=歯= 第3匝l膳所高校眠奏楽班OB会 OB会同演奏会 ●日時 2009年2月1日◎ 午後2晒開演 ●会腸 栗東芸術文化会甜「さきら」大爪−ル 膳所高校駅奏楽Ⅰり王OB会主催 ごあいさつ 皆様ようこそ、おいでくださいまして大変あi)がとうごさいます〇 階翫脚欠奏楽班創班5㈹年を記念してこの演奏会が無恥こ行えますことを、皆様への感謝と共にお祝い OB会の中で、ともすれば止が遠のきがちになっている5臓以上の会いが勃泊に集うプロジェクトを昨年 からはじめ、その一帥出講の中から発網の歴史をたどることができた経緯の詳細は後の文制二掛)ますが・ 昭和31年春の野球班の甲用山場の応援がきっかけで、吹奏楽班の前身である膳所高プラスバントが糾し て以丸すでに、†川桐出が過ぎました。この剛の流れのなかで、射1三の安定した班溝助と活躍ができるまで に成長を遂げてきた骨景には、各々の、ti時確かに高校′l:だったOBたちの汗と涙と笑い、・■軋みと一括びの租 み重ねによる斑溝助の維持があったからこそに違いないことに思い至。、感無量ですこここに改めて関係各 位への感謝と畏敬の念を衣させていただきますこ その歴史のなかでrOB附の榊と現役への捌わーの二点を力的:二昭和粛軍に設立され七二のOB会で したが、数年問の活動の後、約狛もの空白の時期を津て、刷寺:二両侶紺を逐:十ました以来、活動の 中心となる事務局を、甜交草葉即日もない粕の複妄甘二封!;・きギ・‥てることて・活/Jの浩帯を避け、また 新卒業生の高率の入会と活発な別離jられるようここか、巌紺が荘†1ときjtて射三ここ至っています さて、この晒所高等学校吹奏楽班OB会の有志て行う演奏会は一昭1月に続いて3師です本親B の順的な参加希望者のみでメンバーを構成する滝でしたが、猿ま川合にノートの不均衡があったこと もきっかけで、顧問の先生方・そして現役生の皆さんのこ鯛とご協力によ。、今回新たに現役生の賛助出 演と合同演奏の実現に漕ぎつけ・新たな一▲ページを加えられますことは、OB→剛二とっても何よりの紳 現役隼たちにとって、本口のOBたちとの演奏が今後の腑鋸二よ。よい利敵になることを祈念しています〇 柚の卜はご覧のとおり、lq校を卒業したての岩手から、還■吾を越えた熟年まで広い年代層ですCさらに、 一・人ひと。の削捌細も立場も様々ですが、ひとたびステージに乗ると、そこでは楽器を演奏する平等な 凍奏者の脹ま。。演奏を楽しみ、素敵な音楽を追求する姿勢はみな同じですっ大事な路の一・コマに同じ 班活動を選んだつなが。から、親子以上の隼の差でも、ステージの卜では一対一・〇世代を超越して切磋琢磨 や、和気.福々の紺)合いもある、この特殊で稀有な渠まりをイ脚二楽しんで演奏します「 では本日の演奏、心ゆくまでお楽しみいただけますことを念じつつ…「 膳所高校吹奏楽班OB会会長 伏木 雅人(昭和4昨季) .三▲ ..皿ま_机上.41号 蜃頭番場各層億衰頭重買(さきが、 「 創班◎周年によせて萱 「甲子園応援団(1956年4月5日)」についての概要 写真は『1956年4月5日春の選抜高校野球・甲子園出場膳所高(確か3月末までは 大津東高)応接団の俄か編成吹奏班写真』で、当時粟津中学の貴瀬忠太郎先生(大津 管弦楽団のホルン奏者でもあり特に音楽教育を通して大津市の青少年育成に貢献され た先生)にお頼いして、吹奏楽班の後半遠の協力を得て、俄か編成の応後団伐吹奏禦 班(へコへコの楽器を掻き集め、膳所高の帽子を被ってもらい)として甲子園に駆け つけ、先制点を獲った時の応壊団の古び・歓声を捕えた春作を恩師谷元峰男先生(昭 和24−52年・生物学、写真部清書旦当、昭和56∼58年教頭、生物学部活担当)から戴い たものです。 少しでも多くの音をと、タクトを椿応援団長に任せ、小生の吹奏楽用にアレンジし た骨先生作曲の校歌F深溝の湖』やスーザのマーチなど数曲を演奏しましたが、突然 団長がマーチで3拍子を振ることがあり皆が囲ったことが嬢かしく思い出されます。 今や半世紀前のことなので定かではありませんが、写真中央のシンハル奏者がUさ ん、その左下隣のトロンボーン奏者がYさん、最下段左端がコルネソト奏者のKさん、 その右隣がトランペットの小生だと思います。 昭和32年卒業 上砂公昭 周年によせて 「昭和三十年ごろ…」 の、このときはバリトンを吹いた。全く音が出ず、これ が切っ掛けでラッパを吹くことになった。たった3つの ピストンの押し牙で全ての音が出せるとは誰も信じられ 戦争が終わって十年、カービン銃を屑にしたアメリカ 兵やアメリカ軍のジープが大津の街中から姿を消し、戦 す、「骨ごとに少しずつピストンを押して行くのだろう」 争の残骸も残り少なくなってきた頃・・tといってもま などと言っていた。楽器も教則本も乏しく、先生の才旨導 だ街中は填っぱく、通も街中の大通りが舗装されている くらい、郊外ではトラックが砂境を上げて走るのが当た り前、まだ蒸気機関車が黒いぼってりとした客車を引い て煙を吐いており、貨物列車は貨車を何十輔、いやとき も怪いずで、生徒が自分たちで奏法を考えなければなら ない全てが手探りの状態であった。 「膳所高のブラスバンド」 には首輌以上もつな\■でのろのろと踏み切りを「開かず」 ここに一枚の写真がある。高校野球のスタンド、甲子 にしていた頃・・・・ 園のスタンドで歓声を挙げている膳所高生の群れが写っ ている。その中に楽器を持った生徒が多数いる。この写 京阪電卓は駅に止まるたびに車掌がいちいちプラット ホームに降りて手で扉を開け閉めしており、まだ「稀釈」 は無かった頃・・・ようやく「戦後」が姿を変え始めた 真は昭和31(1956)年4月5日のものである。前年、近 頃である。確か、日管(今のヤマハに吸収された楽器メ 畿大金で優勝して、選抜高校野球大倉に出場した膳所高 ーカー)の一番安いトランペットでも一万数千円したと (まだ大津東と言って\■たかもしれない)は初戦、強豪 思う。当時のサラリーマンの月給は一万円そこそこでは 中京商業と激突、2対1で敗れた。写真は1点を入れた なかったカ、。大津駅前の食堂のすうどんが確か二十円。 東海通線の電化が始まり、滋賀会館の開館などがあった のもこの時代である。日本人が元気を取り戻してきた頓 わってくる。ちなみにこの大会では中京商が優勝した。 ときに撮られたもので、そのときのスタンドの興奮が伝 あくる日、4月6日大津駅で選手たちをブラスバンドが である。 迎えている。しかし、昭和31年にはまだ膳所高にはブラ スバンドは無かった。膳所高に吹奏楽が響く一年前であ 当時の滋賀県の音楽状況は、大津では「大津管弦楽団 (指揮者:片岡息長…元海軍軍楽隊隊長)」、「大津さざな み児童オーケストラ」、そして「大津少年吹奏楽団」な る。 では、膳所高の帽子をかぶって楽器を演奏していたの は誰なのだろうか。膳所高では甲子園に出場が決まり、 どが活動していた。昭和30年11月3E】(9:00am∼12:00 スタンドでブラスバンドで応援したいという希望があっ am)の第8回大津市文化祭では吹奏楽団は「ドナウ川 の漣」、「ペルシャの市場」などを演奏している。 たのだろう。今では珍しくもない風景ではあるが、当時、 ブラスバンドを伴った応援はそんなに多くは無かった。 県下の中学校にプラスパンドが出束始めたのもこのこ ろである。打出に大西、粟津に貴瀬、甲西に西岡といっ かった。要するに膳所馬は無いもんねだりをしたことに た先生方が居られ、旧軍楽隊の楽器や蔵に耽っている壊 れたような楽蚤をかき集めて修理し、さらに楽譜を読め ない生徒を集めて、−から立ち上げられたのである。著 学校に目を付けたのである。あの写真で衆寡を持ってい たいていは鐘と太鼓が中心で、吹奏楽のある学校も少な 者は昭和30年、粟津中学2年の春、初めてラッパなるも なる。そこですでにブラスバンドのあった大津市内の中 る生徒たちは、大津少年吹奏楽団の中学生たちで、粟津 中学の生徒と打出中学の生徒が中心になっていたと思う。 膳所高に初めて吹奏楽が響いたのは、その後の昭和32 年のことである。この年の 観幽霊)≡≡誓警…誓霊芝 した。全メンバーが十人に ならないくらいの小さな編 成であった。トランペット・ コルネット(2)、クラリ ネット(2)、アルト(1)、 バリトン(1)、トロンボ ーン(1)、ユーホニュー ム(1)大太鼓、小太鼓の ような編成であったと思う。 レパートリーは主に行進曲 と校歌、活動は高校野球の 応援と朝礼の新の校歌演奏 であった。新入生の経験者 だけではアルトが埋まらず、 昭和30年旧校舎個所苺校同原会公式ホームページより引用) 生徒会・副会長のTさんが みようみまねてアルトに挑戦してくれた。正式の愚見を 昭和32年の入学式のときとすれば、4月8日である。楽 器は全て新品。学校としては破格の出費だったに違いな 「当時の活動」 ブラスバンドの活動がどんなものであったかを述べて おきたい。このころ膳所高の野球部は近畿の強豪で、好 殺手石田(後、阪神タイガース)を損し県下におそれる もの無しの勢いであった。ちなみに昭和32年の麦の県予 速の結果は以下の通り。 昭苓]30年頃 7月27日:甲賀 対 膳所 0対3(ノーヒット/− ラン)、7月罰旧’伊香 対 膳所 2対6、7月3柑(決 勝)ノ\幡南 村 膳所 4対5、膳所が優勝。 当時、麦の甲子園に出るには、京滋大金で京都代表と の決定戦があり、これに勝たなければならなかった。滋 も多かったと聞く。 このように、発足した膳所高のブラスバンドは順調も・ スタートを切ったのである。活動は文化部というより運 動部のノリであったと思うが、音楽の教師からは「ブラ 賀県勢は対京都は連戦連敗で、このときも平安に6対2 スバンドのやっているのは音楽ではない」といわれてい で敗れた。応援周はブラスバンドを伴ってスタンドに陣 た。まあこういわれても仕方のてハ、面があって、音楽の 取り声張り上げ旗を振り、太鼓をたたいた。ブラスバン ドはこれと思うときには「士官候補生」「軍艦マーチ」「海 時間での部員の歌唱力は一部を除き、散々で音痴の見本 兵隊マーチ」などを演奏した。対平安戦のときは、平安 の校歌を聴いたとたんに選手も応援団も借りてきた猫み を担っていたと自戒。 その後、日本が豊かになってい たいになってしまった。平安の校歌は鬼門であった。 に到っているのである。 市のような様相を呈していた。かく言う著者もこの一端 くに従い、新品の楽器が続々と手に入るようになり今日 滋賀県での試合は彦根球場であった。県下で一応設備 の整った球場はここたけであった。膳所から貸切の′、ス に楽器と水を積んで8号韓を暑い中、填まムナLにこって 行った。8号線はまた未舗装で、ソロ′、ン連絡とあだ名 された凸凹遣たったので彦根への通は苦行て′あった。ス 「む す ぴ」 去年新しく÷った膳所高と吹奏楽班を見学した。著者 の2草生のときに木造校舎の鉄筋校舎への建て替えが始 タンドでは楽富を吹いてl■ないとさは声を出しているの まった。その校舎が跡形も貴く消え、三代目の近代的な で、銭合が終わると声が壊れてしまうのである。相手の 建物にもった当時の面影を残すものはほとんどなくなっ た。吹奏楽班もほとんどが女生徒になっていたのには驚 かされた。五十年という歳月は思いもつかぬことをして スタンドめがけての野次合戦もよくやった。「トタンベ ットー」などと野次られた。こちらのトランペットがト タンをたた\■たようにぺ−ン、べ一ンと聴こえていたら しい。八幡商業などにもプラスハンドがあったがまあ似 たようなものだった。あちらはブリキベットであった。 膳所高の野球部の資金時代はその後も続き、昭和34年 4月3日春の選抜では高知商と対戦、延長14回2対1で 惜しくも敗退(高知商優勝)、その夏の県大会は決勝で 敗れ、黄金時代は去ったのである。 ブラスバンドの応援以外の活動で大事だったのは朝礼 での牧歌演奏であった。著者などはそのおかげで校歌の メロディーはよく覚えているが、歌詞はおぼつかなくな ってしまった。その他の活動では、膳所や石山の地蔵盆 のときの演奏会がある。そのころ、母校の粟津中学では 地蔵盆での出し物のひとつとして会場の神社やお寺の境 内、路地などを廻って行進曲などを演奏していた。その 活動に加わって活動していたのである。母校とのつなが りも深く、学校の帰りに気軽によく立ち寄った。地蔵盆 でのブラスバンドの演奏は子供にも大人にも結ヰ人気が あった。この演奏を聴いてプラスをやろうと思った子供 くれる。中学生がアレキサンダーのダブルホルンを持っ ていたのに驚かされたのはバブル崩壊の前後だっただろ うか。あの頃より経済は悪化したといっても、昭和三十 年代の比ではない豊かさを現在は享受している。著者も そのおかげで自前の楽器をもつことが出束たし、その後、 現在に到るまで音楽を楽しませてもらっている。 昭和35年卒業 米田薫 剖班唖I周年によせて 「手作り時代の思い出“セピア色の記憶”」 今は、新しい校 舎ができて我々の 頃の校舎は消えて 37年4月から、この視聴覚教室の使用が認められたので す。但し視聴覚教室での音出しは固く禁止でした。4階 が図書室であり静粛を要求されていたカ、らです。どんな しまいま したが、 条件であれ部室ができたことは非常に阜ばしいことであ り、これから吹奏楽班の文化的活動が開始されることに なるのであります。 昔の玄関横の生徒 昇降ロを入ってす ぐ左に放送班の部 昭和38年頃 屋がありました。 その隣に木製のロ ッカーを置き、応援団が物置コーナーとして使用してい たスペースがありました。そこに木製というよりベニヤ の二段式棚が置いてありました。われらの初期ブラスバ ンド班の楽器庫です。ミカン箱位の大きさのダンボール 昭和37年度の文化祭では、当時流行していた接続曲形 式で、こじつけ話「ある恋のものがたり」を自作演奏し ました。中には、文化祭用のオリジナル編曲も含まれる 全て手作りの演奏会でした。ピーナノツベンダー、トリ ゴのセレナーデ、ある恋のものがたり、大脱走のマーチ (映画大脱走を見ての聴き取り写譜)、オー七の死(ペー 箱、それは楽譜入れであります。そして譜面台は折り畳 んでしまうための木箱がありました。それは長手方向に 紐がついた二人で持てるようになった2個の木製譜面台 ルギュントからプラス用編曲)など今は使カ、しい曲ばか 箱でありました。 クの入場行進の先導として、ただ単に入場ゲートから本 昭和36年頃の練習は毎日放課後に、体育館の舞台で幕 を閉めて行いました。体育館では、複数の体育班が場所 部テントまで約50mの直線部分を行進しただけでしたが、 りでした。運動会では初めてプラス′、ンドのパレードを やりました。といってもマスゲームではなく、各ブロッ を譲り合いながら練習していますが、舞台の上の幕の中 指揮杖が異常に垂かったことを変に覚えています。この 後で、音楽の青先生がブラスバンド班も音楽班の一つで はプラスパント専用でありました。この7ラス専用スペ あると認めて下さったことは今寺筆に値します。 ースまで毎日楽器と譜面台を運んで練習をしました。毎 時間は前後しますが、この年は甲子園へ野球応援に出 掛けました。野球出場は膳所高ではなく、大津商業でし 日譜面は回収することが前渡であり、指揮者は全員が利 用する楽譜を運搬し確実に譜面を管理する役目もありま した。指揮者がしっかり楽譜を管理しないと練習になら ないのです。従って班長が指揮者を務めることになりま した。 さて、当時の思い出のアルバムを気の向くまま開いて みましょう。 筆者が2年を迎えた春、昭和37年度の新入生歓迎演奏 会が実施されることとなりました。編成を尤来させるた めに筆者がアルトサックスを吹くことになりましたが当 たが、それぞれの個別のプラスでは見劣りがするという 理由から 膳所、大南、瀬田工、大津高の、どの野球部 が甲子園に出ても甲子園アルプス席の応援はこの4校合 同プラスが出掛けるという段取りでありました。各新聞 は春、麦を問わず、「友情応援」との記事が賑やかでし たが、甲子園での膳所高校野戎部は筆者の轟学中には実 現しませんでした。けれども大津市内の高校プラスの力 量アソプには膳所高7ラスが大きく貢献したことは間違 いありません。併せて許されるならば筆者の打出中での 然のこと、楽器がありません。当時、楽器を個人で所有し て他人に貸してくれる余裕のある人なんて滅多にありま せん。大津管弦楽団の関係で尾花川に住む奇特な人がい 恩師の息子のKS君は37年に入学してきていたのですが、 この友情応援の練習を通じて大津高校にいた白い帽子が ることが分かり自宅まで借りに行きました。本番1週間 後に結婚するまでに発展することをここに書き添えさせ ていただきたい。先立っては、この夫婦の娘さんが膳所 前から本番終了の翌日までアルトサンクスを借りること になったことを覚えています。貸す例も大変だが、借り る側も大変でした。楽器を借りて演奏するのは非常に厳 しいものですが、やらねばならぬ。苦労して実現した本 番の音を聞いた筆者と同じグラスの同級生、彼はプラス に所属はしていなかったが信楽中のプラス経験者であり 耳は肥えていました。彼のロからは、「うまいけど音が 竪\■!」…さもありなんと納得していた記憶があります。 そんな頃、昭和37年度ブラスバンド班長の選挙が行わ れました。従来からは粟津中の出身者が班長を務めて来 た経緯がありました軋 この年初めて才丁出中出身である 筆者が選ばれたと36年度の班長であるNT氏からイ云えら れ、「頑張って欲しい」との言葉を聞いたときカ、ら、次 の新しい伝説作りが始まりました。まず部室として体育 館の手前3階にある視聴覚教室の使用をお願いし、昭和 印象的なフルート・ピッコロ奏者のC嬢と懇ろとも−り、 高プラスOB会金具であることを発見して時間が経って しまったことを再認鎖したことを併せて書いておきます。 施設慰問も、この年から始まりました。落穂寮、近江 学園、滋賀保護院などへ出掛けていったことは懐かしい 思い出であります。世の中、皆が生の音楽に飢えていた 頃だからこそ、我々の演奏でも、もて噴されたのでし上 うか、いずれにしても、音を出す横合が数多く与えられ たのは膳所高プラスにとっては救いであったのカ、もしれ ません。楽器が班員それぞれに行き渡るまでに増え、次 のNY班長へとバトンを渡すことになったのは筆者にと っては幸運でした。 昭和39年卒業 河原林晋 「平成19年8月開催の創班50周年記念同窓会へのメッセージより」 その時の部長が紋KYさんです。その当時、コンクール 出場のた耳目二は、まず部員の確保・楽器の問題等難題ば かりでしたが、コンクール初出場を目標に高校生活最後 の夏休品を過ごせたことが一番の思い出てす。そして1 年後には野球部が夏の甲子園初出場、その時の部長が枚 HM[通称キノチャン]さんです。おかげで楽器も部員 も充実し何年かの紆余曲折を経て3年後には関西コンク ール初出場を果たしたのてした。今は関西コンクールの 常連校となり、毎年の定期演奏会も盛大に催されている 昭和45年頃 そうですが、50年の間にに3回の<初>の出束事があっ 膳所高校吹奏楽班創班50周年おめでとうございます。 記念同窓会の開催にあたり私の思い出話を聞いていた だきたく筆をとりました。まず自己紹介・昭和47年卒フ ルートパート寺田敦子と申します。入学当時の部長はト ランペソトのTMさんでした。図書室下の視聴覚教室て 数人の部員が思い思いに自主練習しているだけの日々て しが、吹奏楽祭近くになるとKKさんが自身で編曲され たベルリオーズの「絞首台の行進」の楽譜を持参、その 後は次々と楽器が運びこまれ先輩達が次々と現れて練習 が始まりそして本番。また暗い視聴覚教室での自主練習 の毎日でした。そして夏休んには野球部の応援のため連 日皇子山球場へ。すると勝ち進んていく毎1こ先♯連が楽 たこと、そしてHMさんと同学年のTKさんも亡くなら れており、この3人のお葬式に参列した者からのメソ七 一シとして本日出席された一Cの片隅にしまっていたたけ れば幸いです。 同封いたしました写真は昭和46年夏のコンクールてす。 牧HMさんのお母様が出版された冊子がどうしても見つ かりませんでした。どなたかお持ちの牙がおられました らこの横合に一人でもたくさんのOB合員の目にとまれ ばうれしく思います。 最後になりましたが、今後のOB会の発展と吹奏楽班 の活躍をお祈りいたします。 器持参で応援に加わられ、黙って帰っていかれる……そ んなクラ7活動でした。 そして2年後に吹奏楽コンクール初出場となりますが、 昭和47年 平成19年8月 昭和47年卒業 寺田敦子 周年によせて 「高校時代の記憶(1972−74)」 昨秋、没後50年を迎えたイギリスの作曲家ヴォーン= ウィリアムズについて原稿を書く機会があった。その準 備のために様々な作品を聴き直し、ゆったりと暖かいそ の響きに一心地よく浸りながら、「私ってけっきよく高枚 時代から何も変っててい、んだなあ」と苦笑した。音楽に 目が開かれたのは中学時代だが、音楽的な嗜好(指向/志 向/思考)の原点、とりわけイギリス音楽好きのきっかけ は、明らかに膳所高吹奏楽班での体験にあったと思う。 当時としては珍しくイギリス志向の掛、バンドだった。 そもそも1年生で入って最初に練習したのがホルストの (組曲第1番)だった気がする。ホルストはその後も組 曲く惑星)の「火星」をやったし、ヴォーン=ウィリア ムズのくイギリス民謡組曲)はたしか2年次にユーフォ ニアムで吹き、3年の時には指揮もした。行進曲といえ ばスーザよリアルフォードで、しかも有名なくボギー大 佐〉ではなく(シン・レッド・ライン)やくナイルの守 り)を何度も何度も演奏した。アメリカ風の派手さはな だが、どうだったか。いずれにしてもその頃、部室であ り練習室であった「視聴覚室」で、この(前奏曲〉をひ たすら練習したことは聞卦、小、。編曲は3年のOS先 半。今思えば、それなりの規模の管弦楽曲を高校生が吹 奏楽に編曲して自分たちで演奏する、というのは、なか なかすごいことだった。OS先半は体育祭でファンファ ーレの作曲などもされていた。卒業されるときには77 リャのく三角帽子〉組曲を編曲して、スコアを置いて行 かれた。このく三角帽子)、結局私が卒業するまでの2 年間に演奏する横合がなかったのは、残念であり、大変 申し訳なかったと思う。あの鉛筆書きのスコアが今も保 管されていたら、いずれOB演奏会ででもぜひ演奏して もらいか、と思うのだけれど、残ってないだろうなあ。 7月からは麦のコンクールに向けて練習。そのさなか に、野球部が予選をどんどん勝ち進んで何と甲子園出場 を決めた。13年ぶりの出場ということで後援会が結成され、 集まった応援費用の一部が吹奏楽班にも回ってきて、た いが、ロイヤル・マリーンズぼりのまろやかな響きが持 しかグラスファイバーの真っ白なスーザフォンを買って ち味だった(妄想)。 紀憶だけではいいかげんになるので、当時のプログラ もらった(バリトンサックスも一緒だったかもしれない)。 ムなどを引っ張り出してきた。実家から目に付いたもの を適当に持ってきただけなので、欠落や間違いも多いと 思う。今後どなたか補って\■ただければ有り難い。 「昭和47年度クラブ鼻名簿 膳所高校吹奏楽班」と覆 された、藁半紙にガリ版のプリントがでてきた。私が入 学した年だ。人数を数えてみると3年生が9名、2年生 8名、1年生15名、総数は32名。ただしその1年生の中 に、私の名も、同じ中学出身のOK氏の名前もない。そ ういえば最初の頃、入部するかどうか二人でしばらく迷 っていたような記憶が建ってきた。私たちが入る前に作 嬉しかった一方で、他の班の活躍のおかげで楽署が増え たということには何となく複雑な思いを抱いた。みんな でパスに乗って甲子園まで行ったが、広島の広陵相手に 9対0の惨敗だった(その6年後に桐生から喫した18対 0よりはましだったが)。 それから2週間もてい、8月23日に、今度はわが吹奏楽 班のコンクール本番が来た。プログラムによると場所は 草津市民会館。高校の部全8枚の3番目が私たちで、H M先牛の指揮で36名が課魔曲の三沢栄一くシンフォニソ グ・ファンファーレ)と自由曲のウィリアム・ゴールド られた名簿なのだろう。32名を′く−ト別に数えると、フ シュタインく交響的楽章)を演奏した。この自由曲がけ っこう難物で、告白すると最後まで「何だかよく分から ルート5、クラリネット9、サックス2、トランペソト ない」という意識がつきまとっていたような気がする。 4、ホルン5、トロンボーン3、ユーフォ二アム1、バ ス1、パーカッション2という編成になっている。 結果は三位だった。たしか膳所は前年にコンクール初出 場、三位入賞を果たしていたから、それより下がること 同じ年の5月19日に体育館で行った「第4回定期演奏 はなかったものの、上がりもしなカ、った訳だ。ちなみに 会」のプログラムもあった。B5ベラベラのカリノ版刷り 2位は大津、1位は当時盤右の甲賀(今の水口)。自由曲、 藁半紙に、曲目と解説、メンバー表がきっちりと書かれ ジェイガーのくシンフォニア・/どリッシマ〉は名演だ った。かなわないなあ、と思った。 ている。曲は(1)ビクター・ハード(コラールとフー ガ〉(2)岩河三郎く冬山に逝ける若者への祈り〉(3) 野波光雄(復帰への前奏曲〉(4)パート・バカラック(岩 井直滞編曲)く雨にめれても〉(5)グスタフ・ホルスト く組曲第1番)。なかなか良いプログラムだ。前半の邦人 2作品は最近あまり演奏されないのが惜しい名曲だし、 後半にはホルストの組曲がしっカ、りと構えている。指揮 は3年のHM先ず。グラシソク通で、「オーケストラで は弦がメシ、管打はおかず。吹奏楽はお力、ずだけででき てるんだ」てなことを言われたことが印象に残っている。 あれ。このメンバー表にも私とOKの名前がない。もう 少し早く入ったと思っていたのだが、そうか、この演奏 会を聴いて入部を決めたのかもしれてい、。なんだか生意 気な新入生だったようだ。 ともあれ、恐らくこの演奏会のあと5月下旬には入部 秋から冬にかけて文化祭その他あったはずだが、記録 も記憶もない。この年皮のどこかでウェーパーの(オイ リアンチ〉序曲を練習したような気もするが、定かでは ない。 手元にある次の紀録は、翌年6月24日の「第11回滋賀 県吹奏楽祭」(甲賀高校)。膳所の出番は11番で、FM先 輩の指揮のもと36名がアルフォードの行進曲〈なつかし の′けマ〉とホルストのく惑星〉より「火星」を演奏し ている。とはいえ、実はこの時、私は演奏に参加してい した訳だ。最初の目標はたぷん6月の滋賀県吹奏粂祭だ か、。前年度の未からこの時期まで、退部をしていたの だ。先立つ春の定期演奏会の記録が残っていないのも、 た.;:んそのためである。退部には大した理由があった訳 ではない。今思えば要するにただ、ごねてムたかっただ け。本当にわがままで面倒な部員だったと思う。 結局その後後帰して、夏のコンクールをめざす。「昭 ったはずだが、その資料は残ってい■ ハ、。曲はリストの 和48年度、第9回滋賀県吹奏楽コンクール」。8月13日 交響帝く前奏曲(レ・プレリュード))だったと思うの に守山高校で行われている。膳所は仝7枚中5番目の萱 ドーティ 《ボンセ・デ・レオン序曲〉、リューク(プレ リュードとマーチ》、(襖)ヨハン・シュトラウス(狩の ポルカ》、(仏)ブルー〈ふたりの天使〉、(甘)静岡県民 謡《ちゃっきり節》、(伊)交響荷電ローマのな)より「ア ′ピア街道の松」。欧米5国に日本を加えただけで「世 界の音楽」とは呆れたものだが、当時はこれで満足して いた。  ̄  ̄ __− 昭和48年 場で、課題曲の名取吾朗《アラベスク》 に加えて自由曲 として邁んだのはホルストの《第1組曲》(第1・3楽章)。 前の年から演奏してきた十/\番に、麦休みの集中練習で 磨きをかけた。2位になった。関西に1枚しか出られな いのが悔しかった。ちなみに相変わらず1位の甲賀の自 この時の演目から 《狩のポルカ〉 と くアッビア街通の 松》を吹奏楽祭に持って行った。「第12回滋賀県吹奏楽祭」、 昭和49年6月23日 =ヨ)。会場は南北2会場に分かれて いて、膳所は当然南の大津高枚。9時開始のトノブパソ ターだったようだ。プログラムによれば36名。この人数 で《アンビア街護さ とは無茶をしたものだ。〈イギリス 民謡組曲》の万が編成も内容も身の丈に合っていたはず なのだが。何というか、見栄が張りたかったのだろう。 この年の関西吹奏楽コンクールは、大津で行われた。 本束はイングリッシュ・ホルンの長いソロは、OYさん がアルト・サックスで吹いてくれた。冒頭の朝もやの感 じを出したくて、クラリネットに最鍔奏を要求した。「美 しいピアノを出すことが大串」だと思いこんでいた。「や 9月16日の本番に先だって私たちも駆り出され、新設間 かましい吹奏楽」に抵抗があったからだが、無論、間違 もなかった滋賀県止体育館で会場設営をしたのを覚えて いる。当日は今津中学、天理高枚、阪急吹奏楽団といっ したものだった。 いだ。デュナーミグは相対的なものだから、むしろフォ ルテをより豊かに響かせることを.亡がければ、ピアノは さほど無理しなくても美しく聞こえるはずなのだ。後半 に出てくる「2柏5連の最初だけ休符」というリズムで 吹奏楽祭とコンクールの両方でホルストを採り上げる という辺りに、FM先輩のこだわりが見える。冒頭で触 れた「イギリス志向」も、実は多分にFMさんの影響だ も、楽譜通りの演奏を求めた。プロオケなどでは「2連 符+3連符」と合理化するところなのに、無駄な努力を 強いたものだ。経験を伴わない頭でっかちの独尊に、よ ったかもしれない。色々なことに詳しくて、たくさんの くみんな我慢してくれたと思う。 ことを教わった。退部したり戻ったりのごたごたも含め、 よく我慢して付き合って下さったと思う。あ、これはF M先ずだけでなく、同じユーフォのHY先ずはじめすべ ての先輩たちと同輩たちにもいえることた。多謝。 とコンクールでやる」というFM先半のやり方を真似た くて、レスピーギ唯一の吹奏楽曲《′、ンティング・タワ ー・ハラード》の楽譜を探したのだが、手に人らなカ、っ 由曲は、同じくホルストの《木星》 だったようだが、前 年と違って記憶1こ残っていない。 た当時の常連トノブ団体の演奏がまとめて聴けて、興奮 「こだわり」という点では、サン=サーンスの《アル ジェリア組曲》全曲をやったのもこの年だったよう1こ思 う。「フランス軍隊の行進」だけが有名で、オーケスト ラでも全曲はめったに演奏されないが、それをやってし まうところがFM先輩らしい。本番の記憶がないのだが、 私が抜けていた春の演奏会だったのか、秋の文化祭だっ たのか。ある程度の密度で練習した覚えはあるので、ど こかで演奏したはすだと思う。′、チャトゥリヤンの《ガ イーヌ》組曲も練習した盲己憶があるが、これはコンクー ルか何カ、の候補としてやってふただけで、本番はなかっ たと思う。 恐らく秋のうちだと思うが、いずれにしてもそこら辺 で次期役員が決まり、次の部長と学生指揮を任されるこ とになった。人望も指導力もないのによく選ばれたもの だと思うが、要は吹奏楽というものに一番はまりこんで いたからだろう。指揮者デビュー(?)は文化祭か体育 祭だったはずだが、よく覚えていない。 「同じ作曲家のオーケストラ曲と吹奏楽曲を吹奏楽祭 た。仕方ないので、レコードで聴いて「格好いい」と思 っていたジェイガー(当時はイエーガーと呼んでいた) の《ハントのための交響曲〉終楽章をコンクールの自由 曲とすることにした。これも、特に編成の点で相当無理 のある選択だったが、当時は足りない楽器があるのは当 たり前だったから、何とかなると思っていた。コントラ バスタラが剥き出いこなる部分は弦パスでやってもらっ た。ファゴ/トはサ′クスで代用した。どうにもならな かったのがオーボエだった。代わりにどこかでソプラノ・ サックスを借りようとしたが、だめだった。トランペッ トのミュートで誤魔化すには音域が高すぎた。大阪の楽 雰店で格安のオーボエを見つけ、これなら部費でまカ、な えると思ったが、方式が特殊で使えないものだった。さ んざんどたばたしたあげく、結果的には中学時代オーボ エ経験のある子に楽器を買わせることになってしまった。 形の上では自主的な申し出を阜んでお受けしたのだが、 後から考えたら、あれはやはり半強制的というべき流れ だったと思う。オーボエの高額さは尋常ではない。本当 そんなこんなで先輩たちを送りだし、私たちが最上級 にとんでもないことをしたものだ。ごめんなさい、NY になる。「吹奏楽班春の定期演奏会6th.WindEnsemble さん。その後大学に進んでから知り合った友人にこの時 のテープを聴かせたら「オーボエうまいじゃん」と言っ Concert」というガリ版刷りのプログラムがある。私の イルの守り》、ヴォーン=ウィリアムズ《イギリス民謡 てくれた。私にとっては少し精神的な救いとなったが、 その声が本人に届くわけもなく、やってしまった罪が消 えるわけでもない。 組曲》、(米)ネリベル≪フェスティーヴォ》、オリヴァ 課題曲は、小林徹の変拍子を含むクラシカルな《吹奏 字だ。1974年5月18日12時から、本牧体育館。「世界の音 楽」と銘打って、中身は(英)アルフォード《行進曲ナ 創月狂句回周年によせて 楽のためのシンフォニア》 と河辺公一によるジャズ風の 行進曲《高度な鼓術への指標》からの選択。迷わす《シ ンフォニア》 を選んだ。中間部はアレグロだが、楽想か らみてやや埋めの万がドラマティ ノクで良いと思った。 途中にル7ト・パウゼの記号(.)があり、そこではや や長めの間をとることで緊埴感を出そうとした。 「昭和49年度、第10回滋賀県吹奏楽コンクール」。8月 10日(土)、甲西中学校体育館。高校Aの部全8枚中の 5番目が膳所高校、36名だった。控え室で通し練習をした。 時計を見てくれていたOBの表情が「制限時間オーハー」 七・気分になっている。 その文化祭の写真が何故か残っている。そういえばこ の時、モーツァルトのホルン協奏曲(第3番の第2楽章) も演奏した。ソロは3年のST氏。伴奏の楽譜は、ピア /スコアから私が適当にアレンジしたのだったと思う。 他に何をやったかはよく覚えていくハ、。いずれにしても この文化祭をもって、私たちは引退したはずである。 自分の指揮で練習した覚えのある曲としては、クリフ トン・ウィリアムズの《フェステイヴ7ル》 や浦田健次 郎の《メタモルフォーシス》 などもある。《フェスティ と言っているように見えた。さんざん苦労して来たコン クールが失格になっては泣くに泣けない。本番ではジェ イグーのテンポを少し速めにとった。みんなはついてい くのに大変だったようだ。結果は、甲賀、石山に次ぐ3 位。前年より順位を落してしまった。しかもこの年から ヴァル》の方は文化祭あたりでやったような気もする。《メ タモルフォーシス》 は、ただ「現代音楽にも挑戦してみ よう」程度の/りて練習したたけたったかもしれない。 パートごとにアンサンブルを組んで班内アンサンブル・ 関西進出が2校となり、前年並みでも関西大会に行けた 8重奏の一員としてユー7才を吹いたはずたから、まだ はずなのに、それも逃してしまった。「指揮者がアかっ てしまっちゃ、しょうがない」という後輩の声が耳に入 才旨揮専従になる前、2年から3年に移る3学期あたりだ コンテストみたいなことをやったこともある。私は金管 ったたろう。NJ氏やOYさんを中心としたサノクスの ってきた。「アガってたわけじゃないんだけど」と.この グループが一番良い演奏を聴かせてくれたように覚えて 中でつぶやいた。 いる。 その場にいた中学時代の恩師が、「あの演奏が3位止 まりだったのは腑に落ちない」とわざわざ審査員に尋ね てくれたそうだ。「課題曲の解釈に問題があった」とい う答えだったという。自由曲のテンポの速さも、それに 3年の春だろうと思うが、みんなて奈良に速足に行っ たこともある。これも実は、私の浅慮によってみんなに よって生じた不揃いも、審査員の耳lこは届いていなかっ た。課題曲における私の独尊的な解釈が、順位低下の要 因だったのだ。私自身は今でも、あの解釈は許容範囲内 だと思っている。だがコンクールという場では、まず「審 査員に受け入れられる演奏」を心がけねばならなかった。 そういう常識を当時の私は知らず、結果として先発たち が積み上げてきた記録に傷を付けてしまった。翌年のコ ンクールで膳所は再び2位に返り咲き、関西大金にも連 続出場を果たすことになる。当時の膳所高吹奏楽班の歴 史の中で唯一の汚点。その貴任は、ひとえに私にある。 迷惑をかけた苦い記憶の一つだ。膳所駅集合の時間を決 めたのはいいが、信楽線がずいぶん早い電卓しかなく、 沿線の部員は膳所駅でかちり待たなければならない、と いうことが分力、った。私は信楽練が膳所駅に着く時間に 合わせて全員の集合時間を早めることにした。当日その 時間になったが、野洲の子が一人だけ束も・し■。しかたな く残る全員で出発した。後から聞けば、彼の家には電話 がなく、時間変更が伝わっていなかったのたそうだ。彼 は最間に決めた集合時間に到着し、誰もいないのを不審 に思いながら一人で奈良に行き、一日中私たちを探して いたそうだ。本当に申し訳ないことをしたと思う。 気負いばかりが先に立ってみんなを振り回したあげく、 迷惑をかけるたけで何一つ貢献できなかった。苦い思い がつのるだけだと分かっているカ、ら、高校時代を振り返 ることはなるへく避けてきた。でもヴォーン=ウィリア ムズの響きに包まれながら、やはり自分の原点は高校時 代でしカ、ないのだと、あらためて思った。 何でも自分たちでやった。専門的な指導者もトレーナ ーもいなかったから、やるしかなカ、った。自分たちの音 昭和49年文化祭 頭でっかちだったから「交響曲なのだから終楽章だけ やったのでは不充分」と思い、秋の文化祭でジェイグー を全楽章演奏することにした。体育館のステーシで、吹 奏楽班の順番が束た。演奏を進めていったが、どうも進 行が予定より遅い。生徒会からは時間厳守を言われてい た。その場の判断で、第3楽章を割愛することにした。 結局、全曲演奏は果たせなかった。無理ヤリにでも全楽 章やっておくへさだったと、今は後悔している。数分超 過したところで何とかなっただろう。浅はカ、な思い込ん で、それまでのみんなの努力を柴にしてしまった。それ から35年たった今年、OB演奏会で仝楽章が演奏される というのを知って、変も・話だがようやくほっとしたよう 楽を自分たちで作ろうとして、実際それもりに実現でき るだけのカを持っていたのが、当時の膳所高吹奏楽班だ った。そういうカを持った先輩たちや仲間たちと、あの 頃一緒に音楽できたこと、それが私の出発点であり、私 はそこから何も変らぬまま馬齢を重ねている。 昭和50年卒業 吉成(増田)順 平成14年旧校舎 (諸所耶礪空合公式ホームページより引剛 昭和5D年間西吹奏楽コンクール(奈良県民文化会詑) 「関西コンクール初出場」 第3回OB合同演奏会の開催おめでとうございます。 関西コンクール初出場というお題を頂鼓したわけですが、当時は(もう33年も前に なりますが)編成もコンクールの定員45人に対して36人、指揮をほじれ 運営はすべ て生徒が自分たちで行うという状況てした。今から考えるといろんな意味で資源的な 制約が多い中、自分たちなりにがんばって、その結果として演奏を認めていただき、 関西大会のステージに立つことができたのは今から思い返しても光栄もことだと思っ ています。また、そのことが班の長い歩みの中て、何かの節目となり、のちの班員が 少しでもがんばれる元となることができたのなら、これほど嬉しいことはありません。 本日の演奏会には当時といこ活動したメン′、−やお世話になった先輩も参加されて いると聞いています。今も楽器を携え、演奏活動を継続しておられること1こ、多くの 敬意と多少の羨望を感じつつ、演奏会のご成功を祈念しております。 昭和51年卒業 久世昌則 PROGRAM 第Ⅰ部 行選曲/ ̄拶甲好打でノ 雄J.アルフォー♪ソ 1960年代の当吹奏楽斑にとって、マーチといえばアルフォード作品。「銃声」「ナイルの守り」に続 くOB合同演奏会第3弾です。 シンコペーテッドマーチ〃軌別れ噺かってノ 「芳井虐▲滞ノ 1972年度全日本吹奏楽コンクール中学の部課題曲で、初のポップススタイルに皆が魅了されました。 アラフイフ?世代が吹奏楽を始めたころの思い出の一曲です。 廊掘佑′タのの 動 け.オリグァドーデイノ 吹奏楽のための楽曲が極端に少なかった1960年代において、平易ながら格調高く、各パートの奏者 を満足させうる要素をもった逸品で、吹奏楽史に残る名曲の一つにあげられます。1947年作曲。 吹奏柴のための小度讃曲 「.大君許ノ 1966年度全日本吹奏楽コンクール高校以上の部課題曲。“東洋のバルトーク’と称きれ、「大阪俗謡 による幻想曲」などが愛奏される大乗裕(191&1982)の小品。今も根強い人気を保っています。 成典序曲 rp.ショスタコープイチ/βノーンスノ7−グー扁ノ 1954年作曲の管弦楽曲。1970年頃の吹奏楽の重要なレパートリーに。しかし、当時は金管のハイ ノート・木管の運指等の技術がクリアできず、憧れの存在に。西宮市立今津中学校の快演を聴いては ため息をついていました。今回は30数年の時を経て全力で挑戦します。 サムシング rGノ、リスン/芳井虚●滞厨ノ おなじみビートルズナンバーで、ジョージ・ハリスンの作品。ここでは、甘美なバラードをユー フォニアムが歌い上げます。本日のソリストは、井上泰介さん(S50卒)。 ゴッドファーザーパー♪∬∼愛枕許の手に 「凡ロータ/芳井虔汐編ノ 吹奏楽のソロ曲としてはよく知られたレパートリー。ニューサウンズ イン プラス シリーズの一 つ。トランペットの竹内順一さん(S56卒)は、現役時代にもこのソロを担当しています。 ユーミン・ポートレー♪ ぐを庄谷曲者/貞屋俊美扁ノ 1970年代から日本の音楽シーンをリードし続けている松任谷由実のナンバーを集めたもの。青春の 甘酸っぱい記憶がよみがえります。 PROGRAM 第Ⅱ部 棚「孝の組 rA.リードノ 20世紀を代表するアメリカの吹奏楽作曲家アル7レッド・リードが、「春の猟犬が冬の足跡をたど る頃」の句で始まるイギリスのスウインパーンの詩から曲想を得て香いた讃軋吹奏楽斑第1回定期 演奏会(19朗F3)でも取り上げました。 デイズ土−メルー∬ 「蕗膚俊彦扁ノ ディズニーの名曲のメドレー。「メリー・ポピンズ」「シンデレラ」「不思議の国のアリス」「ピータ ー・パン」などから親しまれているものが選ばれています。 吹奏碧のための細密 佃.且.ジヱイグーノ ∫ 血−da扉ee印reSSJvo−A上Je卯一血】da血e ∬ A肋几ぬrc血 ∬ ⊥aJ甘)e5pre55ル0 ⅣA〟egroco乃血oco−Anda扉e−A〟e伊1)mOルodvace一汁eS【0 1970年前半、先述のアルフレットリードと並び人気のあった吹奏楽作曲家が、同じアメリカのロ バート且ジェイガーです。「シンフォニア・ノビリシマ」にみられるような、吹奏楽ではかつて経験 できなかった程の至高のロマンティシズムに誰もが酔いしれました。なにより彼の名声を高めたのは、 1963年に作曲され、1964年のABA(米国吹奏楽指導者協会)オストウオルド作曲賞に輝いた「交響 曲第1番」ですo p・ヒンデミットの「交響曲変口調」など、大家の書く作品以外のバンドのための交 響曲が珍しい時代に、第1楽章冒頭のモティー7が全4楽章を支配するという本格的な構成をもつこ の作品は、その初演も大成功をおさめ、各メディアも大々的にこれを報じたそうです。 この作品・原題は“吹奏楽のための交響曲【とあるのですが、1976年に「交響曲第2番」が出版さ れたため・以降こちらは甥1軒と表記されるようになりました。残念ながら今は絶版となり、わ が吹奏楽班楽譜庫に眠る当楽譜は、極めて貴重な存在となりました。 第4楽章はかつて自由曲ピースのひとつでした。当吹奏楽班も、1974(昭和49)年8月に甲西中学 校体育館で行われた県コンクールにこの曲を引っさけて挑みました。テンポは速めのたいへんエネル ギッシュな演奏、各ソロが上手だったとの思いがあります。惜しくも第3位となり、関西大会へ進む ことはなりませんでしたが、訓練的あるいはドリルのような練習が当たり前の当時の吹奏楽において、 音楽するまたは表現することを感じさせてくれる演奏として、妙に印象に残りました。 前回のOB合同演奏会後、この作品全楽章の演奏を推す声があり、これをメインとして今回の選曲 が進められました。やや言い過ぎかもしれませんが、往年の膳所高校吹奏楽斑の「顔」ともとれる曲 です。最後までごゆっくりお楽しみください。 11 MEMBER OB出演者 ()内卒班年 CO〃pUC7℃点 中嶋 民男(S53) 0βOE 本多 麻子(Hl) 溝上 厚子(H13) ダムUrE 宮川 和則(S50)吉田稚加子(H9) 伊藤 幸子(Hll) 村田あづさ(H12) 遠藤祐理奈(H18) E CLAR〃gr 相澤 千絵(H5) CLARJ〃gr 伏木 雅人(S49)安富 三子(S50) 奥村 由紀(S61) 安藤のりみ(S62) 寺村 美苗(H5) 金森 康峰(H7) 川島 幸子(H9) 竹内 朋香(H18) βASgCLA点〃gr 河原林 琶(S39) J狙GOr7り 植西 美佳(H20) A上一m5Ag0タ〝0〃E 八田 眞範(S58) 吉田 浩子(H12) 井上 紗希(H20) 7甘ⅣOR5AズOP打0〃E 由元 明子(S63) 天崎恵理子(H17) 遠藤友美悪(H20) βARJm〃E5Aズ0ア〝0〃E 小野 晶子(Hl) rR川Pgr 岡田 浩二(S50)竹内 順一(S56) 寺田 直美(H8) 小山 徹也(H9)藤田 亜郎(H12) 福西 洋一(H16) 大井 志織(H18) 上田絵里奈(H18) 用gⅣC〝〟OR〃 佐伯 幸良(H53)坂田 誠(S55) 北脇 知己(S59) 寺 咲子(H8)松井 美和(Hll) 菊井 杏奈(H14) rR0〟脚〃g 横田 稔(S51)上原 健一(S60) 奥村 篤(S60) 濱田 明美(S61) 小澤 明弘(H4) 井上 雄(H13) E以P〝0∧甘〃〟 井上 黍介(S50) 関谷麻里絵(H17) 門松 昌吾(H20) rUβA 井上 一郎(S51) 福永 章人(H20) 5mJⅣ6月AgS pERC【/5gJOⅣ 山田 敏男(S56)内山 博史(S61) 飯田 朋子(Hl) 横瀬 麗子(H9) 中野めぐみ(H19) SmrF 園 洋司(S38)大矢 敦(S52)木塚 聡明(S53) 112 現役生出演者 く全曲〉は全曲出濃、く合奏〉は2部の合♯2密出演 FLL/7「E 2年 布施まゆか〈合奏〉 1年 石田 絵美〈合奏〉 2年 上田 美由〈合奏〉 佐藤 彩織〈合奏〉 1年 鎌田 瑞穂〈合奏〉 春日 義彦 牛尾干都里 吉田亜矢カロく合奏〉 CLAJ〃Er 2年 吉村 萌〈合奏〉 林井未沙希〈合奏〉 島田 夏海〈合奏〉 原田 祐子〈合奏〉 山口あかり〈合奏〉 1年 井上 由実 近江 玲子 福井 理奈〈合奏〉 中川 佳子〈合奏〉 橋本 咲月〈合奏〉 櫻井 絵和子 中村 朱里〈合奏〉 市木 干裕〈合奏〉 風45 cc AR〟Vgr 1年 絹谷 果歩く全曲〉 2年 大矢 干紗〈合奏〉 1年 大場梨紗子〈合奏〉 A上TpSAgOP仔0〃E 1年 空岡 大地〈合奏〉 武川 清香 坪川 若く合奏〉 rE〃OR5Ag0凡打0Ⅳg 2年 普賢 淳子〈合奏〉 1年 上田真友香〈合奏〉 鮎RJ明朗ズ0凡打0〃E 2年 田村 絢子〈合奏〉 れ靴川〃堰T 1年 宮崎 夏実〈合奏〉 2年 高田 真突く合奏〉 橋本 阿季〈合奏〉 1年 木本 早紀 滝沢ひかり 櫻田 詩織 森田佑美枝 奥村 美咲 ダ尺gⅣC〝〟OR〃 2年 内田 弘子〈合奏〉 中嶋 康介〈合奏〉 1年 森田真由香 木林 明子 藤本 優子 rRO〟80〃E EUP打甜〝川 2年 宮野 裕子く全曲〉 1年 上野 達也 坂東 恵 別所 蓮〈合奏〉 2年 岸場 晶子〈合奏〉 1年 小林 眞弓 獅子堂恵美〈合奏〉 2年 多川実紗紀〈全曲〉 青山 良正 1年 湯原 憲 grR〃VGβAg5 2年 西大路 香 上野 泰佳〈全曲〉 福西 拓也〈全曲〉 PERCと/ざ5JOⅣ 2年 瀬Jll 奈央〈合奏〉 重松 芽衣〈合奏〉 1年 熊井 責啓〈合奏〉 三上 莱〈合奏〉 堀池 さくら 山根 由悍 岩本 悠花 15 丸 ぎ ん ◆校歌◆ 二つよノ ﹁み 1魂港の湖 日に映えて 炬ぬ炬猷 お問い合せは膳所高等学校まで√077−523−2304 監噺離し 会場:大津市民会館大ホール(入場無料) 暫く等鉦管 日時:2009年3月26日(木)18時30分開演 警て立言欝かは .そり 九 二ノ く 膳所高等学校吹奏楽班 第26回定期演奏会 われらが永久の 批椰ぞ 2温泉の華温く風に い守で鰍へむ わ帆か 忘凰姐址 松艶の 獣かふ部に 叡よみて ともに啓かむ わが智隠 3良卑し二に 艶ひては ス邸の砂檻裏がじ J〃JL 星霜三たび 刻昔して 不壊の感が いや固く かんの軌鮮 継ぎゆかむ と こ ; . 、 、 L︰虻 ■乱数鮮 烏浩J .ここ攣、 現役定期演奏会のお知らせ ゆ じ 新校舎(田所砧校同窓会公式ホームへ−シより引用)
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