こちら - 日本観光振興協会

TIJ セミナー(第 2 部)
日本芸術文化振興会・国立劇場芸能部部長(理事)
織田
紘二氏
演題:歌舞伎とツーリズム
この度、「歌舞伎とツーリズム」という演題を私が決めてしまい、しまったなと思っていま
す。物をよく考えないで決めてしまう悪い癖が出てしまい、いま後悔しているところです。
本日その題に合うような、皆様のご期待に添えるようなお話ができるかどうか、ちょっと
不安なところ、甘いところがあるのではないかという思いをしております。歌舞伎の生の
舞台をご覧になった方は、いらっしゃいますか?非常に多いですね。それは、非常に心強
く、お話ができますね。大学などで話をする場合、最初に、「歌舞伎を見た経験は?」とい
うアンケートをとりますと、生でということを前提にすると、歌舞伎を見た学生は 5、6 人
から 10 人までぐらいですね。その段階で愕然とします。それは、我々の努力の足りないと
ころであるな、と反省もさせられるわけです。
歌舞伎を制作・演出する仕事を長い間やってきましたけれども、基本的に歌舞伎という
ものを仕事にしながら、根本的には日本の芸能・文化というものを、他の言い方をすれば
日本の伝統・文化というものです。あまり、近頃の若い人に、伝統、伝統と言うと、毛嫌
いされる風潮であるので、あまり言いたくないのですが、これはわが国の伝統文化として
の歌舞伎、また伝統文化の一翼を担う芸能分野に携わり、今も仕事をしております。実は、
歌舞伎というものもそうですが、日本の芸能の根底は、どの辺に根ざしているのか、ある
いは根ざす性格というものがどの辺にあるのかを、まず大きく理解をしておいていただく
と、歌舞伎を含めて、歌舞伎のみならず日本の伝統文化の1つの大きなシンボリックなも
のの1つであります芸能のことが、理解していただけるのではないかと思っています。
能、狂言というものがあります。これはご存知のとおり室町時代に、観阿弥、世阿弥とい
う二人の親子で、ほとんど二人によって大成されたといってもいいわけであります。ほぼ
600 年前に生まれ、そして短期間のうちに大成されたわけです。それから 400 年前、慶長
時代、近世初頭といいますか、歌舞伎が人形浄瑠璃、文楽、文楽というのはそんなに古い
言葉ではなくて、幕末に上村文楽軒という興行師がおりまして、その方が非常に有名だっ
たので、文楽という名称が付いたということです。これは人形浄瑠璃という分野でござい
ます。ほぼ、400 年の歴史があるわけでございます。この3つの芸能が、2 年ごとにユネス
コの世界文化遺産に認定されております。最初に能・狂言、そして文楽、歌舞伎が一昨年
に認定されております。まあ、確かにヨーロッパに行きますと、それなりの価値を認めて
くださっております。
この能を生み出す根底、そしてあるいは歌舞伎を生み出す根底というところが日本芸能史
の柱になるわけですが、その辺の話をあらかじめ大きな枠でお話をしたいと思います。「日
本芸能史通鑑抄」という資料を皆様に差し上げております。これをちょっと見ていただき
たいのですが、古事記、日本書記、万葉集というように上に書いてありますが、芸能のい
わゆる天の岩戸伝説、あるいは海彦・山彦伝説、あるいは「乞食者詠二首」というのが万
葉集にございます。長歌がございます。鹿のために痛みを述べて作られる歌、蟹のために
痛みを述べて作られる歌、長歌二首があります。これは芸能史を勉強するときに、最初に
これを勉強させられます。
要するに、基本的に天の岩戸伝説というのは、天照大神が、弟神の須左之男命の暴虐ぶり
を非難し、天の岩戸に篭ってしまう。それを天の岩戸の前で、大勢の神々が、歌舞を奏し、
天鈿女命という女性が、乱舞し、天照大神を天の岩戸から引きずり出すという伝説(物語)
があります。天鈿女命という女性神、猿女(さるめのそ)だといわれていて、猿女族の祖
先といわれております。海彦、山彦の伝説というのも、演技をする、お芝居をすることで、
海彦、山彦もそうだが、鹿の話も蟹の話もそうですが、要するに敗者、戦もそうだが、賭
け事もそうだが、負けたものが、敗者が、勝者、勝ったものに屈服の姿を常に見せ続ける
のが、芸能の基本にあるわけです。常に敗者が勝者に対し、負けたときの姿を演じて見せ
る。そこに芸能の性格、本質が1つあるわけです。それは、ずっと先々まで日本の芸能の
根底に流れてきています。そういうずっと系譜を辿っていくと、定着民と、非定着民とい
う考え方になります。定着しないんですね、芸能者というのは。定着するということは、
稲作を業にするものは、定着しなければ稲は作れないですね。稲を作ってもらわなければ、
為政者というものは、食べられないわけですね。
日本という国は、米で成り立っている国ですから、何石、何十石、何百石獲り、あるいは
何十万石というような大名も石高という米の獲れ高でその価格が決まり、家の格が決まっ
ているというのも日本という国の農業との関わりであります。だから士農工商なんですね。
家康は士なんですね。自分たちは武士の階層。それから次に農というのは、税金を納める
人たちです。士農工商のその下にいるのが、たくさんの膨大な民外の民、生外の民です。
民は4つですから、制度の外の人がいるわけです。その1つが芸能者なんですね。これが
定着していないんです。芸能者のもう1つの性格としてあるのは、定住している人たちは、
もっとも相手というか、困難な相手というのは、天候なわけです。米を作るということで
いくら注意をしても、仁慈をもってしてもまかなうことができない強い力を、天変地異と
いうものが、とにかく根底から稲作の生活を失わせるわけですから。そういうときには、
とにかく、神に祈るしかない。仏に頼み、その土地に静まっている土地の神、留守番の神
とかいろいろ言い方をしますが、その土地の神、いわゆる地主神なんですね。その精霊の
庇護を受けなければ、農業は成り立たない。それは近年までずっとそうだったわけです。
今だって、ある意味では、台風や風とか雨というのはどうにもならないわけですから、毎
年、毎年、天災を受けているわけです。それをなんとかクリアーしようと思うと、神頼み、
仏頼みなんです。それをやってくださるというのが芸能者なんです。芸能者というのは、
そのときに、祭りの庭にやってくるわけです。射付き祀りというんです。神様を招来して、
お祭りをする。たくさんのもの、食べ物を奉納したり、お酒も奉納して、そして神様と人
間とが共感する。一緒に遊んで、そして神様の心を慰撫して、恩恵を蒙りたいというふう
に神の祭りというものがある。射付き祀るという祭りの場がある。その祭りの場に来て、
神様と人間の間に立って、芸能をやって、神様を慰めてくれるのが実は芸能者だったわけ
です。
そしてある意味では、芸能者は霊力をもっている人たちと考えられていたので、神と人間
との交流の間に立ってもらう。神様を慰撫するとともに神様からの言葉を人間に伝える、
人間からの言葉を神へ伝えるという、そういう役割も芸能者の力の中に蓄えていたといわ
れています。お祭りはいろんなところでやっているわけですから芸能者は1カ所に定住し
てはいられない。大きなお宮や大きなお寺には芸能者がいるが、それ以外は通ってくる、
巡行してくるんですね。これが、どこから来るのかがわからない、どこへ行くのかも分か
らないという、これは実は不可思議な民なんですね。そういうふうに芸能者はさすらうの
です。定着しないのです。常に旅をしている性格が芸能者特有のものであったということ
です。1ヵ所に定着しないので、税金を払わないです。税金を払わないというと、日本国
内でも今でも税金を払わない人もいっぱいいるだろうが、たとえばそういうホームレスの
方たちは、河原にいる。河原でこの前も流され取り残された人がいましたが、河原という
ところにいるんですね。今はそんなことはなく、税金を払わないといけないでしょうけど。
今は川の分岐というのは河の真ん中なんです。東京都と神奈川の分岐点は、多摩川の川の
真ん中にあります。昔は、どんどん川の流れが変わります。建設省のおかげで、現在は、
きちんと護岸工事ができているので川は動かない。多摩川もちょうど高島屋のところから、
いわゆる梶ヶ谷のあたり、溝の口の先の梶ヶ谷のあたりまで河原です。この間を川は、年
に何回も流れを変えるんですね。ですから、土地のいわゆる所在が変わるんですね。東京
都と神奈川の土地の広さが違うんです。変わるんです。それでは困るんです。そんなふう
に大きく変わりますから、川は土手のところ、河原のところ、いわゆる堤のところで、そ
こで分岐にするんです。真ん中はどう変わってもいい。川は誰のものでもなく、そこで河
原というものが存在してくるんです。
誰のものでもないので、昔から芸能の民は、ホームレスだったのです。芸能者というのは
河原者、河原に住んでなくても河原者という。それは差別用語ですが、歴史的な学問用語
ですから今は使いますが、河原の民と言われた人たちなんです。歌舞伎でもそうですが、
歌舞伎はどこで生まれたかというと、慶長8年(1603年)に、四条河原という京都の
四条と五条の間のいまの南座のすぐ横に出雲の阿国、阿国歌舞伎発祥の地として石碑がそ
こに立っているが、これも河原なんですね。河原に小屋を作って、そこで見世物をしたり、
歌舞伎をやったり、あるいは人形を見せたりなどをしていたので、歌舞伎の発生というの
も、まさに河原から起こったのです。そういう元々の性格というものが歌舞伎にはあるん
です。歌舞伎は、定着民の娯楽ではあるけれども、芸能の本質がもっていたように、常に
流浪する民の性格というものも非常に強く後々までもっていたということがあります。
歌舞伎だけでなく、能・狂言というものもそういうところがあります。歌舞伎の中にもそ
うですが、歩くということを非常に大切にするのです。日本の芸能というのは一種の歩く
芸なのです。要するに、道行きの芸能、道を行くということで、道行きという言葉と、そ
の後出てきた道中という言葉がドッキングして、それが旅という言葉とイコールになって
いく時代がやってきますが、元々はやはり道を行く芸能、道行きという芸能の性格が非常
に強いわけです。道行きという芸能、道を行くということは、ただ、点から点へ歩くとい
うわけではないのです。祭りの神輿もそうだが、別に点から点へ移動しているだけではな
いのです。平面を歩くことによって、その地の神その土地の神を鎮撫していくという鎮魂
行事なんです。あんな風に神輿は振らなければならないし、踏みしめなければならないわ
けです。それを能の世界では、足拍子のこと、足を踏むことを「へんばい」というんです。
踏みつけないといけない。今の能舞台でもそうですが、真ん中に素焼きの大きなかめが入
っていて、かめの中で足拍子の音を覚醒するようにどこの能楽堂でもかならずかめが埋ま
っています。この足拍子が非常に大切なんです。これを基本的にいうと歩く芸なんです。
それは何かというと、道行きというものに芸能の本質が根ざしている。道行きは何かとい
うと、道を踏み鎮めること、道を踏み鎮めて鎮魂行事として動くんです。かならず1つの
ところに住する、定着しないということなんです。そういう性格を強くもっています。能
舞台は花道と言いますが、それをヨーロッパではフラワーロードという言い方をよくする
のです。花道というのもみなさんご承知と思いますが、花道というのが歌舞伎では非常に
大切です。三宅坂に国立劇場があり、大劇場、小劇場があり、千駄ヶ谷に能楽堂があり、
大阪にも文楽劇場があり、沖縄には沖縄の国立劇場沖縄があります。それから演芸場とい
う寄席があり、千駄ヶ谷には新国立劇場があります。新国立劇場は別にしても、伝統芸能
の国立劇場が6つもある国はないんですね。アメリカは1つも国立劇場はないです。あれ
は州立劇場なんですね。メトロポリタンだって、あれはニューヨーク州立劇場なわけです
から。イギリスにもロンドンに国立劇場は1つしかないです。
これはなぜかというと、この花道がないと、歌舞伎というのは従前な演出ができないので
す。この花道がないと歌舞伎ができない。この花道があると文楽ができないんです。文楽
というのは、舞台が4尺下がっているのです。それを船底というのですが、小劇場は舞台
が下がるようにできている。文楽の下げた劇場では、歌舞伎はできないのです。歌舞伎役
者が動いても歌舞伎役者が見えない。歌舞伎の舞台では、文楽の人たちは人形を使えない。
立ったままでは、全部使い手の足が見えてしまいます。日本という国は、演技と伝統芸能
全部が重層文化であるといわれていますが、千年の歴史の中でインペリアルコートといわ
れる雅楽が伝統芸能として消えてないのです。宮内庁にも雅楽の劇場があります。東の御
苑の中には宮内庁の楽部の劇場があります。その楽堂の劇場は雅楽しかできない。雅楽の
劇場は、大阪では四天王寺に石の舞台があり、ここは雅楽専用の劇場なのです。ここでは
歌舞伎もできないし、文楽もできないのです。ですから本当は、国立劇場の中ではもう1
つ花道がつく。仮の花道が付くのですが、東の花道、西の花道の間に歩みというものが、
金丸座にはあります。こういう動きで歌舞伎が出来上がっているのです。よく仮花道を使
うと席がつぶれるため商売が大変であるということで通路を通ったりするが、そういう風
に使うようになっています。しかし、これは全部文楽では必要ないのです。ここに花道が
あると困るのは、4 間四方の真四角の舞台があって、ここに 7 間の橋掛かりがある。能の舞
台は、このようになっていて、橋掛かりがあり、鏡の間という楽屋になっていて、ここに
松の絵が描いてある。ここに 3 段の階(きざはし)がある。ここに白い砂がひいてある。
ここでは歌舞伎はできないんです。
実は初期のころは能舞台を借りて歌舞伎をやっていた。実はこの階という 3 段の白木ばし
ごがあります。能舞台には 3 段の階段があるのです。これは何のために使うのだろうと思
われた方もいると思います。これを使う演出はほとんどの方が見たことがないと思います。
これはなんのために使うかというと、ここに御簾が降りている部屋があって、国立能楽堂
にもありますけれど、ここで見ている人だけのために能はやるんです。ここに足利義満さ
んがいて、ここにいる人たちは陪席者で、いてもいなくてもいい人たちなのです。この人
は大パトロンですから、大パトロンから小袖を贈るんです。今でもそういう演出をやりま
すが弓矢の立会いという芸が能には今でも残っているのです。足利将軍家のおつかわしめ
が出てきて、ここで 1 段足を乗っけて、ここでしゃがみこんだ演者の肩に小袖をかけるん
です。そういう演出儀式をやる。そのためだけに使います。もちろん小袖だけもらうわけ
でなく、もちろん大枚のお金も付いているのですがそれをパトロンがプレゼントします。
これを称して花という、ご祝儀のことを花といいます。今でも御祭りのご祝儀は花といい
ます。その花を渡す階なんです。これがどんどん伸びていったのが、実は花道なんではな
いか、そういう説の方が今は強いようです。昔から、歌舞伎役者は花道に立って、今でも
芝居を途中をとめて、ここへずらっと芸者が並び、海老蔵さんの祖、家六がどんな素晴ら
しいかせりふをいう芝居をこの前までやっていたわけです。それだけではなく、それをや
ればかならず大枚の花を贈らないといけない。そういう道であったというところが、花道
の語源であったみたいです。たとえば、雅楽の舞台、能の舞台、文楽の舞台、歌舞伎の舞
台、1つ1つの雅楽、文楽、能、歌舞伎、それと沖縄のくみ踊りという芸能を、国が団体
として国宝指定して、重要無形文化財指定団体としている5つの芸能があり、その芸能の
1つ1つに全部劇場がないと成り立たないわけです。従前な伝統的な演出というのが成り
立たないわけです。そのために今でもこんなにたくさんの国立劇場をもっている。1つ前
の芸能を残していく。次の世代がいろんな芸能ジャンルを生み出しながら、それも全部残
してしまうというところが歌舞伎を含めて日本の芸能が重層的な重層文化といわれる由縁
になっているようでございます。それが、1 本ずっと、敗者、負けたものに対する屈服の姿、
あるいは定着民に対して、非定着民としての芸能者が祝福を与えて、その巡航する、一種
の流浪する芸能の性格というものが一方ではずっとあります。
もう一方で、日本の芸能で非常に大事な大きな要素というのが、外国からの芸能が非常に
早く日本に入っていることです。外国というのは、もちろん、ほぼその当時の文化国家で
あった、韓国、今の韓半島や中国から伝わったきたものであります。453 年ごろに妓楽とい
う芸能が日本に入ってくる、それから同じころに舞楽が入ってくる、975 年ごろに散楽とい
う芸能が入ってきたわけです。これが日本の三大外来楽ということができると思います。
この妓楽面が正倉院に残っている。これは、ほとんどすっぽりと頭の半分ぐらいまで隠す
今のような顔の上につける面ではなく、すっぽりと頭にかぶる面です。奈良の大麻寺の 25
体の菩薩様が東から西へ、西から東へと歩くんです。これも道行きなんです。巡行をする。
西方浄土から現世へ行ってまた帰ってくる。これは 5 月に行われている。この近くでも大
井町線の九品仏でも来迎会の行事が今でも行われています。妓楽という芸能は、社寺の仏
教の行事として今でも残っているわけです。453 年、宮内庁の雅楽の楽部でのものですが、
今日も残っています。来月に国立劇場で年 1 回の宮内庁の雅楽公演があります。ほとんど
売り出すとすぐにチケットがなくなります。これももっと回数が増えればいいのですが、
宮内庁の職員ですから、公務員ですから、千年も公務員だったのはこの人たちだけです。
千年来の家が楽家といいますが今日も継承しています。宮内庁にずっと伝わってきたもの
でもないんです。東京に出てきて、もみじ山楽所としてまとまったわけですが、近世江戸
時代には整備していた京都楽所いうところと、奈良の興福寺の粕神社に残っていた南都楽
所、四天王寺楽所がありましたが、それが集約して、明治になってから、みんなが集まっ
てもみじやま楽所を作り、宮中行事というものを復活しました。これが宮内庁の楽部でこ
れも舞楽です。インペリアルコートという言い方をすると、みやびの雅楽と言います。雅
楽は、音楽と舞が付いているものを雅楽という。舞だけの場合、舞楽という。音楽だけの
ときには管弦という、2つを総称して雅楽というふうに言います。これに対し散楽という
ものはいっぱいあるのです。散楽は何が基本にあるかというと、奇術、手品です。よく雑
技団が中国からよく来ますが、ほとんどこの雑技団の芸の中に散楽があります。今はまり
と釜とあやだけですが、これはなんでもいいんです。これを品球といいますが、どんな品
物でも手玉にとるのでこの言い方をします。よく手玉にとるといますが、手品は日本だけ
ではないです。これが釜だけではなく、火でも剣でもいいわけです。ポリネシアンへ行く
と、たいまつでやります。大神楽では、ばちや鞠でやります。今も大神楽の中でいっぱい
残っています。これも剣でもなんでもいいですね。なんでもいいから手品と言うのですね。
今でもよくあるのは、剣を飲み込んで、これを抜くとかがあります。散楽の芸にあるのは、
火吹き男、ガソリンを飲んで吹きだして火をつける。それから金魚を飲み込むような芸も
あります。(笑)赤出せと言えば、赤の金魚です。黒出せと言えば黒の金魚を出します。今
でも訓練でできるらしいです。なぜかインディアン嘘つかないとインディアンの格好をし
て言って電気の球を食べるんですが、これはナショナルとかこれは東芝がうまいとか言っ
て食べるんです。。そういうことがこの散楽の中いっぱい入っているんですね。馬の口から
子供が入っていって、お尻から出てくる奇術もあったようです。これはもちろんテクニッ
クでもありトリックでもあるわけですがおもしろいですね。散楽と儀楽と舞楽の3つとも
宮内庁の楽部で教えていたんです。あまりにもひどいので、散楽はすぐにやめてしまいま
した。今の日本にはないが平安時代には国立芸能大学があったんです。天皇家直属の学校
がありました。いま散楽はいち早くなくなり全国に散っています。これは大神楽として残
り、今でもたくさんの獅子の芸能が残っている。これが室町時代に能になる。それから狂
言の舞台ということで、関が原の戦いが 1602 年にあり、1603 年に江戸幕府が開府します。
そして、1603 年、ここに出雲の阿国が生まれてくる。この同じ時なのです。出雲の阿国さ
んが突然生まれたわけでなく、1603 年の東大紀という書物に記録されたということです。
この出雲の阿国の格好は尾張の徳川家のものです。きれいなものです。出雲の阿国は女性
なのです。外国へ行くとよく言われますが、歌舞伎にはどうして男しか出れないのか、そ
れは女性差別、職業差別であるとよくいわれることがあるのです。実は、歌舞伎は女性か
ら起こったのです。出雲の阿国は女性なのです。宝塚みたいなものです。男装する女性の
芸人だったのです。それが風紀を乱すということで、1629 年に女歌舞伎が禁止されます。
女歌舞伎が禁止されて、若衆歌舞伎という、ここに帽子があるが、この帽子で前髪を落と
さなければ若衆なんです。いくつになっても若衆なのです。戦国時代ですから、戦陣に女
性を連れて行くことはできないわけですから、これも非常に風紀を乱したということで
1629 年に禁止をされて、野郎歌舞伎という初代市川団十郎の錦絵ですが、要するに今度は
野郎歌舞伎ですね。これは、前髪をそって男だけでやるものです。そこで歌舞伎の発明と
いうのは、大変なことだったのは、いろいろな歌舞伎 18 番、女形を生む。今日の姿に近い
形へ移行していったわけです。
それでは、歌舞伎の話に入りたいと思います。そういうように東海道が、江戸と日本橋と
京都の間に東海道が徳川家康によって整備されたわけでございます。江戸の日本橋と京都
の三条大橋の間に 53 の駅を置くというのが、慶長 6 年(1601 年)のことだったそうです
が、53 の駅を置いたのは徳川家康の地勢のはじまりと機を一にしているわけでございます。
東海道は京都まで 150 里 20 丁あったそうです。ほぼ 495 キロという行程だったそうで、ほ
ぼ 13 日から 15 日間の片道の旅程だったそうです。当時の飛脚の速さで江戸、京都間は約
90 時間、ものすごく早いところで飛脚の足で 68 時間で片道通行した例もあるようです。し
かし、その当時いかに東海道が整備されようが、とにかく旅に対しては非常に幕府という
のは神経を使ったわけでございます。常に定着してもらうことが基本なわけです。勝手に
動かさないということです。これは特に農民です。商人は動きまわらないとならないわけ
ですが大多数は農民ですから士族にとって、農民の定着とうものが何よりも大切だったわ
けです。町人たりとも旅をすることに対しては非常に神経を使っていました。菩提寺の住
職や町役人の許しを得て、往来切手をもらって、関所があるところを通るときは関札をも
っていかなければならない。とにかく町奉行所に行くときも勝手にいくことができないわ
けです。町内の年寄りがいて、5 人組がいて、町代(町の代表)がいて、そしてこれが連署、
連判をして、何のために行くのかと聞かれ、大体がお悔やみごとで親戚のところへ行くの
は許されていたのです。旅の許可をとるには一番よかったわけです。今でもそれをよく使
っている人がいるようですが。(笑)そんなことはいいのですが。
そういう町人にとってすれば、旅をすることが非常に大変なことで、為政者からすれば、
簡単に居住区から出さないという基本的な考え方にあった時代が長かったわけでございま
す。これも侍になりますと公務で一番代表的なものが参勤交代で、国もとと江戸との往復
ということが一番大きかったわけです。こういう御用道中といわれる公務以外で私用とい
うのは、原則として禁止されていた時代が長いわけです。これも親類に不幸のあったとき
や仏参、社参(神社)、キーはここなのです。お寺や神社へ御参りすることが大事だった。
また、病気のために転地療養する場合は支配頭に届けて、幾日間と定められて暇をもらう
など関所を通るのも大変なことだったようです。そういうように非常に神経を使い居住区
から離さないようにすることがあったわけございます。しかし、享和 2 年(1802 年)に 11
代将軍の家斉の時代はいわゆる大御所時代といわれ、江戸期の中で豊かであり安定してい
た時代なのです。そういう時代に東海道中膝栗毛(十返舎一九)が作品として世に出て、
江戸から箱根の関所までが出た。この本が大ベストセラーになり、続編、続々編と次々に
書かれて毎年 1 編ずつ 8 年目かかってようやく大阪に到着した。これだけでは止まらず行
って帰ってくるまで 21 年かかったわけです。金比羅山へ行き、宮島へ行き、木曽街道から、
善光寺を回り、上洲草津から中仙道をとおって帰ってくる大長編ベストセラーになりまし
た。実は、大長編ベストセラーの背景にあったのは、旅に対する江戸庶民の非常に強い願
望であったわけです。1つところに定着をする、1つところに住することはいろんな意味
でストレスを生む、そういう時代背景があったんだろうと言われています。そういうもの
を発散させたのが、おかげ参りとか抜け参りとかいう伊勢へのお参りだったのです。
赤福食べに行ったわけではないが(笑)、この伊勢へのお参りが一大事業なわけです。日本
全国に伊勢音頭が残っているのは、伊勢参りへ行き、伊勢の芸能を学んできて、伊勢音頭
が全国に残っています。おかげ参りは、幕末時期の 10 年に 1 回起こりますが、どこから集
まってくるかわからない大群衆が群れを作って伊勢へ向かいます。これが出没すると全部
関所もあけてしまうのです。東海道の宿では、どこもおかげ参りの人たちを接待をする風
習が定着しました。これは1銭のお金がなくても伊勢まで行って帰ってこれた。無銭飲食
をしながら行くわけです。そういう抜け参りは本当にどこにも内緒で出奔するわけで伊勢
へのお参りは大目にみられていたところがありました。
歌舞伎との関わりで話しますと、道行く芸能、歩く芸能、道中ということと道行けという
ことと芸能は大きなかかわりがあると申しましたけども、この東海道中膝栗毛の大流行と
いうものも歌舞伎に大きな影響を与えることになりました。歌舞伎というものの中に観光
案内という要素が非常に強いんです。江戸の庶民の見るものは歌舞伎しかないわけです。
もっと底辺になると見世物です。大きなテーマの1つが観光地巡りなのです。自由に歩く
ことができなった人へ、歌舞伎の舞台で名所旧跡を見せることがテーマとなる芝居が生ま
れてくるわけです。そういう全国のいろいろなところを回るということが、無理なくでき
たのは芝居の世界では敵討ちなんです。敵を討つことは大変なことです。肉親を討たれた
ものやお父さんを討たれたものは、敵討ちをして首をもって帰らないとその家を再興でき
ないんです。敵を討てないような男は家長として認められない。日本三大敵討ちは、1つ
は曽我の兄弟の話で箱根に行くとお墓がありますがこれは鎌倉時代の話です。荒木又衛門
の伊賀越道中すごろくという芝居では 36 人斬りがあります。そんなに斬れたわけではない。
荒木又右衛門は助っ人でなんですが息子が全国を回るのです。その近くに亀山城があるが、
石井家の兄弟がいて水衛門という敵を 26 年間も追っかけました。追っかける方も、追っか
けられる方もいやになるのです。高田馬場の堀部安兵衛、曽我の兄弟も 16 年間追っかけて
いてこれは哀れにも返り討ちにあった。日本人はそういう敵討ちの話が好きなわけです。
敵討ちは武士にだけ認められている。有名な三大敵討ちの上を行くのが赤穂浪士の敵討ち
も有名です。主君のために吉良の首を討ったのですから。しかし侍にしか敵討ちは認めら
れていない。町人たちはそんなことする必要はない。町人から見ると侍は馬鹿だと思うの
ではないかと思います。討つ方も討たれるものも大変です。芝居は人の不幸を楽しむもの
なのです。人の不幸は密の味といいますが、とにかく舞台の上では人の出世を見てもしょ
うがないわけです。奥さんたちが見ていて、このおやじよりはまだいいと思う。東海道四
谷怪談で家門という悪いのが出てきたり、お岩さんを見てまだ我が家の方ががいい。これ
がカタルシスなのです。あの子よりまだ私の方がいいと。ちょっと自分より不幸なのがい
いのです。すごく不幸なものはめげてしまうのです。ちょっと不幸で、ちょっと優越感に
ひたれるというところが芝居にあるのです。そうじゃないと見に行かないです。どこへで
も追っかけていくわけですから、伊賀越道中双六も、双六があがっていく場面ができてい
ます。梅の春53次という芝居を今年の1月にやりましたが、これもすごろくのようです。
これも東海道を主人公が旅をする。東海道では、宿場、宿場にいろんなエピソードがある
のです。これほどエピソードにあふれているところは東海道以外はないのです。
当時のひとたちは、行ったことがないのにどうしてかよく知っているのです。それを読み
込むというのが、一番読み込みやすいのは敵討ち。それからたとえば沼津というところは
沼津から平作と会うが、実は物語が大きく転換していくときに、二人の主人公が客席を歩
くわけです。真ん中で何かぐずぐず言いながら歩いているうちに、伊丹屋と親子だったと
いうことで後からわかり悲劇に結びつくのですが、ここを歩いているうちに舞台が変わる
のです。それが居ながらにして、関東から関西の山科まで、琵琶湖まで代えてしまうのが、
忠臣蔵の芝居の8弾目、そこで嫁入りのために加古川本蔵の奥さんの「となせ」と「とな
み」という娘を連れて大石力のところへ嫁ぐところがあるのです。ここもどんどん舞台の
後ろが変わっていくのです。東海道のほとんど 200 キロぐらいを20分で行くのです。ど
んどん道具を変えていくわけです。そこにいたままで舞台の後ろ変わっていくのを居所変
わりというのですが、その最たるものが一人旅53次です。後ろに解説が出ておりますが、
梅の春 53 次という 53 次モノというジャンルが歌舞伎にはあるのです。1827年(文政
7年)6 月、鶴屋南北が3代目の尾上菊五郎の主演で、一人旅 53 次というお芝居があり、
その系譜の中に同じ趣向のものが何度も書かれたのが、梅の春53次という歌舞伎だった。
今年 7 月に復活して上演しました。それが怪談ものと結びつく。お化けの芝居と結びつく
わけです。どうしてかというとその間に、東海道四谷怪談というお芝居があります。これ
も根本は敵討ちものなのです。敵を討つために京都から江戸に向かうという話なのです。
これだけではおもしろくないので、東海道のいたるところにどうしてこんなにお化けが出
るのかと思うほど江戸時代はお化けが出るのです。方々にキャラクターの変わったお化け
を次から次に出していくのが東海道四谷怪談なのです。しかし東海道は出てこないのです。
序幕は浅草の観音様の田んぼの裏、2幕目が四谷、3 幕目が隠亡堀で、4 幕目が深川、最後
も深川で終わる。東海道はなんの関係もないわけです。これも東海道がそのときは流行っ
ていたので、東海道流行なのです。日本橋は出てこないのに簡単に東海道を付ければ売れ
たわけです。東海道・藤沢の近辺に四谷というところがあったようですが、主演の 3 代目
の尾上菊五郎が今回の旅と歌舞伎のキーポイントで、東海道四谷怪談の主役なのです。東
海道をとおり大宰府の天満宮までお参りに行く。大宰府までは歩いて行くのでしばらくの
間は帰ってこられないのでそのためにお名残公演をするためにこの芝居を出した。結局は、
東海道中膝栗毛の人気に乗っかろうしたわけです。あさましい歌舞伎の作者のものの考え
方なのです。
(笑)なんでも売れているところに乗っかろうとしたところがあるのだと思い
ます。3 代目の尾上菊五郎は名人ですがなんで当てたかというと、お化けであてたのです。
この人のおやじが初代の尾上松助、この松助以来尾上家というのはずっと幽霊の家なので
す。明るい芸風の菊五郎ですから今これを菊五郎に言うといやがるのです。、市川団十郎の
集めたのが歌舞伎 18 番で、それに匹敵するいいものを集めようとして5代目尾上松録、3
代目尾上菊五郎、4 代目尾上菊五郎が自分たちのやったいいものを全部集めようとまとめた
ら全部お化けばかりになった。今だって菊五郎はほとんどやる気ないですね。たとえば、
刑部姫とか姫路の白鷺城の天守閣の上に住んでいた、古ぎつねの姫、刑部姫、いまでもき
つねが天守閣にいます。これは宮本武蔵が退治したのです。これは本当です。宮本武蔵が
行き息子と天守閣に寝て刑部姫が出てきて退治してその時きつねが逃げた。どうも最近戻
ってきたようです。そういうおさかべ姫とか、梅の春 53 次の岡崎の猫とか。猫はどうして
油をなめるのか今回の芝居でよくわかりました。油をなめる、鉄の枠で作られたあんどん
があるのです。明治時代に作ったあんどんを持ってきてやったのです。とにかく、そうい
う芝居なのです。3 代目の菊五郎いう人はお化けばっかりやっていた人なのです。この 3 代
目が一人旅 53 次の主演をしたのです。そこで、東海道 53 次の各宿場をとんとんと巡って
いって、すごろくのように巡っていくという歌舞伎の伝統的手法と菊五郎とが結びついた。
そうして各地方の名所旧跡、なるべくならば、幽霊が出る名所旧跡ばかり集めた。そうい
う芝居をとにかく江戸時代の人は喜んだ。そういう話を今年の梅の春 53 次でもやりました。
尾上松介という人があてた芝居は、桑名屋徳蔵入船物語です。これは壮大な旅の話なので
す。松助、3 代目の菊五郎のお父さんが大当てに当てたが、寛永時代の 1630 年ぐらいに、
播州・高砂に徳右兵衛という人がいてインドへ行って商売をしていた。天竺に行き、その
話を舞台にかけた。これが大変な話題になり今でも天竺徳平とか天徳と言ってキリシタン
の伴天連がインド語でしゃべるのです。今の人たちも聞いている方も言ってる方もわから
ない。そういう不思議な芝居が出てくるのです。がまの妖術をつかうのです。がまの中に
入り、がまの中から人間が飛び出してきて立ち回りをする。伴天連の妖術なるものも出て
きて中国を経てインドへ行き、こういう話を聞いてきた、こんなものを見てきたというこ
とを舞台でやってみるのです。インド人の踊りを舞台で踊ってみせる。とにかく歌舞伎と
いうのは、歌舞伎だけでなく日本の近世の芸能はそういうものでとにかく目立たないとい
けない。とにかく売れるということ、とにかく人よりも一歩先んじることが芸能者の真骨
頂といっていいのでしょう。今日は、歌舞伎とツーリズムという話になったかなという感
じもしますけども、無理にもっていったような気がしないわけではありません。歌舞伎と
いうのはやはり江戸時代を通じて、旅をすることに対するあこがれというものを舞台で現
実として表すという役割も担っていると思います。歌舞伎以外にほとんど娯楽がない時代、
ファッション、音楽、化粧、髪型、小物、扇子から柄、デザインなど、ありとあらゆる流
行は歌舞伎から起こったといわれるぐらい、歌舞伎は庶民の娯楽の代表であった、長い時
代に歌舞伎が果たした役割の1つに観光地めぐりのテーマもあったわけです。今日はこれ
で終わりにします。