経営学総論 第25回講義 2008/07/7 経営者論(3)本田宗一郎 本田宗一郎の経営者としての姿をみて、経営者の役割を考える。 1 出発 ・1945 年 エンジン付き自転車 燃料タンクは湯たんぽ ⇒ ヒット商品に。 ・1948 年 浜松に本田技研工業を創立、従業員 20 人。 激しい競争で、経営は不安定。 ・営業担当の藤沢武夫氏、音の静かなエンジンの開発 藤沢武夫氏とのパートナーシップのあり方;それぞれ の得意分野を、信頼して任せる。 ・1951 年 ドリーム号E型。成功 ⇒ 東京へ進出。 ・続いてF型カブ号。新型工作機械の導入と工場拡大 」 http://www.geocities.co.jp/MotorCit y/2790/honda.html より 2 経営危機から飛躍へ ・1954 年~55 年 特需後の不景気。在庫増加 ⇒ 経営危機へ。 ・宗一郎の対応 イギリスのマン島TTレース出場宣言。世界一のオートバイを目指す。 ・ 「本田技研の全力を結集して栄冠を勝ち取ろう、本田技研の将来は一にかかって諸君の双 肩にある。---TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力す ることを諸君とともに誓う。1954 年 3 月」 ・エンジン開発;当時毎分 5 千回の回転を1万回に引き上げる。 「燃える」研究により、2.5 万回を実現 ・1961 年 TTレース、2クラスで1~5位独占。 ・伊丹氏のコメント;困難に挑戦、キャッチアップでなく世界一。世界一は常に存在し続 ける目標。世界的視野の重要性。 3 オートバイから4輪車へ ・1962 年 4輪車製造を発表。通産省、特定産業振興臨時措置法制定の動き。 ・1963 年 T360軽トラック、続いてS500、S600スポーツカー。 ・アメリカで販売を企図するが時期尚早。 4 CVCCエンジンの開発 ・環境問題が深刻に。自動車の排気ガス、大気汚染。 ・1970 年 大気浄化法(低公害車開発を義務づけ) 自動車メーカーにとって新しく、大 きな問題。低公害車の開発競争。触媒による方法。本田はエンジンそのものを改良。 ・宗一郎;「社会正義として必要」。 ・1972 年 EPA(アメリカ環境保護庁)のテストに合格 ⇒ CIVIC ・アメリカで販売 ⇒ 爆発的人気。 1 5 アメリカでの現地生産 ・オハイオ州に進出。従業員の現地採用、多能工の養成(アメリカでは単能工が普通)。 ・アメリカにおける日本車輸入規制の動き。 ・1982 年 4輪車生産開始、アコード。アメリカ従業員による日本車生産が成功。 ・アメリカ自動車メーカーに大きなショック。 ⇒ ①海外戦略の先見性 ②技術や生産システムに国境なしの信念。 6 引退へ ・1968 年 技術研究所で水冷空冷論争 ⇒ 水冷で決着。 ・1973 年 創業 25 周年記念で引退。 ・伊丹氏のコメント;時代環境;本田氏の時代は恵まれていた。敗戦による既存秩序の崩 壊で伸びる余地が大きかった。しかし利用できる資源は多くはなかった。今は逆だ。 ・宗一郎; 「失敗のない人生はおもしろくない。自分の考えたものを作る、これは愉快なこ とだ。儲けさえすれば良い、というのははかない、非人間的だ。仲良く手がつながって こそ、そこに企業が立つ」 ホンダ・シビック用 CVCC エンジン(ホンダコ レクションホール所蔵)当時世界一厳しく、パ スすることは不可能とまで言われた米国のマ スキー法という排気ガス規制法(1970 年 12 月 発効)の規制値を、最初にクリアしたエンジン である。その功績により「CIVIC CVCC」は SAE(米 国自動車技術者協会)の月刊機関誌 (AUTOMOTIVE ENGINEERING)上で 20 世紀優秀技 術車(Best Engineered Car)の 1970 年代優秀技 術車に選ばれた。 (http://ja.wikipedia.org/wiki/CVCC) 2
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