博士論文 - 滋賀大学学術情報リポジトリ

博士論文
同族による経営の維持と終焉の論理
2016 年 1 月
滋賀大学大学院経済学研究科
経済経営リスク専攻
氏名
藤野
義和
指導教員
伊藤
博之
指導教員
弘中
史子
指導教員
中野
桂
目次………………………………………………………………………………………….………..1
序論:研究の背景と概要…………………………………………………………………………….4
第1章
先行研究……………………………………………………….……………..7
第 1 節 同族企業研究…………………………………………………….…………………….7
第 1 項 同族企業及び同族経営者の特徴…..………………………..………………………8
第 2 項 実態調査研究………………..………………………………………………………..9
第 3 項 業績比較研究………………………………………………………………………..12
第 4 項 同族企業の独自資源……………………………………………………..…………13
第 5 項 第 1 節の先行研究のまとめ………………………………………………………..16
第 2 節 同族企業の維持・終焉の既存論理…………………………………………………..16
第 1 項 Berle and Means 説:株式を根拠とした支配説………..……………………….16
第 2 項 Chandler 説:統治は戦略に従う…………………………..……………,……….19
第 3 項 Chandler 批判の検討:Fligstein を中心として…………………..….………..22
第 4 項 同族経営者と長期的コミットメント:当事者の心理的側面に着目した研究..25
第 3 節 先行研究まとめ…………………………………………………………..……………26
第2章
分析枠組……………………………………………….…………………...30
第 1 節 戦略グループ研究………….…………………………………………….…………...31
第 2 節 経営者の認知的側面に着目した戦略グループ研究………….……………………32
第 3 節 分析枠組とリサーチクエスチョン……………………………….…………………35
第 3 章
わが国の上場企業における同族企業調査…………..………………….38
第 1 節 本研究の同族企業……………………………………………………………………39
第 2 節 上場企業における同族企業:調査 1……………………………………….………43
第 1 項 調査目的……………………………………………………………………………43
第 2 項 調査対象と分析対象………………………………………………………………44
第 3 項 調査期間……………………………………………………………………………44
第 4 項 企業形態の分類根拠となる資料…………………………………………………44
第 5 項 創業者およびその一族の判別……………………………………………………44
第 3 節 調査結果と発見事実…………………………………………………………………45
第 1 項 大分類調査の結果…………………………………………………………………45
第 2 項 大分類にもとづく産業別調査の結果……………………………………………47
第 3 項 小分類調査の結果…………………………………………………………………48
第 4 節 発見事実の整理と次章以降の課題…...………………….…………………………50
1
第4章
医薬品の種類と医薬品業の戦略選択…………………………………….52
第 1 節 医薬品の種類……………………………………………….………………………....52
第 2 節 医薬品の製品化プロセス:NCE に着目して………….………..…………………54
第 3 節 わが国の NCE の承認動向からみた医薬品業の戦略選択とその変化:調査 2…56
第5章
戦略グループ分析:医薬品業の戦略変化と同族関与の関係性…………59
第 1 節 調査対象企業の選定…………………………………………………………….…....59
第 2 節 調査対象企業の発展プロセス:調査対象企業の 1970 年までの動向……..……..63
第 1 項 第一製薬……………………………………………………….…………………...63
第 2 項 三共………………………………………………………………………………….64
第 3 項 藤澤薬品工業……………………….……………………………………………...67
第 4 項 大日本製薬(住友製薬も含む)…………….……………………………………70
第 5 項 塩野義製薬……………………………………………………………………..…..72
第 6 項 武田薬品工業…………………………………………………………………..…..74
第 7 項 山之内製薬…..………………………………………………...............................77
第 8 項 エーザイ……………………………………….…………………………………...79
第 9 項 中外製薬…………………………………………………………………………....82
第 10 項 持田製薬…………………………………………………………………….….…83
第 11 項 あすか製薬……………………………………………………………………..…85
第 12 項 科研製薬……………………………………………………...............................87
第 13 項 キッセイ薬品工業………………………………………………………………..88
第 14 項 第 2 節のまとめ…………………………………………………………………..90
第 3 節 戦略次元の選定:輸入と輸出…..…….……………………...……………..………...92
第 4 節 調査対象企業の NCE 承認動向:調査 3……………………….……………………..94
第 5 節 医薬品業の戦略グループ調査の結果………………………………………………..98
第 1 項 1970 年代…………………………………………………………………………...98
第 2 項 1980 年代…………………………………………………………………………...98
第 3 項 1990 年代………………………………………………………………………...…98
第 4 項 2000 年代…………………………………………………………………………...98
第 6 節 本章の発見事実の整理……………………………………………………………..…99
第6章
医薬品産業の歴史的動向………………………………………………...100
第 1 節 わが国の医薬品産業の歴史…………………………………………………………101
第 1 項 和漢薬から洋薬への転換…………………………………………………………102
第 2 項 製造着手……………………………………………………………………………103
第 3 項 技術導入……………………………………………………………………………104
2
第 4 項 自社開発への移行:特許法改正にともなう研究開発志向の高まり….………105
第 5 項 市場のグローバル化………………………………………………………………106
第 2 節 医薬品の取引システムの変容…………………………………………….………..108
第 1 項 卸業……………………..…………………………………………………………109
第 2 項 医療機関…………………………………………………………………………..112
第 3 項 外資系医薬品業:国内市場の国際化……………………………………………115
第 4 項 制度変化:グローバル市場への誘導……….………………………………..…116
第 3 節 医薬品業の戦略変化:生産・販売された医薬品の特徴を通じて…………………119
第 4 節 本章のまとめ……………………………………………………….……………..…125
第7章
ディスカッション………………………………………………………...127
第 1 節 輸入戦略グループの移動障壁と外資系企業の参入障壁の関係性………….…..128
第 2 節 同族経営者の特徴と医薬品の製品化特性の親和性………………………….…..131
第 3 節 移動障壁の移動と同族関与の終焉………………………………………..……….133
第 4 節 構造変化と同族関与の維持・終焉の関係性: Chandler 説の再考….…………137
第 5 節 挑戦者企業群における同族企業存続の意味……………………………….……..140
第8章
結論と課題………………………………………………………………..143
第 1 節 結論……………………………………………………….…………………………..143
第 2 節 今後の課題……………………………………………….…………………………..145
参考文献………………………………………………………………………………………….146
付録資料 1 調査 1 の対象企業……..…………………………………………………..………156
付録資料 2 調査 3 補足 1:調査対象企業が承認取得した NCE 数と業績の推移.………….157
付録資料 3 調査 3 補足 2:データ収集にかかる特記事項……………………………...…….164
3
序論:研究の
序論:研究の背景と概要
背景と概要
英インターブランドが公表している企業ブランド価値ランキング(2013 年度)1によれば、
もっともブランド価値があると評価された日本企業はトヨタ自動車である。トヨタ自動車
は 1937 年に豊田喜一郎によって設立2された自動車メーカーである。同社は、売上高、利
益、総資産額でトップ3(2013 年度)となっている。その結果にもとづけば、トヨタ自動車
はわが国を代表する企業の一つであることは間違いない。そのトヨタ自動車を経営するの
は創業者の孫にあたる豊田章男である。わが国ではトヨタのように同族が経営する上場企
業が多いことはよく知られている。
同社の有価証券報告書(2013 年 3 月期)もとにトヨタの株主構成4を見ると、社長の章男
の持株は 0.1%(4,588 千株)、豊田喜一郎の父豊田佐吉が起こした豊田自動織機が 6.34%5と
なっており、豊田家および豊田家が関係する企業の持株を合計すると 6.44%であり、それ
ほど株式を持っていないことがわかる6。
トヨタ自動車で見られるように、大株主でもない同族が、なぜ社長に就くことができる
のだろうか。また、そのような企業がわが国にどれぐらい存在するのだろうか。そして同
族が関与する企業は、時代や産業ごとに違いがあるのだろうか。そのような素朴な問いを
きっかけとし本研究は始まった。そこでまず調査をしたのが、同族が関与する企業はどれ
ほど存在し、時代や産業に違いが生じているのかについてである。
もちろん同族企業の実態調査は筆者が初めてではない。多くの研究者が様々な調査・分
析を行っている。例えば、加護野・上野・吉村(2003)
、吉村(2007)がある。本研究で行
う調査は、他の研究で見られない 2 つの特徴がある。一つは、戦後(1950 年)から 2005
年までの動向を調べていること。つまり調査期間が長いという特徴がある。もう一つは、
細かな枠組によりその動向を調査していることがあげられる。同調査では既存研究で捉え
きれていない同族関与の形態に着目し、その状態も確認できる細かな同族関与の枠組みを
つくり、それをもとに動向を明らかにした点ある。
予め主な調査結果を述べておくと、第一に、期間内で最大約 30%(1965 年)が同族企業
http://www.interbrand.com/ja/knowledge/Japans-Best-Global-Brands/2013/2013
-report.aspx(2013 年 9 月 20 日閲覧)
。
2 トヨタ自動車ホームページ(http://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/、2013 年 9
月 20 日閲覧)内の「沿革」によれば,1930 年に豊田喜一郎が小型ガソリンエンジンの
開発に着手。1933 年に豊田自動織機製作所内に自動車部を設立。1937 年にトヨタ自動車
株式会社設立となっている。
3 日経新聞社のホームページ内のランキング参照(http://www.nikkei.com/markets/rank
-ing/index.aspx、2013 年 9 月 20 日閲覧)
。
4 ここでは同年の有価証券報告書の「大株主の状況」を参考に、持株上位 10 株主の構成を
株主構成とし論じている。株主全体の構成を調査した上で論じているものではない。
5 ただし、豊田自動織機の株式はトヨタ自動車を含む関連会社が 40%以上保有している。
6 もちろん有価証券報告書に記載された情報のみの判断であり、
記載のない持株が存在すれ
ば数値も異なる。
1
4
であった。しかしながら、1990 年ごろから大きく同族企業が減少し、2005 年には約 17%
に減少した。第二に、産業別動向を見ていくと医薬品業や食料品、陸運業に同族企業が多
い。最後に、わが国の上場企業の中には 10%未満の株式しか持たない同族経営者が経営す
る企業が見過ごすことの出来ないほど存在する。
以上の調査を出発点とし、同調査により明らかとなった同族企業が多い医薬品業をリサ
ーチターゲットとしさらに分析を進めた。本研究では、医薬品業の中でも医療用医薬品を
主とする企業に着目し、歴史的動向や産業構造の変化を確認しながら、なぜ同族企業が続
くのか、なぜ同族企業が終わるのかを検討する。吉村(2007)や加護野(2008)、そして倉
科(2003)なども同じことを言及している。しかしながら、「なぜ続くのか」「なぜ終わる
のか」という問題に対する答えは用意されていない。本研究では特にその問題を議論する。
調査対象は、わが国の医薬品産業の構造変化や経済体制の変化の中で成長を遂げ、その
過程で同族が経営に関与し続けてきた(藤野,2013a;倉科,2003;吉村,2007)。倉科(2008)
は、自動車、食品、医薬品などの産業は、技術の革新性が求められるが、取扱商品・サー
ビスや事業領域が単一で創業時の商品・サービス、
事業領域と大きな変化がなく創業の DNA
が比較的伝承しやすく、企業規模が大きくなってもファミリー企業の占める比率は高いと
指摘する。
世界の医薬品業を見ると、スイスのロシュ、ドイツのメルクやベーリンガー・インゲル
ハイムなど同族が株式をもとに支配する同族企業は存在する。一方、わが国の主要医薬品
業を見ていくと、株式が分散しているが継続して同族が経営に関与する企業が多い。つま
りわが国では、海外医薬品業の同族企業と異なり所有と経営が分離する中で同族が経営に
関与し続けてきたのである。とりわけ他産業と比べ医薬品業にそのような企業が多かった。
本研究では、わが国固有の商慣習や日本企業の戦略選択に着目し、株式が分散する中で
同族による経営関与がなぜ続いてきたのかを分析していく。同族が続く理由は究極的には
個々の企業の事情によるところが大きいと考える。しかし、医薬品業を対象とすることに
より、個々の事情を超えた特殊事情に接近でき、かつその事象を細かく見ていくことによ
り、同族が株式を根拠とせず経営関与し続ける理由の解明につながると推測される。
では、医薬品業の特殊事情とは何だろうか。既述したとおり倉科(2008)は、医薬品業
の特徴と同族の関与の関係を指摘している。確かに医薬品業は食品や化学製品を扱う企業
もあるが、それほど多角化は進んでいない。よって医薬品業は医薬品からの収益に依存す
る収益構造である。それが特殊要因なのだろうか。また次の特徴もある。一般的に医薬品
の研究開発は時間がかかるうえ、成功確率が低く高リスクで多額の投資が必要とされる。
以上を含む医薬品業や医薬品産業の特殊性と同族関与の関係性に着目し進めていく。
同族企業がなぜ続くのか、なぜ終わるのかという問題を分析する際、これまで Berle and
Means(1932)を嚆矢とする保有株式を根拠とした企業支配論や Chandler の一連の研究
で言及された組織変動と連関した経営者の技能変化をもとにした同族終焉説、それらを踏
襲した研究がほとんどであった。しかし、その二つの論理では医薬品業で同族が続く理由、
5
そして終焉する理由は解明できない(藤野,2014a)。
そこで本研究は、医薬品産業の特殊事情を踏まえたうえで、各企業の戦略の変化を見て
いく。そして調査対象企業の特定集団で見られる戦略変化期を医薬品業の変節点と定め、
同期間に起こった医薬品業の取引システムの変化を具体的に見ていく。それらをもとに既
存理論の有効性を検討するとともに、わが国で見られる特殊な企業形態が維持されてきた
理由、反対に終焉する理由を探索する。以上の手順で進めていくが、各企業がどのような
戦略を選択してきたのかを俯瞰的見る作業に適したツールが戦略グループ(以下戦略グル
ープ)であると考える。戦略グループの知見を活用した本研究の調査により次の 4 つが明
らかとなる。
第一に、ある時期まで輸入戦略を選好する企業が多く、輸入戦略グループが存在した。
かつそのグループ内企業は競争の優位性を有した。第二に、1990 年頃から輸入医薬品が減
少し、輸入戦略が競争優位につながらなくなった。それは海外企業の対日戦略強化と関連
する。第三に、2000 年以降、同族が経営する企業が減った。中でも、輸出を伸ばした企業
において同族関与が終焉する傾向がみられた。それら事実関係をもとにした議論により、
第四に、長期的な視野による経営、そして長期的な研究開発の投資に耐える堅実な収益獲
得手段が輸入医薬であり、長期的視野による経営には堅実な収益獲得手段が存在したこと
が明らかとなる。
本研究の構成は次の通りである。まず第 1 章で既存研究を検討し、筆者が課題とする同
族企業の維持・終焉にかんする研究は進んでいない事を明らかにする。さらにその課題は
既存理論では解明できない事を明らかにする。続く第 2 章では、戦略グループ研究の概観
し、本研究における分析枠組みとして用いる意義を述べる。第 3 章では、わが国の同族企
業の実態を調査する。そこで明らかとなることは、特定業界では同族関与が続く傾向があ
るということである。第 4 章では同族企業が多い医薬品産業をリサーチターゲットと定め、
まずは戦略グループ分析に向けて同産業の構造を簡易的に調査する。さらに戦略グループ
抽出に不可欠な戦略次元の設定に向けて新規的な医薬品の承認動向を調査する。第 5 章で
は、医療用医薬品業を対象とした戦略グループ分析を行う。そこでは明らかとなることは、
2000 年前後に競争優位な戦略グループが輸出戦略へと転換し、その後同族関与が終焉する
傾向がみられる、ということである。第 6 章では、第 5 章の発見事実に基づき、1990 年ご
ろの産業構造の変化を調査するとともに過去の構造変化と何が異なるかを明らかにする。
第 7 章ではこれまでの調査で明らかとなった事実関係をもとにいくつかの議論を行い、第 8
章で本研究の結論を述べる。
同族による経営がなぜ続くのか、反対になぜ終焉するのか、その理由を解き明かすとい
う筆者の構想は、個人研究の範囲を大きく超えるものであり、実現不可能な作業であるか
もしれない。しかしながら、本研究で検討される同族維持・終焉の論理の新たな着想が、
今後、真剣な検討に値することを説得する為、本研究を進める。
6
第 1 章 先行研究
われわれがよく知る企業の中にも創業者一族(以下同族)が関与する企業は多数存在す
る。例えば、自動車販売台数世界一位7のトヨタ自動車は同族の豊田章男が社長である。彼
はトヨタ自動車の創業者豊田喜一郎の孫であり、父は同社 6 代目社長豊田章一郎である。
トヨタ自動車は東京証券取引所に上場する株式会社であり、世界中に販売店や生産工場を
もつ国際的な企業である。同社を一例とする同族企業は多数存在し、その同族企業を対象
とした研究は数多く存在する。ここでは代表的研究を概観する。
本章では、まず多様な同族企業研究を整理する。第 1 節では、同族企業研究を整理し、
これまでの同族企業研究の動向を精査する。そして同族関与の維持・終焉という現象につ
いては深く研究されていない事を指摘する。続く第 2 節では、同問題を紐解くため、それ
について検討した Berle and Means(1932)と Chandler の一連の研究を概観し、両研究
の論理を整理する。さらに Chandler の研究を批判的に検討した Fligstein(1987;1990)、
そして Berle and Means(1932)や Chandler とは別の切り口で同族関与の維持を説く長
期的コミットメント説(加護野,2003)を概観する。
第 1 節 同族企業研究
本節では既存の同族企業研究を次の 4 つに分類し概観する。
第一に、同族企業や同族経営者の特徴について論じた研究がある。もちろん高い評価を
得る同族企業や同族経営者もいれば、評価の悪いそれらも存在するであろう。先行研究で
は同族企業の良し悪しをどのように捉えているのかを明らかにする。
第二に、研究者それぞれが、時代や地域、産業など調査範囲を設定した上で、そこで活
動する企業の中に同族企業がどれくらい存在するのか、その実態を調査した研究がある。
これを実態調査研究と位置づけ、その成果について概観する。
第三に、「同族企業は優れているのか」という問いのもと、同族企業とその他の企業とを
様々な視点で比較分析した研究がある。これを業績比較研究とする。そこでは研究者それ
ぞれが様々な尺度で業績比較を行っている。ただし同族企業は業績が良いのか、という問
題にについては結論が分かれる。
最後に、「同族企業は優れている」と仮定し、その源泉は同族企業に存在する独自資源に
あると考え、同族独自の資源の存在を確かめ、その優位性を検証する研究がある。それら
を資源探索研究と位置付け、既存研究が指摘する同族企業の独自資源を整理する。
7
朝日新聞デジタル 2015 年 4 月 23 日(http://www.asahi.com/articles/ASH4R33XWH
4ROIPE002.html 2016 年 1 月 18 日閲覧)によれば、トヨタ自動車の 2014 年度世界販
売台数(ダイハツ工業、日野自動車含む)は 1016 万 8 千万台で、年度ベースで過去最大
を更新した。
7
第 1 項 同族企業及び同族経営者の特徴
同族企業の良し悪しについては頻繁に経済誌や新聞等で取り上げられている。倉科(2003)
はそこで記述されているような同族企業に対する批判を集約し、通説として次の 5 点をあ
げている。
第一に、ワンマンで社員は従順で企業風土は沈滞している。第二に、コンプライアンス
とコーポレート・ガバナンスに問題が多い。例えば、ファミリーが成功するためのルール
とビジネスを成功するためのルールとが相反するといったように、同族が企業を私物化し
ているとの見解が多い(Rouvinez and Ward,2005)、という指摘がある。第三に、封建的、
保守的であり創造的な取り組みに欠ける。Dertouzos,Lester and Solow(1989)は、同族
企業は時代が経過するにつれ、保守的となり、企業家精神と関連した危険を冒すことをた
めらうと指摘する。第四に、問題企業は多いが優良企業は少ない。第五に、世襲が経営の
舵取りを誤らせている。
以上のような通説的批判に該当する事例は多数散見される。近年の例では大王製紙がそ
れに該当する8。一方で、同族企業を対象とした研究では、以上の一般的な通説的批判に該
当する事例もあるが優良な同族企業も多いとし、同族企業の良さを考察している。
第一と第四の批判に対しては、Landes(2006)が優良な同族企業を対象とし緻密な分析
を行っている。具体的には後述するが、必ずしも企業風土が悪いわけでもなく、沈滞化し
ているわけでもない事を明らかにしている。
第二のガバナンスに問題が多いとする批判に対しては、Denis ,Denis and Sarin(1997)
が次のように述べている。すなわち、経営者の持株が多ければ、経営者交代の可能性が低
い。その為、株主に配当する資源を他の投資機会に配分でき、長期視点に立った経営がで
きる。この長期視点の経営という同族企業や同族経営者の特徴について、長期視点の経営
が企業発展の原動力である(加護野,2003;倉科,2003;三品,2004 ;Zellweger,2007)
、
と捉える研究者は多い。そこでは、
「長期任期の経営者の下では経営者交代による戦略バイ
アスからのコンフリクトや認知枠組の変更が組織内に生じず、経営戦略が利益と結びつく
ような組織内の共有パラダイムが確立・保持されつつ経営が行われ、結果パフォーマンス
は向上する」
(嶋田,2009,17 頁)、という考え方がベースなっていると思われる。ではな
ぜ同族経営者は長期視点で経営する事が可能なのであろうか。その理由として倉科(2008)
は、同族経営者はサラリーマン経営者より任期が長いことが多く、自分自身が大株主であ
ることもある。その結果、株主の意向に左右されず長期的視点で積極的な投資を行うこと
が可能だと指摘する。
次に第三の保守的だとする批判に対しては、会社が軌道に乗った後も、最大限に発展さ
せようとし継続して投資を続け、リスクを取り続ける人々が少なくない(Rouvinez and
8
経済紙や新聞等で大王製紙の問題は大きく取り上げられたことから内容にかんしては説
明不要だと思われる。その問題について深く検討した研究に萩下(2013)や樋口(2013)
がある。詳しくはそちらを参照されたい。
8
Ward,2005)。さらに「ファミリー出身の経営者は、内部昇進の経営者よりも、非連続的
な変化を導入しやすい。自分を選んでくれた前任者や同僚たちへの配慮の必要がないから
である」(加護野,2008,70 頁)とも指摘されている。反対に同族以外の経営者について
倉科(2008)は、
「サラリーマン経営者」の任期は 2 年 2 期(合計 4 年)が通例であるとし、
その決められた任期で結果を出す必要がある。なぜなら、機関投資家をはじめ外部の大株
主の要請を受け、極めて短期に企業業績の向上を図る必要がある。だからこそ短期的な業
績に注視すると指摘する。
最後の世襲批判は、同族経営者に多い早期後継者育成プログラム、いわゆる「帝王学」
と関連する批判である。Arregle,Hitt,Siron and Very(2007)や Chrisman,Chua and
Zhara(2003)、Habbershon and Williams(1999)
、石井(1996)によれば同族経営者は、
早期に経営に参画することで責任感と帰属意識が高まり、事業や組織の理解を含めること
で周辺的な事情に精通する。だから経営が上手くいくと指摘する。
以上のように、一般的もしくは感覚的に同族企業は批判の対象とされているが、同族企
業は必ずしも悪いわけではない。反対に良い同族企業が多いという考える研究者が多い。
そしてそれを実証しようと多くの研究者が取り組んでいる。
第 2 項 実態調査研究
個人が事業を始める場合、個人その人や親族が必要な資金を出資するとともに経営も行
うことがほとんどであろう。その状況においては、出資者である個人が会社の所有者9とな
り、さらに業務執行を担う経営者も兼ねることから所有と経営が一致した企業となる。た
だし個人の投資力には限界があり、また個人の能力や技術だけでは企業成長に限界がある
と推察される。その為、企業の存続や発展には法人化が不可欠である。法人化にはいくつ
かの形態があるが、一般的に広く用いられるのが株式会社である。会社標本調査平成 25 年
度版(表 1-1)によれば、わが国では約 95%が株式会社である。合名会社、合資会社、合同
会社と比べるとその数は突出している。
株式会社の利点として、有限責任株主10を広く募集することが可能となる。さらに、証券
所有の定義については様々な議論がある。本研究では Berle and Means(1932)に依拠
し、所有の主体が所有の客体をわがものとして、企業に生ずる財産の使用、処分の意思
決定を通して利益を受け取ること、とする。その定義に従えば、個人株主あるいは集団
株主が議決権を通じて経営者の意思決定や、経営者選任に対する意思決定をコントロー
ルできる、ということも重要な要件となる。そのコントロール(支配)も定義がさまざ
まである。これについては後述する。
10
資本拠出の対価として資本家には株式が与えられ株主となる。株式を保有する株主には
共益権と自益権があるが、共益権は株主が会社の管理運営に参加することを目的とする
権利であり、その中心は株主総会における議決権(105 条 1 項 3 号)である。一方、自
益権は、株主が経済的利益を受けることを目的とする権利であり、中心的なものは、剰
余金分配請求権(105 条 1 項 2 号)
、残余財産分配請求権(同条 1 項 1 号)である(末永,
2006)。
9
9
取引所に株式を上場することで、より広範囲の投資家から資金を募るという選択が可能と
なる。株式上場を行うことは、社会的な信用が付与され、安価な資金の調達が可能となり、
さらに、優秀な人材を確保しやすくなる利点もある。
その反面、株式の流動性が高く、発行企業にとって好ましくないものが株主となること
もあり得る。そのような株主が多くの株式を保有すれば、手塩に掛け育てた会社がテイク・
オーバーされる危険を伴う。
表 1-1:資本金別同族企業数および企業形態別企業数11
区 分
特定同族会社
(資本金階級)
100万円 以下
100万円
超
200万円
〃
500万円
〃
1,000万円
〃
2,000万円
〃
5,000万円
〃
1億円
〃
5億円
〃
10億円
〃
50億円
〃
100億円
〃
計
構成比
100万円 以下
100万円
超
200万円
〃
500万円
〃
1,000万円
〃
2,000万円
〃
5,000万円
〃
1億円
〃
5億円
〃
10億円
〃
50億円
〃
100億円
〃
計
4
2
16
4,558
329
341
37
27
5,314
%
0.0
0.0
0.0
31.3
18.3
10.6
4.9
2.5
0.2
同 非 区 分
同族会社
225,533
41,312
1,160,085
717,355
142,868
137,339
42,717
7,012
966
1,869
400
501
2,477,957
%
93.9
94.0
98.5
95.8
92.7
91.0
90.0
48.2
53.8
58.0
52.6
45.5
95.9
非同族会社
14,736
2,653
17,489
31,221
11,213
13,610
4,752
2,984
502
1,012
324
573
101,069
%
6.1
6.0
1.5
4.2
7.3
9.0
10.0
20.5
27.9
31.4
42.6
52.0
3.9
株式会社
193,012
35,640
1,158,487
719,845
145,160
140,846
45,296
13,393
1,687
2,899
672
982
2,457,919
%
80.3
81.1
98.4
96.2
94.2
93.3
95.4
92.0
93.9
90.0
88.3
89.2
95.1
合名会社
2,309
518
656
416
95
68
15
2
6
1
1
1
4,088
%
1.0
1.2
0.1
0.1
0.1
0.0
0.0
0.0
0.3
0.0
0.1
0.1
0.2
組 織 区 分
合資会社
11,741
2,762
3,496
1,822
355
328
44
1
20,549
%
4.9
6.3
0.3
0.2
0.2
0.2
0.1
0.0
0.8
計
合同会社
19,669
2,537
4,604
1,178
104
88
56
32
5
3
2
4
28,282
%
8.2
5.8
0.4
0.2
0.1
0.1
0.1
0.2
0.3
0.1
0.3
0.4
1.1
その他
13,538
2,508
10,331
25,319
8,369
9,619
2,074
1,127
99
318
86
114
73,502
%
5.6
5.7
0.9
3.4
5.4
6.4
4.4
7.7
5.5
9.9
11.3
10.4
2.8
240,269
43,965
1,177,574
748,580
154,083
150,949
47,485
14,554
1,797
3,222
761
1,101
2,584,340
%
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
100.0
出所:会社標本調査(https://www.nta.go.jp/kohyo/tokei/kokuzeicho/kaishahyohon2013
/kaisya.htm)平成 25 年度版(第 11 表その 1)を加工し筆者作成
11
会社標本調査平成 25 年度版に従い、それぞれの企業形態の区分について述べておく。ま
ず同非区分と組織区分の違いは、同一サンプルを次に説明する特定同族会社、同族会社、
非同族会社の 3 つの企業形態で分類したものが同非区分であり、よく知られている株式
会社等の企業形態で分類したものが組織区分である。特定同族会社とは、発行済株式総
数の 50%超を1株主グループにより支配されている会社(以下被支配会社)で、被支配
会社であることについての判定の基礎となった株主等のうちに被支配会社でない法人が
ある場合には、その法人をその判定の基礎となる株主等から除外して判定するとした場
合においても被支配会社となるもの(資本金の額又は出資金の額が1億円以下である被
支配会社を除く)をいう。 同族会社とは、会社の株主等の上位3株主グループが有する
株式数又は出資の金額等の合計が、その法人の発行済株式の総数又は出資の総額等の
50%超に相当する法人をいう。非同族会社とは、特定同族会社及び同族会社以外の法人
をいう。
10
しかし、すべての株式会社が株式を上場するわけではない。例えば、東京証券取引所(一
部・二部)
、マザーズ、ジャスダック等に上場する企業は 3,417 社12ある。このほかにも大
阪証券取引所等があるが、わが国の株式会社の中で上場企業は 1%にも満たない。実際には
初期の株主から出資や金融機関からの借り入れ可能な範囲で事業展開する中小の株式会社
13が圧倒的な割合を占める。表
1-1 によれば 90%以上が小会社である。その小会社のほと
んどが同族企業であることも表 1-1 で確認できる。その実態は、創業者やその同族により所
有され経営も行うといった所有者と経営者が一致する同族企業がほとんどであると推察さ
れる。ただしそのような企業の状況把握は難しい。対象が広範囲であり、さらにデータ収
集が難しいからである。その為、表 1-1 のような公的な実態調査を除くと、既存研究のほと
んどは上場企業を対象としている。
例えば、加護野・吉村・上野(2003)は、わが国の上場企業を対象とし調査した。その
結果は表 1-2 である。同研究では 1980 年、1985 年、1990 年、1995 年の 4 時点における
対象企業(日本の主要証券取引所に上場する「製造業」および「商業」に分類される残企
業)の同族企業数およびその比率を明らかにしている。
調査結果を見る前に注意すべき点がある。表 1-1 の特定同族企業および同族企業と彼らの
それの定義が異なる点である。彼ら以外の既存研究でも同じであるが、同族企業や同族支
配、同族経営、ファミリービジネスなど、同族が何らかの形で企業に関与する形態を表す
概念は明確に区別されていない。さらに言葉の違いのみならず意味内容が異なる事が多い14。
加護野・吉村・上野(2003)では同族支配を、金融機関以外の事業法人のなかで最大持
株比率をもつ一事業法人の持株比率が(間接所有もふくめて)20%未満であり、かつ個人株
主のなかで最大の持株比率をもつ一家族の持株比率が 10%超に該当する企業としている。
この定義は後に説明する Berle and Means(1932)のものを下敷きとしアレンジしたもの
である。
表 1-2 株式所有構造の変化(継続上場企業)
80年度
85年度
90年度
95年度
同族支配
234(20.3%)
201(17.5%)
164(14.2%)
147(12.8%)
支配的株主不在
559(48.5%)
592(51.4%)
626(54.3%)
638(55.4%)
法人少数支配
262(22.7%)
270(23.4%)
274(23.8%)
279(24.2%)
法人過半数支配
97(8.4%)
89( 7.7%)
88(7.6%)
88(7.6%)
合計
1152(100.0%)
1152(100.0%)
1152(100.0%)
1152(100.0%)
出所:加護野・吉村・上野(2003)
12
東京証券取引所ホームページ内の上場企業数(http://www.jpx.co.jp/listing/stocks
/co/index. html)の 2013 年末の数値を参照。
13
資本金と負債により、1 億円以下でかつ負債総額 200 億円未満会社を小会社、5 億円以
上または負債総額 200 億円以上の会社を大会社と分類している。また、大会社や小会社
に該当しない会社が中会社である(森,2004)
。
14 それらを整理した研究に入山・山野井(2014)がある。
11
表 1-3 社長の属性
80年度
85年度
90年度
95年度
創業者
110(9.0%)
103(8.0%)
110(7.6%)
98(6.3%)
創業者同族
257(21.1%)
296(22.9%)
332(23.1%)
360(23.0%)
その他同族
121(9.9%)
103(8.0%)
89(6.2%)
93(6.0%)
生え抜き
276(22.6%)
341(26.4%)
408(28.3%)
485(31.0%)
法人出身
368(30.2%)
355(27.5%)
411(28.5%)
441(28.2%)
金融機関出身
61(5.0%)
64(5.0%)
68(4.7%)
70(4.5%)
公官庁出身
17(1.4%)
20(1.6%)
10(0.7%)
6(0.4%)
その他
9(0.7%)
9(0.7%)
12(0.8%)
10(0.6%)
計
1219(100.0%)
1291(100.0%)
1440(100.0%)
1563(100.0%)
出所:加護野・吉村・上野(2003)
表 1-2 によれば、同族支配に該当する企業は 1980 年に約 20%となっている。以降、年々
減少し、同研究が設定した調査最終年の 1995 年には 12.8%となっている。それでも上場企
業の一割以上は同族が 10%超の株式をもつ企業であることが明らかとなっている。同調査
では継続上場を対象としている。継続上場以外の企業も含むと各期間の同族支配の値はさ
らに増加すると推測される。
また同研究では社長の属性についても調査している。その結果が表 1-3 である。同表を見
れば、創業者同族に該当する社長が 21.1%(1980 年)から 23.0%(1995 年)に推移して
いる。この結果から、株式保有しない同族が経営に関与する企業が存在すること、そして
そのような企業が二割以上も存在する事が確認できる。これは見過ごす事が出来ない数だ
と彼らは指摘している。
他にもわが国の動向については、加護野・吉村・上野(2003)
、三戸(2001)
、吉村(2004)
、
吉村(2007)も同族企業の実態調査を行っている。それぞれの結果については省略するが、
1970 年代以前、そして 2000 年以降の動向について明らかにした研究はほとんどない。本
研究は長期間の動向について調査する。その点は本研究の独自性の一つである。
第 3 項 業績比較研究
同族企業を対象とした研究で、同族企業とそれ以外の企業とのパフォーマンスを比較す
る研究も多い。これら研究では同族企業とそれ以外の企業を対立軸とし、両企業形態間の
業績比較を通じて統治のあり方や経営者交代のあり方、さらには企業のポジショニングな
どが議論されている。
例えば、同族が関与する企業の業績の良し悪しを判別する研究(Anderson and Reeb,
2003;森川,2008;斎藤,2006)では様々な財務データにもとづき分析されてきた。斎藤
(2006)は、創業者が経営する同族企業は非同族企業より業績が良いが、継承後に業績が
劣る企業が増えることを明らかにしている。森川(2008)は、同族企業の生産性の上昇率
が非同族企業と比して低いことを示した。ただしその差は上場企業に限定すると見られな
くなるという。また、頑健な結果ではないという断りを入れながら、創業者が経営するよ
12
り同族の後継者が経営に関与する企業は業績が良くないとする結果を示している。この点
は齊藤(2006)と同じである。ただし既存研究では、同族が関与する企業の業績の良し悪
しについては結論が分かれている。
他にも学歴と関連付け同族経営者のパフォーマンスを評価する研究もある。そこでは学
歴が経営者能力を形成する重要な要件であるとみなし、企業業績の良し悪しは経営者の出
身大学で説明がつくと仮定したうえで分析が進める研究が存在する。例えば
Perez-Gonzalez(2006)や沈(2009)は、非エリート同族経営者の交代前後で業績が悪く
なることを明らかにしている。沈(2009)はエリートと非エリートの区分を、旧帝国大学 9
校に加え、東京商科大学(現一橋大学)及び神戸商科大学(現神戸大学)出身であるか否
かとする。それら大学出身の経営者をエリート経営者とみなしている。
彼らの研究のほか、同族後継者の教育歴を調査した研究として、星野(2003)はメキシ
コ、そして末廣(2003)はタイ、それぞれの地域の同族企業の調査を行っている。まず彼
女らは、それらの国々において同族企業が半数以上を占めている実態を明らかにする。加
えて、同族後継者が高学歴化し、彼らが意欲的に高度な経営に取り組んでいると指摘する
(星野,2003)。星野(2003)によれば、高度教育機関(例えばアメリカの大学院における
MBA 教育)で獲得した個々人の知識が、経営者となった後に有効的に機能していると指摘
する。彼女らの調査により、高いレベルのビジネス教育を受けた同族後継者が積極的に関
与し、企業に成長を実現する国がある事が明らかとなった。
その他、学歴や教育機関の効果に着目している点は同じであるけれども、学習により獲
得した知識の蓄積とその実践活用という点ではなく別の効果を指摘する同族企業研究もあ
る。例えば Marceau(2003)は高学歴の利点として、企業内の新しい要求や企業間の経営
手続の標準化や形式化と相まって、大学で習得する知識は経営者の専門職化に寄与すると
指摘する。このような指摘は高学歴同族経営者が経営する企業は業績が良いとする上述の
研究と一致する。それとは別に Marceau(2003)は、特定の大学15には企業を所有する実
務家の子息が多数在籍している。そこには大学を媒介とした学生、卒業生、そしてそれら
の親子や親族が形成するビジネスネットワークがあり、そのネットワークは企業発展の原
動力となり、さらには企業競争の新たな参加者を制限する効果があると指摘する。
第 4 項 同族企業の独自資源
同族企業の独自資源
近年では同族経営者の企業家的活動に焦点を当てた研究(Habbershon,et al.,2003;加藤,
2014)や同族企業のユニークな企業活動の源泉たる独自資源を解明しようとする研究
(Zellweger,Nason and Nordqvist,2012;Zellweger,2007)が増加している。代々同族が
15
Marceau(2003)の調査対象はフランスのビジネススクール「INSEAD」である。同ビ
ジネススクールは 2015 年版 Financial Times の 2015 年版「Global MBA Ranking」
(http://rankings.ft.com/ businessschoolrankings/global-mba-ranking-2015 2016
年 1 月 22 日閲覧)によれば、ほとんどのランキングで 5 位以内となっている。同サイト
で INSEAD が競争力や影響力のあるビジネススクールであることが確認できる。
13
蓄 積 し た 資 源 を “ familiness ” ( Habbershon and Williams,1999 ; Habbershon,et
al..,2003;Tokarczyk,et al.,2007)と表現し、その資源が同族の独自性や優位性の源泉であ
ると指摘されている。
familiness とは、
「同族企業の資源と能力に関連した同族企業が有するユニークな資源の
束である」
(Habbershon and Williams,1999,p.11)。また後藤(2012)は familiness を
「ファミリー、個人およびビジネス間のシステム相互作用から生じる、企業に固有な資源
の束」と定義する。これは明らかに Penrose(1995)の企業観を同族企業独自のものとし
て細分化しようとする試みであると考える。つまり非同族企業にはない資源の束が同族企
業にはあり、その資源を有効活用することによって競争を優位に進めることができる
(Habbershon,et al.,2003)、と考えられている。
同族独自の資源としてしばしば指摘されるのは、Marceau(2003)が指摘した学閥や商
取引等のネットワークであり、さらにそのネットワークに介在する信頼関係である。Casson
(1995)は、特定の社会集団(家族・同族・地域組織)や地域コミュニティの内部で信頼
に基づく取引が発達し、これが同族企業の存続に貢献していると指摘する。他にも信頼が
同族企業の発展に寄与するという研究はいくつかある。
例えば Miller and Le Breton-Miller(2005)や Landes(2006)は同族企業の繁栄要因
を分析する際、企業内外の利害関係者と良好な関係を築くことが可能となった理由、そし
てそれが継続出来た理由に着目する。その要因の一つが信頼だと指摘する。他にも
Tokarczyk, et al.,(2007)や Dyer(2006)もファミリーネームにもとづいた社名やブラン
ド名が消費者と企業間の信頼構築に寄与していると指摘する。
同族企業と信頼については、例えば Landes(2006)によれば、血縁関係によりネットワ
ークが広がり、それを一族が引き継ぎ権力を蓄積する。そして卓越した経験、資産の所有
と行使、それらにより彼が「ダイナスティ」と呼ぶ巨大な同族企業が形成されたのだと主
張する。さらにそれら要素はダイナスティにおける、相互信頼、義務、習慣を助長し、義
務を超越した共感、世代を超えた共感、文化的環境を形成するのだと言明する。Landes
(2006)の指摘は、どちらかといえば企業内部の信頼を重要視したうえでの示唆である。
また Miller and Le Breton-Miller(2005)は、長期的に競争を優位に進める同族企業は
次の「4 つの C」
を優先するとする。4 つの C とは、
コマンド
(Command)、
継続性(Continuity)
、
コミュニティー(Community)、コネクション(Connection)である。中でも「コネクシ
ョン」は外部との絆を意味し、彼らはその意味説明の際に信頼の存在を指摘する16。こちら
16
Miller and Le Breton-Miller(2005)が提唱する他の 3 つの C を簡潔にまとめると、
「コ
マンド」とは同族企業のリーダーは株主に対して「下僕ではなく独立した『行動者』と
して仕えている」(Miller and Le Breton-Miller,2005;訳,19 頁)
。その為、彼らはま
た、長期的視点による投資により事業の「継続性」を重視し、世界への貢献を実現しよ
うと試みている。そして「コミュニティ」は、社内の全員をミッションの実現に向けて
団結させることに情熱を注ぐ。この行為は、血族的な結束の文化を生み出すと述べてい
る。
14
は前述の Landes(2006)と異なり組織間信頼に着目した研究と位置付けることが出来る。
Miller and Le Breton-Miller(2005)によれば、同族企業の多くは、従業員との永続的
な互恵関係を形成するとともに17、ビジネスのパートナー、顧客、そして広くは社会一般と
も同様の関係を結ぶ努力をする。そうして、企業を取り巻く多様な主体と互恵関係が構築
できれば、その関係にもとづく信頼が芽生えるのだと彼らは言う。
互恵関係とはどのようなものを意味するのだろうか。経済取引を例とすれば、日和見的
な一度限りの取引ではなく、長期的に「Win=Win」関係となるような取引だと彼らは言う。
これは日本企業間で行われてきた取引慣行に近く、清水(1993)の言う信頼取引に該当す
る。
経済取引を現金取引、信用取引、信頼取引と 3 つに分類した清水(1993)によれば、信
頼取引とは、「1 回 1 回の取引で利益がでなくても、複数の信頼できる相手と長期的多角的
に取引することによって、全体的に利益がでればいいという取引の仕方」(清水,1993)、
とする。信頼取引は、環境が長期的に安定している状況の下で発達した取引方法であり、
それは日本独特のものであると清水(1993)は指摘する。
もう一度、Miller and Le Breton-Miller(2005)の研究に戻すと、彼らは信頼取引の代
表例としてスウェーデンの家具会社「イケア」を取り上げている。イケアは廉価な家具会
社とならないよう、自社のコアコンピタンスを強化するとともに、サプライヤーの育成に
も力を注いだ。特にポーランドの家具製造会社に対しては、イケアに製品を納入するだけ
の単なるサプライヤーと位置付けなかった。同社を重要なサプライヤーと考え、「ヒト・
モノ・カネ」といった自社資源を同社に供給し育成に力を注いだ。その結果、初期のイケ
アの成長に大きく貢献した。そのポーランドの家具製造会社とイケアとの間に信頼関係が
形成されたと彼らは言う。ではなぜ、同族企業は組織間の信頼形成が非同族企業よりうま
く進むのだろうか。Miller and Le Breton-Miller(2005)はその答えを 3 つ用意している。
第一に、同族企業は長期存続することが多く、経営が安定的である企業が多い。第二に、
同族企業はトップの在任期間が長いことが多い。その為、取引相手にとって全面的責任を
負う人物の顔が恒久的に見えるという安心感がある。第三に、初期段階から関係構築投資
に積極的である。以上の指摘をまとめれば、同族企業は非同族企業と比して様々な点にお
いて継続性や連続性がある。だから同族企業は様々な主体と強い信頼を築きやすいと彼ら
は指摘しているのである。
Landes(2007)や Miller and Le Breton-Miller(2005)はいくつかの事例を調査した上
で、同族企業の特徴の一つとして信頼をあげている。ここで取上げた Miller and Le
Breton-Miller(2005)によるイケアのエピソードにもとづけば、信頼形成のプロセスは理
17
従業員との互恵関係については 4C の一つ「コミュニティ」の説明で取上げている。同
族企業は、ミッション達成のために、(創業者一族の)強い価値観を核にして従業員をま
とめ上げ、厚遇することで忠誠心と主体性と協力を引き出すことで、同族集団的チーム
をつくり上げることが多いと指摘する。
15
解できる。しかしながら、信頼関係が存在するというけれども、そもそも信頼とは何かを
明確に示していない。そうであるが故に因果関係が不明確なままとなっていると考える。
第 5 項 第 1 節の先行研究のまとめ
節の先行研究のまとめ
既存研究では「同族企業はどれほど存在するのか」「同族企業は競争優位かどうか」
「(競
争優位であると仮定し)競争優位の源泉は何か」については問われてきた。そして非同族
企業にない資源が同族企業の優位性を決定し、その資源の代表的なものとしてネットワー
クやそこに介在する信頼に注目されてきた。しかしながら、例えば信頼が競争優位を決定
づける要因であるかもしれないが、同族企業として維持されるかどうかとは別の問題であ
る。同族企業の継続という事象は、単純に同族後継者がいなければ同族企業でなくなる。
少子化が進むわが国では後継者のパイが小さくなっていることは想像に容易い。よって過
去に比べて同族企業が維持することは難しくなっている事は確かであろう。また後に説明
するように、専門経営者の台頭により同族の影響力が弱くなり、企業を経営するポストか
ら外される例もあるだろう。このように推測にもとづいた指摘や事例を取り上げたは研究
は存在するが、なぜ同族が経営に関与し続けられるのかといった問題に対して正面から議
論した研究は少ない。
第 2 節 同族企業の維持・終焉の既存論理
同族企業の維持・終焉の既存論理
第 1 節では同族企業研究を紹介したが、同族企業の終焉・維持について正面から議論し
た研究は少ないと指摘できる。同族企業研究にとって最も重要な事は、「同族企業がなぜ存
在するのか」を説明することである(Conner,1991;Holmstrom and Tirole,1989)
。そ
こで第 2 節では同族企業の終焉を説いた Berle and Means(1932)と Chandler の一連の
研究を取り上げる。両研究は別の角度から同時期に起こった専門経営者が経営する企業へ
の転換を論じた。ただしそれら研究を批判する研究もいくつか存在する。それについても
検討する。加えて、長期的コミットメントという概念を用い同族維持理由を説いた加護野
(2003)らの研究を検討する。
第 1 項 Berle and Means 説:株式を根拠とした支配説
Berle and Means(1932)は、
「取締役会を選出する法的権限を動員することか、或いは、
取締役会員の選出を左右する圧力」
(Berle and Means,1932;邦訳,1974,88 頁)を株
式会社における支配と捉えた。そして、その支配という現象が誰に備わっているのかを持
株比率にもとづく 5 つの枠組みで捉えた。彼らの用いた 5 分類とは、
「殆ど完全な所有権に
よる支配」「過半数持株支配」「法律的手段による支配」「少数株主による支配」「経営者支
配」である。それぞれを具体的に示せば次の表 1-4 となる。
彼らは表 1-4 で示した企業形態分類を用い、
1930 年の米国大企業 200 社を調査対象とし、
それぞれの構成比を調査し結果を明らかにした。その中で、
「経営者支配」に属する企業が
16
全体の 44%に達していることを明らかにし、株主による支配から所有なき経営者による支
配に移行していると結論付け、所有と支配が分離していると主張した。
彼らの研究以降、多くの研究者によってその調査方法が踏襲され、様々な調査対象の実
態が明らかにされてきた。例えば、Herman(1981)や Blumberg(1975)は Berle and Means
(1932)と同様、経営者支配が成立していることを明らかにした。
他方、経営者支配が成立しているとする認識を批判的に捉える研究もある。例えば、Fitch
and Oppenheimer(1970) や Scott(1989)による金融支配論、そして奥村(1978)が
説く法人資本主義がそれに該当する。金融支配論や法人資本主義は支配の根拠となる株主
集団の形は異なる。一方、批判的研究の共通点は、個々の主体の持株で支配を捉えるので
はなく、目的を共有する株主の境界を定め、そのグループの総合的な持株を支配の根拠と
している点にある。確かに、金融支配論者が主張するように、機関投資家の集合による経
営者交代の事例は存在する18。とくに 1990 年代の米国では、年金基金に代表されるような
機関投資家が主導し経営者交代を仕掛け、経営者を辞任に追い込んだ事例は多い。
一方でわが国の状況を顧みると、機関投資家が提出した議案が否決されるケースが多い。
大株主である創業家が株主総会で現経営陣を罷免したシャルレ(旧テンアローズ)の事例19
のように支配的な株主が存在する企業は別として、機関投資家同士が結託し経営者が罷免
したケースはあまりないと思われる。
表 1-4 Berle and Means(1932)による企業形態分類
Means(1932)による企業形態分類
殆ど完全な所有権による支配
ほとんど全部を個人あるいは小集団が保有
過半数持株支配
発行株式の過半数を個人あるいは小集団が保有
法律的手段による支配
過半数の所有権をもたないながらも、法律的手段
にもとづく支配を可能とする株式を保有
少数株主による支配
少数の株式保有を軸として、委任状争奪戦等々で
他の株主の少数権益を結合し支配
経営者支配
株式が広く分散し、単一の所有権として最大のもの
が1%にも満たない企業
出所:Berle and Means(1932)
日本経済新聞(1992 年 5 月 1 日)によれば、1992 年に米国のゼネラル・モータズ(GM)
おいて、ロイス社長が副社長に降格し、オコーネル CFO(最高財務責任者)が CFO の
肩書をはく奪され、ステンペル会長がエグゼクティブ小委員会の議長を外されるという
人事転換がおこった。それを主導したのが CALPERS(カリフォルニア州職員退職年金
基金)であるという。
19 日本経済新聞(2008 年 12 月 3 日)によれば、2008 年 9 月 19 日の株主総会において、
大株主である創業家が三屋裕子社長ら経営陣を退陣させ同族が経営に就いた。さらに同
社では、同年 12 月に経営陣の創業家を中心とし MBO を実施すると発表したが、不祥事
が明るみとなり同族の林勝哉社長が解任された。
18
17
機関投資家が経営者に対して影響力を保持していることは理解できる。しかしながら、
そのような集団が支配可能な状態を保持し続けられるのかという点で疑問が残る。Berle
(1959)は、機関投資家が協力すれば投資先企業の経営介入できる状況を認めつつも、一
般的に機関投資家は経営陣が出す議案の投票に協力的であり、経営者の絶対的権力を固定
する役割を担っているといった考えを示している。つまり彼は、現実は金融支配論の主張
と乖離していことのほうが多いと主張しているのである。
機関投資家の株式保有の目的は、無数に存在する投資商品のひとつでしかなく、ウォー
ルストリート・ルール20に則って投資しているだけに過ぎない。また、機関投資家集団によ
る協調的な行為は、公式の協定にもとづくものとは限らない(Blumberg,1975)。そうで
あるが故に、いくつかの機関投資家が企業の上位株主として名を連ねる株主構成であった
としても、継続的に支配維持が可能という根拠とならないと考える。
続いて奥村(1978)による法人資本主義をみていこう。法人資本主義とは、株式を持合
う法人株主の集団が企業を所有しているという理解にもとづく所有者支配論である。具体
的には、わが国の株式会社は株式が分散しているのではなく、法人に集中していることを
明らかにしたうえで次の 2 つのケースを想定している。
一つは、大株主である親会社や銀行が株式発行会社に役員を派遣するといった場合に見
られる法人所有のケース(彼はタテの系列と呼ぶ)
。もう一つは、相互に株式を持ち合う企
業集団に見られる相互所有、相互支配、相互信認を媒介とした経営者による自社支配(彼
はヨコの系列と呼ぶ)である。以上 2 つのコンセプトを含む法人資本主義にかんしてはこ
れまで多くの論争がなされてきた。その内容は勝部(2004)に詳しい。
勝部(2004)は「株式の持ち合いは安定株主化工作として進められたものであり、実質
的には発行会社の意向に沿って長期安定的な株式保有を前提とした友好的な株主である。
すなわちそれは、株式所有でありながら会社支配に結びつかない所有である」
(勝部,2004,
101-102 頁)という認識を示し、奥村の主張を批判した。本稿では勝部(2004)の考え方
を踏襲し、持ち合い集団が保有する株式の束によって発行会社が支配されることはなく、
むしろ発行会社の経営者支配を擁護する仕組みであるという立場をとる。
これまでみてきた Berle and Means(1932)批判の研究は、株式を支配の根拠としてい
る点においては Berle and Means(1932)と同じである。異なる点は、支配という目的の
ため株主が集団化するという認識、そしてその集団が連動し恒常的に支配に影響を及ぼす
という認識である。ただし奥村が法人資本主義で議論する「持ち合い」という集団は、積
極的に権利を活用する集団ではなく、経営者支配を擁護する集団であると考える。さらに
20
企業年金連合会のホームページによれば、ウォールストリート・ルールとは、
「投資先企
業の経営にかんして不満があれば、その企業の株式を売却することで不満は解消される」
という考え方である。米国で最初に誕生したコーポレート・ガバナンス(企業統治)の
方式であり、投資家としての意見を、株式市場を通して間接的に経営者に伝えるという
ことを意味する(企業年金連合会ホームページ http://www.pfa.or.jp/yogoshu/au/au01.
html 2015 年 12 月 20 日閲覧)。
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金融支配論の論理は、わが国では金融機関(機関投資家を含む)が株式にもとづき恒常的
に支配している事例は少ないと考える。そこで本件研究では、以上 2 点の批判に基づき、
Berle and Means(1932)に対する批判説を考慮しないという立場をとる。
さて、Berle and Means(1932)による株主と経営者とを対立軸に据えた支配解釈とそ
の是非にかんする論争は現在あまり見られない。バブル崩壊以降、より株式の分散が進ん
だことと関連し、経営者支配という現象が一般化したためであると思われる。そのため多
くの研究者はそれを前提とし議論している。また前節で明らかにしたように、株式保有に
基づかない同族が継続的に経営関与する企業が多いことが知られている。この実態に基づ
けば Berle and Means(1932)流の所有者支配的な同族企業のみならず、経営者支配的な
同族企業も存在すると言える。それを同族企業と呼ぶのかどうかは研究者それぞれの解釈
の違いと関連する。その為、定まった見方はない。
株式の分散が進んでいるという事実関係の中で、株式をほとんど持たない同族が経営に
関与し続ける理由を探求するということは、Berle and Means(1932)が明らかにした「株
主による所有者支配」と「株式を持たない経営者支配」
、その二つの企業形態の移行期に焦
点を当てることになる。それがなぜ可能なのかについては Berle and Means(1932)説で
は説明できない。その現象を説明するには別の論理が必要となる。そこで次に、株式を根
拠としない支配転換を主張した Chandler の説をみていこう。
第 2 項 Chandler 説:統治は戦略に従う
Chandler(1962;1977;1990)は、Berle and Means(1932)やその後の株式支配に
関する研究と異なり、経営者の機能変化とそれに対応する組織構造の変化に伴い、株主経
営者と企業との関係性が変化したことを明らかにし、同族企業(彼の定義では家族企業)
が終焉したと説いた。
Chandler は、米国のデュポンなどの事例分析にもとづき、伝統的な個人企業が家族企業
や企業者企業を経て、専門的な俸給経営者(以下専門経営者)21によって管理される経営者
企業へ転換する過程で近代企業化が起こったとする。Chandler の考える企業形態分類それ
ぞれの定義を示すと表 1-5 となる。
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Chandler(1977)が同文脈で使用しているのは専門的な俸給経営者(Salaried Manager)
である。その経営者は多くの場合、専門経営者と表現される。森川(1996)によれば、
専門経営者には特定の職能(人事、営業、経理など)を専門的に経験してきた Specialist
Manager(いわゆるプロの経営者)
、特定の会社に特有の情報、経営スキルを身につけた
経営者、いわゆる Professional Manager、そして上の Salaried Manager(専門経営者=
サラリーマン経営者)の 3 つの経営者観が混同され使用されていると指摘する。森川
(1996)に従えば、同族であっても Specialist Manager や Professional Manager 存在
するはずである。「経営者の専門性とは何か」
。この問いは今後検討する必要がある課題
である。
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表 1-5 Chandler の企業形態分類
個人企業
創業者が所有し経営するが、階層組織は存在しない
家族企業
創業者以外の一族が所有し、経営する。ここでは階層組織が成立する企業
も含まれる発行株式の過半数を個人あるいは小集団が保有
企業者企業
創業者が所有し経営することで個人企業と変わらないが、専門経営者が雇
われる点、そして階層組織が成立している点で個人企業と異なる
経営者企業
所有者でない専門経営者がトップ・マネジメントを掌握し、意思決定を行う。同
族はトップ・マネジメントの任免権(支配権)を失っている
金融支配企業
銀行等が所有し経営する
出所:Chandler(1962;1990)
個人企業とは、創業者が所有し経営するが階層組織は存在しない。次に家族企業とは、
創業者以外の一族が所有し経営する。ここでは階層組織が成立する企業も含まれる。そし
て企業者企業とは、企業者企業は創業者が所有し経営することで個人企業と変わらないが、
専門経営者が雇われる点、そして階層組織が成立している点で個人企業と異なる。最後に
経営者企業とは、所有者でない専門経営者がトップ・マネジメントを掌握し、意思決定を
行う。同族はトップ・マネジメントの任免権(支配権)を失っている。その他、銀行等が
所有し経営する金融支配企業という形態も彼は想定している。
Chandler(1977)は、個人企業から経営者企業への転換という近代企業化は、一つの企
業で起こったものでなく、さらにいくつかの特徴があったと指摘する。一つは、近代企業
は当初から同じ特徴をもつ産業に群生した。もう一つは、近代企業は 19 世紀末の 25 年に
突然生じた。そしてそのような近代企業の群生が、市場メカニズムにとってかわるほどの
大きな経済変動を起こしたと彼は捉え、「経済の多くの部門においてマネジメントという
“目に見える手”が、かつてアダム・スミスが市場を支配する諸力の“見えざる手”と呼
んだものにとってかわった」(Chandler,1977;邦訳,4 頁)と主張した。
さて、既述した個人企業のような伝統企業と経営者企業のような近代企業との違いを
Chandler はどのように捉えたかを見ていこう。彼の言う伝統企業とは表 1-5 で示した個人
企業であり、個人あるいは少数の企業所有者が単一の事業単位を運営する企業を意味する。
そこには階層組織は存在しない。伝統企業は他にも、単一のラインで生産された商品を限
られた地理的区域のなかでのみ営業するといった特徴もあったとする。そこでは市場と価
格のメカニズムによって調整され、監視されてきたと Chandler は言う。そのような伝統企
業が近代企業となったことで、市場にどのような影響が生じたのだろうか。それは上述の
伝統企業と近代企業の仕組みの違いと関係する。大きくは次の 3 点にまとめられる。
第一の違いは、近代企業では、生産機能、流通機能、販売機能、マーケティング機能な
どが内部化され垂直統合組織が形成される。さらに発展し、異なる事業単位によって構成
20
される事業部制が採用される。そのような組織構造の変化を帯び巨大な企業となった点で
ある。このような組織構造は、新しい製品や市場に進出する過程で形成された。
第二の違いは、第一に示した変化過程で複数の職能を統合し管理・調整する常勤の専門
経営者が連なる階層組織が成立する点である。階層組織とは、工場、事務所、研究所など
の現業単位を管理するロア・マネジメント、そして、彼らのパフォーマンスに責任を負い、
彼らを訓練し、動機づけ、仕事の調整・統合・評価をおこなうミドル・マネジメント、最
上位層として、ミドル・マネジメントを採用し動機づけ、彼らの活動を監視・調整し、資
源配分を行うトップ・マネジメント、このように重層的に連なる経営者層を意味する。
第三の違いは、Chandler(1990)では、第一に説明した組織構造の変化と連関し、最上
位の経営者に求められる役割が変化したことを具体的に明示する。すなわち、各階層の専
門経営者の活動によって知識やスキル、行動様式が創造され蓄積される。それらを総合し
たものを人的スキルと彼は呼んだ。近代企業は企業発展の原動力となる人的スキルの束に
加え、企業内部で組織化された物的設備を有する。その二つを統合したものを Chandler
(1990)は組織能力と呼ぶ。彼は、近代企業における経営者の役割は、組織能力を維持し
全体が部分の総和以上になるような組織へ統合していくことであると主張する。
このような組織構造および経営者に求められる職能の変化は、そもそもそれ以前に策定
した戦略と深く結びついていると Chandler は一貫し主張している。
例えば Chandler
(1962)
では、戦略を「将来の需要見通しに合わせ資源配分を計画すること」(Chandler,1962;
邦訳,483 頁)とし、新戦略のニーズに組織をうまく適合させない限り新しい事業分野に参
入しても、課題、軋み、非効率が増すだけだと主張する。同時に組織を「その時々の需要
にうまく応えるために既存の経営資源を終結する仕組み」(Chandler,1962;邦訳,483
頁)、とする。Chandler(1962)は、戦略の変化に伴い組織構造を変化させた理由を市場
の要望への対応という観点から論じる。すなわち「アメリカのような市場経済では、経営
資源を片時も遊ばせずに高い成果につなげたいとの要望こそが、成長の原動力として働い
てきた」(Chandler,1962;邦訳,483 頁)
。そのような経済変動や市場変動と連関し組織
構造に変化が生じたとする。
そして Chandler は、戦略変化に伴う組織変動と連関し、経営に従事してきた株主が経営
に関与しなくなると論じる。その理由として大きくは次の 2 つを Chandler(1990)は指摘
する。一つは、組織構造が複雑化したことにより、フルタイムで従事しなければ必要な知
識・情報を収集し蓄積することが難しくなった。もう一つは、これまで経営に従事してい
た同族経営者は、企業が巨大化した事により株主として巨額の個人所得を保証された。そ
らがマネジメントに拘わる誘因低下をもたらしたと Chandler(1990)は指摘する22。
22
Chandler(1990)に従いそのプロセスを述べておくと、
「1917 年までに、アメリカでは
『社内』取締役と『社外』取締役の区分が明確になりつつあった。社内取締役は常勤で
あり、専門経営者階層の上級メンバーや同じく常勤の最高経営者である創業者の同族メ
ンバーを含んでいた(企業者企業に該当すると思われる)。社外取締役は他の企業の経営
者や社会的な活動とかかわりをもつ非常勤の取締役であり、常勤の経営者ではない同族
21
Chandler に従えば、同族経営者の代わりに台頭したのが専門経営者であった。彼らは下
位層から段階的に昇進し、企業固有の専門知識やスキル・情報を蓄積し、なおかつ下位層
のマネジャーを有効的に活用する術を身に着けた。そのような管理・調整スキルを身に付
けた経営者でなければ近代企業をマネジメントできなくなった。Chandler はその事象を経
営者資本主義の到来と表現し、専門経営者だけが経営する企業を経営者企業と呼んだ。
Chandler の言う経営者企業は、分析視角や説明論理は異なるが Berle and Means の言う
「経営者支配」と同様の現象に着目している点、そして専門経営者が経営する大企業が経
済発展に大きく寄与している事を明らかにした点は同じである。
Chandler(1977)は、新たなマネジメント機能を維持することこそが企業の絶えざる成
長の原動力となり、企業間競争を優位に進めるうえで必要不可欠となったと説く。所有と
経営が分離した後、経営機能を専有する経営者たちは、企業の利潤創出のための制度とし
て階層組織を有効に利用する。そして持続的に企業を成長させようとする願望が生まれる。
企業成長を実現していくうえで、株主経営者が淘汰され、内部昇進の経営者が経営するよ
うになった。ここに経営者支配が成立する。これが Chandler による株主から経営者への支
配転換の見方である。
ここでは Chandler の一連研究を取り上げた。明らかにしてきたように彼は、近代企業の
成立過程で、戦略や組織構造が経営者の出自や職能を規定すると主張し、結果として近代
企業が有する階層組織の成立に伴い株主経営者が経営に関与出来ない(しない)ことを明
らかにした。
第 3 項 Chandler 批判の検討:Fligstein
批判の検討:Fligstein を中心として
前項では Chandler 研究を見てきた。ただし Chandler を批判的に検討する研究が近年増
加している。そのような研究を検討する事は現象を別の側面から捉えることにつながる。
近年、Chandler 研究を批判的にとらえる研究が増えている。例えば、Lamoreaux,et al. ,
(2003)や Laoglois(2007)がその代表である。批判的研究の多くは近年の動向を踏まえ
批判する。それらはチャンドラー・モデルとも呼ばれる専門経営者が経営する巨大企業の
経済貢献に疑問を投げかけた。その背景には、Microsoft や Apple に代表されるような企業
のメンバーを含む大株主を代表していた。時が経つにつれて、同族、銀行、大規模投資
家の代表者は、月 1 回あるいはしばしば四半期に 1 回開催される取締役会に出席するだ
けでは、当面する問題をしっかり把握することが難しいと感じるようになった。そのた
め、常勤の社内取締役が経営を行った。非常勤の社外取締役は、たとえ彼らが過半数の
株式をもち、取締役会で社内取締役よりも数が多いとしても、常勤経営者に助言を与え、
彼らの提案を承認したり、まれには拒絶したりする以上のことをおこなう時間も情報も
持たず、経験も持ち合わせていなかった。社外取締役は企業の諸活動に対して法律上の
権力を有していた。彼らは富や地位から得られるステイタスを享受し、おそらく権力の
もたらす特典や特権を有していたかもしれない。しかし、社内取締役は次第に権力の手
段を支配するようになった(括弧内筆者加筆)」(Chandler,1990;邦訳,71-72 頁)
。
22
家的な企業23が、専門経営者が経営する大企業を押しのけ経済活動に大きな影響力を持つよ
うになった実態がある。
批判的研究では新たな企業家の台頭という現実にもとづき、チャンドラー・モデルを批
判する。しかしそのような批判的研究の関心と本研究の関心は若干異なる。本研究では、
Chandler が唱えた「戦略→組織→統治」という変化にもとづく支配転換のロジックに着目
している。それ自体を批判したのが Fligstein(1987;1990)である。
戦略に適合した組織構造が選択され、その組織構造の下で行う経営活動は、株主経営者
ではなく、専門経営者が経営を担う。一連の研究で Chandler が明らかにした「戦略→組織
→統治」変化のロジックは、
「効率モデル」とも呼ぶべき説明論理である(佐藤・山田,2004)
24。ここで取り上げる
Fligstein(1987;1990)はその Chandler の考え方を批判的に捉え
た。
まず、戦略に最適な組織構造が選択されるという Chandler の主張に対して Fligstein
(1987;1990)は同じ見解を示す。しかしながら、Chandler のようにある意味、組織構
造が経営者を規定するという決定論的な見方ではなく、
「経営者の選抜は内部の権力闘争の
結果」(Fligstein,1990,p.295)であると考えるとともに、権力闘争は戦略選択にも影響
を及ぼすと指摘する。つまり彼は、統治構造の変化が戦略選択を規定する側面もあると指
摘しているのである。彼はそのような独自視点にもとづき実証分析を行った。
Fligstein(1987;1990)は、米国の大企業を対象とし、1919 年から 1979 年を調査期間
に設定し調査・分析を行った。彼はまず、調査対象の多くが採用した組織構造の変化を見
ると「持株会社→職能別組織→事業部制組織」といった Chandler が明らかにした実態と適
合する変動があった事を明らかにする。さらに、その組織構造を規定した戦略は、「生産統
合(垂直統合)→(関連)多角化→(非関連)多角化」と進んだ。このように Chandler 説
と符合する「戦略→組織」の変動の存在を明らかにする。
続いて戦略および組織構造の変化と連関し企業内部では「企業家25→製造専門→営業・マ
ここで言う「企業家的な企業」とは、スティーブジョブスが経営していた Apple やビル
ゲイツが創った Microsoft を企図した概念である。既述した通り Chandler は企業分類に
おいて企業者(家)企業という分類を用意している。彼が提示する企業者(家)企業と
は、
「創業者が所有し経営することで個人企業と変わらないが、専門経営者が雇われる点、
そして階層制組織が成立している点で個人企業と異なる」であった。「企業家的な企業」
は、単純に新奇的なアイデアや能力、技術をもち、市場や経済に大きなインパクトを与
えた実務家(=企業家)が経営する企業という意味で使用する。
24 佐藤・山田(2004)の Chandler 研究の解釈は次の通りである。
「チャンドラーの歴史記
述の中では、利益極大化という目的であれ、経営資源の有効活用という目的であれ、あ
るいは企業の持続的成長という究極の目的であれ、多角化戦略と事業部制組織の採用に
至るまでの過程は、それぞれの企業がそれらの目的を達成する上で最も効率的な手段を
見つけだすまでの、周到な現状分析あるいはまた試行錯誤のプロセスとして描かれてい
ます」
(佐藤・山田,2004,146-147 頁)。
25 Fligstein(1987)は企業家(Entrepreneur)という言葉を選択しているが、同文脈で
Chandler を引用し、彼が調査した企業を例に説明している。そのことから、Fligstein
23
23
ーケティング専門→財務専門」
、このような特徴をもつ部署や個人に権力が移動したことを
明らかにする。このような事象は Chandler のように株主経営者(=同族経営者)と専門経
営者の二項対立ではたどり着くことができない発見であると考える。
具体的には、株主経営者と対置させた経営者を専門経営者と一括し捉えた Berle and
Means や Chandler と異なり、企業内権力基盤が職能別に移り変わり、特定の職能の経営
者が適宜経営を担うようになった事を明らかにした点、そして職能別に推移する企業内権
力基盤と連関し、職能に適した組織構造が選択される事を明らかにした点、その二つに彼
の研究の独自性があると考える。では彼の説を具体的に見ていこう。
彼はまず、米国で施行された反トラスト法26や Celler-Kefauver Act27といった制度変化に
着目する。反トラスト法の制定に伴い特定企業の独占という行為や株式会社における企業
統治に対し規制が強化され企業活動が制約された結果、企業支配にかんする基本認識が変
化したと Fligstein(1990)は主張する。具体的には、トラスト協定や価格カルテルなどの
従来の企業間協働という行為が反トラスト法に抵触する可能性が高くなり、多くの企業が
法的に許される単一の企業となるよう生産部門等を内部化し垂直統合に向かったと論じる。
反対に今度は、Celler-Kefauver Act により、司法省がこの法律を根拠として特定産業内
での水平統合や垂直合併を厳しく規制した。その結果、多角化戦略が選好され、同法の規
制となっていない異業種の買収や合併を繰り返し巨大化した。そのような中で、複数の事
業部を有する複数事業部制が採用されたのであるが、それを主導したのが財務部門であっ
たと Fligstein は主張する。このように、国家によって制定された法が企業支配に関する基
本認識、そして戦略や組織構造のあり方に極めて重要な影響を及ぼすと Fligstein(1990)
は主張した。
佐藤・山田(2004)の解釈に従えば、Fligstein(1990)は企業を取りまく主体間で絶え
ず闘争が起こり、そこではしばしば価値判断が変化し、その流れをうまく取り込んだ者が
企業内で影響力を持ち、結果として支配転換が起こる。そのような考え方をもとに、
「企業
コントロールに関する基本認識」の変化が支配転換を生み出すと考えた(佐藤・山田,2004)
。
既存研究の同族企業研究では、業界により同族関与が続く業界と続かない業界がある、
という事が明らかとなっている。
「組織は戦略に従う」
(Chandler,1977)という著名な命
題があるように、近似した戦略を志向する企業グループの組織構造や統治構造も似るので
はないかと推察される。
の同論文における企業家は専門経営者と対極の株主経営者を含んでいたと思われ、どち
らかと言うと企業家ではなく起業家を意識し使用していたと思われる。
26 反トラスト法とは、1890 年にシャーマン反トラスト法が制定されて以来、米国の大企業
による独占や企業統治の動きを規制した法律の総称である(佐藤・山田,2004)
。
27 同法は生産面における集中が企業間競争の制限につながるという考えにもとづいて制定
された(佐藤・山田,2004)。
24
第 4 項 同族経営者と長期的コミットメント:当事者の心理的側面に着目した研究
同族経営者と長期的コミットメント:当事者の心理的側面に着目した研究
同族経営者が経営する企業と専門経営者が経営する企業とでは特徴が異なる。同族企業
や同族経営者の特徴にかんしては第 1 節で取上げた。その特徴の一つと考えられている長
期的視点の経営(加護野,2003;倉科,2003;三品,2004 ;Zellweger,2007)と関連し、
「長期的視点によるマネジメント」を行う同族経営者の心理的側面に着目し、同族による
長期的コミットメントは同族企業が続く要因であると加護野(2003)は主張する。
加護野(2003)は、同族がもつ長期的コミットメントは二つあると言う。一つは企業に
対する愛着である。
「同族は、持株比率が低くとも、企業の発展に対し愛着という心理的コ
ミットメントをもっている」
(加護野,2003,198 頁)。もう一つは退出障壁である。
「同族
が持っている資産のなかで会社の株式は大きな比重を占めており、会社がうまく経営され
ているかどうかに同族は強いコミットメントをもっている」
(加護野,2003,198 頁)。
この二つのコミットメントをもつ同族は企業の統治者として正当化される、だから経営
者に選ばれるのだと加護野(2003)は指摘する。ただ素朴な疑問であるが、加護野(2003)
が指摘するコミットメントを同族が持っていたとしても、必ずしも経営者として経営に関
与し続けられるとは限らないのではないだろうか。
経営者選任にかんして加護野(2003)は次のように述べている。
「実際に、経営者を選ぶ
のは前任経営者であるが、その選任に大きな影響を及ぼすのは、社内の人々の世論と、社
外の銀行や取引先などの利害関係集団の意向である」
(加護野,2003,196 頁)と。つまり
加護野(2003)も認識しているように、正当性を有するものが経営者に選抜されるが、実
態として利害関係者の動向が経営者選任に影響を及ぼすことも有りえる。同族経営者は一
般的には加護野(2003)があげたようなコミットメントを持っていると理解されやすいが、
だからと言って素直に経営に関与し続けることが可能なわけではない。そこで重要なのは
どのようなメカニズムで同族経営者は正当性を獲得するのかであり、そのメカニズムはお
そらく、コミットメントを持っているから正当性を得られるという単線的なものではない
はずである。加護野(2003)では同族経営者が正当化されるメカニズムや理由についての
具体的な議論は展開されていない。
そこでどのように正当化されるのか検討する際に、加護野(2003)が提示するコミット
メントとは何かを具体的に見ることが不可欠と考える。彼のコミットメントの議論は、組
織に対する個人の帰属意識を示す概念である組織コミットメントを議論していると推察さ
れる。そこで組織コミットメントの議論を若干検討しておこう。
例えば Meyer and Allen(1991)は、組織コミットメントは 3 つの概念によって構成さ
れているとする。第一に組織への情緒的な愛着であり、組織との一体化、強い組織への関
与を意味し、組織に所属したいからという願望にもとづくものである。これは情緒的コミ
ットメントと呼ばれている。第二に、組織に対する投資をコストとみなし、辞める際のコ
ストの知覚にもとづくものである。そこでは、組織に所属するのは「所属する必要がある
から」という認識に基づくと考えられている。これは存続的コミットメントと呼ばれてい
25
る。最後に、理屈はどうであれ組織にコミットすべきであるという規範的コミットメント
がある。
以上の Meyer and Allen(1991)の定義を参照すれば、加護野(2003)が述べる二つの
コミットメントは次のように対応すると考える。まず企業に対する愛着を根拠としたコミ
ットメントは情緒的コミットメントが対応する。もう一つの退出障壁を根拠としたコミッ
トメントは存続的コミットメントが対応する。よって加護野(2003)の長期コミットメン
ト説にもとづいた同族関与の維持説を精緻化するには組織コミットメントの実証研究を参
照することが意義深いと考える。
第 1 章でみたように既存研究では、同族企業の競争優位の源泉は同族固有の資源にある
と指摘されており、同族企業の維持理由を紐解くにはそのような独自資源の作用に着目す
べきと考える。つまり信頼などが社会情緒的資産28となり同族関与の維持装置となっている
という考え方である。それと関連し同族固有の資源は同族経営者を正当化する要素も併せ
持っていることもあり得る。検討した加護野(2003)のコミットメント説は既存の同族企
業研究を包摂する事により発展可能だと考える。しかしながら本研究では別の枠組みで同
族企業の維持・終焉について論じ、彼の説については第 7 章のディスカッションで議論す
るに留める。その理由については次節で述べる。
第 3 節 先行研究まとめ
先行研究まとめ
本章では第 1 節において既存の同族企業研究を概観した。わが国の同族企業の実態調査
を行った加護野・吉村・上野(2003)や同研究を踏まえた吉村(2007)が指摘するように、
わが国では多くの株式を保有しない同族が、社長として経営に関与し続ける企業が多い、
という特徴がある。同族企業を対象とした研究は多様であるが、株式支配に依拠せず、「な
ぜ同族が経営に関与し続ける事が出来たのか?」に関する議論は発展していない。
大株主として企業を発展させた同族がさらなる発展を企図し増資を行う。その過程で同
族の持株が希薄化し、企業を所有出来なくなる。さらに多様な理由により経営者として企
業に関与できなくなる。そして経営者企業に転換する。既存研究が着目したそのような企
業形態の大きな変化があるが、わが国の実態は、株式は分散しているが同族が経営者とし
て経営に関与する企業が多いという特異な特徴を有する。推測の域を超えないかもしれな
いが、Berle and Means(1932)や Chadler が分析対象とした企業やその対象時期のアメ
リカでは、そのような形態の企業は稀であり、取るに足らない問題と彼らは考えたのかも
しれない。しかしながらわが国では、そのような企業が見過ごす事が出来ないほど存在す
る。その意味を解き明かすことを目指すには既存研究の到達点を明確化する必要がある。
2015 年 63 巻 2 号では「ファミリービジネスその強さとリ
スク」という特集が組まれ、奥村(2015)と浅羽(2015)が社会情緒的資産について説
明している。浅羽(2015)によれば、社会的情緒資産とは、アイデンティティ、ファミ
リーの影響力を行使する力、ファミリーによる永続的支配といった、ファミリーの情緒
的なニーズを満たす資産であると述べている。
28『一橋ビジネスレビュー』の
26
そこでこれまで見てきた同族関与の維持・終焉に関する研究を整理しておこう。
第一の立場は Berle and Means(1932)による株式支配論である。彼らは株式に備わっ
た権利にもとづき、株式を多数保有する株主が株式会社を支配するという立場に立ち、株
式が分散し所有と支配が分離したと説いた。その所有と支配の分離過程において同族関与
は終焉した事を明らかにした。
Berle and Means(1932)は「株主が株式に備わった権利にもとづき経営者が選任可能
な状態」を「所有と支配の一致」と考え、株式会社の発展に伴う増資などにより株式が分
散し、
「株主が株式に備わった権利にもとづいて経営者を選任できない状態」を「所有と支
配の分離」とした。彼らが捉えた株主は創業者やその一族も含まれていた。
彼ら以降の研究では、彼らの企業形態分類を踏襲し、「同族支配が続いているのか」とい
う問題から同族企業調査がいくつか行われた。中でもわが国の動向を調査・分析した加護
野・吉村・上野(2003)や吉村(2007)が実証したように、わが国では株式支配とは異な
る論理にもとづき同族の経営関与が続いていることは明らかである。その事から、彼らの
説通りにわが国では企業形態が変遷しなかった。だから彼らの説では説明できないと指摘
できる。これについては本研究でも追試として実証する。
第二の立場は Chandler の一連の研究に基づくものである。彼は特定時代に特定の業界で
起こった戦略の変化に着目し、その戦略により組織構造や統治構造が規定されると説いた。
それらの変化過程で個人企業から家族企業、そして経営者企業へと転換すると述べている。
家族企業から経営者企業への転換は、専門経営者が経営する事が要件となっている。専門
経営者が経営する事により、企業の競争力を決定し、さらに属する業界の競争力を決定す
ると Chandler は述べている。加えて、多くの株式を保有する同族が経営に関与しなくなり、
さらにはトップ・マネジメントの任免権をも失う。その結果、経営者企業が成立すると述
べている。
Chandler は「株主が経営に関与する状況」を「所有と経営の一致」と考え、その状態の
企業形態のバージョンとして個人企業、家族企業、企業者企業を設定した。ただし企業者
企業は専門経営者も経営に加わることを想定した概念である。加えて Chandler は、経営者
企業となる過程で、「株主が経営に関与しなくなるという状況」が生じ、「所有と経営が分
離」すると説いた。一見、Berle and Means 説と似たような状況を示しているように見え
るが微妙に異なる。
わが国で生じているのは、
「株主(所有者)やその家族が株主(所有者)としての権利が
希薄化してもなお経営に関与し続ける状況」である。例えば、専門経営者に経営を任せた
時期はあるが、その後同族経営者が再び経営する状態(例えばトヨタ自動車29)も現実とし
29
トヨタ自動車の歴代社長を見ていくと、たびたび専門経営者から同族社長へと代わって
いる。その理由について入山・山野井(2014)は、
「同社は創業者一族から社長を輩出す
るたびに新しい事業(自動車、住宅、インターネット)に乗り出すことが知られている
が、これは『新規事業というリスクの高い決断を社内に訴求するのに、創業者出身のリ
ーダーを活用している』と捉えることもできる」
(入山・山野井,2014,35 頁)
、と述べ
27
て存在する。Chandler は所有や支配について細かな説明はしていない。ただ扱った事例内
では任免権が失われたか否かを緻密に分析している。
所有者である同族の株式がどれほど分散したのか、もしくは株式を保有し権利としては
有しているが、日本のように株主の影響力が弱くなったのかは言明していない。よって
Chandler の企業形態分類では、経営者企業であったとしても同族が株式を保有するパター
ンもあり得ると考える。
また 家族企業 から経営者企 業への転 換過程で企業 者企業と 呼ぶ形態も存 在する と
Chandler 述べている。企業者企業という概念が示すように、同族経営者と専門経営者の両
輪が経営を担うという企業形態も想定している。その意思決定の合議形態は家族企業と異
なる。また階層組織が成立している事もあるという点は、個人企業とは異なるが家族企業
と同じである。一方で、同族が所有している事を前提としている点で家族企業と同じであ
るが経営者企業とは異なる。このように発展段階を細かく分類している。ただし彼の説の
骨子である垂直統合化された大企業となった大企業においても同族が関与する企業が散見
される。よって Chandler 説でもわが国で起こる現象を説明することが難しい。
これまで見てきた Berle and Means(1932)や Chandler が実証したものは、当時のア
メリカの発展に貢献した大企業で見られた傾向にもとづくものである。日本とアメリカで
は株式会社や株式市場、商品市場などの制度や慣習、文化が異なる。それは周知の事実で
あろう。もちろん時代の流れとともにそれらが変わりゆくことも容易に理解可能である。
その中で、特定時期のアメリカの状況にもとづく 2 つの既存研究では「注目するに値しな
い」、もしくは「存在しない」とされた現象がわが国には存在し、しかも見過ごすことがで
きないほど存在するのである。さらに一過性のものでなく、過去も現在も一定程度存在し、
わが国の経済成長をけん引する巨大企業でその現象が確認できるのである。このように既
存研究の論理では理解できない現実があり、それを解く事は意義深いと考える。
では以上 2 つの研究と異なるアプローチを提唱する長期的コミットメント説や Fligstein
説を踏襲し分析すれば解明できるのであろうか。既述した通り加護野(2003)は、2 種類
のコミットメントをもつ同族は企業経営者として正当化されると主張する。ただし同族と
組織との関係性は同族の一方的な行為で決定されるわけではない。どのようにして同族経
営者もしくは同族後継者が正当化されたのか、そしてそれがどうして長期間維持されたの
か、それらの問題を解決する必要があるし、加護野(2003)は、その点にかんしては明ら
かにしてはいない。
それを明らかにするには当事者の認識に接近する必要があると考える。当事者認識への
接近の必要性は Fligstein 説に基づく分析でも不可欠である。しかしながらその分析、特に
経営者交代の背景となると、事後的にも当事者が答えることを拒否する可能性が高い。事
実、これまで筆者も研究を進める過程で経験している30。よって本研究では、彼らの研究の
30
ている。
中村邦夫社長時代に副社長を務めた戸田一雄氏にインタビューする機会を得た。同氏の
28
有効性を認めつつも正面から議論することはせず、分析結果などを踏まえ第 7 章で議論す
るに留める。本研究では、加護野説や Fligstein 説は魅力的な説であり実証分析を行う必要
があることは理解しつつ、まずは Chandler 説通りになぜ進まなかったのかについて分析し
ていく。そのうえで考えられる具体的な問題は次の通りである。
第一に、Chandler は同族の経営関与が終焉し経営者企業となったのは特定業界であると
言明している。換言すれば、その他の業界では全体として経営者企業化が進まなかったと
いう事になる。例えば、イギリスは家族企業が多く、経済停滞を招いた原因はそれにある
と結論付けている。既存研究では、特定の業界で同族が関与する企業が多い(倉科,2003;
吉村,2007)、という結果が示されている。医薬品業がその代表例である(倉科,2003;吉
村,2007)。そこでは経営者企業の機能を表現する近代企業化が遅れているのであろうか。
桑島・大東(2008)によれば、わが国の医薬品業を見ると、チャンドラー・モデルに依
拠した形で成長し、今日ではベンチャービジネスと協働しつつ、優位性を維持していると
する。以上の既存研究に従えば、近代企業化されたわが国の医薬品業は、Chandler 説通り
に統治構造の変化が起こっていないことになる。それはなぜだろうか。またわが国でも医
薬品業に限った現象なのであろうか。
第二に、本研究で明らかとなる事を先取りすれば、医薬品産業では 2000 年以降、特定の
戦略を志向する企業群で同族関与が終焉する傾向が見られた。医薬品業といえば老舗と呼
ばれるような歴史ある起業が多い。例えば現田辺三菱製薬のルーツである田辺製薬は、田
邊屋五兵衛が「たなべや薬」を看板とし起業した。同社の創業は 1687 年である。他にも武
田が 1781 年、塩野義が 1878 年と歴史のある企業が多数現存する。そのような企業は、事
業形態や組織や戦略を変えながらわが国の主要企業として活動している。その中の多くが
20 世紀末まで同族企業を維持してきた。しかし近年、その中で特定の戦略を志向する医薬
品業で同族関与が終焉する傾向が見られるのである。それはなぜだろうか。
その問題を紐解には、特定業界の長期変動を深く検討し、近代企業化が特定時期に特定
業界で生じたとする Chandler の議論とすり合わせる必要があると考える。具体的には、医
薬品業界内に特定時期まで存在した戦略・組織・統治の近似性を明らかにした上で、特定
の戦略と志向する集団で見られた統治構造の変化、つまり異質性を浮き彫りにし、その変
化の形成プロセスを細かくみていくことで、彼の説の有用性を検討する必要がある。
インタビューでは、
「誤解されると困るから」と松下家に対する本質的な言動は一切なか
った。それはインタビューを試みた筆者の技術不足の問題もあるが、同族企業の実態を
知るという行為の難しさを痛感した。それ以来、別の切り口で現象を見ようと心掛け、
その一つの Chandler 説を理解することが必要であるという考えに至った。
29
第 2 章 分析枠組
本研究では、特定業界の競争構造の分析に長けた Porter(1980)らによる戦略グループ
論を援用し分析を進める。戦略グループ研究を用い分析を進める理由と目的は次の通りで
ある。
第一に、Berle and Means(1932)やそれに続く株式にもとづく支配説ではわが国固有
の現象、つまり「株式が分散した中で同族が継続的に関与し続けてきた理由」を説明する
事が出来ない。
それに代わる説明可能な論理が必要となる。そこで前章で検討した Chandler
による「戦略→組織→統治」変動説や加護野(2003)らによる同族経営者の心理的側面に
着目した同族関与の維持説の有用性を実証する必要がある。本章で明らかとなるが、戦略
グループ論は対象企業の戦略に着目し、それの類似性をもとに対象企業をグループ化する
ツールである。それを活用した分析により、前章でまとめた既存論理の検討が可能となる。
第二に、わが国では株式を持たず同族が関与し続けるといった特徴がある。しかも産業
ごとに偏りがあると言われている。吉村(2007)や倉科(2003)は、医薬品業や食料品業
といった業界に同族企業が多いことを明らかにしている。その結果に基づけば、特定業界
に存在する特殊性が同族関与の維持・終焉を規定する側面があるのと推測される。
チャンドラー・モデルの転換は時代特殊性や業界特殊性と大きく関連する。業界の特殊
性を議論するためにも、特定業界の戦略の類似性を議論する戦略グループ研究の知見の活
用により、意味のある分析が可能と考える。さらに一時点ではなく複数時点のそれを調査
し比較することにより、特定時代の特殊性が鮮明となる。
第三に、本章で検討する戦略グループ論のなかには、当事者(特に経営者や戦略担当者)
の心の中にある競争状況に着目し、それこそが戦略グループだとする研究がある。そこで
は組織コミットメントや群衆が形成するアイデンティティが、当事者が描く戦略グループ
の基礎となっているとされる。このような戦略グループ論を下敷きとすることで、加護野
(2003)らが指摘する長期的コミットメント説の検討及び理論の精緻化につながると考え
る。
加えて、前章で検討した Fligstein(1987;1990)は、当事者の環境認識と統治構造の変
化を議論している。それら研究と当事者の認知的側面に着目する戦略グループ論、長期的
コミットメント説、それらを統合し議論する事を可能とする論理である考える。ただし、
本研究では当事者の状況認識にもとづく戦略グループ論ではなく、伝統的な Porter(1980)
による戦略グループ研究を踏襲し分析を進めていく。その理由については後述する。
以下では第 1 節で Porter(1980)を代表とする伝統的な戦略グループ研究を検討した上
で、第 2 節で当事者の認知的側面に着目した戦略グループ論を見ていく。続く第 3 節では、
前章と本章の検討を踏まえたうえで分析方法を提示するとともに、本研究のリサーチクエ
スチョンを設定する。
30
第 1 節 戦略グループ研究
戦略グループという概念は、Porter(1980)によるものが最も知られている(宮元,2009)
。
Porter(1980)が考える戦略グループとは「ある産業内において戦略次元で同じか、ある
いは類似の戦略をとっている企業のグループ」
(Porter,1980,183 頁)である。戦略次元
とはグループ識別のための切り口であり、Porter(1980)は「専門度」や「ブランド指向
度」を含む 13 の指標をあげている31。この戦略次元をもとに業界内で競争する企業の全体
図を描き、類似する戦略を志向するグループを抽出する。そして競争優位なグループを戦
略グループとして特定する。加えて、競争状態を描画した戦略グループマップを示すこと
により、戦略グループ内の競争と戦略グループ間の競争という 2 つの異質な競争を同一産
業内に示すことができる(山田,1994)。
Porter(1980)は戦略グループ分析の意義を、競争者が現在どのように市場へアプロー
チしているかについて、企業が判断するための地図(戦略グループマップ)を提供するこ
とにあると述べている。われわれが戦略グループを抽出する作業は、特定業界の特定時期
の競争状況の描画であり、それを通じた実践的示唆の獲得につながる。
戦略グループ論ではグループが異なれば戦略が異なり、収益性も異なると考える。この
収益性の決定要因が移動障壁であるとPorter(1980)は言う。移動障壁とは、
「企業が戦略
上での一つの位置から、別の位置へ移動するのを妨げる要因」
(Porter,1980;訳,188頁)
である32。移動障壁がポジション移動を妨げることで企業間競争を制限する。結果、グルー
プ間に業績差が生まれ、移動障壁が高いほど効果が持続する。その高さはグループ外の企
業との距離に等しく、グループの平均収益に比例する(Cave and Porter,1977)。つまり
移動障壁は、
「城壁に守られた中世の都市(walled medieval cities)」
(Leask and Parnell,
2005,p.459)のごとく、グループ外企業からの脅威を遮断するのである。そのため、移動
障壁が高ければ新規参入を長期間防ぐ。新規参入が長期間遮断されることで、グループ内
企業はさらなる資源や能力の蓄積が可能となり優位性が維持される。さらに、特定集団の
競争優位の形成要因である移動障壁は、グループメンバーが協働することによりその役割
が強化されることもある。一方で、特定の競争優位な戦略グループ自体が新たな移動障壁
を作るという側面もある(Caves and Porter,1977;Peteraf and Shanley,1997)33。新
たな移動障壁は、既存の戦略グループの境界の外側に形成される。それは企業がこれまで
とは異なる行動パターンを選択した結果であり、きっかけともなる(Dranove,Peteraf and
残り 11 の戦略次元およびそれらの具体的な内容は Porter(1980;邦訳,180-182 頁)
を参照されたい。
32 移動障壁は Bain(1968)の参入障壁概念に由来する(Leask and Parnell,2005)
。移
動障壁と参入障壁の違いについては根来(2005)に詳しい。そこでは鉄鋼業界を例とし、
溶鉱炉を持っているか否かが参入障壁の有無となり、二次加工工程を持っているか否か
が移動障壁の有無となると説明している。
33 Porter(1980)はその例として、政府に対する働きかけにより構築される移動障壁をあ
げている。
31
31
Shanley,1998)
。新たな移動障壁が形成されると、現在の戦略グループが形骸化され、競
争状況の大きな変化につながる(Dranove,Peteraf and Shanley,1998)
。
既述した通り特定業界における戦略グループの探索は、どの変数を選ぶべきかという戦
略次元の選択、そしてグループ間の自由な移動を制限する移動障壁を構成する要素の意味
づけ(Leask and Parker,2007)
、この 2 つの作業が重要となる。その作業が緻密であれ
ばあるほど戦略グループの存在および、その有用性の説得につながる。ただし既存研究で
抽出された戦略グループやその意味付けに対し次のような問題があると指摘されている。
まず、戦略グループ論が統計的手法を用いて抽出する戦略グループは実在するとは限ら
ず(Barney,2002)、業界分析の切り口として必ずしも万能ではない(宮元,2009)
。そし
て、戦略グループを決定する戦略次元に普遍的なものは存在しない。同一産業、同一時点
をフォーカスする分析者が存在したとしても、それらの研究の目的、手法が異なれば選択
される戦略次元は異なる事もあり得る。さらには、抽出される戦略グループが異なる可能
性がある(宮元,2009)
。
以上 2 点の批判と関連し山田(1994)は、企業は競争者と差別化するために異質性を生
み出そうとするが、なぜグループと呼べるような類似性が生み出され、時間の経過ととも
に高まるのか、それが戦略グループ概念に対する本質的な問いだとし、すべての産業に共
通した普遍的な戦略次元を確定する事は出来ない。その為、アドホックな側面を持たざる
を得ないと批判する。
第 2 節 経営者の認知的側面に着目した戦略グループ研究
前節では Porter(1980)を中心とした伝統的な戦略グループ研究を見てきた。戦略グル
ープの知見を活用することで特定業界の競争状況を描画することが可能となる。その一方
で、「戦略グループは存在するのか」(宮元,2009)という批判が付きまとう。結論として
は、普遍的な競争状態を抽出可能なフレームワークではないという見方が強い。
その問題に対し、これまでとは別の分析視角により克服しようとする戦略グループ研究
がある。それは経営者や戦略担当者等の当事者の環境や競争状況の認知を戦略次元とする
戦略グループ研究である。宮元(2009;2015)34はそれらを総称し、コグニティブな戦略
グループ論と呼ぶ。
コグニティブな戦略グループ論は、「業界の競争当事者のマインドには、ある共通した
物事をよく説明するグループ」「主要な差別化要因を何にするのかの意思決定や行動に類
似性や共通性をもたらす、経営者の主観に存在するグルーピング」(宮元,2015,15 頁)、
それらが存在すると考える。代表論者の一人である Fiengenbaum and Thomas(1995)は、
経営者の認識の中にあるコグニティブな戦略グループは、彼らが戦略を変化させるか否か
34
既存の戦略グループ研究を体系的にレビューしたうえで認知的側に着目した戦略グルー
プ研究の重要性を指摘した研究に宮元(2009)がある。彼女は認知的側面を重視した戦
略グループ研究は、実務家の視点に近く実践的な意味を持つと指摘している。
32
の判断の参照点として働き、戦略行動に影響を与えると考える。そしてそれを実証するた
めにコグニティブな戦略グループ論では当事者の認知に着目する。
そのようなコグニティブな戦略グループ論と伝統的戦略グループ論 35 との違いを山田
(1994)は、コグニティブな戦略グループ論を代表する Porac,Thomas and Baden-fuller
(1989)の研究との対比もとに 3 つあげている。
第一に、伝統的な戦略グループは、分析的な抽象でしかないが、コグニティブな戦略グ
ループは、自分たちのメンバーにかんして、心理的な実像を持っている。第二に、伝統的
な戦略グループは、純粋に供給側の類型化にとどまるが、コグニティブな戦略グループは
需要側の要因も含まれる。その理由は、市場と技術的な特質とによって構成されるが、そ
れは、経営者の心の中でこれら要素が組み合わさった結果だからである。第三に、伝統的
な戦略グループは、競争の物質的な条件に注目するが、コグニティブな戦略グループ論は、
物質的・認知的条件の相互イナクメントを通じて進化する。
たしかに、個々の企業の当事者が捉える競争状況は、われわれが捉えるそれと同じもの
とは限らない。われわれ外部者が伝統的な戦略グループ研究の知見を活用し、企業が保有
する資源や生み出された成果をもとに戦略グループを抽出したとしても、当事者は別の競
争状態を想定している可能性がある。さらに、われわれが知りえる結果や資源は事後的で
あり、抽出可能な戦略グループが当事者のそれと一致していたとしても過去に想定された
戦略グループに過ぎない。
コグニティブな戦略グループ論におけるグループの抽出方法は様々である。当事者は何
らかの実務的効率性にもとづき業界内企業をグループ化する(宮元,2015)。なぜなら経
営者や戦略を担当する当事者は環境を解釈し行為に移る。解釈する環境は参照する時期の
競争状況であり、環境が変化すれば認識も変化する。その認識変化が起点となりこれまで
と異なる戦略が選択され、結果として戦略グループも変化する事もある(宮元,2015)。
さて、コグニティブな戦略グループ研究の代表的な研究とそこで提案された概念を 2 つ
あげておこう。まず、Peteraf and Shanly(1997)が「戦略グループアイデンティティ」
の文脈で語る共同主観化である。もう一つは、Porac,Thomas and Baden-fuller(1989)
が言う競争グループである。まず Peteraf and Shanly(1997)の「戦略グループアイデン
ティティ」の議論は、社会的学習論(例えば Bandura,1986)と社会的アイデンティフィ
ケーション理論(例えば Tajfel and Tuner,1985 ;Ashforth and Meal,1989)36を下敷
きとし検討を重ねる。
35
ここでは山田(1994)において、戦略グループとだけ記述のあったものを「伝統的な戦
略グループ」と書き換え、さらに Porac, et al.,(1989)と記述されていたものを「コグ
ニティブな戦略グループ」と書き換えた。
36 個人の組織に対する帰属意識を自己の側面から検討する概念が組織アイデンティフィケ
ーションである(小玉・戸梶,2010;高尾,2013)。高尾(2013)によれば、同研究が
活性化したのは、Ashforth and Meal(1989)が社会的アイデンティティ理論および自己
カテゴリー化理論に依拠し、組成員性についての認知と自己概念の結びつきから組織ア
33
Peteraf and Shanly(1997)は、競合他社の行為を観察し、現在の戦略を見直すプロセ
スについて社会的学習理論を下敷きとし検討を重ねる。そこでは、経営者は組織間の相互
行為にもとづく経験を蓄積し、どの行為が自社にとって有効かを経験的に学習する(Peteraf
and Shanly,1997)。なぜなら、経営者には限定合理性(Simon,1947)があり、それを
克服するための参照点として競合他社に目を向ける必要があるからである
(Fiegenbaum,Hart and Schndel,1996)。組織間の相互行為にもとづく経験蓄積プロセス
は、経営者が認知的に競合他社を分類したり、他社の行為を模倣したりする基礎となる
(Peteraf and Shanly,1997)
。また水平的な競合他社間の相互行為のみならず、垂直的な
組織間関係においても相互行為にもとづく経験が蓄積され、産業全体としての戦略グルー
プ化に収斂すると Peteraf and Shanly(1997)は言う。
さらに社会的アイデンティフィケーション(social identification)論を援用し戦略グル
ープの価値と境界の鮮明化に取り組む。具体的には、それぞれの当事者がグループにおい
て価値や情動的な存在価値を得る過程を明確に記述すると Peteraf and Shanly(1997)は
述べる。以上の様にして共同主観化が生まれ、当事者はそれをもとに似通った競争状態を
想定するのだとする。
もう一つは、スコットランドのニットウェア産業を戦略グループの知見をもとに分析し
た Porac , Thomas and Baden-fuller ( 1989 ) の 研 究 で あ る 。 Porac , Thomas and
Baden-fuller(1989)は、戦略グループは先験的に存在するのではなく、競合企業をはじ
めとする行為主体間で共有された認識を基盤とする構築物だと指摘する。彼らはそれを競
争グループ(competitive group)と呼んだ。それについて Reger and Huff(1993)は、当
事者の認識によってグルーピングが異なる場合があるし、現実には存在しない可能性を指
摘する。
Porac,Thomas and Baden-fuller(1989)は認知形成プロセスを Weick(1979)のイナ
クメントの議論を参照し、「緩やかに結びついたイナクメントの過程(loosely coupled
enactment process)」と呼んだ。具体的には、取引先や顧客間でも、取引を通じ双方向で
情報が流れ、それが取捨選択されるとする。そうした結果、類似した心的モデルが相互に
形成され、それぞれの(経営)活動は同じ価値連鎖に位置し遂行される。そのような行為
は、類似した信念を形成し、さらにそれを維持・強化されることにより戦略グループ内で
変化が生じにくいメカニズムが形成されると彼らは指摘する。
加藤(2011)は彼らの議論の重要性を「個々の企業で行われる『イナクメントの過程』
は、競合企業をはじめとする関連する行為主体と独立して行われるのではなく、製品・サ
ービスでの競合や取引を通じた相互参照により、類似した心的モデルを有するようになる
点にある」
、と述べている。
イデンティフィケーションを捉えたことから始まった。組織へのアイデンティフィケー
ションは組織との一体性や組織に帰属していることに対する認知と定義されている(高
尾,2013)。
34
これまで検討したコグニティブな戦略グループ論には次の問題があると考える。
まず宮元(2015)が指摘するように、対象となる当事者の認知的側面にかんするデータ
収集が難しい。そのため実証研究が進んでいない。宮元(2015)はその問題を克服しよう
とわが国の ISP(Internet Service Provider)を対象とした先進的な分析を行っている。そ
の実証研究では当事者の認識に踏み込み、戦略グループの生成や再生成のプロセスを記述
した点、なによりも複数の当事者の経験的データを収集した点が評価されるが、そのよう
な研究は少ない。
第二に、その一方で宮本(2015)は、コグニティブな戦略グループ研究を通じて戦略グ
ループが存在すること実証したことを研究成果の一つであると述べている。彼女の結論か
ら、戦略グループ研究に対し「戦略グループとは何か?」
「戦略グループが存在するのか?」
という問いが根強く残っており、それに応える必要性を重要視していることが垣間見える。
戦略グループ論は理論的精緻化が進んでいるが、それらが目指すところは戦略グループが
存在することを実証する、という点が強調されていると思われる。筆者はその「ある・な
し」論には深入りしない。特定グループを抽出し、そのグループの何に注目し、どのよう
な研究に貢献するのかが重要であり、特定の戦略グループ研究が意味づける戦略グループ
に合致していのるかついては問題としない。さらに本研究では、伝統的な戦略グループ研
究を筆者が設定する研究課題を紐解くツールと位置付け、その範囲で同研究の知見を活用
するのであれば、伝統的戦略グループの分析手法は平易であり議論の生産性が高まると考
える。
最後に、恣意的なグルーピングであり、普遍的でないと批判されてきた伝統的な戦略グ
ループ論であるが、コグニティブな戦略グループと伝統的な戦略グループのグルーピング
が明らかに異なり、コグニティブな戦略グループの分析手法を踏襲することでしか当事者
の認識と合致しているとは言い切れない。もちろん設定する戦略次元によっては全く的外
れな戦略グループを論じることになる。しかしながら、対象とする業界を深く考察した上
で戦略次元を設定し抽出された戦略グループに属する個々の事例を探索すれば、推定であ
るかもしれないが近似するグループの表出が可能になると考える。
第 3 節 分析枠組とリサーチクエスチョン
分析枠組とリサーチクエスチョン
これまで同族企業研究を概観し、同族関与の維持・終焉に関する研究が不足していると
指摘し、その研究を進める意義について述べた。そして分析を進める枠組みとして戦略グ
ループ研究の有用性を検討し、限定的ではあるが、特定業界に今なお同族企業が多いとさ
れる現状を踏まえ、戦略グループ研究の知見を活用した分析を通じてその問題を検討する
ことに意義があると指摘した。そこで本章の最後として、ここで検討した戦略グループ研
究をどのように活用し分析するのか、その方法について検討するとともに、本研究のリサ
ーチクエスチョンを設定する。
本研究の目的は「なぜわが国では多くの株式を持たない同族が経営に関与し続けられる
35
のか」という素朴な問いを明らかにする事である。前章でみたように、当初大株主であっ
た同族が経営に関与できなくなる理由について検討した研究として、Berle and Means
(1932)と Chandler の一連の研究、そして加護野(2003)らによる長期的コミットメン
ト説を検討した。しかしながら、そのような既存研究においては、上の問題の答えを用意
する事が出来なかった。特に Berle and Means(1932)による株式にもとづく支配説は既
存研究の実態調査により否定されている。よって Chandler 説もしくは加護野説のいずれか
の検討、もしくはそれらに依拠しない全く新たな説を展開する必要がある。
Chandler は特定時期に起こった集団的戦略変化をもとに大企業の発展根拠を階層組織の
成立に求めた。その現象と連関し専門経営者の台頭による創業者一族の経営関与の終焉が
起こった事を明らかにしている。よって戦略を起点とし同族関与の終焉という統治構造の
変化を説いた Chandler 説を検討するのであれば、戦略グループの知見を活用し同一の戦略
を志向する集団を抽出することは意味のある作業と思われる。さらに Berle and Means
(1932)や Chandler 説以外の同族維持説としての長期的コミットメント説や Fligstein の
説を検討するのであれば、戦略グループ論の中でもコグニティブな戦略グループ論が分析
の枠組みとして選択されよう。
Fligstein は、戦略、組織構造、経営者、そして法制度、それぞれの関係性にかんして緻
密に分析した。その中でユニークな点は次の 3 つである。まず、内部の権力構造の移り変
わりを職能と結びつけ明示した点、そしてそれを戦略および組織構造の変化と関連付け具
体的に示した点、最後に、それらを制度の変化を起点とした変化として長期データをもと
に明示した点にあると考える。このような Fligstein の手法は示唆に富み、既述した戦略グ
ループ論、特にコグニティブな戦略グループ論で議論される当事者認識の共同主観化に近
似した議論であると考える。
以上のように、Fligstein(1987;1990)が統治構造の変化を促すきっかけと結論付けた
当事者の世界観の変化の議論と親和性が高い。同族が関与する企業が特定業界で密集して
いる事は明らかとなっている。一方で、同族関与が近年減少しているという事が明らかと
なれば、Fligstein の言うような世界観の変化の変化といった当事者意識の変化と統治構造
の変化の関係性について議論できうる。その為にも、当事者の認識にもとづいたコグニテ
ィブな戦略グループ論は魅力的である事は間違いない。
しかしながら、本研究の関心と限界と関連し、まずは伝統的な戦略グループ分析を通じ
た Chandler 説の検討から始めたいと考えている。本研究で行う作業は、過去の構造変化と
現在のそれとの違いを明らかにすることに限定し分析を行う。なぜなら、当事者の認知的
側面に注目した戦略グループ論の知見を踏襲する際、次の問題があると考えるからである。
まず、当事者の認知的側面のデータを収集する事が難しい。これは筆者の研究の現時点
での限界と関連する事であり、今後の取り組みにより克服可能な事案である。そして、伝
統的戦略グループ研究が示す戦略グループとコグニティブな戦略グループが示す戦略グル
ープが果たして別のものなのかという疑問がある。必ずしもその点については議論されて
36
きたわけではない。例えば伝統的な戦略グループ論の知見に則り戦略グループを導出し、
同グループで形成される共同主観化というものを事後的に調査するという方法や、簡易的
かもしれないが新聞・雑誌やその他の資料をもとにそれに迫るという方法であったとして
も、ある程度似通った戦略グループが抽出可能となると考える。
ただし本研究では、コグニティブな戦略グループを否定するという立場ではなく、伝統
的な戦略グループ研究を活用し戦略グループとその変化を明らかにし、事後的に当事者の
認知的側面に接近するという立場で、特に戦略グループの導出とそれをもとに戦略と同族
関与の関係について考察していく。そこで本研究は次の手順で分析を進める。
第一に、次章において、わが国の各産業の優良企業を対象とし、1950 年から 2005 年ま
での期間を対象としわが国の主要企業における同族関与の動向を調査する。詳しい内容は
後述する。その目的は、既存研究が明らかにしてきたように、同族企業が続く業界と続か
ない業界という違いがあるのか、そして、多くの株式を持たず継続して同族関与が続く企
業が見過ごすことのできない数存在するのか、それらを自らのデータベースで確認する。
第二に、同族が多い業界を対象とし、戦略と統治の関係性を分析する。そこでは Porter
(1980)らの伝統的な戦略グループの知見を踏襲し、特定業界の競争優位な企業群の抽出
およびその変容を描画する。加えて競争の優劣別に同族関与の傾向を明らかにする。
第三に、戦略グループ分析によって明らかとなった事実関係をもとに議論していくが、
コグニティブな戦略グループ論が想定する当事者の認知的側面を知ることが可能な公刊資
料を可能な限り調査し、それもとに若干議論する。
大きくは以上の手順にもとづき既述した大きな問いに答えを求めていくのであるが、も
少し議論の幅を限定するために本研究のリサーチクエスチョンを次の通り設定する。
特定の時代の特定の業界の中の特定グループで同族企業の維持・終焉の傾向に特異性はあ
るのか。あるとすればどのような理由で起こったのか。
その問題を紐解く為、まずわが国の各産業の競争優位企業の中の同族企業を抽出し、特
定業界で同族企業が今なお多く存在する事を明らかにする(第 3 章)。結果を先取りすれば
医薬品業等に同族企業が多い事が明らかとなり、第 4 章以降では医薬品業をリサーチター
ゲットと定め、医薬品業界の戦略変化を戦略グループの知見を活用し分析する。そして特
定グループの戦略変化と同族関与の関係性に特異な傾向が見られる事を明らかにする(第 5
章)。それをもとに同族関与の維持・終焉理由について議論する(第 7 章)
。
37
第 3 章 わが国の上場企業における同族企業調査37
第 1 章で既存の同族企業研究を見てきたが、同族による経営活動が様々な角度から分析
されてきたことが明らかとなった。同族企業の経営活動に絞った研究雑誌も存在する。例
えば『Family Business Review』がその代表であり、国内であれば『ファミリービジネス
学会誌』がある。さらにわが国の経営学の主要雑誌の一つである『組織科学』でも、2014
年 48 巻 1 号で「
『所有と支配』論を超えて」という特集で、同族企業にかんする研究が取
り上げられている。さらには『一橋ビジネスレビュー』の 2015 年 63 巻 2 号では「ファミ
リービジネスその強さとリスク」という特集が組まれている。以上のように、近年では研
究対象として同族企業が注目されている。
同族企業の中には、トヨタのように同族社長が経営する優れた企業が存在する。その一
方で、大王製紙の井川意高前社長のように会社を私物化する社長も存在する。同族企業は
新聞・雑誌で良くも悪くも頻繁に取り上げられている。しかし同族企業の定義については
共通のものはない。本章では、本稿が設定する同族企業の定義を示したうえで、わが国の
同族関与の実態調査を行う。
本稿で示す同族企業の定義は完全なものではない。様々な批判も想定される。しかしな
がら、同族企業研究の発展を目指すのであれば、定義を議論することにほとんど意味はな
いと思われる。様々な同族の関与の形がある中で、それぞれの業績や統治の仕組み、社会
と企業との関係性など、同族が関与する形にごとに違いがあるのかを議論するほうが有意
義であると考えている。
ユパナ・沈(2015)は、幅広い定義を用いなければ特徴的な日本の同族企業を捉える事
が難しいと指摘した上で、
「株式を所有することから創業家のパワーが生まれることを前提
に考える欧米の基本的な発想からかけ離れた日本の特有の現象」(ユパナ・沈,2015,45
頁)
、その背景にどのような思想が溶け込んでいるかを明らかにすることが日本の同族企業
研究の今後の課題であると指摘する。ここでは彼女らが同族企業研究の課題の一つとする
日本固有の現象の意味を解き明かす事を目的とし、まずは独自に設定した企業形態の枠組
みを用い、主要企業の同族関与の歴史的動向を調査する。具体的には、時代や産業を分析
軸とした場合、同族関与の形態に違いがみられるのか否かを明らかにしていく。
まず第 1 節では、同族関与の様々な形態を明らかにするために独自の企業形態の枠組み
を設定する。続く第 2 節では、実際に調査を行い、いくつかの切り口で特徴を明らかにす
る。最後に第 3 節では明らかになった特徴を整理するとともに、次章以降に取り組む課題
について述べる。
37
本章は滋賀大学経済学部の学士取得論文を下敷きとした藤野(2013a)にもとづく。後
に明らかとなるが、ここで捉える同族企業と第 5 章の戦略グループ分析で捉える同族企
業の定義が若干異なる。異なる理由にかんしては第 5 章で述べる。
38
第 1 節 本研究の同族企業
同族企業の定義の一例をあげれば、
「金融機関以外の事業法人のなかで最大の持株比率を
もつ一事業法人の持株比率が 20%未満であり、かつ個人株主のなかで最大持株比率をもつ
家族の持株比率が 10%」
(加護野・吉村・上野,2003,43 頁)や「創業者の同族が、株主
でなくても経営トップとして経営に参画しているか、大株主であり、取締役以上で経営に
参画している会社」
(倉科,2003,22 頁)、
「一族による株式保有比率が 5%以上、社長もし
くは会長が一族出身である企業」(斉藤,2006,172 頁)と定義する研究者がいる。
以上 3 つを見ると、同族の持株比率と同族の職位の 2 つの軸で同族企業を定義している
と理解できる。一つの軸である持株比率にかんしては、10%(加護野・吉村・上野,2003)、
大株主(倉科,2003,)、5%以上(斉藤,2006)となっている。この点だけを見れば、株式
に備わった影響力を支配の根拠とする Berle and Means(1932)の支配観に従った定義と
なる。しかしながら、倉科(2003)による「大株主」という抽象的表現はもとより、10%
と 5%、それらの影響力の違いを説明することは難しい。
「10%は 5%より影響力を持ってい
そうだ」という事は常識的に理解出来る。しかし、
「9%は影響力がなく、10%だと影響力が
ある」という事は一般的に理解できないし、その差の根拠を示す事は難しいと考える。こ
のように持株比率にもとづく定義は単なる調査分析の為の便宜的な枠組みでしかないと考
える。
もう一方の軸である職位にかんしては、
「取締役以上で経営に参画している会社」
(倉科,
2003)
、「社長もしくは会長が一族出身である企業」
(斉藤,2006)、「職位考慮なし」
(加護
野・吉村・上野,2003)、という形でわかれる。この職位にかんしても、単なる取締役より
社長のほうが強い影響力を有する事は一般的に理解できる。しかしながら、会長と社長の
どちらが影響力を有するのかについては個々の企業で異なると考える。
以上のように研究者それぞれが独自に同族企業を設定する中で、「同族企業とは何か?」
という定義を洗練する研究もありえる。しかしながら筆者の関心はそのような定義の問題
ではない。繰り返しとなるが筆者の関心は、
「株式が分散してもなお、なぜ同族が経営に関
与し続けることが出来るのか?」である。その問題に取り組むため、まずは様々な同族関
与の形があるという理解の下、今日の主要企業における同族関与の動向を調査する。
表 3-1 は筆者が考える同族関与の様々な形を表にしたものである。そこには大分類と小分
類の 2 種類の基準がある。小分類を設けた意図は、同族企業の中でも特に、
「株式所有にも
とづかず、同族が支配する企業」の存在を明らかにするためである。加えて、小分類を設
けることによりその状態に移行する前後の状態も明らかとなり、そのような同族と企業と
の関係が紐解くきっかけとなると考える。
まず大分類をみていこう。大分類では、創業者企業(Entrepreneur Enterprise)、同族
企業(Family Enterprise)、経営者企業(Managerial Enterprise)、その他の所有者企業
(Other Owner Enterprise)の 4 分類を設定する。
創業者企業は創業者が企業を所有するか経営に関与する企業であり、同族経営は同族が
39
所有する企業か経営に関与する企業である。その他の所有者企業とは、創業者や同族では
ない株主が株式の権利に基づいて支配する企業である。最後に、以上のいずれにもあては
らない企業を経営者企業とする。
ここで本稿における所有という概念の扱いにかんして述べておこう。株式会社における
所有概念にかんしても支配概念と同様、これまで様々な議論がなされているが結論は出て
いない38。筆者は、ある主体が株式会社を所有しているという状態は、株式に備わった権利
にもとづかなければ成立しないと考える。わが国の会社法にもとづけば、50%超の株式を有
する株主は、株式会社の最高機関である株主総会を占有でき、すべての議案は彼らの意向
に左右される。一方、その状態から株式の分散が進むにつれ株主としての影響力は弱まる。
また数的な条件だけでなく、わが国の特徴の一つである持合いや「物言わぬ株主」という
株主の文化的特性、そして株主と企業との関係性、それらは影響力の行使という面からみ
れば考慮すべき重要な問題である。しかしながら、保有比率にもとづく影響力や関係性に
もとづく影響力を普遍的な尺度で示すことは難しい。
そこで便宜的にいくつかの基準を設定する必要がある。そこで既存研究にもとづき持株
比率により影響力を分類する。第一に、50%超保有する株主を所有者と設定する。第二に、
それを下回るが 10%以上保有する株主を「少数株主による支配」
(Berle and Means,1932)
に該当する株主とする。紹介した Berle and Means(1932)はその基準を 20%としていた。
それにも拘わらず 10%基準で設定した理由は、今日では単独最大株主の持株比率が 10%未
満の巨大企業において経営者支配が成立するとみるかどうかが議論の出発点という共通認
識が存在するからである(仲田,1999)
。一般的に最大株主が 10%未満であれば経営者支配
が成立しているという理解が通説であるならば、10%以上保有する株主が存在すれば株主が
支配していると換言可能である。そうであるならば、同比率以上の株式を有する同族が存
在すれば、所有しているとは言い難いが学説上、支配が成立しているとしてみなすべきで
あると考える。
そして第三に、今日的には比較的容易に株主構成を知る事が出来る。過去数年分であれ
ば、各企業のホームページから有価証券報告書をダウンロードすることで確認できる。さ
らに東洋経済新報社が発行する『四季報 DVD』や日本経済新聞社のデータベース『Nikkei
Financial Quest』により容易に過去の状況を知る事が可能となっている。本研究では各企
業が発行する『有価証券報告書』を第一の資料とし、同資料に記載がある株主(おおよそ
上位 10 株主)の中で上の二つのに該当しない、つまり 10%未満の株主を、企業に対し「影
響力を持つ株主」と捉える39。一方、同資料に記載のない株主については考慮しない。持株
にかんしては以上の基準で分類する。加えて次に説明する職位を考慮し分類したものをあ
わせ小分類とする。
38
詳しくは勝部(2004)を参照されたい。
詳しくは後述するが、調査資料(主に有価証券報告書や四季報)の範囲内で知りえるこ
とが可能な株主を「影響力を持つ株主」とする。
39
40
表 3-1:企業形態の分類
大分類
小分類
条件
同族が企業を所有している。
E1
創業者が社長もしくは会長に就いている。
創業者以外の同族が社長に就いていない。
E2
創業者企業(E)
同族が企業を所有はしていないが10%以上の株式を保有している。
創業者とそれ以外の同族の就任条件はE1と同様。
E3
10%以上の株式を保有していないが上位株主である。
創業者とそれ以外の同族の就任条件はE1と同様。
E4
創業家が上位株主ではない。
創業者とそれ以外の同族の就任条件はE1と同様。
同族が企業を所有している。
F1
役員の出自は問わない。しかし、創業者が社長でない事を前提とする。
創業者が会長に就くケースも含む。
同族が企業を所有はしていないが10%以上の株式を保有している。
F2
創業者以外の同族が社長もしくは会長に就いている。
創業者が会長に就くケースも含む。
同族企業(F)
F3
10%以上の株式を保有していないが上位株主である。
F4
同族が上位株主ではない。
創業者とそれ以外の同族の就任条件はF2と同様。
創業者とそれ以外の同族の就任条件はF2と同様。
10%以上の株式を保有していないが上位株主である。
F5
創業者以外の同族が社長以下の役職(専務や常務等)の取締役である。
創業者は社長や会長から退いている。
F6
同族が上位株主ではない。
F7
10%以上の株式を保有していないが上位株主である。
創業者やそれ以外の同族の地位条件はF5と同様。
経営者企業(M)
創業者やその同族が取締役以上の役職に就いていない。
M
所有者が存在しない。同族が上位株主ではない。
創業者やその同族が取締役以上の役職に就いていない。
所有者企業(O)
O
創業家以外の所有者が存在する(例えば親会社、政府機関、機関投資家等)。
出所:筆者作成
さて、ビジネスアイデアをもった個人もしくは複数の個々人が起業に必要な資本を出資
し、株式会社を設立した場合を想定する。そのような個人や集団は企業家もしくは起業家
であり、株式会社を設立した創業者である。彼らの多くは、出資と引き換えに得た大量の
株式を保有することによって企業を所有する。加えて経営者としてマネジメントにも関与
「E1」
する場合が多い。そのような企業を大分類で創業者企業とし、小分類で「E1」40とする。
は 50%超の株式を起業者である創業者もしくはその一族が保有していることが前提となる。
40
小島義郎・竹林滋編(1984)
『ライトハウス和英辞典』研究社によれば、創業者を訳すと
Founder となる。よって本来であれば創業者を略述するのであれば「F」とするのが適切
である。しかしながら本稿では同族企業(Family Enterprise)を「F」とする。そこで
創業者企業と同族企業が混同しないよう、創業者と近似した概念である企業家
(Entrepreneur)にもとづき創業者企業を「E」と略述する。
41
本稿が調査対象とする企業の中にも創業者が一代で規模を拡大し、されに株式市場に上
場した企業は多数存在する。もちろん、株式市場に上場することが最終目的ではなく、上
場後も新たな成長機会を探り活動してきたことは言うまでもない。それら企業は、成長を
目指す過程で必要な「カネ」を調達するため増資を行うこともあろう。増資には様々な方
法がある。例えば、既存株主が増資分を引き受ける第三者割当の他、完全な公募で様々な
出資者から資金を調達する方法がある。その方法を選択すれば、既存株主の持株比率が低
下しその者の権利は分散される。
「E1」に分類される創業者企業が増資を行えば初期の出資者の持分が希薄化する。その
結果、同族が所有出来ない状態となる。そこで本稿の枠組みでは分散の程度によって次の
ように分類する。第一に、所有はしていないが少数株主が支配していると解釈可能な株式
を保有する場合を「E2」とする。少数株主が支配していると解釈できる基準は前述の通り
10%以上の株式を保有する状態である。第二に、同族が 10%以上株式を保有していないが、
上位株主である場合を「E3」
、さらに分散がすすみ同族が 10 位以内でなくなった場合や同
族が株式を全く持たなくなった状態を「E4」とする。なおこの 4 つの分類すべて、創業者
が社長もしくは会長に就き、創業者以外の一族が社長に就いていないことを前提とする。
例えば、わが国を代表する創業者といえば、松下幸之助や本田宗一郎が思い浮かぶ。も
ちろん彼らの他にも優れた創業者は多数存在する。そのような優れた創業者であったとし
ても永続的にマネジメントに関与することはありえない。ある時期が来れば引退する。引
退は自らが引き際を設定することもあれば、経営不振や買収等によって引退せざるを得な
い状況に陥った創業者もいたことであろう。創業者の引退をともなう経営者交代は企業形
態の変節点であり、当該企業における一つの時代の終焉といっても過言ではないだろう。
松下電器産業(現パナソニック)では、松下幸之助が社長から会長に就任すると同時に、
娘婿の松下正治が社長に就いた。その例のように創業者がその一族に社長の地位を継承す
る事象を本稿では、創業者企業から同族経営に転換したと解釈する。また、本田宗一郎は
後継に生抜きの河島喜好を指名し、自らは会長にもならず経営に関与せず退いている。そ
のような事象を本稿では、創業者企業から経営者企業に転換したと解釈する。なお本田宗
一郎は社長退任時ほとんど株式を保有しておらず、かつ同族も保有していない状態であっ
た。そのような株式保有の状態に応じて経営者企業にもいくつかの小分類を設定している。
それについては後述する。
さて、松下電器産業のように、創業者である親がその一族に経営を継承したいと考える
のは自然であると思われる。調査を進めていくと、わが国でも創業者が後継者に一族を指
名するケースが多いことが明らかとなった。ただし同族が経営に関与すると言っても様々
な形の関与がある。その違いにより業績や戦略、または統治構造などに違いがあるのか否
かを検討することは今後の課題となる。ここではまず、出来るだけ細かな枠組みを用い調
査対象における同族関与の動向を見ていく。そのために用いるのが同族関与の形態を細か
く分類した小分類である。続いてそれを説明していこう。
42
創業者の引退後、引き続き同族が企業を所有していれば、経営者がどのような主体であ
ろうとも同族企業である。それを「F1」に分類した。繰り返しとなるが、持株にかんして
は同様であるが創業者が社長もしくは会長41に就いていれば「E1」とする。
「F1」のように同族が所有者として支配する同族企業において、増資により同族の持株
が希薄化するということは大いにあり得る。そこで創業者企業の細分類同様、同族の持株
と創業者以外の一族の地位にもとづき同族企業を類型化していく。まず、創業者以外の一
族が社長もしくは会長に就いているか否か判断材料となる。次に創業者企業の分類と同じ
く、同族の株式保有の内容によって分類する。具体的には、創業者以外の一族が社長もし
くは会長であり、同族が 10%以上の株式を有すれば「F2」とする。そして「F2」に該当す
るほど同族が株式を保有していないが同族が影響力のある株主である場合を「F3」に分類
する。他方、同族がほとんど株式を保有していない状態で創業者以外の一族が社長もしく
は会長に就いている企業を「F4」に分類する。
加えて、同族株主が上位株主であるが、創業者が社長や会長ではなくその一族が取締役
に就いている企業を「F5」とする。反対に、同族株主が上位株主であるが、創業者やその
一族が取締役に就いていない企業を「F7」とする。前者は大分類を同族企業、後者は大分
類を経営者企業とする。
「F6」は、取締役に同族が就いているが上位株主ではない企業とす
る。創業者の条件にかんしては「F5」と同様である。
最後に、同族以外の大株主が企業を所有するケースがある。考えられるのは、被所有企
業の親会社や JT や NTT などの民営化前後の政府機関、さらには機関投資家などが大株主
となっているケースである。それらは経営者企業に含まず「その他所有者企業(「O」)」と
分類した。
以上が本稿における企業形態の分類枠組みである。それを使用し調査対象を分類してい
く。筆者が特に注目するのは、同族が株式をほとんど持たず経営に関与する企業、つまり
ここで設定した「F4」に該当する企業であり、それよりも持株は多いが 10%未満でありな
がら同族が経営に関与する状況を意味する「F3」も既存研究で捨象された同族関与の形態
である。このような企業がわが国に多いことは既存研究により明らかとなっているが、そ
れら研究より長期間の動向分析を行うとともに、指摘されてきた実態の存在を確認する。
第 2 節 上場企業における同族企業:調査
上場企業における同族企業:調査 1
第 1 項 調査目的
調査 1 の目的は、わが国の今日の主要企業を対象とし、それら企業が第二次大戦後、同
族が関与す企業であったか否かを調査する事、そしてそれは「時代別」「産業別」に特徴が
見られるのかどうかを明らかにする事、さらに設定した企業形態別に特徴が見られるのか
を明らかにする事にある。
41
ただし、後に説明するように、創業者が会長、一族が社長の場合は同族企業に分類する。
43
第 2 項 調査対象と分析対象
調査 1 の調査対象は、日本経済新聞社のホームページ内のコンテンツ「NIKKEI .NET42」
のランキングを活用し、2007 年の 7 月時点で各産業(その他金融業、空運、電力、ガスの
各産業を除く 28 産業)の売上高ランキング上位 10 社、合計 270 社とする。それら企業は
各産業を代表する主要企業といえよう。ただし、同ランキングでは 10 位まで掲載されてい
ない業界が 3 つあった。それらは掲載されている順位までを調査対象とした。具体的には、
鉱業が 7 位、造船が 6 位、農林水産業が 7 位までの掲載であった。また、有価証券報告書
が入手できなかった企業が 7 社(共立マテリアル、名鉄運輸、大丸、テルモ、三菱ケミカ
ル、東海特殊 HD、マルハ)あった。それらは調査対象とするが、以下の分析では除外した。
そのため分析対象企業は 263 社となった。
第 3 項 調査期間
本調査では第二次大戦後の 1950 年から 2005 年までを対象とし、1950 年、1955 年、1960
年、1965 年、1970 年、1975 年、1980 年、1985 年、1990 年、1995 年、2000 年、2005
年の各時点の企業形態を調査する。
第 4 項 企業形態の分類根拠となる資料
表 3-1 で明らかにしたとおり、株主の状況と役員の状況を調査しそれをもとに設定した企
業形態で分類する。各企業の株主構成や役員の情報が入手可能な資料の中で、株主情報は
限定的ではあるが、継続的な資料が入手可能な有価証券報告書を第一の資料とし、それを
もとにデータベース化する。有価証券報告書の収集は、日立ハイテックのデータベース『有
報革命』を用い収集した。しかしながら同データベースでは 1970 年代以前の有価証券報告
書が不揃いであった。抜け落ちた年代にかんしては、東洋経済新報社の『会社四季報 DVD』
を使用し、そこに記述された情報をもとにデータベース化した。
第 5 項 創業者およびその一族の判別
創業者にかんしては、各企業のホームページ、社史、および東洋経済新報社の『日本会
社史総覧』(東洋経済新聞社,1995 年)を第一の資料とし、そこに記載のないものは企業
家人物事典製作委員会のホームページ内コンテンツ『企業家人物辞典』43を参照し確認した。
それでも、創業者が確認できない企業がいくつかあった。該当する企業は「創業者不明」
とし、当該企業は株主構成を基準とし経営者企業と所有者企業に分類した。
続いて同族とみなす基準は、加護野・吉村・上野(2003)を参考にし、創業者と「同姓」
日本経済新聞社ホームページ内のコンテンツ(http://markets. nikkei.co.jp 2008 年 8 月
21 日閲覧)を参照。
43 企業家人物事典製作委員会のホームページ(http://ijin.keieimaster.com 2008 年 8 月 21
日閲覧)を参照。
42
44
者を同族とみなした。もちろん、姓が異なる一族も存在した。それらは根拠となる資料が
ある限りにおいて同族とした。
同族株主の判断は、創業者とその一族の個人持株のみならず、同族が関与していると思
われる一般法人や財団法人株主を含めた持株比率の合計を同族の持株とした。分類基準の
一つである影響力を持つ株主にかんしては、その根拠を有価証券報告書もしくは四季報に
記述のある株主(それら資料では上位 10 株主以内が記述されている44)に着目し、同族持
株を合計しても 10%未満であれば当該株主をみなす。また同資料内の株主欄に同族株主が
いなければ「同族の持株なし」と判断する。もちろん、株主欄に記述がなくとも、つまり
上位株主でなくとも少数の株式を保有する同族は存在すると推測される。ただし本研究で
はそれらについて考慮しない事とする。
第 3 節 調査結果と発見事実
本節ではわが国の主要 263 社の同族関与の歴史的動向を明らかにするために、調査結果
を 4 つにまとめ明らかにする。まず、大分類にもとづき 2 つの調査結果を明らかにする。
一つは、全体的な企業形態別比率の推移を示す(第 1 項)
。もう一が、産業別に企業形態別
累計数の推移を示す(第 2 項)。続いて小分類にもとづき 2 つの調査結果を明らかにする(第
3 項)。一つは、大分類で同族企業に該当する企業を対象とし、それを小分類で細分化し、
1950 年から 2005 年まで各分類の企業数の推移を示す。さらに、1950 年と 2005 年の 2 時
点における企業形態の変化を具体的にみていく。
第 1 項 大分類調査の結果
まずは図 3-1 をみていこう。図 3-1 では、分析対象における上場企業数(棒グラフ)45、
そしてその中の「①各企業形態比率の推移」
(実線の折れ線グラフ)46と「②1950 年から継
続的に上場する企業を対象とした各企業形態比率の推移」(点線の折れ線グラフ)47を示し
ている。②を別に設けた理由については、同族関与は時の経過とともに薄れていく事が推
察される。そこで 1980 年の動向を例とし 2 つの折れ線グラフの違いをもとに説明する。
図 3-1 によれば、対象とした企業で 1980 年の時点で上場された企業の数は 205 社であっ
た。それ以外は上場されていない、もしくは起業されていない状態であり、1980 年時の有
44
しかしながら、10 位まで記述されていない有価証券報告書や四季報が存在した。本来な
ら上位 10 とした場合、別の資料等を収集し統一する必要があるが、他の代替資料が入手
不可能であった。その為、本調査では入手可能な資料に記述があれば上位株主もしくは
影響力のある株主とした。
45 既述の通り分析対象は 2007 年時点の売上高上位企業である。
それら企業は過去の調査時
点(例えば 1960 年)にわが国の証券取引所に上場されていたわけではない。その為、分
析対象企業における各時点の上場企業数を明らかにしている。
46 この比率は「各企業形態/分析対象企業内の上場企業数」である。
47 1950 年から継続的に上場する企業の比率とは、1950 年時に上場済みの企業のみ対象と
した比率である。
45
価証券報告書の入手が難しい。その為、同時代の分析対象から除外した。その後上場され、
有価証券報告書が入手可能となった時期以降、分析の対象に含めた。
1980 年時上場企業 205 社を各企業形態で分類したところ、経営者企業が約 60%、同族企
業が約 25%、
創業者企業が約 7%となった。これが①の 1980 年時の折れ線グラフ値である。
一方、②は分析対象 263 社のなかで 1950 年の上場企業 128 社を対象とし、それら企業の
1980 年時の企業形態別比率の推移を示したものである。このように 2 つの推移を示す意図
は、新たに上場された企業は比較的新しい企業が多いことが想定され、そのような企業は
創業者が経営者に関与する企業が多いと推測される。一方で 1950 年から継続上場された企
業は調査対象の中でも長期存続する老舗的な特色をもつ企業と位置付ける事が出来、①と
比較して比率が低下している事は一般的に理解されていると推察される。実際、その事実
関係を明らかにする事が重要であり、そこには新たな発見もあると考える48。
まず創業者企業の推移を見ていこう。創業者企業全体の動向を見ていくと 1950 年の比率
は約 16%であった。それ以降、同比率は一貫し下降しており、最終の 2005 年には約 3%と
なっている。継続上場の動向(②)も同じく一貫し下降している。こちらは 95 年に創業者
企業に該当する企業が存在しなくなった。
図 3-1:大分類にもとづく構成比率の変化
社
90%
300
80%
250
70%
63%
62%
70%
67%
57%
200
63%
60%
上
場 150
企
業
数
60%
63%
61%
50%
53%
188
183
164
154
128
30%
100
16%
12%
26%
203
205
208
222
26%
25%
25%
26%
232
10%
248
263
40%
形
態
別
構
成
比
率
30%
22%
21%
25%
19%
17%
50
60%
59%
17%
9%
7%
7%
20%
7%
5%
5%
3%
10%
3%
3%
0%
0
50年
年
55年
年
60年
年
65年
年
70年
年
75年
年
80年
年
85年
年
90年
年
調査対象の上場企業数
創業者企業
同族企業
創業者企業(1950)
同族企業(1950)
経営者企業(1950)
95年
年
00年
年
05年
年
経営者企業
出所:筆者作成
48
実際に対象企業の中の新規上場企業に占める創業者企業の比率の推移も調査している。
ただし、サンプル数が少ないことから結果だけを示す。1955 年が 0%、1960 年が約 40%、
1965 年が約 11%、1970 年が約 60%、1975 年が約 27%、1980 年が約 50%、1985 年が
約 33%、1990 年が約 21%、1995 年が約 20%、2000 年が約 19%、2005 年が約 13%とい
う結果となった。
46
つづいて同族企業比率の推移を見ていこう。まず全体の傾向を見ていくと 1950 年の比率
は約 17%であった。その後、1965 年まで上昇する。その時点の同族企業比率は約 30%と
なっている。以降、2005 年の約 17%とまでその比率はほぼ下降している。特に 1990 年以
降、その低下幅が大きいことが読み取れる。加えて継続上場の同形態の動向を見ていくと、
こちらも同じような下降傾向を示しているが、1995 年以降、大きく比率が下がっている。
また図 3-1 では所有者企業に分類された企業の比率を示していない。その理由は比較的小
集団であった為である。各年度の所有者企業は次のようになっている。すなわちそれは、
1950 年は約 3.1%、1955 年は約 6.5%、1960 年は約 7.9%、1965 年は約 8.2%、1970 年は
約 6.4%、1975 年は約 7.9%、1980 年は約 7.3%、1985 年は約 7.2%、1990 年は約 8.6%、
1995 年は約 9.5%、2000 年は約 9.3%、2005 年は約 9.5%であった。以上のように 2007 年
に競争の優位性を有する企業群を対象とし、過去から近年までの企業形態の動向を見てい
くと、同族が関与する企業が減少している事がわかる。しかし、それでもなお見逃すこと
のできないほど同族企業が存在することは確かである。もちろん、同族が関与しなくなれ
ば経営者企業になる。実際、経営者企業の動向を見ると、同族企業とのあいだに負の相関
があるように推移していることが読み取れる。
第 2 項 大分類にもとづく産業別同族企業数の調査結果
続いて産業別に企業形態別企業数をまとめた表 3-2 を見ていこう。
同表では 1950 年、1960
年、1970 年、1980 年、1990 年、2000 年、2005 年の結果のみ示している。同表からは 4
つの特徴が読み取れる。
表 3-2:各産業別推移(企業数)
調査年度
医薬品
陸運業
食料品
ゴム
その他製造業
サービス
不動産業
小売業
商社
通信
海運業
機械
紙・パルプ
自動車
倉庫
鉄道・バス
電気機器
農林水産業
非鉄金属
その他輸送機器
精密機器
繊維業
造船
鉄鋼業
石油
化学工業
鉱業
窯業
計
1950年
E
3
0
1
0
0
0
0
0
0
0
1
4
2
1
0
1
3
0
0
0
1
1
0
0
1
2
0
0
21
F
3
0
2
1
2
0
0
1
0
0
0
2
1
2
1
0
0
0
0
0
2
2
1
1
0
0
0
1
22
M
1
1
2
1
2
0
3
0
3
0
3
1
3
1
2
6
4
3
5
3
4
5
3
6
3
6
5
5
81
O 計
0 7
0 1
0 5
1 3
0 4
0 0
0 3
0 1
1 4
0 0
0 4
0 7
0 6
0 4
0 3
0 7
1 8
0 3
0 5
1 4
0 7
0 8
0 4
0 7
0 4
0 8
0 5
0 6
4 128
1960年
E
2
1
1
0
0
0
0
0
0
1
1
1
1
1
0
1
4
1
0
0
0
2
0
0
0
0
0
0
17
F
3
0
2
3
1
0
1
1
0
0
2
5
2
4
2
2
1
0
1
0
3
2
1
1
0
2
0
2
41
M
2
2
2
1
3
0
3
0
5
0
4
2
3
2
4
4
4
2
6
3
4
5
3
7
4
7
4
6
92
O
0
0
1
2
0
0
0
0
1
1
2
0
0
1
0
0
1
0
1
1
0
0
0
1
1
0
1
0
14
1970年
計
7
3
6
6
4
0
4
1
6
2
9
8
6
8
6
7
10
3
8
4
7
9
4
9
5
9
5
8
164
E
1
1
1
0
0
0
0
0
0
0
1
0
0
2
0
1
3
0
0
0
0
3
1
0
1
0
0
0
15
F M
5 3
3 2
4 3
5 1
1 3
1 0
1 4
2 0
1 4
0 2
2 5
5 4
1 5
4 2
2 4
2 4
2 4
0 3
1 6
1 4
1 6
0 7
1 3
1 8
0 4
2 7
0 4
1 8
49 110
O
0
0
1
2
0
0
0
0
2
0
1
0
0
1
0
0
1
0
2
1
0
0
0
1
1
0
1
0
14
1980年
計
9
6
9
8
4
1
5
2
7
2
9
9
6
9
6
7
10
3
9
6
7
10
5
10
6
9
5
9
188
E
1
2
0
0
0
1
0
3
0
0
1
0
0
1
0
1
2
0
0
0
0
2
1
0
0
0
0
0
15
F M
5 3
4 2
4 5
4 3
2 3
1 0
2 4
3 0
0 5
0 2
2 5
5 4
1 7
3 5
2 5
3 3
3 4
0 3
1 6
2 4
1 6
0 8
1 3
2 7
0 5
1 8
0 4
0 9
52 123
出所:筆者作成
47
O
0
0
0
2
0
0
0
0
2
0
1
0
0
0
0
0
1
0
2
1
0
0
1
1
2
0
1
1
15
1990年
計
9
8
9
9
5
2
6
6
7
2
9
9
8
9
7
7
10
3
9
7
7
10
6
10
7
9
5
10
205
E
0
1
0
0
0
2
2
2
0
0
0
0
0
1
0
1
1
0
0
0
0
0
1
0
0
0
0
0
11
F M
6 3
5 2
4 5
3 4
3 3
1 0
0 6
4 1
0 6
0 2
2 6
4 5
1 7
3 5
2 5
3 4
2 6
1 3
2 6
1 6
4 5
1 9
1 3
2 7
0 5
2 7
0 5
0 9
57 135
O
0
1
0
2
0
0
0
0
1
1
1
1
0
1
0
0
1
0
2
2
0
0
1
1
3
0
0
1
19
2000年
計
9
9
9
9
6
3
8
7
7
3
9
10
8
10
7
8
10
4
10
9
9
10
6
10
8
9
5
10
222
E F M
0 6 4
0 4 4
0 3 6
0 3 5
0 3 5
2 2 2
3 0 7
0 4 3
0 0 7
2 0 3
0 2 6
0 2 7
0 1 8
0 2 7
0 2 6
0 3 7
0 3 6
0 2 4
0 2 7
0 1 7
0 3 6
0 1 9
0 1 4
0 1 8
0 0 6
0 0 9
0 0 5
0 0 9
7 51 167
O
0
1
1
2
1
0
0
0
1
3
2
1
0
1
1
0
1
0
1
2
0
0
1
1
2
0
0
1
23
2005年
計
10
9
10
10
9
6
10
7
8
8
10
10
9
10
9
10
10
6
10
10
9
10
6
10
8
9
5
10
248
E F
0 5
0 4
0 3
0 3
0 3
2 2
2 1
1 2
1 1
1 1
0 2
0 2
0 2
0 2
0 2
0 2
0 2
0 2
0 1
0 1
0 1
0 1
0 1
0 0
0 0
0 0
0 0
0 0
7 46
M
4
4
6
6
6
6
7
6
7
4
6
7
7
7
7
8
7
4
8
7
7
9
4
9
8
9
5
10
185
O
1
1
1
1
1
0
0
0
1
4
2
1
0
1
1
0
1
0
1
2
0
0
1
1
2
0
1
0
24
計
10
9
10
10
10
10
10
9
10
10
10
10
9
10
10
10
10
6
10
10
9
10
6
10
10
9
6
10
263
第一に、医薬品業に同族企業が多い。調査期間中どの時点においても半数以上が同族企
業である。さらには 2005 年時点を見ると、他の産業においては同族企業が減少しているに
もかかわらず、医薬品業は 10 社中 5 社が同族企業であった。この結果から医薬品産業の構
造に何らかの特徴があると推測される。第二に、ゴム業や陸運業に分類された企業は、新
たに分析対象が増加(新規上場を分析対象増加とみなす)すると同族企業が増加している。
そして第三に、機械業は 1990 年以降、同族企業数が減少している。またこの結果は、図
3-1 で明らかにした全体の傾向とも合致している。機械業を対象とし分析を進める場合、わ
が国の経済変動と連関した同族関与の終焉であるのか、それとも機械産業特有の要因なの
か、その違いに着目する必要があるだろう。最後に、石油や鉱業は調査期間中同族企業が
存在しなかった。
第 3 項 小分類調査の結果
図 3-2 は大分類で同族企業に該当する企業を対象とし、それらを小分類によって細分化し、
各企業形態の企業数の推移を示したものである。図 3-2 をみると、同族企業に該当する企業
の中で、「F3」と「F4」に該当する企業が多いことが読み取れる。
両分類に該当する企業数の推移を見ていくと、
「F3」は 50 年 9 社(7%)、55 年 12 社(8%)
、
60 年 15 社(9%)、65 年 26 社(14%)、70 年 28 社(15%)
、75 年 34 社(17%)、80 年 33
社(16%)、85 年 27 社(13%)、90 年 27 社(12%)
、95 年 26 社(11%)
、00 年 27 社(11%)、
05 年 22 社(8%)となっている。なお棒グラフ上部の数値は累計数を示すものである。
「F4」は、50 年 5 社(4%)、55 年 12 社(8%)
、60 年 5 社(3%)
、65 年 12 社(7%)、
70 年 12 社(6%)、75 年 10 社(5%)
、85 年 16 社(8%)
、90 年 21 社(9%)、95 年 20 社
(9%)
、00 年 15 社(6%)、05 年 15 社(6%)となっている。
図 3-2:同族企業内の小分類(企業数)
F1
社
F2
60
F4
57
55
49
50
F3
52
52
F5
55
51
51
46
41
27
40
30
12
20
10
28
15
22
26
26
30
34
33
22
5
21
12
9
12
27
27
12
10
10
16
70年
年
75年
年
80年
年
85年
年
20
15
15
5
0
50年
年
55年
年
60年
年
65年
年
出所:筆者作成
48
90年
年
95年
年
00年
年
05年
年
加えて小分類をもとに 1950 年から 2005 年まで継続的に上場している企業 128 社に限定
し、1950 年と 2005 年 2 時点の企業形態の変化を示す。それが表 3-3 である。この表の特
徴は、これまでと異なり実際の企業名を記述し具体的に変化を見ていることにある。
表 3-3 の大分類の企業数を見ていこう。創業者企業(「E」
) は 1950 年の 21 社が 2005
年には 0 社(0%)となった。同族企業(「F」)は 22 社から 14 社に減少、反対に経営者企
業(「M」)は 81 社から 111 社に増加した。所有者企業(「O」)も 4 社から 6 社に増加した。
そのような結果となった。
また分析対象企業の内、
1950 年に未上場企業が 137 社存在した。
1950 年に創業者もしくは同族が関与している企業(「E」と「F」)が 128 社中 43 社存在
した。その中で 2005 年に経営者企業(「M」
)となったのが 31 社存在した。つまり、50 年
以上の月日が経過すると約 7 割の企業で同族が関与しなくなったということになる。ただ
し、この 31 社の中には小分類でいうところの、社長や会長以外の同族役員としてのみ関与
する企業(
「F6」)や上位株主としてのみ関与する企業(
「F7」)が数社含まれている。
続いて、繰り返し述べてきたように「株式所有にもとづかず、同族が支配する企業」に
着目してみよう。それを表す小分類は「F4」である。その分類にどの企業が当てはまり、
そして 1950 年と 2005 年でそれに変化が生じたのかを明らかにしていこう。
1950 年に「F4」 に該当する企業はスズキ、クボタ、クラレ、大日本印刷、ヤマハの 5
社である。一方、2005 に「F4」に該当する企業はキャノン、レンゴー、東武鉄道、セイコ
ー、オカモト、塩野義、スズキ、日本トランスシティの 8 社である。さらに同年に限定し
同族が上位株主である場合(「F3」)をみると、武田と小田急電鉄が追加され 10 社となる。
表 3-3:2 時点における企業形態(小分類)の変化
大分類(企業数)
1950
E(21)
小分類
大分類(企業数)
企業名
2005
変化
企業数
F(3)
E3→F4
3
M(16)
O(2)
F(1)
M(81) M(79)
O(1)
非上場137社
1950
2005
キャノン、レンゴー、東武鉄道
小分類
企業名
変化
企業数
F1→F4
1
セイコー
E3→F6
1
ダイキン工業
F2→F2
1
豊田自動織機
E3→F7
1
パナソニック
F2→F4
1
オカモト
E3→M
8
E4→F7
1
E4→M
5
E2→O
1
E3→O
1
M→F3
1
F6→M
6
山之内製薬(現アステラス)、飯野海運、マ
ツダ等
協和発酵キリン、
花王、コマツ、日本精工、アサヒビール、
日清紡績
F(22)
中外製薬
F(7)
昭和シェル石油
1
武田薬品工業
1
塩野義製薬
F4→F4
1
スズキ
F5→F4
1
日本トランスシティ
F1→F7
1
F2→F7
1
F3→M
7
名村造船所
F7→F7
1
東洋製罐
F4→M
4
M→F6
1
東京急行電鉄
F5 →F7
1
中山製鋼所
コ ニ カ 、 日 本 特 殊 陶 業 、 高島 屋 、
グンゼ、キリン、味の素等
クボタ、クラレ、大日本印刷、
ヤマハ
トヨタ自動車
第一三共(現アステラス製薬)
M→F7
1
M→M
70
M→O
1
小田急電鉄
小野田セメント、日東紡績、島津製作所、
阪急電輝、日本電気等
F3→F3
F3→F4
愛知製鋼
大日本製薬、ニチレイ、東芝、センコー、
日立製作所等
東燃ゼネラル
出所:筆者作成
49
M(15)
O(4)
F5→M
1
M(1)
O→M
1
住友商事
O(3)
O→O
3
東海ゴム、近畿車輛、富士通
さて、
「F4」に該当するすべての企業をここでみていくことは出来ないが、1950 年と 2005
年の両期間とも「F4」であったスズキを取り上げ具体的にみていこう。スズキの創業者は
鈴木道雄であり、1909 年に静岡県においてトヨタと同様織機の製造会社として始まった。
同社の調査期間内の社長と会長をあげると、社長には、創業者鈴木道雄(1956 年まで)
、同
族の鈴木俊三(1957 年から)、同族の鈴木賽治郎(1973 年から)
、同族の鈴木修(1978 年
から)
、戸田昌男(2000 年から)
、津田鉱(2003 から)となっている。会長は、稲川誠一(1987
年から)、内山久男(1993 年から)、斎藤佳男(1998 年から)、同族の鈴木修(2000 年から)
となっている。つまり調査期間内は 3 人の同族が社長に就いていた49。
一方で、2000 年以降、同族以外の社長が就任しているが、会長には同族の鈴木修が就い
ている。スズキの有価証券報告書や四季報の株主欄では同族の持株は確認できなかった。
よって、少なくとも 1950 年以降、株主支配とは別の論理で同族が経営に関与してきたと言
える。
次に、同族の持株が分散しているが、社長もしくは会長に同族が就く企業に、セイコー、
オカモト、塩野義、日本トランスシティがある。塩野義にかんしては、2005 年には同族の
塩野元三が会長に就いていた。彼は会長になる前に社長を務めていた。その塩野元三の前
任社長も同族の塩野芳彦であった。しかしながら、その塩野芳彦の前任者は 2 代にわたり
同族以外の社長が就いており、それ以前は全て同族が社長を務めている。このように、一
旦同族以外が社長に就いたがまた同族が社長に就くという例もある。
最後に、クボタ、クラレ、大日本印刷、ヤマハは 1950 年に同族が社長もしくは会長を務
めていたが、2005 年には社長・会長とも同族以外が就いていた。
第 4 節 発見事実の整理と次章以降の課題
発見事実の整理と次章以降の課題
本研究のまとめとして、本章で明らかとなった発見事実を整理する。
明らかとなったことは、第一に、わが国の上場企業で競争優位性を有する企業における
過去の企業形態を見ていくと、最大約 30%(1965 年)が同族企業であった。しかしながら、
1990 年ごろから大きく同族企業が減少し、2005 年には約 17%に減少した。第二に、産業
別に動向を見ていくと医薬品業に同族企業が多い事がわかった。最後に、小分類にもとづ
き同族企業を細分化していくと「F3」と「F4」に該当する企業が多い事がわかった。その
ような事実関係から、わが国の上場企業における同族企業は、10%未満の株式しか持たず経
営に関与する企業が多いと結論付けられる。この結果は吉村(2007)の結果と整合的であ
る。
この調査結果で得られた事実関係をもとに今後取り組む課題を述べておく。今後、特に
医薬品業に同族が経営に関与する企業が多いという事実関係に着目していきたい。調査対
象とする医薬品業の多くは、直近に起業された企業ではなく、老舗という表現が当てはま
49
ちなみにスズキでは、2015 年に当時社長の鈴木修(2008 年から再び社長に就任)から
息子の鈴木敏宏に交代し、彼が社長となっている。
50
るような企業が多い。例えば塩野義や武田は創業 100 年を超えている。調査 1 では調査対
象を各産業の売上高トップ 10 と設定していることから、それら企業は、創業後長い時間を
経てもなお競争の優位性を維持しつつ同族が経営に関与しているということになる。換言
すれば、同族が経営しながら競争優位性を維持してきたのである。
本研究の結果から Berle and Means(1932)に始まる株式を根拠とした支配論では語り
つくせない支配の形がある事は明らかである。Chandler は、垂直統合化に伴い、株主経営
者(Chandler の文脈では多くの株式を保有する同族経営者であった)が経営する企業から
専門経営者が経営する企業に変わると結論づけている。しかしながら、医薬品業に同族が
関与する企業が多いと言う本稿の結果、そして医薬品業は垂直統合化された企業が多い(桑
嶋・大東,2003)と指摘する既存研究を顧みれば、Chandler 説でも筆者が着目する現象が
説明出来ない可能性が高い。では同族はなぜわが国では多くの株式を持たず同族が経営に
関与し続けられるのであろうか。
Chandler が取り上げた企業では、株主より俸給者のほうが内部の事情に精通しているか
ら経営が上手くいくという理屈であったが、経営者の能力にかんしては、出自(例えば、
同族や社外、内部昇進)によって簡単に測れるものではないと思われる。しかしながら、
一時代を切り取ってみた場合、Fligstein(1987,1990)が主張するように、戦略選択の基
準の一つとなる基本認識というものが内部権力の移行(例えば同族経営者の交代や社外経
営者の登用)を生むことも考えられる。
以上の問いを紐解く為、本研究では今なお同族企業が多い医薬品業をリサーチターゲッ
トとし、さらに細かく分析していく為、次章では医薬品業界の特徴を明らかにする。
51
第 4 章 医薬品の種類と医薬品
医薬品の種類と医薬品業の戦略選択
と医薬品業の戦略選択
前章ではわが国の競争優位な上場企業を対象とし、様々な形の同族企業の実態を明らか
にした。中でも、「医薬品業には同族企業が多い」という事実関係が明らかになり、医薬品
業をリサーチターゲットと定めた。本章では調査を進めるにあたり医薬品業界における戦
略について考察する。
医薬品業といっても医療用医薬品を主とする企業と一般用医薬品を主とする企業とでは
ビジネスモデルが異なる。本章ではまず、医薬品の種類を明確にしたうえで、最も新規性
の高い新有効成分含有医薬品を各企業の戦略を具現化する指標と位置づけ、わが国におけ
る同医薬品の承認動向の調査・分析を行う。それにより医薬品業の戦略がいくつかに分類
可能である事が明らかとなる。
第 1 節 医薬品の種類
医薬品産業は規制との関わりの強さ、社会的効果の大きさ、ユーザー・消費者(患者)
ではなく代理人(医師)による商品の選択、保険制度による支払いなど、いくつかの点で
顕著な特徴を持つ(桑嶋・小田切,2003)
。本研究が対象とするのは医薬品業の中でも医療
用医薬品を主とする企業である。データにかんしては次章で取り上げるが、わが国の上場
医薬品業を見ると医療用医薬品を主とする企業が多い。そのことから本研究に適した対象
は医療用医薬品を主とする企業と考える。
わが国の医薬品業の多くは、化学製品や食料品といった周辺的な事業を有していること
もあるが、それほど多角化は進んでいない。よって、医薬品が売れるかどうかが医薬品業
にとって重要となる。ただし医薬品といっても、医療用を主とする企業と一般用医薬品を
主とする企業ではビジネスモデルが異なる。
医療用医薬品とは、
「医師・歯科医師によって使用され、またはこれらの者の処方せん・
指示によって利用されることを目的とし供給される医薬品」
(日本医薬品卸業連合会広報部
編,1995,19 頁)である。同医薬品は卸を介し代理消費者である医師がわれわれに供給す
る。価格は薬価によって定められており、保険に加入するわれわれは、負担率に応じて代
金を支払う。
一方、一般用医薬品とは、
「医療用以外の薬局薬店で販売する医薬品および配置薬」(日
本医薬品卸業連合会広報部編,1995,12 頁)50であり、テレビ等で広告・宣伝されている
ことから、医療用医薬品に比べてわれわれ消費者になじみが深い。われわれが居住する地
域の大型チェーンのドラッグストアや薬局で購入でき、商品によっては値引きされたもの
もある。さらに専門の薬剤師の指示がなくとも自由に購入できる商品が多い。
本研究が対象とする医療用医薬品は、製品化プロセスの違いによりいくつかに分類され
る。医薬品の種類を示したものが図 4-1 である。図 4-1 をみると、まず医薬品は医療用医薬
50
同著の同ページでは一般薬として紹介されている。
52
品と一般用医薬品にわかれる。日本で年間生産されている約 6 兆 9 千億円のうち、医療用
医薬品は約 6 兆 2 千億円(約 90%)である(厚生労働省,2013)。
さらに対象とする医療用医薬品は、新医薬と後発医薬品(以下 GE:Generic Drug)に分
類される。新医薬とは、
「すでに製造または輸入の承認を与えている医薬品と有効成分、分
量、用法、用量、効能、効果等が明らかに異なる医薬品として、厚生大臣が承認の際に指
示したもの」(日本医薬品卸業連合会広報部編,1995,107 頁)である。GE とは、ゾロ品
とも言われる医薬品であり、「新医薬品に続いて承認を受け、市場に出される同種同効品」
(日本医薬品卸業連合会広報部編,1995,81 頁)である。
さらに新医薬もいくつかに分類される。その中でも特に新規的な医薬品とされるのが新
有効成分含有医薬品である。新有効成分含有医薬品とは、「すでに承認を与えられている医
薬品、および日本薬局方に定められている医薬品のいずれにも有効成分として含有されな
い成分を有効成分として含有する医薬品」
(日本医薬品卸業連合会広報部編,1995,123-124
頁)である。同医薬品は開発が難しく時間がかかる。さらに多額の投資が長期間必要とな
る。医薬品の承認までのプロセスにかんしては次節で取り上げる。本研究では以降、新有
効成分含有医薬品を「NCE (New Chemical Entity)」とする。
また図 4-1 記載の通り、NCE 以外に新医薬に含まれるものとして新投与経路医薬品51や
新効能医薬品52、新剤形医薬品53がある。それらは NCE が適応拡大されたものであり、適
応拡大という研究開発手法は新薬を開発しなければ意味をなさない。つまり図 4-1 で示した
新医薬の中でも NCE 以外の 5 つの適応拡大医薬品は、同薬を導出した企業が主に行ってい
ることが多い54。よって調査対象企業が、どのような NCE を導出してきたのかを基準とし、
各企業の戦略を分類することに意義があると考える。そこで本研究では NCE の承認動向に
着目する。
51「すでに医薬品として製造承認されているものと有効成分は同一であるが、その投与方法
が異なる医薬品のこと。例えば、内服薬を坐薬として使用するなど」
(日本医薬品卸業連
合会広報部編,1995,111 頁)
。
52「すでに承認された医薬品と有効成分や投与方法は同じでも、その効果が異なる医薬品」
(日本医薬品卸業連合会広報部編,1995,109 頁)
。
53「既承認医薬品と有効成分、投与経路、効能効果が同一であるが、薬剤学的変更により用
法が異なる医薬品」
(日本医薬品卸業連合会広報部編,1995,109 頁)。
54 前エーザイの実務家 N 氏にインタビュー調査したところ、その理由として、①NCE 以
外の用途変更はリスクや開発コストが低いがパテント代が高額である。②開発企業自身
が豊富な知識を有することから用途変更の市場が大きければ、開発企業以外の企業が用
途変更開発の結果を出す前に製品化する可能性が高い。③治験実施のための医師とのネ
ットワーク構築に時間がかかるため、用途変更を企図する企業が限定される。以上 3 つ
をあげ、NCE 開発企業が特許期間の延長を企図し用途変更を行う例がほとんどであると
指摘された。NCE 開発企業が用途変更を行う理由は特許保護期間の延長にあり、そのよ
うな特許戦略はエバーグリーニング戦略と呼ばれている。
53
図 4-1:医薬品の種類
新医薬品
医療用医薬品
後発医薬品(GE)
⇒
新有効成分含有医薬品
新投与経路医薬品
新用量医薬品
新効能医薬品
新剤形医薬品
新医療用配合剤
医薬品
承認基準
該当品目
一般用医薬品
その他
出所:厚生労働白書(平成 25 年版:資料編,89 頁)
第 2 節 医薬品の製品化プロセス:NCE
医薬品の製品化プロセス:NCE に着目して
医薬品の研究開発は成功率が極めて低く、しかもその開発に時間がかかる。このような
状況では、事前に企業レベルで詳細な研究開発計画を立てる事が困難である(桑嶋・小田
切,2003)。
医薬品の研究開発活動は、
「基礎研究」、
「応用研究」
(前臨床試験段階)
、「開発研究」(臨
床試験段階)の 3 つに分けられる(桑島・小田切,2003)
。桑嶋・小田切(2003)によれ
ば、基礎研究とは、合成された化合物や天然物から抽出された物質の中から活性のある物
質(開発候補品)がスクリーニングされる段階である。次の段階に進むのが 1000 分の 1 と
いわれている。科学的な新発見が製品の本質的な機能(薬効や安全性)に影響を与えるこ
とから、基礎研究の成果がそのまま新製品の開発につながる可能性が高い。
「応用研究」
(前
臨床試験段階)では、スクリーニングされた開発候補品に対して、主に動物を用いて、薬
理、代謝、安全性などの各種試験が行われる。最後の「開発研究」(臨床試験段階)では、
前臨床試験の結果を受けて、実際にヒトを対象として候補品のテストが行われる。試験自
体は医薬品業が委託した医療機関で行われる。近年では基礎研究から開発成功までの確率
が下がっている事は多くの文献が指摘するところである。例えば森・三浦・大久保編(2001)
は、成功率は 5000 分の 1、概ね 150 億から 200 億の開発費と 9 年から 17 年の歳月を必要
とすると指摘している。
さて、医薬品の開発は難しく多額の投資が必要であることが理解された。医薬品業の開
発力の違いは何により生じるのであろうか。Henderson and Cockburn(1994)は、「企業
の境界を超えて幅広い情報を収集すること」
「研究開発の資源配分を独裁ではなく合議によ
って決定すること」などのマネジメント的要因が、研究開発の生産性の向上に影響を与え
ると指摘されている。よって、企業内外の情報や知識を統合する能力、つまり「吸収能力
(absorptive capability)」
(Cohen and Levinthal,1990)が医薬品の研究開発において極
54
めて重要な組織能力であると指摘している。加えて Bierly and Chakrabarti(1996)は、
革新的な製品開発をめざしてラディカルな学習を志向する「革新型」および「探索型」の 2
つの戦略55がより好業績に結びつくとする。
また近年では技術革新が進み、ゲノム情報を利用した新薬開発が積極的に行われている。
従来の新薬開発とゲノム創薬にもとづく新薬開発の過程を図示したものが図 4-2 である。ゲ
ノム情報を利用した技術は、新たなシーズの発見につながる技術進化として期待され、さ
らには新薬開発のプロセス自体の短縮化につながると期待されている。
以上が一般的理解としての医薬品開発プロセスである。中でも NCE は開発が難しいと言
われている。安田・小野(2008)は、既述した新医薬の種別ごとに臨床開発期間を調査し
ている。そこでは、NCE の開発期間が最も長く、その期間は新用量医薬品や新医療用配合
剤の約 2 倍に達することが示されている。彼らの指摘に従えば、新医薬の中でも NCE の開
発は時間がかかることが理解される。
近年、新たなシーズが枯渇し、新有効成分の発見が難しくなっている(青井・中村,2003;
今,1999)。そのため、新薬を上市した後も改良に取り組み、新効能や新剤形などの適応拡
大を目指し開発が行われている(西村,2009)
。西村(2009)は、2007 年度上位 67 品目
中、約 8 割が適応拡大の医薬品であるとする結果を示している。数としては少数に分類さ
れるかもしれないが、医薬品業の研究開発力や医薬品業の戦略の方向性をはかる一つの指
標として、NCE の承認動向に着目することに意義があると考える。
図 4-2:医薬品の開発プロセス
研究
従来の創薬
基礎研究
探索研究
候補化合物
の選定
開発
候補化合物
の精査
製造
工業化研究
臨床試験
製造承認
申請
工業化研究
臨床試験
製造承認
申請
発売
12~13年
遺伝子探索
ゲノム創薬
創薬標本分
子の同定
基になる化
合物の発見
化合物の最
適化と薬効
評価
発売
5~8年
出所:日経ビジネス(2000 年 10 月 2 日号)をもとに筆者加筆
55
Bierly and Chakrabarti(1996)は、研究開発における学習戦略の違いが業績に与える
影響を分析している。学習の指標として彼らは、
「R&D 集中度」
「パテント引用数」「技
術サイクルタイム」
「知識分散度」「全製品に占める革新的製品の比率」といった変数を
とり、学習戦略の類型化を行った。彼らが提唱する学習戦略を 4 つに分類している。第
一に革新型である。このグループは R&D 投資および外部からの学習を積極的におこなう。
第二に R&D 投資を狭い領域に集中する特化型。第三に、投資は少ないが外部からの学習
を積極的に行う開拓型、第四に、投資を革新的な製品開発を集中的に行う探索型、とす
る。
55
第 3 節 わが国の NCE の承認動向からみた
の承認動向からみた医薬品業の戦略
からみた医薬品業の戦略とその変化
医薬品業の戦略とその変化:調査
とその変化:調査 2
本研究で着目する NCE は承認までのプロセスによって 4 つの形態に分類できる。まず国
内で開発された自社開発の医薬品が承認されれば製造承認という形で分類される。その中
には単独もしくは 2 社以上が共同で承認を取得する場合がある。本稿では前者を国内単独
NCE とし、後者を国内共同 NCE とする。さらに外資系医薬品業が開発した医薬品や原料
を輸入し承認を取得する場合がある。こちらも単独と共同がある。前者を輸入単独 NCE、
後者を輸入共同 NCE とする。
NCE の承認動向は、じほう社(前薬事時報社)が発行する『薬事ハンドブック』で確認
することができる。
本稿では同著をもとに 1970 年から 2009 年までの承認動向を調査する56。
ただし同著記載の承認動向をみていくと、何度か名称変更がなされている。具体的に示す
と、1970 年から 1977 年まで「新開発医薬品一覧表」、1978 年版から 1995 年版まで「新医
薬品一覧」、
1996 年版から 2007 年版まで「新有効成分含有医薬品一覧」、
2008 年版から 2011
年版まで「有効成分」と記載されていた。変更理由は定かでないが、同表に記載されたも
のも NCE と同種であると判断し NCE に含めた。
提示した調査期間を 10 年単位で括り、上述の 4 つの承認形態別承認件数の推移を示した
ものが図 4-3 である。図 4-3 の棒グラフ上部の値は各期間の NCE 承認件数の合計である。
また各 NCE の承認件数もそれぞれ記している。ただし輸入単独 NCE のみ日本企業のみが
承認取得した件数を括弧内に追記している。輸入単独 NCE 全体から括弧内数値を引いたも
のは外資系薬品業の子会社や日本企業との合弁会社それら一社が承認取得した数値となる。
図 4-3 によれば、最も承認件数が多いのは輸入単独 NCE である。1970 年代が 121 件、
1980 年代が 132 件、1990 年代が 117 件、2000 年代が 110 件となっている。さらに同形態
の承認件数の中でも日本企業が取得した件数に着目すると面白い発見があった。輸入単独
NCE の承認件数を示す値の横に総件数の中で日本企業が取得した承認件数を括弧で括り記
述している。それを見ていくと、1970 年代が 92 件、1980 年代が 75 件、1990 年代が 41
件、2000 年代が 34 件となっている。このように、日本企業が承認取得した輸入単独 NCE
の承認件数は、1990 年頃から大幅に減少している。
医薬品業は研究開発の成果がそのまま企業の業績に反映される(桑嶋・松尾,1997)。そ
の成果としてここでは新規性の高い医薬品の承認件数に着目してきた。全体の傾向として
輸入医薬品の承認件数が多い時代と少ない時代があることが明らかとなった。この事象は
企業の戦略選択の基準や結果を表すものである。その事から、特定時代まで輸入戦略とい
うものがわが国の医薬品業では有効な戦略であったと言える。
さて、これまで見てきたものはわが国で承認された NCE の件数である。当たり前のこと
56
NCE の承認動向は『薬事ハンドブック』(各年版)を活用しデータ収集を行った。ただ
し『薬事ハンドブック』
(1977 年版)には 1967 年から 1976 年までの NCE の承認動向
がまとめられている。よって 1970 年から 1976 年の承認動向は同年版に依拠しデータを
整理した。
56
であるが、1000 社以上存在するわが国の医薬品業と外資系医薬品業の承認件数が同じわけ
ではない。企業ごとに特色が出てくるのは自然である。特色が表出されれば、単一事業で
構成される医薬品業の戦略を知る上で重要なデータとなる。
そこでまず、上述の調査期間に承認された NCE の承認件数が多い 20 社をまとめた。そ
れが図 4-4 である。加えて図 4-5 は、各 NCE の承認件数上位企業をまとめている。ただし
両図は図 4-3 と異なり 1999 年時までの累計であるという点に注意されたい。次章で明らか
にするようにわが国では 2000 年以降合併が頻出している。もちろん 2000 年以降に承認取
得された NCE の件数は調査しているが、合併を考慮すると他企業との比較が難しくなる。
そのような理由から、ここでは 1999 年までのデータを整理したものを提示する。
図 4-3:主要企業別 NCE 承認件数の推移
輸入共同
国内共同
輸入単独
国内単独
計 371
400
350
計 297
67
計 313
47
56
51
計 252
59
16
30
117(41)
110(34)
86
96
1990年代
年代
2000年代
年代
300
250
16
200
132(75)
121(92)
150
100
113
116
1970年代
年代
1980年代
年代
50
0
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに作成
図 4-4:NCE 総承認件数上位 20 社(1970
社(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
武田
三共
国内単独
29
15
山之内 塩野義
14
国内共同
6
8
6
輸入単独
6
6
8
輸入共同
5
15
11
11
合計
46
44
39
38
国内共同
日本
ロシュ
0
大日本 協和発酵 田辺
輸入共同
ミドリ
日本チバ
エーザイ
大塚 住友製薬 萬有
十字
ガイギー
11
7
0
8
3
0
藤沢
吉富
9
13
8
5
6
1
5
4
9
11
12
8
6
3
10
4
10
10
8
3
8
3
2
4
7
1
32
30
28
27
27
25
24
22
19
18
18
16
10
第一 住友化学
輸入単独
ヘキスト
持田
ジャパン
0
1
8
6
12
1
2
3
1
4
4
3
3
4
4
0
5
18
12
7
6
2
3
8
4
2
9
5
10
7
3
11
0
16
16
16
16
出所:薬事ハンドブック各年版をもとに筆者作成
57
図 4-5:各 NCE 承認件数上位企業(1970
承認件数上位企業(1970 年~1999
年~1999 年)
29
国内単独
輸入単独
18
15
14
13
12
11
11
10
10
12 12 11
10
10
国内共同
9
8
7
6
6
6
9
9
9
8
8
8
輸入共同
15
7
9
6
6
6
6
12
11
11
11
10
10
10
8
8
出所:薬事ハンドブック各年版をもとに筆者作成
まず図 4-4 をみると最も承認件数が多いのが武田薬品工業であることが読み取れる。同社
は期間中 46 件の承認を取得している。続いて三共が 44 件となっている。両社の総承認件
数の差はわずかである。しかし、承認形態別に件数をみていくと国内単独 NCE と輸入共同
NCE の承認件数が異なる。具体的には、国内単独 NCE は武田が 29 件で三共が 15 件とな
っており、大きな差がある。他方、輸入共同 NCE は武田が 5 件で三共が 15 件であり、三
共は武田の 3 倍以上承認を取得している。両社のみならず他社の動向を調査すると、
「自社
開発が得意か」、
「輸入が得意か」のいずれかで分類可能であり、その結果にもとづけば、
医薬品業には自社開発戦略と輸入戦略という二つの選択肢があると理解できる。加えても
う一つ、共同戦略という選択肢もあり得る。
図 4-5 の国内共同 NCE(左下)をみていくと、図 4-4 で取り上げていない企業がこのカ
テゴリーの上位となっている。具体的には、味の素、鳥居薬品、小野薬品工業、科研製薬
である。これら企業が共同で承認を取得する件数が多い理由は、医薬品の研究開発から販
売までの過程のいずれかに特化している企業が、不得意な企業との共同研究に招かれる例、
何らかの薬効に特化している企業が不得意な企業と共同研究を行う例などが考えられる。
さらに輸入共同をみると、外資系医薬品業の日本法人や日本企業との合弁会社が多いとい
う特徴がある。このように新薬の承認動向を見れば得手不得手が存在することが明らかと
なった。すなわちここで調査した NCE の承認動向は、各企業の戦略を具現化可能な要素と
なりえるのである。
58
第 5 章 戦略グループ分析:医薬品業の戦略と同族関与の関係性
戦略グループ分析:医薬品業の戦略と同族関与の関係性
本章では戦略グループ研究の知見を活用し、競争優位な企業群で選択された戦略とそれ
ら企業の同族関与の形態が明らかにする。それと同時に競争優位企業の次をいく挑戦者企
業群57のそれら傾向も明らかにする。
第 1 節 調査対象企業の選定
前章で明らかにしたように、医薬品業と言っても医療用医薬品を主とする企業と一般用
医薬品を主とする企業ではビジネスモデルが異なる。そこで本研究では主要 40 社の事業形
態を再調査することから始めた。その結果が表 5-1 である58。
表 5-1 をみていくと、事業形態の中で最も多いのが医療用医薬品を主とする企業であり、
27 社がそれに該当することが読み取れる。他には、一般用医薬品を主とする企業が 5 社(大
正製薬、小林製薬、ロート製薬、エスエス製薬、森下仁丹)
、GE を主とする企業 4 社(沢
井製薬、日本医薬品工業、東和薬品、日本ケミファ)、開発を主とする企業が 4 社(タカラ
バイオ、OTS、アンジェス MG、LTT バイオファーマ)
、となっている。
57
これには二番手企業や競争劣位企業、後発企業など様々な表現があるが、本研究では
Chandler(1990)に倣い挑戦者企業(群)とする。
58 医療用主か、GE 主か、それとも一般用主か、それぞれの判別は各社の公刊資料にもとづ
いている。藤野(2014a)でも同様の方法で判別を行ったがいくつか誤りがあった。正し
くは表 5-1 の通りである。その際に使用した各社資料は次の通りである。武田薬品工業:
2014 年カンファレンスコール説明会資料。アステラス製薬:2013 年決算説明補足資料。
第一三共:2014 年 3 月期第 3 四半期決算補足資料。エーザイ:2012 年決算説明会資料。
協和発酵キリン:2014 年決算説明会資料。中外製薬:2013 年 12 月期決算説明会資料。
田辺三菱製薬:2012 年カンファレンスコール説明会資料。大日本住友製薬:平成 25 年 3
月期決算説明会資料。大正製薬:2012 年インベスターズガイド。小林製薬:2013 年決算
説明会資料。塩野義製薬:2012 年決算説明会資料。小野薬品工業:2014 年決算説明会補
足資料。みらかホールディングス:2013 年決算説明会補足資料。久光製薬:平成 25 年
第一四半期決算説明会資料。ロート製薬:平成 25 年 3 月 FACT BOOK。参天製薬:2013
年決算説明会資料。ツムラ:2013 年 3 月期決算および中期経営計画。キョーリン製薬:
2014 年 3 月期第 2 四半期決算補足資料。科研製薬:2013 年 IR ミーティング資料。持田
製薬:2013 年決算説明会資料。キッセイ薬品工業:平成 25 年 3 月期決算補足資料。日
本新薬:2012 年度決算説明会資料。エスエス製薬は 2009 年 12 月期報告書。ゼリア新薬
は 2013 年 3 月期決算説明会資料。扶桑薬品工業は第 89 期有価証券報告書。沢井製薬と
日本医薬品工業、および東和薬品:アズクルー(2012)
。あすか製薬:2013 年決算説明
会資料。生化学工業:2013 年決算説明会資料。栄研化学:第 75 期報告書。日本ケミフ
ァ:2013 年決算説明会資料。日水製薬:2013 年決算説明会資料。JCR:2013 年決算説
明会資料。わかもと:平成 25 年度決算短信。森下仁丹:2013 年有価証券報告書。OTS、
アンジェス MG、LTT バイオは各社の公刊資料からは判別できず各社ホームページを参
照し開発主とした。
59
表 5-1:2009 年売上高上位 40 社の事業形態と売上高
会社名(2014年現在)
事業形態
武田薬品工業
医療用主
順位(2009年) 売上高(単位:百万円) 会社名(2014年現在)
1
アステラス製薬
医療用主
2
第一三共
医療用主
エーザイ
1,374,802 キッセイ薬品工業
事業形態
順位(2009年) 売上高(単位:百万円)
医療用主
21
61,480
972,586 日本新薬
医療用主
22
59,450
3
880,120 エスエス製薬
一般用主
23
50,895
医療用主
4
734,286 ゼリア新薬工業
医療用主
24
49,721
協和発酵キリン
医療用主
5
392,119 扶桑薬品工業
医療用主
25
43,991
中外製薬
医療用主
6
344,808 沢井製薬
GE主
26
37,631
田辺三菱製薬
医療用主
7
315,636 日本医薬品工業
GE主
27
32,328
大日本住友製薬
医療用主
8
263,992 東和薬品
GE主
28
31,495
大正製薬
一般用主
9
249,655 あすか製薬
医療用主
29
30,170
小林製薬
一般用主
10
228,826 生化学工業
医療用主
30
27,630
塩野義製薬
医療用主
11
214,268 栄研化学
医療用主
31
25,223
小野薬品工業
医療用主
12
145,897 日本ケミファ
GE主
32
20,918
みらかホールディングス
医療用主
13
143,299 タカラバイオ
開発主
33
20,278
久光製薬
医療用主
14
119,061 日水製薬
医療用主
34
14,504
ロート製薬
一般用主
15
108,131 JCR
医療用主
35
11,872
参天製薬
医療用主
16
103,394 わかもと
医療用主
36
10,169
ツムラ
医療用主
17
94,799 森下仁丹
一般用主
37
7,387
キョーリン製薬ホールディングス 医療用主
18
81,070 OTS
開発主
38
1,973
科研製薬
医療用主
19
79,934 アンジェスMG
開発主
39
1,720
持田製薬
医療用主
20
74,573 LTTバイオファーマ
開発主
40
1,233
出所:筆者作成
ここでは医療用医薬品業に焦点を絞り、戦略グループ研究の知見を活用しポジショニン
グの変化を見ていく。ただし後述する戦略次元と関係するデータの入手が難しい企業がい
くかあった。それら企業を除く59、武田薬品工業、塩野義製薬、エーザイ、アステラス(藤
澤薬品工業と山之内製薬)、第一三共(第一製薬と三共)、中外製薬、大日本住友製薬(大
日本製薬のみ)、科研製薬、あすか製薬、持田製薬、小野薬品工業、みらか60、キッセイ、
栄研の 14 社(合併前は 16 社)を本研究の調査対象とする。なお調査対象を含むわが国の
医薬品業の主要な合併動向は図 5-1 にまとめた。
調査対象と関連する合併を取り上げておくと、2000 年以降、アステラス製薬や第一三共
のようにわが国の上位医薬品業同士の合併がいくつか行われた。調査対象の中では、2005
年に三共と第一製薬が合併し第一三共製薬を設立している。また第一製薬は合併前の 2002
年にサントリーと共同出資で第一サントリーファーマを設立している。続いて藤澤薬品工
業と山之内が 2005 年に合併しアステラス製薬を設立している。さらに 2005 年には大日本
製薬と住友製薬が合併し大日本住友製薬を設立している。さらに同年には帝国臓器とグレ
ラン製薬が合併しあすか製薬が誕生した。
わが国では多くの株式を持たない同族が経営する企業が多い。その事実関係は前章で確
認した。ここでは調査・分析の前に、調査対象に設定した企業のそれを確認する。
医療用主は 27 社あったが、協和発酵キリン、田辺三菱製薬、久光製薬、参天製薬、ツム
ラ、キョーリン製薬ホールディングス、日本新薬、ゼリア新薬、扶桑薬品工業、生化学
工業、日水製薬、JCR、わかもと、以上 13 社は後に説明する戦略次元を構成するデータ
の入手が困難であり本研究の調査対象から外した。
60 みらかと栄研化学は対外診断用医薬品(臨床検査薬)メーカーであるが、診断薬で NCE
として承認取得していた。厳密には医療用主とならないかもしれないが、今回は医療用
主に含めた。
59
60
図 5-1:主要企業の合併
創業年
三共
1998~99
2000~01
2002~03
2004~05
2006~07
2008~09
現在
1899
2005年9月共同持株会社
第一三共
第一製薬 1915
2002年サントリーと第一が共同出資し第一サントリーファーマ設立
サントリー医薬事業進出(1979)
山之内
製薬
1923
2005年4月合併
アステラス製薬
藤沢薬品 1894
大日本
製薬
1897
2005年10月合併
大日本住友製薬
住友製薬 *1984
*1984年住友化学が稲畑産業の医薬部門を継承し、住友製薬を設立
帝国臓器 1920
2005年10月あすか製薬
あすか製薬
グレラン
製薬
1930
田辺製薬 1678
吉富製薬 1940
ミドリ十字 1950
2000年4月にウェルファイドに社名変更
1998年4月吉富製薬
2001年10月三菱ウェルファーマ
2007年10月田辺三菱製薬
田辺三菱製薬
東京田辺
1901
製薬
三菱化学 1994
1999年10月三菱東京製薬
*1994年に三菱化成と三菱油化が合併し三菱化学となる
2008年10月
協和発酵キリン
協和発酵 *1951
*1951年に米国メルク社よりストレプトマイシンの製造技
術導入以降、医薬品事業への取り組みを開始
キリン
ビール
協和発酵キリン
*1982
*1982年に医薬事業が
本格的に始動
2001年1月麒麟麦酒医薬カンパニー設立
2007年7月医薬事業が独立
しキリンファーマ設立
出所:薬事ハンドブック(2011,360-361 頁)をもとに筆者加筆
表 5-2 は、調査対象の 1970 年以降の社長と 1970 年、1980 年、1990 年、2000 年、2010
年の同族持株をまとめたものである。各社社長を上段に記し、同族社長であれば(「●」)
を付した。下段は同族持株の比率である。同族株主の判断は、創業者とその一族の個人持
株のみならず、同族が関与していると思われる一般法人や財団法人株主を含めた。なお社
長判別は加護野・吉村・上野(2003)に倣い、創業者と同姓者を同族とみなした。もちろ
ん姓が異なる一族も存在した。それらは根拠となる資料がある限りにおいて同族とした。
さらに不明と記載のあるところは、当該年度に上場していない等を理由とし、有価証券報
告書を入手する事が難しく実態把握が出来ていない。そのような理由から不明とした。
表 5-2 をみれば、1970 年では 16 社中 11 社で同族が社長に就いている。その 11 社中、
小野、持田、キッセイ61を除き同族の株式が分散している。分散の程度の問題であるが、第
3 章で提示した企業形態の枠組みで見ていけば、1970 年時点では、小野、持田、キッセイ
は「F2」、武田、塩野義、藤澤、あすか、中外、エーザイが「F3」、みらか、栄研は「不明」
となり、10%未満の株式保有しかない同族が社長として経営に関与する企業は「F3」の 6
社が該当する。さらに 2010 年には、持田のみ「F2」、あすか、中外、エーザイ、キッセイ
が「F3」となり、同族企業は 14 社中 5 社、その 5 社の内 4 社で同族の持ち株が分散して
いるにも関わらず経営に関与していることが伺える。ただし第 3 章で設定した企業形態分
61
1970 年時のキッセイは不明としているが、1990 年時には 16.34%同族が保有している。
その事から同年はそれと同程度もしくはそれ以上の株式を保有していたと推測される。
61
類に沿って医薬品業の同族関与の状況を明らかにしたが、第 5 章の分析では会長が同族で
あるか否かは考慮していない。その点から 3 章の枠組みを正確に反映したものではない。
それでもなお、
「わが国の医薬品業は多くの株式を保有せず同族が経営に関与する企業が多
い」と言える。なぜ医薬品業にそのような企業が多かったのだろうか。
記述の通り桑嶋・大東(2008)はわが国の医薬品業はチャンドラー・モデルに従って進
化してきたと指摘している。同研究の知見に基づくと Chandler の「戦略変化→組織変化→
統治構造変化」というロジックでもわが国でなぜ同族企業が続くのか、その理由を説明で
きない。そこで次節では、調査対象企業でも 1970 年までにチャンドラー・モデルに従い成
長している事を示すとともに、各企業の歴史動向を確認する。
ただしその作業に必要な社史が発行されていない企業、もしくは入手困難な企業が 4 社
(小野、扶桑、栄研、みらか)あった。その 4 社については戦略グループ調査の対象とし
ているが第 2 節では取り上げないこととする。よって第 2 節では合併前 16 社のうち、12
社の歴史的動向について確認することになる62。さらに本稿では、各社 1970 年以前の歴史
的動向についてまとめるが、1970 年以降の動向については扱わない。1970 年以降について
は藤野(2014b;2014c;2015b;2015c;2016)でまとめている。そちらを参照されたい。
表 5-2:主要医薬品業における同族持株と歴代社長(1970
:主要医薬品業における同族持株と歴代社長(1970 年から 2010 年まで)
小野薬品
武田薬品工業
塩野義製薬
大日本製薬
持田薬品
三共製薬
第一製薬
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
●小野雄造1956~
●武田長兵衛1943~
1980年
佐野一夫1986~ 9.10%
倉林育四郎1981~梅本純正1986~
4.00%
喜多善平1982~ 吉利一雄1983~ 2.80%
藤原富男1981~
0.00%
●持田英1985~
30.00%
1990年
上野利雄1993~
5.16%
森田桂1991~ ●武田國男1993~
2.00%
●塩野芳彦1992~ ●塩野元三1999~
1.97%
渡守武健1993~ 宮武健次郎1999~
0.00%
●渡辺進1990~ ●持田直幸1999~
25.01%
2000年
松本公一郎2001、岩井孝司2005、是金俊治2006、福島大吉2008、相良暁2008~
2.67% 2010年2.71%
長谷川閑史2003~
2.01% 2010年2.70%
手代木功2008~
0.00% 2010年0.00%
多田正世2008~
0.00% 2010年0.00%
25.49% 2010年23.43%
0.00%
鈴木正1987~
0.00%
0.00%
森田清1999~
0.00%
高藤鉄雄2000~ 庄田隆2003~
第 社 庄田隆2005~
0.00%
一 長
三
2010年0.00%
共 株
0.00%
1.90%
0.00%
0.00%
中村盛太郎1974~ 小島政夫1977~
●森岡茂夫1980~
小野田正愛1992~
0.00%
0.00%
不明 4.00%
佐野肇1987~
2.10%
●内藤晴夫1988~
1.70%
1970年
●小野順造1977~ 32.00%
●小西新兵衛1974~
8.50%
●塩野孝太郎1953~
3.80%
宮武徳次郎1956~
0.00%
●持田信夫1964~
鈴木万平1949~
石黒武雄1963~
●早川三郎1967~
不明 河村喜典1975~ 0.00%
宮武一夫1976~
0.00%
●藤澤友吉郎1978~
藤山朗1992~ 青木初夫1999~
藤沢薬品工業
同族持株
社長
渡辺順平1968~
山之内製薬
同族持株
あすか製薬
(旧帝国臓器)
中外製薬
エーザイ
キッセイ
科研製薬
みらかHD
(旧富士レビオ)
栄研化学
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
社長
同族持株
0.00%
●山口栄一1952~
●上野公夫1966~ 7.40%
●内藤祐次1966~
5.00%
●神澤邦雄1966~
長谷川長浩1965~ 不明 大原弘資1973~ 滝澤熊一1977~
0.00%
●藤田光一郎1964~
不明
●黒住剛1939~
不明
不明 沢啓祥1981~ 脇山好晴1987~
0.00%
福山勝1988~
不明 ●黒住忠夫1986~ 不明 ●山口隆1991~
4.00%
●永山治1992~
0.00%
0.00%
●神澤陸雄1992~
16.34%
乾四朗1999~
0.00%
●藤田光一郎1998~
5.70%
6.00%
ア 社 竹中登一2005~
ス 長 野木森雅都2006~
テ
竹中登一2000~
ラ
株
2010年0.00%
ス
0.00%
0.00%
4.00% 2010年3.45%
0.00% 2010年0.00%
0.00% 2010年0.00% 11.78% 2010年12.95%
0.00% 2010年0.00%
徳光達生2000~ 鈴木博正2003~ 2.85% 2010年0.00%
寺本哲也2007~
5.00% 2010年3.75%
注 1)表 5-2 は藤野(2015a)でも使用したが一点加筆した個所がある。藤澤薬品工業で 1967
年から 1977 年まで社長を務めた早川三郎が藤澤家の縁戚にあたることが判明(日本経
済新聞,1982 年 4 月 26 日朝刊,8 頁)した。本表では、その事実関係を考慮し彼を同
族社長とみなしている。
注 2)本章の分析では同族が会長かどうかを調査していない。
出所:藤野(2015a)をもとに筆者加筆
62
ただし大日本住友製薬およびあすか製薬については合併前の住友製薬とグレラン製薬の
歴史的動向を若干扱う。
62
第 2 節 調査対象企業の発展プロセス:調査対象企業の 1970 年までの動向
年までの動向
第 1 項 第一製薬63
第一製薬の始まりは、1915 年に東京で起業されたアーセミン商会である。同社は蔓延す
る梅毒の治療に効果があったサルバルサン64の国産化に成功した満州鉄道中央試験所衛生
科長の慶松勝左衛門を中心とし設立された。つまり第一は医薬品の製造業から始まったの
である。
国産化に成功したサルバルサンをアーセミンと名付け、またその改良品をネオアーセミ
ンやネオネオアーセミンとし販売を始めた。起業当初の営業活動は、薬剤師である宣伝員
が医療機関を訪問して製品を説明し、直接注文を取るという方式をとっていた。
1918 年、アーセミン商会から一切の権利義務を引き継ぎ、資本金 50 万円をもって第一
製薬株式会社(以下第一)が発足した。初代社長には柴田清之助が就いた。第一発足後、
アーセミンの原料たるハイドロサルファイトの国産化(自家製造)に成功した。ここから
第一における「原料―製造―製品―販売」の一貫体制が始まった。
1919 年、第一では第二代社長に津村重舎が就いた。彼は津村順天堂65の社長も兼務して
おり、実質的な経営は専務星野石松が担っていた。1920 年には、資本金 150 万円で第二製
薬株式会社を設立し、その後同社を吸収合併するというスキームで実質的に第一の増資を
行った。その増資により第一の資本金が 200 万円となった。また同年には国産製薬所66を買
収した。この買収により第一製薬はサルバルサン製剤のトップメーカーとなった。
昭和時代に突入し、
1929 年にビタミン B1 アベリー、1931 年に新駆梅剤ミオアーセミン、
1930 年に合成の乳酸の第一乳酸、1933 年に造影剤スギウロン、1937 年にサルファ剤テラ
ポール、以上を相次いで発売した。それらは国内のみならず満州や中国へも輸出された。
当時は競合他社も輸出を始めた時期であった67。しかしながら、1937 年の虚溝橋事件以降、
そのような輸出が途絶え始めた。
1945 年に第二次政界大戦が終戦し、戦災を免れた工場を再建し翌年には生産を再開した。
ただし、原料および電力や石炭の入手が難しく生産力が向上しなかった。販売面では、戦
前に拡大した中国や東南アジアの販売網が敗戦により消滅した。一方で、国内の販売は主
1970 年までの第一製薬の動向は、特に断りのない限り第一製薬株式会社編(2007)を参
照し構成している。
64 サルバルサンは「ドイツ人パウエル・エールリッヒ博士と日本の秦佐八郎博士の共同研
究によって実用化された梅毒治療薬」
(第一製薬株式会社編,2007,3 頁)である。わが
国で同薬が広まったのは、後述の三共が 1912 年にヘキスト社製のそれを輸入し始めてか
らである。しかし、第一次世界大戦によりドイツが敵国となったため同薬の輸入が途絶
えた。その後自社製造に着手し、出資者の一人慶松勝左衛門がその合成に成功した。
65 漢方薬(和漢薬)を主とする現在のツムラである。
66 国産製薬所は、丹波敬三と服部健三の両博士が開発したサルバルサン製剤ネオタンワル
サンの事業化を目的とし、武田長兵衛、塩野義三郎、田辺五兵衛、藤永義之が共同出資
し設立された。
67 1936 年には「全医薬品の生産高に対する輸出の割合は 20%にも達した」
(第一製薬株式
会社編,2007,32 頁)とある。
63
63
要都市に出張所を開設し販路拡大を目指すとともに、大阪地域においては第一製品の販売
会社として壽薬品を 1946 年に設立した68。第一では同社を一次卸と位置付け、一般卸業者
を二次卸と定めた。加えて 1949 年に東京証券取引所に上場し資金調達能力を高めた。
戦前、第一はサルバルサン製剤のトップメーカーであったが、戦後新たに同薬効の新薬
テラジアジンが 1948 年に誕生した。同薬は 1950 年に始まった朝鮮戦争の際、米軍の特需
品となり大量に生産された。結果、第一の業績向上に大きく貢献した。同じ頃、他にも循
環器系ルチノン、ハンセン病治療剤テラミン、化学療法剤パスナールの販売を開始した。
加えて 1952 年にイスコチン、1954 年にネオイスコチンの発売も始まった。それらは結核
治療剤であった。当時、治療を要する結核患者が 292 万人も存在した。ネオインスコチン
は結核治療剤として国に採用され、結核患者の死亡減少に貢献するとともに、第一の成長
に大きく貢献した。他にも販売動向と関連し、1955 年ごろから販売に協力する小売店の組
織化が始まり「艸木会」が発足した。
さて、わが国では 1959 年に新国民健康保険法が施行され、1961 年に国民皆保険体制を
整えた。その結果、医療用医薬品の需要は大幅に増加した。第一はその制度変化以前から
医療用医薬品に力を入れていた。同時期に医療機関向けに商品化されたのは、サルファ剤
アプシード(1959 年)、脳代謝促進剤ガンマロン(同左)、制癌剤マーフィリン(1960 年)、
抗プラスミン剤トランサミン(1965 年)などがあった。
保険制度の浸透により医療用医薬品の需要が増す中、1961 年に中央研究所を船堀工場内
に設置し、自社開発の新薬導出を目指した。加えて、外資系医薬品業との提携にも力を入
れた。1961 年にフランスのローヌ・プーラン(現サノフィ・アベンティス)と技術提携を
行い、化学療法剤セルチノン錠を開発し販売を始めた。またイタリアのアンジェリーニと
技術提携を行い中枢神経系オキサルミンおよびオキサルミン C を開発し、それぞれ発売を
始めた。翌年にはイギリスのグラクソ(現グラクソ・スミスクライン)のホルモン剤ベネ
トランを導入し販売を始めた。さらに 1963 年にはアメリカのウインスロップと技術提携し
トンコパールを開発。他にもオランダのフィリップス・デュファーとの技術提携し末梢神
経系ズファジランを開発した。さらに、1965 年にアメリカのマリンクロットと提携し診断
用コンレイおよびアンギオコンレイを開発した。以上みてきたように、外資系医薬品業と
提携し自社開発を進め自社商品の質と量が充実し、1970 年には幅広い治療領域の商品群を
保有する企業となった。
第 2 項 三共69
1899 年、塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の 3 名の共同出資により匿名合資会社三共
商店が設立された。それが現アステラス製薬の前身三共の始まりである。同店は、高峰譲
68
69
壽薬品は他の卸の再編に伴い 1975 年に業務を終えた。
1970 年までの三共の動向は特に断りのない限り三共百年史編纂委員会編(2000)を元に
構成している。
64
吉(以下高峰)が米国で開発したタカヂアスターゼを輸入し、日本で販売することを目的
として設立された。つまり洋薬輸入業として始まった。これが「わが国おける新薬販売の
始まりであった」(三共百年史編纂委員会編,2000,23 頁)
。
1902 年、高峰がタカヂアスターゼに続いて開発したアドレナリンも三共商店が一手販売
契約を結び、同薬の輸入が始まった。加えて同年に、高峰と関係深いアメリカのパーク・
デービス製品の日本における販売業者に三共商店が選定された。さらに横浜から東京に拠
点を移した。
さらに同年に、三共商店の商品を販売する代理店を選定し、東西代理店制を敷いた。関
東は鳥居徳兵衛商店(後に鳥居薬品)、関西は武田長衛商店(後に武田薬品工業)、それぞ
れと代理店契約を結んだ。この頃の三共商店は、海外から医薬品を輸入し日本国内で販売
することが主業務であった。
その後も三共商店は、新たな外資系医薬品業と関係を結び医薬品輸入を積極的に進めた。
具体的には、まず 1908 年に、アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソンの日本代理店と
なった。翌 1909 年にはドイツのスパイヤー・フォン・カルゲルの日本における一手販売権
を獲得。またタインハルトの代理店となり、ベーリンガーやクノールの日本における一手
販売業者となった。1912 年には、ドイツのヘキストの医薬品サルバルサンの日本販売業者
となった。
以上のように輸入を強化した三共商店であったが、第一次大戦が勃発し製品の輸入が途
絶え始めた。輸入に力を入れていた三共商店は方向転換を余儀なくされ、自社開発および
製造に着手し始めた。そのような中、1913 年に三共株式会社(以下三共)を資本金 10 万
円で設立し、三共合資会社(前三共商店)を併合した。改組後三共は、主力商品のタカヂ
アスターゼの国産化を目指し、アメリカから最新鋭の設備を輸入し、既存の品川第一工場
内に製造工場を建設した。加えてサルバルサンの国産化も始めた。このように戦争勃発と
いう環境変化期を製造に着手することで乗り越えようとしたのである。
昭和時代に入り三共に次のような変化があった。まず 1929 年に品川工場内に細菌部門を
設けワクチン類を生産した。続いて販売網の拡充に着手した。具体的には、国立大学医学
部周辺を中心に全国 10 都市に駐在所を設置し、それを得意先拡大の拠点とした。また社長
の交代もあった。1940 年に塩原又策に代わり、彼の長男塩原禎三(当時 31 歳)が社長に
就いた。これをもって三共は同族経営者が経営する企業となった。
新たに社長となった塩原禎三は、満州や朝鮮、中国、台湾などに子会社を設置し輸出に
力を入れ始めた。ただし、太平洋戦争突入とともに日本国内での医薬品生産が統制され、
輸出もさることながら製品自体の生産が難しくなった。
終戦を迎え、海外子会社を含む海外資産約 1,200 万円相当が没収され、国内主力工場で
あった品川工場が戦災により機能不全に陥るなど、三共の物的資源の多くが喪失した。そ
のような中、日本ベークライト株式会社の閉鎖工場を買収し 1946 年に亀有工場とした。そ
こではビタミン B1 の生産に着手し製造を再開した。しかし経営状態は良くならず、取締役
65
全員が辞任し、外部から鈴木万平を招聘した。その後、業績は徐々に回復し 1949 年には株
式上場を果たした。このように、またも戦争が三共の経営を危機的状況に追い込んだ。そ
の打開策として外部から社長を招いた。その結果、三共の同族の経営関与は終焉した。
さて、三共ではこれまで鳥居徳兵衛商店(関東)や武田長兵衛商店(関西)を総代理店
とし、それらを介し自社製品を販売していた。1947 年、三共ではそのような総代理店制を
廃止し、全国の卸業社と直接取引を始めた。1959 年頃には全国約 800 の卸と取引するよう
になった。また卸の組織化を企図し、1952 年に卸の自主団体「東京三共会」が結成された。
その後同会は全国的に展開された。
第一次大戦以降、三共は再び外資系医薬品業と提携し輸入販売を再開していた。しかし、
太平洋戦争により再びそれが断たれたが第二次大戦が終結しとことで戦前から取引関係に
あった企業(例えばパーク・デービス)と再提携し医薬品輸入を再開した。加えて新たな
取引も結んだ。まず、1953 年にデンマークのレオと特殊ペニシリンにかかる技術提携契約
およびホルモン剤などの製品販売契約を締結。1954 年にはアメリカのマイルス・ラボラト
リーズと消化器系アルカ・セルツーの一手販売契約を締結した。他にも、同じく 1954 年に
スクイブ、翌 1955 年にオルガノン、それぞれとの取引を開始し医薬品や原料が輸入され始
めた。さらに同年に、サンドの製品の一手販売契約および中枢神経系ベレンガルについて
の技術提携契約を結んだ。
このように 1950 年代に再び輸入を強化し、それにより自社製品の充実化をはかった。そ
のような輸入医薬品が収益拡大に結び付き設備投資の原資となった。この時代の三共の設
備投資例をあげると、1962 年に研究活動の強化を企図し、研究部を本社組織から分離・独
立させ研究所と改称した後、新研究棟を 1963 年に建設した。さらに 1965 年には中央研究
所、生産技術研究所、農薬関連研究所、それら 3 つの組織を併合し研究所組織に改組した。
他にも海外展開の拠点として、1961 年にニューヨーク、1963 年にはスイスに駐在所を設置
した。
1960 年代、外資系医薬品業が日本市場進出を強化し始めた。当時三共は、以前から提携
関係にあったオルガノンと 1960 年に日本オルガノン70を設立。同年には他にも、パーク・
デービスとパーク・デービス三共71も設立している。パーク・デービス三共では、ポンター
ルが開発し販売を始めた。同薬はわが国でよく売れた。
他方これまでと同じく輸入も積極的に行っている。1965 年にロシュが開発した中枢神経
系ニトラゼパムを塩野義と共同で開発し、1967 年に三共がネルボン、塩野義がベンザリン
とし販売を始めた。他にも外資系医薬品業の医薬品を共同開発した例として、ウインスロ
ップが開発した中枢神経系ペンタジソンを山之内とウインスロップ・ラボラトリーズとと
設立時の資本金は 500 万円、出資比率は三共が 40%、オルガノンが 60%、初代社長には
三共の鈴木万平が就いた。
71 設立時の資本金は 3,500 万円で、出資比率は折半、初代社長には三共の鈴木万平が就い
た。
70
66
もに共同で開発した。開発は成功し 1970 年に三共がペンタジン、山之内がソセゴンとし販
売を始めた。このように、海外医薬品の輸入や合弁会社の設立を通して外資系医薬品業と
の関係をより強化した。その結果、1970 年には多くの医薬品を有する競争優位な企業とな
った。
第 3 項 藤澤薬品工業72
藤澤薬品工業の起源は 1894 年に初代藤澤友吉が起こした薬問屋藤澤商店である73。1876
年、政府の製薬業者取締規定にもとづき製薬を行う業者が現れた。しかし当時は、製造や
開発を主とする企業と比べ、薬問屋の活動のほうが活発的な時代であった。そのような時
代を経て時期に起業された藤澤商店は後発の薬問屋と位置づけられる。
創業当初の藤澤商店は生薬類を扱う問屋であった。1907 年に初代藤澤友吉が製薬者の免
許を取得し、薬問屋として許された範囲内で生薬の粉末加工や他社製品を小分けしたもの
を販売していた。その後、藤澤商店は樟脳の製造および販売に力を入れた。1904 年には同
薬品の増産を企図し大阪に天六工場を設置した。工場設置により生産力が高まった。次に
その製品の販売に力を入れた。樟脳の販売地域の拡大を企図し、創業者自ら海外視察を行
った。そして 1920 年にニューヨーク出張所を設置するとともに現地の販売員の雇用を始め
た。さらに 1921 年に京城、1926 年に上海、1929 年に大連など東アジア地域に出張所を開
設した。他方、この頃に洋薬の輸入も手掛け始めた。神戸在住のポルトガル人貿易商 F.S.
スーザーを顧問に迎え始まった洋薬輸入事業であったが、当時の藤澤商店は輸入薬より樟
脳の製造販売による収益が大きかった。
藤澤商店に大きな収益をもたらした樟脳事業であったが、1917 年に転換期を迎えた。樟
脳の製造は藤澤商店が独占していたわけではなく、競合他社が多数存在した。当時は、三
菱や三井物産など医薬品業を主としない企業もその事業に参入していた。その状況におい
て藤澤商店は樟脳事業を譲渡した。その理由は、第一に、樟脳事業の統合化を国策として
提示されたからであった74。藤澤商店はその提案を受け入れ、1918 年に 8 社合同で設立さ
れた日本樟脳株式会社に樟脳事業を譲渡した。第二に、この頃、他企業が新薬事業に力を
入れ成果を出していた。その潮流に乗り遅れないよう、藤澤商店も本格的に医薬品の製造・
開発に乗り出した。そのような背景もあった。
新薬事業に乗り出した藤澤商店は、補血強壮増進剤ブルトーゼや消毒剤イントール、そ
してアスピリン等の製造を開始した。昭和時代に入ると、止血剤トロムボゲン(1929 年)
、
72
ここでは特に断りのない限り藤澤薬品工業株式会社編(1995)を参照しまとめている。
藤澤友吉は藤澤商店を起こす前、道修町の田畑利兵衛商店に勤務していた。田畑利兵衛
商店は、田辺屋五兵衛商店(現田辺三菱製薬)をおこした初代五兵衛の次兄九代田辺屋
利兵衛により起業された薬問屋である。彼は、1870 年の苗字創姓時に田畑姓を名乗り初
代利兵衛となった。
74 樟脳事業の統合理由及びそのプロセスは、藤澤薬品工業株式会社編(1995,41-42 頁)
に詳しい。
73
67
カルシウム剤カルコーゼ(1933 年)、中枢神経系ベロセチン(1934 年)などを製造し販売
を始めた。その間、さらなる増産を目指し、1930 年に加島工場を設置した。加えて個人商
店から法人組織に移行した。法人化後は株式会社藤澤友吉商店となり、1943 年には藤澤薬
品工業株式会社(以下藤澤)と改称した。
第二次世界大戦がはじまると物資が枯渇し医薬品の原料が統制されるようになった。そ
して終戦を迎え日本は敗戦した。敗戦により藤澤の海外事業が消滅し多くの資産を失った。
幸い国内の工場は戦災を免れ資産の一部は残った。一方で、医薬品の製造を再開しようと
するが原料が乏しく、戦前の状態に戻すまでに時間がかかった。既述してきたとおり、戦
後、多くの医薬品業が特別経理会社の指定を受けた。1946 年に藤澤も指定を受けた。藤澤
は大蔵省(現経済産業省)に再建計画整備書を提出した後、3,000 万の増資をすることで特
別経理会社の指定が解除された。その後、既存薬の製造を再開した。当時は、1947 年に販
売を始めた炎症性疾患治療剤フジから多くの利益を得た。そしてその利益を設備等に投資
(例えば同年に藤澤初の研究所を京都に設置)することで実態的にも再建が進んだ。
1950 年代に入り藤澤の再建は加速した。特に次の 2 種類の医薬品がもたらす収益が藤澤
の再建の原資となった。一つは自社開発品である。1958 年に販売を始めた肝機能不全等薬
チオクタンがそれに該当する75。もう一つは医薬品や原末の輸入である。
具体的にみていくと、1952 年にイタリアのカルロ・エバと提携を始め、抗生物質ケミセ
チンを導入し、1955 年にはスウェーデンのアストラと局所麻酔剤キシロカイシンの原末輸
入やその製剤化、そして一手販売権にかかる契約を結んでいる。最大の成果は、スイスの
ガイギーとの提携にある。同社とは 1953 年に提携関係を結び、中枢神経系イルガピリン、
サルファ剤イルガフェン76を輸入した。その契約内容は、「ガイギー社はイルガピリン、イ
ルガフェンの製造、並びに日本・琉球諸島・台湾・韓国における製品の一手販売に関し、
特許権、商標などの使用を当社(藤澤)に許諾し、それに対して当社(藤澤)は一定比率
のロイヤルティを支払うというものであった。(括弧内筆者加筆)」
(藤澤薬品工業株式会社
編,1995,108 頁)
。加えて、1956 年にはガイギーとの間で技術援助契約が結ばれ、翌 1957
年にはガイギー製品を扱う総代理店となった。以上のような外資系医薬品業との提携は、
藤澤の製品群の充実化に寄与した。
輸入という経営活動を通じ、藤澤は営業活動の見直しに着手した。見直すきっかけは、
提携企業から提供を受けた学術・宣伝用の資料にあり、そこから欧米流の学術的色彩の強
1960 年に藤澤で最も売れた医薬品はチオクタンである。同薬は約 12 億 1,100 万円売り
上げた。
76 藤澤薬品工業株式会社編(1995)ではイルガピリン導入及び販売の経緯が詳述されてい
る。要約すると、同薬導入前、藤澤は 1947 年に設置した京都研究所でイルガフェンの別
途製造法を開発し、1950 年に特許を得、翌 1951 年にプラトナールとして販売を始めた。
しかし、その方法では生産性が向上せず原末のコスト負担が大きかった。そこで原末原
価を抑えるため藤澤はガイギーと原末輸入の交渉を行った。しかしながらガイギーは、
原末供給は応じるがイルガフェンとして販売することを要請した。結果としてそれを藤
澤が受け入れることで契約が成立し原末が輸入されることとなった。
75
68
い営業活動を知りえることができ、これまでの営業活動の問題点および改善点が明らかと
なった。
海外医薬品の総代理店となり多くの医薬品を輸入することで、自社の製品群が充実化し
ていくと、次に販売体制の強化も必要となる。「特約店(卸)との営業上の連携を深めて流
通経路を強固なものとすることは、医薬品業界の重要な営業政策の一つである」
(藤澤薬品
工業株式会社編,1995,141 頁)
、と考えた藤澤は、1950 年代中ごろから各地の特約店を
組織化する動きが活発化した。東京支店では都内の医療機関向け有力卸 12 社により「藤澤
いずみ会」が結成された。その後、
「東京富士会」が生まれ、各地域に「富士会」が結成さ
れた。1961 年富士会連合会(会員 145 社)として再始動し、卸特約店の全国的な組織がで
きあがった。
さて、輸入医薬品の販売は地域制限されることが多く、対外戦略強化を実現するには自
社開発の新薬が必要となった。そのような中、藤澤は政府主導で台湾輸出が始まった。藤
澤は台湾の地元企業と総代理店契約を結び、ブルトーゼやマクニン等を輸出した。また 1958
年には台湾に製造工場を建設し現地製造に着手している。
1960 年代に入りこれまでより増して外資系医薬品業と積極的に提携し、共同研究や技術
導入を行った。まず英国のビーチャムと提携し、オルベニン、ペンブリチン、トレスシリ
ンといった「合ペニ 3 品」
(藤澤薬品工業株式会社編,1995,170 頁)を導入した。その後
もビーチャムとの緊密な取引は続き、同社から合成ペニシリンを次々と導入した。
また藤澤は、英国の NRDC(英国国立研究開発公社)とセファロスポリン C 群にかんす
る製造契約を結んだ。NRDC は開発途中のセファロスポリン C の実用化を目指し、世界中
に共同研究を公募した。共同研究にかかる契約金は 1 万 5,000 ポンド以上必要であった。
それは藤澤の当時の年間研究費の約 7.7%に相当した。そのため社内でも参加するか否かで
意見が分かれた。そのような中、「最終的には、常務取締役の『やろうじゃないか、損をし
ても技術をみがくための授業料を支払ったと思えばよいではないか』という発言が大勢を
決し、社長藤澤友吉の決断につながった(括弧内筆者加筆)」(藤澤薬品工業株式会社編,
1995,164 頁)。契約締結後、10 年の歳月と約 15 億円の巨額の開発費を投入し開発に成功
した。1971 年に製造承認を受け、国産初の注射用セフェム系抗生物質セファメジンとし発
売を開始した77。同薬はスミスクラインをはじめ、ブリストル・マイヤーズ、ベーリンガー・
マンハイム、イーライリリー、カルロ・エルバ等に導出する事となり、藤澤の技術導出の
第 1 号となった。さらに同薬は多くの収益の獲得し藤澤の成長に大きく貢献した。
名誉と実益を獲得した藤澤は、さらに研究開発を強化するため中央研究所を大阪に設置
(1964 年)した。その他、1966 年にプロダクト・マネジャー制を採用した。同制度では、
77
株式会社ミクス(1997)によれば、セファメジンは 1970 年から 1980 年の期間中、わが
国の全医薬品の中で売上一位を 7 回記録している。この事実からセファメジンはわが国
で流通する医薬品の中でもよく売れたということがわかる。また藤澤薬品工業株式会社
編(1995)によれば、1976 年の年間輸出総額 60 億 6,200 万円のうちセファメジンが約
半分を占めた。
69
プロダクト・マネジャーに研究開発から販売までの過程で必要な資源をコーディネートす
る権限を与えた。その目的は、プロジェクトの責任の所在を明確にすることにあった。ま
た販売にかんしては、1950 年代に引き続き販売店の組織化を目的とし、「フジサワ会」を
1965 年に結成した。この「フジサワ会」も一般用医薬品の小売店を中心とした組織であっ
た。以上のような組織改革を行うことで藤澤のさらなる発展を目指したのであった。
以上のように藤沢では、同族経営者が環境の変化に対応し戦略を変化させることで規模
の拡大を実現していった。特に既述したように外資系医薬品業から技術を輸入し開発に施
行した抗生物質が大きな収益獲得につながった。このように 1970 年時には輸入で大きな利
益を得る企業と位置づけられる。
第 4 項 大日本製薬(住友製薬も含む)
大日本製薬は 2005 年に住友製薬と合併している。ここではまず大日本製薬の歴史的動向
を見ていく78。
大日本製薬の前身は、1896 年に「不良品の横行を防ぎ、純良薬品を供給すること」
(大日
本製薬 90 年のあゆみ編集委員会編,1987,108 頁)を目的に設立された大阪製薬株式会社
である。その大阪製薬株式会社が誕生する 10 数年前、東京では半官半民の製薬会社大日本
製薬株式会社が誕生した。同社は大阪製薬株式会社と同じ目的で設立され、内務省衛生局
内の一機関という位置づけであった。大日本製薬株式会社は 1897 年頃に経営困難に陥った。
そこで 1898 年に大阪製薬が大日本製薬株式会社を吸収合併した。合併後の名称は大日本製
薬株式会社(以下大日本)が採用された。
1914 年、第一次世界大戦が始まると海外医薬品の輸入が途絶えた。当時大日本は、局所
麻酔薬アロカイン、媒染剤タンニン、写真用薬剤ピロガロールなどを製造していた。特に
アヘンアルカロイドは指定会社に選定され製造が強化された。大日本ではアヘンアルカロ
イドに代表される麻薬製造事業が業績を牽引した。社史によれば、1920 年上期の売上は約
334 万円、利益約 83 万円であり、当時の大日本は「その後 20 年間破られない記録を作り、
10 割の株主配当を行うほどだった」
(大日本製薬 90 年のあゆみ編集委員会編,1987,113
頁)。
第一次大戦終了後、呼吸器系ナガヰ(1927 年)
、消化器系イス・ウルクス(1935 年)な
どの販売を始めた。しかし、第二次世界大戦の開始によりそれら医薬品は統制の対象とな
った。一方で大日本は、サルファ剤アナビオン(1939 年)、同剤レビオン(1940 年)、てん
かん治療剤アレビアチン(同)
、覚せい剤ヒロポン(1941 年)など対象外の新薬の販売も行
っていた。それらは国内販売および中国、朝鮮などで販売された。そのような中、1945 年
に終戦を迎えた。
終戦後、大日本は他の医薬品業と同じく特別経理会社に指定された。加えて戦時補償特
78
ここでは特に断りのない限り、大日本製薬 90 年のあゆみ編集委員会編(1987)をもと
に構成している。
70
別再建法と企業再建整備法が公布・施行され、補償請求権が打ち切られた。1949 年、整備
計画の立案および増資等により特別経理会社の指定が解除された。その後、同年に株式上
場を果たし、資金調達の手段を確保することでようやく再建の兆しが見えはじめた。
さて、戦前・戦中の大日本は医薬品の製造活動に力を入れていた。その一方で、営業活
動は他社に委託するような状況であった。そこで 1947 年頃から自前の販売網の確立に向け
準備を行った。具体的には、1947 年に販売部(1949 年に営業部に改称)
、1949 年には宣伝
活動を統括する拡張部を設けた。その活動の一環として、薬学系学生の新規採用を始め販
売員の拡張を行うとともに、彼に対し営業活動者としての教育を積極的に行った。
また次のような変化もあった。1949 年に台湾向けに輸出を再開、1952 年には韓国、イン
ド、インドネシアなどのアジア諸国、そしてメキシコなどの中南米、さらにベルギー、そ
れぞれに大日本の製品を輸出し始めた。
他方、海外からの輸入も積極的に行った。1950 年ごろからアメリカ G.D.サールの消化器
系バンサインの輸入を始め、さらに翌年には同社と総代理店契約を結んだ。その結果、次々
に同社製医薬品が入ってくるようになった。またアメリカのアボット、ライカー、イギリ
スのメイ&ベイカー、I.C.I などとも総代理店契約もしくは技術提携契約を結んだ。それら
外資系医薬品業から多くの原料、技術、製品を輸入した。その活動が実を結び売上が飛躍
的に伸びた。
1960 年代に入り自社開発を強化することを目的とし、1960 年に既存の研究部を中央研究
所に改編した。同機関は 1962 年に開発部、学術部と一体化され研究開発部門として統合さ
れた。その後、1970 年に医学研究部の一部とそれが統合され総合研究所となった。
他にも、1962 年にアボット社との合弁会社ダイナボット・ラジオアイソトープ研究所を
設立し、放射性医薬品を診断用として応用する研究が行われた。加えて 1964 年に同社と共
同出資(折半出資)による日本アボット株式会社が誕生した。さらに営業部門の改革も行
い、卸店・小売店・診療所を一貫して結ぶ組織「マルピー会」を 1965 年に結成した79。同
会の冠である「マルピー」とは大日本が登録した商標である。
1960 年後半、
「マルピー」を冠とする合弁会社がいくつか生まれた。1966 年に循環器系
を主力とするライカーとマルピー・ライカーを設立、続いて 1968 年に消化器系やホルモン
分野に強い G.D.サールとマルピー・サール株式会社を設立した。それぞれの合弁会社は相
手企業との折半出資であった。
続いて住友製薬を見ていく80。住友製薬は住友化学(当時住友化学工業)と稲畑産業、そ
れぞれの医薬事業が分離・統合し 1984 年に設立された企業である。
住友化学の医薬事業(以下住友)は、1944 年に日本染料製造の医薬事業を受け継ぎ始ま
った。しかし開始間もない頃、第二次大戦が終結し、本社が解散するなど当初から混乱し
マルピー会結成以前にも系列化を企図し「丸美会」が結成されている。同会は 1959 年に
大阪で結成されたが極地的な組織で終焉し、全国的な組織に発展しなかった。
80 ここでは特に断りのない限り、住友製薬株式会社編(2005)をもとに構成している。
79
71
た。そのような中、急増する医薬品の需要にこたえるため、大阪に製造工場の設置を計画
した。同工場は段階的に稼働を進め、1949 年に抗ヒスタミン剤アネルゲンや循環器系トノ
プロン、泌尿器系ウロナミンなどの生産を行った。
1952 年、アメリカのアップジョンと業務提携を結んだことにより、海外から医薬品が大
量輸入されるようになった。高血圧治療薬レセルユーボン、強精強肝剤オルドン、副腎皮
質メドロールがその一例である。他にも、1959 年に英国の I.C.I とも提携を結んだ。同社
からは消毒殺菌剤ヒビデン輸入された。さらにデアンジェリーとも関係を深めた。同社か
らは 1965 年から 1972 年までに 20 品目の新製品が輸入された。
住友では以上のような輸入活動を積極的に行った。その一方で自社開発にも力を入れて
いた。そして特に優れた医薬品が開発されるとその技術を輸出するようになった。例えば、
1958 年に販売を始めた抗腫瘍剤テスパミンの主成分であるチオテパの開発技術はアメリカ
のレダリーに供与された。レダリーは開発に成功し 1959 年から同薬の販売をアメリカで始
めた。他にも 1967 年に販売を始めた消炎鎮痛剤インドメタシンはアメリカのメルクに、
1968 年に販売を始めた抗不安剤セレンジンはスイスのロシュに、それぞれ技術供与を行っ
た。
第 5 項 塩野義製薬
1878 年、初代塩野義三郎(以下、初代義三郎とする)が 24 歳で起こした和漢薬を扱う
薬問屋、塩野義三郎商店が今日の塩野義製薬株式会社のはじまりである。起業地は薬問屋
が集積する道修町であった。
塩野義が本格的に洋薬輸入の取り扱い始めたのは 1886 年ごろである。洋薬輸入を始めた
当初は、国内の外国商館と取引を行っていた。彼らとの取引においては不利な条件を強い
られることが度々あった。なぜなら情報の非対称性があったからである。その為、1897 年
頃から直接取引を始めるため交渉を進めた。交渉の末、英国のダッフ商会、ドイツのライ
ンハート商会、スイスのシーグフリード商会などと医薬品の輸入契約を結んだ。このよう
に明治後期には欧米の医薬品(この頃は主に欧州企業)から独自に輸入する洋薬輸入問屋
となった。
大正時代に入ると塩野義三郎商店は、1909 年に設立した研究開発や製造を主とする塩野
製薬所と合併した。合併企業の名称は株式会社塩野義商店となった。同社設立は単に既存
事業の合併にとどまらず、個人経営から会社経営への転換を意味した。塩野義商店の初代
社長には初代義三郎が就き、正太郎や長次郎といった同族が取締役に加わった。1920 年、
長男正太郎が 38 歳で 2 代目塩野義三郎を襲名し塩野義商店の社長に就任する。就任後彼は、
既存の雇用形態の改革に着手した。具体的には、若年から住み込みで働き技術や知識を習
得するといった丁稚の風習を廃止し、営業担当者を通勤制へと変えた。加えて、新たに甲
種商業学校(現商業高校)卒業生を採用し、彼らを営業担当に配属し人員拡大をはかった。
72
1941 年81、わが国は太平洋戦争へ突入した。その結果、主要な医薬品は生産・配給とも
に統制を受けるようになり、企業活動が思うように進まなくなった。そのような中、1943
年に塩野義商店は塩野義製薬(以下、塩野義とする)と改称した。
戦火により多くの資源を喪失した大戦は 1945 年に終結し、わが国は敗戦した。多くの企
業は再出発を余儀なくされた。もちろん塩野義もその一つであり、戦後すぐ特別経理会社82
に指定されるなど危機的な状況に陥っていた。そのような中、医薬品業の復興、そして企
業成長に大きく寄与したのが輸入再開である。
戦後、輸入が再開され新たな医薬品や製造技術がわが国に導入された。当時の花形商品
はペニシリンやストレプトマイシンといった抗生物質であった。それら製造技術は GHQ の
斡旋によって米国からもたらされた。同医薬品の製造には、発酵技術や合成技術の転用や
応用が不可欠であった。医薬品業でそのような技術を有する企業もあったが、より効率的
で大がかりな設備と技術を有する異業種の参入が起こった。協和発酵や明治製菓が参入企
業の一例である(桑嶋・小田切,2003)。特にペニシリンの製造競争は熾烈を極めた。塩野
義もペニシリンの製造に着手したが、それに傾倒することはなく、少ない資源を既存の自
社製品に集中した。その結果、医薬品業の急成長に貢献した抗生物質の製造競争に乗り遅
れた83。
1951 年、抗生物質市場に本格参入するため輸入医薬品が導入された。まず、ロシュとサ
ルファジンの製造・販売契約をむすび、さらに 1953 年にはイーライリリーとアイロタイシ
ン84の日本市場における独占販売契約を結んだ。加えて 1957 年には同薬の製造実施権を獲
得し、製造に着手した。このように海外医薬品を導入し販売することにより、塩野義は戦
後の低迷を脱却したのであった。
戦後、混乱の中で企業を立て直しに尽力した 2 代目義三郎社長は、任期中に動脈性塞栓
症を患い、1953 年 10 月に 71 歳で亡くなった。2 代目義三郎の後を継いだのは長次郎の長
男孝太郎であった。塩野義の社長に就任した孝太郎は、まず営業活動の改革に取り組む。
大正から昭和に時代に変わるころ塩野義商店に転機が訪れる。長次郎が 1931 年に急逝し、
創始者である初代義三郎も同年暮れに 77 歳で亡くなった。会社の発展に道筋をつけた両
氏を失ったことは大きな転換点となった。その一方で新薬が次々と導出され塩野義商店
は活力を取り戻した。それは製薬部門の発展に尽くした長次郎の功績といっても過言で
はないだろう。
82 戦後、政府は戦時中に公約した数種の企業補償を打ち切り、その損失を被る企業を特別
経理会社に指定した。指定した企業の救済を目的とし、1946 年 8 月に会社経理応急措置
法を制定し、企業の債務を棚上げした。
83 医薬品の製造技術の輸入は GHQ が主導したほか、民間企業同士が提携することにより
もたらされる場合もあった。例えば、1947 年、三共は米パーク・デービスの製造技術を
導入し医薬品製造に取りかかった。その後、1951 年に同社は製造に成功し、クロロマイ
セチンと名付け発売を始めた(日本薬史学会編,1995)
。しかし塩野義は、民間ベースの
技術輸入契約もすぐに結ぶことが出来なかった。
84 リリーのアイロタイシンはペニシリンの耐性菌に効果があり、ペニシリンに代わる医薬
品として注目されていた。
81
73
特にディテールマン85教育に力を入れた。営業活動改革を進む中、塩野義に待望の新薬が生
まれる。その新薬とは抗生物質シノミンである。同薬は 1958 年に製造許可が下り、翌年か
ら販売が始まった。シノミンは、ロシュから提供を受けたサルファジンを参考に塩野義が
独自開発した医薬品であった。同薬の特徴はサルファジンより効き目が持続し、服用回数
も少なくて済むといった特徴があった。このような改良的特徴があった事からよく売れた。
また、その製造にかかる技術は、1960 年にロシュへ供与された。塩野義では初めての技術
輸出となった。
一方、1960 年代中頃、塩野義は盛んに海外の医薬品およびその製造技術を輸入した。特
にイーライリリーと関係を深め、同社から多数の医薬品を輸入した。一例をあげると、1966
年にケフリン、1967 年にケフロジン、1970 年にケフレックスがあり、それら全て抗生物質
であった。さらにイーライリリーとの関係は製品導入だけにとどまらず、共同出資でシオ
ノギ・リリー株式会社(1973 年)を設立した。同社設立により塩野義は、イーライリリー
の製品すべてを独占販売するようになった86。
以上の見てきた塩野義は、1970 年時には次の 2 つの特徴をもつ企業であったことが伺え
る。一つは、輸入医薬を多く扱う企業であり、その中でも抗生物質が多く、さらにその多
くがイーライリリーから輸入したものである、という特徴。もう一つが「販売の塩野義」
と称されるほど強力な販売力を有する企業であった。そしてその経営を同族が担っていた。
第 6 項 武田薬品工業87
1871 年、薬種仲買商近江屋喜助商店からのれん分けを許された近江屋長兵衛が薬問屋近
江屋長兵衛商店を開業した。それが今日の武田薬品工業の起源である。開業当初は主に和
漢薬を取扱っていた。その後、西洋から輸入された医薬品の売買に商機を感じた 4 代目長
兵衛88が洋薬を扱い始めた。洋薬を扱い始めたころは塩野義と同じく外国商館等から仕入れ
今日の MR(Medical Representative:医薬情報担当者)は、当時ディテールマン(プロ
パーと呼称された時代を経て今日では MR と呼ばれることが一般的である)
と呼ばれた。
当時ディテールマンは、先輩の経験を伝聞するかもしくは、先輩に同行し学習するとい
う方法で営業の仕方や製品の知識を習得していた。つまり、経験的な方法に依拠した営
業活動であった。そこで孝太郎は改革に着手した。具体的には、各医薬品の効用などの
知識を全社で統一し、ディテールマンはそれを習得した。加えて、専門的な製品の説明
書や薬と疾患、薬と副作用等の関係についてのデータなどを携え、特約店や病院、開業
医療機関に出向きその情報を提供し正確な使用を促進した。このような営業活動改革が
実り、後に販売の塩野義と表現される優れた営業体制の基盤を築いた。そしてそれは、
塩野義の強みの一つとなった。孝太郎は「ディテール活動を正確に行うことによっての
み、薬の効用が正確に実現され、その副作用も正確に排除される。そして、その結果と
して、シオノギ製品の安定した需要が生まれ、販売が発展していく」
(塩野義製薬株式会
社,1978,478 頁)という信念をもち、営業活動の近代化を目指した。
86 塩野義のケフリンとケフレックス、
そして藤澤薬品工業のセファメジンの三品目は、1970
年代にトップシェアを競い合っていた。
87 ここでは特に断りのない限り武田二百年史編纂委員会編
(1983)を参照し構成している。
88 2 代目長兵衛は初代長兵衛の次男である。
3 代目長兵衛は 2 代目の従兄弟竹田冨蔵である。
85
74
ており、不条理な取引を強いられることが多かった。その為、1894 年ごろから外資系医薬
品業や海外の問屋と交渉を進め、中間業者を介さず直接仕入れるようになった89。
当時、
医薬品の輸入の多くはドイツからであった。
しかし 1914 年に第一次大戦が勃発し、
ドイツがわが国の敵国となった為、医薬品の輸入が途絶え始め、取引先の変更を余儀なく
された。近江屋長兵衛商店オランダ、アメリカ、イギリス等に変更した90。加えて、輸入品
ばかりに頼るのではなく自社製造も始めた。その一つが、バイエルが開発したサリチル酸
やメルクが開発した乳酸の自社製造であった。自社製造が活発化したことで、1915 年に武
田製薬所を設置した。その武田製薬所およびその他の各事業所をまとめ武田製薬株式会社91
を 1918 年に設立した。1925 年には、これまで販売事業を担っていた武田長兵衛商店と上
述の武田製薬株式会社が合併し、株式会社武田長兵衛商店(以下武田商店)が誕生した。
ここに研究開発から販売まで一貫した体制が確立された。
5 代目武田長兵衛が経営者となった昭和初期、武田商店は中枢神経系ボンピリンやソボリ
ン、制酸剤ノルモザン、循環器系ビタカンファーなどを筆頭に自社製造の医薬品を国内市
場で販売していた。さらに日本軍の進駐に従い、東南アジアや朝鮮、台湾といった海外市
場に出張所を設け自社製品の輸出に着手した。1943 年、武田長兵衛商店は武田薬品工業(以
下武田)と改称し、6 代目長兵衛92が経営者となった。
さて、1939 年にはじまった第二次大戦の敗戦後、会社経理応急措置法が制定され、同法
のもと武田も特別経理会社に指定された。その為、企業再建整理法に則り再建計画を作成
し、認可を受けて再建を目指す事となった。翌年には 1,587 万円の利益をあげ、特別経理
会社の指定が解除された。1948 年には、1 億 4,280 円まで増資を行い、翌 1949 年に株式
の上場を行った。その間、徐々にではあったが停滞していた医薬品の製造を再開した。ペ
そして 4 代目長兵衛は遠縁の亀蔵である。その亀蔵は 1892 年の戸籍法制定で「武田」の
姓を名乗り武田長兵衛となる。5 代目長兵衛は 4 代目の長男重太郎である。4 代目長兵衛
は長男重太郎に対し「13 歳のころから、次代の後継者として家業の修得に務めさせ、ま
た英語や漢字などの勉学にもきびしい教育を行った」
(武田二百年史編纂委員会編,1983,
51 頁)。
89 この取引形態の転換には、後に 5 代目長兵衛となる 4 代目の長男重太郎と小西駒太郎(6
代目小西長兵衛)が大きく関与していた。当時、ロンドンのウイリアム・ダッフ商会、
グリーフ商会、クロスフィールド商会をはじめ、アメリカ、オランダ、ドイツの 10 社以
上と取引を始めた。詳しくは武田二百年史編纂委員会編(1983,50 頁)を参照されたい。
90 輸入薬が途絶えたのは日本に限った事ではなかった。他のアジア諸国でもドイツの医薬
品が途絶えた。そこで近江屋長兵衛商店は、オランダ等から輸入した医薬品をアジア諸
国へ輸出し収益を得た。
91 後に 5 代目長兵衛となる重太郎の功績の一つとして内林製薬の内部化がある。彼は社長
就任前から医薬品の研究開発に積極的であり、就任前に大阪で医薬品の研究開発に特化
した内林製薬の内林直吉を口説き同社を内部に取り込むという形で合併した。
92 6 代目長兵衛は、5 代目長兵衛の長男鋭太郎である。彼はアメリカのケンブリッジ大学の
留学経験をもち、国際的感覚をもった人物であった(山下,2010)
。社長時代には現在も
残るドリンク剤「アリナミン」の原型が開発された。当時の武田は同薬を冠とする医薬
品から大きな収益を得た。
75
ニシリンや麻薬、そしてワクチン等の生物学的製剤の製造にも着手し、1946 年にはバイエ
ルが発明した化学療法剤チオアセタゾンを輸入し、武田テーベンとして販売を始めた。販
売にかんしては、特約店として契約を結んだ協力商店に商品を納め、それらが小売すると
いう方法もとられていた。1954 年頃からわが国の主要地域で「ウロコ会」として特約店が
組織化されはじめ、後にその組織は「タケダ会」となった。当時、同組織に特約店 149 社、
小売店 2 万 7184 社が加入していた。
武田は 1950 年代に入ると外資系医薬品業と緊密な関係を築くようになった。
具体的には、
1950 年にアメリカのアメリカン・サイアナミッドと提携し一手販売契約を結んだ。さらに
同社とは 1953 年に合弁会社日本レダリーを設立した93。同社が製造した製品は武田が販売
した。当時は外資系医薬品業が直接販売することが難しかった。外資系医薬品業にとって
日本企業をパートナーに選定し合弁会社を設立する理由の一つとして、日本企業の販売網
や販売手法を活用があげられる。一方、武田が合弁会社を設立した理由は、
「研究開発力の
相互補完をはかり、対等の立場に立っての新技術と新製品の創製」(武田二百年史編纂委員
会編,1983,329 頁)にあった。
さて、1950 年代後半、武田はこれまでより増してアジア各国への輸出を強化するととも
に、メキシコにメキシコ武田を設置(1957 年)し、南米地域における製造に着手した。当
時の武田の海外市場戦略は、「一般向け医薬品の完成品の輸出を行い、次いで現地製剤に踏
み切るというパターン」
(武田二百年史編纂委員会編,1983,323 頁)で進められた。
さらに、1960 年代に入ってからは、ニコリン、ダーゼン94など、優良な自社開発品の導
出をきっかけとし、大規模な市場を有する欧米諸国への進出を模索し始めた。市場進出の
準備的機関として、1961 年にニューヨークに駐在所を設置、1962 年にはドイツに駐在事務
所を設置した。その 2 年後、ドイツ武田(1988 年に Takeda Europe GmbH と改称)を設
立、1967 年には販売強化を企図しアメリカに全額出資の Takeda USA を設立した。
さらに 1960 年代には次のような国内の研究開発体制の整備も行っている。まず、これま
であった研究所と技術本部および製薬事業開発部を統合し、1964 年に研究開発本部を設置
した。そこでは基礎研究から開発までを一貫して班長が統括する仕組み(プロジェクトチ
ーム制)をつくった。その研究開発本部は 1972 年に中央研究所となった。
以上みてきたとおり武田は、薬問屋から始まり、環境の変化に同族経営者がうまく対応
し、わが国で最も大きな医薬品業となった。
93
日本レダリーは「戦後の医薬品合弁会社第一号として発足」
(武田二百年史編纂委員会編,
1983,175 頁)した。
94 同薬は 1975 年から 1980 年までわが国の医薬品売上高上位 10 品目以内に入っている
(表
5-1)。
76
第 7 項 山之内製薬95
山内健二が 1923 年に大阪で始めた薬問屋山之内薬品商会が山之内の始まりである。同社
は今日的に競争優位と異なり、それらが医薬品製造に着手した時期に、薬問屋として事業
を始めた後発の医薬品業であった。ただし、起業当初は鼻炎治療剤清鼻液の販売から始ま
ったが、翌年には医薬品の製造に着手している。例えば、神経痛、ロイマチス治療剤カン
ポリジンの製造を行った。
昭和初期、カンポリジンと同薬効で異種の医薬品は 25 種類ほどあった。その為、熾烈な
競争が起こっていた。山之内商店は、田辺屋五兵衛商店(現田辺三菱)を近畿、中部、中
国、四国の代理店とし、関東、甲信越、東海、東北、北海道は中村滝商店を代理店とした。
このように有力な販売網を有する卸と総代理店契約を結び、全国を網羅できるような販路
つくり、熾烈な競争を勝ち残ろうとした。
1914 年 7 月に勃発した第二次世界大戦の戦中、山之内薬品商会は 1938 年に山之内製薬
株式会社(以下山之内)と改称し本店を東京に移転した96。第二次大戦後、山之内は戦災を
免れた東京本社で事業を再開したが、主力工場を失った為、生産がままならない状況に陥
った。山内健二は主力工場を失った責任をとり、1945 年の株主総会において自らの意思で
社長を退いた。後任社長には松島武夫が就いた。
既述した通り戦前の山之内は、田辺屋五兵衛商店や中村滝商店等と代理店契約を結びそ
れらに販売を委託していた。しかしながら、戦中の戦時統制により代理契約が白紙に戻っ
た。その為、販売体制を自ら構築しなければならず、戦後、自社販売網の組織化を目指し
た。特に特定の卸に依拠しない販売体制の構築を企図し、協力会社による問屋チェーンと
ADC 組織97による小売チェーンを形成した。それらは全国で千数百社が参加する組織とな
った。
さらに 1947 年 3 月には生産拡大を目的とし、日本医薬工業株式会社を設立した。同社は
翌年に山之内製薬と合併した98。その合併により「原料―合成―製品―販売の一貫体制がこ
こに完成された」(日本社史全集刊行会編、1977、76 頁)。
95
ここでは特に断りのない限り日本社史全集刊行会編(1977)を参照しまとめている。
それまでに同社は 1923 年に各営業部門、工場単位で 6 つの法人を設立した。また 1939
年から 1944 年には海外に事業所を設けている。1923 年の改組にかんしては日本社史全
集刊行会編(1977,36-37 頁)
、海外事業所の開設は同著(39-40 頁)に詳しい。
97 各地区(関東・東北・甲信越・東海・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州・札幌)ご
とに ADC(アルバ・ドラッグ・チェーン)協力店および協力店団を設け、傘下の ASS(ア
ルバ・サービス・ストアーズ)に流す組織である。
98 合併の経緯を略述すると、当時の山之内は生産拡大を企図し新たな工場を設置する計画
が進められた。その過程で取得する工場は見つかったが資金が不足していた。そこで市
中銀行に融資を交渉したが、銀行の手持ち資金が枯渇していた為、融資を受けることが
出来なかった。次に増資を検討した。しかし山之内は、企業再建法により特別経理会社
に指定されていた。その為、増資の許可が下りなかった。最後の手段として臨時資金調
整法による新会社設立の許可を申請し、1947 年 4 月に合併を前提とし「日本医薬品工業
株式会社」を設立した。
96
77
1948 年、GHQ 統制下で禁止された証券取引所の営業が再開され、店頭販売が再び始ま
った。翌年には立会が開始された。それと同時に山之内は株式を上場し、同年 10 月には増
資を行った結果、資本金が 1 億円となった。1951 年、松島武夫社長が病となり山内健二が
再び社長となった。当時、1949 年に発売を開始した避妊薬のサンシー99、ロシュから技術
導入し誕生したサイアジン100とバランス、さらにベーリンガーと技術提携を結び 1954 年に
製品化した抗生物質パラキシン101などが山之内の再建の原動力となった。
さて、1955 年度の山之内の売上は約 16 億円であった。しかし、高度経済成長の恩恵を
受け、1965 年にはそれが約 142 億円に達した。その間、1962 年に基礎研究部と調査研究
部を統合し新たに研究所を東京に設置し、しばらくして中央研究所が設置された102。中央
研究所発足以降、ビタミン系のピロミジン(1965 年)やカロマイド、中枢神経系ノイロキ
シン(1969 年)、抗生物質ジョサマイシン103、循環器系アンギナール、循環器系アストミ
ン(1974 年)などが生まれた。さらに 1969 年には医療機関向け医薬品を専門に育成管理
する部門として医薬部を設置した。他にも、開発機能を直接担当しないプロモーターを中
心に据えたプロダクト・マネジャー制を導入し、特定の製品、製品群、領域ごとに単独も
しくはグループで製品管理を行った。
以上のように山ノ内は、後発の医薬品業でありながら、1970 年時にはわが国の中で競争
優位性を持つ企業にまで発展した。その原動力は創業者山之内健二にあったと考えられる。
彼は 1968 年に渡邊順平と交代し社長を退き会長となった。
サンシー等の避妊薬にかんしては、1948 年まで避妊薬用途の医薬品の製造は法律で禁止
されていた。しかし、1949 年に避妊薬許可基準が設けられ製造販売が許可された。戦後、
産児制限の観点から同薬の利用者が増え良く売れた。さらにサイアジンは、京都大学の
内藤教授および専売公社東京病院の斎藤医長らにより抗結核剤として効能が見出された。
同薬の治療領域が拡大されたことで、当時流行していた結核の治療薬として良く売れる
ようになった。
100 より具体的な内容は日本社史全集刊行会編(1977,119 頁)にその要約がある。そちら
を参照されたい。
101 ベーリンガーは藤澤ともパラキシンの技術提携契約を結んでいた。両社とも同薬の開発
に成功し、山之内はパラキシン、藤澤はケミセチンとして販売を始めた。
102 中央研究所の設置過程にかんしては日本社史全集刊行会編(1977,147-151 頁)を参照
されたい。
103 1955 年頃より、財団法人微生物研究所梅沢博士らと共同でマクライド系抗生物質の開
発を進めた。その成果がジョサマイシンである。同薬はアメリカ、イギリス、西ドイツ、
フランス等の欧米やアルゼンチンなどの南米で海外特許を取得した。また 1975 年には米
デュポンと技術輸出契約を結び、同社に製造権とアメリカ、カナダ、メキシコでの販売
権を与えた。
99
78
第 8 項 エーザイ104
エーザイの起源は 1936 年に内藤豊次が設立した合資会社桜ケ丘研究所(東京)である。
桜ケ丘研究所を立ち上げる以前豊次は、新薬部長として田辺元三郎商店の販売の第一線に
立っていた。彼の仕事は、
「外国の書籍や雑誌を調べ、外国にはよく売れているが日本では
まだどこからも出していないようなものを捜し出すこと」(内藤,1970,259 頁)、であっ
た。加えて独特の広告技術で商品の宣伝を行っていた。彼が手がけた商品は広く知られる
ようになり一流の商品に育った。それと同時に田辺元三商店の「内藤豊次」という人物も
知られるようになった。
そのような中、豊次は次第に独自研究所の設置を構想する。当時、わが国の医薬品業の
研究所は、生産工場の付属物のようなものがほとんどで、研究に専念できるような民間の
研究所はわずかであった。そのため、独立した研究所を作るという発想は極めて新奇的で
あった105。その豊次の想いが実現し、1936 年に桜ケ丘研究所が設立された。
桜ケ丘研究所設立後、ビタミン E 剤ユベラと粉末の婦人衛生薬サンプーンの製造が始ま
った。先にサンプーンが完成し田辺商店に納入された。翌年にはユベラも完成し同じく田
辺商店に納入された。それぞれ月商 5,000 円程度売り上げた。このように自社で製造した
医薬品を独自の方法で販売するという形で事業が始まった。
1940 年、いわゆる大東亜戦争の前年、桜ケ丘研究所では覚せい剤の一種ベントツェドリ
ンの合成スルファグアニジンの研究が始まった。同薬は軍需用途を意図し製造が進められ
た。軍需用を意図した理由は、
「実績のないわれわれは軍需産業へと生産をきりかえて、生
存を考えるより生きる道はなかった」
(エーザイ株式会社社史編纂委員会編,1964,125 頁)
からであった。ちなみに、1941 年、日本衛材株式会社106(以下、衛材とする)を設立した。
同社の発起人には、豊次氏の他 8 名が参加した107。
当初、前述のサンプーンは性病予防薬の名目で販売された。本来、同薬は避妊薬を用途
とする新薬承認を目指していた。なぜなら、大戦後に導入された産児制限108により避妊薬
104
ここでは特に断りのない限りエーザイ株式会社社史編纂委員会編(1964)を参照しまと
めている。
105 豊次は田辺商店の実権者たる先代五兵衛に将来の医薬品業のあり方と研究所設置の必
要性を力説したが、彼は「先祖伝来の問屋業で満足している」
(内藤,1970,80 頁)
、と
研究所設置を反対した。それでも豊次はあきらめず、独自研究所を設置する構想を練っ
た。次第に豊次の構想に参画する者が現れた。田辺商店の当時の工場長堀井三郎氏や順
天堂病院の横田利邦と清水泰夫らが豊次の理解者であった。彼らの協力を得、ついに豊
次の構想が現実となった。最終的に田辺商店の当時専務の田辺金次郎が彼の計画を了承
し、桜ヶ丘研究所は田辺商店の別動機関として設置された。
106 当時は資金統制のため増資することが難しく事業の拡張が制約されていた。そこで新た
な会社を設立し資金を強化し,それをもとに事業拡大を行うことが一般的であった。
107 また,同年に発令された企業整備令に基づき存続のために桜ケ丘研究所を吸収合併した。
108 当時の薬事法では、
「避妊薬、つまり『流産または堕胎を効能としたりまたは暗示した
りする薬』の発売は、一切禁止されていた」
(道田,1973,53 頁)しかしながら規制当
局が倫理的問題を指摘し、避妊薬を用途とすることを認めなかった。そのため避妊薬で
79
の需要が見込めたからであった。1950 年、サンプーンはようやく避妊薬として許可が下り
た。
他社もそれに同調し避妊薬を製造した。結果、同薬効名目の医薬品が市場に溢れた。そ
のような中、衛材のサンプーンと山之内(現アステラス)のサンシーは雁薬が多かった避
妊薬のなかで品質試験に合格するとともに、いち早く製品化された。そのため両医薬品は
よく売れた。当時、サンプーンの生産高はエーザイ全体の 70%を占めていた。
第二次大戦後、衛材を支えた医薬品はサンプーンとルチン C であった。後者はビタミン
C を主成分とした医薬品である。わが国の医薬品業は、武田のように薬問屋を起源とする企
業が多い。それらは戦前から広範な自社販売網を有していた。他方、後発の衛材は田辺商
店に販売を委託していた。戦後、その取引形態を改めるために独自販路を開拓し始めた。
1950 年代に入り衛材では次の 3 つ新薬を導出し販売を始めた。まず循環器系ネオフィリ
ン、そして消化器系メサフェリン、最後にビタミン A 剤チョコラである。ネオフィリンは、
ドイツで生まれた強心・利尿剤テオフィリンを林製薬が商品化したジンフィリンの後継品
109である。同薬の生産過程で原料生産に成功し一貫生産を実現した。そして完成したネオ
フィリンは衛材初の医療用医薬品となった。豊次は自らそのネオフィリンのプロモーター
およびディテールマンの役割を担い、後に採用されたプロモーター制110の見本を示した。
メサフェリンは、口臭除去薬として販売していたクロロフィル製剤サクロフィールの研
究が発展し、胃の傷を切らずに治す治療薬として 1953 年に生まれた。この新薬は「消化器
病学会を中心とする臨床医療機関の全面的支持を得た」(エーザイ株式会社社史編纂委員
会,1964,84 頁)。その結果、全国主要病院、大学などで大量に採用された。
チョコラは後に数種類商品化された。その一連商品は衛材の知名度向上に大きく寄与し
た。またその知名度が代理店との関係性強化に寄与した。そのような関係性強化につなが
はなく性病予防薬という名目で販売された。それは衛材のみならず他社も同様であった。
ここでは會津(1991)にもとづき林製薬と同社が手掛けたジンフィリンを紹介しておく。
林製薬の起源は 1657 年から倉敷で薬問屋を営む大阪屋林源十郎商店である。1933 年に
創業家の林清五郎が東京大学薬学部を卒業後入社し、カフェインをもとにテオフィリン
の合成を手掛け、完成したのちそれをジンフィリンとし販売した。同薬の評判は良かっ
た。しかし林製薬が 1950 年に労務問題により工場が閉鎖された。その結果、林製薬では
医薬品の製造を終了したため、ジンフィリンの供給がストップした。豊次は、同薬を待
望する医師が多い事を知り自社製造を決断した。エーザイで作製した同種医薬品をネオ
フィリンとし販売を始めた。ちなみに、廃業後林清五郎は熊本大学薬学部に赴任し 1975
年に退官した。
110 プロモーターの具体的な役割とは、第一に、
「長い研究開発期間と多大な研究開発費を
投じて生み出された新製品を、その領域や市場におけるトップ商品に育成し、販売額・
収益の確保、ライフサイクルの延長をはかる」(エーザイ株式会社,2011,143 頁)。第
二に、
「現製品のみではなく将来の新製品も責任範囲であったため、事業、生産、研究開
発など全社の各組織に提案し、施策を実行する」
(エーザイ株式会社,2011,143 頁)
。
第三に、
「担当領域における大学教授など多数のオピニオンリーダーと良好な関係性を築
き、維持・継続すること」
(エーザイ株式会社,2011,144 頁)であった。
109
80
ったチョコラを冠とした代理店組織「チョコラ会」が 1952 年に結成された111。
1955 年、衛材はエーザイ株式会社(以下エーザイ)に改称した。当時エーザイは、国内
業界の売上高トップ 10 入りを果たし、名実ともに中堅薬業メーカーとしての地位を築き始
めた。その成長に寄与したのが医療用医薬品である。1961 年以降、国民皆保険制度が浸透
し医療用医薬品の需要が高まった。その結果、医療用医薬品を多く手掛けていたエーザイ
の業績が上昇し、そのような地位に上り詰めた112。
1966 年、豊次は長男祐次に社長を継承し自身は会長に退いた。当時を回顧し豊次は、
「外
国で売れそうな新薬を出してみたいとあせったが遂に及ばず、すべてをあげて後に続く
人々に託すほかなかった」
(内藤豊次,1969,417 頁)、と述べている。その思いを祐次が
引き継ぎ、1960 年代後半から海外展開を模索し始めた。具体的には、1969 年にタイ(出資
比率、エーザイ 50%、現地商社 50%)と台湾(同エーザイ 90%、現地投資家 10%)、1970
年にインドネシア(同エーザイ 60%、現地代理店トリファーソン 40%)
、それぞれに現地
法人を設立した113。このように主に東南アジア地域中心であったが、合弁会社を設立し海
外売上を伸ばしていった。なお当時のエーザイの売上高輸出比率は他社より高かった114。
国内に目を向けると 1966 年に川島工場を増設し動物実験室が設置された。他にも、かねて
から関連のあった三星製薬の増資を引き受け、同社の持株比率を 58.6%とした。
以上のように医薬品の製造から始まったエーザイは、創業者豊次のユニークな販売手法
とも相まって着実に成長を実現していった。以上を見るとこれまでの武田や三共と比して
海外から医薬品を輸入したり、技術を輸入し自社開発したり、という活動が見られない。
その理由として 2 代目社長内藤祐二氏は、創業者の内藤豊次氏と外資系医薬品業の視察に
出かけた際、現地企業に輸入取引を持ちかけたが、
「知名度が低いため、向こうが相手にし
てくれなかった」(毎日新聞朝刊,1989 年 7 月 21 日,10 面)と述べている
111
エーザイ株式会社者史編纂委員会(1964)によれば、販路政策を組織的に、計画的に、
初めて手をつけたのは衛材であった。当時は、競争他社や代理店はその仕組みがうまく
いくと考えていなかった。しかし、衛材の代理店組織が軌道に乗ると多くのメーカーが
その方式を真似するようになった。
112 同制度施行後、国内医薬品市場が 1961 年は対前年比 124%、1962 年は同 120%、1963
年は同 115%と、2 桁上昇で拡大する中、エーザイは、三六計画最終期の 1960 年(35 年
度下期)に 2,226 百万円売り上げ、三八計画最終期の 1962 年(38 年度下期)には 4,522
百万円計上した(エーザイ株式会社,2011)
。
113 他の国々にかんしてはエーザイ株式会社(2011,96 頁)を参照されたい。
114 先発企業が全く輸出していないというわけではない。まず説明する必要があるのは、戦
前、武田や塩野義といった先発企業は満州や朝鮮半島や東南アジアに支所を設け、自社
製品を販売していた。しかしながら敗戦によりそれら物的設備がなくなり一から基盤整
備する必要があった。そのような中で国内市場が急速に成長し、結果として海外より国
内市場が優先された。他にも海外展開が積極的に行えない理由を祐次が次のように解説
している。すなわち「マッカーサー時代から技術導入して、その結果、販売地域は日本
と沖縄だけに限定されてきたから他社は輸出比率が低い」
(1979 年 7 月 16 日号,日経ビ
ジネス)。輸出が伸びない理由にはそのような側面もあったようである。
81
第 9 項 中外製薬115
中外製薬の起源は 1925 年に上野十藏が東京で始めた医薬品輸入商「中外新薬商会」(以
下中外商)である。開業当初は、ドイツのゲーヘから胆石治療剤アゴビリン、止血剤グラ
ビプリン等を輸入し、関東は小西新兵衛商店、関西は安原富三郎商店にそれら商品の販売
を委託した。しかしながら、1931 年に起こった満州事変以降、ゲーヘから商品を輸入する
ことが困難となった。そのため中外商の輸入活動が制限された。中外は山之内と同じく先
発企業が医薬品の製造に着手していた時代に医薬品の輸入問屋として事業をスタートさせ
た。ただしこちらも山之内と同じように、創業まもないころから製造や開発に着手してい
る。
中外商は医薬品の輸入が困難となる前、2 つの医薬品の自社開発に成功している。一つは
鎮痛・消炎剤ブロカノン(1928 年)である。もう一つは同薬効のザルソブロカノン(1930
年)である。輸入が途絶える中、それら医薬品を販売し経営を維持していた。しかしなが
らそれら医薬品の原料も輸入品であった。製造するための原料も途絶え始め製造が難しく
なった。そのような中、ブロカノンの主原料である臭化カルシウムの自社生産に成功し、
原料調達の問題は解消された。それを機に、原料生産を目的とした高田工場(東京)を 1938
年に設立した。
1943 年、中外商は株式会社に改組し、中外製薬株式会社(以下中外)と改めた116。当時
は第二次世界大戦の只中にあり、転戦する日本軍の軍需に応えるため、海外に進出する企
業が多かった。中外も例外ではなく、1943 年に満州に製薬会社を設立、翌 1944 年には京
城支店工場を設立した。しかしながら、1945 年の敗戦により以上の海外拠点は接収された。
中外は海外基盤の接収に加え、戦禍により国内の池袋本社と工場が全焼、そして高田工
場が半焼するなどの被害を被った。戦後、半焼の高田工場を 4 か月で復旧しザルソブロカ
ノンの生産を再開した。販売にかんしては、これまでの問屋を介した販売方法を改め、中
外薬品株式会社を 1948 年に設立し、札幌、福岡、大阪に支店と出張所を設け独自販売に着
手した。後に中外は、流通経路の重点化117を目的とし卸の系列化をはかった。そのような
系列組織は 1964 年に「中外会」となった。
そのような中、当時の主要商品であるザルソブロカノンが「健康保険財政の負担増に繋
がっている」と指摘され、厚生省通達にもとづき使用が抑制された。主力商品の一つが使
115
ここでは特に断りのない限り、中外製薬株式会社社史編纂委員会編(2000)を参照し構
成している。
116 1942 年に公布された企業整備令により、企業も軍需中心に再整備された。中外製薬株
式会社社史編纂委員会編(2000)によれば、この頃に多くの医薬品業が「・・商店」や
「・・商会」から「・・薬品工業」や「・・製薬」などに改称する例が多かったと指摘
している。本稿で取り上げる企業でも改組した企業がいくつかある。それらも以上の制
度変化と関係していると考えられる。
117 ここでいう流通経路の重点化とは、中外製薬株式会社社史編纂委員会編(2000)によれ
ば、「メーカー・卸・小売業が互いに協力して正しい商慣習を樹立し、利潤を確保して経
営の安定をはかる」
(中外製薬株式会社社史編纂委員会編,2000,52 頁)とある。
82
用抑制された中外は、従業員の給料を分割支給するほど業績が落ち込んだ。
1950 年代に入り、中外ではいくつかの新薬が生まれた。具体的に見ていくと、解熱鎮痛
剤サルチラミン(1951 年)、消化器系アルミゲル液(1952 年)、同薬効アルミゲル錠(1953
年)がそれに該当する。さらに、医療用ではないが 1951 年に肝機能改善剤グロンサン118の
販売を始めた。同薬は当時よく売れた。
以上の新薬を販売することで中外の経営活動は徐々に安定していった。そして 1956 年に
東京証券取引所に株式上場を果たした。さらに 1959 年に研究開発部門の拡充のため、既存
の高田工場内に総合研究所を建設し同機関を新たな製品開発の拠点とした。それに加え同
年代には外資系医薬品業との提携を積極的に行った。具体的に見ていくと、1959 年にフラ
ンスのルセル・ユクラフと中外製品の販売契約を締結。さらに同年には、スイスのチラッ
グ・ケミー、アメリカのレークサイド、それぞれと販売契約を結ぶなど外資系医薬品業と
の関係が強化された。
以上みてきたように中外は、後発でありながら同族が積極的に戦略を改め、1970 年時に
はわが国の主要医薬品業の一つとなった。
第 10 項 持田製薬119
持田製薬の起源は、持田良吉が 1913 年に東京で始めた持田商会薬局である。同薬局は、
彼が創製した眼科用の黄降汞軟膏と注射用駆梅剤エルスチンという 2 つの医薬品を販売す
ることを目的として開業された。この 2 つの医薬品は、持田良吉が開業前に書生兼薬剤師
として勤務していた河本眼科で医師河本重二郎(当時東大名誉教授)の指導のもと完成さ
せた120。前述の武田や塩野義や藤澤などは薬問屋を起源とする。それらと異なり持田商会
薬局は、製造した医薬品を販売することを主目的とし始まった。当時、「新薬の製造に携わ
っていたのは三共製薬ぐらいのものであった」
(持田製薬創業 70 周年記念誌編集委員会編,
1984,65 頁)
。
創業期は前述の 2 つの商品がよく売れた。それら医薬品のさらなる増産を目指し、1918
年東京に工場を設置するとともに持田製薬所と改称した。1925 年には淋毒性疾患消炎剤ア
ルレスチン、1929 年に臓器薬トロンブリンの発売を始めた。当時販売網を持っていなかっ
た持田製薬は、それら医薬品の販売を中村滝商店に委ねた。さらに 1930 年にはホルモン製
同薬は今日的には一般用医薬品に該当する。同薬は総売り上げの 50%を占めるほどよく
売れた。しかしながら、
「グロンサン無効説」や「アンプル入り風邪薬事故」に端を発し
た一般用医薬品批判(大衆保健薬批判)の影響を受け、1965 年に同薬の売り上げが半減
し、赤字転落となった。以降、本格的に医療用医薬品の強化を行っている。
119 ここでは特に断りのない限り持田製薬創業 70 周年記念誌編集委員会編(1984)をもと
に構成している。
120 河本重二郎は持田良吉が退職する際に、3 年ばかり勤めた退職金としては当時として破
格の 2300 円を与え、持田商会薬局の開業を後押しした。開業後も河本は、自身と強いつ
ながりのある東京大学のネットワークを活用し、持田商品の宣伝し販売促進に一役買う
など初期の持田商会薬局を支えたキーパーソンであった。
118
83
剤ペラニンの発売を始めた。同薬は上記と異なり塩野義商店に販売を委ねた121。ペラニン
製造以降、持田製薬はホルモン製剤の研究に傾倒し、1932 年には同薬効のテスチノンの製
造販売を始めた。
第二次大戦の敗戦後、持田製薬所は法人化し、持田製薬株式会社(以下持田とする)と
改称する。さらに次のような大きな戦略転換を行った。自社販売への転換である。それま
で持田は、自社で製造した医薬品の販売を塩野義商店等に委託していた。自社で販売部門
を設置しなかった理由は、
「戦前の製薬業界は未分化で、販売部門を他人任せでも十分やっ
ていけたし、むしろ小規模の製薬メーカーにとってはそのほうが身軽で、その分だけ研究
分野にエネルギーを傾注できるという利点があった」(持田製薬創業 70 周年記念誌編集委
員会編,1984,88 頁)。さらには「医者が薬品を購入する場合は、まず薬局に注文する。
薬局はそれを卸問屋から買ってきて医者に届ける」
(持田製薬創業 70 周年記念誌編集委員
会編,1984,88 頁)というのが戦前の医療用医薬品の取引システムであり、そこには「売
り込みに関する競争も少なく・・中略・・販売店に任せ放しでなんら不都合はなかった」
(持
田製薬創業 70 周年記念誌編集委員会編,1984,88-89 頁)122。そのような時代背景があり、
販売よりも研究に力を入れていた。
しかしながら、時代の流れとともに状況は一変する。これまで持田では、塩野義商店や
中村滝商店などに自社製品の販売を委託してきたが、それら卸の中に自社製品の製造・開
発を強化する企業が出始めた。そのような卸は、持田の商品より優先的に自社製品を販売
した。その為、持田の製品が思うように売れなくなった。そこで持田は自社販売を模索し
始めた。具体的な転換点は、1951 年に発売を始めた酵素製剤スプラーゼにある。塩野義商
店は同薬と同等品を有していた。自社販売を進めたい持田と他社製品より自社製品をより
多く販売したい塩野義(前塩野義商店)との思惑が一致し、持田は 1955 年に結んだ塩野義
との代理店契約を解除した。
その後、自社営業活動を進めるにあたり持田は、まず産婦人科領域の販売活動に特化し
た123。それとは別に、自社製品の販売に協力的な卸問屋と全国特約店制度を 1958 年に発足
持田製薬創業 70 周年記念誌編集委員会編(1984,28-30,35 頁)には、塩野義商店へ
の販売委託の経緯および当時の日本の製薬会社が製品化した新薬の評価を伺い知ること
ができる。簡単に紹介しておく。ペラニンの販売を委託したところ、最初は乗り気でな
く、最終的にしぶしぶ承諾したのであった。塩野義商店がためらった理由は、当時の医
師はドイツ製の医薬品を使っており、日本の製薬会社がつくる新薬を信用していなかっ
たからである。販売を仲介する問屋が信用していない商品は売れるはずもなかった。し
かし、臨床実験を請け負った京都大学医学部産婦人科の講師小堺次郎が学会等で同薬の
効果を宣伝した。結果、ようやく売れるようになった。
122 当時の持田と代理店(販売店)との取引は、持田良吉自ら行い、あっさりと価格、数量
が決められていた。この点においても営業部門が存在する理由がなかったと持田製薬創
業 70 周年記念誌編集委員会編(1984)で指摘している。
123 産婦人科は薬を多用しない科目で、総合病院全体で使用率をみると、産婦人科は 5%未
満であった。しかしながら、1960 年代に産婦人科が渇望していた医薬品が完成した。そ
の結果、1955 年を基準とすると 1971 年に売上が 100 倍に達した。重点化策の成果は 1960
121
84
させた。また海外輸出も始めた。例えば、台湾企業と総代理店契約を 1955 年に結び、ホル
モン剤や酵素製剤の輸出を開始した。1959 年にはギリシャへの輸出も始めている。
さて前述のスプラーゼは特に小児科領域で大量皮下注射に用いられた。持田は同薬効製
品として 1953 年にトリプシリン、1955 年にトロンビンモチダの発売を始めた。1958 年に
は診断用リオプラスチンの販売も始めた。1960 年代には婦人科専用の医薬品を複数製品化
した。例えば、1960 年に発売を始めた子宮収縮止血剤バルタン錠、翌 1961 年にその注射
液バルタン注射液、1963 年には抗生物質フランセ・エフ錠がある。加えて、酵素製剤も 1950
年代に引き続き導出された。キモターゼ(1963 年発売開始)、ウロナーゼなどがそれである。
その他の経営活動として、1963 年には東京証券取引所第 2 部に上場している。
以上のように持田は、先発企業が製造を試みた時代に、医薬品を製造し販売することか
ら始まった。ただし、先発企業が競うように技術導入を行った時期にそれを強く進めたこ
とが確認できなかった。それが主要企業の中の競争優位企業との業績差につながっている
と考えられる。
第 11 項 あすか製薬
あすか製薬は 2005 年に帝国臓器製薬とグレラン製薬が合併し誕生した企業である。2003
年にスティール・パートナーズ、2004 年にダルトン・インベストメンツという米系投資フ
ァンドが帝国臓器の株を買い増し筆頭株主に名乗り出た。帝国臓器はそのような外資系企
業の圧力に対抗するためグレラン製薬と 2005 年に合併した。ここではまず帝国臓器、続い
てグレラン製薬、それぞれの 1970 年頃までの動向を明らかにする。
まず帝国臓器製薬の歴史的動向を見ていく124。帝国臓器製薬の起源は複雑である。1893
年に現在の横浜で山口八十八125が起こした建設業山口八十八商店があり、そして 2 代目八
十八が山口八十八商店を承継し、1910 年に神奈川県から売薬請売免許交付を受け、翌 1911
年に同県から製薬者免許鑑札を受けた明治末期、さらには 2 代目八十八が 1920 年に起こし
た帝国社臓器薬研究所126がある。いくつかの起業期がある中で、ここでは帝国社臓器研究
所以降をみていく。
年代後半から出始めた。その後、ようやく外科および内科へと販売の範囲を拡大してい
った。
124 ここでは特に断りのない限り帝国臓器製薬株式会社社史編纂委員会編(2000)を参照し
構成している。
125 初代山口八十八は病気のため義弟に山口八十八の襲名と店の継承を言い残し 1902 年に
死去した。彼は建設業を営む山口寅吉の養嗣子であった。初代八十八の義弟とは、初代
八十八が起業前に勤めた上州屋で丁稚として働いていた岡部清吉である。彼は山口八十
八商店の起業期から初代八十八を助けた。その後、初代八十八の養父から養子縁組の話
が持ち上がり姓を山口と改めた。また初代八十八の妻の妹と結婚した。これらの経緯は
帝国臓器製薬株式会社社史編纂委員会編(2000,3-7 頁)に詳しい。
126 同社ホームページの沿革
(http://www.aska-pharma.co.jp/company/history.html 2014
年 1 月 20 日閲覧)は帝国社臓器薬研究所から年表が始まっている。
85
1920 年に創立した帝国社臓器薬研究所(以下帝国研)は、ホルモン剤スペルマチンの製
造を始めた。帝国研は武田長兵衛商店(現武田薬品工業)と同薬の販売契約を結び、武田
が一手に販売を引き受けた。創業当初の帝国研はホルモン剤に力を入れ、記述したスペル
マチンの他、オオホルミン、チラージンを製造し販売を始めた。
1923 年、関東を襲ったいわゆる関東大震災により帝国研の研究所は全焼した。再建を果
たすため、研究所を移転し生産を再開した。その後、糖尿病治療薬インベリン、ホルモン
剤マクロビン、アントニンを製造し販売を始めた。1927 年には現神奈川県大宮に新工場を
設置し、インテレニンや脾臓製止血剤オポスタチンを製造し販売を始めた。さらに 1929 年
には改組し株式会社帝国社臓器研究所となった。初代社長には山口八十八が就いた。その
後もホルモン剤を中心に自社製品の開発および製造を行った。そのような中、第二次世界
大戦がはじまり、軍の侵攻にあわせ北京に支社を設けるなど東アジア地域に進出した。し
かし、他企業と同じく敗戦により海外の資産は没収された。戦後、相談役に退いていた山
口八十八が社長に復帰した。また他社と同じく特別経理会社に指定された。そのため再建
の体制づくりが急務となった。そこでまず、帝国臓器製薬所株式会社(以下帝国臓器)と
改称した。
一方、当時は海外から技術や製品を導入するために各社が競い合い外資系医薬品業と提
携し、自社製品の充実化をはかった時期であった。しかし帝国臓器は、「創業以来の方針に
従い自社開発の道を貫こうとした」(帝国臓器製薬株式会社社史編纂委員会編,2000,93
頁)。自社開発を進めた結果、ホルモン剤カルヂノン、エルナモン、オバホルモン等の新薬
を導出した。特にオバホルモンは良く売れ、1947 年の売上約 5160 万円の内、同薬の売上
が約 3300 万円を占めた。
1950 年代に入り、まず川崎工場内に新たに研究所を設置した(1952 年)
、さらに横浜工
場にも研究所を設置し(1954 年)、研究開発活動に力を入れた。他にも 1955 年には東京証
券取引所 1 部に上場を果たした。そのような中、ホルモン剤パロチン(1953 年)
、1955 年
にはサークレチ、それぞれの製造承認を受けた。この 1950 年代に入ってからも帝国臓器で
は多くのホルモン剤が導出された。
次にグレラン製薬小史を明らかにする127。グレラン製薬の起源は柳沢安太郎(以下安太
郎)が 1930 年に大阪で起こした柳沢薬品である。安太郎は柳沢商会を始める前は武田長兵
衛商店で参事新薬部長として働いていた時期がある。その縁もあって柳沢薬品商店からそ
の後グレラン製薬となった後も、武田長兵衛商店および武田が一手に同社製品を販売した。
安太郎の起業のきっかけは、ドイツシェーリングが開発し販売していた中枢神経系ベラ
モンを国産化であった。その後、開発に成功した製品をグレランと命名し販売を始めた。
第二次世界大戦前および戦中、同薬は好調に売れていた。しかし、1943 年に厚生省当局
の要請により安太郎が日本医薬品統制株式会社の理事に就任する事となり、柳沢薬品商会
127
グレラン製薬の歴史的動向にかんしては、特に断りのない限りグレラン製薬株式会社社
史編纂委員会(1960)を参照し構成している。
86
の業務は武田薬品工業に移譲しグレランの製造工場を閉鎖した。
終戦後、柳沢薬品商会の再開し、グレラン製造のための新たな工場を東京に設立した。
さらに翌 1949 年には生産能力倍増をめざし新たな工場を設立した。そして 1950 年に法人
組織に改め、資本金 100 万円でグレラン製薬を設立した。設立後は、グレランの剤型変更
等を行い、薬効の幅を広げるなど行ってきた。1959 年に循環器系ロミノフィリン、中枢神
経系グレナイトの販売を始めた。
以上のように帝国は、起業期からホルモン系の製造・開発に特化し多くの医薬品を製品
化してきた。先発企業が製造に特化した頃に同じように医薬品の製造を始めた点は似通っ
ているが、自社開発に特化した点、そして薬効を限定した点は異なる。それは後発企業と
して生き残るために必要な取り組みであったと考えられる。その後、冒頭で記述した通り
2005 年に帝国臓器とグレランが合併する。それについては 1970 年以降の動向と大きく関
係する事から今回は省略する。
第 12 項 科研製薬128
科研製薬の起源は理化学研究所である。同研究所は戦後 GHQ に命じられ解散したが、
1948 年に科学研究所とし活動を再開した。同研究所ではペニシリンの製造から始まり、
1952 年頃にはストレプトマイシンの製造販売に移っていった。そのような中、1000 名以上
の従業員を抱えていた同研究所は、経営が次第に行き詰まった。その結果、生産部門と研
究部門が分割され、前者は科研化学株式会社、後者が科学研究所129となった。
科研化学は、1952 年にストレプトマイシンの生産が全国で 1 位になるなど製造の技術は
高かった。しかしながら販売力が乏しかった。そこで、1950 年に科研化学が製造した医薬
品の販売を目的とし、山之内と共同で山之内科薬販売株式会社が設立された。1951 年には
資本金を 1450 万に増資し、同社の名称を科研薬販株式会社と改称した。翌年には山之内の
山科工場を買収し、科研薬販株式会社の開発・製造拠点とした。また 1956 年には科研薬販
株式会社は科研薬化工と改称された。その科研薬科工は、1957 年に西ドイツ(現ドイツ)
のノルドマルクが開発したプロヘパールの輸入・製造・販売契約を締結し日本国内で販売
を始めた。また同社は 1962 年に東京証券取引所第 2 部に上場するなど経営が安定化してい
った。
さて科研化学に話を戻すと、アメリカのレダリーと提携し誕生した化学療法剤エタンブ
トールを 1961 年に開発した。他にもその他代謝系のセブンイ―(1963 年発売)やエンピ
ナース(1965 年発売)などの自社開発に成功した。それら医薬品は良く売れ、同社の業績
を牽引した。また取り扱う商品の増加に伴い、
「自社製造品は自社で販売すべきである」
(科
128
ここでは特に断りのない限り科研製薬株式会社(1998)をもとに構成している。
同研究所は 1958 年に特殊法人理化学研究所、2003 年には独立行政法人理化学研究所と
なった。現在の理化学研究所は、物理学、工学、化学、生物学、医科学など広範囲の総
合研 究所である。詳しくは同研究所ホームページ( http://www.riken.jp/about/ 2014
年 3 月 22 日閲覧)を参照されたい。
129
87
研製薬株式会社,1998,35 頁)、との思想が社内で有力となり、1965 年頃から科研薬化工
を介さない自販体制を目指す取り組みが始まった。加えて、自社の製造拠点拡充を目的と
し、1962 年に製造工場(静岡)を新設し抗生物質・化学療法剤の増産を目指した。このよ
うな中、1963 年に東京証券取引所第 2 部に上場し、資金調達の多様化を実現した。1960
年代後半になると、イギリスのブーツと技術提携を行い、中枢神経系イブナックを開発、
翌 1968 年に発売を始めるなど自社開発および輸入医薬の開発が順調に進展した。
以上のように科研製薬は、戦後抗生物質(化学療法剤を含む)の自社製造・開発を中心
に適宜海外からも輸入する事で企業を発展させた。
第 13 項 キッセイ薬品工業130
キッセイ薬品工業の起源は 1946 年に設立された株式会社橘生化学研究所である。東京化
学産業の常務取締役であった雨森正五郎を中心に、同社の松本工場を活用し製薬企業を設
立するという計画が立てられた。その計画に長野県の製薬関係者が協力し株式会社橘生化
学研究所が設立された。
株式会社橘生化学研究所は設立後すぐ、橘生薬品工業株式会社(以下橘生薬品)に改称
し、自社開発の鎮痛・鎮静剤ロートポン注の製造を始めた。同薬の販売は東京の商事会社
に委託し、販売直後は好調に売れた。しかし、1949 年に同薬の出荷を停止した。その理由
は、横浜の製薬会社がロートポン注の粗悪な類似品を製造し販売を始めたことで、ロート
ポン注自体の評判が悪くなり売れなくなったからであった。この問題の調査にあったのが
後に社長となり同社の発展に尽力した神澤邦雄である。彼は後にキッセイ薬品工業と改称
される橘生薬品の「中興の祖」と呼べる人物である。
神澤邦雄は 1948 年に設立間もない橘生薬品に入社。
入社後しばらくして総務部長となる。
今日のキッセイ(当時橘生薬品)の方向性を決定づける当時の大きな決断を次のように回
顧している。
「当時の社内では今後の会社の経営について、いわゆる『ゾロ』
(類似品)メーカーを目
指すべきだという意見が大勢を占めていました。会社の規模を手っ取り早く大きくするに
は人のまねをするのが一番いい。・・・中略・・・総務部長だった私はこれに猛反対しまし
た。『研究開発をしなければメーカーではない』という信念を持っていたからです。・・・
中略・・・当時の役員はこうした考えを笑いましたが、彼らを説き伏せ、独自開発を優先
させたのです。
」
以上の発言から、橘生薬品は神澤邦雄の意向により、先発企業が海外から技術導入し、
自社で開発した医薬品を製品化し始めた時代、後発企業の多くが他社の類似品を製造する
130
ここでは特に断りのない限りキッセイ薬品工業株式会社編(1996)を参照し構成してい
る。
88
ことを進めていたが、それを行わなかった。その後も彼の信念は引き継がれる。
話を戻すと、橘生薬品はこの問題によりロートポン注の販売を中止せざるを得なくなっ
た。その責任を取り当時の全取締役が辞任した。創業間もなくし主力商品がなくなるとい
う苦境に陥った橘生薬品であったが、1949 年にロートポン注を改良したネオロートポン注
(錠)の販売を始め再生を目指した。
1950 年代後半、橘生薬品は「海外では売りだされてはいても、日本ではいまだ着手され
ていない医薬品で、・・中略・・抗生物質や精神安定剤など競合品の多い内科領域を避け、
皮膚科や産婦人科などの領域」
(キッセイ薬品工業株式会社編,1996,55 頁)に特化した。
新製品の開発を進めた結果、鎮咳剤ナルコチン(1958 年発売)、鎮咳潰瘍治療剤ユーサイン
顆粒(1959 年発売)や神経痛・リウマチ解熱剤アルザロ錠(1960 年発売)などが生まれた。
それら医薬品の製造には無菌室が不可欠であった。キッセイ薬品では同施設を設置する際、
いわゆる「見返り資金」131 を活用した。同資金から 370 万円(橘生薬品の当時の売上が
1,470 万円)の融資を受け132、それをもとに本社敷地内に無菌室を設置したのであった。
新たに導出した新薬の販売は次のような卸を介し幅広く行われた。まず関東方面は東京
田辺製薬と鳥居薬品等に委託した。中部方面は小林大薬房と荒川長太郎が行い、北海道地
区は武田薬品工業の北海道支店に委託した。その後、1959 年に東京田辺製薬による専売体
制に移行した133が、1970 年に東京田辺製薬と結んだ販売契約を解消し、自販体制に移行し
た134。その間橘生薬品では、自社製品の情報を自社社員が医師・薬剤師に伝達する活動(MR
と同等の活動)を進めた。
さて、橘生薬品は 1960 年代に入りキッセイ薬品工業(以下キッセイ)と改称した(1964
年)。また特徴的な新薬もいくつか生まれた。例えば、キッセイ初の製造法特許取得品とな
った貧血治療鉄剤グリテツ錠(1962 年)、さらにこちらもキッセイ初となった海外導入品鎮
痙剤ダクチル‐OB 錠(1963 年発売)があげられる。ダクチル‐OB 錠はアメリカのレーク
サイド(現サノフィ・アベンティス)と提携を結び導入された。他にも、呼吸器系のペク
タイト(1965 年発売)
、潰瘍治療剤アタンタ(1967 年発売)等も導出している。以上の新
薬を生み出したことにより、キッセイの自社製品が充実化していった。
その他、1960 年代には設備面や営業活動面において次のような変化が生まれた。設備面
131
正式には米国対日援助見返り資金と呼ばれ、アメリカの援助ドルを日本円で日本銀行に
特別勘定で預託された資金であり、戦後の日本経済の安定と復興の仕上げに重要な役割
を果たした(キッセイ薬品工業株式会社編,1996)。
132 この融資に目を付け交渉を行ったのも神澤邦雄である。
133 その理由は、キッセイ薬品工業株式会社編(1996,50-52 頁)を参照されたい。
134 自販体制への移行理由は、
「活動を制約され、特約店対策、ユーザー施策、経費効率な
どの頁で当社(キッセイ)の方針が徹底されない歯がゆさを味わってきた(括弧内筆者)
」
(キッセイ薬品工業株式会社編,1996,120 頁)
、からであった。販売を委託していた東
京田辺や武田は、キッセイより早く医薬品の製造を始めており、多くの自社製品を有し
ていた。その為、自社製品を優先的に販売する事が多かった。その為、上述のような問
題が生じたようである。
89
では、長野本社に新薬の増産に備え新工場を 1964 年に設置した。1968 年には研究所を設
置し総合研究所とした。営業活動面の変化は、従来の東京支店(1949 年開設)
、大阪連絡所
(同左)、福岡事務所(1959 年開設)、名古屋連絡所(同左)等の支店、連絡所、事務所を
1967 年に営業所に改め自販体制の準備に取り掛かった。またこの頃には現地の販社を通し
て台湾や韓国などに販売を始め海外市場への進出に着手した。他にも、消化器・肝臓分野
の大学教授クラスによる組織「スカンド会」を 1968 年に結成するなど、特定領域ではあっ
たが医師とのネットワークを強化し始めた。
以上のようにキッセイは後発企業であり、企業地も長野県とユニークな面がある。その
キッセイの発展に尽力したのが記述した通り中興の祖と位置づけられる神澤邦雄であった。
第 14 項 第 2 節のまとめ
本節では調査対象企業それぞれの起業から 1970 年までの歴史的動向を見てきた。それら
をもとに主要な項目をまとめたものが表 5-3 である。表 5-3 では、
「会社名 1」
「会社名 2」
「創業年」
「創業地」
「創業立地」
「自社製造開始年」
「自社販売体制への移行年」
「販売網(設
立年/名称)」「中央研究所設置年」「外資系医薬品業との合弁会社設立」「外資系医薬品業
からの製品・技術輸入と提携」の 11 項目についてまとめた。
まず会社名 1 は、2014 年現在の会社名を記述している。会社名 2 については、図 5-1 で
明らかにしたように、わが国の医薬品業の多くは合併し巨大化している。そこで合併前の
それぞれの会社名を記載している。次に創業年と創業地、創業立地については、調査対象
企業の起業年を創業年とし、その事業が始まった土地を創業地と定め記述している。加え
てどのような事業で始まったのかを記述したものが創業立地である。さらに自社製造開始
年、自社販売体制への移行年、販売網、中央研究所設置年については、各企業が垂直統合
化されたのか理解できるようそれぞれの機能の設置年を既述した。
最後に、「日本市場における合弁会社の設立」および「1900 年から 1970 年までの製品・
技術輸入」については調査対象と外資系医薬品業の関係を知る手掛かりとしてまとめた。
それらを見ると、外資系医薬品業と関係性を強化できた企業とそうでない企業に分かれる
と理解できる。これまで本章で見てきたように、日本企業は日本市場において外資系医薬
品業と合弁会社を設立し、同社をハブとして活用し、製品や技術輸入をしてきた。さらに
同社で製品化されたものを日本企業が販売するという協力体制を築いた。このように海外
から技術や製品を輸入できた企業は、販売可能な製品が充実化した。つまり、外資系医薬
品業との結びつきが強い企業ほど成長のチャンスが広がったのである。
1970 年以降の業績の推移にかんしては次の戦略グループ分析で詳しく見ていくが、表 5-1
の 2009 年売上高をみても、1970 年までに海外から製品や技術を輸入できなかった、ある
いは海外企業と日本市場で合弁会社を設立する事が出来なかった挑戦者企業群(例えば持
田やキッセイ)は業績が劣る。まずここまで見てきた事から言えるのは、外資系医薬品業
との関係を強化出来た企業群ほど競争の優位性を有していたという事である。
90
表 5-3:主要企業の国内における動向
:主要企業の国内における動向
会社名1
(2014年現在)
会社名2(合併前) 創業年 創業地
第一製薬
1915 東京
創業立地
自社製造
開始年
自社販売
体制への
移行年
製造・開発
1915
1915
販売網(設立年/名称)
中央研究
所設置年
1955 艸木会
外資系医薬品業との合弁会社設立
(1970年まで)
外資系薬品業からの製品・技術輸入と提携
(1970年頃まで)
1961年フランスのローヌ・プーランと技術提携し、化学療法剤セルチノン錠を開発。同年イタリアのア
ンジェリーニ社と技術提携中枢神経系オキサルミンおよびオキサルミンCを開発
1962年イギリスのグラクソ社のホルモン剤ベネトランを導入
1963年アメリカのウインスロップ社と技術提携しトンコパールを開発。同年オランダのフィリップス・
デュファー社との技術提携し末梢神経系ズファジランを開発
1965年にアメリカのマリンクロット社と提携し診断用コンレイおよびアンギオコンレイを開発
1961
第一三共
1902年アメリカのパークデービス社の代理店
1908年アメリカのジョンソン・エンド・ジョンソン社の代理店。1909年ドイツのスパイヤー・フォン・カルゲ
ル社およびタインハルト社、ベーリンガー社、クノール社代理店
1912年ドイツのヘキスト社サルバルサンえお輸入
1953年デンマークのレオ社と技術提携
1954年アメリカのマイルス・ラボラトリーズ社から消化器系アルカ・セルツーの輸入
同年スクイブ社の代理店
1955年オルガノン社、サンド社の代理店。サンド社の中枢神経系ベレンガルの技術提携
1965年ロシュ社中枢神経系ニトラゼパムを塩野義と共同開発。ウインスロップが開発した中枢神経系
ペンタジソンを山之内とウインスロップ・ラボラトリーズとともに共同で開発
三共製薬
1899 横浜
輸入
1913
1947
1947 三共会
1960年オルガノン社と日本オルガノン、パーク・
1965 デービス社とパーク・デービス三共を設立
山之内製薬
1923 大阪
薬問屋
1923
1923
1947 名称不明
1962 ロシュ、ベーリンガー
1951年ロシュ社からサイアジンとバランスの技術導入
ベーリンガーと技術提携を結び1954年に抗生物質パラキシンを製品化
1964 不明
1952年イタリアのカルロ・エバ社と提携し、抗生物質ケミセチンを導入
1953年スイスのガイギー社から中枢神経系イルガピリン、サルファ剤イルガフェン を輸入
1955年スウェーデンのアストラ社から局所麻酔剤キシロカイシンの原末輸入と技術提携
1956年ガイギー社と技術援助契約
1957年ガイギー社と総代理店契約
1960年代英国のビーチャム社と提携。オルベニン、ペンブリチン、トレスシリンといった「合ペニ3品」を
輸入
1960年代英国のNRDC(英国国立研究開発公社)とセファロスポリンC群にかんする製造契約を締結
し、1971年に製造承認
アステラス製薬
藤沢薬品工業
1894 大阪
薬問屋
1899
1894
1965 フジサワ会
武田薬品工業
1781 大阪
薬問屋
1915
1781
1954
エーザイ
1936 東京
製造・開発
1936
1952
1952 チョコラ会
中外製薬
1925 東京
問屋
1925
1948
1964 中外会
1959 不明
起業期ドイツのゲーヘ社から胆石治療剤アゴビリン、止血剤グラビプリン等を輸入
1959年フランスのルセル・ユクラフ、スイスのチラッグ・ケミー、アメリカのレークサイド中外製品の販売
契約
大日本製薬
1898 大阪
検査
1914
1947
1965 マルピー会
1962年アボット社との合弁、株式会社ダイナボッ
ト・ラジオアイソトープ研究所を設立
1960 1964年同社とで日本アボット株式会社設立
1966年ライカー社とマルピー・ライカーを設立
1968年G.D.サール社とマルピー・サールを設立
1950年ごろアメリカG.D.サール社の消化器系バンサインの輸入。翌年に同社と総代理店契。
1950年代アメリカのアボット社、ライカー社、イギリスのメイ&ベイカー社、I.C.I社などとも総代理店契
約もしくは技術提携契約
住友製薬
1984 不明
製造
塩野義製薬
1878 大阪
薬問屋
1891
1878 不明
科研製薬
1948 東京
製造・開発
1948
1950 不明
1946
1913
1920
1930
製造・開発
製造・開発
薬問屋
輸入
ウロコ会
(後にタケダ会)
1972
不明
大日本住友製薬
キッセイ薬品工業
持田製薬
あすか薬
帝国臓器
グレラン製薬
長野
東京
横浜
大阪
不明
不明
不明
1946
1970 1968 スカンド会
1913
1948 1958 名称不明
1920 不明
不明
不明
不明
不明
1953年アメリカのアメリカン・サイアナミッド社と日
本レダリーを設立
1950年アメリカのアメリカン・サイアナミッド社と代理店契約
1952年USビタミン社と技術提携契約
1957年コレット社と特許実施契約
1960年グラクソラボラトリーズとグリセオフルビンの製造特許の実施許諾
1960年アライド社と特許実施契約
1961年シュガー・リサーチ・ファンデーションと技術援助契約
不明
1971
不明
不明
不明
不明
イーライリリー
1987年頃英国のダッフ商会、ドイツのラインハート商会、スイスのシーグフリード商会などから医薬品
を輸入
1951年ロシュとサルファジンの製造・販売契約
1953年イーライリリーとアイロタイシン 独占販売契約
1957年イーライリリーからアイロタイシンの製造実施権を獲得
イーライリリーから1966年にケフリン、1967年にケフロジン、1970年にケフレックスを輸入
1977 不明
1960年代
ドイツノルドマルク社が開発したプロヘパールの輸入・製造・販売契約
アメリカレダリー社と提携し化学療法剤エタンブトール
イギリスブーツ社と技術提携中枢神経系イブナックを開発
不明
1982 不明
不明
不明
不明
不明
不明
不明
出所:各社社史をもとに筆者作成
91
もちろんここでの調査は入手可能な二次資料に依拠したものであり、各企業の経営活動
を網羅したものではない。とは言え、明らかに外資系医薬品業と関係深い企業とそうでな
い企業にわかれることは確認できた。その結果を踏まえ、次に戦略グループ分析に不可欠
な戦略次元を設定する。
第 3 節 戦略次元の選定:輸入と輸出
前章ではわが国の医薬品産業の概要を紹介した上で、最も新規的とされる NCE の承認動
向調査を行い、わが国の NCE の承認傾向を明らかにした。さらに本章の前節では調査対象
企業の 1970 年頃までの歴史的動向を見てきた。それを踏まえここでは、戦略グループの知
見を活用した分析に不可欠な戦略次元を設定する。本研究ではこれまでの検討を踏まえ輸
出売上高比率と輸入 NCE の承認件数を戦略次元とする。
既述の通り藤野(2014a)は、輸出比率を高めた企業は同族経営者が交代する傾向がある
ことを見出している。しかし、その理由については考察していない。そこで、同論文で発
見した現象を再現し、戦略の変化と同族関与の関係を議論することを目的とし、売上高輸
出比率を戦略次元とする。もう一つの戦略次元には輸入 NCE の承認件数を採用する。選定
理由は次の 3 つである。
第一に、前節の図 4-3 にもとづけば、医薬品を輸入し販売することが志向された時代があ
るが、1990 年以降、それが難しくなった事が明らかとなった。その事象は「競争の優位性
をもつ企業群」の発見に結び付く可能性が高い。
加えて、その事象と同族の経営関与の維持転換が連関しているであれば、競争の優位性
と同族関与という事象間の関係性の解明に結びつくと考える。よって輸入 NCE は企業の戦
略を知る上で重要なデータであると考える。
第二に、輸入製品や輸入技術は、他企業との競争において有効な手段となった(長谷
川,1986;日本薬史学会編,1995)。例えば、第二次大戦後に活発化した抗生物質の輸入は、
「製薬企業の構造を質的に変化させ、技術革新による生産規模の拡大をもたらした」
(長谷
川,1986,71-72 頁)。
さらに Maurer(1989)によれば、基礎研究費が発生せず、コスト軽減効果がある。そし
て、開発企業の資料を活用でき、研究開発期間が短縮でき、研究開発コストの圧縮とリス
ク低減につながる。既存研究では輸入医薬にそのような効果があることを指摘する。他に
も、輸入による製品や技術獲得の獲得により、創薬全般に係る技術、そして経営全般に係
る管理手法や経営手法を学習することができた(原,2007)
。例えば藤澤は、1961 年に英
国の NRDC(英国国立研究開発公社)からセファロスポリン C を導入した。その契約金は
当時の藤澤の年間研究費実績の 7.7%に相当した(藤澤薬品工業株式会社編,1995)。藤澤
にとって決して安くはない契約金であったにもかかわらず、
「最終的には、常務取締役の『や
ろうじゃないか、損をしても技術をみがくための授業料を支払ったと思えばよいではない
か』という発言が大勢を決し、社長藤澤友吉の決断につながった」(藤澤薬品工業株式会社
92
編,1995,164 頁)。
以上のように、輸入という経営活動は収益獲得のための製品導入のみならず、製品開発
につながる組織能力向上にも寄与していた。輸入する日本企業はその効果を理解したうえ
で戦略選択を行った。そうであるならば、輸入に積極的な企業ほど、輸入 NCE がもたらす
眼前の収益を獲得したうえで、さらに将来の医薬品開発に寄与する能力を蓄積することが
できた。それらが競争優位の源泉となったと考えられる。
最後に、技術導入した製品は物質特許制度のある国に輸出できない(松居,1973)
。既述
の通りエーザイの前社長内藤祐次は、「マッカーサー時代から技術導入して、その結果、販
売地域は日本と沖縄だけに限定されてきたから他社は輸出比率が低い」
(1979 年 7 月 16 日
号,日経ビジネス)と述べている。彼の発言に従えば、輸出が伸びない理由の一つとして
輸入にかかる契約と関連していたと考えられる。そのことから、輸入医薬品を戦略商品と
位置付け、それを中心に経営活動を行えば輸出比率は伸ばすことが難しくなる。つまり輸
入と輸出は表裏一体の関係にある。その点は着目するに値すると考える。
さて、前章で明らかとなったように、輸入 NCE の承認件数はなぜ減少したのだろうか。
それには 2 つの理由が考えられる。
第一に、シーズ枯渇に伴い、全体的に NCE の承認件数が減った。その事実関係は図 4-3
で確認できる。シーズ枯渇により新薬開発が困難となり、全体的に承認件数が減少した。
新薬開発が難しくなった結果、頻繁に新薬を導出出来なくなった外資系医薬品業は、安易
に新薬を提供することを控えた。たとえ取引に応じたとしても、
「何か貴社から一ついただ
ければ、わが社も一つ差し上げましょう」といった交換条件を含む取引に変化した(Maurer,
1989)。
第二の理由は、外資系医薬品業の対日戦略強化による輸入減である。日本の医薬品市場
には独自の商慣行が存在した(日本薬史学会編,1995)。その慣習は海外の実務家から見れ
ば特異なものとして映っていた。ドラッグマガジン社の『ドラッグマガジン』では、1988
年 2 月号から 1989 年 12 月号にかけて「青い目の見たニッポン医薬品市場」というタイト
ルで連載がある。そこでは、マウラー(当時米国製薬工業協会日本代表)、ジャーク・ラ
クローズ(当時サンド薬品代表取締役社長)、フォルカー・カイテル(当時ヘキストジャ
パン専務取締役)、アスベリー(当時アイ・シー・アイ ファーマ代表取締役副社長)とい
った海外の実務家からみた日本の医薬品市場の現状が紹介されている。同紙内で指摘され
ていることを抜き出すと、
「患者が自分の服用する薬が何であるのか知らない」
(カイテル)、
「優れた製品があっても、相互信用と信頼もとづいた流通経路、適切な薬価(販売価格)
を得るために医師会や厚生省との接触、それらがなければ失敗する」
(カイテル、ラクロー
ズ)、「欧州市場参入するには企業を買えば良いだけ、しかし日本では情緒や心理の影響が
大きい」(カイテル)
、日本市場に対する以上のような解釈を収集することができる。
特に販売にかんしては海外市場に比べ複雑な構造となっていた。外資系医薬品業は日本
市場に対応するため、日本企業への資本参加や合弁企業の設立などを経て間接的に進出し
93
た(原,2007;長谷川,1986)。そのような中、MOSS 協議135、その後の ICH136といった
政府間や規制主体間の協議により、いくつかの規制が緩和された。それは日本企業、そし
て外資系医薬品業の戦略変化の起点となった。現在、海外大手企業のほとんどが日本国内
に販売拠点を構築している。そのため日本企業を活用するのは中堅や新規企業に限られて
いる(長澤,2013)。
輸入医薬品はある時期まで医薬品業の競争優位をもたらす源泉であった。さらに目先の
利益のみならず技術や知識をもたらし組織能力の向上にも貢献した。しかし、環境の変化
によりその戦略が選択出来なくなった。一方で、輸入医薬に傾倒すれば、市場が国内に限
定されることにつながり、輸出戦略を規定する側面があった。このように輸入医薬は、わ
が国の医薬品業の企業成長と大きく関係していたのである。
第 4 節 調査対象企業の NCE 承認動向:調査
承認動向:調査 3
戦略次元と関連する調査対象の NCE 承認件数および輸出比率等をまとめたものが表 5-4
である。表 5-4 では調査期間を 10 年単位で括り各年代の動向を示している。
第 4 章で行ったわが国全体の NCE の承認動向調査により、1990 年以降、輸入単独 NCE
が減少していることが明らかとなった。特に日本企業が輸入したそれに絞ると、特に大き
く減少していた。その傾向は調査対象企業にも当てはまるのかをまず見ておこう。表 5-4
の輸入単独 NCE の承認件数の平均値をみていくと、1970 年代が 3.1 件、
1980 年代が 2 件、
1990 年代が 0.69 件、2000 年代が 0.5 件となっている。この結果から、調査対象企業も輸
入単独 NCE が減少していると言える。また表 5-4 から読み取れるその他の特徴として、総
承認件数および国内単独 NCE の承認件数が減少している。それも全体傾向と一致している。
さて、戦略次元の一つとして輸入 NCE を採用することは記述した通りである。一方で、
戦略グループを特定する際、総承認件数占める国内単独 NCE の比率も重要な意味を持つ。
表 5-4 によれば、輸入 NCE の件数が平均以上であり、かつ総承認件数に占める国内単独
NCE の比率が高い企業が存在する(例えば 1970 年代の武田)137。このような企業は、輸
入を得意としながら自社開発でも結果を残してきたと解釈できる。
以上の事を踏まえ、本研究における戦略グループの選別基準を次のように設定する。ま
ず各年代において輸入 NCE の件数が平均を上回る企業を「輸入戦略グループ」
、平均に満
たない企業を「自社戦略グループ」とする138。ただし輸入戦略グループの中で、総承認件
Market-oriented,Sector-selective(市場指向型・分野別)協議のことである。詳しく第
6 章で紹介する。
136 ICH とは、
「International Conference on Harmonization of Technical Requirement for
Registration of Phamaceauticals for Human Use」である(土井,1999)
。
137 2000 年以降の武田やエーザイの NCE の承認件数はほとんどない。しかし、売上を伸ば
しているのは事実である。本稿では直接触れないが、1990 年代後半に導出した画期的新
薬が売り上げ増に貢献していた。
138 輸入 NCE の承認件数を軸とした輸入戦略グループと自社戦略グループという二分類で
あるため、国内 NCE を取得していない企業も自社戦略グループに分類される。よって必
135
94
数および国内単独 NCE が平均以上であれば輸入戦略グループの「バランス型」
、そうでな
ければ「特化型」とする。
次に売上高輸出比率にもとづく戦略グループの選別は次の基準で行う。表 5-4 によれば、
1990 年代まで同値平均はかなり低いことが読み取れる。よって、同年代まで輸出を得意と
する企業は少なかったと言え、輸出比率が平均を上回っていたとしても必ずしも輸出型と
は言えないと考える。そこで、2000 年代のみ平均を上回った企業を「輸出型」
、同年代にお
いて平均を下回った企業および 1990 年代以前を「国内型」に分類する。
表 5-4:各 NCE 件数及び財務データまとめ139
1970年代
1980年代
期間平均(単位:百万円)
売上
武田
塩野義
エーザイ
中外
大日本
山之内
藤沢
第一
三共
小野
あすか
持田
科研
最大
最小
平均
標準偏差
営業利益
246,594
79,671
49,863
36,269
27,452
46,969
69,895
40,392
83,215
14,352
7,345
15,430
10,459
246,594
7,345
55,993
62,722
輸出売上高
21,403
10,126
6,786
4,525
2,597
6,914
13,490
6,601
7,395
1,629
850
3,499
1,033
21,403
850
6,680
5,762
13,115
1,153
2,944
761
324
572
3,374
3,829
1,527
262
0
278
353
13,115
0
2,192
3,526
売上高営業
利益利率
8.68%
12.71%
13.61%
12.48%
9.46%
14.72%
19.30%
16.34%
8.89%
11.35%
11.58%
22.68%
9.87%
22.68%
8.68%
13.20%
4.19%
期間平均(単位:百万円)
売上高輸出
比率
5.32%
1.45%
5.90%
2.10%
1.18%
1.22%
4.83%
9.48%
1.84%
1.82%
0.00%
1.80%
3.37%
9.48%
0.00%
3.10%
2.61%
売上
武田
塩野義
エーザイ
中外
大日本
山之内
藤沢
第一
三共
小野
あすか
持田
科研
栄研
みらか
キッセイ
最大
最小
平均
標準偏差
営業利益
538,935
216,768
134,961
101,841
73,123
112,589
180,329
102,175
229,370
48,522
16,839
45,613
28,428
10,806
31,750
15,842
538,935
10,806
117,993
132,605
51,527
22,251
19,581
14,497
6,183
20,949
17,325
16,550
23,573
14,010
2,952
5,919
-357
1,031
3,552
3,451
51,527
-357
13,937
12,932
1990年代
武田
塩野義
エーザイ
中外
大日本
山之内
藤沢
第一
三共
小野
あすか
持田
科研
栄研
みらか
キッセイ
最大
最小
平均
標準偏差
764,171
342,610
250,100
153,383
134,287
380,848
230,678
211,921
413,625
100,436
23,662
61,764
64,825
21,672
28,396
46,394
764,171
21,672
201,798
198,366
営業利益
86,712
20,734
36,229
16,426
7,461
76,323
18,849
38,573
82,758
39,604
3,176
7,372
4,901
1,349
1,999
10,236
86,712
1,349
28,294
29,511
30,321
2,056
7,961
3,061
989
5,400
10,232
7,259
3,306
362
0
1,248
730
184
760
32
30,321
0
4,619
7,556
売上高営業
利益利率
9.56%
10.27%
14.51%
14.24%
8.46%
18.61%
9.61%
16.20%
10.28%
28.87%
17.53%
12.98%
-1.26%
13.06%
13.33%
13.57%
28.87%
-1.26%
13.11%
6.22%
売上高輸出
比率
5.63%
0.95%
5.90%
3.01%
1.35%
4.80%
5.67%
7.10%
1.44%
0.75%
0.00%
2.74%
2.57%
3.22%
3.04%
3.20%
7.10%
0.00%
3.21%
2.09%
2000年代
期間平均(単位:百万円)
売上
輸出売上高
輸出売上高
79,114
3,185
20,002
8,579
1,510
48,890
29,377
21,435
45,289
896
0
291
2,092
278
1,928
147
79,114
0
16,438
23,373
売上高営業
利益利率
11.35%
6.05%
14.49%
10.71%
5.56%
20.04%
8.17%
18.20%
20.01%
39.43%
13.42%
11.94%
7.56%
14.38%
14.61%
15.27%
39.43%
5.56%
14.45%
8.04%
期間平均(単位:百万円)
売上高輸出
比率
10.35%
0.93%
8.00%
5.59%
1.12%
12.84%
12.74%
10.11%
10.95%
0.89%
0.00%
0.47%
3.23%
5.94%
5.60%
5.96%
12.84%
0.00%
5.92%
4.52%
売上
武田
塩野義
エーザイ
中外
大日本
アステラス
第一三共
小野
あすか
持田
科研
栄研
みらか
キッセイ
最大
最小
平均
標準偏差
1,157,766
275,614
538,704
289,623
203,042
869,648
893,917
138,394
24,611
68,039
75,183
22,969
73,780
60,882
1,157,766
22,969
335,155
377,663
営業利益
333,729
26,430
72,504
50,714
22,399
183,108
145,317
53,096
1,458
9,335
8,077
1,476
8,551
6,230
333,729
1,458
65,887
95,015
輸出売上高
491,171
14,358
289,035
26,702
7,553
383,215
269,331
2,684
0
181
4,027
239
8,123
1,180
491,171
0
106,986
172,093
売上高営業
利益利率
28.83%
9.59%
13.46%
17.51%
11.03%
21.06%
16.26%
38.37%
5.92%
13.72%
10.74%
6.43%
11.59%
10.23%
38.37%
5.92%
15.34%
8.93%
売上高輸出
比率
42.42%
5.21%
53.65%
9.22%
3.72%
44.07%
30.13%
1.94%
0.00%
0.27%
5.36%
1.04%
11.01%
1.94%
53.65%
0.00%
15.00%
18.94%
出所:
『薬事ハンドブック』(1977~2011)および日経 NEEDS Financial QUEST 収
載データ、各社有価証券報告書(各年)をもとに筆者作成
ずしも自社戦略と呼べない企業も存在する。それが本研究における戦略グループ選別の
限界である。
139 大日本は 2005 年に住友製薬と合併している。資料収集の関係上、図 5-2 ではアステラ
ス等とは異なり、合併前の住友製薬の動向を明らかにしていない。しかし、各 NCE の動
向は入手可能であった。そのため合併後の NCE の動向のみ住友系の承認件数を含めた。
それは表 5-4 および図 5-2 に反映されている。内訳は、住友化学が 8 件、住友製薬が 3
件、大日本が 8 件、大日本住友が 2 件である。加えて、2000 年代の第一三共の NCE 承
認件数は、2002 年に第一製薬と共同設立したサントリーファーマの 4 件を含む。
95
以上の枠組みで戦略グループを分類すると、2000 年代のみ、自社戦略グループ(輸出型)
と輸入戦略グループ(バランス型:輸出型)
、自社戦略グループ(国内型)と輸入戦略グル
ープ(バランス型:国内型)、輸入戦略グループ(特化型:国内型)の 5 つ、それ以前は 3
戦略グループに分類される。
調査対象を各戦略グループに分類したものが表 5-5 である。同表では各年代の枠組みの下
部に各戦略グループに該当する企業の売上高平均を示している。また各企業のポジショニ
ング、同族経営者の出自、売上高を示したものが図 5-2 である。なお両図表における調査期
間の扱いは表 5-5 と同じである。加えて図 5-2 では、で調査した各社の社長の出自をもとに、
社長が同族であれば黒円(「●」
)、異なれば白円(
「○」)で図示している140。
ポジショニングについては戦略次元をもとに位置付けている。まず横軸は各年代の輸入
NCE の承認件数の合計である。一方縦軸は、各企業の総売上高に占める輸出売上高の比率
の期間平均である。さらに円を活用し総売上高期間平均を示す。円が大きいほど同値が高
いことを意味する。なお各マップ縦軸と横軸の点線は各期の平均値を示している。次に表
5-5 および図 5-2 をもとに各年代の特徴をまとめる。
表 5-5:主要企業の戦略変化
輸入戦略G
バランス型
特化型
エ ー ザ イ 、 山 之 内 、 中 外 、 武田
塩 野 義 、 三 共 、
藤沢、第一、大日本
国 持田、小野、あすか
1970
内
年代
約912億円
型
約284億円
約2,466億円
約601億円
武 田 、 エ ー ザ イ 、 中 外 、 第一
塩 野 義 、 三 共 、
小野、科研、栄研、キッセイ、
藤 沢 、 山 之 内 、
国
1980
大日本、持田
内 あすか、みらか
年代
型
約1,371億円
約1,031億円
約1,021億円
約1,430億円
武田、中外、持田、小野、 山 之 内 、 塩 野 義 、 三 共 、
科研、栄研、みらか
エ ー ザ イ 、第 一 、 大 日 本 、
国
1990
藤沢
あすか、キッセイ
内
年代
型
約2,260億円
約1,806億円
約2,872億円
約2,480億円
自社戦略G:約2,400億円
輸入戦略G:約5,064億円
第 一 三 共、
輸 武田、エーザイ
アステラス
出
2000 型
約8,482億円
約8,818億円
年代
塩野義、大日本
国 小野、科研、キッセイ、持田、 中外
内 みらか、栄研、あすか
自社戦略G
型
約663億円
約2,900億円
約2,393億円
出所:筆者作成
第 3 章の企業形態分類と異なり、ここでは社長のみで同族企業か否かを判断している。
その点に注意されたい。
140
96
図 5 - 2 : GE 主を除く医療用医薬品を主とする主要企業のポジショニングの変化 141
売上高輸出比率
売上高輸出比率
1970年代
年代
12%
1980年代
年代
総売上高(円)
10%
10%
総売上高(円)
8%
第一
8%
第一
6%
エーザイ
6%
エーザイ
藤沢
武田
武田
山之内
藤沢
4%
三共
2%
4%
中外
2%
山之内
塩野義
中外
科研
栄研
大日本
みらか
持田
三共
小野
0%
小野
大日本
持田
0%
あすか
キッセイ
-2%
塩野義
あすか
-2%
-4%
-6%
-4%
輸入NCE(件数)
-2
0
2
4
売上高輸出比率
6
8
10
1990年代
年代
12
-2
0
2
70%
13%
藤沢
6
8
10
12
総売上高(円)
エーザイ
50%
山之内
4
2000年代
年代
売上高輸出比率
総売上高(円)
15%
11%
輸入NCE(件数)
-4
アステラス
武田
三共
武田
第一
30%
9%
第一三共
エーザイ
7%
みらか
5%
中外
10%
みらか
科研
中外
大日本
キッセイ(●)
塩野義
3%
持田(●)
-10%
科研
栄研
あすか
小野(○) 栄研(○)
塩野義
1%
持田
大日本
キッセイ
-30%
小野
-1%
あすか
-3%
輸入NCE(件数)
-2
-1
0
1
2
3
4
5
-50%
6
輸入NCE(件数)
-2
-1
0
1
2
3
4
5
出所:筆者作成
141
各マップで円が重なりポジションが読み取りにくい個所がいくつかある。そのような個所には矢印により補足した。一方の円の
色を差別化する加工を行った。また 2000 年代のマップに限り、複数の円を点線で囲み該当企業の社長の出自を補足している。
97
第 5 節 医薬品業の戦略グループ調査の
医薬品業の戦略グループ調査の結果
第 1 項 1970 年代
自社戦略グループはエーザイ、山之内、中外、持田、小野、あすかの 6 社が該当し、全
て同族が社長に就いていた。同グループの平均売上高は約 284 億円であった。残り 6 社が
輸入 NCE の承認件数が多い企業である。その中で武田は国内単独 NCE 比率が高い。よっ
て武田は輸入戦略グループであるがバランス型に該当する。武田を除く塩野義、三共、藤
澤、第一、大日本の特化型の輸入戦略グループに該当する。同戦略グループの平均売上は
約 601 億であり、自社戦略グループの倍以上の値を示している。
第 2 項 1980 年代
1980 年代には前期で対象となっていなかった科研製薬、栄研化学、みらか、キッセイが
加わる。その変化を含意し前期との違いをみていこう。
まず移動が生じたのは山之内と持田(「自社戦略グループ→輸入戦略グループ」)の 2 社
である。その 2 社を含む輸入戦略グループ(特化型)6 社の売上平均は約 1,430 億円であっ
た。その中で藤澤、山之内、持田の 3 社が同族経営者であった。他にも武田が輸入戦略グ
ループ(バランス型)から自社戦略グループにシフトしている。その武田を含む自社戦略
グループは 9 社あり、売上平均は約 1,031 億円であった。その自社戦略グループの中で同
族が社長に就いていたのはエーザイ、中外、みらか、あすか、キッセイの 5 社であった。
第 3 項 1990 年代
1990 年代には自社戦略グループは 7 社あり、武田、中外、持田、栄研の 4 社で同族社長
に就いている。同戦略グループの売上平均は 1,806 億円であった。
一方、輸入戦略グループ(特化型)は 6 社あり、塩野義、キッセイ、あすかの 3 社で同族
が社長に就いていた。同戦略グループ(バランス型)は 3 社あり、同族経営者が就く企業
は存在しなかった。特化型の売上平均は約 2,480 億円、バランス型の売上平均は約 2,872
となっており、この時代においても自社戦略グループより売上が多い。
なおキッセイとあすかは自社戦略グループから輸入戦略グループに移動している。しか
し、総 NCE の承認件数を見ると、キッセイが 5 件、あすかが 2 件となっている。その中で
輸入 NCE の承認件数が 4 件と 2 件となっており、今期輸入に力を入れたと考えられる。し
かし、2000 年代の動向で明らかとなるがこの 2 社の輸入戦略は一時的なものであった。
第 4 項 2000 年代
2000 年代を見ていくと、これまでと比べ輸出比率が大きく伸びた企業が数社ある。武田、
エーザイ、第一三共、アステラスの 4 社がそれに該当する。それら企業群は売上高が大き
い。よって輸出比率を高めた企業は競争優位であるといえる。また輸出比率を高めた企業
に輸入戦略グループの特化型に該当する企業はなかった。またアステラスと第一三共は企
98
業合併という変化もさることながら、輸入承認件数が件数としては少なくなっている。そ
の輸出型の中でエーザイのみ同族が社長に就いている。
1990 年代まで企業数が多く、そして売上規模の優位性を維持していたのが輸入戦略グル
ープであった。2000 年代に入り、輸入戦略グループ(特化型)は塩野義と大日本の 2 社の
みとなった。しかも売上平均が自社戦略グループ全体をわずかであるが下回っている。さ
らに輸入戦略グループの中でも第一三共やアステラスが該当するバランス型は、売上平均
が特化型の 2 倍以上となっている。そのことから、独自開発の医薬品を導出し輸出に転換
できた企業は規模が大きくなったと言える。
他方、輸出比率の低い企業(国内型)は、売り上げ規模が小さく、同族が経営に関与す
る企業が多い。特に国内型の自社戦略グループの売上平均は約 663 億円となっており、自
社戦略を選好する企業でも輸出を伸ばした企業と比して約 10 分の 1 の売上規模となってい
る。そこでは 8 社中 4 社で同族が社長に就いていた。
第 6 節 本章の発見事実の整理
本章で行った戦略グループ研究の知見を活用した調査結果をまとめると次のようになる。
第一に、医薬品業において同族が関与する企業が多いと言われてきた。確かに本研究の
調査始点である 1970 年代(経営者の判別は 1980 年時)は、12 社中 8 社で同族が経営に関
与していた。終点の 2000 年代(同 2010 年時)にはそれが 16 社中 7 社となった。よって
企業数のみで判断するとそれほど同族企業が減っていないと解釈できる。しかし、輸出比
率で分類してみると、2000 年以降、輸出比率を高めた企業はエーザイを除き同族が経営に
関与しなくなった。つまり同族企業が多いと言われてきた医薬品業であったが「近年とい
う特定時期」に「輸出という特定戦略」を志向する企業群で同族関与が終焉する傾向が見
られる事が明らかとなった。このような発見は既存研究では見られない。
第二に、わが国で承認された NCE を整理すると、輸入単独 NCE の承認件数が最も多か
った。一方で、1990 年以降、日本企業が承認取得したそれが減少傾向にあることが明らか
となった。加えて図 5-2 で示したように、輸入戦略を志向する企業が競争優位を形成するグ
ループとなっていた。しかしそのグループは、全体傾向と同様、徐々に売上規模及びグル
ープ規模が小さくなっていた。
最後に、自社戦略グループは 2000 年以降 2 極化傾向にある。一つは、第一の発見で示し
た輸出を伸ばした企業であり同族が関与しない傾向がみられた。もう一つは、国内中心の
企業である。自社戦略の中でも国内市場中心の企業は同族が経営に関与する企業が多いこ
とが明らかとなった。つまり、同族企業が終焉する戦略グループが存在する一方で、同族
関与が続くグループも存在する事が明らかとなった。
99
第 6 章 医薬品産業の歴史的動向
前章の戦略グループ分析により、これまで同族企業が多いとされた医薬品業の中で、2000
年前後から特定の戦略グループでは同族関与が終焉する傾向が見られた。その戦略グルー
プはそれ以前には存在しない輸出型戦略グループであった。なぜわが国の医薬品業は 2000
年頃から集団的に戦略を転換したのだろうか。そしてなぜ、戦略転換と連関するかのよう
に同族関与が終焉する傾向が見られたのだろうか。
これまで述べてきた中でも推察できると思われるが、まず戦略を転換せざるを得なかっ
た理由は、大きな構造変化がわが国の医薬品産業で起こったからであると考える。そこで
本章では、その時の起こった構造変化の何が大きいのかを明らかにする為、上記の期間の
みならず過去の変化も見ていく。その目的は次の 3 つである。
第一に、わが国の医薬品産業では大きな構造変化がいくつか起きている。武田や塩野義
のように薬問屋として起業し、和漢薬主流時代から活動する先発企業は、その後の産業構
造の変化に対し戦略を変化させて対応してきた。それら企業は 1990 年代を切り取ると競争
優位な企業だと判断可能なほど成長した。そこで既存研究をもとにこれまでの構造変化を
まとめ、第 5 章で明らかにした各社の歴史を顧みながら、各構造変化期に先発企業がどの
よう対応したのか明らかにする。
第二に、上述と関連し第 5 章では、競争優位な戦略グループ戦略転換に伴い同族関与が
終焉するという統治構造の変化が明らかとなった。そこで本章では、1990 年ごろにわが国
の医薬品産業の構造は変化したのか否かを明らかにする。結論を先取りすれば、1990 年頃
からこれまでと異なる構造変化が起こったことが明らかとなる。
以上 2 つの目的を達成することにより、1990 年代以降に大きな構造変化が起こったとし
ても、それは初めてのことではないことが明らかとなる。さらに、第 2 章と第 5 章の結果
に基づけば、その一方で、近年の大きな構造変化に限り同族関与を維持するグループと終
焉するグループにわかれるという結果となる。そこで第三の目的は、近年の構造変化はこ
れまでの構造変化と異なっているのか、異なるとすれば何が異なるのかを明らかにする事
にある。それが明らかとなれば、戦略の異なるグループ間で同族関与の形態に違いが生じ
た理由、つまり戦略と統治の関係性を議論することが可能となる。
以上の目的を達成する為、本章は次のように進める。第 1 節では、わが国の医薬品産業
の構造変化を見ていく。第 2 節では、1990 年代の構造変化を明らかにする。特に医薬品の
流通を担う取引システムに着目し、それを形成する主要プレイヤーの活動とその変化を見
ていく。第 3 節では、戦略グループ調査では輸入医薬品が輸入戦略グループ形成の源泉で
あることが明らかとなったが、その輸入戦略グループの多くは抗生物質という特定の薬効
を他企業と比して多く生産し販売してきた。その実態を明らかにする。最終第 4 節では、
前章の発見事実と本章の発見事実を踏まえ議論の準備を行う。
100
第 1 節 わが国の医薬品産業の歴史
ここでは医薬品産業構造の変化をいくつか取り上げる。ここで取り上げる構造変化は、
医薬品業の戦略選択に大きな影響を与えたと考えるものである。日本薬史学会編(1995)
や桑嶋・小田切(2003)は、20 世紀中ごろまでの産業構造の変化をいくつか抽出している。
要約すると次の 5 つとなる。
第一に、明治時代に起こった和漢薬から洋薬への転換である。これはわが国の西洋医学
志向への転換と関係する。その影響を受けた調査対象は武田や塩野義等のごく少数の先発
企業である。当時、和漢薬を扱う業者は多数存在した。その中で本研究の調査対象のよう
に、いわば経済的に成功した企業はごくわずかである。それら企業は以降に説明する構造
変化に対し、戦略を変化させ、さらには組織構造を刷新し対応することで成長を実現した。
第二に、大正時代初期の製造着手である。和漢薬から洋薬輸入への戦略転換をはかった
武田や塩野義は、洋薬を輸入しそれを販売するという今日の卸的な機能に特化していた。
しかしながら、この頃から次第に自社製造をはじめた。武田の例では 4 代目の長男重太郎
(後に 5 代目長兵衛)は社長就任前、大阪で医薬品の研究開発に特化した内林製薬の内林
直吉を口説き同社を内部に取り込むという形で合併している。
第三に、自社で医薬品の製造に着手し始めた医薬品業であったが、優良な医薬品そのも
のや技術を輸入し自社で開発・製造し販売することも多かった。しかしながら、第二次大
戦の勃発により、わが国への輸出に積極的であったドイツやアメリカなどの輸入が途絶え
た。一方、第二次大戦後、輸入が再開され、国策として大量に原料・技術・製品が輸入さ
れた。わが国の医薬品業は、これを機に競うように海外医薬品やその技術を輸入した。こ
れまでと異なった点は、他業界の大企業が医薬品産業に参加し始めたことである。新規参
入者は、当時画期的新薬とされた抗生物質の製造に必要な発酵技術や設備を有していた。
第四に、1976 年の製造法特許から物質特許制度へ転換である。その制度変化により自社
開発が促進された。ただし医薬品の開発には時間がかかり、莫大な「カネ」を長期間投資
する必要がある。第 5 章で明らかにしたように、わが国の競争優位な医薬品業は、海外の
先進的な医薬品やその技術を輸入しわが国の基準で承認取得し販売するという輸入戦略を
選択した。それにより競争優位な企業がより競争優位となり次の変化にうまく対応できた。
最後に、国際的調和を推進するいくつかの国際会議とそれ以降の日本市場の規制緩和で
ある。このような制度変化によってわが国の医薬品市場はグローバル化に向かった。その
結果、外資系医薬品業は日本企業との合弁会社を解体したり、技術や製品の輸出を自粛し
たりし、わが国の医薬品業との関係を変えながら日本市場への独自進出を強化し始めた。
このような外資系医薬品業の戦略転換により、日本市場の競争状態が変わり競争が激しく
なった。反対に、これまで日本市場で競争を優位に進めてきた日本企業は、挑戦者企業と
いう立場となる事も有りえた。なぜなら独自進出を強化した外資系医薬品業の多くは、日
本企業より資本や組織能力や収益獲得に直結する自社製品群で勝っていたからである。
101
図 6-1:わが国の医薬品産業の構造変化
出所:日本薬史学会編(1995)
、桑嶋・小田切(2003)、および第 5 章をもとに筆者作成
図 6-1 は本章で明らかにする産業構造の変化の変遷と、第 5 章で明らかとなったわが国
の競争優位企業の戦略転換を図示したものである。あらかじめ断っておくが、本章以降、
「先
発企業」という表現を使用する。その意味は起業期が早い企業である。
おおよそ、先発企業はいくつかの産業構造の変化に対し競争優位性を維持し対応してき
た。しかし第 5 章で明らかとなったように、先発企業の一つの塩野義は、2000 年前後から
競争優位企業と呼べなくなる。これは構造変化にうまく対応できなかった結果だと考える。
加えて本章の発見事実の一つに基づく次章の議論を一つ予告しておく。1990 年頃に起こ
った構造変化は、外資系医薬品業の参入のきっかけを生み出し、反対にわが国の競争優位
企業が海外展開を強化するきっかけともなった。そのような構造変化は、先発企業がこれ
まで継続的に競争優位であった国内市場において、挑戦者企業に後退する危険性を孕む特
異なものであった。
第 1 項 和漢薬から洋薬への転換
第一の構造変化は、明治維新頃に起こった和漢薬から洋薬への移行である。その変化は
医薬品産業の歴史の中で大きな意味を持つ変節点であったことは間違いない。ただし、本
研究の調査対象の創業期を顧みた時、この時代の変化を経験した企業はごくわずかである。
例えば小野薬品工業、塩野義製薬、武田薬品工業が該当するが、調査対象の多くはまだ起
業されていなかった。
102
1858 年、江戸期以来の鎖国状態が解かれ、わが国には海外の商品や文化が多数入るよう
になった。その中にオランダやドイツの医薬品もあった。和漢薬から洋薬への転換のきっ
かけは、そのような制度変化にあり、それ以降、和漢薬から洋薬への移行が進んだ(日本
薬史学会編,1995)。調査対象の一例をあげれば、1871 年、薬種仲買商近江屋喜助商店か
らのれん分けを許された近江屋長兵衛は、薬問屋近江屋長兵衛商店を開業し、和漢薬を扱
う薬問屋を始めた。その後、西洋から輸入された医薬品の売買に商機を感じた 4 代目長兵
衛が洋薬を扱い始めた。他にも時期は前後するが、塩野義や小野も洋薬輸入に転じた。た
だし、リスクを取り洋薬販売(後に直接輸入)へと戦略転換する企業はまれであったが、
結果としてリスクをとった武田や塩野義はのちに競争優位企業となった。
当時和漢薬や生薬を扱っていた薬問屋の多くは、慣れ親しんだビジネスモデルの将来性
を疑う事がなかった。なぜなら、1874 年のわが国の医師の数は、ドイツ医学を中心とした
洋医の数が 5274 名、漢方医の数が 23,015 名であり(日本薬史学会編,1995)
、まだ漢方
医が多く、彼らが使用する和漢薬や生薬に多くの需要があったからである。
また当時は医薬品を製造したり、開発したりする現在のようなビジネスモデルではなく
あくまでも主流は現在の卸のような他社製造の医薬品を販売するという薬問屋であった。
そのような薬問屋から医薬品製造業へと戦略の転換が次第に起こるようになる。その変化
に対応した(対応できた)のは全ての薬問屋ではない142。
さらに三共のように、洋薬輸入後期からわが国の医薬品産業に参入した企業がある。第 5
章で明らかにしたように三共は、1899 年、塩原又策、西村庄太郎、福井源次郎の 3 名の共
同出資により設立された合資会社三共商店が始まりである。同店は、高峰譲吉が米国で開
発したタカヂアスターゼを輸入し、日本で販売することを目的として設立された。つまり
三共は輸入薬の問屋として事業を始めたのである。
その後三共は、アメリカのパーク・デービスやジョンソン・エンド・ジョンソン、ドイ
ツのベーリンガー、クノール、ヘキスト等の代理店となり洋薬を輸入し、武田等の薬問屋
に卸し収益を獲得した。その結果、武田等の薬問屋と比して後発企業でありながら当時の
環境にうまく対応し、後に競争を優位に展開するようになる。このように後発であったと
しても時代の流れにうまく乗り通常以上の発展を遂げた例もある。
第 2 項 製造着手
大正時代初期に進んだ製造着手が、わが国の医薬品産業の第二の変節点である。それま
での医薬品業は薬問屋の色合いが濃く、外資系医薬品業が開発した医薬品(特に洋薬)を
輸入し販売する企業が多かった。しかし、大正時代以降、医薬品の自社製造が始まった。
各企業が医薬品製造に取り組んだ大きな理由は、1914 年に始まったいわゆる第一次世界
142
道修町の有力薬問屋の事業継続について既存資料をもとに調査した安士(2015)によれ
ば、主要 59 家の内、1997 年まで存続していたのは 8 家であり、さらに製造や研究開発
を行う今日的な医薬品業まで発展したのは 4 家である事を明らかにしている。
103
大戦と大きく関係し、それにより敵国となったドイツの製品輸入が途絶えた。当時、輸入
医薬品が途絶えるということは、和漢薬から洋薬輸入への転換を積極的に進めた先発企業
のビジネスモデルが危機的状況となったことを意味した。そのような中、政府がいくつか
の施策を公布し医薬品業の製造活動を奨励した143。特に 1915 年に工業所有権戦時法が公布
されたことで敵国所有の特許権が消失した。同法公布は、海外医薬品の製造を日本国が公
に認めたことを意味する。優良な海外医薬品を自社で製造する知識、技術、設備、情報を
持つ企業は製造に着手し、それを積極的に進めた企業ほど後の競争を優位に展開していっ
た。
さて、薬問屋として起業した武田や塩野義、藤澤といった先発企業と異なり医薬品の検
査機関というユニークな始まりをもつ大日本製薬がある。第 5 章でみたように、大日本製
薬の前身は、1896 年に「不良品の横行を防ぎ、純良薬品を供給すること」
(大日本製薬 90
年のあゆみ編集委員会編,1987,108 頁)を目的に設立された大阪製薬である。同社はの
ちに自社製造に着手した。
また塩野義は「営業の塩野義」と呼ばれた強い営業部隊の基礎づくりをこの頃から始ま
った。具体的には第 5 章で明らかにした通りであるが、若年から住み込みで働き技術や知
識を習得するといった丁稚の風習を廃止し、営業担当者を通勤制へと変えた。加えて、新
たに甲種商業学校(現商業高校)卒業生を採用し、彼らを営業担当に配属し人員拡大をは
かった。
また藤澤は、当時力を入れていた樟脳を海外展開するため創業者自ら海外視察を行い、
1920 年にニューヨーク出張所を設置するとともに現地の販売員の雇用を始めた。さらに
1921 年に京城、1926 年に上海、1929 年に大連など東アジア地域に出張所を開設した。こ
のような海外展開、特にアジア地域以外の展開は他の医薬品業と比べると先進的であった。
他にも調査対象の動向を確認すると、この時代に起業した調査対象も多い。例えば第一
(現第一三共)
、持田、帝国臓器製薬(現あすか製薬)がそれに該当する。第一製薬はその
前身アーセミン商会から一切の権利義務を引き継ぎ発足した。アーセミン商会は、梅毒の
治療に効果があったサルバルサンの国産化に成功した満州鉄道中央試験所衛生科長の慶松
勝左衛門を中心とし設立された。よって薬問屋から始まった武田や塩野義、そして洋薬輸
入後期に起業された三共とも異なり、医薬品製造の成功をもって起業された企業と位置付
けられる。
第 3 項 技術導入
第三の変節点は、第二次大戦後の欧米企業から技術や製品の輸入再開である。同戦争は
1945 年に終結し、わが国は敗戦国となった。医薬品業は同戦争により多くの国内工場を失
当時公布された工業所有権戦時法以外の施策で代表的なものは次の 2 つである。
一つは、
輸出制限と関連する「戦時医薬品輸出取締令」(1914 年)、もう一つが医薬品製造への補
助金交付にかんする「染料医薬品製造奨励法」(1915 年)である。
143
104
い、そして海外拠点、特にアジア地域の拠点が戦勝国に没収された。たとえ以上のような
戦災を免れたとしても、生産を再開することが難しかった。なぜなら、医薬品の製造に必
要な原料が乏しく、さらに工場を稼働する資源入手すら難しかったからである。その状況
の中、保有する資源や調達可能な資源を経営者がどこに配分するかの選択が重要となり、
そしてそれは、その後のポジショニングに大きく影響した。
戦中、ストップしていた海外からの医薬品輸入が再開された。輸入再開をけん引したの
は GHQ であった。例えば、医薬品そのものやその製造の技術や知識の輸入を GHQ が主導
した。それはわが国の医薬品業の復興に大きく寄与した。具体的にみていくと、1951 年か
ら 1966 年までに技術導入された件数は 149 件あり、契約に基づく特許権実施料等の対価の
支払は 201 億円あった(日本薬史学会編,1995)。さらに生産額の推移を見ていくと、1945
年の医薬品生産額は 3 億 5,500 万円であったが、1950 年には 319 億円、1954 年には 784
億円にまで成長した(製薬企業懇談会編,1965)。その中で、技術水準の高い海外新薬を国
内で独占的に販売できた企業は、競争を優位に進めることができた(長谷川,1986)。「特
に、ペニシリンをはじめとする抗生物質の生産体制と技術は、製薬企業の構造を質的に変
化させ、技術革新による生産規模の拡大をもたらした」(長谷川,1986,71-72 頁)。抗生
物質はわが国の医薬品業の成長に大きく寄与した。
これについては第 4 節で詳しく論じる。
第二次大戦後、技術導入に力を入れたのは三共、武田、塩野義、藤澤などの先発企業で
あった。一方、戦中、戦後に起業された調査対象は、キッセイ、エーザイ、科研製薬、中
外製薬、山之内製薬があるが、活発化した技術や製品輸入の波に乗る事が難しかった。
第 4 項 自社開発への移行:特許法改正にともなう研究開発志向の高まり
1976 年、わが国の特許法が改正され、製造法特許から物質特許へシフトした。この法制
度の変化が第四の変節点である。製造法特許が認められていた時代は、「新薬を開発する
のではなく、ただ単に海外大手がすでに開発していた医薬品について、独自の製造方法を
開発することに力を入れていた」(Yongue,2008,168 頁)。桑嶋・小田切(2003)も、
外資系医薬品業が開発した医薬品を日本企業が製法を改良し、より低コストで製造するこ
とが可能であり、そうした改良は日本企業が得意とするものであったと指摘している。そ
のような特徴を有するわが国の医薬品産業は、イミテーション・インダストリーと呼ばれ
た(日本薬史学会編,1995)。
さらに Yongue(2008)は次のような特徴もあったと指摘している。それは、わが国の医
薬品承認の手順において、「プロトコール(治験手順)や文章による説明と同意(インフ
ォームド・コンセント)にかんする違反が多く、海外規制当局が定めた基準を満たさない。
そのため、日本で得られたデータの質は低いとされ、承諾を拒否されるケースが少なくな
かった」(Yongue,2008,169 頁)。このような手順に馴れたわが国の医薬品業の海外展
開は進まなかった。事実、第 5 章で明らかにしたように、2000 年以前のわが国の医薬品業
は、競争優位な企業であっても売上高輸出比率が低く推移していた。つまり、医薬品承認
105
に関するわが国固有の慣習というローカル基準は、海外医薬品業が日本市場で承認取得す
ることも難しくした。その一方で、わが国の医薬品業の海外展開の足かせともなっていた
と考える。これについては次節で詳述する。他にも、わが国の医薬品業は、国内流通を中
心とし、資金の効率的使用に重点をおき、売上金回収の早いものや単価の高い医薬品の販
売を選好してきた(長谷川,1986)。つまり新薬として承認され、われわれ患者(消費者)
が消費するまでのプロセスが他国と比して特殊であった。これについても次節で詳述する。
以上のことから、わが国医薬品業の開発体制や姿勢、そして他国と異なる商慣行は、製
造法特許のもとで形成され強化された。その仕組みをつくりかえる。そのような考えのも
と法制度改革が検討された。物質特許導入により、わが国の医薬品業は海外の医薬品業と
同じ土壌で競争する必要が生じ、模倣を超えた新たな医薬品の開発を余儀なくされた。
既存研究をまとめると以上のようになるが、第 5 章で明らかとなったように自社開発の
萌芽期を経た後、1990 年代までは医薬品の輸入や技術輸入に積極的な企業ほど企業規模の
拡大を実現できた。第 5 章ではこれに合致する企業群を輸入戦略グループとした。これら
企業は輸入医薬品から多くの収益を得る事が出来たからこそ、莫大かつ長期間の投資を必
要とする自社開発を可能とした。さらに医薬品を輸入する過程で外資系医薬品業から開発
や製造、設備などの先進的な知識・技術・情報を獲得する事が出来た。第四の変節点以降
は、先発の競争優位な企業がより競争優位な企業として規模を拡大できた期間であった。
第 5 項 市場のグローバル化
第五の変節点は、1980 年代後半から段階的に進んだ規制緩和に伴う市場のグローバル化
である。第 5 章で明らかにした先発企業の 1990 年代以降の輸出増は国際化であり、ここで
いうグローバル化とは異なる。さらに外資系医薬品業が独自進出を強化した日本市場の状
況は市場の国際化でありグル―バル化とは異なる。ではグローバル化とは何であろうか。
宮脇(2001)によればグローバル化とは、いかに国家の枠組みと国家間の壁を取り払い、
資金、人、技術などの資源が自由に移動できる制度を形成するかの問題であるのに対し、
国際化は国の枠組みを前提として国家間のあり方を検討する問題であるとする。
ここで説明する 1980 年後半に起こった産業構造の変化は前者のグローバル化であり、そ
の変化を受け、国に枠組みを超えて日本企業が海外展開を進めたという戦略の転換は国際
化、そして外資系医薬品業が市場参入した競争状況は市場の国際化であると考える。この
ように区別したうえでわが国の医薬品産業で起こったグローバル化についてみていく。
資本の自由化(1967 年に 50%、1975 年に 100%)以降、特に MOSS 協議(1985 年から)
や ICH(1991 年から)といった国際会議が開かれ、そこで提案された国際基準を日本側が
受け入れたことでわが国の医薬品産業の規制緩和が進んだ。その結果、外資系医薬品業の
対日戦略が段階的に進んだ144。反対に日本企業が海外進出する契機ともなった。MOSS 協
144
具体的には、資本の自由化以前、外資系医薬品業が日本市場進出のため独立した会社を
設立することは困難であった(原,2007)。そのため、日本市場の閉鎖性が問題視され
106
議では日本市場参入を制限する障壁の撤廃が要求された(西川,2010)145。結果、医薬品
産業では次のような規制が緩和され新たな枠組みが示された。
まず日本が GCP146や GMP147といった国際基準を受け入れ、他国と同じ枠組みで安全性
や有効性を担保することが求められた。次に新薬承認の際に各国の規制当局に提出するデ
ータの規制が大幅に緩和された(日本薬史学会編,1995)。記述した通り、それまでのわ
が国の承認プロセスは海外市場のそれと異なっていた。その為、海外市場との相互承認が
難しかった。
他にも、医薬品の流通過程における過度の接待(価格交渉や物品供与など種々のサービ
ス行為)が禁止され、これまでの販売慣行が是正され始めた(日本薬史学会編,1995)。
これにかんしては海外医薬品業から強い批判があった。具体的には第 2 節で述べる。
最後に、年 1 回であった薬価基準収載が年 4 回となった。この制度変化により新薬承認
の機会が広がった。
続いて ICH 以降の制度変化をみていこう。ICH とは、日本、米国、欧州の 3 極それぞれ
が定めた新薬承認申請のガイドラインをすり合わせ、各種試験データをそれぞれの医薬品
当局が受け入れ、より良い医薬品をより速く世界中の患者に届けることを共通の目標とし
た国際会議である(土井,1999;薬事時報社編,1999)。ICH が始まったのは 1989 年で
ある。きっかけは、地域内の医薬品規制の調和に苦心していた欧州が日本と米国という外
圧を利用し、国際的な調和を推進力として欧州地域内の規制の統一を目指し、欧州が日本
と米国に協議を提案したことから始まった(土井,1999)。
1989 年以降、ICH が何度か開催された。その中で決定された 2 つの事項を本稿では着目
する148。一つは、「海外臨床データを受け入れる際に考慮すべき民族的要因についての指
針」(いわゆる「E5」)であり、もう一つは、「医薬品の臨床試験の実施の基準に関する
省令」(いわゆる「E6」)149である。
以前は、薬務局長通達(1985 年 6 月 26 日薬発第 660 号)により、薬物動態試験150なら
た。そこで日本市場の閉鎖性や流通・取引の商慣習などが討議されるようになった(日
本薬史学会編,1995)。
145 MOSS 協議の交渉過程は同著に詳しい。
146 「Good Clinical Practice の略。医薬品の臨床試験を実施に関する基準」
(日本医薬品卸
連合会広報部編,1995,101 頁)。
147 「Good Manufacturing Practice の略。医薬品の製造管理及び品質管理に関する基準」
(日本医薬品卸連合会広報部編,1995,97 頁)
。
148 その他の決定事項は「独立行政法人医薬品医療機器総合機構」のホームページ(http://
www.pmda.go.jp/ich/ich_index.html 2014 年 2 月 18 日閲覧)で確認することができる。
149 新 GCP とも呼ばれるこの「E6」により MOSS 協議の GCP 基準が無効となった(Y
ongue,1999)。
150 「被験物質が作用を及ぼす目標の部位(標的部位)にどのような状態で、どのような時
間、どのような濃度で存在するかを知る試験で、初めてヒトを対象とした試験の前に行
う」(安生ほか,2006,106 頁)。これが薬物動態試験である。
107
びに第Ⅲ相試験151には国内のデータが必要とされていた。しかし ICH 以降、外資系医薬品
業が海外で行った臨床試験のデータを厚生省(当時)の承認審査資料として活用できるよ
うになった。それは莫大な研究開発費と長い年月必要とする医薬品開発において研究開発
から承認までの開発期間の短縮化につながり、期間短縮はコスト削減に結び付いた
特に第Ⅲ相試験における海外データ受け入れが認められたことで、外資系医薬品業にと
っては研究開発のコスト削減および時間短縮の効果があった(Yongue,2008)。桑嶋・小
田切(2003)によれば、日本市場における外資系医薬品業のシェアは、1990 年が 16.9%で
あったが、2000 年には 25.6%と全体の 4 分の 1 を占めるに至った。このことからわが国の
医薬品業を脅かす競合他社として存在感を強めたことが伺える。このように制度のグロー
バル化が外資系医薬品業の独自進出の強化につながった。このことはわが国の医薬品市場
が国際化したことを意味する。
これまでわが国の医薬品産業で起きた構造変化を見てきた。その中でも近年のグローバ
ル化はこれまでの変化と比して特異なものであったと考える。そのことを鮮明にする為、
次節ではわが国の医薬品取引システムを形成する主要な行為主体の活動の変容を見ていく。
これによりグローバル化と位置付けた近年の構造変化期に取引システムを形成する各行為
主体の活動が大きく変化したことが明らかとなる。そしてそれはグローバル化に伴う合理
化の進展と解釈される。
第 2 節 医薬品の取引システムの変容
前節では、わが国の医薬品産業で起こった構造変化を明らかにした。その中で注目すべ
きことは、第 5 章で明らかとなった医薬品業の輸出戦略への転換と関連する産業構造のグ
ローバル化である。それにより何が変わったのかを見ていくために、ここでは特に医薬品
の取引システムの変化に着目し、そのシステムを形成する主要な行為主体の活動変化を具
体的に見ていく。
わが国の医薬品の取引システムは、国民皆保険制度のものとで整備され、医薬品業、医
薬品卸(以下、卸)
、医療機関や薬剤師といった代理消費者、それら三者の機能分離と協働
により総じて安定かつ秩序立てて遂行されてきた(三村,2011)。そのような取引システム
は欧米と比較し独特であった(桑嶋・大東,2008;三村,2013)。そこで本節では、独特と
される医薬品の取引システムを形成する医薬品業以外の主要プレイヤー、つまり卸、医療
機関(医師も含む)
、そして薬価等の制度の変容、さらにわが国の医薬品業にとって競合他
社と位置付けられる外資系医薬品業の活動内容の変容を明らかにする。
わが国の医薬品の取引システムの独自性は、
「17 世紀に成立した問屋制と商取引ネットワ
ークなどの歴史的・商風土的基盤と取引システム全体としての環境変化適応力の強さ」(三
村,2013,120 頁)により維持され、有力医薬品業と卸との間には多分に「日本的」な互
151
第Ⅲ相試験とは、「それまでに確認された試験薬剤の有効性・安全性を検証するための
試験である」(山崎・堀江,2008,12 頁)。
108
恵関係が築かれた(三村,2013)。この固有の取引システムが外資系医薬品業の参入障壁と
なってきた。欧米のように、メーカー直販システム(中間業者排除)のほうが理論的に合
理性を有する(三村,2013)。それにもかかわらずわが国では、不合理なシステムが形成さ
れ維持されてきた。
第 1 項 卸業
今日、わが国の医薬品の卸と言えば、スズケン、アルフレッサ、東邦薬品、メディパル
ホールディングスの四大卸152が存在感を強めている。これら卸は合併を繰り返し規模の拡
大を実現した。それぞれの起源をさかのぼると、小売の薬局であったり、製造と卸の兼業
であったりと様々である。そしてそのような卸は、薬問屋を起源とする武田や塩野義、藤
澤といった今日の先発医薬品業より起業時期が遅いという特徴もあった。薬問屋を起源と
する先発医薬品業は、第二次大戦後の産業発展期に生産の増大に成功し資本を蓄積するこ
とに成功した(小原,1994)。その医薬品業の機能特化と連関するように今日の中心的な卸
は同時期以降に卸の役割に特化していった。
さて、わが国の医薬品の取引システムは国民皆保険制度の浸透にともない形成され始め
た。同制度は国民に医療機関の受診を促した。周知の通り医療機関では患者の容態に即し
て医薬品を処方したり治療に使用したりする。医療機関の受診が増加すればおのずと医療
用医薬品の使用量が多くなる。その結果、医療用医薬品市場が急速に拡大した。それとと
もに医薬品の取引システムが形づくられていった。
その過程において当初は、販売経路の整備がうまく進まず、さらに中小規模の卸の脆弱
さ、そして量販店などの新興勢力の乱売が影響し、医薬品業は製品の販売に苦しんだ。そ
の対応策として卸との取引関係を強化し、卸の系列化を進めていった(三村,2003)。
日本で卸の系列化が進んだのは 1960 年代の高度成長期である(三村,2003)。系列化は、
大量生産体制を確立し大量販売を可能とした医薬品業が、価格競争を極力排除し市場占有
率を維持することにより収益を安定化させる為に作り上げたシステムである(野田,1980)
。
特に中小の卸業は、激化する競争が負担となり、1965 年頃から提携や合併が目立つように
なった。1968 年から 1972 年の 5 年間で、126 件の合併が発生した(三村,
2003)。三村
(2003)
はこれを「医薬品卸の第一次編成」と呼んでいる。
系列化や合併の過程で医薬品業と卸の関係は「支配・従属の関係」
(小原,1994)を強め
た。そのような関係性の中で競争秩序を保つ「利益共同体」となった(糸田,1977)
。卸が
経営不振に陥った際、医薬品業が卸を救済するという事が度々あった。例えば池尾(2003)
は、「系列化は医薬品業主導で進んだが、販売競争の激化により、経営が逼迫した卸が、自
社が扱う商品の占有率の高いメーカーに救済を求めた結果、系列に加わるという例もあっ
た」(池尾,2003,90 頁)
、と指摘している。
1960 年代以降に進んだ卸の系列化は、1980 年前半まで安定的に維持された
(三村,
2013)。
152
日経流通新聞(2006 年 6 月 5 日 6 頁) 。
109
その要因を三村(2013)は、ブランド力があり収益性の高い医薬品の存在、系列化による
卸間の品揃えの差異、担当営業圏の設定(ブランド内競争の抑制)をあげている。これに
より、系列化や卸同士の合併により緩やかな協働状況が形成され、医薬品業と卸の両者が
利益を確保できるシステムが形成されたと指摘している。
ただし全ての医薬品業が系列卸を持ったわけではない。三村(2003)によれば、当時、
医薬品業として競争力が高かった武田、塩野義、三共(現第一三共)、田辺(現田辺三菱)
の 4 社が医療用医薬品と一般用医薬品の流通を完全に分離するとともに系列化を確立した
153。続けて彼女は、第一次編成は、有力メーカーの地域営業体制の整備と傘下卸の経営強
化を意図し進められ、一部例外を除き有力メーカーの意向が反映され、メーカーの資本参
加や役員派遣なども行われたと指摘する。一方で卸は、医師の多様な処方に応えるため、
多様な医薬品を揃えることを求められたが、医薬品業一社で多様な医薬品を作ることはで
きなかった。結果として特定の医薬品業に偏る傾向が見られたとしても、医薬品業が完全
に卸を抱え込むことは困難であったと指摘している。
さて、これまで説明してきた系列化は、1982 年以降一貫して続いた薬価引き下げにより
崩れ始めた。これは医療費全体の圧縮を狙う政策的意図(三村,2013)154、特に薬価差益
に対する社会的批判の高まりに応える意図があった(三村,2003)
。薬価引下げが繰り返さ
れた結果、卸は医療機関との価格交渉が厳しくなり業績が悪化し始めた。その変化は、後
述する医療機関側が専門的な交渉者を配置した事とも関係する。
他にも卸の経営が不安定となった要因はある。卸大手のスズケンや東邦薬品は早くから
系列を超えた取引や地方市場への進出を積極化させるなどの対応策を打ち出し、薬価引下
げによる収益力の低下を自助努力によりカバーしようと試みた。このような一部の卸の戦
略転換は、メーカーのコントロールの弱体化を意味した。特にスズケンは、地方各地に自
社営業拠点を配置し直接進出をはかった。それに対し地方卸は不安感を募らせていった。
なぜならそのような行為は、これまでの慣行を無視するものだったからである。そのよう
なスズケンの取り組みがトリガーとなり、1990 年代後半には大手卸が積極的に提携・合併
を繰り返し、仕入れ先である医薬品業と販売先である医療機関に対する交渉力強化を目指
した。結果、系列の枠組みは残ったものの、卸に対する特定医薬品業のシェアが低下し、
第 5 章で取り上げたが、本研究の調査対象の多くは、戦後、卸や小売店を組織化してい
る。例えば武田は、1954 年頃からわが国の主要地域で「ウロコ会」として特約店の組織
化が始まり、後にその組織は「タケダ会」となった。当時、同組織に特約店 149 社、小
売店 2 万 7184 社が加入していた(武田二百年史編纂委員会編,1983)
。各社の社史に明
示されているわけではないが、その性格はここで述べている医療用医薬品の卸の系列化
というよりは、パナソニック(旧松下電器産業)等の電気機器メーカーが進めた小売店
のチェーン組織に近い。医薬品の小売店の多くは、今日的には衰退しつつある「町の薬
屋」のチェーン店化であると推測される。よって本研究では既存研究が示す通り「一部
の有力医薬品業のみ卸の系列化を行った」、という立場をとる。
154 R 幅の縮小と調整幅 2%への移行は、価格交渉の糊代をなくすという意味でメーカーと
医療機関に挟まれた卸の立場を厳しいものにさせた(三村,2013)
。
153
110
医薬品業が卸をコントロールする、という構図は影を潜めた。このようにして卸は「支配
と従属の関係」
(小原,1994)から解き放たれた。しかしながら卸にとって意図せざる関係
崩壊であったと推察される。なぜなら、解放されるということはこれまでの利益共同体と
いう関係が崩れることを意味したからである。
医療用医薬品の価格は薬価制度によって定められている。これまでメーカーの価格体系
の中で定められたいわゆる「建値制」にもとづき卸は各医療機関に販売してきた(池尾,
2003,87 頁)。そこでは、医療機関への納入価格には市場原理が働き、少しでも安く仕入
れようとする医療機関に対し卸は、仮納入155、現品添付販売、値引き補償制156、リベート
などで訴求力を高めた。池尾(2003)によれば、
「それが機能した時代は直接的な価格競争
は少なかった」
(池尾,2003,87-88 頁)
、と指摘している。
このような特異な取引は特定卸による特別な行為ではなく、わが国の医薬品取引システ
ムに組み込まれた固有の慣行であった。具体的には、卸は医薬品業のコントロールのもと
でこの商慣行に沿って営業活動を行えば利益が保証された。結果、零細・小規模卸も利益
を享受することができ生存につながった(嶋口,2003)
。
ただし記述した通り、薬価引き下げが卸の行為変化を促した。さらにその制度変化は、
後述する医療機関・医師の行為変化、そして医薬品業の戦略変化も促した。結果、医薬品
業の高仕切価格への対応と医療機関のバイイングパワー行使とのはざまで、卸業者は収益
性を圧迫されるような状況におかれた(青井,1995)。嶋口(2003)はその変化を、医薬品
業の意向を反映した「売るべきモノ」を売り切る「業種型」から、買い手(医療機関)の
ニーズに合わせて、その購買代理業となる「業態型」への変容と表現し、それに伴い医薬
品業は二律背反する経営活動が進展し、90 年代後半には業態型が一般化したと述べている。
上述以外にも卸は、医薬分業の進展に伴いチェーン化した調剤薬局とシビアな交渉に迫
られるようになった。チェーン化した調剤薬局は、1994 年以降、卸の機能と重複する部分
もあり近似する存在となった。その一方で、卸の有力販売先でもある調剤薬局の交渉力は
医療機関と同程度の力をもつ主体となった。今日、卸と調剤薬局の対立は表面化していな
いだけで限られた流通マージンをめぐる対立は内在している(三村,2013)。
最後に卸の現状を、日経流通新聞の記事にもとづき紹介しておこう「四大卸の一角角を
占め、売上高 1 兆 4160 億円(2006 年 3 月期、連結ベース)のアルフレッサホールディン
グスでさえ、卸価格は仕入れ価格より約 2%低い。
『かつては得意先の病院に逆らうなんて
無理だった』。大手幹部は振り返る。2000 年 4 月にクラヤ薬品と三星堂が合併するまで、
地域ごとに中小規模の卸が乱立していた。得意先を失えばその地域でのシェアが大きく縮
み、それがリベートの額にも響いた。メーカーと取引先の間に挟まれ、身動きが取れない
155
仮納入・仮払いとは、仮納入とは価格交渉が妥結しないまま商品を納入する事である。
井上(1994)によれば、医療機関に対する交渉をメーカーのプロパー(現 MR)が担っ
ていた時代は、医療機関に対する値引きはメーカーが決め、その範囲内で交渉がまとま
れば、メーカーは仕切価格を下回った価格で納入し、その差額を卸に値引き補償として
支払う慣行があった。それが値引き補償制と呼ばれている。
156
111
状態だったという。だが業界地図は大きく塗り替わった。売上高2兆円をうかがうメディ
セオ・パルタックホールディングスを筆頭に、スズケン、アルフレッサ、東邦薬品の誕四
大卸が誕生。1992 年度には全国に 331 社あった医薬品卸の数は、2004 年度には 142 社に
まで減少しており、寡占化が急速に進んでいる。
一方で『医薬分業』の流れを受けて、主要取引先は大病院から中小の調剤薬局に変わっ
た。納品先との交渉力の逆転を材料とし、取引慣行の正常化を公然と口にするようになっ
た。もちろん取引先にとっては、もろ手をあげて歓迎する事態ではない。大手調剤薬局は
「昔なら複数の卸をてんびんにかけて安く仕入れることができたが、今はかなり厳しくな
っている」と渋い表情だ。医薬品卸の強気の姿勢は、中小が多い調剤薬局の集約を促すき
っかけとなる可能性も秘めている」
(日経流通新聞,2006 年 6 月 5 日,6 頁)。以上の記事
から卸の現状が垣間見える。
第 2 項 医療機関
20 世紀は医療供給システムに対し強い規律が与えられた時代であり、その時代を猪飼
(2010)は「病院の世紀」と呼び157、同時代の医療供給システムの理論を「病院の世紀の
理論」と定義する。
猪飼(2010)によれば、20 世紀の 100 年間、その理論は変容しておらず、さらに、
「少
なくとも 1980 年代ごろまで日本社会が、病院の世紀的価値観に支配されていた」(猪飼,
2010,268 頁)
。その一方で、「20 世紀を終えた今日、病院の世紀はもはや過去のものにな
りつつある」(猪飼,2010,7 頁)と指摘し、
「病院の世紀の理論」とは、20 世紀医療を総
括する観点から既述される理論であるとする。
繰り返しとなるが、医師により医薬品の使用が積極的となったのは国民皆保険制度(1961
年~)以降である。製薬企業懇談会(1965)によれば、1961 年には医療保険対象人口に対
する医療保険加入人口は 99.9%に達し、医療保険給付率は 50%以上に達した。それに従え
ば、保険加入者の 2 人に1人が保険対象の処置を受けたことになる。
そのようなわれわれ国民の需要に応えたのは開業医であった。開業医は「安上がりな病
院」として、公立病院がほとんど入り込むことのできなかった農村地域にまで展開してい
った(猪飼,2010)
。さらに老人医療無料化が医療機関の受診率を高めた158。一方で、平成
12 年の厚生白書159によれば、「必要以上に受診が増え、病院の待合室がサロン化した」「高
「病院の世紀」とした理由について猪飼(2010)は、19 世紀までのそれと区別するため、
そして 20 世紀以降の今日、医療にかんして一つの時代が終焉に向かいつつある、という
認識から、20 世紀から今日までの医療供給システムにかんする理論を「病院の世紀」と
する、と述べている。
158 1969 年に東京で先行的に実施、1972 年に全国化された(猪飼,2010)
。厚生労働省ホ
ームページ内の『患者調査』
(http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/10-20.html 2015 年 12
月 22 日閲覧)
によれば、
1970 年代中ごろから 65 歳以上の外来受療率が急激に高まった。
159 厚生労働省ホームページ内厚生白書参照(http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho
/hakusho/kousei/2000/ 2015 年 12 月 23 日閲覧)
。
157
112
齢者の薬漬け、点滴漬けの医療を助長した」と指摘されており、開業医が高齢者による病
院利用促進の受け皿となる(猪飼,2010)160、という利点もあったが、別の角度からそれ
を見ると、老人を囲い込む開業医が医薬品を大量に使用し、医薬品業の発展に寄与してき
たという面もあると考える。またそのような開業医の事業継承にかんして森・松浦(2007)
は、長男に病院経営を継承することを望んでおり、実際、長男が承継することが多いとす
る調査結果を示している。
さて、既述した通り、医薬品取引に関する制度変化、特に一連の薬価引き下げにより、
取引システムの中の卸の性格が大きく変わった。それに伴い医療機関による医薬品の購
買・消費行動も大きく変化した。前述と重複する部分もあるが、次の 3 点が大きな変化で
あった。
第一に、薬価制度により医薬品の価格が低下し、薬価差が大きく縮小した。その結果、
患者の治癒に貢献する道具であることに変わりはないが、経済的な位置付けとして、医薬
品そのものは収益を生む道具から単なるコストの地位に落ちた。また 2003 年より特定機能
病院等に採用され、後に広範の医療機関が対象となった DPC(包括医療費支払い制度)161
も医薬品がコストとみなされる要因となったと考える。
第二に、第一の変化と関連し、医療機関内の価格交渉者が医師や薬剤師から事務方の専
門家に変わった(三村,2013)
。具体的には、医薬品の価格交渉は売り手が医薬品業から卸
に移行し、買い手は医療機関に勤務する医師や薬剤師から事務方の専門家に移行した。特
に大きな医療機関ではコンサルタントが配置され、シビアな交渉に変わったと指摘されて
いる。
第三に、医薬品の取引システムと関連した最も重要な制度変更162は医薬分業の推進であ
る(三村,2011)、と言われている。1990 年代から積極的に進められた医薬分業は、チェ
ーン化された調剤薬局という新たな流通プレイヤーを生み出したと指摘されている。前述
の通り、今日ではそのような調剤薬局チェーンが強い交渉力を持つようになった。
医薬品をわれわれ患者(消費者)に処方したり、治療として使用したりするのは医師で
ある。医師は患者の命を預かる身であり、既述したプロセスを無視してでも患者に有益な
医薬品を提供することもあり得る。一方で、医薬品は商品としての側面もあり、医師にと
160
欧米諸国において、病院に必要とされていたのは、高齢者を受け入れることではなく、
「一般病床の治療化」を進めることであった(猪飼,2010)。高齢者の受け入れは、大規
模のナーシングホームなど医療システムの外側に設置された機関である(猪飼,2010)。
この点が日本と異なる。一方、開業医中心の当時の医療システムを「所有原理型医療シ
ステム」と猪飼(2010)は捉えている。
161 DPC(Diagnosis Procedure Combinations)とは、
「基本的には診療内容の違いによら
ず包括した定額の医療費を支払うもので、出来高払いと反対に、医療行為を抑制するイ
ンセンティブが働くとされており、医療費抑制策の一つとして導入が急がれた」(梅里,
2003,731 頁)
。その医療費抑制の中にはもちろん、医療に不可欠な医薬品費の抑制も含
まれている。
162 その他三村(2011)では、後発薬の普及と新薬の薬価加算をあげている。
113
っては利益を得る道具ともなりえる。既述した通り、医療機関、特に開業医が収益拡大を
企図し医薬品の大量消費を支えてきた。既存研究の中には、医師や医療機関がどのような
理由で医薬品を選択するのか、という問題について取組んだ研究もある。
医療機関は医薬品を購入し消費する(代理的)消費者である事から、医薬品業は医療機
関と無関係に事業を進めることは出来ない(竹内,2010)。さらに医療機関に所属する医師
は医薬品の普及過程におけるキーパーソンの一人であり、彼らはプロモーター的な役割も
担っていと指摘されている。加えて、医学界に充実したネットワークを持つ医師ほど新薬
を採用する傾向がある(Coleman, Katz. and Menzel,1966)、という指摘もある。さらに
筒井(2011)は、わが国においては同じ医局で学んだ同窓医師のコミュニティが存在する
ことをインタビュー調査によって見出し、その集団内では情報共有の基盤が確立され、構
成員の医薬品の選択に強い影響を及ぼすことを明らかにした。その理由を筒井(2011)は、
出身医局の違いにより、治療の方法や医薬品への考え方が異なる。医師は自身と同じ考え
の同窓を中心に情報を得る傾向があり、医薬品採用においては同質的な行動をとりやすい
からだと指摘する。
猪飼(2010)によれば、医局とは、第一に、大学病院診療科組織と大学臨床系講座(教
室)との統合体を中核とした医局講座制が含意される。第二に、医局を構成する医局員の
相当部分が、大学外の市中病院に公式の身分(常勤)を有している。このような特徴であ
るが故に組織の境界に公式制度上の根拠を持たない163。第三に、大学医局と関連する市中
病院164に勤務する医局員は、実質的に医局の人事統制下にある。このような特徴を指摘し
ている。つまり医師のコミュニティ―内には医局講座制に代表されるようなヒエラルキー
が存在する。その頂点にいる医師、もしくは権威のある医師が医薬品の選択に影響を及ぼ
す側面があったと筒井(2011)や竹内(2010)は指摘する。
他にも、医薬品業の MR の情報収集活動を調査した筒井(2011)は、MR は販売促進に
係る情報を多様な情報源から入手しているが、中でも大学病院を担当する MR と担当しな
い MR とでは重視する情報源が異なることを明らかにした。すなわち、大学病院を担当す
る MR は、医師がもたらす情報を最も重視し、また同僚 MR 間で最も頻繁にやり取りされ
る情報は、
「担当する医師が所属する医師コミュニティの医師に関する情報」
(筒井,2011,
140 頁)
、であったと指摘する。彼女の研究から、大学病院や医師会、そして医師が所属す
る学会などにアクセスし情報を獲得することが医薬品を販売する為に重要であるという事
が示唆される。ただし彼女が扱ったのは眼科領域の実態であり、全ての薬効や医師のコミ
ュニティに存在するかについては調査する必要がある。
。
以上のように医局を代表例とした医師コミュニティが医師の医薬品選択に影響を及ぼす
側面があったと考えられる。ただし近年においては、医師による医薬品の選択に恣意的要
猪飼(2010,275 頁)の図 8-2 を参照されたい。
猪飼(2010)は、市中の主要な病院のほとんどは、どこかの医局の関連病院であると述
べている。
163
164
114
素が入り込むことが少なくなったと言われている。その事実関係がどうか、そしてこれま
でと比較して影響力がどのように弱まったのか調査する必要がある。しかしながら本研究
が着目する取引システムの変化は 1990 年代以降であり、2000 年代においても実質的に医
局講座制は残っていたと指摘がある事から、これまで説明した状況が存続されて状態を前
提とし議論を進める。
第 3 項 外資系医薬品業:国内市場の国際化
外資系医薬品業:国内市場の国際化
外資系医薬品業が活動する市場はわが国のみではなく、世界中の市場を対象としている。
本来、外資系医薬品業について述べるのであれば日本市場以外の活動も記述する必要があ
る。しかし、外資系医薬品業の海外における活動を精査することは本論の域をはるかに超
える。ここでは外資系医薬品業の国内市場進出に焦点を絞りみていく。
主な外資系医薬品業の国内企業進出は、1950 年の外資法の成立以降、1960 年代までの
20 年間に集中している(原,2007)。表 6-1 は 1960 年代までに進出した企業の一例を示し
たものである。多くの外資系医薬品業は合弁会社という資本形態を選択し、自社で開発し
製造した医薬品の販売を目指した。しかし、販売にかんしては日本企業に任せるというの
が通例であった(原,2007)。外資系医薬品業が販売を強化し始めたのは 1970 年代以降で
あったが、既述したわが国固有の商慣習に悩まされ大きな成果を得ることが出来なかった。
例えば、サンド薬品のラクローズ社長(当時)は、
「メカニズム自体はさほど難しくない。
だが、問屋(卸)との緊密な関係が築きにくい」
(日経産業新聞,1989 年 10 月 19 日,15
頁)、と述べている。さらにサンド薬品の林詔一専務(当時)は、「どの製品をどれだけ値
引きしたらいいとか、病院ごとにどれだけ値引き率をかえたらいいか、同じ地域をカバー
する二つの問屋があったらどちらを使うべきかなど、販売上の細かいノウハウは全くわか
っていない」(日経産業新聞,同上)、と述べている。彼らの発言にもとづけば、わが国固
有の商慣習が自由競争を阻む要因であり、それを理解し、各プレイヤーに取入り、実践的
な知識を獲得し蓄積していくほかない、という当事者認識があったと理解できる。
外資系医薬品業の日本市場進出の目的は、自国市場において獲得不可能な資源(例えば
原料や研究者)を獲得することではなく、保険制度が完備され成長著しい市場自体に魅力
があったからである(原,2007)
。その為、自社製品を販売し収益を得ることが最大の目的
であり、1970 年半ば以降になって高まった(原,2007)
。
多くの研究者(例えば、原,2007;桑嶋・大東,2008;三村,2003;2011;2013,吉
岡・松本,2014)が指摘するように、日本の医薬品市場には卸を介した複雑な取引システ
ムが存在した。その為、外資系医薬品業が独自に日本市場で影響力を高めることは容易で
なかった。日本市場に進出した多くの外資系医薬品業は、日本企業と提携したり、合弁会
社を設立したりした。そこでは、開発・生産は自社で、営業活動は日本企業に委託、その
ように役割が分担された。
115
表 6-1:1960 年代までの日本進出外資
1964年までに設立された
外資系合弁会社の一部
設立年
外国側企業
外資比率
チバ製薬
1952年
チバ
100%
日獨薬品
1952年
シェーリング
100%
ユーラシアインベストメント
日本レダリー
1953年
アメリカン・サイアナミッド
50%以下
日本メルク萬有
1954年
メルク
50%以下
台糖ファイザー
1955年
チャールス・ファイザー
50%以下
日本ヘキスト
1956年
ファルブウエルケ・ヘキスト
日本ワイス
1957年
エセックス日本
1959年
50%以下
アメリカンホーム・プロダクト 100%
シェーリング
100%
日本ルセル
1959年
ルセルユクラフ
50%超
日本アップジョン
1959年
アップジョン
50%超
パーク・デービス
1960年
パークデービス
100%
サンド薬品
1960年
サンド
100%
日本C・Hベーリンガー
1961年
C・Hベーリンガー
100%
バイエル薬品
1962年
バイエル
100%
日本ブリストル
1964年
ブリストル・ラブラトリーズ
100%
日本アボット
1964年
アボット・ラボラトリーズ
50%以下
出所:週刊ダイヤモンド(1967 年 10 月 9 日号)
しかし、1990 年代に入り外資系医薬品業は独自に日本人 MR を揃えるなどこれまでと異
なる戦術を展開した。それは対日戦略を強化につながった。こうして巨大な資本を有する
新たなプレイヤーが医薬品取引システムに組み込まれ始めたのである。
外資系医薬品業が対日戦略を強化した理由は、国際戦略の重要拠点として日本子会社の
コントロール強化を目指し 100%子会社化に取り組んだからである(原,2007)
。その背景
には 1990 年代に活発化した M&A(合併・買収)があり、急速な規模拡大によるコスト増
の負担策の一つとして市場拡大の必要に迫られたという事情がある。
以上のような外資系医薬品業の戦略転換と連関するかのように、日本の医薬品市場の国
際化が進展した。それは外資系薬品業や海外政府による日本市場の慣行是正を促すいくつ
かの協議によりもたらされた。それを本研究では外圧によってもたらされたグローバル化
と解釈する。そしてそのようなグローバル化は、日本の先発企業も切望していた(西川,
2010)、と言われている。青木(1988)も以上の変化について同様の見解を示している。具
体的には、
「ひとつは、日本企業にとっての競争上の『外圧』としての側面。もうひとつは、
この『外圧』を利用した日本企業の国内での規制緩和要求の高まり」
(青木,1988,29 頁)
であったと指摘する。
第 4 項 制度変化:グローバル市場への誘導
これまで法制度の変化については適宜述べてきた。中でも、わが国の医薬品取引システ
ムの変容を促したのは、薬価制度の引き下げや取引慣行の是正通達である。そのような制
度変化を促す施策はどのような文脈で形成されたのだろうか。ここでそれを見ていく。そ
の内容は、大きくは次の 3 つでまとめられる。
116
第一に、研究・開発段階から販売に至るまで、関連する様々な法規制や通達が存在する
が、1989 年に始まった日米構造協議は、日本市場の参入障壁のひとつとして取引システム
を正面から取り上げたことで、流通のあり方にインパクトを与えた(医薬品流通研究会,
2003)。特に指摘されたのは医薬品販売の商慣習であり、それが市場閉鎖性の主因であると
された(日本シェーリング株式会社,2003)。それを受け、厚生省薬務局長の諮問機関であ
る医薬品流通近代化協議会(以下、流近会)では「医薬品の流通近代化と薬価」と題する
報告を行い、改善すべき 6 項目165が取り上げられた(シェーリング株式会社,2003,274
頁)
。また、1991 年に公正取引委員会が「流通・取引慣行に関する独占禁止法上の指針」の
原案を公表し、同年 7 月に正式のもとすることを決定した(桑嶋・大東,2008)
。同案では
「医薬品業が納入価格に関与することは独占禁止法違反である」とした点が、最も注目さ
れるところである(日本シェーリング株式会社,2003)
。
第二に、すでに記述した 1985 年の MOSS 協議や 1989 年以降、複数回開催された日米構
造協議や ICH といった海外の業界団体との交渉と、その結果として起こった制度変化であ
る。 MOSS 協議は、アメリカ産業に対する日本市場の開放が焦点となり、そこでは日本の
取引システムの特殊さと複雑さが大きくクローズアップされた。このような問題意識は
1989 年以降に複数回開かれた日米構造協議にも引き継がれ、その後の ICH において、政府
機関指導のもと取引システムの改善・改革が進んだ(吉岡・松本,2014)
。
ただし 13 に及ぶ合意項目166のうち 7 項目は、MOSS 協議前からわが国の医薬品業の業
界団体である日本製薬団体連合会が改善を求め厚生省に陳情を続けた内容であった(西川,
2010)。その指摘を踏まえれば、全てでないかもしれないが、わが国の医薬品業も日本市場
や法制度の国際化を望んでいた、という事となる。その一方で、過度な価格競争回避の傾
向は業界全体に共有されており、医薬品業の業界団体が薬価基準の改定に伴う対応策を医
薬品卸業連合会と懇談した行為が独占禁止法違反に問われた事もある(三村,2013)。
第三に、国内の主要団体合同のいくつかの協議があげられる。前述の 1990 年の流通近代
化協議会や 2004 年から始まった「医療用医薬品の流通改善にかんする懇談会」
(以下,流
懇会)がそれに該当する(三村,2011)
。三村(2011)によれば、この 2 つの医薬品流通に
関連する主要団体および有識者会議の目的は、医薬品の流通問題を取り上げるという点で
共通しており、さらに焦点が総価取引と未妥結仮納入にある点も共通していた。
一方で、流近会は「値引き補償制度に象徴されるように、メーカーの販売代理者(売買
165
卸業の体質強化、価格形成の透明化、モデル契約の普及、公正競争の促進、MR 活動の
適正化、医薬分業の進展、以上 6 つである。
166 西川(2010)によれば、1986 年 1 月までに合意された内容として、外国臨床データの
受け入れ、新規承認に対する標準的事務処理期間の設定、体外診断薬の承認手続きの簡
素化、製造承認の移動(承続)
、キッド製品の承認および診療報酬上の価格、変更手続き
の簡素化、輸入手続きの簡素化、薬事監視証明手続き、医療保険の診療報酬体系、承認
審査過程の透明性確保の確保、血液製剤およびその他の生物学的製剤、製品の安全性試
験および無菌試験、以上 12 項目が 246 頁に表 29-1 としてまとめられている。他の一つ
は年 4 回の 薬価収載である。
117
関係にあるが)としての卸と医療機関との取引問題であり、医薬品メーカーも主役であっ
た」
(三村,2011,154 頁)。それに対して流懇会の主役は「卸と医療機関・薬局」であり、
チェーン薬局が台頭してきたことは時代の流れに応じた変化であった(三村,2011)
。
1993 年、医療用医薬品製造業公正取引協議会がまとめた公正販売活動指針では、医薬品
業が卸と医療機関の価格交渉に介入しないことを決めるとともに、MR を本業の医薬情報の
提供に専念させるよう各企業に通達した。それ以降、医師に対する接待を全廃した結果、
企業のコストが削減された。一例を示すと、
「塩野義では販売管理費が約 30 億円、田辺製
薬は同約 10 億円削減された 」(1993 年 11 月 9 日,読売新聞朝刊,6 頁)
。前述の通り三
村(2011)は、卸再編成により流通系列化の枠組みを脱し大規模な卸が生まれ、卸の立場
が相対的に大きくなった。その結果、医薬品業が主役の座から降りたと指摘している。
以上のことは、卸の自立性が高まり「もの言う卸」となったことを意味する。そのよう
な卸の行為変化は第 1 項の最後で紹介した通りである。以上の卸の変化は、外圧による合
理化の進展と解釈可能である。
最後に、段階的な施行であったため時期の特定は難しいが、薬価制度の改定は企業の戦
略選択に大きな影響を与えた。そればかりでなく、医薬品業と卸、そして医薬品を処方し
消費してきた病院や医師、薬剤師、それらの主体間で形成されていた慣行の是正につなが
り、関係性に変化が生じた。変化内容についてはこれまで見てきた通りであるが、薬価制
度の変更について若干取り上げておこう。
既存薬の薬価改定方式は、薬価基準制度が制定された 1948 年から 91 年までは「90%バ
ルクライン方式」と呼ばれる方式がとられていたが、1992 年以降は「加重平均方式一定格
幅方式」が採用されている。この方式では、2 年に 1 度行われる薬価調査で明らかにされた
市場における全取引数量の実勢価格(加重平均価格)に、その医薬品の現行薬価の一定割
合(調整幅)を加えた数値が新薬価となる。
「一定割合(調整幅)
」とは、一般に R ゾーン
(リーズナブルゾーン)
と呼ばれ、それは 1992 年度 15%、
1994 年度 13%、1996 年度 11%、
1997 年度 10%と段階的に縮小され、1998 年には 5%に縮小された。さらに 2000 年には、
従来の R 方式から、流通安定のために必要な最低限の幅として、市場取引の実勢価格に 2%
を加えるという「市場実勢価格加重平均調整幅方式」に変更された(日本製薬工業協会,
2001)。
桑嶋・小田切(2003)によれば、薬価基準制度の変更は企業の研究開発に対して次の 3
つの影響があったと指摘する。一つ目は、薬価引き下げにより収益が減少し、研究開発へ
の投資が減少した可能性がある。二つ目は、
「特許切れによってジェネリックの上市が可能
となると市場価格が低下し、ひいては薬価が引き下げられるから、ジェネリックとの競争
をさけるため、企業は新薬開発のインセンティブをより強く持った可能性がある」(桑嶋・
小田切,2003,383 頁)。最後に、これまでの薬価制度のもとでは、新薬の画期性を十分に
反映した薬価となっていると言えず、研究開発費が大きくリスクも高い画期的新薬よりも、
開発が容易な改良型新薬への研究開発を促進するバイアスをもたらし、これが欧米の大手
118
医薬品メーカーとの差につながったとの意見が多いと指摘する。これについては 2012 年に
「新薬創出・適応外薬解消促進加算167」が導入され、画期的新薬は薬価面で加算された事
により、各企業の新薬開発の動機付けとして作用した。このような変化が起こったと指摘
されている。
既述してきた通り、わが国の医薬品の取引システムの独自性は、
「17 世紀に成立した問屋
制と商取引ネットワークなどの歴史的・風土的基盤と取引システム全体としての環境変化
適応力の強さ」
(三村,2013,120 頁)により維持され、有力医薬品業と卸との間には多分
に「日本的」な互恵関係が築かれた(三村,2013)
。この固有の取引システムが外資系医薬
品業の参入障壁となり、日本企業は日本の同業他社のみ参照するだけでよかった。そのよ
うな戦略の選択は、外資系医薬品業の参入を制限する制度と慣行があったから可能となっ
た。その制度や慣行とは、相互乗り入れが難しい医薬品の承認に関するルールであり、不
透明な取引を規制できない当時の法制度であり、不合理でありながらもそれぞれの主体が
利益を享受することができた取引システムである。
加えて、第 5 章で明らかとなったように、既存研究が自社開発の始まりと設定した時期
以降も、自社開発の傍ら、外資系医薬品業より新規的な医薬品やその技術を輸入し、わが
国の制度に沿い承認取得し販売することで収益を得る企業が存在した。しかも輸入医薬を
多く扱った企業ほど成長し競争を優位に展開できた。
一方で、医薬品の取引システムは財政逼迫を理由とした薬価引き下げや M&A を繰り返
し巨大化した外資系医薬品業の本格参入により大きく変容した。具体的には見てきた通り
であるが、薬価引下げはわが国の財政逼迫という状況の下で決定された制度変化であり、
外資系医薬品業の参入は共通基準の浸透を企図した外圧がもたらした制度変化によるもの
であった。前者は市場規模拡大の遅滞を招き、後者は市場内競争の激化を生んだ。結果、
わが国の医薬品市場で活動してきた日本の医薬品業はこれまでと大きく異なる競争に身を
置かざるを得なくなった。それに伴い海外市場に企業成長の機会を求める企業が増えた。
そして海外市場では日本企業より競争力の高い企業が多く、画期的な新薬を導出しなけれ
ば競争を優位に進める事が出来なくなった。
第 3 節 医薬品業の戦略変化:生産・販売された医薬品の特徴を通じて
本章の最後にわが国の医薬品の生産・販売動向をまとめたものを示しておく。この動向
を示す理由は、これまで明らかにしてきた医薬品の取引システムの変化と連関するかのよ
うに、医薬品の生産および消費の動向が大きく変化したことを示すことで、わが国の医薬
品業の戦略変化を別の角度から見る事になると考えるからである。
2013 年の中央社会保険医療協議会資料(薬-1-1)によれば、① 新薬として薬価収載さ
れた既収載品であって、当該既収載品に係る後発医薬品が薬価収載されていないもの(薬
価収載の日から 15 年を経過した後の最初の薬価改定を経ていないものに限る。)② 当
該既収載品の市場実勢価格の薬価に対する乖離率が、全収載品の加重平均乖離率を超え
ないものを満たす新薬を対象として加算されるようになった。
167
119
表 6-2 は株式会社ミクス(1997)をもとに、1971 年から 1995 年に日本市場でよく売れ
た医薬品をまとめたものである。株式会社ミクス(1997)のランキングには商品名と企業
名の記載のみであった。表 6-2 では、商品別に薬効分類168、承認年、承認形態の分類(表
6-1 内の種別)169を追記した。
表 6-2:わが国の医薬品市場における売上高上位 10 品目(1971
品目(1971 年から 1995 年)
商品名
薬効分類
企業名
承認年 類別
商品名 薬効分類
1971
1 アリナミン
2 タチオン
3 ペルサンチン
4 ポンタール
5 クロロマイセチン
6 リンコシン
7 ビクシリン
8 ビタメジン
9 ケフリン
10 プリンペラン
ビタミン
感覚器官
循環器
中枢神経
抗生物質
抗生物質
抗生物質
ビタミン
抗生物質
消化器
武田
山ノ内
日本ベーリンガー
三共
三共
住友
明治製菓
三共
塩野義
藤沢
1 セファメジン
2 ケフリン
3 ケフレックス
4 フトラフール
5 ラリキンシン
6 シンクル
7 ダーゼン
8 センセファリン
9 タチオン
10 リンコシン
抗生物質 藤沢
抗生物質 塩野義
抗生物質 塩野義
腫瘍用 大鵬薬品
抗生物質 富山化学
抗生物質 旭化成
その他代謝 武田
抗生物質 武田
感覚器官 山ノ内
抗生物質 住友
1 ケフレックス
2 クレスチン
3 セファメジン
4 パンスポリン
5 セフメタゾン
6 ピシバニール
7 ケフリン
8 リラシリン
9 フトラフール
10 セポール
抗生物質
腫瘍用
抗生物質
抗生物質
抗生物質
腫瘍用
抗生物質
抗生物質
腫瘍用
抗生物質
塩野義
呉羽化学、三共
藤沢
武田
三共
中外
塩野義
武田
大鵬薬品
鳥居
1 クレスチン
2 ケフラール
3 ペルジピン
4 シオマリン
5 ピシバニール
6 パンスポリン
7 パナルジン
8 タリビッド
9 アダラート
10 タガメット
腫瘍用
抗生物質
循環器
抗生物質
腫瘍用
抗生物質
血液・体液
化学療法
循環器
消化器
呉羽化学、三共
塩野義
山ノ内
塩野義
中外
武田
第一
第一
バイエル薬品
藤沢
1 メバロチン
2 アダラート
3 ユーエフティ
4 イオパミロン
5 ガスター
6 オムニパーク
7 アバン
8 ペルジピン
9 パナルジン
10 ケフラール
循環器
循環器
腫瘍用
診断用
消化器
診断用
中枢神経
循環器
血液・体液
抗生物質
三共
バイエル薬品
大鵬
日本シェーリング
山ノ内
第一
武田
山ノ内
第一
塩野義
企業名
承認年 類別
商品名 薬効分類
1972
不明
不明
不明
1966
不明
1965
不明
1965
不明
1966
不明
不明
海外
海外
海外
海外
不明
国内
海外
海外
ペルサンチン 循環器
ケフリン 抗生物質
ビクシリン 抗生物質
リンコシン 抗生物質
タチオン 感覚器官
セファメジン 抗生物質
ポンタール 中枢神経
アリナミン ビタミン
ビタメジン ビタミン
セポラン 抗生物質
1976
日本ベーリンガー
塩野義
明治製菓
住友
山ノ内
藤沢
三共
武田
三共
鳥居
不明 海外 セファメジン 抗生物質 藤沢
不明 海外 ケフリン 抗生物質 塩野義
不明 不明 リンコシン 抗生物質 住友
1965 海外 ペルサンチン 循環器 日本ベーリンガー
不明 不明 ペントレックス 抗生物質 萬有製薬
1971 国内単独 ポンタール 中枢神経 三共
1966 海外 ケフレックス 抗生物質 塩野義
不明 不明 ビクシリン 抗生物質 明治製菓
1965 国内 アリナミン ビタミン 武田
不明 不明 タチオン 感覚器官 山ノ内
1977
1971 国内単独 セファメジン 抗生物質 藤沢
不明 海外 ケフリン 抗生物質 塩野義
1978 海外 ケフレックス 抗生物質 塩野義
1973 輸入共同 フトラフール 腫瘍用 大鵬薬品
1972 海外 ラリキンシン 抗生物質 富山化学
1972 海外 シンクル 抗生物質 旭化成
1968 国内単独 ダーゼン その他代謝 武田
不明 不明 リンコシン 抗生物質 住友
不明 不明 ノイキノン 循環器 エーザイ
1965 海外 センセファリン 抗生物質 武田
1981
海外
国内
国内単独
国内共同
国内単独
国内単独
海外
国内単独
輸入共同
輸入共同
クレスチン 腫瘍用
ケフレックス 抗生物質
セファメジン 抗生物質
パンスポリン 抗生物質
ノイキノン 循環器
セフメタゾン 抗生物質
フトラフール 腫瘍用
ピシバニール 腫瘍用
シオマリン 抗生物質
マーズレンS 消化器
呉羽化学、三共
塩野義
藤沢
武田
エーザイ
三共
大鵬薬品
中外
塩野義
寿、ゼリア新薬
1978
1981
1981
1981
1975
1980
1981
1985
1975
1981
国内
海外
国内共同
国内
国内単独
国内共同
輸入単独
国内単独
輸入単独
輸入共同
ケフラール
クレスチン
ペルジピン
シオマリン
アバン
アダラート
パンスポリン
タリビッド
パナルジン
タガメット
抗生物質
腫瘍用
循環器
抗生物質
中枢神経
循環器
抗生物質
化学療法
血液・体液
消化器
塩野義
呉羽化学、三共
山ノ内
塩野義
武田
バイエル薬品
武田
第一
第一
藤沢
1989
1975
1983
1985
1985
1987
1986
1981
1981
1981
国内単独
輸入単独
国内単独
輸入単独
国内単独
輸入共同
国内単独
国内共同
輸入単独
海外
メバロチン 循環器
アダラート 循環器
ユーエフティ 腫瘍用
スミフェロン 生物学的
ガスター 消化器
イオパミロン 診断用
オムニパーク 診断用
パナルジン 血液・体液
アバン
中枢神経
セルベックス 消化器
三共
バイエル薬品
大鵬
住友製薬
山ノ内
日本シェーリング
第一
第一
武田
エーザイ
1986
国内単独 セファメジン
海外 ケフレックス
海外 ケフリン
輸入共同 フトラフール
海外 クレスチン
海外 ノイキノン
国内単独 シンクル
海外 ラリキンシン
国内単独 ダーゼン
不明 リラシリン
抗生物質 藤沢
抗生物質 塩野義
抗生物質 塩野義
腫瘍用 大鵬薬品
腫瘍用 呉羽化学、三共
循環器 エーザイ
抗生物質 旭化成
抗生物質 富山化学
その他代謝 武田
抗生物質 武田
1978
1978
1971
1980
1973
1979
1973
1975
1981
1967
国内 クレスチン 腫瘍用
海外 ケフレックス 抗生物質
国内単独 フトラフール 腫瘍用
国内共同 シオマリン 抗生物質
国内単独 パンスポリン 抗生物質
国内単独 セフメタゾン 抗生物質
輸入共同 タガメット 消化器
国内単独 ケフラール 抗生物質
国内 セファメジン 抗生物質
国内 ピシバニール 腫瘍用
呉羽化学、三共
塩野義
大鵬薬品
塩野義
武田
三共
藤沢
塩野義
藤沢
中外
商品名
薬効分類
1981
1978
1981
1981
1986
1975
1980
1985
1981
1981
海外 ケフラール 抗生物質
国内 クレスチン 腫瘍用
国内共同 アダラート 循環器
国内 アバン
中枢神経
国内単独 ペルジピン 循環器
輸入単独 ガスター 消化器
国内共同 ヘルベッサー 循環器
国内単独 タリビッド 化学療法
輸入単独 パナルジン 血液・体液
輸入共同 ザジテン 呼吸器
塩野義
呉羽化学、三共
バイエル薬品
武田
山ノ内
山ノ内
田辺
第一
第一
三共
1971 国内単独 セファメジン
不明 海外 ケフリン
1965 海外 ケフレックス
不明 海外 ペルサンチン
不明 不明 リンコシン
1966 海外 タチオン
1978 海外 ビクシリン
不明 不明 ペントレックス
不明 不明 フトラフール
不明 不明 アリナミン
抗生物質
抗生物質
抗生物質
循環器
抗生物質
感覚器官
抗生物質
抗生物質
腫瘍用
ビタミン
1971
1978
不明
1973
1976
1973
1972
1972
1968
1972
国内単独 セファメジン
海外 ケフレックス
海外 ケフリン
輸入共同 フトラフール
国内 クレスチン
国内単独 ノイキノン
海外 ダーゼン
海外 ラリキンシン
国内単独 リラシリン
国内単独 シンクル
抗生物質 藤沢
抗生物質 塩野義
抗生物質 塩野義
腫瘍用 大鵬薬品
腫瘍用 呉羽化学、三共
循環器 エーザイ
その他代謝 武田
抗生物質 富山化学
抗生物質 武田
抗生物質 旭化成
1989
1975
1983
1987
1985
1985
1987
1981
1986
1984
国内単独 メバロチン 循環器
輸入単独 ユーエフティ 腫瘍用
国内単独 ガスター 消化器
国内単独 アダラート 循環器
国内単独 イオパミロン 診断用
輸入単独 スミフェロン 生物学的
輸入共同 オムニパーク 診断用
輸入単独 セルベックス 消化器
国内単独 イントロンA 生物学
国内単独 ヘルベッサー 循環器
三共
大鵬
山ノ内
バイエル薬品
日本シェーリング
住友製薬
第一
エーザイ
山ノ内
田辺
承認年 類別
商品名
薬効分類
藤沢
塩野義
塩野義
日本ベーリンガー
住友
山ノ内
明治製菓
萬有製薬
大鵬薬品
武田
1978
1978
1973
1981
1980
1979
1981
1981
1971
1975
国内 クレスチン
腫瘍用
海外 ケフラール
抗生物質
輸入共同 ピシバニール 腫瘍用
国内 シオマリン
抗生物質
国内共同 タガメット
消化器
国内単独 パンスポリン 抗生物質
輸入共同 フトラフール
腫瘍用
海外 セフメタゾン
抗生物質
国内単独 アルブミンアルファ 血液・体液
国内単独 ノイキノン
循環器
1981
1978
1975
1986
1981
1985
1973
1985
1981
1982
海外 アダラート
国内 ケフラール
輸入単独 ペルジピン
国内単独 アバン
国内共同 ガスター
国内単独 タリビッド
国内単独 ヘルベッサー
国内単独 パナルジン
輸入単独 クレスチン
輸入共同 ザジテン
循環器
抗生物質
循環器
中枢神経
消化器
化学療法
循環器
血液・体液
腫瘍用
呼吸器
1989
1983
1985
1975
1985
1987
1987
1984
2001
1973
国内単独 メバロチン
国内単独 ユーエフティ
国内単独 ガスター
輸入単独 アダラート
輸入単独 イオパミロン
国内単独 セルベックス
輸入共同 オムニパーク
国内単独 パナルジン
輸入単独*リポバス
国内単独 エポジン
循環器 三共
腫瘍用 大鵬
消化器 山ノ内
循環器 バイエル薬品
診断用 日本シェーリング
消化器 エーザイ
診断用 第一
血液・体液 第一
循環器 萬有
その他代謝 中外
1971 国内単独 ケフリン
抗生物質 塩野義
不明 海外 セファメジン 抗生物質 藤沢
1978 海外 ケフレックス 抗生物質 塩野義
不明 海外 フトラフール 腫瘍用 大鵬薬品
1965 海外 ラリキンシン 抗生物質 富山化学
不明 不明 リンコシン 抗生物質 住友
不明 不明 ペルサンチン 循環器 日本ベーリンガー
不明 不明 タチオン
感覚器官 山ノ内
1973 輸入共同 ブルフェン 中枢神経 科研製薬
不明 不明 ダーゼン その他代謝 武田
国内単独 セファメジン 抗生物質 藤沢
海外 ケフレックス 抗生物質 塩野義
海外 クレスチン 腫瘍用 呉羽化学、三共
輸入共同 フトラフール 腫瘍用 大鵬薬品
国内 ケフリン
抗生物質 塩野義
国内単独 ノイキノン 循環器 エーザイ
国内単独 ダーゼン その他代謝 武田
海外 ヴェノグロブリン 血液・体液 ミドリ十字
国内単独 ピシバニール 腫瘍用 中外
海外 リラシリン 抗生物質 武田
1978
1981
1975
1981
1981
1980
1973
1979
不明
1973
国内 クレスチン
海外 ケフラール
国内単独 シオマリン
国内 パンスポリン
輸入共同 マーズレンS
国内共同 セフメタゾン
輸入共同 メチコバール
国内単独 タガメット
不明 ピシバニール
国内単独 ペルジピン
腫瘍用
抗生物質
抗生物質
抗生物質
消化器
抗生物質
ビタミン
消化器
腫瘍用
循環器
呉羽化学、三共
塩野義
塩野義
武田
寿、ゼリア新薬
三共
エーザイ
藤沢
中外
山ノ内
1993
不明
1971
1978
1973
1972
1965
不明
不明
1971
1968
海外
国内単独
海外
輸入共同
海外
海外
海外
不明
輸入単独
国内単独
1971
1978
1976
1973
不明
1973
1968
1980
1975
1972
国内単独
海外
国内
輸入共同
海外
国内単独
国内単独
国内単独
国内単独
国内単独
1976
1981
1981
1980
1967
1979
1972
1981
1975
1981
国内
海外
国内
国内共同
国内
国内単独
国内共同
輸入共同
国内単独
国内共同
1975
1981
1981
1986
1985
1985
1973
1981
1978
1982
輸入単独 アダラート
海外 メバロチン
国内共同 ガスター
国内単独 ペルジピン
国内単独 タリビッド
国内単独 アバン
国内単独 ヘルベッサー
輸入単独 ケフラール
国内 パナルジン
輸入共同 オムニパーク
循環器
循環器
消化器
循環器
化学療法
中枢神経
循環器
抗生物質
血液・体液
診断用
バイエル薬品
三共
山ノ内
山ノ内
第一
武田
田辺
塩野義
第一
第一
1975
1989
1985
1981
1985
1986
1973
1981
1981
1987
輸入単独
国内単独
国内単独
国内共同
国内単独
国内単独
国内単独
海外
輸入単独
輸入共同
1989
1983
1985
1975
1985
1984
1987
1981
1991
1990
国内単独 メバロチン
国内単独 ガスター
国内単独 ユーエフティ
輸入単独 リポバス
輸入単独 セルベックス
国内単独 アダラート
輸入共同 イオパミロン
輸入単独 エポジン
輸入単独 オムニパーク
国内単独 クラビット
循環器 三共
消化器 山ノ内
腫瘍用 大鵬
循環器 萬有
消化器 エーザイ
循環器 バイエル薬品
診断用 日本シェーリング
その他代謝 中外
診断用 第一
化学療法 第一
1989
1985
1983
1991
1984
1975
1985
1990
1987
1993
国内単独
国内単独
国内単独
輸入単独
国内単独
輸入単独
輸入単独
国内単独
輸入共同
国内単独
1985
1989
バイエル薬品
塩野義
山ノ内
武田
山ノ内
第一
田辺
第一
呉羽化学、三共
三共
承認年 類別
1980
1971
1978
不明
1973
1976
1973
1968
1972
1972
1972
1984
呉羽化学、三共
塩野義
中外
塩野義
藤沢
武田
大鵬薬品
三共
ミドリ十字
エーザイ
企業名
1975
1979
1988
1992
企業名
1974
1983
1987
1991
承認年 類別
1978
1971
不明
1978
1973
1972
1972
1968
1965
1973
不明
1982
1978
1978
1971
1980
1979
1975
不明
1972
1973
1970
企業名
1973
1990
1994
1995
出所:株式会社ミクス(1997)をもとに筆者作成
168
日本標準商品分類番号のなかの薬効分類(大分類)を参照し略述し記述している。薬効
分類を参照している。正式名称は総務省ホームページ内の(http://www.soumu.go.jp/
toukei_toukatsu/index/seido/syouhin/2index.htm 2016 年 1 月 30 日閲覧)を参照され
たい。
169 第 5 章で分類した通りである。
120
種別にかんしては、NCE であれば前述の承認形態を記載し、NCE でなければインタビ
ューフォーム170を参照し自社開発(国内)か輸入か分類した。なおそれら資料が入手でき
なかったものは不明とした171。さらに 5 章では、調査期間を 1970 年から 2010 年に設定し
NCE の承認動向に着目した。しかし、この表の元となるデータはその期間全てカバーした
ものではない。また全てが NCE でもない。しかし多くが NCE でもあり、NCE が承認さ
れると多くの収益が獲得できたことを裏付けるデータとして意味をなす。
まず表 6-2 を見ると抗生物質が多いことが読み取れる。同表を整理すると、1970 年代は
約半数が抗生物質(24 品目中 11 品目)であったが、その後減少し 1990 年代には 17 品目
中 1 品目のみ抗生物質となっている。そのことから、抗生物質がそれ以降売れなくなった
ことが理解できる。
さらに表 6-1 によれば、種別欄(承認形態)の「国内」、
「海外」、
「不明」の 3 種カテゴ
リーを除くと、国内単独 NCE が多いことに気づく。これは自社開発の新規的な医薬品はよ
く売れたという事を意味する。例えば 1991 年以降、わが国の医薬品売上一位を継続したメ
バロチンは三共の成長に大きく貢献した。桑嶋・小田切(2003)によれば、メバチロン発
売前の 1988 年の三共の売上高は約 3,000 億円であり、営業利益は約 10%であった。それが
発売後の 1996 年には売上高が約 4,000 億円、営業利益が 21%と急上昇した。この三共の業
績向上はほぼメバチロン一品によることから、「メバチロン・インパクト」と呼ばれている
(桑嶋・小田切,2003)
。
さて、よく売れた医薬品を開発した企業は調査対象企業だけではない。表 6-2 をみれば調
査対象外の企業も存在することが確認できる。医薬品は生命維持・保全製品であり、各種
疾患に対応可能にするため膨大な種類の製品を必要とする。そのため、研究開発が優れた
企業であってもすべての分野を独占することは難しい。結果、中小零細企業でもニッチを
見つけることにより存立することが可能となる(石原・矢作,2004)。
例えば、1974 年の売上高 9 位となった大鵬薬品172の腫瘍用フトラフールは、同社とイス
クラ産業173が共同開発し、1973 年に輸入共同 NCE として承認された医薬品である。表 6-2
170
インタビューフォームとは、「添付文書などの情報を補完し、薬剤師などの医療従事者
にとって日常業務に必要ない薬品の適性使用や評価のための情報、あるいは薬剤情報提
供の裏づけとなる情報などが集約された総合的な医薬品解説書」である(管理薬剤師.com
ホームページ:http://kanri.nkdesk.com/info/info2.php 2016 年 1 月 12 日閲覧)
171 調査に用いた資料は次の通りである。株式会社ミクス(1997)
、深井(2003)、各医薬
品のインタビューフォーム、『薬事ハンドブック』
(各年版)
、イーファーマホームページ
(http://www.e-pharma.jp/)。
172 同社ホームページ(http://www.taiho.co.jp/index.html
2014 年 2 月 2 日閲覧)によれ
ば、1963 年に徳島で設立された医薬品業であり、現在は大塚ホールディング傘下となっ
ている。
173 同社ホームページ(http://www.iskra.co.jp/index.php
2014 年 2 月 2 日閲覧)による
と、1960 年に設立された企業であり、創業初期はポリオ(小児マヒ)ワクチンをソ連(現
ロシア)から輸入していた。現在は中国から漢方製剤の輸入を主としている。また大鵬
薬品のホームページ(http://www.taiho.co.jp/index.html 2014 年 2 月 2 日閲覧)によれ
121
をみると、1974 年から 1984 年までトップ 10 に入っている。このように NCE 承認件数が
少ない企業であっても、新薬が生まれれば莫大な収益を得ることができた。
本節で確認したように、わが国の医薬品業の成長には NCE が欠かせない。NCE が良く
売れるのであれば、単一事業である医薬品業は承認件数と業績が比例する。しかし NCE を
開発する事は難しい。第 5 章で明らかにしたように、わが国の先発企業は新規的な NCE と
関連する技術や製品そのものを輸入し対応してきた。その戦略は 1990 年代まで機能した。
次にわが国の医療用医薬品の生産額の推移と上位 5 薬効の比率の推移を示す。その目的
は表 6-2 をもとに明らかにしたように、よく売れた医薬品の多くは抗生物質が多かった。そ
の動向をわが国の生産動向でも見られるか確認する為である。
生産額の推移を図示したものが図 6-2 である。図 6-2 によれば、1966 年以降、総生産額
が一貫し上昇していることが読み取れる。ただし、1995 年以降の成長幅は小さい。1960
年代以降、生産額が大きく伸びた要因は何だろうか。既述のとおり、国民皆保険制度の浸
透と抗生物質である。
図 6-2:医薬品の総生産額及び薬効別比率の推移
総生産(右軸)
循環
抗生
神経
代謝
消化
単位:百万円
23.39%
25%
8,000,000
20.68%
7,000,000
20%
6,000,000
16.42%
15%
5,000,000
12.72%
12.73%
4,000,000
11.15%
10%
5%
3,000,000
3.54%
6.69%
2,000,000
1,000,000
507,108
1,025,319
1,792,406
3,482,177
4,001,807
5,595,435
6,168,062
6,182,631
6,390,722
6,779,099
1966
1970
1975
1980
1985
1990
1995
2000
2005
2010
0%
0
注 1)5 年毎データを元に図示しているが、1965 年のデータが入手できなかったため、当
年度は 1966 年のデータで代替した。
注 2)各グラフラベルの正式名称を順に示すと次のようになる。総生産と医薬品のわが国に
おける総生産額、循環とは循環器官用薬、抗生とは抗生物質製剤、神経とは中枢神
経系用薬、代謝とはその他代謝性用薬、消化とは消化器官用薬である。
出所:薬事工業生産動向統計年報(各年版)をもとに筆者作成
ば、「フトラフールは全ソ医薬品輸出入公団と同薬の導入を 100 万ドルで契約」とある。
以上のことから、イスクラ社がフトラフール輸入の仲介役であったと推測される。
122
国民の健康及び寿命の伸長に寄与したのが抗生物質であり、同薬効が全体の生産高を押
し上げた。同薬効比率を確認すると、1966 年以降、生産額に占める割合が明らかに上昇し
ていることが読み取れる。同薬効の生産増加は全体の生産額の上昇につながった。
一方で 1980 年以降、一貫し抗生物質の比率が低下している。この結果は、耐性菌の出現
に伴う院内感染174が社会問題化したことで多くの医療機関が同薬の使用を抑制したことに
よる。そのような社会変動により、抗生物質に傾倒していた医薬品業は開発戦略を見直さ
ざるを得ないようになった。図 6-2 を見れば明らかであるが、1980 年以降、総生産額に占
める抗生物質の比率が大幅に低下している。近年では 1980 年の約 7 分の 1 の規模となって
いる。
さらに第 5 章で明らかにした動向と照らし、調査対象に限定した各社の抗生物質の位置
づけを確認しておこう。各社の抗生物質と関係するデータを整理すると図 6-3 と図 6-4 よう
にまとめられる。それらは抗生物質のみ抽出し、その販売額で示したものが図 6-3 である。
一方、総販売額に占める抗生物質の比率を示したものが図 6-4 である。両図にもとづけば、
抗生物質を得意とする企業とそうでない企業に分類可能であることが理解されよう。
図 6-3:抗生物質等の販売額推移
単位:百万円
450,000
394,793
413,288
中外
389,833
394,909
400,000
三共
350,000
296,832
第一
300,000
250,000
藤沢
200,000
山之内
138,166
150,000
塩野義
100,000
47,627
53,999
50,000
エーザイ
0
武田
1965
1970
1975
1980
1985
1990
1995
1999
出所:各社有価証券報告書(各年版)をもとに筆者作成
特に第 3 世代セフェム系抗生物質は、MRSA(Methicillin-resistant Staphylococcus
aureus:メチリシン耐性黄色ブドウ球菌)を引き起こす元凶とされた。第 3 世代に類す
るものは効果が高かったが故、安易に使用された。ある種の抗菌薬のみ大量に長時間処
方されると菌は死滅する他、耐性を持った菌へと変化する。その変化した菌の一つが
MRSA である(平松,1999)
。その MRSA による院内感染の問題が生じて以降、極端に
抗生物質の使用が抑制された。なぜなら、第 3 世代が院内感染を引き起こした魔女に仕
立て上げられたからである(深尾,1994)
。例えば抗生物質を大量の抗生物質を製造販売
していた塩野義は、シオマリンより広い抗菌スペクトルを有する抗生物質フルマリンを
開発し、1988 年(から発売を始めた。加えて、MRSA に対し効果があると期待された塩
酸バンコマイシン(リリーが開発)の取り扱いを始め、1991 年に販売を開始した。同薬
は一定の効果があったものの、同薬に対する新たな耐性菌も発生している(平松,1999)
。
このように、すべての菌に効果のある完全な抗生物質は存在しない。適切な用法と適量
の投与・処方によって耐性菌の発生の抑制に努めているのが現状である。
174
123
図 6-4:抗生物質等の販売比率の推移
60
単位:%
武田
50
塩野義
40
エーザイ
藤沢
30
山之内
20
第一
10
三共
中外
0
1965
1970
1975
1980
1985
1990
1995
1999
出所:各社有価証券報告書(各年版)をもとに筆者作成
なお両図には調査対象企業すべての結果を図示していない。例えば、キッセイや持田と
いった企業の動向が確認できない。その理由は、両図で取上げた企業の中で販売額や比率
が最も低いエーザイよりさらに低い値であったためであり、体裁の都合上記述を省略した。
よって取上げていない調査対象は、全く抗生物質を取り扱っていないわけではないことを
付け加えておく。
抗生物質と関連する興味深いエピソードを紹介すると、エーザイ(2011)によれば、1987
年にスクイブが開発した抗生物質を輸入しアザクタムとして販売をしているようであるが、
図 6-3、図 6-4 からも理解できるように、抗生物質を得意としない企業の一つである。
1980 年代前半は特に抗生物質がよく売れた時代である。塩野義や藤澤が積極的に抗生物
質を開発し業績を伸ばす一方で、「国内大手 10 社のなかでも抗生剤を持っていなかったメ
ーカーはエーザイのみであり、世界のトップ 20 社でも、抗生剤を販売していないメーカー
は、ジョンソン・エンド・ジョンソン、サンド、ベーリンガーのわずか 3 社であった」
(エ
ーザイ株式会社,2011,174 頁)。そのような中、同業他社から「抗生剤を持たないメーカ
ーは、横綱を持たない相撲部屋のようなものだ」
(エーザイ,2011,174 頁)と揶揄された
とエーザイ 2 代目社長内藤祐二は語っている。このエピソードから、わが国の医薬品業で
は抗生物質が成功のシンボルとされていた事が伺える。
医薬品を扱う医療機関や医師は薬価差にもとづく収益誘因があり、それが薬の大量消費
につながった時代がある(日本薬史学会編,1995)
。大量に医薬品が消費された結果、医薬
品業に多くの利益がもたらされた。特に抗生物質が大量に消費された。これは医療報酬が
出来高払い制であるために、医療報酬の高い注射用抗生物質が多用されたためであった(日
本薬史学会編,1995)。わが国の医薬品業は競うようにそれを販売してきた。それが安定的
な収益源となった。しかし、院内感染の問題が噴出し使用が抑制されるようになった。図
6-4 を見ると、販売額に占める抗生物質の比率が 1985 年以降低下した企業がいくつかある。
124
塩野義、三共、中外、山之内、武田がそれに該当する。ただし塩野義は低下したといって
も売上の 40%以上を抗生物質が占めている状況であった。その塩野義と藤澤、そして第一
は全体の生産高が低下してもなお抗生物質に依拠した収益構造から抜け出せなかったこと
が理解できる。
抗生物質の研究開発は戦後大きな発展を遂げた。そしてそれは国民の健康を促進すると
ともに医薬品業の発展をもたらした。一方で、医薬品の販売をめぐり医薬品業と医師や医
療機関との間の癒着が問題視され始めた。そのため、医薬品業は団体主導で商慣習の是正
をおこなった。以上のようにわが国の商慣習に適した薬効が抗生物質であり、同薬効がわ
が国の医薬品業の成長に貢献した時代があったのである。
再び図 6-2 に戻り抗生物質に代わり循環器系の医薬品の生産比率が上昇している事を確
認しておこう。最も抗生物質が多用された 1980 年の循環器系医薬品の生産比率は 12.73%
であたが、2010 年には 20.68%となり、最も生産された薬効となっている。その理由とし
て考えられるのは、もちろん抗生物質の使用抑制も関連しているが、寿命の伸長と連関し
た生活習慣病の増加、そして同疾患を治癒する目的で数々の新薬が開発されたこと、それ
らが同数値の上昇要因となり、さらには全体の生産額を押し上げる要因であったと推察さ
れる。
第 4 節 本章のまとめ
第 1 節で明らかにしたように、既存研究に基づけば、わが国の医薬品産業では大きな構
造変化が何度か起こっている。まず和漢薬から洋薬輸入への転換(1868 年以降)
、製造着手
(1915 年以降)、技術導入(1945 年以降)
、国産新薬開発(1960 年以降)である。武田、
塩野義、藤澤といった先発企業は、和漢薬時代から薬問屋として経営活動を行っており、
以上の大きな構造変化に対し、変化に適応する戦略を選択し対応するとともに、それぞれ
の時代で競争優位性を維持してきた。それ以外の調査対象の多くは、洋薬輸入後期から製
造着手後期までの 20 年間に起業された。それら企業も洋薬輸入や製造などその時代にマッ
チした事業から始まった。起業期は異なるけれども、少なくとも技術導入時代以降の構造
変化に対し、同族経営者が戦略変化により対応し成長を実現した企業が多い。
一方、第 5 章で確認した様に、1990 年代以降、わが国の医薬品業でみられた輸入の減少
と輸出の増加という経営活動の成果は、それ以前に選択された戦略の変化の結果である。
そしてそれを促したのは医薬品産業の構造変化であり、グローバル化の浸透と解釈可能な
変化であった。海外の規制主体や外資系医薬品業がわが国の医薬品産業の制度や慣行の是
正を求めた。その結果、様々な取組が行われ、海外市場と似通った制度へと変貌しだした
のである。特に次の 3 つにまとめられる。
第一に、わが国の財政事情に伴う制度変化(特に薬価の問題)が市場成長を悲観的に捉
える材料となり、「日本市場中心では企業の成長が見込めない」という当事者の認識を醸成
した。その結果、協働関係にあった「病院・卸・メーカー」それぞれが独自の合理的基準
125
で行動し始めた。
第二に、合併を繰り返しメガファーマとなった外資系医薬品業が、日本市場のプレゼン
スを重要視し、独自進出を強化し始めた。外資系医薬品業のその戦略は、日本市場の制度
をも動かし、わが国の医薬品市場は国際化し始めた。
第三に、わが国の市場の国際化は日本企業の戦略転換にもつながった。それは、日本市
場における競合他社の増加と上述の二つの負の要因を考慮した結果である。グローバル化
の浸透により、海外市場に活路を求め国際化を目指した。そのような戦略を選択する事が
企業成長の観点から合理的な選択であったと思われる。しかしながら、まずは海外でも通
用する新薬を開発する必要があった。それは海外から技術や製品を輸入し、
「日本市場にお
ける新薬」を導出し成長を実現してきたわが国の医薬品業にとって大きな戦略転換であっ
た。
以上を踏まえ、わが国の医薬品業は、医薬品取引システムや制度のグローバル化の浸透
という医薬品産業の構造の変化が同族関与の維持・終焉と関連していると推察される。で
は、他産業と比して同族関与が維持されてきた理由として産業構造の変化にあるとした時、
それは既存理論をどのように否定し、どのような新たな理論に昇華できるのであろうか。
本章で見てきたように、わが国の医薬品業産業ではいくつかの構造変化が起きている。
いずれも先発企業が戦略転換を行い、それに対応していた点は同じである。一方で、グロ
ーバル化の浸透と連関するかのように同族による経営関与が終焉した。いったいなぜだろ
うか。商慣習の変化はいつの時代も大なり小なりある。ただ近年の変化の中で特筆すべき
点をあげるのであれば、各主体がそれぞれ合理性を追求し始めた、という点が異なる。こ
の主体間関係の変化について議論する必要がある。その変化は、経営者の主観と大きく関
係する。第 5 章では競争優位な戦略グループとそうでないグループとにわけ、競争優位な
戦略グループではグループ自体の位置づけや構成が変化したことが明らかとなった。その
変化は、選択された戦略が変化し移動障壁が移動したと解釈可能である。加えて競争優位
な企業群は同族経営者の経営関与が終焉する傾向が見られた。競争優位な企業でありなが
ら戦略を転換させた理由は産業構造の変化への対応するためであるが、その変化と同族関
与が終焉した理由は関連するのであろうか。
126
第 7 章 ディスカッション
本研究では、第1章でこれまでの既存の同族企業研究を検討し、そして Berle and Means
(1932)や Chandler の一連の研究他を検討した。第 2 章においては、戦略グループ研究
の知見を活用した分析のリサーチクエスチョンを「特定の時代の特定の業界の中の特定グ
ループで同族企業の維持・終焉の傾向に特異性はあるのか。あるとすればどのような理由
で起こったのか」と設定した。それを解き明かす為、第 3 章以降でいくつかの調査を行っ
た。ここではまず、第 3 章以降で行った調査で明らかとなった主要な事実関係を整理する。
第一に、第 3 章では、わが国の同族企業調査を通じて、既存研究が明らかにした「多く
の株式を持たず同族が社長として経営に関する企業が多い」
「医薬品業には同族企業が多い」
という現象を本研究の調査でも確認できた。そこで改めて Berle and Means や Chandler
が主流と認識していなかった企業形態が見過ごすことのできない数存在することが明らか
となり、本研究の問いの意義が確認できた。そして設定したリサーチクエスチョンを紐解
くため、同族企業が今なお数多く存在する医薬品業をリサーチターゲットと定めた。
第二に、医薬品業といっても扱う薬種によりビジネスモデルが異なる。そこで第 4 章に
おいて主要医薬品業を薬種ごとに調査した結果、医療用医薬品業が適切な対象である事が
確認された。このように調査対象を限定化した理由は、戦略グループ論の知見を活用し分
析するためであり、設定した問いにこたえるためである。加えて同章では、戦略グループ
抽出に不可欠な戦略次元を設定する為、最も新規的とされる NCE の承認動向を整理した。
そこでは、輸入単独 NCE の承認件数が最も多い事が明らかとなった。その一方で、1990
年以降、日本企業が承認取得したそれが減少傾向にあることが明らかとなった。この結果
を踏まえ第 5 章の戦略グループ分析では輸入 NCE の承認件数を戦略次元とした。加えて、
藤野(2014a)が明らかにした事実関係を重要視し、輸出売上高比率をもう一つの戦略次元
とした。
第三に、第 5 章では、わが国の医療用医薬品業の戦略グループの分析を行った。図 5-2
で示したように、輸入戦略を志向する企業が競争優位を形成するグループとなっていた。
しかしそのグループは、第 4 章で示した NCE 全体の承認動向にもとづく特徴的な傾向と同
様、徐々に売上規模及びグループ自体の規模が小さくなっていった。それと連関し競争優
位な企業群の多くは輸出戦略を選択し始めた。輸出戦略を志向する企業群は競争優位な新
たな戦略グループとなった。その結果から、わが国の医薬品業の戦略グループは輸入から
輸出へと転換したと解釈できる。
第四に、加えて同章では、研究の調査始点である 1970 年代(経営者の判別は 1980 年時)
は、12 社中 8 社で同族が経営に関与していることが確認された175。一方、終点の 2000 年
第 5 章(61 頁)では表 5-2 にもとづき、同族企業は 1970 年時点で 16 社中 11 社、ここ
では 12 社中 8 社既述している。それらで企業数が異なる理由は、第 5 章の戦略グループ
で調査対象企業に限定している点、そして切り取った時点が異なる為である。その点に
175
127
代(同 2010 年時)にはそれが 16 社中 5 社となった。この結果で判断するとそれほど同族
企業が減っていないと言える。しかし、2000 年以降、輸出比率を高めた企業はエーザイを
除き同族が経営に関与しなくなった事が明らかとなった。この結果は、特定業界において
特定の時期に「特定の戦略」を志向する企業群において同族関与が終焉したことを意味す
る。2000 年以降という特定時期、そして輸出戦略を志向する企業群で同族関与が終焉する
という特異な現象が本研究の調査により明らかとなった。その点は本研究の貢献であると
考える。
第五に、第 5 章では上述と異なる傾向も見られた。自社戦略グループは 2000 年以降 2 極
化傾向にあった。一つは上述の通り、輸出を伸ばした企業グループであり、それら企業で
は輸出戦略の転換と連関するかのように同族関与が終焉する傾向がみられた。もう一つは
国内中心の企業である。自社戦略の中でも国内市場中心の企業群はいまだ同族が経営に関
与する企業が多いことが明らかとなった。つまり、特定戦略(輸出戦略)を志向する企業
以外はこれまで通り同族が関与し続けていることが明らかとなったのである。
最後に、第 5 章以前に検討した先行研究の知見にもとづけば、特定戦略を志向する企業
群において同族関与の終焉が生じる少し前から、わが国の医薬品産業は転換期を迎えてい
ると推察された。そこで第 6 章ではわが国の医薬品産業の構造変化を分析した。そこでは、
わが国の医薬品産業ではこれまで大きな構造変化が何度か起きている。さらに同族関与の
終焉が見られた時期にも構造変化が起こっている。ただし同時期の構造変化はグローバル
化を帯びており、さまざまな点でそれまでの構造変化とは異なっている。以上のことが明
らかとなった。これまでと異なる点は、競争優位状態を長年維持してきた先発企業が、挑
戦者企業に落ちる可能性を帯びた特異な競争状況の変化も生み出した事にある。
以上の発見事実を踏まえ、本章では次の 5 つを議論する。まず、第 1 節では、輸入戦略
グループの移動障壁と外資系医薬品業の参入障壁の関係性ついて論じる。第 2 節では、同
族経営者の特徴と医薬品の製品化特性の親和性について論じる。第 3 節では、輸出戦略へ
の転換に伴う移動障壁の移動について論じる。そこでは前章で明らかとなった医薬品産業
のグローバル化に着目する。第 4 節では、過去と近年の構造変化の内容にもとづき、同族
関与の維持・終焉と関連する Chandler 説を再考する。第 5 節では、わが国の医薬品業に今
なお存在する、挑戦者企業群における同族企業存続の意味を論じる。
第 1 節 輸入戦略グループの移動障壁と外資系医薬品業の参入障壁の関係性
商品もしくは技術を輸出する外資系医薬品業は、自社製品を早く正確に流通させ、より
多く売上げる企業を好むと考えられる。そうすると、輸入する側の日本企業に求められる
ものは、研究開発力や販売力、そしてそれら能力を発揮する場や道具たる物的設備が整っ
ているか否かであり、それらを総合した組織能力が高い企業ほど外資系医薬品業との取引
を優位に進めることが出来たと考えられる。それに加え、知名度という無形資産が取引を
注意されたい。
128
結ぶ上で重要な意味を持っていたと言われている。
記述の通りエーザイの 2 代目社長内藤祐二は、創業者の内藤豊次と外資系医薬品業の視
察に出かけた際、輸入取引を持ちかけたが、
「知名度が低いため、向こうが相手にしてくれ
なかった」
(毎日新聞朝刊,1989 年 7 月 21 日,10 頁)と述べている。エーザイのエピソ
ードに基づけば、知名度が低くければ外資系薬品業に相手にされない。その為、輸入取引
を始めることが難しかったことが伺える。よって知名度という無形資産は輸入戦略グルー
プの競争優位を決定する一要因であったと考える。
ところで、なぜ外資系医薬品業は独自進出ではなく、間接的な市場進出を選択したのだ
ろうか。それは第 6 章で明らかにしたように、外資系医薬品業の市場参入を阻む障壁が日
本市場に存在したからである。その障壁とは、わが国固有の商慣習や法制度がつくりだし
た取引のルールやシステムである。
日本企業の立場でその障壁の意味を考えると、外資系医薬品業の市場参入を抑止する障
壁が存在したことで、医薬品や技術を獲得する事が出来た。その効果は記述したとおりで
あるが、眼前の収益を生み出す製品や技術の獲得のみならず、後に収益をもたらす製品開
発やマネジメントにかんする知識や技術が習得できた。そのことから、外資系医薬品業の
侵入を阻む参入障壁は、間接的に輸入戦略グループの移動障壁となり、同グループの競争
の優位性を高める効果があったと言える。
しかしながら、1980 年代後半から進められた MOSS 協議等の政府間や規制主体間の協議
の結果、各種規制が緩和され、わが国固有の慣習が是正され始めた。結果、外資系医薬品
業の日本市場進出を阻んだ参入障壁が崩れ始めた。参入障壁が崩れ始めたことにより外資
系医薬品業は対日戦略を強化した。具体的には日本市場における営業体制の変化、そして
合弁会社や提携関係の解消といった日本企業との関係性の希薄化である。
まず外資系医薬品業の営業体制の変化であるが、外資系医薬品業は独自進出強化の為、
日本市場で MR の雇用に力を入れた。例えば、塩野義に多くの医薬品を輸出するなど塩野
義と強く結び付いていたイーライリリーは、1980 年代後半から日本リリーを通じて独自販
売に向けた基盤整備に着手する。具体的には、1986 年から日本リリーが MR の新規採用を
始める。当時の採用は 30 名ほどであり比較的小規模で始まった。しかしながら、1993 年
に発表した同社の経営計画「J-2000 プロジェクト」によれば、310 人いる MR を 8 年後に
は 500~600 人程度に増やす、そのような内容が盛り込まれた。同計画から、1993 年には
310 人の MR を有し、それ以降も MR 採用を継続する意図があった事が読み取れる。独自
販売の強化例は他の外資系医薬品業でも見られ。
続いて合弁会社や提携関係の解消である。ここではいくつか例をあげておこう。例えば、
藤澤や武田と提携関係にあった日本チバガイギーは、本社の意向により日本市場における
独自の活動を強化した。具体的な行動の一例として、1984 年に藤澤および武田との提携関
係を解消したことがあげられる。その発表会見は、藤澤、武田、日本チバガイギーの 3 社
合同で行われた。3 社で行った会見には、「日本チバガイギーが日本国内で独立した販売体
129
制を持つことに対して、武田薬品と藤澤薬品が同意したもの」(藤澤薬品工業株式会社編,
1995,280 頁)、といった意味があった。
他にも藤澤では、スミスクラインとの合弁会社フジサワ・スミスクライン・コーポレー
ションも含め、次のような取り決めがスミスクラインと藤沢間で締結され、関係が希薄化
していった。第一に、「米国における両社の合弁会社フジサワ・スミスクライン・コーポレ
ーションは 1987 年 12 月末日をもって藤澤薬品の全額出資子会社とする」
(藤澤薬品工業株
式会社編,1995,281 頁)。第二に、「日本における両社の合弁会社スミスクライン・藤澤
株式会社への藤澤薬品の出資比率は、1988 年 3 月末日に 50%から 25%へ減少させ、以降毎
年出資比率を下げ、最終的に 1993 年 3 月末日にはスミスクライン・ベックマン社の全額出
資子会社へ移行する」176(藤澤薬品工業株式会社編,1995,281 頁)
。
もちろん外資系薬品業との関係性の変化は藤澤に限ったものではなかった。上で取りあ
げた武田の例も見ておこう。先述の通り武田と日本チバガイギーとの提携関係が希薄化し
た。日本チバガイギーは日本市場で独自販売を強化し、100 以上の卸と特約店契約を結んだ
177。同社はこれまで武田と藤沢に販売を委託していた。その販売契約を
1985 年に解消した
のである。日本チバガイギーと特約店契約を結んだ卸には、武田系列の卸も含まれていた
と推察される。同社が独自販売に切り替えた事により武田は、年間 200 億円ほど収益低下
が予測された178。他にも、ドイツのバイエルと武田、そして吉富製薬の 3 社が共同出資し
設立したバイエル薬品も、バイエルが出資比率を高め子会社化し、1989 年に販売契約を解
消した。
ただし、以上の2つを含む外資系医薬品業の独自販売への転換は、すぐに成果が表れな
かった。その大きな理由は、わが国の医薬品の取引システムに内在する商慣習が外資系医
薬品業の独自販売を阻んだからである。例えば日本チバガイギーは、1985 年に販売契約を
解消したことは記述した通りである。同社の前年の医薬部門の売上は 441 億円であった。
そして独自販売移行後の 1988 年には 478 億円であった179。このようにわずかな成長しか
達成できなかった。要因の一つとして、書類改ざん問題に伴う商品の出荷停止という日本
チバガイギー内部の問題もあったが、それよりも「メカニズム自体はさほど難しくない。
だが、問屋との緊密な関係が築きにくい」
(サンドのラクローズ当時社長)
(日経産業新聞,
1989 年 10 月 19 日,17 頁)、「どの製品をどれだけ値引きしたらいいかとか、病院ごとに
どれだけ値引き率を変えたらいいか、同じ地域をカバーする二つの問屋があったらどちら
を使うべきなどかなど、販売上の細かいノウハウは全くわかっていない」
(サンド専務(当
時)の林詔一の発言)
(日経産業新聞,1989 年 10 月 19 日,17 頁)といった見方が示すよ
176
フジサワ・スミスクライン・コーポレーションはスミスクライン・ベックマン社がビー
チャム社と合併したため、1989 年に援助が打ち切られた。
177 日経産業新聞(1985 年 1 月 25 日,12 頁)
。
178 日経産業新聞(1984 年 11 月 22 日,15 頁)によれば、
「200 億の減収を見込んでいる」
と梅本純正副社長(当時)が発言している。
179 日経産業新聞(1989 年 10 月 19 日,17 頁)
130
うに、わが国固有の取引システムに内在する商慣習が独自進出を阻んだ。さらに以上の発
言は、成果がすぐ表れなかった事を裏付けるばかりか、その理由について言及されたもの
であると考える。
またわが国の医薬品産業の商慣習は、国内の異業種にも異質なものとして映っていた。
例えば、旭化成の弓倉礼一社長(当時)は、
「これまでの医薬品の商取引の常識は、我々の
商取引からみれば非常識だ」
「プロパーと呼ばれる営業マンが成績をあげるためにサンプル
を大量に出したり、勝手に販売価格を引き下げたりというのは通常の商取引ではない」(日
経産業新聞,1991 年 5 月 8 日,1 頁)
、と発言している。このように、海外の同業界のみな
らず国内異業種と比較しても特異なものであり、それが異業種の参入を阻んだのである。
医薬品業界に参入しようとする外資系医薬品業や異業種を阻んだわが国の医薬品の取引
システムは、1990 年代に入り外圧によって変化が生じ始めた。その変化は着実に外資系医
薬品業の日本市場参入を押し進める要因となった。具体的には、1991 年に 19.1%であった
外資系医薬品業の国内シェアが 2010 年には 36.7%まで伸びた(厚生労働省,2013)。この
結果が示すように、対日戦略を強化した外資系医薬品業は漸進的であったが確実にシェア
を伸ばした。その結果、わが国の医薬品業界の競争状況が変化したのである。結果、競争
優位を維持してきたわが国の医薬品企業は、これまでと異なる戦略を選択せざるを得なく
なった。第 5 章で明らかにしたように、競争優位企業が選択した戦略は対外戦略の強化で
あった。
以上のような日本の競争優位企業と外資系薬品業の戦略転換は、
「
『外なる国際化』と『内
なる国際化』の両面で世界を見据えた戦略対応に迫られる時代に入った」
(藤澤薬品工業株
式会社編,1995,330 頁)事を意味した。本研究で明らかとなったことは、外資系医薬品
業の経営活動の変化により、日本企業は医薬品や技術を外資系医薬品業から輸入するとい
う戦略の継続が難しくなった。その結果、輸入戦略グループは競争の優位性を失い、最終
的にグループ自体が消滅に向かった。ただし、それと同時に競争優位な企業群は戦略を転
換し、新たに輸出戦略グループを形成した。以上の現象は、競争優位な戦略グループ自体
が新たな移動障壁を作るという側面もある(Caves and Porter,1977;Peteraf and Shanley,
1997)、との指摘に合致している。
第 2 節 同族経営者の特徴と医薬品の製品化特性の親和性
医薬品には多くの種類があり、それぞれ開発のコストや期間が異なることを第 4 章で明
らかにした。多種多様存在する医薬品の中、本研究では NCE の承認件数に着目した。NCE
の中でも、最も研究開発に時間がかかり多額の投資が不可欠なのが国内単独 NCE である。
しかも開発に失敗し投資が無駄になる可能性が最も高い。その一方で、最も大きなリター
ンが得られるのも国内単独 NCE のようである。
第 6 章では、1970 年から 1995 年までを対象とし、わが国の売上高上位 10 品目を薬種別
し提示した。それにより、わが国の医薬品市場では国内単独 NCE が売り上げランキングの
131
10 位以内に入る例が多いことが明らかとなった。同調査は限定的なデータに依拠したもの
ではあるが、国内単独 NCE の開発に成功すれば、莫大な収益が獲得できたことはほぼ間違
いないだろう。
さて、同族経営者は長期的な視野で経営することが多い(加護野,2008;吉村,2007)、
と言われている。そのような同族特性は、述べてきた国内単独 NCE の製品化特性と親和的
であると考えられる。一方で、至極当然であるが、同族が企業に関与し続ける為には、関
与する企業が存続できなければ本末転倒である。よって、長期的な視野の経営という同族
特性と医薬品業の特性がマッチしていたとしても、長期投資のリスクを負担する安定的な
収益源を確保する必要がある180。それにより企業が成長もしくは存続する可能性が高まる
からである。
本研究の調査により、2000 年ごろまで輸入戦略グループは自社開発グループと比して、
平均的に高収益を実現していることが明らかとなった。輸入 NCE は外資系医薬品業が開発
に成功した医薬品であり、製品化のノウハウがある(Maurer,1989)。そうであるならば、
輸入 NCE は低リスクを所与とし、コスト負担が少なく短期間で商品化できる181。ただし販
売額等の状況に応じてロイヤルティを支払う必要がある。それでもなお薬価によって販売
価格が一定程度維持されており、輸入医薬だから販売価格が低いということはない。よっ
て、同戦略を志向するグループは、輸入医薬品を販売することで堅実かつ安定的に収益が
獲得できたと考えられる。そのような安定的な収益源が存在したからこそ、同族経営者が
長期的な視野で経営できたと言えるのではないだろうか。
また前章で明らかにしたように、先発企業の多くは抗生物質を生産し販売する事を得意
としていた。戦後、わが国の医薬品産業の成長を牽引したのは抗生物質であった182。医療
機関や医師は薬価差にもとづく収益誘因があり、それが医薬品の大量消費につながった(日
180
長期的な資金調達源として他には、日本的経営の特徴とされる「メインバンク制」、そ
して企業集団との関係性などがあげられる。三戸(2001)は、医薬品業は他産業と比べ
それらの関係性は限定的であると指摘している。本研究では彼の研究に依拠し、銀行等
の借入による資金調達や株式による資金調達は、長期投資の安定化に対し強い影響はな
かったという立場をとる。
181 輸入医薬品は低リスクでありながら安定的に収益を得ることができる。そのような説を
裏付ける発言として本研究で輸入戦略グループと位置付けた集団に属していないが、キ
ッセイの前社長神澤睦雄の発言を紹介しておこう。キッセイではわが国全体の傾向とし
て輸入 NCE が少なくなり始めた 1990 年代頃、頻繁に海外から技術を導入した(付録資
料 3 を参照されたい)。その当時の心境を彼は、「以前から技術を導入したい考えはあり
ましたが、なかなか実現しなかった。昨年に身を結んだのは、最近、キッセイの看板が
信用されるようになったことだと思う」
(日本経済新聞,1993 年 2 月 5 日,3 頁)と述べ
ている。この発言は、医薬品を輸入するには知名度が必要であったことする先述の記述
を裏付ける。さらに同紙上では輸入医薬の開発リスクが低い点も言及している。
「海外か
ら技術導入した中には、すでに外国で販売され、薬効を発揮しているものもある。この
技術を応用すれば、ほとんどの場合、新薬が開発できる。つまり、開発リスクが比較的
小さい」、だから海外から技術導入を進めるのだと神澤睦雄社長は述べている。
182 第 6 章の図 6-2、図 6-3、図 6-4 を参照されたい。
132
本薬史学会編,1995)。大量に医薬品が消費された結果、医薬品業に多くの利益がもたらさ
れた。特に抗生物質が大量に消費された。これは医療報酬が出来高払い制であった事から、
医療報酬の高い注射用抗生物質が多用された(日本薬史学会編,1995)
。
以上の既存研究の指摘に従えば、抗生物質も医薬品業の収益安定化に寄与したと言える。
そして同薬が生産から消費されるまでの過程において、医薬品業のみならず卸や医療機関
を含む行為主体それぞれが便益を享受することが可能であり、それら行為主体が当時の取
引システムを維持しようとする誘因があったと推察される。
第 6 章でみたように抗生物質を得意とする企業は輸入戦略グループに該当する企業が多
く、抗生物質は競争優位な企業がより競争優位となる特定薬効であった183。しかし、院内
感染の問題が生じ使用が抑制された。誤解を恐れずに言えば、抗生物質の使用が抑制され
たことにより、偽りの需要から真の需要へと向かい始めた。その事象もわが国の取引シス
テムに変化をもたらす要因であったと考える。
わが国の医薬品業は輸入医薬品を販売することで堅実かつ安定的に収益が獲得でき、そ
の安定があったからこそ同族経営者が長期的な視野で経営できた。加えて抗生物質という
特定薬効もそれに近い働きがあった。こちらが機能した時代も同族企業が多かった。それ
らを踏まえれば、同族企業の維持要因は時代特殊的な取引システムが創りだした安定的な
収益構造にある、という見方が出来る。
一方で、わが国の医薬品業すべてが輸入戦略を強化できたわけではないし、抗生物質を
得意としたわけでもない。物的設備が整い販売力が優れていたとしても、外資系医薬品業
から医薬品を輸入出来たわけでないからである。さらに挑戦者企業は明らかに抗生物質の
競争を避け、特定の薬効に資源を集中する傾向がある。その事実関係については最終節で
見ていく。これまで明らかにしたように、それら企業群は現在も同族企業が多いという特
徴がある。その特徴に従えば、本節の議論と矛盾する結果が示されたことになる。なぜな
ら挑戦者企業群は、以上 2 つの安定的な収益獲得手段を有していない企業がほとんどだか
らである。ではなぜ過去も現在も挑戦者企業群では同族企業が多いのだろうか。この問い
については最終節で論じる。
第 3 節 移動障壁の移動と同族関与の終焉
移動障壁の移動と同族関与の終焉
これまでの調査により、輸入医薬品の承認件数が多く、そして輸入戦略を志向する企業
が多い時代は売上高輸出比率が低く、同族企業が多く存在したことが明らかとなった。輸
入医薬品が収益の安定化に寄与した時期があり、それは外資系医薬品業の対日戦略強化に
より変動した。その変動を認知し、既存戦略を見直し、よりリスクを選好し、自社開発と
183
例えば、薬効と関連する指標を戦略次元として設定すれば、今回の戦略グループマップ
と同様の結果が得られると推測されるほど、抗生物質を得意とする企業群と輸入戦略グ
ループは近似している。薬効を戦略次元に設定しマップを描き、違いを検討する事につ
いては今後の課題としたい。
133
対外戦略を強化することで輸出比率を高めた企業群が出現した。そして輸出比率を高めた
企業群は、輸出比率の低い企業群と比べて売上規模の点で新たな競争の優位性を創り出し
た。第 5 章で明らかにしたその事実関係に基づけば、輸入から輸出へと企業成長の仕組み
が変わった事は明らかであり、戦略グループ論にもとづけば移動障壁が移動する、という
現象が起こったと言える。
さて、輸出比率を高めた企業は、武田、エーザイ、アステラス、第一三共である。一方、
大日本と塩野義は輸入戦略が競争の優位性に寄与した時代は上の 4 社に続く規模拡大を実
現してきた。しかしながら近年において両社は、輸出戦略へのシフトが機能せず、売上規
模の点で後れを取った。その要因の一つとして、海外市場で通用する新薬を導出出来なか
ったことがあげられる。
塩野義の例をあげておくと、1953 年社長に就き 1982 年に交代した塩野孝太郎以降、同
族以外の経営者が経営する時代が続いた184。その後、1992 年に孝太郎のおい塩野芳彦が社
長に就任する。いわゆる「大政奉還」である。就任した塩野芳彦は、
「国内だけなら“販売
のシオノギ”で通用するが,海外を舞台に事業を展開するには研究志向の企業体質が必要」
(日経産業新聞,1992 年 6 月 9 日,1 頁)と述べ、自社の現状解釈と今後の方向性を示した。
一方同紙上では、「待ってもらえるものならもう少しまってほしいと一瞬ためらった」と就
任時の心境を吐露している。
塩野芳彦の就任後、塩野義の収益獲得に寄与した医薬品は抗生物質フロモクッスであっ
た。前社長期に自社の抗生物質がわが国の売上上位となっていた時代185と異なり、抗生物
質の使用抑制が進み大きく需要が低下した時代に彼は社長となった。それにもかかわらず
塩野義の主力は抗生物質であったという状況186を顧みた結果、以上の発言につながったの
ではないかと推察される。
一方、塩野芳彦の社長期間には画期的新薬の開発が進行していた。その代表が高脂血症
治療薬候補品「S4522」であり、同開発品は前評判が高かった。しかしながら塩野芳彦は、
開発途中の 1998 年にその権利を英アストラゼネカに供与した。同様に HIV 薬候補
「S1153」
も米アグロンに供与した。このようにして塩野義は、優良な新薬の種を自社で開発し承認
取得した上で海外展開するという方法を選択せず、開発途中でロイヤルティ収入を得ると
いう選択を行ったのである。
その塩野芳彦は 1999 年に体調不良を理由に塩野元三と交代する。元三は 1972 年に塩野
義に入社後、国内の営業部に所属したのち社長に就いた。社長就任会見において彼は、
「10
年前なら喜んで社長を引き受けたところだが」
(日経産業新聞,1999 年 8 月 10 日,12 面)
と発言した。以上の消極的な発言は前任の塩野芳彦と同様である。
塩野元三が社長就任後、塩野義の業績は低迷していた。ただし向上のきっかけもあった。
184
185
186
第 5 章表 5-2 を参照されたい。
第 6 章表 6-2 を参照されたい。
付録資料 3 を参照されたい。
134
英アストラゼネカに供与した「S4522」の開発を同社が成功し、2000 年に「クレストール」
として販売を始めたことと関連する。同社との契約で塩野義は、アストラゼネカが販売す
る金額に応じてロイヤルティを得るほか、同薬の日本市場の販売権を得た。
「クレストール」
のロイヤルティと販売収入は塩野義の収益増に大きく貢献した。塩野義が選択したライセ
ンス供与という判断は、
「グローバル展開可能な販売網の整備コスト,そして導出の不確実
性を考慮した結果」
(日経産業新聞, 2008 年 9 月 2 日,22 頁:塩野元三の後を引き継いだ
手代木功の発言)という背景がある。
一方で画期的新薬の種である「S4522」や「S1153」を他社に供与した結果、ロイヤルテ
ィ収入を得ることができ、なおかつ研究開発投資等のコストの削減することができた。そ
の一方で、画期的な新薬を自社開発により導出することができなかった。その為、近年の
競争優位企業と比較して海外進出が遅れたのである。
輸出比率を高めた企業をみると、海外市場で通用する新薬を導出している。一例をあげ
ると、武田のリュープリン、山之内のガスター、三共のメバロチン、エーザイのアリセプ
トがそれに該当する。それらは自社開発の NCE の中でも画期的新薬と位置付けられている。
画期的新薬は、国内単独 NCE と同じように長期的な投資を必要としリスクも高い。そうで
あるならば、その製品化特性と長期的視点で経営するという同族特性は親和的であり、自
社開発強化と連関した輸出戦略の担い手として同族経営者が選ばれても良いはずである。
しかし、輸出比率を高めた企業群は同族経営者の交代が進んだ。このように実態と論理が
矛盾するかのような事実が明らかとなった。矛盾が生じる理由は次のように考えられる。
まず、輸入医薬がもたらした安定的な収益構造の崩壊が同族関与の終焉に結び付いたと
考えることができる。戦後、わが国の医薬品産業は長期間安定的な成長を遂げてきた。そ
して自社開発に移行後も、輸入薬や模倣品等を開発するなど、リスク負担に耐えられる安
定的な収益獲得手段を形成した企業が多かった。その安定的な収益獲得手段が存在する限
りにおいて同族が経営に関与でき、安定的でなくなれば関与できなくなるという考え方で
ある。では未だ同族企業が多い挑戦者企業群は今日でも安定的な収益獲得手段を有してい
るのか、という疑問が残る。これについては最終節で論じる。
もう一つは、以上のような個々の企業の収益構造の問題ではなく、輸出戦略にシフトし
た時期に起こった技術革新や法制度の変化、そして商慣習の変化を含む構造変化と関連す
るという考え方である。製品開発の変化をあげると、ゲノム創薬や IT 活用などの技術革新
や、2007 年の改正薬事法187施行にともない製造のアウトソーシングが可能となったことが
あげられる。第 4 章の図 4-2 で示したように、ゲノムの知見を活用した医薬品の研究開発
といった新たな技術は、医薬品のプロダクトサイクルの短縮化や新たなシーズの発見につ
ながっている。つまり理屈ではこれまでよりも早く医薬品を製品化できる状況となってい
る。
187
同法により日本に製造拠点を持たない外資系医薬品業の参入が容易となった。それは外
資系医薬品業にとって製品化の障壁が一つ取り払われたことを意味する。
135
さらに 6 章で述べたようにグローバル化という構造変化がわが国で起こった。その変化
に伴い競争ルールが変化した。競争ルールの変化は、勢いを増し始めた外資系医薬品業が
本格参入した国内市場における競争(つまり日本市場の国際化に伴う激しい競争状況)、そ
して外資系医薬品業の主戦場たる海外市場での競争(つまり日本の医薬品業の国際化)に
よって生じた。
もちろん、全ての企業がその競争に身を置いたわけではない。しかし、結果的に輸出比
率を高めた企業は売上規模を拡大している事から、近年では輸出戦略による収益獲得は医
薬品業の成長モデルとなり、輸出を志向しない経営者が経営する企業は、成長モデルから
逸脱したと解釈可能である。エーザイ現社長(2015 年時)内藤晴夫は、「海外では効果が
ないととても承認されない、日本だけで通じる『カントリードラッグ』に依存する製薬会
社は、これから存続が危うくなるだろう」(日経産業新聞,1998 年 4 月 24 日,32 頁)、
と発言している。この発言にもとづけば以上の説が補強される。
一方で、グローバル化という構造変化が同族関与の終焉を招いたと結論付けるのであれ
ば次のような批判が想定される。すなわち、輸出へのシフトと同時期に進んだ産業構造の
変化に対する本研究の理解は常識的であり、技術や制度の変化を含む近年の構造変化とい
う外部要因が同族交代の契機となった事は自明である、という批判である。しかしその批
判は的外れな部分がある。
なぜなら、第 6 章で明らかにしたように、わが国の医薬品産業はこれまで、和漢薬(~
1867 年)から輸入薬(1868 年~1914 年)、そして国内製造開始(1915 年~1944 年)を経
て欧米技術の導入(1945 年~1960 年)
、さらに国産新薬開始(1960 年以降)といった構造
変化があった(桑嶋・小田切,2003)
。それらの実態については第 6 章で明らかにした。ま
た第 5 章の調査により、1990 年代まで同族企業が多いことが明らかとなっている。それら
結果にもとづけば、該当する同族企業は上述のいくつかの構造変化を乗り越えるとともに、
同族が経営に関与し続けてきたと言える。よってこれまでの構造変化ではなぜ同族関与が
維持され、近年のそれではなぜ同族関与が終焉したのか、その違いを明らかにする必要が
あるか、その点を考慮せず単線的に「構造→戦略」と結び付けようとしているからである。
本研究の議論を踏まえれば、近年のグローバル化という構造変化は競争ルールの変化を
生みだした。変化の代表例として、短期的な結果を求められる環境に移り変わった事があ
げられる。その状況変化に伴い、長期的な視野で経営することも重要であるが短期的な状
況判断が不可欠となり、それとともに企業の業績と関連する結果も重要視されるようにな
った。よって、より成長を志向する企業では、同族経営者の特徴である長期的な視野や長
期的なコミットメント、それだけでは正当性を得られなくなったのである。
以上の変化がなぜ、同族関与の終焉という個々の統治構造の変化に結びついたのであろ
うか。それを紐解く鍵は Fligstein(1990)が言うような「企業コントロールに関する基本
認識」の変化、Fiengenbaum and Thomas(1995)が言う「参照点」の変化、つまり知覚
対象となる狭義の競争状況や広義の環境にもとづく当事者認識の変化であると考える。
136
以上の事から、論理と実態の矛盾を紐解くためには、まず、これまでの構造変化と近年
のそれとでは何が異なるのかを明らかにする必要がある。その上で各企業がどのような取
組を行ったのか、そしてグループ単位でそれに違いがあるのか明らかにする必要がある。
そこで次節では以上の問題を Chandler 説と関連付けその問題を検討してく。
第 4 節 構造変化と同族関与の維持・終焉の関係性:Chandler
構造変化と同族関与の維持・終焉の関係性:Chandler 説の再考
ここでは Chandler による経営者企業転換のロジックの有効性と、そのロジックが生まれ
た Chandler の分析視角、以上について前節の最後に述べた課題を踏まえ検討する。
第 5 章の 1970 年までを対象とした事例分析により、桑嶋・大東(2008)の指摘通り垂
直統合化された組織となっていたことが明らかとなった188。そうであるにも関わらず、同
族が経営に関与する企業が多いことも明らかとなった。つまりわが国の医薬品業は、
Chandler がアメリカの大企業の発展過程を分析し導き出した「戦略→組織→統治」の論理
通りに企業形態の変容が進んでいないのである。ではなぜわが国の医薬品業は Chandler 説
通りに専門経営者への交代が進まなかったのであろうか。そして近年ではなぜ、特定の戦
略を志向する企業群では Chandler 説通りに集団的変化が起こったのだろうか。
第 6 章で明らかにしたようにわが国の医薬品産業では特筆すべき構造変化がいくつか起
きている。その変化を武田や塩野義、藤澤等の先発企業は、同族経営者が戦略を変え、さ
らには組織を変化させ対応してきた。その結果、競争優位を維持し 20 世紀末を迎えた。
わが国の医薬品市場には、特定時期まで固有の制度や慣習という参入障壁があった。そ
の時期の外資系医薬品業は日本企業と合弁会社を設立したり、提携関係を結んだりし、間
接的な形で自社製品を浸透せざるを得なかった。そうした事を踏まえれば、当時の外資系
薬品業は日本企業に対抗する挑戦者企業というよりは協力的立場に立った協働企業という
位置付けだったのではないだろうか。つまり、先発企業は慣習や制度による障壁により強
力な挑戦者の活動を制限することで競争の優位性を維持してきたのである。
さらにそのような外資系薬品業の進出を制限し、競争状況を固定するだけでなく、外資
系医薬品業が開発した医薬品を日本企業が仲介役となり販売することで日本企業は安定的
188
すでに取り上げた桑嶋・大東(2008)は、わが国の医薬品産業で起きた構造変化および、
医薬品業の歴史的変化プロセスと Chandler 研究の関係性を検討している。彼らは
Chandler(1977)が説いた垂直統合化した巨大な組織、いわゆる「チャンドラー・モデ
ル」の優位性を検討し次のように解釈した。第一に、わが国の医薬品業の多くは薬問屋
から始まり、生産機能、研究開発機能を有する垂直統合型企業となった。そのような歴
史的過程は「チャンドラー・モデル」に符合する。第二に、海外市場参入過程で、マー
ケティング、生産、研究開発と徐々に機能を追加・拡大し統合企業へ発展してきた。こ
れも「チャンドラー・モデル」に符合する。第三に、医薬品業全体を見渡すと M&A が頻
繁に行われ巨大な医薬品業が誕生した。これも「チャンドラー・モデル」に符合する。
他方で、新たに創生したベンチャー企業や研究機関と互いに関連性を持ちながら併存し
ている。そのような近年の動向は、チャンドラー・モデルに符合していると言い切れな
いが、その優位性がなくなったわけではない、としている
137
な収益を確保する事が出来た。以上のことから、個々の企業の収益の安定化は、安定的な
医薬品の取引システムのもと形成され、その取引システムの安定化が同族関与の維持装置
であったと考える。
しかしながら明らかにしたように、制度変化に伴い外資系医薬品業が積極的にわが国市
場に進出した。その結果、輸入医薬が減少し、わが国の競争優位企業は安定的な収益基盤
を失った。さらに制度変革は取引システムの変容にもつながった。その変化によりそれぞ
れの主体が経済合理性を追求するようになり、これまでと異なる取引システムとなったの
である。
例えば、1999 年から塩野義の社長を務めた同族の塩野元三は、2008 年の交代時の記者会
見で「当社をグローバル化できる唯一の人物」
(日経産業新聞,2008 年 8 月 25 日,24 頁)
、
と後任社長の手代木功を評している。さらに塩野元三は別のインタビューでも、
「海外での
自社開発、販売体制を確立するには、若く国際的な人材に先頭に立ってもらうほうがいい。
手代木氏しかいないと考えた」
(日経産業新聞,2008 年 3 月 18 日,27 頁)と発言してい
る。一社の一人の発言ではあるが、グローバル化に対応できる人材、これこそがわが国の
医薬品業で求められるようになった社長の資質と考える。ただし同族経営者がそのような
資質を持ち合わせていないと言いたいのではない。同族という小さなパイのみならず、後
継者市場(主に企業内部)から広く適した人材を求めなくては対応できなくなったのであ
る。他にも近年の武田では、わが国で初めての外国人社長が誕生している189。それも以上
の事を意味しているのではないだろうか。
またエーザイの内藤晴夫社長は、「世界の巨大製薬会社とも、バイオベンチャーとも一
線を画した第三の道を目指す」と強調し、「ベンチャー精神と世界企業の良さを兼ね備え
たユニークな中堅企業を目指す」(日本経済新聞朝刊,2000 年 2 月 29 日,11 頁)、と発
言している。彼は 1988 年に社長となり、就任後 20 年以上経過している。そのため、
「そろ
そろ交代の時期ではないか」「次も一族が社長となるのか」といった問いが出てきてもおか
しくない。2006 年に彼は「もう、内藤家から社長は出ない。取締役会でも了承済み」
(日経
産業新聞,2006 年 1 月 4 日,13 面)と発言している。その発言から、交代の時期が近く、
その交代によって同族企業が終焉するのではないかと騒がれ始めている190。
エーザイは現在も内藤晴夫が社長に就いており、自社開発輸出型戦略グループで唯一の
武田では 2014 年からグラクソスミスクラインで会長兼 CEO の経験を有するクリスト
フ・ウェーバーが社長となった。彼は 2014 年に CFO として武田に中途入社した。この
ように社外から外国人社長を据えることは医薬品業では異例であった。
190 内藤晴夫は妻その子との間に一男二女をもうけている。長男は現在 20 代であり、経営
者となるには若すぎるであろう。一方で、長女の娘婿アイヴァン・チャンが執行役とし
てエーザイで活躍している。彼は晴夫氏の後継者候補の一人とも言われている。彼が内
藤晴夫の後を引き継ぐかどうかは現在のところわからない。なお長男にかんしては、日
経産業新聞(1989 年 11 月 18 日,12 頁)の記事を参考に算出した。同紙には内藤晴夫
の家族構成が記述されており、長男景介 1 歳と紹介されている。掲載年にもとづけば、
現在彼は 29 歳となる(2016 年現在)。
189
138
同族企業である。今後、同社で同族関与が終焉するか否かは解らない。しかし、以上の発
言の意図は、統治構造の変化せざるを得ないことを認知し、多様なステークホルダーに対
し「変化する」というアクションを示す必要がある、発言にはそのような背景があったと
推察される。
以上の議論から言える事は、Chandler が提示した経営者企業への転換ロジックは、常に
成立するわけではない。成立条件は構造変化にある。しかも単なる産業構造の変化ではな
く、競争優位企業が挑戦者企業に陥ると当事者が認知するほどの危機的状況、より具体的
には先行研究レビューでみたコグニティブな戦略グループ論者の「参照点」
(Fiengenbaum
and Thomas,1995)の変化や支配転換の源泉とした Fligstein(1990)の「企業コントロ
ールに関する基本認識」の変化といった、当事者の環境認識を孕む変化に限定されるので
はないだろうか。
Chandler(1990)は挑戦者企業として成功したのは自国で競争優位性を有する外資系企
業であると述べている。わが国の医薬品市場への進出を企図した外資系医薬品業は、以上
の要件に合致する。しかも外資系医薬品業は、ただ自国で競争優位であるばかりか、広範
囲の市場で競争優位性を持つ国際的なメガファーマであった。20 世紀末、わが国の医薬品
業で起こったグローバル化という構造変化は、これまでの競争条件を根底から覆すパラダ
イム転換を帯びたものであった。このような条件でなければ Chandler の支配転換のロジッ
クは成立しないのではないだろうか。
このように特定時代の特定業界の特異な変化は統治構造の変化を誘導したとする本稿の
説はまだまだ萌芽的な仮説に過ぎない。紐解くためには本研究で着手できなかった当事者
認識とその変化をリサーチすることが不可欠となる。
もう一つ Chandler 研究に対し言及すべき点がある。繰り返し述べてきた Chandler の経
営者支配への転換の論理は、アメリカの経済成長を牽引した巨大企業の動向をもとに導か
れた説である。加えて Berle and Means(1932)も分析視角は異なるが同様の現象に着目
したうえで導出した論理である。彼らがみた現実では「多くの株式を持たない同族が経営
に関与する企業」は少数派もしくは皆無であったと推測される。その為、第 1 章で示した
Chandler と Berle and Means(1932)の企業形態にはそれに該当するものがなかった。
一方、これまで明らかにしたように、わが国には「多くの株式を持たない同族が経営に
関与する企業」が見過ごすことの出来ない数存在する。しかもただ存在するだけでなく、
医薬品業ではそれら企業が産業成長の駆動力となっていた。このよう特異な同族関与の形
態は Berle and Means 説および Chandler 説は、わが国の特異な同族関与の形態を説明す
る事が出来ないのである191。
かつて Berle and Means や Chandler が特定時期の米国の状況から導いたように、われ
191
加護野・吉村・上野(2003)や吉村(2007)も同様の形態の同族企業が見過ごすこと
の出来ない数存在すると指摘している。ただ彼らは Berle and Means 説に対する言及で
あった。本研究では Chandler 説に対しても同様の指摘が可能である事が確認された。
139
われはわが国の特定時期の特異な現象を照射し、これまでの企業形態や企業統治論と異な
る論理を導出する必要があると考える。
第 5 節 挑戦者企業群における同族企業存続の意味
医薬品業に多数同族企業が存在した理由は、個々の企業の収益安定化であり、それを形
成し維持してきた取引システムの安定化にあるとした。取引システムの安定化は、それ自
体が外資系医薬品業の参入を阻む障壁の役割が有り、固定的な競争状況であったが故に維
持された。そのような外資系医薬品業の参入を阻んだ障壁はわが国の医薬品業界の競争優
位な戦略グループたる輸入戦略グループの移動障壁でもあった。その中で持田やキッセイ
といった挑戦者企業は、競争を優位に展開するには移動障壁を乗り越える必要があった。
一方、同族関与の終焉は、そのような競争状況の変化を含むグローバル化という構造変
化にあるとした。では医薬品業を取り巻く環境は同じはずなのに、なぜ挑戦者企業群はこ
れまでの成長モデルたる輸入戦略を強化してこなかったのであろうか。また今日、規模の
拡大を目指し対外戦略を強化しないのであろうか。そして競争優位企業群と異なる戦略を
選択する挑戦者企業群はなぜ、近年の構造変化の影響を受け同族関与が終焉しないのだろ
うか。
表 7-1:主要企業の得意薬効とその比率の推移192
武田
塩野義
エーザイ
中外
大日本
山之内
藤沢
第一
三共
小野
あすか
持田
科研
1970~1979
ホル・ビタ・滋養
18.1
抗生物質等
49.8
循環・呼吸
31.2
その他代謝
27.5
中枢神経
29.1
ホル・ビタ・滋養
17.1
抗生物質等
35.8
ホル・ビタ・滋養
25.7
抗生物質等
27.6
消化器
28.1
タンパク質
70.9
酸素
72.0
酸素
26.9
栄研
みらか
―
―
―
キッセイ
―
1980~1989
抗生物質等
16.1
抗生物質等
54.1
循環・呼吸
41.0
抗生物質等
31.0
抗生物質等
21.1
循環・呼吸
27.3
抗生物質等
36.4
ホル・ビタ・滋養
24.2
抗生物質等
33.1
消化器
50.3
ホル・ビタ・滋養
69.3
循環・呼吸
26.9
その他代謝
28.8
診断用
37.2
診断用
51.6
循環(アレル
ギー含む)
52.9
1990~1999
ホル・ビタ・滋養
16.1
抗生物質等
43.2
中枢神経
26.3
血液・体液
29.7
循環・呼吸
20.8
消化器
25.2
抗生物質等
31.7
抗生物質等
30.7
循環・呼吸
35.8
循環器
50.9
ホル・ビタ・滋養
51.7
循環・呼吸
28.8
その他代謝
28.8
診断用
46.3
診断用
66.8
循環(アレル
ギー含む)
48.4
2010
循環・呼吸
41.3
特許収入
20.4
中枢神経
40.2
がん
43.5
循環・呼吸
13.9
アステラス
泌尿器
20.1
第一三共
循環・呼吸
40.2
その他代謝
38.9
その他代謝
31.7
循環・呼吸
66.7
その他代謝
43.5
診断用
54
診断用
79.6
ホルモン
25.8
出所:各社有価証券報告書および公刊資料193をもとに筆者作成
192
傾向をもう少し詳しく見るために、なお追加した小野、みらか、栄研が承認取得した
NCE は存在する。それについては付録資料 4 でまとめている。
193 2010 年度は以下の資料を参照し整理した。ただしそれら資料のほとんどは、これまで
参照した各社有価証券報告書と異なり、いくつかの主要薬効の動向が記述されているの
みで、全体の動向は確認できなかった。そのことからすべての医薬品を総合した数値で
140
まず輸入戦略を強化出来なかった理由は、移動障壁が存在したからである。そのような
制約が存在する中、同グループ内企業は市場や薬効領域を限定することで漸進的な成長を
実現してきた、という特徴がある。表 7-1 は 1970 年から 2010 年までの調査対象各社の製
品ポートフォリオ(期間平均)の抜粋であり、各社で最も販売比率の高い薬効を示したも
のである194。同表を見ると、今日的に輸出比率の低い挑戦者企業群は得意とする薬効に偏
りがある事が読み取れる(例えば持田は循環器系の比率が約 67%、みらかでは診断用薬の
比率が約 80%)
。
以上の結果から、輸出比率の低い企業群は国内という市場の限定化のみならず薬効領域
も限定する傾向があったと言える。よって、挑戦者企業群は市場や薬効領域の拡大を目標
とするゼネラルファーマではなく、それらを限定したスペシャリティファーマを志向し活
動してきたのである。つまり競争優位を維持する為に成長モデルを志向する企業群(現輸
出戦略グループや過去の輸入戦略グループ)と異なる競争を展開しながら漸進的に成長し
てきたと指摘できる。本研究で明らかとなった事は、今日でもそれら企業群は同族による
経営が維持される傾向が強いという事である。
その結果にもとづけば、挑戦者企業群は競争優位企業群と異なり、幅広い薬効の中で特
定の薬効に特化することで独自の強みを形成し安定的に収益を獲得してきた。その状態は、
日本市場がグローバル化され、外資系医薬品業が参入したとしても薄れていない。だから
こそ現在も同族が経営に関与していると言えるのではないだろうか。ただしこのような説
は「誰が社長になっても良い状況」と言及していると解釈され、同族経営者無能説を展開
しているといった批判が考えられる。
エーザイ現社長(2016 年時)の内藤晴夫はそのような批判を代弁するかのように、「製
薬会社は今まで新薬があれば、どんな経営者でも安泰だった。しかし、今後再編の波を生
き残るには、戦略立案能力のある次世代リーダーが必要」(1998 年 1 月 12 日,日本経済
新聞朝刊,13 頁)、と発言している。
挑戦者企業が範囲を限定化し開発を続ける分野は、短期間で製品化可能であり、成功確
率も高く、投資も限定的であるということは考えられない。他の薬効と同様に新規的であ
るほどリスクが高く長期投資を必要とするであろう。ただし市場と製品の範囲を限定し、
特定分野に特化してきた事により、競争優位企業と比してグローバル化という構造変化の
はないことに注意されたい。参考資料は次の通りである。キッセイは 2010 事業報告書、
栄研は 2010 年 3 月期事業報告書、扶桑は 2010 有価証券報告書、小野は平成 22 年 3 月
期決算補足資料、第一三共は 2010 決算補足資料、大日本住友は 2010 決算説明会資料、
アステラスはホームページ内財務業務(http://www.astellas.com/jp/ir/finance/sale
_products.html)
、エーザイはアニュアルレポート 2010、武田はアニュアルレポート 2010、
中外はホームページ内財務・業績」
(http://www.chugai-pharm.co.jp/hc/ss/ir/finance
/revenue_product.html)
、塩野義は決算説明会資料 2010、科研は 2010IR ミーティング
資料、キョーリンは 2010 決算説明会資料、持田は 2011 平成 23 年決算説明会資料、あ
すかは 2011 決算説明会資料。
194 各社の各薬効別比率は付録資料 3 でも示している。そちらも参照されたい。
141
影響が限定的であったと推察される。特に製品を限定化し、資源をそれに集中してきた事
により、他社が真似できない特定薬効の製品開発の知識や技術、そして取引ネットワーク
を有しているからこそ参入が難しいと考える。その特定薬効領域では今なお固有の商慣習
が存在し、他社が容易に入り込む事が難しい障壁となり、そこで活動する医薬品業は安定
的に収益を得る事が出来る、そのような背景があったのではないだろうか。
筒井(2011)によれば、少なくとも眼科領域では簡単に真似できないネットワークが存
在し、それが特定企業の競争優位性を形成していることが明らかとなっている。このよう
に特定の薬効に特化しているからこそ、競争優位な企業も簡単に参入できない取引システ
ムが存在するのではないだろうか。
挑戦者企業は市場や薬効を限定化するスペシャリティファーマであり、なおかつ挑戦者
企業という位置づけから脱却し、多様な薬効を扱い海外市場にも積極的に進出するといっ
た今日の競争優位企業を目指す際、統治構造に揺らぎが生じることも考えられる。そこで
は、挑戦者企業脱却を企図する同族以外の勢力が力を持つ、もしくは同族経営者が挑戦者
企業の脱却を企図するなど様々な統治構造の変化が想定されるが、競争者企業から競争優
位企業への挑戦はこれまでと異なる競争状況を思い描くという点で個々の企業にとっての
参照点の変化と言えよう。
142
第 8 章 結論と課題
第 1 節 結論
本研究では、第 1 章で既存の同族企業研究を概観し、同族企業や同族経営者の特徴や良
し悪しについて検討された研究はあるが、同族企業の維持・終焉にかんする議論があまり
見られない事を指摘した。そして、わずかに存在するその事象に着目した研究を検討した。
その中で Chandler 説の有効性を検討する為に戦略グループ論の知見を活用し分析する意
図を述べた。
第 3 章以降は、同族企業にかんする調査・分析を行った。具体的には、第 3 章では、わ
が国の同族関与の動向を調査した後、医薬品業界をリサーチターゲットと定め、第 4 章で
同業界の特徴について簡単に整理した。そして第 5 章では、戦略グループの知見を活用し、
医薬品業におけるグループ単位の戦略と統治の関係性の変化を分析した。その結果を踏ま
え、第 6 章において医薬品産業の構造変化を明らかにし、第 7 節でリサーチクエスチョン
を紐解くためにいくつかの議論を行った。以上の結果を踏まえ、本研究の結論として次の 4
を提示する。
第一に、既存研究で指摘される同族企業や同族経営者の長期的視野の経営という特性は、
企業成長の観点から有効である。しかし、それを支える収益基盤が不可欠である。本研究
の戦略グループの調査・分析によって輸入医薬品が収益の安定化に大きく寄与した事が明
らかとなった。さらに輸入医薬が企業成長に貢献した時代は同族企業が多い事が明らかと
なった。それら実態を踏まえると、輸入医薬によって堅実な収益構造が維持された安定状
態の下で、同族が長期的にコミットすることにより統治構造の安定化をもたらした。その
安定化が長期的な視野の経営を可能にしたと言える。
第二に、第 6 章で、わが国の医薬品の取引システムが他国と比して特異である事が明ら
かとなった。それは医薬品を作って売るという医薬品業の経営活動の中に組み込まれたシ
ステムであり、医薬品業の収益安定化はそのシステムの存在なくして成立しなかった。そ
の理由として、
卸や医療機関や医師、
そして制度自体が 1990 年以前は極端な変化を回避し、
その中で安定的に収益を得、成長を遂げてきた。つまり取引システムに介在する行為主体
は、現状を維持できれば便益を得ることが出来たのである。よって医薬品業の収益の安定
化は個々の医薬品業の経営活動の成果であるが、その活動は取引システムに埋め込まれて
おり、システムの安定的維持により長期間収益を得る事が出来たと考える。
第三に、20 世紀末、わが国の医薬品業で起こったグローバル化という構造変化は、これ
までの競争条件を根底から覆すパラダイム転換を帯びたものであり、それ以前に起こった
構造変化と異なっていた。これは Chandler が提示した経営者企業への転換ロジックは常に
成立するわけではない。成立条件は構造変化にある。しかも単なる産業構造の変化ではな
く、競争優位企業が「挑戦者企業に陥る」と認知するほどの競争状況の変化を帯びた構造
変化に限定されるのではないだろうか。よって輸出戦略という戦略変化(つまり国際化)
143
が同族企業の終焉を招いたのではなく、輸出戦略への転換を促した制度とシステムの変化、
そして市場の競争状況の変化とその認識(つまりグローバル化)が同族関与の終焉の契機
となったと考える。
最後に、同族終焉の論理についてである。Chandler は、戦略の転換に伴い組織構造が変
化し、その過程で専門経営者が台頭すると説いた。しかもそのような企業がアメリカの経
済成長を牽引したと結論付けた。本研究で明らかとなった事は、わが国には「多くの株式
を持たない同族が経営に関与する企業」が見過ごすことの出来ない数存在する。しかもた
だ存在するだけでなく、特定業界ではその成長の駆動力となっていたのである。このよう
に同族企業研究でよく引用される Chandler 説でもわが国の特異な同族関与の形態を説明
する事が出来ない。
かつて Berle and Means や Chandler が特定時期の米国の状況から導いたように、われ
われはわが国の特定時期の特異な現象を照射し、これまでの企業形態や企業統治論と異な
る論理を導出する必要があると考える。医薬品業を通じて同族企業が特定業界を牽引して
きたことが本研究で明らかとなった。第 3 章の調査結果にもとづけば、上場企業全体を見
てもまだまだ見過ごす事の出来ない同族企業が存在する。諸外国と比して特異だと言われ
る日本的経営については今も昔も活発に議論されている。その特殊性の一端を担ったのは
同族企業であると言える。
以上を踏まえ本研究の貢献はまず、第 3 章でわが国全体の同族企業の動向調査を行い、
第 5 章で同族企業が多い医薬品業を対象とし同族関与と戦略の関係性を分析した。そこで
は同族企業が終焉する戦略グループ(輸出戦略グループ)と同族関与が続く国内中心のグ
ループにわかれる事が明らかとなった。このように、同族関与がなぜ続くのかを明らかに
するために、調査対象を限定化しつつ段階を踏んだ分析により、既存研究にない新たな事
実関係を明らかにした点にある。
続いて、入手可能な公刊資料にもとづき、歴史的動向を踏まえたうえで事実関係を明ら
かにしようと試みた。そこから、同族の特徴とされる長期的な視野による経営が何よって
可能となったのかを具体的に示したことにある。可能となったのは安定的な収益獲得手段
の構築にあり、そしてそれはわが国の医薬品業界独自の取引システムが作り出したもので
ある。このように同族関与の維持・終焉に関する論理は企業レベルの論理と個々の企業が
活動する業界構造レベルの論理がある。
さらに、経時的に企業のポジショニングを調査したことで、競争の優位性を保護する障
壁が移動している事が明らかとなった。これは一時点を切り取った戦略グループ分析では
発見することはできない。そしてこのような取組により、コグニティブな戦略グループ論
が議論する参照点の変化、もしくは Fligstein(1990)が言う世界観が変化、それらが起こ
ったであろう時期が特定された。今後の調査を待つ必要があるが、その道筋は本研究によ
って示されたと考える。
144
第 2 節 今後の課題
一方で、本研究の議論はまだまだ萌芽的な段階であり、さらに戦略グループ研究の知見
を活用した単眼的な分析にとどまっている。本研究および説の精緻化に向け、残された次
の 3 つの課題を克服する必要がある。
第一に、理論と分析枠組みにかんしてである。第 1 章では既存の同族企業研究をレビュ
ーし、第 2 章では同族企業の特定現象を分析する為に戦略グループ論を検討した。その中
でデータ収集が進まないという現状から Fligstein(1990)や加護野(2003)、そしてコグ
ニティブな戦略グループ論の扱いを限定化した。本研究で明らかにした事を踏まえれば、
それら研究を下敷きとし、当事者認識を正面から扱った分析を進める必要があろう。
第二に、いくつかの説を展開したが、わが国の医薬品産業のみ作用するか否かを分析す
る必要がある。つまり本研究の説の一般化であり、それが不足している。本研究の同族終
焉説の核心はグローバル化にある。第 3 章の調査により、わが国の株式市場のグローバル
化と連動し同族企業が減少しているかのような結果が出ている。その事象をもとに分析す
るか否かは今後見定める必要があるが、本研究の結論は現時点で一般化出来ていない限定
的な説である。
最後に、戦略次元の設定のために調査した NCE 承認件数はかなりの労力が必要であった。
一方で、各 NCE がどれほど収益を生んだのか明らかにする事が出来なかった。それにより、
安定的な収益手段は既存研究の解釈を援用したものであり、根拠が乏しいという批判が考
えられる。今後、NCE を含む各医薬品が実際どれだけ収益に貢献したのかを明らかにする
必要があると考える。
145
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Family
Entrepreneurial Orientation”Family Business Review Vol.25 No.2 pp.136-155.
雑誌・新聞・その他
日本経済新聞、日経産業新聞、日経ビジネス、各社公刊資料、厚生労働省資料
155
付録資料 1 調査 1 の対象企業
調査 1 の対象企業は付表 1 の通りである。
付表 1:調査対象企業
順位 業種
会社名
業種
会社名
業種
業種
ブリヂストン
会社名
業種
会社名
第一三共
日本製紙G
住友ゴム
キリン
JFEスチール
三菱マテリアル
3
アステラス製薬
大王製紙
横浜ゴム
アサヒビール
神戸製鋼
住生活グループ
6
7
大正製薬
トーモク
オカモト
明治乳業
大同特殊鋼
8
小林製薬
中越パルプ工業
三ツ星ベルト
森永乳業
愛知製鋼
9
大日本製薬
ザ・パック
鬼怒川ゴム
伊藤ハム
中山製鋼所
フジクラ
10
塩野義製薬
特種東海HD
ニッタ
ニチレイ
淀川製鋼所
日立電線
1
日本郵船
三菱重工業
電通
リコー
凸版印刷
三井不動産
2
商船三井
コマツ
博報堂DYHD
コニカミノルタ
大日本印刷
三菱地所
3
川崎汽船
豊田自動織機
ヤマハ
住友不動産
4
新和海運
石川島播磨
5
6
海 第一中央沖船
運
業 飯野海運
7
栗林商船
ジェイテクト
8
川崎近海汽船
日本精工
オリエンタルランド
島津製作所
岡村製作所
藤和不動産
9
明治海運
日立建機
HIS
セイコー
タカラトミー
東栄住宅
10
乾汽船
ブラザー工業
野村総合研究所
二プロ
リンテック
ジョイントコーポレーション
1
富士写真フイルム
石油資源開発
トヨタ自動車
新日本石油
トピー工業
日本通運
2
三菱ケミカル
日鉄鉱業
シマノ
ヤマトHD
3
住友化学工業
三井松島産業
5
6
7
化
学 三井化学
工 信越化学工業
業
大日本インキ
三菱製紙
北越製紙
機 クボタ
械 ダイキン工業
住友石炭鉱業
鉱 関東天然瓦斯開発
業 中外鉱業
セコム
オリンパス
サ 任天堂
ニコン
精
密 HOYA
機 シチズン
器
テルモ
ADK
ビ
ス 大塚商会
業 ベネッセ
自
動
車
輸
送
機
器
住友金属工業
鉄 日立金属
鋼
業 日新製鋼
本田技研工業
新日鉱HD
日産自動車
東燃ゼネラル
マツダ
コスモ石油
アイシン精機
スズキ自動車工業
石 昭和シェル石油
油 AOCHD
そ
の
他
製
造
業
そ
の
他
輸
送
機
器
バンダイ・ナムコHD
コクヨ
アーク
トッパンフォームズ
古河電気工業
非
鉄 東洋製罐
金 住友金属鉱山
属
日本軽金属
三井金属
東急不動産
不
動 レオパレス21
産 大京
業
東京建物
新明和工業
セイノーHD
日本車輌製造
山九
今仙電機製作所
ニチユ
三菱自動車
富士興産
花王
いすゞ自動車
ニチレキ
ジャムコ
日本梱包運輸倉庫
9
積水化学工業
富士重工業
東亜石油
近畿車輛
トナミ運輸
10
昭和電工
ヤマハ発動機
ユシロ化学
昭和飛行機工業
名鉄運輸
1
旭硝子
イオン
三菱商事
東レ
東日本旅客鉄道
日立製作所
2
太平洋セメント
セブン&アイHD
三井物産
帝人
東海旅客鉄道
パナソニック
3
TOTO
ダイエー
伊藤忠商事
東洋紡績
4
日本電気硝子
ヤマダ電機
住友商事
クラレ
5
窯 日本特殊陶業
業 日本碍子
小 ユニー
売
業 西友
繊 三菱レーヨン
維
業 日清紡績
商 丸紅
社 双日
鉄
道
・
バ
ス
極東開発
陸 日立物流
運
業 福山通運
8
6
共立マテリアル
ゴ 東海ゴム
ム バンド-
ー
旭化成工業
4
紙
・
パ
ル
プ
味の素
食 日本ハム
料
品 山崎製パン
住友電気工業
エーザイ
医 協和発酵工業
薬
品 中外薬品
5
東洋ゴム
新日本製鐵
業種
2
レンゴー
JT
会社名
武田薬品工業
4
王子製紙
会社名
1
センコー
東京急行電鉄
ソニー
西日本旅客鉄道
東芝
近畿日本鉄道
名古屋鉄道
7
日本板硝子
高島屋
豊田通商
ユニチカ
8
住友大阪セメント
三越HD
JFE商事HD
グンゼ
小田急電鉄
三菱電機
9
ニチアス
大丸
メディパルHD
ワコール
阪急電鉄
デンソー
10
日東紡績
伊勢丹
アルフレッサHD
倉敷紡績
京王帝都電鉄
シャープ
1
近鉄エクスプレス
NTT
マルハ
川崎重工業
会社名は分析対象企業のみ2009年時に修正
日新
NTTドコモ
日本水産
三井造船
上組
KDDI
極洋
名村造船所
2
3
4
5
6
7
倉
庫
運
輸
関
連
業
郵船空港サービス
三菱倉庫
キューソー流通
住友倉庫
NTTデータ
通 フジテレビジョン
信 日本テレビ放送網
TBS
8
三井倉庫
テレビ朝日
9
日本トランスシィティー
光通信
10
名港海運
USEN
農
林
水
産
業
ニチロ
サノヤス・ヒシノ名昌
サカタのタネ
造 佐世保重工業
船 内海造船
ホクト
雪国まいたけ
出所:NIKKEI.NET ランキングをもとに筆者作成
156
東武鉄道
電
気 NEC
機 富士通
器
キャノン
付録資料 2 調査 3 補足 1:調査対象企業が承認取得した NCE 数と業績の
と業績の推移
①第一製薬
付表 3-1:第一製薬の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
第一製薬
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
化学療法
血液・体液
循環器
消化器
中枢神経
0
0
0
1
1
2
第一製薬計
1
0
2
0
1
4
計
1
1
0
0
0
2
2
1
2
1
2
8
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
血液体液
診断用
その他代謝性
中枢神経
ホルモン
0
1
0
1
0
2
1
0
1
1
0
3
0
1
0
0
0
1
計
1
2
1
2
0
6
大分類
70~79 80~89 90~99
腫瘍用
循環器
その他代謝
末梢神経
計
0
0
0
1
0
0
1
0
1
1
0
0
1
1
1
1
1
1
2
4
総計
70~79 80~89 90~99
抗生物質
循環器
診断用
中枢神経
末梢神経
2
0
0
3
1
6
0
1
1
0
0
2
計
0 2
2 3
0 1
0 3
0 1
2 10
28
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-1:第一製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移195
40
300,000
百万円
%
営業利益平均(右軸)
売上高平均(右軸)
30
200,000
輸出売上高平均(右軸)
20
中枢神経
100,000
循環・呼吸
10
ホル・ビタ・滋養
抗生物質等
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
診断用
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDS Financial-QUEST および有価証券報告書にもとづき筆者作成
②三共
付表 3-2:三共の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
三共
抗生物質
呼吸器
腫瘍用
循環器
その他代謝
中枢神経
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
2
0
2
1
0
1
1
1
0
2
0
3
0
0
0
1
1
0
計
3 抗生物質
1 循環器
2 中枢神経
4
1
4
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
1
4
1
1
0
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0 1 血液・体液
0 2 公衆衛生
0 4 抗生物質
消化器
ビタミン
末梢神経
0
1
0
0
1
2
0
0
0
1
0
0
2
0
1
0
0
0
2 外皮用
1 寄生動物
1 血液体液
1 抗生物質
1 呼吸器
2 循環器
消化器
その他代謝性
中枢神経
三共計
6
7
2 15
5
2
0 7
4
1
3 8
総計
70~79 80~89 90~99 計
0
1
0
1
0
1
0
0
2
5
1
2
1
1
1
1
0
1
0
8
0
0
0
0
0
0
1
0
1
2
1
3
1
2
1 45
2
1
1
3
15
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-1 では第一の財務データの一つとして売上高薬効比率を取り上げている。後に
他社の同動向も示していくのであるが、有価証券報告書ではいくつかの薬効をまとめそ
の数値が公表されていた(例えば循環器と呼吸器をまとめ 20%など)。そのまとめ方は企
業ごとに異なっていた。本稿では図のラベルの均一化を目的とし、調査対象すべてを調
査した上で、その中でよく選択されているまとめ方を採用し、それにもとづきできる限
り統一した形で記述している。また薬効比率のラベルは紙幅の都合上、短縮した形で記
述しているものがある。正しくは、循環・呼吸が循環器および呼吸器、ホル・ビタ・滋
養がホルモン・ビタミン・滋養強壮、抗生物質等が抗生物質と化学療法剤、生物学的製
剤である。
195
157
付図 3-2:三共の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
40
百万円
%
30
500,000
営業利益平均(右軸)
400,000
売上高平均(右軸)
輸出売上高平均(右軸)
300,000
中枢神経
20
10
200,000
循環・呼吸
100,000
消化器
ホル・ビタ・滋養
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
抗生物質等
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDS Financial-QUEST および各社有価証券報告書にもとづき筆者作成
③藤沢薬品工業
付表 3-3:藤澤の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
藤沢
藤沢計
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
抗生物質
循環器
消化器
その他代謝
中枢神経
ホルモン
末梢神経
1
0
1
0
1
0
1
4
1
1
0
0
0
0
0
2
1
0
0
1
0
1
0
3
計
3
1
1
1
1
1
1
9
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
外皮用
化学療法
感覚器官
抗生物質
呼吸器
循環器
中枢神経
0
1
0
1
2
1
3
8
1
0
1
0
0
0
0
2
計
大分類
70~79 80~89 90~99
0 1 抗生物質
0 1
0 1
1 2
0 2
1 2
0 3
2 12
1
0
0
計
総計
70~79 80~89 90~99
1 アレルギー
化学療法
抗生物質
循環器
消化器
中枢神経
1
0
0
1
計
0
0
3
0
0
0
1
1
0
1
1
1
0
0
0
0
1
1
1
1
3
1
2
2
3
5
2 10
32
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-3:藤澤の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
40
300,000
百万円
%
営業利益(右軸)
売上高(右軸)
30
輸出売上高(右軸)
200,000
中枢神経
20
循環・呼吸
100,000
10
消化器
ホル・ビタ・滋養
0
0
抗生物質等
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
出所:日 NEEDS Financial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
④山之内製薬
付表 3-4:山之内の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
山之内
山之内計
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
抗生物質
呼吸器
循環器
消化器
その他代謝
中枢神経
泌尿器
2
1
1
0
0
0
0
4
2
1
1
1
0
0
0
5
計
0
4
0
2
0
2
1
2
2
2
1
1
1
1
5 14
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
循環器
中枢神経
末梢神経
呼吸器
2
1
0
0
3
1
0
1
0
2
2
0
0
1
3
計
5
1
1
1
大分類
70~79 80~89 90~99
抗生物質
呼吸器
腫瘍用
循環器
その他代謝
中枢神経
8
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
158
計
1
0
0
0
0
0
0
1
1
1
0
1
0
0
0
0
1
0
1
1
1
1
1
1
1
4
1
6
総計
70~79 80~89 90~99
外皮用
抗生物質
腫瘍用
循環器
その他代謝性
中枢神経
泌尿器
0
0
0
1
1
0
0
2
1
2
0
0
1
1
0
5
計
0 1
0 2
1 1
1 2
1 3
0 1
1 1
4 11
39
付図 3-4:山之内の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
30
百万円
%
400,000
営業利益(右軸)
売上高(右軸)
300,000
輸出売上高(右軸)
20
中枢神経
200,000
循環・呼吸
10
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
100,000
消化器
0
ホル・ビタ・滋養(ただし
1990~は泌尿器含む)
抗生物質等
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDS Financial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
⑤武田薬品工業
付表 3-5:武田の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~2009
年~2009 年)196
会社名
大分類
アレルギー
外皮用
抗生物質
呼吸器
腫瘍用
循環器
消化器
診断用
生物学的
その他代謝
中枢神経
泌尿器
ホルモン
武田
武田計
国内単独
輸入単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
70~79 80~89 90~99
0
0
1
1 化学療法
1
0
0
1
0
0
1 循環器
0
1
0
5
2
1
8 診断用
1
0
0
1
1
0
2 その他代謝性
0
1
0
1
0
0
1 中枢神経
2
0
0
2
1
2
5
0
1
1
2
1
0
0
1
0
0
1
1
0
0
2
2
2
1
0
3
0
1
0
1
0
0
1
1
13
7
9 29
4
2
0
大分類
計
1 抗生物質
1 生物学的
1 中枢神経
1
2
国内共同
70~79 80~89 90~99
0
3
0
0
1
0
0
2
0
大分類
計
3 外皮用
1 抗生物質
2 循環器
中枢神経
輸入共同
70~79 80~89 90~99
1
0
0
2
0
0
0
0
1
0
1
0
総計
計
1
2
1
1
46
6
0
6
0
6
3
1
1
5
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-5:武田の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
:武田の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
20
%
百万円
800,000
営業利益(右軸)
売上高(右軸)
600,000
輸出売上高(右軸)
10
400,000
中枢神経
循環・呼吸
200,000
消化器
ホル・ビタ・滋養
0
0
抗生物質等
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
年版)によれば、1990 年の 3 月 30 日に「パンスポリン T
錠」が承認されたと記されている。同薬は、1980 年に日本チバガイギー社と共同で承認
を受けた「パンスポリン注」の剤形変更と考えられ NCE に含めていない。よって武田の
1990 年代の NCE 件数は、筆者の判断で 9 件とした。
196『薬事ハンドブック』
(1991
159
⑥エーザイ
付表 3-6:エーザイの NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
エーザイ
エーザイ
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
循環器
消化器
診断用
その他代謝
中枢神経
ビタミン
泌尿器
末梢神経
エーザイ計
エーザイ化学
エーザイ計
計
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
0
1
1
0
0
0
計
2
2
1
0
0
1
0
1
7
2
1
0
0
0
0
0
1
4
1 5 化学療法
1 4 呼吸器
0 1 診断用
1 1
1 1
0 1
0 0
0 2
4 15
1
0
0
1
2
0
3
7
4
4 15
1
2
0
3
大分類
70~79 80~89 90~99
1 滋養強壮
1 中枢神経
1 ビタミン
0
0
1
1
1
0
総計
計
0
1
0
70~79 80~89 90~99
1 循環器
2 診断用
1 その他代謝性
0
0
0
0
中枢神経
0
0
1
1
計
1
1
0
0
1
1
1
1
27
1
0
1
中枢神経
2
0
2
1
1
2
4
1
5
0
2
2
4
0
2
2
4
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-6:エーザイの売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
50
300,000
百万円
%
営業利益平均(右軸)
40
売上高平均(右軸)
200,000
輸出売上高平均(右軸)
30
中枢神経
20
100,000
10
循環・呼吸
消化器(泌尿器含む)
ホル・ビタ・滋養
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
抗生物質等
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および各社有価証券報告書にもとづき筆者作成
⑦中外製薬
付表 3-7:中外の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
会社名
大分類
血液・体液
呼吸器
腫瘍用
中枢神経
中外
中外計
国内単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
0
2 2 外皮用
1
0
0 1 循環器
2
0
0 2
0
1
0 1
3
1
2 6
輸入単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
1
0
0 1 抗生物質
2
0
0 2 循環器
診断用
その他代謝
3
0
0
3
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99 計
1
0
0 1 中枢神経
0
1
0 1
0
0
1 1
0
1
0 1
1
2
1 4
輸入共同
総計
70~79 80~89 90~99 計
1
0
0 1
14
1
0
0
1
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-7:中外の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
50
百万円
%
200,000
営業利益平均(右軸)
売上高平均(右軸)
40
150,000
30
輸出売上高平均(右軸)
中枢神経
100,000
20
循環・呼吸
消化器
50,000
10
ホル・ビタ・滋養
抗生物質等
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
血液・体液
その他代謝
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および各社有価証券報告書にもとづき筆者作成
160
⑧大日本製薬
付表 3-8:大日本製薬の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
大日本
大日本計
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99
化学療法
循環器
消化器
中枢神経
計
2
0
1
0
1
1
0
1
1
0
1
0
4
1
2
1
3
3
2
8
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
アレルギー
腫瘍用
循環器
消化器
その他代謝性
中枢神経
0
1
1
0
0
4
6
0
0
1
1
1
1
4
計
大分類
70~79 80~89 90~99
1 1 血液・体液
0 1 循環器
1 3 ビタミン
0 1
0 1
0 5
2 12
0
0
1
0
1
0
0
0
0
計
総計
70~79 80~89 90~99
0 循環器
1 中枢神経
1 ホルモン
0
0
0
2
1
1
計
0
0
0
2
1
1
26
1
1
0
2
0
4
0
4
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-8:大日本製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
30
百万円
%
200,000
営業利益平均(右軸)
売上高平均(右軸)
20
輸出売上高平均(右軸)
中枢神経
100,000
循環・呼吸
10
ホル・ビタ・滋養
抗生物質等
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
細胞
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
⑨塩野義
付表 3-9:塩野義の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)197
会社名
大分類
外皮用
抗生物質
腫瘍用
診断用
生物学的
中枢神経
ホルモン
塩野義
塩野義計
塩野香料
国内単独
輸入単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
70~79 80~89 90~99 計
外皮用
1
1
0 2
1
1
0 2
0
1
1 2 化学療法
0
0
0 0
1
0
0 1 抗生物質
1
2
0 3
0
0
1 1 腫瘍用
0
2
0 2
0
1
1 2 循環器
0
1
0 1
0
1
0 1 その他代謝性
0
0
1 1
1
0
0 1 中枢神経
1
0
0 1
ホルモン
0
1
0 1
3
4
3 10
3
7
1 11
国内共同
70~79 80~89 90~99 計
0
0
1 1
0
0
1 1
1
0
1 2
0
0
0 0
0
2
0 2
1
0
0
0
1
ビタミン
その他代謝
泌尿器
塩野フィネス
塩野義計
化学療法
抗生物質
腫瘍用
循環器
消化器
3
4
3 10
3
7
1 11
2
0
0
0
2
3
0
0
0
3
外皮用
化学療法
抗生物質
呼吸器
循環器
生物学的
中枢神経
6
0
0
0
6
輸入共同
70~79 80~89 90~99
0
0
1
1
1
0
1
0
1
1
0
0
0
1
1
0
1
0
1
1
0
総計
計
1
2
2
1
2
1
2
4
4
3 11
4
4
3 11
38
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-9:塩野義の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
60
%
百万円
400,000
50
営業利益(右軸)
売上高(右軸)
300,000
輸出売上高(右軸)
40
中枢神経
30
200,000
循環・呼吸
20
消化器
100,000
10
ホル・ビタ・滋養
抗生物質等
0
0
外皮用
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および各社有価証券報告書にもとづき筆者作成
197
ここでは塩野義のみならず子会社が承認取得した NCE 件数も記している。
161
⑩:科研製薬
付表 3-10:科研製薬(科研化学および科研薬化も含む)の
10:科研製薬(科研化学および科研薬化も含む)の NCE 承認動向198
国内単独
会社名
輸入単独
大分類
国内共同
輸入共同
大分類
70~79 80~89 90~99
消化器
計
総計
70~79 80~89 90~99
計
70~79 80~89 90~99
1
0
0
1 放射性
3
0
0
3
1
0
0
1
3
2
2
0
0
0
0
0
1
1
0
0
0
0
0
3
2
2
1 血液・体液
1 腫瘍用
計
科研化学計
科研薬化
科研薬化計
中枢神経
呼吸器
中枢神経
0
0
0
0
0
0
0
0
中枢神経
ホルモン
外皮用
抗生物質
科研製薬
科研製薬計
3社計
1
0
0
0
5
1
2
2
0
0
2
7
0
1
0
1
0
1
3
3
1
0
1
0
1
0
3
3
70~79 80~89 90~99
計
循環器
消化器
1
1
2
0
0
0
0
0
0
1
1
2
1 外皮用
1 循環器
1
1
1
1
6
6
0
0
1
1
0
0
1
1
0
2
2
2
0
0
2
4
科研化学
18
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-10:科研製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
10:科研製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
50
80,000
百万円
%
営業利益平均(右軸)
売上高平均(右軸)
40
60,000
輸出売上高平均(右軸)
30
40,000
20
20,000
10
0
中枢神経
循環・呼吸
その他代謝
抗生物質等
消化器
0
-20,000
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
外皮用
酸素
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
⑪キッセイ薬品工業
付表 3-11:キッセイの
11:キッセイの NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
会社名
大分類
アレルギー
消化器
国内単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
1
0
1 化学療法
1
0
0
1 血液体液
キッセイ
循環器
泌尿器
キッセイ計
1
1
0
2
輸入単独
70~79 80~89 90~99
0
0
1
0
0
1
1
0
1
0
2
0
1
2
3
大分類
計
1 アレルギー
1 循環器
2
2
6
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
0
1 1 呼吸器
0
1
0 1 中枢神経
0
1
1
2
輸入共同
総計
70~79 80~89 90~99 計
1
0
0 1
0
0
1 1
12
1
0
1
2
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-11:キッセイの売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
11:キッセイの売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
60
百万円
%
60,000
営業利益(右軸)
50
売上高(右軸)
40
40,000
海外売上高(右軸)
中枢神経
30
循環器・アレル
20
20,000
呼吸
10
消化
0
0
泌尿器
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
198
1970 年から 1999 年までの動向である。
162
⑫:持田製薬
付表 3-12:持田の
12:持田の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
会社名
大分類
その他代謝
国内単独
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
1
0 1 アレルギー
持田
持田計
0
1
0
輸入単独
70~79 80~89 90~99 計
0
0
1 1
外皮用
3
0
0 3
抗生物質
0
1
0 1
循環器
1
0
0 1
その他代謝性
0
1
0 1
中枢神経
0
2
0 2
ホルモン
0
1
0 1
1
4
5
1 10
大分類
化学療法
抗生物質
循環器
生物学的
その他代謝
国内共同
大分類
70~79 80~89 90~99 計
0
1
0 1 中枢神経
0
1
0 1
0
0
1 1
0
1
0 1
0
0
1 1
0
3
2
5
輸入共同
総計
70~79 80~89 90~99 計
1
0
0 1
17
1
0
0
1
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-12:持田製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
12:持田製薬の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
80
百万円
%
80,000
70
営業利益平均
売上高平均(右軸)
60
60,000
50
40
40,000
30
輸出売上高平均
(右軸)
循環器
その他代謝
20
20,000
抗生物質等
10
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
酸素
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
⑬あすか製薬(旧帝国臓器製薬)
付表 3-13:帝国臓器およびグレラン製薬の
13:帝国臓器およびグレラン製薬の NCE 承認の動向(1970
承認の動向(1970 年~1999
年~1999 年)
会社名
大分類
グレラン製薬
帝国臓器
消化器
あすか 計
国内単独
70~79 80~89 90~99 計
大分類
循環器
0
0
1
1
0
0
1
1
輸入単独
70~79 80~89 90~99 計
1
0
1 2
1
0
1
大分類
国内共同
70~79 80~89 90~99 計
大分類
中枢神経
2
0
0
0
0
輸入共同
総計
70~79 80~89 90~99 計
0
0
1 1
4
0
0
1 1
出所:
『薬事ハンドブック』(各年版)をもとに筆者作成
付図 3-13:帝国臓器の売
13:帝国臓器の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
:帝国臓器の売上高、営業利益、輸出売上高および売上高薬効比率の推移
70
百万円
%
30,000
営業利益(右軸)
60
50
20,000
売上高(右軸)
40
30
輸出売上高
10,000
20
消化器
10
0
0
1970~
~ 1979
1980~
~ 1989
ホル・滋養
1990~
~ 1999
出所:日経 NEEDSFinancial-QUEST および有価証券報告書(各年)にもとづき筆者作成
163
付録資料 3 調査 3 補足 2:データ収集にかかる特記事項
調査 3 におけるデータ収集(NCE
NEEDSFinancial-QUEST
におけるデータ収集(NCE 以外)にかんしては日経
以外)にかんしては
を用いた。ただしすべての期間においてすべてのデータを得ることができなかった。その
際、以下で説明する資料で抜け落ちた分を補完した。さらにそれでも得られない場合は、
特別な期間平均を導出するなど工夫している。ここでは以上について記述しておく。
① 第一製薬
売上・営業利益は 1978 年から 1989 年まで(1979 年は除く)有価証券報告書を参照。
輸出売上高すべて有価証券報告書を参照。ただし 1972 年から 1976 年まで有価証券報告書
に記載が無かった為不明とし、1970 年代の同値は 1970~1971 年と 1977 年~1978 年の平
均及び合計となっている。
② 三共
売上・営業利益は 1978 年から 1989 年まで有価証券報告書を参照。
輸出売上高すべて有価証券報告書を参照。
③藤澤薬品工業
売上・営業利益は 1978 年から 1989 年まで有価証券報告書を参照
輸出売上高すべて有価証券報告書を参照
③ 山之内製薬
輸出売上高の内、1988 年から 1997 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 76%であった。また
1978 年から 1985 年までの同値は有価証券報告書を参照したが、100%子会社山之内インタ
ーナショナルが海外売上を行っているとの記載をあった。そうしたことから、1970 年代は
同社の 1976 年の海外売上比率約 0.8%をもとに山之内本体の同期間の輸出額を算出した。
④ 武田薬品工業
輸出売上高の内、1981 年から 1997 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 85%であった。
⑤ エーザイ
輸出売上高の内、1991 年から 1997 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 94%であった。
164
⑥ 中外製薬
輸出売上高の内、1984 年から 1997 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 97%であった。
⑦ 大日本製薬
輸出売上高の内、1984 年から 2005 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 91%であった。
また 2006 年から 2007 年までの同値は有価証券報告書を参照したが「海外売上高が連結売
上高の 10%未満のため、海外売上高の記載を省略」と記載有。よって 2005 年の海外売上比
率約 2.4%をもとに同期間の輸出額を算出した。
⑧ 塩野義
輸出売上高の内、1984 年から 1999 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 70%であった。
また 2000 年から 2006 年までの同値は有価証券報告書を参照したが「海外売上高が連結売
上高の 10%未満のため、海外売上高の記載を省略」と記載有。よって 1999 年の海外売上比
率約 1.2%をもとに同期間の輸出額を算出した。
⑨ 科研製薬
輸出売上高の内、1987 年から 2007 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 98%であった。
また 2008 年から 2010 年までの同値は有価証券報告書を参照したが「海外売上高が連結売
上高の 10%未満のため、海外売上高の記載を省略」と記載有。よって 2007 年の海外売上比
率約 7%をもとに同期間の輸出額を算出した。
薬効別比率にかんしては、
1976 年から 1988 年まで消化器系に中枢神経系が含まれている。
⑩ キッセイ薬品工業
輸出売上高の内、1995 年から 1999 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 95%であった。また
1980 年から 1990 年までの同値は有価証券報告書を参照したが記載なし。
よって直近の 1990 年の海外売上比率約 0.2%をもとに同期間の輸出額を算出した。
薬効別比率にかんしては、1980 年代は 1998 年と 1999 年の平均値を採用している。
⑪ 持田製薬
輸出売上高の内 1995 年から 2001 年まで単独決算の値を使用。
ちなみに 1998 年の連結売上高に占める単独売上の比率の平均は約 90%であった。
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また 2009 年と 2010 年は有価証券報告書記載の数値を参照したが「10%未満のため記載な
し」と記載有。そのため 2008 年の輸出比率約 0.4%をもとに算出した。
薬効別比率にかんしては 1974 年以前の記載なし。さらに 1975 年から 1984 年とそれ以降
では薬効の分類枠組みが異なっていた。そのため、ホルモンにかんしては 1970 年代と 1980
年代の数値に連続性がないかもしれない。さらに 1980 年代は 1985 年以降の平均値を採用
している。
⑫ あすか製薬
帝国臓器時代を含め輸出売上高不明。
薬効別にかんしては 1977 年以降、有価証券報告書に記載があったが、1982 年以降の分類
とは異なり、1977 年から 1981 年までは合成医薬や蛋白系医薬品等といった分類がなされ
ていた。そのため 1981 年以前の薬効別比率にかんしては省略。
⑬ みらか HD
輸出売上高の内、1984 年から 1990 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 38%であった。その
間の連結対象の調査を試みたが、有価証券報告書の入手が出来なかったことから、Niikei
Financial Quest のデータをそのまま活用。また 2005 年から 2010 年までの同値は有価証
券報告書を参照したが「10%未満のため、海外売上高の記載を省略」と記載有。よって他社
と同様に 2004 年の売上高輸出比率にもとづき算出しようとしたが、同年の同値は約 15%
であった。よって 2005 年から 2010 年までの輸出比率を 9.9%と定め同期間の輸出額を算出
した。
薬効別比率は 1982 年以降の数値を使用した。
⑭ 栄研化学
輸出売上高の内、1992 年から 2001 年までは単独決算の値を使用。
ちなみに同期間における連結売上高に占める単独売上比率の平均は約 85%であった。また
1970 年から 1991 年、そして 2002 年から 2010 年までの同値は有価証券報告書を参照した
が「10%未満のため、海外売上高の記載を省略」と記載有。よって 1970 年から 1991 年は
1992 年の約 1.7%、そして 2002 年から 2010 年は 2001 年の約 1.1%をもとに同期間の輸出
額を算出。
⑮ 小野薬品工業
特記事項なし
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