徳島の文化化に関する考察 - 徳島大学 大学開放実践センター

「徳島の文化化に関する考察」
―直島コンテンポラリーアートミュージアムに学ぶ―
村木
力
(徳島市)
はじめに
1.直島町を語る
(1)町の数字
(2)町の印象
(3)町の歴史
①海(自然)
②工場地帯(環境)
③直島建築群(教育)
(4)観光開発の始まり
2.直島コンテンポラリーアートミュージアム
(1)国際キャンプ場
(2)美術館の説明
①建物の設計
②現代美術の作品
③美術館の活動
④スタンダード展
(3)町に出た美術館――家プロジェクト
(4)コラボレーション
①美術館の考え
②住民との関係
(5)インターネットによる発信
インターミッション
3.町に活力を与える要素
(1)文化と町づくり
①モノ文化について
②文化の考え方
③観光の意味を知る
④住民がつくった草の根文化
(2)感性と町づくり
①感性とは
②町並を飾る花の公募展
③手紙文化の発祥地
④ヘンロ小屋構想
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⑤林檎の教会
⑥四国遍路インスタレーション
4.町を活性化させる
(1)刺激のない町
(2)市民の動き
(3)活力を与えるヒント
①キーワードを探す
②町はおもしろくなければいけない
③おもしろさはここにもある
5.直島の分析
(1)美術館について
(2)直島町について
6.郷土徳島へ
(1)徳島の体質
(2)徳島の文化プロジェクトの問題点
①計画が漠然としていないだろうか
②連続性のあるものをつくる
③質の高い発想と話題性
④未来へ残す文化
(3)再生への問題意識
あとがき
参考文献
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はじめに
合 わ せ て 国 土 の 9 パ ー セ ン ト も あ る 、国 立 公 園 と 国 定 公 園 。
「自 然 と 風 景 の き れ い な 、大
切 な と こ ろ で あ る 」と 教 わ っ た そ れ ら の エ リ ア は 、私 が 子 供 の 頃( 昭 和 2 0 年 代 後 半 )は 、
「特別な場所」として国民みんなが意識していたような記憶がある。そこは子供たちの遠
足の行き先であり、大人たちの行楽の場所でもあった。やがて、経済成長と共に、社会に
モノが溢れはじめ、行楽という文字もレジャーという文字に変わった。このあたりから、
人々は国土の「風景」も変えていった。
確かに、私達の社会がモノによって豊かさを手に入れたことは事実である。しかしその
ことに対して近年とくに世論の批判や人々の反省が増しているが、現実はやはりモノ中心
に社会が動き続けていることに変わりはない。いま私達は、モノをどのようにつくり、ど
のように利用すればよいのか、その発想や展開の方法を考えることが先決ではないだろう
か。
私達の町も近年、大型商業施設が郊外へ進出することによって急激な変化が起こってい
る。同時に、中心市街地がドーナツ化現象にさらされつつある。この現象は全国的な規模
で起こっており、このまま続けば町の環境が大きく変化し、遠い将来を考えた場合、現状
のままでよいのかという問題に突き当たる。必ずしも現在の市場の構造は完全に否定する
ことはできないが、文化的な、健康的な、安全な町に住みたい私達の願いに相反して社会
が動いているような気がしてならない。
瀬戸内海に、週末になれば若者たちが大勢詰め掛ける小さな島がある。建築家の安藤忠
雄氏が、
「国 立 公 園 で あ る こ と を 考 え 、あ ら ゆ る 場 所 か ら 、美 し い 瀬 戸 内 海 を 眺 め る こ と が
できるようになっており、環境美術館ということを考えた」と述べている美術館が存在す
る直島である。建物の設計のみならずアートプロジェクトに安藤氏が関わっていることも
あって、数多くのマス・メディアでも紹介されており、島が世界的に知られるようになり
つつある。
なぜ若者たちが足を運ぶのだろうか。何に魅力を感じるのだろうか。その発想や展開を
検証してみることにした。もしかしたら、私達の住んでいる社会を再生させるヒントが見
つかるかもしれない。
こ の 研 究 は 、一 昨 年 秋 、
「私 と 地 域 社 会 」と い う テ ー マ の も と 直 島 の 美 術 館 で 行 わ れ た「 直
島会議Ⅵ」に参加したことがきっかけとなったが、その後、2度この島を訪問して、美術
館は何のために存在しているのか、私なりに調査した。まず前半は直島町で展開する美術
館の発想や経過を説明し、後半は文化の意義を考えながら、他の地域での文化発信や建築
家・安藤忠雄氏のコンセプトを手掛かりに、徳島の個性を引き出し、町を活性化させる最
良の方法について根底から考え直してみたいと思う。
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1. 直島町を語る
て し ま
現在、直島町では 豊島 に不法投棄された大量の産業廃棄物を処理する準備が進められ
ているが、直島の位置を正確に知っている人は少ないのではないだろうか。この研究を進
めていく前に、まず、島の概要を簡単に記述しておこう。
(1)町の数字
昭和29年4月、町制の施行により直島町となった。行政エリアは香川県であり、生活
エ リ ア は 岡 山 県 で あ る 。 高 松 市 の 北 約 13k m 、 玉 野 市 の 南 方 約 3km に 位 置 し 、 宇 高 連 絡
船 が 通 過 し て い た 航 路 に 浮 か ぶ 直 島 群 島 は 大 小 27 の 島 々 か ら 成 っ て い る 。 人 口 3 ,6 0 0
人 、 1 ,5 0 0 世 帯 、 漁 業 と 三 菱 マ テ ィ リ ア ル 関 連 会 社 に よ っ て 生 計 を 立 て て い る 。 近 年 、
コ ン ビ ナ ー ト 地 区 企 業 の 合 理 化 に よ っ て 人 口 減 少 が 続 い て い る 。 平 成 1 2 年 ( 2 0 0 0 )、
国の「離島振興法」の対象に指定された。3 年後に島のほとんどの地域で下水道の施設が
完備されるらしい。
直島と航行するフェリー
(2)町の印象
今回の訪問で、直島は3度目であるが、海から見る限り、やはり島は普通の島である。
宮浦港が近づくにつれてキティちゃんのイラストと「たこやきふうちゃん」と書かれた食
堂 が 目 の 前 に 飛 び 込 ん で く る 。直 島 の 素 朴 さ を 表 し て い る よ う で 、私 の 好 き な 風 景 で あ る 。
町では信号機も交通標識もほとんど必要ないのだろう。屋外看板も案内を目的とした看板
が港に集中しているだけである。目的地がわからなかったら島の人びとが親切に教えてく
れる。ここではモノよりもヒトを中心に生活が動いている。
道端に延々と続く細長い手づくりの花壇、毎日のようにお墓に出かけ先祖を大切にする
習慣、総合福祉センターでの人びとのふれあい、直島女文楽の継承、町民と幼小中学校が
合同で行う運動会、ヒット曲「おやじの海」のエピソード、島で聞く話には直島の人びと
の「 や さ し さ 」と「 思 い や り 」が 伝 わ っ て く る 。「直 島 」と い う 地 名 は 、保 元 の 乱 で 敗 れ た
崇徳上皇が讃岐へ配流される途中、この島に立ち寄った時、島民の純真素朴さを賞して命
名されたと伝えられている。
(3)町の歴史
①海(自然)
直島の歴史は「水軍」と出会うことから始まる。瀬戸内海は、古くから貿易、交通、軍
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事上の重要な場所であったこともあり、直島の人々も海の仕事をしながら暮らしてきた。
直島の水軍の将、高原氏は、戦国時代の終わり頃からこのあたりを征服しているが、規
模自体は村上水軍や塩飽水軍のように大きくはなかった。中央政権の管理を離れ、領地支
配に属さない独自の活動をしていた水軍が、南北朝から戦国の動乱の歴史に少なからず影
響を与えたことは、間違いのない事実である。秀吉全国統一の頃、海賊禁止令が出され、
以後彼らも次第に時代の体制に従わざるを得なかった。徳川幕府になり、廻船業がくらし
の中心であったが、それが島のもっともはなやかな時代であったと見られる。
現在、町役場のある本村地区が、高原氏が築いた高原城の城下町であったことを認識し
ておくべきである。
②工場地帯(環境)
大正時代からこの島に大きな経済の繁栄をもたらした、島の北側にある精錬所、三菱マ
ティリアル(旧三菱鉱業)の工場群のことも、直島を語る上で切り離すことが出来ない。
経済の恩恵と引き換えに、煙害のため工場周辺の自然を失ったことで、島民たちの気持
は複雑だったに違いないが、早くから環境問題に直面したこの島の人々の葛藤を私たちは
忘れてはいけない。私自身、昭和40年頃関西方面に向かう時には、時折、宇高連絡船を
利用していたが、船が宇野港に近づいたことを知らせてくれるかのように、島の風景が一
変したことを思い出す。
そしていま、島にふたたび環境問題が動きつつある。長引く不況と精錬の縮小は工場に
方向転換を要求せざるを得ない。環境産業として精錬所内で、豊島に不法投棄された大量
の産業廃棄物を処理するという現実を、単なる傍観者として見ることだけは避けたい。
③直島建築群(教育)
ちかつぐ
昭和後半の直島を語るには、三宅 親連 氏町長(故人)を省略することは出来ない。八
幡 神 社 の 宮 司 で も あ り 、郷 土 史 研 究 家 で も あ っ た 三 宅 氏 は 、36 年 間 9 期 と い う 長 期 政 権 を
務め、とにかく島への情熱は、普通ではなかったようである。
「教育と文化を充実させ、子供と青年に活気をもたせたい」という目標を掲げ、島の中
央部に文教地区を造成した。建築家・石井和紘氏の協力を得て、保育所(幼児学園就学前
の 幼 児 が 通 う )、幼 児 学 園 (直 島 で は 保 育 部 と 幼 稚 部 の ミ ッ ク ス 教 育 )、小 学 校 、中 学 校 、町
民体育館・武道館、陸上トラック、サッカーコート、野球場、屋外プールを集合させた大
プロジェクトは見事としか言いようがない。
直島町役場
直島文教地区
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直島町役場、保養所、直島町総合福祉センターなどの公共建築物も次々と実現させ、直
島の存在を外部に大きくアピールした人物である。それらの建築物は外観だけでなく、使
い方に特長があり、建物が完成するたびに議会や住民から、賛否両論の意見が出たらしい
が、話題を浴びた建築群だけに島を訪問した際は一見の価値がある。
直 島 の 歴 史 を 振 り 返 っ て み る と 、そ れ ぞ れ の 時 代 は「 自 然 」、
「環 境 」、
「教 育 」、こ の 3 つ
の動きによって形成されていたことに気づいた。今度は「文化」という動きが平成の直島
を大きく支えようとしているが、偶然にも21世紀の日本の社会が真剣に考えなければい
けないことばかりである。
(4)観光開発の始まり
瀬戸内海国立公園の美しい景観内に生活している直島の人々は、観光開発をどう考えて
いたのだろうか。
三宅町長は、昭和38年に観光政策の方針通り、清潔で健康的な観光地を目指してスタ
ートさせている。東京でオリンピックが開催される前年、国民の生活でいえば、生きてい
くためのモノは充たされはじめ、次に「質」のよいモノを求めはじめた頃である。
藤田観光によって島の南側地域琴弾地の開発が始められ、昭和41年、海水浴場、キャ
ンプ場、レストハウスなどを備えた海辺の施設「無人島パラダイス」がオープンした。し
かしその後、ホテル建設などの新しい計画が、大型船の接岸施設問題と国立公園特別地域
に対するきびしい規制によって進まなくなってしまった経緯がある。また、いつまでも人
気が続かなかったことと、昭和48年のオイルショックの影響が重なり、結局、昭和62
年に藤田観光は町から出た。その後、ベネッセによって、今回の研究の対象である美術館
が海岸の西側に建設されるが、再開発されるまでの数年間この地域は放置状態にされてい
たらしい。
2.直島コンテンポラリーアートミュージアム
瀬戸内海の美しい風景に囲まれて存在する美術館。設計者の安藤忠雄氏が依頼を受けた
時、不安を覚えて躊躇したと述べている。離島のハンディを乗り越えて活躍する美術館の
展開とは。できるだけわかりやすく説明してみたい。
国際キャンプ場宿泊施設パオ
国際キャンプ場テラスとアート
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(1)国際キャンプ場
撤退した藤田観光の後、
(株 )ベ ネ ッ セ コ ー ポ レ ー シ ョ ン( 当 時 福 武 書 店 )が こ の 地 域 を
再 生 す る か た ち に な る が 、も と も と 、
「瀬 戸 内 海 の 島 に 世 界 中 の 子 供 た ち が 集 え る 場 を つ く
りたい」との思いがあった福武書店の創業者福武哲彦氏と、島の南側を健康的な文化エリ
アに開発したいと考えていた三宅町長の思いが、一致したことから始まっている。
国際キャンプ場の計画は、現社長の福武總一郎氏に引き継がれ、建築家・安藤忠雄氏監
修のもと着々と進んでいった。美しい自然に囲まれた国立公園という豊かな環境を、勉強
づ け の 子 供 た ち た ち に 、息 抜 き の 場 所 と し て 利 用 し て も ら う こ と か ら 始 ま っ た こ の 施 設 は 、
実験的に福武書店の社員によるキャンプ体験、新入社員研修などで使用された後、平成元
年(1989)から一般にオープンされた。この時点からいよいよベネッセの文化の発信
が始まっていくことになる。
直島文化村での過ごし方を福武總一郎氏は次のように述べている。
《日頃の喧噪を忘れ、ゆったりとたゆたう時間と空間に身を浸し、自然とアートに囲まれ
て、いにしえより続く人々の営みや自分の生き方に思いを馳せる…、それはとりもなお
さ ず 、ひ と り ひ と り の 人 が 人 生 の 中 で ふ と 立 ち 止 ま っ て「 考 え る 時 間 」を も つ こ と で あ る 。》
国 際 キ ャ ン プ 場 が オ ー プ ン し て か ら 3 年 後 の 平 成 4 年( 1 9 9 2 )に は 、安 藤 忠 雄 氏 設
計 に よ る 現 代 美 術 館 と ホ テ ル が 一 体 化 し た 、通 称 ベ ネ ッ セ ハ ウ ス が 完 成 し 営 業 を 開 始 し た 。
平成7年(1995)には、ベネッセハウスの別館である宿泊施設アネックスも完成、直
島 文 化 村 と い う 名 称 に「 Benesse Island」が 加 え ら れ「 Benesse Island 直 島 文 化 村 」が い
よいよ本格的にスタートしていった。
岡山市内の後楽園から少し北西部、美術館と博物館が点在する静かな場所に、直島文化
村を運営している(株)ベネッセコーポレーションの本社がある。教育・生活・福祉サー
ビス会社で出版会社でもあるベネッセは、旧社名は福武書店である。進研ゼミといえば、
たいていの人が知っていると思う。
(2)美術館の説明
①建物の設計と建築家の考え
「直島コンテンポラリーアートミュージアム」の設計者は安藤忠雄氏であるが、前述し
たようにベネッセのアートプロジェクトに深く関わっており、直島が世界的に注目を浴び
ているのは同氏の関与が大きい。
専門家の定番用語である「安藤建築」は、やはり現実に体感するのが一番よい方法であ
ると思うが、この美術館に関しては、ギャラリーのほとんどが地中に埋まっており、緑に
覆われる部分も多く、建物の外部から伝わってくる存在感や緊張感はほとんどない。
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桟橋から眺めた美術館
テラス壁面に展示された作品
私の場合、最初の訪問は小型の船で美術館下の桟橋からアプローチに沿って玄関へ、2
度目の訪問は国際キャンプ場から歩いて向かい、3 度目は宮浦港から車で山道を通った方
法 、い ず れ の 場 合 も 建 物 を ほ と ん ど 意 識 で き な い ま ま 美 術 館 の 玄 関 に 着 い た 。
《こ の 地 の 美
し い 景 観 を 壊 し た く な い 。建 築 を 出 来 る 限 り 見 え な い よ う に す る 。》と い う 設 計 者 の 意 図 を
3 通り体験したことになるが、そのとおりであった。また、安藤氏は美術館のプランにつ
いて次のように説明している。
《瀬戸内海の美しい風景の中に、現代アートという「異物」を挿入する。直島において
は現代アートが自然という普遍なるものに対峙するとき、そこになにか出来事が起きるの
ではないかと期待したのである。このとき建築は、たんにアートを内包するだけの存在で
なく、それ自体が人間の想像力を喚起する装置となる。アート、建築、自然のぶつかり合
い、コラボレーションすることによって生み出される場、ひとびとの心にそこでの空間体
験 だ け が 残 っ て い く よ う な 場 を つ く り た か っ た の で あ る 。》
②現代美術の作品
玄関で入場の手続きを済まし、まっすぐ進むと円形のギャラリーが待ち受けている。は
じめて安藤氏の建築を体験する人にとっては、まず圧倒される空間である。この場所に一
つだけあるブルース・ナウマン氏の「100生きて死ね」という作品をあとに、ここから
は自由気ままに歩いて空間とアートを堪能するのがベストな方法かもしれない。
窓の外に目を向ければ、たいてい瀬戸内海の美しい景色が見えるようになっており贅沢
そのものである。ギャラリーのテラスにもいくつか作品がある。一回りしてカフェでコー
ヒ ー を 飲 み な が ら 見 る 海 の 風 景 は や は り 最 高 で 、こ こ が 美 術 館 で あ る こ と を 忘 れ て し ま う 。
現在200をこえる現代美術作品のコレクションがあり、常時70点余りが建物の内部
と船着場周辺の海岸および国際キャンプ場で展示されている。
美術館内部の展示空間は入り組んでいて、自分がどこのフロアーにいるのかわからなく
なる。80年代の安藤氏設計の商業空間では、当時の若者達が楽しんだように、観客がベ
ネッセハウス内を自由に歩き、好きな場所、好きな作品の前で立ち止まり、ゆっくりと楽
しむように工夫されている。
薪を積み重ねたように見えるヤニス・クリネス氏の作品は、遠い昔、燃料店の店先にあ
った光景を思い出した。地下一階のテラスにある安田侃氏の大理石の彫刻「天秘」は観客
が作品に触れることができるので、その上に寝転べば大空が見える。
展示された作品の中で、須田悦弘氏の「雑草」という見過ごしそうな小さな作品は、本
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物の雑草と区別がつかないくらい精巧に出来ていて、リチャード・ロング氏の流木をギャ
ラリーの床に並べた作品とともに、遊びとおもしろさが感じられ、ぜひ子供たちに見せた
いアートである。ホテル客室の壁にもアーティストの作品が描かれていて、その部屋に宿
泊した人にとっては贅沢な空間となる。
美術館下の桟橋の近くには片瀬和夫氏制作の「茶のめ」という作品が、周辺の風景を演
出しており、石組みの土台に置かれた茶碗のような青いボウルが色んな道具に見えるから
面 白 い 。こ の 場 所 か ら 、国 際 キ ャ ン プ 場 近 く の 浜 辺 に 設 置 さ れ た 草 間 彌 生 氏 の 作 品「 南 瓜 」
がユーモラスな表情で見える。観客が周辺を散策しながら、突然アートを発見するように
も出来ている。
須田悦弘氏の作品「雑草」
③美術館の活動
今回この研究を始めてまもなく、ベネッセの本社を訪問し、美術館の企画、運営を担当
されているチーフキュレーター秋元雄史氏にお会いし、オープンした当時の様子をお聞き
することができた。
《現代アートをあつかう美術館と島の現実には距離があったことも確かであり、美術館
の来館者、ホテルの宿泊者が思ったように伸びず、不安な時期も経験した》と話されてお
り、すべて最初から順調に進んだわけではなかったようである。地理的に不利な条件のな
か、手探りで多彩な企画展を開催することによって得た方向性に合わせて、宿泊施設が軌
道に乗り出したことが、島全体のアートプロジェクトへの流れを形成していったようであ
る 。普 通 の 企 業 が 不 安 を 抱 え て ス タ ー ト す る よ う に 、ベ ネ ッ セ も 同 じ 経 過 を た ど っ て お り 、
健全な経営ができる方向をつかむまで努力をしている。
美 術 館 は 、 現 在 で は 町 民 の 公 民 館 的 な 存 在 に な っ て い る ら し く 、「 ス タ ン ダ ー ド 展 」 が 、
町民の協力なくしてはできなかった展覧会であったということもあり、これを機にますま
す美術館と島の人々との関係を深めていったようだ。ちなみに町民は美術館への入場は無
料である。
美術館では美術作家の創造的活動を称え、今後の活動を支援することを目的として、1
995年第46回ベニスビエンナーレからベネッセ賞を設けている。賞の対象はそのとき
どきで変わるが、一貫しているのが審査基準として新人、既存の枠組みを超えて、新しい
地平を切り開こうとする実験、開拓精神に富んだ若手アーティストであることを条件とし
ている。受賞者には将来、直島でのコミッションワークの可能性が考慮され、第一回の受
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賞者である蔡國強氏は作品を展示している。第二回、第三回の受賞者の作品制作も現在進
行中である。過去に「キッズアートランド展」という、対象を子供たちに絞った展覧会を
開き、子供向けのワークショップも実施しており、現在の直島文化村の原点をきちんと守
っている。
④スタンダード展
平 成 1 3 年 ( 2 0 0 1 )、 開 館 1 0 周 年 記 念 の 企 画 と し て 秋 か ら 冬 に か け て 3 ヶ 月 間 開
催された「スタンダード展」は、美術館の中でなく、町の中で行われた。民家や使われな
くなった建物を舞台にしてのインスタレーションは、13名の活躍している現代美術のア
ーティストによって行われ、フェリー発着場の宮ノ浦地区、役場のある本村地区、工場の
ある三菱マティリアル地区にそれぞれ展示された。観客が町を自由に移動して見学できる
ように計画された展覧会は、島の生活と歴史を細部まで見学者に語りかけることもねらい
であったようである。
《直島という、時代遅れになってしまったがそれなりに歴史や文化がある場所を、もう
一度違う視点で評価して生き返らせたい。活きのいいアートを町の中に放りこんで、のっ
ぺりと硬直化した島の姿にデリケートな陰影をつくりたい。とにかく今の直島にはアート
が 必 要 だ 。 半 ば 乱 暴 な 気 持 で 企 画 し た 。》 と 企 画 し た 秋 元 氏 は 述 べ て い る 。
町の中で行われた
スタンダード展
宮 ノ 浦 港 の 正 面 の 細 い 露 地 を 入 っ た と こ ろ に 、地 酒 の 看 板 を 掲 げ た「 落 合 商 店 」が あ る 。
展覧会のため、廃業した店の内部に大竹伸朗氏が現代アートを仕掛けたもので、非常にお
もしろい空間であった。大竹氏自らの絵画や昭和の懐かしい雑貨や食品を並べて、作品に
再生、シニア世代には懐かしい場所、若者達には体験したことのない新しい場面であった
に違いない。田舎町に行けばこのような「よろずや」は、まだ存在するが、とにかく社会
の変貌を強く感じさせられた作品であった。
様々なかたちで、現代アートが町に登場し、知恵と工夫が観客たちを魅了した「スタン
ダード展」ではあるが、この展覧会が美術館の存在を一気に広めていったようである。自
分たちで自分たちの場所をおもしろがるという秋元氏の試みは、不況が続く現在の社会で
忘れかけている「明るさ」や「楽しさ」を感じた。展覧会に協力した人々にとっても確か
に面白かったのではないだろうか。
最終日、暮れゆく町で、ボランティアスタッフと町の老人が別れを惜しむように、いつ
までも会場を去らなかったといわれるが、美術館と町民のコラボレーションによって生ま
れた光景であろう。
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特にこの展覧会は、ボランティアの活躍が目立ち、学生を中心に社会人と町民あわせて
250名の協力が得られたようである。また都会からの参加者が多かったということは、
美術館の魅力にひきつけられて参加したと判断していいように思う。
美術館オープン当初は「町づくり」という意識はなかったらしいが、プロジェクトの進
行とともに、その意識が次第に芽生えてきたと秋元氏が話されているように、この「スタ
ンダード展」が町づくりのための一区切りとなったようである。
(3)町に出た美術館――家プロジェクト
本村地区は、江戸から明治にかけての古い民家が多く残っている場所である。昔、水軍
の高原氏が歴史をつくった城下町であったこの界隈は、本瓦と黒く焼いた杉の佇まいが独
特のおもむきを醸し出している。しかも全国各地に見られるような、観光客のためにつく
られた町並みではなく、そこに長年住んでいる感覚で歩けるところがよい。
モダンな屋号の表札
本村地区界隈の風景
「家プロジェクト」とは、地域にある住み手がいなくなった伝統的な家屋を美術館が借
りて、作品を置いたり、家ごと作品化して家を再生させるという試みである。観客はその
家 と 作 品 を 鑑 賞 す る 。鑑 賞 の 仕 方 も 非 日 常 性 が 強 い の で 人 気 が あ り 、平 成 9 年( 1 9 9 8 )
に民家を使ったインスタレーションがスタートしてから、現在4つの作品が町にあるが、
アート空間は見学で訪れる人々が年ごとに増えているようだ。
見学するためには予約が必要な民家「きんざ」の内藤礼氏の作品は、一人で決められた
時間内鑑賞するようにつくられている。私自身、咒術的な儀式が行われている場面を想像
したが、観客がそれぞれ違った感性で受け止めることが出来るおもしろい空間である。
安藤忠雄氏もこのプロジェクトのために木造の施設「南寺」をつくっており、アーティ
ストのジェームズ・タレル氏が作品を展示しているが、観客は思いがけない刺激的な空間
を体験させられる。
《このような形での、町づくり、環境再生へのアプローチもあり、同じような問題に直面
する各地の町村が、それぞれ独自の解決方法を見出していくことができれば、すばらしい
ことである》と安藤氏は述べている。
また、この地域では「屋号」を復活させており、それぞれ、家の玄関先にモダンな表札
を設置して界隈に彩りをつくっているのが楽しい。これは、直島町主導で行われている。
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(4)コラボレーション
①美術館の考え
「コラボレーション」は、一般的には、ジャンルを異にする芸術家同士が、かならずし
も既成のジャンルにとらわれることなく、あるいはジャンルを超えて共同作業を行う創作
活動をさす特殊な言葉として用いられている。
現代アートを展示する側であるキュレーター秋元氏は、この美術館での建築と作品の関
係を次のように述べている。
《互いが互いに直接干渉していくような、一種独特の空間ができたことによって、ある
意味ではその後の展示作品の方向性も決定づけてしまうような状況が生まれた。通常の絵
画や彫刻といった形式の作品ではあまりにスタティックで建築のドラマティックな空間構
成や自然の複雑な変化に対応しきれない。室内や屋外において建築と自然がつくりだす特
異な空間の性格を巧みに利用しながら、うまく作品にあった場所を見つけて収めていくと
い っ た 力 の 要 る 発 想 が 要 求 さ れ る 。》
そのため、1994年頃から、美術館はアーティストを招き、敷地内で自分の気に入っ
た場所を選んでもらい、その場所に永久展示するというコミッションワークという手法を
使っている。
直島文化村内にあるアートと美しい瀬戸内海の風景
②住民との関係
コラボレーションは美術館と直島の町民の間にもある。
「家 プ ロ ジ ェ ク ト 」は 、歴 史 が あ
って、今もそこに住む人たちの営みがあってこそ成り立つものであり、裏舞台で存在する
町民の協力が不可欠なものになっている。昔の風情が残る町並とアートがお互いに相乗効
果を出し合っていることから、観客に与えるインパクトは余計に強い。
一番の特徴は、作品がこの場所に根付いていることであり、界隈の住民をパートナーと
して新しい歴史を築きつつあることだろう。
(5)インターネットによる発信
ベネッセの本社が情報を提供するプロといえばそれまでであるが、美術館自身のコンセ
プトや経過がインターネットを媒体として、わかりやすくきちんと説明されている点は、
他の美術館では少なく、観客としては非常に便利である。しかし、美術館側は作品をカタ
ログ化して解釈も当り障りのないものになっていく危険性があることを考慮し、利便性だ
けのインターネット発信でないことを強調している。
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ベネッセ側は、最終的に地区の政治や産業、教育といったものが元気で、実質的に島の
生活を活性化しなければ根本的には、過疎と高齢化の問題を解決することにならないと述
べている。これに対して行政側もベネッセへの期待を大きく膨らませており、三菱マティ
リアルの新しい環境事業とあわせて、将来の町の方向が決まりつつある。
インターミッション
地 図 で直 島 を観 察 してみると、島 はイタリアの国 を左 右 逆 にした形 をしている。とび職 のお兄 さんの
ニッカポッカのようにも見 えるが、若 い女 性 には「イタリア」の形 をした島 と言 った方 がうけるかもしれな
い。そういえば、ベネッセハウスのある場 所 が靴 のかかとになっており、直 島 の体 重 を支 えている。将
来 、島 を支 える運 命 なのだろうか。また、魚 のようにも見 える。ちょうど三 菱 マティリアルの工 場 あたり
が目 になっているから「きんめだい」ということにしておこう。瀬 戸 内 海 に浮 かんだ何 かを食 べているよ
うに見 えるが、ゴミだろうか。補 助 金 なのだろうか。たぶん豊 島 のゴミを処 理 している姿 なのだろう。こ
の魚 をみんなで大 切 にしなければいけない。
三菱マティリアルエリア
宮ノ浦港
ベネッセハウス
3.町に活力を与える要素
風土は、暮しの仕組みをつくり、そのなかで文化が生まれ、人々はそれぞれの地域にあ
った文化を築きあげていった。直島の人々も離島というハンディを背負いながら独自の文
化を発信している。文化は簡単には語れるものではないが、町の活性化を考えていく上で
は不可欠の要素である。この研究の前半は、直島を舞台に(株)ベネッセコーポレーショ
ンの展開する美術館を紹介してきたが、後半は、他の地域ではどのように文化を発信して
いるのか、その意義を考えながら最後に徳島の町づくりの方法を探ってみたいと思う。
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(1)文化と町づくり
①モノ文化について
過 去 に 各 自 治 体 は 、「 地 方 の 時 代 」「 文 化 の 時 代 」 を 合 言 葉 の よ う に 、 モ ノ に よ る 豊 か さ
の競争を続けてきた。道路がつくられ、市民文化センター、美術館、博物館の数を文化度
の指数としてきたのではないかと思うほど、マチは自己を顕示するモノで溢れ出した。し
かしその結果、生活に役に立たないモノがたくさん残り、本当に残さなければいけない自
然 や 歴 史 的 な 景 観 が 次 々 と 消 え て い っ た 。 し か し 、 こ れ は あ く ま で も 結 果 で あ り 、「 文 化 」
が町に活力を与えると思ったからこそ、つくったことであり悪いことではないと思う。モ
ノをつくる時の発想や展開の方法が誤っていたのではないだろうか。
また、一概に行政側の責任だけではない場合もある。地域住民や芸術愛好者の陳情によ
って、道路やハコモノ、歩道橋が計画されたという話もよく聞くし、最近では、民間業者
の建築する高層マンションや、異常なほど巨大な広告塔を備えた店舗の方が、マチの景観
を次々と壊しているのである。
当然、ハコモノや道路を最初から否定する考え方も改めなければいけない。保存運動が
と も す れ ば 圧 力 団 体 に 変 わ り か ね な い の と 同 じ よ う な も の で あ る と 思 う か ら で あ る 。現 在 、
過去に人びとによって捨てられた路面電車が、世界的に注目されはじめて、復活する兆し
があるということも頭に入れておかなければならない。
②文化の考え方
文 化 に つ い て の 問 題 は 、こ れ ほ ど 多 種 多 様 化 し て い る 社 会 で は 語 り き れ な い 部 分 が 多 く 、
どうしても抽象的な考えになりがちであるが、約20年前に高松市で行われた「明日の四
国 を 考 え る・高 松 会 議 ’8 1 」で 中 村 良 夫 氏( 東 京 工 業 大 学 名 誉 教 授・景 観 工 学・現 在 経 歴 )
は文化的な町づくりについて、次のようにわかりやすく説明している。資料としては少々
古いが、現在の高松の状況を捉えるのには、ちょうどよいので引用したい。
《高松というのは港が非常に都心に近いので、これをうまく都心の風景の中に取り込み
水の広場のような形にすることができたならどうでしょうか。ちょうど手ごろな大きさの
港の周りに町があって、そこから水面が見えるという都心が形成されれば、すばらしいも
のになるでしょう。また、郊外をとりまいているおだやかな山脈と溜池の風景が十分にと
りいれられた住宅地ができたら、全国に誇れるものになるでしょう。住宅地が観光の対象
というかよその人たちに自慢して見せられるところはめったにないが、もしできれば、そ
れがこれからの町の誇りになっていくだろうと思います。文化という問題はそんなに高尚
な問題だと考える必要はない、町なみや川などの風景を美しく整える行為は、立派な美術
館 を 建 設 す る の に ま さ る と も 劣 ら な い 文 化 的 行 為 で あ る 。》
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再開発された
サンポート高松
昭和62年(1988)から、都市再生総合整備事業の一環として始められた旧JR高
松駅周辺の再開発(シビックコア地区整備計画として行われた)により、平成13年(2
001)サンポート高松が誕生し、ホテル、旅客ターミナルビルなどが配置され港周辺は
きれいに整備されつつある。中村氏の発言がきっかけになったかどうかは分からないが、
「水と緑と光」を導入するプランによって周辺の雰囲気が以前より明るくなっており、市
民によるイベントなどもいろいろと行われているようである。現時点では、新しさばかり
が目立っているが、時間をかけてゆっくり個性をつくってほしい。人々がこの場所を利用
し て「 楽 し さ 」を 感 じ な け れ ば 、す っ き り と し た 景 観 だ け で は 計 画 は 無 意 味 な も の で あ る 。
③観光の意味を知る
通 常 、何 気 な く 使 用 し て い る「 観 光 」と い う 用 語 で は あ る が 、文 化 と 密 接 な 関 係 が あ る 。
も と も と 、中 国 の 言 葉「 観 国 之 光 」か ら つ く ら れ た も の で あ り 、
「国 の 光 を 観 る 」つ ま り「 他
の国へ行ってよい点を学んでくる」という意味である。また、ここでいう「光」とは広い
意味での文化のことである。
「他 の 地 域 へ 文 化 を 学 び に 行 く 」す な わ ち 、景 色 を 見 る 、歴 史
を 知 る 、名 産 を 食 す る 、祭 り に 参 加 す る 。こ の よ う な 行 為 は す べ て 文 化 を 学 ぶ こ と で あ る 。
したがって観光客を迎える側の町は、地域のかけがえのない文化を外部の人に示すのだか
ら、単なる思い付きだけの「町づくり」ではいけないことがわかる。
井口貢氏(京都橘女子大助教授・文化経済学)は《どの町にも、どんな町にも観光の対
象となる文化的資源は必ず存在する。それをどのように掘り起こし、ブラッシュアップし
て地域内外に情報発信するかということが重要な意味を持つ。地域住民にとっては見慣れ
た日常や定例化された祭事でも、光の当て方次第では、また、少し視点を変えるだけで貴
重な観光対象となるのである》と述べている。
直島の美術館が企画した「スタンダード展」は、ごく普通の歴史や文化を、違う視点で
生き返らせることができることを証明したものである。
④住民がつくった草の根文化
大分県の人口1万6000人程の小さな温泉町湯布院は、現在年間400万人もの観光
客が訪れている。昭和45年湿原の宝庫といわれる「猪の瀬戸」の保存運動から始まった
町づくりはゴルフ場建設を阻止したことを機に、住民が一丸となって由布院の新しい町づ
く り を 考 え る よ う に な っ た 。結 局 、住 民 参 加 の 町 お こ し が 徐 々 に 効 果 を 発 揮 し 、
「牛 喰 い 絶
叫 大 会 」「 ゆ ふ い ん 音 楽 祭 」「 湯 布 院 映 画 祭 」 な ど の イ ベ ン ト を 次 々 と 実 現 さ せ 、 新 し い 湯
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布院のイメージを全国に広げていった。
となりには有名な別府温泉があるが、歓楽的な温泉地づくりを避けた路線、文化を最大
の資本とした健全な温泉地づくりに徹したことが、今日の湯布院町を築き上げてきた。湯
布院の町とアートは切り離せない関係にあり、自然を題材にした作品すなわち草の根文化
の香りがする美術館、博物館が町に点在しているがそれらは町の振興とともに増えていっ
たようである。町並みに木を植える運動、街灯デザインなどもそこに住む人びとが集まり
話し合いで決めるという、そこには手づくりで生んだ、暖かい文化的な観光対象物がいた
るところにあり、その感覚が全国の観光客に気に入られているのかもしれない。
ぬ る ゆ
反面、 温湯 地区では小売店舗などが増え続け、10年間に160軒を越すほどになっ
た町は、
「人 が 増 え て に ぎ や か に な っ た 」と い う 意 見 と「 暮 ら し に く く な っ た 」と い う 意 見
に分かれるようにもなっていることを、町と住民で作る組織「ゆふいん21政策会議」が
イ ン タ ー ネ ッ ト で も 情 報 を 発 信 し て い る 。考 え さ せ ら れ る う れ し い 悲 鳴 と い う 現 象 で あ る 。
(2)感性と町づくり
①感性とは
感性とは何なのか。
「町 づ く り 」を 考 え る 上 で は 、な く て は な ら な い 要 素 で あ る と 、私 自
身はいつも思っている。感性はひとりひとりの能力であり、画一化ができない分野だから
である。
桑子敏雄氏は『感性の哲学』のなかで次のように説明している。
《感性とは、環境の変動を感知し、それに対応し、また自己のあり方を創造してゆく、価
値に関わる能力である。このように捉えることによって、感性はたんに外界からの情報を
キャッチするだけでの受動的な能力ではなく、環境とのかかわりのなかで自己の存在をつ
く り だ し て ゆ く 能 動 的 、創 造 的 な 能 力 と な る 。た と え ば 、近 頃 、
〈う る お い 〉や〈 や す ら ぎ 〉
のある町づくりが都市計画の理念に掲げられている。これは、そこに生きる人々に〈うる
おいのある生活〉や〈やすらぎのある生活〉を実現するためである。この〈うるおい〉や
〈 や す ら ぎ 〉 を 捉 え る 能 力 が 感 性 で あ る 。》
町づくりだけに限ったことではないが、感性のレベルによって計画のコンセプトが違う
方向に向くということがある。たとえば、博物館の基本計画を外部専門家に依頼したとす
る。その場合、プランを採用する人の文化的な感性レベルで計画が決定してしまうという
ことである。公共であれば市長、議員、都市計画担当者であり、場合によっては学識経験
者も加わる。もちろん企画者のレベルも重要である。いずれにしても肝心のコンセプトが
し っ か り し て い な け れ ば 質 の 低 い ソ フ ト ウ ェ ア が 出 来 上 が り 、「 感 性 」 に よ っ て 、「 や す ら
ぎを感じる町」を計画する予定が、市民が想像しなかった町並みが登場する場合も実際に
ありうるということである。
「感性」をうまく生かした町づくりやイベントの例を以下にあげてみたい。これらはみ
んなソフトウェアがしっかりしたものである。
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②町並みを飾る花の公募展
新潟県上越市の旧城下町高田では2000年10月に行われた「城下町高田花ロード・
町並みを飾る花の公募展」は、町に新しい活力を吹き込むために地元の商店街振興組合連
合会が中心になり開催された。現代美術作家の作品と隔てなく町の中に展示された一般公
募の作品が審査されるというものでユニークなイベントであった。審査員は作家の大岡玲
氏、女優の真野響子氏と本展のプロデューサーであるアートディレクター北川フラム氏が
つとめた。雪国独特の「雁木」と呼ばれる造りの家並みを利用したり、格子や広場を利用
して200名近い出品者が、思い思いの場所を選んで作品を展示するというこの企画は、
感性が町づくりの柱になっているよい例である。
③手紙文化の発祥地
福井県の丸岡町は、日本一短い手紙のコンクールを実施して全国に「文化」を発信し、
多くの人びとに感動を与えている。平成5年(1993)第一回「母への手紙」から始ま
った応募はすでに75万通(平成13年現在)を超えており、丸岡町を一躍「手紙文化」
で有名な町にしてしまった。丸岡城天守閣石垣の脇に「一筆啓上
な
火の用心
お仙泣かす
馬肥やせ」の石碑が立てられている。碑文は、400年程前に徳川家康の功臣、本田
作左衛門重次が陣中から妻に宛てて送った手紙として有名であり、その碑からヒントを得
た25文字から35文字の短い手紙コンテストは海外にまで広がり続けている。平成12
年度、第八回のテーマ「私へ」の一筆啓上賞から佳作までの受賞者の半数以上が十代の若
者であり、十代ならではの感性豊かな純粋な作品が目立ったということはたいへん貴重で
ある。
丸 岡 町 で は こ れ ら の 作 品 を 永 く 保 存 す る た め の 博 物 館 計 画 に ま で 発 展 し て い る が 、「 感
性」というソフトウェアが先行した町づくりのよい例かもしれない。文化が町づくりに活
力を与えているのは、イベントや芸術を表面だけで捉えるのでなく、住民の生活や歴史に
直接深く関わっているからである。創造性のある企画をすることが、町づくりの最低の必
要条件になりつつある。
④ヘンロ小屋構想
ヘンロ小屋構想とは、建築家・歌一洋氏(海部町出身、近畿大学助教授)が提案した、
四 国 霊 場 八 十 八 ヶ 所 の 札 所 の 間 に 一 つ ず つ お 遍 路 さ ん の 休 憩 所 を つ く る 構 想 で あ る 。設 計 、
用地、資材提供、建築、完成後の接待すべてボランティアで行うという構想に、各地から
協力者がたくさん申し出ており、建設計画もいくつか進んでいる。
その第一弾の小屋は、平成13年12月、二十三番薬王寺から二十四番最御崎寺に向か
う途中の海南町四方原に完成しており、現在四国で4棟が活躍している。四国の新しい文
化 と し て 歴 史 を 作 っ て い く だ ろ う 。こ れ は 、建 築 家・歌 氏 の 感 性 か ら 生 ま れ た 発 想 で あ る 。
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国道55号線沿に
造られた遍路小屋
⑤林檎の教会
フランスのノルマンディ地方、ファレーズ市に人口400人ほどのマルタン・ド・ミュ
ー村がある。りんごの生産地である村のはずれには16世紀に建てられたサン・ヴィゴー
ル・ド・ミューという礼拝堂が廃墟化したまま残されていた。
この礼拝堂が国際的な文化支援を得てアーティスト田窪恭治氏(今治市出身)によって
修 復 再 生 さ れ た 。 こ の プ ロ ジ ェ ク ト の 記 録 は NHK の 新 日 曜 美 術 館 で も 放 映 さ れ た が 、 美
術という観点からだけでなく社会的に学び取るものは大きかった。1987年はじめて礼
拝堂と出会った田窪氏は、後に家族と共にノルマンディに移り住み、10年の歳月をかけ
て 自 ら の 感 性 で 礼 拝 堂 を 再 生 。フ ラ ン ス と 日 本 の 異 質 な 風 土 や 文 化 を 超 え て 、1 9 9 9 年 、
「林檎の礼拝堂」と呼ばれる新しい文化の場をつくり出した。同氏が現在、香川県の新し
い 文 化 ゾ ー ン の 形 成 を め ざ し て「 琴 平 山 再 生 計 画( 仮 称 )」を 指 揮 し て い る こ と を 注 目 す る
必要がある。
⑥四国遍路インスタレーション
大 久 保 英 治 氏 と い う 現 代 美 術 家 が い る 。9 9 年 1 月 に 徳 島 県 立 近 代 美 術 館 で 開 か れ た「 四
国の天と地の間―阿波の国から歩く」では、同氏が歩いて四国遍路まわり、道で拾った木
の葉や石、鳥や昆虫の羽、流木などの自然の素材を使用した作品をインスタレーション的
に展示していた。身のまわりの風景や普段の何気ない生活の大切さを再確認せざるを得な
い訴えがあった。
こ の 徳 島 で の 展 覧 会 の 前 に 、大 久 保 氏 は ド イ ツ の ハ ン ブ ル グ で も 作 品 を 出 品 し て い る が 、
《日本を代表する文化を四国遍路は内在している。ドイツの人々と話しながら、四国遍路
には日本の精神文化の核があるということを再確認した。徳島に住む人々が、そのことを
誇りに思い、もっと遍路の歴史や意味について考えてほしい》と同氏は述べている。
観光や町づくりあるいは施設を計画する場合、参考として他県の町や施設見学も大切で
はあるが、このような展覧会をじっくり見ることが徳島の創造につながってくるのではな
いだろうか。
4.町を活性化させる
人々の経済的な豊かさが頂点に達したバブル社会は確かにみんなが元気であった。通り
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には人が集まり、町全体が商業機能を果たしていた。同時に、町は文化的な機能も果たし
ていた。その町が現在、所々ですっぽりと大きな資本のハコに覆われてしまった。集客機
能 イ コ ー ル 商 業 機 能 と い う か た ち が 動 い て い る 。こ れ で よ い の だ ろ う か 。も し そ の こ と で 、
「文化」が町から失われていくならば、漠然とした「文化」の必要性を認識するよりも、
文化の持つ本質の中に私たちは何を求めているのか、ということを明確にしなければいけ
ない。この章ではそのことについて触れてみることにする。
(1)刺激のない町
最近、町の風景は変わってしまった。身近な生活エリアにはコンビニが点在し、それよ
り少し大きなエリアにはショッピングセンター、家電店などの巨大化した大型店舗が離れ
て存在する。それらの施設を結ぶストリートはファーストフード店、チェーン展開の飲食
店、携帯電話ショップが目立つだけで、存在するべき小さな店はほとんどなくなった。隙
間には、駐車場、銀行、ガソリンスタンド、マンション、放置された空き地などが並んで
いるだけである。マチは歩いて楽しむ場所でなくなり、人々は集客設備が整ったハコから
ハコへと車で移動し、ほとんどマチを意識しなってしまった。都会と比べて、地方では歩
くことが少ないためにその傾向がいっそう強くなった。
便利さを追求しつづける施設と車社会が合体したのが、郊外型のショッピングセンター
である。しかも新しい立地へと移動していく施設は巨大化しながら顧客も一緒に移動させ
た。繁盛店と不振店の差は便利さ、すなわち駐車場とその中におさまる店の数で決まるよ
うになった。車によって商圏が広がった結果、今度は巨大なハコ同士の競争が始まり、ま
すます、おもしろさのない、刺激のない、画一化された町は、とくに地方では増え続けて
いる。町は商業施設のためにではなく、文化が付随して住民のために機能しなければいけ
ない。人が住むことによって、文化が生まれ、町が成長していくことを、この際再認識し
たいものである。
(2)市民の動き――新しい観光のかたちを示唆――
バブル経済が終わり、確かに人びとの生活はきびしくなり、社会が止まってしまった。
しかし、震災以後、歴史を考えたり、町を考えたり、政治を論じる機会が増え、真の豊か
さを探し始めて市民が動き始めていることも事実である。ボランティア、アドプトプログ
ラ ム( 巻 末 説 明 )、環 境 教 育 、住 民 運 動 、町 づ く り 、生 涯 学 習 な ど に 自 由 に 参 加 し 、地 域 社
会を考えるために人びとが集まりはじめているのである。
IT 社 会 の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン で は 未 充 足 な 部 分 、人 が 中 心 に な っ た 楽 し い 社 会 の 再 現 を
めざした行動であろう。政治やマスメディアがやたらと危機感をあおるのを背に、お互い
助 け 合 う 気 持 、い た わ り 、行 動 、
「阪 神 淡 路 大 震 災 」で 芽 生 え た 人 々 の 新 し い 価 値 観 へ と 少
しずつ変化している。
生 活 の 中 に「 楽 し さ 」を 見 つ け る こ の 現 象 は 、高 齢 化 社 会 が 生 ん だ 新 し い 文 化 で も あ り 、
生きがいづくりでもある。しかもこの動きは、観光や町づくりを考える上では欠かせない
重要な要素となりつつある。地域の大学や自治体がおこなっている、教養や専門性に富ん
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だ教育の場に通う中高年層や主婦などの自己啓発的なレジャー志向は、将来中高年世代向
けに学びの要素を取り入れた滞在型観光の開発を示唆している動きかもしれない。
せっかく勉強するのなら中途半端では終わりたくない、専門的に学習したいというシニ
アが多くなっている。また、彼らは美術館でボランティアをしてみたい、環境問題にかか
わって地域をよくしたい、といった社会還元的な目的をもっている。
(3)活力のヒント
①キーワードを探す
「モノ」や「便利さ」の拡大によって膨らんだ社会。いま、それを生活から完全否定する
ことはできないけれども、反省の意味から、経済的な意味から、また政治的にも、無駄を
省くことを心掛けるようになった。しかし、現実はモノ社会が続いている。便利さも失い
たくない。しかも、モノも生活も町もみんな画一化、同レベル化していて個性がない。お
おまかに言えば、このあたりが今の社会である。
刺激を求めたいのだが、町には刺激がなく、身の回りに刺激が探せない。しかも不況は
当分回復しそうもない。この意識が慢性化しているのである。
本来、人間に活力を与える快いパワーである「おもしろさ」や「楽しさ」が町や施設に
不足していることは確かであり、そのパワーの源は、多くの場合文化や芸術に含まれてい
る。少々哲学的な言い回しをすれば、この「おもしろさ」や「楽しさ」をどう捉えるかで
ある。感性をうまく引き出すことができれば、町に活力を与えるために威力を発揮するは
ずだ。これからの町づくりのキーワードとして切り離せない要素になりそうである。
②町はおもしろくなければいけない
私自身、安藤忠雄氏に設計を依頼し、小さな商業ビルの計画をした経験がある。現在も
そのビルで仕事をしている。
昭 和 5 8 年( 1 9 8 4 )、私 は 徳 島 市 の 助 任 川 畔 に 小 さ な 商 業 施 設 を 計 画 し そ の 設 計 を 安
藤忠雄氏にお願いした。バースの活躍で阪神タイガースが優勝した年にビルが完成。世の
中がバブル経済でふくれあがっていた頃である。ビル建築中にはテナントの問題が難航し
ていたため、何度か大阪大淀にある安藤氏の事務所を訪れ、いろいろとアドバイスをして
いただいたことがある。当時徳島にそごうデパートが出店したばかりでもあり、地元の経
済事情が変化している最中で、東新町でショップを経営している若い方々にも声をかけた
が、思うようにテナントが集まらず、くやしい思いをした経験がある。
ビルがオープンしてまもなく「街をおもしろくしなければいけない」というメモが添え
られて安藤氏から著書が届いたことが昨日のように思えるが、私自身、町づくりに関連し
た本を読むときは必ずその言葉が浮かんでくる。
その「おもしろさ」の意味は幾とおりもあり、おしゃれな気分であったり、心が休まる
気分であったり、開放感であったりする。また緊張感が楽しい場合もある。小さな子供た
ちに遊びを教えることも含まれている。安藤氏が設計した建物には「おもしろさ」や「楽
しさ」がいっぱい詰まっているのである。
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(4)キーワードの実証
①おもしろさの発見
安藤忠雄氏設計の建物は楽しくできている。神戸北野町には、80年代に安藤氏によっ
て商業建築がたくさん設計されたが、お洒落な気分で買い物できる雰囲気づくりは若者に
人気を得た。ビルの中に居ながら路地感覚でショップをまわる楽しさの提案は、当時、安
藤氏が設計された商業ビルの特徴であり、自分がどこの階にいるのかわからなくなる迷路
のような通路。広場があって、行き止まりがある。困ったらショップの商品やインテリア
デザインを頼りに元に居た場所を探すが、余計にわからなくなる。しかし、途中で気に入
った店が見つかる。それが「おもしろさ」でもあった。
淡路島の東浦町に「本福寺」という、91年に完成した真言宗のお寺がある。円形の蓮
池の下に水御堂があり、お参りをする人々はこの池の中に消えて行く。時間によっては仏
像の背後から西日が差し、薄暗い、朱色のお堂内は赤一色に輝くといわれる。その時間に
遭遇したことはないが、聖域に滞在していたという確認をしてお堂から外に出るようにな
っている仕掛けだろう。
本福寺のある場所からから少し北に走れば、2000年春に開催された花博の会場であ
った「淡路夢舞台」がある。ホテル、国際会議場、温室、野外劇場、商業施設が一体化し
た空間の庭園には、貝の浜と呼ばれる100万枚のホタテ貝の貝殻が敷き詰められた広場
に驚かされる。貝殻の選定から敷き詰める作業はすべて手仕事である。
ま た 、東 大 阪 市 下 小 阪 に あ る「 司 馬 遼 太 郎 記 念 館 」は 約 3 ,4 0 0 の 書 棚 が あ り 、2 万 冊
余の書籍が弓形の建物内にびっしりと納められ、訪れる人々を驚かせている。
安藤氏設計の建物は、このような仕掛けが至るところにあるが、子供たちを連れて行け
ばすぐに特徴がわかる。とにかく広場、階段、スロープ、ガーデンが至るところに配置さ
れているので、子供たちが、はしゃぎ、走り、大声を出し、笑い、迷う、とにかくおもし
ろいのだろう。その建物の中には町をおもしろくするヒントがたくさん隠されている。
②おもしろさはここにもある
数年前、徳島新聞社のカルチャーセンター「四国霊場・民族のこころを探る」という講
座に通ったことがある。理由は「県政への提言」という800字程のレポートを書く予備
知識を得るためであった。この経験は、私自身、四国の文化や観光を考えていく上で役に
立った。
四 国 遍 路 の歴 史 や八 十 八 ヶ所 の霊 場 を巡 ることの意 味 を知 識 として学 び、実 際 に霊 場 を講 座 の
仲 間 とまわったということも貴 重 ではあったが、現 実 に、お寺 で見 る人 びとの表 情 、無 心 にお経 を唱
える姿 が「楽 しそうである」ということである。この場 所 には、宗 教 、信 仰 といった固 定 概 念 以 外 のもの
が存 在 している。また、講 座 の仲 間 が話 していたことも忘 れることができない。《霊 場 をすべてまわり終
わり、自 宅 に帰 ってきたら、すぐにまた行 きたくなる》という言 葉 であった。「リピート」したくなる何 かが
四 国 遍 路 には含 まれているのである。
われわれが観光や町づくりを考える点で、
「楽 し さ 」、
「お も し ろ さ 」、
「ま た 来 て み た く な
21
る」これらの要素は、単純な、普通の言葉ではあるが、案外見逃しているのである。
四国霊場十一番藤井寺と弘法大師像
5.直島の分析――おもしろさと楽しさ――
町を活性化させるキーワードとして私自身が注目していた「おもしろさ」や「楽しさ」
は、直島でもいくつか発見することが出来た。この要素だけが町に活力を与える訳ではな
いが、文化や芸術に接したときに出るこれらの感情の表現は「感動」であり、人間の喜び
になる。観光の原点である「他の地域で文化を学ぶこと」を実践するため、3 度にわたっ
て直島を訪れ、その土地の文化を見て来たが、不十分な調査に加え、地元の人々や関係者
の方々に、現状と今後の展望など、詳しく話を聞くことが出来なかった。一方的な私の評
価に過ぎないが、簡単に私なりの感想をまとめてみよう。
(1)美術館について
ベネッセコーポレーションのアートプロジェクトが、美しい風景と善意の人びとに囲ま
れた瀬戸内海の地方性に徹する形で、私たちの社会に向けて発信している「真の豊かさ」
と は 、「 わ れ に か え る 」 と い う 提 案 で は な い の だ ろ う か 。
こ れ は 、私 の 仮 説 に 過 ぎ な い が 、美 術 館 が 出 来 て ま だ 1 0 年 、未 来 の 子 供 た ち の た め に 、
種をまき終わった段階かもしれない。今後、直島全体が人々の「考える空間」として存在
していくならば、これからが、ベネッセの本来の目的を達成するための行動になりそうで
ある。まず、直島に計画中の2つ目の美術館を注目してみたい。
一連のアートプロジェクトは、直島という限られたエリアをうまく利用したかたちで展
開しており、もともと何もないところに、質の高い建築物、そして現代美術というインパ
クトのある刺激をゲリラ的に配置し、アートのもつ力を倍増させている。オーナー、建築
家、アーティスト、キュレーターの「感性」が、それぞれの持ち場だけでなく、島全体と
周辺の環境、歴史、アートプロジェクト、すべてをコラボレーションさせる高度なテクニ
ックは非常に学ぶところが大きい。
家プロジェクトでは、演劇鑑賞のような捉え方を強いられるところがおもしろく、全体
的にいえば、赤瀬川原平氏のいう「老人力」を具えた小さな島にインテリジェントな美術
館という不釣合いな発想が若者達にうけているのではないだろうか。島のごく自然な姿と
流行や商業主義と距離を置いた町の空気は、外から来た若者たちには非日常的な場所であ
り、テーマパーク感覚でアートに接することができるし、中高年層には、路上観察的な遊
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びが出来る、楽しい空間でもある。
美 術 館 が そ の 度 に イ ン テ リ ジ ェ ン ト な ゲ ス ト を 揃 え 、デ ィ ス カ ッ シ ョ ン の 場 と し て の「 直
島会議」を開催して、美術、建築、社会のあり方を考えている意義も大きく、若手建築家
やアーティストを育成することに役立っている。また、アートプロジェクトが注目されて
いるのは、オーナーである福武氏はじめ計画に携っている方々の人間関係によるものが大
きく、広範囲にしかも多種にわたっての広報力を発揮していることも注目したい。
観光客側として、まったく不満がないわけでもない。家プロジェクトの場合、大勢の観
客と出くわした時は作品がゆっくりと鑑賞できなかった。今年から、すべて予約制になり
こ の 点 は 解 消 さ れ る 。も う 一 点 挙 げ れ ば 、
「ス タ ン ダ ー ド 展 」を 除 い て 、私 が 滞 在 中 、中 高
年層の観光客とほとんどすれ違うことがなかったのが不思議に思った。ターゲットが若者
なのか、シニアの感性に合わないのか、それともこれからの展開なのか、疑問も残った。
しかし、私達の町にある美術館や博物館などの文化施設の活動に、取り入れるべき感性や
手法が多く存在していたということを述べておきたい。
(2)直島町について
何といっても直島最大の魅力は、瀬戸内海国立公園の特徴である静かな海面と多島海景
観である。さえぎるものがない海辺の前方には、船影がゆっくりと動いて行く。若者達が
この場所の「贅沢さ」を感じているのかどうかわからないが島にはすべてを忘れて無心に
なれる時間が流れている。人が自然と対峙するために存在する空間であると言っても過言
ではない。
町が経営する観光施設に少し元気がなかったと言う点が気掛かりであるが、この島の日
常の生活すなわち普段の姿を見る限り、少々のことに動じない豊かさがあるのかもしれな
い。確かにアクセスという面では、とくに四国から島に渡る場合は不便である。高松と直
島を結ぶフェリーは一日5往復しかない。直島と宇野を結ぶフェリーは結構便数が多いの
で、四国からだと宇野と高松間のフェリーに乗り換えれば足の確保はできるということに
な る が 、ロ ス タ イ ム が あ り 、や は り 不 便 で あ る 。し か し 、
「ち ょ っ と し た 船 旅 が で き る 」
「行
ってみよう」という気楽に足を向けさせる範囲の距離ではある。
宮ノ浦港の
静かな風景
島の狭さと、町民の高齢化、人口の少なさが、町を商業主義から遠ざけているが、外部
から簡単にこのエリアへの進出を許さない地理的、社会的条件が、直島を今の社会へ移行
させていない。そのためか一昔前の風景がたくさん残っており、逆に現代のニーズに合っ
た 面 も 持 ち 合 わ せ て い る 。美 術 館 と 同 じ よ う に 、こ の 狭 さ が 自 分 た ち の 文 化 を 守 る た め に 、
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都合のよい広さになっているのではないだろうか。
町独自の観光開発には、ベネッセがどの程度まで関わっているのか、わからないが、行
政は相乗効果をもっと利用するべきである。現在の状況は観光事業に関してはベネッセに
白旗を揚げそうな状態であり、直島文化村の隣にある「つつじ荘」にしても再生してほし
い施設である。観光客は特に「食」の面で、キャンプ場も含めて、不便さを感じているの
ではないだろうか。
また、観光客を誘導するサインや、神社、寺などのサインに美術館のセンスを取り入れ
ることにより、若者たちにも歴史に興味をもってもらえるような気がした。直島建築群も
年間を通じて一定の見学者があるらしいので、観光資源として一工夫ほしい。古いものが
いま一番新しいという感覚が広がりつつあるが、町に少しエッセンスを加えれば、ますま
す魅力が出るような気がした。
6.郷土徳島へ
瀬戸内海の小さな島を舞台にして民間の一企業が情熱を傾けたアートプロジェクトは、
現在も着々と進行しているが、私なりに「直島コンテンポラリーアートミュジアム」を検
証し、勉強させてもらった。ではいったい何が徳島と違っているのだろうか。とくに目に
付 い た 事 柄 を 整 理 す る こ と に よ り 、徳 島 の 文 化 化 へ の 手 掛 か り を ま と め て み る こ と に し た 。
(1)徳島の体質
徳島に生まれて、徳島という場所での暮しの仕組みの中でずっと育ち、社会人になり、
徳島という経済社会の中で仕事をしてきた。嫌というほど徳島の生活文化を味わってきた
が、いまひとつ、スリットから射し込むような一筋の光が感じられない。経済が成長を続
けた昭和50年代半ばからの、徳島の変化が、ハード、ソフト両面において普通であり続
けたような気がする。
特 に 徳 島 市 の 中 心 部 で は 、当 時 、新 し く 出 来 る 百 貨 店 を 意 識 す る あ ま り 周 辺 の 環 境 、
「人
が楽しく歩く道」をおろそかにしていたのではないだろうか。現在も、東新町地区の顧客
の減少は単に不振地区という問題で片付けているが、町づくりの面では徳島駅前地区も含
めて大きな問題を残している。お互い周辺の街との関わり方を面白く、快適な空間にしな
ければ歩いて楽しむことが出来ない。
それには文化施設や路面店も少なすぎるようである。
このことに関連して、以前から注目していたことがある。徳島では、京都の錦市場や大
阪の黒門市場のような「賑わい」が育って来なかった体質があるということである。それ
らの「通り」を形成している店の集まりは、町の活力の見本である。他の商業や文化面に
も大きく影響している点が多くあり、今後、道路のデザインや路地の活用を含めて市街地
中心部を楽しくすることを真剣に考えなければ、ますます面白くない町になりそうだ。
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JR 徳 島 駅 前 周 辺
歩道橋の多い徳島
(2)徳島の文化プロジェクトの問題点
①計画が漠然としていないだろうか
まず、直島の狭さが、アートプロジェクトにとって展開に適当な広さとなっている点で
ある。また、ランドスケープに視点をおいているので、その場所にしか存在しない歴史や
風土にあわせて、時代に沿った計画が進んでいる。
徳島ではもう少し狭いエリアに問題意識を持ち、地域を違った視点で深く見つめ直して
みてはどうだろうか。それには「どういう町をつくるのか」を決め、その土地の歴史に沿
った方法を見つけなければいけない。例えば、鳴門市の岡崎地区からはじまる撫養街道の
町並は、昔、お遍路さんの歩いた街道であり、一番札所、大谷焼窯元、ドイツ館などにつ
なげる貴重な素材であるが、現在のところ言葉だけに終わっている。問題意識をもって考
えれば面白い要素がいくつか存在する。
②連続性のあるものをつくる
直島のプロジェクトは、ステップがあり目的に向かって継続して進行しており、その都
度、観光客がリピートするように仕掛けている。観光客も期待感を持つ。
徳 島 の 場 合 は 一 過 性 の イ ベ ン ト や 事 業 が 多 い 。例 え ば 、
「文 化 の 森 」は 施 設 が 完 成 し て か
らそのままの状態である。周辺の整備を含めて発展している痕跡がなく、郊外という立地
条件を選んだ意味が生きていない。今後、地域に適したように進化させたい施設である。
その意味で「ヘンロ小屋構想」は、ひとつひとつの建物は小さなものであるが、連続性
と創造性があり、四国各地の住民が参加できる大きなプランである。
③質の高い発想と話題性
直 島 の プ ロ ジ ェ ク ト に は 、「 お も し ろ さ 」 と 「 楽 し さ 」、 こ の 要 素 が 感 性 レ ベ ル の 高 い と
ころでたくさん存在するが、これは構想力、企画力の違いである。安藤忠雄氏という話題
になる建築家が存在しており、美術館や現代アートにも話題性があって、たびたび雑誌な
どで取り上げられている。
徳島では話題性をつくるチャンスは幾度もあったと思うが、民間と違い、公の場合はど
う し て も 縦 割 り の 組 織 す な わ ち 中 央 集 権 に な り 、事 業 計 画 と 決 定 権 が 同 居 し て お り 、感 性 、
文 化 認 識 の 甘 さ が 生 じ る ケ ー ス が 多 い 。従 っ て 、テ ー マ が あ っ て も 万 人 向 き の 企 画 が 多 く 、
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無難なところですすめている傾向があり個性が出ない。極端にいえば大手観光会社のルー
ト設定のためにつくられたような施設が多く、絞り込んだテーマでの問題意識と質の高い
展開が必要である。すべて同じような発想で、同じような施設で、同じような設備、装置
であり、万人向きという域から脱してほしい施設もいくつかある。
④未来へ残す文化
自然美と人工美、古いものと新しいもの、それらを融合した空間づくりは未来へと続い
ていくのかもしれない。着実に一歩一歩計画が進んでいるが、終着点は今のところ見えな
い。まるで直島全体が、建築家アントニオ・ガウディ(スペイン)作、未完のサグラダ・
ファミリアのようにゆっくりと進んでいるようである。
子供たちのために、今を大切にしながら、遠くを見つめたプロジェクト。今回の研究で
見つけた一番大きな成果に違いない。
(3)再生への問題意識
事あるごとに、徳島の人々は文化に関心が少ないということを、地元のマスコミで報じ
られているが、残念ながら、総合的にみれば同感であると言わざるをえない。その要因の
ひとつは、いままでに私達住民が現状に甘んじて、多岐に、しかも細かく、問題意識を持
って徳島を考えることが少なかったせいではないだろうか。地元の若手建築家やデザイナ
ー、芸術家によっていろいろな研究会やイベントが行われ、文化レベル向上のために努力
をしているが、まだ行政を大きく動かすまでには至っていない。
例えば、徳島中央公園西側南北道路計画なども本当は大きな問題である。にもかかわら
ず、はっきりと見えてこない現実がある。中央サイドで構想が決定しない間に、若手の建
築家や学生がもう少し積極的な提案などの仕掛けがほしい。
また、私なりに問題意識を持って、新しく出来た「県立文学書道館」を訪ねてみたが、
想像していたよりも雰囲気はよく、アメニティは及第点をつけることができる。しかし、
展示方法、レイアウトは個性がなく、肝心の「文学」の中身が伝わってこなかったのが残
念であった。今後、マスコミその他で批評されるであろうが、文学館は観客数でないとい
うことを強調したい。訪れた人々が満足し、文学や書に浸り心に残るものを持ち帰ること
ができる施設であればよいのではないだろうか。講座などで市民との関係が深まっていく
ことを期待しているが、そのためには、やはり施設そのものに、キラリと光るものをつく
っていかなければいけない。
唯一、多くの観客が利用している既存の施設「郷土文化会館」においても、企画展、県
美術展などの各種展覧会が行われているが、展示パーティションの老朽化や照明設備、展
示デザインなど問題が多くあり、県民の文化向上という面では設備を改善しなければいけ
ない時期が来ている。また、入口に絵画などを掛けたり、無理やり2段掛けしているのを
よく見かけるが、子供たちの為にも「こんなものでよい」という悪い見本は絶対に避けな
ければいけない。どのように観客に見せるのが一番効果があるのか、関心がないのが不思
議なくらいである。このあたりの現状を認識して文化行政をすすめていくことが大切なこ
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とである。
徳島の再生は、やはり私達住民が問題意識をもって仕掛けていかなければ、いつまでも
その扉は開かれないということがわかった。すべての人々を満足させることは不可能にし
ても、繰り返しの提案行為がレベルの高い文化行政につながって行くはずである。批判や
苦言が多くなり、関係者の方々にお叱りを受けることを覚悟で書かせていただいたが、こ
の 研 究 が 、少 し で も 多 く の 方 々 に 、
「徳 島 の 文 化 」を 考 え る き っ か け に な る こ と を 願 っ て レ
ポートを終えることにする。
あとがき
もともと、学問というものに逆らって生きてきた私にとっては、研究の方法に戸惑うば
かりであった。しかし、大学の公開講座を受講したことによって、自分に見えなかったも
の を た く さ ん 知 る こ と が 出 来 た し 、問 題 意 識 の 重 要 さ を こ の 歳 に な っ て 得 る こ と が 出 来 た 。
レポートの指導をしていただいた廣渡先生の助言によって、ようやくここまで完成する
こ と が 出 来 た が 、内 容 が 定 ま ら ず 千 鳥 足 状 態 で し か も U タ ー ン す る こ と が 何 度 も 起 こ っ た 。
ただ、説明不足の部分と文章がやや抽象的な表現になった部分があったことは、次回への
大きな反省材料となったが、懲りずに、徳島への提言は続けていきたいと思っている。
最後になりましたが、素人の研究にわざわざ貴重な時間をいただき、詳しくお話いただ
いきましたベネッセコーポレーションの秋元雄史氏、直島町議会議長・中林征一氏、直島
町議会議員・丸山義朗氏に厚く御礼申し上げます。
■参考文献
安藤忠雄 『連戦連敗』
東京大学出版会 2001年
井口貢 『観光文化の振興と地域社会』 ミネルヴァ書房 2002年
井上優 『都市のアイデンティティ』 株式会社電通 1981年
久我史郎 『明日の四国・高松会議81の記録』 清文社
昭和57年
桑子敏雄 『感性の哲学』 日本放送出版協会 2001年
田窪恭治 『林檎の教会』 集英社 1998年
徳島新聞
1999年10月27日朝刊
文化面記事『四国遍路と日本人の美意識』
徳島新聞
特集記事『遍路の魅力』 2002年1月1日
徳島新聞
朝刊2002年10月
文化面記事
直島コンテンポラリーアートミュージアム
『 Remain in Naoshima』 (株 )ベ ネ ッ セ コ ー ポ レ ー シ ョ ン 2 0 0 0 年
直島コンテンポラリーアートミュージアム
『 Naoshima Meeting Ⅴ 』 (株 )ベ ネ ッ セ コ ー ポ レ ー シ ョ ン 2 0 0 1 年
直島コンテンポラリーアートミュージアム
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『 THE STANDARD』 (株 )ベ ネ ッ セ コ ー ポ レ ー シ ョ ン 2 0 0 2 年
直島町 『直島町史』
中川幾郎 『分権時代の自治体文化政策』勁草書房
日本放送出版協会 『建築に夢を見た』 2000年
美術出版社 『安藤忠雄の美術館・博物館』 2001年
株式会社平凡社 『太陽』 2002年2月号
福井県丸岡町(財)丸岡町文化振興事業団 『日本一短い手紙・母への想い』 1998年
三宅親連・石井和紘・川勝平太 『自立する直島』 大修館書店 1995年
宮本常一 『宮本常一著作集35』 未来社
■インターネット
[ 一 筆 啓 上 賞 の 主 旨 ・ あ ゆ み ] h t t p : / / w w w. t o w n . m a r u o k a . f u k u i . j p / i n d e x . h t m l
[ 直 島 文 化 村 ・ 直 島 通 信 ] h t t p : / / w w w. n a o s h i m a - i s . c o . j p /
[ 直 島 文 化 村 ・ 直 島 通 信 ] h t t p : / / w w w. n a o s h i m a - i s . c o . j p / n e w s l e t t e r / n o 1 5 / c o n t e n t 0 1 . h t m l
画像「雑草」本文9ページ
[ 湯 布 院 町 ・ ゆ ふ い ん 2 1 政 策 会 議 ] h t t p : / / w w w. t o w n . y u f u i n . o i t a . j p /
■ 語句説明
ア ド プ ト・プ ロ グ ラ ム : 各 種 団 体 や 企 業 な ど が 一 定 区 間 の 道 路 の ス ポ ン サ ー と な り 、清 掃 や 草 刈 を
担当する。スポンサーは団体や企業名を入れた看板を設置できる。
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