こちら

俺様日記その1 ∼プロイセン公領成立まで∼
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962 東フランク王国から神聖ローマ帝国へ
東フランク王国の国王オットー一世がアウグストゥス(古代ローマ帝国皇帝の称号)を得て神聖ローマ
帝国と呼ばれる連合体を形成
1127 エルサレムの聖母マリアドイツ病院兄弟団設立(ドイツ館)
聖地を訪れる「フランス語もラテン語も解らないドイツ人巡礼のために」建てられた
1143 ローマ教皇ケレスチヌス二世がドイツ館をヨハネ騎士団に従属することの確認と、ドイツ人のみを館長に選出するこ
との許可なすとの文書を発行
10月3日 アルブレヒト一世を初代ブランデンブルク辺境伯としてブランデンブルク辺境伯領設置
第三回十字軍開始
8月28日 アッコン包囲攻城戦開始
春頃
アッコン郊外にてリューベックとブレーメンの市民の作った野戦病院がシュバーベン公フリードリッヒによって正式
な病院として承認される
11月19日 エルサレムのドイツ人の聖母マリア病院修道会設立
エルサレム王により館と土地を贈与される
2月6日 シュバーベン公フリードリッヒの保護を受け、エルサレム王ギー・ド・リュジニャン、ローマ教皇クレメンス三世に
より正式に承認され教皇庁の保護下に
7月12日 アッコン包囲攻城戦終結 【仏・墺(神羅)・英vsサラディン。連合軍勝利】
英・仏・墺(神羅)が率いる十字軍によりアッコンを占領。十字軍は3000人とも言われる捕虜を虐殺
十字軍のアッコン占領によりアッコン城内へ病院が移転
第三回十字軍終了
この頃から五代目医院長のハインリヒ・ワルポット・フォン・バッセンハイムによって騎士修道会へ昇格する準備が
本格的に行われていく
この頃、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ六世よりイタリアのバルレッタとカンナエの土地・病院、シチリアはパレルモ
の修道会を寄進される
9月28日 神聖ローマ皇帝ハインリヒ六世没
それに伴い十字軍に参加していたアッコンに居たドイツ人貴族や聖職者が帰国することになる
3月5日 聖母マリア病院修道会が騎士修道会に再編成される
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初代騎士修道会総長にハインリッヒ・ワルポット・フォン・バッセンハイムが就任
諸侯の帰国によりアッコンが手薄になることを考慮し、聖母マリア病院をアッコンにおける常備軍として機能させる
べく、救護活動のみならずキリスト教徒のための戦闘行為にも従事する騎士修道会へと昇格。初代騎士修道会総長に
は病院委員長のワルポットが選ばれ、会員達は騎士となった。この時ヘルマン・フォン・ザルツァも最初の騎士の一
人として入団。高貴な騎士であったキルヘイムが世俗を捨て騎士修道会へと入る事により、テンプル騎士団のジル
ベール・オラルから白地のマントを貰い白に黒十字の紋章が誕生。正式な騎士修道会になるためのローマ教皇の許可
を得るため、総長ワルポットはバッサウ司教と共にローマへ
2月19日 ドイツ人の聖母マリア騎士修道会としてローマ教皇インノケンティウス三世に承認される
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聖ヨハネ騎士団、テンプル騎士団と同じ規則・権利を持つ修道会に
第四代騎士修道会総長にヘルマン・フォン・ザルツァが就任
ハンガリー王アンドラーシュ二世からハンガリーへの進駐要請
トランシルヴァニア(現ルーマニア領)のプルツェンラントの防衛を任される。当時、ハンガリーはトルコ系遊牧民、
キプチャク人の一派、クマン族の侵攻を受けており防衛戦力を必要としていた。ドイツ騎士団は王国の東端にてクマ
ン族を撃退しつつも支配領域を広げていった
リヒテンシュタインとふしぎなお兄様3
ローマ教皇ホノリウス三世からハンガリーのブルツェンランドに関する特許状を貰う
ドイツ騎士団の要請に応じてローマ教皇ホノリウス三世がプルツェンラントを教皇直轄領と宣言
プルツェンラントは俺のもの@リヒテンシュタインとふしぎなお兄様2
ハンガリー王アンドラーシュ二世がドイツ騎士団をトランシルヴァニアから追放
ドイツ騎士団の代わりには聖ヨハネ騎士団が納まった
ポーランド王国マゾフシェ公コンラート一世からドイツ騎士団へ北方への十字軍遠征を要請
バルト海南岸の異教徒からのクルムラントの防衛への進駐要請
神聖ローマ帝国フリードリヒ二世がリミニ金印勅書を発する
騎士団に「クルムラントとプロイセンラントにおける領邦主権者」(異教徒の先住プロイセン人の土地を征服、領有
する権利を保証するもの)として法的地位を認めるもの。教皇が権力的な面においては役に立たないと分かっていた
ため、これにより世俗権力の後援を取り付けた。また教皇の権威も無視せず、布教に関する教勅を受けている
アッコンの近くに中東本部としてモンフォート城の建設を開始
マゾフシェ公コンラート一世からクルム地方の正式な贈与状を受ける
ローマ教皇グレゴリウス九世により武力によるキリスト教化を正当化する教勅を与えられる
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「異教徒たちを打ち倒すことが神の意に適い、罪を贖うことができる救済行為である」とするもの。地方長官(ラン
トマイスター)ヘルマン・フォン・バルク率いるドイツ騎士団達は他の十字軍士と供にプロイセン人の土地の征服に
着手
本部をアッコンからシリアのモンフォート城に移転
ローマ教皇グレゴリウス九世がリエティ勅書を発布
クルム地方、さらにプロイセンに騎士修道会が獲得した土地と財産を永久かつ自由に所有することを認め、「聖ぺテ
ロの財」として教皇の直接保護下に置くこととしたもの
後のケーニヒスベルク地域にて最初の要塞が建設される
この頃から東プロイセン方面へ進路を向ける。ザームラントのザンビア族制圧を開始
制圧終結。ポメラニアの支配者スヴァントポルクと和平条約を締結しプロイセン全域の支配を確立
01/?
サンビア族を征服しトワングステの砦を破壊
プレーゲル川の高い岸辺に新しい要塞を建設。十字軍の時代に最初の要塞の費用を支払ったベーメン王オタカル二世
に敬意を表して、『王の山』を意味するケーニヒスベルク(Königsberg)と命名
ドイツ騎士団によるプロイセン人の大蜂起の鎮圧開始
モンフォート城陥落。本部をシリアのモンフォート城からアッコンへと移転
第九回十字軍終了
ドイツ騎士団によるプロイセン人の大蜂起の鎮圧終了。プロイセン全土を平定
5月18日 アッコン陥落。エルサレム王国滅亡
本部をアッコンからヴェネチアに移転
本部をヴェネチアからマリエンブルクへ移転
12月25日 カール四世によって金印勅書が発布され、以後『ドイツ国王』と『神聖ローマ皇帝』が選挙によって選ばれる事が決
まった
同時に投票権を持つ七人の選帝侯も定められ、国王に準じる諸特権が認められた。投票は選帝侯本人が行い、参加で
きない場合は委任状により代理人を立てることが出来る。この規定により後世には世俗選帝侯は選挙に参加出来なく
なる。選帝侯はトリーア大司教、ケルン大司教、ベーメン王、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境
伯、マインツ大司教。投票もこの順番で行われた(大王の時代までにバイエルン、ハノーファーが加わる)。なお皇帝
選出の条件は四票以上の獲得である。このようにして選挙は制度化されたものの二重選挙や国王廃位と新皇帝擁立の
クーデター等は続き、『金印勅書』が重視されるようになったのは皇帝アルブレヒト二世の時代からである
7月15日 タンネンベルクの戦い(グルンヴァルトの戦い) 【ドイツ騎士団vsポーランド・リトアニア連合。連合勝利】
ホーエンツォレルン家がベルリンに居城を置きブランデンブルク選帝侯として統治を始める
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ホーエンツォレルン家のニュルンベルク城伯フリードリヒ六世が神聖ローマ皇帝ジギスムントからブランデンブルク
選帝侯位を獲得する
本部をマリエンブルクからケーニヒスベルクへ移転
第二次トルニの和約
大都市ダンツィヒや首都マリエンブルクを含む東ポメラニアがポーランドに割譲されポーランド領プロシアに。残る
領土はわずかにケーニヒスベルクを中心とする東プロイセンのみとなった。東プロイセンもポーランド王の宗主権の
及ぶ地域と定められ、騎士団総長はポーランド王に服従する事実上の属国となった(ドイツ騎士団はローマ教皇直属
の修道会であるから、ポーランド王国の一存で解散するわけにはいかなかった)。これによってプロイセン連合はド
イツ騎士団に対抗するという役割を終えたため解散した
総長アルブレヒトがルター派(プロテスタント)に改宗
4月10日 プロイセン公領成立(ドイツ騎士団俗化)
ポーランド王国の宗主権下に、ホーエンツォレルン家を世襲の公とする世俗の領邦であるルター派プロテスタントの
プロイセン公領が成立。首都はケーニヒスベルク。アルブレヒトはポーランドの封土であるプロイセン公領の最初の
公爵となる。プロイセンの貴族が早々に公爵と同盟を結ぶと同時にプロイセンの農民たちはケーニヒスベルクで直接
アルブレヒトに忠誠を誓い、圧政的な貴族に対抗するための公爵の支持を求めた。反逆者に武器を置くように説得し
た後、アルブレヒトは彼らの指導者の何人かを処刑した
南西ドイツにあった騎士団支部はカトリックにとどまり、騎士団を存続。またリヴォニア地域のリヴォニア騎士団の
分団は独立状態を維持した
俺様日記その2 ∼王冠条約まで∼
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7月28日
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8月27日
11月3日
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1月13日
6月27日
ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム二世がルター派に改宗
アウグスブルクの宗教和議
神聖ローマ帝国のアウクスブルクで開催された帝国議会においてなされたドイツにおけるルター派容認の決議。1526
年の第一回シュパイアー帝国議会を確認するもので、ドイツ・ルター派とカトリックとの戦争を終結させた。これに
よりハプスブルク家のカトリック教会を介した帝国支配の野望は挫折するが、一方ではカルヴァン派の信仰は認めら
れず、また個人の信仰も認められずに信仰の選択は都市や領主が決定するものとした。この事は将来に禍根を残し、
三十年戦争の契機ともなる
ヨーハン・ジギスムントがブランデンブルク選帝侯に即位
父のように細心な行き届いた統治によってではなく食道楽と深酒によって有名となった。この悪癖の為彼の健康は早
くから損なわれたが統治の質とはかかわりなく、彼の代でホーエンツォレルン家宗家の所領にプロイセン公領が加わ
りその面積はほぼ倍加した
ベーメン・プファルツ戦争開始。これにより三十年戦争開始
ブランデンブルク=プロイセン成立
ゲオルク・ヴィルヘルムがブランデンブルク選帝侯に即位
ベーメン・プファルツ戦争終結(三十年戦争)
フェルディナント二世がバイエルン公マクシミリアン一世にプファルツを与え選帝侯位を与える
これは金印勅書に反するものであったため、諸侯の怒りを買うことになった。三十年戦争が長期化した一因とも言わ
れている
デンマーク・ニーダーザクセン戦争開始(三十年戦争)
デンマーク王クリスチャン四世がプロテスタント側に就いて参戦。当初はスウェーデンとの共同介入であったが、主
導権争いの結果、デンマーク単独での介入となった。デンマーク王の参戦に対してイングランドは資金を提供し、二
人の傭兵隊長の軍を援軍として派遣した。常備軍による応戦が不可能と判断した皇帝はベーメンの傭兵隊長ヴァレン
シュタインを登用し、彼の軍隊に新教徒軍と戦うよう依頼。一方デンマーク軍と傭兵部隊の間では戦略についての主
導権争いが発生し、ついに三者は別行動を取るようになり、各個撃破の好餌となった
デッサウの戦い 【皇帝軍vsデンマーク軍、傭兵部隊。皇帝軍勝利】
デンマーク軍側の傭兵隊長の一人であるブラウンシュヴァイクが戦死
ルッターの戦い 【皇帝軍vsデンマーク軍。皇帝軍勝利】
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この戦いの後メクレンブルクに程近い北ドイツの諸侯はクリスチャン四世への助力をとりやめフェルディナント二世
と同盟。クリスチャン四世が戦力を失うと、帝国内のデンマーク領に対する悲惨な略奪と破壊が始まる。この戦いは
ヨーロッパの大国としてのデンマークの没落のきっかけとなった
フェルディナント二世がベーメンに新領法条例を制定
これによりベーメン等族議会は権力のほとんどを奪われ、ベーメンはハプスブルク家の属領となった。多くのベーメ
ン貴族や新教徒が亡命しヨーロッパ各地に散らばった。一連の苛烈な戦後処理は他の新教徒諸侯の離反を招き、戦争
が長期化する原因となる
05/?
リューベックの和約 【神聖ローマ帝国、デンマーク王国】
デンマーク王国は領内から皇帝軍を退け皇帝と和約を締結。これによりデンマーク王国は一先ず三十年戦争の舞台か
ら退場する事となった
デンマーク・ニーダーザクセン戦争終結(三十年戦争)
スウェーデン戦争開始(三十年戦争)
グスタフ二世アドルフ率いるスウェーデンがフランスの資金援助を受けてプロテスタント教徒を解放すべくドイツに
侵入
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マクデブルクの戦い 【皇帝軍vsハンザ同盟都市マクデブルク】
カトリックである神聖ローマ帝国軍によって行われた、ルター派プロテスタントのハンザ同盟都市マクデブルクの包
囲戦及び戦闘終了後の略奪。略奪についてはマクデブルクの惨劇といった表現も用いられる。食料難に苦しむ皇帝軍
によって行われたこの略奪の結果、当初諸侯の援助を受けられなかったスウェーデン軍は情勢が一変し、それまで日
和見だったブランデンブルク、ザクセンと同盟を結ぶ。またカトリックの主軍であったバイエルン公マクシミリアン
一世が秘密裏にフランス王国と協定を結んだ
1月23日 ベールヴァルデ条約 【フランス王国、スウェーデン王国】
フランス王国とスウェーデン王国の間に結ばれた軍事同盟。三十戦争に介入したスウェーデンに対し、フランスは軍
事資金を援助することで間接的に支援する事となった
9月17日 ブライテンフェルトの戦い 【皇帝軍、カトリック連盟軍vsスウェーデン軍、ザクセン公軍。スウェデン軍勝利】
プロテスタントにとって初めての勝利であり、心理的にもその影響は多大であった。ザクセン公国の首都ドレスデン
では9月17日が感謝祭に指定され長らく祝日となり、グスタフ・アドルフは、プロテスタント勢力の英雄となった
4月15日 レヒ川の戦い 【皇帝軍、バイエルン公軍vsスウェーデン軍。スウェーデン軍勝利】
序盤の戦闘で皇帝軍司令官ティリー伯が負傷し後方へと運ばれ、バイエルン公自ら指揮を執る事になった。皇帝軍は
相次ぐ高級将校の負傷によって指揮系統に不備が生じ、フィンランド兵による強襲に耐え切れず撤退、総崩れとなっ
た。この戦闘で皇帝軍は壊滅的な損害を被り、ティリー伯の戦死も響きカトリック側は窮地に陥った。これにより
フェルディナント二世は罷免したヴァレンシュタインに復職を要請し、「軍の全権、和平交渉権、条約締結権の全面
委任とハプスブルク帝国領と選帝侯領の割譲」という条件を呑み皇帝軍の指揮官に任命した。ヴァレンシュタインは
自前の傭兵軍にバイエルン軍を加えて戦線に復帰する
4月30日 カトリック連盟総司令官ティリー伯ヨハン・セルクラエス没
レヒ川の戦いにて負傷したティリー伯はインゴルシュタットに運ばれたがその傷は重く、回復できぬまま戦死した
11月16日 リュッツェンの戦い 【皇帝軍vsスウェーデン軍。スウェーデン軍勝利】
この戦いによりスウェーデン王グスタフ二世アドルフが戦死
1634 2月25日 神聖ローマ皇帝により皇帝軍総司令官ヴァレンシュタインが暗殺される
ヴァレンシュタインの排除は軍事的にはマイナスであったが、皇帝は嫡子フェルディナントの世襲のために諸侯に譲
歩する必要があり、成り上がりに反感を抱く帝国諸侯の意向を無視できなかった。皇帝フェルディナント二世は自ら
の嫡男であるハンガリー王フェルディナントを総司令官に任命
5月18日 ハイルブロン同盟 【スウェーデン軍、プロテスタント諸侯】
スウェーデン宰相オクセンシェルナがドイツのプロテスタント諸侯と同盟を締結し、『防衛戦争』という形で戦争を
続行。これを受けてフランス宰相リシュリューは諸侯へのフランスの影響力を保持するためスウェーデンと取引し、
カトリック国であるにも拘わらずこの同盟に参加。フランスの影響力の下で同盟軍の指揮は乱れ、同盟は成立当初か
ら危機を内包する事となった
9月2日 スペイン軍が皇帝軍に合流
ネルトリンゲンの戦い 【スウェーデン軍、ザクセン公軍、ハイルブロン同盟vs皇帝軍、スペイン軍。皇帝軍側勝
9月6日 利】
スウェーデンとハイルブロン同盟はこれ以降極度の相互不信に陥り形骸化した。ドイツ中部や南部の帝国都市は次々
と皇帝軍の手に落ち、ザクセン公は皇帝との単独講和を模索し始めた。スウェーデン軍はこの戦いで甚大な被害を受
けた上に、本国と切り離されて戦費の調達が困難になり、勢力が減退し三十年戦争の主導権を失った。この勝利に
よって皇帝は嫡子フェルディナントのローマ王選出に成功する
1635 02/?
ザクセン公と皇帝軍が休戦
5月30日 プラハ条約 【神聖ローマ帝国、ザクセン公、ドイツ諸侯】
ベーメンのプラハで結ばれた和平条約。フェルディナント二世とザクセン公が和解し、ハイルブロン同盟はネルトリ
ンゲンの戦いの敗北と条約締結により事実上崩壊した。しかしこの条約は皇帝の威光を高めはしたが一時的なもので
しかなく、和平はドイツ内でしか効果がなかった。スウェーデンはポンメルンに撤退、窮地に追い詰められたものの
宰相オクセンシェルナの手腕によってフランスを直接介入させる事に成功する
スウェーデン戦争終結(三十年戦争)
フランス・スウェーデン戦争開始(三十年戦争)。
フランスは後に名将と呼ばれるテュレンヌ将軍をドイツに送り込み、皇帝軍は一方的な守勢に立たされ、スウェーデ
ン軍は巻き返しを図った。フランス軍は主にスペイン軍と、スウェーデン軍は皇帝軍と戦った
西仏戦争開始 【フランス王国vsスペイン王国】
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4月14日
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5月19日
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8月3日
8月5日
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1640年までに、フランスはカタルーニャにおける反乱を支援しスペインの政策を妨害を開始していた。一方スペイン
はそれに対抗し、1648年にフランスにおけるフロンドの乱を支援した
ヴィットストックの戦い 【皇帝軍、ザクセン公軍vsスウェーデン軍。スウェーデン軍勝利】
この勝利によってスウェーデン宰相オクセンシェルナは本国に帰還する事が出来、国内を引き締め、スウェーデン軍
への内助に徹し、フランス王国との共闘関係を築く事に成功する。それによってこの後神聖ローマ帝国は挟撃され守
勢に立たされる事となる。この戦闘は、反ハプスブルク同盟の大反撃を呼び起こす一大転機となった
カーレンベルク公国が首都をバッテンセンからハノーファーへ還されハノーファー公国と呼ばれるようになる
神聖ローマ皇帝フェルディナント二世没。神聖ローマ皇帝フェルディナント三世即位
ラインフェルデンの戦い 【ザクセン公軍vs皇帝軍。ザクセン公軍の勝利】
フランス軍がラインフェルデン、フライベルク、ブライザッハを陥落させる
スウェーデンがベーメンに侵攻するも敗退
エアフルトでフランス軍、スウェーデン軍、ブランデンブルク選帝侯軍が合流
ケムニッツの戦い 【ザクセン公軍vsスウェーデン軍。スウェーデン軍勝利】
ポルトガル王政復古戦争開始 【ポルトガル王国vsスペイン王国】
フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)がブランデンブルク選帝侯に即位
これによりブランデンブルク軍は防衛戦争に切り替え、事実上中立の立場をとった
彼の治世の下でブランデンブルク=プロイセンは飛躍的に成長した。内政においてはポツダム勅令を発し、フォン
テーヌブローの勅令によって追放されたフランスのユグノーを受け入れたことで人口が増加し、高度な技術や文化が
ブランデンブルク=プロイセンに伝えられることとなった。またネーデルラント継承戦争に付随するスウェーデンと
の戦争に勝利し、神聖ローマ帝国内における影響力を高めることに成功。これらの事績によってフリードリヒ・ヴィ
ルヘルムは大選帝侯と称されるまでになり、ブランデンブルク=プロイセンの強大化の基礎を築いた立役者となった
フェルディナント三世が和平交渉を開始
選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムがプロイセン議会に対し物品税を導入するように促す
ロクロワの戦い 【フランス軍vsスペイン軍。フランス軍勝利】
劣勢のフランス軍がスペイン軍を破り、フランスの損害4千人に対してスペイン軍は1万5千人を失った。この勝利は
マザランによって大きく宣伝された
トルステンソン戦争開始(ハンニバル戦争) 【スウェーデン王国vsデンマーク王国】
これによりスウェーデン軍が一時離脱
フライブルクの戦い 【皇帝軍、バイエルン公軍vsフランス軍】
フライブルクの戦い 【皇帝軍、バイエルン公軍vsフランス軍】
フライブルクの戦い 【皇帝軍、バイエルン公軍vsフランス軍。フランス軍勝利】
11月23日
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2月24日
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5月17日
7月26日
8月20日
10月24日
Three Day Battleとも呼ばれる。三十年戦争において最も多く死傷者を出した。この戦いの後カトリックの主軍で
あったバイエルン軍は壊滅を喫し、フランスと和解する事となる
ユーターボークの戦い 【スウェーデン軍vs皇帝軍。スウェーデン軍勝利】
オスナブリュック、ミュンスターで和平会議が始まる
ブレムセブルー条約締結。トルステンソン戦争終結(ハンニバル戦争) 【スウェーデン王国vsデンマーク王国。ス
ウェーデン王国勝利】
デンマークはこれを境に大国から転落して行く。スウェーデンはこの勝利によってバルト海制覇を成し遂げる事に成
功し、三十年戦争に復帰する
ヤンカウの戦い
皇帝軍は死傷4000人、捕虜4500人。スウェーデン軍はプラハの門前へ迫り、皇帝フェルディナント三世はレーゲンス
ブルク、リンツを経てウィーンへ逃亡。これを契機に停滞していた講和会議が本格的に始動したものの、条約締結に
はなお3年の歳月が必要だった
バイエルン公軍がスウェーデン軍に敗北、バイエルン選帝侯が降伏
バイエルン公とフランス王国が和解し、孤立したザクセン公もスウェーデンと休戦条約を締結。一連の戦況により和
平会議が一気に進展した。国際会議にはイングランド、ポーランド、ロシア、オスマン帝国を除いた全てのヨーロッ
パ諸国が参加した
皇帝軍とバイエルン公軍の合流を恐れたのスウェーデン軍がバイエルンに再度侵攻するも、これを越権行為とみたフ
ランスが軍を派遣。両者に挟まれたバイエルンは屈服する
バイエルン軍の将軍が反乱を起こして皇帝軍に合流を画策する
ヤンカウの敗戦で打撃を受けた皇帝軍はこれに合流し、驚異な復活を成し遂げる
ツスマースハウゼンの戦い 【皇帝軍、バイエルン軍vsフランス軍、スウェーデン軍。フランス・スウェーデン連合
軍勝利】
フランス・スウェーデン連合軍は更にしっかりとした休戦条約が締結されるまで、火戦と白兵戦でバイエルンを疲弊
させた
スウェーデン軍がプラハを包囲
スウェーデン軍は城壁越しに市民にプロテスタントの開放を呼びかけるものの、長引く戦争に疲れた市民は皇帝軍に
加担しスウェーデン軍に反抗。スウェーデン軍は軍勢を集め、プラハを占領した後に帝都ウィーンを攻める事の出来
る態勢を固めていった
ランスの戦い 【フランス軍、スウェーデン軍vsスペイン軍。連合軍勝利】
フランス側の勝利を決定付けた戦い
ヴェストファーレン条約締結(ミュンスター条約とオスナブリュック条約の総称)
三十年戦争の講和条約。史上初の多国間条約でもある。ドイツでは300に及ぶ領邦国家の分立状態が確定し、領邦君
主による連合体としてのドイツという体制が固まった。バイエルンとプファルツは選帝侯位を獲得。皇帝側がドイツ
諸侯達に大きな譲歩をしたものであり、ドイツはこれを機にますます領邦国家としての色を強めていく事になる。領
邦は主権と外交権が認められ、皇帝は法律の制定、戦争、講和、同盟等について帝国議会の承認を得なければならな
くなった。これにより『神聖ローマ帝国の死亡診断書』とも称される。アウクスブルクの和議の内容を再確認し、カ
ルヴァン派を新たに容認され、議会及び裁判所におけるカトリックとプロテスタントの同権が規定された
フランスはアルザス地方とロレーヌ地方のメッツ、トゥール、ヴェルダンを獲得。スイスとネーデルラント連邦共和
国は独立を承認された
ヴェストファーレン条約によりブランデンブルク選帝侯がヒンターポンメルン公領、ハルバーシュタット司教領、ミ
ンデン司教領をを獲得し、マクデブルク大司教領の継承権を獲得
八十年戦争終結(オランダ独立戦争) 【ネーデルラント諸州、スペイン王国】
ミュンスター条約により、スペインがネーデルラント連邦共和国の独立を正式に承認した
11月2日 プラハにヴェストファーレン条約の締結の報が届き、三十年戦争終結
戦場となったドイツ領邦は史上稀に見る甚大な被害を被った。長期間にわたる戦闘や傭兵による略奪で国土は荒廃
し、当時流行していたペストの影響もあって人口は激減。交戦国間の経済にも多大なマイナス効果を及ぼすことに
なった。被害を免れたドイツ北方のプロイセン王国は台頭していき、後にオーストリア・ハプスブルク家と対立して
いく事になる
カトリックとプロテスタントによる宗教戦争に終止符が打たれ、三十年戦争はカトリック派諸国、とりわけハプスブ
ルク家の敗北によって終わった。最後の宗教戦争とも言われる。神聖ローマ帝国という枠組みを越えて全ヨーロッパ
の情勢に多大な影響を与え、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることが約された。その後のフラ
ンス革命に至るヨーロッパの国際情勢を規定する新たな秩序が形成されるに至る(ヴェストファーレン体制)
1651 9月19日 国境線が定まり、プロイセン公領がポーランド王国より独立
1653 05/?
シュテッティン条約 【ブランデンブルク=プロイセン、スウェーデン王国】
ポンメルンのシュテッティンで結ばれた国境線を定めた協定条約。この条約によってポンメルンの両国の国境線が確
定した。正式にはヴェストファーレン条約(オスナブリュック条約)の再確認であった。その後の交渉で1651年までに
ほぼ確定していたが、ポンメルンを巡る両国の問題はその後もしこりとなっていた(ポンメルン問題)。スウェーデン
軍がポンメルンに駐留し続けた事も交渉の長期化に繋がったと言えたが、この協定においてフォアポンメルン地域の
ブランデンブルク選帝侯の継承要求は放棄させられ、一方でヒンターポンメルン地域はブランデンブルク選帝侯が正
式に獲得する。ブランデンブルク選帝侯はポメラニア公国の正当な継承権が認められなかった事からポンメルンに対
する野心を募らせて行く
1655
大選帝侯、プロイセン公領の宗主国をポーランドからスウェーデンへ
北方戦争開始 【スウェーデン王国、ポーランド・リトアニア連合、モスクワ国家、ブランデンブルク=プロイセ
ン、神聖ローマ帝国、デンマーク王国、他諸国】
1656
1656
1657
1660
1661
十七世紀に起きたスウェーデンやその他の国々との戦争を一纏めにしたものを呼ぶ。北方戦争はスウェーデンが起こ
したものだが、数年前に勃発したコサックの反乱によりポーランド・リトアニア連合が巻き込まれた大洪水時代と言
う内戦に近隣諸国が介入したものである。特にスウェーデンはポーランドとの王位継承権問題を抱えており、ス
ウェーデンの新王朝プファルツ家の王位をポーランド王に認めさせるという意図もあった。この戦争には様々な別名
が各国に存在し、ポーランドにおいては『大洪水時代』がしばしばこの一連の戦争を指し、またデンマークにおいて
はカール・グスタヴ戦争として知られている。これらの戦争において、イングランドは一貫してスウェーデンの同盟
国として行動し、その為ネーデルラントはイングランドに対抗するため逆の立場でこの戦争に関与した
07/17- ワルシャワの戦い勝利 【ブランデンブルク=プロイセン、スウェーデン王国vsポーランド・リトアニア連合。プロ
07/20
イセン、スウェーデン勝利】
リビアウ条約によりプロイセンが主権を獲得
01/?
ケーニヒスベルク条約
ブランデンブルク選帝侯がプロイセン公領をスウェーデンの封土と認める
7月11日 後の初代プロイセン王フリードリヒ一世(猫背フリッツ)誕生
9月17日 ヴェーラウ条約
ブランデンブルク選帝侯はポーランドと同盟を結ぶ代わりに、ポーランドの主権からプロイセン公領を解放すると取
り決めた。ブランデンブルク=プロイセンがポーランド王ヴワディスワフ四世からプロイセン公領の完全な独立を獲
得
4月23日 オリヴァ協定 【スウェーデン・ポーランド間】
ポーランド・リトアニア共和国、スウェーデン王国から正式に独立しプロイセン公国となる。ポーランド王権下の権
利としてホーエンツォレルン家の血筋が絶えたとき、プロシア公国は合法的にポーランド領に復帰するとされ、この
条��は互いの国の統治変更で更新されるとしたものの1700年に期限切れになった
北方戦争終結 【スウェーデン王国、ポーランド・リトアニア連合、モスクワ国家、ブランデンブルク=プロイセ
ン、神聖ローマ帝国、デンマーク王国、他諸国】
戦争は当初はスウェーデンが圧倒し、後の講和条約によりスウェーデンの新王朝を認めさせる事が出来たが、反ス
ウェーデン側の抵抗もあり全てのもくろみが成功に終わった訳ではなかった。ポーランド・リトアニア連合の分割も
その一つであったが、スウェーデンによる脅威から周辺諸国の介入を呼び起し戦域は拡大し、多大な犠牲を強いられ
る事となった。一方、この戦争で一番利益を得たのはブランデンブルク=プロイセンであり最終的には連合王国下か
ら離脱し正式に独立する。スウェーデンはこの戦争で軍事的成功は殆ど為し得なかったが、政治的成功を得て北方の
覇権を確立するに至った。スウェーデンとは和平を結んだもののポーランドを中心とした連合王国は疲弊し、以後も
続く戦争にさらなる打撃を受ける事となる
ブランデンブルク選帝侯が、プロイセン貴族はブランデンブルク選帝侯の許可によってのみ招集されるという事をプ
ロイセンの議会に通告
クナイプホーフのヒエロニムス・ロートを指導者としたケーニヒスベルク市民は選帝侯の絶対主義的な要求に反対し
た
1675
スウェーデン・ブランデンブルク戦争開始(ネーデルラント継承戦争) 【ブランデンブルク=プロイセンvsスウェー
デン王国】
神聖ローマ帝国において領土を保有した帝国諸侯でもあったスウェーデン王国がフランスからの要請に応える形で参
戦。しかし既に軍備を増強しつつあり、スウェーデン領ポンメルンへの領土的野心を募らせていたブランデンブルク
選帝侯は反フランスのオランダと同盟を締結。ブランデンブルク選帝侯はスウェーデン軍のドイツ上陸を帝国法違反
として糾弾し、平和を乱す侵略者として喧伝した。しかし当初、神聖ローマ皇帝レオポルト一世はブランデンブルク
選帝侯の行動を軽んじて喧伝作戦を妨害した
スコーネ戦争開始 【スウェーデン王国vsデンマーク王国】
デンマーク王国がかつての領土であったスカンディナヴィア半島南端スコーネ地方の奪還を目論み、当時バルト帝国
としてバルト海の覇権を握っていたスウェーデンに対して行った戦争。ブランデンブルク軍とデンマーク陸軍との共
闘もあった
6月18日 フェールベリンの戦い 【ブランデンブルク=プロイセンvsスウェーデン王国。プロイセン勝利】
この戦闘でブランデンブルク選帝侯はスウェーデン軍に大勝利を収め、以降の戦争で優位に立った。またこの勝利は
神聖ローマ帝国内のブランデンブルク選帝侯の地位を高めさせ、帝国防衛戦争の牽引者としてのブランデンブルク選
帝侯の立場を強固なものにした。この戦いの以後、ブランデンブルク選帝侯によってポンメルンの要塞は次々に陥落
し、ポンメルンは事実上ブランデンブルクに占有された
ブランデンブルク選帝侯が海軍の設立を開始
スウェーデンへ威圧を与えるため。選帝侯はベンヤミン・ラウレを顧問として雇い、船十隻を借りる事で海軍を設立
した。ベンヤミンは後の海軍設立、植民地獲得における重要な人物となり、アフリカ大陸に小さいながらも植民地を
築いた。後に軍人王ヴィルヘルム一世により全て売却される
?
シュレジェン公領の相続者が絶えたため、シュレジェン公領がハプスブルク家に接収される
1537年にブランデンブルク選帝候と、リーグニッツ、ブリーク、ヴォーラウの諸侯との間に継承者が絶えた時には相
互に相続するという協定が結ばれていたが、これは上位の封建領主であるハプスブルク家の認知を受けていなかった
ため効力を発揮しなかった。ハプスブルク家のシュレジェン領有はブランデンブルク選帝候も承認した
1678 10月10日 シュトラールズント包囲戦(Siege of Stralsund) 【ブランデンブルク=プロイセンvsスウェーデン王国】
この戦いにより1675年にブランデンブルク選帝侯が設立した海軍が初の成功をおさめ、プロイセンはシュトラールズ
ントを獲得する。選帝侯は海軍の強化に成功し、バルト海南岸にその勢力を拡大した
ナイメーヘンの和約 【ネーデルラント共和国、フランス王国、スウェーデン王国、神聖ローマ帝国】
1678年から1679年にかけてオランダ共和国のナイメーヘンで締結された諸条約の総称。オランダ侵略戦争の講和条約
となった
1679
スウェーデン・ブランデンブルク戦争終結(ネーデルラント継承戦争) 【ブランデンブルク=プロイセンvsスウェー
デン王国。プロイセン勝利】
この戦争においてはルイ十四世は何とかフランスの威光を示すことには成功し、1679年にサン=ジェルマンにおいて
ブランデンブルク選帝侯より占領地ポンメルンをスウェーデンに返還させた。しかし結果的にポンメルンの大部分を
獲得する事に成功し、最終的にフォアポンメルンの北半分のみがスウェーデン領として残されたが、後のナポレオン
戦争と体制の崩壊の結果、全てのポンメルンはプロイセン王国に割譲される事となるブランデンブルク選帝侯はこの
戦争の勝利よって選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの名を『大選帝侯』としてヨーロッパ中に知らしめた。一方、
ドイツの一諸侯に一敗地に塗れたことは大国スウェーデンにとって屈辱的な大事件であり、スコーネ戦争と同様、軍
事力の衰退を露呈させてしまった結果となった。以後スウェーデンは軍事力強化と国王に権力を集中させる絶対王政
成立を目指して行き、そしてフランス一辺倒の追随外交を改め、帝国諸侯としてブランデンブルク選帝侯や神聖ロー
マ皇帝との友好関係を深めていった。なお神聖ローマ帝国におけるスウェーデンの領土は帝国解体に至るまで保持さ
れた
スコーネ戦争終結 【スウェーデン王国vsデンマーク王国】
両者はフランス王国の仲介により講和に同意した。領土は戦前の状態に戻すこととなり、デンマークの野望は挫折し
た。スウェーデンも得るところはなかったが、バルト帝国の維持には成功した。しかし大陸側ではもはや戦前の状態
を維持することは不可能となっていた
ネーデルラント継承戦争終了 【フランス王国vsネーデルラント連邦共和国vs諸国】
ルイ十四世はネーデルラントの併合を断念する代わりにフランドルの各都市、フランシュ=コンテなどを獲得。ネー
デルラント連邦共和国は総督ウィレム三世の元ネーデルラント領全土の奪回に成功し以後イングランドとの関係を重
視していく
1683
西アフリカに遠征し、黄金海岸に殖民地を作る。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し奴隷貿易
に携わるように
オスマントルコによる第二次ウィーン包囲
1688 5月9日 ブランデンブルク選帝侯にフリードリヒ三世(猫背フリッツ)が即位(後の初代プロイセン王)
8月15日 フリードリヒ・ヴィルヘルム一世(軍人王)誕生
1700
コンスタンチノープル条約(イスタンブル条約) 【オスマン帝国、ロシア】
オスマン帝国がロシアにアゾフを割譲。ロシアにとっては黒海・バルカン半島を目指す南下政策の第一歩となった
11月16日 王冠条約 【神聖ローマ帝国、ブランデンブルク=プロイセン】
神聖ローマ帝国内ではベーメン王国を除いて王号の使用を認められた諸侯はいなかったが、プロイセン公国は帝国の
領域外にあった。そこで選帝侯フリードリヒ三世はスペイン継承戦争でハプスブルク家を支援し出兵する見返りとし
て、スペイン継承戦争前夜、皇帝レオポルト一世からプロイセンにおける王号の使用を認められた