シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント

特集「宗教と文化」
◉シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
コメントⅠ コメンテーター 土井健司氏(関西学院大学教授)
「知の統合」というテーマは大胆であり,その統合が実現したとすれば,
それはキリスト教神学にとって快挙といってもよいだろう。そのためにも,
三点コメントをしておきたい。
(A)宗教間の対話とは,どのようなものなのか
金氏は,現代のキリスト教の最も重要な課題を,他宗教との対話,およ
び科学との対話であると見做している。では,どのような主体が,どのよ
うな対話をおこなうのか。
(イ)他宗教との対話がキリスト教神学の課題であるとすれば,例えば
仏教の宗派との教義学に関する思想上の対話の傾向が強くなろう。それと
も,(ロ)キリスト教会と他宗教の宗派との間の対話であるとすれば,そ
れが例えば世界平和といった或る具体的な社会問題に関する対話であろう
とも,教会史という制度の違いを意識した対話となろう。(ハ)そうでは
なくて,他宗教との対話はキリスト教神学および教会の両者にとっての課
題であるならば,教義学と教会史を自覚した対話となろう。というのは,
プロテスタンティズムにおいては,神学と教会とは区別しえないからであ
る。(ニ)それとも,他宗教の信徒との個人的な対話であるならば,教義
学とか教会制度とかに比較的に捕われないで,個々の具体的な社会問題に
ついて真剣に話し合うことができよう。
以上のような疑問に対して,金氏は具体的かつ詳細に応答しなければな
らないであろう。
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金城学院大学キリスト教文化研究所紀要
(B)科学=技術との対話とは,どのようなものなのか
生命倫理の立場から,キリスト教神学と科学との対話を想定してみれば,
その対話は,現に生命操作をおこなっている科学=技術との対話というこ
とになろう。科学=技術が生命操作をおこなう能力を維持し,しかも甚大
な社会的影響を及ぼす能力を維持している以上,キリスト教神学を足場と
する生命倫理がその科学=技術と対話をおこなうというのであれば,その
対話は,その能力を制御するだけの別の能力を行使することができるのだ
ろうか。否,そもそも科学=技術とは別の能力たりうるのか。
科学=技術との上述のような対話において,実践的三段論法を適用して
みてはどうだろうか。〈能力〉を大前提として措定したうえで,小前提で,
〈その力の行使のためにどのような目的を選択するか〉,と問うのである。
キリスト教神学を足場とする生命倫理は,このように問いただしてゆくこ
とによって,科学=技術のもつ能力を制御できるのではないだろうか。
(C)社会生物学が含意する社会という概念
音喜多氏の報告にあるように,事実から当為は導出できないから,ウィ
ルソンはそれを導出するという過誤を犯している。ところが,こうした導
出をおこなっていることに社会問題があるのではないか。例えば,男性(ま
たは女性)という事実から,「おまえは男だ」から,「男らしく(または女
らしく)しなければならない」という当為を導出しているのが,私たちの
社会ではないだろうか。そうとすれば,事実から当為を導出できないと言
っただけでは,問題を捉えたことにはならないだろう。それゆえ,ウィル
ソンが社会生物学を提唱するさいに想定している社会概念を抉出しなけれ
ばならないのではないか。
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シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
コメントⅡ コメンテーター 竹之内裕文氏(静岡大学准教授)
(A)いかなる「知」の統合か
三氏の発表において「知の統合」は,
「科学」と「宗教」や,
「自然科学」
と「人文科学」という,個々の学問的営みを包括する既に統合的な領域を
基盤として提起されている。従ってそこでは,還元主義的な傾向を強くも
つウィルソンの社会生物学も,近代科学のまさに還元主義的な思考スタイ
ルを問いただすところに生まれた生態学も,一様に「自然科学」の下に括
り入れられることになる。それに応じて,例えば横山氏は,「生命と進化
をめぐる科学」を主題化する際も,当該「科学」の豊かさ,その多層性に
十分な光をあてていないように見受けられる。前述の「生態学」も,ある
いは今西錦司の「棲み分け理論」も,ダーウィン思想との真摯な対話ない
し対決のもとに成立したと考えられるからである。総じていえば,三氏の
考察が前提する枠組みの下では,「自然科学」のうちでも,いかなる個別
的な学知に注目し,それとの対話を図るのかという,本来ならば「知の統
合」の端緒となるべき問いが素通りされてしまうのである。
(B)知の「統合」スタイル
既成の枠組みを踏襲するかたちで,多様な学的探究が分類されるとき,
「知の統合」を図る立脚点と,その足場が問われることになる。そこでは,
個別的な学知ないし実践知の間の対話から,いわばボトムアップ的に「知
の統合」が進められるのではなく,むしろ支配的な学問的境域区分に基づ
いて,いわばトップダウン式に「統合」が推進されてしまう。金氏が,日
本学術会議の科学者コミュニティと知の統合委員会が提言する「知の統合
──社会のための科学に向けて」を援用するのは,こうした統合スタイル
を受容してはいないか。
だが,この提言でいわれる「社会」とは具体的にどのようなもので,誰
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金城学院大学キリスト教文化研究所紀要
にとってのものなのか。グローバリズムの外圧を感受しながら,最新の科
学的知見を収穫し,これに基づいて大がかりな技術革新を達成しようとす
る立場から見える「社会」と,グローバリズムの荒波と貧困な政策とに翻
弄されながら,辛うじて「限界集落」を維持していこうとするローカルな
立脚点から見える「社会」との間には,断裂があるはずである。
このように有力な学問知や,有用な科学的知見を軸に「普遍的な知の体
系」が構想される場合,ローカルな知の多様性と同様,有力でない学問知
や,無用な「虚学」の固有性を捨象するかたちで,画一的な「統合」が進
められることは容易に予想される。例えば前述の委員会は,「異なる研究
分野の間に共通する概念,手法,構造を抽出することによって,それぞれ
の分野の間で知の互換性を確立する」ことを提言するが,その取り組みは,
暗黙のうちにであれ,範例的な研究分野として自然科学を想定しているの
ではないか。そうとすれば,ここでいわれる「自然科学とリベラルアーツ」
の「統合」とは,
リベラルアーツの自然科学化を意味するものでしかない。
知の「統合・一致 consilience」には,ウィルソンが称揚するような「共に
com」
「跳躍する salire」という積極面のみならず,その進め方次第では,
「一
つになって com」
「流れ落ちる salire」という危険が伴うのである。
(C)「知の統合」における哲学と神学の位置
三氏は,「知の統合」における哲学的・倫理学的な探究の意義を強調し
ている。それは横山氏によれば,これらの学的な営みが「倫理」
「価値」
「世
界観」といった問題を扱うことに由来する。同様の視座から音喜多氏も,
「学
問の統合のあり方を考えるにあたっては,自然科学そのものより,価値や
規範についての哲学的考察のほうがより根本的なものである」と明言する。
さらに金氏も,「知の統合」に際して,「人間の知的活動そのものの根源に
向けて」問いを発する「宗教哲学的研究」が重要な役割をはたすべきこと
を提唱する。
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シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
こうした立論については,まず「知の統合」における倫理,価値,世界
観等の位置づけから考える必要がある。先述のように,かりに技術革新と
これに基づく経済発展が「知の統合」の隠れた動因であるとすれば,倫理,
価値,世界観等の厄介な問題は,議論の俎上にも載せられないであろう。
次に,倫理,価値,世界観等の問題が,あたかも哲学や倫理学の専売特許
であるかのような想定が問題となる。例えばハイデガーは前世紀の「世界
観」哲学を批判し,「世界」概念の基礎づけに取り組んだが,その業績は,
J・v・ユクスキュルを始めとする生物学者の研究成果を礎石としたもので
あった。人間に固有な「世界」観を探求するうえで,他の生物の「世界」
観が得がたい示唆を与えてくれたのである。
哲学・倫理学であれ,自然科学であれ,「知の統合」に先立って,特定
の学問的探究に基底的な役割を予め付与する。私たちは,まずこのような
発想から自由になる必要がありはしないか。「知の統合」に際して,いか
なる学知が,どのような役割を担うのか,それは多様な分野の研究者が現
象なり,フィールドなりを共有し,それぞれの視座から真摯な討論を繰り
広げていくなかで,おのずと定まっていくものではないだろうか。こうし
た観点から見ると,三氏の主張は,あたかも神学と哲学が燦然と輝きを放
った「栄光の時代」を諦めきれないまま,自然科学に替えて哲学・倫理学
を再び君臨させようとする反動的な提言のようにさえ映るのである。
(D)「われわれにとっての真理」という立脚点
金氏は,「今日の宗教多元主義神学」の先駆者として,E・トレルチを
再評価しようとする。そしてその視座から,バルトとブルトマンの神学的
試みが,「キリスト教への理性主義的・客観主義的アプローチとしての文
化的プロテスタント主義」に対する神学的「反動」と位置づけている。「宗
教多元主義神学的パラダイム」においてこそ,宗教間はもとより,宗教と
科学の間の「知の統合」という道が拓かれるという展望のもとに,19世
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紀から20 世紀にかけてのプロテスタント神学の動向を注視している。
だが金氏は,
「彼岸的なもの」と「此岸的なもの」,
「信仰」と「理性」,
「客
観的事実」と「主体的決断」,「処分可能なもの」と「処分不可能なもの」
など,バルトとブルトマンに由来する二分法的な語彙に依拠して論じてい
る。それに応じて,「キリスト教の絶対性と歴史主義的相対性の間の葛藤」
を克服する道筋を描いてはいない。では,トレルチの問題意識を共有しつ
つ,なお一歩進踏み出すには,どうすればよいか。その鍵は,金氏が参照
を指示するトレルチ自身の言葉,「われわれにとっての真理」にあろう。
金氏はトレルチの問題意識を,「福音の確実な不変な真理」が「どのよ
うにして歴史的意識」ならびに「それが付加する相対性」と調和できるか
という点に見る。ここの「福音」とは,ある信仰共同体にとっての「よき
知らせ」のことである。実際,キリスト教徒にとり,聖書の開披する「よ
き知らせ」は,他のものに代替されない「かけがえない」ものであろう。
しかも信仰共同体においては,「よき知らせ」を分かち合うかたちで,構
成員たちのおかれた状況に基づいて,相互の受け止め方が検証される。こ
のようにして信仰共同体はまさに「われわれにとっての真理」,「確実な不
変な真理」を構築していくのである。
このように「われわれ」を信仰の基本単位として捉える点で,トレルチ
の論考は,「客観的事実」と「主体的決断」,または「理性」と「信仰」と
いう,「われ」を基本単位とする二分法的な図式を踏み越えていく可能性
を秘めている。さらに「われわれにとっての真理」は,同僚による評価(peer
review)を通して知見の暫定的な正当性を担保していくという点では,科
学者集団における科学的真理の追究プロセスにも通底するものといえる。
だが宗教間に,さらには宗教と科学の間に「知の統合」の道を拓くために
は,キリスト教「信仰」とキリスト教そのものの「絶対性」を主題化する
徹底的考察が不可欠となろう。
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シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
(E)「倫理」と「倫理学」──自然と文化の関係をめぐって
音喜多氏は,「遺伝子=文化共進化」理論に基づいて「倫理」を還元主
義的に説明するウィルソンの構想に対して内在的な批判を加え,「知の統
合」へ向けた「哲学や倫理学一般」の積極的な役割を提起している。それ
に応じて,「倫理」と「倫理学」という語が頻出する。けれどもそこでは,
それぞれの語の定義はもとより,両者の区別も明示されていない。
「倫理」とは,その語源からすれば,ある「倫」(仲間)のうちで通用す
る「理」(道理),共有される習俗ないし慣習(ēthos),総じて,ある共同
体のうちで身につけられた「ものの見方」だと言えよう。しかし血縁的な
ものであれ,地縁的なものであれ,職能的なものであれ,ある集団の「倫
理」が,他の集団においては妥当性をもたないということが起こりうる。
そのような場合,自らが自然と身につけていた「倫理」に対する反省が芽
生える。この反省を学的に遂行する営み,それをさしあたり「倫理学」と
呼ぶことにする。
この区別によれば,音喜多氏は,一定の範囲で「倫理」の生物学的な制
約を是認しつつ,「生物学的な法則」に還元されない「自律性」を倫理学
に認めている。だが実際の考察は,「人間の本性の倫理的な部分」に照準
を合わせるウィルソンの立論とともに,「倫理」も含めた「文化」の生物
学的な規定性をめぐる論議に終始する。それに応じて,結論部で「倫理学」
の自律性が説かれるときも,そこには立ち入った論証が欠落しており,唐
突の感を否めない。総じて音喜多氏は,ウィルソンの還元主義に反論しよ
うとするあまり,
「生物学」か「倫理学」かという二者択一的な問題設定を,
ウィルソンから踏襲してしまった。
さらに,もし上のような読解が正当なものだとしたら,事態は実に奇妙
なものになる。問題となるのは,「倫理」と「倫理学」の生物学的な制約
性をめぐる氏の考察である。一方で,「倫理」の生物学的な制約性を認め,
他方で,「倫理学」の自律性を保証するということは,同一の人が,「生」
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金城学院大学キリスト教文化研究所紀要
の主体としては,
一定の生物学的な制約を受けるにもかかわらず,当の「倫
理」について学的な反省を遂行する「倫理学」の主体としては,生物学的
な制約を免れていることになるからである。とはいえ,この奇妙な事態が
生じた責は音喜多氏一人に帰せられるものではない。むしろ私たちはここ
で,最新の生物学的な知見を介して,理性による「自己」認識という哲学
の伝統的な問いに改めて直面しているのである。
現代の生物学は私たちに対して,人間の生物的な側面,その生物学的な
存在条件を次々に突きつける。そしてこれら生物学的な要請に応えるかた
ちで,哲学は,伝統的な「自己」概念を鍛え直し,場合によっては改訂し
ていく必要があるだろう。「知の統合」はおそらく,このように相互の学
的存立基盤に迫るような討論から始動する。音喜多氏の発表は,その一歩
を刻もうとする果敢な試みと見ることができよう。
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シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
コメントⅢ コメンテーター 芦名定道氏(京都大学教授)
(A)三氏の発表原稿に対する全般的なコメント
1.ウィルソンの「知の統合」構想に対する,音喜多氏と金氏による問題
点の指摘は,十分に説得的である。
倫理を「遺伝子=文化共進化」理論で還元主義的に説明しようとする構
想には無理がある。経験主義という割には,経験に十分即しているか疑問
であるし(たとえば,「もともと道徳規範は部族主義の産物である」は実
証不可能だろうし),ウィルソンの議論は「ある価値に基づく決断」であり,
「自然主義を貫いているようなつもりでいるが,じつはそうではない」。以
上の音喜多氏の指摘は,ウィルソン自身の議論に内在的な批判であり,説
得的であるし,こうした「偏向性は,「知の統合」の本来的趣旨に反する
ものと言わざるを得ない」との金氏の指摘はその通りである。
2.音喜多氏と金氏がウィルソンの構想を取り上げた理由は,現在,自然
科学サイドから提起される「知の統合」構想がしばしば陥る問題点を指摘
し,目指されるべき「知の統合」構想を明らかにするとの趣旨であろうか。
おそらくは,横山氏も,自然主義あるいは功利主義の公然化という指摘に
おいて,問題意識を共有しているものと思われる。
3.三パネリストの共通見解は,「学問の統合のあり方を考えるにあたっ
ては,自然科学そのものよりも,価値や規範についての哲学的考察のほう
がより根本的なものであると考える」
(音喜多),
「真の意味での「知の統合」
を試みるためには」「「知の統合」に向けての宗教哲学的研究が要望される
のである」(金),
「世界像・世界観などの概念整備が必要」(横山)という
発言に見ることができる。つまり,目指されるべき「知の統合」構想にお
いては,哲学的思惟が中心的な役割を果たすという見解である。
金氏においては,「神学的立場から」とあるように,この哲学的思惟を,
「宗教哲学的」と表現しており,より具体的には,宗教多元主義の問題を
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金城学院大学キリスト教文化研究所紀要
めぐる神学的取り組みが,「知の統合」をめぐる議論に対しても多大な意
義を持つこと,つまり,「宗教と科学の対話においても有意義的である」
という仕方で,さらにも踏み込んだ問題提起をしている。同様の指摘は,
横山氏も「「宗教間対話」を「科学と宗教」問題に拡張する必要あり」と
同様の指摘をしている。コメンテーターとしても,この指摘には基本的に
賛同することができる。
(B)疑問点
・音喜多氏は,ウィルソンに対するヴケテイツの批判を紹介する中で,
「道
徳は進化してきた」と述べているが,これは音喜多氏自身の立場か。確か
に,「道徳が永遠不変であったとは考えにくい」「複雑化した」としても,
それが直ちに「進化」と言えるかは別問題であろう。また,ウィルソン的
な還元主義的構想に対して,「文化」は「新たに創発したシステムとして,
遺伝的進化とはレベルを異にした独立した分析を要請するものである」と
言われるが,これは論者が全体論(Holism)に立つという意味で解しても
良いのか。そうとすれば,音喜多氏は全体論的な枠組みでの「知の統合」
については,どのように考えているのか。
・金氏は,ウィルソン的な偏向に対応する近代神学の試みとして,トレル
チの歴史主義的神学を位置付け,それに対する批判・反動として,バルト
とブルトマンを解釈しているように思われるが,バルトやブルトマンの議
論が,宗教多元主義と合致しないという点から判断して,金氏はトレルチ
の路線も,バルトの路線も不十分であると考えていると解してよいか(ト
レルチは近代的知に譲歩することによって神学的思惟の独自性を喪失し
た。これは,人間的営みの一切を物理学に還元しようとするウィルソンに
対応する。それに対して,バルトは自然科学への戸惑いの捕囚となって,
自然科学との真摯な協力の可能性を失った)。引用文の (4) でテッド・ピ
ータースは,「仮説上の一致」のモデルを提起しているが,この「仮説」
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シンポジウム「知の統合へ向けて」コメント
という構想(パネンベルクあるいはヒックでも見られる)は,「知の統合」
という問題と密接に関わるように思われるが,その点について,金氏はど
のように考えているのか。
・横山氏は,ドーキンズ,グールドの最近の著作において,「科学と宗教」
についての正面からの議論が始まったこと,そして科学との対決を欠いた
日本の伝統宗教・思想に対比して日本のキリスト教の役割が認められるこ
とを指摘しているが,これは,ドーキンズらに対する反論において,科学
と宗教が協力する(「知の統合」)という議論につながるのか。
(C)「知の統合」に関する私見
1.哲学の役割
キリスト教の伝統において,自然科学と神学が一つの知的な統合を実現
していた時代として,中世の学問世界を挙げることができようが,そうし
た中世の統一的な知的世界を統合していたものとして位置づけられるのは
「自然神学」という知的分野であった。現在の自然神学についての評価の
一つに,自然神学(宇宙論的な神の存在論証は,経験的な知識から合理的
推論によって神概念へと上昇する試みであり,自然学と神学とを媒介する
役割を果たしていたと考えることができる)は,神学というよりも哲学,
しかも宗教哲学だったという見解があるが(拙著『自然神学再考』晃洋書
房),だとすれば,中世的な知的統合において中心的な役割を果たしてい
たものは哲学だったと解することができることになる。問題は,中世にお
いて自然神学が果たした哲学的機能を果たしうる現代の哲学的思惟がある
のか,という点であり,これが決定的な問題点だと思われる。例えばホワ
イトヘッドのプロセス哲学はその候補の一つと考えられる。それについて
は,どのような評価が可能か。
知の統合を可能にする基盤を構築できるような哲学的思惟の不在が,現
代の最大の問題かも知れない。
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金城学院大学キリスト教文化研究所紀要
2.人文科学内部の統合の必要性
「知の統合」を論じる場合,宗教と科学,人文科学と自然科学,という
トップダウン式の議論の前に,まず人文科学内部(あるいは神学内部)の
統合を問わねばならないのではないか。一挙に大きく統合するのではなく,
部分的な統合を下から積み上げてゆくボトムアップなやり方。例えば,現
代の宗教研究においては,経験科学としての宗教学,宗教哲学,神学とい
う三つの方法論・立場が存在しているが,これら三つが,宗教を研究する
上で,どのように協力できるかは,現代の宗教研究では十分に議論されて
いない。現代神学は,自然科学との対話とともに,あるいはその前に心理
学や社会学,文化人類学との対話を必要としているのではないだろうか。
3.何のための「知の統合」か。
「知の統合」をめぐる議論が,これまでの宗教間対話がしばしば陥って
きた,対話のための対話といった状況を回避することができるためには,
その実践的な意義をいかに明確にできるかが,ポイントになる。つまり,
自然科学と人文科学の共通課題を具体的に設定できるかということであ
る。例えば,環境危機や生命倫理などの諸問題は,その実例として挙げら
れるようにも思われるが,この点は,どうであろうか。横山氏は,世界観
問題を検討する必要があると述べる際に,自然災害,障害と福祉,「エン
ハンスメント」などとの関連を指摘していることも,この点に関わってい
る。
4.アジアという視点は可能か。
「日本における状況」
「日本のキリスト教の役割」という横山氏の指摘は,
「知の統合」構想の具体化において,どのように考慮されるべきか。
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