歴史過程と原理論 - 名城大学経営学部

名城論叢
1
2013 年 11 月
歴史過程と原理論
犬
目
塚
昭
治
次
1
歴史過程と原理論
2
逆説としての原理論
⑴
逆説としての原理論
⑵
非資本家的商品経済要因の役割
3
生産力の発展と商品経済
⑴
19 世紀末大不況とイギリス帝国主義
⑵
19 世紀末大不況とドイツ帝国主義
⑶
重工業的生産力と帝国主義段階
4
唯物史観についての一考察
⑴
マルクス唯物史観の吟味
A
マルクス唯物史観の構成
B
生産力の高さを規定するもの
C 「孵化しおわるまで」の意味
⑵
諸説の検討
花崎皋平の唯物史観
B
内田義彦の唯物史観
C
淡路憲治の唯物史観
⑶
A
1
唯物史観私論
の出版より2年早い著作である。しかしすでに
歴史過程と原理論
質の高いしっかりした構成をもつ論文である。
大内力は独創的にして浩瀚な著作を残して
この書の「まえがき」で佐伯尚美がのべている
2009 年4月にこの世を去ったが,その後未発表
ことのうちで私がとくに関心をもったのはつぎ
の論文『インフレイションと日本農業
昭和 21
の三点である。一つは「宇野先生自身はともか
年 2∼6 月』 が発見された。著者 28 歳の東京
くとして,それ(宇野理論――犬塚)を引き継
大学社会科学研究所嘱託につく直前の5ヵ月間
いだ若い優秀な研究者の多くが原論研究にのめ
(2)
に書かれた論文である 。これまで大内の処女
り込み現状分析を顧みなくなった」 という点
(3)
と,二つめは「経済学は単なる書斎の学,解釈
(1)
作とされていた『日本資本主義の農業問題』
(4)
⑴
大内力『インフレイションとの日本農業』,大内力先生遺稿刊行会(代表,佐伯尚美)編,2011,三愛書院。
⑵
同書,佐伯尚美「まえがき」,2ページによる。
⑶
大内力『日本資本主義の農業問題』,1948,日本評論社,同改訂版,1952,東京大学出版会。
⑷
前掲『インフレイションと日本農業』,17 ページ(佐伯稿)。
2
第 14 巻
第3号
(7)
の学ではなく,現状を変革するための学問であ
済学原理論の位置づけにもおよんでいる 。だ
るというのが先生(大内先生――犬塚)の信念
がこのことは「新しい社会像」の本質理解がど
であり,この点で大内経済学は,宇野理論から
ちらのほうがより深いかどうかという問題とは
(5)
出て宇野理論を超えたといっていい」 という
別のものと考えなければならないように私には
点であり,三つめは「先生ほどの大学者であり
思われる。
ながら,新しい社会像を求めて終生悩みつづけ
したがって佐伯の第二点の主張は私には俄か
たのであり,私はそこに先生の偉大さをみる。
には同意しえないものである。まずはっきりし
『いまや日本のマル経は絶滅危惧種となりつつ
ていることは宇野理論が「単なる書斎の学,解
ある』
(小宮隆太郎)といわれるし,私もそう思
釈の学」ではないことである。したがって「現
う。そうした状況から脱出するには大内経済学
状を変革するための学問」としては大内経済学
の原点に立ちもどるしかないのではないか。く
が「宇野理論を超えた」とは必ずしもいいえな
り返していえば,それは経済学は何のためにあ
い。そもそも「現状を変革するための学問」と
(6)
るのかという基本的問いかけである」 という
はどういうことかを明確にしなければならな
点である。
い。一定の政策策定にかかわることが,あるい
この三点はいずれも一面では私にも同意しう
は一定の政策を実現することが学問だとは佐伯
ることである。しかし他面ではいずれにも違和
自身考えてはいないであろう。もちろん私は学
感をもたざるをえない。第三点についていえ
問が「現状を変革する」行為より上位にあるな
ば,大内にはもともとあれほどの学問的業績を
どとは考えてはいない。むしろ,人間の行為と
挙げうる能力と精神力があったことは当然とし
しては政治的行為のほうが学問より上位にある
ても,私にも大内のあの強烈な追求力の底には
と思っている。しかしまさか佐伯にしても「現
「新しい社会像を求める」強い意志があったに
状を変革する」政治的行為が学問だとは思って
違いないと思われる。しかし私がとくに感ずる
いないであろう。真に「現状を変革する」ため
のは,戦前戦後の日本のある種のマルクス主義
には現状を規定している核心とその変革の目標
社会科学者とは異なって,その情熱を直接的に
を明らかにしなければならないのであって,そ
出すのではなくて,背後において資本主義の歴
れこそ経済学が果たすべき課題である。だがも
史的運動を解明しようとするさいの原動力にし
ちろんそれを明らかにしたからといって「現状
ていたと思われる点である。そしてその点は宇
を変革する」ことが実現されるわけではない。
野弘蔵にあっても学問的営為の原点の一つでも
大内自身にしても現状を規定している核心を終
あったはずである。ただ経済学における両者の
生精力的に追究しつづけたのであって,その点
違いは,ある種の緊張関係にある原理論と現実
は宇野にしても変わりはないと私は思う。ただ
論との「距離」を近くにとらえているか,遠く
二人の資質の違いに由来するのであろうが,い
にあるものとらえているか,という違いにある
わば出発点からして大内は現状分析に,宇野は
ように思われる。その違いは現実にたいする経
原理論に,それぞれ戦略拠点を据えたという違
⑸
同,17 ページ(佐伯稿)。
⑹
同,18 ページ(佐伯稿)。
⑺
この点,私は「原理論と歴史分析とはどこが違うか」
(『名城論叢』
[名城大学経済・経営学会]11 巻4号,2011
年3月)において原理論と歴史分析との間に非資本家的商品経済的要因が介在するという観点から考察した。
歴史過程と原理論(犬塚)
3
いがある。ただ不思議なことに,のちにだんだ
内部に滑り込ませ,さらには小生産者的商品経
ん明らかにしてゆくつもりであるが,現状分析
済という必ずしもいつも商品経済的行為を行な
を基地として出発した大内にあっては現状が原
うというわけではないものをもすべて商品経済
理論にひきつけられて規定されるという発想が
的なる運動を展開するものとしてとらえて,本
強かったと思われるのにたいして,原理論を経
来原理論のみでは説きえないものも説きうるよ
済学の方法の基地として出発した宇野にあって
うに写しとるということもあるのではないかと
は原理と現実とのあいだにかなりの距離をおく
思われる。
という発想になっているとも考えられる。原理
原理論をもって現状分析をいかに行なうかと
論が現状分析にたいしていかなる役割を果たし
いうとき,原理論を歴史分析に使いやすくする
うるのか,という問題にたいする詰め方の違い
ために原理論を改変し,原理論自体に歴史過程
という興味深い問題がそこには存在する。
を入れて再構成しようとする試みもありうる。
この点はじつは佐伯の第一点の主張にかかわ
そのばあい方法は二つある。一つは原理論に歴
る。宇野理論を「引き継いだ若い優秀な研究者
史過程を入れて,原理そのものを歴史的運動の
の多くが原論研究にのめり込み現状分析を顧み
原理にしてしまう方法である。歴史過程には事
なくなった」というのであるが,そのことの意
実であるという「強み」があって,その「原理
味は宇野派の原論学者が現状分析をやらないと
論」のなかでは必ずしも資本家的商品経済の運
いうことでは必ずしもなくて,現状分析を原理
動の結果とはいえないものもその結果としてみ
論に強くひきつけておこない,その結果,基本
なすことによって,資本主義がつづくかぎりは
的に原理論ですべてことは済むと考えるものが
原理論は完結しないということにもなる。岩田
多いという主張とも解釈できる。もっとも宇野
弘の新著『世界資本主義Ⅰ
新情報革命と新資
(9)
派の経済学者のなかにはたとえば山口重克,大
本主義の登場』 がそれである。そしてこの岩
内秀明,櫻井毅,柴垣和夫,馬場宏二,伊藤誠
田弘に代表されるいわゆる世界資本主義論を支
をはじめとして宇野段階論に彫琢を加えている
持するような人たちはますます多くなっている
(8)
ものもいるのであって ,一概にはいえない。
ように思われるが,じつは戦前以来いわゆる封
変革の目標を明らかにするために現状分析を
建論争を争った講座派と労農派はじつはともに
行なうべきだという佐伯の主張は,しかし現状
『資本論』を資本主義の構造の解明と同時にそ
分析にたいする原理論の位置づけを明らかにす
の発生と没落とをほぼ直接的に解明したもので
ることを前提とする。それを不明確にしたまま
あるとみなしていたのであって,その意味では
嘆くのは原理論を現状分析に解消してしまう恐
世界資本主義論もその流れにつながっているの
れがあるのではないだろうか。たしかに原論学
である。
者のなかには宇野原理論を否定的な方向に修正
もう一つの方法は原理論の諸法則が資本主義
して現状分析としての歴史過程の理論に解消し
の全歴史過程に貫徹するが,その現われる形態
ようとするものもいないわけではないであろ
が異なるのみだという考え方である。これは本
う。原理論で歴史過程なり現状なりを直接説こ
格的には別の論文で検討するつもりであるが,
うとする志向が強すぎると,原理論では積極的
初期の大内の日本農業分析に見られる考え方で
に説けない非資本家的商品経済的要因を原理論
あって,世界資本主義論に通底する考え方であ
⑻
櫻井毅,山口重克,柴垣和夫,伊藤誠編著『宇野理論の現状と論点』,2010,社会評論社。
4
第 14 巻
第3号
る。いうまでもないことであるが,原理論の諸
向が比較的に明確に現われたのはイギリスのみ
法則は一定の形態のもとに貫徹するのであっ
といってよく,他の諸国では多かれ少なかれそ
て,その形態が崩れるならば法則の作用も阻害
の傾向は歪められ不明確にしか現われなかっ
されることになる。もちろん法則がぜんぜん作
た。そこにもしかし,ある種の必然性はあった
用しなくなるというわけではないが,多かれ少
のであって,それは資本主義なるものがいわば
なかれ阻害されることになる。法則の作用は資
人類の本史をなす資格を欠落した社会であるこ
本主義の発生期,発展期,衰退期によって促進
とによるともいえるのである。のちにわれわれ
され,発展し,阻害される。それは資本・賃労
も問題にしたいと考えているが,個別の有力資
働関係の発生,発展,阻害に対応する。法則の
本群が古い体制の存在を自己に有利性をもたら
発生も商品経済の発展とともに促進されるには
しうるものと判断したときはその体制を壊そう
違いないが,たんに自然に発展するということ
とはしないのである。その古い,しかしたんに
ではなく,阻害する旧制度等が政治的にとりは
古いというだけではない体制とはもちろん封建
らわれることによって実現されるのである。発
制そのものではなく,代表的には農民のような
展期のみ商品経済のみによって自立的に発展す
小生産者の多数存在する社会である。明治以来
ることが原則として可能になる。もちろん原理
の日本の社会が封建体制を内蔵した資本主義社
論の対象をなす純粋資本主義においてこそ法則
会であるという,今から思えば辻褄はあわない
は純粋に展開されるのであるが,純粋資本主義
が,感覚的には真実味がありそうに思える奇妙
社会は現実にはありえない分析方法上の,しか
な認識をめぐって,いわゆる日本資本主義論争
し現実に基礎を有する社会であって,発展期の
が,あるいは端的に封建論争といってもいい論
資本主義社会はそういう純粋資本主義社会に近
争が昭和初期以来太平洋戦争後の数年間にいた
づく傾向がみられる社会だというにすぎない。
るまで長期間にわたって行なわれたのもそのこ
しかも現実の発展期の資本主義でそういう傾
とに無関係ではなかった。そういう状況のとき
⑼
岩田弘『世界資本主義Ⅰ
新情報革命と新資本主義の登場』,2006,批評社。この書には旧『世界資本主義』
(1964)
が第2部として,多少改めたところがあるが,およそそのまま転載されていて,新説は第1部として「新情報革
命・新産業革命と新資本主義の登場」の表題の下に収められている。その第1部第3章「『資本論』体系の今日的
意味を問う」の第1節「『資本論』体系が提示する資本の論理」の冒頭部分につぎ文章がある。「資本主義は,世界
市場系としては流通形態的な全体性をなし,特定の産業部門をその生産基軸とする資本主義的生産としては部分
的であった。つまり世界市場的全体性と,基軸産業的部分性との二重システムであった。あるいは,流通形態的
全体性との二重システムといってもよいであろう。/このことは,次のことを意味する。すなわち,資本主義は,
世界市場系として形態的には全体性を,したがって自己組織系・自己完結系をなすが,実体的には部分系にすぎ
ず,他の社会関係に依存しそれとの相互作用を通じて存続し発展する,ということである。つまり,その全体性
は,絶対的な全体性ではなく,そのうちに他者への依存関係を含む,したた(原)って虚構や仮想を含む相対的な
全体性でしかないということである」
(135∼136 ページ)とあって,
「流通形態的全体性」は「自己組織系・自己
完結系をなす」というが,ここには小生産者も含まれうるのであって,彼らはそのままでは商品経済形態に完全
には包摂されないのである。包摂されることもあれば,されないこともあるのである。資本主義の発展期と衰退
期とではかれらをとりまく条件に違いがある。そもそも流通形態的全体性は,実体的全体性によってのみ確保さ
れうるのであって,小生産者にあってはかれらをとりまく条件によって実体的に商品経済にとりこまれることも
あり,とりこまれないこともある。その違いが歴史過程をなすのである。その外的条件の歴史的な違いを解明し
なくては,歴史の事実を追うだけであって,歴史性を解明するゆえんではないというべきなのである。
歴史過程と原理論(犬塚)
5
に,
『資本論』の価値法則をもって日本農業の実
たものであるというのである。宇野にあっては
体解明に切り込んだのが大内力の『日本資本主
価値法則は純粋資本主義においてのみ十全に展
義の農業問題』であった。それは日本の農業,
開される法則であって,現実にあっては原理論
農民に存在するのは封建制度ではなく,思想・
では前提されていない非資本家的商品経済の諸
感情・慣行としての封建性であって,その執拗
要因によって,あるいは異常に促進され,ある
なる残存は一口でいえば日本資本主義の後進性
いは阻害されるものとしてあるものである。価
によるとするものであった。それはその実証の
値法則は現実に基礎を有しながら,厳密にいえ
展開といい,論理の運びといい鮮やかなもので
ばそのままのかたちでは現実にありえないので
あったと私には思われた。事実,その後急速に
あって,現実の価格運動を規制する基準として
封建論争は下火になり,この大内理論は論争に
存在するものであるとされている。こうした大
終止符を打つ意義を有するものであったといい
内と宇野との原理論の法則にたいする認識の違
ように思われる。
いは検討に値する重要な問題であって,のちに
だが私にとっては,いまからみると,という
問題にする。ただここで明確なことは世界資本
ことになるが,客観的にいえば宇野弘蔵が『資
主義論者にあっては,商品経済の法則も資本主
本論』の中枢理論を経済学原理論として再構成
義の歴史過程も分けがたくともに分析対象の中
した宇野原論が世に姿を現して以来は,という
にいれていることであって,商品経済の法則と
べきであるが,その『資本論』の中枢理論を経
しては資本家的商品経済も小生産者的商品経済
済学原理論として再構成した宇野原論の,たと
も区別がない。それにたいして大内にあって
えば日本の現実にたいする位置関係が問題に
は,法則と歴史過程は,一応区別されているが,
なってきたのである。その意味はこうである。
法則が資本主義の全歴史過程に存在していると
たとえば価値法則をもって日本農業を解明しよ
されているために,法則の現われ方が資本主義
うとするとき,大内にあっては価値法則をいわ
の先進性とか後進性とかによって,あるいは資
ば現実に埋め込んで,その現実に現われる現わ
本主義の発展段階によって異なることは明らか
れ方を明らかにするというものであった。日本
にしえても,その違いの歴史性は容易には解明
の小農が生産する農産物の価格は,土地にたい
しにくくなっていると思われる。それにたいし
する最劣等条件の下で生産された生産価格では
て宇野にあっては法則の意義を純粋のかたちで
なく,費用価格(物財費+農民の平均的生活費)
認識するために考察対象の場を歴史過程にもと
の水準に決まるのであって,それが価値法則の
づきながら一応その外に出していることによっ
日本の農民経営に現われる現われ方であるとい
て,その法則の作用のあり方が逆に資本主義の
うのであった。そして価値法則は日本の小農に
歴史段階の違いにかかわらしめてわかる仕組み
あってはかかる偏畸をうけた形態で自己を貫徹
になっているといっていいであろう。つまり法
するというのである。この大内の解明過程は当
則の作用の違いを資本主義の歴史的発展段階の
時の私にはまったく鮮やかなものと思われた。
違いとかかわらしめて考察できる仕組みになっ
だが,それにたいして宇野は小農の生産物の価
ているといっていいであろう。つまり宇野も大
格が生産価格にならないのは価値法則がたんに
内もともに法則の完成された姿とその法則が現
かたちを変えて貫徹するというのではなく,価
実に作用している姿とを分けているのである
値法則の作用が十全に展開されることが小農生
が,
資本主義社会における小農経済においては,
産によって阻害されることによってもたらされ
宇野が法則の作用が阻害されたかたちにおいて
6
第 14 巻
第3号
展開されているとみているのにたいして,大内
書いた当時は宇野段階論については「半分くら
は「一定の偏寄をうけた形で価値法則が自己を
いというか,少し入門しかけということでしょ
(10)
というのである。だが,二人と
うか。というのは,宇野先生がいつ段階論を考
も原理論の法則を前提にしているが,その法則
えられたかよくわからないけれども,本として
は純粋資本主義を前提にしなくては解明しえな
出したのは,初版の『経済政策(上)』でしょう。
い。正しいのは宇野である。その点ものちに具
あの時は,それほどはっきり段階論という考え
体的に問題にしたい。
方になっていなかった。むしろ,戦後の経済学
貫いてゆく」
大内はいわゆる宇野理論をいつごろ知ったの
全集の一冊として出された『経済政策』の方に,
であろうか。大内の回顧録『埋火』によれば,
段階論が非常にはっきり出ている」
,
「原論を詰
『日本資本主義の農業問題』は,鈴木鴻一郎が
めてゆかれるうちに段階論の方もだんだんきち
宇野弘蔵からヒントをえて書いた「増産と農地
んと整理されてきたのじゃないかという気がし
(11)
制度」 という論文からヒントをえて書いたと
いう
⑽
(12)
。大内が『日本資本主義の農業問題』を
(13)
ますね」 といっている。
大内は『日本資本主義の農業問題』のあと,
大内力『農業問題』
(初版),1951,岩波全書,119 ページ。ここは重要なところであり,かつ誤解を避けるため
にも,この規定がでるまでの論理の運びを原文で示そう。「人間の社会はすべてその総労働力を,その社会の必要
とする割合でさまざまの生産部門に配分しなければ存立しえないものであるが,資本主義社会はこのような労働
力の配分を意識的計画的に遂行しうる機構をもっていないので,むしろ商品交換関係をつうじて,いいかえれば
価格の変動をつうじて,このような労働力の配分を行なわざるをえないのである。そして,資本主義社会におい
て,このような労働力の配分を規制するものが価値法則であるといっていい。そこで農業も,それがたとえ資本
家的経営によって担当されてはいないとしても,すでにそれが資本主義社会の社会的分業の一分肢となっており,
したがって資本主義社会はこの部門にも,一定の労働力を配分しなければ存立しえない条件がつくりだされてい
るならば,やはり何らかの形で価値法則の支配をうけないわけにはゆかないのである。ただ,ここでは,経営が
資本家的原則,すなわち平均利潤の確保,という原則によって支配されていない,ということのために,一定の偏
寄をうけた形で価値法則が自己を貫いてゆくにすぎない」(同書,118∼119 ページ)。
大内の真意は日本の小農生産物の価格形成にも,価値法則が作用しているという主張にあるとも考えられるの
であるが,作用と貫徹とは異なる。「平均利潤の確保」がされないで費用価格しか実現されないことを価値法則の
貫徹とは何としてもいえない。価値法則は資本家的生産物においてこそ貫徹するのであって,小農的生産物にお
いてはその作用が多かれ少なかれ阻害をうけるといわなければならない。大内はこの引用文中の「労働力の配分
を規制するものが価値法則であるといっていい」というところに注をつけて「価値法則をこのように労働力配分
の原理としてとらえることは,むろんただ価値法則の一面をとらえたものにすぎない。このような法則性は資本
主義社会では直接的に把握することはできないのであり,むしろわれわれは価値が一定の形態としてあらわれる
点をとらえ,その展開を追求することによって価値の本質にいたる以外に方法はないのである。そのいみで,価
値法則をたとえば商品交換を規制する法則として理解することもできるのである」
(119 ページ,注〔17〕)。労働
力配分の「原理」と価値法則とを同一次元上のものととらえていいのであろうか。あらゆる人間社会存立に必要
な労働力配分はいわば実体的原則をなすが,資本主義社会はそれを法則をもって実現するのであって,大内の『農
業問題』改訂版(1961,岩波全書)では,
「価値法則をこのように労働力配分の原理としてとらえるのは,それが
あらゆる人間の社会が共通にもっている原則を資本主義的形態のもとに体現している側面でとらえたもの」
(改
訂版,146 ページ,注〔10〕)であるといっているのは,労働力配分を経済原則としてとらえているようでもある。
価値法則のばあいは法則の作用の完全な展開によって,経済原則が実現されるのであるが,他の社会では直接政
治過程をもって経済原則を実現しようとしているにすぎず,それはつねに完全なかたちでの経済原則の実現とは
かぎらない。
歴史過程と原理論(犬塚)
7
日本農業論としては 1948 年に『日本農業の論
るが,このときまでは資本主義の発展段階論は
理』
(日本評論社),1950 年に『日本農業の財政
出てこない。それが姿を現わすのは 10 年後の
学』(東京大学学生生活協同組合出版部)
,そし
1961 年の『農業問題』改訂版(岩波全書)にお
て 1951 年に『農業問題』
(岩波全書)を出版す
いてである。そこでは宇野段階論を基礎とする
しかしそのことと関連はあるが,より重要なことは資本主義社会でこの労働力配分の原則,あるいは広くあら
ゆる人間社会の存立条件としての経済原則は,純粋資本主義において論証されるのであって,資本主義社会の小
農生産においては慢性的過剰生産とともに,構造的過剰人口が発生しうるのであって,そのこと自体労働力配分
原則の実現が阻害されていることを示している。大内が改訂版の前掲の注で宇野の「価値法則の絶対的基礎」を
引用しているが,宇野はこういっている。「生産論においてあらゆる生産物が資本によって生産せられる資本の
生産過程を明らかにするに至って始めて,その実体を労働に求めることが出来たのであった。今や生産論を終わ
るにあたって,あらゆる生産物が商品として生産される資本家的再生産過程を総括的に展開するとき,価値法則
(『宇野弘蔵著作集』,第1巻《以下たんに①と表記する》,1973,244∼
は,否定し得ない絶対的基礎を与えられる」
245 ページ。引用文が載っている原著は『経済原論』上巻は 1950,岩波書店)。「しかし他の社会では他の形態を
もってする社会的再生産過程を商品形態をもってする資本主義社会は,決して単なる生産物の商品化をもって全
面化するといういわゆる単純なる商品経済として実現されるものではなかった。直接の生産者が自ら生産する生
産物をも商品として購入しなければならない無産労働者たることによって始めて完成せられるのである。それと
同時に商品の価値関係は,単なる商品の交換関係とはいい得ないものとなって来る。それは人間の自然に対する
関係自身をも商品形態を通して実現するのである」
(同,245 ページ)。ここでいう「単純なる商品経済」には資本
主義社会における農民経済ももちろん当てはまる。資本主義社会における農民経済には経済原則は阻害されたか
たちで実現されるにすぎない。
⑾
鈴木鴻一郎「増産と農地制度」
(初出は『社会政策時報』1942 年3月号,のちに鈴木鴻一郎『日本農業と農業理
論』,1951,御茶の水書房,に収録)。なお,この論文について大内は「宇野先生が 1935(昭和 10)年に発表され
た『資本主義の成立と農村分解の過程』
(『中央公論』1935 年 11 月号)にヒントをえたのだと鈴木さんはいわれて
いましたね。この論文はぼくは当時は知らなかったのですが,そう考えるとぼくが宇野理論に入門したのは,鈴
木さんを通して間接的だったということになりそうですね」
(大内力,生活経済生活研究所編『埋火』
(「大内力回
顧録」),2004,御茶の水書房,73 ページ)といっている。
⑿
大内はこういっている。
「宇野理論を農業問題に導入した最初は鈴木さんでしょう。ぼくのいわば処女作と
なった『日本資本主義の農業問題』というのは,ヒントは戦争中に鈴木さんが,あの頃『協調会』という半政府機
関があって,社会問題や労働問題などを研究していたのですが,そこが『社会政策時報』といったかな,そういう
名の雑誌をずっと出していたのです。その雑誌に鈴木さんが『増産と農地制度』という論文を書いていたのです。
これは,宇野理論からヒントを得た論文で,もちろん宇野先生の名前は出していなかったと思いますが,要する
に,日本資本主義論争のように『資本論』を直接下敷きにして議論するのではなくて,先進国か後進国か,もしく
は資本主義の発展段階はどうかといった問題を入れて,日本の農業を見ようとしたものでした」
(前掲『埋火』,69
ページ)と。
⒀
前掲『埋火』96∼97 ページ。なおここで大内が重商主義論と自由主義論しか書かれていない宇野弘蔵著,戦前
版『経済政策論』
(上)は段階論を論じているという認識をもてなかったといい,戦後版になって帝国主義論が追
加されるにおよんで,段階論になったという認識を示しているのは,大内の商品経済観を示しているように思わ
れて,興味深い。資本主義の発生・発展期までは商品経済の論理のみで説けるという考えが大内にはあるのでは
ないかと思われるからである。大内段階論の初期は資本主義全体の歴史過程は商品経済の論理で説けるかのよう
な考えがあったようにみられるが,晩年の『大内力経済学大系』4巻,5巻の『帝国主義』上下(ともに 1985,
東京大学出版会)になると帝国主義論は商品経済の論理だけでは説けないとしているが,発展期までは説けると
しているのである。この点も問題にしなくてはならないであろう。
8
第 14 巻
第3号
大内段階論とそれと一定の関連をもつイギリス
て,それは『資本論』が本来明らかにしようと
資本主義を代表とする先進国論とドイツ資本主
したものであるという認識にもとづいている。
義を代表とする後進国論とが展開されている。
さて問題の所在を絞り込んでゆこう。鈴木鴻
(15)
それは宇野段階論を基礎としているが,大内独
一郎
自のものである。このとき大内が参考にした宇
共通の難点をもっているように思われる。それ
野段階論は 1954 年版で,宇野の『経済政策論』
はすでに示唆しておいたように資本主義の歴史
改訂版は 1971 年出版だから,このときはまだ
過程に現われる商品経済的運動に質の違うもの
大内の目には触れえなかった
(14)
や岩田弘の理論と大内力の理論とには
。大内段階論
があることを等閑視していることである。その
の骨格がその姿を見せたのは,宇野の段階論改
商品経済的運動の質の違いとはたとえば資本家
訂版が出る1年前の 1970 年出版
(時潮社)
の『農
的商品経済と小生産者的商品経済との違いであ
業経済学序説』においてであった。しかしここ
る。前者は厳密にいえば原理論どおりの運動を
では農業経済学にバイアスがかかったかたちで
するが,その内部に非資本家的商品経済的要因
の段階論であったから,なお本格的なものとは
を含む後者は,外的条件いかんによって資本家
いいがたかった。大内段階論の完成は 1985 年
的商品経済運動の形成される方向へ向けての運
の『大内経済学大系』
,第4巻『帝国主義論』上
動をすることもあれば,その法則の形成とは逆
(帝国主義前史),同,第5巻『帝国主義論』下
向きの運動,つまり阻害的作用をすることもあ
(帝国主義本史)まで待たなければならなかっ
る。それはたいした違いではない,とはいえな
た。著者 67 歳の著作である。因みに大内最後
い。そのいずれかによって資本主義の歴史展開
の著作,同大系第8巻『日本経済論』下(
「構造
が原理論世界の実現する方向に向かうか,それ
分析」)の出版は 2009 年7月のことであって,
が阻害される方向に向かうかという違いが生ず
行年 90 歳と 10 カ月に没したのちの3ヶ月後の
るからである。資本主義の歴史的展開が変わっ
ことであった。この間,大内段階論は宇野のそ
てくるのである。その点では商人資本的商品経
れに近づいたのであるが,その違いは最後まで
済も金融資本的商品経済も同様である。そうし
残った。
た違いの根源は原理論の法則なるものは原理論
その点の検討とその意義づけについては,の
的形態でのみ十全に形成され,一定の運動を展
ちに大内の日本農業論の検討を通して行なって
開するということにある。しかもそれはたんに
いこうと思っている。いずれにせよここでは現
価値法則だけでなく利潤率平均化法則,人口法
状分析における問題の所在を明らかにすること
則をもって構成される三大法則それぞれがそう
が主題である。その問題の所在は経済学原理論
だというだけではない。価値法則は労働力の価
が資本主義の歴史過程の解明においていかなる
値規定を前提にしておいて剰余価値を規定して
役割を果たすのかということであるが,ここで
いるのであって,その価値法則を前提にして人
いう原理論とは宇野の明らかにしたものであっ
口法則が論証され,その人口法則が景気循環の
⒁
宇野弘蔵『経済政策論』の改訂版は戦後初版(1954 年)の「曖昧だった点,明らかに間違っていたと考えられ
る展開を多少とも改めることも,また旧版で気付きながらそのままにしていたり,あるいは全然気付かなかった
誤植などを訂正」
(改訂版,序,4ページ)したとされるものであるが,最大の特徴は「補記――第一次世界大戦
後の資本主義の発展について――」が最後に追加されたことにある。
⒂
前掲拙稿『原理論と歴史分析とはどこが違うか」,『名城論叢』,第 11 巻4号(2011 年3月),115 ページ以下。
歴史過程と原理論(犬塚)
9
うちに労働力の価値を規定するのであって,そ
ことがしばしばおこりうる。いわば労働報酬水
れによって利潤率平均化法則も価値法則も完成
準の低落を労働総報酬の増大をもって補おうと
(16)
するという関係にある 。したがって小生産者
するわけである。そういうことがおこるのは賃
の商品経済的運動の特殊性によって阻害される
銀労働者とは異なって農民のばあいにはじつは
のはたんに価値法則のみでなく他の二つの法則
労働報酬水準を規定する具体的な現実の機構が
もまた阻害されることになるのである。もちろ
賃銀労働者のばあいとは異なるからである。後
ん大内にあっては小生産者的商品経済の特殊性
者のばあいは賃金はある程度一定水準に維持さ
は指摘されている。しかしのちに明らかにする
れるという性質があるから,賃銀労働者の移動
が,そのことが資本主義の歴史的段階規定にい
を通じてその水準におちつくからである。小農
かなる作用を及ぼすかが明確にされてはいない
民のばあいには,自家農業労働報酬水準が下っ
のである。
ても外部に容易に働きに行くことが困難なので
こうして産業資本時代のみが原則としてもっ
自作地もしくは小作地に追加の労働を投下した
とも商品経済的原理にそって経済的運動が展開
り,あるいは家族の年少者や老人を動員したり
されるのであって,小生産者的商品経済や商人
することによって,農産物の価格水準は限りな
資本的ないし高利貸資本的商品経済,はたまた
く低下しうることにもなる。
金融資本的商品経済等は必ずしも資本家的商品
では農業が小農民によって担われているとい
経済法則のみで運動しているわけではないので
う同じ前提の下で,農産物にたいする需要が増
ある。資本家的商品経済のばあいは需要が供給
大したばあいには価格はもちろん上昇するが,
を上回るときは価格が上昇して生産が増大し,
農産物供給は耕地に制約があるためにそれに応
需要が供給を下回るときは価格が下落して生産
じては拡大しえないから,そのかぎりでは価格
が縮小し,その結果需給均衡状態が実現されて
は騰貴しっぱなしになるとしかいえない。その
価格が一定水準に落ち着くのであるが,それは
価格騰貴に応じて生産が増大するが,それが一
その時点での標準的生産力水準に規定されるわ
定水準に落ち着くという状況が出現するために
けである。もちろん現実の条件次第で,ふたた
は,農業が小農民によって担われているという
びその均衡状態は崩れるのであるが,基本的に
前提をはずすしかない。はずせば農産物需要増
は標準的生産力水準が動かなければ,同様の拡
大とともに経営面積を拡大し,かつ通常は労働
散・収斂運動はくり返されると考えていい。し
生産力も上昇させうるから,農業の資本主義化
かしそのばあいは需要量が,したがって供給量
も実現されるということもありうることであ
も一定で変化がないということになって,通常
る。19 世紀末期までのイギリス資本主義の発
はそういうことはありえないと考えていい。と
展は初期条件が異なるが,基本的にはまさにそ
ころが小生産のばあいは,ここでは小農民を例
ういうものであった。だがまたどういう国でも
にとれば,しかも農業が農民によって営まれて
そうなりうるとはかぎらない。資本主義の発展
いるという条件のもとでは,農産物価格が下落
期から衰退期への転化という歴史段階の問題も
しても,単価の下落を総販売量の増大をもって
あり,さらに先進国,後進国の違いという問題
補うというように,かえって生産を増大させる
もあるからである。日本のようなばあいには外
⒃ 『宇野弘蔵著作集』⑥(資本論の経済学),1974,11 ページ以下をみよ。原著は宇野弘蔵『資本論の経済学』,
1969,岩波新書。
10
第 14 巻
第3号
国または植民地から安価な農産物を輸入すると
準となるという逆説的役割をはたすのである。
いうことになり,それによって需要が増大して
いるにもかかわらず価格は低落することにもな
る。そしてその結果,農業の資本主義化は実現
しないということにもなる。
2
⑴
逆説としての原理論
逆説としての原理論
こういうことになるのは,農業をとりまく条
資本主義の歴史過程が純粋資本主義を対象と
件が,原則としていわば純資本家的商品経済に
する原理論のみでは解明しえないことはさきの
由来する条件であったり,あるいは小生産者的
論文
商品経済や商人資本的ないし金融資本的商品経
論の論理が,その終結部が初発部を生むという
済等に由来する条件であったりすることによる
自立性を有するものになっていることによるの
のである。というのは前者は資本・賃労働関係
であって,その論理は,出発点の商品がそもそ
が拡大再生産されるという条件であり,後者は
も純粋資本主義という全体によって包摂された
いわば重商主義段階または帝国主義段階という
ものであって,いいかえれば生産が資本主義的
条件であり,あるいはそのことと一定の関係を
生産になっていることを前提にしている。たん
有する後進国的条件であるからである。両者は
に商品から出発して資本主義社会が形成される
同じ商品経済といっても性質の異なるもので
という論理になってはいない。資本主義社会は
あって,非資本家的商品経済的要因が前者には
労働力商品を基礎としているが,それはたんな
含まれないが,後者には含まれているという重
る商品流通や小生産者的商品生産から成り立っ
要な違いがある。これを等しなみに原理論上の
ているものではないからである。純粋資本主義
商品経済と同一視するわけにはゆかないところ
を対象にするということはその商品が資本主義
に,段階論なり現状分析なりの特殊な研究領域
的に生産されたものであることを示唆するもの
が必要になってくる根拠があるのである。そし
だからである。それゆえにこそかかる商品から
て現状分析にはさらに先進国的,後進国的とい
出発した論理はその商品の内部に存在する要因
う段階論とは異なる商品経済という問題もある
によって自立的に展開され,最後に規定される
(17)
(18)
である程度明らかにした。それは原理
。そして原理論と段階論を前提に
諸階級によって,最初に前提として措定された
して,原理論以外の領域に含まれる非資本家的
商品が商品によって生産されるという論理だか
商品経済的諸要因の作用が加わって資本主義の
らである。その原理論世界は商品というモノの
歴史過程が展開されると考えられるのである。
運動のみによって存立しうることが論証される
わけである
この非資本家的商品経済的諸要因のなかには生
世界ではあるが,それはすでに示唆したように
産力や諸政策も当然はいっているのであって,
労働力が商品形態をとっているという歴史的に
のちに問題にする。いずれにせよ資本主義の歴
規定されたものを前提にしてのみ存立しうるも
史過程の解明にとっては,原理論は現実が原理
のだからである。そういう原理論世界は完全な
論といかに異なるかということを明確にする基
かたちとしては現実には存在しえないものであ
⒄
大内力の段階論には重商主義,自由主義,および帝国主義の3段階とともに先進国型と後進国型とがおかれて
いることは周知のことであるが(前掲,
『大内力経済学大系』,第4巻『帝国主義論』上,下),それはここで指摘
している私の見解とは異なるものである。だがその点も稿を改めて論じたい。
⒅
拙稿,
「原理論と歴史分析とはどこが違うか――その懸隔は大きかった――」,
『名城論叢』11-4,2011 年3月。
歴史過程と原理論(犬塚)
11
るが,たんなる作り物ではけっしてない。それ
うちにこの資本主義倒壊論を位置づけてはいな
は現実に生成,発展,確立し,そののち衰退を
い。いわば理論の性格の異なる位置としての1
遂げつつある現実の資本主義社会のうち確立ま
巻の最後においてこれを説いている。しかしマ
での歴史過程を基礎にして,その過程を究極ま
ルクスはこの次元の違いを徹底化させなかっ
ですすめた結果としてえられた抽象的世界であ
た。かれは 19 世紀中葉までの傾向の一面を特
る。そしてこの原理論を『資本論』の基本部分
殊的にとりあげて,それをそのまま予想として
をなす理論として構築したマルクスは 19 世紀
延長してしまったと考えられる。マルクスには
末期以後の衰退期 = 帝国主義段階をみずにその
主として一方では『資本論』の論理を商品には
生涯を終えた。しかしこの帝国主義段階を現実
じまって商品におわる論理としながらも,他方
に知りえなかったことが原理論確立にとってい
において資本主義の発生から発展,没落の論理
いことかわるいことかは,一概にはいえない。
ともとらえるいう一種の混濁があって,そのた
知りえなかったマルクスは資本主義の将来につ
めに前者の論理に不必要な混乱をまねいたとも
いてある種の予想をたてた。それが有名な『資
いえるのである。しかし『資本論』の本来の論
本論』1巻 24 章第7節の最後を飾る認識だっ
理は前者にあるのであって,それは純粋資本主
た。「資本独占は,それとともに開花しそれの
義の内部構造を解明する論理である。しかしそ
もとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生
うであれば,
『資本論』で説かれている純粋資本
産手段の集中も労働の社会化も,それがその資
主義の内部構造の理論と資本主義の歴史過程の
本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到
解明とはいかなる関係にあるのかということが
達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的
重大な問題になる。発生期,発展期にも問題が
私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪さ
生ずるが,とくにマルクスには十分には知りえ
(19)
れる」
というのがそれである。一つの資本に
よって独占され,いわば革命によってか,自壊
なかった衰退期には大きな問題が発生すること
になった。
によってか,は必ずしも明らかではないが,資
この衰退期は発展期が長くみても 70 年間ぐ
本主義は倒壊するというのである。それは事実
らいしかないのにすでに一世紀余になってい
とはならなかったが,資本主義社会が永遠につ
る。すでに発生期が発展期の三倍以上を要して
づく社会ではありえないことを直感で認識しえ
いるのであるから衰退期も長期になることが予
たことはさすがであるといわなければならな
想されうるが,しかしこう長くなると,常識的
い。重要なことは,15 世紀後半以来資本主義が
には原理論の意義が,とくにその自立性の意義
発生し,発展していわば発展しきった状態の資
が薄れてくるという傾向を生むことにもなる。
本主義の内部構造の解明をいわば原理論として
それがさきの拙稿で批判を試みた世界資本主義
構築しえたことにある。それによってその直感
論である。それは資本主義の発生,発展,衰退
的認識を科学的認識たらしめたのである。じっ
の全期を包括的にとらえて,それを「原理論」
さいマルクスは『資本論』の本来の理論体系の
として解明しようとするものであり,事実上資
⒆
マルクス『資本論』第1巻,大月書店,第2分冊(以下,たんに②と略記),マルクス・エンゲルス全集刊行委
員会訳,1967,995 ページ。Karl Marx, Das Kapital, Bd. 1. [Karl Marx, FrieddrichEngels, Werke, Bd. 23. 1962.] S.
791. マルクスのこの部分の文章は「自己労働にもとづく所有」論という疑義のある認識に基づいていることにつ
いては前掲,拙論中の「マルクスの原始的蓄積論」
(一)
(72 ページ∼)および(二)
(93 ページ∼)をみてほしい。
12
第 14 巻
第3号
本主義の歴史的展開をはじめから対象にして説
変質期を分かつことにもなるのである。資本家
くというものである。それを原理論というな
も小生産者も商品生産者だとひと括りするわけ
ら,その展開は歴史がつづくかぎり終らないと
には行かないのである。世界資本主義論が商品
いうことになる。それは原理論のなかに商品経
経済史観だといわれる所以である。
済的論理の発展の結果とは必ずしもいえない生
衰退期を知りえなかったマルクスには発展期
産力の発展をも入れて資本主義の歴史性を説こ
の資本主義を明確にとらええたかは明確にはい
うとするものであって,資本主義の法則そのも
えない。マルクスは 19 世紀中葉までの傾向の
のが歴史的に変化するというのである。法則と
一面を特殊的にとりあげて,それをそのまま延
はくりかえし現われるから法則をなすのであっ
長してしまったのである。そこには時代的制約
て,その法則の解明とその法則の歴史的変容と
があったといっていいであろう。もちろん事実
を同時に説くことは不可能である。世界資本主
はマルクスが想定したようにはならず,19 世紀
義論は法則の確立は流通論で展開され,生産論
末期から帝国主義段階という衰退期が到来した
の途中から法則が変容してくるというのである
のである。一つの巨大な資本に集中するという
が,そうなると流通論で展開する法則は変容す
のではなく,一方では比較的少数の巨大な資本
るのかしないのか,定かではない。要するに資
集団群が出現し,他方では膨大な数の中小零細
本主義の歴史的展開の法則と資本主義の再生産
な資本群が出現し,その廻りを多数の小生産者
構造の法則を同時に説くことは不可能である。
や小農民が蝟集するという段階の到来である。
資本主義の発生期と発展期とを同時に説くこと
それは綿工業的生産力水準の資本を中心とする
も本来不可能であるが,それでも発展・確立期
いわゆる自由競争による資本・賃労働関係の拡
に向けての動きは法則の形成・確立への過程で
大という時代とは明らかに異なる現象である。
あるから,その方向へ向けての無理な抽象化に
こうして資本・賃労働関係の一定の景気循環過
よって法則を把握することができる。できるけ
程を媒介にしての拡大という,イギリス資本主
れどもその法則のみではとくに発生期は説けな
義を典型とする自由主義段階は 19 世紀末期を
い。問題は 19 世紀末以降の資本主義の変質期
もって終焉することが明らかとなった。それ以
ないし衰退期の「原理論」をどう説くかである。
降は一方では一見,巨大資本組織の発展が本来
手工業的生産力または重工業的生産力を外的に
の資本主義の発展のようにみえながら,じつは
導入するほかはない。しかしそうなると発展期
その巨大資本組織による一方では特殊資本家的
までの傾向にそって抽象化してえられた原理論
再生産過程であり,他方では中小資本・小農民
とは流通論の最初から異なることになる。その
にたいする収奪機構の再生産過程である。さら
ばあい世界資本主義論では農民のような小生産
に資本家的業務を担当する職員労働者を多数発
者の商品経済的性格も資本家的商品経済の性格
生させている。資本主義はその発展期において
も異ならないものとしてとらえられているため
も先進国か後進国かによって大きな相違があっ
に,重要な問題がみすごされているのである。
たが,いまからみると自由主義段階はいずれも
それはすでにのべたことがあるのだが,小生産
資本主義の発展にむかって収斂化の傾向がみら
者の生産物の価格は相当長期にわたって価値以
れた時代だった。19 世紀末期からは資本主義
下に,費用価格以下に下っても生産が行われう
発展への収斂化から不純拡散の時代に入った。
るのであり,あるいはまた価値以上にもなりう
拡散は収斂と異なって,さまざまな方向へ拡散
るのであって,そのことが資本主義の発展期と
することを意味する。第1次世界大戦以後は,
歴史過程と原理論(犬塚)
13
拡散は世界的規模になったように思われる。そ
極限まで抽象した社会である。なぜその抽象化
の拡散の歴史的意義を明らかにするためには,
作業が商品経済がもっとも発展した 19 世紀中
まず最初には非商品経済的・非資本家的商品経
葉のイギリス社会ではないのかといえば,そう
済的要因を排除しつつ資本家的商品経済に収斂
いう固定的な具体的時代をとりあげたのでは,
してゆく事実の流れを前提として純粋資本主義
その時代特有の非商品経済的なものがのこって
を想定してその内部論理を明らかにしておかな
いて,それも考察の対象に入ってしまうからで
ければならない。そのばあい純粋資本主義の想
ある。一時代を固定的にみたのではその非商品
定の仕方から考えなければならない。
経済的とされるものが果たして非商品経済的な
19 世紀末期以降の資本主義の展開がそれま
ものか,はたまた商品経済的なものかはわから
での発展期とは異なって,たんに資本家的商品
ないということがありうるからである。商品経
経済の発展とはいえない諸現象が現われたこと
済的なものかどうかという判断そのものを事実
を指摘しえたのは 20 世紀に入ってからである。
の歴史的流れに任さなければ,客観性は確保さ
むしろマルクスが 19 世紀中葉までに資本家的
れない。最高度に商品経済が発展してきたとい
商品経済がいわば一方的に拡大し発展してきた
うことは,その発展の過程において商品経済的
ことを見抜き,古典派経済学を批判的に継承し
運動自体が非商品経済的なものを消去するとい
つつ事実上『資本論』を経済学原理論として世
う抽象を行ってきたとみなすわけであり,また
に著したことに,その非凡さをわれわれは認め
そうするほかはない。
なければならない。ところでここでその資本家
もちろん単純なる商品経済は社会の内外で部
的商品経済なるものの認識はいかにして可能に
分的に古代以来から存在した。しかしそこから
なるかを考えてみたい。その資本家的商品経済
直接資本主義という全面的商品経済社会が発生
の展開によって一種の循環的運動をなす法則が
し発展してきたわけではない。非資本家的商品
形成され,資本家社会が抽象的には自立的社会
経済がある程度発展して,資本家的商品経済の
たることが明らかになるのであるが,それが正
芽のような部分がみえ始めたイギリス 16 世紀
しいかどうかは直接実証されうるものではな
後半からの事実から出発して,19 世紀中葉まで
く,また歴史過程をはなれてあるわけでもない
の 300 年余の長期の年月を経て商品経済が社会
が,論理的首尾一貫性が確保されているかどう
の全面を覆うようになったと客観的にいえるよ
かで決まる。しかしその論理展開の動力は商品
うになる時期までを観察して,商品経済自身が
経済の運動のみである。そしてその運動とはこ
非商品経済的諸関係を消去していった過程の延
こではものの生産,流通,消費のすべてが商品
長上に 19 世紀中葉のイギリス社会を位置づけ,
経済的に行われるということである。そしてそ
それからさらにイギリス社会の特殊性を,それ
こにどういう法則性があるかを明らかにしよう
までの歴史の流れに沿って消去してえられた社
というのが原理論の課題なのである。それを明
会が原理論の対象なのである。したがってそれ
らかにするにはどういうものを考察の対象にし
は 19 世紀中葉のイギリスの産業資本時代の社
なければならないか。それはその社会の経済過
会から抽象したものではない。そもそも産業資
程全体が商品経済関係のみで処理されるように
本という概念そのものが原理論の純粋資本主義
なっている一つのまとまった社会である。具体
の理論を前提にしているのであって,産業資本
的にいえば 16 世紀から 19 世紀中葉までに形成
の時代を対象にしたのでは科学的解明の手続き
されたイギリス社会を貫いている傾向にそって
が逆になってしまうのである 。事実,イギリ
(20)
14
第 14 巻
第3号
ス産業資本の時代というのはイギリス資本主義
う必然性はない。その生産物は資本家的商品経
の先進国という特質がまつわりついている。重
済の法則の作用はうけるが,結果的に阻害され
商主義政策に反対する自由主義政策の展開がそ
たかたちでうけるのである。小生産者と資本家
の一つである。純粋資本主義の想定にはそうい
的商品経済とのあいだに非商品経済的要因がは
う自由主義政策の展開ですら消去されているの
いることによって必ずしも一定の結果がもたら
である。じつはその純粋資本主義の想定に至る
されるというわけにはゆかなくなる。介入する
までの過程においては,商品経済を促進する政
その非商品経済的要因の性格いかんによって異
策も,阻止する政策もあったのであって,そう
なる結果がもたらされるからである。じっさい
いう政策もおよそ商品経済的行為そのものとは
農民の生産物の商品化される部分はその価格が
いえないものとして消去されてゆくのである。
上昇すれば増加し,下落すれば減少するのが原
それは資本家的商品経済の自立性の現われであ
則ではあるが,反対に時代によっては下落する
る。もちろん原理論には論理的展開の結果とし
ときにはかえって生産を増やし,販売量を増や
て産業資本概念はでてくるのであるが,それは
そうとすることがしばしば生ずる。いわゆる窮
きわめて抽象的な概念のものであって,段階論
迫販売である。しかもそのときには価格の下落
における産業資本のように自由主義のような政
がどのていどになれば,農産物の販売部分の増
治運動を行なわなくても存立しうる概念として
加がとまるのかということには明確な限度がな
(21)
登場してくるのである 。そういういみで原理
い。具体的な諸条件によってさまざまである。
論の論理展開は抽象化の徹底したものなのであ
そしてさらに本来社会的には労働力とはみなさ
る。その意味で原理論はいわば 19 世紀中葉の
れない年少の者や老人までが自家農業生産に動
イギリス資本主義社会をさらに抽象化した抽象
員される。そしてその労働所得水準はときにほ
性の高い理論なのである。
とんど零に近くまでもさがりうる。そういう労
ここまでくれば原理論における商品経済はた
働所得に一定の水準がきまるというのは,その
んなる商品経済ではなくて,資本家的商品経済
労働の投下が他へ移動しうるという条件の存在
にならざるをえないことが明確になる。商品が
を前提にしているのであって,そういう前提が
商品自体によって生産される徹底的商品なので
つねにあるわけではないのであるから,農民自
ある。小生産者の生産物は必ず商品になるとい
身の自己判断によってかぎりなくその水準は低
⒇
宇野はこういっている。「経済学の原理論を,資本主義の発展段階としての産業資本の原理とするのは,産業資
本の時代が原理の対象として想定される純粋の資本主義社会に最も近接しつつあったという事実を過大評価する
ものであって,原理の意義を不明確にするものにほかならない」(前掲,『宇野弘蔵著作集』⑨〔経済学方法論〕,
33 ページ。引用文の所在原著は『経済学方法論』,1962,東京大学出版会,である)と。商人資本,金融資本は当
然として,段階論の産業資本もまた「その歴史過程は,純粋の資本主義社会を想定してえられる基本的規定によっ
て,それを基準として解明せられうるし,またせられなければならないのである」(同,同ページ)。
純粋資本主義の想定はイギリス資本主義の発生から発展・確立までの歴史過程を商品経済の発展という観点か
ら抽象してとらえているのであって,その過程にあらわれる政治その他の非商品経済的諸要因は対象自身が消去
するものとしてとらえられている。したがって「その歴史過程は,単なる資本家的商品経済の発展とはいえない。
いわば異質的要因を多かれ少かれ含む過程である。したがってまた純粋化の傾向自身は理論的体系の展開の内に
含まれないのがむしろ当然といってよい」
(前掲,
『宇野弘蔵著作集』⑨〔経済学方法論〕,22 ページ,原著『経済
学方法論』)のである。
歴史過程と原理論(犬塚)
15
下しうるのである。また農産物価格の上昇した
完成形の法則の小生産者的商品経済への一定の
ばあいにも完全な商品経済的行動はとりえな
擬制化はなしうるが,限界をもっている。本来
い。農民にあってはその労働力数においても,
の法則はすでにみたように資本家的商品経済の
そしてとくに経営土地面積においても固定的で
もとでのみほぼ完全なかたちで存在しうるもの
あるから,短期的には農産物需要増大にともな
であり,貫徹しうるものである。擬制化は一定
う価格上昇に応じてその供給を増加させること
の目安を与えるものでしかないのである。いず
は困難である。仮に当該農産物の輸入増加がな
れにしても,小生産者的商品経済は直接的には
ければ農産物価格は異常に騰貴することにもな
原理論的世界には入りえないものなのであっ
る。
て,現実の資本主義の条件いかんによって法則
もともと農民的商品経済自体には農産物の需
要変動に応じて供給を変動させる機構が存在し
による規制を二重にも三重にも促進または阻害
されたかたちでうけることになるのである。
ない。いわば微調整をもって対応しうるにすぎ
以上,ながながと小生産者的商品経済の特殊
ない。資本主義経済の動きに商品経済的に対応
性を強調したのであるが,それは小生産者的商
しうるためには経営土地面積を借地によって拡
品経済と資本家的商品経済とはたんなる量的違
大できるという条件が前提されるし,労働力に
いではなく,いわば次元の異なるものであるこ
しても賃銀労働者を雇用できるという条件が前
とを明確にしておくことが,資本主義の歴史過
提されるのであるが,小農体制のもとではそう
程の分析に決定的に重要であると考えるからで
した前提を自らつくりだす力を農民はもってい
ある。そして原理論はその対象としての純粋資
ない。小農体制そのものが農民の賃労働者化と
本主義の中枢が労働力商品化というただ一点に
いう外部条件の制約のもとにあるからである。
あることを明らかにした。そこに原理論の基軸
資本主義が発展し,それに応じて農民の賃労働
的抽象性があり,それを基準にして各資本主義
者化が進展し,残った農民の経営面積が拡大さ
国の構造的特殊性と歴史性が明らかにされうる
れ,ひいては資本家的経営に発展する展望が開
のである。その意味ではこの労働力商品化は各
けるからである。そうなればやがて小農体制は
国資本主義の本質的一般性をも示しているので
崩壊し,資本家的農業経営が拡大しうるからで
ある。資本主義の多様性と歴史性はこの労働力
ある。だがそうなる条件は,もっぱら農民経済
商品化の抽象性と一般性とを基礎にして解明さ
の外部に存在する資本主義経済のほうにある。
れなければならないであろう。宇野はこの原理
したがってその資本主義経済が発展期にあって
論の抽象性と一般性とについてこういってい
賃銀労働者が増大し,したがって農産物価格が
る。
「十九世紀末以後の金融資本の時代の展開
上昇傾向をもったときには農民経営の資本家的
は,資本主義自身の,あるいはさらに一般的に
発展に途が開かれるし,反対に資本主義経済が
商品経済の,いわば歴史的限界を示すものと
衰退期にはいると,その途は閉ざされる傾向が
いってもよいのであった。資本主義以前の諸社
生ずることになる。農民は資本主義のもとでは
会では,資本家的商品経済のように,経済学の
本質的に受動的にならざるをえない。したがっ
原理論を可能ならしめるような,その発展とと
てのちに検討するであろうように農民層の分解
もにますます純粋のその社会に近接するという
はその外部にある資本主義経済の発展段階の異
ようなことは,おそらくいえなかったのであろ
なることによって展開もし,抑制されることに
うが,資本主義もその傾向をその発展の一定の
もなるのである。資本家的商品経済にのみある
段階までしか示すことはできなかった。それは
16
第 14 巻
第3号
商品経済が共同体と共同体との間に発生し,共
支配していた商人資本のもとで半ば独立の小生
同体の内部に浸透していって,労働力をも商品
産者として商品の生産に従事していた。しかし
化することによって,始めて一社会を支配する
商人資本の支配のもとでかれらは次第に生産に
資本主義社会として確立せられたことと関連す
ともなう材料の調達や製品のつくり方にたいす
るものといってもよいのではないかと思うので
る自主性や独立性を失うとともに,資産や熟練
あるが,経済学の原理に特有なる抽象性と一般
をも失うことになった。商人資本はこうして一
(22)
性とを示すものである」 と。この抽象性と一
方ではその小生産者や職人層から資産や熟練を
般性とは労働力商品化自体の抽象性と一般性の
奪うことによってかれらの労働力を商品に転化
ことであることはいうまでもない。だが現実の
せしめると同時に,他方では自らの富の源泉を
資本主義はそれのみで解明されうるわけではな
意図に反して破壊してゆく。商人資本が小生産
い。原理論は「資本主義に一般的に通ずる原理
者や職人層を収奪しうるのは自らは権力をもっ
ではあるが,しかし資本主義の発展の各段階の
ていないので,崩れつつある封建的な権力と結
諸現象をすべて包括的に規定するというような
託することによって流通過程を支配しているか
ものではない。その発展の各段階では,非商品
らである。したがってその収奪行為は純然たる
経済的な,あるいは非資本主義的な要因によっ
商品経済的行動ではなく,多かれ少なかれ特権
て,その原理の展開は,常に多かれ少かれ阻害
によるのである。したがってかれらは収奪行為
(23)
されているのである」 。現実の資本主義は原
をすればするほど小生産者・職人層を実質的に
理論には存在しない非商品経済的・非資本主義
賃銀労働者に転化しつつ,自らの存立基盤を破
的商品経済諸要因を入れてこそ明らかにされう
壊してゆく。かれらは原理論においては独立の
ることを逆説的に明らかにしたのが原理論にほ
商人資本としては姿を消し,産業資本の流通過
かならない。現実の裏に潜む原理論の抽象性と
程において収奪行為を狙う商人資本的行為その
一般性は現実の表に外的に存在する「異物」の
ものに矮小化されるのである。こういうわけで
介入をうけて摩擦をおこし,歴史過程の具体性
商人資本は純然たる商品経済的行為のみを行な
と特殊性としてあらわれる。それならばその
うものではないといういみで,小生産者と同様
「異物」の機能とはなにか,それがつぎの問題
な意味で非商品経済的要因に入るのである。そ
である。
して商人資本による分解作用が新たな生産力を
生まなければ,その社会は破壊され,生むこと
⑵
非資本家的商品経済要因の役割
資本主義の歴史過程の展開に原理論の
「異物」
になれば資本主義に転化してゆくことになる。
その点を宇野はこうまとめている。
「商人資本
としての非商品経済的要因がいかなる役割をは
によってその生産物の商品化を促進せられる社
たすのかということを,まず段階論の場で考察
会は,その社会の基本的生産関係自身に分解作
してみよう。資本主義発生期において商品経済
用を受けざるをえない。しかしこの作用自身
の発展とともに土地から強力によって分離され
は,それ自身に新しい生産関係を形成するわけ
て無産者になった元農民が都市や農村で小生産
ではない。分解を受けた社会からいかなる生産
者や職人となった。かれらは商品の流通過程を
関係が発展するかは,その社会が歴史的に形成
『宇野弘蔵著作集』⑨,40 ページ。
同書,40 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
17
してきた生産力の発展のいかんにかかわること
み,賃銀労働者の増大は食料農産物の需要を増
になる。古代社会が商品経済との接触によって
大させる。産業資本の成立はしかし,商人資本
単に崩壊したのに反して,中世社会は,それに
自身の発展そのものから生まれたものではな
よってその生産力の発展を促進されると労働力
い。商人資本が産業資本の生まれる準備をな
の商品化を一般的に実現する基礎を確保するこ
し,そのなかから独自に産業資本は発生した。
(24)
とになったのである」 。
しかもその産業資本は事実として綿工業を中心
しかし商人資本の収奪による小生産者・職人
として発生,発展したのである。資本は原理論
層の賃銀労働者への転化は,それで完成される
内部においてもそうであるが,個別的には最大
わけではない。それだけではいわば無産者化を
限の利潤を獲得しようとして行動する。その結
展開するだけである。そしてさらに商人資本が
果が平均利潤しかえられないことになるので
直接産業資本に発展するわけでもないのであ
あって,それはまさに資本の自由競争の結果な
る。商人資本は小生産者・職人層から熟練を奪
のである。それにとどまらない。個別資本は現
いつつ,かれらを単純労働をなす労働者に転化
実に利用できる条件を最大限に利用して利潤を
させてゆく役割を担うのである。商人資本から
最大にしようとして投資対象を選ぶ。その結
産業資本が自己発展して生まれるわけでもなけ
果,イギリス資本主義は自国を工業国とし他国
れば,小生産者・職人が自己発展して賃銀労働
を農業国とすることによって発展した。自国で
者が生まれるわけでもない。その間に商品経済
生産された主として綿糸,綿織物を農業国に輸
だけでなく権力関係,そしてとくに生産力の発
出し,その見返りとして工業原料の綿花をはじ
展を含む非商品経済的要因も加わってその転化
めとして自国で手に入れるよりはるかに安価な
を実現するのである。それは労働力の商品化
農産物を輸入することによって,利潤を最大に
が,本来たんなるモノではない人間の労働力を
しようとするのである。こうして産業資本のみ
モノにするためには経済外的力を必要とするこ
は原理論の産業資本にもっとも近似したものと
とを意味しているのである。
して自立的に拡大再生産を展開することができ
しかしともかく商人資本は一方では長い期間
る資本になるのである。もちろんしかし,この
をかけて小生産者・職人から財産を収奪してこ
産業資本は原理論における産業資本そのもので
れを無産者たらしめ,他方ではかれらから熟練
はない。いわば先進国という条件に規定されて
を奪って,単純労働を形成して,やがて産業革
いる産業資本である。さらにここで注意を要す
命をへて産業資本の成立を準備する。産業資本
るのは綿工業的生産力水準が産業資本形態に
は,そしてとくにその形態は農業でも成立する
もっとも包摂されやすいものだったということ
が,事実上工業における産業資本の成立,発展
であって,後者が前者を生みだしたということ
として現われる。産業資本により適合する生産
ではない。生産力水準は発明の成果であり,商
力は工業生産力であるからである。それは歴史
品経済的に生産されたものではない。そのいみ
的には資本主義社会が旧来の農業から分離した
では産業資本形態は綿工業的生産力水準という
工業化社会としてあらわれる性質があるからで
非商品経済的要因を前提にして出現したのであ
ある。それによって農民の賃労働者化がすす
る。
! 『宇野弘蔵著作集』⑦(経済政策論),50∼51 ページ。引用文の所在原著は『経済政策論』改訂版,1971,弘文
堂。
18
第 14 巻
第3号
同様に産業資本から直接に金融資本が生まれ
と収奪とによって資本蓄積を展開している。産
たわけではない。「商人資本から産業資本,産
業資本とは異なって,収奪過程が入っているた
業資本から金融資本への発展は,資本がそれ自
めに自らを安定的に展開させることが困難な資
身に展開するものではない。資本主義的発展の
本類型なのである。もっとも段階論の産業資本
諸条件の変化とともに変化してきたのである。
は原理論のそれとは異なって不純なものを含む
発生期の商人資本は,それだけでは発展期の産
ので歴史的な展開をなすのであるが,その歴史
業資本に転化するものではない。しかしかかる
的展開の質が商人資本や金融資本とは異なって
転化の準備をなすものではあった。産業資本は
いる。商人資本は資本主義の確立とともに原則
またたしかに原理論で想定する純粋の資本主義
的には消滅していった。金融資本は一方で搾取
社会における資本の一般的な規定に,ますます
による資本蓄積が可能であるために,容易に衰
(25)
近似するものといってよいのである」 。とこ
退するわけではないが,支配収奪領域を世界的
ろがこののち 19 世紀末から金融資本の時代が
に拡大せざるをえなくなっている。
到来するのであるが,その金融資本もまた産業
こういうわけで商人資本時代から産業資本時
資本の自己発展の結果ではない。
「資本主義の
代へ,そこから金融資本時代への移行そのもの
発展の動力をなす生産方法の変化と,その発展
は段階論としては解明しえないものとしてあ
の基盤をなす社会――多かれ少かれ小生産者的
る。その移行過程にはこの三つの型の資本その
な非資本主義的経済を含む社会――との関連に
ものに含まれている非資本主義的商品経済要因
よって,産業資本は金融資本に転化するのであ
とはまた別のより具体的な性質をもつその要因
る。ここでもまた産業資本はそれ自身で金融資
が介在している,と考えられるからである。そ
(26)
本に発展するわけではない」 。この宇野の文
れは現状分析としての歴史過程を規定するのに
章は必ずしも明確とはいえないように思われる
必要な諸要因である。そもそも段階論は各段階
が,この文章中の「生産方法の変化」とは一方
を代表する,宇野のいわゆる指導的資本主義国
で産業資本的生産力のたんなる拡大ではなく鉄
を対象として解明されうるものであって,発生
鋼業に代表されるような巨大な固定資本を擁す
期,発展期はイギリスがとられ,金融資本の時
る巨大な生産力が一部の大資本によって実現さ
代は原理論的資本主義からの拡散をいみするも
れ,他方では小生産者,中小資本がその大資本
のとして,ドイツとイギリスとアメリカの三つ
からの収奪をうけながら温存されるような状況
のタイプがとりあげられている
のもとで出現する金融資本のことを意味してい
衰退期への転化においては対象となる国が必ず
ると私には思われる。自由競争を阻害しうる巨
しも同じではない。典型国としてはイギリスか
大資本が平均利潤を超える独占的利潤を獲得す
らドイツに変わっているわけである。段階から
るのが金融資本であるといっていいであろう。
段階への移行過程の解明には段階論が前提され
こういうわけで商人資本と金融資本は産業資
なければならないが,それだけではすまない。
本とは異なって一定の恒常的な条件のうえで安
すでに示唆したように段階から段階への歴史的
定的な拡大再生産を展開しうるものではなく
変化を引き起こすような非資本主義的商品経済
て,前者はもっぱら収奪によって,後者は搾取
の諸要因を入れなければならないが,その要因
"
前掲,『宇野弘蔵著作集』⑨(経済学方法論),50∼51 ページ。
#
前掲書,51 ページ。
(27)
。発展期から
歴史過程と原理論(犬塚)
19
とは大きくいえば二つあって,一つは生産力水
示すものである。段階論的規定はこの点を基軸
準の変化の問題であり,もう一つはこれまであ
として,この種々なる事情を解明するものにほ
まりふれなかったが,生産関係の変化に一定の
かならない。それは原理論と異って,多かれ少
重要な関連をもつ経済政策の変化を重視しなけ
かれ資本主義的には不純の状態にあることを意
ればならないという問題である。宇野はこの点
味するものである」 。この「多かれ少かれ資
についてこういっている。重要な点なので,少
本主義的には不純」なものとしての経済政策の
し長いが引用する。
「資本は,その利益を求め
重要性である。この宇野の文章にある「資本主
て,あらゆる自然的・社会的条件を利用する。
義的に不純」とは資本主義の歴史過程が資本主
そしてまたかかる条件の利用の手段を拡充しつ
義的商品経済の法則そのものによってのみ展開
つ,条件自身を変えてゆくのである。しかしそ
されるものではないといういみである。その歴
の点で決定的意義をもつのは,資本の唯一の直
史過程は原理論の諸法則の展開を促進すること
接的目的をなす価値増殖の源泉をなす,労働者
もあれば,阻害することもあるからである。
(28)
人口に対する関係である。……資本主義発展の
マルクスの唯物史観によれば,
「人間は,その
各段階を特徴づける資本形態も,生産方法の変
生活の社会的生産において,一定の,必然的な,
化とともに変化する労働人口の形成の過程に対
かれらの意志から独立した諸関係を,つまりか
応するものといってよい。それはまさに資本主
れらの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応
義に特有なる人口法則が,
その実現に際しては,
する生産諸関係を,とりむすぶ」 とされ,社
資本主義自身の発展段階に応じて,種々なる事
会の土台を形成するのは生産力の一定の発展段
情によって変容されてあらわれるということを
階に対応する生産関係であり,その生産関係の
$
(29)
大内力の段階論は,周知のように資本主義の「生成・発展・変質」の三つの段階にそれぞれ積極的典型と消極的
典型をおいて説かなければならないとされている。生成・発展の積極的典型はイギリスであり,消極的典型はド
イツであって,変質期になると逆転して前者がドイツ,後者がイギリスということになっている。大内力『大内
力経済学大系』第4巻(「帝国主義」上,1985,東京大学出版会),18 ページ以下をみられたい。その力点は「た
しかに移行の過程そのものを具体的に説くのは現状分析の仕事であろう。しかし移行の必然性が説かれなけれ
ば,第一に,なぜ資本主義の発展が段階として捉えられるかが明らかにならず,したがってそれは資本主義の歴
史的運動の解明になりえないであろう。また第二に,資本主義の段階的移行はけっして特定の国にのみみられる
事実ではなく,すべての資本主義に共通にみられる事実なのだから,それが段階論として論理化されなければ段
階論は現状分析の基準ともなりえないであろう」
(同書,20 ページ)という点にある。しかし段階的移行を説くに
はまず段階そのものが明らかになっていなければならない。段階と移行とを同時に説くわけにはゆかないであろ
う。大内の考え方は,段階論にいう三つの段階が特定の国における資本主義の発生,発展,変質の三つの歴史過
程と同一のものであることを前提としているのであって,それがそもそも問題なのである。例えばドイツや日本
のばあいには資本主義の発生期が重商主義段階の商人資本によってではなく,産業資本によって展開されたとも
考えられるからである。いずれにしても大内段階論は別の機会に改めて論じなければならない問題を抱えてい
る。
%
前掲,
『宇野弘蔵著作集』⑨,52∼53 ページ。この引用文にある「労働者人口」とは労働力商品の完成度もさる
ことながら,その「商品」は「生産」しえないものとして雇用量も重要なのである。つまり労働力の雇用量を増大
させようとしても,労働力はものとして増大するわけではないからである。したがって雇用量のたんなる増大自
身が,たんなるモノとしての商品の需要増大とは根本的に異なって,その価格=価値を実質的に上昇させること
になるのである。この労働力商品こそは資本主義の急所をなすものである。
20
第 14 巻
第3号
総体が社会の経済的機構を形成するという。そ
定の生産力は一定の時期には一定の生産関係に
してその土台のうえに「法律的,政治的上部構
よって包摂され,その規制をうけている。その
造がそびえたち,また,一定の社会的意識諸形
規制が強ければ,そう簡単に生産力は発展しえ
態は,この現実の土台に対応している。物質的
ないのもまた事実である。生産関係は生産力に
生活の生産様式は,社会的,政治的,精神的生
よって基本的に規定されていることを主張して
(30)
活諸過程一般を制約する」 とされる。ここで
いるのがあの唯物史観の基本的なところであっ
は「法律的,政治的上部構造」は一定の生産力
て,一つの生産関係から他の生産関係に変化す
水準に対応する生産関係という下部構造にたい
る過程は,それだけでは説けない。その点が明
する上部構造をなすものとして,生産関係に一
確であるとはいえない。歴史的転換においては
方的に規定されるものと主張されているとも受
上部構造も一定の不可欠な役割をはたすという
けとられる。一般的にはそう受けとられていた
のがわれわれの考えである 。この唯物史観に
といっていいであろう。けれども「土台に対応
ついてはのちに検討したい。
している」とか,「生産様式」によって「制約」
(31)
資本主義の歴史過程の解明には経済過程にた
されるといういい方は必ずしもそうではないと
いする不可欠な政策の作用を無視することはで
も受けとれる。生産力の一定の発展が生産関係
きないと考えなければならない。宇野は『経済
の一定の変化をひきおこすことは事実であろう
学方法論』の「段階論の方法」のなかでこの点
が,それではその生産力の変化はそれ自体のう
に言及しているのは直接的にはつぎの二箇所だ
ちに展開されるといっていいのであろうか。一
けである。これも少し長くなるが引用する。一
&
マルクス『経済学批判』,武田隆夫・遠藤湘吉・大内力・加藤俊彦訳,1956,岩波文庫,13 ページ。この部分は
原文ではこうなっている。のちに問題にする。
In der gesellschaftlichen Produktion ihres Lebens gehen die Menschen bestimmte, notwendige, von ihrem
Willen unabhängige Verhältnisse ein, Produktionsverhältnisse, die einer bestmmten Entwicklungsstufe ihrer
materiellen Produktivkräfte entsprechen.
(久留間鮫造編『原典対訳
'
(
マルクス経済学レキシコン』4,1971,大月書店,296 ページ)。
前掲,『経済学批判』,訳本,13 ページ。
鈴木鴻一郎の「世界資本主義論」にたいする批判論文で武田隆夫はこういっている。「(鈴木の)
『世界資本主義』
なるものの実在についてどう考えるかは,資本主義なるものをどう理解し,その『生成・成長・爛熟』の過程をど
のようにとらえるかということにかかっているように思われる。/まず資本主義についていえば,このことばは,
単に一定の生産諸力とそれに対応する生産諸関係,つまり経済的機構だけをさすものではなく,これを土台とす
る法律的,政治的上部構造やこの土台に対応する社会的意識形態をもふくめた一定の社会体制全体をさすものと
解すべきであろう。資本主義なるものをこのように理解するならば,それが『生成』するということは,前述のよ
うな意味での社会体制が新たに生まれてくることであるが,この場合注意すべきことは,そのためには旧い社会
体制が否定されなければならないこと,しかもその否定は,むろん経済的土台における一定の変化を前提として
ではあるが,法律的,政治的上部構造や社会的意識形態をいわば『決戦の場』として,したがって常に多かれ少な
かれ経済外的な力をまって,はじめて行なわれうるものだということである。いいかえれば資本主義の『生成』
は,それに先立つ封建社会における生産諸力の一定の発展による商品経済の普及を基礎としながらも,それとな
らんで,ブルジョア革命,ならびにその結果成立した政権によって遂行される資本のいわゆる原始的蓄積のため
の諸活動を不可欠の条件としたのであって,後者をぬきにしてこれを説明することはできないであろう」
(武田隆
夫「『原理論と帝国主義』についての再論」,武田隆夫・遠藤湘吉・大内力編『資本論と帝国主義論』
〔鈴木鴻一郎
教授還暦記念〕下,1971,東京大学出版会,所収,6∼7 ページ)と。注目すべき見解である。
歴史過程と原理論(犬塚)
21
つは「歴史過程は,原理論で展開されるような,
る規制は,勿論,資本主義のかかる発展過程で
全面的に商品経済的なる社会の運動法則をもっ
も,原理論で明らかにされる経済法則が――そ
て直ちに解明されるというものではない。それ
れ自身は上部構造と独立に一社会を支配するも
は経済的過程を基礎としながら,政治的なる,
のとして明らかにされるのであるが,それが
社会的なる,いわゆる上部構造や対外的関係と
――多かれ少かれ規定的に作用するということ
の交互作用的影響の内に展開されるのであ
に基くのである。上部構造は,資本主義の発展
(32)
という部分であり。もう一つは「資本主
に対して,或いはこれを促進するものとして,
義の発生・発展・没落の歴史的過程も一定の法
あるいはこれを阻害するものとして作用しつ
則性をもって展開される。先進国の過程は後進
つ,それ自身は下部構造の発展によって制約さ
国の過程に対してその典型をなすのである。し
れるのである」
かしそれは原理論の対象をなす,純粋の資本主
こで宇野は上部構造と下部構造との交互作用が
義社会の運動法則と異って,多かれ少かれ非商
いかなるかたちで,どういう根拠にもとづいて
品経済的なる経済に対する,資本主義経済の滲
展開されるのかは説いていない。下部構造が自
透の過程として,いわば異質的なるものに対す
立的運動をなすにしても,上部構造の一定の変
る支配を通して実現される発展である。した
化なくしては達成されないことは,われわれも
がってこの発展は,例えば原理論で,商品にお
ある程度,ことに封建制社会から資本主義社会
ける価値と使用価値,資本の生産過程における
への歴史的転化の過程における土地と直接生産
資本と労働というような,弁証法にいわゆる対
者の強力による分離としてみてきたところであ
立物の闘争によって展開される運動として原理
る
的に解明される経済学的法則をもって直ちに解
造との交互作用がどのような役割を果たすのか
明しうるものではない。唯物史観にいわゆる下
ということについての,基本的と考えられる点
部構造自身が,複雑なる異質的面を有する経済
だけでももう少し明らかにしたい。そのために
過程として,資本主義の発展を実現するのであ
以下,イギリス帝国主義とドイツ帝国主義との
る。それと同時にこの下部構造の自立的運動
形成の違いを例にとって検討してみたい。
る」
(33)
というものである。しかしこ
(34)
。歴史的転換期において下部構造と上部構
は,多かれ少かれ上部構造との間に交互作用的
に影響し合いながら,上部構造を規制すること
になる。そしてこの下部構造の上部構造に対す
)
前掲,『宇野弘蔵著作集』⑨,49 ページ。
*
前掲書,50 ページ。
+
武田による鈴木鴻一郎の「世界資本主義論」批判は先にも紹介したが,次の批判文も鈴木原理論がその内部に
非資本家的商品経済をそういうものとして明確な意識なしに,無造作に入れてしまったために,原理論じたいも
非資本家的商品経済の作用の特質じたいもともに不明確にしていることを明らかにしているものとして注目すべ
き見解である。すなわち「資本主義は,経済的基礎とともにそれに対応する一定の上部構造をもつものであり,
その『生成』についてはむろんのこと,その『成長・爛熟』についても,この上部構造のはたらきが重要な意味を
もっているのであるが,
(鈴木の―犬塚)原理論は,それらの上部構造のはたらきをも『内面化』して,単なる資
本=賃労働関係における変化として受けとめるからであり,それゆえにまたそうした原理論にとっては,この上
部構造のはたらきそれ自体,したがってそれを重要な要因とする資本主義の『生成・成長・爛熟』の過程は,直接
にはかかわりをもたないものとなるからである」(武田隆夫,前掲論文,13 ページ)。
22
第 14 巻
3
⑴
第3号
生産力の発展と商品経済
19 世紀末大不況とイギリス帝国主義
イギリスにおける資本主義の発生,発展の過程
を短縮するかたちで,食料農産物や綿花をイギ
リスに輸出して外貨を稼ぎ,それを通して工業
19 世紀初頭から 70 年ごろまでの資本主義の
化を実現したのであって,その過程そのものは
世界史的発展はイギリスを工業国とし他の諸国
先進国イギリスと異なるが,その結果はその規
を農業国とする交易関係をもって実現された。
模と性質は異なるところがあるにせよ同じ工業
このばあい他国とはヨーロッパのドイツ,フラ
化を達成したのである。後進諸国は当初自国工
ンスとアメリカ等であった。イギリスは資本を
業をイギリスに対抗して育成するために保護関
相対的に不得手な農業に投下する代わりに得意
税政策をとったのであるが,工業が発展すると
な工業に投下して,そこからえられた工業生産
ともに関税政策は解消された。イギリスにとっ
物の増分をもって他国の農産物と交換したほう
ても後進諸国から農産物を輸入することによっ
がより多くの農産物を調達しうるわけである。
て自国工業品の輸出を促進できたのであり,そ
このことは比較生産費説が教えている。これは
のことによって賃銀労働者を増加させ,そのこ
「いわゆるイギリスによる工業の独占を基礎と
とによる食料農産物の需要の増大は,自国の農
してイギリスに資本主義の典型的発展を実現し
業の資本家的発展をも促進することにもなった
たものにほかならなかった。しかしこの時期の
のである。こうして自由貿易は資本主義的世界
イギリスによる工業の独占は,その自由主義的
を包摂することになった 。
(36)
政策にも見られるように,重商主義時代の独占
ところが後進国ドイツは農産物輸出でえた外
とは全く異なるものであった。それは国際貿易
貨でイギリスから綿工業機械をも輸入し,いわ
関係を通して農業国としてイギリス工業の資本
ば重商主義を省略していきなり産業資本を形成
主義的発展に寄与した他の諸国自身に,資本主
し,その展開をつうじて賃銀労働者を創出して
義の発展を許さないというようなものではな
ゆく。もちろんその過程はたんに商品経済的過
く,これらの諸国においても,いわゆる保護関
程のみでは展開しうるものではなくて,一定の
税政策による資本主義的発展の促進手段が主張
農民解放政策を通じて土地と農民との分離が強
せられもしたし,また実際上はかかる政策のい
行され,そのことによって労働力商品化が実現
かんにかかわらず,漸次に資本主義の発展を見
されてゆく。その過程が同時にイギリスとは異
たのであった。もちろん,これら諸国は,十七,
なって,輸入機械を装備した産業資本によって
八世紀のイギリスにおける資本主義の発生期を
展開されたために,資本・賃労働関係の形成が
そのまま繰返すわけではなかった。すでに産業
商人資本による手工業者の労働力商品化への転
革命を経て機械化された衣料品工業を輸入し
化過程を省略したかたちで行われた。そのため
て,いわば産業資本による資本の原始的蓄積を,
イギリスよりはるかに短期に資本主義の確立を
いいかえれば無産の労働者の形成を実現したの
みることとなった。もっとも資本・賃労働関係
(35)
である」 。
このばあいドイツ・アメリカ等の後進諸国は,
はイギリスのばあいのように全面的に展開され
たわけではなく,多かれ少なかれ農民その他の
,
前掲,『宇野弘蔵著作集』⑦,143 ページ。
-
この現実の過程から国家を捨象し,かつ極度に抽象化してえられた傾向を徹底化させた世界が原理論の対象を
なす純粋資本主義にほかならない。
歴史過程と原理論(犬塚)
23
小生産者を残すことになる。綿工業的生産力水
るということを意味する。そのことがのちにイ
準はそういうかたちで後進諸国にも形成発展し
ギリスをして,新たな市場を探ることを強いる
うるのである。のちにみるように重工業的生産
ことになる。その新市場とされるのはアフリ
力はそう簡単にいかなる国でも輸入されるわけ
カ,オーストラリア,インド,中国という商品
ではないことに注意しておかなければならな
経済的にはよりおくれた諸国,諸地域,われわ
い。
れのいう第2次後進諸国ということになる。そ
こうしてイギリスにとってドイツ,
アメリカ,
ういう諸国,諸地域はこれまで商品経済そのも
そして日本を第1次的後進国とするならば,の
のがそれほど展開されていないところであっ
ちのみるアジア,アフリカ,中南米,大洋州等
て,
そこに商品経済を浸透させてゆくためには,
はいわば後進国の後進国として第2次的後進国
小生産者とそれを支えていた共同体や政治的諸
となるが,このうち前者の後進国ではイギリス
制度を,多かれ少なかれ暴力的に破壊し,分解
資本主義との格差は急速に縮小していく性質を
しなければならないことになる。こうした事情
もっていたといっていいであろう。この1次と
がイギリスをして植民地ないし半植民地領有国
2次とのあいだには後にみるように歴史的段階
家たらしめたのであるが,この事情が 19 世紀
差があるわけである。そのことは1次的後進国
末の 1873 年から 90 年代半ばにいたる 20 数年
とイギリスとのあいだでは,2次的後進国との
間に及ぶ大不況の過程で生じたのである 。
(37)
あいだとは異なって,イギリスの綿工業輸出市
だが植民地領有国家になったから帝国主義国
場が急速に限界に達するということがおこりう
家になったわけではない,逆である。イギリス
.
ホブスンが掲げている「イギリス帝国新領土獲得一覧表」
(ただしインドは記載されていない)
(ホブスン『帝国
主義論』,矢内原忠雄訳,上巻,1951,岩波文庫,58∼60 ページ)によれば,イギリスの植民地領有は 19 世紀 70
年代初頭から 90 年代半ばにかけて,アフリカ大陸の 20 の地域,保護領,諸国等が,アジアでは 15 の諸地域,保
護領等が領有されている。そして「各国植民地領有比較表」
(1905 年)
(前掲書,68 ページ)によれば,植民地数
は1位イギリス,50,2位,フランス,33,3位,ドイツ,13 であって,イギリスが群を抜いている。そしてホ
ブスンは以上のことを示した第一篇第一章「帝国主義の大きさ」をつぎの文で結んでいる。「帝国主義の増大をば,
イギリス並びに主要な大陸諸国の膨脹に示されたようなものと解するならば,我々は帝国主義と植民主義の相違
が事実と数字によってはっきりと証明されたこと,並びに次の一般的判断に充分の根拠あることを知るのである。
/第一――この帝国的膨脹の殆んど全部は,白人がその家族を引き連れ定住することを欲しないところの熱帯ま
『劣等人種』が稠
たは亜熱帯地方の政治的併呑によって占められていること。/第二――殆んどすべての土地に,
密に住んでいること。/このように最近の帝国的膨脹は,白人植民者が母国の統治様式や産業上及びその他の文
明の技術を携えてゆくところの,温帯地帯における人口希薄な土地の殖民とは全く趣を異にするものである。こ
れら新領土の『占領』はきわめて少数の白人,即ち官吏,貿易業者,及び産業組織者の立会の下に成立し,しかし
てこれら少数の白人は,ヨリ劣等で且つ政治上乃至は産業上自治に関する重要な権利を行使する能力がないと見
なされた大きい群れの人口の上に,政治的・経済的支配権を揮っているのである」
(前掲書,72∼73 ページ)。こ
の 19 世紀末における植民地の小生産者や半失業労働者にたいする植民地領有国資本の収奪こそが非資本家的商
品経済要因による資本家的商品経済の帝国主義的歪曲にほかならない。この 19 世紀末における植民地の領有の
拡大はイギリス資本主義がその自由主義段階的発展に陰りがみえ始めたことのあらわれであった。じっさいホブ
スンはこういうのである。
「イギリスがある種の重要工業製品に対する世界市場の事実上の独占を掌握していた
間は,帝国主義は必要ではなかった。一八七〇年以降はこの工業上及び貿易上の優越性はいちじるしく減ぜられ,
他の諸国,殊にドイツ,合衆国及びベルギーはきわめて急速に発展した。そして……かれらの競争は,我が工業
製品の全余剰をば利潤を得て売却することをますます困難にした」(同,126 ページ)。
24
第 14 巻
第3号
(38)
がこの時期に帝国主義国家に転化せざるをえな
しえないと考えなければならない 。イギリス
かった事情があったからこそ植民地領有国家に
がこの大不況の時期に従来の自由主義的発展に
なったのである。ただし段階から段階への移行
陰りがみえはじめたことにその転化の基礎が
過程は当該国の国内条件を基礎としながらも,
あった。その陰りは二つの面に現れた。一つは
それをとりまく世界経済の事情を抜いては解明
伝統産業であり世界をリードしていた綿工業に
/
イギリスの帝国主義をどう規定するかという問題について,興味深い研究会の記録が 2009 年に公刊された。
それは宇野弘蔵を囲んで 1958 年におこなわれた「『経済政策論』について」という研究会の記録である(馬場宏
二,戸原つね子編「宇野弘蔵を囲む研究会」,
『社会科学研究』
〔東京大学社会科学研究所〕第 60 巻第 3・4 号。な
お櫻井毅・山口重克・柴垣和夫・伊藤誠編著『宇野理論の現在と論点』,2010,社会評論社,に再録されている)。
この研究会は宇野の『経済政策論』戦後初版が出た 1954 年の4年後におこなわれたもので,同改訂版(1971)が
出る前におこなわれたものである。そこで注目される問題の一つは主席者の一人,武田隆夫が宇野にたいして,
イギリス帝国主義はドイツ帝国主義の攻勢にたいする「防衛」策として,つまりその反動として出てきたのであっ
て,イギリス内部に起因するものではないのではないか,という疑問を提起している点である。宇野はそれに反
論して国外にたいする国内の問題として問題にしているのであって,そのやりとりは興味深い。のちに私も考え
てみたい論点なので,その部分のさわりの部分を紹介しておきたい。
武田(隆夫)
:ただ問題は,(宇野が)イギリス型の金融資本をドイツに対する受け身なものとしてではなく,
もっと積極的に出していこうとされているという……
宇野:そういえるかも知れぬな。
遠藤(湘吉)
:ですから先生,さっきのあれですけれども,武田君は「諸相」とする必要はなかろうというんじゃ
ないですか。
宇野:それはたとえば問題が,植民地と帝国主義との問題ならそれでいいんです。そうじゃないのだ。帝国主
義と帝国主義との対立の問題なのですね。そうなれば「諸相」が出てくるのは当たり前じゃないですか。
武田:その場合でも,帝国主義と帝国主義との対立というのは,問題を第一次大戦までで切ると,チェンバレン
の運動とか英帝国会議の問題になってくるわけですが,それは,ドイツの帝国主義に対する防衛ではないでしょ
うか。ちょうどイギリスの資本主義に対してドイツが保護関税をやったのに似た関係にある。そういうような動
きとしてイギリスの帝国主義をつかまえていったらどうなのでしょうか。
宇野:しかしその基礎はドイツのものと違う基礎じゃないですか。海外投資が中心になった問題じゃないので
すか。
武田:そうです。
宇野:そこを区別しなくしなくちゃならぬのじゃないですか。株式会社形式からきたドイツ資本主義の金融資
本とは,同じように取り扱えないんですね。
武田:いや,同じというのじゃなくて,株式会社からきたドイツの資本主義に対して,自由主義段階以来,個人
企業を中心として,しかも長い時間をかけて発展してきて,植民地や海外投資を持っている,それを防衛する,そ
ういう形の……
宇野:そうしているわけじゃないのですか。
武田:いや先生は金融資本なり,帝国主義なりを段階論的に規定される場合,イギリスに対して,ドイツあって
のイギリスといいましょうか,ドイツに対する受身のイギリスといいましょうか,そういう地位でなくて,何か
ドイツと平行した……
宇野:それはしかしイギリスも海外投資をやって帝国主義的になりつつあるのですから,ただドイツがあるか
らイギリスは帝国主義になったというんじゃないんです。それはもう当然なんです。
武田:その点が僕は……少し極端な言い方ではありますが,ドイツが帝国主義的に進出してきたからイギリス
が帝国主義になったという……
歴史過程と原理論(犬塚)
25
生じたものであり,もう一つは鉄鋼業を中心と
英領インドと「中国・ジャワ・日本その他」で
する重工業をドイツに先駆けて展開しながら,
増加し,米国と欧州で減少している。「米国を
そして株式会社形態をとりながらついに独占体
除くアメリカ」や「トルコ・エジプトおよびア
を形成しなかった面に現われた。
フリカ」では停滞的である
イギリス綿製品の輸出はこの大不況の過程で
(39)
。
「これは,イギリ
ス以外の諸国で綿工業が発展するにつれて,イ
宇野:そうじゃないのです。アフリカも分割すれば,海外投資もやっているということも,帝国主義的になら
ざるをえない要素を持っているわけですね。これはドイツ的に海外投資とか,再分割を要求する形じゃないです
ね。
武田:それは早くからやっています。しかしそれはむしろ,中心部では自由主義的でありながら,外国のとこ
ろではなお重商主義であったというようには見られないでしょうか。従って国内では,第一次大戦までは大体自
由貿易を中心にして,財政のうえでも金融のうえでも,自由主義的な要素を何とか残していこう,としている。
ただドイツの帝国主義的進出に対して,どうしても直していかざるを得ない問題だけは直していこうという,そ
ういう形ではないでしょうか。
宇野:ええ,だから皆そうなっているのです。帝国会議をやるというような問題でも,やはりその中で植民地
としての関係でもいろいろ変わってくるから,それでは帝国的な特恵関税をやらないかというと,やはりやろう
とする面もあるから,だから帝国主義的なものが全然ないとはいえないのじゃないですか。
武田:出ては来るのですけれども,ドイツに対する必要上,しょうがないから帝国主義化してきたのだという
ような……
宇野:いや,そうではないのです。
石崎(昭彦):そうでないとすれば,イギリスが帝国主義化する根拠は,国内にあるのですね。
宇野:国内というよりも,重点は海外投資ですね。
石崎:それでは海外投資が急速に進んでいくということが,ドイツの方に……
宇野:ドイツではないでしょう。
石崎:内部的な根拠があるわけですね,
宇野:ええそうです。
石崎:それは具体的には……
宇野:そうでしょう。具体的には自分の産業資本――さっき飽和点といったけれども,産業資本がイギリスで
は相当資本主義的な分解が相当進んでいて,それをさらに分解して国内で金融資本的な確立をするというよりも,
海外へ自分の資金を投じて,それから得る利益をもういっぺん海外へ投資する,そういう形が7,80 年代以後ずっ
と強くなっている。それはやはり国内的な産業の基礎があるのだといっていいのですけれども,それはポジティ
ブに国内が金融資本化して,そして海外へ出なくちゃならぬという関係じゃないでしょうね。つまり海外投資を
5,60 年代からやっているといえばいえるけれども,5,60 年代以後でもだんだん大きくなっているのだけれど
も,それが7,80 年代以後になると顕著になってくる。そして利潤を得て,海外から集中を得て,それをもういっ
ぺん投資しなければならぬという形になってくる。国内でそれをやるというよりも……
石崎:その6,70 年代から海外投資が増大したのが,アメリカとかドイツとかが産業的に発展して,イギリス
の産業がかなり遅れてくるというか……
宇野:それはあるかもしれない。しかし金融資本の問題としてよりも,世界市場の問題ですね。資本主義国が
よけいできてきたということもあるかもしれない。しかしその根本がやはりイギリスの産業自身に,今までの農
業国的なものを相手にした資本主義的な発展は行き詰まったということがいえるでしょうね。アメリカに対する
投資でも,そういうことはいえると思うのです。
(以上,前掲『社会科学研究』第 60 巻第 3・4 号,164∼165 ページ。なお再録されている『宇野理論の現在と論
点』では 271∼273 ページ)。
26
第 14 巻
第3号
(43)
ギリス綿業がより後進国的な地域へその輸出地
ができた」 にすぎないというのであり,第二
盤を移行させていったことを意味し,イギリス
点は,
「イギリス鉄鋼業の世界経済の構造変化
綿業が,他の諸国において勃興してきた綿工業
への対応」が「高級品生産への移行傾向であっ
と競争するにさいして,決定的な利点を有して
た」ということである。
「これはたとえば,鉄道
(40)
いなかったということを示していた」 といっ
資材関係の輸出ではしだいに困難となるアメリ
ていい。まさに「イギリス綿業の最後の市場,
カ市場へのブリキ輸出の増大や,着実な輸出増
インドおよび極東において,綿工業が発展しは
大をつづける機械工業,および激しい動揺のう
じめたとき,ランカシャーは不吉な予感におび
ちに拡大しつつある造船業といった国内市場へ
(41)
やかされなければならなかった」 わけであ
の依存度の増大に示されている。事実,輸出の
る。さらにイギリス綿業がその生産量で世界一
激しい動揺に対して,鉄鋼の国内消費は着実に
の座を失ったことは,高級番手の綿糸の生産に
増大を遂げていた」 。そして第3点はこうで
重点を移したことにもよるのであって,
「イギ
ある。世界の鉄,鋼生産総量に占めるウエイト
リス綿業は,綿花消費量からは世界第一の綿業
ではアメリカ,ドイツと比較して「イギリスは
であるとはいえなくなっているにもかかわら
発展テンポではおくれながらも八五年まで首位
ず,スピンドル数の点からは,依然,世界第一
を占めていたが,九〇年までにアメリカによっ
であった……これは,イギリス綿業の生産性が
て鉄・鋼両生産で凌駕され,ドイツにたいして
低く,外国綿業の生産性がたかいことを物語っ
もっていたかなりの優位も,鋼生産で九三年以
(42)
ている」
のである。世はまさに軽工業の時代
(44)
後崩れ去ってしまった。これは,自由主義段階
ではなくなっているにもかかわらず,それを超
に輸出依存度を高めていたイギリスの鉄鋼業
える生産力をうまくつくりだせないでいる姿が
が,世界経済の構造変化に対して,前述のよう
そこにある。
な市場構造の変化をもってしても,イギリス経
19 世紀末期から 20 世紀にかけてのイギリス
済全体の発展の鈍化の中ではなお充分対応しき
鉄鋼業の生産と輸出の動向を森恒夫の分析結果
れないことを示すものであった」 。実際,こ
によって概観すると,およそ以下のごとくにな
の時期のイギリス鉄鋼業における株式会社設立
る。まずこの時期のイギリス鉄鋼業の特質とし
状況は緩慢なものであった。
「一般に大不況期
て以下の三点をあげることができる。第一点
には株式会社の普及は漸進的にならざるをえな
は,
「八〇年代のイギリス鉄鋼業は,ドイツやア
い条件にあったし,その中でイギリス鉄鋼業は
メリカなどの鉄鋼業の発展による市場の狭隘化
その製鋼革命を軸とする現実的蓄積を進めた
に対し,それ自身の資本輸出を支えとしたより
が,それはイギリス特有な漸進的性格をもって
後進的な地域での市場拡大により対応すること
いたからである」 。もともとイギリスでは
「株
0
(45)
(46)
遠藤湘吉編『帝国主義論』下,
(宇野弘蔵監修『経済学大系』⑤,1965,東京大学出版会),210 ページの第 68 表
(仕向地別綿布輸出量,1860∼1911 年)による。西村閑也(遠藤湘吉)稿。
1
前掲書,211 ページ。
2
同,212 ページ。
3
同,213 ページ。
4
前掲,遠藤湘吉編『帝国主義論』下,245 ページ。森恒夫稿,以下,とくに断らないかぎり同様。
5
同,うえの二つの引用とともに 246 ページ。
6
同,247 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
27
式会社による資金集中範囲は限られたもの」で
激化を反映していた。すなわち,すでに九〇年
あった。「こうして,大不況期のイギリス鉄鋼
代前半,海外投資の破綻によってイギリスの鉄
業における株式会社の展開は漸進的であり,株
鋼輸出はイギリス帝国圏・南米・極東などの市
式資本調達の社会的拡大も既存株式会社を中心
場で急減したが,ドイツ・ベルギーはその鉄鋼
(47)
に徐々に進行していった」 というのである。
輸出を増大させた。この過程で,ドイツ鉄鋼業
こうして「イギリスの鉄鋼輸出の動向は,海外
は鋼生産を増加しつづけ,九三年にイギリスを
市場をめぐる後進資本主義国鉄鋼業との競争の
凌駕した」 。そして 1910 年には鉄鋼輸出でも
(48)
7
同,257 ページ。
8
同,前の引用句とともに 258 ページ。
9
同,264 ページ。ここでこのイギリスとドイツにおける鉄鋼業の発展度の違いが何を意味するかについて,伊
藤誠と宇野弘蔵とのあいだで簡単な論争がおこなわれたが,興味深い問題がその背後にあるので,ここで触れて
おきたい。まず伊藤が提起した問題そのものは事実認識についてであった。「ベッセマー・スチール時代には,イ
ギリス製鋼企業が,錬鉄時代に引続き,世界市場で支配的地位を保持し続けていたのだから,宇野教授が,ベッセ
マー法とトーマス法を,ともにイギリスで発明されながらドイツで広く普及したと説明しておられる(宇野弘蔵
『経済政策論』一九五四年,一三一頁)のは事実認識として,やや妥当でないように思われる」
(鈴木鴻一郎編『帝
国主義研究』,1964,日本評論社,75 ページ,注3)とまず疑問を提起したのにたいして,宇野は『経済政策論』,
改訂版,1971,でつぎのようにこたえている。トーマス法という「新製鋼法によるドイツ鉄工業の発展について,
旧版では,その方法が『いずれもイギリスで完成されながらイギリスではドイツほどに急速なる普及を見なかっ
た……』と記していたので,伊藤誠氏から『ベッセマー時代には,イギリス製鋼企業が,錬鉄時代に引続き,世界
市場で支配的地位を保持し続けていたのだから』私の説明は『事実認識として,やや妥当でないように思われる』
という批評的注意を受けた。たしかに『急速なる普及』という言葉は不適当であったので訂正するが,伊藤氏自
身のあげる統計表でも十九世紀の九十年代にはイギリスの鋼生産はまずアメリカに次いでドイツに追越されてい
る。ことによると伊藤氏にとっては『大不況』期が主題だったのでそういう批評となったのではないかと思う。
しかし帝国主義論にとっては金融資本の形成が問題なので,イギリスの『大不況』との関係は,むしろイギリスな
いし世界市場の現状分析に属することと私は考えている。イギリスの金融資本の形成はまたその一つの他の型を
なすものとして後に説くとおりである」
(『宇野弘蔵著作集』⑦,146 ページ)と。だがここで争われているのは事
実認識の違いの問題ではない。宇野が示唆しているように「大不況」と帝国主義論の対象時期との歴史的意義の
違いの問題なのである。宇野は,伊藤の掲げる統計表によってもイギリスの鋼生産が 1890 年にはアメリカに追
い抜かれ,95 年にはドイツに追い抜かれていることに注意を喚起しているが,じつは伊藤は宇野批判が書かれて
いる1ページ前の注で「八五年にはなおアメリカ,ドイツを上まわっていたイギリス鋼生産量も,九〇年にアメ
リカにおいこされ九五年までにはドイツにも追抜かれたのである」
(前掲,
『帝国主義研究』,74 ページ)とあるか
らである。むしろ問題はそのすぐ後につづく「ことに九〇年以降,輸出市場でイギリス製鋼業が停滞しているの
は,ドイツ,アメリカの発展に対比して目立っているが,その背後には,粗鋼部門を中心に,……生産性の停滞が
あったのである」点をこそ問題にすべきであった。宇野がいうように伊藤にあっては「大不況」期とそれ以後の
時期の歴史的意義の違いには関心がないようである点こそ問題だと思われるからである。帝国主義段階が定立し
うる時期とその段階への形成過程とは次元の異なる対象である。後者の解明は前者の概念定立を前提にしている
からである。資本主義の歴史過程では結果が前提を措定すると考えなければならないからである。帝国主義段階
はカルテル関税政策とダンピングを中心として特徴づけられる。固定資本の巨大な産業は商品経済原理のみでは
その製品の需給均衡をうまく実現できないからである。その鉄鋼関税制度がドイツで完成をみるのは 1902 年で
ある。それにいたる「大不況」期はその形成期としての現状分析の対象であるとみるべきであろう。自由主義段
階から帝国主義段階への移行期にイギリスの鉄鋼業がアメリカ,ドイツの鉄鋼業を凌駕していたのに帝国主義段
階の確立期に入ると,遅れをとることを宇野は重視したのである。
28
第 14 巻
第3号
(49)
ドイツはイギリスを凌駕した
のである。
こうした鉄鋼業の企業結合運動は「少数の有力
このような鉄鋼業における国際競争の尖鋭化
企業による漸次的結合を主とし,その性格は多
をもたらしたのはドイツ,アメリカの鉄鋼業に
く縦断的であって,横断的なしかも独占的な結
おける保護関税政策下に展開された強力な独占
合は二,三の完成品部門にだけみられた」にす
体の形成にあった。
「とくにドイツ鉄鋼業は,
ぎない。
「イギリス鉄鋼業における企業結合運
積極的な資本蓄積をつづけながら,国内市場の
動の展開は,それ自体として明確な独占形成を
独占により生じる現実資本の過剰を,ダンピン
意味するものではなかった」 のである。いず
グや輸出奨励金制度を武器とする輸出の増進に
れにせよイギリス鉄鋼業におけるカルテルは
より解決しようとした。これに対してイギリス
「一般に弱体であって,ドイツのそれと対照的
鉄鋼業は,相対的に後退しながら,……企業結
でさえあった。その主たる理由は,なお生産の
合運動の展開にみられるような積極的対応をお
集中が比較的低い上に,保護関税を欠き,また
こなって,ドイツをはじめ海外諸国の鉄鋼業の
ドイツのような銀行の介入がありえなかったこ
進出に対応した」が,それにもかかわらず「大
とに求められる」 。カルテル関税政策の欠如
戦直前には,イギリスの鉄鋼輸出の伸びが弱ま
が決定的なのである。固定資本が巨大な産業で
り,輸入は増大して,イギリス鉄鋼業の相対的
はその製品の需要が増大しても直ちには供給を
後退はいよいよ歴然となった」
。そのもっとも
増加させえないので価格は異常に騰貴すること
象徴的な事実は「イギリス海外投資と鉄鋼輸出
になり,需要が減ずるときにはこれまた供給を
の連繋が,南米市場や帝国市場でさえ崩れ出し
直ちには減少しえないので,価格は異常に低下
(50)
てきたことであった」 。
(52)
(53)
することになる。社会の全産業が固定資本の巨
イギリス鉄鋼業における企業結合運動は産業
大な産業になることは資本主義社会ではありえ
証券発行の好機であった 90 年代後半からほぼ
ないと考えられるのであって,したがって他の
20 世紀初頭までに集中した。その「企業結合運
多数の中小資本によって景気循環はともかく起
動の及ぶ分野は,製鉄から機械工業・造船業に
こりうる。それとともに商品にたいする需要の
までわたり,その目的もさまざまであった。そ
増減はおこるのである。こうして一般に固定設
の主要なものとしては,生産組織の合理化・近
備の巨大な産業には資本家的商品経済の原理は
代化,原材料の安定した供給の確保,販路の確
貫徹を阻害されるのであって,せいぜい綿工業
保ないし競争力の強い完成品部門や造船業への
のような機械制工業の生産力水準にこそ適合的
進出,製品の多角化,競争の緩和,あるいはそ
なのである。じっさい伊藤が宇野への反論の根
の排除 = 独占形成があげられるが,それらの基
拠とした伊藤の掲げる統計によっても,イギリ
底には,一方では内外における競争の激化,他
ス鋼生産量の伸び率は 1870 年から 90 年にかけ
方では製鋼革命の展開を軸とする固定資本の増
てはドイツのそれより大きいのにたいして,90
(51)
大による操業維持の要求の強化があった」 。
年から 1905 年にかけてはドイツよりかなり低
:
同,256∼266 ページ。
;
これ以前の二つの引用文を含めて,前掲,遠藤湘吉編『帝国主義論』下,267∼268 ページ。
<
前掲書,276 ページ。
=
すぐ前の引用文を含めて,同,276 ページ。
>
同,280 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
29
(55)
くなっている。イギリス自体において 90 年以
することができるであろう 。それはしかし,
後鋼生産量の伸び率が大きく落ち込んでいるの
たんに攻撃的なドイツ帝国主義に押されてそう
(54)
である 。
なったというのではなく,イギリス産業資本の
こうしてイギリスでは一方では綿工業を中核
時代が最先進国型として実現されえたこと自体
とする産業資本の時代をそのまま続行すること
が限界に達しつつあったことによると考えられ
も,他の諸国で綿工業が発展してきたために困
る。もちろんそれは資本主義の世界史的発展過
難になり,他方では固定資本の巨大な鉄鋼業を
程の中から生まれたものといっていいであろ
中核として結合運動をある程度展開しながら,
う。それは段階論を前提とする現状分析の対象
自由貿易の伝統のゆえに独占体を形成するにい
をなす過程だといっていいのであるが,段階論
たらず,金融資本を生産過程を基礎として形成
はこの過程の結果を前提にしているものなので
しえないまま,結局植民地の領有と海外投資に
あるから,多少説明を必要とするであろう。資
活路を見出すという,生産力的には後ろ向きの
本主義の歴史過程の分析はその歴史過程の一応
帝国主義になったといっていいであろう。それ
の到達点を前提としてはじめてなしうるので
は重商主義時代におけるようなあたかも商人資
あって,いわば概念の自己展開としてなしうる
本的あるいは高利貸資本的に流通過程から剰余
ものではない。といってたんなる事実の時系列
価値をもっぱら収奪するという帝国主義と規定
的羅列ではもちろんない。その一応の到達点を
?
表1 イギリスとドイツの鋼生産量と対前期
増加率指数(万トン,各前期を100とす
る指数)
イギリス
1870年
75
80
85
90
95
1900
05
ドイツ
生産量
指数
生産量
指数
21.5
70.7
129.5
188.4
362.5
325.8
490.0
581.0
100
328.8
183.2
145.5
192.4
89.9
150.4
118.6
13
32
69
120
210
383
636
951
100
246.2
215.6
173.9
175.0
182.4
166.1
149.5
注)前掲,鈴木鴻一郎編『帝国主義研究』
,119ペー
ジ,表A-7,
「鉄鋼生産の推移」より作成。
@
さきに紹介した宇野『経済政策論』をめぐる研究会で武田隆夫がイギリスは「中心部では自由主義的でありな
がら,外国のところではなお重商主義的であった」という発言をしているが,宇野はそれを否定はしていない。
ただ武田が国内では自由主義的でありながら,といっているところは問題を残すのではないかと思われる。すで
に産業資本の発展にも陰りがみえていたからである。原理論がいわば純粋の産業資本時代までの資本主義を対象
にしているといっても,そしてその原理論があたかも永遠につづく拡大循環運動をしていることを対象にしてい
るといっても,現実に産業資本時代は永遠につづきうるものではなかった。だがそれは原理論のみでは解明しえ
ないものであって,原理論外の要因を入れなければ解明できない。マルクスの『経済学批判』
「序言」冒頭にある
「資本,土地所有,賃労働」につづく「国家,外国貿易,世界市場」の諸要因がものをいうのである。それがまさ
に歴史過程なのである。
30
第 14 巻
第3号
抽象したものがいわゆる段階論である。いいか
に追いこまれつつあり,重工業としての鉄工業
えれば結果を前提にして「現在」を分析する以
は諸国に先駆けて発展しつつも,自由貿易の伝
外に歴史過程を客観的に分析する方法はないと
統もあって,独占体を形成しえず,その鉄鋼生
考えられるのである。そういう意味では段階論
産もこの大不況明けにはアメリカ,ドイツに追
と段階と段階の間をつなぐ歴史過程とは一応理
い抜かれるにいたっている。もともと商品経済
論的には分けなければならない。
の需給均衡作用は,その短期変動はうまく処理
ここまではいい。問題をイギリス自由主義の
されうるが,鉄工業のような巨大な固定資本を
行詰りと帝国主義化への転化を結ぶものはなに
擁する産業では,資本投下から生産開始までに
かである。イギリス資本主義はその自由主義段
長期を要し,ひとたび生産が始まれば,短期的
階をなぜ継続的に発展しえないのか,綿工業資
需要をはるかに超える供給を生むのであって,
本主義の発展に限界があるのはなぜなのか,19
鉄工業は資本主義にとってはじつは不得手な産
世紀末期以後なにゆえ金利生活者的資本主義に
業なのである。イギリスはこうしてこの大不況
なったのか,重工業という固定資本の巨大な産
期に深刻な資本の過剰を生むことになる。した
業がなぜ後進資本主義国ドイツで発展したのは
がって「ドイツ・アメリカといった後進資本主
なぜなのか,そして重工業が主要産業になると
義国の発展により従来のイギリス産業の世界市
なぜ価値法則をふくむ三大法則の作用が阻害さ
場における独占的地位が脅かされ,崩れ去るこ
れるようになるのか,重工業的生産力は綿工業
とを意味していたから,大不況はイギリスにお
のように広く一般化しえないのはなぜなのか,
いてもっとも深刻に現われたということができ
そして要するに資本主義の経済機構は綿工業で
る」
はいわば順調な発展をなしうるのに,重工業で
前からドイツ,アメリカなどに綿工業機械など
はなしえないのはなぜなのか,そしてあえてい
を輸出するとともに,この大不況期の後半には
えば資本主義は農業問題を解決しえないのはな
明確な利用意図をあきらかにしないまま全世界
ぜなのか,という問いを発することができる。
に植民地の領有を拡大した 。そして資本の輸
そしてそのさきにうかぶ問いのかたちは資本主
出を内容とする海外投資をさかんに展開したの
義は一定の生産力には適合するが,それ以下,
であり,そこにまたイギリス帝国主義の特質が
またはそれ以上になると不適合になるのはなぜ
収斂していくことになる。そこでその資本の輸
か,ということである。
出がいかなる意味でイギリス帝国主義の特質を
19 世紀末の 20 年におよぶ大不況は,イギリ
(56)
のである。事実,イギリスはこの時期以
(57)
なすのかを,以下追究してゆくことにしたい。
ス資本主義にとってはその自由主義段階の崩壊
だがそのまえにイギリス帝国主義段階の金利
の始まりを意味する時代であった。自由主義段
生活者的性格を一瞥しておこう。「一般的に
階の生産力を代表する綿工業は,すでに他の後
いって資本の再生産過程は,労働力商品の存在
進資本主義においても発展しており,イギリス
によって制約されている」
はその高級品生産に絞り込まざるをえない状況
葉だが,19 世紀末のイギリスにおける就業人口
(58)
とは戸原四郎の言
A
前掲,遠藤湘吉編『帝国主義論』下,173 ページ。
B
J. A. ホブソン『帝国主義論』上,訳本,1951(原著は 1902 年初版),岩波文庫,矢内原忠雄訳,
「イギリス帝国
新領土獲得一覧表」(58∼60 ページ)による。
C
前掲,武田隆夫編『帝国主義論』上,205 ページ,戸原四郎稿。
歴史過程と原理論(犬塚)
31
(60)
には三つの変化がみられたと徳永重良はいう。
がクローズ・アップされるようになった」 と
「第一に,金属・機械器具,鉱山業,化学工業
いう。イギリスでは重工業は大不況の時期より
などのいわゆる重・化学工業の就業人口が飛躍
もその不況を脱出した時期のほうが失業率を高
的に増加したことである……それに引き換え繊
くしているのであり,繊維産業はすでに中枢産
維工業の就業人口増加率は全就業人口のそれを
業ではなくなりつつあるという状況である。海
下回っており,明らかに停滞化をしめしている。
外投資という過去の遺産をもって面目を保って
第二に,軍人等をはじめとして政府および地方
いる状況なのであろうか。
自治体職員で商業等の非生産的部門の就業人口
イギリス帝国主義は商品経済の量的拡大領域
はかなり増大している,すなわち,従来の『や
としての植民地利用から帝国主義的独占利用へ
すあがりの政府』は後退し,帝国主義の『寄生
の転化として現われた。それが植民地・低開発
性』が表面化してきたのである。いわゆる新中
諸国への資本の輸出,つまり海外投資である。
間層の増加という問題の一端もここにうかがう
イギリス帝国主義研究の古典といえば,まず J.
ことができよう,第三に,農業および漁業の就
A. ホブソンの『帝国主義論』であろう。矢内原
業者数は……いずれも若干増加しており,農漁
忠雄のその翻訳書は 1948 年版によるというが,
業就業人口の減少傾向は緩慢ないし停滞的に
事実上は 1938 年版と同じだという。原著初版
なってきた。……最後に,運輸・ガス・水道・
は 1902 年である 。訳書,上巻は第1篇「帝国
電力などのいわゆる公共事業部門においても就
主義の経済学」
,下巻は第2篇「帝国主義の政治
(59)
(61)
業者数の顕著な増加が見られた」 。そして労
学」となっているが,ここでは第1篇のみをと
使関係では,失業率が重工業部門でかえって高
りあげる。
かったことが特徴的であるとされる。
「産業循
その主要論点は以下の4点にまとめることが
環の性格変化は不況をながびかせ,したがって
できるであろう。第1点は,近代帝国主義をさ
失業を,慢性化させる作用をおよぼした。とく
しあたりつぎのようにとらえるところから出発
に注目しなければならないのは重工業部門での
していることである。
「新帝国主義の経済学に
失業率がその他の部門に比べて遥かに高かった
関して次の結論が導き出される。第一に,イギ
ことである。……一八八〇―九〇年の一〇年間
リスの対外貿易はその国内産業および商業に対
において,金属産業での失業は,全産業よりも
して小さなしかも減少してゆく比率を有した。
二七%だけ高く,一九〇〇―一〇年にはそれは
第二に,対外貿易の中では,イギリス属領との
四〇%だけ大であったといわれている。相対的
それは諸外国とのそれに対して減少してゆく比
過剰人口は漸次増大し,このため多くの都市お
率を有した。第三に,
イギリス属領との中では,
よび農村で不完全就業や自由労働の問題――い
熱帯貿易特に新熱帯属領との貿易は,量におい
いかえれば停滞的,潜在的過剰人口の問題――
て最も小さく,最も発展的でなく,且つ最も不
D
前掲,遠藤湘吉編『帝国主義論』下,406∼407 ページ,徳永重良稿。
E
前掲書,407∼408 ページ,徳永稿。
F
J. A. Hobson, Imperialism, a Study, London, George Allen &Unwin Ltd. 「原著は 1902 年に初版,1905 年に修訂
第2版,1938 年に全訂改版の第3版。そして 1948 年に第4版が出た。第4版の内容は第3版と変らないが,後
者に付けられた長い序文は省かれており,そして第4版に対する特別の序文はない。この訳は最新版即ち 1948
年版によったが,1938 年版への序文は併せて訳載した。だから実際的には 1938 年版によったと言ってよい」と
いう。「訳者序」,3ページ。矢内原忠雄訳『帝国主義論』上,1951,下,1952,岩波文庫。
32
第 14 巻
第3号
安定であり,一方その内容たる財貨の質におい
(62)
義の時代には政治的力が直接経済的力に転化し
て最も下等なものであった」 という。要する
たのに対して,帝国主義の時代は経済的力をし
にイギリス資本主義にとっては属領との交易自
て直接政治的力に転化せしめうる社会的基礎を
体はさして重要な意味をもたないという認識な
有している」 ことを意味している。この点を
のであるが,投資に関連しては異なる意義を
ホブソンはつぎのようにうけとめている。
「侵
もってくるというのである。それが第2点であ
略的帝国主義は納税者には甚だ高価につき,製
る。「帝国主義において他のなにものにもま
造業者及び貿易業者には甚だ価値が少く,国民
さって重要な経済的要素は,投資に関連のある
にとっては甚だ重大な測り知れない危険を孕む
努力である。資本の世界性の増大は,最近数世
ものであるが,投資家にとっては大きな利益の
代における最大の経済的変化であった。各先進
源泉であって,彼は自己の資本のため有利な用
工業国はその資本のヨリ大なる部分をば,自国
途を国内に見つけることが出来ず,従って彼の
の政治的領域の限界の外に,即ち外国もしくは
政府が彼を援助して有利且つ安全な投資を国外
植民地に投じて,増大する所得をこの源泉から
に な さ し む べ き で あ る,と 主 張 す る の で あ
(63)
引き出そうとする傾向をもってきた」
という
(65)
(66)
る」 。
のであって,資本主義の構造が変化して,資本
第3点はこの海外投資の主役が金融であるこ
の過剰が現われるようになり,その投資先とし
とを指摘している点である。ホブソンによれば
て外国もしくは植民地が重要な意味をもつよう
金融は帝国主義の「原動力」ではないが,
「金融
になったというのである。それはとくにイギリ
はむしろ帝国的機関車の運転手であって,力を
スに現われたのであって,
「年毎にイギリスは,
指導し,その働きを決定するものである。それ
一層広範な範囲にわたり海外からの貢納に頼っ
は機関車の燃料を構成せず,又直接に力を生み
て生活する国民になりつつあった。そしてこの
出しもしない。金融は政治家,軍人,博愛家,
貢納を享受する階級は,自己の私的投資の分野
並びに貿易業者が生み出す愛国的諸力を操作す
を拡張するため並びに自己の現在の投資を保護
るのである」 といい,最後に第4点としてつ
し改善するために,公共の政策・公共の財力・
ぎの結論を下す。「帝国主義とは,国内で販売
公共の兵力を使用しようとする刺戟をますます
もしくは使用することの出来ない商品及び資本
(64)
強くもった」
(67)
という。海外投資という個別的
を取り去るために外国市場及び外国投資を求
利益追求のために公共の政治力,軍事力をも利
め,それによって彼らの余剰の富の流れのため
用しようという批判を浴びせている。資本主義
に水路を広げようとするところの,産業の大管
の構造が自由主義的構造から帝国主義的構造に
理者達の努力であるという結論に達する」
転化したことがこうした事実の背後にあるので
いうのである。ここで「外国市場」といっても
ある。それはまさに宇野がいうように「重商主
商品貿易市場に力点が置かれたものではないで
O
前掲訳本,ホブソン,89 ページ。
P
同,102 ページ。
Q
同,104 ページ。
R
前掲『宇野弘蔵著作集』⑦,181 ページ。
S
前掲,ホブソン,106∼107 ページ。
T
ホブソン,前掲訳書,111 ページ。
U
同,141 ページ。
(68)
と
歴史過程と原理論(犬塚)
33
あろう。というのはホブソン自身つぎのように
ないであろう。それは経済的側面だけではな
いっていたからである。
「帝国主義は世界大戦
く,政治的・戦略的面で大きな意義をもってい
中及びその後において保護及び特恵的手段が採
たのであり,
とくに一八九〇年代以降になると,
られるまでは,我が対外貿易の決定に対し何ら
ドイツやアメリカなどの後進資本主義国の帝国
目に見えるほどの影響をもたなかったのであ
主義的進出に対抗して,特恵関税をつうじて本
る。ボーア戦争に基因して一九〇〇年∼一九〇
国と植民地との経済的統一をはかろうとする帝
三年に生じた我が植民地への輸出の異例的な増
国特恵制度の実現を目指す運動が次第にたか
加を除外すれば,我が対外貿易の比率がこの半
まってきたのである」
世紀を通じてほんの僅かしか変化しなかったこ
植民地の領有は直接資本を輸出する目的でなさ
とに,気がつく。最後の十年間は,この期間の
れたわけではない。宇野は将来を見越した「予
はじめに比べると植民地からの輸入はやや減少
料」によるとしている。
「ドイツ等の関税政策
し,植民地への輸出はやや増加した。一八七〇
が直接カルテルを形成する独占体の要求に基づ
年以来イギリスの属領にあのように広大な追加
くものといえなかったと同様に,イギリス等の
がなされ,それに対応して『外国』地域の減少
領有地の拡大も直接に海外への資本の輸出とし
を伴ったのであるが,それにも拘らず,この帝
て行われたものとはいえない。むしろ形成せら
国的膨張は,十九世紀を通じてイギリスの輸出
れつつある金融資本の発展を予料した政策とし
入全体の中に占める帝国内部貿易の比率の増加
て推進せられたのであった。商品の販路,原料
(69)
(71)
といっている。だが,
のである。まさに植民地を
資源,直接投資地等の獲得がその目標とならな
含む諸外国にたいする海外投資=資本の輸出こ
かったとはいえないが,他の資本主義国を排除
そ,イギリス帝国主義の基軸をなしていたので
した独占的支配を要求するということがまず第
ある。
一の動機となったのである。事実,実際の資本
を伴わなかった」
それにとどまらない。じつはイギリスによる
の輸出はもちろんのこと,商品の販路も決して
植民地の領有はその植民地と他国との自由貿易
この領有地の拡張によって直ちに確保せられる
を排除していないのである。チェンバレンは
わけではなかった。原料資源のごときは,しば
1895 年植民相に就任して以来,帝国特恵関税制
しばこれからなお探求されなければならぬとい
度を提唱したが,第一次大戦勃発まではついに
うものであったばかりでなく,……その利用方
実現をみなかった
(70)
。藤村幸雄は「イギリスの
法さえ将来の発明,発見をまつという状態で
植民地は一八七〇年代以降,それ以前の時期に
あった。それは全くまず独占しておかなけれ
比べて量的には拡大されながらも,商品貿易や
ば,他の国の資本主義の独占するところとなる
資本輸出の面ではかならずしも直接的に重要な
という意味での領有地の拡大にほかならな
役割を演じたとはいえないのであるが,われわ
い」 というのである。まったく原始的土地の
れはこのことからイギリス資本主義にとっての
独占と同様である。たんに交易市場の外的拡大
植民地のもつ意義ないし役割を低くみてはなら
というのではなく,その市場の支配を目標にし
(72)
V
同。80∼81 ページ。
W
前掲,遠藤湘吉編『帝国主義論』下,382 ページ以下による。藤村幸雄稿。
X
前掲書,381 ページ。藤村稿。
Y
前掲『宇野弘蔵著作集』⑦,229 ページ。
34
第 14 巻
第3号
ている点が帝国主義的なのである。
づけていたばあいといちおう工業国になりえた
(73)
ではつぎに C. K. ホブソンの『資本輸出論』
ばあいとがあって,その事実そのものはホブソ
の検討に行こう。以下,主要な論点のみをとり
ンによっても明らかにされているのであるが,
あげることにする。はじめの3章で,対外投資
それが重要な問題を抱えているという認識はな
の,
「方法」
「原因」
「結果」を論じている。1章
いようである。
の「方法」ではいきなり興味深い論点を出して
2章の「原因」のところでは,海外投資にお
いる。輸出資本の利子の再投資の問題である。
けるイギリス人気質のようなものを強調してい
「イギリス対外投資の拡張は,
(イギリス商品
る。
「イギリス投資家は国内投資についてはき
の)輸出額の増加を通してではなく,
(イギリス
わめて容易に知識をえることができるが,海外
への)輸入の側の減少によって起こることが可
投資は理解することは困難である。これはたん
能である。この点はイギリス対外投資の場合に
に運輸交通の費用……によるばかりでなく,ま
は重要である。というのは,以前の海外投資か
た言語及び人種の障害にもよる。共通の言語や
らの収入が不断に流入しており,それは大抵の
類似の制度は,イギリス植民地や合衆国への投
年には,海外への新規投資額を超過しているか
資においてイギリス投資家をいちじるしく有利
らである。この理由によって,イギリス対外投
な地位においている。広範な公衆が……(これ
資の増加はまったく,
またはほとんどまったく,
ら植民地等の――犬塚)諸国の地理や経済問題
わが国の輸出を拡張することによってではな
についてかなり詳しい知識をもっている。しか
く,わが国の輸入を切りつめることによって達
し南米・メキシコ・ロシア・中国,そしてイン
(74)
せられたものだということにもなろう」 とい
ドでさえ,それを研究することの困難は,イギ
う。それはつぎのことを意味している。対外投
リス人にとってははるかに手におえない。それ
資からえられた利子収入をイギリス国内で,た
故に,知識をえるための費用は後者の場合によ
とえば農業に投資して食料を獲得するよりも,
り大きく,したがってイギリス資本は……世界
再輸出してその輸出先の国から食糧を輸入した
のそれら地方に容易に向おうとしないものと考
ほうが遥かに得であるということである。ただ
えてよいであろう」 という。そしてまた「ア
しそのことは資本の輸出先がいわゆる農業国で
メリカ人は『カナダにやって来て材木企業,鉱
あり,イギリスが工業国であることを前提にし
山企業,商業企業を買い入れるか,またはある
ている。したがって「外国鉄道が新建設に雇っ
州で何か自分自身の企業の支店を起す。これら
た人夫を養うために食糧をイギリスで買い入れ
の場合には,彼らは自分でカナダに行き,彼ら
ることはありそうにないが,しかしレールの大
が関心をもっている事業をさがすのである。
』
(75)
部分はイギリスで買入れるだろう」
(76)
というこ
これに対しイギリス資本家は,適度の利子およ
とにもなる。しかし資本を輸入する国または地
び配当が適時に入ってきて,貸付金が満期に弁
域が,工業国にたいする農業国の位置にありつ
済されれば大いに満足である」 という。イギ
Z
(77)
C. K. Hobson, The Export of Capital, London, Constable and Co., 1914. 楊井克己訳,
『資本輸出論』,1968,日本評
論社。
b
ホブソン,訳本,14 ページ。
c
同,14 ページ。
d
前掲,C. K. ホブソン,訳本,28∼29 ページ。
e
同,30 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
35
リスは世界のあらゆる地域に資本を輸出してい
イギリス国内資本量をより少なくした限りで,
るが,しかし植民地投資をとくに重視している
対外投資は国民所得のうち国内で生ずる部分を
のであり,鉄道建設・政府債・自治体債といっ
害したと結論せねばならない」 と。だがこれ
た直接生産にはかかわらない分野に資本を輸出
は原因・結果が逆であろう。国内生産の投資効
(78)
(81)
しているという 。そしてドイツについては
率が低下したことを前提にして海外投資が新た
「この国は 19 世紀の大部分を通じて大借入国
に展開したのであって,海外投資は一種の資本
であったが,それにもかかわらず,ロシア・オー
過剰を前提にしているとみなければならない。
ストリア・東南ヨーロッパのために大量の資本
イギリス富裕階級が直接生産過程から離脱し
(79)
を供給した」 という。海外投資先の一種の棲
て,価値増殖運動体としての資本そのものを外
み分けをしたというわけである。
部に貸付ける行為は,やはり資本の過剰を前提
3章の「結果」は重要な論点を多く含む。そ
にしていると考えられるからである。
「資本の
の主なものはつぎのごとくである。第1点はこ
所有権は大部分富者の手に集中されているか
うである。海外投資が活発に行われると利子率
ら,海外所得は,おそらくぜいたく品や個人的
は上昇する。
「利子率投機そのものは,そうで
サーヴィスを生産する産業や用途に刺激を与え
なかった場合にくらべて概してより多くの資本
るだろう。後者と前者とは,イギリス国内の労
を蓄積させ,それは今度は利子率投機を阻止し
働によってのみ供給されうる」 とは資本過剰
たと仮定してよいであろう。……しかし現在で
の一表現である。
(82)
は需要増加,とくに海外需要増加は蓄積増進よ
第2の論点は少々複雑である。イギリスを工
りも急速ではないにしても,それと同じ程度に
業国として,資本輸入をする後進諸国は農業国
急速に進行しつつあるように見え,利子は低落
として,ともに発展するという著者の主張
(80)
(83)
の傾向を示していない」 というのである。こ
はひとまずいいとしても,この「理論は,イギ
れは資本の集積よりも集中を優先させているこ
リス資本の援助をもって海外で生産される食糧
とによるものといっていいであろう。ホブソン
および原料の場合にはあてはまるけれども,海
は利子率が低落しない根拠として,つぎのよう
外で製造工業または『競争的』産業が援助され
にいう。
「だから近年のイギリス資本の海外へ
る場合にはあてはまらないと,時に主張され
の大量流出は,それがなかった場合にくらべて
る」
(84)
というふうに問題をたて,「この議論を
f
同,31 ページ。
g
同,31 ページ。
h
前掲,訳本,47 ページ。つづけて著者はつぎのようにいう。「したがって,対外投資の結果を論ずるにあたって
は,利子率はすべてのイギリス資本がイギリス国内に投下されねばならなかった場合にくらべて,不定の期間,
より高い水準に維持されるものと仮定しなければならない」(同,48 ページ)と。
i
j
同,48 ページ。
同,51 ページ。「個人的サーヴィス」の例として「庭師と召使」があげられている(55 ページ)。これは投資で
はなくて,個人的消費である。
k 「対外投資がこの国の資本および労働の需要を増加させるいま一つの,いっそう重要な理由がある。海外の発
展は他国がより富裕になること,イギリスが容易に生産しうる財貨の需要が拡大すること,それら諸国が直接の
交換において原料その他の財貨を輸出することにより,イギリス生産物および製品を購買しうることを意味する。
だからイギリスが対外投資から直接える所得を別にしても,他国との交換において一つの利得がえられる。イギ
リス住民が入手できる希望財貨の高は増加し,その価格は低落することになる」(同,51∼52 ページ)という。
36
第 14 巻
第3号
(85)
直接に反駁することはできない」 といいなが
とか,「従来輸出財貨を生産していた資本およ
らはなはだ不明快な「解答」を試みている点で
び労働は,国内使用のための財貨生産に転換さ
ある。こういう問題の立て方が工業国としての
れるだろうが,この変化はおそらく漸次的で,
イギリスの立場を擁護するというバイアスのか
差引利害はいうに足らぬものであろう」 と
かった立て方なのである。著者の「解答」は「海
か,
「イギリス資本による海外競争産業の発展
外での競争産業の発展は,それがより経済的な
は,国民所得の額を害するものとは考えられな
生産を意味する限り,世界全体の利益であるこ
いと結論してよいだろう」 とか,というのは
とは明らかであり,その利益はあらゆる国に広
すべてイギリスの利害を擁護する立場にたった
(86)
(89)
(90)
がることになる」 といった抽象論でしかない
見解ではないだろうか。イギリス資本主義は
のである。いうまでもないが,資本主義化の出
19 世紀末以降は自由貿易主義の形態に包摂さ
発は各国が同一線上からのものではないのであ
れながらも変質を遂げたのはのちみるとおりで
り,先進国は後進諸国が同一線上に並ぶまで待
ある。
つなどということは絶対にしない。そもそも商
第4章は「対外投資の発達」を概観したもの
品経済の発生,発展そのものが商品所有の個別
であるが,きわめて抽象的なところから出発し
主体の異質性を利用してなされるものである。
ている。
「世界史の一部分は民族移動と移民の
工業国と農業国との対立として出発するのであ
物語である。……移民の流入した諸国は,富や
り,それも自由主義段階ならば,その対立は解
気候や政治的宗教的平等の魅力をしばしば提示
消する方向で展開され,その意味でまだ平等的
した。……資本の世界的流れを支配した諸力
な要因がものをいう時代だったが,19 世紀末以
は,最近まで主として人口の移動を生ぜしめた
来の帝国主義段階になると,異質性とか不平等
ものと同じものであった。……しかし近代にお
性とかの諸要因こそがそのまま商品経済の原則
いては,資本の移住は人間の移住からますます
を歪めることによって経済関係が展開されるの
分離されるようになってきた。人口はある国か
である。競争は競争でも不平等競争が大きな力
ら他の国へ移動し,しかも彼らがあとに残した
を発揮する時代なのである。「外国の競争に
資本に対して,完全な権利と適当な管理権を保
よって取って代わられた資本および労働を吸収
持することが可能になった。……一言でいえ
すべき同じように有利な産業が,同じ国にある
ば,資本家はいまでは彼の直接の管理下にない
(87)
とか,
「すべての資本輸
財産が失われることを怖れる必要はないのであ
出国は多少とも広い範囲の財貨を輸出するので
る」 。たしかに「資本の移住は人間の移住か
あり,その範囲が広ければ広いほど,それだけ
らますます分離されるようになってきた」ので
ある輸出産業その他が外国競争によって害され
あるが,
両者には資本主義的生産が基礎にあり,
る確率は大きいけれども,ある国が競争で全面
ただそれが非常に間接的になっていること,つ
(88)
まり両者のあいだには純粋の商品経済的なもの
とは証明できない」
的に打ち負かされる確率はますます小さい」
l
同,52 ページ。
mno
p
qr
s
いずれも同,53 ページ。
53∼54 ページ。
同,54 ページ。
前掲,訳本,61 ページ。
(91)
歴史過程と原理論(犬塚)
37
とはいえないものが介在している点が重要なの
ストラリアに,アフリカに,南米に,カナダに,
である。その点はのちにだんだん明らかにして
そして世界の他の未開発地方に進出して,ます
ゆくが,証券投資の現実化というのは商品から
ますヨーロッパ大陸および合衆国を避けること
始まる純粋の商品経済的論理の展開のみから必
になった」 。
然的に出てくるものではないのである。
著者はこのあと対外投資の発生から発展まで
(93)
第5章と第6章は,イギリスを中心とする海
外投資の発生,
発展にいたるいわば助走的過程,
をつぎのようにまとめている。
「対外投資の起
19 世紀末から第一次世界大戦勃発までの時期
源は貿易にあり,最初の対外投資家は商人で
にける本格的展開の過程を描いたものである。
あった。しかし対外投資業務は次第に交易の一
ここではその要点のみを指摘することにとどめ
般的業務から分化してきた。……商人のある者
ざるをえない。ところで海外投資の中心問題は
はその注意をいっそう厳密に銀行業や金貸業に
たんなる貨幣の長期貸付の問題ではない。貨幣
限定した。王侯や後には国家や州や市の必要,
の貸付とは生産資本にとっては製品の販売期間
資本家的な個人企業および株式企業の発達とと
としての流通期間中に発生する遊休貨幣を産業
もに現われた広範な需要領域は,すべて金融が
資本間で互いに融通しあうことを基礎として生
貿易から区別されるにいたった過程を助け
産性を高める手段として行なわれるものであっ
(92)
た」 。「金融的エネルギー」は「初期には北部
て,とうぜん短期信用としての貸付である。純
イタリアに位し,一時スペインおよびポルトガ
粋資本主義を対象とする原理論ではこうした貨
ルに移ったが,ついにはオランダに,フランス
幣の貸付しか説くことができないのもそのため
に,そしてイギリスに移り,イギリスには一八
である。資本の輸出とは資本の貸付であるが,
世紀末までには移っていた。当時ロンドンは国
それは原理論では説けない。資本とは価値増殖
内産業だけでなく,また外国政府その他の必要
運動体であって,その貸付は商品経済原理のみ
をみたしうる大量の流動資本を入手することの
では説くことができないものである 。借受け
できる唯一の市場であった。……三〇年以上も
た資金を資本として投下してえられた利潤は運
イギリスだけが他国の開発に大量の資本を供給
動しつつある資本の利子とみなすこと以外に,
することができた。イギリス資本は東に西に,
その借受け資本を評価することができないわけ
ヨーロッパにアメリカに進出して,政府に金融
である。利潤を擬制資本の利子とみなして評価
し,運輸手段を開発し,近代経済組織の基礎工
する以外には運動体としての資本を評価する手
作をなしとげた。……資本が蓄積され,東方に
立てがないのである。具体的には個別配当をそ
向かってロシア,オーストリア,トルコ,イタ
の時々の市場利子率で除すことによって株券=
リアへ広がった。……一九世紀末頃には,アメ
資本の時価を出す以外にないわけである。しか
リカ資本は北方に向ってカナダに,南方に向っ
しその個別配当そのものも株式会社の大株主=
て中米および南米に進出し始めた,……ロンド
執行部の方針等によっても変わりうる。
「それ
ンはヨーロッパの金融機構とニューヨーク資本
自身利子を生むものとしての資本」という観念
市場との間で,ますます締めつけられることに
は理念としては原理論にもあらわれうるが,そ
なった。そこで,イギリス資本はインドに,
オー
の現実化の必然性は原理論的法則によっては説
t
同,62 ページ。
u
同,63 ページ。
(94)
38
第 14 巻
第3号
けない問題である。資本輸出=資本の貸付には
社時代には,短命な会社があらゆる目的のため
国債,公債,社債,株式等の有価証券の発行,
に設立された。アダム・スミスの時代までに,
売買という問題があるのであって,帝国主義論
銀行業や保険業や運河や給水施設が株式企業に
の重要な論点をなすのである。そして海外投資
適するものと考えられるようになった。株式組
の中心問題もまたそこにある。
織はかくて一八世紀末までにいっそう知られる
C. K. ホブソンはイギリスにおける株式会社
ようになり,一九世紀には法律上の困難にもか
(95)
の発生についてこういっている。
「イギリスは
かわらず株式会社数は急速に増加した」
株式原則の発明者ではなかったが,それの適用
株式会社は流通部門や公共的事業部門から発生
において,当時他の諸国にはるかに先んじてい
したようなのであり,鉄道会社も比較的早くか
た。東インド会社とイングランド銀行とは,こ
ら株式会社として発展したが,
「産業会社は(一
の国の株式会社の初期の著例であった。泡沫会
九世紀)
六〇年代まで一般的にならなかった」
v
と。
(96)
少し長くなるが,宇野はこういっている。「それ自身利子を生むものとしての資本も,実は,みずから利子率を
決定しうるわけではない。貨幣市場で決定される利子率を反映して自らの利子とするものにほかならない。しか
し資本主義は,かかる貨幣市場を基礎とする利子率の一般的決定と共に,この資本家的観念に,いわばその社会
的基礎を与えられ,資本自身をも商品化する新たなる形態規定を展開する。即ち,一般に資本主義社会において
は一定の定期的収入は,一定額の資本から生ずる利子とせられることになるのであって,貨幣市場の利子率を基
礎にして,かかる所得は利子による資本還元を受けた,いわゆる擬制資本の利子とみなされることになる。定期
的に地代を支払われる土地所有も,これによってその土地を一定の価格を有する商品として売買しうることにな
るのであるが,産業資本も株式形式をもって形成され,その運営によってえられる利潤が,株式に対して配当と
して分与されることになると,資本は,この配当を利子として資本還元される擬制資本を基準として,商品化さ
れて売買されることになる。その他公債,社債等の有価証券も同様にして商品化される。株式その他の有価証券
の売買市場は,資金が商品化されて売買される貨幣市場に対して,資本市場をなすわけである。それは貨幣市場
の利子率の形成に直接に参加するわけではないが,その利子率を反映する利子率によって資本還元される擬制資
本の市場として,いわばその補助市場を形成するものに発展しうることになる。しかしそれと同時に,この資本
市場に投ぜられる資金は,もはや一般的には産業資本の遊休貨幣資本の資金化したものとはいえなくなる。それ
は土地の購入と同様に,投機的利得とともに利子所得をうるための投資として,原理論で解明しえないヨリ具体
的な諸関係を前提とし,展開するものとなるのである」
(『宇野弘蔵著作集』②〔経済原論Ⅱ〕,158∼159 ページ)。
なお宇野は,この引用文の最後につぎのような注をつけている。「なお産業における株式会社制度の普及は,固定
資本の巨大化を前提として,いわゆる金融資本の時代を展開することになるのであって,原理論だけでは究明し
得ない諸現象を呈することになる。株式会社の資本についていえば,必ず一般の普通株主資本家と会社の支配権
を握る大株主資本家とを分離し,前者はむしろ利子所得者化し,後者がそれに対応して他人資本をも自己資本と
タイプ
同様に支配する資本家となり,いずれも原理的には規定しえない,種々なる具体的な,いわば 型 的規定を与える
よりほかない,諸関係を展開する。この諸関係をも原理的に規定しようとすると,本来の原理的規定は与ええな
くなる。言い換えれば金融資本の規定は,原理論の資本規定を前提として始めて与えられるのであって,これを
原理的に規定しようとすると,資本自身の規定をも曖昧にすると同時に,金融資本としての規定も与ええなくな
る。あるいはまた原理論の一般的な資本の規定を金融資本とともに段階論的に規定せらるべき産業資本と同一視
することになる。段階論としての産業資本は,十九世紀イギリスの前半に見られるように,穀物条例を廃止し,
自由貿易を実現し,その一般的支配を目指して動いているものとして規定されなければならない。それは原理論
で抽象的に規定される資本で済まされるものではない」(前掲,
『宇野弘蔵著作集』②〔経済原論Ⅱ〕,159∼160
ページ)。
w
前掲訳本,85 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
39
(100)
という。ついで発行されたのが国債で,イギリ
地方に絶えず進出しえた」 。合衆国,フラン
スにおける発行が大半でそれも 19 世紀の 20∼
ス,ドイツ,オランダ,ベルギーの諸国も盛ん
25 年の数年間に生じた。
「だから,自分自身商
に海外投資を展開するようになった。投資地域
人または製造業者でなく,また資本を投下する
もヨーロッパの小国や合衆国南部,ギリシャ,
ために移住を欲せず,しかも貸付をなすべき信
エジプト,トルコに広がった。投資対象の主流
用に値する外国人を知らない人々が対外投資を
はあいかわらず鉄道建設であり,
そのため国債,
増加させるための条件は,投資のための新制度
公債への投資が多かった。だが次第に投資対象
の完成であった。株式組織はこの困難の一解決
も「鉱山,軌道,水道,ガス,電気,銀行,保
法であり,鉄道時代がその影響を全世界におよ
険,金融,栽培農業」に拡大していった
ぼし始めるや,大資本を集めることの必要は,
い領域におけるヨーロッパおよびアメリカの投
(97)
(101)
。
「古
株式企業を個人企業に対して有利にした」 。
資の競争の増大は,流動資本の年生産高の不断
アメリカにおいて 1840 年代に州政府による鉄
の急速な増加や,有望であるがいっそう遠隔な
道建設ブームがおこると,イギリス資本はその
企業領域の開拓は,イギリス投資の方向に次第
鉄道証券にも流れ込んだ。
「イギリスの金融業
に変化を生ぜしめた」 。50 年代,60 年代にな
者・会社発起人・技師が全大陸にむらがった。
るとイギリス資本は「とくにインド,そして程
イギリス人は大陸の鉄道会社の取締役会におい
度は劣るが,カナダ,オーストラリア,その他
ても有力で,ベルギーおよびフランスの鉄道の
諸国が以前よりも重要となり,鉄道が投資の対
株主の会合は,定期的にロンドンで開かれた場
象の主要対象であった」 。
「多くの他の諸国
(98)
(102)
(103)
合もあった」 。だがそれにとどまらない。鉄
におけると同様に,インドでは,疑いもなく住
道建設には多くの補助産業,とくに石炭業・製
民の貧乏と事業の営まれる範囲が限られていた
鉄工場・機械工場の発展を含んでいたから,い
ということのために,鉄道建設は私的企業独力
まや多数の株式会社が大陸での石炭,鉛,銅の
ではあまりに危険と考えられた。見知らぬ遠い
鉱山開発,ガスや水道供給のために設立され始
国の政治的事情もイギリス資本家にとり妨害と
めたが,それらの証券にイギリス資本が投下さ
して作用し,他方で土着企業は未発達であっ
れたのである
(99)
。
(104)
た」 。鉄道建設は東インド会社によってなさ
19 世紀後半になると,イギリスの海外投資家
れるだろうと思われたが,しかし東インド会社
は「一般に開発の新領域を発見し,開拓するこ
はそうした目的のために借入を行うことはその
とによって開拓者として行動した。……イギリ
特許状によって禁止されていた。「結局,イギ
スの資本家は,世界のより遠隔で開発の遅れた
リス本国議会条例によって設立された会社に対
x
同,85 ページ。
y
同,85∼86 ページ。
z
同,88 ページ。
{
同,88 ページ。
(100) 同,91∼92 ページ。
(101) 同,93 ページ。
(102) 同,99 ページ。
(103) 同,99∼100 ページ。
(104) 同,100 ページ。
40
第 14 巻
第3号
して,東インド会社(一八五七年以後はインド
て浮沈はあったものの休みなくつづけられ,と
政庁)が九九年間無償で土地を交付し,投下資
くに「一九〇四年の対露戦争中,日本の需要に
本に対して一般に五分の利子を保証するという
は惜しみなくみたされ,資本輸出量は着実に増
制度が拓かれた。かくて私的企業にとって必要
加し始めた。カナダとアルゼンチンの鉄道のた
な刺激が与えられ,一八五八年七月までには,
めに大量の発行が行われ,対外投資の流れが起
七つの別個の会社が,利子保証制度のもとで鉄
り,その量は急速に増加した」 。だが「この
(105)
道建設に従事した」 。
(108)
ような巨額の資金が必要とされた主要目的は,
「カナダではすでに多年,イギリス所有者に
いぜんとして世界のほとんどあらゆる地方での
属する資本投下が行われていた。……一九世紀
鉄道建設であった。ドック,水道およびガス事
二〇年代後半には,おそらく州政府によって営
業,電灯,電信,軌道が不断に新資本を要求す
まれた公共事業開発のために相当の資本流入が
るいま一つの企業群であった。これらすべての
あり,三〇年代には合衆国のブームと時を同じ
事業は,中央および地方政府当局と株式会社の
くして,銀行や土地投機のためにいっそうの資
双方によって経営された。そのほか鉱山会社お
金が応募された。五〇年代には開発はいっそう
よび栽培農場,土地抵当会社,銀行,信託会社,
急歩調で進み,一八五二∼五八年の六年間に一,
保険会社,貿易会社があり,それらはすべて対
五〇〇マイルの鉄道が建設され,鉄道および運
外投資の初期に傑出していたものである。しか
河のために必要とされた六,〇〇〇万ドルの大
し過去数年間には,対外投資の方向に新しい特
部分はイギリスから引き出された。銀行業法が
徴が現われた。それは製造業および産業会社に
修正されて,既設銀行にとり増資やイギリスで
投資する傾向である。この運動は北アメリカ,
の株式譲渡・配当支払が可能になったことは,
インド,ロシアにおいてとくに顕著である。カ
右の諸企業へのかなりの投資を容易にし
ナダの木綿および織物会社,製鉄および製鋼工
(106)
た」 。このインドとカナダへの資本輸出は後
場,製紙工場は,イギリス資本をもって養われ
にソウルによって,イギリス植民地にたいする
た。U. S. スチール会社証券の相当量がイギリ
資本輸出の二類型としてとりあげられることに
スで保有されている。インドではジュート工場
なる。
の大部分はスコットランド資本家によって金融
「対外投資の重要性は六〇年代および七〇年
され,またイギリス会社は木綿工業および機械
代 初 め に は,一 般 に よ り 大 き い も の と な っ
工業において活動している。ロシアではある数
(107)
た」 。この時期には戦争が頻発した。アメリ
のイギリス会社が製鉄業・機械工業および化学
カ南北戦争,オーストリア・プロシャ戦争,パ
工業に従事している。産業企業への運動は,大
ラグアイ戦争,独仏戦争,メキシコでのフラン
陸およびアメリカの対外投資にも広がりつつあ
スの戦争とデンマーク戦争はイギリス対外投資
る。……ロシア化学工業においては,イギリス
を吸収した。このあとイギリスの対外投資は第
よりもドイツが目立っており,これら諸国は製
一次世界大戦勃発までの時代には好不況によっ
鉄業および製鋼業に出資している」 。
(105) 同,100 ページ。
(106) 同,100∼101 ページ。
(107) 同,104 ページ。
(108) 同,114 ページ。
(109)
歴史過程と原理論(犬塚)
41
急速に増加してこの数字をこえるようになるだ
こうしてこの第6章はつぎの文章で終わって
(110)
ろう」 。
いるとみていい。
「西欧諸国による現在の対外
投資率を年額三億ポンドと推定して,高く見積
なおホブソンはこの章の途中で,イギリスの
もりすぎてはいないだろう。この大きな額は,
国内・国外への証券投資にかんする表(表2)
一〇年ごとに増加して,ついには近代文明の基
を掲げているが,それはナッシュの著作を典拠
本的産業があまねく広がる時期がやってきた。
とするものということである。ホブソンによれ
終局的に起る問題は,遠隔の不在投資家が国内
ば,1881 年現在の数字ということである。表2
投資家――彼らはその地位や資本保護のために
の元金構成比と利子率はここで新たに計算した
有する便宜などからして,多少とも相当の利益
ものである。この表の利子総額 157,000 千ポン
を有するが――と競争しうるかどうかというこ
ドはこの表の各利子の和に一致しない。18,000
とである。けれども,現在では遠くから競争す
千ポンド多くなっている。しかしホブソンによ
る能力がおそらくより大きくなりつつあるだろ
れば,「外国および植民地証券のイギリス保有
う。イギリス投資家は外国投資家と競争して海
額」は「12 億 5,000 万ポンドであって,それか
外で事業を経営するために,
産業証券を買入れ,
らの収入は 5,250 万ポンドになる」
産業会社を設立したりしている。今日約三五億
ことであるから,その数字は表2の投資先欄の
ポンドに達しているイギリス対外投資は,将来
⑵,⑶,⑷,⑹,⑻の合計にそれぞれ一致して
表2
イギリスの国内・国外への証券投資(単位
投資先
⑴
⑵
⑶
⑷
⑸
⑹
⑺
⑻
⑼
⑽
⑾
⑿
⒀
(111)
国内政府債・銀行株その他
インド政府債・鉄道債
植民地政府債・市債その他
外国政府債・会社債
国内鉄道債権および株式
植民地および外国鉄道証券
国内銀行株
植民地および外国銀行株
保険財産
ガス・水道証券
電信会社
国内都市長期借入
その他の証券
計
元金
1,000ポンド,%)
(構成比)
利子
利子率
3.7
4.4
4.8
3.6
4.4
5.0
12.0
10.0
20.0
7.9
5.7
3.9
0.5
750,000
180,000
145,000
700,000
720,000
200.000
65,000
25,000
25,000
70,000
30,000
140,000
400,000
(21.7)
(5.2)
(4.2)
(20.3)
(20.9)
(5.8)
(1.9)
(0.7)
(0.7)
(2.0)
(0.9)
(4.1)
(11.6)
27,500
8,000
7,000
25,000
31,500
10,000
7,800
2,500
5,000
5,500
1,700
5,500
2,000
3,450,000
(100)
157,000
*
4.6
注)1.前掲,C. K. ホブソン『資本輸出論』,訳本,107ページの表より作成。
*
2. 各利子の合計はこの数字にならない。18,000千ポンド不足する。
3.利子率は各利子を各元金で除したものである。
4.この表は,ホブソンによれば,R. L. Nash, A Short Inquiry into the Profitable Nature of our Investments, p. 9. を典拠とするものということである。
(109) 同,115∼116 ページ。
(110) 同,117 ページ。
(111) 同,106 ページ。
という
42
第 14 巻
第3号
いる。⒀の「その他の証券」の利子率が異常に
はその「年々海外に投資されたものと推定され
低いので,その利子が実際より過少なのかもし
る資本額」
,即ち毎年の「資本輸出額」を,
「年々
れない。ともかく一応そう考えて投資先の国内
海外からえられたと推定されるイギリス投資の
と国外との利子率の違いをみてみよう。⑼の
利子」を「海外収入推定額」としてだし,それ
「保険財産」と⑺の「国内銀行株」と⑽の「ガ
から毎年「流入する利子と新規対外投資との間
ス・水道証券」とが異常に利子率が高く,⑾の
の差額」を差引いて求めるという方法
「電信会社」もやや高い。それをのぞくと概し
とっている。そしてその分析結果は「八〇年代
ていえば国外投資の利子率のほうがやや高いと
には概して資本流出が増大して,一八九〇年に
いっていいようである。元金のウエイトを考え
頂点に達し,それ以後は資本輸出はより低い水
ると,いっそうその確かさが増す。
準に落ちた。もっとも,一八九六年,九九年,
(114)
を
第7章「資本輸出と貿易差額」は資本輸出に
一九〇〇年にはいくらか回復した。南アフリカ
かんする統計上の確認作業である。まずイギリ
戦争後の新たなスランプにつづいて,一九〇五
スの輸入超過の過程であるが,数字は 1870 年
年以後は資本輸出は未聞の規模になり,その額
からしか与えられていない。輸入超過
(112)
は 19
はおそらく一九一二年に約二億ポンドになった
(115)
世紀末の大不況下では 75 年までは 7∼8 千万ポ
ろう」
ンドを上下しているが,75 年以後は1億 2,3 千
超過より 10 年ほど遅れて資本輸出の最盛期が
万ポンドほどに高くなっている。84 年から 88
出現していることになる。これによれば 19 世
年までは再び減じて,88 年以降は 1912 年まで
紀末の大不況は 20 世紀初頭のイギリス帝国主
というものである。さきにみた輸入
増加の一途をたどっている。この 1890 年代半
義段階確立期にたいするその移行期をなすこと
ば以降の時期がイギリスにおける本格的な帝国
がいよいよ明確になったといっていいであろ
主義段階とみていいであろう。海外投資額とそ
う。
れからえられる利子はもともと正確には知りえ
最後の第8章は「資本輸出と産業と移民」で
ないものであって,ホブソンはサー・ロバート・
あるが,たしかに資本輸出が増加するとその国
ギフェンの推定値と自らの推定値をあげてい
からの移民も増加する傾向があることは事実で
る。それによると,
「サー・ロバート・ギフェン
あろうが,そう直接的な関係にはないであろう。
は,海外投資額を一八八五年には一三億二〇〇
移民の多くは労働者としての移民であろうが,
万,一八九六年には一六億と計算した。利子率
それは労働者としての生活様式の問題もあり,
を五%とすれば,これに対する利子はそれぞれ
受け入れ側の社会的政治的要因等によって規定
六,五〇〇万および八,〇〇〇万であり,われわ
されることが多いはずである。事実,ホブソン
れの推定では六,四〇〇万および九,〇五〇万で
も「資本需要と労働需要とは同時に変動するか
(113)
ある」 。そして最後に問題は毎年の資本輸出
ら,対外投資の活況は一般に大量の移出民と対
額をいかにして推計するかであるが,ホブソン
応する。資本と労働との一差異は,前者の供給
(112) 輸入超過額の数字は訳本の 122 ページの表(ホブソンの本では表にはすべて表題がついていないのでこうする
ほかはない)では,輸入額,輸出額とも「財貨」と「金銀地金」の合計であり,1870 年以後すべて輸入額の方が
大きい。その差額が輸入超過額である。
(113) 同,146 ページ。
(114) それは訳本の 146 ページに説明されている。
(115) 同,147 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
は後者の供給にくらべて,需要増加に応じてよ
43
ずれかである。
り容易に増加するということであろう。だから
C.投資国←披投資国からの輸入増加
資本輸出の変動は移出民よりも広範囲であるこ
D.投資国→被投資国への輸出減少
とが予想される。というのは,資本はイギリス
このばあい利子支払いは輸入増加または輸出
労働者よりも急速に生産することができるから
(116)
である」
減少で相殺される。
といっているからである。
「イギリ
これを少し具体的に考えると,A のケースは
ス資本の輸出が阻止されても,移民はある程度
投資国を工業国とし,被投資国を農業国とする
行われようし,移民が停止しても対外投資はあ
関係の維持状態をあらわす。B のケースは被投
る程度行われるだろう。おそらく短期的には,
資国の工業化が開始され,投資国の農産物輸入
この相互依存関係は非常に密接ではないだろ
が 減 少 す る わ け で あ る。C の ケ ー ス は A の
(117)
う」
というのは事実である。どうもホブソ
ケースの拡大であって,農業国と工業国との対
ンにおいては経済的運動や歴史過程が商品経済
立関係が激化あるいは長期化したばあいをあら
的要因のみで展開されるという考え方が強いよ
わす。D のケースは反対に被投資国の工業化
うに思われる。資本輸出と移民との関係の問題
が発展したばあいをあらわす。このように工業
にはこれ以上検討することは避けて,彼の「結
国と農業国との対立状態から農業国の工業国へ
論」の検討にすすみたい。
の発展に向かうケースがありうるわけである
ホブソンはじつは対外投資の生ずるメカニズ
が,農業国のおかれた条件によっては,工業国
ムについての簡潔なシェーマを第7章劈頭にし
化への道が容易ではないケースがありうるわけ
めしていた。だがそのあとその説明に当たるも
である。とくに植民地化されて工業の発展が押
のはどこにも見当たらない。そのシェーマとは
さえられると,C のようなケースが出現すると
こうである。「本書の初めの方の諸章で,対外
みていいであろう。その代表として C にはイ
投資が生じるのは,投資国からの『輸出額』増
ンドを,D にはカナダをあげることができるで
加によるか,またはその『輸入額』減少による
あろう。このような植民地の二類型化は,C. K.
かの,いずれかであることを指摘しておいた。
ホブソンにも散見されはするのであるがきわめ
以前の投資に対する利子は,投資国への輸入増
て不明確である。その点は「結論」にもあらわ
加か,またはその輸出減少化の,いずれかの形
れている。
態で復帰することも前に指摘したところであ
(118)
る」
というのである。このホブソン説を整
理するとつぎの4つのケースになる。
海外投資が生ずるのはつぎのいずれかであ
る。
「結論」で注目すべき点は3点ほどある。第
一点は資本輸出が機械などの生産手段現物の形
態での輸出になることに注目している点であ
る。
「輸出資本は大部分は財貨の対外輸出の形
態」をとるのであって,
「資本輸出の過程で……
A.投資国→被投資国への輸出増加
資本財生産部門を刺激することになり,それに
B.投資国←被投資国からの輸入減少
よって投資国の国民産業の性格を変えることに
海外投資の利子の再投資が生ずるのは次のい
なる。かくて鉄輸出促進の結果は,農産物輸入
(116) 同,164 ページ。
(117) 同,164 ページ。
(118) 同,119 ページ。
44
第 14 巻
第3号
を促進し,国内農業を不景気にすることであろ
(119)
らかにしたい。第三の問題は海外投資が盛んに
という。たしかにイギリスはドイツ,ア
なった 19 世紀末以来一次大戦までの時期に,
メリカばかりではなくヨーロッパ全域に,そし
イギリス社会の階級構成がいかに変わったかと
てアジア,アフリカ,南部および北部アメリカ
いうことである。
「イギリスの財貨は海外財貨
に鉄道建設として資本を輸出したのであり,そ
と交換され,すべての関係諸国の利益になる。
のために世界に先駆けて鉄工業を建設した。そ
国民所得総額がより大きくなる事実は,結局は
れだけではない。各種産業資本に用いられる機
賃金労働者にとっても重要である。というの
械類も輸出したことは被投資国にいきなり産業
は,イギリス居住者によるその消費は,ある種
資本を形成させたことも重要な事実である。機
の産業での労働需要――たとえば芸術家,印刷
械類の輸出もたんなる個々の機械ではなく,資
工,裁縫師,召使,庭師,運転手その他自動車
本になりうる機械一式である。後進諸国にとっ
産業従事者に対する――の増加を意味するから
ては資本の集積を集中によって実現させること
である。かくて結局は,対外投資は賃金生活者
になったといっていい。鉄鋼業の発展はイギリ
の経済的運命の改善――資本の国内需要増加だ
スにとって,産業資本時代の終焉を加速する意
けでなく,労働者の需要増加――を生み出すこ
味をもつことにもなった。ただし同時にその産
とになり,それは利子率騰貴が相当の資本量を
業資本時代が典型的なものであったために,帝
所有しない人々におよぼす有害な影響にまさる
国主義段階への転換はきわめて不徹底なものに
であろう。けれどもイギリス海外投資が諸外国
ならざるをえなかったことはすでに瞥見した。
に与える利益は,それがイギリス賃金生活者に
同時に資本輸出をうけた国々では,産業資本時
与える利益よりもおそらく大きいであろう」
代が畸形的なものになるか,あるいはついに自
というのであるが,この特徴づけは事実の一面
立的な資本主義にはなりえないことにもなっ
に偏りすぎていることはもちろん否めない。重
た。
工業労働者の増加に伴う労働者階級の階層性,
う」
(121)
第二点はホブソンは「投資家を動かす主要動
この時代を覆う長期的な不況や失業問題の発
機は,国内投資によってえられるよりも高い貨
生,多様な相対的過剰人口の発生・増大など,
(120)
幣収益をえようとの期待である」
というが,
われわれがすでにみた事実は無視されている。
なぜ「高い貨幣収益」がえられるのかという根
それに被投資国は大きな利益をえたというのも
拠はしめされてはいない。それはたんなる生産
一面的な見方である。対外投資でえたイギリス
手段財貨の輸出ではなく,資本という価値増殖
の利益の源泉は被投資国の労働者や小生産者の
運動体そのものの貸付だからであって,それゆ
労働にもとづくという事実も完全に無視されて
えに証券発行というかたちになったのである
いる。けれどもイギリス資本主義がこの時代に
が,問題はそうなると,いかなる根拠で「国内
第3次産業従事者を大量に生みだし,それを海
投資によってえられるより高い貨幣収益」がえ
外投資に関連させたことは注目に値することで
られるのか,ということになる。それこそわれ
ある。問題の焦点がイギリス海外投資の利益が
われの問題の中枢をなすものであって,後に明
いかなるメカニズムによってもたらされたのか
(119) 同,166∼167 ページ。
(120) 同,167 ページ。
(121) 同,169 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
45
の解明にあることがいよいよ明確になったわけ
る『自由貿易の逆説』的作用が当面の問題にた
である。19 世紀 70 年代,80 年代にとくにイギ
いする一つの核心を提供するであろう。長文の
リスで明確に現われた大不況は,その産業資本
引用をあえて致したい」と。そしてつぎのよう
の発展が行き詰まり状態になって,金融資本の
にソウルの文章を引用する。「概して多角的〔貿
時代に転化する序曲をなす時代ではなかったか
易・決済〕制度のイギリス経済にとっての価値
ということはさきに示唆したところである。
は測りしれないものがあった。イギリス以外の
(122)
毛利健三の著書『自由貿易帝国主義』
・ ・ ・
は,
工業諸国が食糧・原料を入手するのに,かなら
その第6章「自由貿易と帝国――一九世紀末 -
ずしもその供給者にたいする工業製品の見返り
二〇世紀初頭のイギリス自由貿易帝国主義の構
輸出を強いられることなしにそうすることを可
造――」において,S. B. Soul の『1870-1914 年
能とすることによって,多角的制度は非ヨー
(123)
における「自由
ロッパ市場で多大の競争に直面していたイギリ
貿易の逆説」論を批判的に摂取してイギリス帝
スの輸出業者を救済した。さらに,ヨーロッパ
国主義研究に新たな一面を切り開く端緒を提示
とアメリカでイギリスが工業製品の市場を喪失
したものといっていいであろう。イギリス帝国
したことも,これらの地域との間の支払上の危
主義の特質を「自由貿易の逆説」論から説き明
機を招来しなかった。イギリスがその自由貿易
かそうという試みは,対象の性質に見合った有
政策から少しでも逸脱することを拒絶したとい
力な方法であると私も思うのであるが,ソウル
う事実に,この制度がどれほど多くを負ってい
にしても毛利にしてもイギリス帝国主義の特質
るかを熟考してみるのは関心をそそることであ
のイギリス海外貿易の研究』
の解明に成功しているとは思われないのであ
る。もし仮にイギリスが海外からの工業製品に
る。「自由貿易」がそれ自体としていかなる論
たいして防壁を築き,植民地特恵を拡張しよう
理でその反対の帝国主義的関係に転化するのか
と試みていたならば,工業的ヨーロッパも合衆
ということが必ずしも明確には展開されてはい
国もともに,自己の国内経済を大幅に修正しつ
ないからである。原著者ソウルにいたってはと
つ新たな供給源を追求する――たとえば,自国
くにそうである。毛利もその核心部分を紹介す
自身の植民地や有力な勢力圏を開発したり拡張
るのに困惑したかにみえる。われわれにしても
したりする――とか,あるいは工業製品の世界
ソウル説を示せ,といわれたら同じところを示
競争を強めるとか,せざるをえなくなっていた
さざるをえない。いささか重要なところなの
であろう。おそらく世界貿易の成長は鈍化し,
で,毛利が引用したところをそのままここに掲
国際的摩擦は増長していたであろう。……
(原)
げざるをえない。毛利はしかし,ソウルを引用
戦前における外国の競争にたいするイギリスの
するさいにつぎの断り書きをおいている。
「結
もっとも強力な保護装置の一つであったものこ
論からいえば,当段階(19 世紀末 -20 世紀初頭
そは,この『自由貿易の逆説』であった,とひ
の時期であって,それはソウルの原書の書名か
とはほとんど考えたくなるのである」 。これ
らも明らかである――犬塚)の世界経済におけ
が引用の全文である。このソウルの「自由貿易
(124)
(122) 毛利健三『自由貿易帝国主義――イギリス産業資本の世界展開――』,1978,東京大学出版会。
(123) S. B. Soul, Studies in British Overseas Trade 1870-1914. Liverpool, 1960. 邦訳,『世界貿易の構造とイギリス経
済』堀晋作・西村閑也訳,1974,法政大学出版局。原書を入手する機会がえられなかった。
(124) 前掲,毛利健三『自由貿易帝国主義』,373∼374 ページ。
46
第 14 巻
第3号
の逆説」論はじつはソウルの非凡たること示す
とを要求されていたことが逆に無意識的にイギ
ものなのであるが,それはもう少しのちに明か
リス帝国主義の本質をなすと感じていたので
したい。ここではこのソウルには帝国主義にた
あって,それが「自由貿易の逆説」論として現
いする認識に欠けているところがあるのは事実
われたわけである。毛利はこの「自由貿易の逆
である。毛利はこの点でソウルを批判せざるを
説」論を帝国主義論として再構成をこころみて
えなかったのであって,こういっている。
「ソー
いる。
ルの歴史理解の枠組みの基本的特質について当
その毛利によるソウル「逆説」論の再構成説
面の行論と直接かかわるかぎりで批判しておき
はこうである。
「多角的貿易 = 決済機構の発展
たい。それは一言にしていえば,ソールにおけ
として特徴づけられるこの時代の世界経済の発
る帝国主義批判視点の重大な制約性または欠如
展構造は,それが欧米先進資本主義諸国間にお
である,といえよう。……(犬塚)ソールの帝
ける実質上の帝国主義的世界市場分割協定を発
国主義理解には重大な限界が存在していた。し
展させたかぎりでは,たしかに一定の調和的機
たがって当然のことながら,ソールの帝国主義
能――イギリス資本主義にとっては『自由貿易
批判もまたこの制約のうちに跼蹐された矮小的
の逆説』機能――を具備していた。しかしわれ
形態とならざるをえない。かれが
『帝国主義者』
われはこの世界経済のいわゆる『調和』的発展
の視野狭窄を批判するとき,事実上,かれじし
の基底を見落としてはなるまい。……一面では
んは自由貿易至上主義者として自己を一面化せ
欧米資本主義の側における急速な工業化と帝国
ざるをえない。より具体的にいえば,
ここでは,
主義的膨脹があり,その反面ではこれに誘導さ
かれのもっともブリリアントな成果たる多角的
れ,かつ,強要された第一次産品生産・輸出経
貿易=決済機構が全立論の起点となり,この機
済の一面的かつ従属的発展があった。いいかえ
構の正常な運行にとっての正負の判断があたか
るまでもなく,多角的貿易=決済機構の発展の
も最高かつ唯一の判定基準であるかのごとく机
基礎はこのような帝国主義的国際分業体制の発
上に祭り上げられることになる。……(犬塚)
展にほかならず,欧米資本主義の強蓄積を支え
ここまではどんなに限定的な範囲内でではあれ
た最奥の坑木は欧米労働者および農民の膏血で
一定の『帝国主義』批判の意味をもちうるかも
あるとともに,それにもまして帝国主義的およ
しれない。しかし,この観点が植民地経済の
『発
び伝統的の二重の『野蛮』に呪縛された植民地
展』を視る場合にまで延長されるとき,明らか
住民大衆の労働の収奪農法的濫費と使い捨てで
にそれは客観的には帝国主義擁護のイデオロ
あった」 。これでは「帝国主義的国際分業体
(125)
(126)
ギーに転化せずにはいない」 。たしかに毛利
制の発展」以下,欧米資本主義一般とそのもと
のいうようにソウルにあっては帝国主義にたい
での植民地一般の被収奪的性格をのべているだ
する批判的認識は弱い。しかしソウルが真に主
けであって,毛利がせっかくソウルの「自由貿
張したかったことはイギリス帝国諸国が輸入す
易の逆説」論を積極的に評価しているにもかか
る工業製品にたいして関税を設定することをイ
わらず,
「イギリス帝国主義が『保護貿易帝国主
ギリスによって禁じられていたこと,したがっ
義』としてでなく,むしろ,『自由貿易の逆説』
てイギリス帝国諸国の貿易は自由貿易であるこ
帝国主義としてより適確に把握されうるがゆえ
(125) 同,375∼376 ページ。
(126) 同,377∼378 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
47
であり,かつまた,イギリス帝国主義が封鎖帝
ナポレオン戦争後の 1820 年代には「世界貿易
国ないし帝国隔離型の関税改革帝国主義ではな
を支配した多角的決済の汎世界網のひとつの大
く,明らかに開放帝国型の自由貿易帝国主義で
きな腕」
(127)
あったからである」
(128)
として打ちたてられたというし,直
といわれても納得する
接的には 19 世紀末以降何よりもイギリス帝国
のは困難である。ここでは前半では欧米資本主
主義を特徴づける資本輸出の盛行とともに発展
義一本として説きながら,後半ではイギリス帝
したことが重視されなければならないであろ
国主義に的を絞ったかたちで説き,しかも両者
う。そしてすぐのちにのべるようにこのことが
の関連を不問に附しているので,帝国主義一般
「自由貿易の逆説」に関連しているのである。
とイギリス帝国主義の「自由貿易」的性格の違
そして資本輸出と植民地の領有こそがイギリス
いがわかりにくくなっている。
「自由貿易の逆
帝国主義の核心をなすのであり,そのことはの
説」論は英独帝国主義一般論として説けるとい
ちに明らかにしようと思うのであるが,このイ
うことなのであろうか。それならそれで説明が
ギリスにおける資本輸出の帝国主義的意義につ
あるべきであろう。それに「多角的貿易=決済
いては毛利は何ら語るところはないのであ
機構の発展の基礎」は「帝国主義的国際分業体
る
(129)
。
制の発展」であるということも,後者の意味を
「自由貿易の逆説」の意味を説くべき段階に
含めて疑問である。国際分業体制とは国際農工
きた。多角貿易は,非ヨーロッパ市場で当時最
分業体制のことであろうが,この農工分業はイ
先進国としてのイギリスの工業製品輸出業者が
ギリスが資本主義を成立させて以来存在したの
当時の最高品質のイギリスの工業製品を,当時
であり,イギリスが綿製品の先進工業国として
の需給関係からいえば相対的に高価に輸出する
発展しているときにドイツ,アメリカは食糧・
ことを可能にした。他方では同様にイギリスの
原料供給農業国として対応したのであって,ド
輸入業者は非ヨーロッパ市場で食糧・原料を安
イツが工業国となったときには東欧諸国が農業
価に輸入することを可能にした。工業先進国は
国として対応したのであって,19 世紀末期まで
後進諸国が工業生産力をあげて競争者として現
は農工分業が固定していなかった。したがって
われるまえに,市場を広域化していわば売りま
毛利のいう農工国際分業は固定化した段階のこ
くろうとしたわけである。そのさい多角貿易制
とを意味しているのであり,したがってそれを
度は大いに役立った。そのことは同時に先進国
帝国主義的国際分業体制としているのかもしれ
輸入業者が多角貿易制度を利用してより限界的
ない。しかしソウルによれば,多角決済機構は
な食糧・原料生産地帯から食糧・原料を輸入す
(127) 同,378 ページ。
(128) S. B. ソウル,前掲,
『世界貿易の構造とイギリス経済』,堀晋作・西村閑也訳,1974,法政大学出版局 16 ページ。
なおソウルはこれにつづけてイギリスが 19 世紀末まで,綿工業国として工業品を輸出し,農産物を輸入する経済
大国として世界に君臨した様子をつぎのようにのべている。「一八七〇年まで,イギリスは世界貿易における非
常な優越性を保持していたのであって,その承認,製造業者および政治家が将来の諸問題に頭を悩まさなかった
ことについてはほとんど非難しがたいものがある。アメリカの南北戦争の後には,イギリスの商船隊は,トン数
に関するかぎり敵対者をもたなかった。その産業は,製造工業品の大洋貿易についてのほとんど無敵の独占を享
受した。その繊維は世界のもっとも古くまたもっとも有名な繊維産業の国内諸都市をあらしまわっていた。イギ
リスの資本,人および鉄は,世界のあらゆる地方で新開地をおしひろげ,世界貿易の量のほとんど際限のない拡
大という見通しをもたらしていたのである」(同翻訳書,16 ページ)。
48
第 14 巻
第3号
ることを意味する。むしろ積極的に食糧・原料
るものである。さらに生活必需品であるだけ
を輸入することによって購買力を相手に提供
に,それにあたるものは資本主義に先立つ諸社
し,それをもって工業製品を輸入せしめるわけ
会でもさまざまなかたちですでに最小限供給さ
である。多角的貿易=決済機構をロンドン金融
れていたものであるから,その有効需要は比較
市場につくったのはその先進国イギリスであ
的狭い限界内にある。そこでイギリスは綿工業
る。鉄道をつくったのもイギリスであり,それ
機械も輸出し始めた。この機械は重工業の装置
を資本の輸出をもっていわば全世界に建設し,
的生産力による生産物ではないから個別に販売
その鉄道の拡大を通じて商品市場を拡大した。
できるものである。イギリスでは 19 世紀末期
先進性というのも商品経済においては一種の独
になると綿織物は海外における競争者の増加も
占的地位なのである。
あって,高級品生産に傾斜していったことはす
しかしこうした工業製品の輸出,食糧・原料
でにみた。こうして自由貿易がすすめばすすむ
の輸入というのは,イギリスに後れて資本主義
ほどその展開が困難になるわけである。自由主
化した後進諸国も先を争って展開するのはいう
義段階の国別の工業生産力格差は,重工業段階
までもない。ドイツが 19 世紀半ば過ぎに自ら
とは異なって縮小し,平準化する傾向をもつと
を工業国とし,東欧を農業国としたのはその例
いっていい。これがソウルのいう「自由貿易の
である。そうすると自由貿易が展開すればする
逆説」である。端的にいえば先進性という独占
ほど工業生産力の格差は縮小し,市場は狭隘に
的地位
なり,自由貿易が困難になる。自由主義時代の
するほど自らを否定するという運命にある。綿
工業製品は綿製品を代表とする繊維製品ほか,
工業は資本主義の自由主義段階の生産力を前提
いわゆる軽工業製品であって,生活必需品に近
とするものであって,いわば個別的性格のもの
いものである。しかも重工業製品とは異なっ
である。そしてこの先進性という独占的地位の
て,海外でも比較的容易に生産することができ
喪失が 19 世紀末大不況としてあらわれたと考
(130)
はその地位による利益を行使すれば
(129) 毛利がイギリス資本輸出についてのべているのはつぎのことだけである。
「われわれは,……イギリス資本輸
出の構造が,イギリス自由貿易体制の構造的契機であるとともに不可欠の支柱であったことに再度注意しておき
たいとおもう。もとより,資本輸出は,イギリス自由貿易の構造形成,ならびに,それを枢軸とする世界経済の構
造形成に多面的に作用した。くりかえすことになるが,その総合的視点からの分析はここでの任務ではない。と
りあえず行論上,
(一)過剰資本の圧力緩和や利潤率低下傾向の歯止め作用,その一環としての商品輸出促進機能,
(二)国際収支面での――とりわけ一八七〇年代後半以降,最大の
あるいは,世界市場開拓の槓桿としての意義,
『見えざる』黒字項目となった海外投資収益の――巨大な貢献度,
(三)第一次産品生産諸国の輸出産業(食糧・
原料生産)
『開発』機能,別言すれば,低開発的発展の強制機構,
(四)多角的貿易・決済機構の歴史的形成促進と
維持拡大作用,等の諸点が銘記さるべきである。以上が,イギリス資本主義の観点からみてプラス要因であると
するならば,そのマイナス面も看過するわけにはいかないであろう。ほかならぬいまみたプラス要因のいくつか
は,一定の環境下ではマイナス的にも作用する。特定輸出産業への過大な依存は,転じて少数産業の肥大化と農
業部門の切り捨て,さらには,第三次産業への強度の傾斜を生みだすことによって,貿易・産業構造の不均衡化を
極大化し,いわゆる『新産業』の発達にとってはネガティブな経済環境として作用しつつ経済成長を鈍化させ,総
じて『寄生化』傾向と進取的気性の萎縮に向ってイギリス経済を押し流すであろう。イギリス資本輸出の亢進が
そのうちに宿した正負両面のこのような効果は,それじたいイギリス自由貿易体制の特殊に歴史的な構造を規定
する強力な要素であったのである」
(毛利,前掲書,343∼344 ページ)
。資本輸出は「イギリス自由貿易体制」の,
ではなくて,「イギリス帝国主義」の「構造的契機」なのであって,その分析がここでの任務なのである。
歴史過程と原理論(犬塚)
49
えられるのであり,しかもその大不況がイギリ
は,……産業に投ぜられる資本自身も株式会社
スでもっとも影響が大きかった理由でもあると
形式による資本家社会的資金によって供給され
考えられる。イギリスは長期的な資本の過剰に
ざるをえないことになるのであるが,イギリス
見舞われることになったのであり,その資本主
においてはそういう資金がすでに産業資本の時
義の構造の変革を迫られることになった。それ
代から海外投資に有利な投資口を見出していた
と同時にドイツをはじめとする有力な資本主義
のであって,それは国内の産業に対して金融せ
諸国はイギリスとは異なって,いわゆる独占的
られるいわゆる短期資金の市場としての貨幣市
保護関税制度を採用することになった。
場とならんで独特の資本市場を形成してきたの
19 世紀末の大不況の過程で,すでに瞥見した
(131)
であった」
という。資本の輸出はたんなる
ように一方ではこれまで資本主義をリードして
貨幣の貸付とは異なって,価値増殖運動体とし
きたイギリス綿工業はすでに最高の発展段階に
ての資本そのものの貸付けであって,
「多かれ
あって,それ以上の発展は望みえない状況下に
少なかれ持続的な資本関係をもつ投資とな
あり,他方では重工業もこの 19 世紀末の時期
る」
に世界に先駆けて登場しながらその自由貿易が
請するのは,たんなる後進国とは異なって,ほ
かえってそれ以上の発展を困難にし,すでに停
とんど資本関係がないところにいきなり資本を
滞的状況になっている。イギリスはその打開策
輸入するというのであって,資本の蓄積を資本
を資本の輸出と植民地の領有に求めた。資本の
の集中によって実現しようとするからである。
輸出は短期信用をあつかう貨幣市場では処理で
過剰資本に悩むイギリスにしてもそこに活路を
きないので,長期信用をあつかう資本市場を必
見出したわけである。まさに資本主義の生産様
要とする。多角貿易決済機構は貨幣市場ととも
式としては衰退期に,しかし生産力的にはより
に資本市場をすでに形成していた。比較的はや
高度な生産力を導入しつつある時期に,特徴的
くから行われていた外国政府,あるいは自治体
にあらわれる資本形態をもって資本を輸出しよ
の発行する公債の引受業務を多角決済機構はす
うとするわけである。いいかえればもともと原
でに行っていた。宇野弘蔵によれば「一般的に
理論においては具体的には存在しえないで,た
いえば資本主義の発展の一定の段階において
んなる理念としてあらわれるにすぎない「それ
(132)
のである。後進諸国が資本の輸入を要
(130) この「独占的地位」という考え方はレーニンからえたものである。レーニン『帝国主義』,第4章冒頭の部分に,
「個々の企業,個々の産業部門,個々の国の発展における不均等性と飛躍性とは,資本主義のもとでは不可避で
ある。最初イギリスが他の国々にさきんじて資本主義国となり,一九世紀なかごろには自由貿易制度を採用して,
みずからは『世界の工場』の役割を,すなわちすべての国への製造品の供給者としての役割をひきうけ,他の国々
には,この製造品とひきかえに,イギリスにたいして原料を提供するように要求した。だが,イギリスのこの独
占は,すでに一九世紀の最後の四半世紀にくつがえされた。なぜなら,一連の他の国々が,
『保護』関税にまもら
れて,自立的な資本主義国家に発展したからである。二〇世紀のしきいぎわになると,われわれは,他の種類の
独占の形成をみる。すなわち,第一には,資本主義の発達したすべての国における資本家たちの独占団体の形成
であり,第二には,資本の蓄積が巨大な規模に達した少数のもっとも富んだ国々の独占的地位の形成である。先
進諸国では,尨大な『資本の過剰』が生じたのである」
(レーニン『帝国主義』宇高基輔訳,岩波文庫,102 ペー
ジ)この文中,最後にでてくる第二の「独占的地位」は英独を対象にしてのものであろうが,むしろイギリスにこ
そあてはまると考えられる。
(131) 前掲,『宇野弘蔵著作集』⑦,198∼199 ページ。
(132) 同,⑦,203 ページ注1。
50
第 14 巻
第3号
自身に利子を生むものとしての資本」が株式資
(133)
後半には「株式銀行間の合同,ロンドン銀行の
。いわば資
地方銀行,ロンドン = 地方銀行との合同」が行
本主義の将来を先取りしていた理念としての形
われたが,問題はこの後半の時期である。農村
態が,19 世紀末になって実体を捉えるにいたる
地帯にある地方銀行は,地主・農業者の資金を
のであるが,その実体はもはや純粋の商品経済
集中して工業設備投資に要する長期信用の需要
のみで成り立っているものではないのである。
に応じていた。しかし銀行は本来商業信用とし
金融資本はそういう「それ自身に利子を生むも
ての短期信用を原則としているので,長期信用
のとしての資本」の現実化した株式資本を基礎
を授与するためには「商人,機械製造業者,建
本として現実化することになる
にして成立するのであり,その点はドイツの金
築業者などのその産業に対する精通を利用し
融資本も同様であるが,ドイツと異なって,生
て,彼らを産業と銀行との間の信用仲介人たら
産力的基礎は弱い。もっぱら海外投資を基礎と
しめることによって,銀行が貸付長期化の危険
する金融資本になっている。イギリス帝国主義
を転化する方法」
は金利生活者的帝国主義なのである。自由貿易
が,この独占期後半の時期に,ロンドンの大銀
帝国主義はそのことを基礎とするものなのであ
行によるこの地方銀行の合併が行われた。その
る。
結果生まれた「ロンドン=地方銀行」は両者の
(135)
がとられていたのである
これまでの論述からイギリス帝国主義の核心
特色を包括したものになる。
「それは地方業務
が海外投資にあることが明らかになったが,そ
における高収益と貸付資金の固定化とをロンド
の海外投資の本質がどこにあったのかがつぎの
ン業務における流動化によって安全性を確保
問題になる。それを明らかにしようとしたのが
し,ロンドン業務の低収益と流動性とを地方業
志賀金吾の一連の論文である。それをなるべく
務の高収益によって補足するという資金運用機
簡潔に紹介したい。志賀はまず 1952 年発表の
構の確立」
(134)
「独占期のイギリス預金銀行」
(136)
を意味する。「しかし銀行集中に
で 19 世紀の
よる大銀行の形成は信用授与の最高決定機関で
ほぼ 90 年から第1次世界大戦勃発までの独占
ある重役会をロンドン,あるいは大都市に移転
期における銀行の合同・集中運動から説きおこ
せしめた。そのため,工業信用の基礎をなして
す。この時期の前半は「株式銀行による個人銀
いた地方の特殊事情に基づく人的信頼は切断さ
行の合併,地方銀行のロンドン進出」が行われ,
れざるをえない」 。しかしこうして「独占期
(137)
(133) 資本の輸出とは一種の資本の貸付ではあるが,産業資本の生産物販売期間に発生する遊休資本を銀行を介して
短期間貸付けるいわゆる貸付資本ではない。資本の輸出とは本来自己の所有する資本をみずから産業資本として
投下できる資本を全体として貸付けるのであって,そのばあいの利子は,さきの遊休資本を貸付けるばあいに必
然的に発生する利子とは異なって,資本自身が利子率を決定できるものではない。資本全体を貸付けるばあいの
利子は「貸付市場の利子を反映するにすぎない。反映するものとしてそれ自身に利子を生むものとなるのである。
そしてその反映が商業活動によって代表される資本家的活動にたいする企業利潤をとおして,資本一般にたいし
て行われるのである」
(『宇野弘蔵著作集』②〔経済原論Ⅱ〕,445 ページ)。そういう意味で輸出資本も「それ自身
に利子を生むものとしての資本」の現実化したものとみなしうるのである。
(134) 志賀金吾「独占期のイギリス預金銀行」,宇野弘蔵教授還暦記念論文集『マルクス経済学体系』,下,1957,岩波
書店,所収。
(135) 前掲書,252 ページ。
(136) 同,245 ページ。
(137) 同,252 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
51
における産業企業の大規模化に伴って,資金需
極的に規定すべきものは他に求めなければなら
要が増加するから銀行も短期信用原則に制約さ
ないということになる。
れながらもそれに対応せざるをえない。その形
志賀は 1962 年の論文「イギリスの海外投資
(142)
式は独占期におけるドイツの銀行とほぼ同様で
序論」
ある。すなわち,大銀行の工業信用は当座貸越
行と産業との間には設備信用関係はあったが,
と証券発行の結合によって行われる。そこでは
融合関係は存在せず,それでは自由競争を阻害
産業は当座貸越形式の信用を利用して工場の拡
することにはならないとして,大銀行が産業に
張,機械の設置をなし,完了後に社債ないし優
「設備信用を授与し,その資金の返済にあたっ
先株などの株式発行によって銀行信用の返済が
て,証券発行を銀行が引受けるからこそ産業と
(138)
でいわゆる独占期のイギリスには銀
行われる」 。こうして「イギリスの預金銀行
銀行の関係が永続化し,一体化するのである。
は……十九世紀末から二十世紀初頭にかけての
この関係が融合といわれるものである」
集中運動において,独占的な大銀行に発展した。
いって,こういう関係がイギリスの海外投資に
その過程で見られる特質は大銀行がすべてロン
認められるかどうかを検証する作業にとりかか
ドン = 地方銀行の形態を採ったということであ
る。イギリスは 19 世紀末の大不況の過程で,
る。この大銀行は産業資本期の典型的な商業銀
輸出は輸入の3分の2にしかならず,その輸出
行たるロンドン銀行とは異なって,産業企業に
の最大部分を占めるのは繊維製品であって,鉄
多額な資金を投下している。また地方の特殊産
鋼製品はそれより遥かに少ないし,90 年代にな
業の要請と結合した地方銀行とも異なって,ロ
ると,その鉄鋼製品の輸出がアメリカ,ついで
ンドン金融市場と密接な関係をもち,イギリス
ドイツに追いぬかれることはわれわれもすでに
の経済活動,とくに海外経済活動を間接的にで
みた。輸入では相変わらず繊維原料と穀物がそ
はあるが支持している個々に独占期の預金銀行
の大部分を占めた。イギリスはいまだに自国を
が典型的な商業銀行とはいえない理由があっ
工業国とし,他国を農業国とする関係を維持し
(139)
(143)
と
た」 。しかしロンドン金融市場の「産業に対
ていたのである。莫大な入超は海外投資の利子
する場合は長期信用授与を証券発行によって流
をもって賄われたというのが志賀の見解であ
動化する独占期の特質が見られたにも拘らず,
る。
「そこで問題はつぎのようになる。資本主
それが銀行自身の発行でないために,銀行信用
義が独占段階に達したときにイギリスにはなお
は短期信用原則の制約をうけることになる。こ
独占体の形成は見られなかった原因の解明には
れは商業銀行の性格を完全に止揚するものでは
この海外投資の影響を考慮しなければならない
(140)
ない」
というべきものであって,
「ドイツ大
のではないかということである。事実,イギリ
銀行が自ら発行業務を行い,証券取引所を掌握
スの海外投資はナポレオン戦争後からすでに初
(141)
するのとは著しく異なる」
といわなければ
ならない。こうしてイギリス金融資本として積
( 原 ) ま り,第 一 次 大 戦 直 前 に は 約 40 億 磅
(144)
に」
あ が り,国 内 投 資 額 の 約 3 倍 に 達 す
(138) 同,252 ページ。
(139) 同,254 ページ。
(140) 同,252 ページ。
(141) 同,254∼255 ページ。
(142) 志賀金吾「イギリスの海外投資序論」,岐阜大学学芸学部研究報告 11 号,1962,所収。
(143) 前掲書,52 ページ。
52
(145)
る
第 14 巻
第3号
認めるところであって,金融資本構造解明に
。
ついでレーニンと J. A. ホブソンとにおける
資本輸出の根拠の解明を批判する。
「ホブソン
とっての海外投資の意義は決定的であると見て
(147)
よい」 。
もレーニンと同様に資本の輸出を資本の過剰に
ついでイギリス海外投資の実態を明かにす
あると見ていることは疑いない。しかし彼はこ
る。1825∼30 年にすでにイギリスの海外投資
のような過剰な商品及び過剰な資本がいかにし
は 約 1 億 磅 に あ が る と 見 ら れ,1854 年 に は
て発生するかは必ずしも明かにしていない。た
195-230 百万磅に達し,
「イギリス海外投資の特
だ,『新市場および投資区域の開発を要求する
色である証券投資がこの時代すでに看取される
ものは,産業の進歩ではなくして消費力の悪分
のであって,その大半は外国政府公債への投資
配であり,それが商品及び資本の国内における
であったこと興味深い」
(146)
消化を妨げている。』
(148)
という。大不況期
という点からすれば,
に入るとヨーロッパ,南アメリカなどの利子不
彼の論拠は資本主義社会における所得分配の不
払いによって減少しさえしたが,80 年代には約
合理性が資本過剰の原因となりそうである。
4億磅を加え,90 年初めには 17 億磅に達した。
レーニンの場合は資本の輸出の章に先だって産
「ここで注目すべきことはイギリス海外投資が
業独占や産業と結合した金融寡頭制が説かれて
これまで単に植民地にかぎらず,殆んどあらゆ
いる。その点から見ると,資本の過剰とはもち
る国々に投資されていたことである。ロシア,
ろん産業発展の不均等性にあるにしても,それ
ドイツ,アメリカ,更にトルコ,ギリシャなど
を作り出すものは産業と銀行が融合した独占体
にも投資された」 。しかし植民地拡大ととも
であって,資本の輸出はその独占体の行動とい
に,投資の重点は英帝国領に移る傾向があった。
うことになりそうである。もしそうだとすると
80 年以降はアフリカ分割に代表される「世界の
独占体の形成を見ないままで海外投資が活発に
分割」とならんで,再び活発になった。しかし
行われたというイギリスの事実はレーニンによ
「イギリスの海外投資はこの時期にきわめて不
るとどう解すればよいのであろうか。またホブ
統一に行われた。70 年代以降の投資が未開発
ソンの場合資本過剰の原因を資本主義社会の所
諸国により多く行われるようになったことは事
得配分の不平等一般に求めているとすれば,資
実であるが,投資地も投資事業も分散していた
本主義社会である限り,常に資本過剰が存在す
ことは争いえないことである」 。
(149)
(150)
ることになって,帝国主義段階の資本輸出を説
イギリスの海外投資が飛躍的に増加するのは
明するにはあまりに素朴な理論過ぎるのであ
ボーア戦争後の不況から回復した 1904 年以降
る。しかし,いずれにしても資本輸出が帝国主
である。カナダとアルゼンチンの鉄道投資を
義の経済的な内容であることは両者とも等しく
もって新段階に入った。メキシコ,ブラジル,
(144) 同,54 ページ。
(145) 同,54 ページ,表8による。
(146) この引用文はホブソンの原書からのものであって,矢内原忠雄訳『帝国主義論』
(岩波文庫)では上巻,142 ペー
ジにある。
(147) 前掲,志賀「イギリス海外投資序論」,55∼56 ページ。
(148) 前掲書,56∼57 ページ。
(149) 同,57 ページ。
(150) 同,57 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
53
チリなどの南アメリカ諸国,エジプト,アフリ
の利回りがそれぞれ 3.18%,3.61%,であった
カ東,西海岸の植民地が少額の資金を吸収した。
ことを思えばかなりの高率である。……このよ
インドや極東諸国もロシアとオーストラリアと
うな海外投資証券の発行及び売買を仲介する金
同じようにイギリス資本を吸収した。そして
融業者の利得はイギリスが植民地その他の海外
「1904-7 年のイギリス海外投資は急速に増加
勢力圏の維持に要する費用を一般的な国民の負
し,1907 年には年間だけで 140 百万磅に上が
担としながらえられるのであって,莫大な額に
り,1872 年の最高を凌駕した。……10 年から
上るのである」 。
(152)
は更に一層の増加が起こる。このような 20 世
ついで志賀はこの海外投資の担い手の性格を
紀に入ってからの海外投資について,C. K. ホ
問 題 に す る。
「 独占 期 の マ ーチ ャン ト・バ ン
ブソンは次ぎのように言う。
『この巨額の投資
カー」
目標はなお,世界各地における鉄道建設であり,
は,すでに,自由主義段階において,海外資本
ドッグ,水道,ガス,電燈,電信,電車,など
の調達機構として確立し,その後,ロンドンが
がたえず新資本を需要する重要な企業グループ
世界金融の中心となってもその構造はほとんど
をなした。……以上の分野の外にも以前から優
不変のままであった。ところが九〇年の恐慌後
勢であった,鉱山,植栽事業,土地抵当,銀行,
は,海外証券の不信もあって,従来,地方市場
信託,保険,貿易などの事業が加わった。また
で発行されていた国内証券のロンドン市場進出
新しい傾向としては製造工業への投資が北アメ
が目立ちはじめた。ロンドン市場における国内
リカ,インド,ロシアに向かったのである』
。つ
投資と海外投資の競合関係がようやく成立した
まり,この時期の投資は新しい各種の事業に及
わけである。それでも,ロンドンは依然として
び地域的にも,世界のあらゆる地域にわたり特
海外証券の優位をくずさなかったばかりでな
に新しく領有された植民地に限られるものでは
く,二〇世紀に入ってからは,九〇年代に減退
なかった。さらに注目すべきはこれらが植民地
した海外投資をとりもどす増発さえおこなわれ
及び諸外国の公債,市債,株式その他の有価証
た」 。この海外証券を発行する業務を行う金
券の発行,購入によって行われたということで
融機関は四つに分類できる。
「第一のグループ
(151)
(153)
がそれである。「ロンドン資本市場
(154)
ある」 。こうして志賀は最後に,海外投資の
は二〇世紀初頭まで発行業務を支配した強力な
利子率が高率なものとなることを指摘してこの
個人銀行商会で,引受業務をも兼営するところ
序論を閉じる。「証券による投資にたいする年
から引受商会とも呼ばれ,マーチャント・バン
平均純収入は 1890-4 年で 45.6 百万磅,1900-4
カーと総称される。かれらは二,三の投資信託
年で 21.3 百万磅,1910-13 年では実に 185 百万
や保険会社の取締役を兼ねるという例外はあっ
磅という莫大な額に上った。上の数字を収益率
ても,産業会社の役員を兼ねることはない。そ
に直してみると,1900-4 年には,
植民地 3.33%,
の最大の特色は産業への不干渉である。第二の
外国 5.39%,1905-9 年には植民地 3.94%,外
グループは第一のグループに比較すれば,規模
国 4.87%になる。これは同年のコンソル公債
の小さい個人銀行で構成され,大体において,
(151) 同,58 ページ。
(152) 同,58∼59 ページ。
(153) 志賀金吾「独占期のマーチャント・バンカー」,末永茂喜教授還暦記念論文集,
『経済学の方法』,1968,日本評
論社,所収。
(154) 前掲書,287 ページ。
54
第 14 巻
第3号
(156)
外国政府公債,鉄道公債の発行が主たる業務で
受業務に従事するが,規模の小さい商会」
あった。かれらは引受商会や発行仲買人と共に
ある。このうちロンドン資本市場における重要
のみ,多くの外債や鉄道債のうちでも小口のも
な地位からみると,発行業務を主体にしている
の,多数の植民地借款を取扱い,また,しばし
第一のグループこそマーチャント・バンカーの
ば,産業証券の発行を引受けたといわれる。第
代表者といわなければならない。かれらは三つ
三のグループは発起や引受保証に従事する無数
の業務を行う。第一は銀行引受というかたちで
の金融会社,不動産会社,投資会社からなり,
短期商業信用を授与すること,第二は短期債券
その種類も多様であった。あるものは多方面に
の発行による財政上の信用調整,第三は外国産
わたり,あるものは一事業に専門化していた。
業または外国政府のためにロンドンにおいて長
第四のグループは投資信託である。かれらは大
期債券を発行すること,であるが,このうち第
胆さと注意深い判断との組合わせによって,著
二は第一の附随と見なしうるので,第一と第三
しい発展をとげ,特にアメリカにおける政府公
が重要な業務となる。
債及び事業債の大部分を引受けたといわれ
(155)
で
要するに証券引受業務と発行業務とを結合し
る」 。この四つのグループのうち重要なのは
て行なわなければならないのであり,ヨーロッ
第一のものであって,第一次大戦直後までのイ
パ大陸の信用銀行においては「本来の意味での
ギリス全体の海外投資額 40 億ポンドのうちの
短期信用を交互計算業務によって長期固定的に
三分の一に当たる 13 億 5000 万ポンドがこの
貸付け,それを流動化するために,株式を発行
マーチャント・バンカーによって発行されたと
する」ことが行われ,この「二つの業務は必然
いわれる。
性をもって結び付いている。ところがマーチャ
このマーチャント・バンカーはさらに三つの
ント・バンカーは引受信用という短期業務と証
グループに分類できる。
「第一のグループは引
券発行という長期信用業務を営んでいるという
受商会本来の業務である手形の引受とは別に,
だけで,二つの業務の間には必然的な結びつき
ロンドンで外国公債の大部分を発行してきたと
はない」
ころの六つの商会,すなわちベアリング,ハン
ては大陸の信用銀行とは異なって産業との関係
ブロス,ラザート,モルガン・グレンフェル,
が全然ないのである。引受業務の「立場に立て
ロスチャイルド,シュレーダーを含んでいる。
ば,偶発事件の場合に流動化されないような貨
これに対して,第二のグループはほとんど引受
幣の固定化をなすべきでないという短期資金運
業務に専念して,補助サーヴィスとして発行業
用原理が出てくる。換言すれば,手形引受その
務を営むにすぎないものである。……最後の第
ものが短期債務であるから,その支払い要求に
三のグループとしては第二のグループ同様,引
対して,流動性を維持するという預金銀行の短
(157)
のであって,もともとかれらにあっ
(155) 同,288 ページ。
(156) 同,292∼293 ページ。なおここに掲げられている有名なマーチャント・バンカーは「『大部分がイギリスの国籍
をもち,その個性をイギリス国家の中に没入した』人々であるが,その出身は若干のイギリス人を除いてほとん
ど外国人である。換言すれば『最高のマーチャント・バンカーで,しかも,今日,世界的名声を享受しているもの
はベアリングとロスチャイルドである。ベアリング家の祖先は一八世紀中葉にブレーメンから移住した牧師で
あった。ロンドンのロスチャイルド家は一九世紀の最初の頃に,フランクフルトの旧家の三番目の子息によって
おこされた』というように,大部分のものは外国人を祖先としている」(同,293 ページ)。
(157) 同,295 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
55
期信用と同じ要請にとって,また,かれらの手
で,資力の不足をおぎなうなんらかの手段を見
形引受が預金銀行の短期信用のような国内信用
つけだすために,ロンドン市場で海外証券が発
と異なって,国際信用に属するものであるから,
行される場合の慣習ないしは形式が考察されな
信用撹乱の可能性にそなえて,いっそう,流動
ければならない」
(160)
ことになる。
性を維持しなければならないという二重の要請
以下,志賀の展開する論旨を紹介しよう。ま
に よ っ て,資 金 運 用 に 制 限 が 加 え ら れ て い
ず植民地証券の発行におけるマーチャント・バ
(158)
る」
ということになる。いずれにしても,か
ンカーの役割をのべる。その証券発行には従
れらの資金運用が短期的なものに制限されてい
来,
競売と固定価格によるものがあったが,
ボー
ることには変わりはない。ではなぜ,ドイツの
ア戦争を契機にして次第に後者が主流になっ
ばあいのように生産を掌握しないで,しかし一
た。
「戦争がイギリス国債の発行を必然化した
方では公権力を利用し,他方ではあらゆる商品
ことによって,シティが圧迫される結果となっ
経済的強制関係――といっても純粋の商品経済
たからである。つまり,それだけ植民地証券発
ではなく阻害されたかたちの商品経済関係――
行の資金が逼迫したわけである」 。植民地政
を動員して,あのような膨大な発行業務を行い
府はシティのアンダーライターに証券発行の引
えたのか。
受保証を依頼した。ロンドン市場においてはア
(161)
マーチャント・バンカーの「資本力」
(資本金
ンダーライティングを含む固定価格発行が主流
と積立金の合計)は一社当たり平均で 100 万ポ
をなしていた。この形式の中心になる機関はア
ンド程度とみられるが,これだけではもちろん
ンダーライターであって,それは「富裕な商人
不足である。運用資金を構成する他の主要素と
(マーチャント・バンカー)
」,保険会社,銀行,
しては預金があり,しかもそれは外国からの定
投資信託,仲買人から構成されている。「外国
期性ものであるが,預金全体は五大銀行のいず
政府,植民地,地方自治体の諸公債,または外
れの一つに比べても問題にならないほど少な
国の会社の株式を発行する場合,一定の期日に
い。また発行証券の応募者からの資金を利用す
支払うという約束の下に,借手はアンダーライ
るばあいに,
「マーチャント・バンカーが市場で
ターと保証契約を結ぶのであるが,アンダーラ
証券を発行する時期と借手に支払いを要求され
イターはその証券をながく保有する意図がない
(159)
る時期との間には約二週間が存在する」
と
から,利益をうるならばできるだけ早く,これ
いう慣行があって,その利用によって利益を上
らの証券を売却しようとする。もし,これら証
げうるが,それも発行にたいする応募が順調に
券に売れ残りの危険があるならば,このアン
行われるときに限られる。こういうわけで,こ
ダーライターは他の金融機関とシンジケートを
れまでイギリスの膨大な海外投資の三分の一を
形成して自己の危険をさらに分割する。これが
引受けていたマーチャント・バンカーにとって
アンダーライティングの制度」
はその任に耐えられない資本力である。
「そこ
ンダーライターの受けとる手数料は仲介的なも
(158) 同,295∼296 ページ。
(159) 同,298∼299 ページ。
(160) 同,300 ページ。
(161) 同,301 ページ。
(162) 同,302 ページ。
(162)
である。ア
56
第 14 巻
第3号
のであるから一%という低率が普通である。極
ギリスにおいては両者の信用関係を円滑にする
端に投機的なものや南アメリカ公債のような大
にすぎない……いいかえればマーチャント・バ
衆にあまり知られていないものは五%にも上る
ンカーとは投資信託に見られる重役交換という
ことがあった。
ことは,マーチャント・バンカーの業務計画に
このアンダーライターのうちで指導力をもつ
基づいて投資信託の資金運用が規定されるとい
ものがマーチャント・バンカーである。かれは
う意味に解すべきではない。……両者の間の
アンダーライティング制度において元引受業者
『人的交流によって生ずる親密さは,特定の
(main underwriter)として,直接に借手と契
マーチャント・バンカーが従事している借款の
約し,その一部を下引受業者(subunderwriter)
アンダーライティングを,これらの投資信託に
に責任を分担させるということで,シンジケー
よって容易にする』というにすぎないのであ
トを形成するからである。そのばあいシンジ
る」 。こうしてアンダーライティングを媒介
ケートの主導権をにぎるのはマーチャント・バ
にして他の諸機関の資本が動員できるとすれ
ンカーであって,他の金融業者はシンジケート
ば,マーチャント・バンカーの資本の動員力は
に参加するもののサブアンダーライターとして
その範囲を拡大することになる。ただこのマー
その資金を動員される立場にある。
「したがっ
チャント・バンカーによる資本の動員による海
て,マーチャント・バンカーの資本力が,独力
外投資は,すでにイギリス資本主義の産業資本
では膨大な海外投資にたええないものであって
の発展に陰りがみえ始めたことを前提とする資
も,他の金融機関の資金を加えることによって,
本の過剰に由来するものといっていいのではな
それが可能となるのである。換言すれば,アン
いであろうか。
(164)
ダーライティング制度は,本来,純粋媒介的な
最後に志賀はマーチャント・バンカーの利潤
手段であったものがマーチャント・バンカーに
についてのべている。その中に重要な問題提起
利用されると,一種の資本を動員する手段に転
があるが,それは最後に指摘したい。手数料は
(163)
化するというわけである」 。そのことはマー
すでにみたように通常は一%程度であるから大
チャント・バンカーが自己の組織力によって他
きなものではない。ただ危険度が増大すれば,
人の資金をも自己の支配下に置くという意味を
さきにみた南アメリカ公債のばあいのように五
もつであろう。
%にもおよぶことがあるが,
これは稀だという。
「この下引受業者は,アンダーライターと同
「もともと,マーチャント・バンカーが取扱う
じ機関,即ち,保険業者,銀行,投資信託,仲
証券は高級証券といわれ,信用度の高いもので
買人である。その中でもっとも重要なものは投
あったから,例外的な事例をのぞいては五%に
資信託と保険会社である。これらの機関とマー
上ることはなかったといってよいからである。
チャント・バンカーとの間には,主引受業者(元
……かれらの取扱う証券は,中国,メキシコ,
引受業者?――犬塚)と下引受業者との関係以
ブラジルのような国が発行する国債,ニュー・
上の密接な関係さえ結ばれている。たとえば,
ヨークやベルゲンなどの地方団体が発行する地
両者の間の重役交換がそれである。しかし,ド
方債,その他,外国の電話,輸送会社の株式で
イツの場合では融合をあらわす人的交流も,イ
あって,ロンドン市場で発行される高級証券の
(163) 同,303 ページ。
(164) 同,304∼305 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
57
半ばをしめていたということである。……いず
純粋の商品経済的行為とは原理論に実存しうる
れにしても,手数料を利潤だとすれば,かれら
ものという意味のものである。擬制資本として
(165)
という。
の株式や証券の実在そのものが原理論では解明
だが「手数料のみを利潤とすることは,発行
しえないものであるし,したがって創業利得そ
価格が投資大衆に売られる価格とすることであ
のものがそうである。創業利得そのものが資本
るが,固定価格発行の場合でもほとんどありえ
主義的に「公正」であっても流通過程から生産
ないことである。したがって,発行過程におい
過程におよぶ過程において収奪した価値にほか
て価格に変化が起れば,そこから利潤を引出す
ならないのであって,原理論では説けないもの
ことができる。たとえば,有力な政府公債や第
である
一級の植民地証券の場合では,大衆が公債の成
ある。
の利潤は莫大なものとは思えない」
(168)
。いわば阻害された商品経済なので
功を信頼し,さらに,株式取引所の状態がその
それはともかく,志賀はつぎのようにまとめ
公債発行に有利に展開すれば,証券価格は騰貴
る。
「マーチャント・バンカーはロンドン市場
し,販売価格と発行価格との差がプレミアムと
で発行される海外証券の約半数に直接,間接に
なって発行業者の手に帰するのである。これは
関係し,その場合,他の金融会社と結びついて,
一種の創業利得というわけであるから,優良証
資本動員力とも言うべき組織を形成することが
券を取扱うマーチャント・バンカーの高い名声
明らかとなった。そして,組織を背景として高
によるものであって,騰貴による市場操作の結
い信用を維持し,巨大な利潤を獲得したのであ
(166)
(169)
と志賀はいうのであり,さらに
る」 。問題はマーチャント・バンカーの支配
「マーチャント・バンカーの獲得する利潤は正
力なり組織力の歴史的意味である。それは「ド
確なことはもちろん不明であるが,かれらの名
イツの信用銀行に見られるような金融資本の,
声に対して支払われるものとしては公正なもの
いわゆる金融と産業の融合をあらわす独占体の
果ではない」
(167)
であると考えてよいであろう」
というとき,
組織力ではないということである。そのこと
それ自体は間違いとはいえないが,
「公正」をい
は,マーチャント・バンカーが結成するシンジ
かなるものとして捉えるかにもよるが,純粋に
ケートが永続的なものでなく,また産業にも
商品経済的行為ではないことはたしかである。
まったく関係がないことによく表現されてい
(165) 同,306 ページ。
(166) 同,306∼307 ページ。
(167) 同,307 ページ。
(168) 宇野は「演習
経済原論」において,つぎのようにいっている。
「たんに配当を受けるにすぎない資本家は,資
本の人格化した資本家としての原理的規定に欠けるのにたいして,他人資本をできるだけ利用する資本家は,原
理的規定をいわばはみでるものとなる。したがってまた株式会社形式が支配的な資本主義社会の産業間の関係
は,たとえば特定の産業が特殊の発展をなし,産業によっては旧来の小生産者的なるものとしていつまでも残る
ということにもなる。それは原理が想定しなければならない純粋の資本主義社会に近接しつつある状況とはいえ
ないものとなるのである。段階論的解明を要するゆえんをなすわけである。したがってここで与えられた規定
(株式会社の資本――犬塚)は,そのまま原理論の想定する純粋の資本主義社会で展開されるというのではなく,
それ自身に利子を生むものとしての資本,という原理的規定が,資本を商品化する基礎となることを明らかにす
るにすぎないのであって,それは具体的に株式会社制度を解明しようとするものではない」(『宇野弘蔵著作集』
②,448∼449 ページ)。これは注目すべき見解であるように思われる。
(169) 志賀,前掲論文,308 ページ。
58
第 14 巻
第3号
る。……そこに見られるシンジケートは確かに
一種の創業利得というわけであるから,優良証
組織力であるには違いない。そこに,イギリス
券を取扱うマーチャント・バンカーの高い名声
金融資本の特色である寄生性と退廃性があると
によるものであって,投機による市場操作の結
(170)
いってもよいであろう」
といってこの論文
を閉じるのである。
果ではない」といい,マーチャント・バンカー
の「名声に対して支払われるものとしては公正
だがここでこの寄生性と退廃性の内容をこの
なものであると考えてよい」という。そしてま
マーチャント・バンカーに即してもう少し具体
たその数行あとで「公正といっても利潤の中に
的に明らかにすべきではなかったか,と思う。
創業利得が含まれるとすれば,高級証券を扱う
抽象的にいえば,自由主義段階を典型的に閲し
マーチャント・バンカーの利潤は取扱う数量が
た,したがってまた資本主義を歴史の一定の進
大きいだけに莫大なものになるであろう」
歩として世界に示したイギリスが,いわば若く
という。数量が大きいことと公正かどうかは別
して早くも老醜を曝けだしはじめたということ
の問題である。この論文自体においても創業利
は資本主義の人類史における歴史的位置を示し
得の獲得にたいする評価が不明確である。とこ
ているのではないだろうか。イギリスはこの時
ろがこの論文の2年ほどまえに発表した「独占
期,
一方では資本主義を世界的に拡大するのを,
期のイギリス発行商会」
しかし歪められた形で促進しながら,他方では
「名声による公正」説ではなく,
「独占力」になっ
自らはその限界にぶつかり,資本主義的形態の
ていたのである。こういっている。「アンダー
拡大に固執する姿がそこにある。その姿の中枢
ライティングが純粋に仲介的な機能から発行商
に生産力の綿工業的以上の発展にブレーキがか
会の資金を中心にした他の金融機関の資力の動
かっている事実が存在する,といっていいので
員組織に転化したことに対応して,その手数料
はないだろうか。それが寄生性と退廃性として
も仲介的性格から創業利得獲(原,得の欠落で
あらわれたわけである。
あろう。犬塚)
の特殊な性格に変ったのである。
(171)
(172)
という論文では,
ところでこの論文の検討を終わるに当たっ
ここに,独占期にマーチャント・バンカーが海
て,一つ問題にしたいことがある。それはマー
外投資において主要な金融機関となった根拠も
チャント・バンカーが外国の依頼主から証券発
あったように思われる」
行を代行するに当たってとる手数料のなかに創
ント・バンカーは海外投資の発行の中心に立ち,
業利得がはいることにたいする客観的評価が不
他の金融機関とともに一つの有機体ともいうべ
明確だという点である。志賀の評価はすぐまえ
きものを形成することが明らかになった。そし
に引用したように,
「株式取引所の状態がその
て,その独占力を背景として巨大な引受手数料
公債発行に有利に展開すれば,証券価格は騰貴
を創業利得化して取得して来たのであった」
し,販売価格と発行価格との差がプレミアムと
といっていたのである。ここではマーチャン
なって発行業者の手に帰するのである。これは
ト・バンカーが創業利得を取得するのは,たん
(173)
(174)
(170) 同,308∼309 ページ。
(171) 前掲,「独占期のマーチャント・バンカー」,308 ページ。
(172) 志賀金吾「独占期の発行商会」,岐阜大学学芸学部研究報告 14 号,1966,所収。
(173) 同,26 ページ,
(174) 同,27 ページ。
といい,「マーチャ
歴史過程と原理論(犬塚)
59
なる名声によるのではなく,独占力によるとい
くして,発行商会がジョッバーとの協定によっ
うのである。
て取引価格を決定すると,数人のジョッバーは
これに関連して,証券取引所におけるジョッ
その価格でアンダーライターに売込み,あるい
バーとブローカーのマーチャント・バンカーに
は,かれらから買入れる権利が与えられるので
従属する特殊な役割についても,
この
「マーチャ
あるがそれは,ジョッバー達が証券を背負いこ
ント・バンカー」論ではほとんどふれてはいな
まされる危険なしに,自由に取引出来るためで
い。ただ「マーチャント・バンカーといえども,
ある。このいわゆる馴合取引(Wash Sales)に
市場の状況が発行に有利に働かなければ,取引
よって大衆は漸次,全発行を吸収することにな
所会員のジョッバーと協同して馴合取引
るのであった。……しかし注意すべきことは
(Wash Sales)を行わせ,公債の消化をはかっ
マーチャント・バンカーの支配力なるものがイ
(175)
たこともあった」
というだけであるが,
「発
ギリス特有なものであって,ドイツのような組
行商会」の論文では,マーチャント・バンカー
織的なものではないということである。それは
の独占力を形成する役割についてこう語ってい
イギリスの職能分業に端的に見ることができる
た。少しながくなるが,重要と思われるのであ
ところの独占力であった。換言すればマーチャ
えて引用する。「海外証券の流通市場で証券取
ント・バンカーを中心にアンダーライターで形
引に参加するものは厳重な規定があって,ロン
成するシンジケートが相互に独立しながら人的
ドン株式取引所の会員として登録されたものに
交流によって密接な関係になっているというと
限られるのである。この会員のうち,ジョッ
ころにイギリス的特徴があった」 。つまり
バー(jobber)は取引所内部の立会取引のみを
マーチャント・バンカーは自己が形成するシン
行い,ブローカー(broker)は外部の投資大衆
ジケートにジョッバーとブローカーを引き入
の取引を媒介する。この会員の資格は個人に限
れ,その職能分離体制というイギリスの伝統を
られるから,発行商会や銀行は会員にはなりえ
破壊して,馴合取引をさせうる独占力をもって
ない。この関係はイギリスの分業体制の貫徹で
いるのである。なぜこの「発行商会」の論文よ
あって,各人は専門分野を守っているから,発
り後に発表された「マーチャント・バンカー」
行商会といえどもそれに直接干渉することは出
の論文で,このマーチャント・バンカーの独占
来ないということなのである。したがって,ロ
力を弱め,または否定する論旨を展開したのか
ンドン取引所の外部において,流通市場を投機
は不明である。ドイツ金融資本が独占力をもち
的に操従(原)しようとすれば,会員の協力を
うる巨大生産力という物的根拠をもっていたの
求めるか,あるいはこれを支配しなければなら
はたしかであるが,イギリス金融資本としての
ない。しかるにアンダーライティング制度のシ
マーチャント・バンカーは生産力という根拠で
ンジケートには有力なジョッパーやブローカー
はなくとも当時のイギリス資本主義自体が有す
を包含し,しかも,下引受契約によって,発行
る対外的政治力という,純粋商品経済的運動を
商会の主導の下に立つのであるから,ジョッ
阻害し歪める外的力をもっていたといっていい
バーやブローカーの職能分化の外観は実質的に
のではないであろうか。
発行商会の協力関係に転化しうるのである。か
(176)
志賀はこの「独占期のマーチャント・バン
(175) 前掲,「独占期のマーチャント・バンカー」,307 ページ。
(176) 前掲,「独占期イギリス発行商会」,27 ページ。
60
第 14 巻
第3号
カー」のあと,しかし同じ年に「独占期のイギ
(177)
リス貨幣市場と資本市場」
ダーライティング)を含む固定価格発行を主流
という論文を発
として行われていた。この引受保証というの
表して,マーチャント・バンカー論の総括をし
は,引受ける公債が巨額であるばあいの引受に
ている。まず問題をつぎのようにたてる。「問
は単独の商会ではなくて,投資信託や保険会社
題は独占期におけるイギリスの証券の発行市場
とともに組織されるシンジケートを利用する発
が,膨大な海外投資をまかなう仕方のうちに貨
行方法である。外国政府や植民地政府のロンド
幣市場との関係を考えなくてもよいものだろう
ン代理店が発行する証券をアンダーライターが
かということである。もっと具体的にいえば,
シンジケートをつくって,それに参加するもの
発行証券を流動化すると取引所を含めた広い意
が,各自の参加額に応じて証券の一部を引受保
味の資本市場が海外投資のために円滑に運営さ
証するという仕方である。そのばあいアンダー
れてきたのは,預金銀行の証券発行という直接
ライターが支出する貨幣はその保証額ではなく
的な形ではないが間接的な方法によって,その
て,発行額のうちで公衆に応募されなかった額
集中された資金を資本市場に利用できたからで
であったから,その支払いの大小は発行の成否
(178)
はないかということである」 。そしてこの問
にかかっていた。
題をおよそつぎのように説いてゆく。イギリス
このアンダーライターのつくるシンジケート
の預金銀行は証券の発行を引受けないので,
の中心になるのは「名声」のあるマーチャント・
マーチャント・バンカーが引受けるが,貨幣市
バンカーである。このアンダーライティングと
場と資本市場との交流は直接にはできないの
いう方法によって発行を引受けることによって
で,引受業務と発行業務を兼営しているマー
資力の数倍の発行が可能になる。またアンダー
チャント・バンカーが引受けるわけである。ド
ライターは単独ではなくシンジケートを形成す
イツの銀行と同じように両市場を媒介するよう
るということから,その中心になるマーチャン
に見えるが,そのかぎりではそうである。しか
ト・バンカーは他の金融機関の資金を利用する
し外国為替手形の引受業務にたいする外国証券
ことができた。いいかえればマーチャント・バ
の発行業務と,設備資金の貸付にたいするその
ンカーの資本金,積立金,預金を合計したもの
資金の回収に当たっての証券発行業務とではそ
が預金銀行のそれに比較して非常に少ないにも
の関係がいちじるしく異なっている。後者の発
かかわらず巨額な発行を引受けることができた
行業務を行うには巨大な資本力を必要とする。
ということは,シンジケートの組織による他の
しかしマーチャント・バンカーの資本力は正確
金融機関の資金の動員とアンダーライティング
には不明だが,一商会あたりでは 100 万ポンド
による媒介的な発行方法に基因するものであっ
を出ないと推定される。独力では海外投資を引
た。
「極言すれば,アンダーライティングによ
受ける能力はないとしなければならない。した
る発行が行われて,それが直ちに公衆によって
がって資本力以外の要因を考えなければならな
応募された場合には,アンダーライターは支払
いが,それはかれらの証券発行の方法に求めら
いを全然せずに済ますこともできたのであ
れる。それは 20 世紀初頭には引受保証(アン
る」 。発行が不成功に終わったときにはアン
(179)
(177) 志賀金吾「独占期のイギリス貨幣市場と資本市場」,宇野弘蔵先生古稀記念論文集,鈴木鴻一郎編『マルクス経
済学研究』,下,1968,東京大学出版会,所収。
(178) 前掲書,95 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
61
ダーライターたちは現実に売れ残りの証券を買
チャント・バンカーのような発行市場を指導す
いとらねばならなかった。アンダーライターで
る金融機関といえども会員にはなりえないので
シンジケートに参加する下引受業者は売れ残っ
ある。この関係はイギリス分業体制の一環を意
た証券を担保にして他の金融機関から資金の貸
味するもので,各人は自己の専門分野を守って
付をうけなければ引受保証をなすことはできな
いるから,発行市場を構成するマーチャント・
かった。ここに貨幣市場と資本市場との交流が
バンカー,その他の金融機関は取引所の取引に
生ずる。うまくゆかないばあいは一般に株式を
直接干渉することはできないということなので
担保にして銀行から融資をうけた。
「このよう
ある。したがって,取引所の外部において,流
にアンダーライターに対する貸付は銀行信用で
通市場を発行証券の消化に有利に操縦しようと
ある以上,短期信用であることは確かである。
すれば,会員の協力をうるか,あるいは,これ
しかし,それが短期資金の貸付であっても,長
を支配する必要がある。ところが証券発行にお
期の海外証券発行に当って,その長期固定化を
けるアンダーライターのシンジケート組織には
短期に流動化するうえでなんらかの役割を演じ
有力なジョッバーやブローカーが含まれること
ているのであるから,その意義は重要であると
が稀ではなかったのである。そこでは,それら
いわねばならない。というのは銀行は直接に証
のジョッバーやブローカーはシンジケートを指
券の発行業務を行わないといっても,間接的に
導するマーチャント・バンカーとの間に下引受
は発行業務を側面から促進しているといえるか
契約を結ぶのであるから,かれらの分業体制は
らである。ただ,その場合,銀行信用が発行市
形式的にはともかく,実質的にはマーチャン
場へ与える交流はドイツのように直接的ではな
ト・バンカーの取引所支配とまではいかないと
いのであるから,銀行にとっては,担保にとっ
しても,発行証券を有利に消化しうるものに転
た発行証券が取引所において消化されるかどう
化する可能性をもつわけである。このようにし
か,つまり,その発行が窮極において成功する
て,マーチャント・バンカーがジョッバーとの
かどうかばかりでなく,進んで,その証券の流
協定によって取引価格を決定すると,数人の
通上の価格変動にまで関心が払われねばならな
ジョッバーはその価格で,アンダーライターに
(180)
いのである」 。
売り込み,あるいはかれらから買入れる権利が
ここからが核心部分である。
「イギリスの株
与えられる。けだし,それはジョッバー達が証
式取引所の証券取引に参加するものは厳密な規
券を背負いこまされる危険なしに,自由に取引
定があって,取引上の会員として登録されたも
できるためである。このいわゆる馴合取引に
のに限られている。すなわち,ジョッバーとブ
よって,大衆は漸次,全発行を吸収することに
ローカーの二種類がこの会員である。そのう
なるのであった。/このような,特殊な取引は
ち,ジョッバーは取引所内部の立会い取引のみ
別にして,通常の証券の売買においても,かれ
を行ない,直接大衆との取引を行なわない。こ
らは自己専門の分野を守りながら,証券の大衆
れに対してブローカーの業務は取引所外部の投
による消化を支援するのである。しかし,かれ
資大衆とジョッバーとの取引の媒介である。ま
らは取引において,大量の証券を買取り,これ
た,
この会員の資格は個人に限られるから,
マー
を利得をえて再販売するまで保有しうるほど資
(179) 同,97 ページ。
(180) 同,98 ページ。
62
第 14 巻
第3号
金を持つものは稀であった。したがって,期末
ているのである。最初にイギリスの大銀行も,
清算においては証券担保によって,一般公募に
ドイツの信用銀行のように貨幣市場と発行市場
対してはもちろん,ジョッバーやブローカーに
との媒介をなすように見えたというのは,実際
も銀行信用が与えられざるをえないのである。
そうだったのである。ただ生産には関与しない
というのは,このような取引所と銀行との結合
かたちで海外投資が行われているところに,イ
した行為がないならば,膨大な海外証券を発行
ギリス金融資本の特質があるわけである。そし
して,それを一般大衆の間に消化することは困
てそれはイギリスが世界で最初に資本主義を確
難になることは間違いないからである。ついで
立した国として世界市場を広く確保しえたこと
に付け加えると,この取引所に対する貸付は取
を前提にしているのであるが,そのことがイギ
引所の半カ月清算に適応して,十四日貸という
リス資本主義自体の発展の結果だとすれば,そ
(181)
きわめて短期貸の形態をとるのである」 。な
れは資本主義自体の限界の一面を示していると
お銀行と取引所が媒介者を通して結合する仕方
も考えられるのである。もっとも資本主義自体
には二つのものがあって,一つはジョッバーに
の発展といっても,資本主義の自立的運動の発
たいする信用である。
「ジョッバーが買入れた
展ではないのであって,純粋資本主義としての
証券を長期には保有できないことから,その証
自立的運動と具体的なる非資本主義的諸要因と
券を銀行に預託し,その代わりに銀行はジョッ
の合成による発展である。
バーに前貸するのである。これによって,銀行
帝国主義段階のイギリスの生産力はこれまで
側からの資金供与と,ジョッバーがわからの証
みてきたように退嬰的になり,資本輸出にみら
券の内的価値についての専門的判断とが結合さ
れるように生産からはなれて広い意味での流通
れることになるのであるから,取引所における
過程から収奪を特質とするようになった。それ
あらゆる証券の流通は可能になるのである。第
にたいして帝国主義ドイツはつぎにみるように
二のものはブローカーに対するものである。す
重工業の発展によって強力な高度生産力を実現
なわち,銀行がブローカーにたいして,その顧
しながら,その一般化は拒み,他方に広大な中
客の投機注文の繰延べを可能にするために与え
小産業を配置して,これを収奪源泉の重要な基
る信用である。この繰延取引というのは,投機
盤とするという,イギリスとは別の意味での退
のために清算期日を次期まで延期する仕方であ
嬰化を示すのであった。つぎにその点を概観し
る。したがって,次の清算日までブローカーが
よう。
証券保有を可能にするために与えられる銀行信
(182)
用は一種の証券担保貸付なのである」 。要す
⑵
19 世紀末大不況とドイツ帝国主義
るにイギリスの海外投資においては預金銀行と
先進資本主義国イギリスにたいする後進資本
証券取引を主催するマーチャント・バンカーと
主義国としてのドイツは,その資本の原始的蓄
の間ではジョッバーとブローカーを媒介にして
積をイギリスが商人資本によっておこなったの
短期信用業務と証券発行業務とを交換し合って
とは異なって,産業資本によるものとして実現
いるのであって,かたちのうえでは短期信用を
した。ドイツの資本主義の成立がイギリスの資
とっていながら,実質的には長期信用が行われ
本主義を前提として実現された以上それは当然
(181) 同,99∼100 ページ。
(182) 同,100 ページ。
歴史過程と原理論(犬塚)
63
ことなのである。資本主義の成立が社会の内部
なった。多くは元の領主たるユンカーの直営地
的要因のみによって実現されると考えられやす
でインストロイテ,デプタンテンとして働く特
いが,商品経済の作用はそれほど内向きではな
殊な賃銀労働者となるか,他の地にたとえばザ
い。内でも外でも利用することが商品経済的に
クセンゲンガーとして移動する季節農業労働者
有利と判断されればなんでも,非商品経済的の
となるかになっていった
ものでも,これを利用する。それが商品経済の
の自営地の一部は自己の所有地になったが,そ
歴史的過程の促進を展開するのであって,商品
の購入代金は土地売買を斡旋した地代銀行
経済の原理のみをもって一社会を自立せしめる
に年賦償還で返済しなければならず,結局完済
ことができるというのは,いわば純粋資本主義
できずに,土地所有を失うものが多かったとい
という抽象世界においてのみいえることであ
う。こうしてかつての封建農民は長い年月をか
る。商品経済そのものは非商品経済的要因が
けて,自営農民,農業労働者,さらには農業外
あっても,存在しうるものである。ただしその
賃銀労働者に転化していったのであるが,多く
ばあいは資本主義は歴史的展開をとげることに
は兼業零細農民になったのであって,労働力商
なる。現実に存在するのはもちろんこの後者で
品化としてはきわめて不徹底なものであった。
ある。
(183)
。かれらのかつて
(184)
こうして「十九世紀の三,四十年代には,ド
イギリスの綿製品を代表とする工業製品の輸
イツはなお旧来の封建的な諸国に分裂していた
出はドイツに商人資本による原蓄を許すような
のであるが,そして当時の資本主義化の過程は
余裕を与えなかった。もちろんド�