ピアソン宣教師夫妻・ピアソン邸年譜 【旭川時代 13 年間】

ピアソン宣教師夫妻・ピアソン邸年譜
【米国時代 27 年間】
1861(文久元) ○ジョージ・P・ピアソン 米国ニュージャージー州エリザベス市で長老派教会牧師の家庭
に生まれる。この年南北戦争勃発する。
1862(文久2)
◎アイダ・ゲップ 米国ペンシルヴェニア州イーストンで弁護士の家庭に生まれる。
7歳のとき母の死により高校卒業時までドイツ在住の叔母のもとで育つ。
1882(明治 15)
○ニュージャージ-大学(現プリンストン大学)を卒業する。卒業後4年間教職に就く。
1883(明治 16)
◎アイダ・ゲップ
1888(明治 21)
○プリンストン神学校を卒業し、長老派海外伝道局の日本派遣宣教師として任命される。
同年6月、長老派ウエストミンスタ教会の牧師として任職する。
ニューヨーク・ノーマル・カレッジを卒業。
【本州時代5年間】
1888(明治 21)
○米国長老派教会の宣教師として来日し、明治学院で教鞭をとり日本語を学ぶ。
1890(明治 22)
○千葉県尋常中学校(現千葉県立千葉高等学校)の嘱託英語教師となる(1890.4~1891.7)。
地域で伝道活動を行う。
◎アイダ・ゲップ 米国聖公会宣教教師として来日し、日本語・女子教育の研修後、翌年9
月からセント・マーガレット女学校(現立教女学院)で教鞭をとる。
1892(明治 25) ○米国・オランダ改革派教会宣教師ミラー夫妻の要請を受け盛岡で伝道活動を行う。盛岡市
で伝道活動をしていた三浦徹牧師に協力する。
1893(明治 26)
○休暇で一時帰国するが年内に盛岡に戻る。
【道南・道央時代6年間】
1894(明治 27) ○小樽に移り住み(小樽市稲穂町第2火防線通・現小樽駅前中央通)、道央・道南地域の伝道
にあたる。
○ミス・クララ・ロースの静修女学校(小樽)を応援する。
◎アイダ・ゲップ
1895(明治 28)
福島に移り住み伝道活動に専念する。
○米国聖公会宣教師 アイダ・ゲップと東京で結婚し(6.12)、一時帰国。
1897(明治 30) ○札幌に移り住む(札幌市北4条西1丁目 スミス女学校宣教師館)。サラ・クララ・スミス
女史によって開校されたスミス女学校(現北星学園)、及び札幌農学校(現北海道大学)
で教えながら、道内各地で伝道活動を行う。
【旭川時代 13 年間】
1901(明治 34) ○旭川に移り住む(旭川市2条通11丁目)。山口庄之助牧師と共に中央道路を経て遠軽・野
付牛(現北見)地域、道北の美深・名寄・士別地域など巡回伝道を行う。
1902(明治 35)
○坂本直寛(坂本龍馬の甥)が牧師として旭川教会に着任する。以来、協力して軍隊・監獄
伝道、廃娼運動等を行う。
1903(明治 36)
○旭川聖書館(旭川市4条通8丁目左1号)を建て、聖書普及・文書伝道を行った。
○英国聖公会宣教師ジョン・バチェラーのアイヌ伝道に協力する。
1906(明治 39)
○父親の形見「ギュツラフ訳聖書」を明治学院に寄贈する。
1907(明治 40)
○略註新約全書完成発刊する。同年秋に、同書の抜粋版を発刊する。
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○十勝監獄で教誨師となり、坂本直寛牧師とともに職員や囚人の多数に伝道する。
1908(明治 41)
○10月小樽港より宗谷海峡を経てオホーツク沿岸各地、網走監獄、北光社(北見)、学田
(遠軽)等を訪れ伝道を行い、更に知床岬を経て釧路~帯広(鉄道)経由で25日間の伝道
旅行を行った。
1910(明治 43)
○6月10日小樽港より出発し、宗谷海峡を経てオホーツク沿岸各地、北見枝幸、雄武、
湧別、佐呂間、野付牛、美幌地域の巡回伝道を行う。帰途は、陸別より鉄道を利用して
池田、帯広を経て帰旭する。(アイダ夫人著「六月の北見路」参照)
1912(大正元)
○プリンストン大学より略註聖書編纂の業績をもって神学博士号が授与される。
【野付牛時代 15 年間】
1914(大正3)
○ピアソン夫妻、野付牛に住宅(ピアソン邸)を建て移り住み、周辺の町村に巡回伝道を行
なう。住民の交流の場として自宅を開放するなど、隣人愛にもとづく先駆的な活動を展開
する。
1915(大正4)
○9月 W・M・ヴォーリズ氏 野付牛に来町し、2度にわたり野付牛教会で説教を行う。
説教題「百足のはなし」(9/22)、「近江伝道の由来」(9/26)
1916(大正5)
○1月 紋別劇場で伝道集会を開催する。
○6月「略註舊新約全書」を完成し発刊する。
○婦人矯風会野付牛支部を結成し、遊郭設置に反対する運動を矯風会を中心に展開する。
1917(大正6)
問
○婦人矯風会矢嶋楫子会頭、守屋 東 青少年部長が来訪する。(9/23・24)
1918(大正7) ○国内巡回伝道・視察旅行(北海道~九州)、50 都市、130 集会。ヴォーリズ記念病院を訪
する。(3/29)
○7月 内村鑑三氏を招き講演会を開催する。訓子府伝道所を開設する。
1924(大正 13) ○北海道庁立野付牛中学校生徒のためにピアソン寮を建てる。野付牛中学校生徒入寮する。
寮父は佐藤猪之助氏(野付牛中学校長)
1925(大正 14)
○「略註舊新約全書」の改訂版を出版する。
○禁酒会を設立する。
1926(大正 15)
○野付牛町開町30周年記念式典で開拓功労者として表彰される。
1928(昭和3)
○在日40年の伝道生活に終止符をうち米国に帰国する。宣教師を引退する。
【帰国後 11 年間】
1928(昭和3)
○帰国後のピアソン夫妻はフィラデルフィアに居住し著作活動等に専念する。
1934(昭和9)
○新約聖書の原語についての研究「原語は」を発刊する。
○後任宣教師 M・A・ツルーメン夫妻が来野し、旧ピアソン邸に居住する。
1935(昭和 10)
○伝道論「小さい最寄りの村へ」を発刊する。
1937(昭和 12)
○神学論文「キリストの十字架」を発刊する。
◎アイダ・ゲップ・ピアソン フィラデルフィアで召天する(74歳)。
1938(昭和 13)
○「楽しかった日本の40年」ピアソン夫妻共著を出版する。
1939(昭和 14)
○ジョージ・ペック・ピアソン フィラデルフィアで召天する(78歳)。
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【ピアソン夫妻没後】
1939(昭和 14) ○野付牛教会信者の開業医・唐笠 学氏が旧ピアソン邸を取得し自宅とする(1939~1951)。
1950(昭和 25)
○10 月 W・M・ヴォーリズ氏 唐笠 学氏邸(柏樹荘=旧ピアソン邸)を訪問する。
1952(昭和 27)
○道有財産となり、児童相談所の施設として使用される。
1963(昭和 38)
○日本YMCA、旧ピアソン邸をチミケップ国際キャンプ場開設の現地事務所として使用
する。
1968(昭和 43)
○北見市が北海道より文化財として保存することを条件として払い下げを受け建物及び用
地を取得する。
1969(昭和 44)
○文化財として復元保存を決定する(北見市指定文化財第7号指定)。
1970(昭和 45)
○復元保存工事を実施
1971(昭和 46)
○「ピアソン記念館」開館する(5.31)。
1995(平成7)
○W・M・ヴォーリズ氏設計による建造物であること判明する。
2001(平成9)
○北海道遺産に選定される(10.22)。
2009(平成 20)
○改修工事(土台・外壁・展示室ほか)を実施
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