医者が患者になったとき

医者が患者になったとき
前
川
和
彦
When a Doctor Becomes a Patient
Kazuhiko Maekawa
ただ今ご紹介いただきました関東中央病院の前川です。本日は,日大商学部の公開講演会の基
調講演の機会を与えて頂き,大変光栄に存じます。
まず,私がトップバッターとして,医者が患者になったとき何を考えたかというあたりをお話
しして,そのあとのディスカッションにつなげたいと思います。私事でございますが,私の入院
歴を説明させていただきます。
このスライドは,わが国における交通事故件数の経年的推移を示しています。
(図1)いわゆる
第1次交通戦争が始まったのは,昭和 30 年の後半で,この頃,自動車の台数が急激に増えたにも
かかわらず,道路,あるいは信号機等のインフラ整備が追いつかず,交通事故が多発いたしまし
た。次の山が第2次交通戦争です。実はそれに私は2回も貢献しました。(図2)
#1
図1
#2
わが国における交通事故件数,死傷者数の推移(平成 16 年度警察白書)
―7―
『情報科学研究』第17号
私の入院歴 1
<1回目>
昭和43年9月頃、交通事故で上顎歯槽骨骨折。
<2回目>
昭和47年8月29日、交通事故で第二頸椎歯状
突起骨折を受傷。北里大学病院に同年12月28日まで
入院(約4ヶ月) 。 第2頸椎
女神ミネルバ(ルーベンス)
図2
まずは1回目。事故の発生は昭和 43 年ですので当然カルテはありませんし,記憶も定かであり
ませんが,9月頃だったと思います。私の前方不注意で,イラクで今はやりの自爆による交通事
故であります。2日間ほど埼玉県の病院に入院いたしました。怪我は上顎歯槽骨骨折,つまり上
顎の歯がソケットのように入っている,そのソケット部分を骨折しました。有体にいいますと顔
面をハンドルにぶっつけて歯がぼろぼろになっちゃったということであります。その後,東大病
院で,アーチバーによる固定,つまり歯と歯をワイヤーで固定する手術を受けました。これが痛
いのなんのって,本当に痛かったですね。そのあと後遺症はありませんでしたがずっと義歯,40
年間入れ歯をしまして,非常に不都合な思いをしました。怪我をして思ったことは,顔面の怪我
はほんとに痛いなということ,本当に痛かったです。しかし入院期間が短かったものですから入
院に関する余り強い印象はありません。
それから数年後,また,交通事故。今度はわたしの責任ではありませんで,正面衝突事故の被
害者でした。相手の車がスリップしまして,正面衝突したのですね。その当時,私の車はサニー
クーペという軽い車でしたが,相手の車はもう少し重い車だったので,相手の運転者は無傷でし
た。それで,それ以降,車を買う時は車体重量が1トン以上のものを買うようにしています。
怪我は第二頚椎の歯状突起骨折でした。これが第二頚椎です(図2左)。首には7つの椎骨があ
るのですが,第二頚椎は軸椎ともいいましてこれを中心に頭が回ります。これが折れてずれます
と高位頚髄を圧迫して即死です。運よくずれませんでしたので,今こうやって生きているのです
が・・・。もう1ついいますと,ご存知の方もいらっしゃると思いますが,人が死に火葬にして
『情報科学研究』第17号
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骨あげをしますね,その時に「お舎利さま」と称する,仏様が座ったように見える骨が第二頚椎
です。その上,この第二頚椎の歯状突起は折れますと,非常につきにくいのです。
医者が患者であるとあまりよくないこともあります。こういう大きな怪我をしたあとは,誰で
も結構ショックを受けて精神的ストレスに晒されます。そのような時に見舞いに来た整形外科医
の友達が,私の首のレントゲン写真を見て,
「前川,これは治らんぞ」と言うのですね。この発言
はかなりのショックでした。入院して6週間の頭蓋直達牽引。今はもうちょっと違う方法で治療
をするのですが,当時そうした器具がなかったものですから。今の若い方はご存じないかもしれ
ませんが,昔,氷屋さんが氷を運ぶときに使った氷挟みがありますね(図2中)
。頭蓋骨に穴をあ
けて,この氷挟みに似たもので頭を引っ張るのです。その先に重りをつけて頭を引っ張りますか
ら,首が固定されます。頭を氷挟みで引っ張られてのベッド上安静の6週間でした。実はこの間
にかなりの揺れの地震がありました。整形外科病棟の元気な患者さんは,みんなギャーッと言っ
ているのですが・・・。おいおい,僕の方はどうなるんだ。もし,自分で起き上がって逃げると
なると,頭の上の氷挟みを引っ張って重りを持って逃げなければならないのですね。悲しい喜劇
です。
それから,6週間のミネルバジャケット。ミネルバジャケットなんて今の若い医者でも知らな
いと思うのですが,頭のてっぺんから肩まで巻くギブスのことです。ミネルバはローマ神話に出
てくる女神の名前です。ギリシャ神話では女神アテネ,あるいはアテナといわれます。ゼウスが
頭が痛いと訴えたので,斧で頭を開けて出てきたのが女神ミネルバ,アテネでして,アテナは鎧
兜をつけて出てきたといわれています。したがって,ミネルバの名前をいただいているミネルバ
ジャケットは,頭から肩の後ろまでのギブスです。これもまた6週間つけられました。
非常につらいな,なんでぼくがこんな目にあわなければならないのか,
という思いが強かった。
当時 31 歳。医者としてもこれからというときで,すでに結婚もしていて子供が2人いるし,さて
これからの人生どうしようかなという不安で一杯でした。
頭が固定されていますので,寝返りも打てません。毎日天井しか見るものがありませんので「仕
方ないな,天井のシミと仲良くなるか」というふうにも考えました。その時に入院して思ったこ
と,先程も言いましたように人生の悲哀を痛切に感じました。それからヒトは生活のパターンが
変わるたびに便秘するということ。頭蓋牽引をしてベッドに寝たとたんに便秘です。しかし人間
はどんな逆境にも慣れてくるものですから,今度は決まった時間に排便をするようになる。6 週
間の頭蓋牽引が終わり,ミネルバジャケットを巻いて起き上がるとまたしても便秘。つまりヒト
は生活のパターンが変わるたびに便秘をすることを実感しました。
それから,ずっとベッドの上で排尿,排便をしていましたので,歩けたら先ずトイレに行きた
い,トイレに自分で行って自分でトイレをしたいという願望が強かった。同じような経験をした
皆さんは同じことを仰います。実際,歩く許可が下りて先ず最初にやったことは,壁に沿って伝
い歩きをしながら恐る恐るトイレに自分で行き,トイレをしました。そもそもそれまで全く健康
だった 31 歳の男性が,突然仰向きのまま排尿,排便をせよと言われてもなかなかできるものでは
ありません。
また,病院の生活は極めて管理が行き届いていて,朝・夕の点呼が加わったらまさに刑務所暮
らしと同じです。まだ寝たいのに午前 6 時に起こされて,夕方眠くもないのに9時におやすみな
さいといわれて徹底的に管理される。食事の時間も決まっているし,量も決まっている。まさに
日常性からの断絶です。
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『情報科学研究』第17号
それから,本当に入院患者さんにとってみると,食事以外に楽しいものはない。なおかつ骨折
を治す薬はありませんので,とにかく三度三度栄養をちゃんととって治るようにしようと思うし
かないので,必死になって食べました。
患者は医療者のちょっとした言動に一喜一憂するものです。たまたま私が入院した大学病院の
整形外科の教授をはじめスタッフ全員が九州大学出身だったので,みんな九州弁で会話をしてい
るのですね。で,教授が回診に来て,
「前川くん,どうね」こういう調子で話かけられると正直ほっ
としました。
「人生を横に見るのもなかなかおつなものじゃろが」なるほどな,そういう見方もで
きるのかとなんとなく納得したことがありました。それから,首を引っ張っているわけでありま
すが,肩が非常にこるのです。看護師さんたちは忙しいのですが,ある看護師さんが夜勤があけ
て帰宅する前に,
「先生,揉んであげようか」と言って首の下にちょっと手を入れて,揉んでくれ
たことがありました。これが,非常にうれしかった,涙が出るくらいうれしかった。首を固定し
ていますので,当然ベッド上で仰向きで食事をするのですが,ご飯は基本的におにぎりです。食
膳は直接は見えませんので,鏡とプリズム眼鏡で見ながら指でとって食べるのですね。そうする
と,首の周りにどうしてもこぼれます。気のつかない看護師さんは,全くそれに対して配慮する
ことがなく食膳を持ってきて,パッと行ってしまいます。こうしたらきっとこぼすだろうなとい
う配慮がある看護師さんは,ちゃんとエプロンを持ってきてくれます。こうした些細なことが非
常に気になるのですね。患者は医療者の言動に本当に一喜一憂するものだと分かりました。
3回目の入院。
(図3)少し時間が経ちまして平成2年,両側の網膜剥離で北里大学病院の眼科
に1カ月間入院しました。原因は分かりません。担当医におそらく人生の疲れだろうと言われま
した。光を感じる網膜がその後ろの膜から剥がれてくる。乳頭部というところまで剥離が及ぶと
失明します。
私の入院歴 2
<3回目>
平成2年11月16日、両側網膜剥離で北里大学病院
に12月18日まで入院(32日間) 。
<4回目>
平成7年1月7日、早期胃癌で北里大学病院に1月
28日まで入院。胃切除術、リンパ節郭清術を受け
る。
図3
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実は入院する前の日にある学会で座長をしました。壇上から会場を見ると,どうも視野の真中
がボーっとしている。
視野の真ん中の部分が白く霞みがかかったように見える。そこで翌日ちょっ
と目がおかしいので診てくれと言って眼科外来で診てもらったら,
「先生,これ網膜剥離で,絶対
安静。ほんとに動いちゃだめですよ。これ以上動くと失明するかもしれません」と脅かされまし
た。絶対安静と言われても,前日,学会に遅刻しそうになって学会会場まで走ったのに・・・。
レーザーによる光凝固と,強膜内陥術,これは強膜を縫い合わせる手術を受けました。術後1
週間,眼帯をつけての暗黒状態で,仰向きでの絶対安静を強いられました。病気になってすぐに
思ったこと。あー,おれもこれで一巻の終わりだ。でも,眼帯が取れたら,気にするな,人生の
疲れだよ,ここで1回休みなさいということなのだなと自分を納得させました。それから入院し
て思ったこと感じたこと。入院期間は1週間でしたが,1週間の暗闇の中の絶対安静ほどつらい
ものはない。仰向きになってじっとしているって,考えると楽なことのように思えるのですが,
歯も磨いてはいけない,頭も洗ってはいけない,寝返りもしてはいけない,なおかつ眼帯をして
いるので真っ暗の一週間。これはきついですよ。背中が痛くてどうしようもない。さすってもら
おうが,何してもらおうが絶対取れないですね。1日じっと安静っていうのもきついですけど,
1週間というのはヒトを狂わせます。
もう1つ,味覚というのは大いに視覚に依存するということが判りました。目を閉じて食事を
してみてください。目を閉じて血の滴るようなステーキを食べても,あまりおいしくないはずで
す。眼帯をしていますから,食事は全部看護師さんの介助です。「先生,パンがいきます」ポン。
「はい,ハム」ポン。
「はい,きゅうり」ポン。砂をかむとはまさにこのことです。いかに味覚が
視覚に依存しているかということが非常によく分かりました。
もう1つ,両側の眼帯をして,突然目が見えなくなったわけですね。そうすると,人間という
のは不思議なもので,他の知覚が非常に鋭敏になります。このことは知覚障害の方々にも当ては
まると思います。ぼくは本当は耳が少し悪いのですが,聴覚が非常に鋭敏になって,例えばハイ
ヒールの音などが気になるのですね。特に病棟が静かになった夜。これは私ばかりでなくて,他
の方々も感じられています。同じ大学の心臓外科の教授が,心臓が悪くて ICU に入院されたので
すが,ICU では絶対にハイヒールは禁止だと怒られていました。
それから,逆境に置かれると笑いを求めたくなる。じっとして真っ暗な中でいい事は思い浮か
ばないですね。なんとか笑いを誘いたい。だから看護師さんが来ると冗談を言いたい,あるいは
冗談を言ってもらいたいという気持ちになりました。
4回目は(図3),胃ガンで入院しました。大体その前から胃の調子が良くなかったものですか
ら,年に1回は定期的に内視鏡検査を受けていました。そのときは都内の開業医さんのところで
やっていただきました。
「先生ちょっと気になったところがあったので,念のために生検をしてお
きました。」と仰るのでビデオを見せてもらって,
「ひょっとすると早期ガンじゃないですか」と
お話していたのですが・・・。その年の暮れになって,
「先生やっぱりガンでした」と連絡があり
まして,入院したわけですが,原因は勿論分かっていません。運命だと思います。私の親父も胃
ガンで死にました。母方の叔父もやっぱり胃ガンで死にました。ですので当然いつかは来るだ
ろうなと思っていたわけですが・・・。私の息子には,胃ガンになりたくなかったらはじめから
胃を取っておけと冗談で言っています。
今だったらひょっとすると,手術をしないで内視鏡的に治療したかもしれませんが,当時は病
変の範囲が広かったので手術ということになりました。
―11―
『情報科学研究』第17号
病気になって思ったこと。とうとうガンが来たか,まあ,じたばたしても仕方がないな。入院
して思ったこと,感じたこと。術後の早期離床といいまして,手術後はできるだけ早く身体を動
かすようにします。そうした方が合併症も少ないし回復も早い。ぼくの場合,看護師に手術の翌
日に点滴スタンドを持ってトイレに行ってくださいとか,歩いてくださいと言われて,ちょっと
待ってよ,痛いんだけどと言ったら,これ,先生が決めたんです。手術の翌日から離床すると決
めたのは私でした。
お腹に傷があるときに咳をして痰を出すというのは,なかなかつらいものです。痰を勢いよく
出せなくて,痰がのどにからんでもう死ぬかと思いますね。たまたまその時,息子が見舞いに来
ていまして,何でもいいからお腹を押せ,押せ,押せ,押せって言って押してもらいようやく痰
を出すことができました。今でも思い出しますが,その時は本当に死ぬかと思いました。
それから足の衰えは秋の落日のごとくで,
本当に目にみえて衰えてきます。
病棟の廊下を朝夕,
懸命になって点滴スタンドを押しながら歩いた記憶があります。
このスライド写真はわたしの早期ガンでありまして,本物で,イメージではありません。
(図4)
この写真は使用前,使用後,いえ手術前,手術後。この写真を作るときに病院のスタッフに,こ
の写真本当に先生ですかと言われました。手術前は今よりプラス8キロありました。今はソフト
バンクホークスの王監督と同じような顔つきになっています。
私の早期胃癌 IIc
体重:-8kg
手術後8年
手術前
図4
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さて,4回の入院経験で,患者が医者であってよかったと思うこと。1つは,病気とか術後経
過が大体分かっていました。分からない不安というのは幸いにもあまりなかった。それから自ら
病院を選択できたこと。胃の手術は東大在任中だったのですが,どうも東大の外科医は信用でき
ぬということで東大病院では手術をしませんでした。技量がよく分かっていて,旧知の者が多い
北里大学病院で手術を受けました。
医者が患者でよくなかったかもしれなかったこと。お前,私の手術をしてくれとはなかなかい
えなかったことです。向こうが決めるのを受け入れるしかありませんでした。私だけのことかも
知れませんが,何となく周囲に対して遠慮がありました。主治医の方にも遠慮があって患者に対
しての説明が十分でなかったような気がします。私の思い込みかもしれませんが,周囲から模範
的な患者であることを期待されていたように思います。それから私に関する医療情報を私以上に
みんなよく知っていました。
「お前何でおれのことをそんなに知っているのだ」というくらいみん
なよく知っているのです。加えて,見舞い客が多くて閉口していました。もう1つ,医療関係者,
よく知っている人,あるいは重要人物などが手術を受けますと,得てして上手くないことが起こ
る。滅多に起こらないような合併症が起こる。腸管をつないだところが漏れるとか,そのあとに
腸閉塞を起こすとか。私の場合は運よく何にも起こりませんでしたが,受け持ちの主治医が退院
後に,「先生,本当に良かった。実はそればっかり心配していた」と白状してくれました。
賢い患者になるために。
(図5)
まず,医療従事者と仲良くなったほうが得。何でも聞ける医療従事者がいた方が得。手のかか
らない患者になったほうが得。入院生活は不便なものと悟った方が得。病院食は期待しない方が
得。医療に絶対大丈夫と絶対を期待しない方が得。病気は運命として受容したほうが得。1日も
早く退院することだけを考えた方が得。
賢い患者になるために
¾医療従事者と仲良くなった方が得。
¾何でも聞ける医療従事者がいた方が得。
¾手のかからない患者になった方が得。
¾入院生活は不便なものと悟った方が得。
¾病院食を期待しない方が得。
¾医療に「絶対」を期待しない方が得。
¾病気は運命として受容した方が得。
¾一日も早く退院することだけを考えた方が得。
図5
―13―
『情報科学研究』第17号
まず,医療従事者と仲良くなった方が得だし,何でも聞ける医療従事者がいた方が得です。
今はまさに情報社会で,
いろいろな形での情報の入手経路があります。
インターネットであり,
医学本であり,いろいろなメディアがあります。
でも,やっぱり一番身近にいるのは医療従事者であって,その人たちから情報を得るのが一番
いい。そこから望ましいインフォームドコンセントが成立していくのです。それからセカンドオ
ピニオンが聞けます。たまたまどこかの病院にかかったのだけれども,これをどう思うかという
ような相談もできます。もし,その先生が専門でなかったら,またはそこでは治療ができなかっ
たらどこか病院を紹介してくれとお願いができるかもしれません。自分の病気以外のことについ
ても相談できるかもしれない。例えば,家族の健康のことなんかも。さらにいえば,よい終末期
を迎えることができるかもしれない。まさかのときは頼みますねとお願いできるかもしれません。
それから,手のかからない患者になったほうが得。
非常に重症である,あるいは先程お話したような私の場合のように,頭蓋牽引をしている,両
目の眼帯をしているような状態,非常に不自由で,医療上,看護上の介入の必要がある場合は仕
方ないにしても,中には,ベッドの中からそこの新聞とってくれと仰るような我が儘な患者さん
もおられます。看護師さんも人の子,医者も人の子,手のかからない患者さんには優しくなると
いうことですね。それから,患者さんの方も同じ病室の患者さん同志で,あの先生変よね,あの
看護師さんきついねなどと噂をされるように,医療従事者も患者さんの噂をします。
それともう1つ。日米の医療事情の比較をして見ましょう。
(図6)
日米の医療従事者数の比較
日本 アメリカ
医療従事者数 98.4 350 医師数 12.5
71.6
看護師数 43.5
221
(人・100床当り) (平成11年)
わが国の医療従事者の労働実態
¾当直明けに休める医療従事者は殆どいない。
¾重症患者管理、緊急手術等で徹夜しても翌日、
休める勤務医は殆どいない。
¾勤務医の超過勤務時間数が100時間/月を
超えるのは珍しくない。
¾誰かが土日、休日に出勤する必要がある。
¾サービス残業は日常的である(特に管理職)。
図6
『情報科学研究』第17号
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病床 100 床あたりの医療従事者数を比較しますと,アメリカのそれは日本の約 3.5 倍ですね。
医者の数では約6倍,つまり関東中央病院では病院長から研修医まで入れて常勤医は 100 人いま
す。その6倍とすると医者の数 600 人は関東中央病院の入院患者数より多くなります。看護師さ
んは5倍です。それだけの数の医師や看護師がいれば,
少々の我が儘も聞いてくれるでしょうし,
三時間待ちの三分診療などと悪口をいわれることもないと思います。
もっと知っていただきたいのは,わが国の医療従事者の労働実態です。とりわけ病院勤務医の
労働実態。当直明けに休める医療従事者はほとんどいない。看護師さんたちは2交代,3交代で
すので,引継ぎなや書類整理などですぐには帰れませんけれども,帰ります。ところが,わが国
の多くの病院では,当直をした医師,臨床検査技師,放射線技師,薬剤師,こういう人たちは当
直が終わってもすぐに帰宅することなく,引き続き仕事をします。重症の患者管理,あるいは緊
急手術などで夜通し働いたとしても翌日休める勤務医はほとんどいません。一睡もしなくても働
き続けます。今,過労死が問題となっていることはご存知と思います。過労死の認定基準は「発
症前1ヶ月間に 100 時間以上,あるいは月平均 80 時間以上」とされています。労働基準法上の労
働時間は週に 40 時間です。しかし労使契約を結べば1年間 360 時間までの残業はよろしいという
ことになっています。ところが,どこの病院でも一月の超過勤務時間数が 100 時間以上という医
師が何人もいます。それからサービス残業,つまり,非常勤医師の場合は超過勤務をしてもお金
がつかない。一言で言いますと労働基準法違反をやっていない病院は殆どない。もし皆さん方が
労働基準監督局に垂れ込んでいただければ,関東中央病院に手入れが入って間違いなく厳しい指
導を受けます。それもこれも全て積年のわが国の低医療費政策のお陰です。
ですから,賢い患者になるためには入院生活は不便なものと悟った方が得。病院食を期待しな
い方が得。
数少ない看護師で,
先程お話したように 100 床当りではアメリカの6分の1しかいませんから,
患者をケアするには入院生活を安全に効率よく管理することが必要となります。
何時に起床して,
何時に食事を出して,何時に消灯して,何時に体温を測ってとそれぞれ全部決めた通りに実施さ
れます。ですから入院生活に日常性を期待するのは無理です。わが国では診療所,病院によって,
また病院の機能や看護体制によっても異なるのですが,平均的な入院基本料をお話しますと,10
対1看護体制,つまり平均して入院患者さん 10 人に対して看護師さんが1人という看護体制の病
院の入院基本料は一日 12,690 円です。
(図7)保険者に請求できる,つまり病院に入る金額です。
それから入院時の食事療養は1食に付き 640 円。一日三食で 1,920 円です。光熱費,人件費等を
差し引いてどの病院でも,材料費が大体 700 円~750 円と言われています。3食を 700 円~750
円で作れます?作れますか。どうですか。結構厳しいですね。なかなか難しいです。
インターネットで調べてみますと,ニューヨークの公立病院では多床室,つまり大部屋のこと
ですが,一日の入院料が 21 万円です。わが国の入院基本料金の約 17 倍。私立の病院の個室では
約 40 万円。これくらいの入院料金を頂けるのなら,病室をきれいにします。アメリカは物価が高
いから仕方ないんじゃないの。いえ,違います。ちなみに日米間で物価を比較してみますとお米
は3分の1,小麦粉3分の1,牛肉も3分の1。
(図8)食料品はアメリカの方が断然安いのです。
国連の職員は,世界各国に出張し,生活をします。その時にどれくらいのお金を支給するかとい
うことの資料のために,生計費指数というものを算出しています。ニューヨークを 100 とした場
合,東京は 124,つまりニューヨークの生活を東京でするとなると 10 万円かかるところが 12 万
4千円かかりますということですね。国連もニューヨークより東京の方が生活費は高いと認識し
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『情報科学研究』第17号
ています。でもさっきは東京の病院の入院料は,ニューヨークの 17 分の1と言いましたね。変で
すよね。絶対変ですよね。
一般病棟入院基本料(一日につき) 10対1入院基本料 1,269点
入院時食事療養(I)(1食につき) 640円
米国ニューヨークでは、
(公立病院)一般病棟部屋代 214,300円
(私立病院)個室部屋代 403,700円
図7
日米の入院基本料の比較
生計費指数の比較(国連、2007)
ニューヨーク 100
東京 124
図8
日米の物価の比較(総務省統計局・統計研修所
『情報科学研究』第17号
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― 統計でわかるわが町わが社会 ―)
それからもう1つ,賢い患者になるためにその5。医療に絶対を期待しない方が得。
科学的認識には基本的要素がありまして,
こういう性格を持っているものを科学的とされます。
一つは普遍性があること,つまりある事が世田谷区でも当てはまり,目黒区でも当てはまる。そ
れから,論理性があること,つまり筋道を立てて説明ができること。再現性があること,つまり
今日やっても成立するし,明日やっても成立する。あるいは A さんがやっても,B さんがやって
も同じ結果が出る。それから客観性があること。というような性格を持っているものを科学的と
いいます。
医療,医学も科学といわれています。しかし,医療は医学の社会的適用であり,なおかつ,不
確実性の科学であり確率の技術ともいわれています。確率というのはどういうことかと申します
と,その正しさの度合いをいうわけで,しかも偶然が支配するかもしれない性質を持っています。
確率というのは偶然の代物かもしれない。医学とはそういうものなのですね。偶然がひょっとす
ると起こるかもしれない。物理学の世界とは違って1対1の対応で,絶対に近い規則性があるも
のではありません。だから,100 パーセント手術が成功する保障はどこにもありません。多くの
患者さんは,そのあたりが正しく理解できてないものですから,しばしばクレームになったり,
訴訟に発展することになったりします。
だからこそ,今盛んに言われているのは,根拠に基づく医療 EBM(Evidence-based Medicine)の
実践です。目の前にいる患者さんの診断・治療上の問題点に遭遇した時,今までは過去の経験と
か,先輩に教わったこととか,あるいは教科書に書いてあることとか,勘に頼っていたところが
ある。しかしそうした問題を解決するときに,関連する文献を調べて,内容を吟味して,自分の
判断を下し,患者さんの意向を汲んで,自らの専門的技能を発揮することが今おこなわれつつあ
ります。ガイドラインというのは,そうした医学的に妥当な根拠の集積なのですね。今はそれに
従っての医療の標準化がおこなわれつつあります。先程お話したように,医療が不確実性の科学
であるがゆえにこうしたものが前面に出てきたわけですね。
それから最後になりますが,病気は運命として受容したほうが得。それから,1日も速く退院
することだけを考えた方が得。
じたばたいくら焦っても,病気がよくなるわけではない。なおかつその上,焦るという精神的
ストレスは不安,不眠,あるいは胃腸障害をもたらし,最悪の場合は急性胃粘膜病変による吐血
をきたすことさえあります。あるいは過敏性腸症候群といって下痢や便秘が起こります。ストレ
ス自体が病気を悪くすることはしばしばあります。潰瘍性大腸炎はその典型ですね。リュウマチ
もそうです。入院生活への適応の第一歩は受容である,病気を病気として受け入れるということ
いうことが大切だと思われます。
最後に,少し日本の医療と外国の医療を比較,提示して,その辺りを皆さんに理解していただ
ければと思いますので,話を脱線させていただきます。
OECD,経済協力開発機構という,先進 30 カ国が入っている組織が,さまざまな医療に関する
指標を発表しています。
先ず国民医療費と国民所得の比。
(図9)国民医療費というのは,医療機関で傷病の治療にかかっ
た費用ですね。正常なお産とか薬局で買う薬や健康診断などを除いて,病気になって,けがをし
てお金を払った,あるいは保険が払ったお金と理解してもらっていいのですが,今わが国のそれ
は約 32 兆円です。国民所得というのは国が生産する付加価値,国の所得ですね。ある意味ではい
かに経済活動が活発であるかを示す指標です。その国民所得に対する医療費の比率,つまり医療
―17―
『情報科学研究』第17号
にどれぐらいのお金を使っていますかということ。だいたい日本は約8パーセント。OECD の平
均が9パーセント,日本はそれよりも1パーセント低いですね。(図 10)OECD には結構貧しい
国も入っているんです。その平均値よりも低い。それから国民一人当たりの医療費も OECD の平
均値よりも低い。わが国では国民一人当たりの医療費の伸び率は 2000 年~2004 年間の5年間に
2.1 パーセントしか伸びてない。OECD の平均値は 4.3 パーセント,日本のそれの2倍以上です。
人口 1000 人当たりの医師数は2人,OECD では3人。一人少ない。看護師さんはほぼ同じ。急
性期病床数,これは日本が確実に多い。平均余命は世界最高。乳児死亡率は世界最低。成人の肥
満率も最低。アメリカの成人肥満率は 32 パーセント。アメリカは日本の約 10 倍ですね。すごい
ですね。こうした調査結果から,日本の医療は1番だといわれる,つまりお金も使わないで,一
番いい結果を出しているわけですから。
図9
国民医療費と対国民所得比の年次推移(厚生統計協会ホームページ)
z対国民所得比:8%,
OECDの平均 9%
USD, OECDの平均 2,759USD
z国民一人当たりの医療費の伸び率(2000-2004):2.1%, OECDの
平均 4.3%
z人口1000人当りの医師数: 2人, OECDの平均 3人
z人口1000人当りの看護師数:9人, OECDの平均 8.6人
z人口1000人当りの急性期病床数: 8.2床, OECDの平均 3.9床
z平均余命:82歳(最高)
z乳児死亡率:2.8/1000(最低), OECDの平均 5.4/1000
z成人の肥満率:3%(最低), アメリカ 32.2%
z国民一人当たりの医療費:2,358
図 10
『情報科学研究』第17号
OECD Health Data 2007 ― Country notes ―
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ところが,国の一般会計歳出の中の医療費は約8兆4千億円です。(図 11)防衛費約4兆円,
公共事業費約6兆円です。
つまり 32 兆円の国民医療費のうちの約8兆4千億円でしか国は面倒見
ない,あとは自己負担。ちなみに 32 兆円というのは,わたしたち1億2千万の国民が一年間に医
療に使っているお金です。それがだいたいパチンコ産業の稼ぎと同じなんです。葬式産業はその
半分。国民一人当たりにすると OECD30 か国中7位。対 GDP 比,つまり国民所得比で見ると 17
位,患者さん一人当たりの医療費を GDP 比で割ると最下位。お金はあるにもかかわらず,OECD
加盟国 30 カ国中,医療に使っているお金の割合が一番少ないという数字です。
アメリカとも比較してみましょう。
(図 12)
9一般会計、歳出の中の医療費(H19)
全体の10.1%, 8兆4285億円
(防衛費 4兆8016億円)
9国民医療費
約 32.1兆円(H15)
(パチンコ産業 30兆円/年)
(葬式産業 15兆円/年)
(公的年金 40兆円/年)
国民一人当たり(OECD加盟国中)7位
対GDP比 17位
患者一人当たりGDP比
最下位
図 11
わが国の医療費
日本 アメリカ
人口(H16) 1億2,769万人 2億9,081万人
【医療資源】
医療費(対GDP比%,H17) 7.9 15.0
医療従事者(H11)
98.4 350
(100床当り・人)
医師数 12.5
71.6
看護師数 43.5
221
医療の配分 皆保険 約4,500万人が無保険
技術評価 なし(定額) 技術格差による報酬
格差あり
虫垂切除術費用(H18) 62,100円 1,071,700円
初診費用 (H18) 2,700円 7,864円
図 12
日本・アメリカの医療の比較(1)
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『情報科学研究』第17号
アメリカの人口は日本の約 2.3 倍,先程も述べましたようにわが国の国民医療費対国民所得比
は約8パーセント,アメリカが 15 パーセント。倍近いですね。これはさっきと同じ数字ですが,
病床 100 床あたりの医療従事者が日本の 3.5 倍,医者が6倍。看護師が5倍。医療配分は,日本
は皆保険,アメリカは約 4500 人が無保険つまり6人に1人が保険に入ってない。技術の評価では,
日本は全く同じ,誰が手術しても同じ,向こうは技術格差で専門医の場合高くなりますね。
さっき,アメリカではお肉は3分の1,お米も3分の1と言いましたね。盲腸の手術の費用,
虫垂切除に関る費用,日本は6万2千円,アメリカ 100 万円。いいですか,お肉は3分の1です
よ。ちょっとおかしいですよね。初診の費用は日本 2,700 円,向こうは 7,800 円。
それで平均寿命はどうなんだ,男も女も日本が長い。(図 13)わが国の乳児死亡率はアメリカ
のそれの半分以下です。わが国では医療機関が患者を長時間待たせる,薬を出しすぎると言われ
ますが,向こうは医療費が比較にならないくらい高い。
日本 アメリカ
【成果】
a.健康水準(H15)
平均寿命(年) 男:78.4 74.6
女:85.3 79.8
乳児死亡率
3.0 6.8
(対出生1,000)
b.患者評価 長時間待ち短時間診療 医療費が高すぎる
薬を出しすぎる
c.医事訴訟(1985)
(医師100人当り/年) 0.1 10.1
図 13
日本・アメリカの医療比較(2)
実はつい最近,関東中央病院で働く看護師さんの弟さんがアメリカ旅行中に交通事故にあいま
した。胸部大動脈破裂という非常に大変な怪我をしました。日本でも稀にみる怪我なのですが,
見逃すと出血多量で死亡する大変な怪我です。運良くある大学病院で手術を受け救命されました。
けがをして手術を受けてから,3週間の時点で,当院の看護師から相談を受けました。アメリカ
に直接電話をかけて担当医とも話をさせていただきました。手術を受け,術後3週間 ICU で集中
治療を受けました。でいくらかかったと思いますか。500 万円?,2千万円?,いえ,3週間の
治療費は4千万円の由でした。
アメリカの自己破産の半数は,医療費が払えないからというものです。
この人たちは保険に入っ
てないから払えないのではなくて,保険に入っている中産階級の方たちだけど,あまり医療費が
高過ぎて自己負担分が払えないという理由からなのです。
『ジョン Q』という映画,DVD を観たことがある人はおられますか。自分の息子が不治の心臓
病で,あと心臓移植しか治療法がないと判った。しかし保険に入っていても保険の給付の対象で
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はない。デンゼル・ワシントン演じるお父さんが単独で病院を乗っ取ります。自ら撃って死ぬか
ら自分の心臓を取って息子に移植してくれと要求します。映画の中では,さまざまなアメリカの
医療制度の批判が出てきます。最終的にはアメリカ映画なので,ハッピーエンドにはなるのです
が。交通事故で脳死になった患者がヘリコプターで運ばれてきて間に合うのですね。この映画は
アメリカの医療の実態をよく描写しているものと評されています。
つぎは,まだ観てないのですけど,マイケル・ムーア監督の『シッコ』,これもアメリカの医療
を批判している映画ですね。ぜひ観てください。
ちょうど与えられた時間になります。
あの有名な物理学者の寺田寅彦が言った言葉に,
「ものを怖がらなすぎたり,怖がりすぎたりす
るのはやさしいが,正当に怖がるのはなかなか難しい」というのがあります。医療,病気につい
てもそうですね,むやみに病気を恐れても,あるいはむやみに病気を恐れなさ過ぎても,よろし
くない。正当に病気を恐れるということはなかなか難しいということです。私が患者になって,
やはりそういうふうに感じました。
長々とお話をしました。話が脱線をしたり,まとまりのない話になりましたが,医師の私が患
者として4回も入院して感じたこと,それから今逆境の医療界にあって感じたことを2~3述べ
させていただきました。どうもご清聴ありがとうございました。
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