中部ドイツの旅 (1)まずは地図を見ながら (2)放送局網で分ける (3

中部 ド イツ の 旅
(『 ド イ ツ語 通 信 』 2011 年 版 よ り 転 載 )
( 1 ) まず は 地図 を 見な が ら
一 昨 年 (2009 年 度 ) は ス イ ス に み ん な で 行 く と い う の で こ の コ ー ナ ー で は ス イ ス 特 集 と
し ま した 。 去 年( 2010 年 度 ) は学 生 とは 行 き ませ ん で した が 、北 ド イ ツ特 集 をし ま し た。
こ れ ら は い ず れも 私 の ホ ー ムペ ー ジ で 公 開 して い る の で 、そ っ ち 方 面 に行 き た い 人 は見 て
く だ さ い 。 http://www2.toyo.ac.jp/~stein/reise.html ほ か に 「 ド イ ツ 語 圏 の 旅 入 門 編 」( 2008 年
度 )、「グ リ ム 童話 の 世界 へ 」(2007 年 度 )と い う 旅ガ イ ドも あ り ます 。
さ て 、 中 部 ドイ ツ は ど こ を指 す か 。 州 単 位で ド イ ツ を 区分 す る な ら ば、 北 ド イ ツ に属 す
る の は シ ュ レ スヴ ィ ヒ ・ ホ ルシ ュ タ イ ン 州 、メ ク レ ン ブ ルク ・ フ ォ ア ポン メ ル ン 州 、ニ ー
ダ ー ザ ク セ ン 州、 ハ ン ブ ル ク都 市 州 、 ブ レ ーメ ン 都 市 州 、そ し て ベ ル リン 州 で は な いか と
思 い ま す 。 ベ ルリ ン を 囲 む ブラ ン デ ン ブ ル ク州 は ド イ ツ 東部 つ ま り 旧 東ド イ ツ ( ド イツ 民
主 共 和 国 ) に 属し ま す 。 メ クレ ン ブ ル ク ・ フォ ア ポ ン メ ルン 州 も か つ て東 ド イ ツ に 属し ま
し た が 、 地 理 的に は 北 ド イ ツで し ょ う 。 ド イツ 東 部 は 、 ブラ ン デ ン ブ ルク 州 の ほ か に、 ザ
ク セ ン 州 、 ザ クセ ン ・ ア ン ハル ト 州 、 チ ュ ーリ ン ゲ ン 州 です が 、 チ ュ ーリ ン ゲ ン 州 は中 部
ド イ ツ か も し れま せ ん 。 南 ドイ ツ は バ イ エ ルン 州 と バ ー デン ・ ヴ ュ ル テン ベ ル ク 州 で、 2
つ で も 面 積 は とて も 広 い で す。 西 南 ド イ ツ はノ ル ト ラ イ ン・ ヴ ェ ス ト ファ ー レ ン 州 、ラ イ
ン ラ ン ト ・ プ ファ ル ツ 州 、 ザー ル ラ ン ト 州 だと す る な ら ば、 中 部 ド イ ツに は ど の 州 が入 る
で し ょう か ? 残 る のは ヘ ッ セン 州 だけ 。 そ れで は ち ょっ と 問題 が … …。
( 2 )放 送 局網 で 分け る
今 年 は 中 部 ドイ ツ へ 行 こ うと 思 い ま す が 、中 部 ド イ ツ とは ど こ か ? 前 回 、 地 理 的に 分
け た ら 、 ヘ ッ セン 州 だ け に なっ て し ま い ま した 。 そ れ は 現実 に 合 わ な いの で 、 さ ら に別 の
基 準 を探 し て みま し ょう 。 そ こで す ぐに 思 い つく の が 「中 部 ドイ ツ 放 送局 」 です 。
ドイツのテレビ局のうち2つは非営利団体で、1つは「ドイツ公共放送連盟
(Arbeitsgemeinschaft der öffentlich- rechtlichen Rundfunkanstalten der Bundesrepublik Deutschland)、 略
称 ARD」 で 「 第 1 チャ ンネ ル (Das Erste)」。 2 つ め は 文 字 通 り 「 ド イ ツ 第 二 テ レ ビ(Zweites
Deutsches Fernsehen)」 で 略 称 ZDF。 ARD に は 9つ の 地 方公 共 放送 が 属 して お り 、ミ ュ ンヒ
ェ ン に本 部 を 置く バ イエ ル ン 放送 協 会(Bayerischer Rundfunk)、 略 称 BR、フ ラ ン クフ ル ト・
ア ム ・マ イ ン に本 部 を置 く ヘ ッセ ン 放送 協 会 (Hessischer Rundfunk, HR)、 ラ イ プ ツィ ヒ に本
部 を 置く 中 部 ドイ ツ 放送 協 会 (Mitteldeutscher Rundfunk, MDR)、 ハン ブ ル クに 本 部 を置 く 北ド
イ ツ 放 送 協 会 (Norddeutscher Rundfunk, NDR)、 ブ レ ー メ ン に 本 部 を 置 く ラ ジ オ ブ レ ー メ ン
(Radio Bremen, RB)、 ポ ツ ダ ムに 本 部を 置 く ベル リ ン ・ブ ラ ンデ ン ブ ルク 放 送協 会 (Rundfunk
Berlin-Brandenburg, RBB)、 ザ ー ル ブ リ ュ ッ ケ ン に 本 部 を 置 く ザ ー ル ラ ン ト 放 送 協 会
(Saarländischer Rundfunk, SR)、 マ イ ン ツ な ど 3 都 市 に 本 部 を 置 く 南 西 放 送 協 会
(Südwestrundfunk, SWR)、 ケル ン に 本部 を 置く 西 ド イツ 放 送協 会 (Westdeutscher Rundfunk, WR)
で す 。 こ れ に 従 う と 、「 中 部 ド イ ツ 」 は ラ イ プ ツ ィ ヒ が 中 心 と い う こ と に な る か ら 、 こ こ
か ら 電 波 が 及 ぶ範 囲 を 推 定 する と 、 ザ ク セ ン州 、 ザ ク セ ン・ ア ン ハ ル ト州 、 チ ュ ー リン ゲ
ン 州 、そ して ヘ ッセ ン 州の 一 部 とい う こ とに な りま す 。地 図で 再 度 確認 し て みて く ださ い 。
( 3) メ ルヒ ェ ン 街道
ド イ ツ で も 観 光 客 ね ら い で 既 定 の ル ー ト が あ り 、 ヴ ュ ル ツ ブ ル ク Würzburg か ら 中 世 の
ま ま の町 ロ ー テン ブ ルク Rothenburg ob der Tauber を 経 て フュ ッ セ ン Füssen の 山 の中 腹 にあ
る ノ イ シ ュヴ ァ ンシ ュ タイ ン 城 Neuschwanstein ま で の ロ マン チ ッ ク街 道 Romantische Straße
が 最 も有 名 で すが 、 中部 ド イ ツで は 東西 に 走 るゲ ー テ 街道 Goethe Straße と 南 北 に走 る メル
ヘ ン Märchen Straße 街 道 が 知 られ て い ます 。 ゲー テ 街 道は 、 ゲー テ が 生ま れ た フラ ン クフ
-1-
ル ト ・ア ム ・ マイ ン Frankfurt am Main か ら、 彼 が大 臣 を 務め た ワ イマ ー ル Weimar を 経 て、
学 生 時 代 を 過 ご し た ラ イ プ チ ヒ Leipzig ま で 。 そ し て メ ル ヘ ン 街 道 は グ リ ム 兄 弟 Brüder
Grimm が生 ま れ たハ ー ナウ Hanau か ら 「 ブレ ー メン の 音 楽隊 Die Bremer Stadtmusikanten」 で
有 名 な 港 町 ブ レ ー メ ン ま で 続 い て い ま す 。 今 回 は 、「 応 用 1 」 で い ま グ リ ム 童 話 を 読 ん で
い る の で 、 グ リム 兄 弟 に つ いて 紹 介 し ま す 。な お 、 メ ル ヘン は 童 話 と いう 意 味 で す が、 ド
イ ツ 語 発 音 に 忠 実 に 表 記 す るな ら ば メ ー ルヒ ェ ン で な けれ ば な り ま せん 。( 地 図 は Wik か ら )
と こ ろ で 、 グ リ ム 兄 弟 っ て 誰 !? と 言 う 人 は そ う 多 く な い と
思 い ま す が 、 知 っ て い る と い う 人 で も、 そ れ は 「 グ リ ム 童 話を
書 い た 兄 弟 」 と い う 程 度 で は な い で しょ う か 。 し か し 、 こ の答
え は 間 違 い で す 。 な ぜ な ら 、 グ リ ム 兄弟 は 童 話 を 「 書 い た 」の
で は なく 集 め た人 だ から で す。有名 な「 赤頭 巾 ち ゃん 」と か「シ
ン デ レ ラ 」 と か 「 ヘ ン ゼ ル と グ レ ー テル 」 な ど は 、 グ リ ム 兄弟
が 記 録 す る 前 か ら ド イ ツ や フ ラ ン ス で知 ら れ て い ま し た 。 しか
も、
「白 雪 姫」に 登 場す る 7 人の 小 人は 架 空 の人 物 像で は な く、
子 ど も の 頃 か ら 日 中 も 鉱 山 の 洞 窟 内 で働 か さ れ 身 長 が 伸 び なか
っ た 人 た ち だ と ( 彼 ら は 白 雪 姫 に 「 僕た ち は 昼 間 は 金 を 掘 りに
行 く 」 と 言 っ て い る ) 考 え ら れ る よ うに 、 童 話 に も そ の 社 会的
歴 史 的 背 景 が あ り ま す 。 ま た 、「 赤 頭 巾 」 物 語 は 、 グ リ ム 童 話
よ り 100 年 も 前に 書 かれ た フ ラン ス の シャ ル ル・ ペ ロ ーの 童 話集 に 載 って い ま すが 、 グリ
ム 兄 弟 が 学 生 時代 を 過 ご し たマ ー ル ブ ル ク から 西 に 点 在 する 一 帯 は 古 くか ら 赤 い 小 さな キ
ャ ッ プ Rotkäppchen を かぶ る 習 慣が あ り、「 赤 ずき ん 」 物語 発 祥の 地 と 言わ れ て いま す 。も
し こ れ が 正 し いと し た ら 、 フラ ン ス で 伝 え られ て い た 物 語の ル ー ツ は ドイ ツ だ っ た とい う
の は 不思 議 に 思え ま すが 、 そ れは 19 世 紀 以降 の 民 族国 家 Nationstate を 前提 に 国 家を 考 える
か ら で あ っ て 、こ う し た 物 語が 伝 え ら れ た 時代 の 国 家 形 態を 考 え れ ば 、さ ほ ど 不 思 議で な
い こ と が わ か りま す 。 た と えば 、 グ リ ム 童 話に は 大 勢 の 王さ ま や お 妃 さま 、 王 子 さ ま、 お
姫 さ ま が 登 場 しま す が 、 い まの イ ギ リ ス の エリ ザ ベ ス 女 王な ど を 当 て はめ て 考 え た ら、 こ
ん な に 大 勢 の 王室 関 係 者 が いる わ け な い 、 だか ら や っ ぱ りこ れ は 童 話 なの だ 、 と 思 って し
ま う か も し れ ま せ ん が 、 19 世 紀 初 頭 の ウ ィ ー ン 会 議 の 頃 に い ま の ド イ ツ 連 邦 共 和 国 の 地
に 300 を 越 え る国 が あっ た 事 実を 知 れ ば、 こ うし た 王 室の こ とが ら は けっ し て 空想 で はな
い こ と が わ か るで し ょ う 。 メル ヘ ン 街 道 を 歩い て 、 グ リ ム童 話 の ル ー ツを 探 す 旅 は 、き っ
と み なさ ん の 興味 関 心を 深 め るこ と でし ょ う 。
そ の た め に もっ と も 好 都 合な の は 、 メ ル ヘン 街 道 の 拠 点で あ る カ ッ セル か ら 少 し 北に あ
っ て 、 グ リ ム 兄弟 が こ う し た童 話 や 伝 説 や 言語 、 文 法 、 慣習 な ど を 集 め始 め る き っ かけ を
与 え ら れ た マ ール ブ ル ク 大 学に 留 学 す る こ とで す ! さ いわ い 、 マ ー ルブ ル ク 大 学 は東 洋
大 学 と 学 術 協 定を 結 ん で お り、 毎 年 数 名 の 学生 が マ ー ル ブル ク 大 学 に 交換 留 学 生 と して 行
っ て い ま す 。 みな さ ん も 交 換留 学 生 と な っ て、 グ リ ム 童 話の 社 会 学 的 背景 を 探 っ て みま せ
んか。
( 4) ド イツ へ の 航路
さ て 、 下 調 べは こ れ ぐ ら いに し て 、 い よ いよ ド イ ツ へ 向け て 出 発 し よう 。 日 本 か らド イ
ツ へ 向か う 飛 行機 は 、成 田 発 では だ いて い 午 前 10 時 半か ら 11 時 頃 に 出発 し 、 ルフ ト ハン
ザ や J A L 、 AN A な ど 直 行便 な ら 午 後 4 時頃 に フ ラ ン クフ ル ト 国 際 空港 か ミ ュ ン ヒェ ン
空 港 に 到 着 す る。 な ら ば 、 日本 か ら ド イ ツ まで 4 時 間 で 行け る の か ! と 思 っ て は いけ な
い 。 日 本 と ド イ ツ と の 間 に 時 差 が 、 夏 で は 7 時 間 あ る の で 、 4 + 7 つ ま り 約 11 時 間 か か
る 。 じ っ さ い には 気 圧 の 関 係等 で そ れ よ り 若干 早 か っ た り遅 か っ た り する 。 ま た 、 当然 な
が ら 直 行 便 で ない 場 合 は 、 途中 の 空 港 で 最 低で も 1 時 間 以上 待 た な け れば な ら な い 。し か
も 、 た と え ば エ ー ル ・ フ ラ ン ス に 乗 っ た ら パ リ ま で 12 時 間 乗 っ て か ら 、 ド イ ツ へ 1 時 間
-2-
か け て 戻 っ て こな け れ ば な らな い し 、 安 い から と い っ て ブリ テ ィ ッ シ ュエ ア ウ エ イ なん か
に 乗 っ た ら 、 14 時 間 か け て ロ ン ド ン へ 行 っ て 、 さ ら に 2 時 間 以 上 か け て ド イ ツ へ 戻 っ て
こ な け れ ば な らな い 。 あ る いは 、 ベ ル リ ン へ行 く に も い まは 直 行 便 が ない か ら 、 フ ラン ク
フ ル ト 国 際 空 港 か ら ベ ル リ ン ま で 1 時 間 半 か け て 戻 っ て こ な け れ ば な ら な い 。( 日 本 か ら
フ ラ ン ク フ ル トへ 行 く 便 は 、さ っ き ベ ル リ ン上 空 を 通 過 した ! ) し た がっ て 、 こ う いう 無
駄 を 省 く に は 、直 行 便 が あ れば そ れ に 乗 り 、そ う で な け れば 、 地 図 を 見て な る べ く 「戻 っ
て 来 る 」 こ と のな い 航 空 会 社を 選 ぶ の が 良 いと い う こ と にな る 。 た と えば 、 私 が 良 く乗 る
のは、スイス・インターナショナルで日本からスイスのチューリヒまで行き、そこから
「 先 」 の フ ラ ンク フ ル ト や ミュ ン ヒ ェ ン へ 行く と か 、 ハ ンブ ル ク へ 行 く時 は ス カ ン ジナ ヴ
ィ ア 航 空 に 乗 って 、 ス ウ ェ ーデ ン の ス ト ッ クホ ル ム か デ ンマ ー ク の コ ペン ハ ー ゲ ン で乗 り
換 え て 行 く と ロス が 少 な い 。む か し は フ ィ ンラ ン ド 航 空 を頻 繁 に 利 用 した 。 フ ィ ン ラン ド
の ヘ ルシ ン キ は、日 本か ら 一 番近 い ヨー ロ ッ パの 空 港( ロ シ アは ヨ ー ロッ パ では な い )で 、
成 田 か ら 9 時 間前 後 で 到 着 する 。 そ こ か ら ドイ ツ で も ど こで も 他 の ヨ ーロ ッ パ の 諸 都市 へ
は 、 絶 対 に 「 戻る 」 こ と な く「 先 へ 」 飛 ん で行 く か ら 気 持ち が 良 い 。 ただ し 、 割 り と安 い
の で 満 席 に な るこ と が 多 い こと 、 機 内 食 が 超ま ず く 、 機 内職 員 の 態 度 もあ ま り よ く ない と
い う 欠 点 が あ る。 良 い 点 は 、前 述 の 通 り 、 乗り 継 ぎ 便 で もロ ス が 少 な いこ と と 安 い こと に
加 え て 、 ヘ ル シン キ の ヴ ァ ンタ 空 港 で 帰 り にム ー ミ ン グ ッズ が た く さ ん買 え る ( 小 物が 多
い の でお 土 産 に良 い 。ユ ー ロ が使 え るし ) こ とな ど が ある 。
さ て、ロ シ アを 通 過し 、ポ ーラ ン ド上 空 を 過ぎ る と、い よ い よド イ ツ上 空 に さし か かる 。
機 内 で見 ら れ る画 面 の地 図 情 報を 見 れば 、い ま飛 行 機 がど こ ら 辺を 飛 んで い る かわ か るが 、
窓 か ら 地 上 が 見え る 場 合 に は、 ポ ー ラ ン ド かド イ ツ か は 、町 や 村 の ま とま り 方 で す ぐに わ
か る 。 ド イ ツ はむ か し か ら 今に 至 る ま で 、 小さ な 村 は も ちろ ん の こ と 、あ る 程 度 大 きな 町
で も 必 ず と 言 って 良 い ほ ど 集落 を つ く る 。 つま り 、 町 や 村が 円 形 に 固 まっ て い て 、 家が 点
々 と あ る と か 点在 す る と か とい う こ と が め った に な い 。 それ に 対 し て 、ド イ ツ の 隣 りの ポ
ー ラ ン ド や デ ンマ ー ク で は 、家 が 点 在 し て いた り 、 電 車 の窓 か ら 眺 め てい る と 家 が 途切 れ
ず に 見 ら れ る 。ド イ ツ で は 列車 が 駅 を 出 て 5分 も 走 ら な いう ち に 駅 周 辺の 住 宅 や ビ ルが 途
切 れ 、 そ れ か ら先 は ず っ と 林や 畑 が 続 き 、 途中 で 民 家 を 見る こ と は め った に な い 。 それ が
上 空 か ら だ と もっ と よ く わ かる 。 大 小 さ ま ざま な 円 が 点 在し 、 そ の 円 と円 と を 道 が つな い
で い ると い う 光景 が 見ら れ た ら、 飛 行機 は す でに ド イ ツ領 内 に入 っ た のだ 。
ベ ル リ ン の 中央 に 東 西 を 分け る 壁 が 造 ら れた と き 世 界 中が 震 撼 し た が、 ド イ ツ 人 から す
れ ば 、 町 を 仕 切る 壁 自 体 は さし て 驚 く べ き こと で は な い 。む か し か ら どん な 町 で も 周囲 を
高 い 壁 で 仕 切 られ て い た か らで 、 い ま で も 周囲 を 高 い 壁 で仕 切 ら れ た 小さ な 町 は い くら で
も あ る し 、 大 都会 ニ ュ ー ル ンベ ル ク も 壁 で 囲ま れ て い る 。中 央 駅 か ら 出た ら ま ず 堀 を渡 っ
て 壁 を 越 え な けれ ば 市 内 に 入れ な い 。 ベ ル リン の ブ ラ ン デン ブ ル ク 門 やミ ュ ン ヒ ェ ンの イ
ザ ー ル 門 な ど はい ま 観 光 地 とし て 有 名 だ が 、こ れ ら の 門 は、 町 に 出 入 りす る た め の 門で あ
り 、 こ う い う 門が 町 を 囲 む 壁の 一 部 に 設 け られ て い た 。 そし て 、 た と えば ブ ラ ン デ ンブ ル
ク 門 は、 ブ ラ ンデ ン ブル ク 方 面へ 通 じる 道 に 繋が る 門 のこ と だっ た 。
さ て 、 そ う こう し て い る うち に 飛 行 機 は どん ど ん 高 度 を下 げ 、 シ ー トベ ル ト を 再 度着 用
す る よ う に と の機 内 ア ナ ウ ンス が 入 る 。 窓 から の 景 色 は 真っ 白 に な る 。飛 行 機 が 低 い雲 の
中 に 入 っ た の だ。 こ の 雲 の 下に 入 る と 地 上 が良 く 見 え て 、走 っ て い る 車や 歩 い て い る人 ま
で 見 え る 。 こ の時 、 デ ジ タ ルカ メ ラ で 写 真 を撮 っ て は な らな い 。 飛 行 機が 着 陸 態 勢 に入 っ
た ら (離 陸 す る時 も 同じ ) い っさ い のデ ジ タ ル危 機 は 電源 を 切ら な け れば な らな い 。
( 5) エ アフ ル トへ
ド イ ツ 中 部 へ日 本 か ら 行 く場 合 に は 、 可 能な 限 り 使 い たく な い フ ラ ンク フ ル ト 国 際空 港
を 使 わ ざ る を 得な い 。 ミ ュ ンヒ ェ ン 空 港 経 由も 可 能 だ が 、便 数 は フ ラ ンク フ ル ト に 比べ る
と 少 な い 。 世 界一 使 い 勝 手 が悪 い と 言 わ れ るフ ラ ン ク フ ルト 国 際 空 港 だが 、 こ こ を 経由 す
-3-
る 場 合に は 超 混雑 す るチ ェ ッ クイ ン カウ ン タ ーと 手 荷 物検 査 を通 ら な いの で 、まあ 安 心だ 。
そ れ で も 国 際 便か ら 国 内 便 に乗 り 換 え る 際 、不 気 味 な エ レベ ー タ ー に 乗り ( 2 階 分 降り る
だ け な ら 階 段 でと 思 っ て は いけ な い 。 空 港 の「 階 」 は 高 さが 高 い の で ふつ う の ビ ル の二 倍
以 上 の 階 段 を 歩 か な け れ ば な ら な い )、 先 の 見 え な い 長 ~ い ト ラ ン ジ ッ ト 用 通 路 を 歩 か な
け れ ば な ら な い。 乗 り 継 ぎ の飛 行 機 に 十 分 間に 合 う 時 間 があ れ ば 、 こ れも ま あ 異 国 の旅 の
楽 し みと 思 え るが 、 出発 が 迫 って い る時 に は 心臓 が 破 裂す る 。
さ て 、 無 事 に国 内 便 に 乗 り換 え て 、 い ざ 地方 空 港 へ 。 これ が ベ ル リ ン行 き と か ハ ンブ ル
ク 行 きだ と そ れな り の大 き さ( 横 4 席か 6 席 )だ が 、利用 者 が 少な い 空 港行 き だと 定 員 30
名 以 下 と い う 小型 の プ ロ ペ ラ機 の 場 合 が あ る。 そ れ も ま あ楽 し い 。 か つて は 中 型 機 でも 、
飛 行 中 ド ア が 全部 オ ー プ ン で、 パ イ ロ ッ ト が飛 行 機 を 操 縦し て い る 姿 が見 え た が 、 さす が
に い ま は ハ イ ジャ ッ ク 防 止 のた め か 、 操 縦 席の ド ア は 閉 まっ て い る 。 中型 機 以 下 の 飛行 機
の 場 合 、 た ま に空 調 が 不 具 合で 、 と く に 飛 行機 が 着 陸 態 勢は 入 っ て か ら気 圧 の せ い で耳 の
奥 が 死に そ う に痛 く なる と き があ る 。あく び をし た り 水を 飲 ん だり し ても ま っ たく 直 らず 、
空 港 に 着 い て から も し ば ら くは ボ ー と し て いて 、 税 関 職 員の 話 が よ く 聞こ え な い と いう と
き が ある 。
な には と も あれ 、ド イツ 中 部、チュ ー リン ゲ ン 州の 州 都 エア フ ルト Erfurt 空 港 に 着い た 。
州 都 の 飛 行 場 に も か か わ ら ず 、 一 日 に離 発 着 す
る 便 は 一 桁 な の で 、 小 さ な 売 店 が 1 つあ る だ け
の 閑 散 と し た 空 港 だ 。 2 階 建 て の 空 港ビ ル を 出
る と 目 の 前 に ― ― 何 も な い 。 駐 車 場 と、 市 内 中
心 地 へ 行 く 路 面 電 車 の 駅 の み 。 し か もそ の 電 車
に乗ろうという人は自分のほかに誰もいない
( 左 の 写 真 )。 日 本 の 地 方 空 港 も け っ こ う 寂 れ
て い るが 、こ こ よ りマ シ な気 が す る。でも ま あ、
こ れ も 異 国 の 旅 の 楽 し み ( っ て 、 そ れば か り だ
が )。
( 6) エ アフ ル トで
Erfurt は ド イ ツ 中 部 チ ュ ー リ ン ゲ ン 州 の 州 都 。 地 図 を 見 て も 明 ら か な よ う に 、 四 方 を 山
( チ ュ ー リ ン ゲン の 森 ) に 囲ま れ た 地 方 都 市だ が 、 じ っ さい に 現 地 を 訪ね る と 、 日 本の よ
う に 山や 丘 が 迫っ て いる よ う には 見 えな い 。と いう か 、山 など よ ほ ど晴 れ な いと 見 えな い 。
た だ し 、 街 の ど真 ん 中 に 位 置す る 大 聖 堂 や その 隣 の 城 塞 跡は 、 市 庁 舎 前の 広 場 か ら 見れ ば
丘 の 上 に 建 っ てい る と い う 感じ に は な っ て いる 。 エ ア フ ルト 空 港 か ら 街の 中 心 近 く にあ る
エ ア フ ル ト 中 央駅 ま で 路 面 電車 で 行 く こ と にな る が 、 そ れは な だ ら か でゆ る い 坂 を すべ る
よ う に下 っ て 行く 感 じな の で 、や は り空 港 も 高台 に あ るこ と は間 違 い ない 。
チ ュー リ ン ゲン 州 は、 1990 年 に ド イツ が 再 統一 さ れ るま で 旧東 ド イ ツに 属 して い た が、
-4-
い ま 現 在 で 見 る限 り 、 統 一 後の 大 改 造 で 、 どこ で も む し ろ旧 東 ド イ ツ のほ う が 近 代 化が 進
んでいる。とくに「1周遅れの先頭」にな
っているのが路面電車で、旧東ドイツ地区
の路面電車はとてもきれいだし乗り心地が
良い。それどころか、街中を路面電車が縦
横に走っていてとても便利だ。旧西ドイツ
地区は、早くから近代化、工業化が進んだ
ため、日本同様に、路面電車はさっさと廃
止して自動車優先にしてしまったが、いま
になって環境保全のため排気ガスを出さな
い公共交通手段として見直され、旧西側地
区で、いったん剥がしてしまった線路を敷
き直しているところもある。建物も建て替
えたり、外壁だけ直したりしてとてもモダ
ン で 清 潔 な 感 じが す る 。 も ちろ ん 、 少 し 町 外れ に 行 け ば 、あ あ 、 こ れ が東 ド イ ツ の 実態 だ
っ た の か と 思 える よ う な 壊 れか け た 薄 汚 れ た建 物 が 並 ん でい る と こ ろ もあ る 。 そ れ でも そ
う い うと こ ろ の石 畳 は歴 史 を 感じ さ せる も の があ り 、 ある 意 味で は 味 わい 深 い。
エ ア フ ル ト の観 光 の 目 玉 は、 先 述 の 大 聖 堂と 、 そ の 隣 の城 塞 跡 、 そ して 街 の 中 央 を流 れ
る 小 さ な 川 に 架か っ た 橋 の 上の 住 居 ( こ こ は古 く か ら の 小さ な 商 店 や カフ ェ が 並 び 、格 好
の 観 光 目 当 て に な っ て い る )、 そ し て ぜ ひ お 勧 め な の が 、 大 き な 植 物 園 。 こ の 植 物 園 は ぜ
っ た いと 言 っ て良 い ほど ハ ズ レが な い― ― 真 冬は 知 ら ない が 。
( 7 )エ ア フ ルト 、 つづ き
前に書いたように、エアフルトは旧東ド
イ ツ に属 し て いた た めに 、近代 化 が遅 れ た。
その結果、私たちのような外国人観光客か
ら す れ ば 、 19 世 紀 ま で の 銅 版 画 で 描 か れ て
いるような古い街並みがあちこちで見られ
て、興味深い。しかしまた同時に、これも
前に書いたように、旧東ドイツの経済が破
綻したので、東西再統一後に西側資本が押
し寄せ、安い土地や建物などをどんどん買
い占め、いまや世界中の大都会のどこでで
も見られるような洒落た商店や企業がメイ
ンストリートに建ち並び、西ドイツ以上に
-5-
近 代 的 と な っ た所 も 多 々 あ る。 ベ ル リ ン を はじ め と し て 、旧 東 ド イ ツ の諸 都 市 へ 行 くた び
に 、 そ の 町 の 変貌 ぶ り に 目 を見 張 る ば か り だ。 考 え よ う によ っ て は 、 ドイ ツ の 個 性 が失 わ
れ 、 目を 蔽 う ばか り だ、 と も 言え る 。ド イ ツ で一 番 人 気が あ った 大 学 と 18 世 紀か ら 19 世
紀 初 頭 に か け て言 わ れ 、 ロ マン 派 の 拠 点 と なっ た イ エ ナ の町 も 、 再 統 一し た ば か り のこ ろ
は 煤 け た わ び しい 町 に 見 え たが 、 数 年 前 に 再訪 し た ら 、 味も 素 っ 気 も ない つ ま ら な い近 代
都 市 に な っ て いた 。 ― ― も っと も 、 そ れ は 、前 述 し た よ うに 、 観 光 客 とし て 見 れ ば であ っ
て 、 住民 か ら すれ ば 近代 化 し たほ う が良 い の だろ う 。
そ れ に も か かわ ら ず 、 し かし 、 旧 東 ド イ ツに 限 ら ず 西 ドイ ツ で も そ うだ が 、 ヨ ー ロッ パ
人 は 歴 史 と 伝 統を 非 常 に 重 んじ る の で 、 メ イン ス ト リ ー トは と も か く とし て 、 ち ょ っと 裏
道 に 入 れ ば 、 やは り そ こ に は歴 史 を 感 じ さ せる 通 り が た くさ ん 残 っ て いる 。 ド イ ツ 中部 チ
ュ ー リ ン ゲ ン 州の 州 都 エ ア フル ト も そ の 例 外で は な い 。 前ペ ー ジ に 載 せた よ う は 古 いが ゆ
え に 洒 落 た 街 並み が 残 っ て いる 。 こ う い う 通り は 日 本 で 売ら れ て い る ガイ ド ブ ッ ク には め
っ た に 載 っ て いな い の で 、 現地 に 行 っ て 自 分で 探 す し か ない 。 そ れ が 旅の 楽 し み な のだ 。
そ の た め に も 、ド イ ツ 語 を 一生 懸 命 学 ん で 、こ う い う 町 のお じ さ ん ・ おば さ ん と 立 ち話 が
で き るよ う に なろ う !
( 8) Weimar
エ ア フ ル ト か ら 東 へ 列 車 で 40 分 ぐ ら い で 、 古 都 ヴ ァ イ マ ー ル に 着 く 。 ヴ ァ イ マ ー ル と
聞けば世界史を習った人なら知っているはずの、現在の日本
国憲法に匹敵する民主主義憲法と言われたワイマール憲法が
起草された町。しかし、この憲法はあまりに民主主義的であ
りすぎたためにナチズムの台頭を抑えることができず、短命
に 終 わっ て し まっ た 。
ヴ ァ イ マ ー ル を 有 名 に し て い る も う 一 つ の 話 題 は 、 18 世 紀
末 か ら 19 世 紀 始 め に 活 躍 し た ド イ ツ の 文 豪 ゲ ー テ と シ ラ ー
で、この二人が並んだ彫像(右がゲーテ)が、ワイマール憲
法が起草された講堂の前に建っている。シラーは、ここから
比較的近くのイエナや、その後ベルリンでも活躍したが、ゲ
ーテは公国の文部大臣(いまの言い方で表せば)として長く
この地に留まった。いまでもヴァイマール観光の最大の目玉
は、ゲーテの住居とそこから少し離れた別荘だ。別荘は、ゲ
ーテの館の裏から町を出て、小さな小川を渡った先の広場の
奥に建っている。ゲーテは『若きヴェルテルの悩み』や『フ
ァ ウ ス ト 』 な ど の 小 説 の ほ か 、『 西 東 詩 集 』 そ の 他 に 収 め ら
れた詩でも有名、さらにその自然科学的探究は専
門の学者に劣らないと言われる。その自然科学的
観察の多くが、この別荘周辺の自然観察から得ら
れたそうで、彼はこの地の散歩を毎日欠かさなか
った。
ヴァイマールは旧東ドイツに属したので、観光
客が大勢来るようになったのは、ドイツ東西再統
一後から。ゲーテの家を含む町の中心は駅から徒
歩 30 分 ほど の と ころ に ある 。
こ の 辺 は タ マネ ギ の 産 地 でも あ る ら し く 、小 さ め の タ マネ ギ を 束 ね た、 ほ と ん ど 飾り 物
と 言 っ て 良 い お土 産 が 、 夏 から 秋 に 市 場 や 屋台 で た く さ ん売 ら れ て い る。 と 言 う か 、や は
り 飾 り物 だ ろ う。
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( 9 )Jena
Thüringen 州 の 州 都 Erfurt か ら Weimar に 向 け て 乗 っ た 列 車 で そ の ま まさ ら に 東 へ 向か う
と Leipzig 方 面 へ 行 っ て し ま う ( 全 部 で は な い が ) から 、 Weimar で 乗 り換 え て 南 東 方向 に
向 か う列 車 に 乗る と 、約 30 分で Jena Pradies 駅 に着 く 。イ エ ナに は ほか に 駅 が2 つ ある(Jena
West と Saale 駅 ) が 、Paradies 駅 が 町 の 中心 に 一番 近 い 。パ ラ ディ ー ス とは パ ラ ダイ ス つま
り楽園で、すごい名前の駅を降りたら、線
路に沿って左へ進み突き当たったら右へ曲
がって坂道を下ると、劇作家シラーが住ん
だ 家 (Schillers Garttenhaus)に 向 か う 路 地 を 右
に 見 る 。 Gartenhaus は あ ず ま や と いう 意 味 だ
が、ここは花壇とあずまやのある家という
感じで、記念館になっている。2階に瀟洒
な部屋があり、ガラス越しに見る庭園は、
小 さ いな が ら も落 ち 着 いた 雰 囲気 で 良い( 左
の 写 真)。
シラーの家から
車道に戻りさらに
ゆるく坂を下ると
大きなバス停留所に出る。右に入ると旧市街で市庁舎や古い商
館や大学がある。人の流れが左に向かうので見てみると大きな
ショッピングセンターができている。旧東ドイツに進出した西
側資本による商店で、こうした大型ショッピングセンターのた
め に 、歴 史 の ある 旧 市街 は 寂 れつ つ ある 。
イ エ ナ 大 学 は 18 世 紀 末か ら 19 世 紀初 頭 に か け て文 学 や 学 芸
が栄え、多くの著名な学者や文学者が集まり、大きな思想運動
を展開した。それがドイツ・ロマン派であり、代表はシュレー
ゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、そしてシラー、哲学者の
シェリング等々。フィヒテやヘーゲルも一時期イエナ大学で哲
学を講じた。市庁舎の近くに彼らが住んだ家が残り、いま「ロ
マン派の家」として記念館になっている。イエナ大学は学芸だ
け で な く 、 学 生 運 動 も 盛 ん で 、 1848 年 革 命 前 ( フ ォ ア メ ル ツ = 三 月 前 期 ) の 思 想 運 動 の
中 心 に な っ た 。ナ ポ レ オ ン 軍が 侵 略 し て プ ロイ セ ン は 敗 北し た が 、 そ の後 の ナ シ ョ ナリ ズ
ム と 自 由 主 義 の 展 開 で イ エ ナ の 学 生 同 盟 (Bruschenschaft)は 重 要 な 役 割 を 果 た し た 。 そ の た
め も あ っ て 、 大学 構 内 に は 学生 運 動 指 導 者 の記 念 像 が 立 って い る 。 日 本で は 考 え ら れな い
光 景 だ。
市 庁 舎 の 裏 手に 大 き な 植 物園 が あ り 、 こ こも 見 る 価 値 があ る 。 さ ら に、 イ エ ナ に は世 界
的 に 有 名 な 光 学 器 機 メ ー カ ー で あ る Zeiss の 工 場 も あ り 、 光 学 博 物 館 で さ ま ざ ま な レ ン ズ
や カ メラ 等 々 の見 学 がで き る ほか 、 プラ ネ タ リウ ム も 有名 だ 。
こ んな 感 じ で、 イ エナ は Eisenach, Gotha, Erfurt, Weimar, Halle, Leipzig 等 々 と 同 様、 旧 東ド
イ ツ に属 し な がら も ドイ ツ 史 上け っ して 忘 れ るこ と の でき な い地 方 都 市の 一 つだ が 、逆に 、
旧 東 ド イ ツ 地 区は 、 か つ て の経 済 的 に 脆 弱 な基 盤 ゆ え に 進出 し た 西 側 資本 に 圧 倒 さ れ、 行
く た び に 、 歴 史あ る 古 都 の 面影 が 薄 れ 、 世 界中 ど こ も 似 たよ う な の っ ぺら ぼ う の 町 に変 わ
り つ つ あ る の を目 に し て 、 つら い 。 ア イ ゼ ナハ や ゴ ー タ など は ま だ 良 いが 、 こ の ゲ ーテ 街
道 沿 い の 町 の 中で は 「 極 め て魅 力 的 な 町 」 が「 じ つ に つ まら な い 町 」 に変 わ っ た 代 表と も
言 え るの が こ のイ エ ナで あ る のは つ くづ く 残 念だ 。
( 10) Gotha
-7-
ア イ ゼ ナ ハ 、ゴ ー タ 、 エ アフ ル ト … … 。 これ ら の 町 は 、中 部 ド イ ツ 、チ ュ ー リ ン ゲン 地
方 を 貫 く 鉄 道 路線 が 通 る 町 だが 、 マ ル ク ス に興 味 が あ る 人な ら だ れ で も大 い に 関 心 を引 く
町 の 名前 で も ある 。
マ ルク ス (Karl Marx, 1818-83)と 言 え ば共 産 主義 を 思 い出 す 人が 多 い が、 彼 は 当初 社 会主
義 に 興 味 を 示 し、 共 産 主 義 には 否 定 的 だ っ た。 と 言 っ て も、 共 産 主 義 と社 会 主 義 の 違い が
わかっていない人が多く、大学教員でも混同している人をたまに見かける(社会主義
Sozialismus は 、 個人 主 義に 反 対し 所 有 の平 等 を 説く が 、共 産 主 義 Kommunismus は 私 的 所有
そ の も の を 否 定 す る )。 そ れ ど こ ろ か 、 高 等 学 校 の 教 科 書 が 間 違 っ て い る 。 マ ル ク ス と エ
ン ゲ ルス は『 共 産 党宣 言 』を 書 いて 社 会 主義 を 唱え た な どと い う出 鱈 目 が書 い て ある 。
『共
産 党 宣言 』 は 1848 年 に公 刊 さ れた と き、『 共 産主 義 者 の宣 言 』と い う 題名 だ っ た( 当 時共
産 党 な ど と い う 組 織 は 存 在 し な か っ た 。) マ ル ク ス と エ ン ゲ ル ス は こ の 宣 言 で 、 共 産 主 義
の 理 想 を 説 い たの で は な く 、既 存 の 社 会 主 義や 共 産 主 義 を批 判 し た だ けだ っ た 。 エ ンゲ ル
ス は 根 っ か ら の共 産 主 義 者 だっ た が 、 マ ル クス は 当 時 活 動し て い た 共 産主 義 を 批 判 し、 社
会 主 義 に シ ン パシ ー を 抱 い てい た 。 マ ル ク スは エ ン ゲ ル スと 出 会 っ て 共産 主 義 者 と なり 、
私 的 所 有 の 否 定を 唱 え る よ うに な っ た 。 い ずれ に せ よ 、 彼ら は こ の 段 階で は 共 産 主 義社 会
が ど の よ う な もの に な る か は述 べ て い な い 。そ ん な こ と はユ ー ト ピ ア にす ぎ な い か らだ 。
マ ル ク ス の 最 大の 業 績 は 資 本主 義 の 構 造 を 徹底 的 に 解 明 した こ と で あ り、 彼 の 主 著 は『 資
本 論 』。 だ か ら 、 の ち の 資 本 主 義 者 は マ ル ク ス が 書 い た 『 資 本 論 』 を 真 剣 に 読 む こ と か ら
研 究 を始 め た 。
前 置 き が 長 く な っ た が 、 そ う い う マ ル ク ス や エ ン ゲ ル ス ら 共 産 主 義 者 た ち が 、「 で 、 革
命 を 起 こ し て 資本 主 義 を 否 定し た あ と 、 ど うい う 社 会 を 築こ う と い う のか 」 に つ い てよ う
や く プ ラ ン を 語 り 始 め た の が 19 世 紀 後 半 以 降 で あ り 、 そ の プ ラ ン は 、 そ れ ら を 議 論 し た
党 大 会の 開 催 地の 名 をと っ て、「ア イ ゼナ ハ 綱領 Eisenacher Programm, 1869」「 ゴー タ 綱領
Gothaer Programm, 1875」「 エ アフ ル ト綱 領 Erfurter Programm, 1891」 と 呼 ばれ て い る。 マ ルク
ス は こ れ ら の 綱 領 を 起 草 し た の で は な く 、 逆 で 、 1875 年 に 採 択 さ れ た ド イ ツ 社 会 主 義 労
働 者 党 の 綱 領 を批 判 し て 『 ゴー タ 綱 領 批 判 』を 書 い た 。 そこ で マ ル ク スは 、 諸 個 人 が分 業
に 従 属 せ ず 、 精 神 労 働 と 肉 体 労 働 の 対 立 を 解 消 し 、「 各 人 は そ の 能 力 に 応 じ て 、 各 人 は そ
の 必 要に 応 じ て」と い う労 働 と 消費 の 原則 が 貫か れ る 社会 の あ りよ う を提 示 し たの だ った 。
し か し い ま や、 東 ド イ ツ もソ 連 も 崩 壊 し 、共 産 主 義 は 色褪 せ た も の と思 わ れ る よ うに な
っ た 。 旧 東 ド イツ に 属 す る エア フ ル ト も ゴ ータ も ア イ ゼ ナハ も 、 も ち ろん 古 都 ワ イ マー ル
や イ エ ナ も 、 誰か に 言 わ れ なけ れ ば 、 こ こ が旧 東 ド イ ツ に属 し て い た とい う こ と は まっ た
く わ か ら な い ほど 、 町 並 み がき れ い に な り 、商 店 は モ ダ ンで 、 最 新 式 の路 面 電 車 が 走っ て
い る 。 ゴ ー タ 駅前 か ら 路 面 電車 に 乗 っ て 、 少し 高 台 に あ る町 の 中 心 の 縁を 右 へ ( 左 に行 く
電 車 は な い ) ぐる っ と 回 っ て行 く と 、 大 き な公 園 を 左 に 見て 、 次 の 次 の停 車 場 ぐ ら いで 下
車 し て 町 の 中 へ入 っ て 行 く と、 突 然 、 赤 く 塗ら れ た 瀟 洒 な市 庁 舎 前 に 出る 。 市 庁 舎 の横 か
ら ま っ す ぐ に 広く ゆ る い 坂 道が あ り 、 そ こ をの ん び り 上 って 行 く と 、 花壇 と 小 さ な 噴水 が
ある。そこからいま来た道を見おろすと、
市庁舎やまわりの商店が眺められる。静か
な 町 だな あ と 思う 。
さらに少し上って道路を渡ると宮殿があ
る。庶民で賑わう商店街は、さきほどの市
庁 舎 から さ ら に左 に 路地 を 入 ると 行 き着 く 。
まあ、そこはドイツの他の町の風景とさし
て変わらない。最初に市庁舎広場に着いた
ときの道をもう一度少し戻ると、比較的珍
し い 「 マ グ ダ ラ の マ リ ア 」( 民 衆 に 差 別 さ
れながらもイエスに救われ、最後まで(イ
エスの磔後まで)イエスに仕えた女性)を
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祀 っ た教 会 が ある 。
( 11) Eisenach
ア イ ゼ ナ ハ は、 ド イ ツ 中 部チ ュ ー リ ン ゲ ン州 の 西 部 に 位置 し 、 州 都 エア フ ル ト か ら列 車
で 30 分 ほ ど の 地 に あ る 。 駅 を 出 て 正 面 の 丘 を 見 上 げ る と 、 頂 上 に 大 き な お 城 が 見 え る 。
こ れ が 、 ドイ ツ で お そ らく 三 本 指 に 入る 有 名 な ヴ ァ ルト ブ ル ク 城(Wardburg)だ 。11 世 紀に
建 て られ 、R ・ ヴ ァー グ ナ ーの タ ーン ホ イ ザー の 舞台 で あ り、16
世紀半ばにルターが宗教改革で公職追放になったときこの城に
籠 も って 新 約 聖書 を ドイ ツ 語 に翻 訳 した こ と でも 知 ら れる 。
聖書はヘブライ語やギリシア語、ラテン語で書かれており、
文字が読める一般市民でも聖書原文を読める人はごく限られて
おり、したがって、聖書に何が書いてあるかはもっぱら聖職者
の手に委ねられていた。そこから自分に都合の良い主観的解釈
が生まれる余地が生じ、たとえばルターが厳しく批判した免罪
符(これを買えば天国に行ける)が作られたりもした。こうし
た現状を批判的に見る改革者が仕掛けた、既成腐敗教会権力へ
の最高級の攻撃手段が、聖書を翻訳すること、だった。したが
って当然逆に権力側はこれを厳しく禁止し、聖書を通常使って
い る 言 葉 に 翻 訳し た 人 は 火 あぶ り の 刑 に 処 せら れ た 。 ル ター は 宗 教 改 革を 試 み て 当 局か ら
追 求 され 、こ の城 に 籠 もっ て つ いに 新 約聖 書 をド イ ツ 語に 翻 訳 して 広 める こ と に成 功 した 。
現 在 入 手 で き るド イ ツ 語 版 新約 聖 書 は い ま でも ル タ ー 訳 か、 ル タ ー 訳 を少 し 改 訂 し たも の
が 使 わ れ て い る。 そ し て 、 じっ さ い ル タ ー の宗 教 改 革 は 成功 し 、 カ ト リッ ク 正 統 教 会に 対
し て プロ テ ス タン テ ィズ ム が 登場 し 実権 を 握 るこ と に なっ た 。
ヴ ァ ル ト ブ ル ク で も う 一 つ 有 名 な の は 1848 年 革 命 前 (Vormärz)の 時 代 に 学 生 がこ こ で 総
決 起 集 会 を 開 いて 政 権 批 判 をし た こ と 。 権 力側 は す ぐ に これ を 弾 圧 し 、学 生 運 動 を 厳し く
制 限 す る カ ー ル スバ ー ト 決 議 が発 布 さ れ た 。 これ に よ っ て 運動 は い っ そ う激 し く な り 、48
年 革 命に 発 展 した 。 紙面 が 尽 きた の で、 バ ッ ハ生 誕 地 等々 の 話は 割 愛 する 。
( 12) Naumburg
ナ ウ ム ブル ク は 、 チ ュ ー リ ン ゲ ン 州 の 州 都 エ ア フ
ル ト か ら 東へ 列 車 で 約 1 時 間 の と こ ろ に あ る 、 比 較
的 小 さ な 町だ 。 ヴ ァ イ マ ー ル か ら ラ イ プ チ ヒ へ 向 か
う 路 線 に あり 、 な ぜ か こ ん な 北 部 の 山 間 の 地 が ド イ
ツ 有 数 の ワイ ン の 産 地 で も あ る 。 私 が こ こ を 訪 れ た
9月始めにちょうどワイン祭が市場で開かれてい
た 。 ま あ 、こ の 季 節 に 飲 む ワ イ ン は ど こ で も 同 じ だ
が 、 とて も フ ルー テ ィで 飲 み やす い 。
話 は 戻 るが 、 駅 か ら 町 の 中 心 ま で は 、 他 の 町 同 様
に 、 ち ょ っと 距 離 が あ る が 、 駅 前 か ら 「 世 界 遺 産 」
級 の 旧式 路 面 電車 が 走っ て い るの で 、そ れに 乗 ろ う。
1 両 の 小 さ な 電車 で 乗 客 は 膝を つ き 合 わ せ るよ う な 狭 さ だが 、 運 転 手 のほ か に ち ゃ んと 車
掌 が 乗 っ て い る。 発 車 す る と突 然 大 声 が し てビ ッ ク リ す るが 、 そ れ は 車掌 さ ん が 次 の駅 名
を 告 げ た の だ った 。 な ん と 言っ て も 旧 式 だ から 放 送 設 備 もな く 、 車 掌 さん が 大 声 を 出す 。
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そ れ で 十 分 足 り る 広 さ だ 。 思 え ば 、 僕 ら が 子 ど も 時 代 の 都 電 も そ う だ っ た 。( 写 真 は 自 転 車
に 軽 く 追 い 越さ れ る 路 面 電 車)
さて、路面電車の3駅目が終点。商店街はすぐ目の
前。と言っても、ドイツの町は昔から高い壁で囲まれ
ているので、それを抜けなければならない。なかなか
趣のある商店街が続くが、この町のメインは2つの尖
塔を持つ大聖堂。ただし、私がここに来たのは別にあ
る。それ は 、19 世紀 末 の 哲学 者 ニ ーチ ェ 縁の だ か らだ 。
と言っても、いまはニーチェが8年間住んだという家
があるだけで、いちおう記念館になっているが、開館
時 間が 限 られ て い るの で 、期 待 し たほ ど で はな い 。
( 13) Leipzig
旧 東 ド イ ツ で最 も 有 名 な 町と 言 え ば 、 ラ イプ ツ ィ ヒ か ドレ ス デ ン だ ろう 。 ザ ク セ ン州 の
州 都 は ド レ ス デン だ か ら 、 一般 的 に は ド レ スデ ン の ほ う が格 上 か も し れな い が 、 バ ッハ が
活 躍 し た ト マ ス教 会 が あ る ライ プ ツ ィ ヒ も はず せ な い 。 ライ プ ツ ィ ヒ はま た 、 か つ ては 国
際 書 籍 市 で 世 界中 に 知 ら れ てい た し 、 東 ド イツ 崩 壊 の き っか け と な っ た大 規 模 市 民 集会 が
開 か れた の も ライ プ ツィ ヒ で、自 由 の気 風 が 街中 に 溢れ て い る( 左 下の 写 真 は、1989 年 10
月 に 行 われ た 7 万人 参 加の デ モ)。
さ ら に い ま で は あ ま り 耳 に し な く な った が 、 か
つ て は ヨ ー ロ ッ パ 最 大 の 鉄 道 駅 が あ る 町と し て も
知 ら れ た 。 私 が む か し ラ イ プ ツ ィ ヒ 初 めて 行 っ た
と き ( と 言 っ て も 、 東 西 再 統 一 後 だ が )、 列 車 の
番 線 を 数え た ら、60 以 上 あ った の を 覚え て いる 。
ベ ル リ ン か ら 急 行 列 車 で 南 へ 2 時 間 弱 なの で 、 ベ
ル リ ン に泊 ま っ て日 帰 りも で き る。
ち な み に 、 私 が ラ イ プ ツ ィ ヒ と ハ レ の中 間 に あ
る メ ル ゼ ブ ル ク と い う 町 で 公 文 書 館 に 通う た め 数
週 間 泊 ま っ た 下 宿 の お ば さ ん は 、 私 が 「ラ イ プ ツ
ィ ヒ 」 と 発 音 する と い つ も 「違 う 違 う 」 と 言っ て 「 ラ イ プツ ィ ッ ク 」 と直 し て く れ た。 こ
う い う 人 は 「 私 は (ich)」 も イ ッ ク と い う の か と 思 っ た が 、 彼 女 は 「 イ ヒ 」 と 発 音 し た 。
バ イ エ ル ン 地 方 で は し ば し ば 「 イ ッ ク 」 と い う 発 音 を 耳 に す る 。 ま あ 、「 ヒ 」 も 「 ク 」 も
聞 き 分け る の は微 妙 だが 。
( 14) Halle
ハ レ は 、 ラ イプ ツ ィ ヒ と ドレ ス デ ン の 真 ん中 に あ り 、 ザン ク セ ン ・ アン ハ ル ト 州 に属 す
る 。 旧 東 ド イ ツの 町 で 、 私 が初 め て 行 っ た とき は 労 働 者 の町 と い う 雰 囲気 だ っ た が 、数 年
前 に 行っ た ら 、洒 落 た都 会 に なっ て いた 。 き れい で 近 代設 備 の整 っ た 路面 電 車が DB の 中
央 駅 から 旧 市 街に 向 けて 走 っ てい る 。これ に 乗 りた い が、歩 い て も 10 分 ぐ らい の 距 離だ 。
中 央 の Marktplatz は 結 構 広 い が 、 た い て い は 市 が 開 か れ て い る の で そ の 広 さ は 感 じ ら れ な
い。
ハ レ と 言 え ば 、 職 業 柄 ハ レ 大 学 を 真 っ 先 に 思 い 出 す 。 ハ レ 大 学 は 宗 教 改 革 後 の 17 世 紀
に 開 設 さ れ た ので さ ほ ど 古 くは な い が 、 プ ロテ ス タ ン ト 大学 と し て は 他の 同 系 大 学 の手 本
と さ れた 。 18 世 紀に 啓 蒙哲 学 者 Christian Wolff が 活 躍 した が 、中 国 哲 学に 興 味 を抱 き キリ
スト教を否定しかねない解釈がされているとして一時期国外退去を命じられたことがあ
る。
宗 教改 革 を した の は言 わ ず と知 れ た Martin Luther だ が 、 彼が 95 ヶ 条の 質 問 状を 正 統派
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教 会 ( カ ト リ ッ ク 教 会 ) に 突 き つ け た の が 、 ハ レ か ら 列 車 で 20 分 ぐ ら い 北 に 行 っ た
Wittemberg と い う町 だ 。こ の 小 さな 町 はい ま Luthersstadt Wittemberg( ル ター の 町 ヴィ ッ テン
ベルク)と名づけられている(写真は市庁
舎 と そ の 前 に 立 つ ル タ ー 像 )。 こ の 町 の 大
学とハレ大学は合併して、いまはハレ・ル
ター大学となり、この地方の名門大学とし
て世界に知られている。ヴィッテンベルク
はベルリンからも列車で1時間ぐらいで日
帰り往復できるから、ぜひ訪問することを
お 勧 め す る 。 半 日 あ れ ば Sehenswürdigkeiten
( 名所 。直訳 す る と「 見る 価 値 があ る こと )
を す べて 見 て まわ る こと が で きる 。
( 15) Merseburg
ハレから少し南に下ったところに、中世
来の大聖堂と古城が周囲の静かな佇まいの
なかに立つ町がある。ここを訪れる日本人
はめったにいない。いまでこそ古い町並み
と中世以来の伝説に満ちた魅力ある町とし
て知る人ぞ知る秘境になっているが、かつ
て東ドイツ時代には町のすぐ脇から次の駅
ま で 延々 数 キ ロに 及 ぶ重 化 学 工場 が あっ た 。
そして東独崩壊後は廃墟だけが残った。メ
ルゼブルクの駅から古い町並みを通り過ぎ
ると画一的なアパート郡が並んでいたが、
これはハンガリーから連れて来た工場労働
者の住宅にあてられた。さらに、お城から
ザーレ川を越えるとゴーストタウンかと思
える薄暗く貧しそうな小さな民家が建ち並
んでいた。僕が生まれて初めてドイツに来
て数日間を過ごしたのがこのメルゼブルク
の 町 だ っ た 。 Inforomation で 民 宿 を 紹 介 し て
もらった(この町に当時ホテルはなかっ
た 。) す ぐ 近 く の 共 同 住 宅 の 2 階 に 住 む ゾ
ン タ ー ク お ば さ ん ( Sonntag 日 曜 日 ! ) の 部
屋 だ っ た 。 60 歳 を 越 え て い る よ う に 見 え た
が 現 役 の 看 護 師で 未 亡 人 だ った 。 夫 は 古 書 店を 開 い て い たそ う だ 。 そ のお ば さ ん の 居間 に
あ る ソ フ ァ を 広げ て ベ ッ ド に仕 立 て て 寝 か せて く れ た 。 テレ ビ が あ っ たが モ ノ ク ロ で映 り
が 悪 く 、 チ ャ ンネ ル を 回 し ても 2 局 し か な かっ た 。 部 屋 の窓 か ら 通 り が見 え る が 、 路面 電
車 が 24 時 間 走 っ て い て 、 慣 れ る ま で は う る さ く て 眠 れ な か っ た 。 朝 食 は パ ン と バ タ ー と
コ ー ヒー 、そ し てゆ で 卵 を作 っ てく れ た。ゆ で卵 を コツ ン と 割っ て 食べ よ う とし た ら Nein,
nein と 言 っ て 怒 ら れ た 。 卵 は ナイ フ で 上 の ほう を か つ ん とヒ ビ 入 れ て 、ス プ ー ン で 中身 を
ほ じ く っ て 食 べる も の だ と いう 。 ラ イ 麦 の ヌタ ッ と し た 独特 の 食 感 と 匂い が す る パ ンに ジ
ャ ム を 塗 っ て お弁 当 を つ く って く れ た 。 や さい し い お ば さん だ っ た 。 数年 後 に も ま たゾ ン
タ ー ク お ば さ んの 家 に 泊 ま った 。 喜 ん で く れた 。 3 回 目 に行 っ た ら 引 っ越 し て し ま って い
た 。 まだ 生 き てい る だろ う か 。
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僕 が な ぜ こ の町 に 滞 在 し たか と い う と 、 当時 こ の 町 の はず れ に プ ロ イセ ン 機 密 公 文書 館
が あ っ た か ら だ ( い ま は ベ ル リ ン ・ ダ ー レ ム に 統 合 さ れ て い る 。) 薄 汚 い 高 い 塀 に 囲 ま れ
た 民 家 の よ う な秘 密 警 察 の よう な 暗 い 建 物 で、 入 り 口 で 厳重 な チ ェ ッ クが あ っ た 。 東独 の
国 家 保安 省 の なご り かと 思 っ た。 た だし 、 職 員は み な 親切 だ った 。
東 独 崩 壊 後 、工 場 労 働 者 は失 業 し 、 駅 前 に昼 間 か ら 酒 を飲 ん で い る 人た ち が た む ろし て
い た 。 駅 の ト イレ は ど こ で もた い て い 有 料 だが 、 こ の 駅 のト イ レ 番 を して い た の は 二十 歳
そ こ そ こ の 青 年 だ っ た 。 50Pfennig 払 っ た ( 100Pfennig=1DM、 ユ ー ロ 導 入 以 前 で 1 ド イ ツ マ
ル ク が 120 円 ぐ らい だ っ たか ら 、 50Pfennig は 60 円 。 その 後 1 DM=60 円 に な った )。 1人
か ら 1回 60 円 とれ れ ば良 い よ うに 思 える が 、 急行 列 車か ら 降 りる 客 が 10 人 に 満た ず 、ト
イ レ に入 る 人 はめ っ たに い な い。列 車 が来 る のは 1 時 間に 1 本 か2 時 間に 1 本 だっ た から 、
一 日 居て も 500 円に な ら ない と 思え た 。
( 16) Dresden
ザ クセ ン 州 の州 都 。旧 東 ドイ ツ 最大 の 町。
だ が 、「 ド イ ツ の ヒ ロ シ マ 」 と 呼 ば れ た ほ
ど、第二次世界戦争終結期に町全体が徹底
的に破壊された。その破壊の跡を戦争モニ
ュ メ ント と し て残 さ れた の が Frauenkirche(聖
母教会)だ。教会があった周辺に無数の瓦
礫 が 積 ま れ て い た 。 1990 年 の 東 西 ド イ ツ 再
統一後、荒れ果てたこの教会跡をなんとか
復活させようと市民が立ち上がり、世界中
か ら 支 援 を 受 け 、 2005 年 つ い に 教 会 は 再 建
された。新しい教会の中に無数の旧教会の
瓦礫が使用されている。爆撃で破壊された
教 会 の 破 片に 番 号 を 打 って 、「 史上 最 大の ジ グ ソー パ ズル 」 が 完成 し た。( 上の 写真 は 2001
年 8月 30 日 に撮 影。)
ド レ ス デ ン の 名 所 旧 跡 は エ ル ベ 川 沿 い に 集 中 し て い る 。 ツ ヴ ィ ン ガ ー 宮 殿 (Zwingerhof)
〔 写 真 〕、 ホ ー フ 教 会 (Hofkirche)、 ゼ ン パ ー オ ペ ラ 座 (Zemperoper)、 マ イ セ ン 陶 磁 器 で 造 ら
れ た 壁 画 、 世 界有 数 の 大 き さを 誇 る 宝 石 が 散り ば め ら れ た王 冠 等 が 展 示さ れ て い る 美術 館
等 々 。 だ が 、 チ ェ コ の 首 都 プ ラ ハ に 水 源 を 有 す る エル ベ 川 (Die Elbe)は と き に 大洪 水 を 引
き お こ す 。 2002 年 夏 の 大 洪 水 で は 、 エ ル ベ 川 か ら 1 キ ロ 以 上 離 れ た ド レ ス デ ン 中 央 駅 に
停 車 し て た 列 車の 窓 の 高 さ まで 浸 水 し た 。 いま 洪 水 が 迫 るバ ン コ ク 以 上の 大 洪 水 だ った 。
美 術 館や 宮 殿 の宝 物 を守 る た めに 必 死の 努 力 が行 わ れ た。
ドレスデンと言えば、ドイツ最古のクリ
ス マ ス 市 で も 有 名 で 、 約 580 年 の 伝 統 を 誇
る。鎌倉時代か。クリスマスの時に作られ
る、砂糖を上に振ったパンケーキであるシ
ュトレンが生まれたのもたしかドレスデン
だ っ た。
ドレスデンと言えば、児童文学作家とし
て世界的に知られるエーリヒ・ケストナー
(Erich Kästner, 1899-1974)も 思 い 出す 。 彼 はド
レスデンのノイシュタット出身で、ドレス
デンの町の少しはずれにある喫茶店の庭に
ケストナーの本が積まれたデザインの銅像
が 置 かれ て い る。
『 エー ミ ー ルと 探 偵』(1928
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年 ) で は 、 パ ーマ ネ ン ト 屋 で働 く 母 親 と 二 人暮 ら し で 、 母親 思 い の 悪 戯坊 主 が ベ ル リン の
お ば あ さ ん に お金 を 届 け る 鉄道 旅 行 中 、 飴 に仕 組 ま れ た 薬で 居 眠 り し てい る う ち に お金 を
盗 ま れ る が 、 ベル リ ン の 少 年た ち が 大 勢 集 まっ て 悪 党 を やっ つ け る 。 この 小 説 を 含 むケ ス
ト ナ ー の 作品 は 、 し か し、 1933 年1 月 30 日 に 政 権を と っ た ヒ トラ ー 率 い る ナ チス に よっ
て 焚 書 処 分 に され る 。 多 く の小 説 家 や 知 識 人等 が ア メ リ カ合 州 国 等 海 外に 亡 命 す る が、 ケ
ス ト ナ ー は 祖 国 の 自 由 と 平 和 を 守 る た め に ド イ ツ に 留 ま っ た 。 彼 は 、 1933 年 に 公 刊 し た
『 飛 ぶ教 室 』 の序 文 で子 ど も たち に 向け て こ う書 い て いる 。
「賢さのともなわない勇気は不法です。勇気のともなわない賢さはくだらんもので
す。世界史には、ばかな人が勇ましかったり、賢い人びとが臆病だったりした時がい
く ら もあ り ま す。それ は 正し い こ とで は あ りま せ んで し た。勇気 の あ る人 び と が賢 く 、
賢 い 人び と が 勇気 を 持っ た と き、 初 め て人 類 の進 歩 は 確か な もの に な るで し ょ う。」
( 17) Alsfeld
ア ール ス フ ェル ト は、 Frankfurt am Main か
ら Kassel や Hamburg 方 面へ 抜 け る ICE が 通
る 路 線上 の 町 Fulda か ら 、ド イ ツを 横 断 し、
同 じ く Frankfurt am Main か ら Marburg を 経て
Kassel 方 面 へ 抜 ける 路 線 に あ る 町 Giessen と
のあいだを結ぶ、まったくのローカル線の
ちょうど中央に位置する。一時期は廃線が
検討されるほどのローカル線で、かつてマ
ールブルクへ何度も滞在した折にも、行き
たいと思いながらなかなか行けない所だっ
た 。列 車 の本 数 が 非常 に 少 なか っ たか ら だ。
ところが、なぜかいまは定期的に電車が走
っ て い る し 、 イン タ ー ネ ッ トで ド イ ツ 鉄 道 の時 刻 表 や 接 続時 間 等 が す べて わ か る よ うに な
っ た ため 、 拍 子抜 け する ほ ど 簡単 に この 町 を 訪ね る こ とが で きる よ う にな っ た。
で、そんな田舎町になんとしてでも行きたいと思うほど、何か見るべき価値がある
Sehenswürdigkeiten が あ る の か ? あ る ! な ぜ な ら 、 こ の 町 は 〝 赤 ず き ん ち ゃ ん の 町 〟 と
呼 ば れて い る から だ 。正確 に は 、赤 ずき ん ち ゃん の 町は こ のア ー ル スフ ェ ル トだ け でな く 、
こ こ か ら さ ら に、 マ ー ル ブ ルク と カ ッ セ ル の中 間 に あ る 町ト ラ イ ザ と のあ い だ を 結 ぶ一 帯
す べ てが 、 赤 ずき ん ちゃ ん の 町と し て知 ら れ る。
ち なみ に 、グ リム 兄 弟は 、東 洋 大 学の 協 定 校で も ある マ ール ブ ル ク大 学 の 法学 部 で学 び 、
そ こ か ら 現 在 は 列 車 で 約 40 分 北 に 行 っ た カ ッ セ ル で 働 き な が ら 童 話 を 収 集 し た の で 、 こ
の 辺 り 一 帯 に は グ リ ム 童 話 の 舞 台 が あ ち こ ち に 見 ら れ る 。「 ハ ー メ ル ン の 笛 吹 き 男 」 の
Hameln、 赤 髭 男 爵 の Hann-Münden、「 い ば ら 姫 」 の Trendenburg、「 白 雪 姫 」 の バ ル デ ッ ク 鉱
山 、 少 し 遠 い が 「 ブ レ ー メ ン の 音 楽 隊 」 の Bremen、「 ラ プ ン ツ ェ ル 」 の … … と 、ま だ ま だ
続 く 。 で 、「 赤 ず き ん 」 だ が 、 こ の 童 話 は グ リ ム 童 話 で 知 ら れ る が ( 初 版 1812 年 )、 そ れ
よ り 約 100 年 前 に公 刊 さ れた シ ャル ル ・ ペロ ー の童 話 集 にも 載 っ てい る 。
「 シン デ レ ラ」
(グ
リ ム 童 話 で は 「 灰 か ぶ り 」) も 「 眠 れ る 森 の 美 女 」( グ リ ム 童 話 で は 「 い ば ら 姫 」) も こ れ
に す で に 載 っ てい る 。 ペ ロ ーは フ ラ ン ス 人 だか ら 、 こ れ らの 民 話 は ド イツ で は な く フラ ン
ス の も の で は ない か ? な のに 、 な ぜ ド イ ツ中 部 の こ の 町が 「 赤 ず き んの 町 」 な の か?
そ の 理 由 は や や複 雑 な の で 、こ こ で は 詳 し く書 け な い が 、要 す る に 民 話は 国 境 を 越 える こ
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と 、 ま た 、 似 たよ う な 話 は 世界 中 に あ る こ と( た と え ば 「シ ン デ レ ラ 」は イ タ リ ア にも 中
国 に も あ る )、 さ ら に は フ ラ ン ス の ユ グ ノ ー が 宗 教 弾
圧でドイツに 亡命 してきたこと、などなど。だが、赤
ずきんは、その童話は
別として、実際に女性
が赤い頭巾をかぶる風
習は、このドイツ中部
の田舎町、アールスフ
ェルトからトライザ周
辺の独自のものとして
古くから知られてい
る 。 な の で 、「 赤 ず き
ん の 町」 な の だ。
ところで、赤頭巾と
いうと、女性が頭を覆
うスカーフのようなも
のをイメージする人が
多 く 、 絵 本 で も赤 ず き ん ち ゃん が 頭 に 赤 い 布を 被 っ て い る絵 が し ば し ば描 か れ て い る。 し
か し 、赤 頭 巾 はド イ ツ語 で Rotkäppchen と 言う 。 rot は 「 赤 い」、 Käppchen は Kapp の 小 さい
も の と い う 意 味 で 、 Kapp は キ ャ ッ プ つ ま り 帽 子 な い し は コ ッ プ の こ と 。 つ ま り 、 直 径 10
~ 15 ㎝ ほ ど の コ ッ プ の よ う に 赤 い 布 を 編 ん で 頭 の 上 に 纏 め た 髪 の 毛 を 包 む の が 、 正 式 の
赤 頭 巾な の だ 。
写 真は 、 ア ー ルス フ ェ ル ト の市 庁 舎 とその横 にある赤 頭巾の銅像
(18) Marburg (1)
さ て 、 中 部 ドイ ツ の 旅 も いよ い よ ほ ん と うに ド イ ツ の ど真 ん 中 に 差 しか か っ て き た。 ド
イ ツ の 真 ん 中 には ヘ ッ セ ン 州が あ る 。 そ し て、 ヘ ッ セ ン 州の ほ ぼ 中 央 にマ ー ル ブ ル クが あ
る 。さ らに 、マ ー ルブ ル クに は 、わ が東 洋 大学 の 協 定校 マ ール ブ ル ク大 学 が ある 。そ こで 、
マ ー ルブ ル ク につ い ては 2 回 に分 け て紹 介 し よう 。
マ ー ル ブ ル クへ 行 く 鉄 道 路線 は 1 本 し か ない 。 フ ラ ン クフ ル ト ・ ア ム・ マ イ ン 中 央駅 と
カ ッ セ ル を 結 ぶ路 線 だ 。 フ ラン ク フ ル ト 中 央駅 か ら 北 へ 列車 で ほ ぼ 1 時間 ぐ ら い の 距離 に
あ る 。途 中 の 大き い 駅は 、 西 に Fulda、東 に Kobrenz へ 通 じる 路 線 が交 差 す る Giessen だ け
だ が 、 急 行 で はフ ラ ン ク フ ルト 中 央 駅 か ら 3つ 目 の 駅 に なる 。 カ ッ セ ル方 面 に 向 か う列 車
の 進 行 方 向 左 側の 小 高 い 丘 の頂 上 に 古 城 が 見え て き た ら 、マ ー ル ブ ル ク中 央 駅 は も うす ぐ
そ こ だ。 駅 に 着き 、 構内 ア ナ ウン ス が Marburg, Marburg, hier Marburg!と 言う の を 聞く と 、あ
あ 、 故 郷 に 着 いた ! と い う 気が し て く る 。 マー ル ブ ル ク に何 度 も 行 っ たの は ず っ と 昔な の
に 、 いま で も そん な 気分 に さ せて く れる ほ ど 、落 ち 着 いた 大 学町 だ 。
そ う 、 マ ー ル ブ ル ク は 、「 ド イ ツ 4 大 学 町 」 の 1 つ に 数 え ら れ る 大 学 町 で 、 市 内 の 建 物
で な ん ら か の 大学 施 設 を 赤 色に 塗 っ た ら 地 図が 真 っ 赤 に なる ほ ど 、 至 る所 に 大 学 の 施設 な
い し は 大 学 関 係者 の 住 宅 等 々が 建 ち 並 ん で いる 。 大 勢 の 学生 が 出 入 り する カ フ ェ や レス ト
ラ ン も含 め た ら、ほぼ 全 部 が赤 く 染ま る に 違い な い。ちな み に 、「 ド イツ 4 大学 町 」と は、
ド イ ツ 最 古 の 大 学 が あ る Heidelberg、 ほ ん と う に 町 中 が 大 学 関 係 施 設 で 埋 ま り そ う な
Tübingen、あ との 1 つ につ い ては 意 見 が分 か れ、Göttingen と Münster が ある 。い ずれ に せよ 、
マ ー ルブ ル ク は、 ハ イデ ル ベ ルク 、 テュ ー ビ ンゲ ン と 並ん で 、落 選 す るこ と はな い 。
マ ール ブ ル ク大 学 は、 正 式 名称 を フィ リ ッ プス 大 学 (Die Philipps-Universität Marburg)と 言
う。ドイツの大学の多くはこうした名称を持っており、私が通うキール大学も正式には
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Christein-Albrecht Universität と 言 う 。ハ ン ブ ル ク 大学 の よ う に 地名 が そ の ま ま付 く 大 学 はご
く少数しかない。マールブルク大学はもと
福 音 主 義 の 立 場 に 立 ち 、「 ヘ ッ セ ン 教 区 民
に神の御言葉と教えを伝え、正しい助言の
できる人材の養成」がその創設の趣旨であ
る 。の ち に人 文 主 義や 啓 蒙 主義 を 採用 し た。
創設者は方伯フィリップス大胆公(名前の
由 来 )、 1527 年 7 月 1 日 、 ド イ ツ 最 初 の プ
ロテスタント系大学として設立された。そ
の後宗派対立に巻き込まれて困難な時代も
あ っ た が 、 1653 年 に 方 伯 ヴ ィ ル ヘ ル ム 四 世
に よ り復 興 さ れ、 1723 ~ 40 年 に啓 蒙 主 義哲
学者のクリスティアン・ヴォルフが在任し
て 「 マ ー ル ブ ル ク 大 学 全 盛 時 代 」 と 言 わ れ る 時 代 が 続 い た 。 1806 年 ナ ポ レ オ ン 率 い る フ
ラ ン ス 軍 に 占 領 さ れ た の ち 、 1866 年 に プ ロ イ セ ン 領 と な り 、 1871 年 の ド イ ツ 統 一 を 迎 え
た 。 第 二 次 世 界 大 戦 後 は 、 1970 年 に ヘ ッ セ ン 州 の 大 学 法 改 訂 に よ り 大 幅 改 組 さ れ 、 従 来
の 5 学部 か ら 21 学科 と なっ て 現 在の 基 礎が 固 め られ た 。
東 洋 大 学 が マー ル ブ ル ク 大学 と 協 定 を 結 ぶき っ か け と なっ た の は 、 ドイ ツ 中 世 の 都市 史
を 研 究 し て い た小 倉 欣 一 経 済学 部 教 授 ( 当 時。 の ち 早 稲 田大 学 に 転 職 、定 年 退 職 後 は名 誉
教 授 ) が マ ー ルブ ル ク 大 学 に留 学 し た 縁 で 、そ こ の 中 世 史研 究 者 で あ るシ ュ ル ツ ェ 教授 と
の 繋 が り を 生 かし て 共 同 研 究を 行 っ た こ と にあ る 。 当 時 マー ル ブ ル ク 大学 の 史 学 科 で助 手
だ っ た Urlich Sieg 氏 が大 学 史 を研 究 し てい た こと も あ って 、 ジー ク 氏 に資 料 を 集め を 依頼
し た 。 そ の 資 料が あ る 井 上 円了 記 念 学 術 セ ンタ ー を 介 し て私 も 彼 と 知 り合 い に な り 、い ま
は 無 二 の 親 友 であ る 。 数 年 前に 本 学 に 招 待 し、 1 ヶ 月 間 一緒 に 研 究 し たり 京 都 ・ 奈 良を 旅
行 し たり し た。話が ず れた が 、現 在 ジー ク 氏 はマ ー ルブ ル ク大 学 近 世史 研 究 所の 准 教授( 日
本 風 に 言 え ば )で あ る 。 ド イツ で は 、 出 身 大学 に は 就 職 でき な い と い う原 則 が あ る が、 彼
は 優 秀な た め 例外 的 に残 れ た のだ と 思う 。
マ ー ル ブ ル ク大 学 に あ っ た日 本 学 研 究 科 がな く な っ た ため 、 協 定 校 では あ る が マ ール ブ
ル ク 大 学 か ら 本学 に 留 学 す る学 生 が こ こ 数 年い な い の が 残念 だ 。 か つ て、 ド イ ツ 語 「応 用
2 」 ク ラ ス に 来て も ら っ て 、彼 女 が ド イ ツ 語を 日 本 人 学 生に 教 え な が ら日 本 語 を 学 び、 日
本 の 学 生 が 日 本語 を 彼 女 に 教え な が ら ド イ ツ語 を 学 ぶ と いう 楽 し い 日 々が 続 い た こ とが な
つ か し く 思 い 出さ れ る 。 そ のと き ア イ ル ラ ンド の ダ ブ リ ン大 学 の 学 生 も参 加 し た が 、彼 だ
け が 日本 語 も ドイ ツ 語も よ く でき た 。母 語 の 英語 は も ちろ ん のこ と 。
現 在 、 マ ー ルブ ル ク 大 学 から 学 生 が 来 て いな い が 、 協 定は 継 続 さ れ てお り 、 本 学 から 毎
年 2 名 ( 今 年 は例 外 的 に 3 名) の 学 生 が マ ール ブ ル ク で おも に ド イ ツ 語を 学 ん で い る。 わ
が 社 会 学 部 か ら も 、 こ の 10 年 で 社 会 文 化 の 学 生 3 名 、 社 会 心 理 1 名 、 メ デ ィ ア 1 名 が 選
ば れ て マ ー ル ブル ク に 行 っ てい る 。 ち な み に、 社 会 学 部 でド イ ツ 語 を 教え て い る 非 常勤 講
師 の 川本 先 生 は、本 学 哲学 科 出 身で 、本 学 か らの マ ール ブ ルク 大 学 留学 生 の 第1 号 であ る 。
( 写 真 は 神 学部 の 建 物 で 、 現在 大 学 の 附 属 教会 が あ る 。)
(19) Marburg (2 )
マ ー ル ブ ル ク大 学 の 卒 業 生で 、 世 界 的 に 知ら れ て い る 最も 有 名 な 人 と言 え ば 、 グ リム 兄
弟 で しょ う 。
弁 護 士 だ っ た父 親 の 急 死 で貧 し い 生 活 を 強い ら れ た グ リム 兄 弟 は 、 叔母 の 支 援 を 受け て
成 長 し、1802 年 に 長 男の ヤ ー コブ (Jacob Grimm)が 、翌 年 に は次 男 のヴ ィ ルヘ ル ム (Wilhelm)
が 、 法 律 家 と なっ て 早 く 母 親や 弟 妹 た ち に 楽を さ せ よ う と考 え マ ー ル ブル ク 大 学 法 学部 に
入 学 し ま し た 。し か し 、 当 時の 学 生 は 一 般 に裕 福 な 家 庭 の者 が 多 く 、 貧乏 人 の グ リ ム兄 弟
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は 学 友 か ら も 教授 た ち か ら も馬 鹿 に さ れ 不 遇の 生 活 を 送 って い ま し た 。と い う か 、 とに か
く 彼 ら は 脇 目 も ふ ら ず に 勉 学 に 専 念 し ま し た 。 そ う し た 様 子 を 見 た ザ ヴ ィ ニ ー (Friedrich
Karl von Savigny)教 授 は、 彼 ら に自 宅 の 書斎 を 開放 し 、 自由 に 勉強 し て 良い と 勧 めま し た。
こ の ザ ヴ ィ ニ ーこ そ 、 ヘ ー ゲル や プ フ タ な どの い わ ゆ る 哲学 法 学 派 に 反対 し て 歴 史 法学 派
を立ち上げた法学者であり、のちに
プロイセンの法律制定大臣になった
人 で した 。
ザヴィニー先生が提唱した歴史法
学とは、法の源を民衆の歴史のなか
に探り出そうとする立場を言い、狭
い法曹の世界から法を解放すること
を目指したものです。法の源が民衆
の歴史のなかにあるといっても、事
象はそのままでは消えて行くので、
なんらかのかたちで書き残されてい
な け れ ば な り ま せ ん 。 英 語 の history
( 歴 史 ) と story( 物 語) は ほぼ 同 類 の単 語 で あり 、 ドイ ツ 語 の Geschichte に は 「歴 史 」と
「 物 語 」 の 2 つ の 意 味 が あ る の は 、 出 来 事 Geschehen は あ く ま で も 物 語 ら れ 書 き 残 さ れ な
け れ ばな ら な いこ と を意 味 し てい る から で す 。日 本 語の「歴 史 」の「 史」はま さ に「 ふ み」
です。
法 学 部 生 だ った グ リ ム 兄 弟は 、 ザ ヴ ィ ニ ー先 生 の 言 う とお り に 法 の 源を 探 し て ド イツ の
民 衆 が 語 る 民 話 や 伝 説 、 言 葉 、 文 法 、 習 慣 な ど を 調 べ ま し た た 。『 グ リ ム 童 話 』 は こ う し
て 書 かれ た の です 。
前 頁 の 写 真 はマ ー ル ブ ル クの 概 観 で 、 右 上の 山 の 中 腹 にあ る の が お 城。 お 城 は い ま大 学
附 属 博 物 館 に なっ て い ま す 。お 城 の 左 下 に 見え る 大 き な 建物 は 市 庁 舎 です 。 こ の 市 庁舎 に
行 く に は 古 い 石畳 の 坂 道 を 登っ て 行 か な け れば な り ま せ んが 、 そ の 坂 道の 途 中 が 洒 落た 商
店 街 に な っ て おり 、 登 り 飽 きる こ と は あ り ませ ん 。 市 庁 舎を 過 ぎ る と ラー ン 川 に 向 かっ て
下 り 道 に な り ます が 、 今 度 は木 組 み の 家 が 並ん で い る の で、 こ れ ま た 飽き ず 疲 れ ず に降 り
て 行 け ま す 。 もっ と も 、 急 ぎの 場 合 は 、 丘 の上 と 下 を 結 ぶ無 料 の エ レ ベー タ に 乗 れ ばア ッ
と い う 間 に 降 りら れ ま す 。 エレ ベ ー タ ー に 乗ら な い で ゆ るゆ る と 坂 道 を右 手 に 下 っ て行 く
と 、 Barfüßerweg( 裸 足 の 路 ) か ら Barfüserstraße( 裸 足 通 り ) と 続 く 道 が あ り 、 カ フ ェ や 本
屋 、 服 屋 等 々 が続 い て い ま す。 こ こ と さ ら に下 の 車 道 と のあ い だ に 建 ち並 ぶ 民 家 に グリ ム
兄 弟 が 住 ん だ 家や ザ ヴ ィ ニ ー先 生 の 家 な ど があ り ま す 。 逆に 少 し 上 方 に上 る と 、 哲 学者 ハ
イ デ ガ ー が 住 んだ 家 や 、 彼 と師 弟 関 係 プ ラ スα だ っ た と 言わ れ る 哲 学 科学 生 ハ ン ナ ・ア ー
レ ン ト が 住 ん でい た 家 な ど があ り ま す 。 新 カン ト 派 哲 学 者リ ッ ケ ル ト の家 や 音 楽 家 シュ ー
マ ン の 家 も あ り、 ハ イ デ ル ベル ク の 「 哲 学 の道 」 は 有 名 です が 、 マ ー ルブ ル ク に も ちょ っ
と し た「 哲 学 の道 」 があ り ま す。
マ ー ル ブ ル クと 言 っ て 忘 れて は な ら な い のが 、 エ リ ー ザベ ト 教 会 で す。 チ ュ ー リ ンゲ ン
地 方 の 王 女 だ った エ リ ー ザ ベト は 、 夫 が 戦 死し た た め マ ール ブ ル ク に 亡命 し 、 こ こ にプ ロ
テ ス タ ン ト 教 会を 建 て 、 ハ ンセ ン 病 患 者 を 含む 病 人 や 貧 民の 救 済 活 動 を続 け た の で すが 、
疲 労 と 病 気 感 染の た め 若 く して 死 に ま し た 。死 後 、 彼 女 は聖 別 さ れ こ こに 祀 ら れ る こと に
な り ま し た 。 教会 に 入 っ て 左手 に 彼 女 の 活 動を 紹 介 す る 展示 が あ り ま すの で 、 マ ー ルブ ル
ク に 寄 っ た ら ぜひ こ の 教 会 も訪 ね て 下 さ い 。も っ と も 、 駅か ら 市 庁 舎 、古 い 街 並 み 、そ し
て お 城 と い っ た 観 光 名 所 を 巡 る の に 、エ リ ー ザ ベ ト 教 会 へ 行 か な い と い う の は そ う と う 偏
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屈 な 人で 、 ふ つう は 通り 道 に ある こ の教 会 に 必ず 寄 る はず で す。
左 写 真 は エ リ ーザ ベ ト 教 会 を過 ぎ 、 レ ス ト ラン の 前 を 抜 けて か ら 、 市 庁舎 へ 向 け て 続く 緩
い 石 畳 の 坂 路 。木 組 み の 家 が並 ぶ 。 右 写 真 は、 市 庁 舎 前 の広 場 か ら 左 手の 路 地 に 入 った と
こ ろ 。こ の 角 に古 本 屋が あ る ので 、 ぜひ 立 ち 寄り た い 。
先 ほ ど の 「 裸 足 路 」 か ら 下 の 車 道 に 出 る と 、 マ ー ル ブ ル ク 唯 一 の デ パ ー ト Ahrens が あ
り ま す 。 こ の 4階 に あ る ビ ュフ ェ 方 式 の レ スト ラ ン の 大 窓か ら 丘 の 上 のお 城 が 良 く 見え ま
す 。 デ パ ー ト の並 び に は マ ール ブ ル ク 大 学 法学 部 の 講 義 棟が あ り ま す が、 そ れ は ザ ヴィ ニ
ー 会 館 と 名 づ けら れ て い ま す。 社 会 学 専 攻 科は 哲 学 部 ( 日本 の 文 学 部 に該 当 ) に 属 し、 ラ
ー ン 川 を 渡 り 高速 道 路 の ト ンネ ル を く ぐ っ た先 に 立 つ 2 棟の 高 い 校 舎 内に あ り ま す 。右 手
に は 図 書 館 も あり ま す 。 荷 物を 預 け れ ば 自 由に 立 ち 入 れ るの で 見 学 す ると 良 い で し ょう 。
そ こ へ 行 く 前 に、 ラ ー ン 川 沿い に 学 食 も あ るの で 、 ま ず は一 服 す る と なお 良 い で し ょう 。
( 20) Wetzlar
国 際空 港 が ある Frankfurt am Main や Milano や Paris や Madrid 等 々 は 治安 が あま り 良 くな
い 。 海 外 か ら 悪者 が 来 る か らで は な く 、 海 外か ら 初 め て 来る 〝 お 上 り さん 〟 を カ モ にす る
悪 者 が い る か ら だ 。 な の で 、 ド イ ツ に 行 く と き も 飛 行 機 が 深 夜 着 な ら 仕 方 が な い が 、 20
時 ぐ らい ま で に着 く 便な ら ば 、Frankfurt a.M.に 泊 ま ら ない で 、Mainz と か Worms とか Hanau
と か 1 時 間 以 内 で 行 き 着 け る 他 の 町 に泊 ま ろ う 。( Mainz は 印 刷 技 術 改 良 者 Gutenberg で 有
名 、 Worms は ラ イ ン 川沿 い の 小さ な 町 だが ル ター が 審 問さ れ た所 と し て有 名 。 大き な 記念
碑 が ある し 、ユ ー スホ ス テ ルが 他 と比 べ る と駅 に 近い 。Hanau は グ リム 兄 弟が 生 ま れた 町 。)
今 年 の 9 月 にル ク セ ン ブ ルク へ 行 く 際 、 ドイ ツ 人 の 友 人と 、 マ ー ル ブル ク 大 学 へ 交換 留
学 生 と し て 行 った ば か り の 学生 に 会 う た め 、マ ー ル ブ ル クに 寄 っ た が 、マ ー ル ブ ル クは 何
度 も 行 っ て い る の で 、 今 回 は 〝 ゲ ー テ の 町 〟 と し て 知 ら れ る ヴ ェ ツ ラ ー に 泊 ま っ た 。「 ゲ
ー テ の 町 」 と 言 え ば 、 生 誕 地 の フ ラ ン ク フ ル ト や 、長 年 大 臣 を 務 め な が ら 文 芸 活 動 に 励 ん
だ Weimar、 あ るい は 青 春の ひ と とき を 過ご し た 現在 は フラ ン ス 領の Strassbourg ス ト ラ スブ
ー ル ( Straßburg シ ュ ト ラ ス ブ ル ク ) な ど が 有名 で 、 芭 蕉 の足 跡 で は な いが 、 ほ か に もい く
つ か あ る 。 ヴ ェ ツ ラ ー は 、ゲ ー テ の 『 若 き ヴ ェ ル テ ル の 悩 み 』 の 舞 台 と し て 知 ら れ る 。 ま
た 、 イ エ ナ の ツァ イ ス と 双 璧を な す ラ イ カ の本 社 が あ る 町と し て も 知 られ る 。 し か し、 マ
ー ル ブル ク を も流 れ るラ ー ン 川沿 い にあ る 、 木組 み の 家が 建 ち並 ぶ 静 かな 住 宅町 だ 。
フ ラン ク ル と国 際 空港 か ら は 、いっ た ん 地下 駅 から 出 る 電車 で Frankfurt Hauptbahnhof フ ラ
ン ク フ ル ト 中 央 駅 ま で 行 き 、 そ こ か ら マ ー ル ブ ル ク や Kassell 方 面 に 向 か う 路 線 の 列 車 に
乗 り 約 40 分 で Giessen へ 、 そこ で Koblenz 方 面 行 きの ロ ー カル 線 に乗 り 換 えて 約 15 分 の所
に あ る 。 フ ラ ンク フ ル ト 中 央駅 か ら の 直 通 列車 も あ る 。 ヴェ ツ ラ ー 駅 は小 さ な 駅 な ので 、
ぼ ん や り し て いる と 乗 り 過 ごす の で 、 注 意 。幸 い 、 最 近 ドイ ツ で も 列 車内 に 停 車 場 案内 の
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電 光 掲示 板 が 設置 さ れて い る ので 、 うと う と して い な い限 り は、 た ぶ ん大 丈 夫だ ろ う 。
現 在 駅 は 工 事中 だ が 、 駅 を出 て 少 し 行 く と巨 大 な 最 新 のシ ョ ッ ピ ン グモ ー ル が あ り、 そ
こ を 抜 け る と 逆に 寂 れ た 商 店街 、 さ ら に そ こを 抜 け る と 大き な 信 号 が あり 、 直 に ラ ーン 川
に 出 る 。 木 組 み の 家 が 建 ち 並 ぶ 旧 市 街 は そ こ か ら 左 手 の 坂 の 上 に あ る 。( 上 述 の 大 き な 信 号
を渡ってすぐ左にある時計店の2階にあるやや古めかしいホテルは、夫婦と娘さんの3人でやっている
とても感じの良い安ホテルでお薦め。ただし、旧市街にある数件のホテルのほうが高いが見栄えははる
か に 良 い 。 泊 ま っ て な い の で 内 容 は 不 明 。) 小 さ な 町 な の で 半 日 あ れ ば 見 る べ き も の は す べ て 見
ら れるが 、小さな 町だか らこそ レスト ラン(大聖堂前広場に面したイタリアンレストランはお薦
め ) や カフ ェ 、 小さ な イン テ リ アシ ョ ップ な ど に寄 っ て のん び りし た い 。
( 21) Frankfurt am Main
日 本 か ら の 直行 便 が 毎 日 離着 陸 し て い る 国際 空 港 が あ るフ ラ ン ク フ ルト は 世 界 的 に有 名
な 中 部ド イ ツ にあ る 大都 会 だ が、 ド イツ に は Frankfurt と い う 地名 で 知 られ る 有 名な 町 が2
つ あ る た め 、 つ ね に こ ち ら は 「 マ イ ン川 沿 い の (am Main)」 と い う 言 葉 が 付 い て い る。 も
う1つのフランクフルトは、ポーランドとの国境をなすオーダー川沿いにあるので、
Frankfurt an der Oder と 言 う。 同 じく 川 で も、 前 者が am Main で 、 後 者が an der Oder と な って
い る のは 、ライ ン 川 (der Rhein)と 同 様、そ の支 流 で ある マ イ ン川 も 男性 名 詞 なの で 、an dem
Main、 この an dem が 短 縮 され て am とな っ てい る の に対 し て 、オ ー ダー 川 はエ ル ベ 川(die
Elbe)や ド ナ ウ 川 (die Donau)と 同 様 に 女 性 名 詞 だ か ら だ 。 な ぜ ラ イ ン 川 が 男 性 名 詞 で ド ナ
ウ 川 は 女 性 名 詞な の か 、 明 確に は 不 明 だ が 、お そ ら く 流 れの 様 子 か ら して 、 多 く の 船を 難
破 さ せる よ う なロ ー レラ イ の 岩壁 の ある ラ イ ン川 は 男、「 美 しき 碧 き ドナ ウ An der schönen
blauen Donau)」と ヨ ハン ・ シ ュト ラ ウ ス二 世 によ っ て 作曲 さ れた ド ナ ウ川 は 女 とし て イメ
ー ジ され た の だろ う 。
Frankfurt am Main は ド イ ツ 屈指 の 金 融都 市 とし て 知 られ る が、 そ の 由来 は か つて 街 の縁
に 住 まわ さ れ たユ ダ ヤ人 に 遡 る。 旧 約聖 書 『 申命 記 』 第 23 章 19 節 に 「兄 弟 に 利息 を 取っ
て 貸 し て は な らな い 。 金 銭 の利 息 、 食 物 の 利息 な ど す べ て貸 し て 利 息 のつ く 物 の 利 息を と
っ て は な ら な い。 外 国 人 に は利 息 を 取 っ て 貸し て も よ い 」と あ る の を 逆手 に と っ て 、キ リ
ス ト 教 徒 は ユ ダヤ 人 を こ の 「外 国 人 」 と 見 立て 、 日 常 生 活で 欠 か せ な い存 在 と な っ た金 銭
取 引 を 委 ね 、 そ し て 差 別 し た 。 そ れ は た と え ば シ ェ イ ク ス ピ ア 『 ヴ ェ ニ ス の 商 人 』( 中 野
好 夫 訳 ) で も 露骨 に 描 か れ てい る 。 キ リ ス ト教 徒 の 商 人 アン ト ー ニ オ が、 友 人 バ ッ サー ニ
オ が ユ ダ ヤ 人 シャ イ ロ ッ ク から 借 り た 負 債 を引 き 受 け る が、 ア ン ト ー ニオ の 輸 入 船 が難 破
し 借 金 が 返 せ なく な る 。 そ れを い ん ち き 裁 判官 が 「 約 束 通り 肉 1 ポ ン ドは や る が 血 は一 滴
も 流 し て は い けな い 」 と 言 って ユ ダ ヤ 人 を 「や っ つ け る 」話 だ 。 こ ん な差 別 を 受 け なが ら
も 他 に生 き る 術の な いユ ダ ヤ 人は 金 融取 引 を 続け 、ロ ック フ ェ ラー 等 の大 財 閥 に成 長 する 。
フ ラン ク フ ルト は 、1848 年 革命 の とき 初 め て国 民 議 会が 開 かれ た 地 とし て も知 ら れ る。
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ほ か にゲ ー テ の生 誕 地と か 、古 代 ロー マ 時代 の 名 残の あ る 市庁 舎 (Römer)など も 有 名だ が 、
ド イ ツで は 「 フラ ン クフ ル ト ・ソ ー セー ジ 」 はさ し て 有名 で はな い 。
か つ て は 鉄 道網 の 中 心 地 でも あ っ た が 、 フラ ン ク フ ル ト中 央 駅 は 、 テル ミ ネ 駅 ( スイ ッ
チ バ ッ ク す る 駅) で あ る た め列 車 遅 延 の 原 因と し て 嫌 わ れ、 最 近 は 中 央駅 に 寄 ら ず に国 際
空 港 駅 に 寄 る 特急 や 急 行 列 車が 増 え た 。 た だし 、 マ ー ル ブル ク へ 行 く 列車 は い ま で も中 央
駅 発 車で あ る 。
( 22) Bayreuth
バ イ ロ イ ト は夏 の 音 楽 祭 で世 界 的 に 知 ら れて い ま す 。 ここ で 音 楽 祭 が開 か れ る の はリ ヒ
ァ ル ト ・ ヴ ァ ー グ ナ ー (Richard Wagner)ゆ か り の 地 だ か ら で す 。 バ イ ロ イ ト は バ イ エ ル ン
州 に 東 北 端 に あり 、 ニ ュ ル ンベ ル ク か ら ド レス デ ン 方 面 行き の 列 車 で 約1 時 間 の 距 離に あ
り ま す 。 駅 の ロー タ リ ー を 左に 出 て 、 戦 争 復興 記 念 碑 の ある 階 段 を 上 ると も う 旧 市 街、 一
気 に 古 都の 雰 囲 気 が味 わ え ます 。 市 庁 舎や シ ュ ピタ ル (救貧院)教会 、 聖三 位 一体 教 会な
ど を 見つ つ 商 店街 を 抜け る と、やや 寂 れ た感 じ の住 宅 街 に出 ま すが 、そ の 少 し先 の 左手 に 、
並 木 の あ る 路 地が 奥 ま で 続 いて い ま す 。 こ こに ヴ ァ ー グ ナー 博 物 館 、 フラ ン ツ ・ リ スト 博
物 館 な ど が あ り ま す。 ま た 、 旧 市 街 か ら は だ
い ぶ 離 れ て い ま す が、 毎 年 夏 に 音 楽 祭 ( 正 式
に は リ ヒ ァ ル ト ・ ヴァ ー グ ナ ー 祝 祭 歌 劇 ) が
開 催 さ れ る バ イ ロ イ ト 祝 祭 劇 場 ( Bayreuther
Festspielhaus) も 、 好 き な 人 に は お 薦 め ス ポ ッ
ト で す 。 建 物 を 見 るだ け で も 来 た 甲 斐 が あ る
で し ょう 。
右 の 写 真 は 、 バ イロ イ ト 市 民 祭 で 、 道 路 に
座 っ て工 作 を する 子 ども た ち 。
ド イ ツ の 観 光 地 で、 一 度 は 行 き た い が ま あ
二 度 行 く こ と も な いか 、 と い う 所 は 多 々 あ り
ま す が 、 バ イ ロ イ トは 、 ま た 行 き た い 、 と 思
う 稀 有 な 観 光 地の 一 つ で す 。有 名 な 観 光 地 にし て は 町 全 体が 落 ち 着 い てい る 感 じ が する か
ら か も し れ ま せん 。 ニ ュ ル ンベ ル ク に 泊 ま って 、 世 界 遺 産都 市 バ ン ベ ルク や レ ー ゲ ンス ブ
ル ク 、 そ し て バイ ロ イ ト な ど東 西 南 北 方 向 へ日 帰 り 旅 行 する と 合 理 的 です が 、 ニ ュ ルン ベ
ル ク は 都 会 な ので 、 む し ろ 、こ う し た 都 会 を日 帰 り 旅 行 先に し て 、 近 隣の バ イ ロ イ トや ア
ン ス バ ッ ハ 、 エア ラ ン ゲ ン のよ う な 比 較 的 小さ な 町 や 村 に数 日 間 滞 在 する ほ う が 魅 力的 な
小 旅 行と な る でし ょ う。
(23) Bamberg
バ ン ベ ル ク も、 バ イ ロ イ トと な ら ん で バ イエ ル ン 州 の 東北 端 に あ る 。ニ ュ ル ン ベ ルク か
ら 列 車 で 1 時 間内 で 着 く が 、バ ン ベ ル ク 行 とバ イ ロ イ ト 行と は 路 線 が 異な る の で 、 一度 に
両 方 訪 ね る の はや や 厳 し い 。そ れ に 、 バ ン ベル ク 旧 市 街 はそ の ま ま ユ ネス コ 世 界 遺 産に 登
録 さ れ て い る ほど 見 所 が 多 いの で 、 こ こ は 一日 ゆ っ く り 過ご し た い 。 中央 駅 か ら 旧 市街 ま
で は 徒 歩 30 分 弱 か か る 。 川 を 渡 っ て 大 通 り を 右 に 入 る と 旧 市 街 だ が 、 川 を 渡 ら ず 川 沿 い
に 右 に 向 か い つぎ の 橋 を 渡 って か ら 旧 市 街 に入 る と す ぐ にメ イ ン ス ト リー ト に 着 く 。街 の
中 は ま あ 行 っ て見 て も ら う しか な い が 、 名 所と 言 え ば 、 運河 を 渡 る 橋 の真 ん 中 に 立 つ旧 市
庁 舎 、 丘 の 上 の宮 殿 と バ ラ 園、 大 聖 堂 に あ るリ ー メ ン シ ュナ イ ダ ー の 彫刻 、 大 聖 堂 の隣 の
古 い 建物 、等々 。坂の 下 にあ る 、ザ リ ガ ニの レ リー フ が 壁に 貼 り付 け て ある Kreb-Haus は 、19
世 紀 始 め に 哲 学者 ヘ ー ゲ ル が新 聞 記 者 を し てい た 時 代 に 住ん で い た 。 その す ぐ 横 の ビア ホ
ー ル も赴 き が ある が 、バ ン ベ ルク の ビー ル と 言え ば Rauchbier。モ ル ト 貯蔵 庫 が 火事 に 遭っ
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て 焦 げ た モ ル ト を も っ た い な い か ら 使っ た ら 独 特 の 焦 げ 臭
い 風 味 の ビ ー ル が で き て 評 判 と な り 、い ま で は 名 産 。 私 は
大 好 きだ が 、 日本 の 学生 た ち はみ な 不味 い と 言う 。
旧 市 庁 舎 の 近 く に 小 さ な 塔 が 立 っ て いる が 、 入 口 の ド ア の
鍵 は 現 在 の 市 庁 舎 で 借 り ら れ る 。 ほ とん ど 知 ら れ て い な い
よ う で 、 過 日 40 分 以 上 い た が 他 に 誰 も 来 な か っ た 。 こ の
塔 か ら旧 市 街 が一 望 でき る 、 絶好 の 観光 ス ポ ット だ 。
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つ づ き はネ ッ トで
http://www2.toyo.ac.jp/~stein/reise.html で は 、 北 ド イ ツ 、 グ リ ム の 町 、 ス イ ス な ど 、他 年 度 に
連 載 した 記 事 を公 開 して い ま す。 そ ちら も ご 笑覧 く だ さい 。
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