 26 日)
、突然、
(それまで日本と交渉を継続していたアメリカが)とても日本が飲めないようなハル・ノ
ートを示したため交渉は決裂した(日本の戦争で述べる)
。この決裂に追い込んだ男がポイ
ントである。やはり、世界は連動して動いていたのである。ヒトラーだけで、ヒトラーの
思いだけで世界を動かせない時代に入っていたのである。同じ月にモスクワでソ連が反撃
に転じて、少なくともドイツの対ソ電撃戦が失敗したことが裏書きされた。
ドイツの強みは、限られた範囲で(空と陸で)奇襲作戦を敢行して敵の弱点を(鋭い矛
先で)圧倒し、補給が枯渇しはじめて戦力が低下しないうちに勝敗を決するところにあっ
た。ドイツの電撃戦は矛の威力が鈍ると防御のしようがなく(たとえば、石油が切れれば
お手上げだ)
、つまり、楯がなく、敗れる、これがヒトラーにわかっていなかった。彼は意
地で(感情で)その場を死守させ、独軍は自滅へと追い込まれることになる。
このバルバロッサ作戦もその前半の目覚ましい戦いぶりとは対照的に、その後の補給お
238
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
よび増強体制はまったくお粗末だった。とりわけ道路が整備されていなかったうえに、冬
季の戦いの準備がまったくできていなかった。ドイツの予想では戦いは 3 ヶ月以内に決着
がつくはずだったし、つけねばならなかったはずである。鋭い矛先でモスクワとかカフカ
スの石油とかに的を絞ってやれば成功していただろう。どんな装備の軍隊でも 3 ヶ月とい
う期間ではせいぜいそれぐらいしかできないはずだった。それをヒトラーは 3 方面からあ
の広大なソ連をすべてとろうとしたのである。つまり、ヒトラーは単なる野心的な独裁者
(政治家)で、本当の戦争、軍略、軍隊がわかる戦略家ではなかったのである(焦点を絞
るべきだと最初からドイツ軍首脳は主張していたが、ヒトラーが押し切った)。
戦略的には、ドイツはいまやいくつかの戦線で同時に戦いを進めなければならなくなり、
第 1 次世界大戦のときと同じジレンマに自らおちいった。しかし、規模は今回がはるかに
大きく、ドイツ軍はソ連内だけでも大きく 3 方面で戦っていた。アフリカでも、ヨーロッ
パでもイギリスと戦っていた。これは、とりわけドイツ空軍にとっては大きな負担となっ
た。飛行大隊は西部戦線、東部戦線、地中海と広く薄く配備されることになった。図 63(図
15-67。P226)において、ドイツはどこも手をぬくことができなくなった。イタリアは手
間取りにしかならなくなった(イタリアはアフリカ戦線でもバルカン半島でも敗北ばかり
していた)
。
しかし、なにより言えることは、広大なソ連領に何百マイルも(3 方向から全面的に)攻
め入った結果(勢力が分散されることは当然予想されていたのに)、戦場の地理的な広がり
による消耗と兵站にかかる負担によって、ドイツ軍の最大の利点(弱点を一気につく電撃
作戦)が失われてしまったということである。
たしかに今までは戦場ではドイツ軍が華々しい勝利をおさめていた。スターリンは差し
せまったドイツの攻勢を前に、効果的な戦力配備ができず、戦いの最初の 4 ヶ月間に 300
万のロシア人が殺され、あるいは捕虜になった。しかし、ソ連は多大の人的および物的損
害をこうむり、何百平方マイルもの土地を明け渡しながら、なおも敗北しなかった。
12 月 8 日に日本軍が真珠湾を攻撃し太平洋戦争を起こしたまさにその時に、1941 年 12
月にソ連軍はモスクワで反撃に転じて、少なくともドイツの電撃戦が失敗し、第 2 次世界
大戦は転機を迎えた。スターリンとその幕僚はモスクワを中心に最初の反攻を開始した。
赤軍はまだ 420 万の野戦部隊を擁し、戦車と航空機の数ではドイツ軍を上まわっていた。
赤軍は陸でも空でも戦闘技術の点でドイツ軍と互角というわけにはいかなかった。1944 年
なってもドイツ兵 1 人に対して 5 人ないし 6 人のソ連兵が戦死していた。要するにソ連は
ヒトラーの想像をこえた国だったといえよう。それほど膨大な資源と人材を持った国だっ
た。これは際限のない戦いで、ドイツは個々の戦闘に勝利をおさめ、優れた作戦を展開し
ようとも、最後まで戦いぬくだけの力はもたなかったのである(このころ、スケールは異
なるが日本軍も中国の果てしなき戦線でお手上げになっていたが。中国も日本軍の想像を
こえた国であったのだ。日本も冷静にその現実を見ることなく、勝算もなく目先を太平洋
に転じただけだった)
。
239
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《モスクワ攻防戦》
ドイツ軍の進軍は 12 月初旬についに停止した。西方正面ではドイツ軍第 4 装甲集団がク
レムリンから 25 キロメートルの地点のモスクワ郊外にまで達し、前衛部隊はクレムリンの
尖塔を眺める位置にあった(8 キロ)
。しかし、例年よりも早く冬が到来しドイツ軍の進撃
は完全に停止した。気温が零下 20 度以下にまで下がり、ドイツ軍の戦闘車両や火器は寒冷
のため使用不能に陥った。ドイツ軍には兵士の防寒装備も冬季用のオイルも不足しており、
車両や航空機も満足に動かせない状態となった。医療品の不足から凍傷にかかる兵士が続
出した。食糧もなかった。
ドイツ空軍はソ連のモスクワ防衛の要衝・イストラを占領していたが、ソ連空軍の猛爆
撃が始まり、制空権はソ連側にあった。10 月 25 日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出
撃不能となった。空からの救援物資の補給は断たれていた。スターリンが急遽、ソ満国境
に配備された冬季装備の充実した精鋭部隊を移送するよう命令を出していたが、それがモ
スクワ防衛に間に合って新たに加わってきた。
満足な冬季戦用の装備もなく、補給も不十分なままに各戦線で停止したドイツ軍に対し
て、赤軍の総攻撃が開始された。ドイツ軍は戦うことよりも自分の生命を守ることを優先
するほどであり、退却を重ねた。ソ連軍はドイツ軍を 150 キロ以上も撃退した。ドイツ軍
は開戦以来、かつてない深刻な敗北を喫した。12 月 5 日、モスクワ攻略の続行不可能が明
白となり、ヒトラーは 35 人の将軍を更迭した。
ヒトラーが狙っていた首都モスクワ攻略によってソ連を屈服させることは、不可能とな
ってしまった。また、短期決戦を想定して戦いに挑んだドイツ軍の戦力は大幅に低下し、
この後、ついに作戦開始時の戦力を取り戻すことはなかった。今後の戦いは大戦力による
奇襲はありえず、長期戦・持久戦になることを意味していた。
《1942 年から攻守逆転した東部戦線(独ソ戦)
》
1941 年 12 月 8 日は日本が太平洋戦争を起こして、日本→米英蘭戦、独伊→米戦がはじま
り、第 2 次世界大戦は文字通り世界中に戦火が及ぶことになったが、まさにその 12 月、ヒ
トラーはモスクワ攻防戦に破れ、はじめての退却をよぎなくされていた。ドイツの以後の
戦いは、ときどき攻勢をかけることもあったが、図 65(図 15-72)のように、基本的には
守勢で後退の一途をたどるようになった。
1941 年 12 月に戦争を開始した日本も後述するように、半年間は計画通りの作戦を続け、
インドネシアの油田地帯の占領には成功したが、1942 年 6 月のミッドウェー海戦に敗北す
ると以後、ほとんどの戦争に敗北していった。
そのような意味で 1941 年 12 月は第 2 次世界大戦の転機であった。
《スターリングラードの戦い》
1942 年 4 月以降になると、
(モスクワ攻勢で敗退し)独ソ戦を短期に終わらせることに失
敗したヒトラーは、北方軍集団はレニングラード包囲を継続し、中央軍集団はルジェフ付
近での現状維持に努めるとし、南方軍集団は資源地帯であるソ連南部へ進出して、長期戦
240
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
に備えるためカフカス油田地帯を確保し、また黒海の制海権を握ってトルコを枢軸国側に
引き込むことも狙った。この 1942 年夏から 1942 年初冬にかけてのドイツ軍・ルーマニア
軍・イタリア軍のソ連南部への攻勢はブラウ(青という意味)作戦といわれた。
図 65(図 15-72) 第 2 次世界大戦中のヨーロッパ(2)
(連合国の反撃)
しかし、ここでもドイツ軍の将軍達、とくにフランツ・ハルダー参謀総長は補給路と戦
力の分散を懸念して石油地帯のバクー(図 65(図 15-72)参照)だけを目標とするよう主
張したが、ヒトラーは絶対の自信を持ってバクーとスターリングラード(現在のヴォルゴ
グラード。図 65(図 15-72)参照)の両方を奪うという作戦を決定した(スターリングラ
ードを奪う意味はあまりなくヒトラーの面子だけだった)。
しかし、結局、2 兎を追ったヒトラーは虻蜂取らずになり、スターリングラードの攻防に
追い込まれていった。
ドイツ軍は、1942 年 8 月 21 日にはクレツスカヤ付近でドン川を渡りスターリングラード
攻防戦が始まった(図 65(図 15-72)参照)
。8 月 23 日、情報を与えられていなかったスタ
ーリングラード市民は通常と同じように平穏な日曜日の朝を迎えたが、一瞬にして地獄の
世界に直面した。スペイン内戦のゲルニカ以来、じゅうたん爆撃を主導してきたドイツ軍
のリヒトホーフェン上級大将の第 4 航空艦隊は、市街に航空機のべ 2000 機により、爆弾総
241
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
量 1000 トンにのぼる猛爆撃を加えた。続いて B 軍集団による総攻撃が開始された。ここに
150 日におよぶ戦いの幕が開かれのである。
2 週間に及ぶスターリングラードの爆撃で、市内は瓦礫と化した。この時、ウクライナ各
地からの難民が集まっていたスターリングラードの市民にもやっと避難令が出たが、もは
やその実行は不可能であった。9 月 13 日、市内に侵入したドイツ軍は 1 ヶ月以上も連日壮
絶な市街戦を展開し、ソ連軍守備隊も 1 日に 2,500 人もの犠牲をはらいながらも死守を続
けていた。
ドイツ側の消耗も激しく、さらに冬が近いにも関わらず兵士たちに冬用装備はなく、悪
化する状況に第 6 軍指揮官フリードリヒ・パウルス大将は 10 月 6 日戦闘を停止させた。10
月 22 日、ついに雪が降り始めた。
ヒトラーはスターリングラードをもう既に制圧したつもりであったため、11 月 8 日の演
説で「もはや船 1 隻たりともヴォルガ川をのぼることはできない」と豪語した。しかしこ
の演説から 10 日後、ソ連軍(約 100 万人)がついに包囲行動を開始し、ドイツ軍の側面を
守備していたルーマニア軍・ハンガリー軍の脆弱な部分を蹂躙し、22 日には逆包囲網が完
成した。
スターリングラードに取り残されたドイツ第 6 軍と第 4 装甲軍の一部と同盟国軍のルー
マニア軍・ハンガリー軍(約 33 万人)は、ドイツ空軍の輸送機による補給で辛うじて命を
つないでいた。既に兵士 1 人への 1 日の食料はパン 50 グラムとなっていた。ドイツ兵達は
市民から食料を接収せざるを得なかった。兵士も市民も飢えに苦しみ、軍馬や犬、最後に
は人肉を食うしかなくなるケースすらあった。
1943 年 1 月に入るとソ連軍による包囲網はさらに狭められ、1 月 14 日、ヒトラーの下に
ベーア大尉が送られて戦況を報告し降伏交渉の許可を求めたが、ヒトラーは断固としてそ
れを認めなかった。1 月 22 日 、ソ連軍は最終攻撃を開始した。第 6 軍は市内の防衛線に追
い込まれ、零下 35 度という厳寒の廃墟や雪原で、ドイツ軍将兵は戦死、さもなければ凍死
か餓死、あるいは自決しかなかった。ヒトラーはパウルス以下が「英雄叙事詩」のごとく
全員戦死することを切望し、正規軍としての降伏を許さなかった。
しかし、1943 年 1 月 31 日、パウルス元帥及び彼が率いるドイツ軍は降伏した。生き残り
の 10 万人のドイツ兵は捕虜となったが、収容所までの移動により、さらに多くが死亡し、
最終的には 5,700 人しか生き残れなかった。
このスターリングラード攻防戦の結果、約 30 万人のドイツ・ルーマニア・ハンガリー兵
と約 50 万人のソ連兵、そして一般市民を合わせて 100 万人以上、戦傷者を含めると 150 万
人以上が 1942 年から 1943 年の一冬で犠牲になった。もちろん、バクーに到達できなかっ
たし、石油も手に入らなかった。
。
スターリングラードの敗北は、ドイツ軍がかつて受けたことのない大敗北だった。ポー
ランド攻略以来の歴戦の精鋭部隊が無残に壊滅したうえ、多くの捕虜を出したこともあっ
てドイツ国民に与えた心理的影響は大きかった。枢軸同盟国も、ルーマニア第 4 軍とイタ
242
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
リア第 8 軍が全滅、ルーマニア第 3 軍とハンガリー第 2 軍が部隊の大半を失うなど甚大な
損失を出した。くわえてトルコとスペインがドイツ側に立って参戦する可能性は完全に失
われたため、軍事的のみならず政治的、外交的にもドイツの受けた打撃は甚大だった。
《ドイツ軍の全面的敗北・撤退》
スターリングラードを奪還したソ連軍は全戦線で攻勢に出た(図 65(図 15-72)参照)
。
その後も、1943 年 7 月、クルスクで、ドイツ軍 600 両、ソ連軍 900 両の戦車が激突した史
上最大の戦車戦などもあったが(両軍の損害合わせると 700 両に及ぶ損耗戦だった)、ソ
連軍の攻勢は変らなかった。
クルスクの戦いは独ソ戦でドイツ軍が攻勢に回った最後の大規模な戦闘であり、これ以
降、独ソ戦の主導権は完全にソ連軍のものとなった。ソ連の優位は圧倒的となり、兵力で 5
倍、戦車も 5 倍、大砲は 7 倍以上、空軍力にいたっては 17 倍だった。
1943 年 9 月には、図 65(図 15-72)の東部戦線で 390 万のドイツ兵が(28 万 3000 の枢
軸連合軍と力を合わせて)550 万のソ連兵の攻撃を阻止していた。さらにドイツ軍は、フィ
ランドに 17 万 7000 の兵力を投入し、ノルウェーとデンマークには 48 万 6000 の守備隊を
駐屯させていた。フランスとベルギーの占領軍は 137 万であった。バルカン諸国には 61 万
2000 人が配備され、イタリアには 41 万 2000 人がいた・・・‥ヒトラーの軍隊はヨーロッ
パの東西南北に散らばり、兵力、装備ともいずこの戦線でも、もはや劣勢にあったが、も
ちこたえていた。
ドイツ軍は秋以降、圧倒的な物量を武器にしたソ連軍の冬季攻勢の猛攻に敗走を続ける
こととなった。
ソ連軍は 9 月 24 日スモレンスクを解放した。戦線はドニエプル河を越えて、
西へ移動しウクライナ地方の大部分はソ連軍に奪回された。11 月 6 日にはキエフを解放し
た。
1944 年 1 月 18 日、ソヴィエト軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)の包
囲網を突破し、900 日間におよぶドイツ軍の包囲から解放した。以後も、ドイツ南方軍集団
の壊滅、ソ連軍による北欧・東欧の解放とソ連軍の攻勢は続き、ドイツ軍は敗北・後退を
続け、ついに東部戦線は消滅することになった。
◇ドイツの新兵器開発
《ドイツの原爆開発》
後述するようにアメリカの原爆開発は、レオ・シラードという科学者が、ドイツのヒト
ラーが核爆弾のことを知り(核分裂に最初に成功したのはドイツ人のオットー・ハーンで
あるから十分ありうることであった)、これを開発させ、原爆を先に手にいれたら、どう
なるだろうと考えたことからはじまった。考えるだけでも空恐ろしいことが起きると考え
た彼は行動を起こしたのである。そのドイツでは核開発は一体どうなっていただろうか。
ドイツで原爆開発にもっとも熱心だったのは、1934 年に陸軍兵器庁付きとなった物理学
者のクルト・ディープナーで、物理学に関心をもつよう執拗に軍部を説得し続け、1939 年
夏にとうとう原爆製造計画に着手する許可を手に入れた。この時期は、アメリカでアイン
243
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
シュタインの手紙によって 1939 年 10 月にはウラン諮問委員会が作られ、陸軍から少額の
研究資金が直接与えられることが決定され、 これによって、1940 年、シラードやフェルミ
が黒鉛の中性子吸収に関する基礎実験を始めた時期とほぼ同じだった。
1939 年 9 月には、ハイゼンベルクも加わったウラン・クラブができ、ディープナーにとっ
て核分裂が軍事的に利用できるかどうかを探るための基礎研究の段階であった。2 年間の基
礎的な研究を終えたところで、 陸軍兵器庁の研究部長でウィルヘルム・カイテル元帥の科
学顧問のエーリッヒ・シューマンは、専門家たちの回答を求めた。
シューマンは、核研究に取り組む各地の研究所の責任者に書簡を送り、実戦配備が可能
な原爆の完成に要する時間について意見を交換するため、ベルリンで開く全体会議に参集
せよとの指令を出した。こうして 1941 年 12 月 16 日に、科学者、軍の将校、民間の関係者、
そして政府の高官など、いろいろな集団が、ドイツの核研究の将来について、討議する会
議が開かれた。この第 1 回目の会議で、それぞれのグループが手がけてきた研究の報告が
なされた。この会議の詳細な記録は現存していないが、シューマンとその上官のレープ将
軍は(核分裂にはまったくの素人だった)
、核分裂の研究を進めても軍事的に得るところは
ないという「正式な結論」に達した。
ところが、上層部が悲観的な見方をしている一方で、ディープナーを責任者とする陸軍
兵器庁の物理学者たちの意気ごみは大変なもので、彼らはベルリン郊外のゴットウにあっ
た研究所で、独自の原子炉の実験に取り組んでいたほか、核分裂に関する数値の測定をし
ており、動力炉と原子爆弾の開発を目指す本格的な作業に着手することを提案する報告書
をまとめた。
この 1942 年 2 月の「ウランを用いたエネルギー生産」と題する報告書には、ウラン 235
もしくは原子炉の内部で生じる 94 番目の元素(プルトニウム)を使えば、
「同量のダイナ
マイトの 100 万倍の破壊力」をもつ爆弾をつくることが可能だと明記されていた。そして
原爆をつくるには 10 ないし 100 キログラムの核分裂性物資が必要だとしており、原爆製造
計画を一大産業プロジェクトにすべきだと力説していた。
シューマンとレープの悲観論に抵抗する姿勢を示したのは、ディープナー指揮下の科学
者ばかりではなく、ドイツ物理学協会の会長をつとめ、大企業アルゲマイネ・エレクトリ
ツィテーツ・ゲゼルシャフトの研究所長でもあったカール・ラムザウアーは、分厚い資料を
帝国科学者専門会議の教育相ベルンハルト・ルスト宛に送付し、アメリカが核物理学の分
野で成果を上げていることを示す資料を巻末に付して、ドイツはハイゼンベルクの処遇を
誤らなければ、それほどアメリカに遅れをとらないで原爆の開発ができると言ってきた。
この分野でのドイツの第 1 人者はハイゼンベルクであることは誰もが認めていた。彼の
意見がドイツの核開発の動向をきめるだろうということは、ドイツの関係者はもちろん、
アメリカやイギリスの彼の多くの物理学の友人もそう思い、また、彼を恐れていたのであ
る。
244
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ハイゼンベルク(1901~1976 年)は、1927 年に不確定性原理を導いて、量子力学の確立
に大きく寄与し、1932 年に 31 歳の若さでノーベル物理学賞を受賞していた。この分野でド
イツを代表する第一人者であることは当時の誰もが認めるところであった。彼は、母国ド
イツではナチス・ドイツの台頭で同僚の多くがドイツを去り、また、欧米の多くの同僚が
彼を誘ったにもかかわらず、ドイツに残り、場の量子論や原子核の理論の研究を進めてい
た。ナチ党員ではなかったものの、第 2 次世界大戦がはじまると、立場上、原爆開発の研
究にたずさわったが、その動向はたえず注目されていた。
このラムザウアーの教育相ベルンハルト・ルスト宛の提言をきっかけに、帝国科学者専
門会議の核分裂に寄せる関心は深まり、シューマンとレープのもとで、陸軍は核エネルギ
ーに関する会議を、もう一度、2 月 26 日からベルリンで開いた。しかし、この会合でも一
般的な核エネルギーの話が主で具体的な原爆開発計画に言及する者はいなかった。
《被害甚大な復讐兵器を欲したヒトラー》
核開発問題は一件落着したと思われたが、ここでヒトラーが出てきた。バトル・オブ・ブ
リテンのあとも、英独相互の空襲は間断なく続いていたが、1942 年 3 月末には、イギリス
空軍は新たに編み出した爆撃方法、焼夷弾を中世の都市リューベックに試みた。リューベ
ックの町並みが焼き尽くされ、ドイツで初めて数千人もの死傷者がでる結果となった。第 2
波でロストックが同じようにやられた。もはやイギリスも手段を選ばず、とにかくできる
だけ多くの市民が死傷する兵器を科学技術を使って開発させたのである。
これに対して、4 月 26 日の帝国議会で、ヒトラーは激昂し、
「今後殴打には殴打をもって
応えることにする」と復讐を誓ったが、ドイツは重爆撃機をまったく生産しておらず、ま
た軽爆撃機もほとんど残っていなかったため、ヒトラーは脅しを実行する道具をもってい
たかった。いきりたったヒトラーは、復讐の手段を求めていた。
こうして、空軍と空軍元帥ミルヒは、連合国側に復讐したいというヒトラーの願いをか
なえるための方法(どんな手段でもよかった)を必死になって求めはじめた。すでにミル
ヒは、後述する長距離砲の開発を目指していたが、この方法では望ましい規模の爆弾が投
下できない欠点があった。1942 年 5 月末のケルン空襲のときは、1400 トンの爆弾が投下さ
れ、市の中心部は焼き払われたが、これに匹敵する攻撃が可能な手段を求めていた。
ヒトラーのお気に入りで軍需相になったばかりのシュペーアが原子爆弾の話を耳にした
のは、1942 年 4 月下旬の昼食をともにした軍備部門を統括するフリードリッヒ・フロム将
軍からであった。彼はラムザウアーから聞いた話として、都市という都市を破壊しつくす
ことのできる爆弾の話を伝え、ドイツが戦争に勝つためにはこのような圧倒的な破壊力を
もつ新兵器を開発するしかないと語った。このような武器があれば、イギリスは全面降伏
することは間違いない、この新兵器の研究に取り組む科学者たちとの正式な会合を開き、
彼らの意見を聞くべきだと、フロムはシュペーアに進言した。
《嵐の時代をやりすごしかったか、ハイゼンベルク》
245
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このようにして、第 3 回目の会議が 1942 年 6 月 4 日にもたれたのであるが、シュペーア
にミルヒも同行した。シュペーアとその側近が出席したこの会合こそ、原爆の製造を望む
科学者たちにとって、これ以上の好機はないと考えられた。
ドイツ政府にあって、
(ヒトラーのお気に入りの)シュペーアはただ一人、ドイツの全経
済力を投入して新兵器開発にあたろうとしていたし、戦争は長びく様相を呈していたので
それは可能であった。そして、ドイツの科学者たちはたとえ土壇場であろうとも勝利をも
たらすかもしれない原爆の製造方法を知っていたし、いったん決まればドイツの組織力は
当時としてはやはり、世界一だったといえるだろう。しかも決定過程での官僚機構のわず
らわしさはいっさいなく、ただ、ヒトラーにうまく吹き込めば、金も人も思うままだった
だろう。
この第 3 回の会議では、ハイゼンベルクがはじめに講演をしたが原稿は残っておらず、
また、詳しい記録もとられていなかった。シュペーアの日誌には、議論は「原子の崩壊と
ウラン・マシーン(原子炉)およびサイクロトロンの開発」におよんだとしか記されていな
かった。戦後、シュペーアが書いた回想録によれば、ハイゼンベルクはもっぱら科学の事
業として核研究の話をしたようである。将来性のある若い科学者が徴兵されること、帝国
科学者専門会議のしみったれぶり、研究のための材料の不足(主として鉄鋼、ニッケルな
どの金属類)というようなドイツの科学者なら誰もがしゃべるようなことだった。要はハ
イゼンベルクは一般的な核研究の話をしたようである。
ハイゼンベルクが講演を終えて自分の席に戻ると、シュペーアは単刀直入に「どうした
ら核物理学が原子爆弾の製造に応用できるか」と尋ねた。のちに、ハイゼンベルクはこの
とき「ええ、原理的には原爆の製造は可能ですし、爆発性物質をつくりだすこともできま
すが、われわれの知るところでは、こうした爆発性物質をつくるための全過程には莫大な
費用と多くの年月を要するでしょうし、本当に実行するのであれば、途方もない技術的な
出費が必要になります」と説明したと言っている。
さらに、ドイツにはサイクロトロンがないから研究が進まないのだと、ハイゼンベルク
がシュペーアに説明した。すると軍需省の力でアメリカのサイクロトロンに匹敵する大型
のサイクロトロンをかならず建造するとシュペーアが言うと、ハイゼンベルクはこれに異
をとなえ、ドイツはこの分野での経験を欠いており、まずは小型のサイクロトロンを使っ
た実験から始めなければならないと言った。
ミルヒ元帥がハイゼンベルクに「たとえば、ロンドン程度の大都市を壊滅状態にすると
したら、どれくらいの大きさの原爆があればいいのかな」と尋ねた。ハイゼンベルクは手
で大きさを示しながら、
「ほぼパイナップルくらいのものでしょう」と答えた。
次いでミルヒはアメリカが原子炉および原爆を完成するのにどれくらいの時間がかかる
かとの質問に、ハイゼンベルクはたとえアメリカが最大限の努力を傾けたとしても、原子
炉を稼働させられるのは、1942 年末以降になるだろうし、実戦に配備できる原爆となると、
少なくともさらにもう 2 年が必要だろうというものだった。要するに、ドイツはどんなに
246
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
早く見積もっても 1945 年までは、
アメリカの原爆を恐れる必要がないということだった
(こ
の時間感覚はほぼ正しかった)
。
こうように、ハイゼンベルクは原爆の製造が理論的には可能だと認めたけれど、それ以
上に色よい返事は彼の口からはまったく出なかった(彼もこの会議がいかなる意味をもつ
か、原爆開発の最後のチャンスであることはわかっていたはずである。しかし、彼の返答
はすべて間違ってはいなかったが、推進派が期待するような言葉は入っていなかった)。
シュペーアは、さらに、連鎖反応を起こすことに成功しても、反応が制御不能におちい
り、地球を火の玉にしてしまう恐れがあるとどこかで聞いたことがあるが、こうした事態
を防げると思うかと尋ねると、ハイゼンベルクはシュペーアの不安を打ち消すような返事
をしなかった(このような素人的な質問にハイゼンベルクが明快に答えることができない
はずはなかったにもかかわらず)
。
ハイゼンベルクの煮え切らない態度にシュペーアはいらだちをおぼえた(と彼の回想録
の中に書いている)
。ハイゼンベルクは大きな困難を指摘したが、それに見合う援助は政府
の方ですると言われると異議をとなえた。軍需省はどうしたら研究にたずさわる科学者を
援助できるのかとシュペーアが尋ねると、ハイゼンベルクは金と新しい建物が必要であり、
不足している材料がたやすく入手できるようにしてもらわなければならないと同じ答えだ
った。
ところが、「どのくらいの金が必要か」とたずねると、ワイツゼッカー(ハイゼンベルク
配下の気心がしれた物理学者。弟はのちにドイツ大統領になった)は 4 万マルクという(戦
前の)大学の予算としてなら十分だと思える程度の金額を口にした。それは軍需大臣から
すれば、ばかばかしいほど少ない金額だったので、
(こうした人たちの(研究者の)うぶと
いうか、ばか正直さ加減に驚いて)
、ミンヒとシュペーアは顔を見合わせて、思わず頭をふ
ったと、あとでミルヒは語っていた。
いずれにしても、この会議のあと、
「政府は(1942 年 6 月に)原子炉計画の研究を継続す
る必要はあるが、無理のない範囲にとどめるとの決定を下した。原爆を製造せよとの命令
はなかったし、われわれがこの決定に修正を求める理由もなかった」とハイゼンベルクは
淡々とのちに書いている(たぶん、ハイゼンベルクが内心必死で望んでいた結論通りにな
ったのだろう)
。実際、シュペーアはこの会議以降、原爆開発の可能性など一顧だにしなか
った。つまり、ドイツでは原爆開発は国家プロジェクトに昇格する唯一の機会を失ったの
である。
その時期は 1942 年 6 月で、
ほぼマンハッタン計画が発足した時期と同じであった。
ドイツの核分裂研究はその後、終戦まで基礎研究の段階にとどまっていた。ハイゼンベ
ルクについては、ドイツ国内からも欧米からもいろいろ言われたが、彼は真意をとうとう
述べなかった。
ただ、ハイゼンベルクは最初からドイツは早く敗れることを確信していたこと、核研究
はまったく意味ないといえば、彼の多くの後輩研究者が無用の長物として戦場に送られる
恐れがあったこと、逆に積極的に協力すればひよっとするとひっとする恐れがあり、望ま
247
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しきはドイツ物理学界を何とか温存しつつ、
(長くは続かないはずの)ヒトラー時代をやり
すごしたいと思っていた(そのためにドイツにとどまった)と言われている。戦後になっ
ても内外に多くの関係者(それは原爆開発推進、反対の両方)が生きていたので彼はいっ
さい発言しなかったとも言われている。
《ドイツの起死回生の新兵器開発》
実際にヒトラーが起死回生の新兵器として開発を命じたのは、ジェット戦闘機、V-1 、
V-2 など、きわめて独創的な技術ではあったが、新兵器開発には膨大な資金・人材・長期の
期間が必要で、
(幸いなことに)大戦中に実用・実戦化するには時間がなく、中途半端で終
わってしまった。いずれの技術も戦後、米ソが持ち帰り、戦後の冷戦時代に大々的に開発・
実戦配備競争をすることになった。
ドイツ軍はかねてから開発中だった世界初の実用ジェット戦闘機メッサーシュミット
Me262 やジェット爆撃機アラド Ar234、同じく世界初のミサイル兵器 V-1、次いで世界初の
超音速で飛行する弾道ミサイル V-2 ロケットなど、新兵器を実用化させ、ロンドンやイギ
リス本土及びヨーロッパ大陸各地の連合軍に対し実戦投入したものの、圧倒的な物量を背
景にした連合軍の勢いを止めるには至らなかった。
V-1 とは、第 2 次世界大戦時、ドイツ空軍が開発したミサイル兵器であり、パルスジェッ
トエンジンを搭載した現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器であった。パルスジェッ
トエンジンとは、空気取り入れ口に設けられたシャッターを高速で開閉することにより、
燃焼過程と排気・吸気が交互かつ間欠的に行われる方式のエンジンで、構造がきわめて単
純なために製造コストが安く済むというのが特徴であった。宣伝相ゲッベルスはこれを
「V-1(報復兵器第 1 号)」と命名して対英報復を煽ったが、1944 年 6 月から 9 月はじめま
でに計 8,564 発が発射されたものの、ロンドンに到達したのは全体の 25%程度に過ぎず、多
くは戦闘機で撃墜された。
V-2 ロケットは、第 2 次世界大戦中にドイツが開発した世界初の軍事用液体燃料ロケット
(弾道ミサイル)であり、宣伝大臣ゲッベルスが命名した V-2(報復兵器第 2 号)であった。
V-2 の開発には歴史があった。1927 年に結成されたドイツ宇宙旅行協会は、宇宙旅行を
目指して 1929 年頃から液体燃料ロケットを研究していた。ヴェルサイユ条約で大型兵器の
開発を禁止されていたワイマール共和国の陸軍は、1932 年に同協会が開発中の液体燃料ロ
ケットが持つ長距離攻撃兵器としての可能性に注目、ヴァルター・ドルンベルガー陸軍大
尉は、資金繰りに悩むアマチュア研究者だったヴェルナー・フォン・ブラウン(1912~1977
年)らの才能を見抜き、陸軍兵器局の液体燃料ロケット研究所で研究を続けるよう勧誘し
た。
フォン・ブラウンらはこれに応じて同研究所に参加、1934 年 12 月、エタノールと液体酸
素を推進剤とする小型の A-2 ロケット(質量 500 キログラム)の飛行実験を成功させた。
フォン・ブラウンの設計するロケットは兵器としての現実性を増していって、1942 年 10 月
248
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
3 日の A-4 ロケットの 3 回目の打上げでロケットは完全な軌跡を描き、宇宙空間に到達した
初の人工物体となって 192 キロメートル先に落下した。
ドルンベルガーは、トラクター牽引式の発射装置、ミサイル、人員、機器、燃料を乗せ
た約 30 台の各種車両から成る技術部隊・発射部隊を編成した。量産された V-2 の仕様は、
射程距離は 1 トンの弾頭でおよそ 300 キロメートル、1 段式液体ロケット 、全長:約 14 メ
ートル 、直径:約 1.7 メートル 、離陸時質量:12 万 800 キログラム であった。V-2 はア
ルコール(エタノール)と水の混合燃料及び酸化剤の液体酸素を推進剤とした。
V-2 は、ドイツ中部のノルトハウゼン近郊の岩塩採掘抗を利用した工場で、ドーラと名づ
けられた強制収容所の収容者により生産された。その多くはフランスとソ連の戦争捕虜で、
そのうち約 1 万人が過労死したり、警備員の手で殺されたりした。
最初に発射運用に成功したのは 1944 年 9 月 8 日で、その後、続く数ヶ月間に発射された
主な都市と個数は、ベルギーのアントワープ(1,610)、リエージュ( 27 )、ハッセル
ト (13 )、フランスのリール (25 )、パリ (22 )、トゥールコアン (19 )、イギ
リスのロンドン (1,358 )、ノリッチ/イプスウィッチ(44 )、オランダのマーストリ
ヒト (19 )であった。
V-2 は独創的新兵器であったが、当時の軍事的効果はあまりなかった。ごく初歩的な誘導
システムは特定目標を照準できず、コストは 4 発で概ね爆撃機 1 機に匹敵した(爆撃機は
より遠距離の目標に、より正確に、遥かに多くの弾頭を、幾度も運搬可能であった)。た
だし心理的効果はかなり大きく、超音速で事前の警告なしに飛来し、既存の兵器では迎撃
不可能であり、ドイツにとっては有用な兵器になった。とくに、ロンドン市民は連日の攻
撃におびえ、市街地への被害も甚大であった。軍需大臣アルベルト・シュペーアは、より
小型で使い勝手の良い兵器の開発を望んだが、大型兵器による戦局打破にこだわったヒト
ラーに押し切られ、製造は続けられたが、ヒトラーが望んだような起死回生の兵器とはな
らなかった。
戦後、当時世界の最先端を誇っていたドイツの軍事技術は、「創造と模倣・伝播の原理」
のとおり、ドイツを占領した米ソ両大国によって持ち帰られた。とくに V-1、V-2 は独創的
な技術であり、その本領を発揮するのは戦後、この技術をもとにした米ソの開発競争によ
って実現された(ソ連の場合ジェット戦闘機 Me262 も接収した)。
戦後の技術革新は、V-1 の後継者である巡航ミサイルの価値を飛躍的に高めた。冷戦時、
巡航ミサイルは核弾頭を装備した状態で潜水艦に搭載され、両陣営の抑止戦略に利用され
た。
一方、V-2 は弾道ミサイルとなって、大陸をまたいで核弾頭を直接打ち込む兵器となって、
こちらも抑止戦略に利用された。どちらも、それら子孫を生み出した影響のほうが、大戦
中に上げた影響よりもはるかに大きいものであったといえよう。
◇ノルマンジー上陸作戦と西部戦線
《テヘラン会談》
249
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1943 年 11 月 28 日から 12 月 1 日にかけて、アメリカ大統領ルーズベルト、イギリス首相
チャーチル、ソ連首相スターリンがテヘラン会談を行った。
アメリカ、イギリス、ソ連の首脳が一堂に会した初めての会談で、主な議題は、ヨーロ
ッパ大陸にナチス・ドイツに対する第 2 の戦線(西部戦線)を形成することであり、北フ
ランスへの連合軍の上陸などが首脳間で調整された。この北フランスへの上陸作戦はオー
バーロード(大君主)作戦と称され、1944 年 5 月に開始することが首脳たちの間で留意さ
れた。
またその他のヨーロッパ諸国への援助などについても話し合われるなど、テヘラン会談
を期に連合国の首脳会談は戦争上の諸問題から戦後処理問題へと移っていった。また、ビ
ルマ奪回作戦、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦などについても話し合われた。
《ノルマンジー上陸作戦》
オーバーロード(大君主)作戦において、
「いつ」
「どこに」上陸するかは最大の機密で
あるから、
「いつ」に対しては事前には「D―day」と呼ばれていた(ノルマンジー上陸作
戦とは後でそう呼ばれるようになったものである)
。この作戦は、最終的に、300 万人近い
兵員がドーバー海峡を渡ってフランス・コタンタン半島のノルマンジーに上陸した。史上
最大の上陸作戦であり、作戦から 70 年近くが過ぎた現在までこれを超える規模の上陸作戦
は行われていない。
1943 年 12 月にヨーロッパ方面連合軍最高司令官としてアイゼンハワー、1944 年 1 月に
はモントゴメリーが本作戦の地上軍総指揮官に任命された。
その計画の概要は、47 個師団の投入(内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍
26 個師団、アメリカ軍 21 個師団)
、上陸用舟艇 4,000 隻および艦砲射撃を行う軍艦 130 隻
を含む 6,000 を超える艦艇の投入、1,000 機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む 1 万 2,000 機の
航空機が上陸を支援するというものであった。これに対するドイツ軍の備えは省略する。
1944 年 6 月 4 日、海峡付近は激しい暴風雨に見舞われた。このため作戦期日は 1 日延期
され、6 日になった。ドイツはこの悪天候が 9 日まで回復しないであろうと予想し、連合軍
の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請を許可した。ロンメルや海軍総司令官カー
ル・デーニッツをはじめ、多くの幹部が休暇をとった。
本作戦は夜間の落下傘部隊の降下から始まり、続いて上陸予定地への空襲と艦砲射撃、
早朝からの上陸用舟艇による敵前上陸という手順で進むことになっていた。
6 日午前 0 時 10 分過ぎ、上陸開始に先立って、海岸付近のドイツ軍を攪乱し、反撃行動
を妨害し、上陸部隊の内陸進攻を容易にするため、イギリスとアメリカの空挺師団 1 万 8000
人がノルマンジー一帯に降下作戦を開始した。彼らの主任務は海岸から内陸進攻に必要な
ペガサス橋とホルサ橋の占領確保、4 門の大口径砲を備えたメルヴィル砲台陣地の無力化で
あった。これらの砲は上陸艦隊に対する脅威と見なされており、遅くても午前 5 時 30 分ま
でに無力化せよと命令されていた。
250
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
4,255 人の英第 6 空挺師団は橋と砲台の周辺に第 1 波はパラシュート、第 2 波はグライ
ダーで強行降下・着陸を試み、作戦を開始した。橋は短時間で確保することができたが、
メルヴィル砲台陣地の攻略は困難を極めた。やっと午前 5 時 15 分に砲台陣地は破壊され、
任務達成を知らせる黄色い信号弾が打ち上げられた。ドイツ軍砲台守備兵 200 人のうち、
生存者は 22 人だけだった。
1944 年 6 月 6 日午前 6 時 30 分、アメリカ陸軍のアイゼンハウアー将軍指揮のもと、北フ
ランス・ノルマンジー地方にアメリカ軍、イギリス軍、カナダ軍、そしてド・ゴール将軍
率いる自由フランス軍など、約 17 万 5000 人の将兵、6,000 以上の艦艇、延べ 1 万 2000 機
の航空機を動員した大陸反攻作戦「オーバーロード作戦」(ノルマンジー上陸作戦。図 65
(図 15-72。P241)参照)が開始された。
ノルマンジーの 5 つの管区で一斉に上陸を開始した。
ⅰ)ソード・ビーチではイギリス軍が上陸に成功し、彼らの死傷者は少数であった。彼ら
はその日の終わりまでに 8 キロ進撃した。
ⅱ)ジュノー・ビーチに上陸したカナダ軍は、直面に 11 基の 155 ミリ砲重砲台、9 基の 75
ミリ砲中砲台、機関銃の巣のトーチカや他のコンクリート堡塁、オマハ・ビーチの 2 倍の
高さの護岸堤が立ちはだかっていた。苦戦をきわめ、50 パーセントの死傷者が出たが、D-day
の終了までに、1 万 4,000 人のカナダ兵が上陸に成功した。
ⅲ)ゴールド・ビーチでは、イギリス海兵隊が上陸したが、水陸両用シャーマンの到達が
遅れ、死傷者が増えることになった。ドイツ軍は海岸上の村を防衛拠点として強化してい
た。しかしながら、その障害を克服し、その日の終わりまでにバイユーの周辺に向かって
前進した。
ⅳ)オマハ・ビーチが最悪だった。アメリカ第 1 歩兵師団が最悪の苦難を経験した。対す
るドイツ第 352 歩兵師団は海岸に配置された中でも、唯一の例外のまともな部隊だった。
ロンメルによってサン・ローからオマハ・ビーチ防衛のため移動させられたもので兵士は
30 代の実戦未経験の老兵がほとんどであったが、ドイツ人のみで編成されていた。
ドイツ軍の攻撃は激烈をきわめ、
「上陸 10 分以内に(先導)部隊は指揮官を失い活動能
力を失った。指揮をとる全ての士官および下士官は戦死または負傷した。……それは生存
と救助のための闘争」となり、
「ブラッディ・オマハ」(血まみれのオマハ)と呼ばれた。
上陸部隊の死傷者の割合は一番高く、ほぼ 50 パーセントだった。4,000 人以上の死傷者が
出たが、それにもかかわらず生存者達は再編成され内陸に進撃した。
ⅴ)オマハ・ビーチとは対照的に、ユタ・ビーチでのアメリカ第 4 歩兵師団の死傷者数は
197 人で全上陸管区中最少であった。2 万 3,000 人が上陸を果たし、彼らは内陸に進撃を
行って先陣空挺部隊との連絡に成功した。
オマハ・ビーチなど多数の死傷者を出す激戦ではあったが、上陸は成功した。1940 年 6 月
のダンケルク撤退以来約 4 年ぶりに連合軍は第 2 戦線を構築し、ここに西部戦線(フラン
ス戦線)が出現した。その結果、ドイツ軍は、東部戦線でのソ連が開始した大攻勢にも満
251
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
足に対応することができなかったのに、ついに 2 正面作戦を展開することを余儀なくされ
た。
《パリ解放》
上陸した連合軍は直ちにパリを目指した。
6 月 27 日、シェルブールが陥落(図 65(図 15-72。
P241)参照)
、ノルマンジー地方のカーン、サン・ローとノルマンジーのドイツ軍は、必
死の防戦により何とか連合軍の進出を食い止めていたが、7 月 25 日のコブラ作戦で、つい
に戦線は突破され、ファレーズ付近で包囲されたドイツ軍は壊滅的状態になった。8 月には
連合軍はパリ方面へ進撃を開始した。
また 8 月 16 日には南フランスにも連合軍が上陸した(後述のドラグーン作戦。図 65(図
15-72)参照)
。ノルマンジーに上陸した連合軍の接近に呼応して、フランス各地でレジス
タンスが蜂起した。降伏する前にパリを破壊しろというヒトラーの命令が下ったが、最終
的にドイツ軍のコルティッツ将軍は命令に従わずに連合国に無条件降伏し、パリをほぼ無
傷のまま明け渡したため、多くの歴史的な建築物や、市街地は大きな被害を受けることは
なかった(これを映画化したのが『パリは燃えているか』)。
8 月 25 日にはアメリカ第 3 軍によってパリが解放された。翌日、ドゴール将軍がシャン
ゼリゼを行進し、パリの解放を宣言した。
フランスが解放されたことにより、親独ヴィシー政権は崩壊した。指導者フィリップ・
ペタン将軍は逮捕され、その後死刑判決を受けた。また、ドイツ軍の占領に協力したいわ
ゆる「対独協力者」の多くが死刑になり、何人かの者は国外に逃亡した。また女性は頭髪
を丸坊主にされるなどの制裁を受けた。
《ドラグーン作戦(南フランスへの上陸作戦)》
フランス北部へのノルマンジー上陸作戦(オーバーロード作戦)を支援する目的で、南
フランスへの上陸作戦(ドラグーン作戦)も 1943 年中に検討が進み、11 月のテヘラン会談
で承認されていた。ソ連の意図に疑惑を持つチャーチルはバルカン半島の英米による奪還
が先決であることを主張し、南フランスでの作戦は撤回すべきとした。これに対し、この
作戦はスターリンと既に交わしてある約束であるとするルーズベルトは、チャーチルの主
張の受け入れを拒否し、8 月 15 日に作戦を開始することを決定した。
投入される部隊は、主にイタリア戦線から引き抜かれることになった(これによりイタ
リアでの戦いは翌年までゴシック線で停滞してしまうことになった)
。8 月 9 日以降、既に
制圧していたイタリアのサレルノ、タラント、ブリンディジ、シチリア、コルシカ及び北
アフリカのオランから艦隊が出航し、
14 日~15 日夜カンヌ~トゥーロン間の沖合に達した。
8 月 15 日に空挺降下および海岸上陸が行なわれた(図 65(図 15-72)参照)
。
28 日にはトゥーロンとマルセイユを占領、またローヌ川を遡上し、同日グルノーブルに
到達した。ドイツ第 19 軍は、抵抗らしい抵抗はせずアルザス地方へと退却していった。そ
の後、9 月 11 日に北部で上陸したジョージ・パットンのアメリカ第 3 軍とディジョンで出
会い、南北の戦線が繋がったことで、この作戦の目的は達成された。
252
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《マーケット・ガーデン作戦の失敗》
ノルマンジーに上陸した連合軍は、8 月 25 日にはパリを解放し、その勢いで 9 月 3 日、
イギリス軍はベルギーの首都ブリュッセル、9 月 4 日にはアントワープを奪還した。
イギリス第 21 軍集団司令官モントゴメリー元帥は、ベルギー・オランダ方面に戦力を集
中し迅速なドイツ国内への進撃を行うことが(最短距離でベルリンをめざす)、ドイツを打
倒するために最適であると考え、ラインの下流域でドイツ国境を突破し、ルール工業地帯
を打通することでドイツの継戦能力を破壊することを主張した。この作戦を成功させるに
は、同時に 3 つの橋を確保する必要があり、きわめて高度の技術を必要とするもので、一
度に 3 万人を降下させる歴史上でも最大の空挺作戦となった(マーケット・ガーデン作戦
といわれた)
。
しかし、懸念されたようにモンゴメリーは失敗した(一つの橋が破壊されてしまって通
過できなくなった)
。このマーケット・ガーデン作戦の失敗により西部戦線は完全に停滞し、
ドイツ軍は立ち直り、連合軍は 1944 年中に戦争を終わらせるどころかライン川も越えるこ
とが出来なかった。
ドイツ軍の最後の反撃―西部戦線のラインの守り作戦(バルジの戦い)などもあり、連
合軍は 1945 年 3 月にライン上流部でルーデンドルフ橋の確保に成功するまでライン川を越
えることができなかった。
《ドイツ侵攻》
1945 年 1 月 12 日、ソ連軍はバルト海からカルパチア山脈(現在のスロバキアからルーマ
ニア)にかけての線で攻勢を開始した。1 月 17 日ポーランドの首都ワルシャワ、1 月 19 日
クラクフを占領し、1 月 27 日にはアウシュヴィッツ強制収容所を解放した(図 65(図 15-72。
P241)参照)。
ポーランドは、1939 年 9 月以降独ソ両国の支配下に置かれていたが、今度はその全域が
ソ連の支配下に入った。
その後、2 月 3 日までにソ連軍はオーデル川流域、ドイツの首都ベルリンまで約 65 キロ
のキュストリン付近に進出した。
米英軍の進撃する西部戦線では、1945 年 1 月 16 日、ドイツ軍はバルジ大作戦の失敗によ
りアルデンヌ反撃の開始地点まで押し返された。2 月 9 日には米英軍がライン川に到達、同
15 日にはソ連軍がオーデル・ナイセ両川に到達、戦闘はドイツ国内に及んできた。東西か
らベルリンを目指した。
《ヤルタ会談》
折から 2 月 4 日から 11 日にかけてクリミア半島のヤルタでは、ルーズベルト
(アメリカ)
、
チャーチル(イギリス)
、スターリン(ソ連)の 3 国首脳によるヤルタ会談が行われた。
その結果、第 2 次世界大戦後の処理についてヤルタ協定を結び、イギリス、アメリカ、
フランス、ソ連の 4 ヶ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、エスト
ニア、ラトビア、リトアニアのバルト 3 国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。
253
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
また、その後正式に発足した国際連合の投票方式について、イギリス、アメリカ、フラ
ンス、中華民国、ソ連の 5 ヶ国(後の国際連合常任理事国メンバー)の拒否権を認めたの
もこの会談であった(戦後の国際連合のところで述べる)
。
ヤルタ会談の半分以上の日程は、ポーランド問題について話し合われた。ロンドンの亡
命政権と、ルブリン共産党政権のどちらが正式な政府かを巡って、イギリスとソ連が対立
し、平行線をたどった。
結局、アメリカのとりなしで、総選挙を実施し、国民自身で政権を選ぶこと、またポー
ランドの国自体を、西へ移動させることで決着した(しかし、その後、スターリンは選挙
のために戻ってきたロンドン亡命政権の指導者を逮捕し裁判にかけた。これにより、ポー
ランドはルブリン共産党政権によって統治されること、また社会主義国となることが決定
的となった。この間にルーズベルトが亡くなり、後継のアメリカ大統領トルーマンはこの
ことを知って激怒し、米ソの対立が深まっていった)
。
ドイツ問題については、ドイツは現在のオーデル・ナイセ線以東にあるシレジア、ポメ
ラニア、東プロイセンの領土をすべて失い、これらの領土はポーランド領となることが決
定された(東プロイセンの北半分についてはソ連領)。これは当時のドイツ国土の 4 分の 1
にあたり、ドイツにとってはプロイセンの故地である東プロイセンを含めた広大な領土を
失うこととなり、きわめて喪失感の大きい内容となった。
なお、ポーランドについては、ドイツの東部領土を自領とする代わり、従来の東部領土
をソ連に割譲することが決定された。この結果、ポーランドの国土は従来と比べ大きく西
へずれ、若干の領土縮小につながった(ソ連が領土を拡大した)
。また、ガリチア(現在の
ウクライナ南西部を中心とした地域)など旧西部領に居住するポーランド人は、そのまま
ソ連領へ編入される結果となった。
また、ドイツの戦争犯罪人に対する処罰や戦後ドイツの処遇について、東側陣営と西側
陣営で共同管理することが決められた。
さらに、このヤルタ会談で、主に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスタ
ーリン、およびイギリスのチャーチルとの間で秘密協定が結ばれた。ルーズベルトは千島
列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参
戦を促した。
ヤルタ協定では、ドイツ降伏後 90 日以内にソ連が日本との戦争に参戦すること、モンゴ
ルの現状は維持されること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ
連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益確保、などが決められた(その
後、ソ連はヤルタ協定に従ってドイツが無条件降伏した 1945 年 5 月 8 日の約 3 ヵ月後の 8
月 9 日、ソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入した。8 月 15 日以降も進撃を続け、千島列島
や北方領土を占領した。これがその後も日本とソ連(現在のロシア)両国間の長年の懸案、
すなわち、日本側で言う「北方領土問題」となった)
。
254
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談
で決定していた(日本から)台湾の中華民国への返還を改めて確認した。また、朝鮮半島
は当面の間、連合国の信託統治とすることとした(しかし、第 2 次世界大戦後、米ソの対
立が深刻になると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分
断されている)
。
本会談の意義は、アメリカ、イギリス、ソ連といった戦勝国の立場からみた領土や戦後
イニシアチブといった、戦後世界の枠組みに関する利害調整の場であったという批判が多
い。この会談以後の戦後体制はしばしばヤルタ体制と呼ばれ、この会談以降、アメリカを
中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦
が開始されたと言われている。
《ドイツの降伏》
前述したように 1945 年 2 月 9 日には米英軍がライン川に到達、同 15 日にはポーランド
から侵攻したソ連軍がオーデル・ナイセ両川に到達した。連合軍とソ連軍はいよいよベル
リンをめざしてドイツ領土に侵攻した。
米英連合軍は 3 月 22 日から 24 日にかけて相次いでライン川を渡河し、イギリス軍はド
イツ北部へ、アメリカ軍はドイツ中部から南部へ進撃した。4 月 11 日にはエルベ川に達し、
4 月 25 日にはベルリン南方約 100 キロメートル、エルベ川のトルガウで、米ソ両軍は握手
した。ドイツ南部では 4 月 20 日ニュルンベルク、30 日にはミュンヘン、5 月 3 日にはオー
ストリアのザルツブルクを占領した。
圧倒的な勢力でベルリンに迫ったソ連軍を迎え撃ったのは、「ベルリンの入口」を守る
ドイツ国防軍ヴァイクセル軍集団であった。このゼーロウ高地の戦いは、1945 年 4 月 16 日
から 4 日間行われ、4 月 20 日、ゼーロウ高地が突破され、ソ連軍はベルリンへ殺到し始め
た。
4 月 25 日、ソ連軍はベルリンを完全に包囲した。このような絶望的状況の中、ドイツ軍
はまともな武器も持たないヒトラー・ユーゲント(10~18 歳の青少年団)など少年兵や老
人の志願兵を中心に最後の抵抗を進めていた。戦いが長引くにつれ地下壕や病院は負傷兵
で一杯になった。そこら中に四肢が欠けて骨がむき出しになった兵士や、血まみれで包帯
が巻かれた負傷兵や死体が横たわっていて、ベルリンは地獄と化していた。
長年共にいた側近の多くが降伏もしくは国内外に逃亡し、追い詰められたヒトラーは自
殺を決意した。29 日、ヒトラーはエヴァ・ブラウンと結婚し、翌 30 日の 15 時 20 分、ヒト
ラーとエヴァは、総統地下壕の居間でピストル自殺した。遺骸が人前にさらされないよう
に官邸の庭に運び出され、ガソリンを注がれ焼かれた後、砲弾穴へ葬られた。
ヒトラーは遺言で大統領兼国防軍総司令官にデーニッツ海軍元帥を、首相にゲッベルス
宣伝相を、ナチス党首および遺言執行人にマルティン・ボルマン党総務局長を指定してい
た。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
5 月 1 日にヒトラーの後継者として大統領に指名されたカール・デーニッツ提督は、5 月
6 日に全権委任したアルフレート・ヨードルをランスの連合軍最高司令官アイゼンハワーの
司令部に派遣し、ソ連に包囲されたバルト海沿岸のドイツ東部から避難民を海路ドイツ西
部に受け入れるまでの時間的猶予を交渉し、48 時間の猶予を許され、発効を 5 月 9 日零時
として 5 月 7 日に無条件降伏した。連合国側はデーニッツを正統な後継者と認めず、降伏
文書にはドイツ国防軍を代表してヨードル将軍が署名しただけであった。
ソ連軍の東部戦線でも 5 月 9 日に降伏文書の調印式が行われたが、正統政府が存在しな
いままに降伏したドイツは連合国の 4 ヶ国による分割・直接占領下に置かれることになった。
ここに 1939 年 9 月 1 日のドイツのポーランド侵攻以来 6 年弱も続いた戦争にヨーロッパ
ではようやく終結が訪れた。
連合軍がドイツ国内、オーストリアへ進撃するにつれ、ダッハウ、ザクセンハウゼン、
ブーフェンヴァルト、ベルゲンベルゼン、フロッセンビュルク、マウトハウゼンなど、各
地の強制収容所が次々に解放され、収容者とおびただしい数の死体が発見された。ユダヤ
人絶滅計画をはじめ、ナチスの恐怖政治、ホロコーストの実行過程がはじめて明るみに出
された。ここに人類は、はじめて人類の底なしの狂気に戦慄することになった。
◇ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)
第 2 次世界大戦が生み出した“人類文明の最大の犯罪”が、ナチス・ドイツの「ユダヤ
人大量虐殺(ホロコースト)」とアメリカ政府の「原爆開発と投下」であったといえよう。
ここではユダヤ人大量虐殺を、アメリカの戦いで原爆開発を述べることにする。
ヒトラーはその著書『我が闘争』
(1925 年刊)や演説で「我々の社会は危機に瀕している。
いたずらに弱者や病気の者に助けの手を差し伸べて、適者生存の原理に背いてしまったた
めだ」
「世界中のユダヤ人は、我々アーリア人の純血を汚そうとする陰謀を張り巡らせてい
る。これを阻止するには、組織的に彼らを狩り出し、社会から除外するしかない」と繰り
返し述べていた。そのようなプロパガンダを盛んに行い、ドイツ国民を洗脳していった。
ヒトラーは、
『我が闘争』で政権につけば直ちにユダヤ人を政治や文化社会から追放する心
づもりであることも述べていた。
そのヒトラーが率いるナチスが、1933 年 1 月 30 日にドイツの政権をとった。ヒトラー政
権が誕生すると、まずユダヤ人の思想家やアインシュタインなどの科学者が大量に国外へ
脱出した。ほぼ同時に、ドイツ国内の 52 万人のユダヤ人に対する迫害と強制退去がはじめ
られた。1933 年には、国家公務員法、医療法、食料法などが改正され、ユダヤ人は公務員
や医療、農業に従事できなくなった。
次に 1935 年にニュルンベルク法が制定され、8 分の 1 までの混血をユダヤ人と規定し、
公職から追放し、企業経営を禁止し、ユダヤ人の市民としての生活権を否定した。
1938 年 11 月 9 日には水晶の夜事件を起こし、ナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ
人住宅、商店地域、シナゴーグなどを襲撃し、放火した。
256
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このようにヒトラーは、政権を握ると、ユダヤ人迫害を実行に移していったが、その実
行責任者はラインハルト・ハイドリヒ(1904~42 年)であった。ドイツの政治警察権力を
一手に掌握し、ハインリヒ・ヒムラーに次ぐ親衛隊(SS)の実力者であった。
ハイドリヒは政治警察を一手に掌握し、ヒトラーから下される極秘の様々な政治工作、
弾圧、迫害、虐殺を具体的に実行していく役割をすべてはたすようになった。長いナイフ
の夜(突撃隊幹部などの粛清)をはじめ、ブロンベルク・フリッチュ事件(ブロンベルク
国防相・フリッチュ陸軍総司令官の冤罪・罷免事件)
、ミハイル・トゥハチェフスキーら赤
軍幹部の粛清事件(スターリンの大粛清の手助け)
、グライヴィッツ事件(ポーランド侵攻
の謀略)
、フェンロー事件(オランダ侵攻の謀略)などはハイドリヒが主導的な役割を果た
した。
《いつ、だれによってホロコーストは決定されたか》
現在でも歴史家の間で議論されていることは、ナチスの高官によってヨーロッパのユダ
ヤ人を根絶する決定がいつ行われたのかということである。問題が問題であるので、きち
っとした資料は残っていない。歴史家の間で 一致しているのは、最終的解決の概要が 1941
年の夏から秋にかけて徐々に行われたということである。 ホロコーストの研究家クリスト
ファー・ブラウニングは、ユダヤ人を根絶するという決定は、2 段階で行われたと述べてい
る。
第 1 段階は 1941 年 7 月、親衛隊の特別編成部隊である国家保安本部特別行動部隊(アイ
ンザッツグルッペン)がドイツ軍占領下のソ連でユダヤ人を大量虐殺した。この第 1 段階
目については、独ソ戦開始のところですでに述べた。
第 2 段階は 1941 年 10 月、残るヨーロッパのユダヤ人を根絶するというものであった。
第 2 段階目では広い証拠が存在している。たとえば、1941 年 7 月 31 日、ヒトラーの指示で、
ゲーリングが親衛隊(SS)のナンバー2 であるハイドリヒに「ユダヤ人問題の最終的解決を
望ましい形で実行するために必要な行政的なシステムと金銭的な方策の計画を可能な限り
すぐ自分に提出するように」命令したことである。そして、それの答えを議論したのがヴ
ァンゼー会議であった。
ユダヤ人大量虐殺の決定は、いずれにしても、ヒトラー→ゲーリングのラインで、1939
年秋ごろに決定され(ポーランド侵攻のあと)、その後、いろいろな方法(移住・移民方
式、移動殺戮方式など)が模索され、最終的にはゲーリングの指示でハイドリヒが 1942 年
1 月 20 日のヴァンゼー会議で決定した最終解決(強制収容所・ガス室)であったようであ
る。
《ヴァンゼー会議…「ユダヤ人問題の最終的解決」の決定》
前述したように、ハイドリヒは 1941 年 7 月 31 日、ゲーリングから「ユダヤ人問題の最
終的解決」
(ユダヤ人の絶滅政策)の委任を受けていた。ハイドリヒらは、ドイツ領内から
一刻も早くユダヤ人を取り除きたいと考えたが、これにはゲーリングや軍部からは反対が
あった。ユダヤ人は、軍事工場などで貴重な労働力となっていたからであった。
257
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ハイドリヒは、1942 年 1 月 20 日、ベルリンの高級住宅地アム・グローセン・ヴァンゼー
にある邸宅(現在ヴァンゼー会議博物館)で関連省庁の次官級会議を開催した。そこでは
「ヨーロッパのユダヤ人問題の最終的解決」について討議した。
この会議に関する公式文書は存在しない。だが、議事録がアイヒマンによって作成され
その存在は確認されている。
その議事録によると、この会議でナチス政権は正式にユダヤ人絶滅を取り決めた。ハイ
ドリヒは会議の席上、このように宣言した。
「最終解決とは、1100 万人のユダヤ人を処理す
ることであり、それにはイギリスとアイルランドのユダヤ人も含まれる。すべてのユダヤ
人の絶滅という目標は、人類の大再編成に他ならない」
。
会議では、その「最終的解決」なるものが決定された。ドイツ領内には 230 万人のユダ
ヤ人、ハンガリーには 85 万人、他の占領地域には 110 万人、ソヴィエトには 500 万人を、
強制収容所に列車で送る計画が承認された。労働力として役に立つものは、しばらくは生
かしておくが、最終的には全員抹殺するということであった。議事録には直接的に殺戮を
意味する表現は全く使われていないが、その他のナチ党関連文書においても使用されてい
る「強制移住」
、
「特別措置」などの語を、大量殺戮を意味する隠語と解釈するのが通説で
ある。
アイヒマンは後に「会議では、殺害・根絶・絶滅の方法について話し合われた。方針は
決められ、目標が宣言された。最終解決の実行は即時に行うとされたのである。
」と証言し
ている。
この最終的解決の計画が完全に準備された 1942 年よりも前に、前述したような方法によ
って、既に 100 万人に近いユダヤ人が大量殺害されていた。しかし、「死の収容所」とも
呼ばれる絶滅収容所を建設し、ユダヤ人の大量殺害を工業的に行うことを本気で開始した
のは、ヨーロッパに住む全てのユダヤ人を根絶させることを決定したヴァンゼー会議以降
であった。
このヴァンゼー会議でのユダヤ人絶滅決定に基づいて開始された 3 大絶滅収容所(ベウ
ジェツ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所)での絶滅作戦は、ハ
イドリヒの死後に「ラインハルト作戦」と命名された。この当初の「ラインハルト作戦」
に基づいて、ベウジェツでは 55 万人、ソビボルでは 25 万人 、トレブリンカでは最低 90
万人が虐殺された。その後、さらに大規模に拡大されていった。
《ゲットーの消滅》
ヴァンゼー会議で、ワルシャワ地区のユダヤ人は後述するトレブリンカ強制収容所へ移
されることが決定された。
1942 年 7 月 19 日にヒムラーはワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の強制移送の命令を下し
たが、その後、僅か 60 日足らずでワルシャワ・ゲットーの住民 30 万人がトレブリンカ強
制収容所へ移送され、多くのゲットーは空になった。ドイツ政府はこれを「東への移住」
と呼んでいた。
258
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1942 年 9 月にゲットー内に残っていたのはせいぜい 7 万人だったが、ゲットーで反乱が
起こった。しかしドイツ軍により速やかに鎮圧された。首謀者は処刑または強制収容所送
りとなり、ワルシャワ・ゲットーは消滅した。
ヴァンゼー会議の決定後に、最初から絶滅を目的とした絶滅収容所が建築された。前述
のソベウジェツ、ビボル、トレブリンカ、ヘウムノ、マイダネク、そして、最後にはアウ
シュヴィッツ・ビルケナウの順に建設された。これらの絶滅収容所にゲットーや占領地域
から多くのソ連人捕虜・ユダヤ人が送り込まれた。
とくにトレブリンカ強制収容所の犠牲者は群を抜いて多く、およそ 90 万人がそこで殺さ
れたという。
《トレブリンカ強制収容所》
トレブリンカ強制収容所は、ワルシャワから北東約 90 キロメートルに作られた絶滅収容
所の一つで、1942 年に設立されてから 1943 年に解体されるまでの 1 年余りの間に、主にワ
ルシャワ地方のユダヤ人を中心にそのほとんどが老若男女の区別なく直接ガス室に送り込
まれて殺されたと言われている。このため他の収容所と比べ犠牲者の数は突出して多く生
存者も極めて少ない。
収容所は長方形型であり、13.5 ヘクタールの面積であった。絶滅収容所であったため強
制収容所と比べると手狭であった。付近に人家は少なく、鉄道の引込み線が設けられた。
収容所は高さ 3 メートルの鉄条網で囲まれていた。機関銃とサーチライトの備わった監視
塔も複数存在した。
収容所内は第 1 収容区と第 2 収容区が存在し、第 1 収容区には入口、事務所、厨房、倉
庫、作業場、菜園、100 人から 140 人ほどのウクライナ人警備兵の宿所などがあった。第 2
収容区は作業組ユダヤ人のバラック、脱衣バラック、ガス室、遺体焼却施設、共同墓地が
存在し、絶滅計画が行われていた。
ガス室では、ツィクロン B と呼ばれる毒ガスを使って、ユダヤ人たちが殺害された。ガ
ス室は 4 メートル四方、高さ 2.6 メートルの部屋で一見シャワー室に見えるよう天井に水
道管に見せかけたパイプが走っており、そこから隣室より流すディーゼルガスによってガ
ス殺を行っていた。
遺体は焼却炉をフル稼働して焼却処分され、それに伴う死体運搬等の労働はユダヤ人が
命ぜられた。遺体は全て焼却し残っていないとされる。
親衛隊員は 20 人ほどであり、収容所の要職に就いてウクライナ人看守たちを指揮した。
彼らは入口の近くの武器庫の側で暮らしていた。
1943 年 8 月 2 日、ユダヤ人特別労務班が反乱を起こし、収容所内の建物を放火したが、
親衛隊によって鎮圧された。その機会に収容所は解体されることになり施設は爆破され、
土地は整地されてその上にウクライナ系の農夫が家を建てて、住んでいるかのように偽装
されて隠蔽がはかられた。
《アウシュヴィッツ強制収容所》
259
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ホロコーストの象徴と言われるアウシュヴィッツ強制収容所は、図 66(図 15-75)のよ
うに、現在のポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)にアウ
シュヴィッツ第 1 強制収容所、隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)にアウ
シュヴィッツ第 2 強制収容所がつくられた。その後、分散型の第 3 強制収容所も周辺につ
くられた。
図 66(図 15-75) 第 2 次世界大戦中のユダヤ人迫害
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
(このアウシュヴィッツ強制収容所は、二度と同じような過ちが起こらないようにとの願
いを込めて、1979 年ユネスコの「負の世界遺産」に認定され、現在の名称は「アウシュヴ
ィッツ・ビルケナウ…ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所(1940~1945 年)」となっている)
。
この強制収容所は、
「強制収容所」と「絶滅収容所」の両方を備えた総合収容所であった。
最初は,1940 年に従来の強制収容所として第 1 収容所が建設されたが、1941 年に第 1 収容
所にガス室を作り実験的に行い、1 月 20 日のヴァンゼー会議の「最終的解決」が決定され
てから、ガス室を備えた大規模な第 2 収容所が建設されたと考えられる。この第 2 収容所
が本格的に使われるようになると、第 1 収容所のガス室は取りやめになり、強制収容所管
理のための施設となった。
260
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この強制収容所は、ソ連への領土拡張をも視野に入れた「東部ヨーロッパ地域の植民計
画」を推し進め、併せて占領地での労働力確保および民族浄化(民族絶滅化)のモデル施
設として建設、その規模を拡大させていったようである。
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ・シンティ(ジプシー)、精神障害者、身体障
害者、同性愛者、捕虜、聖職者、さらにはこれらをかくまった者などであった。その出身
国は 28 ヶ国に及んだ。ドイツ本国の強制収容所閉鎖による流入や、1941 年を境にして顕著
になった強引な労働力確保(強制連行)により規模を拡大した。ピーク時の 1943 年にはア
ウシュヴィッツ全体で 14 万人が収容されていた。大戦中を通してアウシュヴィッツに収容
された出身地別の人数は図 66(図 15-75)のように 105 万人であった。1945 年 1 月にソ連
軍に解放された生存者は 7000 人余りであった。
たとえ労働力として認められ、収容されたとしても多くは使い捨てであり、非常に過酷
な労働を強いられた。全く人間として扱われていなかった(家畜でも労働維持のための扱
いはうけるが、ここではそれ以下で扱われた)。その理由は、厳しい労働や懲罰によって社
会的不適合者や劣等種族が淘汰されることは、問題解決の一手段として捉えられていたこ
と、侵略で領土拡張が順調に進んでいる間は労働力は豊富にあり、個々の労働者の再生産
(十分な栄養と休養をとらせるなど)は一切考慮されなかったためであった。
(
『自然の叡智 人類の叡智』では、人類は古代から長い間、奴隷制度をもっていたこと
は述べてきたが、それでも奴隷が死なないように配慮されていたのでそれなりの扱いを受
けたと思われるが、ナチス・ドイツでは適当に死ぬことを前提としていたというから、そ
の扱いは想像を絶することであったろうとしかいいようがない。このとき生き残った心理
学者ヴィクトール・フランクルが 1946 年に出版したのが『夜と霧』(原題:それでも人生
に然りと言う: ある心理学者、強制収容所を体験する)であり、そのような極限状態の中
での人間の気高さを著していて、世界中の人々に大きな感動を与えた)。
アウシュヴィッツの象徴として映画や書籍などで見られる「強制収容所内まで延びる鉄
道引込み線」は 1944 年 5 月に完成した。被収容者から没収した品々を一時保管する倉庫や
病院(人体実験の施設でもあったとされる)
、防疫施設、防火用の貯水槽とされるプールが
あった。ガス室は、農家を改造したものが 2 棟と複合施設が 4 棟の計 6 棟があったとされ
るが、これらは被収容者の反乱や撤退時に行われた証拠隠滅を目的とした破壊により原型
をとどめていない。
この収容所に送り込まれたものは、次のように「処理」された。
★選別……ドイツ統治下の各地より貨車などで運ばれてきた被収容者は、オシフェンチム
の貨車駅で降ろされ、
「収容理由」
「思想」「職能」
「人種」
「宗教」
「性別」「健康状態」など
の情報をもとに「労働者」
「人体実験の検体」
、そして「価値なし」などに分けられた。
価値なしと判断された被収容者は直ちにガス室での処分となった。その多くが「女性、
子供、老人」であったとされる。ここで言う「子供」とは身長 120 センチメートル以下の
261
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
者を指すが、学校や孤児院から集団で送られて来ていた子供たちは形式的な審査もなく、
引率の教師とともにガス室へ送られた。
一説には「強制収容所到着直後の選別で、70~75%がなんら記録も残されないまま即刻ガ
ス室に送り込まれた」とされており、このため正確な総数の把握は現在にいたってもでき
ていない。
★登録……即刻の処分を免れた被収容者は、散髪、消毒、写真撮影、管理番号を刺青する
など入所にあたっての準備や手続きを行った。管理番号は一人ひとりに与えられ、その総
数は約 40 万件となった。私物は「選別」の段階までに、戦争遂行に欠かせない資源として
すべて没収されており、与えられる縦じまの囚人服が唯一の所持品となった。最後に、人
種別・性別などに分けられた収容棟に送られた。
囚人服には「政治犯」
「一般犯罪者」
「移民」「同性愛者」
、さらには「ユダヤ」などを区
別するマークがつけられていた。これは、強制収容所内にヒエラルキーが形成されていた
ことを意味し、労働、食事、住環境など生活のあらゆる面で影響を及ぼしたと考えられる。
ドイツ人を頂点に、西・北ヨーロッパ人、スラブ人、最下層にユダヤ人や同性愛者、ロ
マ・シンティが置かれ、下層にあればあるほど食料配給量や宿舎の設備、労働時間などあ
らゆる面で過酷な状況に置かれ、死亡率も高くなった。心理面では、下層の被収容者がい
ることで上層の者に多少の安心を与えると共に、被収容者全体がまとまって反抗する機運
をつくらせない狙いがあったと考えられている。
《ユダヤ人絶滅計画の終焉》
1944 年中ごろには、
「最終計画」はおよそ完成していた。ナチスが容易に手に届く範囲の
ユダヤ人社会は、ほぼ全て殲滅された。ポーランドではユダヤ人の約 90%、フランスでは
25% が殺害された。5 月にヒトラーは、演説で「ドイツ国内と占領領土におけるユダヤ人問
題は解決した」と豪語した。
1944 年後半になると、殲滅計画を続けることは難しくなった。ドイツ軍はソヴィエト連
邦やバルカン半島、イタリアから撤退を余儀なくされ、同盟国の日本とイタリアも敗戦色
が強くなった。ソ連軍が東ポーランドの強制収容所に接近すると、囚人はドイツ国内の収
容所に移された。アウシュヴィッツも閉鎖された。証拠を隠滅するために、ユダヤ人は収
容所から収容所へ食料もなく雪の中を無理に移送「死の行進」をさせられたが、その過程
でさらに 10 万人が死んだ。
東部占領地域の収容所は証拠が残らぬよう徹底的に破壊された。90 万人の死体が埋めら
れたはずのトレブリンカでは、埋葬地の痕跡さえ残っていない。
1944 年 7 月 23 日マイダネク強制収容所がソ連軍によって解放され、1945 年 1 月 27 日ア
ウシュヴィッツも解放された。アウシュヴィッツのガス室などの設備は前年の 1944 年 10
月に全て爆破されており、ソ連軍が到着した時、看視兵とともに移動できなかった病人や
残留を希望した者など約 7,000 人の収容者を除けば、大量虐殺の証拠はほとんど隠滅され
262
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ていたと言われる。ベルゲンベルセンでは捕虜 6 万人が保護され、死体 1 万 3000 体が遺棄
された状態で発見された。
犠牲者について正確な資料が残されていないため、とくに後期の犠牲者の数を推測する
のは困難である。ニュルンベルク裁判では、
「アウシュヴィッツで 400 万人が死亡した」と
したが、1995 年には完全に否定され、公式の記念館も全て 150 万人に書き換えられた。
ホロコースト全体では、ある見積もりによると、1100 万人前後 (ユダヤ人 600 万人、非
ユダヤ人 500 万人) となっている。
とくに被害が大きかったのが中欧および東ヨーロッパであり、1939 年当初のユダヤ人人
口は 700 万人であったが、そのうち 500 万人がホロコーストで殺害されたとされる。その
内訳は、ポーランドで 300 万人、ソヴィエト連邦で 100 万人、またオランダ、フランス、
ベルギー、ユーゴスラビア、ギリシャなどでも数十万が犠牲になった。
「ユダヤ人絶滅の全作業を担った官庁はなかったし、特定の機関が創出されることもな
く、特定の予算も割かれなかった」とホロコーストの計画性や統合性のなさが指摘されて
いる。しかし、ドイツのあらゆる官僚組織が、この大量殺戮計画に協力していた。
教会や内務省は、国民の戸籍を当局に提出して、ユダヤ系の国民を特定させた。祖父ま
たは祖母に 3 人以上のユダヤ人をもつ者は例外なく強制収容所送りの対象者とされた。郵
便局はユダヤ人の家庭に強制退去命令を送った。財務省はユダヤ人の財産を没収した。企
業は、ユダヤ人労働者を解雇して、ユダヤ人の株主の権利を無効とした。大学は、ユダヤ
人の新入生の入学や、在学中の生徒に学位を授与することを拒否した。運輸省は、大量の
ユダヤ人を強制収容所に送るための列車を手配した。
つまり、官僚組織は本来の職務として行なっただけで、とくに責任があるというわけで
はないというのである。当時、ドイツ国内でこうした政策を公然と批判したり、ユダヤ人
をかばったりする宗教団体や大学、労働組合なども皆無だったという。
(特定の官庁がなかったとか、公式に書いた証拠が見つからないということが問題の本質
ではない。そのような証拠書類は敗戦時にすべて焼却されている。人類が人間を家畜以下
におとしめ、大量虐殺した行為そのものが、戦争という非常時にかこつけて現代の人類社
会に現出したこと、戦争というものはそのように人間を非人間的にしてしまうものである
ことを問題にすべきである。日本では、とくに安部内閣になってから「従軍慰安婦問題」
がクローズアップされている。ユダヤ人ホロコースト問題と従軍慰安婦問題は問題の大き
さも内容も異なる問題である。ただ、性問題は食問題とともに人間の本質に関わる問題で、
戦争や飢餓などの異常な環境下におかれた人間を非人間的にしてしまうところに発生する
もので、戦争や飢餓などをどう再発させないかが重要であり、日本軍の公式な証拠はなか
ったかどうかが問題の本質ではない。ドイツも日本も敗戦時にすべての証拠を焼却したの
で残っているはずがない。証拠の書類がなくても、多くの証言などから学ぶことができる。
我々は歴史から謙虚に学ばなければならない。歴史をなかったことにすると、また、我々
の子孫が(日本人というのではなく、人類という子孫が)50 年後、100 年後、同じ過ちを
263
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
犯してしまうかもしれない。いつの時代でも人類は気高いものと狂気を併せ持っているの
である。それは動物だから。環境によってはどうなるかわからない。それを押しとどめて
くれるのは、歴史から学ぶ「人類の気高い行いと狂気の行い」であり、我々は、それを子
孫に語り継がなければならない)。
【2】イタリアの戦争
《最新装備ができなかったイタリア軍》
イタリアの根本的な問題は、第 1 次世界大戦が終わったとき、まだ経済的に準先進国だ
った。1920 年のイタリアの 1 人当り国民所得は、イギリスやアメリカの 19 世紀初めの所得
にほぼ等しかった。1920 年には国民総生産の 40%は農業所得であり、総労働人口の 50%は
農業従事者であった。ファッシズムは農村の暮らしを美徳としてたたえ、これを支えるた
めに特別の政策をとった。政府が軍備と村落単位の農業の維持に莫大な資金を投じていた
から、企業への投資にまわす貯蓄が少なかった。自給自足政策のもとではイタリアの産業が
発展する可能性はなかった。1938 年ごろですら、表 8(表 15-6)のように、イタリアは世
界の工業生産のうち 2.9%を占めるにすぎなかった。
表 8(表 15-6) 世界の工業生産高に占めるシェア(1928~38 年)
ポールケネディ『大国の興亡』
この時期には科学とテクノロジーが大いに取入れられて新兵器が開発され、そのために
軍隊のすべての部門で兵器のシステムが様変わりしていったが、この肝腎なときにイタリ
アは経済力がなく追随できなかった。
《1930 年代後半に一変した世界の軍事力》
1930 年代後半に世界の兵器は一変していった。その事情を述べると以下のようになる。
戦闘機は複葉機(軽装備で布張り)から、ジュラルミン製の単葉機へと急速に変ってい
った。単葉機には、何挺もの機関銃や機関砲、コックピット装甲板、それに自動防漏式の
燃料タンクが搭載された。最高時速は 400 マイルで、複葉機よりもずっと強力なエンジン
を備えていた。爆撃機も変った。航続距離の短い双発の中型爆撃機から、非常に高価な 4
発の爆撃機になった。これに大量の爆弾を積み込んでも、航続距離は 2000 マイル以上であ
った。
264
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
最新の戦艦(たとえば、イギリスの「キング・ジョージ 5 世」やドイツの「ビスマルク」
、
アメリカの「ノース・カロライナ」
)は、以前の艦船にくらべて速度が増し、装甲も強化さ
れ、対空防備も厳重になった。新しい大型空母は設計がすぐれ、1920 年代の水上機空母や
巡洋戦艦を改造したものよりもはるかに大きな攻撃力をもっていた。
戦車はいっきに重量が増し、重装備の完全装甲型に変ってしまった。そのエンジンは 1935
年以前のものよりずっと強力になっていた。さらに、これらの兵器システムは他の技術革
新の影響も受けるようになった。電気通信の進歩、進路調節装置や対潜探知装置の開発、
レーダーや無線の改良などが上げられる。
このように改良が進めば、新兵器は途方もない値段になるばかりか、手に入れるまでの
過程も複雑になってきた。新兵器に切り換えるのに必要な新しい工作機械はそろっている
か、計器やジグはどうか、予備の工場はあるか、優秀なエンジニアはそろっているか、
・・・
等々、1930 年代後半にはこれらに耐えられた国だけが最新の軍事システムをもつことがで
きたのである。表 9(表 15-8)に各国がこの時期に防衛費として実際に支出した額を示し
ている。
表 9(表 15-8) 大国の軍事費(1930~38 年)
ポールケネディ『大国の興亡』
これでもわかるようにイタリアは 1930 年代の前半は、軍備にそれほど金をかけていなか
った。1935 年から 37 年のあいだに支出は急激に増えているが、この間の防衛費はエチオピ
アとスペインでそれぞれ戦争をしたために増加したもので、新たに兵力を増強したり、軍需
産業を強化したりしたわけではなかった。そうした技術革新は 1935 年頃から始まっていた
が、イタリアはドイツから工作機械を買いたくても外貨がなかった。
265
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スペイン内戦の時に活躍して感銘を与えたフィアット CR42 複葉機は、イギリスとドイツ
の新しい単葉機にくらべるとお話にならなくなっていた。爆撃隊にも小型から中型までの
爆撃機しかなく、エンジンは馬力がなくて、不発弾が非常に多かった。
陸軍はもっとおそまつだった。1938~39 年のころに最新式の戦車や大砲、通信システム
がぜひとも必要だったが陸軍は予算を減らされた。空軍は 8500 機以上の航空機を保有して
いると豪語していたが、実際には爆撃機が 454 機、戦闘機が 129 機しかないことが判明し、
しかも外国の空軍で第 1 級品と認められそうな航空機はほとんどなかった。
第 2 次世界大戦に参戦したときのイタリア陸軍の主要戦車フィアット L3 は重量 3.5 トン、
無線はなく、視界が狭いうえに機関銃 2 挺を備えただけのものだった。文字通り豆タンク
しかなかった(これでもエチオピアでは弓矢の兵が相手だったから大勝したが、とても第 2
次大戦には通用しないものだった)
。これに反して、ドイツやフランスがそのころに保持し
ていた最新式の戦車は、重量はおよそ 20 トン、はるかに多くの重火器が装備されていた。
イタリアの 3 軍のうちで、軍備が最も整っていたのは海軍だった。しかし、それでもイ
ギリス海軍を地中海から追い出すには弱すぎた。ムッソリーニが建造を認めなかったため、
イタリアには空母がなかった。潜水艦は潜水するのに時間がかかり、敵機が近づいている
ときなどまことに危険であった。
《口先だけのイタリアの軍装備》
独裁者ムッソリーニは、空中艦隊構想や新型戦艦や空母の建造など国防上の生命線であ
る海軍力の強化、著しく旧式化していた陸軍装備の更新などを大いに演説してはいた。し
かし、それは口先だけのことであり、実態がついてきていなかった。そもそもイタリアの
装備や物資の不足は工業力の脆弱さに起因しており(第 2 次世界大戦後までイタリアは農
業国であった。工業の北部と農業の南部という概念は戦後復興後のことである)
、経済政策
に失敗したムッソリーニにその根本的解決は不可能だった。
また経済面で頓挫したムッソリーニは民衆の関心を買うために露骨な侵略戦争を進めた
が、これは金を使っただけで、イタリアを外交的に孤立させ、資源輸入で重要な米英と敵
対してしまうという致命的な結果をもたらした。経済・資源・工業力と全ての面で行き詰っ
たムッソリーニの軍備増強は名前だけのものと化し、軍需大臣ファブグロッサは「早くて
も 1949 年まで大規模な戦争は不可能である」とムッソリーニに通告しており、軍部の上層
部も殆どがこの意見に同意していた。
しかし、当時のムッソリーニに戦争以外の選択肢をとる政治的余裕はなく(口先だけが
先行していて)
、結局、第 2 次世界大戦の開戦時の時点で軍備増強は何一つとして成果を上
げられないまま、海軍は旧式戦艦や小型艦艇の運用で急場を凌ぎ、陸軍は師団の半数以上
が定員割れを起こした状態で戦地へ向かわざるをえなかった。高性能の戦車もなく、高射
砲、高速の戦闘機、威力のある爆撃機、空母、レーダー、そして外貨や充分な兵站力もな
いまま、ムッソリーニは 1940 年にイタリアを再び大国同士の戦争に引き込んだのである。
《アルバニア侵略》
266
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ムッソリーニとヒトラーの関係では、1934 年 7 月のドルフース・オーストリア首相暗殺事
件を契機とするドイツのオーストリア併合危機の高まりに対して、ムッソリーニはブレン
ナー峠にイタリア軍を集結して反対意志を示した(このときは、まだ、イタリアの睨(に
ら)みがドイツにきいた)
。
しかし、ヒトラーがムッソリーニを自らの手本として親しみを持っていたこともあり(フ
ァッシズム政権樹立という点ではムッソリーニが早くヒトラーはその手法をまねた)
、エチ
オピア戦争を契機として、親英派の反対を退けて対ドイツ接近政策に転換した。1936 年 7
月 18 日に発生したスペイン内乱にもドイツとともに介入した。イタリアはエチオピア戦争
とそれによるエチオピア併合により、国際社会の猛反発にあい、1937 年 12 月 11 日に国際
連盟を脱退した。国際的に孤立したイタリアは、同じく国際社会で孤立していたドイツと
日本に接近し、日独防共協定に参加した(のちには三国同盟を結んだ)
。
アルバニアもイタリアがかねてから目をつけていた国であった。イタリアは、アルバニ
ア共和国のアフメト・ベイ・ゾグー大統領に接近し、経済面での援助を行い始めた。アル
バニアは次第に武器や弾薬、燃料といった重要物資などの援助も受けるなど依存を深め、
1930 年代には完全にイタリアの経済植民地と化してしまった。
予定通りことを進めたイタリアではあったが、ゾグーは最後の一線であるアルバニアの
主権喪失だけは頑なに拒み続け、1934 年には隣国ユーゴスラビアと外交を樹立し、ムッソ
リーニを激怒させた。ムッソリーニはイタリア王家の慎重論や国際世論の批判などから軍
事行使は避けていたが、1939 年にヒトラー率いるナチス・ドイツがチェコスロバキアを軍
事併合したのを目の当たりにして、遂に占領を決断した。
1939 年 3 月 25 日、アルバニアのゾグー1 世に最後通牒を突きつけ、アルバニアの主権を
譲ればゾグーとその家族の生活は保障するというもので、ゾグーがこれを拒絶したことで
イタリアはアルバニアに宣戦布告した。
1939 年 4 月 7 日、イタリア軍 2 万 2000 人がアルバニアに上陸、戦闘開始から 4 日後の 4
月 10 日までにイタリア軍はアルバニアのほぼ全土の占領を完了、追い詰められたゾグー1
世はイギリスに亡命した。こうしてイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世は 1939
年 4 月 15 日、アルバニア王となった。まったく、イタリアは、20 世紀という時代に、古代
ローマ帝国と同じようなやり方で独立国を奪ってしまった。
植民地となったアルバニアは宗主国のイタリアに歩調を合わせて国際連盟から脱退し、
1939 年 6 月 3 日にアルバニア外務省に解散命令が出された。アルバニア軍の各部隊はイタ
リア国防省の指揮下に移され、1940 年には正式にイタリア陸軍に外国人師団として統合さ
れた。その後、国際的孤立を深めながらイタリアは第 2 次世界大戦に突き進んでいった。
《北アフリカ戦線》
第 2 次世界大戦には、イタリアは、フランス降伏 12 日前の 1940 年 6 月 10 日にイギリス、
フランスに宣戦し、フランス南部に侵攻した。
267
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
フランスが降伏すると、イタリア政府は、イギリス本土への攻勢を控えたドイツ政府よ
り、次に東アフリカ戦線のドイツ軍への助勢と、北アフリカ駐留イギリス軍への攻撃を要
請さた。ムッソリーニはリビア(イタリアの植民地)に駐屯する 23 万人の兵員から戦力を
捻出し、エジプトへ攻撃を仕掛けることを画策していた。
しかし、イタリア軍上層部は、前述したようなことで北アフリカに駐屯する部隊には貧
弱な火力しか持たない豆戦車・軽戦車しかないこと、また戦車以外の装備も旧式化してい
ること、そして何よりも軍の生命線である補給が慢性的に枯渇していることを理由に、慎
重な意見を述べていた。
ムッソリーニは軍の反対を押し切る格好で、1940 年 9 月 13 日、イタリア軍にイタリア領
リビアからエジプトへの進軍を命じた。
イギリス軍のオコンナー将軍はイタリア軍の補給線を引き伸ばし、更に困窮させる狙い
で軍を後退させたため、イタリア軍は開戦当初は順調に進軍を続けた。しかし装備と補給
面の不足を理解していたイタリア軍のグラッツィアーニ元帥は、シディ・バラーニで軍の
先頭部隊を停止させ、同地の防御を命じた。ムッソリーニはこれに激怒したが、以降 3 ヶ
月間にわたってイタリア軍は同地に留まった。
1940 年 12 月 9 日早朝、イギリス軍は地中海艦隊の艦砲射撃でイタリア陣地に打撃を与え
た上で攻撃を開始した。オコンナー将軍指揮のイギリス軍 6 万人は機甲部隊を先頭にシデ
ィ・バラーニを攻撃し、イタリア軍陣地は各個撃破された。最終的にイタリア軍部隊 3 万
8000 人が捕虜となった。その後もイタリア軍は後退し、1941 年 1 月 4 日、バルディアの陣
地は陥落しイタリア軍 4 万人が捕虜となり、イタリア軍の残余部隊 2 万人はトブルク要塞
(図 63(図 15-67。P226)参照)に退却し抵抗を続けたが、1 月 22 日、トブルク要塞も陥
落した。
イギリス軍は 2 月 5 日にベンガジ(図 63(図 15-67)参照)を占領し 5000 人の兵士を拘
束した。命運尽きたイタリア軍は包囲突破を目指した最後の突撃を敢行し、数日間の戦闘
の末に壊滅し、指揮官のベルディ将軍も戦死した。
グラッツィアーニ元帥は僅かに生き残った 8000 人のイタリア軍将兵と共にトリポリ(図
63(図 15-67)参照)へ下がり、そこで総指揮官の辞任を表明した。一連の戦闘で駐留リビ
ア・イタリア軍 23 万人中、13 万人が失われ、残りはほとんど捕虜となってしまった。砲 845
門と戦車 350 輌もまた喪失し、
領土もリビア東方に押し返される結果に終わってしまった。
開戦半年で早くもアフリカのイタリア軍は壊滅し、軍事的に窮地に立たされたムッソリ
ーニはヒトラーに救援を要請した。これを受けたヒトラーはロンメル将軍に 2 個師団を預
けて編成したドイツ・アフリカ軍団を北アフリカに派遣することになった。
《ギリシャ・イタリア戦争》
バルカン半島の 1 国家であるアルバニアを併合していたイタリアは、親イギリスである
ギリシャを介して連合軍側がアルバニアやイタリア南部へ干渉してくる可能性を危惧して
いた。当時、前述のようにイタリアは北アフリカでもイギリス軍との戦闘が行われており、
268
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
みだりな戦局拡大は避けるべきとのイタリア軍の反対を黙殺して、ムッソリーニは 1940 年
10 月 28 日、ギリシャへの遠征を命じた。
ムッソリーニはアルバニアに駐屯する 10 万 5000 人に加え、本土から新たに召集した部
隊 6 万人を加えた軍勢でギリシャ攻撃を企てたが、時間の都合から新兵の多くは訓練が不
十分なまま戦地に投入されており、錬度の面で問題があった。更に戦車戦力の確保のため
に、北アフリカに送る手筈だった 1000 輌の戦車をギリシャに投じたため、前述のように北
アフリカでの勝利の機会は永久に失われた。
イタリア軍 7 個師団 10 万人がギリシャへ侵攻を開始したが、ギリシャ軍 5 個師団は、険
しい山岳地帯が殆どを占めるギリシャの土地柄を活用した伏兵やゲリラ戦でイタリア軍部
隊を苦しめた。北アフリカからの援軍要請を無視してまで送った戦車隊も、山岳地帯では
有効な成果を挙げることができなかった。ギリシャ軍は 3 個軍団 10 万人の増派を完了し、
数の上でも上回った。
ムッソリーニはここで考えを改め、司令官の罷免と軍の増派を決定した。20 万人に増派
されたイタリア軍は窮地から立ち直り、戦線を立て直して進軍を再開し始めた。しかし、
ここに 6 万人からなるイギリス軍と数々の軍需物資を積載したイギリス輸送艦隊がギリシ
ャに来援した。再び戦力で上回った連合軍の前にイタリア陸軍はアルバニアとギリシャの
国境線まで後退を余儀なくされた。こうしてギリシャ・イタリア戦争は泥沼化してしまい、
国境地帯で激しい山岳戦が繰り広げられた。
《イギリスのタラント空襲》
イタリアのタラントは地中海・イオニア海のタラント湾に面した都市で重要な軍港があ
り、イタリア海軍の一大拠点であった(タラントはくつ型のイタリア半島のかかとの部分
にある)。イギリス海軍は開戦になったら、空母艦載機によるタラント軍港のイタリア艦
隊に対する攻撃を考えていた。
開戦時の地中海でのイギリス海軍の空母戦力はアレクサンドリアのイーグル、イラスト
リアスとジブラルタルのアーク・ロイヤルであった。アレクサンドリアを出港した空母イ
ラストリアスは巡洋艦 4 隻と駆逐艦 4 隻を伴ってタラントの攻撃に向かった。1940 年 11 月
11 日 21 時タラントの南約 272 キロメートルでイラストリアスは攻撃隊を発進させた。
攻撃隊はソードフィッシュ雷撃機 21 機からなっていて、22 時 58 分、攻撃隊がタラント
軍港上空に到着し、魚雷攻撃を開始した。イタリア海軍は戦艦 3 隻が大損害を受けたのに
対し、イギリス側の損害は雷撃機 2 機のみであった。この結果、イタリア海軍を地中海か
ら駆逐したイギリス海軍は戦艦を地中海から対ドイツ海軍のために自国の海域や大西洋に
送ることができるようになった。
この空襲はイギリスのみならず、各国の航空万能論(航空主兵論)を後押しする形にな
り、日本軍の 1941 年 12 月の真珠湾攻撃、マレー沖海戦と並んで大艦巨砲主義からの転換
の典型例としてタラント空襲があげられることになった(日本海軍の山本五十六はこのタ
269
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ラント空襲にヒントを得て、これを徹底的に研究し、タラント空襲から 1 年 1 ヶ月後にア
メリカのハワイ真珠湾攻撃を実施した)。
《ロンメル将軍の北アフリカ戦線》
北アフリカでお手上げになったムッソリーニはヒトラーに支援を求めた。そこで、ヒト
ラーは、ロンメル将軍をその責任者として北アフリカに派遣した。
ロンメルは昨年(1940 年 5 月)に開始されたフランス・ベネルックス諸国への西方電撃
戦では第 7 装甲師団長を務め、真っ先にムーズ川を渡り、英仏軍をフランス本国から切り
離す一番槍をつけ、アラスでドゴール大佐らが率いる英仏戦車隊の反撃を撃退するなど、
連合軍に幽霊師団と仇名される神出鬼没の働きで勇名をはせ、最も若くして中将に昇進し
ていた。ロンメル自ら偵察機や指揮装甲車に搭乗して最前線で指揮を執り兵士と苦楽を共
にする軍人で、彼の用兵術はドイツ軍人精神の模範とされ、兵士に実力以上の能力を発揮
させるドイツ軍のエースだった。
ロンメル将軍は 1941 年 2 月 14 日にリビアのトリポリに上陸後(図 63(図 15-67。P226)
参照)
、迅速に攻撃を開始し、イタリア軍も指揮下に置き、4 月にはベンガジを奪回し、イ
ギリスのオコンナー将軍を捕虜にする戦果を挙げた。しかしドイツ軍はイギリス軍の要塞
となっていたトブルクを包囲したものの、補給の不足などにより陥落させることはできな
かった。
これより、北アフリカを舞台にロンメル軍とイギリス軍の一進一退の攻防戦が続いたが、
結局、ロンメル軍は補給が尽きて、戦車不足と敵の物量に追い詰められていった。
1942 年 11 月 3 日、ロンメルは「現在地を死守し不退転の決意で戦うべし」というヒトラ
ーの命令を受けたが、11 月 4 日にロンメルは総退却命令を出した。11 月 13 日、イギリス
軍はトブルクを、同 20 日にはベンガジを奪回した。
1942 年 7 月の英米首脳による打ち合わせの結果、11 月 8 日から米英軍による北アフリカ
上陸(トーチ)作戦が実行された。連合軍上陸部隊はイギリスやアメリカから直接北アフ
リカに向かい、西方任務部隊・中央任務部隊・東方任務部隊の 3 つに分かれ、図 67(図 15-73)
のように、それぞれカサブランカ(モロッコ)
、オラン(アルジェリア)
、アルジェ(アル
ジェリア)の港湾に上陸した。
1943 年 1 月に枢軸軍はチュニジアに集結し、東西から連合軍の攻撃を受けることになっ
た(図 67(図 15-73)参照)
。第 2 次世界大戦における初のナチス・ドイツ、アメリカの激
突は、カセリーヌ峠の戦いであった(図 67(図 15-73)参照)。この戦いに参加した枢軸軍
はロンメルに率いられたドイツ・イタリア装甲軍とドイツ第 5 装甲軍(2 個師団)であった。
対する連合軍は大部分がアメリカ軍であった。
数では圧倒的に勝っていた連合軍だが、熟練度と戦車装備にまさるドイツ軍の巧みな戦
術によって、この戦いを含む 1 ヶ月間に、アメリカ軍は多数の損害を被り、総崩れとなっ
てファイド峠の西、80 キロメートルまで押し戻された。しかし、3 月 3 日、東から攻めて
270
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
きたモントゴメリー率いるイギリス第 8 軍は、枢軸国軍の背後への攻撃を開始した。枢軸
国軍は挟み撃ちにされる状態となり、マレス・ラインを放棄し、後退していった。
図 67(図 15-73) 北アフリカ戦線とトーチ作戦
さらに、イギリス軍は、シチリアからチュニジアへの補給線を大量の航空戦力で攻撃す
ることによって、枢軸国側に多大なダメージを与えることに成功した。1943 年 5 月、ドイ
ツ軍は戦闘継続が不可能と判断し北アフリカから撤退した。5 月 13 日に逃げ遅れた北アフ
リカの枢軸国軍のドイツ・イタリア軍 25 万人が降伏し、
ここに北アフリカ戦線は消滅した。
北アフリカの陥落によって地中海のほぼ全域が連合軍の制空権下となり、イタリア南部
が連合軍の進出対象の圏内に入った。これらはハスキー作戦へと発展していった。
《カサブランカ会談》
少しさかのぼるが、1943 年 1 月 14 日から 23 日にかけて、モロッコのカサブランカにお
いてアメリカ大統領ルーズベルトとイギリス首相チャーチルの米英首脳によるカサブラン
カ会談が行われた。内容としては、アフリカ作戦の成功後、シチリア島・南イタリアへの
上陸作戦をとることを確認したことと、枢軸国に対して無条件降伏を要求する方針を確認
したことが挙げられる。
《シチリア上陸作戦》
7 月 10 日、連合軍の 140 機のグライダーと空挺部隊 3000 人の降下を口火として「ハスキ
ー」作戦が発動され、モントゴメリー元帥指揮のイギリス第 8 軍は、戦艦 6 隻を中心とす
る連合軍艦隊の支援を受けながら、シチリア島の東南側海岸に上陸して北上、シラクーザ
から東北端のメッシーナを目指した(図 65(図 15-72)参照)。またジョージ・パットン
中将のアメリカ第 7 軍は、南西側海岸ジェーラに上陸後、モントゴメリーの側面を援護し
つつパレルモを目指して北上した。
271
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
7月 24 日に連合軍はシチリア西部を制圧し、イタリア軍主力が降伏し、大勢が決し、ド
イツ軍は、イタリア軍残余と共に後退戦術を取った。8 月 11 日、シチリアの枢軸軍残存部
隊がイタリア本土へ脱出し、シチリアを巡る戦いは連合軍の勝利に終わった。
《イタリア降伏とドイツ軍のイタリア占領》
1943 年 7 月 24 日、5 年ぶりとなるファシズム大評議会がヴェネツィアで開かれ、古参フ
ァシストの元駐英大使王党派のディーノ・グランディ伯爵がファシスト党指導者ムッソリ
ーニの戦争指導責任を追及した。この動きにムッソリーニの娘婿ガレアッツォ・チアーノ
外務大臣ら、多くのファシスト党閣僚が賛同した。そして「統帥権の国王への返還」の動
議が過半数の賛成を得て成立した。孤立無援となったムッソリーニは翌 25 日午後、国王エ
マヌエーレ 3 世から解任を言い渡され、同時に憲兵隊に逮捕され投獄された。
ムッソリーニ失脚により、元参謀総長のバドリオはエマヌエーレ 3 世によって首相(在
職:1943 年 7 月 25 日~44 年 6 月 10 日)に任命された。バドリオはファシスト党の解散を
命令し、国王の意向を受けて密かに連合国側との秘密裏の休戦交渉を開始し、1943 年 9 月
3 日には秘密休戦協定が結ばれ、ローマは無防備地域とされることになった。
一方、ヒトラーもバドリオの寝返りを警戒し、ブレンナー峠にドイツ軍を集結させ進駐
の準備を進めた。9 月 8 日に連合軍総司令官アイゼンハワーがイタリア側の了承なしにイタ
リアの無条件降伏を発表してしまったので、ヒトラーが国境軍を進めてローマに迫ったた
め、ヴィットーリオ・エマヌエーレ 3 世とバドリオ政権は慌てて南部のブリンディジに逃
走した。ドイツ軍は、イタリア中に部隊を展開させイタリア軍を武装解除、主要地点の占
領に入った。
イタリアが降伏した翌日 9 月 9 日、連合国軍のイタリア侵攻が、西海岸であるサレルノ
近辺と半島南部のカラブリア(イタリア半島のつま先)とタラント(かかとの先端)の 3
ヶ所で実施された。
ドイツ軍は、イタリア北部はロンメル元帥が、イタリア南部はケッセルリンク元帥が指
揮をとり、9 月下旬にはイタリア半島をほぼ占領した。
一方、逮捕後、新政権によってアペニン山脈のグラン・サッソ山のホテルに幽閉された
ムッソリーニは、9 月 12 日、ヒトラー直々の任命で、ナチス親衛隊スコルツェニー大佐率
いる特殊部隊によって救出された。9 月 15 日、ムッソリーニはイタリア北部で、ヒトラー
の保護下ナチス・ドイツの傀儡政権・イタリア社会共和国(RSI)を樹立し、同地域はドイ
ツの支配下に入った。
ローマはドイツ軍に占領され、イタリア北・中部にムッソリーニとファシスト党の強硬
派を中心としたイタリア社会共和国(RSI)が樹立され、軍の半数近い兵力が枢軸側での継
戦を訴えるムッソリーニに呼応して RSI 軍に参加した。
バドリオは連合軍との降伏文書に調印し、連合軍の一員として 10 月 13 日、ドイツに宣
戦布告を行った。イタリア軍は直ちに戦闘を中止し、海軍は降伏のため連合国の港へ向か
った。
272
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
他方、自由党、キリスト教民主党、共産党、プロレタリア統一社会党などによって国民
解放委員会が組織され、広範なレジスタンス運動が展開されることになった。しかも、こ
の国民解放委員会はバドリオ政権を「ムッソリーニなきファッシスト政権」であると批判
し、不承認の姿勢を打ち出したため、イタリアは 3 つの政治勢力に分裂する形となった。
イタリア半島南部から北上してくる連合軍に対し、ケッセルリンク元帥率いるドイツ軍
は、
「ラインハルト線」
「ヒトラー線」「グフタフ線」「カイザー線」という 4 重もの防衛線
を敷き、抵抗を続けた。イタリア半島は山がちであるため防御側に有利で、戦車を効果的
に使えない連合軍の進撃は非常にゆっくりとしたものになった。 しかしその背後ではパル
チザンが徐々に活動を広げ、補給の妨害などを始めていた。
《イタリアの解放》
1943 年 9 月、連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダー指揮の第 15 軍集団
はイタリア・ナポリ南方のサレルノ上陸作戦ののち、イタリアの背骨を形成しているアペ
ニン山脈の東西両側からそれぞれ北方へ進撃した。西側戦線では、アメリカ第 5 軍がナポ
リから西海岸を北上し、東側戦線では、モントゴメリー大将のイギリス第 8 軍がアドリア
海沿岸を進軍した。
1944 年 3 月になると、ソ連がバドリオ政権の承認に踏み切るとともに、モスクワから帰
国した共産党の指導者、トリアッティがバドリオ政権も含めた広範な反ドイツ抵抗戦線の
結成を訴えた結果、バドリオ政権は国民解放委員会の代表を含む形に改組された。
そして、米英軍は 1944 年 6 月 4 日にローマを解放した。だが、連合軍はノルマンジー上
陸作戦のため一時攻撃を中止し、8 月 11 日フィレンツェが陥落した。9 月以降ゴシック線
で両軍のにらみ合いが続いた。
1945 年 1 月、連合軍は攻撃を再開しゴシック線を突破したが、ドイツ軍はイタリア北部
に「ジンギス・カン線」
「ポー線」
「ヴェネツィア線」「アルビーノ線」という 4 重の防衛戦
を敷き直し抵抗を続けた。ドイツ軍は、ポー川沿いのポー線まで後退すると、連合軍のミ
ラノ、トリノ方面への突破を許し、連合軍は、そのままフランス南部へ進撃した。同時に
自由フランス軍もアルプス山脈を超えてヴァッレ・ダオスタ州のアオスタへと侵攻し、東
部国境付近ではチトー率いるユーゴスラビアのパルチザンがかく乱工作を展開した。
《ムッソリーニの処刑と王制の廃止》
連合軍の進撃と、各地におけるパルチザンの蜂起により北部のイタリア社会共和国は事
実上瓦解した。ムッソリーニはドイツ軍の保護の下でイタリアからの脱出をはかったが、
1945 年 4 月 28 日に愛人のクラーラ・ペタッチとともにパルチザンに捕らえられ、即刻、処
刑されてその遺体が民衆の前にさらされた。ヒトラー自殺のわずか 2 日前であった。
アルプス山脈まで追い詰められていたドイツ・イタリア方面軍司令官フィーティングホ
フは 4 月 29 日連合軍に休戦を申し込み、5 月 2 日に降伏し、これでイタリアはようやく終
戦を迎えた。
273
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このように大戦末期のイタリアは連合国側に転換して、ドイツ軍と戦う道を歩んだ結果、
米英連合軍による占領は形式的なものとなったが、米英軍はイタリアの占領にあたって、
ソ連の影響を排除するために、進駐軍を派遣した国が排他的に占領統治を実施する原則を
定めたため、逆に主としてソ連軍によって解放された東欧の占領はソ連の影響下で進行す
ることになった。
また、イタリアの場合には、大戦末期に反ファシズム勢力の影響が高まっていったため、
戦後改革は自主改革の性格が濃厚となった。たとえば、1946 年 6 月に実施された憲法制定
議会選挙では、ムッソリーニ独裁体制の樹立を助長した王権の責任が問われ、賛成多数で
王制の廃止が決定された。
【3】日本の戦争
◇日中戦争
1937 年から始まった日中戦争は、中国政府は首都を南京から重慶に移し徹底抗戦を続け
ていた。日本は,長期化し戦費の負担が増す一方の日中戦争を打開すべく、1940 年 3 月に
蒋介石と袂を分かった汪兆銘を首班として親日政権(南京政府)の樹立を強行したが、む
しろ重慶の国民党政府側の抵抗姿勢を強める結果を招いた。もはや広大な中国奥地の重慶
の国民党政府を正面攻撃で降伏させる手はなかった。
次に考えられることはインドシナ、ビルマ、インドとさらに広大な包囲網を形成して、
国民党政府への各資源援助ルートを断つしか方法がなかった。正面からの日中戦争だけで、
もはや限界に来ていた 1940 年の日本がはたして、そのようなことができるであろうかと思
われたが、日本はそれしかないと突き進んでいった。
日本は重慶政府へのアメリカなど外国からの援助ルートを断つために、フランス降伏後
のヴィシー政権に圧力をかけ(1940 年 6 月 22 日フランス降伏)
、6 月にはフランス領イン
ドシナからの援蒋ルートの閉鎖に同意させた。また、弱体化したイギリス政府にも7月か
ら 3 ヶ月間、ビルマからの援蒋ルートの閉鎖を認めさせた(この時点では、まだ、日英間
は平常であるから、外交ルートで)
。
また、1940 年7月に発足した第 2 次近衛文麿内閣は、ヨーロッパ情勢の激変(フランス
降伏)を、東南アジア方面に進出し、天然資源を確保して、自給自足の「大東亜新秩序」
を樹立する好機ととらえた。そのために独伊との同盟を締結して、英米の介入を抑制する
政策を採用し、その方向を7月 26 日に「基本国策要綱」として定めた。そして、1940 年 9
月 27 日、日独伊の三国同盟条約を締結した(このように抑止を目的に同盟政策がとられた
が、必ず反同盟が組織化され、対立は激化するのが常だった)。
《日独伊三国同盟の成立》
フランスを陥落させ、
「ヨーロッパ新秩序」の樹立を謳歌していたドイツは、イタリア、
日本との間に 1940 年 9 月 27 日、三国同盟条約を締結した。
274
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
日独伊三国同盟条約では、1936 年の日独防共協定、1937 年の日独伊防共協定では曖昧だ
った 3 国の協力関係が具体化され、アジアにおける日本の指導的地位及びヨーロッパにお
ける独伊の指導的地位を相互確認し、第 3 条では調印国いずれか 1 ヵ国が第 2 次世界大戦
のヨーロッパ戦線や日中戦争に参加していない第 3 国から攻撃を受ける場合に相互に援助
すると取り決めがなされた。同時に第 5 条では、この条約がソ連との関係に影響を及ぼさ
ないとも規定されていたから、ここでいう「第 3 国」とはアメリカ合衆国を指すことは明
らかであった。
つまり、この三国同盟は,1937 年に成立していた反ソ・反共的な性格をもつ防共協定を、
独ソ不可侵条約やフランスの陥落という新しい情勢に合わせてアメリカ合衆国を牽制する
軍事同盟的な方向に組み替えたものであったが、この条約に込めた三国の狙いにはそれぞ
れ微妙な違いも含まれていた。
まず、ドイツにとっては、孤立したイギリスへの援助を強めていたアメリカ合衆国に対
して、独日間の提携を誇示することによって独米開戦を抑止しようという狙いがあった(つ
まり、アメリカが大西洋を越えてヨーロッパ戦線に参戦すれば、この三国同盟によって日
本が太平洋からアメリカを突くということでアメリカへの抑制になると考えた。しかし、
後述するように、実際にはこの三国同盟は裏目に出て、日米開戦により、ドイツは最も避
けたかった独米戦を開始することになった)
。また、当時、バルカン半島や北アフリカへの
勢力圏拡大を狙っていたイタリアの場合は、それらの地域におけるイタリアの優位を他国
に承認させる効果を期待していた。
他方、日本の場合は、フランスやオランダの降伏やイギリスの孤立によって東南アジア
の植民地体制が動揺したという情勢の激変を、泥沼化の様相を呈していた日中戦争を打開
し、日本が資源を求めて東南アジアに「南進」する好機ととらえた。日本はドイツとの同
盟強化によって「南進」に反発するアメリカ合衆国を牽制することに三国同盟参加の中心
的動機があった(アメリカが日本とことをかまえると、日独と同時に戦争しなければなら
なくなるとアメリカを牽制したつもり。実際には日本の方からアメリカに戦争をしかけて
しまった)
。当時の日本では,ヨーロッパで快進撃を遂げるドイツの影響を受けて、「バス
に乗り遅れるな」といったかけ声がしきりに叫ばれ、ファッシズム体制の優位性を強調す
るような第 1 次近衛文麿内閣の「新体制運動」が起きていた。
しかし、この三国同盟は当初から日独には同床異夢であったことがわかる。ヒトラーは
激しく抵抗するイギリス本島の攻略を半ば諦め、その代わりに主義や思想、地政学的に対
立するソ連をゲルマン民族の生存圏の拡大のために、いずれは撃破しなくてはならないと
考えていた。そのため、ヒトラーは、ソ連と満蒙の利権を争っていた日本と手を結ぶこと
を考え、
(いずれドイツが対ソ連戦をはじめたら)日本が対ソ戦に参加することでソ連兵力
を東西に分断し、戦争を優位に進めることができると考えていた(もちろん、ヒトラーは
それを明かしてはいなかった)
。
275
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、それはヒトラーの誤算であった。日本にも北進論もあったが、日本は日中戦争
を続けるための資源獲得を第一優先と考え、
(ノモンハンに敗れ)ソ連との戦争を避け、
(ド
イツに屈したフランス・オランダの植民地を狙って)南進し、資源を獲得して長期戦に備え
たいという考えに傾いていった。そして、その日本の南進に立ちふさがるのがアメリカ合
衆国であり、日本はヒトラーが参戦を恐れていたアメリカ合衆国との戦争(太平洋戦争)
を始めてしまうことになるが(1 年 2 ヶ月後)、この三国同盟を結んだときには、日本はす
でに密かにその方向に(南進に)踏み出していたことがわかる(ヒトラーにはそれがわか
らなかった。つまり、ヒトラーにとって三国同盟の意義はアメリカを参戦させないことで
あったが、日本は日米開戦によってドイツへのアメリカ参戦を早めてしまう結果になった)
。
《日本軍の南進》
元来、日本の内部では陸軍を中心として対ソ戦を想定した「北進」論があったが、1939
年 5 月に発生したノモンハン事件で日本軍がソ連軍から手びどい打撃を受けていらい、
「北
進」論は後退し、むしろ独ソ不可侵条約をまねて、ソ連と中立条約を結んで「南進」に専
念しようとする意見が主流になっていった。
1940 年 9 月 13 日からオランダ領インドネシア当局(オランダ本国はドイツの支配下に入
っていた)に対して日本は大量の航空機用ガソリンの供給を求めて交渉を開始したし、23
日にはフランス領インドシナ北部(現在のベトナム北部)にフランス軍の抵抗を排除して
進駐した。しかし、これらの行動はアメリカの反発を招き、あらゆる種類の屑鉄(くずて
つ)の対日輸出が禁止される結果を招いた。また、ドイツ軍のイギリス本土上陸を阻止し
たチャーチルは 10 月中旬以降にビルマからの援蒋ルートの再開を決定して、日本の「南進」
に対抗する姿勢を示した。
このようにヨーロッパ情勢の激変を利用した日本の「南進」政策は,明らかに米英の警
戒や反発を招いていったが、近衛内閣は独伊との同盟を強化することによって米英の反撃
を抑制しようと考え、前述のように 9 月 27 日に三国同盟条約に調印した。
この三国同盟の成立は、それまで日本との孤立した戦いを余儀なくされていた中国にと
っては、米英との同盟強化のチャンスと受けとめられ、重慶政権側の戦意はむしろ高まる
傾向を見せていた。事実、ルーズベルト政権は、11 月末には中国への 1 億ドルもの借款と
50 機の戦闘機の供与を決定した(これは現代についてもいえることであるが、同盟によっ
て敵国を抑止する、戦意をなくさせるという発想はいつの時代でもその逆の効果が大きか
ったということである。ある同盟を形成して、他を圧倒しようとすれば、人類という動物
は必ずそれに反発して、それに反する同盟を形成するのが常であった。これを物理学の作
用・反作用の法則になぞらえて、
「
(戦争)同盟の作用・反作用の法則」といってもいいか
もしれない)
。
《微妙な役割をはたすことになる日ソ中立条約》
このように日本の「南進」政策や枢軸国との同盟強化策が米英との対立を強め、中国の
交戦意欲を高めるという逆効果を招くことが明らかになるなかで、三国同盟外交の強力な
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
推進者であった松岡洋右外相は、ソ連との間で中立条約を結ぶことで米英への対抗力を強
めるとともに、ソ連に重慶政権への援助を停止させることをめざすようになった。
そのため、松岡は、1940 年 11 月にモロトフ外務人民委員がベルリンを訪問した機会をと
らえて、リッベントロップ外相に日ソ間の仲介を依頼した。当時、リッベントロップは三
国同盟にソ連も引き込んで、四国同盟に拡大してイギリスに対抗しようと考えていたこと
もあり、喜んで仲介の労をとった(リッベントロップはヒトラーの本心を読めなかったよ
うである)
。
しかし、ヒトラーのソ連打倒の考えは全く変っていず、このころから対ソ戦の準備を本
格化させ始めていた。日ソ中立条約については、当初、ソ連は応じなかったものの、その
うちドイツの対ソ侵攻(計画)がありうると予見し始め、日ソ中立条約の提案を受諾し、
1941 年 4 月 13 日に調印した。
このときにはヒトラーはすでに 1 ヶ月後に独ソ戦開始を考えていた。ヒトラーがその時
点で日ソ中立条約に反対しなかったのは、独ソ戦開始をさとられないようにするためだっ
ただろう(前述したように、ヒトラーは電撃作戦の成功によって増長し、日本がどうあろ
うと、ソ連を短期間に(年内に)落とすことができると甘く見ていたふしもある)
。いずれ
にしても日ソ中立条約はドイツにとって裏目に出た。予定より 1 ヶ月遅れで 1941 年 6 月に
ヒトラーが独ソ戦を開始したが、同年 11 月には、ソ連は日ソ中立条約によって極東に(対
日本・満州国に)配備していた部隊を西部へ移送、同年 12 月のモスクワ防衛戦に投入し、
ソ連崩壊の危機は救われた。皮肉なことに、日ソ中立条約はソ連を助けるために結ばれた
ようなものだった。つまり、日独伊三国同盟といっても、その間に何ら作戦の共有も情報
の交換もなかったということである。
《日中戦争から太平洋戦争への動き》
日本にとって独ソ戦の勃発(1941 年 6 月)は青天の霹靂(へきれき)であった。なぜな
ら、独ソ不可侵条約が締結され、日独伊三国同盟が締結され、日ソ中立条約を結んだのな
ら、むしろソ連を枢軸側に引き込み、英米の孤立をはかって、日本は「南進」を容易にし
ようと考えていたからである。それが突然、独ソ戦となったのだから、日本政府内でもさ
まざまな意見がぶつかりあった。
日ソ中立条約の立役者であった松岡外相は、三国同盟を重視して、(ドイツ軍が緒戦で破
竹の勢いでソ連軍を破っている状況をみて)
、対ソ開戦を主張した。近衛首相はむしろ三国
同盟の価値は低下したと判断して、対米関係の改善に進むべきという見解を示した。
しかし、軍部は、中国や東南アジアでの日本の利権を放棄するような対米譲歩は軍部の
権威に関わると猛反対したし、対ソ戦については独ソ戦の帰趨を待って決定し、当面は「南
進」による天然資源の確保を優先すべきと反論していた。
この軍部の主張の背景には、1937 年から開始した日中戦争が泥沼にはまり、にっちもさ
っちも行かなくなっていたという状況があった。日本陸軍は周囲の反対を押し切って満州
から中国北部、中部、南部、奥部へと大がかりな侵略を進めて行ったが、広大な中国のこ
277
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とで決定的な勝利をえることはほとんど不可能であることがわかってきた。そのうちに資
金的にも資源的にも行き詰まってきた。
大本営が頭をいためたのは、この戦いで多くの戦死者が出たことではなく(この時点で
は 7 万人ほどだった)
、戦いがいつまでたっても終わらず(ベトナム戦争のアメリカ軍を思
い出すとよい)
、長期戦になったため、それに要した費用が莫大な金額にのぼっていたこと
である。
1937 年の終わりには、
中国には 70 万人以上の日本軍がおり、その数は徐々に増えていた。
資源も乏しくなり、1938 年には日本国内で配給制がしかれ、そのほか一連の統制令が定め
られて、実質上、日本は国家総動員の総力戦へと向かっていった。
国の負債は驚異的な勢いで増え続け、政府が借金を重ねて巨額の防衛費をまかなってい
た(表 10(表 15-9)のように 1937 年の日本の国民所得に占める軍事支出の割合は 28.2%
で、ドイツよりも多く世界最高だった)
。
日米の経済力の差はきわめて大きかった。アメリカは日本のおよそ 2 倍の人口があり、
年間の国民所得は 17 倍、工業生産高は 7 倍(表 8(表 15-6。P264)参照。1938 年はアメ
リカの大恐慌の年でその他の年なら 10 倍)、鉄鋼の生産高は 5 倍、石炭は 7 倍、自動車は
80 倍という大国であった。これらの数字を冷静に見れば、日本に勝目はないことは明らか
であり、しかも、中国でも戦争中であるので日本の軍隊の大半がそのまま中国にとどまる
という計画であれば、なおさらだった。
表 10(表 15-9)
1937 年の大国の国民所得と軍事支出の割合
ポールケネディ『大国の興亡』
すでに、中国における作戦で飛行隊が大量の燃料を使った結果、日本国内では工場は 37%、
船舶は 15%、自動車は 65%、それぞれ燃料の使用を減らすよう命じられた。日本人にとっ
て、このような状態は耐えがたかった。
一方、蒋介石の軍隊が中国で抵抗できるのは、ビルマ・ルートや仏領インドシナなどの
ルートにより西洋から物資が届くからであると考えられていた。そこで南方を攻撃して、
これらの根(ルート)を断つと同時に、東南アジア、オランダ領東インド諸島(現在のイ
ンドネシア)
、ボルネオなどから原油をはじめとする物資を調達する計画が練られるように
なった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1938 年 6 月に、アメリカは日本に対する航空機用資材の輸出を禁止し、その翌年には日
米通商条約を破棄した。さらに、1941 年に日本が仏領インドシナを占拠したのに対応して、
イギリス、オランダ、アメリカの 3 国が、日本に対して原油と鉄鉱石の輸出を禁じる措置
をとった。石油はほとんど輸入に頼っていたので、備蓄がなくなれば、日本はまったくお
手上げになり、原油の禁輸措置は日限を切られたことになった。中国からの撤退ができな
ければ、アメリカと戦争する以外、
「経済上の安全保障」を確保するすべはないことになる。
《時間が経つほど日米戦力に差が出る》
アメリカは 1940 年には海軍の戦闘艦隊の倍増計画、陸軍航空隊の 7800 機の戦闘機から
なる 84 個の航空部隊創設計画、陸軍の選抜徴兵法による 100 万人兵員計画など大規模な軍
備増強計画が動き出して大恐慌時からの生産力過剰の状態は一変していった。
しかし、アメリカにはまだ膨大な余剰生産力があり、「相対的にみた潜在的戦力」によれ
ば、当時アメリカは日本の 12 倍、ドイツの 2.9 倍、米英ソ/独日伊は 3.2 倍であったこと
がわかっている。まさにアメリカは眠れる巨人で、それがやっと 1938 年頃に目覚め、1940
年以降に活動をはじめた。
ということは、この巨人がいったん目覚めると時間がたてばたつほど、自国に不利にな
ることはドイツも日本もわかっていた。ヒトラーは 1940 年代半ばまで待っていては戦力の
バランスが決定的にイギリス・フランス・アメリカ陣営に有利に傾いて世界征覇がおぼつ
かなくなることを感じとっていた。
日本海軍も、1941 年末現在、日本の軍艦保有数はアメリカの 70%だったが、1942 年には
65%に低下し、43 年には 50%に、44 年には 30%まで下がってしまうと推計していた(実
際には後述するように、これよりはるかに早く日米の差は開いた)。超大国の影響力がます
ます強くなる世界にあって、中級国家の運命に甘んじたくなければ、先手を打つしかなか
ったというのはドイツも日本も同じだった。
《日本の南部仏印進駐と ABCD 包囲網の形成》
1940 年 6 月ナチス・ドイツのフランス侵攻によってパリが陥落し、フランスのヴィシー
政権がドイツと休戦すると、日本政府は同年 7 月雲南鉄道による中華民国軍への援助補給
封鎖をフランスに要求して、西原少将を長とする軍事監視団をハノイに派遣した。また同
年 8 月にはインドシナにおけるフランスの主権擁護を条件に、2 万 5000 人の日本軍を「北
部仏印」
(トンキン)に進駐させた(仏印進駐)。
《帝国国策要綱》
1941 年 7 月 2 日の御前会議でまとめられた「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」では、日
本は日中戦争の処理に邁進し、南方進出に備えるとともに,北方問題を解決するという両
論併記の曖昧なものであった。しかし、同時に、
「世界情勢変転の如何にかかわらず大東亜
共栄圏を建設」するとも明記され、ヨーロッパ戦線の激動を利用して南部仏印(フランス
領インドシナ)に進駐するとした軍部の決定も追認された。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この 1941 年 7 月 2 日の御前会議における帝国国策要綱の決定に基づき、さっそく、7 月
3 日に陸軍は南部仏印進駐の作戦命令を発動した。これに対してフランスのヴィシー政権は、
7 月 23 日、インドシナにおけるフランスの主権を日本が認めるのを条件に承認した。
日本軍の南部仏印進駐がわかると、案の定、アメリカ合衆国政府(America)は、7 月 25
日、制裁という名目で在米日本資産の凍結を決定、翌日にはイギリス(Britain)が対日資
産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄,翌々日にはオランダ(Dutch)亡命政権が対日資産
の凍結と日蘭民間石油協定の停止を決定したため、交戦状態にある中華民国(China)も含
めて,日本に対する ABCD 包囲網が出来上がっていった。
《アメリカの石油対日全面禁輸》
そのうえ、アメリカ合衆国政府は 1941 年 8 月 1 日には石油の対日全面禁輸に踏み切っ
た。日本は石油の約 8 割をアメリカから輸入していたため、この石油輸出全面禁止はきわ
めて深刻であった。日本国内での石油貯蓄分も平時で 3 年弱、戦時で 1 年半といわれ、早
期に開戦しないとこのままではジリ貧になると日本政府内では陸軍を中心に、対米戦争を
辞さずに「南進」によって石油資源を確保すべきという強硬論が強まっていった。
8 月 14 日、米英首脳による大西洋会談が行われ、米英共同宣言の「大西洋憲章」が発表
された。それは、連合国側の戦後世界構想を理念的に提示するだけでなく、米英の結束を
誇示して日本の「南進」を牽制する意図を持っていた。しかし、日本では,当時の『朝日
新聞』が大西洋憲章を「英米流の世界観にもとづく世界支配」の宣言と決めつけて報道し
ていた。このときが、武力による「南進」を自制し対米協調に戻るか、「南進」を強行して
対米戦争に突入するかの岐路であった。
《外交交渉と戦争準備》
9 月 3 日の大本営政府連絡会議において帝国国策遂行要領が審議された。9 月 5 日、昭和
天皇が陸軍の杉山元参謀総長に「
(太平洋戦争は)絶対に勝てるか!?」と一喝された際、
「絶
対とは申し兼ねます」と答えたといわれている。
しかし、9 月 6 日の御前会議で決定された「帝国国策遂行要領」では、10 月前半までに
外交的解決に至らない場合には、10 月末を目途に米英との戦争準備を完了させるというも
のであった。昭和天皇は開戦に反対し、明治天皇の御歌「四方の海 みなはらからと思う
世に など波風の立ち騒ぐらむ」を引用して、あくまで外交により解決をはかるよう命じ
られた。
近衛首相は、昭和天皇の意向を受けて、以後、対米交渉、とりわけ、近衛・ルーズベル
ト会談の実現に努力していったが、陸海軍の側は 9 月 6 日の御前会議の決定を対米英開戦
準備へのゴーサインと受けとめ、それぞれ別個に開戦準備を進めていった。
近衞首相は日米首脳会談による事態の解決を決意して駐日アメリカ大使ジョセフ・グル
ーと極秘会談し、日米首脳会談の早期実現を強く訴えた。ルーズベルト政権側には対独戦
優先の戦略から対日開戦を引き延ばす意向があったため、外交交渉に前向きの姿勢も示し
た。10 月 2 日のハル国務長官の回答は、すでに 1941 年春の時点で示していた 4 原則、つま
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
り、領土保全、内政不干渉、経済的機会均等、太平洋における現状の平和的話し合いによ
る変更を繰り返し、中国からの撤兵など日本側の大幅譲歩がなければ首脳会談は無意味と
事実上、日米首脳会談を拒否する回答を示してきた。
戦争の決断を迫られた近衞首相は対中撤兵による交渉に道を求めたが、東条英機陸相な
どの軍部は、ハル 4 原則の受け入れは満州事変いらい獲得してきた日本の全権益の喪失を
意味し、とうてい受け入れられないと猛反発した。東条陸相は総辞職か国策要綱に基づく
開戦を要求し、
交渉継続を主張する近衛首相は閣内で孤立したため、10 月 18 日総辞職した。
《東条内閣の成立》
代って東条内閣が発足した。東条は陸軍大臣や内務大臣も兼務して、強大な権限を掌握
したが、外相には対米交渉の継続論者の東郷茂徳を起用した。11 月 1 日から 2 日にかけて
この新内閣と大本営との連絡会議が開催されたが、外交交渉の継続を主張する東郷外相と
即時開戦を主張する軍部の見解が正面からぶつかりあった。
11 月 4 日の天皇臨席の軍事参議官会議で天皇は心配して再び「(太平洋戦争は)絶対に
勝てるか!?」の質問がなげかけられたが、海軍の永野修身(おさみ)軍令部総長は「予見
を得ず」と答え、首相兼陸軍相の東條英機は「戦争の短期終結は希望するところにして種々
考慮するところあるも名案なし」と曖昧な返事で逃れたといわれている。
11 月 5 日の御前会議ではやはり、海軍の永野修身・軍令部総長は、長期戦になれば日本
に勝ち目のないことを認めながら、緒戦の 2 年間で資源の確保に成功すれば長期戦にも堪
えられるとして、即時開戦を主張した。結局、両者の妥協の末、再度 11 月末までに外交交
渉を継続し、失敗の場合には 12 月以降に開戦する方針が 11 月 5 日の御前会議で決定され
た。
11 月末まで外交交渉は続けるとしても、軍部は実質、11 月 5 日の御前会議の決定をもっ
て、開戦行動を起こした。
結局、日本の当時の為政者は確固たる戦略に裏づけされた勝算はもともとなかったが(天
皇の質問に「勝てます」と答えたものは誰もいなかった。永野の「予見を得ず」、東條の
「名案なし」、せいぜい、永野の「長期戦になれば日本に勝ち目はないが、緒戦の 2 年間
で資源の確保に成功すれば長期戦にも耐えられるかもしれない」だった。
では、何のために戦争をするのか、誰も「負け戦はやめよう」という者がいなくて、ずる
ずると何とはなく(無責任に)開戦に進んでいったというのが実態であった。下からの(軍
部官僚の既成事実の積み上げ)突き上げを受けて(上部はもう止められないと)開戦に突
入していったと考えられている。日本的(軍部)官僚主義が(無責任に)開戦に突き進ん
でいかせることになった。
その作戦計画は以下のようであった。確かに緒戦の(数ヶ月の)作戦計画(現インドネ
シアに到達して石油資源を奪うまでの計画)はもっていたが、その先どうするかはまった
く不明であった。
《南方作戦計画》
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
南方作戦全体の総称は「あ号作戦」と名づけられた。その南方作戦の目標はオランダ領
東インド(インドネシア)の石油資源の獲得であった。このために開戦初頭まずアメリカ
領フィリピンとイギリス領マレーを急襲して足場を築き、迅速にオランダ領東インドを攻
略し、資源を確保するとともにスンダ列島(現在のインドネシアの島々)に防衛線を形成
するという構想であった。
作戦計画としては、フィリピンとマレーの両方面に対し同時に作戦を始め、次にボルネ
オ、セレベス、南部スマトラの要地を逐次攻略し、東西両方向から最終目標であるジャワ
島を攻略するとされた。別に、開戦後速やかに香港、イギリス領ボルネオ、グアム、ビス
マルク諸島、モルッカ諸島、チモール島を攻略し、また開戦初期タイに進駐し、状況が許
せばイギリス領ビルマでの作戦を実施するとされた。
これらと連動して、開戦初頭、第 1 航空艦隊基幹の機動部隊をもってハワイオアフ島の
真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊主力を奇襲してできるだけ多くの戦力を減殺し、一部を
もってウェーク島を攻略するとされた。この海軍による真珠湾攻撃は「Z 作戦」と命名され
た。
南方作戦に使用される陸軍の兵力は 11 個師団 36 万人余であった。太平洋戦争の開戦時、
南方軍以外の陸軍兵力の配備状況は、内地、朝鮮軍、台湾軍、関東軍、支那派遣軍であり、
兵力の大半は満州と中国大陸とに貼り付けとなっており、南方作戦に参加できる兵力は総
兵力の 2 割程度であった。海軍は南方作戦と真珠湾攻撃とにその総力をあげてあたること
になった。大本営ではジャワ島攻略終了までに要する日数を 120 日間(4 ヶ月)と予想して
いたようである。
《海軍の作戦準備》
次に海軍の真珠湾攻撃計画について述べる。
以前から日本海軍は日米が戦うことになれば、どのような方法があるかを研究していた。
1941 年 1 月、連合艦隊司令長官の山本五十六は第 11 航空艦隊参謀長であった大西瀧治郎
少将に対して「真珠湾を航空攻撃できないか」と航空攻撃計画の作戦立案を依頼した。そ
の 2 ヶ月前、イギリス海軍が行った空母艦載機によるイタリアのタラント軍港に対する奇
襲攻撃でイタリア海軍は戦艦 3 隻が大損害を受けたのに対し、イギリス側の損害は雷撃機 2
機のみであった。山本はこれに着目した。山本は緒戦でアメリカ海軍に大きな打撃を与え
るとしたら、この方法しかないと考えるようになっていた。
以後、海軍はハワイ真珠湾攻撃に適した魚雷(浅い海底でも攻撃可能な魚雷)の開発を
行うともに、真珠湾の地形に似ている鹿児島湾で、急降下して艦船を魚雷攻撃する猛訓練
を行った。
《最後の外交交渉》
この 11 月 5 日の御前会議で外交交渉の案も決定された。日本側は甲乙の 2 案を準備して
対米交渉に臨むことにした。まず甲案は、三国同盟条約に合意された対米参戦義務は自動
的ではなく、日本の「自主的判断」によることと、華北や蒙古からの日本軍の部分的撤退
282
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の可能性を示すもの、乙案は、合衆国の対日石油禁輸の解除と引き替えに,日本軍の南部
仏印からの撤退を提案するものであった。日本側は乙案を最終提案と考えていたようであ
るが、これは南仏からの撤退だけであり(中国大陸の日本軍についてはふれていないので)、
これではやはり、もともと日米間には大きな隔たりがあったといえよう。
11 月 20 日、日本はアメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して、来栖(くるす)三
郎特命全権大使、野村吉三郎大使はコーデル・ハル国務長官にわたし、最終交渉に当った。
ルーズベルト政権側では軍備の不足から開戦を引き延ばす意向もあり、乙案に関心を示
した暫定協定案(南部仏印進駐の前に返すこと、対日石油禁輸を解除すること)が検討さ
れていた。暫定協定案は 3 ヶ月間の引き延ばしを意味しており、この案にはイギリス、中
国、オランダからは反対の電報を受け取っていた(とくに蒋介石はこれでは中国にとって
何らメリットがなく強く反対、チャーチルも中国が心配だとルーズベルトに強く反対して
いた)
。しかし、25 日まではこの暫定協定案が検討されていた。
それが、おそらく 26 日早朝までに、ハル国務長官とルーズベルト大統領の協議によりこ
の案は放棄され、26 日午後にハル・ノートが日本側に提示された。なぜ急に暫定協定案を
放棄しハル・ノートを提示したかは現在、明確ではない。なお、日本側は乙案を最終提案
と考えており、交渉終了の目安を 11 月末程度と考えていたことは、アメリカの日本暗号解
読により、アメリカ側は事前に知っていた(2013 年 12 月 8 日の NHK スペシャル『日米開戦
への道―知られざる国際情報戦』によると、1941 年 11 月 26 日の朝、陸軍長官スティムソ
ンがルーズベルト大統領に「日本軍の艦船 30~50 隻が南下中」という電話をいれた。あとの
調査で実際に動いていた日本陸軍の船は 16 隻であったことがわかったが、この情報をつか
んだアメリカ陸軍情報部はスティムソンに 10~30 隻と報告し、スティムソンはそれを 30
~50 隻と大統領に伝えたという。その誇大化された電話を聞いたルーズベルトは激怒して
「これは事態を一変させるものだ」とスティムソンに語ったという。その後、ハル・ノート
の提示になったと述べていた)
。
ハル・ノートは、日米交渉において日本側が提示した最終打開案(乙案)に対する拒否
の回答と同時に、アメリカ側から提示された交渉案であった。
その内容は、日本とイギリス、中国、オランダ、ソ連、タイ、およびアメリカ合衆国の
包括的な不可侵条約を提案する代わりに、日本が日露戦争以降に東アジアで築いた権益と
領土、軍事同盟の全てを直ちに放棄することを求めるものであった。
その概要は以下の 10 項目からなる。
ⅰ)アメリカと日本は、英中日蘭蘇泰米間の包括的な不可侵条約を提案する。
ⅱ)日本の仏印(フランス領インドシナ)からの[即時]撤兵。
ⅲ)日本の中国からの[即時]撤兵。
ⅳ)日米が(日本が支援していた汪兆銘政権を否認して)アメリカの支援する中国国民
党政府以外のいかなる政府を認めない。
283
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ⅴ)日本の中国大陸における海外租界と関連権益を含む治外法権の放棄について諸国の
同意を得るための両国の努力。
ⅵ)通商条約再締結のための交渉の開始。
ⅶ)アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除。
ⅷ)円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立。
ⅸ)第三国との太平洋地域における平和維持に反する協定の廃棄。
ⅹ)本協定内容の両国による推進。
もっとも対米交渉促進派であった東郷茂徳外相もこのハル・ノートの内容には、あっと
驚き、かつ失望し外交による解決を断念した。日米交渉に対して日本政府内では当初、妥
協派が優位であったが、ハル・ノートを提示されたことで軍部を中心に強硬意見が主流に
なった。
東条首相はこれをアメリカ合衆国政府側の「最後通牒」と受けとめ、12 月 1 日の御前会
議の席上「外交手段によって到底帝国の主義を貫徹しえない」との判断を示した。もはや
誰も異論を述べるものはいなかった(御前会議で異論を述べるものがいるとしたら天皇だ
けだったが)
。御前会議は米英蘭 3 国への開戦を決定した。
それに先立って、1941 年 11 月 26 日、南雲忠一中将に率いられた 6 隻の空母を中心とし
た日本海軍の機動部隊は択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾を密かに出発してい
た(図 70(図 15-70)参照)
。
この日、ハル・ノートが手渡されることになったが、もちろん、その内容を知るよしも
なく、日本海軍は出港していたのである。ハワイより遙か北で,他の艦船に遭遇しないよ
うに通常の航海ルートをはずれた航路をとり、霧と強風に悩まされながらも、一路南下、
ハワイへ向かった。
途中、12 月 2 日、大本営よりの「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文を受信した。
ニイタカヤマ(新高山。高さ 3950 メートル)は当時日本領であった台湾の山の名(現・玉
山)で当時の日本の最高峰、一二〇八とは 12 月 8 日のことで、「日本時間 12 月 8 日午前零
時を期して戦闘行動を開始せよ」の意であった。サイは投げられたのである。
◇太平洋戦争の開始
《パール・ハーバーの奇襲》
12 月 7 日
(現地時間)
、
日本海軍の機動部隊はハワイの北 440 キロメートル地点に到達し、
350 機の攻撃機を発進させた。午前 7 時 49 分、オアフ島のパール・ハーバー(真珠湾)の
アメリカ合衆国海軍の太平洋艦隊の軍艦に第 1 弾を投下した(図 70(図 15-70)参照)
。7
時 53 分、攻撃隊総指揮官・淵田中佐は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電した。
これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味していた。7 時 58 分、アメリカ海軍の航空隊が「真
珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。
284
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 70(図 15-70)太平洋戦争(1941~42 年)
早くも戦艦「アリゾナ」は 8 時過ぎ、800 キロ爆弾を被弾、次いで 8 時 6 分にも爆弾が命
中、8 時 10 分、アリゾナの前部火薬庫は大爆発を起こし、艦は 1,177 人の将兵とともに大
破沈没した。次に戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。オクラホマは転覆沈没し将兵
415 人が死亡または行方不明となった。午前 8 時 54 分、第 2 波攻撃隊が既に座礁していた
戦艦「ネバダ」
、小型艦艇や港湾設備、航空基地などへの攻撃を行った。
午前 10 時に攻撃が終了したときには、
「アリゾナ」や「オクラホマ」などの主力戦艦が
沈没または大破させられ、2000 人以上の死者が出た。沈んだ戦艦 8 隻のうち 6 隻は後に引
き揚げられ復帰しており、最終的にアメリカ軍が失った戦艦は 2 隻であった(太平洋戦争
中この時以外でアメリカ戦艦の喪失はない)
。
主力空母は真珠湾外で輸送などの任務に従事していたため無傷であり、その後の作戦に
おいて大きな力を発揮した。日本軍の奇襲作戦は成功し、アメリカ軍の戦艦 8 隻を撃沈ま
たは損傷により行動不能としたので、山本が目論んだように、太平洋における制海権はし
ばらくのあいだ日本が握ることになった。しかし、当初から日米の国力差から、短期決戦
285
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を想定していた日本軍は、攻撃目標に含まれていた主力空母を取り逃がしたことは、緒戦
でアメリカ軍が持ちこたえる原動力となり、日本軍の短期決戦戦略が頓挫する一因となっ
た。
12 月 1 日の御前会議でも、とくに宣戦布告を真珠湾攻撃の 30 分前に手渡すことが決めら
れていたが(もともと真珠湾攻撃は奇襲することで成功の可能性があったのであるから、
30 分前に宣戦布告するという行為そのものが極めて形式的ではあったが)
、日本はこれで大
きなミスを犯してしまった。アメリカ東部時間 7 日午後 2 時 20 分(ハワイ時間午前 8 時 50
分)
、野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、ハル国務長官に日米交渉打ち
切りの最後通牒を手交したこの文書は、本来なら攻撃開始の 30 分前にアメリカ政府へ手交
される予定であった。
ところが、駐ワシントン D.C.日本大使館の事務官が翻訳およびタイピングの準備に手間
取り(日本の外務省が、アメリカに暗号が読まれないように十数分割で電文を送信したの
で、最後の受信から、あまり時間がなかった)、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃
開始の約 1 時間後となってしまった(つまり、当初の予定より、1 時間 30 分ばかり遅れた)
。
このため、形式だけの宣戦布告もなく、言い訳ができない本当の「だまし討ち」となって
しまった。
《米英の対日宣戦》
真珠湾攻撃の翌日 8 日、ルーズベルト大統領は議会に対して対日宣戦布告を要請する演
説を行い抗戦に強い意志を表明し、アメリカ合衆国議会は日本に対して宣戦布告を行った
(アメリカでは宣戦の権限は議会にあった)
。パール・ハーバー奇襲攻撃は宣戦布告なしで
行われた「だまし討ち」と受けとめられ(現にそうだった)
、それまで参戦に消極的であっ
たアメリカ合衆国の国民を一挙に参戦の方向に団結させ、「リメンバー・パール・ハーバー」
のスローガンがしばしば繰り返され、長期的には連合国側の総合的な戦力を飛躍的に増大
させることになった。
また、長年、合衆国の参戦を渇望してきたチャーチルは,
「奇襲」の知らせを聞いて、
「(こ
れでアメリカが参戦するので)勝った」と思ったと言われている。イギリスも 12 月 8 日に
対日宣戦を布告した。
《独伊の対米宣戦》
他方、冬将軍の到来で対ソ戦に手こずっていたヒトラーにとって、日米開戦の知らせは
望ましいものではなかった。なぜなら、ヒトラーは元来、2 正面作戦を避けるため合衆国の
参戦を回避したいと考えていた。そして、ヒトラーは、日本には対ソ参戦か,東南アジア
でイギリス軍を叩く役割を期待していた。12 月 2 日にモスクワへの一大攻撃命令を下した
にもかかわらず、戦線の膠着状態は破れず,12 月 5 日には赤軍による予想外の反抗に直面
した結果、8 日には当面「防御」陣形への転換を命令せざるを得なくなった。それは独ソ戦
での最初のつまずきであった。
286
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そこへ日米開戦の知らせがきた。リッベントロップ外相は対米参戦に強く反対した。し
かし、日本の緒戦での勝利に感動したヒトラーは、いずれ対米戦が避けられないもなら早
い方が良いと判断し、12 月 11 日、イタリアとともに,対米宣戦を行った。ここにアジア・
太平洋の戦争とヨーロッパの戦争は一体化し、戦争は文字通り「世界大戦」となった。
《マレー沖海戦》
12 月 8 日には、真珠湾攻撃のほかに、日本陸軍がタイ国境近くのイギリス領マレー半島
のコタバル、中立国だったタイ南部のパタニとソンクラへ上陸した(マレー作戦の開始)。
また、同日、フィリピンへの空爆、香港への攻撃開始も行われた。これらは同時に行われ、
すべてうまくいかなければつぎに進めない。幸い日本軍はすべてに大勝利をおさめた(図
71(図 15-71)参照)
。
図 71(図 15-71) 東南アジア戦線
太平洋戦争における日本軍の戦略目標は、オランダ領東インド(現インドネシア)の資
源(石油)地帯の占領であったが、そこに至るには、まず手前に立ちはだかるイギリスの
植民地であるシンガポールを攻略する必要があった。シンガポールはイギリス東洋艦隊の
根拠地であり、またイギリスの東南アジアにおける植民地支配の中心拠点であり、大本営
287
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
は、
「マレー半島を 70 日以内で縦断してシンガポールを攻略する」という目標を立ててい
た。
イギリスは、シンガポールに 15 万人を超えるイギリス海軍および陸軍部隊を駐留させ要
塞化していた。このシンガポールのセレター軍港にいた新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェー
ルズ、巡洋戦艦レパルスと護衛の駆逐艦 4 隻からなるイギリス東洋艦隊は、日本軍のコタ
バル上陸の報を受けて、この日本軍マレー上陸部隊の輸送船団を攻撃するため、12 月 8 日
17 時過ぎにシンガポールを出航した。
これを知った日本軍は 12 月 10 日 7 時 55 分にサイゴン(現在のホーチミン)から元山航
空隊 26 機、8 時 14 分にはツドゥムから鹿屋航空隊 26 機、8 時 20 分にツドゥムから美幌航
空隊 33 機が出撃した。
11 時 45 分、索敵機がイギリス東洋艦隊主力を発見し、約 15 分の間に各攻撃隊は東洋艦
隊主力めがけて殺到した。レパルスは 14 時 3 分ごろに沈没した。14 時 50 分、プリンス・
オブ・ウェールズも左へ転覆し艦尾から沈没した。こうして、イギリスは最新鋭の戦艦プ
リンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスと 840 人の将兵を失った。イギリス首相チ
ャーチルは『第 2 次世界大戦回顧録』の中でマレー沖海戦でこの 2 隻を失ったことが第 2
次世界大戦でもっとも衝撃を受けたことだと記している。
当時、航空機によって戦艦など主力艦の撃沈は不可能であるという考えが主流であった
が、それまで海戦において補助的な位置づけにあった航空機が主役として注目されると同
時に、いかなる艦船でも航空機によって撃沈されうることが浮き彫りとなった。こうして
大艦巨砲主義時代は終焉を迎え、時代は航空主兵時代へと移ったのである。
この「作戦行動中の戦艦も航空機で沈めることができる」という戦訓は、各国海軍に各
種艦船に装備されている対空火器を改めて大幅に増強させることになった。しかし、その
戦訓を引き出したはずの日本海軍は、真珠湾やマレー沖海戦で有頂天になり、逆にこの戦
訓を生かさず対空火器の強化を怠り、半年後のミッドウェー海戦での敗北、以後の劣勢を
招くことになる(日本人には相手の身になって冷静に分析すること、失敗を隠そうとして
失敗から学ぶこと(相手の失敗も含めて)が基本的に欠けている。最近の例でも、スリー
マイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故から何も学ぼうとしなかった)
。
マレー沖海戦ではイギリス側に航空機の支援がないという状況のもとで航空機が戦艦を
沈めたのであるから、当然だが航空機による戦艦の護衛は必須となり、その状況において
は、つまり航空機に護衛された戦艦を沈めるのは極めて困難であることは変わりがなく、
そのことはその後の海戦(レイテ沖海戦など)において明らかとなる。この点でも日本海
軍は(航空力が弱体であったこともあるが)航空戦力なき戦艦主体の作戦をとり続け、自
滅していった。
《マレー作戦》
288
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
マレー・シンガポールにおける開戦時の兵力はイギリス兵 1 万 9600 人、
インド兵 3 万 7000
人、オーストラリア兵 1 万 5200 人、その他 1 万 6800 人の合計 8 万 8600 人に達していた。
この兵力数はこの方面の日本軍の開戦時兵力の 2 倍であった。
1941 年 12 月 8 日午前 1 時 30 分、日本軍の佗美(たくみ)支隊 5,300 人はマレー半島北
端のコタバルの海岸線で奇襲上陸し、英印軍 6,000 人との交戦が始まった。上陸作戦によ
る戦死 320 人、負傷者 538 人、舟艇も多数を失ったものの作戦は成功した。
マレー半島のイギリス軍は、
大小 250 本の河川にかかる橋梁を逐次爆破し南へ後退した。
日本軍は、自転車部隊を有効活用し、進撃を続けた(図 71(図 15-71)参照)。1 月末、日
本軍はマレー半島最南端のジョホール・バルに迫り、イギリス軍はマレー半島内での抗戦
をあきらめシンガポール島内へ退却した。日本軍は 12 月 8 日の上陸から 55 日間で、95 回
の戦闘を行い 250 本の橋梁を修復しつつ 1,100 キロを進撃した。日本軍の損害は戦死 1 万
1790 人、戦傷 2,772 人、イギリス軍は遺棄死体 5,000 人、捕虜 8,000 人を数えた。
《シンガポール陥落》
2 月 8 日、日本軍はジョホール海峡を渡河しシンガポール島へ上陸し、主要陣地を次々奪
取していった。2 月 11 日、山下司令官はパーシヴァル中将に「無意味で絶望的な抵抗を中
止するよう」呼びかけた。日本軍は連合軍の弾薬・燃料の貯蔵庫のほとんどを占領し、ま
た主要な水の供給源の支配権も得ていた。12 日にはイギリス軍は、島の南東部の狭い地域
に防衛線を構築し、日本軍の総攻撃を撃退した。残存するイギリス軍部隊は戦闘を続け、
100 万人もの市民が避難していた地域が砲爆撃にさらされるようになり、非戦闘員の被害は
増加し続けた(水はマレー半島からシンガポール島へパイプで送られていた)。
2 月 15 日の朝、日本軍は連合軍の最終防衛線を突破した。午後 5 時 15 分を少しすぎたこ
ろ、イギリス極東軍司令官・パーシヴァル中将はフォード自動車工場において、正式に日
本軍司令官・山下奉文中将に降伏した。この時、山下がパーシヴァルに「イエスかノーか」
と迫ったが、降伏の意思の有無を聞くためであった。イギリス軍にすれば降伏ではなく、
水源が破壊され給水が停止したことが抗戦を断念した理由で、休戦のために投降したと頑
張ったのである。とにかくパーシヴァルもイギリス軍人としてやれるだけやったことは確
かだった。
シンガポール攻略戦での日本軍の戦死は 1,713 人、戦傷 3,378 人、イギリス軍は 10 万人
が捕虜となった。これはアメリカ独立戦争におけるヨークタウンの戦い以来のイギリス軍
史上最大規模の降伏であり、近代のイギリスにおいて歴史的な屈辱であった。
その後も以下のように、日本軍の南方作戦が継続されていったが、ここでは省略する(
『自
然の叡智 人類の叡智』には記している)。
★フィリピンの戦い(バターン半島の「死の行進」
)
★タイの参戦(日本側に立って)
★香港の戦い
★グアムの戦い
289
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
★ラバウルの戦いとニューギニア沖海戦
★トラック諸島(チューク諸島)の海軍基地化
★ウェーク島の戦い
★オランダ領東インド作戦
★ボルネオ島・セレベス島の占領
《パレンバン空挺作戦》
いよいよ、日本軍の最終的な攻略目標であるスマトラ島のパレンバンの蘭印最大の油田
に手が届くようになった。パレンバンはムシ川の河口からおよそ 100 キロの内陸に位置す
るため、上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれが
あり、これを避けるためにはまず空挺攻撃によって油田設備を奇襲占領し、次いで地上部
隊をもって確保する作戦が望ましいと考えられた。
こうして第 1 挺進団が空挺降下し、第 38 師団主力(1 万 2,360 人)が支援する陸軍最初
の空挺作戦が立案された。2 月 14 日、降下部隊第 1 悌団はマレー半島を飛び立った。11 時
30 分、部隊はパレンバンの市街地北方 10 キロにある飛行場の東西両側に降下し、同時に久
米大佐を載せた部隊長機が湿地帯に強行着陸した。降下部隊は逐次集結しつつ飛行場へ殺
到したものの、投下した重火器・弾薬が入手できず携行した拳銃と手榴弾のみで戦闘せざ
るを得ない兵士も多かった。市街地からは連合軍の装甲車部隊約 500 人が到着し激戦とな
ったが、降下部隊は 21 時までに飛行場を確保した。
翌 15 日午後、第 2 悌団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第 1 悌団と協力してパ
レンバン市街に突入、同市を占領した。戦果としては石油 25 万トン、英米機若干、その他
の兵器資材を捕獲し、放火により製油所工場の一部に火災が発生したものの大規模破壊は
避けられた。死傷者は、降下人員 329 人中、戦死 39 人、戦傷入院 37 人であった。第 38 師
団主力は 18 日にパレンバンに到着、周辺地域を確保し作戦目的を完全に達成した。
2 月 19 日、日本軍はバリ島に上陸・占領した。引き続き 20 日にチモール島に上陸、23 日
に占領した。
《ジャワ島の戦い、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦》
日本軍はついに最終目標のジャワ島へ迫った。第 16 軍のジャワ島への第 1 次上陸兵力は
5 万 5000 人と予定されていた。
第 16 軍主力は 2 月 18 日に仏印のカムラン湾を出港した。ドールマン少将の率いる ABDA
(米英蘭豪)艦隊は日本軍の上陸を阻止すべく全力をもって出撃し、2 月 27 日、日本軍第
3 艦隊との間でスラバヤ沖海戦となった(図 70(図 15-70。P285)参照)
。28 日までの交
戦で、日本軍の駆逐艦 1 隻大破に対して、ABDA 艦隊では蘭軽巡「デ・ロイテル」と「ジャ
ワ」
、蘭駆逐艦「コルテノール」
、英駆逐艦「エレクトラ」が撃沈され、司令官ドールマン
少将も戦死した。
スラバヤ沖海戦で残存した米重巡「ヒューストン」と豪軽巡「パース」はジャワ海から
の脱出途中、3 月 1 日未明、バンタム湾で日本軍の重巡洋艦「三隈」
「最上」とバタビア沖
290
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
海戦(図 70(図 15-70)参照)となり、
「ヒューストン」
「パース」は共に沈没した。その
後、ABDA 艦隊はさらに「エクゼター」と駆逐艦 2 隻を失って壊滅し、駆逐艦 4 隻が辛うじ
てオーストラリアへ脱出した。一連の海戦の結果、ジャワ島近海の制海権は完全に日本軍
のものとなった。
3 月 1 日、日本軍は各方面から一斉にジャワ島に上陸した。首都バタビアは 5 日、スラバ
ヤは 6 日、チラチャップは 7 日に占領された。
3 月 7 日 2 時、ジャワ島中部のエレタンに上陸した第 1 挺身隊 700 人はバンドン要塞外郭
のレンバンの町に電撃突入し、重要陣地を占領した。日本軍突入の知らせにバンドンの蘭
印軍司令部は驚愕し、日本軍がわずか数百人のみで突入してくるはずはなく、背後には大
部隊が控えているに違いないと考え、若松挺身隊へ降伏を申し入れた。9 日午前、ラジオ放
送で降伏の指示が伝達され、バンドン東方の英豪軍 8,000 人が降伏した。
南方作戦は、
大本営の事前の予想では開戦から蘭印軍降伏まで 120 日間とされていたが、
92 日間という電撃的な早さで作戦は完了した。連合軍は 3 月 25 日までにジャワ島内で 8 万
2,618 人が捕虜となった。
南方作戦と並行して行われたセイロン沖海戦、ビルマの戦いは省略する。
《南方作戦の結果》
以上が開戦から約半年間の日本軍の南方作戦の概要である。太平洋戦争(大東亜戦争)
緒戦における日本軍の東南アジア各地への攻略作戦は、1941 年 12 月 8 日の真珠湾攻撃と英
領マレーへの奇襲上陸をもって開始され、1942 年 5 月のビルマ制圧をもって完了した。
南方作戦はバターン半島でのアメリカ軍の抵抗を除けば計画を上回る早さで進行し、日
本軍は南方の油田地帯を手に入れたことで当初の作戦目標を完全に達成した。これは驚嘆
すべきことであった。16 万人以上の捕虜を獲得し、日本軍の戦死者は 1 万人に満たなかっ
た。
1942 年半ばには日本軍は図 70(図 15-70。P285)のように、ビルマからソロモン諸島
まで東西 7,000 キロ、南北 5,000 キロという広大な戦域に手を広げることになった。しか
し、日本軍の太平洋戦争の計画はここまでだった。要するに 12 月 8 日から半年間の計画は
あったがその先は何をめざし、何をするか、まったく、なかった。また、ここまでが予想
以上にうまくいったので、だいだん自信過剰になって,その後の計画がズサン・発散・分
裂気味になっていった。
第 2 段作戦の検討は始められていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略
し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大
陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対
立し、最終目標が決まらない状態であった。
これでは陸軍側の案も海軍側の案もまったく時間と収束を考えない茫漠たる非現実的な
ものといわれてもしかたがないものだった。もともとの目的から、インドネシアの石油な
どの資源を日本に輸送するルートを確保して、中国での持久戦に耐え、その間に和平交渉
291
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を開始する(もともと、戦えるのは 1 年ぐらい、すでに半年はすぎていたから、あと半年
ぐらいで終戦に持ち込まなければならないはずであった)
、とにかく無駄なことはできるだ
け省いてその一点に集中するという現実的な議論はまったくなかった。
◇アメリカ軍の反攻に全面敗北した日本軍
日本海軍は、アメリカを相手に長期持久戦を行うことを不利として、積極的に戦線を拡
大して早期に主力艦隊同士の決戦をはかることを主張した。その海軍が 1942 年 4 月に計画
したのが、第 1 に連合国の反攻拠点と考えられたオーストラリアの攻略作戦であり、第 2
にミッドウェー島を攻略することでアメリカ艦隊を引き寄せて撃滅しアメリカの継戦意欲
を失わせる作戦であった。
《米豪遮断作戦の失敗》
これで企画されたのが米豪遮断作戦であった。この作戦は、図 70(図 15-70。P285)
のニューギニア島東南岸のポートモレスビー攻略作戦・
「MO 作戦」とニューカレドニア、フ
ィジー、サモアの攻略作戦・
「FS 作戦」から成るものであったが、「FS 作戦」遂行にあたっ
て 5 月に前進飛行場の建設適地とされたのが、ガダルカナル島(図 70(図 15-70)参照)
であった。ポートモレスビーやガダルカナルに飛行場をつくり、フィジーやサモアを占領
し、米豪を遮断するということを構想した。
しかし、5 月 7 日、8 日の珊瑚海海戦(図 70(図 15-70)参照)で、日本海軍の空母機
動部隊とアメリカ海軍の空母機動部隊が、歴史上初めて航空母艦の艦載機同士のみの戦闘
を交えた。この海戦で日本海軍は機動部隊も航空機や優秀な搭乗員を多数消耗し、当初の
日本海軍の作戦目標であるポートモレスビー攻略は放棄せざるをえなくなった。
《ミッドウェー海戦の敗北》
米豪遮断作戦(MO 作戦)の失敗をそのままにして、日本海軍は南太平洋から一転して北
太平洋でミッドウェー作戦を計画した(図 70(図 15-70)参照)
。山本五十六長官は、長
期戦になればますます日本が不利になるので、工業力で圧倒的に劣る日本がアメリカと講
和するには、一時的にでもミッドウェー攻略の後、ハワイを占領し、アメリカ国民の戦意
を衰えさせる必要があると考えていた。それには、真珠湾攻撃で取り逃がし、その後、捕
捉、撃滅できずにいた米空母部隊を誘い出して決戦し、これを壊滅させることが絶対的に
不可欠であると考えた。
そこでミッドウェー作戦の目的は、ミッドウェー島を攻略することにより、米艦隊、と
くに空母部隊を誘い出し、これを捕捉撃滅する作戦であった。しかし、ミッドウェー島を
占領してからの確保は極めて困難であることが考えられており、連合艦隊はあくまでこの
作戦は米空母を撃滅することを目的とし、さらに占領後には他方面で攻勢を行い、敵にミ
ッドウェー奪回の余裕を与えなければ、10 月のハワイ攻略作戦にまで確保できると考えた。
5 月 5 日の命令により、ハワイ攻略の前哨戦として山本五十六長官、宇垣参謀長の指揮下
で艦艇約 350 隻、航空機約 1000 機、総兵力 10 万人からなる大艦隊が編成された。日本側
の参加空母数の予想は、日米が 4 対 2 と、米軍より優勢であったはずである(日本側は 4
292
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
対 2 と認識して作戦を立てたが、実際には、珊瑚海海戦で損傷した空母ヨークタウンが急
遽、修繕され加わって 4 対 3 であった。これは日本軍にとって大きな誤算だった)。
5 月 26 日までにハワイの情報隊は日本の暗号解読に成功し、日本海軍の各部隊の兵力、
指揮官、予定航路、攻撃時期などが判明した。ニミッツ大将はミッドウェー部隊にそれを
伝えた。ミッドウェー島の兵力は、航空機約 120 機、人員 3027 人に達し、陸上部隊は士気
が高かった。
6 月 4 日~6 日にかけて、ミッドウェー海戦は戦われたが、そもそも米艦隊をおびき出す
どころか、前述したように米軍は日本軍の暗号を解読し、先回りをして待ち受けていたと
ころへ,日本海軍機動部隊はノコノコと入っていった。
1942 年 6 月 4 日午前 3 時 15 分、
アメリカ軍の哨戒機が、
侵攻する日本空母部隊を発見し、
連絡を受けたミッドウェー島のアメリカ軍基地は、ただちに B17 爆撃機 9 機を発進させ、
高々度から爆弾を投下したが、日本軍には被害がなかった。
6 月 5 日午前 4 時 30 分、今度は日本空母部隊がミッドウェー島を攻撃した。日本の攻撃
機 100 機が、ミッドウェー上空に着くと、すでにアメリカ軍の迎撃機 26 機が待ち受けてい
たので、これを撃退して地上攻撃を行なったが、戦果は不十分だったので、攻撃部隊は再
攻撃の必要ありと、母艦に打電した。
この無線を受信した南雲中将は、ミッドウェー島の再攻撃を決断した(そもそも、ここ
に問題があった。この作戦の主目的は敵空母艦隊ではなかったか。その所在もつかまない
まま、おとりとして考えていたミッドウェー基地攻撃を安易に決断してしまった)。その
時、空母の甲板で待機する攻撃機には、(敵空母艦隊をねらった)艦船攻撃用の爆弾が積
まれていたが、地上攻撃をするには、地上攻撃用の爆弾に変えなければならない。午前 7
時 15 分、爆弾を転換する命令がくだされた。
ところが、午前 8 時 30 分、日本の哨戒機から日本空母部隊に驚くべき情報が入った。近
くに、アメリカ空母部隊がいるというのだ。甲板では爆弾を地上攻撃用に転換する作業の
真っ最中である。今度は、地上攻撃をとりやめ、また、艦船攻撃の爆弾に変更しなければ
ならない。日本空母部隊は大混乱に陥った。
それに先んずる午前 5 時 34 分、アメリカ空母部隊の司令官スプルーアンス少将は日本空
母発見の連絡を受け、午前 7 時に攻撃部隊 116 機を出撃させていた(日本空母か艦船攻撃
用爆弾で待機していて、「敵艦発見」の報で直ちに発艦していれば、たとえ敵機が近づい
ていても救えたのであるが、やはり南雲中将に判断ミスがあった)。
アメリカのホーネット雷撃隊は、
午前 9 時 18 分、日本空母部隊に猛然と雷撃を敢行した。
午前 9 時 49 分、今度はアメリカ空母エンタープライズの雷撃機 14 機が攻撃した。午前 10
時 15 分、次にヨークタウンの攻撃隊 29 機が襲いかかった。日本空母部隊の甲板は、まだ、
爆弾転換作業の真っ最中であった。これでは目も当てられない。
日本空母部隊の旗艦「赤城」には 500 キロ爆弾 2 発が命中し、空母「加賀」に 4 発、「蒼
龍」に 3 発が直撃した。そのとき、日本空母の甲板は地獄と化した。爆弾を満載した攻撃
293
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
機が並び、格納庫には、交換のため、はずされたばかりの爆弾もあった。そこを敵機集団
に何波にわたって攻撃されたらどうなるか。甲板で爆発したエネルギーは格納庫にまで飛
び火し、誘爆をくりかえし、手のつけられない状態になった。日本艦隊は、ほぼ一瞬にし
て 3 隻の空母を失った(結局、この海戦で日本側は 4 隻の空母すべてを失った)。
空母上で雷爆装転換という空母部隊のもっとも弱い状態で米軍機のいっせい攻撃にさら
され(空母の基本の基本を日本軍はおろそかにしていた)、大敗したのである。個々のい
いわけはいろいろあるが、ミッドウェー作戦そのものの設定、目標があいまいで、敵(米
機動部隊)の状況をまったくつかめないまま(逆に真珠湾と異なって、相手にはすべて見
すかされて)
、その中に突っ込んでいったのであるから、敗れるべくして敗れたといわれて
もしかたがないものだった。
日本はこのミッドウェー海戦で、主力正規空母 4 隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を一挙
に失った(米機動部隊は正規空母 1 隻(ヨークタウン)を損失)
。加えて 300 機以上の艦載
機と多くの熟練パイロットも失った。この敗北は太平洋戦争(大東亜戦争)の転換点とな
った。
この海戦後、日本海軍保有の正規空母は瑞鶴、翔鶴のみとなり、急遽、空母の大増産が
計画されたが、終戦までに完成した正規空母は 4 隻(大鳳、天城、雲龍、葛城)のみであ
った。
《威力を発揮し始めたアメリカの工業力》
これに対しアメリカはその巨大な工業力がいかんなく発揮されだした。その年のうちに
新造快速空母 3 隻、快速軽空母 3 隻、護衛空母 15 隻を戦力化させた。さらに、1943 年に快
速空母 5 隻、快速軽空母 6 隻、護衛空母 25 隻、そして 44 年には快速空母 9 隻、護衛空母
35 隻が補充されていた。
アメリカは太平洋だけでなく、大西洋でも戦っていた(前述したように米英の打ち合わ
せで、アメリカの勢力はヨーロッパ 9、日本 1 の配分で戦われることになっていた)。当初、
アメリカは大西洋で大きな打撃を受けた(ドイツの U ボートが大活躍した)。連合国軍は
1942 年に合わせて 830 万トン、43 年には 400 万トンの船舶を失ったが、それぞれ 700 万ト
ン、900 万トンの新造商船を進水させて補った。これは主としてアメリカの造船能力が飛躍
的に高まったおかげであり、1942 年半ばにはすでに速力では U ボートもかなわない高速船
が建造されていた。
日本軍が優位だった空母戦力は、このミッドウェー海戦 1 回で逆転され、以後、アメリ
カ海軍は日本軍を追い越し、予想より早く反攻作戦を開始することになった。
アメリカの工業力のすごさは、表 7(表 15-11。P231)のように、航空機の生産でもい
かんなく発揮された。このたびの戦争は制空権を握っていなければ、陸軍も海軍も有効に
戦えなかった。制空権を握っていれば、戦闘で勝利をおさめられるばかりでなく、敵の戦
時経済に大打撃を与えることができるようになった。この表 7(表 15-11)の数字には数
多くの英米軍の 4 発重爆撃機が含まれているので、航空機の搭載エンジン数あるいは重量
294
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
で比較すれば、連合国軍の優勢は枢軸国をはるかに上まわることになる。これはやがてド
イツや日本の都市や工場、鉄道などを襲うことになる。
《嘘の上塗りを繰り返す大本営発表》
そのうえ軍令部は、この敗北を国民はおろか参謀本部や東條英機総理兼陸相に対してさ
え隠蔽した。大本営は本海戦の戦果を「空母ホーネット、エンタープライズを撃沈、味方
の損害は空母 1 隻、重巡洋艦 1 隻沈没、空母 1 隻大破」と発表した(これではその時点で、
アメリカ太平洋艦隊の空母は零となり、日本は 5 隻の空母があることになり、現実とまる
っきり反対の結果となる。これを繰り返すと嘘の数字が累積してますます辻褄があわなく
なる)
。
大本営は、これ以降、国民に対して(天皇に対しても)嘘の戦果報告を行なうようにな
り、この状態は第 2 次世界大戦の終結まで続いた(これで国民をごまかすことはできても、
実際の作戦面で大きな問題が出てくる。空母や戦艦の数は双方に知れており、それが実際
の数と嘘の数の乖離が大きくなってくるからである)
。
ミッドウェー作戦の失敗により山本長官らの短期決戦早期講和派は発言力を失い、軍令
部、大本営は長期戦を主軸とした戦略への転換を行わざるを得なくなった。
ミッドウェー海戦敗北後の戦いは、真珠湾攻撃後、半年間で日本軍が占領した西太平洋
の島々をまるでフィルムを反対に回したようにアメリカ軍に攻略され(図 72(図 15-76)
参照)
、アメリカ軍のガダルカナル上陸作戦、第 1 次・第 2 次ソロモン海戦、南太平洋海戦、
第 3 次ソロモン海戦、ガダルカナル撤退、ニューギニアでの玉砕、連合艦隊司令長官・山
本五十六の死、アッツ島の玉砕、マキン島・タラワ島の全滅、ビルマ・インパール作戦の
敗北のように日本軍の玉砕の連続であった。
《マリアナ沖海戦》
この状況を受けて連合艦隊司令部では、1944 年 5 月から 6 月にマリアナか西カロリン方
面への侵攻が行われると判断した。しかし、タンカー不足によりマリアナ方面での決戦は
無理があり、パラオ近海において決戦を行うこととした。そのためにグアム、サイパン、
テニアン(図 72(図 15-76)参照)の兵力を強化して敵をパラオ方面へ誘い込み、機動部
隊と基地航空隊によって撃破するという作戦を立てた。この作戦を「あ号作戦」といった。
しかし、1944 年 3 月 31 日に起こった海軍乙事件(連合艦隊司令長官 古賀峯一海軍大将
の搭乗機の墜落により殉職した事件)により、「あ号作戦」の元になる「新 Z 号作戦」計画
書をアメリカ軍が入手し、その暗号を解読していた。アメリカ軍は把握した日本海軍の兵
力、航空機や艦船の数、補給能力等の重要情報をもとに約 1 ヶ月で作戦を立案した。
日本海軍のほうでは、生存する当事者が公にしなかったため、日本海軍は「新 Z 号作戦」
計画書がアメリカ軍に渡ったことを知らなかった(自分の責任になるから、機密漏洩の恐
れがあることを黙っていた。日本軍人はもっとも基本的な機密保持すらおろそかにしてい
た。それがいかに重大な結果をもたらすことになったか)
。
295
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 72(図 15-76) 太平洋戦争(1942~45 年)
よく日本は物量でアメリカに大差があって負けたといわれるが、それはそのとおりであ
ったことは再三述べたとおりである。それならせめて技術でということになるはずである
が、ところが、日本(国、軍)には、本質的に技術軽視のところがあった(精神論という
か、日清・日露以来の成功体験から技術より精神論にすり替えらてしまった。その精神論
も前述したように基本的な機密保持すらできていなくて、きわめて不合理な精神論であっ
た)
。
技術軽視という点では、航空技術がそうだったし、暗号技術(防御技術を含めて)はま
るで読まれぱなしだし、レーダーはないし、そして今、近接信管である。この近接信管と
は、砲弾にレーダーなどを組み込み、目標物から外れても一定の範囲内に目標物などが入
れば起爆する信管であり、太平洋戦争期間中にアメリカ海軍の艦対空砲弾頭信管に利用さ
れて命中率を飛躍的に向上させる効果があった。
296
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このマリアナ沖の「あ号作戦」において、アメリカ軍側は、レーダーに誘導された戦闘
機による迎撃、また近接信管を使用した対空弾幕の増強により、日本の攻撃隊は大半が阻
止され次々と撃墜された。日本のゼロ式戦闘機なども戦争の初期に威力を発揮しただけで
後半には、アメリカ空軍機の餌食になるだけだった。要するにアメリカ空軍機は短期間で
レーダーや近接信管など革新的な技術を装備していたのである。
日本軍は、暗号技術が劣り、レーダー技術なしでは目と耳をふさがれて戦うようなもの
でその結果は明らかであった。アメリカ軍は日本の攻撃隊がろくに回避運動もせず(飛行
技術も劣ってしまっていた)
、容易に撃ち落とされたことを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼
んだ。また、日本海軍の空母が相手との距離を縮めないように同じ海域に留まっていたた
め、次々と敵潜水艦の餌食となってしまった。
結局、このマリアナ沖海戦で、ミッドウェー海戦以降、再編された日本海軍機動部隊は
空母 9 隻という、日本海軍史上最大規模の艦隊を編成し迎撃したが、アメリカ側は 15 隻も
の空母と艦艇、日本の倍近い艦載機という磐石ぶりであった。このように航空機の質や防
空システムの技術で遅れをとった日本軍は惨敗を喫してしまった。
マリアナ沖海戦で制空権ばかりか、制海権も失った日本軍には、以後、アメリカ軍の北
上「飛び石作戦」が続き、サイパン島の玉砕、グアム島の戦い、テニアン島の戦い、B-29 の
よる本土空襲の開始、ペリリュー島の玉砕、台湾沖航空戦、レイテ沖海戦、神風特別攻撃
隊の出撃、フィリピン・ルソン島の戦いと、一連の悲劇が待ち受けていた。
《要塞化された硫黄島》
硫黄島の戦い(図 72(図 15-76。P285)参照)で、日本軍は守備兵力 2 万 933 人のう
ち 2 万 129 人が戦死した。これは損耗率にして 96%にのぼる。一方、アメリカ軍は戦死 6821
人・戦傷 2 万 1865 人の計 2 万 8686 人の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメ
リカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦い
であった(これは硫黄島守備隊がペリリュー島守備隊の防御法を学んで岩窟に篭って接近
戦に徹したからであった)
。また、上陸後わずか 3 日間にて当時のノルマンジー上陸作戦を
含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回っていたことをみても、硫黄島の戦いがい
かにすさまじいものであったかがわかる。
《日本本土空襲》
本土に対する空襲は 1944 年 6 月の九州北部から始まり、1944 年 11 月以降は、マリアナ
諸島のサイパン島、テニアン島およびグアム島から日本本土のほぼ全域に対する戦略爆撃
を行えるようになった。
1944 年 11 月からは東京・名古屋・大阪方面も空爆にさらされるようになり、学童の地方
への疎開がはじまった。沿岸地域では米軍艦による艦砲射撃も加えられるなど、戦争の災
禍があらゆる国民に及ぶようになった。
本土空襲の始まりという苦境に直面しても、日本政府と軍部は抗戦姿勢を変えず、1945
年 1 月半ばの最高戦争指導会議では「本土決戦」準備を決定した。
297
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカ軍は最初は爆撃対象を軍施設や軍需工場に限定して高々度からの精密レーダー
照準爆撃であったが、1945 年に入り、日本本土空襲の指揮を執りはじめたアメリカ空軍の
カーチス・ルメイ少将は「日本の継戦能力を根本から絶つ」として、爆撃対象を軍事施設
だけでなく民間施設にも拡大、低高度からの夜間無差別じゅうたん爆撃を開始した。
こうなると目標を狙う必要がないので、日本の(レーダーなしの)単座戦闘機が飛べな
い夜間に、高度 2~3000 メートルから一般市街地に対するじゅうたん爆撃を行うようにな
った。小型機上レーダーはおろか、各機を管制する防空システムすら不十分な日本軍は効
果的な迎撃を行うこともできなくなった(戦争後期には日本はまったく技術的に引き離さ
れた。もうこの頃の戦闘ではレーダーなしでは戦闘にならなかった)
。
日本本土の空襲にいかんなくその性能を発揮したのは、アメリカ陸軍航空隊のボーイン
グ B-29 爆撃機だった。1945 年 2 月末ごろから、アメリカ軍による日本国民の戦意喪失を狙
った本土空襲は、焼夷弾などによるじゅうたん爆撃にエスカレートし、3 月 10 日の東京大
空襲では焼失家屋が 25 万戸、死者が 8 万 3000 人を超えるほどの大被害が出た。
当初は数十機編隊で、1 機あたり爆弾の搭載量も 2~3 トンであったが、1945 年になると
5~6 トンを搭載するようになり、終戦近い頃には B-29 とそれを護衛する戦闘機の集団は約
500 機で来襲するようになった。
アメリカ軍は 1945 年 6 月以降、爆撃予告ビラを作成し、B-29 によって全国 32 の都市へ
ばらまき、約半数の都市を実際に爆撃した。東京、大阪、名古屋の 3 大都市のほか、仙台、
横浜、神戸、福岡、岡山、富山、徳島、熊本、佐世保など、全国の中小各都市も空襲にさ
らされることになった。
《沖縄戦》
日本の劣勢が明確になり、いよいよ、アメリカ軍の日本本土への侵攻が予想されはじめ
たが、その際、アメリカはまず沖縄本島を占領して前線基地とすることを考えた。
そこで日本はそれに対抗すべく 1944 年 2 月、沖縄守備軍(第 32 軍)を編成し、新司令
官に牛島満中将を任命し、最終的な陸軍の沖縄守備軍の数は 8 万 6,400 人、このほかに海
軍陸戦隊が約 1 万人弱、学徒隊などが 2 万人で、総計 11 万 6,400 人として防備を固めた。
1945 年 3 月、アメリカ軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ
完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされ
ており、沖縄本島は、占領後、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まって
いた。
アメリカ軍は、日本軍の反撃戦力を削ぐことなどを目的に、空母 12 隻を中心とした第 58
任務部隊を日本本土へと差し向けた。3 月 23 日、第 58 任務部隊は沖縄県周辺に対する本格
空襲を開始し、初日だけで延べ 2000 機を出撃させた。翌日には第 59 任務部隊の戦艦 5 隻
などが沖縄本島南部に対する艦砲射撃を行い、上陸予定地点の掃海作業も始めた。
このほか日本軍の反撃を妨害する目的で、アメリカ軍は B-29 爆撃機による機雷投下を関
門海峡などに行った。アメリカ軍の艦艇 1500 隻、輸送船 450 隻、兵員 54 万 8000 人(うち
298
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
上陸部隊 18 万人)の攻略部隊もサイパン島やレイテ島から続々と出発し、沖縄洋上に集結
した。
3 月 26 日、アメリカ軍は慶良間(けらま)諸島の座間味島など数島を占領し、作戦拠点
となる泊地や水上機基地などを設置した。
4 月 1 日、アメリカ軍は、守備陣の薄い沖縄本島中西部で、陸軍 2 個師団と海兵 2 個師団
による上陸を開始した。日本軍が水際作戦を放棄したため、米軍はその日のうちに北飛行
場(読谷村)
・中飛行場(嘉手納町)を確保、4 月 5 日までには中部(現うるま市石川周辺)
の東海岸までを占領した。これにより、日本軍第 32 軍は沖縄本島の南北に分断された。
4 月 6 日から、日本軍は特攻機多数を含む航空機による大規模反撃を、米英連合軍艦隊・
船団に対して開始した。この菊水作戦による特攻攻撃は、終戦まで断続的に行われ、沖縄
諸島周辺で、海軍機は 940 機、陸軍機は 887 機が特攻を実施し、海軍では 2,045 人、陸軍
では 1,022 人が特攻により戦死した。
さらに海軍は、戦艦大和を中心とした第 1 遊撃部隊、回天特攻「多々良隊」
(潜水艦 4 隻)
にも出撃を命じた。日本の連合艦隊はすでに主力艦艇の大部分を喪失していた。戦艦大和
以下、生き残ったわずかばかりの主力艦艇は、燃料不足のため行動することができず、呉
軍港に繋がれていた。
そこで日本軍は沖縄防衛のため天号作戦を発動させ、特攻作戦である菊水作戦に呼応す
る形で、大和を中心とする艦隊を編成し、沖縄本島沖へ片道燃料で出撃させ、大和以下の
艦隊を沖縄本島に突入させて艦を座礁させたうえで、固定砲台として砲撃を行い、弾薬が
底をついた後は乗員が陸戦隊として敵部隊へ突撃をかけるという生還を期さない特攻作戦
であった。第 1 遊撃部隊の参加兵力は計 4,329 人であった。しかし、日本軍は航空戦力の
護衛のない戦艦はたちまち沈められることをいやというほど経験してきていたので、沖縄
までたどり着けるかどうか疑問であることを知った上での出陣だった。
4 月 6 日 16 時、戦艦大和以下の第 1 遊撃部隊は徳山沖を出撃するとほぼ同時にアメリカ
側に察知され、7 日 10 時ごろ、奄美諸島近海に位置していた 8 隻の米空母から数波にわた
る約 400 機の攻撃隊が発進した。第 1 波の攻撃隊は早くも 12 時 30 分に攻撃を開始し、14
時 20 分、大和は完全に転覆し沈没を開始した。14 時 23 分、大和は(火薬庫か機関室の水
蒸気爆発で)大爆発を起こし、波間に消えた。出航翌日、攻撃開始から 2 時間もかからな
かった。航空支援のない艦船は、たとえ大和でも、間違いなくやられるとわかっていても、
あえて、やらせてしまう日本の仕組みがここにもあった。
約 3,700 人がこの戦いで戦死した。米軍機の損失は(たった)10 機で戦死者は 12 人であ
った。大和の沈没により、日本軍の第 2 艦隊は作戦を中止し帰投した。何のための作戦で
あったか。巷間いわれているように大和のような大艦巨砲を残しておいたら責任が問われ
るから、自沈同然で送り出したのか。それでは道連れになった 3,700 人の戦死者が浮かば
れない。
299
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
沖縄戦に返る。4 月 5 日に上陸したアメリカ軍は沖縄を南北に分断してしまったが、北部
には、日本軍はあまり大きな兵力を配備していなかったので、22 日までに制圧されてしま
った。北部は住民の避難地域に指定されていたため推定 15 万人の住民が県内疎開してきて
おり、そのままアメリカ軍の管理下に入ることとなった。
南部では日米軍は首里(現那覇市の一部)北方で激戦となった。沖縄諸島周辺の海上で
も、神風特攻隊を中心とした日本軍航空部隊などと、連合軍艦隊の間で戦闘が行われた。
5 月 4~5 日に、南部の日本軍は反転攻勢に転じた。第 32 軍は、温存していた砲兵隊に砲
撃を開始させ、第 24 師団と戦車第 27 連隊などを繰り出して攻撃したが、アメリカ軍の圧
倒的な重火器の攻撃力にさらされ、火砲や戦車の大半が破壊された。
5 月 24 日、第 32 軍司令部は南部島尻地区への撤退、5 月 27 日に津嘉山に撤退、30 日に
はさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退したが、この時点で第 32 軍は戦力の 80 パー
セントを消耗していた。31 日までにアメリカ軍は首里市を占領した。
海軍部隊司令官の大田実少将は 6 月 6 日に海軍次官宛に有名な『…沖縄県民斯ク戦ヘリ
県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』という訣別電報を打った後、豊見城(とみ
ぐすく)の海軍司令部壕内で 6 月 13 日頃に自決した(この太田実少将の電文に対して、戦
後の日本政府は米軍基地の 7 割を沖縄に残すという「特別ノ御高配」どころか「過酷な仕打
ち」を行っている。しかもこのままでは半永久的に)
。
6 月 23 日午前 4 時ごろに沖縄守備軍司令官・牛島満中将と参謀長・長勇中将が摩文仁司
令部で自決した。これによって沖縄守備軍の指揮系統は完全に消滅した。大本営も、6 月
25 日に沖縄本島における組織的な戦闘の終了を発表した。
沖縄県生活福祉部援護課の 1976 年 3 月発表によると、日本側の死者・行方不明者は 18
万 8136 人で、沖縄県出身者が 12 万 2228 人、そのうち 9 万 4000 人が民間人であった。日
本側の負傷者数は不明である。アメリカ軍側の死者・行方不明者は 1 万 2520 人で、負傷者
7 万 2000 人であった。
《アメリカの日本上陸作戦計画》
次はいよいよ日本本土だった。「神洲不敗」を信奉する軍の強硬派はなおも本土決戦を掲
げ、「日本国民が全滅するまで一人残らず抵抗を続けるべきだ」と一億玉砕を唱えていた。
アメリカにとっては、多大な本土空襲を行っても沖縄戦を終わっても、日本の降伏意思
に対する効果は明確ではなく、本土上陸を果たし、東京占領によって戦争終結を目指すこ
としかないように思われた。
アメリカ合衆国の政府内では、沖縄の陥落を間近にした 1945 年 6 月 18 日、1945 年 11 月
から九州上陸作戦を開始し、翌 46 年 3 月から関東地方への上陸作戦を実施することを決定
した。
このアメリカ軍が計画した「日本本土上陸作戦」の作戦名はダウンフォール作戦といわ
れ、ダウンフォール (Downfall) とは英語で「失墜」「滅亡」などといった意味であり、文
300
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
字通りかたくなに抵抗を行い続けている日本に対し、その本土での陸上作戦を行い、戦争
を終結させるために検討された作戦であった。
その作戦は、前半のオリンピック作戦と後半のコロネット作戦より成っていた。
まず、オリンピック作戦は九州南部への上陸作戦であり、目的は関東上陸作戦であるコ
ロネット作戦のための飛行場確保であった。作戦予定日は X デーと呼称され、1945 年 11 月
1 日が予定されていた。
海上部隊は空前の規模であり、空母 42 隻を始め、戦艦 24 隻など上陸用舟艇や輸送船を
含めた艦船の数は 3,000 隻に達する。これらの部隊は占領した沖縄を経由して投入される。
上陸部隊はアメリカ第 6 軍であり、隷下の 3 個軍団がそれぞれ宮崎、大隅半島、薩摩半島
に上陸することとなっていた。動員される兵力は 25 万 2000 人の歩兵と 8 万 7000 人の海兵
隊から成る 16 個師団が予定されていた。
なお、航空基地の確保が目的のため、南部九州のみの占領で作戦は終了し、北部九州へ
の侵攻は行わないことになっていた。 この基地は、翌年 3 月のコロネット作戦のための前
進基地であり、72 万人の兵員と 3,000 機が収納できる巨大基地となり、この基地からは、
長距離爆撃機のみならず中距離爆撃機も関東平野を爆撃することができるはずであった。
このオリンピック作戦が実施された場合、予想される連合軍の損害は、タラワ、硫黄島、
沖縄の戦闘から類推して 25 万人と言われていて、第 2 次世界大戦最大の損害がアメリカ軍
に生じると推測されていた。
コロネット作戦の上陸予定日は Y デーと呼ばれ、1946 年 3 月 1 日が予定されていた。コ
ロネット作戦は洋上予備も含めると 25 個師団が参加する作戦であり、それまでで最大の上
陸作戦となる予定であった。
上陸地点は湘南海岸と九十九里浜が予定されており、Y デーの 3 ヶ月前から艦砲射撃と空
襲によって大規模な破壊を行なうことになっていた。湘南海岸には第 8 軍、九十九里浜に
は第 1 軍が割り当てられていた。計画では湘南海岸に 30 万人、九十九里海岸に 24 万人、
予備兵力合わせて 107 万人の兵士と 1,900 機の航空機というノルマンジー上陸作戦をはる
かに凌ぐ規模の兵力が投入される予定であった。
湘南海岸に上陸した第 8 軍は相模川沿いを中心に北進し、現相模原市・町田市域辺りよ
り進路を東京都区部へ進行する。一方、九十九里浜に上陸した第 1 軍は、関東平野を西進
して、
関東地方の日本軍を挟撃作戦によって約 10 日で東京を包囲するというものであった。
このように、アメリカ、イギリスを中心とした連合軍による、九州地方上陸作戦オリン
ピック作戦、その後関東地方へのコロネット作戦が実施されていたならば、日本の軍民を
結集した強固な反撃で、双方に数十万人から百万人単位の犠牲者が出ることが予想された。
これらの計画は 1945 年 8 月 15 日に終戦となって結局、実施されなかったが、それは後
述するようにアメリカは 7 月に原爆実験に成功し、ソ連が参戦する前に日本を降伏させた
い、原爆投下によって日本降伏を早め、連合軍の犠牲者をできるだけ少なくしたいという
アメリカの思惑があったからである(これは後述する)
。
301
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカ政府およびアメリカ軍は、このような膨大な犠牲者が予想される上陸作戦を避
けるため(その前に日本軍を降伏させるため)、元駐日大使のグルー国務次官やスティムソ
ン陸軍長官を中心にして日本に降伏を促す宣言を出す計画が進行した。この宣言の発表は、
結局、原爆の完成とリンクさせて構想され(原爆実験は7月 16 日)、ポツダム会談の場で
検討されることになった。
その際、グルーらの知日派は、日本側の和平条件が「国体護持」(天皇制を残すこと)に
収斂しつつあることを察知して、敗戦後の日本で民主的かつ平和的な政権が樹立されるま
で連合国が日本を占領することを明示した宣言の中に、その政権には「現皇統のもとにお
ける立憲君主制」も含まれることを明記することによって日本の降伏を早めようと考えた
(日本が降伏を受け入れやすくする)。
事実、ポツダム会談に出席していたトルーマンに送られた宣言案にはそのような一文が
入っていた。しかし、トルーマン大統領やバーンズ国務長官は、天皇の戦争責任に対する
アメリカ合衆国や連合国内部の厳しい世論にも配慮しなければならなかった。その原爆投
下と太平洋戦争の結末を決定する舞台は 1945 年 7 月にドイツ・ポツダムで行われたので、
次の【4】アメリカの戦いの後半に、原爆開発の一連の事情と日本の降伏の事情をまとめ
て記すことにする。
【4】アメリカの戦争
◇民主主義の兵器廠アメリカ
元来、アメリカ合衆国内には、ヨーロッパの権力政治には不介入の姿勢をとり、1930 年
代に起こった各地の紛争に対しても中立を求める「孤立主義」的な世論が根強かった。に
もかかわらず、フランスが陥落し、イギリスが孤立する状況が発生すると、民主主義体制
に対する国際的な危機感が高まり、イギリスに対する軍事援助を活発化させるようになっ
た。チャーチルは、第 1 次世界大戦以来、ルーズベルトとの間に培ってきた交友関係とと
もに、同じ「英語国民」としての共通性を強調して、強固な英米同盟を構築するように努
力していた。
1940 年 6 月、フランス降伏の前夜、ルーズベルト大統領はヴァージニア大学で、アメリ
カが「武力支配下の世界の孤島」となるわけにはいかないと演説し、イギリスへの援助と
アメリカ合衆国の軍備強化の必要性を訴えた。親英派の共和党員として知られたヘンリ
ー・スティムソンを陸軍長官に、フランク・ノックスを海軍長官に迎えるなどして、超党
派内閣を形成し、9 月には平時では史上初めての選抜徴兵法を制定した。さらに同じ 9 月に
は、西半球にあるイギリス基地の借用と交換に、50 隻の駆逐艦をイギリスに提供する協定
を締結した。
次いで 11 月の選挙で 3 期目(まだ、アメリカ大統領は 2 期までとする制限がなかった)
の当選を果たしたルーズベルトは、対英援助の姿勢をいっそう明確にし、12 月の「炉辺談
話」と呼ばれたラジオ放送演説では国民に直接呼びかける形で,合衆国が「民主主義の兵
302
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
器廠」となるべきと訴えた。当時の合衆国国民の間では,合衆国自体の参戦には反対する
ものの、長期にわたる空襲に耐えていたイギリス国民に対する支援には賛成する世論が多
数を占め、民間レベルでも支援物資の送付が盛んに行われ始めていた。
《武器貸与法》
ルーズベルト大統領は、1941 年 1 月初めに発表した年頭教書の中で、言論の自由、信教
の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由という「4 つの自由」を擁護することの重要性を
訴えたが、それは後に「大西洋憲章」(1941 年 8 月)にも取り入れられ、ファシズム勢力と
戦う姿勢を明確にした。
さらに、41 年 3 月には「武器貸与法」が制定され、大統領が合衆国の安全保障上必要と
見なした国に対して軍事物資を無償ないし有償の形で貸与できることになった。ルーズベ
ルト大統領は、この法律を通すため、国民とメディアに対して、
「この計画は火事を消すた
めに隣人にホースを貸すようなものである。このような危機に際して私はなにをすべきだ
ろうか? 私は隣人に対して『お隣さん、このホースは 15 ドルしました。15 ドル払ってくだ
さい』とは言わないだろう。私は 15 ドル払ってもらうのではなく、火事がすんだ後にホー
スを返してもらえばよいと思う」とアメリカ国民を説得した。
この「武器貸与法」は成立後、ただちにイギリスや中国に適用され、連合国側の戦争遂
行を軍事物資面で支える大きな役割を果たすようになった。この法律の可決をチャーチル
は高く評価した。
この武器貸与法は第 2 次世界大戦において、とくにアメリカ合衆国が直接参戦せず戦争
の重荷が他の諸国、イギリス連邦諸国や 1941 年 6 月以降のソヴィエト連邦に全て掛かって
いた初期には、連合国が最終的に勝利する上で重要な要素となった。1941 年 12 月の真珠湾
攻撃と枢軸国による宣戦布告により、アメリカが大戦に直接参戦することになっても、実
際にアメリカ軍が戦場に立つまでには時間がかかったので、1942 年以降も武器貸与法によ
る軍需物資援助が連合国勝利に重要な役割を果たした。
総額 501 億ドル(2007 年の価値に換算してほぼ 7000 億ドル)の物資が供給され、そのう
ち 314 億ドルがイギリスへ、113 億ドルがソヴィエト連邦へ、32 億ドルがフランスへ、16
億ドルが中国へ提供された。
1943 年から 1944 年にかけて、イギリスの使用した弾薬の 4 分の 1 は武器貸与法によるも
のであった。イギリスに対する援助物資のおよそ 4 分の 1 が航空機(特に輸送機)で、続
いて食糧、車輌、船舶の順であった。
この武器貸与法は、第 1 次世界大戦時には軍需物資の提供が民間の融資によって行われ
たため、戦後に巨額の戦債・賠償問題を発生させた反省から、国家資金を使用して軍需物資
を「
(無償)貸与」する形で戦後の返済負担を軽減しようとしたもので、第 2 次世界大戦後
に一般化する「対外援助」の先駆的形態ともなった。
◇大西洋憲章
303
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカは日本軍の真珠湾攻撃で第 2 次世界大戦に直接参戦することになったが、英米
間ではよりいっそう踏み込んだ軍事協力が密かに進行していた。それは、ドイツの脅威が
高まるなかでアメリカ合衆国の参謀本部が、将来の参戦を想定して、1941 年 1 月末からイ
ギリスの参謀本部との間で共同作戦の計画を検討し、3 月末に「ABC-1」計画をまとめてい
た。それには米英の軍事指導部が、対独日戦が発生した場合に対独戦を優先させ、対日戦
はドイツが敗北するまでは「牽制的な消耗戦」にとどめることと、英米合同軍事使節団を
継続させる点で合意していた。
1941 年 8 月 9 日から 12 日まで、ルーズベルト大統領とチャーチル首相が大西洋のニュー
ファンドランド沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ内で秘密の首脳会談を行い、アメリカ
はまだ参戦していなかったが、第 2 次世界大戦後の世界構想となる「大西洋憲章」をまと
め、8 月 14 日に「両国が世界のため一層良き将来を求めんとする其の希望の基礎を成す両
国国策の共通原則を公にするを以て正しと思考するものなり」と大西洋憲章(英米共同宣
言)として公表した。
第 1 次世界大戦のとき 1918 年 1 月に当時のアメリカ大統領ウィルソンが 14 ヵ条の平和
原則を発表したが、それに匹敵するものである。
それは 8 項目からなり、その内容を要約すると以下のようになる。
ⅰ)領土不拡大(アメリカ合衆国とイギリスの領土拡大意図の否定)。
ⅱ)関係国民の自由意思によらない領土変更の不承認。
ⅲ)民族自決(統治形態を選択する人民の権利)。
ⅳ)自由貿易の拡大(通商と原料獲得の機会均等)。
ⅴ)経済協力の発展(労働条件改善と社会保障のための国際協力)。
ⅵ)すべての国民が自国内で安全かつ恐怖や欠乏から自由に生きられる平和の実現。
ⅶ)公海航行の自由。
ⅷ)軍縮と全般的で恒久的な安全保障機構の樹立。
これをまとめるに当って、米英首脳間で激しい論争もあった。とくに、第 4 項の通商自
由化の原則については,1930 年代に自治領や植民地との間で、通貨や関税面で「オタワ協
定」を締結し、ポンド・スターリング・ブロックを形成していたイギリスとしては、戦後に
その解体を迫られることになると反発した。
チャーチルは、19 世紀にイギリスが自由貿易を提唱していたときには、アメリカ合衆国
(ドイツなども)が保護貿易に固執したため、苦汁を飲まされた過去まで持ちだして激し
く反発した結果、第 4 項については、「既存の義務を尊重しつつ」という字句を挿入して、
当面オタワ協定の存続を認める方向で妥協がはかられた。
また、第 3 項目をめぐっても、ルーズベルトとチャーチルの間で見解の相違があった。
ルーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチ
ス・ドイツ占領下のヨーロッパに限定されると考えた。つまり、イギリスはアジア・アフ
リカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。
304
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この憲章に対してソ連は 9 月 24 日になって、「特定の国々の状況、必要性、歴史的特性」
への配慮を条件として承諾を与えた。
ルーズベルトとチャーチルは 1941 年 12 月 22 日から 1942 年 1 月 14 日までワシントン DC
においてアルカディア(ユートピア・理想郷の意味)会談といわれた会議をもった。この
ときは真珠湾攻撃が起き対独日伊に宣戦布告したばかりであったが、アメリカ合衆国は戦
争に勝利することを約束し、最初の目標はナチス・ドイツであるとした(ヨーロッパを最
初の戦略目標とした)
。また、ヨーロッパ作戦戦域において軍事的資源を統一して運用する
ことにも同意した。
その連合国共同宣言は 1 月 1 日にアルカディア会談において連合国 26 ヶ国(一部は亡命
政府)により署名された宣言で、第 2 次世界大戦の戦争目的を述べ、各国が持てるすべて
の物的人的資源を枢軸国に対する戦争遂行に充てること、ドイツ、日本、イタリアと各国
が単独で休戦または講和をしないことを明らかにした。
この宣言が、その後の国際連合(=連合国)の基礎となった。1945 年 3 月までには署名
国は 47 ヶ国となった。 連合国(United Nations。UN)と言う言葉は、1941 年 12 月にルーズ
ベルトが第 2 次世界大戦の連合国(Allies)に対して使用し、この宣言で、一般的に正式な
語として使用されるようになった。
◇原子爆弾の開発と日本の降伏
1945 年 12 月 8 日の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃によって、第 2 次世界大戦に参戦した
アメリカの戦いは、ドイツの戦い、イタリアの戦い、日本の戦いのところで記してきたと
ころである。ここでは、アメリカの一連の原子爆弾開発計画(マンハッタン計画)とそれ
を日本に投下した事情、それによって日本が降伏した事情などを記すことにする。
《レオ・シラードの杞憂》
『自然の叡智 人類の叡智』の 19 世紀末から 20 世紀前半の科学と思想①自然科学のと
ころで、量子力学、原子物理学の誕生のことを述べたが、その延長で考えると、原子爆弾
の開発は、いずれは誰かがどこかでやったかもしれないが、第 2 次世界大戦中のアメリカ
のマンハッタン計画がなかったなら、あれほど短期間に集中的に開発されることはなく、
したがって、第 2 次世界大戦の最終段階で実戦に使用されるというようなことはなかった
であろう。
第 2 次世界大戦中に、人類はついに原子爆弾(原爆)というとんでもない兵器を生み出
すことになったが、それはヒトラーという人類でまれに見る怪物とそれに恐怖する過敏な
科学者たちが、まれにみる執念と集中力をもって生み出した産物であった(原子力技術が
このような不幸な環境で誕生しなかったら、原子力技術と人類の関係はもっと別の形にな
っていたかもしれない)。
それには 1 人の「先を見通すことに長けていた」物理学者レオ・シラード(1898~1964
年)の杞憂(杞の国の人が、天が落ちてこないか憂いたという中国の故事より、取り越し
苦労の意味)からはじまった。
305
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
レオ・シラードは、1898 年、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のブダペストでユダ
ヤ系の土木技師の息子として生まれた。高校生のときに第 1 次世界大戦が始まると、すぐ
さま自国の敗北を見通し、周囲に公言していた。 王立ヨージェフ工科大学に入学した翌年
の 1917 年に士官候補生として徴兵されたが、重い流感にかかって休暇をとっている間に所
属部隊が全滅し、あやうく難を逃れた。
第 1 次世界大戦敗戦後のハンガリー国内の政情の混乱を受けて 1919 年にベルリン工科大
学に移ってから、アインシュタインやラウエ、プランクなど一流の物理学者に出会い、工
学から物理学の研究に転じた。1923 年にベルリン大学のラウエ(1912 年、結晶による X 線
の回折現象を発見、X 線が電磁波であることを示し、その業績により 1914 年のノーベル物
理学賞を受賞)のもとで博士号を取得し 1927 年に大学の私講師となった。 このころ、熱
力学と情報についての先駆的研究や、粒子加速器などについての多くの特許を出願した。
シラードはひとつのことを突き詰めるタイプの学者ではなかったが、感情や既成の価値
に捕われることなく自らの誠実さに従って判断することを信条とし、科学のみならず世界
情勢に関しても人よりも先を見通すことに長けていた。
研究成果を論文の形で発表するよりも特許を申請することを好み、原子炉、線形加速器、
サイクロトロン、電子顕微鏡を始めとする多くの先進的なアイデアが特許の形で残されて
いる(そのかわりノーベル賞はもらっていない)
。 サイクロトロンの特許出願はアーネス
ト・ローレンスによるサイクロトロン実現の 4 年前であった(ローレンスは、1939 年、
「サ
イクロトロンの開発および人工放射性元素の研究」によりノーベル物理学賞を受賞した)。
また、年齢の離れたアインシュタインとは公私にわたるつきあいをし、可動部のない液体
金属ポンプの設計を共に行って有毒な冷媒の洩れ出さない安全な冷蔵庫として特許を取得
している。天才的な才能をもっていたことは確かであった。
シラードは 1930 年代よりドイツにおいて台頭してきたナチスに強い危機感をもっていた。
1933 年 1 月にナチスが政権を握り、翌月には国会議事堂放火事件が起きるとシラードはナ
チスの関与を嗅ぎ取り、その数日後には単身でドイツを後にした。シラードは亡命先のロ
ンドンで次々にドイツを脱出してくる学者の受け入れ先の確保のためにしばらくの間、駆
け回ることとなった。
こうしている 1933 年 10 月、シラードはロンドンのサザンプトン通りの交差点で信号待
ちをしている間に、前年発見された中性子(1932 年、イギリスの物理学者ジェームズ・チ
ャドウィックが中性子を発見、これによって 1935 年にノーベル物理学賞を受賞)による核
分裂の連鎖反応の理論的可能性に不意に思い至った(寝てもさめてもあることを一心に考
えていると、ひょんな時にあるアイデアがうかぶという経験は多くのノーベル賞学者が述
べていることである。フロに入っているときとか、夜、夢で目覚めたときとか)
。
この 1933 年にレオ・シラードによって初めて提唱されることになった「核の連鎖反応」と
いう概念は、電気的に中性な中性子は容易に原子核に衝突させることができ、もしそれに
306
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
よって複数の二次中性子を放出するような種類の原子が存在すれば、連鎖反応によって、
莫大な核のエネルギーが放出されることになるというものである。
この赤信号で待っている時に「核の連鎖反応」(という概念)を思いつくと、シラードは
例によって、すぐ、この連鎖反応のアイデアについて特許を申請した。そして彼は核エネ
ルギーに関する(つまり、原爆、原発の原理である)
、いくつかの特許を取得した。特許は
理論だけでもとれるから、とにかくとりあえず取った。しかし、実際誰かがこれをつくっ
たらどうなるか。ましてや、あのヒトラーが知ったらどうなるだろう。彼はぞっとした。
レオ・シラードは、自分の感はけっこう当ると思っていたから。
彼は、核エネルギーのアイデアがナチス・ドイツに洩れることを防ぐために、これらの特
許をイギリス軍に譲渡し秘密扱いにするよう申請したものの、イギリス軍がその重要性を
理解することはなかった。
その後、シラードはいくつかの根拠からベリリウム、インジウム、ウラニウムなどが連
鎖反応を起こす可能性のある有力な候補とみなすようになり、1936 年にベリリウムとイン
ジウムを用いて連鎖反応を起こすことを試みたが成功しなかった。亡命先でしっかりした
地位のなかったシラードは資金難から十分な実験を行うことはできなかった。
1936 年にナチス・ドイツがヴェルサイユ条約を破棄して軍をラインラントに進駐させる
とシラードはヨーロッパでの戦争の勃発を確信するようになった。この感も当るような気
がして、
いてもたってもいられなくなったシラードは、第 2 次世界大戦が始まる前年の 1938
年にはオックスフォード大学の研究員を退職し、再びあてのないままアメリカへと渡った。
《核分裂実験の成功》
ところが、レオ・シラードが密かに危惧していた「核の連鎖反応」が、彼がアメリカへ渡
った 1938 年に、ドイツのオットー・ハーンらによる中性子によるウラニウムの核分裂実験
という形で成功してしまった。これを知ったレオ・シラードは、また、自分の推察、感は
当ってしまったと思った。
この核分裂実験成功の経緯は以下のとおりである。
ドイツのカイザー・ベルヘルム研究所のオットー・ハーン(1879~1968 年)と女性物理
学者リーゼ・マイトナー(1878~1968 年)は 30 年間にわたり協同研究を行い、マイトナー
の物理的知識とハーンの化学的知識とが補完しあって放射線の研究に成果を上げてきた。
ところが、ウィーンのユダヤ系の家庭に生まれたマイトナーは、1938 年、オーストリアが
ドイツに併合されると、ナチスの迫害を避けるために、マイトナーはスウェーデンに移ら
ざるをえなくなったが、ハーンとは連絡を取り合っていた。
その 1938 年に、マイトナーはハーンから「ウランの原子核に中性子を照射しても核が大
きくならず、しかもウランより小さい原子であるラジウムの存在が確認された。何が起き
ているのか意見を聞きたい」という手紙を受け取った。つまり、共同研究していた核分裂
実験が成功し、核分裂現象が観測されたのである。マイトナーは、甥で物理学者であるオ
ットー・フリッシュと共に核分裂が起きたことを証明して、連名で発表した。
307
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この核分裂の発見で 1944 年にオットー・ハーンはノーベル化学賞を受賞したが、ハーン
はナチスの圧力に負け、ユダヤ人であるマイトナーを共同研究者から外したため、彼女は
受賞しなかった。今日では、ハーンは核分裂の発見者であり、マイトナーは核分裂の概念
の確立者であるとされている。
ここで核分裂について、もう少し具体的に述べる。
核分裂性物質の原子核が中性子を吸収すると、一定の割合で核分裂を起こし、合わせて
複数の中性子を放出するとする。この中性子が別の核分裂性物質の原子核に吸収されれば
連鎖反応が起こる。
これをウランについて説明すると、天然ウランには、核分裂を簡単に起こすウラン 235
と起こさないウラン 234、ウラン 238 が含まれている。ウラン 235 に中性子を一つ吸収させ
ると、ウラン原子は大変不安定になり、二つの原子核と幾つかの高速中性子に分裂する。
代表的な核分裂反応としては下記のようなものがある。
(U はウラン、Y はイットリウム、I はヨウ素、nは中性子)
上式で元素記号の左肩に示した質量数は原子核の中に存在する陽子と中性子の和であり、
右辺(95+139+2 個の中性子=236)と左辺(235+1 個の中性子=236)は等しいことがわ
かる。しかし、実際の原子核の質量は一般に陽子と中性子の質量の総和よりも小さい。こ
の質量差を質量欠損と呼ぶ。質量欠損の実体は、アインシュタインの特殊相対性理論の帰
結である質量とエネルギーの等価性 E = mc2 で質量に換算される原子核内部の核子の結合
エネルギーに他ならない(アインシュタインはこの理論式を導いただけで、その後の核分
裂実験、原爆開発にはいっさい関わっていない)。
よって、分裂前と分裂後の質量の差は結合エネルギーの差であり、核分裂を起こすとこ
の質量の差に相当するエネルギーが外部に放出される。上記の過程の質量差をエネルギー
に換算すると、ウランの核分裂反応で放出されるエネルギーはウラン原子一つあたり約
200MeV となり、ジュール J に換算すると 3.2×10-11J となる。1 グラムのウラン 235 の中に
は、2.56×1021 個の原子核を含むので、1 グラムのウラン 235 が全て核分裂を起こすとおよ
そ 8.2×1010J のエネルギーが生まれることになる。このエネルギーは膨大であり、これを
一度に発生させると原爆になり、少しずつ制御して出させると原発になるのである。
このウラン 235 は、天然ウランに 0.72%、原子炉で使用するウラン燃料に 3%~5%、原子
爆弾に使用する高濃縮ウランには 90%以上がそれぞれ含まれている。逆に言うと、原爆をつ
くろうとすると、ウラン 235 が 90%以上の高濃縮ウランを作り出す必要がある。
《エンリコ・フェルミとの核分裂実験追試》
レオ・シラードは、1938 年のオットー・ハーンらによる中性子によるウラニウムの核分
裂実験の成功を伝え聞いて、ナチスが原子爆弾を先に完成させるのではないかという強い
危機感をますます抱くようになった(ドイツの科学者が核分裂実験の成功でノーベル賞を
受賞すればヒトラーの耳にも入ると考えるのは当然かもしれない)
。
308
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
シラードは、濃縮ウランを得るには高い機械技術力を必要とすること、当時のドイツの
物理科学・機械技術力がいかに高いものであるかを知っていた(当時はアメリカより高か
った。量子力学、原子物理学の誕生の歴史で述べたように、これにたずさわった科学者は
ほとんどがヨーロッパ人で、アメリカの物理学者はほとんどいなかった。この分野でアメ
リカのレベルが高くなったのは、1930 年代に世界中からの科学者の亡命者を受け入れてか
ら後のことであった)
。
彼はコロンビア大学のエンリコ・フェルミ(イタリアからの亡命者)を説得し、1939 年
にウラニウムの核分裂実験(追試)を行った。このエンリコ・フェルミもイタリアの天才
的な物理学者であったが、妻のラウラ・カポーネはユダヤ人であったため、ムッソリーニ
のファシスト政権下では迫害を受け、1938 年のノーベル賞授賞式出席のためストックホル
ムを訪れ、そのままアメリカに亡命し、コロンビア大学の物理学教授となっていた(ベー
タ崩壊理論・人工放射性同位元素の生成などの功績で、1938 年にノーベル物理学賞)
。
フェルミはこの追試で高速の 2 次中性子が放出され、核分裂の連鎖反応が起きることを
確認することとなった。 シラードはこの結果を秘密にしておくよう主張したが、コロンビ
ア大学で公的な地位を持たないシラードのそんな主張が通るわけはなく、フェルミや大学
の関係者に押し切られる形で結果は公表された(この 1939 年の時点で、オットー・ハーン
のグループ、レオ・シラードとエンリコ・フェルミのグループ、フランスのフレデリック・
ジョリオ=キューリーのグループの 3 グループはウランの中で中性子数が増倍する現象を
発見し、これによって連鎖反応が可能になることを示した)
。
《アインシュタインへの手紙》
考えること、なすことがすべて自分の心配していた方向に向かいシラードは、いよいよ
最悪のことを考えるようになった。1939 年のフェルミの実験でますます原爆の恐怖を確信
したシラードは、まずアメリカ政府へのコネのある科学者への接触を試みた。彼が接触し
たアレクサンダー・ザックス は、当時から抜群の知名度があったアインシュタイン(すで
に 1933 年にアメリカに亡命。プリンストン大学にいた)が手紙を書けば直接、ルーズベル
ト大統領へ手渡すことを約束した。前述したようにシラードはアインシュタインのもとで
研究していたこともあった親しい間柄だったので、シラードが 2 つの案を起草し、アイン
シュタインに頼み込んだ。
アインシュタインが選択し署名した手紙が 1939 年 8 月にホワイトハウスへ届けられた
(翌月、ナチス・ドイツはポーランドに侵攻した。ここでもシラードの感は当った)
。 こ
の手紙では、連鎖反応が近い将来実現されるであろうことと、それが強力な爆弾となり得
ることを指摘した上で、アメリカ政府の核エネルギーへの関心の喚起と当面の研究資金の
支援を訴え、さらに核エネルギーの研究がすでにドイツの政府レベルで行われていること
を示唆させる事実を指摘していた。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ルーズベルト大統領は、アインシュタインの手紙の意見を受けて、1939 年 10 月にはウラ
ン諮問委員会を発足させたが、この時点では、まだ、核兵器の実現可能性は未知数である
と聞き、大きな関心は示さなかった。
《原子炉とプルトニウムの開発》
このウラン諮問委員会の指導によって、陸軍から少額の研究資金が直接与えられること
が決定された。 これによって、1940 年、シラードとフェルミは黒鉛の中性子吸収に関する
実験を行った。 核分裂で放出された二次中性子が連鎖反応を引き起こすには、中性子の速
度を落とす適当な減速材が必要である。 実験結果は、黒鉛を減速材として用いた連鎖反応
が有望であることを示していた。
1940 年 6 月、ウラン諮問委員会はバーネバー・ブッシュの科学研究開発局のもとへ引き
継がれることとなり、4 万ドルの資金がコロンビア大学へ与えられた。 シラードはコロン
ビア大学から正式に雇用され、フェルミに協力して高純度の黒鉛やウランの調達に奔走し
た。 有効な連鎖反応の実現にはウランの同位体のひとつであるウラン 235 を分離するこ
とが必要であった。
もう一つの有効な連鎖反応の実現の方法としては、プルトニウムを利用する方法である。
プルトニウムは、ウランの研究から発見されることになった。まずウラン原子核(原子番
号 92)の核分裂の実験の際に、原子番号 93、94 の元素の存在が予言され、1940 年に原子
番号 93 のネプツニウムが発見された。次いで 1941 年 2 月に原子番号 94 のプルトニウムが
カリフォルニア大学バークレー校のグレン・シーボーグにより発見された(シーボーグは
超ウラン元素の合成および研究の功績により、1951 年度のノーベル化学賞をエドウィン・
マクミランとともに受賞した)
。
原子炉において、ウラン 238 が中性子を捕獲してウラン 239 となり、それがβ崩壊して
ネプツニウム 239 になり、更にそれがβ崩壊してプルトニウム 239 ができることがわかっ
た(原子炉内では他のプルトニウム同位体も多数できる)。ウラン 238 は天然に存在するの
でネプツニウム 239 とプルトニウム 239 は極微量ながら天然にも存在する。
天然ウランには質量数 238 と 235 の同位体があり、採掘されたウランにはウラン 238 が
約 99.3%、ウラン 235 が約 0.7%含まれている。したがって、核分裂反応を起こさせるには、
ⅰ)ウラン 238 を精製してウラン 235 にしてやるか、ⅱ)ウラン 238 をプルトニウム 239
に変換して、プルトニウムで核分裂反応を起こさせるかであることがわかった。このⅱ)
のプルトニウム原爆の第一の関門は、如何にしてプルトニウムを生産するかである。プル
トニウムはウラン 238 が中性子を吸収し、2 段階のベータ崩壊を起こしてプルトニウム 239
に変換されることにより生成される。この過程を効率よく行うことが課題であった。
《イギリスでの検討》
一方、イギリスでも、前述のマイトナーの甥でイギリスに亡命していたユダヤ系物理学
者のオットー・フリッシュらが、核分裂の研究をしていた。1941 年 7 月、オットー・フリ
ッシュ とルドルフ・パイエルスがウラン型原子爆弾の基本原理とこれに必要なウランの臨
310
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
界量の理論計算をレポート『フリッシュ&パイエルス覚書』にまとめ、核エネルギーの兵器
応用、原子爆弾の可能性を具体的に示した。
これによってイギリスの原子爆弾開発を検討する委員会である MAUD 委員会(偽装として
選ばれた名称であり、特に意味のないもの)が作られた。そこで初めて原子爆弾が実現可
能なものであり、航空爆撃機に搭載可能な大きさであることが明らかにされた。この時点
ではイギリスの検討がアメリカより進んでいたといえる。
チャーチル首相は、イギリス政府からアメリカ政府へ報告させた。このレポートの内容
を検討したルーズベルト大統領は、
(アインシュタインの手紙の影響もあったのであろう)
ここではじめて原子爆弾の重大性を知り、1941 年 10 月に原子爆弾の開発を決断した。
《シカゴ大学原子炉 CP-1 の臨界実験成功》
そのためには、まず、できるかできないか研究してみることが必要であるが、この分野
で先行しているシカゴ大学が選ばれた。1941 年 12 月の日本軍の真珠湾攻撃の直後、シカゴ
大学のアーサー・コンプトンは「冶金研究所」(隠蔽の為に無関係な名称が付けられた)に
てプルトニウムの研究を開始した。研究のため、コンプトンはエンリコ・フェルミ、レオ・
シラード、グレン・シーボーグなど核分裂の研究者をシカゴ大学に呼び集めた。
レオ・シラードとの核分裂実験の後、フェルミは、核分裂反応の研究に従事し、1942 年
5 月、
(マンハッタン計画の一環として)シカゴ大学キャンパス内のアメフト場 に世界最初
の原子炉「シカゴ・パイル 1 号(CP-1)
」を完成させ、プルトニウム増殖の技術開発が開
始された。1942 年 8 月には、シーボーグは計量可能量のプルトニウムの分離に成功した。
原子炉 CP-1 は、その年の 12 月には臨界実験に成功し、原子核分裂の連鎖反応の制御に史
上初めて成功した。
しかし、プルトニウム原爆の製造に必要量のプルトニウムを生産するためには、CP-1 は
スケールが小さすぎることがわかった。プルトニウム原爆の製造に必要なプルトニウムを
生産するためには巨大設備が必要であることが判明した。
ジェームズ・コナント(ハーバード大学総長及び国防開発委員会議長)は、ウラン原爆
とともにプルトニウム原爆の開発に着手するよう科学研究開発局局長のバーネバー・ブッ
シュに進言した。ブッシュ等は巨費を要する原爆の開発・製造を国家事業とするようにル
ーズベルト大統領に提言し、大統領はこれを承認した。
《マンハッタン計画》
1942 年 6 月、ルーズベルトはマンハッタン計画を秘密裏に開始させ、総括責任者にはレ
ズリー・グローブス准将を任命した。1942 年 9 月にグローブスを統括指揮官とする秘密国
家プロジェクト「マンハッタン工兵管区」(名称は偽装である)が開始された。通称マンハ
ッタン計画と呼ばれる原爆の開発・製造プロジェクトである。
計画に参加する科学者達のリーダーに選ばれたのは物理学者のロバート・オッペンハイ
マーであった。オッペンハイマーの提案で、1942 年 11 月にニューメキシコ州ロスアラモス
に研究所が置かれることが決定された(サイト Y、後のロスアラモス国立研究所) 。彼を研
311
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
究所長に、ニールス・ボーア、エンリコ・フェルミ、ジョン・フォン・ノイマン (爆縮レ
ンズの計算担当。後述)、オットー・フリッシュ、エミリオ・セグレ、ハンス・ベーテ、エ
ドワード・テラー、スタニスワフ・ウラムなど著名な科学者のほか、リチャード・ファイ
ンマンなど若手の研究者やハーバード大学やカリフォルニア大学など名門校の学生などが
集められた。
ロスアラモスの他にもシカゴ大学冶金研究所やカリフォルニア大学バークレー校など多
くの施設がマンハッタン計画に参加し、アーサー・コンプトン、レオ・シラード、アーネ
スト・ローレンス、ジョン・ホイーラー、グレン・シーボーグなどが協力した。
ウラニウムの分離施設と計画の司令部はテネシー州・オークリッジ (サイト X、後のオ
ークリッジ国立研究所) に置かれた。オークリッジに巨大なウラン濃縮工場が建造され、2
年後の 1944 年 6 月には高濃縮ウランの製造に目途がついた。
プルトニウムの抽出はワシントン州・リッチランド北西郊外 (サイト W、後のハンフォ
ード・サイトで現在もアメリカで最大級の核廃棄物問題の研究所) で行われた。アメリカ
以外ではカナダのモントリオール大学が計画に参加した。
レオ・シラードの杞憂と執念によって、ようやく開始されたマンハッタン計画であった
が、もはやシラードの手を離れていった。アインシュタインはマンハッタン計画にはまっ
たく関与しておらず、また、政府からその政治姿勢を警戒されて実際に計画がスタートし
た事実さえ知らされていなかった。
マンハッタン計画の開発は秘密主義で行われ、情報の隔離が徹底された。別のセクショ
ンの研究内容を全く伝えず、個々の科学者に与える情報は個別の担当分野のみに限定させ、
全体を知るのは上層部のみというグローブスの方針には自由な研究を尊ぶ科学者からの反
発も強かった。
《原爆の二つのタイプ》
原子爆弾は原子核分裂の連鎖反応を制御することなく暴走させ、生じるエネルギーを一
気に開放するものである(のちの原発とはまるで逆の研究であった)。実用化されている
原子爆弾は、臨界量以下の核分裂物質を、火薬の爆発力を用いて臨界量を超過させること
で起爆される。いわゆ広島型原子爆弾の起爆方法は砲身型(ガンバレルタイプ)と称し、
タンパーと呼ばれる鋼鉄製のパイプの一端にウラン 235 の塊を置き、もう一方の端に置い
たウラン 235 の塊を火薬の力で吹き飛ばし、互いにぶつけて一塊として臨界量を超過させ
ることで起爆させるというものであった(図 73(図 15-84)参照)。
しかし、ウラン 235 の生産は当時の技術では非常に困難であることが明らかになった。
それに対し、プルトニウムは専用に作られた原子炉の副産物として得られるために生産は
比較的容易だった。
1942 年になると、プルトニウム爆弾については、球形のプルトニウム・コアを通常爆薬
によって圧縮し、プルトニウムの密度を上げて臨界に到達させるという爆縮(インプロー
ジョン)のアイデアが生まれた(図 73(図 15-84)参照)。
312
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この爆縮型原爆(長崎型原子爆弾になった)の起爆方法は、空洞を持つ球状、またはス
ポンジ状のプルトニウム 239 塊の周囲に配置された球状の爆薬から発生した球状の圧縮波
がプルトニウム塊を押しつぶし、内部の圧力を一気に上昇させて臨界量を超過させること
で起爆させるというものである。
図 73(図 15-84) 原爆の 2 タイプ
以上のように、原子爆弾の構造は、大きく分けて、ガンバレル方式(広島に投下された
原子爆弾リトルボーイに代表される方式)と爆縮(インプロージョン)方式(長崎に投下
されたファットマンに代表される方式)の 2 種類に分類された。ガンバレル方式は構造が
単純であるが、プルトニウムを使用できず、濃度 90%以上の高濃縮ウランを用いるしかない
上に、小型化が難しく核分裂の効率も低いため、使用された唯一の例は広島のリトルボー
イにおいてのみであり、人類初の原子爆弾であるガゼット (これは後に実験に使われた)
と、長崎のファットマン以降、世界の核兵器の多くが爆縮(インプロージョン)方式とな
っている。
そこで問題は、プルトニウムの球体を全ての面から正確に等しい圧力で均等に圧縮する
ような仕掛けを作り出すことに移った。圧縮力に少しでも誤差があると、大事なプルトニ
ウムが爆弾の外に放り出されてしまい、大規模な爆発を起こさず不発に終わってしまう。
当時存在した技術で完璧な圧縮を実現するためにこの「爆縮レンズ」を作り出すのは困
難を伴ったため、マンハッタン計画の軍の最高責任者であったグローブスと科学部門の責
任者であったオッペンハイマーは、この爆弾を実戦で十分な信頼性を持って使用するため
には、この起爆機構の実験を行なう必要があると考えた。
《原爆実験と原爆投下準備》
1944 年 9 月 18 日、ルーズベルト大統領とチャーチル首相は、ニューヨーク州ハイドパー
クで首脳会談をした。内容は核に関する秘密協定(ハイドパーク協定)であり、日本への
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
原子爆弾投下の意志が示され、核開発に関する米英の協力と将来の核管理についての合意
がなされた(ということは原爆投下がドイツから日本へ切り換えられたということになる)
。
前後して、ルーズベルトは原子爆弾投下の実行部隊(第 509 混成部隊)の編成を指示し
た。混成部隊とは陸海軍から集めて編成されたための名前であった。1944 年 9 月 1 日に隊
長に任命されたポール・ティベッツ陸軍中佐は、12 月に編成を完了し(B-29 計 14 機及び
部隊総員 1,767 人)
、ユタ州のウェンドバー基地で原子爆弾投下の秘密訓練を開始した。
この第 509 混成部隊は第 20 空軍内に設立され、戦争終結後の 1952 年に解散した。第 509
混成部隊の設立目的は、当時の敵国の日本への原子爆弾投下作戦の遂行であった。ただし、
この目的は作戦を実行する兵士には作戦当日まで伏せられたままであった。1944 年 12 月よ
り、部隊はアメリカ・ユタ州の砂漠基地にて軍事訓練を開始し、1945 年 5 月に作戦基地の
テニアン島(図 72(図 15-76。P296)参照)に移動した。テニアン島から日本へ飛行し
ての原爆投下の演習を、模擬原爆(パンプキン爆弾)をもちいて、繰り返し実行した(現
実に日本に多くの模擬原爆を落としていた)
。
この第 509 混成部隊は一貫してターゲットをドイツではなく日本にしていたところをみ
ると、ルーズベルト大統領の段階で原爆投下はドイツではなく、日本に切り換えられてい
たことになる。ということは、ナチス・ドイツが原爆を開発するかもしれないから、それ
に対処するためにマンハッタン計画を進めるという目的そのものが変わったということで
ある。日本が原爆を開発する恐れはないことは最初からわかっていたが、その日本に原爆
投下の目標を変更した事情についてはわかっていない。
(2015 年 11 月 NHK スペシャル『盗まれた最高機密―原爆・スパイ戦の真実』から。第 2 次
世界大戦中のドイツの原爆開発の状況は、ドイツの戦争のところで記しように、ハイゼン
ベルグの煮え切らない態度により、ドイツの原爆開発の可能性はなくなっていた。
しかし、もちろん、その状況をアメリカは知らなかったので、ノルマンジー上陸作戦が
成功するとアメリカはロバート・ファーマン少佐のアルソス諜報部隊を送り込み、ドイツ
の核開発の状況を調査させた。1944 年 11 月、ストラスブール大学でドイツの核開発は初歩
的な段階で止まっているという確かな証拠をつかんだ。
ファーマン「ドイツは核開発でははるかに遅れをとっていました」と報告したら、グロー
ブスは「それがどうした。原爆開発に変わりはない」と答えたという。その脳裡には戦争が
終わったのちの世界のことがあった。アメリカが原爆を独占することで世界の覇権を手に
することができると考えていた。グローブスは、今度はソ連が核兵器を持つことを心配し
ていた。アメリカとソ連の戦後の覇権をかけた攻防がはじまった。まず、グローブスはソ
連にウラン鉱石が手に入らないように、世界中のウラン鉱石企業に手をまわした。また、
ソ連がハイゼンベルグなどのドイツの核科学者を拉致しないように、グローブスはアルソ
ス部隊に先手を打ってドイツ核科学者を拉致させた。1945 年 5 月 3 日に南ドイツでハイゼ
ンベルグもアメリカ軍によって拉致され、イギリスに連れてこられ監禁された。
314
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
以上のようなことから推察されることは、アメリカは戦後のソ連との覇権争いに核を独
占していること、それを実戦で使って実績を示しておくために、マンハッタン計画を中止
するのではなく、どうなるかわからないが、とりあえず、日本を対象にして計画を継続し
たということだったかもしれない)
。
《原爆投下阻止の試み》
アインシュタインと同じように世界的に著名なデンマークの理論物理学者ニールス・ボ
ーアは、1939 年 4 月、核分裂の理論をアメリカ物理学会で発表したが、1939 年 9 月 1 日第
2 次世界大戦が勃発し、ナチスのヨーロッパ支配拡大とユダヤ人迫害を見て、ボーアは 1943
年 12 月にイギリスへ逃れた。そこで彼は米英による原子力研究が平和利用ではなく、原子
爆弾として開発が進められていることを知った。原子爆弾による世界の不安定化を怖れた
ボーアは、これ以後ソ連も含めた原子力国際管理協定の必要性を米英の指導者に訴えるこ
とに尽力した。
1944 年 5 月 16 日にボーアはチャーチル首相と会談したが説得に失敗、同年 8 月 26 日に
はルーズベルト大統領とも会談したが同様に失敗した。逆に同年 9 月 18 日の米英のハイド
パーク協定(前述)では、ボーアの活動監視とソ連との接触阻止が盛り込まれてしまった。
ボーアは翌 1945 年 4 月 25 日にも科学行政官バーネバー・ブッシュと会談し説得を試みた
が、ルーズベルトに彼の声が届くことはなかった(ルーズベルトはすでに亡くなっていた)。
また別の科学者の動きとしては、1944 年 7 月にシカゴ大学冶金研究所のアーサー・コン
プトンが発足させたジェフリーズ委員会が原子力計画の将来について検討を行い、1944 年
11 月 18 日に「ニュークレオニクス要綱」をまとめ、原子力は平和利用のための開発に注力
すべきで、原子爆弾として都市破壊を行うことを目的とすべきではないと提言した。しか
しこの提言も生かされることはなかった。
一方、原爆開発のきっかけをつくったシラードは、マンハッタン計画においても大きな
役割を果たしていたが、原爆の完成が近づき、ドイツ敗北の目途がたってくるにつれて、
彼の先見の明は大きな懸念に変わっていった。
連合軍のストラスブール占領によって、ナチスの原爆開発の脅威がないことが明らかと
なり、一方、東京大空襲など日本に対する大規模な爆撃が始まると、日本に対しての原爆
使用を懸念したシラードはアインシュタインを通じて再びルーズベルト大統領に接触しよ
うとしたが、この望みが果たされるより先の 4 月 12 日に、ルーズベルトの急死のニュース
が告げられた。
原爆のすべてを知っていたルーズベルト大統領が亡くなったことは、その後の原爆使用
の意志決定に大きな影響を与えることになったと考えられる(ただ、前述のように、ルー
ズベルト大統領はすでに半年も前から日本投下のための準備命令を出していたので、日本
への原爆投下の意志はすでに持っていたことになる。トルーマンは副大統領であったが、
大統領になるまでマンハッタン計画については全く知らされていなかった)
。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
シラードは、トルーマン新大統領への接触工作をはじめからやり直し、ドイツ降伏後の
1945 年 5 月 28 日、国務長官ジェームズ・バーンズ との会談にこぎつけた。ここでシラー
ドは、現在の状況ではなく数年後に予測される状況に基づいて原爆に関する決定を行うべ
きであるとした上で、核時代におけるそうした将来予測は科学者こそが正確に評価できる
ものであり、爆弾に関する政治的決定に科学者の意見を尊重することを訴えた。
そして、実際、原爆を日本に対して使用し原爆の存在が明らかになれば、数年でソ連も
原爆を開発し両国を破滅させかねない核開発競争に突入するだろうと主張した。 バーンズ
はソ連が短期で核兵器を開発するとは思えず(この辺が科学にうとい政治家と専門家の科
学者で一般に見通しが異なるところである)
、むしろ原爆の使用がアメリカの優位を誇示し
ソ連を扱いやすくすると考えていたため、このシラードの主張を受け入れることはなかっ
た。
1945 年 6 月 11 日には、シカゴ大学のジェイムス・フランクが、マンハッタン計画の一端
を担ったシカゴ大学の冶金研究所のグレン・シーボーグ、レオ・シラード、ドナルド・ヒ
ューズ、J・C・スターンス、ユージン・ラビノウィッチ、J・J・ニクソンたち 7 人の科学
者と連名で以下のような報告書「フランクレポート」を大統領諮問委員会である暫定委員
会に提出した。
核爆弾は,この国が独占権を持つ「秘密兵器」としては、おそらく数年以上にわたって
は存在できないであろう。その構造の基礎となる科学的事実は他国の科学者にもよく知ら
れている。核爆発物の有効な国際管理制度が確立しなければ(事前に国際管理制度を作っ
ておかなければ)、我々が核兵器を持っていることが世界に知られるや否や、核軍拡競争が
確実に起こるだろう。他の諸国は 10 年以内に核兵器を所有するであろうし、1 トンよりも
軽いその兵器の一つ一つが 5 平方マイル以上の市街地を破壊できるであろう。そのような
軍拡競争がもたらすであろう戦争においては、人口と工業が比較的少数の大都市圏に集中
している合衆国は、それらが広範に分布している国(つまり、ソ連)に比べて不利であろ
う。
我々は,このような理由から,早期に無警告で日本に対して核爆弾を使用することは勧
められないと考える。もし アメリカ合衆国がこの無差別破壊の手段を人類に対して最初に
使用するならば,合衆国は,世界中で大衆の支持を犠牲にし,軍拡競争を加速させ、この
ような兵器を将来においてコントロールするための国際的合意に到達する可能性を傷つけ
るであろう。
したがって、一方的に秘密裡に実験するとか日本に使用するのではなく、それに代わっ
て、砂漠か無人島でその威力を各国にデモンストレーションすることにより戦争終結の目
的が果たせる、まず、核兵器の国際的な管理体制を作り上げることが肝要であるという報
告書をまとめた。
この報告は、陸軍長官のヘンリー・スティムソンが設置した原爆使用について大統領に
諮問する専門委員会の科学顧問会に提出されたが提議は拒絶された。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
さらに シラードは、1945 年 7 月 17 日にも倫理的観点から日本への原爆使用に反対する
大統領への請願書を独自に起草し、冶金研究所の科学者に回覧して 70 人の署名を集めた。
しかしこの請願書は大統領がポツダム会談で海外にいることなどを口実にグローブスに差
し止められ、8 月 6 日前にトルーマン大統領に届くことはなかった。
《鍵を握るトルーマン大統領》
結局、原爆投下の最終判断はアメリカの最終意志決定者であるトルーマン大統領の頭脳
にかかっていた。
前述したように、ルーズベルト大統領の急死で、4 月 12 日から副大統領だったトルーマ
ンが大統領に就任した。大統領就任後、トルーマンは外交政策に没頭した。トルーマンは
大統領になった 4 月の時点で原子爆弾の完成予定を知った。また、2 月のヤルタ会談の内容
も詳しく知った。このヤルタ会談でルーズベルト大統領とスターリン首相の間で、ドイツ
降伏後 3 ヶ月以内にソ連が対日参戦することが約束されていたが、このときは、むしろル
ーズベルトが千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄、ソ連
の対日参戦を積極的に促していた。
トルーマンは大統領になったとき、当時、これはソ連に譲歩しすぎだと、ルーズベルト
に対する批判があることも知っていた。ヨーロッパ戦線で東西から連合軍とソ連軍がドイ
ツを攻め上る過程で、とかく軋轢があり、チャーチルはスターリンに厳しく当っていたが、
ルーズベルトはとかくスターリンに甘かった(もう、ヤルタ会談のとき、体調がすぐれな
かったともいわれている)
。なぜ、ルーズベルトが積極的にソ連参戦を進めるのか、まわり
のものには疑問に思うこともあった(ルーズベルトは 1 人でもアメリカ兵の犠牲を少なく
したいということはあったであろうが。死期を予感し、自分の目の色が黒いうちに勝利を
確実にしたかったかもしれない)
。
まわりのものは、日本降伏は時間の問題であろうが、ソ連が参戦し日本占領の一端を担
うことになると、ヨーロッパのポーランド、東欧問題と同じようにめんどうなことになる
のは確かだと思っていた。そして戦後、ソ連の力はますます強くなるだろうから、できれ
ばソ連が参戦するまえに日本が降伏してくれれば、万事、うまくいくという考えはあった。
ドイツが降伏したのが 5 月 9 日であるから、その 3 ヶ月後といえば 8 月 9 日である。それ
までに日本が降伏してくれればありがたいという気持ちは誰しもあったであろう。
しかし、急逝したルーズベルトのあとを継いだトルーマンは大統領としての経験が浅く、
また、アメリカにとっても世界にとっても歴史的にもきわめて重要な時期であるから、ト
ルーマンは、ルーズベルトを支えてきたものの意見もよく聞いてからという考えを持って
いたようである。そのなかで 2 人の考えがトルーマンに大きな影響を与えたようである。
国務長官バーンズは、ドイツ降伏後の欧州情勢は激変しており、実質、ナチス・ドイツ
を倒したソ連の台頭は間違いなく、欧州でのソ連台頭を抑える切り札として、原子爆弾の
実戦使用は不可欠であると考えていた。トルーマン大統領は、原子爆弾をまだ単なる兵器
のひとつとしてしか認識していなかったようであるが、バーンズはこれを使わない手はな
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
いと進言したようである。また原爆開発が国民と議会に対して秘密裏に行われていたため
に、20 億ドルにも達する原爆の開発の発覚が政治的な苦境を招くことも危惧した。
陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソンは、1929 年から 1933 年まで、フーヴァー大統
領の下で国務長官となり、日本の満州占領に対して「スティムソン・ドクトリン」を公表
し、日本の満州への軍事行動を強く非難していた。すなわちケロッグ・ブリアン条約(パ
リ不戦条約)に違反するいかなる行動をも認めないとともに、中華民国への軍事行動によ
って生じた条約や中国大陸における勢力圏の変化を承認することを拒否するものであった。
ともかく、長い日本とのつきあいで、日本はひどい国だという経験をいやというほど積ん
できていた。
そのような対日強硬派のスティムソンをルーズベルト大統領は陸軍長官に復帰させた。
彼は、1,000 万人以上の兵力にまでなるアメリカ陸軍の急速で膨大な拡大を巧みに指揮する
と同時に、原子爆弾に関して、マンハッタン計画の長レズリー・グローブス准将を監督す
る主要な意志決定者だった。ルーズベルト大統領も、今まで原子爆弾のあらゆる局面で彼
の助言に従ってきた。
戦後、スティムソンは、原爆投下に対する批判を抑えるために、
「原爆投下によって、戦
争を早く終わらせ、100 万人のアメリカ兵の生命が救われた」と表明(1947 年 2 月)した
(確かにアメリカ軍は終戦までのアメリカ兵の戦死者数を試算していたが 100 万という数
字はその試算の数字の数倍であり、根拠はない。25 万という数字はあった)
。 これがアメ
リカの原爆使用正当化の定説となった。
沖縄戦が終わって 1945 年 7 月になると日本の敗色は一段と濃くなった。戦争に勝てない
と判断した日本政府は、7月 12 日、ソ連にいる日本大使宛に、ソ連に和平の仲介を頼むよ
う打電した。その暗号電報は即座に解読され、トルーマンに知らされた。つまり、トルー
マンは、日本政府が和平の動きに出たことも知っていた。近くポツダムで合う予定にして
いるスターリンが日本の要請(和平の仲介)を受けるはずがないことも知っていた。
この当時、原爆のことを知っているのは、ごく小範囲のアメリカ政府関係者と軍人であ
ったが、日本への原爆使用には反対のものが多かったようである。軍人では、アイゼンハ
ワー将軍が、対日戦に、もはや原子爆弾の使用は不要であることを 1945 年 7 月 20 日にト
ルーマン大統領に進言しており、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ提督
も、都市への投下には消極的でロタ島(北マリアナ諸島の小さな島)への爆撃を示唆して
いた。また政府側近でも、ラルフ・バードのように原子爆弾を使用するとしても、事前警
告無しに投下することには反対する者もいた。
日本の敗戦が決定的となり、アメリカ国務省内では、戦後日本との関係に悪影響、特に
経済的関係に悪影響を及ぼすことになるとして、国務次官以下の多くは日本への原子爆弾
使用に反対、軍トップも巻き込み戦争を早期終結させるための具体的な取り組みがなされ
た。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカは既にこの時点で、日本国民の大多数が、本心では日米戦争を望んでいないこ
とを詳細に把握しており、戦後直ちに日本を取り込み、自由主義経済国家としてソ連(共
産主義)の南下を防ぐことが考えられていた。そのため、わざわざ日本国民に反米感情を
招き、それが永く続くことになる、最悪はアメリカの意図に反し日本の共産化につながる
恐れのある原子爆弾の使用について、反対の声があがった。そして、最初のポツダム宣言
草稿には、日本側がポツダム宣言を受諾しやすいように(日本は天皇制がどうなるかが最
も重要課題であると考えられたので)、降伏条件に天皇制護持が盛り込まれていた。
1945 年 7 月後半、トルーマン大統領をはじめアメリカの戦争遂行首脳は、すべてドイツ
のポツダム会談に発ってしまった。原爆投下の最終決定はドイツのポツダムに移った。
《ポツダム入りしたトルーマン大統領―原爆投下の思案》
ポツダム入りした米陸海空軍参謀本部は、ポツダム首脳会談の前に合同会議を持ち、
「ソ
連が参戦する予定であることと、天皇制存続を認めれば、日本の降伏は今日にでもありう
る。日本はすでに壊滅状態で、原爆を使う必要はなく、警告すれば十分。」との結論を出
した。
しかし、トルーマンはそれを聞き流しただけだった。トルーマンは、7 月 17 日にソ連の
スターリンと事前打ち合わせをした際、かねてより頼んでいた通り、ソ連が 8 月 15 日に対
日参戦することを確認し(このときは 8 月 15 日が参戦予定日だった)、スターリンに感謝
を述べた。その日トルーマンが妻に書いた手紙にも、「これで戦争が早く終わる」と安堵
の気持ちを述べていた。
《世界初の核実験》
前述のようにプルトニウムの爆縮型原爆は複雑な動作を要するため、実戦での使用の前
に実験を行なう必要があると考えられた。そこで 1945 年 7 月 16 日にニューメキシコ州ソ
コロの南東 48 キロメートルの地点で人類最初の核実験が行われた。この実験をロスアラモ
ス研究所長のロバート・オッペンハイマーがトリニティ (キリスト教における三位一体説)
と名付けたが、その由来は不明である。
トリニティ実験は爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、高さ 20 メートルの鋼鉄製
の爆発実験塔にガゼットは設置された。最上級の研究者や軍人たちのほとんどは実験塔か
ら 16 キロメートル南西に設けられたベースキャンプから実験を見守った。その他の多くの
見物人は約 32 キロメートル離れた位置にいた。
現地時間(アメリカ山岳部戦時標準時)の 7 月 16 日 5 時 29 分 45 秒に爆弾は爆発し、TNT
換算で約 19 キロトンのエネルギーを放出した。この核実験を以って「核の時代」の幕開け
となった。この爆発で砂漠の爆心地には放射能を帯びたガラス質の石からなる深さ 3 メー
トル、直径 330 メートルのクレータが残された。爆発の瞬間、実験場を取り囲む山々は 1
秒から 2 秒の間、昼間よりも明るく照らされ、爆発の熱はベースキャンプの位置でもオー
ブンと同じくらいの温度に感じられた、と報告されている。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
観察された爆発の光の色は紫から緑、そして最後には白色へと変わった。衝撃波による
大音響が観察者のもとに届くまでには 40 秒かかった。爆発の衝撃波は 160 キロメートル離
れた地点でも感じることができ、キノコ雲は高度 12 キロメートルに達した。放射能を含ん
だ雲は高レベルの放射線を放射しながら北東へ約 160 キロメートル移動した。
原爆実験の結果は、ただちにドイツのポツダム会談に臨んでいるトルーマン大統領に知
らされた。この情報を考慮して、原爆投下の最終決定はポツダムで決定されることになっ
た。
《ポツダムでの原爆投下決定》
ポツダム会談は、ナチス・ドイツ降伏後の 1945 年 7 月 17 日~8 月 2 日、ベルリン郊外の
ポツダムに、アメリカ(トルーマン)、イギリス(チャーチル)、ソ連(スターリン)の 3
ヶ国の首脳が集まり、第 2 次世界大戦の戦後処理と日本の終戦について話しあった会談で
あった。会談の途中、イギリスの総選挙があり、保守党が選挙に敗れて労働党内閣となっ
たため、チャーチルはアトリー新首相と交代した。
ポツダム会談のためにトルーマン大統領に随行してきていたスティムソン陸軍長官のも
とに、7 月 16 日のトリニティ原爆実験の成功を知らせる知らせが入った。彼は早速大統領
に報告した。
トルーマン大統領はポツダムに来ているバーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、マ
ーシャル(参謀総長)やハップ・アーノルド(アメリカ陸軍航空司令官)を含む統合参謀
たちと協議した。
アーノルドはずっと、通常の戦略爆撃だけで日本を降伏させられると言い続けていた。
彼は空襲が専門のルメイに見積もらせて 10 月 1 日までに日本の戦争機構をすっかり破壊で
きると計算していた(現実、5 月から 8 月の間にルメイは日本の 58 都市を片づけた)
。
しかし、マーシャルは空軍の査定に同意しなかった。彼が 6 月にトルーマンに語ったと
ころでは、太平洋の状況は、ちょうどノルマンジー後のヨーロッパの状況と「実質的に同
じ」だった。マーシャルは、「空軍力のみでは日本に戦争をやめさせるには十分ではない。
それのみではドイツに戦争をやめさせることはできなかった」とポツダムでの彼の論拠を
戦後、次のように述べている。
「我々は沖縄で苦しい経験をしたばかりだった。82 日間にわたる戦闘でアメリカ軍は 1
万 2500 人以上の死者および行方不明者を出し、日本側は 10 万人以上の死者を出した。こ
れに先立ち、オーストラリアの北の太平洋諸島で同様なことが数多く起きていた。いずれ
の場合も日本人は決して降伏せず、死ぬまで戦うことを示していた・・・日本本土におけ
る抵抗はさらに激しいものになると予想された。我々は一夜の〔通常〕爆撃で 10 万人の市
民を東京で殺したのに(1945 年 3 月 10 日)、なんの影響もないかに思われた。日本の都市
を次々に破壊したが、彼らの士気は、我々の見る限り、まったく衰えていなかった。した
がって、できればショックを与えてやることが本当に必要と思われた・・・。我々は戦争
を終わらせなければならなかったし、アメリカ人の生命を救わなければならなかった。」と。
320
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この原爆の日本への使用については、(前述したように)後に共和党大統領となるアイ
ゼンハワーなどが猛反対しており、共和党支持者のアメリカ陸海軍の将軍たち(マッカー
サーも含む)は全員が反対意見を具申していた。
アイゼンハワーは、スティムソンが意見を求めてきたので、
「二つの点で反対だと言った。
まず、第一に、日本は降伏するばかりになっており、そんな恐ろしいもので彼らをやっつ
ける必要はないということ、第二に、わが国がそのような兵器を使う最初の国になるのを
見たくないといったら、彼(スティムソン)は怒った。私には彼の立場も分かる。結局の
ところ、巨額な費用をかけてその爆弾の開発を推進したのは彼の責任だったし、彼にはも
ちろんそうする権利があったし、そうするのは正しいことだった。」(1963 年の回想録)と
言った。
トルーマンは、7 月 21 日に原爆実験成功の詳しい報告を受け取り、その威力のすさまじ
さを知ると態度を一変した。ポツダム会談の場でも、東欧問題などでソ連に対し断固とし
た態度を示すようになった。
彼はトリニティの成功を聞くや、自分の日記に「ロシア参入のまえにジャップズは潰れ
るものと確信する。マンハッタンがやつらの本土の上に出現するとき、そうなるはずだ」
と記していた。トルーマン大統領は、こう考えるようになったようである。原爆の威力の
すさまじさを聞き、原爆を使うことによって日本を単独で早期に屈服させることが可能に
なった、つまり、ソ連が参戦すると思われる 8 月 15 日以前に日本を降伏させることができ
る、これができればやっかいなソ連との日本分割占領や、多大の損害が予想されるダウン
フォール作戦(日本上陸作戦)も中止できると。
ポツダム宣言をいつ発表するかは、いまや、本質的には、最初の原子爆弾がいつ落とせ
るかという問題となった。スティムソンに 7 月 23 日に「8 月 1 日以降いつでも可能になろ
う」と回答がきた。これをスティムソンは 7 月 24 日の朝、トルーマンに報告した。大統領
は満足して、ポツダム宣言を発表する好機をみはかるのにそれを使おうと言った。
陸軍長官は、その瞬間を利用して、トルーマンに、日本人がどうしても天皇の温存を降
伏の条件にしたいというのなら、ひそかにそれを保証してやることを考慮してはどうかと
訴えてみた。大統領は熟慮して、何も断定的なことは言わなかったが、そのことも心にと
どめて事を進めようと言った(多分、トルーマンはいろいろ考えた。それを入れると日本
はポツダム宣言をすぐ受諾するかもしれない、そうすれば原爆を使うこともなくなる。も
ちろん、ソ連参戦もなくなる。しかし、それでいいのかと)
。
スティムソンは立ち去り、バーンズがトルーマンとの(7 月 24 日の)昼食に加わった。
彼らは、どうやってスターリンに原子爆弾のことを最小限におさえて話をしたものか協議
した。バーンズも 1 週間ロシア人と付き合ってみて、ソ連を(太平洋)戦争に参入させた
ら後悔することになろうという結論に達し、スターリンが新兵器の威力を十分に理解すれ
ば、即刻ソ連軍に日本突進を命じるのではないかと述べた。
321
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
その日(7 月 24 日)の会議が終わったときに、トルーマンは通訳を後に残して、会議テ
ーブルを回って、ソ連首相のそばに近寄った。トルーマンは「私はスターリンに、我々は
並々ならぬ破壊力の新兵器を手にしていると、さりげなく言ってやった。ロシアの首相は
なんら特別な興味を示さなかった。彼はそれを聞いて『うれしい、日本に対してそれを上
手に使うことを望む』と言うだけだった」と後で語っている。
スターリンは原爆のことは、諜報員からの情報で、すべて知っていた。それどころか、
スターリンはすでに 1943 年に原爆開発指令を出していたのである。したがって、スターリ
ンは(トルーマンより以前から、しかもその本質を知っていたのである)
、原爆の威力はよ
く知っていて、トルーマンにこいに無関心な表情をよそおったのであろう。そして多分、
その日のうちにも対日参戦の日時を一刻でも早めろとモスクワへ指令を出したであろう。
その日(7 月 24 日)の午後ワシントンではグローブス(マンハッタン計画の責任者)が
原子爆弾使用の歴史的な令達を立案してポツダムに送ってきた(官僚組織は着々と既定方
針通り、原爆投下の事務手続きを進めてきたのである)
。マーシャルとスティムソンは、そ
の令達をポツダムで承認し、公式な記録はないが、おそらくトルーマンにも見せたものと
思われる。トルーマンはノーとはいわなかったのだろう(この段階でノーと言えるのは、
もはや大統領だけだった)
。
翌朝(7 月 25 日)
、それは太平洋戦略空軍の司令官に送られた。ついに原爆投下の手続き
はすべて取られた。このように、ポツダム宣言発表の 1 日前の 7 月 25 日に、日本の返事を
待つどころか降伏勧告を出す前に原爆投下命令の手続きは進められていた(もちろん、日
本降伏の意思が投下前に示されれば、トルーマンの中止命令はいつでも出せただろう)。
ポツダム宣言をすぐ日本が受諾すれば、もちろん、トルーマンは、まだ、間に合えば原
爆投下中止命令を出すつもりでいただろう(これによって彼には原爆投下の責任は日本し
だいだと思っていたかもしれない)。しかし、トルーマンは前述したようないきさつから、
その可能性は薄いと考えていたようである(ポツダム宣言に「国体護持」の文言は入れない
と決めていたから、日本軍部が宣言だけで降伏する可能性は薄いと考えていた)。その場
合は、トルーマンは、原爆の爆発力でソ連参戦の前に日本は降伏するだろう、これで万事
よしと思ったようである。
《トルーマンは原爆の本質を知らなかった》
トルーマンは私的な日記の中で、原爆について記している。
「我々は世界史上で最も恐ろ
しい爆弾を発明した。我々は、原子の分裂を起こす方法を見つけた。ニューメキシコの砂
漠での実験は、話半分としても驚嘆に値する・・・。この兵器は日本に対して今から 8 月
10 日までの間に使われるはずだ(トルーマンは、ソ連参戦は 8 月 15 日だと思っていた)。
私は陸軍長官のスティムソン氏に、軍事施設と兵士と水兵が目標だが、女子供が目標にな
ることのないようにと言った。たとえジャップズが野蛮で無礼で無慈悲で狂信的であろう
とも、我々は世界のリーダーとして、共通の幸福のために、この恐ろしい爆弾を古都や今
の首都に落とすことはできない。彼(スティムソン)と私は一致している。目標は純粋に
322
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
軍事的なものとし、ジャップズには命を大切にして降伏するよう警告文を出そう。彼らは
降伏しないだろうが、チャンスは与えたことになろう。この原子爆弾をヒトラーやスター
リンの仲間が発明しなかったのは、世界にとってよいことだったのは確かだ。それは、こ
れまでに発明されたもののなかで最も恐ろしいもののようだが、最も有益なものにするこ
ともできる。
」と。
つまり、この日記をみると、やっぱり、トルーマンはまったく原爆というものがわかっ
ていなかったのだ。
『彼(スティムソン)と私は一致している』『私は陸軍長官のスティム
ソン氏に、軍事施設と兵士と水兵が目標だが、女子供が目標になることのないようにと言
った。
』とも記している。ということは、スティムソンもわかっていなかったかもしれない。
大統領がそういったとき、彼(スティムソン)が「大統領、それは無理ですよ。原爆とい
うのは・・・」といえば、トルーマンの無知があばかれるが、人類は救われたかもしれな
い。彼(スティムソン)は知ってか知らないでか、何もいわなかったのであろう、だから
トルーマンは『彼(スティムソン)と私は一致している』と記したのだろう。
結局、彼らは(トルーマン、スティムソン)は、原爆を大規模な爆弾としか認識してい
なかっただろう(少なくともその当時は。戦後になってその重大性を知ったとしても)
。原
子核の核分裂によって起こる原理的に従来のものと異なるとてつもない大規模な爆弾とい
うことはなんども聞いていただろうが、それがいったい何を意味するのか、ほんとうに理
解していたとは思われない(それは開発にたずさわった一部の科学者、あるいはトリニテ
ィ実験を目撃した者にしかわかっていなかったかもしれない)。それがわかっていたなら
『軍事施設と兵士と水兵が目標だが、女子供が目標になることのないようにと言った』な
どとは書くはずがない。
《ポツダム宣言》
1945 年 7 月 26 日には、全日本軍の無条件降伏と、戦後処理に関するポツダム宣言が発表
された。バーンズはポツダム宣言草稿から天皇制護持の条項を削除して、トルーマン大統
領の了解をとったようで、その宣言文は最終的に、天皇制護持については何もふれていな
かった(ということは、結局、日本が拒否することを想定して出したということである。
つまり、日本に少なくとも 2 回は原爆を落とすことを想定していたことになる)
。
この宣言は、ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国およびイギ
リスの首脳(ソ連はまだ、対日参戦していない)が、1945 年 7 月 26 日に大日本帝国に対し
て発した第 2 次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)の終結に関する 13 条から成る勧告の
宣言であった。
宣言は、冒頭第 1 条にて、日本国に対し戦争を終結する機会を与えるとし、末尾第 13 条
に於いて、これ(無条件降伏)以外の選択は、迅速且つ完全なる壊滅あるのみと宣言して
いた。
その中で、日本を世界征服へと導いた勢力の除去(軍国主義の一掃)
、日本国領域内諸地
点の占領、日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に
323
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
限られなければならないこと(日本本土以外の領土の放棄)
、日本人を民族として奴隷化し
また日本国民を滅亡させようとするものではないこと、一切の戦争犯罪人の処罰、民主主
義的傾向の復活・強化、言論、宗教及び思想の自由並びに基本的人権の尊重は確立される
こと(民主化、非軍事化、戦犯の処罰)
、日本国国民の自由に表明せる意志による平和的傾
向の責任ある政府の樹立、全日本軍の無条件降伏(第 13 条)、以上の目的が達成されるま
での連合国の日本占領などが明記されていた。
《広島、長崎への原爆投下》
ポツダム宣言に対する日本国政府の対応は、戦争終結の手段として検討する一方で、無
条件降伏とされ、いわゆる国体護持(天皇制の維持)について言及されていなかったこと
から、宣言の受諾をするにしても、その点に関する確保を求める意見を中心に、政府の内
部で激しい議論が起こった。
また、当時元首相の近衛文麿を昭和天皇の特使としてソ連に派遣して和平の仲介を求め
る構想が進められており、それに対するソ連政府の返事を待つとの見方もあり、結局、ポ
ツダム宣言の黙殺を決めた(ソ連は受ける気はなかったものの、アメリカ・イギリスと協
議しソ連の対日宣戦布告まで日本の申し出を放置することに決定していた)。
結局、日本政府は、7 月 27 日にポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、28 日、鈴木首
相は記者会見し「共同聲明はカイロ会談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるも
のとは認めず「黙殺」し、斷固戰争完遂に邁進する」と述べ、翌日の新聞で「政府は黙殺」
などと報道された。
このため、原爆投下命令はそのまま継続され(アメリカ大統領は原爆投下中止命令を出
さなかった)、そのままアメリカ軍は原爆投下の準備行動をとり続けた。
このときのことについて、スティムソンは 1947 年、雑誌『ハーパーズ』に「この拒否に
直面した時、我々は、日本が戦争を続けるなら、最後通告は『我々の総力挙げての軍事力
の行使は、日本の軍事力の完全な壊滅と日本本土の徹底的な荒廃を避けがたいものにする
ことを意味しよう』というまさにそのとおりのことを意味していたのだということを、た
だ実行に移して示すしかなかった。そういう目的のためには、原子爆弾は、はなはだ適切
な武器だった」と記している。
8 月 6 日に日本の広島に投下された 1 発目の爆弾は「リトルボーイ」というコードネーム
で呼ばれ、核分裂物質としてウラン 235 が使われていた(表 11(表 15-15)参照)
。このタ
イプの原子爆弾は実験を行なっていなかったが、爆縮型の原爆に比べて構造がはるかに単
純なため、ほぼ間違いなく正常に作動することが予想された。それ以前に、ウラン 235 は
この時点で爆弾 1 発分しか生産できていなかったため、いずれにせよ投下前に実験を行な
うことはできなかった。
324
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 11(表 15-15) 日本に投下された原子爆弾
6 日深夜(アメリカ東部標準時。日本時間 7 日未明)、ホワイトハウスにてトルーマン大
統領の名前で次のような内容の声明を発表した。
「16 時間前、アメリカの飛行機が日本軍の
最重要陸軍基地・広島に 1 発の爆弾を投下した。この爆弾の威力は TNT 2 万トンを上回る
ものである。これまでの戦争の歴史において使用された最大の爆弾、イギリスのグランド
スラム爆弾と比べても、2,000 倍の破壊力がある。
(中略)つまり原子爆弾である。ポツダ
ムで 7 月 26 日に最後通告が出されたのは、日本国民を完全な破壊から救うためであった。
日本の指導者たちは、この最後通告を即刻拒否した。もし彼らがアメリカの出している条
件を受け入れないならば、これまで地球上に一度も実現したことのないような破壊の雨が
降りかかるものと思わねばならない」であった。
一刻も早い降伏が必要であったが、アメリカはすでにもう 1 発の原爆投下の指令も出し
ていた。8 月 9 日に長崎に投下された 2 発目の爆弾は「ファットマン」というコードネーム
で呼ばれ、トリニティ実験でテストされたのと同じタイプのプルトニウム爆弾だった(表
11(表 15-15)参照)
。長崎市への原爆投下で、広島と合わせると投下直後に死亡した 10 数
万人、その後の放射能汚染などで 20 万人以上の死亡者を出した。
トルーマンは 2 発目の長崎投下後「さらに 10 万人も抹殺するのは、あまりにも恐ろしい」
として、3 発目以降の使用停止命令を出した(後にトルーマンが日本へ計 18 発もの原爆投
下を承認していた事実がワシントン・ポスト紙にスクープされている)。
戦後、トルーマンは公式的な場でも原爆投下を正当化し続けていたが、トルーマンが原
爆投下を決定した背景として、前述したように、アメリカ軍の損失を最小限に止めること、
実戦での評価、戦後の覇権争いでソ連に対して優位に立つという目的があったといわれて
いる。また、その開発に当たって使用したアメリカ史上でも最高の、国家予算の 20%(日本
の国家予算の 3 倍)にも及ぶ、当時で 20 億ドルもの予算を議会に事後承諾させ、更に今後
も核開発に予算を計上させるための成果が必要だったとも言われている。
325
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このように、トルーマン自身は生涯、原爆投下を正当化してみせたが、この行為は人類
史上、ヒトラーによるアウシュヴィッツのユダヤ人大虐殺に匹敵する人類史上最大の犯罪
であるという意見もある(この広島・長崎を契機に人類の「創造と模倣・伝播の原理」のと
おり核兵器は世界に拡散し、現在でも、これを廃絶する目途がまったくたっていない、こ
のままいくと人類滅亡の可能性もあり、人類社会の最大の問題となっていることを思うと
その歴史的意味はさらに重大であるといえよう)。ただし、アメリカではトルーマン大統
領は「戦争を早期終結に導き兵士の命を救った大統領」という評価が定着している。 トル
ーマンは原爆投下について 1958 年の CBS のインタビューで「まったく心が痛まなかった」
と語っていた。
《ソ連の対日参戦》
ソ連は、前述のヤルタ会談での密約をもとに、締結後 5 年間有効の日ソ中立条約を破棄
し(ソ連は条約の不延長・破棄を直前に通告して来ていたが、条約上、1946 年 4 月まで有
効であった)
、8 月 8 日、対日宣戦布告し翌 9 日、満州国へ侵攻を開始した(スターリンは
前述のようにアメリカの原爆完成を知って、対日参戦を早めた)
。当時、満洲国駐留の日本
の関東軍は、主力を南方へ派遣し、弱体化していたため総崩れとなり、組織的な抵抗もで
きずに敗退した。
逃げ遅れた日本人開拓民の多くが混乱の中で生き別れとなった。青少年義勇軍を含む満
州開拓移民の総数は 27 万人とも、32 万人ともされるが、ソ連の参戦でほとんどが国境地帯
に取り残され、日本に帰国できたのは 11 万人あまりだった。多くの日本人が大陸に取り残
され,多くの悲劇が生まれたが、中国残留孤児問題もその一つだった。
また、ソ連参戦で満洲と朝鮮北部、南樺太などの戦いで日本軍人約 60 万人が捕虜として
シベリアへ抑留された。彼らはその後、ソ連によって過酷な環境で重労働をさせられ、6 万
人を超える死者を出した。
《日本降伏》
ここに至っても、日本政府内部では、天皇制の存続を唯一の条件として降伏を主張する
東郷外相と、それ以外に自主的撤兵や戦犯の自主処罰、保障占領の不実施を求める陸軍の
見解が対立し、8 月 9 日の最高戦争指導会議(御前会議)は深夜になっても結論を出せない
状態となった。
その結果、鈴木首相が昭和天皇の「聖断」をあおぐ形で発言を促し、天皇自身が和平を
望んでいることを直接口にしたことにより、議論は収束した。「国体護持」を唯一の条件と
するポツダム宣言の受諾が決定された。
10 日、この御前会議での「国体の護持」を条件にポツダム宣言を受諾したことを、連合
国に中立国スイスを経て打電すると同時に同盟通信社、日本放送協会(ラジオ)も報じた。
しかし、12 日、連合国側は、この条件に対して直接的な回答を避け、降伏後の天皇と日
本政府の権限が連合国最高司令官の下に服すること、戦後の日本の政府形態は日本国民の
326
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
自由意思によって決定するという返答を与え、間接的に天皇制が戦後にも存続する余地を
残した。
しかし、これでは国体がどうなるかの確証はなく、軍部強硬派は国体護持が保障されて
いないと再照会を主張したために 8 月 14 日に天皇の命令で改めて御前会議が開かれ、ポツ
ダム宣言の最終的な受諾を決定し、詔勅が発せられた。同日、スイス加瀬俊一公使を通じ
て、ポツダム宣言受諾に関する詔書を発布した旨、また受諾に伴い各種の用意がある旨が
連合国に伝えられた。
国民に対しては、8 月 15 日正午の昭和天皇による玉音放送をもってポツダム宣言受諾を
表明、全ての戦闘行為は停止された。なお、この後、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。敗戦
と玉音放送の実施を知った一部の将校グループが、玉音放送が録音されたレコードの奪還
をもくろんで 8 月 15 日未明、宮内省などを襲撃する事件(宮城事件)を起こし、鈴木首相
の私邸を襲った。また玉音放送後、厚木基地の一部将兵が徹底抗戦を呼びかけるビラを撒
いたり、停戦連絡機を破壊したりするなどの抵抗をしたが、大きな反乱は起こらず、ほぼ
全ての日本軍は戦闘を停止した。
ソ連軍は日本の 8 月 15 日の降伏後も南樺太・千島への攻撃を継続し、北方領土の択捉(エ
トロフ)島、国後(クナシリ)島は 8 月末に占領、歯舞(ハボマイ)諸島は 9 月上旬にな
って占領した。8 月 22 日には樺太からの引き揚げ船「小笠原丸」、
「第二新興丸」、
「泰東丸」
がソ連潜水艦の雷撃・砲撃を受け大破、沈没した。
日本の後ろ盾を失った満洲国は崩壊し 8 月 18 日、退位した皇帝の愛新覚羅溥儀ら満洲国
首脳は日本への逃亡をはかったが、侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。
8 月 28 日、連合国軍による日本占領部隊の第一弾としてアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛
行場に到着した。8 月 30 日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の総司令官として
連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥も同基地に
到着、続いてイギリス軍やオーストラリア軍、中華民国軍、ソ連軍などの日本占領部隊も
到着した。
9 月 2 日、
東京湾内停泊のアメリカ海軍戦艦ミズーリ艦上において、アメリカやイギリス、
中華民国、オーストラリア、フランス、オランダなど連合諸国 17 ヶ国の代表団臨席のもと、
日本政府全権・重光葵(しげみつまもる)外務大臣、大本営全権・梅津美治郎参謀総長に
よる対連合国降伏文書への調印がされ、太平洋戦争は終結した。
第 10 章 国際連合の設立と第 2 次世界大戦後の戦争
【1】1945 年までの戦争のまとめ
古代からの武器、戦術の変化を含めた戦争は、図 6(図 10-1。P18)のように、古代、
中世、近世、19 世紀、20 世紀前半と時代と共に高度化されていったことは述べてきたが、
それに応じて、図 74(図 18-185)のように、1 回の戦争による死傷者数は増大していった。
327
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 74(図 18-185) 戦争の犠牲者数と武器(兵器)と戦争技術の進歩(図 6)
この図 74(図 18-185)の近世のところに記した 30 年戦争(1618~48 年)は、最後の宗
教戦争であり、ヨーロッパのほとんどの国をまきこんだ最初の国際戦争だった(ヨーロッ
パの 17 ヶ国が参戦した)
。死傷者数などはわからないが、戦場となったドイツ全体では戦
前の約 1600 万人から 1000 万人となり、約 3 分の 1 減少し、被害がとくに多いところでは、
半分以上の減少であった。もとより人口減は、死亡者の数をあらわしているとは限らず、
328
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
他地方への逃散もそこには含まれているが、それにしても人口減の割合は第 1 次、第 2 次
の世界大戦の犠牲よりも大きかった。
三十年戦争を終結させたウェストファリア条約が作り出したヨーロッパの新しい国際秩
序を、「ウェストファリア体制」と呼ぶことがある(三十年戦争後のウェストファリア体制
のように大戦争の後では、ナポレオン戦争後のウィーン体制、第 1 次世界大戦後のヴェル
サイユ体制、第 2 次世界大戦後のサンフランシスコ体制(国際連合体制)となる)。
ウェストファリア条約は,平和をもたらすどころか、その逆で、これ以後、ヨーロッパ
は絶対王政の時代となり、頻繁に戦争を繰り返すようになった。この三十年戦争以降の戦
争は、宗教を同じくするからといった抽象的な大義名分ではなく、各国家間の(各国王同
士の)覇権争いで極端にいえば、戦争ごとに組み合わせを変えて(同盟をかえて)戦争が
行われた。
19 世紀最初のナポレオン戦争(1802~1815 年)も時代を画する大戦争だった。この前の
フランス革命期から台頭したナポレオン(当時の最先端の砲兵隊をうまく操った)は軍事
的に卓越した才能をもっていたのは確かだが、世界最初の徴兵制度によって、ヨーロッパ
では桁違いの兵力数をほこり、その軍事力によって周辺諸国を各個撃破していった。時代
に逆行して(フランス革命で王政を廃し共和制になったのに、自らが皇帝になった)専制
君主化したナポレオンは、その個人的欲望のためにフランスを私物化し、多く(200 万人)
の人民の血を犠牲にした。
しかし、ナポレオンの波乱に富んだ生涯は、時を経るにつれて神秘のヴェールにつつま
れてナポレオン伝説を生み、やがてフランス国民のあいだにナポレオン崇拝熱を高めてい
った。そして、
(一世代後に)その伝説の背光のうちにナポレオンの甥がフランスに君臨し、
第 2 帝政を開いた。このナポレオン 3 世も多くの戦争を行い、最後には普仏戦争に敗れ墓
穴を掘った。
20 世紀はじめの第 1 次世界大戦(1914~18 年)は、双方とも(同盟国側と協商国側)
、
戦争しなければならないほどの理由はなかったが、つい起こってしまって(起こしてしま
って)
、双方最初の国家的総力戦となり、開戦当時には予想もしなかった莫大な戦費と多く
の兵員を動員し、膨大な犠牲者を生み出した。戦闘員の戦死者は 900 万人、非戦闘員の死
者は 1000 万人、負傷者は 2200 万人と推定されている。
これまでの戦争では、戦勝国は戦費や戦争による損失の全部または一部を敗戦国からの
賠償金によって取り戻すことが普通だったが、第 1 次世界大戦による損害はもはや敗戦国
に負わせられるようなものではなかった(これまでの戦争は勝てば得、負ければ損という
ことで、軍備を拡張して、戦争をしかける動機があったが、これ以降は勝者、敗者とも損
をするという時代に入った。第 1 次世界大戦前の日清、日露戦争では日本は大いに得とな
った)
。しかしながら、莫大な資源・国富の消耗、そして膨大な死者を生み出した戦争を人々
は憎み、戦勝国は敗戦国に報復的で過酷な条件を突きつけることとなった。その恨みがま
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
た、次の戦争をもたらした。第 1 次世界大戦から 20 年おいて始まった第 2 次世界大戦(1939
~45 年)であった。
《総力戦としての第 2 次世界大戦》
この第 2 次世界大戦は、南北アメリカ大陸以外のすべての大陸を戦場とし、全世界人口
の 5 分の 4 をまきこみ、1 億 1000 万の兵士を動員した文字通りの「世界大戦」であった。
しかも、中国の場合には 15 年(満州事変から)、ヨーロッパでは 6 年、東南アジアや太平
洋では 4 年間の長きにわたって戦われただけに世界史上でも他に類例を見ないほど膨大な
数の犠牲者をうみだした。死者は 5000 万人以上にのぼり(当時の世界人口は 20 億人ぐら
いだったので死亡率はきわめて高い)
、直接、間接の失費は 4 兆ドルに達したといわれてい
る。
その正確な数値を算定すること自体が困難であるが、国際政治学者クインシー・ライト
の研究によると、枢軸国側の兵士の死者が約 566 万人、民間人のそれが 195 万人であるの
に対して、連合国側では 1127 万人の兵士と、その 3 倍近くに相当する 3237 万もの民間人
の犠牲者が出た。合計すると、兵士が 1693 万人、民間人が 3432 万人、総計で 5000 万人を
超える犠牲者が出たことになる。
これだけの数値でも過小評価であるとの見方もあるが、それでも第 1 次世界大戦の時の
犠牲者と比較すると、兵士で約 2 倍、民間人で約 5 倍強も増加したことになる。また、主
な国の死傷者数は図 75(図 15-85)の通りである。
図 75(図 15-85) おもな国の第 2 次世界大戦被害(死傷者数)
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
つまり、第 2 次世界大戦は、兵士の死者数の増大だけでなく、民間人の犠牲者数が激増
した点に著しい特徴がある。それは第 2 次世界大戦では、敵の軍隊だけでなく相手側の軍
事経済や一般国民の戦闘意欲までも破壊しなければ戦勝がおぼつかないとする「総力戦」
的な考え方が双方の戦略思想の中核に据えられたためであり、その結果、都市に対する無
差別爆撃や原爆投下に象徴されるような、前線と銃後の区別がなくなる戦闘が一般的にな
ったためであった。
この「総力戦」的な戦略思想はすでに第 1 次世界大戦の時から芽生え始めていたが、第 2
次世界大戦では爆弾や航空機の発達によっていっそう徹底されることとなった。その結果、
2 つの世界大戦を経験した 20 世紀前半は世界史上でもまれにみるほど、戦争犠牲者が激増
した時代となった。
表 12(表 15-16)には、文献資料によって兵士の戦死者数が推定できる近代以降の戦争
による総犠牲者数を示しているが、それによると、20 世紀の前半期だけで 57.6%も占めて
いることがわかる。この数値からは民間の犠牲者数は除外されているから、それを含めれ
ば、この時代の比重はいっそう高まるのは必至であろう。
表 12(表 15-16) 16~20 世紀における戦争実態の変化
科学技術(軍事技術)の進歩などにより、戦争の規模とその犠牲者数が 20 世紀前半で、
イギリスの歴史学者エリック・ホブズボームがいうように、いかに「極端な時代」になった
かがわかるが、実は 20 世紀後半から 21 世紀にかけて、軍事技術の進歩はさらに超「極端な
時代」になっている現実がある。つまり、核ミサイルが地球上を覆う時代となっている。
総力戦の基盤をなすのが経済力、あるいは工業力であろう。1938 年のドイツが世界の工
業生産高(表 8(表 15-6。P264)参照)と「相対的にみた潜在戦力」
(表 13(表 15-17)
参照。潜在的戦力とは航空機、大砲、戦車、船舶などを金額であらわすようになっている)
に占める割合は、イギリスとフランスを合わせた数値と等しかった。しかし、イギリスと
331
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
フランスは長いあいだ植民地帝国として世界に多くの属領をもっていたので、これを合わ
せれば、物的および人的資源と戦力はドイツを上まっていたものと思われる。
表 13(表 15-17) 1937 年の大国の相対的にみた潜在的戦力
だが、戦争が勃発したとき、両国はドイツほどには臨戦体制には入っていなかったし、
戦略において明らかにヒトラーの方がまさっていた。ドイツは 39 年と 40 年にフランスな
どを征服してその資源と領土を獲得したため、孤立したイギリスを大きく引き離していた。
フランスが敗れ(資源はドイツ側になる)、イタリアが参戦したために、イギリスは潜在
的戦力において 2 倍ぐらいの軍事力を相手にしなければならなくなった。ベルリン~ロー
マ枢軸は、海軍力ではいぜんとして劣ってはいたものの、陸軍力では相手を圧倒しており、
空軍力ではほぼ同等であった。
イギリス攻略に行き詰まったヒトラーは、ソ連を攻撃したが、ソ連は当初戦争の準備が
できていなかったので、当初はこの力のバランスはあまり変らなかった。
ところが 1941 年 12 月に日本がアメリカを攻撃して、日本とアメリカが参戦し全世界的
な戦争となった。また、モスクワでソ連が反撃を開始し、ドイツの進撃は阻止されたこと
から持久戦となった。
巨大な工業生産力のあるアメリカが連合国側に加わったことで、連合国の工業生産力(表
8(表 15-6。P264)参照)は枢軸国の(フランスの数字をドイツの総数に含めても)2 倍、
また、潜在的戦力(表 13(表 15-17)参照)は 3 倍、国民所得(表 10(表 15-9。P278)
参照)も 3 倍であった。
しかし、アメリカが参戦してその工業力が発揮されるまでには時間がかかったし、日本
も参戦してから 6 ヶ月間は、防備のととのっていなかったアメリカとイギリスとオランダ
の部隊を相手に勝利したので、アメリカの参戦がただちに戦局を左右したわけではなかっ
た。
やがて 1943 年から 44 年にかけて、アメリカだけで 1 日に 1 隻の割合で船舶を建造し、5
分に 1 機の割合で航空機を製造した。その上、数多くの新型兵器(B-29、高性能戦闘機ム
332
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スタング、軽空母など)を次々と開発し戦力化していった。これが両陣営の均衡を大きく
変えることになった。
アメリカの兵器生産は 1941 年から 43 年にかけて 8 倍以上に増大した。これによって連
合国側の総軍需生産高が枢軸国側の 3 倍以上になった。こうなると 1944 年、45 年に枢軸国
側がいかに戦術をつくして反撃を試みても結局は連合国軍の圧倒的な火力に敗北すること
は時間の問題であった。
要するに、長期の全面戦争では、最後に勝利を手にするのは資力のある側であることが
はっきりしたのである。
《天文学的数字になる次期世界大戦の犠牲者数》
第 2 次世界大戦後について、図 6(P328)
(武器(兵器)と戦争技術の進歩)と図 74(図
18-185。P328)
(戦争の犠牲者数)が示唆することの意味は人類社会にとってきわめて大
きい。ナポレオン戦争で 200 万人、第 1 次世界大戦で 2000 万人、第 2 次世界大戦 5000 万
人、その後も核兵器を含む戦争技術力は飛躍的に増大し、工業力も確実に増大し続けてい
るので、次の世界大戦があるとしたら、その犠牲者数は天文学的になることは確かで、は
たして人類が生き残れるか疑問にさえ思えるようになってきた(図 74(図 18-185)には 2
~3 億人という数字が入れてあるが、核戦争の予測はいろいろあって、あながち不自然な数
字ではない)
。
【2】人類の戦争防止の機構―国際連合の設立
◇国際連合設立の経緯
《大西洋憲章》
国際連盟の設立を提案したウィルソン大統領と同じように、アメリカのルーズベルト大
統領は第 2 次世界大戦に参戦する前にすでに、戦後世界の安全保障を新たな国際機構の設
立によって実現しようとする構想をもっていた。
それを 1941 年 8 月の大西洋憲章の第 8 項(軍縮と全般的で恒久的な安全保障機構の樹立)
で米英両国首脳によって表明していた。そこでは、第 2 次世界大戦後の世界に国際連盟に
代わる国際平和機構を創設するとの構想が、抽象的ではあるが既に示されていた。
《「国際連合憲章草案」の作成》
具体的な検討は、アメリカのサムナー・ウェルズ国務次官の下に国際機構小委員会が設
置され、1942 年 10 月作業を開始して 1943 年 3 月には「国際機構憲章草案」がほぼ完成し
た。国務長官コーデル・ハル(1871~1955 年)がこれを練り直して、同年 8 月「国際連合
憲章草案」を完成させた。イギリスもヨーロッパの安全保障に力点を置いた構想を策定し
てアメリカに提示したが、アメリカの案は、より世界的な機構とし、安全保障だけでなく
経済社会問題も扱うべきだとの考えに基づいたものであった。
333
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、第 1 次世界大戦後の国際連盟への加入をアメリカ合衆国議会に拒否されたウィ
ルソン大統領の例もあったので、ルーズベルト大統領としてはその取り扱いには慎重をき
した。1943 年 8 月にケベックで米英首脳会談が開かれ、さらに検討された。
1943 年 9 月になると、共和党の側でも、アーサー・バンデンバーク上院議員を中心に戦
後の国際平和組織への加盟支持が決議された。バンデンバークは、元来、ヨーロッパの紛
争にアメリカ合衆国が巻き込まれることに強く反対する孤立主義派のリーダーであったが、
日本軍の真珠湾攻撃に大きな衝撃を受け、孤立主義者から、政権の外交・安全保障政策を
支持する国際主義者へ転じ、国際連合など戦後秩序の構想にも熱心に取り組んだ。
これは当時のアメリカ合衆国世論の変化を反映したものでもあり、『フォーチュン』の調
査によると、戦後の国際組織への加盟を支持する有権者は、1941 年には 13%に過ぎなかっ
たのが、1944 年 3 月には 68%にも達していた。悲惨な世界大戦を経験し、それだけアメリ
カ国民の世界全体の平和を希求しなければならないという世論が高まっていたことを示し
ていた。
《米英ソ 3 国外相会談》
このような世論の変化に力づけられたルーズベルト政権は、1943 年 10 月にモスクワで開
催された米英ソ 3 国外相会談の場にアメリカ合衆国案を提案した。ドイツとの戦闘に追わ
れていたソ連は消極的な姿勢をみせた。また、戦後も古い大国の「勢力圏」間の均衡によ
る平和を構想していたイギリスは普遍的な国際組織より「地域評議会」方式を主張した。
イギリスは最後まで国際連盟で苦労し(国際連盟の常任理事国の日独伊が連盟を脱退し、
英仏だけが常任理事国として残っていた)、このような(国際連盟に類するような)仕組
みでは拡大した世界の平和は保てないと考えていたようである。図 76(図 18-4)であらわ
したように、世界には時代時代に同盟が結ばれて勢力均衡が図られたり、あるいは覇権を
握った国が世界に影響力を与えてきたりしたという実態があり(これを覇権主義という)、
国際連合の設立にあたって、イギリスは(チャーチルの考えであったが)そのようなこと
を考慮に入れて国際組織をつくろうと提案したのである。イギリスは 18~19 世紀も大陸の
勢力均衡策(同盟主義)を画策して、ずっと勝ち続けてきたことは述べた。
それに対し、アメリカは(ルーズベルトの考えであったが)
、再びカント的平和論の世界
を構想し提案したのである。これは理想を求めるウィルソンがカント的平和論を下敷きに
国際連盟をつくって、レールを引いていたので、その上を走っただけだとも考えられるが、
それだけではなく、勢力均衡策(あるいは同盟主義)は、第 1 次世界大戦のあと、再びあ
まり時間をおくこともなく、第 2 次世界大戦に陥ってしまったという反省があったからで
ある。
まず、第 1 次世界大戦前までさかのぼって、図 76(図 18-4)をみると、①のように、ド
イツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対して、イギリス、フランス、ロシアの三国
協商が対峙した(日本も加わった)。
334
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 76(図 18-4) 欧米列強の同盟関係
335
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そして、②のように、実際に大戦が起きると、イタリアが協商側に移り、ロシアが革命
で脱落し、最後にはアメリカが連合側(協商側)に加わるということはあったが、この同
盟主義によって、戦争は長引き多大の惨禍をこうむることになった。
そこで、第 1 次世界大戦後は、③のように、勢力均衡策(同盟主義)を排除して国際連
盟に一本化し、ここで問題を解決することにしたが、国際連盟には種々の欠陥があって(③
のようにアメリカ、ロシアが連盟に加盟していなかったことなど)、体制に不満をもつ日
本、ドイツ、イタリアが連盟を脱退し、三国同盟を形成してしまったことを防ぐことがで
きなかった。
そして、ドイツ、イタリア、日本が第 2 次世界大戦を起こすと、④のようにイギリス、フ
ランス側にソ連、アメリカも加わって、連合国が形成され、多大の犠牲をはらってやっと勝
利をおさめたのである。とかく、国家は同盟を形成し、勢力均衡策で他国側を牽制しよう
とするが(これを抑止力という)、相手同盟は決してお手上げになることはなく、必ず対
抗して軍備増強にはしり(このことは戦争発祥の古代から「戦争の矛盾の原理」として述べ
てきたところである)、結局、それは双方の軍事拡張政策に陥り、その結果は大戦争(世
界大戦)に陥るのが常であった(19 世紀以前についても、図 74(図 18-185。P328)はそ
れを示している)。
そこで、当時、アメリカ(ルーズベルトたち)は次のように考えた。第 2 次世界大戦後
のように拡大し強大化した世界の平和を保つには、カントが『永遠平和のために』で構想
したような国際機関が必要であり、それは国際連盟で実現したが、はじめての試みであり、
多くの欠陥があることがわかった。それに世界最大の実力国アメリカが入っていなかった
ことが一番の問題点だった(歴史に「もし」が許されるなら、もしアメリカが連盟に入っ
ていたら、日本の大陸進出にもっと早い段階でイギリス、フランス、(ソ連)を動員して
介入していただろう。そして、ヒトラーのヴェルサイユ体制の破棄に対しても具体的な歯
止めをかませたであろう)。ルーズベルトは、今度はアメリカが中心となって国際連盟の
欠陥を取り除き新しい集団安全保障の国際組織をつくろうと考えたのである。
米英ソ 3 国外相会談の討議の結果、「すべての国の主権平等に基礎を置き、大国小国を
問わずすべての国の加盟のために開放される、国際の平和と安全の維持のための一般的国
際機構」を創設することで合意した(これは、国際連盟の流れをくみ、やはり勢力均衡論
ではなく、カント的永遠平和論の流れにそうものであり、人類にとって大きな選択であり、
人類の叡智であった)。これが「一般安全保障に関するモスクワ宣言」となり、中国もこ
れに同意した。こうして、アメリカ案に沿った国際機構の創設が連合国側の構想として公
式に示されることになった。
《テヘラン・米英ソ 3 国首脳会談》
この合意を受けてルーズベルトは、1943 年 11 月 28 日~12 月 1 日にテヘランで開催され
た米英ソ 3 国首脳会談の場で、その国際組織においてはすべての連合国からなる総会が勧
336
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
告権をもち、紛争解決のための強制機関は米英ソ中 4 大国が担うとした「4 人の警察官」構
想(つまり、安全保障理事会の仕組み)を提案し、了承をえた。
《国際的な安全保障の問題》
1944 年から 45 年の協議に際し、もっとも頭をなやましたのは、国際的な安全保障の問題
であった(これは設立される国際機関のもっとも重要な機能である)。どこよりも利己的
な態度をあらわにしたのは、台頭してきた二つの超大国、アメリカとソ連であった(当時
の世界は、まだ、覇権主義(帝国主義)で運営されていた。米(ソ)の国民感情からすれ
ば、やっと米(ソ)に覇権が回ってきたのだから覇権国として世界を動かしてみたいとい
うことは当然考えられることであった)。
力の強い動物は自分より小さな弱い動物に押さえ込まれる理由は何もないと考えるもの
である。イギリス政府はこの 2 国(米ソ)を体制に抱き込まなければならないと考えた。
イギリスは、1919 年以来置かれてきた国際連盟での立場、つまり他の大国がすべて去り、舞
台に残ったのは自身と弱体化したフランスだけという状況に苦労したが、新しい国際組織
が再びそうなってはならないと考えた。
フランスは、チャーチルの強い勧めで大国の地位に復帰しようとしていたが、それほどの
力はなくなっていた。とにかくイギリスの政策立案者が心に砕いていたのは、アメリカと
ソ連を国際的な責任を分担する体制になんとかして取り込もうということだった。
また、この 2 国は、どちらも、自国の資源と意思を基盤にして今次大戦に勝利を得られ
ると考えていた(まだ、第 2 次世界大戦中であった。表 8(表 15-6。P264)、表 13(表
15-17。P331)のように、アメリカの工業力、潜在的国力は圧倒的でしかも第 2 次世界大
戦末期になるほど高くなった。ソ連もアメリカについでいた)。それならいま無理をして
他国に同調する必要はない。スターリンは、新しい国際組織でソ連の国益に反するような共
同行動をとることには反対で、拒否権が不可欠だとした。
しかし、これはアメリカの関係者の多くも同じ立場をとっていた。アメリカ外交に力を
もっていた前述のバンデンバーグ上院議員は強硬な反共主義者で、後述するサンフランシ
スコ会議の場でも、反対するメキシコ代表に対し、国連安保常任理事国に拒否権を与えな
ければ国連を認めないと告げたといわれている。国際連盟加盟を拒否したアメリカ議会の
前例があって、アメリカ自身についても楽観はできなかったのである。
世界秩序の構築を意図していたアメリカ、イギリス、ソ連の政策立案者が、いずれも過
去 15 年か 20 年のあいだに国際秩序の崩壊という悲惨な体験をしてきていた。彼らは 1939
年までの経験で、何が機能し何が機能しないかに関する結論を出していたと考えられる(と
くに後発帝国主義国の日独伊と一部ソ連の行動について)。
戦争を抑止するための新しい安全保障体制は、国際連盟のように軟弱な善意の宣言を採
択するだけではなく、牙をもたなければならなかった(今度は本当に新国際機関の決定に
従わない国には最終的には軍事力を発動するものでなければならないと考えられた。新国
際機関はそのような牙を持つ必要があると)。連盟はあまりに民主的でリベラルすぎた。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国際法がすべての国の主権を認めること、たとえばデンマークをソ連と同等の、あるいは
コスタリカをアメリカと同等の主権国家だと見なすのはよいとしても、その民主的傾向で
は、1930 年代の侵略を抑止することができなかった。それどころか、逆に国際連盟の機能
不全を目の当りにした独裁者を、ますます増長させた。そのような事態を二度と起こして
はならないと、彼らは考えたのである。そのための仕組みはどうしたらよいか、それが問
題だった。
1930 年代に彼らが得た教訓は、チェコスロバキア(ドイツの侵略)、ベルギー(ドイツ
の侵略)、エチオピア(イタリアの侵略)、満州(日本の侵略)などは軍事的弱小国で、
こうした国々は自ら防衛できなかった。それは国民的性格の欠陥からというより、より大
きな近隣国に抵抗できるだけの人口、領土、経済力がなかったからである。対照的に大国
が、これらの弱小国に安全保障の提供者になったのは、大国(米ソ、英仏?)が特別な徳
を備えていたからというより、ただドイツ、イタリア、日本に抵抗し、打ち負かすだけの
能力を保持していたからであった。このような現実を考慮した実際的な安全保障の体制を
つくる必要があった。
自国の安全保障のために外部からの支援が必要な国と、それを提供する責任を果たせる
国との基本的な線引きを、今回は明白にしなければならなかった。そこをうやむやにする
なら、満州事変やオーストリア併合のような事態が将来また起きたとき、世界の民主主義
国は再び混乱状態に陥りかねない。
連合国がこのような戦後秩序に関する議論をしているころ、日独はまだ広大な略奪領土
を保有し、必死で戦っていた。連合国側の最終的勝利は見えてきてはいたが、ドイツは第 1
次世界大戦で大敗北を喫してからわずか 15 年で、また支配的な体制に挑むまでになったの
であるから、ウィルソン的バラ色の国際連盟ではなく、今度こそ慎重に現実的な安全保障
の仕組みを創出しなければならないと認識していた。
《ダンバートン・オークス会議》
ここに主権平等原則に基づく総会と大国主導の安全保障理事会という二本立ての方向性
が明確になっていったが、細目は 1944 年 8 月から約 1 ヶ月半ワシントン郊外のジョージタ
ウンにあるダンバートン・オークス・ガーデンでアメリカ、イギリス、ソ連、中国の 4 大国
代表によって詰められた。
この会議ではアメリカ合衆国案を原案として後に国連憲章として結実する提案が検討さ
れ、加盟国全部を含む総会と、大国中心に構成される安全保障理事会の二つを主体とする
普遍的国際機構を作ることが合意され、その合意点は 1944 年 10 月に至り、「一般的国際
機構の設立に関する提案」として各国政府に送付された。しかし、安全保障理事会におけ
る表決手続きやソ連の代表権、信託統治の問題では合意に至らず、決着は 1945 年 2 月のヤ
ルタ会談に持ち越された。
第 2 次世界大戦で得られたもう一つの偉大な教訓は、自由市場体制の経済的、社会的崩
壊が原因で政治不安と過激主義が生まれ、絶望的になった人間は絶望的なことをやるもの
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
だということであった。そこで、アメリカとイギリスの作業グループは(1930 年代に 5 ヶ
年計画が順調に進んだソ連はまったくこの分野に関心はなかった)、国際社会の繁栄と相
互依存を高める一方、通貨・株式市場への深刻な脅威を回避するための金融・銀行・通商
体制の改善策を模索した。こうした経済制度の模索は、戦後の安全保障秩序構築の交渉と
並行して行われ、それらの社会経済再建策は、のちに設立される国際通貨基金(IMF)と世
界銀行(当初は国際復興開発銀行、IBRD)となってまとまった。
《ヤルタ会談―国連の拒否権問題》
ヤルタ会談で米英は、紛争の当事国となった大国は安全保障理事会での表決を棄権すべ
きと主張したが、ソ連はすべての議題について「大国一致」の原則を貫くよう主張し、再
度対立した。この対立は、結局、手続き問題以外の議題では大国の拒否権を認める方向で
妥協がはかられた。
すなわち、米英中ソに、イギリスの希望によりフランスを加えた 5 ヶ国が拒否権を有す
る安保理常任理事国となるという「5 大国一致の原則」が合意された(この点は後に大国が
関与した紛争に対して安全保障理事会が機能麻痺に陥る原因となった)。
この拒否権の問題は、新しくできる国際機関にとって、大きな選択の分岐点だった。
米英は常任理事国が問題の当事国であるときには表決を降りろと主張したが、これも現
段階では、大国が表決を降りても困ったことになるであろう。たとえば、米英とソ連が割
れて(そのようなことはしょっちゅうあったが)ことを構えるとそれこそ世界大戦になっ
てしまうので、そのような場合には「拒否権」で決定しないという選択をとったのである
(しかし、
「拒否権」で拒否された案件をどう処理・解決するかの紛争処理システムが現在
の国連にはない。この新しい社会システム、つまり、拒否権で暗礁に乗り上げた案件を話
し合いで処理するシステムを設けることが必要である。つまり、国連のシステムも絶えず、
改革され、進化させて行く必要がある)
。
《サンフランシスコ会議と国連の発足》
ここで恒久的な国際安全保障の仕組みづくり(国際連合の構築)に絶えずリーダーシッ
プを発揮してきていたルーズベルト米大統領が 1945 年 4 月 12 日に死去し、副大統領のト
ルーマンが米大統領に昇格した。
1945 年 4 月 25 日から 6 月 26 日にかけて(ドイツ、日本はまだ、戦っていた)、ドイツま
たは日本に宣戦している連合国 50 ヵ国の代表がサンフランシスコに集まり、戦後処理と国
際平和問題を討議し、国際連合憲章を採択した。この会議に出席していなかったポーラン
ドについては、米英とソ連の間に対立があったために認められず、妥協の末にポーランド
連合政権が樹立されてから参加が許され、原加盟国は 51 ヶ国となった。
いずれにしても、国際連合は、まだ、対日戦の続行中に招集されたことに象徴されるよ
うに、
「連合国(United Nations)
」を母体として発足したのである。前述したように国連
の提案者であるルーズベルト大統領は、国際連合の設立に尽力しながらもサンフランシス
コ会議における国際連合憲章調印の数週間前に死去し、かねてから United Nations の名付
339
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
け親であったルーズベルト(アメリカが参戦するときに名づけた)に対する敬意を表して
この名称を採用することが会議の出席者全員によって合意された(アメリカが参戦する前
までは、イギリスなどの連合国は the Allies と呼ばれていて、the Axis Powers(枢軸国)
と戦っていた。ルーズベルトはアメリカが参戦するにあたって、連合国を the United
Nations と名づけた。もともと Ally には「同盟(縁組)させる」
「(ある関係で)結びつけ
る」というように「同盟」の意味が強いので、ルーズベルトはその意味を弱めたのである)
。
中国、フランス、ソ連、イギリス、アメリカ、およびその他の署名国の過半数が批准し
た 1945 年 10 月 24 日に、51 ヶ国で国際連合が正式に発足し、翌年 1 月にはロンドンで第 1
回国連総会が開かれ、本部はニューヨークにおかれた。
◇国際連合の仕組み―国際連合憲章
国際連合憲章は、次のように前文と 19 章 111 条から成っている。
前文
〔第 1 章 目的及び原則〕
〔第 2 章 加盟国の地位〕
〔第 3 章 機関〕
〔第 4 章 総会〕
〔第 5 章 安全保障理事会〕
〔第 6 章 紛争の平和的解決〕
〔第 7 章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動〕
〔第 8 章 地域的取極〕
〔第 9 章 経済的及び社会的国際協力〕
〔第 10 章 経済社会理事会〕
(国際的な経済、社会、保健、環境、文化の向上の分野)
〔第 11 章 非自治地域に関する宣言〕
〔第 12 章 国際信託統治制度〕
〔第13章
信託統治理事会〕
(信託統治について規定しているが、アジア・アフリカ地域の独立が相次ぎ、ここの
規定はほとんどその任務をほぼ完了したとして活動を停止した)
〔第 14 章 国際司法裁判所〕
〔第 15 章 事務局〕
〔第 16 章 雑則〕
(ここで重要な事は、
「国際連合加盟国のこの憲章に基づく義務と他のいずれかの国際
協定に基づく義務とが抵触するときはこの憲章に基づく義務が優先する」
(第 103 条)
ことである)
〔第 17 章 安全保障の過渡的規定〕
〔第 18 章 改正〕
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(第 18 章の第 108 条に「この憲章の改正は、総会の構成国の 3 分の 2 の多数で採択さ
れ、且つ、安全保障理事会のすべての常任理事国を含む国際連合加盟国の 3 分の 2
によって各自の憲法上の手続きに従って批准されたときに、すべての国際連合加盟
国に対して効力を生ずる」としている)
第 5 章の安全保障理事会から第 8 章までは、国際安全保障に関わることであるので、次
に項をあらためて述べることにして、ここでは国際連合の概要を述べることにする。
《国際連合の主要機関》
国際連合の主要機関は、図 77(図 16-1)のように、総会・安全保障理事会・信託統治
理事会・経済社会理事会・国際司法裁判所・事務局の 6 つとこの主要機関の内部組織であ
る補助機関から成る。また、国際連合と連携関係を持ち、独立した専門機関もある。
図 77(図 16-1) 国際連合のおもな組織
文英堂『理解しやすい世界史 B』
1919 年~1946 年まで存在した国際連盟との間には、法的な継続性がないものの国際司法
裁判所や国際労働機関等の機関を連盟から引き継いだ。また、旧連盟本部施設も連盟から
移管されていて部分的には継続した組織といえる。
【総会】
全加盟国で構成され、国際連合の関与するすべての問題を討議する。各国が 1 票の表決
権を有し、重要問題については 3 分の 2、一般問題については過半数で決する多数決制で表
決が行われる。ただし、総会での決議は加盟国または安全保障理事会に対する勧告までの
効力を有するのみで、強制力・拘束力をもたない。これは、全会一致制で半ば機能不全に
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
陥っていた国際連盟の反省を踏まえつつ、国際連合からの過度の干渉を嫌う各国の思惑に
も配慮した結果である。
更に主権平等原則に基づく総会での決議は、後に第 3 世界からの加入国の増加にともな
って、安全保障理事会の審議が大国の拒否権によってストップしたときでも、世界の良識
の所在を示すことによって、時には大国の行動を規制する力をもつことにもなった。
補助機関として、国際連合貿易開発会議(UNCTAD)、国際連合開発計画 (UNDP)、国際連
合環境計画(UNEP)、国際連合世界食糧計画(WFP)、国際連合人口基金(UNFPA)、国際
連合児童基金 (UNICEF)、国際連合人間居住計画 (UN-HABITAT)、国際連合訓練調査研修所
(UNITAR) 、 国際連合人権理事会 (UNHRC)、国際連合人権高等弁務官事務所 (OHCHR)、国
際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国際連合パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)、
女性の向上のための国際訓練研究所(INSTRAW)、国際連合大学 (UNU) などがある。
世界人権宣言は、すべての国民・国家の達成すべき基本的人権と自由についての宣言で、
1948 年の国連総会で採択された。世界人権宣言は、法的拘束力はないものの、
「すべての人
民とすべての国とが達成すべき共通の基準として」採択された。総会は定期的に人権問題
を取り上げている。
総会の補助機関である人権理事会は、主に調査と技術的な支援を通じて人権の推進を直
接担当する。国際連合人権高等弁務官は、国際連合の全ての人権に関する活動を担当する。
国際連合とその下部機関は、世界人権宣言に銘記された原則を支持して実施する中心的な
存在である。
その一つの例は、民主制へ移行する国々への国際連合による支援である。自由で公正な
選挙の実施、司法制度の改善、憲法の草案作成、人権担当官の訓練、武装勢力から政党へ
の移行等について国際連合による技術的援助が世界における民主化に大いに貢献している。
また、死刑制度に対しても否定的な立場を取っている。国際連合では、女性が国内の政治・
経済・社会活動に完全に関与する権利を支援するための議論も行っている。
同じく補助機関である難民高等弁務官事務所の難民高等弁務官は、1951 年に採択された
難民の地位に関する条約と 1967 年の議定書に基づく国際連合による難民や国内避難民の保
護など、難民に関する諸問題の解決を任務としており、高等弁務官事務所は高等弁務官の
活動の補佐を行う組織である。
本部は、スイスのジュネーブに置かれている。その活動が認められ、1954 年、1981 年に
ノーベル平和賞を受賞している。2000 年には、設立 50 周年記念事業として難民教育基金が
設立された。
【安全保障理事会】
世界平和と安全の維持を任務とする国連の最も重要な機関で、必要な時には経済的・軍
事的措置を取る権限が与えられている。拒否権を持つアメリカ・イギリス・フランス・ロ
シア(以前はソ連)
・中国の 5 ヶ国の常任理事国と 10 ヶ国の(1965 年まで 6 ヶ国)の非常
任理事国とからなる。
342
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
軍事参謀委員会の助言に従って国連軍を平和維持のために行使する権限がある。国際連
合の主要機関の中では、安全保障理事会が決定した条項のみが、法的強制力・拘束力を持
つ。常任理事国である 5 大国の拒否権により、法的強制力・拘束力が保障されている。詳
細は後述する。
【経済社会理事会】
安全保障以外の分野における国際機関の役割の拡大を意図して経済社会理事会を設置し、
ここでは政府代表だけでなく、民間代表の発言権も認めたことは、後に国連に NGO(非政府
組織)が積極的に参加する契機となった。経済的、社会的、文化的、教育的及び保健的活
動を所管するが、具体的な活動は、国際労働機関 (ILO) のような、経済社会理事会と連携
協定を結ぶ外部の国際機関(専門機関)が行うことが多い。経済社会理事会の構成国は 54
ヵ国で任期は 3 年である。
【信託統治理事会】
未独立の地域が独立できるようにする。1994 年、その任務をほぼ完了したとして活動を
停止した。
【国際司法裁判所】
国際連合の主要司法機関として、総会と安全保障理事会は、あらゆる法的問題について
裁判所に勧告的意見を求めることができる。裁判所は加盟国間の紛争を処理し、加盟国は
判決に従う義務がある。裁判官は 15 人で任期は 9 年(3 年ごとに 5 人を改選する)
。所在地
はオランダのハーグである。
【事務局】
国際連合事務局は、各国の利害を離れて中立的な立場から国際連合の運営を行う機関で
ある。事務総長が統括する。各部局としては、事務総長室、内部監査部、法務部、政治局、
軍縮局、平和維持活動局などある。
事務総長は「安全保障理事会の勧告に基づいて」総会により任命される。したがってこ
こでも、常任理事 5 ヶ国が支配している。
事務局の職員(総会、安全保障理事会、経済社会理事会、信託統治理事会その他の主要
機関、および補助機関の職員となる)は国際公務員であるため、母国政府の指示を受けず、
「最高水準の能率、能力および誠実」(第 101 条)をもたなければならない。そして「なる
べく広い地理的基礎に基づいて」職員を採用するよう考慮を払わなければならないともし
ている。
第 99 条に「事務総長は、国際の平和及び安全の維持を脅かしうる事項について、安全保
障理事会の注意を促すことができる」としている。安全保障理事会からも総会からも独立
して、平和への脅威あるいは平和の不履行に関して、行動を起こすには至らずとも少なくと
も調査を開始できる職域をつくったという点で、これはきわめて重要なことである。
事務総長室は、加盟国や総会が、情報や報告書の提供、予算資料を求めることができる
機関ともなった。その任務の中でも、最も重要なことが安全保障理事会の一般参謀を務め
343
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ることで、同室はまた、第 2 次世界大戦後の平和の維持と執行およびあらゆる形態の危機
への対応について、懸命かつ徹底的に考える義務を負った。これらは国連、ひいては事務
総長にとって多大の責務となった。
【専門機関】
政府間の協定によって設けられる各種の機関であり、上記の主要機関とは非従属の関係
にある。国際労働機関 (ILO)、国際連合食糧農業機関 (FAO)、国際連合教育科学文化機関
(UNESCO)、世界保健機関 (WHO)、国際開発協会(IDA)
、国際復興開発銀行(IBRD)
、国際通
貨基金(IMF)
、万国郵便連合(UPU)
、国際電気通信連合(ITU)
、世界気象機関(WMO)
、国
際連合工業開発機関(UNIDO)などがある。
《公用語》
国際連合の公用語は、常任理事国の言語である英語、フランス語、中国語、ロシア語と、
その他世界で広く用いられているスペイン語、アラビア語(1973 年に追加)の 6 言語であ
る。公式会合での発言は最小限これらの公用語に翻訳される。また、公式文書もこれらの
公用語に翻訳される。
《予算》
現在の国際連合のシステムは二つの方法で予算をまかなう。
一つは加盟国からの分担金である。分担金は、国際連合およびその専門機関によって 2
年毎に評価されて一般会計に繰り入れられる。国際連合は 12 月決算であり、分担金請求は
1 月に行われる。通常、30 日以内の支払を義務づけられている。
国際連合の場合には、総会が一般会計を承認して加盟国ごとに分担金の割合を決定する。
分担金の割合は、各国の国民所得に様々な要素を加えて評価され、各国の相対的な負担能
力に基づいて計算される。
2006 年に採用された評価の基準の下では、
2007 年~2009 年の通常予算への負担国上位は、
(1 位)アメリカ 22.000%、
(2 位)日本 16.6241%、
(3 位)ドイツ 8.577%、
(4 位)フラ
ンス 6.301%、
(9 位)中国 2.667%、(16 位)ロシア 1.100%である。
一般会計に含まれない、国際連合児童基金 (UNICEF)、国際連合開発計画 (UNDP)、国際
連合人口基金 (UNFPA)、国際連合世界食糧計画 (WFP) のような特別の国際連合のプログラ
ムは、加盟国政府からの自発的な支払金によって賄われている。たとえば、2001 年には、
アメリカからのそのような支払金はおよそ 15 億ドルになるだろうと推測される。この多く
は、困窮する人々のために寄贈された農産物の形となっているが、大多数は資金による納
入となっている。
【3】国際連合の集団安全保障制度
◇自衛以外のいかなる武力行使も禁止している国連憲章
344
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国際連合設立の最大の目的は、有史以来の人類の宿弊ともいうべき戦争を未然に防止す
ることを平和の思想や哲学ではなく、具体的な仕組み(社会システム)として設定するこ
とにあった。
そのことは、まず、国際憲章の前文において述べられている。
国連憲章前文
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与え
た戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各
国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ず
る義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩
と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣
人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれわれの力を合わ
せ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するため国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われわれの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示して
それが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、
ここに国際連合という国際機構を設ける。
まず、最初に、「われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する
悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、・・・・・・・(省略)・・・・・
このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及
び安全を維持するためにわれわれの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用い
ないことを原則の受諾と設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促
進するため国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの
努力を結集することに決定した。」と述べている。
憲章は伝統的な「戦争」という言葉を用いることを避け、国際連盟や不戦条約の欠点を
克服しようとした。国際連盟や不戦条約の段階では、たとえば、「満州事変」など日本は、
これは戦争ではない、単なる「事変」であると逃げた。この国際連合憲章では、そうなら
ないようすべて「紛争」とした。戦争意思の表明をともなわず、戦争にいたらない武力行
使も禁止しようとする趣旨である。また、武力行使のみならず、武力による威嚇も禁止の
対象に加えた。武力の行使を背景とした要求やいわゆる砲艦外交を禁止する趣旨である。
この国連憲章の最大の特徴は、自衛以外のいかなる武力行使も禁止していることである。
この国連憲章では、(カント的平和主義の流れをくんだ国際連盟や不戦条約で導入された)
集団安全保障制度をあらためて整備・強化し、制裁発動について、安全保障理事会による
集権的決定を行うようになっている。
345
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このことは、次の〔第1章
目的及び原則〕の第 1 条第 1 項で「平和に対する脅威の防
止及び除去と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置」と述べられ
ている。
〔第 1 章
目的及び原則〕
第 1 条 国際連合の目的は、次のとおりである。
1.国際の平和及び安全を維持すること。そのために、平和に対する脅威の防止及び除去
と侵略行為その他の平和の破壊の鎮圧とのため有効な集団的措置をとること並びに平和を
破壊するに至る虞(おそれ)のある国際的の紛争又は事態の調整または解決を平和的手段
によって且つ正義及び国際法の原則に従って実現すること。
2.人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること並
びに世界平和を強化するために他の適当な措置をとること。
3.経済的、社会的、文化的または人道的性質を有する国際問題を解決することについて、
並びに人種、性、言語または宗教による差別なくすべての者のために人権及び基本的自由
を尊重するように助長奨励することについて、国際協力を達成すること。
4.これらの共通の目的の達成に当たって諸国の行動を調和するための中心となること。
国連憲章は、この目的を達成するために原則として、紛争の平和的解決義務を設定する
とともに(第 2 条 3 項)、国際関係における武力による威嚇または武力の行使を禁止した
(第 2 条 4 項)。
第 2 条 この機構及びその加盟国は、第 1 条に掲げる目的を達成するに当っては、次の原
則に従って行動しなければならない。
1.この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている。
2.すべての加盟国は、加盟国の地位から生ずる権利及び利益を加盟国のすべてに保障す
るために、この憲章に従って負っている義務を誠実に履行しなければならない。
3.すべての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正
義を危うくしないように解決しなければならない。
4.すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いか
なる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他
のいかなる方法によるものも慎まなければならない。
5.すべての加盟国は、国際連合がこの憲章に従ってとるいかなる行動についても国際連
合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合の防止行動又は強制行動の対象となっているい
かなる国に対しても援助の供与を慎まなければならない。
6.この機構は、国際連合加盟国ではない国が、国際の平和及び安全の維持に必要な限り、
これらの原則に従って行動することを確保しなければならない。
346
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
7.この憲章のいかなる規定も、本質上いずれかの国の国内管轄権内にある事項に干渉す
る権限を国際連合に与えるものではなく、また、その事項をこの憲章に基く解決に付託す
ることを加盟国に要求するものでもない。但し、この原則は、第 7 章に基く強制措置の適
用を妨げるものではない。
こうして、武力行使が許容されるのは、後述するように、原則として、国連の集団的措
置(これは国連そのものの制裁であるから当然である。後述)にもとづく場合か、憲章が
認める個別的・集団的自衛権の場合(第 51 条。後述)にかぎられるものといえよう。
つまり、国連憲章は、国連の集団的措置や自衛権の発動以外は、いかなる武力行使も禁
止しているのである。それにしては、国連発足以来、70 年近くになるが、戦争が絶えない
のはどうしてか、どうして国連憲章が守られていないか、それがここでの主な論題である。
この第 2 条の第 3 項、第 4 項を具体的に実行させるのが、
〔第 4 章
総会〕を含めて、
〔第 5 章
安全保障理事会〕
〔第 6 章
紛争の平和的解決〕
〔第 7 章
平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動〕
〔第 8 章
地域的取極〕
と続く国際的安全保障に関わることである。
以下、章を追って述べることにする。
《安保理決議は加盟国すべてに拘束力をもつが、総会の決議は拘束力をもたない》
前述したように〔第 4 章 総会〕は、憲章上の問題・事項の討議、また、加盟国の安全
保障理事会に対する勧告など、一般的権能が認められている(第 10 条)。これは、総会の
権限を拡大することを求めた中小諸国の要求によってサンフランシスコ会議において付加
された。さらに個別に、国際の平和と安全の維持(第 11 条)
、事態の平和的調整(第 14 条)
に関しても総会の権限は認められている。
第 10 条
総会は、この憲章の範囲内にある問題もしくは事項又はこの憲章に規定する機関
の権限及び任務に関する問題もしくは事項を討議し、並びに、第 12 条に規定する場合を除
く外、このような問題又は事項について国際連合加盟国もしくは安全保障理事会又はこの
両者に対して勧告をすることができる。
第 11 条1
総会は、国際の平和及び安全の維持についての協力に関する一般原則を、軍備
縮小及び軍備規制を律する原則も含めて、審議し、並びにこのような原則について加盟国
もしくは安全保障理事会又はこの両者に対して勧告をするこができる。
347
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2
総会は、国際連合加盟国もしくは安全保障理事会によって、又は第 35 条 2 に従い国
際連合加盟国でない国によって総会に付託される国際の平和及び安全の維持に関するいか
なる問題も討議し、並びに、第 12 条に規定する場合を除く外、このような問題について、
一もしくは二以上の関係国又は安全保障理事会あるいはこの両者に対して勧告をすること
ができる。このような問題で行動を必要とするものは、討議の前又は後に、総会によって
安全保障理事会に付託されなければならない。
3
総会は、国際の平和及び安全を危(あや)うくする虞のある事態について、安全保障
理事会の注意を促すことができる。
4
本条に掲げる総会の権限は、第 10 条の一般的範囲を制限するものではない。
しかし、総会は平和を脅かす「事態について、安全保障理事会の注意を促すことができ
る」が、安保理が特定の紛争に取り組んでいるときは「総会は、安全保障理事会が要請し
ない限り、この紛争又は事態について、いかなる勧告もしてはならない」と第 12 条 1 で明
確に規定している。
第 12 条 1
安全保障理事会がこの憲章によって与えられた任務をいずれかの紛争又は事態
について遂行している間は、総会は、安全保障理事会が要請しない限り、この紛争又は事
態について、いかなる勧告もしてはならない。
2
事務総長は、国際の平和及び安全の維持に関する事項で安全保障理事会が取り扱って
いるものを、その同意を得て、会期ごとに総会に対して通告しなければならない。事務総
長は、安全保障理事会がその事項を取り扱うことをやめた場合にも、総会又は、総会が開
会中でないときは、国際連合加盟国に対して同様に通告しなければならない。
第 14 条
第 12 条の規定を留保して、総会は、起因にかかわりなく、一般的福祉又は諸国
間の友好関係を害する虞があると認めるいかなる事態についても、これを平和的に調整す
るための措置を勧告することができる。この事態には、国際連合の目的及び原則を定める
この憲章の規定の違反から生ずる事態が含まれる。
総会と安全保障理事会の権限の最大の格差を示すことは、安全保障理事会の決議は加盟
国すべてに拘束力をもつ、つまり、安保理の決定には加盟国は従わなければならないのに
対し、総会の決議は拘束力をもたないことである。
つまり、総会の決議が常に重要な象徴的意義をもつにかかわらず、拘束力をもたない。
それに対し、安全保障理事会の決議は加盟国すべてに拘束力をもち、実際、それが憲章に調
印するさいの条件であった。したがって、加盟国はすべて従わなければならない。
総会と安保理は、さらに開会の時期に大きな違いがある。総会は普通「通常会期」中に
開かれるが、このことは実質的にその機能と柔軟性を損ね、会議を建前とイデオロギー的
348
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なものにしてしまった。この習慣はしだいに確立され、ニューヨークで 9 月に始まる通常
総会には世界の指導者がはせ参じ、その時々に話題になっている問題について演説をする
ようになった(きわめて形式的になっている)。
これに対して安保理は、夜間や週末でさえ(事件などが起きれば)直前の通知で緊急に臨
時開催されうる。これは安保理が国連のいわば行政府であることを示唆している。
(安保問題は、安保理事国にまかせるとしても、安保問題以外の世界的問題がたくさん
浮上しているので、それらについてバラバラ意見をいっても効果はあまりない。常任の総
務委員会などを設置して、安保以外の人類世界の問題についてのテーマを検討し、総会に
かけて世界全体で共同で活動すべきことを考えるべきであろう。安保理国以外の国は総会
以外に意見発表機会がないのだから、総会は人類世界世論の場として、有効活用システム
を考えるべきであろう。これは国連の改革として後述する)
。
〔第 5 章
安全保障理事会〕は、安保理の構成、任務と権限、表決と手続を規定している。
ここは 1943 年から 45 年に国連憲章を作り上げた交渉者が最大の努力を傾注したところで
あった。
まず、安全保障理事会の構成については、第 23 条に規定されており、安保理は、すべて
常任理事の席をもつ戦勝 5 ヶ国アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国(最初は中華
民国、現在は中華人民共和国)と、2 年を任期に交替する非常任理事 6 ヶ国で構成される。
非常任理事国の数は、20 年後に 10 ヶ国に増やされた。
第 23 条
1.安全保障理事会は、15 の国際連合加盟国で構成する。中華民国、フランス、ソヴィエ
ト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ
合衆国は、安全保障理事会の常任理事国となる。総会は、第一に国際の平和及び安全の維
持とこの機構のその他の目的とに対する国際連合加盟国の貢献に、更に衡平な地理的分配
に特に妥当な考慮を払って、安全保障理事会の非常任理事国となる他の 10 の国際連合加盟
国を選挙する。
2.安全保障理事会の非常任理事国は、2 年の任期で選挙される。安全保障理事会の理事国
の定数が 11 から 15 に増加された後の第 1 回の非常任理事国の選挙では、追加の 4 理事国
のうち 2 理事国は、1 年の任期で選ばれる。退任理事国は、引き続いて再選される資格はな
い。
3.安全保障理事会の各理事国は、1 人の代表を有する。
安保理の任務及び権限は、第 24 条で規定されていて、すべての加盟国は、国際間の平和
と安全にかかわる主たる責任を安全保障理事会に任せることに同意を求められ、ひるがえ
って安保理は全加盟国に代わってそのように行動する責務を負った。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 24 条
1.国際連合の迅速且つ有効な行動を確保するために、国際連合加盟国は、国際の平和及
び安全の維持に関する主要な責任を安全保障理事会に負わせるものとし、且つ、安全保障
理事会がこの責任に基く義務を果すに当って加盟国に代って行動することに同意する。
2.前記の義務を果すに当たっては、安全保障理事会は、国際連合の目的及び原則に従っ
て行動しなければならない。この義務を果たすために安全保障理事会に与えられる特定の
権限は、第 6 章、第 7 章、第 8 章及び第 12 章で定める。
3.安全保障理事会は、年次報告を、また、必要があるときは特別報告を総会に審議のた
め提出しなければならない。
全加盟国は、国際間の平和と安全にかかわる主たる責任を安全保障理事会に任せること
に同意したからには、第 25 条のように、全加盟国は安保理の決定のすべてを「受諾し、か
つ履行することに同意」しなければならない。
第 25 条
国際連合加盟国は、安全保障理事会の決定をこの憲章に従って受諾し且つ履行す
ることに同意する。
国連が現在、安全保障に関しておこなっている任務のうちで、軍縮に関する規定は第 26
条程度で、きわめて不十分であると考えられる。これについては、最後に国連の改革のと
ころで述べる。
第 26 条
世界の人的及び経済的資源を軍備のために転用することを最も少なくして国際の
平和及び安全の確立及び維持を促進する目的で、安全保障理事会は、軍備規制の方式を確
立するため国際連合加盟国に提出される計画を、第 47 条に掲げる軍事参謀委員会の援助を
得て、作成する責任を負う。
安保理の表決の仕方は第 27 条に規定されている。いわゆる常任理事国の拒否権に関して
規定されているが、巧みな文言で規定されているため、
「拒否権」という言葉は出てこない。
「手続事項に関する安全保障理事会の決定は、9 理事国の賛成投票によって行われる(つま
り、手続事項には常任理事国も拒否権は発動できない)」
「その他のすべての事項に関する
安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含む 9 理事国の賛成投票によって行わ
れる」と記されている。常任理事国の同意投票を含む 9 理事国の賛成投票とは、すべての
常任理事国の同意が必要ということを意味し、逆に1ヶ国でも反対すれば否決となる。
ここに(常任理事国の同意投票に)常任理事国の拒否権が潜んでいる。5 常任理事国のう
ちの 1 ヶ国でも、それは手続き問題以上のものだとして決議に反対すれば、否決されるの
350
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
である(手続問題か、手続問題以上の問題かは微妙であり、常任理事国の意向に左右され
る)
。
第 27 条
1.安全保障理事会の各理事国は、1 個の投票権を有する。
2.手続事項に関する安全保障理事会の決定は、9 理事国の賛成投票によって行われる。
3.その他のすべての事項に関する安全保障理事会の決定は、常任理事国の同意投票を含
む 9 理事国の賛成投票によって行われる。但し、第 6 章及び第 52 条 3 に基く決定について
は、紛争当事国は、投票を棄権しなければならない。
第 28 条から第 32 条までには、安保理のその他の手続きが規定されているが省略する。
〔第 6 章
紛争の平和的解決〕では、紛争にかかわる当事者(常に国民国家を想定)は、
「交
渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関または地域的取り決めの利用
その他の当事者が選ぶ平和的手段による」(第 33 条)解決を求めなければならないとして
いる。
つまり、いかなる紛争でも第 6 章で述べるような平和的手段による解決をもとめなけれ
ばならない。ここには武力解決(つまり、戦争)は入っていない。武力解決をしてはなら
ないということである。
第 33 条 1
いかなる紛争でもその継続が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞(おそ
れ)のあるものについては、その当事者は、まず、第一に、交渉、審査、仲介(紛争解決
のため当事者間に第三者が介入すること)、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関又は
地域的取極(とりきめ)の利用その他当事者が選ぶ平和的手段による解決を求めなければ
ならない。
2
安全保障理事会は、必要と認めるときは、当事者に対して、その紛争を前記の手段に
よって解決するように要請する。
そのために、安保理は、世界の平和を危うくするようないかなる紛争についても調査する
権限を有し(第 34 条)
、第 35 条では、どの加盟国も安保理に動議を出すことができるとし
ている。そして加盟国は総会に対しても発議できるが、総会はその見解を安保理に送付で
きるにすぎない。安保理は適切な手続き、あるいは調整の方法を勧告する全面的権限を与
えられているが、法的紛争は通常、当事者によりハーグの国際司法裁判所に付託されなけ
ればならないと規定されている(第 36 条)
。
351
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 34 条
安全保障理事会は、いかなる紛争についても、国際的摩擦(人々の間のあつれき)
に導き又は紛争を発生させる虞のあるいかなる事態についても、その紛争又は事態の継続
が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞があるかどうかを決定するために調査するこ
とができる。
第 35 条 1
国際連合加盟国は、いかなる紛争についても、第 34 条に掲げる性質のいかなる
事態について、安全保障理事会又は総会の注意を促すことができる。
2
国際連合加盟国でない国は、自国が当事者であるいかなる紛争についても、この憲章
に定める平和的解決の義務をこの紛争についてあらかじめ受諾すれば、安全保障理事会又
は総会の注意を促すことができる。
3
本条に基づいて注意を促された事項に関する総会の手続きは、第 11 条及び第 12 条の
規定に従うものとする。
第 36 条 1
安全保障理事会は、第 33 条に掲げる性質の紛争又は同様の性質の事態のいかな
る段階においても、適当な調整の手続き又は方法を勧告することができる。
2
安全保障理事会は、当事者が既に採用した紛争解決の手続きを考慮に入れなければな
らない。
3
本条に基づいて勧告をするに当たっては、安全保障理事会は、法律的紛争が国際司法
裁判所規程の規定に従い当事者によって原則として同裁判所に付託されなければならない
ことも考慮に入れなければならない。
ここで、もう一度、ハーグの国際司法裁判所について詳細に述べる。
《ハーグ国際司法裁判所》
国際司法裁判所(ICJ。International Court of Justice)は、国際連合の主要な常設の
国際司法機関のことで、その役割は、国家間の法律的紛争、即ち国際紛争を裁判によって
解決、または、法律的問題に意見を与えることである。国際法における権威であり、その
法律的意見は、国際法に多大な影響を与える。
1946 年、国際司法裁判所規程に基づいて国際連合の主要な司法機関として(規程 1 条)
設立された。裁判所は、原則として常に開廷されることが宣言されており(規程 23 条)
、
常設性が明言されている。
当事者となりうるのは国家のみである(規程 34 条)。個人や法人は訴訟資格を有さない。
国際司法裁判所規程は、国際連合憲章とは不可分の一体であるために国際連合加盟国は当
然ながら、国際連合非加盟国も、安全保障理事会の勧告のもとに国際連合総会でなされる
決議によって当事国となることができる。日本は、
国際連合に加盟した 1956 年より前の 1954
年より当事国となっている。
国際司法裁判所は、当事者たる国家により付託された国家間の紛争について裁判を行っ
て判決・命令をする権限を持つ。一審制で上訴は許されない。なお、判決の意義・範囲に
352
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
争いがある場合にのみ当事国は解釈を求めることができる。また、国連総会および特定の
国連の専門機関が法的意見を要請した場合には勧告的意見を出すことができる。
国際司法裁判所における裁判の開始は、
「原則として両当事国の同意による付託」
、ある
いは「原告の訴えに対して被告が同意した場合」に開始される。これは、国際社会に統一
された権力機構が存在せず、各国が平等の主権を有するゆえんである。つまり、国際司法
裁判は「原告の訴えに対して被告が同意した場合」にしか開始されないことになる。
このため、たとえば、日本は過去に「竹島問題」を提訴したが、韓国が同意しないため
国際司法裁判にかからなかったことがある(国連ができて 70 年近くにもなるのであるから、
もう少し間口を広げて積極的に判断をくだせるようにしなければならない。これは国連の
改革として、後述する)
。
裁判は判決をもって終了するが、判決は当事国を法的に拘束する。この場合当事国のみ
を特定の事件においてのみ拘束し、第三国を拘束しない。ただしその判断は極めて高い権
威を持つとされ、国際法の解釈に大きな影響を与える。また、ときとして「確立された判
例」という形で、裁判所自身によって援用される。判決の履行は国際連合安全保障理事会
の勧告あるいは決定に訴えることができる(国連憲章 94 条)
。
裁判官は、国籍の違う 9 年任期の裁判官 15 人で構成される(規程 3 条)。徳望が高く、
かつ各国で最高の裁判官に任ぜられるのに必要な資格を有する者、もしくは、国際法に有
能で名のある法律家の中から、
各国が候補者を指名して選挙によって選ばれる(規程 2 条)
。
選挙は、候補者の名簿から安全保障理事会および総会でそれぞれ別個に選挙して行う。
裁判官には双方で絶対多数を得た者が選ばれる(規程 8 条ほか)
。所長の任期は 3 年。所
長選挙は、15 人の判事による互選方式で実施される。現在の所長は、ペーテル・トムカで、
2012 年に選ばれた。
2009 年から 2012 年まで小和田恆が日本人として初めて所長を務めた。
裁判官は、裁判所の事務に従事する間は外交官としての外交特権が認められる。
裁判官は、慣行でアジアから 3 人、アフリカから 3 人、中南米から 2 人、東欧から 2 人、
北米・西欧・その他から 5 人が選ばれている。また、この 15 人の中には国連安保理常任理
事国 5 ヶ国の判事が一人ずつ含まれることになっている。
国際司法裁判所の説明を終わり、国連憲章に返る。
第 33 条から第 35 条のことを行っても、当事者が合意に至ることができない場合、その
問題は安保理に付託され(第 37 条)
、安保理は紛争の平和的解決のために独自の勧告を行
うことができる(第 38 条)
。
第 37 条 1
第 33 条に掲げる性質の紛争の当事者は、同条に示す手段によってこの紛争を解
決することができなかったときは、これを安全保障理事会に付託しなければならない。
353
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2
安全保障理事会は、紛争の継続が国際の平和及び安全の維持を危うくする虞が実際に
あると認めるときは、第 36 条に基づく行動をとるか、適当と認める解決条件を勧告するか
のいずれかを決定しなければならない。
第 38 条
第 33 条から第 37 条までの規定にかかわらず、安全保障理事会は、いかなる紛争
についても、すべての紛争当事者が要請すれば、その平和的解決のためにこの当事者に対
して勧告することができる。
第 6 章の紛争の平和的解決は第 33 条から第 38 条までの 6 条で終わっている。これで問
題が解決すればよいが、侵略者または脅威となる国が平和的解決手段を拒否した場合の平
和の強制執行に関するものが、第 7 章である。
〔第 7 章
平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動〕では、国連が第 6
章までの手続きに従って平和的解決を試みても、侵略者または脅威となる国が平和的解決
手段を拒否した場合には、どうするかを定めている。
伝統的には勢力均衡の方式(同盟主義)を通じて安全保障がはかられてきたことは述べ
た(図 76(図 18-4。P335)参照)。仮想敵国の存在を前提にしつつ、第 3 国との同盟や
自国の軍備増強などにより相互の力の均衡を維持することを通じて、安全をはかる方式で
ある(しかし、これは安全をはかる方式とはいえない。たまたま均衡した場合、戦争がな
いこともあるかもしれないが、相互に軍拡競争に陥り、何かの問題をきっかけに均衡が崩
れれば、戦争になる場合もある。現実、歴史的には、これは戦争になって終わっている)。
そこで、こうした方式に対して、国連は、勢力均衡方式の欠点を克服する集団安全保障
の制度を設定している。これは対立関係にある国家をもとりこんだ 1 つの集団を形成し(つ
まり、国連加盟国を一つの集団として)、集団内の一国が他国に対して行う武力攻撃は集
団の構成国すべての共通利益への侵害であるとして加害国に集団的な制裁行動をとること
を通じて、集団構成国全体(つまり、国連加盟国全体)の安全を保障する方式である。
つまり、国連憲章が規定する集団安全保障制度は集団構成国全体の安全を保障する方式
であり、国連憲章自身が規定する自衛(第 51 条)の場合と国連憲章の集団安全保障に基づ
く強制措置の場合(第 42 条)を除いて、武力による威嚇および武力の行使は全面的に禁止
されている(こういう武力行使禁止原則は一般国際法の強制規範と考えられている)
。
具体的には、前述したように、憲章は、紛争の平和的解決義務を設定するとともに(第 2
条 3 項)、国際関係における武力による威嚇または武力の行使を禁止した(第 2 条 4 項)。
そのうえで、国際の平和と安全の維持に関する主要な責任をいわゆる 5 大国を常任理事
国とする安全保障委員会に負わせ(第 24 条)、さらに、〔第 7 章 平和に対する脅威、平
和の破壊及び侵略行為に関する行動〕において、安全保障理事会に、国際の平和に対する
脅威、平和の破壊、侵略行為の認定の権限(第 39 条)と、国際の平和と安全を維持・回復
354
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
するための強制措置の発動の権限(第 41 条以下)を与えている。ここが国連憲章の集団的
安全保障制度のもっとも重要な点である。
第 39 条 安全保障理事会は、
平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定し、
並びに、国際の平和及び安全を維持し又は回復するために、勧告し、又は第 41 条及び第 42
条に従っていかなる措置をとるかを決定する。
まず、第 39 条の平和に対する脅威、平和の破壊又は侵略行為の存在を決定するとなって
いるが、平和に対する脅威の定義は憲章上なく、その認定には安全保障理事会の裁量が大
きく働く(この点は、平和の破壊、侵略行為についても同じである)。
平和に対する脅威が認定された例には、1948 年に中東紛争に関して停戦を命じる際に、
パレスチナにおける状態が平和に対する脅威を構成するとされた。また、1965 年に南アフ
リカのアパルトヘイト政策に関して同国の武器その他の資材の取得について、平和に対す
る脅威と認定された。
平和の破壊については、朝鮮戦争の際に、北朝鮮からの韓国に対する武力攻撃が平和の
破壊を構成するとされたほか、フォークランド紛争やイラン・イラク戦争の際に平和の破
壊が認定された。冷戦後は、イラクのクウェート侵攻について例がある。
安全保障理事会は侵略行為の認定には慎重であり、朝鮮戦争の際に、総会が中国の行為
を侵略に該当すると決定した変則的ななものはあるものの、安全保障理事会による侵略行
為の認定例はみられない。
《友好関係原則宣言》
また、1970 年の友好関係原則宣言は武力復仇(国際法、自国に対する外国の違法行為に
対して、その中止や救済を求めて報復的になされる行為)を禁止している。この友好関係
原則宣言とは、国際連合総会決議 2625 であり、正式には「国際連合憲章に従った諸国間の
友好関係及び協力についての国際法の原則に関する宣言」という。武力行使・威嚇の禁止、
国際紛争の平和的解決、国内問題不干渉、相互協力義務、人民の同権及び自決、主権平等、
国際義務の誠実履行の 7 つの原則を宣言している。
この宣言自体には法的拘束力はないが、
国際連合憲章の解釈に少なからず影響を与えていて、国家の国際的行動準則を示す国際法
の基本原則と考えられている。
《侵略の定義に関する決議》
1974 年に国連総会は「侵略の定義に関する決議」を採択した(総会決議 3314)。これは、
安全保障理事会が侵略を認定する際の指針となる基本的原則を示したものであるが、それ
によると、侵略とは、他国の主権、領土の保全もしくは政治的独立に対する武力行使、ま
たは、国連憲章と両立しないその他の武力行使とされ(第 1 条)、武力による威嚇は含ま
れない。
355
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
また、武力の先制使用は侵略行為の一応の証拠とされるが、安全保障理事会は、関連状
況を考慮して別途決定することができる(第 2 条)。さらに、具体的な例示として、他国
の領土の併合、他国の港や沿岸の武力による封鎖、他国の陸軍、海軍、空軍に対する攻撃、
駐留協定違反の基地使用・残留、重大な武力行為を行う武装部隊や不正規兵の派遣、など
があげられている(第 3 条)。
安全保障理事会は、その他の行為についても侵略の認定をすることができる(第 4 条)。
このように、この決議は、侵略の認定に関して、ある程度詳細な内容を提示する一方、安
全保障理事会の裁量権も認めている。
前述したように第 1 に認定し、第 2 に、安保理は危機的状況を判断し、その解決のため
の暫定措置を勧告し、
「関係当事者がこの暫定措置に従わなかったときは、そのことに妥当
な考慮を払い」
、どのような手段を用いるかを決定する(第 40 条)。暫定措置は、事態の悪
化の防止を目的とするにとどまり、関係当事者の権利や請求権または地位を害するもので
はない。こうした暫定措置は、典型的には停戦の要請、兵力の撤退や休戦協定締結の要請
である。
第 40 条
事態の悪化を防ぐため、第 39 条の規定により勧告し、又は措置を決定する前に、
安全保障理事会は、必要又は望ましいと認める暫定措置に従うように関係当事者に要請す
ることができる。この暫定措置は、関係当事者の権利、請求権又は地位を害するものでは
ない。安全保障理事会は、関係当事者がこの暫定措置に従わなかったときは、そのことに
妥当な考慮を払わなければならない。
第 41 条で、安保理は、攻撃する国に対して軍事以外の措置、
「経済関係及び鉄道、航海、
航空、郵便、電信、無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関
係の断絶を含む」措置をとることを決定する権限を与えられる。
第 41 条
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる
措置を使用すべきかを決定することができ、かつ、この措置を適用するように国際連合加
盟国に要請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、
無線通信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むこと
ができる。
この第 41 条のままでは、国際連盟と大差はなく、これだけではイタリアのエチオピア侵
攻時のような、経済制裁の失敗になってしまうこともありうる。そこで、
第 42 条
安全保障理事会は、第 41 条に定める措置では不充分であろうと認め、又は不充
分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回復に必要な空軍、
356
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国の空軍、海軍又は
陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。
安保理は、軍事以外の措置では不十分と判断したなら、第 42 条によって、あらゆる可能
な措置を実行する権限を与えられている。
もっとも、国連自身には固有の軍隊がない以上、加盟国からの軍事力の提供を予定する
こととなり、安全保障理事会の要請にもとづき特別協定を締結し、それに従い兵力、その
他の便益・援助の提供についてとりきめることにしている(第 43 条)
。
この目標達成のために、すべての加盟国は(安保理のメンバーだけでなく)
、求められれ
ば、通行権を含め軍事力、支援、設備を提供するよう義務づけられている。そうした貢献
は「特別協定」
(第 43 条)によって交渉するものとしているが、通行権をのぞき、中小国
に多大な貢献を期待してはいなかったが、国連憲章に調印したどの国も、自分の役割を十
分に果たさなければならないことは明白である。
第 43 条 1
国際の平和及び安全の維持に貢献するため、すべての国際連合加盟国は、安全
保障理事会の要請に基きかつ一又は二以上の特別協定に従って、国際の平和及び安全の維
持に必要な兵力、援助及び便益を安全保障理事会に利用させることを約束する。この便益
には、通過の権利が含まれる。
2
前記の協定は、兵力の数及び種類、その出動準備程度及び一般的配置並びに提供され
るべき便益及び援助の性質を規定する。
3
前記の協定は、安全保障理事会の発議によって、なるべくすみやかに交渉する。この
協定は、安全保障理事会と加盟国との間又は安全保障理事会と加盟国群との間に締結され、
かつ、署名国によって各自の憲法上の手続きに従って批准されなければならない。
第 44 条
安全保障理事会は、兵力を用いることに決定したときは、理事会に代表されてい
ない加盟国に対して第 43 条に基づいて負った義務の履行として兵力を提供するように要請
する前に、その加盟国が希望すれば、その加盟国の兵力中の割当部隊の使用に関する安全
保障理事会の決定に参加するようにその加盟国を勧誘しなければならない。
第 45 条では、安保理の活動を迅速に展開するために、
「加盟国は、合同の国際的強制行動
のため国内空軍割当部隊を直ちに利用に供することができるように保持しなければならな
い」とし、第 46 条で「兵力使用の計画は、軍事参謀委員会の援助を得て安全保障理事会が
作成する」となっている。
第 45 条
国際連合が緊急の軍事措置をとることができるようにするために、加盟国は、合
同の国際的強制行動のため国内空軍割当部隊を直ちに利用に供することができるように保
持しなければならない。これらの割当部隊の数量及び出動準備程度並びにその合同行動の
357
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
計画は、第 43 条に掲げる一又は二以上の特別協定の定める範囲内で、軍事参謀委員会の援
助を得て安全保障理事会が決定する。
第 46 条
兵力使用の計画は、軍事参謀委員会の援助を得て安全保障理事会が作成する。
軍事参謀委員会については、次の第 47 条で決められている。軍事参謀委員会のメンバー
は「安全保障理事会の常任理事国の参謀総長またはその代表者」に限定され、他の加盟国
は、「委員会の責任の有効な遂行のため委員会の事業へのその国の参加が必要であるとき」
にかぎり、委員会と提携するよう承知されるのである。
さらに、安全保障理事会の常任理事国の参謀総長またはその代表者で構成される軍事参
謀委員会を設置し、提供された兵力の使用・指揮に関して安全保障理事会に助言・援助を
与えることとした(第 47 条)
。
第 47 条 1
国際の平和及び安全の維持のための安全保障理事会の軍事的要求、理事会の自
由に任された兵力の使用及び指揮、軍備規則並びに可能な軍備縮小に関するすべての問題
について理事会に助言及び援助を与えるために、軍事参謀委員会を設ける。
2
軍事参謀委員会は、安全保障理事会の常任理事国の参謀総長又はその代表者で構成す
る。この委員会に常任委員として代表されていない国際連合加盟国は、委員会の責任の有
効な遂行のため委員会の事業へのその国の参加が必要であるときは、委員会によってこれ
と提携するように勧誘されなければならない。
3
軍事参謀委員会は、安全保障理事会の下で、理事会の自由に任された兵力の戦略指導
について責任を負う。この兵力の指揮に関する問題は、後に解決する。
4
軍事参謀委員会は、安全保障理事会の許可を得て、かつ、適当な地域的機関と協議し
た後に、地域的小委員会を設けることができる。
さらに、第 49 条で、全ての加盟国は安保理の決議が履行されるよう援助を与えなければ
ならないことを再び規定したあと、第 50 条で、国連の履行措置で(封鎖や交通の途絶など
が原因で)
「特別の経済問題」を生じしめるなら、加盟国は安保理と速やかに協議する権利
を有するとしている。
第 49 条
国際連合加盟国は、安全保障理事会が決定した措置を履行するに当って、共同し
て相互援助を与えなければならない。
第 50 条
安全保障理事会がある国に対して防止措置又は強制措置をとったときは、他の国
でこの措置の履行から生ずる特別の経済問題に自国が当面したと認めるものは、国際連合
加盟国であるかどうかを問わず、この問題の解決について安全保障理事会と協議する権利
を有する。
358
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そして、第 7 章の最後の第 51 条に問題の集団的自衛権が出てくる。
第 51 条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合に
は、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的
または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟
国がとった措置は、ただちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置
は、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持または回復のために必要と認める行動
をいつでもとるこの憲章に基づく権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすもの
ではない。
この国連憲章第 51 条には自衛権(個別的自衛権)問題と集団的自衛権問題があり、とく
に集団的自衛権という言葉とその概念は、この国連憲章ではじめて登場したものであり、
その定義も明確でなく問題が多いので、後であらためて論ずることにする。この集団的自
衛権は次の国連憲章第 8 章とも関連しているので、まず、第 8 章までの国連の集団安全保
障制度の全体の説明を終えてから、再び、この憲章第 51 条を論ずることにする。
〔第 8 章
地域的取極(とりきめ)
〕では、その活動が国連自体の目的に合致するかぎりに
おいて、国際平和を維持するための地域協定の締結、あるいは存在を認めたものである。
それは地域的機関内で地域の紛争を解決することを奨励し、安保理はそうした手段を、国
際安全保障体制を補強するいわば控え壁として利用するかもしれないとしている。
この地域協定には、将来の安全保障は大国の一つが率先する地域グループにより維持さ
れるのが最善だという、チャーチルの考えが反映されている。当事国にこそ、近隣諸国の
侵略を抑止、あるいは阻止するもっとも直接的な理由があるというのが、彼の考えであっ
た。チャーチルには、国際連盟の加盟国の大半が、遠く離れた地域での平和の侵害(たと
えば日本軍の満州侵略)を阻止するために資源を提供するのは難しいと判断したことがあ
った(チャーチルは東南アジアの防衛が日本からの攻撃に不備であることはわかっていた
が、余力がなく断念した)
。
この選択肢は大国の「勢力範囲」政策を招くではないかと懸念していたアメリカ国務長
官コーデル・ハル(ルーズベルト大統領のもとで現在の国連の集団安全保障制度を実質ま
とめあげたことでノーベル平和賞を受賞したことは述べた)でさえ、少なくとも(安保理
の監督のもとでの)地域的取極は有益かもしれないと考えていたといわれている。
第 52 条 1
この憲章のいかなる規定も、国際の平和及び安全の維持に関する事項で地域的
行動に適当なものを処理するための地域的取極又は地域的機関が存在することを妨げるも
359
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のではない。但し、この取極又は機関及びその行動が国際連合の目的及び原則と一致する
ことを条件とする。
2
前記の取極を締結し、又は前記の機関を組織する国際連合加盟国は、地方的紛争を安
全保障理事会に付託する前に、この地域的取極又は地域的機関によってこの紛争を平和的
に解決するようあらゆる努力をしなければならない。
3
安全保障理事会は、関係国の発意に基くものであるか安全保障理事会からの付託によ
るものであるかを問わず、前記の地域的取極又は地域的機関による地方的紛争の平和的解
決の発達を奨励しなければならない。
4
本条は、第 34 条及び第 35 条の適用をなんら害するものではない。
具体的には、地域的取極・地域的機関(以下、あわせて地域的機関)に、地域的紛争の
解決の任務(第 52 条)のほか、
「強制行動」をとる権限を認めている(第 53 条)
。しかし、
この場合の「強制行動」には国連安全保障理事会の許可を必要とする(第 53 条 1 項)
。そ
のため、いかなる行動が「強制行動」にあたるかという問題が生じる。
第 53 条
1.安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記
の地域的取極または地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会
の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。も
っとも、本条 2 に定める敵国のいずれかに対する措置で、第 107 条に従って規定されるも
の又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、
関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うとき
まで例外とする。
2.本条 1 で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の
敵国であった国に適用される。
第 54 条
安全保障理事会は、国際の平和及び安全の維持のために地域的取極に基いて又は
地域的機関によって開始され又は企図されている活動について、常に充分に通報されてい
なければならない。
たとえば、経済制裁などの非軍事的措置も「強制行動」に含まれ、その発動には安全保
障理事会の許可を必要とするという見解がある(米州機構が 1960 年にドミニカに対して、
62 年にキューバに対してそれぞれとった措置に関する安全保障理事会における旧ソ連など
の主張。アメリカは許可を要しないと主張)
。
これに対して、軍事的措置は「強制行動」にあたり、その発動のためには許可を必要と
する。もっとも、この点に関しては、拘束力のある決定でなく、勧告によって軍事的措置
360
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
をとることを要請する場合には、安全保障理事会の許可を必要としないという主張もみら
れる(とくに、1962 年のキューバに対して海上封鎖を行った際のアメリカの立場)。
今日でも、地域的紛争に対処するため地域的機関が平和維持活動を展開する例がみられ、
それはむしろ増大しているが(リベリア、グルジア、シエラレオネ、タジキスタンなどに
ついて)、これらも、その任務の内容によっては、強制行動を含みうると考えられるため、
安保理の許可なく行うことが許されるかどうかは、問題となる(当然、国連憲章の趣旨か
ら安保理の許可を必要とする)
。
今日の世界で、地域の安全保障グループを動員する権限があることの有用性は、むしろ高
まっているかもしれない(アフリカ連合や東南アジア諸国連合など)
。いまや手を広げすぎ
た国連は、危機や戦争への対処をその地域の加盟国に請け負わせたいと期待を寄せている
(もちろん、常に国連憲章の原則を尊重することを条件にだが)
。いずれにしても、地域的
機関は国際安全保障体制を補強する組織である。
◇国連を形骸化させた憲章 51 条の「集団的自衛権」
ここで再び、憲章第 51 条に返って述べよう。
第 51 条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合に
は、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的
または集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使にあたって加盟
国がとった措置は、ただちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置
は、安全保障理事会が国際の平和および安全の維持または回復のために必要と認める行動
をいつでもとるこの憲章に基づく権能および責任に対しては、いかなる影響も及ぼすもの
ではない。
自衛権(個別的自衛権と次の集団的自衛権に共通する自衛権)
国連憲章では武力の行使を禁止し(第 2 条 4 項。P340)、それとともに、安全保障理事
会が必要な措置をとるまでの間、第 51 条で自衛権(right of self-defense)の行使を認
めている。ただし、憲章の文言上、
「武力攻撃が発生した場合には」自衛権の行使が認めら
れる。これ(
「武力攻撃が発生した場合には」
)は、19 世紀の自衛権が、国家の重大な利益
に対する急迫な危険をもって、その行使を認めていたのを制限したものと解される。つま
り、
「武力攻撃が発生したという」事実が起きた場合だけ、自衛権が認められている。
第 2 次世界大戦後、人類は過去の経験を考慮して,国連憲章という国際法(国際規約)
に同意して加盟しているのである。過去の戦争が(満州事変もヒトラーの戦いも)
「自衛の
ために、やむをえず」という理由で実行されてきたという歴史があり、「自衛権」が拡大解
釈されてきたという人類の苦い経験かある。すでに国際連盟や不戦条約以来、行われたき
た「自衛権」の拡大解釈を防止するように設定されたのが、そもそも第 2 次世界大戦後の
361
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国連憲章の集団安全保障制度である(この「自衛権」が拡大解釈されてしまえば、国連を
つくった目的も半減してしまう)
。
国家は自衛権を有しているとしても、この権利は例外的な権利であり違法性阻却事由(違
法性を否定する事由。たとえば、国内法の民法でいう正当防衛。正当防衛が成立するには
いろいろな条件を満たさなければならない)であることから、厳格な条件に服する。さも
なければ、武力行使禁止原則(国連憲章の前文(P340)など前述したことで武力行使禁止
原則は明らか)という原則自身がなし崩しになってしまうからである。
国連憲章第 51 条は次のような要件を規定している。第一に、第 51 条にあるように、武
力攻撃の発生という実質的要件、第二に、安全保障理事会が必要な措置を執るまで行使で
きるという時間的要件、第三に、安全保障理事会への報告という手続的要件である。こう
した要件は、個別的自衛権と集団的自衛権に共通の要件である。
国連憲章第 51 条では明記されていないが、それ以外に、必要性と均衡性という二つの要
件が慣習法上課されている。
均衡性とは、自衛のための行動は、武力攻撃を撃退するために必要な限度内にかぎられ、
かつ、攻撃行為と均衡を失するものであってはならないというもので(均衡性の原則)、カ
ロライン号事件(後述)以来確立した要件である。従って、軽微な攻撃に対して大規模な
軍事行動を起こしたり、攻撃を撃退した後、逆に相手国の領土に侵入・占領したりして、
これを併合するようなことは自衛の限度を越えたものであって許されない。
《カロライン号事件》
このカロライン号事件というは、自衛権の概念を確立した上で重要であるので述べてお
く。カロライン号事件とは、イギリス領カナダで起きた反乱に際して、反乱軍がアメリカ
船籍のカロライン号を用いて人員物資の運搬を行ったため、イギリス軍が越境してアメリ
カ領内でこの船を破壊した事件である。アメリカ側からの抗議に対し、イギリス側は、自
衛権の行使である旨、抗弁の一つとして主張した。
アメリカ側は、国務長官ダニエル・ウェブスターが、自衛権の行使を正当化するために
は「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことが必要であると主張し、本件につい
てこれらの要件が満たされていることについての証明を求めた。この自衛権行使に関する
要件は「ウェブスター見解」と呼ばれる。
そこで、自衛権の行使に当たっては、この「ウェブスター見解」において表明された自
衛権正当化の要件である「即座に、圧倒的で、手段選択の余地がない」ことを基礎に、そ
の発動と限界に関する要件が次の 3 つにまとめられている。
ⅰ)急迫不正の侵害があること(急迫性、違法性)
ⅱ)他にこれを排除して、国を防衛する手段がないこと(必要性)
ⅲ)必要な限度にとどめること(相当性、均衡性)
この要件に基づいて発動された自衛権の行使により、他国の法益を侵害したとしても、
その違法性は阻却され、損害賠償等の責任は発生しない。
362
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
また、19 世紀以来の国際慣習法の下、この三要件が満たされるならば、機先を制して武
力を行使する「先制的自衛権」の行使も正当化されると解された。しかし、国連憲章では
「武力攻撃が発生した場合には」とこの要件を厳格に解して、
「先制的自衛権」の行使は認
められない。
以上のようなことから、第 51 条の(個別的)自衛権問題を整理すると(以下、有斐閣『国
際法〔第 5 版〕
』による)
、
第 1 に、自衛権を行使できるのは「武力攻撃」に対してである。単なる権利侵害や義務
違反に対して自衛権を行使することはできない。自衛権行使の対象となる武力攻撃とは、
武力行使のうち「もっとも重大な諸形態」のものを指し、「それほど重大でない諸形態」の
ものに対しては、自衛権ではなく、
「均衡のとれた対抗措置」をとることができるにとどま
。戦前の満州軍などがちょっとし
る(国際司法裁判所(ICJ)ニカラグア事件判決(後述)
た武力衝突からすぐ、自衛権の侵害であるとして 12 時間の最後通牒を発して、時間切れを
狙って大陸で新たな戦争を連発していった)
。国連憲章第 2 条 4 に違反する武力行使のすべ
てが自衛権行使の対象になるわけではないのである。
他方、自決権(民族自決権。自衛権ではない)の確立にともない、植民地本国の武力行
使による抑圧行為は違法な武力攻撃にあたり、植民地人民の解放闘争は自衛権の行使にあ
たると考えられるようになった。
なお、私的な武装集団によるテロ攻撃を理由として他の国家や国家領域に対して自衛権
を行使できるのは、武力攻撃に相当するほどの重大性を有する武力行使(テロ攻撃)を他
国に対して実行する武装集団がその国により、またはその国家のために、派遣されるか、
当該武力行使(テロ攻撃)に対してその国が実質的に関与している場合だけである(侵略
の定義決議第 3 条)
。
第 2 に、自衛権は、武力攻撃が現に行われているか、あるいは今まさに行われようとし
ている場合に限って、個別国家の判断に基づく武力行使を認めるという急場の例外的な権
利であるから、相手の攻撃を見越して先に攻撃する先制自衛や予防的自衛は許されない。
武力攻撃がいったん終息したのちに、それに対する報復や再発防止を目的として武力を行
使するのも自衛権の行使とは言えない。これらの場合には、国連の集団安全保障制度に訴
えることが可能であり、個別国家の判断に基づく武力行使を認めなければならない緊急の
必要性が存在しないからである。
9.11 テロ事件以来、アメリカのブッシュ政権は、脅威が確実であれば攻撃の時間と場所
が不確かであっても先制的に行動するという「先制攻撃戦略」を採用し、アフガニスタン
攻撃やイラク攻撃を実行してきたが、そのような戦略と行動は、現代国際法が達成した戦
争・武力行使の違法化を根底からくつがえすものと言える。
第 3 に、
憲章 51 条には明記されていないが、カロライン号事件以来確立した要件として、
自衛のための行動は、武力攻撃を撃退するために必要な限度内にかぎられ、かつ、攻撃行
為と均衡を失するものであってはならない(均衡性の原則)
。したがって、軽微な攻撃に対
363
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
して大規模な軍事行動を起こしたり、攻撃を撃退した後、逆に相手国の領土に侵入・占領
したりして、これを併合するようなことは自衛の限度を越えたものであって許されない(前
述の 9.11 テロ事件によって、アメリカのブッシュ政権は、アフガニスタン攻撃を開始し
国家を破綻させてしまったのは均衡性を欠くものであった。イラク攻撃でイラクを破綻さ
せたのは、9.11 テロ事件を起こしたアルカイダとも関係がなく、憲章第 51 条とまったく関
係のない、違法戦争であったといえる)
。
《国連憲章では「自衛権」の拡大解釈は許されない》
この国連の集団安全保障制度で強調されるべきことは、国連憲章自身が規定する自衛(第
51 条)の場合と憲章の集団安全保障に基づく強制措置(第 42 条)の場合を除いて、武力に
よる威嚇および武力の行使は全面的に禁止されたことである。さらに、こういう武力行使
禁止原則は一般国際法の強制規範と考えられている。
しかし、いつの時代にも(国際法を)自国、自集団、自同盟に有利に解釈しようとする
ものは出るものである。
たとえば、国連憲章第 2 条 4(P340)は、「すべての加盟国は、その国際関係において、
武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、
また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならな
い。」となっているが、この規定を制限的に解釈して、他国の領土保全や政治的独立を害し
ない武力行使、国連の目的に反しない武力行使は禁止されていないと解するものがいるが、
憲章第 2 条 4 の「領土保全又は政治的独立」への言及は、小国の領土保全と政治的独立の
保護を強調するために挿入されたものであって、武力行使禁止の範囲を限定する趣旨のも
のではない。このような拡大解釈は、国連憲章の前文、目的などからもありえない。実際、
前述の 1970 年の友好関係宣言(国連総会決議 2625)は、武力による対抗措置(復仇)の禁
止を明記している。
また、武力行使の全面的禁止は国連の集団安全保障の有効な機能を前提としているとし
て、拒否権の行使によって国連の集団的安全保障が作動しない場合には、国連憲章に代わ
って一般国際法が適用されるようになり、武力行使の規制がより緩やかになると主張する
説も見られるが、武力行使禁止原則はそれ自身がすでに一般国際法の強制規範として定着
しており、国連の集団的安全保障が有効に機能しないからといってその拘束力が排除され
るわけではない(拒否権の行使によって国連の集団的安全保障制度が作動しない場合、武
力行使が認められるということにはならない。それは憲章の前文や憲章第 2 条 4 などによ
って、武力行使禁止原則はそれ自身がすでに一般国際法の強制規範として定着しているか
らである。それでははどうするか。別の平和的解決手段を模索しなければならない。拒否
権が発動された場合、一般にどうするか、それは国連の問題として国連加盟国が検討し改
善すべきである。国連の改革案の検討で後述する)
。
さらに、近年、大規模な人権侵害を阻止するための武力行使(人道的干渉)を合法とす
る説がしばしば主張されているが、その代表的事例とされる NATO のユーゴスラビア空爆
364
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
(1999 年)についても評価は鋭く対立しており(NATO とセルビア、ロシアなどはまったく
反対の評価をしている)
、人道的干渉を合法とする一般的な法的信念が形成されたとは言い
がたい。
(人道的干渉は問題であるが、これについては、異なった歴史をもつ国々で大きな見解の
相違があるので、時間をかけて調整しなければならない。国連は、1948 年の国連総会で「す
べての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準として」世界人権宣言を採択したが、
現在のところ、法的拘束力はないものである。国連も人権理事会、人権高等弁務官をおい
て人権問題に注力しているが、人権侵害があるからといって、一方的に武力行使をするの
は問題である。国連もこのような問題を解決するための話し合いの場を作る必要がある。
国連の改革について後述する)
。
また、内戦、飢餓、虐殺などの人道危機の場合には、人々の安全を確保するために介入
する責任が国際社会にあるという主張(「保護の責任」論)も見られるが、誰がどのような
手段で介入できるのかは明確にされていない。もし、個別国家による一方的な武力介入を
認めるという趣旨であれば、それは武力行使の原則にふたたび大きな抜け穴を作ることに
なるであろう。
(これらについても、必要となれば、国連で基準をつくって、国連で決議し、国連の新た
な機能として追加するようなこともありうるだろう。国連の改革として後述)。
集団的自衛権
《集団的自衛権が持ち込まれた経緯》
個別的自衛権(自国を防衛する権利)は国連憲章成立以前から国際法上承認された国家
の権利であったのに対し、集団的自衛権については同憲章成立以前にこれが国際法上承認
されていたとする事例・学説は存在しない。
国連の設立の経緯で述べたように、1944 年にダンバートン・オークス会議(1944 年 8 月
から 1 ヶ月半)において採択され、後に国連憲章の基となったダンバートン・オークス提
案(DO 原案)には、個別的または集団的自衛に関する規定は存在しなかった(つまり、第
51 条も、集団的自衛権という概念も、ルーズベルトの原案にはなかった)。
そのころ、米州諸国(ラテンアメリカ諸国)などいくつかの国は、第 2 次世界大戦終了
後に、米州機構を中心に武力攻撃に対する相互援助条約を締結し、地域的共同防衛制度を
設立することにしていた。
そこで、国連憲章第 8 章第 53 条に定められた“地域的機関”に米州機構も名乗りを上げ
ていたが、その“地域的機関”の強制行動(共同防衛)には、安全保障理事会による事前
の許可が必要とされることとなった。ところが、その後、安全保障理事会の表決制度に拒
否権が導入され(1945 年 2 月のヤルタ会談で、ソ連のスターリンが要請し、チャーチルは
反対したが、ルーズベルトは妥協したことは述べた)、その拒否権によって、“地域的機関”
の強制行動(共同防衛)に必要な許可がえられなくなる事態が予想されるようになった(た
365
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とえば、この米州機構の集団的自衛権を安保理に申し出てもソ連の拒否権で許可が得られ
なくなるおそれが生じた)
。
そこで、サンフランシスコ会議(1945 年 4 月 25 日~6 月 26 日。このときには前述した
ようにルーズベルト大統領は(4 月 12 日に)死去しており、トルーマン大統領にかわって
いた)におけるラテンアメリカ諸国の主張によって、安全保障理事会の許可がなくても共
同防衛を行う法的根拠を確保するために、急遽、集団的自衛権が考え出されて国連憲章第
51 条に明記されるに至ったと一般的に言われている。しかし、これは表向きの説明であっ
て、裏では当時のアメリカの思惑が集団的自衛権を挿入させたようである。この間の事情
を国際法学者・祖川武夫編『国際政治思想と対外意識』
(創文社、1977 年)
「集団的自衛―
いわゆる US Formula の論理的構造と現実的機能―」で以下のように記している。
《集団的自衛条約―概念内容の顛倒(てんとう)
》
US フォーミュラの成立―問題状況と対処の仕方―およそ、ひとつの政策を正当づけ、制
度的に固定化するという働きを果たしたところの観念は、それの発生のときの事情、いい
かえればその問題状況とこれへの対処の仕方によって、その論理的構造と現実的機能を基
本的に規定されているものである。
「集団的自衛」
、すなわちここにいう US Formula も、ま
さにそのような働きを示した国際政治上の観念であった。とすれば、この観念の論理的構
造と現実的機能を明らかにするために、ここではまず、それの発生のときの問題状況とこ
れへの対処の仕方とを追求することから、考察をはじめることが適当であろう。
「国際機構にかんする連合国会議」(サンフランシスコ会議)の第 3 委員会の第 4 分科委
員会は、1945 年 5 月 9 日、その第 2 会合でひとつの小委員会を設けることとした。いわゆ
るダンバートン・オークス提案(DO 原案)の地域的取極にかんする部分について、参加諸
国代表から提示された修正意見ないし修正案を分析・分類し、可能ならば一つにまとめる
作業をおこなわせるためである。
さて、小委員会はさっそくその作業を進め、5 月 15 日その第 4 会合で、第 4 分科委員会
にたいする「中間報告」を採択したが、この報告には「諸修正案の分類表」が付けられて
いた(表 14(表 1)参照)
。しかし、期待されていた諸修正案のとりまとめは(正確には、
とりまとめの可能性の検討は)まだおこなわれていなかった。
アメリカ合衆国代表が、集団安全保障の世界的組織の創設(つまり、国連の集団安全保
障の仕組み)といわゆる全米機構(Inter-American System)の継続的機能とを両立させる
ための修正案を練っていて、間もなく提出するつもりであると声明しており、また、それ
との関連で中南米諸国はその修正諸提案をとりあえず保留しておく意図を示していたから
である。
他方で早くもおなじ 5 月 15 日、アメリカ合衆国代表団は、国務長官声明という形で、ひ
とつの文書を公表するにいたった。この英文(省略)が、いわゆる US Formula の登場であ
る。
366
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このいわば予告の文書につづいて、5 月 20 日にはおなじ国務長官声明の形で、二つめの
文書が公表された。こののちの文書は、さきの「声明」にもとづいて、「会議」の地域的取
極委員会に翌日には正式に修正・追加の提案がなされることに決まったことを告げており、
そうして問題の新条項としては、修文上の改善をはかり、現在の国連憲章第 51 条とほぼお
なじ規範文章を掲げるようになっているのである(英文が記されているが、省略する)。
表 14(表1)
では、いったいこの US フォーミュラは、さきの修正案分類表にたいして、どのような対
処の仕方を示しているであろうか。いうまでもなく表 14(表 1)のうち問題はその C 欄に
あるが、この問題と US 解答との間の論理的関連の骨格を図表化し、直接視覚に訴えて理解
の精密さを期待するなら、表 2 のとおりである(表 2 とその分析を省略する)
。以上の問題
提起にたいする解答が、いわゆる US フォーミュラである。
ふつう US フォーミュラは、ラテンアメリカ諸国によってもたらされたいわゆる会議の危
機に対処して、その紛議を収拾するために考案された解決策であるといわれているが、果
たして全くそのとおりなのであろうか。すでに周知のこととなっているが、アメリカ合衆
国代表団の顧問として「会議」に参加したジョン・フォスター・ダレス(1888~1959 年)
は、5 年後の著書『War or Peace』のなかで、すこぶるエクスプレッシーヴな行文を連ねて、
説いている―
<われわれがサンフランシスコに集まったとき、われわれは合衆国政府が最近におこった二
つの行動の間の矛盾、調整しがたい矛盾に直面することとなった。一つは、5 大国の拒否権
367
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
をみとめたヤルタ会議での決定(1945 年 2 月 11 日)であるが、この決定を DO 原案(1944
年 9 月)に合わせて読むと、地域的取極にもとづく強制措置はいっさい、5 大国全部の同意
をえた安全保障理事会の許可なしには、行われえないということになる。それがどういう
ことを意味するか・・・・。もう一つは、1945 年 2~3 月メキシコ・シティの協定(チャプ
ルテペク協定という)は、アメリカの国(南北アメリカという意味)のどれ一つに対する
攻撃も他のアメリカ諸国に対する侵略行為とみなされるという原則を定めるとともに、ア
メリカ諸国の間での侵略行動には兵力の使用を含めて共同の制裁措置を適用する組織的な
手続きを確立するところの全米条約を締結することをリコメンドしているのである。この
ようなダンバートン・オークス=ヤルタ方式とチャプルテペク方式との間の衝突は、サン
フランシスコ会議の途中までは充分に気づかれなかった。それをはっきりと指摘したのは、
ラテンアメリカ諸国代表との連絡をおもに担当していたネルソン・ロックフェラーである。
彼によると、それら諸国代表は、アメリカ諸国の地域的共同行動はおそらくソヴィエトの
拒否権に服させられることになるであろうから、チャプルテペクの希望と約束も空しいも
のになると考えており、そのため、彼らの間には反乱の機運が醸成されつつあるというの
である。5 月 5 日(1945 年)の夕、ロックフェラーはこの事について合衆国代表のひとり、
ヴァンデンバーグ上院議員と話し合い、そうして後者は、その夜のうちに国務長官ステチ
二アス宛の手紙を書きとらせ、そのなかで、アメリカ諸国の地域的アソシエーションにソ
ヴィエトの拒否権から離れて自由に作動することを許すような方途が見つけられなくては
ならない旨を極力強調したのである。しかし、問題の解決は容易ではなかった>。
すなわち、まず合衆国代表団内部の意見の深い対立は、大統領(トルーマン)に請訓し、
その指令をえて克服された。ついで、ソヴィエト代表の同意をかちとるために、この期に
およんで取引できる材料も持たないので、最良の外交マナーからは外れた思い切った手が
あえて打たれることとなった。実質的な交渉の相手方ソヴィエトの内諾をえないまま、5 月
15 日、国務長官ステチニアスは、ダレスとともに準備した一つの新聞発表をおこない、そ
のなかで、世間一般にたいしていわゆる US フォーミュラにコミットしてみせたのである。
「この手は成功した。ソ連代表は、最初は、われわれが公然と提唱した案を受諾すること
を拒否したが、結局は屈したのである」
(ダレスの言葉)
。
他方―最も肝心な―ラテンアメリカ諸国の代表たちとの折衝には、若干の曲折があった。
ダレスは、彼の生々しい記憶に残っているホテル・フェアモントのペントハウスでの「劇
的な会合」のことについて、こう語っている―
<彼らは、われわれの提案した章句にまったく満足したわけではなかった。彼らにとって、
collective self-defence(集団的自衛権)の 2 語がそんなに大きな問題を解決できるな
どと信じることは困難だったのである。彼らは、憲章のなかでチャプルテペク協定にはっ
きり言及すること、そのようにして安全保障理事会の拒否権にしばられるコントロールか
ら彼らを特別に外すということのほうを強く望んでいた。しかし、ホテル・フェアモント
での会合のあとでは、彼らはわれわれのフォーミュラに同意することになった。この会合
368
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
で、
(ともに合衆国代表団のメンバーであった)コナリー、ヴァンデンバーグ両上院議員が、
チャプルテペク協定でもくまれていた全米条約を早期に達成することを、合衆国の名誉に
かけて、誓ったからである>。
(以下、中略。結論として祖川氏は、以下のように述べている)
してみると、
いわゆるラテンアメリカの危機と US フォーミュラによる解決という経過は、
むしろつぎのように理解すべきではないであろうか。
すなわち、中南米諸国の、地域システム全体としての自律性の原則的な承認の要求から、
アメリカ合衆国の「会議」外交の強大な指導性によって、結局、地域的共同防衛行動の自
由という形像が、しかもそれだけがまさに develop された。そして、その場合、アメリカ
合衆国のその指導性を規定していた政策モティーフは、ほかならぬ初期冷戦政策のそれ、
すなわち(戦前のイギリス・フランスによるミュンヘン対独宥和政策にまで遡ることはと
もかくとして)
、戦時中の第 2 戦線形成のサボタージュと外辺的実施に示され、東欧解放地
域問題を経て、やがて原爆投下作戦にはっきりと露呈されてくるところの一貫した対ソ戦
略であった、と。事実、中南米諸国が紛争の平和的処理にかんして地域システムの優先性
を確実に保障するために具体的に細かく提案したものはほとんど顧みられず、
「あらゆる努
力をし」
、また、
「奨励する」ということで終わらせられている。地域的取極問題にかけら
れた「会議」の関心は、もはや別のところにむけられていた。そうして、US フォーミュラ
として現れた解決方式は、実に地域的取極とは本来無縁な、軍事技術的に立った諸提案の
うち、構造においてもっとも単純な、それだけ効果においてもっとも破壊的なフランス(お
よびトルコ)の提案に拠っていたのである。
(中略)
結果論のおそれを冒して極論すれば、アメリカ合衆国の対ソ政略が、一般的機構の枠組
づくりのなかで、ラテンアメリカ諸国の地域主義のもつなにほどかの正当性を僭称しなが
ら、フランスなどの強力な軍事的主張を梃子にして、自らを貫徹したといえるであろう(表
14(表 1)のように、フランスは「安全保障理事会に届出た救助条約が規定している緊急措
置は(安全保障理事会の許可なしに)おこないうる、措置は速やかに安全保障理事会に報
告すべきものとする」と提案している)。
(中略)
第二に、しかも連合国会議では、問題の最終的処理はいわゆる US フォーミュラでもって
おこなわれた。すなわち、特殊条約問題は棚上げされ、一般的権利のレベルで処理がおこ
なわれた。
(中略)要するに、US フォーミュラは、さりげなく一般的な権利のレベルで「問
題」に答えることでもって、およそ条約にかかわる一切の面倒な論議を払いのけ、その結
果、獲た権利の条約レベルでの展開を制約されないものとすることに成功しているのであ
る。
第三に、US フォーミュラ構想の形成についてであるが、権利のレベルでの処理、とりわ
け集団的自衛のタームに想到するまでの詳細はあきらかでない。ただ、つぎのような経過
があったことは確かなようである―はじめにアメリカ合衆国政府は、チャプルテペク協定
に言及した試案を示したところ、イギリスの反対に遭い、<代案として協定への言及を避け、
369
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
一般的に自衛権による方式を提案した>。しかし、5 月 15 日発表のテキストにはソヴィエト
の反対があり、結局 5 月 21 日再度の発表の最終的な US フォーミュラに落ち着くこととな
った。なお、これらの交渉はすべて委員会のそと、すなわち舞台裏でおこなわれた。
以上、国際法学者・祖川武夫の「集団的自衛―いわゆる US Formula の論理的構造と現実
的機能―」を長々と引用して、サンフランシスコ会議の舞台裏でアメリカ合衆国がすでに
はじまっていた対ソ戦略の一環として、のちに反共の闘士といわれるジョン・フォスター・
ダレス(のちのアイゼンハワー大統領のときの国務長官)などが暗躍して、トルーマン大
統領の指示を受けて、第 51 条の集団的自衛権を挿入した経緯を述べた。これによって、国
際連合の集団安全保障制度の概念は、国連を創造したルーズベルトやコーデル・ハルなど
の意図(DO 原案)とは大きく顚倒(てんとう)したものとなっていったのである。
《拡大解釈を生む意味曖昧な「集団的自衛権」
》
このようなことで、国際憲章第 51 条に、個別的自衛権と集団的自衛権が存在するように
なったが、個別的自衛権とは、
「自国が他国からの武力攻撃に対し、実力をもってこれを阻
止・排除する権利」というように以前からその定義も国際法上固まっていたが、これに対
し集団的自衛権については、国連憲章第 51 条ではじめて出てきたもので、定義も明確では
なく、
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないに
もかかわらず、実力をもつて阻止する権利である」
、「他国に対して武力攻撃があった場合
に、自国が直接に攻撃されていなくても、実力を以って阻止・排除する権利である」など
といわれるようになった。この集団的自衛権も自衛権であるから、当然、前述の自衛権の
概念の範囲内に限られることは確かであるはずであるが、それも後述するように曖昧に拡
大解釈されるようになっていった。
《集団的自衛権の三つの学説》
現在では、この国連憲章第 51 条の集団的自衛権については、ふたたび祖川武夫『国際法
と戦争違法化』によると、国際的に、①個別的自衛権の共同使用、②他国の権利の防衛、
③他国にかかわる死活利益の防衛の三つの学説があるといわれている(
『集団的自衛権を批
判する』
(2014 年)より)
。
その三学説を図 78(図 18)に示す。①は個別的自衛権の共同使用で、X国がY国とZ国
に同時に、または順番に武力攻撃を行った場合、Y国とZ国は個別的自衛権をそれぞれ行
使できる状態になる。しかし、この集団的自衛権は個別的自衛権と何ら変わるところがな
い。集団的自衛権独自の意義を見出すことはできず、一般的にはこの学説は受け容れられ
ていない。
②は、他国防衛の権利である。X国がY国に対して武力攻撃を行った場合、Y国は個別
的自衛権を行使できるようになる。その一方で、被害国でないZ国は、Y国に支援を与え
ることができ、X国に対して武力を行使することが許されると考える。
370
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 78(図 18) 集団的自衛権をめぐる三学説
たとえば、国際法学者ハンス・ケルゼン(1881~1973 年)は、
「いやしくも集団的自衛権
が意味を持つとすれば、それは、武力攻撃を受けた国が自らを防衛することを意味するだ
けでなく、支援に駆けつけた他国も武力攻撃を受けた国を防衛することを意味する」と述
べている。この定義によると、集団的自衛権を行使するのはどこの国でも良いことになる。
ただ、ケルゼンにいわせれば、こうした集団的自衛権は組織されたものであるので、実効
的なものにするためには、武力攻撃の発生以前に、集団防衛の取りきめが必要である。そ
れがなければ、まったくの幻想に終わることになると述べている(つまり、事前に同盟な
どの関係がなければならない)
。
③は、死活利益を防衛する権利である。つまり、X国がY国に対して武力攻撃を行った
として、Z国がY国に死活利益を有する場合(図では=で表記)に、Z国はY国と同様、
X国に対して武力を行使することが許されることになる。Z国の死活利益を害するX国の
武力行使をZ国に対する武力攻撃とみなし(図では、Y国から伸びる破線の矢印で表記)、
Z国は自衛行動が許されるのである。つまり、
「武力攻撃が他国に向けられたものであって
も、その国の安全や独立が、自国の安全や独立にとって不可欠である時」自衛行動を執る
ことができるというものである(この他国に向けられたものであっても、その国の安全や
独立が、自国の安全や独立にとって不可欠ということは、特別の関係、同盟などを結んで
371
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
いる場合になろう。あるいは、他国への攻撃が自国の死活問題となる関係とは、同盟関係
ではなく、保護国、属国のような関係となるであろう)
。この考え方は、わが国の通説でも
あった。
このように集団的自衛権に関しては三つの異なる学説があるが(①は個別的自衛権とみ
なせば、二つの学説)、国際司法裁判所(IJC)の判例から集団的自衛権の概念規定を行っ
てみる。
後でニカラグア事件の概要と IJC の判決を述べるが、まず、第一の要件として、「武力
攻撃の被害国は、武力攻撃を受けているという認識を形成し宣言しなければならない」。
さらに、「武力攻撃の被害国であるとみなす国家が、援助の要請をしない場合、集団的自
衛権の行使を認める法規則は存在しない」と述べ、第二の要件を明らかにしている。つま
り、集団的自衛権の場合には、被害国が武力攻撃について宣言し、かつ援助の要請を第 3
国に行うことが必要である。結論として、IJC は、「武力攻撃の被害国である国家が援助の
要請を行わなければならないという要件は、当該国家が、武力攻撃を受けていることを宣
言しているべきであるという要件に追加される要件である」。
このように、①の学説のように集団的自衛権を行使する第三国も武力攻撃の対象になっ
ていることを要件としているわけではなく、③の学説のように、死活利益の存在や密接な
関係を要件としているわけでもなく、②の学説、集団的自衛権を他者防衛の権利であると
定義する学説に親近性がある。いわば、第二の学説を基本としつつ、武力攻撃の宣言およ
び援助の要請という二つの要件を追加したとみることができる。つまり、被害国が宣言を
行い、援助の要請を行う限り、どこの国であっても、集団的自衛権が行使できるというこ
とになる。
《濫用されるようになった「他衛権としての集団的自衛権」》
前述のように集団的自衛権は、結局、②と③の場合であるが、いずれにしても、原則と
して、他者を防衛する権利、つまり他衛権であるとみなされるようになっている(何でも
ない他者を防衛することはないから、②、③のZ国とY国は同盟関係か、宗主国と属国な
どのような関係がある場合が多いことになる。そこで国連憲章の第 51 条の集団的自衛権は
同盟権のように拡大解釈されるようになった)。
①の個別的自衛権の場合は「自衛」ということは明白である。しかし、②、③の集団的自
衛権になると「自衛」という意識は希薄になる。もともと、自衛、他衛もきわめてあいまい
な言葉になっている。国連憲章第 51 条の英語正文は、collective self-defense (集団的
自衛権)と表現されているが、自衛が仏語正文では légitime défense (正当防衛)と記載さ
れている。日本語は、英文を元にして翻訳されており、自衛権と訳されているが、仏文で
は正当防衛であり、かならずしも「自己」(self)を防衛(defense)する権利である必要は
ないのである。
前述のニカラグア事件において反対意見を表明したイギリス出身のジェニングス判事は
「援助国が被害国に救援に行く場合、援助国も、他の要件に加えて、幾分なりとも自己を
372
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
防衛するものでなければならない」のであって、「集団的自衛権の場合でも、防衛観念に
何らかの自己の要素が現実のものとして含まれているべきである」と述べている。このジ
ェニングス判事の意見は、英語の「自」衛権という用語に固執した解釈であったが、採用
されなかったのである。
その点、オーストリア出身のケルゼンとしては、集団的自衛権は集団的正当防衛権でし
かなく、「『自』衛という用語は、第 51 条における・・・間違いである」としている。我々、
日本人は集団的自衛権から、「自」衛の権利であり、援助国自身の安全のために機能する
権利であるに違いないと思うが、集団的自衛権の本質は他衛権であると割り切った解釈を
しているものも多い。前法制局長官の小松一郎氏も認めるように、「刑法でいえば『他者
のための正当防衛』に当るものが『集団的自衛権』である」と言っている。
このように、国連憲章第 51 条に「集団的自衛権」が持ち込まれた経緯から、きわめて、
あいまいな概念の言葉で議論がされていなかったので、政治的にはアメリカなどが自陣営
に都合によいように解釈して運用していったのである。
「集団的自衛権の本質は他衛権である」あるいは「集団的自衛権は同盟国を守る他衛権で
ある」というように広く解釈され、後述するようにアメリカなどは、もっぱら、このように
解釈して集団的自衛権を運用している(それを本書ではアメリカ的集団的自衛権と称して
いる)。そのため、濫用防止のために IJC は、武力攻撃の宣言と援助の要請という二要件
を追加したのである。ジェニングスは、「明らかに、集団的自衛権は濫用にさらされやす
いし、被害国に対する保護であるかのように見せかけて侵略を行う際の口実として採用さ
れやすいので、そうしたことがないようにすることが必要であり、裁判所のように集団的
自衛権を狭く解釈することは正当である」と述べている。
現実には、②の学説であろうと、③の学説であろうと同じであるが、たとえば、アメリ
カはベトナム戦争でもアフガン戦争でもイラク戦争でも、ささいな事を口実に(ベトナム
戦争ではトンキン湾事件(それも後述するように CIA のでっち上げだった)、アフガン戦
争ではアルカイダをかくまったこと、イラク戦争では大量破壊兵器(それも CIA の偽情報
あるいは捏造だった)の所持疑惑)、国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」の行使と称して、
つまり、国連憲章第 42 章の国連による強制措置(武力発動)の決議を得ることなしに(そ
のような理由での武力行使では決議がとれるはずがない)、同盟国や親米国と多国籍軍を
組んで、それぞれの国を攻撃して、多くの犠牲者を出した。このように国連憲章第 51 条の
「集団的自衛権」は超大国の武力行使の手段として使われるようになった。このため、第 2
次世界大戦後、国連ができたのにもかかわらず、いっこうにこの地球上から戦争が絶えな
いのである。
《国連の集団安全保障制度をだいなしにしてしまった第 51 条の集団的自衛権》
国際連盟も常任理事国であるドイツ、日本、イタリアなどの(当時の)大国が条文を自
国に都合によいように解釈して、
(侵略)戦争を進めていったために、結局、他の多くの国
が脱退したり、大国の庇護のもとに走ったりして(同盟を結んだりして)
、国際連盟は崩壊
373
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
してしまい、第 2 次世界大戦に至ったことは述べてきた。その人類未曾有の戦禍の反省か
ら生まれた国際連合であった。このたびは、国際連盟の反省のもとから、再び、戦争(紛
争)が起きないように、極力、前述したように曖昧な概念や言葉を廃して、具体的な行動
が緻密に組み立てられて国連憲章が出来上っていたはずであった(たぶん、それであるか
らルーズベルトもハルもこれでよいと提案したのであろう)
。
つまり、当初の国連憲章の目的を具体的に実現する方策として(具体的な紛争の平和的
解決の手法として)、前述したように第 6 章の第 33 条から第 38 条までの段階を設定して、
段階を踏んで処理し、それでも解決できない場合は、第 7 章の第 39 条から第 50 条の、国
際の平和と安全を維持・回復するための強制措置を発動することにしている(最終的には
国連による強制措置(武力発動)によって平和を回復する)。
このように国連憲章の集団安全保障の全体的仕組みは明確であったが、前述したような
ことで、アメリカの思惑で、きわめて曖昧な「集団的自衛権」が憲章 51 条に挿入されてし
まったため、国連憲章の目的遂行はきわめて困難になってしまった(このように法(国際
法も同じ)というものは、たった一点でも要所を抜かれると骨抜きになってしまうことは、
人類の歴史でたびたび見てきたことである)。
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにも
かかわらず、実力をもつて阻止する権利」が果たして、その前の憲章第 50 条までに規定さ
れている国連の集団安全保障制度と整合性がとれるであろうか(この問題を整合性あるよ
に解説した文献はみあたらない。もともと整合性がないことを承知で挿入したのであろう)
。
しかし、いずれにしても、第 51 条の集団的自衛権が挿入されてしまったからには、第 51
条の集団的自衛権が本来の国連の集団安全保障の体制と矛盾することがないように、自衛
権の行使が国連の集団的措置が発動されるまでのごく短時間に限定され、かつ、前記のよ
うな自衛権の要件が満たされているかどうかが厳密にチェックされるのでなければならな
い(しかし、このような集団的自衛権の発動要件を云々するより、第 51 条から集団的自衛
権を削除するよう国連憲章を改革した方が、つまり、ルーズベルトたち国連の創始者たち
が企画した国連の当初案(DO 案)にもどした方がより現実的であろう)。
国連憲章第 51 条は、自衛権は「安全保障理事会が国際の平和および安全の維持に必要な
措置をとるまでの間」に限って認められるものであり、加盟国による自衛権の行使は、平
和維持のため必要な措置をいつでもとる安保理の権能および責任にいかなる影響も及ぼさ
ないことを明記している。さらに、
「自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに
安全保障理事会に報告しなければならない」と定めて、自衛権の行使という当事国の主張
が安保理事会によって事後的に審査されることを明らかにしている。
しかし、この安全保障理事会による審査は、常に有効に働くわけではない。安保理事会
では常任理事国が拒否権を持っているから、常任理事国やそれに支持された国(同盟国な
ど)による自衛権行使の主張が否認されることはない。常任理事国は、安全保障理事会に
よる措置の決定を阻止することによって、自衛名目(個別的でも集団的でも)での武力行
374
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
使をいつまでも継続させることも可能である。個別的または集団的自衛権の承認は、常任
理事国との関係では、武力行使禁止の原則そのものを空洞化させる危険性を内包させるこ
とになったのである(5 人の警察官どころか、1 人の警察官であっても、身内(同盟国)が
当事者であったら、一緒になって暴力団顔負けの暴力をふるうということが起きてしまう
のである)
。
この危険性は、集団的自衛権の場合にはいっそう明白である。この権利は,一般的には、
自国と連帯関係にある他の国家が攻撃を受けた場合に、その国にかかわる自己の重大利益
の侵害を理由として、自らからは武力攻撃を受けていないにもかかわらず反撃を加える権
利、と解されるようになってしまった。国際司法裁判所(ICJ)のニカラグア事件判決は、
集団的自衛権の範囲を考える上で重要である。このニカラグア事件判決では、もっぱら被
攻撃国を援助する権利と解し、その行使のためには、被攻撃国が武力攻撃を受けたことを
宣言し、かつ、被攻撃国が援助を要請していることが必要であるとした。はたして、それ
だけの要件の追加でよいであろうか。それで、もともとの国連の安全保障制度の目的を達
成できるであろうか。
《ニカラグア事件判決》
ニカラグア事件は、ニカラグアに対するアメリカの軍事行動などの違法性を主張し、1984
年 4 月 9 日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にア
メリカ合衆国を提訴した国際紛争であった。国家間の武力紛争の合法性が裁判の場で争わ
れることは稀であり、中でも本件の ICJ 判決は国際法上の集団的自衛権行使のための要件
や武力行使禁止原則の内容について初めて本格的な判断がなされたリーディングケースと
いえる判例であった。
1979 年、ニカラグアを 43 年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織
サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。
アメリカ合衆国は経済援助を行うなど新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西
側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にして
いった。
1981 年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の
反政府組織に武器弾薬などを供与し、ニカラグアがソヴィエト連邦の米州進出や麻薬取
引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停
止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラは
ホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980 年代半ばには約 1 万
5000 人の兵力を有するほどまでに拡大した。
ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人
員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えた
ほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にま
で損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったりしたという。
375
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1984 年 3 月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連
安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は 4 月 4 日の安保理
理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投
じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。
ニカラグアは「アメリカ合衆国がニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラ
グアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原
則に違反している」と主張し、1984 年 4 月 9 日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的
に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請したとか、いろいろあった
が、途中を省略して結論だけ述べることにする。
ICJ はアメリカの行動に関して以下のことを事実として認定した。
*アメリカ大統領の指令を受けた中央情報局(CIA)の職員によって雇用された人員が、ニカ
ラグアの港に機雷を敷設して損害を発生させたこと。
*アメリカの指揮・監督下において、アメリカ合衆国に雇用された人員が港湾施設、海軍
基地、石油施設に攻撃をしたこと。
*ニカラグアの反政府武装組織コントラに対して大規模な資金供与、訓練、武装化、組織
化を行ったこと。ただしコントラの行動すべてがアメリカの責に帰すわけではない。
*偵察飛行による領空侵犯と超音速飛行による衝撃波。
*ニカラグア国境付近における軍事演習。
*ニカラグア文民に対する発砲。
*ニカラグア政府役人の「無害化」を推奨した手引書『ゲリラ戦における心理作戦』等を
作成しコントラに供与したこと。
*ニカラグア船舶のアメリカへの寄港禁止やアメリカ国内の空港からのニカラグア航空機
発着締め出しを含む全面的禁輸措置。
アメリカはニカラグアに対する一連の行動をエルサルバドル、ホンジュラス、コスタリ
カに対するニカラグアの武力攻撃・ゲリラ支援に対応した集団的自衛権の行使であると主
張していた。この点に関し本案判決多数意見は、ニカラグアの行動に関しても以下のこと
を事実として認定した。
*1979 年から 1981 年初頭にニカラグア領内からエルサルバドルの反政府団体に対して武器
の流出があった。ただしそれ以降の反政府団体への支援などについてニカラグアの責任を
認定するには証拠不十分。
*1982 年から 1984 年にニカラグア領内からホンジュラスとコスタリカの領域への越境が行
われた。しかしこの越境がニカラグアの責に帰す武力攻撃であったかどうかを決定するに
は証拠不十分。
ニカラグアはアメリカの行動が 2 国間の友好通商航海条約の趣旨・目的を破壊するもの
であったと主張したため、ICJ はアメリカの上記行動が同条約第 21 条が言うところの「本
質的な安全保障上の利益を守るために必要な措置」に該当するかを審理した。ニカラグア
376
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の港湾や石油施設などへの攻撃、機雷の敷設といったアメリカの行動について ICJ は、2 国
間条約の精神を破壊するものであったと裁定した。特に機雷の敷設については、友好通商
航海条約第 19 条が保障する航行や通商の自由を侵害するものであったとした。また禁輸措
置など通商関係の一方的な破棄は 2 国間条約の趣旨・目的を無効にするとまでは言えない
ものの、条約上の義務に違反した措置であったと判断した。
ICJ は、集団的自衛権という権利が慣習国際法上の権利として確立していることについて
は認めたが、武力攻撃の犠牲国(エルサルバドルなどの周辺国)が自ら犠牲となった旨を
宣言せず、なおかつ集団的自衛権を行使する国(アメリカ)に対して犠牲国が援助要請を
していない場合に、集団的自衛権行使を容認する規則は慣習国際法上存在しないとし、エ
ルサルバドルは援助要請を行ったもののそれはエルサルバドルが本件訴訟への参加要請を
行った 1984 年 8 月 15 日のことであって、これはアメリカによるニカラグアに対しての一
連の行動よりもはるかに後のことであり、ホンジュラスとコスタリカに至っては援助要請
を行っていないと指摘した。
さらに自衛権行使のためには武力攻撃に反撃する必要が存在するという必要性の要件と、
反撃行為が相手国の武力攻撃と均衡のとれたものでなければならないという均衡性の要件
が満たされなければならないと指摘し、アメリカのニカラグアに対する活動はこの 2 つの
要件をも満たさないとして、正当な集団的自衛権の行使であったとしたアメリカの主張を
多数意見は退けた。
また、第三国の実体的利益に対する侵害が存在するか否かという点を要件とするかにつ
いては現在も意見の相違がある。つまり、第三国の実体的利益に対する侵害が集団的自衛
権行使の要件として必要とする立場では第三国も攻撃を受けた国と同様に単独で個別的自
衛権を行使できる場合にしか集団的自衛権行使は認められないとするのに対し、第三国の
実体的利益に対する侵害が要件として不要とする立場では集団的自衛権は攻撃を受けた国
の武力が不十分である場合に国際平和と安全のため行使される共同防衛の権利であり、第
三国の実体的利益への侵害は無関係であるとする。ニカラグア事件国際司法裁判所判決も
これらのうちいずれの見解を採用したものであったのか明確ではない。
しかし、いずれにしても、ニカラグアへの損害賠償などを命じた ICJ の判決をアメリカ
は履行せず、その上判決履行を求めてニカラグアが安保理に提訴したが再度アメリカの拒
否権行使によって否決されたなど、本件で ICJ は裁判所として紛争解決の機能を果たすこ
とができなかったとする批判もある。つまり、ICJ の国際裁判所の機能は働いていたが、そ
れに従わず、しかも安保理の拒否権で葬り去ったのが、常任理事国で覇権国家アメリカ自
身であることを示している。
この事件はニカラグアが ICJ の訴訟に持ち込んだので国際的に注目されたが、冷戦時代
のアメリカは 1959 年のキューバ革命の成功以来、中南米地域においては親ソ勢力を排除す
ることが至上命題となり、この地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。
ニカラグア革命後のニカラグアだけでなく、キューバ侵攻(キューバ危機)
、1965 年のドミ
377
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ニカ共和国占領、1983 年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア事件はのちにコント
ラ事件に発展したが、それは省略する。
いずれにしても、集団的自衛権を行使する国は、自らは武力攻撃を受けていないにもか
かわらず武力行使に乗り出すのであり、しかも、ここでは拒否権の行使により安保理事会
は機能しないことが想定されているのであるから、この共同武力行使が自衛の要件を満た
しているかどうかはチェックされないことになる(実際、チェックされなかった)
。
結局、集団的自衛権は、核国家とりわけ常任理事国たる大国が、同盟国や友好国を支援
するため、自らは武力攻撃を受けていないにもかかわらず、しかも安保理事会の統制を受
けることもなく、武力を行使することを可能にするものであって、このような権利を認め
ることは、個別国家による武力行使を自衛(個別的自衛権)の場合だけに制限しようとし
た国際連合の集団安全保障制度を破壊することになる。実際には、これから述べるように、
この第 51 条の集団的自衛権は、冷戦期にアメリカとソ連がそれぞれ軍事ブロックを形成し
たり、地域紛争に介入したりするための法的根拠として大いに利用されるようになって、
本来の国連の集団安全保障制度は形骸化されてしまうことになった。
人類の長年の悲願であった実効性のある集団的安全保障の制度を国連という組織で作り
上げた瞬間から、後述するように第 2 次世界大戦後に覇権国家になった米ソはその国連の
集団的安全保障の仕組みを形骸化してしまい、自らの陣営による自称・集団的自衛権の同
盟を形成して、第 2 次世界大戦前と同じような勢力均衡の軍事同盟を再現してしまうこと
になった。
【4】国連設立の趣旨を戦後 70 年堅持した日本
前記のように国連憲章第 51 条に集団的自衛権が挿入され、国連の集団的安全保障制度が
空洞化されて、世界では第 2 次世界大戦後も戦前と同じように戦争が絶え間なかったが、
ここに国連設立の本来の趣旨を踏まえて、自国憲法で集団的自衛権を容認しないで、第 2
次世界大戦後一度も戦争に巻き込まれることがなかった国があった。それは日本であった。
以下に人類史上、希有な事例となった日本国憲法と国連憲章の関係を述べることにする。
◇日本国憲法制定の経緯
国連(国連憲章)ができるまでの経緯は、前述したように 1941 年 8 月の大西洋憲章から
はじまって、具体的な草案作成作業は国務長官コーデル・ハル以下のアメリカ国務省が行
い、1943 年 8 月「国際連合憲章草案」を完成させ、その後、各種の国際会議を重ね、最終
的には 1945 年 4 月 25 日から 6 月 26 日にかけてのサンフランシスコ会議で連合国 50 ヵ国
の代表によって採択されたことは述べた。このときドイツは降伏していたが、日本は沖縄
戦が終ったころであった。
日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正手続を経て 1946 年 11 月 3 日に公布され、1947 年
5 月 3 日に施行された。国民主権の原則に基づいて象徴天皇制を採り、個人の尊厳を基礎に
基本的人権の尊重を掲げて各種の憲法上の権利を保障し、国会・内閣・裁判所・地方自治
378
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
などの国家の統治機構と基本的秩序を定めている。
国際連合憲章ができて、日本国憲法ができるまでの間に 1 年半ばかりしかたっていない
が、その間には大きな関連があったことがわかっている(国連を骨抜きにした全米相互援
助条約ができたのが 1947 年 9 月 2 日であるから、集団的自衛権のことは、まだ、あまり注
目されていなかった)
。以下それについて述べる。
1945 年 9 月 30 日には連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー(1880~1964 年)が
厚木に到着し、直ちに総司令部 (GHQ) を設置し、日本に対する占領統治を開始した。
彼の最初の仕事は、戦争犯罪人の究明とその逮捕および処分だった。1945 年 4 月からル
ーズベルト死去によって副大統領から大統領になったトルーマン大統領が、極東委員会(日
本の占領政策を決める米ソ英など 11 ヶ国からなる GHQ の上部機関)やアメリカ世論は、日
本の軍国主義、とくに天皇制に対して厳しくなってきていることを伝えてきていた。
日本に詳しいマッカーサーは、ここで天皇制に手をつけると大変なことになることはわ
かっていた。むしろ天皇制にのっとって(利用して)統治した方がうまくいくと考えてい
たが、アメリカでだんだん厳しくなっていく天皇の戦争責任論をどううまく説明したらよ
いかと思いあぐねていた。
1945 年 10 月 5 日、東久邇宮内閣は総辞職し、9 日に幣原(しではら)喜重郎内閣が成立
した。同 11 日、幣原首相が新任の挨拶のためマッカーサーを訪ねた際、マッカーサーは口
頭で「憲法の自由主義化」の必要を指摘した。
幣原内閣は、松本烝治・国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)を
設置して、憲法改正の調査研究を開始した。松本委員会は、美濃部達吉、清水澄、野村淳
治を顧問とし、憲法学者の宮沢俊義・東京帝国大学教授、河村又介・九州帝国大学教授、
清宮四郎・東北帝国大学教授や、法制局幹部である入江俊郎、佐藤達夫らを委員として組
織された。
松本委員会では、調査会(小委員会)は 15 回開催され、1946 年 1 月 9 日に松本委員長は
「憲法改正私案」を提出した。その「憲法改正四原則」の概要は次の通りであった。
①天皇が統治権を総攬するという大日本帝国憲法の基本原則は変更しないこと。
②議会の権限を拡大し、その反射として天皇大権に関わる事項をある程度制限すること。
③国務大臣の責任を国政全般に及ぼし、国務大臣は議会に対して責任を負うこと。
④人民の自由および権利の保護を拡大し、十分な救済の方法を講じること。
他方、松本委員会による憲法改正の調査活動が進むにつれ、国民の間にも憲法問題への
関心が高まった。松本委員会の動き、各界各層の人々の憲法に関する意見なども広く報道
され、政党や知識人のグループなどを中心に、多種多様な民間憲法改正案が発表された。
しかし、その多くは松本委員会案を含めて大日本帝国憲法に若干手を加えたものであって、
大改正に及ぶものは少数であった。はたして、これで日本がポツダム宣言受諾のときに国
際的に約束した事項がはたせるといえるかどうか疑問であった。
つまり、ポツダム宣言を受諾した(国際社会に約束した)のであるから、当然、以下のよ
379
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
うな点は、新憲法に反映されなければならないことであった。
ⅰ)軍国主義を排除すること
ⅱ)民主主義の復活強化へむけて一切の障害を除去すること
ⅲ)言論、宗教及び思想の自由ならびに基本的人権の尊重を確立すること
などであった。
GHQ は、当初、憲法改正については過度の干渉をしない方針であった。しかし、GHQ は、
1946 年の年明け頃から、民間の憲法改正草案、特に憲法研究会の「憲法草案要綱」に注目
しながら、日本の憲法に関する動きを活発化させた。もっとも、同年 1 月中は、憲法改正
に関する内部の準備作業を続け、日本政府による憲法改正案の提出を待つ姿勢をとり続け
た。
1946 年 2 月 1 日、毎日新聞が「松本委員会案」なるスクープ記事を掲載したが(つまり、
「憲法改正要綱」
(松本試案)が GHQ に提出される前に)
、政府は直ちに、このスクープ記
事の「松本委員会案」は実際の松本委員会案とは全く無関係であるとの談話を発表した。
しかし、この記事を分析した GHQ のホイットニー民政局長は、それが真の松本委員長私案
であると判断し、また、この案について「極めて保守的な性格のもの」であり、世論の支
持を得ていないこともわかった。
そこで GHQ は、このまま日本政府に任せておいては、極東委員会の国際世論(特にソ連、
オーストラリア)から天皇制の廃止を要求されるおそれがあると判断し、GHQ が草案を作成
することを決定した。その際、日本政府から GHQ に「受け容れ難い案」を提出された後に、
その作り直しを「強制する」より、その提出を受ける前に GHQ から「指針を与える」方が、
戦略的に優れているとも分析した。
一方、内閣は 1946 年 1 月 30 日から 2 月 4 日にかけて連日臨時閣議を開催して松本私案
を審議し、2 月 7 日、松本は「憲法改正要綱」(松本試案)を天皇に奏上し、翌 8 日に説明
資料とともに GHQ へ提出した。この「憲法改正要綱」は内閣の正式決定を経たものではな
く、まず GHQ に提示して意見を聞いた上で、正式な憲法草案の作成に着手する予定であっ
た。
さて、GHQ の方では、天皇制を残すことと軍国主義復活の懸念をどう説明するか、マッカ
ーサーは思いあぐねていた。あるとき、マッカーサーは日本人との対話のなかで(幣原で
あるといわれている)、「天皇制を残すといつまた日本が軍国国家になってしまうかもしれ
ないとアメリカ人は心配しているんだ」と言ったところ、その日本人は、「日本人はみな、
もう戦争はこりごりだと思っています。軍隊を持たなければ戦争をすることもないでしょ
う」と言ったという。
マッカーサーは出来たばかりの国連憲章のことも、その集団安全保障制度の仕組みもも
ちろん知っていた。そうか、国連の集団安全保障の仕組みの中で最初に憲法をもつ日本を
戦争放棄させ、平和国家にさせる、これなら「天皇制を残してどうして日本がまた軍国国家
にならないと言えるのか」といきり立っているアメリカ内外の連中を説得することができ
380
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ると考えた(マッカーサーは自衛権のことも知っていたが、それも放棄させたほうがその
ときはいいと思ったのではなかろうか)
。これで極東委員会のうるさがたも黙らせることが
できるとマッカーサーは考えた。
2 月 3 日、マッカーサーは、GHQ が憲法草案を起草するに際して守るべき 3 原則を、憲法
草案起草の責任者とされたホイットニー民政局長に示した。その 3 原則の内容は以下の通
りである。
ⅰ)天皇は国家の元首の地位にある。皇位は世襲される。天皇の職務および権能は、憲
法に基づき行使され、憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。
ⅱ)国権の発動たる戦争は、廃止する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、
さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも、放棄する。日本はその防衛と
保護を、今や世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる(つまり、本来の国際連合の安全
保障制度にまかせる)。日本が陸海空軍を持つ権能は、将来も与えられることはなく、交戦
権が日本軍に与えられることもない。
ⅲ)日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は、皇族を除き、現在生存する者一代以
上には及ばない。華族の地位は、今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うも
のではない。予算の型は、イギリスの制度に倣うこと。
マッカーサーは当初、自衛権の放棄も意図していたので、
「マッカーサー・ノート」では、
「日本は、紛争解決のための手段としての戦争、さらに自己の安全を保持するための手段
としての戦争をも、放棄する。
」としていたが、GHQ 原案の作成にあたった運営委員会の法
律家らが自衛権の否定は不適当だといったので(国連憲章でも認められているので。ここ
では当然、
「個別的自衛権」のことである)、「マッカーサー(GHQ)草案」では、自衛権は
認められていた。それは、マッカーサー・ノートでついていた「even for preserving its
own security」
(自己の安全を保持するための手段としての戦争をも)が草案ではなくなっ
ているので、米側の意図は自衛権含みであった(しかし、明示されてはいなかった)
。
ただ、マッカーサー草案では、
第二章 戦争ノ廃棄
第八条 国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ
武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス
陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又交戦状態ノ
権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ
となっていた。
この「マッカーサー(GHQ)草案」では自衛権を保持しているとも、保持していないとも
記されれいないのでわからない。当時、この草案について、GHQ と折衝した者もこの点を確
かめなかったようである。その時点では、日本側もわからなかったが、のちにアメリカで
は公文書などが公開されたので、また、マッカーサーも後年の回想録の中で憲法 9 条は自
衛権まで放棄したものではないと述べているので、憲法第 9 条は最初から「自衛権あり」で
381
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
よかったのである。
確かに、のちの芦田試案の「前項の目的を達するために」が入っていないとこの 2 つの文
章の関係がよくわからず、これは自衛権を認めているかどうかわからない(むしろ、自衛
権ゼロのように解釈するのが自然かもしれない)
。
当時の官僚が国連憲章を知らなかったわけではなかろうが、国連憲章第 51 条の自衛権と
の関連をアメリカに尋ねなかったようだ。尋ねれば第 51 条の範囲での自衛権は認められる
と答えただろう(確かめて、自衛権は当然あるとなれば、日本側もそれがわかるように修
文したであろう)
。そのような意味で、芦田修正には、文意を明確にするという点で意味が
あったが、アメリカ側は、もともと自衛権ありと思っていたので、そのような修正があって
も何も言わなかったのであろう。
日本ではその後、
(自衛権はないという考えから、なにがしかの自衛権が本来あるという
説に)自衛権の解釈を変えたという説が出てきたが、
(自衛権については触れられていなか
ったが)日本国憲法のこのような作成の経緯から最初から「自衛権はあった」ので、この
憲法は最初から解釈変更の必要はなかったのである。
この 3 原則を受けて、GHQ 民政局には、憲法草案作成のため、立法権、行政権などの分野
ごとに、条文の起草を担当する 8 つの委員会と全体の監督と調整を担当する運営委員会が
設置された。2 月 4 日の会議で、ホイットニーは、全ての仕事に優先して極秘裏に起草作業
を進めるよう民政局員に指示した。起草にあたったホイットニー局長以下 25 人のうち、ホ
イットニーを含む 4 人には弁護士経験があった。
しかし、憲法学を専攻した者は一人もいなかったため、日本の民間憲法草案(特に憲法
研究会の「憲法草案要綱」
)や、世界各国の憲法が参考にされた。もちろん、数年前に国連
憲章の原案をつくった国務省職員とも連絡をとったであろう。民政局での昼夜を徹した作
業により、各委員会の試案は、2 月 7 日以降、次々と出来上がった。これらの試案をもとに、
運営委員会との協議に付された上で原案が作成され、さらに修正の手が加えられた。2 月
10 日、最終的に全 92 条の草案にまとめられ、マッカーサーに提出された(つまり、1 週間
で仕上げたということになる)
。
マッカーサーは、一部修正を指示した上でこの草案を了承し、最終的な調整作業を経た
上で、2 月 12 日に草案は完成した。マッカーサーの承認を経て、2 月 13 日、いわゆる「マ
ッカーサー草案」
(GHQ 原案)が日本政府に提示された。
この「マッカーサー草案」は、先に日本政府が 2 月 8 日に提出していた「憲法改正要綱」
(松本試案)に対する回答という形で示されたものであった。提示を受けた日本側、松本
国務大臣と吉田茂外務大臣は、GHQ による草案の起草作業を知らず、この全く初見の「マッ
カーサー草案」の手交に驚いた。
「マッカーサー草案」を受け取った日本政府は、2 月 18 日に、松本の「憲法改正案説明
補充」を添えて再考するよう求めた。これに対してホイットニー民政局長は、松本の「説
明補充」を拒絶し、
「マッカーサー草案」の受け入れにつき、48 時間以内の回答を迫った。
382
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2 月 21 日に幣原首相がマッカーサーと会見し、
「マッカーサー草案」の意向について(ポツ
ダム宣言受諾で日本は現憲法の骨格を了承していると)確認した。翌 22 日の閣議で、「マ
ッカーサー草案」の受け入れを決定し、幣原首相は天皇に事情説明の奏上を行った。
その後、日本では(現在でも)
、現日本国憲法はアメリカの押しつけであり、自主憲法を
制定すべきだということを述べているものがいるが(たぶん、その論点は主として天皇制
と第 9 条であろうが)
、これは以上のような経緯で、確かに、1 週間で日本案(松本案)と
大きく異なる GHQ 案が出てきたので(また、マッカーサーが時間をかけて日本案と GHQ 案
との解説をしなかったので)
、押しつけられたという印象があったかもしれないが、日本が
受諾したポツダム宣言を無条件受諾したときに、その内容の骨格(天皇制の民主化と非軍
国主義と基本的人権)は日本が国際社会へ約束したことである。このとき、大日本憲法の
枠組みを余り変えない日本案では、国際社会が(具体的には極東委員会やアメリカ上院な
ど)許さなかったであろう。
1946 年 2 月 26 日の閣議で、
「マッカーサー草案」に基づく日本政府案の起草を決定し、
作業を開始した。草案は 3 月 2 日に完成した。3 月 4 日、松本国務大臣は、草案に「説明書」
を添えて、ホイットニー民政局長に提示した。
GHQ は、日本側係官と手分けして、直ちに草案と説明書の英訳を開始した。英訳が進むに
つれ、GHQ 側は、
「マッカーサー草案」と「3 月 2 日案」の相違点に気づき、松本とケーデ
ィス・民政局行政課長の間で激しい口論となった。徹夜の逐条折衝が開始された。成案を
得た案文は、次々に首相官邸に届けられ、3 月 5 日の閣議に付議された。閣議は、確定案の
採択を決定して「3 月 5 日案」が成立、午後 5 時頃に幣原首相と松本国務大臣は宮中に参内
して、天皇に草案の内容を奏上した。
翌 3 月 6 日、日本政府は「憲法改正草案要綱」を発表し、マッカーサーも直ちにこれを
支持・了承する声明を発表した。日本国民は、翌 7 日の新聞各紙で「3 月 6 日案」の内容を
知ることとなった。国民にとっては突然の発表であり、またその内容が予想外に「急進的」
であったことから衝撃を受けたものの、おおむね好評であった。
3 月 26 日、国語学者の安藤正次博士を代表とする「国民の国語運動」が、
「法令の書き方
についての建議」という意見書を幣原首相に提出した。これから口語化作業が開始され、4
月 5 日に終った。
4 月 10 日、衆議院議員総選挙が行われた。GHQ は、この選挙をもって、「3 月 6 日案」に
対する国民投票の役割を果たさせようと考えた。しかし、国民の第一の関心は当面の生活
の安定にあり、憲法問題に対する関心は第二義的なものであった。
4 月 22 日に幣原内閣が総辞職し、5 月 22 日に第 1 次吉田内閣が発足した。
5 月 29 日、枢密院は草案審査委員会を再開した(6 月 3 日まで、3 回開催)
。6 月 8 日、
枢密院の本会議は、天皇臨席の下、第二読会以下を省略して直ちに憲法改正案の採決に入
り、美濃部達吉・顧問官を除く起立者多数で可決した。
これを受けて政府は、6 月 20 日、大日本帝国憲法第 73 条の憲法改正手続に従い、憲法改
383
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
正案を衆議院に提出した。
この憲法改正草案の衆議院における審議の過程で、憲法改正草案第 9 条について、芦田
修正と呼ばれる修正が行われた。最初に衆議院に提出された第 9 条の内容は、次のような
ものであった。
第 9 条 国の主権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、他国との間の紛
争の解決の手段としては永久にこれを抛棄する。
陸海空軍その他の戦力の保持は許されない。国の交戦権は認められない。
この原案の表現は、いかにも日本がやむを得ず戦争を放棄するような印象を与え、自主
性に乏しいとの批判があったため、このような印象を払拭し、格調高い文章とする意見が
支配的であった。そこで、各派から、様々な文案が示され、これらを踏まえて、芦田委員
長が次のような試案(芦田試案)を提示した。
日本国民は、正義と秩序とを基調とする国際平和を誠実に希求し、陸海空軍その他の戦力
を保持せず、国の交戦権を否認することを声明する。
前項の目的を達するため国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛
争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
芦田試案について、委員会で懇談が進められ、1 項の文末の修正や 1 項と 2 項の入れ替え
などについて、原案をもとにすることなどがまとまった。芦田委員長は、これらの議論を
まとめて案文を調整し、最終的に次のように修正することを決定した。
第 9 条 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の
交戦権は、これを認めない。
この修正について、GHQ 側からは何ら異議もなく、成立に至った。原案と芦田修正案との
違いは、第 2 項に「前項の目的を達するため」という一文が加えられただけだが、これが
第 2 項のしばりになっている。
「前項の目的を達するため、・・・保持しない。・・・これを
認めない。
」となっていて、国連憲章でも認められている自衛権については何も述べていな
いが、当然のこととして別途それは日本はもっていると解することもできる(前述の議論
でも自衛権については触れられていない。GHQ は、日本は自衛権は保持していると考えてい
るから、何も言わなかった)
。
384
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
後に第 9 条解釈をめぐる重要な争点の一つとなり、芦田の意図などについても論議の的
となった。芦田は自衛権が別途あることを意識して「芦田修正」をしたと言っている。
衆議院は 6 月 25 日から審議を開始し、8 月 24 日、若干の修正を加えて圧倒的多数(投票
総数 429 票、賛成 421 票、反対 8 票)で可決した(この圧倒的多数で可決したという事実
は重い。アメリカに押しつけられた憲法という意識があれば、これほどの賛成票は得られ
まい。当時の日本人は心からこの憲法でよいと思ったのであろう)。
続いて、貴族院は 1946 年 8 月 26 日に審議を開始し、10 月 6 日、若干の修正を加えて可
決した。翌 7 日、衆議院は貴族院回付案を可決し、帝国議会における憲法改正手続は全て
終了した。
帝国議会における審議を通過して、10 月 12 日、政府は「修正帝国憲法改正案」を枢密院
に諮詢した。10 月 29 日、枢密院の本会議は、天皇臨席の下で、
「修正帝国憲法改正案」を
全会一致で可決した。
同日、天皇は、憲法改正を裁可した。1946 年 11 月 3 日、日本国憲法が公布された。同日、
貴族院議場では「日本国憲法公布記念式典」が挙行され、宮城前では天皇・皇后が臨席し
て「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」が開催された。このときの昭和天皇による日本国
憲法公布の勅語を次に記す。
本日、日本国憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の
原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたものである。即ち、日本国
民は、みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実
現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、
ここに、明らかに定めたものである。
朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任を重
んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。
マッカーサーは日本に来ると戦犯捜しに血まなこになったが、近衛も東條もその他の軍
人もすべて自分は無罪だと言っていた。
1945 年 9 月 27 日、GHQ に自ら申し出てマッカーサーを訪ねた天皇は、マッカーサーと 2
人きりになると、やおら立ち上がって「マッカーサー閣下、この度の戦争の責任はすべて、
天皇ヒロヒトにあります。私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行っ
たすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸
国の採決に委ねるため、お訪ねしました」と言った。
マッカーサーは、予定を変えて自ら昭和天皇を GHQ の玄関まで送った。その日の日記に
「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったので
ある」とマッカーサーは書いていた(マッカーサー回想録)
。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
310 万人の犠牲者を出したことに大きな責任を感じていた昭和天皇も、この日本国憲法に
は心よりお喜びになった。
1946 年 11 月 3 日、310 万の同胞を犠牲にした太平洋戦が終って 1 年ばかり、日本国民の
大部分は、真に「みづから進んで戦争放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠
の平和が実現することを念願し」
、「民主主義に基いて国政を運営すること」を誓ったので
はなかろうか。
この平和主義の憲法をまもることによって、また、世界も国連憲章によって運営されれ
ば(このときは、まだ、憲章第 51 条の「集団的自衛権」によって、国連が形骸化されるとは
誰も思ってもいなかったので)
、本当に日本も世界も平和になって、第 2 次世界大戦で犠牲
になった 310 万の英霊の「思い」に応えることができると思ったのではなかろうか。彼ら
英霊の「思い」は、なによりも、日本の、世界の「平和」であったと思うから。
◇国連憲章と日本国憲法の関係
《国連の集団安全保障制度を前提に作られた日本国憲法第 9 条》
国連の集団安全保障制度の仕組みは、まだ、日本が沖縄戦を戦っているころのサンフラ
ンシスコ会議で最終的に仕上がった。1945 年 8 月、2 発の原爆投下を受け、ポツダム宣言
を受け入れ、終戦を迎え、そして 1 年ばかり後の 1946 年 11 月には日本国憲法できた。も
う、国連の集団安全保障制度の仕組みは出来ていたので、それを前提にして日本国憲法は
つくられたことは前述したとおりである(しかし、チャプルテペック協定を発展させた全
米相互援助条約ができたのは、1947 年 9 月 2 日であるので、まだ、国連憲章第 51 条の集団
的自衛権で国連の集団安全保障制度が形骸化されるとは予想できない時期であった)
。
まず、国連憲章前文(P345 に記した)と前述した憲章第 2 条 2,3(P346 に記した)を
再記すると以下のとおりであり、それは日本国憲法の前文、第 9 条に通じている。
◎国連憲章前文
われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与え
た戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各
国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ず
る義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩
と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣
人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれわれの力を合わ
せ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と設定によって確保し、
すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するため国際機構を用いることを決意して、
これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。
よって、われわれの各自の政府は、サンフランシスコ市に会合し、全権委任状を示して
それが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、
ここに国際連合という国際機構を設ける。
386
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国連憲章第 2 条 3 すべての加盟国は,その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び
安全並びに正義を危(あや)うくしないように解決しなければならない。
4 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇(いかく。
おどし)又は武力行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するも
のも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎
(つつし)まなければならなない。
国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決するとい
う思想は、国際連盟(1919 年)
、不戦条約(1928 年)、国際連合(1945 年)と受け継がれて
きたことは述べたが、その意味で不戦条約の条文と日本国憲法第 9 条の条文も似ていると
いわれているので、参考に不戦条約条文(P211~212 に記した)を再記すると、以下の通り
である。
戰爭抛棄ニ關スル條約(不戦条約)
第一條
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家
ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如
何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス
日本国憲法前文と第 1 条、第 9 条は以下の通りである。
◎日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの
子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢
を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、
ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の
厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこ
れを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法
は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を
排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚す
るのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持
しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に
除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、
全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有するこ
とを確認する。
われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないので
387
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
あつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を
維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを
誓ふ。
第 9 条 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交
戦権は、これを認めない。
このように、国連憲章の集団安全保障制度(国連憲章の全体を指しており、憲章第 51 条
の「集団的自衛権」を指すのではない)にのっとって、日本国憲法ができていることがわか
る。
《日本国憲法の自衛権問題の発生》
憲法第 9 条は自衛権については、何ら触れてはいないのだから、憲法 9 条に矛盾しない
ように(当然、第 9 条の放棄したものより、さらに狭い範囲の自衛権ということになる)
、
設定できるわけである。その範囲であれば、憲法第 9 条と矛盾しないし、憲法の解釈の変
更をした、しないという論争は意味のないことであったといえる。
このように最初から、自衛権ありであったが(もちろん、個別の自衛権であるが)、この
時点で(憲法制定のとき)
、日本は国連憲章第 51 条でいう集団的自衛権というのは全く想
定していなかったことは確かである。なぜなら、国連憲章第 51 条に集団的自衛権が挿入さ
れた経緯で述べたように、アメリカ合衆国の為政者の一部が対ソ戦略上、この集団的自衛
権を利用して国連の集団安全保障制度を形骸化してしまうような US フォーミュラ、つまり、
アメリカ的集団自衛権の同盟条約を表立って締結していくのは、1947 年 9 月 2 日の全米相
互援助条約がはじめてであったからである(もちろん、国連憲章第 51 条には集団的自衛の
権利のことも書かれているから、日本もわかっていただろうが、それは米州機構の例のよ
うな場合と了解して、それはなんら日本とは関係のないことと思っていたのだろう)
。
なぜ、憲法が制定された初期に、政府が自衛権ありと明確にこたえなかったのかは、疑
問であるが、たぶん、まだ、GHQ の占領下にあり、連合国の国際世論を気にして明確にしな
かったのではないかとも考えられる。
この第 9 条をめぐって、のちに以下のような説が対立するようになり、その後、日本を 2
分するような大騒動になった。
(A)自衛権放棄説
憲法 9 条は自衛権を放棄しているとする説で、自衛権が武力の行使を伴うことは不可避
であり、日本国憲法の下では自衛権は放棄されているとみる。本説に対しては、日本も主
388
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
権国家である以上は自衛権そのものまで放棄しているとみることはできないのではないか
との指摘があった。
(B)自衛権留保説
自衛力なき自衛権説(非武装自衛権説)で、憲法 9 条は自衛権を放棄してはいないが、
軍事力を伴わない手段に限られるとする説である。本説では国際法上において国家固有の
権利として認められている自衛権は放棄されてはいないが、憲法 9 条第 2 項により「戦力」
や「武力」を用いた自衛権の行使は禁じられているとみるのである。
(C)自衛力による自衛権説(自衛力肯定説・自衛力論)
憲法 9 条は自衛権を放棄しておらず、
「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)
の範囲において自衛権が認められるとする説である。本説では国際法上において国家固有
の権利として認められている自衛権は放棄されておらず、その自衛行動をとるために必要
とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持することは憲法上否定されていないとみる。
政府見解(公定解釈)はこの立場をとっている(経緯でも述べたように、それが妥当であ
ろう)
。
学説においては本説の根拠として、国際法上において国家固有の権利として認められて
いる自衛権は放棄されておらず、憲法が無防備・無抵抗を定めているとみることは正当で
ないが、憲法第 9 条に戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認が定められており、そのほか憲
法に宣戦など戦争に関する規定が全くないことから、自衛権の行使は必要最小限度に限ら
れ、その自衛行動をとるために必要とされる「戦力」に至らない程度の実力を保持するこ
とは憲法上否定されていないとみる(つまり、積極的に打って出る戦争は放棄するが、日
本の国土が攻撃されたときには反撃できる最低限の戸締りはしておくということであり、
これは国際通念としても認められていることである。戸締りもしてないとつい空き巣や強
盗にも入られることがあるが、そのようなことを防止するのは当然であろう)。
本説は「戦力」に至らない程度の自衛のための必要最小限度の実力についてのみ保持し
うると解釈するものであり、その一定の制約から伝統的な「自衛権」の概念は憲法上維持
できないとみる点で次の自衛戦力許容説とは法理論上は異なる立場となる(憲章第 51 条の
自衛権も伝統的な自衛権の概念ではなく、多くの制約があることは述べた。その後のニカ
ラグア判例などによってもそれは明確である)。
(D)自衛戦力による自衛権説(自衛戦力肯定説)
憲法 9 条は自衛戦争のための「戦力」を保持することを否定していないとする説で、憲
法上、自衛戦争は放棄されておらず、そのための「戦力」を保持することも許容されてい
るとみる。
本説は憲法上、自衛目的のための「戦力」の保持は可能であり、伝統的な「自衛権」の
概念が憲法上も維持されるとみる点で上の他の説とは異なる。なお、政府見解(公定解釈)
は前述したように(C)の自衛力による自衛権説に立っており、「戦力に至らない程度の必要
最小限度の実力」は保持できるが「戦力」は保持できないとしているので自衛戦力肯定説
389
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とは異なる(前述したように、国連憲章第 51 条の自衛権にはいろいろ制約が付いているの
で、伝統的な「自衛権」
(つまり、戦前の自衛権)などは、憲法の趣旨からして、そのよう
な解釈は出てこない)
。
以上のように、いろいろな説が出て、現在も憲法解釈が変わったという人がいるが(つ
まり、自衛権ゼロから,現在の自衛権有りに)
、これはもともと自衛権有りだったのである。
《日本の具体的な自衛力(個別的自衛権)の範囲》
わが国で憲法上問題となったのは、もっぱら、個別的自衛権で集団的自衛権については、
あまり議論がなかった。憲法第 9 条 2 項前段によって不保持の対象となっている「戦力」
を保持することはできないが、
「戦力」に至らない程度の実力(自衛力・防衛力)について
は保持することが認められるとする「自衛力による自衛権説」に立つ場合(前記の(C))
、
その自衛力の行使と憲法第 9 条 2 項後段(交戦権の否認)との関係が問題となった。
この点について、政府見解のように憲法第 9 条 2 項前段の「前項の目的を達するため」
の交戦権は全面的に否認されているが、交戦権とは区別される自衛行動権(自衛権の行使
として自国に対する急迫不正の武力攻撃を排除するために行われる必要最小限度の実力を
行使する権利)については憲法上否認されていないとされた。
この点について、1969 年の参議院予算委員会において高辻正己内閣法制局長官(当時)
は「あくまでも憲法の第 9 条 2 項が否認をしている交戦権、これは絶対に持てない。しか
し、自衛権の行使に伴って生ずる自衛行動、これを有効適切に行なわれるそれぞれの現実
具体的な根拠としての自衛行動権、これは交戦権と違って認められないわけではなかろう
ということを申し上げた趣旨でございますので、不明な点がありましたら、そのように御
了解を願いたいと思います」と述べている。
政府見解では我が国が自衛権の行使として我が国を防衛するため必要最小限度の実力を
行使することのできる地理的範囲は、必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られるもの
ではなく、自衛権の行使に必要な限度内で公海・公空に及ぶとしている。
また、武力行使の目的をもって自衛隊を他国の領土、領海、領空に派遣することは、一
般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないが、わが国に対
して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対して誘導弾等による攻
撃が行われた場合に、その攻撃を防ぐのに必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導
弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をた
たくということは、法理的には自衛の範囲に含まれることも可能であるとしている。
政府見解では性能上専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器について
は、いかなる場合においても、これを保持することが許されないとし、例えば ICBM、長距
離戦略爆撃機、攻撃型空母については保有することが許されないとしている。
《集団的自衛権について》
この第 9 条の文章の中で、集団的自衛権も読めるかどうかであるが、まず、個別的自衛
権が触れられていないと同じように集団的自衛権も触れられていないことは同じである。
390
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
したがって、誰も集団的自衛権がこの文章で読めるか、読めないかは、当時考えたこと
もなかった。今まで法制局は、この憲法で個別的自衛権は読める、集団的自衛権は読めな
いと解釈するとしてきた。しかし、第 9 条をいくら見ても個別的自衛権についても集団的
自衛権についても書いてない。従って、第 9 条に矛盾しないで個別的自衛権がありうるか
といえば、前述のようにありうる。では、集団的自衛権はどうか。あるとしたら、第 9 条
に矛盾しないような集団的自衛権でなければならない。さらに国連憲章第 51 条でいうきわ
めて制限された集団的自衛権である。
最近の政府(2014 年 7 月 1 日の閣議決定の前の政府)の公式見解は「憲法第 9 条の下にお
いて許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどま
るべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるもの
であって、憲法上許されないと考えている」と述べている。
つまり、集団的自衛権であるから、日本国と A 国(たとえばアメリカ)であるとすると、
日本が X 国から攻撃されたら、日本は反撃するだろう。これは個別的自衛権である。日本
に駐留する米軍も反撃に加わってくれるであろう。これも個別的自衛権で読める。
集団的自衛権の概念はアメリカが攻撃されたときに日本が助太刀することも含んでいる。
世界一の核ミサイル大国のアメリカが「攻撃を受けた場合」、アメリカから救援を頼むと要
請があったとして、日本は、アメリカの自衛のために、国連憲章に違反しない範囲で、ど
こで、どんな助太刀が出来るのか。
アメリカの出先(後述するように世界中数十ヶ所、数百ヶ所に駐留しているので攻撃さ
れる可能性が高い)が攻撃されたとしても、それはアメリカの「自衛権」を逸脱している。
出先(艦船でもよい)がやられたからといって、日本が助太刀しても、国際司法裁判所(ICJ)
はアメリカの「集団的自衛権」の発動だとは認めない。このように世界一狭い「自衛権」の範
囲で世界一核大国アメリカをどうやって助太刀しようというのか。まったく、現実を踏ま
えた議論は成り立たない(現実にはアメリカはアメリカ以外の出先で攻撃を受けた場合、
「集団的自衛権」の発動だといって、国際法違反の攻撃を繰り返している)
。
そのようなことで、法制局も「憲法第 9 条の下において許容されている自衛権の行使は、
我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団
的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えて
いる」としたのである。
《その後の日本国憲法第 9 条と国連憲章第 51 条の自衛権(集団的自衛権)について》
基本的に日本国憲法第 9 条と国連憲章の目指す方向は、世界の警察力としての国連軍の
創設と、各国軍の相互軍縮・最小化を通じて地球上に存在する対人殺傷力蓄積を極小化し
てゆくことにあるので、
(護身活動である)自衛権と各国の(最小限の戸締まりの)個別軍
備を認めることは矛盾しない。
(各国国内法において)個人においても、急迫不正の侵害を受けた場合、警察の来援ま
では時間がかかるので、その間、物理力を行使して抵抗することは認められている(イエ
391
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スは右の頬を打たれたら、左の頬といったが、生身の人間である我々にはできない)。(国
際法上の国連憲章において)同様に国連軍の来援は時間がかかるので、「つなぎ」としての
最小限の各国自衛武力の保有は認められている。勿論、国連憲章の安保理事会の集団安全
保障制度が厳密に実行されることがが大前提である(実際には米ソの拒否権の応酬で国連
軍が来ない場合が多かった)
。
《自衛隊が発足した頃、1953~54 年》
国連が発足して、しばらく経つと、国連憲章第 51 条に挿入された「集団的自衛権」は、
「他の国家が武力攻撃を受けた場合、これに密接な関係にある国家が被攻撃国を援助し、
共同してその防衛にあたる権利」などと広く解釈されて使用されるようになった。
1951 年、日本の集団的自衛権について国際法上は、日本国との平和条約(サンフランシ
スコ平和条約)第 5 条(C)が「連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第 51
条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障
取極を自発的に締結することができることを承認する。
」と定めている。
1954 年の自衛隊が発足したころ、はじめて集団的自衛権の意味が問題になった。それに
対して、
「平和条約でも、日本国の集団的、個別的の固有の自衛権というものは認められて
おるわけでございますが、しかし日本国憲法からの観点から申しますと、憲法が否認して
ないと解すべきものは、既存の国際法上一般に認められた固有の自衛権、つまり自分の国
が攻撃された場合の自衛権であると解すべきである」
(下田武三外務相条約局長、54 年 6 月
3 日衆議院外務委員会)と現行解釈(2014 年 7 月 1 日の集団的自衛権容認閣議決定の前)
の原型が示された。このときは、作られようとしている自衛隊が、アメリカのために集団
的自衛権を行使し海外派兵することが求められるのではないかが問題とされ、その疑問を
打ち消すため、54 年 6 月 2 日参議院で海外派兵禁止決議が出された。
1956 年の日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言(日ソ共同宣言)でも、
第 3 項は「日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、それぞれ他方の国が国際連合憲
章第 51 条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有することを確認する。」と定め
ている。いずれにしても、この当時は個別的自衛権が合憲かどうかが中心的な政治的問題
であった時期で、集団的自衛権が合憲かどうかが本格的に問題になることはなかった。
《安保条約改定の頃、1959~60 年》
サンフランシスコ平和条約と同時に日本はアメリカと(旧)日米安全保障条約を結んだ。
その第 1 条で米軍駐留・基地提供を定めていたが、アメリカの日本防衛義務を明らかにし
ていなかった。そこで岸信介首相は 1960 年の安保改定によって、第 5 条でアメリカの日本
防衛義務を明らかにし、第 6 条で米軍への基地提供を定めるようにした。それが現行の日
米安全保障条約である。
この日米安保条約では、共同防衛は「日本国の施政の下にある領域における、いずれか
一方に対する武力攻撃」が発生した場合にのみ発動されることになっており(第 5 条)
、ア
メリカ本土や日本領域外にあるアメリカ艦船が攻撃されても、共同防衛の義務は発生しな
392
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
いことになっている。
日米安保条約がこのように変則的な共同防衛を規定したのは、日本の憲法第 9 条が集団
的自衛権を認めていないと解されているからである。日本領域内にあるアメリカ軍が攻撃
される場合の共同防衛は、日本にとっても個別的自衛権の行使となるが、アメリカ本土や
日本領域外にあるアメリカ軍艦船が攻撃された場合の日米共同防衛は、
(日本政府見解のよ
うに)日本にとっては集団的自衛権の行使となり、憲法違反になると考えられるからであ
る。
しかし、共同防衛区域を日本の領域に限定したからといって、日本の行動がすべて個別
的自衛権で説明できるというわけではない(国連憲章第 51 条はもともと限定された自衛権
である)
。たとえば、領海内にあるアメリカ軍艦船が攻撃されただけの場合、それは日本の
領海を侵犯するものではあっても、「日本に対する武力攻撃」と言うことはできないから、
その場合の日本の反撃行動を個別的自衛権の行使と言うことはできない。さらに「極東に
おける国際の平和及び安全の維持」
(日米安保条約第 6 条)を任務とする部隊の駐留や、ア
メリカ本土の防衛を目的とするレーダー基地の設置など、日本の防衛以外の目的でアメリ
カ軍が日本の領域を使用するのを認めること自体、じつは集団的自衛権によらなければ説
明できないことである。
このように日米安保条約は、当初から、集団的自衛権に基づく集団防衛条約であるが、
日本政府は憲法第 9 条が国連憲章第 51 条の集団的自衛権を認めていないと解していた。
《日本政府の現行解釈が固まった頃、1972~81 年》
水口宏三議員は、1972 年 5 月 12 日の参議院内閣委員会、18 日の同委員会、9 月 14 日の
決算委員会において、政府の集団的自衛権解釈の曖昧さを追求した。72 年資料は、以下の
とおり、水口議員の求めに応じて出されたものである。
「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有していると
しても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこ
えるものであって許されないとの立場に立っている。(中略)
我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵
害に対する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその
内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」
(第 69 回国会参議院決算委員会提
出資料、1972 年 10 月 14 日)
。
この資料のポイントは、
ⅰ)政府が集団的自衛権は国際法上我が国も有するが、憲法のレベルでは、それを実際に
行使することはできないことを明示した。
ⅱ)集団的自衛権を「海外派遣」だけでなく、包括的かつ一般的な武力行使の態様である
と捉えている。
ⅲ)集団的自衛権を保有するが、その行使は禁止されるという後の政府見解の嚆矢(こう
し)となる表現を用いている。
393
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ことである。この答弁は、1981 年の明確な政府公式見解につながっていくものであった。
(この頃は、ベトナム戦争末期であり、ベトナム戦争批判が高まっていて、集団的自衛権
の行使はベトナム戦争のような侵略戦争に加担することだと具体的に意識された)
《1978 年日米防衛ガイドライン》
正式名称は、「日米防衛協力のための指針」といい、「指針」の英文名をとって「日米ガ
イドライン」という。これが、日米政府間で最初に取り交わされたのは 1978 年で、この「ガ
イドライン」は、アメリカのベトナム戦争敗北を受けて、日本に対する軍事分担の増大を
要求するものであった。
しかし、この段階では、日米共同の軍事作戦の対象は、「日本以外の極東における武力攻
撃」(「虞(おそれ)がある場合」も含む)に限定され、日本以外の極東における事態で日
本の安全に重要な影響を与える場合は、
「協議し研究」していくことに留められた。
《1981 年答弁書》
1980 年代に入り米ソ冷戦が継続する中で、わが国はアメリカとの同盟関係をさらに強固
なものにすべく、1980 年 2 月海上自衛隊のリムパック(米海軍主催の環太平洋合同演習)
初参加、1981 年 5 月シーレーン防衛の表明、1982 年 11 月に初の日米共同統合実働演習を
行った。
こうした背景の中で、1981 年 5 月の答弁書において、政府は、明確な集団的自衛権の定
義を行い、集団的自衛権は有するが行使は禁じられている旨の解釈を示した。
すなわち、
「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国
に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止す
る権利を有しているものとされる。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有し
ていることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第 9 条の下において許容されて
いる自衛権の行使は、我が国が防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであ
ると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法
上許されないと考えている」
(第 94 回国会衆議院稲葉誠一議員提出の質問主意書に対する
答弁書、1981 年 5 月 29 日)という政府見解であった。
ここにおいて、集団的自衛権の定義は、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃
を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」であると
いう言葉で示された。すなわち、個別的自衛権拡大説を採用しつつ、集団的自衛権を説明
している。そして、集団的自衛権の行使が禁止される根拠は、憲法第 9 条全体の論理から
説明されている。
そして、
「集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にした
いということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思う」(角田禮次郎
内閣法制局長官の発言、第 98 回国会衆議院予算委員会、1983 年 2 月 22 日)ということに
なった。
《1990 年代》
394
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、沖縄返還(1972 年)以降、日本政府自身、日本の安全と韓国・台湾の安全を一
体のものと見なすなど、自由主義陣営全体の安全保障への貢献を明確に追求するようにな
った。さらに冷戦終結後は、NATO の場合と同様に、地域的危機管理に重点がおかれるよう
になり、アジア太平洋地域における秩序と安定の維持が日米安保体制の主要な目的になっ
てきていた。
1996 年に合意された新しい「日米防衛協力のための指針」(新ガイドライン)とその実施
のために制定された周辺事態法(1999 年)は、このような観点から、日本の周辺地域でア
メリカ軍が軍事行動を行う場合に自衛隊が輸送・補給などの後方支援活動を行うことを予
、
定したものであり、1992 年の PKO 協力法や 1996 年の日米物品役務相互提供協定(ACSA)
2000 年の周辺事態船舶検査活動法などとあいまって、日米協力によるアジア太平洋地域で
の危機管理体制が拡大されつつある。
また、武力攻撃事態法を初めとする一連の有事法制の整備や、2006 年に合意された米軍
再編計画により、アメリカ軍と自衛隊のいっそう効率的・機動的な活動体制も整備されつ
つある。このようなことは、もはや明らかに日本国憲法第 9 条の個別的自衛権を超えてい
るし、今は認められていない集団的自衛権も超えてきている。
しかし、政府見解は(2014 年 7 月 1 日の集団的自衛権容認の閣議決定の前)
、わが国は集
団的自衛権を国際法上保有しているが、憲法上その行使は許されないという立場は変って
いない。
このように、日本国政府は、70 年近く「集団的自衛権を行使することは、その範囲を超え
るものであって、憲法上許されない」としてきた。70 年も経てば、それはもう、一種の社会
規範となって定着している。国連憲章がその規定通りに集団安全保障制度が実施されてい
ないのであれば、日本政府は国際社会に働きかけて、国連憲章の厳密なる実施を求めるな
り、憲章の改正を働きがけるなりすべきである。
(2012 年 12 月に発足した第 2 次安倍内閣は憲法第 9 条の解釈を変えることによって、国連
憲章第 51 条の集団的自衛権を認めるようにしようと、2014 年 7 月 1 日に日本国憲法第 9 条
の集団的自衛権の行使を容認する閣議決定を行ったことは後述する)
。
【5】第 2 次世界大戦後の戦争
◇米ソ冷戦期(1945~1989 年)の戦争・紛争
国際連合の集団安全保障制度が軌道に乗っていれば、人類は国家間の戦争には終止符が
打たれたはずであった(20 世紀後半は植民地が独立する時期でもあったので、独立戦争や
国内の内戦などが増えたことはやむをえないとしても)
。しかし、以下に示すように、この
時期にもあいも変わらず、戦争が多発した(☆印は『自然の叡智 人類の叡智』に記した
もの。赤色はアメリカ主体の戦争・紛争。青色はソ連主体の戦争・紛争)
。
☆1945年~1989年 – 米ソ冷戦
395
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆1945年~1949年 - インドネシア独立戦争
☆1945年~1954年 - 第1次インドシナ戦争(フランスからの独立)
☆1946年~1949年 - ギリシャ内戦
☆1948年~1971年 - 印パ戦争(第1次~第3次)
☆1948年~(継続) - ミャンマー紛争
☆1948年
- 第1次中東戦争
☆1948年~(継続) - パレスチナ紛争
☆1949年~(継続) - 東トルキスタン紛争
☆1950年~1951年 - チベット紛争
☆1950年~1953年 - 朝鮮戦争
☆1954年~1962年 - アルジェリア戦争
☆1955年~1972年 - 第1次スーダン内戦
☆1956年
- 第2次中東戦争
☆1956年
- ハンガリー動乱
☆1959年
- チベット動乱
☆1959年~1962年 - 中印国境紛争
☆1959年~1975年 - ラオス内戦
☆1960年~1965年 - コンゴ動乱
☆1960年~1996年 - グアテマラ内戦
☆1960年~1975年 - ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争。アメリカの介入)
☆1961年
1961年
- キューバ危機(米ソの直接対決)
– イギリスのクウェート出兵(イギリスがクウェートを独立させたのに
イラクが抗議)
1961年
- ゴア紛争(インドによるポルトガル領ゴアなど植民地併合)
☆1961年~1962年 - 西イリアン紛争(国連の仲裁でインドネシアの管理下)
☆1962年~1969年 - 北イエメン内戦
1962年~1963年 - ベネズエラの反乱
☆1963年~1968年 - アルジェリア・モロッコ国境紛争
☆1963年~1964年 - キプロス内戦
☆1963年~1966年 - マレーシア紛争(インドネシアのボルネオ介入)
1964年~(継続) - コロンビア紛争
☆1965年
- ドミニカ共和国内戦
☆1965年~1979年 - 南ローデシア紛争
☆1965年~1984年 - チャド内戦
☆1967年~1970年 - ビアフラ戦争
☆1967年
- 第3次中東戦争
396
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
☆1968年
- プラハの春(チェコ事件、ソ連のチェコ介入)
☆1969年
- 中ソ国境紛争
☆1969年
- サッカー戦争
☆1969年~1998年 - 北アイルランド紛争
1969年~(継続) - フィリピン紛争
☆1970年
- ヨルダン内戦(黒い九月事件)
☆1971年~1992年 - カンボジア内戦
☆1971年~(継続)- カシミール紛争
☆1973年
☆1974年
- 第4次中東戦争
- キプロス紛争
☆1975年~1989年 - ナミビア独立戦争
☆1975年~1990年 - レバノン内戦
☆1975年
- インドネシアの東チモール侵攻
☆1975年~2002年 - アンゴラ内戦
☆1977年~1979年 - ウガンダ・タンザニア戦争
☆1978年~1988年 - オガデン戦争(エチオピアとソマリアの戦争)
☆1979年~(継続)- 西サハラ紛争
☆1979年
- 中越戦争
☆1979年~1989年 – ソヴィエト連邦のアフガニスタン侵攻
☆1979年~1990年 - ニカラグア内戦
☆1980年~1992年 - エルサルバドル内戦
☆1980年~1988年 - イラン・イラク戦争
1980年~(継続) - ペルー紛争
☆1982年
- フォークランド紛争(マルビーナス戦争)
☆1983年~2004年 - 第2次スーダン内戦
☆1983年
- グレナダ侵攻
☆1983年~2002年 - スリランカ内戦
☆1984年
- 中越国境紛争
1986年~1987年 - トヨタ戦争(チャド内戦の後期。「TOYOTA」のロゴが目立ったため)
1987年~(継続) - ブルンジ内戦
☆1988年~(継続) - ナゴルノ・カラバフ紛争
☆1989年~2001年 - アフガニスタン内戦
1989年~1992年 - 第1次南オセチア紛争
☆1989年 - パナマ侵攻
◇国連の集団安全保障制度を空洞化させたアメリカ的集団安全保障制度
397
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
前述したように国連の集団安全保障制度は、第 2 次世界大戦後の世界で完璧に戦争を防
止する仕組みになっていたはずであったが、最終段階(サンフランシスコ会議)の裏舞台
でアメリカの画策によって第 51 条に「集団的自衛権」が挿入されたことによって、国連の
集団安全保障制度の概念は顚倒してしまうことになった。
この本来の国連の集団安全保障制度と現実とがいかに乖離してしまったかを見よう。
《国連骨抜きの第 1 号は全米相互援助条約》
アメリカは、さっそく 1947 年 9 月 2 日にこの国連憲章第 51 条を利用して、アメリカ合
衆国および中南米の 21 ヶ国、あわせて 22 ヶ国の間で、全米相互援助条約という安全保障
条約を結んだ。チャプルテペック協定の発展したものであり、リオ・デ・ジャネイロにお
いて署名され、翌年 12 月 3 日発効した。国連憲章に規定する地域的取極めとして、戦争ま
たは武力行使を否認し(1 条)
、相互間の紛争を平和的手段によって解決することを誓約す
るが(2 条)
、本条約の核心は防衛条項(3 条~9 条)にある。一締約国に対する武力攻撃を
全締約国に対する攻撃とみなし、集団的自衛権に基づいて相互援助ないし共同防衛を組織
化するというものである。
つまり、国連の中にアメリカを中心とした 1 グループ(同盟)の別個の集団的安全保障
制度をつくったのである。こうなれば、本家本元の国連の集団安全保障制度は形骸化され、
内部から崩壊してしまうのは当然のことであろう。
前述の祖川武夫氏の「集団的自衛―いわゆる US Formula の論理的構造と現実的機能―」
の続きで以下のように述べている。
「さて、集団的自衛権を権利根拠として援用しながら、世界的戦略ラインに沿って集団
的自衛条約網が展開されていくなかで、まず 1947 年の全米相互援助条約は二重の仕方で集
団的自衛権を利用したといわれている。第一には諸締結国が即時に個々に(individually)
おこなうべき援助行動において(全米相互援助条約第 3 条 2 項第 1 文―あえていうなら
“individual collective self-defence”)、第二には協議機関が会合・協議・決定すべき
共同措置(collective measures)において(同第 3 条 2 項第 2 文)である。国連安全保障
理事会の拒否権を考えるなら、第二の場合には地域的ヘゲモニーによる敵・味方決定と共
同敵対措置採用も集団的自衛の名のもとに侵略者判定ならびに制裁決定として貫徹される
ことが見通されているわけである。
さらに 1949 年の北大西洋条約(機構)では、第 2 次大戦後の軍事技術の水準と諸国間の
軍事力の著しい不均等とを理由にして、指導的大国の海外前線基地・駐留軍が広く展開さ
れ、統合軍隊まで組織されるというありさまである(軍事力の不均等だけの理由で平時組
織すなわち集団的自衛条約(相互保障、相互防衛あるいは安全保障を名乗ると地域名だけ
を名乗るとを問わず)が締結されるのでないことはいうまでもない。ことに基地・駐留協
定は新植民地主義的支配の強力な軍事的な支えとなっている)。
とすると、集団的自衛条約においては、明らかにつぎのような現象がみとめられる。す
398
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なわち、①急場における支援行動の権利は、平時における敵対同盟結成の権利となり、②
不定・未必の敵は、特定・常時の敵にかわり、③侵略にたいして防衛援助する権利は、武
力攻撃にたいして選別なく共同戦争をする義務になる。さらに、④権利のレベルでは、平
時からの組織、とりわけその高度の構成=海外基地・駐留軍の設定まで許されるものかど
うか、なお問題であるのに、条約のレベルでは、もはやそれらの存在も自衛法益の実体的
要素となってしまっている。
要するに、集団的自衛権は条約のレベルでは、いわば概念内容の顚倒を示すとともに、
その同盟的機能を余すところなく露呈するに至っているわけである。
」と述べている。
祖川武夫氏の「集団的自衛―いわゆる US Formula の論理的構造と現実的機能―」からの
引用は終わるが、アメリカがこのように自陣営の同盟を形成したり、軍事基地を海外に持
ったりすれば、必ず、それに対抗する勢力が現れて、彼らがアメリカと同じことをやるよ
うになるのを阻止することはできなくなる。
本書では人類の長い戦争の歴史をみてきたが、人類は、核兵器という究極兵器を生み出
した第 2 次世界大戦を経験して、ついに人類の叡智(ルーズベルトなど)が、これで戦争
を廃止できると思われる国連の集団的安全保障制度を生み出したのも束の間、そのアメリ
カが第 51 条の集団的自衛権を挿入してアメリカ的集団的安全保障制度に換骨奪胎させたた
め、人類の宿弊ともいうべき同盟主義が復活・恒常化し(アメリカが同盟を形成すれば、
必ずそれに敵対する同盟が形成される)
、常時、世界中に軍事基地が展開され、常時核ミサ
イルや攻撃機で敵対同盟国に照準を合わせるという、国連が創出される前よりもはるかに
危険な世界となってしまったのである(『恒久平和のために』を書いたカントは、これを何
というのであろうか)
。
集団的自衛権は、
「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃さ
れていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利」であるという。このような集団
的自衛権を認めれば、
「自国と密接な関係にある外国」が際限なく広がり、自国が直接攻撃
されていないにもかかわらず、実力(武力)をもって阻止するということになれば、たち
まち国連の集団安全保障制度は根底から崩れてしまうことは明らかであろう。
安保理事会では常任理事国が拒否権を持っているから、常任理事国やそれに支持された
国(つまり、常任理事国の同盟国)による自衛権行使の主張が否認されることはない。つ
まり、5 人の警察官に世界の安全保障を任せようとする本来の国連の趣旨が裏目に出て、寄
らば大樹の影と拒否権をもった万能の 5 人(実際には米ソの 2 人)の警察官に世界の他の
国々がすりよっていって同盟の形成を促進することにもなってしまった(同盟国にとって
はこれほど頼りがいのある警察官はいないが、それから外れた国(非同盟国)にとっては、
危険な暴力団のボスとうつる)
。
常任理事国は、安保理事会による措置の決定を拒否権で阻止することによって、自衛名
目での武力行使をいつまでも継続させることも可能である。自衛権の承認は、常任理事国
399
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
との関係では、武力行使禁止の原則そのものを空洞化させる。この危険性は、集団的自衛
権の場合にはいっそう明白である。この権利は,一般的には、自国と連帯関係にある他の
国家(つまり、常任理事国の同盟国)が攻撃を受けた場合に、その国にかかわる自己の重
大利益の侵害を理由として、自らからは武力攻撃を受けていないにもかかわらず反撃を加
える権利、と解されるようになってしまった。
いずれにしても、集団的自衛権を行使する国は、自らは武力攻撃を受けていないにもか
かわらず武力行使に乗り出すのであり、しかも、ここでは拒否権の行使により安保理事会
は機能しないことが想定されているのであるから、この共同武力行使が自衛の要件を満た
しているかどうかはチェックもされないし、国連の集団措置に取って代られることもない。
この「集団的自衛権」を挿入したことによって、ルーズベルトたち、国連の創造者が意
図したことが達成出来なくなることがわかったら、国連の安全保障制度を改革すればよか
ったが(それは人類が社会システムを創造し、使って見て、うまくいかなければ、また、
改革していったと縷々述べたことである)
、アメリカのルーズベルトの後継者たちは第 2 次
世界大戦後に握った世界の覇権の魅力に取り付かれ、国連のこの欠陥を改革するのではな
く、それを利用して(国連を形骸化して)戦後世界のアメリカの覇権確立に奔走するよう
になった(トルーマン・ドクトリン)。ソ連もそれに対抗して、ソ連圏の確立に専念してい
った(スターリン主義)
。
結局、集団的自衛権は、核国家とりわけ常任理事国たる大国が、同盟国や友好国を支援
するため、自らは武力攻撃を受けていないにもかかわらず、しかも安保理事会の統制を受
けることもなく、武力を行使することを可能にするものであって、このような権利を認め
ることは、個別国家による武力行使をできるだけ制限しようとしてきた国際連盟以来の努
力に逆行するものであった。
この第 51 条の集団的自衛権は、冷戦期にアメリカとソ連がそれぞれ軍事ブロックを形成
したり、地域紛争に介入したりするための国際法的根拠として大いに利用された。つまり、
「国連憲章第 51 条でも認められている『集団的自衛権』に基づき○○条約を結んで相互の
安全保障」を行ったのである。そこには国連の出る幕はなかった。
たとえば北大西洋条約第 5 条は、いずれかの締結国に対して武力攻撃が行われた場合に
は、
「各締約国が、国際連合憲章第 51 条によって認められている個別的又は集団的自衛権
を行使して、北大西洋地域の安全を回復し及び維持するために、兵力の使用を含めてその
必要と認める行動を、個別的に及び他の締結国と共同して直ちに執ることによって、右の
攻撃を受けた一以上の締約国を援助する」と規定しており、その実施のために、加盟国の
軍隊を統一的に運用する軍事機構(NATO)が設けられた。
北大西洋条約機構(NATO)ができると、ソ連も、これに対抗した共同防衛体制であるワ
ルシャワ条約機構(WTO)を第 51 条の集団的自衛権にもとづいて構築した。結局、この第
51 条の集団的自衛権が拡大解釈されて、NATO や WTO になってしまったのである。
400
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
外部に想定した特定の敵との共同戦争を約束するこうした軍事同盟の形成により(外部
に想定した敵をつくれば、必ずそれに対抗した軍事同盟ができることは、人類の長い歴史
が示している)
、国連の集団安全保障制度はその基盤を掘り崩され、第 2 次世界大戦前の勢
力均衡の世界に逆戻りしてしまったのである。つまり、ルーズベルトらが緻密に練り上げ
た戦争放棄の仕組みである国連の集団安全保障制度は、実質的に同盟国の安全保障だけを
はかるアメリカ的(あるいはソ連的)集団的自衛権に取って代わられたのである。
《米ソの拒否権で機能しなくなった国連の集団安全保障制度》
1946 年 2 月、ソ連のアンドレイ・ビシンスキー大使は、安全保障理事会でフランス軍の
レバノンおよびシリアからの撤退に反対票(ニエット)を投じた。後を引き継ぐ両国の政
権を西側帝国主義の手下だと見なしたからだった。ソ連の初めての拒否権行使だった。
冷戦がはじまり、国連が発足してからまもなく、こうして多くの事柄に拒否権が頻繁に
行使される事態となった。国連の当初の計画立案の場は失われ、基本理念は見捨てられ、
米ソの争いの場となった。
当初、拒否権を行使したのはもっぱらソ連であった。ソ連政府がもっとも頻繁に拒否権
を行使したのは、かつて、あるいは当時ファシスト的傾向にあった国、まだ新植民地主義
の衛星国と見なされていた国、あるいは保守的なカトリック国の国連加盟を阻止するため
であった。
1949 年 9 月 13 日だけでも、ソ連はオーストリア、セイロン、フィランド、アイルランド、
イタリア、ポルトガル、ヨルダンの加盟を、また 1952 年 9 月にはリビア、日本、カンボジ
ア、ラオス、南ベトナムの加盟を妨げた。1955 年 12 月 13 日、ソ連は以上の国すべてを含
む合計 16 ヶ国の国連加盟に拒否権を行使した。
アメリカは国連創設から 25 年間、拒否権を行使することはなかった(拒否権行使はしな
かったが、集団的自衛権名目の同盟を多数締結し、集団的自衛権名目の武力行使はかって
に行っていた)
。アメリカが初めて拒否権を行使したのは、1970 年 3 月、イギリスが南ロー
デシア問題への総会決議に反対したのに同調してのことだった。これ以降、アメリカも自
らが保護すべき重要な利害関係があると見なす問題(パナマ運河、北朝鮮の加盟、アンゴ
ラ、ニカラグア)に関する決議を阻止するようになった。とりわけ中東問題に関与した結
果、イスラエルに敵対的な決議に拒否権を行使した。
このように拒否権が行使されたので、国連の機能は麻痺し、前述したようにアメリカは、
南北アメリカでは全米相互援助条約、ヨーロッパでは、北大西洋条約機構を作ったのに引
き続き(ソ連はそれに対抗してワルシャワ条約機構を形成した)
、アジアでも反共陣営の強
化をはかり、1950 年に米タイ軍事協定、51 年に米比相互防衛条約、太平洋安全保障条約(オ
ーストラリア、ニュージーランド、アメリカ)
、日米安全保障条約を結び、朝鮮戦争終結後
の 1953 年には米韓相互防衛条約、54 年には米華(台湾)相互防衛条約を結んだ。さらに、
インドシナ休戦協定成立後の 54 年には東南アジア条約機構(SEATO)
、55 年には中東条約機
構(METO)を結成し、集団防衛体制を固めた。
401
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なお、東南アジア条約機構(SEATO)の参加国はアメリカ、イギリス、フランス、オース
トラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンであり、中東条約機構(METO)
の参加国は、イラク、トルコ、パキスタン、イラン、イギリスであった(アメリカはオブ
ザーバー参加であったが、アメリカはこの機構には軍事・経済的援助を行った)
。
これだけの同盟関係、同盟条約を結んでおけば、どんなことでもアメリカやソ連は「集
団的自衛権」の発動という名目で介入できた。
いったん、根っこのところで、知恵(悪知恵)を出して、方向を変えると、民主国家で
あろうと、独裁国家であろうと、官僚が統治しているのは同じであるから、その後は次々
と知恵(悪知恵)が積み重ねられ、どうにもとまらないことになってしまうことは『自然
の叡智 人類の叡智』で縷々述べてきたことである。
国連憲章第 51 条の集団的自衛権もその道を歩むことになり、米ソ冷戦はこの「国連によ
って認められた集団的自衛権」を隠れ蓑にして、どうにもとまらなく進行し、図 79(図7)
のように、国連本来の集団安全保障制度を失墜させてしまい、図 80(図 16-8)のように地
球上を核ミサイルで覆ってしまった。
図 79(図7) 『永遠平和論』を失墜させた第 51 条集団的自衛権
402
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 80(図 16-8) 北極海をはさんで対峙した資本主義陣営と社会主義陣営
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
◎朝鮮戦争の事例
1950 年の北朝鮮による韓国侵攻は、国連憲章で想定されている国際的な侵略の典型であ
ったが、当時の安保理内の東西緊張とソ連の頻繁な拒否権行使により、国連が一致団結し
て措置を講じる可能性はほとんどないと思われた。
しかし、ソ連が(国連が中華人民共和国を退け国民党の中華民国を支持したことに抗議
して)安保理を一時的にボイコットしていたため(このためソ連の拒否権行使がなかった
ので)
、安保理はアメリカ主導で侵略者(北朝鮮)に対する国連軍を承認し、それを実行す
ることが可能となったのである。戦争そのものは、長く激しく困難で、国連のすべての平
和執行活動のなかでも最大規模の作戦だった。明らかに、常任理事 5 ヶ国の全会一致は得
られていなかった。
朝鮮戦争の国連の作戦活動は、国際的な平和と安全の維持あるいは回復のための活動を
認める第 42 条に明らかに該当した。しかし、安保理もその下部機関である軍事参謀委員会
も、大きな役割を担っていなかった。作戦活動は基本的にアメリカの先導で遂行され、国
403
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
連決議はほとんど必要ないと、だれもが理解していた(多くの点で 1991 年の湾岸戦争のと
きの状況と似ている)
。
韓国に駐留したアメリカ軍司令官は、ニューヨークの国連本部ではなく、ワシントンの
アメリカ政府に報告し、現地に展開された軍事力は、韓国の国軍と並んで、圧倒的にアメ
リカ軍であった(ただし多くの他の親西側諸国も兵力を派遣した)。この介入は、そもそも
ソ連の思わぬ欠席が可能にしたにすぎない例外的なケースであり、将来的な参考にはなら
なかった。
◎スエズ危機とハンガリー事件の事例
次の歴史的な安全保障上の事件は、1956 年のスエズとハンガリーで起きた 2 つの危機だ
った。スエズ危機(第 2 次中東戦争)にさいし、イスラエル軍がエジプトに進撃中、イギ
リス・フランスも軍事介入し、スエズ運河地帯に上陸したが、国連安保理の糾弾決議にイ
ギリスとフランスは拒否権を発動した。ハンガリー危機では、ソ連軍がハンガリーでの反
乱を制圧したが、ソ連は安保理で拒否権を行使して、不利な決議から自国の利害を守ろう
とした。
スエズ危機もハンガリー危機も基本的には同じもの、つまり大国の中小国に対する侵略
であった。怒った国連総会は何とか発言権を得ようとしたが、ほとんど効果はなかった。
スエズ危機については、西側であったアイゼンハワー大統領も苛立ち怒ってイギリスとフ
ランスに圧力をかけたため、英仏軍は撤退しナセルはスエズ運河の国有化に成功した。
また、ソ連がハンガリー人の反乱を鎮圧したことへの抗議は成功しなかった。ハンガリ
ーはソ連の勢力圏にあり、大戦争なくして救うことは不可能だった。
このスエズ危機のとき、戦闘のあとのシナイ半島ではじめて国連の平和維持活動が開始
されたが、これについては後述する。
◎コンゴ動乱と中東戦争の事例
コンゴ動乱や何度も繰り返された中東戦争のような 1960 年代、70 年代の国際危機は、国
連の平和維持と平和執行の歴史で重要な出来事であった。米ソにはそれぞれに支援しよう
とする依存国があり、積極的には外交的支援と軍事資源の供給を通して、また消極的には
その衛星国に対する措置を阻止するために、安保理の舞台で拒否権を用いることで、その
目的を達した。
たとえば、コンゴ動乱では、ソ連はコンゴ人首相ルムンバへの政治的支援を繰り返した。
また、中東問題ではソ連はエジプトの利益を保護し、70 年代初めになるとアメリカも、主
としてイスラエルに不利な決議を阻止するために安保理で本気で拒否権を行使しはじめた。
このように国連の戦争防止という機能はほとんど実現できなくなったが、国連に新たに
加えられた平和維持という観点から有効な機能もあった。それが PKO である。
◇新たに加わった国際連合平和維持活動
国際連合平和維持活動(PKO。United Nations Peacekeeping Operations)は、紛争にお
いて平和的解決の基盤を築くことにより、紛争当事者に間接的に紛争解決を促す国際連合
404
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の活動である。日本では PKO と略されることが多い。PKO に基づき派遣される各国軍部隊を
平和維持軍(PKF。Peacekeeping Force)という。
国連憲章に「平和維持」という言葉はどこにも見あたらず、したがってこの形態の集団活
動には何の指針も与えられていない。平和維持、あるいは平和維持活動の概念が国連憲章
から欠落している理由は、1945 年には、その言葉は各国間の平和を維持し、近隣諸国やさ
らに遠く離れた国を脅かす国を押さえ込むことを意味していた。国連の体制全体が、そう
した国境を越える侵略の阻止を志向していた。したがって、ある国の一部の地域が独立を
求めて闘い、外部の支援を求めるとか、民族や宗教グループ間の内戦といった加盟国国内
での出来事には、何ら関心が払われていなかったのである。国連にはどの国への内政干渉
も認められておらず、加盟国にしても、そのような権限に従うよう義務づけられてはいな
かったのである。
したがって国連による初期の平和維持活動は、限定された急場しのぎの予備的なものだ
った。1940 年代後半の暫定的「平和監視」活動以外の何ものでもなかった。総会がギリシャ
の内戦に対して採択し、
(安保理でのソ連の拒否権により、ギリシャ国内にではなく)同国
国境沿いに展開された平和維持軍や、インドネシアからのオランダ軍撤退を監視した監視
団が、その例だった。
もう少し大掛かりな活動が、1948 年のアラブ・イスラエル戦争後、和平監視のために送
られた軍事監視団・国連休戦監視機構(UNTSO)であった。表 15(表 17-2)に国連平和維
持活動(PKO)を記しているが、それの 1 番目のものである。
《国連休戦監視機構(UNTSO)
》
1947 年 11 月、国連総会は国連パレスチナ問題特別委員会が提出したパレスチナ分割決議
案(パレスチナを分割してアラブ人国家とユダヤ人国家を創設し、エルサレムを国際管理
下におくというもの)を承認する決議を採択したが、同決議はパレスチナ・アラブ人にも
アラブ諸国にも受け入れられなかった。その後、同決議に基づき 1948 年 5 月にイスラエル
が独立を宣言したところ、これを認めない周辺アラブ諸国がイスラエルに宣戦を布告し、
第 1 次中東戦争が勃発した。安保理は同月決議 50 を採択し、休戦を呼びかけるとともに国
連調停官が軍事監視団の援助を受け休戦を監視することを決定した(UNTSO の設立)。
設立以来、UNTSO は、49 年のイスラエルとアラブ 4 ヶ国(エジプト、ヨルダン、レバノ
ン、シリア)間で締結された全面休戦協定の履行状況の監視、67 年 7 月のアラブ・イスラ
エル紛争(第 3 次中東戦争)後のスエズ運河やゴラン高原における停戦監視など、状況の
変化に応じ安保理により委任されるさまざまな任務を遂行してきている。2007 年 8 月 31 日
現在、軍事監視要員は 152 人である。
405
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 15(表 17-2) 国連平和維持活動(PKO)
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《国連インド・パキスタン軍事監視団(UNMOGIP)―インド・パキスタンのカシミール》
次の例が(表 15(表 17-2)の 2 番目)1949 年のインド・パキスタン停戦後にカシミー
ルへ派遣された事実調査・監視団(UNMOGIP、国連インド・パキスタン軍事監視団)であっ
た。総会も安保理も、国連によるそうした活動が紛争当事者間の仲裁努力に当然付随する
ものであり、長期間続くかもしれないということを認識し始めていた。軍事力を派遣した
国々はこの種の活動で初めて貴重な経験を積み、将来の危機に備えて国際平和維持部隊を
創設した。
《第 1 次国際連合緊急軍(UNEF I)―エジプトとイスラエルの国境沿い、ガザ地区》
1955 年にエジプト軍とイスラエル軍がガザ地区で衝突し、イスラエルはシリア国境の戦
略要地を攻撃した。翌年には、ナセルによるスエズ運河の国有化、イスラエルの侵攻、英
仏によるエジプトへの軍事介入へと発展した。いわゆる「スエズ危機」の発生である。常
任理事 5 ヶ国のうち 2 ヶ国(イギリス、フランス)がそのその紛争に深くかかわっており、
安保理は麻痺状態に陥った。
このとき、カナダのレスター・B・ピアソン(1897~1972 年)の提唱によって第 1 次国際
連合緊急軍(UNEF I)が創設され(表 15(表 17-2)の 3 番目)、危機を鎮圧した。これが国
際連合平和維持活動の元となった。これにより、ピアソンは 1957 年にノーベル平和賞を受
賞し「国連平和維持活動の父」と呼ばれている。
1956 年 11 月 4 日の総会決議 998 号は、ハマーショルド事務総長にこの地域での緊急国連
平和維持軍の設立を要請するもので彼の率いる事務総長室に大きな責任と権限を付与した
のである。国連緊急軍(UNEF)と呼ばれたその部隊は事務総長の指揮下に置かれ、彼が中
立の軍事将校を戦地での司令官として任命、緊急軍はその直属の部隊となった。先の監視
軍と異なり、国連緊急軍(UNEF)は当事国と当事国とのあいだにかなりの兵力の平和維持
軍を介在させた。エジプトとイスラエルの国境沿い、およびガザ地区をとり囲む地域は、
こうして当事者間に物理的緩衝地帯を形成した。新しい時代のはじまりだった。このとき
国連軍は、青いヘルメットを初めて着用した。
国連緊急軍への貢献は、安保理常任理事 5 ヶ国によってではなく、中立の加盟国(ある
いは少なくともアラブ・イスラエル戦争で中立と見なされる国)によりなされた。これは
受け入れ国政府が、特定の国の兵士が停戦ライン沿いに駐留するのに反対する恐れがあっ
たためである。
軍事部隊を国際的権限の下に置くことに同意する国は、一般にスカンジナビアをはじめ
とするヨーロッパの国々で、アイルランド、ポーランド、オランダ、そしてときにはイタ
リアも加わった。フランスはレバノンへ部隊を派遣し、アフリカで危機が起こったときも
同様に派遣に応じた。イギリスはキプロスでの平和維持軍の大半を提供した。ブラジルや
コロンビアのようなラテンアメリカ諸国も、重要な貢献国だった。
イギリス連邦の国々は二度の世界大戦で大規模な連合軍の一部として戦った経験があり、
カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、インド、フィジー、ジャマイカ、ガーナ、
407
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
パキスタン、ナイジェリアから、たびたび平和維持軍が提供された。こうして、青いヘル
メットをかぶった軽武装の監視部隊や国境警備部隊のイメージが一般的に認められた国連
軍の典型となり、平和維持活動の原型が確立したのである。
【6】米ソ冷戦と原水爆対立
◇米ソ超大国の出現
第 2 次世界大戦に主導的役割をはたして勝利に導いたアメリカは、本土が戦場になった
わけでもなく、また、戦時中は連合国側の兵器廠としてフル生産をしていたので、戦争が
終わってみると、かつてないほど強大になっていた。
戦時中にアメリカの生産工場の規模はほぼ 50%増大し、物的生産量も 50%以上伸びた。
1940 年から 44 年にかけてアメリカの工業生産は年率 15%以上の伸びで拡大した。この成
長は軍需生産によるところが大きく、1939 年には総生産量の 2%だったのが、1943 年には
40%と急増した。非軍需品の生産も伸びたが、他の交戦国とちがって、もともとアメリカ
の工業生産力が大きかったので民需部門が圧迫されることはなかった。
膨大な軍事支出に刺激されて、アメリカの国民総生産は 1939 年の 886 億ドルから 1945
年には 1350 億ドルに伸びた。これは 1939 年のドルの価値による数字なので、現在のドル
の価値にすればこの数字よりはるかに大きくなる(2200 億ドル)
。
終戦当時、アメリカ政府の金準備高は 200 億ドルで、世界の総金準備高 330 億ドルの 3
分の 2 を占めていた。さらに、世界の工業生産の半分以上がアメリカで占められ、実際に
世界のあらゆる種類の製品の 3 分の 1 を生産していた。その結果、終戦時にはアメリカは
最大の輸出国となり、2,3 年のちには世界の輸出量の 3 分の 1 を占めるにいたった。また、
造船所の設備拡充により、世界の船舶総トン数の半分を保有するまでになっていた。
アメリカは終戦時には 1250 万人の兵員を擁し、そのうち 750 万人は海外に派遣されてい
た。平時になると、当然この総数は減っていって、1948 年には、その 9 分の 1 となった。
終戦直後のアメリカ海軍は、何十隻という空母を中心とした 1200 隻の軍艦を擁する海軍
力であり、長年世界一だったイギリス海軍をもかなり上まわり、これに匹敵するものは存
在しなかった。空軍はヨーロッパでヒトラーの領土を叩いた 2000 機あまりの重爆撃機や日
本の多くの都市を焦土と化した 1000 機の超長距離爆撃機 B-29 に加えて、B-36 のようなは
るかに強力なジェット推進式爆撃機までが加えられていた。とくに原子爆弾は当時はアメ
リカしか所有しておらず、今後いかなる国が敵になろうとも、それを広島や長崎のような
廃墟にするという睨みをきかせることができた。
こうして、終戦後、アメリカは経済的にも戦略的にもきわだっており、列強が力を失う
とともに生じた空隙(くうげき)をアメリカは着々と埋めていった。日本とドイツ(オー
ストリアを含む)の秩序回復に政治的にコミットし、また太平洋の島々で戦い、北アフリ
カやイタリアや西ヨーロッパの戦線に参加したために、これらの地域に軍隊を駐留させる
ことになったのである。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このようにして 1815 年以降(ナポレオン戦争後)のイギリスと同じく、今度はアメリカ
が世界のさまざまな地域に影響力を及ぼすようになって、
「パックス・ブリタニカ(イギリ
スによる平和)
」から「パックス・アメリカーナ(アメリカのよる平和)」への転換となっ
た。
しかし、ここにもう一つの超大国が誕生していた。ソ連が占領した地域には、アメリカ
の影響力が浸透しなかった。ソ連は 1945 年に、わが国こそファッシズムと戦った真の勝利
者だと主張し、その後もその主張を変えなかった。赤軍の資料によると、彼らが撃破した
ドイツ軍師団は合計 506 個で、第 2 次世界大戦におけるドイツ軍死傷者と捕虜 1360 万人の
うち、1000 万人が東部戦線で犠牲となっている。また、そのためにソ連はこの大戦で 2000
万人の死傷者という膨大な犠牲もはらってきた。
ソ連の行動は、1917 年のロシア革命以後低落し続けていたが、スターリンが権力を握っ
た以降は旧帝政ロシアの時代と同じく領土拡大主義をとりはじめ、第 2 次世界大戦によっ
て領土を拡大した。ソ連領の国境は、北ではフィンランドを、中部ではポーランドを、そ
して南ではベッサラビアを奪われたルーマニアをそれぞれ犠牲にして延長された。エスト
ニア、ラトビア、リトアニアのバルト諸国が再びソ連に併合され、東プロイセンの一部も
ソ連領となり、チェコスロバキア東部も部分的に加えられたので、ハンガリーと国境を接
するようになった。こうして領土を広げたソ連の西と南東には、ポーランド、東ドイツ、
チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、そしてユーゴスラビアとアル
バニアという衛星諸国からなる新しい緩衝地帯が広がった。
極東でもスターリンは勢力範囲を広げようとし、1945 年 8 月 9 日から侵攻を開始したが、
日本が 8 月 15 日に降伏してしまった。本来はここで戦闘を休止すべきであるが、そのまま
侵攻をつづけ、満州と北朝鮮とサハリンと千島列島および現在も日露で領土問題が残る 4
島などを占領して、日露戦争の報復をした。
こうして中国も含めてソ連の勢力範囲を囲い込み、その中で共産主義の政治理念で治め
ようとするようになった。しかし、ソ連の場合は、戦争の痛手もなく好況を享受するアメ
リカとは対照的に、経済基盤がこの大戦によって大きく破壊されていた。
ソ連は確かに戦争に勝った。しかし、最大の戦争被害者でもあった。ソ連は戦線でも軍
需生産でもドイツを打ち負かしていた。しかし、それは信じられないほど軍需生産だけに
力を注ぎ、他の部門をないがしろにしてきたおかげだった。そのために消費財、小売商品、
農産物などの供給は大幅に低下した。つまり、1945 年のソ連はアメリカと同じ軍事大国で
あったが、経済的には敗戦国と同じく非常に貧しく、アンバランスの状態にあった。
スターリンはなんとしても国力の屋台骨を建て直す必要があると考えていたので、従来
と同じく、生産財(重工業、石炭、電気、セメント)と輸送に重点をおいて、消費財や農
業生産を軽視した。その結果、当初は難航したものの、重工業に関する限り、1945 年から
50 年にかけて生産高が倍増した。しかし、この工業生産の回復は、戦前の生産高に戻った
に過ぎなかった。
409
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スターリンは戦争が終わっても、戦後世界においてソ連の軍事的安全を高度に維持する
ことに執着した。経済が前述のような状態だったのでその立て直しのためにも、巨大な赤
軍を減らす必要があり、1945 年以降、3 分の 1 に減ったのは当然のことであった。しかし、
それでも 175 個師団を擁し、2 万 50000 台の戦車と 1 万 9000 機の航空機を保有し、世界最
大の防衛戦力であった。それを正当化していたのが、ソ連の立場からすれば、新たに手に
入れた領土はもちろん、ヨーロッパで新たに獲得した衛星国を将来の侵略者から守る必要
があると考えたからだった。
これらの軍隊は軍事技術の新たな進歩を目前にして、装備の老朽化が進んでいた。これ
に対応するために、師団を編成しなおして、近代化を進めるだけでなく、国家の経済資源
と科学資源が新兵器の開発に向けられた。1947 年から 48 年にかけては強力なジェット戦闘
機ミグ 15 が配備され、アメリカやイギリスにならって遠距離戦略航空隊が創設された。ま
た、捕虜にしたドイツの科学者や技術者を使ってさまざまな誘導ミサイルが開発された。
さらに、極秘で大戦中から原子爆弾の開発も進められていた。そして、ドイツとの戦い
では補助的な役割しか果たさなかった海軍も、新型重巡洋艦や外洋潜水艦が加わって変貌
しつつあった。だが、こうした兵器類の大半は米英の(原爆を含めて)二番煎じのもので、
欧米の基準からすれば高性能とはいえなかった。
《覇権の交代―米ソ超大国の時代》
アメリカがイギリスを追い越して国民総生産で世界一になったのは、すでに 19 世紀後半
からであったが、第 2 次世界大戦中にソ連が第 2 位になり、ヨーロッパの従来の列強が勝
敗にかかわらず大きく後退した。表 16(表 16-1)に 1950 年の国民総生産を示す。
表 16(表 16-1) 大国の国民総生産、1 人当たりの国民総生産(1950 年)
ポール・ケネデ『大国の興亡』
ヨーロッパの衰退をもっとも如実に反映しているのが、兵員数と軍事支出である。1950
年を例にとると、軍事支出はアメリカが 145 億ドル、ソ連がそれをやや上まわる 155 億ド
ルで、兵員数はアメリカが 138 万人、ソ連がそれよりはるかに多い 430 万人であった。こ
れに対しイギリス(23 億ドル、68 万人)、フランス(14 億ドル、59 万人)、イタリア(5
410
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
億ドル、23 万人)と両超大国とは一桁小さくなった。ドイツと日本はまだ占領されていて、
非武装国家だった。
1951 年には朝鮮戦争による緊張のため、軍事支出がかなり増えたが、それでもアメリカ
(333 億ドル)、ソ連(201 億ドル)にくらべると、イギリスとフランスとイタリアを合わ
せても、防衛支出はアメリカの 5 分の 1 以下、ソ連の 3 分の 1 以下で、兵員数はアメリカ
の 2 分の 1、ソ連の 3 分の 1 であった。相対的な経済力でも、ヨーロッパ諸国は凋落してし
まったことは確かであった。第 2 次世界大戦後は完全に米ソ超大国の時代になった。
◇戦後処理と米ソ冷戦の開始
冷戦の始まりは、そのイデオロギー的側面に注目するならばロシア革命にまでさかのぼ
ることができる。対ファシズムで協力している間は、社会主義(共産主義)体制の雄とな
ったソ連と資本主義体制の雄であるアメリカ合衆国は両体制のちがいを押さえていたが、
第 2 次世界大戦の目途がついたヤルタ会談あたりから、対立が見られるようになった。
図 81(図 16-2)のように、具体的に主にヨーロッパの分割占領を扱った 1945 年 2 月の
アメリカ・ルーズベルト、ソ連・スターリン、イギリス・チャーチルによるヤルタ会談が、
戦後の世界の行方を決定した。7 月のポツダム会談でさらに相互不信は深まっていった。
その典型例がポーランド問題であった。
◎ポーランド問題
ヤルタ会談で合意した「ヨーロッパ解放宣言」では、ポーランドは「全民主勢力を幅広
く代表した臨時政府」を樹立し、「早期に自由選挙を実施」することになっていたが、ス
ターリンはルブリン政権(共産党政権)のままにしておいた。ルーズベルトの死後大統領
に就任したトルーマンは、こうしたヤルタでの取り決めをソ連が反故にしていることを知
り、1945 年 4 月 22 日、ソ連のモロトフ外相に対し強く抗議し、ポーランド政権の改組を厳
しく要求した。
その結果、ルブリン政権を改組し、ロンドン亡命政権側から閣僚の 3 分の 1 程度を入れ
て、連合政権を樹立することで妥協がはかられ、ロンドン亡命政府とルブリン政権は合同
し挙国一致政府が成立した。このときは、スターリンは一応、米英に妥協して形式的に連
合政府をつくらせたが、しかし、その後、ソ連の強い軍事的な影響力のもとに次第に共産
主義系の勢力が政府の実権を握るようになり、亡命政府系の政治家は逮捕されたり亡命に
追いやられたりしていった。
結局、1948 年、ソ連の後援でポーランド統一労働者党(共産党)ができて、ソ連式の社
会主義を称する一党独裁政体へ移行した。農業の集団化など、ソ連型の経済政策が次々と
導入され、1952 年には社会主義憲法を制定して国名をポーランド人民共和国に改め、結局、
ソ連の傀儡政権になってしまった。
411
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 81(図 16-2) 第 2 次世界大戦後のヨーロッパ
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
◎東欧諸国の共産党化
東欧諸国のうち、ドイツと同盟関係にあったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ス
ロバキアにはソ連軍が進駐し(図 81(図 16-2)参照)
、共産主義勢力を中心とする政府が
樹立された。当初は、
「反ファシズム」をスローガンとする社会民主主義勢力との連立政権
であったが、法務、内務といった主要ポストは共産党が握り、結局、共産党系の政権にな
ってしまった。
◎鉄のカーテン
1946 年 3 月に訪米中のイギリスの元首相チャーチルがアメリカのミズーリ州フルトン市
の大学で、有名な「鉄のカーテン」演説をして、対ソ政策の転換を訴えた。
野に下ったチャーチルがトルーマン大統領に招かれ、その面前で行った演説の中で、「今
日、バルト海のシュテッティンからアドリア海のトリエステまで(図 81(図 16-2)参照)、
ヨーロッパ大陸を横切って鉄のカーテンがおりている。中部ヨーロッパ及び東ヨーロッパ
の歴史ある首都は、すべてその向こうにある」という有名な比喩を使って、東欧が「ソ連
圏化」したとの認識を強調し、共産勢力の脅威を指摘し、冷たい戦争のはじまりをつげる
ファンファーレとなった。武器を使用する「熱い戦争 hot war」に対して、相いれない体制・
国家の間の対立から生まれた国際緊張状態を「冷たい戦争 cold war」といった。
412
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このフルトン演説に対してスターリンは、ソ連共産党中央委員会の機関紙『プラウダ』
のインタビューに答える形で、チャーチルの試みは連合国間に不和の種をまき、協力を困
難にする「危険な行為である」と非難した。
◎ベルリン封鎖とベルリン空輸作戦
枢軸の中心であったドイツとオーストリアは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連が 4
分割して占領統治した。ドイツの首都ベルリンは、その国土同様に 4 国分割された。その
結果、図 81(図 16-2)のように、ベルリンは西側占領地区だけが、東ドイツの真ん中に
島のように位置することになった。
ドイツの経済復興についてモスクワ外相会談がもたれたが、米英は、ドイツの賠償支払
能力は 10 年間に 30 億ドル程度であるとして、賠償請求よりも経済力の回復をはかるため、
ポツダム協定によって制限されている工業水準の引き上げ、及び各占領区域の経済統合を
求めた。
これに対して、ソ連は、200 億ドル(うち、対ソ連分として 100 億ドル相当の経常生産物
賠償)をドイツに要求する賠償 20 年案を提示するとともに、先に米英両国が取り交わした
両国占領区域間の経済統合協定の撤廃、及びルール地域の 4 ヶ国共同管理を主張した。ソ
連はドイツとの戦争で甚大な被害が出ていたため、取れるものは全てとるという方針をと
ったことから、早期復興を目指す西側 3 ヶ国と対立した。
会談に出席したマーシャルは、ドイツ処理問題におけるソ連の強硬姿勢の背後には「問
題の長期化は欧州経済に悪影響を及ぼす。それはソ連にとって有利に働く」との意図があ
るとみた。そこでアメリカは、後述するマーシャル・プランの創設に動いた。
ソ連軍政当局は西側に圧力をかけるため、1948 年 4 月 1 日から、西ベルリンへ向かう人
員や貨物について検問を強行し、西ベルリンへの物資搬入に制限がかけられた。さらに、5
月にソ連が 6 月 24 日に東側領域において通貨改革を実施することを宣言すると、すかさず
西側も 6 月 20 日より西側領域でも通貨改革を実施すると公表した。この結果、マーシャル・
プランに保障される西側通貨(マルク B、ドイツマルク)が力を持つようになり、東側の通
貨改革は失敗することとなった。
反発を強めたソ連側は、1948 年 6 月 24 日より西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施し、
鉄道は運休、検問所にはバリケードが設置されて物流は完全に停止させられた。ソ連によ
る完全封鎖の開始後、西ベルリンでは燃料や食糧だけでなく、石鹸やトイレットペーパー
などの生活用品や、薬品までが短期間で欠乏し、市民生活が危機に陥ることが予想された。
そこで、アメリカやイギリスを中心とする西側は、アメリカ空軍のカーチス・ルメイ戦
略空軍司令官らが立案した空輸作戦を実施し、アメリカやイギリスなどの軍の大型輸送機
を総動員し、西ベルリン救援のための燃料(石炭)
、食料、生活用品の空輸作戦を行った。
この採算を度外視した西側諸国による空輸作戦は成功裏に推移し、結局、ソ連は封鎖を 1
年以上継続したうえで、封鎖策の失敗を認めざるを得なくなり、1949 年 5 月にようやく解
除した。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
◎ドイツの分裂
しかし、このあいだに東西対立は決定的となり、英米仏は統一ドイツ建設の試みをあき
らめた。1949 年 9 月には米英仏の西側占領地区にドイツ連邦共和国(西ドイツ。首都ボン)
が樹立され、キリスト教民主同盟のアデナウアーが初代首相に就任した(在任:1949~63
年)
。
他方、1950 年 10 月にはソ連占領地区にドイツ民主共和国(東ドイツ。首都ベルリン)が
設立され、社会主義統一党のグローテヴォールが首相となった(在位:1949~64 年)。こう
してドイツの分裂は決定的となった。ドイツの中立・非武装化という連合国の当初の計画
は挫折した。
◎ギリシャ・トルコへの軍事援助問題
ギリシャでは共産党を中心とする左翼政党は選挙をボイコットし北部山岳地帯でゲリラ
活動を開始していた。このゲリラはユーゴスラビアの支援を受けて活動していた。ギリシ
ャ政府は 1946 年 12 月に、北部国境地帯で国境侵犯があるとして国連安保理に提訴した。
イギリスはアメリカ合衆国にギリシャへの軍事援助の肩代わりを要請した。
また、トルコの場合は、1946 年 8 月にソ連が黒海から地中海にぬける要衝であるボスフ
ォラス海峡とダーダネルス海峡の共同管理をトルコに要求したため、それを拒否するトル
コとソ連の対立が一時激化していた(図 81(図 16-2)参照)。しかし、アメリカ合衆国
政府の強い反対などもあって、ソ連は 10 月末には要求を取り下げた。
イギリス政府は、戦争による財政の疲弊も加わって、海外駐留軍の大幅な縮小を迫られ
た。トルーマン政権としては、問題はギリシャ・トルコだけでなく、パレスチナ、インド、
ビルマなど、イギリス軍の撤退と軌を一にする「イギリス帝国」全体の危機と受けとめ、
ギリシャとトルコに対する軍事援助を決定した。
◎トルーマン・ドクトリン
トルーマン大統領は 1947 年 3 月 12 日に両院議員総会に出席し、前述したようにギリシ
ャとトルコへの軍事援助法案を提案した。もしギリシャとトルコが必要とする援助を受け
られなければヨーロッパの各地で共産主義のドミノ現象が起こるだろうと主張した(この
ドミノ理論はベトナム戦争の時にも強調された。ベトナムが共産化したらインドネシアな
ど東南アジア全体が共産化すると)。
その際、問題を東地中海地域に限定せず、現在の世界では自由主義と全体主義(共産主
義)とのあいだで生活様式の選択を迫られており、「武装した少数者や外部からの圧力に
よる征服の試みに抵抗している自由な諸国民を援助することこそ合衆国の政策」であるべ
きだと主張した。これは、アメリカの共産主義勢力に対する封じ込め政策のはじまりであ
り、同時に冷たい戦争(冷戦)の契機となった。ソ連に対しては対米不信を強める効果を
もった。
◎マーシャル・プランと欧州の分裂
414
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカはトルコとギリシャへの援助で自信を得て、1947 年 6 月 5 日、マーシャル国務
長官はハーバード大学の卒業式で演説し、ヨーロッパの経済復興を助長するために大規模
な経済援助を供与する計画(ヨーロッパ経済復興計画)を発表した。これが世に言う「マ
ーシャル・プラン」の提唱であった。
この提案を検討するために、1947 年 6 月末からパリで開催された外相会議にはソ連も参
加したが、ソ連は最後まで「共同計画」方式では被援助国の主権が侵害される恐れがある
と主張し、結局、マーシャル・プランへの不参加を表明した。同時に、参加を希望していた
チャコスロバキアなどの東欧諸国に圧力をかけ、不参加を強要した。
そのうえ、ソ連は 1947 年 9 月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、
西側に対抗する姿勢を示した。ここにヨーロッパの分裂は決定的になり、米ソ間の冷戦が
始まった。
以後、マーシャル・プランは、これによって 4 年間で実際に支出された援助額は 130 億ド
ルにも達し、西欧の経済復興を促進した結果、西欧諸国を貿易自由化体制に組み込むうえ
で多大の貢献を果たした。アメリカは、理屈ではなく、西ヨーロッパを経済的に復興させ
ることによって共産主義勢力をおさえ、同時に膨大なアメリカの生産力のはけ口となる市
場を確保することになった。
◎コミンフォルムとコメコン
マーシャル・プランに対抗して前述したコミンフォルム(国際共産党情報局)が 1947 年
に発足し、ソ連を中心に、東欧諸国とフランス、イタリアの共産党が参加した。このコミ
ンフォルムは、大戦中に解散したコミンテルンと違い、各国共産党相互の情報連絡機関で
あるとされた。
さらに 1949 年には、東欧経済相互援助会議(COMECON。コメコン)が結成され、経済面
でも結束してマーシャル・プランに対抗することにした。ソ連、ブルガリア、ハンガリー、
ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキア、アルバニア、東ドイツが参加し(のちにモ
ンゴル、キューバ、ベトナムが加盟)、社会主義諸国間の国際分業と開発途上国援助などを
協定した。
◎北大西洋条約機構
西ヨーロッパ諸国も、このようにヨーロッパもドイツも分裂が決定的になると、1948 年
3 月に成立した西欧連合条約では対応できないことが明らかになり、強大な軍事力となるア
メリカ合衆国を巻き込んだ新たな相互防衛策を模索するようになった。アメリカもまたソ
連の脅威の増大を感じており、西ヨーロッパの誘いに応ずることになった。
しかし、アメリカ合衆国議会では、平時の軍事同盟への参加に反対する議員もいたため,
バンデンバーグ上院議員が「継続的かつ有効な自助と相互援助」を条件として地域的な安
全保障条約への加入を支持する提案を行い、1948 年 6 月に上院で可決された。これを受け
てトルーマン政権は、翌 1949 年 4 月に調印された「北大西洋条約機構(NATO)」にカナダ
415
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とともに参加することにした。加盟国は域内いずれかの国が攻撃された場合、共同で応戦・
参戦する義務を負っている。
◎ワルシャワ条約機構
ソ連は、これを国連憲章違反と非難たが、結局、自らも 1955 年には東欧諸国と「ワルシ
ャワ条約機構」を発足させた。このワルシャワ条約機構はワルシャワ条約に基づきソ連を
盟主とした東ヨーロッパ諸国が結成した軍事同盟で、「東欧相互防衛援助条約機構」が正
式名であった。参加国は、ソ連、ブルガリア、ポーランド、ルーマニア、チェコスロバキ
ア、ハンガリー、アルバニア、東ドイツの 8 ヶ国であった(アルバニアはソ連のチェコ侵
入に抗議して 1968 年脱退。ユーゴスラビアは不参加)。
このようにワルシャワ条約機構は、西ドイツの再軍備および北大西洋条約機構への編入
という事態に対抗して作られた。この同盟の第一の目的は NATO(北大西洋条約機構)への
対抗であった。当時の旧ソ連はアメリカを脅威と見なしておりアメリカが西欧諸国に軍事
的な支援を行うことに強く反発し、同じ力を保つためにワルシャワ条約機構を作り上げた
のである。これによって、ヨーロッパは軍事的にも二大陣営に分裂して対峙することにな
った。
◎中国の共産化とアジア冷戦のはじまり
第 2 次世界大戦におけて日本が敗北したアジアにおいても、米ソの冷戦が中国・台湾、
南北朝鮮、日本占領と独立、ベトナムなどにおいてはじまったが、これらは後述するよう
に冷戦ではなく熱戦(戦争)となった。
◇米ソの原水爆対立
《グローバルな戦略に転換したアメリカ》
第 2 次世界大戦末期までさかのぼって、米ソの原水爆対立を述べる。
原爆の完成はアメリカ合衆国の軍事戦略を大きく変貌させた。統合参謀本部は、すでに
1943 年 11 月時点で、戦後の軍事戦略の要(かなめ)として、150 万人程度の兵力の維持と
戦略空軍の優位確保のために 72 ヶ所もの海外空軍基地の確保を大統領に進言していたが、
原爆完成後の 1945 年 8 月にヴァニーヴァー・ブッシュ科学研究開発局長らは、ミサイルや
原爆搭載機の開発、さらにソ連周辺地域での空軍基地確保を提案した。
このように、戦略爆撃と原爆の登場は、二つの大洋に守られ、西半球にはアメリカ合衆
国に対抗できる軍事大国が存在しない状況で考えられてきたアメリカの「孤立主義」的な
外交・軍事戦略を一変させ(アメリカは従来、常備軍は小さく、問題が起きてから戦争準備
に入っていた)
、アメリカ合衆国をして世界的規模で軍事的優位を確保しようとするグロー
バルな戦略に転換させていった。その結果、1947 年 7 月には国家安全保障法が成立し、外
交・軍事政策の最高決定機関として「国家安全保障会議」が設置されるとともに、陸・海・空
3 軍を統合する「国防総省」や「中央情報局(CIA)
」が設置された。
このようにアメリカは自ら冷戦対応の戦略軍事・情報組織を整えて、軍事大国になってい
った(実際には、第 2 次世界大戦後の世界において、圧倒的に有利な立場になったアメリ
416
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
カが、人類の宿弊である覇権主義の誘惑にかられて、必要以上に共産主義の脅威を煽って、
共産圏封じ込め政策を取ったので、それに脅威を感じた共産圏が本格的に対抗するように
なったというのが事実であった。歴史に「もし」は許されないが、もし、第 2 次世界大戦
で疲労困憊していたソ連にアメリカが手を差し伸べていれば、戦後の米ソ冷戦はさけられ
ていたかもしれない。第 2 次世界大戦をともに戦ったルーズベルトの考えはそのようであ
ったが、1945 年 4 月に亡くなって、トルーマンが大統領になってから方針が変ったようで
ある)
。
《ソ連の原爆実験成功》
第 2 次世界大戦末期に米英側の原爆開発に従事していた科学者が憂慮したとおり、米ソ
間では核軍拡競争の幕が切って落とされようとしていた。それは、アメリカ合衆国政府と
しても望ましいことではなく、1945 年 12 月にモスクワで開催された外相会談において原
子力の国際管理問題を国連で検討する提案を行い、ソ連の同意も得た。
翌 1946 年 6 月には国連の原子力委員会にアメリカ合衆国代表のバーナード・バルークが
アメリカ合衆国案を提案した。それは、原子力の原料から開発・使用にいたるまでを国際機
関によって管理し、違反国に対する査察や処罰には拒否権の発動を認めないという厳格な
ものであった。
ソ連はこの提案を、米英が引き続き原爆の独占をはかろうとするものと受けとめ、反発
した。しかも、1947 年秋以降、米ソ間の対立が激化するにつれ、ますます歩み寄りの余地
はなくなり、1948 年 5 月には何らの成果も挙げられぬまま、交渉は事実上終結し、国連原
子力委員会は 48 年 5 月に無期限休会した。その間も、ソ連は原爆開発を急いでいたので、
ついに、1949 年 8 月 29 日、原爆実験に成功した。
スターリンが原子爆弾の開発命令を出したのは 1943 年であった。内務人民委員部が原子
爆弾の実現可能性に関するイギリスの極秘文書を入手したのがきっかけだった。ソ連の原
子爆弾開発プロジェクトはゴーリキー州(現ニジニ・ノヴゴロド州)のサロフで行われた
が、秘密保持のために町は地図から消され、名もアルザマス-16 と変えられた。
ソ連の原爆開発は NKVD の議長ベリヤ (スターリンの腹心であり大粛清の実行者として知
られる) の監督のもとで、物理学者のユーリ・ハリトンが原爆開発の科学的な指揮を取っ
ていたが、ソ連の原爆開発プログラムは当初は遅々として進まなかった。しかし、
「創造と
模倣・伝播の原理」のとおり、ソ連の核物理学者イーゴリ・クルチャトフは、連合国の兵
器開発を注意深く見守っていたし、ソ連は多くの情報をマンハッタン計画内の自主的なス
パイから受けとっていたのである。
たとえば、ドイツからの亡命者である理論物理学者のクラウス・フックスは、1943 年末
にアメリカ合衆国に渡りコロンビア大学に、後にロスアラモス国立研究所に勤務し、原子
爆弾および水素爆弾の製造に不可欠な臨界計算に多大な貢献をしていた。フックスは第 2
次世界大戦後イギリスへ戻り、米国・英国・カナダの政府高官らの間で核開発など軍事上
の機密技術を交換するための合同政策委員会 にも出席していたが、この間にも数人の情報
417
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
員と接触して原爆の、後には水爆の製造理論などの情報を流し続けた。こうした情報なく
して、ソ連が 1940 年代後半に急速に核兵器の開発および配備を進めることは困難であった
という。1950 年 1 月、イギリスの MI5 の捜査を受けたフックスは、イギリスおよびアメリ
カの核兵器関連の機密情報をソ連に漏らした軍事スパイとして告発され、1950 年フックス
は懲役 40 年の判決を受けた(1959 年に釈放されたフックスは東ドイツに移住し、そこでの
講義で、フックスは中華人民共和国の研究者に核技術を伝え、その情報を元に中華人民共
和国は 5 年後に核実験を行ったとされている)。
1950 年にフックスが逮捕されたのが発端となって発覚したのがローゼンバーグ事件であ
った。アメリカのユダヤ人夫妻ジュリアス・ローゼンバーグとエセル・グリーングラス・
ローゼンバーグは、エセルの実弟で、第 2 次世界大戦中はロスアラモスの原爆工場に勤務
していたソ連のスパイ・デイヴィッド・グリーングラスから原爆製造などの機密情報を受
け取り、それをソ連に売った容疑で FBI に逮捕された。逮捕当時、公式に「証拠」とされ
るものはグリーングラスの自白のみだった。ローゼンバーグ夫妻は裁判で無実を主張し、
アインシュタインなど多くの著名人が擁護運動を起こしたが、1951 年 4 月に死刑判決を受
け、1953 年 6 月に夫妻は電気椅子にて死刑が執行された(ソ連崩壊後、旧ソ連の暗号を解
読する「ベノナ計画」に対する機密が解除され、これまでのアメリカ内部のスパイと旧ソ
連の連絡の内容の一部が公開され、ローゼンバーグ夫妻が実際にソ連のスパイであったこ
とが明らかになったが、グリーングラスを通してジュリアスがソ連に伝えた原爆情報の質
については前述のフックスや次のホールの情報と比べると劣ったものであったことがわか
った)。
原爆開発情報のとびっきりといえば、同じくロスアラモスにいた (お互いに面識はなか
ったが) アメリカの理論物理学者セオドア・ホール(1925~1999 年)がもたらした情報に
勝るものはなかった。セオドア・ホールはユダヤ系家庭に生まれ、飛び級でハーバード大
学へ進学し、18 歳で大学を卒業すると、1944 年には 19 歳でマンハッタン計画に抜擢され
た。研究の拠点であったロスアラモス国立研究所では最年少の物理学者であったという。
しかし 1944 年秋に休暇で故郷に戻った際、ホールはニューヨークのソ連総領事館に行き、
ソ連政府に自発的に原爆に関する情報を渡すことを申し出た。それから、プルトニウムを
用いた原子爆弾「ファットマン」の詳細な設計図や、プルトニウムの精製方法といった、
まさに原爆開発の核心部の機密情報 9000 ページを流し続けていた。これでソ連の原爆開発
は 10 年も進んだといわれている。1949 年にソ連が開発した原発 RDS-1 はアメリカのファッ
トマンと寸分も違わないものだった(同じ設計図だったから)。
(ホールは、戦後ロスアラモスを離れてシカゴ大学に行き、生物学の研究に転向した。こ
こで彼は X 線による微量分析の重要な技術の先駆者となった。1962 年にはケンブリッジ大
学で働くために渡英した。彼はストックホルム平和誓約運動にも加わった。1999 年 11 月 1
日、ホールはイギリスのケンブリッジで死去した。前述したソ連崩壊後の 1995 年に旧ソ連
のベノナ計画のファイルの一部が情報公開されたことにより、ホールにもスパイの嫌疑が
418
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
かかっていたことが明らかになった。1997 年にホールが公開した声明文は、自身に対する
嫌疑は事実であったと、遠まわしながらほぼ認め、彼は戦後間もなくの頃の心情について、
核兵器に関する「アメリカの独占」は「危険であり避けるべきだった」と語った。1998 年
に CNN の冷戦ドキュメンタリーにおいても、ホールは同様の内容を語っている。「わたしは
原爆の秘密をロシア人に渡すことに決めた。なぜならわたしには、…まるでナチス・ドイ
ツを作るように一つの国を軍事的脅威に変え、その脅威を世界に野放しにすることになる
『核の独占』などはあってはならない、ということが重要に思えたのだ。これにあたって
一人の人間がすべきことには、たった一つの答えしかないように思えた。なすべき正しい
こととは、アメリカの独占を壊すように行動することだった」。彼は死の直前(1999 年 8 月
22 日 NHK スペシャル「世紀を超えて―戦争 果てしない恐怖」)にも、「ロスアラモスで、原
爆の破壊力を知って自問した。アメリカが原爆を独占したら一体どうなるのか。私には信
念があった。核戦争の恐怖を各国の指導者が共有すれば、彼らは正気を保ち、平和が訪れ
ると思ったのだ」と)。
スパイのことばかり述べたが(人類の「創造と模倣・伝播の原理」いままでもこれからも
真である)、いずれにしても、1949 年 8 月 29 日、カザフ共和国(当時)のセミパラチンスク
核実験場においてソ連最初の核実験が成功した。この実験は 37 メートルの鉄塔に仕掛けた
爆縮型プルトニウム原子爆弾の爆発実験で、トリニティ実験で使われたガジェットや長崎
市に投下されたファットマンと同型であった(前述したように爆縮レンズの情報は、スパ
イおよびマンハッタン計画に参加した学者たちから提供された)
。ファットマンとは、その
形状・寸法まで同じだった。この実験による核出力は 22 キロトンの TNT の爆発と同規模だ
った。
アメリカ合衆国側の科学者の予想通り、米英の原爆独占は 4 年程度しかもたなかった。
以後、米ソ間では際限のない核軍拡競争が展開されることになった(その後もセミパラチ
ンスク核実験場は、1949 年から 1989 年の間に合計 456 回の核実験に使用され、42 年目に
あたる 1991 年 8 月 29 日に正式に閉鎖された)。
《米ソの水爆開発・実験》
ソ連が原爆の開発・実験に成功したので、アメリカは原爆よりさらに強力な水素爆弾(水
爆)の開発に着手した。マンハッタン計画に参加した多くの科学者はドイツの原爆開発が
なかったことがわかると原爆の実使用には反対するようになったが、ハンガリー生まれの
ユダヤ人亡命者の核物理学者エドワード・テラー(1908~2003 年)のように、核分裂だけ
の核爆弾から核融合を用いた超強力爆弾(水素爆弾)へと核兵器を発展させるべきだと強
く主張した科学者も現れた。
水爆は原爆のように核分裂の熱ではなく、核融合の熱を利用するものである。核融合と
は、軽い核種同士が融合してより重い核種になる反応であるが、そのとき莫大な熱を発生
する(自然界には太陽で核融合が起きている)。原子核同士がある程度接近すると、原子核
同士が引き合う力(核力)が反発する力(クーロン力)を超え、2 つの原子が融合し、膨大
419
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
なエネルギーを発生する、このエネルギーを利用するのが水素爆弾である(また、この核
融合をコントロールしながら、熱を発生させるのが核融合炉であるが、人類はまだ、その
開発に成功はしていない)
。
この核融合はきわめて高い温度で起きるので(数百万度)
、水爆の起爆剤としては原爆を
使用する。原子爆弾を起爆装置として用い、この核分裂反応で発生する放射線と超高温、
超高圧を利用して、水素の同位体の重水素や三重水素(トリチウム)の核融合反応を誘発
し莫大なエネルギーを放出させる。一般に水爆の核出力は原爆をはるかに上回る。なお、
中性子爆弾や 3F 爆弾(水素爆弾の外殻にウラン(U238 または U235)を用いて、核分裂(fission)
→核融合(fusion)→核分裂(fission)と 3 段階の核反応を起こさせる)も水爆の一形態であ
る。このように数種類の核爆発を組み合わせれば,際限なく破壊力の大きい核爆弾を作る
ことが可能となる(このように科学的に可能な核爆弾を際限なく作って核競争をすれば、
人類が滅亡することは確実である)
。
マンハッタン計画後、アメリカ合衆国でエドワード・テラー、スタニスラフ・ウラムら
によって水爆開発が進められ、1952 年 11 月 1 日、エニウェトク環礁で人類初の水爆実験、
アイビー作戦が実施された。この作戦でアメリカはマイクというコードネームで呼ばれる
水爆の爆発実験に成功した。マイクの核出力は 10.4 メガトンであった。
1 メガトンは 1,000 キロトン、つまり百万トン分の TNT 爆薬が爆発したときに発するエネ
ルギーに相当する核出力を意味する。広島に投下された原爆の出力は 15 キロトン、長崎の
それは 20 キロトンであったので、マイクはこれらの 500~700 倍の威力があったことにな
る。だが、このマイクの重量は 65 トンに及び、実用兵器には程遠いものであった。
その後アメリカは熱核材料をリチウムで固体化した水爆を完成し、1954 年、大幅な小型
化に成功した(48.2 メガトン。放射性降下物が規制エリア外に降下し、第 5 福竜丸事件が
発生した)
。
ソ連も、1953 年 8 月 12 日に行った核実験 RDS-6 は、ソ連初の水爆実験とされたが、後に
は強化原爆の試験と考えられるようになった。そして、1955 年 11 月 22 日に実施された核
実験 RDS-37 が、ソ連初の水爆実験であった(米ソの開発期間差は原爆で 4 年、水爆で 2 年
と確実に縮まっていた)。
更に米ソ両国で核実験が続けられ 1955 年から 1956 年には爆撃機にも搭載可能になり核
兵器における威力対重量比が格段に増大する結果となった。いわゆるメガトン級核兵器の
登場であった。
《英仏中の核開発》
イギリスは 1952 年に原爆、1957~58 年に水爆の実験に成功した。また、フランスも 1960
年に原爆、1966 年に水爆、中国は 1964 年に原爆、1967 年に水爆の実験に成功した。この
ように人類は誰かが強力な兵器を開発すれば、必ず数年後には相手方も開発するという「創
造と模倣・伝播の原理」が、原水爆においても例外ではなかったことがわかる。後述する
420
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ようにその後も他国で核開発が進められ、現在では 9 ヶ国が核兵器開発に成功して保持し
ている。
『自然の叡智 人類の叡智』において、人類は「創造と模倣・伝播の原理」で、農業技
術をはじめ、工業、その他の技術を地球上に伝播・波及させていったことは述べた。そし
て兵器技術も同じよう確実に伝播・波及していくことも述べた。原水爆の原理がわかって
いるから、方法は異なっても開発は可能となる。現在も北朝鮮やイランの核開発が騒がれ
ているが(北朝鮮は原爆開発に成功し、現在は小型化、核ミサイルの開発に移っている)、
米ソ英仏中がみなやってきたことであり、不可能なことではない。つまり、人類全体での
禁止をしない限り、核兵器開発は広がっていくということである。
《核ミサイル開発競争》
原水爆を開発してもそれを敵国まで運び目標物に投下する運搬手段がなければならない。
核時代の当初は長距離大型爆撃機がその役割をはたしており、この分野では第 2 次世界大
戦以来、アメリカが圧倒的に有利であった。
しかし、アメリカもソ連も(ドイツの V-1 ,V-2 の技術と技術者を受け継いで)1940 年
代後半から爆撃機よりも迅速に敵本国を攻撃できる兵器として、大陸間弾道ミサイル
(Intercontinental ballistic missile, 略称 ICBM)の開発を行っていた。
このロケットの開発はソ連では、1953 年に開始され、最終設計が承認されたのは 1954 年
5 月で、それから製造にとりかかった。新型ミサイルの発射テストは、バイコヌール宇宙基
地で R-7 ロケットによって 1957 年 5 月からはじまったが、連続して失敗した。8 月 21 日
の 4 回目の発射テストで、初めて 6,000 キロメートルの長距離飛行に成功した。
こうして軍事技術の本流では着々とより強力なロケット、より高性能なミサイル開発が
進められ、最初の戦略ミサイル部隊はロシア西部のプレセツクで 1959 年 2 月に作戦可能に
なった。4 基のミサイルはそれぞれニューヨーク、ワシントン D.C.、ロサンゼルス、シカ
ゴを目標としていた。この ICBM は人類にとってきわめて重大な意味をもつものであったが、
これはあくまでソ連の裏の顔で、表の顔はスプートニクであった。
《人工衛星スプートニク 1 号の打ち上げ》
ソ連は 1957 年 10 月 4 日、バイコヌール基地から R-7 ロケットを改修した 8K71PS ロケッ
トを使って、人類史上初めての人工衛星スプートニク 1 号の打ち上げに成功した。
この衛星は、重量 83 キログラム、直径 58 センチメートルのアルミ製の球体に 4 本の棒
状アンテナが付いていた。 遠地点約 950 キロメートル、近地点約 230 キロメートル、軌道
傾斜角 65°の楕円軌道を 96.2 分で周回し、打ち上げ 57 日後、大気圏に再突入し消滅した。
この 57 日間、96 分 12 秒で地球を一周するスプートニク 1 号からは「ビーッ ビーッ・・・」
という音が受信された。そしてこの「スプートニク・ショック」も覚めやらぬ 1 ヶ月後、ソ
連は今度はライカ犬を乗せた 508 キログラムのスプートニク 2 号の打ち上げを実現した。
《
「スプートニク・ショック」を受けたアメリカ国民》
421
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ソ連のフルシチョフ首相は得意満面になって「ソヴィエト社会主義」の優位性が証明さ
れたと宣言したが、アメリカ合衆国側の衝撃は甚大であった。それは、ソ連が大陸間弾道
弾によって直接アメリカ大陸を攻撃できる能力を持ったことを意味し、
「もっとも豊かで最
強の国」という自負に酔っていたアメリカ合衆国の国民に大変な「スプートニク・ショック」
といわれる衝撃を与えた。
ただちにアメリカ合衆国ではミサイル・ギャップ論争が起こり、科学・技術の遅れを指
摘する声が高まった。アイゼンハワー大統領は、ミサイル開発の強化を命令し、対抗措置・
宇宙開発競争の一環としてアメリカでも早急に人工衛星を打ち上げることとなった。急遽、
アメリカ海軍のヴァンガードロケットが 1957 年 12 月 6 日に人工衛星打ち上げを試みたが、
失敗に終わり、彼我の技術格差が小さくないと思われた。
これとは別に、陸軍主導の計画としてジェット推進研究所が衛星を製造し、アメリカ陸
軍弾道ミサイル局がそれを打ち上げるジュピターC ロケットをわずか 84 日間で組み立てた。
翌 58 年 1 月 31 日に、このロケットで 31 ポンド(約 14 キログラム)のエクスプローラー1
号を地球軌道に乗せることによって、かろうじてソ連の宇宙開発攻勢に一矢をむくいるこ
とができた。
このスプートニク・ショックによって、米ソの宇宙開発競争の幕が切って下ろされ、冷
戦期の政治状況にも大きな影響を与えることとなった。アイゼンハワー大統領は 1958 年 7
月には、
「1958 年全米航空宇宙法」に署名し、アメリカ航空宇宙局(NASA)が設立された。
ソ連の科学技術に敗れたという事実は、アメリカの科学研究や教育に関する政府の政策
に大きな影響を与えた。宇宙開発技術のレベルそのものが、社会経済発展の指標、ひいて
は両体制の優劣の指標であるかのごとく考えられるようになり、アメリカをはじめとする
西側諸国では科学者、技術者などの人材養成に乗り出すなど大きな影響を受けることにな
った。
《フルシチョフのミサイル外交》
一方、スプートニクの打ち上げ成功で自信を深めたフルシチョフは、派手なミサイル外
交を展開した。1959 年 8 月に米ソ両首脳の相互訪問計画が発表され、フルシチョフが 1959
年 9 月にアメリカ合衆国を訪問した。アメリカを訪問した初めてのソ連最高指導者であり、
国連で全面完全軍縮を提案し、アイゼンハワーと大統領専用の別荘のあるキャンプデーヴ
ィッドで会談し、
翌年開催する 4 ヶ国首脳会談でベルリン問題を検討することで合意した。
ここに米ソ間の緊張が急速に緩和するかに見えたが、1960 年 5 月 1 日、アメリカの U-2
型偵察機がソ連のウラル山脈上空で撃墜され、パイロットのパワーズは奇跡的に脱出しソ
連側に逮捕された。1960 年 5 月 16 日から開催された 4 ヶ国首脳会談の冒頭で、フルシチョ
フは強硬にアメリカ側に謝罪を要求し、アメリカ側は偵察飛行の停止を確約したものの謝
罪は拒否したため、会議は流会してしまった。キャンプデーヴィッドの蜜月は終わった。
アイゼンハワーは宇宙開発を本格化させたが、アメリカ国民の間では、アメリカ合衆国
がミサイル開発においてソ連に大きく遅れをとったという印象が強く、1960 年の大統領選
422
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
挙では、その点を共和党政権の失政として追及した民主党のジョン・F・ケネディが当選し
た(共和党候補ニクソンが敗れた)
。
《米ソの宇宙開発競争(核ミサイル開発競争)》
しかし、アメリカの大陸間弾道ミサイル開発の実態は、ソ連にそれほど遅れをとっては
いなかった。
アメリカでは、1951 年 1 月より空軍とコンベア社は、大陸間弾道ミサイルの開発を開始
することとなった。この MX-1593 計画は射程約 9,200 キロメートル、弾頭重量 3.6 トン、1
段半式のロケットであり、実用化時期は 1963 年頃を目指しており、爆撃機系統の名称であ
る B-65 アトラスが与えられた。
アトラス A は 3 基が静的試験に用いられた後、4 号機から打ち上げ試験が開始された。こ
のアトラス 4 号機は、1957 年 6 月 11 日、ケープカナベラル空軍基地からの打ち上げに失敗
し、上空で指令爆破された(もし、成功していれば、ソ連の 8 月 21 日より早かった。つま
り、ICBM 開発競争では米ソはほぼ同じ段階にあった)。前述のように打ち上げの初成功は
1957 年 12 月 17 日の 3 回目のもの(アトラス 12A)であった。
アトラスはアメリカ空軍で最初の ICBM であり、最初の量産型である D 型が 1959 年の終
わりに完成してヴァンデンバーグ空軍基地に配備され、最初のアトラス部隊が作戦配置に
着いた。つまり、ICBM の実戦配備ではアメリカの方がソ連より早かった。表ではフルシチ
ョフの大演説とアメリカ国民のスプートニク・ショックでアイゼンハワー政権は窮地に追
い込まれていたが、図 82(図 16-14)のように、裏(実際のところ)では ICBM の実戦装備
が着々進められたのである。それはソ連より早かった(これがやがてキューバ危機に威力
を発揮することになる)
。
次に誘導装置やエンジンを改良した E 型が、地上に寝かせた形である棺桶型のバンカー
に 3 タイプ合計で 100 基以上がアメリカ合衆国本土に配備された。アトラスはアメリカ国
内配備のタイタン I、イギリスに配備されたソーア、イタリアとトルコに配備されたジュピ
ターと共に初期の冷戦におけるアメリカ空軍の核戦力の一翼を担った。
アトラスの総生産数は約 350 基で後述するキューバ危機の 1962 年には発射準備態勢に入
っていた(図 82(図 16-14)参照。さらに地下式のミサイルサイロに配備された F 型が完
成していた)
。この ICBM だけでなくアメリカには膨大な戦略爆撃機があった。このときア
メリカは、ソ連より圧倒的に優位だった。
ここまではアメリカの裏の話であって、表ではソ連と同じように宇宙開発が喧伝された。
アトラス・ミサイルはアメリカ航空宇宙局(NASA)の衛星打ち上げロケット・アトラスとし
ても転用された。1959 年からのマーキュリー計画において、有人宇宙船(フレンドシップ
7 ほか合計 4 機)を軌道飛行させることに成功した。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 82(図 16-14) アメリカとソ連(のちロシア)の戦略核兵器配備状況(1945~97 年)
◇キューバ危機
《ピッグズ湾事件》
1959 年 1 月のキューバ革命で親米のバティスタ政権を打倒したカストロ首相は、その後
アメリカを訪問し、経済援助要請を申し入れた。公式会談に欠席したアイゼンハワー大統
領に代わって会談したニクソン副大統領に、カストロは「共産主義者」であるとの報告を
された。キューバ革命は、その当初より社会主義革命を目指したわけではなかった。しか
し、アメリカのアイゼンハワー大統領が冷戦下において革命政権を「社会主義的」と警戒
して距離を置く態度を取ったことに対し、キューバ革命政権側も、革命後もキューバ経済
を牛耳ろうとしていたアメリカ合衆国に対立姿勢を示し始めた。
キューバは、外交的にはフルシチョフ首相率いるソヴィエト連邦との接近を深め、さら
に、ユナイテッド・フルーツなどのアメリカ資本の支配下にあった農業の改革を目的に農
地改革法を制定した他、アメリカ合衆国及び西側を中心とした諸外国の所有するキューバ
国内における財産を 1960 年 8 月 6 日に国有化した。アメリカは対抗策としてキューバとの
通商停止(事実上の経済制裁)を行った。
これに先立つ 1960 年 3 月に、カストロのソ連への接近を憂慮した CIA とアイゼンハワー
はカストロ政権転覆計画を秘密裏にスタートさせ、キューバを脱出してきた亡命者 1,500
人を組織化し、グアテマラの基地でゲリラ戦の訓練を与え、この部隊に軍事援助と資金協
力をして解放軍を結成する許可を与え(反革命傭兵軍)キューバ上陸作戦を敢行させるこ
ととした。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
退任間近だったアイゼンハワーはこの時点でキューバ問題から手を引き、その後は副大
統領のリチャード・ニクソンやアレン・ダレス CIA 長官らに委ねられた。その間に、兵員
数と物資で圧倒的に劣る亡命キューバ人部隊がカストロ軍に打ち勝つために、アメリカ軍
の正規軍の介入が計画に組み入れられ、作戦は当初のゲリラ戦から通常戦に変更する決定
が下された。
この時点で大統領選挙が行われ、民主党のジョン・F・ケネディが共和党のリチャード・
ニクソンに勝利した。大統領になったケネディは就任直後にキューバ上陸作戦を聞き、そ
れを認可していたが、結局、それは失敗に終わった。
《キューバ・ミサイル危機》
1961 年 4 月のピッグズ湾侵攻の失敗以来、アメリカとキューバの関係は悪化の一途をた
どっていた。1962 年 2 月 3 日にアメリカのケネディ大統領はキューバとの輸出入を全面禁
止し、キューバの経済封鎖を行うと発表した。
一方、キューバのカストロに援助を頼まれたフルシチョフは、キューバに核ミサイルを
配備する作戦をとった。この作戦は 62 年 5 月から検討された。フルシチョフの意図は、ア
メリカの侵攻からキューバを死守し、共産主義の前進と共産圏におけるソ連の指導的地位
を誇示することであった。ついでトルコなどのソ連の隣国にアメリカの核ミサイルが配備
されている劣勢を、キューバに核ミサイルを配備することで修復しようとするものであっ
た。
1962 年 7 月から 8 月にかけて、ソ連の貨物船が集中的にキューバの港に出入りするよう
になったため、アメリカ軍はキューバ近海を行き来する船舶や、キューバ国内に対する偵
察飛行を強化して、徐々に配備状況をつかんでいった。決定的であったのが 10 月 14 日、
アメリカ空軍のロッキード U-2 偵察機が、アメリカ本土を射程内とするソ連製中距離弾道
ミサイル (MRBM) SS5 の存在を発見、さらにその後 3 つの中距離弾道ミサイルを発見した。
映像写真が解析され、この情報は 16 日早朝ケネディに伝えられた。米ソ全面核戦争の危険
をともなう冷戦史上最悪の国際危機の幕開きであった。このキューバ・ミサイル危機は、こ
の 1962 年 10 月 15 日から 13 日間続いた。
《キューバ・ミサイル危機の 13 日間》
アメリカ合衆国本土を直接攻撃圏内におさめることができるミサイル基地の発見に、ケ
ネディ政権は激烈な反応を示し、ケネディ大統領は国家安全保障会議執行委員会(EX-COMM)
を招集し、対応策の検討を開始した。SS5 はアメリカ全土とそのすべての戦略空軍基地をカ
バーし、ミサイルで攻撃された場合にはアメリカの戦略兵器の 85%が壊滅すると予想され
た。
ケネディは 10 月 18 日(4 日目)にグロムイコ駐米ソ連特命全権大使をホワイトハウスに
呼びつけ、ソ連に対してキューバからのミサイルの撤去を強く要求した。
21 日(7 日目)
、ケネディはキューバのミサイル基地への空爆を主張する国防総省や CIA
の強硬論を抑えて、第 1 段階としてキューバ周辺の公海上の海上封鎖及びソ連船への臨検
425
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を行うことを決定した。この決定は即日、英仏に伝達され、同時に B52、ポラリス・ミサイ
ルなどの戦略核ミサイル部隊を含む世界各地の米軍は、高度警戒態勢に入った。
同時に、10 月 22 日(8 日目)夜 7 時、ケネディは全米に向けてテレビ演説を行い、キュ
ーバに核攻撃可能なミサイルが存在することを明らかにし、海上封鎖策をとり、核ミサイ
ル攻撃にはソ連に対する全面報復で応ずると宣言した。
さらにその後アメリカ軍部隊へのデフコン 2(準戦時体制)を発令、ソ連との全面戦争に
備えアメリカ国内のアトラスやタイタン、ソーア、ジュピターといった核弾頭搭載の弾道
ミサイルを発射準備態勢に置いたほか、日本やトルコ、イギリスなどに駐留する基地を臨
戦態勢に置いた。また、ソ連も国内の R-7 やキューバの R-12 の発射準備に入った。
また、デフコン 2 の発令を受けて「全面核戦争」の可能性をアメリカ中のマスコミが報
じたことを受け、アメリカ国民の多くがスーパーマーケットなどで水や食料などを買い占
める事態が起きた。
米ソ首脳間で書簡のやりとりが始まる一方、24 日(10 日目)海上封鎖が発動された。国
内の軍隊をアメリカ南東部に移動、空軍戦略航空軍団を最高の警戒レベルに引き上げ、180
隻の海軍艦艇をカリブ海に展開させて海上封鎖の準備を整えた。この間にも資材を搬入す
るためのソ連の軍艦が米軍艦の海上封鎖線に刻一刻と近づいており、もし米軍艦が実力で
それを阻止すれば、ただちに米ソ間の核戦争に発展する危険が一挙に高まった。世界は固
唾(かたず)を飲んで、ソ連の反応を見守った。
潜水艦に守られていたソ連船 18 隻のうち 16 隻が洋上で停船・または U ターンし、翌日
にはこれら 16 隻全てが U ターンした。モスクワの指令待ちであった。
アメリカはソ連とミサイル撤去の交渉を開始していた。その際 10 月 25 日(11 日目)
の緊急国連安全保障会議でアメリカ国連大使のスティーブンソンが、キューバのミサイル
基地を撮影した写真を示し、ソ連のヴァレリアン・ゾーリン国連大使と対決し、劇的な効
果をおさめた。
10 月 26 日(12 日目)にソ連からアメリカへ妥協案が示された。その内容は、アメリカ
がキューバに侵攻しないと約束すれば、キューバの核ミサイルを撤退させるというものだ
った。しかし、10 月 27 日(13 日目)に内容が変更され、トルコに配備されているジュピ
ター・ミサイルの撤退も要求してきた。これは、アメリカにとって受け入れがたいものだ
った。
《1962 年 10 月 27 日「暗黒の土曜日」》
10 月 27 日、ソ連船は潜水艦の護衛のもとに封鎖ラインに接近し始め、危機は頂点に達し
た。フルシチョフもケネディも、誤った判断は間違いなく核戦争を勃発させることになる
と認識した。さらにキューバ上空を偵察飛行していたアメリカ空軍の U-2 偵察機が、正午、
ソ連軍の地対空ミサイルで撃墜されたというニュースが入った。軍部はキューバ報復攻撃
を主張し始めた。この日は「暗黒の土曜日」と呼ばれ、誰もが第 3 次世界大戦の勃発を現
426
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
実のものとして考えざるをえなくなった(後に、多くの人が「世界が核戦争に最も接近し
た時」であったと回顧している)
。
午後 4 時からの EX-COMM でケネディは、キューバへ侵攻しないこと、フルシチョフの第 2
の提案(トルコからジュピター・ミサイルを撤去する要求)を受け入れることを決定した。
しかし第 2 提案の受諾は NATO 同盟国の信頼を損なうという異論が出て、第 1 提案(キュー
バに侵攻しないという約束)受諾で回答することとした。しかし、安全のため、弟のロバ
ート・ケネディ司法長官のルートでソ連の駐米大使ドブルイニンにトルコからのミサイル
撤去も約束すると伝えられた。27 日午後 8 時ごろであった。
二つの情報がフルシチョフに伝達され、ソ連はワシントン時間 28 日午前 9 時、フルシチ
ョフ首相はモスクワ放送でミサイル撤去の決定を発表した。フルシチョフはケネディの条
件を受け入れ、キューバに建設中だったミサイル基地やミサイルを解体し、ケネディもキ
ューバへの武力侵攻はしないことを約束した(その後、アメリカも 1963 年 4 月トルコにあ
る NATO 軍のジュピター・ミサイルを撤去した)。
危機一髪で核戦争の危機は回避された。このキューバ危機までは世界中のほとんどの人
間は、米ソによる全面核戦争勃発の可能性について「有り得ないこと」と楽観視していた。
しかしキューバ危機はその悪夢的な幻想が現実になる可能性があり、いまだ世界は危機的
な状況にあるのだと再確認させる決定的な事件であった。
冷戦後わかったことは、キューバ危機の時点ですでにキューバに核ミサイル(R12、R14、
戦術短距離核ミサイル「ルナ」
)を 9 月中に 42 基配備済みであり、アメリカによる臨検は
ほとんど効果がなかったことである。カーチス・ルメイ空軍参謀総長をはじめとするアメ
リカ軍はその危険性に気付かず、圧倒的な兵力でソ連を屈服させることが可能であると思
っていた。
もしフルシチョフの譲歩がなく、ルメイの主張通りミサイル基地を空爆していたら、残
りの数十基のミサイルが発射され、世界は第 3 次世界大戦に突入していた可能性が高かっ
た。しかし実はこの時点でアメリカ軍もソ連軍も相手を壊滅させるほどの核兵器がなかっ
た。
このキューバ危機の当時、アメリカでは国内に配備された 100 基あまりのアトラス大陸
間弾道弾、タイタン I、試験配備が始まっていたミニットマン I、イギリスに配備された 60
基のソーア中距離弾道弾、及びトルコ、イタリアに配備された 45 基のジュピター中距離弾
道弾がデフコン 2 の防衛準備態勢に入った。
一方、ソ連でも最初の ICBM・R-7 が発射台上で待機状態となり、キューバに配備された
R-12 が発射準備態勢に入った。最初の量産 ICBM である R-16(SS-7)の配備が始まったばか
りであり、実際に開戦となった場合はキューバに配備した約 40 基の R-12 を加えても、ミ
サイル戦力だけを見ればソ連が圧倒的に不利な状況だった。
なぜソ連のフルシチョフがキューバからのミサイル撤退を受け入れたかについては様々
な説があるが、当時のソ連の軍事力は、なおアメリカの軍事力には遠く及ばない状況であ
427
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
り、仮に両国の全面戦争という事態になればソ連は、図 82(図 16-14。P424)のように、
核兵器を用いてアメリカにある程度のダメージは与えられるものの敗北するのは決定的で
あった。このキューバ危機を教訓として 2 つの国の政府首脳間を結ぶ緊急連絡用の直通電
話ホットラインがソ連とアメリカ間に初めて設置された。
実際にフルシチョフは後にこう回想している:「正直なところ、アメリカが戦争を開始し
ても、当時の我々にはアメリカに然るべき攻撃を加えられるだけの用意はなかった。とす
ると、我々はヨーロッパで戦争を始めることを余儀なくされただろう。そうなったら、む
ろん第 3 次世界大戦が始まっていたいにちがいない。
」この 2 年後にフルシチョフは失脚す
ることになるが、フルシチョフが更迭された中央委員会総会では、キューバ危機における
アメリカへの「譲歩」が非難されることになった。
このような状況はキューバ危機の時が最初で、それ以後、ソ連は図 82(図 16-14)のよ
うに戦略核配備を進め、以後、米ソはほぼ互角の戦略核兵器を世界中に配備して対峙して
いる。
《部分的核実験禁止条約》
ケネディは経験に学ぶ政治家であった。フルシチョフもそうだった。ともに地獄を見た
二人は核兵器の廃止を真剣に考えるようになった。
その後、米ソは、核兵器による国際危機の勃発にきわめて慎重な姿勢をみせるようにな
った。米ソ間で高度の緊張状態を回避するという意味でのデタント(緊張緩和)が始まっ
た。ケネディは、この危機以後、軍縮、核拡散禁止、核事件防止に積極的に取り組み始め
たのである。
ケネディは、キューバ危機後の 1963 年 6 月 10 日、アメリカン大学(ワシントンにある)
の卒業式で「平和のための戦略」という演説を行った。この演説の中でケネディは、
「この
地であるもので大学ほど美しいものはありません。
(中略)大学は、無知を憎む人間が、知
ることに努め、真理を知る人々が、この地上の最重要の課題である世界平和について述べ
る時と場所を提供するところであります。
私の言う平和とは何か? 我々が求める平和とは何か? それはアメリカの戦争兵器に
よって世界に強制されるパックス・アメリカーナ(アメリカの押しつけの平和)ではあり
ません。そして墓場の平和でもなければ、奴隷の平和でもありません。戦争が新しい様相
となったがゆえに、私は永遠の平和を語りたいのであります。(中略)
我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることであ
ります。我々はみな同じ空気を呼吸しています。我々はみな子供たちの将来を案じていま
す。そして我々はみな死すべき運命にあります。
(中略)
平和とはアメリカ人のためだけのものではありません。すべての人々のためのものなの
です。いまだけのものではなく、今後ずっといつの時代にも続くべきものなのです。
(中略)
いま直面している問題は人間がつくり出したものです。それゆえ、人間によって解決でき
るものなのです。(中略)
428
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ソ連への我々の態度を再検討しようではありませんか。政府や社会組織がどんなに悪く
とも、その国民が道議に欠けるとは考えられないことであります。コミュニズムは、個人
の自由と個人の尊厳を否定するがゆえに深くいまわしいものであるかもしれませんが、な
おかつ、我々は科学と宇宙開発、経済と工業の発展、文化と勇敢なる行動の面において、
ソヴィエト国民が上げてきた多くの業績を讃(たた)えることができます。
(中略)
冷戦に対する我々の態度を見直そうではありませんか。共産圏内部に建設的な変化が起
こって、いまは手の届かない解決が、やがて手の届くものになるであろうと希望しながら、
忍耐強く、平和を探求しようではありませんか。
(中略)
米ソ両国間のどのような合意も、欺瞞や侵略という危険に対して絶対的な安全を保障す
るわけでない。しかし、その合意事項が十分に効果を発揮するように努力しさえすれば、
それが自分たちの真の利益となるように努力しさえすれば、その合意は、衰えることがな
く、管理されることさえなく、そしてそれゆえに予測不可能な軍拡競争よりも、ずっと大
きな安全を提供してくれるし、危険もずっと少なくなるはずです」とケネディ大統領はソ連
に対して、この目的に向けての話し合いを始める呼びかけをし、アメリカは大気圏内での
核実験を、ソ連が同じ実験を控える限り再開しないと約束し、演説を終えた。
人間というものは危機におかれてはじめて真剣にものごとを考える。為政者も同じだ。
ケネディは 13 日間の地獄を味わって、はじめて核問題の本質をつかみ、本気でこの問題に
取り組もうとしたようである。
この演説はアメリカの共和党議員にも多くの国民にも不評であった。「何も得ることのな
い軟弱さ」と非難さえ浴びた。ケネディは、やっと国民に不評な演説を行うほど世界のこと
人類のことを考えるほど進化していた(30 年後、ゴルバチョフはソ連国民に痛いことばか
りを演説し、ついに自身は政治的に墓穴を掘ったが、世界人類のためには大きな貢献をし
た)
。もちろん、モスクワはこれを歓迎した。フルシチョフはアメリカの国際短波放送局 VOA
が、この演説をロシア語に翻訳して流すのを黙認して、最高の演説と評価した。
1963 年 7 月 15 日に米英ソによる核実験停止と核軍縮に向けてのモスクワ会議が再開され
た。ケネディは腹心中の腹心であるアヴェレル・ハリマン国務次官を代表団の責任者とし
て、軍縮や核実験停止に反対する国防総省や軍関係者をこの問題での意志決定過程から完
全に排除して行った。
7 月 26 日、ケネディは TV/ラジオを通じて部分的核実験禁止条約の締結を正式発表して
「18 年前、核兵器の登場は戦争だけでなく世界の進路を変えてしまった。それ以来、全人類
は地球上に存在した大量破壊の暗黒のとばりの中で、敵対し合ったイデオロギーの悪循環
と戦いながら、その暗闇から逃げだそうと悪戦苦闘してきた。(中略)
きのう、暗闇の中に一条の光明が希望を投げ込んだ。大気圏内、圏外、水中におけるい
っさいの核実験を禁止する条約がモスクワで妥結した。この仮調印された条約は、まだ地
下実験の続行を認め、監視所も現地査察も要求していないものだが、この部分的核実験停
429
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
止条約が、限界の中から平和を模索する理性の第 1 歩であることを知ってほしい。平和追求
努力の記念碑がうち立てられたのである。
有史以来、戦争は人類の道連れであった。アメリカ人は 8 つの戦争を体験し、私は大統
領として、この 2 年半のあいだにラオスとベルリンとキューバで瀬戸際に立たされた。1 発
の核熱爆弾がどこかの町に投下されるとき、偶然であれ狂人の仕業であれ、大国であれ小
国であれ、その破壊力の恐ろしさは計り知れない。私はみなさんが討論に加わることを臨
む。ともに平和の道を探し出そうではないか。それがいかに遠い道であろうとも、我々の
時代が、その第 1 歩を踏み出そうとしたことを歴史の中に記録しようではないか」これはケ
ネディのアメリカ人、人類に対する遺言になった。
その後、1963 年 8 月 5 日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約が締結された。この部分
的核実験禁止条約(Partial Test Ban Treaty、略称:PTBT)とは、正式名が「大気圏内、
宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約」であり、地下を除く大気圏内、宇
宙空間および水中における核爆発を伴う実験の禁止を内容とするもので、アメリカ、イギ
リス、ソ連の 3 国外相によりモスクワで正式調印され、10 月に発効した。発効までに 108
ヶ国(原調印国を含め 111 ヶ国)がこの条約に調印した。
一方で、中国・フランスを含む十数ヶ国は調印しなかった。当時、核開発でアメリカ・
イギリス・ソ連に対して遅れをとっていたフランスと中国は反対し、条約への不参加を表
明した。フランス・中国の立場から見ると、核開発で先行している米ソ両大国が核戦略で
優位を保ち、後発国の参入を阻止する条約と映った。当時、フランス・中国両国はすでに
核開発に着手していたが、地下核実験の技術をもっていなかった。フランスは 1960 年 2 月
にサハラ砂漠で最初の核実験を行い、この条約の後の 1966 年に NATO(北大西洋条約機構)
を脱退し、アメリカ、イギリスなどと一定の距離を置く独自の路線を歩むことになった。
また、共産圏の中国も当時、中ソ対立でソ連との対立が深まりつつあり、独自の核開発
路線へと向かい、1964 年 10 月に中国初の原爆実験を行った。
ケネディはまた、イスラエルの核開発に対し強硬に対応した唯一の合衆国大統領として
知られている。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明暗の力を得て核開
発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラエルが核を取得す
ることは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、何度も外交勧告を
行い、ついには査察団まで送り込んでいた(しかし、ケネディの暗殺でイスラエルの核開
発は不問にされ、イスラエルはその後、核開発に成功した。中東の現在の混迷のもとには
イスラエルの核保有がある)
。
この部分的核実験禁止条約は、地下での核実験は除外されていたため、大国の核開発を
抑止する効果は限定的だった。しかし、この条約は核軍縮への第 1 歩としての意義は大き
い。ケネディは、前述のように、これが不十分であることはわかっていたが、後進がより
深く核軍縮を進めてくれるものと思い、この第 1 歩を踏み出したのである(1996 年 9 月に
包括的核実験禁止条約が国連総会によって採択されたが、現在も未発効である)。
430
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ケネディは 1963 年 11 月 22 日に、遊説先のテキサス州ダラスの市内をオープンカーでの
パレード中に狙撃され、暗殺された。まさにその日行われた初の日本とアメリカ間のテレ
ビ中継実験(衛星通信)を通じ、日本にも即座に報じられた。
現場の状況や被弾したケネディの頭部映像などは、射撃はすべて「後方から」オズワル
ド 1 人によって行われたとする暗殺真相究明委員会(ウォーレン委員会)による政府側報
告書と矛盾しており、組織的陰謀の存在が指摘されているが、真相はいまだに明らかにな
っていない。その主な原因は、証拠物件の公開が政府によって 2039 年まで制限されている
からである(アメリカが大統領の暗殺事件の真相を示す証拠をこのように長期間秘密にす
るということは、この事件に国家機関が関与していて現段階では公表できないということ
であろう)
。
フルシチョフも対米平和共存の必要性を確信するようになった。しかし、1963 年 7 月に
は中ソ対立が公然化し、国内でもフルシチョフの独断的なやり方に不満が高まっていった。
1964 年 10 月、黒海沿岸のピツンダで休暇中のフルシチョフとミコヤンは、スースロフから
の突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモス
クワに呼び戻された。10 月 13 日および 14 日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤ
ンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求し、決定した。
後任にはブレジネフとコスイギンがそれぞれ書記長と首相に選ばれたが、これは、第二
書記であったブレジネフと閣僚会議副議長であったコスイギンがそれぞれ昇格して書記長
と首相になったのである。
《その後の米ソの核軍拡競争》
図 82(図 16-14。P424)のように、これ以降の米ソの戦略核兵器の配備状況を示すが、
初期の段階では戦略爆撃機を独占していたアメリカが圧倒的に有利であったことがわかる。
1960 年後半になって、ソ連でも ICBM が本格的に配備されるようになって、はじめて米ソの
核戦略が互角になったといえよう。
ヨーロッパ方面でも、核兵器の増強が進んでいった。イギリスでは、1957 年 1 月、スエ
ズ出兵で失敗したイーデンの辞任後首相に就任したマクミランは、スエズ戦争で深めたア
メリカとの溝の修復に努め、1957 年 3 月英領バーミューダでアイゼンハワーと会談し、ア
メリカによる中距離核ミサイル・ソーアの配備と共同管理で合意し、関係修復に成功した。
イギリスは原水爆については独自開発で所有していたが、ミサイルになるとアメリカとの
共同管理に踏み切ったのである。
また、アメリカは西ドイツにも核兵器を配備することを決め、1957 年 4 月アデナウアー
はアメリカが供与する核弾頭搭載可能の戦術核ミサイル(射程 120 キロのナイキ・ハーキ
ュリーズ型)を国防軍に配備することを支持する旨を明らかにした。西ドイツでは与野党
間で核兵器配備をめぐる大論争が起こった。ソ連の ICBM 保有が明らかになり、ヨーロッパ
でアメリカの核の傘に対する信頼性が揺らぎ始めたのである。
431
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
本格的な核ミサイル時代となり、自由主義諸国では、さまざまな方向が模索された。第 1
はアメリカの核戦略体系に自国をより深く組み込むことであり、西ドイツでは 1958 年春、
駐留する NATO 軍に核弾頭および短距離ミサイルが配備された。第 2 が自主核武装の路線で
あり、後にフランスのドゴールがたどった道であった。第 3 は、アメリカの外交問題専門
家ジョージ・ケナンも提唱した紛争危険地域での兵力引き離しによる緊張の緩和や非核地
帯設置の構想であり、57 年 10 月ポーランド外相ラパツキは中欧非核地帯構想を提案した。
いずれにしても、1970 年代、80 年代も米ソの宇宙開発競争(表の顔)と核ミサイル開発
競争(裏の顔)が続けられ、核ミサイル技術が飛躍的に進歩していったので、その実質的
な破壊力(人間殺傷力)は、図 82(図 16-14。P424)のように数量的に横ばいではなく、
飛躍的に高まっていった。
この原水爆開発競争によって、米ソ冷戦はさらに深刻化していくことになった。米ソの
冷戦が熱戦に変わったものなかから、この時代の戦争の例として、朝鮮戦争、ベトナム戦
争、ソ連の侵略の例として、ソ連のアフガニスタン侵攻を以下に述べる。
【7】朝鮮戦争(1950年~1953年)
《南北朝鮮の分裂》
日本の植民地になっていた朝鮮については、第 2 次世界大戦中の 1943 年 11 月末のカイロ
宣言の中で将来的な独立が認められていた。しかし、1945 年 8 月 8 日に対日参戦したソ連
軍が朝鮮に進撃する一方で、アメリカ軍の派遣が遅れた。そこでアメリカはソ連による朝
鮮全土の解放を阻止するため、図 83(図 16-5)のように、北緯 38 度線による分割占領を
提案、8 月 16 日、ソ連もこれに同意した。
まず、北朝鮮の方であるが、ソ連は 1945 年 8 月 8 日、日本へ宣戦布告し、朝鮮北東部か
ら朝鮮半島を徐々に制圧して行き、日本の降伏後には、最終的に北緯 38 度線以北の北朝鮮
の全域に進駐した。日本の朝鮮総督府の統治が終焉した時点(1945 年 8 月 15 日)で、朝鮮
には朝鮮人による独自の共産党組織があった。しかし、ソ連は、東ヨーロッパの衛星国に
対して採った方針を踏襲し、ソ連に亡命し、そこで朝鮮人共産党員の指導的役割を担って
いた金日成(1912~1994 年)を、北朝鮮の行政機関である北朝鮮臨時人民委員会の委員長
に任命した。
北朝鮮臨時人民委員会は、1946 年 11 月の総選挙で北朝鮮の政府として成立し、1947 年 2
月に「北朝鮮人民委員会」に再編成され、金日成はその後、朝鮮共産党北朝鮮分局を結成
し、徐々に反対派を追放していった。
南朝鮮では、1945 年 9 月 7 日、アメリカ占領軍が上陸し、占領軍は軍政を布くことを宣
言し、独自に独立を宣言していた朝鮮人民共和国及び朝鮮建国準備委員会を否認した。1945
年 10 月にアメリカから帰国した李承晩はアメリカの意を受けて既存の党派から距離をおき、
反共統一を掲げ、独立建国運動の中心人物となった。
432
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 83(図 16-5) 朝鮮半島の分断
文英堂『理解しやすい世界史 B』
1945 年 12 月に開かれたモスクワ外相会談で、米ソ共同委員会を発足させ、5 年を限度と
する米英中ソ 4 ヶ国の信託統治を経て、朝鮮を独立させることが決定されると、即時独立論
の強かった朝鮮内部では政党間の対立が激化して、かえって事態が混乱した。その結果、
米ソ間の合意はいっそう困難となった。
前述したように、北朝鮮では 1946 年 2 月に、金日成を中心とした共産勢力が、ソ連の後
援を受けた朝鮮臨時人民委員会(のちの朝鮮人民委員会)を設立、8 月には重要産業国有法
を施行し、共産主義国家設立への道を歩みだした。このような北朝鮮での共産国家設立の
動きに対して、李承晩は、南朝鮮での早期の国家設立をアメリカに迫った。その結果 1947
年 6 月には李承晩を中心とした南朝鮮過渡政府が設立され、北朝鮮と南朝鮮は別々の道を
歩み始めることになった。
1947 年 11 月に、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、設立されたばかりの国
際連合に提訴したものの、北朝鮮は翌 1948 年 2 月に朝鮮人民軍を創設し、2 月 26 日には北
緯 38 度線以北に金日成を主席とする朝鮮民主人民共和国の成立を一方的に宣言した。アメ
リカはこれを激しく非難した。金日成は、1948 年 3 月には南朝鮮への送電を停止して(当
433
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
時、南朝鮮は電力を、日本統治時代に日本によって山の多い北朝鮮に建設された水豊ダム
などの発電所に頼りきっていた)
、南北の対立は決定的となった。
1948 年には南朝鮮だけで単独選挙が強行され、李承晩が初代大統領に当選した(在位:
1948~60 年)
。そして、同年 8 月 15 日に大韓民国の成立が宣言されると、9 月 9 日には金
日成を首班として(首相在位:1948~72 年、国家主席在位:72~94 年)朝鮮民主主義人民
共和国が成立した。こうして図 83(図 16-5)のように朝鮮の南北分断が固定化されてい
った。
その後、金日成は李承晩を倒して統一政府を樹立するために、ソ連のスターリンに南朝
鮮への武力侵攻の許可を求めていたが、スターリンは、第 2 次世界大戦で国力が疲弊して
いるためにアメリカとの直接戦争を望まず、南朝鮮への武力侵攻を許可せず、1948 年 12 月
にソ連軍は朝鮮半島から軍事顧問団を残し撤退した。1949 年 6 月には、アメリカ軍も軍政
を解き、司令部は軍事顧問団を残し撤収した。
1949 年秋には、アメリカ合衆国にとって衝撃的な事件が立て続けに起こった。まず 9 月
末にはソ連が公式に原爆の保有を認めた。また、地続きの中国大陸では国共内戦の末、毛
沢東率いる中国共産党が勝利し、1949 年 10 月 1 日に中国共産党の 1 党独裁国家である中華
人民共和国が成立した。敗北した蒋介石率いる中華民国政府は台湾島に遷都し、その後も
中華人民共和国との対立が進んでいった。
このような東アジアの急変をうけて、アメリカは、中国革命後のアジア政策の見直しを
行い、国家安全保障会議(NSC)文書 48 号としてまとめ、アチソン国務長官がその骨子を
翌 1950 年 1 月に首都ワシントンのナショナル・プレス・クラブで公表した。
そこでは、図 84(図 16-10)のように、アチソンが、「アメリカが責任をもつ防衛ライ
ンは、フィリピン - 沖縄 - 日本 - アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責
任をもたない」と発言し(これを「アチソンライン」という)、韓国は含まれていなかった。
これは、アメリカの国防政策において太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味で
あったが、金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南朝鮮(韓国)放棄」と一方的に
受け取った。
確かにアチソンの表現は誤解を生むおそれがあった。このラインはアメリカ軍が実際に
駐留している地点を結ぶものであったが、そこには韓国と台湾が除外されていたため、後
に朝鮮戦争を誘発したと非難された。つまり、この図を見て、北朝鮮の金日成は、アメリ
カは朝鮮と台湾を最終的には放棄するという誤ったメッセージを受け取ったのである。
しかし、アチソンの真意は、台湾への不介入を表明することによって、当時台湾の解放
を狙っていた中国政府に歩み寄りをはかり、中ソの離間を狙ったものであった。韓国の場
合は、北朝鮮からのソ連軍の撤退に対応して、アメリカ軍も 1949 年 6 月に撤退し、軍事顧
問団だけを残していたが、
(国連憲章第 51 条の集団的自衛権にもとづいて)1950 年 1 月末
には米韓相互防衛援助協定が調印されていたので、有事の介入は予想されていた。決して、
アメリカは韓国を放棄したわけではなかった。ただし、トルーマン政権としては、武力に
434
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
よる北進統一を主張していた李承晩政権への警戒から、重火器や戦闘機の供給は制限して
いたのである。
図 84(図 16-10)太平洋地域におけるアメリカ合衆国の防衛ライン構想(アチソンライン)
これらの情勢の変化を受け、1950 年 3 月にソ連を訪問して改めて南朝鮮への開戦許可を
求めた金日成に対し、スターリンは原爆の保有や中国革命の成功で自信を深めていたので、
毛沢東の許可を得ることを条件に南朝鮮への侵攻を容認し、同時にソ連軍の軍事顧問団が
南侵計画である「先制打撃計画」を立案した。これを受けて、1950 年 5 月に中華人民共和
国を訪問した金日成は、
「北朝鮮による南朝鮮への侵攻を中華人民共和国が援助する」とい
う約束を取り付けた。
《朝鮮戦争の勃発》
1950 年 6 月 25 日午前 4 時(韓国時間)に、北緯 38 度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され
た。宣戦布告は行われなかった。30 分後には朝鮮人民軍が「暴風」
(ポップン)の暗号と同
時に約 10 万人の兵力が 38 度線を越境した。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工
作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。
この北朝鮮の侵攻を全く予測していなかった李承晩とアメリカを始めとする西側諸国は
大きなショックを受けた。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、
「韓国側が先制攻
撃してきたものに反撃したのが開戦の理由」だと主張し続けているが、この主張はソ連崩
壊後のロシア政府でさえ公式に否定している。また、1970 年に出版されたフルシチョフの
回想録の中で、前述した金日成がソ連を訪問し、スターリンから武力統一方針を取りつけ
ていた事実が暴露されてから、北朝鮮による武力南進説が一般的となっている(実際、南
朝鮮側は奇襲を受けて大敗北をした)
。
北朝鮮侵攻の報を受けたトルーマン大統領は、ただちに在日米海空軍を韓国に派遣した
だけでなく、台湾に第 7 艦隊を派遣したり、フィリピンやベトナムへの軍事援助の強化を
発表したりした。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
また、緊急に招集された国連安全保障理事会で、アメリカ合衆国は北朝鮮の行為を「平
和に対する侵犯」と見なし、38 度線以北への撤退を要求する決議案を提案した(実際、こ
れは典型的な侵略戦争であり、国連の集団安全保障制度がうまく機能するかどうかのテス
トケースでもあった)
。ところが、この時、ソ連は、中国革命後も台湾政府が安保理の常任
理事国の議席を譲らない事態に抗議して、安保理の欠席を続けていたため、アメリカ合衆
国の提案には拒否権が発動されず、
「北朝鮮弾劾決議」を賛成 9:反対 0 の全会一致で可決
した(このときは、ソ連が出席していれば、たぶん、拒否権が行使され、国連安保理の決
議が得られず、アメリカ軍中心の多国籍軍が形成され派遣されることになったであろうが、
実際には前述のような事情で、国連安保理の決議が得られ、国連創設以来はじめての国連
軍が組織され派遣されることになった)
。
このような国連安保理の意思表示にもかかわらず、北朝鮮は進撃をやめなかった。南北
の軍事バランスに大差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は絶望的な敗退戦
を続けた。ついに韓国政府はソウルを放棄し、首都を水原に遷都した。ソウルは北朝鮮の
攻撃により住民に多くの犠牲者を出した末に 6 月 28 日に陥落した(開戦 4 日目)
。
マッカーサーは 6 月 29 日に東京より専用機で水原に入り、自動車で前線を視察した。マ
ッカーサーは、本国からの回答が届く前に、ボーイング B-29 や B-50 大型爆撃機を日本の
基地から発進させ、北朝鮮が占領した金浦空港を空襲した。
6 月 30 日、トルーマンは米地上軍の投入を決定した。さらに 7 月 7 日に国連は、アメリ
カ軍 25 万人を中心としてイギリスやオーストラリアなどのイギリス連邦諸国、さらにタイ
王国やコロンビア、ベルギーなども加わった国連軍を派遣することを決定し、釜山(プサ
ン)に上陸した(図 85(図 16-11)―a)
。マッカーサーが最高司令官に任命され、韓国
軍は国連軍の指揮下に編入された。
しかし、準備不足の国連軍は各地で敗北を続け、アメリカ軍が大田(テジョン)攻防戦
で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦である洛東江戦線にまで追い詰めら
れた(図 85(図 16-11)―a参照)
。金日成は「解放記念日」の 8 月 15 日までに統一する
つもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、
ここで北朝鮮軍の進撃は止まった。
マッカーサーは戦線建て直しに全力を注ぎ、9 月 15 日に、ソウル近郊の仁川(イチョン。
図 85(図 16-11)-a参照)に、国連軍の中から選別したアメリカ軍の第 1 海兵師団およ
び日本に駐留する第 7 歩兵師団、さらに韓国軍の一部からなる約 7 万人を上陸させること
に成功した。これが朝鮮戦争における大きな転換点となった仁川上陸作戦であった。
仁川上陸作戦に連動したスレッジハンマー作戦で、アメリカ軍とイギリス軍、韓国軍を
中心とした国連軍の大規模な反攻が開始されると(国連軍といっても海軍、空軍は実質ア
メリカ軍だった)
、戦局は一変した。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
補給部隊が貧弱であった北朝鮮軍は、38 度線から 300 キロメートル以上離れた釜山周辺
での戦闘で大きく消耗し、さらに補給線が分断していたこともあり敗走を続け、9 月 28 日
に国連軍がソウルを奪還し、9 月 29 日には李承晩ら大韓民国の首脳もソウルに帰還した。
図 85(図 16-11 朝鮮戦争
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
《中国人民軍の参戦》
1950 年 10 月 1 日に韓国軍は、逆に「祖国統一の好機」と踏み、国連軍の承認を受けて単
独で 38 度線を突破した(これが韓国、アメリカ側の問題点であった。ここで停戦し、国連
における和平交渉に任せるべきであった)
。10 月 2 日に、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は、中
華人民共和国首脳に参戦を要請した。中華人民共和国の国務院総理(首相)の周恩来は「国
連軍が 38 度線を越境すれば参戦する」と警告し、さらに中華人民共和国の参戦による戦線
拡大を恐れていたトルーマン大統領も、マッカーサーに対して中国人民解放軍参戦の可能
性を問いただした。しかし、マッカーサーはチャールズ・ウィロビーら部下の将校からの
報告をもとにこれを即座に否定した。
その後 10 月 9 日には、アメリカ軍を中心とした国連軍も 38 度線を越えて進撃し、10 月
20 日に国連軍は北朝鮮の臨時首都の平壌(ピョンヤン。北朝鮮は 1948~1972 年までソウル
(取り返すつもりで)を首都に定めていた)を制圧した。さらにアメリカ軍を中心とした
国連軍も、トルーマン大統領や統合参謀本部の命令を無視し北上を続け、先行していた韓
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国軍は一時、中朝国境の鴨緑江に達し、
「統一間近」とまで騒がれた(図 85(図 16-11)
-b参照)
。
1950 年 10 月 24 日頃から中国人民志願軍の大部隊が「抗美援朝」(アメリカ合衆国に抵抗
し、朝鮮を支援すること)を掲げて鴨緑江を越えて進撃を開始した。最前線だけで 20 万人
規模、後方待機も含めると 100 万人規模という大軍だった。この中国人民志願軍は 11 月に
入り国連軍に対して大攻勢をかけ、アメリカ軍やイギリス軍を撃破し南下を続けた。11 月
末には国連軍は総崩れになった。
ミグ 15 の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は 12 月 5 日に平壌を奪回
し、1951 年 1 月 4 日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2
月までに忠清道まで退却した(図 85(図 16-11)-c)
。
その後、アメリカやイギリス製の最新兵器の調達が進んだ国連軍は、ようやく態勢を立
て直して反撃を開始し 3 月 14 日にはソウルを再奪回したものの、戦況は 38 度線付近で膠
着状態となった(図 85(図 16-11)-c参照)
。
1951 年 3 月 24 日にトルーマンは「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備
をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、
「中華人民共和国を叩きのめす」
との声明を発表した後に 38 度線以北進撃を命令し、国連軍は 3 月 25 日に東海岸地域から
38 度線を突破した。
またマッカーサーは第 2 次世界大戦以前に日本が一大工業地帯として築いた中華人民共
和国の東北部(満州)をボーイング B-29 とその最新型の B-50 からなる戦略空軍で爆撃し、
中国人民志願軍の物資補給を絶つこと(原爆使用を示唆したともされる)や台湾の国府軍
による大陸侵攻を主張したともいわれている。
この頃、戦闘状態の解決を模索していた国連やアメリカ政府中枢と政治的に対立するマ
ッカーサーの発言が相次いだことから、戦闘が中華人民共和国の国内にまで拡大すること
によってソ連を刺激し、ひいてはヨーロッパまで緊張状態にすることを恐れたトルーマン
大統領はマッカーサーを解任した。
《朝鮮戦争の休戦》
アジアや英連邦諸国を中心に休戦を求める国際世論が高まるなかで、1951 年 6 月 23 日、
ソ連のマリク国連代表が停戦を提案した。1951 年 7 月 10 日から開城において休戦会談が断
続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため、停戦ライン
や捕虜交換の問題などで交渉は難航した。
1953 年に入ると、
アメリカでは 1 月にアイゼンハワー大統領が就任(在位:1953~61 年)
、
ソ連では 3 月にスターリンが死去し、両陣営の指導者が交代して状況が変化した。
1953 年 7 月 27 日に、38 度線近辺の板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協
定が結ばれ、3 年間続いた戦争は休戦し、現在も停戦中である(調印者:金日成朝鮮人民軍
最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官、M.W.クラーク国際連合軍司令部総司令官。な
お李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった)
。
438
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
その後、両国間にはスイス、スウェーデン、チェコスロバキア、ポーランドの 4 ヶ国に
よって国連の中立国停戦監視委員会が置かれ、これは現在も続いている。中国人民志願軍
は停戦後も北朝鮮内に駐留していたが、1958 年 10 月 26 日に完全撤収した。
アメリカは現在にいたるも、北朝鮮と停戦状態のままであり、いっさいの交渉に応じて
いないため、北朝鮮との敵対関係が 50 年以上も続き、ついに北朝鮮の核開発の成功、核ミ
サイルの高性能化・長距離化に進んで行っている(北朝鮮の核ミサイル開発については後
述)
。
《朝鮮戦争の犠牲者》
結局、朝鮮戦争は、国連軍側が 93 万人、北朝鮮側が中国義勇軍も含めて 100 万人の兵力
を投入して、38 度線をはさんで、二転三転する激しい戦闘の結果、韓国軍は約 20 万人、ア
メリカ軍は約 14 万人(死者は 5 万 4000 人)、国連軍全体では 36 万人が死傷した。
一方、アメリカの推定では、北朝鮮軍の死傷者数は約 52 万人と言われている。中国人民
志願軍は約 15 万 2000 人が「戦死」したと中華人民共和国側は発表している。毛沢東国家
主席の息子の一人毛岸英も戦死した。アメリカはおよそ 500 億ドルの金を戦闘に注ぎ込ん
だ。
また、激しく移動を続けた戦線により、激しい地上戦が数度にわたり行われた都市も多
く、最終的な民間人の犠牲者の数は 100 万人とも 200 万人とも言われ、一説には全体で 400
万人~500 万人の犠牲者が出たといわれている。この犠牲者数は 15 年間のベトナム戦争に
近い死者をたった 3 年間で出したことになり、いかに朝鮮戦争が激しい闘いだったかを物
語っている。
この朝鮮戦争によって、アメリカのアジアの他の地域における政策も大きく変わり、反
共一色になった。インドネシアは原料と食糧の供給源として重要なので、共産主義の反乱
軍と戦うための援助がインドネシアの新政権に与えられた。マラヤに対しては、イギリス
を説得して援助させた。そしてインドシナでは、代議制の政府を樹立するようフランスに
要求する一方で、ベトミンと戦うための武器と資金を注ぎ込む覚悟をきめた。そして、そ
のアジアで次に熱い戦争となったのがベトナム戦争であった。
【8】ベトナム戦争
◇第 1 次インドシナ戦争(1946~1954 年。ベトナム民主共和国のフランスからの独立》
1945 年 8 月 15 日に日本政府がポツダム宣言を受諾して降伏すると、その 2 日後の 8 月
17 日に、ホーチーミンに指導されたベトミン(ベトナム独立同盟会。1941 年にホーチーミ
ンが結成)が全国総蜂起を起こした(ベトナム 8 月革命)。ベトナム帝国(日本軍の傀儡政
権。阮朝)のバオダイは退位を決意し、ベトミン側にその意向を伝えた。日本が降伏文書
に調印した 9 月 2 日に、ホーチーミンはハノイ市内の大広場で大衆集会を開催し、ベトナ
ム民主共和国の独立を宣言した。こうして、1945 年 9 月 2 日に阮朝は崩壊した。これでベ
トナムは独立し、一件落着したと思われた。
439
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ベトナム民主共和国は、インドシナ共産党が指導するベトミンを中心として樹立された
国家であったが、東欧のソ連型の共産党国家と異なって「ユニークな共和国」であった。
一言でいえば、ホーチーミンのねらいは、共産党支配ではなく、(長らくフランスの植民
地であった)ベトナムの独立、ベトナム民族主義に重点がおかれていたのである。
1945 年 7 月に開かれたポツダム会議でインドシナの処理は決まっていた。北緯 16 度線を
境に北は中華民国軍、南はイギリス軍が進駐して約 6 万人のインドシナ駐留日本軍を武装
解除し、フランス軍に引き継ぐというものであった。
イギリスもフランスも帝国主義戦争であった第 2 次世界大戦が終わっても、自らが帝国
主義を放棄して、植民地を解放するという気はさらさらなく、イギリスはインド、アフリ
カその他で、フランスもここインドシナやアフリカで植民地解放戦争に当面することにな
った。
9 月 21 日には英海軍艦艇に乗った最初のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した(図 86
(図
16-7)参照)。進駐してきたイギリス軍の支援のもとに、現地に抑留されていたフランス
軍も再武装した。
フランス政府はベトナム民主共和国を正統政府とは承認しなかった。フランスの戦略は、
フランス連合を構成するインドシナ連邦を維持し、ベトナム人に反感をもつカンボジアと
ラオス、およびベトナム国内の少数民族、さらにフランスの直轄領でベトナムのなかでは
とりわけ豊かだったコーチシナ(ベトナム南部)の分離主義者をこの連邦に結集して、ベト
ナム民主共和国を、よくてもベトナム北部と中部の平野を管轄する「自治国」の地位に封
じ込めることであった。そして、連邦制にしてインドシナ全体はフランスの植民地として
維持しようとしていた(これはもう時代錯誤であったがフランスにはわからなかった)。
さっそく新着のフランス軍はサイゴンでクーデターを起こし、インドシナ民主共和国の
行政委員会を駆逐して、市内の行政権を把握した。行政委員会はただちに抵抗委員会を組織
して抵抗運動を開始した。1945 年 10 月、フランスの増援部隊が到着した。1946 年 1 月ま
でにメコン・デルタの主要都市はことごとくフランス軍に奪還された。1946 年 3 月 5 日、16
度線以南の主権が駐留イギリス軍からフランス軍に委譲され、フランス領コーチシナが再
建された。
ホーチーミンは粘り強くフランス政府と交渉を続けた。1946 年 3 月 6 日、ホーチーミン
とフランス代表サントニーとのあいだにベトナム・フランス暫定協定が結ばれた。ところが、
本協定調印のために 1946 年 6 月に渡仏したホーチーミンは、ここでフランス政府がコーチ
シナを分離して、そこに親仏政権を樹立したことを知らされ、交渉は妥結直前で決裂した。
南部、中部の民主共和国への帰属は住民投票よるとした約束は破られていた。ベトナム民
主共和国とベトナム駐留のフランス軍との関係は日増しに悪化する一方だった。
440
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 86(図 16-7) インドシナ戦争
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
1946 年 11 月、ハイフォン(図 86(図 16-7)参照。ベトナム北部の港湾都市)で両軍が
戦闘状態に入り、フランス艦隊は市内を無差別砲撃した。12 月 17 日、ハノイのフランス軍
もベトナム軍への攻撃を開始した。ハノイを脱出したホーチーミンは「全国民に抗戦を訴え
る」救国宣言を発表して徹底抗戦に入った。これが 7 年間にわたる第 1 次インドシナ戦争の
始まりであった。
フランスは、1945 年 8 月革命で退位したグエン朝(阮朝)最後の皇帝のバオダイを再び
(日本軍と同じように)担ぎ出して、1949 年 3 月、ベトナム国を樹立させ、その「フランス
連合内での独立」を認めた。フランスは、こうすることによって、インドシナ戦争はベト
ナム人の独立戦争ではなく、ベトナム国内のナショナリストと共産主義者の内戦であると
いう構図を国際社会に印象づけようとした。1949 年 10 月の中華人民共和国の成立の衝撃を
受けたアメリカは、トルーマン・ドクトリンの「共産主義封じ込め」という世界戦略から、
インドシナにおけるフランスの戦いを支援することを決定した。
441
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
新中国は 1950 年 1 月、ベトナム民主共和国を承認し、民主共和国政府の大後方を用意し
た。これに対抗して、2 月、アメリカ合衆国はバオダイ・ベトナム国を承認し、バオダイ・ベト
ナム軍への全面援助を約束した。アメリカ軍事援助顧問団がサイゴンに置かれた。ベトナ
ム民主共和国が東側に、バオダイ・ベトナム国が西側に帰属することが決定し、ベトナムの
独立戦争は冷戦の国際関係のなかの代理戦争と位置づけられてしまった。
こうして東西対立という冷戦構造のなかに組み込まれた第 1 次インドシナ戦争は、膠着
状態で長びいていった。ベトナム軍は平野部から撤兵して北部山岳地帯にこもり抵抗を続
けながら、装備に勝るフランス軍をボー・グエン・ザップ率いるゲリラ戦で戦っていた。
そのような中で 1954 年 3 月から 5 月にかけてベトナム北西部のディエンビエンフー(図
86(図 16-7)参照)で、ディエンビエンフーの戦いが繰り広げられることになった。
ベトナム民主共和国人民軍はソ連・中華人民共和国から大量の武器・弾薬の援助を受け、
昼夜兼行の人海戦術で大砲・ロケット砲・対空火器を山頂に引き上げ、要塞を見下ろす位
置に設置、密かに要塞を包囲していった。1954 年 3 月 13 日に要塞内、とくにフランス側の
砲兵陣地や滑走路に対する砲撃を開始し、その後 56 日間にわたる包囲戦が展開されること
になった。
フランス側では滑走路が破壊されたため、物資の補給を空路からのパラシュート投下に
依存していたが、雨季に入ると腰まで泥水につかる劣悪な環境に、滑走路の破壊に伴う物
資の途絶に悩まされ、フランス植民地出身兵士の多くが戦意を喪失し、5 月 7 日に要塞は陥
落した。2 万人強のフランス軍部隊のうち、少なくとも 2,200 人が戦死し、1 万 6000 人が
捕虜となった。10 万人以上とみられるベトナム民主共和国人民軍のうち、8,000 人が戦死
し、1 万 5000 人が負傷した。
これは、ヨーロッパの万を越える精鋭部隊が、植民地現地の軍事勢力に降伏した世界史的
出来事で、植民地体制の崩壊を象徴する事件であり、インドシナ戦争の帰趨は、折から開
催されていたジュネーブでの外交交渉に委ねられることになった。
ジュネーブ会議は、1954 年初頭にベルリンで開催された米・英・仏・ソの 4 大国外相会議で
開催が決定されたもので、インドシナ和平交渉は難航していたが、5 月にディエンビエンフ
ーの戦いでフランス軍が大敗し、6 月にフランス首相に就任したマンデス・フランスが 1 ヶ
月以内の和平実現を公約すると、ようやく参加国間で歩み寄りがみられるようになった。
マンデス・フランスは第 4 共和制の政治家のなかで後世まで語り継がれ、ミッテランなど
の左派に大きな影響を与え、その統治スタイルはアメリカ大統領に近いスタイルで、これ
は後にドゴールに大きな影響を与えた。彼の目標はフランスの近代化にあり、そのために
植民地戦争に終止符をうつことにあった。彼の行動は果断であった。政権発足後 1 ヶ月を
デッドラインとして約 8 年におよぶインドシナ戦争を収拾することを確約したのである。
事実、関係各国をまとめてジュネーブでの和平交渉を再開させ、南北の合意づくりに成功
した。
442
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ベトナム民主共和国(ベトミン)側は国土の 4 分の 3 を制圧していることを背景に(図
86(図 16-7)参照)、軍事境界線の設定などにおいて最後まで強硬姿勢を崩さなかったが、
会談の最終日にソ連・中華人民共和国両国による説得に応じて妥協し、1954 年 7 月 21 日和
平協定が成立した。ベトナム民主共和国には、もし停戦が成立せずに戦争が継続した場合
には、アメリカが直接に参戦する可能性があり、かつ、中ソからの支援が十分に得られな
いままにアメリカと対決するという危険性があったので、不満はあっても協定に調印する
以外の選択肢はなかったのである。
締結されたジュネーブ協定では、ベトナム民主共和国は、実行の保証があまりない 2 年
後の南北統一選挙の実施という約束と引き換えに(前述したように、1946 年 6 月、ホーチ
ミンは、すでに一度、南部、中部の民主共和国への帰属は住民投票よるとした約束をフラ
ンスに裏切られていた)、ベトナムの国土を 2 分する北緯 17 度線での軍事境界線の設定と
いう妥協に応じざるをえなかった。
マンデス・フランスの英断で、フランスはインドシナから撤退した(マンデス・フラン
スの考えはドゴールに引き継がれ、ここにフランスは植民地主義から脱し、フランス領ア
フリカ諸国の独立を認めることになった)。
ところが、インドシナの独立を阻む第 3 の国が現れた。フランス(第一)、日本(第二)
、
再びフランスに代わって、ベトナムへの進出を企図していた第 3 の国家は、アメリカであ
った。
◇アメリカ・アイゼンハワー政権の介入―べトナム戦争(1960 年~1975 年)の発端
アメリカのアイゼンハワー政権は、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭を恐れ、
ドミノ理論をかかげて(ベトナムが共産化するとドミノ的に東南アジア全体が共産化する
という議論)
、アジアにおける民族運動に対して、きわめて敵対的な姿勢をとるようになっ
た。インドシナにおけるフランスの介入に終止符をうったジュネーブ協定に対しても、南
北統一選挙が実施されれば、ホーチーミンが当選する可能性が高いと判断し、ジュネーブ
協定の調印を拒否した。ベトナム国もジュネーブ協定に調印しなかった。これが長いベト
ナム戦争の泥沼へアメリカを引き込むもととなった(アメリカを引き込むというより、フ
ランスが手放した植民地にあえてアメリカから入っていった)。
ジュネーブ協定成立の翌年の 1955 年に南ベトナムで単独に実施された大統領選挙で、ア
メリカ空軍准将のランズデールが支援した反共産主義者のゴ・ディン・ジエム首相が大統
領に当選し、アメリカの支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。こ
れに伴いバオダイ帝は退位し、ベトナム国は消滅した。
ゴ・ディン・ジエムは 1956 年 7 月、ジュネーブ協定に基づく南北統一総選挙を拒否した
ため、この選挙に勝てると踏んでいたベトナム民主共和国との対立が先鋭化することにな
った。アメリカは、反共主義的な姿勢を堅持したジエム政権をフランスに代わり軍事、経
済両面で支え続け、南ベトナム軍への重火器や航空機の供給をはじめとする軍事支援を開
443
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
始した。しかし、ジエム大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめること
となり、ジエム大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。
《南ベトナム解放民族戦線の結成》
北ベトナムの政権党であり、南にも組織網を維持していたベトナム労働党(現ベトナム
共産党)は、ジュネーブ協定の締結当初は、南北統一の総選挙の実施に期待をもって、南
ベトナムにおける武装闘争の発動を控え、政治闘争に集中する方針をとっていた。
しかし、当時の労働党指導部は朝鮮戦争から重要な教訓を学んでいた。北朝鮮の正規軍
が公然と北緯 38 度線を突破したので、アメリカ軍の介入を招き、結局、朝鮮の南北分断の
固定化という結果になった。そこで南のジエム政権が南北統一を拒否したからといって、
北の人民軍が公然と 17 度線を突破して南下することは、アメリカ軍の直接介入を招く危険
性があり避けねばならなかった。
そこで、労働党中央が、1959 年初頭に開催された第 2 期第 15 回中央委員会総会において
決定した戦略は、
「南ベトナムの反乱」という形でジエム政権を追いつめれば、アメリカに
介入の口実を与えず、親米政権を打倒して南を解放できるのではないかという構想だった。
つまり、「南ベトナム人民」を主体として、政治的に組織された大衆を主力とし、それを武
装勢力が補完する形で「総蜂起」を行い、ジエム政権を崩壊に追い込むというシナリオだ
った。こうして、1960 年 12 月、南ベトナム独自の民族統一戦線として南ベトナム解放民族
戦線(ベトコン)が結成された。
◇アメリカ・ケネディ政権の本格的なベトナム介入
1961 年に就任したケネディ大統領は、就任直後、東南アジアにおける「ドミノ理論」の
最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対して
ベトナムについての提言を求めた。また、副大統領のジョンソンをベトナムに派遣し情勢
視察に当たらせた。
その結果、特別委員会、統合参謀本部はともに、南ベトナムは、ソ連の支援を受けてそ
の勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けているので、南ベトナムに対す
るアメリカ正規軍による援助を提言していた。
これを受けてケネディは 1961 年 11 月に、中立化でも、米軍戦闘部隊の投入でもない、
中間的な方策として、アメリカの軍事顧問団を大量に南ベトナムに派遣するという道を選
んだ。アメリカの顧問の指導のもとに、南ベトナム政府軍の解放戦線掃討作戦が強化され
るとともに、農民とゲリラを切断するために、村を厳重な防衛線で囲む「戦略村計画」が
導入された。これは、アメリカの支援のもとに、現地政府が表に立ってゲリラと対決する
特殊戦争であった。つまり、特殊戦争とは、米軍戦闘部隊の投入に至る局地戦争ではなく、
このように現地政府を米軍顧問が支援して、反乱と対決する戦争のことであった。
その後、ケネディは、軍事顧問団を 1961 年末には(アイゼンハワー政権下の 1960 年に
は 685 人であったものを)ジュネーブ協定に違反する規模である 3,164 人に増加させ、1963
年には 1 万 6000 人にした。併せて 1962 年 2 月には「南ベトナム軍事援助司令部(MACV)
」
444
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦闘車両や重火器などの装備
も送るなど、その規模、内容ともに実質的にはアメリカ軍の正規軍と変わらないものとさ
せた。こうして、ケネディ政権の下で、アメリカはベトナム戦争へ本格的に介入していく
ことになった。
しかし、解放戦線のゲリラ要員の数は、米軍の推計でも、1960 年の 7000 人から 1964 年
の 10 万 6000 人と、急速に増大していった。解放戦線のゲリラではない恒常的な武装部隊
の兵力も、1961 年末の 1 万 7000 人から 1963 年の 2 万 5000 人へと増大した。
《ベトナム撤退を考えたケネディ》
1962 年 10 月にキューバ危機を経験したケネディ大統領は、ベトナム戦争について考えを
変えはじめた(ケネディは経験から学ぶ政治家であった。ベトナム戦争を拡大したのも彼
だったが、本質を見定めるのも速かった)
。
ケネディは、民主的な国家造りをしなければならないジエム大統領が、独裁的な支配を
続けている南ベトナムの状況には我慢できなくなっていた。ベトナムの戦いはベトナム人
のものだと主張することで、ジエムに危機感を与え、その態度を改めさせようと、1963 年
9 月 2 日のテレビインタビューで、
「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努
力をしなければこの戦争には勝てない。最終的には、これは彼らの戦争だ。勝つか負ける
かは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しか
しこの戦争(ベトナム人対共産主義者の戦い)で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自
身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持
しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去 2 ヶ月の間にサイゴン政府は民衆
から遊離してしまっている」と述べた。
ケネディ大統領は初めてジエムを批判し、南ベトナムでの戦いは「彼らの戦い」であって、
勝つも負けるも彼らなのだと明言した。アメリカができることは側面支援だけだと伝えた
のである。ケネディは、このころからベトナム戦争からの早期撤退の可能性を検討しはじ
めたようだった。
ところが、一方、ジエム大統領はこうした忠告を無視し続けたが、1963 年夏ごろから、南
ベトナム軍部には、ジエムが権力の座にいる限り、アメリカに見捨てられると考える人た
ちも現れて、彼を抹殺しようという動きが出はじめていた。そのような人々は、1963 年 9
月 2 日のケネディ演説で彼らの疑念を深め、ジエム暗殺を決断したようだった(その後、
この暗殺・クーデターには、CIA が関与していることがわかったが、彼らはケネディ大統領
の演説をゴーサインと受け取ったようである。後年アメリカ上院のチャーチ委員会が明ら
かにしたように、当時の CIA や軍部はしばしば独走して、謀略を行っていた。彼らが一部
の南ベトナム軍人と結託して、ジエム暗殺を支援したこともありえた)。
ケネディは 1963 年 10 月 31 日には、
「1963 年の末までに軍事顧問団を 1000 人引き揚げる
予定」であることを発表した。そして 11 月 1 日の反ジエム・クーデターの後には、マクナ
445
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
マラ国防長官が年内の 1000 人の顧問団の引き揚げを再確認するとともに、1965 年までに軍
事顧問団を完全撤退させることを発表した。
こうして 1963 年 11 月 1 日に発生したズオン・ヴァン・ミン将軍を中心とする軍事クー
デターで、ジエム大統領は殺害され、同政権は崩壊した(ジエム大統領暗殺を知ったケネ
ディ大統領はその知らせに驚き、「青白い顔」になったという)。
しかし、その月の 11 月 22 日、ケネディは暗殺された(ケネディ大統領の暗殺原因は現
在も不明であるが、ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が軍産複合体の利害と対
立して、ケネディ暗殺につながったという一説がある)
。
◇アメリカ・ジョンソン大統領とベトナム戦争の本格化
ケネディのもとで、ベトナム戦争に最初から深く関わっていたジョンソン副大統領は、
ケネディが暗殺されると大統領になったが、ケネディ前大統領やマクナマラ国防長官が、
早期撤退を計画していた軍事顧問団の縮小政策を実施に移すのではなく、逆にベトナム戦
争への介入を強化させていった。せまる大統領選挙のためにも南ベトナムを失うわけには
行かないという配慮もあった。
ジエム暗殺のおよそ 2 ヶ月後には、ジョンソン大統領によって、1963 年の 1 万 6000 ほど
の兵力が一気に 2 万 3000 を超す兵力に増大された。10 ヶ月後の 1964 年 8 月のトンキン湾
事件とそれに続く議会のトンキン湾決議採択後には、南ベトナム駐留のアメリカ兵はいっ
きに 20 万近くなった。
このトンキン湾事件とは、1964 年 8 月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒
艇がアメリカ海軍の駆逐艦に 2 発の魚雷を発射したとされる事件であった(図 87(図 16-
15)参照)
。
このトンキン湾事件を契機に、米国議会は国連憲章第 51 条及び東南アジア集団防衛条約
に基づく集団的自衛権の義務に従い、兵力の使用を含む必要なあらゆる手段をとる旨の決
議をアメリカ議会は上院で 88 対 2、下院で 416 対 0 の圧倒的多数で通し、アメリカは北爆
を開始し、本格的にベトナム戦争に介入していった(このあと、ジョンソンは 1964 年アメ
リカ合衆国大統領選挙において共和党のゴールドウォーターを大差で破り、改めて選挙で
大統領に選ばれ国民からの信任を得た形となった)
。
ところが、のちにトンキン湾事件そのものが CIA の工作であったことが判明した。 つま
り、アメリカは謀略によって、ベトナムへの北爆と大量の地上部隊派遣を開始してベトナ
ム戦争を本格化させたということである(このやり方は、ブッシュ大統領(息子)が 2003
年に起こしたイラク戦争の開始とよく似ている。イラクが大量破壊兵器を持っているとい
う CIA などの捏造資料によって、
国民を煽ってイラク戦争を開始したのである。後述する)
。
1971 年 6 月ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が、報告書『ベトナムにお
ける政策決定の歴史、1945 年-1968 年』こと“ペンタゴン・ペーパーズ”を入手、トンキ
ン湾事件はアメリカ(CIA)が仕組んだものだったことを暴露した。このように謀略システ
ムを持っているアメリカは国民の思いとは関係なく自らの利益のために謀略し既成事実を
446
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
つくり、それによって政治が進められていたのである(戦前の日本が起こした満州事変も
謀略で起こされたことは述べた。戦前の帝国主義国家はすべて国家が謀略機関を持ってい
た。アメリカは現在でも CIA を持っている)
。
図 87(図 16-15) べトナム戦争
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
1963 年 11 月 1 日に発生したジエム大統領暗殺の軍事クーデター以後、
南ベトナム政府は、
クーデターで次々と権力者が入れ替わる、きわめて不安定な政権となった。1963 年 11 月の
ジエム政権の崩壊から、1965 年 6 月にグエン・ヴァン・ティエウが政権を握るまでの間の
1 年半ばかりの間に、実に 14 回もクーデターが発生し、南ベトナム政府の統治は大きく動
揺することになった。このような不安定な政府のもとでは、ベトナム解放戦線との戦いで
も勝てるわけはなく、1964 年 3 月のアメリカ側の調査で、南ベトナムの農村の 40%は解放
戦線の支配下になっていた。
447
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
一方、ベトナム労働党はジエム政権崩壊後の 1963 年 12 月に開催された第 3 期第 9 回中
央委員会総会で、
「有利なチャンスをつかみ、力量を集中して、数年のうちに決定的な勝利
を獲得する」という、南における闘争を強化する方針を決定した。北の正規軍である人民
軍の大隊ないし連隊規模の戦闘部隊を南へ投入するという決定を行った。
そこで人民軍南下といっても、17 度線を強行突破すれば、アメリカ軍の介入を招くので、
時間がかかる作業ではあったが、インドシナ半島の中央を走る山岳地帯に、図 87(図 16-
15)のようにラオスとカンボジアを経由して南ベトナムにいたるホーチーミン・ルートを
建設して、その大半の行程を徒歩で南へいかなければならなかった。
一方、1965 年 3 月、ベトナムの第 3 期第 11 回中央委員会総会では、南の戦場に「全国の
力を集中」して、つまりは北の人民軍部隊も投入して、1 年以内に「決定的な勝利」を獲得
することが目標として提示された。
米軍事顧問団に多数の死傷者が出た 1965 年 2 月 7 日のプレイク基地攻撃に対する報復と
いうことで開始された北爆はその後継続し、3 月には北爆を行う南の航空基地の防衛という
名目で、南ベトナムにはじめての米軍戦闘部隊として海兵隊が投入された。
さらに、ジョンソン政権は 1965 年 7 月、戦争のアメリカ化以外の道はないとして(ケネ
ディの結論はベトナム戦争のベトナム化だったが、ジョンソンはまるっきり反対のアメリ
カ化をはかった)
、南に大規模な米軍戦闘部隊を投入することを決定した。ここにベトナム
戦争は、エスカレーションして本格的な戦争に拡大した。
この南ベトナムに投入されたアメリカ軍の数は、図 88(図 16-16)のように、1965 年中
に 18 万人を超え、1967 年には 48 万人、最大時(1968 年)には 54 万人に達した。このと
きも、アメリカの集団的自衛権を誇示するため、多国籍軍という形態がとられた。
この同盟国軍の内訳を示すと表 17(表 16-2)のようになる。この大規模なアメリカ軍
の急速な配備により、南ベトナム政府はその軍事的崩壊の危機から救われた。
《アメリカ軍の破壊戦争》
アメリカは、朝鮮戦争で、北緯 38 度線をアメリカ軍が突破して北進し、北朝鮮の存立自
体を脅かしたことが、中国の介入を招き、朝鮮戦争を大規模なものにしてしまったと考え
ていた。中国の参戦を招かないようにしながら、北ベトナムと解放戦線をたたくというの
が、アメリカのこの戦争での基本方針であった。
したがって、北爆はするものの地上戦の舞台は南ベトナムに限定する必要があったため、
アメリカ軍の戦略は、
「敵に勝ち目のないことを悟らせる」という、あいまいなものになら
ざるをえなかった(前述したように当時の北ベトナムの戦略もアメリカに泥沼に落ち込む
ことを悟らせて手を引かせることだった)。
米援助軍司令官のウエストモーランド将軍は、アメリカ軍が圧倒的な優位をほこる機動
力と火力を活用して、南に入った人民軍と解放戦線の主力部隊に対する索敵撃滅作戦を展
開し、解放戦線にその兵員補給能力を上回る損害を与える消耗戦を行うことを、作戦の基
礎にすえた(北ベトナム兵がすべて尽きれば(死傷すれば)
、降伏するだろうと考えた)。
448
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
こうなるといかに多くの人間を殺傷するかであった。戦場で敵の死体の数を数える「ボデ
ィー・カウント」が、重要な意味をもつにいたった。
図 88(図 16-16) 南ベトナム政府軍・米軍・米同盟軍の総兵力
『ベトナム戦争の記録』
表 17(表 16-2) ベトナム戦争に参加した同盟国軍の規模
とにかくアメリカ軍はできるだけ多く敵を死傷させる戦争を行った。そこでアメリカ軍
の直接参戦は、ベトナム戦争による破壊の規模を飛躍的に大きなものにした。解放戦線が
浸透した農村で、農民とゲリラを切り離すことが困難になると、アメリカ軍は、こうした
農村を「自由爆撃地帯」に指定し、アメリカ軍の砲爆撃によって、農村自体を火力でなく
してしまい、そこの住民が南ベトナム政府の安定した支配地域に移住せざるを得なくする
方法がとられた。
これは表 18(表 16-3)のように、アメリカ軍がベトナム戦争で使った爆弾の量が桁違
いに大きかったことからもわかる。北ベトナムは、南と比べると付随的な戦場だったが、
449
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
北爆でアメリカが投下した爆弾の量は、当時の北の人口 1 人当りに換算すると 45.5 キログ
ラム、面積 1 平方キロメートル当り 6 トンで、第 2 次世界大戦中の日本本土の、人口 1 人
当り 1.6 キログラム、面積 1 平方キロメートル当り 0.43 トンと比べても、はるかに大きな
量に達していた。このような大規模な米軍戦闘部隊の急速な配備と苛烈な破壊戦略によっ
て、ベトナム労働党の、1 年以内に南ベトナム政府軍に決定的な打撃を与えるという計画は
実行できなくなり、労働党も戦争の長期化を覚悟した。
表 18(表 16-3) ベトナム戦争中の米軍の砲爆弾使用量
『ベトナム戦争の記録』
《徹底的に破壊されたベトナム国土》
これは、南ベトナムの社会構造に大きな変化をもたらした。まず、農村が徹底的に破壊
され、農村を離れた人口が都市に流入して、急速な都市化が進んだ。都市人口は、1960 年
には総人口の 2 割にすぎなかったが、1971 年には 43%にまで増大した。こうした戦争難民
は、軍隊や援助に寄生したサービス業部門に吸収された。一方、農村では、爆撃による人
口減に徴兵の強化が重なり、農村の崩壊が進んでいった。
また、ゲリラが潜むジャングルには、除草剤や枯れ葉剤が大量に散布され、これによっ
て、内陸部の熱帯雨林の 37.4%、耕地の 14.4%、海岸のマングローブ林の 30%が破壊され、
薬剤の中に入っていたダイオキシンなどの毒物は、人体に深刻な後遺症をもたらした。と
くに、枯れ葉剤を浴びた人の子供にも、身体の異常が高い比率で発生しており、その被害
は世代を超えた広がりを見せている。
《うなぎのぼりに上がった北ベトナム兵死傷者》
アメリカ軍参戦後、人民軍や解放戦線の被害は急激に増大していた。アメリカ軍がこれ
だけの物量を投入すると、さすがに戦場の北ベトナム兵の死体の数を数える「ボディー・カ
ウント」もうなぎのぼりに上がっていった。アメリカ軍側の推計だが、人民軍や解放戦線
の戦死者の数は、1964 年の 1 万 7000 人から 1965 年には 3 万 5000 人と一挙に 2 倍以上とな
り、その後も 1966 年に 5 万 6000 人、1967 年に 8 万 8000 人、1968 年以降は 10 万人台と増
大し続けた。抗米救国闘争で犠牲になった兵士の数は、戦後のベトナム側の発表では 110
万人に達し、その大半が、アメリカ軍が参戦していた時期に集中している。
450
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
これだけ多くの犠牲者が出ると(戦傷者はその数倍になるだろう)、もはや南ベトナムで
兵士を補充するとこができなくなり、ベトナム労働党は、南の解放はもっぱら「南ベトナ
ム人民」の事業であるとしてきた従来の戦略を転換し、北の正規軍である人民軍を大規模
に投入するしかなく、戦争は南北の全力を結集した同一民族の総力戦という悲劇をベトナ
ムに現出させることになった(このようなやり方にアメリカの為政者はもちろん、アメリ
カ国民は少しでも責任を感じたことがあるだろうか。第 2 次世界大戦後、アメリカはほう
ぼうでこのような悲劇を現出させてきているのである)
。
1965 年から 1968 年までだけで、
北から南に投入された人民軍兵士の数は 30 万人に達し、
1975 年までには延べ百数十万人になった。この数字は、1965 年以降は、毎年 10 万人程度
の兵士が北から南に補給されていたことを意味する。これは当時の北ベトナムの農村の人
口の 15%以上が戦争動員されていたと推定されている(歴史的に 10%が限界とされていた)
。
《テト攻勢》
1968 年のベトナムの旧正月(テト)に、解放戦線と人民軍は、サイゴン(現在のホーチ
ミン市)を含む南ベトナムの主要都市に、一斉攻撃をかけた(図 87(図 16-15。P447)
参照)
。これが、ベトナム戦争の転換点といわれるテト攻勢であった。
ジョンソン政権は、67 年秋には増大するベトナム戦費をまかなうために、国民に増税を
求めたため、ベトナム戦争反対の世論が広がった。政府指導者はこれをなだめようとして、
ベトナムでの戦局は好転しており、もう少しだけ国民ががまんしてくれれば、ベトナム戦
争は解決すると主張していた。そのような時に、サイゴンのアメリカ大使館の一角が解放
戦線の特攻隊に占拠されたり、古都フエの王城が人民軍に掌握されたりといったテト攻勢
の映像が、テレビの画像を通じて伝えられたことは、アメリカ国民に大きな衝撃を与えた。
人々は、政府のそれまでの言明に反して、ベトナム戦争はうまくいっていないという印
象をもった。これは、政府不信を高めるとともに、見込みのない戦争ならば、これ以上ア
メリカの若者の命を捧げるのは耐えられない、勝てない戦争ならば手を引くべきだという
反戦世論を、一挙に高める役割を果たした。
テト攻勢を境にして、世論調査でもアメリカ軍のベトナム派遣を誤りとする意見が 5 割
を超えるなど、アメリカの世論は明らかにベトナム戦争に批判的な方向に傾いていった。
当初は、一部の知識人や先鋭的な学生に限定されていた反戦運動も、黒人公民権運動と結
合して、大衆的な広がりを見せるようになっていった。
《ジョンソン大統領の引退》
1964 年 11 月の大統領選挙で地滑り的に大勝を果たしたジョンソンは「偉大な社会」を掲
げ、社会福祉・教育・環境・都市計画などの分野で一連の改革的法律を成立させ、同時に黒人
などの選挙参加を可能とする投票権法を 65 年 8 月には成立させた。これにより南部での黒
人の政治参加は急速に進み、多くの黒人政治家を生み出すことになった。
また、ジョンソンは「貧困との戦争」も掲げ、一連の立法によって、1964 年に低所得者
に対する公的扶助としてメディケア(医療費の補助)
、フードスタンプ(食費の補助)など
451
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を制度化した。これらによってアメリカの貧困層は 62 年の 25%から 73 年の 11%にまで低
下した。
このまま進めばアメリカは「偉大な社会」になり、ジョンソン大統領は「偉大な大統領」
になっていたのであろう。しかし、その後のジョンソンは戦争の相手を間違えてしまった。
泥沼化したベトナム戦争はアメリカの予算も人材もベトナムに吸い取っていった。社会福
祉・教育・環境・都市計画どころではなく、ベトナム戦争と腐敗した南ベトナム政府のテコ入
れに使われ、「泥沼」に落ち込んでいった。
アメリカ兵の戦死者がベトナムで増え、テレビで戦場の模様が放映され、マスコミから
は連日のようにベトナム戦争への対応のまずさを批判されるようになると、ジョンソンの
人気は低下する一方だった。このような状況のなかで、軍部は、テト攻勢に反撃を加える
ために、南ベトナムに 20 万 6000 人の兵力の追加投入を要求した。ジョンソン大統領は、
逡巡(しゅんじゅん)の末、ベトナムへの増派要求をしりぞけ、1968 年 3 月 31 日の声明で、
北爆の部分的停止と交渉の呼びかけを行い、あわせて自らの大統領選挙への不出馬を声明
した。
◇ニクソン大統領とベトナム戦争の再「ベトナム化」、そして撤退
ベトナム戦争で引退したジョンソンの後継を決める 1968 年の大統領選挙では、共和党の
ニクソンが、民主党候補のハンフリーを僅差で破って大統領となった。
ニクソン大統領は、1969 年 7 月 25 日には「ニクソン・ドクトリン」を発表し、国家の防
衛は当事国が第一義的責任を負うべきである、とした。つまり、ニクソン大統領は、アメ
リカ合衆国は今後南ベトナム自身による自国の軍事防衛を期待すると述べたのである。こ
れはケネディが到達した方針と同じであった。つまり、ケネディが決断した撤退方針(ベ
トナム戦争の「ベトナム化」)をジョンソンが反故にし(ベトナム戦争の「アメリカ化」)、
それをニクソンがもとに返したのである。
その後、アメリカのニクソン政権は、アメリカ軍の関与を減少させ、南ベトナム政府と
その軍隊を強化していったが、南ベトナム政府軍の強化は、時間のかかる作業だった。1968
年に 82 万人だった南ベトナム政府軍は、1970 年には 100 万人を超え、兵力・装備でみるか
ぎり世界でも有数の軍隊になった(図 88(図 16-16)参照)
。
《アメリカ軍のカンボジア、ラオス侵攻》
次にアメリカがやったことは、ベトナム戦争で南の戦場の人民軍や解放戦線の補給ルー
トを断つために、カンボジア、ラオスへの戦争の拡大であった。
カンボジアでは、1970 年 3 月にロン・ノル将軍がクーデターを起こしてシハヌーク殿下
を国家元首の地位から追放し、右派政権を樹立した。右派政権はただちに、ベトナムの人
民軍や解放戦線のカンボジア領内からの立ち退きを要求し、3 月末からは南ベトナム政府軍
の協力を得て、人民軍や解放戦線の聖域に対する攻撃を開始した。
ニクソン大統領は、1970 年 4 月 28 日、この聖域攻撃にアメリカ軍が参加することを許可
し、アメリカ軍はカンボジア領内に侵攻した。
452
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、ここで北京に亡命したシハヌーク、ポル・ポトを中心とするカンボジア共産党
およびベトナム労働党が手を結び、アメリカが支援するカンボジアの右派政権と対決する
合意が成立した。シハヌークは、北京にカンボジア王国民族連合政府を樹立し、カンボジ
ア国内ではカンボジア共産党とベトナム労働党が手を組んで、カンボジア右派政権に対す
る武装闘争を強化することになった。
ニクソン政権がアメリカ軍の南ベトナムからの撤退を進めている最中に、カンボジアと
いう、よく準備ができておらず、弱体な右派政権しか存在していないところに新たにアメ
リカ軍を侵攻させ戦争を拡大したことは、アメリカが犯した決定的な失敗だと考えられて
いる。
このようにニクソン政権は、1970 年 4 月にアメリカ軍をカンボジアへ侵攻させ、翌 1971
年 2 月にはラオスへ侵攻を行い、ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」といって大統領に
なったニクソンは、撤退させるどころか、ベトナム戦争をカンボジア、ラオスに拡大して
しまい、ますます出口なしの戦争となっていった。局面打開を模索したニクソン政権が到
達したのが中国だった。
《米中接近》
ニクソン政権のいまひとつの国際的努力は、米中接近であった。当時、中国は文化大革
命による国際的孤立からの脱却を求める一方、ソ連に対する対決姿勢を強めていた。1972
年 2 月に実施されたニクソン大統領の中国訪問は、ベトナム労働党指導部には衝撃的な出
来事だった。しかし、ニクソン大統領の思惑とは異なって、この中国訪問は直ちにベトナ
ム戦争には影響がなかったようで、ここでは省略する。
《1972 年春季大攻勢》
ベトナム労働党は、1972 年春、南ベトナムで一大軍事攻勢を展開した。1972 年 3 月末、
戦車隊をともなった人民軍主力部隊が、17 度線を公然と突破して南ベトナム北部のクアン
チ省の省都クアンチに迫った。5 月 1 日にはクアンチが陥落し、フエも脅かされる事態にな
った。この事態にニクソン政権はアメリカ軍の撤退を進めているときに地上軍の追加投入
はとてもできないので、B-52 戦略爆撃機を総動員して侵攻する人民軍に激しい爆撃を浴び
せる一方、全面北爆を再開して、北ベトナムの港湾を機雷封鎖するという強硬措置に出た。
《パリ協定の成立》
ベトナム戦争終結を模索していたニクソンは、キッシンジャー国家安全保障担当大統領
補佐官に北ベトナム政府との秘密和平交渉を継続させていたが、キッシンジャーは秘密交
渉開始から 4 年 8 ヶ月経った 1973 年 1 月 23 日に北ベトナムのレ・ドク・ト特別顧問との
間で和平協定案の仮調印にこぎつけた。
そして 4 日後の 1 月 27 日に、ウィリアム・ロジャーズ国務長官とチャン・バン・ラム南
ベトナム外相、グエン・ズイ・チン北ベトナム外相とグエン・チ・ビン南ベトナム共和国
(ベトコン)臨時革命政府外相の 4 者の間で、「ベトナムにおける戦争の終結および平和の
回復に関する協定」
、いわゆるパリ協定が締結された。
453
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかしながら、秘密和平交渉に時間がかかり、結果的に「ニクソン・ドクトリン」の発
表後も 4 年以上にわたって戦争を継続する結果となったことは批判を受けた。
パリ協定直後に協定に基づきアメリカ軍は逃げるようにベトナムからの撤退を開始し、
1973 年 3 月 29 日には撤退が完了した。ここに、13 年にわたり続いてきたベトナム戦争へ
のアメリカの軍事介入は幕を閉じた。
パリ協定で遵守されたのは、アメリカ軍の撤退と捕虜の釈放だけで、あとの南ベトナム
をどうするかは何ら解決していなかった(アメリカはかつてのイギリス、フランスの植民
地放棄のように拡大するだけして手こずると逃げるようにして手を引いた。朝鮮戦争でも
前述したように同じで、これは現在も締めくくりをしないで休戦協定のままでほってある)
。
アメリカ軍の撤退後、南ベトナム政府軍と解放戦線の間の陣取り合戦で、軍事的なにら
みあいが続いた。この競争で、当初有利に見えたのは、南の土地と人口の大半を支配して
いた南ベトナム政府のほうだった。
ところが、アメリカでは協定調印後には、アメリカの「ベトナム離れ」が進んで行った。
それは後述するように、ニクソン大統領がウォーターゲート事件で追い込まれ、だんだん
レイムダックになっていき、ベトナム戦争に批判的なリベラル派の進出が目立った米議会
は、全インドシナにおけるアメリカ軍の戦闘行動への財源打ち切りや、議会の承認なしに
大統領がアメリカ軍を海外での戦闘行為に投入することを制限する戦争権限法などを成立
させていったからである。
また、1973 年 10 月には第 1 次石油危機が起き、石油価格の高騰は、アメリカの援助のも
とで高度に近代化されていた南ベトナム政府軍の機動力を、大きくそこねることになった。
また、世界的な経済不況やアメリカの援助削減のために、膨大な軍事機構をもつ南ベトナ
ム政府の経済運営は困難になった。
《ウォーターゲート事件とニクソン辞任》
さて、ウォーターゲート事件そのものは、1972 年 11 月に行われた大統領選挙の半年前に
さかのぼる 1972 年 6 月 17 日に起きていた。ささいな事件のようにみえた事件が、結局、
1974 年 8 月 9 日のニクソン大統領の辞任に発展した詳細は省略する。
ニクソンの辞任後は副大統領のジェラルド・フォードが大統領に昇格し、1974 年 9 月 8
日、
「ニクソン大統領が行った可能性のある犯罪について、無条件の大統領特別恩赦を、裁
判に先行して行う」という声明を発表した。これによってニクソンは、もはやあらゆる裁
判から自由になった。
このようにアメリカ民主主義の仕組みには、大統領という絶大なる権力をもったもので
も、民主主義国家においては、違法があれば追放されることが示されたが、しかし、とう
とう、肝腎のニクソンがウォーターゲート事件で何のために不法侵入と盗聴を指示したか
は明らかにならなかったし、現在も定かではない。
ニクソンは、2 期目の大統領選挙に大勝する見通しのなかで盗聴までし、また、アメリカ
政治史上初の大統領職辞任までして、守ろうとした秘密は何であったか。ニクソンは 1 期
454
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
目の選挙で、ベトナム戦争からの「名誉ある撤退」を主張し、「これを実現する秘密の方策
がある」と語って、民主党候補のハンフリーを僅差で破って大統領となったが、この大統
領選挙のとき、ニクソン候補はベトナム戦争に関して「秘密の方策」で北と裏取引をしてい
たという証拠を握られていたという説がある(つまり、民主党のジョンソンはそれを知っ
ていた。そこで民主党選挙本部に浸入する必要があったと)
。これ(選挙に勝つために敵国
と取引をしたこと)が表に出ることを防ぐためにニクソンは辞任したといわれている。結
局、自ら辞職したことでニクソンは現実に弾劾されなかったし有罪と判決されもしなかっ
たが、恩赦の受理は実質的に有罪を意味していた。
◇フォード大統領とベトナム戦争の終結
このようなアメリカ国内のゴタゴタした出来事を注意深く観察していたベトナム労働党
は、いよいよ待っていた時期が到来したと判断した。南ベトナム政府が危機に陥っている
と判断し(そしてアメリカはもはや出てこないと判断し)、1975 年 3 月、2 年間で南ベトナ
ムを解放するという想定で、中部高原のバンメトートに大規模な軍事攻勢をかけた。
ところが、攻勢が開始されると、もはや張り子の虎で南ベトナム政府軍は雪崩をうつよ
うに崩壊し、労働党は、急遽、1975 年の雨期到来以前にサイゴンを解放する、ホーチーミ
ン作戦の発動を決定した。
こうして、
1975 年 4 月 30 日、
人民軍の戦車隊がサイゴンの南ベトナム大統領官邸に突入、
ベトナム共和国が崩壊し、長かったベトナム戦争は、北ベトナムと解放戦線の側の勝利で
終結したのである。南ベトナムは、暫定的に臨時革命政府の統治下に置かれたが、戦争の
実体が南北一体になっていたことを反映して、ベトナム労働党は南北の統一を急ぐことを
決定し、1976 年 7 月、統一国会で南北ベトナムはベトナム社会主義共和国として統一され
た。
◇ベトナム戦争の意味
冷戦時代の最大の局地戦争であり、ベトナムにとっては総力(独立)戦争であったベト
ナム戦争は、きわめて深い傷を戦争の当事者にもたらした。結局、アイゼンハワー、ケネ
ディ、ジョンソン、ニクソン、フォードと 5 代のアメリカ大統領がかかわる 20 年近くのベ
トナム戦争は「ドミノ理論による共産化」を防ぐという、(誰にも頼まれもしないのに、フ
ランスに代わって、世界の警察官だと自任し自分から買って出て)きわめてあいまいなア
メリカの大義名分で介入した。
もちろん、国連憲章違反である。国連憲章第 51 条は「攻撃された場合には」となってい
るのに、アメリカの方から、つまり、南ベトナムの方から仕掛けて行って、国連憲章第 51
条の集団的自衛権をたてに、形態だけアメリカ同盟軍(多国籍軍)の形をとり、介入して
いったのである。最後には、すべてを投げ打って形だけの協定を南ベトナムに押し付けて
逃げるようにしてアメリカはベトナムを去ってしまった。介入の理由がきわめて曖昧であ
った(これはブッシュ・ジュニアのアフガン・イラク戦争でも繰り返された。つまり、覇
権国家は、軍事的に勝てると思っているので、外交交渉を飛ばして、いつでも戦争に訴え
455
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
てしまうというのは古今東西同じであるということである。それをできないようにする仕
組み、人類社会にはそのような社会システムを組み込む必要がある)
。
ホーチーミンのところで述べたように、彼は必ずしもソ連型あるいは中国型の共産主義
者ではなかった。彼はベトナム独立のための民族主義者で共産党を利用しようとした。そ
れを結局、アメリカは共産主義者のレッテルをはって追い込んでいった。相手が弱ければ、
一度も話し合い(交渉)をしないで、一方的に武力で追い込んでいく。それが覇権主義国
家のやり方である。窮鼠猫をも噛むのは昔も今も同じである。
《ベトナム戦争の犠牲者》
アメリカ合衆国の戦死者は、5 万 8000 人を超えた(表 19(表 16-4)の期間では約 4 万
6000 人)
。また、この戦争に動員された米軍兵士の延べ人数は、一般兵士の場合、ベトナム
の戦場で戦闘任務に従事する期間は 1 年に限定されていたためもあって、
300 万人に達した。
戦死者は、このなかの 2%程度だったが、生還した兵士の間でも、負傷や枯れ葉剤などの毒
剤散布の後遺症、あるいは精神的障害に苦しめられる人が多数にのぼった。
表 19(表 16-4) ベトナム戦争の戦死者推移
『ベトナム戦争の記録』
ベトナム戦争には、韓国、タイ、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが、
アメリカの同盟国として派兵したが(多国籍軍の形態をとったが、もちろん、国連の決議
のない国連憲章違反の派兵であった)
、その戦死者も表 19(表 16-4)のように 5000 人を
上回っていた。南ベトナム政府軍の戦死者が 22 万人に達した(表 19(表 16-4)の期間で
は約 17 万人)
。
しかし、なんといっても戦争による多大な犠牲を出したのは、北ベトナムだった。まず、
戦闘要員の死者は、北の人民軍と解放戦線が戦後のベトナム側の発表では 110 万人(表 19
(表 16-4)の期間では約 85 万人)
、これに、民間人の被害者を加えると、南ベトナムだけ
でも 300 万人以上の人が死傷し、650 万人以上の人が田畑を失ったといわれている。また、
爆弾の投下量も膨大で、いかにベトナムの国土が荒れたかがわかる。
456
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とくに、米軍の参戦は、自己の犠牲を少なくするため苛烈な重火器をベトナム人民に浴
びせたので、人民軍と解放戦線に大きな犠牲を強いた。北ベトナムの農村から出征した兵
士の数に対する戦死者の比率は、15~25%に達しており、その大半は南の戦場での犠牲者
となった。これに、ジャングルに長期に潜んでいたためにかかったマラリアなどの病気や、
枯れ葉剤の被害などを加えて考えると、ベトナム戦争は勝者にとっても、きわめて凄惨な
戦いだった。
アメリカ軍の推計では、65 年から 72 年までの南の戦場での人民軍と解放戦線軍の新規補
充兵力総計は 128 万 4000 人、戦死・負傷・病気などにより戦力として「消耗」してしまった
人の合計は 129 万 8000 人となっていた。
「消耗率」は 101%ということで、南の戦場では、
死ぬか、運がよくても戦線から離脱せざるをえないような負傷をするか、病気にかかるか
しかなかったのである。まさに(アメリカ軍によって)人間が消耗品にされた戦争であっ
た。
《ベトナム戦争は民族独立戦争だった》
ベトナム戦争は、冷戦時代を象徴する戦争だった。ベトナム戦争は米ソの冷戦構造を前
提として始まった戦争だったが、ある地域の運命を決するのは、アメリカなどの域外大国
ではなく、その地域に住んでいる人々の意思であることを明示することで、大国主導の国
際秩序としての冷戦構造を突き崩す意味をもっていた。
(そもそも民族自決はルーズベルトの国連設立の大きな柱ではなかったか。ルーズベルト
の後継大統領は一人としてホーチーミンにあって話を聞くこともなく武力で押さえ込んで
しまえとなった。これはいよいよテロ戦争の時代になっても改めるところがない。いや、
そうではなく、アメリカ(覇権国家)が(対話なしに)ただ武力で押さえ込むというやり
方が、いよいよテロ戦争の時代をもたらしたのである。窮鼠猫をもかむはいつの時代でも
同じである。彼我の武力差が圧倒的で、しかも威圧者側が対話を拒むという絶望の末に発
生するのがテロ戦であることを権力側は直視すべきである。ベトナム戦争から 40 年近く経
った現在の中東をみると、後述するようにアメリカはイラン、アフガン、イラクと介入し
ていって結局、ベトナム戦争のときと同じように中東を混乱の巷にしてしまった)
。
この戦争は、一方の当事者であるアメリカの世界的覇権(ヘゲモニー)に大きな打撃を
与えただけでなく、北ベトナムと解放戦線を支援した社会主義大国のソ連や中国にも大き
な負担を課し、その動揺を促進することになった。この点でも、ベトナム戦争は、冷戦構
造の根幹を揺るがし、アジアにおいては米中接近という国際政治の大きな転換を引き起こ
したのである。
ベトナム戦争は、第 2 次世界大戦後の最大の民族解放独立戦争であった。長く、さまざ
まな形で植民地支配をしてきた欧米列強の植民地支配を崩壊に追いやり、地球全体を独立
した国民国家が覆う国民国家システムの普及に大きく貢献した。ベトナムという「弱小民
族」が、世界最強の超大国アメリカを撤退させたことは、ただ大国ということでは世界を
支配できない段階に世界史が入ったことを意味していた(ベトナムはあの元帝国を撃退し
457
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たという歴史も持っているが、長い目で見ると、いつでも帝国支配は敗北するということ
を示している)
。
《環境破壊戦争》
近代科学技術の粋を集めた(悪用した)兵器をふんだんに使ったアメリカが敗北したこ
とは、欧米中心主義的発想、とくに欧米近代が生み出した文明に対する反省的な考察を世
界的に広げる役割を果たした。ゲリラが潜むジャングルは焼き尽くす、枯らして丸坊主に
してしまえばよいという発想で、除草剤や枯れ葉剤が大量に散布され、地雷が埋め込まれ
た。これによって、内陸部の熱帯雨林の 14%、海岸のマングローブ林の 30%が破壊され、
薬剤のなかに入っていたダイオキシンなどの毒物は、人体に深刻な後遺症をもたらした。
とくに、枯れ葉剤の散布によって、ベトナムでは新生児の身体障害の発生率が急激に上
昇した。しかし、これは欧米先進国での異常発生率の平均値とほぼ同じであった。という
ことは近代化に伴う化学物質による汚染の蓄積が、いかに深刻であるかを物語っている。
ベトナム戦争での破壊は、このような従来の近代化のなかで進行していた環境汚染にも警
鐘を鳴らす意味をもっていた。これは、この後、地球環境問題という形で顕在化してくる
ことになった(ベトナム戦争から 40 年経った現在では、我々地球文明は待ったなしの地球
温暖化という抜き差しならぬ状態に追い込まれているのである。人類は、一刻も早く戦争
という人為的な恐怖から解放されて、地球温暖化という脅威に総力を上げて対処しなけれ
ばならなくなっている)
。
《正当性なき戦争には勝てない》
もう一つ、ベトナム戦争はアメリカ政府という為政者がかってに戦争をやったり、やめ
たりできる時代ではなくなったということを示した(アメリカはベトナム戦争のこの教訓
をまったく生かさず、21 世紀に入って再び、アフガンやイラクで再現している)
。これほど
情報技術が発達した社会では、一般大衆は為政者の言われるままにそれに従うほど、
「おろ
かで柔順」ではないということを示した。世界史の統治のあり方、政治の方向の重大なる
変化、つまり、一般国民大衆(いわば地球市民)の思いが政治を動かす時代になりつつあ
ることを示していた。
このベトナム戦争はマスメディアの発達によって、
「開かれた社会」によって戦われた。
国防総省機密文書の漏洩、テレビや新聞が日々報道する虐殺とその不毛性がこの戦争をさ
らに公開のものとした。インフレ、前例のない学生の抵抗運動や都市の混乱、戦場での虐
殺、たび重なる敗北、4 つ星将軍ら「ベスト・アンド・ブライテスト」の虚偽・堕落、さら
には大統領の権威そのものを失墜させたウォーターゲート事件が起こったこと、多くのア
メリカ人にとってこの戦争が建国の父たちのすべてとまったく矛盾していると思われた。
それはアメリカ国民だけでなく、ベトナム戦争を世界中でみてきたすべての人々にも同
じように感じられた。それがベトナムから帰還した帰還兵たちを長く悩ませたことの一つ
であったことは多くの戦争体験記や小説などで残されている(私は何のために戦ったのだ
458
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ろうという思いが)
。この戦争はアメリカ文明、ひいては現代文明に大きな影響を与えるも
のであった。
ベトナム戦争は兵器や経済の生産性の圧倒的な優位が、かならずしもそのまま軍事的な
有効性につながるとはかぎらないことをあらためて認識させた。経済的に、アメリカは北
ベトナムの 50 倍から 100 倍の生産力をもっていただろう。軍事的にも、タカ派の一部が主
張するように、敵を石器時代に逆戻りさせるほどの火力をもっていた。実際、核兵器を使
えば東南アジア全体を完全に破壊する力はいくらでもあったのである。しかし、それはで
きなかった。丸腰の人間を灼熱地獄に落とし込む人間など、この世の中、この時代には一
人もいない(狂人であれば別だが)
。そのような意味で核抑止力で作り上げた軍事システム
そのものが虚構、毛沢東に言わせれば張り子のトラであった(この面では毛沢東にも一理
があろう)
。
核が使えないとすれば、通常兵器でやればよいとなる。その気になれば、アメリカ兵を
ほとんど死なせずにやる手はいくらでもあった。ベトナム戦争から 4 半世紀前の東京大空
襲では一晩に 10 万人を焼死させた。しかし、それもできなかった。もう、世界中が注視す
る中では戦争はできないのである。できるだけ大量の人間を殺して自分の主張を通す(戦
争に勝つ)という発想そのものができなくなっているのである。
いずれにしても、ベトナム戦争ではアメリカの優位がそのまま力を発揮することはでき
なかった。国内世論や世界の反応を恐れて、アメリカは自国にとって致命的な脅威となる
はずのない敵に対して、みんなの前でその腕力をふるうことは、もはやできないのである。
それは対話でしかできないのである。お互い人間だから当然のことである。
(しかし、アメリカは 21 世紀になってもそれをやった。アフガンやイラクで。覇権主義、
覇権国家とは歴史的にそれをやってきたのである。それを止める仕組みが本来の国連の集
団安全保障制度ではなかったか。もし、ドミノ理論がいうように、共産国家ベトナムが共
産主義をもって、タイやインドネシアを侵略するようなことがあったなら、そのときは国
連憲章第 42 条で武力制裁すればよかったのである。なんでアメリカが、ドミノ理論や集団
的自衛権をかざして、世界の警察官と自任してベトナムに私兵軍団・多国籍軍を送る必要
があったのだろうか。れっきとした国連憲章や国際法違反であった。アメリカは国連常任
理事国の 1 国として、国連のもとで采配を振るっていれば、おのずと解決したのである。
なぜ、先を走って、頼まれもしないのに介入するのか。そこが問われているのである。こ
れは現在の中東でも繰り返されていることである)
。
ベトナム戦争の正当性と有効性がしだいに疑問視されるなかで、多数の死傷者を出すこ
とに世論が反対したことから、アメリカ政府は通常兵器の使用も制限せざるをえなかった。
爆撃にも制限が加えられ、中立国のラオスを通るホーチミン・ルートを抑えることもでき
なかったし、ハイフォン港に兵器を運ぶソ連船を拿捕できなかった。二つの重要な共産主
義国を参戦させるような挑発を避けることが重要だったのである。
459
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そのために、戦争は本質的にジャングルや水田での小規模な戦闘となり、アメリカの火
力の優勢や(ヘリコプターによる)機動力が生かされない地勢で行われた(人間である限
り、むざむざ殺されることがわかっている圧倒的な火力や兵器の前で戦闘をいどむ「愚か
者」はいない。ゲリラは自分の土俵になったときだけ挑戦するのである。現在のテロ戦争
も同じである)
。
このようなゲリラ的な戦場での戦いは人間の本質の戦いとなり、北ベトナムやベトコン
は彼らが心から信じるもののために(それは祖国の独立であり、女子供のためだった。決
して抽象的な共産主義のためではなかった)戦っていたので強かった。明らかに、非戦闘
員も熱烈に民族主義を唱える政権の規律にしたがっていた。
これに対し南ベトナム軍とそれを支援するアメリカ兵は何のために戦っているのか、邪
悪な共産主義を防ぐためと(為政者、国家に)聞かされて動員されたが、戦争が進むにつ
れて疑問を抱き始め、士気の低下、冷笑的な気分、規律の乱れ、麻薬の常用、売春、黄色
人種の蔑視、戦場での残虐行為などの腐敗が進んでいったのである。
結局、アメリカ社会自体も、この戦争の矛盾が明らかになるにつれて、勝利のためにす
べてを犠牲にするという決意をなくした。もともと当時のアメリカ国民がベトナムを撃て
といったわけではない。そのような問題で戦争をしかけた時の為政者(4 代の大統領。5 人
目のフォードは敗戦投手をしただけ)、アメリカ政府に問題があった。アメリカは世界最初
の民主国家であったし、現在も民主国家の旗手であると自任している。その民主国家でも
覇権国家になるとこのような過ちを犯すのである。4 代の大統領がそろいもそろって。
双方にとって何が問題になっていたか、時の為政者はホーチーミンとトップ同士で話し
合うことすら一度もしなかった(これはその後のアメリカの為政者すべてにいえることで
あるが。あの演説のうまさで大統領になったオバマも、とうとう一度も敵と話し合うこと
をしなかった。21 世紀になっても変わっていない。そしてイラクやアフガン、中東は泥沼
化している。出先が見えない)
。
国民に戦争を決意させることはきわめて重いことで、そのためには為政者は出来うるこ
とのすべてを行わなければ責任を果たしたことにはならない。ベトナム戦争の教訓は忘れ
さられてしまったようだ。人類は歴史を学ぼうとしないし、すぐ忘れさる。だから歴史は
繰り返される。人類にとって繰り返し強調されるべきことは、歴史に学ぶことの重要性で
ある。
【9】ソ連・アフガニスタン戦争
◇ソ連のアフガン侵攻
イラン革命が起こって、イランとアメリカの関係が緊迫している最中の 1979 年 12 月 24
~25 日、突然、ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した。アフガニスタンのアミーン大統領は
12 月 27 日、大統領宮殿を襲撃したソ連 KGB の特殊部隊員により殺害された。ソ連指導部は
バーブラーク・カールマルを新たな大統領とし、アミーン政権に対立していた人民民主党
460
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
内の多数派による政権が樹立された。白昼堂々の外国軍クーデターによる政権交代であっ
た(もちろん、国連憲章違反である)。
アフガニスタンは 1973 年まで王制であった。国王の従兄弟のダーヴードがクーデターを
起こして、王政を廃止して共和制を敷き、新憲法は 1977 年 1 月に 400 人から成るロヤ・ジ
ルガ(部族長と長老が参加する大会議)に提出され、採択され、ダーヴードも 1977 年 2 月
14 日、ロヤ・ジルガにおいて、正式に大統領に選出された。
このように、ダーヴード大統領は新内閣を組織して自らの権力基盤を固めたかにみえた
が、1965 年 1 月にタラキー、アミーン、カールマルらにより創設された左翼政党の人民民
主党支持者の将校が、1978 年 4 月 27 日、軍事クーデターを起こし、翌 28 日、ダーヴード
大統領を殺害してしまった。
こうして、1978 年 4 月 30 日にはタラキーを議長とする革命評議会が結成され、「アフガ
ニスタン民主共和国」の樹立を宣言し、同時に国会を閉鎖し、1977 年に採択された憲法も停
止してしまった。このタラキー政権による性急な社会変革の実施は、旧来の社会構造と秩
序に多大な混乱を招く結果となり、アフガニスタンのイスラム諸部族は、このアフガニス
タン人民民主党による政権に対してジハードを宣言し戦闘を開始し、1979 年に入ると全土
29 州のうちの大半を制圧する勢いであった。
(隣のイランの状況をみると、1978 年 9 月 8 日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出し
た事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反皇帝・イスラム国家の樹立を叫
ぶようになった。1978 年 9 月、戒厳令が全国主要都市に布告された。1979 年 1 月 16 日、
パーレビ皇帝はエジプトへ亡命し帝政は崩壊した。イラン革命は成功した。
)
こうしたなか、1979 年 9 月 16 日、突然タラキー議長が「健康上の理由」で辞任し、同日開
催された人民民主党の中央委臨時総会では満場一致でアミーン首相の革命評議会議長兼同
党書記長への就任を承認した。
そして、アミーンになって 3 ヶ月しかたっていない 1979 年 12 月 24~25 日にソ連軍の侵
攻となり、アミーンはソ連 KGB の特殊部隊員により、いとも簡単に殺害されてしまった。
アミーン政権に事態を収拾する能力がないことを見て取ったソ連指導部は、首のすげ替え
を考え、今度はカールマルに代えることに決めたのである(タラキー、アミーンに次いで 3
人目)
。
この事はソ連のやり方があまりにも露骨であったので、アメリカはもちろん、世界中で
大きな事件として広く知られることになった。
ソ連政府はアフガニスタンに軍事介入することについては当初、国際関係上の影響を考
慮して非常に慎重であった。それにも関わらず行動を起こした動機については以下のよう
な政治的な要因があったと考えられている。
まず当時、アミーンは独裁的な政治を行って(3 ヶ月にすぎなかったが)
、独自の外交政
策を展開したことが挙げられている。アメリカの情報機関と関わり、共産主義では否定さ
れるはずの宗教聖職者との関係を強化した。これはソ連政府にはアフガニスタンの西側へ
461
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の転向の兆候と見られることとなった(アメリカがベトナムのホーチーミンの民族主義的
なやり方を共産主義と見誤ったと同じように、ソ連はイスラムの民族主義的なやり方を西
側への転向と見誤った。超大国はいずれも自国の体制を強要するものである)。そのため、
アフガニスタンが転向することを防止し、ソ連の中央アジアにおける勢力圏をアメリカと
イスラム主義勢力から防衛し、共産圏諸国へのソ連の国家的威信(ブレジネフ・ドクトリ
ン)を維持する必要性が生じた。
またアメリカの軍事支援の影響もあった。当時のアメリカ政府はパキスタンを経由して
非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーン(アラビア語で「ジハードを遂行する者」
の意味でイスラム教の大義にのっとったジハードに参加する戦士たちのこと)に提供して
いた。しかし、これら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確
にすることは当時進行していた米ソ・デタント(緊張緩和)の動きからも不利益と判断さ
れた。
もう一つの要因としてイスラム原理主義の動きから発生したイランでのイラン革命が挙
げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー(パーレビ)皇帝政府が倒され、ホ
メイニーを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。なぜ
ならアフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起こればソ連にも飛び火する危険性があ
ったからである(ソ連国内にも多くのイスラム教徒がいる)
。革命後のイランには、北のソ
連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的、経済的な動機が十分に
あった。
このようなことから、当時のソ連の指導者ブレジネフは、ソ連は(ソ連邦内の共和国を
含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドク
トリン」の信奉者であるから、アフガン侵攻は当然のことであると考えたようである。
《カールマル政権とムジャーヒディーンとの戦い》
ソ連軍はアミーンを除いて、その後は親ソ的なカールマルの新政権を擁立してアフガニ
スタンを早急に安定化させ、ソ連軍部隊を長くても半年程度で撤退させることを計画して
いた。
しかし、ソ連軍の侵攻と、左翼政権による急激な社会改造の試みとによる国内の混乱は一
向におさまる気配はなかった。反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速
に悪化し、新政権の強い要望によってソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなっ
てしまった。そして、ソ連軍は治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進めた。
ソ連軍は航空支援、兵站部門、内務省(MVD)の部隊、国家保安委員会(KGB)傘下の国境警
備隊、それから他の種々雑多な部隊を含めると、総勢でおよそ 17 万 5000 人になったとい
われている。この数字は当時のソ連が保有するの師団のほぼ 20%に相当した。
しかし、ソ連軍の戦闘教義はもともと平原・丘陵地帯における(NATO 軍や中国人民解放
軍などの)正規軍相手の電撃戦・総力戦を前提としたものであり、ゲリラ・パルチザンの
掃討作戦や山岳戦を想定していなかったため、アフガンでの戦闘では苦戦を強いられるこ
462
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
とが多かった。ベトナム戦争におけるアメリカ軍と同様にヘリコプターで機動する治安作
戦、掃討作戦がアフガニスタン全土で実施されたが、目覚しい戦果はあがらなかった。
2000 万個以上の対人地雷がソ連軍によってばらまかれた。対ゲリラ専用に戦闘ヘリコプ
ターMi-24 が多数投入され、航空戦力を持たないムジャーヒディーンにとって大きな脅威に
なった。しかしアメリカがムジャーヒディーンにスティンガー地対空ミサイルを供与した
ため、Mi-24 の脅威はかなり取り除かれた。
一方、中東におけるソ連の影響力の浸透を怖れたアメリカとパキスタンはムジャーヒデ
ィーンの支援に乗り出し、前述のスティンガーの供与などが代表的なものであった。
アメリカの CIA はムジャーヒディーンの支援に総額 21 億ドルを費やした。これらの資金
は陸上からの支援ルートを握っていたパキスタン経由で行われ、パキスタンが同国国内に
影響力を保持するきっかけとなった。また、ムジャーヒディーンには 20 以上のイスラム諸
国から来た 20 万人の義勇兵が含まれていた。サウジアラビアの駐アフガニスタン公式代表
となったオサマ・ビンラディンもそれに加わった一人であった(ビンラディンはこの後、
アフガニスタンで反米思想とイスラム原理主義運動に傾倒し、後ろ盾であったアメリカに
対してアメリカ同時多発テロを行うことになる)
。
このアフガニスタン国内の内戦における混乱から難民流失は増え続けた。国連難民高等
弁務官事務所が 1981 年春に発表したところによれば、パキスタン国内への難民は 170 万人
にのぼり、イラン国内のアフガン・ゲリラ筋の発表では、イラン国内のアフガン難民の数は
50 万人に達したと言われていた。
1984 年頃、ソ連陸軍首脳は政府に対し地上兵力増強を要求した。軍の要求した兵員数は
30.5 万人で駐留軍を 3 倍に増やすというものであった。アフガニスタンのゲリラ勢力は最
大でも 10 万人であり、30 万人増強が行われれば反政府勢力は壊滅していたと思われるが、
行われなかった。より多くの兵員をアフガニスタンに投入出来なかったのはソ連の経済面
を含んだ国力の低下であった。
《ソ連の衰退》
ブレジネフが後継者に対して残した致命的な遺産は、アフガニスタンに干渉する 1979 年
12 月の決定だった。アフガン紛争介入の決定は政治局の正式決定ではなく、ブレジネフの
側近グループによる非公式なものであった。
ソ連のアフガンへの介入はデタント(緊張緩和策)の終焉を招き、アメリカ合衆国の穀
物取引の停止と共に、ソ連の経済問題を急速に悪化させた。アメリカはカーター政権下で
再軍備プログラムを開始し、後任のレーガンの下で加速された。アメリカとの軍拡競争に
おける大きな経済負担はソ連の経済状態をより一層の悪化に導き、後のソ連崩壊に結びつ
いた。
ソ連は、1980 年代初頭には政権の末期症状があらわになっていた。ブレジネフは老齢と
病気のため、実質的指導不能の状態に陥っていたし、彼個人だけでなく、あらゆる分野で
老人支配が頂点に達していた。
463
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ブレジネフは 1982 年 11 月 10 日にモスクワで心臓発作によって死去し、後継書記長にな
ったアンドロポフもすでに腎臓病をわずらっていて、1984 年 2 月に死去した。後継は、ま
たしても高齢のチェルネンコだった(就任時に 73 歳)。彼はブレジネフ人脈であり、高齢
と病気のため、積極的な政策イニシアティヴをとることはできなかったが、ゴルバチョフ
らの若手の台頭をくいとめることもできなかった。
ゴルバチョフはこの時期に、事実上の第 2 書記の座を占めた。結局、アフガニスタンか
らの撤退は、ゴルバチョフによって決断されるのだが、それはあまりにも遅かった。
◇ソ連軍の撤退
1986 年 5 月、人民民主党の中央委員会第 18 回総会で、「健康上の理由」によりカールマル
書記長は突然辞任し、かわって、同政権下で秘密警察の長官を務めたムハンマド・ナジー
ブッラーが後任に選出された。ナジーブッラー政権は、反政府ゲリラとの戦いにおける軍
事的勝利を断念し、政治的解決の方向に踏み切った。1987 年 11 月 30 日に新憲法がロヤ・ジ
ルガにかけられ採択された。
新憲法では、国名をアフガニスタン共和国と改めたうえで、人民民主党の 1 党独裁体制
から複数政党への移行をうたい(前文)
、イスラムを国教と規定していること(第 2 条)
、
民族的・歴史的伝統に合致した国民の最高の意思表示の形態としてロヤ・ジルガを規定して
いること(第 65~67 条)
、ロヤ・ジルガに責任をおう大統領制の採用(第 72 条)
、そして
いかなる軍事ブロックにも属さず、外国軍隊に基地を提供しない非同盟政策を貫くことを
明記している点(第 3 条)などが特徴であった。
1988 年 4 月に行われた国民議会選挙によって、上院 115 人、下院 184 人の議員が選出さ
れたが、人民民主党員の当選者に占める割合は 22%であった。こうして開催された国民議
会によって、「四月革命」(1978 年 4 月 27 日の軍事クーデター)以来の最高議決機関であっ
た革命協議会の廃止が宣言された。
つまり、10 年経って、ソ連の影響力のもとでタラキーらが軍事クーデターでダーヴード
大統領を殺害した「四月革命」以前に返ったということである。この 10 年、アフガニスタン
を混乱に陥れ、多くの死傷者を出したソ連軍浸入は結局、振り出しに戻っただけだった(ア
メリカがベトナムで 20 年近くやって結局、振り出しに戻ったとおなじようなことをソ連も
アフガンでやったということである)。
1989 年 2 月 15 日に、9 年余りにおよんだソ連軍のアフガニスタン駐留に終止符が打たれ
た。これはゴルバチョフによって、やっと実現した。9 年間にわたる戦争において平均して
アフガニスタンに駐留したソ連軍の兵力は 10 万人強であった。ソ連軍はゲリラに対して決
定的な勝利を得られないまま、逃げるようにして 1989 年に全面撤収したが、ベトナム戦争
に敗退したアメリカと同じような結果がソ連にも現れた(アメリカのベトナム撤退後、ア
メリカがテコ入れしていた南ベトナム政権は崩壊した)
。つまり、ソ連がテコ入れしていた
アフガニスタン政権の崩壊である(ソ連も 3 年後に崩壊したが)
。
◇ソ連・アフガニスタン戦争の結果
464
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ソ連邦側では 1 万 5000 人が死亡し、7 万 5000 人が負傷した。ソ連側の費用は 1986 年の
ドルで計算して 1 年におよそ 200 億ドルかかっており、ソ連の財政を圧迫した。ソ連は占
領経費の増大によって冷戦の継続が不可能となり、ペレストロイカによって路線を大幅に
転換した。また、アフガニスタンに駐留するソ連軍兵士の間で麻薬が蔓延し、帰国後も兵
士達が社会に復帰ができないことが社会問題となった(これもアメリカでベトナム戦争帰
還兵の問題が起きたことと同じであった)
。結局、ソ連は冷戦終結と改革開放によって、ア
フガン撤退からわずか 3 年足らずで崩壊に至った。
これに対しアフガニスタンでは、戦闘員(ムジャーヒディーンや政府関係者)はおよそ 9
万人が死亡し、9 万人が負傷した。市民の死傷者を含めると、総人口の 10%、男性人口の
13.5%が死亡し、全体では 150 万人が死亡したと推定されている。国民の半分が 14 歳以下
になるほどであった(つまり大人が次々と虐殺された)
。およそ 600 万人の難民が周辺諸国
に逃れた。
アフガニスタンは国の価値の約 3 分の 1 から 2 分の 1 にあたるおよそ 500 億ドルの損害
を被った。1 万 5000 ある村落のうち、5000 の村落は徹底的に破壊されたか、または農地や
井戸や道路といった経済的な基盤をすべて破壊されたので経済的に立ち行かなくなった
(戦場となったアフガニスタンが多大な被害をこうむったのは、ベトナム戦争と同じだっ
た)
。
多くの者が死んだために、識字率は 36.3%という低い数字にまでなった。あまりにも識字
率が低いために今でも最貧国のままで、現在、経済成長を遂げているベトナムとは正反対
である。
(それは、その後、アフガニスタンでは、後述するようにアメリカの進攻があり、アフ
ガンには現在も平和がおとずれていないからである。アフガンは 1978 年 4 月の軍事クーデ
ター以来、35 年近く戦場になっている悲惨な国である。前半の 10 年はソ連、あとはアメリ
カがからんでいて、現在もアメリカの爆撃を受けている。アフガン国民が米ソ超大国に何
をしたというのか。米ソ冷戦は確かに核抑止力がきいて米ソ超大国は直接的には干戈(か
んか)を交えなかったが、その同盟国では朝鮮やベトナムやアフガン、そしてアフリカ、
中東などで多くの犠牲者が出ていた)。
農業生産量は 50%にまで減少し、家畜の 50%が失われた。 舗装された道路の 70%は破
壊された。ソ連軍は大量の兵器を遺棄し、またアフガニスタン政府軍に供与したため、以
降の内戦に使われて、さらに大きな被害をもたらした。
多くの人は、この戦争(ソ連のアフガニスタン戦争)は主権国家への正当な理由のない
侵略行為だと見なしている。しかし、安保理はまったく機能しなかった。そのため、たと
えば 1982 年 11 月 29 日の国連総会でソ連軍はアフガニスタンから撤退すべきだとする国連
決議が採択された。しかしながら、一方では、ソ連を支持した国もあり、この戦争は貧し
い同盟国を救助しに行った行為、あるいはイスラム原理主義のテロリズムを封じ込めるた
465
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
めの攻撃としていた。このように米ソ冷戦下においては、世界は 2 分されていて、国連の
安全保障制度は機能しなかった。
【10】国連の機能が発揮されたゴルバチョフ時代
◇ゴルバチョフの新思考外交
1985 年にソ連の共産党書記長に就任したゴルバチョフ(1931 年~)は、内政では停滞し
ていたソ連の政治経済の抜本的改革を目指しペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情
報公開)を断行し、外交は「新思考」に基づく外交を目指すと述べ、単にソ連の国益だけ
を考えるのではなく、世界全体の、人類全体の行く末まで考えた外交を展開しようとした。
その発想は、1980 年代前半スウェーデンのパルメ首相を委員長とする委員会がまとめた
核戦争に勝者も敗者もなく、対立する双方の安全保障をともに促進することを強調した「共
通の安全保障」や当時強調され始めた相互依存論などに強く影響されたものであった。ま
た、
「核の冬」といわれた核戦争の脅威やその他の地球的諸課題の解決のために協力するこ
とを強調するものであった。
「新思考」は矢継ぎ早に明らかにされた。第 1 弾は、1986 年 1 月 15 日の 2000 年までに
全世界の核兵器を全廃する旨の提案であった。第 2 弾は、2 月 25 日~3 月 6 日まで開催さ
れた第 27 回党大会での演説であった。そして第 3 弾が、当時限定的にしか公開されなかっ
た 5 月 23 日の外務省での演説であり、国内改革を促進すべく平和を維持する外交を積極化
することを強調し、外交官は「ミスター・ニエット(否)」であってはならず、人権問題も
忌避してはならないと厳命していた。はたして歴史上、共産圏に限らず、一国の最高の指
導者でこのようなことを勇気をもって発言したものがいただろうか。
1986 年 7 月に、ゴルバチョフはウラジオストク演説でアフガニスタン撤退と中ソ関係改
善を表明した。
ゴルバチョフは, 核実験を長期停止し、冷戦時代の軍拡路線から本格的軍縮へと軌道を
転換し、軍事一辺倒の外交から決別し、安全保障を政治的手段で行うと宣言するなど新思
考外交と呼ばれた新しいやり方が世界を驚かせた。
ゴルバチョフは公言したことを実現すべく精力的に行動した。1986 年 10 月 11~12 日の
レイキャビクでの米ソ首脳会談は、ゴルバチョフの大胆な提案から始まった。ゴルバチョ
フは、戦略核兵器に関しては 50%削減、INF(中距離核戦力)に関しては英仏の核兵器の対
象からの除外(ソ連の大幅な譲歩)と、極東方面配備のソ連の INF の制限、SDI に関しては、
その配備を不可能としている弾道弾迎撃ミサイル(ABM)条約を 10 年間遵守すること、SDI
開発は実験室に限定されることなどを提案した。結局、レーガンはあくまで 10 年で SDI 配
備を行うと主張したため、ついに合意にいたらず決裂したが、その後、戦略核兵力の 5 割
削減、中距離核戦力(INF)全廃などは実現した。これは画期的なことであった。
466
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
「新思考」外交の新たな点は,外交の脱イデオロギー化、マルクス・レーニン主義的国際
政治観からの脱却であり、これは東欧諸国が独自に改革路線を進むことを許容するもので
あった。この方針は 1988 年 3 月の新ベオグラード宣言の中で示された。
1988 年 3 月、
当時のユーゴスラビア連邦を訪問したゴルバチョフ書記長は、
1948 年 6 月、
スターリンによって行われたユーゴスラビア共産党のコミンフォルム追放について謝罪し、
またブレジネフ・ドクトリンを否定した。ゴルバチョフは、各国での体制選択は自由であ
ると確認したが、これも画期的なことであった。同時にゴルバチョフは「ヨーロッパ共通の
家」という構想を提示、ウラルまでのソ連もヨーロッパであることを強調した。
これを新ベオグラード宣言という。ブレジネフ・ドクトリンは制限主権論ともいわれ、
社会主義陣営全体の利益のためには、そのうち一国の主権を制限しても構わないという考
え方のことであり、1968 年にソ連がチェコスロバキアに対する軍事介入(プラハの春)を
正当化するために持ち出された論理であった。ゴルバチョフはこの制限主権論を否定し、
東欧各国の自主性を認めたのである。これがやがて東欧諸国の改革とドイツ統一に発展す
るがそれは後述する。
ゴルバチョフの「新思考」外交のもう一つは通常兵器の軍縮であり、これらを集大成し
たのが 1988 年 12 月 7 日のゴルバチョフの国連演説であり、「国家間関係の脱イデオロギー
化」「例外なしの選択の自由」をうたい、2 年以内のソ連軍 50 万人削減、東欧からのソ連軍の
6 戦車師団撤退を約束した。このとき、ニューヨークでレーガンと次期大統領のブッシュと
会談した。
1989 年 1 月、アメリカでブッシュ政権が誕生した。欧米間には亀裂が走っていた。1987
年の INF 全廃条約調印後、ヨーロッパの安全保障が問題となり、焦点は西ドイツに配備さ
れている短距離核戦力(SNF)を近代化するか否かであった。しかし、この問題はソ連軍の
東欧からの撤退によって解消されていった。
ソ連にとり中ソ対立も克服すべき課題であった。1978 年に中国が現代化路線を採用して
以来、中国主導で事務レベルの交渉が開始されていたが、ゴルバチョフは 1986 年 7 月ウラ
ジオストクで演説し、アジア・太平洋地域の重視、対中国関係の打開を明らかにした。中
国は関係改善に際し、中ソ・中蒙国境のソ連軍、カンボジア問題、アフガニスタンを「三
大障壁」と設定したが、ソ連がモンゴルから一部撤退し、アフガニスタンからも撤退する
なかで、障壁は除かれ始めた。
1988 年 12 月 1 日、銭其深(せんきしん)中国外相がモスクワを訪問し、ほぼ 30 年ぶり
に外相会談が開催され、三大障壁の解決の促進で合意した。
1989 年 5 月 15~17 日、ゴルバチョフが北京に飛んだ。16 日のゴルバチョフ・鄧小平会
談で、
「社会主義建設事業でそれぞれの具体的条件を考慮することを必要と認める」ことで
一致し、国家・党の両レベルでの関係正常化が達成され、長年の中ソ対立に終止符を打っ
た(このゴルバチョフ訪中の直後に天安門事件が起きた)。
467
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ゴルバチョフは、1991 年 4 月には日本も訪れ、海部俊樹首相と平和条約締結や北方領土
帰属等の問題の討議を行ったが、合意には達しなかった。日本はゴルバチョフという偉大
な人物と腹を割って話す唯一のチャンスを失った。日本政府はゴルバチョフなど動きの速
い世界の情勢にうとく準備不足であった。
◇ゴルバチョフ改革の総仕上げ…冷戦終結と戦略兵器削減条約
1989 年ベルリンの壁開放に象徴される東欧の変革が進む中、1989 年 12 月 3 日、ゴルバ
チョフとアメリカのブッシュ大統領(在職:1989~93 年)が地中海のマルタで会談して冷
戦の終結を宣言した。偉大な政治家ゴルバチョフは、世界中をかけまわって、世界の要人
と誠意をもって熱心に話し合い、解決策を見いだして、第 2 次世界大戦後、44 年にわたっ
て続いた東西冷戦を 4 年で終結させてしまった。冷戦の終結の意義は世界史的に見てもき
わめて大きい。そしてゴルバチョフが歴史的に果たした役割もきわめて大きい。
その後、ゴルバチョフとブッシュは、1991 年 7 月 31 日にはクレムリンで第 1 次戦略兵器
削減条約(START)に調印した。思えば START は 1982 年に両国間でスタートしたが、長い
時間がかかった。ソ連のアフガニスタン侵攻(1979 年)に伴って再び過熱した新冷戦が、
ゴルバチョフの登場により、1985 年頃緩和したことに伴って交渉が促進され、ついにに調
印されたのである。
米ソは保有する戦略核弾頭数の上限を 6,000 発、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発
射弾道ミサイル (SLBM) や爆撃機など戦略核の運搬手段の総計を 1,600 機に削減されるこ
ととなった。さらに、弾道ミサイルへ装着した核弾頭数も 4,900 発に制限された。図 82(図
16-14。P424)において、やっと大きな縮小が刻まれた。条約履行の確認のために査察・
監視も条約に盛り込まれた。これらは条約発効後 7 年で達成されるとされた(その後、後
述するようにソ連の崩壊に伴い、条約の継承国はロシア、ベラルーシ、カザフスタン、ウ
クライナとアメリカ合衆国になった。条約の批准は、ソ連の崩壊により 1994 年まで遅延し
た。旧ソ連の核弾頭については、ベラルーシなどからロシアに移送され、ロシアが解体を
行った。米ロ両国は 2001 年 12 月、弾頭数の削減が終了したことを宣言している)。
◇正常に機能し始めた国連(ゴルバチョフ時代の国連)
ルーズベルトが描いた国連は人さえ得れば、うまく機能するということを証明する、束
の間の時期があった。ゴルバチョフがソ連の指導者になってから、国連の活動は一変した。
ゴルバチョフは自由化政策を推進し、1987 年以降、冷戦の雪解けが始まってからは、国
連の派遣活動が増えていった。そして、国連、安全保障理事会、事務総長室はこの雪解け
の恩恵を受けて活況を呈するようになった。ゴルバチョフが、ソ連政府は国連にいまや協
力を惜しまない、それどころか国連の地位を向上させると、言うようになったからである。
国連が本来の姿を取り戻したのである。
この大国の変化が安全保障理事会にもたらした影響は絶大で、常任理事 5 ヶ国は、かつ
てなかったような協力のもとで次々に議題に取り組んで、国連憲章に定められた所期の役
468
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
割を果たしたばかりでなく、事務局に対してもはるかに多くの要請をし、承認する平和維
持活動も増えていった。
ソ連はいまや地域紛争の解決を助けるために積極的に重要な外交的役割を果たそうとし、
第 3 世界の紛争から冷戦の影響を取り除こうとした。常任理事国が練り上げ、事務総長の「仲
裁」任務によって交渉された安保理決議は、1988 年にイラン・イラク戦争に終止符を打った
(国連イラン・イラク軍事監視団 UNIMOG。表 15(表 17-2。P406)参照)
。
事務総長はまた、その翌年アフガニスタンからのソ連の撤退を交渉し、モスクワ政府の
面目を立て、国連アフガニスタン・パキスタン仲介ミッション(UNGOMAP。表 15(表 17-2)
の 14 番目)は、兵力 10 万を超えるソ連軍のアフガニスタン撤退を監視し、移行期のあら
ゆる苦情を処理した。
同じ時期、アンゴラからのキューバの撤退とナミビアの独立も、安全保障理事会の監視
のもとで行われた。国連ナミビア独立移行支援グループ(UNNTAG。表 15(表 17-2)の 17
番目)はナミビアの独立を首尾よく監督した。
◇湾岸戦争と国連の本来の機能の復活
1990 年 8 月、イラクによるクウェート侵攻が起きた。サダム・フセインが国連憲章を知
らなかったわけではなかろうが、米ソの状況(ソ連は国内問題で崩壊の危機にあった。ア
メリカは以前のイラン・イラク戦争でイラクを支援してくれていた)
、アラブ諸国の反応、
世界の世論などに関して、多くの見込み違いをしたのは明らかであった。
これは明らかな侵略戦争だった(国連憲章は「自衛」戦争(紛争)しか認めない。あとは
国連が行う制裁行為だけである。つまり、侵略戦争は国連憲章違反である)
。これは国連憲
章第 7 章に定められた安全保障理事会による軍事行動承認の典型的事例に該当するもので
あった。ソ連が欠席したため朝鮮半島危機で発動された例はあったが、これはそれ以上に
完璧な侵略の例だった。
国連憲章の紛争解決の方法をもう一度述べると、第 6 章 紛争の平和的解決としては、第
33 条〔平和的解決の義務〕→第 34 条〔調査〕→第 35 条〔提訴〕→第 36 条〔調整の手続と
方法の勧告〕→第 37 条〔付託の義務と勧告〕→第 38 条〔合意による付託〕→そして、こ
こより第7章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動へと移り、第 39
条〔安全保障理事会の一般的権能〕→第 40 条〔暫定措置〕→第 41 条〔非軍事的措置〕―
安全保障理事会は、その決定を実施するために、兵力の使用を伴わないいかなる措置を使
用すべきかを決定することができ、且つ、この措置を適用するように国際連合加盟国に要
請することができる。この措置は、経済関係及び鉄道、航海、航空、郵便、電信、無線通
信その他の運輸通信の手段の全部又は一部の中断並びに外交関係の断絶を含むことができ
る。とやるべきことはやって、それでもダメであれば最後に軍事的措置に至る。
第 42 条〔軍事的措置〕―安全保障理事会は、第 41 条に定める措置では不十分であろう
と認め、又は不十分なことが判明したと認めるときは、国際の平和及び安全の維持又は回
復に必要な空軍、海軍又は陸軍の行動をとることができる。この行動は、国際連合加盟国
469
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の空軍、海軍又は陸軍による示威、封鎖その他の行動を含むことができる。その手続きが
第 43 条から第 50 条までに記されている。
1990 年 8 月、イラクのクウェート侵攻がおきると、国連はその集団安全保障制度に則っ
て、イラク制裁の決議を連発し(前述の憲章の手続きにしたがって)、多国籍軍の武力行使
を容認するなど、問題解決のために大きな役割を果たした(国連は軍事行動(戦争)をす
ることが目的ではない。イラクが国連の警告にしたがって、クウェートから撤退していれ
ば、湾岸戦争にはならなかった)
。これは冷戦時代にはみられなかったことであった。
ゴルバチョフは国内の改革に手一杯であり、中国は国連加盟国間の明らかな侵略にかか
わる問題にめったに拒否権を行使できず、イギリスとフランスはアメリカに同調した。1930
年代の満州(日本の満州侵略)か、エチオピア(イタリアのエチオピア侵略)か、ライン
ラント(ドイツの非武装地帯進駐)かというところだったが、国際連盟と違って、今度の
国際連合には実行力があった(フセインは国連も結局、国際連盟と同じように大したこと
はできないだろうと読んでいたのであろう)
。
安全保障理事会は、イラクの侵攻を同日午後のうちに糾弾し、その後数ヶ月にわたり、
最初は経済制裁、次に海上封鎖、最後に武力行使と、前述した国連憲章の手順を踏んで 11
件の決議を採択した。軍事参謀委員会は名目のみの存在になっていたが、このときはソ連
と中国は各決議に賛成し(経済制裁には同意したが武力行使には参加せず)
、対イラク攻撃
は事実上アメリカ主導の多国籍軍によって行われ、アメリカの攻撃能力が連合軍の軍事力
の大半を占めていた(これは国連決議がある実質、国連の多国籍軍となった。朝鮮戦争の
ときの変則的な国連軍をのぞけば、はじめての実質的な国連軍だった。後述するイラク戦
争のときも多国籍軍といったが、このときは安保理の決議がなかったので、いわばアメリ
カの私兵集団だったといえよう)
。
この湾岸戦争のその後の展開については省略するが、このとき多国籍軍はイラク軍をク
ウェートから駆逐し、そこでブッシュ大統領(父親)は、深追いをしないで戦闘を中止し
た。これも侵略国に侵略を中止させればよいという国連憲章の集団的自衛権の趣旨に則っ
たものであった。
このように国連の集団安全保障制度は、安保常任理事国が協力さえすれば、十分その安
全保障の機能を発揮することができることがわかった。図 89(図 9)のように、国連の集
団安全保障制度の機能が米ソ冷戦によって大きく低下してしまっていたが、ゴルバチョフ
が新思考外交をはじめて国連に協力するようになってから、国連の集団安全保障制度の本
来の機能が回復された。そのとき、湾岸戦争が勃発したが、これは国連の本来の手続きで
処理された。
470
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 89(図 9) 国連の集団安全保障制度の変化と改革
しかし、これから述べるようにソ連が崩壊したのちには、旧ソ連の同盟は解消されたが、
アメリカ側は旧ソ連の領分も一部取り込んで同盟政策を拡大し、アメリカ 1 極時代の覇権
主義を現出したので、再び国連の集団安全保障制度は機能しなくなってしまった。このと
きにアフガン戦争や(第 2 次)イラク戦争が起こったことはこれから述べる。
《冷戦後に急増した平和維持活動・平和執行活動》
1989 年に冷戦が終わったことから、安全保障理事会が本来の機能を回復した。冷戦後の大
きな特徴の一つは国連の再生であったといえよう(ソ連にかわったロシアが、あまり拒否
権を発動しなくなり、安保理の決議が成立しやすくなった)
。この冷戦終焉の前後から 1991
年のソ連崩壊までの数年間は、米ソの協調が実現した。
しかし、米ソ冷戦の終焉は、冷戦という厚い氷に閉ざされていた各国の不満を解凍させ
ることにもなった。冷戦時代に封印されていた多くの問題がいっせいに勃発し、国連はそ
の対応に追われた。
とくに、冷戦の終焉のころから一段と活発化したものに、国連平和維持活動(PKO)があ
った。これまでに送られた PKO は、表 15(表 17-2。P406)であったが、これを図示した
ものが図 90(図 17-7)である。アフリカ、中東が多いことがわかる。
PKO が初めて創設された 1948 年から 1978 年までに、
13 の PKO が送られた。
それから 1988
年までは 1 件もなかったのであるが、冷戦も終りに近づいた 1988 年からは、1998 年までの
10 年間で 34 の PKO が送られているのである。図 91(図 17-8)に国連の活動の規模を示し
ているが、1990 年から 1994 年の間に 16 件もの平和維持活動が承認されたことからも国連
の平和維持・平和執行活動がいかに急増したかが分かる。このように国連は世界の平和を
とりもどすために、縁の下の力持ち、地道な努力を重ねるようになった。
471
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 90(図 17-7) 国連平和維持活動(PKO)
図 91(図 17-8) 国連活動の規模の拡大
これは、1989 年 12 月の米ソ首脳会談で冷戦終結宣言が行われてからは、冷戦の下で抑圧
されてきた地域的な民族・宗教・領土紛争などが頻発するようになり、国連はこれらに対
応するために非政府機関と協力して国連平和維持活動に乗り出し、また、活動の規模や内
容も徐々に拡大・多様化して予防展開や平和執行などが提案されるようにもなった。
472
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たとえば、選挙監視活動である。最初の 40 年間においては非武装の軍事要員で編成する
停戦監視団、または軽武装の平和維持軍の活動が主要であったが、1989 年に国際連合ナミ
ビア独立支援グループ(UNTAG。表 15(表 17-2。P406)の 17 番目)の下で歴史上初めて文
民による選挙監視活動が実施された。ある国初の民主選挙が全般的に自由で公正に実施さ
れるよう、国際的な監視団や警察隊を派遣するのは、総じてより積極的な動きだった。こ
れ以後、選挙監視活動は多くなった。
このような民主化移行のプロセスは、中米だけでなく、東欧、中央アジア、東南アジア
の一部でも起きている。アンゴラ内戦(表 15(表 17-2)の 16、20)
、カンボジア内戦(表
15(表 17-2)の 25)
、ハイチでの平和維持活動・平和執行活動(表 15(表 17-2)の 32、
42,45、46)などである。ハイチについては、1990 年 12 月の国際連合ハイチ選挙監視団
(ONUVEH)から、10 年かかって、やっとハイチに対する国連の平和維持活動・平和執行活動
が完了する目途がついてきた。
(日本は国際平和協力法に基づき、1992 年の第 2 次アンゴラ監視団(UNAVEM II。表 15(表
17-2)の 20 番目)に選挙監視団として 3 人を派遣したのが始まりであった。以後、表 15
(表 17-2)の期間において 11 の PKO 等に要員を派遣している)
。
とにかく平和維持活動・平和執行活動には大変な手間ひまがかかるもので、国連は忍耐
強くそれを行なってきている。後述するようにアメリカはアフガニスタン、イラクを武力
攻撃し崩壊させたが、国連などによる国家再建活動は現在も続いている。国家を破壊する
のは 3 ヶ月でできるが、再建するのには 10 年かかる。アフガン、イラクはまだ再建された
とはいえないようだ(それどころか、ますます、泥沼化しつつある。覇権国家アメリカが
国家を壊し、国連が国家再建の下請けをしているようである)
。
このように冷戦の終了は、ソ連の協力もあって、国連が本来の機能を発揮しつつあり、
世界平和の見通しに明るいきざしが見え始めていた。
【11】超大国ソ連の崩壊と冷戦の終結
◇ゴルバチョフの改革とソ連崩壊
ゴルバチョフは、檜舞台に上がってまだ 6 年、世界という舞台でずいぶん多くの「新思考」
外交を語り、すいぶん多くのことをなしてきたが、彼の最終の舞台が迫ってきた。そのソ
連の最終舞台は彼にとって決してハッピーエンドではなかった。
ゴルバチョフは、1985 年に共産党書記長に就任し、ソ連国内では東欧の社会主義諸国民
主化の契機となったペレストロイカ(改革)とグラスノスチ(情報公開)を進め、政治・
経済・文化など多岐にわたる分野で合理化・民主化を行った。外交面ではそれまで 40 年以
上続いていた冷戦を、マルタ会談にて、就任して僅か 5 年目で終結させ軍縮を進めるなど、
世界平和に多大の貢献をした。
473
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国内政策でも、保守派を抑えて従来の制限主権論(ブレジネフ・ドクトリン)による強
圧的な東ヨーロッパ諸国への影響力行使とは大きく異なり、ハンガリー事件やプラハの春
で起こったソ連軍による民主化運動の弾圧はもう起こらないことを示した。
結局、1989 年をピークとする一連の東欧革命をもたらし、1990 年には東ドイツの西ドイ
ツへの統合(ドイツ再統一)まで実現することになった。これはゴルバチョフだけではで
きなかったが、ゴルバチョフがいなかったら実現していなかったことは確かであった。ゴ
ルバチョフはベルリンの壁崩壊前に当時の東ドイツの最高指導者ホーネッカーに対して国
内改革の遅れに警告を発する一方、壁崩壊後に急浮上した西ドイツによる東ドイツの吸収
合併論やそれに伴う旧東ドイツ領土への NATO 軍(アメリカ軍を含む)の展開には反対した
が、西ドイツのコール首相が示した巨額の対ソ経済支援を受け入れることで、ドイツ再統
一に承認を与えた。
ただし、これによりソ連は東ヨーロッパでの覇権を失い、各国からの撤退を強いられた
軍部や、生産縮小を強いられた軍産複合体の中にはゴルバチョフや外相シェワルナゼへの
反感が強まり、新思考外交を売国的と批判して、共産党内の保守派に接近した。共産党内
でも、ソ連国家における党の指導性が放棄されることに警戒感が強まり、従来は改革派、
あるいは中間派と見なされていたヤナーエフなども保守派としてゴルバチョフを圧迫する
ようになり、これがシェワルナゼの突然の辞任につながった。
共産党政権は 1917 年に誕生して以来、ソ連をなんとか一つにまとめつづけてきた。しか
し約 70 年の歳月をへたのちも、ソ連が 15 の共和国によって構成された複雑な多民族国家
であることに変わりはなかった。経済の破綻に刺激され、ソ連の各地で民族感情と地域感
情が一気に高まり、多くの国民が 1989 年には内戦勃発の可能性を口にするようになってい
た。その共和国のなかで早くから分離・独立を志向していたのが、ラトビア、エストニア、
リトアニアのバルト 3 国であった。またアゼルバイジャンとアルメニアでは、共和国内の
自治州の帰属をめぐって激しい衝突が起きていた。
連邦崩壊の兆候が次々に現れるなか、ゴルバチョフはなんとか政権の維持に成功し、1990
年 3 月には大統領制を導入して、みずからが初代(そして最後の)大統領に就任して、こ
こらでなんとか、おさめようと考えていたようである。同年にはノーベル平和賞を受賞し
た。しかし、いったん、火がつくと歴史はおさまらないものである。
その直後にリトアニア議会が 1939 年の併合を無効として独立を宣言し、その後間もなく
エストニアとラトビアも独立への「移行宣言」を行った。当初ゴルバチョフはリトアニアの
分離独立宣言に対して、完全に拒絶するのではなく、莫大な投資金の返還や国際的な港湾
都市クライペダの譲渡など無理な条件を突きつけ、それを満たせば認めると示唆した。し
かし、結果としてこうしたあいまいな対応が、ゴルバチョフにとって失脚への大きな一歩
となった。ゴルバチョフ自身も 1991 年 2 月にリトアニアの首都ヴィリニュスで発生した、
リトアニア独立(回復)派に対するソ連軍・治安警察による武力弾圧を承認した。これは
ゴルバチョフ唯一の汚点となった。
474
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
6 月以降、連邦の中核であるロシア共和国をはじめ、モルドバ、ウズベキスタン、トルク
メニスタン、タジキスタン、アルメニア、カザフスタン、キルギスタンなどが、次々と主権
を宣言し(独立は宣言しなかったが)、連邦解体への流れが一気に加速した。もうゴルバチ
ョフにもどうしようもなかった。
ソ連国内の噴出する民族主義を抑えることができず、保守派と改革派に国内の政治勢力
が分裂するなか、1991 年ソ連八月クーデターを招来し、結果的にはソ連共産党の一党独裁
体制とソ連邦そのものを終結に導くこととなった。
1991 年 8 月 19 日、共産党官僚によるクーデターが起き、ゴルバチョフはクリミアで軟禁
状態におかれた。これによって、ゴルバチョフの求心力は決定的に失墜し、代わって反ク
ーデター運動をリードして、クーデターを失敗に追い込んだ新生ロシアの大統領ボリス・
エリツィンが、その存在感を大きなものにした。
クリミアでの軟禁を解かれたゴルバチョフは、8 月 23 日、ロシア議会で今後のソヴィエ
ト連邦と党に関する政見演説を行ったが、議員達は彼の演説に耳を傾けることはなかった。
エリツィンはロシア領土内での共産党の活動を一時停止させるロシア大統領令を出した。
その時点では直ちに共産党を解散させることに消極的だったゴルバチョフも、まもなく流
れに抗しがたいことを悟り、24 日に、共産党書記長辞任と中央委員会解散の勧告を発表した。
8 月 28 日、ソ連最高会議はソ連共産党の活動を全面的に禁止し、ソ連共産党は国家党とし
ての歴史を終えた。茫然自失していた共産党は、その時点ではなんら抵抗することも出来
ず、自然崩壊に向かった。
8・19 クーデター終結後、ウクライナ・ソビエト社会主義共和国もソビエト連邦からの離
脱を国民投票で決定し、12 月 8 日に急遽行われたロシア共和国、白ロシア、ウクライナの
代表者による秘密会議においてベロヴェーシ合意が宣言され、3 ヶ国のソビエト連邦からの
離脱と国家共同体の創設が確認された。
12 月 21 日、カザフスタンのアルマアタ(アルマティ)において、グルジアと既に独立し
たバルト 3 国を除くロシアなどの 11(スラブ 3 国、中央アジア 5 国、アルメニア、アゼル
バイジャン、モルドバ)の共和国首脳が独立国家共同体(CIS)条約の調印やソ連解体を決
議したアルマアタ宣言を採択した。これによって、ソビエト連邦はその存在意義を完全に
喪失した。
こうした中で、1991 年 12 月 25 日 19 時の会見で、ゴルバチョフはソビエト連邦大統領の
辞任を表明し、辞任と同時にクレムリンに掲げられていたソビエト連邦の「鎌と鎚の赤旗」
も降ろされ、これに代わってロシア連邦の「白・青・赤の三色旗」が揚げられた。ここに
アメリカ合衆国と唯一互角に戦えると思われていた超大国ソビエト連邦の崩壊によって、
アメリカ合衆国は名実共に唯一の超大国となった。それに伴い、アメリカ合衆国による「1
極支配」と呼ばれる時代が本格的に始まった。
◇ソ連崩壊の原因
475
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ソ連およびソ連の支配圏全体が、第 2 次世界大戦後かなりの経済発展を達成し、その経
済的な裏付けがあって、スプートニクや宇宙探査、軍事兵器の強大化などでソ連の威力を
示すことができた。フルシチョフが引退したころには、ソ連はスターリン時代よりもはる
かに繁栄し、経済の基盤も広がっていて、実質的な成長はなお着々と進んでいた。
しかし、ソ連経済には深刻な欠陥が影を落とし始めた。それは経済成長率の長期的な低
落傾向であった。1959 年以来 2 桁を記録していた工業生産の成長率はだんだんと低下し、
1970 年代には 3 ないし 4%にまで下がって、なお低下し続けた。しかし、これはごく当然
のなりゆきだった。初期の目覚ましい経済成長率は、主として大量の労働力と資本が投入
されたため達成されたものだった。したがって、既存の労働力と資本が、軍隊や農業と競
いあって利用されつくしてしまうと、成長率が低下するのは当然であった。
第 1 の問題点はソ連は国民総生産の大きな部分を軍事に長期間、継続的に投入し過ぎて
いることであった(図 92(図 16-9)参照)
。
図 92(図 16-9) アメリカとソ連の軍事支出額の推移
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
ソ連の防衛費の総額は正確にはわからないが(それはソ連の計画立案者にもわからなか
っただろう)
、CIA は 1975 年に、ソ連の武器支出は以前の評価の 2 倍になり、国民総生産の
6%ないし 8%ではなく、11%ないし 13%を防衛費にあてていると発表した(アメリカの 2
倍近い比率)
。これは 1980 年代のレーガンの軍備拡張政策以降も変らず、そのためにソ連
の軍隊は民間経済に投入することができるはずの膨大な人的資源、科学者、機械、資本を
吸収し続けていたのである。
1980 年にはソ連の国民総生産はアメリカの半分であったから、もし、アメリカと軍事費
で互角に張り合うとしたら、国民総生産に対する軍事費の割合は 2 倍ということになる。
NATO との軍拡競争がその後も続き、ソ連の軍事支出の割合が当時の 14%から 2000 年まで
に 17%ないしそれ以上に増大するとすれば、機械製造あるいは金属加工用の工作機械のよ
476
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
うな設備がさらに多く軍事用にあてられ、産業の他の部門にまわす投資資金がなくなって
しまうことになる。
米ソの核軍拡競争で述べたように、1960 年代、70 年代、80 年代に米ソは熾烈な核軍拡競
争によって、図 82(図 16-14。P424)のように互角になったことは述べた。どちらの超
大国もこれ以外に大量の戦術核兵器も保有していた。
しかし、実際のところ、戦略核兵器による全面戦争が起こった場合、国際情勢における
力のバランスの変化の影響を計算したところで、北半球に住む全ての人間(おそらくは南
半球の住民も含めて)にとって意味がないだろう。もはやアメリカにもソ連にも自国を荒
廃させることなく相手だけを抹消できる保証がないのは明らかであった。とりわけ、両国
が保有する潜水艦発進の弾道ミサイルは水面下の艦艇に配備されているために探知が困難
なので、どちらにとっても敵国の全核兵器を一挙に抹消することは不可能である。
この事実と「核の冬」への恐れは、もはや政策決定者は核のボタンを押すことはできな
いだろう。といっていずれか(あるいは双方)の超大国が核兵器の保有を放棄することも
不可能であり、両国は核の膠着状態から抜け出せないことになってしまった。
もし、戦争という事態が生じたときには、両国の政治および軍事の指導者は、それを通
常戦争のレベルに「抑える」努力をするだろう(しかし、この論理も安心出来ることでは
ない。通常戦争で大敗するようになったときに、はたして、核のボタンに手をかけて脅迫
するようなことをしないかどうか、そしてその時何が起きるかは誰にもわからない)
。いず
れにしても米ソは(自分の方から)核のボタンを押すことはもはやなくなっているだろう
(軍事大国は通常兵器で勝てるなら核に手は出さないだろう。今後の問題は核保有の弱小
国が軍事大国と張り合ったとき、核保有の弱小国どうしが張り合ったときに危険性がたか
まる)
。
ということで、この問題は結局、通常の戦闘におけるハイテクノロジーの問題になって
いくと考えられた。しかし、通常兵器がソ連の軍事力の主たる手段(つまり、ソ連の政治
目的を達成するための主たる道具)となった場合、ソ連が有利になり、安心かといえばそ
うではなかった。たとえ、米ソの軍事バランス論で、ソ連がはるかに多くの航空機、戦車、
大砲、歩兵師団を保有しているという宣伝が行きわたっていることが本当だとしても、ア
メリカが 99%を破壊するハイテク技術を習得すれば、ソ連の通常の戦闘機や戦車、軍艦の
大部分を確実に破壊できるだけの技術上の優位をもつことになるので、ソ連の数の上での
優位など意味をなさなくなるということになる。
そうなると、ソ連は、レーザー、光学、スーパーコンピュータ、誘導システム、自動航
法における先端的テクノロジーを開発するために、より多くの投資をしなければならない
ことになる(これらの技術開発は、従来の兵器開発とちがって、はるかに広い科学の分野
にわたり、かつ基礎研究力も必要とする)。ハイテク軍事技術化が進めば、アメリカの「ス
マート」な戦場用兵器や高度な探知装置が、いわば一昔前の技術で量的に拡大しただけの
ソ連軍の数の上での優位を無効にする恐れがあった。スーパーコンピュータはソ連の暗号
477
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を解読して、潜水艦の位置を突きとめ、弾道ミサイルの速い動きを処理し、さらにはアメ
リカの核基地を保護するだろう。また、精密なレーダーやレーザー誘導制御技術によって、
敵の航空機や戦車や潜水艦や弾道ミサイルを探し出して破壊するだろうと思われた。
これにはソ連軍部も愕然とした。赤軍はもはやこの種の競争で勝つ自信はなかった。そ
れにソ連の伝統的な量の優位を脅かす潜在的な人口上の脅威(ロシア人の人口減少)が存
在していた。これによって人的資源の農業と産業への配分に困難が生じれば、長期的にみ
て兵士の徴募はさらに困難になるだろう。時間がたつにしたがって、ソ連がじり貧になる
のは確かだった。
また、通常戦争になれば長期戦になるであろう。そうなればそうなるほど、過去の大規
模な戦争と同様、やはり経済的な持久力となるのである。この想定を念頭におくと、ソ連
の国民総生産が世界の国民総生産の 12%にすぎない。あるいは、ワルシャワ条約の衛星国
をプラスしても 17%である。ソ連の国民総生産がアメリカや西ヨーロッパ諸国にはるかに
およばないだけでなく、日本にも追い越され、いずれは中国にも追いつかれることになる
ことは目に見えていた。
そしてソ連の生産力が 21 世紀初めには世界の第一級の生産力をもつ国々の 4 分の 1 ない
し 5 分の 1 になるだろう。そうなると第一級の軍事力を維持することすらできなくなるだ
ろう。これがまず、ソ連の第 1 の問題点であった。
第 2 の問題点はあいかわらぬ農業の問題であった。1 世紀前のロシアは世界最大の穀物輸
出国であったが、1970 年代以降、ソ連は数千万トンもの小麦やトウモロコシを輸入する世
界最大の輸入国になってしまった。政府は農業に多くの資源をまわした。それは全投資の
30%近くにのぼり(アメリカの場合は 5%)
、農業人口は全労働力の 20%以上(アメリカは
3%)であるにもかかわらず、平均的な生活水準は低下しつつあった。自国の農業生産の不
足をおぎなうために数十億ドルの外貨を投入して穀物や肉を輸入し、現在の水準を維持す
るために年 780 億ドルを農業に投資し、その上農産物の価格を支えるために 500 億ドルを
費やしていた。
ソ連の農業生産性はアメリカの 7 分の 1 であった。ソ連の方がアメリカより北にあり、
トウモロコシの栽培が難しく、小麦栽培地帯はアメリカよりもはるかに寒い冬をしのがな
ければならないなど不利な点があった。しかし、ソ連の農業生産の低下は地理的あるいは
気象条件だけによるものであるとは考えられていない。それよりはるかに大きな要因は、
農業の社会主義化であった。これも社会システムの問題であった。
スターリン時代にソ連は無理を押して強引に農業の集団化をしたが、この集産制がその
後ずっとソ連農業の非効率をもたらしていた。この制度は農民のやる気をなくさせている
ことは、個人経営農家が全耕地の 4%しか占めていないにもかかわらず、ソ連全体の農産物
生産の約 25%をあげていることからも明らかであった。
政府の莫大な農業投資は、大規模なプロジェクト(ダム、排水設備)にまわされ、農民
が必要としている納屋や最新式の小型トラクターにはまわってこなかった。こうした計画
478
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
や投資の決定はその分野にたずさわる人々ではなく、地域の指導者や政府の役人が行った。
無駄の多さは保存施設にも問題があり、年間を通じて利用できる道路が不足しているため
に、穀物、果物、野菜の収穫のおよそ 20%が腐り、保存、輸送、流通の不備によってジャ
ガイモの収穫の 50%が無駄になっている状態だった。
スターリンよりもっとひどいやり方をとっていた毛沢東の農業政策を鄧小平はあっさり
やめてしまった。昔のやり方に(つまり、人間自然のやり方に)返した。集産制から個人
経営の農業への大幅な改革(もとへ返すこと)を行ったら、問題はかなり解決したのであ
る。図 93(図 16-49)のように、中国の穀物生産は鄧小平改革のあと、うなぎ登りに上昇
したが、何もしなかったソ連はますます低下していった。
図 93(図 16-49) ソ連および中国の穀物生産(1950~84 年)
個人のやる気・意欲がいかに大事かがわかる。ソ連が集産制を維持したのは、集産制の
廃止は、ソ連の農業を運営している官僚と地域の指導者の権力の衰退を招き、それによっ
て他の全部門の政策決定にも影響がおよぶことになるからであった。また、個人経営農家
が大幅に増え、大きな民間市場が生まれて農産物価格が上昇すると、国民所得に占める農
民所得が増える一方で、都市の住民は打撃をこうむり、おそらくは工業投資にも悪影響が
およぶと考えたからであろうと推測されている。
つまり、ソ連を支配している共産党からすれば、たとえ食糧輸入に依存する割合が増え
るとしても、「社会主義的」集産制農業を維持するほうが、共産主義体制の失敗を認めて、
社会のきわめて大きな部分に対する現在の支配力を失うよりは好ましいこと(安全なこと)
と考えたのである。要するに国家のことよりも、自分たち為政者階級(共産党)の安泰(安
定)を願ったのである。
479
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
マルクスは、社会をきめるのはその下部構造(経済構造)であるといった。そのとおり
である。しかし、その結果できあがったソ連の上部構造(政治体制)は、自分らの利益の
ため、明白なるあやまちであることがわかっていても、下部構造、つまり農業の改革ひと
つできなかったのである。それは上部構造が独裁体制であったからである。
マルクスがいうように一時的にはマルクス経済体制が優れている場合もあるだろう。
1930 年代の大恐慌の時代、戦時・戦後の困難な時代にマル経的システムを利用することが
効率的な場合もあったことは確かである。しかし、我々は主義のために、経済学説のため
に生きているのではない。生きるために経済学説を利用するだけである。マル経も近経も
ケインズも組み合わせて使うべきである。ところが独裁者はそれをさせない。イデオロギ
ーの問題であるからと。世の中がどう変ろうと、環境がどうかわろうと自説を宗教のよう
に国民大衆に押しつける。ソ連(そしてそれから派生した毛沢東の中国)の共産主義(社
会主義)は、人類にとって壮大な社会実験であった。それは人類にとって大きな教訓を残
してくれた。「人間性には良い面と悪い面があるが、その人間性は簡単には変えられない。
その人間性に反する政策や社会システムは長続きがしない」ということを。
第 3 に、同じ理由から工業部門の改革も困難であった。ソ連は資源不足ではなかった、
資源はありあまっていた。ただ、無駄が多かった。足りなかったのは知恵だけだった。知
恵を出す人間はいた。しかし、知恵を出せば損をする社会システムになってしまっていた。
これは、とくに 1973 年の石油危機以降、ソ連工業のエネルギー効率の悪化からその弊害が
大きくなった。戦後初期の段階では、ソ連は鉄鋼、機械、化学肥料、セメント、石油など
でアメリカの生産を追い越したということで成功であったが、その後、重工業に関心が集
中しすぎて、消費者の要求や好みに応じることや市場の新しい需要に対応することができ
なくなってしまった。
「計画経済」のソ連では市場価格や消費者の要求を無視した生産の中
央集権化によって、多くの無駄な生産が行われるようになった。
石油危機以降は、西側諸国は省資源省エネルギーに努めたが、ソ連およびその衛星国は
石炭、石油、天然ガスが豊富だったこともあり、そのような努力が行われず、表 20(表 16
-15)のように、
「エネルギーの浪費」「鉄鋼の浪費」がきわだってきた。
表 20(表 16-15) 1,000 ドルの国内総生産をあげるのに要した石炭と鉄鋼(1979~80 年)
しかし、ソ連の石油生産は 1984 年,85 年に低下し、また、過去 10 年に石油採掘(天然
ガスも同じ)にかかるコストは 70%上昇した。そこで原子力発電所の建設が重要な課題とし
480
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
て緊急に進められることになり、それによって原子力発電の割合を 1990 年までに 10%から
20%に倍増する計画であったが、チェルノブイリ原子力発電所の惨事が起こった。今後新
たに安全装置をつけるために、この部門のコストが上がり、原子力発電の計画的発展のペ
ースが落ちることになった。いずれにしても、石油危機以降、エネルギー部門が相当の資
本(全産業投資の約 30%)を吸収しており、この割合が急激に増えつつあるという事態が
生じていた。
ゴルバチョフの報告によれば、
「ここ数年の石油、石炭、電力のへの投資の傾向がこのま
ま続けば、それは天然ガスに対する集中的な投資とあいまって、1981 年から 85 年までのソ
連の産業投入資金の増加分をほとんどすべて吸収してしまうだろう」ということになった。
それほど、エネルギー問題が他の分野に及ぼす影響は大きく、そこそこの経済成長を維持
するためだけでも、国民総生産に対するエネルギー部門のシェアを拡大させる必要があっ
た(ソ連崩壊後にわかったことであるが、重化学工業の公害も垂れ流しで、西側諸国とく
らべて何らの公害対策もほどこされていず、健康被害も甚大だった。ソ連がこの外部不経
済を内部化していれば、さらに生産コストは上昇していただろう)。
ソ連の重化学工業技術の体系は 1950 年代の技術のまま、量的拡大をはかっただけであっ
たので、エネルギー効率も公害対策もほどこされないままであったのである(これがソ連
が崩壊してロシアになっても簡単には欧米技術に追いつけない理由である。2000 年代に入
って再び石油・天然ガスが値上がりしてプーチンが再び軍事力に力をいれればソ連の轍を
踏むことになる)
。
第 4 にこのような問題の解決にはハイテク技術を取入れる必要があった。しかし、ソ連
の軍事技術は初期の宇宙技術以来、進歩が止まってしまい、ロボット工学、スーパーコン
ピュータ、レーザー、光学、遠距離通信などハイテク部門が西欧に著しく遅れをとってし
まったことは先に述べたとおりである。これらの技術は、西欧では確かに初期の段階は軍
事技術として進歩したが、その後は民需技術として創意工夫が重ねられ、また、膨大な民
間の需要に支えられてコストも下がり、民間では当たり前に使用されるようになっていた。
コンピュータやワードプロセッサ、遠距離通信などは知識集約的な産業であったから、
自由な研究が奨励され、新しい知識や仮説をできるだけ広範囲に交換することによっての
み進歩する。ソ連のように科学者や学者が個人的に複写機を使用することも禁じているよ
うな秘密主義で官僚的な中央集権体制ではけっして進歩することはなかった。このような
国では警察の管理や検閲が大幅に緩和されないかぎり、1970 年代、80 年代に出現したワー
ドプロセッサやコンピュータ・ネットワーク、電子メールなど西欧社会では当たり前のも
のがソ連社会では広く使われることは考えられなかったのである。
(中国の体制が今後どうなるかである。今までは欧米日先進国の技術を取り入れただけで
あったから(欧米日の企業進出もあったから)ここまで発展したが、はたして、中国の現
政治体制で今後も同じような発展ができるかどうか、結局、中国も今後、統制を強めてい
って、ソ連と同じように衰退してしまうか)
。
481
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
結局、ソ連はハイテク製品は輸入に頼らざるをえなくなった。石油掘削機、圧延鋼、パ
イプ、コンピュータ、工作機械(不幸にも日本の東芝機械のココム事件もこの一環で起こ
った)
、化学・プラスチック産業の設備などであった。これらの機械や製品は当時の日本で
はなんともない製品だった。ところが、当時のソ連では、輸入に頼るということはそのテ
クノロジーの消化に時間がかかり、西欧に遅れるばかりでなく利用効率も悪くなる。その
上、何よりもこうしたテクノロジーを買うための資金の不足が問題だった。
以前にはコメコン諸国から輸入することもできたが、今や東ヨーロッパの製品も西側の
ものに劣るようになっていたので問題の解決にはならなかった。ソ連は西欧からの輸入に
対してバーター若しくは余剰石油の直接販売で支払うのが普通だったが、1980 年代は石油
の国際価格が大幅に下がり始めて、それもできなくなった。ソ連が石油をはじめとする原
料からあげる収益が低下する一方で、さまざまな輸入品の価格はいぜんとして高いままで
あった。こうしたすべての条件があいまって、投資にまわす金額にこと欠くようになった
のである。
第 5 にこれらの経済的な行き詰まりは、生活の向上がはかられないどころか逆に低下に
つながっていった。その端的なあらわれは、平均寿命が短くなったことと乳児死亡率の上
昇であった。この傾向はとくに 1970 年代から始まった。病院と医療全般の質がしだいに低
下したこと、下水設備や公衆衛生の水準の低さ、アルコール依存症の激増などによって、
ソ連では男性の(とりわけ労働者階級の)死亡率が高くなった。当時のソ連の男子の平均
的な寿命は 60 歳であり、1960 年代半ばよりも 6 年短くなった。また、乳児死亡率の上昇も
深刻な問題であり(工業国で乳児死亡率の上昇ががみられたのはソ連だけであった)
、アメ
リカにくらべると 3 倍以上にのぼっていた(ソ連には膨大な数の医者がいるということで
あったが)
。
おそらく都市化や、職場への女性の進出、劣悪な住宅条件などのマイナス要因によって、
とくにロシア人のあいだで出生率がしだいに低下して、ロシア人男性の人口がほとんど増
加しなくなった(寿命が短くなって、出生率が急激に低下しているので)
。
このため、出産の奨励、アルコール依存症を警告する大々的なキャンペーン、高齢の工
場労働者の慰留といった運動が行われたが、この国がなによりも必要としているのは、保
健や社会保障にたずさわる人々が増えることであった。とくに人口が高齢化するにつれて、
それがいっそう必要になってきた。しかし、ここでもまた支出の優先順位という問題にぶ
つかる。こと欠く国家財政のどこから医療福祉費用を捻出することができるというのだろ
う。
このように当時、ソ連が直面していた問題―軍事費の増大、農業部門の非効率性、成長
率の低下、エネルギー効率の悪化、環境の悪化、高齢化と短命化などなど、ゴルバチョフ
はソ連の社会システムにメスをいれ、それを彼が描いていた方向に変えたかったのである
(ゴルバチョフは政治改革と経済改革を一度に行おうとした)。中国では鄧小平が 10 年前
(1979 年)に改革開放(経済改革)を行い、とりあえず成功したのである(後述するよう
482
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
に中国には、いずれもう一つの難関(政治改革)がたぶん一世代分、つまり 30 年後(つま
り 2010 年頃)に待ちうけていると思われる)
。
しかし、ソ連では(いつの時代でもそうだったが)大きな壁が立ちはだかった。それは
共産党の幹部と官僚をはじめとするエリートたちの強固な地位だった。彼らは(たとえア
メリカその他の後塵を拝しても、その地位に応じて)かずかずの特権を享受してソ連の日
常生活の困難さから免れており、権力と影響力を独占していた。
西側のように、計画と価格決定システムを分権化し、農民を共同体による管理から解放
し、工場長により大きな権限を与え、共産党への忠誠心よりも個人の創意を重視し、時代
遅れの工場を閉鎖し、質の悪い製品を受け取らないようにし、情報を現在よりもはるかに
自由に流通させることは、権力をもつ人々(支配階級、つまり共産党階級)にとっては、
ロシア革命以来、自分たちの1~3 代前の先祖が営々と築いてきた特権と地位を自ら放棄し、
社会が生み出す富を自由化・平等化することであり、それは共産党員にはとてもできない
ことであった。
マルクスが唯物史観で思い至らなかった最大の問題点は、人類はいったん為政者階級に
つくとその地位(安定性)を未来永劫に保持しようとする慣性の法則(人間がもつ性)が
働くということであった(人間がもつ最大の欲望は「統治すること」であり、
「統治されな
いこと」であることは述べた)
。
ロシア革命そのものが階級をなくすことを目的にしていたが、革命家の子孫がそのまま
特権階級にいすわってしまったのである。それを変える社会システムが組み込まれていな
かったのである。ゴルバチョフはそれに改革の手を入れたが手遅れで、結局、崩壊させて
しまうことになったのである。この超大国・ソ連の崩壊の原因となった事象は、今後、地
球上に現れるどの超大国にも起きうることであろう。
いずれにしても、ソ連の崩壊によって 20 世紀後半の大半をかけて世界を舞台に争われた
米ソ冷戦は終わった。
◇米ソ周辺国で多くの血が流された冷戦
1945 年 7 月のアメリカの核保有、そしてヒロシマ、ナガサキに投下された原爆は、対ソ
警告の意味も持っていた。ポツダムから帰国後、スターリンはただちに核施設アルザマス
16 の建設を急がせ、1946 年には施設を完成させた。そして 1949 年には、カザフスタンの
セミパラチンスク実験場で、ソ連最初の核爆弾 RDS-1 の爆発実験を成功させた。
以後、米ソによる核をめぐる対立がはじまったが、これは必然的というわけではなかっ
た。たとえば、1945 年 9 月、アメリカの陸軍長官スティムソン(ルーズベルトのもとで原
爆開発の最高責任者であり、トルーマンが日本への原爆投下を決定するのに大きな役割を
はたしたことは述べた)は、トルーマン大統領に手紙を送り、核の優位は長続きせずソ連
が早晩核を有するのは避けがたい、したがって、核の問題で、
「協力と信頼にたたなければ、
この武器をめぐって米英ブロックとソ連の対立が生じる、否その競争はすでに始まってい
る」と、ソ連との信頼の醸成と和解を進めるよう進言していた。しかし、トルーマンは、
483
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この提案を却下した。そしてスターリンは第 2 次世界大戦後も軍事政策をいささかも変え
なかったし、米ソ核対立の冷戦に突き進んでいった。
それから 45 年、冷戦は、それまでのどの世界大戦より長期にわたった。もっともそれは
米ソ直接の戦闘をともなうものではなかった。とくに 1953 年 3 月、世界戦争は不可避とみ
ていたスターリンの死後、ソ連の新指導部は「平和共存」をとなえ、脅威は間接的な、象
徴的なものとなった。
ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれた第 2 次世界大戦の赤軍の戦死者数は 867 万人であり、
民間人を含めた総犠牲者数は、2634 万人であったといわれているが(1990 年にソ連が公表
した数字)
、戦後の冷戦期には核による抑止が働いたのかソ連軍が直接関わった戦争による
赤軍の戦死者数はアフガニスタン戦争(1979~89 年)の 1 万 4751 人ぐらいであった(表
21(表 16-13)参照)
。
しかし、米ソの周辺国では多くの熱い戦争が繰り広げられ、多くの血が流されたことは
縷々述べてきたことである(表 21(表 16-13)において、ソ連がかかわった戦争でソ連以
外の共産主義国あるいは社会主義国がどれだけの死傷者を出したかはわからない)。
表 21(表 16-13) 赤軍の戦死者数
Grif Sekretnosti snyat, Moscow,1993.p407
一方、アメリカの方であるが、冷戦の発端でも述べたように、この冷戦はトルーマン・
ドクトリンによるソ連陣営包囲網の構築ではじまったように、絶えずアメリカ陣営が攻勢
であり、ソ連陣営が受け身であった。確かに朝鮮戦争は北朝鮮の侵略からはじまったが、
アメリカ陣営も反撃して,38 度線を突破して北朝鮮を北端に追い詰め、これによって南北
統一を武力によって成し遂げようとしたことによって、国連軍の範疇を超えてしまって(自
衛権は攻撃があった場合、その攻撃の程度を超えてはならないことは述べた)、中国軍の介
入を招き、今日にいたるまで解決の目途はたっていない。この間に南北朝鮮において数百
万人の死傷者が出たことは述べた。
また、アメリカはドミノ理論によって、ベトナム独立問題に介入して、これでもベトナ
ム人民に数百万人の死傷者を出させて、アメリカは逃げるようにして帰ってしまった。そ
484
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の他、アメリカはカリブ海諸国、アフリカ諸国、中南米諸国、東南アジア、中東などでも
共産主義の浸透を防止するという名目のもとに多くの地域で軍事工作、あるいは軍事介入
を行ってきた。
この米ソ冷戦は、資本主義と社会主義国との紛争、第 3 世界を中心とする脱植民地化と
革命、経済体制をめぐる競争、イデオロギー対立と核の脅威など、世界規模で展開された
戦争であった。地理的に見ても、それまでの世界大戦よりもはるかにグローバルな戦争で
あった。じっさい、韓国兵がアルジェリア兵とともにベトナムで戦った一方で、キューバ
兵はアンゴラで革命派を国際的に支援していた。
《世界的核システムを残して終った米ソ冷戦》
こうして米ソは科学技術を競いながら、核戦争や直接対決だけは回避しながら、冷戦を
継続していった。核抑止という考え方が平和をもたらしたのだという説(核抑止論)があ
るが、実際は世界にはりめぐらされた核システムの巨大な破壊力そのものに人類はおびえ
ていたというほうが真実に近い。冷戦の立役者ダレス(国連憲章第 51 条の集団的自衛権の
挿入を画策したことは述べた)ですら 1950 年代半ば、アイゼンハワー大統領あての覚書で
「原子力は 1 国の軍事的利用にゆだねられるには巨大すぎる」と本音を述べていた。
核システムが主として米ソによってコントロールされている間はゲームは読みやすく、
核抑止論も一理あるように思えたが、ゲームの相手が現在のように 10 人(10 ヶ国)近くに
なると、核戦争勃発の確率は格段に高まってくる。時の為政者はこのように無責任に人類
の生存にかかわる問題を先送りしてしまった。「創造と模倣・伝播の原理」で核兵器は伝播
してゲームの参加者はコントロールできないほど増えてしまう。参加者が少数のときにル
ール、つまり、核禁止の社会システムをつくっておけば、以後の者はそれに従わざるを得
ないようになる。そのルール作りは国連の場しかなかったのだが。
米ソ冷戦はこの巨大な世界的核システムという、やっかいな置き土産を人類に残したま
まで終焉した。現在のところ、この人類世界に組み込まれた核システムを完全に廃棄する
目途はまったく立っていない。これから人類ははたしてこの核システムをかかえてどこま
で生存していけるのか、その見通しもまったくない。
米ソ冷戦は、東西双方とも大きな負担となった。1950~90 年代にかけて、全世界の軍事
支出は 20 兆ドルを超えたとの推測がある。軍需関連産業に、6000 万~8000 万人が従事し、
世界の学者・技師の 2 割以上が関与していたといわれる。1997 年 1 月の『エコノミスト』
誌は、1940~95 年の間の核開発の総費用だけで、4 兆ドルかかったといっている。
第 11 章 冷戦後(アメリカ 1 極時代)の戦争
【1】冷戦後(1989~2010 年)の戦争
1991 年末にソ連が崩壊した後は、文字通りアメリカ 1 極の覇権主義が台頭して、アフガ
ン戦争やイラク戦争が起き、世界は再び戦争やテロが横行する不安定な時代に入っていっ
た。
485
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この冷戦後の戦争・紛争は以下のとおりである(☆印は『自然の叡智 人類の叡智』に
記したもの。赤印はアメリカが関係した戦争・紛争である)
。
【冷戦後(1989~2011年)の戦争・紛争】
☆1989年~1990年 - エチオピア内戦
☆1989年~1996年 - リベリア内戦
☆1990年~1994年 - ルワンダ紛争
☆1990年~1991年 - 湾岸戦争
☆1991年~2001年 - シエラレオネ紛争
☆1991年~2000年 - ユーゴスラビア紛争
(1991年 - 十日間戦争(スロベニア独立戦争)。1991年~1995年 - クロアチア戦争。1992
年~1995年 - ボスニア紛争。1999年~2000年 - コソボ紛争。2001年 - マケドニア紛争)
1991年~2001年 - ジブチ内戦
☆1991年~(継続) - ソマリア内戦
1991年~(継続) - カザマンス紛争(セネガルのカザマンス地方の独立戦争)
1992年~(継続) - オセチア・イングーシ紛争
1992年~1994年 - アブハジア紛争
☆1992年~(継続)- アルジェリア紛争
☆1994年
- イエメン内戦
☆1994年~1996年 - 第1次チェチェン紛争
1995年~1998年 - ハニーシュ群島紛争(エリトリアとイエメンの間で行われた領土紛
争)
☆1997年~2000年 - エチオピア・エリトリア国境紛争
☆1998年
- 東チモール紛争
☆1998年~(継続)- コンゴ民主共和国内戦
1998年~2001年 - ポソ宗教戦争(インドネシア中部のポソで起こった宗教戦争)
☆1999年~2009年 - 第2次チェチェン紛争
1999年
- カールギール紛争(インドとパキスタンの紛争)
2000年~(継続)- インドネシア紛争
☆2001年~(継続) - アメリカのアフガニスタン侵攻
2001年~(継続) - パキスタン紛争(パキスタン連邦直轄部族地域に浸透したタリバン
勢力との間で紛争が始まり、現在も続いている(ワジリスタン紛争)
)
☆2002年~2003年 - コートジボワール内戦(軍機構改革で退役を迫られた不満軍人らによ
る反乱軍「コートジボワール愛国運動」が、主要都市で蜂起し、フランスは自国民らの保
護を目的に国軍を派遣した)
☆2003年
- リベリア内戦(2003年、反政府勢力「リベリア民主和解連合」と「リ
486
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ベリア民主運動」が蜂起し、首都へ侵攻し、政府と停戦合意した)
☆2003年~2010年 - イラク戦争
☆2003年~(継続) - ダルフール紛争(スーダン西部のダルフール地方でアラブ系の民兵
が地域の非アラブ系住民の大規模な虐殺や村落の破壊を行なっている)
2004年~(継続) - サリン紛争(ナイジェリアのイスラム教の北部とキリスト教の南部
との紛争)
2004年~(継続) - タイ紛争(タクシン派の反独裁民主戦線(UDD)と反タクシン派の
民主市民連合(PAD)が対立)
☆2004年~(継続) - ワジリスタン紛争(パキスタン北西部のワジリスタンでのタリバン、
アルカイダとパキスタン政府軍、アメリカ軍との戦い)
☆2006年
- 東チモール内乱
☆2006年
- イスラエルのガザ侵攻・レバノン侵攻
☆2006年
- エチオピアのソマリア侵攻
☆2006年~2009年 - スリランカ内戦
☆2008年
- 第二次南オセチア紛争(グルジア紛争)
☆2008年~2009年 - イスラエルのガザ紛争
☆2011年~(継続) - シリア内戦
【2】唯一の覇権国家となった超大国アメリカ
《民主国家でも安心はできない》
世界で最初の民主国家はアメリカであった。1776 年、トマス・ペインが『コモン・セン
ス(常識)
』
(1776 年刊)で、どこもが弾圧に満ち溢れているこの世界で(当時は世界中が
専制独裁国家であった)
、人類の唯一の避難所―アメリカが独立するという考えは全くもは
やコモン・センスであるという言葉に奮い立たされて独立戦争に踏み切ったアメリカは、
長い間、世界の民主主義の砦として尊敬されてきた。第 1 次世界大戦にも、第 2 次世界大
戦にも多くの兵士と大量の軍需品を連合国側に送り、帝国主義の独裁国家群を打ち破るの
に大きく貢献した。
第 1 次世界大戦後、世界の平和をめざす機関として国際連盟を提唱したのはアメリカの
ウィルソン大統領であり、1928 年の不戦条約を提唱したのもアメリカの国務長官フラン
ク・ケロッグ(とフランスの外務大臣ブリアン)
、そして第 2 次世界大戦後、国際連盟を改
善して国際連合を提唱したのも、アメリカのルーズベルト大統領と国務長官コーデル・ハ
ルだった。アメリカには、世界大戦という悲惨な戦争を二度も目の当たりにして、カント
の『永遠平和のために』を具体的な形にしようとする偉大な政治家が相次いで現れたので
ある。このようにアメリカには民主主義の本家本元であり、長い間、世界の人々の尊敬を
集めてきた国だった。
それでは第 2 次世界大戦後の 70 年間で、最も多く戦争し、最も多く国連憲章違反を繰り
487
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
返した国はどこだろうか。
それも、図 94(図 8)のように、実はアメリカであった。この図で、赤印のものはアメ
リカが直接関わった戦争・紛争、青印のものはソ連が直接関わった戦争・紛争を示してい
る。
図 94(図 8) 第 2 次世界大戦後の戦争
《第 2 次世界大戦後のアメリカの戦争》
第 2 次世界大戦後、アメリカは最も多くの戦争を行った。アメリカは建国以来 235 年間
で 41 回(5 年に 1 回)の戦争を行っているが、第 2 次世界大戦後の 68 年間で図 94(図 8)
のように 31 回の戦争・武力行使を行っている(2 年に 1 回。前述したように国連憲章は自
衛以外の戦争・武力行使を禁止している。2 年に 1 回の割合でアメリカに戦争・武力行使を
しかけた国があったのか。実は超大国アメリカに戦争をしかけたのは戦前の日本しか、ま
だない。すべてアメリカからしかけている)
。
アメリカは、第 2 次世界大戦終結後から冷戦終結までの時期も、冷戦終結後からも、戦
争や武力行使を頻繁に繰り返してきた。覇権国のゆえんである。また、アメリカ合衆国憲
法で「議会による宣戦布告」を義務付けながら、第 2 次世界大戦の対日・対独を最後に、「議
会による宣戦布告」が実行された戦争はない。あとで国際憲章違反を問われないように宣戦
布告はしなくなったのである。
第 2 次世界大戦終結・国連設立以後のアメリカの戦争・武力行使の事例は前述のように
31 件あるが(図 94(図 8)参照)
、このうち国連安保理の承認がある戦争・武力行使は、1950
~1953 年の朝鮮戦争(ソ連が欠席で安保理決議が成立した変則的なものであったが)
、1991
年の湾岸戦争(第 1 次イラク戦争)
、1992~1994 年のソマリアへの PKF の派遣、1994 年の
ハイチへの PKF の派遣、2003 年のリベリアへの PKF の派遣、2003 年のハイチへの PKF の派
遣であり(以上 6 件)
、それ以外の 25 件は国連安保理の承認がない戦争・武力行使であっ
た。
(PKF の 4 件は当然国連の要請によるもので合法的。前述 2 件は国連の決議による制裁
行動。あとの 25 件は国連のいう「自衛」戦争(憲章第 51 条のように攻撃を受けた場合だけ
反撃できる)ではなかった)
。
つまり、他の 25 件、81%はすべて自分から攻撃をかけた国連憲章違反であった。
488
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
(◎国連の制裁行動と PKO、つまり合法的な 6 件)
《冷戦期》
◎①1950 年 6 月~1953 年 7 月、朝鮮戦争
②1858 年 7 月~1958 年 10 月、1958 年のレバノン派兵
③1961 年 4 月、キューバ侵攻・ピッグス湾事件
④1961 年 11 月~1973 年 3 月、ベトナム戦争
⑤1965 年 4 月 ~1966 年 7 月、ドミニカ共和国派兵
⑥1970 年 4 月~1970 年 6 月、カンボジア侵攻
⑦1971 年 2 月~1970 年 6 月、ラオス侵攻
⑧1982 年 8 月~1984 年 2 月、レバノン派兵
⑨1983 年 9 月~1984 年 4 月、ニカラグア空爆(国際司法裁判所で国連憲章違反の判決)
⑩1983 年 10 月、グレナダ侵攻
⑪1986 年 4 月、リビア空爆
⑫1988 年 7 月、イラン航空機撃墜事件
⑬1989 年 12 月、パナマ侵攻
◎⑭1991 年 1 月~1991 年 3 月、湾岸戦争
◎⑮1992 年 12 月~1994 年 3 月、ソマリア派兵(国連の PKF の派遣)
⑯1993 年 1 月、イラク空爆
⑰1993 年 6 月、イラク空爆。
◎⑱1994 年 9 月~1995 年 3 月、ハイチ派兵(国連の PKF の派遣)
⑲1995 年 8 月~1995 年 9 月、ボスニア・ヘルツェゴビナ空爆
⑳1996 年 9 月、イラク空爆
(21)1998 年 8 月、スーダン空爆
(22)1998 年 8 月、アフガニスタン空爆
(23)1998 年 12 月、イラク空爆
(24)1999 年 3 月、コソボ空爆
(25)2001 年 2 月、イラク空爆
(26)2001 年 10 月 ~現在も継続中、アフガニスタン戦争
(27)2003 年 3 月~、イラク戦争
(28)2003 年 4 月、イラクの占領統治開始。
◎(29)2003 年 2 月~2003 年 6 月、2003 年のハイチ派兵(国連の PKF の派遣)
◎(28)2003 年 8 月~2003 年 9 月、リベリア派兵(国連の PKF の派遣)
(30)2007 年 1 月、ソマリア空爆
(31)2011 年 3 月 、リビア攻撃
アメリカは外交政策において、アメリカ政府・議会の多数派の目的と、政治的、経済的、
軍事的な利益を追求することに都合が良いと判断した場合には、非民主・独裁政権を支援
489
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
することもあった(現在もそうしている)。アメリカ政府は武力行使の目的として、自由や
民主主義をかかげているが、実際には本質的な目的を隠蔽するための偽装であるとか、ま
たは、根本的な目的に対する派生的・従属的な目的である場合が多い。
《戦争のない世界―覇権主義による平和とカント的平和論》
戦争のない世界を構築する考えには、大きく言って 2 つの流れがあったと述べた。
人類の歴史でも何度となく実現したことのある大帝国の覇権主義を発展させた(現代化
した)覇権国の統治による世界平和の実現という考え方とカントが述べた『永遠平和のた
めに』を発展させたカント的平和論の世界である。
このカント的平和論についてはピエール、ルソーなどの思想を踏んで 200 年ほど前にカ
ントが述べたことであり、その流れは国際連盟、不戦条約、国際連合などの形で実現して
きていることは述べた。人類の普遍的な平和への願いを試行錯誤しながら、具体的な社会
システムにやっと仕上げたものだった。
しかし、第 2 次世界大戦を勝利に導いたアメリカでは、また、人類のもつ宿弊ともいう
べき覇権国が世界を統治するという覇権主義が支配するようになって、国連の集団安全保
障制度という戦争防止の機能をないがしろにするようになったことは述べた(もちろん、
ソ連の拒否権発動の連発は問題であったが、アメリカがその気になれば、国連のそのよう
な事態を改善する方法はあったはずである。戦後のアメリカ自身が覇権主義を求めるよう
に動いていったことは確かである)
。つまり、アメリカが自身の意志で現代の覇権国家にな
って、国連を形骸化してしまったのである。それが、覇権主義がもつ魔力である。
《
「覇権主義」とは》
歴史的に大国は幾度となく現れたことは『自然の叡智
人類の叡智』で述べた通りであ
る。古代ではペルシア帝国やローマ帝国、中世では中国の歴代の王朝、モンゴル帝国、イ
スラム帝国などがあり、近世でもヨーロッパの多くの絶対王政、植民地時代から帝国主義
時代の欧米列強などがあった。
これらの世界列強の「世界統治」についての歴史的な認識は「覇権主義」であった。覇
権あるいはヘゲモニーとは、特定の人物または集団が長期にわたってほとんど不動とも思
われる地位あるいは権力を掌握し、それによる地域あるいは国家、あるいは同盟を結んだ
国家群の統治をすることを覇権統治という。
古代の典型的な例として古代中国、古代ローマなどがある。但し、覇権を得る過程は、
いわゆる既定路線や全体的同意によるものではなく、相対的に有利な立場にある者が武力、
権力、財力などの力(power)の行使によってその敵対的立場にある者を制し、勝利あるいは
事実上の最優位の立場を獲得することによって覇権が得られる。
覇権主義には覇権安定論という説がある。これはアメリカの歴史学者・経済学者のチャ
ールズ・キンドルバーガー(1910~2003 年)によって発表され、ロバート・ギルピンによ
って確立された理論である。
覇権安定論は、ひとつの国民国家が世界的な支配的大国、すなわち覇権国であるとき、
490
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国際システムが安定するという説である。外交、強制力、説得などを通じて覇権国がリー
ダーシップを行使するとき、実際には「パワー(軍事力)の優位性」を行使しているので
ある。
覇権主義には、覇権循環論という説もある。アメリカの政治学者ジョージ・モデルスキ
ー(1926 年~)によって唱えられた理論である。概ね 16 世紀以降、世界の政治・経済・軍
事などの覇権はある特定の大国によりその時代が担われ、その地位の循環を繰り返すとす
る。この世界大国は 16 世紀のポルトガル、17 世紀のオランダ、18 世紀と 19 世紀の大英帝
国、20 世紀のアメリカ合衆国といった具合に 2 世紀連続してその地位を務めた大英帝国を
例外とし、大体 1 世紀で交代されるものとされた。
そして、その覇権主義の時代にも、必ずその覇権に異議を唱え敵対する勢力があり(そ
れぞれスペイン、フランス、ドイツ、ソ連などであった)
、新興大国が既存の世界大国に反
旗を翻し世界の不安定性が増した際に決まって世界戦争が起こったという。
覇権国としての国家の能力を考えるとき、三つの属性が一般に必要とされる。
第一に、覇権国は巨大で成長する経済を持っていることが絶対的に必要である。
第二に、通常、すくなくとも主導的経済あるいは技術部門の一つにおいて圧倒的な優位が
必要とされる。
第三に、覇権国は政治的強さ、つまり強力な軍事力を持たなくてはならない。政治的強さ
は遠方展開可能な軍事力によって支えられる。優れた海軍、あるいは空軍が必要とされる。
《覇権国家になったアメリカ》
このような条件を満たす国がまさに第 2 次世界大戦後のアメリカであったという。戦前
の覇権国家イギリスからアメリカは完全に覇権を奪い、覇権国家になったことは確かであ
る。ただ、戦後、同じく超大国になったソ連もアメリカと覇権を争い、米ソ冷戦時代には
世界を 2 分する勢いだった。しかし、ソ連はアメリカに対抗しきれず、1991 年に崩壊し、
アメリカが単独で世界の超大国になり、名実ともにアメリカは 1 強の覇権国家になった。
過去の世界の歴史を述べてきたが、時代時代に覇権を握ったものが、その世界に影響力
を与えてきたという実態があり、国際連合の設立にあたって、イギリスは(チャーチルの
考えであったが)そのようなことを考慮に入れて国際組織をつくろうと提案した。
それに対し、アメリカは(ルーズベルトの考えであったが)
、特定国が覇権をもつ覇権論
的な国際組織を斥けて、世界を構成するすべての国に平等の主権を認めるカント的平和論
の世界を構想し(ルーズベルトはそれが人類の普遍的な平和への道であると考えたのであ
る)
、国際連合を提案したのである。これは理想を求めるウィルソンがカント的平和論を下
敷きに国際連盟をつくって、レールを引いていたので、ルーズベルトはその路線を引き継
ぎ、国際連盟を改革して、不戦条約も取り入れて、より強力な国際連合を作ったのである
(人類がたどってきた道は、すべて前人の社会システムの良い点を残し、悪いところを改
革して、少しずつ社会システムを積み上げてきたと『自然の叡智
べてきたところである)
。
491
人類の叡智』で縷々述
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ところが、ルーズベルトの後継者たちは、台頭してきたソ連に対抗するために、あるい
は人類の宿弊である覇権主義がもつ誘惑(経済力・軍事力があれば覇権を握って、思うま
まに世界を動かしたいという欲望)に負けたのか、国連を形骸化してしまうことになった。
(古来、まぎれもない動物の一種である人間の欲望の最大のものは、
「人を支配(統治)す
ること」であることは述べた。それを握れば食欲・性欲・富裕欲・名誉欲・・・人間の欲
望のあらゆるものが満たされるからである。そして、古来、人間が避けなければならない
最大のものが「人に支配(統治)されること」であると述べてきた。その解決策として人
類の叡智が考え出した解答が「自分で支配し、また、支配されること、つまり、民主主義」
であった。
「民主主義」に対立するのが「覇権主義」であることも述べた)
。
この冷戦は体制の選択(資本主義か共産主義か)とも言われたが、終ってみるとそれは
大義名分だけで、結局、数百年間続いてきた列強の覇権争いと同じものであった。このた
め国連も米ソ冷戦の最高の論戦の場に様変わりしてしまった。もっとも問題であることは、
国連憲章第 51 条の集団的自衛ということが、米ソによって自陣営に都合いいように解釈さ
れて、アメリカとソ連を中心にして(アメリカが攻勢でソ連が受け身であったが)各自の
同盟的な集団的安全保障条約網を張り巡らし、国際連合の集団安全保障制度の内部を 2 同
盟国群で巣くってしまったのである。人類の宿弊である覇権国を中心とする同盟主義に返
ってしまったのである。
《何故、アメリカは覇権国家になったか》
第 2 次世界大戦後、戦前の欧米列強の中で、敗戦国(独、日、伊)は勿論、戦勝国もヨ
ーロッパ勢(英、仏)は戦争で疲弊して、列強の地位から滑り落ちた。米ソの超大国の中
で,ソ連は戦勝国になったが、熾烈な独ソ戦で国土が荒廃し、多くの戦傷者を出して、敗
戦国並みに疲弊していた。唯一アメリカは国土が戦場にならず、戦時中、連合国側の軍需
廠として繁栄し、戦後も膨大な軍備を温存していた。このためアメリカは戦前からの列強
的体質がそのまま,戦後にも継承されていた。
戦後、直ちに米ソの冷戦がはじまると、米軍は広大な占領地にとどまり、対共産圏に対
する防備という名目で、内外に多くの米軍基地を設置し、軍産複合体を形成していった。
軍産複合体(Military-industrial complex, MIC)とは、軍需産業を中心とした私企業
と軍隊、および政府機関が形成する政治的・経済的・軍事的な勢力の連合体を指す概念で
ある。この概念は特にアメリカに言及する際に用いられ、1961 年 1 月、アイゼンハワー大
統領が退任演説において、軍産複合体の存在を指摘し、それが国家・社会に過剰な影響力
を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事的な決定に影響を与える可能性を
告発したことにより、一般的に認識されるようになった。
軍産複合体は、人類が組織的な戦争を始めたときから、大なり小なり存在していた。図
11(図 10-41。P37)のエジプト中王国時代(紀元前 2040~1782 年)の壁画では、職人が
弓と矢をつくっている。このように、弓矢、楯、戦車の車輪その他の軍需品を生産する兵器
492
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
専用の工場がすでにあった。このように戦争は発足したばかりの人類社会に軍需産業シス
テムも組み込むようになった。
ここに我々人類は大きなジレンマ(矛盾)をしょいこむことになった。人類社会を向上
させるためには、新しい知恵、工夫を生み出さなければならない。それによって社会システ
ムを向上させるのである。しかし、我々はその社会を守るために、その(科学)技術を使
って強力な武器や兵器や防御機器をつくる軍需産業システムも持たねばならないという
(しかも、相手もそうするので、その優れた兵器技術はやがて威力を大きくして我が身を
襲ってくるという)ジレンマに陥るようになったと記した。
このように、青銅器時代、鉄器時代には武器の手工業生産のために複雑な産業が生まれ
たが、19 世紀、20 世紀に工業化(産業革命)が進むと兵器産業は一段と複雑化し高度化し
ていった。火器、大砲、蒸気船、飛行機、核兵器などは中世の剣とは著しく異なり、これ
らの新兵器には数年がかりの特別な労働が求められた。巨大な兵器は作成以前の計画・設
計にも時間がかかり、平和時にも構築しておかなければならなかった。この軍事活動に向
けた産業の繋がりは、軍と産業の「協力」を生み出した。
19 世紀末の帝国主義時代になると、歴史家のウィリアム・ハーディー・マクニールによ
れば近代における第 2 次の軍産複合体がイギリスとフランスで形成された。2 つの勢力にお
ける海軍軍拡競争がそれぞれの軍産複合体を形成しそれが両国間の緊張に繋った。同様の
軍産複合体はドイツ、日本、アメリカでもすぐに形成された。
このように戦争をする国家は軍産複合体を必要とし、軍産複合体が形成され肥大化する
と逆にそれが国家に影響力をおよぼすようになって、やがて、国家をもあやつっていくよ
うになるというのが、人類の歴史であったことも『自然の叡智
人類の叡智』で述べてき
た。民主国家アメリカも第 2 次世界大戦後、ついに軍産複合体のとりこになってしまう時
期がきたのである(ソ連もそうだったので軍事費の重荷に耐えかねて 1991 年に崩壊したの
であるが、経済大国アメリカにも限界があるということである)
。
《アメリカの軍産複合体》
19 世紀後半から 20 世紀初期のアメリカでは、アンドリュー・カーネギーやヘンリー・フ
ォードといった産業界の指導者の多くは「反軍備」
「反戦争」の立場であり、産業としての
軍備は小さなものであった。
1914 年からの第 1 次世界大戦によって世界中の軍需産業が勃興し、特にアメリカでは国
内労働力の 25%が軍需関連産業に従事するようになり、一時的な経済活況を呈した。1918
年の戦争終結によってアメリカの国内経済は一転して不況となり、やがて 1929 年のアメリ
カ発の世界恐慌の遠因となった。世界恐慌によってもたらされたアメリカの不況はルーズ
ベルト大統領によるニューディール政策によっても本質的には解消されず、第 2 次世界大
戦へ参戦することで第 1 次世界大戦の時と同様の戦争特需によって景気回復がはかられた。
この 2 度の戦争の過程で、
「雇用確保」「価格の安定」「民間企業の参加」という軍需産業の
利点が関係者に理解されていった。
493
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 2 次世界大戦後、米ソ冷戦時代に入ると、1950 年、トルーマン政権下でソ連の拡張主
義に対抗する必要性を説く「現在の危機委員会」が設立された。ジョン・ロックフェラー2 世
(1 世の息子)
、ニューヨーク・タイムズのジュリウス・オクス・アドラー、GM のアルフレ
ッド・スローンなどの大物が所属していた。
この組織の働きかけで、アメリカの GDP に占める軍事費の割合は、1947 年の 4%から 1950
年代には 8%から 10%へと増額され続け、軍産複合体が大きく育っていった。アメリカでの
軍産複合体は、軍需産業と国防総省、議会が形成する経済的・軍事的・政治的な連合体で
ある。軍産複合体の概念を広く知らしめたのは、アイゼンハワーの退任演説であった(こ
のときの大統領選挙で、民主党のジョン・F・ケネディが共和党のリチャード・ニクソンに
勝利し、民主党政権に代わる時だった)
。
71 歳となったアイゼンハワーは 1961 年 1 月 17 日の退任演説で、巨額な軍事費と台頭す
る産軍複合体に警告を発した。軍人としてトップまでいったアイゼンハワーは、軍隊の生
態をもっともよく知っている人物であったが、その彼が、ホワイトハウスの執務室からテ
レビ、ラジオを通じて行なった告別演説は、アメリカにおける軍産複合体の存在を指摘し、
それが国家・社会に過剰な影響力を行使する可能性、議会・政府の政治的・経済的・軍事
的な決定に影響を与える可能性に強い懸念を表明したことは、現在から思うと、きわめて
アメリカに世界にとって重要なことであったことがわかる。
「(前略)350 万人に及ぶ男女が直接国防組織に従事しています。我々は、アメリカのため
に全会社の年間純所得を上回る額を、軍事費のために年々消費しているのであります。
こうした大規模な軍事組織と巨大な軍需産業との結合は、アメリカ史上にかつてなかっ
たものであります。その全面的な影響力―経済的・政治的かつ精神的な影響力までもが、
あらゆる都市に、あらゆる州政府に、連邦政府のあらゆる官庁に認められます。我々とし
ては、このような事態の進展がいかんとも避けられないものであることはよくわかっては
います。だが、そのおそるべき意味合いを理解しておくことを怠ってはなりません。それ
には、我々の勤労が、資源が、生活がすべてかかわっています。事実、アメリカの社会機
構そのものまでが、かかわっています。
政府部内のいろいろな会議で、この軍産複合体が、意識的であれ、無意識的にであれ、
不当な勢力を獲得しないよう、我々としては警戒していかなければなりません。この勢力
が誤って台頭し、破滅的な力をふるう可能性は、現に存在していますし、将来も存在し続
けるのでありましょう。
この軍産複合体の勢力をして、わが国民の自由や民主的な過程を危殆ならしめるような
ことがあってはなりません。なにごとも仕方ないこととしてはなりません。警戒心を怠ら
ぬ分別ある市民のみが、この国防上の巨大な産業と軍事との機構として、わが国の平和的
な手段と目的とに適切に合致させ、安全と自由とをともどもに栄えることができるのであ
ります」。
温厚なアイゼンハワーが退任にあたって、このような内部告発のような演説をするとは、
494
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
よほどのことと思わなくてはならない。アイゼンハワーは、米ソ冷戦の名の下に軍産複合体
がアメリカを“兵器国家化”し、その防衛すべき自由自体が内部から瓦解してしまうこと
を恐れて警告を発したのであり、そのために国民によるたえざる監視を要請したのである。
歴史は、経験から学んだ政治家は彼が学んだもっとも大事な本音の教訓をその告別演説
に託することを示す。ワシントンもそうだった。アイゼンハワーもそうだった。しかし、
さっそと登場した若い政治家はそれから学ぼうとしないものである。実は図 92(図 16-9。
P476)のように、ケネディ政権から(キューバ危機、ベトナムなど)アメリカの国防費は
本格的に増大していって(ということは、軍産複合体が肥大化して)
、アメリカの政治・経
済の深奥をむしばむようになっていったのである。
就任間もないケネディ大統領は、キューバ侵攻計画のピッグズ湾事件において、CIA のズ
サンな計画を見抜けなかったことで大失敗をした。しかし、彼はピッグズ湾事件の失敗を
率直に認め、それから学ぶ政治家だった。ケネディ大統領は記者会見を行い、失敗の全て
の責任が計画の実行を命じた自分にあることを認めた。同時に CIA に対しては軍事行動の
失敗と、さらにその後始末の失敗からその責任を厳しく追及し、アレン・ダレス長官、チ
ャールズ・カベル副長官を更迭した上で、CIA の解体まで宣言していた(CIA 解体について
は、その後のケネディ大統領暗殺事件によって行われることはなかったが、それゆえにケ
ネディ暗殺を「アメリカ政府内の保守派の陰謀」と見る立場からは、当事件がケネディ暗
殺の遠因だったという説もある。次のジョンソン政権がケネディ暗殺という大事件の真相
に蓋をして“アメリカの膿(うみ)”を出さなかったことが以後のアメリカを悪くしてい
ったともいわれている)
。
この CIA、つまり、アメリカ合衆国中央情報局(Central Intelligence Agency)は、ア
メリカ政府の対外諜報活動を行う情報機関であり、中央情報局長官によって統括されてい
る。ケネディ暗殺によって、解体を免れた CIA は、その後、ますます大きくなり、世界中
で行われた多くのアメリカの謀略事件に主体的に関与していった。
1975 年、CIA の内外における非合法活動が明るみに出た際、情報機関の活動を監督する
「情報活動調査特別委員会」
(
「チャーチ委員会」
)がアメリカ上院に設置されると、同年 11
月 CIA がチリのアジェンデなど 5 件の外国要人暗殺に関与したことを報告した(この過程
で、ロッキード事件関連も明るみに出た)。この報告によると、1960 年から 65 年の間にカ
ストロを暗殺する計画が 8 回立案されていたという。ケネディ大統領やロバート司法長官
なども、それを知る立場にあったといわれている。とくに暗殺計画には、キューバ国内の
賭博の権利を取り戻したいマフィアなどの地下犯罪組織が取り込まれていたという。
つまり、アメリカは第 2 次世界大戦前の帝国主義時代の謀略機関(戦前の日本でも満州
事変などで関東軍などが多くの謀略をしかけた)と同じような仕組みを戦後にも残してい
るということである。もちろん、当時の冷戦下のソ連も同じだったが。
ケネディ大統領とフルシチョフ書記長の緊迫した“キューバ危機”については前述した
が、ケネディは経験に学ぶ政治家であった。ケネディは若さと経験不足で時々失敗したが、
495
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
それが分かると率直に認め(政治家や官僚は決して自分の非は認めないものであるが)、そ
れから学んだことを強力に推し進める男だった。フルシチョフと連絡をとり、ともに地獄
を見た二人は核兵器の廃止を真剣に考えるようになった。
ケネディは、1963 年 6 月 10 日、アメリカン大学(ワシントンにある)の卒業式での「平
和のための戦略」という演説を行ったことは述べた。人間というものは危機におかれては
じめて真剣にものごとを考える。為政者も同じだ。ケネディは 13 日間の地獄を味わって、
はじめて核問題の本質をつかみ、本気でこの問題に取り組もうとしたようである。
軍産複合体的見方からすれば、ケネディのこの演説は大問題であった。第 1 に、「アメリ
カの戦争兵器によって世界に強制されるパックス・アメリカーナ(アメリカの押しつけの
平和)ではなく・・・・私は永遠の平和を語りたいのであります」、アメリカの覇権国家的
平和ではなく、カント的な永遠の平和を求めている、ルーズベルトやウィルソンの「系譜」
をはっきりと宣言していたのである。
第 2 に、アメリカ人のためだけの平和でなく、他の国々も、ずっと将来の時代の人々の
平和も考えようと言っている。これは現在のアメリカの国益だけを考える軍産複合体にと
っては聞き捨てならないことだった。
第 3 に、共産国ソ連に対する「態度を再検討し・・・ソヴィエト国民が上げてきた多くの
業績を讃(たた)え・・・忍耐強く、平和を探求しようではありませんか」と、仲良くやっ
ていこうと呼びかけている。戦後の歴代大統領は、ソ連をこの地球上の不倶戴天の敵とし
て日々、その危機を呼びかけていたので軍産複合体の存在価値が高まっていたが、ケネデ
ィのようにソ連と仲良くやっていこうというのでは軍産複合体にとっては困ったことにな
る。
7 月 26 日、ケネディは TV/ラジオを通じて部分的核実験禁止条約の締結を正式発表して
「18 年前(1945 年)
、核兵器の登場は戦争だけでなく世界の進路を変えてしまった。それ以
来、全人類は地球上に存在した大量破壊の暗黒のとばりの中で、敵対し合ったイデオロギ
ーの悪循環と戦いながら、その暗闇から逃げだそうと悪戦苦闘してきた。
(中略)
有史以来、戦争は人類の道連れであった。アメリカ人は 8 つの戦争を体験し、私は大統
領として、この 2 年半のあいだにラオスとベルリンとキューバで瀬戸際に立たされた。1 発
の核熱爆弾がどこかの町に投下されるとき、偶然であれ狂人の仕業であれ、大国であれ小
国であれ、その破壊力の恐ろしさは計り知れない。私はみなさんが討論に加わることを臨
む。ともに平和の道を探し出そうではないか。それがいかに遠い道であろうとも、我々の
時代が、その第 1 歩を踏み出そうとしたことを歴史の中に記録しようではないか」と呼びか
けた。
その後、1963 年 8 月 5 日、米英ソの間で部分的核実験禁止条約 (PTBT) が締結され、10
月に発効した。発効までに 108 ヶ国(原調印国を含め 111 ヶ国)がこの条約に調印した。
ケネディが生きていて 2 期目をやっていたら、彼はこの核の問題に集中し、まだ、米ソ
英だけだったので、核の国連管理を実現して、核問題に決着をつけてくれていただろう。
496
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
だからケネディに生きていてほしくない人間が出たのだろう。人類の行く手を左右するよ
うな大きい問題だったから。その後 50 年が過ぎたが、この核廃絶に取り組んだ米大統領は
誰もいなかった。オバマは演説だけで終わりそうだ(ノーベル平和賞は返上すべきであろ
う)
。結局、アメリカで軍産複合体にさからって、核廃絶をするようになるまでにはアメリ
カ大統領の命がまだ、いくつか必要になるかももしれない。
ケネディはベトナム戦争も最初は積極的に打って出ていたが、キューバ危機後はその本
質が見えるようになったようで、結局、撤収を考えていたことはベトナム戦争のところで
述べた。
1963 年 11 月 22 日、ケネディは暗殺され、彼のベトナム撤退計画は頓挫した。そこで、
ケネディの急進的なベトナム戦争撤退の方針が軍産複合体の利害と対立して、ケネディ暗
殺につながったというのがもう 1 つの説である。
ケネディ大統領のベトナム早期撤退方針は、ケネディが暗殺された後、副大統領から昇
格したジョンソン大統領によって反故にされ、ベトナム戦争への介入は逆に押し進められ、
CIA の謀略で起きたトンキン湾事件を契機に本格的な戦争になったことは述べた。
このトンキン湾事件は、1964 年 8 月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の哨戒艇
がアメリカ海軍の駆逐艦に 2 発の魚雷を発射したとされる事件であったが、1971 年 6 月に
ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者が、「ペンタゴン・ペーパー」(
『ベトナム
における政策決定の歴史、1945 年-1968 年』)を入手して、トンキン湾事件はアメリカ CIA
が仕組んだものだったことを暴露した。
このように謀略システムを持っている国では、為政者(と国民)の思いとは関係なく自
らの利益のために謀略し、それによって既成事実ができて、それによって政治が進められ
るという、やり方はいつの時代でも同じである(満州事変もそうだった)
。このようにアメ
リカはこと志と違って、産軍複合体によって動かされる国になってしまったのである。
図 95(図 18-15)にアメリカの軍事行動を示す。民主主義国家アメリカの大統領も政治
家も官僚も、結局、前任者のやってきたことをそのまま引き継いで、何ら改めることなく
行きつくところまで行ってしまうことは同じようである(
『自然の叡智 人類の叡智』で戦
前の日本が 1915 年の「対華 21 ヵ条の要求」を掲げて大陸侵略を開始し、太平洋戦争敗北ま
で進んだことを述べたが、民主主義国家アメリカも同じようなことをやっていることがわ
かる)
。
そこには一貫した外交方針なぞなく、行き当たりばったりで、かつて援助したものを今
度は叩くということの繰り返したあった。謀略機関を使っているのも戦前と同じである。
ケネディ以後、50 年、軍産複合体は実質、アメリカを動かしていると言われている。
497
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 95(図 18-15) アメリカの軍事行動
498
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《その後の軍産複合体》
1977 年にはベトナム戦争とウォーターゲート事件の後でジミー・カーター大統領は歴史
家のマイケル・シェリーが言うところの「アメリカの軍国主義化された過去を壊す決意」
を持って職に臨んだがうまくいかず、再選にも失敗した。
ベトナム戦争の敗北で打撃を受けていた軍産複合体は、カーターを倒したレーガンの「レ
ーガン革命」によってはやくも再建された。レーガン政権時代には、実現性が無いとする多
くの反対を押し切って、
「スターウォーズ計画」とも呼ばれた「SDI 計画」が 550 億ドルの
巨費を投じて進められ、15 年間の計画は終了した。この計画からは、結局、具体的な兵器
は一切完成しなかった。
なお、図 82(図 16-14。P424)のソ連の核ミサイル体制がアメリカのそれに匹敵する
ようになったのは、ソ連にも強力な軍産複合体が形成されていたということである。ソ連
で軍産複合体を代表する人物は長く国防相をつとめたドミトリー・ウスチノフであった。
しかし、ソ連の経済力はアメリカより、はるかに弱体であったので、ソ連国家は軍産複合
体の重みに耐えかねて崩壊してしまったことは、前述した。
《新帝国主義といわれてもしかたがないアメリカ海外軍事基地》
国連を形骸化してしまったアメリカ(アメリカ軍産複合体)は、ソ連の崩壊で 1990 年代
からは、アメリカ 1 極体制になると、文字通り、世界の警察官となった。
かつて帝国主義の拡張の跡を辿るには、植民地を数え上げればよかった。植民地の現代
アメリカ版が軍事基地である。国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」を悪用して同盟政策を推
し進め、いまや世界中をアメリカ軍の基地網で覆っている。
アメリカの陸海空軍及び海兵隊の 4 軍は、図 96(図 18-158)のように、南極を除く世
界全体を次の 6 に分けた地域別統合軍と 3 の機能別の統合軍に編制されている。
図 18-158
6つの地域別アメリカ統合軍
つまり、①アメリカ北方軍(USNORTHCOM)- 北米担当、②アメリカ中央軍(USCENTCOM)
499
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
- 中東担当、③アメリカアフリカ軍(USAFRICOM)- アフリカ担当、④アメリカ欧州軍
(USEUCOM)- 欧州担当、⑤アメリカ太平洋軍(USPACOM)- アジア・太平洋地域担当、⑥ア
メリカ南方軍(USSOUTHCOM)- 中南米担当と 3 つの機能別の⑦アメリカ沿岸警備隊、⑧合
衆国公衆衛生局士官部隊、⑨合衆国海洋大気局士官部隊、合わせて 9 つの統合軍に編制さ
れている。
それぞれの統合軍に属する陸海空軍及び海兵隊部隊を 1 人の統合軍司令官が運用すると
いう編制は統合作戦の円滑な遂行と軍事学的な指揮統一の原則を同時に達成するためであ
る。
《駐留国》
アメリカは米ソ冷戦における安全保障政策を受けて、図 97(図 18-159)のように、多
くの国家に現在も軍部隊を駐留させている(図の青は 1000 以上の部隊、薄青は 100 以上の
部隊、橙色は 施設の使用)
。
図 97(図 18-159) アメリカ軍の駐留兵力 (2007 年)
防衛条約並びに協定によってアメリカ軍が常時駐留している国家は以下の通りである
(〔〕内数値は駐留兵力を示す)。この世界の警察を自任するアメリカ軍はけっして公平な
警察軍ではなく、あくまでアメリカ 1 国の私的警察で、同盟国にとっては心強い味方であ
るが、反米国にとっては恐ろしい敵国軍である。そこが基本的に国連による集団安全保障
体制とアメリカによる私的な集団的安全保障体制の違いである。
つまり、アメリカは第 2 次世界大戦後、結局、いろいろな理屈をつけて、国連の集団安
全保障体制を形骸化して、アメリカ中心の同盟体制(アメリカ的集団的安全保障制度)を
配備して、アメリカに逆らう国家(群)を封じ込める体制をつくってしまったのである。
ソ連陣営が崩壊したあとにも、
(アメリカ的同盟体制を解消することなく)このような私的
警察網を拡大していけば、いったいどうなるか。それは人類の歴史をみれば、一目瞭然で
ある。たちまち「軍事力の作用・反作用の原理」が働いて、これに抵抗する同盟が結成さ
れるようになる。米ソ冷戦の 21 世紀版が再現されることになるだろう。
500
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
《北大西洋条約機構(NATO)加盟国》
★イギリス〔10,620 人〕
(海外領土含む)
:相互防衛援助協定、通信傍受協定(エシュロン)、
軍事情報包括保全協定(GSOMIA)
、サイバー攻撃対処に関する覚書(MOU) ―イギリスとア
メリカは第 2 次世界大戦以来、政治軍事両面で強いつながりを持っており、冷戦期のアメ
リカの外交にはイギリスの意向が強く反映されていた。このような特殊な関係から、特に
英米同盟(UKUSA)と呼ばれる。
★イタリア〔10,790 人〕
★オランダ
★カナダ:相互防衛委員会設立協定、通信傍受協定、GSOMIA、MOU ―防空任務の大半をア
メリカに依存している。
★スペイン〔2,160 人〕
★デンマーク
★ドイツ〔68,400 人〕
:相互防衛援助条約―第 2 次大戦後の分割占領軍から駐留している。
中東での作戦時には重要な輸送基地となっている。
★トルコ〔3,860 人〕
★ノルウェー NATO 軍北方司令部要員など
★ベルギー〔1,290 人〕NATO 軍最高司令部要員及び空軍基地を維持
《アジア》
★日本〔38,450 人〕
(在日米軍)
:相互防衛援助協定、資金提供協定(思いやり予算) ―第
2 次世界大戦後の占領軍から駐留が続いている。自衛隊の創設と発展を含め、日本の国防に
深く関与してきた。軍事情報包括保全協定(GSOMIA)、サイバー攻撃対処に関する覚書(MOU)
は 2007 年に締結。米軍再編の一環として、兵力の一部削減・移転が決定している。このよ
うな特殊な関係から、特に日米同盟と呼ばれる。
★韓国〔37,140 人〕
(在韓米軍)
:米韓相互防衛条約―平時作戦統制権は韓国軍に移譲され
ており、戦時作戦統制権も移譲予定。米軍再編の一環により、段階的に兵力が削減される
ことが決定している。このような特殊な関係から、特に米韓同盟と呼ばれる。
★フィリピン :米比相互防衛条約―空・海軍の駐留は 1994 年に終了したが、2002 年より
対テロ戦争の一環として、特殊部隊が駐留している。
《オーストラリア・太平洋》
★オーストラリア:太平洋安全保障条約(ANZUS)
、相互防衛援助協定、通信傍受協定、GSOMIA、
MOU。新基地建設などが決まっていて今後増員が予想される。
★パラオ、マーシャル諸島、ミクロネシア連邦: 自由連合盟約:アメリカ軍が国防を担う
各国
《その他》
★アフガニスタン〔7,500 人〕
(アフガン攻撃から継続。最盛期は約 2 万人。2006 年に NATO
に指揮権が移譲)
。
501
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
★ウズベキスタン〔1,200 人〕
(2005 年にウズベク政府が退去命令を出し撤収)
★カタール〔3,300 人〕
★キューバ〔2,039 人〕
(グァンタナモ米軍基地)
★クウェート〔8,388 人〕
★サウジアラビア〔4,408 人〕
★ジブチ共和国〔2,120 人〕
(ジブチ共和国には米軍のほかに 800 人ほど仏軍、独軍なども
駐留。
)
★バーレーン〔4,200 人〕
この他にナイジェリアやインドネシア、香港などに(主として米国製装備の)教官やパ
イロットとして、あるいは通信要員などとして少数(数十~数百人)が派遣されている。
《駐留していないが緊密な同盟関係にある国》
★イスラエル:相互防衛援助協定、GSOMIA
★スウェーデン(中立国)
:MOU
★ニュージーランド:通信傍受協定、MOU―ANZUS 同盟から脱退するも事実上継続中
★フランス:相互防衛援助条約、GSOMIA ―NATO の軍事機構からは脱退していたが、復帰し
た。
★中華民国:台湾関係法 ―米華相互防衛条約終了後、後継法として制定され、これにより
装備供与と軍事支援を行う。
南極大陸を除く地球上の全大陸に置かれた米軍基地の巨大なネットワークは、現実に新
しいタイプの帝国を形づくっている。米軍は、優に 50 万人を超える兵士、スパイ、技術者
教師、扶養家族、民間業者を諸外国に配備している。
世界の海を支配するために、アメリカはざっと 13 海軍艦隊を編成し、各々を率いる航空
母艦は、★キティ・ホーク、★コンステレーション、★エンタープライズ、★ジョン・F・
ケネディ、★ニミッツ、★ドワイト・D・アイゼンハワー、★カール・ビンソン、★セオド
ア・ルーズベルト、★エイブラハム・リンカーン、★ジョージ・ワシントン、★ジョン・C・
ステニス、★ハリー・S・トルーマン、そして★ロナルド・レーガンと、軍国主義の勇まし
い遺産を連ねて命名された。
最近、スノーデンが明かしたように、アメリカは米国領土の外で膨大な数の秘密基地を
動員して、自国民を含む世界の人びとの通話、ファックス、E メールを傍受している。
アメリカ(帝国)の基地の規模や、その正確な価値を算定するのは容易ではない。アメ
リカ政府は意識して、地球を一周するアメリカの軍事基地ネットワーク構造の全体像を把
握できないようにしている。アメリカ国民はアメリカが軍事力で世界を支配していること
を認めない、あるいは認めたがらない(文化とか科学技術でアメリカが優れているからだ
と言っている。しかし、実際はこのアメリカ基地のネットワークから発信されるプロパガ
ンダが大きい)
。
これに関連する公表データは誤解を招きやすいが、示唆には富む。在外・国内米軍不動
502
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
産を詳細に記す国防総省の年報『基地造営物報告書』2003 年度版には、次のように書かれ
ている。
☆現在、国防総省は海外 130 ヶ国に 702 ヵ所の基地を保有または借用している。
☆加えて 6000 ヵ所の基地を、米本土および海外領に「保有」する。
☆国防総省官僚の計算によれば、海外基地だけでも、資産価値は少なくとも 1132 億ドルに
なる。これは大幅な過小評価であるのは確かだが、たいていの国の国内総生産よりも高額
である。
☆海外・国内基地すべてを合算した評価額は 5915 億 1980 万ドルになる。
☆米軍最高司令部は、ざっと 25 万 3288 人の軍人を海外基地に配属している。これにほぼ
同数の扶養家族と国防総省文官が加わり、さらに 4 万 4446 人の現地採用外国人を雇用して
いる。
☆国防総省所有の兵舎・格納庫・病院施設などの建造物は 4 万 4870 棟、他に借用物件は 4844
棟になる。
以上の数値は驚くべきものだが、それでも全世界を覆う米軍基地のすべてを網羅しては
いない。たとえば、2001.9.11 以降 2 年 6 ヶ月の間に、いわゆる「不安定性の弧」の全域
を通じて、米軍は巨大な基地施設を建設してきたが、報告書はアフガニスタン、イラク、
イスラエル、クウェート、キルギスタン、カタール、ウズベキスタンにある基地について
はまったく触れていない(急速に進出してきたアメリカ勢力にイスラムが反発するのはあ
る意味で当然であろう。
「不安定性の弧」を不安定にしたのはアメリカであり、冷戦後のア
メリカ軍産複合体がつくり出した「不安定源」である)
。
日本の沖縄についても、戦後 70 年間、大規模な米軍基地があり続けたが、表向きの報告
書には、海兵隊基地キャンプ・バトラー1 ヵ所のみが記載されている。だが実際のところ沖
縄は、海兵隊関連だけでも、県内第二の都市の中心部 4.8 平方キロメートルを占めている
普天間航空基地をはじめ、10 ヵ所の基地用地をアメリカに「提供」している。
アメリカ軍事帝国の実態を正しく表せば、他国領土に配備した基地は 1000 ヵ所を下らな
いはずであり、近年、その数はいちじるしく増大している。だが正確な数は、おそらく国
防総省自身も含めて誰も把握していない。まさにアメリカ帝国であるといえる。
《軍事費》
世界 1 極体制のアメリカの軍産複合体を養う軍事費は膨大なものとなっている。
表 22(表 18-18)にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)による主な国の軍事費を
示す。
2005 年度の SIPRI 資料で見ると、絶対金額では世界 1 位のアメリカ 1 国で世界の軍事費
の 50.4%を使っており、まさにガリバー的な 1 極覇権体制を形成している。アメリカは日
本の 10 倍以上の軍事費を使っているが、CIA の資料ではアメリカは 2005 年見積もりでの
GDP 比で 4.06%の軍事費を使い(アメリカの防衛研究費だけでも GDP の 1.2%に上る)、GDP
比での上位から数えると 28 位である。
503
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 22(表 18-18) SIPRI 資料による主な国の軍事費
504
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
(日本は、2005 年の 48,680 億円を仮に 100 円=米ドルとして換算すると、486.8 億ドル
となって世界の軍事費の 4.9%に相当する。日本が軍事大国のように云われることがあるが、
GDP 比で見れば世界 231 ヶ国中の 149 位でしかなく、多くの欧州の国々よりも GDP 比では小
さな軍事費である。
)
《アメリカの諜報機関―CIA》
戦前の帝国主義時代には、各列強とも諜報・謀略機関を持っていて、お互いに謀略を仕
掛け合っていた。その典型がヒトラー・ナチスのゲシュタポだった。ソ連には、1917 年に
レーニンによって作られたチェーカーを母体とした KGB(ソ連国家保安委員会)が情報機
関・秘密警察として存在し、東西冷戦時代にはアメリカ・中央情報局(CIA)と一、二を争
う組織と言われていた。
アメリカの諜報機関 CIA(アメリカ合衆国中央情報局)の創設は比較的新しい(第 2 次世
界大戦の前のアメリカは諜報や謀略とは無縁な国だった)。
第 2 次世界大戦中の 1942 年に改組設立された Office of Strategic Services(OSS、戦
略事務局)が 1947 年に成立した国家安全保障法により改組され誕生した。
国家安全保障法(National Security Act of 1947)は 1947 年制定のアメリカ合衆国の
法律であり、これにより、以下の機関などが設立された(第 2 次世界大戦後、アメリカは
安全保障(国防)に関する考え方を一変させ、世界の警察官、つまり、世界の覇権国家を
指向するようになったが、その出発点がこの国家安全保障法であった)。
☆国家安全保障会議(NSC:National Security Council)― 正式メンバーは大統領、副大
統領、国務長官、国防長官の 4 人のみ。また、正式メンバーではないが、①国家安全保障
問題担当大統領補佐官は実質的な仕切役として、②統合参謀本部議長は軍事顧問として、
③国家情報長官は情報顧問として、それぞれ国家安全保障会議の定例的な出席者として位
置付けられる。決定は「国家安全保障決定覚書」として文書化され、関係機関に通達され
る。
☆アメリカ国防総省(DOD:Department of Defence) ―アメリカ統合参謀本部
☆アメリカ中央情報局(CIA)
・内容的制限:CIA の役割を特徴づける条項として「国家安全保障会議が適宜指示する他
の事項を遂行する権限」というものが存在する。その範囲について、これ以上の明文化さ
れた制限規定が存在しないため、他国政権の転覆など各種の工作活動が展開されて来たと
される。
・地理的制限:国内でのフィールド活動は禁じられているが、「召喚状を発するような国
内治安権限を持たない」という範囲に限定解釈されることで、逮捕・連行・勾留以外の、
いわゆる情報収集活動・監視活動については曖昧にされ、現実には展開されて来たと考え
られる。
(2014 年、安倍内閣は NAC をつくり、秘密保護法もつくって、アメリカなどの諜報機関と
の交流をはじめたが、戦前の諜報謀略機関まで復活させる気だろうか)。
505
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 2 次世界大戦終了後、アレン・ダレスはドイツから多数のナチス将校を招聘して、CIA
のソ連東欧での情報収集と工作活動の本格化を図った。
1950 年代から 1960 年代にかけては、
社会主義・共産主義化しつつあったイラン、グアテマラ、コンゴ、キューバなどに対して
クーデター・要人暗殺などを含んだ工作活動を積極的に展開した。
その分かっているものだけでも、以下のようになる。
★ペーパークリップ作戦―第 2 次世界大戦末から終戦直後にかけてアメリカ軍がドイツの
優秀な科学者をドイツからアメリカに連行した一連の作戦(宇宙開発のブラウンなど)。
★1953 年、エイジャックス作戦、アイアース作戦―イギリス・秘密情報部と合同で行なっ
たイランのモハンマド・モサッデク政権転覆・パフラヴィー(パーレビ)朝復興作戦。2013
年、機密指定解除になった 1970 年代の文書に関与が明記されていた。
★1954 年、PBSUCCESS 作戦―ユナイテッドフルーツと組んで行われた、グアテマラのハコ
ボ・アルベンス・グスマン政権転覆作戦。グアテマラ内戦に繋がった。
★1961 年、ピッグス湾事件 ―ケネディのところで述べたキューバの「反革命傭兵軍」によ
る親米化クーデターを支援し、
「反革命傭兵軍」をピッグス湾から上陸させて政権転覆を狙
ったものの失敗に終わった(ケネディはこの事件の真相を知って、CIA の廃止を公言したが、
その前に暗殺されてしまった)
。
★1961 年、大韓民国中央情報部 (KCIA) の設立に関与 ―設立後は、育成、監督にも関与す
ることとなる。
★1963 年、アブドルカリーム・カーシム政権転覆支援 ―イラクのバース党への資金提供で
関与したとされる(2000 年代アメリカはイラク戦争でフセインのバース党政権を壊滅させ
た)
。
★1963 年、1964 年 - ルイス・ポサダ・カリレスへの支援 ―カリレスは CIA の工作員であ
ったが、後にクバーナ航空 455 便爆破事件やフィデル・カストロ暗殺未遂事件など一連の
テロ活動に従事することになる。
★1964 年、ベトナム戦争関連―トンキン湾事件、民間不正規戦グループ (CIDG) 計画およ
び、特殊部隊の支援(これによって議会の承認を得て北爆開始、ベトナム戦争を拡大)。本
文のジョンソン大統領のところで述べた。
★1965 年、9 月 30 日事件 ―インドネシアの反スカルノクーデター関与とスハルトによる
共産主義者粛清への支援。
★1973 年、チリ・クーデター ―社会主義政権のサルバドール・アジェンデ政権転覆支援。
★1974 年、プロジェクト・ジェニファー ―沈没した旧ソ連の 629 型潜水艦 K-129 のサルベ
ージ作戦。
★1977 年、パキスタン陸軍参謀長ジア・ウル・ハク将軍によるクーデター ―ズルフィカル・
アリ・ブット(パキスタン元首相)が処刑された他、後のハク将軍事故死にも関与説があ
る。
★1978 年、グラディオ作戦 ―元イタリア首相アルド・モーロ誘拐暗殺に関連してのイタリ
506
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アの反政府組織「赤い旅団」への資金提供。
★1978 年、アフガニスタン紛争 ―この紛争に際して CIA がアフガニスタンに共産政権を打
ち立てたアフガニスタン人民民主党に対する抵抗運動を行ったムジャーヒディーンへ武器、
資金を援助した結果、紛争は 1989 年まで続いた。
★1986 年、イラン・コントラ事件の発覚―レーガン政権が、イランへの武器売却代金をニ
カラグアの反共ゲリラ「コントラ」の援助に流用していた事件。
★2003 年、イラク戦争 ―大量破壊兵器の存在を過大に主張して開戦へと導いた。後に大量
破壊兵器はまったく存在しなかったとコリン・パウエル国務長官が謝罪する結果となった。
このように、CIA は一国を転覆させるような多くの成果(?)を上げてきたが、イラク戦
争のようにアメリカの政策を誤らせるような目的も(軍産複合体から見て国の方向を変え
るという目的も)十分に発揮してきたということで、アメリカでは(軍産複合体から見て)
現在も大いに存在価値が認められているようである。これが第 2 次世界大戦後、民主国家
から変貌した覇権国家アメリカの実態であることを知っておく必要がある。
【3】アメリカ1極時代の戦争―アフガニスタン戦争とイラク戦争
◇湾岸戦争後のイラク問題
1991 年にソ連が崩壊し、アメリカが単独で世界の超大国になり、名実ともにアメリカは
1 極の覇権国家になった。
このアメリカ 1 極時代にアメリカは図 94(図 8。P488)のように、多くの一方的な空爆
やアフガニスタン侵攻(戦争)やイラク戦争などの戦争を行ったが、これはゴルバチョフ
時代にせっかく軌道に乗り始めた国連の機能を再び無視するもので、図 89(図 9。P471)
(国連の集団安全保障制度の変化と改革)のように国連の集団安全保障制度は再びその機
能を喪失してしまった。
《イラクの大量破壊兵器問題》
一般にアメリカとイラクとの関係は、2001 年 9 月 11 日のアメリカ同時多発テロ事件から
と考えられているが、アメリカとイラクの関係は図 95(図 18-15。P498)
(アメリカの軍
事行動)のように、その前の湾岸戦争以来、ずっと続いていた。それはアメリカがイラク
の大量破壊兵器を持つことを阻止することから発していた。
1991 年の湾岸戦争の時、国連安全保障理事会は国連安保理決議 687 においてイラクとの
和平条件を提示した。これにはクウェートからの撤退とともに、核兵器、生物兵器、化学
兵器などを含む大量破壊兵器を破棄し、その研究・開発プログラムや製造設備なども廃棄
することが定められ、その手続きを国際原子力機関(IAEA)や新たに創設される国連大量
破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)によって監視するというものであった。
イラクは、湾岸戦争に先立つイラン・イラク戦争(1980 年~1988 年)においてマスター
ド・ガス、神経ガスなどをイランや自国民のクルド人に対して使用したとされる。また IAEA
は、イラクが複数のウラン濃縮技術の実験を行っていたと結論づけた。
507
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そこで武装解除が行われていることを確認するために、国連大量破壊兵器廃棄特別委員
会(UNSCOM)と国際原子力機関(IAEA)の専門家チームがイラクに滞在し、関連の技術者
に対するインタビュー、貯蔵、製造に関わると考えられる施設への訪問調査などを行った。
これらは武器査察団と呼ばれ、生物兵器や化学兵器を含む大量破壊兵器については UNSCOM
が、核開発については IAEA が担当した。
1991 年 4 月に採択された安保理決議 688 は、フセイン政権に弾圧された人々を保護する
という項目が設けられた。そこでアメリカは少数派クルド人の保護を理由に、1992 年から
北部・北緯 36 度以北をイラク国籍航空機の飛行禁止空域とした。また、イスラム教シーア
派信者保護を名目に、ロシア連邦の承認を受けたうえ、イギリス・フランスと共同で油田
が多数存在する南部・北緯 33 度以南も同様に飛行禁止空域とした。
《国連憲章違反のアメリカの一方的な空爆》
フセインは 688 決議を不服として、戦闘機による飛行や地対空ミサイル配備などを行っ
ていた。また、UNSCOM の査察により、ウラン濃縮施設やミサイル部品工場が存在している
との疑惑が示された。これらを挑発行為と受け取ったブッシュ大統領(父親)は退任 3 日
前の 1993 年 1 月 17 日(湾岸戦争開戦 2 周年)、イラク制裁を旨としてイギリス・フランス
と共にトマホークミサイル 45 基を中心とした攻撃を行い、疑惑のザーファラエニ工場(バ
グダッド)を破壊し、戦闘機の撃墜や空軍施設の空襲を行った。これは国連安保理の決議
に基づくものではなく、この一方的な空爆はもちろん、国連憲章違反であった。
新たに就任したクリントン大統領も 1993 年 6 月 26 日、23 基のトマホークで情報施設を
攻撃した。理由として、4 月にブッシュがクウェートを訪問した際に暗殺計画があったこと
を挙げた。
その後、クルド人過激派によるテロなどの行動が激しさを増し、国境を越えた広がりを
もった。そのためトルコは、クルド人過激派の掃討のため、1995 年にイラク北部へ越境攻
撃を行った。イラク自身も 1996 年 8 月にクルド人地域イルビルを攻撃したが、アメリカは
9 月 3 日から 4 日まで 44 基のトマホークでイラクの軍事施設に攻撃を加え、8 ヶ所の防空
ミサイル施設、7 ヶ所の防空指揮管制施設を破壊した。これも国連憲章違反であった。
イラクは 1997 年以降、アメリカ側の意図が査察団に影響していることや、元アメリカ軍
の諜報関係者であった国連大量破壊兵器廃棄特別委員会(UNSCOM)の主任検査官スコット・
リッターによる抜き打ちの捜査に反発し、UNSCOM の査察を妨害し始めた。安保理は安保理
決議 1115、1134、1137 でイラクを批判したが、イラクの姿勢は改善されなかった。
1998 年 3 月にイラクははじめて大統領施設の査察を承諾したが、8 月には大量破壊兵器
についての査察協議は物別れに終わった。10 月 31 日、イラク革命指導評議会は UNSCOM へ
の協力を全面的に停止することを決定した。11 月 15 日、安保理は決議 1205 でイラクを非
難した。イラクは 17 日から UNSCOM の査察を受け入れたものの、12 月 15 日にはバトラー
UNSCOM 委員長から「イラクの完全な協力は得られなかった」と安保理に報告がなされた。
508
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
これを受けてアメリカはイギリスとともに、1998 年 12 月 16 日から 19 日にかけて、トマ
ホーク 325 基以上と B-52 からの空中発射巡航ミサイル 90 基によるミサイル空爆を行なっ
た(砂漠の狐作戦)
。コーエン米国防長官は「この攻撃で生物・化学兵器を運搬する能力を
削減できた」と語った。
この攻撃も国連安保理の承認を得ておらず、アナン国際連合事務総長は空襲に遺憾の意
を表明した(前述したように国連憲章第 51 条は攻撃を受けた場合だけ、個別的または集団
的自衛権があるとしている。この場合はアメリカとイギリスが一方的にイラクに攻撃をし
かけたもので国連憲章違反である)
。安保理では、15 ヶ国(非常任理事国 10 ヶ国含む)の
うち、12 ヶ国が遺憾の意を表明した。このようにアメリカはブッシュ(父親)、クリントン
政権のときから、国連安保理の承認を得ないで(国連憲章違反をして)イラク空爆を時々
やっていたのである。
このアメリカとイラクの大量破壊兵器問題にアルカイダとウサマ・ビンラディンが絡ん
でくるようになった。
《ウサマ・ビンラディンの対米宣戦》
ウサマ・ビンラディンは、1957 年サウジアラビア最大のゼネコン、ビンラディングルー
プの総帥、ムハンマド・ビンラディンの子として生まれた。1979 年末ソ連軍のアフガニス
タン侵攻に反対して、豊かな財力を使ってムスリムの若者をムジャーヒディーン(イスラ
ム聖戦士)として世界中から募集し、ソ連との戦いを進めた。その時、軍事訓練を担当し
たのがアメリカであり、もともとアメリカとビンラディンは協力関係にあった。
その後、ソ連がアフガニスタンから撤退すると、ビンラディンは生まれ故郷のサウジア
ラビアに帰ったが、湾岸戦争でサウジアラビア王室がアメリカ軍の国内駐留を認めると、
これに反発したビンラディンはアメリカへの戦いを宣言し、ムジャーヒディーンを組織し
てアメリカへのテロ攻撃を開始したのである。
1993 年 2 月 26 日、ニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)の地下駐車場で爆弾が
爆発した世界貿易センター爆破事件が起こった。爆発により 6 人が殺害され、少なくとも
1,040 人が負傷した。タワーの強度が爆弾の破壊力を上回っていたために、この時はタワー
の倒壊は起きなかった。アルカイダとイスラム集団(オマル・アブドゥル=ラフマーン)が
関与したとされていた。
引き続いて 1993 年にアルカイダは在サウジアラビアの米軍基地爆破事件を起こした。こ
のため、テロを続けるアルカイダはスーダンの厄介者となり、1995 年、ビンラディンやザ
ワーヒリーはタリバンが掌握していたアフガニスタンに拠点を移した。
さらに 1996 年にサウジアラビアの米軍官舎が爆破攻撃され、十数名が死亡した事件も関
連があるとみられた。この事件以来、オサマ・ビンラディンとアルカイダの密接な繋がり
が注目されるようになった。
509
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1998 年 8 月 7 日、ケニア首都ナイロビにあるアメリカ大使館が爆薬を満載したトラック
で爆破され、大使館員と民間人など 291 人が殺害され、5000 人以上が負傷した。瓦礫の山
となったアメリカ大使館の映像は世界に配信され、多大な衝撃を与えた。
さらに 8 月 7 日同時刻、タンザニアの首都ダルエスサラームのアメリカ大使館も同様の
トラック攻撃にあい 10 人が死亡、77 人が負傷した。これらの攻撃は「イスラム聖地解放軍」
が犯行声明を出した。聖地エルサレムのあるパレスチナを占領するイスラエルと、メッカ・
メディナのあるサウジアラビアに湾岸戦争以来駐留している米軍の撤収を命じるものであ
った。
クリントン大統領は、ナイロビアメリカ大使館爆破にアルカイダが関与した可能性を受
け、1998 年 8 月 20 日に報復攻撃の実行をテレビ演説で発表した。攻撃の対象は、スーダン
の首都ハルツーム郊外 20 キロメートルにありアルカイダの拠点と断定された化学兵器工場
と、アフガニスタンのテロリスト訓練キャンプで、インド洋に展開している海軍艦艇から
トマホーク巡航ミサイル数発で攻撃し、目標は完全に破壊された。明確な証拠もないまま
での独断攻撃によって、クリントンは議会から激しく非難された(もちろん、国連憲章違
反であった)
。
とくにスーダンはすでにアルカイダと決別していて、アメリカが「化学兵器工場」である
として攻撃したスーダンの薬品会社は、実際にはマラリアや結核などの治療薬とミルクを
生産するスーダン唯一の工場であることがわかった。スーダンの主要な薬の多くを生産し
ていたこの工場が破壊されたために、その後多くの子供達が治療可能な病気で死んでいっ
た。世界各地のイスラム教徒がビンラディンのテロ攻撃を歓迎する背景に、このようなア
メリカ政府の対応があったともいえる。
1999 年 11 月 15 日には国連安保理において安保理決議 1267 が採択され、アフガニスタン
を実効支配するタリバンに対してオサマ・ビンラディンとその関係者の引き渡しが求めら
れた。しかし、タリバン政権はこれを拒否し、タリバン政権に対して経済制裁が行われる
ことになった。
2000 年 10 月 12 日、アメリカ軍のミサイル駆逐艦「コール」は定時燃料補給のためイエ
メンのアデン港に停泊中であった。現地時間 11:18 に小型ボートが艦の左舷に接近し自爆
し、爆発によって左舷に 12 メートル四方の亀裂が生じ、艦が大きく損傷した。自爆攻撃の
テロリストはオサマ・ビンラディンの率いるテロ組織、アルカイダのメンバーであった。
このため、2000 年にも国連安保理決議 1333 によってタリバン政権にオサマ・ビンラディ
ンの再度引き渡しが求められたが、応じなかったため経済制裁が行われた。
このように、クリントン政権時代にオサマ・ビンラディンのアルカイダはアメリカ関連
施設に対して執拗に攻撃を加えていた。クリントン政権もその都度、反撃を加えていたが、
その取り組みは甘かったといわれていた。そして、ついには 2001 年のアメリカ同時多発テ
ロ事件を引き起こしたとされる。
◇アメリカ同時多発テロ事件の勃発
510
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2001 年 9 月 11 日、アルカイダの自爆パイロットたちが、ニューヨークの世界貿易センタ
ービルに突っ込み、アメリカ同時多発テロ事件が発生した。世界中は、国家による侵略と
いう脅威とはまったく異なった脅威、テロへの脅威に遭遇したことを痛感した。
12 日、アメリカのジョージ・W・ブッシュ大統領(息子)はテロに対する闘いを宣言した。
ラムズフェルド国防長官はウサマ・ビンラディンが容疑者であり、また単独の容疑者では
ないと発言した。
また同日、安保理で国際連合安全保障理事会決議 1368 が全会一致で採択された。この決
議は 9 月 11 日のテロ攻撃を「国際の平和及び安全に対する脅威」と認め、
「テロリズムに
対してあらゆる手段を用いて闘う」というものであった。また前段には「個別的又は集団
的自衛の固有の権利を認識」という言葉があり、これは同日に NATO が北大西洋条約に基づ
き、集団的自衛権の発動を決定する根拠となった(このテロの実行者は私的な集団・アル
カイダであり、アフガニスタンという国家ではないことに注目すべきで、国連安保理決議
もあくまでアルカイダに対してであった)。
この後、アメリカはアフガニスタンのタリバン政権にビンラディンらの引き渡しを要求
した。しかしタリバンは引き渡しに応じなかった。
9 月 18 日、ブッシュ大統領は武力容認法に署名した(つまり、ブッシュは国連安保理に
図ることなく、アメリカは単独でアフガニスタンのタリバン政権に武力を発動することを
決めた)。9 月 21 日、ラムズフェルド国務長官はアフガニスタンの北部同盟と共同して作戦
に当たることを発表した。また欧州連合外相会議も全会一致で攻撃を支持した。
9 月 28 日、国際連合安全保障理事会決議 1373 が採択され、国連加盟国にテロリズムの防
止と制圧に緊急に協力することが要請され、テロ組織への援助は禁止された。
アメリカはこの間に協力する国々と連合を組み、攻撃の準備に入った。これらの国は有
志連合諸国と呼ばれた。有志連合諸国は「不朽の自由作戦」という統一作戦名で、アフガニ
スタンを含むテロ組織勢力地域への作戦を実行することにした。これは国際連合憲章に定
められた国連軍ではなく、国連憲章第第 51 条によって定められ、事前に国連決議を必要と
しない集団的自衛権の発動によるという論理であった。
国連憲章第 51 条は、
「攻撃を受けた場合には」、個別的、集団的自衛を有するが、いろい
ろな条件がついている。この場合、テロはあったが、その後、アメリカが再度攻撃される
恐れはなかったので、自衛という論理には無理があった。また、連続テロを行ったのはア
ルカイダであり、アフガニスタンのタリバン政権ではなかった。しかし、事前に国連決議
を必要としない集団的自衛権を行使するという論理は米州機構、EU、そして日本を含む同
盟国と法学者に広く認められた(あくまで米側陣営だけの論理で国連安保理の決議ではな
かった)。
あくまでテロ攻撃に対しては自衛権は発動出来ないという見解の法学者もおり、いろい
ろな議論があった。自衛権は自衛の範囲、攻撃を受けた攻撃との均等性など、いろいろ制
約があることは述べた。とくにテロ攻撃を行ったのは、タリバン政権自体ではなく、その
511
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
庇護下にあるアルカイダであった。この場合、タリバン政権という国家に攻撃を行うのは
正当かという問題があった。また、テロに対しその国家を全面攻撃するという均衡性の点
でも問題があった。
アメリカとその同盟国はこのような議論に対して、①安保理決議 1368 および 1373 はテ
ロ組織援助禁止を規定しており、タリバン政権のアルカイダへの援助は問題がある、②タ
リバン政権は 1996 年以来、安保理決議 1267 および 1333 によるアルカイダ引き渡しの要求
を再三拒否しており、実質的な共犯関係にある、③友好関係原則宣言では、テロ組織の育
成を禁じており、タリバンの行為はこれにあたる、④11 月 14 日に定められた国際連合安全
保障理事会決議 1378 は「タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を
支援」するとあり、タリバン政権の打倒を明確に支持している、というものであった。
これに対し、否定する意見(自衛権を発動できない)としては、①タリバン政権は対す
る兵站支援や武器供与を行ったにすぎず、直接攻撃を行っていない、②1 テロ組織の行動を
タリバン政権の責任とするのは問題がある、③政権崩壊に至るというタリバン政府が受け
る結果は、自衛権の要件である均衡性要件を欠く(連続テロに対して、一国家に対する全
面攻撃によって政権を崩壊させるのはやり過ぎ)、というものであった。
国際司法裁判所で裁判をやっていないのでわからないが、多分、判例からみて国連憲章
第 51 条の自衛権の範囲を逸脱していただろう(連続テロ事件は悲惨な事件ではあったが、
テロ犯をかくまっているアフガニスタンに出かけていって、自衛戦争をしかけるというこ
とにはならないであろう)。
しかし、後述するように、安保理は結局、このアメリカなどの有志連合諸国の武力行使
を追認することになる。このように安全保障を担う国連の中心機関である安保理が、世界
で最強であることは確かであるが一加盟国であるアメリカの追認機関に過ぎないことにな
ってしまうことは好ましいことではなかった。
◇アフガニスタン戦争(紛争)
2001 年 10 月 7 日、 ブッシュ米大統領(息子)がテレビ演説で、アフガニスタンを「テロ
支援国家」と認定し、先制的自衛権(国連憲章では「先制的」自衛権などは認められていな
い)のためとして米英軍を中心にアフガニスタンへの武力行使を開始することを発表した。
軍事行動にはカナダ、オーストラリア、フランス、ドイツも参加し、領空通過などで 40 ヶ
国以上が協力すると表明した。ただちに B-2、B-52 など戦略爆撃機や空母からの攻撃機、
艦艇からの巡航ミサイルなど多数の兵器でタリバン支配地域への空爆が開始された。
アフガン攻撃は、アメリカの「テロ組織に対する自衛権の発動」として行われたものであ
り、攻撃を事前に容認する国連決議はなかった。これは国際連合憲章に定められた国連軍
ではなく、国連憲章第 51 条によって定められ、事前に国連決議を必要としない集団的自衛
権の発動によるという論理であった(集団的自衛権の発動は、第 51 条では「攻撃を受けた
場合には」となっており、この場合、自衛権の発動は論理的に無理であった)
。
512
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
日本の小泉純一郎首相は、ブッシュ政権の方針をいち早く支持し、10 月「テロ対策特別措
置法」を制定し、航空自衛隊輸送機による国外輸送、海上自衛隊艦艇によるアメリカ海軍艦
艇への燃料補給を開始した。
アフガニスタンでは、2001 年 11 月 、北部同盟軍が攻勢を開始し、9 日、北部のマザー
リシャリフ、ヘラートを制圧、13 日、首都のカブール、26 日 北部同盟軍がクンドゥズを
制圧した。タリバンの拠点はカンダハールのみになった。
アメリカ本土からの爆撃機のほか、空母から発着する戦闘機や攻撃機、ミサイル巡洋艦
からの巡航ミサイルが使用され、また無人偵察機が実戦で初めて活躍した。バーレーン司
令部も活用され、クウェートやインド洋のディエゴガルシア島の米軍基地からも航空機を
飛ばして攻撃した。またインド洋にはフランスの空母シャルル・ド・ゴールが展開し、空
爆の支援にあたった。
アメリカ軍を中心とする圧倒的な軍事力によって敵対勢力は粉砕され、主たる戦闘は約 2
ヵ月の比較的短期間で終結し、タリバン政権は消滅した。対テロ作戦の継続のため、なお
もアメリカの陸軍と空軍の計 2 万人が駐留を続けた。
2001 年 11 月 14 日に採択された国連安保理決議 1378 において「オサマ・ビンラディン、
アルカイダ及び彼らの協力者に安全な避難場所を与えているタリバンを非難し、また、こ
の文脈において、タリバン政権を交代させようとするアフガニスタン国民の努力を支援し」
とあるように、有志連合諸国と北部同盟によるタリバン政権の打倒は国際連合安全保障理
事会によって支持された。
また、その後の国内外の軍事行動は 1510、1386、1746 等複数の決議によって承認されて
おり、国連アフガニスタン支援ミッション等と連携して行われた。2001 年 11 月、ドイツの
ボンにおいて有志連合諸国、北部同盟を含む諸勢力の代表を国際連合が招集して会議が開
かれた。
これにより暫定政府の成立、ロヤ・ジルガ(パシュトゥーン語で大会議。部族長と長老
が参加)の招集、国際治安支援部隊(ISAF)の成立と国連アフガニスタン支援ミッション
(UNAMA)の説立が合意され、国連安全保障理事会において承認された(国連安保理決議
1383)
。これをボン合意といい、以降のアフガニスタン復興計画のスタートとなった。
12 月 7 日、北部同盟軍がタリバンの重要拠点カンダハールを制圧した。アフガニスタン
国内のタリバンの大部分は消滅し、戦争終結と見られた。残党掃討のための空爆や進攻は
継続された。
2001 年 12 月、国際治安支援部隊(ISAF)は国連安保理決議 1386、国連アフガニスタン
支援ミッション(UNAMA)は国連安保理決議 1401 によって正式に承認され、以降のカブー
ル周辺の治安維持活動は国際治安支援部隊(ISAF)が担うこととなったが、以後のアフガ
ニスタンの復興事業は省略する。
◇アフガン戦争からイラク戦争へ
《
「悪の枢軸」とブッシュ・ドクトリン》
513
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ブッシュ・ドクトリンとは、2001 年 9 月 11 日のアメリカ同時多発テロ事件、同年 11 月
~12 月のアフガニスタン侵攻、2002 年 1 月 29 日のブッシュ大統領の一般教書演説での「悪
の枢軸」発言、同年 5 月 1 日の国防大学演説における MAD(相互確証破壊戦略)体制の終焉
宣言などを経て、8 月 15 日の国防報告で明確に確立された新保守主義(ネオコン)の新戦
略思想であった。
このブッシュ・ドクトリンが現れるまでには、父親のブッシュ政権以来のネオコンとの
関係を説明する必要があろう。
ネオコンとはアメリカ合衆国における新保守主義(ネオコンサバティズム)の略称であ
るが、古くからの保守主義(共和党が多い)に対して、1970 年代から独自の発展をして、
共和党政権時のタカ派の外交政策姿勢に非常に大きな影響を与えるようになった。
ネオコンを支えているのは共和党の親イスラエル(シオニズム)政策を支持するアメリ
カ国内在住のユダヤ(イスラエル)
・ロビーである。アメリカのユダヤ系市民はアメリカの
総人口 3 億人に対して 600 万人に満たないが(2%)、そのうち富裕層の割合が多くアメリ
カの国防・安全保障政策に深く関わっている。イスラエルの右派政党リクード党も共和党
と利害が一致しているため手を結ぶことが多い。
父のブッシュ大統領のときにも、多くのネオコンが閣僚になっていたが、大統領が抑え
ていて主流派にはなれなかった。その父のブッシュ政権下のもとでも、チェイニー国防長
官、ウォルフォウィッツ政策担当国防次官、ルイス・リビー国防次官補(肩書きは何れも
当時)らが、1992 年 3 月、46 ページに及ぶ極秘事項の国防文書をまとめた。その骨子は次
のようなものであった。
ⅰ)世界の秩序はアメリカによって維持されなければならない。必要とあらばアメリカは、
単独でも行動する。
ⅱ)大量破壊兵器の製造及び使用、若しくはその恐れのある国家に対しては先制攻撃も辞
さず、ミサイル防衛の整備は急務である。
ⅲ)圧政国家、とりわけ、イラン、イラク、北朝鮮の脅威に対する対処は急務である。
しかし、同政権下ではベーカー国務長官やパウエル統合参謀本部議長らの影響力が絶大
で、同文書が日の目を見ることはなかった。
2001 年に登場した息子のブッシュ政権は、先代ブッシュ政権の思想・人脈をそっくり受
け継いでいたので、親父時代のネオコンが数多く仲間入りし(リチャード・チェイニー 副
大統領、ポール・ウォルフォウィッツ国務副長官、ジョン・ボルトン国際連合大使、リチ
ャード・パール国家防衛政策委員長など)、大統領の側近グループを形成していた。前述し
た 2001 年 9 月 11 日の同時多発テロ事件とその後のアフガン戦争まで、実質、ネオコンが
取り仕切っていた。
そして、先代時代の非主流派が今度は主流派となってブッシュ・ドクトリンの新戦略思
想をつくりだしたものと思われる。
514
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
まず、ブッシュ大統領は 2002 年 1 月 29 日の一般教書演説においてイラク、イラン、朝
鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は「悪の枢軸」であると名指しで非難した。当時、イラク、
イラン、北朝鮮は大量破壊兵器を開発もしくは保持しているものと見られており、またテ
ロ組織を支援しているものとみなされていた。
イラクは湾岸戦争後の取り決めで大量破壊兵器の破棄および国連による査察団の受け入
れが課されていたにも関わらず、1999 年の武器査察団に非協力的態度を示していた。また、
北朝鮮は国際原子力機関(IAEA)の査察団を追放し、国際条約を破棄して核開発に乗り出す
など、とくにこの 2 ヶ国が注目された。
さて、そのブッシュ・ドクトリンであるが、2002 年 8 月 15 日の国防報告の「Ⅴ.我々や
我々の同盟国と友好国を敵が大量破壊兵器で脅かすことを阻止する 」では、以下ように記
されている。
《ならずもの国家には先制攻撃も辞さず》
米ソの核軍拡で相互に破壊を保証し合うという冷酷な戦略(MAD。相互確証破壊戦略)が
生み出された。ソ連の崩壊と冷戦の終結とともに、我々の安全保障環境は根本的な変革を
遂げた。アメリカとロシアとの関係の基本は対立から協力へと変化し、その利益は明白だ。
それは、我々を分断していた恐怖の均衡の終結、両陣営における核兵器の歴史的な削減、
反テロリズムやミサイル防衛といった分野における協力などだ。
しかし、ならずもの国家とテロリスト達が、新たな深刻な課題を引き起こしている。こ
うした現在の脅威のどれも、ソ連が我々に対して配備した破壊的な力とは比べものになら
ない。しかし、こうした新たな敵の性質と動機、今までは世界の最強国にのみ許されてい
た破壊力を持とうという彼らの決断、そして、我々に対して大量破壊兵器を使う可能性が
増していることが、今日の安全保障環境をさらに複雑に危険なものとしている。
(中略)
湾岸戦争の時に、我々は、イラクの目的が自国民やイランに対して用いられた化学兵器
だけに限定されるのではなく、核兵器や生物兵器を手に入れることにまで広がっていると
いう反駁(はんばく)の余地のない証拠を入手した。過去 10 年の間に、北朝鮮は世界の主
要な弾道ミサイルの供給元となり、さらに性能の高いミサイルの実験を繰り返している。
また、国産の大量破壊兵器を開発してきている。他のならずもの国家も、核兵器や生物化
学兵器を得ようとしている。こうした武器をこのような国家が得ようとし、国際的に取引
することは、すべての国家にたちはだかる脅威となった。
我々は、ならずもの国家と彼らが支援するテロリストが我々を脅(おど)したり、合衆
国やその同盟国と友好国に対して大量破壊兵器を使用できるようになったりする前に阻止
しなくてはならない。我々は、強化された同盟、以前の敵との新しい協力関係の確立、軍
隊利用の革新、効果的なミサイル防衛システムの開発を含む先端技術、情報収集と分析の
さらなる重視といった好条件をじゅうぶんに活用して対応をはからねばならない。
(中略)
515
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この新しい脅威の真の性質を我々が理解するまでに、ほぼ 10 年かかってしまった。なら
ずもの国家とテロリストたちの目的を知った以上、合衆国はもはや今までのようにたんに
素早く反応する受身の態勢にのみ頼っているわけにはいかない。将来我々を攻撃するかも
しれない者を防ぐことができないこと、そして、今日のさしせまった脅威、我々の敵が選
ぶ兵器によって引き起こされるかもしれない被害の規模を考えれば、そのような選択は許
されない。我々は、敵に最初に攻撃させるわけにはいかないのだ。
冷戦において、ことにキューバ危機以後、我々が向き合った敵は、概して現状維持的、
リスク回避的であった。その時には抑止力は効果的な防衛だった。しかし、報復の脅しの
みに基づく抑止力は、ならずもの国家の指導者たちには、ほとんど通用しないだろう。彼
らは自国民の生命と自国の富を賭けて危険を冒すことを厭(いと)わないからだ。
冷戦において、大量破壊兵器は、使った者自身が破滅する危険を冒す、最後の手段とし
ての兵器と見なされていた。今日、我々の敵は大量破壊兵器を選択肢の一つと見ている。
ならずもの国家にとって、こうした武器は近隣国に対する脅しと軍事的侵略の道具だ。ま
た、ならずもの国家は、大量破壊兵器を用いて合衆国とその同盟国を脅迫し、我々が彼ら
の攻撃的な行動を防いだり反撃したりすることができないようにするかもしれない。こう
した国家は、このような武器を、通常兵器における合衆国の卓越をしのぐ方法と見ている。
伝統的な抑止力の概念は、理不尽な破壊と罪のない人たちを標的にする戦術を公言して
いる敵のテロリストには通用しない。テロリストのいわゆる「戦士たち」は殉死を求め、
テロリストのもっとも有効な防御は国家を持たないことだからだ。テロを支援する国家と
大量破壊兵器を求める者とが重なりあうので、我々は行動を起こさざるを得ないのだ。
アメリカの国益を守るため、テロリストおよびテロ支援国家に対し、必要に応じて自衛
権に基づく先制攻撃を行いうるというもので、ブッシュ大統領の「世界はアメリカ側につ
くのか、 テロ側につくかのいずれかだ」という言葉がその性格をよく表している。
何世紀にもわたって、国際法は、国家に対して差し迫った攻撃の危険がある場合には、
その危険を引き起こす武力から自衛するための合法的な行動を取るために、みすみす攻撃
を受けるのを待つ必要はないと認識してきた。法学者や国際的法律家は、先制攻撃の合法
性の条件を差し迫った脅威の存在に置いてきた。それは、多くの場合、攻撃準備のために
陸海空軍を目に見えるかたちで動員、配備することである。
我々は、差し迫った脅威という概念を、現在の敵の能力と目的に適合させなくてはなら
ない。ならずもの国家とテロリストたちは、通常の方法によって我々を攻撃しようとはし
ていない。彼らは、そのような攻撃は失敗することを知っている。その代わりに、彼らは
テロ行為に頼る。また、彼らが大量破壊兵器の使用に頼る可能性もある。こうした兵器は、
たやすく隠し、ひそかに運び、警告なしに使うことができる。
このような攻撃の標的は我々の軍隊と我々の市民たちだ。民間人を標的にすることは、
国際戦争法規の主要な規範の1つに直接違反する。2001 年 9 月 11 日の犠牲者の方々によっ
て示されるように、多くの市民を犠牲にすることがテロリストの明確な目標なのだ。そし
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
て、もしテロリストたちが大量破壊兵器を手に入れ、使用したならば、こうした犠牲者は
飛躍的に増えることだろう。
合衆国は、我々の国家安全保障に対する強力な脅威に対抗するために、先制行動の選択
肢を長らく保持してきた。脅威が大きければ大きいほど、行動しないことの危険性が高ま
る。そして、たとえ敵の攻撃の時間や場所に関して不確かな要素が残っているとしても、
我々を守るために、先を見越した行動を取らざるを得なくなる。我々の敵による敵対行動
を出しぬいたり防いだりするために、合衆国は、もし必要ならば、先制的に行動する。
合衆国は出現する脅威に対して先制行動をする際に、つねに軍事力を用いるわけではな
い。また、国々は侵略の口実として先制攻撃を用いるべきではない。しかし、文明の敵が、
公然と、活発に、世界でもっとも破壊的な技術を手に入れようとしている時代においては、
合衆国は危機が迫っているのに手をこまねいているわけにはいかない。我々は、常に我々
の行動の結果を考慮しながら、慎重にことを進めていく。先制行動の選択肢を支持するた
めに、我々は以下のことを行う。(中略)
我々の行動の目的は、常に、合衆国及び我々の同盟国と友好国に対する具体的な脅威を
取り除くことである。我々の行動の理由は明確で、軍事力はじゅうぶん評価でき、大義は
正しい。
以上が 2002 年 8 月 15 日の国防報告の一部である。
この 21 世紀の時代に(ローマ帝国の時代ならいざ知らず)、これほど露骨に率直に自国
とその同盟国の生存だけを念頭において、それ以外の国は文明の敵として「世界はアメリ
カ側につくのか、 テロ側につくかのいずれかだ」と先制攻撃も辞さないという(国連憲章
第 51 条は「攻撃を受けた場合には」自衛の権利が認められるとされていたが、それをも無
視するという)宣言であった。この論理はまったく覇権国の論理で、我々には「先制攻撃」
の大義名分があると言っている。「こうした兵器は、たやすく隠し、ひそかに運び、警告な
しに使うことができる」ので、「先制攻撃」でやってしまうというのである。
しかし、「先制攻撃」の前例を開けば、それは「先制攻撃」の応酬となり、世界は恐怖の巷
と化すことは間違いない。そもそも、原爆を、水爆を、核ミサイルを、多弾頭核ミサイル
を、核抑止力を、確証絶滅戦略も、SDI も、MD も、アメリカがすべてこの 70 年間で世界に
先導して開発導入してきた兵器である。すべて軍民の差別もない大量破壊兵器である。人
類の「創造と模倣・伝播の原理」でそれはたちまち、世界に普及してしまうことは本書で
縷々述べてきたところである。
アメリカは国連でこのような大量破壊兵器の禁止のための行動をとったことがあったの
か(軍縮や人道にもとる兵器の禁止も国連の重要な機能の一つであるが、この分野での国
連の活動にもっとも不熱心なのはアメリカ自身である)。たえず、アメリカは経済力と科
学技術の優越性にまかせて、人類にとって危険な新兵器を生み出して他国を抑圧しようと
する政策をとってきたのではないか。そこには意見を異にする国々、人々とも対話すると
いう態度はまったくなかったのではないか。
517
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
要するにと「世界はアメリカ側につくのか、 テロ側につくかのいずれかだ」と言って、
アメリカ側につかない国はアメリカの敵だと片付けてしまえというのである。これで、ま
すます複雑となってきている現代世界がおさまると思っているところに現代のアメリカ指
導層の時代錯誤を見ることができる(ベトナム戦争の歴史はまったく忘れ去られている)。
この現代とそして近未来の世界において、平和を維持するためには、人間というもの、地
球というものについての深い熟慮と叡智が必要になっている。
思い起こしてほしい。50 年前にケネディがアメリカン大学で行ったあの演説を(1963 年
6 月 10 日)。「平和のための戦略」というあの演説を。
私の言う平和とは何か? 我々が求める平和とは何か? それはアメリカの戦争兵器に
よって世界に強制されるパックス・アメリカーナ(アメリカの押しつけの平和)ではあり
ません。そして墓場の平和でもなければ、奴隷の平和でもありません。戦争が新しい様相
となったがゆえに、私は永遠の平和を語りたいのであります。(中略)
我々のもっとも基本的なつながりは、我々全てがこの小さな惑星に住んでいることであ
ります。我々はみな同じ空気を呼吸しています。我々はみな子供たちの将来を案じていま
す。そして我々はみな死すべき運命にあります。
(中略)
平和とはアメリカ人のためだけのものではありません。すべての人々のためのものなに
です。いまだけのものではなく、今後ずっといつの時代にも続くべきものなのです。
(中略)
いま直面している問題は人間がつくり出したものです。それゆえ、人間によって解決でき
るものなのです。
(中略)
この演説が 50 年前のアメリカの叡智と現代のアメリカの政治のレベルとの落差を示して
いる。ケネディの 1 世代前にはウィルソンやルーズベルトがいた。彼らは人類の進むべき
道を指し示した。人類の「正義、正当性」を指し示していた。だから世界をリードできた
のだ。その 3 世代後の現代のアメリカは人類古来の宿弊ともいうべき「身内主義」
、つまり、
自分たちの仲間、自分たちの国、自国の同盟国のことだけを考えているのである。他はす
べて敵である。これでは人類が歩むべき「正義、正当性」の流れからははずれている。こ
れでは世界は指導できない。
本論の 2002 年 8 月 15 日の国防報告に返る。
国連憲章第 51 条は、「攻撃を受けた場合」にだけ自衛の権利を認めており(第 2 次世界
大戦後、アメリカはそれをほとんど守ってはいなかったが)、それが国際紛争の歯止めに
なっていたが、アメリカは自分で開発した兵器によって、自国が危なくなったと言って、
ついに、国連憲章をまったく反故にして「先制攻撃」もやるというのである。
518
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
「伝統的な抑止力の概念は、理不尽な破壊と罪のない人たちを標的にする戦術を公言して
いる敵のテロリストには通用しない。テロリストのいわゆる「戦士たち」は殉死を求め、
テロリストのもっとも有効な防御は国家を持たないことだからだ」という。
「理不尽な破壊と罪のない人たちを標的にする戦術」というが、もともと「理不尽な破
壊と罪のない人たちをもすべて殺戮してしまう核兵器」を生み出したのはアメリカではな
かったか。ヒロシマとナガサキでその理不尽な破壊と罪のない人たちを標的にしたのはア
メリカではなかったのか。そのような核兵器を廃絶するためにアメリカは何をしたという
のか。核兵器は、毒ガス、生物兵器、化学兵器、地雷(これらはジュネーブ協定違反で禁
止されているが)どころではないジュネーブ協定違反の最たる兵器ではないか。即刻、こ
の「理不尽な破壊と罪のない人たちをもすべて殺戮してしまう核兵器」を国連で禁止すべ
きなのに(1945 年以来、要請されているが、アメリカの反対で禁止されていない)、それ
を棚上げにして、その兵器を世界中に数万のオーダーで配備しているのはアメリカ自身で
はないか。
人間の命は、ならずもの国家の人間も,アメリカ人も同じである。「テロリストのいわ
ゆる「戦士たち」は殉死を求め、テロリストのもっとも有効な防御は国家を持たないこと
だからだ」といっているが、強力な武器で追い詰め、空爆を繰り返せば、国家は持てなく
なるし、殉死も覚悟して戦うテロリストにならざるを得ないのが人間ではないか。アメリ
カは、命を捨ててでもと思う人間の気持ちを一度でも考えたことがあるか。「理不尽な破壊
と罪のない人たちを標的にする戦術」というが(これを奨励するわけではないが)、「理不
尽な破壊と罪のない人たちを何万、何十万と殺傷する兵器」をこの世に送り出して、しかも
数万基も世界中に配備し、人類の未来に恐怖を与え、時がたつにつれて(核保有国が増え)
恐怖が増大している現実をつくり出しているのはどこの国か。これこそ文明の顛倒ではな
いか。
人類の長い歴史は必ず、(本書で縷々述べたように)それが自分に返ってくることを示
しているのではないか。「先制攻撃」で相手を抹殺すればすむものではないことを歴史は証
明しているのではないか。それをやれば、ただちに「先制攻撃」の応酬がはじまることにな
る。
以上のようなブッシュ・ドクトリンの流れをみると、ブッシュ大統領(とネオコンの仲
間たち)は、先代ブッシュ大統領のときに湾岸戦争で前科がある「ならずもの国家」のひと
つイラクをかなり早くから、先制攻撃の対象にしていたようである。
結局、この後、イラクにも侵攻し,同時多発テロとは関係なかったフセイン政権も壊滅
させることになったが、この 2003 年のイラク戦争はブッシュ・ドクトリンの適用によって
正当化されたのである。アメリカの強大な武力を背景に、一見、国連憲章第 51 条の集団的
自衛権でよそおって、アメリカの自衛権に基づく他国への先制的防衛であるとして(この
場合はイラクという国家を滅亡させるという最大限の干渉)、このブッシュ・ドクトリン
が使われることになったのである。
519
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
つまり、側近政治、お仲間グループの政治は、民主的なチェックがはいらないから(入
った形をとっているが、お仲間がうまくすり抜けさせる)、結果としてイラク戦争などの
ような、何でもない国を滅亡させるような大罪を犯してしまう。そして、知らぬ顔をして逃
げおおせてしまう。それが今の民主国家アメリカである。民主国家といっても安心出来な
いのである。
イラク戦争については、フランスが拒否権まで発動して、アメリカの多国籍軍を阻止し
ようとしたとき、ブッシュ大統領がなぜ、そんなに攻撃を急ぐのか理由がわからなかった。
しかし、それはブッシュ・ドクトリンを実施しようとしたのである。
米ソの 2 大核時代には核抑止力が実効性があったが(実際は米ソはアウンの了解で核攻
撃はしないことにしていた)、21 世紀になり核保有国が 8 ヶ国にもなると(この当時はま
だ、北朝鮮は核開発に成功していなかった)、核抑止力がきかなくなり、むしろ、核をも
っていると、核先制攻撃の可能性が高くなると考えられるようになってきた。
たとえば、イスラエルの場合、第 1~4 次の中東戦争ではすべて勝ったが、核時代になり、
(イスラエル自身は密かに核兵器を 80 発ぐらい持っているといわれている)、どこかから
核を一発先制的に打ち込まれたら、イスラエルのような小国はそれで終わりである(だか
ら、周辺のイラク、シリア、イランなどがやっきになって核開発をしようとしたのである)。
イスラエルにとって周囲のイスラム国家が一つでも核保有したら終わりであると考えるよ
うになっているのである。
それで、今までもイスラエルは奇襲攻撃でイラクやシリアの核施設を破壊してきたが、
イラクのフセインが核保有に成功したかもしれないという懸念→アメリカのネオコンは、
イラクへの先制攻撃の必要性を痛感→ブッシュ・ドクトリンで理屈づけ→とにかく、イラク
を叩いてみれば、大量破壊兵器、つまり核兵器が出てくる、それで御用とすればよい、と
にかく、攻撃しろとなった。ネオコンに牛耳られた覇権国家アメリカは国連も国際法もな
い、まずは武力行使、そうすれば自ずと結論は出る、まず、やってしまえ、それから理屈
をつけろとなったようである。
そこで、2001 年 10 月~12 月のアフガニスタン戦争の圧倒的勝利でアメリカ国民が高揚
しているこの機会をとらえて、イラクも始末してしまえ、核兵器が発見されれば、今度も
国民はそれを認めてくれるとなったのであろう(日本においても、満州事変や日華事変に
おいて、いろいろ謀略を行って戦争を起こしたが、勝ってしまえば、中央政府も天皇も国
民も追認してくれるという考えであったことは述べた)
。
具体的にブッシュとネオコンのお仲間は、次のようにしてそれをやった。
《国連安保理決議 1441 と米英の見切り発車》
2002 年 11 月 8 日、イラクに武装解除遵守の「最後の機会」を与えるとする国連安保理決議
1441 が全会一致で採択された。これは、イラクが武装解除義務の重大な不履行を続けてい
ると判断し、さらなる情報開示と査察の全面受入れを求めたものであった。
520
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
これに対してイラクも重大な局面にきていると考え 4 年ぶりに査察を受け入れた。また、
同決議の第 3 項が定めるところに従い、イラクは武器申告書を査察団に提出した。これは
12,000 ページにのぼる膨大な文書だった。
2003 年 1 月 9 日、武器査察を行った国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)のハンス・ブリ
クス委員長と IAEA のモハメド・エルバラダイ事務局長は安全保障理事会に調査結果の中間
報告を行った。この中で、大量破壊兵器の決定的な証拠は発見されていないものの、昨年
末に行われたイラク側の報告には「非常に多くの疑問点」があり、申告書には「矛盾」が
あるとした。また、ハンス・ブリックス委員長は英米などからの情報の提供を歓迎すると
も述べた。英米はこの時期、イラクが国連決議に反しているとの指摘を公の場で行ってい
た。アメリカの国務省長官、コリン・パウエルはアメリカが査察団に対して情報提供を行
うことを表明した。
また、イラク側が国連ヘリコプターによる飛行禁止区域の査察を拒否するなど、査察非
協力も明らかになった 1 月 16 日には申告書に記載されていなかった化学兵器搭載可能なミ
サイル 12 基が国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)によって発見された。このためアメリ
カとイギリスは、イラクが安保理決議 1441 に違反したものとして攻撃の準備を始めた。
2003 年 2 月 5 日には、イラクが大量破壊兵器を隠し持っていることを示す証拠をアメリ
カ側が国連安保理にて提示した。しかし、このパウエル報告において重要な情報源として
高く評価され、引用されていたイギリス政府による報告書が、実は最新の情報ではない、
イラクの研究を行うアメリカの大学院生の 1991 年の論文からのかなり長い無断引用を含ん
でおり、パウエルは後に「私の生涯の汚点であり、報告内容はひどいものだった」と認め
ることになった(つまり、アメリカはイラクに対する戦争(武力行使)をやめるのではな
く、何らかの理由をつけて,この際、攻撃しようと思っていたとしか思えない行動をとっ
ていた)。
2 月 14 日、査察団の報告が再び行われた。報告ではイラクの武装解除の進展を積極的に
評価しつつも、査察が完了しておらず、まだ時間が必要であることが示唆された。2 月 21
日、ブリクス委員長は 3 月 1 日までにアルサムード 2 の廃棄に当たるようにイラクに指示
した。2 月 27 日、イラクはアルサムード 2 の廃棄を表明し、廃棄にとりかかった。
しかしアメリカ・イギリス側は査察は不十分であり、イラク側の対応が改まらないとし
て、戦争をも辞さないとする新決議を提案したが、フランス等は査察は成果を挙げている
のだから査察を継続すべきと主張した。国際連合安全保障理事会でも議論が積み重ねられ、
途中、理事国のチリなどが修正案も提示したが、米英側は断固拒否した。安保理で焦点に
なったのは、中間派と呼ばれたチリを初め、パキスタン、メキシコ、カメルーン、アンゴ
ラ、ギニアの各国だった。
3 月 7 日、国連監視検証査察委員会(UNMOVIC)は 2 度目の中間報告を行った。アメリカ
は査察が不十分であるとして、攻撃に関する決議採択を行おうとしたが、フランスは査察
期限の延長を求めた。アメリカはフランスが拒否権を発動した場合でも賛成多数の実績を
521
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
残すために、非常任理事国に根回しを行った。アメリカ、イギリスに加え、この時点で理
事国ではない日本は、態度が不明確な非常任理事 6 ヶ国に決議賛成の根回しを行ったが、
最終的に米英日などの根回しは失敗し、安保理では、反対多数で仏が拒否権を発動する必
要なく、新決議案が否決される見通しとなった(当時の理事国 15 ヶ国のうち、賛成表明は
アメリカ、イギリス、スペイン、ブルガリアの 4 ヶ国だけだった。フランス、ロシア、中
国、ドイツ、シリア、チリ、パキスタン、メキシコ、カメルーン、アンゴラ、ギニアの 11
ヶ国は反対または棄権の見込みとなった)。決議案は採決されなかったが、結果的にみると、
この時点でのアメリカのイラク攻撃に正当性はないと安保理各国は判断しており、国連の
安全保障に関する仕組みはうまく機能していたと考えられる。
アメリカは、今度は安保理で否決の結果が残ることを恐れて裁決を避け、3 月 17 日(ア
メリカ標準時間)に、ブッシュ大統領はテレビ演説を通じて、イラクに対して 48 時間以内
にサダム・フセイン大統領と側近、家族の国外退去などを要求する最後通告を出したが、
イラクはこれを無視した(国連決議なしであるから、これはアメリカの私的な武力行使(戦
争)となり、国連憲章違反である)
。
ブッシュ大統領が、なぜ、フランスなどが言う査察期限の延長とその結果を待てなかっ
たのか。前述したように、ブッシュ・ドクトリンによって布石を打っていたように、イラ
クに対する「先制攻撃」によって、フセインを打倒して,直接、イラクを捜索すれば核兵
器の証拠が発見されるとブッシュ大統領自身も取り巻き連の言動や偽の証拠で確信してし
まったのであろう。パウエルですらそうだったのだから。
フセイン大統領の方は、捕縛後に語っていたことは、大量破壊兵器は破棄して持ってい
なかったが、周辺諸国との関連でまったく持っていないことがわかるのは不利であるので、
持っているように装っていたと本音を述べている。また、この時点で本気でブッシュが攻
撃してくるとは思っていなかったとも述べている。
1 国の運命を決める戦争が今の時代でもこの程度で為政者の思惑一つで、決められていた
のである。しかもこれは当然、国連憲章違反となる(国連憲章は「攻撃を受けた場合には」
という「自衛」の戦争しか認めていない。アメリカにとってイラク攻撃は自衛ということは
ありえない。ブッシュとしては、100%核兵器が発見されるだろうから、そのときに「先制
的自衛権」で核兵器の危険を取り除いたと宣言して、アメリカの「正当性」を主張しよう
と考えていたのだろう。それは決して国連憲章上「正当性」をもつものではないが)
。国連
の仕組みでトップ同士の話し合いの場(ブッシュ・フセイン会談)をもたせるとか、いろ
いろな仕組みがつくれるはずである。これでは昔と同じである。つまり、アメリカ(ブッ
シュ)は、勝てる戦争であるから、まず、かたづけて、大量破壊兵器を目の前に見せれば、
誰も(どの国も)文句はいわず、手っ取り早いという、いつもの覇権国家の奢りがあった
のであろう。過去の帝国主義国がやったのと同じ考えではないか。
◇イラク戦争の開始
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
結局、アメリカは攻撃に関する決議採択をさけて(逆に言うと国連の攻撃決議なしで、
というより、現時点での攻撃反対の国連の意向を無視して、実質、アメリカの独断で)、
イラク攻撃を開始した。同じ多国籍軍といっているが、湾岸戦争時とはもちろん(このと
きはフセインの明らかな侵略戦争であった。国連決議を得ていた)、アフガン戦争時とも
異なり(同時連続テロに対する自衛?)、イラク攻撃の「正当性」を国連でも世界に対して
も,「納得」させないで、そそくさとアメリカとその取り巻き国の集団軍を組んでイラク攻
撃に移ったのである(アメリカが国連でこのような先例をつくると、今後出てくる覇権国
家が「創造と模倣・伝播の原理」で模倣をすることをおそれる。もっとも、冷戦時代には、
アメリカはベトナム戦争など、ちょくちょくやっていたのではじめてではないが、一応、
冷戦が終結してゴルバチョフなどによって、国連が本来の機能を発揮し始めていたのに、
図 89(図 9。P471)のように、それをもとに返してしまった)。
以上、米英が主張した開戦事由をまとめると、
ⅰ)イラクは大量破壊兵器の保有を過去公言し、かつ現在もその保有の可能性が世界の
安保環境を脅かしている。
ⅱ)独裁者サダム・フセインが国内でクルド人を弾圧するなど多くの圧政を行っている。
ⅲ)度重なる国連査察の妨害により、大量破壊兵器の廃棄確認が困難である。
ⅳ)度重なる査察妨害によって、湾岸戦争の停戦決議である国連安保理決議 687 が破ら
れている。
ⅴ)国際連合安全保障理事会決議 1154 で「いかなる侵害も、イラクにとって最も重大な
結果をもたらすであろう」という、湾岸戦争停戦協定破棄条件の決議、つまり最終警告
がされていた。
ⅵ)決議 1441 では『最後の機会』が与えられたにもかかわらず、イラク側は査察に積極
的な協力をしていない。
ⅶ)フセインとアルカイダが協力関係にある可能性がある。
というものであった。
この最後のⅶ)については、まったく、証拠はなく、ブッシュはアメリカ国民の連続多
発テロに対する怒りをアフガンからイラクに関連づけて利用しようとしたのである(今で
も連続多発テロからアフガン、イラク問題が起きたと思っている人がアメリカにも世界に
も多いが、逆に言うと、連続多発テロ=アフガン、アフガン=イラクであり、ⅶ)だけが
アフガンとイラクを繋いでいる理由である。これが切れればもともとイラクはまったくア
メリカに攻撃される理由がなかった)。
むしろ、アメリカ国内にもフセインとアルカイダとの関連には疑問視する専門家が多か
った。イスラムといっても、フセインのバース党は世俗主義であり、アルカイダは極端な
イスラム原理主義で、相容れない敵対関係にあるはずで、明らかな捏造であった。
アメリカ国民もⅶ)がなければ、イラク攻撃にあれほど熱狂してブッシュ支持をしなか
っただろう。一番騙されたのはアメリカ国民であった。つまり、国民国家をつくったのは
523
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
戦争であると述べたが、国家は強ければ、いつでも戦争をしたがるのである(いつでも隠
された理由を秘めて)。
フランス、ドイツなどは開戦するなら決議 1441 以外に新たな安保理決議を付加すべきと
主張した。それに対して米英側は、1441 は無条件の査察を求めているのに対してイラク側
が条件をつけてきたため、米英及び同盟国は開戦に踏み切ると応酬し、ついに国連の同意
を得ることなしに(国連の同意得る見通しがなかったので)一方的に武力行使に踏み切っ
た。
《イラク戦争》
2003 年 3 月 17 日、
先制攻撃となる空爆を行った後、
ブッシュ大統領はテレビ演説を行い、
48 時間以内にフセイン大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最
後通牒を行った。しかし、フセイン大統領は徹底抗戦を主張して応えなかったため、2 日後
の 3 月 19 日に予告どおり、イギリスなどと共に「イラクの自由作戦」と命名した作戦にのっ
とって、攻撃が開始しされた。
翌 3 月 20 日には制空権が確実な状態で陸上部隊が進攻を開始した。ウムカスルやルメイ
ラ油田を攻略し、南部最大の都市バスラの攻防戦で幾分足止めを食らったが制圧した。鉄
道と道路沿いを西に向かい、ナーシリーヤでクートに北上する部隊とサマーワを経てユー
フラテス川沿いにヒッラを目指す部隊に分かれ、4 月にバグダッドで合流して突入、これを
攻略した。
この攻略に際してアメリカ進攻部隊が途中で待ち伏せ攻撃に苦しんでいるとの情報を出
し、バグダッド市内にいた共和国防衛隊、特別共和国防衛隊の戦車などが進攻部隊攻撃の
ため市内を出たところを空爆によって大半を破壊した。これは市内での空爆の困難さから
うまく市街地の外に戦車などを出す戦術であった。合わせて北部のモスル、ティクリート、
キルクークは空挺隊が攻略し、西部の砂漠地帯も同様に攻略した。 全土の攻略に 1 ヶ月強
というすさまじい速さでの占領であった。
《戦場のテレビ化、ロボット化》
投入された兵力は 1991 年の湾岸戦争が 66 万人であるのに比較して、26 万 3000 人(アメ
リカ陸軍とアメリカ海兵隊で約 10 万人、イギリス軍 3 万人。海空軍、ロジスティク、イン
テリジェンスなどをふくめるとアメリカ軍約 21 万 4000 人、
イギリス軍 4 万 5000 人、
豪 2000
人、ポーランド 2400 人)と非常に少なかった。GPS 誘導爆弾やレーザー誘導爆弾など高性
能の武器を効果的に用いることで特定の拠点を効率的に破壊する戦法をとったからであっ
た。
これは、1991 年の第 1 次湾岸戦争後にパウエルによって提唱された「パウエル・ドクト
リン」と呼ばれる戦争のスタイル(圧倒的な兵力を投入し、短期間での勝利を目指すもの)
と対照的であった。各国の軍事専門家の間でもイラク戦争における米軍の戦術がどの程度
功を奏するかについては注目され、あるいは心配されていた。この計画を積極的に提唱し
たのはラムズフェルド国防長官だと言われている。同長官はかねてより、パウエル・ドク
524
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
トリンはベトナム戦争からの教訓として形成された「ワインバーガー・ドクトリン」の亜
流であり、時代遅れになりつつある、との見解も表明していた。
実際にイラク戦争では、開戦劈頭における航空機のピンポイント爆撃をはじめとする空
爆と巡航ミサイルによる結節点の破壊によってイラク軍の指揮系統は早期に崩壊した(し
かし、実際は後述するように第 1 次湾岸戦争での経験からフセインは圧倒的なアメリカ軍
等の攻撃に対しては正規軍を組織的に地下に隠れさせて、その後、ゲリラ戦で消耗させる戦
術に切り替えていた。現実、イラク戦争はその後、泥沼化していった)。
組織的抵抗力を開戦直後にほぼ喪失したイラク軍は、各地で散発的に抵抗するしかなく
なり、アメリカ軍は完全に戦争の主導権を握った(と思った)。 事前の大方の予想を裏切
り、アメリカの陸上部隊も迅速にバグダッドまで進軍することに成功した。このことはア
メリカの圧倒的軍事力を一時的なイメージだけであれ世界中に見せつける結果となった。
軍事大国アメリカの存在感をいっそう高め、中東を始め世界各国に改めて示すことができ
た訳である(ここでブッシュは有頂天になった)
。
この戦争では無人偵察機がアフガニスタンに引き続いて使用され、続く占領下の武装勢
力との抗争では、遠隔操作の無人自走機関銃がアフガニスタンと共に初めて実戦投入され、
戦場のロボット化が進んだ。
イラク戦争は 2003 年 5 月 1 日、ブッシュ大統領の「戦闘終結宣言」によって、連合軍は圧
倒的勝利という姿で、形式的にはイラクへの攻撃を終了した。イラクはアメリカ軍のバグ
ダッド進攻によるフセイン政権崩壊以降、国連安保理決議 1483 に基づいてアメリカ国防総
省人道復興支援室および連合国暫定当局(CPA)の統治下に入って復興業務が行われること
となった。
《大量破壊兵器はなかった》
戦闘が一段落すると、この戦争の主目的であった大量破壊兵器の捜索が始まった。前述
したように、大量破壊兵器の保有に関しては国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会
(UNSCOM)のリッター主任査察官、IAEA のエルバラダイ事務局長(肩書きはいずれも当時)
らは当初から否定的であったが、今度はイラク政府に邪魔立てされることなく、どこでも
捜索ができるはずであった。
イラク国内に入ったアメリカ軍は、血ナマコになって大量破壊兵器の捜索を行った。ま
た、国際連合監視検証査察委員会(UNMOVIC)も現地入りし捜索を行った。しかし必死の捜
索にも関わらず新たな大量破壊兵器は発見されず、2004 年 9 月 13 日にパウエル国務長官は
「見つからないだろう」と捜索断念を明らかにした。
UNMOVIC の報告ではイラクが大量破壊兵器に該当しないとしていたアルサムード 2 ミサイ
ルの射程が安保理決議違反であると認定されたほか、炭疽菌、タブン、ソマンなどの生物
兵器・化学兵器廃棄情報が確認されないなど、イラク側が申告した内容には虚偽の内容が
あることが明らかになった。しかし、ブッシュ政権がもっとも強調していた核兵器につい
ては、痕跡すら発見できなかった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2004 年 10 月にはアメリカが派遣した調査団が「イラクに大量破壊兵器は存在しない」と
の最終報告を提出した。大量破壊兵器の情報の信憑性が薄いものであったことが明らかに
なった。
《アメリカは民主主義国家か》
イギリスなどアメリカに追従した多国籍軍は、国連憲章第 51 条の集団的自衛権を発動し
たつもりだろうか。集団的自衛権の論理で言うとイギリスはアメリカと同盟している。そ
のアメリカがイラクから攻撃を受けたなら(これもどれほど致命的な攻撃であるかによる)
、
イギリスがイラク攻撃してもよいことになろうが(それも攻撃に見合う程度という条件が
あるが)
、アメリカはイラクから全く攻撃を受けていない。
逆に(アメリカはもちろんであるが)イギリスがイラク攻撃したのは国連憲章違反であ
ったことになる。集団的自衛権の論理にものっていない。つまり、先制的自衛権の発動で
あったのである。民主主義の本家といわれるイギリスもアメリカの「先制的自衛権」にの
せられて、とんでもない汚名をこうむることになったのである(ブレアの責任が問われる
のは当然である)
。
つまり、イギリスがイラクを攻撃したことは、「攻撃を受けた場合には」という第 51 条
の「自衛権」発動の条件に違反するどころか、イラクに理由もなく攻撃をしかけたことに
なる。このように国連憲章第 51 条の集団的自衛権は、まったく論理的でない(不合理な)
自己流の解釈によって、同盟国を国連憲章違反の戦争に導いてしまうのである(2014 年、
日本はアメリカを想定して集団的自衛権の行使を容認する閣議決定をしたが、前述のよう
にアメリカの集団的自衛権は 81%が国連憲章違反であった。イギリスのブレア首相は立派
な政治家であったが、イラク戦争ではブッシュのブルドックと揶揄され失脚してしまった。
見境もなくアメリカに追随すると日本の首相もブレア首相の二の舞になるだろう)。
もはやアメリカは国際法を無視する(国連をないがしろにする)無法国家になってしま
っている。イギリスなどアメリカに追従した国々は、無法国家アメリカに「みんなで渡れば
こわくない」と追随して、集団的な国連憲章違反をしたのであろうか(このように強いボス
に理屈はどうあれすり寄っていく国に国際法を語る資格があるのだろうか。長い人類の歴
史をみると、ボスもいずれは落ち目になっていく。動物園のチンパンジー社会のボスの運
命と同じように)
。
21 世紀の前半にも覇権の交代期が迫っている。覇権の交代がどうあろうと、人類の進む
べき道を確立する、それが国際法であり、国連憲章ではなかったのか。少なくとも欧米日、
先進国はその程度の歴史観は持っていたのではなかったのか。欧米日先進国が国際法、国
連の先鞭をつける、そうすれば自ずとこの社会システムはこの地球社会に定着し、今後、
どの国が超強大国家になっても、覇権国家や同盟国家などという概念は消滅してしまうも
のではなかったのか。
それは国連憲章第 51 条をいかに拡大解釈しても、「自衛」とは見なしえない行動だった。
フランス、ドイツをはじめ世界の多くの国々にいる批判者にとって、これはテロリズムそ
526
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のものと同じくらい重大な問題に思われた(これだけ強大な軍事力をもった国が、いった
ん、軍事力を発動すれば、どんな国でも気にくわなければ確実に瓦解させることができる
から)
。アメリカ(2003 年)は,世界の他の国々の軍事費すべてを合わせた額に相当する軍
事費を、ただ 1 国で使っていた。いまやアメリカは,議会の後押しがあれば(戦争の決定
権は議会にある)
、アメリカ政府は文字通り思うがままの行動をとれることを意味していた。
この度のイラク戦争でも、本元である国連の集団安全保障制度が頼りにならないものに
なってしまった。冷戦が終って国連の機能が回復したのも、束の間、図 89(図 9。P471)
のように、アメリカ 1 極時代になるとアメリカはアフガニスタン戦争、イラク戦争と国連
本来の集団安全保障体制をゆるがす行動をとった。アメリカは一体国連を何と考えている
のだろうか。欧米日はひとくくりで民主主義国、先進国というが、国連に対する考えが大
きく異なっているのではないだろうか。
はたしてアメリカは民主主義国家であるのだろうか。アメリカ政府高官(パウエル国務
長官など)は、戦前に国連やテレビの前でいくつかの証拠をあげてイラク政府が大量破壊
兵器(とくに核兵器)がほぼ確実に存在するはずだと説明していた。あの証拠はいったい
何であったかが問題となった。アメリカ政府は大量破壊兵器に関する CIA の情報に誤りが
あったことが原因であるとし、議会で調査が行われる事態となった(つまり、デッチ上げ
だった。CIA 長官はネオコンだった)
。
一方、大量破壊兵器が発見されなかったことで、イラク戦争を支持した同盟国にも動揺
が走った。これでは虚偽の戦争であったことになり、為政者の責任問題となった。まず最
大の同盟国であるイギリスでは、ブレア首相が開戦前に「フセイン政権が生物化学兵器の
使用を決定した場合、45 分以内に配備できる」という報告書を提出し、情報の真偽を巡っ
て自殺者まで出していたため「国民を騙した」として支持率が急落し、ブレア首相は任期
を残しての早期退陣に追い込まれた。
デンマークのイエンスビュ国防相も開戦前に「大量破壊兵器問題をめぐる報告書」を提
出してイラク戦争を支持したため辞任を余儀なくされた。また、ポーランドのクワシニエ
フスキ大統領は「アメリカに騙された」と批判し、日本の久間章生防衛相も「大量破壊兵
器があると決めつけて、戦争を起こしたのは間違いだった」と発言した。オーストラリア
のブレンダン・ネルソン国防相にいたっては、「原油の確保がイラク侵攻の目的だった」と
開き直る発言をして批判を浴びた。小泉首相は,ノーコメントだった。日本では責任を問
う声もあまり起きなかった。
《フセイン政権とアルカイダの関係》
大量破壊兵器の存在とともに、もう一つの論点、「ⅶ)フセインとアルカイダが協力関係
にある可能性がある」についても(これが 9・11 連続テロ事件との唯一のつながりであった
が)
、そのようなことはなかったことがわかった。
事件直後、ブッシュ政権が 9・11 テロへのイラクの関与をほのめかし(アメリカ国民は
9.11 テロについてはほぼ 100%卑劣な行為であることで一致していた)
、過剰なマスコミ報
527
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
道によりそれが増幅されたため国民の間にイラクとサダム・フセインに対する敵愾心が増
大し、2 年後のイラク戦争の呼び水となったといわれている。
その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与がハッキリと否定され(フセイン政権は
バース党でイラクではもともと世俗的政権、アルカイダはイスラム原理主義。これは基本
的なところで考えが異なるはずである)
、ブッシュ大統領自身もそれ(フセインとアルカイ
ダは無関係であったこと)を認めたにも関わらず、2005 年 3 月の世論調査では、アメリカ
国民の約 60%が「イラクはアルカイダを支援していたと思う」と答えていた。それほどフセ
イン政権と 9.11 連続テロを行ったアルカイダとはさも関係があるというような宣伝がされ
ていたのである。
逆にいうとブッシュ政権は 9・11 連続テロを利用して前述したようにブッシュ・ドクト
リンの「ならずもの国家」イラクを取り除いたことになる。また、先制的集団的自衛権の発
動の実験もやったのである(大失敗だったが。これでアメリカが卑劣な国家だということ
が世界中に知れわたった。オバマの人気の悪いのはオバマの非力さもあるが、それ以上に
ブッシュとそのお仲間がアフガンとイラクでアメリカの評判を地に落としたことにもあ
る)
。
イラクと 9・11 の同時連続テロ事件と関係がなければ、アメリカ国民はイラク戦争に賛
成はしなかっただろう。とにかく国家は敵対国を悪く言って、国民に反感をもたせて、や
がて戦争をはじめるというのも古来の常套手段で、
(ベトナム戦争の教訓も生かされず)今
のアメリカでもまったく変わっていないことがわかった。
2008 年 3 月、国防総省は正式に「フセインとアルカイダの関係を示す決定的証拠はない、
認められるのはパレスチナ武装勢力とアルカイダの関係のみ」とする報告書をまとめた。
結局、イラク戦争もまったく、根拠のない戦争だったことがわかった。でも、誰もその責
任を問わない。こういうことも民主主義国家でも起きるということを心しておかねばなら
ない(そのようなことが起きない社会システムを組み込む必要がある)。
《世界を不安定化させた 1 極時代のアメリカ》
ブッシュ大統領は、2003 年 5 月 1 日の「戦闘終結宣言」によって、圧倒的勝利でイラクへ
の攻撃を終了したが、イラクと講和したわけでも、停戦協定を結んだわけでもなく、いわ
ばアメリカが外国のフセイン旧体制を転覆、一方的に終結を宣言したに過ぎなかった。イ
ラク軍やイラク政府が地下に潜ってしまったためであった。
このためサダム・フセイン一族や政府関係者は逃亡、また実際には戦闘終結宣言以降も
散発的な戦闘が続き、アメリカ軍や有志連合を標的とした攻撃も頻発した。2003 年 8 月に
はバグダードの国連事務所が爆破されセルジオ・デメロ国連事務総長特別代表らが殺害さ
れ、国連チームは撤収するに至った。
その後もアメリカ軍に対するテロや攻撃が続いた。その攻撃は主にイラク軍や秘密警察
の残党によるものだと考えられ、元大統領フセインや、彼の 2 人の息子に指示されている
と思われた。しかし、アメリカ軍による残党狩りによって 2 人の息子(ウダイ、クサイ)
528
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
はともに戦死し、2003 年 12 月にようやくサダム・フセインが逮捕されたが、2004 年に入
ると攻撃の対象が拡大し、連合国暫定当局が設置した新しい警察や新しいイラク軍を標的
とする事件が増えた。これらで犠牲になる者はほとんどがイラク人で、残党たちはアメリ
カ軍への攻撃に加えて、新体制の象徴たるものの破壊を狙っていると考えられた。
2004 年 4 月にはファルージャで反米武装勢力とアメリカ軍の間で、大規模な戦闘が起こ
った(ファルージャの戦闘)
。また、この頃から南部でもシーア派イスラム教徒が反米抗議
を行うことが増え、一部の過激派が攻撃を加えた。更に、5 月に米兵によるイラク人捕虜虐
待が明るみに出ると、この反米運動は全国的な広がりを見せた。
テロはイラク国内だけではなかった。ブッシュのアフガン、イラク侵攻はテロを世界中
に拡散させることになった。
2002 年 10 月 12 日のバリ島爆弾テロ事件に続いて、2003 年にはカサブランカ、インドネ
シア、トルコなどでテロ事件が相次いだ。2004 年 3 月 11 日にアルカイダ系のテロ組織によ
ってスペイン列車爆破事件が実行され、またチェチェン共和国独立派によって 9 月 1 日に
ベスラン学校占拠事件が発生した。2005 年にも 7 月 7 日にロンドン同時爆破事件が引き起
こされ、21 日にも 2 回目のテロ事件があった。それ以後もエジプト、インドネシア、イン
ド、アンマンでもテロ事件が続いた。
この執拗な攻撃やテロに対し、有志連合を結成していた各国が次々に離脱を宣言した。
とくに開戦当初から支持を表明していたスペイン国内で 2004 年 3 月 11 日にアルカイダに
よる大規模な列車爆破テロ(191 人が死亡、2000 人以上が負傷)が発生したことは、派兵
国に少なからず動揺を与えた。スペインではテロ事件から 3 日後に行われた選挙の結果、
アスナール政権は敗北し退陣した。発足した新政権は成立直後にイラクからの撤兵を決定
し、4 月 18 日から 5 月までにすべて完了した。フィリピンなどもその後、テロの関連から
撤退を早めた。数ヶ月で計 6 ヶ国が離脱する結果となったことは、テロが国家に対して影
響力を持つことを明らかにした。
またブッシュ大統領は、イラク戦争後の 2004 年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジ
アラビアやシリアのようにに王制や独裁が色濃い中東各国がテロの温床になっているとし
て、これらの国々を民主化すると宣言したため(サウジアラビア、アラブ首長国連邦など
中東の産油国はほとんど民主国家ではない専制王政である)
、中東各国は「それぞれの国情
を無視しアメリカ式を押し付けるもの」と強く反発した。アメリカは中東民主化を今後の外
交の方針に掲げるとしたが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国
から批判が集中するようになった。
さらに、アメリカ国内では、
「アメリカ合衆国がアメリカ合衆国であり続けるために必要」
として、
「愛国者法(反テロ法)
」を制定していたが、2005 年 7 月には暫定法であった同法
を恒久化した。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また 12
月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していたこと、2006
年 5 月には、「テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人」をアメリ
529
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
カ合衆国入国の際に令状抜きで不法に連行・収監(=拉致)
、自白を取るための拷問が CIA
と FBI によって行なわれていたことが明らかになるなど、全体主義化傾向が国内のリベラ
リスト・市民団体から批判されるようになった。
また、この連続テロ事件とそれに続くアフガン、イラク戦争をきっかけに、アメリカ合
衆国は国連との協調をなくして単独行動主義に陥ったとか、世界の軸は突出した超大国ア
メリカ 1 国によって動かされる時代になったという批判が噴出するようになった。これに
対し、ジョン・ボルトン米国連大使は、
「国連などというものはない。あるのは国際社会だ
けで、それは唯一のスーパーパワーたるアメリカ合衆国によって率いられる」と胸をはっ
た。これを「アメリカ帝国」あるいは「アメリカ 1 極時代」とも呼ぶ政治思想家も出てきた。
なお、軍事的には、アフガン、イラクの戦争から、戦争をこれまでの国家レベルの紛争
から、ある結びつきによる国なき民間軍事組織と国家との紛争という「新たな戦争の形態」
を生み出すことにもなった。
《テロ集団の吹きだまりとなったアフガニスタン、イラク》
戦争が大きな不幸をもたらすことは、もはや歴史的に自明のことであったが、いったん
戦争で国家をつぶすと簡単には再生できないことがアフガニスタン戦争やイラク戦争で再
び明らかになった。
イラクでは 2004 年 6 月に暫定政権が発足し、体制の構築が進められたが、それに対して
テロ攻撃が行われるようになり、最低限の治安もままならない状況では、イラクの再建ど
ころではなかった。この頃から攻撃は無差別性が際立ち、大都市中枢などで一般市民を狙
ったと思われるテロが相次ぐようになった。また、この頃から、アルカイダ系の武装集団
がシリアやイランを通じて大量にイラク入りしていると報道された。
また、フセインは初等教育にも力を入れていて、湾岸戦争前に 9 割あったイラクの識字
率も、イラク戦争、続く混乱のなかで 5 割を下回っているといわれるようになった。ブッ
シュ大統領は日頃イラクを民主化すると大見得を切っていたが、結局、イラクを命(治安)
も教育も保障されない破綻国家にしてしまった。これではイスラム世界がアメリカを信用
しなくなるはずである。
フセイン政権崩壊から 3 年が経過した 2006 年 4 月、シーア派系議員連合「統一イラク同
盟」
(UIA)は、首相にジャワド・マリキを擁立し、マリキ政府が発足した。アメリカ軍は、
イラク治安部隊を 2006 年 12 月までに 32 万 5000 人に増強するとしていたが、その後も一
般市民を標的とした爆弾テロや、武装勢力による拉致、殺害、銃撃などが相次ぎ、2006 年
内のイラク国民の死者は 3 万 4000 人以上となった。
その後のアフガニスタンとイラクの状況は省略するが、両国とも治安が安定することは
なく、アフガニスタンではアルカイダの復活やイラクでは後述する「イスラム国(IS)」の
台頭があり、アメリカが 1 極時代に武力行使したアフガニスタン戦争とイラク戦争を契機
にして、中東の「不安定な弧」はますます不安定になっていった。
《相変わらずの貧弱な戦争防止システム》
530
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
これほどの被害を出す戦争になったのに(その後もずっとテロは続いていたが、2014 年に
なってイスラム国(IS)が南下、再発火し、イラクは戦争と混乱の巷に化してしまってい
る)
、戦争にいたる過程は、あいかわらず為政者間の駆け引き(ゲーム理論の世界)であり、
為政者の読み違い、思い違いが結局、国民を不幸のどん底に陥れることになったのである。
このことはフセインにもブッシュについてもいえることであった。両人とも思慮深い人間
には見えない。現代においても、この程度の人間によって国の運命が決まるようなシステ
ムをとっていることがはからずも暴露された。
第 1 次世界大戦、第 2 次世界大戦、その他の戦争の発端については、縷々述べてきたが、
あいかわらず、その防止システムが確立していない。第 2 次世界大戦後には国連という組
織ができて、前述したように最大限の努力をしていることはわかるが、覇権国家(アメリ
カ)や安保常任理事国がからむ問題については、うまく機能していない。その原因のもと
は国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」にあることは述べてきた。
とにかく、国民を背負った為政者同士の話し合いが(間接的ではなく、間にヒトや組織
が入るとそれの思惑でゆがめられる)、いかに大切であるかを教えている。戦争を開始させ
ない社会システムが欠けていることは確かである。
(その点、
「もし」が許されるのであれば、もし、あのときフランスやドイツ、ロシアが
安保理で主張したように、さらにアメリカが安保理討議を続けていたら、イラク攻撃はフ
ランスなどの拒否権で否定され、査察が継続され、イラク戦争は回避されたであろう。つま
り、アメリカは国連安保理という仕組みにしたがっていれば、戦争は回避できたのである。
アフガンも実質、同じ事がいえる)
。
覇権国家アメリカは都合がいいときは国連を使い、都合が悪いときは単独、あるいは仲
間を引き入れて単独行動をするのである。その覇権国家のだましの手段として、ずっと使
われてきたのがアメリカ的集団的自衛権という同盟主義である。これを何とかしないとい
けない。このままでは、次の覇権国家がその真似をすることになる。
アメリカ 1 極時代といわれた 2000 年代に起きたアフガニスタン戦争、イラク戦争のこと
を考えると、人類の平和を維持する社会システムは、覇権国家による同盟主義ではなく、
国連を中心とした集団安全保障制度を修正・充実させていくしかないと考えられる。特定
の国家、民族による世界支配は、もはやありえないのである。
どんな国家でも誰かが支配や統治を試みればその瞬間から対抗勢力が形成されていくこ
とは、世界中の国家形成の過程ですべて学んできたことである。その結果がみんなで支配
しみんなが支配される民主主義が太宗を占めるようになったことと同じように、この地球
という人類の社会はすべての国で支配し、すべての国が支配される仕組みでしか国際平和
は訪れないのである。国連は人類のその最初の試みである。この国連の足らないところは
これから新たな機能を追加して世界政府へと仕立ていくしか、人類の平和、生存はありえ
ないのである。
531
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第 12 章 2010年以後の時代
【1】これから予想される戦争・紛争
◇このままでは今後も尽きない戦争・紛争
図 74(図 18-185。P328)に概念的に示したように、古来、戦争技術の進歩とともに、
戦争の規模も大型化し、その犠牲者数も(もちろん、その損害額も)増大していった。
古代からの武器、戦術の変化を含めた戦争については、図 8(P23)のように、古代、中
世、近世、19 世紀、20 世紀前半と時代と共に高度化されていって、それに応じて、図 74
(図 18-185)のように、1 回の戦争による死傷者数は増大していった。
20 世紀後半から 21 世紀前半の現在までも戦争技術の進歩はとどまるところを知らず、地
球上も海中も宇宙も核ミサイルや観測制御システムによって覆われてしまっている。また、
情報通信技術、宇宙技術などの驚異的な進歩とその応用により、無人攻撃機、ロボット兵
器など、人類はどのような殺戮兵器でも望むものができる時代になったといえよう。
図 74(図 18-185)のように、ナポレオン戦争で 200 万人、第 1 次世界大戦で 2000 万人、
第 2 次世界大戦 5000 万人、このままいけば、21 世紀のどこかで起きるかもしれない世界大
戦による死傷者数は天文学的な数字になるかもしれない(図 74(図 18-185)では 2~3 億
人と記しているが)
。あるいは人類は滅亡してしまうかもしれない。
《人類はなぜ、戦争をするか》
『自然の叡智
人類の叡智』で、 ホモ・サピエンスと言語能力の獲得で述べたように、
ホモ・サピエンスとは、20 万年前に言語統合遺伝子が突然変異を起こした種でこの言語能
力によって、話し合ってものごとを解決するようになった、と述べた。そしてこの能力の
獲得によって、動物はもちろん、ネアンデルタール人などの他の人類種を凌駕して、遺伝子
力ではなく文化力(社会システム化力)によって進化していったことを述べた。そしてそ
れができるのが人間であり、できないのが動物であると述べた。しかし、現在でも、話し
合ってものごとを解決できない人間が存在するということは、動物並の人間がいるという
ことになる。
人はなぜ、話し合ってものごとを解決しようとしないのか。それは紛争が起きた場合、
国家間では、話し合う仕組み、システムがないからである。
人類はひとつ、ひとつ社会システムを構築して、現在の社会を作り上げてきたことはこ
れまで縷々述べてきた。人類の歴史で見てきたように、人類は国家をつくり、現在の世界
は 200 ヶ国ばかりになってきたが、各国内においては国内法によって、ほぼ治安は維持さ
れ、いろいろな紛争も仲裁や調停、裁判制度などによって中立的に処理されるような仕組
み、社会システムができている。
しかし、国家間では、紛争が起きた場合、中立的な仲裁・調停をしてくれる仕組み、シ
ステムがまだ、確立していない。そのため、両者(両国)の争い、紛争がついには戦争(武
力行使)に発展してしまうのである。そこで、人類の歴史的な延長で考えれば、当然次は
532
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国家間、つまり、国際的な紛争防止のシステムを確立することが急務であることはみんな
わかっている。
そこで人類は第1次世界大戦、不戦条約、第 2 次世界大戦の経験から、国際連合をつく
り、少なくとも国家間の戦争(紛争)は無くす仕組み、社会システムはつくることができ
たはずであった。しかし、それができた瞬間から、それをないがしろにしてしまった勢力
が発生したことも見てきた。
もはや、勝っても負けても損をする時代になった。戦争の技術が発達して、双方に多大
の損害や犠牲者が出るようになったからである。したがって、双方とも、戦争はしたくな
いというのが本音であるはずだ。それでは、人類はなぜ、戦争をするのか。
それは、今でも戦争をして勝てば得をすると思っているものも沢山いるということが一
つある。戦争になるといつでも犠牲になる国民の本音は戦争反対であるかもしれないが、
いつの時代にも、人間の野心があって、戦争を煽って、戦争に国民をかりたてる野心家的
為政者が出るものである。また、国民全体としては損をするが、一部には得をすると考え
る集団・階層がまだ、存在していることも確かである。
また、人間には損得にかかわらず、主張し要求することがある。つまり、人間としての「正
当性」を求める。ところが、その正当性の見解が双方によって大きく異なる場合がある。こ
れは『自然の叡智 人類の叡智』でも述べたように、この 1 万年の間に人類がたどった道
(政治・経済・宗教などの文化)が異なっていて、人類の「正当性」にまだ隔たりがあるか
らである。しかし、お互い人間であるから(動物ではないから)
、これからも時間をかけて、
話せば相互に理解できるはずである。これからも、その国際間で話し合う仕組み、システ
ムを国連などの中にもっと作っていけば、解決するはずである。つまり、中立な立場で仲
裁・調停する仕組み、システムがあれば、相互の妥協が成立して武力発動(戦争)に至ら
なくてもよいようになるはずである。
さらに絶対的な貧困は(どうせ死ぬのならと)戦争を誘発するようになることもある。
この絶対的な貧困をなくす仕組み、システムも話し合って人類はなくする仕組みを作り出
せる段階にきている。
《多様化する戦争》
現代ではテロ戦争などといわれるように、いろいろな形態の戦争が出てきている。
まず、国際法において、戦争の当事者は一般的に国家であると考えられており、伝統的
な慣習国際法の観点からは宣戦布告によって始まり、講和によって終結するものであると
考えられている。しかし、歴史上宣戦布告が行われず「実質戦争状態」に突入した事例が
多数存在するため、現在ではこの形式は重要視されていない。
また、国家内の集団の対立、つまり、内戦、内乱というべきものにも「戦争」という語
が用いられることもある(たとえば、アメリカの内戦であった南北戦争も戦争と呼ばれて
いる)。内戦の当事者は一国内における政府と反逆者(反政府勢力や、革命などにより新
政権樹立を目指す勢力・政治団体等も含まれる)である。厳密には国際法上の「戦争」で
533
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
はない。ただし、既存政府側による交戦者承認があれば国際法上の戦争法規が適用される。
最近は内戦、内乱というような紛争も増えている。
独立戦争の当事者は全体としての国家と部分としての地域や植民地である。これは内戦
の一種であるという見方と、独立しようとする勢力を暫定的に国家とみなして国家間の対
立とする見方が可能である。ただし、現代においては国連憲章にも謳われている人民自決
権の概念が国際社会の根本的な価値として認められていることからも、植民地支配及び外
国による占領に対し、また、人種差別体制に対する武力紛争の場合は内戦(非国際武力紛
争)ではなく国際的武力紛争として扱われる。これに伴い、国家間に適用される国際人道
法ならびに戦争法規が適用されることになる。
さらに国家以外の武装集団間での武力衝突は紛争と呼ばれ、たとえば民族間であれば「民
族紛争」と呼ばれる。最近は民族紛争が増えている。民族に宗教がからむことも多く、「民
族紛争」と「宗教紛争」がからんで分けられないものも多い。
《正規戦、非正規戦》
正規戦とは国家間で遂行される伝統的な戦争の形態であり、近代に特に多く見られる形
態の戦争である。堂々と部隊を戦闘展開し、攻撃と防御を行って勝敗を競うものであり、
第 1 次世界大戦や第 2 次世界大戦がその代表例である。ただしこの形態の戦争は現代にお
いてはフォークランド紛争が挙げられる程度で、国家間が直接衝突する戦争の形態は非常
に少なくなっている。
非正規戦とは、伝統的な国家間の戦争ではなく、非国家の武装勢力と国家の軍隊という
非対称的な構図のもとに行われる争いのことであり、近年この形態の戦争が増加しつつあ
る。非対称戦争とは、交戦主体間の軍事技術に大きな開きがある戦争である。主にテロや
ゲリラ戦が展開され、長期化する傾向にあることが特徴と言える。
このように非対称戦争が増えたのは,軍事技術の進歩と強大化が背景にある。強大な軍
事力をもつ国家との戦争ははじめから勝敗があきらかであり、非力であってもテロやゲリ
ラ戦で対抗しようとするところに最近、非対称戦争が多くなっている理由がある。つまり、
強大な軍事力をもった組織・国と非力ではあるが政治的な主張を持った組織・国との間に
対話の仕組みがないために起きていることである(強大な軍事力をもった組織・国が非力
な組織・国の主張を無視し、軍事力で圧殺しようとするところに起きている)。
《法的側面による分類》
現在では国際法もかなり整備されてきたので、この法的な側面からの分類は、国連の集
団安全保障制度との関連で重要となる。
★侵略戦争:個人間行為の強盗に相当。領土・資源の強奪を目的とする(典型的なものは、
朝鮮戦争、湾岸戦争など)
。
★国家意思強要戦争:個人間行為の私闘・私刑に相当。国家外交目的の物理的強要が目的。
イラク戦争(アメリカのブッシュ(息子)大統領の戦争)が相当。
534
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
★国連決議強制執行戦争:司法警察行為に相当。国際連合安全保障理事会などの武力制裁
決議(憲章第 42 条)に基づく。湾岸戦争(アメリカのブッシュ(父親)大統領の戦争)が
相当。
★個別的自衛戦争:「攻撃を受けた場合」にこれを撃退する戦争。個人行為において、本人
への急迫不正危機における正当防衛に相当するとたとえられている。
★集団的自衛戦争:個人行為において、同伴知人への急迫不正危機における正当防衛に相
当するといわれているが、この例えはきわめて問題がある。むしろ、第 2 次世界大戦前か
ら一般的であった同盟国が「攻撃を受けた場合」にこれに助勢する戦争。
現在は従来の覇権国家が世界を支配する世界観から、国際法(国連の集団安全保障制度)
が支配する世界観の過渡期にあると考えられる。もっと正確に言うと、本来、国連憲章で
は前述の侵略戦争、国家意思強要戦争などのすべての戦争を禁止している。ただ、「攻撃を
受けた場合」に自衛の戦争(つまり、正当防衛といわれるもの)を国連軍がやってくるまで
の間は許されている。従って国連軍が行う国連決議強制執行戦争(憲章第 42 条)は許され
ている。
つまり、国連憲章で認められている戦争は国連決議強制執行戦争と自衛戦争だけである。
この自衛戦争は前述したように、国連憲章第 51 条に規定されているもので、「攻撃を受け
た場合には」、国連軍がくるまでの間、その火の粉を振り払う個別的自衛戦争は正当防衛と
して認められている。同じく第 51 条に出てくる「集団的自衛権(戦争)」が挿入された経緯
は縷々述べたが、これが認められるとしたら、厳密な定義と運用の仕組みがさらに国連憲
章で定められていなければならない(正当防衛の場合も、同伴者が助勢する正当防衛でも
厳密に限定されていて、正当防衛なら何をやってもいいとはなっていない)
。
現在の国連憲章の仕組みでは(常任理事国に拒否権が与えられている)
、実際にはアメリ
カなど、集団的自衛権を名目に、戦争を仕掛けて行っている例が多かったことを述べた。
例えばアメリカ(覇権国家)の主観においてイラク戦争は「大量破壊兵器による周辺諸
国への脅威の除去・核不拡散の維持」を目的とする警察行為的・制裁戦争であったかもし
れないが(とアメリカは主張しているが)
、客観的指標であり合法性の基準である、国連安
保理の武力制裁決議を得ずして開戦したため法的には(領土を併合していないので侵略戦
争には該当しないにしても)
「私闘」である国家意思強要戦争といえる(アメリカがイラク
を攻撃したことは「自衛」の範囲を超える。これが国連憲章違反でないとすれば、アメリカ
はこれから「集団的自衛権」の名目で、アメリカの同盟国が絡む問題にすべて介入できる
ことになる。やがて、覇権国が変わると同じ問題が起きてくる。それは結局、国連をかつ
ての国際連盟と同じように崩壊させてしまうことになる)
。
現代の世界においては、国連加盟国(現在 193 ヶ国)は、国連憲章を守ることを誓約し
て国連に加入しているので、
(攻撃を受けた場合の)自衛戦争と国連の制裁戦争だけが許さ
れている(それを誓約して加盟している)
。一国の裁判所の判決の遵守が、警察強制力で担
保されているように、国際連合安全保障理事会の決議が、軍事的強制力で裏打ちされねば
535
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
決議無視国に対抗できないため、国連の武力制裁決議を実行する国連軍による制裁戦争は
国際法上は合法とされている。
ただし、国連常備軍創設が実行されていないため、実質は国連安保理の武力制裁決議を
得て、被害国を救済するために多国籍軍が国連決議の強制執行として戦争を行うシステム
になってきている。ただ、常任理事国の拒否権によって「安全保障理事会」が度々機能不
全を起こし、安保理の当初の目的が機能を発揮していない状態が続いていることも述べた。
この国連の安保理の機能が,当初の目的通りに発揮されていないところに問題があり(今
まで問題だったから国連の安全保障制度をやめてしまえというのではなく)
、これを機能さ
せるようにしようというのが、筆者の意図するところである(後述)
。
◇現在も続いている紛争(戦争)・今後予想される紛争(戦争)
人類世界から戦争を無くする組織・国連ができてから 70 年近くがたったが、地球社会は
20 世紀から持ち越した多くの問題(前述のような事情で覇権国がからむ問題が解決されず
に先延ばしされたままになっている)
、あるいは 21 世紀に新たに発生した問題で満ちてい
て、今のところ戦争が無くなる目途はたっていない。
第2次世界大戦後、起きた紛争・戦争で現在も続いているもの、最近、新たに起きた紛争・
戦争、近い将来、紛争・戦争になりかねないものについて、それがどうような理由でおき
たか、それを解決するためには、どうしたらよいかをまとめたものが、表23(表18-24)
である。これを世界地図に図示すると、図98(図18-193)のようになる。アフリカ、中東
地域に多い。
図98(図18-193) 世界の戦争・紛争(予測を含む)地点(2014年時点)
536
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表23(表18-24) 現在、世界で起こっている戦争・紛争、あるいは将来、起きる可能性
があると懸念されている戦争・紛争(2014年時点)
この34件の紛争・戦争の原因をみると以下のようになる(個々の原因・予測を『自然の
叡智 人類の叡智』に記したが、ここでは省略する)。
《1》宗教に根ざした戦争・紛争
時に,宗教の違いは人と人を分かち、刃を交わらせる要因ともなる。しかし、当たり前
の話であるが、現代では、隣人が異教徒であるというだけで銃をとることは皆無に近い。
宗教抗争とみなされる紛争の背景を探ると、そこには政治的な不平等や経済的格差など
の理由がある。この政治的な不平等や経済的格差をできるだけ解消するための努力を為政
者がしなければ(その不満を強権でもって圧殺しようとすると)、その不満は拡大して紛
争へと発展していくのである。たとえば、パレスチナ・イスラエル問題では最初の国連決
議で明らかに少数派のユダヤ人に大きな土地、多数派のパレスチナ人に小さな土地という
不公平な配分をしたことに対する人間としての怒りがある。これをその後もアメリカは正
そうとしていない。人間の「正義、正当性」の要求はもはや武力では解決できない。パレ
537
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スチナ・イスラエル問題の原因をつくったアメリカ、そしてイスラエルの肩を持つアメリ
カが仲裁しようとしても、仲裁がうまくいくはずがない。国連などの中立の第3者の心から
の調停が唯一これを解決に導く。
同じようにインド・パキスタン間のカシミール問題は、カシミール住民投票による帰属
の決定という国連決議をインドが拒否したことから起きている。多くの藩王国がインドか
パキスタンに帰属を決定していくなかで、ムスリム人口が当時77%を占めていたカシミー
ルは、人口だけから言えばパキスタンに帰属すべきであった。結局、これも国連が当時、
正当と認めた解決方法を出したのに当時の為政者(インドのネルー首相)がそれに従わな
かったことから,以後70年近く争っている。
これも中立の第3者が入って全く公平な立場から、現段階の解決方法を見つけ出し、両国
に提案し受け入れさせるしかない。当事者間の話し合いではまとまらない。これから何十
年、何百年争うことが両国にとっていかに大きな損失であるか、国連などの第3者の調停で
あれば、両国民も納得するであろう。
また政治家が自らの行動の正統性(または正当性)を裏づけるため宗教を利用する場合
も見受けられる。たとえば、クウェートに侵攻したイラクのサダム・フセイン大統領は,
湾岸戦争時、(明らかな侵略であったが)国連の決議にもとづき侵攻してきたアメリカを
中心とした多国籍軍を前にして「ジハード(聖戦)」を宣言してイラクの侵略戦争を正当化
しようとした。
1979年に旧ソ連軍がアフガニスタンに侵攻した際、その抵抗運動を「不信仰者」と闘うジ
ハード(聖戦)であるとし、アラブ諸国やトルコ、バングラデシュなどから多数のムスリ
ムが国境を越えて参戦した。彼ら義勇兵たちは自らムジャーヒディーン(聖戦士たち)と
称し,戦死を殉死とみなし、戦争全期を通して闘った。ではアフガニスタンでの抵抗運動
が、純粋な宗教抗争であったかといえばそう単純ではない。東西冷戦(アメリカが介入し
た)、アフガニスタンにおける部族間の対立、隣国であるパキスタンやイランの思惑など、
数多くの要素が複雑に絡みあいながら事態は進展していったのである。ソ連軍が撤退して
からも、ずーっとアフガニスタンでは戦争が続いていることは述べた。イラクにおいても、
世界中の不満を持つイスラムの若者が集まってきて「イスラム国(IS)」を旗揚げして問
題が再燃している。
このように今では純粋な宗教戦争というものはあまりない。しいて分類すると表向きは
宗教戦争になるかという程度である(中世では十字軍など宗教戦争が起きたが、これもの
ちのヨーロッパの植民地主義の先鞭をつけるもので,領土的野心があったことは述べた。
ヨーロッパの宗教戦争の最後は30年戦争だと述べたが、これも最後はフランスなどの覇権
争いになったことも述べた)。
《2》民族(+宗教)が憎しみ合う戦争・紛争
2002 年 5 月 20 日、21 世紀になって初めての独立国家・東チモール民主共和国が誕生し
た。東チモールのかつての独立運動家であり、ノーベル平和賞(1996 年)を受賞したジョ
538
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ゼ・ラモス・ホルタ(現大統領)は 1997 年当時、日本の雑誌のインタビューに答えて、「東
チモールは「民族国家」としての独立を目指します。しかし、民族が同じなので、そう呼ぶ
のではありません。父母、祖父母とたどっていけば、民族が異なる人もいますから。けれ
どもポルトガルによる植民地支配の間、一つの民族としてのアイデンティティを培いまし
た。約 500 年の植民地時代の歴史を共有し、95%の人がカトリック教徒で、同じように物
事をとらえ、感じるのです」と述べている。彼は、出自よりも植民地支配という歴史的な時
間の共有にこそ、東チモール民族のルーツがあると語っている。
民族はよく血統とか、人種とかが(種はすべて同じだが)同じ人間だと思われているが、
そうではない。確かに民族は長い時間をかけて醸成されるものだが、民族もまた歴史の中
で作られた一つのアイデンティティに過ぎない。人は○○民族に生まれるのではなく、○
○民族になるのである。
「長い時間をかけて」といっても、『自然の叡智 人類の叡智』で述べているように 8 万
5000 年前にアフリカを出発した一部族集団が現在の世界の 72 億人になったのであるから、
それぞれが○○民族といっても、ほんのこの間、それを主張するようになったようなもの
で、そこに本質的な違いがあるわけではない。問題は統治するようになった人間が(6000
年ぐらい前から)、統治する、されるの差別する口実として民族という概念を作り出した
のである(民族という概念はずっと後でできた)。
「統治する―統治される」「抑圧―被抑圧」という関係が構造的にできていったから問題と
なったのである。現在でも「抑圧―被抑圧」の関係があるところでは、民族運動が起こるの
である。旧ユーゴスラビアの分裂は典型的な民族紛争であったといわれている。チトー大
統領は、民族対立が起きないように(「抑圧―被抑圧」の関係が生じないように)いろいろ
配慮していた。チトーが亡くなって、ミロシェヴィッチ大統領が露骨なセルビア人優遇政
策をはじめてから(それ以外の民族を差別し始めてから)、分裂が起き始めた。
もちろん、民族差別の極限はヒトラーのユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)であるが、
それだけではなく、歴史上、民族対立とその悲劇はつきなかった。どのようになると(す
ると)、民族対立が起きるか、それは『自然の叡智 人類の叡智』で述べたように、為政
者が「抑圧―被抑圧」の関係をつくって差別をするからである。
この問題の解決は「抑圧―被抑圧」の関係の解消しかない。姿・形が似た人間同士が集ま
って住む、というのでなく、差別、抑圧―被抑圧をなくする、これが民族紛争を解消する
唯一の方法であろう。国連などの中立機関が、「自治区」や「連邦制」などをもっと柔軟に導
入して、民族間の「差別」や「抑圧―被抑圧」を解消するような方策を具体的に提案して、問
題が起きている地域や国(最近ではウクライナなど)を説得するしか方法はない(武力行
使はますます混乱を増大させ、末代まで怨念を残し紛争を長引かせるだけである)。
《3》領土と利権をめぐる戦争・紛争
アフリカのチンパンジーも縄張り争いをすることは人類の祖先の歴史を書いているとこ
ろで述べた。したがって、人類といえるかどうかという時代から人類は縄張り争いをやっ
539
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ていた。人類が本格的な戦争をはじめた新石器時代から土地争い、領土争いはあった。
国家ができてからは、領土争いとは、ある地域がどの国家の領域に属するかをめぐって、
国家間での争いが起きることであった。よく領土問題の原因になるのが、その土地にある
石油などの天然資源や、国境付近にある川、農地などである。また、その土地を始めに占
有した国家が領有を明確にしていなかったり、付近に他の国家がありながらもその国家の
了解を得ていなかったりといった歴史的経緯も、原因になりやすい。
領土問題は、戦争やテロのきっかけになりやすく、前述した過去の戦争の歴史でも世界
各国で領土問題を発端に戦争が起きたことがたくさんあった。これら領土問題を戦争に発
展させないために、国連は国際法によって、一国が他国の領土を武力によって占有するこ
とを禁じている(前述したように国連は「攻撃された場合」の自衛のための戦争と国連が
行う制裁のための戦争以外をすべて禁じている)
。
《領土の権原》
領土権を主張する根拠(権原)として、歴史的には以下のようなものがある。
◎譲渡
売買(例:アラスカをアメリカがロシアから購入)
交換(例:樺太千島交換条約)
割譲(例:下関条約での台湾取得)
◎征服(国連憲章下で現在認められない)
◎先占(無主地を国家が領有意思を持ち実効的に占有すると当該土地がその国の領土にな
る)
◎添付(自然現象や埋め立て等で土地が拡張する場合)
◎時効(土地を領有の意思を持って相当期間平穏公然に統治することで領有権を取得する
場合)
がある。国際領土紛争では、
「国家権能の平穏かつ継続した表示」という権原を基準に判定
される場合が多い。
《国際司法裁判所への付託》
領土問題は当事国同士での外交で解決されるのが望ましいが、当事国間で解決すること
が困難な場合には、国際司法裁判所 (ICJ) への付託ができる。もっとも国際司法裁判所へ
の付託は、紛争当事国の一方が拒否すれば審判を行うことができない。つまり強制管轄権
はない(ここに現在のICJの問題点がある。後述する)
。ただし、双方の当事国が義務的管
轄権受託宣言を事前に行っている場合には例外的に付託される(この宣言を行った国は、
同一の宣言を行った他の国を、一方的に裁判に服させることができる。宣言していない国
は、提訴されても応訴する義務を負わない)。
塚本孝氏によれば、これまでのICJ国際判例から領土について次の様な規則が得られる。
①中世の事件に依拠した間接的な推定でなく、対象となる土地に直接関係のある証拠が優
位である。中世の権原は現代的な他の権原に置き換えられるべきである。
②徴税・課税、法令の適用、刑事裁判、登記、税関設置、人口調査、亀・亀卵採捕の規制、
540
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
鳥の保護区設定、入域管理、難破事件の捜査などが、国家権能の表示・実効的占有の証拠
となる。
③紛争が発生した後の行為は実効的占有の証拠とならない。
④住民による行為は国家の主権者としての行為ではない。
⑤条約上の根拠がある場合にはそれが実効的占有に基づく主張に優越する。
⑥国は、相手国に向かって行った発言と異なる主張はできない。
⑦相手国の領有宣言行為に適時に抗議しないと領有権を認めたことになる。
⑧歴史的、原初的権原があっても相手国が行政権行使を重ね、相手国の主権者としての行
動に適時に抗議しなければ主権が移ることがある。
⑨発見は未完の権原である(実効的占有が行われなければ領有権の根拠にならない)
。
⑩地理的近接性は領有根拠にならない。領海内の無人島が付属とされることはある。
⑪地図は国際法上独自の法的効力を与えられることはない。公文書付属地図が法的効力を
持つ場合や信頼に足る他の証拠が不足するときに一定の証拠価値を持つ場合はある。
《世界各地の領土問題》
表23(表18-24。P537)に記した領土問題以外にも、世界各地には以下のように未解決
の領土問題がある(20世紀後半に多くの国が独立したが、その時に取り残された島々や飛
び地などが未処理地として問題になっているところが多い)
。これらを当事国同士で話し合
って解決することは至難の業であり、やはり,前述の国際司法裁判所の改革、あるいは国
連に紛争の仲裁・調停を行う組織を設置して処理しなければ、今後、領土問題が武力によ
る紛争に発展するおそれがある。
東アジア
・ ブータンと中国との領土問題:主張する国境線に食い違いが大きく、2010年時点にお
いて交渉中。2011年時点で、ブータンと中国とは国交が樹立していない。ブータンの
面積は、従来は約46500km²だったが、2006年に発表した新国境線で北部の多くが中国
領とされたため、約38400km²にまで大きく減少し、国土の形も大きく変わってしまっ
た。
東南アジア
・ ボルネオ島北部のサバ州:マレーシアの一つの州であるが、フィリピンが領有を主張
している。
中央・西アジア
・ ヴォズロジデニヤ島(アラル海)
:カザフスタンとウズベキスタンが共に領有を主張
している。
・ ゴラン高原:シリアが領有してきたが、第3次中東戦争以降はイスラエルが占領、併
合した。しかし、イスラエルの併合は国際社会から一切認められていない。この地は
第4次中東戦争の引き金にもなっている。
・ チャゴス諸島(ディエゴガルシア島ほか):イギリスの属領(海外領土)として実効
541
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
支配。米国の軍事拠点の置かれていることで知られる。英領地域の本部が首都に置か
れているセーシェル共和国が諸島全域の領有権を主張している。
東ヨーロッパ
・ トルコとアルメニアとの国境:トルコはアルメニア人虐殺によってアルメニア人の精
神的象徴であるアララト山を含む大アルメニアの西部からアルメニア人を強制追放
し、以後、同地を実効支配している。このため、アルメニアはトルコとソ連によって
設定された現在の国境線を認めていない。
・ 南ベッサラビア、北ブコビナ:現在、ウクライナが実効支配しているが、ルーマニア
とモルドバがそれぞれ領有権を主張している。
南ヨーロッパ
・ イベリア半島南端のジブラルタル:現在イギリスが占有。スペインが返還要求してい
る。
・ オリベンサ:ポルトガル人が大半の町だがスペインが占有。ポルトガルが返還を要求
している。
南アメリカ
・ フォークランド諸島(マルビナス諸島)
:現在イギリスが領有。アルゼンチンが返還
要求している(フォークランド戦争でアルゼンチンが敗れた)。
・ ガイアナ西部にあるエセキボ地域:ガイアナとベネズエラが共に領有を主張している。
・ アマゾナス:エクアドルとペルーが共に領有を主張している。
・ ナヴァッサ島:アメリカ合衆国の領土の島だがハイチが領有を主張している。
アフリカ
・ セウタ、メリリャ:アフリカ北西端にあるスペイン領。モロッコが領有権を主張し、
返還を要求している。
・ ハライブ・トライアングルおよびビル・タウィール(エジプト・スーダン国境)
:ハ
ライブ・トライアングルは、エジプトとスーダンの間の紅海に面した地域。両国が共
に領有を主張している。
・ イレミ・トライアングル(三角地帯):南スーダン南東部、エチオピアとケニアにま
たがる地域。過去、スーダン政府の弾圧から逃れて来たキリスト教徒の難民が住むこ
の土地は現在ケニアが管理しているが南スーダンとエチオピアも領有権を主張して
いる。
・ パセリ島 (Isla Perejil):スペインとモロッコが領有を主張している。
北アメリカ
・ エルズミア島とグリーンランドの間のハンス島:カナダとデンマークが共に領有を
主張している。
オセアニア
・ ウェーク島:現在アメリカ合衆国が軍事拠点として領有。マーシャル諸島共和国が領
542
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
有を主張している。
・ スウェインズ島(オロセンガ島):アメリカ領サモアに属する島だが、地理的にも、
ニュージーランド領トケラウ諸島にあり、同島の返還を主張している。
《4》独立をめぐる紛争
独立戦争とは、国家の支配下にある地域が独立を目的として起こす戦争のことである。
独立戦争が多かったのは、第2次世界大戦後のことであった。国際連合ができて民族自立が
さけばれたが、ヨーロッパの植民地所有国は第2次世界大戦後もそれを維持しようとしたた
め、(第1次)インドシナ戦争(フランスから)やインドネシア独立戦争(オランダから)
など、独立要求運動が武力闘争から戦争に発展したものであり、その点で既存の政権の奪
取を目的とするクーデターや、同一の主権国家の連続として政治体制の変革を目的とする
革命とは異なるものだった。
現在では、植民地からの独立はだいたい終わったとみられており、冷戦後はずっと減っ
てきているが(最近では東ティモール、南スーダンなど)、現在でも独立を要求している
地域がないわけではない。国家の支配する領土において、特定の地域の住民がその国家か
らの自治権獲得やその拡大を超えて、国家からの分離・独立を要求する運動を起こす場合、
その動機にはさまざまな要素が考えられる。
複数民族国家における民族、宗教、文化の違いから独立を要求する場合もあれば、国内
の地域間での経済格差の存在や、優良資源にめぐまれた地域が独立をめざすなど、経済的
な要因から独立を要求する場合、さらに本国(中央政府や植民地宗主国など)の圧政を理
由として独立運動が起きる場合もある。一般に独立運動は、ナショナリズムの高揚ととも
に、これらの要因のうちの複数が絡まりあいながら進行する。
独立運動の最初期は合法手段による独立達成を目指す。運動体結成、支持者獲得とその
拡大、デモなどの大衆動員がそれにあたる。しかし、国家と独立運動団体の利害調整がで
きず、合法手段による独立運動が困難である場合、非合法手段に移り、さらには武力闘争
による独立達成を目指すことになる。
歴史上、独立戦争に敗れた独立運動は数知れない。なぜならば、独立運動側に武力闘争
への支持者が少なく、抵抗運動を継続する武装勢力が少数である場合、国家および一般市
民からはテロリストやゲリラとしか認識されず、武力闘争が失敗した場合に政府はこれを
「内乱」、あるいは「テロリズム」として法的に処理する。
独立運動団体が戦争を遂行、継続するためには、運動団体の組織化、武器の安定的調達
などの必要があり、それ以外にも、植民地宗主国(本国)との距離の遠近という地理的要
因、国内外の世論の支持といった環境的要因などが必要である。
独立戦争は最終的に交戦相手である国家との交渉による独立の承認、諸外国による独立
国の承認によって終結する。
《5》政治の支配権をめぐる内戦状態の国・地域
最近は国家間の戦争は減ってきているが、内戦が増えている。内戦とは、国家の領域内
543
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
で対立した勢力によって起こる武力紛争を指す。政府が倒されて政治体制が転換された場
合には、フランス革命、共産主義革命、ルーマニア革命 (1989年)のように、内戦や内乱で
はなく「革命」という表記を用いる場合も多い。
植民地の独立戦争などは、支配者側は「内戦」や「反乱」と呼び、植民地側は「独立戦
争」と呼ぶことが多く、アルジェリア戦争のようにアルジェリア側は「独立戦争」と呼び、
フランス側は「内戦」と呼んだように、戦争の性質によって内戦かどうか意見が分かれる
ことも多い。このような場合には、支配者側が交戦相手を国家とは見なさず、相手を戦時
捕虜ではなく犯罪者として扱い、捕虜の権利を認めない、犯罪者として処刑したりする事
態が発生することも多い。1989年のルーマニア革命では、国軍と秘密警察という国家機関
同士の戦いになり、秘密警察の構成員は全員が非合法組織の犯罪者とされ、死刑、懲役、
公職追放などの処罰を受けている。
内戦の理由はいろいろある。国内の全国政府の座を争うために起こる事象(例:戊辰戦
争、国共内戦、イエメン内戦、アンゴラ内戦)の他、民族的(ルワンダ内戦やボーア戦争
も同側面がある)、宗教的(例:レバノン内戦、スーダン内戦など)、イデオロギー的な
(例:スペイン内戦、ニカラグア内戦、エルサルバドル内戦)衝突などから生じる事象が
ある。冷戦下では米ソが尾を引く様々な国外勢力が間接・直接的に介入し、事態を悪化さ
せるケースも多かった。
一時、冷戦後、国際社会は内戦介入に概ね消極的となったが、EUにとっては域内であり
歴史的に重要な地域であるユーゴスラビア内戦や、地下資源(ダイヤモンド)の利権をめ
ぐって残虐行為が繰り広げられたシエラレオネ内戦のように、冷戦後に悪化するケースも
多く、ふたたび国外勢力が介入する場合も多い。紛争の起源が宗教や民族に絡むものは、
そのように分類したが、現在、アフリカなどで起きているのは従来から起きていた部族間
の勢力争い、独裁政権の国では、民主化要求デモなどの武力を行使しない運動も内乱と規
定され武力によって鎮圧されることがある。
冷戦後の内戦だけでも下記のようになり、現在も続いている内戦もこれらの延長上にあ
るものもある。
・ 1989年~1996年 第1次リベリア内戦(リベリア)
・ 1990年~1993年 ルワンダ内戦(ルワンダ)
・ 1991 年~1994 年 グルジア内戦
・ 1991 年~2000 年 ユーゴスラビア紛争・ボスニア紛争・コソボ紛争(ユーゴスラビア)
・ 1991 年~継続 ソマリア内戦(ソマリア)
・ 1991 年~2002 年 シエラレオネ内戦(シエラレオネ)
・ 1992 年~1997 年 タジキスタン内戦
・ 1994 年~1996 年 第 1 次チェチェン紛争(チェチェン)
・ 1994年~1997年 イラク・クルド内戦
・ 1996 年~2006 年 ネパール内戦(ネパール)
544
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
・ 1996 年~1997 年 第 1 次コンゴ戦争(コンゴ民主共和国)
・ 1996年~2003年 第2次リベリア内戦
・ 1998 年~1999 年 ギニアビサウ内戦(ギニアビサウ)
・ 1998 年~2003 年 第 2 次コンゴ戦争(コンゴ民主共和国)
・ 1999 年~2009 年 第 2 次チェチェン紛争(チェチェンとその周辺)
・ 2002 年~2007 年 コートジボワール内戦
・ 2003 年~継続 ダルフール紛争(スーダン)
・ 2004年~2007年 中央アフリカ共和国内戦(中央アフリカ共和国)
・ 2011 年、 リビア内戦(リビア)
・ 2011 年~継続 シリア騒乱(シリア、事実上の内戦状態)
・ 2013 年~継続 南スーダンにおける政府軍と反政府軍の内戦
・ 2014 年~クルミア内戦、ロシア併合
・ 2014 年~継続 ウクライナ内戦
表 23(表 18-24。P537)を見ると、戦争・紛争の起源は前述したように宗教・民族・
部族・独立・内戦などが多いが、アフリカに関わるものは、米ソ冷戦期には、米ソ(中)
がバックで関わっている戦争・紛争はたくさん起こっていた。しかし、冷戦後は、米ソが
手を引いたので、この分野は現在は米ロの拒否権の発動があまりないので、国連が機能し
はじめて、かなり国連の平和維持活動で解決できるようになった。
しかし、中東、アジアの冷戦期から継続されている問題には、1 強の覇権国となったアメ
リカや最近、復活してきたロシア(かつてのソ連)がからむ問題が多く、新冷戦の開始と
言われることもある。。
やはり、また、最近、起きてきたシリア内戦、イラク・シリアにまたがる「イスラム国
(IS)
」問題、クリミア・ウクライナ問題を見ると、常任理事国である超大国米ロがからむ
問題で拒否権を行使されて、国連が機能しなくなる問題をどのようにして解決するかが、
最大の課題であることがわかる。
【2】これから覇権の交代期がやってくる
今からほぼ100年前の19世紀末から20世紀初めに、覇権の交代期があったことは、帝国主
義下の列強の覇権の交代期に記した。その時期には世界は欧米列強の合従連衡があり、不
安定になり、第1次世界大戦、20年おいて第2次世界大戦が起きたことも述べた。その後、
米ソの2大超大国の冷戦期から、アメリカ1極の時代を経て、21世紀の2020年代から40年代
にかけて、再び覇権の交代期が訪れることが予想されるようになった。その根拠の一つは
世界の国際経済面における構造的な転換が予想されることにある。
《前回の覇権の交代期》
19 世紀の状況は、『自然の叡智 人類の叡智』の 19 世紀の欧米列強のイギリスのところ
545
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
で、産業革命の影響として述べた。
1750 年までの世界は農業を中心としており、人口が多い中国、インドが GDP の 1 位、2
位を占めていたが、図 99(図 14-11)のように、産業革命で一変し、これが図 100(図 14
-12)のように 1 人当りの工業化水準になるとさらに大きな差となって現れるようになっ
た。
図 99(図 14-11) 世界の工業生産に占める相対的シュア(1750~1900 年)
図 100(図 14-12) 1 人当たりの工業化水準(1750~1900 年)
(1900年のイギリスを100とする)
それは、たとえばイギリスの紡績業をとれば、1750 年から 1830 年代までの間に、生産性
は 300 倍から 400 倍というオーダーで向上していたからである。やがてイギリスの成長は
緩やかになったということは、「創造と模倣・伝播の原理」どおり、周辺の国々が産業革命
(工業化)を取り入れ、工業化を進めていったのである。他のヨーロッパの諸国やアメリ
546
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
カは、イギリスの技術を取入れて、そのあとを追って工業化(産業革命)の道を歩み始め、
これらの国々の工業生産が全体に占める割合も着実に上昇し、1 人当りの工業化水準も上が
り、国富も増えていった。
この世界への工業化の波は、図 101(図 10-36)のように①イギリス→②ドイツなどの
ヨーロッパ→(イギリス、ドイツから)③アメリカ→(ヨーロッパから)④ロシア→(イ
ギリス、アメリカから)→⑤日本と波及していった。
図 101(図 10-36) 工業の伝播
ところが、アジアやアフリカやイスラム国家はそうはいかなかった。インドや中国は図
99(図 14-11)や図 100(図 14-12)のように工業生産に占めるシェアも 1 人当りの工業
化水準も縮小してしまった。その原因はこうした国の昔ながらの市場に欧米先進国の工業
製品がなだれこんだことにあった。
インドや中国およびその他の途上国では、人口ばかりは増加して、1 人当りの所得が時代
とともに限りなくゼロに近く低下していった。そこには恐るべき貧困が待ち受けていた。
つまり、1750 年にはヨーロッパと第 3 世界(途上国)では 1 人当り工業化水準にほとんど
差がなかったが、1900 年には第 3 世界の工業化水準はヨーロッパの 18 分の 1 に過ぎず、イ
ギリスだけをとれば 50 分の 1 になってしまったのである。
そして、この弱体化したアジア、アフリカは欧米(日を含む)列強の武力によって、植
民地化され(植民地・帝国主義時代)、支配されて 19 世紀、20 世紀前半を経過したことは
述べた。
第 2 次世界大戦後、アジア、アフリカ諸国も独立戦争などを経て自立し、経済のグロー
バル化によって(主として資本・技術の自由化)、経済発展がはじまり、図 101(図 10-
36)の続きが始まり、⑤日本→(日本・欧米から)→⑥韓国・NIES・ASEAN→(日本・欧米
から)→⑦中国→(欧米・ソ連・日本から)→⑧インドまでおよんでいるが、今後、残り
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
の中東・アフリカの工業化(図 101(図 10-36)に黄色で示している)が進めば、結局、
産業革命(工業化)は地球を一周することになる。
つまり、「創造と模倣・伝播の原理」で、図 101(図 16-51)のように、工業は地球をヨ
ーロッパ、アメリカ、日本を経由して、貿易・資本・技術の自由化が実現して、工業化の
流れが速まり、また、途中で工業は情報産業も取り入れ、中国、インドに到達し、その流
れは現在、中東・アフリカ諸国の工業・情報化となっている。これで中国、インドだけで
ななく、やがて中東、アフリカも農業・工業・情報産業のすべてを手に入れ、世界と同じ
土俵で競争できるようになるのである。
イギリス産業革命のはじまりが 18 世紀の半ばであったから、中東・アフリカの工業化が
21 世紀の半ばに終了するとすれば、工業の地球一周には 300 年がかかったことになる。図
7(図 10-21)において、農業の世界伝播に 9000 年かかったと述べたが、それと比べると
30 分の 1 であったことがわかる。多分、これからの第 4 次の産業革命(後述する情報・エ
ネルギー・新材料によるパラダイム転換)は、図 128(図 18-136。P676)のように、第 1
~3 次産業革命の 10 分の 1 の 30 年で完了すると考えられる。
こうなると 1750 年前の世界と同じように、おおまかにいうと「人口」比例して GDP は増加
していくようになるのである。これから 21 世紀の半ばまでに起きる経済上のことは、この
イギリスに始まった産業革命後の逆の現象が起きるということである。これが進んでいく
と、21 世紀中頃の世界は、1980 年~2010 年ごろの世界と様相が大きく変わってくることが
予想される。
◇21世紀に経済的に躍進するBRICs、相対的に後退する欧米日先進国
2001年11月に投資銀行ゴールドマン・サックスのエコノミストであるジム・オニールが、
投資家向けレポート『Building Better Global Economic BRICs』において、今後、BRICs
(ブラジル、ロシア、インド、中国、後に南アフリカが加えられて「BRICS」となった)が
高度経済成長を遂げ、現在の先進国を追い抜くだろうと予測したことが大きな話題となっ
た。
BRICsはかつての新興工業経済地域(NIEs)や東南アジア諸国連合(ASEAN)と同じよう
に経済成長が目覚しく、また、それらの国々のGDPや貿易額が世界に占める割合は近年急速
に高まっており、世界経済に多大な影響を与えるまでになっていた。広大な土地・豊富な
人材・豊富な資源を有するのに加え、ここ数年あるいは十数年で様々な改革を進めてきた
ことにより(資本の自由化が大きく貢献している)、結果として潜在力を実際の成長率に
反映させることが可能になったのである。
ゴールドマン・サックスは 2003 年には、2050 年における世界各国の GDP を表 24
(表 18-26)
のように予測していた。
ゴールドマン・サックスの 2007 年 3 月 28 日のレポートでは、BRICs 諸国が軒並み高成長
を続けていることを根拠に、2003 年の予測は「控えめ過ぎたくらいだ」として、予測し直
して、2050 年の GDP は表 25(表 18-28)の順位になるとしている。
548
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 24(表 18-26) 主な国の 2050 年の GDP 予測値
表 25(表 18-28)
2007 年発表の 2050 年の予測値(単位:兆ドル)
その他の機関の 2050 年の GDP 予測を上げると、日本経済研究センターの予測では、中国
の急成長は暫く続き、2020 年頃には世界最大の経済規模になるが、高齢化などを理由に成
長率が鈍化し、2050 年頃には僅かながらアメリカが抜き返すとしている。
1 位:アメリカ、2 位:中国、3 位:インド
プライス・ウォーターハウス・クーパースの予測では、2025 年前後に中国がアメリカを
抜き、世界最大の経済規模になる可能性が高く、その後も成長を続け 2050 年までにはアメ
リカより 30%大きくなり、インドは 2050 年までにアメリカの 90%の規模に成長するとして
いる。また、ブラジルは 2050 年までに日本を抜き世界 4 位に躍り出て、ロシア、メキシコ、
インドネシアもドイツやイギリスを抜く力を潜在的に持っていると予測している。
1 位:中国、2 位:アメリカ、3 位:インド、4 位:ブラジル、5 位:日本、6 位:ドイツ・
イギリス・ロシア・メキシコ・インドネシア
いずれにしても、中国がアメリカを追い抜くか、ほぼ同等になると予測しているようで
ある。
BRICs 諸国はいずれも人口大国で、すでに 2000 年代初頭の人口は、中国が約 13 億人(世
界 1 位)
、インドが約 11 億人(世界 2 位)、ブラジルが約 1 億 7000 万人(世界 5 位)、ロシ
アが約 1 億 4000 万人(世界 7 位)
、南アフリカが約 4900 万人(世界 25 位)となっており、
5 ヶ国合計で 27 億人以上、世界の人口の約 45%を占めている。
今後も表 26(表 18-29)のように、ロシアを除く 4 ヶ国では人口が増加し、2050 年には
32 億 6000 万人にまで膨れ上がるとされている(しかし、人口が多いため一人っ子政策を採
る中国でも将来的には人口が減少すると予測されている)。
世界全体の人口は、2013 年に国連が発表した「世界人口展望」の 2012 年改訂版では、前
回の予測値より増加傾向にあり、表 27(表 18-30)のように、中位値として 2025 年に約
549
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
81 億人、2050 年に約 96 億人、2100 年には約 109 億人に達するとの予測がされている。
中国は 2030 年に 14 億 5330 万まで達し、その後は減少に転じる。2100 年には 10 億 8563
万人と、ピークから 3 億 6767 万人減少するとされている(中国の人口減少は「一人っ子政
策」ためである。2015 年中国は「一人っ子政策」を緩和したので、中国人口の増加予測は今後
変るかも知れない)。その他、2100 年には 11 ヶ国で人口が 2 億人を超え、ナイジェリア(9
億 1383 万人)、タンザニア(2 億 7562 万人)、コンゴ民主共和国(2 億 6213 万人)など、
アフリカ諸国が 6 ヶ国を占める。また、アメリカも一貫して増え、4 億 6207 万人に達する
と見通されている。
表 26(表 18-29)
表 27(表 18-30) 世界の将来推計人口 国別ランキングと推移(2013 年・2050 年・2100
年)
一方、日本の人口は 2013 年の 1 億 2714 万人から減少の一途をたどる。2050 年には 1 億
550
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
833 万人に減少し、2064 年に 1 億人を割る。2100 年には 8447 万人まで減少し、世界順位も
2013 年の 10 位から、29 位まで低下するとされている(最近、2100 年には 3 分の 1 になる
ような予測もある)。
日本と同様に、ドイツ、イタリア、ロシア、韓国など少子高齢化が深刻な国では、2100
年に現在よりも人口が減少する。
いずれにしても、このように 2100 年ごろになると、経済面(GDP)、人口面からだけ見
ても、現在とは様変わりの世界になるようである。
《人口面、経済面から見た 21 世紀後半の世界》
21 世紀の後半には、欧米日の先進国といわれた国々が世界の片隅になり(中堅国になり)、
現在のアメリカだけがかろうじて世界経済の主要国の一角を占めるにすぎなくなってくる
という構図が描かれる。これは工業が出現する前、つまり、イギリスの産業革命前の構図
に似てくるということである。
2050 年の人口と GDP の予測をみると、図 102(図 11)のようになり、現在の先進国と途
上国の関係とは様変わりの世界が出現するようになる(2100 年の世界ではさらに現在の先
進国の人口的・経済的比率は下がると考えられる)。
つまり、今後 20~30 年で中国がアメリカを超え GDP 世界トップに、また、人口において
世界トップとなるインドも日本をはじめヨーロッパの先進国を超えて GDP 世界 3 位になる
可能性がある。中国、インドはすでに核ミサイル大国であり、2050 年までにアメリカの軍
事力に追いつくかどうかは別として、世界有数の軍事大国になる可能性がある。この覇権
の交代期に何が起きるだろうか。
◇軍事大国化する可能性のある BRICS
前述の人口増加、GDP 増加を考慮すると、今後、BRICS は地域においてますます政治・軍
事面において影響力を高めていくであろう。
・南アフリカを除いた、ロシア・中国・ブラジル・インドの 4 ヶ国は航空母艦保有国であ
る。
・ブラジルと南アフリカを除いた、ロシア・中国・インドの 3 ヶ国は核兵器保有国である。
・ブラジルと南アフリカを除いた、ロシア・中国・インドの 3 ヶ国は ICBM 保有国である。
・ブラジルと南アフリカを除いた、ロシア・中国・インドの 3 ヶ国は SLBM(潜水艦発射弾
道ミサイル)保有国である。
・ロシア・中国は ASAT(衛星攻撃兵器。地球軌道上の人工衛星を攻撃する兵器)保有国で
ある。
・ロシア・中国は月面着陸を成功させた 2 番目、3 番目の国となった。
・ロシア・中国は有人宇宙飛行を成功させた 2 番目、3 番目の国となった。
・ロシア・中国は国連安保理常任理事国で、ブラジルとインドも新たに常任理事国入りを
要求する可能性がある。
・2005 年 2 月にロンドンで開かれた G7 財務相・中央銀行総裁会議では従来の G8(G7+ロシ
551
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ア)に加えて、BRICs の他の国も初めて参加した(現在は G20 が組織化されている)。
図 102(図 11) 2050 年の人口と GDP
つまり、ブラジル、南アフリカを除けば、BRICS のいずれもが、予想されるような経
済力がついてくると、核ミサイル軍をもった軍事大国になる可能性がある(ロシアはすで
552
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
に核ミサイル大国であるが)。そうなるとアメリカに匹敵する核ミサイル大国がアメリカ、
ロシア、中国、インドと 4 つも出現して、世界の覇権をめぐって、19 世紀末から 20 世紀前
半の帝国主義時代のように相争うこともありうる(その他にも、英、仏、パキスタン、イ
スラエル、北朝鮮も核ミサイルを保有している)
。
19 世紀末から 20 世紀前半の時代と異なるのは(100 年前と異なるのは)
、全地球と宇宙
を含めた規模の膨大な核装備を伴っており、いったん、ボタンが押されたら、人類の破滅
につながる可能性があることである(福島原発事故のようなこともあるから、戦争でなく
ても事故や手違いでも起こりうる)
。図 74(図 18-185。P328)で示したこと(第 3 次世
界大戦になると 2~3 億人の死者が出るという予測)が現実となる可能性がある。
もはやアメリカの核兵器で睨みをきかすというようなことはできないし、他の大国もそ
れに従うようなことはなくなるだろう(今回のクリミア・ウクライナ問題は、相手が膨大
な核保有国ロシアであり、オバマ大統領が無能力というわけではなく、実際のところ、ア
メリカの足もとが見すかされるようになったのである)
。
列強の軍事大国化と同盟政策を防止できる人類の唯一の道は、人類の歴史からいって「正
義、正当性」のある戦争防止の社会システム、つまり、1945 年にルーズベルトたちが作り
上げた国連憲章の厳格なる実施である。今までのようにアメリカが自ら国連を自国にとっ
て都合がいいようにあしらって、アメリカ的集団自衛権の同盟政策をとれば、核大国化し
た BRICs 諸国も現在のアメリカと同じように国連を適当にあしらい、アメリカ的集団自衛
権の同盟政策、つまり、対アメリカ同盟の形成という行動をとるようになるであろう。も
う、すでに中国はアメリカと太平洋を二分することをめざして、太平洋進出を開始してい
る。
ちょうど 1970 年代のブレジネフ時代にソ連が太平洋に核原潜艦隊を進出させたように。
《世界経済への負の影響》
BRICs 5 ヶ国の世界経済への影響力がますます強まる中で、その発展の副作用としての世
界経済へのマイナス影響も無視できなくなる。
★需要の大幅な増加によるエネルギー不足―中国国内での需要増加によるエネルギー高に
象徴されるように、今後さらに他の 4 ヶ国の成長につれてエネルギーはますます不足して
いくもの考えられている。そのような事態になれば必然的に世界各国はエネルギー・資源
獲得に動き出すことになり、それゆえの新たな国際摩擦を生み出す可能性がある。
★地球環境の悪化―アメリカの政府機関であるエネルギー情報管理局によれば、2001 年か
ら 2025 年の間の二酸化炭素排出量の増加率は、ブラジルが 3.7%、ロシアが 2.3%、インド
が 3.6%、中国が 4.0%で、世界の 2025 年の総排出量の約 32%を占めるとされている(過去
10 年間の中国の二酸化炭素排出量は急増し、世界中のエネルギー・資源を買いあさってい
ることは周知の事実である。これが他の大国にも波及しつつある)。
しかもロシアを除く 4 ヶ国は京都議定書の対象国となっておらず、地球温暖化問題にさ
らなる拍車をかけるものと予想されている(現在、ポスト京都議定書は中断したようにな
っている)。この地球温暖化防止の面でも、京都議定書から早々に脱退したアメリカの行
553
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
動が地球温暖化防止の世界ルールづくりにもっともマイナスの効果をもたらしてきたこと
は世界周知のことである。先進国が率先して途上国に対する地球温暖化防止技術の公開、
資金・技術の援助を行いつつ、世界の温暖化防止のルールづくりをしなければ、この問題
は重大な結果を人類にもたらすことはもはや明瞭である。
★金融の混乱―BRICs 諸国のうちブラジル、南アフリカ以外の国は管理変動相場制を採用し、
外国為替市場管理を行っている。経済規模が拡大し投資や世界貿易における比重が高まる
中で、柔軟性を欠いた為替相場は国内金融市場の不安定化や対外不均衡の拡大を招くこと
になる。また、BRICs 諸国の拡大は海外からの投資をさらに増大させることにつながり、硬
直的な為替制度や脆弱な国内金融システムの下で投機の膨張と縮小を引き起こす可能性が
高くなる。結果として世界のマネーフローが大きく変わり、世界規模で金融システムが安
定性を失い、経済の混乱を招く恐れがあると指摘されている(すでに 2015 年に中国では不
動産、株式市場のバブルがはじけたようであるが、実態は不明である)。
(国際金融の面でも何らかの国際的な規制が必要になっているが、リーマンショック後も
アメリカは国際金融システム安定化のための社会システム導入に何ら考慮を払っていな
い)。
このように BRICs 諸国の急速な拡大はアメリカ及びヨーロッパや日本などの従来先進国
といわれてきた国々の相対的な後退をもたらすと考えられている。
【3】衰えをみせはじめた世界の警察官・アメリカ
◇自由の国から警察国家になったアメリカ
2001.9.11 連続テロ事件が起きると、当時のブッシュ大統領は、2001 年 10 月 26 日に「テ
ロリズムの阻止と回避のために必要適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強
化する 2001 年の法」(頭文字を取って「愛国者法」とも呼ばる)を作り(2006 年 3 月 2 日
に恒久化法となった)、2002 年 11 月 25 日に対テロ対策の総合的な政府組織としてアメリカ
国土安全保障省(DHS)を作った。
前者の愛国者法は、①入国者に対し無期限の留置が可能な権限を与えている 、②司法当
局によって行われる管理権者の承諾なく行われる家宅捜索「こっそり忍び寄り盗み見る」
調査をできるようにしている 、③連邦捜査局に対し令状抜きで電話、電子メール及び信書、
金融取引の記録を利用することを拡大して認めている、④図書館の帯出記録や所得情報を
含めて司法当局が調査できるなど、当初から市民の自由を侵害するおそれがあるものだと
して批判されていた。2013 年になってスノーデン事件がおきて、警察国家アメリカへの懸
念は当初の心配より、はるかに深く広く、外国にも、同盟国、非同盟国など関係なく潜行
していることがわかった。確かにアメリカは世界の警察官になったことを実感させるもの
である。
また、後者の国土安全保障省は、これはテロリストの攻撃と自然災害から国土の安全を
守るためのもので、総勢 17~18 万人(現在は 20 万人以上)の職員を有する巨大組織であ
554
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
り、平時・戦時に関わらず 24 時間体制で活動し、大統領の命令に従うものとされていたが、
組織が大きすぎて、問題に適切に対処できないのではないかといわれていた。
この両方の実態がどうなったか、ワシントン・ポストのデイナ・プリースト(ピューリ
ッツァー賞 2 回受賞)と軍事アナリストのウィリアム・アーキンが著した『トップシーク
レット・アメリカ』
(2013 年刊)では次のように述べている。
《青天井の予算》
(9.11 連続テロ事件の危機が煽られ緊迫した雰囲気の中で)アメリカ議会は数日のうちに,
超党派で追加の 400 億ドル(当時のレートで 4 兆 8000 億円)を承認した。その額はその年
の教育予算の総額の 3 分の 2 に当り、ブッシュが求めた額の 2 倍だった(国防関係予算が
増えて、教育費などが減っている)
。それから 3 週間もたたない同年 9 月末、議会の指導者
たちはさらに次の 400 億ドルを承認した。テロで壊れたペンタゴンを修復し,倒壊したワ
ールドトレードセンタービルの瓦礫を片付け、連邦政府ビルを防衛するために充てられた。
その 3 週間後、こんどは炭疽菌の入った封筒が議員の事務所などに送りつけられ…その
ための予算を追加した。自由の女神像を攻撃から守るための予算、FBI のコンピュータのバ
ックアップ用サーバーを離れた場所に設置するための予算、生物兵器の攻撃に備えてワク
チンを大量に生産するための予算、NAS(国家安全保障局)の設備と人員を増強するための
予算、国内の核施設を守るための予算などだった。こうして 9.11 連続テロ以後、補正予算
を使って次々と支出を承認することが議会の日常になった。
それからわずか 1 年後の 2002 年、イラク攻撃準備のための軍需物資の増産・備蓄が始ま
り、さらに膨大な額の予算が請求されて承認された。・・・さらにさまざまな情報機関や軍
のさまざまな組織の予算が追加されて、GWOT(テロに対する世界規模の戦争)と呼ばれるカ
テゴリーで総称される機密化された予算に組み入れられた。GWOT 予算はあまりに膨大で、
歳出委員会が詳細をチェックすることは不可能だった。予算案を一つ通すやいなや、すぐ
また次の補正の請求がくるというぐあいで、審議などしている時間はなかった。
洪水のように押し寄せる予算案の審議をさらに難しくしたのは、そのほとんどが公開で
きないものだったことである。対テロ作戦や国土安全保障がからむ予算は日常的に機密指
定され、誰にもわからない領域となって外部の目には見えなくなってしまった。この状況
は今でも変わっていない。
《無人機作戦による暗殺の横行》
ブッシュは 9.11 連続テロから間もない 9 月 17 日に、中身がほとんど白紙といってもい
いような「大統領指示」に署名した。「大統領指示」とは、大統領が CIA その他の諜報機関の
秘密活動を許可するときに作成するもので、内容を文書にして署名することが法律で定め
られている。秘密活動には 2 種類あり、一つはアメリカが必要とあればその活動の存在そ
のものを完全に否定することができるもの、そしてもう一つは、活動そのものは秘密だが、
その活動の存在が表沙汰になった場合には、アメリカ政府は指示した事実を認めることが
できるものである。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ブッシュはそのとき CIA に出した「大統領指示」で、「アルカイダを攻撃し、同時多発テロ
にかかわった者と彼らを支援する者を殺害もしくは拘束せよ」と命じた。それは CIA が 1947
年に発足して以来、最も大規模で、最も死人が出る秘密作戦の遂行を求めたものだった。
ブッシュはただちに 10 億ドルの予算を CIA に与え、軍にはあらゆる方法で彼らの活動を支
援するよう指示した。
彼らがアルカイダ(らしき者、巻き添えを含め)を殺害したやり方の一つに無人機作戦
があった。コンピュータモニターの前に、無人機を操縦する CIA の操縦者が座っている。
無人機に搭載された小型対戦車ミサイルは、テロリストが寝ている部屋に窓から飛び込む
ほど正確である。無人機が撮影した映像や傍受した電話会話などをもとに,分析官がター
ゲットの位置を確認し、技術者が近くにいる無関係な人がまきぞえになる確率を計算する。
彼らが勤務している無人機作戦センターは、アフガニスタンでもイラクでもなく、戦場
から遠く離れたアメリカ本土のネバダ州の砂漠の中にある。そして、その作戦のすべてを
モニターして監督している CIA の上級職員が勤務するオフィスは、また別の離れたところ
にある。作戦センターで無人機を操縦している操縦者に彼らが最終的なゴーサインを出す
と、操縦者が操縦桿のミサイル発射ボタンを押す。モニター画面に爆発の煙と破片が舞い
上がるのが見える。もしかすると、煙が消えたあとに死体が横たわっているのも見えるか
もしれない。
ターゲット“指名殺害”に使われる無人機ほど、この遠隔操作による革新的で一方的な
戦争を象徴する兵器はない。このような兵器が生まれた理由は、危険な作戦にかかわるア
メリカ人の数をできるかぎり少なくしたいという願いだった。
(アメリカは核兵器からはじまって、“自分たちだけ”使うつもりで新兵器を次々に開発導
入してきたが、10 年たつと相手もそれを使いアメリカを追い込んでいった歴史だったこと
は述べた。こんどのように日常生活に“指名殺害”をもちこむスタイルは、10 年後のアメ
リカや世界の日常生活に“指名殺害される”スタイルをもたらすことになるだろう。朝窓
をあけたら、小型飛行機が飛び込んだり、新聞をとりにいったら、小型模型自動車が待っ
ていたり(10 年先ではなく“ドローン”だったら、今すぐ実用になる)
。DARPA の研究開発
スタイルといい、アメリカ人の独創力にはかねてから感心するが、こと軍事技術の技術革
新は困ったことである。戦争や謀略を“日常生活”に持ち込むからである)
。
ターゲット“指名殺害”は、CIA と軍がやっているようである。CIA の無人機の操縦者は
ネバダ州ラスベガスの北にある作戦センターにいるが、軍の特殊作戦の場合は、ミサイル
の発射ボタンを押すのは空軍のパイロットで、彼らはノースカロライナ州かネバダ州の空
軍基地にいる。また軍の通常型(武装のない)プレデターと、プレデターの発展型でさら
に強力に武装した新型の「リーパー」も、ネバダの基地で操縦されている。アリゾナ州、カ
リフォルニア州、ニューヨーク州、ノースダコタ州、テキサス州の州空軍も、それぞれの
州にある基地から作戦に参加している。それらの基地も都市の近くの秘密の場所にある。
プレデターはもともと無人偵察機として開発されたが、技術が進歩して、それからミサ
556
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
イルを発射できるようになってから、アメリカ政府のターゲット“指名殺害”はすでに 10
年にわたって行われている。開発・製造を行ってきたカリフォルニアのジェネラル・アト
ミックス社には米軍のあらゆる部隊と CIA から注文が殺到し、生産が追いつかなくなった
ほどである。
9.11 連続テロののちの 10 年間に、
アメリカが所有する無人機は 60 機から 6000
機に増えた。無人機関係の予算は、2001 年には 3 億 5000 万ドルだったが、10 年後の 2011
年には 41 億ドルに膨れ上がり、20 種類以上の異なるタイプが作られている。そのほとんど
は監視・偵察用で、実験中のもののなかには手の平に載るような小さなものもある。
《オバマも出している“大統領暗殺指令”
》
無人機を使った殺害のために少なくとも 3 つの「殺害リスト」が作られている。その一つ
はホワイトハウスの「国家安全保障会議」が持っており、内容は大統領と副大統領が出席す
る週 1 回のミーティングのときに検討される。ここでオバマ大統領も、こんどはこれ、次
はこれと「殺害指令」に同意してきたのであろう。ウサマ・ビンラディンが、2011 年 5 月 2
日、パキスタンのアボッターバードで米軍によって射殺される様子をオバマがどこか部屋
の隅で縮こまるようにして見ている映像が出たが、大物殺害の場合はライブで見ることも
あるのだろう(あの映像を見て、これがアメリカ大統領のやることかと思った人も多かろ
う。政府を批判する人たちは、指名殺害は暗殺だと主張している。暗殺は国際的に禁止さ
れている)
。
スノーデンがアメリカの秘密諜報活動を暴露したとき、オバマがなりふりかまわず、ス
ノーデン逮捕を命じたのはよくわかる。このような日常茶飯事となった“大統領暗殺指令”
が暴露されるのをおそれたのであろう。アメリカは長年、ソ連の暗殺などを(最近もロシ
アのプーチンがやっていると)批判してきていたが、現在ではアメリカの方が無人機作戦
ではるかに多くの“暗殺”を実行してきている。アメリカの政治モラルは地に落ちている。
2 番目のリストが CIA が作成するリストで、前述したやり方が、それである。
3 番目が軍が作るリストで、「統合特殊作戦軍」(JSOC。この部隊はダークマター(暗黒物
質)といわれるほどであり、何でもやる)は独自のリストを持っているので、実際には軍
のリストは一つではない。
これらの 3 つの組織はいずれも法律家の一団を抱えており、法的な問題に備えている。
軍と CIA は、攻撃のタイミングや場所を決める専門スタッフ、操縦者、指令センター、予
算、無人機部隊のメンテナンスのための兵站(へいたん)と人員をそれぞれ独自に持って
いる。
米軍の無人機は,2009 年 7 月まではイラクとアフガニスタンで個人を標的にした攻撃を
行っていたが、現在のほとんどの指名殺害はアフガニスタンのみで行われている(一応軍
は戦場を担当しているのだろう)
。
一方 CIA の無人機は、イエメン、ソマリア、パキスタンなど、アメリカの正規軍が軍事
作戦を行っていない国での殺害に使われている。もちろん、国連憲章違反である。これら
の国における作戦には、大統領の許可が必要になる。つまり、戦場以外は暗殺であり、そ
557
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
れを CIA が担当するという建前であろう。大統領の殺害指令は両方にリストアップされて
いるのだろう。オサマ・ビンラディンは軍がやったようだ。
CIA の殺害リストに名前を加える作業はラングレーの本部で行われる。1 人の人間を殺害
リストに入れることを承認するか却下するか決めなくてはならないという任務は、前述し
たようにブッシュ大統領によって CIA 内部の小さなグループに与えられ、その責任はオバ
マ政権になっても継続された。
オバマが前例のない規模で無人機を使いはじめたのは、2009 年、大統領に就任してまも
ないころのことで、場所はパキスタンだった。2008 年には 35 回だった攻撃がオバマ政権 1
年目の 2009 年には 53 回へ、翌 2010 年には 117 回へと倍増した。
イエメンでの作戦は国際法の規範から見て、かなり強引なものであったが、オバマは 2011
年 6 月に民衆による政権への反乱(アラブの春の一環)が起きて政治的空白が生じたこと
を利用し、いわゆる“アラビア半島のアルカイダ”を自称するグループの幹部に対する無
人機攻撃を劇的に増加させるよう密かに命じた。アメリカはイエメンと交戦状態にあった
わけではないが、この一方的なやり方は、オバマが無人機による遠隔操作の戦争をいかに
気楽に考えるようになったかを象徴的に示している(これだと、まさに証拠が残らず、国
連憲章第 51 条の自衛権云々と批判されることなく気楽に暗殺が行える)
。これこそ国際法
違反もはなはだしい(携帯電話おたくのような人間が大統領になると、無人殺人鬼(機)
も同じように使いたくなるのだろうか。大統領の資質、モラルの問題であろう。ノーベル
平和賞受賞大統領とは聞いてあきれる。このようなやり方はテロと同じであり、アルカイ
ダはテロで報復するだけである)
。
CIA のある高官によれば、2008 年 7 月から 2011 年 6 月までの 3 年間に、CIA はパキスタ
ン国内で合計 220 回の無人機攻撃を行ったという。CIA の公式発表では、およそ 1400 人の
武装勢力容疑者を殺害し、まきぞえになった民間人はおよそ 30 人ほどだったとしている。
一方、イスラマバードに本拠を置く民間組織「戦闘モニターセンター」によれば、2006 年
から 2011 年 6 月までの 5 年間に 2052 人が犠牲になり、そのほとんどが民間人だったとし
ている。また同センターによれば、2010 年 1 年間だけで無人機攻撃は 132 回あり、938 人
が犠牲になったという(アメリカはテロで罪のない市民が○○死亡したと発表するが、そ
の何倍か何十倍かの市民が無人機暗殺の巻き添えになって死亡しているのである。つまり、
テロと無人機暗殺の応酬ではテロや紛争をエスカレートさせるだけである)
。
一方、軍の指名殺害は CIA のそれとは比較にならないほど大規模に、しかも荒っぽく行
われる。軍のほうが殺害の“敷居が低い”という。戦場だから、巻き添えなどの心配もす
る必要がない。無人機による攻撃には敵に降伏する機会を与えないという問題があるが、
実はそのことも,無人機の使用が最近これほどまでに増えた理由の一つであるという。生
きたまま拘束しても収容する場所がないからだという。軍も政治問題となったキューバの
グァンタナモ基地の収容所に入れたくなく、どちみち収容するところはない。捕虜という
やっかいなものが発生する余地のない無人機はこの面でも気楽であるという。
558
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ナチス・ドイツは独ソ戦などにドイツ軍部隊のあとに特別の殺人部隊を従わせて、捕虜
もパルチザンもすべて殺害していったことは述べたが(それで人間を何万、何十万のオー
ダーで殺すことがいかに大変かがわかり、ガス室を考え出したことは述べた)、また、関東
軍が南京大虐殺を行ったときのある師団長が手記に「余は捕虜をとらない方針である」と残
していたが、いずれもジュネーブの戦時国際法に違反する。無人殺人機はジュネーブ戦時
国際法もあったものではない。アメリカはそこまで、なり下がったのか(韓国で北朝鮮の
無人偵察機が何機か発見されているが、10 年後はわが身であり、アメリカ大統領が日夜、
身の危険を感ずるようになるかもしれない)
。
《永遠に続く警戒態勢》
2001.9.11 連続テロから 10 年の歳月が流れ、その間に情報機関や治安当局はハイテク監
視システムや情報分析の分野で大きな進歩を遂げ、CIA や米軍特殊部隊は多くのアルカイダ
工作員を殺してきたが(主として海外で)
、それにもかかわらず、アメリカ政府はとくに理
由もなく警戒レベル“イエロー”
(「テロ攻撃の非常に高いリスクあり」を意味する)を維持
したまま、国土安全保障に関する膨大な数の政府や民間の組織を抱え続けている。
その理由の一つは、ワシントンの政治家にとって、もし間違えたら代償はあまりに大き
いからである。「『もうそれは必要ない』と言って、その 3 週間後に何かが起きたらどうす
るんですか?誰もそんなリスクは負いたくないですよ。規模を縮小するなどありえないで
しょう」ということである。もう、やめられないのである。
アメリカでは毎年たくさんの暴力犯罪が発生して多くの市民が殺され(野放しの銃も原
因している)
、それこそ 100 万人以上の人々を恐怖に陥れている。そのような犯罪をそっち
のけにして、テロのほうが大きな脅威であるかのように宣伝されている(9.11 以降に急増
したテロ対策産業も加えてアメリカの軍産複合体はさらに大きくなったが、彼らは危機が
あって国から多くの支出が増えることによって繁栄する産業である)
。
昨今のように、政府の財政赤字と国の負債が拡大を続けて 14 兆ドルに膨らみ、国家の財
政が脅かされているときに、あれほどたくさんの、しかも有効性が誰にもわからないプロ
グラムのために、企業や個人に大金をバラマキ続けている。この国の指導者たちは、いま
だにテロとアルカイダなるものについて、国民の恐怖心につけ入って金儲けをしようとす
る人たちをまじえずに国民と正直な対話を交わすことができないでいる。
「私たちは頭をクールに保っていないといけない。過激思想に冒される人が増えていると
盛んに言われるが、2001 年 9 月から 2009 年 12 月までの 8 年以上のあいだに、私たちが立
件したのは(わずか)46 件だよ。およそ 152 人だ。つまり、過激派の数は非常に少ないと
言っていいだろう。冷静でいようよ」とゲイツ国防長官は語ったという。
世界の警察官となったアメリカの大統領をも巻き込んだ「トップシークレット体制」にア
メリカは毒され、衰退しつつある病的国家になりつつある。
《世界中を監視するアメリカの諜報機関 CIA》
アメリカ合衆国中央情報局(CIA)は、対外諜報活動を行うアメリカ合衆国の情報機関で
559
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
あることは述べた。中央情報局長官によって統括される。CIA は、アメリカ合衆国大統領の
直轄組織であり、アメリカ軍からは独立して存在している。
アメリカ合衆国国家情報長官は、アメリカ合衆国連邦政府において情報機関インテリジ
ェンス・コミュニティーを統括し、アメリカ合衆国連邦政府の 15 の情報機関の人事・予算
を統括する権限をもつ。これは「2004 年の情報改革及びテロ予防法」により国家安全保障法
が改正されたことを受けた措置である。
CIA 自身が収集した情報の他に、国家安全保障局、国家偵察局、国防省情報本部 (DIA)、
各軍の情報部、財務省情報部、エネルギー省情報部といったアメリカ政府の情報機関から
構成されるインテリジェンス・コミュニティーからの情報を集めて分析し、大統領と国家
情報長官に報告する。
CIA は、創設期からイスラエル諜報特務庁やイギリス情報局秘密情報部とつながりが深く、
また、アメリカ、カナダ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランドの情報機関とは、
アングロ・サクソン連合として横の連携がある。
CIA の活動内容は、主としてアメリカ合衆国の外交政策・国防政策の決定に必要な諜報・
謀略活動を行う。スパイを擁する情報機関であるため活動内容には不明な点が多く、虚実
の区別が難しく、諜報活動のために膨大な予算と権限を与えられているが、その用途など
の詳細情報は明らかにされていない。
一般には以下のような活動があるといわれている。
①情報収集活動 - 情報機関として行う基本的な活動
・アメリカ軍が関与する戦闘地域へ潜入しての軍事的情報の収集 - 直接 CIA 構成員が現地
へ潜入して行うものの他、局に所属する無人偵察機を使用したものも含む。
・経済情報の収集
・外国外交官の買収・懐柔・脅迫
・交戦中の敵国捕虜に対する尋問・拷問
②情報操作
・敵国内での情報操作、プロパガンダから民衆扇動
・外部に知られる訳にはいかない機密の保持、証拠物件等の抹消
③国家転覆を含む親米化工作、敵対国家の弱体化工作
・アメリカ合衆国に敵対する指導者の暗殺(前述した無人暗殺機で容易にやれるようにな
った)
・潜在的敵対国にとっての反政府組織やゲリラなどの人材・資金面での援助、育成 - 内戦
発生地域における親米組織への援助はこれにあたる。
・アメリカ合衆国が攻撃対象とできる反米集団の育成
・反米政権打倒・
“民主化”と称する親米政権樹立の援助
CIA の職員数は、約 20,000 人である(はっきりした数字は定まらない)。
エージェントを政治家や官僚、軍人から、NPO 活動家や宗教団体、留学生、芸術家、無職
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
者に至るまで、非アメリカ国籍者をも組み込み、広範な職業に偽装させて全世界に配置し
ているといわれており、末端のエージェントや職員は自分の活動の目的となる作戦の全容
を開示されていない、もしくは虚偽の説明を受けていることも多いといわれている。
また、他国の政権中枢と反政府勢力の双方に接触して政策決定をコントロールする分割
統治方式を得意としているといわれ、目的達成のためにはアメリカ国民すら反感を持つよ
うな反社会集団の活用も辞さない。
アメリカ合衆国に敵対する指導者の暗殺に関しては、フォード大統領によって暗殺禁止
の大統領令が出されたこともあったが、前述したように、今では撤回され、パキスタン、
イエメンなどで無人偵察機プレデターでイスラム主義テロ組織の要人を暗殺している(こ
のため、(巻き添えの市民の犠牲者が増えて)パキスタンなどではアメリカへの反感が強ま
っている)
。
米軍が関与する戦闘地域へ潜入しての軍事的情報の収集に関しては、ベトナム、イラク、
アフガン等での戦争において、局員は現地へ潜入し敵性ゲリラ・民兵・テロリストの情報
収集を行い、その拠点や隠処の爆撃時期・座標を米軍へ通知している。しかし、不正確な
情報であることもしばしばで、誤爆による多大な民間人の犠牲を招いている。
2006 年 5 月、
「テロリスト関係者若しくはそれらと接触した人物」をアメリカ入国の際に
拉致し、国内法の及ばない地域(シリアやグァンタナモ米軍基地)の秘密収容所に、取調
べを口実に収監していたことが判明して、アムネスティ・インターナショナルや母国政府
が調査に乗り出す事態になっている。グァンタナモ収容所の実態の一部が暴露され、世界
中の批判を浴びて、2006 年 9 月、ジョージ・W・ブッシュ大統領は秘密施設の存在を認め、
この秘密施設での CIA による取調べを「CIA プログラム」と表現した。
オバマ大統領は、2008 年の大統領選挙において、グァンタナモの収容施設を閉鎖すると
公約したが、共和党を中心とする議員の反対にあって、現在もグァンタナモ収容所はその
まま残っている。
《アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件》
アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件は、ウィキリークスが 2010 年 11 月 28 日より
アメリカ合衆国の機密文書を公開した事件で、11 月 28 日、251,287 件の文書の内、219 件
がエル・パイス(スペイン)
、ルモンド(フランス)
、デア・シュピーゲル(ドイツ)
、ガー
ディアン(イギリス)
、ニューヨーク・タイムズ(アメリカ)によるマスコミ報道によって
同時に公開された。文書の内訳は、機密扱いされていない文書が 130,000 件以上、秘文書
が約 100,000 件、高レベルの極秘文書が約 15,000 件、機密 (Top secret) 文書はなし、で
あった。
たとえば、ヒラリー・クリントン国務長官が各国外交官のクレジットカード番号等の収
集を指示したとか、国務省が 2010 年 2 月 17 日、欧州連合(EU)各国のアメリカ大使館に
対し、EU の対中国武器禁輸措置の解除の動きを阻止するよう指示していたという情報など
である。その内容は、世界中におよんでいて、中国については、何亜非外務次官がアメリ
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
カ大使館当局に対して日本の国際連合安全保障理事会の常任理事国とすることに反対を伝
えたとか、中国政府がアメリカ・インターネット検索会社大手のグーグルのコンピュータ
サーバへの侵入を指示したことなど、のちに推察されていたことなどが事実であることも
わかった。
このウィキリークスは、オーストラリアのジャーナリスト・出版社・発行人であったジ
ュリアン・ポール・アサンジ(1971 年~)が 2006 年に立ち上げた、匿名により政府、企業、
宗教などに関する機密情報を公開するウェブサイトで、機密情報から投稿者が特定されな
いようにする努力がなされている。ケニアで起きた虐殺に関する報道では、2009 年アムネ
スティ・インターナショナル国際メディア賞を受賞した。これまで公表した情報には、コ
ートジボワールにおける有害物質の大量廃棄による環境被害、グァンタナモ米軍基地の作
業手順、カウプシング銀行やジュリアス・ベアなどの銀行などに関するものがあった。
前述のように、2010 年 11 月 28 日から、ウィキリークスと 5 つの報道機関がアメリカの
外交機密文書の公開を始めると、ただちにホワイトハウスはアサンジの行為を「無謀かつ
危険」であるとした。そして、その後のアサンジ氏は性的暴行容疑でスウェーデンから追
われる身となったようである。その動向はよくわからないが、2010 年 12 月、国連言論と表
現の自由特別報道官フランク・ラ・ルエは、アサンジや他のウィキリークス職員が流した
情報に関して彼らが法的責任を負うべきではなく、
「仮に漏洩した情報に対する責任が誰か
にあるとすれば、それは情報を漏らした人間に他ならず、情報を公表したメディアではな
い。そしてこの仕組みこそが透明性を維持し、さまざまな腐敗を浮かび上がらせてきたの
だ」と語った。
《謀略国家・アメリカを暴露―スノーデン事件》
その後、アメリカの謀略国家ぶりをもっと直接に伝える事件が起こった。スノーデン事
件である。このスノーデン事件を報じて、2014 年 4 月、優れた新聞報道などに与えられる
ピューリッツァー賞にイギリスの「ガーディアン」とアメリカの「ワシントン・ポスト」が選
ばれた。
エドワード・ジョセフ・スノーデン(1983 年~)は、アメリカの情報工学者で、中央情
報局(CIA)及び国家安全保障局(NSA)の局員として、アメリカ政府による情報収集活動に関
わっていたが、2013 年 6 月に香港で複数の新聞社(ガーディアン、ワシントン・ポストお
よびサウスチャイナ・モーニング・ポスト)の取材やインタビューを受け、これらのメデ
ィアを通じてアメリカ国家安全保障局(NSA)による個人情報収集の手口を告発したのであ
る。
スノーデンは CIA 職員として雇用されて、2007 年にはスイスのジュネーブでの情報収集
に派遣され、コンピュータセキュリティを担当した。2008 年、バラク・オバマ大統領当選
を機に組織改革を期待して 2009 年に CIA を辞職し、アメリカ国家安全保障局(NSA)と契
約を結んでいた DELL、次にコンサルティング会社ブーズ・アレン・ハミルトン社に雇用さ
れた。2013 年 5 月、ブーズ・アレン・ハミルトンを通じてアメリカ国家安全保障局(NSA)
562
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
のハワイ州にある拠点「クニア地域シギント工作センター」に赴任し、同拠点のシステム
管理者に就任した。後の情報源となる、個人情報に関する機密文書に常時接触できる立場
にもあった。
2012 年 3 月から 2013 年 3 月にかけて、アメリカ合衆国の議会はアメリカ国家安全保障局
(NSA)長官のケイス・アレクサンダー将軍やジェームズ・クラッパーアメリカ合衆国国家
情報長官に対して、アメリカ国家安全保障局(NSA)が情報収集したアメリカ人の人数の公
表を繰り返し求めていた。2013 年 3 月、クラッパー長官はアメリカ人に対する一切の情報
収集を否定した。
そこで、2013 年 5 月、スノーデンはハワイのオフィスで告発の根拠となった文書(スノ
ーデン自身のインタビューに先立って各紙で報道されたもの)をコピーした後、病気の治
療のために 3 週間の休暇が必要だと上司に伝えたうえで、同月 20 日香港へ渡航した。九龍
尖沙咀のホテルにチェックインしたスノーデンは、マスメディアのインタビューを受け、
アメリカ合衆国や全世界に対するアメリカ国家安全保障局(NSA)の盗聴の実態と手口を内
部告発した。
スノーデンは持ち出した機密資料のコピーを分割して民間の報道機関に提供し、自身の
身に危害が及んだ場合は自動的に取得している全情報が流出すると述べた。スノーデンが
香港で暴露した機密情報はアメリカ国家安全保障局(NSA)の情報収集に関するものであっ
たが、提供された機密資料によって、下記のような多国間にわたる情報収集活動が明らか
となった。
スノーデンは英紙ガーディアンにアメリカ国家安全保障局(NSA)の極秘ツールであるバ
ウンドレス・インフォーマントの画面を示し、クラッパー国家情報長官が否定した 3 月に
合衆国内で 30 億件/月、全世界で 970 億件/月のインターネットと電話回線の傍受が行なわ
れていたことを明らかにした(このように、膨大な情報を盗聴していながら、それを官僚
が否定するという、あまりにも大きな落差にスノーデンは驚愕し、その未来に恐怖を覚え、
正義心から暴露する気になったという)
。電話傍受にはベライゾン・ワイヤレスなどの大手
通信事業者が協力しており、国家安全保障局(NSA)は加入者の通話情報を収集していた。
標的になった情報は通話者の氏名・住所・通話内容ではなくメタデータと呼ばれるもの
で、通話者双方の電話番号、端末の個体番号、通話に利用されたカード番号・通話時刻・
所要時間、および基地局情報から割り出した通話者の位置情報を収集していた。またイン
ターネット傍受はクラッキングではなくアプリケーション・プログラミング・インタフェ
ースのような形のバックドア(他人に知られることなく)によるもので、コードネーム
「PRISM(プリズム)」と名付けられた検閲システムによって行なわれていた。標的になっ
た情報は電子メールやチャット、動画、写真、ファイル転送、ビデオ会議、登録情報など
だった。
通信傍受には Microsoft、Yahoo!、Google、Facebook、PalTalk、YouTube、Skype、AOL、
Apple などが協力させられていたことは以前から指摘されていたが、スノーデンの持ち出し
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
た資料によってその一部が明らかとなった。Microsoft は、国家安全保障局(NSA)が通信
傍受しやすいように Microsoft チャットの通信暗号化を回避した。またストレージサービ
ス「スカイドライブ」への国家安全保障局(NSA)の侵入を容易にするように配慮を行った。
Skype も国家安全保障局(NSA)が容易に情報を取得できるように特別チームを編成して、
その技術的問題を解決した。
また、日本マイクロソフトは 2012 年 10 月の時点で、米軍関係者を社のセキュリティ担
当として雇用していることを公表している。
フェイスブックには 2012 年後半の 6 ヶ月間で、
国家安全保障局(NSA)から 18000~19000 個のユーザーアカウントについて情報提供依頼
があったと報告した。
《アメリカ国家安全保障局(NSA)の海外に対するクラッキング》
ハッキングとは、元来深い知識と技能でコンピュータを調べること、それを悪用する行
為をクライム・ハッキング(Crime Hacking)、またはクラッキング(Cracking)といって、
それを行う人を「ハッカー」とか「クラッカー」と称したが、現在はハッカーもクラッカー
も同一視され、どちらも「悪用する行為」の意味である。
スノーデンによると、アメリカ国家安全保障局(NSA)は世界中で 6 万 1000 件以上のハ
ッキングを行っており、そのうち数百回以上が中国大陸と香港の政治、ビジネス、学術界
を目標として行われ、香港中文大学もターゲットの一つだったという。中国へのハッキン
グは 2009 年以降に活発化した。アメリカ国家安全保障局(NSA)はドイツなど外国の情報
機関と共謀して情報収集することもあり、外国との共同作戦のための専門の委員会がアメ
リカ国家安全保障局(NSA)に設置されている。ドイツにはアメリカ国家安全保障局(NSA)
によって盗聴や通信傍受の手技が伝授され、またプライバシー侵害を非難されないように
するための情報交換も行われていた。ドイツはそれらの活動により中東諸国の情報を得て
いたとされた。
ガーディアンは、スノーデンが持ち出した極秘文書により、アメリカ国家安全保障局
(NSA)
が日本を含めた 38 ヶ国の大使館に対しても盗聴を行っていたことをスクープした。
対象となっている大使館は、日本、フランス、イタリア、ギリシャ、メキシコ、インド、
韓国、トルコなどの同盟国も含められていた。ワシントンの欧州連合(EU)代表部への情報
収集工作のケースでは、暗号機能付きのファクス内に盗聴機と特殊なアンテナが仕組まれ、
約 90 人の職員のパソコン内のデータ全てをのぞき見る手法で実施されていた。
フランスのオランド大統領は「同盟国に対するこのような行為は容認できない」とし、
ドイツのメルケル首相の携帯電話も盗聴されていたとされ、ドイツ政府報道官は「全く容
認できない」とする苦言を呈した。これらの報道に対してオバマ大統領は、一般論として
「諜報機関を持つ国ならどの国でもやっていることだ」として、同盟国の大使館に対する
諜報活動を否定しなかった。民主的な大統領として期待されていたオバマ大統領も形無し
である。これだけ大仕掛けに網を張っている諜報システムは技術の進歩があったから可能
となったといえるが、もちろん、史上最大の諜報活動である。結局、オバマもアメリカ軍
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
産複合体の虜(とりこ)になったようである。類まれなる聡明な人物であったものも、大
統領になると「国益」の虜となり、情報盗聴は当然のこととなるようである。
(ここで 1948 年にイギリスの作家ジョージ・オーウェルが書いた小説『1984 年』を思い出
す。この小説では、(オーウェルが小説を書いたのは 1948 年だったので、下桁をひっくり
返して『1984 年』としたのであるが)1984 年現在、世界はオセアニア、ユーラシア、イー
スタシアの 3 つの超大国によって分割統治されていて、間にある紛争地域をめぐって絶え
ず戦争が繰り返されている。小説の舞台となるオセアニアでは、思想・言語・結婚などあ
らゆる市民生活に統制が加えられ、物資は欠乏し、市民は常に「テレスクリーン」と呼ば
れる双方向テレビジョンによって屋内・屋外を問わず、ほぼすべての行動が当局によって
監視されている。人間はそれが普通で何も思わなくなっている。オーウェルは、当時(1948
年)のソ連を頭におきながら、未来の共産主義やファシズムの社会をイメージして(皮肉
って)書いていたのだが、その 1984 年から 7 年後にモデルのソ連が崩壊し、それから 30
年経った 2014 年には、世界最初の民主主義国家で共産主義に勝利したというアメリカが世
界最初の『1984 年』の社会になっているとしたら、何という歴史の皮肉ということになろ
う)
。
アメリカは,従来、中国のサイバー攻撃のことを非難していたが、実はアメリカが本家
本元で最も大々的に行っていたことがわかった。アメリカがこれをやると、他の国も同じ
ことを繰り返すことになる(最近は中国も組織的に行っているようである)
。第 2 次世界大
戦後、開発された兵器は核兵器も含めてすべてアメリカが開発し(「創造と摸倣・伝播の原
理」で)世界がマネをしたことは述べてきたが、情報の世界でもそれをやると、底なしの世
界に陥ることになる。
実は、イギリス・政府通信本部(GCHQ)もネット上の通信記録を『総取り』して無作為に
抽出し、電話番号や住所、IP アドレス、フェイスブック ID などから個人を特定し、関心の
ある情報を選別するという方法で情報収集していることが報じられた。現にイギリス・政
府通信本部(GCHQ)は、イギリスであった 2009 年 4 月の G20 首脳会合と 9 月の財務相・中央
銀行総裁会議において以下のような情報収集を行っていたことが判明したという。この情
報収集は G20 を有利に運ぶために、当時のブラウン政権高官の承認の元で実施されたとい
う。
・各国代表団メンバーのノート型パソコンを通じ送受信される電子メールを情報収集プロ
グラムで傍受
・代表団のスマートフォンに侵入して電子メールや通信履歴を入手
・通信傍受のために、偽のインターネットカフェを設置
その他、アメリカ国家安全保障局(NSA)が G20 でロシアのメドベージェフ大統領(当時)
の衛星通話の盗聴も試みたことも報道された。
アメリカは、情報通信技術が進んでいること、あるいは世界の情報通信インフラを所有
していることなどを利用して、欧米諸国が軍事はもちろん、外交・通商・経済などの分野
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の盗聴をしはじめると、相互信頼で築き上げられてきたこの人類社会の社会システムはた
ちまち崩壊してしまうことになる。それをアメリカが先導して行ってきたのである。その
アメリカ大統領は「どこでもやっていることである」とことの重大性をまったく感じてい
ないのである。
これではスノーデンが(義憤から)怒るわけである。彼は香港滞在中に、香港紙サウス
チャイナ・モーニング・ポストの取材に応じ、自分がアメリカを離れて香港に移動したの
は隠れるためではなく、アメリカの犯罪を暴くためであること、オバマ大統領は人権上問
題のある政策を推進していること、アメリカ政府は市民の同意を尊重せず密かに情報収集
作戦を行っているが、この曝露によって今後は社会への説明責任と監督が求められること
になるだろうと述べた。
このスノーデンが覚悟して内部告発したアメリカ国家安全保障局(NSA) の盗聴の実態と
手口は現在のアメリカが謀略国家であることを如実に示し、世界に衝撃を与えた。
このスノーデン事件が発覚すると、オバマ大統領は血相を変えてスノーデンの逮捕を命
じた。直ちに、アメリカ司法省は情報漏洩罪など数十の容疑でスノーデン捜査に乗り出し、
2013 年 6 月 22 日、逮捕命令が出された。追われる身となったスノーデンは、「表現の自由
を信じる国に政治亡命を求めたい」といろいろ模索したが、ロシア行きの飛行機に搭乗し
モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に移動した。アメリカは同氏のパスポートの失効
手続きをしていたが、香港政府は手続きに不備があるとしてスノーデンの出国を止めなか
った。アメリカは同氏の拘束をしなかった中国を非難するとともに、ロシアに対して同氏
の拘束を求めたが、ロシア政府スポークスマンはこの問題に介入するつもりはないとした。
スノーデンは、7 月 12 日空港内で人権団体とともに会見を開き「安全を確保できる唯一
の手段はロシアに一時的に亡命者として留まることだ」
「アメリカへ損害を与える活動は今
後しない」と語り、改めてロシアへの亡命を希望しているとした。2013 年 8 月 1 日、スノ
ーデンは、ロシアの移民局から 1 年間の滞在許可証が発給され、5 週間以上滞在していた空
港を離れ、ロシアに入国した(その後、3 年間の期限付き住居権を得ている)。
第 2 次世界大戦前にも、冷戦時代にも多くのソ連人や自由を求める人々が、自由の国、
希望の国アメリカに渡ったのに、いまや、秘密国家アメリカからロシアへ亡命する人が出
るようになった。スノーデンの言葉によると「表現の自由を信じる国に政治亡命を求めた
い」と。
《アメリカの政治を支配す者》
なぜ、民主国家アメリカがこのように変貌していくのか。その原因は何か。いまや、ア
メリカの政治を支配しているのは大統領ではなくて、大統領選挙に大献金をした「1%」であ
るといわれている。これがアメリカを変えているのである。このことを、堤朱果の『
(株)
貧困大国アメリカ』
(2013 年刊)は以下のように述べている。
2010 年 1 月の「企業による選挙広告費の制限は言論の自由に反する」という違憲判決は,
企業献金の流れを促進し、企業献金の上限が事実上撤廃されたと考えられている。この判
566
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
決は、企業も有権者と同等に政治に意向を伝える権利を持つという意味で「市民連合判決」
と呼ばれている。この判決は、最近年々ほやけてきていた 2 大政党の対立軸を完全に消し
てしまい、アメリカ国民にとっての選択肢は、「大金持ちに買われた小さな政府」か、「大金
持ちに買われた大きい政府」か、という二者択一になったという。いずれも「大金持ち」のた
めの政治であることには変わりはない(アメリカの政治は、リンカーンの「人民の、人民
による、人民のための政治」から、今や「1%の大金持ちの、1%の大金持ちによる、1%の
大金持ちのための政治」に変貌してしまったようである)。
この判決にはもう一つ、アメリカの政治を大きく変える要素があった。アメリカ国籍で
ない外国企業でも、特別政治活動委員会(PAC)という民間政治活動委員会を通すことで、
匿名で献金できるようになったのである。これで世界中どこからでも、アメリカの政策に
影響を与えられるようになるという。
たとえば、アメリカ石油協会(API)は、2010 年 5 月に下院で成立し、7 月に審議打ち切
りになった「温室ガス排出量を規制するアメリカエネルギー法案」の廃案に向けて 730 万ド
ル(約 7 億 3000 万円)のロビイング費用を投じている最中であるという。この API の年会
費は 2000 万ドル(約 20 億円)
、最大出資者は、サウジアラビア政府が所有する石油会社ア
ラムコ傘下のサウジ精製会社アメリカ支社長のトフィグ・アル・ガブサニである。API の会
員企業 400 社は、わずか 3 社の代表役員に仕切られている。ガブサニもその一人である。
それまでの連邦法は外国企業や外国籍を持つ者の政治献金を禁じていたが、匿名寄付を可
能にした市民連合判決のおかげで,サウジアラビア政府の業界ロビイストであるガブサニ
も、企業名を出さずに好きなだけ献金できるようになった。
その結果、オバマ政権の公約であったグリーン・ニューディールに沿った環境規制法案
の数々は、共和党議員の 8 割を占める API 支援議員の反対票によって次々とつぶされてい
く。その後アラムコ社はテキサスのアーサー港に新しい精油工場を建設し、サウジアラビ
アから輸入された石油とアメリカ国内の石油精製事業で大きな収益を上げたのである。
このように軍産複合体、石油業界、製薬業界、化学薬品業界など、世界中の大企業を代
表して、多くの協議会がアメリカ政府の政策に影響を与えている。彼らは「選挙とは、国の
支配権をかけた、効率のよい投資である」と言っている。企業の意思表示が無制限に保護さ
れた結果、選挙は有力企業と、その意向を代表するコンサルタント、広告代理店、世論調
査会社が演出する巨大な劇場となっている。2012 年の大統領選挙および上下院選挙では、
総額 60 億ドル(約 6000 億円)というアメリカ史上最高記録を更新している。2008 年に 5
億ドルだった選挙広告費は、2012 年には 8 倍以上の 42 億ドルに跳ね上がった。
市民連合判決以降、企業であっても個人であっても何億、何兆ドルでも無制限に集めら
れ、集めた総額も、寄付者の名前も一切公表しなくてよくなったので、たとえ巨大多国籍
企業が一人の候補者を丸抱えしていても、国民には全く知られない。スーパーPAC(特別政
治活動委員会)は表向きは候補者とは関係ない団体であるので、ライバル候補者に対する
根も葉もない醜悪なネガティブ CM を流したとしても、候補者本人は自分とは「一切関係な
567
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
い」と言える。だからエスカレートするという。
このように寡占化によって巨大化した多国籍企業は、立法府を買い、選挙を買い、マス
メディアを買うことでさらに効率よくその規模を広げてゆく。最大の問題は、こうした動
きが国民の知らないところで進んでいることである。選挙になると、この国ではまだ 2 大
政党制が機能しているかのようなイメージをいだくが、実際は「1%」の巨大献金者の選挙に
すぎなくなっているのである。
2012 年の大統領選挙では,「1%」の代表であることを体現していたロムニーは敗れたが、
オバマの大統領当選後の政策と政治献金の内訳はリンクしていることがわかるという。つ
まり、オバマも「1%」の代表者であることには変わりはなく、演説がすごく上手いところに
違いがあるということがわかったのである。政府関係者 1447 人がオバマの選挙献金大口ス
ポンサーである銀行、証券会社、保険会社、不動産会社などにロビイストとして転職する
一方で、業界出身者が次々に閣僚に指名された。オバマの「ロビイストの入閣を禁止する」
という選挙期間中の公約は、あっさりと翻されている。
金融業界だけではない。軍需産業には見返りとして就任直後にアフガニスタンに米軍を
増派し、任期中ずっとイラクとアフガニスタンに軍を派兵し続けている。医産複合体には
民間医療保険入会を義務化するオバマ・ケアを導入し、教育産業にはチャータースクール
(公設民間運営校)と教育ビジネス推進政策、食産複合体にはモンサント保護法(遺伝子
組み換えを利用する企業を保護する条項)など、
・・・今では巨大企業と政府間の癒着はワ
シントンでは常識になっているという。「チェンジ」を合い言葉にしてオバマが登場しても、
これではアメリカが変わらないはずである。ますます、泥沼に陥っていく。
『
(株)貧困大国アメリカ』から、貧困化の実態をあらわす指標を一つ示そう。貧困層と
ワーキングプア人口が拡大するなか、SNAP(低所得層、高齢者、障害者、失業者への食糧
支援プログラム)への支出は年々膨れ上がり,医療費とともに政府予算を大きく圧迫し続
けている。2011 年度の SNAP 支出はリーマンショックが起きた 2008 年の倍、750 億ドル(約
7 兆 5000 億円)になった。SNAP 受給者は年々増加、図 103(図 18-198)に示すように、
2012 年 8 月 31 日には 4667 万 373 人と過去最高に達した。1970 年には国民の 50 人に 1 人
だったが、今では 7 人に 1 人が SNAP に依存していることになる。
アメリカは,リーマンショック以降何度も、国家破綻危機に直面している。2013 年 3 月
にはオバマ大統領がついに強制歳出削減案に署名、高齢者の医療保障や貧困層支援などを
始め、向こう 10 年で 3 兆 94 億ドルの歳出削減が予定されている。国防関係予算やテロ対
策費は湯水のように支出され、そのしわ寄せが非国防関係予算に来ているのである。
アメリカの貧困率と失業者の数は,リーマンショック以来増え続けている。4 人家族で年
収 2 万 3314 ドル(約 230 万円)という、国の定める貧困ライン以下で暮らす国民は現在 4600
万人、うち 1600 万人が子どもである。失業率は 9.6%(2010 年)だが、職探しをあきらめ
た潜在的失業者も加算すると実質 20%という数字になる。16 歳から 29 歳までの若者の失
業率を見ると、2000 年の 33%から 45%(2010 年)に上昇、経済的に自立できず親と同居
568
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
している若者は 600 万人である。
国内の貧困状況を調査する市民団体「ワーキングプア・ファミリー・プロジェクト」のデ
ータによると、2010 年の時点でアメリカ国内のワーキングプア人口は 1 億 5000 万人(2 人
に 1 人)を突破、うち 4 人に 1 人が、8 大低賃金サービス業(ウェイター・ウェイトレス、
レジ係、小売店の店員、メイド、運転手、調理人、用務員、介護士)に就いており、給料
の手取り額が貧困ライン以下だという。
アメリカが 21 世紀に入ってますます、貧富 2 極分化し、不安定化し、軍事国家・警察国
家になりつつ、衰退していっていることは確かなようである。
図 103(図 18-198) 急増するフードスタンプ(SNAP)受給者数
◇アメリカ政治学者の『アメリカ時代の終わり』
アメリカ外交問題評議会上席研究員でジョージタウン大学教授のチャールズ・カプチャ
ンは,『アメリカ時代の終わり』(2002 年)という本を出して、今後のアメリカの行動指
針原則(それをグランド・ストラテジーといっている)はどうあるべきかを論じている。
彼は次のように論じている。
「我々は現在、1 極世界、つまり唯一の超大国が存在する世界に生きている。そして、それ
はもちろん、アメリカの 1 極である。現時点での、根本的で不可避の地政学的特徴は、ア
メリカの優越性なのである。
569
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
今日の世界情勢の安定は、まさにその 1 極構造からダイレクトに生じている。ある1国
が、ほかのすべての国々より大きな富と軍事力を保持しているならば、そのシステムは1
極である。ほぼ同じサイズの 2 つの国がある場合、それは 2 極構造である。そして、3 つか
それ以上の大国が存在する場合、そのシステムを多極構造とよぶ。冷戦期の 2 極世界、あ
るいは 1930 年代の多極世界において、大国間の競争関係はつねに存在した。
それに対して、
ただ一つの極しかない世界では、大国が 1 国しか存在しないという単純な理由によって大
国間の競争関係は生まれない。ほかの主要国は、アメリカと事を構えようなどという考え
さえもつことはできない。そのようなはっきりしとした非対称性があるゆえに、中東やそ
のほかの地域で過激主義者がアメリカに対して怒りを向けることになるのである。優越性
は、憤りを生じさせるものなのである。しかし、この世界唯一の超大国への攻撃を成功さ
せたとしても、それは、世界システムの1極性を変えるものではない。(中略)
しかし問題は、アメリカの1極支配と、それにともなう世界の安定が永遠のものではな
いということである。(中略)アメリカの優越性の衰退は、たんにほかの大国の勃興だけ
でなく、世界的な覇権という負担にアメリカが嫌気をさしつつあることの結果である。ア
メリカ市民と指導者たちは、当然ながら、世界の警察官としての役割を演じることに興味
を失ってきている。同時にアメリカは、多国間機構から手を引き、単独行動主義に傾斜し
はじめているが、それは、ほかの大国を離反させる危険を含み、それによって、彼らの上
昇があらたな地政学的競争の時代をもたらす可能性を高めている。(中略)
ほかの勢力の勃興とアメリカの衰退および単独行動主義的な国際主義は、あいまって、
アメリカの1極時代を束の間のものとするであろう。1極が多極に移行するにつれて、比
類なき覇権国の存在から自然に生じていた安定は、立場、影響力、ステータスをめぐる世
界的な競争にとって代わられるだろう。世界の主要な断層線(勢力間の亀裂という意味)
は、これまでずっとそうであったように、世界の大国間に走ることになる(前のところで
カプチャンはアメリカ1極時代、つまり、世界にただ一つの極しかないのであれば、断層
線は存在しないといっている)。対立によってもたらされる無秩序がすぐに、パックス・
アメリカーナによる秩序にとってかわるであろう。(中略)
40 年以上にわたってアメリカ人は、冷戦と核戦争の恐怖に向かい合っていた。10 万人近
いアメリカ市民が、朝鮮半島とベトナムにおける共産主義を封じ込める戦いで命を落とし
た。そしてこの長い戦いは、ドイツ、日本、イタリアを倒すために必要であった、5000 万
人以上の命を奪った世界戦争のすぐ後にはじまった。
政治家や学者は口々に、主要国間の戦争が時代遅れになりつつあり、永続的な平和に道
を譲ろうとしていると論じている。しかし、このような見解が誤りであったことは、なに
も今回がはじめてではない。歴史を参考にするならば、アメリカ支配の終結は、これまで
よりも不確実かつ不愉快な世界をもたらすことになるだろう。アメリカの優位が比較的安
定した世界秩序を保っている間に、今後の多極化への回帰をマネージするためのアメリカ
の行動指針原則(グランド・ストラテジー)を構想すべきであろう。(中略)
570
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
未来は複数の大国が競合する世界を用意しているが、この多極化の時代は、独自の特徴
をもち、歴史上の先例とはあまり似ていないものになるかもしれない。近年の大きな変化
によって、新しい時代は、終わりつつある時代よりも平和なものになりそうだという楽観
主義が生まれている。国家はかつてのような略奪による征服を行うための動機をもはやも
ってはいない。いまや国家は、土地や労働力を征服したり奪いとったりするのではなく、
情報技術の発展と金融サービスの拡大を通して富を蓄積するようになった。核兵器の登場
はまた、戦争のコストを引き上げた。民主主義国家はかつての権威主義的国家ほど攻撃的
でなくなり、民主主義国家同士の戦争はありそうもない。おそらく将来、極となる国々は、
それが民主主義国家である限り、平和裏に共存するであろう。
その意味で、アメリカの時代の終わりは、たとえば第 1 次世界大戦前のヨーロッパのよ
うな伝統的なバランス・オブ・パワーのシステムに回帰することを意味しない。むしろそ
れは、あらたな基本要素とゲームの新しいルールによって導かれるであろう未知の歴史時
代への進展を意味するものである。その意味でフランシス・フクヤマが、ソ連の崩壊と自
由民主主義の大勝利が歴史の終着点であると主張したのは正しい。いまの時代の終わりは、
アメリカの優位性の終わりだけではなく、産業資本主義、自由民主主義、国民国家といっ
た、一つの歴史的時代の終わりをも意味するであろう。アメリカはさまざまな意味で、現
代を特徴づけるこれらの特質の最前線に立ってきた。そして、これらの重大な歴史的プロ
ジェクトを、それぞれ完成させるか、少なくとももっとも高められた形にすることに見事
に成功した。
しかしフクヤマが、歴史そのものが終わりに向かっていると主張したのは誤りである。
終わりつつあるのは、ある特定の歴史的時代にすぎないのであって、歴史の長い歩みでは
ない。ある歴史のサイクルが終わり、新しいサイクルがはじまりつつある。つまり、アメ
リカ時代の終わりは、ある一時代の終わりであるとともに、別の時代のはじまりをも意味
するのである。だからこそ、アメリカ時代の終わりについて書かれた本は、歴史の再生に
ついても論じなくてはならない。(中略)
新しい世界地図(現代世界の真の姿をまずは正確に把握すること)を設計するという作
業を、これまでにすでにほかの論者によって提示されている論点を検証することからはじ
めよう。アメリカ政府も市民もあまり関心をもっていないが、何人かのアメリカの戦略家
は新しい世界環境を整理しようと試みてきた。いくつかの競合するビジョンを検討し、そ
れぞれの長所と短所を明らかにすることは、アメリカのグランド・ストラテジーの研究に
適切な出発点となり、これからどこへ進むのかを明らかにしてくれるだろう」と述べて、
アメリカ知識人によって、これまでに提起されてきた 5 つの世界地図(これからの世界の
見通し)を述べている。
《フランシス・フクヤマ―民主主義を世界に拡大すれば戦争はなくなる》
現在、ジョンズ・ホプキンス大学国際問題高等研究所教授のフランシス・フクヤマは、
ちょうど冷戦が終結しつつあった 1989 年にその議論をはじめている。『ナショナル・イン
571
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
タレスト』誌に掲載された論文「歴史の終わり?」と、続く著作『歴史の終わり』のなか
で、フクヤマは、ソ連の崩壊と民主主義の勝利は、歴史を終焉に向かわせつつあると論じ
た。彼は、同じような価値観をもった穏健な民主主義諸国がともに安定的で平和な世界秩
序を構成するというような、歴史の最終段階に世界が到達しつつあることを論じた。
そのうちに、主要な断層線は、民主主義国と非民主主義国の国境沿いに生じるようにな
るであろうから、フクヤマはアメリカがその外交政策を、そのような断層線沿いに生じる
紛争を回避させ、世界中に民主主義を広めるという目的に集中させるべきであると主張し
た(フクヤマはかつてネオコンといわれた。ブッシュ大統領(息子)は、後にイラク戦争
はイラクを民主国家にするために行ったと言い訳していたが、それはネオコンの論理であ
った)。(中略)
フクヤマによれば、アメリカのグランド・ストラテジーの最優先事項は、民主主義を拡
大し、それによって世界に唯一残っている断層線を消し去り、歴史を終結に向かわせるプ
ロセスを完了させることであるという。世界市場の拡大と、政治的自由化を促進するため
に経済の自由化を用いることは、この作業の達成を約束してくれる。同時に、アメリカと
そのほかの民主主義国は、自らがポスト歴史時代を謳歌しているとしても、いまだ歴史の
なかにいる諸国家からの潜在的脅威に備えつづけなくてはならないともいう。
フクヤマによると、世界地図を変え、歴史を再度動かす可能性のある展開は 2 つあると
いう。歴史の終わりが退屈で均一なものでしかないことに気づいた自由民主主義国の市民
は、新しい挑戦へと進んでいくようになるかもしれない。尊厳と自己価値の追求は、飽く
ことを知らず、人間の経験に根源的なものであるだろう。歴史を完了させる満足感は別に
して、闘争のない人生はたんに活気のないものになるかもしれない。逆に、科学の進歩と、
遺伝子コードを組み換えるというバイオテクノロジー技術の発展によって、人間と、人間
の行動を形成する諸動因が変化するかもしれない。もし科学が人間の本質を変化させるの
であれば、すべての賭けは終わってしまう。このようなかなり過激な展開を除けば、民主
主義は拡大しつづけ、歴史の終わりは近づき、そしてすべての地政学的世界地図は灰の山
のなかに残されることになるだろう、とフクヤマは論じている。
《ジョン・ミアシャイマー―多極世界の復活―核兵器の管理された拡散によって戦争を抑
止する》
シカゴ大学教授のジョン・ミアシャイマーが続いて、冷戦終結後に出現するであろう秩
序についての見解を示した。彼は 1990 年の論文「われわれがすぐに冷戦を懐かしむように
なる理由」(アトランティック・マンスリー誌)や「バック・トウ・ザ・フューチャー:
冷戦後のヨーロッパの不安定」(インターナショナル・セキュリティー誌)において、フ
クヤマよりはるかに悲観的な予測をした。彼は東西対立の消滅を嘆き、それが生んだパワ
ーの 2 極配分こそが、過去数十年におよぶ平和の維持に中心的な役割を果たしたのだと論
じた。東欧からのソ連軍の撤退、ワルシャワ条約機構の解体、その結果としてのヨーロッ
パにおけるアメリカの戦略的役割の低下は、欧州大陸にあらたな競争関係をもたらすこと
572
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
になる。多極世界への回帰とともに断層線が国民国家間に復活することにより、ヨーロッ
パの未来はその不幸な過去に似たものとなろう。安定のための最良の希望は、核兵器の管
理された拡散によって侵略行為への抑止を強化することである。またミアシャイマーの東
アジアについての予測も、同様に悲観的なものであった。
このような未来への悲観的展望を前に、ミアシャイマーは、2 極世界を続けるための手段
として、アメリカは、たとえもっとも弱い敵対関係であっても冷戦的対立を維持する道を
探るべきだと論じる。このような議論が政策立案者の支持をほとんど得られないであろう
という認識のもと、彼は、管理された核兵器拡散によって抑止を強化し、多極世界を安定
させるように主張している。もし核拡散が抑制できないならば、アメリカやそのほかの核
保有国は、安全な核開発を行おうとしている国々に対して技術的な支援を行うべきであろ
うといっている。
《サミュエル・ハンチントン―文明の衝突が起きる》
ハーバード大学教授のサミュエル・ハンチントンは、1993 年『フォーリン・アフェアー
ズ』誌に掲載され、高い評価を得た論文「文明の衝突?」と、続く『文明の衝突』という
著作において、将来の中心的な断層線が世界の主要文明の交わるところに出現すると説い
た。異なった文化は、国内秩序についても国際秩序についても相容れない見解をもつため
に、衝突が運命づけられている。ハンチントンの世界地図によれば、ユダヤ=キリスト教、
東方正教会、イスラム教、儒教という 4 つのブロックが支配権をめぐって競合する。
ハンチントンは、西洋は、最強の文明であるだけでなく、自らの文化と価値観をほかの
すべての人たちに押しつけようとする。「民主主義と自由主義を普遍的価値として広め、
軍事的優越を維持し、経済的利益を拡大しようという西洋の努力は、対抗しようという反
応をほかの文明に生じさせる」。ハンチントンはとくに、儒教社会とイスラム社会が手を
結ぶことを懸念する。勃興する中国がイスラム世界の反西側体制と同盟すれば、強力な組
み合わせになるだろう。「近未来の紛争に関しては、西洋とイスラム=儒教国家が中心的
焦点となるだろう」とハンチントンは警告している。
アメリカはすべての挑戦者から西洋を守ることを主目的としつつ、同時に、主要な文明
間の断層線沿いに起こる紛争の回避を模索しながら、グランド・ストラテジーを構築すべ
きであるとハンチントンは説く。「西洋の存亡は、アメリカ人が西洋としてのアイデンテ
ィティを再確認し、また、西洋文明の人々が、自らの文明が普遍的なものではなくユニー
クなものであることを認め、非西洋社会からの挑戦に対して、これを守り存続させるため
に団結できるか否にかかっている」。
さらに彼は、あらたな儒教=イスラム連合に対抗するためには、アメリカは中国とイス
ラム諸国の軍事力を制限し、この 2 文明間の政治的、文化的相違につけいる機会を捉える
べきであると論じる。同時に、アメリカはほかの文化を理解するためにもっと努力するべ
きであり、「どの文明も他文明と共存することを学ばなければならない」。結局のところ、
文明というものは永続的で堅固なものであり、それらを隔てる断層線が消え去ることはな
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
いであろう。アメリカが求めうる最良の成果は、もちろん道のりは遠いが、相互寛容と平
和共存である。
《ポール・ケネディとロバート・カプラン―南の破綻国家の大量難民が北に押し寄せる》
ポール・ケネディとロバート・カプランは、別々にではあるが、ケネディは、1994 年に
『アトランティック・マンスリー』誌に「西洋とその他文明の衝突は不可避か?」を載せ、
カプランは 1994 年に同じく『アトランティック・マンスリー』誌に「来るべき無秩序」を
載せ、後に同じタイトルの本を出版した。2 人がそれぞれ描く世界秩序によると、世界は、
社会経済的な断層線によって分断される。豊かで健全な産業国と貧しい発展途上国がそれ
ぞれ別個にブロックを形成し、この二つのブロック間に主たる断層線が生じるという。彼
らの議論に従うと、北の豊かな国々は南で生じるさまざまな問題から逃れることはできな
いであろう。難民、環境破壊、伝染病、犯罪と汚職、あるいは経済破綻した国家などの問
題が、世界のもっとも先進的な国家にさえも最終的には脅威を与えることになる。
断層線の一方の側には、「豊かで満ち足りており、人口統計的には停滞した比較的少数
の社会」があり、他方には、「貧困にあえぎ、資源は枯渇した多くの国々があり、その人
口は 25 年もかからずに倍増している。このような、地域ないしは大陸間に広がる裂け目の
両側にいる人々が、いかに関係を結ぶかという問題の大きさは、世界情勢のほかの諸問題
をかすませるほどである」。この最大の課題に対して、ケネディはまったく楽観せず、「地
球が、人口が爆発的に増加する地域と、テクノロジーが爆発的に発展する地域に分裂して
しまうことは、国際秩序の安定にとってよい事態ではない」と警告している。
カプランもまた、「「北」と「南」の間」に断層線を予測し、「世界の残りの地域がほ
しがるようなモノやサービスを生み出すわれわれのような社会と、カオスというぬかるみ
にはまり込んでしまった社会に分断された世界」を予見する。「エアコンのきいたリムジ
ンのなかには、貿易サミットやコンピュータ・インフォメーション・ハイウェイで結ばれ
た、北米、ヨーロッパ、あるいは最近伸張めざましい環太平洋地域やそのほかいくつかの
孤立した場所からなる、脱産業化した地域である。車は物乞いをするホームレスが暮らす
町を走っていて、車の外にいるのは、残りの人類であり、彼らはまったく異なった方向に
向かっている」。
北の豊かな国々は、南の貧しい国々に背を向けることができると考えるかもしれないが、
南の国々は、飢餓、疫病、犯罪による国家の最終的な崩壊によって地政学的地図から消え
去るのではなく、産業化された世界に重大な戦略的脅威を突きつけることになる(つまり、
大量移民かテロ攻撃である)。社会経済的な分断であったものがいかにして地政学的な断
層線となるのかについて、彼らはいくつかの論点を提起している。
ケネディは、おもに大規模な移民について懸念を示している。人口は増えつづけ、すぐ
にその地域の資源を枯渇させ環境悪化を招くだろう。多くのアフリカ諸国で生活条件が劣
悪化するにつれ、住民はさっさとその場を去るだろう。彼らは、食料と水、それに家や車
を期待できる場所、すなわち北へ向かう。いかだやバスや車の荷台に乗って、あるいは徒
574
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
歩でやってくる、それも何百万という数で。先進国には、選択肢が 2 つしかない。浸入さ
れるか、武力を使って移民の波を追い払うかである。ケネディは、「大量の移民がわれわ
れすべてを圧倒しないためには、富める人々は戦い、貧しい人々は死ななければならない」。
ケネディは、別の著作では不安定さの拡散にともなって、いわゆる中枢国家とよばれる
地域の大国が崩壊するという問題に焦点をあてている。国内の騒乱の原因となりうるのは、
人口過剰、移民、環境破壊、疫病、犯罪などのありふれたものである。中枢国家といえる
のは、メキシコ、ブラジル、アルジェリア、エジプト、南アフリカ、トルコ、インド、パ
キスタン、インドネシアであろう。これらの国のうち一つでも崩壊する事態に陥ったなら
ば、その戦略的な影響があまりにも重大なため、アメリカやほかの先進国はただ黙って見
ているわけにはいかない。したがって、南北の境界が、将来の地政学的断層線になるので
ある。
カプランのいう来るべきアナーキーも、崩壊した国家から大量移民と不安定さが拡散す
るという点では同様である。カプランはおもな原因として、はびこる犯罪と、環境上の欠
乏(水不足はとくに激しいものとなろう)を指摘する。彼のいうように、「犯罪的アナー
キー」が地平線にかすかに見えはじめ、環境問題は「まさに 21 世紀初頭の国家安全保障問
題」なのである。これに、あらたに宗教的、民族的過激主義という悪性の圧力が加わり、
また、たんにカオスに陥るだけではなく、怒りを抱き、復讐を求めるような第 3 世界が出
現する。したがって、カプランのいうアナーキーは、ハンチントン的な、反西洋という含
みをもっており、「怒れるアナーキー」とでも呼ぶのがふさわしい(最近頻発する中東・
アフリカのテロ戦争もその予兆かもしれない)。
政策への処方箋として、ケネディは、アメリカとその主要パートナーがただちに行動に
移るならば、南の国がカオスへ転落するのをとめることは可能かもしれないという。北に
住むという幸運に恵まれた人々は、その指導者を説得し、「世界的問題の巨大さと相互に
関連した性質を認識させ、人類の創意、機智、エネルギーのすべての要素を働かせ、世界
規模の人口的、環境的な圧力を和らげ、できるならば逆転させるようにするべきである」。
アメリカはあらたな南北合意をつくるために指導力を発揮すべきである。その合意の重
要な部分は、南への経済支援を拡大し、新しいエネルギー源や食糧生産方法の研究を行い、
第 3 世界全域で家族計画を推進し、医療を改善することであり、また、紛争の予防や解決
に関して国連をもっと効果的な機構とすることであるという。
経済援助の有効性について、カプランはより懐疑的である。「開発援助が歴史を大きく
変えることはほとんどない」と彼はいう。「援助がサハラ以南のアフリカ諸国を根本的に
変えることができると考えることは、エリート知識人以外の人々はまず賛成しないような
立場である」。それでも、カプランはときに援助が意味をもつことは認めているし、たと
え効果がないとしても、「より結びつきの強くなった世界のなかの一つの国として、われ
われ自身をつくり替えるのに役立つのである」。彼はまた、アメリカが、第 3 世界に早期
警戒メカニズムを構築することに努力すべきだとも主張する。なぜなら、危機に対処する
575
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
最高のタイミングは、それがはじまる前だからである。しかし、予防的措置が失敗したと
き、アメリカは直接的な介入には非常に慎重でなくてはならない。戦略的利益が高く、か
つ見込まれるコストが低いというような例外的な状況においてのみ、アメリカは軍事介入
を検討すべきであろう。カプランによれば、「われわらは関与しつづけなくてはならない
が、それは厳格な制約のなかで行われる必要がある」。
《トーマス・フリードマン―グローバリゼーション、自由市場がただ一つの選択肢である》
『ニューヨーク・タイムズ』紙のジャーナリストであるトーマス・フリードマンは、彼
のコラムと、1999 年の著作『レクサスとオリーブの木』で、グローバリゼーションこそが
新しい世紀の支配的な地政学的特徴であると論じた。モノ、資本、生産の世界市場の拡大
は世界を変化させ、すべての国家が同じルールのもとに行動するように要求するとフリー
ドマンは主張した。マーケットは、経済を自由化・民主化した国家には報いるが、対照的
に、経済と政治の中央集権支配を継続しようとする国家に対してはきびしく、彼らの株式
市場、通貨、社会を罰する。フリードマンの描く世界地図によれば、未来の中心的な断層
線は、グローバル化したデジタル経済のルールに従う国家と、それに対抗しようとする国
家との間に生じるであろう。国家が保有する戦車や戦闘機の数ではなく、コンピュータの
普及こそが、この新しい地政学システムのどこに国家が位置するかを決定するのである。
フリードマンの描く世界地図にも見られるように、中心となる論点は、グローバルなネ
ットワークが国家を包囲し、強力なインセンティブでもって共通のルールに従って行動さ
せる、というものである。フクヤマは民主的平和を予見したが、フリードマンは資本主義
の平和を期待した。それは、グローバリゼーションは「近代史上のどんな時代よりも戦争
をしないインセンティブを増やし、戦争をはじめるコストを増大させている」という考え
に基づいている。
フリードマンは、すべての国家がこの策略に乗ってくるわけではないことは認識してい
る。伝統文化への脅威があまりに大きいことに気づき、政治的、経済的改革の実行を拒む
国もある。少なくとも一時的には、あらたな地政学的な断層線は、グローバル・マーケッ
トから利益を得る国家と、自由化を拒否して戦う国家の間に生じることになる。
しかしフリードマンは、こうした脱落者たちはやがて情報ハイウェイの「路上轢死(れ
きし)者」になると確信している。
「自由市場は残されたただ一つの選択肢である。1 本道。
スピードは異なるが、1 本道だ」。結局、グローバリゼーションが生み出すのは、共通の利
益を追い求める、動きの速い人、資本家、インターネットの専門家、民主主義国家からな
る世界なのである。
グローバル経済への統合は、インターネットを活用する勝者と、ただ傍観するだけで、
怒りをつのらせるしかない敗者を生む。その結果、「強大な力を得た怒れる男」が、破壊
的なコンピュータ・ウィルスをまき散らすためにインターネットを用いるなど、彼が怒り
を覚えるシステムを破壊するために、そのシステムそのものを利用することもありえる。
576
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかしフリードマンは、適切な政策がこれらの脅威を制御できるという点で楽観的であ
る。レクサスとオリーブの木の間にちょうどよい均衡を見つけることで―それは、社会的
セーフティーネットの整備や、グローバル経済に統合されながらも自国の文化を守ること、
あるいは環境保護などである―国際社会は潜在的なコストを背負いこむことなく、グロー
バリゼーションの恩恵を享受することができるはずであると述べている。
《チャールズ・カプチャンの『アメリカ時代の終わり』》
本論に返って、カプチャンの主張を述べよう。まず、カプチャンは、前述したアメリカ
知識人によって提起された 5 つの世界地図(これからの世界の見通し)は、すべて間違っ
ているという。その論拠はここでは省略するが(筆者は 5 つの世界地図は今後の世界のあ
る一面をあらわしており、つまり、群盲像をなでる状態で個々には間違っているとは思わ
ない)、すべてアメリカの覇権が継続することを前提にこれらの世界地図がつくられてい
ることを上げている。
カプチャンは、欧州とアジアの勃興を、厄介なアメリカの国際主義の衰退と合わせてみ
れば、アメリカの 1 極時代が長くはないことが明らかとなるという。アメリカの優越性や、
その力を世界中に伝えたいという政治的欲求はピークを迎えてしまい、双方ともこの 10 年
のうちに消えてなくなるだろう。1 極時代が多極世界に変わるにつれて、いまはアメリカの
優越性によって押しとどめられている戦略的競争が復活するだろう。もしアメリカの単独
行動主義的衝動が抑えられなければ、それは非常に激しいものとなるだろう。
アメリカの覇権がもはや安定したものでなくなれば、グローバリゼーションと民主化の
プロセスは弱体化する。その結果、地政学的断層線(勢力間の亀裂)が、北米、欧州、東
アジアの大国間にふたたびあらわれる。アメリカの行動指針原則(グランド・ストラテジ
ー)の中心的な課題は、このような新しい断層線から生じる危険を管理し、飼いならすこ
とであるという。
そこでのカプチャンの主張は、次の 4 点につきる。
ⅰ)あと 10 年で(ということは 2010 年代から)アメリカの 1 極の覇権がおわり、世界は
EU、東アジアなどの勃興にともなって、多極構造の時代にうつる。
ⅱ)もともとアメリカの「本質」は,孤立主義と単独行動主義である。それは,海外での
モメごとに自国が巻き込まれるということを恐れ(孤立主義)、それを回避するために自
分で行動する(単独行動主義)、といったメダルの表裏のような関係にある。
ⅲ)放置しておけば,アメリカは自国に「ひきこもる」、(正確には単純なひきこもりで
はなく)他国のことを考えずに行動する。アメリカが「大戦略」なしに撤退したあとには、
無秩序な衝突,すなわち地政学的断層線(勢力間の亀裂)が登場する。
ⅳ)アメリカが多国間への関与を残しながら、秩序ある撤退をしていくという新たな行動
指針原則(グランド・ストラテジー)を描くべきである。
というのがカプチャンの言わんとするところである。
577
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このⅰ)ⅱ)ⅲ)の指摘はまったくその通りになっている。アメリカは民主国家といっ
ても、けっして責任をとる体制にはなっていない。アメリカは前述したように軍事力で押
し通し、都合が悪くなると(政権が変わって)後始末をしないで放り出して逃げるように
手を引いてしまう。朝鮮戦争の時もベトナム戦争の時もそうだった。実質的な敗北をきし
て手を引いたアメリカは、1980 年代レーガン大統領の根拠なき強気で押し通し、ソ連が崩
壊したので 1 極覇権主義に陥り、2000 年代のブッシュ大統領(息子)の時、国連無視のア
フガニスタン戦争、イラク戦争をしでかし、再び打つ手なしで撤退せざるをえなくなって
いるのが現在である。
独裁政権を倒して破綻国家を残すだけという結果となり、アメリカの 1 極覇権主義は地
に墜ちた。ブッシュに替って登場したオバマ政権も、収拾する能力をもちあわせていず、
アフガニスタンもイラクも単に成り行きにまかせる形で撤退するしかないようである(最
近のイラクの「イスラム国(IS)」、アフガニスタンの情勢、また、シリア、クリミア、ウ
クライナの情勢はさらにアメリカの弱体化を促進することになるだろう)。
ⅲ)は,覇権を失った国がどうなるかは、歴史が示している。覇権交代論で述べたよう
に、ポルトガル(スペイン)がどうなったか、オランダがどうなったか、フランス(ナポ
レオン時代)も一度は世界(ヨーロッパ世界)を制覇したことがあったが、その後どうな
ったか、そして典型的なのはイギリスである。19 世紀の世界の覇権を握ったイギリスがど
うなったか。経済力ではすでに 19 世紀後半には、アメリカがイギリスを凌駕していたが、
まだ、アメリカは南北アメリカに専念していたので、イギリスとドイツとの覇権争いとな
り、第 1 次世界大戦となった。戦間期に復活したドイツを倒して、本格的にアメリカが世
界の表舞台に登場したのは,第 2 次世界大戦後であった。
この覇権の交代期のイギリスの撤退の仕方はけっしてよいものではなかったことは述べ
た(時代錯誤の植民地主義にこだわった。フランスも同じだったが)。インドでも、イス
ラエルでも問題をこじらせて、逃げるように撤退したと述べた。これが今にも続く大問題
を残すことになったのである。そのイギリスの肩代わりをしたのがアメリカであった(フ
ランスのベトナム植民地などには頼まれもしないのにアメリカが自ら押しかけていった)。
このアメリカの肩代わりはけっして問題の解決にはならず、逆に問題をこじらせてしまっ
たことは述べた(イスラエルの問題もインド・パキスタン問題も大問題のまま継続してい
る。新たに北朝鮮問題も作り出した。イスラムは手もつけられなくしてしまった)。
つまり、覇権の交代期には、ⅲ)でカプチャンが述べたようなことは十分起こりうるこ
とである(イスラエル問題、北朝鮮問題などはアメリカでなければ解決出来ない問題であ
るが、このままでは有り難くない置き土産を残してアメリカは引きこもってしまう恐れが
ある)。
ⅳ)は、まさに本書で述べようとしていることである。カプチャンは、「アメリカが多国
間への関与を残しながら、秩序ある撤退をしていくという新たなアメリカの行動指針原則
(グランド・ストラテジー)を描くべきである」としているが、そうではなく、それはもう、
578
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
できているのである。
ルーズベルト大統領が 70 年前につくっているのである。
国連である。
人類の長い戦争の歴史を見通して、まさに、人類の叡智をもって、つくっているのである。
それが国連であったが、アメリカが最も国連をないがしろにしてきたことは縷々述べた。
「ミスターアメリカ憲法」のマディソンのことはアメリカの歴史で述べた。アメリカ 13 州
は独立した。しかし,州の連合体ではダメだ。このままでは分裂する、戦争になると思っ
たマディソンは、ワシントンやフランクリンを担ぎ出して、結局、アメリカ憲法(もちろ
ん、人類が持った初めての民主主義憲法だった)を作った。これと同じである。人類社会
は、それぞれの国が国家統一の過程で、憲法をもって、安全・治安の権限を国家にゆだね
るという歴史をもっている(イギリスも日本も現在ではその他ほとんどの国が)。
次は世界について、どうにかしなければならない段階にきていた。世界政府がない地球
社会で人類は当然、次の段階で世界政府をつくらなければ、いずれは共倒れになってしま
うことぐらいのことは第 1 次世界大戦、第 2 次世界大戦を経験すれば、(言葉で言わない
までも)常識(コモン・センス)だった。ルーズベルトはそれをやったのである。(まだ、
不完全ではあるが)
国連の集団安全保障制度がその第 1 歩をなすものであったはずである。
ルーズベルトが国連をつくったときに、それまで世界の流れであった勢力均衡や覇権主
義は人類に平和をもたらすことはないとして、人類の普遍的な安全保障の体制として集団
安全保障の仕組みを作ったことは述べた。世界に対して「国連憲章」という人類社会のビジ
ョン、いや単なるビジョンではなく具体的な集団安全保障の手順を事細かく示してくれて
いたのである。我々はその国連をその規約(国連憲章)のとおり実行すればよかったので
ある。国連を 10 年、20 年使って見て、世界平和のために問題があれば、手直しして使えば
よかったのである。
新しい社会システムは不具合が出るものである。その不具合を手直しし、手直しし、そ
れを積み上げて現代の社会をつくってきた人類の歴史は本書で縷々述べてきた。最初から
100%完全のものはない。社会で使ってみて良いものは残る。悪いものは廃れる(これを社
会システムの社会選択、社会淘汰といった)。
国連を 10 年、20 年使って見て、世界平和のために問題があれば、手直しして使えばよか
ったのである。アメリカは国連憲章を(ソ連との対立はあっても、たとえば、後述するよ
うに、拒否権で拒否された紛争は別途、第 3 者の調停委員会で時間をかけて調停するとか、
いろいろルールを追加して手直しすればよかったのである。もちろん、ソ連などの同意は
いるが)改革して、その上でアメリカは国連を立てる形で(つまり、人類社会の最高統治
機関として権威を持たせる)外交をやればよかったのである(アメリカがそれをしなかっ
たのは、覇権国家になったアメリカ自身(ルーズベルトの後輩の政治家たち)が世界を牛
耳るという野心を持ったからであることは述べた。反共産主義は国民を動員する名目にす
ぎなかった)。
国連ができて 70 年になるが、それをやっておけば、今頃、どの国が覇権国になろうと、
軍事大国がゴロゴロ出ようと、国連の憲章、つまり、確立した国際法を反故にするような
579
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国は人類共通の敵として排斥されるであろう。そのような国連の集団安全保障制度という
人類共通の社会システムが確立していただろう。
しかし、アメリカはそうしなかったということは、これまで縷々述べてきたことである。
したがって、ⅳ)のように、アメリカは何もしないで撤退してしまうと、歴史の教える
ところは「権力の空白はない」ということが実現され、中国が、あるいはインドが、ロシア
やブラジルがそれを埋めようとするだろう。それは新たな弱肉強食の列強時代の出現とな
ってしまうだろう。これは 100 年前の列強時代とわけが違うもので、何としても避けなけ
ればならないものである。このままでは、今度の列強時代は、核ミサイルが相互に相手国
に何百も何千も照準をあわせた人類の滅亡と隣り合わせの列強時代となるからである。
なんとしても、次の覇権の交代期までに、アメリカは国連回帰をはかって、人類社会に
国連の真の集団安全保障制度を定着させてほしい。それはアメリカにしかできないことで
ある。もちろん、ヨーロッパ、日本などの他の民主主義諸国も大賛成で協力することであ
ろう。
《カント的平和主義(国連中心主義)か世界列強主義(同盟主義)か》
筆者は戦争と平和の系譜の中で国連の平和主義と勢力均衡論的な平和主義があると述べ
た。しかし、理論的にいって、本当の恒久的平和論は国連的平和論しかない。中世に正戦
論があったことは述べたが、対峙する両軍はそれぞれ「我に正義あり」で、これでは問題
の解決にはならないのでこの考えはすたれたことは述べた。勢力均衡論も、その一種であ
る覇権主義も反対の立場からみれば、別の考え(正義)があり、問題の解決にはならない。
勢力均衡論はある短時間の平和論でしかない。
人類の歴史で述べたように国家のおかれた環境はたえず変化している。国家の盛衰もた
えず変化している。国家や人間の主義主張もたえず変化している。その主張の内容は国や
人間の主観によってきめようがない。
それより「攻撃を受けた場合には」という物理的、客観的指標によって(どちらが,先
に攻撃したかは現在では、すべて探査できる)、「攻撃をした方」(武力行使を最初にし
た方)を他のすべてで(何段階かの手順を踏んで、最終的に)制裁することが戦争防止の
もっとも確実な方法である(このルールが確立されれば、やがて武力行使に踏み切る国は
なくなるだろう。内戦やテロ戦については、新たな対策が必要であろう。国連は国家単位
で加盟しているから。これらについては、後述するが、まず、国家間の武力行使、つまり、
戦争をなくすることである)。
現在の国連の集団安全保障制度は、現実主義者のルーズベルトが考え出した。ルーズベ
ルトは、4 人(5 人)の警察官というアイデアにたどり着いた。平和維持のためにつくられ
る国際機関の性質がどのようなものであろうと、最強国は支配力を保ち、他国に対してよ
り大きな影響力をもつであろうとルーズベルトは推論した。このように変えることのでき
ない現実に抵抗するのではなく、世界の主要国―アメリカ、イギリス、ソ連、中国(あと
580
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
でチャーチルがフランスを入れた)―による国際システムの協調的な管理こそが、戦後世
界秩序構想の指導的な原則となるべきであるとした。
当時の世界の安全保障制度としては安保理体制しかなかったと思うし、それから 70 年た
った現在の世界の安全保障体制についても、やはり、安保理体制が最も有効であると筆者
も認める。ルーズベルトは 4 人(5 人でもよいが)の警察官の心は一致しなければならない
ことを大前提にしていたと思われる(少なくとも、理由はどうあろうと「攻撃を受けた場合
には」という事態については、5 人がそろって、その攻撃国を撤退させ、現状復帰させ、話
し合わせるという点については)。だから、ルーズベルトはスターリンとも(終戦まじか
のヤルタ会談などで)いろいろ妥協して、とにかく、戦後、世界の 4 人(5 人)は一致団結
して,以前の帝国主義 3 人男のようなやつが出てきいたら、一緒になって取り押さえよう
と考えていた。そしてその仕組みは、つまり、出来上った国連憲章はそうなっている。
ここでルーズベルトが亡くなって,トルーマンに替わってしまった。トルーマンはルー
ズベルトほどの人類に対する深い洞察力がなく(つまり、叡智がなく)、未来を透視する
熟慮も、もちあわせていなかった。ついでにいうと、ルーズベルト的政治力はどこから生
まれるかというと、深い歴史的思考実験と人間に対する深いいとしみ、愛情から生まれる。
要するに薄っぺらな政治家か熟慮する政治家かだ。つまり、本来のルーズベルトが考えた
国連の安全保障システムは実行されていないのである(ゴルバチョフのときに一時本来の
姿になったと述べたが。ゴルバチョフも熟慮する政治家だった。今や世界は熟慮する政治
家を必要としている。単に人気取り、選挙というお祭り、テレビ向きの政治家ではなく、
本当に人類と地球の歴史を熟慮する政治家がほしい。あえていえば、ゴルバチョフとかル
ーズベルトのような)。
トルーマンは、この国連憲章を自己流に解釈して、矮小化してしまった。国連という屋
根の下にはあったが、簡単に米陣営の集団安全保障システムとソ連陣営の集団安全保障シ
ステムにわけてしまったのは(一本になっているところに、この機構の本質的価値があっ
たのに)、トルーマンであり、スターリンであった。
このカプチャンからの引用でわかることは、米ソ冷戦はアメリカの方から仕掛けたこと
(つまり、カプチャンはトルーマンがおおげさに共産主義の危機を煽って、アメリカはう
まく共産圏をやりこめたことを評価しているのである)、現実的なルーズベルトがうまく
やったので、アメリカ(アメリカ的集団的自衛権)は成功してきたことが述べられている。
つまり、カプチャンは、ルーズベルトがつくった本来の国連の集団安全保障制度とアメ
リカ的集団保障制度の区別もしていない。その差は雲泥の差である。何百年、何千年続い
た人類の勢力均衡論的世界を今後も永遠に繰り返すか、カントが描いた『永遠平和』をい
かにして現実にこの地球上に実現するか、なやみぬいてルーズベルトが考え出した社会シ
ステムか、それを区別できなかったのである。
前に述べた 5 人の政治学者を含めて、カプチャンは覇権国家となった第 2 次世界大戦後
のアメリカに育った政治家であり、戦後、アメリカは世界の大国としてうまくやってきた
581
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
というばかりで、今後の世界全体、人類全体のためにどうすべきかという観点はまったく
もちあわせていない。
ついでに『歴史の終わり』を書いて有名になったフランスス・フクシマ(前述)も、『ア
メリカの終わり』(2006 年)の第 6 章「新しい世界秩序を求めて」で次のように述べてい
る。ちょっと長くなるが、アメリカの政治学者が国連をどうみているかがわかる。
「イラク戦争は、アメリカの「善意による覇権」には限界があることを全世界に知らしめ
た。しかし同時に、国連をはじめとする既存の国際機関にも限界があることが明らかとな
った。正統な国際活動を行う正統な機関として、ヨーロッパの人々が支持する国際機関の
力に限度があることが露呈したのだ。国連は、アメリカの開戦への決断を是認することも
できなかったし、その単独行動を止めることもできなかった。そのいずれにも、失敗した
のである。
現在の世界には、国際的な集団行動に正統性を与えられる機関が存在しない。今後 20~
30 年間にわたる国際社会の重要課題は、多国間の集団行動に正統性を与えることができ、
なおかつ効果的な対応をとることも可能な、均衡のとれた新しい機関を作り上げることで
ある。(中略)
アメリカは善意にあふれた賢明な国なので、その力を制度的に制限しなくても、一方的
に影響力を行使して、世界中の人々に利益に資する行動だけをしてくれる―などと信じて
いる人はまずいない。国連の存在がかえって大きな障害となり、左右両派とも、グローバ
ル・ガバナンスや国際機関についてしっかりと考える必要はないと思い込んでしまってい
る。(中略)
確かに国連は、平和維持や国家建設といったある種の任務においては力を発揮するが、
正統性と実効性の両面において、構造上の限界を抱えている。現在検討中の改革や、その
他の政治的に実現可能な改革を断行したところで、国連の抱える問題が解消されるとは思
えない。
国連にとって最大の問題は、正統性の問題である。この問題は、国連の加盟資格が、正
義の本質的な定義によるものではなく、形式的な主権に基づいて決められていることから
生じている(筆者の注―現在の国連憲章は、国連憲章を守ると約束した主権国家は加盟を
許され、平等に扱われる。それをフクシマはけしからんと言うのである)。特に指摘して
おくが、国連は加盟国に対し、民主主義国家であることも、自国民の人権を尊重している
ことも求めていない(筆者の注―現在の国連は、「世界人権宣言」をもっているが、ただ
ちにすべてこれを満たすように義務付けてはいない。すべての国が「世界人権宣言」を真
に守るようになるには、まだ、かなりの年月が必要であろう。しかし、戦争は直ちに防止
する必要がある)。設立当時の国際政治情勢の現実に譲歩したために、当初から権威主義
的で腐敗し、国民を正統に代表するとは言いがたい加盟国を抱え込んでしまっているのだ。
この事実は、国連のその後の活動に、大いに支障をきたす結果となった(筆者の注―何度
も言うが、もっとも大きな支障は常任理事国の拒否権の行使とそれに対する手当てを何も
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しないことである。非民主国を国連に入れないで野放しにしていたら、もっと、この地球
世界は不安定になってしまう)。
冷戦というイデオロギー上の争いは、結局のところ、「正義とは何か」という基本的原
理についての意見の相克であった。その点を踏まえれば、国連が安全保障の問題を処理し
きれずに行き詰ることが多かったのは当然だったと言える(筆者の注―現段階では「正義
とは何か」を誰も決められない。政治体制や宗教などによっても、「正義」の定義は異な
ることは述べた。人類は遠い将来、より緊密になり、共通の「正義」を見いだすかもしれな
い。しかし、多様な歴史を歩んできた現段階の人類に統一した「正義」をみいだすことはこ
こ当分無理であろう。そこでルーズベルトは「攻撃をした方」に手順を踏んで制裁を課す
ようにしたのに、フクシマの議論は中世の正戦論と同じである)。
冷戦の終結によって、人権や民主主義という大きな原則について多くの国々が同じよう
にな考えを持つようになり、国連の実効性が上がるだろうと期待された。ところが、多く
の加盟国は、これらの原則について口先では立派なことを言いながら、実際にはそれとか
け離れた行動をとったのである。それでもなお、それらの国々は正式な国連の加盟国とし
て扱われている。結果として、2001 年にはアメリカが国連人権委員会から除外され、代わ
りにシリアがメンバー入りすることになった。2003 年には、リビアが同委員会の議長国に
なるなどということがまかり通っている。」
というような議論を行って、フクシマは、結局のところ、国連の改革が不可能であると
したなら、国連に代わるものとは何か。新たな世界規模の機構を作るのは正解ではなさそ
うだ。そのようなものではなく、多数の国際機関が連立する形をとって、国際秩序の障害
となるさまざまな種類の問題を分担し、それぞれにおいて力と正統性を発揮できるように
することが、正しい解なのではあるまいか、と次のように述べている。
「(前略)
NATO(筆者の注―西側の軍事同盟にすぎない)は、国連に比べても正統性に関する問題
点が少ない。すべての加盟国が完全な自由民主主義国家であり、基本的な価値観や制度の
面で似通った国ばかりだ。NATO には親米派の国が非常に多く、東欧の新たな民主化した国々
が加盟し、規模を拡大して以降は親米派の数がさらに増えた。また、アメリカ政府に対し、
常に批判的な態度を貫くフランスは自主的に脱退したに等しい状況にあり、ロシアや中国
の拒否権も及ばない(筆者の注―フクシマは国連より NATO がましであると言っている。国
連と軍事同盟を同列に論ずるとは)。(中略)
多くのアメリカ人が国連を批判するのも、ゆえなきことではない。国連が多数の非民主
主義国家の加入を認めているがために、そうした国家が国連を利用してアメリカやイスラ
エルのようなまっとうな民主主義国家に対して真偽の疑わしい非難を浴びせかける偽善行
為に出ることができる、と捉えているからだ。このような批判が出てくるということ自体、
民主主義国家のみによる国際的な連合組織を作る必要があるということを意味している。」
583
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
フクシマの議論はまだ続くがこの辺でやめる。これが『歴史の終わり』を書いたフラン
シス・フクシマというアメリカの著名な国際政治学者かと思うほどの一方的で幼稚な議論
である。
《国連中心の外交に徹っしてほしい》
カプチャンの議論に返るが、今後について、カプチャンは、すでにアメリカが多国間主
義をとる現実的基盤はなくなっており、ほっておけば、テロやテロとの戦争によって、ア
メリカはしだいに海外から撤退していき、今後の世界は多極時代に移っていくと述べてい
る。
そして、今後の国際政治の中心課題が、いわれているような「新しい」脱国境的な諸問
題ではなく、伝統的な勢力間の対立であると彼は強く主張する。その上で、現実的に考え
て、アメリカが現在のような一人勝ち状態をずっと維持できるはずはなく、歴史上かつて
ない「欧州諸国の連合体」としての EU パワーの台頭、そして、より長期的にはアジア諸国
(中国、インドなど)の勃興によって、世界は多極化せざるをえないと説く。
カプチャンは、多極構造を安定的にまとめあげた歴史上の 3 つのモデルから、共通する
教訓を引き出している。3 つの歴史上モデルとは、諸州が分立しあったアメリカを連邦制度
にまとめあげたモデル(これは筆者がマディソンのところで世界政府をつくるモデルとし
て述べたこと)、ナポレオン後のヨーロッパの勢力均衡を実現した「ヨーロッパ協調」(メ
ッテルニヒ体制)、そして独仏の抗争を軸にしてきた欧州をおさえた EU である(筆者も EU
のケースは将来の世界政府形成のよい例であると述べてきた。しかし、メッテルニヒ体制
は、キッシンジャーがよく述べていた例であるが、これは保守的な勢力均衡論であり、抑
圧によって均衡を保つことであまり、評価できない例である。形骸化した国連、米ソの冷
戦の時代にニクソン、キッシンジャーが参考にしたといわれた)。
カプチャンの結論、処方箋は明快である。客観的に見れば、現在のようなアメリカ 1 極
世界はあと 10 年も続かない。であれば、いまだアメリカが世界を仕切る力をもっている間
に、次の時代の準備をしなくてはならない。つまり、『アメリカ時代の終わり』という現
実を受け入れ、その最後の力をふりしぼって、次の多極時代への平和的な移行の土台をつ
くることこそが、アメリカと世界にとって最後の希望であるというのである(しかし、カ
プチャンはその土台とは何か具体的には述べていない)。
ここではカプチャンのことを論ずるのが本旨ではなく、ⅳ)の「アメリカが多国間への関
与を残しながら、秩序ある撤退をしていくという新たなグランド・ストラテジーを描くべ
きである」といっているが、アメリカのこれまでの国連を無視する(あるいはないがしろに
する)政策をやめて、国連をルーズベルトが意図した本来の姿に返すべきであるというの
が、筆者が意図するところである(ゴルバチョフ時代に一時、よくなったことは述べた。
あのようにするべきである)。
アメリカには国連中心の外交政策に徹してほしい。そして、ここ 10 年、20 年のうちに、
「国連を中心に紛争が調停されるのはコモン・センス(常識)である」ようにしてほしいの
584
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
である。アメリカの覇権を国連に大政奉還して、世界 193 ヶ国の一員(一国)として、行
動してほしいのである。いや、そうではなく、やはり、国連の 5 人の警察官の 1 人として
行動してほしい。ルーズベルトはそうしようではないかと言っていた。
ⅳ)の「新たなグランド・ストラテジーを描くべきである」ではなく、「紛争を解決するた
めの国連組織の充実をはかる」ことをしてほしい。それができるのはアメリカしかない。中
国やインド、ロシアやブラジルなどが覇権を争うようになるまえに、国連、つまり、人類
の世界政府の形を整えてほしいのである。それは世界に民主主義国家を誕生させたアメリ
カにしか(世界は歴史上のアメリカに尊敬の念を持っている)できないことである。もち
ろん、日本も EU も ASEAN もその他大部分の国々がアメリカのそのような主導権には大賛成
し、協力することだろう。
核ミサイルで武装した大国がゴロゴロする時代になる前に、戦争をなくする体制(それ
はすでにできているのだが、アメリカが実行してこなかった)を実効あるようにして、大
国も国連という社会ステムに従うのはコモン・センスであるようにしてほしい。
【4】覇権の交代期に最も起きうること
◇アメリカ NATO 軍事同盟の拡大と復活した核大国ロシア
《旧共産圏を取り込んで東に大拡大した NATO》
しかし、このまま覇権主義(同盟主義)でいくと、21 世紀前半の覇権の交代期に最も起
きる可能性が高いことは、再び冷戦の開始であろう。アメリカに匹敵する核ミサイル戦力
をもっているロシア、それに米ロの核ミサイル戦力に匹敵する戦力にまで拡大を急いでい
る中国のことを考えると、熱戦ではなく再び冷戦になる可能性が強い。
1989 年のマルタ会談で冷戦が終焉し、続く東欧の動乱と 1991 年のソ連崩壊により米ソ冷
戦は終結した。
ソ連崩壊による冷戦の終了は、アメリカではアメリカの力による共産圏封じ込め政策の
大勝利と受け止められ、いよいよアメリカによる世界支配の時代がきたと考えられるよう
になった。そのため、アメリカはドイツ統一やワルシャワ条約機構の解散時にゴルバチョ
フと行った約束を反故にして、旧共産圏の封じ込め政策を解除するどころか、旧共産圏を
アメリカが主導する軍事同盟 NATO に取り込んで拡大していった。
《NATO を東に拡大させないことを約束していたアメリカ》
もう一度、ドイツ統一のときの状況を振り返ってみる。
1989 年 11 月 9 日の夜、ベルリンの壁は崩れ、西ドイツ首相コールはドイツ統一に向けて
走り出した。ドイツ統一の最大の論点が NATO 問題だった。
1990 年 1 月下旬モスクワでは、危機スタッフ会議と呼ばれるゴルバチョフとその側近の
会議が開催され、ドイツ統一への対応を検討した。ソ連も東ドイツ情勢をみて、統一問題
を条件闘争に切り替えた。6 ヶ国(東西ドイツ+米英仏ソ)で問題を扱い、統一の条件とし
て NATO がソ連寄りに拡大しないことをあげていた。
585
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
1990 年 2 月、ゴルバチョフ書記長とアメリカのベーカー国務長官が会談し、統一ドイツ
とアメリカが主導する軍事同盟 NATO について意見を交わした。ゴルバチョフ時代の外交記
録によると、2 人のやりとりが記録されている。ベーカー長官は NATO を東に拡大させない
ことを条件に、統一ドイツを NATO に入れてよいか、ゴルバチョフ書記長に意向を聞いた。
ゴルバチョフは「NATO の拡大は受け入れられない」
、ベーカーは「我々としても、その考え
に同意します」と述べた。ソ連はベーカー長官のこの言葉を国家間の約束と受けとめ、統
一ドイツの NATO 入りを認めることになった。
1990 年 5 月 5 日、第 1 回 2(東西ドイツ)+4(米英仏ソ)会議が開催され、焦点は NATO、
とくに統一ドイツの NATO 帰属、東独部の取り扱い、統一ドイツの兵力上限の 3 点に絞られ
てきた。統一ドイツの NATO 帰属に関するソ連の立場は揺れに揺れた。中立案、NATO・ワル
シャワ条約機構の双方に帰属する案、さらに NATO・ワルシャワ条約機構を解体し全欧安全
保障協力会議(CSCE)に吸収する案など、各種各様の案が出されては消えていった。
1990 年 5 月 30 日~6 月 3 日のワシントンでの米ソ首脳会談、7 月 5~6 日のロンドンでの
NATO 首脳会議に向けて、アメリカは内部協議を開始し、9 項目のパッケージといわれる改
組案をまとめた。NATO とワルシャワ条約機構との相互不可侵宣言、核兵器を「最終の兵器」
とする早期第一撃使用の否定、通常兵器・短距離核戦力の削減交渉などがその柱であり、
ソ連は NATO の敵でははないことを明示することがねらいであった。
この方針は、米ソ首脳会談でゴルバチョフに伝えられ、ゴルバチョフは統一ドイツが自
由に同盟を選択できることを認めた。アメリカはこの方針を、事前通告を遅らせ、NATO 首
脳会議本番での協議に持ち込み、
ほぼ原案通り NATO 宣言が 1990 年 7 月 6 日に公表された。
1990 年 7 月 14 日、コールはモスクワに飛び、さらに北コーカサスのスタブロポリに飛び
会談を続けた。ゴルバチョフは最終的にここで折れた。統一ドイツの NATO 帰属、東ドイツ
の扱い、統一ドイツの兵力上限 37 万で合意した。ドイツ統一問題はこれで実質的に決着し
た。NATO への参加問題ではソ連軍部などソ連内部で強い反発があったが、これはゴルバチ
ョフが抑えた。9 月 12 日 2+4 会議でドイツに完全主権を与える最終文書が調印され、10
月 3 日、東西ドイツは統一した。
このように NATO を東に拡大しないという約束のもとに統一ドイツはなったのである。と
ころがこの約束は、その後、反故にされたのである。
冷戦を通じて、図 104(図 10)のように、NATO の枠組みによって西欧諸国は、アメリカ
の強大な軍事力と核の抑止力の庇護の下におかれていた(図 104(図 10)において、青が
NATO、赤がワルシャワ条約機構、白が両同盟に属さない国家である。濃い色は発足時の加
盟国、薄い色はその後の加盟国を指す)。
冷戦終結によって、NATO は大きな転機を迎え、新たな存在意義を模索する必要性に迫ら
れた(EU は経済政治連合であるから存在意義はあるが、NATO は軍事同盟だから敵がいなく
なれば、存在意義はなくなるはずであった。軍事同盟を残せば(作れば)敵ができてしま
うことは歴史が示している)。1991 年に「新戦略概念」を策定し、脅威対象として周辺地
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
域における紛争を挙げ、域外地域における紛争予防および危機管理に重点を移した。また、
域外紛争に対応する全欧州安保協力機構(OSCE)、東欧諸国と軍事・安全保障について協
議する北大西洋協力評議会(NACC)を発足させ、加盟国外でも NATO の軍事的抑止力を享受
できることを確認した(自分たちだけを強化すれば、それから外された地域・国は敵とみ
なされ脅威を感ずることは歴史をみればすぐわかることである)。
1992 年に勃発したボスニア・ヘルツェゴビナにおける内戦では、初めてこの項目が適用
され、1995 年より軍事的な介入と国際連合による停戦監視に参加した。続いて 1999 年のコ
ソボ紛争ではセルビアに対し、NATO 初の軍事行動となった制裁空爆を行い、存在感を発揮
したものの、アメリカ主導で行われた印象を国際社会に与えてしまった(これもロシア、
中国が反対したので、NATO 及びアメリカの一方的なアメリカ的集団自衛権の行使であった。
このためコソボ問題という問題を残したままになっている)。
図 104(図 10) 冷戦期のヨーロッパ勢力図
一方、前述した NATO を東に拡大しないという約束を反故にして、ロシアの反対を押し切
って、旧ソ連の影響圏に置かれていた東欧諸国が相次いで NATO 加盟を申請し(弱い立場の
国はなだれをうって強いと思われる方になびくものである)、西欧世界の外交的勝利を誇
示した。結局、1999 年に 3 ヶ国、2004 年に 7 ヶ国、2009 年に 2 ヶ国が加盟し、旧ワルシャ
ワ条約機構加盟国としては、旧ソ連各国(ロシア・ベラルーシ・ウクライナ・モルドバ)
587
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
を残し、他はすべて NATO に引き込まれた(旧ソ連のバルト 3 国も加盟)。したがって、現
在の NATO 加盟国は図 105(図 12)のように、28 ヶ国となっている。これではロシアがおさ
まるはずがない。
NATO は、2003 年のイラク戦争にはフランス・ドイツが強硬に反対したために足並みは乱
れ、アメリカに追従するポーランドなど東欧の新加盟国と、仏独など旧加盟国に内部分裂
した。2005 年にはアフガニスタンでの軍事行動に関する権限の一部が、イラク戦争で疲弊
したアメリカから NATO に移譲され、NATO 軍は初の地上軍による作戦を行うに至った。2006
年 7 月にはアフガンでの権限を全て委譲され、NATO 以外を含める「多国籍軍」を率いるこ
ととなったが、同時期にタリバンがアフガン南部各地で蜂起し、NATO と戦闘となった。
アフガンの NATO はイギリス軍 4000 人が最大であるように、加盟各国ともに拠出兵力に
限界があり、戦闘は苦しいものとなった(要するに、一体イギリスは何のためにアフガン
で戦わなければならないのか、イギリスがアフガンで戦う「正当性」が問われているので
ある。NATO はアメリカの私兵軍団になってしまったといわれてもしかたがない。イギリス
はこれに答えることができずに戦っている)。また、仏独はこの戦闘作戦には参加してお
らず、加盟国の内部分裂とアフガンでの疲弊により、NATO は新たな国際戦略の練り直しが
必要とされている。
2000 年代後半に入り、アメリカが推進する東欧ミサイル防衛問題や、ロシアの隣国であ
るグルジア、ウクライナが NATO 加盟を目指していることに対し、経済が復興してプーチン
政権下で大国の復権を謳っていたロシアは強い反発を示すようになった。
ロシアがアメリカに対する不信感を高めたのが、ウクライナにおいて、2004 年のオレン
ジ革命により欧米よりの政権が誕生したときだった。民主化支援をかかげるアメリカの NGO
が、ウクライナの裏で糸を引いていることがわかったため、ロシア国民のアメリカに対す
る反発が強まったのである。
ロシアはウクライナ、グルジアの NATO 加盟は断固阻止する構えを見せており、ロシアの
プーチン首相は、
2008 年の NATO-ロシアサミットでもしウクライナが NATO に加盟する場合、
ロシアはウクライナ東部(ロシア人住民が多い)とクリミア半島(セバストポリにロシア
艦隊が駐留している)を併合するためにウクライナと戦争をする用意があると公然と述べ
ていた。
2008 年 8 月にはグルジア紛争が勃発、NATO 諸国とロシアの関係は険悪化し、「新冷戦」
と呼ばれるようになった。ロシアは 2002 年に設置された NATO ロシア理事会により準加盟
国的存在であったが、2008 年 8 月の時点では NATO との関係断絶も示唆していた。
2011 年リビア内戦においては、2011 年 3 月 17 日にリビア上空の飛行禁止区域を設定し
た国連安保理の国際連合安全保障理事会決議 1973 を受けて 3 月 19 日より NATO 軍が空爆を
開始し、反体制派のリビア国民評議会を支援し、カダフィ政権を打倒する要因の一つとな
った(これは国連の決議をえて、NATO がその下請けとして武力を行使した)。
588
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 105(図 12) NATO の拡大
2013 年 11 月に約 2 週間、NATO の大軍事合同演習が行われた。バルト諸国、バルト海、
北海、ポーランドなどの広域で、陸・海・空軍にサイバー部隊や無人機を動員し、NATO28
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヶ国にウクライナなど協力国まで含めた 8 年ぶりの大規模演習だった。演習は、「ボトニ
ア」という架空の大国が、エネルギー資源の争いからウクライナやバルト方面から侵攻し、
NATO 軍がウクライナ軍などと連合し徹底的な反撃を行う、という生々しいシナリオであっ
た。「ボトニア」がロシアを想定していることは誰の目にも明らかだった。
いったい誰がこのような企画をさせたのであろうか。ロシアはいろいろ内政的な問題が
あるにしても、共産主義を放棄し、資本主義体制に転換してから 20 年以上もたつというの
に。このようにいったんできた組織(NATO)は自己の存在意義をアピールするため、いろ
いろな企画をするものである。軍事演習の対象とされた国家に威圧をかけることがどんな
結果を生むかを考えずにやったようである(いや、そうではなく、その効果、つまり相互
に危機感を高めることが軍産複合体の狙いでもあるかもしれない)。歴史をみると軍事大
演習が大きな紛争・戦争のきっかてとなった例はいくらでもある(演習の名目で軍を召集
したのであるが)。
《ロシアのクリミア併合》
2013 年 11 月にウクライナのヤヌコーヴィチ政権(親露派)が欧州連合(EU)との政治・
経済分野での関係を強化する「連合協定」の調印を見送ったことで(背景には、ウクライ
ナと EU の接近を警戒したロシアが、協定の締結延期を迫り、その見返りに大規模な経済支
援を約束したとされている)、親欧米派や民族主義政党全ウクライナ連合「自由」などの
野党勢力などによる反政府運動が勃発した。
この反政府運動は、2014 年 1 月のウクライナ騒乱からはじまった。このときも、アメリ
カのヌーランド国務次官補がその騒乱の現場に現れて「お腹減っていませんか?」と反政
府派にさし入れをしている映像が出て、アメリカがこんな支援をしているから、世界中が
混乱状態になっているのだという思いをロシア人に持たせた。
2014 年 2 月 18 日の最初の暴動は、キエフにて 2 万人ものユーロマイダン(広場に集まっ
たユーロ派という意味)が、大統領の権限を制限する 2004 年憲法の復活を求め、ウクライ
ナの国会に集結したことにより始まった。警察官が彼らの行く手を塞ぎ、衝突は暴力的と
なった。警察はゴム弾と実弾(自動火器とスナイパーライフルを含む)の両方を発射し、
催涙ガスや閃光手榴弾を用いた。対するデモ側は手製の武器や小火器、即興の爆薬等で対
抗した。デモ隊は与党・地域党の本部に突入し、建物に放火した。警察はキエフ独立広場
のデモ隊本拠地を襲撃した。
数日間で 13 人の警察官を含む、少なくとも 82 人が死亡し、1100 人以上が負傷した。こ
のデモの結果、2 月 22 日にヤヌコーヴィチ大統領はウクライナ国外へ脱出した(これは暴
力による不当な政権奪取とみられてもしかたのないものだった。ここで西側が民主的に選
ばれたヤヌコーヴィチ政権の復権を唱えなかったのも不思議である。普通、西側はたとえ
その政権の政策に問題はあっても、次の選挙で政権交代するよう主張してきていた。それ
が民主主義の常道だから)
。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヴェルホーヴナ・ラーダ(最高議会)にて、親露派政党の地域党と共産党を含む議会内
全会派がヤヌコーヴィチの大統領解任と大統領選挙の繰り上げ実施を決議し、オレクサン
ドル・トゥルチノフ大統領代行とアルセニー・ヤツェニュク首相がヴェルホーヴナ・ラー
ダにおいて承認され、新政権が発足した。
ウクライナのクリミア自治共和国の首都シンフェロポリでは、2014 年 2 月 23 日のキエフ
のマイダン運動を支援する 5000 人から 1 万 5000 人がウクライナの新政権支持を表明する
集会を開いた。それに対して、セバストポリでは、数千の人々が新政府に反対し、独自の
政権樹立とロシア「夜の狼」というバイク集団の支援とともに自警団の設立に賛成を示し
た。ロシア軍の車輛が目撃されたという噂が立った。
アメリカ合衆国などの G7 諸国は、ウクライナの主権と領土保全を支持する一方で、軍事
介入を決定したロシアを非難した。アメリカ合衆国と EU はロシアに対してその制裁をちら
つかせて、国連安保理は 2 月 28 日に 3 度の緊急会合を開いた。G7 は、共同でロシアを強く
非難し、6 月に予定されていたソチでの G8 の開催を見合わせた。
親露派のヤヌコーヴィッチ政権が崩壊したことを理由とし、3 月 1 日にロシア上院がクリ
ミアへの軍事介入を承認した。プーチン大統領は、ウクライナの極右民族主義勢力からク
リミア半島内のロシア系住民を保護するとの名目で本格的に軍事介入を開始した。
このロシアの侵攻に対して、ウクライナ新政権と親欧米派の多いウクライナ西部・中部
の住民の多くは侵略であるとして強く反発した。これに対し親欧米派の動きに反発を覚え
ていたクリミア自治共和国およびセバストポリ特別市のロシア系住民の中にはこれを歓迎
するものも多かった。このロシアの行動を欧米は軍事介入として非難し、米国政府はロシ
アに対し経済制裁を検討すると警告した。
3 月 11 日、ウクライナ国内法を無視する形で、クリミア自治共和国最高会議(議会)と
セバストポリ市議会はクリミア独立宣言を採択した。
3 月 16 日、クリミア自治共和国とセバストポリ特別市でクリミア半島地域(以下クリミ
ア)のロシア編入の是非を問う住民投票が実施され、即日開票された。クリミア自治共和
国、セバストポリ特別市の両方で有効投票数が 8 割を超え、ロシア編入への賛成は 9 割以
上を超えた。
3 月 17 日に、クリミア自治共和国最高会議は、11 日の独立宣言と 16 日の住民投票によ
るロシア編入承認に基づき、セバストポリを特別市として包括する独立国「クリミア共和
国」として主権を宣言し、ロシアへの編入を求める決議を行った。ロシアは即日、これを
承認した。もちろん、ウクライナはクリミアのロシア編入を認めていない。
3 月 18 日に、プーチンはクリミア自治共和国首相、クリミア自治共和国最高会議議長、
セバストポリ特別市最高会議議長をモスクワ、クレムリンの議会に迎え、10 ヵ条からなる
「クリミア及びセバストポリ特別市のロシア連邦加盟に関する条約」に調印した。ロシア
の議員ら大勢の見守る中で 4 人が条約文書の調印を終えたあと、プーチン大統領は「クリ
ミアのロシアへの復帰」に関する 46 分におよぶ演説を行った。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
プーチンは演説の中でクリミアは古代ギリシャのケルソネソスのあった地でありウラジ
ーミル 1 世が洗礼を受けた土地であり、これはクリミアが正教徒としてのルーシの固有の
地であると述べ、英雄都市セバストポリおよびバラクラバ、ケルチのようなロシアの歴史
上の聖地がクリミアにあると同時に、ロシア人、ウクライナ人、クリミア・タタール人が
共存してきたクリミアは多民族国家ロシアの縮図であるとクリミアとロシアの親和性を説
明した。そしてロシア革命後、スターリンによるクリミア・タタール人の強制移住を不正
義と断じ、1954 年のフルシチョフのによるクリミアのウクライナへの帰属変更をウクライ
ナの「大飢饉」への賠償として高級官僚の内輪で決められ実行されたことで、住民の意志
を反映したものではないと批判した。
1991 年にソ連が崩壊したときには分裂した 15 の共和国は独立国家共同体としてやがて収
斂(しゅうれん)されると期待していたが実現されないまま、クリミアは「一袋のジャガ
イモのように」ウクライナに渡されてしまった。その後エリツィン政権下の経済的混乱の
中でクリミアはロシアに復帰する話は立ち消えとなりウクライナに残留することになった。
1999 年にプーチン政権が成立して翌 2000 年に入り、ロシアはウクライナとクリミアと黒
海の国境に関する交渉を行ったがはかばかしい結果は得られなかった。そのうちにウクラ
イナの経済は悪化し、オレンジ革命が起こり、さらに今年 2014 年の騒乱で成立した新政府
はロシア語を地方の公用語から外す「言語法」を出すという「排外主義的政策」に出た。
これにクリミアのロシア系、クリミア・タタール系住民は決起し独立したのであると、ウ
クライナの暫定政権を批判し、クリミアの独立は正統であり、ロシアはこれを編入という
形で受け入れたのは当然であると言った。
またロシアのクリミア併合は西側によるコソボ独立のようなものであり、ユーゴスラビ
アのアルバニア人に許されたことが、ウクライナのロシア人とクリミア・タタール人には
なぜ認められないのか?かつてドイツが再統一されるときにイギリスのサッチャーは反対
し、フランスのミッテランは危惧を示したが、ロシア(ゴルバチョフ)は誠実な対応をし
て東ドイツを返した。クリミア編入によるロシア人の統合に少なくともドイツは理解を示
してくれるはずだと皮肉を交えた。このようにクリミア編入は民族自決の原則に基づいた
ものであり、国際法と国連安保理が出した判例に則り行われたものであると正統性を主張
した。
その一方でコソボ問題では NATO は空爆を行ったし、アラブの春ではリビアに武力行使を
した、西側はロシアを批判できるほど国際法を順守して平和的な紛争解決をしてきたの
か?否である。西側の元締めであり「コソボとクリミアは違う」とロシアに反論するアメ
リカ合衆国は力を信奉する「アメリカ合衆国のみ特別だ」という「一国例外主義」をやめ
るべきだと、西側の民族問題の対応を批判し「ロシアほど国際法を順守している国はない」
と述べた。
以上がプーチンの演説の内容である。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
プーチンはクリミアの特別な事情をいろいろ言っているが、明らかに独立国であるウク
ライナの主権を侵害し、国際法に則った手順を踏まないで、その一部を自国領に編入した
ことは国際法違反であることは確かである。また、ウクライナがソ連から継承した核兵器
をロシアに引き渡す代償として、ロシア、アメリカなどと結んだブダペスト覚書に違反す
る行為であり、明確に国際法に反した一方的な現状変更といえる。
このような点でロシアは当然非難されるべきであるが、プーチンが言っていることは、
アメリカもずっと同じようなやり方をしてきたではないか、アメリカだけ一国例外である
ということにはならない、アメリカがやるならロシアもやるぞといっている。現段階では、
ロシアは唯一アメリカに匹敵する核大国であることには変わりはなく、いよいよとなると
アメリカはどうすることもできないとアメリカの足もとを見ての演説であった。つまり、
アメリカの軍事力や核の脅しでどうこうできる時代ではなくなったということである。ア
メリカ自身が公平なルール(国連憲章)にしたがい、そのルールに則って、つまり、国連
憲章のルールに則って、国連の制裁なりを課すようにしなければならない時代になったの
である。
(ブダペスト覚書とは、ウクライナと核兵器保有国(アメリカ合衆国、ロシア、イギリス
など)が 1994 年 12 月 5 日にブダペストで開催された欧州安全保障会議(CSCE)の首脳会
議の場で結んだ安全保障に関する覚書である。ソ連の崩壊により、ウクライナなどの独立
国家共同体の諸国には、大量の核兵器(核弾頭)が残置されることとなった。一方で、ソ
連邦崩壊に伴う混乱(ロシアとウクライナはクリミア半島の領有と黒海に駐留していた艦
隊(黒海艦隊)の処遇で対立した)の過程で核拡散の懸念が高まったことから、アメリカ
などの諸国は、弾頭数の多かったウクライナに対して、核拡散防止条約(NPT)への加入を
迫った。ウクライナは、核兵器を手放す代償として安全保障体制の確約を要求、各国がそ
れに応えて NPT への正式加盟にこぎつけたのである。)
アメリカのオバマ大統領は、3 月 17 日、ウクライナの主権と領土保全を侵害したとして、
ロシア政府高官やウクライナの大統領職を追われたヤヌコビッチ氏ら 11 人の資産を凍結す
る追加制裁の大統領令を発表した。オバマ大統領は違法な住民投票を支援したことを強く
警告し「制裁の範囲を拡大し、さらに追加で科す用意もある」と強調した。
また、主要7ヶ国(G7)はオランダのハーグで 3 月 24 日、緊急の首脳会議を開いた。首
脳宣言(ハーグ宣言)は「ロシアが方向を変更し、G8 で意味のある議論をする環境に戻る
まで、G7 への参加を停止」と明記した。
《ウクライナ内戦に発展》
ウクライナの問題はクリミアだけで収まらなかった。クリミア半島のロシア編入に続き、
親欧米派のウクライナ新政権に反発する東部でも分離・独立の動きが強まり、2014 年 4 月
7 日、ウクライナ東部のドネツク州で、州政府と議会の建物を占拠した親ロシア派勢力が「ド
ネツク人民共和国」の創設を宣言した。ウクライナのヤツェニュク首相は 4 月7日、「外
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国の部隊が国境を越え、国土を占領する計画を許してはならない」と表明し、ロシアが東
部の親ロ派勢力を扇動していると指摘した。
それ以降、ウクライナ東部・南部の主にロシア語が主流として使われている地域、特に
ドネツィク州、ハルキウ州、ルハーンシク州、オデッサ州において(図 106 参照)、反暫
定政権派と暫定政権側(ウクライナ政府)との間で衝突が発生し、親露的な分離独立派の
武装勢力が、州庁舎や警察機関などを掌握した。
2014 年 4 月以降は、暫定政権側が分離独立派武装勢力をテロリストと見なし、軍事行動
を伴う「反テロ作戦」を開始、それに対抗すべく分離独立派武装勢力も軍事力を使って、
ロシアから流入したと見なされている兵器を用いて暫定政権の軍用機を撃墜するなど事実
上の戦争状態となった。
図 106
5 月 12 日にはドネツク州、ルガンスク州において、同地の独立を宣言する勢力が現れた。
欧米諸国はこれらロシアの動きが国際法違反の侵略で、ウクライナからのクリミアの独立
とロシアへの編入は無効であるとして、ロシアへの制裁を実施した。
なお、日本を含む欧米諸国およびウクライナは、衛星写真や各報道等を根拠に武装勢力
にロシアからの戦闘員と兵器等武器の支援があるとして非難を続ける一方、ロシアは、ロ
シア国民の志願兵は戦闘に参加しているが、ロシア政権の関与は否定、国際の場で意見の
対立が続いている。
594
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2014 年 6 月のウクライナの大統領選挙によって選ばれたペトロ・ポロシェンコが大統領
に就任したが、それ以降も、引き続き、東ウクライナでは親欧米の政権側と親露の分離独
立派による戦闘が続き、各地で市街戦を含む戦闘が行われ、多数の民間人が犠牲となって
いる。7 月 17 日にはマレーシア航空 17 便がウクライナ(クラボボ村)で墜落されたが(ど
ちら側が撃墜したかわからない)、この犠牲者も含めて、この内戦での死者は 3,000 人以
上に上るなど、欧州では旧ユーゴ内戦以来の死者数を出していた。
2014 年 8 月 4~8 日、国境付近でロシア軍は大規模な軍事演習を実施した。ウクライナは
ロシア国境からの戦闘員の侵入を防ぐため、ロシアとウクライナの国境に壁の建設を進め
ている。ベルリンの壁崩壊から 25 年、新たな壁が今現れようとしている。
その後、ウクライナ政府と親ロシア派武装勢力の代表が 2014 年9月 5 日、停戦で合意し
たが、2015 年 1 月には速くも停戦は破れ、戦闘が再開された。
2015 年 2 月 12 日、独仏ロ、ウクライナの 4 ヶ国首脳はウクライナ政府と親ロシア派武装
組織の激しい戦闘が続く同国東部での停戦案をまとめた。これをもとに親ロ派とウクライ
ナ政府などは 2 月 15 日に停戦に合意した。停戦に合意するのは昨年9月に続き 2 度目であ
った。しかし、この 2 回目の停戦も 4 月になると戦闘が止まらず、ウクライナ経済は破綻
寸前に追い込まれている。
ウクライナ内戦は、図 107 のような構図で、膠着状態になっており、現在も解決する見
通しはない。民間人も含めて 6000 人以上の犠牲者を出している。
図 107
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
◇東アジアでの米中の確執
第 2 次世界大戦後、1947 年 3 月、アメリカのトルーマン大統領は、トルーマン・ドクト
リンを発表して、対ソ冷戦を開始したが、そのトルーマン・ドクトリンとは一言でいえば、
ソ連やソ連の同盟国を「封じ込める政策」であった。このアメリカの封じ込め政策は東アジ
アでもとられた。
1949 年秋には、アメリカ合衆国にとって衝撃的な事件が立て続けに起こった。まず 9 月
末にはソ連が公式に原爆の保有を認めた。また、10 月 1 日には中華人民共和国の成立が宣
言された。
アメリカ(トルーマン政権)は、中国革命後のアジア政策の見直しを行い、1949 年 12 月
末に国家安全保障会議(NSC)文書 48 号としてまとめ、アチソン国務長官がその骨子を翌
1950 年 1 月に首都ワシントンにあるナショナル・プレス・クラブの演説で公表した。
そこでは、図 84(図 16-10。P435)のように、太平洋地域における合衆国の防衛ライ
ンをアリューシャン列島から日本を経て、沖縄、フィリピンに至る線に求めた。つまり、
トルーマン政権の共産圏封じ込め政策の東アジア版であったことは述べた。この図を見せ
ながら、アチソンが、
「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン - 沖縄 - 日本 アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない」と発言し(これを「ア
チソンライン」という)
、韓国と台湾を含めなかった。これは、アメリカの国防政策におい
て太平洋の制海権だけは絶対に渡さないという意味であり、韓国、台湾も当然、このライ
ンの内に入っていた。このラインは、この当時、アメリカ軍が実際に駐留している地点を
結ぶものであったので、そこには韓国と台湾が除外されていたのである。その点、アチソ
ン演説では舌足らずだった。
金日成はこれを「アメリカによる西側陣営の南朝鮮(韓国)放棄」と一方的に受け取り、
ソ連のスターリンの了解をとり、中国の毛沢東の支持を得て、1950 年 6 月から朝鮮戦争を
はじめたことは述べた。
ところで、このアチソンラインを持ち出したのは、アメリカはその後、ずっとこのアチ
ソンラインを冷戦が終結した現在まで維持していることを言おうとしたのである。ある特
定の国、勢力を封じ込めようとすれば、その対象となった国、勢力はかならず、それを打
ち破ろうとする(軍事の作用・反作用の法則。封じ込められた立場で考えれば当然のこと
である)
。
ソ連はブレジネフの 1970 年代に、図 82(図 16-14。P424)(アメリカとソ連(のちロ
シア)の戦略核兵器配備状況。1945~97 年)や図 92(図 16-9。P476)(アメリカとソ連
の軍事支出額の推移)で示したように、大軍拡を行ったことは述べたが(これがソ連崩壊
の遠因になったとも述べた)、とくに、太平洋への核原潜(SLBM)の進出に力をいれたこと
を述べた(核運搬方法には爆撃機、ICBM、核原潜の 3 方式があったが、核原潜は位置を探
知されずアメリカにもっとも近づけるので、ソ連の多数の核原潜はアメリカにもっとも大
きな脅威となった)。
596
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この辺の事情を守屋武昌氏(元防衛事務次官)は、
「新ガイドラインは対中メッセージ」
の中で次のように述べている。
当時のソ連にとってモスクワからアメリカ本土を狙うには、射程が約 1 万~1 万 2000km
のミサイルが必要になる。核弾頭弾搭載原子力潜水艦をオホーツク海に配備すれば、アメ
リカ本土までの距離は約 8000km となり 2000km も短い。大都市のモスクワと違ってオホー
ツク海であれば、反撃されても人的被害は少ない。ソ連は極東への弾道弾配備を進めてい
た。
アメリカはこの動きに備えなければならなかったが、それには自衛隊の協力が必要不可
欠であった。ソ連は樺太、千島列島、カムチャツカ半島に陸・海・空の基地を配備してい
たが、これらの基地への補給は艦船で行われた。ソ連が極東にもっている不凍港であるウ
ラジオストクから物資を運んでいた。
だが不凍港が一つしかないことは、ソ連軍の泣き所となった。ウラジオストクから太平
洋に出るには、図 108(図 12-①)のように、宗谷海峡か津軽海峡か対馬海峡を通らなけ
ればならない。陸上、海上自衛隊は各海峡に監視部隊を置いて 24 時間見張っている。出て
行った船は必ず戻ってくる。自衛隊は各海峡からどんなソ連船が出て行って、何日で戻っ
てきたかを監視し地道な情報収集を続けた。それは国際法で 3 海峡上空を飛行せざるをえ
ないソ連の戦闘機や爆撃機を監視する航空自衛隊のレーダーサイトも同じである。このデ
ータを分析することによってソ連の艦船、航空機の作戦能力を把握できたのである。
ソ連は決して口にしなかったが、日本列島の位置がしゃくに障って仕方がなかったはず
である。自衛隊が積み上げたデータは、ソ連の極東の軍事力を推し量る重要な情報となっ
ており、アメリカはこの情報を必要としていた。
極東ソ連軍に近接している日本から得られる情報とガイドラインに基づく防衛協力は、
在日米軍への基地提供と費用負担とともに、アメリカにとって必要不可欠であり、そのこ
とはいまも変わっていない。現代の国際情勢のなかでは、1 国だけで自国の安全を保ってい
くことはどこの国にもできない。アメリカも例外ではない。
「日本が一方的にアメリカに守
ってもらっている」かのように思い込んでいる人がいるが、まったくの誤解である。
そして、守屋氏は続けて、現在の中国からの見方を次のように記している。
図 108(図 12-②)は、中国上海から見た東シナ海、南シナ海、太平洋である。中国は
1990 年代以降、海軍力整備に力を注ぎ、2010 年までに第 1 列島線内の制海権を確保し、2020
年までに第 2 列島線内の制海権を確保しようとしている。周辺諸国の海洋権益に配慮しな
い一方的な戦略である。
しかし、中国が海洋進出するためには、東シナ海で日本の南西諸島のあいだを抜けなけ
ればならない。また、南シナ海では、太平洋戦争で日本の幾多の輸送船が潜水艦の攻撃で
沈められた台湾とフィリピンのあいだにあるバシー海峡を通らざるをえない。ここ数年来、
顕著になっている中国の力による領域の変更を防ぐには、海軍力が十分でない国々とアメ
リカ、オーストラリア、日本による多国間防衛協力が必要になってきている。(中略)
597
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 108(図 12)
昨年までは安倍総理は憲法改正に主眼を置いていたが、昨年(2013 年)末あたりから憲
法改正が後退して、集団的自衛権とガイドラインに力が入れられている。これは日米両政
府が時間のことを気にしていることを意味している。
私(守屋氏)は、本来は憲法解釈の変更ではなく、憲法を改正すべきであると考える。
法秩序としてそれが筋である。しかし、相手にメッセージが届き、野望を思い留まらせる
598
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
体制づくりに時間がかかることを考えると、憲法改正の手続きを待っていては間に合わな
い可能性がある。時間の制約を考慮すれば、政府は国民が唐突と思っている集団的自衛権
の行使容認とガイドラインの改定を早急に行うことが必要になってくると考えている。
以上が守屋氏が述べていることである。
アメリカは、第 2 次世界大戦後 70 年(冷戦終了後、25 年)たった現代でも図 84(図 16
-10。P435)のようにアチソンラインで中国を封じ込めるという発想をとっているが、中
国はそれに反発して(今後経済力がついてくると必然的に)
、ソ連がやったのと同じように
大海軍力と核原潜群を太平洋に進出させるために、図 108(図 12-②)のように、まず、
第 1 列島線内を中国の内海にして、やがて、第 2 列島線からハワイあたりでアメリカと太
平洋を 2 分するというような戦略を立てるのであろう。たぶん、中国はとりあえずは(こ
こ 10~20 年で)
、米ロと同じレベルの核戦略体制をつくりあげるであろう。アメリカが中
国と(国連の場などで)核軍縮の話し合いに入らなければ、つまり、このままのアメリカ
的封じ込め政策をとっている限りは、中国の核原潜部隊の太平洋への展開は必然的なこと
となるであろう。
中国はやがて GDP で世界トップになるであろう。もちろん、共産党一党独裁の中国には
これからやるべきことはたくさんあることは確かである。今後、14~15 億人になる人口を
かかえ、緊急に国内のインフラ整備・高齢化・医療福祉・環境対策のほか、共産党一党独
裁の政治体制をどうやって民主化していくか(現在のように党幹部の腐敗をモグラ叩きし
ていても限界があり、やがて旧ソ連のように社会が行き詰まってしまうだろう)
、多くの問
題をかかえている。そのような国内問題を先延ばしにして、多額の軍事費を投入すれば、
かつてのソ連と同じように GDP 世界第 2 の経済大国でも(やがて世界第 1 になったとして
も)屋台骨がゆらぎ、内部から崩壊する可能性が高いといえる(結局、人類(国民)は国
家的な威信とか世界最大強国などより、自由で平和な生活を望むものであることはソ連の
共産党国家の崩壊で実証されている)
。
しかし、武力で脅し封じ込めされた国家で、最初から、今までに両手を上げた国があっ
ただろうか。封じ込めれば封じ込めるほど、それが政権の大義名分となり、国民の危機意
識に訴えて、ますます孤立化、軍事独裁化に突き進んでいくのが、歴史ではなかったか(戦
前の日本もそうだったし、戦後のソ連もそうだった。毛沢東時代の中国自身がそうだった)
。
このような観点からみると、第 1 列島線の内側で起こっている東シナ海の尖閣諸島問題
(図 109(図 18-190)参照)も南シナ海諸島の領有権問題(図 110(図 17-16)参照)も
中国にとっては、核心的利益となるのであろう。2009 年 7 月の米中戦略経済対話において
戴秉国国務委員は核心的利益とは、中国が、自国の本質的な利益に直結すると見なし、自
国を維持するために必要と見なす最重要の事柄であるとし、台湾問題、チベット独立運動
問題、東トルキスタン独立運動問題、南シナ海問題(南海諸島)、尖閣諸島問題を上げて
いる。
599
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 109(図 18-190)尖閣諸島
《中国の防空識別圏の設定》
また、2013 年 11 月 23 日、習政権は国際社会や周辺国への事前の説明もなく突然、東シ
ナ海で防空識別圏を設定したと発表した(図 111(図 13)参照)
。防空識別圏(ADIZ)とは、
各国が防空上の必要性から領空とは別に設定した空域のことである。防空識別圏では、常
時防空監視が行われ、(通常は)強制力はないが、あらかじめ飛行計画を提出せずここに
進入する航空機には識別と証明を求める。さらに領空侵犯の危険がある航空機に対しては
軍事的予防措置などを行使することもある(民間航空機の航空での安全のために国際的に
割り当てられ、各国が分掌管理する飛行情報区(FIR)とは異なる)。
図 111(図 13)のように、朝鮮半島の南側から台湾の北側、日本の南西諸島に沿うよう
に設けられた中国の防空識別圏は、日本の防空識別圏と多くの部分が重なり、自衛隊や在
日米軍が日頃の訓練や演習を行う空域が含まれている。中国国防省は、圏域に入る航空機
に対し飛行計画を中国側に事前通告することを義務付けたうえで、
「不審機に対し中国軍は
緊急措置を取る」と語っている。
「防空識別圏の設定は中国の権利である。空軍の同空域に
おける活動範囲は以前の 12 倍に拡大し、防空ミサイル部隊の装備も補強される。2014 年の
予算の大幅拡大が予想される」と党関係者は指摘している。
《深刻化した中国の南シナ海人工島基地問題》
中国の南シナ海諸島の領有権問題は、中国が大量の土砂を投入してジョンソン南礁(赤
瓜礁)を埋め立てているということがわかり、2014 年から急速に問題が深刻化してきた。
同礁は 2012 年の時点では目立つものはなかったが、2013 年の時点では建造物が確認でき、
2014 年の時点では、すっかり埋め立てられていた。
600
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 110(図 17-16)南シナ海諸島の領有権主張
中央公論社『台頭するベトナム』
フィリピン外務省は、この中国の行為をフィリピンの領域内で行われているということ
から国際法に違反していると批判し、2014 年 5 月にミャンマーで開かれた東南アジア諸国
連合首脳会議の場で非公式にこの行為について問題提起をし、中国に対して抗議した。満
潮時はすべてが海面下に没する岩礁ならば国際法では埋め立てをしても領海や排他的経済
水域(EEZ)の根拠となる島とは認められない。中国は同様の工事を複数の岩礁で進めてい
た。2014 年 8 月にフィリピンが、中国に対して南沙諸島問題の平和的解決を目指す「南シ
ナ海行動宣言」に違反していると抗議した。これに対して中国は、自国領で行っているこ
とであり、何を造ろうと中国の主権の範囲内と拒否した。
601
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 111(図 13)防空識別圏(青は日本、赤は中国、緑は韓国の防空識別圏)
2014 年 11 月、イギリスの国際軍事専門誌『IHS ジェーンズ・ディフェンス』が同礁での
人工島造成の記事を掲載したのを受けてアメリカは、中国に埋め立ての中止を求めるとと
もに、関係各国に同様の行為を行わないように促した。これに対し、中国人民解放軍の羅
援少将がファイアリー・クロス礁(永暑礁)に滑走路などを備えた人工島を建設している
ことを認めたうえで、「正当な行為だ」と述べてアメリカの抗議に反論し、この問題にア
メリカは口出しすべきでないとした。また同少将は、フィリピン、マレーシア、ベトナム
も既に岩礁に軍事施設を建設済みであり、中国は国際社会の圧力に耐えて建設を続行する
とも述べた。
2015 年 1 月頃から、中国海軍や中国海警局の艦船が、海域で頻繁に示威活動を繰り返す
ようになり、実効支配している暗礁を埋め立てて、新たな軍事拠点を構築しようとする動
602
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
きが顕著化し、アメリカやマレーシア、フィリピンなど関係国が強く非難した。5 月には国
際空域(公海の上空)を飛行していたアメリカ軍の P-8 ポセイドン哨戒機に対して、中国
海軍が強い口調で計 8 回も退去を命じる交信を行うなど軍事的緊張が高まった。
5 月 31 日に中国人民解放軍の孫建国副総参謀長は、シンガポールでのアジア安全保障会
議で南シナ海での岩礁の埋め立てに関して、正当かつ合法であり、埋め立ての目的の 1 つ
として軍事防衛上の必要性を満たす目的だと述べた。さらに 6 月 30 日の記者会見で中国外
交部の華春瑩副報道局長が、岩礁の埋め立てについて「すでに埋め立て作業は完了した」
と述べ、今後の関連施設の「建設にあたっては当然、軍事防衛上の必要性を満たすことも
含む」と強調した。
そして 7 月 2 日、アメリカのシンクタンクの CSIS(戦略国際問題研究所)が、中国が浅
瀬を埋め立てて施設の建設を続けているファイアリー・クロス礁の様子を 6 月 28 日に撮影
した衛星写真を公開し、駐機場や誘導路が整備されている様子が確認できると指摘して
3000m 級の滑走路が「ほぼ完成している」との分析を明らかにし、さらに 2 つのヘリポート
と 10 基の衛星アンテナ、レーダー塔とみられる施設などが確認できるとした。 8 月 6 日に
は、CSIS は中国が埋め立てを進めているスビ礁の最近の衛星写真を分析し、人工島に幅 200
~300m、2000m 以上の直線の陸地ができていることが確認でき、ファイアリー・クロス礁と
同じ 3000m 級の滑走路が建設されている可能性を示唆した。
9 月 15 日には CSIS が、最近の衛星写真の分析から、中国が南シナ海で 3 本目となる滑走
路をミスチーフ礁(美済礁)で建設している可能性があることを明らかにした。9 月 25 日
には国際軍事情報大手 IHS ジェーンズが、人工衛星画像の分析からファイアリー・クロス
礁に建設されていた滑走路が完成したとの見方を明らかにし、運用可能な状態に近づいて
いるとした。 同日、訪米した中国の習近平国家主席がオバマ大統領とホワイトハウスで会
談したが、中国が岩礁埋め立てで軍事拠点化を進める南シナ海問題での進展はなかった。
米中首脳会談後に、アメリカ海軍の艦船を中国が埋め立てた人工島から 12 海里内(約 22
キロ。国際法では、領土からの距離で領海とされる海域)に派遣する決断をしていたオバマ
政権は、10 月 27 日にアメリカ海軍横須賀基地所属のイージス駆逐艦「ラッセン」をスビ礁
から 12 海里内の海域に進入航行させ、航行の自由を行動で示す作戦を実施した。ラッセン
は、南シナ海の北から南に向かって約 72 海里(約 133 キロ)を 5 時間かけて航行した。中
国が滑走路を建設しているスビ礁のほか、台湾が実効支配する太平島やベトナムが領有権
を主張する岩礁の 12 海里以内を通った(これはどの国にも肩入れしないという立場を明確
にするためであった)。中国側は侵入した米駆逐艦に対し、軍艦 2 隻による追跡と警告に
とどめた。
また、同時期にアメリカ海軍太平洋艦隊は、2 個の空母打撃群(CSG)が第 7 艦隊担当海域
(AOR)で作戦航海中 と 10 月 29 日に発表し、同時期にこの地域での不測の事態に対応でき
るように展開した。11 月 5 日には、南シナ海を航海中のアメリカ海軍空母セオドア・ルー
ズベルトにアシュトン・カーター国防長官が視察乗艦し、さらに 11 月 8 日と 9 日にアメリ
603
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
カ太平洋空軍が、グアム・アンダーセン空軍基地所属の B-52 爆撃機 2 機をアメリカ国防総
省によると「南シナ海の南沙諸島付近の国際空域を通常のミッション」で人工島付近を飛
行させ、アメリカの該当地域での軍事プレゼンスを拡大させている。
2015 年 9 月現在、中国が埋め立てているとされている岩礁は、実効支配しているスビ礁、
ファイアリー・クロス礁、 クアテロン礁、ミスチーフ礁、ヒューズ礁、 ジョンソン南礁、
ガベン礁、エルダッド礁(安達礁)であり、地球上でやり取りされる原油や液化天然ガス
(LNG)の半分近くが通る世界経済の大動脈である南シナ海で、中国が岩礁を埋め立てた人工
島を軍事拠点化することを各国は恐れている。
中国は明らかに国際法に違反した行動をとっているが、はたしてアメリカや ASEAN、そし
てほとんどすべての国際社会の批判を受け入れて撤収するか、それとも既成事実を押し通
していくか、そうした場合、何が起きるか、アメリカはどう出るか、いまのところ予断を
許さない。
この問題は国際法(国際海洋法)に則って、国連や国際司法裁判所で解決するしかない。
この問題は明らかに中国に問題があり、アメリカが国際法上の公海として自由に航行する
ことは当然であるが、アメリカは単に米中間の問題とするのではなく、国連や国際司法裁
判所といった機関にかけて人類社会の問題とてルールを確立するようにするべきである。
◇中露の連携
2014 年 5 月 20~21 日、ロシアのプーチン大統領が上海を訪れ、中国の習近平国家主席と
首脳会談を行った。この会談では中露の「全面的なパートナーシップと新たな段階の戦略
的協力関係」が謳われ、内政干渉と一方的な制裁(クリミア編入とウクライナ問題で西側
がロシアに行った制裁)に反対し、また、
「歴史を改竄(かいざん)し戦後の世界秩序を損
なう試み」
(日本のこと)に反対し、ドイツ・ファシズムと日本・軍国主義に対する戦勝 70
周年記念行事を来年共催することなどを盛り込んだ共同声明が発表された。
さらに 10 年間交渉してきたロシアから中国への天然ガス売却協定の締結や 3 度目となる
中露合同軍事演習の実施といった形で両国の協力関係の深まりを印象づけた。
ロシアは前述したように 2014 年 3 月、ウクライナから独立を決めたクリミアをロシア連
邦に編入する決定を行い、西側から強い非難を受け、経済制裁を受けている。中国も 2013
年 11 月に一方的に防空識別圏の設定を宣言して識別権内を通過する航空機の事前の通報を
求め、最近では日本の防空識別圏と重なる地域で自衛隊の偵察機に対して中国軍戦闘機が
異常接近する事件を 2 度起こした。
その後、前述したように中国が南シナ海に人工島を建設し滑走路などを造っていること
が明らかになり、アメリカのイージス艦が中国が主張する領海内を航行することまで起こ
っている。
冷戦終結以降、中露両国はアメリカ主導の国際政治運営に対してしばしば反対し、時に
は拒否権を行使してきた。たとえば 1999 年のコソボ紛争時には安保理事会で軍事力行使に
604
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
対して両国は反対し、北朝鮮への制裁やシリア内戦への介入をめぐっても反対姿勢をとっ
てきた。
しかし、これらは外交的反対の域を出ていない面もあったが、中露両国とも経済力がつ
いてくると共に、最近の動きは力による一方的な行動であり、アメリカの 1 極支配に挑戦
するような態度がみられるようになってきた。ここにきて、いまだ核大国であるロシア、
GDP 大国となって今後さらに核大国にならんとする中国から見ると、もはや、アメリカに屈
することは何もないとアメリカの足元を見透かした行動にでるようになったのではないか。
歴史は繰り返す。100 年前のドイツ皇帝ヴィルヘルム 2 世は当時の覇権国家イギリスの体
制に挑戦し(結果として第 1 次世界大戦に発展した)
、1930 年代のドイツ第 3 帝国のヒトラ
ーはヴェルサイユ体制に挑戦し(結果として第 2 次世界大戦に発展した)
、1950 年代のソ連
スターリンはアメリカに挑戦した(結果として米ソ冷戦に発展した。核抑止力が働いたの
で冷戦だった)
。
アメリカの 1 極支配体制は国連を形骸化し、アメリカの同盟国に都合のいい同盟主義の
体制であったことはこれまで縷々述べてきた。アメリカの言う国際主義はきわめて自陣営
に都合のいいダブルスタンダードの連続であった。アメリカのいう民主主義はきわめてご
都合主義で軍事独裁国家や専制君主国も援助することもあった。きわめて危険な核拡散問
題でも、自陣営は保護し(イスラエルの核ミサイルには触れないで、インドの核開発は認
め、北朝鮮、イラク、イランの核には反対する)
、敵対する陣営に対しては国家破綻をも起
こさせる(核兵器を開発していると疑ってイラク戦争を起こし、イラクを破綻させてしま
った)
。それがまかり通るなら、力がついた我々(中露)もアメリカの言いなりになるので
はなく、我々も自分流でやろうではないかとなってきたようだ。
確かにロシアと中国が表明してきた宣言や文書には、現状の国際秩序に対する挑戦を示
唆する内容が含まれている。プーチンは大統領に復帰する少し前に「ユーラシア連合」を
提起し、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンの 3 ヶ国は、2014 年 5 月に経済圏結成をめざ
すユーラシア連合創設条約に署名した。軍事的には旧ソ連諸国の一部(ロシア、アルメニ
ア、ベラルーシ、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)からなる集団安全保障条約機
構(CSTO)を重視している。こうした組織は EU や NATO を模したものとなるが、ロシアに
よる勢力圏構築の企てとも見なしうる。
《一帯一路構想》
中国では、胡錦濤政権期においてすでに「海洋強国」が唱えられていたのに加え、習近
平体制となってから、「中国の夢」や「中華民族の偉大な復興」といった修辞がつけくわえ
られるようになった。習近平主席が 2013 年 6 月のオバマ大統領との首脳会談で「新大国関
係」を提起した際に、
「太平洋には米中両大国を受け入れる十分な空間がある」と述べたと
され、中国はアメリカと太平洋を分割する構想を表明した可能性がある。
この構想では、前述したように、日本の南西諸島から台湾・フィリピン間のバシー海峡
を通って南シナ海全域(現在、公海上のリーフを埋め立て航空機が発着できる基地を多数
605
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
建設中であることは前述した。明らかに国際海洋法違反である)を収める「第 1 列島線」
内での優越を確立した後、小笠原からグアムに至る「第 2 列島線」内で対米優位を確保し、
またインド洋から中東に至るシーレーンにおいて独自の基地網(「真珠の首飾り」といわれ
る)の大構築を追及しているとされる。
この真珠の首飾り戦略とは、図 112(図 14)のように、アメリカの制海権であったイン
ド洋に中国が進出していく様が真珠の首飾りのようであるから付けられた名前である。赤
丸が中国の、青丸がアメリカのプレゼンスや基地を表している。香港からポートスーダン
まで延びる中国の海上交通路戦略である。海路は、海軍が戦略的な関心を持っているパキ
スタン、スリランカ、バングラデシュ、モルディブ、ソマリアだけでなく、戦略的チョー
クポイントであるバブ・エル・マンデブ海峡、マラッカ海峡、ホルムズ海峡、ロンボク海
峡などを通っている。中国の太平洋、インド洋でのこれらの行為はいずれも第 2 次世界大
戦後、アメリカでとってきた戦略の中国版であるといえる。
図 112(図 14)中国の真珠の首飾り戦略
この戦略は単に軍事上のものではなく、中国の弱点であるエネルギー戦略からも求めら
れている。香港からポートスーダンまでの海上交通路は中国の未来のエネルギー安全保障
に関する論争の原因となっている。中国は世界第 2 位の石油消費国であり、世界第 3 位の
石油輸入国である。 西部アフリカから 15%の石油を輸入しており、スーダンにとっては石
油の最大輸出相手国であり、イランで油田開発するために長期契約を行っている。
中国のこのような急速な世界進出に警戒感が高まっていたが、2014 年 11 月に中国で開催
されたアジア太平洋経済協力首脳会議で、習近平中国国家主席は、図 113 のような「一帯一
路」構想という経済圏構想を提唱した。
この一帯一路(いったいいちろ。One Belt, One Road、略称:OBOR)の構想とは、中国
西部から中央アジアを経由してヨーロッパにつながる「シルクロード経済ベルト」(「一
帯」の意味)と、中国沿岸部から東南アジア、インド、アラビア半島の沿岸部、アフリカ
東岸を結ぶ「21 世紀海上シルクロード」(「一路」の意味)の二つの地域で、インフラス
606
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
トラクチャー整備、貿易促進、資金の往来を促進しようという構想で、それぞれ 2013 年に
習近平がカザフスタンのナザルバエフ大学とインドネシア議会で演説したものである。
図 113 一帯一路の構想図
『自然の叡智
人類の叡智』で、図 114(図 12-105)のように、ユーラシア大陸には、
人類は狩猟採集のころから使っていた草原の道、古代にできたオアシスの道(シルクロー
ド)、そして古代から中世にかけて新しく切り開かれた海の道(海のシルクロード)の三
つのルートがあったことは述べた。この「一帯一路」の構想は、かつてのオアシスの道と海
の道を 21 世紀に復活させようという壮大な構想であるといえよう。
図 114(図 12-105)東西交流の3つの道
中国政府の李克強国務院総理は、積極的に関係国を訪問し、支持を呼び掛け、すでに約
60 の対象国に加え、ASEAN、EU、
アラブ連盟、
アフリカ連合、
アジア協力対話(Asia Cooperation
Dialogue: ACD)、上海協力機構など多くの国際組織が支持を表明している。李克強首相は
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
「『一帯一路』の建設と地域の開発・開放を結合させ、新ユーラシアランドブリッジ、陸
海通関拠点の建設を強化する必要がある」としている。
そのため、諸国の経済不足を補い合い、新たに設立を提唱したアジアインフラ投資銀行
(後述)や新開発銀行(BRICS の国々で創設された BRICS 版国際通貨基金)などでインフラ
投資を拡大するだけではなく、中国から発展途上国への経済援助を通じ、人民元の国際準
備通貨化を目標に中国を中心とした世界経済圏を確立しようとしていると言われている。
アジアインフラ投資銀行(AIIB)とは、中国が提唱し主導する形で設立を目指している、
アジア向けの国際開発金融機関であり、2015 年末の業務開始を予定している。中国は、AIIB
設立の目的は、日米が主導するアジア開発銀行(ADB)では(アメリカが主導する世界開発
銀行でも)、賄いきれない増大するアジアにおけるインフラストラクチャー整備のための
資金ニーズに、代替・補完的に応えることであると言っているが、中国は既存の国際金融
秩序に対して、不満を持っていたことが設立の背景にあるとみられている。
当初、東アジア、東南アジア以外の国の参加はないと観測されていたが、実際には創設
メンバーとなるための期限である 2015 年 3 月 31 日までに、イギリス、ドイツ、フランス
等ヨーロッパの主要国を含む 5 大陸 51 の国と地域が参加を表明した。参加表明国のうち、
ロシアはウクライナ危機をめぐり、欧米から経済制裁を受けており中国との関係強化で乗
り切りたい意向とみられている。またイギリスなどは、中国との人民元の取引拡大という
狙いから、参加表明したものとみられている。
中国は 2015 年 4 月、57 ヶ国の参加があったと発表したが、申請期限を過ぎても日本とア
メリカ合衆国の参加を待ち続けると表明している。参加を見合わせた主な国はアメリカ、
日本、カナダ、メキシコ、アルゼンチンなどである。
2015 年 5 月 8 日には習近平はロシア大統領ウラジミール・プーチンと会談し、一帯一路
をユーラシア経済連合と連携させることで一致した。
2015 年 11 月 17 日にロシアのプーチン大統領はアメリカの主導する環太平洋戦略的経済
連携協定(TPP)を批判して中国のシルクロード経済ベルトとロシアのユーラシア経済連合
の連携がアジア太平洋の繁栄をもたらすとする寄稿を世界のメディア各紙に行った。その
中で、ロシア主導の経済ブロック「ユーラシア経済同盟」(旧ソ連構成国 5 ヶ国)と、
中国の国家戦略「一帯一路(陸と海のシルクロード経済圏)」構想の連携が「アジア太
平洋経済の統合に大きな刺激を与える」と訴えた。
プーチン大統領は中露主導の 2 大プロジェクト連携に関して「透明性と責任のある協
力」と強調している。一方で、日米など 12 ヶ国が参加する環太平洋パートナーシップ
協定(TPP)については、「秘密主義の交渉は地域の安定成長の助けになるとは思えな
い」と批判し、ロシアもアジア太平洋地域を戦略的に重視する姿勢を改めて示した。
このように中国は将来の覇権国家をめざして、新しい世界の経済システムに対する提案
もするようになった。アメリカはこれらの新提案を単に否定するのではなく、それらの新
システムをとりこんで、現在のシステムの足りない点を補って、改善していく度量が必要
608
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
であろう。アメリカは TPP など中国を排除する経済システムではなく、つまり、世界を 2
分する経済システムではなく、極力、中国を取り込んだ、つまり、世界を一つにする経済
システムを提案しなければ、いずれは自分(アメリカ)が孤立するはめになるだろう。グ
ローバル化は人類の流れであり、誰もそれに逆流することはできない。
(G8 もクルミア・ウクライナ問題が起きて、ロシアを締めだしたが、これでは意味がない。
G8 にプーチンを呼んで、トップ同志でどうするか議論するところに意味がある。もちろん、
一回で解決の道が出るはずがないので、専門家の検討グループなどを設置して精力的に解
決の道を探らなければならない。経済問題も G8 では、世界経済の方向づけが難しくなって
おり、中国などが入った G10 、G20 でやるべき時代になっている)。
《ユーラシアの核となる上海協力機構(SCO)
》
アメリカは米ソ冷戦の終結とともに、国連憲章の精神にかえり、同盟政策と封じ込め政
策を解除しなければ、第 2 の冷戦、つまり、米・中露冷戦を引き起こすおそれがある。
前述の上海首脳会談では、ロシアが重視する上海協力機構(SCO)ではなく、アジア相互
協力信頼醸成措置会議(CICA。ソ連解体直後の 1993 年にカザフスタンのナザルバイエフ大
統領が提案して設立された多国間強力組織で 26 ヶ国・地域が加盟している)が大きく取り
上げられたという。習近平主席が基調演説で、「古い安全保障観を捨て去り、開放性、平等
性、透明性に基く全く新しい協力的な安全保障」を追及し、
「アジア諸国は互いの協力によ
ってアジアの安全保障を実現する能力を持つ」と発言した。
前述したように、2013 年 9 月に習近平主席は中央アジア諸国を訪問し、シルクロード経
済ベルト構想を打ち出して中央アジアと中国の関係強化も訴えたが、このような中国の意
向とロシアが重視する上海協力機構(SCO)とが調整されれば、強力なユーラシア同盟が形
成されることになる。つまり、この地球世界で 1 国が強力な同盟をつくれば、必ず、それ
に匹敵する対立する同盟が形成されることになるのである。1989 年の冷戦終了、1991 年の
ソ連崩壊から 20 数年、アメリカ 1 極時代が続いていたが、このままでは、必然的に中露を
中心とした同盟が形成されていくであろう。
上海協力機構(SCO)は、2001 年 6 月 15 日、上海で設立された多国間協力組織、もしく
は国家連合である。現在のところ、図 115(図 15)のように中国、ロシア、カザフスタン、
キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの 6 ヶ国で構成されている(図 115(図 15)参
照。図の桃色の国モンゴル、インド、パキスタン、イランはオブザーバー国である。緑色
は NATO 諸国)
。
2002 年 6 月 7 日、サンクトペテルブルクにおいて、SCO 地域対テロ機構の創設に関する
協定が署名された。SCO 地域対テロ機構執行委員会の書記局を上海に、本部をキルギスの首
都ビシュケクに設置した。また同時に、同年初頭のアメリカ合衆国のブッシュ大統領の悪
の枢軸発言に始まる、対テロ戦争拡大の動きを牽制した。
2007 年 8 月にビシュケクで行われた首脳会談で、テロ組織や分離独立運動など、加盟国
に脅威を与える勢力に協力して対抗する長期善隣友好協力条約など 8 条約に調印した。
609
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2007 年 10 月、ドウシャンベサミットでロシアが主導する軍事同盟・集団安全保障条約
(CSTO)との共同活動に向けた合意に署名した。
図 115(図 15) 上海協力機構(SCO)と北大西洋機構(NATO)
周辺の国家連合との関係強化にも熱心で、2005 年には ASEAN・SCO 間で軍事的協定を結ぶ
ことに同意している。2007 年、ASEAN 理事会は協力関係を更に拡大するために、両者の関
係を事務局レベルから政府高官の直接対話に格上げすることを決定した。
SCO の加盟国、もしくは準加盟国の領域は地球上の陸地の約 25%に達する。SCO は、中国、
ロシア、
(インド)といったユーラシア大陸における潜在的超大国(BRICS)であり、インド、
モンゴル、アフガニスタン、イラン、パキスタン、東南アジア諸国連合(ASEAN)もオブザ
ーバー加盟を申請するなど、北アジア、西アジア、南アジア、東アジアの連合体に発展す
る可能性を持っている。いずれ NATO に対抗しうる非西欧同盟として成長することを、アフ
リカや南アメリカの発展途上国・資源国から期待されているという。
警戒感を強めるアメリカは SCO にオブザーバー加盟を要求したが、2005 年に SCO 理事会
はこれを却下している。SCO はほかにもアフガニスタンのカルザイ政権が半ば「アメリカの
傀儡」であることを理由に加盟申請を拒否したり、加盟国ウズベキスタンからの米軍撤退
を要求するなど、アメリカとの対立路線を形成しつつある。過去のサミット(2007 年のビ
シュケク・サミットを含む)では、たびたび間接的に「ワシントンへの反感」が示されて
いる。2009 年のサミットではイランのマフムード・アフマディーネジャード大統領が SCO
議会でアメリカを批判、対米同盟としての SCO に強い期待を寄せる演説を行った。
610
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
SCO への加盟の希望については、前述の理由から年々増加の一途をたどり、2004 年にモ
ンゴル、2005 年にインド、パキスタン、イランがオブザーバー出席の地位を得た。特に印
パ両国の加盟申請は中印パ 3 国間の対立の解消が期待されたが、2006 年 6 月の会合では 4
ヶ国の正式加盟は見送られオブザーバーに留まっている。理由については「正式加盟に対
する明確な規定がなく、法的手続きに時間を要するため」とされている他、加盟国の急速
な増大が機構運営に支障をきたすことと、中露と周辺 4 ヶ国の利害調整という本来の意味
合いからユーラシア大陸全土を包括する国家連合へと大きく変化を遂げることに迷いがあ
るためだと指摘されている。
よって現在のところ正規加盟国は 6 ヶ国に留めて、オブザーバー・対話パートナーなど
の段階的な参加制度を設けることで加盟要請に対処している。2008 年には客員参加枠が新
たに設立され、加盟申請で留められていたアフガニスタンが、ASEAN や CIS など統合を検討
している国家連合の代表らと共に会議参加を許可された。将来的な正規加盟国の増加は十
分に考えられるという。
この上海協力機構(SCO)が発展し軍事同盟になると NATO に対抗するようになり、明ら
かに米ソ冷戦時代の再現となってしまう。そうなると、この地球世界の危険度はかつての
米ソ冷戦の比どころではなく、格段に高まっていくであろう。
そのような人類の宿弊、つまり、我が陣営(同盟)だけを優遇し、他陣営と敵対すると
いう同盟主義に終止符を打とうとしたのが国際連合ではなかったか。国連のもっとも重要
なことは、世界で唯一の集団安全保障の組織であるという点である。
『自然叡智 人類の叡
智』で述べてきたように、人類発展の歴史的な経緯から政治的、経済的、宗教的、社会的
な体制に少々の異なる点があったとしても、こと武力行使(戦争・紛争)については、国
連で一体になって、防止するのが国連の最大の目的であり機能である。今から考え直して
みても、
(国連の改革はあっても)この国連に代わるよい方策はないと考える。新冷戦が起
きる前に、アメリカは同盟政策、封じ込め政策を解消して、国連中心、つまり、真の国際
法に則った外交政策に改めるべきであろう。
◇アメリカが不安定化させた中東・イスラム世界
図 115(図 15)を見ると、上海協力機構(SCO)の南の中東、アフリカにイスラム諸国が
位置している(図ではオブザーバーとなっているイラン、アフガニスタン、パキスタンな
どもイスラムである)
。
現在、世界で起こっている戦争・紛争、あるいは将来、起きる可能性があると懸念され
ている戦争・紛争(2014 年時点)を表 23(表 18-24。P537)と図 98(図 18-193。P536)
に示したが、その多くが中東、アフリカのイスラム諸国になっている。
《第 2 次大戦後、中東に介入したアメリカ》
サミュエル・ハンチントンが言ったイスラム文明とその他の文明の文明の衝突はすでに、
中東・アフリカの各地で起こっている。ポール・ケネディとロバート・カプランが言った
南の破綻国家の難民はもうヨーロッパに押しかけている。その難民の子弟や欧米の若者が
611
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
が不条理な世の中に憤って「イスラム国(IS)」に参加し、世界中にテロを拡散し始めて
いる。
さらに 19 世紀、20 世紀の欧米列強の植民地主義・帝国主義が現在の貧しいアジア・アフ
リカを作り出したという歴史的・報復的な対立に発展していく可能性もある(歴史的にみ
ると、報復は戦争・紛争の大きな要因となっている)。
イスラムが SCO と NATO のどちらにつくか、それはわからない。ロシアも中国も多くのイ
スラム人を抱えており、イスラム人のテロには神経をとがらしている。と言って、アメリ
カがイスラムに好意を持たれているわけではない。
アメリカはイスラムを使うだけ使ってポイ捨てを繰り返してきた。アメリカが第 2 次世
界大戦後、これまたイギリスの肩代わりをして石油目的にイランに介入したのが始まりだ
った。イランの民主的に選出されたモサデク首相がアングロ・イラニアン石油会社を国有
化するとアメリカとイギリスは CIA による秘密作戦(アンジャックス作戦)によって、モ
サデクを倒し、モハンマド・レザー・シャー(パーレビ国王)を復権させた(1953 年)。
パーレビ国王はアメリカの支援下で専制君主として急速な近代化政策を開始し、一方で
イランにおける民主主義の萌芽は独裁のもとに潰えた。パーレビ国王はアメリカから近代
的な兵器を大量に輸入し、中東一の軍事国家になった。しかし、1979 年のイラン・イスラ
ム革命により、パーレビ体制が崩壊すると、今度は 1980 年代のイラン・イラク戦争におい
て、(長期のアメリカ大使館人質事件もあって)アメリカは「イラン憎し」から、イラク
のサダム・フセイン(専制独裁国家)を支援し、これを中東最大の軍事国家にしてしまっ
た(つまり、アメリカがやることにはいつも石油があり、武器輸出、つまり、軍産複合体
の影がつきまとっていた。口では民主国家擁護を強調しているが、けっして相手が民主国
家である必要はなかった)。
力をつけたサダム・フセインが 1991 年にクウェートに侵攻した。アメリカはあわてて湾
岸戦争で(国連の決議があった)フセインを叩いたが、フセインが言うことをきかなかっ
たので、2003 年のイラク戦争で再び叩いて、サダム・フセインの息の根を止めた。
アフガニスタンンも同じだった。1979 年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると、ソ連に
対抗するゲリラ勢力をアメリカは支援した。そのバックアップで育てられたのがアルカイ
ダであり、オサマ・ビンラディンであった。
アメリカが育てた怪物ビンラディンによってアメリカは 2001 年の 9.11 同時多発テロの
大きな傷を負った。その後のイラク、アフガンの流れは何度も述べたとおりであるので省
略するが、現在の「イスラム国(IS)」もその流れの中から生まれてきた。つまり、アメ
リカが倒したイラクを再建したら(けっして再建されていないが)シーア派の政権になっ
てしまった(憎いイランと同じシーア派になってしまった。イラクはもともとシーア派が
多数派であり、スンニ派、クルドは少数派であるから、こうなることは最初から予想され
ていた)。こうしてイラン、イラク、シリアと、ペルシア湾の北側に「シーア派の三日月」
と呼ばれる勢力圏が構築されてしまった。
612
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
シーア派のイラク政権に対するスンニ派の反発によって生まれたのが、イラク・アルカ
イダ機構(AQI)であった。アメリカはイラクのシーア派政権を支援せざるを得ず(サダム・
フセインを倒して作った政権だから)、AQI を弾圧した。追い詰められた AQI は地下に潜り
シリアに逃げ込んだ。
このシリアでは 2011 年の「アラブの春」が内戦に発展していた。アメリカや産油国は、シ
リアでアサド政権と戦う反政府勢力を支援した。AQI はシリアの反政府勢力に潜り込む形で、
アメリカの支援によって力をつけて(武器をもって)、再びイラクに戻ってきた。
アメリカは 2001 年の 9.11 連続テロ以降、アフガニスタンとイラクで 6800 人に迫る自国
の兵士を犠牲にし(アフガニスタン人とイラク人は数十万人の犠牲者が出ているだろう)、
累積 3 兆ドルもの戦費を費やしてきた。その結果生まれたのが「イスラム国(IS)」であ
る。イラクから兵を引かせるといって大統領になったオバマも再び空爆せざるをえなくな
った(空爆でおさまるとは思えないが)。アメリカが攻撃してくれて一番喜ぶのは、シリ
アのアサドであり、ついでイランなのである(このイラク、シリアにまたがるイスラム国
(IS)のその後については後述する)。
《中東の震源地イスラエル・パレスチナ問題を混迷化させたアメリカ》
第 2 次世界大戦後、アメリカがイギリスから引き継いだ、もう一つのものがイスラエル・
パレスチナ問題である。第 2 次世界大戦前から続いているイスラエル・パレスチナ紛争は、
戦後 70 年近くたっても解決のめどがたたないどころか、ますます、深刻な状況になってき
ていて、まず、現在の地球社会のもっとも難しい問題であるといえよう。
『自然の叡智 人類の叡智』では、第 1 次世界大戦の勃発で、オスマン帝国治下にあっ
たパレスチナなど中東に対して、イギリスは、戦争に協力してくれるなら独立させるとユ
ダヤ人とアラブ人に 3 つの約束をしていたことを述べた。第 1 次世界大戦後の戦間期に、
イギリスはその地域を委任統治領として治下においたが 3 つの約束をはたせなくなった。
多くの調査団が解決のための報告書を書いたが、いずれも実行できないで第 2 次世界大戦
に突入してしまった。
第 2 次世界大戦後、ヒトラーに追われて世界に分散した多くのユダヤ人が続々とパレス
チナに入国してパレスチナ人との軋轢が高まった。イギリスは処理に手こずって国連に任
せて撤退してしてしまい、そのあとをアメリカが肩代わりしてしまった。
アメリカ大統領トルーマンは、国内選挙において、ロビー活動を行っていたユダヤ人の
投票獲得を目当てに、当時のユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1に過ぎなかったが、
1947年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地を
アラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという、きわめて不公平な国連決議181号パ
レスチナ分割決議を、アメリカが根回しして、賛成33・反対13・棄権10でむりやり可決さ
せてしまった(図116(図16-37)の①参照)
。アメリカ(トルーマン)は、パレスチナの
ような小国はどうにでもなると軽くみたのであろう。これが問題をこじらすことになった。
613
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 116(図 16-37) 中東戦争とパレスチナ問題
帝国書院『ユニバーサル新世界史資料』
アメリカ、ソ連(このときはソ連も多くのユダヤ人をイスラエルに送り込めると賛成し
た)
、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した(イギリスは棄権)。
すべてはここから起こった。1948年2月アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の
阻止を決議した。当然、ユダヤ人は国連のお墨付きをもらったと譲歩しなくなった。アラ
ブ人によるテロが激化する中、1948年3月アメリカは国連で分割案の支持を撤回し、パレス
チナの国連信託統治の提案をした。しかし、もう、ユダヤ人も妥協をしなくなった。こう
して英米の甘い思惑政治が、パレスチナ問題をこじらしてしまった。
1948年5月、突如、イスラエルの独立が一方的に宣言され、アメリカは即日承認した(問
題を是正させようとしないで、さらに一方的に押し通そうとした)。その後、アラブを除く
多くの国がイスラエルを承認した。これに反発したアラブ側は,ユダヤ人国家の存在は到
底受け入れられないとして拒否した。イスラエル独立宣言の翌日、アラブ諸国はパレスチ
ナに侵攻した。これが第1次中東戦争であった。
その後、イスラエルとアラブ諸国との間で4度にわたる戦争が行われたが、いずれもアメ
リカからの支援と援助を受けたイスラエルが勝利した。1967年の第3次中東戦争では、アラ
ブ側は大敗北を喫し、パレスチナの大半の地域をイスラエルが占領するに至った(図116(図
16-37-③)参照。国連決議の案より、さらにイスラエルは多くの土地を占領したままで
ある)
。
この間にイスラエルは密かに核兵器を開発して、数十発を保有しているものとみられ、
危険きわまりない状況になっている。
キューバ危機で地獄を見たケネディ大統領は、1963年8月5日、米英ソの間で部分的核実
験禁止条約 (PTBT) を締結したことは述べたが、中国、フランス、イスラエルを含む十数
614
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ヶ国は調印しなかった。このとき、ケネディは、イスラエルの核開発に対し強硬に対応し
た唯一の合衆国大統領であった。建国直後から、アメリカやイギリス、フランス等から明
暗の力を得て核開発に邁進したイスラエルだが、ケネディは大統領就任直後から「イスラ
エルが核を取得することは中東に大きな戦禍をもたらすことになる」という信念のもと、
何度も外交勧告を行い、ついには査察団まで送り込んでいた(ケネディはこの年11月に暗
殺された)
。
イスラエルの核武装は、周辺のアラブ国家に大きな危機感を与え、核開発に着手させた
が、イスラエルは爆撃機群を侵攻させて、イラク、シリアの核施設を破壊した。もちろん、
国際法(国連憲章)違反である(イスラエルから見ると、イラク、シリアが核武装する前
に、攻撃することは先制的自衛権かもしれないが、もちろん、国連憲章違反である。この
ように核兵器は基本的に先制的攻撃を誘発する)。しかし、これもアメリカの拒否権で国
連で取り上げられることもなかった。そして、今、イスラエルはイランが核開発をするな
ら、再び一方的に侵攻爆撃も辞さずと公言している(その前に、2003年のブッシュ大統領
(息子)のイラク戦争の動機もイラクの大量破壊兵器(核兵器)つぶしにあったことは述
べた。そして、それを主張したのはイスラエル・ロビーとの関連が深いネオコンであった
ことも述べた)。
このイスラエル・パレスチナ紛争も、上手くまとまるかに見えたときもあった。1993 年
9 月、イスラエルと PLO はパレスチナ暫定自治に合意し、パレスチナに独立国家ができるの
も間近と思われた。1993 年 9 月 13 日、イスラエルのラビン首相と PLO のアラファト議長が
オスロ協定の調印したとき、ラビンは「われわれは、われわれの子供たち、またその子供た
ちの子供たちが,戦争や暴力、恐怖の痛ましさを体験せずにすむよう、ここに集まりまし
た。
(略)血も涙も、もうじゅうぶんに流しました。もうじゅうぶんです。これから新しい
(歴史の)章をともに開こうではありませんか」と演説した。しかし、1995 年、暫定自治合
意の調印者であるイスラエルのラビン首相は,ユダヤ教右翼過激派のメンバーに暗殺され
た。
2000年9月、イスラエルの右翼政党リクードのシャロン党首(元首相)が、イスラム教の
聖地「ハラム・アッシャリーフ(神殿の丘)」を訪問した。この地が、ユダヤ教徒の聖地
だと誇示するねらいだった。これを契機としてイスラエルとパレスチナの衝突が再び激化
し、今も続くテロと虐殺の連鎖を生んでいる。
アメリカは何度かイスラエル・パレスチナの仲介役をしたが、うまくいかなかった。そ
れはそのはず、問題をこじらした当事者であり、イスラエルの最大の援助者であるから、
パレスチナ側から(イスラム諸国から)信用されていない。2007年7月29日にイスラエルの
オルメルト首相が明かしたところによると、イスラエルはアメリカに対し、従来の25%増と
なる、10年間で300億ドル(約3兆5000億円)の軍事援助を取り付けた。従来は年間24億ド
ル(約2,800億円)であった。この金額は、イスラエルの軍事費の2割以上に相当する。こ
れは無償援助のみの額で、有償での借款や兵器の売買などを含めると、アメリカによる出
615
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
資はさらに巨額になる。アメリカはイスラエル・ロビーの活動もあってイスラエルと極め
て関係が深く、国連安保理でイスラエル非難決議案が出されると、ほぼ確実に拒否権を発
動している。
このように、アメリカが過去の経緯を棚上げにして、全面的にイスラエルを軍事的に援
助し、国連安保理で拒否権を発動する限りは、イスラエルが妥協するはずはなく、また、
そのアメリカが仲介する和平案をパレスチナが受け入れるはずがない(やはり国際的な中
立公正な調停機関が必要である。国連にそのような紛争処理・調停斡旋の機能を持たせる
べきである。アメリカはイスラエルから手を引き、イスラエルに和平に転じ、共存するし
か方法がないことを悟らせるることが必要である)。
アジア、アフリカ諸国は、大部分がパレスチナを承認している。中華人民共和国はパレ
スチナを承認する一方、2007年1月10日~11日には胡錦涛国家主席、温家宝首相がイスラエ
ルのオルメルト首相と会談するなど、両にらみの態度を取っている。中南米諸国は、2010
年12月3日にブラジルが承認したのを皮切りに、パレスチナの承認国が大勢を占めるように
なった(日本は、パレスチナは未承認であり、現在は将来の承認を予定した自治区として
扱っている)
。
2010年9月23日にはパレスチナが史上初めて国際連合への加盟申請を行ったが、国際連合
安全保障理事会においてアメリカが拒否権を行使した。しかし、パレスチナは、2011年10
月31日には国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の加盟国として承認された。2012年11月29
日には国際連合総会において参加資格をオブザーバー組織からオブザーバー国家に格上げ
する決議案が賛成多数で承認された。このようにイスラエル・パレスチナ問題でもアメリ
カのごり押し・孤立化がめだっている。
このイスラエル問題は第2次世界大戦後、中東・アラブ全域に大きな影響を与えてきたが、
とくに隣国のシリアに大きな影響を与えてきた。
《米ロの介入で泥沼に入ったシリア内戦》
シリアは、イスラエルと戦争状態にあることを理由に、1962年以来、非常事態法の下に
憲法による国民の保護を事実上停止していた。1963年のクーデター以来、シリアはバース
党の支配下にあり、1970年に政権を掌握したハーフィズ・アル=アサド大統領は、対立政
党や対立候補者を選挙から締め出しながら30年近くにわたりシリアを支配してきた。
ハーフィズ・アル=アサドの死後は、息子であるバッシャール・アル=アサドが後継者
となったが、父親の独裁政治を継続した。アサド家は、シーア派のうちでも少数派でシリ
ア人口の6~12パーセントを占める貧困なアラウィー派の一員であり、シリア治安機関の
「厳格な統制」によって維持される警察国家であり、シリア人口の4分の3を占めるスンナ
派の中に「深い敵意」が生じていた。同じく少数派であるクルド人からも抗議や不満の声
が上がっていた。
シリアはイスラエルとの第 3 次中東戦争(1967 年)に敗れて、イスラエルにゴラン高原
を占領されたままになっており、この奪回が政権の最重要課題となっていた。そのためイ
616
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
スラエルとの間で幾度も衝突を繰り返してきた。これまでシリアとイスラエルは数度の和
平交渉を行ってきたが、2000 年以降、交渉は暗礁に乗り上げたままである。このため、シ
リアはアメリカ・イスラエルと対立し、イランとは盟友関係にあり、ロシアの支持を得て
いた。
そのシリアは近年、イランの他、ベネズエラ、スーダン、キューバなど、反米路線の国
との関係を強化しつつあった。シリアは、パレスチナ問題ではヒズボラやパレスチナ過激
派を一貫して支援し続けており、シリア国内にはハマスや,その他のパレスチナ・ゲリラ
の拠点もある。
シリアは 1990 年代に北朝鮮からスカッド・ミサイルを購入、対価として食糧やコンピュ
ータを渡すなど、物々交換方式の取引をしていたが、核や化学兵器の技術協力も行ってい
たようである。2007 年 9 月初旬、イスラエル軍がシリア領内を空爆したとの報道があった
が、核関連施設への空爆の可能性が高いと見られていた。さらに 11 月には北朝鮮のミサイ
ル技術者がシリアを極秘訪問したこと、化学兵器の弾頭搭載作業を指導していることも明
らかにされた。今回のシリア内戦で化学兵器が使われ、アメリカ、ロシア、国連の働きか
けで化学兵器は破棄されることになったが、これはいままでの動きを裏付けることとなっ
た。
「アラブの春」を契機に 2011 年 1 月に発生したシリア騒乱は、その後、拡大してシリア内
戦となった。2011 年の反政府勢力としては、「シリア国民評議会」(SNC)、「民主的変革の
ための全国調整委員会」(NCC)、「自由シリア軍」(FSA)という武装組織もつくられ、2012
年 11 月にはこれらを統合するシリア国民連合が結成され、政権側と戦闘が繰り返された。
その後、アサド政権と反政権派勢力間だけでなく、アルカイダ、ジハード主義勢力のヌス
ラ戦線、シリア北部のクルド人勢力など多くの勢力が入ってきて、反政権派勢力間での戦
闘も起きているようであった。
この反政府勢力を支援するアメリカ側では、イギリス、カナダ、フランス、イタリア、
ドイツ、チュニジア、リビア、ベルギー、スペイン、湾岸諸国などの国々が、シリアとの
外交関係を断絶した。他方でロシア及びイランが、同国のレバノンにおける主要同盟勢力
であるヒズボラとともに、アサド政権の最大支援国となり、反政府勢力との戦闘に必要な
財政支援と武器を供給していた。国連ではロシアが拒否権をちらつかせ、かつての米ソの
対立の構図が再現されたかのようで、和平にいたる道筋は見えなくなった。
シリア内戦は深層では、前述したイスラエル・パレスチナ問題とつながっており、アメ
リカの戦後の中東政策の矛盾が問われる段階になったといえる。ロシア、イラン=シリア
政府←→反政府勢力=アメリカ、ヨーロッパ等の構図であり、当事者間では停戦―開戦の
繰り返しで調停にならなかった(やはり、ロシア、アメリカとは別の第 3 者(国連)が中
立の立場で調停し、シリア政府・ロシアと反政府・アメリカがそれを受け入れるという方
式しか解決しない。立場がはっきりしているロシア、アメリカが手を引かなければ解決し
ない)。
617
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2013 年までは以上であったが、この混乱に乗じて、2014 年にはシリア内戦からイラクに
はみ出した勢力が南下して(スンニ派の援助を得て)「イスラム国(IS)」の成立を宣言
し、イラク北部のクルド族や南部のイラク(シーア派)政権を攻撃して急速に勢力を伸し
ていった。
《イスラム国(IS)の建国宣言と拡大》
IS の歴史をさかのぼると、2000 年頃にアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーがヨル
ダンなどで築いた「タウヒードとジハード集団(略称: JTJ)」を前身とする。この集団はア
フガン戦争後、 イラクに接近し、2003 年のイラク戦争後はイラク国内でさまざまなテロ活
動を行った。2004 年にアルカイダと合流して名称を「イラクの聖戦アルカイダ組織」と改
めたが、外国人義勇兵中心の彼らはイラク人民兵とはしばしば衝突した。
2006 年 1 月にはイラク人民兵の主流派との対立をきっかけに名称を「ムジャーヒディー
ン諮問評議会」(略称: MSC)と改め、他のスンニ派武装組織と合流し、さらに 2006 年 10
月には解散して他組織と統合し、「イラクのイスラム国」(略称: ISI)と改称した。2009
年 10 月 25 日と 12 月 8 日、ISI は首都バグダードで自爆テロを実行し、両日合わせて 282
人が死亡、1169 人が負傷した。2012 年 3 月 20 日には、バグダードを含む数十都市で連続
爆弾テロを実行し、52 人が死亡、約 250 人が負傷した。このようにアメリカが崩壊させた
イラクの再建途上でテロを繰り返す過激派の集団であった。
2013 年 4 月、アブー・バクル・アル=バグダーディーは、アル=ヌスラ戦線が「イラク
のイスラム国」の下部組織であり、今後はアル=ヌスラ戦線と合併して組織を「イラクの
イスラム国」(略称: ISI)から「イラクとレバントのイスラム国」(略称: ISIL)、別称
「イラクとシリアのイスラム国」(略称: ISIS)に改称するとの声明を出し、シリアへの
関与強化を鮮明にし、シリアへ侵攻した。同年 7 月、検問所での通行許可を巡り口論とな
った自由シリア軍の司令官を殺害した。
2013 年 7 月 21 日、
アブグレイブ刑務所とバグダード近郊のタージにある刑務所を襲撃し、
500 人あまりの受刑者が脱獄、治安部隊 21 人と受刑者 20 人が死亡した。脱獄者の中には、
武装勢力の戦闘員や幹部も多数含まれていたとされる。
2013 年 8 月、アレッポ近郊のシリア空軍基地を制圧 、同年 9 月、自由シリア軍がシリア
軍から奪還し 1 年近く支配下に置いていたトルコ国境沿いのアッザーズを戦闘の末に奪取、
制圧した。
2014 年に入り、シリアの反アサド政権組織(アメリカが援助)から武器の提供や、戦闘
員の増員を受けたため、急速に軍事力を強化した。その軍事力を使い政権奪取を目指して、
イラクの各都市を攻撃し始めた。2013 年 12 月 30 日のイラク西部アンバール県ラマーディ
ーの座り込み運動の解散をきっかけとして侵攻を開始し 1 月にラマーディーと同県の都市
であるファルージャを掌握、3 月にサマラを襲撃した。
「イラクとレバントのイスラム国」は、アルカイダと関連のある武装集団だったが、2014
年 2 月には、アルカイダ側が「イラクとレバントのイスラム国」とは無関係であるとの声
618
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
明を出した。この不和の原因は「イラクとレバントのイスラム国」の残虐行為が挙げられ
ており、実際にアルカイダを上回る残虐な組織であるとの指摘されるようになった。シリ
ア内戦の反政府派とも衝突するようになり、一部のシリアの反政府派は連合を組んで「イ
ラクとレバントのイスラム国」を攻撃していた。シリア反体制活動家は、「イラクとレバ
ントのイスラム国」について「アサド大統領よりも酷い悪事を働いている」と語っていた
という。
2014 年 2 月には支配地域のラッカでキリスト教徒に対して、課税(ジズヤ)及び屋外で
の宗教活動の禁止を発表した。また、シリアの油田地帯を掌握し、原油販売も行っている
と伝えられていた。
サマラからは 2014 年 6 月 5 日のイラク軍の空爆により追放されたが、6 月 6 日、モスル
に複数の攻撃を実施し、数百人規模で 9 日夜からモスル市街地を攻撃し、10 日までに政府
庁舎や警察署、軍基地、空港などを制圧した。過激派系のウェブサイトは、武装集団が刑
務所から約 3000 人の囚人を脱走させたとしている。6 月 11 日にモスルのトルコ領事館を制
圧し、同国の在モスル総領事を含む領事館員ら 48 人を誘拐した。
6 月 15 日政府軍との戦闘の末、タルアファルを制圧、6 月 17 日にはバグダッド北東約 60
キロのバアクーバまで進撃し、6 月 20 日までにバイジの油田施設を包囲した。6 月 25 日、
バラッド統合基地を攻撃しアジール油田地帯を制圧した。また、ニーナワー県を断水させ
た。
「イラクとレバントのイスラム国」は占領したモスルでシャリーアの強制による支配を
行い、イラク政府への協力者に対する殺害ならびに盗みや強盗をした者の手足を切る刑罰
を課しており、モスルの住民は退去を迫られた。
「イラクとレバントのイスラム国」のこれらの攻撃に対してイラクのマリキ首相は全く
対応できなかった。イラク戦争後、アメリカ軍が残って(アメリカ軍は 2011 年にすべて撤
退)再建をはかったことになっていたイラク軍 26 万人はこの「イラクとレバントのイスラ
ム国」の侵攻に対してまったく無力であった。6 月 17 日にイラク首相府は「イラクとレバ
ントのイスラム国」をスンニ派のサウジアラビアが財政的に支援し、大量虐殺を引き起こ
した責任があると非難する声明を発表した。
これに対してはサウジアラビアとアメリカから反発が出たが、米共和党のランド・ポー
ル上院議員は「イラクとレバントのイスラム国」が強化された理由の一つとして、アメリ
カ政府がシリア政権打倒のため「イラクとレバントのイスラム国」に武器を移送したこと
を挙げていた。
また、オーストラリアのジュリー・ビショップ外務大臣は 150 人のオーストラリア人が
「イラクとレバントのイスラム国」に加入していると明らかにし、彼らの帰国の懸念を表
明した。6 月 20 日、国連人権理事会は「イラクとレバントのイスラム国」の侵攻によって
100 万人の住民が避難を余儀なくされていると声明を出した。
《「イスラム国」の国家樹立宣言》
619
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2014 年 6 月 29 日、「イラクとレバントのイスラム国」は同組織のアブー・バクル・アル
=バグダーディーが「カリフ」であり、あらゆる場所のイスラム教徒の指導者であるとし、
イスラム国家であるカリフ統治領をシリア・イラク両国の「イラクとレバントのイスラム
国」制圧地域に樹立すると宣言した。また同声明において組織名からイラクとレバントを
削除し、「イスラム国(IS)」と改変することを発表した。
(イスラム国(IS)は、図 117(図 16)において、赤色の地域は、事実上支配下にある地
域、桃色の地域は領有を主張する地域、白色布地域はイラクとシリアの残りの地域である。
その後、赤色地域は米軍などの空爆によって大幅に減って、点と線の状態になっているよ
うである)
。
図 117(図 16) イスラム国(IS)
しかし、国家を自称しているものの、他国から国家の承認は得られていない。当事国で
あるイラクやシリアはもちろんのこと、日本や米国、欧州諸国などの政府が承認を行って
いない。さらに、周辺のシーア派・スンニ派イスラム教諸国の政府などからも国家として
は承認されていない。
現在のところ、IS は全世界のほぼすべての国の政府と敵対している。日本にも宣戦布告
を行っており、日本政府もこれらの国と IS 包囲網に加わる共同声明を発表している。IS 側
は、中華人民共和国、インド、パキスタン、ソマリア、モロッコ、インドネシア、アフガ
ニスタン、フィリピン、チュニジア、リビア、アルジェリア、朝鮮民主主義人民共和国、
ミャンマーなどあらゆる国を「攻撃対象」として名指ししている。
2014 年 8 月 8 日、アメリカ軍が IS の武装勢力に対して、限定的な空爆及びヤズィーディ
ーなどに対して支援物資の供給を開始した。初日は、クルディスタン地域のアルビル近郊
に展開していた野砲や車列が攻撃対象となった。アメリカは、空爆の期限を設けず、今後
も空爆を実施することを示唆した。
ただし、アメリカ軍の空爆は、IS のイラク支配地域に限定されており、IS の本拠地であ
るシリアでは実施されていないため空爆の効果を疑問視する人もいた。シリア国内の IS 拠
点を攻撃しないのは、IS と対立するアサド政権を支援する形になるためと指摘されていた。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
8 月 19 日、IS は拘束していた米国人ジャーナリスト、ジェームズ・フォーリーを斬首し、
処刑動画が投稿された。イスラム国は米軍による空爆への報復と主張している。イスラム
国はその後も数人の欧米のジャーナリストを斬首し、処刑動画を投稿している(2015 年に
は日本人も 2 人処刑された)
。
8 月 24 日、IS はシリア北東部のラッカ県にあるシリア政府軍の空軍基地を制圧、ラッカ
県のほぼ全てを手中に収めた。この時、イスラム国は先日、シリア兵 500 人を捕らえたが、
8 月 28 日、このうち 160 人を処刑したと発表、処刑映像を公開した。
8 月 25 日、アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は、アメリカ軍によるシリア上空で
の偵察飛行を承認した。
シリアのアサド政権は、IS の勢力拡大に対して国際社会と協力する用意があると表明し
た。これまでアサド政権打倒を目指してきた反政府派を支援してきたイギリスやアメリカ
合衆国の協力も歓迎するとした。
8 月 31 日、ドイツは IS が自国の安全保障の脅威になるとして、IS と対峙するクルド人
勢力に武器を供与する方針を発表した。ドイツは世界第 3 位の武器輸出国である一方で、
これまでは紛争地域への武器輸出を見送ってきたが、方針を転換した。
9 月 1 日、国際連合の人権理事会は、IS のイラクでの人権侵害を「最も強い言葉」で非
難する決議を全会一致で採択、IS の行為は戦争犯罪や人道に対する罪に当たるとした。
9 月 19 日、国連安全保障理事会は、全会一致で IS の壊滅に向けて対策強化を求める議長
声明を採択した。また同日、フランスは IS のイラク北東部の補給所に対して、初の空爆を
実施した。
9 月 22 日、アメリカの国防総省はアメリカ軍がシリア北部のラッカにて、「IS に対する
空爆を実施した」と明らかにした。アメリカの国防総省は「攻撃には戦闘機、爆撃機が参
加したのに加え、巡航ミサイル「トマホーク」も使用された」と説明した。
さらに 11 月 8 日にはアメリカ軍などによって、IS の幹部たちが乗る車列が空爆された。
アル=アラビーヤが地元部族の話として伝えたところによると、この中に、最高指導者の
アブバクル・バグダーディーが乗っており、バグダーディーは致命傷を負ったという。た
だし、アメリカ中央軍は、この車にバグダーディーが乗っていたかどうかについて不明と
している。
2014 年 12 月、イランの F4 ファントム戦闘機がイラク東部で IS に対する空爆を行った。
2014 年 12 月 24 日、IS は、米軍主導の有志連合の戦闘機を撃墜しヨルダン人の操縦士を拘
束したと発表した。
2015 年 1 月 26 日、コバニ包囲戦にて、IS と戦っていたクルド人民兵部隊が、コバニを
IS から奪還したと発表した。クルド人部隊と、アメリカなどの有志連合の空爆の連携が、
有効に機能した結果とされる。世界的に注目されていたコバニの攻防で、IS が敗北したこ
とは、IS の士気や、各地の支配に影響を及ぼすとの意見がある。コバニでの戦いでは、ク
ルドと IS 双方の戦闘員や、住民など約 1600 人が犠牲となったとされる。
621
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2015 年 1 月 26 日、IS は、支持者に対し、各地での攻撃を呼びかける声明を出し、アメ
リカなどの空爆に対して IS はシリアやイラクなどの戦場ではないところでテロ攻撃によっ
て反撃するようになった。この IS の呼びかけを受けての攻撃と思われる動きが世界各地で
起きており、2015 年 1 月 27 日にはリビアの高級ホテルが武装勢力に襲撃され、9 人が死亡
する事件が起こった。この事件では、イスラム国「トリポリ州」を名乗る集団が犯行声明
を出した。現地の者だけでなく、アメリカ合衆国、韓国、フランス、フィリピンなどの者
も犠牲となった。この勢力は、2015 年 6 月には中部シルトを完全に制圧するなど、事実上
の内戦下のリビアにおいて一定程度の勢力を保持している。
1 月 29 日には、エジプト北部の北シナイ県の軍事基地や警察署などを、武装集団が襲撃
し、少なくとも 26 人が死亡する事件が発生した。IS に忠誠を誓い、IS のエジプト部門と
なった過激派エルサレムの支援者が犯行声明を発している。なおエジプト軍の報道官は、
軍によって結社禁止となったムスリム同胞団が関与していると主張した。
IS の支持者グループは、内戦状態のイエメンでも勢力を拡大しており、2015 年 3 月 20
日には、シーア派武装勢力「フーシ」が掌握する首都サヌアでフーシ派幹部を狙ったとみ
られる自爆テロを起こし、140 人以上の死者が出るなど攻勢を強めている。4 月 30 日には、
イエメン軍兵士 14 人に死刑を執行したとする動画を公開した。
2015 年 5 月 16 日、アメリカの特殊部隊が同組織で資金源である原油・ガス取引などを指
揮していた幹部、アブ・サヤフを殺害したと発表した。人質救出作戦以外ではシリアで初
の地上作戦となった。
2015 年 7 月には、アフガニスタンのザファル・ハーシミー報道官は、少なくともナンガ
ルハール州、ファラー州、ヘルマンド州の 3 州に IS が進出していることを明らかにした。
6 月には、タリバンとの間で戦闘が勃発し、双方の間で IS 指導者を含む 12 人が死亡した。
2015 年 8 月 21 日、アメリカ軍が空爆で、当時同組織ナンバー2 であったファディル・ア
フマド・ハヤリ幹部を殺害したと発表した。2015 年 8 月 28 日、8 月 24 日にアメリカ軍が
IS の首都ラッカに空爆を行った際、ジュネイド・フセイン幹部を殺害したと明らかにした。
同幹部は世界各地でテロをおこす「一匹オオカミ」型のテロ要員確保を担っており、米軍
や政府の関係者約 1300 人の個人情報をネット上に公開し、彼らを襲撃するよう呼びかけて
いた。
2015 年 8 月 29 日、トルコが米軍などとの共同作戦に初参加し、有志連合の一員として
IS への空爆を初めて行った。
2015 年 9 月 27 日、フランス大統領府が、仏軍がシリアで初めて IS の拠点に空爆を行っ
たと発表した。フランスは、イラクでの空爆に参加する一方で、シリアでは IS と敵対する
アサド政権の延命につながるなどの理由で攻撃を見送っていたが、内戦の泥沼化で難民問
題も悪化したことなどから方針転換した。
2015 年 9 月 30 日、ロシアのプーチン大統領は、シリア政府からの要請を受けたとしてシ
リア領内で IS に対する空爆を開始する、と発表した。この作戦についてロシア国防省は、
622
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカ主導の「生来の決意」作戦には加わらないとしている。ロシア空軍は、2015 年 10 月
上旬、Su-24 戦闘爆撃機、Su-25 シュトゥルモビークを用いて空爆を実施している。北オセ
チア共和国にあるロシア空軍基地には Tu-22M 中距離爆撃機がロシア各地から集結している
といい、今後は北オセチア共和国のロシア空軍基地からの長距離爆撃になる可能性が高い
という。
2015 年 11 月 13 日夜、フランスのパリで同時多発テロが発生し、飲食店や劇場、サッカ
ー競技場など複数の地点で、銃撃や爆発などが発生し、132 人が死亡した。オランド仏大統
領は「イスラム国」の犯行と発表、戦争状態にあると非常事態宣言を発表し、全ての国境
を封鎖した。「イスラム国」も犯行声明を出した。世界中に動揺が広がる中、各国指導者
は次々と連帯を呼びかけた。
2015 年 11 月 24 日、トルコの戦闘機がロシア軍機がトルコの領空を侵犯したとして撃墜
する事件が起こった。ロシアのプーチン大統領は直ちにトルコに対する経済制裁を発表す
るとともに、トルコが IS の石油密売に加担していると批判した。トルコのエルドアン大統
領はロシア軍機は何度もトルコ領空を侵犯したと非難し、ロシアは IS だけでなく反政府勢
力をも空爆をしていると反論している。この事件はフランスのオランド大統領が IS 攻撃で
一本化しようとしていた対 IS 作戦を分裂させる可能性が出てきた。
IS 打倒では共通するが、ロシア、イランなどアサド政府軍側を援助するグループと反政
府勢力を援助するアメリカ、トルコ、フランス、イギリスなどの有志連合のグループとに
分裂する可能性があり、シリア-イラクにわたり出現したイスラム国(IS)問題がどう決
着するかは予断を許さない。このアメリカ、ロシア、フランスなどがこぞって行い始めた
イスラム国に対する空爆は 2015 年になって大量の難民を発生させることになった。
《大量の難民の発生》
アメリカをはじめ、シリア・イラクの周辺国、ロシア、フランスなどが、シリア・イラ
クの IS 占領地域に激しい空爆をはじめたので、IS 兵士もいるかもしれないが大部分はシリ
ア内戦や IS とは関係ないシリア国民やイラク国民が難民となって、図 118 のように周辺国
へ避難し始めた。 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、シリア内戦による難民
は登録されているだけでも 400 万人を超える。シリアでは国内の難民も含めるとシリア人
口の半分にもなる 1000 万人といわれている。
図 118 シリア難民
623
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
2015 年になると、この難民はヨーロッパをめざすようになり、その数は 80 万人にもなる
と見られている。EU(欧州連合)は今後 2 年間で難民 16 万人を各国に割り当てる案を発表
したが、それではとても収まりそうにない。難民らの中には旅券を持っていなかったり、
意図的に旅券を廃棄したりしている者も多いとされ、欧州側では身元確認が難航している。
こうした中で懸念されるのが、難民を隠れみのとした過激派の欧州への流入である。国
連機関のテロ対策担当者によると、イスラム国関係者がメンバーに対し、シリア難民を偽
装して欧州へ向かうよう指示したり、欧州からシリアを目指す外国人戦闘員に対し、難民
の移動ルートを逆にたどるよう助言したりするケースが見つかっているという。現に 2015
年 11 月のパリ同時多発テロの犯行グループには、難民に紛れ込んだ工作員もいたことがわ
かっている。
イスラム国の暴走をどうくい止めるか、米ロが国連の安保理で一致した方針を出すこと
が必要である。いままでのように米ロ(かつての米ソのように)の方針が食い違うとそこ
を狙ってテロ集団が国家をつくってしまうことがおきてしまう。
真の国連軍として地上軍をもって IS 軍を掃討ことが必要である。米ロ仏などが空爆を繰
り返している限りは、さらに多くの難民と多数の犠牲者を出すばかりであり、難民の中に
潜入したイスラム国をはじめとする過激派のメンバーによるテロが世界に拡散するばかり
であろう。
いずれにしても長期的には、イスラエル・パレスチナ問題、シリア内戦を含めて、(米ロ
はそれぞれの支援を中止し)中東全体をどうするかを国連を中心に討議し、相互の兵力を
引き上げさせ、国連監視団を送り込んで、和平を強制的に実施することしかない。
以上述べてきたように、アメリカの第 2 次世界大戦後の中東政策はすべて不毛の、イス
ラムにとっては大変迷惑なことを繰り返してきたのである(アメリカにとっては石油を得
る、武器を輸出するという意味では不毛ではなかったかもしれない)。中東だけでなく、
アジアのベトナム戦争、カンボジア、ラオスもそうだった。カリブ海、中米、南米もそう
だった。第 2 次世界大戦後、どこかアメリカが感謝されたところがあっただろうか。
どうしてそうなるか。アメリカが自国のため(アメリカ軍産複合体あるいは石油資本の
ため)だけに動くからである。「敵の敵は味方」という単純な論理で、簡単に介入して、
金と武器に任せて、味方になりそうな勢力に資金と武器を援助するからである。本当にそ
の国のためになる、本当に世界のためになる、それは自国だけでは判断できないのだ。反
対側からも考えてみないと思いよがりがおきるのである。すべての国と話し合って決める、
その場が国連ではないか。そのような場としてアメリカが作ったのではなかったのか。国
連に帰ってきてほしい。すぐ軍事顧問団を送り込むとか、無人機で爆撃するとかではなく、
また、国連、安保理で自国の論理を押し通すのではなく、みんな(安保理事国)とよく話
し合って、話をまとめてほしい。国連はアメリカを今こそ必要としているのである。
《人類の叡智が試されている》
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このアメリカ 1 極時代にアメリカは、多くの一方的な空爆やアフガニスタン侵攻(戦争)
やイラク戦争などの大きな戦争を行ったが、これはゴルバチョフ時代にせっかく軌道に乗
り始めた国連の機能を再び無視するもので、国連の集団安全保障制度は再びその機能を喪
失してしまった(図 89(図 9。P471)参照)
。
前述したように第 1 次世界大戦開始から 100 年目の現在は、確かにアメリカ 1 極時代の
頂点にあるかもしれない。これから 21 世紀前半に台頭著しい中国などとの覇権の交代期に
入っていくところにある。ここが人類にとってカント的平和論を実現出来る最後のチャン
スかもしれない。ここで国連もやはり国際連盟と同じように役に立たない組織であると見
なされるようになると、再びこのような国連による集団安全保障制度の仕組みは作られる
ことはなく、列強の乱立する合従連衡の世の中になり、もちろん、地球の環境問題も温暖
化問題も顧みられることなく、ただ、列強の核開発競争が激しくなり、いつかは人類は破
滅の道をたどることは間違いない。
今や我々人類は、その選択を迫れているのである。人類に、そのチャンスは二度と来な
いだろう。図 74(図 18-185。P328)をよく見てほしい。1815 年のナポレオン戦のあと、
200 万人の犠牲によってウィーン体制、第 1 次世界大戦の 2000 万人の犠牲によってヴェル
サイユ体制、第 2 次世界大戦の 5000 万人の犠牲によってサンフランシスコ体制、つまり、
国連体制を築いた。これをもし、逃したら、第 3 次世界大戦の核戦争の後での国連改革と
なるのだから。人類がいなくなっているかもしれないのだ。
今後の覇権の交代期には、米ソ冷戦の歴史から推測すると、図 92(図 16-9。P476)(ア
メリカとソ連の軍事支出額の推移)や 図 82(図 16-14。P424)(アメリカとソ連(のち
ロシア)の戦略核兵器配備状況(1945~97 年))で示したと同じことが、これから(もう
すでにはじまっているが)米中間に繰り広げられることは必定であろう。このようなチキ
ンレースに数十年後、どちらが勝ち残り、どちらが崩壊し、あるいは、両方が崩壊し、第 3
国が勝利するか、あるいはすべてが崩壊する、つまり、人類が滅びるか誰にもわからない。
何のためにアメリカは封じ込めを続けるのか。何のために軍事競争をするのか。まだ、ア
メリカの軍産複合体を養うためにか。中国だって人民解放軍を解放して、健全な国土建設
につかうべきではないか。
今後の中国、アメリカの GDP は米ソ冷戦時の GDP の何倍、何十倍となっているだろうか
ら、その軍事費は文字通り天文学的になっているだろう。その金から生み出される軍事技
術がどうなっているのか、誰にもわからない。米・中(ロ)は対立するどんな理由がある
というのか。張り合って自滅する理由があるのか。それほど人類は愚かなものであるのか。
米・中(ロ)で世界をリードして、地球温暖化防止と戦うことはできないのか(その時期
は今すぐしかない。温暖化してからでは人類は遅すぎるのだ)。それに金と技術を使うこ
とはできないのか。これほどの自然の叡智を解明してきた人類の叡智は驚異的である。そ
れを地球温暖化防止に使おうではないか。我らの子孫に永続する地球を引き継ぐためにそ
れを使おうではないか。まさに、米・中(ロ)の、人類の叡智が試されるときだ。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
【5】アメリカ的集団安全保障制度(同盟主義)に加担し歴史に逆行する日本
◇憲法違反を犯した安倍首相
2010 年代に入って中東や極東、東南アジアの緊張のたかまりは、第 2 次世界大戦後、70
年近く日本国憲法第 9 条の制限から「集団的自衛権」(国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」は、
一言でいえば、他衛権ないしは同盟権として運用されてきたことは述べた)を行使せず、
一度も戦争に参加しなかった日本にも影響を及ぼすようになった。
安部内閣は、突然、2014 年 7 月 1 日『集団的自衛権の行使を容認する閣議決定』を行っ
たのである。
「突然」といったのは、国会や国民にまったく問うこともなく、戦後、69 年も
堅持してきた平和主義の日本国憲法を実質、変更してしまう解釈改憲を「安部内閣」とい
う一内閣の行政権で決定し、直ちに施行したのである。民主主義の基本は三権分立である
ことは中学生でも知っており、これは明らかに実質的な憲法違反である。
安部総理が、なぜ、そこまでしてやるのか。なぜ、『集団的自衛権の行使を容認する閣
議決定』をして、国会や国民に問うこともなく(実質、憲法違反をしてまで)、戦後、70
年近く続いていた日本の針路を突然、右旋回させてしまったのか、国民一般には理解でき
ないことであった。
しかし、総理である安倍晋三にとっては、このことは「突然」でも何でもなく、彼が政
治家となった最初からの悲願(執念)であったのである(戦後の日本において、これほど
政治家個人の思想・執念によって、国政が根底から転換させられようとしている例はない。
今は、主権をもつ国民が本当に真剣に日本の、人類の将来を考えて行動すべき決定的な時
期に入っていると考えるべきである)。
安倍晋三は、1993 年に父・安倍晋太郎の地盤を受け継ぎ、第 40 回衆議院議員選挙に山口
1 区から出馬し初当選して以来、祖父・岸信介からさずけられた憲法改正・集団的自衛権行
使論を全面に掲げてきた。安倍のこの問題に対するスタンスは、昨日今日培われたもので
はない。安倍が初当選した直後に出版した『
「保守革命」宣言』でも、
「今考えなければな
らないのは、集団的自衛権の問題です。この問題をクリアしない限り、わが国の外交はい
つまでたっても一人前になれないと言っても過言ではない」と言い切っていた。
2003 年 9 月、小泉総理の「サプライズ人事」で安倍はたった政治歴 10 年で幸運にも幹事
長になったときも、これは「憲法改正」への道筋をつける、またとないチャンスだと思っ
た。だからこそ、いついかなるときでも、「私は憲法改正論者ですから、総理大臣になった
ら憲法を改正したいと思っています」と堂々と言ってきていたのである。
こうなると安倍晋三の祖父・岸信介が日本政治でどのような役割を果たしたかを振り返
って見る必要がある。
◇岸信介の悲願「自主憲法制定」
岸信介(1896~1987 年)は、戦前は満州国総務庁次長、東條内閣の商工大臣などを歴任
した。戦後、A 級戦犯として巣鴨刑務所に 3 年半拘留されたが不起訴となり、公職追放も受
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
けたが、サンフランシスコ講和条約発効とともに解除され、政界に復帰し、1952 年 4 月に
「自主憲法制定」
、
「自主軍備確立」
、
「自主外交展開」をスローガンに掲げた日本再建連盟
を設立し、会長に就任した。
1953 年、日本再建連盟の選挙大敗により日本社会党に入党しようと三輪寿壮に働きかけ
たが党内の反対が激しく入党はできず、弟・佐藤栄作も属する吉田茂の自由党に入党、公
認候補として衆議院選挙に当選して吉田から憲法調査会会長に任じられて自主憲法制定を
目指すも、1954 年に吉田の「軽武装、対米協調」路線に反発したため自由党を除名された。
1954 年 11 月に鳩山一郎と共に日本民主党を結成し幹事長に就任した。
岸は 1955 年 8 月、鳩山政権の幹事長として重光葵外相の訪米に随行し、ジョン・フォス
ター・ダレス国務長官(アイゼンハワー政権の国務長官。反共の闘士といわれた。1945 年
のサンフランシスコ会議の国連設立の最終段階で国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」を挿
入させることに暗躍したことは述べた)と重光の会談にも同席した。ここで重光は安保条
約の対等化を提起し、米軍を撤退させることや、日本のアメリカ防衛などについて提案し
たが、ダレスは日本国憲法の存在や防衛力の脆弱性を理由に非現実的と強い調子で拒絶、
岸はこのことに大きな衝撃を受け、以後安保条約の改正を政権獲得時の重要課題として意
識し、そのための周到な準備を練りあげていくことになった。
1955 年 10 月には左右両派に分裂していた日本社会党が再び合同したため、かねて二大政
党制を標榜していた岸は、鳩山一郎や三木武吉らと共に、自由党と民主党の保守合同を主
導し 11 月に自由民主党を結成し、その初代幹事長に就任した。かくして「55 年体制」が始
まった。
1956 年 12 月 14 日、自民党総裁に立候補したが 7 票差で石橋湛山に敗れ、外務大臣とし
て石橋内閣に入閣した。2 ヶ月後に石橋が脳軟化症に倒れ、石橋内閣が総辞職すると、後任
の内閣総理大臣に指名された。
岸の総理大臣在任中の最大の事項であり、岸政権の命運に影響を与えたのは日米安保条
約の改定と、それを巡る安保闘争であった。1960 年 1 月に全権団を率いて訪米した岸は、
アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と同大統領の訪日で合意した。新条約
の承認をめぐる国会審議は、安保廃棄を掲げる社会党の抵抗により紛糾した。1960 年 5 月
19 日には日本社会党議員を国会会議場に入れないようにして新条約案を強行採決したが、
国会外での安保闘争も次第に激化の一途をたどった。
岸は警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫を頼り、
自民党内の「アイク歓迎実行委員会」委員長の橋本登美三郎を使者に立て暴力団組長の会
合に派遣し博徒、暴力団、恐喝屋、テキヤ、暗黒街のリーダー達が動員されたという。
こうした政府の強硬な姿勢を受けて、反安保闘争は次第に反政府・反米闘争の色合いを
濃くしていった。国会周辺は連日デモ隊に包囲され、6 月 10 日には大統領来日の準備をす
るために来日した特使、ジェイムズ・ハガティ新聞係秘書(ホワイトハウス報道官)の乗
627
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ったキャデラックが東京国際空港の入り口でデモ隊に包囲されて車を壊され、その挙句ヘ
リコプターで救出され避難する騒ぎになった。
6 月 15 日には、ヤクザと右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの重傷者を出し、国会構内で
は警官隊との衝突により、デモに参加していた東京大学の学生、樺美智子がデモ隊に押し
つぶされ死亡する事故が発生した。
岸は、
「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもの通りである。私には“声な
き声”が聞こえる」と沈静化を図るが、東久邇・片山・石橋の 3 人の元首相が岸に退陣勧
告をするに及んで事態は更に深刻化し、遂にはアイゼンハワーの訪日を中止せざるを得な
い状況となった。6 月 15 日と 18 日には、岸から自衛隊の治安出動を打診された防衛庁長官・
赤城宗徳が拒否した。
安保反対のデモが続く中、一時は首相官邸で実弟の佐藤栄作と死を覚悟する所まで追い
つめられたが、6 月 18 日深夜、条約は自然成立し、6 月 21 日には批准、昭和天皇が公布し
た。新安保条約の批准書交換の日の 6 月 23 日、岸は閣議にて辞意を表明、7 月 15 日、混乱
の責任を取る形で岸内閣は総辞職した。この総辞職の一日前の 14 日、岸は暴漢に刺され、
瀕死の重傷を負った。
首相を退任してからも影響力を行使し、
「昭和の妖怪」とも呼ばれつつも、自主憲法制定
運動を続け、正力松太郎などとともにアメリカ中央情報局(CIA)から資金提供を受けてい
たとされる(2007 年に米国務省が日本を反共の砦とするべく岸信介内閣、池田勇人内閣お
よび旧社会党右派を通じ、秘密資金を提供し秘密工作を行い日本政界に対し内政干渉して
いたことを公式に認めている)
。
自主憲法論とは、日本国憲法を無効もしくは、成立過程において不備があったために、
日本独自で新しく憲法論議をし、新憲法を制定(前憲法破棄)しようとする考え方であり、
講和後まもなく自由民主党結党時に綱領として掲げられた。
この自主憲法論は、日本国憲法第 9 条にある戦力・交戦権否定条項の廃止または修正が
主眼とされ、また人権絶対保障の否定と非常時の人権制限である国家緊急権の制定、国民
の義務に関する条項の追加(具体的には勤労、納税、子弟への普通教育に加えて国防への
参加)
、天皇の元首性の明記、伝統尊重条項の追加などを盛り込んだ内容で非常に保守色の
強いものであった。
岸信介は、政界を引退してからも、逝去するまで「自主憲法制定会議」会長として、改
憲へ執念を見せ続けたが、念願であった「憲法改正」は実現しなかった。実際、安倍晋三
の記憶によれば、岸は首相として再登板を果たし、憲法改正に取り組みたいという意欲を語
ったこともあるという。
「戦争が終わってからもう何十年もたっているが、今の憲法は時代に合わなくなってい
る。制定当時の手続きだって間違っているんだ。立派な独立国としてここまで成長した日
本は、きちんとした自前の憲法を持たないと時代の流れについていけないんだよ」結果的
628
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
に、岸は目的を果たすことなく逝ったが、祖父が晋三に託したことはただ一点、
「憲法改正」
であった。
◇安倍晋三が受け継いだ「自主憲法制定」
自民党幹事長となった安倍は、2004 年 4 月にアメリカ・ワシントンを訪問し、米政府の
主要メンバーと会談しアメリカを代表するシンクタンクであるワシントンのアメリカン・
エンタープライス研究所(AEI)で、
「進化する日米関係」をテーマに英語で講演し、集団
的自衛権の行使を可能とするため、政府解釈の見直しや憲法改正が必要だとする持論を展
開した。
(アメリカでの講演で)
「私の祖父・岸信介は、日米両国が『対等な立場』に立ち、安定
的な同盟関係を構築することこそが、戦後日本の平和と繁栄を希求するうえで欠くことの
できないものである、という強い信念を持っておりました。日米安保をより持続可能なも
のとし、双務性を高めるということは、具体的には、集団的自衛権の行使の問題と非常に
密接にかかわり合ってくるものと考えます。そもそも集団的自衛権については、国連憲章
第 51 条に『国連加盟国には、個別的・集団的自衛権がある』ということが明記してありま
す。日本は国連に加盟していますし、また、日米安全保障条約の前文にも『個別的または、
集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し』と書いてあります。それでも、わが
国政府は、国際法的集団的自衛権を有しているが、わが国の憲法上、これを行使できない
との解釈をとってきたのです。そんな国内向けの理由で『集団的自衛権は行使できない』
という理屈を言っても、世界に通用しません。これまでの日本政府の解釈では、いろいろ
な面で限界に来ていることは確かです」
(安倍の問題点は、アメリカでは、率直に彼の本音の政治信条を長時間述べているが、国
内では幹事長のときも総理になっても公の前では憲法改正問題も集団的自衛権についても
明瞭には述べてはいなかったことである。
「国民のみなさんに丁寧に説明することはもちろ
んです」を口癖にして、その実、国民には口を濁す。この公のもとでの「改憲隠し」が安
倍のやりかたで、そのため、今度の『集団的自衛権の行使を容認する閣議決定』も国民の
大部分には唐突で意外と思われたのである)
。
このアメリカでの講演で、安倍幹事長は、憲法改正についても率直に述べている。
「私は、ずっと一貫して憲法改正論者であります。その理由は、大きく分けて 3 つあり
ます。
第一は、現行憲法の制定過程に問題があったと考えているからです。周知のごとく、現
在の憲法は、占領下の GHQ のニューディーラーと呼ばれた人たちが、数日間で起草したと
いう歴史的事実があります。国家の基本法ですから、歴史的正当性が付与されていなけれ
ばなりません。そのために、憲法の成立過程にこだわらざるを得ないのです。
第二は、制定から半世紀以上経過して、いくつかの条文が、時代にそぐわなくなってい
ることです。その典型的なものが第 9 条だと思います。現在の憲法では、国家の安全を保
てないことが明確となりました。
629
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
第三は、新しい時代、新しい世紀を迎えて『我々の手で、新しい憲法をつくっていこう』
という精神が、国民の中に芽生え始めていることです。私は、こういう精神こそが新しい
時代を切り開いていくと思います。
憲法を改正することによって、国家としての枠組みをもう一度しっかりとつくり上げ、
新しい日本政治の構造と価値観を構築しなければなりません。これらの点が解決されれば、
経済や福祉をはじめ、今の日本が直面している様々な改革問題も解決に向けて、大きく前
進すると確信しております」と述べていた。
《第 1 次安倍内閣》
2006 年 9 月 20 日、安倍晋三は、総裁選で麻生太郎、谷垣禎一を大差で破って自由民主党
総裁に選出され、9 月 26 日の臨時国会において内閣総理大臣に指名された。初当選以来 13
年で、戦後最年少で(52 歳)
、戦後生まれとしては初めての内閣総理大臣であった。
「美し
安倍晋三は、就任表明では、冒頭に小泉構造改革を引継ぎ加速させる方針を示し、
「ホ
い国」というテーマの下に「戦後レジームからの脱却」「教育バウチャー制度の導入」
ワイトカラーエグゼンプション」などのカタカナ語を多く用いた。
憲法改正には、やはり、あまりタカ派色を出さないため、次のように述べただけだった。
「国の理想、かたちを物語るのは、憲法です。現行の憲法は、日本が占領されている時代
に制定され、すでに 60 年近くが経ちました。新しい時代にふさわしい憲法のあり方につい
ての議論が、積極的に行われています。与野党において議論が深められ、方向性がしっか
り出てくることを願っております。まず、日本国憲法の改正手続きに関する法律案の早期
成立を期待します。」
安倍は小泉前首相の靖国参拝問題のために途絶えていた中国、韓国への訪問を表明し、
2006 年 10 月に中国・北京で胡錦濤国家主席と会談した。翌日には、盧武鉉大統領と会談す
べく韓国・ソウルに入り、小泉政権下で冷却化していた日中・日韓関係の改善を目指した。
北朝鮮が核実験を実施したことに対しては「日本の安全保障に対する重大な挑戦である」
として非難声明を発するとともに、国連の制裁決議とは別に、より厳しい経済制裁措置を
実施した。
2006 年 12 月には、懸案だった教育基本法改正と防衛庁の省昇格を実現した。2007 年 3
月の安倍の慰安婦発言が「二枚舌」と欧米のマスコミから非難されたが、4 月下旬には米国
を初訪問し、小泉政権に引き続き日米関係が強固なものであることをアピールした。
また消えた年金記録問題が大きく浮上し、6 月当初の内閣支持率は小泉政権以来最低にな
ったことがメディアで大きく報じられた。7 月 29 日の第 21 回参議院議員通常選挙では、
「年金問題」の早期解決を約束し、
「野党に改革はできない、責任政党である自民党にこそ
改革の実行力がある」とこれまでの実績を訴えたが、結果は 37 議席と連立を組む公明党の
9 議席を合わせても過半数を大きく下回る歴史的大敗を喫した。安倍は選挙結果の大勢が判
明した時点で総理続投を表明し、内外から続投に対する批判が出た。
630
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
選挙結果や批判を受け、8 月 27 日に内閣改造、党役員人事に着手した。ところが組閣直
後から再び閣僚の不祥事が続き、安倍内閣は求心力を失っていった。9 月上旬にオーストラ
リア・シドニーで開催された APEC(アジア太平洋経済協力会議)の前後から、体調を崩し、
APEC の諸行事に出席できない状況となり、晩餐会前の演奏会を欠席した。
2007 年 9 月 10 日に第 168 回国会が開催され、安倍は所信表明演説の中で「職責を全うす
る」という趣旨の決意を表明したが、9 月 12 日午後 2 時、
「内閣総理大臣及び自由民主党総
裁を辞する」と退陣を表明する記者会見を行った。これにより同日予定されていた衆議院
本会議の代表質問は中止となった。退陣表明の翌日(9 月 13 日)
、慶應義塾大学病院に入院
した。検査の結果、胃腸機能異常の所見が見られ、かなりの衰弱状態にあると医師団が発
表した。9 月 25 日、安倍内閣は総辞職した。第 1 次安倍内閣の在職日数は 366 日であった。
結局、安倍はこの第 1 次内閣では憲法改正問題については、為すところなく終わってし
まった。
安倍は憲法改正問題を忘れていたわけではなかった。予定通り進めるつもりであったが、
前述したようなことで予想外に短命に終わってしまったのである。その証拠に安倍は憲法
改正への布石は打っていた。それが安倍総理の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構
築に関する懇談会(安保法制懇)」の設置だった。
2007 年 4 月に首相決裁で安保法制懇の設置を決定し、5 月 18 日に第 1 回会議が開催され
た。懇談会では有識者メンバーの中から首相が外務省条約局長や外務事務次官を歴任した
柳井俊二元駐米大使を座長に指名し、事務は内閣官房長官が掌理し、内閣官房において処
理するとした。懇談会は 2007 年 8 月 30 日の第 5 回会議まで開催されたのち、9 月の総理辞
任で中断してしまった。
(続く福田康夫内閣は懇談会の必要性を認めなかった。このように自民党の中でも憲法改
正は安倍の個人的な「執念」であったことがわかる。発注主がいなくなった懇談会は、2008
年 6 月に座長柳井俊二の名で報告書をまとめたが、
「(憲法 9 条の)国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使を「国際紛争を解決する手段としては、永久に放棄する」
ものであって、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障への
参加を禁ずるものではないと読むのが素直な文理解釈であろう」と述べるに留まってい
た。
)
◇安倍政治復活のテコとなった創生「日本」
その後、入院していた慶應義塾大学病院から仮退院し、東京・富ヶ谷の私邸で自宅療養
に入った。2007 年 11 月 13 日に新テロ特措法案の採決を行う衆議院本会議には「這ってで
も出たい」と出席し、白票(賛成票)を投じた。後の記者会見において安倍前首相は「回
復しました」と元気な様子を見せた。
中川昭一が急死し、
「真・
2008 年以降は政治活動を徐々に本格化させた。
2009 年 10 月 4 日、
保守政策研究会」会長の座が開いてしまった。かつて 80 人近くいた会のメンバーも、45 人
631
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ほどまでに減っていた。安倍は中川の遺志を継いで、会長に就任した。安倍は研究会の名
前を創生「日本」に変更した。
2010 年 2 月 5 日、36 人が出席した総会で、改称を決定し、運動方針を採択した。
「永住
外国人地方参政権」や「選択的夫婦別姓制度」などへの反対、
「社会主義的・全体主義的体
、さらに安倍が掲げる「戦
質をむき出しにした民主党政権から、1 日も早く政権を奪還する」
後レジームからの脱却」も書き加えられていた。
創生「日本」は、様々な講師を呼んで、勉強会を開いた。重点を置いたのは、経済再生、
安全保障、外交、教育の諸問題であった。地方の賛同者をも含めて、総会を開いた。街頭
演説もした。まるで、政党のような活動を始めた。この創生「日本」は、安倍が会長にな
ってから、行動する集団へ脱皮しただけでなく、安倍晋三自身が、次のステップを歩み出
したことを、宣言したことでもあった。
安倍晋三が一度目の首相(第 1 次安倍内閣)を辞めてから、尖閣列島問題などが起こっ
た。北朝鮮の再三の核実験、ミサイル発射実験が繰り返された。2011 年 3 月 11 日には東日
本大震災と福島原発事故が起き、民主党内閣の不手際が目立ち、国民の信頼を失っていっ
た。といって、野党となった谷垣総裁を擁する自民党も国民の信頼を取り戻すような改革
案が出てきそうにもなかった。
安倍晋三は「このまま日本を放っておいたら、取り返しのつかないことになる」そうい
う、居ても立ってもいられない思いが強かったという。晋三が岸信介の孫でなかったら、
自民党総裁への 2 度目の挑戦はなかっただろう。おそらく、晋三は、寝ていても岸信介が
夢に現れ、激しく叱責され続けていたのではないだろうか。
「晋三。おまえは何のために国
会議員をやっているのか。俺がおまえに託した「憲法改正」は、おまえの手で成し遂げる
のではないのか、それを成し遂げないで、のうのうと議員でいるのなら、とっとと辞めて
しまえ」と。
2012 年春、創生「日本」を設立してからほぼ 3 年の間、勉強し続けてきたことを一気に
まとめにかかった。そして、次のような中間報告をまとめた(これは、のちの第 2 次安倍
政権の政策の基本となり、次々と実行に移されていっている。安倍政権で、赤色はすでに
実施された事項、青色は次に実施されると思われる事項である。このように安倍は自民党
の一派である創生「日本」をテコに復活を果たし、第 2 次安倍内閣にその「お仲間」を取
り込み、その一派の活動方針で日本国家の改造をはじめた。まさに安倍が唱えていた日本
。
の「戦後レジームからの脱却」を図り始めたのである)
◎日本は宏遠なる歴史と伝統、素晴らしき国民性を有する国
しかし、日本はいま早急に乗りこえるべき大きな課題を抱えている。
◎まず隣国・中国の軍事的台頭による日本周辺の軍事的・外交的環境の激変。
632
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
米国は依然として最強のスーパーパワーであることは事実としても、今や力の相対化は
否めず、日本の主権と独立の確保のみならず、アジアの平和と安定のために日本の果たす
べき役割は増大している。
◎しかし、この現実を前に、日本が何らの対応もなし得なければ、日本は独立の国家たり
得ないだけでなく、
「誇りある国家」として存続し得ない。そのような現実を乗り越えるべ
く、日本は今こそ現行の憲法を基盤とする体制を見直すとともに、国家としての明確な意
志を確立することを求められている。
◎一方、日本経済はバブル崩壊以降、アジア通貨危機、IT 不況、9.11 テロ、リーマンショ
ック、東日本大震災という一連の試練に直面してきた。そのような相次ぐ困難によるもの
とはいえ、この間、日本経済が一定の足踏み状態を続けてきたのは事実である。その最大
の原因は明らかに長引くデフレであり、そのためには 1 日も早いデフレ脱却への政治の決
断と、力強い成長による財政の再建が求められる。
◎そのために、われわれに必要とされるのは、まず「戦後レジーム」を始めとしたこれま
での政治の「古く厚い壁」を打ち破る力と意志である。それこそがこれらの難問を乗りこ
え、われわれが再び新しい「日本の朝」を迎えていくために求められるものであり、われ
われに与えられた使命であるといっても過言ではない。
◎東日本大震災はわれわれ自身にも忘却されていた「日本の底力」を再認識させ、日本へ
の自信と信頼を再び甦らせた。われわれはこの「力」を再び掘り起こし、結集し、新しい
「希望の日本」を実現していく。
1,日本の誇り・確かな未来
一、皇室を中心として営まれてきた日本の歴史と伝統と精神こそ、わが日本の支柱である。
これをいよいよ確かなものとし、総力を挙げ、直面する国家的難題に立ち向かい、国民の
手による自由で強靱な「日本」の創生を目指す。
①国民の力を総結集した「
『日本』創生」の国づくり(歴史と伝統、美しい国土とふるさと、
家族、素晴らしい国民性を見直し、
「美しい国・日本」の創生を推進する)
②政策目標を同じくする政治勢力の総結集
③新憲法の制定・・・
「国のかたち」の明確化と「国家システム再構築」
④安定的な皇位継承のための皇室典範改正
一、国家隆昌の基礎は教育にある。明日の日本と人類の未来に向けて、世界をリードする
誇りある日本人の育成を目指す。
①「第二次教育再生会議」の創設と新たなる教育目標の設定・・・新教育基本法目標の徹
底と更なる充実(世界一の学力水準と規範力の養成、アイデンティティ教育、愛郷心。愛
国心涵養、家族の価値尊重)
②教育改革の更なる続行
・教育委員会制度の見直し、学校・教師に対する「第三者評価制度」創設
633
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
・教科書検定・採択制度の見直し
・教員養成・研修制度の見直し
・平成の学制改革・・・6・3・3制の見直し
・教員組合活動の適正化
③高校生、大学生への「社会奉仕活動」の義務づけ
④「世界標準」に向けた高等教育改革(大学、大学院改革)
⑤個性的人材養成のための複線的教育制度、学校選択制、飛び級等の実現
2.自主の志・強固な日本
一、自らの国を守り、すべて他国に委ねる国に国家の自立はない。日米同盟をより強固な
ものとなしつつ、これまでの抑制的・消極的な政策の見直しを行い、自らが自らの国を守
る「自主的国防体制」の確立を目指す。
①新憲法制定による自衛隊の「国防軍」化(国民の自立的意思による「主権と独立」の保
持)
②日米同盟関係の深化(集団的自衛権容認、日米戦略協議の開始、西太平洋の安全のため
の日米共同訓練の強化)
③日米同盟関係の拡大(日米豪印へのフレームの拡大強化、NATO との連携、日米の「グロ
ーバル・パートナー」化、
「アジア安定」のための安保へ)
④現行防衛力の見直しと防衛費増額(島嶼防衛力の整備等)
・・・軍事費 GDP1%枠の撤廃
⑤新たな国際環境に適合した「武器輸出禁止三原則」
「武器使用基準」の見直し
⑥領土防衛体制の確立に向けた体制整備(尖閣諸島の実効支配強化、領海警備のための自
衛隊法改正)
⑧安全保障・国土保全を要件とした「重要地域利用規制」の法制化
⑨「圧力と対話」による拉致問題、北朝鮮核開発問題の解決
3.変える政治・挑戦する政治
一、今日の政治停滞の最大の因は、
「戦後レジーム」のもとでの政治の惰性と思考停止にあ
る。
それを乗り越えるべく、一切のタブーを既成政治の壁に勇気をもって挑戦し、積極的な
「政治の意思」の回復、それを支える行政の一新をはかる。
①国民の意思により「変えられる憲法」へ・・・憲法 96 条の改正・・・第9条は既に解釈
改憲した。
②「戦略的外交」への転換(
「日本版 NSC」創設、
「普遍的価値観」に立脚する外交の推進、
独立した「情報機関」創設、
「集団的自衛権」行使容認、
「戦略的外交」推進、ODA の戦略的
活用)
・・・・安倍首相の積極的平和主義の実行か
③大震災等、非常事態に対応した「国家緊急事態体制」の整備
634
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
④「責任ある行政・効率的行政」のための統治機構改革
・官邸主導体制の強化(首相リーダーシップ強化、官邸機能強化・・・
「経済財政諮問会議」
の復活・強化、総合調整・縦割打破等への取り組み)
・財政・金融制度改革(日銀法改正、財政再建、特別会計制度見直し)
・時代に適合した各省庁業務の徹底見直し、独立行政法人等の見直し
・公務員制度改革(公務員を企画型と執行型に分け、執行型の一部を民間並みの制度とす
る。開かれた人事制度、年功序列見直し、適材適所、信賞必罰、天下り監視)
⑤国と地方の関係の抜本的見直し・・・更なる大胆な分権の推進(道州制・大都市制の見
直し、基礎的自治体の整備と強化)
⑥「機能する立法府」に向けた国会改革、選挙制度改革、「新しい自民党」への改革
4.新たな成長・希望の経済
一、成長の意欲を失った国に未来はない。国家の総力を結集し、1 日も早くデフレ脱却めざ
すとともに、日本経済が目指すべき新たな総合的経済目標を設定し、
「オールジャパン」で
競争を勝ち抜き,新たな雇用と所得を生み出す「強い経済」を再生する。
①「日本経済再生本部」の創設と「新 GDP 拡大戦略」の策定・・・アベノミクスの第 3 の
矢か
②「新 GDP 拡大戦略」に基づく国家の総力を挙げた戦略の推進・実行
・
「成長力倍増」を戦略の軸とし、1 日も早いデフレ脱却環境の醸成(円高是正策を含む量
的緩和政策等)
・・・アベノミクスの第 1 の矢か
・国内外企業に対する投資減税など、強力な投資支援地方での雇用創出(成長力の底上げ、
産業構造転換促進、企業力強化支援等)
・新たな社会インフラ投資、および雇用の創出(未来の成長基盤を創出する新たな公共投
資、および効率的防災、減災投資等)
・・・アベノミクスの第 2 の矢か
・若者の働く場の確保、および労働分配率向上のための官民連携した施策実行
・人材育成・教育のための環境整備
③以上のための「経済・社会インフラ」の抜本改革(法人引き下げ、先進的研究開発や人
材育成のための投資支援の税制、国内雇用促進のための税制、リスクマネーの供給促進、
海外収益の国内還流を目的としたインセンティブ税制、相続税・贈与税を活用した世代間
資産移転の促進等)
④成長する経済のための「資源・エネルギー戦略」の強化(新資源・エネルギーの研究開
発支援と国内及び自国経済水域内における独自資源・エネルギーの開発(メタンハイドレ
ート等)
、および海外における資源・エネルギーの安定的調達先確保)
⑤新しい電源構成の確立
・再生可能エネルギーの飛躍的拡大、原発依存からの脱却、火力発電圧縮による新たな電
源構成の実現
635
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
・蓄電池、スマートグリッド開発等、新しい電力供給構造の開拓
・国民に信用、信任される原子力規制(原子力規制委員会体制の早期確立。世界標準の新
安全基準の早期策定と全原発の再チェック)
⑥企業の国内残留支援、および海外からの投資促進(「研究開発拠点」の国内残留、国内で
の雇用維持への支援、競争力強化・
「知的財産」防衛の為の施策推進等)
二、経済成長のカギはイノベーションにある。日本が誇る人材力と技術力と文化力を再結
集し、国家と人類の「新たな課題」に挑戦し、求められる時代のニーズと「活力ある日本」
再生の期待に応える「希望の経済」を実現する。
①経済の「新フロンティア」開拓による新成長戦略の推進(ICT の更なる普及、医療・福祉
の新フロンティア、環境保全、ニュー・ツーリズム、ビジット・ジャパン、コンテンツ・
ビジネス、新エネルギー開発、スマートグリッド、パッケージ型交通・インフラ輸出、航
空宇宙等)
②人類の最先端の可能性を実現する「科学技術立国」の実現(イノベーションのための研
究開発分野の更なる充実と「世界最先端の知」へのあくなき挑戦、そのための「司令塔機
能」強化、大学・大学院・ベンチャー企業支援)
③海外からの高度人材・優良企業・よき投資の誘致
④「日本ブランド」の確立による輸出促進(クールジャパン、文化芸術輸出、安心・安全
な食、
「美しい日本」の発信)
⑤東北復興をバネとした「新たな経済モデル」への挑戦(「創造の可能性の地・東北」の復
活と創造)
⑥「フロー拡大からストック充実」の「品格ある経済」へ(百年住宅の奨励、耐久性のあ
る建造物の建設、景観重視の「美しい町づくり」
、伝統的・歴史的街並の保存維持)
5.持続可能な社会保障・安心の日本
社会保障問題が記されているが、省略する(現状維持)
。
6.元気なふるさと・美しい日本
農林水産業と公共事業のことが記されているが省略する(現状維持)
。
(以上のように、今から見ると、第 2 次安倍政権の施策は、創生「日本」の中間報告の
なかの安倍が入れた「戦後レジームからの脱却」が集中的に実施されているようで、これ
から考えると、あと 1~2 年で青色の事項も実施され、第 2 次安倍政権で実質、憲法改正が
「戦後レジームからの脱却」は完了すると思われる。第 3 次安倍政権が続けば、い
終了し、
よいよ海外進出となるだろう。
)
2012 年 6 月 10 日、超党派の保守系国会議員が集まり、創生「日本」会長の安倍晋三、た
ちあがれ日本の平沼赳夫代表、日本創新党の山田宏党首は、記者会見を開き、新グループ
「日本を救うネットワーク」
(救国ネット)を設立することを発表した。「反民主」の立場
636
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
から連携し、参院選で民主党の単独過半数獲得阻止が狙いだった。安倍が、憲法改正の第
一に挙げている「憲法第 96 条改正」でも、山田らとは考えが合った。
また、安倍晋三は,大阪維新の会とも、教育改革に力を入れることで連携するようにな
った。安倍は維新の会が制定を目指す大阪府の教育基本条例を持ち上げ、
「教育再生は、道
半ばだ。私も、同志の皆さんと頑張りたい。
(第 1 次)安倍政権で教育基本法を改正したの
に、教育現場に民意が反映されていないからだ」と述べた。
道州制導入についても、大阪維新の会は、道州制とともに大阪都構想を唱えていて、道
州制だけの推進を掲げる安倍らとは違いがあるように見えるが、地方行政をどうするか、
ということでは提携できるようだった。このように安倍は水面下で積極的に動いて、支持
を広めていった。
民主党が政権をとって 3 年、自民党は谷垣総裁のもとに政権奪権を狙っていたが、民主
党政権の不手際が目立つ 3 年であった。しかし、自民党に対する期待も(谷垣の限界もあ
って)あまり盛り上がりそうになかった(このような自民党の影で安倍は着々と地歩を広
げていった)
。2012 年 9 月には谷垣の任期満了にともなう総裁選が迫ってきた。
2012 年 9 月 5 日には、政治評論家・三宅久之を代表発起人とする「安倍晋三総理大臣を
求める民間人有志の会」が緊急声明を発表した。同じく 9 月 5 日、自民党本部で安倍の勉
強会「新経済成長戦略勉強会」の設立総会が開かれた。安倍を代表世話人とし、合計 67 人
が出席した。そのうち、国会議員 50 人、17 人が代理での出席だった。
9 月 10 日、再選出馬の意向を表明していた谷垣総裁が一転、出馬断念に追い込まれた。
高村と麻生は話し合って安倍支持を決めた。俄然、安倍有利になった。
9 月 12 日、安倍は、出馬を表明した。それは、奇しくも 5 年前に安倍が辞任表明したの
と同じ日であった。
2012 年 9 月 26 日に行われた自民党総裁選には、結果的には、安倍晋三、石破茂、石原伸
晃、町村信孝、林芳正の 5 人が立候補した。
安倍晋三は、当初は、清和会が分裂選挙を余儀なくされたことや 5 年前の首相辞任の経
緯に対するマイナスイメージから党員人気が高かった石破茂、党内重鎮からの支援を受け
ての出馬となった石原伸晃の後塵を拝していると見られていた。しかし、麻生派、高村派
が早々と安倍支持を表明したことなどが追い風となり、9 月 26 日に行われた総裁選挙の 1
回目の投票で 2 位に食い込むと、決戦投票では、1 回目の投票で 1 位となっていた石破を逆
転した。
石破の 89 票に対し 108 票を得て、総裁に選出された。一度辞任した総裁が間を挟んで再
選されるのは自民党史上初、決選投票での逆転は 1956 年 12 月自由民主党総裁選挙以来と
なった。
◇第 2 次安倍内閣
安倍晋三が自民党総裁となり、2012 年 12 月 16 日の第 46 回衆議院議員総選挙で自民党が
294 議席を獲得して圧勝、政権与党に復帰した(自民党の公約が国民の圧倒的な支持を受け
637
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たというわけではなく、その前の民主党政権の頼りなさに国民はイライラしていた。もち
ろん、自民党員でも「集団的自衛権の行使容認」など考えてもいなかった。安倍は「集団
的自衛権隠し」で圧倒的支持を得た)
。安倍は同年 12 月 26 日に第 96 代内閣総理大臣に選
出され、第 2 次安倍内閣が発足した。1 度辞任した内閣総理大臣の再就任は、戦後では吉田
茂以来 2 人目であった。
2013 年 1 月 30 日、安倍首相は衆院本会議で始まった各党代表質問で、「憲法改正」につ
いて触れ、こう答えた。
「まずは、多くの党派が主張している 96 条の改正に取り組む」と改憲発議の緩和から着
手する考えを示した。つまり、憲法第 96 条で、3 分の 2 となっているところを 2 分の 1 に
変えて、憲法改正をやりやすくしようというのである。
いってみれば、憲法を普通の法律などの場合と同じように、改廃が容易になるようにし
ようというのである(これは問題である。憲法は法律などの上に立つものであり、慎重の
上にも慎重にされるべきであろう。憲法を法律並みに扱っている国は先進国の中でも多く
はない。このような発想がもともと出てくるところに、安倍の憲法、民主政治の歴史に対
する無理解・無責任さが現れている)
。
その前段階として、内閣法制局の法解釈の変更も考えられた。国際情勢などの変化で従
来の解釈が通用しないような事態が起きた場合には、内閣の責任で解釈を変えることは可
能であるという説があった。しかし、安倍首相はこの件に関しても、慎重な姿勢を崩して
いなかった。「いきなり法解釈を変えるのはハードルが高い。国民も心配するだろう」と。
このように、改憲問題にどのような方法で取り組むべきか模索していた安倍総理は、第 1
次安倍内閣のときに設置された安保法制懇を再開し、この懇談会を使って検討してもらい、
その中で少しずつ段階を経ながら進めるようにする方針だと言っていた。
第 2 次安倍内閣は、
2012 年 12 月に内閣発足してから 3 ヶ月、支持率は上がり続けていた。
共同通信の世論調査によれば、発足時の 62%が、2 月終わりには 72.8%と 10%超の伸びを
示した。安部首相が提唱するアベノミクス、中国・韓国への外交姿勢など、安倍首相のリ
ーダーシップが評価された結果だろうと見られていた。
高い支持率を得た安倍首相は、(内心)今度は「憲法改正」をどうしてもやりたかった。
安倍首相は、憲法の改正の発議を、各議院の総議員の 3 分の 2 以上の賛成と規定する憲法
第 96 条の改正からはじめることに決心した。
2013 年 3 月 9 日、安倍首相は、菅 義偉(すが よしひで)官房長官とともに、日本維新
の会国会議員団の中田宏政調会長代理、山田宏筆頭副幹事長と、都内のホテルで会談した。
憲法改正の要件緩和に向けた憲法第 96 条の改正、次の参院選後の連携などについて意見交
換した。後は、この高い支持率を維持して憲法改正に、とにかく慎重に、そして、したた
かにいくという方針だった。
このように憲法改正問題については、今度は安倍首相は、第 2 次安倍内閣発足時からス
タートダッシュをかけた。たぶん、短命で終わった第 1 次安倍内閣のことがあったからで
638
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
あろう。その後も、非常にテンポよく政権運営を続けていった。最大の理由は、アベノミ
クスが適中して、株が急上昇していることであった。
2013 年 3 月 21 日、安倍首相は、参院山口選挙区補欠選挙の前、就任後初めて地元・山口
県に入り、西端の下関市から東端の岩国市まで 180 キロを駆け抜けたが、長州での「安倍
旋風」のすさまじさは想像以上だった。7 月に行われる参議院選挙の本番で「憲法改正」を
争点化したい安倍首相は、この日の演説でも、勢いそのままに憲法改正要件を定めた 96 条
改正に踏み込んだ。
「私は第 96 代首相だが、憲法 96 条を変えたい。反対する国会議員が 3
分の 1 を超えれば、国民は憲法に指一本触れることができない。憲法を国民の手に取り戻
すことから始めたい」と。
さらに、「憲法改正」については、総理を務めた大叔父と祖父の名を挙げ、
「佐藤栄作総
理も岸信介総理も挑んだけど、できなかった。私たちが新しい時代を切り開きたい」と故
郷入りで安倍はその決意を固めた。
《第 1 次安倍内閣の轍は踏まない》
今度の第 2 次安倍内閣は第 1 次安倍内閣の失敗を参考に、安倍とその側近は徹底的に研
究をしていた。作戦計画は前述した 3 年間勉強した創生「日本」の報告書だった。その合
い言葉は、第 1 次安倍内閣の轍は踏まないである。
安倍は第 1 次政権のときの試練で人間的な幅が出てきた。小選挙区制時代の自民党議員
の生態もよくわかるようになってきた。日本は小選挙区になって、大分経ったが、かなり
政治の様相が変わってしまった。予想通り、オセロゲームのようにクルクル選挙のたびに、
政権が変わるようになった。自民党は、小泉内閣のときは「郵政選挙」で大勝したが、その
後、大敗してとうとう民主党に政権を奪われてしまった。はじめて政権の座についた民主
党は初歩的なミスを重ねて国民の信頼を失い、自民党の大勝で政権を 3 年ばかりで明け渡
してしまった。
自民党も派閥があってないようになり、選挙公認と選挙資金を出す総裁とその側近グル
ープが絶対的な力を持つようになった。小選挙区では公認なしでは戦えないので、総理総
裁に文句をいうやつは、次回公認しなければよいから(小泉の郵政解散では、党の方針に
反対した者は、公認されないどころか、選挙区に刺客議員まで送り込まれて落とされた)、
自民党総裁の権力は絶対的になっていった。安倍とその側近は、この自民党の変質を見逃
さなかった。
(戦後、日本は民主主義になったといえども、政治がけっして民主的に行われていたとは
いえなかった。
『55 年体制』以後の大部分の期間、日本の政権を担っていた自由民主党は、
派閥のボスが日本の総理総裁となり、実質、日本の政治を行っていた。どの程度の議員を
おさえれば、総理総裁になれたか。たとえば、田中角栄のころには(1974 年ごろ)、当時、
自民党には 8 個師団といわれる派閥があって、まず、(国会議員の選挙で)国会議員の 2 分
の 1 をとれば、与党政権党となれる、そして、与党の 2 分の 1 を握れば、主流派となれる、
そして主流派になるため、いくつかの派閥が連合を組む(角栄のときは田中派と大平派な
639
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
どが連合を組んで主流となったのであるが)ということで、結局、1/2×1/2×1/2=1/8 、
つまり、12.5%で総理総裁になれると公言していた。つまり、民主国家といえども、案外、
少数のグループが実権を握っているということである。
しかし、この自民党と野党(社会党、公明党、共産党など)の比率、自民党内の主流派・
反主流派などの比率などの兼ね合いが、選挙のたびに変わり、あまり、無理をする内閣は
次の選挙では交代となり、長い目ででみると、案外、大数の法則の通り、日本の政治は現
実的な道を選んできたことがわかる。
しかし、田中角栄のときは、中選挙区制度であったから、反主流派も存在できたが、現
在では前述したように、小選挙区制度になり、総裁が次の選挙の公認権と資金を握るよう
になってから、
“総理総裁”の 4 年間の独裁が可能となってきたのである。日本では「解散
は総理の専権事項」といわれており、一旦政権を担ったら、どんなことがあっても(どんな
政治をおこなっても)総理が解散をしなければ、4 年間、その総理の独裁が可能となったの
である(もっとも自民党総裁は 3 年ごとの党員の選挙で選ばれるのでこれに勝てばの離し
であるが)
。アメリカなどでは、「ウォーターゲート事件」のときニクソン大統領のように絶
大なる権力者であっても、問題があったときには弾劾裁判によってやめさせる仕組みがあ
る(ニクソンは弾劾裁判になる前に辞任したが。現在の日本にはそのよう仕組みがない)。
さて、第 2 安倍内閣になってからの安倍は批判が出ても、どんなことを言われても、聞
き流すだけの度量もできた。どんなことを言われても、聞き流していても、こっちがやろ
うとしたことをやればいいんだから、権力はこちらにあるんだから、という権力者として
の要領もわかってきた。その証拠に、安倍が突然、
「集団的自衛権容認」を閣議決定で決め
ても、文句をいうものがほとんどいない「顔の見えない自民党」になってしまっていた。
また、いったん、お仲間にしたものは、どんなことがあっても、安倍は守ると決心して
いる。第 1 次のように一度、仲間を切ると次々とやり込められ、結局、そこから崩壊して
しまうことが分かったから。
今度も日銀総裁、内閣法制局長官、NHK の経営委員人事、その他その職務に相応しい人物
であるかどうか慎重に検討されていないとか、そのような組織が持つべき独立性を考慮す
ることなく、自分と同じ意見のいわゆる「お友達」を指名しているとか言われたが、耐え
忍んできた。すべて「憲法改正」のためである。
そのように、今度は安倍から絶対的信頼を得ている側近グループと安倍は、手順として
アベノミクスで盛り上げる、アメリカの大統領と一緒で景気が良い限り支持率は落ちない、
このアベノミクスがどれだけ続くか、その間に消費税を 8%、10%にもっていかねばならな
いので多分、1 年半や 2 年ぐらいが限度であろう(その後、安倍は 8%から 10%にもっとい
く時期をずらして、アベノミクスの寿命を長引かせているが)。
その間に、やれるところから「戦後レジームからの脱却」をどんどん進めること―これ
が大方針である。その間、安倍は千両役者として国民の支持率アップのために存分に動き
回る。とにかく、国民が安倍の姿を毎日見れば支持率はさがることはない。各省庁に何で
640
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
もいいから、総理が各国へ外遊する理由を持ってこい、官房の方で時期を見計らって、総
理を外遊させるから。
外遊すれば、記者団がついてまわり、毎日茶の間に安倍の微笑が届けられる。こうして
「異次元」の安倍外遊が進行している(2014 年 11 月に解散したときには 50 ヶ国になって
いた)。安倍の側近は、外遊、国会の合間にも、安倍のテレビ露出を狙って、休ませない。
各省庁に「安倍総理が訪問する先のリストをまえびろに出しておけ。被災地見舞い、安倍
が先端技術に理解があるようにする先端技術の研究所、安倍のウンチク力が発揮できる農
林水産業、中小企業も」ということで、アベノミクスと安倍の露出度を途切れることなく
高めて、安倍の支持率の高さを保つことが至上命令となっている。
そのアベノミクスとはなにか。実は国民は忘れてしまっているが、アベノミクスという
言葉は、第 1 次安倍内閣(2006 年 9 月~2007 年 8 月)において安倍政権の経済政策の総称
として命名されていた。当初の「
(第1次)アベノミクス」とは財政支出を削減し公共投資
を縮小させ、規制緩和によって成長力が高まることを狙った「小泉構造改革」路線の継承
を意味するものであった(当時の中川秀直幹事長などがメディアに売り込んでいたとされ
る)
。この第 1 次安倍内閣では(第 1 次)アベノミクスという言葉は、実態がなかったので
普及しなかったが(安倍が経済通とは誰も思わなかった)、第 2 次安倍内閣の(第 2 次)ア
ベノミクスとは基本的なスタンスが違っていたのである(正反対であった)
。
第 2 次安倍内閣においても、アベノミクスは、安倍晋三が掲げた、一連の経済政策に対
して与えられた通称(自称)であった。つまり、アベノミクスとは、中身はどうでもよか
ったのである。とにかく、安倍がやる経済政策という意味で、安倍が経済通である見せか
けのためにだけ付けられたものであった(1980 年代のレーガン大統領のレーガノミクス、
サッチャー首相のサッチャリズムの向こうを張った自称である)
。
安倍はもう一度、政権に復帰して「戦後レジームからの脱却」をはかるためには、この
不人気な政策を初めから出したのでは国民からの人気が落ちることはわかっていたので、
経済浮揚をはかること、これを先に出して成功しなければならないと考えたのである。
それにはバブル崩壊後、20 年も続いている日本のデフレ、これを誰もどうすることもで
きなかったが、安倍は、これをぴっくとでも動かす何かが欲しかった。そこで安倍は、ま
ず、この経済を短期間でも動かす理屈が欲しかった。創生「日本」の勉強会でも、いろい
ろな話を聞いたが、とにかく、経済が少しでも動くかもしれないと採用したのが「異次元」
の金融緩和策であった。安倍はこれに飛びついた。
2013 年 3 月 20 日、黒田東彦を日銀総裁に決定した。
2013 年 4 月 4 日、日銀新総裁下の最初の日銀金融政策決定会合があった。
ここで決定されたことは、①国債購入対象を拡大し、大量に日銀が国債を買う。長期国
債の保有額を 2 年間で倍増させる、②上場投資信託を年間 1 兆円購入していく、であった。
また、上場不動産投資信託を年間 300 億円購入するというものであった(その後、これら
の政策は「異次元」になるまで拡大されたが)。
641
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
しかし、結果は貨幣供給量は激増したが、
(日銀が各銀行が持っている国債を買い上げた)
その金の大部分は日銀にある各銀行の当座預金の増加となっているのである。それが引き
出され企業に融資されて設備投資となるほど、実体経済の活性化をもたらすものにはほと
んどなっていない(なるはずはない。第 3 の矢といわれる産業構造的な施策を何もやって
いなのだから)
。せいぜい日銀に売った国債の代わりに新規国債を買うぐらいである。
国内で投資先がないと、その資金が海外に出るはずであるが(かつてはそうだった)
、ア
メリカも不況対策といって(リーマンショック後)通貨供給量を増やしゼロ金利政策を行
っており、イギリスも同様、ユーロもゼロ金利政策に入ろうとしているからである。つま
り、日銀の貨幣供給量の増加は海外に出ず、日銀にある当座預金勘定に積み上がっている
のである。これは黒田日銀総裁の前の白川総裁のときと全く同じであるが、当座預金勘定
の金額が量的にそれ以前と「異次元」に増えている。
アベノミクスがやったのは、それだけであるが、それにしては株価が上がり、円安が進
んだ。株はアベノミクスと関係なく、政策を決定する数ヶ月以前、黒田総裁が就任するは
るか以前から株価の上昇は起こっていた(リーマンショックの大暴落からの回復がはじま
っていた。アベノミクスのないアメリカなどの外国も同じであった)
。しかし、因果関係は
なくても、景気や株はみんながいいと思えば上がることがあるから、アベノミクスが云々
されはじめると、それまで上がり始めていた株が加速されていったのである(それはせい
ぜい 1 年半とか 2 年が限度があるが)
。
日本の株式事情は、事業会社の相互持合いが多く、これはほとんど動かない。その他は
外国人 25%、個人 20%、保険会社・投信 10%で、これが動く。そこで日本の株価は主とし
て外国人筋の動きで決まる。2012 年 10 月から海外の投資家の行動が変わって、海外買い越
しになっていた。つまり、11 月から政権交代と関係なく始まっていた。それがアベノミク
スのかけ声で加速されたのであろう。それに、実際公共事業費も大幅に増えた(これは第 2
の矢といわれた。その分、アベノミクスは国債の積み上げも加速し、1000 兆円を超えた。
安倍になってから 40 兆円は積み増しした)
。これで一時的に景気がよくならなければ、ア
ベノミクスとはいったいなんであるか。安倍内閣は古い体質の公共事業も「異次元」ほど
とはいわないが、大幅に増やしているし、復興事業費も多額に出ているので株価は当然上
がる。
円安になった要因は、主として為替介入であるといわれている。介入―それによる短期
国債の大量発行―その回収―セットオフのための金融大緩和、こうした一連の政策の輪が
安倍首相があずかり知らないところで進行したのである。
内容はともあれ、安倍首相以下、自画自賛するので、ある期間はそれにつられて経済全
体はよくなることもあるだろう(外人も買いをいれるだろう)。安倍首相自身は 2013 年 9
月 26 日にニューヨーク証券取引所での講演で「Buy my Abenomics(アベノミクスは『買い』
だ)
」と述べている。また、同年 12 月 30 日の東京証券取引所の大納会の場でも、
「来年も
642
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アベノミクスは買い」と述べた(これほど「口介入」した総理はいなかった。よほど安倍
はアベノミクスのボロが出るのを気にしていたと見える)。
アベノミクスは金融・財政政策だけではない。第 3 の矢といわれる成長戦略をあわせて
安倍首相はそれを「三本の矢」と表現していた。成長戦略は、いろいろ言われているし、
たびたび安倍首相から発表されているが、結論から言うとあまり有効なものはなかった。
2014 年 6 月 30 日、安倍はフィナンシャル・タイムズ誌に、
「私の『第 3 の矢』は日本経済
の悪魔を倒す」と題した論文を寄稿し、経済再建なしに財政健全化はあり得ないと述べ、
日本経済の構造改革を断行する考えを表明している。
改革の例として、法人税の引き下げ(2014 年に 2.4%引き下げ、数年で 35%から 20%台に
引き下げるという、しかし、財源の目途がない)
、規制の撤廃、エネルギー・農業・医療分
野の外資への開放、働く母親のために家事を担う外国人労働者の雇用、を挙げている。最
近は「輝く女性」を上げている。バブル崩壊後、年変わりとなった内閣が年変わりに作っ
た成長戦略の焼き直しに過ぎない。また、2014 年 4 月の消費税増税については「影響は限
定的である」と述べているが、はたしてどうか(結局、アベノミクスが減速しないように
消費税を 8%から 10%へ増税する時期を 1 年半ずらし、アベノミクスの延命をはかってい
る。「輝く女性」もアベノミクスも色あせたので 2015 年後半からは「1 億総活躍社会」に看板
をかけかえて、「今度は本当の憲法改正」であるが再び改憲隠しをして 2016 年夏の参議院選
3 分の 2(公明党を含め)獲得をめざしている)
。
いずれにしても、アベノミクスで一時的にも経済が浮揚している限りは安倍内閣の支持
率は低くならない、これが失速する前に「戦後レジームからの脱却」をやれるものはみん
なやるという方針で安倍とそのお仲間はいっせいに動き始めた。
《一気に戦後レジームからの脱却をはかる安倍内閣》
安倍総理にやれと言われると官僚は自分の首がおしいから、先がどうなるか、日本全体
がどうなるかを考えずにそれにしたがう。今度は「秘密保護法」をむりやり通す、今度は「武
器輸出」を通す、その場、その場で抵抗はあるが、各個攻撃で落とされ、「人の噂も・・・
で」で忘れさられ、図 119(図 18-212)のように、安倍内閣は着々と戦後レジームからの
脱却に成果をあげていっている(赤字はすでに実行、青字は今後予想されること)
。
安倍内閣は、2013 年 6 月には各省幹部の交代をさせた(民主党時代からの各省次官は就
任から 1 年ほどだったがほとんど退任させられた)
。注目の内閣法制局長官に、通例であっ
た内閣法制次長からの昇格ではなく、集団的自衛権行使が合憲との立場をとる外交官の小
松一郎を就任させた。
2013 年 6 月 7 日、日本政府は国家安全保障会議(NSC)を創設するための関連法案(安全
保障会議設置法等の一部を改正する法律案)を決定した(この日本の NSC は、アメリカの
NSC の摸倣である)。同年秋の第 185 回国会に法案が提出・可決され、それに伴い、同年
12 月 4 日に安全保障会議が国家安全保障会議に再編され、翌 2014 年 1 月 7 日には国家安全
保障会議の事務局である国家安全保障局が発足した。
643
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 119(図 18-212) 戦後レジームからの脱却をはかる安倍内閣
国家安全保障会議(NSC)は内閣に設置され、国家安全保障の重要事項を審議する機関で
あり(国家安全保障会議設置法 1 条)、首相の政策決定や政治的決断をサポートする。内閣
総理大臣は以下のことについて国家安全保障会議に諮らなければならない。また、武力攻
撃事態等、周辺事態及び重大緊急事態に関し、特に緊急に対処する必要があるときは必要
な措置について内閣総理大臣に建議することができる(国家安全保障会議設置法 2 条)。
・国防の基本方針
・防衛計画の大綱
・防衛計画に関連する産業等の調整計画の大綱
・武力攻撃事態等への対処に関する基本的な方針
・武力攻撃事態等への対処に関する重要事項
・周辺事態への対処に関する重要事項
・自衛隊法第 3 条第 2 項第 2 号の自衛隊の活動に関する重要事項
644
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
・その他国防に関する重要事項
・国家安全保障に関する外交政策及、防衛政策の基本方針並びにこれらの政策に関する
重要事項
・その他国家安全保障に関する外交政策及び防衛政策の基本方針並びにこれらの政策に
関する重要事項
国家安全保障会議の組織は会議と事務組織から構成される。会議は議長と議員によって
構成され(国家安全保障会議設置法 3 条)、議長は内閣総理大臣、議員は、内閣法第九条
の第一順位指定大臣(副総理)、総務大臣、外務大臣、財務大臣、経済産業大臣、国土交
通大臣、防衛大臣、内閣官房長官、国家公安委員会委員長よりなる。
2014 年 1 月 7 日に国家安全保障局が 67 人体制で発足した。初代局長には外交官出身で内
閣官房参与を務める谷内正太郎が就任した。局長の下に防衛省と外務省出身の内閣官房副
長官補が兼任する 2 人の局次長と、同省出身の 3 人の審議官が配置された。
2013 年 10 月 25 日、安倍内閣は「特定秘密の保護に関する法律」(特定秘密保護法)の
法案を安全保障会議の了承を経たうえで閣議決定し、第 185 回国会に提出・可決し同年 12
月 13 日に公布した。公布から 1 年以内に施行されることになっている(同法附則第 1 条)。
この法律は、日本の安全保障に関する情報のうち「特に秘匿することが必要であるもの」
を「特定秘密」として指定し、取扱者の適正評価の実施や漏洩した場合の罰則などを定め
た法律である。
つぎに手がけたのは「武器輸出三原則」である。2013 年 3 月 1 日、政府は菅官房長官談
話を発表し、日本が製造する部品の輸出を「武器輸出三原則」の例外として認める方針を示
した。世論は靜かであった。通常であれば、大きな国民的議論に発展し、国会でも相当な
議論となるはずであるのに音沙汰ない。
1967 年 4 月に、当時の佐藤栄作首相が衆議院決算委員会で「共産圏」
「国連決議で武器禁
輸になっている国」
「国際紛争の当事国あるいはその恐れのある国」に対する武器輸出は輸
出貿易管理令で承認しない、と答弁した。
また、1976 年 2 月、三木武夫首相が、衆議院予算委員会で「三原則地域への輸出を認め
ない」
「それ以外の地域への輸出も慎む」
「武器製造関連設備の輸出も武器に準じて扱う」
との方針を表明した。これらの武器輸出の自粛政策は貿易管理令で厳しく管理され守られ
てきた。
確かによその国はみんな武器輸出をしていた。しかし、日本は平和国家のあかしとして、
平和憲法の趣旨を具体的な国家行為に反映したのが武器輸出禁止で、安倍総理の大叔父で
ある佐藤栄作首相などが、日本の誇りある国策として考え実行し、その後の代々の首相も
守ってきたことである。
武器輸出しているダントツはアメリカであり、ロシア、中国である。彼らはテロ戦争を
防止するといいながら、裏では武器輸出して稼いでいるのである。マッチ・ポンプみたい
なところがある。ますます増えてくるテロ戦争を防ぐには厳格な武器輸出管理しか方法が
645
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ない。まさに日本が数十年の実績をもとに音頭をとって国連で武器輸出禁止(管理)制度
を提案すれば、大部分の国は賛成するだろう。
この日本が持つ希有な実績に思いいたすこともなく、歴代日本政府がとってきた平和外
交の手段に思いいたすこともなく、この戦後レジーム脱却グループはいとも簡単に「武器
輸出三原則」を捨てさってしまった。
このようにして、戦後、日本が築いてきた誇るべき制度、つまり、図 119(図 18-212)
の戦後レジームといわれる政策がインベーダーゲームの標的のように、次々と打ち落とさ
れている。日本国民ははたして、このような事実を知っているのだろうか。各個攻撃され
ると官僚組織は弱い。官邸を抑えた安倍進駐軍は戦後レジーム、日本の誇るべき制度を今
日も破壊し続けている。国民にまったく説明することなく。
◇集団的自衛権の行使を容認する閣議決定
そして冒頭に返るが、安倍総理が「集団的自衛権の行使の容認」をついに閣議決定でや
ってしまったのである。前述したように、安倍首相は、最初は憲法第 96 条の改正で、憲法
改正の敷居を下げて(3 分の 2 ではなく 2 分の 1 に下げて)
「憲法改正」をするだろうと思
われていた。野党もバラバラでもう憲法改正はときの流れだというムードもあった。とこ
ろが、憲法と法律とを同じという法学者がいるはずはなく、裏口入学、卑怯なやり方など
の批判が高まった。
そこで、第 2 次安倍内閣になり再開していた安保法制懇だけで何とかやってしまおうと
なったようである。前述したように第 1 次安倍内閣で中断された懇談会は中途半端な報告
書をまとめて終わっていたが、2013 年 7 月に懇談会は再開され、(安倍の強力な根回しが
あったようで)一転して集団的自衛権の容認の方向に傾いていった。座長柳井は「今まで
の政府見解は狭すぎて、憲法が禁止していないことまで自制している」「集団的自衛権の
行使は憲法上許されている。国連の集団安全保障への参加は日本の責務だ」と述べて、2014
年 5 月 15 日、内閣に対して“集団的自衛権の行使は認められるべきだ”とする報告書を提
出した。
安倍首相は 2014 年 5 月 15 日に安保法制懇の報告書を受けとると、近く閣議決定で集団
的自衛権を容認すると決めてしまうと言い出した。
しかし、戦後、70 年近く日本の安全保障問題は内政の最重要課題であり、そして、その
議論の中心は憲法第 9 条であり、戦後の大部分の期間、政権を担ってきた自由民主党は憲
法改正を党是としてきたが、何度も憲法調査会で議論し、慎重にことを進めようとしてい
たのだから、そんなに急に閣議決定で事を決することができるとは誰も考えていなかった。
6 月になると、日本の集団的自衛権の問題では、簡単に与党・公明党が同意しそうにもな
いので、多分秋になるだろうという記事が新聞に出ると、外遊から帰った安倍首相が(ネジ
を巻きなおしたようで)この国会開けまでには話をつけろとなったようである。
石破茂幹事長は憲法改正はそれなりに段階を踏んで行うべきことであるという考えを持
っていたようである。それが当然であろう。ところが安倍首相は公明党との交渉役を石破
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
幹事長から高村副総裁に替えて交渉させた。そして何があったかよくわからないが、話が
ついて、一気に 7 月 1 日には閣議決定されてしまった。前述した『集団的自衛権の行使を
容認する閣議決定』である。
◇安部内閣の集団的自衛権の行使を容認する閣議決定
集団的自衛権は、国連憲章の第 51 条に記載された権利であり国連加盟国において認めら
れた権利である。しかし日本では日本政府が日本国憲法第 9 条により行使できないと解釈
してきたが、安倍内閣では 2014 年 7 月 1 日に憲法解釈を変更し、集団的自衛権を行使でき
るという閣議決定をした。
国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」が登場してきた経緯とその問題点(形骸化された国連
の安全保障制度)は、本書の第 10 章の【2】人類の戦争防止の機構―国際連合の設立で述
べた。そして、日本が戦後、この問題にどう取り組んできたかは、本書の第 10 章の【3】
国連設立の趣旨を戦後 70 年堅持した日本国憲法で述べたので繰り返さない。
さて、そこで安倍政権の 7 月 1 日の閣議決定の重要点を抜粋すると、以下のようになる
(筆者が後で意見を述べるために、下線を引いて赤丸の番号を入れている)
。
国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について
平成 26 年 7 月 1 日 国家安全保障会議決定 閣議決定
我が国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、
他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持し
つつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築い
てきた。また、我が国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を遵守しながら、国
際社会や国際連合を始めとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。
こうした我が国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得て
きており、これをより確固たるものにしなければならない。
一方、日本国憲法の施行から 67 年となる今日までの間に、我が国を取り巻く安全保障環
境は根本的に変容するとともに、更に変化し続け、我が国は複雑かつ重大な国家安全保障
上の課題に直面している。国際連合憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍」は
実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバ
ルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発
及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出さ
れるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な
影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間
に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、
どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、我が国がその国力にふさ
わしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
政府の最も重要な責務は、我が国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、
国民の命を守ることである。我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府として
の責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、
安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国
際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らな
ければならない。
さらに、我が国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互
協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼及び協力関係を深めることが重要
である。特に、我が国の安全及びアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障
体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に
回避し、我が国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかな
る事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義
に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献
するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。
5 月 15 日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同
日に安倍内閣総理大臣が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党におい
て協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府と
して、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法
制を速やかに整備することとする。
1.武力攻撃に至らない侵害への対処(略)
2.国際社会の平和と安定への一層の貢献(略)
(1)いわゆる後方支援と「武力の行使との一体化」
(2)国際的な平和協力活動に伴う武器使用
3.憲法第 9 条の下で許容される自衛の措置
(1)我が国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と
平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応が
できないおそれがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲
法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解におけ
る憲法第 9 条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための
論理的な帰結を導く必要がある。①
(2)憲法第 9 条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じてい
るように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第 13 条が「生
命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定め
ている趣旨を踏まえて考えると、憲法第 9 条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、そ
の存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。
②
一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸
648
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利
を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小
限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第 9 条の下で例外的に許容される「武
力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な
論理であり、昭和 47 年 10 月 14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集
団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。この基本的な論理は、
憲法第 9 条の下では今後とも維持されなければならない。②
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、我が国
に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、
パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国
を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他
国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我
が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。③ 我が国としては、紛争が生じた場合に
はこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解
釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法
整備などあらゆる必要な対応を採ることは当然であるが、それでもなお我が国の存立を全
うし、国民を守るために万全を期す必要がある。こうした問題意識の下に、現在の安全保
障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみなら
ず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立
が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある
場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段
がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に
基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至っ
た。③
(4)我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、国際
法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。④ 憲法上許容される上記の「武
力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行使」
には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、④ 憲法上
は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛するた
めのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。⑤
(5)また、憲法上「武力の行使」が許容されるとしても、それが国民の命と平和な暮らし
を守るためのものである以上、民主的統制の確保が求められることは当然である。政府と
しては、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武
力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動
に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することと
する。⑥
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
4.今後の国内法整備の進め方
これらの活動を自衛隊が実施するに当たっては、国家安全保障会議における審議等に基
づき、内閣として決定を行うこととする。こうした手続を含めて、実際に自衛隊が活動を
実施できるようにするためには、根拠となる国内法が必要となる。政府として、以上述べ
た基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために、あらゆる事態に切れ目のな
い対応を可能とする法案の作成作業を開始することとし、十分な検討を行い、準備ができ
次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこととする。⑦
(以上)
以上が閣議決定の抜粋であるが、もっとも重要な「集団的自衛権」に関することは、3.
憲法第 9 条の下で許容される自衛の措置に記されているので全文をのせた。
閣議決定の問題点を述べると、まず、①で、その際、政府の憲法解釈には論理的整合性
と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第 9 条の解釈の基
本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要
がある。①
法律はすべてそうであるが、とくに国の憲法は、論理的整合性と法的安定性(法的規範
性)が重要であることをあえてうたい、この憲法解釈の変更はいかにも「従来の政府見解に
おける憲法第 9 条の解釈の基本的な論理の枠内で」行うもので「論理的な帰結を導い」ている
のすぎないと、わざわざ述べて、従来の枠内でこの結論を出したと国民に思わせる導入部
である。
②において、憲法第 9 条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うする
ために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。② 憲法制定の初
期には、個別自衛権も日本は放棄しているという説もあったが、戦後 70 年近くも経った現
在では「自衛の措置を採ることを禁じている」と主張するものはほとんどいないが、ここで
は「到底解されない」と国民の同意を得る姿勢をしめしている。しかし、政府の本音は「自衛
の措置」には「集団的自衛権」をこみにした「自衛の措置」を意味している。
そして、②で「憲法第 9 条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来か
ら政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和 47 年 10 月
14 日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」
に明確に示されているところである。この基本的な論理は、憲法第 9 条の下では今後とも
維持されなければならない。」と述べて、この結論は「従来の基本的な論理」を受け継いで
出したものであると述べている。
この昭和 47 年 10 月 14 日の資料については、本書の第 10 章の【3】国連設立の趣旨を
戦後 70 年堅持した日本国憲法の中で、以下のように記している。
(日本政府の現行解釈が固まった頃、1972~81 年)
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
水口宏三議員は、1972 年 5 月 12 日の参議院内閣委員会、18 日の同委員会、9 月 14 日の
決算委員会において、政府の集団的自衛権解釈の曖昧さを追求した。72 年資料は、以下の
とおり、水口議員の求めに応じて出されたものである。
「政府は、従来から一貫して、我が国は国際法上いわゆる集団的自衛権を有していると
しても、国権の発動としてこれを行使することは、憲法の容認する自衛の措置の限界をこ
えるものであって許されないとの立場に立っている。(中略)
我が憲法の下で、武力行使を行うことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵
害に対する場合に限られるのであって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその
内容とする集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」
(第 69 回国会参議院決算委員会提
出資料、1972 年 10 月 14 日)
。
この資料のポイントは、
◎政府が集団的自衛権は国際法上我が国も有するが、憲法のレベルでは、それを実際に行
使することはできないことを明示した。
◎集団的自衛権を「海外派遣」だけでなく、包括的かつ一般的な武力行使の態様であると
捉えている。
◎集団的自衛権を保有するが、その行使は禁止されるという後の政府見解の嚆矢(こうし)
となる表現を用いている。
ことである。この答弁は、1981 年の明確な政府(中曽根内閣)公式見解につながっていく
ものであった。
(この頃は、ベトナム戦争末期であり、ベトナム戦争批判が高まっていて、集団的自衛権
の行使はベトナム戦争のような侵略戦争に加担することだと具体的に意識された)
(1981 年答弁書)
1980 年代に入り米ソ冷戦が継続する中で、わが国はアメリカとの同盟関係をさらに強固
なものにすべく、1980 年 2 月海上自衛隊のリムパック(米海軍主催の環太平洋合同演習)
初参加、1981 年 5 月シーレーン防衛の表明、1982 年 11 月に初の日米共同統合実働演習を
行った。
こうした背景の中で、1981 年 5 月の答弁書において、政府は、明確な集団的自衛権の定
義を行い、集団的自衛権は有するが行使は禁じられている旨の解釈を示した。
すなわち、
「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国
に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止す
る権利を有しているものとされる。我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有し
ていることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第 9 条の下において許容されて
いる自衛権の行使は、我が国が防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであ
ると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法
上許されないと考えている」
(第 94 回国会衆議院稲葉誠一議員提出の質問主意書に対する
答弁書、1981 年 5 月 29 日)という政府見解であった。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ここにおいて、集団的自衛権の定義は、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃
を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」であると
いう言葉で示された。すなわち、個別的自衛権拡大説を採用しつつ、集団的自衛権を説明
している。そして、集団的自衛権の行使が禁止される根拠は、憲法第 9 条全体の論理から
説明されている。
そして、
「集団的自衛権の行使を憲法上認めたいという考え方があり、それを明確にした
いということであれば、憲法改正という手段を当然とらざるを得ないと思う」(角田禮次郎
内閣法制局長官の発言、第 98 回国会衆議院予算委員会、1983 年 2 月 22 日)ということに
なった。
と記している。
さて、さきほどの閣議決定の文章であるが、③において、「他国に対して発生する武力攻
撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも
現実に起こり得る。」、
「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密
接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりイ我が国の存立が脅かされ、
国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、
これを排除し、我が国の存立を全うし、ロ国民を守るために他に適当な手段がないときに、
ハ必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛の
ための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。」と述べ
ている。
ここで「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず」、これは個別的自衛権であ
るから、
「自衛の措置として憲法上許容される」のは当然である。
しかし、筆者がイ、ロ、ハを付けた要件がすべて満たされた場合には(これらを後に新 3
要件といっている)
、
「従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、
憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」としている。
従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置は「憲法上許されない」であ
るのに、閣議決定文では「憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」と
正反対になっている。他国に対する武力攻撃が発生し、新 3 要件がついたために、日本が
集団的自衛権に基づき武力行使をする場合は大きく減るかも知れないが、しかし、ゼロで
はないだろう(ゼロなら、つまり、架空の話なら(その後の政府答弁でもとうとう例示が
できなかった)
、この閣議決定から、この集団的自衛権の部分は削除されるべきである)
。
この点については、2014 年 5~6 月、自民党・公明党の与党協議の自民党側責任者だった
高村副総裁は、1959 年の砂川事件最高裁判決を持ち出して説明した。まず、砂川事件とは
1957 年 7 月に東京都砂川町(現立川市)の米軍基地拡張に反対した学生ら 7 人が基地に立
ち入ったとして、刑事特別法違反の罪で起訴された。東京地裁は 59 年 3 月、米軍駐留は憲
法第 9 条違反として全員無罪としたため、検察側が最高裁に上告した。
最高裁は同年 12 月、
◎憲法第 9 条は自衛権を否定しておらず、他国に安全保障を求めることを禁じていない、
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
◎外国の軍隊は、憲法第 9 条 2 項が禁じる戦力にあたらない、◎安保条約は高度の政治性
を持ち、「一見極めて明白に違憲無効」とはいえず、司法審査になじまないと判断し、一審
判決を破棄したというものである。
高村氏は、ここで最高裁も合憲と認めている「自衛権」を持ち出して、これで「集団的
自衛権」も認められていると言いたかったようである(この閣議決定では、④で国際法上
の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。
と国際法(国連憲章)と憲法の切り
離しをはかっている(切り離しの必要性は後述する)。しかし、高村氏は国連憲章第 51 条
の「集団的自衛権」を含むものとしたかったようである。つまり、国連憲章第 51 条と憲法を
同じとする矛盾を冒している)。
実際のところは、この砂川判決でいう「自衛権」は、もちろん、
「個別的自衛権」のこと
であり、
(前述したように、まだ、この時期には日本においては、
「集団的自衛権」そのも
のが問題になっていなかった)
、最高裁は「集団的自衛権」については、何ら触れていない
(そもそも裁判で問題になっていないのだから言及しないのは当然である。高村氏は、の
ちに「集団的自衛権」を否定しているわけではないとも言っているが、判決はまったく言
及していないのだから、否定するか、肯定するかは、それはわからないということで、ま
ったく、的違いのいいわけをしている)
。
いずれにしても、この閣議決定は、1959 年の砂川最高裁判決の一部を取り込み(つまり、
高村氏の思い違いを入れて)
、次のような論理をとろうとした。
A.わが国の存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを第 9 条は禁じていない。
B.しかし、その措置は必要最小限の範囲にとどまるべきだ。
C.従って、他国に加えられた武力攻撃を阻止する集団的自衛権の行使は許されない。
これが、従来の論理(安倍内閣以前の歴代内閣はこの考えをとってきていた)であるが、
このたびの閣議決定は、A.と B.はそのままに、C.の結論だけを、c.必要最小限の集団的自
衛権は行使できると改めた。
つまり、(本当のところ高村氏の発案がどうか知らないが)、砂川判決は「集団的自衛権
も認めている」と判断ミスをしたことが、この解釈改憲の発端になったのであろう。わず
かでも砂川判決が「集団的自衛権」を認めているのなら、C.としてそれを受けて「憲法上
許容されると考えるべきであると判断するに至った」としたのである(論理の世界では、
ABC(行使できない)は、新三要件をつけて量的に減らしても、ABc(行使できる)となならな
いのである)
。
いずれにしても、砂川判決は「集団的自衛権」については何も述べていないのは明らか
である。この度の閣議決定文では、②で「この基本的な論理は、憲法第 9 条の下では今後と
も維持されなければならない。」とわざわざ述べているので、論理は通してもらはなけれ
ばならない。前提となる理屈は同じなのに結論だけを 180 度ひっくり返した。政府はその
理由を「安全保障環境の根本的な変容」と説明するが、環境が変っても、同じ前提であれ
ば、A と B が同じであれば、C になるという論理は変るはずがない。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
そして、本当に環境が変ったというならば、それを論理の中にいれて、結論は C ではな
くて、notC になるとしなければ、ならない(論理を変えることはあってもいいが、それは
憲法改正で国民に問わなければならない)。それには歴代自民党政府が言ってきたように、
憲法改正を発議しで国民に問わなければならない。
④で、我が国による「武力の行使」が国際法を遵守して行われることは当然であるが、
国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。④ 憲法上許容される上記の
「武力の行使」は、国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。この「武力の行
使」には、他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とするものが含まれるが、④ 憲
法上は、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち、我が国を防衛す
るためのやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるものである。⑤
と国際法(国連憲章第 51 条の集団的自衛権)と憲法第 9 条を切り離している(それはそう
である)。実際に覇権国家などが憲章 51 条の集団的自衛権をどう運用していようとも(前
述したように拡大解釈して多くの戦争・紛争を引き起こしている)、⑤で日本は集団的自衛
権を必要最小限にして運用するとしているが、
(とにかくどんなに小さくても集団的自衛権
の道を開けば、そのうち将来、道は大きくできるという考えであろう)、将来の内閣で安倍
内閣がやったと同じように解釈を拡大すればどうでもなり歯止めなどなくなってしまう。
憲法に歯止めを書き込まない限り)
。
⑥では、我が国ではなく他国に対して武力攻撃が発生した場合に、憲法上許容される「武
力の行使」を行うために自衛隊に出動を命ずるに際しては、現行法令に規定する防衛出動
に関する手続と同様、原則として事前に国会の承認を求めることを法案に明記することと
する。としているから、集団的自衛権によって自衛隊を出動させるときには原則として国
会の承認を取ることとしているが、国連憲章第 42 条の決議がない場合、つまり、アメリカ
的集団的自衛権の場合もあり得ることになる。現実には前述したように第 2 次世界大戦後、
アメリカは安保理決議をとって出動したことは 2 回しかなかった(朝鮮戦争と湾岸戦争)、
決議なしで出動した場合が大部分であったことは述べた。つまり、日本の自衛隊が出動す
る場合、国連憲章違反もありうることになる。
⑦のように、政府として、以上述べた基本方針の下、国民の命と平和な暮らしを守り抜
くために、あらゆる事態に切れ目のない対応を可能とする法案の作成作業を開始すること
とし、十分な検討を行い、準備ができ次第、国会に提出し、国会における御審議を頂くこ
ととする。として、具体的な論戦は、のちに提出された安保法制で議論されることになっ
たが、安倍政権の法制提出のやり方は、実質、12 本の法律の改正や新設を 2 本の法律とし
て提出し、あえて、誰でもが賛成するような PKO 関連の事項や既存法制の不備な事項など
に問題の集団的自衛権を紛れ込ませて、簡単には国民に理解できないようにして、たった
一回の国家論議で強行採決して通過させてしまった。
《集団的自衛権は覇権国家の他衛権として使われてきた》
654
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
集団的自衛権については、第 10 章の【2】人類の戦争防止の機構―国際連合の設立で述
べたが、もう一度、図 120 で説明すれば、①の個別的自衛権は「攻撃された場合に」それに
反撃(必要最小限の武力行使)して自衛する権利で、文字通り自衛権であるが、②の集団
的自衛権は、C国(たとえば、北朝鮮)が日本と密接にかかわりのあるB国(たとえばア
メリカ)を攻撃したとき、B国から要請があった場合、日本はC国を攻撃(臨検、機雷掃
海、B艦防護を含む)する権利があるというもので、「自衛」という意識は希薄になり、実
質「他衛権」であると拡大解釈され運営されてきたことは述べた。
図 120 個別的自衛権と集団的自衛権
このように、国連憲章第 51 条に「集団的自衛権」が持ち込まれた経緯から(アメリカが
サンフランシスコ会議に急遽挿入したことは述べた)、きわめて、あいまいな概念の言葉
であったので、「集団的自衛権の本質は他衛権である」あるいは「集団的自衛権は同盟国を
守る他衛権である」というように広く解釈され、その後、アメリカなどは、もっぱら、この
ように解釈して集団的自衛権を濫用している(それを本書ではアメリカ的集団的自衛権と
称している)。
たとえば、アメリカはベトナム戦争でもアフガン戦争でもイラク戦争でも、ささいな事
を口実に(ベトナム戦争ではトンキン湾事件(CIA のでっち上げ)、アフガン戦争ではアル
カイダをかくまったこと、イラク戦争では大量破壊兵器所持疑惑・実際は CIA の偽情報)、
国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」の行使と称して、つまり、国連憲章第 42 章の国連に
よる強制措置(武力発動)の決議を得ることなしに、同盟国や親米国と多国籍軍を組んで、
それぞれの国を攻撃して、多くの犠牲者を出し破綻国家にしてきた(ベトナムは立ち直っ
たが)。このように国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」は超大国の武力行使の手段として
使われるようになった。このため、第 2 次世界大戦後、国連ができたのにもかかわらず、
いっこうにこの地球上から戦争が絶えないことは縷々のべてきた(第二次世界大戦後にも
っとも多くの戦争・武力行使を行ったのはアメリカで 31 件あったが、そのうち、25 件(81%)
が国連憲章違反とみなされることは述べた)。
655
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
このように、国連憲章第 51 条は実際に運用されてきたのは、①の個別的自衛権と②の集
団的自衛権は全く別物であり(自衛権と他衛権では全く別物)、日本は第 10 章の【3】国
連設立の趣旨を戦後 70 年堅持した日本で述べたように、とても日本国憲法の
第 9 条 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる
戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の
交戦権は、これを認めない。
では認めるわけにはいかないとしたのである。実際には、この第 9 条のどこにも自衛権の
ことはふれられていないが、国連憲章との関係でも述べたように、日本国が「攻撃を受けた
場合には」、必要最小限の反撃(武力行使)をする権利はあると解釈してきた。しかし、集
団的自衛権(他衛権)については、2014 年 7 月 1 日の安倍内閣が解釈改憲するまでは、67
年の間、「憲法第 9 条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため
必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使するこ
とは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されない」と解釈して運用していた。
ところが、このたびの閣議決定の文章では、新 3 要件を満たせば、集団的自衛権は「憲
法上許容されると考えるべきであると判断するに至った」という。この新 3 要件は「集団
的自衛権」がいかにも、わが国の「自衛権(個別的自衛権)」であるかようにみせるつな
ぎであり、しかも、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危
険」など極々めったにない小さな可能性にして、それは砂川判決でも認められている(と
勘違いした)「集団的自衛権」にもぐりこませて、論理は一貫しているとしたのである。
確かに、この新 3 要件によって、「集団的自衛権」発動の機会は限定されることはある
かもしれないが、論理そのものが変るわけではない(多分、安倍総理は事務方にどんなに
小さくてもいい、「集団的自衛権」の穴を開けてくれればよい、あとは運営次第でどうで
もなるから、と指示していたのだろう)。「他衛権という集団的自衛権」の本質は変るわけ
ではない。つまり、「憲法上許されない」としていたものを「憲法上許される」としたのであ
る。「憲法上許されない」という解釈で、67 年間、国内外で運用されてきたということは、
国内的にも国際的にも立派な法的規範となっていたことであり、それを一晩で根底から変
えたのであるから、①で述べていた政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求め
られるということにも反している。
《明らかな憲法違反である》
このたびの閣議決定は、前記の憲法第 9 条の文言には手をつけていない(変えてない)。
しかし、閣議決定で、この文章によって、「集団的自衛権は行使できない」としていたもの
を、
「集団的自衛権は行使できる」と変えたのである。従来、この憲法第 9 条が期待してい
る効力をこの閣議決定でその効力をまるきり反対に変えたのであるから、この閣議決定は
憲法第 9 条の変更の効力をもっている。従って、憲法改正と同じ効力を持つことになる。
656
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
たとえば、もっと、わかりやすい例で示せば、
第 9 条の前の、第 8 条をみると、
憲法第 8 条 皇室に財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与するこ
とは、国会の議決に基かなければならない。
となっているが、これを閣議決定で「第 8 条で・・・国会の議決に基かなければならない、
となっているが、それは基づかなくてもよい」として解釈して施行すれば(憲法改正なし
で)
、あきらかに憲法第 98 条に違反している。
さきほどの憲法第 9 条もこれと同じで、第 9 条の文章は変わっていないが、60 数年間も
第 9 条が期待する効果とまったく反対の効果がでるように閣議決定したのである。それを
憲法改正の手続きをとらずに、行政府の内閣が行うことは行政権の濫用であって憲法第 65
条に違反する。また、第 98 条にも違反する。もし、このようなことが許されるなら、第 8
条の例でも示したように、内閣がかってに憲法の条文を解釈して、閣議決定すれば、憲法
は空洞化してしまう。憲法があっても、
「憲法第○条は・・・と解釈する」
「憲法第○条は・・・
と解釈する」
・・・と閣議決定していけば、憲法はあってもなくても同じになり、国会もい
らなくなってしまう。
このような現行憲法の効果に正反対の効果をおよぼすことは憲法の根幹にかかわること
で、憲法第 65 条の行政権の権限を越えるものであり、憲法第 98 条によって取り消されな
ければならない。
第五章 内閣
第 65 条 行政権は、内閣に属する。
第 73 条 内閣は、他の一般行政事務の外、左の事務を行ふ。
一
法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
第十章 最高法規
第 98 条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国
務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
《アリの一穴は堤防を崩壊させる、憲法の一穴は国家を崩壊させる》
憲法第 9 条が期待する効力を全く反対にしてしまうような解釈変更は、実質、憲法の変
更と同じである。それを憲法改正の手続きをとらずに、行政府の内閣が行うことは行政権
の濫用であって憲法第 65 条に違反する。また、第 98 条にも違反する。もし、このような
ことが許されるなら、内閣がかってに憲法の条文を解釈して、閣議決定すれば、憲法は空
洞化してしまう。
657
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
それをやったのが、ヒトラーであった。ヒトラーがワイマール憲法をたった全権委任法
一つだけで空洞化してしまった例を『自然の叡智 人類の叡智』で述べた。
第 2 次安倍内閣が発足して半年後の 2013 年 7 月、安倍総理が改憲を模索していたとき、
日本の麻生元首相がナチスを引き合いに出した発言をして物議をかもしたことがあった。
ある新聞によると、日本の憲法改正論議を「狂騒の中でやってほしくない」としたうえで、
以下のように述べたと報道していた。「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に
変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」(以
下略)と発言したという。
第 2 次世界大戦後、ヒトラーのような男が、どうやって政権を握るようになったか、歴
史のもっとも重要な問題の一つで、多くの研究書が著わされているし、どんな普通の歴史
書にも書かれていることである。
1932 年 7 月 31 日に投票が行われた総選挙では、230 議席を獲得してナチスがついに第 1
党になった。1932 年 11 月に行われた総選挙でナチスは若干議席を減らしたが 196 議席を獲
得してやはり第 1 党であった。そこで 1933 年 1 月 30 日、ヒンデンブルク大統領は、ヒト
ラーを首相に任命し、組閣を命じた。ヒトラーは、
(何もしないで)内閣発足の 2 日後であ
る 2 月 1 日に国会を解散し選挙日を 3 月 5 日と決定した。
国家権力を握ったヒトラーは今度は自分の思うような選挙ができるようになった。ナチ
スはこれまで政治的利用を控えられていたラジオを利用し、公権力を使って社会民主党、
共産党はもちろん、与党以外の政党の集会を妨害し、彼らの機関紙の発行を差し止めるな
ど露骨な選挙活動妨害を行った(選挙期間中に何百人もの死者が出た)。当時はナチスも共
産党も数十万の疑似軍隊組織を動員して、街をデモンストレーションし、武闘を繰り返し
ていたので、とても元首相がいったように「静かに」という雰囲気ではなかった)。
1933 年 2 月 27 日の深夜、国会議事堂が炎上する事件が発生した(国会議事堂放火事件)
。
ただちに政府はこれを共産党の全国蜂起の企てと断定して、「国民と国家の防衛のための大
統領緊急令」を布告した。この緊急令は集会・出版の自由、人身の保護など憲法の基本権を
広範に停止したもので、ナチズム体制のテロ支配のもっとも重要な法的基礎となった(共
産党員や反対派と目された人々の逮捕、拘禁は、夏までに 2 万 6000 人を超えた)
。
自由選挙とはほど遠い戒厳令下の選挙にもかかわらず、3 月 5 日の選挙でナチ党は議席数
で 45%の 288 議席を獲得したが、目標の過半数は獲得できず、連立与党の票をあわせてか
ろうじて過半数を得た。改憲条項を含む法案は国会の 3 分の 2 の賛成を必要としたため、
これでは憲法改正はむずかしいことになる。そこで、国会放火事件により非合法政党にさ
れた共産党が獲得した 81 議席は再選挙を行わず議席ごと抹消されたので(憲法違反である)
ナチス党は結果的に単独過半数を獲得することとなった。さらに社会民主党や諸派の一部
議員を逮捕したことにより、議会の主導権は完全にナチス党が掌握することになった。
このような準備をした上で、国会を開き、直ちに 1933 年 3 月 24 日には国家人民党と中
央党の協力を得て全権委任法を可決させ、議会と大統領の権力を完全に形骸化させてしま
658
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
った。
全権委任法は、以下のたった 5 条の法律案であるが、内容は議会から立法権を政府に移
譲し、ナチス政府の制定した法律は憲法に背反(はいはん)しても有効とする法律案であ
った。
第一条
ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても
制定されうる。本条は、憲法 85 条第 2 項および第 87 条に対しても適用される(これは立
法権を国会にかわって政府(ヒトラー内閣)に与えたものである)。
第二条
ドイツ政府によって制定された法律は、国会および連邦参議院の制度そのものに
かかわるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら
変わることはない(これは政府の立法が憲法に優越しうる(違背しうる)ことを定めたも
のである)
。
(以下略)
つまり為政者の権力濫用の手を縛り国民の人権を保証する憲法を、非常事態を理由に骨
抜きにして、与党ナチスに逆らう者に「公益を害する者」というレッテルを貼って人権を
剥奪して弾圧するようなナチス立法を(憲法に反していても)有効とし、選挙を経ていな
いナチス行政府公務員に立法権まで与える法律案であった。
この全権委任法は、ナチス党の他、国家国民党や中央党などの支持をえて、賛成 441 票・
反対 94 票(出席したドイツ社会民主党議員の票)で成立した。注目すべきは国民主権簒奪
と自由民主主義社会から全体主義社会への移行が、国民の歓呼のなかで選挙で選ばれた国
会議員によって、形式的には合法的に成し遂げられたことである(共産党議席剥奪など合
法的とはいえない。ただ、形式だけだった)
。
しかしその結果、図 121(図 18-211)のように、ナチスは反対者やユダヤ人の人権を自
由自在に剥奪できるようになり、誰ももはやナチスを止められなくなった。これがこの法
律であった(最近、日本でも、とかく「秘密」にしたがる行政府(官僚)に、「秘密」をあ
ばき国政を監視すべき国会議員が自ら(自民・公明など多数で)合法的に行政府(官僚)
に「秘密保護(法)
」の権利を与えるということを行った)。
ドイツ行政府(ナチス政権)は、これ以降、この法律によって、憲法や国会、国民、そ
の他、何ものからも自由になり、権限を失った国会はヒトラーの重要演説の舞台の一つに
すぎなくなった。
ナチスはこの全権委任法を楯にナチス以外の政党を解体に追い込み、1933 年 7 月 14 日に
は合法的に 1 党独裁体制を確立した(ヒトラーは 1 月 30 日の組閣から半年で 1 党独裁体制
を完成したことになる)
。
ヒトラーの独裁下でもワイマール憲法は廃止されなかったが(元首相のヒトラーがワイ
マール憲法をナチス憲法に変えたというのは間違い)
、この法律によって事実上ワイマール
憲法は死文化したのである(当時、表向きには世界でもっとも民主的と言われたワイマー
ル憲法のもとで、もっとも苛烈な 1 党独裁が行われたのである)
。
659
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 121(図 18-211) ワイマール(平和)レジームからの脱却
この全権委任法は、民主主義は一片の法律によって、たとえ憲法が禁じていることでも
可能としてしまい、民主主義を崩壊させてしまうことを示す。一片の法律であっても内容
によっては、重大な結果をもたらすという歴史の証言である。みんな知らなかったではす
まされないものである。
ここで民主主義にも大きな問題点があることがわかる。ヒトラーは当時もっとも民主的
と言われたワイマール憲法のもとで合法的に政権をとったといわれている。確かに、ヒト
660
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ラーは当時の選挙で勝って第 1 党になったことは間違いない。では、なぜ、ヒトラーのナ
チスが第 1 党になったのか。
国民みんながヒトラーのあの演説に酔って第 1 党にしたのか。
それとも、ヒトラーは選挙前の公約(公言)を覆したのか。あるいは、どこかの国の総理
のように、改憲隠しやマニフェスト違反をやっていたか(安倍総理は選挙のとき解釈改憲
するとは言っていなかった)
。
いや、ヒトラーは彼の持論を堂々と公約していた。彼が創造しようとしていた国家社会
主義ドイツは、異常に極端で反文明的、病的な国家であった。それをヒトラーは公言して
いた(1925 年に出版した『我が闘争』にすべて書いてあった。彼はそれを公約どおり、あ
まりにも忠実にやってしまったから問題だった)
。
社会はユダヤ人やジプシーなど、いわゆる非チュートン(非アーリアン)人を排除して
民族の「純潔」を保つこと、経済はドイツ精神を広めるために国の指導者の命令によって動
員、統制され、その命令にはいつ、いかなるところでも、また敵対する列強がいかに多く
とも従うこと、さらに武力闘争と憎悪のイデオロギーを信奉し、敵を打ち倒すことに喜び
をみいだし、和解を拒絶する方針である―これが、ヒトラーが公言していた新国家の概要
であった(何ら誤解であると言い訳する必要もなかった。誤解のしようのないほど明快で
あった)
。
20 世紀のドイツ社会の規模と複雑さ、すぐれた文明・文化を考えれば、このような反社
会的、反人間的な国家が実現するとは誰も思わなかったであろう。しかし、そのヒトラー
が現に政権を握った。なぜ、そうなったか。失業率が高まって、貧富の差が拡大し、ドイ
ツが大混乱に落ち込んでいたことは確かだった。社会民主党などを支持する、かつての中
間層は消滅してしまっていた。このような中で当時のドイツには、大統領独裁政治と共産
党の独裁とヒトラー・ナチス党の独裁との選択肢しかなかった。
大統領独裁政治―こちらの方は、
(現政権がそうだから)実現性が高く、ドイツ国民は、
これは勘弁してほしいと思った。共産党の独裁―これも 1917 年にロシアで実現したので、
このままいくとドイツでも共産党が政権を握る可能性がある、これも勘弁して欲しいと思
った。
ヒトラー・ナチス党の独裁―言っているようなことができるわけはない、政権をとれば
それなりに常識的になり、話半分としてもこちらのほうがもっとも害が少ないだろうとた
かをくくった、政治(ヒトラー、ナチス)を甘くみた、いずれにしてもマイナスのなかで
の選択だった。
国民みんなが考えることが皆同じで、まあ、ヒトラー(ナチス)にしておけ、ほどほど
のとこるで落ち着くよ。皆がこう考えたら、結局、ヒトラー(ナチス)になってしまった
(実際にはナチスが 34%をとったのであるが)
。というのが真相であった。ところが、ヒト
ラーはそんななまやさしい男ではなかったのだ。我々もよく「いっぺん政権をとらしてみた
ら。だれがやってもむずかしいことがわかるよ」「いっぺん憲法を変えて、やらしてみたら」
と簡単にいうが、これほど複雑になって連動する世界になって何が起きるか、わからない
661
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
時代に「政治」を甘く見てはならない。いったん起きたら取り返しがつかない、致命傷にな
る。それが現代である。
結局、ヒトラーは、「政治」を甘く見たドイツ国民によって選ばれたのである。日本の元
首相の「ある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも
気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」というナチス発言から、長々と述べ
てしまったが、ヒトラーの時代も、ワイマール憲法は残っていたし、国会もあったが、行
政府も立法権をもったので、官僚がユダヤ人虐待の法律などをどんどん作っていった。そ
して、当時世界一民主的な憲法といわれていたドイツのワイマール憲法は空洞化されて、
たった 6 年で図 121(図 18-211)のように、戦争のできるヒトラー・ナチス体制に転換さ
れ,その後の 6 年で第 2 次世界大戦となり、敗戦となったのである。
戦前のドイツや日本の歴史をみると、国家というものはきわめてもろいであり、慎重に
国民納得の上で運営しなければならないものであることがわかる。ドイツもヒトラーとそ
の1派が国家を牛耳ってから国家は傾いた。アリの一穴という言葉がある。憲法の一穴は
国家をほろぼすことになることを銘記すべきである。
《閣議決定の解釈改憲で日本の進路が変わってしまう》
官僚組織は権力者にまったく弱いことはわかている。一旦、ヒトラーの手に掛かったら
世界一堅固なドイツ官僚組織も数年でメタメタにされ、権力者のもっとも忠実な協力者と
なったことは述べた。戦前の日本の(軍国的)官僚組織も同じであったことも述べた。官
僚組織には無謬性(むびゅうせい)があるから、いったん悪にそまると限りなく、「切れ目
なく」続いて、図 122(図 18-3)のように、1915 年からはじまった中国侵略は小さな小さ
な悪が積み重なって 30 年間で太平洋戦争敗戦となってしまった。この間、一人として自分
は悪いことをしたと思った官僚(軍人も含む)はいなかった。官僚組織はそのような無責
任体制でもあるということを知っておくべきである。
それは戦前の軍国時代の軍国官僚だからそうだろうということについては、戦後の民主
主義国家も安心出来ないというところで、アメリカの 5 代の大統領がからんだベトナム戦
争やブッシュ大統領(息子)のイラク戦争の例を述べた。図 95(図 18-15。P498)のよう
に、民主主義国家アメリカの大統領も政治家も官僚も、結局、前任者のやってきたことを
そのまま引き継いで、何ら改めることなく行きつくところまで行ってしまうことは同じよ
うである。
(現に憲法の番人といわれていた法制局が安倍総理が任命した法制局長官になってから、
クルッと変って「集団的自衛権は行使できない」としていたものを、
「集団的自衛権は行使
できる」と言っている。歴代の法制局長官 OB はすべて「集団的自衛権は行使できない」と
言っているが。このように官僚は時の政権におもねて簡単に主義主張を変えてしまうもの
である)
。
662
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 122(図 18-3) 日本的(軍国)官僚意志決定図
安倍政権が、なぜ、憲法違反してまで急いだのか、わからない。なぜ、憲法第 96 条でし
なかったか(これも変則的であることにも変わりはない)。これも国会は通せるが、いよい
よとなると国民の半分以上を憲法改正に賛成させることはできないだろうと思ったのか。
新聞その他の調査で第 9 条についても、3 分の 2 ぐらいは現状でよいと考えているようで
ある。それはそうだ。70 年間、日本はまったく戦争はなかったし、しなかった。それは憲
法の影響が大である。その実績は重い。いくら中国、北朝鮮の状況が変わったとしても、
いや、そういう状況なら、ましてや、いまこそ平和憲法に徹したほうがよいと思う国民に、
安倍首相の口癖である「丁寧にご説明しようと思っています」というのは、やはり、口先
ばかりで、とても説明して国民を憲法改正にもっていくのは無理だと思ったのか。
事実としては、安倍首相は国民に全く説明しなかった。国会議員にもしなかった。ただ、
閣議決定文 1 枚で憲法の中身を正反対に変えてしまった。既成事実をつくって、それで国
会も、国民も「まあ、しかたがないか」と従わせようとしているようだ。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
筆者が問題にしているのは、国民の「まあ、しかたがないか」という考え方である。過
去の歴史はそこから、急転、下り坂をころげ落ちるということを示している。
自民党の一部と公明党の一部だけの密室で何か談合して、それがそのまま、内閣決定と
なってしまい、7 月 1 日まで国民はまったく内容を知らされなかった。それは国の形を変え
る改憲であった。まったく、戦前のやり方と同じではないか(公明党の下部組織も後でわ
かって怒っているという。公明党は1つの閣僚の首(国交大臣)が惜しくて妥協したとい
う)
。
国民の大部分は現在の憲法でよいと思っているのに、自衛権の本当の意味、つまり、本
来の国連の集団安全保障制度とアメリカ的集団的自衛権(同盟主義)との区別も述べない
で、実質、現在の憲法を変えてしまう。戦後のほとんどの戦争・紛争を「集団的自衛権」
の名の下に行ってきたアメリカと、実質一体化する「同盟」を結んで、抑止力を高めて、
中国、北朝鮮などの核保有国に対抗しようという単純な発想者が日本の未来を握っている
と思うと背筋が寒くなる思いである。安保法制懇という御用委員会をつくって、だまし通
せば通ると思ったようで(戦前もそのような御用学者であふれていた)、やはり、この安倍
1 派は歴史を最初から色眼鏡なしで勉強しなおすことが必要であるようだ。
歴史は、人類がおこなってきたことを良いことも悪いことも教えてくれる。良いことは
人類はやればできるんだという勇気を与えてくれる。悪いことには、我々はこのような過
ちをやってはならないという教訓を与えられる。悪いことも知っておかなければ、また、
悪いことを冒すことになる。歴史は人類の行く手を示してくれる羅針盤である。
《日本は戦争がしやすくなる国になる》
戦後、70 年間、日本は一度も戦争をしなかった。今や国連加盟国だけでも 193 ヶ国ある
のだから、そのような国は小さな国をさがせば、かなりあると思うが、日本のように人口
にしても GDP にしても、世界の上位に属する国で第 2 次世界大戦後、戦争に参加しなかっ
た国は唯一日本だけであったといえよう。それにはいろいろな理由が考えられるが、憲法
第 9 条が日本の歴代政権に大きな歯止めを与えていたことは確かである。
豊下楢彦・前関西学院大学教授は、「集団的自衛権を行使するということは、軍隊とし
て戦争することに他ならない。」とした上で、集団的自衛権を行使するためには、日本国
憲法の改正と自衛隊の正式軍隊化、「開戦規定」や「交戦規定」を整え、「軍法会議」を
設置することが必要であると述べているように、このたびの「集団的自衛権容認」の解釈改
憲のもっとも大きな効果は、戦争に必要な法律が万端整えられて、日本が「戦争がしやす
くなる国」に変わることであると述べている。
安倍首相は「戦争はこれからもしません」「専守防衛は守ります」「平和憲法は守りま
す」「・・・はやりません」と国内向けには例のキーワードの羅列を並べているが、安倍
首相の言葉で保障してもらっても何ら意味がないことぐらい国民はわかっている。現代の
民主主義国家でもっとも守るべきことが憲法であることぐらい小学生でも知っている。そ
れを国家公務員のナンバーワンの首相が解釈改憲して、私が「今後も平和憲法を守ります
664
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
と言っているのですから、間違いありません」という。安倍首相は、その矛盾に気がつか
ない。この人は歴史問題だけでなく、はたして憲法の意義もわかっているのだろうかと首
をかしげざるをえない。
解釈改憲をすると、さっそく「地球儀を俯瞰する」「異次元回数」の外遊を中国、韓国、
北朝鮮を除く国々で行い、国外では「日本は集団的自衛権を認めることにしました」と強
調して歩き、「価値観を同じくし、民主主義と国際法を尊重する国々」では、日本に対す
る期待感を高め、「価値観を共有しない国々」からは、反感・敵意をもって眺められるよ
うになった。これを安倍首相は「抑止力を高める」と言っている(第 11 章の【2】唯一の
覇権国家となったアメリカで述べたように、戦後、集団的自衛権に関わる武力行使で最も
多く国際法(国連憲章)違反をして、戦争を行った国は民主国家アメリカであることを安
倍首相はご存じないようである。だから、外国で喜々としてアメリカ的集団的自衛権国入
りを講演して回っているのであろう)。
安倍首相は「戦争をする、しない」は自分(自国)で決めるものであるとばかり思って
いるようである。「集団的自衛権」を発動したら、相手国は本格的な戦争に入ってくるか
もしれない。そうなったら、こちらの憲法がどうあろうと(新三要件があろうと)、戦争
はやめられなくなるのは、すべての過去の戦争・紛争が示している。日本だけが憲法の制
約から、これ以上はできませんと言っても、相手があることである。安倍総理は「戦争を
しない」ためには、戦争に巻き込まれないようにすることも同じように大事であり、それ
には現在の平和憲法が大きな役割を果たしていることを見落としているようである。
集団的自衛権の行使事例として、安倍総理は「紛争中の外国から避難する邦人を乗せた
米輸送艦を自衛隊が守れるようにする」としている。また、「新 3 要件を満たせば、中東
ペルシア湾のホルムズ海峡で機雷除去が可能だ」としており、「原油を輸送する重要な航
路に機雷がまかれれば、国民生活にとって死活的な問題になる」としている。
どちらの例でも、攻撃を受けた米艦を守るために日本から武力攻撃をする、あるいは機
雷除去をする=相手国も仕返しし戦争となることを意味している。これは明らかに日本の
方が先に攻撃をするのであるから、「攻撃を受けた場合には」自衛権がある相手国ではな
く、日本が国連憲章第 51 条違反となる。
さらに 2014 年 7 月 14 日の国会答弁において、「世界的な石油の供給不足が生じて国民
生活に死活的な影響が生じ、わが国の存立が脅かされる事態が生じ得る」と語っている。
つまり、石油逼迫の場合には戦争も辞さないという考えであり、戦前の日本が太平洋戦を
行う決意したのと同じ考えではないか。今の時代に石油逼迫=戦争という考えが通用する
と思っているところが時代錯誤もはなはだしい。
現に内閣官房の概要によれば、「石油なしで国民生活は成り立たないが、代替エネルギ
ー利用を進め、外交や国際協調に全力を尽くしており、憲法上許されるのは、国民の命と
平和な暮らしを守るための自衛措置のみであるから、石油のために集団的自衛権の行使を
行う事はできない」としている。
665
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
現実問題として海上自衛隊は、機雷除去については、集団的自衛権があるか否かに関わ
らず、停戦後であれば、「警察権の行使」として危険物を除去していると解釈することで
行う事ができるとしている(現に日本は湾岸戦争後、中東ペルシア湾で機雷掃海をしたで
はないか。他国が交戦中にやることではないし、やるべきでない。その間の備蓄や他国と
の石油融通のネットワークや太陽光発電などへのシフトを早めることでそのような事態は
防げるし、現にそのような努力を石油危機以来、やってきたことではないか)。
実際のところは、安倍首相がいうホルムズ海峡の機雷掃海が、とても新 3 要件の我が国
の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険
がある場合に相当するとは思えない。つまり、本当に少ない「集団的自衛権」が行使され
る「例外」的なものだとして、口に出して例示できるのがホルムズ海峡などの事例であり、
本当の「本命」は別にあると言うことである。それは「アメリカ軍と世界中で行動を共に
する」ことであるが、いまは口が裂けても言えないことである。今はとにかくどんなに小
さくてもいいから「集団的自衛権」に小さな穴をあけることである。それがホルムズであ
り、米艦である。
つまり、安倍総理は素人わかりがするいくつかの例をあげて(国民を素人というのには
語弊があるが)、権利がある集団的自衛権を行使すれば、このように解決しますよ、なぜ、
行使しないのですかと国民を煽っているのである。安部首相が集団的自衛権が必要である
と上げた事例はすべて、現場や外交努力によって解決しなければならないし、現に解決し
てきている(結局、安部首相は、のちの安保法制国会では、この 2 つの事例も取り下げて
しまい、予想される集団的自衛権の行使の具体的事例はなくなってしまった)。
日本が集団的自衛権を行使したら、すべて戦争になる(相手国があるのだから。攻撃す
れば、戦争をする決断は相手国が決めるのだから)。安倍首相も菅官房長官も(アメリカ
頼りの)抑止力(脅し)を強調しているが、過去の歴史で抑止力(脅し)で引き下がった
例はなく、軍拡を助長するだけである。
しかも中国も北朝鮮も核ミサイルを持っている現実を直視しなければならない。安倍総
理は、だからアメリカの核抑止力に期待するというのであろうが、あまりにも幼稚な考え
である。核保有国が 10 ヶ国近くにもなると(そしてテロ集団が横行する時代になると)核
抑止力という概念そのものが無意味になってくる。すでに核の問題はどこの国も(アメリ
カでも)解決出来なくなっており、後述するように国連で人類全体として本気で核問題を
扱うしか解決の道はなくなっている。
《解釈改憲の既成事実を重ねる安倍政権》
集団的自衛権容認の閣議決定は、すでに行政に反映され始め、2014 年 9 月 4 日、イギリ
スウェールズのニューポートで開かれている NATO 首脳会議の分科会で、日本政府によって、
自衛隊と NATO との実働訓練が実施の方向で調整されている事が表明された。上智大学田島
泰彦教授(憲法)は、自衛隊の海外活動が際限なく広がり、集団的自衛権行使で密接な国の
定義が米軍以外にも広がり、歯止めなく拡大解釈されるおそれがあると指摘している。
666
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
安倍首相は、国内ではいろいろ右顧左眄(うこさべん)して集団的自衛権を容認しても、
実質今までとあまり変わることなく、大したことはないと言い訳をしているが、外遊では
明確に「日本は集団的自衛権を認めることになりました。これからは日本は民主主義と価
値観を共有する国々に責任を果たしていきます」と言って回っている。つまり、「戦争が
できる国になりました」と宣言して回っているようなものだ。この首相の国内外での二枚
舌も困ったことだ。
安倍首相は明らかに理念型の政治家だ。それもおじいさんの本当の DNA ばかりか、「憲法
改正」という政治目標まで受け継いだことは前述した。岸の思想、国家像は大学生時代、
満州時代などから見ればわかるように「経済統制・思想統制の国家主義」であった(明ら
かに現代から見ると時代錯誤である)
。
理念型のおそろしいことは、自分の思想以外は入ってこないことである。ある時点で止
まってしまうことである。自分自身がその思想にとりつかれ、
(聞いているふりはしている
が)人の話を聞かないことである。自分の思想の対にある思想を見ようとしないことであ
る。安倍は「憲法問題」から安全保障の専門家になったが、その対の思想についてはまっ
たく、目に入ってこないのである。したがって、戦争の話は安倍首相は得意であろう。し
かし、今の日本に必要なことは戦争を起こさせないようにする、つまり、
「平和」をつくり
出すのにはどうしたらよいか、それを「世界地図を俯瞰して」一途に追究して行くことが日
本の首相の役割である。
集団的自衛権は安倍首相の得意とする枝葉な戦術論に陥っている。自衛隊の部隊長の話
に陥っている。核大国が 3 つも 4 つもなったときに(10~20 年後には世界はそうなる)
、日
本は(日本だけではない、世界の大部分の国は同じだが)どうして、この世をわたってい
くか、それは今の我々の方向づけで決まってしまう。
安倍首相は「もはや、1 国で平和を守ることはできません」とよく言う。そして、端的に
言うと「だから集団的自衛権を行使して、アメリカと一心同体の(まさかのときにアメリ
カが逃げない)同盟にして、アメリカの核抑止力で(中国や北朝鮮に)対抗しましょう」
というのが本音であるようだ。日本国民にそのような賭をさせてはならない。
どこの国も(現在のアメリカを除いて)
「もはや、1 国で平和を守ることはできません」
は確かである。だから、人類は国連をつくったのである。その国連が機能しなければ、国
連を機能させるように最大限の努力をしなければならない。
日本の首相は、どうしたら世界の戦争をなくすことができるか、どうしたら日本が戦争
に巻き込まれることが少なくなるのかを考え行動すべきである。日本だけでやってもでき
ないだろう、世界の国々をまとめて、どう核大国とどうわたりあうか。逆にどうしたら、
核大国を国連の枠内でおさめるようにするのか、まさに、日本のような核もない、70 年間
平和外交でやってきたものが動かなければ説得力がないだろう。
このままではアメリカを中心とした欧米同盟国と中国・ロシアを中心とした大陸同盟国
が再び世界を二分して冷戦時代に入ってしまうおそれががある。日本がアメリカベッタリ
667
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
になれば、それが防げるというわけではない。日本は今度は新冷戦の最前線になる(第 2
次世界大戦後の米ソ冷戦では、東西ドイツが最前線だった)
。
過去の人類の歴史をみれば、抑止力(脅し政策)で世界が収まった例はない。それは軍
備拡大を促進しただけだった。今度は核軍拡競争である。それを阻止するのは日本とか EU
などが動かなければどうしようもないであろう。地球温暖化問題、化石エネルギーの地球
規模の争奪戦、それも 21 世紀前半の人類が当面する大問題であろう。軍縮を進め、ひねり
出した資金で地球温暖化問題の解決に全人類を結集する。それこそ「地球儀を俯瞰する日
本の総理」がやらなければならない役割であろう。
中国・北朝鮮問題には包囲網をつくるのではなく(それをやれば内圧が強くなるばかり
で、いずれ爆発する。ABCD 包囲網に取り囲まれた戦前の日本がそうだったではないか)
、こ
のような地球的問題の解決に、日本の総理が世界中を飛び回っているうちに、彼ら大国を
このような人類全体の問題の解決努力に巻き込むことによって、国連に注力させてこの地
球大の問題を解決していくしかないであろう。
そのためには、アメリカに、従来のアメリカ的集団自衛権では世界はおさまらない時代
になったこと、あらゆる国に平等であり、同盟国をつくらせない国連の集団安全保障制度
しか(それは思想信条にかかわらず、最初に攻撃をした国が、人類の敵として国連の制裁
を受ける)核時代の平和を維持する道はないことを日本が説得するしかないであろう。そ
れは戦後 70 年、真の国連憲章の精神を堅持してきた憲法を持っている世界でも希有な国、
そして現実に 70 年間、一度も戦争に加わらなかった希有な国、戦争をしなくても(しなか
ったから)大発展した希有な国、つまり、日本、その日本の総理こそ「地球儀を俯瞰する」
外交をする資格を持っているし、世界もそれを待ち望んでいるだろう。それに、筆者はも
う一つ付け加えて地球温暖化を防止する見本を示す日本(これはできていないが、これか
ら)
、このようなことは日本にしか、日本の総理にしかできない仕事であろう。このような
ことを日本の総理にはやってほしい。
《アベノミクス解散―安倍の悲願成就(改憲)のための 4 年間を確保する》
2014 年 10 月 31 日に、日本銀行は量的・質的金融緩和(QQE)の拡大を決定した(アベノ
ミクスが息切れしないように)。
11 月 17 日に内閣府が発表した 2014 年 7~9 月期の国内総生産(GDP)は前期比 0.4%減、
年率換算で 1.6%減となり、日本経済は下降線をたどるようになった。アベノミクスの破綻
が白日のもとにさらされるようになった。
前述したように第 1 の矢、第 2 の矢、第 3 の矢に中身があるわけではなく、(第 2 の矢
の公共事業費増額だけが実質効果はあるかもしれないが、それはそのまま国債総額 1000 兆
円に上積みされただけで、ツケを先に延ばし日本経済をますます不安定化させるだけであ
る)。
2014 年 11 月 18 日夜、突然、安倍首相が会見を開き、消費増税を先送り(3 年先)する
とともに、21 日に衆議院を解散することを明らかにした。衆議院議員の任期の半分、2 年
668
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ばかりで解散するのは異例なことである。安倍首相の解散の狙いは明瞭である。アベノミ
クスの賞味期間はもともと 2 年程度であることはわかっていた。このまま、2015 年に入り、
通常国会でアベノミクスが槍玉に上げられ、そのうえ、違憲の「集団的自衛権容認の閣議
決定」が批判されば集団的自衛権関連法案が暗礁に乗り上げる。このままいけば公明党を
入れて 3 分の 2 以上の圧倒的議席はあるが、国民の支持率はドンドン下がっていく。今の
野党は分裂していて弱体だからあまり心配はないが、2015 年秋の総裁選が危うくなってく
る。
これを乗り切る最良の手は、まだ、アベノミクスの失敗がわかる前に(というより根拠
のないものだったことがバレないうちに)、つまり、国民の支持率が高い今のうちに解散し
て、公明を含めても少しは減るだろうが、弱小な野党のことを考えれば、安定多数の議席
を得て、あと 4 年間は何と言われようと解散しないで(それこそ祖父・岸信介から受け継
いだ「何ごともたじろがない、正しいと思ったことは断じて行うべし、という政治家にと
って不可欠なぶれない軸」を発揮して)
、改憲にこぎつけようという魂胆であろう。
つまり、「アベノミクス解散」ではなく、「改憲隠し解散」である。4 年あれば(それは安倍
にとって 6 年の任期いっぱい総理をやることである)、悲願であった「自主憲法」の道を開
き、戦後、日本が歩んだ平和主義の国を安倍首相のいう積極的平和主義の「美しい国」に
変えてしまうことができるであろうと。安倍首相が好んで使う「積極的平和主義」というの
は、積極的にアメリカ的集団安全保障の同盟に参加・行動し、その抑止力(威圧)によっ
て、その同盟からはずれた国々を同盟勢力に従わせて、平和を維持しようという考えであ
る。しかし、本書でも縷々述べたように、同盟主義は反同盟の結束を強め、結局、平和は
崩れることになるのである。
(その後、2014 年 12 月の衆議院選挙で安倍は予想通り、少し議席は落としたが、安保法
制を強行採決で通すことができた。こうして解釈改憲で集団的自衛権行使の容認に成功し
たが、現在の第 9 条の条文が存在する限り、集団的自衛権の行使は「憲法違反」であると言
われるので(訴訟事件が相次いで起きるだろう)
、安倍首相は、この 4 年間で正真正銘の憲
法第 9 条の改正を行おうと考えているであろう。2015 年 8 月、安保法制を通すと、安倍首
相の次の狙いは 2016 年の参議院議員選挙で(公明党込みで)3 分の 2 獲得に焦点が合わさ
れているが、例のごとく再び国民の目を経済問題に転じさせるために色あせたアベノミク
スを衣替えして一億総活躍社会で国民に売り込み始めている。
いずれにしても、戦後 70 年、日本が世界人類に先がけて実践してきた「集団的自衛権を
認めない平和憲法」は、地球人類の平和への流れに沿ったものであり、本来の国連憲章に沿
うものであり、それしか今後、人類の平和実現の方法はありえないのである。それを日本
は世界に先がけて実践してきていたのである。
今、日本が日本国憲法第 9 条を「集団的自衛権を認める憲法」に変えてしまったら、戦
後最も多くの戦争をしてきたアメリカ的集団的自衛権という、戦前の同盟主義にもどって
いくことに他ならず、それは前述したように世界平和への人類の長い歴史に逆行するもの
669
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
である。図 123(図7)のように、日本にとっても、人類の平和への道にとっても重大なこ
とが、日本国民に説明もなく安倍首相とそのお仲間によって着々と進められていることを
日本国民はよく認識しなければならない。
図 123(図7) 『永遠平和論』を失墜させた第 51 条集団的自衛権
第 13 章 どうしたら人類は戦争をやめることができるか
◇21 世紀前半に当面する人類の難問
8 万 5000 年前、ホモ・サピエンスの一族がアフリカを出て世界に分散していった人類の
様子を筆者の感じで述べると、親類縁者とわかれて、地球の海や川を越え、山や谷を越え、
砂漠や草原や氷原をさまよい、火を噴く大地・押し寄せる津波・とどろく風雨におびえ、
押し寄せる軍馬・山野をおおう屍・売られ行く親子に泣いて、21 世紀はじめの地球で再会
してみると 72 億人になっていたという感じである。
そして、人類みな兄弟の無事を喜ぶ暇もなく先をみると、図 124(図 18-5)のような絶
壁がそそり立っている。
図 124(図 18-5) 世界人口の推移
670
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
その絶壁は図 125(図 18-207)のような、人口の急増、エネルギーの枯渇、地球温暖化
問題、食糧問題、資本主義の行き詰まり(失業率の増大)と高齢社会、途上国の貧困の増
大、核戦争の恐怖、テロ戦争の増大などである(日本についてみると少子化による人口の
急減、財政赤字による国家経済破綻のおそれなどがあろう)
。
図 125(図 18-207) 人類が当面する 21 世紀の試練
この絶壁は人類最後にして最大の山場で、これを通り越せばまた、平坦な高原が続くで
あろう(世界人口は 100 億人前後で横ばいになる見通しがある)
。そして我々はみな、その
21 世紀末地球人口山の 7 合目(72 億人)で鎖に頼って絶壁をよじ登っている最中であり(ゆ
めゆめ隣のピッケルを抜いたり、いやがらせをするようなことがあってはならない、
「創造
と模倣・伝播の原理」で手をさしのべ)
、これからも、みなで声を掛け合い、助け合い、人
類最大の難所、21 世紀末地球人口山を越えて、山頂で 100 億人みんなで喜びあおう、一言
でいえば、それが筆者の夢である。それは地球人類すべての夢であろう。
人類は古来、困難に当面すると新しい仕組み、新しい社会システムを創造し導入しそれ
が伝播していって、その困難を克服していったと述べてきた。その「創造と摸倣・伝播の
原理」の起源は 250 万年前のホモ・ハビリスの時代にまで遡れるといった。あるホモ・ハ
ビリスが石器を発明し、狩りをはじめ、肉食をするようになった。これを見た者が真似(学
び)をしてやってみた。便利であれば、他の者がまた、真似(学ぶ)をする。この創造と
模倣・真似(学ぶ)はホモ(人類)の特技となった。こうしてホモ・ハビリスもその後の
ホモ・エレクトスもホモ・サピエンスも気候変化や食糧不足などの危機を乗り切って生き
のびてきた。
人類は、1 万年前頃にも気候の変化(氷河時代からの温暖化)と食糧不足(大型動物の絶
滅)に当面したが、一定の場所に定住し、農耕・畜産つまり農業を開始した。自然の動植
物を狩猟採集するだけではなく、自分たちで自然の環境や動植物に働きかけて食料を生産
するようになったということは、人類にとって大きな飛躍であった。西アジア(レバント)
671
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
と東アジア(中国長江流域)の 2 大農業起源地から、農業は世界へ「創造と摸倣・伝播の
原理」で普及していった。
一般に狩猟採集による人口扶養力は 1 平方キロメートルあたり 1 人であるといわれてい
るが(農業の生産形態あるいは発展段階によっても異なるが)、狩猟採集よりも農業は 100
倍以上の人口扶養力を持っていることは確かである。現在の我々人類もこの農業のおかげ
で生きている。
世界の総陸地面積(148,940,000 km2)から南極大陸(14,400,000 km2)を差し引くと、
134,460,000 km2 になる。仮に 1km2 に 1 人の狩猟採集民が住めるとすると、1 億 3446 万人
しか住めないことになる。ところが、現在、72 億人であるから 1 平方キロメートルに平均
53 人がすんでいることになる。これはもちろん農業(畜産を含む)をはじめたから可能に
なったことである。21 世紀末には 100 億人になると予想されているので、我々人類は 21 世
紀末までに 1 平方キロメートルに平均 72 人が住めるような農業システムを創造し世界中に
伝播する必要があるということである。
《第 1 次産業革命》
人類が次に飛躍したのが工業の開始であった。これは 1760 年頃からはじまったイギリス
(第 1 次)産業革命だった。はじめは綿工業の機械化であったが、やがて他の分野にも及
んで、大量に必要となった鉄を安く生産する製鉄業、各種機械を生産する機械工業、大量
の石炭やヒトを輸送する汽車や汽船などの交通機関に広がっていった。
このイギリスの工業は、まず、フランス、ドイツ、オランダなどのヨーロッパに広がり、
独立したばかりのアメリカ合衆国に伝播したことは述べた。これを模式的に描くと、図 126
(図 18-7)のように、世界どこでも同じようだった農業社会に第 1 次産業革命で工業が持
ち込まれ、人口増加が今までより大きくなった。
《第 2 次産業革命》
そして第 1 次産業革命の成果を取り入れて発展したドイツ、アメリカで、こんどは 19 世
紀の後半から 20 世紀の前半にかけて、科学を基礎とした第 2 次の産業革命が起こった。鉄
鋼業、人工染料などの化学、電気、内燃機関の自動車、飛行機、それを支える石油産業な
どであった。人類社会はこれによって、また、多くの雇用機会を生み出した。第 2 次産業
革命の成果もたちまちヨーロッパ、アメリカに普及しただけでなく、ロシア、日本にも取
り入れられた。
《第 3 次産業革命》
同じように第 2 次世界大戦後、アメリカは戦時中の軍事技術の成果を民需に応用して、
コンピュータ(情報)
、原子力産業、宇宙産業、バイオ産業などを人類社会に付加した。ま
た、このコンピュータによって制御されはじめたオートメーションは大量生産を可能とし
た。これを『自然の叡智 人類の叡智』では第 3 次産業革命といったが、この成果も、た
ちまち、ヨーロッパ、ソ連、日本などの先進国に取り入れられた。これによって、世界の
GDP はまた、大きくなり、人口も増えていった。
672
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 126(図 18-7) 第1次~第 4 次産業革命と新規産業
《第 4 次産業革命》
そして、
『自然の叡智 人類の叡智』の【18-6】資本主義の行き詰まりは第 4 次産業
革命で解決するで 21 世紀に起きる第 4 次産業革命について記している。
過去の第 1 次、第 2 次、第 3 次の産業革命を主導したのは、いずれも新しいエネルギー
技術であった(第 1 次―石炭、第 2 次―石油、第 3 次―原子力)
。エネルギー技術はそれほ
ど産業の基幹技術であって、それが変るとそれに合わせて産業システムも社会システムも
生活システムも変るという性格をもっている。
第 4 次産業革命のエネルギーは、もちろん、太陽光発電である。太陽光発電が技術革新
と規模拡大によって、発電コストが急速に下がって、グリッドパリティ(既存の発電方式
と同じコストで発電できる)が達成されると(2010 年代に達成されそうである)
、その後も
太陽光発電のコスト低減は続き、他の発電方式と比べて最も低価格になり、爆発的に普及
拡大していく(石炭から石油の転換期にもそれが起きた)。そうなると太陽光発電に関連す
る新システムや関連製品が一新され産業的に大きくなっていく。
第 4 次産業革命を含めて、第 1 次~第 4 次産業革命の特徴をまとめると、表 28(表 18-
22)のようになるであろう。
第 1 次産業革命以来、計測と加工技術は不断の進歩があったが、第 4 次産業革命では、
人類はついに究極の段階に達し、ナノレベルに達した。このナノか、その 10 分の 1 のオン
グストロームが分子、原子の段階であり、ここまでできれば、理論上、化学反応でできる
すべての物質の計測・加工ができる、つまり、何でも作り出せることになる(その先は核
分裂反応の段階で放射能が出る段階で、特殊な用途にしか使われない。核分裂反応は放射
能を出す放射性物質が半永久的に残るので使用はきわめて限定的な分野にとどめるべきで
あろう。そのような意味で表 28(表 18-22)の第 4 次産業革命の原子力放射性廃棄物には
673
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
要注意の印をつけた)
。
表 28(表 18-22) 第 4 次産業革命の特徴
しかし、ここまでくると、我々の生体細胞より、小さい物が作り出せるようになり、生
体の細胞膜や生体膜をすりぬけることも起きてくるので、ある段階から、つくっていいも
のと、つくってはならないもののテクノロジーアセスメントや製造禁止規準が必要になっ
てくるであろう。そういう意味で表 28(表 18-22)の第 4 次産業革命の材料分野の後半に
は要注意の印をつけた。
産業というものは、図 127(図 18-134)のように、らせん状に向上していく。この産業
革命のエネルギー技術、情報技術、材料技術など基幹となる技術の革新は、
(一段、高まる
と)他の産業にも波及していって、やがて全産業の底上げが起きる。たとえば、図 127(図
18-134)に示したように農業分野、輸送分野、流通分野、地域社会分野、医療分野、
・・・
に波及していく。
過去の第 1~3 次産業革命がおきるたびに、人類は新しい産業を生み出し、それが世界に
広まって雇用を増やしていった。第 4 次産業も世界中に大きな雇用を生み出すことはもち
ろんである。
古来、人類が創造したことは「創造と模倣・伝播の原理」で世界中に伝播していったが、
この度のこの第 4 次の産業革命も、地球温暖化防止をはかるためには、また、急増する人
口にみあうだけの雇用を増やすためには、一刻も速く全世界に普及させ、第 4 次産業革命
の新技術でできるだけ速く世界中の社会システムを転換する必要がある。
図 101(図 10-36。P547)は世界へ工業が移転していったことを表わした図であったが
(そしてイギリスからはじまった産業革命はアメリカ、日本を経由して地球を 4 分の 3 周
して、あと中東・アフリカを残しているといっていたが)、これに、これからの第 4 次産業
674
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
革命の波(技術移転)を重ねたものが図 128(図 18-136)である。
図 127(図 18-134) 産業革命と技術波及
ヨーロッパ(ドイツ)
、アメリカ、日本が中心となって周辺諸国に第 4 次産業革命の波(太
陽光エネルギー革命、第 4 次産業革命、第 4 次農業革命)を波及させて、エネルギーと食
糧の問題を解決し、同時に地球温暖化を早急に防止することが緊急に必要である。それに
よって、図 126(図 18-7)のように 21 世紀中に増大する世界の人口に新しい産業を生み
出して、
ピーク 100 億人の地球人口山の 7 合目から上の 30 億人に新しい雇用を生み出そう。
この各論1.人類と戦争(どうしたら人類は戦争をやめることができるか)の主題は戦
。ただ、ここで
争である(第 4 次産業革命などは各論 2 とか各論 3 でまとめることにする)
言いたいことは、21 世紀の人類の難問であるエネルギー問題、100 億人の食糧問題、100 億
人の雇用問題、地球温暖化問題などは、第 4 次産業革命とその「創造と摸倣・伝播の原理」
による世界中への波及によって 21 世紀中に解決可能であると言いたい(つまり、古来、戦
争の大きな理由となっていた資源・エネルギー・食糧などの争奪戦という理由はなくなる
と言いたい)
。ただし、人類はその前に戦争を廃止することができたらという但し書きがつ
く。戦争の世界は砂上の楼閣である。これからも戦争が続く、その恐れがあるといって、
現在と同じように GDP の 4~5%を軍事費についやさなければならないようでは、とても 21
世紀の難問をのりきることはできない。まず、戦争の廃止を実現しなければならない。
675
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 128(図 18-136) 第 4 次産業革命の波及
◇人類の最重要課題は戦争の廃止を実現すること
人類は難問を解決するために、新しい技術を開発し、新しい社会システムを導入してい
ったと述べた。しかし、ここに人類は大きなジレンマ(矛盾)をしょいこむことになった。
人類社会を向上させるためには、新しい知恵、工夫を生み出さなければならない。それによ
って社会システムを向上させるのである。しかし、我々はその社会を守るために、その(科
学)技術を使って強力な武器や兵器や防御機器をつくるらねばならなくなった。しかも、
相手もそうするので、その優れた兵器技術はやがて威力を大きくして我が身を襲ってくる
というジレンマに陥るようになった。
人類が農業を興し都市を築き文字を発明し、先史時代から歴史時代への境界を越えたば
かりの頃、人類は組織化された戦争の技術がすでに発達していて、広範に普及伝播してい
った。中近東は農業の発祥の地で社会の進み方が早く、戦争も頻発し、そのための戦争兵
器も世界の先端を走っていた。ここから戦争兵器も世界の他の地域に伝播し普及していっ
たのである。「創造と模倣・伝播の原理」は武器・兵器にも真であった。
そして、21 世紀には、表 28(表 18-22)
(第 4 次産業革命の特徴)の第 4 次産業革命は、
武器・兵器の世界にも通用するようになり、人類はいかなる武器・兵器でも作り出せる時
代になったのである。あらゆる社会のシステムがその気になれば、武器・兵器になってし
まうことは縷々のべてきた(陸海空、宇宙、サイバー戦争とも言われるようになった)。こ
のままでは人類は滅亡してしまうことになるだろう。
40 億年前に地球に誕生した生物が人類までに発展したのは、まさに「自然の叡智」のお
かげであるが、人類の段階になって、「何ら戦争をする理由もない」のに、自らの欲望、意
676
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
地、怨念などのために、墓穴を掘ることになるのは、いかにも「人類の叡智」の真反対の「人
類の愚劣」としかいいようがない。ここで人類は、図 130(図 16)のように、地球誕生か
ら間もない 40 億年前の生物の誕生から延々進化発展してきた生物圏の上に育った「人類の
樹」から、大きなハサミ(国連の仕組み)でもって、「21 世紀の戦争技術の枝」を剪定(せん
てい。切り取る)する叡智をもたなけらばならない。
人類世界のもう一つの原理が、「支配階級と被支配階級の支配・被支配の原理」である
と述べた。人間はまぎれもない動物であり、多くの欲望をもっている。そのなかで人間が
もつ欲求の最大のものは「ヒトを支配すること」となる。支配者(支配者階級)になれば、
すべての欲望を満たされるからである。そして、最も避けるべきことは「支配されること」
である。最初に権力をとったものが、単純に自分の欲求にしたがって武力でもって、「ヒト
を支配した」と考えれば、そしてその最初の統治システムが、「創造と模倣・伝播の原理」に
よって、伝播していったと考えれば、古代、中世、近世の国家が基本的に専制独裁国家に
なったのも理解できる。
人類の歴史は、(武力でもって)「支配する、支配されない」ですべて動かされてきた
ことは確かである。その結論は「自ら支配し、自ら支配される」、つまり、民主主義しか、
人類の平安はないということである。それは人類の叡智である。
しかし、人類の歴史をひも解いてみればすぐわかることであるが、民主主義の国家が具
体的にできてから(アメリカ憲法の創造から)、まだ、200 年ばかりにしかなっていない。
その民主主義が「創造と摸倣・伝播の原理」によって世界に広まったといっても、欧米を除
けば、図 130(図 17)のように、実質、第 2 次世界大戦後の 1970 年~1980 年代から世界全
体に広まってきている。まだ、人類の民主化の歴史は浅い。
しかし、とくに最近は情報技術の進歩は著しく、「創造と模倣・伝播の原理」の浸透度が
高まり、現在は図 131(図 18-6)のように、人口数割合でみた民主化率は 64.4%となって
いる(世界人口に対する民主主義国の人口の割合)
。
この民主化とは三権分立の憲法をもっていて、それが実態として民主的に運用されてい
るかどうかによって、193 ヶ国をチェックしたものである。したがって、立憲君主国でも民
主主義国に入れた国もあるし、実態は絶対王政のような国は非民主主義国にカウントして
いる(中東の国はほとんど非民主国家)
。憲法はあっても、軍政、1 党独裁、宗教党独裁、
憲法に任期制限の規定がなく(おおむね 10 年前後)実質終身制になっている国などは、非
民主主義国とした。
このような方針で 193 ヶ国をチェックして、非民主国が 35.6%となったが、ここで大き
な比率を占めているのは中国(中華人民共和国)で、全体の 20.1%を占めている。本書で
も述べたように、ソ連は政治改革と経済改革を同時に行なったので、大混乱となったが、
最近は経済も立ち直り、再成長を続けている。
677
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 129(図 16)人類の樹
678
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 130(図 17) 人類の民主化はまだ底が浅い
中国は鄧小平の改革開放で、とりあえず経済改革を先行させたので、この 30 年間で日本
を追い越し、アメリカに次ぐ GDP 大国になった。日本の 10 倍の人口をもつ中国が GDP 世界
第 2 位になったのは当然である(日本も 1945 年のどん底から 1989 年には(44 年かかって)
ソ連を追い抜いて世界 GDP 第 2 位になった)
。今後の中国の課題は政治改革であり、人類の
歴史を深く読み解くと民主化しかないことははっきりしているが、なにしろ、世界最大の
人口をかかえた国であるから、これをソフトランディングさせるには時間がかかることは
理解できる。世界は中国がソフトランディングすることを期待して見守ろう。
その他にも、宗教的、政治的、文化的な理由でまだ、民主主義になっていない国がある
が、これほどグローバル化、情報化が進んだ 21 世紀のことであるから、「創造と摸倣・伝
播の原理」で民主主義が地球全体に普及するのも時間の問題であろう。
国連も「世界人権宣言」をもっているが、直ちにすべてを満たすように要求はしていな
い。今しばらく民主化を寛容の精神をもって見守ることしかないであろう。そのうえで、
人類は戦争だけは放棄(廃止)する社会システムを今作っておかなければ、人類は戦争技
術の飛躍的な発展・広範化・テロ化・報復の応酬によって滅びてしまうであろう。
679
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 132(図 18-6) 世界の民主化率(人口数割合)
◇国連の本来の集団安全保障の機能を復活させる
《他衛権としての集団的自衛権》
人類は第 2 次世界大戦後、国連の集団安全保障制度の確立でもって、戦争は廃止してい
たはずであった。それができなかった。すべては国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」が元
凶である。再び「集団的自衛権」を論ずる。
「集団的自衛権」という言葉は、1945 年の国連
憲章第 51 条ではじめて登場した言葉で、それ以前には集団的自衛権という言葉も概念もな
かったこと、そして、それが国連憲章に急遽取り入れられた経緯も述べた。
図 78(図 18。P371)(集団的自衛権をめぐる三学説)で述べたように、「集団的自衛権
の本質は他衛権である」あるいは「集団的自衛権は同盟国を守る他衛権である」というよう
に広く解釈され、アメリカなどは、もっぱら、このように解釈して集団的自衛権を運用し
てきた(それを本書ではアメリカ的集団的自衛権と称している)。
680
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
現在では、この国連憲章第 51 条の集団的自衛権は、
「他者防衛の権利」つまり、「同盟
主義」の根拠になってしまっている。つまり、被害国が宣言を行い、援助の要請を行う限
り、どこの国であっても、集団的自衛権が行使できるというように広く解されて、他者を
防衛する権利、つまり他衛権であるとみなされるようになって、濫用されてきたのである。
たとえば、アメリカはベトナム戦争でもアフガン戦争でもイラク戦争でも、ささいな事
を口実に(ベトナム戦争ではトンキン湾事件〔CIA のでっち上げ〕、アフガン戦争ではアル
カイダをかくまったこと、イラク戦争では大量破壊兵器所持疑惑〔全くのデッチ上げ、CIA
の偽情報〕)、国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」の行使と称して、同盟国や親米国と多
国籍軍を組んで、それぞれの国を攻撃して、多くの犠牲者を出したことは述べた。
このように国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」は超大国の武力行使の手段として使われ
てきた。つまり、戦争を防止するための国連憲章が新たな戦争を起こす根拠に利用されて
しまったのである。このため、第 2 次世界大戦後、国連ができたのにもかかわらず、いっ
こうにこの地球上から戦争が絶えないのである。
《国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」を廃止し国連の安保理のもとに中立の調停委員会「国
連長老委員会」をつくろう》
このように安保理事国の拒否権と国連憲章第 51 条の「集団的自衛権」によって、国連憲
章の本来の集団的安全保障の仕組みが動かなくなってしまい、第 2 次世界大戦前の同盟政
策がまかり通る状態になってしまったのである。これを解決するために、国連憲章第 51 条
の「集団的自衛権」を廃止し、国連の安保理のもとに中立の調停委員会「国連長老委員会」
をつくろう。
現在の安保理の仕組みでは、どうなっているか。表 23(表 18-24。P537)のような現
実の問題を取り上げて検討する。
図 132(図 18-200)のように、A、B、C という核ミサイルを持った超大国(もちろん、
国連の常任理事国)がこの地球に存在している。A には a1、a2
、a3
、a4・・・・いう同盟国
(実質、庇護国家)がある。B にはb1、b2,b3,b4,・・・という同盟国(庇護国家)
がある。同じく C にはc1,c2,c3,c4,・・・という同盟国(庇護国家)があると
する。
たとえば、表 23(表 18-24。P537)の冒頭にあるイスラエル・パレスチナ問題は、第 2
次世界大戦後、70 年近く紛争が続いたままで、というより、より深刻になって,中東全域
の紛争の震源地とも見られている。この問題は当事者間だけで話し合いがもたれているの
で、解決の糸口が見つからず、堂々巡りをしているだけで、その間に人口も増え、テロの
手段もエスカレートしている。イスラエルは核も保有していて、それは他の中東イスラム
諸国の核開発への誘因となって、世界でもっとも危険な地帯のひとつとなっている。
681
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 132(図 18-200) 紛争のケース
a1(イスラエル)とb1(パレスチナ)の問題であるが、A―a1 と B―b1であり、A と B
の拒否権の応酬となり、ものごとはそれから一歩も進まなくなる。a1 とb1で話し合っても
当事者間ではまとまらないであろう。
これを国内の問題として考えると、a1 とb1で話し合って決めろといっても水掛け論、喧
嘩、あるいは刃傷沙汰になるかもしれない。そこで、国家の組織として警察や裁判所など
のいろいろな機関があって問題を処理している。
そこで国際関係においても、国連の安保理の下に図 133(図 18-201)のように、中立の
委員会などを置いて、安保理の拒否権で暗礁に乗り上げた問題、たとえば、前述のイスラ
エルとパレスチナの場合、a1 とb1を仲裁してもらう。a1 とb1が納得した仲裁案ができた
ら、安保理に上げて、了承するというようにしたらどうかという提案である。
簡単にはまとまるはずがないので、粘り強く、何度も何度も、これを仲裁がまとまるま
で、繰り返す。その間は国連の監視軍が境界に展開し武力衝突を阻止する。
国連安保理の手順をもう一度述べると、①a1 とb1とで武力攻撃(武力衝突)があった場
合、安保理は、双方に停戦を命じて、直ちに国連の監視軍を派遣する。この停戦・監視軍の
派遣の決議については、常任理事国の拒否権は行使できないこととする。
国連の停戦・監視軍のもとで、安保理は解決策を討議し結論を出すこととするが、どち
らかの拒否権で結論が出なかったら(そのままにするのではなく)、前述の仲裁委員会に
かけて仲裁案を出してもらう。それを安保理にかけて了承すれば、それを実施する。安保
理で了承されなければ、再び仲裁委員会に返して、別の仲裁案を検討する。まとまるまで、
これを繰り返す。
682
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 133(図 18-201) 国連の機能の充実
この間、停戦・監視軍は a1 とb1の間にあって、武力行使(衝突)を監視する。もし、
大きな違反があれば、憲章第 42 条の国連軍による武力行使もありうることとする。
仲裁委員会の仲裁案であるが、双方が今後も紛争を延々と続けるよりも仲裁案を受け入
れた方がよいと思う案は必ずできると思われる。たとえば、イスラエルは高度な技術をも
っており、太陽光発電時代になれば、エネルギーも食糧の水も自給でき(海水淡水化など
で)、また、土地柄を得ているから、中東全域、アジア・ヨーロッパ・アフリカをつなぐ
交易路としても最高の場所を得ている。パレスチナの人々にも多くの職を与えて十分共存
できるはずである。
70 年間争って、これからも果てしなく子孫を恐怖のどん底で生活させるのがよいか、こ
の辺で双方一緒に具体的な未来を描いて平和の道を選ぶか、イスラエル、パレスチナの政
府ではなく、国民投票で決するようにするのである。国を 2 分するか、2~3 州をおいて連
邦制にするか、いろいろな道があるだろう。第 3 者の知恵を得て、国連等の応援も得て共
存できる案はかならずできる。シンガポールや香港が狭い土地でも一人当り高い GDP を上
げていることを考えれば、現在のイスラエルとパレスチナの土地と人口は共存できるに十
分である。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
A(アメリカ)―a1(イスラエル)というように、アメリカが援助するかぎり、a1(イス
ラエル政府)は強気で仲裁案などに乗らないだろうが、A―a1 の関係は原則として認めない
というようにしなければならない。a1 とb1は庇護者である A と B と離れて、自分のことは
自分のこととして、判断して調停案を受けるかどうかを決めるようにしなければならない。
最近、起きたシリア内戦は、A(アメリカ)―a1(反シリア政府軍)×b1(アサド政権)
―B(ロシア)となり、A (アメリカ)も B(ロシア)も打つ手なしである(米ロとも譲ら
ず内戦は激化して、イスラム国(IS)のような怪物を生み出してしまった)。このような
場合は、a1 とb1だけで調停してもらうのである。このシリア内戦は、その後、イスラム国
(IS)が誕生して、イラクやクルド地域を巻き込んだ戦争に発展してしまったので、国連
安保理で、まず、方針を一本化して(たとえば、2 年間、アサド政権と反シリア政府軍との
間で国連軍の監視下に停戦し、IS 掃討の国連軍を形成して)、憲章第 42 条の国連軍を派遣
してイスラム国(IS)を鎮圧することが先決である(IS 掃討が終わったら、国連監視のも
とでシリア国民の自由選挙で新政府を選ぶこととする)。
現在、起きている紛争(将来起きるかもしれないものを含む)を記した表 23(表 18-24。
P537)のケースを検討してみると、
①常任理事国同士が直接紛争を起こした場合(図 132(図 18-200。P682)において A×B
(または C))
②常任理事国の庇護国と他の常任理事国が紛争を起こした場合(A―a1×B)
③常任理事国の庇護国と他の常任理事国の庇護国が紛争を起こした場合
(A―a1×b1―B)
④どちらも庇護国でない場合(d1× d2 )
といろいろあるが、
まず、①の場合は核大国のアメリカ、ロシア、中国などは衝突すれば、拒否権の応酬で
まとまらないであろう。国連も調停はできないであろう。これは当事国同士で話し合って
決着させるしかないと思われる。現実、キューバ危機のときは米ソで話し合って決着した。
幸い、それ以後は米ソとも直接対決にならないように努力したようで、この場合は起きな
かった。ソ連がアフガンに侵攻したときも、A(アメリカ)―a1(ムジャーヒディーン)×
b1(アフガン傀儡政権)―B(ソ連)であった。今後も、それに中国が加わっても、核戦
争を避けるように直接対決はしないだろう(最近の南シナ海の人工島問題は A(アメリカ)
×C(中国)の形態をとっているが、直接対決はしないで解決を図ろうとするであろう)。
アメリカも大量に核をもったロシアや中国などにはどうしようもない時代になったとい
うことである。アメリカがこのようなことを見越して、国連に第 3 者を入れて両者を調停
する組織をつくっておけば(A、B がかかわれば、メンツもあってまとまらないであろう)、
このような場合、時間をかけて話し合いで結論を出させることもできるだろう。
もはや、A(アメリカ)、B(ロシア)、C(中国)といえども、武力や制裁で決着をつける
ということは無理な時代になっている(決着をつけたと思っていても、無理な押しつけは
684
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
すぐ崩壊してしまうことはアフガン、イラクの例で証明済みである)。話し合いで、第 3
者の調停で納得させるしかない時代になったのである。
④の場合は、表 23(表 18-24。P537)ではアフリカの部族間で起きている内戦などに
多く、安保理で処理し、国連の平和維持活動と組み合わせて解決できるであろう。これは
今までにも国連の PKO がかなり実績を上げてきたことは述べた。
問題は②③の場合である。前述した a1(イスラエル)とb1(パレスチナ)のような場合
である。このような場合は表 23(表 18-24。P537)の多くがこのケースになる。現在では、
このような場合、背後にいる常任理事国が拒否権を使い、解決されずにそのままとなって
しまう場合が多い(国連もこのままでは PKO の数が増えて大変である。なんとか処理しな
ければならない)。
この②と③の場合は、すんなりと安保理でまとまれば、それでよいが、拒否権が発動さ
れて動かなくなった場合、安保理の下部機構として置いた中立の仲裁委員会(これを「長老
(エルダーズ)委員会」と名づけよう)において、調停が行われ、調停案がなったら(a1 も
b1も了承したら)、安保理に上げて最終決定をすることとしてはどうだろうか。
紛争の当事者間で話し合えと言っても、本人同士ではまとまるものではない。大幅に妥
協すれば、まとまるかも知れないが、そのような場合、その国の国民が納得しないので結
局、振り出しにもどってしまう(政治家や官僚は「自分の身がおしいので」妥協しようとせ
ず、破局までいってしまう)。
このような場合は,第 3 者の調停者がいないとまとまらない。つまり、両方の立場に立
ち客観的に両方が受け入れられる案をつくり、納得させるしか方法がない。また、そのよ
うな中立の立場からの調停案であれば、国民も納得せざるをえないと思うようになるであ
ろう(中立の立場から、相手の国の考え方もわかり、この先何十年も争うより、妥協して
平和になった方がよいことがわかるだろう。とかく政府は国民に自国に都合の良い情報ば
かり流し、相手国が不当であるという情報を流すものであり、いつまでたっても、妥協し
ないものである)。
このようなことで図 133(図 18-201)のように、国連安保理の下に中立の仲裁委員会(「長
老(エルダーズ)委員会」と名づけよう)を置く。
《安保理の下の「長老(エルダーズ)委員会」》
たとえば、表 23(表 18-24-34。P537)のウクライナ問題であるが、A(アメリカ)―
a1(ウクライナ)×b1(ウクライナ東部のロシア人地区)―B(ロシア)の構図である。
国連憲章〔第 6 章 紛争の平和的解決〕では、紛争にかかわる当事者(常に国民国家を
想定)は、
「交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関または地域的取
り決めの利用その他の当事者が選ぶ平和的手段による」
(国連憲章第 33 条)解決を求めな
ければならないとしている。
アメリカとロシアが出て話がまとまらない。そこで長老委員会が a1(ウクライナ政府)、
b1(ウクライナ東部のロシア人地区)と個別のあるいは合同で接触して、調停案をつくる。
685
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
この間、アメリカ、ロシアはいっさい介入しない。武力の介入がないように、第 3 国を主
体とした国連監視軍を送って監視させる。
東部の一部に州を導入して自治州にする案、または州は導入しないがロシア語を認める
とか、大幅な自治を認めるとかというような案で話がついたとする。それが安保理にかけ
られたとする。アメリカもロシアもそれでよしとすれば、それでよいとなるだろう(アメ
リカもロシアも基本的にはこれ以上、介入する動機はもっていないだろう。現在のやり方
ではメンツ上妥協できなくなっている)。
その前の段階でウクライナ東部の一部が自治案をけって、あくまで独立に突っ走ると,
多分、調停はご破算となる。
そうなると、ウクライナ政府は東部のロシア人の占拠地点を開放するために武力行使を
開始する。占拠しているロシア人は武力で抵抗する。しかし、東部の一部のロシア人も自
衛権とはいえないし、ロシアも憲章第 51 条の集団的自衛権の適用とはいえないだろう。い
ずれにしてもロシアの方が国連憲章違反になる。
〔第 7 章 平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動〕において、同理
事会に、国際の平和に対する脅威、平和の破壊、侵略行為の認定の権限(第 39 条)と、国
際の平和と安全を維持・回復するための強制措置の発動の権限(第 41 条以下)を与えてい
る。
現在のままでは、ロシアは国連では拒否権を使うから、アメリカ、EU も私的な経済制裁
などは加えることはできるが、それ以上のことは無理である。私的な経済制裁では必ず、
それに反対する勢力があり、経済制裁が尻抜けになって意味がなくなる。といって、ウク
ライナ東部やロシア(核大国)に対する武力行使はできないであろう(アメリカが、NATO
の一部の国を引き連れて、軍事介入すれば、アメリカとロシアの直接対決となり、核戦争
にまで発展しかねない。それにはアメリカも踏み切れないであろう)
。
そこでやはり、長老委員会の調停の段階で調停案を合意できるまで粘り強く繰り返すし
かないだろう。ロシアも東部ロシア人をその調停案で納得させ、合意させるよう働きかけ
ることしかないだろう。
《世界の叡智を集めた国連の「長老(エルダーズ)委員会」》
NHK の 2013 年 12 月 28 日「千年の叡智が語る戦争と平和」では、2007 年、ネルソン・マン
デラの呼びかけで、かつて国や国際機関を率いた 12 人の NGO エルダーズが集まり、世界平
和のために尽力していることを伝えていた(マンデラは 2013 年 12 月、
95 歳でなくなった)
。
マンデラの南アフリカでの活躍については、南アフリカの歴史で述べた。マンデラは「平
和を求めるなら、たとえ敵でも協力すべきだ。そうすれば仲間になる」とたえず、戦いでは
なく対話を求めてきた。「彼らを世界の長老(エルダーズ)と呼ぼう。その叡智を結集させ
るのだ」とマンデラは言っていた。
彼らは全部合わせると 1000 年になる長老たちであった。
国境をこえて発言できる人、紛争当事国の者ではない人たちである。あらゆる者と対話を
続け、平和をもたたらす人たちである。このエルダリーズのメンバーは、
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ジミー・カーター(アメリカ元大統領。1977~1981 年)
マーティ・アハティサーリ フィランド元大統領(1994~2000 年)
ラフダール・ブレヒミ アルジェリア元外相
フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ ブラジル元大統領(1995~2003 年)
グロ・ハーレム・ブルントラント ノルウェー元首相(1981、1986~96 年)
リチャード・ブランソン ヴァージングループ総帥
などがいるという。みな困難な国際紛争の調停の経験がある人たちだ。
国連におかれるエルダーズ委員会のメンバーの選び方についても、いろいろ意見がでる
であろうが、マンデル氏やカーター氏のように世界的に誰もが認める人物、北欧系で平和
活動や仲裁を多く経験してきた人を選べばよいのではないか。ただ、そのようなエルダー
ズの下で多くの国連事務局員も必要になるであろう。
結局、表 23(表 18-24。P537)のうち、アフリカなどで起こっている部族、軍閥など
の勢力争いなど、超大国 A,B,C が絡まないものは(まだ、冷戦時代の余波で A、B、C が絡
むものもあるが)、安保理で結論が出て解決できるものが多い。しかし、A、B、C が絡む庇
護国については拒否権が発動されて、問題が解決しない(表 23(表 18-24)を見てもわか
るように、その方が多い)。10 年、20 年後に D(インド)、E(パキスタン)とさらに核大
国が出現したら、世界は問題だらけになってしまう。
それに A、B、C、・・も被護国のわがわまを聞いてやれる時代ではなくなった。もともと
常任理事国は強力な世界の警察官の役割を与えられていた。その警察官 3 人(英仏もそう
だが)バラバラではこまる。意見が合わないときには第 3 者にまかせるべきであろう。そ
れで問題を起こしたものが(a1 とb1)納得すれば、それでいいだろう。このようにして国
連に組織をつくって問題を処理して、少しでも問題を減らしていかないと地球は本当に混
乱に陥ってしまう(表 23(表 18-24)のように多くの問題が目白押しである)。
いずれにしても、従来のアメリカがやっていたように安保理で拒否権が発動されたら(あ
るいは、拒否権が発動されるおそれがあれば)、私的なグループを誘って、武力行使をして
破綻国家をつくることは、これからは絶対にあってはならないし、アメリカもそれができ
ない時代になったことを認識するべきである。そして、厳密に国連憲章に沿った法の行使
をしなければならない。そのために安保理長老委員会は役立つだろう。
《国際司法裁判所の間口を広げる》
国連憲章〔第 6 章 紛争の平和的解決〕では、紛争にかかわる当事者(常に国民国家を
想定)は、
「交渉、審査、仲介、調停、仲裁裁判、司法的解決、地域的機関または地域的取
り決めの利用その他の当事者が選ぶ平和的手段による」
(第 33 条)解決を求めなければな
らないとしている。
安保理は、世界の平和を危うくするようないかなる紛争についても調査する権限を有し
(第 34 条)
、どの加盟国も安保理に動議を出すことができるとしている(そして加盟国は
総会に対しても発議できるが、総会はその見解を安保理に送付できるにすぎない)。安保理
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
は適切な手続き、あるいは調整の方法を勧告する全面的権限を与えられているが、法的紛
争は通常、当事者によりハーグの国際司法裁判所に付託されなければならないと規定され
ている(第 36 条)
。当事者が合意に至ることができない場合、安保理は紛争の平和的解決
のために独自の勧告を行うことができる(第 38 条)
。
裁判は判決をもって終了するが、判決は当事国を法的に拘束する。この場合当事国のみ
を特定の事件においてのみ拘束し、第三国を拘束しない。ただしその判断は極めて高い権
威を持つとされ、国際法の解釈に大きな影響を与える。また、ときとして「確立された判
例」という形で、裁判所自身によって援用される。判決の履行は国際連合安全保障理事会
の勧告あるいは決定に訴えることができる(国連憲章 94 条)
。
となっているが、問題は国際司法裁判所における裁判の開始は、
「原則として両当事国の
同意による付託」
、あるいは「原告の訴えに対して被告が同意した場合」に開始されるとな
っている。これは、国際社会に統一された権力機構が存在せず、各国が平等の主権を有す
るゆえんである。このため、たとえば、日本は過去に「竹島問題」を提訴したが、韓国が
同意しないため国際司法裁判にかからなかったことがある。
このように国際司法裁判所が「原則として両当事国の同意による付託」を取る限り、国
際司法裁判の活用が限られてしまう。国際連合ができてから、70 年近くにもなり、その重
要性はますます高まっており、また、実績も上がってきたことに鑑み、国際司法裁判の間
口を広げて,より多くの国際問題に対処するために「原告の訴えに対して被告はこれに応じ
なければならない」とするべきであろう。
《第 8 章の地域的取極は積極的に活用する》
前述したように、国連憲章第 51 条の集団的自衛権は廃止することとするが、第 8 章第 52
条の地域的取極(とりきめ)は、国連自体の目的に合致するかぎりにおいて、国際平和を
維持するための地域協定の締結、あるいは存在を認めたものであり、すでにアフリカ連合
などは、アフリカの問題について、国連安保理と連携をとって、多くの実績を上げてきて
いる。国連安保理は非常に多忙になってきているので、今後も地域的な安全保障体制を補
強する組織として、第 8 章の地域的取極又は地域的機関を積極的に設置するようにすべき
であろう。
しかし、地域的取極・地域的機関(以下、あわせて地域的機関)には、地域的紛争の解
決の任務(第 52 条)のほか、
「強制行動」をとる権限を認めているが(第 53 条)
、いかな
る行動が「強制行動」にあたるか、はっきりさせておくことと、あくまで「強制行動」に
は国連安全保障理事会の許可を必要とすることなど(第 53 条 1 項)、国連安保理の下の地
域的取極又は地域的機関であることを明確にしておかねばならない。
◇核兵器は国連管理とする
国連による核軍縮はまったく不十分だった。米ロ核大国に核軍縮をまかせていては、適
当なところで止まってしまって、決してゼロにはならないことは確かである。また、米ロ
以外の核保有国については、何ら触れられていない。これからは,人類総意の要請として、
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
核保有国に対しゼロにするよう求め、監視し、実行させるようにしよう。そのためには、
非核保有国が団結して具体的な提案をして、人類の総意として核保有国(国連常任理事国)
に実行を迫らなければならない。国連の核軍縮委員会でそれができるように改組しよう。
《核兵器は国際法規と人道法に違反し破棄されねばならない》
核兵器の使用を直接に禁止した条約はない(人類が生み出した最大の無差別兵器が禁止
されていないことは全く不当である)。そのため、核兵器使用の合法性をめぐって見解の対
立がみられる。わが国の原爆判決(1963 年)は広島、長崎の原爆投下を違法とした。
判決によれば、
「無防守都市に対する原子爆弾の投下行為は、盲目爆撃と同視すべきもの
であって、当時の国際法に違反する戦闘行為である」。さらに、原子爆弾の破壊力は巨大で
あるが、それがはたして「軍事上適切な効果」をもつか、「またその必要があったかどうか
疑わし」く、セント・ペテルスブルク宣言(1868 年)やハーグ陸戦規則(第 23 条ホ)等の
諸条約にかんがみると、
「原子爆弾のもたらす苦痛は、毒、毒ガス以上のものといっても過
言ではなく、このような残虐な爆弾を投下した行為は、不必要な苦痛を与えてはならない
という戦争法の基本原則に違反している」
(東京地裁 1963・12・7)
。
核兵器は平時における政治的効用も有するため、その使用と製造を含む包括的な禁止条
約はいまだ締結されていない。1961 年の国連総会の核兵器使用禁止決議は、核兵器・熱核
兵器の使用は「国連憲章の直接の違反」であると同時に、無差別の苦痛と破壊をもたらし、
「国際法規と人道法に違反する」とした(総会決議 1653。ただし、米、英、仏、中、加、
伊等の諸国は反対した。
「国際法規と人道法に違反する」という事実は事実として繰り返し
国連総会に上程すべきである)
。
核兵器の使用に関する 1996 年の国際司法裁判所の勧告的意見は、同兵器の使用を一般的
に禁止した条約や慣習国際法は存在しないとしつつ、他方、その使用は武力紛争法の定め
る軍事目標主義や不必要な苦痛の禁止等の規則とほとんど両立しないとし、結論として、
核兵器の使用・威嚇は一般的には武力紛争法の規則に反するとした。ただし、国家存亡の
かかる自衛の極限状況におけるその使用の合法・違法は、国際法の現状と裁判所が認定で
きる事実にてらして、これを確定的に決定することはできないとしてしまった(1996 年)
。
この「ただし書」以下の判断回避は具体的にいかなる意味をもつのか、まったく明確さを
欠いている。
今後も繰り返し、国連総会、安保理、国際司法裁判所に働きかけ、核兵器は「国際法規
と人道法に違反する」ことを認めさせ、「禁止・破棄されねばならない」とさせる。
《核兵器は国連管理とする》
今まで述べたようなことで、人類にとって核兵器は最悪の兵器であり、人類はこれとの
共存はできないものであり、人類は最終的には核兵器をすべて廃棄すべきものであること
は、もはや、誰も疑うものはいないだろう。問題はどうやって、それを具体的に廃棄させ
るかである。
現在、核兵器の不拡散に関する条約(核拡散防止条約。NPT)で公式に核兵器保有が認め
689
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
られている 5 ヶ国(アメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中華人民共和国)も含めて
最終的には核兵器は廃棄されなければならない。なぜなら、国連憲章でも認めているよう
に,国家は対等であって、差別があってはならないからである。核兵器の保有できる国、
できない国の差別はつけられないのである。その差をつける限り、核兵器を持とうとする
国がでてくるのである。「人類は核兵器のようなものはいっさい持たない」と人類がすべて
で決意したときにはじめて、核兵器の全廃はできるのである。例外があれば、それはすべ
て世界に伝わり、人類社会の「不当事項」として人類はそれを許さないであろう。いかな
る国も、人類としての「正当性」を損なうことは、もはやできない時代になったのである。
そのような前提で、どうやって、この地球上に存在する核兵器を廃絶して『核兵器のな
い世界へのシナリオ』を描くことができるであろうか。その筆者の案が図 135(図 18-206)
である。
図 135(図 18-206) 核兵器のない世界へのシナリオ
まず、第 1 に、図 135(図 18-203)のように、現在の非核地帯(黄色の部分)を地球全
体に広げることである。この非核地帯の考え方は、1976 年に佐藤栄作首相が提唱した日本
の非核三原則「核兵器を持たず、作らず、持ち込まさず」に「使用させず」が加わる地域で
ある。
ここで問題となるのは、日本などのようにアメリカとの条約によって有事にはアメリカ
の核兵器に守られると思っている国々や、核兵器は開発していないが、アメリカの提供し
た核を保有するという核兵器共有国(ニュークリア・シェアリング。ドイツ、イタリア、
オランダ、ベルギーの 4 ヶ国。図 135(図 18-203)の緑色の国)が、核の傘や核の共有を
放棄して非核地帯に参加するようになるかということである。
690
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
図 135(図 18-203) 核兵器保有国(9 ヶ国)と非核地帯
この両グループとも冷戦期の初期のソ連だけが対象国だったころには、このやり方でソ
連からの核の脅威に対応できると思っていたが、現在では図 135(図 18-203)のように、
核保有国が増大し、しかも、中国、インドなどは今後、経済が発展すると経済大国になる
ばかりでなく、核大国化するようになれば、核兵器の存在そのものが、大きな脅威となり、
核の傘、核の保有はむしろ、より危険にさえなってくると考えられる。これらの国々が、
多数の核保有国が存在する世界がいかに危険であるかを認識し、自国も核の傘を放棄して、
核保有国に核の放棄を迫る決意をすることが必要となってくる。とにかく、第 1 には、図
135(図 18-203)のように、非核地帯を非核保有国全体に広げることである。これは非核
保有国の「非核化」への決意をためされるときである。
第 2 に、「非核地帯(非核保有国)への核兵器使用を禁止する条約」を成立させる(丸腰
の人間をピストルで撃つのは人間として卑怯であるという論理であるが、これは人類に共
有されている)。一方、「核兵器保有国のみに核兵器を使用する条約」を締結する。賛成し
ない国がでると思うが、それはそうであっても、実態は既成事実となるので、核保有はき
わめて重い負担となるだろう。
核保有国にとって、核兵器は実際には使えそうもなく、また、国家のステータスとなる
どころか、世界中から(180 数ヶ国の非核地帯の国々から)「人間性を無視する国」と軽蔑さ
れ、経済的負担のみ重いという実態になれば、核をみずから放棄する国も現れてくるかも
しれない。
第 3 に、すべての国が核兵器を放棄して国連の管理下に移管する核兵器禁止条約及び核
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
兵器国連管理条約を締結する。そして国連という人類共通の集団安全保障の組織が核兵器
を管理する。
核をすべて直ちに廃棄するのではなく、一時的に国連が管理するのは、廃棄したあとで、
どこかの国が核兵器を密かにもつかもしれないからである(もともと原爆の開発はヒトラ
ーのような男が核兵器をもったら大変だということではじまったことは述べた。廃棄した
あとで、再びそのようなことが起こってはならないので国連が管理するのである)。
もう一つの理由は、最近、天文学が進んで,地球に向かってくる巨大な隕石はある大き
さ以上は 10 年とか 20 年とか前にわかるようになった。6500 万年前に恐竜などを絶滅させ
た隕石は、直径 10 キロメートルぐらいだったと想定されているが、それぐらいのものは事
前にわかるようになってきている。そのような隕石が現在の地球に衝突したら、間違いな
く人類は滅亡する。したがって、シミュレーションによって、地球に衝突するおそれがで
たら、国連として全世界の叡智を結集して、その巨大隕石を事前に地球への軌道から外す
ために物理的な強制力として核兵器を利用するかもしれない(もちろん、これはもっと専
門家が検討しての話であるが)。
いずれにして、核兵器を国連管理とし、他の核兵器はすべて廃棄する。国連管理の仕方
は、今後、専門家が検討することであるが、米ロ中の常任理事国が必要最小限の核兵器を
各国に 1 ヶ所保有し、核のボタンは国連事務総長、アメリカ大統領、ロシア大統領、中国
主席の 4 人が同時に押さなければ、解除されないようにしておく(具体的なシステムは専
門家で構築できるであろう)。
国連の管理に移された核兵器以外の現在、9 ヶ国が保有している核兵器はすべて廃棄され
る。これによって北朝鮮など後発核保有国が、現在の NPT の核体制は不平等であるといっ
ていたことはこれによって解消されるであろう。国連参加国はすべて平等の権利をもつと
いう原則はこれによって達成される。したがって、これ以降、廃棄に同意しない国に対し
ては、国連の経済制裁が、廃棄されるまで適用される(国連全体の経済制裁であるから、
これは効果があるはずだ)。
◇国連の軍縮委員会の機能を拡充する
国連には軍縮委員会があるが、あまり、よく機能していない。テロ戦争に対処するため、
国連の武器輸出管理を強化するなど、国連の軍縮・軍備管理の機能を充実させる。
《テロ戦やゲリラ戦には勝てない》
冷戦終結後、武力による民族運動、宗教対立等が頻発するようになったが、多くの場合
それらの紛争は主権国家の正規軍ではない。民間武装勢力によるゲリラ戦によって実行さ
れており、近代国家が従来重化学工業力を活用して整備してきた機械化戦力では対処が非
常に困難になっている。21 世紀初頭現在、各国軍において、精強に訓練された生身の歩兵
からなる特殊部隊の重要性が大きく高まっているのはこのためである。
加えて、安価で優秀な性能を持つ旧ソ連製 AK(カラシニコフ突撃銃)シリーズ及び、同
様に安価で女性や子供でも装甲車両を撃破できる携帯式対戦車兵器 RPG(携帯対戦車擲弾
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
筒)シリーズの第三世界での爆発的普及も、非国家非正規交戦集団に、国家の正規軍を相
手に戦いうるという自信をつけさせており、非対称戦争が頻発するようになった一因とい
える。
技術開発の趨勢として、どんな技術も 10 年経つと割安で大量に手に入るようになると述
べた。大量破壊兵器(核兵器、化学兵器、生物兵器、放射能兵器)は、国連のところでも
述べたように国家間では禁止されているが(実際には大国は批准していないが)
、テロ集団
の非正規軍はそれにしばられることはない。
壊滅的な被害を受けたときや窮鼠猫をも噛む事態になれば、大量の市民や国民を人質に
して攻めることもありうる。原発とか、大量交通機関、大都市上水システムとか、脆弱な
現代社会のコンピュータ・システムなど、多発同時テロの航空機戦術のような破天荒なこ
とを考えれば、現代社会に武器となるものには事欠かない(ビン・ラディンが民間機を使
ったから、航空関係の監視は厳しくなったが、厳しい監視の中で同じことをやるテロリス
トはいない。次に何をやるかはわからない。それがテロ戦争である)
。その気になれば、遠
隔の情報通信システムの操作で社会システムを破綻させることも可能である(アメリカも
サイバー攻撃を防げないのが現状だ)。それが非対称戦争の恐ろしさである。
アメリカなどの先進国の人命の価値は朝鮮戦争、ベトナム戦、第 1 次湾岸戦争、アフガ
ン戦争、イラク戦争と 1 戦争毎に高くなっている。つまり、先進国ではもはや戦争はでき
ないのである。それで現在ではアメリカはアメリカ本土にいて無人小型機をあやつってア
フガンやパキスタン国境周辺の監視や攻撃、要人暗殺などを行なっているが、10 年もたて
ば、これが逆にアメリカ本土で行われる可能性もある(ラジコン暗殺飛行機、ラジコン自
爆自動車、
・・・・最近はドローン)
。
いまやすべてのものに安価に GPS が取り付けられる時代である。正確な位置情報、遠隔
無線操縦技術、それがきわめてコンパクトに安価に可能となれば、テロリストは何も貴重
な生命をかける必要はなくなる。町の中をおもちゃの自動車が走っていると思ったら大爆
発を起こしたとか、ラジコン機が飛んでいると思っていたらビルが吹き飛んだとかという
時代がやがてアメリカにもやってくる。
原発、水爆、核ミサイル、
・・・すべて創造したのはアメリカ。「創造と模倣・伝播の原
理」で、核兵器については、ソ連、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イス
ラエル、北朝鮮、
・・・みな、模倣した。これからもアメリカがつくりだすものは、みな待
っていて,つくり出す。人間はみな同じ能力を持っていて、同じことを考える動物である
ことは、『自然の叡智 人類の叡智』で述べてきたことである。
画期的な兵器を手にしたと喜んでいるのは束の間、それが我が身におよんで眠れなくな
るのがこの兵器の歴史ではなかったか。原発開発、水爆開発、核弾頭ミサイル、多弾頭、
ABM、SDI、BMD、
・・・すべてアメリカが先鞭をつけて、せいぜい、5 年、いや,大統領のか
わるごとといえば、8 年ごとに、国民に「これで安心出できる」の繰り返しではなかったか。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
ジョージ・W・ブッシュ(息子)は、時間はかかっても根気強く戦えば必ずテロ戦争に勝
利できる(つまり、テロのない世界を実現できる)と述べた。その「根気強く」とは、ど
れだけの時間か。ブッシュはイラクに 50 年とどまると述べて、そして「我々は絶対に屈服
しない」と述べていた。また、2008 年アメリカ合衆国大統領選挙の共和党候補であったジ
ョン・マケインは対テロ戦争について「これは困難な戦争だ」
「恐らく 100 年だ」といって
いた。
(ベトナム戦争でジョンソン大統領は最初どう言っていたか、ニクソン大統領はどう言
っていたか、朝鮮戦争でマッカーサーはどう言っていたか。テロ的戦争やゲリラ戦争には
勝てないのである。すべての戦争で大国は財政破綻し、逃げるようにして帰ってしまった
のである。イラクもそうだったし、アフガンも 2014 年一杯で撤収しようとしているが、で
きそうにもない)
。
テロを根絶することは極めて難しいと言わざるを得ず、テロとの戦いは永久に終わらな
いとの見方もある。今までの軍隊の形ではテロに対して有効に対処できないため、アメリ
カ軍ではテロに対処できるよう軍装備などの改革や特殊部隊の育成が行われている最中で
ある。しかし、本質的な対テロ部隊などない。そのような部隊ができたとしたら、その裏
をかくのがテロ組織であるから。
いずれにしても、アメリカは対テロ戦争には負けはしないが勝てない、つまり、いつま
でも世界中でテロ戦争が継続することになる。
対テロ戦争に有効な方法があるとすれば、武器(兵器)が安く大量に流れないように武
器輸出を国際社会の協力によって厳しく制限するすることぐらいしかない(テロ組織は政
治的、宗教的、民族的、経済的、何らかの差別から生まれるので、その差別をなくすこと
がテロをなくすことになるが、これには時間がかかる)
。それはやはり国連の役割が大切で
あり、次にそれを述べる。
《テロ戦争に対処するには武器輸出管理しかない》
不特定多数を人質としたテロ(無差別テロ)が有効に機能するためには 3 つの条件が必
要である。
① 十分な破壊力を持つ武器が入手可能であること。
②
世論に働きかけるための十分なコミュニケーション手段が確保できること(インタ
ーネットの普及は、ますますテロリストにとって有利になってきている)
。
③
国家主体が世論(支持)の変化に敏感かつ脆弱であること(これもテロリストに有
利になってきている)。
対テロ戦争に有効な方法があるとすれば、武器(兵器)が安く大量に流れないように武
器輸出を国際社会の協力によって厳しく制限するすることぐらいしかない。それはやはり
国連の役割が大切である(現状のようにアメリカ同盟国と親ロシアグループ、親中国グル
ープなどに分裂しているかぎり、それぞれのグループがグループ内で武器援助、武器輸出
694
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
するので、武器管理は尻抜けとなってしまっている。国連で統一した厳しい武器輸出管理
をしなければ効果は上がらない)
。
武器輸出で問題であるのは、高度な軍事技術を持つ国は野放しにされているということ
である。アメリカ、ロシア、ヨーロッパ、中国をはじめとする武器先進国の武器輸出は制約
されていない。これらの国々の武器が安く中東やアフリカに出まわり、それが紛争を引き
起こすもととなっているのは事実である。近年、国連の平和維持活動が増えていることは、
前述したが、これらの紛争で使われている武器もその多くが武器先進国からの武器輸出や
武器援助によるものである(武器輸入した国は、絶えず新しい武器を必要とするので、古
い武器は闇市場に横流しされる。その大量の安い武器をテロやゲリラ組織は手に入れるの
である)。
図 136(図 18-202)のように、国連の常任理事国 5 ヶ国は兵器輸出で上位を占めている。
片方で平和を説き、片方で死の商人として武器を売りさばくというやり方も第 2 次世界大
戦前と同じである。ここにも現代の紛争における矛盾が現れている。とくにアメリカはダ
ントツの武器輸出国であるが、その一方で声高にテロ戦争の防止を叫んでいる。大量に流
れた武器でテロ組織が攻勢をかけると、その国は不安定になり、政府軍も大量の武器を輸
入するようになるという構図が働いていて、兵器(武器)ビジネスはマッチ・ポンプ産業
といわれる(アメリカの軍産複合体のところで述べたように、彼らにとって、世界が適度
に不安定になることは好ましいことである)。
図 136(図 18-202)
695
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
アメリカでは,輸出される兵器の多くはアメリカ国民の雇用維持と密接な関係があると
言われる。異常に高い軍事費は、500 万人ともいわれる軍関係者(国防職員・軍人・兵器産
業従事者)を養っていくためにも必要不可欠なのである。戦争ビジネスが兵器の拡散をも
たらし、兵器の拡散が紛争に拍車をかける。兵器を売る国が、一方で紛争に介入するとい
う矛盾が見て取れる。
ロシアもアメリカと同じである。ロシアは 99 年のコソボ紛争によって軍需産業が活気づ
き、2000 年 5 月、プーチン大統領は就任と同時に兵器輸出額 8 割増強(年 55~60 億ドル)
を目標にかかげ、中国、韓国、インドなどアジア、中東やキューバなどに積極的な売り込
み攻勢をかけている。
輸入する側では図 136(図 18-202)のように、アジアの新興国が多くなっている。最新
のデータによると,戦闘機や駆逐艦、潜水艦などロシア製の最新兵器を相次いで購入した
中国の武器輸入が 90 年代後半から伸びており、世界第 1 位の輸入国になった。
《国連の軍縮政策は不十分である》
国連は従来、軍縮については、取り組みが不十分であった。
軍備・軍縮に関する一般国際法上の特定の義務はなく、国連憲章も軍備・軍縮について
加盟国の義務を定めていない。総会は軍縮や軍備規制に関する原則を審議・勧告する権限
をもつとし(第 11 条 1 項)
、安全保障理事会は軍備規則の方式を確立するための計画を軍
事参謀委員会の援助をえて作成する責任を負うと規定するにとどまっている(第 26 条)
。
しかし、生物兵器禁止条約(1972 年)、化学兵器禁止条約(1993 年)、対人地雷禁止条
約(1997 年)、クラスター弾に関する条約(2010 年)などが成立している。
大量破壊兵器拡散防止構想については、ミサイル兵器などの輸出を阻止するもので、2003
年 6 月に「阻止原則宣言」が取りまとめられた。臨検の多国籍実働訓練が行われている。
構想の基本原則は、大量破壊兵器および弾道ミサイルの拡散を阻止するために、各国が連
携し、関連物質の移送や関連技術の移転を防ぐことにある。各国の連携方法として、国際
法・国内法の枠内で軍・警察・沿岸警備隊・税関・情報機関・国境警備隊などにおける情
報交換・阻止行動が行われる。
この大量破壊兵器拡散防止構想は国連でも取り上げられ、2004 年「大量破壊兵器の不拡
散に関する決議」となった。その主な内容は、①全ての加盟国は核兵器・化学兵器・生物兵
器及びその発射手段を開発・獲得・製造・所有・輸送・利用することを企図する非国家的
行為主体に対するいかなる形態の支援も差し控えるべきであることを決定する、②全ての
加盟国は、それぞれの国内法に従いつつ、核兵器・化学兵器・生物兵器及びその発射手段
を開発・獲得・製造・所有・輸送・利用を禁止する効果的な法律を制定すべきであること
を決定する、③全ての加盟国に、本決議の採択と全面的履行、国内法及び規制の採用、多
国間協力体制への協力、産業界への説明を要請するというものであった。しかし、実効あ
る具体策は何ら講じられていない。
《通常兵器の軍備登録制度》
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
国連の軍備登録制度は、日本と EU のイニシアチブによって、1992 年に圧倒的多数により
採択された「軍備の透明性」に関する決議により設置された制度である。軍備の透明性と
公開性の向上が、その狙いであった。本制度は、国連加盟国に対し、毎年、その前年の兵器
輸出入に関する情報、具体的には、戦車、戦闘用航空機、軍用艦船等 7 つのカテゴリーの
兵器につき、その輸出入数量、輸出(入)先等のデータを国連に提出するよう要請するこ
とを内容としている。これによって、通常兵器が急激に増加するようなことがあれば、事前
に警告を発することも出来るようになる。
《通常兵器及び関連汎用品・技術の輸出管理》
また、自動小銃などの小火器の取り扱いについても国連で議論がされ、かつてのココム
(対共産圏輸出調整委員会)にかわって、1996 年に地域の安全を損なう可能性のある軍事技
術などについての輸出を管理するワッセナー・アレンジメントが成立している。通称「新
COCOM」といっている。
通常兵器及び関連汎用品・技術の責任ある輸出管理を実施することにより、地域の安定
を損なうおそれのある通常兵器の過度の移転と蓄積を防止すること、ならびにテロリスト
に通常兵器や関連技術が渡ることを防ぐのが目的で、ワッセナー・アレンジメントでは特
定の対象国・地域に的を絞ることなく全ての国家・地域及びテロリスト等の非国家主体も
対象としている。
輸出管理対象品目リストが定められていて、その内訳は、「汎用品リスト」及び「軍需品
リスト」に分かれ、
「汎用品リスト」はさらに先端材料やエレクトロニクス等 9 カテゴリー
に分かれる「基本リスト」と、より機微なものとされた「機微リスト」に分かれる。なお、
ワッセナー・アレンジメントは条約ではないため、法的拘束力を有さない。現在、アメリ
カ、ロシアなど 40 ヶ国が参加している。
具体的に日本ではワッセナー・アレンジメントに基づき、外国為替及び外国貿易法によ
って輸出管理を行っている。輸出管理対象品目リストに基づき作成された輸出貿易管理令
別表第 1 に掲載された貨物は、経済産業大臣の許可を得ることなく輸出することが禁止さ
れている。
《武器貿易条約(ATT:Arms Trade Treaty)》
2013 年 4 月 2 日の国際連合総会において、武器貿易条約(ATT:Arms Trade Treaty)の
採択投票が行われ、賛成が日本、米国を含む 156 ヶ国、反対が 3 ヶ国(北朝鮮、イラン、
シリア)、棄権が 22 ヶ国(中国、ロシア、インド、インドネシア、キューバ、エジプト等)
の圧倒的多数で採択された。
この武器貿易条約とは、通常兵器の国際移転(移譲)を規制する条約である。通常兵器
が大量殺害やテロに利用されることを予防・根絶するために、通常兵器の国際移転(移譲)
を規制する。この条約が国際移転(移譲)の規制の対象とする通常兵器とは、大型武器 7
種類(戦車・装甲戦闘車両・大口径火砲・軍用艦艇・攻撃用ヘリコプター・戦闘用航空機・
ミサイルおよびミサイル発射装置)および小型兵器・軽兵器の 8 種類であり、こららの兵
697
どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
器の移転(移譲)が規制される。
《国連の武器輸出管理には日本の武器輸出三原則、GDP1%枠が参考となる》
日本は第 2 次世界大戦前は欧米列強の一角に食い入り、武器の生産輸出もしていたが、
第 2 次世界大戦後は、先進国では唯一、武器の輸出をほとんどしていない国である。この
ことは誇ってよい伝統である。しかし、その事実が、他の武器輸出国に道徳的圧力となてい
るかといえば、まったくなっていないというのが、正直なところである(これは日本政府
が積極的に宣伝してこなかったことにも原因がある。武器輸出禁止のような日本の誇るべ
き制度を世界に広めることこそが「積極的平和主義」であろうが、安倍総理は 2014 年にそ
の日本の武器輸出を許可してしまった。いかに安倍総理の「積極的平和主義」がまやかし
であるかがわかる)。
日本の武器輸出三原則はすでに 47 年になっていた。1967 年 4 月 21 日に行われた佐藤栄
作首相の衆議院決算委員会における答弁により、①共産圏諸国向け、②国連決議により武
器等の輸出が禁止されている国向け、③国際紛争の当事国又はそのおそれのある国向け、
のような国・地域の場合は「武器」の輸出を認めないこととした。以後、これを武器輸出
三原則といって、日本政府による武器輸出の原則となっていた。このように武器輸出を他
から強いられることなく自主規制したことは日本ではめずらしことで、平和憲法とともに
誇るべきことであった。佐藤首相は沖縄復帰でノーベル平和賞を受賞したが、武器輸出三
原則の功績が大きいといえる。
さらに、1976 年 2 月 27 日に行われた三木武夫首相の衆議院予算委員会における答弁によ
り、佐藤首相の三原則に①三原則対象地域については「武器」の輸出を認めない、②三原
則対象地域以外の地域については憲法及び外国為替法及び外国貿易管理法の精神にのっと
り、
「武器」の輸出を慎むものとする、③武器製造関連設備の輸出については、「武器」に
準じて取り扱うものとする、という項目が加えられた。
その他の地域への武器輸出は「慎む」とされているため、武器輸出そのものを禁止して
いるわけではないが、日本政府は三木首相の答弁を歴代内閣が堅持しており、基本的に武
器および武器製造技術、武器への転用可能な物品の輸出をしていなかった。
この三木武夫首相のとき、防衛費 1%枠の設定もおこなわれた。これは日本の防衛費を GNP
の 1%以下に抑制する政策であった。三木首相以降の歴代内閣も予算編成にあたってこの枠
を維持したが、アメリカから同盟国へ防衛力の増加を求める要求が強まり、1986 年 12 月に
第 3 次中曽根内閣が撤廃を决め、翌年の昭和 62 年度(1987 年度)予算編成から総額明示方
式へと転換した。しかし、政策の撤廃後も防衛費が GNP 比 1%を超えたのは 1987 年度から
3 年度連続で 1%を超えた例しかない。その数値も 1.004%、1.013%、1.006%と僅かな超
過にとどまっていた。
日本は第 2 次世界大戦後、平和憲法に徹し、前述したように武器輸出三原則、防衛費 1%
枠の設定、非核三原則など、地球社会の平和への道に沿って戦争放棄の社会システムを先
取りして実践してきていた。
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
表 29(表 18-25)に世界の軍事費と GDP に占める割合を示しているが、日本だけが例外
的に 1%であることがわかる。
表 29(表 18-25)にストックホルム国際平和研究所(SIPRI)資料による主な国の軍事
費
2005 年度の SIPRI 資料で見ると、絶対金額では世界 1 位のアメリカ 1 国で世界の軍事費
の 50.4%を使っているとされる。日本は、同年の 48,680 億円を仮に 100 円=米ドルとして
換算すると、486.8 億ドルとなって世界の軍事費の 4.9%に相当する。
《今後の国連の軍縮目標として各国軍事費 GDP 1 %枠の設定》
国連の集団安全保障制度が厳格に実施されるようになると、多分、国家間の紛争(戦争)
は、ほとんどなくなると考えられる。表 23(表 18-24。P537)で示したアフリカなどで
の内戦はまだ、あるかもしれないが、紛争を国連の安保理の長老委員会で調停してもらっ
た方がはるかに合理的で経済的にも安く問題が解決することがわかってくるであろう(い
ったん有効な社会システムができると、以後、それを破る国はあまりないと考えられる)。
現在、世界の軍事費は、表 29(表 18-25)のように、GDP の 2~5%であるが、今後、国
連は通常兵器の軍縮も各国軍事費 GDP 1 %枠を目標に定期的に進めれば、軍備登録制度の「軍
備の透明性」と紛争(戦争)の減少とあいまって、各国の軍事費は減少していくと思われ
る。紛争(戦争)がなくなれば、自衛のための軍事費(戸締まり軍事費)は、日本の 30~
40 年の経験から GDP の 1%程度で十分となるであろう。
そうなれば、各国は(現在の軍事費の GDP 比-将来の軍事費の GDP1%=)GDP1~4%分を
地球温暖化対策とか途上国援助とかに有効利用できるようになるだろう。
いずれにしても日本は欧米先進国のように露骨に武器を紛争地域へ売り込むとか、それ
を援助手段に使うようなことは行っていなかった。武器輸出を慎むということは人類普遍
のモラルであって、日本はそれを先行的に 50 年近く実施してきたことは、日本の誇るべき
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どうしたら人類は戦争をなくせるか―人類と戦争の歴史
実績であった(「実績があった」と過去形で述べなければならなくなったのは残念である)。
これをもとに国連の場で武器輸出規制の具体的な仕組みを提案すべきであろう(2014 年に
安倍内閣はこの日本の武器輸出三原則を撤廃してしまったことはきわめて、先を見ない暴
挙であるといわざるをえない。集団的自衛権の行使容認を解釈改憲した安倍内閣が次に軍
事費 GDP 比 1%枠も破るのではないかと筆者は危惧している)
。
◇国連総会のもとに総務委員会を置く
国連機能の充実の第 4 の事項として、図 133(図 18-201。P683)のように、国連の総
会のもとに、総務委員会を置き、安保理が扱う安全保障問題以外の人類社会が当面してい
る問題、あるいは今後当面するであろう問題(たとえば、図 125(図 18-207。P671)の
人類が当面する 21 世紀の試練)を整理し、方向付けをして,国連総会に諮ることにする。
総会と安保理は、開会の時期に大きな違いがある。安保理は、夜間や週末でさえ(事件な
どが起きれば)直前の通知で緊急に臨時開催されうる。これは安保理が国連のいわば行政
府であることを示唆している。
総会は普通「通常会期」中に開かれるが、このことは実質的にその機能と柔軟性を損ね、
会議を建前とイデオロギー的なものにしてしまっている。この習慣はしだいに確立され、
ニューヨークで 9 月に始まる通常総会には世界の指導者がはせ参じ、その時々に話題にな
っている問題について演説をするようになった。世界中の指導者がせっかく提起する問題
も演説だけで終わってホローされないのは問題である。
安保問題は、安保理事国にまかせるとしても、安保問題以外の人類共通の世界的問題が
たくさん浮上しているので、それらについてバラバラ意見をいっても効果はあまりない。
常任の総務委員会などを設置して、安保以外の人類世界の問題についてのテーマを検討し、
総会にかけて世界全体で共同で活動すべきことを決めて直ちに実行すべきであろう。安保
理国以外の国は総会以外に意見発表機会がないのだから、総会は人類世界世論の場として
も、有効活用できることになろう。
世界の問題はいまや安全保障に関わることだけでなく、グローバル化によって、世界全
体で、つまり人類全体で取り組むべきことがきわめて多くなっている。地球温暖化防止の
具体的取り組み、世界の人口問題にしても、食糧、防災、環境などなどいろいろある。そ
れぞれ専門の機関や組織がおかれているが、それらを統合してどうすべきかが、今やもっ
とも必要とされているのである。いわば国連を将来の「世界政府」に構築していく過渡期の
仕事を受け持つのである。毎年、総会に報告書を出し、総会で決定すべきことは決定し、
世界全体、人類全体でそれを実施して行くことにするのである。
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