【経営学論集第 83 集】院生セッション [3]医薬品業における同族企業 ――経営者の承継と戦略の変化の連関―― 滋賀大学大学 藤 野 義 和 【キーワード】同族企業(family business),医薬品業(pharmaceutical company),経営者 (top executive ),戦略の変化(strategic change),産業構造(industrial structure ) 【要約】本稿の目的は,武田薬品工業と塩野義製薬,そしてエーザイを事例に取り上げ,経 営者交代と戦略の変化の関係性を考察し,同族経営者のあり方を議論することにある。 本研究を通して,まず構造転換を迎えた医薬品産業の実態が明らかとなる。その上で,武 田薬品工業と塩野義製薬は同族関与の終焉という企業の歴史な転換を迎えた。特に武田は, 同族経営者が積極的にその転換を主導したと解釈された。一方エーザイは,同族経営者が主 導し常に時代を先取し自己革新を行ってきたことが明らかとなる。エーザイの同族関与の維 持や転換にかんしては,現在進行中の事象であり議論するに留まる。 以上の事例にもとづき,今日でもいわば「チャンドラー・モデル」が有効な組織形態であ ることが確認される一方,Chandler が同文脈で示唆する経営者の専門性の変化を深く追求す ることが同族の維持や転換理由をひも解く鍵となることが確認される。 1. はじめに 本稿の目的は,同族経営者から同族以外の経営者に交代した武田薬品工業(以下,武田と する)と塩野義製薬(以下,塩野義とする),同族終焉の示唆があったエーザイを事例とし, 経営者交代と戦略の変化の関係性の考察し,同族経営者のあり方を議論することにある。 医薬品業に同族企業が多いことはこれまでの研究(例えば,吉村,2007;三戸,1986;2001) が指摘するところである。しかしながら,近年の医薬品業の動向を調査すると同族経営者 の交代が散見された。特に,医療用医薬品を主とした売上高上位企業でその傾向が強いこ とが明らかとなった(1)。例えば,武田は 2003 年に,塩野義は 2008 年に同族経営者が交代 し同族外の経営者が就いた。エーザイは,同族の内藤晴夫氏が同族終焉を示唆する発言を 行っている。なぜ今,医療用医薬品業において同族関与の終焉が起こっているのだろうか。 その理由をひも解く出発点として武田と塩野義,そしてエーザイの事例を見ていく。 近年,医薬品業の産業構造は大きく変化していることはよく知られている。その変化に 対して事例3社はどのような取り組みをしてきたのだろうか。特にその点を明らかにし, それと関連付け同族経営者交代の意味,そして同族経営者のあり方を議論する。 以下,本稿の構成は次のとおりである。まず次節では産業構造の変化を明らかにした後, [3]-1 同族関与終焉の意味探求の出発点として Chandler 研究を検討する。また本稿と Chandler 研究の架橋となる桑島・大東(2008)を検討する。その上で 3 節では,3 社の事例を見てい く。焦点は前述のとおりである。4 節では,3 節で明らかとなった事実関係と Chandler が 説いた経営者の専門性の変化との関係性を議論するとともに,最終節でまとめと今後の課 題を述べる。 2. 医薬品産業の構造変化と同族関与 2-1 医療用医薬品業における産業構造の変化 はじめに,変化前の産業構造を明らかにし,その問題点を指摘する。そして近年の構造 変化を明らかにした後,成長を志向するのであれば,競争ルールの変化した環境に身を置 かなければならなくなった。その点を指摘する。 わが国の医療用医薬品は 1961 年に成立した国民皆保険制度によって活発化した(姉 川,2002)。医薬分業が進展していなかった当時,医師は薬価差の大きな医薬品を大量に処 方し,薬価差を医療機関の収入として確保してきた。それに対応し医薬品業は,高い薬価 を獲得し薬価差を拡大しようとする強い動機が生じ新薬を多く開発した(姉川,2002)。 また薬価差とは異なる理由で,医薬品の普及課程に偏りが見られる傾向があることが指 摘されている。筒井(2011)は,有力な医師が発信する情報や学窓が共有する情報が医薬品 の普及に大きな役割を果たしていることを明らかにした。 他方で,新薬の開発段階で医薬品業は医師や医療機関にその活動が規定される側面があ ることも指摘されている。原(2007)は,三共(現第一三共)の「メバスタチン」の開発の事 例にもとづき,閉鎖的な医学界に新奇的なイノベーションを抑制する外部の社会的プロセ スが存在し,それと連関し同イノベーションを抑制するプロセスが組織内に存在すること 明らかにした。 これらの研究から医薬品は画期的というだけで使用されるのではなく,医師や医療機関 の需要,さらには情報発信力のある医師や情報を共有する集団の選好によって需要が形成 される側面があるといえる。そのような商慣習や構造的要因が寄与し,革新性が低く国際 競争力が乏しく国内でのみ販売される医薬品が大量に開発されてきた(遠藤・田中,1997)。 その代表が抗生物質であった(原,2007)。 戦後,抗生物質は重宝されてきた。なぜなら,抗生物質を投与することによって多くの 死者を出した結核が大幅に減少したからである(シオノギ製薬編,1989)。以降,多種多様の 感染症に対応した抗生物質が開発された。一方で,多量摂取や不適切な使用が社会問題と なっていた(厚生省,1998)。その影響もあり生産額は年々減少した(2)。 さて,わが国の医薬品業は以上のような商慣行や構造の中で成長を遂げてきた。しかし ながら,薬価基準の度重なる改定,そして医薬分業の強化により,その商慣行や構造の転 [3]-2 換期を迎えた。結果として医薬品業は,米国市場を中心とした海外進出,そして画期的な 新薬を継続的に導出しなければ,成長のみならず現状維持することが困難となった。 海外市場に目を向けると,1980 年代から活発化した M&A が繰り返され,その結果,ファ イザーやアストラゼネカといった超巨大な医薬品業が誕生した。それらの企業はスケール メリットを生かし,積極的に研究開発やマーケティングに投資した。海外に進出するなら ば,そのような巨大企業と対等に競争する必要が生じる。しかしながら,わが国で最も多 く医薬品を売り上げている武田でさえ,海外の大手医薬品業と比べると競争力が劣る。ま た,わが国の市場と比してジェネリック医薬品(以下,GE とする)の浸透圧力が強く特許が 切れるとたちまち GE に代替される(3)。海外市場に進出するのであれば,以上のような,い わば競争ルールの異なる市場で,継続的かつ効率的に新薬を導出し続ける必要がある。 新薬の研究開発は 10 年以上の期間を必要とし,その成功確率は 12,000 分の 1 程度と言 われ,きわめて不確実性が高く偶然性に頼る部分が多い(日本製薬工業協会,2006)。さらに, 新たな化合物が生成されるに従い,新薬候補化合物,いわゆるリード化合物につながる未 発見の「シーズ(標的分子)」が不足し,新薬導出の困難性が増している(青井・中村,2003)。 一方で,不確実性や困難性の縮減が期待される技術革新も起こっている。たとえば,バ イオ医薬品や抗体医薬,そしてゲノム情報を活用した創薬技術の台頭がそれに該当する。 新技術を活用することによって,研究と開発の両段階の効率化,未発見の「シーズ(標的分 子)」の効果的な探索,副作用の恐れがある患者を回避した新薬の導出などが期待されてい る (青井・中村,2003)。 また,創薬技術の進化は新たな企業の萌芽に寄与している。例えば,創薬プロセスの一 部に特化した開発受託業や CRO(臨床試験受託業者)等のベンチャー企業(以下,VB とする) の台頭がそれである。既存の医薬品業は,基礎研究や製造,そしてマーケティング活動を アウトソーシングし,また研究機関とのアライアンスによって新薬導出を目指す取り組み がなされている。 2-2 医薬品業と「チャンドラー・モデル」 桑嶋・大東(2008)は 2-1 で検討した構造変化および,医薬品業の歴史的変化プロセスと Chandler 研究の関係性を検討している。 彼らは Chandler(1977)が説いた垂直統合化した巨 大な組織,いわゆる「チャンドラー・モデル」の優位性を検討し次のように解釈した。 第一に,わが国の医薬品業の多くは問屋から始まり,生産機能,研究開発機能を有する 垂直統合型企業となった。そのような歴史的過程は「チャンドラー・モデル」に符合する。 第二に,海外市場参入過程で,マーケティング,生産,研究開発と徐々に機能を追加・拡 大し統合企業へ発展してきた。これも「チャンドラー・モデル」に符合する。第三に,医 薬品業全体を見渡すと,M&A が頻繁に行われ巨大な医薬品業が誕生した。これも「チャン ドラー・モデル」に符合する。他方で,新たに創生した VB や研究機関と互いに関連性を持 [3]-3 ちながら併存している。そのような近年の動向は,チャンドラー・モデルに符合している と言い切れないが,その優位性がなくなったとも解釈できないとしている。 以上の医薬品業の動向にもとづいた「チャンドラー・モデル」の解釈は示唆に富む。他 方で Chandler は,桑島・大東(2008)が援用した同文脈で経営者交代と出自,そして専門性 との関係性も議論している。筆者はその点に着目し,Chandler 研究(4)における同議論を補 足する。 Chandler は,米国の大企業における伝統的企業から現代企業への歴史的成長過程を分析 し,生産機能,流通機能,販売機能,マーケティング機能などを垂直統合し,事業部制を 採用するといった事業構造の転換を図る過程で,複数の職能を統合し管理・調整する経営 階層組織の成立を明らかにする。 経営階層組織とは,工場,事務所,研究所などを管理するロア・マネジメント。そして, 彼らのパフォーマンスに責任を負い,彼らを訓練し,動機づけ,調整・統合・評価をおこ なうミドル・マネジメント。ミドル・マネジメントを採用し動機づけ,彼らの活動を監視・ 調整し,資源配分を行うトップ・マネジメント。以上のような重層的な経営者層の構造を 意味する。 経営階層組織が成立することにより,各階層における活動において知識やスキル,行動 様式が創造され蓄積される。それらを総合したものを人的スキルと Chandler は呼んだ。そ の人的スキルがさらなる束となり企業の発展の原動力となる。それと物的設備を統合した ものを Chandler は組織能力と呼んだ。現代企業における経営者の役割は,その組織能力を 活用し全体が部分の総和以上になるような組織へ統合していくことであるという。 Chandler は,その成立過程で組織能力を活用する主体に特徴があったことを言及してい る。組織能力の活用に長けていたのは株主ではなく,「専門的な俸給経営者」(5)であった。 彼らは,下位層から段階的に昇進し,企業固有の専門知識やスキル,そして情報を蓄積し, なおかつ下位層のマネジャーを有効的に活用する術を身に着けた。 他方で,株主たちはマネジメントに関与しなくなった。その理由は,事業構造が複雑化 しフルタイムで従事しなければ必要な知識,そして情報を収集しそれらを蓄積することが 難しくなった点,そして何よりも株主として巨額の個人所得を保証されていたため企業の マネジメントに拘わる誘因が減少したからであるという。 以上が一般的に「チャンドラー・モデル」と言われる組織構造とその構造を有する企業 の担い手の変化である。前述の通り,桑島・大東(2008)は,わが国の医薬品業を歴史的に 見ていくと, 「チャンドラー・モデル」に依拠した形で成長し,そして今なお VB と協働し ながらその優位性は維持されている,そのように解釈した。筆者も同様の解釈をしている。 他方で,確認したように,Chandler 研究では経営階層組織の成立に伴い,その組織をマネ ジメントする主体が,株主から「専門的な俸給経営者」に移行すると説いている。 「チャンドラー・モデル」の成立後も医薬品業では同族が経営に関与する例が多く存在 [3]-4 した。本稿で取り上げる事例 3 社も同じく「チャンドラー・モデル」に該当するような構 造を有し,医薬品の研究開発から流通まで自己完結可能であった。その企業をこれまでは 同族が担い,近年交代している。また,本来大株主であった同族の持ち株は, 「チャンドラ ー・モデル」が成立する過程で分散し,今ではほとんど株式を保有していない(6)。 さて,同族の出世プロセスは,特別な経路や速度で出世するということは珍しくない(石 井,1996)。そうであるならば,Chandler がいう「専門的な俸給経営者」と出世の経路や速 度が異なる。はたして同族は Chandler が明らかにした組織能力を活用しうる専門性を獲得 可能性であったのだろうか。反対に,姉川(2002),原(2007),筒井(2011)が指摘するよう なわが国固有の産業構造の中では,組織構造として「チャンドラー・モデル」が形成され ていたとしても専門性を必要とせず,そうであるがゆえ,同族の経営関与が維持できた。 そのような考え方もできる。 近年の産業構造の変化と連関する同族終焉の理由は,経営者に求められる専門性に違い が生じたことと関連すると考えられる。繰り返しとなるが,医薬品業は垂直統合型の医薬 品業の優位性は失っていないものの,VB や研究機関と協働することが効率的な新薬の導出 に必要な取組となっている。そこで経営者に求められるものは,Helfat et al., (2007: 邦訳 2010)が言うような、経営者によるコーディネーションやオーケストレーションであ る。 3. 事例 3-1 3 社の業績と業績差が生じた主因 前節ではこれまでの医薬品産業の構造および近年の変化を明らかにした。そしてその変 化と同族関与および「チャンドラー・モデル」との関係性を検討してきた。ここではまず, 各事例の業績等の推移を見ていく。そして次に,その結果に至るプロセスを見ていく。 3 社の売上高,営業利益,海外売上高の推移を表したものが表 1 である。続いて,3 社で 導出された画期的新薬を記述する。それが表 2 である。一方,わが国固有のいわば因習的 新薬の代表とされる抗生物資の各社の依存度を表 3 で示す。 表 1:3 社の業績推移(売上高,営業利益,海外売上高比率) 武田 塩野義 エーザイ 1980 420,316 45,820 N/A 132,622 17,274 N/A 92,024 16,043 N/A 1990 694,339 63,088 N/A 298,550 23,947 N/A 197,274 29,866 N/A 1995 771,667 82,432 13.07% 365,313 24,933 N/A 258,348 39,228 N/A 2000 923,132 171,443 30.35% 400,280 25,421 6.75% 302,470 37,133 26.10% 2005 1,122,960 385,278 47.83% 199,365 28,729 14.75% 533,011 86,807 49.67% 2010 1,465,965 420,212 46.64% 278,502 52,438 35.85% 803,152 86,406 53.24% 注 1)上段:売上高(単位:百万円),中段:営業利益(単位:百万円),下段:海外売上高比率 注 2)下段の「N/A」は不明を意味する。日経 NEEDS から当該年度のデータは入手できなかった。 出所:日経 NEEDS をもとに作成 [3]-5 表 2:高セールスの医薬品 武田 塩野義 エーザイ 表 3:3 社の抗生物質売上高と比率 特許取得年 1989年 1991年 1997年 1999年 一般名 リュープリン タケプロン ブロプレス アクトス 主な用途 前立腺がん治療薬 抗潰瘍剤 高血圧症薬 糖尿病薬 2009年ランク 10 8 1 12 1997年 フロモックス 抗生物質 57 1997年 アリセプト アルツハイマー治療薬 3 1999年 パリエット 抗潰瘍剤 11 注)2009 ランクとは,売上高ランキングを意味する 上段単位:百万円 武田 塩野義 エーザイ 1990 83,733 14% 100,420 47% 6,735 2% 1995 56,142 10% 89,129 37% 6,986 3% 1999 61,514 10% 97,482 45% 5,286 2% 注)上段:売上高,下段:抗生物質/売上高 出所:『薬事ハンドブック(2011 年)』をもとに作成 出所:有価証券報告書をもとに作成 3 つの表から次のことが読み取れる。第一に,武田とエーザイの業績は一貫し上昇してい るが,塩野義は 2005 年に落ち込んでいる。当時の経営者は同族であった。第二に、塩野義 は海外売上高比率が低く抗生物質の依存度が高い。また競争力のある新薬がない。第三に, 武田とエーザイは需要の新薬を導出しており。また、抗生物質の依存度が低い。次にこの ような状況に至るそれぞれのプロセスを具体的に明らかにしていこう。 3-2 武田:画期的新薬の研究開発に向けた資源配分の転換とその背景 武田薬品工業の起源は近江屋長兵衛商店である。近江屋長兵衛商店は,1871 年に薬種仲 買商近江屋喜助商店からのれん分けを許された近江屋長兵衛氏が開業した。初代の近江屋 長兵衛氏から 6 代目長兵衛氏までは武田の同族が経営する同族企業であった。 本事例で着目するのは武田國男氏(以下,國男氏とする)である。彼は,6 代目長兵衛氏 の三男である。國男氏の著書『落ちこぼれタケダを変える』によれば,道修町の商家には 長男を大事にし,内輪の争いが起こらないよう長男を後継にする風習があり(7),家庭では 長兄彰郎氏と分別され育てられ,企業に入っても兄は帝王学を施されるかのように主流の 事業につく傍ら,自身は傍流の事業で一般の従業員と同じように働き,出世にかんしても なんら特別な扱いはなかったことを明らかにしている。 後継候補者ではなく,一般従業員と同様の扱いを受けていた國男氏であったが転機とな る事件が起こる。1980 年,当時副社長であった彰郎氏がジョギング中心臓マヒで倒れ,そ の後亡くなった。さらに父 6 代目長兵衛氏も長男の後を追うように亡くなった。 彰郎氏という後継候補の死去後,同族以外の経営者が 4 代続いた。國男氏が表舞台に登 場するのは,小西氏の強い勧めにより米アボット・ラボラトリーズとの合弁企業「TAP フ ァーマシューティカルズ(以下,TAP とする)」の副社長に就いてからである。それは 1980 年であった。TAP 時代の國男氏の経験および行動が,その後の武田の業績向上に寄与する 新薬開発につながる。 TAP では,武田の主力商品であった抗生物質三品(「タケスリン」, 「パンスポリン」 , 「ベ ストコール」)を米国市場に投入し,米国で製造工場を建設し生産拡大する計画が進行して いた。一方,米国の TAP 内部にはその計画に疑問を抱く声が強かった(武田,2005)。 [3]-6 TAP 副社長であった國男氏は,米国の感染症大家にその計画を相談し助言を求めた。そ して大家から米国における日本の医薬品の評価を知らされた(武田,2005)。そこで知りえた 情報にもとづき國男氏は,本社の取締役会で計画の中止を説いた(8)。結果,計画は中止と なり開発段階にあった「TAP-144」に投資を集中した。後にそれは,前立腺がん治療薬「リ ュープリン」として導出された。 1993 年に 53 歳で國男氏は経営者に就任する。彼が経営者に就任する前後,4 品目の画期 的新薬(前述の「リュープリン」に加え,「タケプロン」,「ブロプレス」,「アクトス」)が 導出された。それらは海外市場進出の戦略的商品と位置づけられ,武田に多くの収益をも たらした。その新薬を国内のみならず海外に販売するため拠点を整備し(9),海外にも研究 開発基盤(10)を整えた。それら新たなインフラ整備は矢継ぎ早に行っている。一方で既存の 組織構造の解体も行っている。リストラや医薬と非関連事業の整理がそれに当たる。 既存構造からの転換には様々な問題が発生する。摩擦を凌ぎながら改革を進める時, 「武 田という名前と,エリート社員にはない型破りの発想が役に立った」(武田,2005,p.130), と國男氏は回顧している。國男氏の改革は,2003 年に経営者に就任した長谷川閑史氏に引 き継がれた。 3-3 塩野義:画期的新薬を手放した背景 塩野義は,初代塩野義三郎氏が 1878 年に起こした塩野義三郎商店を起源とする。塩野義 三郎商店は,塩野屋吉兵衛が起こした薬種仲買商から分家し創業された。初代を引き継い だ 2 代目義三郎氏は男子に恵まれなかった。そのため弟長次郎の長男塩野孝太郎(以下,孝 太郎氏とする)に後を継がせた。それは 1953 年であった。考太郎氏は今日でいう MR の重要 性を認識し,その教育に力を入れた。MR のあり方は「ディテールマン宣言」凝縮されてい る(塩野孝太郎遺稿編集委員会,1990)。その取組の結果,「販売の塩野義」と呼ばれるよう な強い販売体制が築かれた。 孝太郎氏以降,同族以外の経営者が就く時代が何代か続いたのち,1992 年に孝太郎氏の おい塩野芳彦氏(以下,芳彦氏とする)が経営者に就任する。いわゆる「大政奉還」である。 就任した芳彦氏は, 「国内だけなら“販売のシオノギ”で通用するが,海外を舞台に事業を 展開するには研究志向の企業体質が必要」(日経産業新聞,1992 年 6 月 9 日,1 面)と述べ, 自社の現状と対応を示した。一方同紙上では, 「待ってもらえるものならもう少しまってほ しいと一瞬ためらった」と就任時の心境を吐露している。 芳彦氏時代によく売れた新薬は抗生物質「フロモクッス」(1997 年)であった。また画期 的な新薬開発も進行していた。それは開発途中の高脂血症治療薬候補品「S4522」である。 その候補品は前評判が高かった。しかしながら塩野義は,1998 年に英アストラゼネカ社に 開発途中でその権利を供与した。HIV 薬候補「S1153」も同様に米アグロン社に供与した。 芳彦氏は 1999 年に体調不良を理由に塩野元三氏(以下,元三氏とする)と交代する。元三 [3]-7 氏は,1972 年に塩野義に入社後,国内の営業部に所属したのち経営者に登用された。就任 会見において,「10 年前なら喜んで社長を引き受けたところだが」 (日経産業新聞,1999 年 8 月 10 日,12 面)と発言した。以上のような消極的な発言は前任の芳彦氏と同様である。 元三氏就任時の塩野義の業績は低迷していた。ただし向上のきっかけもあった。英アス トラゼネカ社に供与した「S4522」の開発を同社が成功し,2000 年に「クレストール」と して販売にこぎつけたことに関連する。同社との契約で塩野義は,アストラゼネカが販売 する金額に応じてロイヤリティを得るほか,日本市場での販売の権利を獲得していた。 「ク レストール」のロイヤリティと販売収入は塩野義の収益増に大きく貢献した。 塩野義が選択したライセンス供与という判断は, 「グローバル展開可能な販売網の整備コ スト,そして導出の不確実性を考慮した結果」(日経産業新聞, 2008 年 9 月 2 日, 22 面: 元三氏の後を引き継いだ手代木功氏の発言)という背景がある。画期的新薬の芽である 「S4522」や「S1153」を他社に供与した結果,ロイヤリティ収入と研究開発投資等のコス トの削減につながる一方,武田やエーザイのような画期的な新薬を導出することができな かった。そして改革半ばで同族以外の手代木功と 2008 年に交代した。 3-4 エーザイ:継続的な自己革新 エーザイは 1936 年に内藤豊次が田辺元三郎商店在職時に設立した合資会社桜ケ丘研究 所を起源とする。当時,武田や塩野義は小さいながらも研究設備を有する先発企業であっ た。後発のエーザイは先発企業に追いつくためさまざまな取り組みを行った。その一つが 海外視察である。後発であったエーザイは海外から医薬品や技術を導入しようとしたが, 「知名度が低いため,向こうが相手にしてくれなかった」(毎日新聞朝刊,1989 年 7 月 21 日,10 面:内藤祐次氏の発言)。そのような立場であった。売るものがなければ作るしかな く,「他社のマネをしない」(日経ビジネス,1982 年 6 月 28 日号)という理念にもとづき研 究開発に特化していった。 二代目内藤祐次氏の時代には,1982 年に筑波研究所を設立,1987 年にボストン研究所設 立するなど研究開発を強化するため国内外の研究開発体制を整え始めた。そして 1988 年に 長男内藤晴夫氏(以下,晴夫氏とする)に引き継いだ。 晴夫氏は 1948 年に祐次氏の長男として生まれる。米国ノースウエスタン大経営大学院を 卒業し MBA を取得した後, 米国の医薬品業スターリングドラッグ社に入社し MR として働く。 その後,1975 年にエーザイに入社,1983 年に取締役,そして 1988 年に当時 40 歳で経営者 に就任した。就任直後から海外の研究開拠点の整備(11)や販売網(12)の整備を積極的に行った。 晴夫氏就任以降,2 つの画期的新薬(「アリセプト」,「パリエット」)が導出され海外に おける売上が急速に増えた。新薬導出以降も「モルフォテック」(2007 年), 「MGI ファー マ」(2008 年),「アカラックスインク」(2010 年)など優良な医薬品候補をもつ数社の買収 に着手している13。それは効果的な新薬導出を目指した積極的な投資であった。 [3]-8 1988 年に経営者となった晴夫氏は,就任後 20 年以上経過している。そのため, 「そろそ ろ交代の時期ではないか」,「次も一族が社長となるのか」といった問いが出てきてもおか しくない。その点にかんして晴夫氏は,2006 年に「もう,内藤家から社長は出ない。取締 役会でも了承済み」(日経産業新聞,2006 年 1 月 4 日,13 面)と発言した。その発言から, 交代の時期が近く,その交代によって同族企業が終焉するのではないかと騒がれ始めてい る。 晴夫氏は妻その子夫人との間に一男二女をもうけている。長男は現在 20 代(14)であり, 経営者となるには若すぎるであろう。一方で,長女の娘婿アイヴァン・チャン氏(以下,チ ャン氏とする)が執行役としてエーザイで活躍している。彼は晴夫氏の後継者の一人とも言 われている。彼が晴夫氏の後を引き継ぐかどうかは現在のところわからない。 4. 議論 近年の産業構造の変化は,医薬品業すべてが認知する環境変化といっても過言でない。 その環境の変化にたいして,少なくとも事例 3 社はその変化に対応すべく自社の戦略を変 化させてきた。しかしながらその内容と結果は異なる。 まず,業績にかんしては,武田とエーザイは上昇していたが,塩野義は落ち込んでいた。 その業績差の主要因は,国際的に通用する画期的新薬が導出されたか否かである。武田と エーザイは導出されたが,塩野義はそれができなかった。医薬品の研究開発は不確実性が 高い。運に頼る部分も大きいのかもしれない。しかしながら,リスクを選好し挑戦しなけ れば導出することはできない。 エーザイは後発の医薬品業であるが故,創業当初から「他社のマネをしない」という考 え方が浸透し,研究開発に特化した企業体質が継承されてきた。それは 3 代つづく同族経 営者が継承する理念となっている。そのような理念のもとで,産業構造の変化にたいして 自己革新し漸進的基盤を整備してきた。その事実関係から時代に即した専門性を彼ら自身 が積極的に獲得してきたと考えられる。 一方で晴夫氏は同族終焉発言をしている。医薬品業がグローバル化していることは前述 のとおりである。それと同時に株式市場もグローバル化している。内藤発言はそれを意識 したものではないだろうか。その一方で,チャン氏と晴夫氏の娘は婚姻関係にある。その 事実関係から,同族関与が継続されるという見方もある。もし内藤氏が発言とは異なり彼 を経営者とするならば,エーザイにおける M&A 数件で中心的な役割を担った経験もあり(日 経新聞朝刊,2012 年,5 月 16 日,15 面),「専門性を有した経営者に引き継がれた」 ,そのよ うな評価を受けるのではないかと考えられる。 武田や塩野義はどうだったのであろうか。先発の優位性もあり旧来の構造に依拠すると いう側面が強かったと考えられる。武田の場合,抗生物質の依存度はそれほど高くなく, [3]-9 多くの薬効の中の一つという位置づけであったと考えられる。塩野義の場合,抗生物質の 依存度でみる限りわが国固有の商慣行や産業構造に依拠していた。そのように判断できる のではないだろうか。 武田は 1980 年代に米国において抗生物質を大々的に展開しようとしていた。その計画を 中止し資源配分の転換を行ったのは國男氏である。その結果, 「リュープリン」が導出され た。当時の國男氏は経営者でもなくそれ以前に取締役でもなかった。それにもかかわらず 彼の主張は合議された。國男氏自身が言及している通り,その一連のプロセスは同族だか ら成立したのである。言い換えれば,同族であるがゆえに可能となった企業家的な判断で あったと言える。また,TAP での経験,そして同族として特別扱いされてこなかった境遇 もその判断の根幹となる経験であった。結果としてそれらは,冷静に武田という企業をみ る目を養い(武田,2005),企業の伝統の否定,わが国固有の構造からの脱却につながった。 そして国際的な医薬品業として歩み始めた後,同族以外の経営者に交代したのである。 塩野義はどうだっただろうか。繰り返しとなるが,塩野義は抗生物質の依存度が高く, また画期的新薬がなかった。医薬品産業の構造の転換期に経営者であった二人の同族経営 者は,就任時の発言から,リスクを許容する覚悟に欠けていた。そのように言えるのでは ないだろうか。また彼らは国内事業部を中心に出世した。そのため抗生物質を正当に評価 できる情報を獲得することができなかったのではないだろうか。一方で転換点もあった。 これまでの地道な研究開が実を結ぼうとしていた。芳彦氏は、自社でそれを継続し開発す ることを止めた。ここでリスクを恐れず研究開発を継続していれば違った結果となったと 想定される。 組織構造の再定義,最適なアライアンスやアウトソーシングなど外部との協働,そして 企業の買収,それらは今日の医薬品業が効率的に新薬を導出する手段である。その取り組 みに必要な知識は日本市場にとどまっていては得られにくい。商慣行が異なる米国での活 動によって國男氏は,医薬品業に必要なマネジメントとは何かを再定義できたのではない だろうか。それは後継者選抜にも寄与したものと考えられる。いま求められる専門的資質 を有する経営者を選び同族関与を終焉させた。晴生氏も異なる環境に身を置いており,國 男氏と同様のことが言えるかもしれない。 近年の産業構造の変化によって,医薬品業の経営者に求められる専門性が変化した。そ こで求められているのは,外部との協働,場合によっては内部化などのコーディネーショ ンやオーケストレーションである。それは,わが国固有の構造に依拠する形で学習しそれ を蓄積し獲得したこれまでの専門性とは異なっている。医療用医薬品を主とする企業で同 族関与が終焉する傾向がみられた。その理由は,以上のような医薬品業の経営者に求めら れる専門性が変化したからではないだろうか。 [3]-10 5. おわりに わが国における近年の医薬品産業の構造変化は,競争力を維持,向上を目指す医薬品業 にとって大きな転換点を迎えた。そのような環境の変化にさらされた企業では,同族経営 者から同族以外の経営者への交代という企業の歴史的転換が起こっていた。その理由は、 経営者に必要な専門性が変化した。それが本稿における発見である。しかしながら,ひとつ の時代の動向にもとづく事実関係の整理にとどまった解釈であることは本稿の限界である。 株式を保有しない同族経営者の関与がなぜこれまで維持されてきたのか、その理由を理 解するには,わが国固有と指摘した医薬品産業の構造形成過程を知る必要がある。歴史を さかのぼれば,和漢薬から洋薬,技術導入,そして研究開発といった転換が存在する。そ の転換点では経営者に求められた専門性は変化してきたはずである。その専門性を同族が どのように獲得したのか、それを明らかにすることが今後の研究課題である。 紙幅の都合上,調査結果の詳細は 2013 年 3 月に発行される『びわこ経済論集』に譲り,ここでは本文に記述でき (1) なかった事実関係を 3 つ記述しておく。第一に,一般用医薬品(例えば,大正製薬や小林製薬)やジェネリック医薬品 (例えば,ゼリア新薬や日本医薬品工業)を主とする企業では現在も同族が経営者であり,加えて同族の持ち株が多い 傾向がある。第二に,医療用医薬品を主とする企業(例えば,持田薬品や扶桑薬品工業)は同族が経営に関与し,かつ 持ち株が多い傾向がある。第三に,中外製薬は,売上高上位で医療用医薬品を主とする企業であり,かつ同族が経営 者に就く企業である。中外製薬は 2002 年にロッシュ傘下となった。その事実関係から特殊な同族維持のケースと判 断した。なぜ他社との合併を受けいれながら同族の経営関与が続くのか。その点は今後の研究課題としたい。 厚生労働省 HP (http://www.mhlw.go.jp/topics/yakuji/nenpou.html 2012 年 8 月 25 日閲覧)「薬事工業生産動態調 (2) 査年報」によれば,抗生物質の生産額は,1990 年が 6200 億円(総生産額に占める割合:11.15%)であったのに対し, 2010 年には 2400 億円(同:3.54%)となった。 日本ジェネリック協会 HP(http://www.jga.gr.jp/index.htm 2012 年 8 月 10 日閲覧)によれば,わが国の 2009 年度 (3) の GE 比率は約 22%,米国のそれは約 89%であった。 (4) ここでの Chandler 研究の概要は,Chandler(1977:邦訳,1979;1990:邦訳,1993)にもとづく。 (5) 俸給経営者とはサラリーマン経営者を意味する。 (6) 事例における中心的な同族経営者(國男氏,芳彦氏,元三氏,晴夫氏)が就任する前年の同族持ち株を有価証券報告書 にもとづき調査すると,塩野義とエーザイが該当株主なしで,武田は武田科学振興財団が約 2.1%保有するだけであ った。よって,各社とも大株主であるから経営者に選ばれたとは言えない。ただし,有価証券報告書にもとづく上位 10 株主までの調査であり,株主すべてを調査したわけでない。 (7) そのような商慣行はあったようであるが,歴代経営者は必ずしも長男ではない。 國男氏が TAP 計画の変更を本社に申し出たところ経営幹部は全員反対した。内部では抗生物質の販売が好調であり, (8) 医薬品の国内営業が幅を利かせている状態であった。彼らには米国の医薬品市場が日本と異なるという認識が乏しく, 日本と同様に抗生物資の販売が米国市場で拡大するものと考えていた。最終的に,旧経営者の小西新兵衛氏が幹部を 説得し了承された。そのような経緯を國男氏が武田(2005)で回顧している。 (9) 1997 年にイギリス,1998 年に米国,イタリア,フランス,スイスとそれぞれに販売会社を設立し自社販売網の整備 していった。 (10) 1997 年に米国に研究センター設立,1998 年に欧州の研究開発拠点として武田欧州研究開発センターを設立,そし てイギリスに医薬品開発会社を設立した。 (11) 研究開発体制の強化は,1990 年に英ロンドン大学構内に探索研究会社ロンドン研究を設立。ボストンに構えてい た研究所をエーザイ・リサーチ・インスティチュート・オブ・ボストン(ERI)に改称し,1996 年に研究開発部門の中 枢をそこに移転。2009 年にイギリスに欧州戦略拠点「欧州ナレッジセンター」の開設をおこなった。 (12) 販売拠点の整備は,1991 年の香港をはじめ,1995 年に米国,イギリス,ドイツ,1996 年にフランス,1997 年に 韓国,2001 年にスペイン,2004 年にインド,2005 年にイタリア,スイス,スウェーデン,2006 年にポルトガルと 矢継ぎ早に整えた。 [3]-11 (13) 紙幅の都合上、武田と塩野義における企業買収について本文で触れていない。両社はエーザイと同様、買収を行っ ている。ただしそれは,同族以外の経営者に交代した後である。 (14) 1989 年 11 月 18 日の『日経産業新聞』12 面には晴夫氏の家族構成が記述されている。そこでは長男景介 1 歳とな っている。掲載年にもとづけば,彼は現在 25 歳となる(2013 年現在)。 参考文献 Chandler,A.D.(1977)The Visible Hand:The Managerial Revolution in American Business Harvard University Press.(鳥羽欽一郎・小林袈裟治『経営者の時代(上・下)』東洋経済新報社,1979 年) Chandler,A.D.(1990)Scale and Scope:Dynamics of Industrial Capitalism Harvard University Press.(安部悦生・川 辺信雄・工藤章・西牟田祐二・日高千景・山口一臣『スケール・アンド・スコープ:経営力発展の国際比較』理想 社,1993 年) Helfat,C.E. and Finkelstein,S. and Mitchell,W. and Peteraf,M.A. and Singh,H. and Teece,J.D. and Winter,S.G(2007) Dynamic Capabilities:Under standing Strategic Change In Organizations Blackwell Publishers.(谷口和弘・蜂巣旭・川西章弘訳『ダイナミック・ケイパビリティ:組織の戦略変化』勁草書房、2010 年) 青井倫一・中村洋(2003)「アメリカ医薬品市場における外部環境変化と研究開発型製薬企業への影響:日本の制度と研 究開発型製薬企業に対するインプリケーション」 『医療と社会』13 巻 2 号, 85-111 頁。 姉川知史(2002)「日本の医薬品産業:その成功と失敗」 『医療と社会』Vol.12 No.2 49-77 頁。 石井耕(1996)『現代日本の経営者』文眞堂。 遠藤久夫・田中信朗(1997)「わが国の医薬品産業の国際競争力の現状と可能性」 『医療と社会』7 巻 1 号, 46-47 頁。 桑島健一・大東英祐(2008)「日米市場への相互進出と現地適応:医薬品産業メルクと武田」塩見治人・橘川武郎編『日 米企業のグローバル競争:ニューエコノミーと「失われた十年」の再検証』名古屋大学出版。 シオノギ製薬神戸大学特別講座編集委員会編(1989)『シオノギの経営:その強さの秘密』中央経済社。 じほう『薬事ハンドブック(2011 年)』じほう。 武田國男(2005)『落ちこぼれタケダを変える』日本経済新聞社。 筒井万里子(2011)『医薬品普及の知識マネジメント』白桃書房。 日本製薬工業協会(2006)『DATABOOK2006』日本製薬工業協会。 原拓志(2007)「日本の製薬企業におけるイノベーション」日本経営学会編『新時代の企業行動:継続と変化』千倉書房。 三戸浩(1986)「会社支配の発展類型:製薬産業の実証研究」『経濟論叢』137 巻 1 号,120-137 頁。 三戸浩(2001)「製薬会社の所有状況の変容:平成 12 年調査」 『医療と社会』11 巻 1 号,45-57 頁。 吉村典久(2007)『日本の企業統治:神話と実態』NTT 出版。 塩野孝太郎遺稿編集委員会(1990)『塩野孝太郎:人と思想』塩野義製薬株式会社。 厚生省『厚生白書(平成 10 年版)』ぎょうせい。 各種新聞雑誌記事 [3]-12
© Copyright 2024 Paperzz