第8回 2011 年 4 月 8 日(金曜日)開催 ゲストスピーカー: 澤田 充(株式会社 ケイオス 代表取締役) 〈プロフィール〉 1960 年兵庫県生まれ。リクルート勤務を経て、1993 年に株式会社ケイオスを 設立。街づくりを目的とした住環境・商業環境・地域活性の 3 つの主要事業を 持ち、人が暮らすという観点からさまざまな環境プロデュースを手がけている。 主な実績に、 「淀屋橋 WEST」 「淀屋橋 odona」 「イーマ」 「トキア」 「なんばこめ じるし」など。関連出版誌として『+ViSiT 大阪』 『大阪北船場スタイル』 (エイ 出版社)。 文/猪飼尚司 「おいでやすに、ごめんやすは、蔵が建つ」。 315 年に渡り、北浜で店舗を構えていた三越。この跡地が再開発となったと き、工事の仮囲いに「おいでやすに、ごめんやすは、蔵が建つ」という言葉を 掲げました。通常のアートウォールならば、絵を描いたりするのでしょうが、 なにか地域に根付いたものを……ということで、掲げたのが「船場言葉」です。 船場言葉とは、船場の商家で使っていた表現。 「おいでやす」は「いしゃっら いませ」。 「ごめんやす」は「ごめんください」。お客様が「ごめんください」と いう前に、店側が「いらっしゃいませ」と声を掛けられる気の利いたお店は、 商売が繁盛して、蔵が建つという意味です。街の再開発にあたり、この土地が 元々こうした意識をもった場所であることを、広めるのもよいのではないかと 思い、実施しました。 私の会社では、街づくりをプロデュースする仕事をしています。街づくりと いうのも茫洋とした言葉ですが、社会一般の分類で言えば、住環境、店舗や商 業施設開発、地域活性、ブランディングとなるのでしょう。しかし、私は「人 が豊かにくらす、ハッピーになるための場をつくっていきたい」と考え、活動 しているだけなのです。 社名の「ケイオス」とは、カオス。混沌という意味です。大阪弁ならぐちゃ ぐちゃでしょうか?(笑) ネガティブに捉えられがちな言葉ですが、無秩序、 規則性がないものもシンプルな数式で表されるというカオス理論というものも あります。一方、旧約聖書のなかでは、これから物事が秩序立てられ、世界が できてゆく天地創造直前のクリエイティブな状態をカオスと呼んでいます。カ オスの反対語は、コスモス。宇宙との対比語となるのが、カオス(=ケイオス) なのです。 18 年前、私がリクルートから独立しとき、 「この後、世の中が大きく変わって いくのではないか」というような胸騒ぎがありました。まさしくこれから物事 が形成されていく時代に、社会に飛び出していくのだという意味で、ケイオス という社名をつけたのです。私が会社を立ち上げた1年後に出版された今田高 俊さん著の『混沌の力(The Power of Chaos)』にには、 「混沌は秩序の前段階、 新たな秩序の最前線に位置する。もはやゆらぎや混沌を望ましくないものと決 めつけるわけにはいかない。ゆらぎが社会の活力となり、次の社会を立ち上げ る契機となりつつある」と明確に書かれています。それまで自分でもうまく説 明できなかったのですが、今田さんの明解な解説を借りることで、ケイオスと いう社名がより分かりやすくなり、つけてよかったと思ったものです。 澤田 充、仕事の理念 プロフィールを読む限りでは、私はいろいろな事業を手がけているように見 えますが、考え方はあくまでもシンプルです。 私の会社はプロデュースをしていると申しましたが、狭義のデザインも設計 も、施工もしていません。コンセプトづくりを仕事にしているだけ。使う側の 視点から意見を述べるというソフトを提供しているのです。 独立して間もない頃、周囲からデザインをすればもっと儲かるとアドバイス をもらいました。自分ができないなら、デザイナーを雇えと。しかし、デザイ ナーを入れてしまったら、デザイン事務所になってしまう。私自身が大切にし ようと思うことができないまま、狭義な意味でデザインで食(く)うようにな ってしまう。今考えるとそれをやらないでよかったと思っています。 既成概念にとらわれないことも大切。しかし、もっとも大切なのは、自身が こうしたらいいと思うことを素直にやることです。ただ、それを実現するため の手間は惜しみません。面倒くさいことをするということが、自分のリスクヘ ッジなのです。要領よくやること、きれいにやることは、能力のある人がやれ ばいいこと。こだわり、手間をかけてやりとげるという意志。それが自分の持 ち味なのです。仕事に意義を感じないと踏ん張れないし、面白くもありません。 プロデューサーは胡散臭い商売だと思われがちですが、本当にそうでしょう か? 業務そのものが怪しいのではなく、これまでプロデューサーと名乗って きた人々が胡散臭かっただけだと思います。夢を語り、プレゼンテーションを 行うのは良いのですが、できたものは実際どうだったのか? 私はプレゼンテ ーションよりも、最後のフィニッシュワークにまでこだわりたいと常々思って います。プロデューサーとは「実現化請負稼業」。実現するためには、どうして も手間がかかってしまうんですね。 また、評価前のものを育てていくという考えも大切です。すでに評価された ものももちろん大切ですが、表舞台には出ていないものを引き上げなければ、 時代は進みません。今でこそこのように公衆の面前で話すようになりましたが、 ビジネスを起こしたときは、ノウハウも知らなければ、クライアントもいませ んでした。しかし、なんの実績もない私に仕事をくれる人々がいたから、今の 私があるのです。 私はいまだに感謝してやまないグラフィックデザイナーさんがいます。独立 当初、仕事のない私に彼は電話をかけてきては、飲んでいるから出てこいと言 ってくれました。出向くと私の仕事につながるような相手が同席しているので す。あるとき「なぜいつも誘ってくれるのか?」と彼に聞いたところ、自分も 若い頃、同じようなことをしてもらい、そのおかげでいろんなネットワークが できた。そのお返しするには、自分が次の世代に同じことをすることだろうと。 私もそうしたいと考えながら仕事をしています。たとえば、商業施設のなか にいくつかの飲食店入れるときに、有名なお店に挟まれるように無名の店を入 れてみます。いらした方々は、知らない店でも「この並びで入っているなら、 きっとすごい店に違いない」と思ってくれる。そんな良い錯覚を生み出すこと もできるのです。 東日本大震災の後、改めて自然の力の前では、人間の営みは取るに足らない ものだとつくづく思いました。そんな折、コロンビア大学の名誉教授で日本文 学者のドナルド・キーンさんが大学を引退されて日本に住むというニュースの なかで、彼が「自然にはあらがえないという日本の考え方に共感する」という ことをおっしゃっていました。確かに、どのようなことを想定しても、それが 想定外になってしまってはお仕舞いだ。生き残る条件とは、強さではない。い かような変化にも対応することだ。こうした考えは、私の仕事においても重要 なポイントとなっています。私もいい年になり、こんなことを言うのは青臭い と思われるかもしれませんが「関わった人がハッピーになればいい」と素直に 思います。私たちが、機嫌良く暮らすためには、そうするための下準備が必要 なのですから。 私の背中を押した「ラ・マンチャの男」。 リクルートに入社したときから、いずれは独立して仕事をしたいと思ってい ました。単に宮仕えは似合わないと思っての発想でしたが、そのときは自分に どんな力があるのか、具体的に何の仕事をしたらよいのか分かりませんでした。 そのとき、浜野商品研究所の浜野安宏さんの著書『人があつまる』に出会っ た。本のなかに書かれている「一軒の店から街はできる」に衝撃を覚えました。 本当に一軒の店から街がつくれるのか? そんなことができるなら、自分も街 をつくってみたい……と。 その数日後、当時の梅田コマ劇場で「ラ・マンチャの男」の上演があった。 主演は松本幸四郎さん。ご存知の通り、ドン・キ・ホーテが騎士の格好をして、 風車に向かっていくシーンで、松本幸四郎さん扮するラ・マンチャの男に対し、 周囲が「狂気だ」と言います。そのときに、ラ・マンチャの男は大見得を切り ながら、このように叫ぶ。 「あるがままの人生に折り合いをつけて、あるべき姿のために戦わないことこ そ狂気なり」 これを聞いた瞬間にはっきりと「会社を辞めよう」と思ったのです。あるが ままの人生ではなく、あるべき姿。それが僕にとって街をつくることなんだと。 すぐに上司辞職する意志があることを告げ、その一年後退職しました。 独立時に、私が持っていた軍資金は、半年間受注がなければ枯渇してしまう ほどのわずかなもの。小さい子どもが二人いたため、もし仕事がこなかったら、 またサラリーマンに戻ろうとも思っていました。それでも自分なりにプライド もあったので、もしサラリーマンに戻るなら、大阪、東京以外の知り合いのい ない街に行こう、とも考えていました。今思えば、そうした割り切った気持ち があったので辞められたのかもしれません。 定点観測の重要性に気づく。 独立して二週間後、ラッキーにも初受注がきました。リクルート時代から付 き合いのあった大学時代のクラブ活動の大先輩が竹中工務店に勤務しており、 二世帯でつくるマンションの企画の話があるということでした。すぐに引き受 けてみたものの、企画書や見積りの作り方すら分からない。周囲の人に助けて もらいながら、なんとか 320 万円の見積りを提出したところ、先輩から「これ は高いな」と一言。聞けば先輩には 100 万円分の決済権限しかないという。な らば最初から言ってくれよ……と思いつつ、その金額で請け負いました。次に 三井物産に務めていた友だちから、賃貸マンションのためにマーケットリサー チをしてほしいと要望が入り、これを 20 万円で引き受けました。 ここからが私の営業トークのはじまりです。メインクライアントは竹中工務 店と三井物産。これを周囲に伝えると「大したものだ」と言ってくれる。実際 にはその二社としか仕事をしていないし、儲けだってわずかなもの。それでも 大手と仕事をしているということで、他社に対する印象も良くなったのです。 ある日、リクルート時代の先輩で、社長秘書をしていた方が遊びにきてくれ たので、仕事の内容を見せました。数日後、その先輩が「旦那さんから相談が ある」と電話をくれたのです。第一興商のコンサルをしているのだが、出店リ サーチをしている会社がどうも信用できないから、私に頼めないか……という ことでした。出向いていくと、これまた見積りと企画書がほしいといわれたの ですが、私には一般的な見積りや企画書の出し方が分からない。苦し紛れに、 まずは今お付き合いしているリサーチ会社の仕事内容を見せてもらい、その分 析をしてみることにしました。 前の会社の発注価格が 5 万円だった事実に驚きましたが、結果としてあがっ てくる報告書は 3 枚足らずで、内容もひどいもの。私ならばもっと質の高いも のができる。そう奮起して競合店をまわり、周囲の酒屋などにもリサーチをか けはじめました。毎日カラオケ屋に通い、半年で 50 件のリポートを出したでし ょうか。一度のリサーチで 7〜8 軒は回るので、かなりの数のカラオケ屋を調査 したことになります。 ここで学んだのが、定点観測の重要性です。毎日、同じように朝ご飯を食べ るとき、食卓に違う器が並んでいたら、皆さんおかしいと思うでしょう。それ と同様に、毎日カラオケ屋に通っていたら、変化が見えてくるし、良し悪しが おもしろいくらいに分かってくるようになる。そうしているうちに、これが流 行るとか、この店は儲からないという私のアドバイスがどんどん当たるように なりました。 この感覚は、その後さらに冴え、さまざまなジャンルに対して自分なりの提 案ができるようになっていきます。こうして、初期の吉野本葛天極堂奈良本店 やウォルフォードビルという仕事が生まれることになるのです。 リクルート時代の光と影 リクルートに勤務していた頃、私はビル事業部に勤務しており、新人時代は 毎日飛び込み営業をしていました。しかし、いきなり訪問して「こちらのビル に移転しませんか?」などと言っても、相手にされるわけがない。このような やり方があまりにも嫌だったので、逆に合理化を図ろうと思い、 「テナント営業 を 100 倍速く決める方法」などというレポートを書いたりしていました。する と嫌々仕事をしている思いに反して、どんどん業績はあがっていく。地味な活 動もしてみるもんだなぁと感じていました。 そんな折、イトーキが出していた『オフィスライフ』という本のなかで、ア メリカでインテンリジェントビルが流行っているという記事に出会いました。 なにか先輩に勝てるものを身に付けたいという思いから、本を読みあさったも のの、内容はちんぷんかんぷん。執筆に携わっていた富士通、NTT の人や筑波 大学の先生に取材させてもらい、レポートを社内で提出したところ認められ、 いきなり 3 つの大きな仕事の担当となってしまいました。 有頂天になっていた直後、事件が起こります。忘れもしない 1988 年 6 月 18 日土曜日。自宅に先述の竹中工務店の先輩から「朝日新聞の 3 面を見てみろ」 と電話が入ります。そこには「川崎市助役へリクルートコスモス未公開株譲渡 疑惑」というスクープ記事が掲載されていました。リクルート事件のはじまり です。 大したことないだろうと思いながら、月曜日に出勤すると、社内はてんやわ んや。担当していた大阪市の担当者には居留守を使われてしまいます。 この事件をきっかけに、3つのプロジェクトはなくなり、私は社内失業状態。 その半年後、これまでまったく経験のない経理部へと異動になります。憤りを 感じながらも、いずれ独立するのだから、一度経理を経験しておくのもいいだ ろうと受け入れました。しかし、いざ経理部に入ってみると、50 人ほどの部署 に男性はたった 5 人。私は課長職だったのですが、経理用語も一切分からない。 部下たちは自分のことを煙たがっているのが明らかに分かりました。 何か対策を練らねばと考えた挙げ句、行き着いたのが「うろうろする課長」 になること。席に着かず、リーダーとメンバーが話している内容を聞きながら、 部長のところにも意見を聞きにいく。仕事の流れ方を徐々に把握するようにな り、夜は自宅で簿記の勉強をしていたこともあり、次第に自分の発言が的確に なってくるのが分かりました。 突然、白羽の矢が立った。 イーマの左側にリクルートビルが建っているのはご存知ですか? ルート時代、そのビルの担当だったのです。 私はリク イーマやリクルートビルが建つ場所は、戦後最大のヤミ市だったところで、 1500 坪の土地にバラックがずらりと並んでいたそうです。そんな場所ですから、 リクルートとオーナー(土地所有者)が地権者(借地人、借家人など)とやり とりするには苦労しました。当初、二棟構想だったのものを、諸事情から一棟 だけを先につくったのですが、その交渉過程で私はオーナーの方々と親しくな っていました。 私はその後退職してしまうのですが、オーナーが二棟目のための交渉を続け ているうちに、リクルート事件、そしてバブル崩壊という世の中になってしま った。残りの土地の話がようやくまとまりかけたとき、すでにリクルートはも う一棟建てる意志をなくしていたのです。 困ったオーナーは、どうにかしてほしいと、かつての担当者だった私に白羽 の矢が立ちました。このような経緯から、何の実績もない私が、なんとかして せねばと立ち上がってできたのがイーマです。 私が古巣と戦いたくないということもあり、当初オフィスビルの予定だった ところをファッション中心の商業施設にしましょう提案を投げかけます。こう した 1997 年から 2002 年まで、ほかの仕事をほとんどやらずに全身全霊をイー マにかけました。これをやれば、その後ほかの仕事がやってくると思っていた のですが、没頭するあまりまったくほかに営業をかけていなかった。そのため イーマ完成後の 1 年間は、昼飯を食べるお金もないほどに困窮。毎日のように 先輩のところに遊びにいき、昼食をおごってもらったことすらありました。 クライアントなきプロジェクト しかし、そんな時期を過ごしていたある日、住友商事から「淀屋橋のビルの 一階のテナントが空いたのでなんとかしてほしい」と連絡が入りました。シテ ィバンク、NTT ドコモと変遷してきたテナントが空き家状態になってしまった というのです。私のオフィスも淀屋橋だったので、同じ街に何かつくりたいと 思い、自分が住む街は一体どんな街なのかと、街のなかに立って再び定点観測 をすることからはじめました。 分かったことは、午後5時過ぎに、多くの女性たちが地下鉄の駅に一斉に向 かっていくということ。不審者に思われることを覚悟しつつ、女性に声をかけ てみるとショッピングや食事など理由はさまざまながら「ここには何もないか ら、梅田に行く」という返事が帰ってきました。淀屋橋には仕事以外の用事が 何もなく、オフィスという単一機能しか果たしてなかったのです。 もっと人が活き活きと暮らし、街をブラブラしてもらいたい。ここからがク ライアントなきプロジェクトのスタートです。クライアントがいないというの は自由気ままにできますが、同時にお金がもらえないというデメリットもあり ます。 しかも、私は「効率的」という言葉が大嫌いです。効率的にするというのは、 いかにゴールに早く到達するかということ。完成したら陳腐化が始まるという のはよくあること。お店が開業するとき、完成前にはゼネコン、デザイナーの 方々が来てよく面倒を見てくれるのに、オープンしてしまったら花を贈ってお しまい。しかし、そのテナントに入居する人々の生活はそこから始まるのであ り、オープンは通過点でしかありません。私はそこからを応援していきたい。 新鮮でいるためには、完璧にしなくても良い。むしろ常に未完の状態に抑えて いく方がよいのではないか……。 私たちの世代は、ずっと「古いものよりも新しいものがいい」という価値観 で暮らしてきました。カラーテレビ、クーラー、2 ドアの冷蔵庫……未来はバラ 色に見えたはずです。しかし、近年に至っては「古いビルをリニューアルして 住みたい」 「古着は味があっていい」ということを言う人に多く出会います。こ れを街にたとえ、古い街を堂々と古いといえたら、ブランドになるのではない か? なぜなら街は前の世代から受け継いで、次の世代に渡していくものなの ですから。 淀屋橋 WEST を始めた頃、「堀江のような街をつくるのですか?」と質問が 返ってきた。ワイン用語で土壌を示す「テロワール」という言葉があります。 ブドウの木というのは、水はけ、斜面、土の質などによって、同じブドウの木 でも異なる味のワインとなる。これと同じこと。堀江には若い人たちのサブカ ルチャーがありますが、淀屋橋は、コンサバの街。淀屋橋のテロワールに合っ たものをつくらなければならない。 淀屋橋は歴史的建築物が多く、大手企業も多い。建物は石やコンクリート製。 また、老舗の小売店も多い街。御堂筋から一本入ると、信号が少なく、車もゆ っくり走っている。このように、淀屋橋は先達による良質なストックがある街 だったのです。 ここは 100 年の歳月をかけてできた街。大手企業に務める高学歴、高収入の 上質の生活者もいます。コンテンポラリーなものがないかわりに、風俗店など もない。そんな場所においしいレストラン、ゆっくりできるカフェ、にぎわい のあるバール、スタイルを感じるインテリアショップ、デザインに気を配られ たホテル、手入れの行き届いた住宅などを、プロセスを開示しながらライブの ようにつくっていく劇場的な街づくりをしたいと思ったのです。 通りの風格を残しながらも、建物の 1 階部分には扉を設けさせてもらう。こ れは店舗が蛍光灯の光に照らされた冷たい印象のオフィスの共用部につながる のではなく、街と一緒に呼吸する場所、街からダイレクトに入れて、ダイレク トに出て行ける、余韻の楽しめる空間になってほしいという感覚からです。 このように、関係者の利害関係を調整しながら、へとへとに疲れてなかなか 進まないよりも、共感してくれた人々と、事実を一つひとつ作ることからはじ めました。最初はクライアントがなく、儲けの少ない仕事を続けましたが、手 掛けた実績がその後大きな営業ツールになっています。 ブランドとは、どんな人が集まるのかということ。店を判断するときは、オ ーナーによそ行きの言葉を聞いてもダメです。どんな服を着た人が、誰とどん な表情をして、どんなものを食べているのか……ということによって、店の評 価は決まります。ブランドとコンセプトは違うのです。コンセプトは供給する 側で決められるものですが、マーケットの評価がなければブランドとは呼べな いのですから。 クリエイティブにもっと光を。 大阪といえば「こてこて」「お笑い」「たこやき」「ひったくり」(笑)……と いうことがよく言われます。確かに事実ですが、でもこんなに大きい街がそれ だけで成り立っているわけではない。よく東京のメディアの方に、「(私がやっ ていることは)大阪的じゃないですよね」と言われるが、私にしてみれば大阪 的って何ですか?と思ってしまいます。 私が目指すところは、単に街を作るということではありません。ソフトを作 る人はその仕事内容が見えにくく、分かりにくいため、ハードを作る人に比べ てなかなか地位が向上しません。私がこうした仕事をすることで、クリエイテ ィブなところにもっと重点を置いてくれるようになればいいなと思います。到 達点は人それぞれですが、使命をもってやっていきたい。継続できるというこ とは、まだまだやるべきことがあるということですから。 取引先にプレゼンテーションする時は、相手の人に言葉をプレゼントする必 要があります。なぜなら意思決定をする会議に私がでることはできません。し かし、そのプレゼントした決めゼリフを使って説得してもらうことが私の役割 だと思っています。 私が東京駅前のトキアで、日常使いができる店舗の顔並びを考えたとき、相 応しいテナントとして大阪の店が次々と思い浮かびました。丸の内に大阪の店 ばかり……ワクワクしながら、プレゼンテーションの際、私はこう説明しまし た。 「京都、大坂が『上方』とよばれていた江戸時代。灘、伏見の酒は江戸でに ぎわい、『下り酒』と呼ばれていた。『下らない』ものとは、江戸で流行らない ものを示す言葉。ならば『下るもの』を作りましょう」 クライアントはこれを面白いと言ってくれました。 心に伝わるためには、事実だけではダメ。どう捉えてもらうか、どう編集し ていくかということが大切です。ネクタイを締めて会議室に籠っている人たち と、自由な格好をしてクリエイティブに動き回る人たちの間に立ち、通訳する こと。これが私の仕事です。正論を言っても、必ずしも心を打つとは限りませ ん。いままでに見たことのない風景を創りたいと思う気持ちが、手間をかけて もやっていこうと思う私の原動力になっているのです。 〈主な仕事内容〉 イーマ 「通り抜ける路になる」 大阪・梅田 2002 年 大阪梅田駅前の商業施設。建物用途選定から調査、コンセプトメーク、MD、環 境演出,テナントリーシングといったトータルプロデュースを5年かけておこ なった。 新丸の内ビルディング 「ロイヤルタイム 素敵な時間」 東京・丸の内 2006 年 ターゲットは「大人の男性と女性」。「ロイヤルタイム 素敵な時間」というコ ンセプトのもと、本質で選びぬかれたファッションや雑貨から食の名店、海外 のスターシェフによる日本初進出のレストランまで、153 店舗を集結させた。 淀屋橋WEST 「わが街のブランディング“永遠に完成しない街づくり」 大阪・淀屋橋 2002 年~ 大阪の中心ビジネス街である淀屋橋。 その淀屋橋の良さを活かしながら、大人 がゆっくり快適に暮らせるように開発している。「永遠に完成しない街づくり」 をテーマとした街ブランディングプロジェクト。 淀屋橋odona 「キタの路面立地」 大阪・淀屋橋 2008 年 大阪を代表するビジネス街、淀屋橋に“ショッピングする”というライフスタ イルをもたらすリーディングプロジェクト。路面店感覚での営業を可能にする ため、1・2 階店舗全てに外部からの出入口を設置。街と呼吸した新しい商業の あり方を提案した。街ブランド「淀屋橋WEST」の一環でもある。 北船場くらぶ 「愛着をもって使いこなす “くらす街へ”」 大阪・北船場 2006 年~ 古くから街の人々によって培われてきた北船場の良質な資源を理解し、愛着を 持ち、街を使いこなし、豊かで快適な「くらす」イメージを発信していく。更 なる北船場の魅力が創出されることを目的とした街の広報室としての街ブラン ドプロジェクト。 ザ北浜プラザ 「北船場クオリティ オブ ライフ」 大阪・北船場 北浜 2009 年 三越百貨店大阪店の跡地に建設された関西有数の高級レジデンスと商業のコン プレックス。街にくらす人々が、日常的に使いこなせる上質感のある商業を目 指した。素材やものづくりにこだわったライフスタイルショップやクオリティ の高いレストランが集結。 本町ガーデンシティ 「大阪の格・御堂筋ランドマーク」 大阪・本町 2010 年 大阪の都市格をになう御堂筋のキタとミナミの中間点、本町に格と賑わいの両 立を目指し開発。セントレジスホテルの日本初進出を起点に、それにふさわし いショップとレストランを誘致した。 中之島新線4 つの新駅プロデュース 「100 年後のストックをつくる」「中之島 の粋(エスプリ)」 大阪・中之島 2008 年 4つの新しい駅に“無垢の木”を使用。現在の中之島の象徴は、大阪市中央公 会堂のレンガだが、100 年後「中之島といえば“木”である」と、人々がイメ ージする。そんな将来のストックをつくるプロジェクト。本来は土木的プロジ ェクトである駅の計画をケイオス的切り口でプロデュース。 なんばこめじるし 「サザンオールスターズ」(大阪南部の地に愛されている個 人店の集積) 大阪・なんば 2007 年 南海沿線を中心に大阪南部の413 店舗を食べ歩きの結果、厳選した名店11 店+ 1 がなんばCITY の南端、南海電鉄の高架下に出店。本店移転や2 店舗目を中心 に個性あふれる店が集結。 ダイビル・クリエイティブ・スクエア 「現代のトキワ荘」 大阪・中之島 2004~2009 年 近代名建築「ダイビル本館」(大正14 年竣工、渡辺節設計)。ビルのストック 力、中之島の持つ文化力、クリエイタの創造性をあわせ情報発信機能をもたせ、 現代の「トキワ荘」をつくる。解体までの期間限定のプロジェクト。(2009 年 解体) なんばダイニングメゾン 「大阪テロワール」「百貨店の上ではなくエキウエ」 大阪・なんば 2010 年 髙島屋大阪店のレストランフロア、増床リニューアルプロジェクト。「百貨店 の上ではなくエキウエ」をコンセプトに、百貨店で食事をしない人たちを意識 し、街場の名店から料亭まで、全35 店舗のレストランが集結。 鰻谷チャレンジキッチンプロジェクト 「飲食業独立支援」 大阪・心斎橋鰻谷 2006 年、大阪・堂島2010 年 若い料理人にとって、独立し自分の店を持ちたくてもハードルが多い。そんな 若手料理人を応援するために、独立開業を希望する若手料理人を公募し、技術 力(調理)と独立開業運営計画を審査。最終選考通過者の独立開業をサポート するプロジェクト。 銀座トレシャス 「銀座コンシャス」 東京・銀座 2010 年 高い意識(コンシャス)を持つ生活者に対応する銀座のプロジェクト。 建積み のビルが多い銀座では珍しく、一棟のビルの中で、どの店に入るかを迷うこと ができる選択肢やテーマ性のあるMDによる編集を試みた。 名古屋インターシティダイニングテラス 「名古屋発のリアルファインダイニン グ」 名古屋・伏見 2008 年 地元名古屋で評価の高いレストランにこだわり、名古屋に張り付き試行錯誤し ながら出店誘致活動を展開。おいしい料理やお酒を楽しみながらゆったりと食 事や会話を楽しんでいただくダイニングゾーン。 IMS イムズレストランゾーン 「私のサードプレイス 私にとっての三ツ星」 福岡・天神 2009 年 開業20 周年の飲食ゾーンリニューアルプロジェクト。「安心して、お気に入り の食事ができる」場をイムズらしさを発揮しつくりあげた。 吉野本葛天極堂 奈良本店 「葛文化を五感で味わう」 奈良1996 年 創業130 余年の老舗天極堂の小売業進出。コンセプトワークからMD、演出、商 品開発、物件探しまで、2 年以上かけて店舗の総合プロデュースをおこなった。 銀座ウォルフォードビル 「最小立地の最大化への挑戦」 東京・銀座 1997 年 銀座並木道という一等地でありながら、間口2.8m、 約7.4 坪という狭小ビル。 本来の立地ポテンシャルを活かし、ビル全体を広告塔にとして最大限活用。_
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