イラン革命 宗教革命に翻弄された日本企業の国際戦略 山本淳二 1 はじめに 高度成長の成熟期に起こった日本の国際戦略 の行く手を阻む世界史の流れ。 企業努力で克服できないリスク。 異なった文化・習慣の中でビジネスを成功させ る事の難しさ。 今でも生きている25年前のイスラム革命。 2 話の焦点 第一章: オイルショック=オイルビクトリーから パーラビ国王体制の凋落まで。 第二章: 革命とタイヤ工場の運営。 第三章: 国有化と経営権の移譲。 3 第1章: 近代化の推進 1962: パーラビ国王の白色革命。 1964: イスラム至上主義指導者ホメイニ師の 国外追放。 1971: 石油消費国の石油危機と生産国の石 油勝利とイランの躍進。 4 第1章:経済的拡大策 1971~:オイルマネーによるイランの工業化 の加速。 1972: イランー日本石油化学巨大プロジェ クトの発足。 1974: ブリヂストン、イランプロジェクトスター ト。 1976: ブリヂストンイラン(BS-Iran)工場生 産開始。 5 第1章:近代化の躓き 1978: 1月; 革命の発端: 急速な近代化に反対する勢力による反国王デ モーーー宗教都市ゴム。 5月〜8月;火種の拡大: 反国王デモ、首都テヘランに飛び火、更に、主要 大都市、イスファハン、タブリース、マシャド、及び シラズに拡大。 6 第1章:革命の序章 1978: 8月; 革命への起爆剤: 南部石油工業都市、アーバダンの映画館で放火と 見られる火災で500人が焼死。 主要国営企業、民間大企業が 政治ストライキ。 同時にイスラム原理主義者による非イスラム、外 国人の排斥の動き。 7 第1章:一般市民の参加 1987; 9月; 事態混乱: ラマダン月の断食明け、各地の集会で宗教の尊重 を訴えるデモ、警官隊と衝突。 9月8日;全国主要都市に戒厳令。 戒厳令下、初めてのゼネストが決行され、反国王 色が一般市民に広がる。 8 第1章: イスラム至上主義の登場 1978; 9月;ホメイニ師の登場: 宗教指導層と国民前線指導による連日の大規模 デモ。政府、国軍、特別警察の鎮圧で死傷者多数。 国外追放中のシーア派最高指導者ホメイニー師が、 この反国王の動きの指導者である事が表面化す る。 9 第1章:国民生活の混乱 1978; 10月; ゼネストの拡大: 国営石油会社、ガス会社、電話会社の従業員がホ メイニーの指示によりゼネスト入り、国王の退位、 閣僚の辞任を要求。 11月;市民生活混乱: 国営石油、ガス会社のゼネストが続き、ガソリン、 プロパンガスが欠乏、一般市民の生活に影響が出 る。 10 第1章:宗教界主導 1987; 12月;宗教革命への流れ: シーア派最大の宗教行事であるアシュラを総決起 の日と想定、外国企業従業員・家族、国外一時避 難開始。 12月9日;首都テヘラン、宗教都市ゴムを中心に、 イラン全国で百万人単位のアシュラの行進が行わ れたが、警察・軍隊との衝突は回避。 11 第1章:体制崩壊 1978〜1979; 12月〜1月;パーラビ王朝の崩壊: アシュラ後、国王の権威失墜。政局は次第に国王 退位 の方向へ。 その後の政権に向けた旧国民前線(中道左派)と 国王の体制内の中道派の連合工作が表面化。 1月15日パーラビ国王は休息の名目でモロッコへ 向け出発。実質的に国王の国外追放。 12 第1章: 精神的指導者の帰国 1979; 1月;宗教革命リーダーの帰国: イラクのナジャフよりパリに亡命先を移したホメイニー師はラ ジオでイラン国民に向け説教と行動指針演説を繰り返し、国 民全員に 其の日が来るのに備えるーー 様呼びかけ。 1月29日;ホメイニー師はパリを離れる。 2月1日;15年振りに祖国の土を踏み、その後9年に 亘り国の政治・宗教指導者、国民の精神的支柱として 君臨する事となる。 13 第1章: 残存軍隊の抵抗と民衆蜂起 1979; 2月;革命の成就: 国王亡命後も国王に忠誠心の強いイラン国空軍に 対し、2月11日テヘランの宗教勢力がホメイニー 師の指導で一斉に武装蜂起テヘラン空軍参謀司 令本部を包囲。 激しい銃撃戦の末、8時間後にテヘラン空軍本部 陥落。 宗教勢力はほぼ全国を制覇し、実質的に宗教革 命を成功させた。 14 第2章: 宗教革命とタイヤ工場運営 イラン宗教革命の最中、軍による直接・間 接の管理下に置かれる。 BS -Iran 工場はストライキ、停電、ガス供 給停止その操業度は半分以下に落ちた。 一方、外国人であり、異教徒である日本人 が排斥・国外退去の要求出る。 15 第2章:工場運営の障害 10月;ゼネストと物資の不足: 国営石油、ガス会社のゼネストにより、工場への天然 ガスの供給が止まり、BS-Iran工場の操業が困難とな る。 工場の安定操業確保の為、蒸気発生装置のボイラー を天然ガス専用から重油・天然ガス併用ボイラーへの 転換を急遽実施。 クエート経由で部品を輸入、突貫工事で重油タンク(6 0日分貯蔵可能)とバーナー燃焼コントロール装置を 設置、操業の維持を図る。 16 第2章:工場内の混乱 11月;工場内ストライキ: 反政府・反国王色のますます深まる中、11月初め、 お膝元の BS-Iran で、25%の賃上げとイラン人幹部 の経営参加を要求する山猫ストライキ。 シラズでも軍の攻撃型ヘリコプターからの機銃掃射で 100人以上が死亡、多数が負傷する。ますます、険 悪な雰囲気になって来る。 17 第2章: 軍隊の介入と死傷者増大 11月;軍隊の介入: 事態はますます混迷、且つ、激しさを増し、各地での 戒厳令破り、外出禁止例を無視した群集に対する軍 隊の発砲が続き、死傷者の数はうなぎ登りとなる。 シラズでも軍の攻撃型ヘリコプターからの機銃掃射で 100人以上が死亡、多数が負傷する。 18 第2章:従業員の犠牲者 11月;農村地帯での大規模衝突: デモは大都市から離れた農村部でも行われ、BS-Iran の若い技術者がシラズ郊外の農村の行われたデモに 参加、警官隊の発砲で死亡。 このニュースに工場の中は騒然となり、興奮した同僚 達は一斉に工場の中を 国王に死を‐−- と連呼しな がら行進、ストライキに突入。 19 第2章:工場内の反国王色 この事件はBS-Iranの現地従業員の気持 ちを中立的立場からから革命支持へ完全 に転換させた。 この殺された技術者の葬儀には、直属の 日本人上司、同僚も参加。 最初からデモ隊に対する不当な鎮圧に抗 議する集会になり、結果的には日本人も 反国王集会 に参加した形となる。 20 第2章:日本人家族の引き揚げ この混乱を避けるべく殆どの外国人は本 国からの指示で続々と国外へ退去。 BS-Iranの日本人派遣員は東京本社との 調整に多くの時間を費やし、11月末ぎりぎ りに家族のみ退避する事を決定、荷造りも そこそこに家族全員約30人がローマへ一 時避難。 21 第2章: ストライキ長期化と操業停止 12月に入りガスの供給が止まり、重油に切り替 えた効果が現れ始めましたが、同時に従業員の ゼネスト参加、賃上げ/経営参加の要求はエス カレートし、操業は極めて困難。 アシュラーの日以降は、革命の成就した2月11 日まで約3ヶ月の長期ストとなり、会社の存続す ら危ぶまれる事態。 22 第2章: 体制崩壊と経済活動の破壊 1月15日には国王が国外に休息の名目 で国外に脱出、町中が勝利のお祭り騒ぎ となる。 依然として強力な武力・組織力を誇る国軍 による強圧政治、又、は軍内部の分裂によ る内戦状態などの危険は増した。 23 第2章: 経営管理能と技術の無力化 ストライキ・工場操業停止。 宗教色一色。 寒い冬ー燃料不足。 物資の欠乏。 民族意識と排他思想。 取り残された最後の日本組!! 24 第2章: 革命の混乱と情報収集 そこでいよいよ、来るべき最悪の事態に備 え、更なる情報収集。 私の一般社会情勢判断情報源; テヘラン在住東京大学大野盛雄教授 シラズ在住シラズ大学研究員、原アジア経済 研究所員 在シラズ米国領事館、Blackburn総領事 25 第2章:在外公館の任務 最も信頼出来る情報源、米国総領事館: 米国国籍は全てシラズ地区から退去した にも拘わらず、領事館には数人のアメリカ 国務省の派遣館員が残留。 情報の収集、他地区への情報提供、残さ れた米国資産の保全、又、施設再開の時 の基本条件の整備など、 やるべき事 を キチンと遂行。 26 第2章:アメリカ領事館の サービス 米国総領事に情報の提供の求めに、 米国の取っている方針、指針を懇切丁寧に 説明してくれ、 貴方もテヘランの日本大使 館に同じ事を訪ね、その方針に沿った行動 をするのが、この種の 危機 には最も大 事な事である 27 第2章: 日本大使館の安全確保対策 早速テヘランの日本大使館へ電話、たど たどしい日本語の大使館員は現在日本大 使館には 一人も日本人が居ない との 返事で、 不要不急の日本人は至急国外 に退去する様勧告が出ているので、 貴方 も早く帰国するように‐‐‐ 28 第2章: 日本大使館員の国外退去 日本大使館は1月23日に退去勧告を出し た翌日には、在留邦人の退去のサポート もせず日本大使館全員が国外退去。 29 第2章:国外退去の準備 主要国際線は実質不定期便。 周辺諸国の国際便のみが運行。 脱出を図る数万人に及ぶ石油労働者など が飛行場に殺到。 旅行代理店などから航空券を入手は困難。 30 第2章:脱出計画 最悪のシナリオとして、三つの脱出路を想 定し準備。 東の陸路:シラズからマシャッドまでバスで25時間、 マシャッドからバスでパキスタンのカラチまで三日間。 西の陸路:シラズからテヘランまでバスで16時間、テ ヘランからトルコのアンカラまで40時間、 南の海路:シラズからブッシェールまでバス又は乗用 車で6時間、そこから船をチャーターして、クエート又 はバーレーンへ。 31 第2章:日本人の一時帰国と 工場の確保 ブリヂストンは一月の中旬には、現業部門 の指導に当たっていた工場指導員(日本 の組合員)を一歩先に帰国さることに決定。 残留部隊は私を始めとする、海外経験、語 学に自信のあるものがリーダーとなり、工 場の一時閉鎖、出国の準備を始める。 32 第2章:従業員の給料保障 日本人出国の準備に当たって、現地人の過激派、宗教 派の激しい追及を受ける。 日本人は今まで儲けた金を日本に全部持ち帰り、日本 人が帰国した後、イラン人の給料は支払われないので は? ・・・と労働局の役人の調査を受ける。 日本人の出国ビザが必要であり、日本人が一時的にでも 出国するなら、イラン人の給料支払いの保障をしない限 り、出国ビザを発給しないと通告。 33 第2章:出国準備と金策 中央銀行、殆んどの外国銀行は業務がストップしており、 通常のルートでの工面は殆ど絶望的。 テヘランにある日系取引銀行に依頼、リスクを負いなが ら、我々のために、手持ちのドルを日本の本社同志の保 証、決済で融通。 このドルの現金をテヘランの日本人経理担当がリスクを 冒し、社用車で運送、シラズの日本とイランの合弁銀行 の支店の金庫に保護預り。謂わば、従業員、革命委員会、 労働局の共同管理の状態で保管、やっと出国ビザの発 給を受ける。 34 第2章:航空便の手配 ホメイニ師の帰国後、軍の強行手段を予測。イランから 一刻も早く出国すべきとの判断で、工場を一時閉鎖し、 日本人の国外へ脱出を決断。 これに並行し、イランから出国する為の切符の手配に入 る。 現金取引が条件で電話で予約するにも手付金が必要。 テヘランでしか航空券の入手困難と見て、全員テヘラン へ移動を決定。 35 第2章:テヘランへ ブリヂストンの残留20名は2月8日にシラズのバ スセンターから夕方6時に夜行便で16時間のテ ヘランまでのイラン脱出の第一歩を踏み出す。 途中戒厳令下の都市部では軍による厳しい検問。 36 第2章:テヘラン空港 テヘランの国際空港で総勢26人分(テヘラン本 社派遣の6人も含め)の帰国便の手配に奔走。 空港の混雑は時間と共に酷くなり、我先に航空 会社のカウンターに押し寄せる群衆で、無秩序 状態。 そんな中、パキスタン航空のファーストクラスカウ ンターでカラチ行きのファーストクラス12席とエコ ノミーも席も含め、総勢26名分、全員のパキスタ ン航空のチケット購入。 37 第2章:パキスタンへ カラチまでの航空運賃はファーストクラス 含むため我々の手持ちドルの半分以上を 使い果たす、そこから先は何とかなる、と 考え、全員分購入。 飛行機はボーイング707、機内はほぼ難 民列車並みの手荷物の制限を無視し、山 積みの米袋、ダンボールで一杯。 38 第2章:カラチ到着 カラチに到着、機長と雑談、 貴方達はラッキー だった、この飛行機がテヘランを離陸した 最後の便で、今テヘラン空港は空軍精鋭 部隊とホメイニー派の群集の衝突で多数 の死者、が出て、未だ交戦中との連絡を離 陸一時間後の交信で判った――― 。 39 第2章:宗教革命成功 テヘラン空港の戦闘で空軍及び海兵隊の 一部は革命勢力側に寝返り、結局テヘラ ン空港の空軍・海兵隊基地は陥落。 国王の軍は革命委員会に投降宣言、実質 革命が成功。 ーーー1979年の2月11日。 40 第2章:カラチでの航空便手配 日頃便数の多い日本航空、パンアメリカン 等も南周りの路線は運休状態。 そこで唯一その日東京へ飛ぶスイスエアー に掛け合い、 我々は革命の最中テヘラン から逃れてきた日本のブリヂストンの社員 で26人分の運賃は今払えないが東京に に着いたら現金で残りを支払う 事で航空 券の購入交渉。 41 第2章:タイヤ代理店の保障 この手の 詐欺 はこの地域では日常茶飯事の 常套手段で日本人と言えども通用せず。 ブリヂストンの代理店の人に保障を依頼。 ブリヂストンとは長い取引で大の日本贔屓の代 理店は、代金の立替も快く引き受けてくれ、我々 26人は無事東京成田空港に帰って来ることが 出来ました。 42 第3章:国有化と経営権委譲 東京で今後の BS-Iran 対策の討議・検討 が休む間もなく始まる。 取り敢えず、工場長、技術、設備、製造の 長である4名と、私の5人が、イラン人から 指名を受ける形で再選され、ビザ発給を申 請、残りの15名は日本の原隊に復帰とな る。 43 第3章:現地人による工場の再開 BS-Iranのシラズ工場では日本人を師と仰 ぐイラン人達が健在で日々の報告・連絡を 続けてくれる。 工場は革命委員会の手で再開され、工場 内の革命委員会があらゆる決定事項に口 を出してきていると伝えられる。 44 第3章:革命委員会にの介入 三月の初旬、BS-Iranの『革命委員会』が 工場の運営を行うと宣言。 革命委員会の構成メンバーは作業員中心、 これを取り仕切る執行部はモスクの僧侶。 45 第3章:外国資本の取り扱い 公式に伝えられた革命委員会通告文章; 工場の全ての決定事項には革命委員会の承認が必要 である。 ブリヂストンの商標、モールドは引き続き使用する。 ブリヂストンは今後とも技術・ノーハウを提供し続ける事。 イラン人技術者・技能員の指導訓練は今後も続けて貰い たいので、指導員だけには就労ビザを発給する。 技術料・ロイヤルティーの支払いは全面的に見直すので、 それまで海外への送金は一切出来ない 46 第3章:駐在員の帰任 3月末には先遣隊として工場長と製造課長、 設備課長の3人で取り敢えずテヘランに入 り。 私ともう一人は日本に残り、連絡係兼客観 的状況判断、経営判断の情報係。。 47 第3章:日本人の役割 3月;現地の革命委員会と工場の経営権 に付き話し合い、革命委員会からは、 我々 はイラン人の手で工場を立派に運営してい る、日本人の工場長、マネージャーは要ら ない、指導員として入るなら認めても良い との回答。革命委員会が名実共に経営権 を握る事になる。 48 第3章:経営権の交渉 外交ルートを通じ「経営権の返還・日本人の復帰」 をイラン新政権へ働きかけ。 当時、ナショナルプロジェクトであったIJPCをは じめどの日系企業も同じ状態であり、日本対イラ ン新政権の経済関係の継続の在り方の確認を 主たる目的とする「日本ーイラン経済協議会」で 討議・交渉。 49 第3章:日本ーイラン政治交渉 イランー日本経済協議は現実的な話し合 いがもたれ、 ブリヂストンの経営権、合弁 契約は継続するが、イランの合弁相手は、 個人企業から、革命政権の経済部に移る 事になり、今後の合弁の形を修正する為 の話し合いを持つことになった。 50 第3章:日本人の減員 この暫定措置により、シラズ工場革命委員 会との話し合いで、工場長は日本人とイラ ン人の共同合議制、各マネジャーはイラン 人が取るが、日本人をアドバイサーとして 常駐させる事に合意。 51 第3章:革命後の工場操業 革命委員会による各権限の委譲が進むにつれ、 経済活動に問題を起こし始める。 タイヤ原材料の輸入、国産品の供給体制は悪化、 6月頃から、原材料の供給不足から来る操業の 短縮などを余儀なくされる。 これを日本人の非協力による処と決め付け、以 後、材料の供給は 日本人の責任 と一方的に決 め付けられた。 52 第3章:原材料入手困難 船便の滞留その他で、在庫が底を突き、 材料の保管状態悪く、不良材料による製 造工程の歩留まりは極端に悪化、且つ、タ イヤの品質にも影響が出始めたりしました。 同時に、日本人に対し改善指導を求める 声も出始める。 53 第3章:原材料の国産化 カーボンブラックの品質改善・国産化推進 の依頼。 三ヶ月の技術指導で高性能カーボンの国 産化に成功。 革命委員会はブリヂストン/日本人を信 用し始める。 54 第3章:革命政権の本格始動 革命委員会は次第に勢力を拡大、臨時政権的な 色彩から本格的宗教国家に向け、指導者である ホメイニー師の考え方を浸透させて行く。 この中央政府の動きを反映してその末端組織で あるBS-Iran内の革命委員会も、当初の素人の 集まりから徐々に本格的な政治組織のプロが登 場。 元工業省の若手官僚でこの革命時理論的指導 者としてゼネスト・デモの指導者であった者がタ イヤ会社全体の革命委員会委員長となる。 55 第3章:革命政権下の合弁事業 イラン宗教界の最高指導者達、アヤトラの集まる 国家宗教会議より 革命前に取り交わされた 全ての外国との商取引・契約は無効であ る と言う判断と通達が回わる。 1979年末、末端の革命委員会は外国企業を支 配下に入れ、BS-Iranの革命委員会もBS-Iran を完全な支配下に置く と実質 国有化宣 言 。 56 第3章:投資保険の求償 ブリヂストンは国有化宣言で実質的に工 場長をはじめとする要職を全て剥奪され、 社長職だけは日本との交渉の梃子に利用 する目的で其のままとした。 この措置に対し、ブリヂストンは通産省に 対し国家管掌の投資保険の求償に入る。 57 第3章:米国大使館占拠と イスラム革命の進展 1979年11月;革命急進派による米国大使館占 拠・人質事件が起勃発。 イラン国内米国資産の接収を含めた対米政策の 急激且つ極めて敵対的な処置に対し報復経済 制裁を受け、国際収支が極度に悪化する。 イラン革命政権は日本に近付き、石油の供給を バーター条件に各種の経済援助を引き出す方向 に動く。 58 第3章:新政権に対する経済援助 通産省はブリヂストンの投資保険の求償 論拠を石油ー経済援助交渉の一つの道具 として使う。 ブリヂストンには イランタイヤ業界に技術 援助・要員訓練の経済援助を続ければ投 資保険をおろしても良い との立場。 59 第3章:新技術援助契約 日本人は技術・ノーハウの伝授、要員の指 導・問題解決のアドバイサーのみに徹する 事を余儀なくされる。 ブリヂストンの商標使用権、モールドの使 用権は無償提供する事を要求される。 60 第3章:新ブリヂストンーイラン のスタート 革命委員会は技術援助・指導員としてイラ ン側の同意を得られる人と言う事で、革命 前に既に帰国していた平井和之、と私を指 名。 1980年の出来るだけ早い時期に赴任す る事を要求される。 61 第3章:イランーイラク戦争 の背景 Iran-Iraq 戦争の勃発。 背景:イスラムシーア派の革命の成功。 クルド族(シーア派)の活動活発化。 ホメイニー師とシーア派本山(IraqのNajaf)の 連携強化。 長年のIranの対Iraqに対する敵愾心の高揚。 クルドの遊牧性。 62 第3章: ホメイニーとサダム・フセイン クルド人はイラン、イラク、トルコ、シリアに跨った 地域で遊牧・一部定住部族として、地域にとって は極めて危険な存在。 又、ホメイニーが国王から追放された時に選んだ 亡命先はシーア派の本山のあるNajafであり、こ の本山での活動はサダム・フセインによって規制 され、長年、フセインの圧制の対象になっていた。 63 第3章: イランーイラク戦争の勃発 イランシーア派の革命成功はNajaf本山とクルド 族を刺激。 イラク政府も極めて神経質になり、事あるごとに、 武力で介入をはじめ、1980年の4月頃の 小競 り合い が9月には、イラク軍のイラン西部の山 岳地帯クルド族掃討作戦に発展、本格的な戦争 になる。 64 第3章:ブリヂストンの イランからの完全撤退 Iran-Iraq 戦争の為、平井と私のイラン赴任も一 時延期となり、暫く東京で成り行きを見る事にな りましたが、状況は一向に改善されず、むしろ、 悪化の一途、長期全面戦争の様相を呈する。 1981年4月、ブリヂストンはイランからの完全 撤退を決めた。 長年のイランとの付き合いに終止符を打つ事に なった。 65 終章: このイランでの経験は、筆舌に尽せない、多種多様且つ 貴重な経験でした。 何事も旨く行かない時は全てに躓き、裏目に出る典型的 事例だと思います。 これはブリヂストンだけに起こった出来事ではなく当時の 日本を代表する企業が海外展開の中で否応なく被った 嵐の中の大波の一つに過ぎないと思っています。 確かに、特殊な経験ではありますが、その後の私の海外 での仕事、生活、対人関係、全ての基礎となった貴重な 体験でもあり、未だにイランの土を始めて踏んだ日から 最後にイランを離れた日まで、の一部始終を体が記憶し ている感じです。 66 終章:日本と世界 この経験をきっかけに私の世界観が変わっ たと言っても過言ではありません。 しかし、その後色いろの国の人たちと付き 合うに連れ、この種の経験の持ち主は五 万と居る事を知りました。 この後のアメリカに於ける、又、別の意味 の異常な体験と相俟って私自身の行動の 基準も変えたようです。 67 終章: イラン・イラク対アメリカ 昨年の、アメリカの対イラク、イランの『悪 の枢軸』宣言以降、イランで、革命時に何 が起ったかを思い起こし、宗教、政治、歴 史・風土から来る個々の事象については、 今回のイラクの問題との類似性・関連性を 見出し、中近東とイスラムの対非イスラム 圏との溝の深さを痛感。 68 終章:イスラム対非イスラム イラク戦争終結後のイラクに於けるシーア派を廻 る一連の事件はイスラム内のシーア派対スンニー 派の抗争の歴史を浮き彫りにしている。 アメリカによるイラク戦争はイスラム対非イスラム と言う 宗教戦争 をイスラムに駆り立てた結果と なる。 イスラム過激派と穏健派を近付ける結果になっ ている。 69
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