2004年(第15回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム

2004年(第15回)福岡アジア文化賞 市民フォーラム
歴史と未来が融合する文化遺産
「守るココロは、創るココロ」
芸術・文化賞受賞者 センブクティ・アーラチラゲ・ローランド・シルワ
【日
時】
2004年9月19日(日)
16:00∼18:00
【会
場】
アクロス福岡イベントホール(福岡市中央区天神)
【プログラム】
趣旨説明・出演者紹介
藤原
惠洋(九州大学大学院芸術工学研究院助教授)
パネルディスカッション
・パ ネ リ ス ト : センブクティ・アーラチラゲ・ローランド・シルワ
(芸術・文化賞受賞者)
中川
武(早稲田大学理工学部教授)
村松
伸(東京大学生産技術研究所助教授)
・コーディネーター : 藤原
惠洋
質疑応答
まとめ
藤原
惠洋
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−
Ⅰ
趣旨説明
藤原惠洋 今日は福岡アジア文化賞芸術・文化賞を受賞されましたセンブクティ・
アーラチラゲ・ローランド・シルワ先生を囲み、早稲田大学の中川武先生、東京大
学の村松伸先生に一緒にお話をしていただこうと思います。
歴史と未来が融合する文化遺産、あるいは建造物、いろいろな歴史資産を取り巻
く議論というのは深く広いので、いくつかポイントを絞る必要があると思います。
まずそのひとつとして、シルワ先生に、スリランカという国が一体どれだけの文
化遺産の宝庫なのかをご紹介していただきつつ、なぜこのような研究をするように
なられたのか、あるいはシルワ先生というのはいったいどういう方なのか、そのよ
うな質問を投げかけていくのも面白いのではないかと思います。
さらに本日のメインテーマである世界遺産が、私たちの日々の生活とどのように
繋がっていて、どのようにこれからの未来を創っていく要素となっていくのか。こ
れに関しては、中川先生は日本を代表する研究者、あるいは実践家として、カンボ
ジアをはじめ、ものすごく厳しい現場をリードされながら日本の国際貢献の一翼を
担っておられますので、その立場からいろんなお話を聞かせていただきたいと思い
ます。それから、私たちはそういう遺産を足場にして、現代の都市生活や、近未来
のいろいろな時間や空間を創ろうとしているわけですが、村松先生はそれを繋ぎ止
める近代というアジアの意義を、アジア全体あるいはもっと広い世界から考えてい
らっしゃいますので、その立場から私たちが次の時代への課題をどのように受け止
めたら良いのかをご示唆いただきたいと思っております。さらに世界遺産、文化遺
産をどのように上手にマネージメントしていく時代になってきているのかという議
論にも参加していただきたいと思います。
では最初に、スリランカを私たちに身近なものにしていただくため、シルワ先生
のスリランカでのいろいろな取り組みをご紹介していただけますでしょうか。
Ⅱ
講演(S・ローランド・シルワ)
S・ローランド・シルワ お集まりの皆様、本日はおいでいただきありがとうござ
います。今回、栄えある福岡アジア文化賞芸術・文化賞をいただくにあたり、ここ
にお集まりの福岡市民の皆様に対して心より感謝申し上げます。とりわけ、経済、
テロリズムなどが前面に押し出される現代社会にあって、その陰に追いやられがち
な文化というものを評価する賞は大変ありがたいことだと思います。福岡は文化を
忘れず、その情熱と文化への関心をもって世界の目を覚ます、そのような役割を果
たしているのだと思います。
私が人生をかけて取り組んでいるもの、それは人の心を虜にしてやまない「文化」
です。私は建築学の勉強から始め、考古学に進み、その後、保存科学を学びました。
この建築学、考古学、保存科学という3つの分野を合わせることで、祖先の遺産を
保存し、現代を生きる若者にさらに前進できるような精神とインスピレーションを
与えることができます。過去の精神を踏み台にして、未来へとはばたくのです。こ
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の精神こそが、つまり私がスリランカ政府に対して、また、政府を通じてスリラン
カの若者に対して、スリランカには多くの遺産と過去の人々の多大なる業績の痕跡
があり、そこから知識とインスピレーションを得ることで、未来へと進むことがで
きると伝え続けてきたものなのです。そして、その流れの中でスリランカ文化三角
地帯、つまりゴールデン・トライアングルと呼ばれるものができたのです。ユネス
コからこの地帯での文化遺産保存計画を実施する許可を取り、埋蔵遺産を発掘、保
存、展示し、訪れる人たちが未来へのヒントを得ることができるようにしたのです。
私も含めて、訪問者たちが一番驚くこ
とがあります。これはアジアの地図です。
日本は一部だけしか載っていませんが、
福岡はここです。この地図には多くの赤
い菱形が記されています。これらは「現
代の世界の不思議」の所在地を示すもの
です。「古代の世界の不思議」というもの
を聞かれたことがあると思いますが、こ
の地図にあるのはユネスコが定めている
「現代の世界の不思議」つまり「世界遺
産」の場所です。
アジアでの分布をみると、奇妙なくら
い密集している地域があります。インド
の南ですが、国の形が見えないくらい赤
い菱形でびっしりのところがあります。ここがスリランカです。この小さな島国ス
リランカには7つの世界遺産があります。
これはスリランカの地図です。中央に赤い三角形がありま
す。これが文化三角地帯で3つの重要な都市を繋いでいます。
一番北にあるのがアヌラーダプラです。紀元前5世紀から紀
元 1000 年までの約 1500 年間、首都だった都市です。その後、
三角地帯の東の一角をなすポロンナルワに首都が移ります。
紀元 1000 年から 1300 年までの間です。その後、三角地帯の
最南端の都市、キャンディに遷都されます。この3つの昔の
都市を繋ぐことで、スリランカ文化三角地帯が構成されてい
るのです。さらに、この三角地帯の内側には5つの世界遺産
に登録された都市、つまり、5つの現代の世界の不思議があ
ります。
これらがどうしてユネスコの世界遺産に選ばれたのかを考えていきましょう。ス
リランカ文化三角地帯の保存計画は、スリランカ政府とユネスコが取り組んだプロ
ジェクトですが、その中には6つの小さなプロジェクトがあります。
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まず1つめのプロジェクトです。これはアヌラーダプラ
にあるアバヤギリ大塔と呼ばれるストゥーパ(仏塔)で紀元
前2世紀に建てられたものです。ストゥーパの先端は壊れ
ていますが、そのすぐ下の部分の角度から、当時の先端の
高さは 273 フィート(約 125 メートル)だったと想像できま
す。そして、さらに興味深いことがあります。5世紀には、
ここに 5000 人の僧侶を抱える僧院があったというのです。
中国の僧、法顕をご存知でしょうか。5世紀に彼がこの僧
院に来ています。そして、彼の日記にそのことが記してあ
りました。しかし、私たち科学者、考古学者は、記録にあ
るからといって、それを鵜呑みにするわけにはいきません。探究心があり、真実を
求める日本人のように、私たちもまた情報を確認するのです。そこで、私たちは法
顕の記述を持って僧院の食堂に行きました。そこには 20 メートルもある巨大な石で
できた飯櫃がありました。法顕の記述によると、僧は托鉢用の椀を使うことになっ
ていたので、当時の、つまり5世紀の托鉢用の椀を使って、その巨大な飯櫃に何杯
分が入るかを調べました。すると、ちょうど 5000 杯でした。ですから、当時この僧
院に 5000 人の僧がいたと記した法顕の記述は間違っていなかったのです。
これは2つめのプロジェクトです。これもアヌ
ラーダプラにあるジェータワナ・ラーマヤ大塔と
呼ばれるストゥーパです。先ほどのストゥーパよ
りもさらに高く、404 フィート(約 130 メートル)
です。これはエジプトの最も高いピラミッドに、
あと 79 フィート(約 25 メートル)と迫るほどの高
さです。4世紀にローマ帝国が滅びるまでを古代
と言いますが、このストゥーパはその4世紀の時点では、世界第3位の高さを持つ
建造物でした。1位、2位はいずれもエジプトのピラミッドです。先ほどのアバヤ
ギリにあるストゥーパは、当時の世界第5位の高さになります。このストゥーパが
ある町には、当時の世界第6位の高さを持つストゥーパもあります。ですから、イ
ンドの南、インド洋に浮かぶこの島には、当時、つまり、古代の終焉時にエジプト
と競合するような大型建造物があったということです。
これは3つめのプロジェクトです。これは
ポロンナルワにある 11∼13 世紀頃の大学で
す。ここには付属の病院があり、研究がされ
ていました。そのことが記された記録だけで
なく、
「 病院の敷地内で死んでいる動物を見つ
けた場合は、研究用として病院に持ってくる
こと」という碑文も見つかっています。また、
この大学では灌漑工学が教えられ、灌漑技術者がイランのカシミール地方に送り込
まれたという記録もあります。つまり、人文科学が教えられていたということです。
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これは4つめのプロジェクトです。シギリヤの水庭園
です。5世紀のものですが、アジアで5世紀の水庭園が
残っている例は、他にはないと思います。日本にも古い
庭園がありますが、日本の禅庭は7世紀ぐらいのものだ
と私は理解しています。中国の庭園も、もう少し後世の
ものだと思います。ここを発掘して出てきたのが、この
水庭園です。そして、この水庭園を進んでいくと、その
向こうには高さ約 600 フィート(約 180 メートル)の大
きな岩山があります。なんと、この岩山の頂上には、か
つての王国の宮殿がありました。岩山の側面には王や廷
臣たちが宮殿へ登って行くための階段もあります。
次は5つめのプロジェクトです。これはダンブッラに
ある石窟です。ここは作られた当時は僧たちが住んでい
ましたが、後に仏像が納められた寺となり、天井や壁に
は仏教にまつわる話が描かれています。7∼18 世紀のも
のです。
最後にキャンディです。14∼19 世紀の大乗仏教、小乗
仏教、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教の遺跡を
残しているスリランカ最後の首都です。町の美しさと立
地、様々な宗教や信仰の調和が、この町が重要である理
由です。また、4世紀から始まった有名なペラヘラ祭が
あります。仏歯は主権の象徴、つまり、それ
を持つ者は国の王であるとされ、王は仏歯を
守らなければなりませんでした。そして、毎
年この行事の際に、国中にそれを披露し、町
やそこに住む人たちに祝福を与えたのです。
この4世紀からの伝統は、5世紀にアヌラー
ダプラに住んでいた中国人の僧、法顕によっ
て美しく記述されています。そして、この伝
統は今でもキャンディで受け継がれています。
これが6つめのプロジェクトでした。
ユネスコが、なぜこの地域を「現代の世界の不思議」、つまり、「世界遺産」と呼
ぶに値するものと考えたのかが分かっていただけたと思います。
藤原 ありがとうございました。スリランカの一番中心にある文化三角地帯をかな
り濃密に紹介していただきました。
専門家の間でよく言われることですが、
「文化三角地帯」というネーミングが本当
に素晴らしいですね。実はこれはシルワ先生がネーミングされたものなのです。先
生に、どうやってこの名前を考えついたのかを尋ねたところ、先生は「ユネスコは
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ひとつのプロジェクトにしか予算を出してくれないので、複数同時に予算を出して
もらうためには、ある枠組みを提示しないと上手くお金がおりてこないのです。そ
こで、地図をよく見ていたら、これが三角形の中に上手に配置されていました。よ
し、文化三角地帯と言ってみよう。そうしたらユネスコが複数のプロジェクトに同
時に予算を出してくれるのではないかと思ったのです」と答えられました。結果は
まさにシルワ先生がお考えになったとおりになったわけです。先生は建築学者、考
古学者、保存の実践家としても類い希なる力をお持ちなのですが、それと同時に、
このように物事を大きく捉えて、たくさんの方に分かりやすく伝える力をお持ちで
いらっしゃるようですね。
Ⅲ
パネルディスカッション
藤原 それでは中川先生と村松先生にも、今のシルワ先生のお話をお聞きになって
の感想、あるいはスリランカとの関係、ご自身の専門の立場からのシルワ先生との
接点などをご紹介していただけないでしょうか。
中川武 私は、20 年程前に初めてスリランカに行って調査をしたのですが、その時
にシルワさんにお会いしました。それから今、私はカンボジアのアンコール遺跡の
修復の仕事をしているのですが、そこにもいらっしゃいました。
私がアジアの調査を自分でやりたいと考えて、最初に行ったのがスリランカでし
た。それはなぜかと言いますと、ひとつは、スリランカは北海道ぐらいの大きさで
すが、今紹介されたように多様な性格の文化遺産を持っていること。もうひとつは、
インドは大変巨大で激しいイメージがありますが、スリランカでしたら、ある程度
全体を見ることができるような気がしたからです。
それから、日本は仏教国で大乗仏教が中心ですが、スリランカは大乗仏教もあり
ますが小乗仏教、つまり最も古い仏教の形が、今も国中に大変色濃く残っていると
いうイメージが強くて、仏教を中心にスリランカを見たい、アジアを見たいと思い、
スリランカでは足掛け8年間ぐらい調査をさせていただきました。
今紹介された中で三角形という問題が出ましたが、これはアヌラーダプラが古代
の遺跡、ポロンナルワが中世の遺跡、キャンディが近世の遺跡です。これは日本で
言うと、古代、中世、近世ですが、アジアではこのように明確に歴史的な時代区分
ができそうなところは、そんなに多くはありません。ですから、歴史的な時代区分
ができるという点はスリランカの大きな特徴ではないかと思います。地理的にはス
リランカはインドのすぐ近くにあります。日本も中国大陸のすぐ近くにあります。
日本は世界史的に見ても、古代、中世、近世という歴史的な文化の形態がはっきり
しています。それを連続しながら継続してきた国というのは、実は大変珍しいと思
います。特にアジアの中では、新しい時代でも古代的な性格がずっと続いていたり、
繰り返したりということが多いのです。これが私がスリランカに惹きつけられる一
番大きな理由です。それをシルワさんは巧みに文化三角地帯としてまとめられたの
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だと思いますが、古代、中世、近世というように明確な時代区分ができるという点
でのスリランカと日本との類似性、また、スリランカではなぜそうなってきたのか、
その特徴とは何なのか、その辺のことをぜひお伺いしたいと思います。
シルワ 私は、日本と、中国や韓国など大陸側の国々との間に大きな対比を見出し
ています。同じように島国スリランカも北の方には大陸、つまり、アジア大陸をひ
かえています。ずっと西に行くとイギリスがあり、ここもヨーロッパ大陸に対峙し
ています。私の意見では、これらの島に住む人たち、つまり、日本、イギリス、ス
リランカの人たちには類似性があります。島の文化に対する大陸文化という構図で
す。研究者はもっとこの辺の研究を進めるべきで、歴史的、社会学的、経済的、場
合によっては心理的な側面からの共通点を見ていくべきだと思います。そうすれば、
社会的な歩みの上で非常に面白い類似性が見え、これら3つの大陸対島の共通点を
見出すことができると思います。
中川 大変素晴らしい解釈だと思います。私も近代以降は交通手段や情報手段が発
達して、島国であることと大陸であることとは、あまり違わないと思います。しか
し近世までは、島国で離れていることによって大陸に非常に憧れが発達する、だけ
ど独立もしている。そのことによって違う文化をある程度相対化しながら受け入れ
ることができたと思います。私は日本、スリランカ、イギリス、この対比は思い付
きませんでしたが、大変素晴らしいアイデアだと思います。
藤原 ありがとうございます。意外なところから、日本とスリランカの比較の観点
というものが上がってきました。村松先生、お願いできますでしょうか。
村松伸 中川先生のお話にもありましたけれども、私たち日本人というのは中国大
陸と日本という比較でいつも自分たちの文化というものを考えます。例えば、法隆
寺、世界遺産、日本のものはいろいろありますが、それも常に中国との違いを際立
たせようとしています。例えば、中国は非常に人工的で、日本は自然。中国は激し
く、日本は優しい。あるいは中国は非常に左右対称で、日本はそうではないという
ような比較で、常に日本の建築の美とか文化というものをアイデンティティーとし
て主張するわけです。スリランカもその隣にインドという大きな大陸がありますが、
そのインドの大陸の遺産、建築の遺産、あるいは考古学の遺産に対して、スリラン
カにはどういう特徴があるのでしょうか。
シルワ 重要、かつ、哲学的な質問です。先ほどの大陸の特徴対島国の特徴ですね。
日本の記念物や建造物、また、日本人が創造したものは、中国など大陸に位置する
国々のそれとは対比を成しています。同じことがスリランカと大陸側のインドや南
アジア諸国との関係にも当てはまると思います。対比があるべきなのです。そうで
なかったら世界は同質の人の塊にしか過ぎません。哲学、物事に対する姿勢、社会
学、信念といった面で、大陸に対峙する島国に住む人たちは、大陸とは大きく違う
ものを持っているというのが私の強い信念です。
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私自身も研究をしていく中でこの考えにたどり着きました。イギリスでの学生時
代、イギリスの建築とフランス、ドイツ、北欧の建築がなぜ違うのかを考えました。
同じように自分の国のことも分析するようになりました。スリランカの建築とイン
ドの建築が違うのはなぜか、また、パキスタンやビルマの建築とも違うのはなぜか。
建築を学び始めて2年目に、考古学も専攻するようになったのも、このような疑問
があったからです。
村松 シルワ先生のお名前は「センブクティ・アーラチラゲ・ローランド・シルワ」
とすごく長いですけれど、これはどういう意味なのでしょうか。
シルワ 同じような質問をされたことがあります。スイスの入国審査のときでした。
審査官が同僚に何か耳打ちしているのです。それから2人で何か話し合った後、そ
のうちの1人が「シルワさん、私たちの勉強のために、あなたの名前の読み方を教
えてくださいませんか」と私に頼んだのです。今回も同じようなことで、名前の意
味をお尋ねですね。それならば名前を逆から、つまり後ろの方から説明しなければ
なりません。というのは、名前の幹が後半にあるからです。
まず「アーラチラゲ」から始めましょう。「アーラチ」は「首長」、「ゲ」は「家」
という意味です。つまり「首長の家」という意味になります。一方、
「センブクティ」
は2つの解釈が可能です。ひとつは「センブクティ」という地名に由来するもの。
もうひとつは、もっと霊的な意味合いを持たせるなら「シヴァ」の同義語として解
釈することもできます。ですから「シヴァの家を守る首長」という意味を持たせる
こともできます。もっと人間臭いほうが良いのであれば「センブクティという町の
首長」とすることもできます。どちらにしても 16 世紀からの名前です。
村松
「スリランカ」とはどういう意味なのでしょうか。
シルワ 「スリランカ」とは、インドの南のあの島を言い表す 74 個の名前のひと
つで、一番新しいものです。
「ランカ」という言葉が初めて登場するのは『ラーマー
ヤナ』の中です。
『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』をご存知の方もいらっしゃ
ると思います。どちらも英雄叙事詩で、紀元前 15 世紀に作られたものです。書かれ
たものではなく、口承で父から息子へ、先生から生徒へ語り継がれました。紀元前
4∼3世紀になって初めて文字になりました。
『ラーマーヤナ』は、ラーマ王子とそ
の妻シーター、ランカーの悪魔王ラーヴァナにまつわる伝説物語です。ラーヴァナ
はシーターを奪い、ランカープラに連れていきます。
「ランカープラ」は「ランカー
の町」という意味です。そこで、インドのラーマ王子は、妻を奪還すべく猿の大軍
とともに猿王ハヌマットをランカーに送り込みます。さて、どうやって海を渡った
のでしょうか。著名なスリランカ研究者によると、孔雀のような空を飛ぶマシーン
を使ったというのです。スリランカ航空のマークが孔雀なのは、ここに由来してい
るのです。
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藤原 シルワ先生の人柄が、こういう冗談なのか真面目な説明なのか、それが融合
したお話の中によく出ていますね。シルワ先生はヨーロッパでご自分の学問的基盤
になる勉強をされたわけですよね。考古学にせよ、遺跡保存にせよ、あるいは世界
遺産というようなものの発想にせよ、元々はヨーロッパで始まったものだと思いま
す。ですから、シルワ先生はそのままヨーロッパをご自分の基盤にされて、世界を
股に掛ける研究者、実践家として活動されることもできたのではないかと思います。
しかし、ご自分の出身国スリランカ、あるいはスリランカを含むアジアでその力を
発揮され、特に 1990 年代にアジア人としては初代のイコモス * 委員長になられてか
ら欧州中心主義的な学問や実践の現場をアジアにどんどん引っ張ってこられました。
ヨーロッパで学び、アジアでご自分の力を活かしていらっしゃる。そのようなシル
ワ先生のアジア人としての意識のようなものをお聞かせいただけないでしょうか。
シルワ ある意味で、学ぶことの虜というのが私の答えです。イギリスでの学生時
代は、休暇はできる限りイギリス国外に行きました。結局、イギリスには5年半い
ましたが、その間、ヨーロッパのすべての国に行きました。それは、旅をしたかっ
たからです。旅は私の関心の大部分を占めていました。ただ旅をするのではなく、
行く先々で人と出会い、その社会や文化について学ぶことに関心がありました。そ
の頃の思い出は、これまで読んだどの本よりも私の頭、魂、体に深く染み込んでい
ます。若い頃の経験、それは決して忘れることができないものです。
藤原 なるほど、つまり、アジア人という意識よりも、一人の世界人として地球全
体を俯瞰されるような立場で、若い頃の研鑚をご自分の専門的な力に変えていかれ
たということですね。
Ⅳ
講演(中川武)
藤原 1972 年にユネスコで世界遺産条約が採択されてから、世界の本当の魅力資源
を見つけ出し、守り、そして未来の世界づくりに活かしていこうという動きが世界
中に広がっていきました。ちょうどその前後から、日本はとりわけ木造建築の世界
に類い希な文化があり、その蓄積、技術を持っていますので、それを活かしながら
アジア各国の遺跡保存の現場などに行って、いろいろな貢献を始めるという相互の
濃密な関係が始まってきました。しかし、その際にはひとつひとつの国が持ってい
るアイデンティティー、その国らしさ、あるいは国の主体性、主権、そういったも
のを大切にし合いながら、お互いの力を重ね合わせていくことの難しさがあったの
ではないかと思います。そのことを少し専門的に深めておく必要があると思います
ので、中川先生がご自分の取り組みの中で考えられたこと、あるいは私たちが考え
ておかなければいけないことなどをお話しいただけますでしょうか。
*
国際記念物遺跡会議(International Council on Monuments and Sites(ICOMOS))
8
中川 世界の文化遺産に対する日本の貢献は、ある程度大きくなってきました。日
本は木造の文化遺産については大変な蓄積と保存に対する業績を持っていますので、
その木造建築技術を通して、世界の文化遺産にどのような協力や貢献ができるのか
を考えていきたいと思います。
1990 年頃に、スリランカでユネスコの文化保存事業が始まりましたが、同時にベ
トナムのフエでもユネスコの世界遺産救済国際キャンペーンがありました。1980 年
代に、日本はユネスコ文化遺産保存日本信託基金という文化遺産の保存のために使
う予算を作りました。それを使って協力しようということで、実はこれに最初に呼
応したのが日本でした。
フエは、19 世紀に入って初めてのベトナムの統一王朝、
グエン朝の都です。ベトナム中部の古い都なのですが、
ベトナム政府をはじめ地元の人たちも、ここを日本の京
都のようなところにしたい、そのために文化遺産を大切
にして、保存しながら観光化を進めたいと思っていまし
た。ベトナムという国は大変なエネルギーを持っていま
す。相当の知識、技術も持っています。しかし、日本の
文化財の保存修復研究、技術は大変精度が高いので、そ
れから見ると、やはりベトナムには問題がありました。
特に文化遺産というものは、例えば古代のものと現代
のものはどこが違うのかという点に文化としての、遺産としての価値があると思う
のですが、それを考えるとき、文化遺産は必ず変化してきています。もちろん壊れ
てきますので、だから修復しないといけないのですが、修復した後は必ず変化して
います。例えば、日本の法隆寺は7世紀末から8世紀初めの建物で、十何万本とい
う部材が使われていますが、そのうち創建当時の部材は3本しか残っていません。
しかし、法隆寺が飛鳥時代の建築の文化を伝える重要な遺産であるということは認
識されています。つまり、その時代の歴史、文化的価値を表わす「真実性」が大事
なのです。部材そのものが変わっていても、非常に丁寧に修復しながら現代に伝え
てきたという「真実性」が、日本が世界の文化遺産に対して貢献した概念なのです。
文化遺産は一般的に石造のものが多いのですが、アジアにある木造のものは、や
はり南洋の国ですから腐ってしまって、あまり残らないのです。そうすると、新し
いものに変えたほうが良いという考え方も全くないとは言えません。ところが、グ
エン朝が 19 世紀に作った宮殿を、文化的価値として残すために復元していくとした
ら、そのための復元調査、研究が大変重要になっ
てきます。当然、その当時の技術は既になくなっ
ています。もちろん大工はいますが、当時の技術
は今の技術とは違いますので、その当時の技術を
組織的かつ科学的に調査し、それを精密に大工に
伝える必要があります。これに関しては、日本は
世界的にトップレベルと言える大変素晴らしい業
績を残しています。
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それからもうひとつ、これはもっとも重要なことですが、文化遺産の保存と修復
がどんなに素晴らしいものでも、それだけが孤立してはいけないのです。その町、
地域、そこの人々の生活、あるいは環境をいかに豊かにしていくのかが重要なので
す。それが観光を通してであれ、日常生活の中
であれ、文化遺産の保存と修復が地域の人々に
受け入れられ、人々の生活を活性化し、その上
で文化遺産が大切にされていくことが重要なの
です。そうでなければ、文化遺産の保存と修復
はまだできないという問題があります。ベトナ
ムのフエではまだ修復は始まっておらず、調査
を十数年続けて成果が出てきたので、実際の保
存修復にも進みたいと思っています。
次にカンボジアのことをお話し
しますが、先ほどのユネスコ文化
遺産保存日本信託基金の最初の本
格的な適用例が、カンボジアのア
ンコール遺跡でした。日本が外交
的に大変素晴らしい努力をしたこ
ともあり、1991 年にカンボジアの
和平が成立しました。しかし、い
まイラクなどでも問題になってい
るように、和平が成立しても社会
的な復興ができないと、また戦争が起こることは目に見えています。そこで、国際
的な関心や協力を集めて復興していくために、文化的なものを大事にしようという
ことになりました。つまり、人々の関心が非常に高いカンボジアのアンコール遺跡
を国際協力で修復しながら、国際的な環境の中でカンボジアの復興を進めていく必
要があるということです。あまり知られていないのですが、実はこれは日本が考え
たことなのです。文化遺産の保存、国際協力がその社会の安全を保ち、復興に役立
っていくということが本格的に行われて効果をあげてきたのがアンコール遺跡です。
これは世界的な成功例であると言えます。
ところが、日本はカンボジアに対して、特に石造の遺跡に対しての研究成果をあ
まり持っていませんでした。もちろん日本にも大変高い石の技術はあるのですが、
対象が建物となってくると最初から調査、研究をしなくてはいけませんでした。そ
この場所の文化遺産を最初から研究して、きめ細かく積み上げていく能力は、日本
は大変高いものがあります。特に文化遺産の修復は相互的な技術であり、学問です。
そういうものを組織化し、実際の修復工事として実施していくためには、現場管理
と観光とを両立させなければいけませんが、こういうことは非常に日本に向いてい
ます。文化遺産の保存という概念は近代のヨーロッパが作り上げたものですが、ア
ジアの国々まで行ってきちんとした仕事ができるのは、これはむしろ精神的な理由
によると思うのですが、欧米よりも日本だと思います。
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文化遺産を修復するということは、つ
まり、解体して直さなければいけないと
いうことですが、実はこれを最初に行っ
たのは日本なのです。こちらをご覧くだ
さい。アンコールの遺跡は、このように
砂でできた基礎の上に建てられています。
これを修復する場合にこれまでの近代的
な考え方では、この基礎の構造は弱いの
で、この中に排水管を入れてコンクリー
トで修復するという方法がとられてきま
した。ところが、こういう構造を見たと
き、本当は中に水が入ってきても、それ
を受け入れる考え方があったのではない
か、つまり、中に入った水が蒸発してい
き、長い時間をかけて自然と共にゆっく
りと循環していくという考え方が、こう
いう基礎の構造を生み出したのではないかと考えることができます。そうすると、
これを修復するからといってコンクリートを使ってしまうと、そういう伝統的な考
え方がなくなってしまいます。ですから、オリジナルな技術に固執して、それを大
事にしていくことが保存の意味だと思います。
これは技術だけの問題ではありませ
ん。例えば、アンコール・ワットとい
う壮大な遺跡の配置には、敷地の中心
と、建物の中心という2つの中心軸が
あります。これはなぜかという問題は
これまであまり注目されなかったので
すが、周囲のものを調査していくと、
実はその土地に根差すもの、その土地
に固有なもの、先祖が作り上げたもの
を尊敬する心と、新しいものを受け入
れる心、この2つの心が融合していま
す。そのためにアンコールの建物は皆、
2つの中心軸を持っているのです。
このような伝統的なものと新しいも
のとを調和させる考え方、周辺と馴染
んでくという考え方はアジアにはどこ
にでもあるのですが、特に島国にはそ
ういうものがあります。島国とか周辺
にある国、例えばインドシナというの
はインドとシナの中間にある周辺の国
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という意味で中心の国ではありません。中心の国というのは巨大な文明を作り、近
代に至るまでどんどん変わってきましたが、島国、周辺にある国、中間にある国は
それが残る可能性を持っていました。そして、それが後世に伝えられていきます。
現代から 21 世紀以後は環境といかに調和するか、古いものと新しいものをいかに調
和させるかということが大事だと思います。そういうことを伝えているのが、東南
アジアやインドシナや島国にある文化遺産なのではないかと思います。そして、そ
れらを保存して未来のことを考えていくことが、私たちの非常に重要な課題なので
はないかと思います。
藤原 ありがとうございました。とても重要な示唆をいただくことができました。
意外に見えにくいところなのですが、日本が独自の木造建築の歴史やその蓄積して
きた経験を活かすことによって国際貢献をしていること、そして、その土地全体の
エコロジカルな環境、あるいは循環に馴染んだ方法を見つけ出し、それを技術的に
提供していくことの重要性までお話しいただきました。
Ⅴ
講演(村松伸)
藤原 ヨーロッパにある種の近代化を捉える目線、実際のスタート地点のようなも
のがあり、それが広がっていく中で世界が近代化し、私たちの昨今の暮らしも生ま
れてきたのだと思います。アジアとは何だろう、日本とは何だろうと、私たちが自
分自身を振り返る視点というものも、やはりその中で手に入れたものだと思います。
村松先生はアジアの建築や都市を地球規模で人類史上に位置づけるためにフィー
ルドワークを展開され、さらにアジアの近代化とは何かということを建築や都市の
中で評価し、保存し、再生しようという活動をされていらっしゃいますので、その
内容をご紹介いただけますでしょうか。
村松 世界遺産は世界中のいろいろなところにありますが、やはりヨーロッパに非
常に多くあります。それはなぜかというと、やはり古い文化や古い遺産があるとこ
ろに偏っていたり、あるいはヨーロッパでできた概念なので当然ヨーロッパに偏っ
ていたりするからです。そこで、そうではないところにも世界遺産を広げていくた
めにはどうしたら良いかを、ユネスコとイコモスがいろいろと考えて、もう少し新
しいところ、近代のものも世界遺産にしようという動きが起こっています。
例えば、中国やスリランカなどアジアには植民地になった地域がたくさんありま
す。植民地になった地域の近代というものは、植民地建築だったため、建築物に対
して自分たちのものではなく宗主国のものだという意識があります。しかし、やは
り実際にそれを作ったのは現地の人々であり、また、長い時間そこに建っているの
で、それを自分たちのものにしようということで、私はmAAN * というアジアの
*
modern Asian Architecture Network(アジア近代建築ネットワーク)
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近代建築のネットワークを創りました。地図をご覧くだ
さい、アジアでこのようなところが入っています。ヨー
ロッパ中心ではない力、アフリカ、アジア、南米という
ような植民地の非西洋の近代の遺産について、私たちが
枠組みを作り、それを世界に向けて発信していこうと考
えています。
例えば、これは中国の広東省にある建物です。
これは 20 世紀初頭に 2000 棟ぐらい建てられた
ものですが、古代のものでもなく、中国のもの
でもなく、中国の移民たちによって西洋から入
ってきたものです。こういうものは、これまで
は世界遺産にはならなかったのですが、これを
どういう枠組みで括るかということを考えてい
ます。
その他にも、例えば上海のウォーターフロントにできた建物、それも今までの概
念で言えば西洋人たちが中国に作ったものですが、そういうものも何とかして、世
界の遺産、人類の遺産として位置づけたいと考えています。
藤原 ありがとうございました。シルワ先生が先達の一人として、スリランカ、そ
れからアジア全体、そして世界に影響力を与えるような形で、これまでたくさんの
文化遺産を守り抜かれてきたことが、さらに今後の時代を創っていく可能性に満ち
溢れているということをいろいろな立場からご示唆いただきました。
Ⅵ
質疑応答
藤原 シルワ先生に是非この事を聞きたい、この事を一緒に考えていただきたいと
いうご質問やご意見をお持ちの方はいらっしゃいますでしょうか。
会場
日本の富士山は世界遺産になれるのでしょうか。
シルワ 富士山は、世界遺産に登録されるべきものだと思います。富士山をはじめ、
先ほど中川先生がお話しになったカンボジアのアンコール、そして、まだ世界遺産
に登録されていないミャンマーのバガン、このような場所は既に人々が国際的な価
値を認めています。ですから、これらが登録されていないのならば世界遺産リスト
など破棄しなさいというのが私の意見で、これは既に公の場でもユネスコ・フォー
ラムでも発言しています。これらは重要な遺産ですので、世界遺産に登録されるべ
きものだと思います。富士山の持つ意味は深く、精神性のあるものだと思います。
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中川 世界遺産には2つの意味があって、ひとつはその価値を学び、認めること。
もうひとつは危機を救う、保存のために注意を払うことだと思います。観光もその
ひとつだと思います。しかし、そういう意味では、既に富士山は日本人にとっても
アジアの人々にとっても最も有名なものだと思いますので、世界遺産になったから
急に何かが変わるということはないと思います。もちろん富士山は、日本の政府が
申請すれば世界遺産になると思います。
会場 スリランカでは、シンハラ人とタミル人という2つの民族が歴史的な紛争を
していますが、それはスリランカの文化や世界遺産にどのような影響を与えている
のでしょうか。
中川 シンハラ人とタミル人の問題は非常に複雑なスリランカの歴史、植民地支配
を受けたということも含めて考えていく必要があると思います。元々、異民族ある
いは異宗教の戦争かというと、そうではない面があって、融合しながらやっていた
時期もあるわけですから、それはその国の独自な歴史で簡単には説明できないこと
だと思います。もっとも、文化遺産の保存にとって良いことは何もないと思います。
シルワ 以前にスリランカのプレマダーサ首相に申し上げたことがあるのですが、
科学的な観点から見ると、タミル人とシンハラ人の間には何の民族的対立もありま
せん。例えば、タミル人の骸骨とシンハラ人の骸骨を研究室の台の上に並べて、何
人もの科学者に対し、どちらがシンハラ人で、どちらがタミル人かを尋ねたとする
と、全員が正解にも不正解にもなります。なぜなら、そこにある2つの骸骨には準
存在論的な違いがないからです。また、自然人類学的な観点から見ると、それはど
ちらも骸骨であって、そこに人種的な違いはありません。もっと社会学的な観点か
ら見ると、シンハラ人の死体とタミル人の死体を研究室の台に載せ、自然人類学者
にどちらがシンハラ人で、どちらタミル人かを尋ねても答えることはできないでし
ょう。準存在論的、自然人類学的な違いがないのならば、そこにあるのは文化的な
違いだけです。文化は、有形なものと、宗教、言語、風習、習慣のような無形のも
のとに分けることができます。それだけなのです。風習、習慣という観点から見る
と、北の都ジャフナからタミル人を1人、シンハラの都キャンディからシンハラ人
を1人、そしてスリランカの首都コロンボからタミル人とシンハラ人を1人ずつ、
この4人を見てみると、コロンボの2人は兄弟姉妹のようなもので同じ言語を話し
ます。ジャフナのタミル人とコロンボのタミル人を見ると、そこには大きな文化的
違いがあります。キャンディのシンハラ人とコロンボのシンハラ人を見ると、そこ
にも大きな文化的違いがあります。これはマクロ社会学であり、文化や行動様式な
のです。
人々はこのことを政治的に利用しますが、それは間違っています。それも、ほん
の 100 年ぐらいのことではなく、2500 年もの間、こんなことを続けているのです。
このことを踏まえて、私はオーストラリアで行われたユネスコ 50 周年の会議におけ
るスリランカの文化大臣のスピーチを作成しました。私は、
「多様性の中の統一」と
題されたその会議での文化大臣のスピーチに、
「2000 年にわたる多様性の中の統一」
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というタイトルをつけました。そして、その最後の一文は、「これまでの 2000 年を
多様性の中の統一で生きてきたのであれば、これから先の 2000 年もそれが可能であ
る。政治家たちが、自国の人々、同胞たちの魂と本質を歪んで誇張するのを許して
はいけない」というものでした。これが私の答えです。
村松
福岡にはたくさん文化遺産がありますが、それは世界遺産になるでしょうか。
シルワ シドニー市長の招待でオーストラリアに行ったときに、同じような質問を
されたことがあります。オペラハウスのことを尋ねられたときに、私はいまだに世
界遺産に登録されていないとは驚きだと答えました。福岡に対する答えも同じです。
また、モスクワでも同じような質問を受けました。そこの救世主教会はマルクス
体制下で取り壊され跡地はプールになっていましたが、その後、体制変化により教
会全体が再建されました。その再建された教会の前で取材のカメラを向けられ質問
されたのです。当時、私はイコモス委員長としての答えを求められました。私は、
「あなたにお聞きします。もし、何らかの大惨事が原因でローマのサン・ピエトロ
寺院が崩壊したらどうしますか。もちろん再建するでしょう。もともとが世界遺産
だったのであれば、再建後も当然そうあり続けます。ですからモスクワの救世主教
会も、もしそれが世界遺産になるならば、救世主教会がその原型どおりに修復され
ているならば、つまり、その真実性を保持しているならば、町全体あるいは町のあ
る一部の地区かもしれませんが、きっと世界遺産リストに登録されるでしょう」と
答えました。このような事柄は、現実的、実際的な見方をしなければなりません。
世界遺産とは人間のためにあるのであり、世界遺産のために人間がいるわけではあ
りません。
Ⅶ
まとめ
藤原 シルワ先生、ありがとうございました。シルワ先生を囲み、話はもっと弾む
ところなのですが、このフォーラムのような機会を、また次の機会、次の機会と、
この福岡のまちで創り出していくことが、今私たちに求められていることなのだと
思います。
中川先生のお話にもありましたが、その土地に固有のもの、伝統的なものを尊敬
し、かつ、新しいものを受け止めていくという工夫を各地域がしていて、なおかつ、
文化遺産をマネージメントしていく立場の専門の先生方もそれをきちんと理解した
上で、いろいろな地域社会に大きな貢献をされています。私たちは、この福岡、あ
るいはアジア、地球全体、世界全体でそのことをしっかりと受け止めて、これから
はグローバリゼーションとひとつひとつの地域の魅力を高めていくことを文化の力
で繋いでいくことが重要なのではないかと思います。今日の3人の先生方は、ちょ
うど重なり合うような形で、そのことを私たちに教えていただいたのではないかと
思います。
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福岡は西日本最大級の賑やかなまちとして頑張っていますが、おそらく、これか
らその頑張りの中のひとつとして、文化面での頑張りが求められているのではない
かと思います。今日のフォーラムを通して皆様にもそれを感じ取っていただき、さ
らに福岡アジア文化賞も来年、再来年といろいろな方々の業績を評価しながら、ど
んどん膨らみ、広がり、高まり、さらなる文化面での頑張りを創っていけるように
皆様にもご支援いただければと思います。
以上をもちまして、このフォーラムを終了させていただきます。どうもありがと
うございました。
※本文は、藤原惠洋氏(九州大学大学院芸術工学研究院助教授)をコーディネーターに迎え、第15回福
岡アジア文化賞芸術・文化賞受賞者センブクティ・アーラチラゲ・ローランド・シルワ氏と、中川
武氏(早稲田大学理工学部教授)、村松伸氏(東京大学生産技術研究所助教授)によって語られた内容
をまとめたものです。
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