わが国最初のプラネタリウム

大阪市立科学館研究報告 17, 17-30 (2007)
わが国最初のプラネタリウム
-その導入の歴史と関係した人たち-
加 藤
賢 一
*1
概 要
1937 年 (昭 和 12 年 )、わが国 で最 初 のプラネタリウムを併 設 した大 阪 市 立 電 気 科 学 館 が開 館 し、翌 年
には東 京 に2番 目 のプラネタリウム館 東 日 天 文 館 がオープンし、今 日 に続 くプラネタリウム施 設 の先 駆 け
となった。電 気 科 学 館 は、また、わが国 最 初 の科 学 館 であり、それがプラネタリウムの導 入 と密 接 に関 連 し
ていたし、東 日 天 文 館 誕 生 のきっかけとなった。電 気 科 学 館 は電 気 産 業 の副 産 物 、東 日 天 文 館 はマス
コミ資 本 の副 産 物 であり、伸 び盛 りの産 業 が新 しい時 代 の息 吹 を伝 えるものとしてプラネタリウムは登 場 し、
多 くの人 々に受 け入 れられた。導 入 に際 してのキーマンは電 気 科 学 館 では平 塚 米 次 郎 と木 津 谷 栄 三 郎 、
天 文 界 では山 本 一 清 、東 日 天 文 館 では前 田 久 吉 であった。
1 . はじめに
(Science Center)を明 確 に 分 け、別 の概 念 としてとら
わが国 で最 初 のプラネタリウムは 1937 年 (昭 和 12
えたもので、筆 者 の知 るところわが国 で最 初 の用 例 で
年 )3 月 に開 館 した大 阪 市 立 電 気 科 学 館 に設 置 され
ある。欧 米 では第 二 次 大 戦 後 登 場 した概 念・用 語 であ
たドイツ・ツァイス社 製 Ⅱ型 機 で、同 社 製 プラネタリウム
り、この点 においてわが国 は先 行 していたわけである。
館として世 界で 25 番 目(ツァイス社 資 料 では 24 番 目 、
ただ 、欧 米 では 教 育 目 的 を 前 面 に 掲 げた 施 設 と して
Letsch 1955)であった。電 気 科 学 館は 52 年 間の活 動
科 学 館 が生 まれたのに対 し、科 学 博 物 館 になりきれな
の後 、1989 年(平 成 元 年)5 月 31 日に閉 館 し、大 阪 市
いからという消 極 的 な理 由 からというのはいかにもわが
立 科 学 館にその後を譲った。したがって、2007 年は電
国 らしい事 情 であり、特 徴 であり、また限 界 であったと
気 科 学 館が設 置されて 70 年 、わが国のプラネタリウム
思 う。なお、科 学 館 を名 乗 ったのは確かに電 気 科 学 館
史 70 年に当たる。筆 者は求 めに応じて何 度か電 気 科
が 最 初 だが 、ド イツ 博 物 館 に 代 表 さ れるよう な科 学 の
学 館の歴 史を紹 介 してきたが(加 藤 2001、2003、2004、
原 理を実 物 の機 器や原 理 模 型 、操 作 型 展 示 等 を使っ
2006)、プラネタリウム導 入 の経 緯 と東 日 天 文 館 との関
て紹 介 するという科 学 館 を特 徴 づけている展 示 手 法は
係 についてすっきりしない思 いを抱 いていた。このたび
そこで始 まったことではなく、すでにドイツ博 物 館 誕 生
電 気 科 学 館 70 年を期に資 料をより丁 寧に当たる機 会
の前に棚 橋 源 太 郎 の指 導 により明 治 期 の教 育 博 物 館
を得 て、それより明 確 なイメージを描 けるようになったと
(国 立 科 学 博 物 館の前 身)で展 開されていた(たとえば、
思うのでご紹 介する次 第 である。
椎 名 1988)。これは博 物 館 学 ではなじみのことだが、
電 気 科 学 館 は当 初 電 気 博 物 館 として構 想 された。
棚 橋の先 見 性として改 めて強 調 しておきたい。
しかし、敷 地 が極 めて限 られていたため歴 史 資 料 を断
それはさておき、わが国 初 のプラネタリウムがわが国
念 し、現 状 紹 介 ・未 来 志 向 ・教 育 重 視 型 展 示 で構 成
初 の科 学 館 に設 置 されたこと、2番 目 のプラネタリウム
することにし、博 物 館 という名 称 ではなく科 学 館 を名 乗
が 新 聞 社 を ス ポンサーと して誕 生 した ことはそ の 後 の
った。これは科 学 博 物 館 (Science Museum)と科 学 館
日 本 のプラネタリウム館 の方 向 性 に大 きな影 響 を与 え
たという点 でわが国 の博 物 館 ・科 学 館 史 において重 要
*1
大阪市立科学館 学芸課
E-mail: [email protected]
な意 味 を持 っていると思 う。ここではその視 点 から日 本
初のプラネタリウム導 入 史を紹 介 したい。
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加藤 賢一
家 庭 でもそうした電 化 製 品 が利 用 できるようになった。
2.大 阪 市 立 電 気 科 学 館 前 史
当 時 、大 阪 市 内 にはいくつもの電 気 供 給 会 社 があり、
1923 年(大 正 12 年)、大 阪 市は市 内の電 気 供 給を
販 売 合 戦 を展 開 していた。宇 治 川 電 気 株 式 会 社 や日
担 っていた企 業 の一 つであった大 阪 電 灯 株 式 会 社 を
本 電 力 株 式 会 社 が 大 阪 市 電 気 局 の競 争 相 手 であっ
買 収 し、本 格 的 に電 気 供 給 事 業 に参 入 した。関 東 大
た。販 売 競 争 に勝 つには契 約 家 庭 を増 やすことである。
震 災 の年 である。奇 しくもこの同 じ年 、ドイツではプラネ
それには宣 伝 が欠 かせない。電 気 局 の作 戦 は、市 民 ・
タリウムが発 明 されている。電 灯 の光 で人 工 の星 を作 り、
企 業 等 に電 気 に触 れる機 会 をたくさん提 供 し、電 気 が
モーターで星 の 動 きを 再 現 する現 代 的 なプ ラネタリウ
いかにすばらしいエネルギー源 であるかをアピールす
ムは電 気の実 用 化 なしには考えられない 20 世 紀なら
ることであった。一 度 電 気 の驚 異 を体 験 すれば自 然 に
ではの発 明 品 であり、電 気 時 代 の象 徴 であった。電 気
利 用 者が増 え、使 用 量も増 えるだろうと目 論でいた。
事 業 の 市 営 化 は 大 阪 市 に とって大 事 業 であ ったが 、
そこで、まず、1928 年(昭 和 3 年)秋 、電 灯 市 営 五 周
池 上 四 郎 市 長 、関 一 助 役 のコンビの指 導 により断 行さ
年 を記 念 した大 礼 奉 祝 交 通 電 気 博 覧 会 という大 規 模
れた。この両 者 ならびに関 市 長 になってからの時 代 は
な催 しを 天 王 寺 公 園 で開 催 した 。公 園 内 の 勧 業 館 、
第 一 次 世 界 大 戦 と 日 中 戦 争 の 間 の 比 較 的 安 定 した
市 民 博 物 館 本 館 、旧 住 友 邸 址 から慶 沢 園 までの一 帯
平 和 な時 代 で、7章 で紹 介 するように御 堂 筋 の拡 幅 工
を会 場 に、陸 海 空 の交 通 、照 明 、電 熱 、電 力 、発 電 、
事 などの大 事 業 が 次 々と展 開 された。電 気 事 業 市 営
無 電 、通 信 関 係 から、電 化 農 場 、電 気 衛 生 等 の展 示
化もそうした流れを受けたものだった。
を並べた。
大阪 市 電気 局発 足の頃 、市内の電灯 普及 率は
電 気 局 はたたみかけるように次 に常 設 の宣 伝 館 を計
80%を越 え 、電 気 時 代 と なっていた。エジソンが 白 熱
画 し、1930 年(昭和 5 年)4 月 、電 気 普 及 館を局 舎 内
電 球の研 究を行っていたのは 1880 年 頃のことだから、
にオープンさせた。欧 米 諸 国 では「電 氣 事 業 者 又 は製
それから 40 年 位しかたっていなかった。ラジオ放 送が
造 業 者 の多 くは、競 つて照 明 学 校 や陳 列 所 を開 き」、
1925 年(大 正 14 年)に始 まり、1927 年(昭 和 2 年)、
「需 用 者 に電 氣 智 識 を注 入 して、其 の 福 利 増 進 惹 い
東 芝 は扇 風 機 、アイロン、冷 蔵 庫 等 の販 売 を始 めた。
ては事 業 者 の便 益 を圖 りつ々ある」(電 気 普 及 館 案 内
関 東 大 震 災 での 火 災 の 反 省 か ら電 熱 器 の 利 用 が 伸
パンフより)ので、これに倣 って電 気 普 及 館 を開 設 した
びていた。水 力 発 電 所 が増 えて発 電 能 力がアップし、
のであった。
写 真1.開 館 時の電 気 科 学 館 。南 西から望む
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タイトルタイトルタイトル
市 営 電 気 供 給 事 業は順 調 で、事 業 開 始から 10 年
気 局 が四 ツ橋 側 に建 設 」という文 字 が踊 った。大 阪 日
目 を 迎 えるにあたり、記 念 事 業 と して独 立 した 一 大 サ
日 新 聞は 1935 年(昭 和 10 年)3 月 22 日 号で「・・自
ービス施 設 を建 設 することになった。1932 年 (昭 和 7
慢 は八 層 の"防 空 館 "に・・竣 工 近 き電 気 科 学 館 」の大
年)初めの頃のことだった。8 ヶ月の洋 行から前 年 末に
見 出 しに「電 気 博 物 館 、陳 列 所 の外 に 食 堂 、スケー
帰 国 した木 津 谷 電 灯 部 長 の肝 入 りで計 画 されたもの
ト場も経 営 」との小 見 出 しをつけ、最 後 に「大 大 阪 防 空
であった。大 阪 市 の人 口を見ると、1920 年(大 正 9 年)
陣 の核 心 となるもので、軍 備 上 にも重 大 なる役 割 を演
に 179 万だったものが、10 年 後の 1930 年(昭 和 5 年)
ずるこことなってゐる」と結んだ。また、同 日の大 阪 毎 日
には 248 万、さらに 10 年 後 1940 年(昭和 15 年)には
新 聞 は「我 国 最 初 の 電 気 科 学 館 高 さは大 阪 一 博
330 万と、恐ろしいほど伸びた。大 大 阪と言 われたゆえ
物 館 も設 けて 明 春 一 月 花 々しくデビュ」と見 出 しを付
んである。電 気 需 要 の伸 びは大 都 市 への人 口 集 中 が
け、次 章 に示 す一 次 案 に基 づく電 気 科 学 館 計 画 と
もたらした現 象 だった。こうした経 済 ・社 会 情 勢 を背 景
「屋 上 六 階 の防 空 塔 は第 四 師 団 で管 理 」することを紹
に、普 及 館 に 代 わる独 立 した電 気 普 及 宣 伝 施 設 、す
介 している。すなわち、この当 時 のマスコミのとらえ方 は、
なわち電 気 科 学 館 の建 設が構 想された。
戦 時 体 制 強 化 のためまず防 空 館 という背 の高 い建 物
その計 画が走り初めてまもなく、1933 年(昭 和 8 年)
が構 想 され、その高 さを利 用 した高 層 ビルにかねて提
10 月 、大 阪 市 の電 気 供 給 事 業 満 十 年 記 念 の電 気 博
案 のあった電 気 科 学 館 を入 れて複 合 施 設 とすることに
覧 会 が備 後 町 の堺 筋 館 (元 の白 木 屋 )で開 催 された。
なった、というものであったと思 われる。やがて、軍 事 色
大 阪 中 央 放 送 局 の 応 援 を 得 た 無 線 科 学 館 、開 発 途
が強 まるにつれ、防 空 館 に ついては露 出 を避 けるよう
上 のテレビジョン、発 声 ロボット、オート蓄 音 機 などを呼
になったのであろうか、開 館 間 際 にはプラネタリウムの
び物 にして、電 気 の 面 白 さや驚 異 を余 すところなく 訴
話 題 などが 前 面 に 出 てき て、防 空 館 につ いての 報 道
えた。展 示 の中 には回 転 たまごもあり、大 人 気 を博 して
は少 なくなる。開 館 前 後 に は陸 軍 航 空 本 部 長 の東 久
いた。
邇 稔 彦 (戦 後 最 初 の総 理 大 臣 )や近 衛 文 麿 (1937 年
こう書 くと、いかにも電 気 局 の思 いだけで電 気 科 学 館
6 月 、総 理 大 臣 となり第 一 次 近 衛 内 閣 誕 生 )などの政
が建 設 されたような印 象 を与 えかねないが、電 気 の普
府 ・軍 部 要 人 が来 訪 したのは、電 気 科 学 館 の 建 物 が
及・宣 伝のためだけに高 層 の建 物 が計 画されたのでは
軍との共 用 施 設 であったことが大きく手 伝 っていたと推
なかった。1934 年(昭 和 9 年)2 月 21 日の大 阪 朝 日
察される。
新 聞には「大 防 空 塔 燦 然と 電 気 科 学の殿 堂 市 電
表1.フロア構 成 案の変 遷
一次案
二次案
最終案
決定年月
1933年11月
1935年2月
1935年6月
地階
食堂
同左
一般食堂
1階
市 電の店
同左
同左
2階
貸室
弱電無線館
同左
3階
美 容 室・調 理 室
電力電熱館
同左
4階
大衆浴場
照明館
同左
5階
大食堂
電気原理館
同左
6階
スケートリンク、
スケートリンク、
プラネタリウム
ビヤホール
ビヤホール
7階
スケートリンク観 覧 席
スケートリンク観 覧 席
8階(屋 上)
遊 歩 場 、眺 望 場
遊 歩 場 、眺 望 場
プラネタリウム、事 務 室
9階(屋 上)
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遊 歩 場 、眺 望 場
塔 屋5階
防 空 参 考 館 、防 空 施 設
同左
同左
プラネタリウム、
休 憩 室 、売 店
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加藤 賢一
3 . 変 転 した電
した 電 気 科 学 館 建 設 計 画
の末
電 気 科 学 館の構 成 案は 2 度の修 正を経 て最 終 案と
なった(表 1、2 参 照)。
1933 年(昭 和 8 年)、大 阪 府に対 し建 築 認 可 申 請 書
が提 出 された。この当 初 案 をここでは一 次 案 と呼 んで
おこう。そこには、地 階 食 堂 、1 階 市 電の店、2 階 貸 室 、
3 階 美 容 室・調 理 室 、4 階 大 衆 浴 場 、5 階 大 食 堂 、6
階 スケートリンク(夏 はビヤホール)、という計 画 が 記 さ
れていた。確 かに「電 気 応 用 の範 を示 して、電 気 利 用
の極 地を実 地に行くもの」(電 気 科 学 館 20 年 史、小 畠
1957)には 違 いが なかった 。だが 、娯 楽 ・ 慰 安 の 色 彩
が濃く、決して教 育や職 業 訓 練が目 的 ではなかった。
この一 次 案に対 し、1935 年(昭 和 10 年)2 月、2 階
から 5 階 までを電 気 関 係の展 示へ変 更 することになっ
た。これは当 時 の電 気 局 長 平 塚 米 次 郎 の英 断 による
とされている。その後 の平 塚 の電 気 科 学 館 への並 々な
らぬ力 の入 れようを見 るとあながち間 違 いでもないと思
われる。しかし、この時 点 でも 6~7 階 はスケートリンク
案のままであった。これが二 次 案 である。
それが 2 ヶ月 後の 1935 年(昭 和 10 年)4 月になると
「大 阪 電 気 科 学 館 に珍 しい遊 星 儀 電 気 応 用 の極
致」という見 出 しの新 聞 記 事 が発 表される。スケートリン
クがプラネタリウムに交 代し、7 階 建てが 8 階へと変 更さ
れたのである。そして、これが最 終 案となった。
二 次 案 はさしたる異 論 もなく、すんなりと認 められたも
のの、最 終 案 はプラネタリウム導 入 という大 きな予 算 と
写 真2.一 次 案を伝える大 阪 日々新 聞 。
大 幅 な設 計 変 更 を伴 うものであり、市 議 会 で大 変 な論
1935 年 3 月 22 日 号
議 が交 わされ、マスコミの格 好 の話 題 となった。議 会 で
は委 員 会 を延 長 しての審 議 となり、ようやく 1 ヶ月 後 、
「大 阪 城 再 建 の例 もあり、結 局 儲 かる事 業 である」とい
裔 にあ たる 羽 間 平 三 郎 議 員 であった 。江 戸 末 期 、間
ういかにも大 阪 らしい理 由 づけで了 承 された。しかし、
家 は質 屋 を 生 業 とし、大 き な商 売 をしていたが、明 治
市 は購 入 資 金 を出 さないばかりか、ご丁 寧 に「元 利 償
に入 り何 かと不 自 由 になり、子 孫 も途 絶 え、間 重 富 関
還 後 の収 益 金 は本 市 普 通 経 済 に繰 り入 れること」とい
連 資 料 は散 逸 していた。それを再び買 い戻 し、現 在 見
う付 帯 条 件 付 きであった。そこで、電 気 局 はプラネタリ
られる羽 間 文 庫 (大 阪 市 立 歴 史 博 物 館 所 蔵 )としてま
ウムの輸 入 を担 当 した三 井 物 産 大 阪 支 店 から借 金 し
とめあげた功 労 者 がこの羽 間 平 三 郎 氏 であり、たまた
て購 入 し、入 場 料 で償 還 す ることにした。確 かに形 式
ま 1935 年(昭和 10 年)頃、市 会 議 員をしていたのであ
上 はこの通 りであったが、市 議 会 も電 気 局 首 脳 陣 も額
った(小 畠 1957)。羽 間 議 員はまた、東 京 科 学 博 物 館
面 どおりに 入 場 料 だけで完 済 できると思 っていたとは
が収 集 していたプラネタリウム関 係 資 料 の 調 査 にあた
考 えにくく、急 遽 浮 上 したプラネタリウム設 置 案 を円 満
った(羽 間 1937)。
に通 すための方 便 であったとしか思 えない。ともあれ、
このようにして、当 初 、娯 楽 ・慰 安 を目 的 としたいわば
こうして、7 年 で償 還 する計 画 が立 てられた。これは 1
レジャー施 設 案 が、科 学 系 博 物 館 へと大きくシフトした
日 平 均 1000 人の入 場 者 数 に相 当する数 字 であり、ラ
の であっ た 。も し一 次 案 で すん なり 進 ん でいれ ば 、 後
ンニングコストを無 視 したとしても容 易ならざる数 字 であ
述 するように東 京 でのプラネタリウム導 入 も遅 れていた
る。結 局 、3 年 後 、電 灯 事 業 の収 益 余 剰 金から残 額を
はずである。ここで大 きく舵 を切 ったことがわが国 のプ
返 済 して一 段 落 した。
ラネタリウム史 に 決 定 的 に 大 きな影 響 を 与 えたのだっ
なお、プラネタリウム導 入 案 に反 対 する議 員 が少 なく
た。
表 2 には開 館 前 後のおもなできごとを年 表にまとめて
ない中 で賛 成 の立 場 から建 設 促 進 の先 方 に立 ったの
は、あの江 戸 期 の暦 学 者 間 重 富 (1756-1816)の傍 系
おいた。
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タイトルタイトルタイトル
表2.電 気 科 学 館 年 表
年月
できごと
1914 年
関 一(1873-1935)、大 阪 市 助 役に。市 長 池 上 四 郎(秋 篠 宮 紀 子 様 の曽 祖 父)
1923 年 10 月
大阪市電気局発足
1923 年 11 月
関 一 、第 七 代 大 阪 市 長に
1928 年 11 月
電 灯 市 営 5 周 年ならびに電 気 軌 道 創 業 25 周 年 記 念 博 覧 会
1930 年 4 月
電 気 普 及 館 オープン
1931 年 3-11 月
木 津 谷 電 灯 部 長 、欧 米 視 察
1932 年 7 月
電 気 科 学 館 建 設 委 員 会 設 置(伊 藤 奎 二 氏 他 外 部 委 員 9名)
1933 年 5 月
電 気 科 学 館 陳 列 実 務 委 員 会 設 置(電 気 局 電 灯 部 普 及 係が中 心)
1933 年 9-10 月
電灯市営十周年記念電気科学博覧会
1933 年 11 月
電 気 科 学 館 建 設 認 可 申 請 (一 次 案)
1933 年 12 月
電気科学館建設認可
1934 年 5 月
電気科学館起工式
1934 年 9 月
第 一 次 室 戸 台 風 で関 西 大 風 水 害 、建 設 中の電 気 科 学 館も被 災
1935 年 1 月
電 気 局 内 に電 気 科 学 館 開 設 準 備 委 員 会 設 置 (委 員 長 :木 津 谷 電 灯 部 長 、幹 事 長 :小
畠 康 郎 普 及 係 長)
1935 年 1 月
関 市 長 辞 任 、2 月 、加々美 第 八 代 大 阪 市 長 就 任
1935 年 2 月
二次案決定
1935 年 2 月
小 畠 係 長 、花 山 天 文 台に山 本 一 清を訪ねる
1935 年 4 月
プラネタリウム併 設 案(最 終 案)提 案
1935 年 6 月
プラネタリウム併 設 案 市 会 で可 決 、最 終 案 決 定
1937 年 2 月
陳列品完成
1937 年 3 月
プラネタリウム組 立 完 了 、3 月 13 日 電 気 科 学 館 開 館(館 長 小 畠 康 郎)
1938年
電力国家管理法成立
1938年11月
東日天文館開館
1939年
日本発送電会社設立、電気局の発電部門を移譲
1942年
電気局廃止。関西配電(株)設立、木津谷が副社長に
4 . プラネタリウムを
プラネタリウム を 最 初 に 紹 介 した山
した 山 本 一 清
あったから、ツァイス式 の光 学 的プラネタリウムについて
ツアイス社 に源 流 を持 つ現 代 的 なプラネタリウムが発
明されたのは 1923 年(大 正 12 年)であった。それをわ
疑 義 を抱 いており、どの程 度 具 体 に働 きかけたのか、
甚だ疑 問 である。なお、9 章 を参 照 願いたい。
が国 に最 初 に紹 介 したのは京 都 大 学 教 授 であった山
山 本は、1933 年(昭 和 8 年)、国 際 会 議 参 加 のため
本 一 清 (1889-1959)であった。山 本 は主 宰 していた東
カナダ・アメリカを訪 問 した。会 場 はシカゴで、博 覧 会
亜 天 文 協 会 会 誌「天 界」1927 年(昭 和 2 年)5 月 号に
The Century of Progress Exposition に併せて開 催さ
9ページにわたって図 ・ 写 真 付 きで「ツアイス 製 のプラ
れたものだった。彼 は、まず、かねてからの知 り合 いだ
ネタリウム」について紹 介した(山 本 1927a)。その後 、9
ったフォックス氏 が館 長 を努 めるアドラープラネタリウム
月 号 にはそれを補 うように「ツアイスの星 辰 儀 」という簡
を訪 問 した。この時 は開 館 間 なしで、プラネタリウムは
単な解 説を載 せて(山本 1927b)、その最 後に、
公 開 していたが、展 示 館 は開 館 準 備 中 だった。なお、
『日 本 に 於 いても 諸 所 の 大 都 市 に 右 器 械 装 置 さる
べく目 下 交 渉 中 である』
現 在 のシカゴ科 学 技 術 博 物 館 はこの博 覧 会 に併 せて
開 館 している。山 本は記す(山 本 1933):
と記した。
それ が 実 際 ど の よう な運 動 であ った か 、その 後 の 天
『ツアイス製 の此 のプラネタリウムといふものは、十 年
界 誌 を見 ても載 っていない。そもそも、こう書 いてはい
前 の自 分 の 外 遊 中 には、ドイツにさへ無 かったもので
るが 、下 の 文 章 が 示 す よ う に 、山 本 はこ の 時 点 では 、
あるが、1925-6 年 頃から急 にドイツの各 都 市 に作 られ、
作り物の星 空を見るより実 際 の星を見ろ、という立 場で
其 の後 、外 の国 にも紹 介 されて、欧 州 ではヴィーン、ロ
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加藤 賢一
あ
写 真3.山 本 一 清と五 藤 斉 三の本 統の「プラネタリウム」。1935 年。
「星 空 夢 五 藤 光 学 研 究 所 1926-1996」(1996)から
ーマ、モスクワ等 に、又 、米 国 では此 のシカゴに作 られ
合 に、自 分 も可 なり其 の意 見 に共 鳴 してゐたものであ
た 。元 来 、 昔 か ら、 言 い 古 さ れ てゐ る Planetarium と
った。しかるに、こんど、プラネタリウムを眼 のあたりに見
いふ語 は、「遊 星 儀 」と訳 すべきもので、太 陽 をめぐる
て、其 のスバラシイ能 力 を知 るに及 び、上 述 の批 評 は
各 遊 星 の運 行 を模 型 にしたもの、即 ち、正 確 には、東
単 に机 上 の論 に過 ぎないものであることを覚 えた。何 し
京 の五 藤 氏 が持 ってゐられるものが本 統 の「プラネタリ
ろ、複 雑 なスヰッチ板 を開 閉 することによって、場 所 や
ウム」なのである。独 国 ツアイス会 社で 1925 年 以 来 作
季 節 の如 何 を問 はず、眼 に見 えるあらゆる天 象 を、過
り始 めたものは、要 するに非 常 に複 雑 な幻 燈 器 なので
去 未 来 共 に 幾 百 年 前 後 に わたっ て、表 は すことが 出
あって、遊 星 ばかりでなく、多 くの恒 星 と其 等 の運 動 を
来るのだから、学 俗 の別なく、之れを驚 嘆するのは尤も
も 映 写 し 、全 体 の 機 構 が 、 大 に 、 雄 且 つ 正 確 精 密 に
な話 である。』
出 来 てゐる。全 く、伝 統 を忘 れた「モダン型 」である。こ
の新 型 プラネタリウムを我 が日 本 へ最 初 に紹 介 説 明 し
シカゴで初 めてプ ラネタリウムを 実 見 し、山 本 がプ ラ
たのは自 分 であって「天 界 」第 74 号 と、科 学 知 識 第
ネタリウムに好 印 象 を持 ったことは間 違 いない。では、
号 とに記 述 したことがある。こうして、構 造 と其 の原 理 を
先 の文 章 にあるように本 当 に各 方 面 に導 入 を働 きかけ
自 分 は熟 知 してゐるのであるが、その実 物 を見 るのは
たかと言 えば、そうした余 裕 はなかったようで、少 なくと
此 の日 が始 めてだとは、誠 に奇 妙 な因 縁 と言 わねばな
も、大 阪 市 へ 提 案 した 形 跡 はない。電 気 科 学 館 の 開
らない。』
館 に合 わせて発 行 された「天 界 」プラネタリウム特 集 号
(1937 年(昭 和 12 年)3 月 号 )で山 本は大 阪 市 立 電 気
ここで山 本 は「日 本 へ最 初 に紹 介 説 明 したのは自
科 学 館との関 係を次のように記 した(山 本 1937):
分」だと、「天 界」1927 年(昭 和 2 年)5 月 号(第 74 号)
が最 初 の文 章 であったことを記 している。この時 紹 介 し
『一 昨 年 の初 め、冬 の寒 い或 る1日 、大 阪 市 電 気 局
た器 械 はⅠ型 で、緯 度 が固 定 されているタイプであっ
の小 畠 技 師 が 突 然 として花 山 天 文 台 を 訪 問 せられ 、
たが、シカゴはⅡ型 であり、後 の大 阪 と同 じタイプであ
それからはトントン拍 子 に、大 阪 のプラネタリム計 画 が
った。山 本は続ける:
具 体 化 した』
『シカゴの 此 のプ ラネタ リウムは 、一 通 り そ の 実 物 と 使
と。1935 年(昭 和 10 年)の早 春に山 本 に相 談が持ち
用 ぶりとを 見 て、すっかり 感 服 して了 った 。今 までは、
込 まれたのである。これは電 気 科 学 館 側 の記 録 とも一
時 々、人 から、「巨 万 の費 用 をかけて、天 体 運 行 の模
致 しており、最 初 に小 畠 が 山 本 を訪 問 したのは 1935
型 を見 るよりも、やはり、望 遠 鏡 による天 体 の実 景 を見
年(昭 和 10 年)2 月 16 日のことであった。
る方が好いじゃないか!!」という批 評を聞かされる場
このように、山 本 が大 阪 市 にプラネタリウム導 入 を提
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タイトルタイトルタイトル
案 したわけではなかったが、一 旦 導 入 案 が持 ち上 がっ
てからの山 本 の働 きは精 力 的 であり、並 々ならぬ力 の
『本 市 電 灯 事 業 市 営 十 周 年 に際 し、何 か社 会 全 般
入れようであった。殊に 2 月 から 6 月まで山 本は名 士
に裨 益 する様 な記 念 事 業 を実 行 して一 般 の福 祉 に貢
への説 明 会 、市 会 議 員 への説 明 会 、プラネタリウム解
献 したいと云 うのと、偶 々欧 米 漫 遊 直 後 の事 であって、
説 書の執 筆と多 忙を極めた。1936 年(昭 和 11 年)、京
各 国 に於 ける科 学 博 物 館 施 設 の完 備 せる実 情 を目 の
都 大 学 宇 宙 物 理 学 教 室 の 副 手 だった高 木 公 三 郎 が
あたりに見、之 が各 国 民 の科 学 知 識 の涵 養 に資 すると
ベルリンオリンピックに参 加 する機 会 をとらえてモスクワ
ころ尠 なからざるを思 い、私 が直 接 携 っている電 気 事
やドイツのプラネタリウム館 を調 査 させ、ツァイスの工 場
業に最も相 応 しい事 業 なりと考へ、特に電 気 科 学 館 建
では機 器 の 組 み立 てを行 わせた。大 阪 にプラネタリウ
設の必 要を痛 感 したのである。
ムが 到 着 すると、高 木 は 組 み立 てに 参 加 するとともに
云 うまでもなく本 館 の 目 的 とするところは、本 市 電 気
使 用 法 や解 説 法 を職 員 に指 導 した。山 本 は電 気 科 学
事 業 の内 にあって市 民 の電 気 知 識 の普 及 発 達 を図 り、
館 の開 館 記 念 投 影 を担 当 し、多 くの名 士 にプラネタリ
延 いては国 民 の科 学 知 識 の向 上 に資 し、更 に進 んで
ウムの驚 異を余すところなく伝え、感 動を与えた。
は電 気 科 学 に関 する発 明 考 案 の指 導 援 助 といった点
当 時 、高 城 武 夫 は山 本 の指 導 の下 、花 山 天 文 台 で
にあるのであるが、その上 に私 は本 館 の設 立 に於 て、
保 時 に従 事 していたが、山 本 の指 名 により初 代 のプラ
特 に 我 国 最 重 要 の 産 業 都 市 たる 本 市 の 特 殊 性 に 鑑
ネタリウム解 説 員 となったし、後 に 火 星 面 の 観 測 で有
み、産 業 指 導 機 関 としての機 能 の発 揮 にきたいするも
名 になった佐 伯 恒 夫 は山 本 -高 城 のルートで電 気 科
のである。
学 館 に入 った。その後 、東 亜 天 文 学 会 員 や京 都 大 学
欧 米 各 国 に於 ける科 学 館 施 設 に就 き私 が見 聞 した
卒 業 生 が 勤 め る こ と に なっ た の も す べ て 山 本 の 直 接
ところでは、・・・・・、出 来 るだけ「動 き」を採 り入 れ一 目
的 ・間 接 的 な影 響 力 の結 果 であった。電 気 科 学 館 開
その内 容 、構 造 を理 解 し得 る様 能 う限 り工 夫 考 案 を凝
館 後 も 山 本 は 学 術 面 での 顧 問 と して講 演 会 を 初 めと
らしたのである』。
する普 及 活 動を熱 心に努 めた。
わが 国 へ プ ラネ タリウム導 入 に 際 し 、天 文 界 での 立
役 者が山 本 一 清 であったことは間 違 いない。
ここで木 津 谷 は、ドイツ博 物 館 やイギリスの博 物 館 を
見 学 して、似 たような施 設 を構 想 したこと、ただ、大 阪
では小 規 模 のものしかできないので歴 史 的 な資 料を廃
5 . 木 津 谷 電 気 局 長 の 働 きと混
きと 混 乱 する記
する 記 録
し、現 代 の到 達 点 と 近 未 来 に焦 点 を当 てた 展 示 品 を
電 気 科 学 館 開 館 当 時 の電 気 局 長 は木 津 谷 栄 三 郎
陳 列 することにして科 学 館 と呼 び、それを動 的 に見 せ
であった。木 津 谷 は大 阪 電 灯 株 式 会 社 が大 阪 市 に買
るというハンズオン手 法 をとり入 れたことなどを表 明 して
収 された時 、同 社 から移 ってきたスタッフの一 人 で、電
いる。しかし、当 初 案 が変 更 されたことや途 中 でプラネ
気 局 が発 足 すると電 灯 部 長 となり、営 業 の最 前 線 で活
タリウム導 入 を決 めたことなどの経 過 については全 く言
躍 していた。上 で紹 介 した電 気 局 の各 種 の行 事 に深 く
及 していない。
関 与 しており、第 4 代 局 長 の平 塚 米 次 郎(在 任 期 間:
開 館 を前 にして夕 刊 大 阪 新 聞 (社 長 :前 田 久 吉 、東
1929 年(昭 和 4 年)7 月~1936 年(昭 和 11 年)10 月)
日 天 文 館の設 立 者 。8 章 参 照)が 15 回にわたって「大
とともに電 気 科 学 館 の建 設 を主 導 した。平 塚 が退 任 す
阪 名 物 プラネタリウム天 象 儀 を語 る」という連 載 記 事 を
ると木 津 谷 はその後を襲 って第 5 代 局 長 となり(在 任
掲 載 した(1937 年1月 頃)。その第 一 回 目 に木 津 谷が
期 間:1936 年(昭 和 11 年)12 月~1942 年(昭和 17
登 場 し、
年)3 月)、電 気 科 学 館 開 館 を迎えた。
木 津 谷は電 灯 部 長 時 代の 1931 年(昭和 6 年)、8 ヶ
『本 館 は今 から三 年 前 、昭 和 八 年 の十 月 に電 灯 市
月 間 、欧 米 に出 張 した。もちろん、電 気 事 情 について
営 十 周 年 記 念 事 業 として計 画 したものであります。併
の調 査 が目 的 で、アメリカではエジソン家 を訪 問 したも
し常 (ママ)時 はプラネタリウムを設 置 しようとも電 気 科
のの、病 床 にあったエジソンには面 会 できずに帰 国 し
学 館にしようとも思っていなかった』
たといったエピソードが残されている。翌 1932 年(昭 和
6 年)、その成 果を「欧 米 管 見」(木 津 谷 1932)と題して
と語り、表 1 の一 次 案をまず構 想 したことを表 明 してお
著 していて、そこからはドイツ博 物 館 やイギリスの博 物
り、上 の 挨 拶 文 からうかがえ る高 邁 な考 えから電 気 科
館 などに 強 い衝 撃 を 受 けた 様 子 がうかが われる。「 電
学 館 構 想が生 まれたとする論 調とは異なっている。
気 科 学 館 二 十 年 史 」(小 畠 1957)に「電 気 科 学 館 開
実 は、初 代 館 長 小 畠 の 作 成 した「 電 気 科 学 館 二 十
館 に際 して」という木 津 谷 の挨 拶 文 が記 録されている。
年 史」のあちこちに木 津 谷 電 灯 部 長 が昭 和 「9」年 に訪
少 し長いが引 用 してみよう。
欧 し、その結 果 、二 次 案 や最 終 案 が生 まれたと読 める
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加藤 賢一
記 述が散 見される。たとえば、33 ページと 61 ページに
(昭 和 10 年)2 月 7 日 号に「生れ出る大 阪モダン新 名
は、
所 市 電 灯 部ゴ自 慢 の偉 容 な防 空 塔」との見 出 しで一
次 案 の紹 介 があり、「・・・・とのプランが外 遊 視 察 後 の
『木 津 谷 電 灯 部 長 の欧 米 視 察 の結 果 独 逸 カールツ
木 津 谷 部 長 の手 で完 成 されている」と出 ている。一 次
アイス 会 社 製 の プ ラネタ リウムの 輸 入 を 企 て、 一 方 平
案は木 津 谷 の責 任 で練 られたということであり、夕 刊 大
塚 電 気 局 長 の裁 断 でこのサービス施 設 は電 気 博 物 館
阪 紙 での木 津 谷の述 懐と附 合する。
を主 体とすることになり』(p.33)、
これに対 し、建 築 設 計 を担 当 した新 名 (1937)(当 時
『昭 和 9 年 末 、木 津 谷 電 灯 部 長が欧 米 漫 遊 の旅を
大 阪 市 経 理 部 営 繕 課 ) はこ の 間 の 経 過 に つ いて「 当
終 えて帰 朝 し第 一 に提 唱 されたのは、プラネタリウムの
初 の案は、その内 容 に於 て今 日 竣 工 したものとは多 少
建 設 計 画 である』(p.61)
の相 異があり、5 階が公 衆 食 堂 、6 階がスケート・リンク、
7 階 がその観 覧 席 となる予 定 であったが、工 事 中 、機
と記されている。
械 購 入 費 の点 で行 悩 んでいた天 象 館 (プラネタリウム)
また、1968 年 1 月 10 日 の読 売 新 聞 が「100 年の大
建 設の機 運 が熟し、同 時に 5 階の食 堂は科 学 館の陳
阪」特 集の 352 番 目としてプラネタリウムを取り上 げた
列 室に変 更 、6 階 、7 階の上 に 8 階を増 築 して、6、7、
記 事 の中 で、当 時 、電 気 科 学 館 館 長 だった中 村 一 雄
8 の 3 階を貫 通する内 径 18m、外 径 20m余のドームを
が回 想 して次のように述べている。
架 けてここに天 象 館 を設 置 し、スケートリンクに代 へる
ことになった」と書 いている。プラネタリウム設 置 案 は当
『帰 国 した木 津 谷 さんがこの計 画 案 を見 て“スケート
初からあったが、経 費の点 でしばらく陽の目を見 なかっ
リンクなんかやめて、プラネタリウムにせい”といいはっ
た、とも受 け取 れる表 現 である。この新 名 論 文 の 記 述
た。局 で検 討 して、九 年 の十 二 月 に設 置 が本 決 まりに
がどの程 度 信 用 できるか、年 月 を圧 縮 した表 現 になっ
なったんですわ』。
ていることはないか、疑 問なしとしない。
以 上 、資 料 を総 合 して見 ると、「大 衆 の娯 楽 と慰 安 に
この記 事 でも木 津 谷 の欧 米 出 張 は暗に昭 和 「9」年とさ
奉 仕 する」という一 次 案 は木 津 谷 の肝 いりで欧 米 視 察
れている。洋 行 帰 りの 木 津 谷 が 一 次 案 を 引 っくり返 し
の直 後 に作 成 された案 としか考 えられない。どうしてこ
た、というのである。
のような案となったのか、残 念 ながらその理 由は未 だに
こうした記 述 により、木 津 谷 電 灯 部 長 の欧 米 視 察 の
分からない
結 果 、一 次 案 が 変 更 に なり 、プ ラネ タ リウム設 置 計 画
が走 り出 したと長 らく信 じられてきた。しかし、上 に記 し
6.計 画 変 更 の成 果 と 意 義
たようにこれは間 違 いと言 わなければならない。まず、
電 気 局 の総 力 を挙 げて開 館 し、順 調 な滑 り出 しを見
木 津 谷 部 長 の欧 米 視 察 は昭 和 「6」年 のことであり、昭
せた電 気 科 学 館 であったが、太 平 洋 戦 争 の影 響 を免
和 「9」年 という記 録 は当 館 にも木 津 谷 家 にも残 されて
れることはできず、苦 労 が 続 いた。電 気 局 の 再 編 によ
いない。当 時 、大 阪 市 職 員 が欧 米 に出 張 するというの
って強 力 なスポンサーを失 い、職 員 が応 召 したため人
は市 議 会 での 決 議 を要 する一 大 事 業 であり、昭 和 6
材 確 保 に難 渋 し、空 襲 を受 けて別 棟 の収 蔵 庫 は全 焼
年 の出 張 では木 津 谷 は逓 信 省 嘱 託 の身 分 で公 用 パ
し、本 館 も相 当 被 災 した。金 属 供 出 では、3 機 のエレ
スポートを携 え、電 気 公 論 社 に作 成 させた本 文 24 ペ
ベーターはうち 1 機 が取 り外 され、プラネタリウムの冷
ージに及 ぶ英 文 の自 己 紹 介 パンフレットを持 参 しての
房 装 置も供 出された。
8 ヶ月 の旅 であった。大 阪 駅 では関 一 市 長 以 下 大 勢
こうした中 で終 戦 を 迎 え 、数 年 間 に わたって展 示 場
が 見 送 り 、出 迎 え ると いっ た 大 イベ ントを くり 広 げる 始
の窓 にはガラスが入 らず、閉 鎖 されたままであった。幸
末 であった。こうした次 第 であるから、3 年 後 の昭 和 9
いプラネタリウムは被 害 が小 さく、終 戦 後 1年 目 に公 開
年 にもう一 度 とはいかなかったと考 えるのが自 然 である。
し始 めた。それだけ市 民 要 求 が強 かったのである。市
つまり、欧 米 視 察は昭 和 6 年 の 1 回だけだったとする
民は文 化や娯 楽に飢 えていた。
のが妥 当 であり、昭 和 9 年 は間 違いと言うべきである。
もし、電 気 科 学 館 が一 次 案 のような娯 楽 一 色 の施 設
それに、上の小 畠の記 述 や中 村の談 話は木 津 谷 自
であったなら、こうした再 興 の声 が挙 がったであろう
身 の述 懐 と矛 盾 しており、欧 米 視 察 がプラネタリウム導
か? すでに電 気 局 という後 ろ盾 は失 われていた。市
入 案 に直 結 していたわけではなかった。実 際 は、夕 刊
民 の日 常 生 活 の復 興 を第 一 としていた大 阪 市 が娯 楽
大 阪 紙 で自ら述 べているように、欧 米 視 察から 2 年 後
施 設 復 興 に税 金 を投 入 しようと思ったであろうか? 文
の 1933 年に作 成された一 次 案 では電 気 博 物 館を作
化 ・ 教 育 施 設 と して電 気 科 学 館 の 評 価 が 定 着 してい
ろうとしたのではなかった。大 阪 日 之 出 新 聞 1935 年
たからこそ、産 業 界 も応 援 し、戦 後 の復 活 を遂 げること
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タイトルタイトルタイトル
が できた の では なか ろう か 。スケ ート リンク では 戦 中 に
の人 材 、電 気 局 と いう 経 済 力 等 が 絶 妙 に 絡 み 合 った
設 備 は供 出 されたまま、休 業 の後 、廃 業 となったので
からであり 、第 一 次 世 界 大 戦 後 の 安 定 した 時 代 が 味
あるまいか。そう想 像 すると、電 気 科 学 館 が復 活 し、長
方 してくれた結 果であった。
らくプ ラネ タリウム界 で 活 動 でき た のは 電 気 科 学 館 が
名 実 共に科 学 館 であったからと思 われるのである。
7 . 木 津 谷 栄 三 郎 電 気 局 長 ( 18811881 - 1947)
1947 ) について
すると、そのエポックは一 次 案 が二 次 案 、最 終 案 へ
電 気 局 長 平 塚 米 次 郎 は逓 信 省 貯 金 局 長 (1924 年
と大 きく方 向 性 が変 ったことにあったと言 うべきである。
頃)の後 、大 阪 逓 信 局 長 (1928 年 頃)を経 て、大 阪 市
その最 大の功 労 者は、上で見たように、第 4 代 局 長 の
の電 機 局 長 に就 任 した。女 性 解 放 運 動 で著 名 な平 塚
平 塚 米 次 郎と第 5 代 局 長 木 津 谷 栄 三 郎 である。一 次
雷 鳥 (1886-1971)の妹 婿 であり、詩 人 、作 詞 家 として
案 が いか にも 愚 案 であ るこ とに 気 づき 、そ れを 大 変 な
の一 面 も持 っていた。今 でも大 阪 地 下 鉄 行 進 曲 や 銀
苦 労 の末 、ひっくり返 して日 本 最 初 の科 学 館 とプラネ
バス行 進 曲 などの作 詞 家 として名 前 が知 られている。
タリウムを作りあげた。ただ、彼 らも完 璧 だったわけでは
戦 後 、荒 廃 していた 電 気 科 学 館 を 後 押 しすべ く 協 力
ない。最 初 は愚 案 を作 成 していたのである。しかし、平
会 を組 織 し、財 界 に呼 びかけて展 示 品 の整 備 を行 い、
塚 などは退 職 後 も長 らく 電 気 科 学 館 の運 営 に力 を注
1980 年 頃まで 40 年にわたって後 見 役を務 めた。日 本
いだのだから、最 後 にきちんと責 任 をとった、と言 える
の科 学 館の生 みの親、育 ての親の一 人 であった。
かも知れない。
平 塚 米 次 郎 に比 べると木 津 谷 栄 三 郎 の名 を知 る人
それにしても、建 設 工 事 が半 分 進 んでいた時 期 に小
は少ない。平 塚と共に日 本 の科 学 館 史 、プラネタリウム
学 校の校 舎 2~3 校 分に相 当する経 費を要する計 画
史 の最 初 に 書 かれるべき人 物 であり、ここで少 し紹 介
変 更 を実 行 したのであった。随 分 、思 い切 った決 断 で
させていただきたい。
あるし、現 在 ではとても考 えられないことである。だが、
木 津 谷 栄 三 郎 は旧 姓 を樋 口 と言 い、1881 年 (明 治
この英 断 が日 本 で最 初 の科 学 館 を生 み、日 本 で最 初
14 年)、大 阪 市 西 区 に生まれた。隣 家に住んでいたの
にプラネタリウムを導 入 することになったのだから、まさ
が 海 事 関 係 物 品 を 扱 っ ていた「 木 津 屋 」 の 木 津 谷 久
に英 断 であったと言うべきである。
治 郎 であった。この木 津 谷 家 には跡 継 ぎがなかったた
こうした大 事 業 が成 功 したのは、彼 らの先 見 性 ととも
に、関 一 市 長という理 解 者 、山 本 一 清という学 術 面 で
め幼 少の栄 三 郎を養 子として迎 えた。栄 三 郎 13 歳の
時 、養 父 久 治 郎が死 去 し、4 年 後には養 母 も他 界して、
栄 三 郎は 17 歳 で一 人 残され、木 津 屋は店を閉 めざる
を得なくなった。幸 い、商 売 で培 われたつてがあったの
であろう、
写 真 4.欧 米 視 察から帰 国 した木 津 谷 電 灯 部 長(握 手 、右)を迎える関 一 助 役(握 手 、左)と
平 塚 米 次 郎 電 気 局 長(最 左 )。大 阪 駅 で、1931 年 。
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加藤 賢一
栄 三 郎は 17 歳 で一 人 残され、木 津 屋は店を閉 めざる
の電 気 科 学 館 開 館 を迎 えた。こうして、順 風 満 帆 、彼
を得なくなった。幸 い、商 売 で培 われたつてがあったの
に敵 なしと見 えたが、忍 び寄 る戦 争 の影 は避 けがたい
であろう、大 阪 商 工 会 議 所 第 9 代 会 頭 も努 めた今 西
ものだった。欧 米との交 戦 必 至と見た政 府は戦 時 体 制
林 三 郎 の庇 護 を受 けることができ、木 津 屋 再 興 を期 し
を敷いていく。開 館の翌 年 、1938 年(昭和 13 年)には
て仕 事 に励んでいたようである。その後 、1909 年(明 治
電 力 の国 家 管 理 法 が成 立 し、国 家 総 動 員 法 が公 布 さ
42 年 )、高 等 商 業 高 校 (後 の東 京 高 等 商 業 、現 一 橋
れた。これを受 けて 1941 年 (昭 和 16 年)に関 西 配 電
大 学 )を卒 業 し、翌 年 、29 歳 で大 阪 電 灯 株 式 会 社 に
株 式 会 社 が生 まれ、大 阪 市 電 気 局 の発 電 ・配 電 部 門
営 業 担 当として入 社 した。
が移 ることになり、電 気 局 長 だった木 津 谷 は新 会 社 で
後 に 大 阪 の 名 市 長 と 謳 わ れた 関 一 ( 1873 - 1935 )
副 社 長 の一 人 となった。電 気 局 には電 車 ・バスの交 通
は、木 津 谷 が高 等 商 業 高 校 に在 学 中 、その教 授 職 に
部 門 だけが 残 された。太 平 洋 戦 争 に 突 入 すると 娘 婿
あり、木 津 谷 は教 え子 の一 人 であった。関 は 1897 年
の 戦 死 と いう 困 難 に 直 面 し 、終 戦 前 後 の 1945 年 か
(明 治 30 年 )、母 校 の高 等 商 業 高 校 教 授 に就 任 し、
1946 年に退 職 した。木 津 谷 は 65 歳になっていた。
1914 年(大 正 3 年)、池 上 四 郎 大 阪 市 長(秋 篠 宮 紀
木 津 谷は 3 人の子どもに恵まれたが、長 女 芳 子を除
子 様 の曽 祖 父 )に請 われて助 役 となり、1923 年 (大 正
いて 2 人は幼くして亡くなった。1937 年(昭 和 12 年)、
12 年)11 月 、大 阪 市 長になった。池 上 市 長・関 助 役の
芳 子 は大 阪 市 監 査 部 に勤 務 していた堀 口 正 次 と結 婚
コンビが行った公 益 事 業としては、1915 年(大 正 4 年)
し、1939 年(昭 和 14 年)には長 男 文 吾が誕 生 、その後 、
の天 王 寺 動 物 園 開 園 、1919 年(大 正 8 年)の全 国 初
3人 の男 子 が生 まれ、木 津 谷 は4人 の孫 の祖 父 となっ
の児 童 相 談 所・公 共 託 児 所 の開 設 、1923 年(大 正 12
た。1944 年 、招 集されると同 時に戦 地 へ向かって行っ
年 )の大 阪 電 燈 株 式 会 社 の買 収 、電 力 事 業 の市 営 化
た娘 婿 正 次 は、海 路 、米 軍 の襲 撃 にあって戦 死 してし
など があ る 。こ の 電 力 事 業 市 営 化 が 木 津 谷 の そ の 後
まった 。孫 た ちは 幼 く して父 と 死 別 してしまったた め、
の人 生 に大 きな影 響 を与 えたのであった。なお、大 阪
木 津 谷 はその成 長 に心 を痛 めながらも、退 職 後 まもな
市 の中 心 地 を通る幹 線 道 路 である御 堂 筋 は関 市 長 時
く 1947 年(昭 和 22 年)3 月 13 日に死 去 した。享 年 66、
代に拡 幅されて現 在 の姿になったものである。
その日は奇しくも電 気 科 学 館の開 館から丁度 10 年 目
大 阪 電 燈 株 式 会 社 での 木 津 谷 の 最 初 の 仕 事 は 大
の記 念 日 であった。
阪 市 北 部 であった火 災 の復 旧 事 業 であった。契 約 家
庭 を識 別 するために掲 げる名 札 を耐 久 性 のあるものに
8 . 東 日 天 文 館 、 前 田 久 吉 との関
との 関 係
変 えたことが大きな業 績となった。その後 、経 費 の関 係
電 気 科 学 館 開 館の翌 年 の 1938 年(昭 和 13 年)、東
で石 油 を 使 っていた街 灯 を 会 社 の 経 費 負 担 によって
京 有 楽 町にわが国 2 番 目のプラネタリウム東 日 天 文 館
電 気 に 代 え 、扇 風 機 に は 季 節 料 金 を 導 入 す る など、
が開 館 した。これを発 案 し、設 置 したのは事 業 家 前 田
電 気 需 要 を喚 起 する一 方 、不 払 いや横 領 の多 かった
久 吉 (1893-1986)である。前 田 はサンケイ新 聞 、大 阪
集 金 システムを改 善 するなど、様 々な業 務 改 善 に臨 ん
銀 行 、関 西 テレビ、東 京 タワー、マザー牧 場 などを
だ。
次 々と立 ち上 げた立 志 伝 中 のマスコミ人 、経 済 人 であ
1923 年(大 正 12 年)9 月 、大 阪 電 灯 株 式 会 社が大
った。
阪 市 に買 収 されると数 千 名 の部 下 と共 に移 り、平 塚 電
気 局 長 の下 で営 業 の最 高 責 任 者 である電 灯 部 長 とな
前 田 の 業 績 を 主 と して清 水 伸 (1982)に 従 っ て見 て
おきたい。
った。そこに関 助 役 の影 響 力 が働 いたのかどうか分 か
前 田 は現 在 の大 阪 市 西 成 区 天 下 茶 屋 の農 家 に生
らないが 、 教 え 子 であ っ た 木 津 谷 の 就 任 は 関 助 役 を
まれた。父 が事 業 に投 資 して失 敗 し、前 田 が生 まれ育
安 心 させるものだったに違 いない。早 速 、木 津 谷 は
った頃 は天 下 茶 屋 から天 王 寺 の茶 臼 山 に転 居 しなけ
「即 時 サービス」をモットーとし、電 気 供 給 の 増 加 を最
ればならぬほど、経 済 的 に逼 迫 していた。そこで、前 田
大 の目 標 に掲 げ、民 間 会 社 的 営 業 攻 勢 をかけた。異
は小 学 校 を卒 業 するや否 や仕 事 についたが、苦 労 の
動 してまず電 気 料 金 の 10%におよぶ引 き下 げを行 い、
連 続 であった。21 歳 の時、母 方の実 家 が経 営していた
暖 房 、街 路 照 明 等 の 電 化 、そして電 化 普 及 のための
新 聞 販 売 店 を 引 き 受 けることになり、これを南 大 阪 地
宣 伝 に力を尽 くした。電 気 の需 要 は順 調 に伸びていっ
区 一 の大 販 売 店 に成 長 させることに成 功 した。その秘
たから、木 津 谷 の評 価 と発 言 力 は高 まったものと想 像
密 の一 つは、今 流 で言 うミニコミ誌 を付 けたことであっ
される。こうした中で、1931 年(昭 和 6 年)、関 市 長に
た。これが後 の「夕 刊 大 阪 新 聞 」で、これはあれよあれ
見 送 られて 8 ヶ月の欧 米 視 察の旅に出たのであった。
よと言 う間 に週 刊 から日 刊 へと成 長 し、大 阪 の地 方 紙
やがて、1936 年(昭 和 11 年 )12 月、平 塚 米 次 郎を
としての地 位 を確 立 した。これを軌 道 に乗 せると、1933
継 いで電 気 局 長に就 任 し、1937 年(昭 和 12 年)3 月
年(昭 和 8 年 )、「日 本 工 業 新 聞 」(現 在 のサンケイ新
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タイトルタイトルタイトル
聞)を発 刊 し始 め、2つの新 聞 社の社 長となった。
ので
写 真 5.東 日 会 館 。右 下は有 楽 町 駅 。6~8 階が天 文 館 で、空 襲 で器 械は焼けたが建 物は残り、戦 後 、
ホールは TBS ラジオのスタジオとして使 われた。行 進しているのは GHQ。1947 年。朝 日 新 聞 社 刊「有 楽
町 60 年」(1984)から。鈴 木 太 郎 氏のご好 意による
聞)を発 刊 し始 め、2つの新 聞 社の社 長となった。
のであるが、間 接 的 には前 田 の博 覧 会 好 きによるとこ
この腕 を 見 込 まれたのであ ろう、1935 年 ( 昭 和 10
ろもあったようだ。彼 はその後 、サンケイ新 聞 をベース
年)の末 、東 京 の時 事 新 報 社 の再 建 を依 頼 された。時
に何 度 も 博 覧 会 を 主 催 した ことから推 察 すると、恒 常
事 新 報 社 は福 沢 諭 吉 が始 めた新 聞 であったが、当 時 、
的 なミニ博 覧 会 のようなプラネタリウムは彼 を魅 了 して
経 営 難 に陥 っていた。彼 は販 売 部 数 増 と宣 伝 獲 得 に
やまなかったに違 いない。そ れと共 に、商 業 的 にはペ
邁 進 し、何 とか赤 字 からの脱 却 が見 え始 めたと思 った
イできずとも新 聞 社 の宣 伝 には十 分 使 えるとそろばん
矢 先の 1936 年(昭 和 11 年)末 、株 主は同 社の解 散を
をはじいていたことは十 分 想 像 できる。
決 めてしまった。前 田 は 同 社 再 建 のた めに 小 学 生 新
前 田 は大 阪 のマスコミ人 で、かつ広 い人 脈 を有 して
聞を新たに発 行 し、プラネタリウム導 入を図っていた。5
いたから、自 然 にプラネタリウムに行 き当 たることになっ
章 で記 した夕 刊 大 阪 新 聞 のプラネタリウム座 談 会 はそ
た。彼 が 敬 愛 して止 まなか った阪 急 電 鉄 社 長 で国 会
の後 始 末の最 中 に行われた(1937 年 1 月)。プラネタリ
議 員 でも あった 小 林 一 三 は 慶 応 大 学 出 身 であ り 、後
ウムリウムを 新 聞 社 再 建 の 材 料 に しようというアイデ ア
述 するように阪 急 電 鉄 ではプラネタリウム導 入 を考 えて
は直 接 的 には電 気 科 学 館 の導 入 計 画 に触 発 されたも
いたのであった。また、小 林 は当 然、慶 応 大 学 につな
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加藤 賢一
科 学 館 が協 力 したからである。まず、電 気 科 学 館 の建
物 設 計 にあたった新 名 種 夫 (大 阪 市 建 築 局 )が 設 計
のアドバイスを行 っていた。プラネタリウムの据 付 法 や
本 体 防 護 用 の手 すりなどが一 緒 の形 となったのはその
ためであろうか。リーフレットや解 説 スタイルが似 ていた
のは、電 気 科 学 館 の初 代 解 説 者 であった原 口 氏 雄
(「星 と兵 隊 」などの著 者 。後 に茨 木 市 市 会 議 員 となり、
茨 木 市 立 中 央 公 民 館 にプ ラネタリウムを導 入 した)が
解 説 の指 導 にあたった影 響 であろう。後 年 、原 口 はそ
のことを懐 かしく筆 者 に語 ってくれた。パンフレットに宣
伝が載っている会 社が共 通 しているのも興 味 深 い。
開 館 後 、前 田 はどのように東 日 天 文 館 に関 わったの
だろうか ? 実 は よく 分 か らない。前 田 は 東 日 会 館 の
完 成と前 後して毎 日 新 聞の大 株 主となり、1943 年(昭
和 18 年)まで取 締 役として経 営に深く関 わる一 方、本
拠 地 の大 阪 では戦 時 体 制 に伴う新 聞 統 合 に絡 んで他
の地 元 紙 と の 合 併 の 仕 事 などに忙 殺 され 、天 文 館 に
関 与 する余 地はなかったと思 われる。戦 後 になると、焼
け跡 から新 聞 社 を復 興 されなければならないと奮 闘 し
写 真 6.前 田 久 吉 。東 京タワーの蝋 人 形 。
ていた矢 先の 1946 年(昭 和 21 年)4 月、戦 時 中 に新
東 京タワーのホームページから
聞 発 行 に携 わっていたことを咎 められて公 職 追 放 とな
り、5 年 間 は表 だった活 動 はできなかった。その間 に、
がる時 事 新 報 社 の経 済 的 困 難さも知っていたし、前 田
大 阪 電 気 通 信 学 園 の 再 建 、大 阪 銀 行 設 立 等 を画 策
と頻 繁に交 流 していた。こうしたルートによって、前 田 が
し、追 放 解 除 後 は東 京 と大 阪 に産 経 会 館 ビルを建 て、
大 阪 市 や阪 急 や近 鉄 のプラネタリウム設 置 計 画 をいち
博 覧 会を開き、参 議 院 議 員 を 2 期 努め、東 京 タワーを
早くつかんでいたことは容 易 に想 像 できる。
建 設 と、八 面 六 臂 の大 活 躍 をする。東 急 文 化 会 館 五
時 事 新 報 社 の 解 散 が 決 まると、前 田 はプラネタリウ
島 プラネタリウムがオープンした頃 は参 議 院 議 員 を努
ムの設 営 権 や小 学 生 新 聞 の発 行 権 を 毎 日 新 聞 社 に
め、関 西 テレビの開 局 に力 を入 れていた。同 時 に東 京
譲 渡 し、その金 を時 事 新 報 社 員 の退 職 金 に回 した。こ
タワー建 設 が始 まっていた。前 田 は新 しい渋 谷 のプラ
うして、表 面 的 には 毎 日 新 聞 が 時 事 新 報 社 を 買 収 し
ネタリウムをどんな思 いで見 ていたのか、今 となっては
た形となった。1937 年(昭 和 12 年)4 月 、毎 日 新 聞は
知るよしもない。
東 京 社 屋 を拡 張 、新 築 することになり、毎 日 新 聞 社 と
新 聞 社 という民 間 企 業 をスポンサーとして生 まれた
前 田 は資 金 を折 半 して新 会 社 を立 ち上 げ、新 社 屋
東 日 天 文 館 はその後 に設 立 された五 島 プラネタリウム、
(東 日 会 館 )を作 ることになった。しかし、この建 設 計 画
近 鉄 の宇 宙 科 学 館 、サンシャインプラネタリウムなどの
は容 易 には進 まなかった。満 州 での戦 火 が中 国 全 土
民 間 経 営 プラネタリウムの先 行 モデルとなったもので、
に広 がり、国 内 では経 済 統 制 が強 まっていったからで、
地 方 自 治 体 が設 置 した科 学 普 及 施 設 への併 設 という
東 日 会 館 にも建 設 中 止 命 令 が出 された。プラネタリウ
電 気 科 学 館 の 流 れと共 に、わが国 のプラネタリウム経
ム設 置 のための準 備はその前から着 々と進んでいたの
営 形 態 の方 向 性 を与 えたという点 で大 きな意 義 があっ
で、おいそれと引 き下 がるわけにはいかない。そこで、
た。
陳 情の毎 日をくり返し、ようやく、地下 1 階 、地 上 8 階
なお、東 日 天 文 館 については鈴 木 太 郎 氏 の下 記 の
の東 日 会 館 (地 下 は映 画 館 、階 上 は新 聞 社 用 や貸 室 、
ウェブページ「プラネタリウムのパイオニア★東 日 天 文
屋 上 にプラネタリウム館)ができあがり、プラネタリウムが
館」が詳しい。
納まったのである。こうして、1938 年(昭 和 13 年)10 月
http://blog.goo.ne.jp/s13zeiss
に竣 工 し、11 月 に東 日 天 文 館 がオープンした。電 気
科 学 館から遅れること 1 年 半 であった。これも大 変な人
9 . その他
その 他 の 設 置 計 画
プラネタリウムを設 置 しようという計 画 は 電 気 科 学 館
気 で、最 初の1年に 100 万 人 以 上が訪れたと言う。
先 行 していた電 気 科 学 館 の ノウハウは東 日 天 文 館
が最 初 だったわけではなく、それ以 前 にも各 所 で検 討
にしっかり伝 えられた。前 田 のルートで大 阪 市 や電 気
されていた。また、1935 年(昭 和 10 年)当 時 、プラネタ
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タイトルタイトルタイトル
リウムについて一 般 新 聞 が取 り上 げるほどであるから、
のプラネタリウムの実 情 調 査 を委 嘱 した程 であったが、
その存 在 は相 当 広 く知 られていたし、すでに大 阪 市 役
当 時 日 本 に於 いては会 社 経 営 では権 威ある学 者 の裏
所 ではそれ以 前 の昭 和 初 年 、ドイツに出 張 した医 師 が
書を得ること困 難 で、ついに中 止を余 儀 なくされてゐた
プラネタリウムを見 学 しており、プラネタリウムの情 報 は
もので、今 回 、若 し市 の側 で之 が設 置 を放 棄 すれば、
登 場 直 後にもたらされていた。
阪 急 電 鉄 が宝 塚 に之 を設 置 せんとして、小 林 同 社 長
東 京 科 学 博 物 館(現 国 立 科 学 博 物 館)では 1931 年
は市 会の雲 行を注 視しているとも伝えられてゐる』
(昭 和 6 年)、新 館(現 在の上 野の本 館)のオープンに
際 し、プラネタリウムを導 入 すべくツァイス社 から資 料 を
と伝 えていた。阪 急 電 鉄 の小 林 一 三 社 長 と前 田 の関
取 り寄 せ、検 討 していた。電 気 科 学 館 での導 入 に当 た
係は前 章に記 した通りである。
って、羽 間 平 三 郎 氏 (3 章 参 照 )はその資 料 を見 せて
もらっている。
このように関 西 の大 手 私 鉄 3 社はプラネタリウム導 入
を具 体に企て、うち 2 社は後に実 際に導 入 した。当 初
その前の 1927 年(昭 和 2 年)、現 在の近 畿 日 本 鉄
は集 客 が 主 目 的 であったろうが、近 鉄 の 宇 宙 科 学 館
道 株 式 会 社 ではプラネタリウムの導 入 を計 画 していた
などは全 く天 文 の普 及 施 設 であり、経 済 的 には帳 尻の
という。「天 界」によれば
合 うものではなかったから、現 実 は大 企 業 の 一 種 の メ
セナ事 業 であった。後 の五 島 プラネタリウムに通 ずるよ
『大 阪 電 気 軌 道 株 式 会 社 (社 長 金 森 又 一 郎 氏 )
うな話 である。
は早 くも此 のプラネタリウムを生 駒 山 上 に設 置 すること
を計 画』(天 界 1935、15、349)
10.
10 . 最 後 に
していた。山 本 一 清 が「天 界 」にプラネタリウムを紹 介 し
下 記 のホームページを参 照 していただくのが早 い。そ
た頃 のことで、『日 本 に於 いても諸 所 の大 都 市 に右 器
れぞれが断 片 的 な記 述 に 止 まっているのは過 渡 期 の
械 装 置さるべく目 下 交 渉 中 である』と 1927 年 9 月に紹
現 象 とお許 しいただきたい。一 番 まとまっている「電 気
介 していたのは近 鉄 の計 画 を指 しているのかも知 れな
科 学 館 二 十 年 史 」(小 畠 、1957)をご覧 いただくのが最
電 気 科 学 館 の 歴 史 に つ いては 大 阪 市 立 科 学 館 の
い。「天 界」1927 年 5 月 号の記 事に触 発された近 鉄が
適 だが、今 のところ簡 単 に閲 覧 することは難 しく、本 文
山 本に相 談 に行き、それが 9 月号 の記 事になったと見
に記 したように肝 腎なところでの誤 謬もある。
るのが 素 直 な 解 釈 だ が 、近 鉄 の 方 が 早 く て山 本 が 調
査 して 1927 年 5 月 号の記 事になった可 能 性もある。
・加 藤 賢 一 作 成ページ
この時 、プラネタリウムは実 現 には至らなかったが、近
鉄 は生 駒 山 上 に太 陽 観 測 所 を作り、京 都 大 学 へ寄 付
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kato/
・嘉 数 次 人 作 成ページ
している(大 阪 朝 日 新 聞 1936 年 9 月 30 日)。近 鉄は
http://www.sci-museum.kita.osaka.jp/~kazu/
その後 、1951 年 、同 所に宇 宙 科 学 館を作り、ついにプ
zeiss/gallery.html
ラネタリウムを設 置 した。両 者 は 30~50 年の活 動 の後、
太 陽 観 測 所は 1972 年 頃 に閉 鎖され、宇 宙 科 学 館は
筆 者はここ 20 年ほど、折 に触れ、わが国へのプラネ
1999 年に閉 館 した。なお、宇 宙 科 学 館 の資 料 の一 部
タリウムの導 入 経 過 について調 べていたが、内 容 が錯
は大 阪 市 立 科 学 館が引き継 ぎ、収 蔵 している。
綜 し、容 易 に流 れをつかむことができなかった。このた
1933 年(昭 和 8 年)、『阪 神 電 鉄 では甲 子 園 にプラ
び、精 細 に当 時 の文 書 や新 聞 等 に当 たることである程
ネタリウムを建 設 することを計 画 』と「天 界 」(1935、15、
度それが見えてきたように思 い、本 稿をまとめることにし
349)は伝 えている。阪 神 もこの時 は実 現 できなかった
た。ここまで達するには多くの方々にご協 力 いただいた
が、戦 後 、遊 園 地 阪 神 パークを作り、1958 年、初 期 の
が、中 でも木 津 谷 文 吾 氏 には御 祖 父 の関 連 資 料 を調
国 産 機 (コニカ・ミノルタプラネタリウムの前 身 の千 代 田
査 ・ご提 供 いただいた。厚 く御 礼 申 し上 げたい。また、
光 学の信 岡 式)を設 置した。
開 館 当 時 の 決 裁 文 書 や 新 聞 記 事 、天 界 等 を 大 事 に
1935 年 5 月 17 日の大 阪 日 々新 聞は電 気 科 学 館 へ
の導 入 で市 会が紛 糾 していることにからめて、
保 存 してくれた諸 先 輩 方 と大 阪 市 関 係 者 にも感 謝 申
し上 げる。最 後 に、こうした筆 者 の気 ままな調 査 活 動 を
許 していただいた大 阪 市 立 科 学 館 ならびに財 団 法 人
『このプラネタリウムは嘗 て、阪 神 電 鉄 、大 軌 電 鉄 等
もその営 業 政 策 の 上 より 之 を設 置 せんと計 画 したこと
大 阪 科 学 振 興 協 会 の関 係 の皆 様 にも厚 く御 礼 申 し上
げたい。
あり 金 森 大 軌 社 長 は生 駒 山 上 之 を設 置 せんとし、
昭 和 二 年 岡 崎 忠 三 郎 市 議 が 洋 行 に 際 し、欧 州 各 地
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加藤 賢一
参考文献
清 水 伸 、1982、前 久 外 伝-新 聞 配 達から東 京タワー
朝 日 新 聞 社 、1984、有 楽 町 60 年-朝 日 新 聞 社 のう
ち・そと、朝 日 新 聞 社
へ、誠 文 図 書
新 名 種 夫 、1937、建 築と社 会 20(3 号)、37、日 本 建
小 畠 康 郎 、1957、電 気 科 学 館 二 十 年 史 、大 阪 市 立 電
気科学館
木 津 谷 栄 三 郎 、1932、欧 米 管 見 、大 阪 市 電 気 局
築協会
椎 名 仙 卓 、1988、日 本 博 物 館 発 達 史 、雄 山 閣
羽 間 平 三 郎 、1937、サービス 7、第4号 、大 阪 市 電 気
加 藤 賢 一 、2001、大 阪 春 秋 102 号 、p.32
加 藤 賢 一 、2003、電 気 協 会 報 4 月 号 、p.26、社 団 法
人 日 本 電 気協 会
加 藤 賢 一 、2004、なにわ大 阪 再 発 見 第7号 、大 阪
21 世 紀 協 会
局電燈部
山 本 一 清 、1927a、天 界 7, 214
山 本 一 清 、1927b、天 界 7, 390
山 本 一 清 、1933、天 界 13, 375
山 本 一 清 、1937、天 界 17, 171
加 藤 賢 一 、2006、大 阪 人 10 月号 、p.33
Letsch, H. 1955, Das Zeiss-Planetarium, VEB
五 藤 光 学 研 究 所 、1996、星 空 夢 五 藤 光 学 研 究 所
Gustav Fisher Verlag, Jena
1926-1996」
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