イラン革命 山本淳二 - 東京工業大学留学生センター

イラン革命
宗教革命に翻弄された日本企業の国際戦略
山本淳二
1
はじめに
„
„
„
„
高度成長の成熟期に起こった日本の国際戦略
の行く手を阻む世界史の流れ。
企業努力で克服できないリスク。
異なった文化・習慣の中でビジネスを成功させ
る事の難しさ。
今でも生きている25年前のイスラム革命。
2
話の焦点
„
第一章:
オイルショック=オイルビクトリーから
パーラビ国王体制の凋落まで。
„
第二章:
革命とタイヤ工場の運営。
„
第三章:
国有化と経営権の移譲。
3
第1章: 近代化の推進
„
„
„
1962: パーラビ国王の白色革命。
1964: イスラム至上主義指導者ホメイニ師の
国外追放。
1971: 石油消費国の石油危機と生産国の石
油勝利とイランの躍進。
4
第1章:経済的拡大策
„
„
„
„
1971~:オイルマネーによるイランの工業化
の加速。
1972: イランー日本石油化学巨大プロジェ
クトの発足。
1974: ブリヂストン、イランプロジェクトスター
ト。
1976: ブリヂストンイラン(BS-Iran)工場生
産開始。
5
第1章:近代化の躓き
„
1978:
„
1月; 革命の発端:
„
„
急速な近代化に反対する勢力による反国王デ
モーーー宗教都市ゴム。
5月〜8月;火種の拡大:
„
反国王デモ、首都テヘランに飛び火、更に、主要
大都市、イスファハン、タブリース、マシャド、及び
シラズに拡大。
6
第1章:革命の序章
1978:
„
8月; 革命への起爆剤:
„
„
„
南部石油工業都市、アーバダンの映画館で放火と
見られる火災で500人が焼死。
主要国営企業、民間大企業が 政治ストライキ。
同時にイスラム原理主義者による非イスラム、外
国人の排斥の動き。
7
第1章:一般市民の参加
„
1987;
„ 9月; 事態混乱:
„
„
„
ラマダン月の断食明け、各地の集会で宗教の尊重
を訴えるデモ、警官隊と衝突。
9月8日;全国主要都市に戒厳令。
戒厳令下、初めてのゼネストが決行され、反国王
色が一般市民に広がる。
8
第1章:
イスラム至上主義の登場
„
1978;
„
9月;ホメイニ師の登場:
„
„
宗教指導層と国民前線指導による連日の大規模
デモ。政府、国軍、特別警察の鎮圧で死傷者多数。
国外追放中のシーア派最高指導者ホメイニー師が、
この反国王の動きの指導者である事が表面化す
る。
9
第1章:国民生活の混乱
„
1978;
„
10月; ゼネストの拡大:
„
„
国営石油会社、ガス会社、電話会社の従業員がホ
メイニーの指示によりゼネスト入り、国王の退位、
閣僚の辞任を要求。
11月;市民生活混乱:
„
国営石油、ガス会社のゼネストが続き、ガソリン、
プロパンガスが欠乏、一般市民の生活に影響が出
る。
10
第1章:宗教界主導
„
1987;
„
12月;宗教革命への流れ:
„
„
シーア派最大の宗教行事であるアシュラを総決起
の日と想定、外国企業従業員・家族、国外一時避
難開始。
12月9日;首都テヘラン、宗教都市ゴムを中心に、
イラン全国で百万人単位のアシュラの行進が行わ
れたが、警察・軍隊との衝突は回避。
11
第1章:体制崩壊
„
1978〜1979;
„
12月〜1月;パーラビ王朝の崩壊:
„
„
„
アシュラ後、国王の権威失墜。政局は次第に国王
退位 の方向へ。
その後の政権に向けた旧国民前線(中道左派)と
国王の体制内の中道派の連合工作が表面化。
1月15日パーラビ国王は休息の名目でモロッコへ
向け出発。実質的に国王の国外追放。
12
第1章:
精神的指導者の帰国
„
1979;
„
1月;宗教革命リーダーの帰国:
„
„
„
イラクのナジャフよりパリに亡命先を移したホメイニー師はラ
ジオでイラン国民に向け説教と行動指針演説を繰り返し、国
民全員に 其の日が来るのに備えるーー 様呼びかけ。
1月29日;ホメイニー師はパリを離れる。
2月1日;15年振りに祖国の土を踏み、その後9年に
亘り国の政治・宗教指導者、国民の精神的支柱として
君臨する事となる。
13
第1章:
残存軍隊の抵抗と民衆蜂起
„
1979;
„
2月;革命の成就:
„
„
„
国王亡命後も国王に忠誠心の強いイラン国空軍に
対し、2月11日テヘランの宗教勢力がホメイニー
師の指導で一斉に武装蜂起テヘラン空軍参謀司
令本部を包囲。
激しい銃撃戦の末、8時間後にテヘラン空軍本部
陥落。
宗教勢力はほぼ全国を制覇し、実質的に宗教革
命を成功させた。
14
第2章:
宗教革命とタイヤ工場運営
„
„
„
イラン宗教革命の最中、軍による直接・間
接の管理下に置かれる。
BS -Iran 工場はストライキ、停電、ガス供
給停止その操業度は半分以下に落ちた。
一方、外国人であり、異教徒である日本人
が排斥・国外退去の要求出る。
15
第2章:工場運営の障害
„
10月;ゼネストと物資の不足:
„
„
„
国営石油、ガス会社のゼネストにより、工場への天然
ガスの供給が止まり、BS-Iran工場の操業が困難とな
る。
工場の安定操業確保の為、蒸気発生装置のボイラー
を天然ガス専用から重油・天然ガス併用ボイラーへの
転換を急遽実施。
クエート経由で部品を輸入、突貫工事で重油タンク(6
0日分貯蔵可能)とバーナー燃焼コントロール装置を
設置、操業の維持を図る。
16
第2章:工場内の混乱
„
11月;工場内ストライキ:
„
„
反政府・反国王色のますます深まる中、11月初め、
お膝元の BS-Iran で、25%の賃上げとイラン人幹部
の経営参加を要求する山猫ストライキ。
シラズでも軍の攻撃型ヘリコプターからの機銃掃射で
100人以上が死亡、多数が負傷する。ますます、険
悪な雰囲気になって来る。
17
第2章:
軍隊の介入と死傷者増大
„
11月;軍隊の介入:
„
„
事態はますます混迷、且つ、激しさを増し、各地での
戒厳令破り、外出禁止例を無視した群集に対する軍
隊の発砲が続き、死傷者の数はうなぎ登りとなる。
シラズでも軍の攻撃型ヘリコプターからの機銃掃射で
100人以上が死亡、多数が負傷する。
18
第2章:従業員の犠牲者
„
11月;農村地帯での大規模衝突:
„
„
デモは大都市から離れた農村部でも行われ、BS-Iran
の若い技術者がシラズ郊外の農村の行われたデモに
参加、警官隊の発砲で死亡。
このニュースに工場の中は騒然となり、興奮した同僚
達は一斉に工場の中を 国王に死を‐−- と連呼しな
がら行進、ストライキに突入。
19
第2章:工場内の反国王色
„
„
„
この事件はBS-Iranの現地従業員の気持
ちを中立的立場からから革命支持へ完全
に転換させた。
この殺された技術者の葬儀には、直属の
日本人上司、同僚も参加。
最初からデモ隊に対する不当な鎮圧に抗
議する集会になり、結果的には日本人も
反国王集会 に参加した形となる。
20
第2章:日本人家族の引き揚げ
„
„
この混乱を避けるべく殆どの外国人は本
国からの指示で続々と国外へ退去。
BS-Iranの日本人派遣員は東京本社との
調整に多くの時間を費やし、11月末ぎりぎ
りに家族のみ退避する事を決定、荷造りも
そこそこに家族全員約30人がローマへ一
時避難。
21
第2章:
ストライキ長期化と操業停止
„
„
12月に入りガスの供給が止まり、重油に切り替
えた効果が現れ始めましたが、同時に従業員の
ゼネスト参加、賃上げ/経営参加の要求はエス
カレートし、操業は極めて困難。
アシュラーの日以降は、革命の成就した2月11
日まで約3ヶ月の長期ストとなり、会社の存続す
ら危ぶまれる事態。
22
第2章:
体制崩壊と経済活動の破壊
„
„
1月15日には国王が国外に休息の名目
で国外に脱出、町中が勝利のお祭り騒ぎ
となる。
依然として強力な武力・組織力を誇る国軍
による強圧政治、又、は軍内部の分裂によ
る内戦状態などの危険は増した。
23
第2章:
経営管理能と技術の無力化
„
„
„
„
„
„
ストライキ・工場操業停止。
宗教色一色。
寒い冬ー燃料不足。
物資の欠乏。
民族意識と排他思想。
取り残された最後の日本組!!
24
第2章:
革命の混乱と情報収集
„
„
そこでいよいよ、来るべき最悪の事態に備
え、更なる情報収集。
私の一般社会情勢判断情報源;
„
„
„
テヘラン在住東京大学大野盛雄教授
シラズ在住シラズ大学研究員、原アジア経済
研究所員
在シラズ米国領事館、Blackburn総領事
25
第2章:在外公館の任務
最も信頼出来る情報源、米国総領事館:
„ 米国国籍は全てシラズ地区から退去した
にも拘わらず、領事館には数人のアメリカ
国務省の派遣館員が残留。
„ 情報の収集、他地区への情報提供、残さ
れた米国資産の保全、又、施設再開の時
の基本条件の整備など、 やるべき事 を
キチンと遂行。
26
第2章:アメリカ領事館の
サービス
„
米国総領事に情報の提供の求めに、
米国の取っている方針、指針を懇切丁寧に
説明してくれ、 貴方もテヘランの日本大使
館に同じ事を訪ね、その方針に沿った行動
をするのが、この種の 危機 には最も大
事な事である
27
第2章:
日本大使館の安全確保対策
„
早速テヘランの日本大使館へ電話、たど
たどしい日本語の大使館員は現在日本大
使館には 一人も日本人が居ない との
返事で、 不要不急の日本人は至急国外
に退去する様勧告が出ているので、 貴方
も早く帰国するように‐‐‐
28
第2章:
日本大使館員の国外退去
„
日本大使館は1月23日に退去勧告を出し
た翌日には、在留邦人の退去のサポート
もせず日本大使館全員が国外退去。
29
第2章:国外退去の準備
„
„
„
„
主要国際線は実質不定期便。
周辺諸国の国際便のみが運行。
脱出を図る数万人に及ぶ石油労働者など
が飛行場に殺到。
旅行代理店などから航空券を入手は困難。
30
第2章:脱出計画
„
最悪のシナリオとして、三つの脱出路を想
定し準備。
„
„
„
東の陸路:シラズからマシャッドまでバスで25時間、
マシャッドからバスでパキスタンのカラチまで三日間。
西の陸路:シラズからテヘランまでバスで16時間、テ
ヘランからトルコのアンカラまで40時間、
南の海路:シラズからブッシェールまでバス又は乗用
車で6時間、そこから船をチャーターして、クエート又
はバーレーンへ。
31
第2章:日本人の一時帰国と
工場の確保
„
„
ブリヂストンは一月の中旬には、現業部門
の指導に当たっていた工場指導員(日本
の組合員)を一歩先に帰国さることに決定。
残留部隊は私を始めとする、海外経験、語
学に自信のあるものがリーダーとなり、工
場の一時閉鎖、出国の準備を始める。
32
第2章:従業員の給料保障
„
„
„
日本人出国の準備に当たって、現地人の過激派、宗教
派の激しい追及を受ける。
日本人は今まで儲けた金を日本に全部持ち帰り、日本
人が帰国した後、イラン人の給料は支払われないので
は? ・・・と労働局の役人の調査を受ける。
日本人の出国ビザが必要であり、日本人が一時的にでも
出国するなら、イラン人の給料支払いの保障をしない限
り、出国ビザを発給しないと通告。
33
第2章:出国準備と金策
„
„
„
中央銀行、殆んどの外国銀行は業務がストップしており、
通常のルートでの工面は殆ど絶望的。
テヘランにある日系取引銀行に依頼、リスクを負いなが
ら、我々のために、手持ちのドルを日本の本社同志の保
証、決済で融通。
このドルの現金をテヘランの日本人経理担当がリスクを
冒し、社用車で運送、シラズの日本とイランの合弁銀行
の支店の金庫に保護預り。謂わば、従業員、革命委員会、
労働局の共同管理の状態で保管、やっと出国ビザの発
給を受ける。
34
第2章:航空便の手配
„
„
„
„
ホメイニ師の帰国後、軍の強行手段を予測。イランから
一刻も早く出国すべきとの判断で、工場を一時閉鎖し、
日本人の国外へ脱出を決断。
これに並行し、イランから出国する為の切符の手配に入
る。
現金取引が条件で電話で予約するにも手付金が必要。
テヘランでしか航空券の入手困難と見て、全員テヘラン
へ移動を決定。
35
第2章:テヘランへ
„
„
ブリヂストンの残留20名は2月8日にシラズのバ
スセンターから夕方6時に夜行便で16時間のテ
ヘランまでのイラン脱出の第一歩を踏み出す。
途中戒厳令下の都市部では軍による厳しい検問。
36
第2章:テヘラン空港
„
„
„
テヘランの国際空港で総勢26人分(テヘラン本
社派遣の6人も含め)の帰国便の手配に奔走。
空港の混雑は時間と共に酷くなり、我先に航空
会社のカウンターに押し寄せる群衆で、無秩序
状態。
そんな中、パキスタン航空のファーストクラスカウ
ンターでカラチ行きのファーストクラス12席とエコ
ノミーも席も含め、総勢26名分、全員のパキスタ
ン航空のチケット購入。
37
第2章:パキスタンへ
„
„
カラチまでの航空運賃はファーストクラス
含むため我々の手持ちドルの半分以上を
使い果たす、そこから先は何とかなる、と
考え、全員分購入。
飛行機はボーイング707、機内はほぼ難
民列車並みの手荷物の制限を無視し、山
積みの米袋、ダンボールで一杯。
38
第2章:カラチ到着
„
カラチに到着、機長と雑談、 貴方達はラッキー
だった、この飛行機がテヘランを離陸した
最後の便で、今テヘラン空港は空軍精鋭
部隊とホメイニー派の群集の衝突で多数
の死者、が出て、未だ交戦中との連絡を離
陸一時間後の交信で判った――― 。
39
第2章:宗教革命成功
„
„
テヘラン空港の戦闘で空軍及び海兵隊の
一部は革命勢力側に寝返り、結局テヘラ
ン空港の空軍・海兵隊基地は陥落。
国王の軍は革命委員会に投降宣言、実質
革命が成功。
ーーー1979年の2月11日。
40
第2章:カラチでの航空便手配
„
„
日頃便数の多い日本航空、パンアメリカン
等も南周りの路線は運休状態。
そこで唯一その日東京へ飛ぶスイスエアー
に掛け合い、 我々は革命の最中テヘラン
から逃れてきた日本のブリヂストンの社員
で26人分の運賃は今払えないが東京に
に着いたら現金で残りを支払う 事で航空
券の購入交渉。
41
第2章:タイヤ代理店の保障
„
„
„
この手の 詐欺 はこの地域では日常茶飯事の
常套手段で日本人と言えども通用せず。
ブリヂストンの代理店の人に保障を依頼。
ブリヂストンとは長い取引で大の日本贔屓の代
理店は、代金の立替も快く引き受けてくれ、我々
26人は無事東京成田空港に帰って来ることが
出来ました。
42
第3章:国有化と経営権委譲
„
„
東京で今後の BS-Iran 対策の討議・検討
が休む間もなく始まる。
取り敢えず、工場長、技術、設備、製造の
長である4名と、私の5人が、イラン人から
指名を受ける形で再選され、ビザ発給を申
請、残りの15名は日本の原隊に復帰とな
る。
43
第3章:現地人による工場の再開
„
„
BS-Iranのシラズ工場では日本人を師と仰
ぐイラン人達が健在で日々の報告・連絡を
続けてくれる。
工場は革命委員会の手で再開され、工場
内の革命委員会があらゆる決定事項に口
を出してきていると伝えられる。
44
第3章:革命委員会にの介入
„
„
三月の初旬、BS-Iranの『革命委員会』が
工場の運営を行うと宣言。
革命委員会の構成メンバーは作業員中心、
これを取り仕切る執行部はモスクの僧侶。
45
第3章:外国資本の取り扱い
„
公式に伝えられた革命委員会通告文章;
„
„
„
„
„
工場の全ての決定事項には革命委員会の承認が必要
である。
ブリヂストンの商標、モールドは引き続き使用する。
ブリヂストンは今後とも技術・ノーハウを提供し続ける事。
イラン人技術者・技能員の指導訓練は今後も続けて貰い
たいので、指導員だけには就労ビザを発給する。
技術料・ロイヤルティーの支払いは全面的に見直すので、
それまで海外への送金は一切出来ない
46
第3章:駐在員の帰任
„
„
3月末には先遣隊として工場長と製造課長、
設備課長の3人で取り敢えずテヘランに入
り。
私ともう一人は日本に残り、連絡係兼客観
的状況判断、経営判断の情報係。。
47
第3章:日本人の役割
„
3月;現地の革命委員会と工場の経営権
に付き話し合い、革命委員会からは、 我々
はイラン人の手で工場を立派に運営してい
る、日本人の工場長、マネージャーは要ら
ない、指導員として入るなら認めても良い
との回答。革命委員会が名実共に経営権
を握る事になる。
48
第3章:経営権の交渉
„
„
外交ルートを通じ「経営権の返還・日本人の復帰」
をイラン新政権へ働きかけ。
当時、ナショナルプロジェクトであったIJPCをは
じめどの日系企業も同じ状態であり、日本対イラ
ン新政権の経済関係の継続の在り方の確認を
主たる目的とする「日本ーイラン経済協議会」で
討議・交渉。
49
第3章:日本ーイラン政治交渉
„
イランー日本経済協議は現実的な話し合
いがもたれ、 ブリヂストンの経営権、合弁
契約は継続するが、イランの合弁相手は、
個人企業から、革命政権の経済部に移る
事になり、今後の合弁の形を修正する為
の話し合いを持つことになった。
50
第3章:日本人の減員
„
この暫定措置により、シラズ工場革命委員
会との話し合いで、工場長は日本人とイラ
ン人の共同合議制、各マネジャーはイラン
人が取るが、日本人をアドバイサーとして
常駐させる事に合意。
51
第3章:革命後の工場操業
„
„
„
革命委員会による各権限の委譲が進むにつれ、
経済活動に問題を起こし始める。
タイヤ原材料の輸入、国産品の供給体制は悪化、
6月頃から、原材料の供給不足から来る操業の
短縮などを余儀なくされる。
これを日本人の非協力による処と決め付け、以
後、材料の供給は 日本人の責任 と一方的に決
め付けられた。
52
第3章:原材料入手困難
„
„
船便の滞留その他で、在庫が底を突き、
材料の保管状態悪く、不良材料による製
造工程の歩留まりは極端に悪化、且つ、タ
イヤの品質にも影響が出始めたりしました。
同時に、日本人に対し改善指導を求める
声も出始める。
53
第3章:原材料の国産化
„
„
„
カーボンブラックの品質改善・国産化推進
の依頼。
三ヶ月の技術指導で高性能カーボンの国
産化に成功。
革命委員会はブリヂストン/日本人を信
用し始める。
54
第3章:革命政権の本格始動
„
„
„
革命委員会は次第に勢力を拡大、臨時政権的な
色彩から本格的宗教国家に向け、指導者である
ホメイニー師の考え方を浸透させて行く。
この中央政府の動きを反映してその末端組織で
あるBS-Iran内の革命委員会も、当初の素人の
集まりから徐々に本格的な政治組織のプロが登
場。
元工業省の若手官僚でこの革命時理論的指導
者としてゼネスト・デモの指導者であった者がタ
イヤ会社全体の革命委員会委員長となる。
55
第3章:革命政権下の合弁事業
„
イラン宗教界の最高指導者達、アヤトラの集まる
国家宗教会議より 革命前に取り交わされた
全ての外国との商取引・契約は無効であ
る と言う判断と通達が回わる。
„
1979年末、末端の革命委員会は外国企業を支
配下に入れ、BS-Iranの革命委員会もBS-Iran
を完全な支配下に置く と実質 国有化宣
言 。
56
第3章:投資保険の求償
„
„
ブリヂストンは国有化宣言で実質的に工
場長をはじめとする要職を全て剥奪され、
社長職だけは日本との交渉の梃子に利用
する目的で其のままとした。
この措置に対し、ブリヂストンは通産省に
対し国家管掌の投資保険の求償に入る。
57
第3章:米国大使館占拠と
イスラム革命の進展
„
„
„
1979年11月;革命急進派による米国大使館占
拠・人質事件が起勃発。
イラン国内米国資産の接収を含めた対米政策の
急激且つ極めて敵対的な処置に対し報復経済
制裁を受け、国際収支が極度に悪化する。
イラン革命政権は日本に近付き、石油の供給を
バーター条件に各種の経済援助を引き出す方向
に動く。
58
第3章:新政権に対する経済援助
„
„
通産省はブリヂストンの投資保険の求償
論拠を石油ー経済援助交渉の一つの道具
として使う。
ブリヂストンには イランタイヤ業界に技術
援助・要員訓練の経済援助を続ければ投
資保険をおろしても良い との立場。
59
第3章:新技術援助契約
„
„
日本人は技術・ノーハウの伝授、要員の指
導・問題解決のアドバイサーのみに徹する
事を余儀なくされる。
ブリヂストンの商標使用権、モールドの使
用権は無償提供する事を要求される。
60
第3章:新ブリヂストンーイラン
のスタート
„
„
革命委員会は技術援助・指導員としてイラ
ン側の同意を得られる人と言う事で、革命
前に既に帰国していた平井和之、と私を指
名。
1980年の出来るだけ早い時期に赴任す
る事を要求される。
61
第3章:イランーイラク戦争
の背景
„
Iran-Iraq 戦争の勃発。
„
„
„
„
„
背景:イスラムシーア派の革命の成功。
クルド族(シーア派)の活動活発化。
ホメイニー師とシーア派本山(IraqのNajaf)の
連携強化。
長年のIranの対Iraqに対する敵愾心の高揚。
クルドの遊牧性。
62
第3章:
ホメイニーとサダム・フセイン
„
„
クルド人はイラン、イラク、トルコ、シリアに跨った
地域で遊牧・一部定住部族として、地域にとって
は極めて危険な存在。
又、ホメイニーが国王から追放された時に選んだ
亡命先はシーア派の本山のあるNajafであり、こ
の本山での活動はサダム・フセインによって規制
され、長年、フセインの圧制の対象になっていた。
63
第3章:
イランーイラク戦争の勃発
„
„
イランシーア派の革命成功はNajaf本山とクルド
族を刺激。
イラク政府も極めて神経質になり、事あるごとに、
武力で介入をはじめ、1980年の4月頃の 小競
り合い が9月には、イラク軍のイラン西部の山
岳地帯クルド族掃討作戦に発展、本格的な戦争
になる。
64
第3章:ブリヂストンの
イランからの完全撤退
„
„
„
Iran-Iraq 戦争の為、平井と私のイラン赴任も一
時延期となり、暫く東京で成り行きを見る事にな
りましたが、状況は一向に改善されず、むしろ、
悪化の一途、長期全面戦争の様相を呈する。
1981年4月、ブリヂストンはイランからの完全
撤退を決めた。
長年のイランとの付き合いに終止符を打つ事に
なった。
65
終章:
„
„
„
„
このイランでの経験は、筆舌に尽せない、多種多様且つ
貴重な経験でした。
何事も旨く行かない時は全てに躓き、裏目に出る典型的
事例だと思います。
これはブリヂストンだけに起こった出来事ではなく当時の
日本を代表する企業が海外展開の中で否応なく被った
嵐の中の大波の一つに過ぎないと思っています。
確かに、特殊な経験ではありますが、その後の私の海外
での仕事、生活、対人関係、全ての基礎となった貴重な
体験でもあり、未だにイランの土を始めて踏んだ日から
最後にイランを離れた日まで、の一部始終を体が記憶し
ている感じです。
66
終章:日本と世界
„
„
„
この経験をきっかけに私の世界観が変わっ
たと言っても過言ではありません。
しかし、その後色いろの国の人たちと付き
合うに連れ、この種の経験の持ち主は五
万と居る事を知りました。
この後のアメリカに於ける、又、別の意味
の異常な体験と相俟って私自身の行動の
基準も変えたようです。
67
終章:
イラン・イラク対アメリカ
„
昨年の、アメリカの対イラク、イランの『悪
の枢軸』宣言以降、イランで、革命時に何
が起ったかを思い起こし、宗教、政治、歴
史・風土から来る個々の事象については、
今回のイラクの問題との類似性・関連性を
見出し、中近東とイスラムの対非イスラム
圏との溝の深さを痛感。
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終章:イスラム対非イスラム
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イラク戦争終結後のイラクに於けるシーア派を廻
る一連の事件はイスラム内のシーア派対スンニー
派の抗争の歴史を浮き彫りにしている。
アメリカによるイラク戦争はイスラム対非イスラム
と言う 宗教戦争 をイスラムに駆り立てた結果と
なる。
イスラム過激派と穏健派を近付ける結果になっ
ている。
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