362 好色一代男の坂下宿 坂ノ下は東海道で第48番目の宿場である。 伊勢側は険しい鈴鹿峠の急坂のすぐ下に位置するのでこの名がある。辺鄙な山間の集落とし て、日照時間も短いので農業も適せず、特別な産業もこれというものはない。どうしても宿場 として生きる道を探るしかない。旅籠屋の比率は東海道53次の宿場で最も高い方だった。 本陣は大竹屋、松屋、梅屋の松竹梅が揃っていて、脇本陣は小竹屋、鶴屋があった。 『坂ノ下はよき宿にて、大竹屋、小竹屋といふ宿など名高きよし駕籠の者かたる』 尾張八開村の俳人、横井也有も京都への旅日記に書いている。 この大竹屋に1人の若者が泊まった。 その男は世之介と云い、年は18才になったばかり。京都の豪商のドラ息子で、典型的な放蕩 息子である。彼の実家の店は相当な繁盛を誇り、江戸日本橋大伝馬町三丁目に出店があった。 彼の父親は世之介の放蕩癖を少しでも直したいと考え、見習い修行とこの1年間の決算報告を 聞くため、江戸の出店に出張を命じたのである。 世之介は12月9日に京都の店を出発した。粟田山を越えて樹の葉が雪で白くなった逢坂の 関に出る。そして険しい岩角の道がくねくねと曲がる鈴鹿峠の坂を下る。 2日目の泊まりは坂ノ下の大竹屋と決め草鞋をぬいだのであった。 この宿は客室18、延べ2百畳の広大な建坪を誇っており、東海道で随一と折り紙つきの旅 籠である。ドラ息子の世之介は宿の風呂もさっと上がると、身体を拭く間もなくさっそく好い 女漁りを開始した。 『このあたりの好い女がいたら呼んでくれ』 と遣り手婆さんに注文する。そこで番頭が連れてきたのが“鹿”“山吹”“ミツ”という3人の 女である。彼女たちはいま坂ノ下でもっとも人気のある実在の人物、この女たちは界隈の若者 たちに唄われるほどだった。 “光(ミツ)”は出てゆく“山吹”やしょげる 夜の寝床にゃ“鹿”の声 この唄は「舞曲扇林」としていまも伝えられ、三人の名前が見事に唄い込まれている。 世之介はさっそく彼女たちと三味線、琴、音曲と酒の宴を張る。出発前に父親から口酸っぱく、 遊蕩は控えるよう申し渡されているのに、そんなことは何処吹く風と、まるで山水の水の流れ が絶えないような、延々と夜明けまで遊 びほうけたのであった。この様子を1人の旅人 が見て書きとめた。 「一宿にさらりと円居して、山路の菊の酒を 飲まんとて…、山水の落ちて巖に響く こそ、鳴るは滝の水、日は照るとも絶えず と唄り、絶えずと唄り」 この手記の主は「井原西鶴」という人物であり、 江戸から大阪へ戻る途中であった。彼のこの 坂ノ下の見聞を材料にして、一編の読み物小説 を書いた。それが天和2年、41才のとき発表 された「好色一代男」であった。 東海道随一の旅籠屋「大竹屋」、いまは茶畑 の隅に跡がある。 ふわくで旧東海道街道歩きしたときも坂下宿はゆっくり見物できた。
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